十八になるお
その間ずうっと、彼女は家を出るたび帯の間へ、穴のあいた寛永通宝を一枚ずつ、入れて行くのを忘れた日はなかった。
「あんな、張合いのある乞食ってないもの――」
と、自分の心へ言い訳する程、彼女はそれを怠らなかった。
河原から
「――あんな一生懸命なお辞儀って、誰だってしやしないもの」
と、それを受けるのも、楽しみだった。
きょうも、
(岩公、いる?)
と、お次は、下を
一ぺんも言葉こそ交わしたことはないが、きょうは岩公が何か
(あ。お嬢様)
岩公も、
ぽちゃん、と仮橋の下で、小さな水音がした。
「あら」
あわてて、お次の手は、髪へ行った。泣きたい顔になった。
銀の
嫁入りまで、
沼尻の川なので、浅そうに
怨めしげに、水を見ていた。
でも、仕方がないと、
「おお深けえ」
底は
いくらでも、脚が入る。
でも岩公は、やめなかった。腰から胸までへ、泥だらけの
「ねえってことはねえ。ねえってことはねえ」
独りでぶつぶつ言いながら、日が暮れるのも知らなかった。
「おや、誰?」
と、眼をまるくして、
「――岩公じゃないの。何してるの」
「不思議だ。ねえ筈はねえ」
「何が」
「お嬢様の」
「あら。おまえ私の釵を探していてくれるのかえ。そんなら、もうよしておくれ。風邪をひくよ、寒いのに」
お次が、しきりに止めたので、岩公はむっそりと河原へ上がった。
「――有難うね」
初めて口をきいたのだった。
仮橋をこえて、振りかえると、岩公が薄暗い河原で、大きな
翌る日、お次はまたそこへ来て、
「まあ岩公、まだ探してるの」
と、
「ねえ筈はねえもの」
岩公は、同じことを答えた。
三日目も四日目も真っ黒になって、泥土の中を脚や手で探っている彼を見た。お次は、街道の旅人や、土地の人にも、きまりが悪くなって、
「頼むから、もう止めてね」
と、いった。
岩公は、やめなかった。
「ねえ筈はねえ」
と、いった。
「後生だから、止してよ。止さなければ、私、もう
そういって、
慾でやっていたのか。
でなければ、少し抜けているのか。
お次は何だか、岩公に少し嫌な気がさしてきた。
もうそんな事も忘れて、冬を越した。春は、大根の花が咲く。
練馬といえば大根の産地なので、
石神井川の仮橋は、豪雨があるとすぐ流された。
また、半町ばかり、新しい仮橋は、位置が変った。お次はこの頃、橋の下を見ないことにしていたが、その日、
「お嬢さん。ありましたぜっ」
と、ふいに河原から声をかけられて、吃驚した。
「ま」
「あったよ。あったよ」
お次は、眼が熱くなった。
彼女へそれを渡すと、岩公は、満足そうに河原へ降りて行った。飯櫃の前に坐って、もう後へ来る旅人の影へ、頭を下げていた。
根からの乞食でもあるまいに、
土地の者は、岩公を理解するに苦しんだが、この頃では彼の姿が見えない日は、みんなして、
「どうしたのか、病気じゃないか」
と、心配する程だった。
なぜなら、岩公がこの土地に流れて来てから、泥棒や火事がなくなった。また、
「変な男だ。だが可愛い奴だ」
と、練馬板橋の人々は、余る食べ物があると、河原のかまぼこ小屋へ、やりに行った。
この土地へ流れて来てからも、十二、三年になる。酒を飲むふうもなし、女が欲しそうな顔でもない。年もまだ三十四、五だろう。身体も満足なら顔だちも人並だった。背が小っちゃくって、丸顔で、笑うと愛嬌さえある。
村の悪童たちは、
「岩ンベ。岩ンベ」
と、石をぶつけたり、上から小便をひっかけたりした。岩公は笑ってるだけだった。ここは、甲州の裏街道なので、旅人もよく通る。岩公が一心に頭を下げるのを見ると、
「一文は安い」
と、よく合羽の袖から、
「はてな」
と、
岩公は、仰向いて、
「がぼ、がぼ、がぼ……」
と、口の中で水を鳴らしていた。
いきなり、羽織を脱ぎ捨てた武士は、
「おのれっ、佐太郎だなっ」
と、上から呶鳴った。
「げっ」
岩公の口から、水が、ぴゅっと走った。
「うぬ、よくも多年、姿を
河原へ、飛び降りた。
反対に、岩公は、上へ逃げ上がった。まるで転がるように、
「卑怯者っ」
武士もつづいて、飛び上がった。しかし、街道にはもう人影が見えなかった。
「亭主っ、今この前を、乞食が逃げて行ったか」
と、居酒屋の前で、息を
「なに、通らん。――すると、畜生」
引っ返して、横道へ走った。
「ちょっと、物を訊くが」
「え」
休んでいた町人達が、
「何です、お武家さん」
「今、そこの河原から逃げ上がった若い乞食、どっちへ行ったか知るまいか」
「知りませんね」
「はてな」
と、茶屋の裏へ廻って、
「あっ向うだっ」
と、仮橋の板を踏み鳴らして、どんどん駈け出した。大根畑の白い花をちらして、岩公の逃げてゆくのが、
「おういっ。佐太郎」
武士は、二度も転んだ。
「貴様も武家の飯を食った男でないか。卑怯な奴。待てっ」
だが、岩公は、振向きもしなかった。練馬の部落へ逃げ込んだ。
水車が止まる。あっちこっちで、鶏の群れが、けたたましい叫びをあげ、翼を
「臆病者ッ、人非人めっ。返せっ、待てっ、弟の
呶鳴りながら、旅の武士は、目や鼻をひっつらせて、泣いていた。そこへ持って来て満面の汗と
旧家らしい土蔵つづき、そこの母屋の前庭へ、向う見ずに駈け込んだのである。どこかで一度、斬りつけたとみえ、右には
「きゃっ」
と、逃げ惑って、
「あれっ、誰か来て――っ」
と、叫んだ。
漬物蔵から、向う鉢巻の若い者が大勢駈け出して来た。
「やいっ
と、武士を支えた。
「狂人ではないっ、拙者は小田原の大久保加賀守の家来、岡本半助という者。今そこの漬物蔵へ逃げ込んだは、隣家の秋山家にいた若党の佐太郎という者。……あ、水を一杯くれ」
「水だとよ。
「
「へえ?」
「

誰も、返辞をしなかった。
お次は、老母のうしろに、白い顔をして、
「たのむ。武士がこうして――」と、見苦しい程、昂奮してる岡本半助は、膝の下まで手を下げて、
「お情けじゃ、追い出して下され」
でも、みんな、黙然としていた。
「御承知なくば、やむを得ん、拙者自身で入る程に、無作法、おゆるし願いたい」
「あ……」
お次は思わず伸びあがった。
すると、若いのが、
「おっと、待ちねえ」
「なんじゃ、何で止める」
「あのお
「黙れっ、町人とはちがう。また佐太郎が悪人でないと、何を証拠に」
「だって、どう考えたって。――なアおい」
「よし、
「それや、勝手だ」
武士は、そこにあった竹竿に目をつけ、蔵の中へ、突っ込んで、掻き廻した。
「佐太郎っ、出て来い。もはや、汝の天命は尽きたのだ。いさぎよく、半助に討たれろ」
若い者たちが、舌打ちして、
「やかましいや」
と、竹竿を
「
わざと漬物樽を幾つも転がして半助を追い退けた。
半助は、歯がみをしたが、どうも出来なかった。ここから近い
「ううむ、
半助は、蔵のまわりを歩き出した。五日でも、十日でも、こうしているぞというように、唇を噛んでいた。
ぴた、ぴた、と半助の
「お次、そなたは、こんな果報が、嬉しゅうないのか」
と、
「いいえ」
お次は笑ってみせた。
でも、
「まだ、何か不足があるのか」
「勿体ない」
「あるなら、言うがよい。……なんだ……なんだお前、泣いてるじゃないか」
「だって、あたし、可哀そうでならないんですもの。こんな倖せな私にくらべて」
「誰が。アア後に残る
「いえ、あの……岩公が」
「何をいうかと思えば、お菰の岩公を。はははは、おかしな奴じゃ、なるほど、岩公もふびんだが
「嫌な人ですね」
「お武家として、立派な事だ。でも、若い奴らは、
「お父さんの情なしっ」
と、お次は、
「嫌です、私は嫌」と、かぶりを振った。
泣いているのである。三右衛門は、単純な
「なぜ、そんなに」
と、少しきつい眼で
「でも、私は何だか。――お父様、後生ですから、助けてやって」
「そうは行かない。お武家様が、見張っているものを」
「けれど、こうなれば……」と、お次は、一心になって考えたような智慧を、父の膝に甘えて
「庄吉をよべ」
しばらくすると、彼の居間で、手が鳴った。若い者の庄吉は、主人の三右衛門と何か
「それ、積んだ、積んだ」
と、蔵から二十樽ほどの、沢庵漬を転がし出した。
「届け先は、日本橋の大丸だぜ」
大八車へ、それを積むと、縄をかけて、勢いよく曳き出したのである。お次は、心配そうに、窓から見ていた。
「さすがのお武家も気がつかない。どうじゃこれでよかろう」
「え」
にこと、淋しく
窓からその顔が消えると、じっと、蔵の蔭に立っていた岡本半助は、道をかえて、外へ駈け出していた。そして、乾いた街道を、白い埃につつまれて行く荷車の後から、
「
と呶鳴った。
きらっと、陽の光をかすめた刀の白さを見ると、若い者たちは、
「来やがった」
と、叫んで、われ勝ちに、
大八車の梶が、どんと前に落ちた弾みに、半助の刃が、樽の縄を、めちゃめちゃに切った。山に積んだその上から、一つの空き樽が真っ先に落ちた。
ころころと、生き物みたいに、樽が先へ出た。そして、ぽんと
「このッ――」
がつんと妙な音が聞えた。
畑に
右に血刀と、左の手に、生々しい首を引っ掴んで、岡本半助は、気が狂ったように、畑の中の裸街道を一目散に駈け出していた。げらげらと笑ってゆく声が、茫然と見ていた若い者たちの耳に残った。
「岩公が殺された。岩公が――」
と、村の者が、真っ黒に集まって来た。そして、口をきわめて侍を
首のない死骸が河原のかまぼこ小屋へ、運ばれた。ここで通夜をしてやろうと、いう者も出て来た。
すると、小屋の中を、掻き廻していた男が大変なものを見つけた。造り酒屋で
かぞえてみると、ひどいもので、七十四両と
その
代官所の
× × ×
月が美しかった。
大根の花だの、菜の花だの。
畑の中を
「おじさん、ちょっと止めて」
石神井川の上だった。
普請なかばの仮橋の上に、お次は、駕をとめさせた。
「――別れじゃもの」
と、伯母も、
(岩公、左様なら……)
晴れの黒髪から、銀の