笛は孤独でたのしめる。――いつか旅で笛を吹く心境のふしぎな
それは、
彼は、もうその笛を、三、四年も持ち馴れていた。
ただすこし気に染まないのは、竹管に傷つけてある笛の
「
と、
どうもそれが彼には、おそろしい冷たさに感じられてくるのだ。音色に
そのくせ、当の
永いこと家庭をもたぬ人の特長として、ひどく青年らしいところもあるが、年は三十四、五だろう、すべてが「冷たい感じの人物」である。
その三五兵衛が、「八寒嘯」の字義を気にかけるなどは少しおかしいが、同性
× × ×
「ほ。
三五兵衛は標札に足をとめて、静かな構えの玄関をのぞいた。
萩の袖垣に、
「旅先のものでござるが、お珍しいお流儀、同好なれば、何とぞ一曲御指南を」
通されて、三五兵衛は笛師
「吹いてごらんじゃい」
彼はつつしんで、八寒嘯を袋からとり出し、漢曲の
老笛師平六はうなずいて、
「まあ、そんなもんじゃな。だが、
「我流でございます、ただすきなために」
「ふん、自然にな。それでいいのだ、折にふれての心を吹く。魂を遊ばせる。それでいいのでございますわい。……だが笛のせいもあるじゃろうが、おそろしく寒い音色、察するにお手前は、孤独でござるの」
「御明察のとおりでございます」
「お年にしては
「心に邪気があって、吹けないことが

「そうとも。殺気をふくめば殺気ばみ、情気があれば
「や……」
図星をさされて、三五兵衛はおどろいた。
「ま、すこし和曲の明るいものをお吹きなさい。あまり寥落じゃ、あまり冷徹じゃ」
彼はその道の人として、平六をめずらしい笛吹だと敬服した。どうしてこんな笛師が、この甲府などにいたろうかと不審に思ったが、あとで聞くと、領主の柳沢
せめて平六から、何か、一曲うけておきたい。彼はそう思って、通りすぎるはずの甲府に滞在して二十日ばかり平六の家へ通っていた。――するとある日、
「吉事があった。欣ばれい」
彼の顔を見ると、笛の
「
平六は急に気がついたように、丸窓や
「――三五兵衛殿のさがしている
「いかにも、美男子でございますが」
「そいつがな、その賛之丞が、どうやら鮎川の身内の世話になっているらしいという噂なのじゃ。早速、出向いてみたらどうでござるの」
平六は非常な熱心で言った。
いつか、根ほり葉ほり訊かれた時に、やむなく、
「仁介の家へ近づく手段はわけはない。鳥沢を通る浪人は、たいがい彼の部屋に泊まる者が多いそうで、仁介もそれを自慢にしているという事じゃ。――
まさか、まだ二日や三日で、と思っていると、その翌日彼が行った時には、もうちゃんと鮎川の仁介へ宛てた紹介状も貰っておいてあるし、べつに、一封の金を
その日も、笛を習うつもりで、
甲州路も大月あたりの風はかくべつに思った。
きのうが
大月から猿橋へかかって、桂川の
やがて、土手を右へきれると、遠くに人家が見えた。
「あれだな、小篠は……」
鮎川の家を訪れる前に、とにかく、仁介の身内の概念だけを知っておきたいと考えた。――たしかに
「爺さん。鮎川の
そこの
「ええ、もう二十町とはございません。お侍様は、これから鮎川親分の部屋をおたずねなさいますので」
「ウム、そのつもりだが、桂川のふちで、空ッ風に吹かれて来たので、火を見ると、もう歩くのが嫌になってな」
「何しろ、ここは街道から二、三里横にはいりますから」
「だが、甲州路を通る浪人などは、鳥沢の宿に泊まらずに、たいがい鮎川の部屋へ行くそうだが」
「そりゃ、春か夏場のことで、こう寒ッくっちゃ、めったに道を廻って来るお方もございませんよ」
「ふーむ、そうか。実はその鮎川にいる知り人を訪ねて来たのだが、すると、もうその者もおらぬかも知れんな」
「なんと仰っしゃるお方でございますか」
「村上
「あ。男ぶりのいい、村上様という若い御浪人ならば……」
亭主が、図に乗った口を
三五兵衛も、笠をとって、外へ出た。
やっと、温まった体へ、ヒューッと氷のような夕風がぶつけて来たので、笠の紐を噛みながら、思わず顔を横にすると、出て来た茶屋の掛戸の蔭に、チラと、
「――いるな、村上
三五兵衛は、そう思って、つぶやいた。
「鼻の先にいるものなら、しかたがないから行って見てやろうか。それに、
薄い苦笑がその顔にのぼる。
衣にも耐えそうもない痩せた体を、急に寒気を加えた風が
「何という逃げ下手な奴であろう。賛之丞の方では、あれで必死に居所を
相手の気持を考えると、彼はひとりでおかしくなる。何かの場合には、賛之丞のおどろきや動悸までが、すぐ自分の胸にわかる。彼が寝てからの苦しみまで、枕元にいてのぞいているように、三五兵衛にはよくわかった。
彼は、それを楽しむように想像する。
そして、それが、三五兵衛の
三五兵衛に、この四、五年の孤独を味わせたのは、いうまでもなく村上賛之丞である。
もっとも、国元の紀州にいた時分から、三五兵衛の性格は今とあまり変化はない。和歌山の家中でも、ひとりの友をも持たなかった。妻をと、すすめる者がなかっただけでも、彼には人の寄りつけない、刃のような
しかし、家庭には、彼のすきな一人の妹と、出仕御免になって余生を送っている父があった。――自分の美貌を利用しすぎる賛之丞が、そんな家庭をうかがったのは、彼として、生涯の
賛之丞は、彼の
「目先の見えぬやつだ。人にもよりけり、あの執念ぶかい、ねばりづよい、神経質な三五兵衛のうらみを買って、色魔の賛之丞め、半年とこの世に生きてはいられまい」
三五兵衛が旅へ立った時、それ出たぞというように、和歌山の者は言い合った。
――ところが、今年で四、五年になるが、まだ村上は生きている。尤も、その間には、三五兵衛の影がさす所、さす所から転々と居所をかえて来てはいるが。
「まだ、まだ。こんなことではおれの復讐心は満足しない。討たないぞ、討たないぞ。おのれ賛之丞、討ってくれと泣いて頼んで来てもまだ討たぬぞ」
人とは、三五兵衛の考えは違っていた。
老笛師平六の肩入れなども、実はまるで見当ちがいなもので、三五兵衛の心を知らない
で――白い星が見えだしたので、三五兵衛は、少し足を早めかけたが、しばらく行くと、
「――お侍様。もし……お侍様」
彼のうしろを、呼び止める女があった。
「只今、あそこの茶店で聞きましたら、小篠の私の
女は、そう言って、三五兵衛のそばへ寄った。
「おや、この女は歯が白い?」
三五兵衛は、それに気がついてから、一層注意を払いだした。
もう人の女房である筈の年頃だが、
「あの、御案内申しましょう。この森の
「では、そなたは最前、あの店に居合した女ではないか」
「はい、鳥沢の
「父と仰っしゃると?」
「鮎川の
「おお、じゃあ留守だったのか」
「いいえ、
三五兵衛の方へ黒眼を流して、
わざと、髪には頭巾はかぶらないで、
三五兵衛は、つい、話のつぎ穂を忘れて歩いていたが、何かの
「失礼だが、そなたは、仁介殿の娘御か」
「はい、わがまま者で、
「
「ええ、どうぞもうお気兼ねなく。宅はがさつ者ばかりでござんすから、おもてなしのない代りに、どんなにでもお
「旅は、そうしたところが、
「この冬空、五街道のうちでも、甲州路は一番難儀だという話、さだめしお辛うございましょう」
「辛いという事もないが、また、面白いということもない」
「永い旅でいらっしゃいますか」
「左様さ……かれこれ四、五年」
「おことばの御様子では、
「ウム、よく分るの」
「宅へは、諸国の方が、よくお見えになりますので」
「紀州の者では、誰が来たか」
「え……」と、お稲の目はあわてて、
「あの、お侍様ではございません」
「渡り者か」
三五兵衛はおかしく思った。
だが、村上賛之丞のことを隠しだてする女の気持に、彼は、軽い
お稲と賛之丞と――その仲も、しきりと彼は想像してみた。
けれど、他人行儀な、今のような会話でも、それが、お稲の白い息にまじって
とにかく、三五兵衛はこの女に、ある興味をおぼえだした。お稲の眼もそうして男を
それに較べると、三五兵衛の方は、決してそうでなかった。
きょうまでの旅の間に、三五兵衛も多くの女を知って来ているが、彼の選んだ女には、皆ひとつの型があった。火のように、いつまで燃えつづく情炎と、それに耐えうる
つまり、彼とはまったく反対な性格と、反対な色感をもった女でなければいけないのだった。
鮎川の部屋は、さすがに大きな世帯だった。
「賛之丞のやつ、さだめし仰天して、今頃はまたあたふたと、何処かへ逃げ出す支度でもしているだろう」
「驚いたろう村上賛之丞。何しろ、一つ家の軒下に、おれという者が来たのだからな……」と、例の快味に
ふと炬燵の横を見ると、
炬燵
「
三五兵衛はひとごとのように
「
「美男はいいが、第一、おれの
いつも思うことだが、今もそれを、彼は嘆ぜざるを得なかった。
賛之丞がもッと
ところが、村上賛之丞と来てはお話にならない。あれでも、こんな片田舎では、用心棒ぐらいな事をごまかしているのかも知れないが、少なくも
討とうと思えばいつでも討てる――そんな人間を早速に討って、和歌山へ帰って、目出度がられて、おれは満足になり得るだろうか。その上、御加増だの嫁の口の話だのに多忙になって、武士の
そんなお祭り気分ではない、うけた無念は深刻なものだ。賛之丞があれだからと言って、とうてい
生かしておいて、おれは時折、おれの影を見せさえすれば、賛之丞はこの安成三五兵衛が、いかに執念ぶかい、冷酷な、おそるべき人間だかということを、紀州にいた頃からよく心得ている男だ。
それで、おれの復讐は、日一日、刻一刻ずつ果されてゆくわけになる。
しかし、そうしているまに、万一、彼が病死でもしたらという
――三五兵衛はいつまで
そんな事を胸にくり返しながら、実は、非常な神経を働かせて、広い屋内の空気を隈なく探っていたが、彼に少し、気がかりな事が起った。
「はてな、逃げないぞ、賛之丞のやつ」
どうも、彼の神経は、そう感じられてならない。
「向うの部屋にさしている明りの色、柔らかな笑い声、
三五兵衛は、困ったことになったと思った。
いくら賛之丞でも、自分がここへ来たのを知らなければ、慌てることも逃げる筈もないわけだ。そこらの出這入りに、誤って、顔と顔を見合すようなことは、絶対に気をつけなければいけない。
それにしても、一軒の家の中だ、いつどこでバッタリ鉢合せするか分らないから、何とか、あいつ奴、気がついてくれればいいが……。
「ウム」
三五兵衛はうなずいて、ふッ……と部屋の灯を吹き消した。
探りとった笛袋から抜いて、彼の指にかけられた
八寒嘯の音色だけは、一里へだてて吹いていても、賛之丞の耳に恐怖をおこす筈だ。かれは幾度も、この音に
三五兵衛は吹くのだった。
逃げろ、逃げろ、賛之丞!
汝を
逃げるがいいぞ。逃げるがいいぞ。村上賛之丞よ。驚け、あわてろ、
――八寒嘯はそう鳴るのだった。
――三五兵衛はそう吹くのだった。
と、その笛に、何の空気の異を感じたか、彼はそろりと竹管をうしろに秘めたが、
「いるな。はて……?」
むくッと立つと、次の部屋へ身を運んだ。
そこで、彼は猫のように、じっと闇に静止していたが、その部屋の床寄りに、
おそろしい
「く、くッ……」と、ただ眼を白くして、やがて、ぐんにゃりと三五兵衛の手を離れた。
「誰に頼まれた」
「へ、へい……」
「ぬかさぬか」
「申し訳がございません。実は、少し外で食らい酔って来ましたが、夕方から大びらで寝るわけにも行かないので、この押入れへ潜り込んだまま、つい、グッスリとしてしまったので」
「…………」
「そ、それに相違ございません、このとおり、食らい酔っているのが、証拠で、へい、どうか御勘弁のほどを」
男は不意に、飛びさがった。
「待て、誰が行けと言った」
「……ご、ごめんなすッて」
弱音をあげようとするのを取っちめて、男の
「おのれの
「えっ。……だ、旦那は」
「静かにいたせ。……だが、今夜は枕さがしではあるまい。何しにそこへ隠れていた?」
「……お。やっと、思い出しました。じゃ旦那は松坂の宿で、あっしがどじを踏んでひでえ目にあわされた、あのお侍さんでございましたか。……も、もすこし手を
「左様なことはどうでもいい。早く申せ、この
「こうと知りゃ、頼まれてもするんじゃありませんが、実あ私は、今では胡麻の足を洗って、この鮎川部屋の厄介になっておりますんで」
「うむ、仁介の杯を貰っているのか」
「という程でもございませんが、この仲間で、客分というような形なんで。すると今夜、お稲さんと賛之丞さんに呼ばれて、奥に泊まった浪人の寝込んだところを見届けて、その大小を取り上げて、合図をしてくれと頼まれました」
「何。では賛之丞のやつ、拙者を三五兵衛と知らないのではなかったのか」
「あっしも、その昔、伊勢の松坂でこッぴどく懲らされた旦那だとは夢にも知りませんから、お安い御用とひきうけた訳なので」
「ウム、するとあの、お稲という女も、無論賛之丞とは同腹だな」
「そりゃあ、元より極まったお話です。あのお稲は、江戸から流れて来た旅芸者で
三五兵衛の胸は何か考えこんだ。
お稲と彼との仲は想像どおりなものだったが、なぜか、制しきれない
「で、
「ちょうど旦那が、
「はてな、あの時刻に?」
「いくら耳ざとい旦那でも、気がつかないのは当り前です。外から這入って来たわけじゃなく、この戸棚の奥はこういう調子に出来ているので……こりゃあ長脇差の家にゃよくあるからくりですがね」と、仙吉が隠れ場所の種を明かした。
「寒くってしようがねえんで、ここへ、酒を持ち込んで、旦那の寝つくのを待っていた訳ですが、こう
「ウム。許してやろう」
「有難う存じます。じゃ旦那も、充分気をつけないと」
「が……待て」
「へい」
「どう逃げる」
「猿橋から
「道案内をたのむ。――拙者今夜ここを立つ」
「え、旦那も」
「生神場の辻堂で待ち合していてくれ。それに就いては、持物も貴様に預けておくから、落さぬように頼んでおく」
「旦那……」と、仙吉は
「ウム、金は、二百両を少しくずしてある。笛は大切、くれぐれ落さぬように頼む。どっちも少し邪魔になるから、貴様の肌に抱きしめてな」
「ようがす。じゃ、いずれまた生神場で」
「なんなら、それを持ったまま、方角をちがえてさしつかえはない」
「ぞッとします、旦那の金じゃ」
「寝込むなよ、辻堂で」
「大丈夫、あれから鏡坂へ見えてくるお姿を、目を
「そうしてくれ。……だがな、ことによると、そこへ行く時には、二人づれになっているかもわからない……」
外の板の間は氷のようだが、障子の内は、
「まあ、真っ蒼になって、どうなすったの賛之丞さん。……え? え? え? 気持がわるい? 寒気がするんですかえ? それほど今夜は飲んでもいないのに」
と、お稲は、自分の膝へ投げ込んだ男の体をゆすぶりながら、頬へ頬をつけていった。
「酒じゃあないの。え……笛? あ、今奥で吹いていたあの浪人の笛が」
「ううむ、もう寒気がとれた。お稲、その杯に
「気のちいさい人ねえ!」と、お稲はそれがおかしくもあり可愛いとも思った。
もう笛の音はやんでいた。最前のあの笛の音が、隙もる風のように、
噂のとおり、賛之丞はちょっと女好きのしそうな
「侍の癖にさ」
お稲は笑って、背なかを打った。
「さ。
「もう大丈夫だよ。
「そうですともさ、何も、一人でする仕事じゃなし、部屋の乾分で寝込みを取りまいてしまえば、お前さんが手を下すことはありゃしないのに」
「いや、おれだって、和歌山にいた頃は、藩の指南へ通って相当に
「苦手と考えるからいけないのさ。私なども、長脇差の
女に力をつけられて、賛之丞はだいぶ気強くなったらしい、いちど真っ蒼にさめた顔に、赤い色がさして来た。
「そうかなあ、やっぱり気持のものかしら」
「後で、落着いて考えると、自分でもふしぎでしようがないが、あいつのよく吹く、陰気な笛を聞くと、おれはどう
「仰っしゃいよ、この人は!」
いきなり、抱きあまるほど豊満なふところへ、男の体をひきよせると、お稲は
「お前さん、そんな私だと、思っているの」
「だが、おれのような
「私は、それを好いているんだよ。気の強い男ならば、いくらも部屋にいるじゃないか」
「もし、おれが三五兵衛に討たれたら、お前は、どうするね」
「また、そんなことを。私がそばにいる以上は」
「いやさ、もしかという場合に」
「後を追って死んで行くわ。ねえ、賛之丞さん、二人は、死んでもだよッ……死んでもだよ……」
と、お稲は激しい力をいれて、男の体をゆすぶると、
だが、男の気持は、それに合致して行けなかった。賛之丞は厚ぼったい胸の下に息がつまって、思わずそれから身をすり抜けて、
「こうしちゃあいられない晩だ。――おれも今夜はきっとやって見せてやる。あいつの息の根をとめてやる! なに、出来ないことがあるものか」
と、膳を寄せて、手酌で四、五杯たてつづけた。
「だが、どうしたろうネ、仙吉のやつは」
「うまくやるに違いない。あの抜け目のない男のことだから」
「そうとは思うけれど、遅いじゃないか。ほかの
お稲は急に立って、気がかりらしく、障子を開けた。仙吉の合図があるまでは、静かにしているようにと
するりと、外へ抜けるお稲をながめて、賛之丞はあわてながら呼んだ。
「お稲、お稲、ど、どこへ行くんだ」
「
「あまり遅すぎるから、ちょっと、仙吉の様子を見て来ようと思ってさ」
頼むよ――というように、男の眼は、安心してうなずいた。
× × ×
その後へ、しびれをきらした鮎川の乾分の一部が、忍びやかに、賛之丞のいる部屋へ寄った。
「先生、先生……」
「おウ、部屋のものか」
「どうしたって言うんでしょう」
「何が?」
「さっぱり合図がねえじゃありませんか。
「騒ぐな。もう少しの辛抱だ」
坐り直すと、賛之丞はまるで
「――
「やるからには大丈夫です。だが、仙吉のやつは、まだ何とも言って来ませんか」
「三五兵衛のやつが、まだ充分に寝つかないのだろう。その方は今お稲さんが見に行っているから、皆は、
「じゃ、戻っておりやす。して先生は」
「う。……おれか、おれも」
と、うッかりしていた賛之丞は、突っ張っていた肩を急にゆすぶって、不用意に立ってしまった。
「裏庭の木戸が手薄ですから、先生は、あそこを見てやっておくんなさい。
「左様か――心得た」
と賛之丞は、そこにいる者達へ、敢然と言ってみせて、さて、
お稲は、どこからか抜け廊下へ這入って、鼻を
と、肩に突き当った所がある。
今日は、留守でいないが、その上は、鮎川の仁介の部屋としてある。そして今お稲が探っている所は、何かの場合には、あの
すこし
「……いるのかい、仙吉。……仙吉。オオ、ぷーんと酒が匂って来る。お前また酒を持ちこんだね」
撫で下ろした柱の下から、今度は、敷いてある
「……どうしたね、そこの様子は。え、仙吉ってば。……あ、お前ここで寝込んでいるんじゃないのかえ」
指先に触れた着物を頼って、だんだんに肩とおぼしい所まで撫でてゆくと、不意に仙吉の手が――お稲はそう思っている――ぎゅっと強く自分の体を締めつけて来た。
「あれ……お前、どうするの」
そこの壁と
「あ……どう……どうするの、仙吉ってば……そんなにして……胸を。あれ」
襖の奥に、軽い
…………………………………………
…………………………………………
霜は真っ白で、すべての影は凍りついて、カーンと耳が聾になってしまいそうな寒気だった。
黒い
「どうしたんでしょう、先生」
賛之丞も、手足の指の痛むような冷たさと、時々、何か背すじへぞっと感じてくる度に、
「不思議だなあ、物音一つして来ない」
「もう、お稲さんが見に行ってからだって大分になりますぜ」
「左様さ……」と、賛之丞は唇をかみしめて、張りつめている態度の裏を、周囲の者にのぞかれまいと努めたが、すこし、不安な様子が顔いろにグラつき出した。
「見て来い、勘八と二、三人で」
「大丈夫ですか」
「だから、あの抜け口を通って、三五兵衛に勘づかれねえように行って来いと申すのだ」
二、三人が、裏庭を大廻りして、お稲の様子を見に行ったが、それからも、しばらく、なんの沙汰がないと思っていると、やがてであった。家の内と外にジーッと鳴りをひそめていた者たちが、一方の方角へ向って、その跫音と総立ちの声を、どっと、暴風のように集めて行った。
「そッ、それ、それッ」
賛之丞は、その途端に、血が
その時になって、抜け穴の奥を見に行った勘八や二、三人が、お稲のすがたが見えないという声を揚げ散らした。
――と聞いて、誰よりも度を失ったのは無論賛之丞であった。
「えっ。お稲が――」というと、彼はうろたえた無自覚な足を三五兵衛の寝ていた室へおどり入れようとしたが、釘を踏んだように、自分の盲目に
「――表に影が見える。表へ出たぞ」
「逃がすなッ」
そんな声に巻かれて、賛之丞も救われたように
遅れ馳せにあとから、駈けて来る賛之丞の姿をみとめると、そこに、むらがッた鮎川部屋の者たちは、手をあげて、迎え、
「おお、先生がやって来た」
「早くおいでなせえ、早くだ、先生」
「村上先生」
彼は息をきって、わいわいという喧騒にとり巻かれた。甲の声、乙の声、丙の声が、いちどきに賛之丞の耳へごたごたに飛びこんで、彼自身も、何か声を発していた。
「ど、どうしたと申すのだ。何がどうしたと? ……」
「あれを御覧なさい。お稲さんだ」
「えっ。おお……安成三五兵衛!」
彼は、
すらすらと霜の土橋に
「? ……」
賛之丞は、その両足を大地に凍りつけたように、手を下すことも忘れて立った。
女は、お稲にちがいなかった。お稲はほつれ毛の顔をうつ向けて、髪にのせた
その女の一方の手は、三五兵衛の左の脇の下にしっかりと抱きこまれていた。また彼の空いている右手には、
「……畜生、畜生」
と、鮎川部屋の者で、口のうちで叫ぶものがあった。
「まるで、
「お稲さんの
「古い、色男かな」
「そうじゃあない!」
「
「それにしたって、合点がゆかねえや」
「どうするんだ、見ているのか」
「見ているよりほかにしかたがねえや、助けに行けば三五兵衛っていう奴の刀が、お稲さんを刺す気でいるのだ――親分でもいなければ手がつけられねえ」
と、部屋の者はこう
すると、賛之丞は、急に吾に返ったように、一同の前へ手をひろげて、
「そうだそうだ、よく分別してくれた。助けるつもりで
「何を言やがるんでいッ」
途端に、がやがやとしたかと思うと、どさくさまぎれに、賛之丞の頬や頭へ、いくつもの
「てめえの
しばらくして、村上賛之丞が気がついて見た時には、もう鮎川部屋の者はひとりもそこにいなかった。
お稲も、安成三五兵衛も。
ただ、八寒の世界のように霜と氷と涙ばかりがあった。