年譜

吉川英治




明治二十五年

(1892)

八月十一日。神奈川県久良岐郡中村根岸に生る。次男。父直広は小田原藩の下士。早くに横浜へ出、開港企業家の一旗組に伍すも、性その質でなく、南太田新田の牧場と酪業経営に失敗し、一時、県庁書記、酒税官など勤めたが続かず、当時、根岸競馬場附近に住み、内外人の幼児を集めて、母と共に、寺小屋式幼稚園みたいなことをしていた。
母の出身は、千葉県佐倉で、同地の旧藩士で臼井町長をしていた山上弁三郎の四女。娘時代は、親戚先の芝新銭座の攻玉舎近藤真琴氏に預けられて、勉学教養など、同家で送った。

明治二十九年

(1896) 四歳

父、横浜桟橋合資会社の起業に一両年奔命、家も山手町横浜植木商会の園内に移転。この年、母に伴われて祖父山上家に遊び、帰途新橋駅で母が切符を求めるを待つ間に、土産物合財袋などをみな盗られ、巡査や人だかりの中で大いに泣く。

明治三十年

(1897) 五歳

巌谷小波の「世界お伽ばなし」などそろそろ見初める。母が灯下に針仕事しながら読書話しをする感化をうく。この年の夏、自分に母ちがいの兄があったのを初めて知る。学帽白ガスリの青年が突然訪ねて、父、会社より急に帰宅、父子ハンケチで眼を拭う状を童心につよく印象づけられた。異母兄政広は、小田原の藩医綾部家に養子入籍されていたもの。医学希望で実父を頼り来るも、父にさとされて帰る。

明治三十一年

(1898) 六歳

横浜市千歳町山内尋常高等小学校に入学。四季、植木商会の花園を抜けて約半里を通学する。園丁の子、市チャンと仲よしになる。市チャンと共に、南京墓や相沢の貧民窟「いろは長屋」までをよく飛びあるく。後年の作「かんかん虫は唄う」のうちにある描写はその頃の印象に依る。

明治三十二年

(1899) 七歳

小学校終課後も、教室に残って、特別に英語の個人教授をうく。週二回、帰宅後も宵よりまた家の近所の岡鴻東氏の「岡塾」に通い、漢学を習ぶ。中学漢林、詩経、十八史略などこの年より九歳までつづく。
家庭、山手通り遊行坂上に移る。日曜学校にも通う。附近外人住宅、宣教師、洋妾の家など多く、自然外人の友達多し。名騎手神崎の厩舎も近く、当年の東都の名士名妓などつねに出入し、騎手神崎の出入を仰いで、幼な心に将来は騎手にならむかなどと思った。

明治三十四年

(1901) 九歳

家、南太田清水町一番地へ移転。
家運続いて隆昌を極めるも、父の大酒と豪遊の風もやまず、子等は父の姿を忘れ、父の姿を見る日は、その愛妓茶屋の女将までを家庭に見た。また母の泣く姿をたびたび見初めた。異母兄政広も、この頃、一つに起居し、父が医科入学に反対のため、横浜左右田銀行に勤務。つねに義母に同情し、義母を力づけていた。性格がやさしいだけでなく美青年だったのでよく近所の娘に恋されていた。混血児のオテイちゃんなどその一人であったように少年の眼には映った。

明治三十五年

(1902) 十歳

投書熱たかまる。学友たちと、謄写刷りの「詩文」を出して配り、会を新月会とする。大町桂月がわけも分らず崇拝だったために依る。時事新報社の雑誌「少年」に作文が当選。以来、中学文林、ハガキ文学、秀才文壇、博文館の諸雑誌などに、やたらに投稿する。
小学校の女生徒校門のそばに、学校小使の某が副業に貸本屋をしていた。そこで読めば読み代一冊一銭、毎日学校の帰りには裏門へ廻って一冊ずつ読んで帰り、ほとんど貸本屋の棚を読みつくす。大阪講談本の自転車お玉、天下茶屋、また涙香物などのおもしろさをおよそ知る。この頃、「帝国文庫」に読みつく。五女末子、産後死亡。異母兄政広、相場師某の娘と恋愛に落ち、結婚式をあげる。父、前年来、横浜桟橋合資会社の名義人と訴訟に入り判決敗訴。更に、控訴院へ上訴をつづける。

明治三十六年

(1903) 十一歳

異母兄政広、父と争いて出奔。以来数十年後まで、その消息を絶つ。
父、敗訴、身を退き、家運、急に没落。父の大酒いよいよ募り、数度血を吐く。幼児六名をかかえ、酒狂の人を良人とする世馴れぬ母の苦労はこの日から始まる。家財を売るに、いつも真夜半に道具屋の車を裏につけさせ、一室いくらと、一室中の物すべてをくるんだ一部屋ずつで売って行った為、当時横浜の古物屋仲間の評判になる。
十月、突然小学校の昼休みに帰宅のまま、父より学校を退がれといわれ、大声で泣き出す。数日の後、オテイちゃんの親類先の関内住吉町の川村印刻店へ蒲団持ちで小僧にやられる。川村氏は竹雨と号し、其角堂派の金港俳壇の宗匠で篆刻家でもあった。行く早々、俳人たちが店頭で俳句ばなしをするのを耳にし、やっと悲しさを忘れ、ツゲ材の稽古印に、印刀の持ち方など習う。

明治三十八年

(1905) 十三歳

家、西戸部蓮池の小住居に変る。引っ越し先のわが家を訪ね、変り方におどろく。主人竹雨と俳友の客二氏が、雨の夜、雨の題で一文を書けという。書いてみせたところ、翌朝、手紙を添えて暇を出された。その数日前、奥で主人の御内儀が、髪結いに髪を上げさせていたのを、余り長い顔が長くなるおかしさに、店頭からスケッチしていた事が主人の耳に入っていたものと、あとで分った。以後、家に居て、貧乏を母と共になめ初める。南仲通り南仲舎の少年活版工になる。新聞広告を見てのこと。
家、追い立てられ、また引っ越す。南仲舎をやめ、知人の世話で、横浜税務監督局の給仕を拝命、初給七円の辞令。
「芭蕉句抄」を露店で買い、頻りに暗誦また句作をおもう。この句抄、以後、数年身を放たず。

明治三十九年

(1906) 十四歳

父、再起の緒につき、横浜尾上町教会前に店舗をもち、新聞広告取次店「日進堂」の営業をうけ継ぐ。かたわら化粧品「美容水」の製販をも営む。四方借財のやりくり経営なので、つねに借金取に賑わう。
高嶋米峰氏主宰の学生文壇二号に、初めて、小説を投稿したその「浮寝鳥」当選。商業学校夜間中学に通学。昼は帳場机で店番。貿易新報の俳壇に折々入選。寿町の松浦為王氏の俳句会へ初めて出席。大人ばかりなので以後は行かなかった。尾上町附近は、関内芸妓の巣、自然、狭斜の情調に少年の未知が衝かれる。頻りに恋の如きものを抱く。

明治四十年

(1907) 十五歳

絵画への興味が高まる。店の筋向いの実業家脇沢金次郎老に励まされ、帳場机にて絵ばかり書いて暮す。夜間中学の簿記、算術など苦痛にて、夜は伊勢佐木町のみ歩く。愚連隊には入らなかったが、不良的傾向顕著。
父、再度没落。閉店。
また戸部の裏長屋に引っ込む。同時に父の病体悪化し、以後長年、殆ど病臥の人となる。四男、晋生る。
年の暮、日出町の海軍御用雑貨商続木商店に、少店員となって住み込み、給金半年分を前借して母に渡す。

明治四十一年

(1908) 十六歳

正月早々、横須賀支店へ移される。多くの仕事は碇泊中の艦艇の酒保に、酒類、缶詰、雑貨などの納入運びにある。いつも埠頭まで満載の荷車を曳く。軍艦新高のタラップの中途よりサイダー箱を担いで登り損ね、海中に墜落したことなどある。
母に渡した半年分の前借給金のうちより買った物なりと、家より古本の俳句雑誌およそ二、三百冊を行李に詰めて送ってよこした。狂喜に似た感動をうけた。夜毎、せんべい蒲団へ二、三冊持ちこんで寝た。
母より便りのたび貧乏いよいよ、どん底の様子。母も病床の父も、手内職で細々ではあるが、長女も工場働き、次女は伊勢佐木町のしる粉屋のお茶汲みに住み込んだとのこと。いよいよ一家離散。時々海岸へ出ては横浜の方を眺める。たまらなく帰りたい。横須賀新聞の俳壇の秋季俳句大会に入選表彰される。
十一月、退店。横浜の家に帰る。どんな苦労してもやっぱり家がいいと思う。長屋の留さんという日雇い労働者に働き口をたのむ。留さんにつれられ、保土ヶ谷の科学工場の建築場へ土工の手伝いに通い出す。初めてゆく日、留さんが草鞋の穿き方を教えてくれた。

明治四十二年

(1909) 十七歳

窮乏のどん底つづく。一家食せざる日あり。三月、横浜ドック会社の船具工に年齢を偽って入社、日給四十二銭を受く。五月、三女浜子死亡。
病床の父、臥床中、周易研究に凝り初め、やがて売卜の看板を出すも殆ど客稀れ。又、父の旧知医家某氏の援助にて、些か家計の策を立て直し、この年、鉄ノ橋際吉田町二丁目に移転。病状、漸く小康、医家の出張診療所と父の易断所とを兼ね、いささか朝夕の家計も楽になる。初めて電灯のある住宅に住む。

明治四十三年

(1910) 十八歳

頻りに文学書を漁り読む。古典に離れ、この頃、翻訳物に熱中する。横浜短詩社、句会などにも折々出席、磯萍水、安斎一安、高沢初風氏らの横浜文壇なるもの大いに盛り、与謝野寛、晶子氏などの歌壇も交じえて浜港の青春子女に文化志向の夢高まる。
十一月、第一ドックの入渠中船腹の足場にて、作業中足場板もろともドックの底に陥つ。人事不省となり、横浜十全病院のベッドにて意識つく。
一ヵ月余入院、歩行可能となり、十二月退院帰宅。同月二十五日頃、父母に上京の志望を告げ、苦学を思いて、東京へ出る。懐中一円七、八十銭を持つ。
本所相生町のキリスト教青年会の職業紹介所の世話にて菊川町のラセン釘工場の工員宿舎に入る。室夜具代引き日給二十八銭。初めて東京にて越年。

明治四十四年

(1911) 十九歳

青山南町の伯父なる学習院教授斎藤恒太郎氏を頼りて、かえって説諭をうく。寄宿、附近の手提金庫製作所に替わる。同工場主の厚意にて、蔵前工芸夜学校の図案科に通学約半年、同工場塗工部の吉田氏のすすめにて会津蒔絵家の塚原氏の徒弟になる。浅草三筋町裏の三軒長屋の一軒なり。師弟二人きりの男世帯。米とぎ、水汲み、何でも学ぶも、塚原氏外泊多く、深更の勉学によく読書加わる。

明治四十五年・大正元年

(1912) 二十歳

休日、句会などへも出初める。井上剣花坊、近藤京魚、伊上凡骨、川上三太郎氏らと相知る。「新川柳」発行にあたり柳樽寺同人となる。雉子郎と号す。横浜より一家あげて上京。本所緑町のガード下に一軒借りて住まわせる。母方の母の姉なる人に、千束町附近にて銘酒屋を営む者、母の窮乏に好餌をしめし、次女カエを、信州須坂の和泉館へ養女として売る。病父、年毎に容体老ゆ。一家また番場町へ二階借して移り、母、吉原の某楼へ毎日お針さんに通う。
徴兵検査をうく。「丙種」
七月諒闇、改元。

大正二年

(1913) 二十一歳

塚原氏より暇を乞うて、自立。日本橋林善兵衛氏の貿易部より些かの仕事を得、やっと自立、下谷西町の髪結さんの二階三畳間を間借してランプの下に仕事す。隣室になお同居人の夫婦ありて、かなりの落語家なり。当時の円喬なりしや、しん生なりしか不明。折々、句友、悪友、交※(二の字点、1-2-22)ここの三畳に集まり、十二階下歩き吉原散歩など覚え、漸く遅き青春と遊蕩の気生ず。

大正三年

(1914) 二十二歳

一月「文芸の三越」に川柳一等当選。
生計の見込みたち、浅草栄久町新堀端に一戸を借家す。出京以来、父母弟妹初めて一つになる。小説「江の島物語」講談倶楽部に当選。折々、自製の輸出工芸品を携え、旧縁をたどって横浜居留地の商館へ売込みにゆく。日仏商会に勤務の詩人大藤治郎と知り、詩交をあたたむ。

大正五年

(1916) 二十四歳

日本橋区浜町三丁目に移転。「川柳隅田川考」脱稿。家弟素亮、画家浜田如洗氏に師事、また輸出品の象嵌絵を共にかく。

大正七年

(1918) 二十六歳

博文館退社の松田君と文芸雑誌「しがらみ」を起し、四号にて廃刊。金主は森ヶ崎の料亭大金。
三月十五日、父直広死去。末弟晋、興文社に勤め、後、逓信省通信学校に入る。

大正八年

(1919) 二十七歳

向島寺島へ転居。
輸出向き不況。松宮春一郎、水野葉舟氏らの世界文庫刊行会へ、筆耕仕事に通う。
翌年秋、満州に遊び、大連にて越冬。安ホテルに籠って応募原稿など書く。

大正十年

(1921) 二十九歳

母急病の報をうけて、二月急遽帰国。
六月二十九日母いく死去。
先に応募せる原稿、講談社諸雑誌に発表され、時代小説「縄帯平八」、ユーモア小説「馬に狐を乗せ物語」、童話「でこぼこ花瓶」など当選。計七百余円の賞金を贈られ亡母の葬費となる。
七月、山崎帝国堂の広告文案係募集の広告を見、試験に応じ、採用さる。
同年十二月退社。

大正十一年

(1922) 三十歳

東京毎夕新聞営業局長の矢野錦浪氏に推され、同社家庭部に勤務。後、学芸部を併せてデスクを持つ。編輯局長は徳光衣城氏。その前後、同社に籍をおいていた者には渋川玄耳、椋鳩十、岡鬼太郎、三上於菟吉、尾崎士郎、井上唖々、楠田敏郎、川上三太郎氏などがあった。
週毎の「日曜附録」に毎号童話を書き十数篇にのぼる。初めての取材訪問に有島武郎を訪い、その談話筆記の稚拙に笑われる。また本紙上に「新女人国記」を書いて些か読まれ、その取材歩きに、今井邦子、埴原久和代、奥むめお、山根千代子、小寺菊子、白鳩銀子、長谷川時雨、二代目ぽん太、伊藤野枝、岩野泡鳴夫人、原信子、久野ひさ子などの女流を訪う。家、本郷千駄木町の妹カエの二階へ移る。毎夕紙上に「親鸞記」を社命にて連載執筆、自分にとり初めての新聞小説となる。

大正十二年

(1923) 三十一歳

処女作「親鸞」毎夕出版部にて単行本となる。
九月、関東大震災。社屋焼失。
新聞休刊、社業再起の見こみたたず、全社員一応解散ときまる。焦土の生計として上野の山に葭簀を持ち牛飯を売る。夜々、焦土流離の人々と樹下に眠り、あらゆる境遇と人間の心に会う。――この事より卒然と文学の業の意義深きを感じ、身辺すべての物を売って、十月中、北信濃の角間温泉へ籠る。読書、越冬、所持金尽く。

大正十三年

(1924) 三十二歳

朝山李四、その他の匿名を用い、短篇数篇を信州より講談社へ送る。面白倶楽部に長篇「剣魔侠菩薩」が掲載され、以後、他誌からも依頼される。
原稿生活の自信ややつく。杉並区馬橋に借家。従前より下谷の狭斜にて馴じみいたる赤沢やす子と同棲。隣家に井上剣花坊氏も市中より移り来て住む。朝夕往来、同氏を介して、文筆家の誰彼と知る。

大正十四年

(1925) 三十三歳

キング創刊号より連載の「剣難女難」執筆。はじめて筆名吉川英治とする。面白倶楽部に長篇「坂東侠客陣」。ほかに少年倶楽部へ「神州天馬侠」を連載。

大正十五年・昭和元年

(1926) 三十四歳

大阪毎日新聞に「鳴門秘帖」執筆。千葉亀雄氏、阿部真之助等と知る。

昭和二年

(1927) 三十五歳

週刊朝日に「蜘蛛売紅太郎」「邯鄲片手双紙」等の作品を次々に書く。以後、週刊朝日特別号に中篇物を発表すること定例のようになる。報知の野村胡堂氏の来訪を受く。報知紙上に、「江戸三国志」を書く。

昭和三年

(1928) 三十六歳

「醤油仏」改造。平凡社刊「大衆文学全集」大いに売れ、寒屋に巨額の印税一時に入る。そのため家庭内にかえって不幸な兆あるを見、勉強の邪魔なりとして、建築家浜田氏に托し、上落合の新居に全部を費消す。また、読売新聞社営業局長矢野氏の仲だちにて、某実業家の女中に生ませたる一女を、帝大産科の室よりただちに養女に貰いうく。園子と名づける。

昭和四年

(1929) 三十七歳

上落合の新居に移る。
「恋ぐるま」冨士。「八寒道中」を講談倶楽部に。「貝殻一平」を大阪朝日に書く。

昭和五年

(1930) 三十八歳

「江戸城心中」を新愛知、河北、北海タイムスに起稿、翌年にわたる。
徹夜仕事、飲み歩きなど、不摂生つづく。家事また顧みず、内事複雑、この頃、恐妻家の名をはくす。一夜、万年筆を袂に、ふらふらと女中の下駄をはいたまま家庭を出奔、以後、遠隔の温泉地を転々として家妻の眼を避く。オール読物のため旅先にて短篇「梅※(「風にょう+思」、第4水準2-92-36)の杖」など書いては送る。多くは上林、上山田温泉にとどまる。四谷の一妓、おなじく東京を出奔して尋ねて来、ずるずるべったりに一しょに居る。上山田警察の刑事が来て、両名、つぶさなる取調べを受く。

昭和六年

(1931) 三十九歳

帰京。暫く山形ホテルの一室を借りる。四谷の妓とはここ迄で清算。矢野氏を煩わし、家は芝公園に移る。一年目で帰宅。「檜山兄弟」東京日日・大阪毎日。
少年世界へ「魔海の音楽師」等がある。十二月。突然、少年時に失踪したきり消息不明なりし異母兄政広、三十年ぶりで来訪。茫然相見るのみにて往時の語もなし。漸く卓に向い一酌して、父母すでに亡きを告ぐ。異母兄は中年の事業に成功し各地方に支店をもち妾宅を構えたるなどの全盛時代を得々として語り出づ。幼少の記憶にある異母兄なるやいなやを疑う。

昭和七年

(1932) 四十歳

「隠密七生記」朝日。「風神門」少年世界。「野槌の百」週刊朝日・夏季。「紅騎兵」読売新聞。「燃える富士」日の出。「函館病院」中央公論。「無宿人国記」中央公論増刊。
「お千代傘」婦人公論。「田崎草雲とその子」文芸春秋涼風読本。
大衆文学研究誌「衆文」を出す。約一年余にて廃刊。

昭和八年

(1933) 四十一歳

「筑後川」オール読物・新年号。「雲霧閻魔帳」週刊朝日・新春号。「あるぷす大将」日の出。

昭和九年

(1934) 四十二歳

「胡蝶陣」少女の友。「修羅時鳥」日の出。「松のや露八」サンデー毎日などを連載。
雑誌「青年太陽」発行所をおく。倉田百三、白鳥省吾氏等と、地方文化に関心をよせ、各地に遊び、農村青年と語り、講演会などひらく。

昭和十年

(1935) 四十三歳

「みじか夜峠」週刊朝日。「御鷹」オール読物。「新編忠臣蔵」日の出。「青空士官」婦人公論。「めくら笛」放送用台本としての書き卸しを小野賢一郎氏と企画、初めて試作。
「親鸞」名古屋・福日・北海タイムスなど五社に同時掲載。
「宮本武蔵」を東京・大阪朝日へ、八月より起稿。家居赤坂表町三へ移転。
現在の妻池戸文子と知る。
青年太陽廃刊。始末に所持の書画古陶を美術倶楽部にて売る。

昭和十一年

(1936) 四十四歳

「牡丹焚火」週刊朝日・増刊。「無明有明」婦人倶楽部。その他。

昭和十二年

(1937) 四十五歳

一月「宮本武蔵」資料取材旅行に発つ。
「天兵童子」少年倶楽部。「鬼」オール読物。「春雨郵便」冨士。「旗岡巡査」週刊朝日。「悲願の旗」サンデー毎日。
日支事変起る。
七月、毎日新聞社特派員として、天津、北京に行く約をひきうける。出発、即日の急なり。
それより前に、家庭争議継続中にて、前夜来、妻及び縁類の者、膝づめにて離婚条件を提出、早朝、羽田より空路出発を前にして一睡だに眠らず。面倒事、一切先方まかせとして立つ。
「天津だより」「北京から」等、ルポルタージュを托送、一ヵ月余にて帰国、旅中離婚成立の報を受く。
「迷彩列車」を毎日紙上に寄せる。同年末、妻文子と同棲。

昭和十三年

(1938) 四十六歳

「宮本武蔵」新年紙上より再掲載さる。
一月、宮島に遊ぶ。
「合戦小屋炉話」オール読物。「松風みやげ」婦人倶楽部。
菊池寛、佐藤春夫、小島政二郎氏ら十数名と共に南京、漢口方面に従軍、十月上海にて、長男誕生の電報をうける。帰国途中の大洋丸船中にて、菊池氏、選名して、英明とつけてくれる。弟晋、文芸春秋社に入る。随筆「窓辺雑草」刊。

昭和十四年

(1939) 四十七歳

「新書太閤記」読売新聞。「三国志」起稿、土曜会各紙へ載る。七月十日、掲載満四年の「宮本武蔵」全稿完了。史蹟歩きなど多くを旅地に送る。

昭和十五年

(1940) 四十八歳

「源頼朝」東京・大阪朝日。「太閤夫人」「細川ガラシヤ」「静御前」「楠公夫人」「小野寺十内の妻」等を主婦之友へ。
次男英穂三月生る。六月、菊五郎一座により「新書太閤記」歌舞伎座に上演。

昭和十六年

(1941) 四十九歳

「梅里先生行状記」東京・大阪朝日。その他。十二月大東亜戦争始まる。三月十日、午前十一時、赤坂表町の家居、近火にて半ば類焼。

昭和十七年

(1942) 五十歳

一月、長女曙美生る。連載中の「三国志」、「新書太閤記」等のほか随筆数篇を各誌に。十月、海軍軍令部戦史部嘱託として、画家橋本関雪氏と共に、海軍機にて南方を一巡、十二月初旬帰る。朝日紙上に「南方紀行」を載す。文部省嘱託、教科書編纂委員を命ぜられる。

昭和十九年

(1944) 五十二歳

前年来わずかに随筆、短篇数作あるのみ。読売新聞の「新書太閤記」のみは続く。その間、海軍戦史部より戦史執筆の依嘱あるも刊行企画の内示あるのみにて終る。
三月、全家西多摩郡吉野村へ疎開。
四月、急性肺炎にて仆れ、一時重態に陥つ。随筆家にて司法次官の友人大森洪太氏の慫慂しょうようにて全国の刑務所を同省委員等と視てまわる。健康をそこね、帰来、再び病床になずむ。

昭和二十年

(1945) 五十三歳

三月九日夜、東京空襲にさいし、淑徳女学校在学中の養女園子死去す。学徒徴用令に応じ農林省山林局の女子挺身隊にありての犠牲なり。文子等家族、数日、焦土に行方を求むるも一片の遺物だになく、吉野村の庭隅に唯そのかたみを葬うて父自ら法名を案じ“清鶯帰園童女”と名づく。終戦。妻文子病む。久しく不起。

昭和二十一年

(1946) 五十四歳

ペンを持つことなし。戦後三年は、畑作りと「秋萩帖」の手習いなどに日を送らむことを病妻と誓い合えればなり。折々、食糧探しの都会の友、古美術の友など会せば倦むこともなし。都心、なお焦土なれば、外地の引揚者旅泊の縁なき知人など尋ね来、山村の旧屋は旅館のようだと日々笑う。漸く病の癒えたる山妻は、戦前にも増して近村へ食糧あつめに自転車でかけ廻るを日課とす。

昭和二十二年

(1947) 五十五歳

菊池寛氏の依頼にて、初めてこの年、新生社の「東京」へ短篇「人間山水図巻」を書く。続いて五月より同誌へ「色は匂へど」を連載。まもなく同誌廃刊。

昭和二十三年

(1948) 五十六歳

九月より読売新聞に連載「高山右近」を書く。

昭和二十四年

(1949) 五十七歳

上智大学講堂にて「文芸と宗教」の題下で講演する。三月、読売の「高山右近」、前篇にて一応筆をく。
四月、病後の妻を伴い、吉野山の花を見、大和地方に遊ぶ。春、「続新書太閤記」の一部を書き卸し、中京新聞ほか地方社七紙に載す。

昭和二十五年

(1950) 五十八歳

「平の将門」を小説公園に。
「新・平家物語」を、この年四月より着手。
六月、次女香屋子生る。

昭和二十八年

(1953) 六十一歳

四月、菊池寛賞の会を機に、内助の人たりし妻文子との結婚披露をこの宴に擬す。ただし友人川口松太郎、徳川夢声、扇谷正造氏等の発議にて、当日会する年来の悪友、善友らのまた相興ずるに委せたるのみ、べつだん、新郎新婦の予期して臨みたるには非ず。
幼少、通学せる横浜の山内小学校校長の山内茂三郎先生も、オテイちゃんや同窓等と共に来会さる。老先生の八十八齢の賀莚、その数日前に行われて、この日の催しを聞かれたるに依るもの。
随筆「折々の記」三十余回を読売紙上に寄せる。
夏を軽井沢に過ごす。
「新・平家物語」以外の執筆をほとんど謝して一作に意を傾く。
十一月、全家品川区北品川に引移る。

昭和二十九年

(1954) 六十二歳

「いささかの茶ごころ」をゆきま四月号に。
「新・平家物語」続稿四年に入る。故友菊池寛氏の菊池文庫並びに銅像除幕式のため高松市に行く。夏、軽井沢に。
「非茶人茶話」を週刊朝日別冊(八月)に。春、秋にかけて、稿労のいとまあるごとに九州、北陸その他に、平家史料を漁り歩く。特に各地にわたる平家村の山中踏査に興を覚え、また週刊朝日を通じて読者に依る史料蒐集の結果、全国より寄せられし平家史料百八十余通にのぼる。

昭和三十年

(1955) 六十三歳

正月、文芸春秋に「忘れ残りの記」を執筆、以降二十一回までの稿を“四半自叙伝”として書く。「新・平家紀行」を週刊朝日別冊に。稿間、この年も数次にわたりて、新・平家のための史跡旅行に出る。六月、旅の須磨明石にて急性大腸カタルを病み一ヵ月を熱海に病臥す。七月一日「痴人の言」を社会改良に。
「映画清談」をキネマ旬報七月号に。

昭和三十一年

(1956) 六十四歳

三月、ヨウを病む。以後四月下旬まで約五十日病苦のうちに執筆。この間、初めて四回休載のやむなきにいたる。十月、浦松佐美太郎氏の「英訳新平家物語」着手さる。

昭和三十二年

(1957) 六十五歳

二月、「新・平家物語」脱稿、執筆七年の擱筆を無事に見、関係者相寄りて小祝をなす。三月、九州その他に完結記念の読者大会開かれその講演旅行に遊ぶ。五月、渋谷松濤に移居。七月、以後半歳「きのうきょう」を朝日新聞に。もっぱら夏中を静養に努む。「押入れの中」を暮しの手帖八月号に。八月、在軽井沢の友人諸子集まりて年々の八月十一日会を催してくれる。その顔ぶれも年毎に増して今年は約四十数名の多きに達す。八月十一日は小生の誕生日なれど併せて大夏一夕の山荘の放談会の趣きをなし、翌日は吉例のゴルフ会をなす。九月「あづち・わらんべ」を東をどりの為に旧約の舞踊脚本一篇を書く。十月、池島、扇谷、高原の三氏と北越に遊ぶ。「英訳新平家物語」をクノップ社より出版。

昭和三十三年

(1958) 六十六歳

新年創刊号より「新・水滸伝」を講談社・日本に。一月十八日より「私本太平記」を毎日新聞に起稿。四月、足利市、鑁阿寺ばんなじを中心に附近史跡をあるく。
六月、「随筆新平家」上梓。疎開前の旧住地赤坂へ移る。秋、河内観心寺地方へ出むく。

昭和三十四年

(1959) 六十七歳

「日本人の系図趣味」を文芸春秋新年号に。一月、読売新聞社企画「日本の歴史」の監修に加わる。三月、随筆「美しき日本の歴史」を数回週刊文春に。四月「私本太平記」第一巻を刊。「新・平家物語」二十四巻を新装版八巻に改幀。随所に訂筆を入れる。「親鸞の水脈」を大法輪十月号、二十五周年記念特別号に。十二月「松のや露八」「黒田如水」を新潮社より刊。前進座「松のや露八」を明治座にて上演。

昭和三十五年

(1960) 六十八歳

一月、朝日会館落成記念に、初の講演をする。演題「一という数の不思議」。
三月、痼疾の気管支炎のため慶応病院へI・P・P・Bの治療に日々通う。中央公論社より出版予定の「全挿絵入宮本武蔵完本」の第一巻成る。
七、八月、軽井沢にて送る。日本女子大学三泉寮における夏季講話、今年にて八年におよべり。恒例の小生誕生日の会も山荘の客今年は五十余名の多数にのぼる。
九月、帰京。「親鸞」映画化。
十月、文化勲章授賞の内示あり、以後、報道関係その他祝賀客などの応接に忙殺され、ほとんど執筆のいとまもなき状を呈す。為に、関西旅行を中止。わずかに禅文化へ「無知の弁」を書いて約を果す。
十一月、三日の文化の日、宮中の授賞式に臨んで章を受く。また知己、読者よりの祝電祝辞等、千数百通にのぼり、終日の来客も百二十名をこえる。夜、NHKテレビ「ここに鐘は鳴る」へ出、生涯のおもはゆさなり。随筆「紋付を着るの記」を東京新聞へ寄す。
十二月、「私本太平記」執筆、満三年に近づく。その一部「妖霊星」猿之助主演にて歌舞伎座へ上演さる。随筆「赫紅児」を文芸春秋へ。また週刊朝日へ「画情仏心」を、わずかに寄稿。祝賀会の催しは一切これを謝すも、ゴルフ友六十余名の程ヶ谷の会のみは甘んじてお受けし、当夜横浜ニューグランド・ホテルにて記念品をいただく。すでにこの頃、前月よりの過労のため胆嚢と腎臓故障にかかりて食欲すすまず、十数日は病床に横たわりて日課の新聞小説の業だけを果す。歳末三十日の夕、漸く、例年のごとく机塵を払ってわずかに体の小康を知る。

昭和三十六年

(1961) 六十九歳

一月、恒例の元旦をすまして三日以後の数日間を川奈ホテルに送る。これも近年の慣例となりて十年に近し。連載の「私本太平記」四年めにはいり、湊川を中心に史蹟歩きの要を痛感するも、雑忙容易に腰を上げ得ず。二月にはいるや島中事件を聞き、中旬には友人村松梢風、下中弥三郎氏の訃に会す。
三月十七日、特急こだまにて宿題の取材旅行に立つ。思うことありてこのたびは長女の曙美を妻とともに伴う。途中、名古屋に下車、杉本健吉氏と狩野近雄氏を加え自動車にて途次の史蹟を訪いつつ夜京都に着く。以後数日、丹波の山間より神戸地方を遍歴、ふたたび京都に帰り、東映にて撮影中の「宮本武蔵」の進行ぶりを見、その朝、裏千家にて朝がゆの馳走を受け、同日帰京。帰宅後、数日間、風邪ごこちに臥床、このころより机忙おりおりに疲労を覚ゆ。
四月、長男英明、初めて就職、NHKの大阪勤務と内定する。二十二日より丹羽文雄氏と同行京都へ行く。その夜、京都公会堂にて親鸞七百年忌記念講演の責を果す。翌二十三日、大阪読売の三田に近き山岳コースにて丹羽、原氏らと終日プレー。夜、芦屋の播半に泊まる。帰京後下痢、疲労はなはだし。
五月、大阪仏教青年会のために十日より大阪に赴き、講演の約を果し、即日帰京。翌十二日、東宮御所のお招きにて茶話の御席に列す。川端康成、佐藤春夫、五島茂、美代子氏など同席さる。十三日、西郷、原の両家の結婚にてお媒人役をつとめる。疲労深し。
六月、前進座上演の「新・平家物語」の脚本に不備あるため、自身これを書き改め、ために七日、八日を通して徹夜し、九日深夜の舞台稽古にもまた立ち合う。二十日、保土ヶ谷にて毎日新聞主催の文壇ゴルフに参加、アウト8番にて気分すぐれず落伍する。そうそう帰宅、石井医師の来診を受け、やや小康を得る。
七月、長男英明、四日、大阪NHK勤務のため初めて赴任。書斎は例年のごとく、この月十日より軽井沢へ移す。
八月、例年になく、ここでも健康は依然思わしからず、夜々烈しい咳痰に悩まされて睡眠も浅く、異状ただならぬ容体をひそかに思う。しかし、恒例の小生の誕生日ゴルフの前夜祭には、来会者五十五名、新しいゲストには川端康成、壺井栄氏らも加わり、初会以来出張の「きかく寿司」の主人もほとんど用意の寿司米の最後の一握りまで握り尽す。下旬、東京より懇意のH医師来遊。幸いに、診察を乞い、また採血を託して、以後の診察を待つ。沙汰なし。このころより咳痰に血線を見る。
九月「私本太平記」の完結、あといくばくもなし。一日一回の稿も、ようやく心身を削るの思いをなす。厠に立ちては中二階の階段をはうて机に戻るの有様に至る。血痰も日ごとに濃く、疲労はなはだし。頃来ハーフのコースもついに回りがたくなり、食欲、体重、すべて減る。軽井沢診療所より日々往診を乞うて当座の注射などを受けつつ稿をつづけ、からくも月末二十七日、最後の一稿を毎日の村松学芸部長に手渡して、何かと連載四年間の社の好意を謝す。さらに同夕刻までに、添田知道氏の依頼による一俳人の句碑、また一読者の墓碑、そのほか、色紙額面などの依頼物の揮毫を一気に果し終わって、心の荷を下ろす。同夜、風雨の中を、東京より慶応病院の笹本博士、来診をたまわる。笹本博士の診察を受くるは初めてにあらず。しかし今回は博士の眉辺、大事の色あり。多くは余に語らず、妻を階下に呼んで、毎日の松本昭氏、講談社の賀来寿一氏らを加えてひそやかに時を移し、同夜、深更の汽車にて博士は帰京、ただちに入院の手続きだけは運びおかんとのよし、いい残さる、二十九日、汽車にて帰京。
十月一日、午前中、赤坂の自宅にて臥床のままレントゲンをる。午後、その結果をみて笹本博士、松本氏と同道、書斎の病床に通る。肺腫瘍との診断にて、入院は一日一刻も早いがよしとのことなれど、せつに、中一日の猶予を乞うて、未脱稿の「新・水滸伝」の執筆に着手。二日もなす。午前中は「水滸伝」を書いて、午後一時ごろ、ただちに入院する。三日以後、連日、手術に備うるための肺、心臓、その他種々のテストを受ける。「日々地獄めぐりのようだ」と笑う。手術は六日と決まる。執刀は石川七郎博士にて、石川氏より病症説明を直接聞く。五日夕、長男英明、大阪より呼び返されて枕頭に顔を見せる。同日深夜は妻とただふたりきりの病室にて、生涯の思いと昨今の感慨とを語り合うて更ける。妻、この夜初めて、余の病症のまことは「肺癌」なることを打ち明ける。あらましは自分にも察しられていたせいか、かえってすがすがしく思う。明朝までの間、あるいは、眠られぬかもしれぬと案じられたが、案外よく眠り得て覚める。六日、午前九時十五分手術を受け、十二時四十五分終了、もちろん、全身麻酔を受けてのこと、何も知らず。十三日、抜糸。この日、「私本太平記」の連載、紙上にて完結を告ぐ。二十六日、初めて入浴、予後よろし。
十一月十五日、初めて病院の屋上に出て日光を浴み、蘇生の感に吹かれる。病棟の各室にもこの前後、平林たい子氏、壺井栄氏、伊東深水氏、伊藤熹朔氏など入院され、また退院されて行く。
十二月三十一日、試験的に外出、そのまま赤坂の自宅に寝て、年を越す。

「付記」

記憶にもとづいて簡単な経歴を竝べてみたが、日記とかメモとか几帳面な習慣のまったくない自分には多少の錯誤はないとは云いきれない。特に数字的な記憶は自分でさえあやぶまれる。唯、従来語るのを好まなかった事もまた自分の愚や辱もあえて記録したつもりではある。それとて洩れたものが多かろうと思うが、だからといって故意に除いたりはしていない。その他の不備は諒恕を仰ぐほかはない。
(自記)





底本:「忘れ残りの記」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年4月11日第1刷発行
   2012(平成24)年6月1日第19刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「自筆年譜」となっています。
※底本編集部による「昭和三十七年(1962)七十歳」は省略しました。
入力:川山隆
校正:トレンドイースト
2019年8月30日作成
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