チチ、チチ、と
「あなた。――あなた」
お稲は、力なく、前に行く人をよんだ。
かの女の十間ほど前を、三五兵衛は黙々と、あるいて行くのだった。
振り向いて、
「なんだ?」
と、
生まれてまだ六月か七月ぐらいな
「すこし、休ませて……。この児にも、乳をやらなければ」
「
「もうここまで来れば……」
と、お稲は、道しるべの石を読んで、そのまま、草の上へ、坐ってしまった。
「
と、暗くなった。
背なか合せに、どっさりと、草に腰をおろして、
「こんな調子じゃ、いつ江戸表へ着くことやら」
「人のせいみたい」
と、お稲は、恨むような
「これは、誰の子ですえ?」
「知れたことをいうな」
「自分が、無理にいうことをきかせた女房――自分が、勝手に生ませた子を邪魔にばかりしてさ――」
「まったく、邪魔だ。おれはなぜ、こんな者を、持って歩かなければならないのかと思う」
「今さら後悔したところで、二人とも、どうにもならない話でしょう。――子が
「どうでもなれ」
三五兵衛は吐き出すようにつぶやいて、雲を見ていた。
かれは、女のことばが、いちいち、村上賛之丞のかわりになって、
(返り討ちだ。おれは正しく、賛之丞に、返り討ちになっている――)
こう考えると、三五兵衛は、たまらなく、
また、この子にしても、果たして、自分の子か、賛之丞の子か、それも疑問だ。鮎川の
(賛之丞の奴、あとで、どんなにベソを
と、想像して、かれは、かれ特有な執ッこい復讐感を満足させると共に、一面にはお稲の若さを、淫婦性を、思うさま、もてあそんで来たのであったが、子どもが――と女に、からだの異状を告げられて初めて、ぎょッと寒いものを感じた。
が――追いついた沙汰ではない。悔んでみたところで、こればかりは、安成三五兵衛にも、どうにもならない。
悪縁だ。悪縁だ。
江戸に
「ね、お前さん――」
乳を、ふくませながら、お稲はくどく――神経質に、男の気ぶりを見つめて、
「飽いたんでしょう、もう私に。――でも私は、死ぬまで離れやしないからね」
「うるせえ」
と、三五兵衛は、
「
「江戸へ行っても、他人の家へ、私だけ預けて――なんて嫌なこった。だから、断っておくんですよ」
三五兵衛は、果てしがないと感じて、黙ってしまった。そして、笛ぶくろから、かれの愛笛――
昼の雲が――春の
三五兵衛は、頬のそげた顔を、少し仰向けた。そして、ひゅらり、ひゅらり、と横笛をふきだした。
――どんな気でいるんだろう?
お稲は、男の吹く笛に、からかわれるような気がした。血が
「アア、いやだ!」
と、耳の穴へ、指をかって、
「よして下さいよッ、笛なんか。――馬鹿馬鹿しい」
と、口ぎたなくいった。
でも、三五兵衛が、やめないでいると、お稲は、眼のいろさえ、
「やめないの」
「…………」
「やめなければ――」
と、横から、笛をつかんだ。
三五兵衛は、
「何をするんだ」
「やめないからさ」
「つらいのか」
「私は、この笛の音をきくとぞっとする」
「そうだろう。てめえの前の
「あなたは、鬼みたいな人だ、鬼、鬼……」
「そうだ、鬼よりも血が冷たかろう。孤独な人間は、こうなるのが当りまえ。――それも、
と、もう遠い過去になる追憶に、ふと、つよい憎悪と、恨みを、ひとみに
「妹も死なぬ。父も死にはせなかった。従って、この安成三五兵衛も、当りまえな
「じゃなぜ、お前さんは、鮎川部屋であの人に会った時、
と、お稲は、詰問するような、するどいことばで、
「それを、それを……」
と、口惜しそうに、涙ぐんだ。肩で息をつきながら、憎さにみちたひとみを向けて、
「――何ですえ、このざまは!
「なんとでも、わめけ」
三五兵衛は、ほろ苦く笑い消して、
「おれは、あいつを――あの弱い、男っぷりのいい、賛之丞という
「アア、帰りたい。この子さえなければ。この子さえ」
と、お稲は、身もだえして、
「どうしているだろう。あの人は」
「いつでも、暇をやるから、帰るがいい。てめえとの仲を裂いて、賛之丞を苦しませてやることは、もう十分にすんでいる。かえって、今じゃこっちの足手まとい、帰ってくれれば有難いのだ」
「誰がッ――」
と、お稲はもう、挑戦的に、
「帰るもんか、死ぬまでも。こんどは、こっちでお前さんを、苦しめてやる番なのだ。おぼえておいでよ」
「――だが、かあいそうなのは生れたその子」
「鬼みたいな
「それだって、誰の子かわかるものか。だんだん、賛之丞に似てくるようじゃねえか」
「寝ても、起きても、乳をのませる間も、わたしが賛之丞さんの事を、忘れないで、いるせいでしょうよ」
「いったな」
「いいましたとも」
「どれ……」
と笛ぶくろを、帯にはさんで、三五兵衛は先にあるき出した。
どうあろうと、形だけは、夫婦でありながら、
すると、その附近の崖の蔭から、
「あ、旦那。そこへ行く旦那え」
と、誰か、ふいに声をかけた。
「え?」
と、ふり向くと、
「何か知らねえが、お腰の物が、落ちそうですぜ」
と、三五兵衛へ、注意した。
帯をなでまわして、
「お、笛が」
と気がついた三五兵衛は、陽なたで、笑いながらこっちを見ていた男へ、
(親切に――)と眼で、会釈を送った。(いえ――)と、向うでも。
「火を一つ」
と、自分も、たばこ入れを出して、寄って行った。
だいぶ後になったお稲が来るのを、そこに待ち合せながら、三五兵衛は見まわして、
「若いの。たいそう馬が集まっているな」
「へい、あしたは、八王子に馬市が立ちますんで、甲州の
「馬市か、道理で」
「旦那あ、大菩薩から山越えでございましたか、やっぱり、馬市をご見物で?」
「いや」と笑って――「馬にゃ用はねえ、江戸へゆくのだ」
「でも、年に一度の
「たいそう勧めるな。そちも、その馬市へゆく博労か」
「いえ、あっしゃ、
「鍛冶屋がなんで馬の番をしておる」
「馬の番人じゃございません。こう、ぼんやりしているようですが、実あ旦那」と、百は後ろの
「――博労衆が前景気に、
「ほ、手なぐさみを、やっているのか」
「ふだん、馬具の金輪や馬蹄の仕事をもらっている、おとくい様なので、嫌たあ言えません。――聞えるでしょう、つぼの音が」
「む、なかなか、さかんなものらしい」
「市を目あてに諸国から入りこんでいる長脇差も、
木蔭から、かすかに、金の音がもれてくる。三五兵衛は、心をうごかした。江戸へ出ても、すぐ落着きを得られればよいが、もしかすると、早速にも、女づれ乳呑児づれで、路頭にも迷うような、たよりない、
「百、ちょっと覗いてもいいか」
「さ、どうぞ」と先に起ちあがって――「ご案内いたしましょう」
「なに、少しは、やくざな飯も食ったから、賭場の様子は分っている。それよりは、後からおれの連れが来るんだが……」
「へ。どんなお方で」
「
いい残して、かれは、藪の中へはいって行った。
と、やがて、お稲の通るすがたを見かけたので、百は呼びとめて、三五兵衛の
「それは
と、百の語る、馬市の話などを、うわのそらに聞いていた。
百は、子どもが好きとみえて、のぞき込みながら、
「女の子で。そうですか、もう
などと、他愛なく、
「どれ、疲れているだろう。あっしが少し抱っこして、あげやしょう」
「どうも……」と、お稲はすぐ、かれの手にあずけた。まったく、半日でも、
「笑ってるぜ」
「ほんに、嬰児でも、子の好きなお方は、よく知っているとみえて」
「だが、こんなのを背なかに負ぶって、おめえは、よく裏街道を越えて来なすったね」
「ひどい山で、難儀をいたしました」
「そうだろうとも」と、百は、
「――男でも、小丹波や大菩薩を越えてくる者はめったにない。何だってまた、こんな道を……」
「甲州路は、すこし
何か、ふかい訳がありそうなので、百は、口をつぐんだが、じっと、嬰児の顔を見て、
「こんな可愛いやつが一人あったらいいな、どんなに、おふくろの慰みになるかも知れねえ」
お稲は、百の独り言をふしぎそうに聞いた。こっちは、捨ててしまいたいとさえ思っているのに――と
「上げましょうか」
と、いうと、百は顔をあかくして、
「人の子じゃ」
と笑い消した。
「おや、他人の手は知っている。あんばいがちがうとみえて、ベソを掻きだしたよ」
「ありがとう、さ、もうこっちへ……」
と、お稲が、手をのばして子を抱きとった時だった。さいの音、駒の音が、時々するほか、ひそりとしていた
「いかさまッ!」
と、するどい声がした。
とたんに、蜂の巣でも突いたように、わっと、大勢の空気が
「
と、木の折れる烈しい音や、藪の
「
「ちょんのまに、いかさまで、四十両ほどせしめやがった」
「うまく、捕まえて来りゃいいが」
「なぶり殺しに、のめしてくれなくっちゃ、元も子も
「おい、見や……」
と、お稲の方へ、
「
「ム。この辺の女じゃねえな」
と、いやしい眼つきで、ささやき合った。
そして、一人が、百の耳のそばで、
「ありゃ、何処のだい?」
と、訊ねた。
百が、何げなく、今、
「こいつあいい
と、立ちかけたかの女の肩を突いて、そのまわりを取り巻いた。
「おめえの亭主か、何か知らねえが、あのいかさま浪人めに、俺ッちは、四十両も捲きあげられたんだ。あいつが、捕まって来れや、呑んだ駒を吐き出させるが、さもねえ時にゃ、おめえは人質だ、そこをうごくこたあならねえぞ」
「そうだ、この
「あしたの市でか」
「まさか」
と、どっと笑って、
「コブ付じゃ」
「なに、そんな物は、少しばかり金をつけてやれば、どこへでも、片がつく」
野性にみちた多数の眼である。じろじろと、無遠慮に、女の
「
と、さけびながら、そこへ帰って来た。
この辺の土地を、いわゆる縄張りと称して渡世している
「――おうっ、親分」
博労たちは振向いて、
「どうしました、相手の奴あ」
「面目ねえが、逃げられちまった。その上に、
「えっ、
「もろに、右の片腕を落されてしまったんで、今、みんなして、福生の部屋まで
「いかさまは食うし、渡世人は一人、片輪にやられるし、何てえざまだ」
「きっと、この仕返しはしてやる」
「親分、それにゃ、ここにうめえ人質がある。そいつを
「なるほど、踏めるな」
と、勘三は、お稲の襟あしから
「野郎を釣る
「女を、あした馬市で、
「面白かろう、じゃ羽村の、後で相談にゆくが、おめえ預かっておくか」
「こぶつきじゃ、有難くねえが、つれて行こう」
「だが、途中であの
ほかの
百は、ひとり、ぼんやりと
黒髪をわけたような

そこの戸をあけて、百は、
「おっ母、今けえったぜ」
と、肩の物といっしょに、胸の中の
裏で、桶風呂の
「百かよ? ……」
「おう、おらだい」
「おそかったのう」
「おっ母は、鳥眼だから、はやく、けえろうと思ってたが、なじみの博労衆に、たのまれごとをされて、つい、いやといえず……」
「なんじゃ」
「市の景気で、野ばくちが押っ開かれたんじゃ。それで張番をたのまれちまって」
「ばか者が! これから先、そんなことを頼まれるでねえぞよ」
「おらは、ばくちが嫌いだが、つい、
「
と、いつにない烈しい母の叱言だった。
百は、あたまを掻いて、
「もうやめた。きょう限り、頼まれても、そんなことはやらねえにきめたから、安心さつしゃい」
「だが、くたびれたろう。湯にはいれ」
「眼のわるいくせにして、おっ母はまた、自分で薪を割って焚いたのか」
「だって、われは帰らず、われが帰ってから、風呂よ、飯よでは、
「そんな、滅茶をして、またこの間みたいに、
「日が暮れて、おっ母が、手さぐりをしはじめると、おらあ、はらはらする」
着物をぬぐと、百は、そのあら
「わ……いい湯だ」
「ぬるくはねえかよ」
「ちょうどいい……ああいい気もちだ。すまねえなあ、おふくろ」
「なにを、こくだ、改まって」
「いや、ほんとに、すまねえよ。おらあ、いつも肚ン中じゃ手をあわせていたんだが、折角、年期をこめた師匠に破門をくって、馬の
「だから、ぬしも、ばくち打の張番などに頼まれて、日を暮していねえで、一生懸命に、腕をみがくこっちゃぞ」
「そうだ、そうしなければ、
「そうとも……」
おしげは、燃えいぶる
上手とはいわれなかったが、とにかく、先代までは田無の刀鍛冶で相当に暮していたのが、かあいい百之介の代になって百姓鍛冶に落ちぶれてしまったのが、何よりも、おしげの
(先代さえ、早死をしなければ……)
と、ことあるごとに、ぐちを思う。
弟子はないし先代の
一時は、師匠の清麿からも、
(見こみがある)
と、手紙で、折紙をつけられたので、よろこんでいたが、八年目に、
(破門する)
と、突然、田無の家へ帰されてしまった。
何の罪で?
なんの理由で?
百にも、おしげにも、
――後で聞けば、なんでも、その年の正月のこと。かれが、師匠の清麿について、
清麿は酒によわい。その日は、悪酔をしたらしく、万八を出るとすぐ、苦しいといって、柳橋の
ちょうど、柳橋の
(馬鹿にしてやがる。下手でも、田無の
と、帰って来た。
だが、すぐ後悔したことは諸国の
(なぜ、あの時に、立派にいい開きを)
と、年のたつにつれて、悔いはふかく、なんとか腕をみがいて、それを詫びに――と思いながら、ついに修業ばかりの六、七年は、草ぶかい野鍛冶の土間に、
――湯から上がると、おしげは、
「ぬしの好きな、山芋を
と、鳥眼の不自由さを、膝あるきに、膳や飯びつを、さぐって出した。
あわてて着物をかえながら、百は、
「あ、飯は」
「食べんのか」
「ちょっと、これからまた、用達に出かけなけれや……」
――淋しそうに、
「また、出てゆくのかい」
「すまねえが、おっ母――」と、膝をついて「この二、三日だけ、仕事を休ましてもらいてえ。それからは、きっと、一生懸命にもやるし……」
と、いつになく口重く、
「それから、もう一つ、頼みがあるが、きいてくれるかい」
「
「ほかじゃねえが、眼もわるい、身体もわるい、おっ母に、いつまで、台所を這いずらしておくなあ、見るたびに、おらあ辛くってしようがねえ」
「だから、この間から話のある、井草村の娘ッ子を、嫁にもらってくれればいいに」
「あの井草のお清は、おら、どうあっても、嫌えだもの」
「こんな、野鍛冶の貧乏屋へ、ぬしが、
「ところが、来る者があるだよ」
「えッ……」と、おしげは膝をはいだして、
「百。ぬしゃあ、女をこしらえたで、それを家へ、入れてくれというのじゃろう」
「そ、そんなんじゃねえよ、おっ母」
と、百は手を振って――
「今にわかる」
と、
その晩、かれの母は、とうとう、明け方まで帰らなかった百のことを考えて、
(あの子が好きな女であって、こんな
と、さびしい、老いのあきらめをつけていた。
馬の背なかが、波のようにならんでいた。
八王子の宿はずれから、大楽寺へまで、その馬市の
「さ、入れた、入れた、札を――」
その二日の市が終って、崩れだした夕方である。
大楽寺の境内に、なにか、真っ黒に人影が、かたまっていた。洗い髪に、うす化粧をした二十四、五の美人を、薬師堂の縁がわに立たせて、青梅の勘三と、羽村の
「こう、入れてはねえのか。
と、呶鳴っている。
羽村の留は、縁がわに立って、厚ぼったく取り巻いた諸国の
「かりにも、鶏や、猫たあちがう女一匹、それを
と、
「そういう次第なんで、相手の二本差が、ここへ名乗って出て来れば、相当な、あいさつをして、事の始末をするつもりでござんしたが、
と、留のことばが終ると、
「じゃ、札箱を切りますから」
と、青梅の勘三が立って、念のために、もういちど群衆を見まわした。
立会人として、博労の顔役だの、
「二十両下は、切りすてます。また一分から下の
と、断って――
「二十一両一分。
と大声で読みはじめた。
興味にかられていた群衆の顔は、
「鶴屋だ。
と、その顔をさがすように、うごいたが、すぐ次の札が、
「三十両ちょっきり――」と、読まれて、
「厚木の吉熊親分様」
と、どなった。
それからまた、高値――と渡された札を、順々にうけ取りながら、読み役の勘三は、声を、
「とんで、四十一両二分、川越の貸座敷大黒屋善六様」
その次の高値が、二、三枚とばされて、
「七十両!」
と、いっそく跳びに、とんだ。
(誰だろう?)
群衆が、ちょっと、気をのまれていると、
「甲州鮎川部屋の客人――村上賛之丞様」
サッと、女の顔がかわった。
せわしなく、その眼がうごいた。
勘三は、そう呼びあげて、ちょっと息をいれてから、
「――高値でござんす。鮎川のお客人へ、落ちました」
と、手を打ちかけると、
「おッと、もう一枚」
と、札が出た。
「ム、これやあ高え……」と、つぶやいて、
「只今のは、二番札で。これが
(え、百両)
無数の眼が、きょろきょろした。そして、勘三のくちびるに、神経をすましていると、
「落札、百両、百両。――田無村の
と、たかく読み上げた。
「えっ、百だって」
「あの
札元の顔役たちは、こういって、迷った。思いきった値に、
「二番札の方も、少々、お待ちを」
と、あわてて、どなった。
さいごの呼び上げを聞くと、群衆のなかに交じっていた百は、転ぶように、大楽寺の山門を、駈けだして、
「七兵衛さん! 七兵衛さん!」
松の蔭から、黒い人影が、
「ここじゃ、ここじゃ。どうした?」
「――落ちた。さ、貸してくれ百両」
「貸してくれって、ただは貸せねえよ。ゆうべも、話したとおり」
「だから、おめえの書いた証文へ、判を
「じゃ、家だけでなく、抵当物は、地面、造作、家財、仕事場道具一切」
「くどいなあ、分ってるよ」
「それから、山も」
「山か……」
と、百はちょっと、暗い顔をして、
「実をいうと、あの
「こっちも、買うという話じゃない。
金貸の七兵衛は、そういって、もう、さっさと戻りかけた。
「待っとくんなさい」
百は、
「ようがす、山も。――この腕で、一生懸命に、
「そうだとも、何も、手離すわけじゃない」
「じゃ、判を
それとひきかえに、金をつかんで、百はまた息をきって、大楽寺の薬師堂へ走って行った。
青梅の勘三や、羽村の留や、また大勢の博労たちは、何か、少し話がもつれかけたらしく、がやがやと騒いでいたが、かれの姿を見ると、いっせいに振向いて、
「百が――」と
百は、ていねいに、小腰をかがめて、
「では連れて帰っても……」
「金は」
と、誰か、するどくいった。
「へい、ここに」
そして、すばやく堂裏の暗がりに、
と――黒い人影のなかを泳いで、百のあとをさがしていた、なで肩の若い浪人は、
「はてな、どっちへ?」
と血眼をくばって、
「オオ」と、かん酒屋の灯がならんでいた寺前を、八王子の方へ、走りかけた。
どん、と誰かの胸に、胸をぶつけて、
「ご免――」
と、そのまま、すりぬけた。
「おい」
と、それを、さびた声がひきとめた。
はっと、思うとすぐにまた、
「村上賛之丞」
と呼ぶのである。
鮎川部屋の用心棒――といっても、男のいいかわりに、弱いのでは、甲州でも知られた村上は、ぎょっとしたように、
「誰だっ」
と、いった。
立ちどまって、こっちを見ていた編笠は、笠の前つばを、ヘシ折るように
「おれだよ」
と、
「あっ……」と、賛之丞は、顔いろをかえた。約束されたもののように、さっと、青ざめて、
かつて自分が、国元で、不義をして捨てた女の兄――それは安成三五兵衛だった。
男に捨てられて勝手に死んだ女――娘が家名をけがしたといって切腹した父親――それを三五兵衛は、肉親のかたき、いや、自己の生涯をも
その相手だ。しかも腕そのものが刃ものみたいに斬れる三五兵衛だ。賛之丞が、ふるえるのは、弱いのみでなく、無理はない。
だが、ふつうの人間と、少し変っている三五兵衛は、こうぶつかっても、自分を、すぐに殺さないことだけは、かれに分っていた。――なぜといえば、
(まず、命にかかわることは……)
と、賛之丞は、第一にこう考えて、気をしずめながら、
「安成か。よくも郡内では」
と、いいかけると、三五兵衛は、ひからびたような声を、編笠の蔭からもらして、
「どうした、その後は」
「なに」
「知りたかろう、お稲の様子が――」
「ば、ばかをいえ、あんな不貞なやつ」
「不貞? ――そうかな。お稲はもと、甲府のやなぎ町へ、江戸から流れて来た旅芸者、それを鮎川の親分仁介が、根びきをした持ち
「…………」
「その仁介の眼をしのんで、村上賛之丞と密通したのは不貞でなく、ほかの男と、逃げたのは、不貞というのは少し変だぞ」
「おぼえておれ、その口を」
「怒るな賛之丞、そのうちに、いや、近いうちに、お稲はその方に、返してくれよう」
「だ、だれが!」
「負け惜しみはよせ。未練のあるくせに。こん夜の入札に、二番札で、惜しいことをしたものだ」
「おれは、あの女を、未練でさがしているのじゃない」
「
「成敗してやるのだ!」
「わははは、その腕で、その刀で、
「強がりか、どうか見ているがよい」
「ム、見ていてもいいが――賛之丞、お稲は、
「斬る、斬る」
「じゃ今日は別れよう。――それとも、一曲聞かせようか」
笛ぶくろから、
高利貸の七兵衛が、月の末に、利子をとりに来たので、百は、ぎょっとした。――が、いいあんばいに、おしげには気づかれなかった。
のみならず、母は、百が家へ連れこんだ子もちの女を、初めは、疑惑の眼で見ていたらしいが、いつか、打解けて、
「百の嫁だったら」
などと、つぶやいた。
それに可愛いさかりの
茶うけの草餅を、仕事場のふいごの側へ運んで来た時、
「百や――」と、おしげは、そこにしゃがんで、
「お稲さんは、ご亭主があるのかえ、ないのかえ」
「ないんだとよ、おっ母。初めて山で会った時も、ちらと事情を聞いたし、ここへ来てからも、いろいろ聞いたが、なんでも元は江戸の
「あの嬰児は」
「初めは、おらも、ばくち場でみた気味のわるい浪人の子かと思っていたら、甲州でちょっとべい世話になった、身分のあるお武家の
「道理で」
と、おしげは、百のいうことをそのまま、何もかも、善意にうけとっていた。そして、しんみりと、
「どうじゃろうの、おぬしの気性と……」
「おっ母、おら、お稲さんとなら、きっと
「でも、先がよ……」
「お稲さんだって、おらの恩は、忘れねえといってくれた。おっ母、ひとつ、話してみてくんねえよ……よう、よう」
「この子は」
と、おしげは少しあきれたように、
「――どうかしている」
「あ、おらあ、正直にいうよ。おっ母のまえだが、おらお稲さんに、
――でもおしげは、
一雨ごとに、
その日は二人きりだった。おしげは、相談事があるといって、遠くもない狭山へ泊りがけで、行ったのである。それも、から身ではなく、孫みたいにしているお稲の子を負ぶって。
「百さん、きょうは、早仕舞にしない?」
お稲は少しういた声で、先に風呂にはいって、洗い髪にうす化粧をして、
「
と、ぬすむように笑った。
百もすぐ、風呂にはいって――あがって、
「なんだか、こう二人きりになると、夫婦みてえで、間がわるいな」
「いいじゃないの、どっち
と、膳の下へ、手を入れながら、ニッと笑った。
「酒か。――酒は」
と、百は、眼をうごかして、あたまへ、手をやった。
「飲んだことないのかえ」
「あるにゃ、あるけれど、おっ母が、酒だけは、ひどく嫌がるんだ。だから家では……」
「きょうは、お留守だから」
百は、飲まないうちに、赤くなった。年は、お稲のほうが、三つぐらい上らしいが、まるで十もちがう姉みたいな気がされるのだった。
野百合の
かの女は、楽しそうに、杯をなめた。子どもの事などは、もう忘れているようなお稲だった。ただ百は、
「ああ、田舎は、のん気でいいことね」
お稲は、くずした膝のあいだから、水色のみだれを見せて、
「こんな所に、好きな人と、暮していたら」
「お稲さん、おめえ、いつまでも、いてくれるだろうな」
「嫌じゃないこと。私みたいな女」
「勿体ねえ」――百は真面目にそういって、
「おめえこそ、嫌なんじゃねえか、こんな貧乏鍛冶屋」
「でも、元は、刀鍛冶でしょう」
「おれだって、一生涯、馬の足の裏ばかり焼いちゃいねえよ」
「すぐ、何かというと、貧乏貧乏っていうけれど、こういう黒い家に、かえって、お金ってものは、あるもんですとさ」
「いや、金はない。金はねえ……」
「あんなに、かくしてばかりいて、ホ、ホ、ホ、ホ……。そのお金のない人が、よく大楽寺の
ふいに、
「ど、どうするんだい、おらを」
「じっとしていらっしゃい。お坊っちゃん」
「よせやい、おらあ鍛冶屋だ。そんなことをいわれると、くすぐってえ」
「あたしは、好きさ」
「なにが」
「うぶな人が――」と、頬へ頬を押しつけて、
「もうよしましょうよ、二人の仲で。――金の話なんか水くさい」
「そ、そうだとも」
「でもね、たった一つ、もう一つ、私……頼みが」
「どんなこと」
「もう百両ほど、江戸の家へ送ってやれば、それで私は、死ぬまで、ここにいられるのだけれど、何とか、できる?」
「さ……」
「出来ない?」
「できなければ」
「私しゃ、死ぬかも……」
「えっ、ほ、ほんとかい」
「あら、かんにんして。――うそ、うそ、今のはうそ。そんなに心配しないで」
濡れた
百は、あまりに苦しかった。でも、その宵の夢を――ふしぎな未知をひらかれた夜を、かれは、うれしくって忘れ得なかった。
あくる日、お稲の子を負ぶって、おしげは帰ってきた。百は、母の顔に、すぐ、暗いものを見つけて、
(知れたか)
と、胸がさわいだ。
「おぬしゃ、えらい事をやったの。叔父御も、うわさを聞いて、驚いてござったが、もうしてしまった事は、どうなるべえ。わしも、決して、おぬしに
お稲の留守をみて、母は、そういった。
「――ただあの
「おっ母、これだ……」
百は、手を
「おらのやった、悪いこたあ、きっと仕事でとり返すから」
「そんなにまで」
「面目ねえが、おら、どうしても」
百は、爪を噛んだ。
いじらしそうに、おしげは、
「馬鹿よ、なんで泣いたり、こッぱずかしい事がある。ぬしが好きという嫁に、わしが苦情をいうわけもねえだに。――ただ、この貧乏へもって来て、百両という大借金ができちまっては、今すぐに、
「いってくれんな、おっ母、そのことはのみ込んでるんだ。きっと、おらが、
「それさえ聞けば……」
「おらだって、もう
すすきは伸びて、夜のような夏草に、夜ごと、更けるのを知らない野鍛冶の家からふいごの火が、真っ赤に映る。
火華は、雨の夜もとんで、
テーン、テーン、テーン
カアン、カアン
と一つ槌の音が、必死にひびく。
その槌音は、百のたましいだった。百のたましいは槌音だった。明けても暮れても、野末にそれが聞えぬ日はなかった。
夏から、秋まで。
だが、稼いでも稼いでも、農具や馬の金具では、百の望む金だかになるはずはない。百は、七兵衛から借りた百両と、お稲をよろこばす金だけが欲しかった――だが、どうして、二百両から上の金が。
で、かれが、思いついて
それも、一本や二本では、望むだけの金にはならない。秋までに、かれは、大小十組の小柄をきたえた。
いや、それでもまだ足らない。野鍛冶の
「おっ母、ちょっくら、江戸まで行ってくるぜ」
「何しに?」
おしげは、不安らしかった。
「なに、心配はねえ。仕事のはけ口を見つけに行くのよ。
「じゃ、そんな泥くせえ
「おや、仕立おろし。おっ母、いつのまにこんな着物を」
ちちぶ
「お稲さん、行って来るぜ」
裏で、
「はやく、帰って下さいね」
「あ。七日ばかり、留守をたのむぜ。おっ母をな」
「ええ、案じないで」
「おっ母は、
きのうすでに、仕上げをすました十組の
おしげと、お稲は、ふいご土間の外に立って見送っていた。――江戸といえば鼻の先、遠くはないが、それでも旅、七日の留守は、淋しかった。
百は、ふり顧って、すすきの中から、すすきの家へ、笠を振った。
江戸へつくと、百は、場末の
それに、かれの希望が、小柄二本ひと組で二十両、持ってきた十組を、二百両にして帰ろうというのであるから困難だ。でも、根気よく、構えのいい武家屋敷や、でなければ、豪家の
百は、よろこんだ。
四十両の現金をもって、木賃宿のふとんの中に、幸福感と、怖ろしさで、ふくれ上がるような、心臓の音を聞いていた。そして、
あくる日。
麻布
「ム、小柄を持参したか、そちらから上がって、御用部屋でお待ちいたせ」
やがて、きのう蔵前で会った四十がらみの武家が、
「わしは、当家の用人角右衛門だが」
と、いって坐った。
主人ではないのか――と百は案外だった。そして二十両の小柄を用人が買えるかしらと、すこし不安をもったが、
「
「持参したか、どれ、見せい」
百がさしだした小柄を、じっと見て、
「よく
と、角右衛門はいった。そして、額ごしにじろと、
「いくらじゃ」
「二十金でございます」
「安いのう」
百は、どきっとした。
「山浦清麿といえば、新刀でも、近世の上手。たとえ小柄にしても安すぎる。――だが、
「え」
「いやさ、この清麿の
「へ、へい、間違いはございませぬ」
「変だな。出物だと申したが、
百は、いよいよ、どぎまぎして、
「そ、そんなはずは」
と、
「第一!」と、角右衛門はきびしく「これをその方は、誰の手から持って参った」
「…………」
「
「どういたしまして、決して、そんな」
「おのれ、まだいうか」
いきなり、百の襟がみをつかんで、畳へひきすえると、うしろの
「延作、延作」
と、どなった。
がらりっと、そこが、開いたかと思うと、はいって来た一人の男が、
「おうっ、てめえは、
と、びっくりして、いった。
百は、畳から、眼だけを上げて、
「や、兄弟子。――面目ねえ」と、顔をかくした。
「この野郎、よくも、師匠の偽物を作って、売り歩きやがったな。この間から、清麿の
縄を打って、百を、駕のなかへ、
(きまりが悪い、師匠に会うのは)
百は、かごの中で、髪の毛をかきむしった。舌でも噛んでしまいたかった。
「ご苦労――」と、駕がおりる。
「おいっ、誰かいねえか」
と、よぶと、三、四人のがさつなのが、延作に手をかして、
「この野郎か、師匠の名を、
「庭へ、しょッ
十俵ばかりの土砂がますで、百は、からだをかこまれた。刀鍛冶仲間の私刑には、ずいぶんひどい成敗がある。耳や、片腕を、斬り落して、生かしておくのも勝手だし、なぶり殺し、胴試しに、職業の
(どうせ、殺されるだろう)
百は覚悟をしようと思った。しかし、母がある、お稲が待っている。片輪にされてもしかたがないが、命だけは助かりたいと思った。
「なぐれ!」
「見せしめだ」
延作たちは、弓の折れで、百の背ぼねをたたきのめした。気を失うと、水をぶっかけて、仕事小屋へ、はいって行く。
飯に、茶うけに、手すきがあると、出て来てなぐった。
――はっと、気がつくと、あたりは暗い。空には、星がまたたいていた。着物は、
「ウーム……」と、百は思わず、ふとく
水をかけた鋳物土に、膝から下はくいしめられて、一寸の身うごきもできない。がくりと、首を垂れながら――百は心で、母とお稲の名をよんだ。
仕事場と、母屋と、雨戸はみんなしまっていた。もう深夜だった。――ヒタ、ヒタと何処からか近づいてくる忍び足にも、夜露のねばるのが感じられる。
「百や……」
と誰かよんだ。――間をおいて、ひくい声で、
「百や……」と。
じっと、白い眼をあげて、闇をすかしていた百は、ふいに、泣き出しそうに、顔を引ッつらせて、
「わっ……お、お嬢さん」
「しっ、静かにだよ」
「どうしたの、おまえ」と、旧師の娘――百が内弟子にいたころは、よく、喧嘩をしたり、子守をしたり、からかわれたり、からかったりした、お袖が、なつかしそうにそばへ寄って来た。
「面目ねえ、お嬢さま、殺して下さい、ぶち殺して下さい」
「およしよ、そんなに
「お嬢様も……大きくなりましたね」
「あ、見ちがえるだろう。だって、私ももう二十二だもの。お前より二つ下だね」
「まだ、お
「それどころじゃない、あれから後――そうね、お前が、家を出されてから後は、山浦家に、魔がさして、それはもう不幸ばかりが」
「して、お師匠様は」
「ずっと、ご病気つづきで、もう幾年も
と、灯かげの
「お
「では、すぐそこに。ああ、おなつかしい! こんな
「お父様は、おまえの捕まって来たことを、さっき、延作から聞いていらした」
「穴でもあったら、はいりてえ、お師匠様は、おらのことを、さだめし犬か、畜生のように」
「いいえ、そうは」
お袖は、あたりを見まわして、ふいに短い刃もので、百の縄目を
「さ、おまえ逃げるんだよ」
「えっ、ど、どうして」
「お父様が、内密に、逃がせと仰っしゃったのだよ。――おまえの気もちは誰よりも、私が知っているものね」
「それでは、お嬢様が、おらの命乞いを」
「いいえ、今ではお父様も、おまえを破門したことを、心で後悔していらっしゃる。――何もかも、時の裁き――時がくれば分るのね」
「…………」
百は、凍ったように、うつ向いていた。
「おまえを破門したのは、
「そうだ。それを、この百が盗ったように思われて」
「実は、それを見たといって、お父様に告げ口をした悪い女があったのよ」
「えっ、じゃ誰かが、おらに罪をなすりつけたのか。畜生め」
「桜間さんの家で、親切らしく、その晩お父様を介抱していた
「そうらしいが……美しい
「その中に、柳ばしの
「では、お妾に」
「家は建ててやる、お金はみつぐ、それはまだよいにしても、名人の槌が
「ひどい
「なんでも、その男とも、上方で別れてから甲府で二度の
「へ……甲府で」と、百は、きょとん、と考える眼をして、
「年は
「もう二十六、七だろうね」
「はてな、小稲」
「何か、心あたりがあるの」
「小稲小稲……」
「
「へえ、銀歯がありますか……」と、百は息をはずませて、何か、うつつに、
「じゃ、この右の眼じりにも、大きな
「おまえ、よく知ってるね」
「げッ。じゃ確かに、小稲のここには、
「それが、
「ちッ、畜生ッ!」
百は、膝を埋めている
「――お嬢さん、お師匠様によろしく」
「あっ、おまえ、そんな怖い顔をして、急にどこへ」
「お情けに甘えて、百は、逃げますぜ。――もうお目にゃかかりません」
駈けだして、黒塀のみねへ、とび上がった百の
「百や――。おまえは」
と、泣いていた。
「ご機嫌よう……。お嬢様、どうか、はやくよいお聟さまを」
「もう会えないね。幼い時の、話をしあう人もない。百や……これを貰って行ってくれない」
「おかたみに」
と、塀の上で、ふところに入れた。
ねんねん、ころり
ねんころり
和子 の在所を問うならば
駒のお鈴に問うならば
千軒機屋 の調布町
萩にすすきにきりぎりす
水は玉川布 ざらし
月は武蔵の市ざらし
「おっ母。――おっ母」ねんころり
駒のお鈴に問うならば
千軒
萩にすすきにきりぎりす
水は玉川
月は武蔵の市ざらし
どんどんどんと、百は
「おっ母、おれだよ。開けてくんねえ」
はたと、子守唄の声がやむと、びっくりしたように、
「百かよう」
「おらだい。今、帰って来た」
「オオ、オオ」
あわてて、何かに、つまずいたのであろう。暗い中で、障子の倒れるような音がした。
「あぶねえな、おっ母、眼のわるいくせにして気をつけろよ。――お稲はいねえのか」
「裏があいてるだあ、百、裏口から廻って来う」
「なんだ、開いてるのか」
百は、裏からとび込んで、
「お稲は」
と、するどい眼で、家の中を見まわした。
鳥眼のおしげに、その血ばしった眼はわからなかったが、手さぐりで、探った百の足に、ぎょっとしたように、
「この、あわて者が、なんぼ早くお稲の顔が見てえからといって、土足で
「脱いでる間もねえ」
と、百は膝を折って、おしげの両の手を
「すまねえ! すまねえ!」
と男泣きだった。
「先祖からのこの
「支度って、おまえ……」
おしげの声は、ふるえを帯びた。
「旅に出よう、なあ、おっ母」
「じゃおぬしのあては……。いやいや、いうまい。老いては子にしたがえじゃ。百よ、どこへでも連れて行っておくれ」
鳥眼の母を、百は、ふとい腕の中へ、子どものように抱きしめて、
「おっ母は、怒らねえのか。この馬鹿な百を、叱りもしねえのかい」
「なんでわしが叱るものかよ。若いうちは――人間の一生には、いろんなことがあるのが当りめえだによ」
「そうだ、いろんなことがある。――だがおっ母、これから先は……」と、母のからだへいっさんに、涙をこぼして、
「これから先は、もうこんな苦労は」
「ぬしゃあ、気がついたの」
「眼がさめた! おらあ、はっきり眼がさめた」
「よく気がついたのう、賢い奴じゃ、わしゃそれさえ、ぬしが分ってくれれば」
「もう、その事は、いってくれんなよおっ母。百も、男だ」
「そうともよ。わしの子じゃ、
肉縁の血を相容れないべつな
「百、この子を、わしが背に、おぶせてくれい」
「お稲の畜生は?」
「…………」
「逃げたのか、おっ母」
「ほんとのこと話しても、ぬしゃ、どうもしねえかよ」
「だ、だれが、あんな
「じゃ、ぶちまける……おぬしが留守になってから、毎晩のようにこの裏へ、よび出しにくるお侍があるのじゃ。そして、明け方に帰ってくる」
「ウウム、何でもねえや、そんなこと。あの
「そればかりじゃない、足しげく、金の催促にくる七兵衛さんとも、どうやら、このごろは、変な話しぶりがあるで、耳うるそうてならなんだ」
「人間じゃねえな。――そんな女の
「いや、そうでねえ」と、おしげは、かぶりを振って、
「わしが、育ててやらねば、この子は、どうなると思う。ふびんじゃ、わしは、負うてゆく。――それから、御先祖のお
百は、見まわして、
「おっ母、お位牌よりほかに、なんにも持ってゆく物はねえ」
手を曳いて、
「いいあんばいに、月夜だから」
「すこしゃ、道が、見えるかい」
「まるで、この世でない所を、歩いているように見えるだよ。でも、田無の村の衆はこれから淋しがるだろうね」
「どうして」
「おまえの
「なに、うるさくなくって、せいせいしたというだろうぜ」
と、百は笑ったが、何気なく、眼がそれたとたんに、はっと、息の音をしめつけるようなものを見た。
ほのかな、月のいろを浴びて、田無の怪しげな家から、肩をならべて出てきた二人づれの影である。男は、わからないが、女はまぎれのないお稲である。
「こっちへ」
と、あわてて、母を横道へ誘って、半町ばかり、草の中を、むっそりと、黙り合ってあるいていたが、ふいに、
「おっ母、ちょっとここで、待っていてくんねえか。ひとりで、変な方角へ、歩き出しちゃいけねえぜ。すぐに
と、おしげが、何かいう声をふりすてて、恐ろしい
ちょうど今、
ひとりは、浪人だ。
侍にしては、なで肩で、気どった男である。そして、お稲はすこし、酔っているらしい。
ザ、ザ、ザッ――と野分のように、男女のうしろで、草が鳴った。
(何か?)
というように、ふり顧った
「わッ」
と、こめかみへ、両手をかさねて、草むらへうッ伏した――いやそのまま、
「あら、どうしたのさ」
と、お稲は、男の顔をのぞいて、
「賛之丞さん、ふざけちゃ嫌だよ」
と、何げなく、手をどけて見た。
耳をはずれて、左のこめかみに、一本の
「
と、近づいてくる百の影を見て――
「あら、お前さん、いつ江戸から」
「たった今、帰ったばかりだ。さだめし、おれの帰りを待っていたろう」
「七日といったのに、どうしたのだろうと、毎日おっ母さんと、噂ばかりしてね」
「ふん……もうその口にゃのらねえぞ。おれを待っているはずはねえ。待っていたのは金だろう」
「ほんとに、むりな工面をたのんで、わたしゃ後で済まないと思っていたんだよ」
「そのうめえ口が、刀鍛冶の焼金まで
「百さん……私にはさっぱりわけが分らないが」
「おらあ元、四谷の山浦清麿の弟子、てめえに罪をなすられて、破門された百之介だ、うぬあ、その時の、柳ばしの小稲だろう」
「あッ……」
「ざまをみやがれ、
とびかかると、お稲は、ばたばたと、走りだして、喉ぶえも裂けそうな声で、
「ひッ――人殺しっ」
「やかましい」
襟がみをつかんで、百は、女のからだを、ふり廻した。らんらんとした眼をかがやかして――炎のような息をついて――露の中をずるずると、お稲のからだを引きずった。
野中にみえる一本の
百は、さばさばと笑って、
「くそでもくらえ。おらあ、これから、てめえを自由にするより、もっと、もっと、胸のすくことをやるんだ。お稲!」
と、つかんでいる数本の小柄をみせて、
「これやみんな、てめえのために、夜の眼も寝ずに
さっと、風をついてその一本が飛んでゆくと、
「きゃっッ」
と、お稲は、月へまで、届きそうな悲鳴をあげた。黒い液体が、
「これは、師匠のお嬢さん、お袖様のかわりだと思え」
次に送った一本は、ぶすっと、かの女の乳ぶさに立った。
「ウ、ウウム……」ともがくと、幾ふさの
「ああ、
百は、熱湯から上がったように、全身に汗をかいて、よろよろと草の中に、腰をついた。――と、何処かで、すさまじい笛の音いろがながれている。誰がふくのか、横笛の音である。安成三五兵衛の愛する
百は、聞きとれていた。
ぞっと――何とは知らぬ身ぶるいを、感じながら。
そして、うつつな眼は、一方の草むらへじっと吸われていた。ゴソ、ゴソと、何か黒い獣じみた影が、這ってゆく。――しょう殺たる笛の音に、追われるように逃げてゆく。
虫の息になってまで、助かろう、生きたいと、もがいている村上賛之丞だった。
× × ×
「あっ、寒い!」
百も、後ろを見ないで駈け出していた。元の所まで来て、
きょろきょろと、
「おっ母、どこだい」
「ここじゃ。――百よ、ここにいるがな」
おしげは、露ふかい
「さ、行こうぜ」
「もう何にも、用事はねえかよ」
「ああ、すっぱりと、用事はすんじまった。大川で尻を洗ったような気もちッてなあおっ母、こん夜のことだろうな」
「わしゃ、なんだか、少しべえ名残が惜しいが」
「よしねえ、ぐちは」
「ああよすべえ、よすべえ」
「武蔵野ばかりにゃ月は照らねえ。どこの野末で、
「そして、おぬしもこん度こそ、よい嫁をさがしての」
「やめたア、おらあ。当分、嫁は見あわせだ。おらあ、おっ母を、
「馬鹿べえいって、おふくろを、
「思えるとも、おっ母にゃ、嘘がねえもの」
――だがしかし、百は、ふところの紅い
「露が寒い、歩こうぜ。オヤ、
「罪がねえの……ごらんよ、この顔」
憎んでいいのか、愛すべきか、百はこんがらかった気持のなかに、じっと、無心な顔を見ていたが、いきなり、母の手から抱き取って、
「おらが抱いてゆこう。――なんだ、軽いや、軽いや」