なるべく、縁起の
いうにゃ及ぶ。
さて、その日は?
そうよ。――初日の出の元日――あたりはどうだ。
なるほど、そいつアいい。
元日より縁起の吉い日はねえ理窟だ。――次には、場所だが。
その場所は、伊勢の

発起人は、絵師の
大坂の
「顔が、揃った」
と、挨拶になって――
「てまえ、大坂の鼬でござんす」
「あっしゃ、江戸の七で」
「これは初めまして」
「御高名は、雷の如く――」
「お互いに、お初様、何分、よろしくお引き廻しを」
などと、名乗って、
「さて、元の御商売は。また、お年は?」
と、順々に洗ってみると、会わないうちは、自分が一番年下だろうと思っていた仁太郎が、三番目で、羅宇屋
「五人男だ」
と、八百屋の御用聞きでまた掻っ払いの名人、チビの鼬は、英雄じみた昂奮でいった。
初日の出が上る――
五人は、
「さ、兄弟分の盃」
と、二の腕を切り、日の出より赤い血を、
「生きるも死ぬも、一心同体、これからは、お互いに、ケチな小稼ぎは
「無論だ」
と、仁太郎は、羅宇屋煙管の五郎八に、答えて、
「だが――大泥棒になっただけじゃ、つまらない。何かしなければ」
「するとは」
「人間らしい事をよ。――男と生れた生き
「なるほど」
と、みんな腕を
仁太郎は、年上の羅宇屋も、本職の七之助も、
「人間、五十年、
「ふん……大きに。だが、それじゃ一体、俺ッちは、何をしたらいいんだい?」
「だから、名を揚げることだ」
「名を売るだけなら、大泥棒になりさえすれや、嫌でも名が出る。石川五右衛門でも、自雷也でも」
「おら自雷也が、好きさ」
とお
「俺も、大好きだ」
と
「自雷也みてえな泥棒になりてエなあ」
「あれは、支那の大盗だ。吾来也という支那の盗賊を、日本の作者が焼き直したんだ」
と、仁太郎は、ちょっと、知識を誇って、
「――だが、自雷也は偉い、あれは、義賊だからな。だから、日本まで名が伝わった。泥棒でも、何かしておかないと、
「そうかなあ」
「一つ、天下を取ってみようとか、世間の貧乏人を救ってみようとか。――何とか目的がなくっちゃ、
「ム。食えてるのは、泥棒と役人だけだ」
「ここで一番、顔の揃った五人で、食えない奴を、食わしてやる。――という仕事は、面白いぜ」
「じゃ、義賊になるのか」
「そうよ。義賊になったッて、自分の贅沢ぐらい、いくらでも出来らあな」
「やろうやろう」
「やるかい、兄貴たちは」
「おめえッちが、そういうなら――」と、七も、五郎八も、雷同した。
鼬小僧新助――(八百屋の御用聞き新助)
紫紐丹三郎――(
雲霧仁左衛門――(応挙の内弟子仁太郎)
雲霧は、みんなの出会った、
仁太郎改め仁左衛門――十七歳の雲霧は、それっきり、京都へは、帰らなかった。師匠の応挙は、彼の親元である江戸の狩野善納という貧乏画家へ、その由を、報じたきりで、結局、厄介払いをしたように、
それから、四、五年の間――その不良少年と二人の大供が、五十三次、東海道の宿々を、まるで稲を襲った害虫のように、荒し廻ったのは。
天明五人男。
彼等の望みどおり、世間から、ちょっと騒がれたが、
雲霧、時に、まだ二十一。
「――嘘つきめ」
雲霧は、
牢びさしに、女の眉ほどな、月が、青い。
カチ、カチ、カチ……
遠い、火の廻りの木。
「ど
と、そんな悔いさえ交じって、
(同じ
と約束した
「――それでも、獄門は獄門だ。馬鹿野郎め」
雲霧は、真ッ暗な牢内で、
「つまり、大馬鹿五人男か。――あははは。これで死にゃ、人間も、世話アねえ」
自嘲の歯を
「おい、雲霧」
と、誰か低く呼ぶ者がある。
暗闇の牛みたいに、のっそり、人影が動いた。雲霧は――ははあ、もう牢番の交代時刻か――
「何を、思い出してるのだ。――もう
「だからよ」
と、雲霧は、もう一度、唇で薄く笑った。
「おかしくなったのさ」
「おかしいか」
「…………」
黙然と、彼は、
ここは、深川の
(よし、俺だけは、天下をアッといわすような大仕事をして、いちどに、義賊の名を
と、こう、短気になった雲霧が、その仕事を深川の御船蔵につないである将軍家の
安宅丸は、盗ッ人仲間の誘惑だった。手近な宝の山みたいな存在だが、そこへ忍び込んだ盗賊で、首尾よく、仕事をして、帰った者は一人もない。
不馴れな水の上だ。それと、予想外な内部のきびしさに、手もなく雲霧も、警固の網に引ッかかってしまったのである。そして、二十日余りを、この仮牢に抛り込まれたまま、伝馬送りと、獄門の日を待つ身になった。
吟味の時には、
(俺は義賊の雲霧だ)
と、胸を張って、名乗ったものである。
また、ここ三、四年の兇状も、つつまず自白し、五人組の首領だと、たんかを切った。
少しも、隠さないし、事実、今日まで盗んだ金は、貧民窟へばら
(この泥棒は、悪いんじゃないのだ)
と思い込んでいた。
「
ふと、雲霧は、呟いて
「卯平、おめえにも、永い間世話になったが、もうお別れだな」
「お達者に――といいたいが――まあ諦めて、その日までは、心静かにしたがいい」
「ありがとう、覚悟はしている。だが、伝馬牢へ移されちゃ、もう、おめえのような親切者に、死出の世話をして貰うこたあ出来めえと思うと、何だか、
「なあに、あっちの牢番号も分ってるし、手をかける者も、知れてるから、よく蔵六にも、頼んでおいてやろうよ」
「蔵六とは」
「伝馬の牢番では、一番古顔な男さ」
「お係は?」
「吟味与力、高梨小藤次様」――と口走ってから、あわてて、
「おいおい雲霧、だが、これや、内密だぜ。いいかね」
と念を押した。
見廻りが来る。
「寝ませいっ――」
と、卯平は、役目の時刻を呶鳴ってから後でまた、低い、べつな声で、牢格子へ、
「――お寝み――」
といった。
雲霧は、薄っぺらな
横になるまでは、眠くって眠くって堪らなかったが、木枕を、首にあてると、ぴーんと妙に、神経は冴え返って、
「ええ、また今夜も」
と、寝返りを打った。そして、
「――
と、雲霧は眠られぬ眼を開いて、牢天井の濃い闇を睨んだ。
毎晩聞える、遠い三味線。
「ああ、俺ア、まだ二十一だった……」
「雲霧だ、雲霧だ」
「五人組の義賊の親分――」
「若いなあ」
「いい男だ。情けぶかい顔をしてら。俺ッちには、救いの神だのに」
「世直しの仁左衛門っ――」
「ならぬッ」
「近づくと、承知せぬぞ」
と、役人らは、呶鳴りつづけに、歩かなければならなかった。
それが伝馬牢近くへ来ると、命乞いだの、嘆願者だのと、よけいにひどい騒ぎである。雲霧は、軍鶏籠の隙から、路傍に坐って、自分を拝んでいる老婆だの、不具者だのを見た。
「はてな?」
彼は考えた。
「――俺ア、
伝馬では、もうくどい吟味はない。白洲で、二番目の時、其方ども五人、当月二十七日、
雲霧は、満足した。
考えてみると、自分では、大した仕事とも、月日とも、思えずに来たが、この足掛け四年に、強盗斬り
「それだけは、貧乏人をうるおした訳だ。――いわれてみると、俺ア、いつの間にか立派な大盗になっていたんだ。宿願の義賊ともいわれ、世間にも、ちッたあ、有名になったらしい」
満足だった。雲霧は、すっかり、満足して、死ぬ日を待った。むしろその日が、待ち遠しくもあった。
「これや、差入れ物だぜ。お情けに取次いでやるんだから、有難く頂戴しねえよ」
ここの牢番、蔵六というのは、もう五十を越えた男だった。袖の蔭から、そっと、萩の餅を一盆入れてくれた。煙草より、酒より、甘い物が、欲しいところだった。雲霧は三つの萩の餅を、夢中で食べて、
「――誰からの差入れでございましょうか」
「戸塚の宿で、首を
「助けた人間は、
舌に残る甘い唾を
「なあ、雲霧、人間は善いことをして置きてえものだな」
「まったくで」
「俺も、十七年も牢番をしてるが、おめえみたいな、人気のある泥棒は、はじめて扱った。――お
「有難う存じます」
言葉さえ、彼はだんだん人格的に気をつけた。一日、膝も崩さない。生き身のまま、神になって行くような気がして来た。
「俺は今自雷也だ」
彼は、自分の達願を信じ、自分の偉さを信じた。――だが、そこの伝馬牢へ移ってから七日目の朝、
「しまった!」
と、雲霧は、何を思い出したか、ふいに叫んだ。
夜明け交代になる牢番の女房が、弁当でも、長屋へ運んで来ているのであろう。――
「アア忘れていた。俺ア、たった一つ、
思い出すと、雲霧は、もう矢もたても、堪らない。
京都の師匠にも、江戸の親にも、この
「何とかして――」
彼の眼は、その朝から、落着かなかった。
「おやじどん……。おやじどん」
そっと、話しかけると、
「おう、まだ寝ないのか」
「毎晩、御苦労様ですね」
「何さ、馴れッこだ」
「卯平ってえ、御船蔵の方の番人に、薄々、噂を聞きましたが、伝馬牢の御牢番もなかなか、何年勤めても、楽にゃ行かねえそうですね」
「生活の方かね」
「ま、その
「それや、牢番と来たひにゃ、お
「子供は」
「やりきれねえ、七人だ」
「じゃ、大変だ。勤めは重く、
「そこへ持ってきて、奉公先の伜が、売掛け金を持ち逃げしたり、女房は、床につくし、
「おやおや、そいつあ」
と雲霧は、人情ぶかい眼を、牢格子に寄せて、
「おやじどん、どうする気だい」
「しかたがねえから、
と、蔵六は、
「そうかい、道理で、この二、三日、おめえの顔色が悪いと思った。――だが、心配しねえがいい。きッと、俺が」
「えっ?」
「耳を貸しねえ……」と、唇をつけて「実あ、ひょっと、思い出したことがある。――というなあ、俺が、お手当をくう前に、三河島の
「ほう」
「たんとじゃねえが四、五百両。――俺が死んだら、世間にも出ず、
「さあ? ……」と、蔵六は、
「ほんとかい、雲霧」
「だれが、嘘を。――何も、死んでゆく俺の身は、
「勿体ないとも!」
「嫌なら、無理たあいわねえが、おやじどんが、使ってくれる気なら、ちょッくら行って、おめえの家へ、抛り込んで来てやるが……」
ぶるッと、蔵六は、腰に下げている大きな牢の鍵を、抑えてみた。――飯と水を入れてやる時のほか、それっきり、彼は、牢の前に寄らない事にした。
「ふッ、気の小せえ奴だ」
雲霧は、あざ笑った。
すると、翌々日の深夜、
「おいおい、この間の話は、ほんとかい」
と、蔵六が、
「嘘なら、嘘としておいたがいい」
「いやさ……。そ、それが
「気の毒だが、そいつが、天王寺の五重の塔の上と来ているんだ。俺みてえな、身の軽さと、
「じゃ、どうして、そいつを?」
「ここを、開けて、出してくれりゃ、夜明けまでに、ちゃんと、用を達して帰って来る。牢長屋の開かねえうちなら、
蔵六は、腕を
「きっと、帰って来るか」
「来なかったら、
「――親分。疑って、すまなかった」
ひたっと、体を、牢格子の
「何処だ、何処だ」
雲霧は、外へ、這い出した。
「な、な、なにが?」
「
「あ――神田、神田の、紺屋ッ原」
「原の一軒家じゃあるまいが」
「人が、悪口に、もッそう長屋という、牢番ばかりが住んでいる棟がある。そこに、真っ暗な、紺屋の
「それだけ詳しく聞けば――じゃ行ってくるぜ」
どこへ、足を掛けたのか、ぽんと牢廂から大屋根へ、
「あッ」
夜鴉みたいな、迅い影が、星の空から、消えたとたんに、蔵六は、自分の首が、抜けて行った気がして、
「いっぱい、食わされたかな?」
と、いう疑惑や、後悔や、職務の自責や、いろんなものが、頭にこんがらかって、体が、ひとりでに、うろうろした。
無論、居眠りどころか。
蔵六は、空ばかりを見、半刻ごとの、鐘の音ばかりを、数えていた。
いくら馴れても、夜明けになると、しいんと冷えてくる。
牢番長屋の隅ッこにある、掘ッ立て便所へ通うたびに、蔵六は、番茶みたいに濁った自分の小便を見た。
「どうしたろう、
と、
「あっ……夜が。畜生め、畜生め、義賊の何のといっても、やっぱり、悪党は悪党。ああいけねえ!」
ほの赤い、
「ウーム……」と、絶望的に唸った。
すると、
「おやじどん、お早よう」
「えっ?」
蔵六は、きょろッとして、
「その声は、雲霧じゃねえか。――どこに、何処にいるんだ」
「あっしの居場所は、ここよりほかにゃねえ。牢の中に、
「ははあ……」
蔵六は、茫然としたが、ハッと気がついたように、慌てて錠をピンとかけた。
「何時の間に?」
「たった今。――だが金は、何しろ、五重の塔から降ろすので、一度にゃ、持ち出せねえ。ゆうべ二十両だけ、おめえの家の窓から抛り込んでおいたから、
交代が来ると、蔵六は、へとへとになって、紺屋ッ原へ、帰って行った。黒い
「
と、
「こいつッ」
と、家へ上がるが早いか、蔵六は、手の弁当箱を投げつけた。
「あ痛ッ」
病人のそばで、
「やいっ、老ぼれ奴! な、何よう、しやがンでえ」
「あたったか。犬に」
「犬はもう外で、尻ッ尾を振ってら。あやまれ」
「そう怒るなよ」
と、女房の枕元に泣いている娘に気づいて、
「粂吉さん、娘の奉公口は、都合が変ったから、見合せてもらいてえが」
「何だと、見合せてくれ?」
「む。金が、いらなくなった」
「ふッ、ふざけちゃいけねえ。病人と、おめえとで、
「いやいや」と蔵六は手を振って――「もう要らない、もう、断る」
「ただは返せねえぜ、ただは」
「だって、しようがあるまい、要らないものは」
「手数と、詫び金を、付けて出せ」
「幾ら」
「一両」
「たかい。一両はたかい。――二分くらいなら出すから、四、五日うちに、またお寄り。ああ、わしがいないでも、分るようにしておくよ。――左様なら」
追い出すように返すと、
「お父っさん、折角、
と、売られる運命だった
「いいわさ、心配すんな」
病人と二人へいって、破れ障子を開けた。
見ると、自分の家の腕白と、ほかの悪童どもが集まって、泥棒ごっこをやっている。一番年上の悪太郎が、
「ドロンドロン、ドロン。おいらあ、義賊の雲霧仁左衛門」
と、銀紙の刀を抜いて、押入の中から出て来るところへ、蔵六は、入って来た。
「馬鹿野郎ッ」
と、刀を
「出て行けっ。泥棒の真似なんぞしやがッて、大きくなって、何になるつもりだっ」
と、呶鳴りつけた。
「はてな、窓はここだけだが? ……」としきりに、首を
「何ですか、お父っさん」
お登利が、後ろに立つと、
「何でもいい、あッちへ行ってろ!」と、叱りとばして、今度は、引き出した戸を、二枚とも外して、戸袋の奥へ、手を伸ばしたり、覗き込んだりした。
けれど――鼠の
彼は、うろたえた。立場を失った。――娘に対しても、病人に対しても。
裏へ、飛び出して、崖の土まで真っ青な、紺屋川の枯れ草の中に、
「さあ、どうしよう?」
と、腰をついて、
すると、霜解けの原を、ぐしゃぐしゃと、歩いてくる男がある。ひょいと見ると棟は違うが、同じもっそう長屋に住んでいる卯平だ。
「おう、今帰りか」
「なあに、きょうは昼番だが、とてつもねえ事が起ったので、朝早く、八丁堀まで行って来たのさ」
「何しに」
「金が降って来やがった」
「けッ、金が――」
蔵六は、ぴんと突っ立ったが、慌てて、しゃがみ直して、
「脅かすない。てへへへ」と、わら
「嘘じゃねえよ」と、卯平は、その溝川のすぐ向う際まで歩いて来て、
「俺も、
「えッ、二十両」
「おまけに、包の上に、雲霧と書いてあるんだ、雲霧と」
「しまった。――いや、た、大変だそいつあ」
「雲霧は今、伝馬にいて、現に、おめえの持ち牢だろうじゃねえか。仰天して、そいつをそのまま、お係の御吟味与力、高梨小藤次様のお屋敷へ、駆け込み届けをして来たという
「そうかい。ウウム……じゃもう届けてしまったのか。で高梨様は、何とか、いっていたか」
「不思議だ、不思議だと、繰返しているばかりよ。――なぜなら、俺の家へ、金を投げ込んだ奴も雲霧なら、雲霧が、世間に、二人出来ちまッたことになる。――そうなると、高梨様だって、はじめっから、吟味を洗い直さなくッちゃならねえからの」
蔵六は、もう、腑抜けになった形である。家へ、入る気力もない。
原ッぱの空の下では、さっき追い出した長屋の悪童たちが、銀紙をひらめかして、
「御用だ、御用だ」
と、雲霧ごっこに、夢中だった。
急に、再吟味が開かれた。
白洲を見下ろして、吟味与力、高梨小藤次は、
「雲霧ッ」と、口を切った。
「へい……」
黙っている――
鋭い小藤次の眼が、いつまでも、頭の上にこたえる。四十近い、立派な与力だ。雲霧は、息づまってきた。
「……何なりとも、お訊ねを」
「余り、手数をかけるな」
「死ぬ日を彼岸と、楽しみに、待っている雲霧。決して、むだな手数は……」
「きっと、正直にいってくれるな」
「へい」
「では、
「ふ、ふ、ふふふ。こいつア藪から棒、この世に、雲霧は二人とはおりませぬ」
「上役人が、そんな
「あいや」
雲霧は、手をあげた。
「恐れ入ったか」
「――飛んでもないこと。まったく、覚えのないお疑い、何を以て、
「――見せてやれ」
書記へ、投げるように、小藤次がいった。
雲霧は、ぎょっとした。茶袋に入れた二十両の金は、もうそこの机に乗っている。高梨小藤次は、うなずいた。
「――
拷問はしなかった。若いし、明敏だし、人情味もある。あれで、高梨小藤次が、もう一出世したら、大岡越前や
「へい――」
と、雲霧も、この人には、ひとりでに頭が下がった。
だが、牢へ曳かれてゆく
晩の
牢格子を隔てて、ちら、と見合ったが、眼と眼だけで、時刻を待った。
待ちかねた
コツ、コツ、コツ……
「うぬッ、恩を仇で」
と、睨んだ。
再吟味のあったことを聞いていた蔵六は、あわてて、かぶりを振って、
「門違いだ。親分、おめえが、間違えたんだ」
「そんな
「いや、いい忘れたが、その土橋が二つある。わしの家は、原ッぱの西側だ」
「ははあ、そうか。――だが、あの御船蔵の卯平にも、恩がある。間違いにしても、まあよかった」
「でも、届けられてしまっては」
「うんにゃ、こっちの気持は運んだというものだ。――おやじどん、落胆しねえがいい。今夜あ間違いなく、おめえの家へ、抛り込んでやる」
蔵六は、ゆうべで、もうすっかり彼を信用していた。
「だが、親分。おめえさんの名は、大したもんだ。家の餓鬼を初め、どこの町を歩いても、腕白どもが、遊びといや、みんな、雲霧ごっこだといって、騒いでいやがる」
「ふム。そうか」
雲霧は、ちょっと、
「蔵六、そこだけが、気になる。見張っていてくれ」
「はい」
と、彼が、そこへ首を出している間に、
ぱさっと、途中で、お仕着の裾が、何かに引っかかった。
「つまらぬところに、梅が咲いてやがる。もちッと、気のきいたところへ、咲きゃあいいに」
そこは、凸凹な湿地だ。枯れ
高い、塀を廻って、彼は深夜の町へ出た。風みたいに、軒下を走ると、すぐ田所町の何丁目か――そこをまた、路地へ入って、土蔵と、勝手口と、庭口のくッついた商家の裏手へ立って、
「こんばんは――」
と、戸へ耳をつける。
たった一声で、すっと、中から開いた。表は質屋、裏の客は、緑林から運んでくるのを受けている
「毎晩、どうも」
「なあに、お安い御用だ。さんざ、
「そういわれちゃ、面目ねえ。だが、甘えておくぜ」
「さ、どうか」
「ちょっと拝借」
閉める。――帯を解く、お
ちゃんと、台所わきの
きゅッ、と
「ゆうべ、使いに行ってくれたなあ、誰だっけ」
「伝助じゃねえか」
「ちょっと、呼んでくんねえ」
土蔵二階、なぐさみをしていた若い者の中から、一人が降りて来て、
「あ、親分で」
「伝公、てめえ、ゆうべは門違いをしちまったぜ」
「えッ、そうでしたか」
「西の土橋から、七軒目だ。――向う側の土橋から数えたろう」
「そうですか。相済みません」
「今夜あ、間違わねえでくれ」
「幾ら抛りこんで来ますか」
「やっぱり、二十両でいい」
「承知しました」
「頼んだぜ」
出る時は、店廊下を、突きぬけて、大戸のしとみ障子を開け、田所町の通りへ、ぶらんと、
寒そうだが、
四つ辻の暗がりから、すぐ、もそもそと、
「若旦那、行きやしょう。――
「四つ手か」
「へい」
「出せ、駕を」
「相棒ッ、乗って下さるとよ」
「急ぐんだぞ」
「へ。どちらへ」
「柳ばし」
「ここでいい」
雲霧は、駕を捨てた。柳橋の上である。橋の
「待てよ、止めたがいいか。それとも? ……」と、何か、
盗みにではない、女の愛に、また、子の愛にである。
代地の
「もう、
雲霧は、ふと、瞼に描いた。
「――忘れもしねえ、餓鬼時分から、
強慾者、無慈悲な金貸と、前から眼をつけていた権内の家へ、雲霧は、忍び込んだ。
権や召使を縛りあげて、彼は、ぞんぶんな荒仕事にかかった。そのうち、ふと、一間の
髪は、たしか、
「
雲霧は、
女は。
まるで、凍った花みたい。
恐怖にみちた眼を、蚊帳の隅から、じっと向けたまま、冷ややかな友禅の
(恐いかい?)
雲霧は、にやりと笑んでみせた。しかしそれは、かえって、彼女の極度な恐怖を刺戟した。ぴくっと、手を、蚊帳の裾へかけて、脱け出そうとする様子に、
(あッ、待ちねえ)
いきなり飛びかかると、娘は、籠の
(騒ぐと、殺すぞッ)と、思わず一喝した。
手の
波打つ八畳蚊帳の下に、泣くとも叫ぶともつかない声も圧し伏せられて、
夏の夜は短かった。
「――罪な真似を」と、雲霧は、今考えても、生々しい
自分の子。――彼は不思議な念に
(俺は、緑林の巨人――)
とさえ思い込んで、今ではその信念が、人格的にさえなりかかっている雲霧の心に忘れ得ぬ悪行の極印を残してるのはその一事だった。
彼も人の子である以上、当然な、愛情の本能からも、また、後天的な大盗の誇りからも、ぜひ、その悪行の
「さだめし、俺を、恨んでいるだろう。――せめて死ぬ前に、手をついて、娘へは詫びの一言、
こう考えて、ゆうべも来たが、盗みになら鉄壁も越えるが、さて
わん! わん!
雲霧は、はっと振り向いた。
「畜生ッ」
と、
「あら怖い」
「今のうち――」
手をつないだ座敷着の
「そうだ、夜明けまでの体、愚図愚図しちゃいられねえ」
代地河岸の砂利場へ潜んで、しばらく、様子を
土蔵付きの
手と、膝で、廊下を歩く。
どの部屋も、冷やッこい。寝息もなければ灯影もなかった。――雲霧は、闇に
どこかで、子のむずかる声でも聞えないか。乳の香でも漂っていないか。また彼女のかすかな寝息でも――と。
チャラ、チャラ……
また、ざらざらと、金の音だ。どこかで、金を数えている
雲霧の耳が、ぴくっと
小判は小判で耳をそろえ、一朱金は一朱金で並べ、二分銀は二分銀で積み、鍋銭は鍋銭で、盛り上げてある。
「さあて、少し、
「去年は、たっぷり、二割七分に廻ったものが、今年ゃ、一割五分にも足らぬ。――こんなことじゃ大変だ。わしの年が今、五十八、もう二十年と見てこの金を、十万両とするにゃ、一割五分じゃ難しいわい」
「だがいい色だな。いつ見ても、悪くないのは山吹色だ。音もちがう」
チーンと、今度は、二枚を持って、耳のそばで、小判と小判とを触れ合せながら、その音色を楽しんでいた。
「いや、待てよ」
それを置いて、帳面を繰返しながら、
「そうそう、
みしッと、その時土蔵と座敷の境で、人の気配がしたらしく感じられたので権内は、大きな声で、
「誰だッ。――娘か」
と、いって見た。人影が、障子に触って、
「俺だ」
と、静かにいう者がある。
「な、なんだと」
「
「けッ。雲霧だ?」
座敷の中へ眸を落して、雲霧はにたりと、
「ほ、豪勢な……。盗ッ人は、眼が
権内は、火の出たように、慌て出した。金を両手で掻き集め、座蒲団をかぶせて、その上へ、坐りこんだ。
そして、ぶるぶると硬ばった全身に、虚勢を張って「うぬか、
「ははは、父っさん、騒ぎなさんな。今夜の用事は、金じゃねえ。俺ア、改めて、詫びをしに来たんだ」
「詫びを――。だ、だれに」
「おめえの娘に。それから
と、
「――一目、会わして、もらいてえ」
「ならねえッ」
と、権内は、彼の姿から弱い影を見つけ出すと、急に血相を、
「太々しい亡者野郎め、白ばッくれた
「――そうか、じゃ、頼むめえ」
雲霧は廊下へ身を退くと、
「あッ、うぬッ、何処へゆく」
と、権内は、ぱっと先へ廻って、薄い灯影の洩れている土蔵の網戸を背負って、立ち
「会わせねえといったら、
「父っさん、おめえはさっきから、番屋番屋と脅かすが、そんな者にびくつくような雲霧じゃねえぜ。悪く
「くそでも食らえ、大盗ッ人め。また娘に畜生のたねでも
「どうしても、退かねえな」
「会わすも会わさぬも親の権利。骨が
「勘違いしちゃいけねえ。俺ア詫びに来たんだ一目顔を――」
「それ程、見てえものならば、うぬが生ませた餓鬼だけは、たった今、ここへ連れて来てやるから、背負って帰るとも、殺すとも、好きなように始末をしろよッ」
毒舌にまかせて、こう吠えると、権内は、土蔵部屋の戸を開けて中へ躍りこんだ。薄ぐらい
「馬鹿ッ、放せッ、馬鹿。来たが、
青白い乳ぶさをはだけた胸元を、一つ、蹴とばすと、子は、権内の手に、すぽっと抜き奪われて、虫を起したように、ひいーッと泣く。
「やいッ」
風呂敷包でも持つように、泣く子を、引ッ吊るしたまま権内は、夜叉権という名を
「――さッ、持ってゆけ!」
ごろん、と因果な肉塊は、うしろに立っていた雲霧の足元へ、抛り出された。ひッ――と泣いていたのが、途端に、黙って、裂けた笛みたいに、ぴくともしなかった。
はッ――と雲霧は足を
「あッ、よくも俺の子を」
と、両手で、ぐッと権内の体を前に掴みよせた。その襟もとを、力まかせに――極度な怒りをこめた腕で――捻じ切るほど締めたのである。
「うッ畜生ッ。ううッ……うううむ……」
と、権内は、四肢を
すると、小屏風の蔭で、
「あれッ、お父様がッ」
雲霧は、はっと、飛びついて、
「しッ、静かにッ」
と、蒲団から刎ね上がった、娘の身体を、両腕に、抱き抑えた。ぼきっと、折れはせぬかと思われるほど、細い――痛々しい――人間の春は遠く去っている娘の肉体だった。
「騒ぐなッ、し、静かにしてくれ。――な、なにも驚くこたあねえよ。……もう俺ア、決して、決してあんな乱暴は」
必死に、爪を立ててもがく娘の口を、彼の
「やッ? ……舌を」
と、彼は、思わず手を離した。
「しまった……し、しまった……」
重心を失ったかの如く、雲霧は、よろよろと腰をついた。
茫然と――
何もかも真っ暗だ。
ただ、幻みたいに、見えるのは、自分の為した罪の結果だけだった。――いやその一つのみではなく、今日まで為した無数の諸悪や業も、彼の弱味に、今こそつけ込んで、この土蔵の中の四角な闇に、げたげたと
遠く――
「……あ。朝が来る」
雲霧は、よろりと、立った。
そして、力なく、土蔵の口へ歩きかけると、
それから、間もなく――
田所町のけいず買い、質屋の佐渡幸の奥座敷に、この家にはふしぎな
「オヤ、どこの子が?」
二階で、夜どおし、
「――家にゃ、赤んぼは、いねえはずだが」と、不審がって、
「何が面白れえッ。馬鹿っ、
と、佐渡幸が、どなった。
乾分は首をすくめて、二階へ舞い戻った。
佐渡幸は、生れてまだ十月ぐらいな、愛くるしい女の子を、あぐらの中に抱えてあやしながら、
「決して、心配しなさんな」
と、自分の前に、両手をついている雲霧へ、
「たしかに、俺が、預かって一人前に育ててやる」
と、いった。
雲霧は、そうしている間も、気が
「今も、話したような因果の
「ああ、いいとも。親はなくとも子はそだつ。折角、立派に覚悟をした雲霧が、そんな事を案じていちゃあ、往生の
「これで、すっぱりと、いたしました。――夜が白みかけたようだから、じゃ、これで御免なすって」
「行くかい」
佐渡幸は、子を抱いたまま、立ち上がって、
「――もう一目、見てゆきねえ」
「とても」
と、雲霧は顔をそむけて、
「いくら無心な
「オオ、
「どうか、お達者に。……あっ、いけねえ、引窓の隙が白くなった」
あわてて、伝馬牢のお
伝馬裏の沼の中へ、合羽をすてて、ゆうべの梅の木を足場にして、牢内へ飛び降りた、豚小屋みたいな牢番長屋から、
「やあ、お帰り――」
と、蔵六は、彼を牢へ迎え入れた。
まるで、主人に仕えるように、
「寒かったろう」
と、
「ゆうべは、分ったろうな。間違いなく、
「ああ、入れておいたから、
「結構結構。それだけあれば一時のしのぎはつくからなあ」
番交代を待ちかねて、蔵六は、家へ帰って行った。
心も体も、雲霧は、綿のように疲れはてた。といって、眠気もささない。頭の中はあの土蔵の闇を詰めて来たように、
もっそう飯も、今朝ばかりは、食う気がしなかった。
「べつに、変った事はないか」
と、見廻って来た。
交代した牢番は、みじんも異状のない事を答えた。牢路地の辻に、他の者を残して小藤次は、子息の外記と二人だけで、雲霧の牢の前に立った。
「…………」
雲霧は、黙って、頭を下げた。
「どうじゃ」
「へい」
「
「一向に考えようがございませぬ」
「何といっても、そちは
「どういたしまして。雲霧仁左衛門に、相違ございませぬ」
「よほど、死にたい奴じゃの」
と、小藤次は、子息の外記と、顔を見あわせて苦笑しながら、
「後悔いたすな、獄門の日は、迫っておるぞ」
「こうして、静かに、考えれや考える程、罪業の怖ろしさがよく分りました。――すべて消滅する日が、待ち遠しゅうございます」
「ふーム? ……」
高梨小藤次は、疑惑にくるまれた顔をして、そういう闇の中の雲霧を、じっと、鋭い眼で、見つめていたが、やがて、
「よい覚悟だ。――其方ども五人の賊党は、明後日、千住のお
「ありがとう存じます」
静かに、下げた頭を、上げてみると、もう小藤次も外記も、見えなかった。
――
そんな早くとは、雲霧は思わなかった。白洲の吟味ぶりも、蔵六の話も、月半ば過ぎだろうという事だのに、どうして
「――するともう、今夜と
夜になると、また、牢番たちに、交代の時刻が来たが、蔵六だけは顔を見せなかった。それとなく訊いてみると、蔵六は風邪ッ気で今朝、戻るとすぐ床についたといって、娘のお登利が、病気の届けを持って来たという話。
翌晩の
だが、待っていた蔵六は、やはり来ないで、隣房の番人が、代って牢の前に付いていた。
きのうから
「あ、あ……」
時々、牢天井へ、彼は弱々しい
「今夜きりだ」と、呻いた。
「――俺ア、一生の算盤玉を、ケタ違いした。飛んでもねえ考え違いをやっていたんだ。死ぬんじゃなかった。死んでどうする! 義賊の何のといわれたところで、太閤様の墓にだって、五年も経ちゃあ、ペンペン草が生えるんだ」
眉は、
「それよりゃ、俺にゃ、することがあった。俺は、俺の生ませたあの子供を、決して俺のような人間にしちゃあならねえ。――けいず買いの佐渡幸に預けて置きゃ、行く末は知れている」
彼は、
けれど――もう遅い。
真剣に、そう思った時は、もう
一晩中、悪夢は、彼をなやませた。
いやな、
夜が白むと、やがて、
「雲霧、お呼び出しだぞ」
と、彼は、牢役人や、同心や小者など、大勢の人々がさせる
手古舞の金棒だ。
じゃらん――じゃらん、と。
宝町の三井では、
たいへんな客、たいへんな弥次馬である。
「ほ、餅撒きか」
雲霧は、ぼんやり、足を止めた。
そこまで、どう歩いて来たか、彼自身はうつつだった。――伝馬町の不浄門からぽい、と突き出されて、いきなり、
「――俺は生きてる」
そればかりを、余りの不思議さに、夢か、間違いかと、ただふわふわした気持だ。
「だが、間違いじゃねえ。夢でもねえ」
と、雲霧は、動いている世間、華やかな江戸の春に、眼を
今朝、牢から引き出されると、いきなり白洲で、放免をいい渡されたのだった。なぜか、まるで見当がつかない。
それを、歩き歩き考えてみると、どうも、代地の権内の事件が原因らしい。――先おとといの晩、
小耳に挟む、路傍の人の話にも――
「呆れたね」
「どうしても、今自雷也だ」
「奉行所も、手を焼いているッてじゃねえか。折角、捕まえたと思ったのは、
「役人面アねえや」
「舌を出して、笑ってら。どこかで、ほんとの雲霧が」
「そうとも、当節のボケ役人なぞに捕まるような、間抜けな雲霧じゃねえと、俺ア、初めッから睨んでたんだ。――だが、胸がスウッとしたな、夜叉権の一件にゃあ」
「強慾な金貸野郎が、あんな目に遭うなあ世間の薬だ」
「今まで、
「雲霧大明神か」
「お互いに、あんまり、非道な金は、
「
「ホイ、今日は、餅撒きだ。早く行かねえと、仕舞いになるぞ」
そんな話を行く先々、人間の群れる所で、彼は聞いた。
「役人からも、世間からも俺ア、何日の間にか、偽者と決められていたんだ」
不意に、運命の門口が変った体を、どこへ持って行ったらいいか、彼自身にもまだ分らなかった。
華やかな騒音と、人浪に誘いこまれて、うかうかと室町の角までくると、屋根から飛んできた切餅が一つ、雲霧の顔にぶつかった。
「あ痛……」
抑えた頬から、ふところへ、餅が落ちた。
その生餅を
「若旦那。
と、誰か呼ぶ。
ひょいと振り向くと、
「まあ、どうして? ……まあ?」
と、彼の姿に、眼をみはった。
「おう、鶴松」
「とにかく、家へいらっしゃいよ」
照降町の新道へ、鶴松は、無理に彼を引っぱり込んだ。――椀屋徳三郎というのは雲霧の遊び名前で、深く、馴染んだ
「どうなすったんですえ、このごろは?」
小ぢんまりした御神燈格子。鶴松は、自前らしい。風呂が沸いているからといって風呂に入れ、
雇い婆に、耳打ちして、てん屋へ、何か
「鶴松姐さん」
「オヤ、粂さんかい、どうしたえ、この間話のあった
「何が、ヘマになるか、判らねえ。あの貧乏牢番が、間際になって、何処から工面しやがったか、急に金が調ったからといって、とうとうオジャンさ」
「そうかい、
「
「その人なら、今朝分ったんだけれど、
「へッ? 心中したんで?」
「だから主人も、持って逃げた金は、
「道理で、蔵六爺め、きのうは、寝込んでいやがった」
「ま、そう悪くおいいでないよ。またいいことがあるだろうから」
「なくっちゃ、
「おや、まあいいじゃないか。大層、お急ぎだね」
「今日はこれから、千住へ行こうと思って」
「玉を見にかい?」
「なあに、評判の義賊の五人組が、
雲霧は、体を拭いて、風呂から上がっていた。
黙って出しておいてくれた肌着、
「飛んだ、世話になったね」
「いやですよ、若旦那」
「折角だが、ちと急ぐから、また四季亭か、向島か、いずれ呼んだら、来ておくれ」
「どうして。――何か怒ったんですか、若旦那」
「何さ、ちと、家に事情があって」と、金を一両ほど無心して、呆っ気にとられる鶴松の顔を、格子の中に捨てると、振り向きもせず、新道から歩きだしていた。
(そうだ、よそながら、線香の一本も上げてやろう)
彼は、風呂場の中で、思いついた。
初めの意気も、約束も失ったので、今では、義兄弟とも、乾分とも、思っていないが一度は、
「駕屋、千住まで」
と乗ったのが、もう午近いころ。
垂れを鳴らして、その駕が、
「駕屋駕屋、もう一挺――」
と、あわただしく、手を上げた。
その侍は、今朝から、室町の
伝馬役所の同心見習、高梨外記である。
雲霧一件に、係吟味となっている彼の父――高梨小藤次とは、むろん、十分、何か
白、
二月の昼である。うすく埃の立つ
「ああ、来なけれやよかった」
雲霧は、
刑は、今終った。
があがあと、見物人は、なだれ押しに、帰ってゆく。町の噂を知らない百姓が、五人と思ったのに、かんじんな雲霧が欠けているといって、不平らしく、呟いて通った。
「――ばッ、馬鹿にしてやがる」
雲霧は、青ざめた顔をして、枯草の中から立ち上がった。
「死んで堪るものか! 死んで!」
強く、口の
「四人の奴等にゃ、これくらいが、相応な往生だろう。だが、俺は……」
彼は、これから持ってゆく自分の体の方針が、やっと、ついたように、
「俺は、真っ平だ。義賊にしても、
宿場旅籠で、雲霧は、ふた晩、真面目に考えた。
そこを、二日目の宵立ちに出た時は、旅合羽の
「ごめん」
と、質屋構えの裏口から入った。
「佐渡幸親分に、ちょっと顔を――」と、そこに、立ったまま、
奥から、あわてて、佐渡幸が、
「おお雲霧、おめえ、御放免になったってえじゃねえか」
「へい。妙なわけで」
「恥かしくねえのか。義賊だの、五人男のと、世間でいわれている
「べつに、恥かしくはございません」
「やいッ。みんな、ここへ出て、恥知らずの腰抜け面を見てやれ。この間うち、ふいに
「あッ、ひでえことを……」
と、雲霧は、むらがる
「――佐渡幸親分」
「なんだッ、カス!」
「奥で泣いているようでございます。飛んだ、お世話になりましたが」
「いわなくッても、
奥へ、駆けこんで、荒っぽく、抱き取って来た子を、両手を伸ばしていた彼へ、
「雲霧ッ。――
うしろで、
「あッ?」
と、掴まれた襟がみへ、片手をのばして、雲霧は
踏み外したドブ板から、さっと、黒い泥水が
どどどっと、物凄い家鳴りがそれと同時に、佐渡屋の表にも二階にも
十手は走る。皿は飛ぶ。
まるで、
「父上ッ。――この路地を。父上ッ」
助勢を、求めながら、外記は、雲霧を全力で離さなかった。
「ええッ、何しやがる」
びりッ――と合羽が裂け、雲霧は、七尺も先へ突ンのめって、腰を突いた。
赤ン坊が泣く。
声を聞いて、捕手が、
「逃がすなッ」
と、路地の口を
だが、そこの
そこに、落ちていた三尺帯を足ですくって、雲霧は、物干しから屋根へ、踊って出た。みだれる提灯を、眼の下に、すばやく、帯で
「外記ッ。――不覚をとるな」
軒先の路地で、高梨小藤次の声がした。提灯の火光が下にも、屋根にも赤かった。外記は分銅のついた
その顔へ、瓦が飛んできた。二、三度首を沈めて、
「おのれッ」
と、飛び上がると、雲霧は、
「蹴落すぞッ」
と叫んだ。
はっと、外記は、瓦へ寝た。
背に子を負って、大脇差を構えたまま、ぬっと立っている相手の
「――義賊ともあるものが、神妙にせいッ。雲霧っ、名折れだぞ」
十手を、低く、つけたまま、外記は腹で、瓦を這った。一尺一尺と、無言でいる雲霧の刃の下へ。
下でも、秩序のない混乱がつづいていた。けいず買いの佐渡幸は、
「気をつけろ、中に、
と、ひとりが呶鳴った。
直感に、さっと、無数の影が、往来へ散らばると、一瞬、土蔵はぐわうん――と自身を破壊して、炎と猛炎が、割れた口から、一丈も
火と、焼け土とが、滝となって、ざっと落ちてきた。――屋根の上の外記が、死を決して、雲霧へ、跳びかかろうとした瞬間に、その震動が、二人をぐらっと
「あッ――」
「あッ!」
と、二人は、一緒だった。顔を抑えて、
「残念ッ。――残念だッ」と、さけんだ。
ばらばらと降る灰に、髪が
外記は、それを払うのが、やっとだった。眼が開けないのだ。――いくら、開こうとしても、もがいても。
「ちいッ」
と、瞳の激痛をこらえながら、瓦の上を、手探りに、それと思う
「外記ッ。わしじゃ」
と、父の小藤次の声が――
「わしに、早く、わしの背につかまれ、もうこの家の下も火だ」と、いった。
「やッ、父上で」
「あぶないッ」
小藤次は、外記の手を肩に取って立とうとしたが、外記は、振りもいで、
「雲霧はッ、雲霧は?」
「失せた。――たった、一足ちがいで」
「えッ、逃げましたと」
外記は、絶望的に――「父上、何と、この御職責を」
「わしの不明だ。智恵負けだ。腹を切っても、失策の埋合せはつくまい。――行こう外記、参ろう」
「何処へです、何処へです」
「役所へは、無論、不面目。お役を辞して雲霧に縄を打つまで。――それよりほか、わしら父子のとる道はない。あっ
朝霧に、夕霧に、一日まし、秋は
もう一年余りは過ぎた。――先はまだ幾年歩かなければならない道だろう。職の責めを負って、役目を辞し、突然江戸表から姿を消した高梨小藤次と外記父子の旅は――
「
恵那峠の茶屋で、休んだついでに、小藤次が訊ねてみた。
土間炉で、小鳥の肉を、串にさして、
「さあての?」
と、考えていると、でっぷり肥えた女房らしいのが、
「いつもの、針屋が来たら、分るが」
と、口を出した。
「そうだ、あの針売りなら、ここらから、岡崎辺りまで、しょッ中、小まめに歩いているので、聞きかじっているかも知れぬ」
と呟いて、
「お眼が悪いと仰っしゃるのは、御子息様で」
「む、これに連れている伜」
「お若いのに――」
と、嘆じて、
「山旅に、眼が御不自由では、御難儀な」
「いや、途方に暮れたとは、この事か」
「お若い方は、余り御勉強が過ぎまするで」
「ならば、
外の道を、秋風が、さあっと、木の葉を掃いて行った。美濃の
すると遠くから子守唄が聞えた。といっても、子守女の哀調ではなく、元気のいい男の声。それに交じって、
「来たそうな」
女房は、土間を抜けて、裏へ駈け出した。乳ぶさをひろげて、待ちながら、
「おうおう泣いて。――
と、いった。裏口から、入って来た男は、
「やれ、今日は、弱らせられた。――この、泣き虫め」
と、台所の縁へ、菅笠を
みやこ針みすや。
と、書いてある。
針包の荷を、風呂敷で背なかに廻し、その上に、猿廻しの猿みたいに、まだ母の肌恋しい、
「商売が商売だから、乳を貰うにゃ都合がいいが、きょうは、押井村であてにしていたお
「じゃあ、無理はない」と、女房は抱き取って、乳をふくませながら、
「かわいそうに、こんなに、むしゃぶりついて」と、無心な
針屋は、子を預けると、
「ア、楽々した。――おや、
と、土間炉で、小鳥の串焼をしている亭主の肩からのぞいて、
「俺も、餌がほしい。一本、御馳走になろうか」と、手をのばした。
「それは、つぐみだ、美味くないぜ。こっちのは
「雉子? 雉子はいけねえ」
「なぜ」
「焼け野の
「なるほど。……そういえば、今、店に休んでいらっしゃる御武家の御子息が眼が悪いので、足助村か、中之御所に、眼医者の上手があるかって訊ねておいでなすったが、お前、知らないかい」
針屋は、小鳥の串を、横に
「それや、足助村の
「禁厭も、いいかも知れない。知っているなら教えて上げてくれ」
「何処にいる? そのお侍ってえのは」
「おやッ? ……」と、亭主は、腰を上げて、
「たった今、そこにいたんだが。笠もあるし、振分も置いてあるのに」
「外へ出て、谷間の
と、針屋は、口を、むしゃむしゃ動かしながら、何の気なく、店先へ出てゆくと、いきなり物陰から、彼の二の腕へぴしっ、と十手が唸ったと思うと、
「雲霧ッ。御用ッ」
と、眼のわるい武士――高梨外記が呶鳴った。
あッ――
「えいッ、何しやがる」
肩越しに、軒先へ、投げつけられた。
すると、ほとんど一緒に、裏口で茶店の女房が、異様な声をあげた。――不意に、女房の乳ぶさから無心な子を、
「雲霧ッ。この子が可愛くないか」
「やッ――」雲霧は、さけんだ。
悪の闇から足を抜いた後は、ただ一つ、その子の可愛さに生きて――また生きようとして、細い針
「
「ウーム、畜生」
雲霧は、もだえた。歯をかんで、
「畜生めッ。俺の一番弱い所を、うぬあ、よくも知ってやがるな。返せッ、その子を」
「お縄をうけるか」
「くそうくらえッ」
「考え違いいたすなッ。役人ながら小藤次は、そちの悪行ばかりを見てはおらぬ。いずれは、極まる悪党の末路。なぜ、男らしくせぬか。なぜこの子の行く末を、わしに頼まん」
と、彼は智と弁をふるって、この例外な悪人を、江戸へ
しかし、飽くまで十手の威厳と、力とで、雲霧を捕えようと焦った外記は、その声を目あてに、ぽっと黒く見えた相手の姿へ、うしろから再び飛びかかって、
「おのれッ」
と組みついた。
「誰がッ、うぬらに!」
外記は、強く振り捨てられた。
それへ、眼もくれず、匕首は小藤次の真っ向へ、
「返せッ!」
と、喚いて、とびかかった。小藤次は駆けだした。そしてまた、
「お縄をうけい! お縄をうけい!」と叫んだ。
「そんな、甘手にのるかッ」
彼の眼は、血走った。兇悪な野性が久しぶりでその面上いっぱいに
「この子のためを、なぜ考えぬ。義賊雲霧仁左衛門の末路を、なぜ、いさぎよくせぬか」
と、

だが、もう彼の耳には、入らなかった。小藤次の期待は反対になって、雲霧は、暴れ
「あッ……。俺の子ッ」
崖っぷちの灌木に
「やッ、よくも父を」――と、仰天して、自暴的に、宙へ、十手を抛り捨てると、腰の刃を、抜き打ちに、雲霧の背へ斬りつけた。
くわッ、と振向いた雲霧は、横っ飛びに避けると、勢いよく、灌木の根へ走った刀の手元をつかんで、それを、引ッ奪くった。
「――来てくれッ。大変だッ」
茶店の夫婦が、山小屋の
ずたずたに斬られて、そこへ俯伏せになっていた高梨外記は、もう虫の息もない。死骸は、滅茶滅茶だ。胸いたを突いた痕ばかり七、八ヵ所もある。
「――分らねえもんだ、あのまあ、気だてのいい、針屋が?」
と、人々は、首を振って、不思議がったり、余りの
わけの分らない世の中が、天明から、寛政、文化と
あれから、まさに春秋二十余年。
× × ×
カアーン。カアーン。
「地蔵様へ、花
と、道ばたの寒椿の、白いのや、紅いのを、むしり取っては、前へ鉦を叩いてゆく、男の
伊勢路近江路、時には、京や大坂あたりにも見かける、地蔵行者である。
雨露によごれた
「――子を大事になさいよ。親は子を育てたいといいますが、私は、子に救われ、子のため、人間になりました。わしばかりでござるまい、世間、親と威張る衆は多いが、実は、子に救われている親御衆の方が、どんなに多いか知れないので……」
と、行者心蓮は、子供のいる家の前に立つと子の功徳を説き、地蔵愛を
「お心がございましたら、一文でも二文でも、地蔵堂の建立に御寄進ねがいます。――私の死ぬまでに、それがどこかの
カーン。カアーン……
「地蔵様へ、花
ぞろぞろ、
「ああ、雪が来た」
心蓮は、空を仰いで、初老を越えかけた眼をしばたたいた。天蓋に――勧進旗――横なぐりの雪がぼたぼたと吹きつけた。
見る間に、
「木賃はないし……」
彼は、戻りかけては、また先へ歩いた。もうそこは、
「そうだ、これも
どこの納屋か、
「まあ」
ふいに、後ろの戸が開いて、戸の隙間から女の顔が見えた。人は住まない外
「旅のお方。先ほどから、気づいてはおりましたが、女一人、父が戻るまでは、お上げ申すわけには参りませぬが、この雪に、そんな所においでなされては、凍え死にまする。――土間へ這入って、
「かたじけない――」と、心蓮は、雪と共に、戸の内へ飛びこんで、はあ、と息で両手を温めた。
炉には、芋粥が、ふつふつと煮えていた。
「さ、そこで」
と、女は、炉の火を、火桶に移し、また芋粥を茶碗に盛って、土間の
心蓮は、人心地がついた。
女ひとりと、いわれたので、彼はつつましく、土間の
女は、
その横に、地袋の小床があり、伊賀土産の梅干壺に、一輪、寒椿が投げてあって細い句軸がかかっている。そして、ちょうど、女の白い襟あしの上に、仏壇の燈明、
だが――
心蓮は、
――そして、似ている。
誰に?
さあ、それを心蓮はさっきから考えぬいているのだった。
彼は、記憶の絵巻を、
どうしても、覚えのある気はするが、記憶をつかむ努力に疲れて、眼を
「おや? ……」
すると、ふとまた、心蓮はその眼をみはった。彼女の襟脚から二尺ほど上の仏壇の中に、奇異な物を見出したのだ。血痕でもついたのがそのまま
ぞっと、彼は肩をすぼめて、家の中を見廻しながら、
「もし――」と、女へいった。
「はい」
針刺しへ指をとめて、
「お茶でございますか」
「いいや、つかぬことを伺うが、床の御風雅、御主人は、
「左様でござります。京都の夜半亭の社中から出た
「何の、一向に無風流者。父が狩野派の貧乏絵師なので、幼少のころ、ちとばかり、画道は師匠につきましたが」
「おや、そうですか。ちょうど、今夜父が出かけました庵寺の運座も、京都から遊歴に来た絵描きさんのためだといっておりましたが」
「ほ。何というお方で」
「丸山
「応震? 聞いたような……」
「応挙の御子息だとか。――あの応挙は惜しいことに、お亡くなりになりました」
「そうですか、応挙は亡くなりましたか。そうでしょうな。もう……そうでしょう……」
と、心で指を繰るように、眼をふさいでいたが、またちらと、仏壇を気にして、
「運座では、お戻りの遅いはず。ご主人のお帰りなさる間、こうしておるも所在ない。お仏壇へ
「え……さあ?」
と、娘は、迷惑げな顔をしていたが、もう彼が、
静かに心蓮は、彼女のうしろに立った。そして、土間からは見えなかった仏壇の位牌に眸をこらした。もう竹藪の雪が落ちるほど積ってきたのか、ざざっ、どどっ、と地ゆるぎのするたびに燈芯の灯がゆらめくのだった。
「あッ……」
心蓮の顔は、とたんに、血の気を失っていた。
法名と共に、書いてある月日。そのわきには、俗名高梨外記。
どどどと、雪の音だ。
まるで、真空のような静かさだ。女は、ふっと縫い物に無心な心を寒くした。
針の先が、妙にふるえる。――自分のふるえではないのに――と、ふと、眼の隅から袂の後ろを恐る恐るのぞくと、行者心蓮の足は、畳についていないようにがくがくと
「?」
はっと、彼女はその人へ、顔を上げた。
燃える二つの眼が、上から、じっと、彼女を見ている。
「おうッ、お前はッ」
と、彼女の体を抱いたのであった。
きゃッ――
ころころと
「娘、娘」
さっきから外で、下駄の歯の雪をたたきながら、こう呼んでいた十徳着の老人は、戸を開けると、不審そうに、
「オヤ、
吹雪が、土間の中へ、斜めに、白い光の縞を投げこんで、妖しげなすすり泣きを吹き
「どうしたのだ。娘……娘……」
「お父様ッ」
泣き声と一緒に、彼女は、老人の胸へ飛びついてきた。
「これ、どうした。――お前、泣いてるのか」
「お、父様ッ……」と、彼女は、極度な感情に、全身をふるわせ、父を怖れる眼で、父を疑った。
「何で泣く。わけをいえ、何で泣いておるのじゃ」
「私にも――分りませぬ――お父様、聞かして下さい。どうして、私には、二人の父があるのでしょうか」
「ば、ばかッ。――誰がそんな事を。誰が」
「たった今、裏から逃げた、地蔵行者が」
「な、何といった」
「いきなり、私を抱きしめて、俺の子だ! と」
「げッ、――
土間に、置きすててある
みんな、乳の香のするものばかりだった。そして、笈が、一個の空箱となった後その奥に、ぺたんと貼ってある一枚の紙位牌が老人の眼を、はっと射た。
俗名、高梨外記殿
「ううむ、分った」
老人は、十徳をかなぐり捨てた。おどり上がって、仏壇の
「
「お父様っ、聞かして下さい、今のことを」
「ええお前は、黙っていればいい。――あっ裏口が開いている」
びゅう――と、雪は、大竹藪をなぐっていた。
その下を、彼は、若者の如く
その足跡を、彼は、追った。
「おおうーい」
のめる。転ぶ。
「おおーいっ。雲霧ッ」
はっと気づけば、足痕は切れている。頭も顔も、雪だらけにして、雪の中に黙然と立ちどまっている白衣の人間を、老人はきっと見出した。
「御用ッ」
投げた捕縄に狂いはなかった。それを手に取らないこと二十年、すでに
白い人影は、ぴくっと身を屈めた。捕縄の端は、その手に掴まれていた、地蔵行者の心蓮――雲霧仁左衛門の手に。
ぴんと、二人をつないだ縄。
何と深い、この縄の宿縁だろう。二十余年を経た今日でも、それは地獄を生めば生める。――呼へばたちまち、
「つい、逃げたのは、お恥かしい。――まだ昔の根性が、どこかに残っていたものとみえますな、ははははは」
雲霧は、そういって、
「――自分から、お願いすることは、あなたが二十年も先からやっていて下すった。何とお礼をいっていいか。――さあ、高梨小藤次様、縛って下さい」
腕を、自分で後ろへ廻すと、何と思ったか小藤次は、ぽいと、捕縄を吹雪へ投げて、
「心蓮殿、地蔵堂の地は、この辺がよろしいのう。今は、満目の雪でござるが、春ともなれば、
と、いった。
「え?」
と、怪しんで問い返すと、月杖は、まだ今夜の運座の句作が頭にあったのか、少し顔を上げて、
遊ばばや子とも鬼とも紫雲英草
と呟いた。吹雪は、まだ、二人の姿を消してしまうほど荒れていたが、空には、月が顔を出していた。
どこかで、よよと、泣いている女の声を、上から傷ましがっているように。