「――お待ちかねでいらっしゃる。何、そのままの支度でさし
と、
案のじょうである。
大書院へ出ていた君侯の
「討ったか」
と、頭から云い、そして与右衛門が顔を上げずにいるとまた、
「
と云うのだった。
出羽守の立腹も、藩の士気を正すためには、当然そうなるべきで、ただの
家臣の福原主水が、女の意趣とか何とか、言語道断な沙汰で、同僚の者を暗殺した上、藩用を
追手討ち!
勿論、棟方与右衛門だけが、君命をうけたわけではないが、
(そちも行って
と
これは君恩と云っていい。こういう折でもなければ、十石の
与右衛門は勇躍して、
(君命であるぞ、主水! 首を所望)
とまでは、名乗りかけたし、また討って帰るつもりだった。
碇ヶ関まではずいぶん山道を歩く。人にも会わない道が何里とあった。主水と出会った山中も、
兇悪な――上ずった眼でもしているかと想像していた主水は、案外、落着いていて、
(騒がしてすまなかった)
と最初に云った。
それから彼は、同僚を斬った
――そんな話を聞いてしまうと、与右衛門は、主水を斬る気を失ってしまった。主水はまた、与右衛門に対して害意を抱いている気色など少しもない。むしろ懐かしげに現在の藩の困窮だの、武士道と実生活の
人気もない山中の
――藩へ帰って来てから、しまったと後では思い、今また、君侯の顔を仰ぐと、いよいよ、
(不覚をした)
という自覚にふるえが出て来る程だったが、もう追いつかない事だった。
それについて、まるっきり嘘もいえないので、碇ヶ関の附近で主水の姿を見かけたが、力及ばず[#「力及ばず」は底本では「力及ばす」]討ち洩らしたと答えたので、津軽出羽守は、よけいにその
「ものの役に立たぬ奴じゃ、
殿が
(自分が上意をうけて行ったなら)
と云わないばかりに、侍らしい顔をした。
勿論この後、棟方与右衛門は五十日の閉門になった。軽いほうだとみな云った。
「……初めて聞きました。お父様にそんな事があったんですか」
「おまえがまだ、十か十一頃の時の話じゃよ」
棟方与右衛門は、わが
大きな炉だった。ふつうの家の二倍もある。それに夜も昼も火を
どうっ――と、強い風圧がぶつかって来て、時折小屋の木材が
こうした
「可哀そうなのはおまえだ。母ももういないしなあ……娘ざかりをこんな山小屋に送らせ、冬は吹雪、夏は土仕事」
「お父様、もう仰っしゃらないで……。私などより、お父様こそ、山へ来てからずいぶんお
「やめよう。自分から望んでここへ移って来たのだ。若い娘も
「いいえ、お父様は、私を犠牲にしたと仰っしゃいますが、私にだって、今のお仕事は大きな張合いでございます。たとえ何年かかろうと、働いていれば、やはりお父様と同じように、大きな楽しみとなっておりますから」
「いやいや、男のわしでさえ、時には泣きたい思いもする。まして女のそなた、苦しいだろう。……山へ来てからもう四年だ、おまえも今年は二十五じゃろうが」
「ええ、いつの間にか」
「
「お父様、
「あるか」
「ございます」
「じゃあ少し
拡げると、畳二枚分もあるような大きな図面やら、小図面やら、
棟方与右衛門は、それへ見入りながら、
領土の面積からすれば、佐竹と南部の国境以北、津軽半島だけの広さでも
わずかに、居城のある
津軽貧乏見され
わしが貧乏はらくよ
水の苦もない
扶持減 らしもお座らない
隣藩の佐竹や南部で、こんな唄さえ唄われたほどだった。わしが貧乏はらくよ
水の苦もない
藩主が、粗服を着たり朝夕の食膳の菜を減らしたりして範を示してみせる事も、何の
家臣は皆、
けれど、一夏、岩木川の
反対に、士風も民風も、人間はますます悪くなるのである。人斬り沙汰、女沙汰、盗難沙汰、つまらない家中の
――そんな風潮の中で、棟方与右衛門は、長年笑われ者になって来たのである。
「あれは、福原
――米喰い虫の与右衛門とよばれながら与右衛門は何年も飯を噛む間はなおさら考えた。
(何か御奉公したい)
ある年、
家老の邸へ行って、与右衛門は悲壮な眉をして云った。
「どうぞ、これを殿へ
と、一通の
岩木川の
所要の延人員何千人、総費用いくら、完成の期日はおよそどのくらい――という数字も彼の計画も残らずそれに尽してあった。
だが、用いられる筈もない。
(能なしが無念がりを起して、
取次した家老さえが、そんな程度で、城内の笑い話にしていた。
だが、与右衛門の熱心は
彼の献策した計画では、余りに大き過ぎるというのである。――で、その計画を三分の一程度に縮小して、五所川原地方の一部の
「何があいつに」
「米喰い虫が、百姓の中に交じったら、百姓は嘆き
一人娘のお
五所川原の宿場から一里ほど南の山――御月山の中腹に、彼は、小屋を作って住んだ。
治水工事を督励する開墾役所は、そこの
「――広いなあ。この広い平地に、これだけ稲の種が
ここへ寝小屋を建てる時に、彼が一番に叫んだ言葉はそれだった。
だが、この高地からながめても、その広い
それからの彼は一人の下僕をつれ矢立と紙を持って、毎日、この
その人々は、口を
「それやあまあ、旦那様のお考えは結構じゃが、どんなに人間と金をつかったって、一反の田だって、出ける事じゃごわせんぞい。わしら、山つなみだの、洪水だのと、水に悩まされていることは先祖代々からのこって、その先祖たちも、どれほど今日までにゃあ力を
体験の多い老農ほどそう云うし、五所川原の代官などは、口を極めてその無謀を
「まあせっかく、殿にも御意がうごいたところ、今さら、御中止にもなれまいが、御病態を作って、藩のほうへも、
と、云った。
しかし、与右衛門は
同時に、あらかじめ藩庁の許可をうけてある令をもって、津軽平野を囲む一帯の村落百十余ヵ村へ対して、人税を課した。
人税というのは、一戸当り幾人という労力を、月割に
「飛んでもねえ事になって来たぞい」
「何じゃああの棟方与右衛門ちゅう奉行は、あんでもえ、
「
百姓たちは、俄然、不平を鳴らし出した。
それでも、一夏から秋までは、各村の庄屋や年寄の
だが、
冬は、仕事が出来ない地方である。予定の二ヵ年はとくに過ぎて、藩地のほうでも
(この御困窮の折から、あのような無能者を奉行にして、莫大な金子や物資をこう送ってどうするんだ!)
という意味である。
云う者もまた、切実なのだ。自分たちの口も減らされ、家族は生活を極端に切り詰められ、皆顔いろがわるい。そういう場合なのである。藩の金でも、自分たちの金を

――だが、殿の出羽守は、近頃になってよけいに、与右衛門の信念に引きずられている形であった。
老臣が、折を見て、
(御中止になられては)
と、家中の
(やらしておけ、今やめるも、なおすすませてみるも、藩の財政が困窮は同じことじゃ)
同じではない理由を云っても君侯の事だった、君言をもって、やらせておけというのでは老臣も
(あいつめ、案外ぬかりのない奴じゃ。絶えず、殿へ報告をよこしおる。この文書に、殿は惑わされてござるにちがいない)
五所川原開墾役所という
そうして、最初の二ヵ年計画は、工事の
当然、津軽家の経済は、骨と皮ばかりになってしまった。城下の大町人からは、借上げられるだけ借りてしまい、町人といわず百姓といわず、関所さえなければ、みなこの
藩では、江戸、京都、大坂あたりの商人からも、負債を求め、そして一半を急場に当て、一半は治水開墾事業のほうへ送った。
藩庁へ打合せのことがあって与右衛門が弘前の城下へ、出て来た折、与右衛門は、何者とも知れない武士から
(あいつを殺してしまうのも、藩の御困窮を開く一つの途だ)
と云って激する者が出始めていたのであった。
(おれは能なしだ、米喰い虫にちがいなかった、せめてこのくらいな事を仕遂げねば)
と、与右衛門は、自然の暴威にも、人間の迫害にも屈しなかった。
また、つくづく思うには、
(幕府の御制度の中にある藩地である。藩の制度の下にある経済である。お
それを痛切に彼は考える。
(打開と云っても、御制度の中での打開だ。津軽領以外へ何の策も施す途はない。自己の持つ土の上に打開を求めるほかないではないか。――また武士は、自己の為すことを、自己の分の中から、今こそ求め探して、奉公にさし出す時ではないか。――元和、寛永の武士道をそのまま習慣にして、刀にかけてものをいうだけが士道だと心得ている時機ではなかろうが)
結論において、彼はこう極めている。
(世の中は、生きてゆく。
それから彼は覚悟を極めた。
(鬼になれ。――鬼になってやらねば出来ない!)
お珠が見ても、父の人相がこの頃変って来たと思う。土や水と闘うので、気はあらく
仕事場に出る時の身支度を見ても、
もうやがて五十に近い体を、山支度に厳しく固め、手には寒竹の
「こやつッ!」
耳まで裂いたような口を見せて、大喝の下に
ある時は、夏の泥土や草いきれの中で、怪我をした百姓や、
一刻も、ただぼんやりしている事などはない。自分も土を担ぐ、石を運ぶ。
お珠ですら、ここへ来て、百姓たちと交じって働いている程だった。
「――お珠さん、少し休んだがいい。わしが
十川村の郷士の息子だという安太郎が、いつも彼女を
湯沸し場仕事もたいへんだった。もっともここ一ヵ所ではないが、ここへだけでも三百人ぐらいな者が、昼飯時には殺到してくる。炎天の下で、薪を割り、土竈に火を
初めは川水を飲んで仕事していたが、鉱毒にあたって、何十人か一度に
――この水はのむな
という高札を立ててある川と、
――この水はのめる
という立札の立っている川とがあった。それは勿論、与右衛門の字だった。
半島の東西の山岳地帯から集落して、この平野を縦走してる川は主な川だけでも十幾つかあった。それが各

だが、屈しない彼の頭脳は、こういう事に気づいた。
(おれは今日まで、断崖には石をたたみ、平地には
彼は、今までの基礎を捨て、根本から工事方針をそれから建て直してかかった。
その間にも、百何十ヵ村の不平と非難は、彼の一身に集まって、幾たびか、暴動が起りかけ、幾度か、ふくろ叩きに会いかけたり、河の中へ故意に突き落されたり、さまざまな迫害はあったが、工事の大変更に、百姓たちの抑えていた憤りはまた火を呼んで爆発した。
「おら達がこうやって働くのを、あの奉行めは、遊び事だと思っているのだぞ」
「何年間も、銭一文もはらわねえで、牛や馬よりこッぴでえ使い方しさらして、それをまたうッちゃって、他のほうへかかるたあ何事だ」
「もう、仕事に出るな、死んでも出るな」
「いッそ、ぶっ殺せ」
「そうだ、ぶっ殺せ、あいつを」
険悪な晩が、幾晩もつづいた。夜になると、御月山の小屋に坐っていてもそれがわかる。遠い
その早鐘は、お珠の胸をさわがして、眠らせなかった。
「――お珠さん、お珠さん……。もうお寝みかい、安太郎だよ。心配になるからやって来たんだが、ちょっと顔をかしてくれないか」
小屋の窓の戸をコツコツ叩きながら、
大きな月が半島の山の骨をあざやかに見せていた。
津軽
「……だめかい? だめかい? ……お珠さん。どうしても、お父っさんにこの
「白骨にならないうちは止めそうもありません」
「――ああ困ったなあ」
「安太郎さんっ……」
お珠は突然、握りあっていた手を解いて、より強い力でしがみついた。
「後生ですっ。……これから方々の村々へあなたが廻状して、もいちど、みんなを
「ところが、その父が、与右衛門殿のする事を、頭から悪く云っているんだよ。この下の開墾役所に
「……でも! 安太郎さん、あなたのお力で、
青じろい月の下に、白い
「よしっ、やってみるよ! ……泣かないでもいいよ。これから夜明けにかけて、廻状をまわし、何とか父も説き伏せてみる。……そのかわりお珠さん、おれの気持も忘れずにいてくれるだろうな」
「ありがとうございます。安太郎さん、この御恩忘れはいたしません」
「だけど、結局、この事業は物にはならないぜ。……。もう手も足も出ない所まで行けば、与右衛門殿は元よりの事、わし達の運命もどうなるか」
「そういう
「わしは、だからこの恋には、
「どうしよう! ……す、すみません、安太郎さん」
七沢、砂沢、
掘った土は、低地の
豪雨が出ても、その附近だけは、もう水は
与右衛門は思わず、
「――見えたっ。先が見えたっ」
と、
予定の五年目の春頃には、その大溜池が、何ヵ所となく竣工した。そこの竣工はまた、堤防工事、護岸工事、すべての仕事のほうに基調を与えて、彼はふたたび藩侯へ、延期の願いを出す必要がなくなった。
支流的な川すじの工事はほぼ終ったので、彼はこの夏、最後の仕上げ仕事としている岩木川の上流の主脈に、全力をかけていた。毎日の人税徴発は、百十余ヵ村から二千名近くの人員が狩り出されていた。
この平野を吹く風が汗くさく思えるほど、泥と汗にまみれた百姓が、上流の渓流を、平地へ出さずに、それを
「もうひと息だぞ! この秋までだ!」
寒竹の
その鞭で、皮膚をやぶられた百姓は、何十人か何百人かわからないほど今日までにはあったのである。
あまり与右衛門が
それを炎天の下で聞いた時も与右衛門は一言、
「そうか」
と云ったきりだった。
そしてすぐ、小頭を呼びつけ、
「死体を掘り出したら、死体はひとまず、日蔭の草の上にでも並べておけ。始末は晩のことでいい。――やむを得ない! ここは戦場だ。
こんな犠牲者も、今年ばかりあったのではなく、無数にあったといっていい。それに対しての与右衛門の態度も、この頃は極めて冷淡になってきた。
「
「鬼め」
石をたたみ、
汗の下に咲いた
湯沸し場に、人立ちがしていた。
「何だ、何があったんだ――」
近くの者が、わらわらとそこへ駈けてゆく。
案のじょう、また、与右衛門の鞭で打ちすえられている者があったのだ。けれど、今日は百姓ではなかった。彼の子であるお珠だった。
「――かにして下さい、悪うございましたっ。お父様っ」
「父とは何だッ、工事場では、
と云いながら、またも打つのだった。
鬼のような顔の父へ、手を合せてわびていたのに、その手を鞭で撲られて、彼女の指から血が走った。
――ひいっ! と泣き伏すと、
「心にこたえて置けよ! おのれっ、おのれっ」
背を打つ。かよわい腕の根へ打ち下ろす。
見るまに、彼女の皮膚は
すると、その後に、もう一人
「あんまりだッ。いくら親でも!」
と、与右衛門へ組みついて来た。
与右衛門は、一気に振り払って、
「そちもだッ」
と、鞭に
「わっ」
と、若者は顔をかかえてよろめいた。安太郎なのである。
「――な、撲ったな、畜生っ」
「まだ足らん、それへ直れ」
「わ、わしを、
「郷士が何じゃ、この与右衛門の眼からは郷士であろうと、子であろうと、何者でも皆、一日いくらの土が担げるかと思う、一箇の人足に過ぎないのだ。たとえ、御領主様がここへお
「お珠さんが、可哀そうだと思えばこそ、おれは自分の父も説いたり、こうして働きに来てもいるんだ。……て、てめえのような奴の為なら」
すると与右衛門は、かつて、いくら怒ってもこれ程な
「わしの為に? ……。ばッ、馬鹿者っ」
と、呶鳴りつけた。
「わしは君侯と領民のあいだに在って、自分のする事の為にしているだけだ。津軽家の為とも考えていない。百姓達の為ともべつに考えていない。――しかしわし自身の為にでない事だけは天地に云い得るのだ」
「なななに云ってやがるんでッ。……てめえは今さら、夜逃げもできず、藩へも帰れねえからやっているのだ。こうやって、不平を云いながらも、百姓達が働いて来たのは、
「だまれっ、わしはこの事業だけには、三軍を
「オオ、誰が来てやるっ」
と捨てぜりふを投げて、安太郎は走りかけたが、赤く
「おれは来ねえが、そのうちに、二百十日が
安太郎の見えない日から、工事場の人数が目立って減った。
「十川村とその近村の者は、一人も来ねえが?」
と、来ている者にも、動揺があらわれた。
秘密裡に廻状がまわってゆくらしく、日ごとに人員は減るばかりだった。夜になれば、空は赤く村々を焦がした。
当然――これに対して五所川原代官所が、与右衛門の役所と協力して、処置にあたるのがほんとだが、その代官は、大溜池の
「安太郎の
父がそう
しかし――一人になってもおれはこの冬までに最後の工事を仕遂げると与右衛門は云うのだった。
ひと頃の十分の一にも人手は減ったが、ふしぎな事には、その
「無智な百姓どものうちにも、やはり少しは、自分の懸命さを分ってくれる者もあるとみえる……」
彼はそこへ、感謝を云いに行った。みんな仕事が終って、星の落ちている暗い川べりで手足の泥を洗っていた。
「――おや?」
その中に一人、
「あっ? ……おうっ……主水殿……どうしてここへ来ているのか」
「とうとう、気づかれたな」
福原主水は、笑って云うのだった。
「去年も来ていた……今年もまた来た……だが貴公がこの事業を成し遂げるまでは、名乗り合いたくなかった」
「じゃあ、わしの
「それくらいなことはせずば……」と、しばらく黙って、自分の
「こういう物を着ている身だ。ここで働くのも修行になるしなあ」
「かたじけない」
「棟方殿、弱気を出すなよ」
「とにかく、小屋へおいで下さい」
「行くまい。この津軽平野に、青田の風が吹くようになったら行こう。……もいちど云っておくぞ、弱気を出すな。……碇ヶ関で、わしを逃がしてくれたなどは、弱気というものだ。助けられたわしも至らない人間だったが、おぬしとしても、あれはやはり賞められない事だと思う。弱気を出されるなよ」
切れ
与右衛門は見送って、
「そうか……あの主水が働きながら傍の百姓達に、説教していてくれたのだな、それで、今残っている人数だけは、黙々と仕事に就いていてくれるのだ。……主水、ありがたい」
涙をうかべながら、彼は、そこにまだ相手がいるように頭を下げた。
ひどい
小屋の屋根の石も飛びそうに思える。
「棟方っ、棟方どのっ、すぐ来いッ大変だ」
青田を見ないうちは来ないと云った福原主水の声なのだ。破れるように戸を叩く。
与右衛門も、お珠も、土砂降りの雨を衝いて、
この
「ウウム……」
手の下しようもないのである。泣きたいような
「これくらいな事はあっていい。何事にも、も一歩という手前にはやってくる奴だ。よしっ――」
発狂したのではないかとお珠は父の動作にびっくりした。与右衛門は
福原主水も、その
「どうするのだ、この暴風雨の中で」
「これを見ては、休んでいるわけにはゆかぬ。たとえ石の一つでも、今からやればそれだけ違う」
「ウム、わしも行って来る」
福原主水も、開墾役所の馬をひっぱり出して、暴風雨の中を、それへ乗ってどこかへ飛ばして行った。
狩り出されて来た百人程の者が、協力して、第二の山崩れを防いだ。大溜池の
僧衣の人足と、鞭を持った奉行との必死は、翌日の仕事からまるで血みどろになった。二人の意念は、この大事業の完成が近づくと共に白熱化して、まったく土と汗とに同化してしまった鬼そのものに見えてきた。
御月山の小屋の窓から眺めてみるがいい。今――そこには何もかも忘れて
お珠と与右衛門の
五月の晴れ澄んだ空よりも、地はもっともっと青いではないか。五所川原の宿場などは、青田の中に浮いているようなものだ。遥か、向う側になる山岳の
「田植が済んだなあ」
「あしたは、百十ヵ村で、お祭りするんだと云っています。そのお祭りをするために、気を
「ほう……そうか」
「うれしいでしょう……お父様」
「お珠……おればかりが欣しそうだな」
お珠はドキッとして慌てて、
「そ、そんな事あるもんですか。……私は何も考えてやしません」
「じゃあ、云わして貰おうか。欣しいぞお珠、おれは欣しくて、じっとしていられない気がするんじゃ。アア早く明日になれ、百十ヵ村で吹きたたく笛太鼓をおれは聞きたい」
「お父様の力で、今までの
「わしの力。……そうでない、やっぱりみんなの力だ。ただそれに鞭を打つ鬼があっただけだよ」
「もう、鬼なんて、一人だって云ってる人はありません。百十ヵ村の救いの神様だと云ったりして、明日は、この山へ笛や太鼓を担いで来て、お父様をみんなが慰めるんだと云っておりました」
「そうだ、お珠。……百姓達はまだ、あの田から、まだこの秋にならなければ、ほんとの米を
「えっ、藩のお金ですか」
「殿様へ申しわけは、わしが立派にする。恐らく殿様も、お
「じゃあ、行って来ます。……いいんですか、ほんとに」
「ウム! 今から五所川原まで行けば、夜になる、買物も
「ことによると、そうなるかも分りませんが、明日の朝は、買物を馬に着けて戻って参ります」
小屋を出て行ったと思うと、お珠は、また駈け戻って来て、
「お父様、福原主水様がいらっしゃいました」
と告げた。――その後にすぐ、新しい草鞋をはいた主水の
「おわかれに来た。――棟方殿、お欣びはこの間云ったから、今日は、御健在を祈って去る」
「ええ旅へか。――まあ上がらんか」
「交友は水の如く淡々たるをよしとする――と誰やら云った。そのうちにまた、この地方へ来たら寄ろう」
「急だなあ」
「ちっとも急な事はないが、これは、坊主の本来の
窓の外で、立話をしたきりで、主水は
――翌る朝は、夜の明けないうちから、
五頭の荷駄に十樽の酒をつけ、一頭の馬には肴を負わせ、他にも町の者や百姓達が、手車に何やら積んだり担いだりして、五所川原から朝風の中を急いで来るのがやがて見える――
祭り
「お珠さんを乗せてゆけ、与右衛門様のお嬢様をここからお祭りしてゆけ」
群衆は、
麓の役所には、ほかの村々からも、もう何百人もの人々が集まっていて、
「わしら与右衛門様の前へ、何と云って出る
口々に同じ事を云っていた。
馬の背のお珠を迎えると、彼等は、
「お嬢様あっ……与右衛門様のお嬢様あ……」
ただそれだけの事しか云えなかったが、手を振り足を踊らせて歓呼した。
「与右衛門様が、酒下さった、さあ飲めや。おゆるしを待たいでも、与右衛門様はおら達の親じゃ、親の酒じゃ、いただいて
狂喜の人々の上に、
「――変だぞ、お嬢さあん! 早く
上の方で、突然誰か叫んだ。見ると、道化面をかぶって先に登って行った者が、それを抛り捨てて、
「小屋の戸が閉まっているままでねえか。――今頃まで、与右衛門様にないこっちゃ」
誰よりも早かったのは、お珠の転ぶように駈けてゆく姿だった。それに続いて、群衆の中からも幾人か蹴つまずきながら飛んで行った。
慌ただしく戸を外された小屋の中へ、きょうも澄みきった空の光と青田一万石を越えてくる風がさっと入った。
「――あれっ、お父さまっ! ……お、おとう様あッ」
お珠は、父の体にしがみついて、声かぎりの泣き声を投げつけた。
棟方与右衛門は、一室の中央に、何もかも覚悟の上らしく、整然と片づけた中に腹を切って
――彼はかすかに顔を揺るがした。苦しげな息とも聞えないがもう弱々しかった。
「……お珠、た、たれか。百姓衆のうち、主立った者に、そこまで、来てもらってくれ」
「来ております。……お父様、縁先にも……うしろにも、村々の
「そうか。……

弱い息づかいが炎のように
「人をさんざん鞭打ったわしは、最後に、その鞭を自分へ打つ日が来た。……当りまえなことだ。……済まなかったのうみんな、わしは泣きながらおまえ達の子や親を鞭で打って来たが、謝るぞ……謝るぞ……わしの為にしたのじゃない、勘弁してくれい」
それで、彼の気持は尽したらしかったが、まだ、微かに何か
「お珠……お珠……」と、二度云った。
彼女が、やっと答えると、その遺書を手に握らせて、
「これを持って、おまえは、安太郎殿のところへ使いにゆけ。……ここにいる村々の年寄に連れて行ってもらうがいい……。よいか、おまえには、ただ、こ、これだ……」
血しおの手から、その遺書をポロリと落して、わが娘へ
遺書の宛名は、十川安太郎父子殿――
お殊と安太郎の婚礼の式は、与右衛門の喪中であるに拘らず、その秋、新田一万石の