おもいがけない未知の人から、ぼくらは常々たくさんな手紙をうける。作家とか何とか虚名をもった種類の人々はたぶんみなそうではないかとおもう。つい先頃もその中の一通に中野敬次郎とした封書があった。小田原市教育委員会事務局の封筒である。読者かナ、とおもいながら
あるいはもうお忘れかもしれませんが、戦前、市長の益田信世氏の発唱で、当地の公民館で「吉川英治氏を郷土に迎える会」を開催したことがあります。小生も小田原図書館長、郷土史研究会の一員として、そのせつ演壇から御挨拶をかねて「吉川氏の先代について」といったような話をいたしました。甚だ古い事でそれだけの御縁でしかありませんが、じつは、来る十一月三日の文化の日に、おなじ会館において恒例の文化祭を催します。当地出身の文化人の方々にも何かとおせわになっておりますが、こんどはひとつ、もいちど郷土の人々へ何か御講演ねがえないでしょうか。御都合よろしくば重ねて詳細お打合せ申しますが、まずは……。
右は文意で中野氏の原文ではない。この稿の書出しにあたって、手紙
自分が不精者なので、ひとの克明な記憶には、一も二もなく感心する。徳川夢声氏の随想などには、事々に何年何月とはっきり出てくる。おそらく日記の功徳であろう。他日、予期しない資料ともなって、後世を益するかもしれない。
日記をつける風習はずいぶん古くからあったのであろう。ぼくの書いた新平家物語の参考書などにしても、肝腎かなめの所は、おおむね当時の
ところが往々その公卿日記にもどっちを取っていいかわからない各人各様な記述に遭遇したりする。一つ事件も見方により当人の実感には相違をもってしまうものか。媒体が人間だからこれは避け難いことというほかはあるまい。また他人には示さぬものでも、つい偽飾や欺瞞の自意識にも片寄るのではあるまいか。
日記は新年からがいい。来年から始めてみようと、ぼくも折には年暮の書店で新しい日記帳を買ってみたりする。けれど、不精や健忘よりも、何か正直が書けない気がしてすぐ厭になってしまう。都合のわるい所は××だの△△にしておいても、自瞞の不快さは蔽いえない。結局、書かないのもごまかしだが、その方が気がらくなので止めてしまい、晩生いよいよあいまい模糊と自分で自分をぼかして生きているようなものである。
そのぼくに難題がふりかかった。半自叙伝風なものを書けという。とんでもない事とおもった。そのくせ、ひとの自叙伝的なものはおもしろく読む。長谷川
ところが
半自叙伝を書けと望まれたのはそれ以前からの事である。もちろん
なぜならば、ぼくは日記すらつけ得ずに来たほど自分で自分に触れられない臆病者で自瞞にみちている男だ。とても自己を裸にして人に示すなどは出来そうもない。のみならず過去を語ることは両親を語ることになり、明治、大正の世代に小さく灯ともしていた両親の家庭とて、当然な事ながら、まったく封建そのものの一軒だった。いわばぼくなどは“封建の遺子”である。今日の子弟に何を語る資格がある者ではない。また一個の文学者としては正直未完成であり、多少、虚名があるにすぎないものと、自分の事は誰より自分がいちばんよく知っている。
それやこれやは、今日までS氏に謝って来た理由であった。しかしそんな愚痴をいちいち聞いていたら文芸春秋の編集長などは出来るものじゃないそうである。「なにも御自分でいやだと思うことは書く必要はないでしょう。作家だからそんな義務があるなんてわけのもんじゃありませんからね。書けるとこ、書きたいところだけお書きになったらいいじゃありませんか。半自叙伝でいけなければ、四半自叙伝でもいいですよ、とにかくお待ちしますから」と、つまりはこっちの根負けである。
いったい何を読ませられるのか、読者は見当がつかないであろう。筆者のぼくにも何から書いていいのかはっきり掴めていないのだから。――ただ父の郷地は小田原なので、最近手にした同地の中野敬次郎氏からの書翰を、これ幸いと書出しの手懸りにさせてもらった次第だった。
前述、中野氏の手紙にも見えるように、ぼくは小田原市から招かれた事がある。公民館はいっぱいの入りで、ふつうの講演会とちがい何かとても面映ゆかった。開会のへき頭に益田市長は「吉川さんはどうも怪しからん、小田原は父祖の出身地であるのに、当地にはめったにお顔も見せず文章にも見えないから、市民はそんな関係をいっこう知っていない。そこで私が強引に引っぱり出して、今夕、皆様に御紹介申しあげた次第であります」といったような挨拶をされたと覚えている。
ところが、拍手のあらしの中からぼくの方を見ておかしがっている顔が幾つもあった。ぼくは小田原に素気ないどころか、その頃、自分でカン詰執筆に出かければ、たいがい塔ノ沢か小田原
そこらはまだよかったが、やがて郷土史研究会を代表して、中野敬次郎氏が登壇された。そして高山
五石十人扶持は、ぼくにとっても初耳だった。少年時代から何かにつけ小田原藩とは聞かされていたが、父の口ぐせは「さむらいの子は」であった。士族ということばがまだかすかに余命をひいていた頃である。だからぼくは、藩士というからには、百石や二百石取りぐらいではあったのだろうと、成人の後まで独りぎめに思いこんでいたものである。おそらく当日の聴衆たちもそうだったのではあるまいか。いくら小藩でも五石十人扶持は最下士だ、いわば足軽に毛がはえたようなものだったろう。それにしてもテレる理由はなにもないが「吉川英治氏を郷土に迎える会」が余り派手で盛会過ぎたからいけなかった。根府川関所で六尺棒を持って
祖父の銀左衛門という人をぼくは憶えていない。ぼくが赤ン坊のころ亡くなったということだ。母のはなしには、まっ白なあご
しかしこの祖父についての幾つかの挿話を、ぼくは父の口から聞いていて、いまも忘れていない。じつは、よほどきびしい恐い人だったようである。五石十人扶持とはいえ典型的な封建戸主の一武士であったらしい。
ぼくは
吉川は
いずれにせよ軽輩中の軽輩だったろうが、父はぼくにはそうと云わなかった。だから父の父、銀左衛門の逸話にしても、父の都合のわるい事はぼくに聞かしていないのかもしれない。従ってどの程度信じていいかも分らないが、父の言を疑うこともなかった白紙の幼時に聞かされたことのみである。しかしそれが後々のぼくに影響が無かったとは云いきれない。もし、あったとすればぼくには重大だったわけである。現代の中では理解しがたいようなものだが、ぼくを語るためにぼくの一髪をまず手にとってみるというつもりで思い出してみる。
父の兄に、秋山という人がいた。どういうわけか、養子に出た人らしい。維新のさい、藩主の若殿について京都守護の一兵卒となって中央へ行った。やがて解任後、小田原へ帰って来たが、見事な花柳病にかかっていた。小田原藩士ばかりでなく、京都へ勤務に上った藩では、どこにもそんな若侍がたくさんあって、
父の兄秋山氏も御多分にもれない名誉の若侍だったわけである。その花柳病もよほど悪質だったとみえ、よく落語にあるような、鼻の障子がとッ
ところが、この秋山氏が機嫌よく病苦を忘れて上方唄など口ずさんでいる、とそこへしばしば、銀左衛門がやって来て、「この
足腰も立てない秋山氏は、そんな時、銀左衛門のまなじりに向って、ただ両手を合せて拝んでいたという事である。いずれは、家族総がかりで銀左衛門をなだめた事にちがいあるまい。そして又、何か世間で耳づらいことでも聞くと、居ても立ってもいられなくなり「斬ッてしまう」と秋山家の南縁に突っ立っては、秋山氏から拝まれて、拝まれ負けして帰った事にちがいない。
明治に入って、廃藩になると、この秋山氏も士分だけの一時金を政府から貰った。その金で当時の小田原の遊所に通っては「一
子供心に、ぼくはこの伯父のうらぶれた晩年のまろい背中を憶えている。弟にあたるぼくの父の所へ、度々、無心に来ていたものである。余りにしばしばなので、父と烈しいいい合いをして帰って行く日の淋しい姿や、父の留守にやって来て、ねっちりと長居しているこの人に、母が何かと気をつかって
銀左衛門についてのも一つの話は、父がまだ年少の頃にもある。
父は、直広というが、少年時代は、丈之助とよばれていた。ある冬、風邪が
まだ十歳そこそこの丈之助は、戸外で遊びに夢中になっている。姉が呼びぬくので、ふくれながら勝手口に立つと「丈さん、良い子だから、町へ行ってお豆腐を買って来てくれない」と云う。「いやだい」と一言のもとにかぶりを振った。「そんなこと云わないで」と、姉は泣かないばかりに頼む。そして姉がすこし理くつをならべたので「さむらいの子が、豆腐なんか買いに行けるかい。そんなに執こく云うなら腹を切っちまうぞ」と、小脇差か何かひねくって、ほんとにやりそうな真似をしたので、姉は青くなって謝った。
夕食後、銀左衛門の部屋から「丈之助、ちょっと来い」とよばれたので、彼が入ってゆくと、三宝の[#「三宝の」は底本では「三方の」]上に、少し刃を見せた
家じゅうの騒ぎになった。姉はもちろん風邪ひきの母も下男もみな一室に寄って来て、丈之助の代りに泣いて詫びるやら
その場から丈之助は叔母か誰かに手をひかれて親類の家へ連れて行かれた。よくある親類預けになったわけである。親類も貧乏だったろうし、しつけとか、こらしめの意味もふくめて、それからすぐ丈之助は、小田原から数里奥の道了さまと俗にいう山の寺房へ寺小姓にやられてしまった。――ぼくの父は以後十四歳まで、道了権現の山の中におかれ、おかげで修学もできたが酷使されていたのだそうだ。こういう祖父と父とからつながっているぼくであった。と、時には自省してみる必要がぼくにはある。忽然と社会の木の
文芸家協会の会員カードを初め、よくいろんな問合せや申込書などに、略歴、本名、生年月日などの記入欄があるが、いったい、生れた月日などを、他人が何の便利につかうのだろう。ヘンな習慣である。自分自身にさえ、間違いのない生れ月や日を確かめる必要などは一生の間でもめったにありはしない。
だが、何だかここではそれが必要事みたいになって来たので、明記すると、ぼくのは“明治二十五年八月十三日生”が戸籍面である。
ほんとは、十一日生れだが、届け出が二日遅れたのだそうだ。どうでもいいようなものの、母の亡い今日、そんな事もまた聞いておいてよかったと思っている。自分だけにとっては、地球の実存以上、重大であった自分の誕生日が、あいまいもこであるよりは、やはりはっきり分っていた方が気もちがいい。
といっても単に生れたんだという漠とした観念のほか、もの心がつくまでの何年かは、誰でも例外なしの空白である。ただ脈搏だけをしている何キロかの肉塊にすぎない。多少、記憶めいた覚えも、父母か周囲の移植であり、もし人間が、完全なる自己の出現を、自己の官能で知りたいと
発車駅の東京駅も知らず、横浜駅も覚えがない、
人権がある以前に、人間には、当人の諾否なく、その人権を附与するという人権無視がある。むかし直木三十五が苦楽かオールに書いた半自叙伝的な物の書き出しには「――いったい、おれがこれからオギャーと生れ出る所は、どんな暮しの家かと、
間に合わなくては仕方もないが、出来ることなら誰でも直木のように一応ヘソの穴から外をたしかめてから出て来たいだろう。ぼくの場合は、直木家のごとく、ほかにピイピイいっている者はなかった。ぼくの生れる前の一女子国子は生後まもなく亡くなっていた。ぼくは父二十九、母二十六という若夫婦の間に生れ、前に一女を失っているので「こんどは失くさないように」と哺育は大事にされたらしい。
といっても、母は多産の方で、ぼくをかしらに七人も生んでいるので、大事にされたといっても、あとのヒヨコが続々出て来ないまでの間であったろう。老いての後の母のくりごとといえば「おまえ達の小さいうちは、乳にも背中にも膝にも、たかられていて、一ぺんでも落着いて御飯を喰べたことはなかったよ」という育児の苦労ばなしが大半で、またそれをぼくらが聞いてやるのが母には何よりの慰めのようであった。
ぼくの生れた当時の両親は、横浜の根岸に住んでいた。その頃はまだ横浜市ではなく、神奈川県久良岐郡中村根岸という田舎だった。家の前から競馬場の芝生が見えたということである。
根岸競馬場は、横浜に外人居留地地区ができ、通商条約などが結ばれた後、外人ばかりの
この辺の地主で、亀田某という人の借家に住み、それが縁で、亀田氏のすすめから、ぼくの両親は、一つの生活にありついていたらしい。
寺小屋、幼稚園まがいの、小さい学校を自宅でやっていたのである。元よりたくさん子供を預かったわけではなく、相沢の貧民街の子供らが対象だった。ところが、近所に住む外国人の子供たちも来るようになり、思いがけないそれは成功であったらしい。
相沢の貧民窟から奥の丘には、日本人墓地やナンキン墓などもあって、不当に社会からへだてられている人々が低地に部落をなしていた。地主の亀田氏は、そこの子たちに、深い同情をもっていた。ぼくの両親に、寺小屋をすすめたのも、その為だったろう。そこの貧しい子に限って、小学校へ行っても、ほかの子と差別されたり、いじめられたりするからである。
だからぼくの両親は、それらの子たちには、親のごとく慕われたらしい。また、より以上に、感激してくれたのは、その子供らの肉親たちであったという。大げさに云えば、神さまか何ぞのように、有難がられ、月謝よりも、朝晩のように、子の親たちが、畑の物や魚などを台所へ置いてゆくので、生活は楽だったし、よろこばれる張合いで、毎日の疲れなども、その数年は忘れていた程だったと、母は後々まで述懐していた。
それとおもしろい事に、日本人の観念のあいだには、古い部落的な差別があっても、外人たちは、無頓着だから、そういう中に、ジョージだのフランクだのという眼の青い子も、一しょになって、日本の小学読本を読んだり、歌ったりして、けっこう仲よく飛び
多くを聞かされていないが、ぼくの父吉川直広が、横浜の端ッこで、そんな国際的寺小屋の先生にたどりつくまでには、小田原の郷里を出てから後、もう相当、いろんな人生経路をふんでいたように思われる。
妻帯も、ぼくの母が初婚ではなく、その前に小田原で一しょになった先妻があり、ぼくには異母兄にあたる政広とよぶ一子もあった。
父の先妻は、小田原の花街でも評判な美人だったということである。親類中の反対も世間の悪評も押切って、一しょになったものらしい。これが土地でやかましく云われたのは、父の職業が、いわゆる当時の“官員さん”なるもので、県庁の酒税官であったせいだろう。
この酒税官時代、各地の醸造家の酒蔵を視てあるく間に、父は後年の大酒になる素地と、道楽者の味境をそろそろ
けれど父その者は、祖父の銀左衛門仕込みの「さむらいの子は」という
よく自慢そうに、子のぼく達へ話した事のうちでも、その酒税官時代に、何でも天竜川の岸で、寒中だったそうだが――対岸の造り酒屋まで行くわけだが、よほど下流へ迂回しなければ渡船がない。それに日も暮れかかっていたので、ままよと、真ッ裸になって、天竜川を泳ぎ渡って行ったが、寒中の冷たさと、流れの急に、川の中ほどで溺れ損ね、「死ぬかと思った」という事など、何度聞かされたかわからない。
要するに、若い日の父は、こんな風な単純さを、誇ってさえいたようである。その後、花柳界の婦人と同棲したという件なども、官員さん社会には、定めし指弾されたことだろう。まもなく、長野県庁へ転任を命ぜられ、長野市に下宿住居している間に、小田原に残しておいた妻が、留守の間に、男に殺されたのであった。情痴沙汰で、これは新聞にも書かれたりした為、父は面目無さに、辞表を出し、それきり官途もやめ、数年は小田原に帰らず、放浪していたらしい。
父は南画をよく描いた。ちょッとした山水や蘭菊などを
少年時代を道了権現の寺房で送ったお蔭だよとよく云っていた。しかし、大胆なものである。それッぱしの余技をもとでに、長野県庁をやめた後は、一年余りを画家と称して遊歴したのだといっていた。父の描いた余り上手でない墨蘭や四君子などを、ぼくも子供の頃、よく見たものだし、柱掛けだの額面などを人から依頼されると、これは大得意で、誰にでも描いてやった。出入りの大工が「旦那の御きげんの悪いときには絵をお願いするに限ります」と、母に云ったそうである。
二年余りの放浪後、小田原へ帰った後は、箱根山麓の附近で、父は牧畜を始めたのだった。横浜という黎明期の開港地に接して来て、刺戟されたにちがいない。「これからは、外人相手の仕事でなければ」というその頃の士族の頭脳としては、飛躍的な思いつきから、それをやった。そして、それも見事、親類や土地の人々から、士族が、けものいじりするとか、土地を
父の横浜移住はそれからで、その頃でもまだ、食肉を
その頃、横浜初音町の辺で開業していた漢方医の
後年、父と母とが、夫婦喧嘩などやり初めると、母が
漢方医学の上では、江戸中期に、吉益
父とのいさかいはよくやったが、母は明治の
そのひとが、世間も何も知らずに、吉益老の仲人口を信じて、
だからどう公平に考えても、このチク庵夫婦が、世間知らずの明治娘を、ある程度、仲人口に乗せて、東京から横浜のような烈しい開港地の、しかもこれという勤めもなく、ただ甚だ特異質的なきかん気だけを持っていた一青年の所へ、嫁入り道具
じっさい、子供心にも、おぼろに、そう考えて、母に同情し、母と一しょにわけもなく泣いたものだった。けれど、母の悔いにもかかわらず、この仲人口のムリな結合から、ぼくらは両親の仲に生れた。しかもぼくらは、母が生きるに疲れ果てて、燃え絶える最期まで、母からはただの一言でも、愛の伴わない言は、聞かされたことはない。
母の郷里は、千葉県の佐倉で、古くは堀田
戦争中であったが、千葉刑務所長で名物男の根田兼治氏に誘われて母の生家のあった
菩提寺の山上家の墓碑は代々一基ずつ並んでいて、その古さや型からも、ほぼ家格の想像もつくのであるが、そのときも、これは母がよく愚痴をこぼしていた悔いは本当だろうと思い合せた事であり、小田原藩で五石十人扶持の小身だった父の里方とは、だいぶ趣がちがうのである。
母の父弁三郎は、廃藩後も、
酒を愛し、郷人を愛し、いつも春風
土地の女学校を出た後、母は、その頃芝の
近藤家との縁は、母の姉山上豊子が、鳥羽出身の斎藤恒太郎(当時、近藤塾の外語教授)に嫁いでいたので、おなじ鳥羽藩士の近藤真琴と斎藤家の縁故からと考えられる。豊子は、ぼくの母をまたなく可愛がっていたので、妹をそばへおきたい気もちから東京へ連れて来て、近藤家へ見習いに頼んだもののようである。
航海測量練習所と称した芝新銭座の攻玉舎は、勝海舟などの育成していた幕府海軍操練所の遺産といっていいようなもので、初めは近藤塾と共に、鳥羽藩の邸内にあったのを、後に、芝新銭座に移し、やがてこれが海軍兵学校の
母の容姿は、ちっとも、きりょう
そんな母が、どうして、横浜へ嫁いで来たのか、その間の事情は、理解がつかない。父の云い方を想像すれば、仲人口などではない、見合のとき、おれの男前がよかったから、一も二もなく、おれを未来の良人と、たのもしく思って来たのだろうと、云うかもしれない。
ぼくは母似か、人いちばい、体も小さく背も低い。しかし父は背丈けもすぐれ、骨格のいい人だった。壮年の時は、部屋のかもいに頭がつかえそうなので、ふすまを開けると、ちょっと頭を低めて入る癖があった。ぼくが父に似ている肉体上の個所は、下唇の左下がりにあるほくろだけで、父のは、もっと大きかった。
とにかく、こうしたぼくの両親であり、その仲の二番目に生れたぼくは、根岸競馬場附近の、奇異なる国際的寺小屋を営んで生計とする家で、眼玉の青い外人の子や、日本の子等と、
いま考えると、わが家が、こんな雀の学校をやり初めたのは、家主の亀田氏の懇望でもあったろうが、もうひとつ、母が近藤真琴の家庭にいたことも思いつきとなる一因ではなかったろうか。多少なり、娘時代の母は、攻玉舎の塾風とか教育の愉しさみたいなものに感化されていたろうし、そして、それなら自分にも手伝えるという自信から良人にすすめ、そこで夫婦共稼ぎの気もちで初めた仕事ではないかと思われる。
けれど、父が横浜へ出て来たのは、もともと、そんな志ではなかったから、ぼくが四歳の末頃にはもう家もモンキの坂とよぶ横浜石川町辺に移り、父は港町の魚市場の書記に通っていた。
“始めに言葉あり”だが、個人にとっては、記憶の最初が、自分の歴史の
オタマ杓子の脱皮のごとく、その神々が人間の児に化けて生涯に入る旅券を持ち、第一の記憶なるものの作用がぽつんと起る。それから神の眼でいう罪の映像がかさねられてゆき、自己と周囲の実存をおぼろな構成で脳細胞に移植してくるものらしい。
よく座談のはずみで「いったい、生れて初めての記憶といったら何だろう。幾ツぐらいから、どんな事を覚えているか」などと他愛ない話題にふけることがあるが、誰の云い出すことも必ずみなまちまちである。人間は何歳にして記憶を持つ、という定義はないようだ。トルストイの自叙伝をはじめ幼時を書いた人々のものを見てもすべてそうだ。これは、雑誌か何かで一度ひろくアンケートをとってみたらなお立証できるとおもう。
だから、非凡であろうとする思想家や文学者などは、この中途半端な起点記憶から幼時を語るのは、つまらない気がするのである。オタマ杓子やボウフラと何ら異なることのない自己の起源に対し、その空白を空白のまま無知でいるにも耐えないのであろう。そこで必然に、記憶前の記憶へまでさかのぼって、自己を描こうとすることにもなる。
ヨハネ伝の“始めに言葉あり”も、仏教の“父母未生以前”も、神道や儒教の説明も、みな人間の記憶以前の記憶にその発想を一つにしている。同時にそれが宗教の誕生といってもいいようだ。その前提を意識界に据えた上でなくては愛も罪も説きえないからではあるまいか。とにかく人間は各、ボウフラではなく、永劫の時と生命のクサリの一つに自分もつながっている一環だということを、しっかり、知りたがっているのである。それを自己確認しないではいられない者なのだ。というよりは生れた意味もこの生命の真を味わうことができない。また不安でならないというのが、人間あらましの本音ではあるまいか。
歴史はそんな本能をもつ前人たちの累積であり、それを継承する歴史家や作家の仕事にもそういう要素はもっている。だから往々、作家の書くものには、前にもいったような、記憶以前の自画像が現われて来たりして、読者をして奇異な感じに面喰らわせるばあいがなくもない。
三島由紀夫氏の「仮面の告白」だったかに、自分が生れたとき
もちろん、こういった例は、記憶ではない。文学である。が、その底流にはやはり想像を借りた人間共通の意欲が見られる。モームの「人間の
ぼくは自分をそれ程とは思っていないが、本質のぼくはよほど女好きなのだろうか。ぼくのこの世における最初の記憶といえば、女の映像なのだ。きれいな女の人である。
幾歳の時だったなどというわけにはゆかない。何しろぼくはまだ、ねえやか婆やかの背中に負ぶさっていた。母の乳を離れていなかった頃でもある。
その頃うけた記憶として、こういう事象が、後々まで、脳の深部にありありこびりついている。
ぼくは誰かに負ンぶされていた。そばに石だんがある。その石垣の上に、緑色の窓があって、その塗料の色だけがほかのどの映像よりもくっきり濃い。
そこへ向うから女のひとが歩いて来た。きれいな女のひとだった。負ンぶされているぼくの頬へ頬ずりした。そして、
「子供の乳の匂いって、いいもんだわねえ」
と、誰かに云った。
――ぼくの最初の記憶というのはこれだけのものだ。奇妙に思えてならないのは、まだ自分が
「それは、うちがモンキの坂に住んでいた頃なんだろうね。石垣の上に玄関があって、以前、異人の牧師さんが住んでいたから、ふつうの日本家屋なんだけれど、窓なんか洋風に青ペンキが塗ってあったりしたからね」
こう聞くと、錯覚でもないらしい。かぞえ年四ツ頃まで、乳もしゃぶッていたし、小粒でひよわい子だったぼくは、まだ負ンぶされていたらしい。
それにしても、女のひとがきれいであったという事やら、その女の会話があとさきなく、ぽつんと耳に残っているのはどういうものだろう。それの理解が出来なくても、単語として、あるいはただの音として、音感の記憶には残るものなのかどうか。自分では解釈のつけようもないくせに、心のどこかでは、これがさぐりえた自分の最古の神話のように、事実であったと信じていたい気もちが妙に手伝うものであることも否みがたい。
最初の記憶につぐ第二の記憶では、ぼくはもう歩いている。
五ツ前後であろうか。
後に、父の会社で息子を使っていた出入りの大工の家が近くにあった。ぼくは母の膝に戯れながら、母と大工のおかみさんの話をそばで聞いている。
ここの家は子沢山だった。おかみさんは、自分の子供の一人が描いた絵を持ち出して来て、母の前へ自慢そうに見せる。ぼくも一しょになって絵をのぞきこむ。
鉛筆描きの船の絵だった。
その時のは、母が云った言葉である。画学紙の絵を手にとって眺めながら母が、
「うちのも、はやくこんなに描けるようになるといいんですけれど」
単にこれだけの事にすぎないが、妙にはっきり覚えているのだ。
やがてぼくも自由画らしきものを描き初めたが、船を描けば日の丸と大砲を附けなければ気がすまなかったし、板塀や地べたへ白墨で落書きするにも、何か大人の影響を現わしていたようにおもう。たとえばチャンコロといったような言葉をよく投げ合ったものだし、童歌の世界では、その頃までなお“日清談判破裂シテ……”などという今から思えば滑稽なほど粗朴な軍国調が歌われていた。それが“雪やこんこん”だの“オオさむ、小寒、山から小僧が降ッて来た――”などというものと、何らの差別もなくただ叫ばれていたのだった。
童心への影響で、いちばん直接的だったのは、
童戯の変遷は、社会相の変遷といってもよい。ある時は、一般がまだ気づかない先に、大人の世相を童戯に教えられたりするばあいもある。けれど又、童心の世界には根づよい自然の伝統も流れている。大人の生活とか治乱には関知せず、独自な別天地を劃然と持っていた。それからいえば、童戯不変と云えなくもない。
かりにそれを伝統児戯とよぶなら、ぼくらが幼少にやった遊戯の種類はみなそれの系統であったろう。メンコ、根ッ木、ブランコ、縄飛び、ラムネの玉遊び、コマ、凧、石蹴り、石鉄砲、竹馬、金輪廻し、吹矢、当て物、隠れンぼ、かるた、十六ムサシ、といったような類である。種目は思い出せないほど多い。しかしすべては、野放しの童心と、子供相手の駄菓子屋やオモチャ屋との合作に依るもので、社会人の文化的考慮などは、影も映していなかった。道路はどんな大通りでも舗装はなかったし、電灯はまだ家々のものではなかった。馬車道とか海岸通りなどに、青い
遊びの中で、もっとも熱中したのは、メンコ、根ッ木、石鉄砲などだった。ぼくらはメンコの絵によって、源義経だの福島中佐などを知り、また見てもいない団十郎や菊五郎を知っていた。家の近くに法華寺の
メンコの遊び相手に、名は忘れたが、近所の医者の子があった。日が暮れると、このお医者さんは、門の外に立って、山伏みたいに大きな
どこの家庭でも、メンコや根ッ木みたいな
月の晩である。小高い住宅地の一面に、一つ一つ生け垣につつまれた低い屋根が見え、黄色がかった鈍いランプの灯火があちこちに洩れている。
この界隈では、どの家でも職業として、日当りのいい出窓に机をおき、種々な輸出物の地紙に
この近所での遊び仲間は、そうした職人絵描きの子だの、牧師の子だの、医者や勤め人といったような家庭の子供達だったが、その晩は、どうして夜まで遊んでいたのか、ぼくらは、野良犬のひとかたまりみたいに、まだ遊び
そのあげくだったと思う。ぼくらより年上で、
何か秘密めいた興味がぼくらを燃やしていた。タコは杉垣根をうしろに腰かけ、衣服の前をあけはだけて、土瓶の口ほどな小さな性器をぴんと立ててみんなに誇示していた。
どういうものか誰も笑いもしなかった。まじまじと、見まもりあっていた。そのうちにタコは腰をにじらせて少し位置を更えた。月の光がうまい工合いに彼の股間へ青白く射しこみ、奇妙な物が一そう鮮らかに見えたので、そのとき初めてみんながクンクン鼻を鳴らして笑った。するとタコが誰かに「
正確にいえないが、ぼくは五ツか六ツだった。でもこの晩の印象は、ひどく鮮明なのである。ぼく自身にはタコの前に
野放しな児童のあいだでは、遊戯以外、どうかすると、こんな気まぐれも行われていたのである。タコの心理や環境などにも、学問的にはいろいろ云えるだろうが、大人の頭脳では分析のつかない点もある。電灯がなくランプ時代の暗さというものをもう今日のぼくらは思い出せなくなっている。原因のひとつは、世間の暗さにあったように思う。それに適合して、どんな暗闇でも、蹴つまずかずに飛んだり
ぼくの家はよく引っ越した。青い窓の家から、もっと坂の上の、そして前より広い家へ移った。
門を並べて、すぐ隣りは、郵船会社の小沼さんだった。勤め人が立派なものに見えたのは、小沼さんの出勤ぶりを見てからである。毎朝、お迎えの人力車が来る。美しい鼻下の髭と金ぶちの眼鏡に、葉巻のにおいが流れ、小間使が、膝まで手を下げて見送っていた。
まもなく、また、その後から、ふっくらと色白で、ぼくを見るといつもほほ笑みかけてくれる奥さんが、どこかの女学校へ出勤してゆく。奥さんは髪を流行のイギリス巻にしていた。和服のときは袴に靴をはいて出かけ、洋装にはネットで顔をつつんでいた。自分に子が無かったせいか、ぼくはこの小沼さん夫婦にたいへん愛された。日曜日というと
よその違った家庭様式にたいして、児童の嗅覚は、大人の考えている以上、敏感である、色の白い奥さんの頬の
この小沼夫妻の隣家にも、長くは居なかったようである。こんどは少し遠くへ越して行った。山手の植木会社の裏門前で、何万坪もある植木畑や花畑に垣
引っ越すたびに、家はだんだん大きな家に変っていた。何も知るぼくではないが、この期間に、父は魚市場の書記をやめた。そして、いずれ今でいうブローカーであろうか、
これが当ったものであろう。父の生活は小沼さんの家庭より派手になった。母の身なりも美しくなり、婆やも女中も何人かにふえた。けれど、それによる幸不幸の感じは季節の変りほども子供のぼくにはわからなかった。遊びざかりの
ぼくは七ツ。やがて千歳町の“横浜市私立山内尋常高等小学校”という長い校名の懸っている小学校へ通学し出した。
戦後の横浜は、まったく旧容を失ったが、その頃、植木会社の裏門から千歳町へ通うには、文字どおり山坂越えての半里はあった、植木会社の園内だけでも、幾ヵ所となく上り下りの屈折があり、そこの表門を出て、桜並木とよぶ山手通りへ出、
横浜市誌の類にも、横浜植木会社のことは、とんと見当らない。けれど、当時の居留外人にとっては、最も印象の深い一名所ではなかったろうか。日本中の
それにせよ、
園内の道は、もとより一般の通路ではなかったが、ぼくは下町への学校通いに、裏門から表門へ抜け、毎日そこを往復の近道としていた。母は毎朝、躑躅や石蘭や雪柳が崖をなしている坂道を駈けまろんでゆくぼくを家の門から見送って「……まるで鉄砲玉みたい」と、ほほ笑んでいた。ぼくはその頃から、よくよく小ッぽけな子であったとみえる。
そして当時、日々の往復に、ぼくは四季の花々から無自覚に後年の何かを教化されていたのではないかと思っている。成人してからも、特に花好きだの園芸好きなどという
根岸競馬の帰り途であった。戦争の初期である。ふと
それからまた、終戦後、小石川の
まあ、こんな風に、植木会社の裏門時代は、ぼくにとって、故郷のうちの故郷といったようなものだった。キザな云い方だが、人生への初恋頃といっていい。
そこでの友だちは、園丁の子の市ちゃんと洋傘直しの家の徳ちゃんだった。この三人は、余り花園では遊ばなかった。程近い相沢の町通りへ出るウラに、有名な貧民窟の一郭がある。“いろは亭”という汚い寄席の看板の下から狭い横丁のドブ板とそこの屋根全部であった。通称“いろは長屋”と呼ばれていた。そこには、どん底生活の百態が軒をならべている。住民はカンカン虫、お茶場女、ナンキン墓の墓番、大道芸人、チーハーの運送屋(シナ風の富籤)、屠殺場のアンチャン、夜蕎麦売り、といったような有職無職の人々である。とても戦後のハマの風太郎やニコヨンとよばれる人達みたいな清潔なものではない。その不潔さにも貧乏ぶりにも、やはり隔世的な差があったように思われる。
ところが、ぼくら子供は、いろは長屋の極貧の密林帯に、花園にはない禁断の実を嗅ぎ出していた。メンコ以上に博奕的でスリルのあるアテ物とか玉ツブシなどもその中の駄菓子屋で覚え、モンジヤキとか、犬だか豚の臓物だか知れない怪しげな串焼の味も知った。もうそろそろ通用価値を失いかけて家庭でも粗末にしていた穴アキ銭とよぶ文久銭やら寛永通宝の古い貨幣も、そこへ持ってゆけば立派にテッポ玉(飴)一個と交易された。
すべて、いろは長屋の人々は、始終、生き争う物音の中に暮していて、夏は男女とも真ッ裸同様だし、平気で猥雑な行為は見せるし、どこかの軒では必ず夫婦喧嘩をやっているし、それでいてぼくらには危害を加えないばかりか、みな親切なのである。すべてにカーテンのない自由でそして原始の
もちろん、ぼくらの親は、口を酸ッぱくして、ぼくらがそこへ立ち入ることを固く戒め、見つかるとすぐ家へ連れ戻されたが、なお、いろは長屋の魅力はしばしば子供に親の眼を
ぼくの旧作に“かんかん虫は唄う”という中編物がある。あの“いろは長屋”とか、カンカン虫のトム公などは、つまりぼくの逍遥した所の幼時の記憶が生ましめた幻想で、多少のモデルは有って書いたものだが、トム公は、ぼくではない。
その極貧窟のいろは長屋から、すぐ一側表の通りには、山手の異人街から根岸競馬場やナンキン墓方面へ通じる一すじの町がある。その相沢と呼ぶ町通りにも、ぼくは当時の風俗詩的な思い出を幾つか新たにすることができる。わけて鮮やかに思い出せるのは、在留シナ人の葬式と、明治天皇行幸の
もうあんな中華の古典的葬列の色彩は、現在では中共の奥地でも見られまい。
行列の中では、銅鑼が鳴り、
その日の子供とは、全くべつな児童みたいに、行儀よく整列して見たのは、しばしば、この狭い貧民街を通られた明治天皇の鹵簿である。
明治天皇の競馬好きは内外に著名であった。春秋の根岸競馬へは、前後十数回も行幸があったことかと思う。祭日か日曜日なので、ぼくらは学校の先生に引率されていたわけではないが、みんな日の丸の小旗を持っていた。いろは長屋の住民から町の男女の立ち並ぶ中に交じって、四頭立てオープンの菊花紋の輝く御馬車へ、歓呼と共に紙旗を振りぬいた。
道幅がせまい上に、両側の厚い人垣が押し合うので、陛下の鹵簿と群集とは、ほとんどスレスレな間隔しかない。どうかすると、後ろから揉み出された人波の
そうしたぼくら明治の人間の先入観では、大正、昭和にわたるあの物々しい、超警戒ぶりは、何ともわけが分らなかった。街頭の群集をみな敵と
戦後は天皇も民主風になられたとはいっても、なお相沢の貧しい民衆と陛下との間に見られたような風景はどこにもないと思う。たとえば各種のスポーツや競馬などに、天皇杯や天皇賞は贈られているが、賞と共にグランドに臨まれることはないし、そこの民衆と一しょになって共に一日を遊ぶという時間もお持ちになっていないようだ。
ちょっと一例までに、明治編年史の中から同三十二年五月に明治天皇が根岸へ行かれたときの国民新聞記事を抽出してみると、こんな風に掲載されている。
――かくて午前十時を過ぐる頃、根岸競馬場に御着あらせられ、暫時御休憩の後、天覧場へ入御、下賜せられたる銀製花瓶と、青木外務大臣夫人の賞品七宝 花瓶とは、馬見所の玄関に飾られ、誰人がこの名誉の賞品をうべきかは、当場所第一の談柄 なりき。
なほ陛下の御下賜賞以外に、「北京賞盃」もありて、勝利馬二百二十五円、二着馬五十円を付したる第六回競馬は、かくて午後三時発馬と注せられたり。
なほ陛下の御下賜賞以外に、「北京賞盃」もありて、勝利馬二百二十五円、二着馬五十円を付したる第六回競馬は、かくて午後三時発馬と注せられたり。
アールフイルド氏の トルトイス
同 テラビン
ヒヨゴ氏の イクブチ
ラシヤ氏の チンギス
ニシムラ氏の アヅマ
スターライト氏の マース
同 テラビン
ヒヨゴ氏の イクブチ
ラシヤ氏の チンギス
ニシムラ氏の アヅマ
スターライト氏の マース
六頭は今日を晴れと、一哩半を競ひ、さしも広き芝生も数万の内外人に充され、英国軍艦バアフローア号乗組員が奏する勇壮なる楽隊と万雷の如き喝采の中に、勝は西村氏のアヅマに帰したり。
ぼくの父は馬は持たなかったが、経営している横浜桟橋合資会社は、外国人との折衝が半ば商売みたいなものだから、根岸倶楽部にはよく出入りしていたらしい。ぼくも競馬はたびたび見せられ、家庭でも競馬の話に賑わった。まだ横浜競馬も初期だったせいか、一般にも競馬を汚れたものと見るふうはなかった。特に、天覧競馬のレース当日などは、横浜中の祭典といってもよかった。市中もその話題で持ちきって、スペインの牛祭か何かのような騒ぎだった。
ついでに云うが、その頃の名騎手カンザキの名は、ぼくら幼童の耳にも、英雄の如きひびきと憧憬をもたせたものである。その神崎騎手の名を、もう遠い過去だからと思って、実名のままぼくの“かんかん虫は唄う”の中に登場人物としてつい書いた。ところがその後、神戸市在住の神崎氏の系縁の人から、「神崎は決して貴著のなかにあるような女たらしの道楽者ではなかった。家庭人としても厳正だったし、ジョッキーとしては、内外人の称讃をうけて、裏切ったことはない」と、たいへん恨みがましく抗議されて来た。私は早速ていねいに謝り手紙を出してはおいたが、しかし公に釈明すべき機会が今日までなかった。もう戦前のことで神崎氏の遺族すらお忘れだろうが、ここにその事はぼくの作為であり誤りであったことを明らかにしておきたい。
小学一年生のその当時、やがてぼくにとって、忘れえない或る一日があった。
何でも、それはカンカン照りの暑い夏の昼だった。例のように植木会社の
母は、いつものように、ぼくの足やら顔の汗を拭いてくれた。それからやがて茶の間で、新しく入れた茶を女中に奥へ運ばせてから、「あなたもお座敷へ行って、御あいさつしていらっしゃい」と、ぼくへ云った。ぼくは廊下境へ行って、そっと奥の方を
その人は、若かった。ぼくより十ぐらい年上に見えた。白ガスリの
「あの人、たれ?」
そっと母へたずねると、母はぼくの肩をそばへ引寄せて、
「知らなかった?
ぼくは、びっくりした。ぼくに兄と呼ぶ人があった事がどうしても実感にもてなかった。へんなそらぞらしさと羞恥がぼくを固くしてしまい、母から「奥へ行ってお辞儀をしていらっしゃい」と再度云われても、かぶりを振って動かなかった。
まもなく人力車のベルが外で聞えると、ヘルメット帽に白い夏服の父が、その背の高い姿を玄関に見せ、母と何か話しているまに、すぐ奥の座敷へかくれた。それきり、しんとした感じだった。すると、ぼくの耳に、奥の方から誰かの泣くような咽び声が聞えてきた。ぼくは、それに異様な衝撃をうけたとみえる。こっそり独りで客間の様子を覗いていた。
父は、兄の手を膝の上に取って握りしめていた。片方の手は、兄の白ガスリの肩へ懸けて、父も泣き、兄も泣いている様子であった。
この光景は、ぼくの眸をつよく
兄は、吉川姓でなく、綾部政広といった。ぼくとは母ちがいなのである。ぼくはそれまで、何も知らなかったが、兄は小田原で生れ、小田原十字町の“ふじ本”という料理屋で育てられ、中学もそこで卒業した。横浜にあると聞く父を尋ねて初めて会いに来た時は、十八歳になっていた。
小田原では志望の勉強もできないから、出京して、医科へ入学したい、そして将来は医者になりたいという希望を、その折、父へ訴えたそうである。
兄の医学志願は、兄の戸籍の入っている養子先が、
どういう理由か、そのさい父は、政広の医学志望には不賛成であったらしい。そのため、好学の青年は志を得ず、父の意見に負けて、翌日、小田原へ帰って行った。
ぼくの印象にある兄は、女性みたいに優しい感じの青年だった。俗に「痩セ型、中背」というあの通りなタイプで、左の眉の中に大きな黒子があり、頑固な士族あがりの父親とも、このぼくとも、似ている風はどこにもない。
政広は、小田原の花柳界で成人したので、自然、環境からうけた感化が多かったのであろう。後に、ぼくの父母も一驚を喫したそうだが、酒席となると、たいへんな芸能の才で、何をやっても素人ばなれがしていたそうである。けれど平常の兄は、ちっともそんな軽佻の風は言葉の端にも見せず、つつましい好青年であり、又、やたらに人好きされた。ついに医学校には入らなかったが、どこかに薬の匂いがするような医学生に見えた。
母には、腹ちがいの子だが、母はこの兄を後々まで、どれほど、親身になって世話したかしれない。やかましい父へは常によく
ところで、次の事だけは、母も、ぼくには決して語っていなかった。それは、兄のほんとの母は、誰だったかという疑問である。
前にぼくは、父が二十歳代の頃、遊蕩の果て、小田原に居られなくなって、長野県庁へ転勤を命ぜられ、その期間に、かつて父と小田原で問題を起した美しい留守の内縁の妻が、痴情が原因で男に殺されたという事をちょっと書いた。――で、これはぼくの想像にすぎないのだが、ぼくは、その
もちろん、その婦人については、父も触れるのを好まなかったろうし、母も子のぼくに聞かせもしない。けれどやや理解力や嗅覚に
家はまた引越した。山手通りの俗に桜並木とよばれる植木会社の表門通りから、遊行坂の降りへかかる坂の降り口で、座敷にいても庭越しに、横浜市街が一望に見えた。
こんどは千歳町の小学校へも、三分ノ一以上近くなった。
学校を嫌だと思ったことはない。校舎は木造二階建てで、ぼくらの組は下だった。二階の足踏みもオルガンの音も頭からつつ抜けで、蜂の巣そのままな私立小学校なのである。
校長先生は、山内茂三郎先生といい、九十一歳で、つい昨年亡くなられた。
晩年は、さすが病床に親しまれがちだったが、一昨々年、ぼくが菊池寛賞をもらい、その受賞祝賀会を友人たちが東京会館で開いてくれたとき、わざわざ横浜から来て下すった。――その折は、義兄政広の昔の恋人であった混血美人のオテイちゃんも一しょであったが――やがて先生が立って、よろこびの辞を述べられた時、その赤ら顔には老涙をうかべておられた。
山内先生の赤ら顔は、ぼくらが、一、二年生の時からだった。大酒家とは覚えていないが、特に鼻が赤かった。横浜の児童教育史上、この先生の名は逸することのできないものである。幾多、表彰はされているが、教え子のひとりのぼくの胸にも、先生の子供好きな細い眼と、あの笑い顔は、消えうせることはない。
先生は前の奥さんを、お若いうちに失われた。ぼくらは、その奥さんからも教えをうけた。当時では、中流の夫人を奥さんとは呼ばない、
ぼくらは、どっちかと云うと、御新造先生が教壇に立つことを、もっぱら歓迎した。先生は子供の眼にも美人として映った。ぼくは自分のお母さんと、どっちが色白だろうかなどと思いながら先生の襟元や頬の匂いを遠くから嗅いでいた。先生は常に髪を夜会巻にし、
ただいつも例外なく、御新造先生が困るらしいのは、ぼくら生徒が、やたらに騒ぐことであった。ふざけ散らすのは、意識的であった。目に余ると、紫の袴が教壇を下りて来て――「こッちへ、いらっしゃい」と席から立たせ、教壇のわきへ手を引っ張って行って、罰として立たせるのである。ところが、ぼくらの
賑やかな町中だし、校庭も広くはない。古い板囲いの壊れ目から覗くと、すぐ隣地の水天宮さまの境内が見える。
男女共学などという言葉はなかったが、自然に男女混合だった。もう好きな女の子と、嫌いな女の子があった。好きな女の子と一つ机になった者を、ぼくは
雨の日、ぼくらはよく“墨取り”という遊びを机の上でやった。習字は必修科目であったから、
墨のカケラをおいて、交りばんこに、墨で墨を起し
もひとつ、ぼくらのよくやった雨の日の遊びは、誰の発案だったろうか、雑記帳に、自分の空想するテーマを、映画のヒルムのように、一コマ一コマと絵に描きつづけて行き、描きながら、口から出まかせに、テーマを
たとえば、こんな風にである――。
柳の木らしいものを描く、川みたいな物を描く。立小便している子供みたいな人物を描く。
「木村がネ、お使いに行ったんだとサ。そしたらね、小便が出たくなっちゃって、車橋のそばで、川ン中へ、じゃアじゃア、おシッコしていたんだとさ」
ここで、次の絵を手早に描く。
こんどは、橋を描き、お下げ髪の少女みたいな点景人物。
「するとネ、向うから宮崎千代子さんが来たんだよ、ほら、こっちを見たろ」
さらに、次の絵。
「木村は、まッ赤になっちゃって、小便を半分して、逃げ出したのサ」
こんどは、木村君の家になって、お母さんみたいな人物に、木村君がお尻を打たれている絵。
「家へ帰ったら、お母さんに、なぜおシッコを洩らしたかって、大叱られに叱られたとさ」――というような絵とテーマとの、いわば近頃の紙芝居を、即席にやって見せるのだった。
もちろん、絵も説明も、満足には表現できッこないが、子供仲間では通用するのだ。それに、テーマはすべて児童の身辺の事で、またかならず、仲間の誰かをモデルにした。鉛筆と紙のときは、ヒルム式な連鎖描きとし、
この遊戯は、雨の日の教室に限っていたが、何遊ビとも名称がなかった。あるいは、ぼくらの仲間だけが思いつきでやり出していた事かもしれない。そしていちばんその遊戯を好んでしたのはぼくであった。みんなから「やれよ、やれよ」と、せがまれるのが自分も得意で、仲間の誰彼をモデルにしては
――ところで、今になって思うと、そんなかりそめの遊び事も、一個の未来には、無意味というものはない。空想を遊戯する――という無自覚な方式に依って、ぼくは何の考えもなく、後年、自分の職業となった小説作法の極く初歩の手習いを偶然やっていたわけであるかもしれない。
最近、母の旧知やら、横浜出身の方たちから、
また先頃、直木賞をうけた戸川幸夫氏の会でも、長谷川伸氏との間にすぐ“横浜ばなし”が出た。記憶力のよい長谷川老にただせば、健忘なぼくの忘れ残りもずいぶん補足されそうな気がした事だった。いちど、それらの横浜先輩に獅子文六氏なども加えて、みんなの忘れ残りを話しあってみたら、意外な話題も出てくるかもしれないと思った。
前述、野尻抱影氏からのお手紙の端にも「――小生は
朝日クォータリー・ゴルフという会ができた。そして過日、その第一回が
山内先生がまだ亡くなられぬ前で、先頃から病床と聞いていたので、その見舞を考えていたのである。山手町の横浜女子学院の小さい一室が先生の住居であった。夫人は老先生の看病をしたりそこの教鞭を取ったりしておられるらしい。先生の事については前号でも書いたが、九十歳にもなると、やはり子供に返るものか、病室で話していると、ぼくの方が校長先生で、先生の方が小学生みたいであった。それにぼくを見るとすぐ老眼から涙を垂れるので、何だかぼくも自分を持ち扱ってしまい、いつも早々辞去してしまうのだった。
南京町の会にはまだ時間が早過ぎていた。――こんな時でもなければと思い、その日、二時間ばかりで横浜中を車で走り巡ってみた。おそらく、あとかたもあるまいと予想された所にさえ、何かしら、ぼくの遠い記憶とむすびつく物が残っていた。わずか三、四十年の間に大震災と戦災にあい、特に米軍の進駐で極端に切りキザまれた横浜だけに、案外な気がして、とても生きてはいまいと思われた古い知己と、行く先々で、ひょッこり、出会ったのと同じような感にうたれた。また、大地の執拗なまでの保守性と時への抵抗にもいささか呆れた。
そしてぼくはさいごに、山手の遊行坂の上へやって来た。――そこに家のあった七歳から九歳頃までの記憶を伴って少し歩いてみた。桜並木の桜は今一本も無くなっていたが、植木会社はまだ面影だけをわずかに保っており、昔の地域の所に横文字のわびしい看板だけは見せている。
また、坂を降りかけて左側の、ちょうど、ぼくが幼時の家のあった辺は、今そっくり小学校の校庭になっていた。
そこの遊行坂は、今でも、かなりな急坂である。ぼくの八、九歳頃は、もっと道も悪かった。雨の日の通学などには、やたらに
片側は道に迫った高い崖で、片側だけが麓の遊行寺の門前まで、近頃の分譲地みたいなヒナ壇式の住宅地になっていた。
日本人の家といっては、桜並木の角のある小さな雑貨店と、おなじ通りの西にある神崎騎手の邸宅ぐらいなもので、この近所はほとんどが外人の家だった。ぼくらはそれを古風な意味でも何でもなく、日常語として“異人館”とよんでいた。
自然、ぼくらの遊び仲間はジョージだのフランクなどという純粋な、紅毛児とも一ショクタであった。ぼくらに国境感はなく、めったに
外人の子を泣かせると、かならずその子の親父かおふくろが、えらいけんまくで異人館の中からぼくらを目がけて呶鳴り出して来る。もちろんがなるのも英語である。日本語で怒られるよりも遥かにそれは恐かった。そらッとばかりぼくらは逃げ出す。――しかし、逆にぼくらが彼らに泣かされて帰った場合はどうかというと、ぼくらの母が眼をつり上げて子供喧嘩の干渉に呶鳴って行った例などは一ぺんもない、反対にぼくらは親から叱られて家庭の隅で小さくなっているのがオチであった。
この界隈では、すこし綺麗な女のひとだと思うと、たいがいが
らしゃめん、という語は子供仲間の会話にもよく使われたように覚えている。しかし当時の横浜世相の中では、差別や蔑視のトゲをふくんだ言葉ではなかった。ただ日本人同士の間では嗅ぎ馴れないローズやヴァイオレットの強烈な香水の香りと結びつけて或る特殊生活を連想してみるだけのものにすぎない。けれどそれも
らしゃめんの贅美な体臭には、敬遠の風を見せる近所の人も、アマさんには、親しみを示して、アマさんの口から異人館の主人の生活振りなどを探ることを、何か秘密めいた興味のような顔して聞くのだった。
そのアマさんは、外出にも白いエプロンを胸に掛け、買物籠を腕に、乳母車など押していた。ぼくの母は、アマさん風俗を真似して、ぼくだの、下の妹たちにも、エプロンを造って胸にかけさせた。泥遊びしても、着物が汚れないでいいという単純な考えからであったろう。――だからそれを
ぼくも小学生になると、もうアマサンは掛けていなかったが、それは横浜中の子供に流行って、いつのまにか日本の児童風俗になっていた。――これはずッと後年の事だが、横浜短詩社をやっていた弁護士の安斎一安氏から「横浜で子供にアマサンを掛けさせた一番初めの人は、あなたのお母さんでしたよ」と聞かされたことがある。何でも、ぼくの母が一安氏を地方裁判所へ訪ねた時、母に手を引かれていた幼いぼくのエプロン姿がふと眼につき、珍しく思ったので、その着想を褒めたことがあるとの事であった。ぼくには全然記憶にないが、云われてみれば、ぼくはアマサンの元祖であったかもしれない。
成人したら騎手になりたいと空想したのも、この遊行坂時代だった。名ジョッキーとして人気の絶頂にあった神崎騎手の邸宅がすぐ近くにあった。
たしか定価は一部七銭だったと思う。家庭では、そうそう七銭の本は買ってくれないのである。牛島坂の上に、格子作りのしもたやがあって、そこの小母さんが玄関の上がり三畳に書棚をすえ、その世界お伽噺から、金港堂のお伽文庫だの、日本偉人伝だの、イソップ物語だの、子供向きのものばかりをおいて貸本屋をしていた。
貸本のお伽噺は、すべて一冊一銭だった。だが、馴れて来ると、一銭持って一冊借りにゆき、格子の外から歩き歩き読み初める。そして読み終ってしまうと、途中から又、大急ぎで引返して「小母さん、これはもういつか読んだ本だからほかのと取り換えてくんない?」とべつな本を借りて帰ったりした。
この手をなんべんとなくやっているうちに、ある時、針箱の前から立ちもせずに振向いた小母さんから「英ちゃん、これからは、あんたにだけは一銭で二冊ずつ貸して上げるから、いちいち私を二度ずつ立たせないでおくれね」と云われて、顔じゅう熱くなった気持はいまも忘れえない。
そろそろ悪智が芽生え出していたのである。一度こんな事があった。どういう
どうかして
ある時、ぼくはその事を、年上の一人の友達にそっと喋った。近所のアブ公という背のヒョロ長い子だった。アブ公は子供のくせに口のまわりに黒っぽいヒゲが生えていた。眉と眼がくッ附いているような顔だった。よく腰巻一つで波止場を
とにかく、アブ公に、秘密を打明けたのは確かである。すると彼は、ぼくの着物の裾をめくり上げて、裾の縫目を歯で噛み切った。そして角にギザギザのある二十銭銀貨を手品のように揉み出した。彼はそれを握ったまま、ぼくの手には渡さなかった。ぼくも又、自分で持つ勇気はなかった。アブ公は突然、こう叫んだ。
「伊勢佐木町へ行こうや、伊勢佐木町へ連れてッてやる」
ぼくは
しかとした記憶は今、思い出しきれないが、その頃の二十銭を消費することが、二人の児童の買食いでは、いかに骨が折れた事かは、腹にこたえて覚えている。
まず汁粉屋へ入った。およそハガキ大の餅が入っていて、たしか一銭か一銭五厘だった。南京豆やアンパンをふところに、賑座の立見を見た。出てからまた、犬コロのように買食いして歩いた。しかし二十銭はどうしても費い切れなかったものとみえる。まだ二銭銅貨を一枚あましていた。
アブ公とは、どこで別れたのか、日の暮れ方、ぼくは狸みたいな腹をかかえて、車橋の上を帰ってきた。ぼくの手には二銭銅貨が残っていた。銀貨よりも遥かに大きな二銭銅貨を持ッてしまって、ぼくは途方に暮れた感じだった。もちろん、持って帰る勇気はない。
ぼくは石でも
その後、ぼくはアブ公と遊ばなかった。道ではよく会うが、向うでも澄ましていた。買食い事件だけでなく、もう一つ子供同士でも、へんてこな後味を持った事があった。
ぼくの家のすぐ庭先から、眼の下の低地には三、四軒の屋根が覗き下ろされる。日曜の朝になると、その一番奥の屋根の下から、讃美歌のオルガンが
帰りには、美しいカードをくれたり、そこの主人と奥さんが、面白い話をしてくれたりする。ぼくも日曜日の朝になると、大勢の子等と一しょに、畳の上で讃美歌を合唱した。アブ公とはそこで友達になったのである。
家は、ふつうの借家で、八畳と四畳半ぐらいな部屋の
家は近いので、日曜でない日でも、ぼくは彼女に近づくことが出来た。ところが、ある日の午後、彼女を誘うため、その家の裏庭の縁側から、少女の名を呼びかけた。家の中には、誰も見えない。留守なのか、と帰りかけた。すると奥で
ぼくは奇妙な気もちに行き
母は、ぼくを、よく口ぐせに「医者にしたい」と云っていた。父は「ばかをいえ、これからは貿易だ、事業家にする」と云っていた。母の考え方は、母が娘時代を近藤塾で過していた影響であったろうし、父は自分のやっている輸出入業や桟橋会社の事業が好調のさかりだったので「わが子も、将来は横浜で」という考えだったにちがいない。
ぼくは八ツの尋常二年頃から、学課が終っても、毎日、ただ一人だけ、二時間ずつ、学校に残された。そして、一人の英語教師から、英語の単独教授をうけた。
これからは貿易だ、英語だ、という考えと子供への方針から、父が特に山内先生に依頼して、ぼくに早くから外語を身につけさせようとしたものだった。
もひとつの理由は、ぼくの素質と素行を見て、親の眼から「これはいかん」と、何か父の頭に、教育方針の一変を思わせるものがあったのかもわからない。
何しろ、ぼくは遊べなくなっていた。この頃から急に、父のあり方が、前にもまして厳格な存在に映ってきた。父は、かつて自分が受けた通りな子弟教育の範を、封建そのものの薫陶を、子のぼくへ、課し初めて来たのである。
毎日の学科がすむのは、午後二時か三時頃である。もう級友はみな帰ってしまい、ガランとした教室の中には、ぼくと英語の先生だけが残っている。ナショナルのリーダーの一を前に“It is a dog”だの“It is a hat”などを繰返しているうちに窓外は薄暗くなってゆき、帰りたさ、遊びたさに、堪らなくなってくる。
自分も知らないうちに、リーダーの上へ、涙をぽろぽろこぼしたりした。これを半年ほどやってゆくうちに又、九歳の一月からは、もう一つ夜学の励みが加えられた。
夕方、家に帰ると、すぐ晩飯を食べてから、今度は、前に書いた少女の家のスジ向いに住んでいる漢学の先生の所へ、毎夜夜学に通うのだった。
この先生は、お母さんらしい老婆と学生の弟さんと三人暮らしで、奥さんはなかったようだ。水戸の人で、岡鴻東と覚えている。まだ三十がらみの小づくりで温容な人だった。いつも黒木綿の紋附の羽織を着、袴をはき、ぼくのお辞儀に対してさえ、礼儀正す風だった。桑の木か何かの小机をおいて、先生と向いあうのである。
いちばん最初に先生から示された教科書は、“中学漢林”で、外史や十八史略の抜抄であった。それで多少興味づけられてから論語や小学の
だが、いくら家の近所にしろ夜学が終って帰ると、もう八時か九時近かった。その頃、父も会社から帰っている。そして時にはまた、父の前で、英語と漢学の復習をさせられた。わずかな時間だったろうが、これが何より辛くて、いちばん長い時間に思われた。冬の夜などは、室内の暖かさに、どう気をひきしめても、つい居眠りが出てしまう。
そんな時、父から一喝を喰うのは、のべつだったが、ある夜の如きは、いきなり父が立上がって、縁側の障子を明けたと思うと、ぼくは外の庭へ突き飛ばされていたことがある。忘れもしない、その晩は雪が降っていた。母の姿が廊下に見えると「ばかっ、誰がゆるした。上げてはいけない。雨戸を閉めてしまえ」と、障子の内でなお父の云うのが聞えた。
ぼくは、わんわん泣き
父がぼくに課したことは、もちろん父の愛情と信じてしていたことであろう。なし易い小愛を超えた父性の大愛とも考えていたにちがいない。今の父親や教育者には理解しがたいものだろうし、現在のぼく自身にも、到底できない。
けれど間違いなく、こういう父性と家庭環境に
暴風雨の日曜日だった。
日曜日ではあったが、父はなにかのため、その朝も会社に出かけた。当時は、お弁当の配達屋さんというのがあって、毎朝、箱車を曳いて勤め人の家々から、お昼の弁当箱を集めて歩く。そして正午までに、それぞれの主人の出勤先へ弁当を配達してくれるのだった。
その配達屋も日曜日は休みである。ところが、父はその朝出がけに「英と、きの(妹)に弁当を届けさせろ」と母へいいつけて出たらしい。ぼくは、ぼくより二ツ年下のきのと一しょに一本の番傘を斜めに持ちあい、大あらしの中を二人とも裸足で、海岸通りの桟橋会社まで、父のお弁当を届けに行った。――その時は父も上機嫌で、会社の小使部屋で、兄妹に一品洋食を取ってくれたり褒めたりしてくれた。そんな時は、父の姿が又なく温かな大きな父に見えた。
ぼくは子供の頃から、何が嫌いといって、牛乳ほど嫌いなものはない。何でも四ツ五ツ頃、大病を患って、ムリヤリに牛乳を飲ませられたことが原因らしいのである。
それの嫌いは、この年になってもまだ直らない。家族が牛乳を飲むのに使ったコップは、いくら洗ってあっても、口のそばへ持ってくると「――牛乳を飲んだね、このコップで」と、すぐ分ってしまうのである。バタ、チーズは何でもないのに、牛乳と聞けば胃が拒んでしまうのだ。
それと、も一つのニガ手は、英語である。英語は必修課目として、父があんなにまでして、ぼくの幼少頃から身につけさせようと計っていたものなのに、父の意図は、子のぼくにとっては、全く、ぼくの胃と牛乳の関係みたいなものになってしまった。日も暮れかかるガランとした学校の教室にただ一人残されて、ナショナル・リーダーへ、ぽとんぽとん涙をこぼした童心の牢獄感が、いつかしら胃が牛乳をつきあげるのに似た特異質をぼくの中に育成していたのであった。その後、年を経てからは、語学の欠如に自分でも気がつきもし、また大いに後悔もして、ある期間は、文学書の耽読をやめて、それの勉強に専念したこともあるが、語学ばかりは、頭に入らないのみか、てんで体が拒んで根気もつづかないのだった。今でもなお牛乳と英語にたいするぼくの生理には変化がない。
まもなくぼくの家はまた、横浜市の西郊にあたる南太田へ移ったので、ぼくの
ぼくは幼少時にその頃の東京を二度見、その頃の汽車に二度乗った。いちどはまだ小学以前か一年生頃であった。母に連れられて母の郷里の佐倉へ行ったのである。おそらく母にとってもそれは結婚後ただ一度か二度の愉しい帰郷であったかと思われる。
今では日帰り距離にすぎないが、当時は横浜から千葉県佐倉への旅行というと、ひどく
その時の旅行では、母と共に東京の親戚の家に一泊した。母の実姉が嫁いでいた先である。北白川宮の邸内に住居があった。
泊った翌朝、宮家の事務官と伯父のあとにくッついて、邸内のあちこちを見あるいた記憶がある。若宮様のお部屋と聞かされた所にニッケル色のレールが大きな円形を描いていて、それに精巧な玩具のアルコール機関車が乗っていたのを、誰かがその汽車を走らせてぼくに見せてくれた。
終戦後はよく、大人までが面白がって、貨車、機関車、停車場、レールなどの部分品を買い集めては組み立てたあの舶来玩具なのだが、その頃としては、宮家でもなければ無かったものだろう。幼時の記憶で何かといって、この豆汽車が走ったのを見た時くらいびっくりしたことはない。
母の義兄の斎藤恒太郎は、語学者としては、明治の三斎藤といわれた一人だそうで、学習院教授をしていた傍ら、宮家の教育掛りをも勤めていた関係上、北白川宮の邸内に居住していた。
その斎藤家へ嫁いだ母の姉は、豊子といった。豊子は三人の子を遺して二、三年前にもう亡くなっていたのであるが、ぼくの母は、その姉の愛情によほど忘れえないものを抱いていたらしい。
ぼくなど全然その伯母を見ていないのだが、面ざしや輪郭まで、まざまざと会った人のような錯覚を今でも
ただ不幸なことには、ぼくの父と斎藤とは、肌が合わず、生涯、犬猿もただならぬといっていい仲であった。そのため母が泣いた例をぼくらは何度も見聞きした。何が原因か、往々、理解に苦しんだものだが、ぼく自身が成長して、複雑な人間心理やら家族制度のもつ因習の
だが日頃、母が慕う親身の人と覚えていたぼくは、後に、苦学の志望をもって出京した時、その斎藤家の玄関を一ばん先に頼って行ったものだった。それやこれやもあるので、この伯父のことはもっと知っておきたいと考えていたが、もう旧事を知っている人も周囲にいないので、文芸春秋誌上で母の生い立ちにちょっと触れたさい、姉の嫁ぎ先の人として、唯その氏名を引合いに出しておいたに過ぎなかった。
ところが、つい最近、文春の一読者として、思いがけない人からお手紙をもらった。それに依って、さきに書いた近藤真琴の攻玉舎の事だとか、母と斎藤との関係なども、ぼくの忘れ残り程度でなく、かなり具体的に分ったのであった。じつはお手紙をくれた方には無断なのであるが、さして御迷惑にもなるまいかと思って、文面の一部分をそのまま次に引用さしていただいた。
――(前文略)
文芸春秋の“忘れ残りの記”をおなつかしく拝読いたしました。実は私の母は近藤真琴の次女でございまして、たまたま貴方様の記を読み聞かせましたところ、貴方様の御母堂とは従姉妹同士のよしで、貴方様がその従姉妹の御子息にあたるのかと云ってまことに驚いておりました。
近藤の家でもみな故人となって、孫達は大勢いますが、昔の事など知っているのは母一人になりました。母は数え年八十になりますが、今のうちおたずね下されば聞きとって何なりとお知らせいたします。
念のため、私の母と御母堂との関係やら近藤家のことを略記いたしますと、次のようになります。
近藤真琴の妻真樹 (前名幸子 )が御母堂の母上の御姉妹です。佐倉藩の吉益という家から出ております。(中略)――貴方様の御母堂は、私の母が芝新銭座の近藤塾(攻玉舎)の娘でいた少女の頃、よく存じあげており、仲よく遊んだものだと申しております。その頃、御母堂には斎藤恒太郎氏(攻玉舎の英語教官)のお宅に姉上と御一しょに居られました。
ついで乍ら申しますと、私の母は後に鈴木金一(日本郵船機関長)という者に嫁し、母の長兄近藤基樹は海軍中将(男爵)で昭和四年に物故いたしました。また姉の婉 子は海軍造船中将(男爵)山内万寿治に嫁して昭和十七年に亡くなり、次兄輔宗は外国商館に勤めておりましたが、これも昭和三年に亡くなっております。
私の主人河内信弥太は、現在、北海道銀行東京事務所長をしており、事務所は麻布本村町八三でございます。何ぞまたお問合せのことでもございましたら主人まで御連絡くださいませ。(後略)――
文芸春秋の“忘れ残りの記”をおなつかしく拝読いたしました。実は私の母は近藤真琴の次女でございまして、たまたま貴方様の記を読み聞かせましたところ、貴方様の御母堂とは従姉妹同士のよしで、貴方様がその従姉妹の御子息にあたるのかと云ってまことに驚いておりました。
近藤の家でもみな故人となって、孫達は大勢いますが、昔の事など知っているのは母一人になりました。母は数え年八十になりますが、今のうちおたずね下されば聞きとって何なりとお知らせいたします。
念のため、私の母と御母堂との関係やら近藤家のことを略記いたしますと、次のようになります。
近藤真琴の妻
ついで乍ら申しますと、私の母は後に鈴木金一(日本郵船機関長)という者に嫁し、母の長兄近藤基樹は海軍中将(男爵)で昭和四年に物故いたしました。また姉の
私の主人河内信弥太は、現在、北海道銀行東京事務所長をしており、事務所は麻布本村町八三でございます。何ぞまたお問合せのことでもございましたら主人まで御連絡くださいませ。(後略)――
河内喜代子
前掲、河内夫人からのお手紙をうけてから、ぼくは母の少女像を一そう濃く描くことが出来、また、母が少女時代からすでに郷里を離れていた事情だの、斎藤家との浅からぬ由来などもよく分って来たのであるが、同時に、これまでの中で訂正しなければならない部分も生じて来た。
というのは、ぼくの両親の媒人は、横浜在住の吉益という吉益東洞派の漢方医とさきに書いたが、やはり佐倉の人で、ぼくの母の母方の生家でもあったのだ。そうと分れば、近藤家と密接なのは当然だし、その吉益の口ききでぼくの母が横浜へ嫁いだわけも
ついでに、なおもう一つ書き添えたいことがある。前述の河内夫人のお手紙に見える河内信弥太氏が、後日わざわざ、私の宅をお訪ね下すった事である。それで私のえがいていた母方の縁ぺきやら生家の模様も一そうはっきりしたし、かつまた、そのさい河内氏から聞いて意外に思ったこともある。一昨年頃、重要無形文化財に指定された人形作家の堀柳女さんの実家と、私の母方の生家とは、おなじ佐倉藩であるばかりでなく親戚関係でもあったという。私はそれ以前に、文春から出版された柳女さんの著書“人形に心あり”なども読んでいたが、ゆめにもそんな点は気づかずにいた。けれど河内氏からそう聞いて、さっそく、もいちどその書を
つい横道へそれたが、とにかく東京(明治三十年前後の)という大都会にちょっとでも触れたのは、母と一しょに佐倉へ行った途中の青山一泊が、ぼくには最初のものだった。
そして斎藤家を辞した翌朝である。忘れもしない、青山から本所の両国停車場までの長丁場を、ぼくと母とは人力車にゆられて行った。何度も途中で俥が止まり、ぼくは母から呼び起された。すぐ居眠ってしまうのだった。季節は晩春だったような気がする。途中、人形町で俥を休め、土産物を買ったり、梅園のお汁粉を食べたりした。
――佐倉のおじいさんは、ぼくら孫たちが、身のうちに持ちあっていた温かな愛像だった。その頃まだ、
この折の旅行の帰途で、忘れ難い出来事が、も一つある。以前の新橋駅(汐留)であった。母は大きな信玄袋や何かをぼくの足もとにおいて、「このお荷物を見てるんですよ。いいかい、お母さんはあっちで、切符を買って来るからね」と、駅内の大きな柱の下にぼくと荷物をのこし、やがて人混みに見えなくなった。
まもなく、母は切符を買ってもどって来た。だがどうしたのか、ぼくは知らない。ぼくの足元の大きな信玄袋は消えて失くなっていた。母は眼のいろ変えた。やがて巡査や駅員がやって来た。大勢の旅客が輪になってぼくらを取巻いた。ぼくは何か責任を感じたものらしい。手放しで泣き出した。よほど大声で泣いたにちがいない。誰かにあやされながら、汽車に乗せられたが、汽車の中まで、泣き止まなかった。
その事は、ぼくが大きくなってからも度々母の一つ話に聞かされた。しかし、スリか何かに盗られた大きな信玄袋――
蒲焼には毎度お目にかかるが、近ごろ、鰻の白焼キは、お客の方でもあの特有な味を忘れているらしい。どうかして宮川とか熱海の重箱などでこれに出会うと、ぼくは人知れず、遠い以前の新橋駅をすぐ思い出すのである。
二度目に、東京を見たのは、小学三年生の時の春だった。
上野に“全国児童選書展覧会”というのが開催され、ぼくのお清書も入選して展示された事かもしれない。山内先生以下、数名の生徒や父兄附添いで、横浜からわざわざそれを見に行った。
一行十名足らずで、校長先生の引率といっても、頗る行楽気分な家族づれだった。ぼくには母も誰も附いていなかったが、女生徒には父兄が一しょだった。その中に、加藤何子という同級の女生徒がいた。日頃からその子も嫌いでなかったけれど、宮崎千代子という子の方が、もっと好きで、もっと綺麗に思われていた。その二人とも同じ旅行の中にいた。だからよほどこの修学(?)旅行はぼくには愉しいものだったに相違ない。
けれど、その二少女を対象としての幼い恋とか感傷などは、何一つ後々には残っていない。上野から浅草へ廻って、宇治ノ里の小座敷に行儀よく並ばせられて、お昼飯を食べたぐらいなものである。ところが、へんな記憶がつよく印象づけられていた。附添いの中にいた加藤さんのお母さんに、鉄道馬車の中で膝に抱かれた事なのである。
あの時代の浅草、両国、京橋、銀座――を、トコトコと馬糞だらけにして走っていた鉄道馬車なる文明の乗物を、今でも鮮らかに眼に描くことができるのは、加藤さんのお母さんのおかげかもしれない。その婦人はもちろん三十をすぎていたに違いないが、何か、少年の眼にも優れた美人型に見えたのである。単に美人であるばかりでなく、横浜風の盛装か、髪も指も帯留も宝石に
人力車でゆく青山から両国駅までの間も、寝飽きるくらい長かったが、浅草から銀座、新橋間の鉄道馬車もずいぶん乗りでがあったように思う。きっと途中で乗客が混み合ってきた為であろう。加藤さんのお母さんが、だまってぼくの体を膝に乗せた。ぼくは体をむずむずさせ、少し拒むような素振りをしたと思う。すると加藤さんのお母さんは、なお深々とぼくを抱きかかえ、ぼくの顔へ頬をよせて窓外の京橋や銀座を説明してくれたり、やがてぼくが
ぼくは自分の偽れない羞恥を人前に
いま、指で年齢を繰ってみても、それがぼくの十歳の春であったには相違ないことは、ぼくが特に早熟であったのだろうか。それとも十歳といえばもう共通な男の子一般の性現象と見ていいのだろうか。――とすれば案外、自分が親になって来た年代になると、われわれ親たちは子どもらの性について、ちっとも真剣に考えていないという気もしてくる。なぜなら、自分の幼時の体験や現象には、とかく眼をふさいで子を視る風があるからである。どうもこの方が共通な親たちの現象であるといえるかもしれない。
父はやたらに世話ずきな人だった。もっとも、自己の順調なときには誰にせよ寛容のあるものだが、ぼくの父もよく人のすったもんだを背負い込んでは奔走して廻ったり、自宅に大勢の客をして
ぼくらは自分らの家庭に一人の異国人が加わった事に異常な興味と物珍しさを覚えた。可愛がったというよりもオモチャにして歓んだわけかもしれない。マドロス氏の方は、人に馴れない小動物みたいに常におどおどした眼と、作り笑いばかり見せていた。それでもこのマドロス氏は、半年ぐらいぼくらの家にいて、お風呂の水汲みをしたり不器用な手つきで庭を掃いたりしていた。ところが、ある朝、姿が見えなくなってしまった。父の部屋で、母が嘆いている声がしていた。
「……だから私が、云わない事じゃないんですのに」
この朝、会社へ出てゆくときの父の、何ともまずい淋しげな顔つきといったらなかった。
家族以外な食客も常に何人か居た。これは食客とはいえないが、母の実兄で、横浜灯台局の技師として赴任してきた山上清という、ぼくには伯父にあたる人も同居し、まもなくその弟の土木技師の三郎という叔父も来、その上、ぼくの小田原の義兄政広も横浜の左右田銀行へ勤めるようになって、共に住むというような大家内になっていた。
とても、家が狭いというので、遊行坂の道路に面したすぐ近くの借家をべつに借りうけ、食客や伯父たちはみなそっちに雑居し、朝晩の食事はこっちから女中が運ぶという形をとっていた。
その連中も、父の姿はひどく怖れ
そのうちに、伯父の山上清が、ある晩、発作的に精神病的な
ほかの者には、誰にもそんな兆候は見ないのだが、まちがいなく、ぼくの母系からは、その伯父と叔父の二人までが、正真正銘の精神病にかかっている。もし精神病が遺伝的なものならば、係累のどこからか、いつ忽然と、第三の実証を示す者が立ち現われないとも限らない。
どうかした時、ぼくはぼく自身の血液のなかにも、何かが潜んでいやしないかというような恐怖の
家が、南太田の赤門前へ引っ越したのは、ぼくが九歳の秋頃である。南太田尋常高等小学校へ転校した。こんどの学校は、家からも近く、駈け足でゆけば二分か三分だった。赤門前というのはその辺の俗称で、正しくは、横浜市南太田清水町一番地と書いた。
いとも閑静な、そして小さな町で、清水町は一番地から四番地までしかないのである。戸数も何軒と数えられるようなその真四角な住宅地の周りを、西北の戸部山や久保山から流れてくるきれいな小川が繞っていて、どの家の門にも、その家だけの小さな橋が
ぼくの家は、赤門とよぶ寺の山門通りに面した角地であった。だから家の横にも前にも、その
家の前は広い三叉路で、北へいくと、鉄温泉とよぶ鉱泉宿があった。南には、すぐ南太田小学校の校舎が望まれ、普門院というお寺やら、
それと、もひとりその頃の著名人として伊藤
或る朝、学校カバンを肩にかけて、家を出てゆくと、近くの
痴遊は、その頃、雲井町の雲井座という小屋を持っていて、ぼくら子供心にも、壮士という名で通っていた。壮士とは何の意味であるか分らなかったが、ただ恐い者だという観念があった。――後年、痴遊の政治講談をどこかで聞いたことがあるが、近所にいた頃は、顔も見たことはなかった。痴情騒ぎなど近所に聞えたので、やがてすぐ他へ移って行ったものかもしれない。そういう些細な事すらも、すぐ近所への不体裁とか
元来、ぼくの父は大酒家だった。ことに一頃の父の姿は酒狂の人みたいにぼくら子供たちの眼には
幾歳になっても、親を語るばあいの自分はやはり子供なので、親の追憶像を人なかへ示すだんになると、子としてつい親びいきみたいな心理が手つだってくる。何も偽ってまでよく書こうなどとは決して思わないが、余りに非常識な点だの人間的な短所などは、わが親の像として、何だか
だがこんな観念は、近来の十代二十代で早くも親を批判の的とするに馴れている新時代の子たちには、およそ愚にして気の知れないものかもしれない。しかし、ぼくらの内にある古めかしい骨肉感も決して親の威圧で植えこまれた残痕ではなく、否定できない肉体上の、分身の責任感から来るものなのである。つまり父の酒狂像も人間的短所も、ぼくら数人の子へ、まちがいなく多少ずつ遺伝分配されていたにちがいなく、父が現世でやった影踊りは、自分の影でもあるような羞恥を覚えるからだった。
日本間なのだが、二階の父の寝室には、大きな西洋ダンスがおいてあった。あらゆる種類の舶来酒がその棚に並んでいる。
父は、寝しなに限らず、枕元にもそれらのビンを並べさせて眠った。ぼくは真夜中によく眼をさました。そして、父の部屋でする微かな物音に耳をすましたものである。それは猫が舌ツヅミでも打つような怪しさに聞えた。ふと、深夜に眼をさました父が、寝床の中で腹這いのままジンやブランデーなどを独りでカクテルしては飲んでいるのであった。二度でも三度でも、眼が醒めさえすれば飲む。それが父の習性だった。
一升酒というが、父のは底が知れないと、母はよくなげいていた。朝の出勤前から父の姿には酒の香がぷんぷんしていた。
自転車はまだ横浜でさえ珍しい物の一つだった。父はその自転車で通勤もし、よく乗り廻っていたらしいが、自転車の上でもポケットからウイスキーを出して飲み飲み走っていたという噂などを母に告げる人もあった。そのくせ泥酔自転車で往来の雛妓を
桟橋に繋留中の外国船内で、外人の船長、事務長などを相手に一昼夜飲みつづけ、あげくにそれらの外人数名をつれて、大森のあけぼの、新橋の花月と飲みあるき、その間、飯らしい物は口にせず、幾日目かに横浜へ帰って来た。そしてその船の出帆を見送るとすぐ桟橋で血を吐いて
吐血は、それ以前にも何回か見ていたらしい。思うに、もうその頃、
父は漸く男の四十代を踏みかけていた。遊行坂時代から清水町頃までは、会社も隆運にむかい、横浜
母などは
だから微酔のうちの上機嫌な父はいいが、怪しくなると、ぼくら子供を初め、家の内は颱風下の停電みたいなものになる。ぼくは十一、二歳だったからまだよかった。義兄の政広は
家には刀剣などもあったらしい。母は、万一を
そういう後では、父はさらに大酒を
やがて父も二階で酔い
ぼくら小さい子供らになだめられつつ、その中で、泣けるだけ泣いてしまう事だけが、せめて母が諦めに帰ってくる唯一の方法か、心の処理であったようである。だからぼくは暴逆な父の姿と、母の泣き顔の像とは、今でも絵に描けそうなくらい強い印象を網膜のうちにもっている。特に母の泣き顔の記憶はつよい。ポトポトと小鼻のわきをつたう涙の
父の酒狂ぶりと母の苦労を書けば限りもない。けれどその他の事も大体似たりよったりのものである。そして、結果においては父の酒癖がついに没落の因ともなり、晩年ずっと病床から起てない
ぼくたちは、そんな上機嫌の父親を見すますと、父の膳を取巻いて、父へたかッてみせる。「後ろへ仆したら御褒美をやる」と云う父の後ろから、ぼくたちが大勢して、頭を押したり、喉くびを締めたりして仆そうとする。父と子供らと取ッ組み合いになる。父の髭にジャリジャリこすられると、ひどくこっちは痛い。そして、父の
上機嫌な父を終日見たのは、父に連れられて杉田の梅林へ梅見に行ったときである。あちこちの腰掛け茶屋で一本飲み二本飲み、父はいつか泥ンこに酔ってしまった。乱痴気な酔漢を路上に見るのは珍しくない時代であったが、父の酔態は、そんな酔ッぱらいの多い梅見客の中でさえ人目をひいた程だった。ぼくはまだ小ッぽけな少年だし、人目にもきまりが悪く、この父親を連れて帰るのにまったく当惑した。父は磯子のトンネルを出た所で、浜辺の草むらに寝てしまい、ぼくは夕焼けの海を見ながらベソを掻いていた。そのうちに、通りがかりの俥屋が
めったには、子供など連れて出ない父だが、もう一ぺんこんな事があった。夏の夕方である。めずらしく
すると父は、
けれどぼくは帰ると、有りの儘を正直に母へ話したものとみえる。そんな事はもう忘れていた頃、父は晩酌の膳に向いながら、いきなりぼくへ「貴さまのような奴は大ッ嫌いだ」と、烈しい口調で云った。「一たん男が云うなと云われた事は、口が裂けても云うもんじゃない。それを、なんだ貴さまは。貴さまみたいなオシャベリな奴は見るのもいやだ。あっちへ行けっ」と、ひどいけんまくで叱られた。理窟も何もあるのではなく、父は極端なエゴで極端な感情家だった。そして、自分の暴言を理由づけるためには、自分が幼時にうけたサムライ格言をもって来て、母にも子供たちにもそれを鉄則として
これだけは両親の談合上で仲よく始められた事にちがいないが、父や母の考えが、どこにあってやり出した事なのか、ぼくには今もよく分っていない。というのは、何不自由もない父の全盛期であったのに、家に大工が入って、表門も玄関も改造しはじめ、ぼくの家はとつぜん“みどり屋”という
近所ではみな眼を
だから門を取払って、玄関から建て出しを設け、そこを店舗としてみたところで、お客はいちいち小橋を渡って来なければ商品を覗くことさえも出来ないのだった。
すぐ南隣りは、
けれど父は大真面目でこれに資本をつぎ入れたものである。“みどり屋”という屋号は、父の出生地である小田原の緑町をとって名づけたものだと母が云った。母はまたぼくに向って、「お父さんは、どうしても
赤門前の“みどり屋雑貨店”は、こんな風に父が始めたものだった。父は、その頃の金で三千円を投じたといっていた。いわゆる士族の商法だった。松影町で松屋といっていた内外雑貨問屋がある。仕入れは一切、松屋まかせであったという。
いよいよ開店の前日などは、松屋の番頭小僧が七、八名もやって来て、夜通しタスキがけで商品の陳列やら正札附けにかかり、松屋の支店みたいな恰好で働いていた。そこへ祝い物が届くやら、来客や手伝い達に酒を振舞うやらで、徹夜のお祭り騒ぎであった。
そしてさて、福引附きの売出しを始めてみると、その三日間だけは、お客も物珍しそうに、店の前の小橋を渡って買いに入って来、店番には、松屋の番頭が三日だけ坐ってくれたので、母もぼくらもただ奥の茶の間から店の景気を覗きあって、
「そら、またお客さんが入って来たよ」とか、「あれも売れた、これも売れた」などと面白がっていただけにすぎなかった。
けれど福引がなくなると、がたんと客足は減り、たまに客が入って来ても、母はお愛想を云うのさえ顔を
以前からの習慣で、
ある朝、父の出勤間際、父はカゴ虎の俥に乗りかけながら、
ぼくが学校から帰って来ると、店には店番もいないのに、奥の茶の間では、三味線の音やら賑やかな笑い声がしていることがよくあった。
妹たちのために、一週間に何度か、踊りのお師匠さんが来る。それをすすめたのは、どうも義兄の政広らしい。義兄は小田原の花柳界で育ったので、踊り、長唄、芸事なら何によれ上手であったし、また好きであった。もちろん父の承諾をえた上だろうが、母も父の放埒な行状や家事の行く末にクヨクヨするのを忘れて、せめてそんな事にでも気を紛らわせようと努めていたふうがある。
踊りのお師匠さんはソレ
外人との間にできた子は、その頃もう十七、八になってい、エリザベス女王型の美人であった。ぼくたちは「オテイちゃん、オテイちゃん」と馴れッこく呼んでいた。オテイちゃんは洋装したことがなく、いつも
オテイちゃんは陽気な性で、オテイちゃんがわが家へ来ると、母も日頃の苦労顔をどこかへやって笑いこけるし、家中がオテイちゃんにつりこまれて陽気になった。
オテイちゃんには一人の妹がある。ふみちゃんといった。ふみちゃんはぼくと同級生であり、気だても姉とは正反対に内気にみえる。そしてこの妹の方は、近藤夫人のいまの旦那の子であると聞かされていた。そう聞くと、どこかお坊さんの子くさい所もあった。けれどぼくは、おない年でもあり、ふみちゃんとよく遊んだし、また少年期の初恋みたいなものをほのかに抱いていた。
けれど、ふみちゃんは、姉と一しょにぼくの家へ来ても、めったにぼくへ口もきかないし、遊ぶといっても打解けてはくれない。唯一ぺん、月の晩、大勢で隠れンぼをしたとき、二人してよその
一葉の“たけくらべ”をみると、浅草界隈の事だったあの時代の世間が、横浜のぼくらの子供仲間にもそっくりその儘あった気がする。オテイちゃん姉妹のことを、今でもこう鮮らかに瞼に描けるのは、やはりもうぼくの少年期にも、はっきりした異性への思慕が芽生え出していたからであろう。けれど、ふみちゃんに関するかぎり、思い出せる濃い記憶は、その月の晩一ペンの事でしかない。ふみちゃんは、学校の卒業まぎわに入院し、やがて病院で死んでしまった。胸が悪かったのかもしれない。ふだんからそんな翳のみえる少女であった。
陽気なオテイちゃんは、いつも陽気に見せている裏に、じつはぼくの義兄政広に恋していたように思われる。けれどオテイちゃんも恋をすると日本娘とちがわなかった。はにかみやら周囲の眼に怖れて、ほんとの想いとは逆に、まったくべつな形で振舞っていたものらしい。少なくもぼくの母を初め女中たちまでが、そんなふうにオテイちゃんの胸を見すかしていたように思う。
ひと頃、やはり近藤夫人の
それにしても、義兄の政広の姿が、ぼくには
ところが、この兄も、そんなやさ男のくせに、じつはなかなか剛情な人だった。長年、実父を離れて育ってきた叛骨も内にもっていたのである。だからよくお談義をくうと「ぼくは独立します」と云っていたものだが、ついに父と大喧嘩してまもなく家を出てしまった。そして、元町辺のある相場師の二階に間借し、そこから左右田銀行に通っていたが、いつのまにかそこの娘のお八重と恋愛におち、お八重は義兄の子を宿していた。
まもなく、ぼくには
義兄が結婚したのである。
いきさつは、後での事にするが、とにかく自分たち家族の中に、若いきれいな嫂が忽然と生活に加わったことは、やや何かが分りかけつつあった十一、二歳のぼくという弟にとっては、内々、小さくない動揺であった。生理的にも精神的にもである。朝夕、まばゆい気もちだった。それまではそう身近に知らなかった粘液感を伴う匂いなどに知らず知らず敏感になっていた。のべつ理由のないはにかみに行き会いながら、そのくせ、嫂が義兄にそっとしてみせる一
すべては少年の“性”の変形であったとおもう。本来の芽を嫂の美に促進された性細胞が、複合的にその発育を目ざましくしている事にすぎないのであろう。無自覚な
そんな意味で、嫂のお八重という人の存在は、わずか半年そこそこでしかなかったけれど、弟のぼくにも、成人への一段を、踏み上がらせていた人だった。
ぼくの眼には、
朝といえば、ぼくらの家でも、店を開けるやら父の出勤支度やら、ぼくら大勢のチビが一人一人学校へ出てゆくやらで、母も女中も一
もっとも、ぼくらと一つに暮し初めてから幾月もたたないうちに、嫂のお腹は目だって大きくなっていた。彼女にすれば、初めての経験だし、起ち居も苦しいのであったろう。母は、ぼくの義兄とは、文字どおり義理の仲なので、なおさら気をつかっていたに違いなく、始終、嫁を
また、気むずかしいはずである父の方も、元々、結婚前の妊娠を認めて家庭に入れた事であるから、それについては勿論、ほかの点でも一切、
つまり、感情の激発やら、折衝のいざこざなどは、結婚にいたるまでの事前に、もうさんざんやってしまっていたのだ。そして、以後の苦しそうな緘黙は、その紛争に負けた父がいやおうなく支払わせられていた敗北の賠償だったように思われる。
さきにも、ちょっと触れたが。
義兄が父と喧嘩して「ぼくは、ぼくで独立します」と威勢よく下宿生活へ移って行ったのはいいが、まもなくその下宿先から飛んでもない尻が父の
これが元町の山田という相場師だった。銀ギセルを横
義兄の政広が、下宿中に、妊娠させたのは、この人の娘だった。「どうしてくれる?」という事になったのだろう。強硬な相手に出会うと相手を超えて強硬になるのが父のつねだった。父と山田とのぶつかりあいは闘牛場に選び出された二頭の角ツキ合いみたいな結果しか出なかったろう。――何でも薄々ぼくらも覚えているが、見つけない、いろんな男が掛合いに来、また仲介人が入ったり、しまいにはお茶屋の女将らしい人々まで来て、父の居ない留守に母を説くなど、ごたごたし通していたような記憶がある。
こんな問題は、今なら殆ど問題になるまい。しかし明治の静かな世間では、
挙式はどこでしたのか、式も披露宴も、自宅で行ったのか、その辺はよく覚えていないが、とにかく嫂の嫁入りは夏の暑い頃であった。二階の四部屋ほどが全部客席にあてられ、階下には茶屋の女将や男衆までが来て配膳にかかりきっていた。ぼくら子供は、この盛観にはしゃいで、口取りのキントンや
ただこんな時には、いつも手伝いに来てくれて、陽気な調子で、茶の間や台所じゅうを笑わせ抜くあの混血娘のおテイちゃんが、その日は姿も見せなかった、おテイちゃんだけでなくお母さんの近藤夫人も二階のお客の中にいなかった。もっとも、おテイちゃんの足が自然遠くなったのは、その前からのことで、薄々、義兄と下宿先の娘のことも、耳にしていたにちがいない。ぼくにはまだ、おテイちゃんの気持ちになってみるまでの能力はなかったが、後で思うと、おテイちゃんはその晩、独りでどこかで泣いていたのではあるまいか。ただし、それはぼくの想像である。ぼくが当夜の義兄ぐらいな年齢に達してからそう思われた事にすぎない。
披露宴からすぐ新婚旅行へ立つという極りのいい今の習慣は、あの頃にはまだ無かったのではあるまいか。欧風米式、何でも新奇を競って、東京人の洋服や着こなしを、田舎くさい官員さん好みと笑い、ナンキン町仕立ての洋服を
だから義兄の結婚も万事家庭で行われたのだろうが、偶然ぼくはその為に、当夜、花嫁花婿の初夜の有様を何とはなく見てしまったのである。
いつもは二階に寝るのだが、その晩の部屋の都合から、ぼくは階下の中庭をへだてた向う側の一室に寝かされていた。夏なので十畳蚊帳いッぱいに、寝具は三ツ敷いてあった。その端の一つにぼくは寝ていた。
どうして眼が醒めたのか、ぼくはふと、うつつを覚えていた。もう夜更けていたに違いないが、まだお客の笑い声やら片づけ物の忙しげな音が遠くでしていた。そして見るともなく蚊帳の中を見まわすと、真ん中の寝床は宵のままだったが、それを
ほの暗かったが、花嫁の白い顔の一端がすぐ分った。その白さがまるまるこッちへ見えないのは、義兄の顔に隠れているのだということもすぐ
いま考えてみるのに、まじまじとそれに視覚を灼きつけられながらもその連想がすぐ生理的にぼくの体にあらわれたり、悩んだりしたような覚えはどうもなかったとしか思われない。それよりは、男と女とがそうして寝るという実際を初めて見た驚異の方がまッ先にぼくを
もっとも、ぼくの印象自体が、じつは半寝ぼけであったかもわからない。けれどそれにしても胸がつぶれるような息のこらし方をしていたし、そうしているうちに、花嫁と義兄の影がそこはかとなく寝姿のかたちを
――ま、それらは、ともかく、肉親の縁にも薄く、孤独と不幸をすでに幼少の生い立ちから持っていたような義兄政広は、こんな風に、また結婚の一歩を、複雑に踏み出していた。そしてその結婚が、幸福なものだったかどうか、
なぜなら、そんな大騒ぎを周囲にさせて嫁いで来たのに、嫂のお八重は、それからわずか半年ほど後に、元町の実家へ帰ってしまった。それも義兄と相談ずくでもなく、義兄が銀行へ出ている留守に、買物に行くといって出たまま戻って来なかったのである。もちろん、義兄が迎えに行ったり、父と山田との間にも、再々仲人を介してごたごたの繰返しが始まったが、話の落着きは、山田の代人が、嫁入り道具衣裳持ち物の
「わかったか、貴さまは、山田夫婦から、お坊っちゃん育ちのいい鴨と見られていたのだ。色男ぶって、いい気になるからこんな目にもあうのだ」
父が義兄にずけずけ云ったことばは余りに痛烈だったから、ぼくら小さい者の耳にも沁みた。二階から逃げるように降りて来た義兄は、女中部屋の片隅でいつまでも泣いていた。その二、三日は、瀬戸物の音までが何か物淋しい家の空気と、お腹の大きな嫂の美しい姿が消えた物足らなさに、小さいぼく達まで何となくひそまっていた。
それからもよく父は「何だ、惚れた女にすら見捨てられるような男が」と義兄を痛罵したりして、その都度、義兄の顔がさっと青白んだり、母が自分の
こうして義兄の結婚は一場の悪夢に似ていた。しかし二人の仲は、元々恋愛とまでいえる程な相思の愛ではなかったのだろう。案外、その後も義兄の容子に未練もみえないし、以後、お八重の方からも、子どもが産まれたでもなし、よそで義兄と会っているふうもないので、女ごころをめぐらしては、蔭でキヤキヤ苦労していたぼくの母などは、何か独り相撲でも取っていたような思いであったのだろう。後ではかえって何かぽかんとしてしまった容子だった。
「ほんとは、兄さんもまだ子供なのね。おまえと、おなじようなんだけれど、他人の手に育ってきたから、どこか大人びているのよ。お父さんのお談義でも、もっと子供っぽくしていればよいのに、大人みたいに受けているから」
母は、自分も常に暴君の良人にこらえかねては、つい深刻な場面を、ぼくらへまま見せたりするくせに、ふと、義兄と父の仲について、そんな呟きをぼくにした事があった。
けれど、母が、異母子のぼくの義兄を、心から庇っていた優しさは、その後も変ることはなかったし、ぼくら小さい者が「兄さん、兄さん」と、寄りたかって慕う様も、父の機嫌がどうであろうと、何の変化もありはしなかった。
殊にぼくはそろそろ学科以外の読書欲に燃え出し、少年雑誌へ投書することを覚えたり、学友間でコンニャク版の同人雑誌めいた物を出しあったりし初めたので、そういう話し相手には、家では義兄以外に語る人はいなかった。よく作文を見てもらったのも義兄だし、自分の想うこと何でも、とにかく、十七文字にまとめてごらんと、初めて俳句かの如きものをぼくに作らせたのも、この義兄であった。
義兄にすすめられて、俳句らしきものを作りかけた頃の、その俳句では、ひどく心外だった事がある。
小学校での綴り方は、その頃、記事文といったり、普通、作文といったりしていたが、いわゆる文章体で、たとえば“某日友人ト観梅ニ行クノ記”とか“天長節ノ感”とか題からして漢文調のものだった。
その作文の中に、ある折、俳句を入れて、先生に出しておいたのである。水谷先生であった。この半禿頭の温雅な先生は授業熱心で生徒によく慕われていた。ところが、先生が後日、ぼくの作文を手に、顔を朱にしてぼくを戒めた、ことばの要は「作文は、自分の心を率直に云い現わし、文は自分の頭脳で綴るべきものである。いやしくも他人の詩歌などを、自分が作ったもののような振りしてさし挟むべきではない」という叱言だった。
先生は誤解している。俳句は、自分が作ったものだ。ぼくはそれを云おうとしたが、優しい水谷先生が耳の辺まで
その南太田尋常高等小学校の裏門のすぐそばに、貸本屋の看板が懸っていた。ぼくら男生徒は、そこを裏門といっていたが、女生徒専用の通用門だったのである。ぼくは、学校が
貸本屋の主人公は、学校の小使さんだった。だから顔も分っていたし、ぼくの家庭も知っていた。鞄を
なぜ家で読まないかといえば、義兄に見られても母に見つかっても、叱られるに極っている本だったからである。自転車お玉、岩見武勇伝、稲妻小僧、田宮坊太郎、鬼神のお松、何でも棚にある物は無差別に読んで行った。いわゆる大阪版という講談本だ。厚ぼったいが、読みではなく、一時間か一時間半で一冊は読めてしまう。半年もたつと、もう小使さんの家の棚には、ぼくの読む物はなくなってしまった。
ぼくのこんな悪書の濫読は、家では誰も知らず仕舞いだった。これがどんな悪影響をぼくにもったかは、いうまでもない。もし、両親か義兄でも知ったらきっとその害に戦慄したことだろう。それほどひどい物だったし、家庭人の児童にたいする読書の監視は、やかましかった。それなのにぼくは、人知らぬまに読んでいた。
貸本屋を卒業すると、まもなく縁日の露店の古本屋で、
梅暦は、ついに父に見つかって、風呂の焚き口へ
何しろ家庭も派手すぎていたし、ぼくの素質も素質だし、ここ数年の少年期が好ましい温床にあったとはどうも思い難い。しかし、父も母も、決して子の教育を放任していたわけではなかった。日課はもちろん、朝夕の礼儀、言語、服装、挙止、遊戯にわたるまで、厳格さは以前どおりである。教育方針の鉄則だったのだろう、人手もあるのに、父はわざと子供らに、風呂場の水汲みをやらせたり、遠くの使いに歩かせたり、時々、唐突な無理を命じることも前とちっとも変りはない。
源氏節のフシはいま思い出せないが、浪花節芝居に類した寄席の小芝居で、特徴は、出演者がみな女で近年のストリップショーの狙いとおなじだった。これは一時、興行物を
芝居見物という当時の通念では、一年の内でも、それはよほど恵まれた或る日の幸福で、平常、小学生が芝居を見たいからといって、家庭の父兄が許すはずもなかったし、自分の口からも云えなかった。それなのに、ぼくは土曜の晩には、例の一幕見だが、伊勢佐木町の小屋を順ぐり見ていたし、日曜なども、こっそり行って、追い込み席の中に交じっていた。
そういう小遣銭は、どうしたかといえば、金などは児童の手にしてならない物というのが常識だった頃である。何か正しい理由がなければ母へねだる事もできなかった。ところが家庭の一隅に、みどり屋雑貨店がある。ぼくは、そこの売溜めから自由に銀貨を持ち出すことができた。――自由にといっても、もちろん、家人の眼を偸んですることなので、智恵と敏捷を必要としたのはいうまでもない。こんな行為からみても、ぼくという素質がじつに危なッかしい子であったことは間違いなかった。正直、その頃の罪を意識しない悪智の例を幾つとなく考え出すと、今でも肌がそそけだッてくるような思いにたえない。
――そんなふうにすでに悪智恵も相当なぼくだったが、しかしそのぼくは誰の目からも「おとなしそうな」と見られていた。
「いつも、きちんとしていらっしゃる」と賞められたり、殊にぼくは体の小さいことと
家庭の客と、その家の少年との関係を、いまとなって考えてみるに、きれいな女客の印象は、男の客よりもはるかに複雑な記憶をつよく残している。逆に、客が男性で一方が少女のばあいにしても事はおなじなのではあるまいか。いったい日本の家庭では、極めて封建的なといわれたぼくらの少年時代でさえ、日頃のしつけはやたらに厳しいくせに、外からの客と親共とは案外なことを子供の前で
ところが、子供はまま客と親共の会話のあいだから大人も思い及ばぬ程なものをしばしば嗅ぎとってしまうのだ。「子供だから分るまい」という共通な
たとえば、ぼくにはこんな一、二例の経験がある。――といっても、ぼくは自分の少年期をどだいにしての事なので、一般の家庭やほかの子供には共通しないことかもしれない。けれど、「子供だから」という通念と、大人の油断は、どこの家にもありがちのようであるから、余りお上品なはなしではないけれど、愚を承知しつつ書きとめておく。
客は、どこかのお茶屋の女将にちがいない。お中元やらお歳暮に来たのやら、季節もはっきりは覚えてはいない。それなのに、ぼくはその女客がお茶屋の人だと分っていた。父が遊びざかりの時代で、幾日も家に帰らないでいた父が、酒くさい姿を、
土産物など横において、その女将がぼくの母へ何か喋りぬいていた。もちろん父の留守にである。すると女将のことばのうちにお琴という名が度々出た。お琴というのは、父がよそに囲っていた婦人である。女将はさんざんその女のざんそを母へ告げていたようであったが、ふと妙に声をおとして「――それにまた奥さま、あのひとときたら、関内(花柳界)に出ていた頃から、とてもお床がよかったんですって。何しろもう泣くんだっていうじゃござんせんか」と云って、みだらな声を笑いこぼした。母はたしかまだ乳呑みの末の一女を乳ぶさに抱いていたように思う。そして何とも返辞に困ったような迷惑顔をあからめて、自分の乳くびへ深くさし
もう一度は、ある日曜日だった。父の居間に午後から喋っている長っ尻な婦人客があった。富樫さんと覚えている。富樫さんの主人は、いわゆる浜の商館番頭なる者であった。海外の珍しい物など手土産にしてはよく夫婦して見えるわが家のお馴じみ客であったが、この日は若い夫人だけで、食卓にはお酒も出ていた。それを共にしながら、夫人はさかんに「お宅は羨ましいわ。私も子どもが欲しくて欲しくて、いろんな事をしてみたんですけれど」というような意味をぼくの父へ訴え出した。母も交じって居、父が何か冗談めいたことをいうと、母が「ばかな事ばかり仰ッしゃって」と、一しょに笑い興じていた。が、そのうちに、少々、浮わずったような調子で「いいえ、ほんとなの。ほんとに、うちではだめなんですの。いつも、私の方がこれからと思っているのに、たくの方ではもうすんでしまっているんですもの」と云うのが聞えた。そして酒の上の父が、何かまた大胆な閨房の秘語を飛ばしたとみえて、つづいて母が「ま。およしなさい。いくら御冗談でも、よその奥さんに」と、すこし不機嫌に云ったのが、何の意味か、ぼくにはおぼろに分っていた。
ぼくは客間に居たのではない。遠くのぼくの机にまでそれが聞えていたのである。前のお茶屋の女将のばあいといい、このときの片語も思い出せる程なのは、そのさい少年の脳裡によほど、つよく響いたからであろう。何しても無影響ではありえなかった。
もちろんそれは理解というような事とは違う。さきにも云ったように、理解以前のものにすぎない。
けれど、その面の児童の危険期ともいえる問題は、どうも理解以前にあるもののようである。ぼくを例にしていえば、ぼくはもうその頃、誰にも内緒で「梅暦」や近松もの西鶴ものなどは読んでいたし、特に「竹田
一見、他人からぼくが“良い子”に見えた第一の原因は、いつも身なりをきちんとしていたことであろう。父はひどく身なりのやかましい人だった。母にたいしては「おひきずり」という言葉を以て、たえず身だしなみを、うるさく云った。母は沢山な子持ちになってからも、早朝に起きて台所へいくと、引窓の明りの下で、すぐに
だから、ぼくら子供らは、母の寝起き姿のままの汚い素顔や、だらしのない恰好は、殆ど見ない程だった。今でも母の顔を思いにえがくと、どんな貧乏時代の母でも、母は薄化粧したきれいな人として胸に浮かんでくるのである。こんなのは、たいへんなお
ぼくら男の子は、紺ガスリに黒の
良い子のぼくは、外でも喧嘩はしなかった。しかし父の留守を
いやたった一ぺん、店の隅でそれをやっていた所を、女中の貞というのに見つけられたことがある。貞は根岸の漁師の娘であった。ぼくのすぐ下の弟は病気して、しばらく漁師の家へ里子に預けられていた。夏など、ぼくもよく海水浴に行ったりした。そんな縁故から来ている娘だったので、どっちにも馴れ馴れしさがあったにちがいない。貞は、ぼくがあの旧式な銭箱という物を横にして
そんな事が根にあったせいだろうか、もとより子供心の腕白にすぎないわざだが、ぼくはこの貞をよくいじめた。女中いじめは母が最も注意していた所だが、一度などは、母も留守だったのであろうか、何か気にくわない事から怒り出して、ぼくは貞を追ッかけてゆき、廊下の隅へ追いつめて、持っていた本で貞の頭や横顔を夢中で撲った。貞は、壁を背にしてぺたんと下へ坐ってしまい、両手で顔を
このときほど、ぼくは自分の悪さを身に沁みて感じたことはない。恐いような気もちにさえ襲われた。貞は、ちぢれ髪で額のまん中に、地蔵
前に、外では喧嘩をしたことがないと書いたが、外でも一度、やったことがある。
名は記憶にないが、相手はぼくらより一学級上で、
ほかの連れは、彼を見るやいなやみな逃げてしまい、ぼくだけ一人逃げ損なってしまった。もう逃げられないという気が、ぼくを盲目にしていた。ぼくは二三度、肩かどこかを小突かれたように思う。学校カバンを肩に掛けていたが、片手に草履袋という物を提げていた。校内で履く革草履で頑丈に
ぼくは青くなって逃げ帰り、家の中に小さくなって
初めてやった腕力の争いが、これだったので、ぼくはそれから以後、喧嘩はした事がないのである。生来、短小な体だし、どんな相手にした所で
非はぼくにあって、先方にあるわけではない。けれど自分の醜態に自分でかっとなったものだろう。大勢の乗客の眼に
嗜好とか性癖などは、大人になってからよりも、案外、年少の日からもう持ち初めているものではないかと思う。
少年の日、ひそかに好きだった同窓の少女や近所の子や、また行きずりに見つつも好きなと思う少女たちを回顧してみると、ふしぎにみなその型が一つである。それは皆、ほツそりしていて、色が浅黒く、髪の毛がちぢれている。
性情としては、ぼくは男らしい方でなく、父からも友達からもよく「泣き虫」といわれていた。自分では理由なく泣いているつもりはないが、すぐ瞼を赤くするくせがあったのだろう。もっとも、古典などを読んでいても、書物をぐッしょりにするほど独りで泣いた覚えは数えきれないほどだった。芝居を見ても、頭が痛くなるほど泣くのであった。少年的感傷が人いちばい強かったものと思われる。それと又、ぼくは人知れない空想癖を持っていたようである。空想の中に自分をおいて、空想の中に自分を思うまま遊ばせてみるのが好きであった。だからぼくは少年の日から、少年がいやがる留守番というのは、好きであった。広い家のなかで一人か二人で留守番していると、ほしいままに空想し、その空想の中で飽かず遊んでいられるからであった。
どんな好きな少女にでも、自分から近づこうとしたことは一度もない。臆病であった。行き会えば、わざと素知らない顔をした。異常な胸さわぎと、行き
江戸文学の耽読や、家庭の眼を
幸い、その頃、母方の佐倉のお祖父さんが十日半月おきに来てはのべつ滞在していたので、ぼくはおじいさんにかこつけては、日曜日など、お重箱をさげてはよく観劇に出かけたのである。ところが、おじいさんは羽衣座より賑座の方が好きで、そのためぼくもいつか賑座
賑座という小屋は、その頃、ハンケチ芝居とよばれていた。横浜だけの流行語だが、ハンケチ女という称もよく使われていた。
けれど彼女らは、浜の主体経済の中にいて、稼ぎを競っていた者たちだから、金づかいも荒かった。賑座には、紅黄白紫のハンケチがいつも
いや一日ではない。その頃の横浜芝居は、一昼夜といってよかった。朝は午前八時か遅くても九時には開幕する。晩のハネは午後十一時頃になる。その間ぶっ通しだから、三
その賑座で大きな人気があり、あくどいがまた一種独自な芸風のあった市川紅車、荒次郎、市孝、英升などという達者な俳優たちの描いて観せてくれた数々の幻影は、今でもぼくの脳裡にはあざやかである。そしてそれから数十年の後、それらの老優たちの名が、たしか昭和十七、八年頃かと思うが、本所の
あんにゃもんにゃ、などという言葉は下町でも今は余り使われていないのではあるまいか。ぼくら子供時分にはややもすると「――この子は、ほんとにまだ、あんにゃもんにゃで」とか、「どうして、そういつまで、あんにゃもんにゃなの」などとのべつ云われたものだった。
十四、五歳ともなれば、現代の子は、いわゆる十代の季節をはっきり持ち、異例だろうが三面記事にも時々登場して、単独の自殺もする。心中もやる。そんな子でなくても、両親へは批判の眼をもつ。大人達へのたいがいな嗅覚は備えてしまう。決して“あんにゃもんにゃ”なんていえる眸の群れではない。
けれど、ぼくら明治の子には、それはいかにもふさわしい言葉であったらしい。ぼくらは間違いなくその分らず屋以上の、あんにゃもんにゃ達であった。――自分のばあいで云えば、現に家庭の内面では、ぼくの十三から十四の間に、没落へ入る傾斜を急にしていたはずだし、いよいよ大酒になるばかりだった父の酒狂ぶりにも、母の悩みにも、義兄の一身上や何かにつけてのごたごたにも、「これは、ただ事でない」ぐらいな感じは子供心にも分って来そうなものだったのに、ぼくは一こう気づいてもいなかった。
やがて、家の没落が、父自身の口からあきらかにされ、同時に、学校は中退しろ、他家へ奉公に出ろ、と突然云い渡されたのだが、その日その時まで、全然、何も知ってはいなかった。自分らの
何か、家の中が近ごろ変だと子供心にも感じ出した事のうちでも、いちばん変に思ったのは、真夜中に二階の道具類を、見知らぬ他人が何人も来て、まるで芝居で見た石川五右衛門の手下達のように、梯子段から裏口へ担ぎ出して行く光景だった。
当然、その物音には、ぼくら子供も、
――が、見ているだけで、それが家庭の何の兆候かすら、ぼくには判断できなかった。おなじ事は、幾たびかあった。そして、深夜の訪客のある晩にかぎって、ぼくらの寝床は階下の部屋に置き更えられ、母も父も「早くおやすみ」と、ぼくらを片づけるように寝床へ追いたてた。
その頃から家運も父の会社の方も、没落への地スベリを急調にしていたのであろう。会社不況の原因は何といっても日露戦争の勃発であった。その宣戦布告は、ぼくが十三歳の明治三十七年二月十日のことであった。もちろん、海上不安やら経済混乱などの現象は、それ以前からで、居留地一帯の商館にも閉鎖するものがふえた。わけて外国船相手の横浜桟橋会社は、かんじんな桟橋に繋留船の急減をきたし、ひどい苦境に落ちてきたのである。
その上に、父と社長名義人の高瀬理三郎氏との間に、感情的な訴訟沙汰をひきおこし、地方裁判所では父の云い分が通ったが、控訴院では敗訴になり、さらに大審院にまで持ってゆくという意地と金ずくみたいな長期の係争を内輪で続けていたのだった。
元々、父と高瀬氏とは、共に横浜の開港的な企業の夢の中でむすびあい、年輩も地位も、高瀬氏の方がはるかに父より先輩ではあったが、いわば
それが一朝にして、ばかな訴訟をやり出した遠因は、もちろん会社の不況にあったろうが、高瀬氏に
とにかく高瀬氏の不満と不信をうくることになって、経理面の疑義や数字の指摘となり、それが両者の衝突となったのだった。しかし、その程度の揉め事なら、何も会社をつぶしてまで、両者が法廷で争うほどの事もなかったろうに、当初、冷静な高瀬氏と、覇気のつよいぼくの父とが、その問題で口論となったさい、突然、父がテーブル越しに拳固で高瀬氏を撲りつけたという一事件があったのである。
高瀬氏は横浜一流の紳商であり、海運業界でも人格者といわれていた。その高瀬氏が怒ったのだ。そして「吉川を横浜におかない」と云い、「徹底的に
もし、父を知る者はその子だ――ということをゆるして貰えるならば、ぼくの父はいかにもそんな事をやりかねない人であった。理性もないではないが、何かに激すと、理性より先に発しるものに、理性が間にあわなくなるのである。
それでも、後から理性を取戻して、
ところが、父のこんな性情は、当時のまだ開港場
家の一隅を暖簾にしていた“みどり屋雑貨店”も、その頃は、いつのまにか、店仕舞いしてしまっていた。どんなふうに閉店したのか、よく思い出せないが、開店のさい大売出しの手伝いに来た同じ問屋の松屋から、番頭小僧が大勢で残品引取りの荷車を曳いてきたことは覚えている。けれど、それからも、カン詰類だの香水だの、いろんな雑貨の売れ残りが、家庭の隅々に、ころがってい、家へ来る人へやったり、ぼくらが外へ持ち出したり、まるで邪魔物みたいにされていた。
また義兄は、以後もずっと左右田銀行へ通勤をつづけていたが、時々、小田原の養家先へ帰ることが多かった。ある時は何か沈痛な調子で父から、「政広、頼むよ」と云われて出て行ったこともある。父の頼みは、金策であったのだ。しかし、養家先の資産や山林は、義兄の意のままにはならないので、この方の金策はついにさいごまでどうにもならず仕舞いであった。――そればかりでなく、窮地に立った義兄はやがて出奔して、以後三十年余も、姿をかくしてしまったのであるが、その義兄の出奔は、もすこし後の事であった。
とにかく、ぼくらの家庭は、道具の売り喰いという
道具屋もどこかよほど遠方から呼んで来たものにちがいない。見栄坊な父は、近所の人目は元より家族らにも、母以外には、知られたくなかったのだろう。で、昼間はいけない、
道具の売り方も、父のは一風変っていた。まず二階の一部屋から売り初めたのであるが、「――この一部屋でいくら?」と値をつけさせたものだという。つまり一部屋ずつ売りに出したのである。それが、極秘にだから、道具屋の主人、内儀さん、若い衆などが、大八車に提灯をつけて、世間の寝しずまった頃、裏口からおとずれると、女中も起さず、母と父が迎えに出、やがて二階から西洋タンスやら絨緞やら額やらテーブルなどを担ぎ下ろしてくると、下に
このときの道具屋には、余談がある。
それからずっと後になって、ぼくの家も、見るかげもない、どん底へ落ちてから、どう知ったのか、その道具屋の主人が、ある日、手土産を持って「おかげさまで、あの折は、たいへん儲けさしていただいて、それから店も順調に行っておりますので」と、お礼に来たそうである。
それほど、道具屋に感銘されたわけだから、当時でも世間の経済観念が、みな父みたいだったわけでは決してない。セチ
たとえば、ぼくらのそんな家庭でも、頭数六、七人もの子供の朝食の膳に、よく生卵を割ったものだが、大きな
繊維類にしても、絹とか羽二重とかいえば、高貴な感じさえしたものだった。ちりめん、めいせんといえば、よそ行きを意味する。どこの家でも、女は夜なべに、子供の足袋の穴や洗い張り物を、眼をいたくして針の先でかがっていた。燃料やランプの油はいうまでもないし、ちょっと建てこんでいる住宅地の横へ入れば、そこの勝手口や縁先などの日向に、お
内輪ではそういう旧藩士の暮しのしきたりみたいな風習を、ちんまり崩さずにもっている古風の面もありながら、世間へは貧乏をひどく恥としていた。政治、社会制度、といった方へ貧困のもとを
ぼくの両親などは、典型的なその方の見得張りであったのか、
いよいよ家計も切りつめなければ、そして、踊のお師匠さんも断り、女中もみな帰して、これからは勝手元も自分一人でやってゆく、と遅まきながら母も考えてきたらしい。それは母にしては大へんな奮発だった。ところが、母はまもなく近所の人から、物珍しげな笑い者にされていた。というのは、母が外へ出る姿を見ると、長年の習慣から、斜向いのカゴ虎の若い衆が、黙っていても、すぐ足許へ、人力車の梶棒をもって来て下ろすのだった。それが母には、どうしても断れないで、じつは初音町付近まで、ネギや片肉の買出しに行くのでも、ついそれに乗ってしまうのである。だから、女中を廃したくせに、八百屋や乾物屋の買物にも、人力車に乗ってゆくといって、
また、そのカゴ虎の溜りでは、母のこんな事もよく噂ばなしになった。ある朝のこと、家のすぐ前のきれいな溝川へ、母が髪のかんざしを落したのである。その頃流行った
けれど仕舞いには、見得も持っていられなくなり、カゴ虎の俥で、質屋通いもし初めた。その質屋へ、ぼくは一ど母に伴れられて行ったことがある。座敷へ通され、茶菓が出て、もてなされたので、ぼくは質屋というような通有的な感じはちっとも覚えないでいた。
すると、質屋の土蔵から幾個かのつづらが母の前に持ち出された。つづらにはよく朱漆で家の定紋が描かれてあったものである。丸に鷹の羽の紋だったから、子供心にも「おや、これは家のつづらだ」と怪しんで見ていた。質屋の主人番頭と、もひとりの商人らしい男が、長い時間をかけて、五個か六個かのつづらの中の衣服を全部開けて、綿密にしらべ出した。ぼくの眼にも覚えのある女の子たちの友禅物や母のよそゆきやら父の紋付袴やらが、何しろ座敷いっぱいになった。そして、ほとんど日も暮れ方になって「――奥さま、これはどうも、御相談どおりにゆきません」と、古着屋らしい商人の方が、母に何か説きつけていた。そのときの母のかなしげな顔と、悔いの色は、わけもなくぼくの胸までしめつけていた。
母はその帰り途に「だまされた……」と暗い顔に、涙さえ
没落までの、こんな経過を書いていれば、それは、やくたいもない事ばかりだし、
十四歳のときの、二月頃だった。
春には、小学校から中学へ入れるつもりだった。学校の成績は、中くらいで、平凡な一生徒だったが、中学に入れる自信ぐらいはもちろんもっていた。ちょうど久保山の神奈川県立中学の新しい校舎が新築されていて、その輝く大校舎を望むごとに「卒業したら、あそこへ通学するのだ」と、胸をふくらませていたものだった。
ところが、二月の或るお昼休みの時間。――その頃、小学校では、家の近い生徒は弁当を持たずにゆき、お昼休み時間に各家庭へ喰べに帰ることもゆるされていたのである。
ぼくもよく昼休みには家に帰った。その日も、お茶漬か何か掻っこんでいた。すると、いつも、表から帰るはずの父が、裏木戸から戻って来た。
見ると、父は、どろんこといっていいほど泥酔していた。フロックコートを着ていた。その洋服も靴も帽子も、地面で寝て来たかと思われるほど汚れている。何か、ぎょっと人に映るような顔色と眼であった。どすんと、大きな物音をさせて、勝手元の何かにつまずいて、ぶっ
ぼくにも、ただならない父の容子が分ったのであろう、あわてて膳のそばを離れ、学校履きの草履袋を手にもつや否や、表からコソコソ出て行ってしまおうとした。すると、その背中から「
幾日も、酒へ酒をあびていたような匂いが父のからだから発散する。「――おまえはな」と、父は云った。息切れが聞えるのである。「……英。おまえはな、長男だ。お父さんは、訴訟に負けたよ。もう、おまえばかりでなく、こんな大きな家にはいられない。おまえは長男だから一番先に働きにゆけ。いいか」と、何度にも、息をやすめては云った。
ぼくは「はい」と、答えた。と答えるしかないし、まだよく父のいう意味が分らなかったのでもある。だから、父のことばが終ると、また草履袋を持って、すぐ学校へ行こうとした。
すると父は、立ちかけるぼくを見て「まだ分らないのかっ」と、こんどは、いつも悪酒になると出る大声でどなった。そして「もう、学校へ行かなくともいい。学校を退いて、おまえから先に働きに出るんだ。わかるだろう、お父さんの云っていることは」と、云い放して、梯子段を這うように、二階へ上がってしまった。
それから、たった三日目か四日目に、ぼくはよそへ奉公に出ることになった。奉公先はオテイちゃんのお母さんの近藤夫人が紹介してくれた家で、近藤さんの親戚にあたる住吉町の川村印房という印章店であった。「御主人は、とても優しい人だし、おかみさんは私の
いやそれよりも、もっと嫌だったのは、
川村印章店は馬車道から横浜公園へ向って柳並木になっていた住吉町通りの角から東側へ二軒目のちんまりした一店舗だった。中村梧竹の
店内の小狭い土間は凸字形になっていて支那風の
新しい角帯前垂れを着せられて、ベソを掻き掻き近藤小母さんに連れられて行った初奉公のぼくは、勿論、店の表つきを見て這入ったわけではない。その家のしきいを初めて踏んだのは露地の裏口からであった。隣りの土蔵裏にさえぎられている陰気な勝手口からおずおずと近藤小母さんのあとに
下町の商家の奥というものは一体に何処の茶の間でも鈍い光線と妙な冷気をもって暮しているが、そこの
けれど近藤小母さんは、ここのおかみさんとは姉妹同様な仲と云っていた通りに、いきなりおかみさんの見える長火鉢を挟んでこちら側の厚ぼったい座蒲団の上に、その
ぼくには何ら関係のない
おかみさんは四十前後に思われた。近藤夫人とはあべこべに瘠せ過ぎている。薄化粧をしていてさえ
「ま、ずいぶん小ッちゃいわね。十四なの。これで十四」
ということだった。
ここへ来る時、家から人力車に積んで来た大きな荷物が、ほかの奉公人たちの手でそこへ運ばれた。おかみさんは「あら、あら。たいへんなお荷物ね」と、ちょっと呆れ顔して近藤夫人へ何か又、ぶつぶつ
ところが、おかみさんの眉はみるみる不機嫌になって「なアにこれ? 冗談じゃないわよ、おまえさん」と近藤夫人へ向って、「まるで、ヘタなお嫁入り荷物じゃない。奉公人が、友禅の夜具蒲団をかついで来るなんて、持たせてよこす親の気も知れないけれど、おまえさんの考えだって、間違ってるわよ。うちでは、小僧を世話して貰いましょうとは云ったけれど、何も、よそのお坊っちゃんを預かるなんて云ったわけじゃないものね」と、けんもほろろに、煙草のヤニだらけな前歯を遠慮なく見せたあげく、「いいわよ、蒲団なんかは、前にいた正どんの夜具があるから、これは持って帰って頂戴。そして、この子の親御さんによく云ッといてよ。宅では、
おかみさんに云いまくられると、近藤夫人は一も二もなく黙ってしまう。何か頭の上がらない仲でもあるのか、何でも怒られッ放しで唯にやにやなのである。けれどもその二人の仲のよいのは無類であった。女中が台所から出てゆくと、まもなくお寿司が来たり、風月のぜんざいが出たりした。そして晩の
あくる日からぼくは店に出て、店番兼仕事机の位置を店の隅ッこに与えられた。
その朝初めて、奥の主人夫婦の食卓の前で、旦那様へ目見得をした。おかみさんとは、どう見ても似つかわしくない人だった。少し頭の地が見える頭髪をきれいに分け、商人でもなし職人肌でもない、
店の徒弟机は三つ並んでいた。それに硯、朱筆、印台、刻刀などの印刻道具一式が揃えてある。もうじき年期明けとかいう倉どんが上座にいた。まん中の机にいた正どんは病気で実家に帰っているとか。その空きを一つ措いて「きょうから、おまえはここに居るのよ」と、おかみさんは指さしてぼくをそこへ据え、「倉吉、いじめちゃいけないよ、こんど来た小僧で、英どんというのだよ、おまえ兄弟子なんだから、よく面倒をみておやり」「へい」と、倉どんは印材挟みを左に、右の手に刻刀を持って、印材の面をパリパリと彫っていた細やかな手先をちょっとやめて、「よろしく」と、猫背の恰好をした儘、小肥りな体をぼくの方へ折り曲げて見せた。
店にはめったに客はなかった。仲通りの仲買店とか、関内芸者の花柳地が近いので、お茶屋の帳場印だの、往来の客がふと実印や認め印などを
自分が生い育って来た従来の家庭とは、全く水が変っていたという適応の戸惑いが総てだったというほかはない。初めての奉公先としては、近藤小母さんも保証した通り、至極のん気で居よい家には違いなかった。けれど、ぼくにはどうしても馴じめない猫みたいに、この家が冷たくてならなかった。どこがと聞かれると答えも出ないが、硝子戸越しに往来を眺めていると、夕方など涙が出てきてしようがなかった。
他人の中を初めて嗅いだせいであろうか、倉どんと並んでいると、倉どんの体や座蒲団から
台所には女中もいるのに、それをぼくの朝仕事に課したのは、ぼくがまだ何も分らない年少のチビと思ってさせた事だったにちがいない。何がといって、主人夫婦の二つの枕を手に持って片づけるほど厭だった思いはない。板の間で冷や飯を食べ、雑巾バケツの側で叱られ、又、おかみさんの足腰を揉ませられる事よりも、それは奴隷的な屈辱感に汚される心地であった。人間の最下級の仕事であるように子供心にも思われた。
これが済むとお極りのランプ掃除であった。横浜市もまだ全市電灯になっていなかったとみえ、街灯も殆んどまだ青白い
ランプ掃除は、ぼくら少年は家庭でもよくやらせられたもので、これはさして辛いとも思わなかった。しかし、食後にもう一つ日課があった。それは茶の間と次の間に据えてある桐箪笥やら用箪笥に
来てから幾日目かに、ぼくは初めて戸外へ使いに出された。生まれて初めて土を踏んだような心地がした。同時に、前垂れ角帯の自分の小僧姿がまだ自分のものと思えず、人中では極りが悪くて仕方がなかった。通学へ急ぐ同年輩の中学生や女学生の姿を往来中に見ると、
その朝のお使いは、港橋河岸の乾物屋からクサヤの
こう書いてくると、いやな記憶ばかりを持ち、やたらにセンチな少年だったようでもあるが、厭な事だけが朝夕だったわけでもない。何といっても、親の膝を離れた当座は、寝床へ這入ってから独りベソを掻きつつ泣き入りする夜も何度かあったが、しかし根本はやはり子供で、至極単純だったのである。ちょっと気が
また何よりは旦那なる人が、一こう無口でぼくらにも優しい事だった。初めのうちは、「旦那さま」とか「おかみさま」とかいう敬称が口に出ないで困ったが、それも馴れたし、わけてこの男主人の方には、毎朝の二つ枕を片づけるあの折の感情はべつにして、だんだん尊敬に近い気もちが持てるようになっていた。
主人の川村氏は、俳号を呉竹といって、俳友も多いらしく、ぶらりと店の紫檀机を訪れにくる人は「呉竹さんいますか」とか、「これ、呉竹さんに渡しといて下さい」とか云って、よく判者点のついた社中の句巻を配って来たり、どうかすると数名の俳人仲間がぶつかって、俳談に
店の戸をおろすまでは、夜業はぼくら徒弟の通常だった。ぼくは主人から与えられた
その頃の横浜俳壇にも、当然、ホトトギス派や根岸派などの俳流もあったであろうが、多くは旧派といわれる
名は覚えていないが二、三度主人の使いで行ったことのある俳人の一人で扇町に雑貨貿易の店舗を持っていた人がある。およそ風采のどこにも俳句気などは見えない
そのうち時々、主人とその人の眼が、ぼくの姿へそそがれて来るのを、ぼくは体で感じとっていた。印刻の夜業ランプには、硝子玉のレンズを掛けて、その明りの焦点に印面をおき、先の鋭い印刀で、パリッパリッと、微細な印字を彫ってゆくのである。それの稽古判にぼくは眼を赤くし、倉どんのように背を丸くしていたのであるが、ふと主人が「おい」と、呼ぶので顔を上げると、俳友の客が、チックで固めた美髯にちらと微笑を見せて「おい。君あ、作文が巧いんだってね。今夜、雨が降ってるから、雨という題で一文そこで書いて見給え」という唐突ないいつけだった。
どうして、ぼくの作文などを、その人はもちろん主人も知っているのだろうか。ぼくは唯まっ赤になって俯向いた。すると主人も頻りに「題は何でもよい、何か、思った文章を書いてごらん、すぐそこで書いてお見せ」と云うのである。
書かなければいけない主命のように思って、ぼくは鉛筆を取出して何か書き出した。文の内容などはすっかり忘れているが、硝子戸越しに、その晩の雨の往来を行き交う人力車の灯や蛇の目傘の人通りなどを見つめたりして、やっと写生文体にして書いた事だけは思い出される――で、それを
ところが、翌朝、ぼくは主人の前に呼ばれた。主人の見事な筆蹟で書いた、ぼくの父宛ての封書が前に置かれてある。それをちょっと指の先で突き出して「これを持って、うちへ帰んなさい。わけは中に書いてある。そしてね、荷物は後から誰でも取りにお
川村印章店の台所口からぼくは往来へ出て行った。堪らない情けなさで胸がつまっていた。暇を出されたという事はやはり大きな衝動だった。そのくせ「家へ帰れる――」といううれしさが、こんこんとこの幾日か渇いていた心の何かを満たしてもいた。
けれど、母の手紙で、家はもう元の清水町赤門前を引払ってしまい、西戸部蓮池何番地という所へ移っている事だけを知っていて、以来まだ一度もその後のわが家は見ていないのであった。
いつか店の使いで、戸部銀行へ納品に行ったとき、ふとわが家の引っ越し先を探しにうろついた事もあったが、家を出るさい父から「奉公に出たら、どこまでも忠実に勤めなければいけない。使い先から家へ寄ったりしても決して家へ上げてはならないぞ」と、母も云われ、ぼくも云われていた事なので、父の顔恐さに、思い止まって、途中から
だからまず第一に、暇を出されて帰ったら、父がどんなに怒るかという事のみが何より心配だった。密かなうれしさの半面に、また小さい胸を
家はたった三間ほどであった。以前の家庭にあったような家具や飾りは何一つ見当らない。父の姿も見えなかった。奥の六畳にまだおむつの要る妹が蒲団にころがってい、狭い裏庭の外に物干竿へ洗い物を懸けている母の後ろ姿があった。「おっ母さん」と、ぼくはまだ他人の家のように上がりもせず土間から首を伸ばして呼んだ。母の顔がそこの日向からこっちを振向いた。人ちがいするほどその髪の毛も頬のあたりも
母のことばに依ると、父の敗訴の始末やら多額な賠償金の算段をするために、先頃、郷里の小田原へ行ったので、ここ当分は留守だということであった。
その時は、母のことば通りな父の不在を信じて、僕は内心ほっとしたものだが、しかしそれから一と月も経つと、ぼくにもいろいろ疑わしい節が感づかれて来た。母としては、そのさい、ずいぶん[#「ずいぶん」は底本では「ずんぶん」]切ない思いだったに違いない。母の言は、子供へも打明け難いための、真赤な嘘だったのである。――ぼくが奉公先へ出たあれから後、父は大審院の敗訴で私書偽造横領罪とかいう判決の言い渡しをうけ、まもなく根岸監獄の未決監に収容されていたのであった。
もっともそれから服役までにも、訴訟相手の高瀬氏が願い下げしてくれるか、会社へかけた損害の賠償義務が果せなどしたら、あるいは体刑まで受けなくても済んだのかも知れないが、平素、借財はあっても預金などは皆無な父だったし、家財道具まで、一、二年の間に売喰いしていた始末なので、それも出来ず、高瀬氏の「吉川を横浜から屠る」と公言していた憤りをも、ついに又、解くことが出来なかったものとみえる。
それについても、ぼく自身、思い出されてならないのは、ぼくの義兄政広と、桜木町の駅で別れた日の事だった。その日、ぼくは義兄を見送るために
それが、義兄政広とぼくとの短い兄弟縁の最後であった。小田原での金策は、養家先の親類に嗅ぎつけられて、当然、非難と排撃をうけた事に終ってしまい、その為の不面目を父へ詫びての事であったか、それとも前々から、父親にいだいていた不満がその機に爆発したものか、まもなく一片のハガキを父親宛てによこした義兄は、「少々志す事がありますので、不孝の罪重々ながら、日本を去り、外国へ行きます。おそらく終生再びお目にかかる事もないと存じます故、小生の一身は、世にないものとおあきらめ下さるように」というような意味を告げた儘、それきり横浜へも帰らず、また勤め先の左右田銀行にも出勤せず、どこかへ姿をかくしてしまったのであった。
一時、この義兄の失踪騒ぎでは、父はいうまでもなく、母も知人も、警察から私立探偵まで頼んで百方行方を探し廻ったのであった。けれども郷里の小田原には全然消息を絶ち、東京へ出た形跡もなく、ついに
ところで、話は後へもどるが、どうしてぼくは川村印章店から――あんな温厚な主人から添書など持たせられて――突然、暇を出されたのか。その事情は、父宛ての手紙の内にも書いてはなかったが、後に、母が近藤夫人に会ってから聞いたことで、やっと先の真意が分った。
あの雨の晩、雨という題で一文書いてみせろと、客と主人から云われた前々日の事、ぼくは飛んでもない大失敗をしていたのである。
――というのは、こうだった。昼間、奥の座敷に、おかみさんがいつも掛りつけの髪結いが来ていた。そして、おかみさんの髪を
鏡台を前にすえ、髪結いに髪を上げさせているおかみさんの半身が、ちょうど、ぼくの仕事机から店仕切りの中ガラスを透してよく見えた。
ぼくは恐らくおかみさんの顔に日頃から興味めいた何かを抱いていたのだろう。あの薄い生え際の毛へ、髪結いが、スキ櫛という歯の密な竹櫛を加えて、それを一と撫で一と撫で、いやというほど力をこめて梳くたび毎に、おかみさんの黄いろッぽい顔が紅くなって、眼じりも小鼻も吊り上がってしまい、まるで
ぼくを使いか何かに出した後で、おかみさんはさっそくぼくの机のひき出しをあらためた。そして、主人の呉竹氏にそれを示し「こんな恐ろしい子ッてありゃしない。こんな小僧はさっそく追ん出して下さい」と色を変えて迫ったものだそうである。それでも主人の呉竹氏は「まあ、まあ」という風で取上げなかったそうだが、その翌晩ちょうど遊びに来た俳友の一人に、ふとその事を相談したところ、その人も又「そういう小生意気なまねをする小僧はやはり考えものだな」という説で、一つどんな才なのか試してやろうという所から、ぼくへ向って、突然、あんな難題を命じたものだという。
それも
他人の飯というものを、ちょッぴり食べて帰ったに過ぎないぼくは、父の不在をいい事にして、毎日、古本屋覗きをして歩いたり、また好きな本と首っ引きで徹夜し、狭い家に隠されている母の苦労も知らずぶらぶらしていた。
それでも母は何ひとつ叱言も言わず「おまえもほんとに変って来たわ。やはり世間に出て、よその御飯を食べたのが、いい薬だったのね」と云ったりした。
以前とちがって、猫の額みたいな借家だし、もう女中の手もなく、母一人で一切合財、立ち働きしているので、ぼくも自然、台所の水汲みもやれば掃除もする、お使いにも渋らずに飛んで行くという風だったから、母にはわが子が良く変ったと見えたのであろう。けれど、じっさいのぼくは、箸の上げ下ろしにも恐いやかましやの父親が居ないという家庭がただ珍しかっただけである。厳父の居ない慈母だけの家に、母と暮している愉しさが、自分を軽快にしていたのだった。
父の姿を家に見なかった幾月かの間、母は
また度々、母の手紙を持っては、知人の家へ、貸金を返して貰いに行った事などもある。母は以前から父にも内緒で、親しい人とか出入りの大工、商人にまで、よく融通を頼まれては、用立ててやったらしく、それをこのさい、幾らでも、お返しを願えれば――と先方へ頼むわけだが、めったに返してくれた
それでもどうかすると、思いがけなく状袋に入れた何円かの紙幣と、その上、先方からお菓子まで貰って帰ることもあった。そんなときの嬉しさは無上であった。ほっとする母の顔には「これで幾日かはお米も買える」という安心がありあり見えた。お米はその頃、一升十六、七銭であったと思う。南京米だと三、四銭は安かった。ヒキ割り麦、押し麦などは、もすこし安い。だから母は、零落してからは、白米と麦を七分三分に交ぜていた。
何しろ母は育ちざかりを大勢抱え、一夜に戸部の場末に落ちて、貧乏生活の初歩から経験し出していた折なので、まず白米に麦を交ぜるぐらいな智恵が、耐乏決心の関の山な覚悟だったろうかと思われる。
その頃の事といえ、わが家の戸籍などを人前に出すのもどうかと思うが、母に苦労させた喰べ盛りの口数を示すために、一応ここで幼い弟妹たちの名を並べてみるなら、まず長男のぼく十四を頭に、次男素助七つ、長女きの十二、次女カエ九つ、三女浜四つ、四女千代一つ、という揃いも揃ってヒヨコばかりが六人もいたのである。ほかになお菊、国、スエの女子三人は乳児のうちに亡くなってい、三男の晋はまだ生れていなかった。だから全部あわせると、母は十人も産んだわけである。そのくせ、当時の母はまだ三十九でしかなかった。色が白いので貧しい近所界隈の中では、よけいきれいな母に見えた。
だがその母も、長年欠かさない習慣だった起き抜けの薄化粧もいつかしなくなっていた。当歳の乳呑み児を背に、朝は三人の子を小学校へ出すまで坐るひまもなく、その後は洗濯物や他家の仕立て物の内職を、乳を呑ませ呑ませ、夜遅くまで精出していた。その一つランプの下で、ぼくは
さかんに投書もしはじめた。投書は十二歳頃、時事新報社創刊の「少年」に短文が当選して銀メダルを貰ったのがやみつきで、金港堂の「少年界」「少女界」「ハガキ文学」「女子文芸」「中学文壇」「中学世界」「秀才文壇」と、手をのばし、しまいには「文庫」だの「明星」にまで、詩や歌などを送っていた。だが、めったに掲載された事はない。わけて「万朝報」に週一回発表される短編小説には、熱を上げて何回も出したが、たった一度、選外佳作に入ったにすぎない。それでも秀才文壇、中学世界、ハガキ文学などでは幾回か和歌、新体詩、短文の賞を獲ては、ひとり得意になっていた。――そのうちに、投稿者の住所から同校生や近所にも、投書家仲間がいるのを知り、やがてコンニャク版の廻覧雑誌を作ったり、小費いを出しあって幼稚な謄写版器械を買って、同人雑誌めいたものを刷って撒いたりしていたが、退学以後は、そうした友達とも、別れた儘になってしまった。会は
その頃の横浜で文壇めいた雰囲気をもっていた人々は、磯萍水、高沢初風、小島烏水といった人たちで、「藻しほ草」という文芸雑誌が唯一の月刊物であったと思う。それと横浜貿易新報とか横浜毎朝新聞の文芸欄を中心に幾つかの詩社や歌会があった。俳壇では、虚子と同門の人だろうか、松浦為王という人がよく選者をしたり、小集の通知をくれたりした。貿易新報の新年号特別募集というのに応じて、ぼくの句が一等に推され、四
貿易新報というのは、開港地の商報新聞にしては、道楽気のあるおもしろい紙面を見せていた。小川
文学者になりたいとか、将来、その方面にどうとかいう考えなどを、ぼくは当時も以後も、いちども持ったことはない。とまれ唯好きであったに過ぎない。だから読書の選択なども手当り次第で、押川春浪の冒険小説の類でも、その一冊に興味をもつと、春浪物全部を
こんな風に、いくらでも毎日退屈しない小境地をもっていたので、ぼくは奉公先から返されて来て後、その夏中ぐらいは、何か独り天下みたいないい気になっていたような気がする。ところが或る日、母の留守に投げ込まれた郵便物のうち、鼠色封筒に検閲判が押してある母宛ての手紙があった。裏には印刷で横浜根岸監獄署とあり、まちがいなく父からの郵書だった。
それより前に、ぼくは薄々もう覚っていた。母が早朝から何か小風呂敷に心をこめた物を抱え、嬰児の千代を負って出て行くと、半日の余もかかって帰ることが多かった。ぼくから訊かない限り一切父に関しては、あれ以後、母が口に出した例しもない。だから「おっ母さんはぼくに何か隠している」とは知っていたが、しかし、監獄署からの郵便物を見るまでは、まだはっきり父の所在について
これは、ぼくだけでなく、明治の子には、共通なとも云えるのではあるまいか。もちろん教育もそう仕向けていたし、社会のしくみもそうだった。その点では家族主義の成功が国家の上に実をむすんでいた最盛期だったかもわからない。何しろ、どんな低い職業であろうと貧乏人の子であろうと、自分の父は世間の中でも一番いい人、正しい人として、信頼していたものである。少なくも、ぼくの気もちはそうだった。だから父が根岸の監獄にいると分っても、父と罪悪とを、あわせて考えることはできなかった。かえって、日頃恐い父が、なつかしくなり、子供心にも、父の孤独な姿が想像され、少しばかり涙が出た。
夏の終り頃であった。母は子供たち三人を学校へ出してしまうと、忙しげに自分で髪を梳き、束髪にきゅっと結んで、何か難しい書物だの鼻紙などを例の如く小風呂敷につつみ、千代を負ぶって「英ちゃん、またお留守番していてね」と、洋傘を手にしかけた。
その日まで、ぼくは父の事は母へは何も触れずにいたが、無性に父が恋しくなって「ぼくも一しょに行く」と云い出した。そして、下駄をはいて外へ出てしまった。母はおそらく当惑したことであろうが、何のかのと云いながらも、戸閉まりをし直して、黙ってぼくを連れて行った。まだ電車もなく人力車にも、もう乗れる身ではない。母は当歳の赤ンぼを負い、四ツの浜ちゃんの手をひき、炎天の長い道程を根岸まで根よく歩いた。今でこそ何でもない近さだが、当時は川沿いや田舎道をさんざん
監獄前に橋があり、河を前に代書屋や差入れ屋が軒を並べていた。その一軒に入って、母は背の赤児に乳をのませ、何か用をすますと「おまえは、ここで待っていらっしゃい。子供は入れない所だからね」と、ぼくをおいて橋を渡り、鉄と赤煉瓦の大きな門の内へ隠れてしまった。ぼくは河べりに並んでいるオボコ釣りの人の間を見て歩いたり、悪戯事を見つけて、結構、飽きもせず遊んでいた。
だいぶ経ってから、母が戻って来た。そして又、元の道を、親子四人、日照りの下を黙々と歩いた。「ぼく、お腹が減ッちゃった」と、
あの頃の主婦は、洒落た紙入れなどという物は日常に使っていない。貨幣の通用度はあらかた銀貨銅貨ですんでいたからである。五
母に云われたわけではない。ぼんやりと唯、こうしては居られない気が小さいぼくにもしてきたのである。「お父さん、いつ帰るの」或るとき、ぼくが
南仲舎へはせっせと通った。初めは工場の解版部で、活字ケースを運んだり油ブラシで女工員たちと共に追い使われていたが、そのうちに
南仲通りには、生糸取引所とか、米穀仲買商などが軒を並べていて、活版所はその喧騒の中にあった。だからここで印刷されるのは、相場の気配新聞や商事関係が殆どといってよい。罫線部というのは、よその印刷所にはないかもしれなかった。簿記用の帳簿に見られるあの薄い藍と赤線を刷るのである。刷るというよりあれは罫線機械にかけて引くといった方が適切かもわからない。それと製本の
本工場の倉庫の二階がその罫線部で、暗い梯子段を上がると膠を煮るあの臭いが顔をつつむ。仕事場は畳敷きで、藍と赤のインキの汚染はわかるが畳の色は無いのである。年増の女工員が三人、次郎さんと呼ばれる角刈りの
朝は七時就業だが、ぼくだけは六時半に来なければならないと云われた。皆の来るまでに、下の小使部屋から火ダネを貰って、膠鍋の火鉢やら湯沸かしの下に火を入れ、お茶の支度もしておけとの事であった。そんな勤めは不平でも何でもなかった。けれど午後になると毎日ここの部員がアミダ
帰るのも、皆よりは毎日三十分ほど遅く帰った。掃除をし、火の用心を見、戸締まりして帰るのが役だった。ところが、女工員三名のうち二人までは、主任の細君と、文選にいる工員の妻らしかったが、もうひとりのお勢ちゃんという三十ぢかい独り身の年増は、白痴美といったようなぽってり顔で、仕事中でも厚化粧の小鼻や髪の毛ばかり気にしているといった風な人だったが、このお勢ちゃんと次郎さんとが、時々、用もないのに後に残っては、ぼくに下へ行っていろとか、二十分たったら帰って来いとか、いわれなく、ぼくを追っ払うのであった。
ぼくの帰りがけの勤めを、すませてからにしてくれればいいとは毎度思ったが、お勢ちゃんと次郎さんの方にも、社の門を出る時間の
名は忘れたが、小使部屋に、人の好いあばた顔の爺さんがいた。独り小使部屋に寝泊りしていて、なに屈托なく働いているふうだった。毎夕
そのせいで、ぼくはこの小使爺さんの噂には、自然聞き耳立てた。それに依ると、爺さんは南仲舎では最古参の勤続者らしかった。越後の人で南仲舎主人の同郷人でもあったらしい。で、数年前に、勤続何十年かの表彰とまとまった金を貰い、晴れて郷里へ帰ることになった。土産物まで買っていたそうである。ところが急に帰郷は止めると云い出して、以前とちっとも変らず小使部屋に泊って黙々と働き出した。当座、理由が分らなかったが、近所の相場師仲間の口からやがて評判になった。三十年か四十年か知れないが、その功労で褒賞された大金と、それまでコツコツ稼ぎ溜めた貯金全部をおろして相場に賭け、一夜に元も子も失くしてしまったのだそうである。――そういう馬鹿だといって工員たちは噂が出るとよく笑うのだった。ぼくも子供心に、そういう人なのかと改めて爺さんを見直した。けれど爺さんの小皺にはちっともそんな大損をしたという影もなし、人に愚痴をこぼしたのを聞いたこともない。今以て、ぼくには唯、温かな爺さんとして、そのあばた顔までが、かなり鮮明に眼に残されているのである。それにしても名を忘れたのは申しわけない。南仲舎にはぼくも僅かしかいなかったので、いわば行きずりの人の温かさに過ぎない事ではあったけれど。
日給の支払い日は、月々十四日と
けれど初めて得た金、自分で働いた金、それを手にしたときは、日頃の何ものもなく快い昂奮だった。以前の川村印章店では、一銭の小費いも、徒弟初期には無い約束だったから、自分で働いて得た金は南仲舎が初めてなのだ。それをポケットにして帰る日の夕方には、やたらに何か買って帰りたかった。弟や妹たちに与えてみたい物が果物屋にも菓子屋にも屋台の焼大福屋にもやたらに目について仕方がなかった。それと、自分で稼いだ金の値打を味わってみたくもある。けれど母に見せないうちは、一銭減らすのも何だか惜しまれた。だから、やがて家に帰って、今夜は牛肉のコマ切れを買おうとか、白い御飯にしようのという時は、率先して自分が使いに走り出した。そして、母にいいつけられない予算外のお菜まで買ったりした。煮豆屋や安てんぷら屋の前に佇んで、よそのおかみさん達の中でまごまごするのも恥かしくはなく愉しかった。
南仲舎へは、ぼくは幾月ぐらい勤めたろうか。それが今、はっきり思い出せない。けれどまだそこへ通っていたうちなのは確かである。そして秋ぐちの気候も涼しくなってきた或る宵だった。何気なく帰って来ると、上がり口の土間に見馴れない履物が脱いである。どことなく家の内の空気がちがう。ぼくは、どきっとした。数日前に母から
内から障子を開けて、母が顔を出した。出会いがしらに「お父さんが、お帰りになったのよ、英ちゃん」と、うるみ声にやや弾みをおびた調子で囁いた。中へ入って「お帰んなさい」と云ったとたんに、ぼくも肱を曲げて顔を隠してしまった。こめかみがずきずきして、耳鳴りを熱くしていたせいか、そのときの父のことばは一言も覚えていない。が、何も云わなかったようにも思う。ただはっきりしているのは、父が
それにしても、父の風貌はひどく変っていた。頭の毛も以前とちがう坊主刈りになってしまい、口髭も失くなっている。何よりも皮膚の色がわるく、頬がソゲ落ちていた。母はぼくの泣きじゃくりを撫でて「さ、もういいの……。もうお父さんもお帰りになったし、みんなで仲よくさえ暮せばって、今もお父さんと話しあっていたところなのよ。ね、英ちゃんもその気になってよ」と、繰り返して云い「夜業だったの、お腹が減ったでしょ」と、父のそばへ行って、寝衣になるのを手伝い、父が横になると、台所へ立って行った。
ぼくは、自分の顔が乾くと、やや落着いて、父の寝顔を見ることができた。父は暗い方へ横向きに寝た。枕元から額ごしに見ると、父の顔の痩せが、ランプの下になお濃い陰影をもって見えた。何か、息ぐるしいまで、自分で自分を拘束しているぼく自身の気もちを放つために、ぼくも母のあとを追ってすぐ台所へ行ってしまった。そして、母がそわそわ膳支度をしているのに、それを待ちきれないでそこらのお菜を見つけ次第ツマんで喰べた。
父は変り果てた姿で、そして留守のまに、もっと変り果てていた妻子の小さな借家住居へ、その晩、半年ぶりで帰って来たものの、当座、こうどことなく以前の父とは、ひどく人が違ってしまったように思われてならなかった。
おそらく刑務所での囚人生活が、長年、大酒と遊蕩に馴れていた父には、人いちばい、こたえたものであったろう。体もすっかりこわしていたらしく、また当然、精神的には大きな打撃だったにも違いない。――何しても、当分は、寝床の中に横たわったきりであった。急に渇いた口腹へ欲しい物を与えてもよくないとかで、朝夕の食事も
しかし、社会から制裁をうけた敗北者の父でも、無職で半病人のような父であっても、父が家に在るということは、ぼくら子供の眼には、大きな力であり、光であった。その日からぼくらの小さい家は、
ぼくは依然、南仲舎の工場へ通いつづけ、夜帰ると父の枕元へ、
からだの弱まったせいだろうか。父のこの頃は、いやに物優しく変って来ている。その代り以前のような豪放な冗談口も聞かれなかった。
母と父との間にも、前には見られなかった新たな交情が生れていた。枯れかかった夫婦の木が、逆境という季節ちがいの風に会って、かえって、返り花を見せたようなものだった。父の帰宅後は何かと雑費もふえ、母の貧乏家計の切り盛りは一そう火の車だったのに、母はその苦しさを一切父には感づかせまいと努めぬいた。そして貧しいレース編みの巾着から無け無しの小銭を
口には出さないでも、父は、とにかく母にたいしては「すまない、すまない」と、その頃は、心で詫びている人のように見えた。特に帰宅当座の父は、子のぼくらにまで、何か気がねしている風で、いじらしくさえ思われた。
文士劇でよく
もっとも、近頃の刑務所入りなどは、一こう当人も平気だし、政治家ですら自ら吹聴するくらいなものだが、明治の世間における監獄という語感は今日とは全然ちがう白眼視ときびしさをもっていた。幾月にすぎない禁錮にせよ、獄衣を着たという事は、悪徒の社会はべつとして、通常では社会的致命となった。それも世人の
けれどその後、何かの必要でほんとに戸籍謄本を取って母から見せてもらった時つぶさに見たが、父の欄にもどこにも、べつだん何も書いてはなかった。だから
いやそれにも増して、当面の父が何より懊悩したのは「世間に顔が出せない」と自ら心を閉じてしまう廉恥ではなかったろうか。一面には明治士族のコチコチな頑固な道義観念から脱けきれていず、半面にはまた、開港地の紳商間に一度顔を売ったりした派手派手しい生活の見得なども残していて、世間の思わく以上に、自身、世間から遠のいてゆく風がだんだん父の日常に見え出していた。
父は病床を払うと、或る日とつぜん、易の看板を掛けるのだから、建具屋かどこかで手頃な板を買って来いと、母へ云い出した。
母にもまだ気のせまい世間の見得があったのか、あるいは、自分自身が明日の暮しも分らないどん底にいるくせに、人の身の上を観て上げるなんて空怖ろしい事だとでも考えたのか、そうまでなさらなくてもと、数日は父の云い出しを何のかのと止めている風だった。
ところが或る夕、ぼくが活版所から帰ってみると、家の門口にその看板がかかっていた。どうにも変な気がしてならなかった。父はと見ると、もう一週間ほど前に床を払った一室に机をかまえて、
父はやっと健康をとりもどしたらしい容子に見えたが、同時にこの頃からまた、ふと酒を飲み初めるようになった。家に帰った当座の父は「煙草だけはどうも
売る物も質物も全く喰べ尽していた有様なので、当然、父が酒を飲み出してからは、母は冬へ向って着る物までも
そんなとき、もちろん母も朝飯は喰べていない。それでも働きに出るぼくには二銭銅貨一枚を詫びるように握らせて出してくれる。ぼくは途中で焼芋を買い、半分は途々喰べ、半分は昼飯時の為に残しておいた。ほかの仲間の手まえ、何も喰べずにうろついているのは、空腹を我慢している事よりもその時間が辛かった。
日が暮れて、家路につき、案じていた家の内に、ランプの灯がついていると、ふしぎな気がした。朝出るときは、母の帯の間に、数枚の銅貨しか見えなかったのに、どうして今夜の石油が買えたのか、小さい弟妹たちが、何を喰べて生きていられたろうかと思われるからであった。――が、そんな晩にでも、父の
窮乏に追いつめられた母は、冬の初め頃、ついに長女の、きのという十二歳を、よそへ奉公に出すことにきめた。きのの奉公先は横浜公園近くの西洋料理店で、奥の子守さんという事であった。同時に
二人の子の奉公先から、母はそのさい、給金の前借でもしたのであろうか。何とか幼児の冬支度などしてはいた。けれど家賃の停滞までは皆済ましきれず、家は追い立てを喰い、同じ西戸部の手狭な家へ移った。
そこは戸部坂の細民街を西へ遠く入った丘陵の新開地で、近所もまばらだし人通りも少なかった。だから易断の看板などに寄り附く客は無かったが、それでも父は、おれも働いてはいるのだという云いわけのように、机を構えて坐っていた。そして何かで、母の財布に少しのゆとりでもあると、朝からでも酒を欲しがった。それも出所当時は、久しい断酒で、すぐ酔いの廻る風であったが、だんだん以前のような底抜けの酒量を発揮し出し、終日、飯茶碗は手にもせず、酒に初まって酒中に寝仆れる日もままであった。
こうなると、酒狂も以前の父に返って来た。些細なことばの端も、父の酒気と虫の居所に触れると忽ちそれが、母を終日泣かしめるたねになった。家が広かったり、客の出入りや雇人もいた頃は、まだ父の酒狂にも、制約があったが、狭い借家では、母の逃げ交わす所もないし、父自身、俥を飛ばして茶屋遊びに出てしまう事もないので、悲劇が起きると、相互の感情が自然に疲れ切ってしまうまで、
酒狂の父は、どうかすると、真夜半ごろ、とつぜん蒲団の上に起直って、深い腕ぐみしていたり、天井へ向って独り言を吐く。そんなことがよくあった。そして貧苦と
父のそうしたひがみと、憎てい口は、自身の酒量が増してゆく比例に連れて、つのッて行った。往々、子のぼくにさえ「馬鹿にするな」と怒ったり、「稼ぎを鼻にかける奴だ」と、忌み嫌う容子を見せた。ぼくには実際のところ、そういうふて腐れを父には露骨に見せたことが無いとはいえない。けれど母はそんな気持ちの人ではない所か、貧しくなればなるほど、この良人も子供も捨てて自分だけの生きる途などは考えもしない人であった。父がそんな嫌味を云って母を泣きもだえさせたり、無茶な暴言の限りを浴びせて、酒気
何でもそれは年暮に迫っていた頃だった。南仲舎から帰って来ると、まだランプの明りもともっていない。しゅんと、
けれど母が小島の小母さんに話しているのを聞いていると、父の吐血は初めてではなく、これが三度めか四度めのようであった。そのうち二回までは父の遊蕩時代で、大森の“あけぼの”とか箱根の塔の沢などで寝込んだらしく、母はそばにも居なかったとの事である。後日、医者から母が戒告されて知ったのであったという。
今思えば、父は外人相手の商売上、盛んに各地の花柳界などを泳ぎ廻っている間に、すでに胃潰瘍の症状をもっていたもののようである。しかし、こんどの吐血を境として、父はふッつり酒を廃めた。というよりも飲む気力を失い、その日から再び病床についてしまったのだ。
猫のような父にまた変った。けれど、ひがみと、母への暴君ぶりだけは、依然、やんだ風は見えない。ひがみの根本は、じつは母にあるのでなく、どうも世間へ対しての、父の白眼にあったらしく思われる。小心なほど、父は出所以来、世間をおそれ、かつ妙に世間をすねていた。あれからというもの、自分から以前の知人を訪ねたことは唯の一ぺんもないばかりでなく、旧知の者が立ち寄ってくれても、会うことはひどく嫌って、母にすぐ間の障子を閉めさせた。「ずっと病気で
そのくせ「もういちど、俺は俺の事業をやってみせる」とか、「もう一旗あげなければ死にきれない」とかと、いうような野心はよく口癖に洩らすのであった。ことばの裏には父が勝手に悩みの対象と見ている世間があり、特に訴訟相手の高瀬理三郎氏には、終世の怨恨を抱いていたらしく思われる。ぼくら肉親にはありあり分る。
けれど母の方は、こうまで、貧乏の底に落ちても、それを高瀬氏のせいであるなどと怨みがましい事を洩らした例しは一度もない。かえって、父が余りに高瀬氏の人格を悪しざまに恨み
かっとしたのであろう。父は起ち上がるやいなや、母を打ちのめした。足蹴にもした。子供らの眼には永遠に拭き去れない不幸な血相を父は額の青筋にも全身にも描いて見せ、あげくには自分も打ち疲れてセイセイ云いながら仆れてしまった。子供らは、息の音も止まったような母の手を両方から引っ張って台所へ逃げてゆき、泣く泣く冷めたい水を
要するに、父は世間へ向けられない鬱憤を、母へ向けているようなものだった。という解釈などは、まだつかないぼくであったから、なぜ父は母をこんなにいじめるのか、母はなぜこんな父のそばに居たがるのか、そこが唯、わけも分らず悲しかった。肉親という不思議なきずなは、こんな地獄図を描きながらも、或る日はまたふと、薄い夜具を冬の夜に引っ張りあいながら、肌と肌をからんで、木枯らしの叫びを遠くに、ここの一軒のみが、無上の住み家であるような安けさを暖め合いもするのであった。そしてぼくは、どうにも、この母のそばを離れる気にはなれなかった。もし家に父だけしか居ないのであったら、たとえ父が後でどんなになろうと、いつでも遠くへ飛び去る小鳥になれたことだろう。その不逞さを、母へは抱けないばかりか、母と一しょなら何でも出来た。母のよろこぶ一笑を買うために、どんな事もやる気になり、それには小さい生きがいみたいなものをすら密かに感じて独り慰めることもできた。
岩亀横町から花咲橋を渡って、高島町の方へ出た
ぼくは毎朝、南仲舎への行き帰りに、それを見ていた。そして、ついに或る折、恐々店へ入って「ぼくに出来るでしょうか」と、訊いてみた。番頭か主人か、思いのほか、親切だった。商品から行商道具一式を貸してあげるので、十五円の保証金が規則だが、君なら特別に十円で貸してあげる。売上げと商品を見くらべて、毎日夕方に精算する。いままで、どこに通っていたかと訊ねるので、有りの儘、南仲舎で日給十四銭をうけていると答えると、そんな程度なら、ぜひこっちの行商をおやりなさい、どんな不馴れでも午前中の売上げで、より以上の利益はきっと得られる。雨の日も
母は当惑顔だった。そんな金がいま工面のつくどころではない。いろいろ、思案のあげく、小島さんの小母さんへ母と共に融通を頼みに行ってみることになった。
その小島さんは、近くの官舎に住んでいた。税務監督局の課長さんであった。夫婦二人きりの家庭で、母とは針仕事の内職から知り合ったものらしい。常々、女の愚痴ばなしやら境遇などを語りあっていたものだろう。ひどく母に同情していた。ぼくの家へも暇があるとよく喋りに来、父の病床を覗いては、冗談を云って、人嫌いな父を笑わせたりして帰るのであった。他県から転任して来たばかりのせいか、人馴つこい奥さんだった。いや官吏の奥さんめいた気取りがちッともなく、からっとした陽気な婦人なのである。色が黒く、痩せ型で、三十がらみであったと思うが、決して美人の方ではない。故郷の静岡県吉原の田舎ことばまる出しで、その
御主人の小島市太郎氏は、小母さんとは全然
母と一しょに、さっそく高島町へ出かけ、明日からの約束をして帰り、保証金の受取書は、小島の小母さんの手へ預けに行った。小母さんはその事のみならず、ぼくの身仕度まで心配し、家を一しょに出て、岩亀横町の露店を見て歩いた。そして編上げの古靴と学生服の古とを、ぼくの門出のために買ってくれた。
云い忘れたが年を越していたのである。正月の七草すぎか、月の半ば頃だったように思う。早朝にぼくはもう高島町へ来て、売子問屋の店に腰かけていた。余りに早くに来過ぎたせいか、奥ではまだ朝飯中のようであった。
体験を持たない仕事へ
その間には外からも来て、前日預けて帰った行商箱を背負いこみ、そして前の人々のように出て行く売子たちもあった。その誰もが皆、屈強な大人であった。ぼくのような年少者はひとりもない。それがやや不安になった。
結局、ぼくはあと廻しになり、一番さいごまで待たされたわけである。やっと、店の主人が、ぼくの担いで出る荷をそこへ並べて見せた。
行商箱は、太い
商品の主な物は、石鹸類、髪油、チック、安香水、生地の櫛、塗り櫛、白粉、口紅、化粧水、
今のような百貨店配達や小売店網がまだゆきわたらなかった過渡期には、背負い呉服やら、
けれど、ぼくにはさっぱり商売にならなかった。いくら勇を
行商をやってみて、何よりもいけないと自分でも分った点は、どうしてもケチなはにかみが
だから行商して歩くにも、市街に接した住宅地はよけて歩いた。以前の学校友達だの、父母の知人に出会うのが恐かったからである。いま思うとその頃は横浜も場末だった平沼、保土ヶ谷、神奈川附近などの遠くへまでわざわざ行った。そしてまばらな家の門や垣を覗いては恐々と声をかけてみる程度しか出来なかった。
これではいつまでも、売上げ成績が良くならないのも当然だった。どうかして二、三円の売上げ日などは奇蹟のようなものである。夕方、売子溜りの問屋へ帰ると、行商手帖と品物とを精算して二割の利益をくれるわけだ。だから三円売れば六十銭になる。前にいた南仲通りの日給の十四銭にくらべれば先ずたいへんな増収だ。けれど、こんな日は月に一度あるか無いかだった。霜解け道を一日じゅう歩き暮らして、三、四十銭しか売れない日の方がはるかに多かった。
それと問屋の話では「女相手の行商だから、雨の日などは、かえって売れる」と聞かされていたが、これもあてにならない事が分った。売子用の
唯ここで忽然と思い出してみる必要にせまられた事は、日露戦争の記憶である。ぼくの十五の年は、明治三十九年だから、その前年九月には、休戦調印が結ばれ、十月には日露講和条約となっていたわけである。そして、同月には、横浜港外で凱旋観艦式が行われたとあるから、全市は国旗や凱旋門に飾られ、夜空は提灯行列で真っ赤に染まり、市民の熱狂ぶりは大変な騒ぎだったものだろうと思われる。
ところが、世間のそんな歓呼と
それ以前の奉天会戦とか、旅順陥落とかもぼくは川村印章店に奉公中の身であった。当時の号外屋が、祭礼の若衆姿みたいな向う鉢巻で、腰のまわりに沢山な鈴を下げ、まるで半狂乱になって戦捷を呶鳴りつつ駈ける姿を、ぼくは店の障子戸越しに、見た程度であった。花火の爆音が一日中聞えていても、港が灯と万歳に沸き返っている晩でも、じっと徒弟机に
ただ開戦当初には、町内町内の楽隊と一しょに、戦死者の葬送について行ったり、出征者の見送りに交じった覚えなどが幾らかある。そのほかは当時の軍国調にも個々の悲喜にも
資本を貸してくれた小島の小母さんには間が悪いが、ぼくは行商を廃めたくなった。厭に成りだすと歩くのがなお辛かった。行く先々では、優しい主婦もいたり、励ましてくれる人もあったりするが、冷めたい声で追ッ払われるのが当然な世間であった。それも大人達にあしらわれるのは、まだ我慢もできたが、同年輩ぐらいな子供にからかわれたり、行きずりの中学生の群れに何か嘲われた気がすると、その場で行商の荷を川へでも捨ててしまいたくなった。
けれど父はあの儘、病床についたきりだし、母の苦労はちっとも減っていなかった。のみならず、或る晩、家へ帰ってみると、三ツぐらいな見たこともないよその女の児が、ぴいぴい泣きながら母に抱かれてサジでお
この児はまだ坐れないらしく、手頸も足もひどく痩せ細っている。まるで
その晩、あとで母から聞いた話によると、これは出奔した義兄政広の子であった。まだ家が以前の清水町にいた頃、恋愛結婚をした義兄と愛人のお八重というひとが、ぼくらと一つにいたことがある。その後、半年そこそこでお八重は実家へ帰ってしまい、義兄も出奔してしまった事は、先に書いた通りである。
だからこの問題は、当然、とうに解消されていたはずだった。ところが、お八重が実家へ帰ってから産んだ義兄との仲の子は、月足らずでもあったのか、或いはひかんという虚弱体質か、三ツになっても、坐れない、歩けない、発音も満足でないという畸形児だった。
お八重の親は、名うてな相場師で、義兄との結婚前にも、さんざん、ぼくの父を物質的にも精神的にもいためつけた程な男である。こんな畸形児を、可愛がって養っておくはずはない。それに娘の再縁にも邪魔になる。そこで当然、「この子は、相違なく、貴殿の子息の実子であるから、引取って貰いたい」と、再三書面や仲介人を向けて、談じ込んで来ていたらしい。
けれど、わが子の口数まで減らしている窮乏のどん底へ持って来て、どうして、そんな虚弱な子を引取れよう。何しろ父は病人で懸合いにも立てないので、母一人でただ謝りつづけていた。ところがその日、山田の使いと称する者が、人力車に[#「人力車に」は底本では「人力者に」]乗って訪れ、上がり口へ子供を捨てるようにして、さっさと帰ってしまったというのである。
母はまったく途方に暮れた。自分の乳呑み児もある上に、こんなひよわい畸形の子を又抱えては、明日からの手内職の仕事も台所仕事もろくに出来はしないであろう。それも、実子の孫とでもいうのなら、これ又、諦めもつこうが、母にとっては、義理の子の、しかも、ちょっと居ただけの嫁さんとの仲に出来た置き去り子に過ぎないのである。
その晩も、夜どおし、ぴいぴい泣くのをあやしたり、しもの始末などで騒いだが、以後の養育は、並たいていな世話ではなかった。ここに詳述出来ないほど、
言語に絶するなどは、ちと誇張めいた云い方のようだが、何しろその子は、狸のように腹ばかり大きく出ていて、いくら食べさせてもすぐ食べたがり、朝から晩まで、お婆さんのような泣き皺を作って、食物ばかり欲しがるのだった。こういう特異児の持ちまえで、肛門筋が無知覚にひとしく、その世話だけにも、母は追われ通しの姿であった。
しかし、貧乏と、これだけの事だったら、まだまだ母は働き
畸形の子は、手離しでは置けないので、
父にすれば、この数奇な孫は、自分の過去を責める獄卒か因果の変形みたいに思われた事でもあろう。――実父の自分を裏切った上、こんな置き土産まで残して行った、ぼくの義兄政広の出奔という事が、どんなに病床の父を、やりばない怒りに悶えさせたことか。その気持ちは、母やぼくにも、分らないではなかった。
父自身も又、そんな憐れな宿命の子を、叱ったり打ったりなどした後は、さめざめと、自分が嫌厭される容子だった。
ぼくは、その頃のわが家と、毎日の事を、今、思い出そうと努めているが、誇張でなく、また肉親だからでもなく、ぼくは心から、ぼくの母を偉かったと思わずにいられない。母は、その畸形な子へも、ぼくらにする愛情と少しも変らない慈愛の姿で、哺育の肌やら丹精の手を尽していた。時には、ぼく達がひがまれる程、可愛がった。父が癇癪を起すと、いつも身を以ってその子を
正直、ぼくらにしてさえ、義兄の無責任を、その子へ問うように、つい厄介者としたり、憎しみを向けたりした。けれどぼくの母には、まったくそれが見えなかった。近所の人はみな、母のほんとの子だと信じていた。その子は、やがて数年後に病死したが、まだまだ貧乏の最中だったので、葬式もしてやれなかった。
たしか母が果物屋から求めて来た空箱を
この子の葬式に行ったのは、ぼく一人であった。棺を風呂敷につつんで人力車の蹴込みに乗せ、施主会葬者、ぼく一人きりで菩提寺の蓮光寺へ持って行った。ずいぶん気まりが悪い気がしたのを薄ッすら今でも記憶している。しかし蓮光寺では、むかしからの好誼を重んじてくれたものか、父の手紙一つだけで、べつだんお経料とて上げなかったのに、住職や侍僧が数名つらなって、ながながと
さきに家出したぼくの義兄も、義兄自身が五十前後で亡くなるまで、この事は、ついに知らず仕舞いであった。――やがて三十年も経ってから、たった一ぺん、ぼくを訪ねて来た折も、忘れ果てていたのだろうか、「――あの時の、お八重は?」とは、訊きもせず、話にも出ず別れてしまった。
少し話がわきへ反れたかたちである。その後、ぼくは小間物行商を廃めたが、廃めるには、次のような事が動機と云えなくもない。
ほんとは、とうに厭だったのだが、思いがけない義兄の子がふえたりした為、一日も遊んではいられず、毎日の行商も、泣き泣き続けていたのである。
だから成績は依然上がらない。或る晩、売子宿の店主からこう訊かれた。「いったい、君はどの方面を歩くんだい」「平沼から、保土ヶ谷や青木町なんかですが」「ばかだなあ。あんな新開地は、畑や山道が半分以上じゃないか。君の家は、前にいい暮しをしていたっていう事だが、少し、知ってる家を廻ってごらん」「…………」「親父さんが懇意とか、お母さんの親しい家だってあるだろう。そういう所から順ぐり歩いて、も少し、ちゃんとした住宅地を歩くこったよ。犬に吠えられたり、女中に断わられたりしても、すぐ引っ込んでしまうんじゃ、いつまで、行商で飯は食えないぜ」励ますつもりか、売子宿の店主は、ぼくを馬鹿扱いにして云った。
知人の家を廻って、買って貰うなどという事なら、何も入れ智恵されるまではない。けれど「それだけはおよし……」と母からも云われていたし、ぼくにも小さな見得がある。意地という程、はっきりした気持ちではないが、廉恥があった。――しかし、売子宿の店主から、そう云われると、何か安易な気もちもして、依頼心をそそられ、行かないのは自分の馬鹿なせいかもしれないと思った。又、沢山な売上げを得て、店主の前に、誇ってみたいような気も手伝った。
それから数日後、ぼくは方向を更えて、山手方面を歩いた。そして、歩くにまかせて、父の以前の知人をたずね、間の悪さを忍んで「この頃、小間物の行商をしてるんですが」と、顔を真っ赤にして云ってみた。ハー・アーレンス商会に勤めている三浦さんの家で、競馬石鹸一箱を買ってくれた。富樫夫人の家は留守だった。その日だったか、翌日だったか、おなじ山手の牛島坂に新邸を建てた古川某と標札の見える宏壮な門をくぐっていた。
この古川氏は、父が桟橋会社経営の初期には、波止場人夫の小屋を持って、振りの人夫売込みなどを業としていた人らしい。父は人を信じると一本ヤリな
ぼくの行商箱を拡げるには、そこは余りに似つかわしくない豪壮な玄関だった。初め女中らしい人が、
体のずんぐり短い奥さんは、黙って奥へ行ってしまった。どうするのか、ぼくにも分らず、むなしい、貧しい商品箱を並べた儘で、ぽかんといつまでも立っていた。
すると今度は、奥さんだけでなく、当の古川氏が、丹前の上に
古川氏は、足もとの商品などは見てもくれず「いつから初めたのかね」と、ぼくの姿ばかり見ていた。以前は、盆とか暮とかには、夫婦して眼を驚かすような贈り物を持って来、酒が強くて、父とも終日談笑していた事もある。殊に、何の祝いの時であったか「英ちゃんに、別誂えの洋服を頼んでおいたから」と、ぼくを俥に乗せ、南京町の支那人の裁縫師の店までわざわざ仮縫いに連れて行かれたことなどもある。そういう人だけに、ぼくはよけい間が悪かった。きれいな女性の眸も身を刺されるようで、唯、赤面していた。
古川氏は以前から灰色に近い皮膚をして、眼のふちも唇も薄黒かった。その上ぶよぶよと肥大した体つきであった。その巨きな影に、ぼくは圧伏を感じていた。何か、後悔が
のみならず、何かのことから、父の噂を持ち出して「君のお父っさんの病気は、自業自得だよ」と云い「いったい、君の親父さんてえ人は、思い上がっていたな。自分はまあ、さんざッぱら、やりたい事をやったんだから、いいようなものの、子供にまでこんな真似までさせちゃあ、寝ざめがよくあるまい」と、ぼくへもお説教みたいな事を云い初めた。
ぼくへのお説教だけなら、なお素直に聞いていられたかもしれないが、古川氏は、腹をゆすぶッて、ぼくの父を嘲い、父のざんそを、さんざんぼくへ云うのであった。そばにいた奥さんさえ、ぼくの涙を見、聞きかねる顔して「もう、およしなさいッてば」と古川氏の袖を引くほど、ぼくの父を、悪しざまに云った。
夢中でぼくは、商品箱を畳んでいた。みんなの眼のまえで、それをどう肩にかついだろうか。まったく今は覚えがない。でも古川氏の奥さんが、あわてて半紙にくるんだ物を、ぼくの手へ握らせたことは覚えている。きっと、なにがしかの金であったろう。けれどそれも無意識に、どこかその辺へ打っ
――後も見ずに、まったく後も見ずというのは、あんな時の事かと思う。ぼくは門の外の石段を駈け下り、まだそれでも足らないように道をいそいでいた。やっと涙の乾いた顔を上げた時は、どこか知らない裏通りに灯がついていた。
その日限りで、ぼくは行商人を廃めた。知人でもあり富豪でもある人の門に、耐え難いものを持ったのであった。同時に、見ず知らずの他人の垣に立って憐れみを乞うような真似もふるふる嫌になってしまったのであった。
あきらかに、それは古川氏の邸宅へ行商に行った日が境で、また廃めた動機でもあった。けれどそのことは父母には話さなかった。だから両親は急にぼくの容子が違って来たのを理解出来なかったことだろう。こんなばあい、厳格すぎる男親の下にある少年は、心のものを率直に現わしえないで、それを妙なじぶくり顔や別な恰好に出して、幾日も無口になったりするのであった。病床の父は、単に
廃めてから一週間程たって、行商売子の問屋から「預かっておいた保証金を返すから取りに来い」という通知が来た。行ってみると、十円入れた保証金なのに、六円幾らしか返してくれない。行商箱の損料とか、雨具や店舗使用料だのと、いろんな名目で差引勘定がされている。ひどく不当に思われたが、大人でさえこの手に泣き寝入りを見せられていたのだろう。是非なく、渡されただけを持って帰り、母と一しょに、さっそく小島の小母さんへそれを返済に行った。
男気な小母さんは、母が詫びて「不足分はいつかお返しいたしますから」というのを打消して「いいよ、いいよ。世間はお互い持ちじゃないの。それよりも、英さんはこれからどうする気」と、ぼくへ訊ねた。
ぼくはこの小母さんにいつか甘えきッた気持ちになっていたらしい。とても出来ない相談に極まっているのに「ぼくは中学へ入りたいんです。どんな苦労してもいいから」と、真剣に訴えてしまった。母は聞くのも辛そうに顔をそむけたきりだった。しかし小島の小母さんは、まともに、ぼくの顔を
小母さんはその後、ぼくの職業やら勉学の道を夫君の小島市太郎氏に相談して内々心配していてくれたらしい。けれど税務監督局の一官吏に過ぎない小島さんなので早速な思案もなかったろうし、ぼくの母もこれ以上の世話になるのはと、慎しみがちに、わざと不沙汰していた。というよりも母は、ぼくの稼ぎも無くなってからは、一そうその日その日の
わけて又、父は煙草好きなので、煙草が切れると、不機嫌を超えて狂人の相になり「煙草がないっ。煙草ぐらい、何とかならないのか」と、病床で喚いたりした。そんな時の母のおろおろ姿は見ていられなかった。母は唯一枚の着ている袷まで質草に入れ、以前、みどり屋の暖簾としていた物を腰に巻いて外へも出られずにいた事もあった。この当時、母がふと洩らした呟きで今でも忘れ難い一語がある。それは「――朝、戸を開けなければならないと思うと、私は毎朝、夜が明けるのが怖いよ」と云ったことだった。
父は自分がいつまで病床から起てない焦躁を、やたらに子のぼくへ向けて爆発させた。ぼくには職を探す能力が足らなかった。暇があると書物にばかりかじりついていた。その姿が怠け者と見え、腑がいなく思えるのであろう、何かで激語になると「この、
ぼくはあてもなく家を飛出しては、夜おそく帰った。書物を持ち出しては古本屋へ売り、それを小費いとして遊ぶことを覚えた。羽衣座、賑座、喜楽座と大入場の中に
しかし、公園の悪の巣は周期的に警官の一掃に会う。すると、その日から仲間は人ッ子一人見えなくなる。公園に行けない日は、ぼくは伊勢佐木町をうろつき廻った。売る本も無くなっていた。汁粉屋の小女に奉公している妹のカエを店の外へ呼びだして「お母さんが困ってるから」と偽ったりした。そしてまだ九ツに過ぎない幼い妹が、お客からツリ銭の端を貰う毎に可憐らしくも貯めている小銭を巻きあげて、買喰いと芝居の立見に費ってしまった。
その頃読んだハムスンの“飢え”の中に、主人公がいささかな腐肉の附いた牛骨を道で拾い、それを齧ったあげく路傍でヘドを吐くところがある。あの主人公とおなじ飢渇がぼくの眼をぎらぎらさせていた事だったろう。何しろ家にいるのが辛いばかりに、毎日家を出て唯ウロついていたのである。或る晩はベンチに寝て、ついに家に帰らなかった。「穀つぶし」と呶鳴った父の顔をえがくと、いつまでもこの儘でいたいし、母の姿を思い出すと無性に母のそばへ帰りたくなった。
そのうちに公園で知った不良仲間に連れられて、第二波止場の埋立て地へ、やっと仕事に通うようになった。
今でいう土建屋の仮事務所みたいな物が埋立て地のまん中にあった。朝、首を揃えて集まると、その日その日、いろんな
ここへぼくは二た月三月通った。春から夏頃までだった。
ヨイトマケの女たちは、ぼくだの事務所ボーイの敏公などが近くを通ると、さかんに
事務所に寝泊りしている敏公という少年は、元町警察署から表彰されて、新聞にも出たり親方も感心している親孝行少年というので評判者であった。当人もそれを自慢してぼくに逐一の身の上やら表彰式で撮って貰ったという写真を見せたりしたことがある。その時ではなかったが、或る時この敏公が、ふところから大事そうに取出して「見せてやろうか」と、一枚の春画をぼくへ示したことがある。ぼくはそれまで、表彰された敏公というので、自分のような不良ではないと考え、内心、彼に畏敬を持っていたが、それを見せられたので安心したり又、親近感を持つようになった。だが、ぼくの方は臨時雇なので、間もなく「もう仕事もないから、明日からは来なくてもいいよ」と、あっさり解雇された。仕事に離れる事よりも、ヨイトマケの唄と別れる事の方が正直何となく淋しかった。
かねがね心がけていてくれた小島さん夫婦から「税務監督局の給仕さんに欠員の口があるが」と、母まで知らせてくれたのは八月か九月に入ってであったと思う。
が、その前に、ぼくとして書いてしまわなければならない事が残っている。
監督局の給仕になる前の一、二ヵ月を、ぼくは再び職探しにぶらぶらしていたものだろう。季節もお盆前後の事と覚えているから、その期間としてほぼ間違いはない。
或る夕方、母は蚊うなりのする台所に腰を下ろして、ぼんやり溜め息をついていた。途方に暮れた顔つきだった。母がそんな眸でいるのは何を意味するのかぼくにはすぐ分った。晩に食べる物が無いに極まっている。無いとなると上ゲ板の下の漬物樽に一個の
それだけに、過去の中でも、このときの事は、非常に強くあざやかである。池の向う側にある
その晩、飢餓の一家は、塩ユデの馬鈴薯をふウふウいって喰べあった。元よりぼくの薯泥棒を父は知ろうはずがない。だが、母にもその行為を叱られたような覚えがないのをみると、母も背に腹は更えられぬ思いで子の盗みを許容していたものだろうか。とすれば、ぼくの一家はその頃じつに危うい淵にあったというほかはない。ぼくはその夏、おなじ事を二、三度やった。
否みようもなく、ぼくには盗癖があったようだ。小学生当時にも、母の小銭をかすめたり、店の銭箱へ手を突っこんだ経験がある。いやそのほかにも一度、野毛坂の古本屋で、盗みを犯したことがある。よくやる店頭の立ち読みをしているうちに、無性に欲しくなって来たのである。ふと見廻すと、店の主人は奥で朝飯を食べている様子だった。ふらふらと、ぼくは一冊の本を持って盲目的に駈けていた。すると古本屋の主人の恐い顔がすぐ後ろに迫った気がした。左側は伊勢山の高い石垣だった。ぼくは恐怖と後悔から手の書物を石垣の下の小溝に抛り捨てた。夢中で逃げた。そして、それから数日後の夜、そっと野毛坂を通ってみたら、捨てた本が、まだ小溝の流れに洗われていた。けれど以後、幾月もの間、ぼくは昼間の野毛坂が通れなかった。
環境にも依ろうが、少年時代には、少年共通の盗癖みたいなものが、誰にも多少ずつはあるのではあるまいか。
公園の不良と共にぼくもやったが、あの縁日荒しだの、砂糖馬車の抜き取りなどの類は、一見、ひどく不逞な悪行のようだが、物質の目的よりは、面白半分の方が勝っているといってよい。彼らの冒したがるスリルと集団性が
と云っても、自分の過去の
だが、母でさえ、ぼくの行為を知りつつそのときは、ぼくを叱らなかったという事は、もっと恐ろしい事だった。――小島さん夫婦が税務監督局の給仕の口を世話してくれたのは、じつにそんな危機だったから、神の助けみたいなものである。さっそく試験をうけ、いかめしい辞令書を貰った。月俸七円也であった。
横浜税務監督局は、岩亀横丁へ曲がる戸部の大通りにあった。煙草専売局支所と一つ構内にあって、赤煉瓦の洋館の方が監督局であり、半工場的なバラック建てが、専売局の支所だった。
白い作業服を着た女工たちの半身が、工場の窓に並んでいた。ぼくらの常に通う正門道から片側の芝生に望まれるのである。どの女性も看護婦みたいな清潔さに見え、ぼくら給仕は、彼女らの視線の中を使いや用事で通り過ぎるのを光栄にしていた。そのうちにすぐ彼女らの顔のうちでも、或る特定な顔と眸を交じえたり笑顔を交わすようになり、間もなく又、彼女が工場から退けて、自分の着物や帯に返り、お弁当箱を抱えて帰る姿まで見届けていた。白い作業服の彼女は崇高にまで見えたが、薄汚れたメリンスの袂やらお太鼓結びの帯になった身なりは、やはりただの貧乏人の娘にすぎず、何となく興ざめたものだった。
ぼくは本間君という先輩の給仕と二人で階下の広い属官室の一隅にボロ椅子を与えられていた。本間君は専売局の女工という女工の半分くらいまでの名を知っていた。その中の一人と日曜日に
属官室の正面にある懸時計は、
事務官は若い瀟洒な金ブチ眼鏡の官吏さんであり、広い一室と立派な卓に構えていた。この人の卓へ、初めて書類やお茶を運んでゆく前に、ぼくは温厚な老守衛長から、お作法の予習をうけた。
五時には退ける。朝も今までの何業よりも遅くていい。間にも、本など読めた。それに白衣の女神たちとも眸を交わせるし、ぼくは今までにない明るい足どりで通勤をつづけていた。けれど小島の小母さんは、すぐぼくに夜学をすすめ、あちこちの夜間中学校から規則書を取り寄せてくれたりした。
ところが、何があったのか、秋頃から小母さんはぱったりぼくの家に見えなくなった。母は何も語らない。けれど何かがあったに違いなかった。どうかした拍子には父の感情的な口吻が洩れるのだった。「女らしくない女は俺は嫌いだ」と云い「少しばかり世話になったからって、そうそう立ち入られて堪るものじゃない。
まもなく小島さん夫妻は、どこか近県税務署へ栄転してしまった。引っ越し先の通知も来なかった。母は「何一つ恩返しもできないで」と、くよくよ独り詫びていた。しかし父は
それも結局は、母の為に自分をまげて、「すみません……」と、手をつかえるほか無かったのだが、どっと涙があふれ出てとまらなかった。ぼくは何度も、自分の母の兄弟から二人の発狂者が出ていることを思い出して、ふと慄然となる事があった。事実、父と争って、疾風のごとく外へ飛び出し、一晩中、母を痩せる思いにおいた事も一、二度ならずあった。それとぼくにはいつかしら少年らしい明るさが失われ、ややもすると独り物蔭へ行って泣き抜くような性情が強くなっていた。そして、それも父の癇に触ることが多かった。父はぼくを不良な生れ
暮の近い十二月であった。母は思い余っての事だったろう。厚ぼったい手紙を書いて「英ちゃん、東京まで一人でお使いに行ける?」と、ぼくへ云った。
渋谷の松濤園が開放され、その頃そこの土木工事監督に、母の実弟山上三郎が勤めていた。「三郎叔父さんの所へ」と、母は父に内緒で云うのであった。汽車賃だけを握って、ぼくは東京へ行き、松濤園の工事作業事務所を訪ねた。
三郎叔父は以前、長いこと、ぼくの家に食客をしていたことがある。だから顔はよく知っていた。「
手紙を読むと「しようがないな、姉さんもいつまでも、これじゃあ」と呟いて、一円紙幣を一枚封筒に入れてくれた。そして工事場へ行ってしまったので、ぼくもすぐ帰るほかなかった。けれど汽車賃は、行きの片道分だけしか持って出なかったので、汽車に乗るとすれば、封筒を破って、一円紙幣をくずさなければならなかった。その一円紙幣を、くずす気になれなかった。その儘、母へ見せてやりたいと思い、とうとう、渋谷から横浜まで、道を訊き訊き、歩いて帰った。足を棒のようにし、腹もぺこぺこになって、やっと家へ辿り着いたのは、何でも夜半過ぎか夜明けだった。
しかしこの一円紙幣も、もちろんすぐ焼け石に水だった。奉公先のカエや、きのなども、年暮には僅かな給金を貯めたのを持って、母の顔を見にちょっと帰って来た。長女のきのは、これこそ暢気屋さんで、わが家の貧乏などは、眼に映らない
ぼくは今度こそ、家を出たいと思っていた。
諸所の口入れ所を歩き廻った末、日の出町の周旋屋で、よい口があると云われた。先はおなじ日の出町一丁目の続木商店であった。もう
続木商店は食料、洋酒、雑貨を
ぼくはここの
主人の続木氏はやや背は足りないが色白で小肥りな紳商然たる人で、やたらに金歯や金グサリや金ブチ眼鏡など光らせている嫌味を除けば、四十がらみの好男子で、いつも上等な葉巻を
間もなく店員たちの蔭口で知ったが、御しんさんはもと真金町遊廓の神風楼でお職を張っていた全盛の
他人の家の御飯はこれで二度目の経験である。だから初めて川村印章店へやられた時みたいな幼さはなかった。年老った通い番頭、住込みの若い店員、先輩の小僧中僧などに追い廻されても、けっこう元気でよく働く英どんではあったようだ。――けれど唯、また家を離れてみると、あんな悲惨なわが家なのに、相変らず家のことのみが忘れられない。ぼくの性分なのか、余りに母の肌がよすぎたせいなのか、ぼくが出た後、どうして暮しているかと、そればかりは念頭を離れなかった。
すると、住込んでからまだ一ヵ月と経たない或る夕方のこと、九つになる弟の素助の影が、一人で前の舗道を行ったり来たりしている。店にいたぼくは、すぐ胸騒ぎを覚え、あわてて外へ出た。そして「何しに来たの? 家に何かあったの?」と訊ねたところ、弟はベソを掻き掻き、お使いに来たわけを訴えた。それは何でも「きのうから家じゅう御飯も何も喰べていない……」というような意味だった。途方に暮れるとはこんな時のことか。ぼくは胸がつぶれてしまい、どうしていいか分らなくなった。唯、
やがて夕飯になったが、飯も喉に入らなかった。自分だけがこんなに飯や汁も口に出来るという事自体が悲しかった。で、通い番頭の平井さんが帰りかけるのをつかまえて「母が急病なので今夜だけお暇をください」と頼んでみた。平井老人は「さ、旦那もお留守だし」と難しい顔をしたが、結局、御隠居さまに一応伺ってから「じゃあ、十一時までに帰るんだぜ。十一時までだよ」と許してくれた。
その口吻に甘えて、ぼくは又「お給金で返済しますから」と、店の陳列にある牛缶を二個前借した。それを持って、その晩、西戸部のわが家へ駈けるように行った。
ところで、後々まで、このときのぼくの失敗を、生前の母ともよく思い出しては笑い話にした事だったが、ぼくは弟の知らせで、一家が餓死寸前の急場のように感じたので、家へ行く途中で、
じっさい、それは病床の父から幾人もの小さい弟妹たちの餓死をくいとめた物ではあった。行ってみると母すら力を失って
今のような民生委員制度も何もないあの時代では、おそらく一家が餓死しても、餓死した後でなければ、近所隣りも気がつかなかったであろう。又、そうなるまで、なす
牛缶一個を切り、その汁にまで湯を注いで皆で飲み合い、ぼくは一先ず安心して店へ帰った。それはいいが、慌てた余りに、ぼくがあても無しに蕎麦をあつらえて行った為、母はそれから幾日間、何杯かのカケ蕎麦の代が払えず、毎日出前持ちに門口に立たれて催促され、あんなに困ったことはないと、後々もよく笑いばなしにした。しかしそれ程、ぼくはその晩を、一家の危急と慌てたのだった。
それから一ヵ月半ほど経って、ぼくは横須賀支店へ廻された。
当分、横浜へも帰れないので、主人から半日のお暇が出、その事を家へ知らせに寄った。この日もぼくには感銘が深い。前の場合よりは、もっと印象的な記憶がある。というのは、思いがけなく、ぼくの弟が一人ふえていたからだった。母は
ぼくは産褥の枕辺に坐って、出来立ての人間の子をしげしげ覗いた。いかにも小さく、しなびて見え、そして真っ赤な皮膚にトウモロコシの生ぶ毛みたいな毛が頭の辺に少し生えていた。
母は、ぼくの支店行きを聞いても、ぼくを励まそうとするのか、それとも何かべつに生計の目あてがついていたのか、そう落胆はしなかった。父もこの日は機嫌がよかった。ぼくは明るく横須賀へ立った。
横須賀支店は、若松町の辺で、坂下から数歩の表通りだった。店のまん前には、浅黄暖簾に“てんぷら、若松亭”と染め抜いた料亭があった。舞台で見る信濃屋お半みたいな、
支店の店先へも、のべつ海軍の下士官や主計が来て註文したり話しこんでゆく。時には店先でビールなど開け、
思うに、この頃は、やっとぼくの頬にも、少年らしい頬の色と快活さが
或る日、ぼくに驚くべき吉事が起った。というのは、かなり大きな木箱一ぱいの書物が、運送屋からぼく宛てに届いたのだった。
開けてみると、何百冊あったろうか、全部が俳句の古雑誌だった。野毛通りの金港堂古書店が差出人となっている。
それと一しょに、家から母の手紙が来た。手紙にはこうあった。
「――以前、お父さんが世話して上げた事のある奥田さんという人がお父さんの逆境を知って、この頃、たいへん親切にして下さる。そしてこちらでは忘れていたほど古い貸金を返済してくれたので、家の家計も一ぺんに楽になるし、そのせいかお父さんもこの頃は床から起きて、お元気になっていらっしゃる。だから、あんたももうこれからは、家の事も心配しないでください」とあり、それから別便で送った本は、お父さんがめずらしく散歩に出、御自分で金港堂から送らせたものです、ともしてあった。
ぼくは、うれしくて、その晩は寝られない程だった。そしてさっそく寝床に俳句雑誌を持ちこんで寝た。ホトトギス、
和平どんは、いつも人気者だが、悪ふざけの度を越す人でもあった。或る晩、店を閉めた後、店員たちが大いに酔った。主人夫妻は不在であった。ぼくは和平どんに呼ばれて奥へ行った。すると、大勢の中でいきなり蒲団にくるまれた。おなじ蒲団の中へ又、支店の女中のお弓さんを一しょにくるんだ。「手を貸せ、手を貸せ」とほかの者を呼び、和平どんは帯か何かでぼくとお弓さんを蒲団巻きにした。
もちろん、ぼくとお弓さんも、極力抵抗はしたが及ばなかったのである。上をギリギリ巻き締められているのでお弓さんの両手はぼくを抱えていた。ぼくは手のやり場がなく、顔は
和平どんは、酒宴の同僚たちへ、この余興を提供しながら、ぼくらを
又、晩春の頃だった。爺やが風邪で寝ていた為、浦賀造船所へ納めている同地の雑貨店へ、卸し売りの白酒を、荷車に一荷積んで、和平どんが前を曳き、ぼくが後押しして行ったことがある。
浦賀街道の山道までかかると、和平どんは一ぷくしようと云い出し、車を止めて休んだのはいいが、そのうちに「おまえ、店へ帰っても、喋るんじゃないぞ。いいか、途中で
ぼくは眼がくらくらし出した。いや、それどころではなく、和平どんはすっかり酩酊してしまい、それからの峠の下りを何べんも転びかけた。また崖へ車をぶつけたりして、あと白酒のビンを何本も
支店勤めで、辛かった仕事は、サイダーやビールの納入に行くときである。軍艦によって水兵や下士の気質も違い、手を貸してくれる場合もあるが、そうでない時は、あの舷側の下から高いタラップを番頭やぼくが担ぎ上げて行かなければならない。ぼくは軍艦印サイダーの四打入りをよく肩に乗せられた。そして片手でタラップのロップにつかまりながら一歩一歩艦上まで登って行くのだった。――忘れもしない軍艦
新高へ行くと、いつも、からかわれた。可愛がってくれたのであろう。ぼくはどの軍艦や駆逐艦へ行くよりも、新高の酒保へ行くのが愉しかった。酒保には甘い物も豊富なので、よくいろんな物を貰った。
ある時一人で何かの使いに行ったことがある。新高は間もなく出航の準備をしていた。用がすんでからぼくは人気のない中甲板など歩いているうち、この儘、船底か石炭庫へでも隠れてしまったら外国へ行けるが、というような空想を抱いていた。そして、ふらふらと空想を実行へ移すような誘惑にかかっていた。が、あぶなく、ぼくは見つけられて、上甲板へつまみ出された。もうタラップも揚げかけていた所だった。そのときは、ひどく怒られた。
秋、ぼくに、も一つ愉快な事があった。それは人知れず投稿した俳句が、横須賀新聞といったか、土地の新聞の記念募集の一位になった。わずかだが賞金があった。店の人たちは、誰も気づかなかった。
ところが、それからもちょいちょい投吟しているうち、或る時、選者のなにがしという俳人と新聞社の人が訪ねて来た。新聞社の名刺なので、ほかの店員がそれをちょうど奥へ来ていた主人夫妻に取次いだ。結局、ぼくを訪ねて来たのだと分って、ぼくは顔を真っ赤にして狼狽した。その晩、御しんさんに呼ばれて「うちは商店ですよ」と
その冬か翌年の一月頃か、冬というだけで月も日も忘れてしまっているが、その横須賀でぼくは小島の小母さんにぱったり会った。
雪のあと、みぞれでも降っているような、とにかく寒いそして道の悪い日だった。ぼくは海軍波止場まで、空樽を積んだ車を曳いて行った。おそらく酒保で使う漬物樽か何かであったのだろう。とにかく、軽いことは軽いが、山のような空樽を車で曳いた。
小島の小母さんを見かけたのは、あの一番繁華な大通りであった。ぼくから呼んだのではない。買物か何かしていた小母さんが、ぼくの姿を見たのだろう。いきさつはよく覚えないが、その往来中で、小島の小母さんに「まあ、英さんじゃないの」と梶棒にすがられた事だけが、あざやかに脳裡にある。まわりに少し人だかりがしたような気まり悪さを覚えているから、ややしばらく立ち話をしたのではなかったろうか。そしてぼくも小母さんも泣いたにちがいない。小母さんが早口に住所を教えてくれたが、ぼくはおそらく人目に間が悪かったり、さまざまな感情に取りみだされていたのだろう。なかば夢中で別れてしまい、その後も、小母さんの赴任先の住所を知ろうとはしなかった。
又、ひとり小母さんばかりでなく、ぼくはほかの知人も横須賀では一切思い出そうとはしなかった。母の親戚には、芝新銭座の近藤塾の関係から、近藤男爵や山中造船中将など、横須賀海軍工廠には、かなり知人や遠縁の者もいたはずだが、母の手紙がそれらの人に触れていたことはない。従前からも、実弟山上三郎へ、たった一ぺん、無心の手紙を持って使いにやられたほかは、そうした身寄り頼りを一切たのみとしない母であった。だからいつかしら、ぼくもそんな旧縁の人が世にあることなどはまったく忘れ、ただ自分らの破れ小舟一そうを、とにかく必死に漕いでいる気もちだった。
しかし思わぬ人の恩情に助けられることはあるもので、先に母の手紙にみえた奥田という人が、以後も失意の父を励まし、父へ再起に足る資金を出してくれたものとみえる。その頃、母の便りに依ると、お父さんはこの頃、毎日、お勤めに出ているとしてあった。けれどそれは真面目な勤めでなく、後で聞いた所に依ると、生糸相場に手を染め出し、毎日仲通りへ通っていたものだった。
父は、あせッていたにちがいない。そのため、せっかくの再起の資金をもまた失い、そして以前よりもひどい貧苦へふたたび一家を投げこんでしまったのだった。
どうも、ぼくのこの四半自叙伝は、貧乏ばなしに尽きてい、読者も又かと思われるだろうし、書いてるぼくも実は気がヒケ出しているのである。そこで、これは
ところが、その間の一年余を一足とびに少年期から青年期へ
直接、両親から続木商店の主人へ、手紙でもあった結果であろうか。まもなく、ぼくは暇をもらって、横須賀から横浜の家へ帰った。家はその間、関内の尾上町二丁目に引っ越していた。大通りに面した三間半間口の店舗で、屋根看板に「日進堂」と大きく、わきに「全国諸新聞広告取扱」としてあった。
父はこの店を、前経営者の奥田某氏から顧客附き負債附きの居抜きで譲りうけたらしい。奥田さんなる実業家の夫妻を、ぼくは太田の赤門前時代から見知ってはいたが、父との関係については殆ど何も知る所がない。唯、横浜における小成功者ではあったようだ。その人が郷里へ引退するにあたり、父の悲境を知って、当時相当額の貸金を返してくれた上、日進堂の事業を父へ任せて行ったというのが実情らしかった。そんな風に母から聞いたと覚えている。
いずれにせよ、ぼくの両親にとっては、再生の救いだった。尾上町へ移って以来は、父も長年の病床を出て元気づき、ちりぢりに外へ働きに出されていた妹たちも母の膝下に帰り、ぼくも又、奉公先から呼び返されて、こんどはわが家の一店員として帳場格子の中に坐らせられた。小さい家の歴史でいえば、ま、小康時代といったようなそれからの一年余であったのである。
その日進堂の位置は、今日の横浜でもそう変っていず、桜木町駅から大江橋を渡って左側の、いま朝日新聞社支局となっている辺りである。
今日とその頃とのちがいは、ぼくの少年の頃の尾上町二丁目界隈は、関内芸妓の狭斜の町と織り交ざっており、日進堂の並びにも「
日進堂は東京の弘報堂の下請けで、新聞広告取次が本業だが、店の一部に化粧品の陳列棚を据え、美容水本舗の看板をかけていた。その頃、美顔水とかキレイ水とかいう物が流行的に売れ出していたので、それの類似品を製販していたのでもあろうか。棚は卸し売りの見本にあるのだが、近所の芸妓たちはよくそれを分けてくれといって来る。ほかに客が居ないと店員たちは、からかい半分、妓たちと好きな話に
店の斜向いに、日曜日以外は、いつも鉄扉の閉まっている教会堂と、脇沢金次郎翁の邸宅があった。翁は横浜成功者の平沼専蔵とか茂木、原などと並ぶ実業家だとか。どうかすると、その白頭翁が店先へ来て腰掛け込む。そして毎度、ぼくが帳場格子の中で絵ばかり描いているのを覗き、ある時こんなことを云った。「あんた、何に成るつもりかね」ぼくは大真面目で「絵かきになりたい」と答えた。すると翁は「絵かきに成りたいなら成る道へ早う進まんじゃいかんね。お父さんに云って東京の偉い先生につくか、美術学校へでも入れてもらいなさい。あんたくらいな年は大事な年頃だからな」と。これは、ぼくの頭にこびりついた。東京へ出たいという夢を掻き立て、画家だ画家だと将来を念じた。
だが父の顔を見てはそんなことを云い出せもしなかった。父は病後のせいでなくても、以前から歩くのが嫌いで、用先から用先へ、当時の医者みたいに人力車を乗廻してあるき、店にいることは全く
母は父のすることに
父がまた以前のつきあい仲間へ顔を出し初めて、それの見得も伴ったり、一方では、生糸相場でも損に損を追っていたことだったろう。一時持った金は一年とたたないままに失くしていたと、母は後に語っていた。そして後には従来からあった店付きの負債と新しい借金だけが残り、その断りが毎日の店頭業務みたいに続いた。
けれど、ぼくにとっては、それらの債鬼の客も、一こう恐くも何ともなかった。何も知らない儘「今日は誰も留守です」とか「何日に来て下さい」とか云われた通りを云っていればよいのである。四人居た店員も、水野君一人になってしまい、その水野君も債鬼の恐れを感じると、
そこで、ぼくは初めて小説を書いたことがある。高島米峰氏主宰の「学生文壇」が創刊され、その二号に投じた小説が当選した。題はいま考えると、ひどく古風なもので、“浮寝鳥”というのであった。三、四十枚の物であったと思う。だが投稿規定に二十四字詰原稿紙何枚とあるのを見、その原稿紙を探してあるいたが、当時まだ横浜中にも原稿紙なる物を売っている店はなかった。やむなく二十四字詰二十行に自分で
その頃、もう一つ非常な興味にふれた事がある。店の広告用原画の版木を、頼みつけの版木屋へ取りに行くついでに、新聞小説の挿絵が、どんな工程で出来るものかを、そこの木版師の仕事場で見たことだった。
ぼくのよく覗いた真砂町の彫繁という家では、横浜貿易新報や毎朝新聞の仕事もしており、小川芋銭のコマ絵だの、連載小説の挿絵などを、いつも数名の木版師が手分けで彫っていた。当時、広告図案には、銅版がよく使われていたが、挿絵にはまだ凸版が用いられていなかったものとみえる。原画は薄い
はっきり何年何月から何月までという記憶が、ぼくの今にはない。が、自分の十七歳はまるまるそこで送ったようだ。そして誰の少年期にもあるように、尾上町時代のぼくには、尾上町附近での好きな少女の印象が幾ツかある。当時の横浜銀座ともいえる
そして、短かったが、ぼくにとっても、尾上町時代の一年余は、横浜文化のそういう特異な面もちょっと嗅ぎえたし、書物にも親しめ、絵遊びも出来、感謝していい期間だった。
けれど店も維持しきれず、すべてを負債の抵当に渡して、再び元の貧民窟へ舞いもどる間際には、相当、
もっとも、尾上町を立退く間際には、水道料の滞納で、水道までよく止められたりしていた。そのくせ横浜
古い西戸部という地名は、ぼくの頭には飢餓の辻みたいな印象を今ものこしている。尾上町から越した先は、また西戸部だった。家賃も物価も安く
母が「お父さんは、病気をしてもお金を持っても、ほんとに得手勝手な人だ」と云ったが、戸部へ引っこむと、父は又、急に病人臭くなった。のみならず、まもなく何度目かの潰瘍吐血をした。いま思うと、父はじつに感情家なのである。事に破れても、自分の中で穏健な処理がつかず、心身を労しきるのであった。母はまた、あるかぎりの工面を尽して、父の医療費にかけ、その間、住居も二度まで転々した。一度は父が「家相が悪い、ここにいるとおれは死ぬ」と云い出した為だし、次のばあいは、越してからわずか二た月の家賃が、もう払えなくなっていたので、家主に追い立てを食ったのだった。
いまと違うあの頃の、家主の追い立てほど苛烈なものはない。特に、貧民相手の家主は
ぼくは洋傘の柄を持ち添えながら、その日ほど、自分の母が世間の中で不運な人に見えたことはなかった。家の立退きを迫られている気もちは家がない事とちッとも変りはない。そんなせいもあったろうし、一日じゅう歩き暮れていたことなのだ、母の半生の歴史みたいなものが、小さい頭にぐるぐる廻りしていた。そしてもう何らのぼく自身の欲望は失われていた。ただこの母をどうかして一ぺんでも幸福にしてみたい気もちが無性に起った。好きな読書も画家志望も捨てていいとさえ思った。いやそんな考えも持たなかったろう。もっと本能的な動物でも感じるであろうような単純さで、「いまに、お母さんだって、世間の人なみに、こんな苦労のないお母さんにするよ、ぼくはきっとしてみせるよ」と心で
雨の日、探しあてて、やっとどうやら借りえた家は、崖やぶ
長屋の名を「看視長屋」というのは、住んでから後で知った。戸部監獄があったむかし、看視が住んでいた所から起った名だそうである。およそ形容詞は要るまいと思う。
三、四軒先の隣りに、留さんという労働者がいた。引っ越し蕎麦のお礼からすぐ懇意になり、ぼくは留さん夫婦の侠気で、留さんの仕事場へ働きに連れて行ってもらうことになった。
早朝、誘いに来てくれた留さんは、わらじ
仕事場は保土ヶ谷だった。現在の工業地域が、まだ
土工たちのコンクリート仕事にぼくの一日は預けられた。そこでの仕事は、大きい担い桶を
毎夕、三十五銭貰って帰った。
その一ときの
そんな足元では、逞しい仲間から
でも、留さん夫婦の親切のてまえ、ぼくは雨の日以外は休みもせず通い続けた。それは何かに以前書いたから(文春・二十九年新年号「煙突と机とぼくの青春など」)簡単にしておくが、毎夜、家に帰ってから父母に黙ってそっと按摩をして歩いたのもこの期間の事だった。駄菓子屋で売っている三角袋の麦コガシには玩具の笛が附いている。あれを二本、木綿糸でしぼったのを、ふところに持って、人の知らない遠くへ行って流したのである。これは或る事情でまもなくやめたが、母だけは知っていた。なぜならその稼ぎの十銭か十五銭は、母に渡していたからである。
それを済まなく思ったのであろう、母もまた毎朝、大福やあんころ餅を仕入れた箱を背負って、ぼくと共に家を出かけ、工事場で一日売りひさいで、夕方は一しょに帰った。仕入れ先は、高島町の河岸近くで、そのため朝は星のあるうちに家を出るので、殆ど寝る時間は少なかった。けれど、そんな事をしても、母と共にする眠たさや暗い道の朝夕は、何か愉しかった思い出として今も残っているし、その時にしても、少しも辛いとは正直思っていなかった。
だが、母の餅売りも、結局は無駄骨折りに終ってしまった。なぜなら顔馴じみになると、貸しがつもり、貸したがさいご、それは容易に払ってくれないからであった。元より資本があってしたわけではなく、それも血の出るような無理工面で始めたのだから、忽ち元も子もなくなり、泣き寝入りのほかにはなかった。
ぼくが横浜
母がそこのお針仕事をさせて貰うようになったのが縁で、内藤氏の口添えで横浜船渠へ入れてもらえる事になったのである。内藤氏は、船渠会社の重役であった。
父はたいへん歓んだ。ぼくもいい口があったと思った。だが、内藤さんのお世話という事が、過大にぼくら貧者の心理に
するとその日から、即日職場へ就かせられた。「船具部」という所である。機械部、電気部、製缶部などの各職部門では、最下級の雑役部といってよく、体さえ強健ならば素人でもすぐ役に立つ部門らしい。しいて技術的な仕事といえば、船内船腹の塗工ぐらいなもので、そのほか、入渠船舶の出し入れ、船内船底の
その船具部には、百人以上の仲間がいた。一部から六部まで分れており、一組十七、八名ずつ配されて一チームになっている。能率を競わせる仕組みであろう、一組一組には組長、
ドン(午砲)という言葉があった。「ドンだよ」といえば正午を意味し、「ドンにしようぜ」と云えば、昼飯にしようぜということになる。
横浜の空にはその頃、もひとつ朝午夕の三度ブーが鳴った。サイレンとは云わなかった。「
菜ッ葉服やツメ襟やマドロス然たる数千の職工たちが朝々会社の正門へ流れこむ足なみは壮観でさえあった。七時のブーは就業令なので六時半前後が人海の汐ざかりである。五分でも遅れると、守衛口で遅刻を取られ、支払い日の日勤票には、ちゃんと半時間の割でも日給から差引かれてある。
ドックの盛況か不況かは、横浜中の景気不景気にまですぐ反映した。会社の正門前に、ふつうの通勤工以外の自由労働者の大群が、毎朝まッ黒に見えるようなときは、一号二号三号ドックとも全部の
その臨時雇用の黒い群れは、ハマではかんかん虫とよばれていた。上は腰の曲がったお婆あさんから幼は十四、五歳の少年少女までをふくめてい、かんかん虫には余り屈強な壮者はいなかったようである。何しろそれら異様な細民群の
かんかん虫という呼称は、ぼくには少しもユモラスには聞えない。反対に、エキゾチックではあるが何か灰色の哀感とそして弱々しい明治世代の訴える“うたごえ”も持たなかった細民たちの無数の顔が、華やかな港の灯を背景として、
彼らの仕事は、船のサビ落しと云われているが、ダンブル掃除や貯炭庫の闇や船底の水槽洗いや、およそ船鼠の出入りするような個所へは、どこへでも仕事に追い込まれた。塗りたてのペンキにまみれたり、鼻の穴から肺の中まで粉炭で黒くしたり、セメント箒とセメント缶を持って、船員でも知らないような最船底部の穴から穴へと這いこむのであった。
だから仕事も終って、
が、この零細な老幼男女の雲集も、稼ぎとなると馬鹿にできない。夕方の露店や場末の灯をうるおすことは大変なものだった。家に待つであろう者の為に、経木で包んだ安魚を持ったり、菜漬をブラ下げたり、米屋へ立ち寄っていたりする人影を見ると、ぼくには他人の生活とも見えなかった。おなじ険しさをよじ登る同行者に思われた。
それにまた、当時ぼくの通勤し初めた横浜船渠の船具部という職場が、ほとんど彼らと隔差のない姿や範囲のものだった。違っているのは、彼らに期待できない危険極まる随所の足場仕事だとか烈しい重労働だけである。要するに会社常雇のA級かんかん虫が船具部であるといってもよい。
一万
山の労務者と一見違う所は、その服装と特有な気質であろう。入渠船のペンキ塗工はすべて彼らの手に成るので、工服は一人残らず
全員は六班に分れていた。ぼくは第六部に組み入れられた。六部の組長は猪子三郎氏といい、この人の名は忘れられない。後で思えば侠気のある物分りがいいこの組長の下なればこそ勤まったようなものである。
だが、ほかの連中も、外国船や下級船員に接したり、ハマ特有な気質に洗練されていて、どれも愉快な仲間だった。そして親切であった。ほんとは十八歳でしかないのに年を偽ってこの逞しい仲間に入ったぼくだったが、それと明らかに知っていても、ケチな意地悪などされて泣いた例は一度もない。特に六部の仲間は、自分たちが必然労力のワリを食うわけだが、皆してぼくを
パイロットの乗りこんだランチが沖から入渠船を曳いてくる。ぼくらは待ちうけてロップを取り、ドックに入れる。そして閉じられた渠中の海水が電力で排水され尽し、巨大な船底が
神経質なほど注意深いパイロットの間断ない呼子笛と指揮の下に、その間の全操作と、船体定着の作業は、すべて船具部が総がかりでやる。その烈しさといったらない。まるで戦場の血相と騒ぎだ。この間にまごついてなどいると、仮借なく、がなりつけられる、張り仆される。
船の巨体が漸次、沈下してゆく機微な瞬間に、ドックの石段側と船腹へかけて、車のついたロップを用い、船体の不動を保つ為のツチとよぶ巨材を何十本となく丸木橋のように横へ支え渡すのだった。そして船底が竜骨台に坐るせつな、全員で石段側のツチの根本に分れて立ち、二人ずつ向い合って、大きなハンマーで一せいに
終るとすぐ、一枚の締め木を持ち、片手には重いハンマーをさげた工員が、石段側からツチの上を猿走りに渡ってゆき、船腹とツチとの[#「船腹とツチとの」は底本では「船腹とツチの」]間隙に、その締め木を打込んで帰って来る。ツチはおよそ電柱よりも一廻り太い巨材だが、角に面をとってあるのもあり、中には殆ど丸材をハスッた程度の物もある。その上を、われら船具部の連中は、木靴で平地を行くように渡るのである。ドックに水のあるうちはまだいいが、排水がすむと、下は何十
恐い仕事、危険極まりない作業はツチ渡りだけではない。ダンブルの中の暗闇仕事、製缶工の手伝いや何かでマストや煙筒へよじ登るばあい、一本のロップに
だからふと、朝、家を出るときなど、「――夕方にはこの家へ帰って来ることができるか、どうか」と、よく思ったりして出た。わけて冬中は、まだ暗いうちに戸部の横丁から霜を踏んで出るので、そんな感傷がよけい胸をついた。
組長の猪子さんの家は、どこか近所だったとみえ、よく途中で会った。この人に声をかけられると、ぼくは勇気づけられた。
「どうだい。勤まりそうかい。ベソを掻いちゃいけねえぜ。まアいいやな、六部に居りゃあ」
途々そう云ってくれたりした猪子さんであった。だが、職工長や技師にはよく突ッかかるというので、六部の組長中では、猪子さんがいちばん会社側のウケが悪いのだそうであった。
六組の班と班とは、自然その仕事を実績上に
だが、何にしても、ぼくは力がないし体躯も小さく、たとえばツチの巨材を
雨の日は、船内仕事か、外部にしても、ドックの底の真っ暗な船底のサビ落しなど、比較的らくな作業が多かった。
そんな日、ハッチからダンブルへ入って、足場板に腰かけ、
船艙も石炭庫だと、無数の小ハンマーの響きで、暗い上にも更に粉炭の闇が濛々と厚くなった。空気がチリチリ燃え、手元の蝋燭の焔に、のべつ
それでもなお、ダンブル仕事は、よかった。自由な空想が愉しめるからである。ドックの一年何ヵ月が勤まったのは、ぼくに空想癖があった救いといっていい。そこの闇黒が苛烈なほど、自分を置く空想の世界は甘く、夕方の
夜業は任意な日もあるし、強制的な時もある。
冬の夜など、乾いた事のないドックの底での居残り作業は、零下何度なのか、陸では知らない寒さだった。
しかし技師や監督も見廻りに来なくなる夜半過ぎになると、彼らは適宜に暖を取りに上がって行ったり、蝋燭の灯を寄せて、ばくちの盆ゴザを
ぼくはよくその仲間から立番を命じられた。後では五銭玉ぐらいを誰かがくれる。けれど度々のうちには覗いてみたくなり、すぐ彼らの熱中する理由と丁半のルールも分った。
「あんなこと、覚えたって、しようがあるめえ。おれみたいに成ッちゃうぜ」
小屋へ戻ると、彼はぼくに一そくの木靴をくれた。それまでぼくはみんなの穿いている木靴を羨ましいとは思ったが、革靴のように売ってもいず、手に入れる工夫も知らず、始終、水びたしの足に、ただの破れ靴か草鞋しか穿いていなかったのである。
小屋の仲間は、雨の日とか、夜業の夜には、暇を盗んでよく手製の木靴を作っていた。
どこからか杉材を見つけて来て、足型ともん数に合せ、
皮革の部分はズックで作る。これはロップ小屋などから持ち出してくる。そしてブリキ板を細い帯状に切り、木の底部の
帽子もペンキが積もって
「この顔、女房子に見せたくねえナ」と、誰かが云えば、「
いずれ遊廓の女か何かであろう。よく通っている先の女のおのろけを始終自分から云い出しては、からかわれると、それで満悦している森公という小男の工員がいた。勘定日(月二回の日当支払日)というと、それから数日間は極まって休む。取っただけを女の
だから皆から小馬鹿にされていた。けれど六部では一番の古顔だそうで、通勤にはいつもチックで入念に髪を分け、悪くとも背広は着ていた。どうかすると細いステッキを
彼の如き独身者は稀れで、女房持ちの方が多かった。十年二十年の勤続者も少なくない。毎日がこんな危険な仕事なのに、よく長の年月、怪我も死にもしないものだと思われた。会社の弔慰金などは雀の涙ほどしか出ない。泣き寝入りというよりは労働階級全般が今日のような自覚も組織も持たなかった時代である。あとの女房子はどうなるつもりで皆いるのだろう。この船具部もふくめて全工場での死者怪我人の数を統計にとれば、年間たいへんな数に昇るにちがいない。
どうかすると一日に二件も三件も医務員の白服と担架の列を見る日がある。さすがそんな時だけは、ドック内も一瞬シュンとなって「今日は
そういう地獄の一丁目と普通世間との門を、二十年以上も朝夕のブーを耳にしながら通っていると、森公のような人生観に到達するのは自然かもしれなかった。人は森公を嘲うが、案外、森公の諦観は、ほかの女房子持ちの多くの仲間を憐れと観ていたのかもわからない。
多くの話題は、職場小屋に全員が集まる昼休みの三十分に沸くのだが、ここでも食い物に次ぐのは猥談であった。森公は甘ッたるいおのろけを眼を細くして云うロマンチストに過ぎなかったが、ほかの連中の猥談というのは、そんな程度のものではなかった。ぼくは幸か不幸か年少から書物を通じて大人たちの秘戯の世界をもう想像の上では充分
ここに到って、ぼくなどは心ひそかに、まだ自分の未知な未経験な大人の別生活があることを今更のように思って、
だから――と云って、ぼくの例では適切でないかもしれぬが――猥談の常連みたいな他の大人達も、じっさいはそれ程な猥漢でもないし行為はしていないのではなかったろうか。毎日の職場が一歩
ドックの勤めだけは辛かった。毎朝の足が重くて、一朝とて元気に家を出られなかった。けれど依然貧乏やつれの母を見ると、そしてその母がお弁当をつめ、子のぼくにいそいそ心をつかって、送り出してくれたりすると、やめたいやめたいと思いながらも、口には、云い出せなかった。
いつか、半年以上も勤めた。ぼくは十九になった。その年の五月である。四女にあたる妹の浜子が死んだ。浜子の死ほど一家の者に深い痛恨を刻みこんだものはない。
浜子はわずか九歳だったが、数ヵ月前、房州の田舎町の飲食店へ奉公に出されたのだった。当時の貧乏人の家庭では、単なる口減らしという目的だけでよく子供を外へ出す手段をとったらしいが、そんな幼い者を、どうして房州へなどやったのか。母は、後では悔みに悔んで泣く泣くぼくに打明けたが、どうしても十五円程の必要に迫られ、先はよい主人という口入れ屋の話に乗って、前借の為に手放したものである。
浜子は人形のように色の白い端麗な子であった。貧窮の中で物心のついたせいか賢い子で母思いだった。遊びたい盛りなのに小さい心を母と一つに貧苦して来た。だから母の側を離れるさえ嫌だったろうに、遠くへと云われても、「……うん」と云ったのだろうと思う。
行った先の主人の話では、着いた日から御飯もろくに食べず、泣いてばかりいたらしい。そのうちに床についてしまった。医者に
家の中へ寝かせたとき、もう意識はなく
浜子の死については、今でも思い出すと悔恨と
運命は
吉田町の家は、繁華街のすぐ横で相当な構えの家であった。だからぼくは今度こそ父に申し出て、ドック勤めはやめたいと、ひそかに折を
ところが、その希望をつよく両親へ云い出しえないでいる前に、ぼくは船腹のペン塗り仕事の最中、仲間の者の過失からドックの底へ、足場もろとも落されて、野毛山の十全病院へかつぎこまれる身となっていた。
その日ぼくは、ドックの底から担架でかつぎ上げられて、野毛山の十全病院へと運ばれてゆく間に、いつか意識を失っていた。何分か何十分かは、完全な仮死に落ち入っていたわけである。
病室の白いベッドに気づいてからも、どんな手当をうけたのか、ぼくを
頭のしんには、いつまでも、ドックへ墜落したせつなの、グヮンという衝撃が、そのまま詰まっている感じで、幾日も止まった時計のように頭脳の働きをしなかった。だから得難い経験を通っていたのに、仮死から
もし自分に日記をつける習慣があったら、きっとその事は多分な感慨で後に書きとめておいたろうが、ぼくには以前からそういう記録癖がちっとも無かった。今でもそうだが、ぞろッぺな一面がどこかにあった。というよりも、そんな貴重な試煉に会っても、それを契機に青年なら青年なりの生命観に触れてみるとか、生涯のエポックとして考えるとか、というまでの自己直視もまだ持っていなかったものだろう。年は十九にもなっていたのだけれど、一こうなおまだ“あんにゃもんにゃ時代”の殻を脱け切れていないうち、この奇禍に
もちろん三等室である。だが、六畳間ほどな一隅のベッドは、ぼくだけの物だった。いつ眼をさましても白い看護婦の姿が見え、瀬戸の火鉢には湯がチンチン沸いていた。一種のしじまが、重傷患者の気もちを、やがて、すっかり落着かせてくれた。
朝々の廻診が来るたび、左右から看護婦たちの白い冷たい指先が、ぼくの胸をはだけ、胴中から腰全部にわたる繃帯を解いて行った。いちばんひどく打った個所は
「うまく
ぼくは
どうして墜ちたのか、奇蹟的に助かったか、前後の事や、せつなの記憶も、やがて徐々に、よみがえって来た。
船具部の仲間は、その日全員で、一号ドックに入渠中の一万
船腹上部の黒ペン塗りが終り、
午後の三時半か四時頃であったろうか。巨大な船腹は塗りたての赤い液と西日にギラついていた。だが、ドックの底は、もうほの暗く、所々に薄氷が光って見える。当然、夜業になるらしかった。
足場は、尺板二枚を並べただけの物にすぎない。両端を枕木で締め、ロップ車が附いている。そのロップは、船の上甲板に結い附けてある、も一つの車を通って、ドックの宙から陸へと長く渡してあるのだった。陸の
ミットの頭には、鉄の
さっきから、ぼくの足場と、ぼくの仕事の
「下げるぞう。つかまってろ」
と、うしろで呶鳴るのが聞えた。
ぼくは慌てて、足場板の中ほどから、端へ駈け寄った。風にさえ、すぐブランブラン揺れる足場だし、歩くと、上下にも
たちまち駈け寄って来た人たちの声が耳元ではあるが遠くに聞えた。ぼくの体は人々の手や肩で、ドックの胸突きのような石段を担ぎ上げられているらしい。ふと、その間にわれに返った。そして自分の体を見た。胸も手も、ほとんど全身が血に見えた。
血と感じたとき、ぼくは又、失神状態に落ちてしまった。それきり何も後は知らなかった。後で考えると、血と見たのは、手に持っていたペン缶のレッド・ペンキを満身に浴びていたものだった。ちょうど、夕陽の頃だったから、開いた瞳孔に、その
また、過失の理由も、後で聞くと、こうであった。寒いので、平井老人は、手袋をしていた。船具部の仲間なら、そんな事はないが、係りは倉庫番であったし、年も
ぼくの奇禍が、この人の過失と聞かされて、後では妙な気がした事だった。まだ会社へ入りたての頃である。ロップ倉庫の前で、その平井老人が、ぼくを見るなり「おや、アスアかと思ったぜ、よく似てるなあ」と大ゲサに眼を丸くして云った。その後も「おめえ、アスアに似てるぜ」と、ぼくを見るたび云うのである。気になって、アスアって誰? と仲間に訊いてみたら、以前、三部にいたが、製缶工の手伝い仕事で、艫足場から墜ちて即死した混血児だとの事であった。
それから変に、平井老人の青ぐろい皮膚や出ッ歯が、ぼくには、不吉な象徴に見えて仕方がなかった。先でもぼくを嫌ッていた事だったろう。とにかく、どっちも虫が好かない風だった。でも、こうなったので、或る日ドックの帰りに、いちど病院へ見舞には見えてくれた。しかし何を云って帰ったか、何も耳に残らなかった。
患部の痛みはべつとして、ぼくは毎日のベッドに退屈も知らなかった。
朝晩のドック会社のブーは、ここの窓へも聞えて来る。ブーが鳴っても、あの鉄の門へ急がなくてもいい。木靴を穿いて危ない軽業師のような労役に就かないでもいい。そう思うだけでも、偶然な幸福に見舞われている気がした。事実、こんな安息は、何年にもなかった事だ。何もしないで、温かな食事を看護婦の手で給仕され、本も読めるし、自由な空想も描いていられる。嘘みたいな、昨日と今日の違いだ。災難だった、気の毒だったと、人の云ってくれるものが、自分にとっては、逆にこんなにも密かな愉しみだったのである。
そこへ運び込まれた日、誰より先に、色を失って、駈けつけていたのは、母だったにちがいない、その母の姿さえ、二、三日は、はっきり意識にうけとれもしなかった。痛い痛いとばかり訴えていたらしい。だが、漸く容体の快方が見えてから、母は或る折、今度の事では、あのかたくなな父さえ、どんなに
「――あの日、会社のお使いが来て、おまえが、ドックへ墜ちましたっていう、知らせじゃないの、お母さんも、台所にいて、そのまま腰が抜けそうになったけれど……お父さんも、あの日ばかりは、何ともいえない顔をして、腹のそこから云ってたことよ」
「お父さん、なんて云ってた?」
「ああ、男の子ひとり、なくしてしまったか……って」
「ぼくが即死したと思ったんだね」
「そうよ、それやあ、お母さんだって、どきッとしたわ。病院へ来てみるまではね。でもまだ、あの日一晩中は、お母さんが枕元に附きッ切りで居たのを、おまえは全く知らなかったでしょう」
「知らない」
ぼくは首を振った。そして、又すぐ、
「……すこし、知ってた」
と云い直した。
当時の事も、てんで記憶には少ないのに、母の印象や、母と二人きりで居たときの場合は、こんな些末な会話の端さえ、ふしぎに今も鮮やかなのである。ぼくにとっての母は、たしかに恋人以上な何かを持っていたのだろう。特に又、この病室での印象が濃く残っているのは、その折母がぼくに向って、父の前では見せてくれない愛情のふところを大きくはだけて、ぼくの顔を添え乳してくれたむかしのように、抱きしめてくれたからであった。
そして、そうしながら、母はぼくの耳元へ囁いた。この折の母の息の香や肌の
「
ぼくは甘えた心地で眼をつむッていた。尾骨の辺がまだズキンズキン痛かった。退院後の事など何も頭になかった。体の恢復は、ベッドの安息所から出て、再びドックの冬風や家庭の貧苦に当ることを意味するのだ。ここを出てから先の事を考えるのは、空恐ろしい気もちもあった。
「ねえ、……またドックへ勤めるのは、あんたも嫌なんでしょう、辛いんでしょう。お母さんは、こんな事のない前から、毎朝のように、おまえのお弁当を詰めるたびに思っていたの。あんな危険な勤めは、どうかして止めさせたいし、おまえも、年頃だしと思って」
「だって今、ぼくがやめたら、困るだろ、お母さんも」
「それは困るけれどさ。こんどこそ、病院を出たら、思いきって、お父さんにお云いなさい」
「なんて?」
「いつも、胸に思ってることをさ。……あんたの望みをね」
「東京へ出して勉強させて下さいって云うの」
「ええ。お母さんも、それとなく、お父さんに、おすすめしておくからね。お父さんも、こんどの事では、ひどく感じていらっしゃるから、きっと、ゆるしてくれますよ」
「けれど、ぼくが居なくなったら、お母さんだって、心細くない」
「もう、家の事は心配しないで……。お母さんの事も。……それより、おまえは、もう、おまえだけの方針を取って、苦学するなり、東京で働き口をみつけるなりしておくれ」
母は、そう云って、急に、あらたまった口ぶりで、
「有難うよ。……英ちゃん、長い間、よく働いてくれたわね、もうおまえは、おまえの道を進まなければ」
それから十分か十五分後に、看護婦が昼の食事か何か持って入って来るまでは、ぼくは母の胸から顔を離さずにいた。看護婦の山田さんに、母はいつも何か心づけの物を持って来ては、息子のみとりを、心から頼んで帰るのだった。吉田町の家へ移ってからも、家計の内面は依然火の車だったろうし、父の性情も急に変ったわけではないから、病院へ来ても、その後は、母も顔を見るだけで、いつもせかせか帰りを急いだ。けれど、それっ切り何も云わなかったが、母の気もちと、ぼくの心は、ここを出ないうちに、かたく極まっていた。
退院したのは、十二月の末だった。
さすが、ぼくの健康で家に帰った姿を見ると、父も「よかった」と何度も云って、しんから欣しそうだった。
その機嫌を
案外、父はかんたんに、「うむ、やってみるさ」と云った。決して、いい顔つきでもなく、
苦学とか立志とかいう文字が、青年の脳裡に強い意欲と夢をもたしめていた時代である。父は、ぼくも流行青年病の一人と見ていたものだろう。その点、娘時代を近藤真琴の塾で育てられた母とは、違いがあった。芝新銭座の近藤塾に勉学していた沢山な若い人々の夢を、母は娘時代に知っていた。だから、子のぼくが、十九ともなり、十九の年も、終りかけている今を、父以上、本気になって案じていてくれたかと思われる。
こればかりは忘れはしない、年暮の三十日であった。ぼくは生れて始めて、家という巣箱を出た。父と母へ、改まって、
いまから考えると、ちと滑稽である。けれど、その頃は、桜木町駅を離れる汽車の窓から、ホームに立ち残っている母や小さい者たちへ、涙を溜めた目で、離別のハンケチをいつまで振っていても、決して、それが衆目にも、おかしい事ではなかったのである。それほど、横浜東京間の距離は、まだ遠かった。
汽車が、高島町辺にかかると、車窓の右側に、船渠会社の構内が、すぐ、まる見えに望まれる。一号ドックにも、二号ドックにも、入渠船のマストが見えた。今日もそこの足場で
それと、もひとつ、心にすまない事が残っていた。船具部仲間の無尽である。十円取りか、十五円取りか忘れたが、何でも必要があって、ぼくは途中でせり落していた。で当然、あとの掛け金の義務がある。ついにその債務を、ぼくは恩人の猪子さんに背負わせたままで横浜をあとにしてしまった。今でも、これは返していないのである。今日まで、ただすまないと、何十年も思って来た。
どうしたのか、ぼくは新橋駅まで行かず、品川駅で下車してしまった。八ツ山下の賑わいを見、もうここが東京かと、慌てて降りてしまったものとみえる。
紺ガスリに、黒木綿の兵児帯。ただ駒下駄だけが、新しかった。母が買ってくれたのである。それと、出がけに、母がぼくへくれたガマ口に、一円七十銭入っていた。いのちから二番目の物と大事に持っていたのだろう、この銀貨銅貨取り交ぜての額は、はっきり覚えている。
その頃の、苦学という事、東京へ出るという夢は、当時のぼくら青年にとっては、最高の希望を、最低の手段で掴もうとする唯一の道であった。
封建中国のむかしにも、
それはよく出世主義の世態と間違われるが、当時の風潮は、あながち金持ちや高官を目ざす拝金昇官思想だけに依るものとは考えられない。もちろん、資本主義の隆昌と時の国運が醸成したものにはちがいないが、純粋な志学青年も、芸術家の生涯を夢む若人も、みな
むろん、押しなべて彼らは一様な貧書生であった。しかし書生の名には誇りがあった。彼ら自体に一つの節操と制裁をも持っていた。軽薄を嫌って、持ち前の野性、その蛮カラ振りを都人士の中に振舞うのを快とした。現代のアルバイト学生とたいへん違うところは、明治の若さには、総じて楽天的なものが溢れていたことである。彼らの未来夢の信念が演じる
いまに見ろ見ろよと歩く永田町
というのは、よく当年の彼らの気もちを代弁していたものと云っていいだろう。ぼくの出京希望も、間違いなく、そんな時代風潮のせいだった。品川駅前で乗った電車の窓から、漫然とただ街を見ていたが、長い区間、飽くのも覚えなかったのは、出京第一日の不安やら触目の事々に新鮮な驚きを抱いていたせいであろう。もちろん、東京の地理は何も知らず、電車に乗ったものの、どこで降りるあてさえなかったのである。
終点へ来てしまった。本所の緑町であった。
日が暮れたら、
この前後の事は、以前オール読物の誌上で、随筆としていちど書いたことがある。で、簡略にするが、職業紹介所という文字を、世間に見たのは、ぼくにとって、その時が初めてだった。――という事を友人に話したら、その友人は、いや明治四十三、四年頃なら、日本でも職業紹介の制が民間に創始された極く初期か、或いは、基督教会青年部のその若いインテリ夫婦が最初の試みをやった人かもしれない、おもしろい因縁だから、ひとつ調べておこう、と云ってくれたが、まだ以後の返辞は聞いていない。
とにかく、ぼくは運がよかった。路傍をまごつく事もなく、又、一円七十銭しかない乏しい
鼻下に優しい髭のある知識層らしいそこの主人は「君ネ、勉強しながら働く口となると、実際はなかなか少ないんだよ。けれど、君なら保証して世話して上げられそうだから、きっと探して上げますよ」と、毎日、ぼくの職探しの為だけのように、どこかへ出かけて行った。そしてたしか正月五日だったかと思う、丸ノ内の或るパン屋へぼくを連れて行ってくれた。
いま考えると、そのパン屋は、数寄屋橋から日比谷交叉点へ出るあの大通りであった。けれど当時は、日比谷寄りの方が、サンドイッチの一片の如き三角な街になっていた。そして街の尖った先が、数寄屋橋方面へ向いており、大きなパン屋の店がそこの角地を占めていた。
あいにく店主が不在で、長時間待ったが、会えずに帰った。すると翌日、もう一軒べつな口があるが、そこへ行ってみるかとの話が出た。そこで急に気を変えて、こんどは紹介状だけを貰って、一人で行った。本所菊川町の小さい
五十がらみの素朴な工場主であった。物を云うにも、
ここの工場主もクリスチャンであった。つまり紹介先はみな日本基督教会のメンバーだったものだろう。工場での仕事は、至極単純なものだった。一台のラセン削り器械を受け持って、終日、
母からはよく便りをくれた。ぼくも出京以来、毎日のように手紙を書いた。安心するようにばかり書いたので、母は、ぼくがもう志望どおり苦学の方途をえて、勉強の緒についていると思ったのか、小包便が届くと、母の夜業に縫われたらしいシャツやら学生股引にくるまれて、必ず何冊かの本が出て来た。欲しいと思っていた竹越
ふた月三月いるうち、「ここでは勉強も」という焦躁に
伯父の斎藤恒太郎は、ぼくが幼少の頃、いちど母に連れられて行った覚えのある北白川宮の邸内から、その後、青山南町へ移っていた。と分っていただけで番地も何も知らないのだ。
それに、片道五銭の電車賃が無くて、ぼくは本所菊川町から青山南町まで歩いたものだ。交番だけでも幾ヵ所訊き歩いたか分らない。唯、伯父の現職は、学習院英文科の教授というだけは聞いていたので、それを頼りに探したのだった。そして漸く、探し当てはしたけれど、もう夜も十二時近い頃だったかと覚えている。
伯父はひどく
「え。おいくさんの息子だって。あの英さんという子か」
という声が、玄関にまぢかい奥の一室でしていた。しかし、「お上がり」とも云われない儘、ぼくは古風な式台造りの片隅に腰かけて小さくなっていた。長い間待たせられた。その間に文金の高島田に結った令嬢風のひとがお茶とお菓子を供してかくれた。ぼくには、
ほどなく伯父はむずかしい顔して玄関に姿を見せた。鳥羽藩の士族出で、攻玉舎の英語教官から宮様の進講係となって、現在、
けれど伯父の方は、時ならぬ深夜だし、何事かと驚いたにちがいない。「家出して来たのか」と、まず訊ねた。「いいえ、母も承知の上で、苦学しに出たのです」と、有りの儘をぼくは答えた。そして、駄目だとは思いながら、
「どこか、塾の学僕か、学校の小使みたいな口はないでしょうか。書生に置いて下さる所があれば、なおいいんですが」
と、志望をのべた。
けれど伯父は全然受けつけはしなかった。無断で出京したに違いないと見、流行の苦学
訪れた悔いをその儘抱いて、ぼくは夜半の一時頃、斎藤家の門をすごすご辞した。金も無いが、もう電車も通っていない。青山の果てから本所の果てまで、又ぶらんぶらん歩いて帰った。
生来の空想癖にすぐ遊ぶせいか、ぼくはこういう場合も、道の遠さとか、人の辛さとか、そんな事は余り心にこたえない。この晩の長い帰り道も、何を考え考え歩いたろうか。腹も減っていたに違いないが、さっぱり悲痛な気持ちはなかったようだ。親戚の冷たさとか、世間の無理解に不平をなすりつけてみるとか、そういう卑屈感は、少しも心を
あとで反省してみると、昨夜の事は、母へも悪い事をしたと思った。ぼくの家が、転々と、どん底からどん底へ落ちて行った多年の間も、引っ越し先を尋ねては、先方から訪うてくれるような人はひとり斎藤の伯父だけだった。しかも、その人に嫁いだ、ぼくの母の姉は、もう故人となって、
しかし、斎藤家の方でも、後には、ぼくの出京が、母も諒解上のことであったのを知って、ひどく気の毒がったそうである。という話を、後年、従妹から聞かされた。その従妹の園子は、まもなく横浜の岡野銀行頭取の石渡又七へ嫁いで、つい昨年まで、鎌倉に住んでいた。この“忘れ残りの記”の初めの方に書いた、ぼくの母に関する娘時代の事は、従妹の記憶に依る所が多かったのである。けれど、その従妹も、ついこの春亡くなった。
菊川町界隈の沢山な小工場の中に、S手提金庫製作があった。四月頃、ぼくはラセン釘工場の主人とも諒解の上で、S工場へ籍を変えた。勤務時間、賃金、勉強する条件なども、S工場の方がよかった。手提金庫という物が盛んに市場へ出はじめた頃で、工場も新しく、活気があり、会社は儲かっているらしかった。
製缶部、洗滌部、塗工部、包装部などと小さく分れていて、ぼくは事務員の名で入ったのだが、雑役が半分だった。製品が溜ると、品別伝票と数量簿を持って、荷馬車や荷車に付き添い、
「君は、工場に泊っているのか」
と、訊ねた。
この人が社長さんと聞いていたので、ぼくは「はい、そうであります」と云ったような口調で固くなって答えた。その時は、何か簡単なことだけしか問われなかったが、ふた月三月たった頃、こんどは工場で、「一度、夜でも、ぼくの家へ遊びに来い」と私宅の書いてある名刺を渡された。
両国河岸の百本杭の辺も、まだ閑静な家やら木々も残っていた頃である。指定された晩、ぼくは百本杭の社長邸へ恐々行ってみた。晩飯を御馳走してくれた。そしてS氏から「君は、苦学しているという事だが、工場勤めでは、勉強も出来まい。それに本所辺の夜間学校などへ通ってみたところで、将来の足しにはならん。工業方面へ出たいなら、蔵前ぐらいは、やっておかなくっちゃ駄目だ。蔵前高工を目ざしたらどうだね」というような口ぶりだった。
家庭の都合で、中学も出ていません、と答えると、「だから、ほんとに君が勉強したいのなら、勤務も変えて上げる。蔵前とは限るまい。どんな方法でも考えられよう。保証人にもなってやる。ひとつ、熟考しておき給え」と云い、それから自分の事業は、発展の途上にある。将来は南洋にも支那にも支店を拡げるつもりだ、というような事もぼくへは話した。何で私宅にまで、ぼくを呼んで、そういう好意をもらしてくれたのか分らないが、とにかくその晩ぼくは感奮して帰った。思いがけない幸福に囁かれて寝つかれない程だった。
けれど次の朝にはもう諦めていた。S氏の好意は断るしかない。出京以来まだ半年だが、その間に、何十通となく見た母の手紙には、唯一人の稼ぎ手のぼくを失って、以後の苦しさは、つつみようもないものが
塗工部の通勤工に、Yさんというのがいた。浅草鳥越町から通っていた本職の塗師職人である。多少ぼくの事を聞きかじってか、昼休みの或る時、ぼくを人無き所へ手招ぎして、「とても、いい仕事があるんだがネ」と、囁いた。「……どう、一年辛抱しない? 眼をつむって一年辛抱すれば、いい金になる。仕事は、横浜へ出す輸出物だし、君も横浜の人だしさ」と、熱心にぼくを説いた。会津
苦学するなどという夢は、半年にして破れていた。それ以前に、ぼくは本所林町の夜間工芸学校へ志願し、すぐ許可されたので、夜はそこへ通学していた。小工場の物置を改造したような所に黒い机が四、五十並べられ、靴や板裏ばきの儘、本所界隈の徒弟や子弟が集まって来る。工芸といっても、図工の養成が主で、初歩の図案、
そんな矢さきにYさんの耳よりなすすめだった。苦学というのは、身一つの学問へ多年をかけることで、金を得る道ではない。ぼくの義務は金をうる早道に就くことだった。母も後の苦しみは承知でぼくを東京へ出してくれたのだが、今は貧苦にひしがれかけているのだろう。ぼくはYさんの世話で、その後まもなく、浅草三筋町のT氏の許へ、一年ぽっきりの約束で、輸出金属
T氏は若松の人で、その頃、同郷の会津
T氏もその一人で、独身だった。開盛座という芝居小屋があり、その近くの露地を入った四軒長屋の一番奥で、四畳半に六畳の二間きり。師弟二人の男世帯、工房はその六畳で、漆を扱う小机ほどな
輸出ダムシンと称されて、金属面へ漆で描いた様々な図案を、化学薬品に浸して
腕輪、ネクタイピン、
だが、何と小さな工房か。もちろん、下職や下絵描きの人々は、浅草下谷界隈に、何十軒とあったわけだが、おそらくT氏ほどなささやかな世帯はほかになかったろう。T氏は会津人の辛抱づよい性格と、男ながらたまかな生計に達していて、ぼくが住み込むと、台所の水仕事から、味噌醤油、八百屋物の買出しなど、一切はぼくの任にまかせられた。けれど、味噌二銭、塩鮭の切り身、一銭五厘のを二切れ、といったような買物のさしずも、T氏自身が小銭を数えて命じ、経済上の才覚はなかなかゆるがせな人ではない。思いきや、ぼくは二十歳になって、初めて人の台所で、米をとぐことを覚え、夢みていた苦学の灯下に書を読む代りに、御飯のむし加減のむずかしさを学ばなければならなかった。
どうかすると、今でも、ぼくは人から「――絵もお上手なんでしょう」などと、からかい半分か知らないが、乞われたりすることがある。
とんでもない。ぼくが絵も描けるらしいなんて思われたその
浅草三筋町界隈は、まだ旧東京の庶民暮らしが、そっくりその儘、横丁や長屋の隅々にまで残っていた。煮豆屋と荒物屋の横で、四軒長屋が二た側になっており、T氏の家は、ドブ板のいちばん奥で、
どこも六畳三畳二畳台所だけの
それと、隣り三軒、前四軒の箸茶碗の物音から、喜怒哀楽の声まで、手にとる如く聞え合うので、それぞれの職業、家族、出入りまでが、一軒のものとして判断される。で、終日、蒔絵師用のじょうばんと称する机に似た物の前に坐って、輸出物の下絵仕事に根気をつめていても、ぼくは
横浜の下層と、東京の下町との、違いもわかった。その前に読んでいた一葉の作品やら明治から江戸期の文芸にも見えた風物やら人の生態などにも少しずつは触れている気がした。また、この頃から再び江戸文芸にあらためて
実際に、鯉丈や一九の好モデルになり得そうな人間がまだザラに居た三筋町界隈やら旧東京の下町だった。もう首都としての
何しろ師弟二人きりの男世帯だ。米を磨ぎ、ヌカミソを掻き廻し、七輪に味噌汁を掛けたりしながら、ぼくはT氏に師事して蒔絵、象嵌下絵などの、習得をうけた。幸い、絵は幼少から好きだったから、のみこみは早かった。T氏と同郷の会津蒔絵師の仲間がよく遊びに来ては、ぼくの使う
――前後するが、ここへ来る前の四月中旬、吉原の大火があった。
それから吉原復興の
だから週に幾晩かは、ぼく一人である。かかる夜は愉しかった。母に手紙を書いたり、読みたい物を読み
のべつ勤勉家とサシでいるので、ぼくも勤勉家でないわけにゆかない。ヘコ帯紺がすりで、沢庵漬や干魚を提げたり、共同水道へ、水汲みに行くなどは、初めはテレたが「Tさんとこのお弟子さん」と、長屋中は親切にしてくれた。そのうちに長屋端れの共同水道へ水汲みにゆくのも、ひそかな愉しみになっていた。折々、水道栓でぶつかる
花簪や花櫛の
T氏の許にいる間に、母は二度ほど上京して来た。そしてT氏とも親しく会い、ぼくの次弟素助の身も頼んで帰った。又、それから後、どういう工面をしたものか、母は一家をまとめて、東京へ移って来た。
行ってみると、本所緑町のガード下に借家していた。見るからにひどい家だ。湿度もだが、光線の入る所がない。父の病気の為にもわるかろう。さっそく、ほかを探すことを母にすすめた。
それはよいが、家に居るものと思っていた次女のカエが見えないので、母に訊ねると、長野県のS市へ行っているという。土地で一流の旅館料理を営んでいる人が、将来の事もかたく約してくれたので、カエにとっても、むしろ幸福であると、養女にやったというのである。
ぼくは、どきっとした。前に、幼い浜子を、遠くへ出して、諦めきれない死を見てもいるので、「大丈夫?」と念を押した。母は充分先方を信じているらしく、「こんどは、前のような人の世話じゃないから……」と、いかに先の養父母となる人が好人物か、土地での有力者であるかなどを、話して聞かせた。けれど誰の世話で、どんな形式でやったのか、その辺は語りもしない。多少、世路の複雑を
無知といえば可憐なる無知の人であり、愛の一型とみれば、ただ子の涙を以て洗うしかない「家」なるものの犠牲碑だった。
母は、まもなく本所の番場町辺に間借を見つけた。そして袋貼りやら仕立て物の手内職を探し、また、子供らの通学やら何やら、曲がりなりにも、馴れない土地での暮しの緒につき始めた。
そんな中でさえ、母は用達しの帰りとか、寸暇があると、よく三筋町へやって来て、男世帯の汚い台所や押入れの中まで、よく見てくれた。洗濯物、ほころびの繕い、晩の御飯の仕掛けまでして帰るのだった。もちろん、T氏も母のおせッかいを好意で見てくれたし、ぼくや弟には、人の家であっても、母が立ち働く姿を見ているだけでも
だが、とかく病人の父は、母の留守をよろこばなかった。三筋町でつい日が暮れて帰りなどすると、例の癇癖でよく呶鳴られていたらしい。母も、お父さんのそれにはもう馴れッ子になったと云っているが、後は必ず病状が悪いので、それにはらはらするのであった。
冬の初め頃、母たちは又、その貧しい巣を引っ越した。吉原遊廓にすぐ近いおはぐろ
何で、こんな所へ引っ越したのだろう。昼の妓楼の裏に干し並べてある赤い物や、おはぐろ溝の黒さを覗いて、ぼくは母の気もちが分らなかった。弟妹の千代や晋ももう学校へ通い出しているのだ。夕方になれば遊客がぞろぞろ通るし、夜は茶屋のお
どうやら、およそ二年後に、ぼくはT氏を離れて職を持つことが出来た。
初め、塗師屋のYさんを介しての約束では、一年限りの契約だったが、礼勤めすべきだというので、半年延びた。が、その半年を送ると又、Yさんから苦情が出た。T氏も快くは暇をくれない。その間、多少ごたごたも生じたが、仕事を出す先のO商会の番頭や同業の口ききも手伝って、ともかく暇をとった。けれど弟と同時にでは、T氏の方も困るので、弟はなおT氏の許において、ぼく一人で、下谷西町に間借し、その日から仕事を探した。いちばん先に仕事を与えてくれたのはO商会で、次いで日本橋のH商会でも、励ましてくれた。その頃、H商会主の弟で、大学の制服着の儘、よく下職廻りにも歩いていた笠井政一氏は、いま品川区の区会議長をしている。
東京で初めて、自分の畳として持ちえたぼくの根じろは、下谷西町の髪結さんの二階であった。梯子段の上がり口が三畳、襖隣りが八畳である。だが、ぼくが借りたのは三畳の方だけで、八畳の方には、落語家の夫婦者が住んでいた。
ぼくはその落語家を、先々代の
しかしぼくの三畳へも、以来とみに訪客は多かった。仕事仲間はべつとして、その頃もう上海から帰っていた川上三太郎氏はすぐ眼と鼻の先の左竹にいたし、柳樽寺同人の誰彼だの、井上剣花坊氏だの、談論風発なら、お隣りにも負けなかった。そして、
句作や江戸文学研究の上で教えをうけたことを除いても、井上氏夫妻からは個人的にも、並ならないお世話を
上京前からの御縁だった。井上秋剣の名で、中学文壇その他の文芸誌に、詩や文章の選、また小説評論も書いておられた。日本新聞の上では、
とつぜん、三筋町の長屋へ訪ねて来られたのには、びっくりした。が、そういう見得のない人なのである。長州人の豪朗性そのもので、いつも書生袴、そして手提ゲ袋の紐を、片手の手頸に巻き、体じゅうで笑い、体じゅうで談じる。そして終日でも倦まない。後には、妙にぼくの親父と気が合ったものだった。どこか一脈通じるものがあったらしい。
お住居は芝
忘れ難いのは、初めてお訪ねしたときの事だ。ぼくは鼻緒の切れかかった汚い下駄をはいていた。奥さんの信子女史が、
その井上信子女史は、今も御健在らしい。らしいと云っては、御無沙汰の罪、申しわけない。だが終戦後、高田保が“ぶらりひょうたん”の一文の中に、信子女史の近作一句挙げて――これが何と、八十にちかい老女性の感覚であろうかと、
国境も知らず草の実こぼれ合い
というものであった。それで御健在を知ったわけだった。徴兵検査は浅草区役所でうけた。一家の戸籍もそのとき東京へ持って来た。検査日の当日、徴兵司令官というか、さいごの認定をうける所へ来たら、いかめしき人が、つらつらぼくの裸身と検査表とを見くらべて、
「今日の有為な青年が、そんな弱さで君どうするんか。体重といい身長といい、何たるヘッポコか。しっかり鍛えい」
と、大勢の中で、ぼくを見本において、一場のお説教を垂れた。体重十二貫、丙種であった。
そこでは大いに赤面したが、しかし、この体を、弱虫とは自分では承知しなかった。働くにも、遊ぶにも、何の不便不足はないからである。
そろそろ、遊び始めた。自立してから、今まで知らなかった金が入り始めたせいもある。氷雪の下の青春が陽の目に這い出した恰好でもある。何しろ同年配の遊び友達は揃っていたし、夕方になれば夕風へ泳ぎ出すのが習性になり出した。
大勢の
五十銭は当時にしても最下級の単位である。資金のない時は、三、四冊の書物を携えて、古本屋へ立ち寄れば、ゆうに一夜の書生天下は現出する。日本堤には、
大学の教授と生徒とも、そこらではよく打つかった。ぼくらは
花街では、和尚も屡、浅黄ウラ扱いをうける。事実、あの人の特徴は田舎者たることにあった。
遊蕩は階段の如きものか。金はなくても上りつめる。ぼくらは自分で引手茶屋遊びまで覚えた。ただぼくの取り得は、どんなに夜更けても、こっそり一人抜けて家に帰ることが常だった。
桐佐の女将には母にあたる年寄りから「あんたはまア、お若いのに、おめずらしい」と、養子にでも欲しいような顔して云われた事がある。何の、お堅いのでも何でもない。ぼくの母や病父や弟妹は、つい
母は起き出して、茶を入れたり、戸外へ出て、甘い物を買って来たりする。吉原界隈に灯の絶える深夜はない。明け方近くまで話しこむ。そして母や弟妹たちの間にもぐり込んで寝る。父は遊んだ人なので、すでに、ぼくの持っていた遊蕩の匂いを知っていたであろう。
せっかく自立したのに、これでは、何の為かと、自嘲したくなった。といって、夕風がそよぐと、悪友が恋しくなる。手段として、ぼくは西町の二階を引き払い、一時、母たちと一しょになる事にきめた。六畳二間の一方を仕事場とし、少し辛抱して、そのうちどこか、一軒建ちのよい所へ移ろうという方針である。
ぼくの収入がやや確定してきたので、母も
ぼくの上京以来、四たび目かの正月もそこで迎えた。だから自分の年齢で二十三の一月十五日だった。
妙にこの事に限って、日まで明白に覚えているのは、生涯の悔いを、ぼくはその日、父へのこしてしまったのである。年々一月十五日になると、ぼくは自分を責めるが、それをここでも父へ詫びておこうと思う。
ぼくは漆筆を持って、一方の六畳で例の絵筆をもって仕事していた。冬なので、間の襖は閉めてあった。ところが、隣りの部屋で、何が、父の機嫌を損じたものか、初めの方は、聞き洩らしていたが、さかんに父が母へ怒りぬいているのである。
めずらしいことではない。しかし、この日のは、ちょっと、どぎつかった。それに、一時間たっても二時間たってもすまないのだ。母はとうに泣きじゃくッている。また父の病を悪化させてはと、その為に、謝っているとしか思えない。父の云い分を隣室で聞いていると、子のぼくには、父には母への
やがて、一だん父の声が荒くなっていた。父自身も、久しく忘れていたであろう、かつての酒狂時代の、あの声に似たものがつづいて聞えた。ぼくは、ふらふらと立っていた。じつは何の考えもなく唯立ってしまったのである。トトトっと階段を降りて、下の台所から、水をいッぱいに湛えたバケツを提げて、元の二階へ上がって来た。見ると、父はなおまだ母を前において
ぼくは一日中、六区の雑踏をうろついていた。家には恐くて帰れない気がした。十二階の頂上に上がって、腕組みしたり、ルナパークの観覧席で時間を空費したりした。そして夜の十二時過ぎ頃、そっと、家へ帰ってみた。父は寝ていた。母は起きて何か縫物をしていたが、何も云ってくれない。けれど、ぼくの帰るのはやはり信じていたのであろう、いつもの通りぼくの寝床もしいてあった。
翌朝になっても、父も母も、ぼくのした事には何も触れて来ない。ぼくは父の前へ出て、ひと言、謝った。何か云い出すかと思いのほか、父はふと、間が悪そうな顔をした。いや、もっと複雑な、何とも云い現し難い顔を子のぼくへ見せた。そして「……おいく、茶でもお入れよ」と、云った。橋場のおせんべいを茶ウケに、母もそこへ来て茶をのんだ。せんべいをボリボリ噛みつつ、ぼくは涙がとまらなくなった。
その年、浅草の栄久町に一軒借りた。わずか四間だが、小庭もあり、まだ新堀も埋め立てられない頃の柳並木も近く、父も母も、やっとここでは、やや世間なみの暮らしに、ひと息つけたことと思う。
父はもう完全に、敗者の耐えに馴れ、隠居に甘んじ、小さい弟妹たちの揃った所で「お父さんは、こんな風だから、おまえ達は、兄さんを父と思え。
唯ここに、S市へやられたカエだけが欠けていた。その後、ぼくが知りえた所では、カエを養女にやる仲介をしたのは、母が打ち明けないのも道理で、幾人かいた母の姉妹中の一人だったのである。姉妹じゅうで、その姉(――か、妹かもぼくは知らない)一人だけが、浅草の六区に住み、小料理屋か何かしていたらしいが、後に自分の娘のお和歌さんという器量よしまで店に出して、八区の
カエは、養女にというよりも常識上、売られたというべきだろう。母はその話になると、浜子の前例もあるので身を
六区で銘酒屋を出していた母の姉妹の一人も、すでに世に亡い人だろう。美人だったという娘のお和歌さんもどうしたか。そのお和歌さんには、伯父の斎藤恒太郎の長男の勤が、従兄妹でもあるのに、熱中して、通ったとかいう話も当時小耳にしている。文学士斎藤勤には、「中世における
すこし話はとぶが、父は大正七年の三月、浜町三丁目の新居で亡くなった。料亭“喜文”の裏門の真向いで、うなぎの寝床みたいな細長い家の奥の間だった。
亡くなる一週間ほど前、父は母へむかって「英のやつ、あんなで、いいのかなあ。……あれでやって行けるかしら」と、ぼくの前途を、
潰瘍症状も、喘息も、慢性なので、かかりつけの医師も何ら警告はしていなかった。唯二、三日前から、呼吸困難をつげていたので、大森の海岸附近にでも、閑静な家を見つけて、療養したら、と母もいうし、医師も同意なので、友人と共に、心当りの転地先を見つけに行った。
そして、帰って来たら、もう昏睡状態におちており、明日まで、どうかと、医師も首をかしげていた。
――その朝にかぎって、こんな事があった。
父は茶好きで、おまけに、毎朝暗いうちに眼をさます。同時に、湯加減よく、濃い
多年のその習慣で、今朝も母が未明に起きて、勝手口のガス七輪で、お湯をわかしていると、病床の方から「おいく、おいく」と人恋しそうに、何度も呼ぶ。「はい、ただ今」と答えながら、とにかく先に、茶を入れて、いつものように、母が枕元へ持って行くと、父は起き直って、「なあ、おいく。今朝ばかりは、おまえの姿が、観音様のように見えたよ。観音様が台所にいるかと思った……」と、手を合しかけたので「いやですよ」と、母は笑いにまぎらしたが、そんなに云われたのは、夫婦となって、今朝が初めてだったので、うれし涙がこぼれたと、母は云った。
それから、少したって、「今朝は、むすびにしてくれ」というので、膳にのせてゆくと、手さぐりで、床の上に
母の死は、なお語るに忍びない。母はそれから三年後の、ぼくが三十歳の六月に死んだ。家は向島の植木場という所へ移っていた。幸田露伴翁の垣のすぐ近くだった。せめて、父の死後の三年間、それぞれ子供たちも成長した中で、余生らしき日を、たまには熱海や千葉海岸などへ、転地もさせたりして送らせた事が、ぼくらには、些かな慰めだったが、しかし母はやっぱり口ぐせに「……お父さんが居たらねエ」とか「お父さんて人は……」とか、常に、淋しみを洩らしていた。
致命的な病原は腸結核だと、医師が云った。ぼくはすぐ、母が廓へお針さん通いをした事があったのを思い出した。病菌はその頃受けたのではないかという傷ましさが今も消えない。
さいごの息づかいらしいのが窺われたとき、ぼくたち兄妹は、ひとり余さず、母の周囲に顔をあつめて、
そしたら、母は、ぼくをにぶい眼で見つめながら「……よけいな事をお云いでない」と、乾いた唇で、微かに叱った。
母はふとんの下で、妹たちの手を握りしめていたのである。
「みんな、仲よくしてね」と、次に云った。それぎりだった。ぼくは三十で母と別れるまで、母に叱られた覚えは、二度か三度しかない。それなのに、母が、ぼくへ云ったことばの最後は、
――よけいな事をお云いでない。
それから、三十秒か四十秒の後に、母は子供らの前から、物しずかに去って
母が生前に「……どうしたろうネ。おまえの兄さんは」と、折にふれ、忘れかねるが如く云い暮らしていた、義兄政広についても、後日の深刻な一挿話があるが、ここではやめよう。ぼくにとっても、故人にとっても、お互い
だが、すでに両親共、この世にはいなかった。人生、おおかたは、まあそんなものであろうか。
駄稿、ここで終りとする。
ろくな記憶も、語るべき内容もないのに、四半自叙伝などと
けれど、過去の親たちが歩いた泥ンこな道にも、振返れば、これからの子が、ぬかるみを歩く用意の足しになるぐらいなものはあろう。ぼくの父は、予期してではあるまいが、偶然、子のぼくをして、ぬかるみを少し歩かせ過ぎてくれたようだ。といっても、父の死までのぼくの体験なども、やっと人生中学の門を卒業して出た程度にすぎない。以上はぼくの人生中学の通信簿といったところだ。父は怖かったが、怖かった父とか先生というものは又、妙に、後ではなつかしく、そして、有難かったりするものである。
なぜか、私はよく訊かれる。「あなたは髪を染めていらっしゃるので?」と人みなが問うのである。飛んでもない。私は日常髪を洗うことさえしない不精者だ。けれど考えてみると、私も間もなく
正直、私は自分の中に今以て、老来なおさらもどかしい幼稚が失せないのに当惑している。この書が上梓されたすぐあとでは、谷崎潤一郎氏が「幼年時代」を書かれ、また長与善郎氏の「心の遍歴」などもあった。それを見ると、ほぼおなじ時代をやや後から歩いていた自分ではあるのに、両者の高い晩節の嶺から振向かれた過去の整然とした記憶や心象の構造にひきくらべて、私の少年期や「人生中学」の記などは、何とも他愛のない泥濘の回顧に過ぎぬ感のみが多く、気恥かしいかぎりでしかない。で、折があったらもう少し補筆修正しておくべきであるとも思うのだが、どうもいつまでも幼稚が意識にある自分には、自己の過去像を本気で描き残しておこうなどという感興にはなれないのでついそのままになっているのである。
昭和三十六年正月
英治追記