――で、
「もうこの辺で結構だ。お仙さん、また来年会おうぜ」
治郎吉がいうと、
「いえ、
と、お仙は、いつまでも振分を渡したくないように抱えこんで、蛍草の咲く道をふんでいた。
「おこころざしは有難えが、そいつは、かえって名残がますというもんだ。宿でも、変に思うといけねえから、ここらで、帰った方がいいぜ」
「――だから、旅のお客は、たよりがない」
「どっちにしても、生涯、有馬にいるわけにはいかねえもの」
「わたしも、江戸へ、連れて行ってくださいな」
「じょ、じょうだんだろう」
「ほんとにさ! ね、治郎さん」
人通りが絶えていた。女は、ついと小戻りをして、治郎吉の
「……ね、治郎さん」
「よせやい」
胸へ、もってくる顔を、
「みッともねえ、泣くやつがあるもんか」
「わたし、行きたい」
「どこへ」
「どこへでも、治郎吉さんと、いっしょにさ」
「そんな約束じゃなかったぜ。……さ、人が通ると、評判にならあ、はやく、
「
「わからねえことを言っちゃ困る」
「だって、お前さんの足手まといにさえならなけれや、いいんでしょう」
「そうはゆかねえ」
ありふれた湯女とお客の御多分なみに、ほんの、退屈まぎれな、いたずら心でした事を、軽く後悔するように。
第一、相手の女にもよる。こう、
「
振分をもぎ取って、治郎吉は、先へ歩きだした。
女は、黙って、武庫川の見えるまで
「お仙、どうしても、
「…………」
「おめえはまだ、おれの、ほんとの素姓を知らねえからそう慕ってくるんだ。実あ、おらあ江戸をずらかって来た兇状持ちだ。悪いこたあいわねえから、おれと、なんかあったなンていうこたあ、

「そんなことは、とうに、知っています」
女は、驚きもしなかった。
「えっ、知ってる?」
「有馬へだって、何度、お役人や人相書が廻って来たか知れませんもの」
「ふーム」
「そのたびに、わたしだって、
「じゃ、おれが、
「え。わたしは、惚れているんです。江戸をあらした鼠小僧の」
「しっ……」
口軽い女の二の腕を、ふいに、男の指が突いた。ぞろぞろと、
「――乗りねえ、ちょうど着いた、あの
パチ、パチ、と音がする。中で、
「ははあ、
と、治郎吉は、立ちどまって、
太左衛門橋の河岸ぶちである。
「ごめんよ」
がらりと開けて、棒立ちに、
「すぐ、やって貰えますか」
「お掛けなさいまし」
「
「なに、こいつあ、このままでいい。髯だけだ」
「おひとり様だけ、お待ちねがいます。ま、いっぷく、お
煙草盆を、そこへ出しておいて、下剃は、流し元で、
治郎吉は、
二十七、八の苦みばしった男である。胸から二の腕にかけて、
「……ちっとも、似ていねえな。腹ちがいにしても、
治郎吉の眼は、

ま、髯でも剃っているうちに、ほかのてあいも帰るだろうと、腰をすえていると――
「お待たせいたしました」
と、仁吉の眼が、はじめて、治郎吉をふり顧った。
「もう、私の番ですか。先のお客があるんでしょう、どうぞ」
「なに、旦那」
と、仁吉は、銀歯をちらと見せて、
「あの通り、夢中なんですから……」
と、将棋の一組を
「そうですか、じゃあ」
と、
仁吉はもう、
「旦那、江戸ですね」
「わかるかい」
「わかり過ぎまさあ」
「江戸の野郎はがさつだからね」
「なに、その歯切れのいいところですよ。上方の女が好くはずです。……何ですか、御見物かなにかで?」
「ま、そんなものさ。
「そういう乞食になら、あっしも、
と、仁吉は、天井から、治郎吉の顔を見直していった。
この
――というのが、自分よりは、向うにとって、余り人聞きのいい懸合ではないからだった。お仙の話によると仁吉と彼女とは、腹ちがいの
で、湯女奉公をしている彼女へも、常々、小銭の無心は珍しくなかったが、こんどは何かまとまった
気まぐれが、また、気まぐれを生んで、先はどうでも、こっちでは、さほどにも考えていない女を、つい、あのまま、この大坂まで連れて来てしまった治郎吉が、後で、こうと打ち明けられてみると、恋ばかりではない女の気もちに、その時は、ちょっと、興もさめたが、また、抛ってもおけない彼でもあった。
――よし。おれが、話してやろう。
と、ちょうど伸びた
「――こんにちは。親方さん、
そこへ、若い女の声がした。外の陽が、治郎吉の仰向いている顔へ映した。
仁吉は、
「あ、お
「まいど、有難うぞんじます」
「だいぶ、お世辞が、うまくなったな」
「いえ、まだちっとも、
「さ、荷を下ろして、そこへ掛けな。馴れねえ商売ってものは、気づかれのするもんだ」と仁吉は、治郎吉との話をけろりと、忘れッ放して――「元結もきれたから貰いてえし、ほかにも、ちょっと話があるんだが、このお客様のすむまで、しばらく待ってくんな」
「はい。ごゆっくり」
と、お喜乃は元結箱を下ろして、陽にあたって来た
仁吉に、顔をまかせながら、治郎吉の眸は、眼の隅へ寄って、お喜乃の方へながれていた。――見ると、これはすばらしい、十九か、
それに背や、肉づきまでが、治郎吉が描いて持っている好みにぴったりと来ている。彼は、とても、お仙の比じゃないと思った。
――どこの娘じゃろう。剃刀の刃が、
――この年ごろで、木綿帯は可哀そうだ。着物もそまつだし、
――惜しいもんだ。
と、治郎吉は考えるのだ。同時に、有馬の気まぐれが、よけいに馬鹿らしくもなるし、一歩まちがえば、あぶない体でこんな所へ、お仙から頼まれて来たことも、軽い後悔になって来た。
「おらあ、止めた……」
肚のなかで、治郎吉は、呟いた。
「お待ち遠さまで」
と、仁吉は剃り上げた剃刀の毛を、指でしごいて、
「松、洗い水を」
と、
だが、すっぺりと剃り上がった顔を撫でて立ったとたんに、治郎吉のするどい感覚が、
店と奥との、
「おっと、下剃さん。どうせ、風呂へゆくから、洗い水にゃ、及ばねえよ」
抛るように、髪結銭をおくと、治郎吉は、われながら、慌てすぎると思いながら、さっと、土間障子をはやく開けて、往来へ、出てしまった。
二度も三度も、彼はうしろを振り顧りながら走った。往来の人の声が、みんな、鼠小僧、鼠小僧と、指さすように、思われた。
わざと、道頓堀の人混みへはいって、細い路地から千日原まで抜けて来た。そして、はじめて、
「ああ、びっくりした」
と、呟いた。
歯磨き売りや、古着屋や、野天にいろいろな露店が出ていた。治郎吉の眼は、まだ落着かずに、そんなものにまで、気をくばりながら、草むらへ、手拭を敷いて、両膝を抱えこんだ。
「はてな……」
来たら――と脇差の
「こいつあ、大笑いだ」
治郎吉は、自分へ
「ふた月も、稼ぎを忘れて、
しかし、それはまったく、勘違いだと彼にも分った。治郎吉は、自分の早合点がおかしくなると共に、あの侍は、何者だろうと考えた。居候にしては、刀が上物すぎるし、着物も渋い。床屋の客にしては、奥にいるというのが変だ。
それと、彼は何よりも、お喜乃という、あの元結売りの娘が眼に残った。お喜乃と、茶縞の侍と、自雷也の入墨とをむすびつけて、考えた。なにかそこにあるような気がしてならなかった。
ちょっと、
「ごめんよ」
彼はまた、とある床屋へはいって行った。床屋の男は、治郎吉の剃ったばかりな青い髯痕をながめて、ふしぎそうな顔をした。
「――なにか、御用ですか」
「てまえは、江戸のもんですが」
「ああそうか」
と、床屋は、
「待っとくんなさい。あっしゃあ、渡り職人じゃありません。実あ、知り人を尋ねて来たんですが、その人の娘が、床屋廻りの元結売りをしていると聞いたんですが、もしや所を御存じじゃありますめえか」
「ヘエ、何ていうんですか」
「若い女で、お喜乃さんというんですが」
「お喜乃さんなら、天王寺裏のお
「そうそう、それに違いねえ。いや、大きに有難う」
すっぱりと、こだわりの
裏二階の下は東堀。思案橋を隔てて、川向うはすぐに、西奉行所だった。女とふざけながら、治郎吉はそこからよく奉行所の屋根にとまっている鴉を見ていた。
「おや、お帰り」
お仙は、風呂から上がって、こっそりと、厚化粧をしていた。膳も来ていた。長火鉢もきれいに、すっかり、女房気どりである。
「兄さんはいましたか」
「いたよ」
「話は」
「止めにした」と、あぐらをくんで、「仁吉はいたが、少し考え直して、おめえの話は、出さずにしまった。なあに、抛っときゃあいい」
「よかあないんですよ。こうといったら、どんなことをしても、きっと
「べら棒め。三都はおろか
お仙はちょっと、
治郎吉は、膳の盃にも手が出なかった。窓の
お仙は、いきなり、ヒステリックに男の膝に寄って、
「治郎吉さん」
「よせ。泣いてばかりいやがる」
「だって……だって……一日増しにおまえさんが、私に冷たくなって行くんだもの」
「へえ、いつおれが、おめえに熱かったことがある? 俺は、初めからこの通りだ」
「いいえ、違って来ています。このごろはもう、前みたいな、優しいことばなんか、薬にしたくも……」
「おいおい、てめえは一人で、何か、夢を見ているんじゃねえか。何も俺が
「その口が、私は、私は、口惜しい」
「何……てやんで」
治郎吉は、突っ放して、ことさら、
「てめえは、熱病にかかっている。のべつ、あぶねえ風をくぐって、世間の裏をあるいているお尋ねもんが、いちいち、ねちねち、色恋にしろ、
窓がまちに、頬杖をのせて、東堀の水に、眼を落した。西奉行所の黒い屋根に、きょうも夕鴉が啼いていた。
「
その時、
「まいにち御退屈様で」
「あ、番頭さんか」と、ちょっと、膝を直して――「勘定だろう」
と、先手を打った。
「へ。毎度うるさく申し上げて恐れ入りますが、帳場の方で、いちど、お極りをつけて戴きたいと申しますんで」
「あ、いいとも。だがきょうは少し都合がわるい。知り人の家をたずねたところが、
「それでは
「
客の顔いろを、
「今夜は、お酒は」
「お、膳が来ていたのか。酒はいらねえ。宿屋の飯にも飽きたから、
番頭がもどるとすぐ、治郎吉は、一枚かんばんの
「お仙、行って来るぜ。
「どこへ」
と、彼女の眼には不安があった。
「どこったって、べら棒め、
とん、とん、とん、と
「――秋だよ。治郎吉が金に
と、治郎吉は、自分のふところの空虚を
今夜のうちに、その工面を、どうかしなければ、
女に気まぐれで、仕事に見栄坊な治郎吉だった。彼が好んで、大名の屋敷にはいるのは土蔵の現金と、
何かそれを、武家階級に反抗する特殊な思想的泥棒のように、ふしぎと、世間の人気は盗まれた方へ寄らないで、盗む鼠の方を礼讚しはじめたので、治郎吉はすっかり、自分の職業に信仰をもってしまった。女と、ばくちの
だが、その江戸を食い詰めて上方落ちを極めてからは、華やかな悪運も、そういう目ばかりは出なかった。人相書こそ廻っているが、江戸で仕事をするほど、反響はない。鼠の人気も、無論なかった。
なければこそ、悠々と、宵の町を、ふところ手で歩けるのだけれども、それもまた、治郎吉には淋しかった。
彼の特徴のある草履の音は、ぴた、ぴたと何時のまにか、
ふと「
「洗心洞」
聞いたような名である。
「あ、そうか。有名なる大塩
歩いているうちに、同じ程度の構えの、とある屋敷へ、新町と書いた
一
「よし、仕事は、あの屋敷と極まった」
治郎吉は、呟いた。――主人が遊里から遊び疲れて帰った家などは、彼にとって、またとない仕事場だった。そういう屋敷へはいって、失敗した例はほとんどない。
草履をたたんで、腹巻と帯のあいだへ。そして、彼は、ぽんと、塀の
中で、ゆっくりと寝こみを待つ考えなのである。
泉水がある、
屋敷のひろい割あいに、女気は乏しいらしい。
「ウ……聞いた声だ」
彼は、すぐ感じた。――それも生々しい記憶だ。
その男が座敷のうちで、いうのである。
「――旦那、もし、
「……なんじゃ、帰る?」
これは酔っている。ひどく、ろれつが廻らない。
「仁吉」
「へい」
「帰ってはならん。ならんぞ」
「だって、旦那」
「ならんと申すに。女は、いかがいたした。女を連れて来い。女を」
「仲居は、御門前まで送って来て、もう帰りましたんで」
「あんなすべたではない。お喜乃をどうしたというんじゃ」
「どうも、弱りましたなあ」
「なにが弱る。そちが、たしかに、ひきうけておるのではないか。――連れて来い」
「でも、先は何しろ、
「たわけが!」
起き直ったらしい。体の大きな侍とみえて、治郎吉の
「昼間なんといった。今夜のうちには、何とかすると申したではないか。先の娘へ百金、そちの礼に二十金、金もたしかに受け取ったであろうが」
「ま、旦那、そう筋を立っちゃ困ります。金はたしかに、夕刻、お喜乃の家へ行って渡しましたが、何しろ、うぶでさ、恥かしくて、茶屋へなんざ、行かれないというんです……そうした女の気もちも、少しゃ、考えてやっておくんなさいな」
「だから、ここへ連れて来いというのだ」
「もう何しろ、遅うございます。それに、
「きっとか」
「あれだ……。旦那ときたひにゃ、まったく
「よし。では、日限三日かぎりだぞ」
「これや、きびしい。そのかわりに旦那、あの方もひとつ、ぜひ、お願いいたします」
「なんだ、あの方とは」
「お忘れなすっちゃ困りますぜ」
「ム。町役の株か」
「へい。旦那のさしがねで、
「そんなに十手が持ちたいのか」
「町内で、幅がききますからね」
「何とかしてやる。しかし、お喜乃をはやくどうかしろ」
「よほど、お気に召したとみえますね」
「ちょっといいぞ」
「ちょっとですか」
「うるさい。帰れ」
「やっとお暇が出た。――じゃ明晩にでもまた、お喜乃の家へ行ってみますから、その返辞次第で、お伺いいたします」
自雷也床の仁吉だった。こういって、彼が帰ってゆくと、間もなく、寝所へ、召使が出はいりして、雨戸が閉まった。
それから、
「ちょいと……ちょいと……お兄さん」
橋の下から、石垣の蔭から、時々
船まんじゅう、という、売女たちである。――治郎吉は、その
ちょうど、
今朝、
「こんな男だよ、俺は」
――出がけに、治郎吉がいった。
「いつまで、付いていたって、面白くもあるめえ、火鉢の
外に出ると、彼はすぐに、辻駕籠を呼んだ。
「――やってくれ、
法善寺横丁で、いっぱい飲んで、治郎吉はすっかりいい気もち……。
道頓堀の人混みを縫う。
それからまた、ぶらぶらと、天王寺まで歩いて行った。お
暗い、狭い、どぶ板をふんではいると、突き当りに、
「ここだな」
「……あ。来ていやがる」
治郎吉が、そう見たのは、うしろ向きに坐り込んでいる客だった。ゆうべも、声を聞いた床屋の仁吉にちがいなかった。
「どうだね、お喜乃さん。
仁吉は、しきりと、雄弁をふるっていた。その話の内容がどんなものかは、治郎吉には分りすぎていた。
お喜乃は、病人を
「親方さん、もうその話なら、なんど伺っても同じですから」
「嫌かい、やっぱり」
「いくら先様が、立派な武家様でも、妾奉公などということは、父が承知するはずもございませんし、私も、死んでも……」
「おっと、待ちな。……だが、俺がちらと聞いた噂によると、おめえは、何か
「ま……誰にそんなことを、聞きましたか」
「それや、おめえの世話をしようという以上、身許から内輪のことまで、すっかり調べねえでどうするものか。紅梅から百両借りる約束をしたろう」
「親方さん、まだ病人には、聞かせてないんですから……」
と拝むように声を制す手へ仁吉は、五両の封金をにぎらせて、
「旦那からだ、いいかい」
「あら、いけません、こんなものを」
「取っておきねえな、折角、支度金にくれたものを」
「いけません、いけません」
「とにかく預けておく」
と、仁吉はもう、下駄をはいていた。
「――あれ、親方さん」
と、お喜乃は、あわてて、金を持って外へ出て来た。どぶ板を踏み鳴らして、往来まで追い駈けて行った。
「甘い手だ」
と、治郎吉は、暗がりから見送って、すぐその眼を、竹窓のあいだから、じっと、家の中へしのび入れた。
病人は、
豆絞りの手拭から、ころりと、百両包を二つ出して、竹窓のあいだから、手をさし入れて、小壁の下に置いた。そして治郎吉は、路地を出て来た。
「……あっ、ごめんなさいまし」
暗かった。
それに、お喜乃は、うろたえてもいたし……。
どんと、治郎吉の胸にぶつかった
「これだろう」
と、渡してやった。
「有難うぞんじます」
「病人があったり、悪い親切に
「え?」
と、眸をこらして、
「どなたでございますか」
「ちっとばかり、お前さんを、知ってるものさ」
「どなた様でしょう、思い出せませんが」
「いつぞや、自雷也床で」
「あ、あの時の」
「よけいな差し出口をするようだが、その金は、
「え、今も、追いかけて行って、お返ししようと思ったんですけど、もう姿が見えないんです」
「あっしが、その金は、
「ご親切に」
と、お喜乃はもう涙ぐんでいる。
いかに、温かさに、飢えているかがわかる。治郎吉は、もっと、もっと、優しいことばを与えたかったが、何だか、お仙や、売女にいうように、すらすらとことばが出なかった。
「どうしてそんなに金が要るんだね。病人の薬代にしちゃ、すこし、
「すこし、
「あの大病人をおいて、芸妓に出ようという決心をするくらいだから、よくよくだろうとは察しるが」
「実は、父が浪人したもとの御主人様へ、年に八十金ずつ御返済するお金があるのでございます」
「もとの主人へ返す金なんか、浪人した以上は、どうでもいいじゃありませんか」
「そうは行かないお金なんです。父の落度のために、その旗本の御主人も、
「じゃ、おまえさんたちは、江戸にいたのかい」
「丹後町の、
「で、その主人が、公儀のお納戸金か何かを遊びに、
「いいえ、脇坂様は、
「ヘエ……」
治郎吉は、寒くなった。
「鼠小僧?」
「すごい泥棒だそうで、父が、寝ずの番をしていたのに、千両あまりの金を盗んで行くのに、音もしなかったと申します」
「……ふうむ」
「つまらない愚痴を申しあげました」
「だが、年に八十両ずつ返しても、十年以上かかる。これから先、どうするつもりだい」
「父が丈夫なうちは、
「じょ、じょうだんいっちゃ、いけねえ」
と、お喜乃の世間知らずに呆れたが、決して
「芸妓をして、千両稼ぐうちには、おまえさんが
「でも、
「おれを、疑うのかい」
「そんなことはございませんが」
「じゃ、心配しねえで、預けなせえ。こう見えても――」と、いいかけたが、治郎吉は気がさして、きれいなことがいえなかった。
寒い。いやに、背すじが寒い。
往来を斜めに切って、向う側から、振り顧ると、路地のかどに、白い顔が、まだ立っていた。
窓の戸を閉めようとした時、お喜乃の足の指に、
びっくりして、唇のいろが変った。二百両である。――誰が? と胸がわくわくした。
「ああ、きっと、
と、思わず心のうちで拝んだ。何となく、さっきの言葉にも、情があった。父を起して話そうかと、昂奮した気もちにもなったが、病人の寝顔を見て、黙って、棚のうえに乗せて、眠りについた。
彼女はいつまでも寝られなかった。路地の暗がりで見た男のすがたと、二包の金が、眼について寝られなかった。そのうちに、頭が思案につかれて、眠りに落ちた。
――もう明け方。
何か、冷たい手にでも撫でられたような気がして、ふと、眼をあけると、うつつな、渋い
「おやっ?」
夢中で、彼女が、ふとんを
「誰だッ」
と、賊の片足をつかんだ。
いきなり、青い針金のような光が、賊の手元から走ったと思うと、ばすッと、生れてから聞いたことのない異様な音が、お喜乃の耳を
「あっ! ……お父さん」
飛びついて、無我夢中に抱えこんだ時には、もう、父に
「血だッ」
彼女は死骸と共に、倒れながら、初めて大きな声でさけんだ。
「――来てくださいッ。御近所の方。父が殺されました。父がッ……父が」
血のなかに、お喜乃は、泣き転んでいた。
そして、夜が明けてみると、二包の金はなかった。
× × ×
「金が子を生む? 金が子を生んだ」
店を、
両方の掌に、百両包を、一つずつ乗せて腹ン這いに寝ころびながら、猫が
「ふしぎだ、金が子を生んだ」
と、呟いている。
「たしかに、一包の金が半夜のうちに二包に化けていやがるから、ちょっと、呆れてものがいえねえ」
包のこばを、歯で破って小判の山吹色をのぞいたり、
ぎしっと、梯子に跫音がしたので、彼は、あわてて、金を、
「誰だッ」
妙に、尖って云った。
――と、消え入るような声で、
「わたし」
「わたし? ……あ。お仙じゃねえか、てめえは」
「兄さん」
お仙は、間がわるそうに、そして力のない肩を落して、そこへ坐った。
「……こんにちは」
「どうしたんだ、お仙。すっかり痩せこけてしまって、見違えるようだ。
「有馬から、何か、いって来ましたか」
「あたりめえだ。送って行ったまま、旅の客といっしょに逃げてしまったんだというじゃねえか。とんだ浮気をしやがって、男に捨てられて来たんだろう」
「兄さん、私が逃げたのは、それだけの
「む、守口へ、おめえを身売りの一件か。……実あ、その事なら、少しほかで工面ができたから、まあ当分は間に合うよ」
「当分は間にあっても、お金につまるたんびに、私の身体をあてにされていちゃたまらないよ。――きょうは、その入り用の百両を上げますから、これッ
「なに、百両持って来た?」
「え。縁切り金」
と、お仙は、帯のあいだから、それを出して、
「切る? 切らない?」
「べら棒め、
「じゃ、くれてやるから、これっ限りだよ」
ぽんと投げて、それでも、涙でいっぱいになった眼をそむけながら、梯子段を下りて行こうとすると、
「やい。お仙、ちょっと待てよ」
「なあに?」
「てめえ、この金を、どこから持って来たんだ」
そういった仁吉の
「どこから持って来たッてんだよ、この金を。――ま、ちょっとそこへ坐れ。訊かねえうちは、受けとれねえ」
お仙は、坐り直して、
「貰ったのさ。世の中にゃ、妹の体を食い物にする鬼ばかりはいないからね」
「誰に貰った」
「お客ときまっているじゃないか」
「というと、てめえと、ずらかった相手の男だな」
「そうよ」
「おかしいなあ……」と腕を
「あったかも知れない」
「畜生」
仁吉はいきなり、
「お仙、てめえの男は、こいつだろう」
「…………」
お仙の眼は、兇状廻しの人相書へ、
「これだな! よし、分った」
と、妹の顔いろを読んで、
「てめえ、帰ると承知しねえぞ、禁足だ」
「縁を切ったおまえから、足止めをされるおぼえはない」
「ばかッ」
いきなり、立ちかける腰を
「こいつ、どうかしていやがる。盗ッ人に惚れるやつがあるか」
「大きなお世話じゃないか」
「降ろさねえぞ、この梯子段から」
「帰りますよ、御勝手に」
「松ッ」
と、下へ怒鳴った。
「――手を貸せ。はやく上がって来い。この色情狂をふん縛って、押入のなかへつないでおくんだ」
「二階の雨戸を閉めておけ。可哀そうだなんて思っちゃいけねえぞ」
下剃の松に
間もなく、彼のすがたが、天王寺裏の路地へはいって行った。長屋の人たちが、口もきかずに、出はいりする様子や、近所の囁きなどを不審そうに見廻しながら、お喜乃の家の門に立って、
「おやっ。何かあったんですか」
と、首を突っこんだ。
奥には、七、八人、長屋の者が集まって、畳を代えたり、仏事の道具をならべていた。
「あ、自雷也床の親方ですか」
「お喜乃さんは」
「おります」
「一体、どうしたんで」
そろそろと、上がり込みながら、
「じゃ、
「なに、それならまだ諦めようもございますが……」と、長屋の人々は、
「可哀そうに、こんな家へ、泥棒がはいって、斬られなすったんでございます」
「えっ、親父さんが」
「はい」
「ほ、ほんとですか」
「お喜乃坊が、かあいそうでござんす。な、なんていう、運の悪い
粛然として、みんな
「そうですか――」と、息をふかくついて、「するってえと、ゆうべ、あっしが帰った後ですね」
「もう明け方に近かったそうです」
「ふてえやつだ。病人を斬り殺すなんて、憎んでも憎み足りねえ畜生だ。……ああ、だが考えてみると、その種は、あっしが
「長屋中で、どうにかして上げるつもりではおりますが、何しろ、幾ら寄っても、貧乏人と貧乏人、お寺への心づけさえないんでしてね」
「心配しなさんな」
すぐ財布を解いて――
「一両と、小粒を少しばかり持ち合わせていますから、これで万端」
「あ、親方さん……」
棺桶のまえに泣き伏していたお喜乃が、あわてて、それを押しやって、
「もう、そんな御心配は」
「お喜乃さん、飛んだことだったなあ。おめえの心のうちは察しる」と、ほろりと声を落して、
「だが、力を落しなさんなよ。及ばずながら、後々は、どうにでも、相談相手になってあげる」
「ほんとに、御親切な親方だ」
と、長屋の人々は、いい
「どうぞよろしくお願いいたします」
「ご検視は」
「はい、今し方、すみました」
「何か、泥棒の、証跡になるような物は」
「窓の外に、手拭が一本落ちていただけだそうで」
「え、手拭」と、思わずふところへ動きそうな手を、膝へつき直して、
「どんな手拭が?」
「
ほっとしたように、
「それっ
「鼠小僧というのは」
「江戸を荒した大泥棒で、なんでも近頃は、上方へ立ち廻っているという評判だ。方々の橋袂にも、この二、三日、人相書が出ているはずだが」
「あ、そういえば、いろんな噂がありますね」
「とにかく、後々まで、御相談になりますから、ここのところは、諸事よろしく皆さんにお願い申します。ちょうどきょうは、町方の用向きをもって、西与力の重松左次兵衛様のお屋敷まで伺うことがあって、先を急ぎますから」
と、下駄をはきかけて――
「お目にかかったついでに、重松様に、一日も早く下手人が
路地を出ると、仁吉はあたふたと急ぎ出した。駕籠をとばして、その足で、与力町の重松左次兵衛を訪ねた。
「旦那、ひょんなことが持ち上がりましたぜ」
左次兵衛は、
「なんだ、ひょんなこととは」
「お喜乃の親父が殺されたんで」
「殺された。――病人のはずじゃないか」
「押込みに斬られたんです。ゆうべ無理に百両置いて来たのが、かえって仇になっちまいました。――だが、親切の効き目は、こういう時じゃねえでしょうか」
「もう百両出せというのか」
「何しろ、盗まれちまったんで」
「ない」
と噛んで吐くように、
「月でも変って、蔵米でも払わなければ、拙者も、一文もない」
ひどく不機嫌な顔いろに、仁吉は、口をつぐんで、
「へ……」
と、頭を下げた。
「恥をいわねば分らんが、実は、拙者も、盗賊に遭って、文庫の金を
「えっ、お屋敷へも」
「む。貴様に送られて帰った晩だ」
「旦那、あっしじゃありませんぜ」
「誰がそちだといった。――何しろ当惑している」
「それや御災難でございましたね。下手人の見当はついているんですか」
「分らん。
「――じゃ、どうしましょう、お喜乃の方は」
「どうとは?」
「ここんところで、もう一度、金をやるかやらないかの思案で」
「金をやらずに、お喜乃を手に入れる工夫をしろ。来月になれば、どうかなろうが」
「じゃ、やっぱり、新町へ突っ転ばすに限りますね。――ム、そいつに限る、いったん
「何とかいたせ、何とか」
「
「貴様、案外、役に立たんな」
「恐れ入りました。きょうは、御機嫌がわるいようで」
「飲もう、一つ」
また、新町へであった。
天保山の磯茶屋から、月見舟がたくさん出る。酒をつんで、
十三夜の晩だった。水の上では、もう息さえ白く見えそうに薄ら寒かった。
磯茶屋を離れた二艘の月見舟がある。与力の重松左次兵衛と、自雷也床の仁吉を客に、仲居や新町の妓たちが、
そのうちに、
「あ、船頭さん、戻してください。連れの舟の方へ」
「お喜乃さん、怖がるこたあねえよ。月を見ながら、今夜あ、住吉の
お喜乃は、
「――ずいぶん、今夜までに手間がかかったぜ。とうせ、
「…………」
「え、おい」
「…………」
「お喜乃……。ちッ」
と、仁吉は、
「強情だな。酒ぐらい飲むもんだ。さ、気を直しな、盃だけでも取ってくんな」
お喜乃が、肩を外したとたんに、ちりんと、盃が、舟ばたに躍って、水の底へ、沈んで行った。
「これだ……」
と、白い眼を、左次兵衛に振り向けて、
「旦那、精がつきましたよ」
左次兵衛は、ぐび、ぐび、と酒ばかり重ねていたが、仁吉の
「船頭」
と、
「へい」
「ちょっと、その辺の岸へつけて、暫時、
黙々と、そして緩やかに、艪をうごかしていた船頭は、
「あっしに、陸へ上がっていろというんですか」
と、訊き直した。
「そうだ。――少し混み入った話があるから」
「嫌だ!」
「なにッ」
「嫌なこッた」
「これっ、船頭の分際として、客のいいつけをきかぬという法があるか。船をつけろ」
「笑わしゃがる」
豆しぼりの手拭が、つばさをひろげて、波の上へ飛んだ。
治郎吉だった。
「こうお喜乃さん。落ちるとあぶねえよ。
「やっ」
仁吉は、
「てめえは、鼠小僧だな」
「む」
と、治郎吉は、
「感心に、てめえも、知っているか。――
とたんに、左次兵衛は、羽織を脱いで、舟から水面へ躍りこんだ。岸へ向って、泳ぎ出したのである。
「しまった」
と、治郎吉は舌打ちをして、
「仕事は急がざなるめえ。やい、自雷也」
どこに置いてあったか、道中差を、抜くよりはやく、ふりかぶって、
「命はもらった!」
ばっと、風を割って落した。
かつんと、仁吉の膝がしらに、石でも割れたような音がした。二度目の刀は、肩さきへ来た。仁吉は、尻もちをつきながら、
「――ひッ、人殺しだあっ」
絶叫が、月の
「けッ、
五ツ六ツ、撲るように刀でたたくと、仁吉の体は、魚の臓物のように、船底に
白い月と、川波と、そして、お喜乃の
ざぶりっ、と
「あ、もう来やがった」
と、治郎吉は、帯を締め直した。
船番所が近いので、案外に早かった。
「まごついちゃいられねえ」と、死骸を蹴落して、
「お喜乃さん、何処へ送ろうか」
「……もしっ」
ふいに、盲目的に、彼女は、治郎吉の裾にすがりついた。
「どこへでも」
「えっ」
治郎吉は、躍るような快感と、満足に、思わず口走った。
「ほんとにか」
――だが、彼はすぐに考え直した。
「いけねえ、いけねえ。おれは気まぐれもんだ。いつまた飽きが来ねえとも限らねえ。仕置場の空に眼を
「…………」
お喜乃は、何もいえなかった。氷の中の花のように、凍っていた。
「達者でいねえ」
――十三夜だ、後の月だ、治郎吉は、こんな月は、生れてから、見たことがないと思った。
「おれも、もう少しゃ、生きているぜ。そうよ、俺の稼ぎは、金じゃねえ、自分の寿命を稼ぐようなもんだ。――そして、きっとその間に、脇坂佐内の土蔵の中へ、千両だけは
「あっ、待って!」
お喜乃は、
また泥棒がはいった。
しかも、仁吉が、安治川のもくずになった晩に、その仁吉の家に、はいった泥棒である。
むろん治郎吉である。
「あいつの着物じゃ、ちっと、気色がわるいが、間にあわせだ、何かあるだろう」
咳きながら、押入に手をかけて、四、五寸、開けたとたんに、彼は、胆をつぶした。
「あっ、治郎吉さん!」
「シッ」
絞め殺すように、そこにいた、お仙の口を押えつけて、
「おめえは、こんな所にいたのか」
「連れ出しに来てくれたんですか。
お仙は、泣いて喜んだ。彼の膝へ、顔をこすりつけて、縛られている体を、押入の中から這わせた。
「さ、はやく、連れて逃げてください」
「待ってくれ、おらあ、おめえを救いに来たわけじゃねえ。この家の総勘定をつけに来たんだ」
そんなことばは、お仙の耳にもはいらなかった。
「何でもいいから、縄を解いて、外へ出してください。私はもう、この世の中に、おまえさんよりほかに、頼る人はないんだから。ね、治郎さん」
「おめえは、まだ俺に、
「どんな苦労をしてもいい」
「なるほどなあ、おめえにもいい所がある。それは、いつ捨てても、大して、悪い気がしねえことだ。きっと、俺はまた、おめえを捨てるぜ」
「見捨てないで下さいよう、見捨てないで……」
そういいながら、お仙は、治郎吉に解かれた縄をふり払って、物干しから、屋根へ、怖さも忘れて這い出したけれど、裏口はもう真っ赤に染まるほど、御用
「あっ、治郎吉さん」
と、座敷を駈けぬけて、表窓を開けてみたけれど、治郎吉のすがたは、そこにも見えなかった。
太左衛門橋も、河の中も、ただ灯である、軽装した捕方の影ばかりである。