人国記にいわせると、由来、信州人は争気に富むそうである。それは、他国人に比を見ない
しかしこれは、あながち
――いや、私は、人国記のような肩の
これから持ち出そうというのは、その国の北信濃は
「誰も来やしまいな。――大丈夫だろうな、お
「え、大丈夫」
「今の
「延徳村の
「もう
「ええ」
去年の落葉が
どこかでぼくぼくと土を掘る音がしていた。
「お芳」
「え」
「大丈夫か」
「誰も来やしませんてば」
お芳は赤い
墓地といっても、この地方の習慣では、一人一
今、お芳の立っているうしろの墓地には、まだ雪が深かった正月ごろ、村のお千代後家が
やがて、墓地の中で、若い男が腰をのばした。その足音が近づいて来たので、振りかえると、
「おお、ひどい。もういいぜ」
と男は、耳の穴へはいった土をほじりながら、抱えて来た壺みたいな物を、お芳の足元へ大事そうに置いた。
「腰が痛てえ」
「いやな
「気のせいだよ。
「馴れているんでしょう、七さんは」
「親代々の仕事だからな。おら、ちょっと顔を洗って来よう、むこうの沢で」
「
「貸してくんな。へへへへ
七之助は、戸狩村の煙火師だった。こんな山里に代々住んでいても、煙火師渡世の者は、みんな遊び人肌で、いなせで勘がよくって金ぎれいで、女に好かれた。
手拭をつかむと、七は、沢の下へ駈け出して、烏の
「死人の臭いってやつは、水で洗うと、妙に生きかえって来やがる。馴れていても、やっぱりいいもんじゃねえな」
「七之助、忘れものがあるぞ、忘れものが」
「えっ?」
と、
崖の中腹に、灌木の葉がうごいていた。いろの小白い、どこか嫌味っぽい侍の半身が、意地のわるそうな薄笑いをゆがめて、
「
と、
土着の煙火師ばかりが三十戸もあるこの戸狩村には、冬のころから、
今、七之助を皮肉った侍も、その出役組の一名である。
けれど慎吾には、この山村生活も何の意味をなさなかった。ほかの同僚を
で、慎吾は、いよいよいい気になっていた。
こんな
今夜は、九の日だった。
月の九日、十九日、二十九日、こう三日の晩には必ず戸狩村の者一同が、郷士の
「よう。御苦労さま」
「お疲れでござんす」
「こんばんは」
「はい、こんばんは」
老人、中老、若い男、夕刻になるとぞろぞろ兵助の屋敷に寄って来た。黒い大きな家の中に、この晩だけは、百目蝋燭が二十本ぐらい
教来石兵助のいまの家は、当主で二十何代目というだけあって、おそろしく古い建物だった。
そもそも、戸狩の百姓たちへ火薬の製法を教えたのが、村上義清に仕えた兵助の祖先ということであって、それが三百年の推移のうちに、
花火という怪美な火の魔術が、印度の仏祭から始まって、南欧に、支那に、そして鉄砲渡来と前後してわが日本へ移ってから、諸国の煙火の技術を誇りあう風がさかんになった。殊に、町人芸術の
しかし、江戸では続々火災や死傷の惨害を起したりして、一時禁令になってしまったが、その反動で、煙火熱は地方的にたかくなり、国際花火の長崎を著名なものとして、九州では
今でこそ長野県では二尺玉も珍しくはないが、その当時では八寸玉を限度として、それ以上大きな花火は日本の空で見られなかった。――で、その八寸玉が初めて出来た時、将軍家の船遊覧をかねて真田侯が戸狩の煙火師を連れて中洲の
それを見て、笑った大名がある。三州岡崎城の本多侯で、
「てまえの国元では、あんな花火を、草花火と申して、女子供があげております」
といった。
戸狩の煙火師は
しかしそれは二十年も前のことなので、こんどの問題が、何もそこに起因しているわけではなかろうが、常にふくみ合って来た三州と信州とが、いよいよ、ある動機から火蓋を切って、双方で挑戦状を発した。
煙火試合!
甲の国と乙の国との煙火師が、星夜の空中を競技場として火焔の魔術戦をやりあうという例はこのほかにも珍しくはない。
――その結果であった。
戸狩全村をあげて、彼らが、冬から必死になって製作しているのは、三河との競技に、敵を
元よりこのことは、煙火師同士の争いとして、表面は藩の知ったことでないような顔をしていたが、裏面では敵方にも、本多侯がうしろ
その三河信州、両国の煙火試合は、いよいよ今年の秋ときまった。場所は信州方から出張って三州長篠の原。――いわゆる煙火陣である。
実際それは、
指揮役の命に従わない煙火師は、そこでなら、斬られても仕方がないということになっていた。それ程に、厳粛なものであり、また、それほどに熱中した。
だいぶ余談にわたったが、そんなわけで、戸狩の連中は、
「三河万歳め。戸狩の
と、いう意気込み。
長崎から買い入れた西洋薬品や硝石やその他の材料は、藩の手で供給され、五名のお
で――彼らは、月三回、兵助の屋敷に集合して、作戦や、研究や、用意おさおさ怠りない有様だったが、また仕事の息抜きになって、一つの慰安でもあった。
夕刻からぞろぞろとつながって兵助の屋敷へ来ると、彼らは、里親の所へでも来たように、勝手に風呂へはいったり、台所を手伝ったり、座敷をこしらえたりして、さて、それからお客様になって、奥の広間へ年順にずらりと
上席には、応援役、
その脇の書院窓の所に、ちょこなんと、主人の兵助。
あとは、左右の障子とふすまに添って、村の煙火師ばかり、老若およそ七十余名もいようか、黒々と
兵助はもう六十に近い温容な山侍で、いつも
「これで、
やがて、その兵助がいうと、
「いや、まだ一人見えん」
と、自分の
席の中程から、その遅刻の者に代って、いい訳することばがきこえた。
「へえ、その七之助ならば、実あ、草津にいる伯母の容体が悪いっていうんで、
「分るものか、みもちのよくないあの男のことだ。また
「そんなことはございません。親も女房もないせいか、あいつの伯母思いは、誰でも知っておりますんで」
「まあいい、怠け者には、藩としても、それだけの労しか認めないまでのことだ」
慎吾は、七之助のいい評判をここで引き出そうとは思わない。押し伏せるようにいっておいて、
「――今夜見えたら、あの男には、少し拙者からいい渡しておくことがある。各

と、例のわがままな筆法で、後の進行は、同僚の仕事に
「承知しました」
と、相役の四名は、厚ぼったい帳面を何冊もひろげ出した。――
筆とことばと、そろばんと
頃をはかって、お芳が、すがたを見せる。
いつも木綿着物ときまっている彼女も、今夜は、夕顔の花ぐらいにうすく白粉を襟に
「慎吾様、いかがでございますか」
一巡して、彼の前までかえって来ると、
「拙者に?」
と、わざときき返す。
「ええ」
「この間は、妙な所に立っていたな。何をしていたのか、あんな所で」
「…………」父の兵助の耳をおそれるように「あら、そんなこと存じませぬ」
「知らぬことはなかろう。七之助と」
彼女は、あわてて
「黒田様、おひとつ」
そして、席順に、次へ
「長沼様、林様、いかがでございますか」
うしろのほうで、慎吾がまだ何かいうのを、きこえぬ振りをして、いそいで、父の兵助の前まで来て、訴えるように、
「お父さま、お酌を」
と、眼で甘えた。
「うむ」
と兵助は膝に組んでいた指を解いて、むっそりと娘の酌をうけながら、
「お芳、あとでわしの部屋までちょっと来てくれい」
「はい」
彼女は、父の眼が自分の上に注がれているのを感じた。抑えようと努めた
「お、来たようだぜ」
「七か。おう、七之助だ」
その時、末席の方がガヤガヤし出したので、思わず眼を向けると、今やっと顔を出したらしい七之助の姿が、
酒がはいってみると、煙火師渡世の者は、みんなズバ抜けた道楽者ぞろいである。飲むことも飲むが、話は面白い。膝のくずせない五人の侍は、だんだん存在が薄くなった。
折をはかって、父の兵助が眼で招いたので、お芳はおずおずと奥へついて行った。うす暗い書斎だった。
――そこへ、お坐り。
ここで見れば、父の眼は急にやさしい。けれど、孤独の涙と、
兵助の声はかすれていた。
「おまえな……」
「はい」
「まさか、七之助と、ひょんな仲になっておるんじゃあるまいな」
「ええ」
「ええじゃ分らんの」
「人の蔭口でございますよ」
「たしかに蔭口かな」
「お父様の眼をしのんで、そんなことはいたしません。ただ」
「ただ?」
「……いろんな相談をうけるものですから」
「どんな相談を」
「こんどの仕事のことで、七之助さんは、藩士の方よりも、戸狩の誰よりも、いちばん死身にかかって、苦しそうでございます」
「それや、苦しんでおるじゃろう。ふだんは
「今までにない尺二寸の大玉へ、色も、今までに誰も出したことのない、赤と紫の
「赤の火色を出すって?」
「……ですから私も、つい、力づけて上げたいと思って」
「その先のことは、いわんでもよい。分っておる。――おまえ、七之助に頼まれて、わしの書庫から、門外不出の書物を幾冊か持ち出したな。そして、彼に貸してやったな」
「…………」
お芳はそのまま畳の中へ沈み込んでしまいそうな顔をした。
「あんな無学な男に、わしの書物を見せたとて、なんになるか」
「…………」
「もう貸し与えたものはしかたがない。だが、あれは大事な書物だ。教来石流の煙火の秘本だからの。
「……すみませんでした」
「七は、短気な男だから、わしがといわぬほうがいいぞ。おまえが気がついたようにな……」
「はい」
「分ったか」
「わかりました」
「それだけのことだな、おまえと、七との間は」
「え」
「じゃ、ついでにいうとくが、もうあの男に近づいてはならん。悪い男ではないが、おまえのためにならん」
「お父様、なんでもないのでございますよ!」
お芳は、甘える時のような、やや語尾のたかぶった声で、
「――誰がそんなことをいうのでございましょう」
「だから、つつしまねばいかん。おまえも、そろそろ
「でも……お父様」
「わ、わしが、どんなにおまえのことだけを、この世の気がかりにしているか」
「…………」
「分るか」
「…………」
「分ってくれい」
「…………」
兵助はぼろぼろ泣いた。お芳は、乳をむしりたいほど胸がいっぱいになっていながら、老父の愚に返った嘆きを見ると、かえって、涙が出なかった。
そしてただ、四、五日前に、この家へ立ち寄ってしばらく父と話し込んで行った、松代藩の三村利用係という役目をしている西洋臭い儒者を思いうかべていた。
その儒者は、馬みたいな長い顔をしていた。
すると、その時、
「喧嘩はよせ」
「喧嘩じゃない!」
「無礼だ!」
「無礼じゃない」
と、寄合のある座敷のほうで、怒号と物音と、何やら、すさまじい空気が、屋内を
兵助はすぐに出て行った。
お芳も、何事かと、あとについて、廊下の隅に立ちすくんだ。
あらかたの者は、話もすみ、酒にもたんのうして帰った後である。
――見ると、蜂屋慎吾と七之助が、お互いに蒼白になって、何か、口論しているところだった。
それが今にも、腕力沙汰になりかねない息巻きなので、残っていた少数の村の者と、四名の藩士が、双方のそばに立って、
「まあ、およしなさい」
「七! やめろ」
と、押しわけていた。
「
と、慎吾はなかなか
七之助も、一本気なたちで、
「仕事の上には、武士も百姓もあったもんか。いい仕事さえすれやいいんだ!」
と、
「生意気を申すな、生意気を。学問は進んでおるぞ、近ごろの砲術の進歩をみろ、蒸汽船の発達をみろ。――それを花火だから、古い製法でいいということはない。大砲にせよ、花火にせよ、同じ火術だ」
「よしてくれ、そんな講釈は、戸狩の者あ三ツ児でも知っていらあ」
「知っているなら、なぜ藩から渡してある硝石や薬品を使わんのだ。わざわざ長崎から高価な代金をもって取り寄せた材料をつかわずに、むさい墓場などを掘り返して」
「な、なにをいってやがんでい」
「墓場をあばいて、死人の腐肉から、何をとるつもりなのだ。あきれた愚かな者だ! 貴様は頭が古い!」
「あたりめえだ。おらあ洋学者じゃねえ、煙火師だ」
「三河へ探りにいった者にきいてみい。煙火師でも三州の者は、藩で指導するまでもなく、進んで薬品の調合も洋法を用い、硝石などはみなイギリスものを買い込んでいるというたぞ」
「向うは向う。こっちはこっちだ。なにも真似をするこたあねえ。第一おらあ
「こいつ、あきれ返った無智なやつだ。じゃどうしても、藩の指導にも従わず、また仕事も洋法によらんというのだな」
「ほかの者がやるだろう。あっしゃ御免だ」
「松代藩には、西洋火術の大家、佐久間先生がおられるのだぞ」
「戸狩村にゃ、七がいるぜ」
「な、なまいきな広言を! こんな山村に伝わっている法は、もう時勢遅れだわえ」
「じゃ、きこう」
「何だ?」
「洋法でやれや、赤でも出せるだろうか」
「火色のことか」
「そうよ!」
「ば、ばかめ。気が狂っているな貴様は。どこの国の煙火に赤色があるか! うすい
「ところが、おれの腕からは赤が出せる。しかも、血のように真っ赤なんだぜ! 紫も出るんだ! ふしぎじゃねえか、洋学なんて、甘えもんさ」
と、七は優越を信じるようにセセラ笑った。
ここで説明せねば分らぬが、七がたんかを
慎吾は、睨みつけて――
「じゃ貴様は、きっと赤が出せるというのだな」
と、つよく念を押した。
「おお、おらあ出して見せる。だから、気の毒だがおれの仕事にゃ、一切かまわねえでくれ」
兵助老人は、あまり激しいので、手を出しかねていたが、とうとう横から口を出した。
「これ、七! 何というこった。次席家老の御子息に対して、その口はなんだ!」
「仕事のことです! へい、仕事の上なら、あっしゃ、誰にだって、どんなことだって、いわずにゃおきません」
「仕事に熱いのはよいが、礼儀も、理非も滅茶滅茶になっては困る。――慎吾殿、勘弁してやって下さい。悪気のない奴じゃが、こういう持前なので」
老人のことばには、二人ともやわらいだ。とすぐ、七の眼がチラとお芳を見つけた。――その眼を、慎吾も感じて、振りかえったと思うと、彼は、四名の同僚に手や腰をすくわれながら立ち上がって、
「無学のやつは度し難いものだ。しかし、このままでは、藩の御威光にもかかわる。――いずれ貴様の仕事場へ参って、今夜の
「お。仕事の意地なら、果し合いでもしてやるぜ」
「お芳どの、どこへ」
すこし汗ばむような陽気だった。
お芳は、足をとめた。森の中からこっちを向いて歩いてくる慎吾の笑い顔を見つけた。そして、彼の顔や肩へ、木の間からチラチラと
「七の家へ行くのだろう」
「ま」
「驚いたか。余りよく知っているので」
――帰ろうかしら。
彼女は困った顔をした。
「何もかも兵助殿から聞いている。書物を取り戻しに行くのであろう」
「ええ」
「ああいう乱暴者のことだから、またどんな
「そんな心配はございません」
「分るものか。第一、そなたがあんな書物を持ち出したのがよろしくない。この間の広言も、墓あばきも、みな種はその書物から始まったのだろう」
いよいよ困った顔をして、お芳は、自分の足を見ながら歩いていた。
「墓場の
「ほんとに、駄目でございましょうか」
「そなたも本気になって、その腐い物を掘る張り番をしていましたな」
「でも、父の秘本に、赤い光を出す
「そんなことは、アイヌ族か
「そうおっしゃれば、まったくでございますね」
お芳は、今まで信じていた七の腕が、この間の晩の口論を聞いてから、慎吾の知識の尺度に比較されて、急にはかないものに思えて来た。
「時勢がちがってくると、大きな声ではいわれぬが、幕府でさえ、ぐらついて来ているじゃありませんか。思想、学問、工芸、なんでも古い
「そうでしょうか」
「そうですとも。だが、そこへ行くと、兵助殿は偉い。さすがに
「いえ、あれで、そうでもないんです」
「なに、考えていますよ。その証拠には、拙者の説などもよくうけいれるし、またそなたの良人となる人物などについても……」と、彼女の横顔をわざと見つめた。
「あ……もうそこが七之助さんの家ですが」
「かまわないからおはいんなさい」
「でも」
「拙者は外に隠れていますよ。万一きゃつが返さぬの何のと苦情をいったら承知しはせん」
「そんな憂いはありませぬが、あの、ほかに少し話がありますから」
「じゃ、拙者が聞いていては、困ることと見えるな」
「追い返すわけじゃございませんけれど」
「帰ってくれというのだろう。よろしい、遠慮して、拙者は元の道へ引っ返すこととしよう。その代りに、約束して下さらぬか」
「何をですか」
「実はこの慎吾も、そなたに一度話したいことがある。だがいつも同僚どものいる屋敷では都合が悪いから、旧お陣屋跡にある家で一度会ってくれませんか」
「あそこは昔代官のお別荘で、今では、誰も住んでおりません」
「人が住んでいちゃ困るんだ。
「そんなことをすれば、村の人が、何といって、取沙汰するか知れませぬ」
「分ってもかまわんでしょう。いずれ分ることになるそなたと拙者の間だもの」
肩に手をのせて、耳へ触れるように
「誓ったぞ。――じゃ今日は、無理をいわずに引っ返すとするからな」
と、お芳をそこに残して、すたすたと元の道へ帰って行ったが、少し先の雑木林をぐるりと廻ると畑の地境土手の蔭を歩いて、また元の七の家の横手へ戻って来た。
お芳の姿は、もう外には見えない。
「? ……」
そこへ、慎吾はしゃがみ込んだのである。
「仕事にかかったら、このごろは、誰が来ても小屋にゃ入れねえんだ」
七之助はうしろ向きになったまま、火薬にあわせるほおの
「くさいこと、ここへ入ると」
「あたりまえさ、嫌なら、帰ってくんな」
「まー」
と、睨んだが、坐り場所もないので、お芳は立っていた。
仕事にかかると夢中になる七之助は、彼女を振り向いても見なかった。そばには、
いつもは、そんなにも感じなかったが、慎吾の話を聞いてから、彼女の眼にはそれらの物が、みんな浅ましい無智の
小屋の隅にはまた、
「どうするの、こんなに、家の中に
「
「土から火薬を」
「ふしぎなことはねえや、昔やみんな、そんなものから弾薬をとって
「でも、硝石ならば、何もそんな手数をかけないでも、売っているし、仲間の物を貰ってもいいじゃないの」
「うんにゃ」
と、七は、
「こんどの仕事にゃ、何もかも、一切長崎仕込みのたねは使わねえつもりなんだ。意地だもの!」
「強情ッ張りだこと」
「そうよ、煙火師なんてものは、
戸狩に生れているお芳である。その気もちはよく分っていた。
七との仲も、お互いに、ぞんざい口がふつうになるほど深かった。恋も生き方も、花火のように
元から刹那主義な恋だったから、当然行き詰りが来たのかも知れない。だが、彼女はそういう理由をつかむ気もなく、ただぼんやりと新しい慎吾のすがたを、知識を、地位を、描いていた。
「ところで、お芳」
「え」
ハッとして――「何ですか」
「何しに来たんだい、今日は」
「あ、忘れていた。あの……いつか持って来て貸して上げたお父様の
「どうして」
「
「嘘だろう。ははあ分った。おめえはあの次席家老のせがれに突っつかれて、
「ま、
「そうに違えねえ。おらあ何でも知っているんだ。ヘン、こう見えても七之助は地獄耳だよ」
「おまえは、きょうはどうかしているんでしょう。また機嫌のよい時に話しますから、
雑多な薬液の
「待てッ」
と七は、いきなり立って、
「うぬ、心変りをしやがったな」
足を上げるがはやいか、お芳の細腰を
息を引きとるような鶏の声がして、けたたましい
「あっ」
七は、お芳の上へ重なって倒れた。
「慎吾だな、てめえは」
「慎吾だ」
「なんでこのおれを蹴った」
「なんで、お芳どのを蹴った」
蒼白にひっつれた顔と、迫力にふるえる
「蹴ろうと撲ろうと、よけいなおせっかいだ。おれの女をおれが蹴るにふしぎはねえ」
「おれの女?」
「うム、立派にいおう、お芳はおれの女だ」
七は
眉をビリビリさせていた慎吾は、相手が敢然とさけんだ事実に、ほとんど血の気を失いかけながら、
「これやおかしい、兵助殿が戸狩の七に娘をやったという話は聞いたことがない」
「何が何でも、お芳は、おれの女にちげえねえんだ」
「ばかを申せ。お芳どのは、父親の許しもあり、また、本人もかたく拙者と誓っておるのだ」
「ふウむ、それで読めた。何かにつけて、てめえがおれの仕事に茶々を入れるなあ、そんな恋の怨みだったのか。可哀そうな程、ケチな野郎だ」
「だまれ、お上の役目に私怨をふくむか。――おお、いつぞや貴様は、仕事の上のことならば、果し合いもいとわんといったな」
「いったがどうした」
「藩の目付として参っているこのほうのいい条に従わぬ以上は、お上に対しても、役目の身がすまん。といって、貴様も、アアまで我を突っ張った手前、まさか今さら後悔したともいえまい。望みどおり果し合って、解決してやるから得物を持て」
と、人を
「よし、待っていろ」
七には、否やがない。
脇差をとるために、彼は、からだを
その間に、慎吾は、下げ緒を解いて袖をからげた。うろたえているお芳へ、
だいぶ間があった。
彼は、二つ三つ、腕の空振りを試みた。なお余裕がありそうなので、五本の指を一本一本節を折って待ち構えた。それでもなかなか見えないので、土俵の砂をふむように足馴らしをしはじめた。
しかし、七はまだ出て来ない。支度にしては長すぎるし、小屋の中はいやに静かだ。
「どうした。七!」
慎吾は、呶鳴ってみたが、返辞がないので、さては逃げたな、と土間の中へ駈けこんで見た。
と! 案外である。
相手は屋内に落着きこんでいた。慎吾はかえってギクッとしながら、覗くように様子を
慎吾は、上がり
「七! ひるんだな」
「ばかをいやがれ」
と、七は、磨りつぶした粉を、百
「笑わせるな、誰がひるむ」
「出ろッ、なぜ外へ出て来ないか」
「おらあ止めだ」
「あやまったか、たわけ者め! 恐れ入ったといえ」
「ふ、ふ、
「うぬ、まだ広言を」
「何が広言だ、勝手な歯ぎしりを鳴らしていやがると、ここから火薬玉をたたきつけるぞ」
慎吾は思わず
「では得物を取って、尋常に
「止めたっていうことよ、くどいな。おらあ、考えてみれや、煙火師だ。斬っても、斬られても、刀でやり合うなあ面白くねえ」
「ば、ばかめッ、刀で果し合いをせずに何でする!」
「本職で行こうじゃねえか、本職でよ。――おめえも次席家老のせがれだっていうが、役名は火術自慢の松代藩でお
「そんな勝負は武士の
「おれは職人だ。腕で来い。やい、てめえは常に何といっている。ふた口めにゃ洋学をふり廻しやがって、おれたちのことを
いつの間にか、土間の外には、戸狩の若者と四名の藩士たちが、がやがやと別になって揉み合っていた。中へはいって慎吾の助力をしようと息巻く侍のほうを、村の若者たちが手をひろげて、断じて
慎吾はのっぴきならなくなった。戸狩の者や同僚どもの手前――またお芳のてまえにも。
「よし! どういう勝負でもしてやろう。してその約束は」
「みんなに決めて貰おうじゃねえか」
「ウム、立会い勝負か」
「そうだ。おい、一同、はいってくれ。お芳も逃がさねえように連れて来てくれ」
外で揉み合っていた連中は一時に小屋の中へ
しかし、村の習性か、危険物をあつかう職業的反映か、きわめて男女間の風紀が
尤も、このことは、前から口には出さないが、皆うすうす知っていたので、いずれ一度はひと騒ぎを
ただ気の毒なのは兵助老人で、お芳の性的行状をまだ少しも知らずにいる。その小締めな体つきをながめて、いつまでもわが
けれどそれを
で、果し合いの約束はほぼ決定した。
後日になって異議のないように、立会人が箇条書にして双方へ手渡した。そのうち重点を拾って
まず、各
、十分自信のある花火をこれから百日の間に製作すること。
製作材料ならびに薬品等の選択は各自の自由。また手助けとして二名までの下職は使ってもさしつかえない。
寸法は手頃として八寸玉。
検証はここにいる一同。
打揚げ勝負の場合は、筒ごしらえ、口火落し、すべて当人以外の助太刀はゆるさない。
場所は善光寺より四里、川中島から東南へのぼった千曲川 の河畔 。
日はおよそ七月上旬。三州長篠 の煙火陣へ押出す前に決行する。
約束はざっと以上のような条件であるが、さて、勝ったほうはどうするか? 負けたほうはどうされるか? 刀と刀の果し合いでない以上、
製作材料ならびに薬品等の選択は各自の自由。また手助けとして二名までの下職は使ってもさしつかえない。
寸法は手頃として八寸玉。
検証はここにいる一同。
打揚げ勝負の場合は、筒ごしらえ、口火落し、すべて当人以外の助太刀はゆるさない。
場所は善光寺より四里、川中島から東南へのぼった
日はおよそ七月上旬。三州
しかしその場合の要求点は、二人とも一致していたので厄介はない。簡単明瞭である。――負けたほうはどんな恥かしめも甘んじて受けること。つまり制裁に服す! である。
それともう一つ、優越者は、お芳を自己のものにする! 敗れたものは恋の資格を失うことであった。何のことはない、お芳にも意思はあるだろうに、立会人の
慎吾は早速、製作にとりかかった。彼とてもまんざら自信がないわけではない。
戸狩の仲間うちでも、七之助に反感をもっていそうな男を二名、助手として雇って、その男の小屋と設備を、仕事場にあててかかった。
「どんな様子だ? 七のほうは」
同僚が来ると、そればかり探りたがった。
「空家みたいだな、七の家は」
「ふーん、逃げたんじゃないか」
「なに、中で音はしている」
慎吾は常に何かしら彼の迫力に押されていた。藩へ手紙を出して、殊に精製した強力な硝石や薬料をぜいたくに取りよせた。その点では、七之助が相変らず伝統を固持していわゆる
村は夏めいて来た。この山国に新緑を見るともう五月の
二人の手伝いが休んだので、慎吾も、仕事小屋にぼんやりしていたが、
彼女の手紙は、その前の手紙よりも、自分への好意をだんだん明らかにしていると慎吾は思った。ふたりの男の智能や身分を比較してみれば、どんな無考えでも、女が自分のほうへ歩み寄りたがっているのは当然だと考えた。
「果し合いをする前に、もうお芳はこっちのものじゃないか」
ほくそ笑まれると同時に、何だか、禁断の
それに近ごろ、他の同僚たちが、暗にお芳との恋を
「会いたくなったなあ」
ぶらりと外へ出た。珍しく着流しに草履ばきで、日蔭を拾った。
教来石兵助の家を訪ねてみると、お芳はいなかった。湯田中まで行ったからまだ帰るまいという。兵助老人を相手にしばらく世間ばなれのした話をしていたが、こんどのことは絶対に聞かさぬことにしてあるので、長居もできない。自分だけ泊り場所を移したことも、この老人には藩用の都合でといいつくろってあるくらいだった。
――その帰り途である。
わざと遠廻りをして、村から離れた旧陣屋跡まで来ると、これも藩の佐久間象山が移植させたのだという
見たような男だが――
慎吾は、先へ廻って、旧陣屋の土塀の蔭にかくれていた。塀の崩れ目は雑草の中に沈んで、また向うへ続いている。百年以上もこのままになっているという建物の真っ黒な棟がその間から見えた。
「おや?」
慎吾は目をみはった。
今その中へ、あたりを見ながら、犬のように這いこんだ男は、七之助にちがいない。七! と思うと、彼は頭のしんを
いつかお芳と約束したことがある。彼はそれを忘れてはいないが、あの時の騒ぎからつい機会を失っていたのだ。
旧陣屋跡の古家なら、人目にもかからずゆっくり会えるからそこで一度話そうといったあの約束である。――お芳は、自分が教えた場所で、いつのまにか、七と密会しているんじゃなかろうか。
「それでだ。近ごろ同僚のやつが、いやに奥歯に物の
むらッと燃えながら、十歩ばかり駈け出して、土塀の崩れ目から中を覗きこんだ。ぽきりっと自分の手に大きな響きがした。つかんでいた木の枝が折れて来たのである。
その音に気がついたように、今、空屋敷の雨戸の前にたたずんだ七の顔が、チラとこっちを振り向いた。慎吾はあわてて後ろへ身を
だが――七が帰ったのは、慎吾には見えなかった。疑心と嫉妬が
「あら、慎吾様じゃありませんか」
不意だった。
びっくりして振りかえると、林檎畑の細道から女の姿が歩いてくる。林檎の木の小枝の間からお芳のひとみが見えて来た。
髪の毛から
「どこへ行って来たのか」
「湯田中まで。――あなたは」
「そなたを探しておったんだ。湯田中じゃあるまい」
「じゃどこです」
「この古家の中にいたんだろう。七のやつと」
「ま! ……」と
「昼間から七と会っていたんだろう。人の住まない家だ。足痕を見ればわかる。こっちへこい」
気狂いじみた力で、抱きしめたまま、ぐいぐいと空屋敷のほうへひき摺って行った。お芳の
……………………
それから後、ふたりは度々、草いきれのこもった古家の雨戸をはずして、こっそりと
気色のわるい
その間に、彼は、自分の心魂をつめこんだに等しい八寸玉の製作を終った。
八寸玉というとかなり大きな物である。玉の外殻はうすい
この中には、おれの骨もけずり込まれている。血もはいっている、
――無理やねえ、雨気をもった暗い晩、こんなのがあがるとひゅッと泣いて、青い火が降るとぞっとするようなことがあらあ。やっぱりこいつあ化物の類だろうよ。
七は、自分の作った八寸玉の、その重量にさえ、一種の気味わるさを感じるのだった。
彼にいわせると、花火は、生きてる化け物だという。あの怪奇な、あの蒼白い
七は今も、そんなことを考えながら、巨大な妖怪の玉を、押入れの奥にしまいこんだ。
「さ。いつでも来い」
自分の苦心にかえりみて、彼は恥ずるところがない。
もしこの玉から彼が苦心の
しかし、七には、自信があった。
彼は、その日から涼しい顔をして、別の仕事にかかった。
そのほうは、気楽な雑物で、問屋へ持って行って金に代えるだけの仕事である。その合間には、三河の煙火陣に持ち出す
「雑ものを
六月へはいったある晩だった。
七は、仕事小屋を閉めて出て行った。――この前、気に食わない慎吾の顔を見て、ふいと止めて来た陣屋跡の古家――そこへ来たのである。
土台柱は、みんな白蟻が
その土台柱をかぞえて、何本目かを
「七の火薬はべつだぜ」
と、仲間の者も、常に彼の出す強力な火勢には驚いていたが、その硝石の宝庫は、この古家の床下だった。無論その土は、彼の手で加工され洗滌されてから全くべつなものに変質されるのではあるけれど。
一かごとると、べっとりと汗をかいた。
「おや?」
ここへは、何度も土を採りに来たが、今までにない現象をそこで見た。――すぐうしろの土台柱に、床板の割れめから、ほんの微かではあるが、明りが射している。
花火の妖精さえ信じている七だった。ぞっと寒いものを背すじに這わせて、蒸暑い体を冷たい土に寝せていると、ホホホと女が笑う、男が笑う、そして低くなり高くなり、
「? ……」
七の眼は闇の中に、
「人間じゃない、人間の笑い声じゃない。……
いや! 彼はもっと
あの
冷たい汗がすだれのように七の顔にながれた。あの世から洩れる火のように、かすかな光はまだそこに洩れていたが、いつか床の上の気配はしいんと死んだように静かになっていた。
前よりは遥かに小さなささやきがもれて来た。七は耳へ指を突っこんだ。そのくせ、そこを動くことは全く忘れて。
ざらざらと
青い
七は、どやされたように
土は持って帰れない。いや、そんなことは忘れてしまっている! 彼は尻をからげて、雨のすだれの裏を
裏のほうへ廻ると、水口の雨戸が五寸ほど
「有難え」
なんの気もなく、手に取って、ぱきんとひらいて身を隠した。ザザザザッと
ひらめく
やっと、雨の縞がすこし細くなったので、すっぽりと傘をかついで、池のようになった水の中に飛び出した。――すると、うしろの戸がガラリと開いた。
「おい、待て」
男の声である。すぐその後ろについて女の声がいった。
「いけませんよ、その傘をさして行っちゃあ」
声に覚えがあった。七の足は
「おぼえていろよ! 傘か、てめえ達ゃ濡れて帰れ!」
しいんとした薄暮のいろが低く水面に降りていた。西岸の山の尾根から河原のふちへかけて、屋根へ石を載せた豆板のような家がまばらに散在して見える。
戸倉の
「支度がよかったら、ぼつぼつ出かけようじゃないか。もう七之助のほうも、
戸倉の
「
「溜飲をさげて、後で飲むのを楽しみにしているぞ」
慎吾と、介添の四人を送り出して、彼らはその影が遠のくまで、二階から声援を送った。慎吾はふり顧って、腕を叩いてみせたりした。なかなか元気である。果し合いの勝負以外に、何か成算があるらしかった。
戸倉の暗い辻を
「慎吾様」
と、女が先に走り寄った。
「お芳どの、心配するな」
顔を見ると、すぐに慰めて――
「筒や玉は?」と、煙火師のほうへ向ってたずねた。この二人は、果し合いの条約にもゆるされて八寸玉の製作を手つだった男たちである。
「もう先へ送っておきました。場所は決めた通り、
「ご苦労だった。七のほうは、来ているか」
「あいつは河原ではやを釣っていましたぜ、待ちくたびれているんでしょう」
「ふーむ」と冷笑をゆがめて、
「じゃお芳どの、そなたは近くまで行ったら、舟にのって川の中の丘にやすんでいるがいい。なに一人じゃない、丘のほうには拙者の友人を廻してあるのだ」
河原を
初夏ならばこの辺、佐久地方の高原から流れて繁殖した月見草の黄色さで夜も明るい。今秋草は川洲のどこにも伸びていた。
ピピピ、ピピピ、と
半町ばかり先に、
いるな。
来たな!
両方の感覚が無言のうちに冴える。
慎吾は、
「七、たいそう早かったな」
「おいでなさいまし」
七は柔和にあいさつをした。そして介添の者にまで、
「今日は、ご苦労様でござんす」と、いつになく
「そっちの支度はできておるのか」
「へえ。いつでも」
「ウム、そこが
「死縄のつもりでございますよ」
「なあに、勝敗は時の運だ。半分は天意に任せたつもりでなけりゃあ」
「そうかも知れません」
「お互いに、恨みは残すまいぞ」
「あっしゃ、負けれや恨みを残しますね。残さずにゃいられねえ性分ですから」
「はははは」
と、笑ったが、両方とも
で、遂に七がいった。
「ところで、お芳は」
「む、お芳か」
「おまえさんのほうで、今夜ここへ連れて来るということになっていたはずですが」
「連れて来てはおるが、実は、打揚場に女は
「そうですか」
七は、案外素直にうけいれて、
「ようがす。異存はありません。――じゃ打揚場にわかれましょ」
きりっといって七が腰を立てると慎吾は反対に、どっかりと石に腰をすえて、
「ま、あわてるな、拙者は武士だから果し合いの作法もある。戸倉で調えて来た
と、七の出鼻を折った。
しかし、その態度のわりあいに、慎吾のひとみは、四方の闇に対して、決して、落着きのあるひとみではなかった。
これが、ほんとの一国対一国の煙火陣ならば、
そのかわりに、もし敗れたら恋も
雑草の
立会役に代った藩士のひとりが、
「いざ!」
と、五間先の闇から、慎吾の緊張した声がうながした。
七は、短い脇差をさし、素わらじに紺の
自分の生命をあずけるように、そろりと玉を仕込む。後ろへ退がって火縄を持った。
――口火落しの大事なことはいうまでもない。技といおうかこつといおうか、ぽんと筒へ火を落すとたんの呼吸ひとつで、満天にひらく名花もだいなしに崩れることがある。また黒玉といって、まったく殻をやぶらずに、そのまま、落ちてしまう例もある。黒玉を打ちあげたらば煙火師は土地にいられなかった。それほど絶大な恥辱としていた。
さて!
七は、呼吸をはかって、火を筒に落した。
そして、サッと身を
しゅッと、手もとの黄煙を突いて、細い火光がまっすぐに宙へ
同時に、
どうだ!
――
どかア――ん。
「黒玉だッ」
誰かの口から、こう絶叫すると、唖然としていた一同が余りのことに、舌をもつれさせて、
「ど、どうしたんだ七!」
「くろ、くろ、黒玉だぞ七!」
泣くように
七は、白い顔をして、筒のそばに腕組をして立っていた。
「静かにしろ、まだ勝負はつきゃあしねえ」
「だ、だって、兄き」
「ええ、うるせえな。――おいッどうした! そっち組は」と、やけのように呶鳴った。
相手の案外な失敗に、じっと鳴りをしずめていた慎吾たちの組は、七のやけな声を聞くと、いちどに
「何と申したのか、もういちどいえ」
「こっちはすんだぞ」
「ううむ、
「なぜすぐに打揚げねえのだ。ことによったら、てめえのほうも、黒玉かも知れねえぞ」
「ばかを申せ。いま慎吾の腕を見せてやるから
「オオ」
七は、闇に眼を澄ました。
そして、慎吾が、
「しまった!」
と声を飛ばした。
慎吾はハッと思ったらしい。
異様な音響がした。
火と、血と、筒の裂けるような音!
とたんに、慎吾の首は、形を失って、宙天へ飛んでしまった。
胸のひろがるような爆音が、同時に、初秋の夜空をいっぱいにどかアんと鳴った。五ツの銀光星が北斗のように斜めに浮游することしばらく、やがて、その五ツの星が個々にばらばらと
――夢だ! 夢みるような気もちなのだ。
誰もなんにもいうものがない。
上を向いたまま。
腕をくんだまま……。
なんとすばらしい火の美だろう、恐い魔術だろう、瞬間の光焔の中には見上げたものの魂がみんな燃えてしまった。
ことに彼等は、かつて見ない真の赤光に眼を射られて、茫然とわれを忘れていたが、疲れた網膜を、ふと足もとにやすめた時、ほとんどすべての者が同時に、
「大変だッ!」
と、われに返った。
慎吾の胴には、首がなかった。
――七はもうそこにいなかった。
千曲川の暗い水面を、七は白い波影をあげて泳いでいた。
彼の向って行く丘に、夕方から潜んでいた人影のあるのを見て、こん夜の果し合いには、何か慎吾が卑劣な策をとるものと予期していた。そして、なすがままにさせて眺めていたのである。案の定、彼は暗闇まぎれに、自己の製作を七のものとすり替えた。
「さ。お芳の番だ」
七の眼は、
七もすぐ激流へからだをまかせた。舟はやがて、浅瀬の砂利に底を噛まれて、
――あっ。
七が声をあげた時、舟の中から女の影が水へ躍った。白い泡が絞り染のように浮いた。七はまた必死に泳いだ。
「死ぬぜ、死ぬぜ、おれの自由になっていねえと」
やがて、七は
× × ×
粋な町、善光寺の権堂へは七の馴染が多かった。
千曲川のことがあってから三日目の宵である。
「きょうは星祭りだなあ、お芳」
うしろを向くと、部屋の隅に、
「なあ、お芳。――祭りだぜ、秋の銀河祭りだ。そうそう、去年の今ごろは、てめえとよく会っていたなあ、
「……すみません。ほ、ほんとうに、すみませんです」
「何をよ、よせやい」
「か、かんにんして……」
「おら、怒ってやしねえってことよ」
「そういわれるのが、苦しいんです、斬られるよりも、つらいんです、い、いっそ千曲川で私ゃあ……」
お芳は、大きな声で泣き伏した。
「死んじゃつまるめえ。おめえみたいなたちの女は、まだまだ沢山男に縁があるぜ。これから毎年、どんな銀河まつりの晩を送るか、わからないことさ」
「殺して下さい。こんな……こんな
「おら、口癖にいうが、煙火師だぜ、どうせろくな根性じゃねえ。こじれているうちゃしようがねえんだ。けれどその代りにゃ、さっぱりする時は竹を割ったようなもんさ」
「後生でございます、手を合せますから。……七之助さん。わ、忘れて」
「だからよ、おれの、このむやむやの晴れるまで待ちねえってことよ。な。おれはおめえに拝まれて往生するほど善い人間に出来ていねえ不しあわせ者だ」
「…………」
「おう、おう、町や祭りだし、空は星だ。色紙を竹につけて子供がかつぎ廻っていらあ、いいなあ子供は……」
「おい、支度をしろ」
裾をからげると、
が、考えて、
「駄目だ、こいつを金にしてからと思ったが、持っちゃ歩けねえ」
あきらめたようにつぶやいて、びっくりしているお芳の腕をかかえ込んだ。
「あっ、七!」
と、立ちすくんだ。
「あぶねえぜ、おれの体は、どこを触っても火薬玉が飛ぶんだから」
すうっと、表へ来てみたが、そこの
物干し台へ出て、お芳の手をしっかと持ったまま、屋根へ移ろうとすると、星祭りの笹へ、お芳の
自分を求める捕手の侍たちの怒号が、七の耳におかしく聞えた。善光寺の境内を走って、裏山の中腹に腰をおろした時である。彼は初めて、うしろの空が赤く染まっているのに気がついた。半鐘の音も鳴っている。
「あ……あの蝋燭だ。
その時、火事の空の中で、耳の破れるような音響がした。
おやっ?
見ると、炎の
花火に重なる花火、爆音につづく爆音、滅茶滅茶な火の乱舞、光の狂射、色の躍り、善光寺の町はあらゆる色に変って明滅した。空も地も気をそろえて気が
七は、巽屋の押入に、残して来たものを思い出して、手を打った。
「あははは。あははは。笑っちゃすまねえが、笑わずにゃいられねえ。捕手のやつあ、驚いたろうな。――だが今夜あ、すばらしい銀河まつりだぜ」
と、お芳をふり向いて、
「おい、戸狩へ帰んねえ。おらあ、これから