忘れ残りの記

――四半自叙伝――

吉川英治




五石十人扶持



 おもいがけない未知の人から、ぼくらは常々たくさんな手紙をうける。作家とか何とか虚名をもった種類の人々はたぶんみなそうではないかとおもう。つい先頃もその中の一通に中野敬次郎とした封書があった。小田原市教育委員会事務局の封筒である。読者かナ、とおもいながらひらいた。想像はちがっていた。次のような用向きだった。

 あるいはもうお忘れかもしれませんが、戦前、市長の益田信世氏の発唱で、当地の公民館で「吉川英治氏を郷土に迎える会」を開催したことがあります。小生も小田原図書館長、郷土史研究会の一員として、そのせつ演壇から御挨拶をかねて「吉川氏の先代について」といったような話をいたしました。甚だ古い事でそれだけの御縁でしかありませんが、じつは、来る十一月三日の文化の日に、おなじ会館において恒例の文化祭を催します。当地出身の文化人の方々にも何かとおせわになっておりますが、こんどはひとつ、もいちど郷土の人々へ何か御講演ねがえないでしょうか。御都合よろしくば重ねて詳細お打合せ申しますが、まずは……。

 右は文意で中野氏の原文ではない。この稿の書出しにあたって、手紙ばこを掻き探してみたのだが、見つからないので、記憶に依ったわけである。ぼくは元来、信書は一切保存しない習慣だし、日記などもつけたことがない。旅行先へも手帳や写真機などは持って出たことがなく、どうかして気紛れに持って出ても、使って帰ったためしはない。
 自分が不精者なので、ひとの克明な記憶には、一も二もなく感心する。徳川夢声氏の随想などには、事々に何年何月とはっきり出てくる。おそらく日記の功徳であろう。他日、予期しない資料ともなって、後世を益するかもしれない。
 頼山陽らいさんようの母※(「風にょう+思」、第4水準2-92-36)ばいし女史の日記などは、山陽がお腹にやどる前から山陽の死後十数年にまで及んでいる。世界に例のない“母の日記”といえようか。現在のでは永井荷風氏の“断腸亭日乗”など文明批評や風俗史料としても多大な文化価値をふくんでいる。かりにもし荷風氏の作品と日記とを二分していずれを採るかといえば、ぼくはためらいなく日記を採る。
 日記をつける風習はずいぶん古くからあったのであろう。ぼくの書いた新平家物語の参考書などにしても、肝腎かなめの所は、おおむね当時の公卿くぎょう日記を参照とした。表面の史料よりも真に近い機微がうかがわれ、人間そのものにもじかに触れうるからである。
 ところが往々その公卿日記にもどっちを取っていいかわからない各人各様な記述に遭遇したりする。一つ事件も見方により当人の実感には相違をもってしまうものか。媒体が人間だからこれは避け難いことというほかはあるまい。また他人には示さぬものでも、つい偽飾や欺瞞の自意識にも片寄るのではあるまいか。
 日記は新年からがいい。来年から始めてみようと、ぼくも折には年暮の書店で新しい日記帳を買ってみたりする。けれど、不精や健忘よりも、何か正直が書けない気がしてすぐ厭になってしまう。都合のわるい所は××だの△△にしておいても、自瞞の不快さは蔽いえない。結局、書かないのもごまかしだが、その方が気がらくなので止めてしまい、晩生いよいよあいまい模糊と自分で自分をぼかして生きているようなものである。

 そのぼくに難題がふりかかった。半自叙伝風なものを書けという。とんでもない事とおもった。そのくせ、ひとの自叙伝的なものはおもしろく読む。長谷川如是閑にょぜかん氏の「心の自叙伝」。立派である。優れた自画像であり時代像だ。菊池寛氏の「半自叙伝」。あのような自己の割りきりかたも、ぼくのなしうる所でない。長谷川伸氏の「ハンコ伝」。とても、あんなにまでは苦労人らしい苦労をしたぼくでもない。だいいち、ぼくの経路などは人に語っておもしろいものではないのだ。語るべからざるものとすら思っている。家族にさえ身の上ばなしめいた話は余りしたことがない。弟妹たちはうすうす知る所もあろうが、まだ二十歳前の息子たちも、父については眼の前に見る父のほか何も知るところはないであろう。
 ところが※(二の字点、1-2-22)たまたま、角川書店版の昭和文学全集の「親鸞」の巻末に、ぼくも自分の著者年譜を附けなければならなくなり、初めて自分の六十年を一歳からしるしてみた。それは何の学歴もなし順当な生い立ちもないぼくなので、自然一風異なった年譜になった。口のわるい友人たちは「本文は読まないが巻末の年譜だけはおもしろかった」と云ったりした。しかし、そうかなあ、と思っただけで、かくべつな理由を自分の経歴に振向けてみる気にもならなかった。
 半自叙伝を書けと望まれたのはそれ以前からの事である。もちろんあやまりつづけてきた。だが、たびかさなると自然両者の間に言質げんちみたいなものが生じたり自己の中にも書く気はないのに描くばかりな構想などをつい持ってしまうものである。あいては文春のSさんだ。牛はくたびれていて坐ってもしまいたい程なのに、も一つ荷を乗ッけて牧童みたいに棒切れを振る。牛はばかだからつい歩き出すというわけである。ごうというのか根性というのかわれながらこんなものを書く気になった気がしれない。
 なぜならば、ぼくは日記すらつけ得ずに来たほど自分で自分に触れられない臆病者で自瞞にみちている男だ。とても自己を裸にして人に示すなどは出来そうもない。のみならず過去を語ることは両親を語ることになり、明治、大正の世代に小さく灯ともしていた両親の家庭とて、当然な事ながら、まったく封建そのものの一軒だった。いわばぼくなどは“封建の遺子”である。今日の子弟に何を語る資格がある者ではない。また一個の文学者としては正直未完成であり、多少、虚名があるにすぎないものと、自分の事は誰より自分がいちばんよく知っている。
 それやこれやは、今日までS氏に謝って来た理由であった。しかしそんな愚痴をいちいち聞いていたら文芸春秋の編集長などは出来るものじゃないそうである。「なにも御自分でいやだと思うことは書く必要はないでしょう。作家だからそんな義務があるなんてわけのもんじゃありませんからね。書けるとこ、書きたいところだけお書きになったらいいじゃありませんか。半自叙伝でいけなければ、四半自叙伝でもいいですよ、とにかくお待ちしますから」と、つまりはこっちの根負けである。

 いったい何を読ませられるのか、読者は見当がつかないであろう。筆者のぼくにも何から書いていいのかはっきり掴めていないのだから。――ただ父の郷地は小田原なので、最近手にした同地の中野敬次郎氏からの書翰を、これ幸いと書出しの手懸りにさせてもらった次第だった。
 前述、中野氏の手紙にも見えるように、ぼくは小田原市から招かれた事がある。公民館はいっぱいの入りで、ふつうの講演会とちがい何かとても面映ゆかった。開会のへき頭に益田市長は「吉川さんはどうも怪しからん、小田原は父祖の出身地であるのに、当地にはめったにお顔も見せず文章にも見えないから、市民はそんな関係をいっこう知っていない。そこで私が強引に引っぱり出して、今夕、皆様に御紹介申しあげた次第であります」といったような挨拶をされたと覚えている。
 ところが、拍手のあらしの中からぼくの方を見ておかしがっている顔が幾つもあった。ぼくは小田原に素気ないどころか、その頃、自分でカン詰執筆に出かければ、たいがい塔ノ沢か小田原界隈かいわいであった。福住の主人だの春日の女将だの、あちこちの人とは、のべつお目にかかっていて、益田市長には御不沙汰していたものの、そう小田原を忘れていたわけではない。
 そこらはまだよかったが、やがて郷土史研究会を代表して、中野敬次郎氏が登壇された。そして高山樗牛ちょぎゅうからの小田原出身の文士をかぞえ、ぼくの事に及んで「じつは、この会に先だって、郷土史家たちの間で、吉川氏のご先祖に就て調べてみたのですが、どうも詳しい事がわかりません。ただ吉川氏の曾祖父、祖父ぐらいまで、お住いであったらしい土地とか、武鑑ではありませんが、大久保藩の藩士の職禄を書いたものには、お名前が見える程度であります。で、それに依りますと、吉川氏の祖父にあたられる吉川銀左衛門氏は、藩の徒士かちざむらいのひとりで、市内から早川の方へ寄った下河原にお住いで、一時、根府川ねぶかわ関所番を勤められたこともあったようであります。そして、その禄高はですね」と、ここでちょっと中野氏は声に抑揚をつけ微笑したようにぼくの印象には残っている。「――つまりその記録によりますとですね、吉川銀左衛門氏は、当時、五こく十人扶持ぶちをいただいておったという事でありまして……」まで来ると、聴衆がどっと爆笑してしまった。中野氏は壇上で絶句し、会館は笑いやまぬ笑いにいつまでも揺れた。というのは、とたんに聴衆の眼がぼくにそそがれ、ぼくも赤くなってテレ隠しにニヤニヤしていたので、おかしさが二重三重になり、市長以下の別席の椅子でもみな腹をかかえてしまったのであった。

 五石十人扶持は、ぼくにとっても初耳だった。少年時代から何かにつけ小田原藩とは聞かされていたが、父の口ぐせは「さむらいの子は」であった。士族ということばがまだかすかに余命をひいていた頃である。だからぼくは、藩士というからには、百石や二百石取りぐらいではあったのだろうと、成人の後まで独りぎめに思いこんでいたものである。おそらく当日の聴衆たちもそうだったのではあるまいか。いくら小藩でも五石十人扶持は最下士だ、いわば足軽に毛がはえたようなものだったろう。それにしてもテレる理由はなにもないが「吉川英治氏を郷土に迎える会」が余り派手で盛会過ぎたからいけなかった。根府川関所で六尺棒を持って案山子かかしみたいに立っていた先祖とぼくとを見くらべたら、何か、おかしくなってしまったのもむりはない。あとでぼくが壇に立つと聴衆はまた笑い直した。けれど笑われたあとは一ぺんに気らくになり、それだけ親しみぶかく話もでき、ひどく愉快な会となって終った。

 祖父の銀左衛門という人をぼくは憶えていない。ぼくが赤ン坊のころ亡くなったということだ。母のはなしには、まっ白なあごひげをたくわえ、嫁にはやさしいもの静かな老人で、小柄ではあるが若いときは美男だったろうと思われるような人柄だったそうである。
 しかしこの祖父についての幾つかの挿話を、ぼくは父の口から聞いていて、いまも忘れていない。じつは、よほどきびしい恐い人だったようである。五石十人扶持とはいえ典型的な封建戸主の一武士であったらしい。
 ぼくは吉川よしかわだが、ぼくが育った横浜では、吉川きっかわと呼ぶ人の方が多かった。だから子供の頃は、吉川きっかわだと思っていた。どっちが本当かを父にただしたらやはり吉川きっかわが昔からの姓だといった。ついでに、先祖ばなしをぼくに聞かせた。
 吉川は橘香きっこうという地方名が起りで、何でも富士の裾野にそんな所があったという。戦国の吉川元春もその他の吉川もここから分れたものであり、自分の家も、関ヶ原役の前後、敵方から大久保藩を頼って身を寄せた沢山な浪人の一人だった。だから小田原でもそれらの人間は、外者そとものといわれて下士待遇以上には出られなかった。そして、大久保家へ身をよせた当初の人は法体ほったいであったが、中頃には医者も出、やがて平侍になって銀左衛門の代まで来たのだということだった。
 いずれにせよ軽輩中の軽輩だったろうが、父はぼくにはそうと云わなかった。だから父の父、銀左衛門の逸話にしても、父の都合のわるい事はぼくに聞かしていないのかもしれない。従ってどの程度信じていいかも分らないが、父の言を疑うこともなかった白紙の幼時に聞かされたことのみである。しかしそれが後々のぼくに影響が無かったとは云いきれない。もし、あったとすればぼくには重大だったわけである。現代の中では理解しがたいようなものだが、ぼくを語るためにぼくの一髪をまず手にとってみるというつもりで思い出してみる。
 父の兄に、秋山という人がいた。どういうわけか、養子に出た人らしい。維新のさい、藩主の若殿について京都守護の一兵卒となって中央へ行った。やがて解任後、小田原へ帰って来たが、見事な花柳病にかかっていた。小田原藩士ばかりでなく、京都へ勤務に上った藩では、どこにもそんな若侍がたくさんあって、上方唄かみがたうたの唄える侍というと、眉をひそめられたものだそうだ。
 父の兄秋山氏も御多分にもれない名誉の若侍だったわけである。その花柳病もよほど悪質だったとみえ、よく落語にあるような、鼻の障子がとッぱずれて、足腰も立てない重さであったらしい。そのくせ楽天家でまた小粋こいきな人で、髪はいつも艶々と撫で、帯や着物は凝った物を着て、よく南縁に坐っては、徒然になると、柄の短い座敷箒を膝に抱えた。そして口三味線で上方唄をくちずさんでいたりした。また唯一の医薬には、軒ばに干してある馬の男根を小刀で削っては、それを煎じて飲んでいたという。そういう物が効くという迷信が行われていたのであろうか。
 ところが、この秋山氏が機嫌よく病苦を忘れて上方唄など口ずさんでいる、とそこへしばしば、銀左衛門がやって来て、「このつらよごし」と罵ったり、時によると、「貴様のような恥さらしはない、恥を知れ、自分で身の処置ができないなら、親のわしが成敗してやる」と、ほんとに刀を抜いたこともあったそうだ。
 足腰も立てない秋山氏は、そんな時、銀左衛門のまなじりに向って、ただ両手を合せて拝んでいたという事である。いずれは、家族総がかりで銀左衛門をなだめた事にちがいあるまい。そして又、何か世間で耳づらいことでも聞くと、居ても立ってもいられなくなり「斬ッてしまう」と秋山家の南縁に突っ立っては、秋山氏から拝まれて、拝まれ負けして帰った事にちがいない。
 明治に入って、廃藩になると、この秋山氏も士分だけの一時金を政府から貰った。その金で当時の小田原の遊所に通っては「一だからいい。一歩だから」と、ほかの事には一銭もつかわず、ちびちびとみんな運んでしまったそうである。
 子供心に、ぼくはこの伯父のうらぶれた晩年のまろい背中を憶えている。弟にあたるぼくの父の所へ、度々、無心に来ていたものである。余りにしばしばなので、父と烈しいいい合いをして帰って行く日の淋しい姿や、父の留守にやって来て、ねっちりと長居しているこの人に、母が何かと気をつかってひそやかな苦労をしぬいていた日のことなど、おぼろに思い出されもする。「秋山の家内です」という小母さんも時々見た。髪へ横櫛でも挿しそうな小いきできれいな人だった。父のこの兄は、父より早く亡くなった。

 銀左衛門についてのも一つの話は、父がまだ年少の頃にもある。
 父は、直広というが、少年時代は、丈之助とよばれていた。ある冬、風邪が流行はやった。母も下男も寝こんでしまい、小さい姉が夕方の台所をやっていた。
 まだ十歳そこそこの丈之助は、戸外で遊びに夢中になっている。姉が呼びぬくので、ふくれながら勝手口に立つと「丈さん、良い子だから、町へ行ってお豆腐を買って来てくれない」と云う。「いやだい」と一言のもとにかぶりを振った。「そんなこと云わないで」と、姉は泣かないばかりに頼む。そして姉がすこし理くつをならべたので「さむらいの子が、豆腐なんか買いに行けるかい。そんなに執こく云うなら腹を切っちまうぞ」と、小脇差か何かひねくって、ほんとにやりそうな真似をしたので、姉は青くなって謝った。
 夕食後、銀左衛門の部屋から「丈之助、ちょっと来い」とよばれたので、彼が入ってゆくと、三宝の[#「三宝の」は底本では「三方の」]上に、少し刃を見せた白鞘しらさやの短刀が載せてある。その向うに銀左衛門が四角な膝をして坐っていた。どきっとしたそうである。「丈之助、おまえ、腹を切るといって、姉をおどかしたそうだな。さむらいの子は嘘をいうものじゃないと常々云ってある。わしが見ているからそこで腹を切れ。おまえ、さむらいの子が豆腐など買いに行けるか、といって威張ったそうじゃないか。なぜ、青くなるか。切れ」と云って、銀左衛門がねめつけた。いくら謝っても、ベソを掻いても、断じて「切れ」と云うのみでゆるさない。
 家じゅうの騒ぎになった。姉はもちろん風邪ひきの母も下男もみな一室に寄って来て、丈之助の代りに泣いて詫びるやらなだめるやらを尽したが、銀左衛門はゆるすとはいわない、そのうちに、深夜になった。堪らなくなって、姉や下男たちは、戸外へ走って行った。親類の者を呼び集めに行ったのだった。後から後からいろんな顔が加わった。けれど、銀左衛門は、それらの人々のとりなしにも「うん」とはいわない。そのうちに、とうとう夜が明けてきた。やっと銀左衛門も折れた様子で「では……」と云ったのが朝陽を見た頃だった。「ゆるすわけにゆかないが、親類の衆にあずけておく」それが、銀左衛門のさいごの云い渡しだったという。
 その場から丈之助は叔母か誰かに手をひかれて親類の家へ連れて行かれた。よくある親類預けになったわけである。親類も貧乏だったろうし、しつけとか、こらしめの意味もふくめて、それからすぐ丈之助は、小田原から数里奥の道了さまと俗にいう山の寺房へ寺小姓にやられてしまった。――ぼくの父は以後十四歳まで、道了権現の山の中におかれ、おかげで修学もできたが酷使されていたのだそうだ。こういう祖父と父とからつながっているぼくであった。と、時には自省してみる必要がぼくにはある。忽然と社会の木のまたから生れて来た者みたいに、ぼくは自分を取澄まして安易にうぬ惚れてもいられない。


塾の明治娘



 文芸家協会の会員カードを初め、よくいろんな問合せや申込書などに、略歴、本名、生年月日などの記入欄があるが、いったい、生れた月日などを、他人が何の便利につかうのだろう。ヘンな習慣である。自分自身にさえ、間違いのない生れ月や日を確かめる必要などは一生の間でもめったにありはしない。
 だが、何だかここではそれが必要事みたいになって来たので、明記すると、ぼくのは“明治二十五年八月十三日生”が戸籍面である。
 ほんとは、十一日生れだが、届け出が二日遅れたのだそうだ。どうでもいいようなものの、母の亡い今日、そんな事もまた聞いておいてよかったと思っている。自分だけにとっては、地球の実存以上、重大であった自分の誕生日が、あいまいもこであるよりは、やはりはっきり分っていた方が気もちがいい。
 といっても単に生れたんだという漠とした観念のほか、もの心がつくまでの何年かは、誰でも例外なしの空白である。ただ脈搏だけをしている何キロかの肉塊にすぎない。多少、記憶めいた覚えも、父母か周囲の移植であり、もし人間が、完全なる自己の出現を、自己の官能で知りたいとねがったら、これは煩悶に値することである。そんな煩悶はくだらないと諦めていられる人間だからいいが、よく考えてみると、しゃくにさわることでもあるのだ。なぜなら社会は無知を恥じるようにできているが、人間の口ぐせに云う「おれが」でも、「われわれ」でも、その生命の出発点から、てんで自分でも分っていない「おれ」なのだ。
 発車駅の東京駅も知らず、横浜駅も覚えがない、丹那たんなトンネルを過ぎた頃に薄目をあき、静岡辺でとつぜん“乗っていること”に気づく、そして名古屋の五分間停車ぐらいからガラス越しの社会へきょろきょろし初め「この列車はどこへ行くのか」とあわて出す。もしそういうお客さんが一人居たとしたら、あたりの乗客は吹き出すに極っている。無知を憐れむにちがいない。ところが人生列車は、全部の乗客がそれなのだ。人間が生れ、また、自分も生れているということは、じつに滑稽なしくみである。

 人権がある以前に、人間には、当人の諾否なく、その人権を附与するという人権無視がある。むかし直木三十五が苦楽かオールに書いた半自叙伝的な物の書き出しには「――いったい、おれがこれからオギャーと生れ出る所は、どんな暮しの家かと、恐々こわごわ、おふくろのヘソの穴から外を覗いてみると、家は大阪のゴミゴミした横丁で、おやじは古着屋らしく、無精ひげを生やして、ボロの山の中でゼニ勘定か何かしているし、おふくろはピイピイ泣く餓鬼どもを台所でどなっている。こいつあ、たいへんな貧乏長屋だ、しまッたと思ったが、もう追いつかない……」というような自嘲の人生揶揄やゆを書いていた。
 間に合わなくては仕方もないが、出来ることなら誰でも直木のように一応ヘソの穴から外をたしかめてから出て来たいだろう。ぼくの場合は、直木家のごとく、ほかにピイピイいっている者はなかった。ぼくの生れる前の一女子国子は生後まもなく亡くなっていた。ぼくは父二十九、母二十六という若夫婦の間に生れ、前に一女を失っているので「こんどは失くさないように」と哺育は大事にされたらしい。
 といっても、母は多産の方で、ぼくをかしらに七人も生んでいるので、大事にされたといっても、あとのヒヨコが続々出て来ないまでの間であったろう。老いての後の母のくりごとといえば「おまえ達の小さいうちは、乳にも背中にも膝にも、たかられていて、一ぺんでも落着いて御飯を喰べたことはなかったよ」という育児の苦労ばなしが大半で、またそれをぼくらが聞いてやるのが母には何よりの慰めのようであった。

 ぼくの生れた当時の両親は、横浜の根岸に住んでいた。その頃はまだ横浜市ではなく、神奈川県久良岐郡中村根岸という田舎だった。家の前から競馬場の芝生が見えたということである。
 根岸競馬場は、横浜に外人居留地地区ができ、通商条約などが結ばれた後、外人ばかりの発起ほっきで創立されたというから、おそらく明治維新前からのものであろう。あざ根岸、字相沢などという部落が、急激に異国色に富む郊外として開けて来たのは、この競馬場が置かれ、また海を望む高台に、外人住宅が多く建ち並んだからだろうと思われる。
 この辺の地主で、亀田某という人の借家に住み、それが縁で、亀田氏のすすめから、ぼくの両親は、一つの生活にありついていたらしい。
 寺小屋、幼稚園まがいの、小さい学校を自宅でやっていたのである。元よりたくさん子供を預かったわけではなく、相沢の貧民街の子供らが対象だった。ところが、近所に住む外国人の子供たちも来るようになり、思いがけないそれは成功であったらしい。
 相沢の貧民窟から奥の丘には、日本人墓地やナンキン墓などもあって、不当に社会からへだてられている人々が低地に部落をなしていた。地主の亀田氏は、そこの子たちに、深い同情をもっていた。ぼくの両親に、寺小屋をすすめたのも、その為だったろう。そこの貧しい子に限って、小学校へ行っても、ほかの子と差別されたり、いじめられたりするからである。
 だからぼくの両親は、それらの子たちには、親のごとく慕われたらしい。また、より以上に、感激してくれたのは、その子供らの肉親たちであったという。大げさに云えば、神さまか何ぞのように、有難がられ、月謝よりも、朝晩のように、子の親たちが、畑の物や魚などを台所へ置いてゆくので、生活は楽だったし、よろこばれる張合いで、毎日の疲れなども、その数年は忘れていた程だったと、母は後々まで述懐していた。
 それとおもしろい事に、日本人の観念のあいだには、古い部落的な差別があっても、外人たちは、無頓着だから、そういう中に、ジョージだのフランクだのという眼の青い子も、一しょになって、日本の小学読本を読んだり、歌ったりして、けっこう仲よく飛びねていた事だった。もっとも、これは明治二、三十年頃の横浜そのものの縮図でもあったのだ。

 多くを聞かされていないが、ぼくの父吉川直広が、横浜の端ッこで、そんな国際的寺小屋の先生にたどりつくまでには、小田原の郷里を出てから後、もう相当、いろんな人生経路をふんでいたように思われる。
 妻帯も、ぼくの母が初婚ではなく、その前に小田原で一しょになった先妻があり、ぼくには異母兄にあたる政広とよぶ一子もあった。
 父の先妻は、小田原の花街でも評判な美人だったということである。親類中の反対も世間の悪評も押切って、一しょになったものらしい。これが土地でやかましく云われたのは、父の職業が、いわゆる当時の“官員さん”なるもので、県庁の酒税官であったせいだろう。
 この酒税官時代、各地の醸造家の酒蔵を視てあるく間に、父は後年の大酒になる素地と、道楽者の味境をそろそろつちかっていたにちがいない。
 けれど父その者は、祖父の銀左衛門仕込みの「さむらいの子は」という薫陶くんとうを、そのまま無自覚にうけついだ自身を、自身の真骨頂としていたらしく、一徹で、頑固で、明治時代の人間に共通な覇気と、立志の夢に燃え、小田原の花街で、女出入りの評判を立てなどしたくせに、ちっとも、あか抜けのした青年ではなかったようだ。
 よく自慢そうに、子のぼく達へ話した事のうちでも、その酒税官時代に、何でも天竜川の岸で、寒中だったそうだが――対岸の造り酒屋まで行くわけだが、よほど下流へ迂回しなければ渡船がない。それに日も暮れかかっていたので、ままよと、真ッ裸になって、天竜川を泳ぎ渡って行ったが、寒中の冷たさと、流れの急に、川の中ほどで溺れ損ね、「死ぬかと思った」という事など、何度聞かされたかわからない。
 要するに、若い日の父は、こんな風な単純さを、誇ってさえいたようである。その後、花柳界の婦人と同棲したという件なども、官員さん社会には、定めし指弾されたことだろう。まもなく、長野県庁へ転任を命ぜられ、長野市に下宿住居している間に、小田原に残しておいた妻が、留守の間に、男に殺されたのであった。情痴沙汰で、これは新聞にも書かれたりした為、父は面目無さに、辞表を出し、それきり官途もやめ、数年は小田原に帰らず、放浪していたらしい。

 父は南画をよく描いた。ちょッとした山水や蘭菊などを黄大癡こうたいち風に画いて、牛石、逸民、石声などと雅号を入れていた。漢詩も得意で、ちょっとした葉書や手紙ぐらいは、筆がなくても、マッチの棒とか小楊枝の先をちょっと噛んで、竹筆のような味の文字をすらすら書いた。
 少年時代を道了権現の寺房で送ったお蔭だよとよく云っていた。しかし、大胆なものである。それッぱしの余技をもとでに、長野県庁をやめた後は、一年余りを画家と称して遊歴したのだといっていた。父の描いた余り上手でない墨蘭や四君子などを、ぼくも子供の頃、よく見たものだし、柱掛けだの額面などを人から依頼されると、これは大得意で、誰にでも描いてやった。出入りの大工が「旦那の御きげんの悪いときには絵をお願いするに限ります」と、母に云ったそうである。
 二年余りの放浪後、小田原へ帰った後は、箱根山麓の附近で、父は牧畜を始めたのだった。横浜という黎明期の開港地に接して来て、刺戟されたにちがいない。「これからは、外人相手の仕事でなければ」というその頃の士族の頭脳としては、飛躍的な思いつきから、それをやった。そして、それも見事、親類や土地の人々から、士族が、けものいじりするとか、土地をけがすとか云われて、徹底的に嫌われ、とうとう又、小田原を追ン出て、牧場を横浜市外の太田新田という所へ引移したものである。
 父の横浜移住はそれからで、その頃でもまだ、食肉を屠殺とさつするには、屠殺場の四方に笹竹を立て、シメ縄を張って、神主かんぬしのりとを上げて貰ったりしたそうである。けれど、これも長つづきはしなかった。俗に“牛ペスト”といわれた悪性な伝染病が流行し、その猛烈な蔓延から牧場の牛をあらかた失ってしまったのだ。毎日のように、空井戸を掘っては、病牛のかばねを埋めるのが仕事だったほどつらい時代はなかったと、父はよく後々まで述懐していた。多少、そのあいだに、もちまえの一徹や野望の角もめられ、一思案の時期に入ったのではあるまいか。
 その頃、横浜初音町の辺で開業していた漢方医の吉益よします某の媒人なこうどで、新たに妻として迎えたひとが、ぼくの母、山上いく子であった。牧畜経営に一かく千金の夢もさめ、大小の開港場成金なりきんは横浜に簇生ぞくせいしていたが、父には失意の時代であったようだ。

 後年、父と母とが、夫婦喧嘩などやり初めると、母がむせびながら「わたしは、吉益にだまされて来たんです」と口走り、父はすぐ「いつ、だました、吉益を呼んで来い」と威猛高いたけだかに云ったのが、いまだに耳に残っている。
 漢方医学の上では、江戸中期に、吉益東洞とうどうという名手が出、吉益派といえば、落ちぶれても名家の末のわけで、媒人の吉益氏もその系流とは聞いていたが、じっさいの血をひいていたか否かはわからない。けれど、いかにも言語風采からして昔の漢方医者らしい小父さんであった。ぼくら子供は、どこからか帰って来て、わが家の玄関に、白い鼻緒はなおで畳附のぽっくりみたいな男下駄が揃えてあると、また父母が喧嘩してるナと直感して、家に入らず外へ舞い戻ってしまったものだった。
 父とのいさかいはよくやったが、母は明治の庭訓ていきんに培われただけの典型的な古い平凡な日本の女の一人でしかなかった。
 そのひとが、世間も何も知らずに、吉益老の仲人口を信じて、素寒貧すかんぴんの父へ嫁いできた事情には、どうも母の云い分の方が本当らしいものがある。母の「わたしはだまされて吉川家へ来た」という口走りにも、そのときの感情で、多少、母にも云い過ぎがあるかもしれなかったが、しかしそのつど、ヤブ井チク庵の吉益老夫婦は、母をなだめたり、母に詫びたり、ただもう平謝りが常だった。
 だからどう公平に考えても、このチク庵夫婦が、世間知らずの明治娘を、ある程度、仲人口に乗せて、東京から横浜のような烈しい開港地の、しかもこれという勤めもなく、ただ甚だ特異質的なきかん気だけを持っていた一青年の所へ、嫁入り道具万端ばんたん持たせて、一しょにさせたという事には、むりがあったにちがいない。母が生涯を通じての、悔いであったろうと思われる。
 じっさい、子供心にも、おぼろに、そう考えて、母に同情し、母と一しょにわけもなく泣いたものだった。けれど、母の悔いにもかかわらず、この仲人口のムリな結合から、ぼくらは両親の仲に生れた。しかもぼくらは、母が生きるに疲れ果てて、燃え絶える最期まで、母からはただの一言でも、愛の伴わない言は、聞かされたことはない。

 母の郷里は、千葉県の佐倉で、古くは堀田相模守さがみのかみの領である。生家は代々その堀田藩士であった。ぼくらの童心の印象に深い“おじいさん”つまり母の父は、山上弁三郎といった。
 戦争中であったが、千葉刑務所長で名物男の根田兼治氏に誘われて母の生家のあった印旛沼いんばぬまの上にたたずみ、小学校で講演したり、縁家の佐藤氏の案内で、菩提寺へ詣ったりして、一日を過したことがある。
 菩提寺の山上家の墓碑は代々一基ずつ並んでいて、その古さや型からも、ほぼ家格の想像もつくのであるが、そのときも、これは母がよく愚痴をこぼしていた悔いは本当だろうと思い合せた事であり、小田原藩で五石十人扶持の小身だった父の里方とは、だいぶ趣がちがうのである。
 母の父弁三郎は、廃藩後も、臼井うすい町の町長に推されて、酒席や平常の上でも、すこぶる豪放磊落らいらくな人で、郷党たちにはひどく敬愛されていたらしい。佐倉でぼくの為に招宴を設けてくれた当夜の人々の間でも、ずいぶんいろんな逸話や思い出が語られた。
 酒を愛し、郷人を愛し、いつも春風駘蕩たいとうといったような大人たいじん風な好々爺であったらしい。ぼくの母は子沢山の中の四女で、名は、いく子であった。
 土地の女学校を出た後、母は、その頃芝の新銭座しんせんざにいた国学者でまた南洋学の先覚、近藤真琴の家庭へしばらくやられていた。
 近藤家との縁は、母の姉山上豊子が、鳥羽出身の斎藤恒太郎(当時、近藤塾の外語教授)に嫁いでいたので、おなじ鳥羽藩士の近藤真琴と斎藤家の縁故からと考えられる。豊子は、ぼくの母をまたなく可愛がっていたので、妹をそばへおきたい気もちから東京へ連れて来て、近藤家へ見習いに頼んだもののようである。
 航海測量練習所と称した芝新銭座の攻玉舎は、勝海舟などの育成していた幕府海軍操練所の遺産といっていいようなもので、初めは近藤塾と共に、鳥羽藩の邸内にあったのを、後に、芝新銭座に移し、やがてこれが海軍兵学校の嚆矢こうしをなしたものである。ぼくの母は、いずれそこの小間使か、塾の手伝いみたいなことで預けられたのではあるまいか。母はよくその頃のたのしかったことを、さも懐かしげに、ぼくらへ聞かせた。
 母の容姿は、ちっとも、きりょうしの方ではないが、小づくりで俗にいう抜けるほど色の白いひとだった。攻玉舎にいた時分も、海軍志望の若い塾生たちにからかわれ、おいくさんと呼ばれないで、お雪さんお雪さんと愛称されていたというようなことを、もう何人も子を産んでから後も、恥かしげにぼくらへ語ることがままあった。

 そんな母が、どうして、横浜へ嫁いで来たのか、その間の事情は、理解がつかない。父の云い方を想像すれば、仲人口などではない、見合のとき、おれの男前がよかったから、一も二もなく、おれを未来の良人と、たのもしく思って来たのだろうと、云うかもしれない。
 ぼくは母似か、人いちばい、体も小さく背も低い。しかし父は背丈けもすぐれ、骨格のいい人だった。壮年の時は、部屋のかもいに頭がつかえそうなので、ふすまを開けると、ちょっと頭を低めて入る癖があった。ぼくが父に似ている肉体上の個所は、下唇の左下がりにあるほくろだけで、父のは、もっと大きかった。
 とにかく、こうしたぼくの両親であり、その仲の二番目に生れたぼくは、根岸競馬場附近の、奇異なる国際的寺小屋を営んで生計とする家で、眼玉の青い外人の子や、日本の子等と、魚交ととまじりに交じって、四つ頃まで育ったのだった。
 いま考えると、わが家が、こんな雀の学校をやり初めたのは、家主の亀田氏の懇望でもあったろうが、もうひとつ、母が近藤真琴の家庭にいたことも思いつきとなる一因ではなかったろうか。多少なり、娘時代の母は、攻玉舎の塾風とか教育の愉しさみたいなものに感化されていたろうし、そして、それなら自分にも手伝えるという自信から良人にすすめ、そこで夫婦共稼ぎの気もちで初めた仕事ではないかと思われる。
 けれど、父が横浜へ出て来たのは、もともと、そんな志ではなかったから、ぼくが四歳の末頃にはもう家もモンキの坂とよぶ横浜石川町辺に移り、父は港町の魚市場の書記に通っていた。


童戯変遷



“始めに言葉あり”だが、個人にとっては、記憶の最初が、自分の歴史のはじめと考えるほかはない。記憶以前は、すべて個人の太古で、いわば赤ン坊の神代かみよである。
 オタマ杓子の脱皮のごとく、その神々が人間の児に化けて生涯に入る旅券を持ち、第一の記憶なるものの作用がぽつんと起る。それから神の眼でいう罪の映像がかさねられてゆき、自己と周囲の実存をおぼろな構成で脳細胞に移植してくるものらしい。
 よく座談のはずみで「いったい、生れて初めての記憶といったら何だろう。幾ツぐらいから、どんな事を覚えているか」などと他愛ない話題にふけることがあるが、誰の云い出すことも必ずみなまちまちである。人間は何歳にして記憶を持つ、という定義はないようだ。トルストイの自叙伝をはじめ幼時を書いた人々のものを見てもすべてそうだ。これは、雑誌か何かで一度ひろくアンケートをとってみたらなお立証できるとおもう。
 だから、非凡であろうとする思想家や文学者などは、この中途半端な起点記憶から幼時を語るのは、つまらない気がするのである。オタマ杓子やボウフラと何ら異なることのない自己の起源に対し、その空白を空白のまま無知でいるにも耐えないのであろう。そこで必然に、記憶前の記憶へまでさかのぼって、自己を描こうとすることにもなる。

 ヨハネ伝の“始めに言葉あり”も、仏教の“父母未生以前”も、神道や儒教の説明も、みな人間の記憶以前の記憶にその発想を一つにしている。同時にそれが宗教の誕生といってもいいようだ。その前提を意識界に据えた上でなくては愛も罪も説きえないからではあるまいか。とにかく人間は各※(二の字点、1-2-22)、ボウフラではなく、永劫の時と生命のクサリの一つに自分もつながっている一環だということを、しっかり、知りたがっているのである。それを自己確認しないではいられない者なのだ。というよりは生れた意味もこの生命の真を味わうことができない。また不安でならないというのが、人間あらましの本音ではあるまいか。
 歴史はそんな本能をもつ前人たちの累積であり、それを継承する歴史家や作家の仕事にもそういう要素はもっている。だから往々、作家の書くものには、前にもいったような、記憶以前の自画像が現われて来たりして、読者をして奇異な感じに面喰らわせるばあいがなくもない。
 三島由紀夫氏の「仮面の告白」だったかに、自分が生れたとき産湯うぶゆを使わせられたたらいの木肌を透して、まばゆい湯の揺れや金輪の光が金色に見えた、というような描写があった。また長谷川如是閑氏の「心の自叙伝」の序説には、自分が胎内にいるときの感覚をもっと精細に書いている。産婆の手でつかみ出されて、産湯の上で縦横無尽に振り廻されて眼が廻ったとき、その硬い手の残虐さに対する憤りと、無性な恐ろしさに襲われて、思わず初めて絶叫を発したという風にである。
 もちろん、こういった例は、記憶ではない。文学である。が、その底流にはやはり想像を借りた人間共通の意欲が見られる。モームの「人間のきずな」にしてもそうで、たとえば「人生に意味などは何もない。ただ環境への物理的作用として現われたものに過ぎない。生も無意味、死も無意味、ひっきょう人生は一つの模様意匠だ。行動も感情も好みの意匠で、織りなしてゆけばいい」という。しかし、その割切った考え方に到達するまでには、彼もおなじ空白への想像や郷愁をつい書いているのである。そしてモームがやっと見つけたという虚無の安住なる居場所で云っている哲学的科白せりふが、どうかすると東洋の禅坊主の喝破や隠棲者のつぶやきと一致したりしているのは思想上の奇観でもある。つまりこんな問題は、各人各種にどう考えようと自由だし、また考え得られるし、といって誰にも極め手はないということだろうと思われる。

 ぼくは自分をそれ程とは思っていないが、本質のぼくはよほど女好きなのだろうか。ぼくのこの世における最初の記憶といえば、女の映像なのだ。きれいな女の人である。
 幾歳の時だったなどというわけにはゆかない。何しろぼくはまだ、ねえやか婆やかの背中に負ぶさっていた。母の乳を離れていなかった頃でもある。
 その頃うけた記憶として、こういう事象が、後々まで、脳の深部にありありこびりついている。
 ぼくは誰かに負ンぶされていた。そばに石だんがある。その石垣の上に、緑色の窓があって、その塗料の色だけがほかのどの映像よりもくっきり濃い。
 そこへ向うから女のひとが歩いて来た。きれいな女のひとだった。負ンぶされているぼくの頬へ頬ずりした。そして、
「子供の乳の匂いって、いいもんだわねえ」
 と、誰かに云った。
 ――ぼくの最初の記憶というのはこれだけのものだ。奇妙に思えてならないのは、まだ自分がのみ児だったのにという疑いである。錯覚であろうかと、母の存命中、母にただしてみたこともある。すると母はこう云った。
「それは、うちがモンキの坂に住んでいた頃なんだろうね。石垣の上に玄関があって、以前、異人の牧師さんが住んでいたから、ふつうの日本家屋なんだけれど、窓なんか洋風に青ペンキが塗ってあったりしたからね」
 こう聞くと、錯覚でもないらしい。かぞえ年四ツ頃まで、乳もしゃぶッていたし、小粒でひよわい子だったぼくは、まだ負ンぶされていたらしい。
 それにしても、女のひとがきれいであったという事やら、その女の会話があとさきなく、ぽつんと耳に残っているのはどういうものだろう。それの理解が出来なくても、単語として、あるいはただの音として、音感の記憶には残るものなのかどうか。自分では解釈のつけようもないくせに、心のどこかでは、これがさぐりえた自分の最古の神話のように、事実であったと信じていたい気もちが妙に手伝うものであることも否みがたい。

 最初の記憶につぐ第二の記憶では、ぼくはもう歩いている。
 五ツ前後であろうか。
 後に、父の会社で息子を使っていた出入りの大工の家が近くにあった。ぼくは母の膝に戯れながら、母と大工のおかみさんの話をそばで聞いている。
 ここの家は子沢山だった。おかみさんは、自分の子供の一人が描いた絵を持ち出して来て、母の前へ自慢そうに見せる。ぼくも一しょになって絵をのぞきこむ。
 鉛筆描きの船の絵だった。煙筒えんとうから煙が出ている。マストだのタラップだの、それはぼくら横浜の子供は朝夕に見つけている港内の汽船みたいだが、船首と船尾に大砲を附けることを忘れていない。大砲の口からは火が発しているのだ。火だけは赤い色がつかってあった。それとマストの日の丸も太陽みたいに塗ってあった。
 その時のは、母が云った言葉である。画学紙の絵を手にとって眺めながら母が、
「うちのも、はやくこんなに描けるようになるといいんですけれど」
 単にこれだけの事にすぎないが、妙にはっきり覚えているのだ。
 日清にっしん戦争は終っていたが、なお童心の世界にまで、世間の色や物音が尾を曳いていたものにちがいない。
 やがてぼくも自由画らしきものを描き初めたが、船を描けば日の丸と大砲を附けなければ気がすまなかったし、板塀や地べたへ白墨で落書きするにも、何か大人の影響を現わしていたようにおもう。たとえばチャンコロといったような言葉をよく投げ合ったものだし、童歌の世界では、その頃までなお“日清談判破裂シテ……”などという今から思えば滑稽なほど粗朴な軍国調が歌われていた。それが“雪やこんこん”だの“オオさむ、小寒、山から小僧が降ッて来た――”などというものと、何らの差別もなくただ叫ばれていたのだった。
 童心への影響で、いちばん直接的だったのは、たこの絵、メンコの絵などであったと思う。児童雑誌というものはなかったし、活動写真は明治二十八年の八月かに、大阪南地の浜座で公開したのが日本で最初といわれている。だからぼくらの前にはまだ来ていなかったし、幻灯を見せられてびっくりしたのさえ、よほど後であるような気がする。

 童戯の変遷は、社会相の変遷といってもよい。ある時は、一般がまだ気づかない先に、大人の世相を童戯に教えられたりするばあいもある。けれど又、童心の世界には根づよい自然の伝統も流れている。大人の生活とか治乱には関知せず、独自な別天地を劃然と持っていた。それからいえば、童戯不変と云えなくもない。
 かりにそれを伝統児戯とよぶなら、ぼくらが幼少にやった遊戯の種類はみなそれの系統であったろう。メンコ、根ッ木、ブランコ、縄飛び、ラムネの玉遊び、コマ、凧、石蹴り、石鉄砲、竹馬、金輪廻し、吹矢、当て物、隠れンぼ、かるた、十六ムサシ、といったような類である。種目は思い出せないほど多い。しかしすべては、野放しの童心と、子供相手の駄菓子屋やオモチャ屋との合作に依るもので、社会人の文化的考慮などは、影も映していなかった。道路はどんな大通りでも舗装はなかったし、電灯はまだ家々のものではなかった。馬車道とか海岸通りなどに、青い瓦斯灯ガスとうの光が見られた頃にすぎない。
 遊びの中で、もっとも熱中したのは、メンコ、根ッ木、石鉄砲などだった。ぼくらはメンコの絵によって、源義経だの福島中佐などを知り、また見てもいない団十郎や菊五郎を知っていた。家の近くに法華寺の清正公様せいしょうこうさまのお堂があり、そこのお堂の縁をメンコの道場として夢中になった。紙メンコと鉛メンコとがあったが、紙メンコの裏表に、ロウソクの蝋をこすりつけて磨くと、すばらしい光沢と重厚感が出て来るので、よくお堂の祭壇からロウソクの燃え残りを持って来ては板の間でこすったりした。
 メンコの遊び相手に、名は忘れたが、近所の医者の子があった。日が暮れると、このお医者さんは、門の外に立って、山伏みたいに大きな法螺貝ほらがいを吹き鳴らすのである。この法螺貝の音を聞くと、ぼくのメンコ相手は、すぐ顔色を失って飛んで帰って行った。ある時、ぼくが見ていたら赤い紐で法螺貝を首に掛けたそのお医者が、舞い戻って来た息子の襟がみをつかんで、お尻をぴしゃぴしゃなぐっていた。ぼくは自分が打たれているような罪悪感に襲われた。
 どこの家庭でも、メンコや根ッ木みたいな博奕ばくち的遊戯は、決していいとはしていなかった。ぼくなども隠れてやっていたのである。社会そのものに児童への指導も関心もなかったので、家庭の責任はその全部であった。自然、児童にたいして、家庭はきびしい所でないわけにゆかなかった。

 月の晩である。小高い住宅地の一面に、一つ一つ生け垣につつまれた低い屋根が見え、黄色がかった鈍いランプの灯火があちこちに洩れている。
 この界隈では、どの家でも職業として、日当りのいい出窓に机をおき、種々な輸出物の地紙に胡粉ごふん絵を画いていた。何に使用されるのか、いずれ皆、弁天通りの輸出商か居留地などへ行くものであろう。チリメン紙だの、扇子せんすの地紙だの、日傘や岐阜提灯などに、花鳥や富士山や鳥居などが、職人的手法で、おもしろく描かれてゆくのを、ぼくらはよく、窓の外から背のびしながら見惚みとれていたものだった。
 この近所での遊び仲間は、そうした職人絵描きの子だの、牧師の子だの、医者や勤め人といったような家庭の子供達だったが、その晩は、どうして夜まで遊んでいたのか、ぼくらは、野良犬のひとかたまりみたいに、まだ遊びうけていた。
 そのあげくだったと思う。ぼくらより年上で、章魚たことアダ名していた子の周りへ、みんなが円くなって集まった。
 何か秘密めいた興味がぼくらを燃やしていた。タコは杉垣根をうしろに腰かけ、衣服の前をあけはだけて、土瓶の口ほどな小さな性器をぴんと立ててみんなに誇示していた。
 どういうものか誰も笑いもしなかった。まじまじと、見まもりあっていた。そのうちにタコは腰をにじらせて少し位置を更えた。月の光がうまい工合いに彼の股間へ青白く射しこみ、奇妙な物が一そう鮮らかに見えたので、そのとき初めてみんながクンクン鼻を鳴らして笑った。するとタコが誰かに「めろ」と命令した。「舐めないとぶンなぐるぞ」と脅した。云われた者が犬ころみたいに四つン這いになって、タコのそれを口に入れた。タコはまた次の者に命令した。順々に四ツ足じみた背中が引っ込んではまた次の背中がタコの前に出た。
 正確にいえないが、ぼくは五ツか六ツだった。でもこの晩の印象は、ひどく鮮明なのである。ぼく自身にはタコの前に匍匐ほふくした覚えは残ってない。おそらく逃げ帰っていたのであろう。しかし、性器について何か意識をきつけられた最初の経験であったことはまちがいない。
 野放しな児童のあいだでは、遊戯以外、どうかすると、こんな気まぐれも行われていたのである。タコの心理や環境などにも、学問的にはいろいろ云えるだろうが、大人の頭脳では分析のつかない点もある。電灯がなくランプ時代の暗さというものをもう今日のぼくらは思い出せなくなっている。原因のひとつは、世間の暗さにあったように思う。それに適合して、どんな暗闇でも、蹴つまずかずに飛んだりねたりしていた、いわば野性の子達であった。
 ぼくの家はよく引っ越した。青い窓の家から、もっと坂の上の、そして前より広い家へ移った。
 門を並べて、すぐ隣りは、郵船会社の小沼さんだった。勤め人が立派なものに見えたのは、小沼さんの出勤ぶりを見てからである。毎朝、お迎えの人力車が来る。美しい鼻下の髭と金ぶちの眼鏡に、葉巻のにおいが流れ、小間使が、膝まで手を下げて見送っていた。
 まもなく、また、その後から、ふっくらと色白で、ぼくを見るといつもほほ笑みかけてくれる奥さんが、どこかの女学校へ出勤してゆく。奥さんは髪を流行のイギリス巻にしていた。和服のときは袴に靴をはいて出かけ、洋装にはネットで顔をつつんでいた。自分に子が無かったせいか、ぼくはこの小沼さん夫婦にたいへん愛された。日曜日というときまって「大将サン、遊びにいらっしゃい」と、呼んでくれる。どういうわけか大将サンとぼくを呼び、御馳走してくれたり、汽船の模型やら、豪華な背皮の本を見せたりしてくれた。
 よその違った家庭様式にたいして、児童の嗅覚は、大人の考えている以上、敏感である、色の白い奥さんの頬の黒子ほくろから絨緞じゅうたんの模様までを、思い出すことが出来るし、ある折、ぼくを独り遊ばせておいて、奥さんと主人の小沼さんが、ピアノかオルガンの前で接吻した姿がいつまでも幼いひとみに残った。今でも、外国映画などでおなじシインにぶつかると、それが小沼さん夫妻に見えるような錯覚がふとのぼってくる。
 この小沼夫妻の隣家にも、長くは居なかったようである。こんどは少し遠くへ越して行った。山手の植木会社の裏門前で、何万坪もある植木畑や花畑に垣一重ひとえなので、広い庭園の中にあるようだった。
 引っ越すたびに、家はだんだん大きな家に変っていた。何も知るぼくではないが、この期間に、父は魚市場の書記をやめた。そして、いずれ今でいうブローカーであろうか、羽二重はぶたえの輸出とか生糸の売買などに首をつッこみ、開港場成金を夢みてか、さかんに居留地の商館や税関あるきなどしていたらしい。ほどなく、それが縁となって、その頃、横浜の実業界では有力な一人物だった高瀬理三郎氏に知られた。高瀬氏や二、三の実業家と、横浜桟橋合資会社というのをもくろみ、創業に熱中していたのである。桟橋に繋留する外国船の荷揚げとか、石炭食料の補給、貿易品の商社斡旋あっせん、何でもといったような建てまえの事業らしかった。
 これが当ったものであろう。父の生活は小沼さんの家庭より派手になった。母の身なりも美しくなり、婆やも女中も何人かにふえた。けれど、それによる幸不幸の感じは季節の変りほども子供のぼくにはわからなかった。遊びざかりの腕白わんぱくになっただけである。ある日の夕方、相沢の町通りで、市中からぞくぞく帰ってくる汚穢屋おわいやの馬力車の後ろにブラ下がって、ガラガラ揺られてゆく快感に興じていたことがある。このわるさは、どこの子もよくやる事なので、かねて汚穢屋も心がけていたのにちがいない。次第に馬力車を走らせておいて、そして突然、馬を止めた。その震動で、汚穢桶の物が溢れ飛んで、ぼくは頭から全身にそれをかぶってしまった。どう帰ったか覚えもないが、井戸端へ連れて行かれて、母や女中たちに、何十杯もの水をかぶせられた事だけは忘れがたい。物質的に父母の家庭はよくなって来ても、ぼくの野性にまではこのように何の変化も及ぼしていなかった。


白絣



 ぼくは七ツ。やがて千歳町の“横浜市私立山内尋常高等小学校”という長い校名の懸っている小学校へ通学し出した。
 戦後の横浜は、まったく旧容を失ったが、その頃、植木会社の裏門から千歳町へ通うには、文字どおり山坂越えての半里はあった、植木会社の園内だけでも、幾ヵ所となく上り下りの屈折があり、そこの表門を出て、桜並木とよぶ山手通りへ出、遊行坂ゆぎょうざかを降って車橋を渡る。そして町中の水天宮さまと隣りあっている私立小学校のペンキ塗りの校門をやっと見るわけだった。

 横浜市誌の類にも、横浜植木会社のことは、とんと見当らない。けれど、当時の居留外人にとっては、最も印象の深い一名所ではなかったろうか。日本中の花卉かき花木かぼくを集めた植物園といったような広さである。いまおもうと、社屋のある表の鉄門のわきに、赤煉瓦の倉庫が幾棟か見え、いつも倉庫の口から百合根ゆりねを荷馬車に山と積みこんでいた。当時海外へ、日本の百合根がさかんに輸出されていたため、あんな大きな花屋の経営が成り立っていたのかもしれない。
 それにせよ、花卉かきの高い香いと花樹のけんを主としたあんな広大な花園を、ぼくは日本の中では他に見たことがない。それと横浜生れの通有性で、外人の男女へ物珍しい眼をする子供ではなかったが、ここの園内を拾い歩きながら、園丁に牡丹をらせたり藤の花の大きな鉢を抱えさせて、なお去りがてに、躑躅つつじ燕子花かきつばたのあいだを逍遥している金髪美人や同伴の老紳士といったような外人達には、何か高貴めいた感をおぼえたものである。あたりを舞うアブや蝶々までが、翼に香気を放ち、からだに光をおびているかのように見えたりした。
 園内の道は、もとより一般の通路ではなかったが、ぼくは下町への学校通いに、裏門から表門へ抜け、毎日そこを往復の近道としていた。母は毎朝、躑躅や石蘭や雪柳が崖をなしている坂道を駈けまろんでゆくぼくを家の門から見送って「……まるで鉄砲玉みたい」と、ほほ笑んでいた。ぼくはその頃から、よくよく小ッぽけな子であったとみえる。
 そして当時、日々の往復に、ぼくは四季の花々から無自覚に後年の何かを教化されていたのではないかと思っている。成人してからも、特に花好きだの園芸好きなどという嗜好しこうはないが、どういう場所に限らず、たとえば会合の食卓などでも、ふと卓上の花の香を嗅ぐと、一応すぐその頃の追憶へ連想をもって行かれてしまう習性がある。毎日を、花の香に染められて通った頃の童心の幸福感が、老いたる今もどこかに潜んでいるものだろうか。以後、長じて人生の辛酸な道へ出てゆくほど、そのなつかしみは深くなっていた。

 根岸競馬の帰り途であった。戦争の初期である。ふとらしたぼくの回想に、連れの菊池寛氏が「じゃ、廻ってみようか」というので、心当りの辺をうろついてみたことがある。しかし、その頃すでに、植木会社の花園はあとかたもない。ゴミゴミした狭い横丁へ車を入れて行き惑い、菊池氏にさんざんぼやかれた事がある。
 それからまた、終戦後、小石川の大曲おおまがりで、はからずも横浜植木会社と看板のある埃ッぽい花卉店のウインドを見かけた事があった。これがぼくのなつかしい記憶にあるあの花園の後身だろうかと疑いながらも、しばしその前を立ち去りかねた。考えてみると、世相の騒音も、日本のありかたも、明治から大正、昭和とガタ落ちな変り方をしているわけで、時流の縮図を、半世紀後の路傍に見たまでの事で、それを不審がる自分の老いには気のつかぬおろかさに、われながら自嘲を覚えたことだった。
 まあ、こんな風に、植木会社の裏門時代は、ぼくにとって、故郷のうちの故郷といったようなものだった。キザな云い方だが、人生への初恋頃といっていい。
 そこでの友だちは、園丁の子の市ちゃんと洋傘直しの家の徳ちゃんだった。この三人は、余り花園では遊ばなかった。程近い相沢の町通りへ出るウラに、有名な貧民窟の一郭がある。“いろは亭”という汚い寄席の看板の下から狭い横丁のドブ板とそこの屋根全部であった。通称“いろは長屋”と呼ばれていた。そこには、どん底生活の百態が軒をならべている。住民はカンカン虫、お茶場女、ナンキン墓の墓番、大道芸人、チーハーの運送屋(シナ風の富籤)、屠殺場のアンチャン、夜蕎麦売り、といったような有職無職の人々である。とても戦後のハマの風太郎やニコヨンとよばれる人達みたいな清潔なものではない。その不潔さにも貧乏ぶりにも、やはり隔世的な差があったように思われる。
 ところが、ぼくら子供は、いろは長屋の極貧の密林帯に、花園にはない禁断の実を嗅ぎ出していた。メンコ以上に博奕的でスリルのあるアテ物とか玉ツブシなどもその中の駄菓子屋で覚え、モンジヤキとか、犬だか豚の臓物だか知れない怪しげな串焼の味も知った。もうそろそろ通用価値を失いかけて家庭でも粗末にしていた穴アキ銭とよぶ文久銭やら寛永通宝の古い貨幣も、そこへ持ってゆけば立派にテッポ玉(飴)一個と交易された。
 すべて、いろは長屋の人々は、始終、生き争う物音の中に暮していて、夏は男女とも真ッ裸同様だし、平気で猥雑な行為は見せるし、どこかの軒では必ず夫婦喧嘩をやっているし、それでいてぼくらには危害を加えないばかりか、みな親切なのである。すべてにカーテンのない自由でそして原始のままな解放地区そのものみたいに、子供の眼には見えた。
 もちろん、ぼくらの親は、口を酸ッぱくして、ぼくらがそこへ立ち入ることを固く戒め、見つかるとすぐ家へ連れ戻されたが、なお、いろは長屋の魅力はしばしば子供に親の眼をぬすませ、茶の間の小銭を手品のごとく掻き消えさせた。一体、それ程なそこの吸引力は何だったかを、今考えてみると、じつは、いろは長屋そのものに特殊な誘惑があったのではなく、本当は、子供にとって、当時の家庭は、余りに清潔すぎていただけの事である。家庭では禁断にされている未知の実をぼくらは猿の木渡りみたいに探り歩いたのだった。

 ぼくの旧作に“かんかん虫は唄う”という中編物がある。あの“いろは長屋”とか、カンカン虫のトム公などは、つまりぼくの逍遥した所の幼時の記憶が生ましめた幻想で、多少のモデルは有って書いたものだが、トム公は、ぼくではない。
 その極貧窟のいろは長屋から、すぐ一側表の通りには、山手の異人街から根岸競馬場やナンキン墓方面へ通じる一すじの町がある。その相沢と呼ぶ町通りにも、ぼくは当時の風俗詩的な思い出を幾つか新たにすることができる。わけて鮮やかに思い出せるのは、在留シナ人の葬式と、明治天皇行幸の鹵簿ろぼであった。
 もうあんな中華の古典的葬列の色彩は、現在では中共の奥地でも見られまい。ひつぎ輿こしは、金箔と五色の泥彩で塗られ、大勢のシナ人がかついで行った。刺繍のほうみたいな衣服を着た道士だの祭司がそれをめぐり、前後には、竜頭たつがしらの弔旗やはんが林立してゆく。また、供物くもつとする豚の丸揚げをになってゆく者だの、親族縁者らしき人々が、えんえんと人力車をつらねてつづくのだ。中でも一つの車上には、髪をふりみだした“泣き女”と称する女性が、それこそ誇張でなく、白昼の下に、声をかぎり号泣をしつづけて行くのである。
 行列の中では、銅鑼が鳴り、かねが叩かれ、泣き女の異様な啼泣と相和して、それは何とも不思議な音階を町に流しつつ練り歩くものだった。居留地の南京街ナンキンまちでも、豪商とか何とかいわれる著名人の葬式でもあると、泣き女も一人や二人ではなく、彩旗はへんぽんと相沢の町に続き、五色紙の散蓮華ちりれんげやら餅菓へいかが路傍の見物人へ撒かれたりして、ぼくら子供は、その演出と天来の奇観にはしゃぎ立ッて、ぞろぞろ葬列の後について駈け歩いたものだった。
 その日の子供とは、全くべつな児童みたいに、行儀よく整列して見たのは、しばしば、この狭い貧民街を通られた明治天皇の鹵簿である。
 明治天皇の競馬好きは内外に著名であった。春秋の根岸競馬へは、前後十数回も行幸があったことかと思う。祭日か日曜日なので、ぼくらは学校の先生に引率されていたわけではないが、みんな日の丸の小旗を持っていた。いろは長屋の住民から町の男女の立ち並ぶ中に交じって、四頭立てオープンの菊花紋の輝く御馬車へ、歓呼と共に紙旗を振りぬいた。
 道幅がせまい上に、両側の厚い人垣が押し合うので、陛下の鹵簿と群集とは、ほとんどスレスレな間隔しかない。どうかすると、後ろから揉み出された人波の凸出とっしゅつに、先駆の儀仗兵の馬が刎ねたりして、御馬車が行きよどんだりするのである。それはまた、ぼくら子供たちの歓ぶ事であり、その間、なお紙旗を打振って叫ぶのだが、手を伸ばすと、両側の紙旗は、陛下のお体にも触りそうなくらいであった。御馬車はオープンなので、陛下はお顔のそばに挙手の白い手袋をおかれ、時々、左右へ向って微笑されたりした。――そして競馬場のグランドの空には、打上げ花火がさかんに鳴る。――といったような風景が、遠い明治の一日として思い出される。
 そうしたぼくら明治の人間の先入観では、大正、昭和にわたるあの物々しい、超警戒ぶりは、何ともわけが分らなかった。街頭の群集をみな敵とるような、あの冷やッこい鹵簿の列と、幼時の印象とは、隔世の感があった。

 戦後は天皇も民主風になられたとはいっても、なお相沢の貧しい民衆と陛下との間に見られたような風景はどこにもないと思う。たとえば各種のスポーツや競馬などに、天皇杯や天皇賞は贈られているが、賞と共にグランドに臨まれることはないし、そこの民衆と一しょになって共に一日を遊ぶという時間もお持ちになっていないようだ。
 ちょっと一例までに、明治編年史の中から同三十二年五月に明治天皇が根岸へ行かれたときの国民新聞記事を抽出してみると、こんな風に掲載されている。

 ――かくて午前十時を過ぐる頃、根岸競馬場に御着あらせられ、暫時御休憩の後、天覧場へ入御、下賜せられたる銀製花瓶と、青木外務大臣夫人の賞品七宝しっぽう花瓶とは、馬見所の玄関に飾られ、誰人がこの名誉の賞品をうべきかは、当場所第一の談柄だんぺいなりき。
 なほ陛下の御下賜賞以外に、「北京賞盃」もありて、勝利馬二百二十五円、二着馬五十円を付したる第六回競馬は、かくて午後三時発馬と注せられたり。
アールフイルド氏の   トルトイス
同           テラビン
ヒヨゴ氏の       イクブチ
ラシヤ氏の       チンギス
ニシムラ氏の      アヅマ
スターライト氏の    マース
 六頭は今日を晴れと、一哩半を競ひ、さしも広き芝生も数万の内外人に充され、英国軍艦バアフローア号乗組員が奏する勇壮なる楽隊と万雷の如き喝采の中に、勝は西村氏のアヅマに帰したり。

 ぼくの父は馬は持たなかったが、経営している横浜桟橋合資会社は、外国人との折衝が半ば商売みたいなものだから、根岸倶楽部にはよく出入りしていたらしい。ぼくも競馬はたびたび見せられ、家庭でも競馬の話に賑わった。まだ横浜競馬も初期だったせいか、一般にも競馬を汚れたものと見るふうはなかった。特に、天覧競馬のレース当日などは、横浜中の祭典といってもよかった。市中もその話題で持ちきって、スペインの牛祭か何かのような騒ぎだった。
 ついでに云うが、その頃の名騎手カンザキの名は、ぼくら幼童の耳にも、英雄の如きひびきと憧憬をもたせたものである。その神崎騎手の名を、もう遠い過去だからと思って、実名のままぼくの“かんかん虫は唄う”の中に登場人物としてつい書いた。ところがその後、神戸市在住の神崎氏の系縁の人から、「神崎は決して貴著のなかにあるような女たらしの道楽者ではなかった。家庭人としても厳正だったし、ジョッキーとしては、内外人の称讃をうけて、裏切ったことはない」と、たいへん恨みがましく抗議されて来た。私は早速ていねいに謝り手紙を出してはおいたが、しかし公に釈明すべき機会が今日までなかった。もう戦前のことで神崎氏の遺族すらお忘れだろうが、ここにその事はぼくの作為であり誤りであったことを明らかにしておきたい。

 小学一年生のその当時、やがてぼくにとって、忘れえない或る一日があった。
 何でも、それはカンカン照りの暑い夏の昼だった。例のように植木会社の蝉時雨せみしぐれの道を通って家へ帰って来た。誰か、奥へお客が来ているらしく、玄関や庭に打水などしてあって、家の中は森閑しんかんと涼やかだった。
 母は、いつものように、ぼくの足やら顔の汗を拭いてくれた。それからやがて茶の間で、新しく入れた茶を女中に奥へ運ばせてから、「あなたもお座敷へ行って、御あいさつしていらっしゃい」と、ぼくへ云った。ぼくは廊下境へ行って、そっと奥の方をうかがった。半分捲いたひさしすだれの目が、午後の日影を斜めに客間へ落していた。お客は一人だった。いかにも独りぼッちといった感じで、きちんと、広い座敷の中を余して坐っていた。
 その人は、若かった。ぼくより十ぐらい年上に見えた。白ガスリの単衣ひとえに、小倉縞の袴をはき、少し俯向き加減に、そしてぼくの方へ姿を斜めに見せて端坐している。ぼくの眼にさえ、上品なおとなしい青年の感じがした。
「あの人、たれ?」
 そっと母へたずねると、母はぼくの肩をそばへ引寄せて、ささやいた。
「知らなかった? ひでちゃんのお兄さんですよ。ほら、小田原にいらっしゃる、あんたのお兄さんのこと、いつか聞いたでしょう」
 ぼくは、びっくりした。ぼくに兄と呼ぶ人があった事がどうしても実感にもてなかった。へんなそらぞらしさと羞恥がぼくを固くしてしまい、母から「奥へ行ってお辞儀をしていらっしゃい」と再度云われても、かぶりを振って動かなかった。
 まもなく人力車のベルが外で聞えると、ヘルメット帽に白い夏服の父が、その背の高い姿を玄関に見せ、母と何か話しているまに、すぐ奥の座敷へかくれた。それきり、しんとした感じだった。すると、ぼくの耳に、奥の方から誰かの泣くような咽び声が聞えてきた。ぼくは、それに異様な衝撃をうけたとみえる。こっそり独りで客間の様子を覗いていた。
 父は、兄の手を膝の上に取って握りしめていた。片方の手は、兄の白ガスリの肩へ懸けて、父も泣き、兄も泣いている様子であった。
 この光景は、ぼくの眸をつよくいたとみえ、いつまでも忘れ難いものとなった。そのとき母の姿も、そこに居たのか、茶の間だったかは、よく覚えていない。ずッと後になって、ぼくに理解力が出来たと母から見られるようになると、母はぼつぼつ兄に就てのぼくの疑問を、何くれとなく解いて話してくれた。

 兄は、吉川姓でなく、綾部政広といった。ぼくとは母ちがいなのである。ぼくはそれまで、何も知らなかったが、兄は小田原で生れ、小田原十字町の“ふじ本”という料理屋で育てられ、中学もそこで卒業した。横浜にあると聞く父を尋ねて初めて会いに来た時は、十八歳になっていた。
 小田原では志望の勉強もできないから、出京して、医科へ入学したい、そして将来は医者になりたいという希望を、その折、父へ訴えたそうである。
 兄の医学志願は、兄の戸籍の入っている養子先が、井細田いさいだ村の医者の家だったので、それを継ぐ意志だったものであろう。兄は、その綾部家へ、入籍はされていたが、綾部家の当主は死に絶えていた為、藤本林太郎という縁家先の、前述“ふじ本”に養われてきたのである。
 どういう理由か、そのさい父は、政広の医学志望には不賛成であったらしい。そのため、好学の青年は志を得ず、父の意見に負けて、翌日、小田原へ帰って行った。
 ぼくの印象にある兄は、女性みたいに優しい感じの青年だった。俗に「痩セ型、中背」というあの通りなタイプで、左の眉の中に大きな黒子があり、頑固な士族あがりの父親とも、このぼくとも、似ている風はどこにもない。
 政広は、小田原の花柳界で成人したので、自然、環境からうけた感化が多かったのであろう。後に、ぼくの父母も一驚を喫したそうだが、酒席となると、たいへんな芸能の才で、何をやっても素人ばなれがしていたそうである。けれど平常の兄は、ちっともそんな軽佻の風は言葉の端にも見せず、つつましい好青年であり、又、やたらに人好きされた。ついに医学校には入らなかったが、どこかに薬の匂いがするような医学生に見えた。
 母には、腹ちがいの子だが、母はこの兄を後々まで、どれほど、親身になって世話したかしれない。やかましい父へは常によくかばってやり、ぼく以上にもと、ひがまれた程、可愛がった。また母は、ぼくは子供なので、ひそかに政広を、力ともしたのであろう。
 ところで、次の事だけは、母も、ぼくには決して語っていなかった。それは、兄のほんとの母は、誰だったかという疑問である。
 前にぼくは、父が二十歳代の頃、遊蕩の果て、小田原に居られなくなって、長野県庁へ転勤を命ぜられ、その期間に、かつて父と小田原で問題を起した美しい留守の内縁の妻が、痴情が原因で男に殺されたという事をちょっと書いた。――で、これはぼくの想像にすぎないのだが、ぼくは、その孤閨こけいにあった美しい婦人こそ、兄の母だったのではないかという気がしてならないのである。
 もちろん、その婦人については、父も触れるのを好まなかったろうし、母も子のぼくに聞かせもしない。けれどやや理解力や嗅覚にけて来ると、自然ぼくの疑問にもなっていた。その後、小田原へも母と遊びに行ったし、特に父と兄との、もつれ方だの、父の放つ激語の端などで、だんだん察しられていたのである。そうだとすれば、この義兄は、じつに薄命な人だったというほかはない。やがてぼくを待っていた少青年期の世間的な苦労に似たような経歴も、この義兄の生まれながらの薄命に比すれば、たいした事はなかった。

 家はまた引越した。山手通りの俗に桜並木とよばれる植木会社の表門通りから、遊行坂の降りへかかる坂の降り口で、座敷にいても庭越しに、横浜市街が一望に見えた。
 こんどは千歳町の小学校へも、三分ノ一以上近くなった。
 学校を嫌だと思ったことはない。校舎は木造二階建てで、ぼくらの組は下だった。二階の足踏みもオルガンの音も頭からつつ抜けで、蜂の巣そのままな私立小学校なのである。
 校長先生は、山内茂三郎先生といい、九十一歳で、つい昨年亡くなられた。
 晩年は、さすが病床に親しまれがちだったが、一昨々年、ぼくが菊池寛賞をもらい、その受賞祝賀会を友人たちが東京会館で開いてくれたとき、わざわざ横浜から来て下すった。――その折は、義兄政広の昔の恋人であった混血美人のオテイちゃんも一しょであったが――やがて先生が立って、よろこびの辞を述べられた時、その赤ら顔には老涙をうかべておられた。
 山内先生の赤ら顔は、ぼくらが、一、二年生の時からだった。大酒家とは覚えていないが、特に鼻が赤かった。横浜の児童教育史上、この先生の名は逸することのできないものである。幾多、表彰はされているが、教え子のひとりのぼくの胸にも、先生の子供好きな細い眼と、あの笑い顔は、消えうせることはない。
 先生は前の奥さんを、お若いうちに失われた。ぼくらは、その奥さんからも教えをうけた。当時では、中流の夫人を奥さんとは呼ばない、御新造ごしんぞさまと呼ぶのである。ぼくら生徒も「――御新造先生、ごしんぞ先生」と呼んだものだ。わが校長先生夫妻は、勿論、ほかの教員も幾人といたが、夫婦共稼ぎで、教鞭を取っておられたのである。
 ぼくらは、どっちかと云うと、御新造先生が教壇に立つことを、もっぱら歓迎した。先生は子供の眼にも美人として映った。ぼくは自分のお母さんと、どっちが色白だろうかなどと思いながら先生の襟元や頬の匂いを遠くから嗅いでいた。先生は常に髪を夜会巻にし、たもとの長い着物に、紫の袴をはいていた。そのモスリンの匂いすら、ぼくらは感じのこすことはなかった。
 ただいつも例外なく、御新造先生が困るらしいのは、ぼくら生徒が、やたらに騒ぐことであった。ふざけ散らすのは、意識的であった。目に余ると、紫の袴が教壇を下りて来て――「こッちへ、いらっしゃい」と席から立たせ、教壇のわきへ手を引っ張って行って、罰として立たせるのである。ところが、ぼくらのひそかな願いは、先生の明眸に睨まれて、そうして貰いたかったのだ。御新造先生の楚々そそたる歩みと、白い手が、自分の方へ近づいてくると、胸がドキドキしたものである。その手が、他の生徒を引っ張って行くと、ぼくはがッかりしてしまった。

 賑やかな町中だし、校庭も広くはない。古い板囲いの壊れ目から覗くと、すぐ隣地の水天宮さまの境内が見える。賽日さいにちなどは、昼から出ている露店の呼び声や物の匂いがやたらにする。
 男女共学などという言葉はなかったが、自然に男女混合だった。もう好きな女の子と、嫌いな女の子があった。好きな女の子と一つ机になった者を、ぼくはうらやましく思うことがよくあった。
 雨の日、ぼくらはよく“墨取り”という遊びを机の上でやった。習字は必修科目であったから、すずりと墨は、第一の文房具だった。習字の草紙は墨のにかわでピカピカに光るほど、その上から上へ、毛筆を重ねて習う。菅原伝授手習鑑の寺小屋の段、あれに近いものと思えば間違いない。
 墨のカケラをおいて、交りばんこに、墨で墨を起しくらするのである。これは見つかると叱られた。
 もひとつ、ぼくらのよくやった雨の日の遊びは、誰の発案だったろうか、雑記帳に、自分の空想するテーマを、映画のヒルムのように、一コマ一コマと絵に描きつづけて行き、描きながら、口から出まかせに、テーマをしゃべっていく遊びがあった。
 たとえば、こんな風にである――。
 柳の木らしいものを描く、川みたいな物を描く。立小便している子供みたいな人物を描く。
「木村がネ、お使いに行ったんだとサ。そしたらね、小便が出たくなっちゃって、車橋のそばで、川ン中へ、じゃアじゃア、おシッコしていたんだとさ」
 ここで、次の絵を手早に描く。
 こんどは、橋を描き、お下げ髪の少女みたいな点景人物。
「するとネ、向うから宮崎千代子さんが来たんだよ、ほら、こっちを見たろ」
 さらに、次の絵。
「木村は、まッ赤になっちゃって、小便を半分して、逃げ出したのサ」
 こんどは、木村君の家になって、お母さんみたいな人物に、木村君がお尻を打たれている絵。
「家へ帰ったら、お母さんに、なぜおシッコを洩らしたかって、大叱られに叱られたとさ」――というような絵とテーマとの、いわば近頃の紙芝居を、即席にやって見せるのだった。
 もちろん、絵も説明も、満足には表現できッこないが、子供仲間では通用するのだ。それに、テーマはすべて児童の身辺の事で、またかならず、仲間の誰かをモデルにした。鉛筆と紙のときは、ヒルム式な連鎖描きとし、石盤せきばん石筆せきひつのばあいは、一場面一場面、描いては消し、描いては消し、かつ思いつきの筋を喋っていくのだからずいぶん忙しい。
 この遊戯は、雨の日の教室に限っていたが、何遊ビとも名称がなかった。あるいは、ぼくらの仲間だけが思いつきでやり出していた事かもしれない。そしていちばんその遊戯を好んでしたのはぼくであった。みんなから「やれよ、やれよ」と、せがまれるのが自分も得意で、仲間の誰彼をモデルにしてはかれたように空想を喋り空想を自由画にした。いちど、ぼくが好きな女の子をよくいじめる高木というアバタの少年をモデルにして、そいつが落第したり家が火事になって小僧にやられたりするような事を、出まかせに喋っていたら、高木が怒って、ぼくの頭から、硯に残っていた墨汁を浴びせた。振向きながら、手で髪の毛を掻き廻したので、手も顔じゅうも真ッ黒になった。それから何度風呂へ入っても、頭を洗うと湯が黒くなった。
 ――ところで、今になって思うと、そんなかりそめの遊び事も、一個の未来には、無意味というものはない。空想を遊戯する――という無自覚な方式に依って、ぼくは何の考えもなく、後年、自分の職業となった小説作法の極く初歩の手習いを偶然やっていたわけであるかもしれない。


牛乳と英語



 最近、母の旧知やら、横浜出身の方たちから、しきりにいろんな手紙をうけた。大仏次郎氏の兄さんの野尻抱影ほうえい氏も、氏の小学生時代には今の紙芝居風な雨の日の遊戯を※(二の字点、1-2-22)めいめいの自由画でやった覚えがあるとのことである。また島村収三氏や佐々木美子さんからも、モンキの坂や植木会社附近のことについて、前回までの“忘れ残り”をいろいろ補足した御書面をいただいた。
 また先頃、直木賞をうけた戸川幸夫氏の会でも、長谷川伸氏との間にすぐ“横浜ばなし”が出た。記憶力のよい長谷川老にただせば、健忘なぼくの忘れ残りもずいぶん補足されそうな気がした事だった。いちど、それらの横浜先輩に獅子文六氏なども加えて、みんなの忘れ残りを話しあってみたら、意外な話題も出てくるかもしれないと思った。
 前述、野尻抱影氏からのお手紙の端にも「――小生ははなぶさ町の生れで、本名は正ふさ、小学校は初め太田小学校でした。おテイちゃんとは同窓です」とあった。おテイちゃんについては、後にもっと触れるつもりであるが、彼女と抱影氏とが同窓であったなどは、意外な初耳だった。だいぶ年下で年代はちがうが、ぶどうの会の山本安英やすえさんなども、この近所にいた一少女だったことを、これは山本さんに会ったときに聞かされた。

 朝日クォータリー・ゴルフという会ができた。そして過日、その第一回が相模さがみで催された。賞品授与は、横浜南京町の某亭との事である。ぼくの組はトップに出て、午後二時頃にすんでいた。ほかの仲間はなおハーフ・コースを廻るが、ぼくはその日の小半日を利用して近くの横浜へ先に行く予定をしていた。
 山内先生がまだ亡くなられぬ前で、先頃から病床と聞いていたので、その見舞を考えていたのである。山手町の横浜女子学院の小さい一室が先生の住居であった。夫人は老先生の看病をしたりそこの教鞭を取ったりしておられるらしい。先生の事については前号でも書いたが、九十歳にもなると、やはり子供に返るものか、病室で話していると、ぼくの方が校長先生で、先生の方が小学生みたいであった。それにぼくを見るとすぐ老眼から涙を垂れるので、何だかぼくも自分を持ち扱ってしまい、いつも早々辞去してしまうのだった。
 南京町の会にはまだ時間が早過ぎていた。――こんな時でもなければと思い、その日、二時間ばかりで横浜中を車で走り巡ってみた。おそらく、あとかたもあるまいと予想された所にさえ、何かしら、ぼくの遠い記憶とむすびつく物が残っていた。わずか三、四十年の間に大震災と戦災にあい、特に米軍の進駐で極端に切りキザまれた横浜だけに、案外な気がして、とても生きてはいまいと思われた古い知己と、行く先々で、ひょッこり、出会ったのと同じような感にうたれた。また、大地の執拗なまでの保守性と時への抵抗にもいささか呆れた。
 そしてぼくはさいごに、山手の遊行坂の上へやって来た。――そこに家のあった七歳から九歳頃までの記憶を伴って少し歩いてみた。桜並木の桜は今一本も無くなっていたが、植木会社はまだ面影だけをわずかに保っており、昔の地域の所に横文字のわびしい看板だけは見せている。
 また、坂を降りかけて左側の、ちょうど、ぼくが幼時の家のあった辺は、今そっくり小学校の校庭になっていた。

 そこの遊行坂は、今でも、かなりな急坂である。ぼくの八、九歳頃は、もっと道も悪かった。雨の日の通学などには、やたらにすべったり転んだりしたものである。鼻緒の切れた足駄の片ッ方を番傘の柄と一しょに持って、ベソを掻き掻き、登り降りした坂道だった。
 片側は道に迫った高い崖で、片側だけが麓の遊行寺の門前まで、近頃の分譲地みたいなヒナ壇式の住宅地になっていた。
 日本人の家といっては、桜並木の角のある小さな雑貨店と、おなじ通りの西にある神崎騎手の邸宅ぐらいなもので、この近所はほとんどが外人の家だった。ぼくらはそれを古風な意味でも何でもなく、日常語として“異人館”とよんでいた。
 自然、ぼくらの遊び仲間はジョージだのフランクなどという純粋な、紅毛児とも一ショクタであった。ぼくらに国境感はなく、めったにいがみ合いはしなかった。けれど、小うるさいからかい方をしたり、小国的な悪戯いたずらをよろこぶ風は、どうもぼくらの方にあったらしい。何かで喧嘩になると、あッちはあッち組、こっちはこっち組、自然、さっと国境ができた。
 外人の子を泣かせると、かならずその子の親父かおふくろが、えらいけんまくで異人館の中からぼくらを目がけて呶鳴り出して来る。もちろんがなるのも英語である。日本語で怒られるよりも遥かにそれは恐かった。そらッとばかりぼくらは逃げ出す。――しかし、逆にぼくらが彼らに泣かされて帰った場合はどうかというと、ぼくらの母が眼をつり上げて子供喧嘩の干渉に呶鳴って行った例などは一ぺんもない、反対にぼくらは親から叱られて家庭の隅で小さくなっているのがオチであった。

 この界隈では、すこし綺麗な女のひとだと思うと、たいがいが洋妾らしゃめんと呼ばれる婦人か、異人館に雇われているアマさん(家政婦)だった。家からすぐ上の桜並木の端れに、上品な老人夫婦の営んでいる小雑貨店があって、ぼくはよく買物のお使いに行ったが、時々そこの店番をしていたきれいな娘も洋妾であった。そしてその美しい娘のためにああして安楽に暮している老夫婦なのだといったような事まで、誰に教えられるでもなく知っていた。
 らしゃめん、という語は子供仲間の会話にもよく使われたように覚えている。しかし当時の横浜世相の中では、差別や蔑視のトゲをふくんだ言葉ではなかった。ただ日本人同士の間では嗅ぎ馴れないローズやヴァイオレットの強烈な香水の香りと結びつけて或る特殊生活を連想してみるだけのものにすぎない。けれどそれも南京ナンキンらしゃめんと云うと何か違った意味をもって聞えた。下級ということがはっきりしていた。白人のらしゃめんにも、ぴんからキリまであったろうが、通いらしゃめんにしても、家持ちの洋妾にしても、概して相当にいい生活保証を得ていたらしく思われる。それと、日本に居留していた外人の質その物も良かったせいであろう、関係した日本婦人にたいしては或る程度の責任感をみな持っていたようだ。だから彼らが帰国した後も、生活費だけは幾年も送金してくれているとか、生れた子供には成人までの教育費が保証されているとか云う例は、珍しくも何ともなかった。従って、その頃の横浜には、混血児も多かったが、しかしぼくらの子供心では、そう大して異質を感じなかった。ただ、らしゃめんの子と、云ったりする事はあった。
 らしゃめんの贅美な体臭には、敬遠の風を見せる近所の人も、アマさんには、親しみを示して、アマさんの口から異人館の主人の生活振りなどを探ることを、何か秘密めいた興味のような顔して聞くのだった。
 そのアマさんは、外出にも白いエプロンを胸に掛け、買物籠を腕に、乳母車など押していた。ぼくの母は、アマさん風俗を真似して、ぼくだの、下の妹たちにも、エプロンを造って胸にかけさせた。泥遊びしても、着物が汚れないでいいという単純な考えからであったろう。――だからそれを前垂まえだれともエプロンとも云わないで、単にアマサンと称していた。
 ぼくも小学生になると、もうアマサンは掛けていなかったが、それは横浜中の子供に流行って、いつのまにか日本の児童風俗になっていた。――これはずッと後年の事だが、横浜短詩社をやっていた弁護士の安斎一安氏から「横浜で子供にアマサンを掛けさせた一番初めの人は、あなたのお母さんでしたよ」と聞かされたことがある。何でも、ぼくの母が一安氏を地方裁判所へ訪ねた時、母に手を引かれていた幼いぼくのエプロン姿がふと眼につき、珍しく思ったので、その着想を褒めたことがあるとの事であった。ぼくには全然記憶にないが、云われてみれば、ぼくはアマサンの元祖であったかもしれない。
 成人したら騎手になりたいと空想したのも、この遊行坂時代だった。名ジョッキーとして人気の絶頂にあった神崎騎手の邸宅がすぐ近くにあった。袖垣そでがきにバラをからませた鉄柵の門から内を覗くと、中央に広い草花のガーデンが見え、両側が長い厩舎きゅうしゃとなっていて、奥に宏壮な洋館があった。東京の羽左衛門うざえもんという千両役者であるとか、新橋の洗い髪のお妻とか、ぽん太とかいう名妓であるとか、やれ大臣だとか何だとかいう種類の人々の俥や馬車がよくそこの門に着いていた。そしてその花形の人、神崎の苦ミ走った容貌と外出の騎馬姿は、おとぎ話の中の騎士ナイトのようにぼくら子供の眼には映じて、ひどく印象的だった。
 巌谷小波いわやさざなみの“世界お伽噺”を知って、それに読みふけったのもこの頃からである。ぼくの読書の初めといっていい。博文館の少年世界は、まだ少し難しい感があった。そこへゆくと、小波の世界お伽噺は菊判四号活字で読みやすくもあったせいか、すでに何十種も出版されていたが、出ている限りの物はあらまし読んだ。
 たしか定価は一部七銭だったと思う。家庭では、そうそう七銭の本は買ってくれないのである。牛島坂の上に、格子作りのしもたやがあって、そこの小母さんが玄関の上がり三畳に書棚をすえ、その世界お伽噺から、金港堂のお伽文庫だの、日本偉人伝だの、イソップ物語だの、子供向きのものばかりをおいて貸本屋をしていた。
 貸本のお伽噺は、すべて一冊一銭だった。だが、馴れて来ると、一銭持って一冊借りにゆき、格子の外から歩き歩き読み初める。そして読み終ってしまうと、途中から又、大急ぎで引返して「小母さん、これはもういつか読んだ本だからほかのと取り換えてくんない?」とべつな本を借りて帰ったりした。
 この手をなんべんとなくやっているうちに、ある時、針箱の前から立ちもせずに振向いた小母さんから「英ちゃん、これからは、あんたにだけは一銭で二冊ずつ貸して上げるから、いちいち私を二度ずつ立たせないでおくれね」と云われて、顔じゅう熱くなった気持はいまも忘れえない。
 そろそろ悪智が芽生え出していたのである。一度こんな事があった。どういうはずみか、母の眼をぬすんで二十銭銀貨を一枚ゴマ化した。そして、それの隠し場所に窮したあげく、着物の上ゲの縫目にじこんで澄ましていた。ところがあわせなので、いつのまにか二十銭玉は、裾の方へ辷り落ちてゆき、歩くたびに、コツコツ足へ触れるのだった。
 どうかしてつかいたいのだが、費う手段を知らないのである。寝るにも起きるにも、着物が心配でならなかった。そして硬貨が足に触るたび、人知れない苛責にひとりいじけていた。いっそ謝ろうかと何度も思うのだが、日がたつ程、母にも云えなくなっていた。唯、罪の負担と、銀貨の処置に、当惑していた。
 ある時、ぼくはその事を、年上の一人の友達にそっと喋った。近所のアブ公という背のヒョロ長い子だった。アブ公は子供のくせに口のまわりに黒っぽいヒゲが生えていた。眉と眼がくッ附いているような顔だった。よく腰巻一つで波止場を裸足はだしで歩いているアラビア人と似ていた。やはり混血だったのだろうが、どんな家庭の、どんな職業の人の子だったかは、覚えていない。
 とにかく、アブ公に、秘密を打明けたのは確かである。すると彼は、ぼくの着物の裾をめくり上げて、裾の縫目を歯で噛み切った。そして角にギザギザのある二十銭銀貨を手品のように揉み出した。彼はそれを握ったまま、ぼくの手には渡さなかった。ぼくも又、自分で持つ勇気はなかった。アブ公は突然、こう叫んだ。
「伊勢佐木町へ行こうや、伊勢佐木町へ連れてッてやる」
 ぼくは唯々いいとして彼について歩いた。
 しかとした記憶は今、思い出しきれないが、その頃の二十銭を消費することが、二人の児童の買食いでは、いかに骨が折れた事かは、腹にこたえて覚えている。
 まず汁粉屋へ入った。およそハガキ大の餅が入っていて、たしか一銭か一銭五厘だった。南京豆やアンパンをふところに、賑座の立見を見た。出てからまた、犬コロのように買食いして歩いた。しかし二十銭はどうしても費い切れなかったものとみえる。まだ二銭銅貨を一枚あましていた。
 アブ公とは、どこで別れたのか、日の暮れ方、ぼくは狸みたいな腹をかかえて、車橋の上を帰ってきた。ぼくの手には二銭銅貨が残っていた。銀貨よりも遥かに大きな二銭銅貨を持ッてしまって、ぼくは途方に暮れた感じだった。もちろん、持って帰る勇気はない。
 ぼくは石でもほうるような振りをしながら、往来の隙をみて、その大きな銅貨を、車橋の上から河へ投げ捨てた。そして逃げるように、わが家へ駈けて帰った。その後は、覚えていない。だが、日頃の石投げの手なみで、銅貨を河へ投げたときの快感だけが、今でもかすかに手に残っている。

 その後、ぼくはアブ公と遊ばなかった。道ではよく会うが、向うでも澄ましていた。買食い事件だけでなく、もう一つ子供同士でも、へんてこな後味を持った事があった。
 ぼくの家のすぐ庭先から、眼の下の低地には三、四軒の屋根が覗き下ろされる。日曜の朝になると、その一番奥の屋根の下から、讃美歌のオルガンがたのしげに聞え出し、近所の子がみな集まった。
 帰りには、美しいカードをくれたり、そこの主人と奥さんが、面白い話をしてくれたりする。ぼくも日曜日の朝になると、大勢の子等と一しょに、畳の上で讃美歌を合唱した。アブ公とはそこで友達になったのである。
 家は、ふつうの借家で、八畳と四畳半ぐらいな部屋のふすまを外し、オルガンだけが、日曜学校と云えば云える風景だった。そこの主人夫妻は、元よりクリスチャンだろうが、べつに宣教師ではなかったようだ。ただ子供集めが好きで日曜行事としていたのであろう。横浜にはそんな家庭がいくらもあったものである。そしてここには、お下げ髪の美しい娘がいた。ぼくよりも年上だが、ぼくはその少女が好きであった。讃美歌の合唱の時、少女の唇元くちもとを見ながら共に歌っていると何ともいえない愉しさにくるまれた。
 家は近いので、日曜でない日でも、ぼくは彼女に近づくことが出来た。ところが、ある日の午後、彼女を誘うため、その家の裏庭の縁側から、少女の名を呼びかけた。家の中には、誰も見えない。留守なのか、と帰りかけた。すると奥でくすぐられたようにクックッ笑う声がするので、もう一度戻ってみると、オルガンの蔭で、少女とアブ公が、からみ合って寝ていた。少女は顔を埋めていたが、お下げ髪の頭越しにアブ公の顔がこっちを見た。
 ぼくは奇妙な気もちに行きぐれて帰った。ショックというほど強い嫉妬でもなかったし、少女とアブ公の戯れも、大人の行為のそれとは違うものであったろう。けれど当座は、堪らない少年の孤愁にとらわれ、それからは、アブ公とも口をきかなくなり、日曜日の讃美歌も歌いに行かなくなってしまった。

 母は、ぼくを、よく口ぐせに「医者にしたい」と云っていた。父は「ばかをいえ、これからは貿易だ、事業家にする」と云っていた。母の考え方は、母が娘時代を近藤塾で過していた影響であったろうし、父は自分のやっている輸出入業や桟橋会社の事業が好調のさかりだったので「わが子も、将来は横浜で」という考えだったにちがいない。
 ぼくは八ツの尋常二年頃から、学課が終っても、毎日、ただ一人だけ、二時間ずつ、学校に残された。そして、一人の英語教師から、英語の単独教授をうけた。
 これからは貿易だ、英語だ、という考えと子供への方針から、父が特に山内先生に依頼して、ぼくに早くから外語を身につけさせようとしたものだった。
 もひとつの理由は、ぼくの素質と素行を見て、親の眼から「これはいかん」と、何か父の頭に、教育方針の一変を思わせるものがあったのかもわからない。
 何しろ、ぼくは遊べなくなっていた。この頃から急に、父のあり方が、前にもまして厳格な存在に映ってきた。父は、かつて自分が受けた通りな子弟教育の範を、封建そのものの薫陶を、子のぼくへ、課し初めて来たのである。
 毎日の学科がすむのは、午後二時か三時頃である。もう級友はみな帰ってしまい、ガランとした教室の中には、ぼくと英語の先生だけが残っている。ナショナルのリーダーの一を前に“It is a dog”だの“It is a hat”などを繰返しているうちに窓外は薄暗くなってゆき、帰りたさ、遊びたさに、堪らなくなってくる。
 自分も知らないうちに、リーダーの上へ、涙をぽろぽろこぼしたりした。これを半年ほどやってゆくうちに又、九歳の一月からは、もう一つ夜学の励みが加えられた。
 夕方、家に帰ると、すぐ晩飯を食べてから、今度は、前に書いた少女の家のスジ向いに住んでいる漢学の先生の所へ、毎夜夜学に通うのだった。
 この先生は、お母さんらしい老婆と学生の弟さんと三人暮らしで、奥さんはなかったようだ。水戸の人で、岡鴻東と覚えている。まだ三十がらみの小づくりで温容な人だった。いつも黒木綿の紋附の羽織を着、袴をはき、ぼくのお辞儀に対してさえ、礼儀正す風だった。桑の木か何かの小机をおいて、先生と向いあうのである。
 いちばん最初に先生から示された教科書は、“中学漢林”で、外史や十八史略の抜抄であった。それで多少興味づけられてから論語や小学の素読そどくへ移った。和書のページの難解な辞句の所には、朱唐紙しゅとうしを小さくちぎり、ちょっと舐めて、疑問の印に、辞句の部分へ貼りつけておいたりする。あの和書の中へ点々と貼った紅梅みたいな朱唐紙の色だけには、子供心にも優雅なものを感じたりした。
 だが、いくら家の近所にしろ夜学が終って帰ると、もう八時か九時近かった。その頃、父も会社から帰っている。そして時にはまた、父の前で、英語と漢学の復習をさせられた。わずかな時間だったろうが、これが何より辛くて、いちばん長い時間に思われた。冬の夜などは、室内の暖かさに、どう気をひきしめても、つい居眠りが出てしまう。
 そんな時、父から一喝を喰うのは、のべつだったが、ある夜の如きは、いきなり父が立上がって、縁側の障子を明けたと思うと、ぼくは外の庭へ突き飛ばされていたことがある。忘れもしない、その晩は雪が降っていた。母の姿が廊下に見えると「ばかっ、誰がゆるした。上げてはいけない。雨戸を閉めてしまえ」と、障子の内でなお父の云うのが聞えた。
 ぼくは、わんわん泣きわめきながら二、三十分間も外から障子の内へ謝った。その辺、夢中だったので、よく覚えていないが、やがて、裸足で台所口の方へ廻ってゆき、氷のような足を母の手で拭いてもらった。そして、母と一しょに泣きじゃくりながら、もう一ぺん父の前に坐らせられた。

 父がぼくに課したことは、もちろん父の愛情と信じてしていたことであろう。なし易い小愛を超えた父性の大愛とも考えていたにちがいない。今の父親や教育者には理解しがたいものだろうし、現在のぼく自身にも、到底できない。
 けれど間違いなく、こういう父性と家庭環境につちかわれたぼくではある。だから現在のぼくの子供らから、ぼくを見れば、ぼくという父にも多少どこかに祖父的な煙たさがあるかもしれない。ぼく自身は充分、今日という時代反省を経ているつもりではいても、どこかに何かは遺伝しているだろう。しかし、今日の親たちがわが子への、余りな放任ぶりや甘やかしにまかせている風潮にも、いささか疑いがないではない。時には、かつてのきびしい父性に郷愁を感じることが正直否みなく、ぼくにはある。
 暴風雨の日曜日だった。
 日曜日ではあったが、父はなにかのため、その朝も会社に出かけた。当時は、お弁当の配達屋さんというのがあって、毎朝、箱車を曳いて勤め人の家々から、お昼の弁当箱を集めて歩く。そして正午までに、それぞれの主人の出勤先へ弁当を配達してくれるのだった。
 その配達屋も日曜日は休みである。ところが、父はその朝出がけに「英と、きの(妹)に弁当を届けさせろ」と母へいいつけて出たらしい。ぼくは、ぼくより二ツ年下のきのと一しょに一本の番傘を斜めに持ちあい、大あらしの中を二人とも裸足で、海岸通りの桟橋会社まで、父のお弁当を届けに行った。――その時は父も上機嫌で、会社の小使部屋で、兄妹に一品洋食を取ってくれたり褒めたりしてくれた。そんな時は、父の姿が又なく温かな大きな父に見えた。
 ぼくは子供の頃から、何が嫌いといって、牛乳ほど嫌いなものはない。何でも四ツ五ツ頃、大病を患って、ムリヤリに牛乳を飲ませられたことが原因らしいのである。
 それの嫌いは、この年になってもまだ直らない。家族が牛乳を飲むのに使ったコップは、いくら洗ってあっても、口のそばへ持ってくると「――牛乳を飲んだね、このコップで」と、すぐ分ってしまうのである。バタ、チーズは何でもないのに、牛乳と聞けば胃が拒んでしまうのだ。
 それと、も一つのニガ手は、英語である。英語は必修課目として、父があんなにまでして、ぼくの幼少頃から身につけさせようと計っていたものなのに、父の意図は、子のぼくにとっては、全く、ぼくの胃と牛乳の関係みたいなものになってしまった。日も暮れかかるガランとした学校の教室にただ一人残されて、ナショナル・リーダーへ、ぽとんぽとん涙をこぼした童心の牢獄感が、いつかしら胃が牛乳をつきあげるのに似た特異質をぼくの中に育成していたのであった。その後、年を経てからは、語学の欠如に自分でも気がつきもし、また大いに後悔もして、ある期間は、文学書の耽読をやめて、それの勉強に専念したこともあるが、語学ばかりは、頭に入らないのみか、てんで体が拒んで根気もつづかないのだった。今でもなお牛乳と英語にたいするぼくの生理には変化がない。


春の豆汽車



 まもなくぼくの家はまた、横浜市の西郊にあたる南太田へ移ったので、ぼくの遊行坂ゆぎょうざか時代は二年か二年半ぐらいの期間でしかなく、自然、小学校も変ってゆき、山内先生や御新造先生ともお別れしたのであるが、遊行坂時代の記憶で、なお思い出にある幾つかを順序として書いておくことにする。

 ぼくは幼少時にその頃の東京を二度見、その頃の汽車に二度乗った。いちどはまだ小学以前か一年生頃であった。母に連れられて母の郷里の佐倉へ行ったのである。おそらく母にとってもそれは結婚後ただ一度か二度の愉しい帰郷であったかと思われる。
 今では日帰り距離にすぎないが、当時は横浜から千葉県佐倉への旅行というと、ひどく億劫おっくうがッていたものらしい。もっとも汽車が桜木町駅を離れると、京浜間は、鉄道唱歌そのままな緑の田園風景が新橋駅までつづき、車窓の顔はみな長閑のどかな眠気と旅行感にウトウト誘われたものである。
 その時の旅行では、母と共に東京の親戚の家に一泊した。母の実姉が嫁いでいた先である。北白川宮の邸内に住居があった。
 泊った翌朝、宮家の事務官と伯父のあとにくッついて、邸内のあちこちを見あるいた記憶がある。若宮様のお部屋と聞かされた所にニッケル色のレールが大きな円形を描いていて、それに精巧な玩具のアルコール機関車が乗っていたのを、誰かがその汽車を走らせてぼくに見せてくれた。
 終戦後はよく、大人までが面白がって、貨車、機関車、停車場、レールなどの部分品を買い集めては組み立てたあの舶来玩具なのだが、その頃としては、宮家でもなければ無かったものだろう。幼時の記憶で何かといって、この豆汽車が走ったのを見た時くらいびっくりしたことはない。

 母の義兄の斎藤恒太郎は、語学者としては、明治の三斎藤といわれた一人だそうで、学習院教授をしていた傍ら、宮家の教育掛りをも勤めていた関係上、北白川宮の邸内に居住していた。
 その斎藤家へ嫁いだ母の姉は、豊子といった。豊子は三人の子を遺して二、三年前にもう亡くなっていたのであるが、ぼくの母は、その姉の愛情によほど忘れえないものを抱いていたらしい。
 ぼくなど全然その伯母を見ていないのだが、面ざしや輪郭まで、まざまざと会った人のような錯覚を今でもまぶたにもっている。それは母が老年にいたるまで、そして、貧苦のどん底にあった頃でも、姉の豊子の写真だけは、お守りのように大事に持っていて、子供のぼくらへその姉の優しさや美しい情操を何かにつけて話して聞かせたせいであろう。そしてまた母は、義兄の斎藤恒太郎をも心から尊敬していた。姉亡き後も音信をつづけ、ただ一人の親身な人と頼っていたふうであった。
 ただ不幸なことには、ぼくの父と斎藤とは、肌が合わず、生涯、犬猿もただならぬといっていい仲であった。そのため母が泣いた例をぼくらは何度も見聞きした。何が原因か、往々、理解に苦しんだものだが、ぼく自身が成長して、複雑な人間心理やら家族制度のもつ因習のかもすところなども多少分るようになってからは、その不審もやや解けてきた。要するに、負けん気のつよい、そして親戚間にさえ対抗意識をもつ父が、逆境に依る偏狭のなせるわざだった。父と斎藤とは、その性格から生活環境すべてが、まったく相反噬はんぜいするものを持っていたのだ。
 だが日頃、母が慕う親身の人と覚えていたぼくは、後に、苦学の志望をもって出京した時、その斎藤家の玄関を一ばん先に頼って行ったものだった。それやこれやもあるので、この伯父のことはもっと知っておきたいと考えていたが、もう旧事を知っている人も周囲にいないので、文芸春秋誌上で母の生い立ちにちょっと触れたさい、姉の嫁ぎ先の人として、唯その氏名を引合いに出しておいたに過ぎなかった。
 ところが、つい最近、文春の一読者として、思いがけない人からお手紙をもらった。それに依って、さきに書いた近藤真琴の攻玉舎の事だとか、母と斎藤との関係なども、ぼくの忘れ残り程度でなく、かなり具体的に分ったのであった。じつはお手紙をくれた方には無断なのであるが、さして御迷惑にもなるまいかと思って、文面の一部分をそのまま次に引用さしていただいた。

 ――(前文略)
 文芸春秋の“忘れ残りの記”をおなつかしく拝読いたしました。実は私の母は近藤真琴の次女でございまして、たまたま貴方様の記を読み聞かせましたところ、貴方様の御母堂とは従姉妹同士のよしで、貴方様がその従姉妹の御子息にあたるのかと云ってまことに驚いておりました。
 近藤の家でもみな故人となって、孫達は大勢いますが、昔の事など知っているのは母一人になりました。母は数え年八十になりますが、今のうちおたずね下されば聞きとって何なりとお知らせいたします。
 念のため、私の母と御母堂との関係やら近藤家のことを略記いたしますと、次のようになります。
 近藤真琴の妻真樹まき(前名幸子ゆきこが御母堂の母上の御姉妹です。佐倉藩の吉益という家から出ております。(中略)――貴方様の御母堂は、私の母が芝新銭座の近藤塾(攻玉舎)の娘でいた少女の頃、よく存じあげており、仲よく遊んだものだと申しております。その頃、御母堂には斎藤恒太郎氏(攻玉舎の英語教官)のお宅に姉上と御一しょに居られました。
 ついで乍ら申しますと、私の母は後に鈴木金一(日本郵船機関長)という者に嫁し、母の長兄近藤基樹は海軍中将(男爵)で昭和四年に物故いたしました。また姉のしず子は海軍造船中将(男爵)山内万寿治に嫁して昭和十七年に亡くなり、次兄輔宗は外国商館に勤めておりましたが、これも昭和三年に亡くなっております。
 私の主人河内信弥太は、現在、北海道銀行東京事務所長をしており、事務所は麻布本村町八三でございます。何ぞまたお問合せのことでもございましたら主人まで御連絡くださいませ。(後略)――
河内喜代子

 前掲、河内夫人からのお手紙をうけてから、ぼくは母の少女像を一そう濃く描くことが出来、また、母が少女時代からすでに郷里を離れていた事情だの、斎藤家との浅からぬ由来などもよく分って来たのであるが、同時に、これまでの中で訂正しなければならない部分も生じて来た。
 というのは、ぼくの両親の媒人は、横浜在住の吉益という吉益東洞派の漢方医とさきに書いたが、やはり佐倉の人で、ぼくの母の母方の生家でもあったのだ。そうと分れば、近藤家と密接なのは当然だし、その吉益の口ききでぼくの母が横浜へ嫁いだわけもうなずかれる。だが、肝腎なこの吉益その人については、それ以外には何もぼくには知る所がない。――どうもこうしてみると、ぼくの“忘れ残り”の量よりも世間の誰かが何処かで持っている“忘れ残り”の方がよほど多く、また話も具体的のようでもある。何とも忸怩じくじたらざるをえない。

 ついでに、なおもう一つ書き添えたいことがある。前述の河内夫人のお手紙に見える河内信弥太氏が、後日わざわざ、私の宅をお訪ね下すった事である。それで私のえがいていた母方の縁ぺきやら生家の模様も一そうはっきりしたし、かつまた、そのさい河内氏から聞いて意外に思ったこともある。一昨年頃、重要無形文化財に指定された人形作家の堀柳女さんの実家と、私の母方の生家とは、おなじ佐倉藩であるばかりでなく親戚関係でもあったという。私はそれ以前に、文春から出版された柳女さんの著書“人形に心あり”なども読んでいたが、ゆめにもそんな点は気づかずにいた。けれど河内氏からそう聞いて、さっそく、もいちどその書をひもといてみると、なるほど柳女さんの実家の姓として柿内と書いてある。思い出すと、柿内という姓を私も幼少に母の口からよく聞いていた。これなどは“忘れ残り”を書いた為に教えられた一つである。まことに、どこに有縁うえんの人があるやら、この人生はわからない。

 つい横道へそれたが、とにかく東京(明治三十年前後の)という大都会にちょっとでも触れたのは、母と一しょに佐倉へ行った途中の青山一泊が、ぼくには最初のものだった。
 そして斎藤家を辞した翌朝である。忘れもしない、青山から本所の両国停車場までの長丁場を、ぼくと母とは人力車にゆられて行った。何度も途中で俥が止まり、ぼくは母から呼び起された。すぐ居眠ってしまうのだった。季節は晩春だったような気がする。途中、人形町で俥を休め、土産物を買ったり、梅園のお汁粉を食べたりした。
 ――佐倉のおじいさんは、ぼくら孫たちが、身のうちに持ちあっていた温かな愛像だった。その頃まだ、すこぶる健在で、郷里の町長をやめ、隠居身分でいたらしいが、昔ながらの高い生垣をめぐらした屋敷の中に住んでいた。庭先からすぐ真下に印旛沼が一望に見えた。おじいさんは朝の膳にも酒を欠かした事がなく、銚子の浜から夜どおしで担いで来るという魚屋をつかまえては陽気な冗談をとばしていた。かつおの刺身を皮ツキに作らせ、にんにくオロシの醤油で食べるのが好きであった。そして、酒のしずくが気になるのか、真っ白なアゴ鬚をのべつ手のひらで横に撫でる。どうかすると、ぼくを抱いてその白鬚をこすりつける。にんにくの臭気を嫌ってぼくはよくおじいさんの桃色の顔を邪けんに両手で押しのけた。
 この折の旅行の帰途で、忘れ難い出来事が、も一つある。以前の新橋駅(汐留)であった。母は大きな信玄袋や何かをぼくの足もとにおいて、「このお荷物を見てるんですよ。いいかい、お母さんはあっちで、切符を買って来るからね」と、駅内の大きな柱の下にぼくと荷物をのこし、やがて人混みに見えなくなった。
 まもなく、母は切符を買ってもどって来た。だがどうしたのか、ぼくは知らない。ぼくの足元の大きな信玄袋は消えて失くなっていた。母は眼のいろ変えた。やがて巡査や駅員がやって来た。大勢の旅客が輪になってぼくらを取巻いた。ぼくは何か責任を感じたものらしい。手放しで泣き出した。よほど大声で泣いたにちがいない。誰かにあやされながら、汽車に乗せられたが、汽車の中まで、泣き止まなかった。
 その事は、ぼくが大きくなってからも度々母の一つ話に聞かされた。しかし、スリか何かに盗られた大きな信玄袋――合財がっさい袋ともいった――その中には、母の衣類化粧道具のほかは、印旛沼名物の鰻の白焼キしか這入っていなかった。近所隣りへのお土産にと、その折詰ばかりが一ぱい入れてあっただけだから、スリも後ではそんな沢山な鰻の白焼キを始末に困ったろうよと、母はよく笑いばなしにした。
 蒲焼には毎度お目にかかるが、近ごろ、鰻の白焼キは、お客の方でもあの特有な味を忘れているらしい。どうかして宮川とか熱海の重箱などでこれに出会うと、ぼくは人知れず、遠い以前の新橋駅をすぐ思い出すのである。
 二度目に、東京を見たのは、小学三年生の時の春だった。
 上野に“全国児童選書展覧会”というのが開催され、ぼくのお清書も入選して展示された事かもしれない。山内先生以下、数名の生徒や父兄附添いで、横浜からわざわざそれを見に行った。
 一行十名足らずで、校長先生の引率といっても、頗る行楽気分な家族づれだった。ぼくには母も誰も附いていなかったが、女生徒には父兄が一しょだった。その中に、加藤何子という同級の女生徒がいた。日頃からその子も嫌いでなかったけれど、宮崎千代子という子の方が、もっと好きで、もっと綺麗に思われていた。その二人とも同じ旅行の中にいた。だからよほどこの修学(?)旅行はぼくには愉しいものだったに相違ない。
 けれど、その二少女を対象としての幼い恋とか感傷などは、何一つ後々には残っていない。上野から浅草へ廻って、宇治ノ里の小座敷に行儀よく並ばせられて、お昼飯を食べたぐらいなものである。ところが、へんな記憶がつよく印象づけられていた。附添いの中にいた加藤さんのお母さんに、鉄道馬車の中で膝に抱かれた事なのである。
 あの時代の浅草、両国、京橋、銀座――を、トコトコと馬糞だらけにして走っていた鉄道馬車なる文明の乗物を、今でも鮮らかに眼に描くことができるのは、加藤さんのお母さんのおかげかもしれない。その婦人はもちろん三十をすぎていたに違いないが、何か、少年の眼にも優れた美人型に見えたのである。単に美人であるばかりでなく、横浜風の盛装か、髪も指も帯留も宝石にきらめき、そっと動いても周りの者へ体温のある香料の匂いがぷんと揺れてくる藤の花みたいな印象をいまも覚えている。
 人力車でゆく青山から両国駅までの間も、寝飽きるくらい長かったが、浅草から銀座、新橋間の鉄道馬車もずいぶん乗りでがあったように思う。きっと途中で乗客が混み合ってきた為であろう。加藤さんのお母さんが、だまってぼくの体を膝に乗せた。ぼくは体をむずむずさせ、少し拒むような素振りをしたと思う。すると加藤さんのお母さんは、なお深々とぼくを抱きかかえ、ぼくの顔へ頬をよせて窓外の京橋や銀座を説明してくれたり、やがてぼくがじっとしてしまうと、その人も凝と鉄道馬車の揺れるがまま居眠ってでもいるように澄ましていた。
 ぼくは自分の偽れない羞恥を人前にさらしている感じだった。しかしひそかに恐いほどな幸福感にもはちきれていたのだろう。いやそういう抽象的な語ではその折の少年心理を率直に云っているとはどうもいえない。もっと直接的な肉感自体の動揺の方がはるかに大きい。西鶴の世之介ほどでは勿論ないが、おぼろな空想の甘味をぬすみながら、ひそかに自身の中の或る芽生えを驚異するのにちょうど適度な体温と甘い匂いに酔ったのは確かである。
 いま、指で年齢を繰ってみても、それがぼくの十歳の春であったには相違ないことは、ぼくが特に早熟であったのだろうか。それとも十歳といえばもう共通な男の子一般の性現象と見ていいのだろうか。――とすれば案外、自分が親になって来た年代になると、われわれ親たちは子どもらの性について、ちっとも真剣に考えていないという気もしてくる。なぜなら、自分の幼時の体験や現象には、とかく眼をふさいで子を視る風があるからである。どうもこの方が共通な親たちの現象であるといえるかもしれない。
 父はやたらに世話ずきな人だった。もっとも、自己の順調なときには誰にせよ寛容のあるものだが、ぼくの父もよく人のすったもんだを背負い込んでは奔走して廻ったり、自宅に大勢の客をして悶着事もんちゃくごとの口をきいたりしていた。人に立てられるとか、人の美言などが好きだった方なのであろう。そして自己の善意が裏切られた恰好になると又その不きげんのもひどかった。母にまで飛ばッちりを浴びせて呶鳴るといった風である。
 性懲しょうこりもなく、いちどなどは、波止場のマドロスの中から国籍も素姓も分らない弱々しい外国人を拾って来たりした。まだ若い異人なのだが何か病気をもっているらしいのである。マドロスといっても、およそ汚いマドロスだった。風呂に入れたり下着や父の古洋服を着せてやるのに、家じゅうにしらみが散らかるといけないといって、母から女中まで悲鳴をあげたものである。父は、その若い異人をやがて会社にでも使うつもりでいたのか、医者にかけたり、日本語を習わせたり、その健康になるのを見て独り満足していた。
 ぼくらは自分らの家庭に一人の異国人が加わった事に異常な興味と物珍しさを覚えた。可愛がったというよりもオモチャにして歓んだわけかもしれない。マドロス氏の方は、人に馴れない小動物みたいに常におどおどした眼と、作り笑いばかり見せていた。それでもこのマドロス氏は、半年ぐらいぼくらの家にいて、お風呂の水汲みをしたり不器用な手つきで庭を掃いたりしていた。ところが、ある朝、姿が見えなくなってしまった。父の部屋で、母が嘆いている声がしていた。
「……だから私が、云わない事じゃないんですのに」
 この朝、会社へ出てゆくときの父の、何ともまずい淋しげな顔つきといったらなかった。
 家族以外な食客も常に何人か居た。これは食客とはいえないが、母の実兄で、横浜灯台局の技師として赴任してきた山上清という、ぼくには伯父にあたる人も同居し、まもなくその弟の土木技師の三郎という叔父も来、その上、ぼくの小田原の義兄政広も横浜の左右田銀行へ勤めるようになって、共に住むというような大家内になっていた。
 とても、家が狭いというので、遊行坂の道路に面したすぐ近くの借家をべつに借りうけ、食客や伯父たちはみなそっちに雑居し、朝晩の食事はこっちから女中が運ぶという形をとっていた。
 その連中も、父の姿はひどく怖れはばかッていたが、父の帰宅のおそい夜などは、そこの洋灯の下に牛鍋や酒が展開され、何をやっているのかと思うような騒ぎ方が始まっていた。そして女中までがそっちへ行くとキャッキャッと笑いこけていて呼んでもなかなか帰って来ないといったような暮し振りを見せていた。
 そのうちに、伯父の山上清が、ある晩、発作的に精神病的なきざしを見せ始めたのである。みんなの枕を並べている寝床に立って、突然、放尿したのであった。これは大騒ぎだった。だが入院させて落着くと、日ならずして平常状態に返った。そして勤務先の灯台局へも勤め出したが、役所先でも、変だ――と云われ出したらしい。まもなく辞職して、しばらくは遊行坂の家で静養していた。が、その後も発作を起すと時々乱暴し出すので、ついに附添人をつけて一時郷里へ帰すことになった。佐倉へ帰ってからは、だんだん発作の回数も減ったらしく、後には健康を恢復して、麻布の竜土町に新家庭をもち、この伯父の方はまずサラリーマンなみの単調無事な生涯を終ったのであるが、しかし、どういうものか続いて次の三郎叔父が、おなじような精神病になってしまった。そして、これも一時は快方に向い、渋谷の松濤しょうとう園が住宅地となる頃まで、鍋島家の土木技師として雇用されていたが、その後、病気が再発して、ついに若死してしまった。
 ほかの者には、誰にもそんな兆候は見ないのだが、まちがいなく、ぼくの母系からは、その伯父と叔父の二人までが、正真正銘の精神病にかかっている。もし精神病が遺伝的なものならば、係累のどこからか、いつ忽然と、第三の実証を示す者が立ち現われないとも限らない。
 どうかした時、ぼくはぼく自身の血液のなかにも、何かが潜んでいやしないかというような恐怖のかげに、ふと取り憑かれることがある。――ま、いまの所はぼくにも周囲にも現われていないと思っているが、考えてみると、少青年期のある時期には、ぼくも多分にそれらしき発作のひらめきをやったものかも知れなかった。

 家が、南太田の赤門前へ引っ越したのは、ぼくが九歳の秋頃である。南太田尋常高等小学校へ転校した。こんどの学校は、家からも近く、駈け足でゆけば二分か三分だった。赤門前というのはその辺の俗称で、正しくは、横浜市南太田清水町一番地と書いた。
 いとも閑静な、そして小さな町で、清水町は一番地から四番地までしかないのである。戸数も何軒と数えられるようなその真四角な住宅地の周りを、西北の戸部山や久保山から流れてくるきれいな小川が繞っていて、どの家の門にも、その家だけの小さな橋がかっていた。
 ぼくの家は、赤門とよぶ寺の山門通りに面した角地であった。だから家の横にも前にも、その清冽せいれつな水が繞っていた。この辺には、異人館も皆無だったし、混血児の友だちもいないし、以前の山手やまのて環境とは、まったく空気がちがっていた。山本安英さんの生家もこの清水町だった。
 家の前は広い三叉路で、北へいくと、鉄温泉とよぶ鉱泉宿があった。南には、すぐ南太田小学校の校舎が望まれ、普門院というお寺やら、はなぶさ町、霞町などという静かな町並の生垣がつづき、もすこし行くと初音町に出る。そこまで出ると、かなり賑やかで、角に大きな乾物かんぶつ問屋があった。そこの息子が、その頃漸く擡頭し出した壮士芝居というものの役者になって、森三之助という花形役者だということを、誰からともなく聞かされていた。
 それと、もひとりその頃の著名人として伊藤痴遊ちゆうの家が、ぼくの家から広い三叉路をへだてた向い側にあった。ぼくらが兵隊山とよんでいた山の崖をうしろにして見越しの松に船板塀といった構えの住居であった。事実、妾宅であったのかもわからない。
 或る朝、学校カバンを肩にかけて、家を出てゆくと、近くの駕虎かごとら(人力車宿)の若い衆やら近所の人たちが往来に出て、何やら事ありげに噂をしていた。その立ち話によると、そこの妾宅へ、明け方、誰かが寝込みを襲ったらしく、伊藤痴遊が寝衣姿のまま裸足で逃げたのを見たと、その騒ぎを、蒸し返し、みんなでしているのであった。
 痴遊は、その頃、雲井町の雲井座という小屋を持っていて、ぼくら子供心にも、壮士という名で通っていた。壮士とは何の意味であるか分らなかったが、ただ恐い者だという観念があった。――後年、痴遊の政治講談をどこかで聞いたことがあるが、近所にいた頃は、顔も見たことはなかった。痴情騒ぎなど近所に聞えたので、やがてすぐ他へ移って行ったものかもしれない。そういう些細な事すらも、すぐ近所への不体裁とか面子メンツを憚られるほど、清潔というのか、社会秩序があったというのか、とにかく静かで、ひっそり閑とした世間であった。


みどり屋雑貨店



 元来、ぼくの父は大酒家だった。ことに一頃の父の姿は酒狂の人みたいにぼくら子供たちの眼にはきつけられたまま残っている。そうした父の大酒振りも、ここらで述べておいた方が話の順序にも役立つので、見得もあらもつつまずそんな事も少々書いておこうと思う。

 幾歳になっても、親を語るばあいの自分はやはり子供なので、親の追憶像を人なかへ示すだんになると、子としてつい親びいきみたいな心理が手つだってくる。何も偽ってまでよく書こうなどとは決して思わないが、余りに非常識な点だの人間的な短所などは、わが親の像として、何だかきざみ出し難い気もちが先立ってくるのである。
 だがこんな観念は、近来の十代二十代で早くも親を批判の的とするに馴れている新時代の子たちには、およそ愚にして気の知れないものかもしれない。しかし、ぼくらの内にある古めかしい骨肉感も決して親の威圧で植えこまれた残痕ではなく、否定できない肉体上の、分身の責任感から来るものなのである。つまり父の酒狂像も人間的短所も、ぼくら数人の子へ、まちがいなく多少ずつ遺伝分配されていたにちがいなく、父が現世でやった影踊りは、自分の影でもあるような羞恥を覚えるからだった。

 日本間なのだが、二階の父の寝室には、大きな西洋ダンスがおいてあった。あらゆる種類の舶来酒がその棚に並んでいる。
 父は、寝しなに限らず、枕元にもそれらのビンを並べさせて眠った。ぼくは真夜中によく眼をさました。そして、父の部屋でする微かな物音に耳をすましたものである。それは猫が舌ツヅミでも打つような怪しさに聞えた。ふと、深夜に眼をさました父が、寝床の中で腹這いのままジンやブランデーなどを独りでカクテルしては飲んでいるのであった。二度でも三度でも、眼が醒めさえすれば飲む。それが父の習性だった。
 一升酒というが、父のは底が知れないと、母はよくなげいていた。朝の出勤前から父の姿には酒の香がぷんぷんしていた。
 自転車はまだ横浜でさえ珍しい物の一つだった。父はその自転車で通勤もし、よく乗り廻っていたらしいが、自転車の上でもポケットからウイスキーを出して飲み飲み走っていたという噂などを母に告げる人もあった。そのくせ泥酔自転車で往来の雛妓をね飛ばして入院騒ぎを背負ったり、八百屋や豆腐屋の店へとびこんで賠償を取られたり、のべつ手や顔に擦過傷をこしらえていた。

 桟橋に繋留中の外国船内で、外人の船長、事務長などを相手に一昼夜飲みつづけ、あげくにそれらの外人数名をつれて、大森のあけぼの、新橋の花月と飲みあるき、その間、飯らしい物は口にせず、幾日目かに横浜へ帰って来た。そしてその船の出帆を見送るとすぐ桟橋で血を吐いてたおれた。というような愚にもつかない事を、父は自慢らしく、いや、性懲りもなく、酒を飲みながら家庭でもよく云うのだった。
 吐血は、それ以前にも何回か見ていたらしい。思うに、もうその頃、潰瘍かいようがんになりかけていたのだろう。かかりつけの小宮博士は「あなたが酒をやめないなら、私は医師として良心が果せないからもうお宅へは来ない」と、いった。
 父は漸く男の四十代を踏みかけていた。遊行坂時代から清水町頃までは、会社も隆運にむかい、横浜埠頭ふとうを中心とする商社の内外人に顔もひろくなり、特に花柳界では商売上派手な真似もしていたので、いわば得意時代の有頂天うちょうてんにあったものだろうか。それに身長は五尺六、七寸の壮健な体躯であったから、医者の忠告に耳もかすことではない。
 母などは※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびにも、父の前では愚痴もこぼせなかったし、ふと顔いろに出してさえ、忽ち食卓が引ッくり返された。父の酒の膳に見えたお菜の何かを、ぼくが喰べたそうに見ていたらしく、母の袖を引いたのだった。すると父はやにわに、膳の上の物をことごとく中庭へ抛り投げて「酒がまずい」と云い「なぜ子供たちにもおなじ物をやっておかないのだ。喰べた気がしない」といって怒った。乱酔しているばあいは、そんな些事をきっかけに、母をそこへおいて、一時間も二時間も飲みつつ日頃の叱言や母の親類のざんそまでを並べるのである。もし母が口ごたえでもすれば「出てゆけ」となり、時により腕力をふるい出す。まったく手のつけられない暴君になってしまう。
 だから微酔のうちの上機嫌な父はいいが、怪しくなると、ぼくら子供を初め、家の内は颱風下の停電みたいなものになる。ぼくは十一、二歳だったからまだよかった。義兄の政広は優形やさがたの美青年である。「政広、ここへ来い」となると、父の荒い酒気の前におかれて、義兄は油をしぼられた。「大体、貴さまは柔弱でいかん」というのが毎度のお談義の主題であったようである。何を怒られたのか、ある時は、「腹を切れ」とか何とか云われて、女形おやまみたいな義兄が蒼白になった儘、泣いているのを見たこともあった。
 家には刀剣などもあったらしい。母は、万一をおそれて、刀の隠し場所に、恟々きょうきょうとしていた。いちどなどは、十日も居所不明にしていた父が、やっと帰って来たと思うと、父が囲っていたお琴という関内芸妓や茶屋の女将などと一しょに帰って来、さらに母へ酒のしたくをいいつけた。日頃から父の取巻きらしいそれらの人々が散々馬鹿騒ぎをして帰った後で、母が何か一言父へ恨みを云ったとかで、父が立腹し出したことがあった。この時も父はどこからか刀を取出して、「斬ってしまう」と、それを抜いて母を脅した。母は裸足で裏庭へとび降り、幼い妹たちを抱えて夜半まで塀の外にかがみ込んでいた。
 そういう後では、父はさらに大酒を仰飲あおって「男の子は男親につくのだ。おふくろの後など追うな。外へ出てゆくと家に入れないぞ」などと呶号し、ぼくらはおろおろ泣くだけだった。
 やがて父も二階で酔いした様子なので、こっそり裏木戸から母の姿を探しに出た。世間も寝静まっている頃なのに、母はぼくらを抱いてなお動こうともせず、まるで芝居の愁嘆場そのままだが、袖口に顔を埋めて、「……どうしてあんな恐ろしい人へ嫁いできたのだろう」と、くどくどと恨んで泣き、「……おまえたちさえ産んでいなければ」と、身もだえして泣いた。
 ぼくら小さい子供らになだめられつつ、その中で、泣けるだけ泣いてしまう事だけが、せめて母が諦めに帰ってくる唯一の方法か、心の処理であったようである。だからぼくは暴逆な父の姿と、母の泣き顔の像とは、今でも絵に描けそうなくらい強い印象を網膜のうちにもっている。特に母の泣き顔の記憶はつよい。ポトポトと小鼻のわきをつたう涙のしずくが、けいれんする唇の辺に来て、母の呟く恨み言と一しょに唇のうちへ解けてゆくのや、良人の横暴を怒りながら、それを云えないで、子供らに云って聞かせる母の、何ともいい難い青白い八の字眉など、部分的にも思い出すことができる。そしてこんな事は、当然、小さいぼくらの胸にも父への反抗になっていた。一も二もなく母親へ同情した。けれど母がよく悲嘆の余りに「おまえたちさえ産んでいなければ……」という口走りは、子のぼくらには、ひどくつらく聞えた。何だか、自分が産れたのが、母にすまないような、へんな味気なさを覚え、自分も母と一しょになっておいおい泣くほか、どうしようもない戸惑いにくるまれた。

 父の酒狂ぶりと母の苦労を書けば限りもない。けれどその他の事も大体似たりよったりのものである。そして、結果においては父の酒癖がついに没落の因ともなり、晩年ずっと病床から起てない宿痾しゅくあを作りつつあったのだが、しかしまた、いついつも乱暴や無理難題を酒癖としている父でもなかった。茶屋へゆけば豪放な遊び方をして、おもしろい人だといわれていたらしいし、家庭で酔っても、どうかすると大機嫌で、大勢の子供や女中を相手に一晩中キャッキャッといわせて無事に横たわってしまうこともある。
 ぼくたちは、そんな上機嫌の父親を見すますと、父の膳を取巻いて、父へたかッてみせる。「後ろへ仆したら御褒美をやる」と云う父の後ろから、ぼくたちが大勢して、頭を押したり、喉くびを締めたりして仆そうとする。父と子供らと取ッ組み合いになる。父の髭にジャリジャリこすられると、ひどくこっちは痛い。そして、父のあぶらッこい体臭――男親の匂いといえるようなものを、いやというほど酒の香りと一しょに嗅がせられる。父親の匂いもまた、女親の涙のように、子供のどこかへ忘れ難いものになって深く沁みこむ。
 上機嫌な父を終日見たのは、父に連れられて杉田の梅林へ梅見に行ったときである。あちこちの腰掛け茶屋で一本飲み二本飲み、父はいつか泥ンこに酔ってしまった。乱痴気な酔漢を路上に見るのは珍しくない時代であったが、父の酔態は、そんな酔ッぱらいの多い梅見客の中でさえ人目をひいた程だった。ぼくはまだ小ッぽけな少年だし、人目にもきまりが悪く、この父親を連れて帰るのにまったく当惑した。父は磯子のトンネルを出た所で、浜辺の草むらに寝てしまい、ぼくは夕焼けの海を見ながらベソを掻いていた。そのうちに、通りがかりの俥屋がたずねてくれたので、所番地をいって、俥の上へかつぎ上げてもらい、ぼくも俥に乗って帰った。あとで考えると、この日の父の姿ほど、なつかしいものはなく、どこかにそうした放逸な風もあった人だったかと、ぼくがその当時、まだ父と一しょに酒が飲めない年頃だったのが惜しまれる。
 めったには、子供など連れて出ない父だが、もう一ぺんこんな事があった。夏の夕方である。めずらしく上布じょうふか何かの和服すがたで、父が「ひで。散歩に行こう」とぼくを連れ出した。伊勢佐木町の通りを、涼み姿の人影に交じって少しあるいた。父は書店の前に立ち「何か買え」というので、ぼくは“少年世界”と、その頃、時事新報社から創刊された“少年”の二冊をえらんだ。
 すると父は、かねノ橋を渡って、関内の或る待合の門まで来ると「家へ帰っていい」と、ぼくを放し、そして「お父さんは途中で会社の友だちに会って、一しょにほかへ行ったと云えばいいんだよ。よけいな事を云わなくてもいいんだぞ」と念を押された。
 けれどぼくは帰ると、有りの儘を正直に母へ話したものとみえる。そんな事はもう忘れていた頃、父は晩酌の膳に向いながら、いきなりぼくへ「貴さまのような奴は大ッ嫌いだ」と、烈しい口調で云った。「一たん男が云うなと云われた事は、口が裂けても云うもんじゃない。それを、なんだ貴さまは。貴さまみたいなオシャベリな奴は見るのもいやだ。あっちへ行けっ」と、ひどいけんまくで叱られた。理窟も何もあるのではなく、父は極端なエゴで極端な感情家だった。そして、自分の暴言を理由づけるためには、自分が幼時にうけたサムライ格言をもって来て、母にも子供たちにもそれを鉄則としていた。だから外では花柳界にもてはやされる寛度の風流を示しながら、家では反対に厳父の威を保とうとするらしく努めていた。外の父と、内の父と、どっちが本質なのか、ぼくらには分るはずもなかった。
 これだけは両親の談合上で仲よく始められた事にちがいないが、父や母の考えが、どこにあってやり出した事なのか、ぼくには今もよく分っていない。というのは、何不自由もない父の全盛期であったのに、家に大工が入って、表門も玄関も改造しはじめ、ぼくの家はとつぜん“みどり屋”という紺暖簾こんのれんを掛けた雑貨店に変り出したのである。
 近所ではみな眼をみはって驚いたらしい。何しろ前にものべたように、赤門前一帯は閑静な住宅地で、わけて清水町一番地の角地にあったぼくの家は、家の横から門の前も、きれいな小溝が流れていて、幅一米余の小橋が架っているのである。
 だから門を取払って、玄関から建て出しを設け、そこを店舗としてみたところで、お客はいちいち小橋を渡って来なければ商品を覗くことさえも出来ないのだった。
 すぐ南隣りは、大串おおぐしという呉服問屋の大家の住居で、これも同様な橋懸りに長い黒板塀をめぐらし、その先も、また赤門寄りの静かな通りも、すべて生垣や門構えばかりである。ただ近所に変った家といえば、カゴ虎という俥宿と、英町の近くに、駄菓子屋、焼芋屋、小間物屋ぐらいがチラとあるだけの界隈だった。人通りとて、ほとんど少ない。そんな所で一体、どんな客を目標に開店したのかと、近所が怪しみあったのもむりはない。
 けれど父は大真面目でこれに資本をつぎ入れたものである。“みどり屋”という屋号は、父の出生地である小田原の緑町をとって名づけたものだと母が云った。母はまたぼくに向って、「お父さんは、どうしてもひでは実業家にする。そのためには、今からあきないを覚えていなければいけないって、それでこれを始めたんですよ。だから、おまえがいちばん一生懸命にお店番したり、学校のひまには、そろばんや商品なども覚えるようにしなくてはいけませんよ」と云った。父もまた、おなじような意味の事を、ぼくへ云った。だがぼくには、何かちっとも得心がいかなかった。唯、家の景色がガラリと変った事やら、世間の風がじかに家庭へ入って来る感じなどで、わけもなく物珍しい好奇心にそそられていたのであった。

 赤門前の“みどり屋雑貨店”は、こんな風に父が始めたものだった。父は、その頃の金で三千円を投じたといっていた。いわゆる士族の商法だった。松影町で松屋といっていた内外雑貨問屋がある。仕入れは一切、松屋まかせであったという。
 いよいよ開店の前日などは、松屋の番頭小僧が七、八名もやって来て、夜通しタスキがけで商品の陳列やら正札附けにかかり、松屋の支店みたいな恰好で働いていた。そこへ祝い物が届くやら、来客や手伝い達に酒を振舞うやらで、徹夜のお祭り騒ぎであった。
 そしてさて、福引附きの売出しを始めてみると、その三日間だけは、お客も物珍しそうに、店の前の小橋を渡って買いに入って来、店番には、松屋の番頭が三日だけ坐ってくれたので、母もぼくらもただ奥の茶の間から店の景気を覗きあって、
「そら、またお客さんが入って来たよ」とか、「あれも売れた、これも売れた」などと面白がっていただけにすぎなかった。
 けれど福引がなくなると、がたんと客足は減り、たまに客が入って来ても、母はお愛想を云うのさえ顔をあからめてしまう風だし、ぼくらは奥へ逃げ込んで女中を呼びたてる始末なので、何とも妙な事であった。けれど日がたつにつれ、いつか皆、店番にも馴れ、元より利益も何もあったわけのものではなかろうが、みどり屋の暖簾だけは、朝な朝な、わが家の軒に懸けられた。
 以前からの習慣で、はす向いにあった俥宿のカゴ虎の若い衆は、毎朝、ぼくの家がまだ戸を開けない前に、家の前の往来から小橋の上をきれいに掃いて、打水までしておくのだった。で開店後も、店が開いたと見ると、暖簾はそこの若い衆が来て懸けてくれる。
 ある朝、父の出勤間際、父はカゴ虎の俥に乗りかけながら、しきりに、軒の紺暖簾をながめていた。それは自分の字を染めたものである。暖簾の一片一片に、み、ど、り、屋、雑、貨、店、と一字ずつ区切って大きく書いてある。その晩、帰って来ると、父はさっそくぼくの義兄に墨をらせ、太筆を持って何枚となくその七文字を書き直していた。そして急に、暖簾の染め更えを母に命じた。母はしきりに「勿体ない」といって渋ったが、「どうも書体の坐りがわるい、朝晩、気になるから取更えろ」といって父はきかなかった。まったく落語の“士族の商法”通りであった。自然、カゴ虎でも、松屋でも、また出入りの人々でも、その人たちの世間的な眼から見たぼくらの家庭というものは、よほど浮々していて、滑稽に見えていたことだろう。いまは得意の絶頂だが、あぶないものだといったような世間の蔭口もささやかれていたにちがいない。

 ぼくが学校から帰って来ると、店には店番もいないのに、奥の茶の間では、三味線の音やら賑やかな笑い声がしていることがよくあった。
 妹たちのために、一週間に何度か、踊りのお師匠さんが来る。それをすすめたのは、どうも義兄の政広らしい。義兄は小田原の花柳界で育ったので、踊り、長唄、芸事なら何によれ上手であったし、また好きであった。もちろん父の承諾をえた上だろうが、母も父の放埒な行状や家事の行く末にクヨクヨするのを忘れて、せめてそんな事にでも気を紛らわせようと努めていたふうがある。
 踊りのお師匠さんはソレしゃ上がりらしいきれいなお婆さんだった。紹介者はすぐ近所に住んでいた近藤夫人である。近藤夫人のいまの旦那は普門院の住職だということだが、以前は富豪な外人の洋妾であったという。子どもまで産んだので、その外人が本国へ帰るさいに、一生涯の養育費と生活を保証してゆき、お蔭でいとも安楽に暮しているという婦人であった。
 外人との間にできた子は、その頃もう十七、八になってい、エリザベス女王型の美人であった。ぼくたちは「オテイちゃん、オテイちゃん」と馴れッこく呼んでいた。オテイちゃんは洋装したことがなく、いつもたもとの長い和服を着ていた。背が高いので、帯附きもよく似合う。「あれで、あいの子でなければ」と、云う人もあった。
 オテイちゃんは陽気な性で、オテイちゃんがわが家へ来ると、母も日頃の苦労顔をどこかへやって笑いこけるし、家中がオテイちゃんにつりこまれて陽気になった。
 オテイちゃんには一人の妹がある。ふみちゃんといった。ふみちゃんはぼくと同級生であり、気だても姉とは正反対に内気にみえる。そしてこの妹の方は、近藤夫人のいまの旦那の子であると聞かされていた。そう聞くと、どこかお坊さんの子くさい所もあった。けれどぼくは、おない年でもあり、ふみちゃんとよく遊んだし、また少年期の初恋みたいなものをほのかに抱いていた。
 けれど、ふみちゃんは、姉と一しょにぼくの家へ来ても、めったにぼくへ口もきかないし、遊ぶといっても打解けてはくれない。唯一ぺん、月の晩、大勢で隠れンぼをしたとき、二人してよその小暗おぐらい塀の蔭に潜み、やがてほかの子がみな出て行っても、二人だけで寄り添ったまま、そこにかがみこんでいて、おたがいの息づかいを意識しながらわざといつまでも隠れていたことがある。
 一葉の“たけくらべ”をみると、浅草界隈の事だったあの時代の世間が、横浜のぼくらの子供仲間にもそっくりその儘あった気がする。オテイちゃん姉妹のことを、今でもこう鮮らかに瞼に描けるのは、やはりもうぼくの少年期にも、はっきりした異性への思慕が芽生え出していたからであろう。けれど、ふみちゃんに関するかぎり、思い出せる濃い記憶は、その月の晩一ペンの事でしかない。ふみちゃんは、学校の卒業まぎわに入院し、やがて病院で死んでしまった。胸が悪かったのかもしれない。ふだんからそんな翳のみえる少女であった。

 陽気なオテイちゃんは、いつも陽気に見せている裏に、じつはぼくの義兄政広に恋していたように思われる。けれどオテイちゃんも恋をすると日本娘とちがわなかった。はにかみやら周囲の眼に怖れて、ほんとの想いとは逆に、まったくべつな形で振舞っていたものらしい。少なくもぼくの母を初め女中たちまでが、そんなふうにオテイちゃんの胸を見すかしていたように思う。
 ひと頃、やはり近藤夫人のめいで、竹子という娘なども、義兄をめぐって、オテイちゃんとの恋争いの図を見せていた。竹子という女性は、いつもこってりと、見るからに濃艶なつくりをしていた。オテイちゃんの蔭口では、彼女は賑座の市川市孝という俳優が好きで、贈り物をしたり、楽屋見舞に行ったり、たいへんな熱の上げ方だなどという事だった。そんな噂もウソとは聞かれないような娘であり、近所でもいい評判はしていなかった。
 それにしても、義兄の政広の姿が、ぼくにはねたましくみえていた。また、義兄自身もその頃は、何となく浮わついていた。自分の美貌にうぬぼれていた風がないではない。ある一夜などは女装してオテイちゃんと一しょにどこかへ遊びに出て行った。まだ寒い二月頃だったので、その頃流行っていたお高祖頭巾こそずきんを被り、白粉おしろいをつけ、女の着物、女下駄で出てゆくのを、母も女中も笑い囃しながら見ていたが、やがて何時間もたってから澄まして帰って来た。オテイちゃんと並んで伊勢佐木町を歩いても、たれも女とのみ思って怪しむ者がなかったといって、義兄は自慢そうに話すのだった。こんな風に女に好かれた兄だし、酔えば芸事の限りをやって見せるので、父が大酔して癇癖を発するとなると、忽ち日頃の気にくわないものが出て「大体、貴さまは柔弱でいかん」となり「それでも男子か」とはずかしめたり、腹を切れなどという暴言にもなるのであった。
 ところが、この兄も、そんなやさ男のくせに、じつはなかなか剛情な人だった。長年、実父を離れて育ってきた叛骨も内にもっていたのである。だからよくお談義をくうと「ぼくは独立します」と云っていたものだが、ついに父と大喧嘩してまもなく家を出てしまった。そして、元町辺のある相場師の二階に間借し、そこから左右田銀行に通っていたが、いつのまにかそこの娘のお八重と恋愛におち、お八重は義兄の子を宿していた。


「梅暦」読み初めし頃



 まもなく、ぼくにはあによめというものができた。
 義兄が結婚したのである。
 いきさつは、後での事にするが、とにかく自分たち家族の中に、若いきれいな嫂が忽然と生活に加わったことは、やや何かが分りかけつつあった十一、二歳のぼくという弟にとっては、内々、小さくない動揺であった。生理的にも精神的にもである。朝夕、まばゆい気もちだった。それまではそう身近に知らなかった粘液感を伴う匂いなどに知らず知らず敏感になっていた。のべつ理由のないはにかみに行き会いながら、そのくせ、嫂が義兄にそっとしてみせる一びん一笑をぬすみ見たり、ぼくの御飯茶碗へ、兄のついでに、御飯を盛ってくれる白い指先へ、特異なよろこびをもったりした。
 すべては少年の“性”の変形であったとおもう。本来の芽を嫂の美に促進された性細胞が、複合的にその発育を目ざましくしている事にすぎないのであろう。無自覚な冒涜ぼうとくだが、美しい嫂は、唯、美しい異性としかぼくの眼には見ることができなかった。
 そんな意味で、嫂のお八重という人の存在は、わずか半年そこそこでしかなかったけれど、弟のぼくにも、成人への一段を、踏み上がらせていた人だった。

 ぼくの眼には、れた異性そのものに映っていた嫂も、じつはまだ数え年の十七にすぎなかった。女学校も出たのかどうか。家事向きの事とか、しつけとかいったような、女の用意は、ちッとも身につけていた風ではない。朝起きると、湯殿部屋へ入ってしまったきり、なかなか出て来ないのが常例だった。やがて出て来ると、家じゅうの眼をみはらすような濃い化粧を見せ、着物も毎朝違ったのに着更えていた。
 朝といえば、ぼくらの家でも、店を開けるやら父の出勤支度やら、ぼくら大勢のチビが一人一人学校へ出てゆくやらで、母も女中も一しきりは、てんてこ舞いをやっている。だが、嫂は幾月たっても、花嫁として来た翌日のようだった。髪の毛一すじも気にしながら、この大家内の中では身の置き場がないような姿をしていた。義兄のそばでお給仕したり、やがて、銀行へ出勤する義兄を送るぐらいが、せいぜいの新妻ぶりであった。
 もっとも、ぼくらと一つに暮し初めてから幾月もたたないうちに、嫂のお腹は目だって大きくなっていた。彼女にすれば、初めての経験だし、起ち居も苦しいのであったろう。母は、ぼくの義兄とは、文字どおり義理の仲なので、なおさら気をつかっていたに違いなく、始終、嫁をいたわかばう容子がぼくらにさえ分った。
 また、気むずかしいはずである父の方も、元々、結婚前の妊娠を認めて家庭に入れた事であるから、それについては勿論、ほかの点でも一切、緘黙かんもくを守っている風だった。といって、気に入っていなかったのはいうまでもない。――ぼくら小さい者の感覚では、嫂が家庭に交じってからのいざこざ事は何もなかったように思うが、問題はむしろその前にあったらしいのである。
 つまり、感情の激発やら、折衝のいざこざなどは、結婚にいたるまでの事前に、もうさんざんやってしまっていたのだ。そして、以後の苦しそうな緘黙は、その紛争に負けた父がいやおうなく支払わせられていた敗北の賠償だったように思われる。

 さきにも、ちょっと触れたが。
 義兄が父と喧嘩して「ぼくは、ぼくで独立します」と威勢よく下宿生活へ移って行ったのはいいが、まもなくその下宿先から飛んでもない尻が父のもとへ持ちこまれた。
 これが元町の山田という相場師だった。銀ギセルを横ぐわえに、唐桟とうざんの羽織に角帯といった風采で、見るからに、ぼくの父などとは肌合いの違う人であった。体格もでっぷりとしてい、仲通りの相場師仲間でも怖がられた者だったそうである。
 義兄の政広が、下宿中に、妊娠させたのは、この人の娘だった。「どうしてくれる?」という事になったのだろう。強硬な相手に出会うと相手を超えて強硬になるのが父のつねだった。父と山田とのぶつかりあいは闘牛場に選び出された二頭の角ツキ合いみたいな結果しか出なかったろう。――何でも薄々ぼくらも覚えているが、見つけない、いろんな男が掛合いに来、また仲介人が入ったり、しまいにはお茶屋の女将らしい人々まで来て、父の居ない留守に母を説くなど、ごたごたし通していたような記憶がある。
 こんな問題は、今なら殆ど問題になるまい。しかし明治の静かな世間では、物議ぶつぎの元になったのだった。一般の通念にある風儀道徳とか、つよい家族連帯の責任などから、義兄の勤務先の左右田銀行や父の周囲にもはばかられたにちがいない。――結局、父が折れて「結婚させる」そして「家庭に呼びもどす」となったのである。人いちばい自我のつよい頑固な父も、子の為に、煮え湯を呑む思いで忍んだものだろうと察しられる。そして嫁入り支度、婚礼費用一切のほか、ついでに山田からはいろんな負担を持ちこまれ、物質的にも相当痛いことであったらしい。
 挙式はどこでしたのか、式も披露宴も、自宅で行ったのか、その辺はよく覚えていないが、とにかく嫂の嫁入りは夏の暑い頃であった。二階の四部屋ほどが全部客席にあてられ、階下には茶屋の女将や男衆までが来て配膳にかかりきっていた。ぼくら子供は、この盛観にはしゃいで、口取りのキントンや蒲鉾かまぼこの列に眼をみはり、母から「外へ行って遊んでいらっしゃい」と云われれば云われるほど、家の中にねばっていた。そして、宵になると、小さい兄妹達がみなして代わりばんこに、梯子段を盗み足に登って行っては、宴会の灯とお嫁さんを覗きに行った。
 ただこんな時には、いつも手伝いに来てくれて、陽気な調子で、茶の間や台所じゅうを笑わせ抜くあの混血娘のおテイちゃんが、その日は姿も見せなかった、おテイちゃんだけでなくお母さんの近藤夫人も二階のお客の中にいなかった。もっとも、おテイちゃんの足が自然遠くなったのは、その前からのことで、薄々、義兄と下宿先の娘のことも、耳にしていたにちがいない。ぼくにはまだ、おテイちゃんの気持ちになってみるまでの能力はなかったが、後で思うと、おテイちゃんはその晩、独りでどこかで泣いていたのではあるまいか。ただし、それはぼくの想像である。ぼくが当夜の義兄ぐらいな年齢に達してからそう思われた事にすぎない。
 披露宴からすぐ新婚旅行へ立つという極りのいい今の習慣は、あの頃にはまだ無かったのではあるまいか。欧風米式、何でも新奇を競って、東京人の洋服や着こなしを、田舎くさい官員さん好みと笑い、ナンキン町仕立ての洋服をいきとしていた横浜人の間にも、新婚旅行の風だけは、まだ見なかったように思われる。
 だから義兄の結婚も万事家庭で行われたのだろうが、偶然ぼくはその為に、当夜、花嫁花婿の初夜の有様を何とはなく見てしまったのである。

 いつもは二階に寝るのだが、その晩の部屋の都合から、ぼくは階下の中庭をへだてた向う側の一室に寝かされていた。夏なので十畳蚊帳いッぱいに、寝具は三ツ敷いてあった。その端の一つにぼくは寝ていた。
 どうして眼が醒めたのか、ぼくはふと、うつつを覚えていた。もう夜更けていたに違いないが、まだお客の笑い声やら片づけ物の忙しげな音が遠くでしていた。そして見るともなく蚊帳の中を見まわすと、真ん中の寝床は宵のままだったが、それをいて、も一つさきの端の夜具に、誰か寝ていた。
 ほの暗かったが、花嫁の白い顔の一端がすぐ分った。その白さがまるまるこッちへ見えないのは、義兄の顔に隠れているのだということもすぐさとれた。二つの枕がそのように並んでいる光景がたしかに強いショックではあったと思われるが、それは今になって多分そうだったろうと推測されるまでであって、その時の直感は大人のもつ意味の衝動といったようなものではない。
 いま考えてみるのに、まじまじとそれに視覚を灼きつけられながらもその連想がすぐ生理的にぼくの体にあらわれたり、悩んだりしたような覚えはどうもなかったとしか思われない。それよりは、男と女とがそうして寝るという実際を初めて見た驚異の方がまッ先にぼくをしびれさせていたのだろう。そして無自覚に薄目をしていたことだの、はからずも見てならない秘密を見たとおもう体のすみや胸の動悸は期せずして一つにしていたようである。それ以上、肉体上の空想には思い及んでいなかった。
 もっとも、ぼくの印象自体が、じつは半寝ぼけであったかもわからない。けれどそれにしても胸がつぶれるような息のこらし方をしていたし、そうしているうちに、花嫁と義兄の影がそこはかとなく寝姿のかたちをえていた事だの、蚊帳の青い波がぼくの頭のあたりへまで静かに揺れれてきた気配などまで、今でもかなりある部分は鮮明に記憶をよび出すことが出来るのである。そして総合的には決して醜い生き物の行為としてではなく、ひどく幻影化された美しいあるものの秘戯を睫毛まつげ越しにすかして見たという程度にしかぼくの肉体には影響していなかった。ひとえにそれは花嫁も文金の高島田を大事に枕にのせていた初夜のためであったろう。そして又、ぼくにとって生れて初めての驚異すべき目撃の一つが、そうした美しさに見えたということも、なおすばらしい幸福だったように今でも思われている。
 ――ま、それらは、ともかく、肉親の縁にも薄く、孤独と不幸をすでに幼少の生い立ちから持っていたような義兄政広は、こんな風に、また結婚の一歩を、複雑に踏み出していた。そしてその結婚が、幸福なものだったかどうか、すこぶる疑問な点である。
 なぜなら、そんな大騒ぎを周囲にさせて嫁いで来たのに、嫂のお八重は、それからわずか半年ほど後に、元町の実家へ帰ってしまった。それも義兄と相談ずくでもなく、義兄が銀行へ出ている留守に、買物に行くといって出たまま戻って来なかったのである。もちろん、義兄が迎えに行ったり、父と山田との間にも、再々仲人を介してごたごたの繰返しが始まったが、話の落着きは、山田の代人が、嫁入り道具衣裳持ち物の悉皆しっかいを受け取りに来たのが最後であった。
「わかったか、貴さまは、山田夫婦から、お坊っちゃん育ちのいい鴨と見られていたのだ。色男ぶって、いい気になるからこんな目にもあうのだ」
 父が義兄にずけずけ云ったことばは余りに痛烈だったから、ぼくら小さい者の耳にも沁みた。二階から逃げるように降りて来た義兄は、女中部屋の片隅でいつまでも泣いていた。その二、三日は、瀬戸物の音までが何か物淋しい家の空気と、お腹の大きな嫂の美しい姿が消えた物足らなさに、小さいぼく達まで何となくひそまっていた。
 それからもよく父は「何だ、惚れた女にすら見捨てられるような男が」と義兄を痛罵したりして、その都度、義兄の顔がさっと青白んだり、母が自分のいたみでもあるかのように眉をひそめる場合などをまま見たが、しかし、それとて父子の間のことでしかなく、いつか義兄も元の独身に馴れ、ぼくらの瞳の嫂も、一時の影絵みたいに、生活の中から忘れ去っていた。
 こうして義兄の結婚は一場の悪夢に似ていた。しかし二人の仲は、元々恋愛とまでいえる程な相思の愛ではなかったのだろう。案外、その後も義兄の容子に未練もみえないし、以後、お八重の方からも、子どもが産まれたでもなし、よそで義兄と会っているふうもないので、女ごころをめぐらしては、蔭でキヤキヤ苦労していたぼくの母などは、何か独り相撲でも取っていたような思いであったのだろう。後ではかえって何かぽかんとしてしまった容子だった。
「ほんとは、兄さんもまだ子供なのね。おまえと、おなじようなんだけれど、他人の手に育ってきたから、どこか大人びているのよ。お父さんのお談義でも、もっと子供っぽくしていればよいのに、大人みたいに受けているから」
 母は、自分も常に暴君の良人にこらえかねては、つい深刻な場面を、ぼくらへまま見せたりするくせに、ふと、義兄と父の仲について、そんな呟きをぼくにした事があった。
 けれど、母が、異母子のぼくの義兄を、心から庇っていた優しさは、その後も変ることはなかったし、ぼくら小さい者が「兄さん、兄さん」と、寄りたかって慕う様も、父の機嫌がどうであろうと、何の変化もありはしなかった。
 殊にぼくはそろそろ学科以外の読書欲に燃え出し、少年雑誌へ投書することを覚えたり、学友間でコンニャク版の同人雑誌めいた物を出しあったりし初めたので、そういう話し相手には、家では義兄以外に語る人はいなかった。よく作文を見てもらったのも義兄だし、自分の想うこと何でも、とにかく、十七文字にまとめてごらんと、初めて俳句かの如きものをぼくに作らせたのも、この義兄であった。

 義兄にすすめられて、俳句らしきものを作りかけた頃の、その俳句では、ひどく心外だった事がある。
 小学校での綴り方は、その頃、記事文といったり、普通、作文といったりしていたが、いわゆる文章体で、たとえば“某日友人ト観梅ニ行クノ記”とか“天長節ノ感”とか題からして漢文調のものだった。
 その作文の中に、ある折、俳句を入れて、先生に出しておいたのである。水谷先生であった。この半禿頭の温雅な先生は授業熱心で生徒によく慕われていた。ところが、先生が後日、ぼくの作文を手に、顔を朱にしてぼくを戒めた、ことばの要は「作文は、自分の心を率直に云い現わし、文は自分の頭脳で綴るべきものである。いやしくも他人の詩歌などを、自分が作ったもののような振りしてさし挟むべきではない」という叱言だった。
 先生は誤解している。俳句は、自分が作ったものだ。ぼくはそれを云おうとしたが、優しい水谷先生が耳の辺まであかくして云っている余りな真剣さに、つい抗弁ができなかった。ぼくは泣き虫の性だったとみえ、ただ涙をこぼして引っ込んでしまった。そして以後は、それにこりて、俳句などは決してひとに見せなかった。
 その南太田尋常高等小学校の裏門のすぐそばに、貸本屋の看板が懸っていた。ぼくら男生徒は、そこを裏門といっていたが、女生徒専用の通用門だったのである。ぼくは、学校が退けると、表門から女生徒の門へぐるりと廻って行って、毎日、そこの貸本屋へ寄り始めた。
 貸本屋の主人公は、学校の小使さんだった。だから顔も分っていたし、ぼくの家庭も知っていた。鞄をはずすと、そこの薄暗い小部屋に倚りかかって日に一冊ずつ読んで帰った。それがおもしろくて止められなくなっていた。
 なぜ家で読まないかといえば、義兄に見られても母に見つかっても、叱られるに極っている本だったからである。自転車お玉、岩見武勇伝、稲妻小僧、田宮坊太郎、鬼神のお松、何でも棚にある物は無差別に読んで行った。いわゆる大阪版という講談本だ。厚ぼったいが、読みではなく、一時間か一時間半で一冊は読めてしまう。半年もたつと、もう小使さんの家の棚には、ぼくの読む物はなくなってしまった。
 ぼくのこんな悪書の濫読は、家では誰も知らず仕舞いだった。これがどんな悪影響をぼくにもったかは、いうまでもない。もし、両親か義兄でも知ったらきっとその害に戦慄したことだろう。それほどひどい物だったし、家庭人の児童にたいする読書の監視は、やかましかった。それなのにぼくは、人知らぬまに読んでいた。
 貸本屋を卒業すると、まもなく縁日の露店の古本屋で、涙香るいこうの翻訳物や押川春浪の冒険物などをあさり出し、それが昂じて、すぐ帝国文庫へ手をつけ出した。何しろその頃の旺盛な読書欲は、かいこが桑を食うような早さであった。本を買うのに、小遣いが間にあわないのである。帝国文庫に眼をつけ出したのは、何しろあの五、六百ページもある厚さが魅力だったのだ。いやそうとばかりはいえない。あの中の近松物、西鶴物など、その頃は殆ど初版だったから、総てフセ字なしであった。フセ字なしの“春色梅暦しゅんしょくうめごよみ”をぼくは十二、三歳で読みふけっていたわけである。太平記、西遊記のような物でも、幾晩かで読み終ってしまう。「寝ないか。まだ起きているのか」と父に叱られ叱られ、寝床の中で眼を赤くして読んだ。
 梅暦は、ついに父に見つかって、風呂の焚き口へほうり込まれ、眼の前でタキツケにされてしまった。涙がにじんだ。米八の白いはぎだの仇吉の艶な姿を火の中に見ていたのである。

 何しろ家庭も派手すぎていたし、ぼくの素質も素質だし、ここ数年の少年期が好ましい温床にあったとはどうも思い難い。しかし、父も母も、決して子の教育を放任していたわけではなかった。日課はもちろん、朝夕の礼儀、言語、服装、挙止、遊戯にわたるまで、厳格さは以前どおりである。教育方針の鉄則だったのだろう、人手もあるのに、父はわざと子供らに、風呂場の水汲みをやらせたり、遠くの使いに歩かせたり、時々、唐突な無理を命じることも前とちっとも変りはない。
 遊行坂ゆぎょうざか時代に初めた漢文の夜学通いも、清水町へ移ってからは、横浜の端れから端れみたいに遠くになったので、一週一度土曜日だけになっていた。これも最初は、きちんと通学して、かたの如く、岡先生の素読をうけていたが、父の前で復習する例がいつか無くなってきたので、ぼくも怠ることを覚え、岡先生の家へ通うとみせて、じつは土曜日の晩というと、伊勢佐木町をほッつき歩き、喜楽座、賑座などの立見をしたり、どうかすると、その頃、甚ださかんだった源氏節げんじぶし芝居を、密かに覗いたりした。
 源氏節のフシはいま思い出せないが、浪花節芝居に類した寄席の小芝居で、特徴は、出演者がみな女で近年のストリップショーの狙いとおなじだった。これは一時、興行物を風靡ふうびしたが数年にして禁止された。し物は、歌舞伎物を掲げていたが、元々、演技が主でないから、ぼくら少年が覗いてみても、後をひく魅力はなかった。――とかくこの頃から心をひかれ出したのは、ふつうの演劇であった。ぼくは盲目的に芝居好きになり初めた。
 芝居見物という当時の通念では、一年の内でも、それはよほど恵まれた或る日の幸福で、平常、小学生が芝居を見たいからといって、家庭の父兄が許すはずもなかったし、自分の口からも云えなかった。それなのに、ぼくは土曜の晩には、例の一幕見だが、伊勢佐木町の小屋を順ぐり見ていたし、日曜なども、こっそり行って、追い込み席の中に交じっていた。
 そういう小遣銭は、どうしたかといえば、金などは児童の手にしてならない物というのが常識だった頃である。何か正しい理由がなければ母へねだる事もできなかった。ところが家庭の一隅に、みどり屋雑貨店がある。ぼくは、そこの売溜めから自由に銀貨を持ち出すことができた。――自由にといっても、もちろん、家人の眼を偸んですることなので、智恵と敏捷を必要としたのはいうまでもない。こんな行為からみても、ぼくという素質がじつに危なッかしい子であったことは間違いなかった。正直、その頃の罪を意識しない悪智の例を幾つとなく考え出すと、今でも肌がそそけだッてくるような思いにたえない。


喧嘩



 ――そんなふうにすでに悪智恵も相当なぼくだったが、しかしそのぼくは誰の目からも「おとなしそうな」と見られていた。
「いつも、きちんとしていらっしゃる」と賞められたり、殊にぼくは体の小さいことと笑靨えくぼの深いのが顔の特徴であったらしくて、家庭の女客などからも、あいさつに出ると「ま、お可愛らしいお坊っちゃんですこと」などとよく云われて、自分の悪い面だの内面の芽生えは周囲の大人たちからは、いっこう看破されていなかったようである。

 家庭の客と、その家の少年との関係を、いまとなって考えてみるに、きれいな女客の印象は、男の客よりもはるかに複雑な記憶をつよく残している。逆に、客が男性で一方が少女のばあいにしても事はおなじなのではあるまいか。いったい日本の家庭では、極めて封建的なといわれたぼくらの少年時代でさえ、日頃のしつけはやたらに厳しいくせに、外からの客と親共とは案外なことを子供の前で迂濶うかつに喋っていたように思われる。
 ところが、子供はまま客と親共の会話のあいだから大人も思い及ばぬ程なものをしばしば嗅ぎとってしまうのだ。「子供だから分るまい」という共通な多寡たかのくくり方は、たいがい大人たちの滑稽な浅見か親馬鹿のひとりぎめと云ってよい。元より大人同士の秘語を子供が正しく理解するわけでは決してないが、しかし成長期の児童という貪欲な肉塊のなかには、蠅取草の消化力みたいな摩訶まか不思議な作用が潜んでいるもののようである。大人同士のちょっとした会話の端を耳に捉えて、いつか理解以上の理解を醸成しながらそれをひそかに自分へ栄養づけていくところは蠅取草の生態とちっとも変わるところがない。
 たとえば、ぼくにはこんな一、二例の経験がある。――といっても、ぼくは自分の少年期をどだいにしての事なので、一般の家庭やほかの子供には共通しないことかもしれない。けれど、「子供だから」という通念と、大人の油断は、どこの家にもありがちのようであるから、余りお上品なはなしではないけれど、愚を承知しつつ書きとめておく。
 客は、どこかのお茶屋の女将にちがいない。お中元やらお歳暮に来たのやら、季節もはっきりは覚えてはいない。それなのに、ぼくはその女客がお茶屋の人だと分っていた。父が遊びざかりの時代で、幾日も家に帰らないでいた父が、酒くさい姿を、おんなたちに囲まれながら、しばしば家へ送られて来たりした。その中で見た婦人だったからであろう。
 土産物など横において、その女将がぼくの母へ何か喋りぬいていた。もちろん父の留守にである。すると女将のことばのうちにお琴という名が度々出た。お琴というのは、父がよそに囲っていた婦人である。女将はさんざんその女のざんそを母へ告げていたようであったが、ふと妙に声をおとして「――それにまた奥さま、あのひとときたら、関内(花柳界)に出ていた頃から、とてもお床がよかったんですって。何しろもう泣くんだっていうじゃござんせんか」と云って、みだらな声を笑いこぼした。母はたしかまだ乳呑みの末の一女を乳ぶさに抱いていたように思う。そして何とも返辞に困ったような迷惑顔をあからめて、自分の乳くびへ深くさし俯向うつむいてしまったのであった。ぼくは何でそこにいたのか、とにかく、そばに坐っていたのである。もちろん客も母もぼくの居る居ないなどは問題としていなかったにちがいない。
 もう一度は、ある日曜日だった。父の居間に午後から喋っている長っ尻な婦人客があった。富樫さんと覚えている。富樫さんの主人は、いわゆる浜の商館番頭なる者であった。海外の珍しい物など手土産にしてはよく夫婦して見えるわが家のお馴じみ客であったが、この日は若い夫人だけで、食卓にはお酒も出ていた。それを共にしながら、夫人はさかんに「お宅は羨ましいわ。私も子どもが欲しくて欲しくて、いろんな事をしてみたんですけれど」というような意味をぼくの父へ訴え出した。母も交じって居、父が何か冗談めいたことをいうと、母が「ばかな事ばかり仰ッしゃって」と、一しょに笑い興じていた。が、そのうちに、少々、浮わずったような調子で「いいえ、ほんとなの。ほんとに、うちではだめなんですの。いつも、私の方がこれからと思っているのに、たくの方ではもうすんでしまっているんですもの」と云うのが聞えた。そして酒の上の父が、何かまた大胆な閨房の秘語を飛ばしたとみえて、つづいて母が「ま。およしなさい。いくら御冗談でも、よその奥さんに」と、すこし不機嫌に云ったのが、何の意味か、ぼくにはおぼろに分っていた。
 ぼくは客間に居たのではない。遠くのぼくの机にまでそれが聞えていたのである。前のお茶屋の女将のばあいといい、このときの片語も思い出せる程なのは、そのさい少年の脳裡によほど、つよく響いたからであろう。何しても無影響ではありえなかった。
 もちろんそれは理解というような事とは違う。さきにも云ったように、理解以前のものにすぎない。
 けれど、その面の児童の危険期ともいえる問題は、どうも理解以前にあるもののようである。ぼくを例にしていえば、ぼくはもうその頃、誰にも内緒で「梅暦」や近松もの西鶴ものなどは読んでいたし、特に「竹田出雲いずも浄瑠璃集」のようなまる本でも自由に手に出来た時代であるから、それが、文学上の何であるかなどは夢中でただ耽読していたものだった。だから茶屋の女将や、富樫夫人の云った会話の端も、それが大人のどんな意味の隠語であるかぐらいは、薄々ながら直感してしまうのであった。――それなのに、大人たちが、えてして、子供の前で、不用意な過ちを冒しているのは、まったく、子供の内面成長をおろそかに見、かつて自分の幼い肉塊が、あの貪欲な摂取欲をもつ蠅取草のような生態のものであったことを、忘れるともなくいつか忘れているからにほかならない。――と、ぼくは思うのだが、しかし、そう考えるのはひとりぼくのみが例外に早熟だったせいであろうか。統計に依ったわけでもないから、一般的な確言はしにくい気もするのである。あるいは、子供の中に伸びつつあってしかも外に見せない子供の性のすがたは、それぞれ、もっと底深い個人差を意外なほど持っているものなのかどうなのか。
 一見、他人からぼくが“良い子”に見えた第一の原因は、いつも身なりをきちんとしていたことであろう。父はひどく身なりのやかましい人だった。母にたいしては「おひきずり」という言葉を以て、たえず身だしなみを、うるさく云った。母は沢山な子持ちになってからも、早朝に起きて台所へいくと、引窓の明りの下で、すぐにてのひらに水白粉を溶いて手早く顔になすっていた。そして水櫛で髪をなでつけ、それからお勝手にかかるのが長い間の、――年った後までの習慣だった。
 だから、ぼくら子供らは、母の寝起き姿のままの汚い素顔や、だらしのない恰好は、殆ど見ない程だった。今でも母の顔を思いにえがくと、どんな貧乏時代の母でも、母は薄化粧したきれいな人として胸に浮かんでくるのである。こんなのは、たいへんなお洒落しゃれともいえるわけだが、父にいわせれば、それが女のたしなみだったようである。といって、鏡台の前に長々と坐って、母が口紅をつけたり髪をいじくっている姿も余り見たことはない。それなどを当時のことばで「おひきずり」と云ったのであろうと思う。
 ぼくら男の子は、紺ガスリに黒の兵児帯へこおびと極っていた。紺ガスリ以外ほかの着物は着せられたことはない。学校通いには必ず小倉の袴をはき、袴のはき方は父からじかに教わった。どうかして、その袴の紐をぶらぶら垂らして歩いているのを見られると、すぐ母からも叱られた。当時、横浜には不良の愚連隊が横行して、おそろしく長い羽織の紐をつけ、その先っぽをチョッキリ結びにして頸へ引っ懸けて歩くのが流行ったが、そんな真似などすればなお叱られた。ともかく服装は、いつもきちんとしていないといけなかった。その習性で、ぼくはつい近年まで、和服の帯でも洋服のバンドでも、腹のくびれるほど固く締めないと気がすまなかったが、この頃は逆にゆるやかでないと気もちが悪いようになった。幼少の習慣もひどいものだが、だんだん変ってくる自分の老懶ろうらんや横着さにも気づかれる。

 良い子のぼくは、外でも喧嘩はしなかった。しかし父の留守をうかがって、家の内では何をやってた事やら分らない。みどり屋の売溜めから折々銀貨をクスネていたのは長いことであったが、一度も叱られた覚えがないから、父も母もぼくの行為をつい知らず仕舞いでいたのであろうか。
 いやたった一ぺん、店の隅でそれをやっていた所を、女中の貞というのに見つけられたことがある。貞は根岸の漁師の娘であった。ぼくのすぐ下の弟は病気して、しばらく漁師の家へ里子に預けられていた。夏など、ぼくもよく海水浴に行ったりした。そんな縁故から来ている娘だったので、どっちにも馴れ馴れしさがあったにちがいない。貞は、ぼくがあの旧式な銭箱という物を横にしてさんの隙間から銀貨を棒か何かで掻き出そうとしているキワどい所を見つけて「あらっ……」と、大きな眼をみはり「英さんたら、そんな悪い事をして。お母さんに云いつけますよ」と云った。「なにっ」ぼくはかえって貞へ食ッてかかった。「いいつけるなら、いいつけてみろ」そう云って、ひどいけんまくで、貞をなぐりそうにした。貞は何か、捨てことばを投げて、奥へ逃げこんでしまった。
 そんな事が根にあったせいだろうか、もとより子供心の腕白にすぎないわざだが、ぼくはこの貞をよくいじめた。女中いじめは母が最も注意していた所だが、一度などは、母も留守だったのであろうか、何か気にくわない事から怒り出して、ぼくは貞を追ッかけてゆき、廊下の隅へ追いつめて、持っていた本で貞の頭や横顔を夢中で撲った。貞は、壁を背にしてぺたんと下へ坐ってしまい、両手で顔をおおっていつまでもじっとうごかなかった。けれど、ぼくは貞が又、いつものソラ泣きしているものと思って、もう一ぺん力まかせに貞の髪の毛がこわれるほど本で打った。すると貞は途端に、きっと顔をふり上げて、ぼくの顔を睨みつけた。歯から血がにじんでいた。いつものソラ泣きではなかった。と思っただけでも、ぼくは何か自分の手がしびれたような気がしていたのに、貞はいかにも口惜くやしげな眼をじっとすえて「覚えてらっしゃい。今に今に、……坊っちゃんだっていつまで、おうちに居られやしませんからね。そして、よそへ出て行けば、誰かにきっとこんな目にあわされるんだから」と、泣きじゃくり、泣きじゃくり、又ぼくを睨み直して何度も云った。
 このときほど、ぼくは自分の悪さを身に沁みて感じたことはない。恐いような気もちにさえ襲われた。貞は、ちぢれ髪で額のまん中に、地蔵黒子ぼくろがあった。それから幾年か後には、ぼくは貞が云った通りになった。行商箱を背負って、よその門口から門口を断られて歩いたり、ひとの切れ草履を拾って足にはきながら食を探す路傍の小犬になっていた。――何かつらい思いにくるまれて、ぽろぽろと、ひとりでに顔が下へ向いてしまう時など、貞の顔が、往来の地面に見えてきた。そして、貞はもうお嫁に行っただろうかなどと思ったりして、もしどこかで、貞に会ったら、どうしようと、本気になって歩くにも心をつかったり、心のなかで、謝ったりしたものだった。

 前に、外では喧嘩をしたことがないと書いたが、外でも一度、やったことがある。
 名は記憶にないが、相手はぼくらより一学級上で、はなぶさ町の焼芋屋の息子だった。二度も落第していたので、小ツブなぼくなどよりはるかに大きかった。これがぼくら群雀むらすずめの同級生には、鷲みたいな脅威であった。たびたび皆で歯ぎしりしていたが、どうにも強くて彼の影を見ると逃げ廻るだけだった。ところがある日、どういういきさつがあったのか、ぼくが帰る途中、彼の方から前に立って、ぼくの行く途に立塞がった。
 ほかの連れは、彼を見るやいなやみな逃げてしまい、ぼくだけ一人逃げ損なってしまった。もう逃げられないという気が、ぼくを盲目にしていた。ぼくは二三度、肩かどこかを小突かれたように思う。学校カバンを肩に掛けていたが、片手に草履袋という物を提げていた。校内で履く革草履で頑丈にびょうが打ち並べてあり、いわば上の無い靴みたいな物である。やにわに、ぼくは跳び上がッて、その草履袋で相手の顔をいやというほど撲ったのだ。チビのぼくに相手は油断していたのだろう、わっと、恐ろしい声を発して、顔をおさえた。彼は近眼鏡をかけていたので、眼鏡のツルが片耳にぶら下がり、そして、顔を掩った両手のひじにも血がながれていた。
 ぼくは青くなって逃げ帰り、家の中に小さくなってすくんでいた。あんのじょう、やがて顔見知りの芋屋のおばさんが息子を引っぱって来て、母へ何か怒鳴り出した。大きな図ウ体をしながら、息子の方はわんわん泣いている。まだ顔の血もよく拭き取っていない上に、元から近眼なので、ほんとに眼がつぶれたように見えた。芋屋のおばさんは「片輪になったらどうしてくれる」というようなことを母へしきりにたけっていた。何でも、この騒ぎに、すぐ斜向いのカゴ虎の若い衆がやって来て、おばさんをなだめ、お手のものの人力車に二人を乗せ、母もついて、眼科へ連れて行ったらしい。話の結末は、どうついたか覚えていないが、とにかく、喧嘩はコリゴリしたのは忘れえない。
 初めてやった腕力の争いが、これだったので、ぼくはそれから以後、喧嘩はした事がないのである。生来、短小な体だし、どんな相手にした所でかなわないことを自分で知っているからでもある。もっとも、ずっと後の壮年期になって、もう一つ例外な履歴の一つを持ってはいる。それは東京毎夕新聞の家庭部にいたときだった。急ぎの社用であり夕刻だった。春日かすが町の停留場で乗り替えようとしたところが、待てど待てどスズなりで乗りきれない。ついに辛抱しきれなくて、さいごの電車にぶら下がった。すると、声をらしていた車掌がもう電車が走り出しているのに、ぼくを覗いて降りろ降りろとしきりにいう。電車は疾走しているのだし、ほかの連中もぶら下がっていることなので、車掌の制止する職掌上の気もちも分るが、聞えない顔して横着をきめていた。すると車掌は、ぼくが掴まっていた右手へ向って、自分の手を伸ばして来、そして、ぼくの指の一本一本を丹念にモギ離した。たまろうはずはなく、ぼくはちょうど富坂の登りへかかった辺で電車線路へころがり落ちた。
 非はぼくにあって、先方にあるわけではない。けれど自分の醜態に自分でかっとなったものだろう。大勢の乗客の眼にわらわれた気もしたのである。起き上がるなりぼくは電車の影を目がけて追っ駈けていた。富坂のあの登りである。電車ものろいがぼくも息をきらした事だった。じつに冷や汗ものである。いま考えても、そのとき追いつけなくてよかったとつくづく思う。もし追いついていたら心にもない狂態をやっていたかもしれない心理だった。これ以外には、自分から手出しの喧嘩をする気になったことはない。ただし、兄弟同士はまたべつだ。弟や妹には、正直、手を上げたこともある。けれどこれは喧嘩でなく、愛情の変形というものだった。そんなつきつめたばあい以外、兄弟喧嘩らしい兄弟喧嘩も、大人になってから以後は、ぼくらはやったことがない。

 嗜好とか性癖などは、大人になってからよりも、案外、年少の日からもう持ち初めているものではないかと思う。
 少年の日、ひそかに好きだった同窓の少女や近所の子や、また行きずりに見つつも好きなと思う少女たちを回顧してみると、ふしぎにみなその型が一つである。それは皆、ほツそりしていて、色が浅黒く、髪の毛がちぢれている。
 性情としては、ぼくは男らしい方でなく、父からも友達からもよく「泣き虫」といわれていた。自分では理由なく泣いているつもりはないが、すぐ瞼を赤くするくせがあったのだろう。もっとも、古典などを読んでいても、書物をぐッしょりにするほど独りで泣いた覚えは数えきれないほどだった。芝居を見ても、頭が痛くなるほど泣くのであった。少年的感傷が人いちばい強かったものと思われる。それと又、ぼくは人知れない空想癖を持っていたようである。空想の中に自分をおいて、空想の中に自分を思うまま遊ばせてみるのが好きであった。だからぼくは少年の日から、少年がいやがる留守番というのは、好きであった。広い家のなかで一人か二人で留守番していると、ほしいままに空想し、その空想の中で飽かず遊んでいられるからであった。
 どんな好きな少女にでも、自分から近づこうとしたことは一度もない。臆病であった。行き会えば、わざと素知らない顔をした。異常な胸さわぎと、行きいの風の匂いを持って帰るだけだった。そしてその少女を空想の中に持ちこんで、自分の思う儘の、また描くままの境地において、共に愉しむことを頭のなかでしていた。長い夜途や、遠いお使いの途々には、いつも空想を道づれにして歩いた。
 江戸文学の耽読や、家庭の眼をぬすんでは足しげくのぞいた伊勢佐木町の芝居小屋が、ぼくのそれをいやがうえに助成していたことはほぼ疑いない。その頃、伊勢佐木町の小屋は、羽衣座、賑座、喜楽座、雲井座などであった。壮士芝居というものも盛んであった。けれどぼくはやはり歌舞伎が好きであった。羽衣座と賑座とが、常時どっちも旧派の俳優のいおり看板をかかげていた。羽衣座の舞台に年中出ていた中村玉之丞という俳優、おなじ一座の団童などという俳優が好きで、この一座のし物は殆ど観つくしていたといえるかも知れない。
 幸い、その頃、母方の佐倉のお祖父さんが十日半月おきに来てはのべつ滞在していたので、ぼくはおじいさんにかこつけては、日曜日など、お重箱をさげてはよく観劇に出かけたのである。ところが、おじいさんは羽衣座より賑座の方が好きで、そのためぼくもいつか賑座贔屓びいきになってしまった。

 賑座という小屋は、その頃、ハンケチ芝居とよばれていた。横浜だけの流行語だが、ハンケチ女という称もよく使われていた。生糸きいと羽二重はぶたえの輸出につれて、その頃、居留地の商館から外地向けの絹ハンケチがおびただしく売れていたのである。その絹ハンケチのふちかがりや刺繍風の加工をする小工場や下受けが、全市の裏町にどれほどあったかわからない。彼女らはつまりそれの従業者なのである。一種の織娘おりこみたいなものだ。だが彼女らは余得として得た絹ハンケチをあだかも誇りのように襟元へ三角形に垂らして首に巻いて歩くという一種の風俗を生んでいた。その紅や紫や青や桃色などの色とりどりを襟元にひらめかせつつ、町の夕風の中を群れて歩き、男の愚連隊などと、もつれ歩いていたりする風景も珍しくなかったので、ハンケチ女というと、不良少女群のような響きをもっていたのである。
 けれど彼女らは、浜の主体経済の中にいて、稼ぎを競っていた者たちだから、金づかいも荒かった。賑座には、紅黄白紫のハンケチがいつも平土間ひらどまを埋めてい、贔屓役者に奇声のこもった声援を送っていたものである。中には、なにがしという俳優は、ハンケチ女の専売であるなどと蔭口も平気で客にいわれていた。そういう雰囲気の小屋なので、ぼくら子供心にも、何となく、ここへ足が向け難かったのであるが、佐倉のおじいさんには、又なく愉しい風景らしく、杯を手に、わけもなく眼をほそめて観劇三昧ざんまいに一日を過すのだった。
 いや一日ではない。その頃の横浜芝居は、一昼夜といってよかった。朝は午前八時か遅くても九時には開幕する。晩のハネは午後十一時頃になる。その間ぶっ通しだから、三番叟ばそうから観る客は、朝、昼、晩と三度の食事を芝居の中で食べる人もあった。演し物は一番目といい二番目物といい、すべて通し狂言である。天下茶屋でも、妹背山いもせやまでも、日蓮記でも、菅原伝授手習鑑でも、すべて序から大尾たいびまで、つまり竹田出雲や近松浄瑠璃集にある通りを院本まるほんどおりそっくり上演するのであった。見でがあったことはいうまでもないが、演劇の骨格とか、浄瑠璃や小説の構成というものを知るうえで、ぼくにとっては、あれが知らず知らず、後の何かの基盤に役だっていたように思われる。
 その賑座で大きな人気があり、あくどいがまた一種独自な芸風のあった市川紅車、荒次郎、市孝、英升などという達者な俳優たちの描いて観せてくれた数々の幻影は、今でもぼくの脳裡にはあざやかである。そしてそれから数十年の後、それらの老優たちの名が、たしか昭和十七、八年頃かと思うが、本所の寿ことぶき座にかかっていたようであった。何かでそれを知って、なつかしく思った事であった。――で、ぜひ一度観に行こうと思っていたが、そのうちにあの戦下の焦土となってしまった。


或る日の酒父像



 あんにゃもんにゃ、などという言葉は下町でも今は余り使われていないのではあるまいか。ぼくら子供時分にはややもすると「――この子は、ほんとにまだ、あんにゃもんにゃで」とか、「どうして、そういつまで、あんにゃもんにゃなの」などとのべつ云われたものだった。
 十四、五歳ともなれば、現代の子は、いわゆる十代の季節をはっきり持ち、異例だろうが三面記事にも時々登場して、単独の自殺もする。心中もやる。そんな子でなくても、両親へは批判の眼をもつ。大人達へのたいがいな嗅覚は備えてしまう。決して“あんにゃもんにゃ”なんていえる眸の群れではない。
 けれど、ぼくら明治の子には、それはいかにもふさわしい言葉であったらしい。ぼくらは間違いなくその分らず屋以上の、あんにゃもんにゃ達であった。――自分のばあいで云えば、現に家庭の内面では、ぼくの十三から十四の間に、没落へ入る傾斜を急にしていたはずだし、いよいよ大酒になるばかりだった父の酒狂ぶりにも、母の悩みにも、義兄の一身上や何かにつけてのごたごたにも、「これは、ただ事でない」ぐらいな感じは子供心にも分って来そうなものだったのに、ぼくは一こう気づいてもいなかった。
 やがて、家の没落が、父自身の口からあきらかにされ、同時に、学校は中退しろ、他家へ奉公に出ろ、と突然云い渡されたのだが、その日その時まで、全然、何も知ってはいなかった。自分らの※(「口+喜」、第3水準1-15-18)ききと暮していた家庭がそんなもろいものとは、夢にも思えなかったのである――だから、その間の記憶はみな後日になって独り思い当ってきたり、母の過ぎた愚痴やら周囲の変化から自然あとで察しられたことでしかない。甚だ曖昧な云い方だが、事実何とも、あんにゃもんにゃの年代だったのだから仕方がない。――それがぼくの幾ツぐらいかといえば、それもはっきりいえないが、何しろぼくが十四歳になる前の一年半か一年そこそこの間に、らちゃくちゃなく、一家破滅となったのは確かであった。同時に、今となって思えばそれがぼくの尊い、あんにゃもんにゃ時代の終熄しゅうそくでもあったのである。

 何か、家の中が近ごろ変だと子供心にも感じ出した事のうちでも、いちばん変に思ったのは、真夜中に二階の道具類を、見知らぬ他人が何人も来て、まるで芝居で見た石川五右衛門の手下達のように、梯子段から裏口へ担ぎ出して行く光景だった。
 当然、その物音には、ぼくら子供も、ひそかに眼をさました。そして深夜の奇異な大人たちの行動や灯影のうごきに、固唾かたずをのみ、凝と、蒲団の中から薄目をあいて見ていたものだった。
 ――が、見ているだけで、それが家庭の何の兆候かすら、ぼくには判断できなかった。おなじ事は、幾たびかあった。そして、深夜の訪客のある晩にかぎって、ぼくらの寝床は階下の部屋に置き更えられ、母も父も「早くおやすみ」と、ぼくらを片づけるように寝床へ追いたてた。
 その頃から家運も父の会社の方も、没落への地スベリを急調にしていたのであろう。会社不況の原因は何といっても日露戦争の勃発であった。その宣戦布告は、ぼくが十三歳の明治三十七年二月十日のことであった。もちろん、海上不安やら経済混乱などの現象は、それ以前からで、居留地一帯の商館にも閉鎖するものがふえた。わけて外国船相手の横浜桟橋会社は、かんじんな桟橋に繋留船の急減をきたし、ひどい苦境に落ちてきたのである。
 その上に、父と社長名義人の高瀬理三郎氏との間に、感情的な訴訟沙汰をひきおこし、地方裁判所では父の云い分が通ったが、控訴院では敗訴になり、さらに大審院にまで持ってゆくという意地と金ずくみたいな長期の係争を内輪で続けていたのだった。
 元々、父と高瀬氏とは、共に横浜の開港的な企業の夢の中でむすびあい、年輩も地位も、高瀬氏の方がはるかに父より先輩ではあったが、いわば刎頸ふんけいの仲といってよい間柄であった。
 それが一朝にして、ばかな訴訟をやり出した遠因は、もちろん会社の不況にあったろうが、高瀬氏にくみする人々と、父をけしかける一部と、当人以外の応援や弁護人側の対立にもなって、退くに退けないかたちをこしらえてしまったものらしい。もっとも、父の放漫なやり口や花柳界における遊び方は、いくら外人相手の商策上の必要もあったといえ、ひとの目に余るものがあったにちがいない。それにまた父の腹には「創業からきょうまで、この会社をこれまでにしたのは自分だ」という覇気もあり、大部分の出資をもつ高瀬氏をつい無きかの如く振舞ってきたのでもあるまいか。
 とにかく高瀬氏の不満と不信をうくることになって、経理面の疑義や数字の指摘となり、それが両者の衝突となったのだった。しかし、その程度の揉め事なら、何も会社をつぶしてまで、両者が法廷で争うほどの事もなかったろうに、当初、冷静な高瀬氏と、覇気のつよいぼくの父とが、その問題で口論となったさい、突然、父がテーブル越しに拳固で高瀬氏を撲りつけたという一事件があったのである。
 高瀬氏は横浜一流の紳商であり、海運業界でも人格者といわれていた。その高瀬氏が怒ったのだ。そして「吉川を横浜におかない」と云い、「徹底的にほふる」とも云ったそうである。横浜貿易新報や、毎朝新聞などにも出て、父の野蛮な一拳は、しばらく人の話題になったものらしい。

 もし、父を知る者はその子だ――ということをゆるして貰えるならば、ぼくの父はいかにもそんな事をやりかねない人であった。理性もないではないが、何かに激すと、理性より先に発しるものに、理性が間にあわなくなるのである。
 それでも、後から理性を取戻して、びるとか、人に円満な解決を頼むとか、弥縫びほうの方法を持ちうる人もあるが、父のは、やってしまうと、自身では内心悔いていても、さらにその非理性を正当化しようとして突ッ張り抜く二重の頑固さがあった。――高瀬氏のばあいなどもそれで、新聞記事を見て驚いた母は、さっそく翌朝、カゴ虎の俥をとばして、高瀬氏の仲通りの本邸にゆき、父に代ってさんざん詫びて帰ったのであったが、数日後、それが父に分ると、父は「貴さまからして、おれを高瀬に謝らせる気か。出しゃ張りをするな」と、母をも撲りそうにしたということである。
 ところが、父のこんな性情は、当時のまだ開港場気質かたぎを多分にもっていた海岸通りや仲通りの業界仲間では反対に「おもしろい人物だ」とか「豪快な人だ」とか、変に父を持ち上げる人々も少なくなかったらしく、父の鉄拳事件にしても、また訴訟にまで発展しても、そういう人々はさかんに父の尻押しもしたのであった。といって純粋に父を思ってくれる理解者や同情者だったわけではなく、高瀬氏に対する海運業者の反感やら、桟橋会社の乗っ取りを策すといった類の人々もあったのだが、そういう機微な人ごころなどを洞察できる父ではなかった。まともに訴訟へ取っ組んで、さしてありもしない私財を長い間つぎこんで、身も心も疲らしていたのであった。

 家の一隅を暖簾にしていた“みどり屋雑貨店”も、その頃は、いつのまにか、店仕舞いしてしまっていた。どんなふうに閉店したのか、よく思い出せないが、開店のさい大売出しの手伝いに来た同じ問屋の松屋から、番頭小僧が大勢で残品引取りの荷車を曳いてきたことは覚えている。けれど、それからも、カン詰類だの香水だの、いろんな雑貨の売れ残りが、家庭の隅々に、ころがってい、家へ来る人へやったり、ぼくらが外へ持ち出したり、まるで邪魔物みたいにされていた。
 また義兄は、以後もずっと左右田銀行へ通勤をつづけていたが、時々、小田原の養家先へ帰ることが多かった。ある時は何か沈痛な調子で父から、「政広、頼むよ」と云われて出て行ったこともある。父の頼みは、金策であったのだ。しかし、養家先の資産や山林は、義兄の意のままにはならないので、この方の金策はついにさいごまでどうにもならず仕舞いであった。――そればかりでなく、窮地に立った義兄はやがて出奔して、以後三十年余も、姿をかくしてしまったのであるが、その義兄の出奔は、もすこし後の事であった。

 とにかく、ぼくらの家庭は、道具の売り喰いという定石じょうせきどおりな所まで来ていたのである。それが二た月に一度か三月目ぐらいの深夜の物音となるのだった。
 道具屋もどこかよほど遠方から呼んで来たものにちがいない。見栄坊な父は、近所の人目は元より家族らにも、母以外には、知られたくなかったのだろう。で、昼間はいけない、真夜半まよなかにという考えだったものとみえる。
 道具の売り方も、父のは一風変っていた。まず二階の一部屋から売り初めたのであるが、「――この一部屋でいくら?」と値をつけさせたものだという。つまり一部屋ずつ売りに出したのである。それが、極秘にだから、道具屋の主人、内儀さん、若い衆などが、大八車に提灯をつけて、世間の寝しずまった頃、裏口からおとずれると、女中も起さず、母と父が迎えに出、やがて二階から西洋タンスやら絨緞やら額やらテーブルなどを担ぎ下ろしてくると、下にたたずんでいる父が「静かに、静かに」と、世間へ気がねそうに頼んでいた。そういう世間であり、人への体裁を必要とした当時の世風であったことを、一応考慮に容れて貰わないことには、父の「静かに、静かに」と道具屋を拝むように云っている心理は、今日では、何とも、通用しない話であろう。
 このときの道具屋には、余談がある。
 それからずっと後になって、ぼくの家も、見るかげもない、どん底へ落ちてから、どう知ったのか、その道具屋の主人が、ある日、手土産を持って「おかげさまで、あの折は、たいへん儲けさしていただいて、それから店も順調に行っておりますので」と、お礼に来たそうである。

 それほど、道具屋に感銘されたわけだから、当時でも世間の経済観念が、みな父みたいだったわけでは決してない。セチがらかった事や、家庭消費の面の地味だったことは、到底、今日この頃のような、ふんだんなものではなかった。
 たとえば、ぼくらのそんな家庭でも、頭数六、七人もの子供の朝食の膳に、よく生卵を割ったものだが、大きなどんぶりに、きまって卵は三個しか女中が割らない。それへ醤油はたくさん目に注いで掻廻し、七つの御飯茶碗へ等分にかけ分ける。だから「そっちへ黄味ばかり入った」とか「こっちが少ない」とか、よく食膳のいざこざになった。どうかして、卵を一人でまるごと一ツ御飯へかけて食べてみたいとは、ぼくらの念願だったものである。
 繊維類にしても、絹とか羽二重とかいえば、高貴な感じさえしたものだった。ちりめん、めいせんといえば、よそ行きを意味する。どこの家でも、女は夜なべに、子供の足袋の穴や洗い張り物を、眼をいたくして針の先でかがっていた。燃料やランプの油はいうまでもないし、ちょっと建てこんでいる住宅地の横へ入れば、そこの勝手口や縁先などの日向に、お飯櫃ひつや釜底の御飯つぶを流し元ですくった物が、ていねいに目ザルに並べられ、白い干飯ほしいとして干し上げて保存してゆく習慣のあることが軒毎によく見られた。それが大きな紙袋にまると、さいの目に切った寒餅や黒豆など加えて、母が砂糖煎りにしてくれたのを、ぼくらはあられと呼んで、冬の菓子によろこび合ったことだった。
 内輪ではそういう旧藩士の暮しのしきたりみたいな風習を、ちんまり崩さずにもっている古風の面もありながら、世間へは貧乏をひどく恥としていた。政治、社会制度、といった方へ貧困のもとをただす風潮はなかったといっていい。「貧乏はその者の心がら」と、ひと口にすぐ片づけられてしまう。貧乏人は即、人間的劣等かのような差別視がつよかった。だから、落ちぶれる――をひどく恐れた。落ち目をつくろい、見得を張ることにもなる。

 ぼくの両親などは、典型的なその方の見得張りであったのか、剛愎ごうふくらしい父も、道具屋にはそんな大真面目で小心を見せていたし、母もまた母であった。たいしたお嬢さん育ちでもなし、世間知らずといっても、深窓の人でもないくせに、家が零落し初めてからも、今日では、理解のつかないような事をやっていた。
 いよいよ家計も切りつめなければ、そして、踊のお師匠さんも断り、女中もみな帰して、これからは勝手元も自分一人でやってゆく、と遅まきながら母も考えてきたらしい。それは母にしては大へんな奮発だった。ところが、母はまもなく近所の人から、物珍しげな笑い者にされていた。というのは、母が外へ出る姿を見ると、長年の習慣から、斜向いのカゴ虎の若い衆が、黙っていても、すぐ足許へ、人力車の梶棒をもって来て下ろすのだった。それが母には、どうしても断れないで、じつは初音町付近まで、ネギや片肉の買出しに行くのでも、ついそれに乗ってしまうのである。だから、女中を廃したくせに、八百屋や乾物屋の買物にも、人力車に乗ってゆくといって、界隈かいわいの人目が蔭で笑っていたのもむりはない。
 また、そのカゴ虎の溜りでは、母のこんな事もよく噂ばなしになった。ある朝のこと、家のすぐ前のきれいな溝川へ、母が髪のかんざしを落したのである。その頃流行った珊瑚さんごの五分だま金脚きんあしとかいう物だったろう。小橋の上から覗いてみると、それは久保山から流れてくる早い水勢で、ちょっと深い。かんざしは、底の方にキラキラ透いて見えている。すると毎朝掃きついでに、ぼくの家の前まで掃いてくれるカゴ虎の若い者が、竹箒を抛って、駈けて来た。そしてすぐ腰まで入って、造作ぞうさもなくかんざしを拾いあげてくれた。ところが母は「ありがとうよ」と、お礼をいいながら、「それは、あんたへお駄賃に上げる」と、かんざしは、その者に与えてしまったというのである。――まだ家財の売り食いまではやっていない日の事だったのだろうが、そんな妙な気前のある母だったので、落ち目は人いちばい辛かったのではあるまいか。
 けれど仕舞いには、見得も持っていられなくなり、カゴ虎の俥で、質屋通いもし初めた。その質屋へ、ぼくは一ど母に伴れられて行ったことがある。座敷へ通され、茶菓が出て、もてなされたので、ぼくは質屋というような通有的な感じはちっとも覚えないでいた。
 すると、質屋の土蔵から幾個かのつづらが母の前に持ち出された。つづらにはよく朱漆で家の定紋が描かれてあったものである。丸に鷹の羽の紋だったから、子供心にも「おや、これは家のつづらだ」と怪しんで見ていた。質屋の主人番頭と、もひとりの商人らしい男が、長い時間をかけて、五個か六個かのつづらの中の衣服を全部開けて、綿密にしらべ出した。ぼくの眼にも覚えのある女の子たちの友禅物や母のよそゆきやら父の紋付袴やらが、何しろ座敷いっぱいになった。そして、ほとんど日も暮れ方になって「――奥さま、これはどうも、御相談どおりにゆきません」と、古着屋らしい商人の方が、母に何か説きつけていた。そのときの母のかなしげな顔と、悔いの色は、わけもなくぼくの胸までしめつけていた。
 母はその帰り途に「だまされた……」と暗い顔に、涙さえかべていた。そして、ぼくへ「お父さんには黙っておいで、叱られるからね」と何度も云った。その日の事は、よく理解できなかったが、あとで母から聞かされた事に依ると、母が金繰かねぐりに困っているのを知って、例の知人の富樫夫人が、ごく親しいという古着屋を紹介してよこし、その古着屋が「月々、質の利息を払っていらっしゃるよりも、いっそお手放しになれば、まとまったお金になりますから」と、すすめる儘、その言葉に乗って、質物の総下見をしたのだった。けれど値踏みの結果は、とても質値以上には引取れないと云われ、あげくに質利子は、払わねばならないとあって、みすみす幾つづらの入質物を、全部ただ流しに取られてしまったということであった。

 没落までの、こんな経過を書いていれば、それは、やくたいもない事ばかりだし、りもないので、もうやめる。そして、これだけはぼく自身、忘れえないといっていい、わが家のさいごの日を書いてしまいたい。さいごの日というと、何だかすこし大げさだが、つまりぼくが、あんにゃもんにゃ時代の愉しい五、六年を過した赤門前の清水町の家と、それから高等四年までを学んだ南太田小学校を去って、もう二度と、そこでの日も、ぼくの少年期も、終りを告げる日となったときの記憶である。
 十四歳のときの、二月頃だった。
 春には、小学校から中学へ入れるつもりだった。学校の成績は、中くらいで、平凡な一生徒だったが、中学に入れる自信ぐらいはもちろんもっていた。ちょうど久保山の神奈川県立中学の新しい校舎が新築されていて、その輝く大校舎を望むごとに「卒業したら、あそこへ通学するのだ」と、胸をふくらませていたものだった。
 ところが、二月の或るお昼休みの時間。――その頃、小学校では、家の近い生徒は弁当を持たずにゆき、お昼休み時間に各家庭へ喰べに帰ることもゆるされていたのである。
 ぼくもよく昼休みには家に帰った。その日も、お茶漬か何か掻っこんでいた。すると、いつも、表から帰るはずの父が、裏木戸から戻って来た。
 見ると、父は、どろんこといっていいほど泥酔していた。フロックコートを着ていた。その洋服も靴も帽子も、地面で寝て来たかと思われるほど汚れている。何か、ぎょっと人に映るような顔色と眼であった。どすんと、大きな物音をさせて、勝手元の何かにつまずいて、ぶったおれたのを、母がたすけ起して、家の中へひきずり上げるように抱えこんだ。
 ぼくにも、ただならない父の容子が分ったのであろう、あわてて膳のそばを離れ、学校履きの草履袋を手にもつや否や、表からコソコソ出て行ってしまおうとした。すると、その背中から「ひでっ」と、父の呼ぶ声がした。小さくなって、父の前へ戻った。父は坐り直していた。父の顔や手にスリ傷があった。母にはもう何もかも分っていたのだろうか、そばで泣いていた。母の泣く姿も、今ではすでに母の仕癖しぐせのように、右の袖口を、左の指先につつみ、掩っているのである。
 幾日も、酒へ酒をあびていたような匂いが父のからだから発散する。「――おまえはな」と、父は云った。息切れが聞えるのである。「……英。おまえはな、長男だ。お父さんは、訴訟に負けたよ。もう、おまえばかりでなく、こんな大きな家にはいられない。おまえは長男だから一番先に働きにゆけ。いいか」と、何度にも、息をやすめては云った。
 ぼくは「はい」と、答えた。と答えるしかないし、まだよく父のいう意味が分らなかったのでもある。だから、父のことばが終ると、また草履袋を持って、すぐ学校へ行こうとした。
 すると父は、立ちかけるぼくを見て「まだ分らないのかっ」と、こんどは、いつも悪酒になると出る大声でどなった。そして「もう、学校へ行かなくともいい。学校を退いて、おまえから先に働きに出るんだ。わかるだろう、お父さんの云っていることは」と、云い放して、梯子段を這うように、二階へ上がってしまった。
 それから、たった三日目か四日目に、ぼくはよそへ奉公に出ることになった。奉公先はオテイちゃんのお母さんの近藤夫人が紹介してくれた家で、近藤さんの親戚にあたる住吉町の川村印房という印章店であった。「御主人は、とても優しい人だし、おかみさんは私の従姉妹いとこにあたる人だから、ちっとも、つらい事なんかありやしないからね」と、その日、ぼくを連れに来た近藤夫人は、なぐさめてくれたが、親しい家というだけになお、ぼくはよけい嫌でならなかった。もっと誰も知らない家へ行って、誰の眼にもふれない所で働くなら働きたかった。
 いやそれよりも、もっと嫌だったのは、丁稚でっちさんの着る縞の着物に角帯を締めさせられた事だった。幼少から着なれていた紺ガスリとの訣別ほど悲しかった覚えはない。近藤のおばさんと母のあいだに挟まって、嫌々紺ガスリを脱がせられたのを、近藤夫人がけらけら笑って「よく似合うわよ、英さん」なんて言ったとき、ぼくは、ぼくの父がやるような癇癪を何かに爆発させたくなった。そして、角帯を締めて貰うやいなや、便所の隅へいって、おいおいと声をあげて泣いた。こめかみが痛くなるまで泣きじゃくッてしまった。そして、いつかぼくが、女中の貞を、そこの薄暗い壁の隅ッこへ押しつけて、本でぴしゃぴしゃと撲ったことが慟哭どうこくの中で思い出されていた。


小さい筆禍



 川村印章店は馬車道から横浜公園へ向って柳並木になっていた住吉町通りの角から東側へ二軒目のちんまりした一店舗だった。中村梧竹の篆字てんじで「川村印房」とした彫看板が表二階の屋根半分を隠していた。そこの小さい商品棚に、紫水晶、象牙、めのう、水牛などの印材朱肉入れの類が並んでいるのに気づかなければ、ちょっと見、何屋だか分らない構えだった。わざわざお客の足を入り難くしているのかと疑われるような重い硝子ガラスがいつも内と往来をぴたりと立てへだてていた。
 店内の小狭い土間は凸字形になっていて支那風のかわらで埋めてあった。客用の腰掛が三つ四つ不愛嬌に備えてある。畳敷きの上がりかまちは、その凸字形の土間から両側へ区分されていて、店主は這入って右寄りの方の畳の間に紫檀したんの小机をすえ、好みの文房具やら印譜などを並べて、ちょっとした煎茶家せんちゃかか文人の書斎めかしたそこへ坐って、時々、頬杖ついているにすぎなかった。そして左側の畳敷きが徒弟机の並んでいる仕事場でもあり、また時々、這入り難い硝子障子をあけて這入ってくるお客の御用をうけたまわるほんとの店先でもあった。

 新しい角帯前垂れを着せられて、ベソを掻き掻き近藤小母さんに連れられて行った初奉公のぼくは、勿論、店の表つきを見て這入ったわけではない。その家のしきいを初めて踏んだのは露地の裏口からであった。隣りの土蔵裏にさえぎられている陰気な勝手口からおずおずと近藤小母さんのあとにいて内へ上がったのである。何か冷やッこい他人の家と足の裏に感じたとき、又してもぼくはここで一と泣きしたくなった。
 下町の商家の奥というものは一体に何処の茶の間でも鈍い光線と妙な冷気をもって暮しているが、そこのめ込み箪笥だのちがい棚だの長火鉢といったような調度類は薄暗い中にもチリ一つとめない神経質なまでの几帳面さの中に置時計の針のチクタクまでがいやにいかめしい静けさを守っているものだった。店境いの障子一重あけて店へ出れば、どんなお客に対しても、つねに平身低頭して愛想を作っていなければならない隠忍の習性が、ひとたび茶の間へ返ると主人の位置に直って今度は“あるじ”として奉公人へ臨む身になるので自然こうした居間好みや自己の厳粛化にもなってくるのではあるまいか。
 けれど近藤小母さんは、ここのおかみさんとは姉妹同様な仲と云っていた通りに、いきなりおかみさんの見える長火鉢を挟んでこちら側の厚ぼったい座蒲団の上に、そのえた体を不行儀に坐り崩すと、忽ち何かおかしげな笑い話をしはじめていた。それは全くぼくとは無関係な話題であったし、初めて耳にするおかみさんの声柄や調子にしても、ぼくには何かはしたなく聞えて、自分の育った家庭で聞き馴れた日頃のものとはまるで勝手の違う雰囲気に思われた。もっともそれは後で知った事だが、近藤夫人もオテイちゃんを生むまでは洋妾であったのだし、従姉妹であるここのおかみさんも又、以前はらしゃめんかそれに似た水商売の婦人だったものらしい。従って、前身も似たり寄ったりの女同士が二人きりで気をゆるした話をしあうと、自然に以前の若いときからの調子がはずんで出るものらしかった。

 ぼくには何ら関係のない年増としま同士の冗談ばなしをさんざん長火鉢でやっていた近藤小母さんは、やがての事、やっとぼくに就て何か語り出していた。時々、おかみさんと声をひそめてから、中廊下の蔭にしょんぼりたたずんでいたぼくの方を茶の間の内から振向いて「英さん、ここへ来て、御あいさつなさい。今日からよろしくお願い申しますッて」と、その二重頤ふたえあごでさし招き、ぼくが側へ行ってかしこまったお辞儀をすると「こちらが、おかみさんよ」と、無造作に言った。
 おかみさんは四十前後に思われた。近藤夫人とはあべこべに瘠せ過ぎている。薄化粧をしていてさえ黄疸おうだん病のような艶のない皮膚をしていた。銀杏いちょう返しというのか、ひッつめた日本髪に結っているので、生え際の薄い毛がみな眼ジリを吊り上げる為にあるものみたいに見えるのである。それに歯まで黄色くて汚らしい。よほど煙草好きなのであろう、長煙管ながぎせるを手から離さず持っていた。そしてぼくが初めて主家の主婦から云われたことばは、
「ま、ずいぶん小ッちゃいわね。十四なの。これで十四」
 ということだった。
 ここへ来る時、家から人力車に積んで来た大きな荷物が、ほかの奉公人たちの手でそこへ運ばれた。おかみさんは「あら、あら。たいへんなお荷物ね」と、ちょっと呆れ顔して近藤夫人へ何か又、ぶつぶつ口叱言くちこごとをもらしていた。近藤夫人は親代りにしても卑下し過ぎるほど従順に、云われるまま大きな風呂敷づつみを解き初め、一応おかみさんの前に持参品の点検を乞うといった風だった。――中にはぼくの蒲団やら着更えやら、また日頃の愛読書だの学校用具まで入っていた。母が、初めてわが子を奉公に手放す気案じの思い過ぎなまでの物がそれには一ぱい詰まっていたのである。
 ところが、おかみさんの眉はみるみる不機嫌になって「なアにこれ? 冗談じゃないわよ、おまえさん」と近藤夫人へ向って、「まるで、ヘタなお嫁入り荷物じゃない。奉公人が、友禅の夜具蒲団をかついで来るなんて、持たせてよこす親の気も知れないけれど、おまえさんの考えだって、間違ってるわよ。うちでは、小僧を世話して貰いましょうとは云ったけれど、何も、よそのお坊っちゃんを預かるなんて云ったわけじゃないものね」と、けんもほろろに、煙草のヤニだらけな前歯を遠慮なく見せたあげく、「いいわよ、蒲団なんかは、前にいた正どんの夜具があるから、これは持って帰って頂戴。そして、この子の親御さんによく云ッといてよ。宅では、徒弟とていとしてお預かりするんですからってね。徒弟だって、六、七年は仕込まなければ一人前に成りやしないのよ。それまでは丁稚奉公のつもりでいて貰わなくちゃあ」
 おかみさんに云いまくられると、近藤夫人は一も二もなく黙ってしまう。何か頭の上がらない仲でもあるのか、何でも怒られッ放しで唯にやにやなのである。けれどもその二人の仲のよいのは無類であった。女中が台所から出てゆくと、まもなくお寿司が来たり、風月のぜんざいが出たりした。そして晩のあかりがつくと、近藤夫人はやおら又、ぼくに不似合いな物をより分けて一と荷物とし、それを人力車へ運んで、「じゃあいいかい、英ちゃん、辛抱しなくッちゃ駄目よ」と、俥の蹴込みから何度も云い、ぼくの影を露地の角へ残して帰ってしまった。

 あくる日からぼくは店に出て、店番兼仕事机の位置を店の隅ッこに与えられた。
 その朝初めて、奥の主人夫婦の食卓の前で、旦那様へ目見得をした。おかみさんとは、どう見ても似つかわしくない人だった。少し頭の地が見える頭髪をきれいに分け、商人でもなし職人肌でもない、瀟洒しょうしゃな市井の君子人くんしじん肌といったような旦那であった。声までが低めで温厚な女性音をふくんでいる。それに反しておかみさんが喋々と昨日の仔細を告げるのを、主人はほとんど横耳に「……そう。あ。そう。居てごらん」と、箸を片手に、汁椀の上から上わ目で、ちょっと、ぼくの方を見て云ったきりであった。
 店の徒弟机は三つ並んでいた。それに硯、朱筆、印台、刻刀などの印刻道具一式が揃えてある。もうじき年期明けとかいう倉どんが上座にいた。まん中の机にいた正どんは病気で実家に帰っているとか。その空きを一つ措いて「きょうから、おまえはここに居るのよ」と、おかみさんは指さしてぼくをそこへ据え、「倉吉、いじめちゃいけないよ、こんど来た小僧で、英どんというのだよ、おまえ兄弟子なんだから、よく面倒をみておやり」「へい」と、倉どんは印材挟みを左に、右の手に刻刀を持って、印材の面をパリパリと彫っていた細やかな手先をちょっとやめて、「よろしく」と、猫背の恰好をした儘、小肥りな体をぼくの方へ折り曲げて見せた。
 店にはめったに客はなかった。仲通りの仲買店とか、関内芸者の花柳地が近いので、お茶屋の帳場印だの、往来の客がふと実印や認め印などをまれに註文しに入って来るぐらいなものだった。それでどうして関内の目抜き通りに商戸を張っていられるのかといえば、べつに二、三の外交員がいて、税関、裁判所、市役所、商館などの大所をたえず註文取りに廻っていた。そしてたとえば郵便局の消印みたいな大量納品になると、これは同業間の入札になるらしく、旦那自身がそれには出向いて行くといった風の経営なのである。もちろんそんな大量仕事は、店先で彫りきれる物ではないから、その下請けをする印刻師もどこかに持っていたのであろう。とにかく店は看板だけのもので、常にそんな程度の閑散であったから、倉どんとぼくの二人は、主人夫婦が見えさえしなければ、どんな話も出来、また何を読み何を書いていようと叱られるおそれはなかった。

 自分が生い育って来た従来の家庭とは、全く水が変っていたという適応の戸惑いが総てだったというほかはない。初めての奉公先としては、近藤小母さんも保証した通り、至極のん気で居よい家には違いなかった。けれど、ぼくにはどうしても馴じめない猫みたいに、この家が冷たくてならなかった。どこがと聞かれると答えも出ないが、硝子戸越しに往来を眺めていると、夕方など涙が出てきてしようがなかった。
 他人の中を初めて嗅いだせいであろうか、倉どんと並んでいると、倉どんの体や座蒲団から腋臭わきがをもっているような体臭が鼻をついてくるし、奥へ入ると日当りの悪い茶の間特有な冷たい匂いが身をひき緊め、勝手元へ立つとそこにも一そうつよい他人の家の匂いがする。わけて毎朝厭だったのは、二階の主人夫婦の寝間の掃除だった。掃除は何でもないが、朱塗りの木枕と男枕の並んでいる夜具を畳んで押入れに押し込むあいだ、何ともいえない少年の潔癖と反骨がうずいて、蒲団の起す生温い風やチリに顔をそむけた。
 台所には女中もいるのに、それをぼくの朝仕事に課したのは、ぼくがまだ何も分らない年少のチビと思ってさせた事だったにちがいない。何がといって、主人夫婦の二つの枕を手に持って片づけるほど厭だった思いはない。板の間で冷や飯を食べ、雑巾バケツの側で叱られ、又、おかみさんの足腰を揉ませられる事よりも、それは奴隷的な屈辱感に汚される心地であった。人間の最下級の仕事であるように子供心にも思われた。
 これが済むとお極りのランプ掃除であった。横浜市もまだ全市電灯になっていなかったとみえ、街灯も殆んどまだ青白い瓦斯ガス灯だった。よほど大きな問屋とか病院とかでないとその瓦斯灯もまだ各家庭にまでは普及されていなかったように思う。
 ランプ掃除は、ぼくら少年は家庭でもよくやらせられたもので、これはさして辛いとも思わなかった。しかし、食後にもう一つ日課があった。それは茶の間と次の間に据えてある桐箪笥やら用箪笥に艶布巾つやぶきんをかけることだった。現代の家庭ではそんな丹念な暇つぶしをしている家は見かけないが、その頃の主婦はよくやったものらしい。うこんきれを畳んで持ち、毎朝、桐の家具を精かぎり撫で廻すという仕事であった。これがなかなかおかみさんの気に入るようには出来ないし、少年の根気には耐えられない、つまらなさでもあった。

 来てから幾日目かに、ぼくは初めて戸外へ使いに出された。生まれて初めて土を踏んだような心地がした。同時に、前垂れ角帯の自分の小僧姿がまだ自分のものと思えず、人中では極りが悪くて仕方がなかった。通学へ急ぐ同年輩の中学生や女学生の姿を往来中に見ると、ゆえなく体じゅうから瞼まで熱くなった。羨望と卑下とに小さい身なりを一そう小さくして街路樹の蔭々と拾って歩いた。家にいた頃はべつに身に沁みて考えられもしなかった学問への意欲が急に飢渇を知った胃のごとくうずいて来、その学問の出来る境遇から落伍したと感じることが、口惜しくもあり恥かしくもあって、何とも複雑な少年期の感傷にくるまれて来るのであった。
 その朝のお使いは、港橋河岸の乾物屋からクサヤの干魚ひものを買って来ることだった。何枚かのクサヤをくるんだ紙包みを片手に持ちつつそんな思いにふかふか歩いていたせいだろう、おかみさんは紙包みを開けてみるなり「あら、これだけ?」と、ぼくの顔とクサヤの数を見くらべた。途中でこぼしたか、犬にでもくわえて逃げられたのか、何故かその干魚の数が足りなかった。「しようがない小僧サンだね、お使い一つろくに出来やしない」と、おかみさんは台所から茶の間へ引っ込むまで後ろ姿でぽんぽん云った。
 こう書いてくると、いやな記憶ばかりを持ち、やたらにセンチな少年だったようでもあるが、厭な事だけが朝夕だったわけでもない。何といっても、親の膝を離れた当座は、寝床へ這入ってから独りベソを掻きつつ泣き入りする夜も何度かあったが、しかし根本はやはり子供で、至極単純だったのである。ちょっと気がれるとすぐ親恋しさなどは忘れていた。そして、おやつ時に茶の間へ呼ばれて、倉どんの分と自分の分との今川焼や塩せんべいなどを、おかみさんからうやうやしく戴いて退がって来るのも、ちょっとした愉しみだったし、台所でボソボソ食べる箱膳の御飯やおつけも、いつか美味おいしくなっていた。
 また何よりは旦那なる人が、一こう無口でぼくらにも優しい事だった。初めのうちは、「旦那さま」とか「おかみさま」とかいう敬称が口に出ないで困ったが、それも馴れたし、わけてこの男主人の方には、毎朝の二つ枕を片づけるあの折の感情はべつにして、だんだん尊敬に近い気もちが持てるようになっていた。
 主人の川村氏は、俳号を呉竹といって、俳友も多いらしく、ぶらりと店の紫檀机を訪れにくる人は「呉竹さんいますか」とか、「これ、呉竹さんに渡しといて下さい」とか云って、よく判者点のついた社中の句巻を配って来たり、どうかすると数名の俳人仲間がぶつかって、俳談にふけりあう夜もあったりした。
 店の戸をおろすまでは、夜業はぼくら徒弟の通常だった。ぼくは主人から与えられた隷書れいしょ千字文の手本を横において習字したり、ツゲ材の稽古判を印挟みに挟んで、刻刀を持つ初歩の稽古彫りなどをそろそろやり初めていたが、それもよそに俳人たちの雑談に聞き耳立てているのが又なく愉しみの一つであった。
 その頃の横浜俳壇にも、当然、ホトトギス派や根岸派などの俳流もあったであろうが、多くは旧派といわれる其角堂きかくどう系の点者俳句が流行のようであった。雪中庵雀志とか、金港舎なにがしなどという宗匠の名がよくその仲間の口にのぼっていた。川村呉竹氏は元より俳句で飯は食ってはいないが、それらの正風俳句と称する社中では相当な古顔でもあり、文台披露といったような宗匠披露目そうしょうひろめもやった人らしかった。それと商売柄、筆蹟も良く、篆刻も上手というので、俳友たちのことばつきからも一店主以上のべつな尊敬をうけていたことはぼくらにも察しられた。

 名は覚えていないが二、三度主人の使いで行ったことのある俳人の一人で扇町に雑貨貿易の店舗を持っていた人がある。およそ風采のどこにも俳句気などは見えない美髯びぜんの横浜型紳士であったが、或る日の小雨のそぼ降っている晩、夕方から主人呉竹氏の紫檀机のそばに坐りこんで、雑談に時を過していたことがあった。
 そのうち時々、主人とその人の眼が、ぼくの姿へそそがれて来るのを、ぼくは体で感じとっていた。印刻の夜業ランプには、硝子玉のレンズを掛けて、その明りの焦点に印面をおき、先の鋭い印刀で、パリッパリッと、微細な印字を彫ってゆくのである。それの稽古判にぼくは眼を赤くし、倉どんのように背を丸くしていたのであるが、ふと主人が「おい」と、呼ぶので顔を上げると、俳友の客が、チックで固めた美髯にちらと微笑を見せて「おい。君あ、作文が巧いんだってね。今夜、雨が降ってるから、雨という題で一文そこで書いて見給え」という唐突ないいつけだった。
 どうして、ぼくの作文などを、その人はもちろん主人も知っているのだろうか。ぼくは唯まっ赤になって俯向いた。すると主人も頻りに「題は何でもよい、何か、思った文章を書いてごらん、すぐそこで書いてお見せ」と云うのである。
 書かなければいけない主命のように思って、ぼくは鉛筆を取出して何か書き出した。文の内容などはすっかり忘れているが、硝子戸越しに、その晩の雨の往来を行き交う人力車の灯や蛇の目傘の人通りなどを見つめたりして、やっと写生文体にして書いた事だけは思い出される――で、それをおそる畏る客と主人の前へ持って出て引き退がった。それから二人の大人が、ぼくの作文を机にのせて、頬杖つきながら首を寄せ合っているのも長い時間であった。その間じゅう、ぼくは胸が動悸していた。主人も客も、ぼくへは、うんともすんとも云わなかった。そしてその晩はべつに何の事もなく客が帰ると戸をおろしていつものように薄い蒲団にくるまって寝ただけだった。
 ところが、翌朝、ぼくは主人の前に呼ばれた。主人の見事な筆蹟で書いた、ぼくの父宛ての封書が前に置かれてある。それをちょっと指の先で突き出して「これを持って、うちへ帰んなさい。わけは中に書いてある。そしてね、荷物は後から誰でも取りにおで」と云うことであった。

 川村印章店の台所口からぼくは往来へ出て行った。堪らない情けなさで胸がつまっていた。暇を出されたという事はやはり大きな衝動だった。そのくせ「家へ帰れる――」といううれしさが、こんこんとこの幾日か渇いていた心の何かを満たしてもいた。
 けれど、母の手紙で、家はもう元の清水町赤門前を引払ってしまい、西戸部蓮池何番地という所へ移っている事だけを知っていて、以来まだ一度もその後のわが家は見ていないのであった。
 いつか店の使いで、戸部銀行へ納品に行ったとき、ふとわが家の引っ越し先を探しにうろついた事もあったが、家を出るさい父から「奉公に出たら、どこまでも忠実に勤めなければいけない。使い先から家へ寄ったりしても決して家へ上げてはならないぞ」と、母も云われ、ぼくも云われていた事なので、父の顔恐さに、思い止まって、途中からむなしく帰ってしまったのである。
 だからまず第一に、暇を出されて帰ったら、父がどんなに怒るかという事のみが何より心配だった。密かなうれしさの半面に、また小さい胸をいためながら戸部の引っ越し先を探し歩いた。
 あざ蓮池という所は、伊勢山から紅葉坂の反対側の方を西へだらだら降りて行って、中途から狭い横道をまた右へ降りきった一劃の窪地であった。藪やら古い池の残痕やらを繞って安ッぽい借家がぼつぼつ建て混み初めて来たといった風な場末であった。その一軒の格子先に、まごうなきわが家の標札を見つけたとき、ぼくはこれがわが家かと疑った。そしておずおずと足を踏み入れるばかりな狭い土間の中へ入ってまず奥を覗いた。
 家はたった三間ほどであった。以前の家庭にあったような家具や飾りは何一つ見当らない。父の姿も見えなかった。奥の六畳にまだおむつの要る妹が蒲団にころがってい、狭い裏庭の外に物干竿へ洗い物を懸けている母の後ろ姿があった。「おっ母さん」と、ぼくはまだ他人の家のように上がりもせず土間から首を伸ばして呼んだ。母の顔がそこの日向からこっちを振向いた。人ちがいするほどその髪の毛も頬のあたりもやつれて見えた。「あら……」と云ったまましばらく母は笑いもせずぼくの方を凝視していたが、その手から音をたてて物干竿が地へ落ちた。母はそれを拾い上げようともせず、縁へ這い上がり、座敷を小走りに駈けて、ぼくの顔のそばへ来た。そして「どうしたの、英ちゃん」とは云ったが、すぐ何かを察したようだった。ぼくは主人からの手紙を母の前へおくと、何も云えなくなって唯泣き出した。母はそうした感情に揺られた容子もなく「おあがり」と、ぼくの手を取って内へ入れ「何を泣くのさ」と、少し面倒くさそうにぼくを叱った。ぼくはまだ恟々きょうきょうたるものを胸に残しているので、「お父さんは?」と家の中を見廻し「……お父さんは何処へ行ったの」と、何度も訊ねた。
 母のことばに依ると、父の敗訴の始末やら多額な賠償金の算段をするために、先頃、郷里の小田原へ行ったので、ここ当分は留守だということであった。

 その時は、母のことば通りな父の不在を信じて、僕は内心ほっとしたものだが、しかしそれから一と月も経つと、ぼくにもいろいろ疑わしい節が感づかれて来た。母としては、そのさい、ずいぶん[#「ずいぶん」は底本では「ずんぶん」]切ない思いだったに違いない。母の言は、子供へも打明け難いための、真赤な嘘だったのである。――ぼくが奉公先へ出たあれから後、父は大審院の敗訴で私書偽造横領罪とかいう判決の言い渡しをうけ、まもなく根岸監獄の未決監に収容されていたのであった。
 もっともそれから服役までにも、訴訟相手の高瀬氏が願い下げしてくれるか、会社へかけた損害の賠償義務が果せなどしたら、あるいは体刑まで受けなくても済んだのかも知れないが、平素、借財はあっても預金などは皆無な父だったし、家財道具まで、一、二年の間に売喰いしていた始末なので、それも出来ず、高瀬氏の「吉川を横浜から屠る」と公言していた憤りをも、ついに又、解くことが出来なかったものとみえる。
 それについても、ぼく自身、思い出されてならないのは、ぼくの義兄政広と、桜木町の駅で別れた日の事だった。その日、ぼくは義兄を見送るためにいてゆき、汽車の出るまでホームに佇んでいた。汽車の窓に見せていた義兄の顔はいつになく沈んでいた。――あとで母から聞かされた事情によると、義兄は小田原の養家先である綾部家の山林を売払って、父が生涯の急場を何とか救おうというつもりで帰郷したものらしい。あるいは、あの頑固な父も今は意気地を曲げて「頼む」と頭を下げてわが子へ頼んだものかも知れない。いずれにせよ義兄は事の至難を知りつつ小田原へ立ったのだった。憔悴した元気のない顔をして「英ちゃん、これから苦労するぞ」と、汽車の窓からぼくへ云い、そして思い出したように、左右田銀行から受取ったばかりの月給袋を洋服の内かくしから出して、「これを、お母さんへ渡しておくれ」と、ぼくの手へ預けた。
 それが、義兄政広とぼくとの短い兄弟縁の最後であった。小田原での金策は、養家先の親類に嗅ぎつけられて、当然、非難と排撃をうけた事に終ってしまい、その為の不面目を父へ詫びての事であったか、それとも前々から、父親にいだいていた不満がその機に爆発したものか、まもなく一片のハガキを父親宛てによこした義兄は、「少々志す事がありますので、不孝の罪重々ながら、日本を去り、外国へ行きます。おそらく終生再びお目にかかる事もないと存じます故、小生の一身は、世にないものとおあきらめ下さるように」というような意味を告げた儘、それきり横浜へも帰らず、また勤め先の左右田銀行にも出勤せず、どこかへ姿をかくしてしまったのであった。
 一時、この義兄の失踪騒ぎでは、父はいうまでもなく、母も知人も、警察から私立探偵まで頼んで百方行方を探し廻ったのであった。けれども郷里の小田原には全然消息を絶ち、東京へ出た形跡もなく、ついにようとして三十幾年か、分らず仕舞いになってしまったのであった。――それが、ずっと後年、ぼくの文筆名を誌上などで見て知ったものだろうか、或る日突然、当時芝公園にいたぼくの家をふらりと訪ねて来たことがあった。――後日、そういう話もあるのであるが、もうその時は、とうの昔に父も死に、母も死んだ後だった。殊に、その辺の事は、まだここで語る順序ではないし、かんたんにも語りきれない。――で今はぼくの唯一人の義兄も、父の入獄以前に失踪して行方不明になったという事だけを、ここでは云っておくにとどめる。

 ところで、話は後へもどるが、どうしてぼくは川村印章店から――あんな温厚な主人から添書など持たせられて――突然、暇を出されたのか。その事情は、父宛ての手紙の内にも書いてはなかったが、後に、母が近藤夫人に会ってから聞いたことで、やっと先の真意が分った。
 あの雨の晩、雨という題で一文書いてみせろと、客と主人から云われた前々日の事、ぼくは飛んでもない大失敗をしていたのである。
 ――というのは、こうだった。昼間、奥の座敷に、おかみさんがいつも掛りつけの髪結いが来ていた。そして、おかみさんの髪をいていたのである。
 鏡台を前にすえ、髪結いに髪を上げさせているおかみさんの半身が、ちょうど、ぼくの仕事机から店仕切りの中ガラスを透してよく見えた。
 ぼくは恐らくおかみさんの顔に日頃から興味めいた何かを抱いていたのだろう。あの薄い生え際の毛へ、髪結いが、スキ櫛という歯の密な竹櫛を加えて、それを一と撫で一と撫で、いやというほど力をこめて梳くたび毎に、おかみさんの黄いろッぽい顔が紅くなって、眼じりも小鼻も吊り上がってしまい、まるであめが伸びるように顎から眉毛までを細長くして、反ッくり返りそうになっているのが、見ていると、何ともおかしくてならなかった。それを又、一体どういう心理であったものか、ぼくは仕事机の上に雑記帳を拡げて、と見、こう見、せッせと、おかみさんの顔をスケッチし初めていたのである。元よりこっち側から見える中障子のガラス越しなら、当然、おかみさんの方からも横目で見えていたにちがいない。けれどそんな思慮もなく写生した雑記帳は、机のひき出しに入れた儘、すっかり忘れていたのである。
 ぼくを使いか何かに出した後で、おかみさんはさっそくぼくの机のひき出しをあらためた。そして、主人の呉竹氏にそれを示し「こんな恐ろしい子ッてありゃしない。こんな小僧はさっそく追ん出して下さい」と色を変えて迫ったものだそうである。それでも主人の呉竹氏は「まあ、まあ」という風で取上げなかったそうだが、その翌晩ちょうど遊びに来た俳友の一人に、ふとその事を相談したところ、その人も又「そういう小生意気なまねをする小僧はやはり考えものだな」という説で、一つどんな才なのか試してやろうという所から、ぼくへ向って、突然、あんな難題を命じたものだという。
 それも生半可なまはんか、ハイなどと答えて、即座に書かなければまだよかったろうに、正直一途に小さな智恵をしぼって書いてみせた為、それが又、よけいに悪い結果になった。「こんな子は末恐ろしいよ、君」と、その人も呉竹氏へ云ったそうである。思えばその頃、わが家の没落初頭に、父は高瀬理三郎氏の禿頭に加えた一拳が禍いとなって、自身の生涯をどん底に落し入れたのみか、妻子まで離散と悲泣の運命へ追いやる序幕をここにつくり、ぼくはぼくで又、おかみさんのあまりに細長い顔につい興味を感じてそれをスケッチした為に、思わぬ筆禍に会ってしまい、それから次々に食う為の職をさがし歩く路傍の小犬になってしまったのであった。


赤煉瓦



 他人の飯というものを、ちょッぴり食べて帰ったに過ぎないぼくは、父の不在をいい事にして、毎日、古本屋覗きをして歩いたり、また好きな本と首っ引きで徹夜し、狭い家に隠されている母の苦労も知らずぶらぶらしていた。
 それでも母は何ひとつ叱言も言わず「おまえもほんとに変って来たわ。やはり世間に出て、よその御飯を食べたのが、いい薬だったのね」と云ったりした。
 以前とちがって、猫の額みたいな借家だし、もう女中の手もなく、母一人で一切合財、立ち働きしているので、ぼくも自然、台所の水汲みもやれば掃除もする、お使いにも渋らずに飛んで行くという風だったから、母にはわが子が良く変ったと見えたのであろう。けれど、じっさいのぼくは、箸の上げ下ろしにも恐いやかましやの父親が居ないという家庭がただ珍しかっただけである。厳父の居ない慈母だけの家に、母と暮している愉しさが、自分を軽快にしていたのだった。
 父の姿を家に見なかった幾月かの間、母はどうして生計をたてていたのだろうか。この頃からぼくは母の代りに※(二の字点、1-2-22)しばしば、質屋のかどを潜った。母が新妻時代にでも使ったらしい鼈甲べっこうくしこうがいやらかんざしなどを入れた小筥こばこと、ぼくの顔とを、質屋の主人にじろじろ見くらべられて、顔を真っ赤にしたばかりでなく、足がふるえた事などが今も忘れえない。質屋の利用観念も、人の見る眼も、今とはまったくちがっていた。
 また度々、母の手紙を持っては、知人の家へ、貸金を返して貰いに行った事などもある。母は以前から父にも内緒で、親しい人とか出入りの大工、商人にまで、よく融通を頼まれては、用立ててやったらしく、それをこのさい、幾らでも、お返しを願えれば――と先方へ頼むわけだが、めったに返してくれたためしはない。そればかりでなく、まだ自分に味わった事のない冷ややかな他人の素振りにぶつかるので、いくら母の頼みでも、このお使いには、時々ぼくも渋ってみせた。
 それでもどうかすると、思いがけなく状袋に入れた何円かの紙幣と、その上、先方からお菓子まで貰って帰ることもあった。そんなときの嬉しさは無上であった。ほっとする母の顔には「これで幾日かはお米も買える」という安心がありあり見えた。お米はその頃、一升十六、七銭であったと思う。南京米だと三、四銭は安かった。ヒキ割り麦、押し麦などは、もすこし安い。だから母は、零落してからは、白米と麦を七分三分に交ぜていた。

 何しろ母は育ちざかりを大勢抱え、一夜に戸部の場末に落ちて、貧乏生活の初歩から経験し出していた折なので、まず白米に麦を交ぜるぐらいな智恵が、耐乏決心の関の山な覚悟だったろうかと思われる。
 その頃の事といえ、わが家の戸籍などを人前に出すのもどうかと思うが、母に苦労させた喰べ盛りの口数を示すために、一応ここで幼い弟妹たちの名を並べてみるなら、まず長男のぼく十四を頭に、次男素助七つ、長女きの十二、次女カエ九つ、三女浜四つ、四女千代一つ、という揃いも揃ってヒヨコばかりが六人もいたのである。ほかになお菊、国、スエの女子三人は乳児のうちに亡くなってい、三男の晋はまだ生れていなかった。だから全部あわせると、母は十人も産んだわけである。そのくせ、当時の母はまだ三十九でしかなかった。色が白いので貧しい近所界隈の中では、よけいきれいな母に見えた。
 だがその母も、長年欠かさない習慣だった起き抜けの薄化粧もいつかしなくなっていた。当歳の乳呑み児を背に、朝は三人の子を小学校へ出すまで坐るひまもなく、その後は洗濯物や他家の仕立て物の内職を、乳を呑ませ呑ませ、夜遅くまで精出していた。その一つランプの下で、ぼくは暢気のんきに江戸文学や翻訳小説に読み耽っていた。深夜の灯一ツに、そうしてぼくが側に居るという事は、母にも何かの慰めではあったのだろう。よく父からは「英。まだ寝ないのか」と叱られたものだが、そのおそれもなかったし「何を、くだらぬ物を読んでるか。その本をちょっと見せろ」と、干渉される心配も母にはなく、母には辛い内職の針仕事であったろうが、ぼくには自由なしんみりと愉しい毎晩の灯火であった。

 さかんに投書もしはじめた。投書は十二歳頃、時事新報社創刊の「少年」に短文が当選して銀メダルを貰ったのがやみつきで、金港堂の「少年界」「少女界」「ハガキ文学」「女子文芸」「中学文壇」「中学世界」「秀才文壇」と、手をのばし、しまいには「文庫」だの「明星」にまで、詩や歌などを送っていた。だが、めったに掲載された事はない。わけて「万朝報」に週一回発表される短編小説には、熱を上げて何回も出したが、たった一度、選外佳作に入ったにすぎない。それでも秀才文壇、中学世界、ハガキ文学などでは幾回か和歌、新体詩、短文の賞を獲ては、ひとり得意になっていた。――そのうちに、投稿者の住所から同校生や近所にも、投書家仲間がいるのを知り、やがてコンニャク版の廻覧雑誌を作ったり、小費いを出しあって幼稚な謄写版器械を買って、同人雑誌めいたものを刷って撒いたりしていたが、退学以後は、そうした友達とも、別れた儘になってしまった。会は斯文しぶん会と名づけ、雑誌は“野ばら”というのだった。仲間に甲賀太郎、今村均、木村某などというのがいた。それにぼくは大町桂月論などというのを書いたことがある。思えばじつに冷や汗ものである。そして誰も彼も雅号というものをもっていた。雅号でないと文学気分がわかないのだ。ぼくは霞峰と名づけていた。投書にも霞峰をつかって、やたらに出しまくったものである。女子文芸や女学世界には女名前で出していた。
 その頃の横浜で文壇めいた雰囲気をもっていた人々は、磯萍水、高沢初風、小島烏水といった人たちで、「藻しほ草」という文芸雑誌が唯一の月刊物であったと思う。それと横浜貿易新報とか横浜毎朝新聞の文芸欄を中心に幾つかの詩社や歌会があった。俳壇では、虚子と同門の人だろうか、松浦為王という人がよく選者をしたり、小集の通知をくれたりした。貿易新報の新年号特別募集というのに応じて、ぼくの句が一等に推され、四ダース入の麦酒ビール箱を貰ったときは途方にくれた。又、松浦為王氏の寿町の自宅で小集のあったとき、行ってみたこともある。しかし、席上の人はみな紳士淑女のごとき大人ばかりだったので、会の端には坐ったものの、ぼくは唯、まのわるさにもじもじばかりして、人とものもろくに云えないで帰って来た。それに懲りて会へ出たのは前後そのとき一遍だけだった。
 貿易新報というのは、開港地の商報新聞にしては、道楽気のあるおもしろい紙面を見せていた。小川芋銭うせんがコマ絵と称する写生図を毎日載せ、小説欄には、硯友社けんゆうしゃの作家の作品や前田曙山がよく登場して、因果華族という題名の小説などが受けていたようである。ぼくらはそろそろトルストイだのモウパッサンだの、やれ江戸文学では秋成か西鶴だなどと小生意気をいい出していたので、曙山や黙禅や幽芳などではあきたらなくなり、よく分らないくせに四迷、独歩を経て、また泉鏡花に傾倒していた。誰もいちどはかかるという鏡花病にぼくもそろそろ初期程度の徴候をもち出していた。

 文学者になりたいとか、将来、その方面にどうとかいう考えなどを、ぼくは当時も以後も、いちども持ったことはない。とまれ唯好きであったに過ぎない。だから読書の選択なども手当り次第で、押川春浪の冒険小説の類でも、その一冊に興味をもつと、春浪物全部をあさりつくして読破しなければ気がすまないという風だった。
 こんな風に、いくらでも毎日退屈しない小境地をもっていたので、ぼくは奉公先から返されて来て後、その夏中ぐらいは、何か独り天下みたいないい気になっていたような気がする。ところが或る日、母の留守に投げ込まれた郵便物のうち、鼠色封筒に検閲判が押してある母宛ての手紙があった。裏には印刷で横浜根岸監獄署とあり、まちがいなく父からの郵書だった。
 それより前に、ぼくは薄々もう覚っていた。母が早朝から何か小風呂敷に心をこめた物を抱え、嬰児の千代を負って出て行くと、半日の余もかかって帰ることが多かった。ぼくから訊かない限り一切父に関しては、あれ以後、母が口に出した例しもない。だから「おっ母さんはぼくに何か隠している」とは知っていたが、しかし、監獄署からの郵便物を見るまでは、まだはっきり父の所在についてうこうの考えも格別もっていなかった。そのくせ、父が入獄しているのだと明確に分っても、急に真っ暗な悲しみにくるまれたという覚えは少しも残っていない。なぜだろう? かをいま考えてみると、父にたいする畏敬というか信頼というか、とにかく監獄にやられようが路傍で失業して居ようが、子にとっては、あくまで父そのものであって、それ以外何者でもない気もちが子の根底になっているのである。
 これは、ぼくだけでなく、明治の子には、共通なとも云えるのではあるまいか。もちろん教育もそう仕向けていたし、社会のしくみもそうだった。その点では家族主義の成功が国家の上に実をむすんでいた最盛期だったかもわからない。何しろ、どんな低い職業であろうと貧乏人の子であろうと、自分の父は世間の中でも一番いい人、正しい人として、信頼していたものである。少なくも、ぼくの気もちはそうだった。だから父が根岸の監獄にいると分っても、父と罪悪とを、あわせて考えることはできなかった。かえって、日頃恐い父が、なつかしくなり、子供心にも、父の孤独な姿が想像され、少しばかり涙が出た。

 夏の終り頃であった。母は子供たち三人を学校へ出してしまうと、忙しげに自分で髪を梳き、束髪にきゅっと結んで、何か難しい書物だの鼻紙などを例の如く小風呂敷につつみ、千代を負ぶって「英ちゃん、またお留守番していてね」と、洋傘を手にしかけた。
 その日まで、ぼくは父の事は母へは何も触れずにいたが、無性に父が恋しくなって「ぼくも一しょに行く」と云い出した。そして、下駄をはいて外へ出てしまった。母はおそらく当惑したことであろうが、何のかのと云いながらも、戸閉まりをし直して、黙ってぼくを連れて行った。まだ電車もなく人力車にも、もう乗れる身ではない。母は当歳の赤ンぼを負い、四ツの浜ちゃんの手をひき、炎天の長い道程を根岸まで根よく歩いた。今でこそ何でもない近さだが、当時は川沿いや田舎道をさんざん辿たどって、あの高い赤煉瓦の塀が見えて来るまでには、足も棒になるほどだった。
 監獄前に橋があり、河を前に代書屋や差入れ屋が軒を並べていた。その一軒に入って、母は背の赤児に乳をのませ、何か用をすますと「おまえは、ここで待っていらっしゃい。子供は入れない所だからね」と、ぼくをおいて橋を渡り、鉄と赤煉瓦の大きな門の内へ隠れてしまった。ぼくは河べりに並んでいるオボコ釣りの人の間を見て歩いたり、悪戯事を見つけて、結構、飽きもせず遊んでいた。
 だいぶ経ってから、母が戻って来た。そして又、元の道を、親子四人、日照りの下を黙々と歩いた。「ぼく、お腹が減ッちゃった」と、こらえきれなくなって訴えた。たしか末吉町辺であったと思う。小さい蕎麦屋へ入った。そしてかけを一杯ずつ食べた。喰べ終ると、母はハンケチで顔の汗を拭きながら、ぽつんと云った。「英ちゃん、あんたも、しっかりしておくれね、これから、うちもたいへんなのよ」母が云う“たいへん”という意味が、この日には何かぼくにも身に沁みて少しうなずかれた。ぼくの見まもる眼が引き出したように母の瞼に涙がいっぱいになった。母はあわててもいちど顔を拭き、帯の間から毛糸編みの銭入れを出して銅貨を数え、蕎麦屋の盆の端へおいた。
 あの頃の主婦は、洒落た紙入れなどという物は日常に使っていない。貨幣の通用度はあらかた銀貨銅貨ですんでいたからである。五りん(半銭)という小銅貨もまだあった。だから編物製の巾着きんちゃくなどが重宝だったものとみえる。ぼくはその日頃から、朝夕に母が台所の濡れ手のまま帯の間から出し入れする編物の銭入れに、前とは違った気もちで眼を凝らすようになった。母が巾着の底からまさぐる銭の間に、白い銀貨の多く見えるときはほっとしたし、一銭二銭の銅貨しか見えないと、すぐ明日のお米だとか、家賃の事などが心配になった。そして、投書の郵便代だの雑誌や本を買ってくれなどという母へのねだり事も、以前のように甘えて云えなくなっていた。
 母に云われたわけではない。ぼんやりと唯、こうしては居られない気が小さいぼくにもしてきたのである。「お父さん、いつ帰るの」或るとき、ぼくが恐々こわごわ訊くと「もうじきお帰りになるけれど」と、母は口を濁した。その時も、父についてはそれ以上触れたがらない顔いろだった。ぼくは新聞を手にすると、自然、職業案内欄へ毎朝顔を沈めるようになっていた。そして見つけ出したのが、横浜南仲通りの南仲舎印刷所の「少年工ヲ求ム」という広告だった。さっそく行って、翌日から通うように極めて帰った。朝七時就業、午後五時までで、日給十四銭、残業は一時間毎に二銭を支給するという事だった。ちょうどお米一升の値に近い日給のわけである。その晩、母にわけを話すと、母はじっとぼくを見ていたが、とつぜん、鼻腔も唇もふるわせて、むせび泣いた。それから、ぼくを抱きしめて又泣いた。多産であったし今年生れの子をもっていたので、母のふところはいつも垂れ乳でぐッしょりだった。で、ぼくも何だか赤ンぼの郷愁みたいな快感に濡れて、母と一しょに泣いてしまった事が今でも他愛ないものに思い出されて来るのである。まったく人生とは遠くを振返ると、たいがいは皆、他愛ないことにすぎないようだ。
 南仲舎へはせっせと通った。初めは工場の解版部で、活字ケースを運んだり油ブラシで女工員たちと共に追い使われていたが、そのうちに罫線けいせん部の小僧に廻された。
 南仲通りには、生糸取引所とか、米穀仲買商などが軒を並べていて、活版所はその喧騒の中にあった。だからここで印刷されるのは、相場の気配新聞や商事関係が殆どといってよい。罫線部というのは、よその印刷所にはないかもしれなかった。簿記用の帳簿に見られるあの薄い藍と赤線を刷るのである。刷るというよりあれは罫線機械にかけて引くといった方が適切かもわからない。それと製本のにかわ仕事、単行本物の“折り”などがここの作業だった。
 本工場の倉庫の二階がその罫線部で、暗い梯子段を上がると膠を煮るあの臭いが顔をつつむ。仕事場は畳敷きで、藍と赤のインキの汚染はわかるが畳の色は無いのである。年増の女工員が三人、次郎さんと呼ばれる角刈りのい男ぶッた若い熟練工と四十がらみの主任と、男もぼくを入れて三人。それだけの部であった。
 朝は七時就業だが、ぼくだけは六時半に来なければならないと云われた。皆の来るまでに、下の小使部屋から火ダネを貰って、膠鍋の火鉢やら湯沸かしの下に火を入れ、お茶の支度もしておけとの事であった。そんな勤めは不平でも何でもなかった。けれど午後になると毎日ここの部員がアミダくじというのをやり、ぼくがお茶受けを買いにゆく。豆餅とか、せんべいとか、生菓子とか。それを喰べ喰べ五人の大人達が、毎日飽きもせぬ猥談わいだんに笑いこける。その猥談もぼくには決して厭ではない。むしろ異様な好奇心で聞いていた。がしかし、この休み時間が苦痛だった。ぼくは銭がないから、アミダ籤の仲間には入らない。だからといって、皆が愉しんでいる間、外へ出ているのも変だし、横を向いているのもなお変だった。つい隅の方で、相場日報とか生糸通信なんて、てんで心の通わせようもない印刷物などを読む振りをしている。すると誰かが「おい。こっちへ来なよ」と気がついたように、ぼくへその日の菓子か、せんべいなどを投げてくれるのである。おいと呼ばれて、皆の眼の中で、それを貰って喰べるのが、ぼくにとっては辛かった。自分のひがみだが、自分の姿が犬コロに見えた。
 帰るのも、皆よりは毎日三十分ほど遅く帰った。掃除をし、火の用心を見、戸締まりして帰るのが役だった。ところが、女工員三名のうち二人までは、主任の細君と、文選にいる工員の妻らしかったが、もうひとりのお勢ちゃんという三十ぢかい独り身の年増は、白痴美といったようなぽってり顔で、仕事中でも厚化粧の小鼻や髪の毛ばかり気にしているといった風な人だったが、このお勢ちゃんと次郎さんとが、時々、用もないのに後に残っては、ぼくに下へ行っていろとか、二十分たったら帰って来いとか、いわれなく、ぼくを追っ払うのであった。
 ぼくの帰りがけの勤めを、すませてからにしてくれればいいとは毎度思ったが、お勢ちゃんと次郎さんの方にも、社の門を出る時間のはばかりがあったのだろう。ぼくは云われる儘になっていた。けれど時によると、罫線場へ戻ってみても、まだ二人が何かヒソヒソしていることがよくあった。そんな時は自分達の手で、罫線器械のすえてある所の窓の雨戸は閉めきってあった。インキだらけな古畳と膠臭い暗がりの隅で逢曳あいびきの男女のする事が行われていた。たとえぼくの跫音あしおとに気づいても二人は慌てて起きることはなかった。人体の作りあってる異様な形の物影は一そう深淵の物みたいに動かなかった。ぼくはその間、たいがい階段口の窓から外へ首を出しているのであった。相場町の鳴りの止んだ夕屋根やら伊勢山の空を眺めて、母を思い泛かべていた。台所の水音やら夕方の蚊唸りなどが耳にある。その背後を、やがて角刈の次郎さんとお勢ちゃんが、ふざけながら通って、階段を下りてゆく。一瞬、お勢ちゃんの髪油の匂いと、もっとそれに何か加わった感じのものが、ぼくの体にまで染まりつくほど残される。

 名は忘れたが、小使部屋に、人の好いあばた顔の爺さんがいた。独り小使部屋に寝泊りしていて、なに屈托なく働いているふうだった。毎夕すすけた電灯がく頃まで、ぼく一人が居残って残り火の十能だとか薬罐やかんなどを返しにゆくと「これあね、今日××商店の開業十周年に貰ったんだよ、喰べておいでよ」と、お赤飯に切りスルメや卵子焼の入った折をくれたりした。この小使の爺さんから貰う物には、ぼくは何も卑屈を感じなかった。半分残して、うちにいる弟に持って行ってやりたいというと、爺さんも「それがいい、それがいい」と、云ってくれた。何かにつけ親切にしてくれた。
 そのせいで、ぼくはこの小使爺さんの噂には、自然聞き耳立てた。それに依ると、爺さんは南仲舎では最古参の勤続者らしかった。越後の人で南仲舎主人の同郷人でもあったらしい。で、数年前に、勤続何十年かの表彰とまとまった金を貰い、晴れて郷里へ帰ることになった。土産物まで買っていたそうである。ところが急に帰郷は止めると云い出して、以前とちっとも変らず小使部屋に泊って黙々と働き出した。当座、理由が分らなかったが、近所の相場師仲間の口からやがて評判になった。三十年か四十年か知れないが、その功労で褒賞された大金と、それまでコツコツ稼ぎ溜めた貯金全部をおろして相場に賭け、一夜に元も子も失くしてしまったのだそうである。――そういう馬鹿だといって工員たちは噂が出るとよく笑うのだった。ぼくも子供心に、そういう人なのかと改めて爺さんを見直した。けれど爺さんの小皺にはちっともそんな大損をしたという影もなし、人に愚痴をこぼしたのを聞いたこともない。今以て、ぼくには唯、温かな爺さんとして、そのあばた顔までが、かなり鮮明に眼に残されているのである。それにしても名を忘れたのは申しわけない。南仲舎にはぼくも僅かしかいなかったので、いわば行きずりの人の温かさに過ぎない事ではあったけれど。

 日給の支払い日は、月々十四日と晦日みそかの二回であった。一日の欠勤もしないでも、居残り料が加わっても、一日十四銭では貰う袋の中の額は、いと些細なものである。
 けれど初めて得た金、自分で働いた金、それを手にしたときは、日頃の何ものもなく快い昂奮だった。以前の川村印章店では、一銭の小費いも、徒弟初期には無い約束だったから、自分で働いて得た金は南仲舎が初めてなのだ。それをポケットにして帰る日の夕方には、やたらに何か買って帰りたかった。弟や妹たちに与えてみたい物が果物屋にも菓子屋にも屋台の焼大福屋にもやたらに目について仕方がなかった。それと、自分で稼いだ金の値打を味わってみたくもある。けれど母に見せないうちは、一銭減らすのも何だか惜しまれた。だから、やがて家に帰って、今夜は牛肉のコマ切れを買おうとか、白い御飯にしようのという時は、率先して自分が使いに走り出した。そして、母にいいつけられない予算外のお菜まで買ったりした。煮豆屋や安てんぷら屋の前に佇んで、よそのおかみさん達の中でまごまごするのも恥かしくはなく愉しかった。
 南仲舎へは、ぼくは幾月ぐらい勤めたろうか。それが今、はっきり思い出せない。けれどまだそこへ通っていたうちなのは確かである。そして秋ぐちの気候も涼しくなってきた或る宵だった。何気なく帰って来ると、上がり口の土間に見馴れない履物が脱いである。どことなく家の内の空気がちがう。ぼくは、どきっとした。数日前に母からささやかれていた事がある。「お父さんが、じきお帰りになるのよ」といったその時の母には幾月にも見なかったうれしそうな、ほっとしたような容子があった。ぼくは奥の薄暗いランプの明りと静かな気配から、父の体臭を感じると、もうそこの土間を上がる下駄の脱ぎ方からして無意識にちがっていた。「……英ちゃんかえ?」と、母の声がする。「ただ今」と、台所へ弁当箱を置きに行った。秋ぐちといっても、まだ寒いほどではないのに、今夜に限って、世間憚るように、間の障子が閉めてあった。
 内から障子を開けて、母が顔を出した。出会いがしらに「お父さんが、お帰りになったのよ、英ちゃん」と、うるみ声にやや弾みをおびた調子で囁いた。中へ入って「お帰んなさい」と云ったとたんに、ぼくも肱を曲げて顔を隠してしまった。こめかみがずきずきして、耳鳴りを熱くしていたせいか、そのときの父のことばは一言も覚えていない。が、何も云わなかったようにも思う。ただはっきりしているのは、父がつむぎの黒っぽい着物に角帯をしめ、の羽織の畳んだのを枕元において、虚脱した人のような淋しい影から、ぼくへ微笑を見せたことだった。疲れていたのか、もう夜具を敷かせ、敷き蒲団の上にいたのだが、ぼくが帰るまではと、坐っていたにちがいない。父は真四角に父らしい坐り方をしてぼくを眼で迎えた風だった。
 それにしても、父の風貌はひどく変っていた。頭の毛も以前とちがう坊主刈りになってしまい、口髭も失くなっている。何よりも皮膚の色がわるく、頬がソゲ落ちていた。母はぼくの泣きじゃくりを撫でて「さ、もういいの……。もうお父さんもお帰りになったし、みんなで仲よくさえ暮せばって、今もお父さんと話しあっていたところなのよ。ね、英ちゃんもその気になってよ」と、繰り返して云い「夜業だったの、お腹が減ったでしょ」と、父のそばへ行って、寝衣になるのを手伝い、父が横になると、台所へ立って行った。
 ぼくは、自分の顔が乾くと、やや落着いて、父の寝顔を見ることができた。父は暗い方へ横向きに寝た。枕元から額ごしに見ると、父の顔の痩せが、ランプの下になお濃い陰影をもって見えた。何か、息ぐるしいまで、自分で自分を拘束しているぼく自身の気もちを放つために、ぼくも母のあとを追ってすぐ台所へ行ってしまった。そして、母がそわそわ膳支度をしているのに、それを待ちきれないでそこらのお菜を見つけ次第ツマんで喰べた。


父帰る



 父は変り果てた姿で、そして留守のまに、もっと変り果てていた妻子の小さな借家住居へ、その晩、半年ぶりで帰って来たものの、当座、こうどことなく以前の父とは、ひどく人が違ってしまったように思われてならなかった。
 おそらく刑務所での囚人生活が、長年、大酒と遊蕩に馴れていた父には、人いちばい、こたえたものであったろう。体もすっかりこわしていたらしく、また当然、精神的には大きな打撃だったにも違いない。――何しても、当分は、寝床の中に横たわったきりであった。急に渇いた口腹へ欲しい物を与えてもよくないとかで、朝夕の食事もかゆをつづけ、まるで大病人みたいに、そっと、母の手の丹精だけに、いたわられている人であった。
 しかし、社会から制裁をうけた敗北者の父でも、無職で半病人のような父であっても、父が家に在るということは、ぼくら子供の眼には、大きな力であり、光であった。その日からぼくらの小さい家は、櫓楫ろかじのない波間の小舟ではない気がした。
 ぼくは依然、南仲舎の工場へ通いつづけ、夜帰ると父の枕元へ、かしこまって「ただ今」の礼儀をした。よく眠っているのでなければ、父も必ず起き直って「お帰り」と、云ってくれた。また、どうかすると「毎日、くたびれるだろうなあ」と、いたわってくれたりした。こんな父を、子供のぼくは初めて知った。
 からだの弱まったせいだろうか。父のこの頃は、いやに物優しく変って来ている。その代り以前のような豪放な冗談口も聞かれなかった。昏々こんこんと眠っているか、読書三昧かであった。枕元の書物には、易経と心理学に関する物が多かったように思う。どういう動機から父が易学えきがくなどににわかに興味を持ち出したのかはよく分らない。
 母と父との間にも、前には見られなかった新たな交情が生れていた。枯れかかった夫婦の木が、逆境という季節ちがいの風に会って、かえって、返り花を見せたようなものだった。父の帰宅後は何かと雑費もふえ、母の貧乏家計の切り盛りは一そう火の車だったのに、母はその苦しさを一切父には感づかせまいと努めぬいた。そして貧しいレース編みの巾着から無け無しの小銭をいても、父の養生の為には、鶏肉を求めて来たり、刺身も白身の魚をさがして、いわゆる病人料理の丹精を朝夕の膳にこめて供えた。父もそれくらいな事は、察し取れていたのであろう。或る折、膳を前にして、心からのように「ありがとう」と、母に小声で云いながら箸を取る姿をぼくは見た事がある。没落し初めてから以後十数年もの間、父が母へむかって、有難うと云ったのは、この時と、父が死ぬ二日前の一言と、そう二度ぐらいなものしか、ぼくは知っていない。

 口には出さないでも、父は、とにかく母にたいしては「すまない、すまない」と、その頃は、心で詫びている人のように見えた。特に帰宅当座の父は、子のぼくらにまで、何か気がねしている風で、いじらしくさえ思われた。
 文士劇でよくる菊池寛氏の“父帰る”の舞台を見ると、ぼくはあの劇中の父親を、自分の父の姿に擬して、当時のわが家をいつも思い出すのである。ぼくの父は何も、あれほどまで、わが家の灯を恐れ憚りはしなかったし、また、あんなに自己の弱さを肉親へ露呈する気のいい性格でもなかったが、しかしどこかあの芝居に見られる男親心理と、その自責感と、自己反省に悶々とする姿は、ぼくの父とも、多分に共通するものが観える。
 もっとも、近頃の刑務所入りなどは、一こう当人も平気だし、政治家ですら自ら吹聴するくらいなものだが、明治の世間における監獄という語感は今日とは全然ちがう白眼視ときびしさをもっていた。幾月にすぎない禁錮にせよ、獄衣を着たという事は、悪徒の社会はべつとして、通常では社会的致命となった。それも世人の顰蹙ひんしゅくするなどという程度の制裁ではない。実際の戸籍面にも印されて一生汚れがついたものだった。これを、子供心にもぼくは知っていたのであろうか。以後、職を求めに行ったばあい、先方から戸籍謄本を差出せといわれると、ぼくは、父のたった一度の汚歴だが、まずその事が恥じられて我からひるんでしまうのだった。せっかく採用通知をうけながら、その為、行かず仕舞いにしてしまった事も一、二度あった。
 けれどその後、何かの必要でほんとに戸籍謄本を取って母から見せてもらった時つぶさに見たが、父の欄にもどこにも、べつだん何も書いてはなかった。だからいたずらな杞憂に過ぎなかったわけであるが、しかし父自身も出所当座は、沢山な子の将来にかけて、そんな心配も怏々おうおうと胸に抱いたことであったろうと思われる。
 いやそれにも増して、当面の父が何より懊悩したのは「世間に顔が出せない」と自ら心を閉じてしまう廉恥ではなかったろうか。一面には明治士族のコチコチな頑固な道義観念から脱けきれていず、半面にはまた、開港地の紳商間に一度顔を売ったりした派手派手しい生活の見得なども残していて、世間の思わく以上に、自身、世間から遠のいてゆく風がだんだん父の日常に見え出していた。

 父は病床を払うと、或る日とつぜん、易の看板を掛けるのだから、建具屋かどこかで手頃な板を買って来いと、母へ云い出した。
 母にもまだ気のせまい世間の見得があったのか、あるいは、自分自身が明日の暮しも分らないどん底にいるくせに、人の身の上を観て上げるなんて空怖ろしい事だとでも考えたのか、そうまでなさらなくてもと、数日は父の云い出しを何のかのと止めている風だった。
 ところが或る夕、ぼくが活版所から帰ってみると、家の門口にその看板がかかっていた。どうにも変な気がしてならなかった。父はと見ると、もう一週間ほど前に床を払った一室に机をかまえて、算木さんぎ筮竹ぜいちくをおき、易書などをわきに積んで、その晩も頻りに漢書を読み耽っていた。隣りの部屋で、母にお給仕してもらいながら晩飯を食べつつそっと「易のお客さんあるの」と、ぼくが小声で母に訊くと、母は笑ってただ顔を横に振って見せた。
 父はやっと健康をとりもどしたらしい容子に見えたが、同時にこの頃からまた、ふと酒を飲み初めるようになった。家に帰った当座の父は「煙草だけはどうもめられないが、酒だけは、これがいい機会だから、こんりんざい、もう廃める」と断言して、母を感激させ、母はうれし涙をながさぬばかり、その事をぼくらにまで何度も告げてよろこんでいたが、それが結局、つかの間だったわけである。「おいく、もう二合ばかり買いにやれ」とか「おいく、もう一本つけろ」とかいう、ありきたりな大酒癖の常套語が、毎晩の貧しいランプの灯が、気のひけるほど石油を吸うのと同じように、夜毎、母の財布に血を絞る思いをさせた。それでも「はい」と云う返辞しか知らないような母は、勝手の小暗い隅にたたずんで、明日の米代としている小銭を悲しげに数えた。そして小銭と酒瓶とを持たせられて、ぼくは毎度、夜更けてからも使いに行った。晩秋の薄ら寒い風の中を、酒は手に抱いて帰りながら、焼芋屋のあたたかそうな煙は空しく横目に見て、そして家に帰れば、母は手内職の夜なべをしているし、ぼくも小さい弟妹たちも空き腹でいるのに、父ばかりが飽くなき独酌をつづけてい、しかも何か鬱々と不機嫌を内に溜めている姿を見ると、子供心にも、父の矛盾と非情に、堪らない不平を掻き立てられた。こうして父へのあきらかな反抗心を知ったのは、父が再び酒を飲み初めて、母の苦しみを加速度にして行った頃からのことであった。

 売る物も質物も全く喰べ尽していた有様なので、当然、父が酒を飲み出してからは、母は冬へ向って着る物までもいでしまった。家賃、酒屋、米屋はいうまでもなく、近所の店屋には何軒も小さい借金が溜ってしまい、嘘のようだが、工場へ行くぼくの弁当箱に母が御飯を入れてくれる事の出来ない朝もあったりした。
 そんなとき、もちろん母も朝飯は喰べていない。それでも働きに出るぼくには二銭銅貨一枚を詫びるように握らせて出してくれる。ぼくは途中で焼芋を買い、半分は途々喰べ、半分は昼飯時の為に残しておいた。ほかの仲間の手まえ、何も喰べずにうろついているのは、空腹を我慢している事よりもその時間が辛かった。
 日が暮れて、家路につき、案じていた家の内に、ランプの灯がついていると、ふしぎな気がした。朝出るときは、母の帯の間に、数枚の銅貨しか見えなかったのに、どうして今夜の石油が買えたのか、小さい弟妹たちが、何を喰べて生きていられたろうかと思われるからであった。――が、そんな晩にでも、父のおもてには酒気が見えた。ぼくは不逞な気もちを内につつみながら「ただ今」という形だけを父の前にした。父から何か話しかけられても、ぼくは素直でなくなっていた。※(二の字点、1-2-22)たまたま、それが父の気もちにさわったらしく「何だ、その大面おおづらは。わずかばかりの給料を取って、働くのを鼻にかけるのか。人間、働くのは当りまえだ。働くのが嫌なら、やめちまえっ」と、恐ろしいけんまくで、呶鳴られたことなどある。
 窮乏に追いつめられた母は、冬の初め頃、ついに長女の、きのという十二歳を、よそへ奉公に出すことにきめた。きのの奉公先は横浜公園近くの西洋料理店で、奥の子守さんという事であった。同時に桂庵けいあんにすすめられ、次女のカエも、まだ九歳でしかなかったが、伊勢佐木町通りの吉野屋というお汁粉屋の小女に出してしまった。あとは乳のみ児と、四つの浜子と、小学校へ入ったばかりの素助だけなので、もうこれ以上は喰べる口の減らしようも無かった。
 二人の子の奉公先から、母はそのさい、給金の前借でもしたのであろうか。何とか幼児の冬支度などしてはいた。けれど家賃の停滞までは皆済ましきれず、家は追い立てを喰い、同じ西戸部の手狭な家へ移った。
 そこは戸部坂の細民街を西へ遠く入った丘陵の新開地で、近所もまばらだし人通りも少なかった。だから易断の看板などに寄り附く客は無かったが、それでも父は、おれも働いてはいるのだという云いわけのように、机を構えて坐っていた。そして何かで、母の財布に少しのゆとりでもあると、朝からでも酒を欲しがった。それも出所当時は、久しい断酒で、すぐ酔いの廻る風であったが、だんだん以前のような底抜けの酒量を発揮し出し、終日、飯茶碗は手にもせず、酒に初まって酒中に寝仆れる日もままであった。
 こうなると、酒狂も以前の父に返って来た。些細なことばの端も、父の酒気と虫の居所に触れると忽ちそれが、母を終日泣かしめるたねになった。家が広かったり、客の出入りや雇人もいた頃は、まだ父の酒狂にも、制約があったが、狭い借家では、母の逃げ交わす所もないし、父自身、俥を飛ばして茶屋遊びに出てしまう事もないので、悲劇が起きると、相互の感情が自然に疲れ切ってしまうまで、幕間まくあい無しの悲劇になった。
 酒狂の父は、どうかすると、真夜半ごろ、とつぜん蒲団の上に起直って、深い腕ぐみしていたり、天井へ向って独り言を吐く。そんなことがよくあった。そして貧苦と添乳そえぢに疲れきって、くたくたに寝入っている母を「おいく、おいく」と、無理に呼び起し「おれだってな、この儘では終りはせんぞ。いいか、意地でももう一旗上げてみせるつもりだ。貴さまあ、昼間おれにむかって、何とか、口ごたえしたが、そうこのおれを馬鹿にするなよ、この俺を」と、云い出したりするのである。
 父のそうしたひがみと、憎てい口は、自身の酒量が増してゆく比例に連れて、つのッて行った。往々、子のぼくにさえ「馬鹿にするな」と怒ったり、「稼ぎを鼻にかける奴だ」と、忌み嫌う容子を見せた。ぼくには実際のところ、そういうふて腐れを父には露骨に見せたことが無いとはいえない。けれど母はそんな気持ちの人ではない所か、貧しくなればなるほど、この良人も子供も捨てて自分だけの生きる途などは考えもしない人であった。父がそんな嫌味を云って母を泣きもだえさせたり、無茶な暴言の限りを浴びせて、酒気芬々ふんぷんとしているのを見ると、ぼくは自分も狂気しそうになり、幾たびか父を撲りかけたくなった。酒の上の心理状態などは子供のぼくに理解はできなかった。酒狂の父そのままを、父の人間と考えつめ、母と共に部屋の隅ッこで働哭した。いくたびか、ぼくはぼくだけで、よそへ出て生きる途を探しますと叫んで、台所から裏まで、飛び出したこともあるが、母に追いすがられて「英ちゃん、おまえが居なくなったら、このお母さんは、どうしたらいいの」と云われると、ぼくは一歩も動けなくなってしまった。それでも父へは、ややもすると、母に代って、つい突ッかかりたくなった。そしては母に泣かれて又、台所で足を拭き、家の中へ戻って、心にもなく父の前に謝った。そんな例は、前後何べんあったであろうか。今、思い出そうとしても思い出せないほど度々だった。

 何でもそれは年暮に迫っていた頃だった。南仲舎から帰って来ると、まだランプの明りもともっていない。しゅんと、てついたように家の内がひっそりしていた。小島の小母さんの声がひそひそ聞え、四つの浜子がシュクシュク泣いている。「どうしたの、どうしたの、おっ母さん」上がるやいなや、あわてて訊くと、「お父さんが血を吐いたのよ。そして今、お医者さんが帰ったばかりだけれど、そう御心配は無いでしょうと云う事だから……」と、母はあとの口を濁した。血と聞いて、ぼくは、どきっとした。日頃何かにつけて父へタテついていた心のとがめが、驚きと一しょに頭をつき抜けた。すぐ父の死を連想していたのかもしれない。
 けれど母が小島の小母さんに話しているのを聞いていると、父の吐血は初めてではなく、これが三度めか四度めのようであった。そのうち二回までは父の遊蕩時代で、大森の“あけぼの”とか箱根の塔の沢などで寝込んだらしく、母はそばにも居なかったとの事である。後日、医者から母が戒告されて知ったのであったという。
 今思えば、父は外人相手の商売上、盛んに各地の花柳界などを泳ぎ廻っている間に、すでに胃潰瘍の症状をもっていたもののようである。しかし、こんどの吐血を境として、父はふッつり酒を廃めた。というよりも飲む気力を失い、その日から再び病床についてしまったのだ。
 猫のような父にまた変った。けれど、ひがみと、母への暴君ぶりだけは、依然、やんだ風は見えない。ひがみの根本は、じつは母にあるのでなく、どうも世間へ対しての、父の白眼にあったらしく思われる。小心なほど、父は出所以来、世間をおそれ、かつ妙に世間をすねていた。あれからというもの、自分から以前の知人を訪ねたことは唯の一ぺんもないばかりでなく、旧知の者が立ち寄ってくれても、会うことはひどく嫌って、母にすぐ間の障子を閉めさせた。「ずっと病気でせっておりますから」と母に云わせ、上がり口で帰してしまうという風であった。
 そのくせ「もういちど、俺は俺の事業をやってみせる」とか、「もう一旗あげなければ死にきれない」とかと、いうような野心はよく口癖に洩らすのであった。ことばの裏には父が勝手に悩みの対象と見ている世間があり、特に訴訟相手の高瀬理三郎氏には、終世の怨恨を抱いていたらしく思われる。ぼくら肉親にはありあり分る。
 けれど母の方は、こうまで、貧乏の底に落ちても、それを高瀬氏のせいであるなどと怨みがましい事を洩らした例しは一度もない。かえって、父が余りに高瀬氏の人格を悪しざまに恨みののしったりすると、「でも、あなたのように、腕力であんな真似をなされば、高瀬さんでなくても、誰だって腹を立てますよ。高瀬さんには御恩こそうけた事があっても、恨む筋などは無いじゃありませんか」と、弁護めいた口吻こうふんをつい洩らした事もある。
 かっとしたのであろう。父は起ち上がるやいなや、母を打ちのめした。足蹴にもした。子供らの眼には永遠に拭き去れない不幸な血相を父は額の青筋にも全身にも描いて見せ、あげくには自分も打ち疲れてセイセイ云いながら仆れてしまった。子供らは、息の音も止まったような母の手を両方から引っ張って台所へ逃げてゆき、泣く泣く冷めたい水を柄杓ひしゃくに汲んで血によごれている母の唇へ持って行った。
 要するに、父は世間へ向けられない鬱憤を、母へ向けているようなものだった。という解釈などは、まだつかないぼくであったから、なぜ父は母をこんなにいじめるのか、母はなぜこんな父のそばに居たがるのか、そこが唯、わけも分らず悲しかった。肉親という不思議なきずなは、こんな地獄図を描きながらも、或る日はまたふと、薄い夜具を冬の夜に引っ張りあいながら、肌と肌をからんで、木枯らしの叫びを遠くに、ここの一軒のみが、無上の住み家であるような安けさを暖め合いもするのであった。そしてぼくは、どうにも、この母のそばを離れる気にはなれなかった。もし家に父だけしか居ないのであったら、たとえ父が後でどんなになろうと、いつでも遠くへ飛び去る小鳥になれたことだろう。その不逞さを、母へは抱けないばかりか、母と一しょなら何でも出来た。母のよろこぶ一笑を買うために、どんな事もやる気になり、それには小さい生きがいみたいなものをすら密かに感じて独り慰めることもできた。

 岩亀横町から花咲橋を渡って、高島町の方へ出た河岸かしぶちに、大きな立て看板が何屋か分らない店頭に立ててあった。“小間物行商ぎょうしょう人ヲ募ル。商品貸与。毎日純利一円以上、働キ次第”というような意味のわき文句が書いてあった。
 ぼくは毎朝、南仲舎への行き帰りに、それを見ていた。そして、ついに或る折、恐々店へ入って「ぼくに出来るでしょうか」と、訊いてみた。番頭か主人か、思いのほか、親切だった。商品から行商道具一式を貸してあげるので、十五円の保証金が規則だが、君なら特別に十円で貸してあげる。売上げと商品を見くらべて、毎日夕方に精算する。いままで、どこに通っていたかと訊ねるので、有りの儘、南仲舎で日給十四銭をうけていると答えると、そんな程度なら、ぜひこっちの行商をおやりなさい、どんな不馴れでも午前中の売上げで、より以上の利益はきっと得られる。雨の日もいとわなければ、雨天の日などは、かえって商いのあるものだと、さかんに奨められた。ぼくは神の救いに会ったような気になり、さっそく母へ話して、何とか保証金をこしらえてくれと頼んだ。
 母は当惑顔だった。そんな金がいま工面のつくどころではない。いろいろ、思案のあげく、小島さんの小母さんへ母と共に融通を頼みに行ってみることになった。
 その小島さんは、近くの官舎に住んでいた。税務監督局の課長さんであった。夫婦二人きりの家庭で、母とは針仕事の内職から知り合ったものらしい。常々、女の愚痴ばなしやら境遇などを語りあっていたものだろう。ひどく母に同情していた。ぼくの家へも暇があるとよく喋りに来、父の病床を覗いては、冗談を云って、人嫌いな父を笑わせたりして帰るのであった。他県から転任して来たばかりのせいか、人馴つこい奥さんだった。いや官吏の奥さんめいた気取りがちッともなく、からっとした陽気な婦人なのである。色が黒く、痩せ型で、三十がらみであったと思うが、決して美人の方ではない。故郷の静岡県吉原の田舎ことばまる出しで、そのなまりと唇元に愛嬌があり、ぼくらがれ物あつかいにしている父も、この小母さんにかかると、どんなに毒づかれても、腹を立てないのが、ふしぎであった。別人のようになって、父も冗談を云い出したりして、いつも腹を抱えて笑わせる小母さんだった。
 御主人の小島市太郎氏は、小母さんとは全然対蹠たいしょ的な純官員さんであった。だから小母さんは、母とぼくからの頼みを聞くと「そんな事は、主人に相談してみても、世間知らずで、話し相手にはならないから、わたし一存で貸して上げるわ」と、翌日さっそく、郵便局から貯金を下げて貸してくれた。忘れ難い恩であった。そう強く感じたせいか、その日、小母さんが「さ、英ちゃん、しっかりやるんだよ、ベソなんか掻いているんじゃないの」と叱るように云って、ぼくら親子の前に十円紙幣を出してくれた時の、そのフシの高い手の指、その指の一つにめていた肉彫りの金指環の菊模様までが、今でもぼくの眼の底に残っている。
 母と一しょに、さっそく高島町へ出かけ、明日からの約束をして帰り、保証金の受取書は、小島の小母さんの手へ預けに行った。小母さんはその事のみならず、ぼくの身仕度まで心配し、家を一しょに出て、岩亀横町の露店を見て歩いた。そして編上げの古靴と学生服の古とを、ぼくの門出のために買ってくれた。

 云い忘れたが年を越していたのである。正月の七草すぎか、月の半ば頃だったように思う。早朝にぼくはもう高島町へ来て、売子問屋の店に腰かけていた。余りに早くに来過ぎたせいか、奥ではまだ朝飯中のようであった。
 体験を持たない仕事へみ出す恐さと、さまざまな空想とで、その間じゅう胸がどきどきしていた。やがて奥から五、六人の元気のいい人達が出て来たと思うと、ぼくの姿などには眼もくれず、各※(二の字点、1-2-22)足拵えを急いで、小間物の行商箱を背に負い、さっさと一人ずつ出て行った。ここに寄宿して行商している売子も多いことを初めて知った。
 その間には外からも来て、前日預けて帰った行商箱を背負いこみ、そして前の人々のように出て行く売子たちもあった。その誰もが皆、屈強な大人であった。ぼくのような年少者はひとりもない。それがやや不安になった。
 結局、ぼくはあと廻しになり、一番さいごまで待たされたわけである。やっと、店の主人が、ぼくの担いで出る荷をそこへ並べて見せた。
 行商箱は、太い真田紐さなだひもを両肩に掛けて、ちょうどおいずるみたいな恰好に出来ている。上段の幾重かは、印籠いんろうぶたの段箱に作られ、その下は幾重にも、薄い抽斗ひきだしとなっている。問屋の主人は、その抽斗の一かわ一かわに、商品をつめこみ、その品目と原価を書いた行商手帖とを、ぼくに手渡した。そして夕刻、売っただけの品物を精算して、利益金を渡し、あとを補充してまた明日担いで出るという仕組みである。
 商品の主な物は、石鹸類、髪油、チック、安香水、生地の櫛、塗り櫛、白粉、口紅、化粧水、びんツケ、中挿し、まげ形、入れ毛と、数知れぬほど種類があり、その上に少女向きの花簪はなかんざしから、ザンザラ、根がけ、ちんころ、の類まで備え、抽斗全部を開けて並べれば、小間物屋の縮小がすぐ覗けるという配合と種別が上手に仕組んである。「ともかく歩いてごらん。断わられても、すぐ引っ込んでしまうようじゃ商売にはならないよ。商売は、押しと愛嬌だと思いなさい。小間物は女相手だから、女の気もちをつかまえる事だが、それやあまだ、君には難しいだろうからね。孤児院の子が、よく売るだろう、あれだと思って、負けずにやるこったね。なあに、そう重い物じゃあない。そっちを向いてごらん、背負わせて上げるから」と、主人は手初めに、背負い方を教えてくれた。重い物ではないと云ったが、立ってみると、ずっしり肩が痛い。同時に、何か泣きたいような辛さが胸にこみ上げていた。ぼくは、どう答えて往来へ出たろうか。道を行く人の全部がみな自分を見る見物人のように思えた。どこへ行くあてもない。自分の脚でないものが自分を支えて歩かせているような気もちだった。いわば夢中であったのだろう。そのくせ軒並みの家や人の多い所は無意識に早足で通ってしまい、場末の淋しい方へとばかり自然に足が向いてしまうのだった。


白い行商手帖



 行商ぎょうしょう流行期ともいえる時代が、かつては世間にあったようである。
 今のような百貨店配達や小売店網がまだゆきわたらなかった過渡期には、背負い呉服やら、唐物とうぶつ、薬種、雑貨荒物、文房具、煮豆の類まで、多くは行商人たちの足が各戸の需要にこたえていた。だから、ぼくのやった小間物行商なども、今考えるとすこぶる間の抜けた商売に思われるが、当時では、おかしくもなく、また結構、大の男の職業にもなっていたにちがいない。
 けれど、ぼくにはさっぱり商売にならなかった。いくら勇をしてもだめだった。見ず知らずの家の垣を、のこのこ内へ這入って行くことも、締まっている静かな格子戸を明けて「……小間物屋ですが、何か、りませんか」とは、とても、口に出ないのであった。それが何とか出来るまでには、半月もかかっていたろう。突ッけんどんに「要らないよ」と断わられるたび、顔を赤くしたまま四、五軒は飛ばして、眼もくらくら歩いてしまった。また時稀ときたま、「どんな物を持ってるの」とそこの主婦に訊かれても、唯どぎまぎばかりして、さっそく荷を並べて勧める如才じょさいも出ないでいるまに、「じゃあ、今度にするわ」と断わられてしまうなど、とても一ヵ月や二ヵ月では、逞しいあの行商人だましいには成りきれなかった。

 行商をやってみて、何よりもいけないと自分でも分った点は、どうしてもケチなはにかみがれない事であった。少年には少年だけの知るつよい見得がある。その幼稚な虚栄と感傷は、周囲の世間が清潔で秩序立っている中ではなおさら処女のようだった。つねに自分のみすぼらしさを世間の表面と見くらべている。いやぼくが特別、小心だったのかもしれない。
 だから行商して歩くにも、市街に接した住宅地はよけて歩いた。以前の学校友達だの、父母の知人に出会うのが恐かったからである。いま思うとその頃は横浜も場末だった平沼、保土ヶ谷、神奈川附近などの遠くへまでわざわざ行った。そしてまばらな家の門や垣を覗いては恐々と声をかけてみる程度しか出来なかった。
 これではいつまでも、売上げ成績が良くならないのも当然だった。どうかして二、三円の売上げ日などは奇蹟のようなものである。夕方、売子溜りの問屋へ帰ると、行商手帖と品物とを精算して二割の利益をくれるわけだ。だから三円売れば六十銭になる。前にいた南仲通りの日給の十四銭にくらべれば先ずたいへんな増収だ。けれど、こんな日は月に一度あるか無いかだった。霜解け道を一日じゅう歩き暮らして、三、四十銭しか売れない日の方がはるかに多かった。
 それと問屋の話では「女相手の行商だから、雨の日などは、かえって売れる」と聞かされていたが、これもあてにならない事が分った。売子用の貸合羽かしがっぱを日に何銭かで借り、風雨の日も精励したが、膝まで没しそうな新開地のぬかるみを暗くなるまで歩いても、売上げの額はみなおなじだった。のみならず夕方の精算で品汚れを検出され、ただ働きの憂き目を見たりする日もあった。どうにも、こうにも、労多くして利少なく、ベソを掻き掻き帰る夜ばかりが幾月もつづいた。わが家のランプの灯を見るのは毎晩七時すぎになった。くたくたに疲れはて、一、二冊の書物を寝床にもちこんで読むのが唯一の愉しみだったが、それもランプの石油が憐れな啼き声を告げて消えてしまうとそれきりだった。ぼくの十五歳の冬の記憶は、飢えと、はにかみしか残っていない。正月の記憶もなく、とかくして半年ほどは夢中で過ぎていたのだろう。
 唯ここで忽然と思い出してみる必要にせまられた事は、日露戦争の記憶である。ぼくの十五の年は、明治三十九年だから、その前年九月には、休戦調印が結ばれ、十月には日露講和条約となっていたわけである。そして、同月には、横浜港外で凱旋観艦式が行われたとあるから、全市は国旗や凱旋門に飾られ、夜空は提灯行列で真っ赤に染まり、市民の熱狂ぶりは大変な騒ぎだったものだろうと思われる。
 ところが、世間のそんな歓呼と戦捷せんしょう風景も、ぼくにはとんと確とした記憶にない。あの長蛇ちょうだの提灯行列が流れてゆく熱烈な群衆の顔や打振る紙旗の波などは、幻影のように思い浮かぶが、その中に立ち交じったり、それを見物に行ったりした特殊な実感はないのである。
 それ以前の奉天会戦とか、旅順陥落とかもぼくは川村印章店に奉公中の身であった。当時の号外屋が、祭礼の若衆姿みたいな向う鉢巻で、腰のまわりに沢山な鈴を下げ、まるで半狂乱になって戦捷を呶鳴りつつ駈ける姿を、ぼくは店の障子戸越しに、見た程度であった。花火の爆音が一日中聞えていても、港が灯と万歳に沸き返っている晩でも、じっと徒弟机にかがまって、家の事やら母の顔などしか頭になかったものだろう。
 ただ開戦当初には、町内町内の楽隊と一しょに、戦死者の葬送について行ったり、出征者の見送りに交じった覚えなどが幾らかある。そのほかは当時の軍国調にも個々の悲喜にもっきりした影響は殆ど何も感じていない。いやそう云っては、同年代の人々とぼくの経歴感とが余りにも食い違うかもわからない。ぼくの場合は境遇に依るものだ。ぼくの通った、明治三十七、八年という歴史上でも重大な年は、ぼくに取ってのみ特異な境遇ではあった。だから世間の日の丸も花火も楽隊も、この少年の頭には、沁み入る余地がなかったものと思われる。――家の没落、義兄の失踪、父の入獄、職さがし、妹たちの離散、父の吐血、母の明け暮れない貧乏苦労、など、そんな周囲ばかりを、ここ二年、ぼくは眼にして来たのである。少年期の幼い国家観念しかなかったせいでもあろうが、日本の浮沈よりも、毎日毎日のわが家の浮沈と、貧乏との戦争の方が、ぼくの心を占めていたのも是非なかった。「どうしたら食べてゆけるか」を母と一しょに闘っている気持ちだったから、日本の憂いと共に憂い、日本の歓びと共に歓ぶなんて、大きな呼吸を持つひまもなかったのである。そうとでも思惟しいしてみるほか、その面の記憶の稀薄をぼくに糊塗するすべがない。

 資本を貸してくれた小島の小母さんには間が悪いが、ぼくは行商を廃めたくなった。厭に成りだすと歩くのがなお辛かった。行く先々では、優しい主婦もいたり、励ましてくれる人もあったりするが、冷めたい声で追ッ払われるのが当然な世間であった。それも大人達にあしらわれるのは、まだ我慢もできたが、同年輩ぐらいな子供にからかわれたり、行きずりの中学生の群れに何か嘲われた気がすると、その場で行商の荷を川へでも捨ててしまいたくなった。
 けれど父はあの儘、病床についたきりだし、母の苦労はちっとも減っていなかった。のみならず、或る晩、家へ帰ってみると、三ツぐらいな見たこともないよその女の児が、ぴいぴい泣きながら母に抱かれてサジでお雑炊ぞうすいか何かを食べさせられていた。
 この児はまだ坐れないらしく、手頸も足もひどく痩せ細っている。まるで肋骨ろっこつの上に細い首が乗ッかっているような畸形きけいだった。泣き顔には小皺が寄って、小さなお婆さんの顔みたいである。「……どこの子? お母さん」ぼくが訊いても、母も病床の父も、共に唯、暗然としているだけだ。
 その晩、あとで母から聞いた話によると、これは出奔した義兄政広の子であった。まだ家が以前の清水町にいた頃、恋愛結婚をした義兄と愛人のお八重というひとが、ぼくらと一つにいたことがある。その後、半年そこそこでお八重は実家へ帰ってしまい、義兄も出奔してしまった事は、先に書いた通りである。
 だからこの問題は、当然、とうに解消されていたはずだった。ところが、お八重が実家へ帰ってから産んだ義兄との仲の子は、月足らずでもあったのか、或いはひかんという虚弱体質か、三ツになっても、坐れない、歩けない、発音も満足でないという畸形児だった。
 お八重の親は、名うてな相場師で、義兄との結婚前にも、さんざん、ぼくの父を物質的にも精神的にもいためつけた程な男である。こんな畸形児を、可愛がって養っておくはずはない。それに娘の再縁にも邪魔になる。そこで当然、「この子は、相違なく、貴殿の子息の実子であるから、引取って貰いたい」と、再三書面や仲介人を向けて、談じ込んで来ていたらしい。
 けれど、わが子の口数まで減らしている窮乏のどん底へ持って来て、どうして、そんな虚弱な子を引取れよう。何しろ父は病人で懸合いにも立てないので、母一人でただ謝りつづけていた。ところがその日、山田の使いと称する者が、人力車に[#「人力車に」は底本では「人力者に」]乗って訪れ、上がり口へ子供を捨てるようにして、さっさと帰ってしまったというのである。
 母はまったく途方に暮れた。自分の乳呑み児もある上に、こんなひよわい畸形の子を又抱えては、明日からの手内職の仕事も台所仕事もろくに出来はしないであろう。それも、実子の孫とでもいうのなら、これ又、諦めもつこうが、母にとっては、義理の子の、しかも、ちょっと居ただけの嫁さんとの仲に出来た置き去り子に過ぎないのである。
 その晩も、夜どおし、ぴいぴい泣くのをあやしたり、しもの始末などで騒いだが、以後の養育は、並たいていな世話ではなかった。ここに詳述出来ないほど、尾籠びろうな手数がかかり、食餌の苦労やら、日に何度もの着換えの洗濯やら、言語に絶する厄介さと、飢餓の絵その儘なわが屋根の下だった。

 言語に絶するなどは、ちと誇張めいた云い方のようだが、何しろその子は、狸のように腹ばかり大きく出ていて、いくら食べさせてもすぐ食べたがり、朝から晩まで、お婆さんのような泣き皺を作って、食物ばかり欲しがるのだった。こういう特異児の持ちまえで、肛門筋が無知覚にひとしく、その世話だけにも、母は追われ通しの姿であった。
 しかし、貧乏と、これだけの事だったら、まだまだ母は働きいもあったろう。が、義兄の置き去り子が来てから、更に悲惨を加えたのは、病人の父が、時々、我慢がならないように起き上がって、その子を折檻せっかんする時の、何ともいえない悲鳴と家じゅうの暗さだった。
 畸形の子は、手離しでは置けないので、わらで編んだお飯櫃ひつ入れの中に入れて、食事も口へ入れてやるのであった。機嫌のいい日は滅多になく、のべつ、おひつの中でシュクシュク食物を泣きせがんでいる。父にはそのシュクシュクが昼夜なき呵責に聞えるのではあるまいか。
 父にすれば、この数奇な孫は、自分の過去を責める獄卒か因果の変形みたいに思われた事でもあろう。――実父の自分を裏切った上、こんな置き土産まで残して行った、ぼくの義兄政広の出奔という事が、どんなに病床の父を、やりばない怒りに悶えさせたことか。その気持ちは、母やぼくにも、分らないではなかった。
 父自身も又、そんな憐れな宿命の子を、叱ったり打ったりなどした後は、さめざめと、自分が嫌厭される容子だった。慚愧ざんきにたえない姿をして、枕に額を押しあてた儘、息ぎれのやむまで、俯伏していた。そして、吐血後の胃潰瘍の症状は、この前後から、また目立って悪くなった。ただの病色だけでなく、父の顔には、極度な神経衰弱だろうか、狂相に似たものがあった。
 ぼくは、その頃のわが家と、毎日の事を、今、思い出そうと努めているが、誇張でなく、また肉親だからでもなく、ぼくは心から、ぼくの母を偉かったと思わずにいられない。母は、その畸形な子へも、ぼくらにする愛情と少しも変らない慈愛の姿で、哺育の肌やら丹精の手を尽していた。時には、ぼく達がひがまれる程、可愛がった。父が癇癪を起すと、いつも身を以ってその子をかばうのは母であった。
 正直、ぼくらにしてさえ、義兄の無責任を、その子へ問うように、つい厄介者としたり、憎しみを向けたりした。けれどぼくの母には、まったくそれが見えなかった。近所の人はみな、母のほんとの子だと信じていた。その子は、やがて数年後に病死したが、まだまだ貧乏の最中だったので、葬式もしてやれなかった。
 たしか母が果物屋から求めて来た空箱をひつぎとしたように覚えている。母は「女の子だからね……」と、その子の体じゅうをお湯で浄めてやったり、顔へも白粉や紅をつけてやった。そして果物箱の棺へ納めてやりながら「……あんたは、よほど運の悪い子ね、こんど生れてくる時は、いいお父さんとお母さんの仲に生まれて来るんですよ」と、云い聞かすような独り言を洩らしていた。
 この子の葬式に行ったのは、ぼく一人であった。棺を風呂敷につつんで人力車の蹴込みに乗せ、施主会葬者、ぼく一人きりで菩提寺の蓮光寺へ持って行った。ずいぶん気まりが悪い気がしたのを薄ッすら今でも記憶している。しかし蓮光寺では、むかしからの好誼を重んじてくれたものか、父の手紙一つだけで、べつだんお経料とて上げなかったのに、住職や侍僧が数名つらなって、ながながと読経どきょうしてくれた。
 さきに家出したぼくの義兄も、義兄自身が五十前後で亡くなるまで、この事は、ついに知らず仕舞いであった。――やがて三十年も経ってから、たった一ぺん、ぼくを訪ねて来た折も、忘れ果てていたのだろうか、「――あの時の、お八重は?」とは、訊きもせず、話にも出ず別れてしまった。

 少し話がわきへ反れたかたちである。その後、ぼくは小間物行商を廃めたが、廃めるには、次のような事が動機と云えなくもない。
 ほんとは、とうに厭だったのだが、思いがけない義兄の子がふえたりした為、一日も遊んではいられず、毎日の行商も、泣き泣き続けていたのである。
 だから成績は依然上がらない。或る晩、売子宿の店主からこう訊かれた。「いったい、君はどの方面を歩くんだい」「平沼から、保土ヶ谷や青木町なんかですが」「ばかだなあ。あんな新開地は、畑や山道が半分以上じゃないか。君の家は、前にいい暮しをしていたっていう事だが、少し、知ってる家を廻ってごらん」「…………」「親父さんが懇意とか、お母さんの親しい家だってあるだろう。そういう所から順ぐり歩いて、も少し、ちゃんとした住宅地を歩くこったよ。犬に吠えられたり、女中に断わられたりしても、すぐ引っ込んでしまうんじゃ、いつまで、行商で飯は食えないぜ」励ますつもりか、売子宿の店主は、ぼくを馬鹿扱いにして云った。
 知人の家を廻って、買って貰うなどという事なら、何も入れ智恵されるまではない。けれど「それだけはおよし……」と母からも云われていたし、ぼくにも小さな見得がある。意地という程、はっきりした気持ちではないが、廉恥があった。――しかし、売子宿の店主から、そう云われると、何か安易な気もちもして、依頼心をそそられ、行かないのは自分の馬鹿なせいかもしれないと思った。又、沢山な売上げを得て、店主の前に、誇ってみたいような気も手伝った。
 それから数日後、ぼくは方向を更えて、山手方面を歩いた。そして、歩くにまかせて、父の以前の知人をたずね、間の悪さを忍んで「この頃、小間物の行商をしてるんですが」と、顔を真っ赤にして云ってみた。ハー・アーレンス商会に勤めている三浦さんの家で、競馬石鹸一箱を買ってくれた。富樫夫人の家は留守だった。その日だったか、翌日だったか、おなじ山手の牛島坂に新邸を建てた古川某と標札の見える宏壮な門をくぐっていた。
 この古川氏は、父が桟橋会社経営の初期には、波止場人夫の小屋を持って、振りの人夫売込みなどを業としていた人らしい。父は人を信じると一本ヤリなたちなので、この人の人間にも惚れこんで、会社の専属に取立て、社の請負った桟橋の積込み、沖仕事、石炭の売込みといったような下請けの一切を、古川氏に委せていた。それがもとで古川氏は成功を積み、牛島坂の高台に、横浜中を一望にできるような高楼と庭園を作って、今では波止場仕事からも一切手を引き、余生を楽しんでいる風だった。

 ぼくの行商箱を拡げるには、そこは余りに似つかわしくない豪壮な玄関だった。初め女中らしい人が、怪訝けげんな顔をして奥へひっこんで行ったが、やがて古川氏の奥さんが出て来て「あら、まあ、吉川さんの息子さんなの……」と、びっくりしたように、頭からぼくを眺めた。ぼくはどう云ったろうか、どうせ満足な口はきけなかったにちがいない。見ず知らずの家で冷やかされるのとまた違って、耳が鳴り、口が渇き、この間の辛抱は何ともいえない。
 体のずんぐり短い奥さんは、黙って奥へ行ってしまった。どうするのか、ぼくにも分らず、むなしい、貧しい商品箱を並べた儘で、ぽかんといつまでも立っていた。
 すると今度は、奥さんだけでなく、当の古川氏が、丹前の上に縮緬ちりめんの兵児帯をだらりと締めて、ふところ手で一しょに出て来た。お嬢さんたちだろうか、ぼくと同年齢ぐらいな振袖の女の子と、もっと年配できれいな人も、ぞろぞろ来て、「どこの子?」と囁いたり「まあ、ずいぶんいろんな物があるわね」と、商品の箱を覗いて、何かクスクス笑いあった。
 古川氏は、足もとの商品などは見てもくれず「いつから初めたのかね」と、ぼくの姿ばかり見ていた。以前は、盆とか暮とかには、夫婦して眼を驚かすような贈り物を持って来、酒が強くて、父とも終日談笑していた事もある。殊に、何の祝いの時であったか「英ちゃんに、別誂えの洋服を頼んでおいたから」と、ぼくを俥に乗せ、南京町の支那人の裁縫師の店までわざわざ仮縫いに連れて行かれたことなどもある。そういう人だけに、ぼくはよけい間が悪かった。きれいな女性の眸も身を刺されるようで、唯、赤面していた。
 古川氏は以前から灰色に近い皮膚をして、眼のふちも唇も薄黒かった。その上ぶよぶよと肥大した体つきであった。その巨きな影に、ぼくは圧伏を感じていた。何か、後悔がしきりにわいていた。が、古川氏は、小犬をつかまえて、からかっているような口調で「売れるかね」と訊いたり、又「一日、幾らになるんだい?」と云ったりして、一こう買物には手を出してくれないのだった。
 のみならず、何かのことから、父の噂を持ち出して「君のお父っさんの病気は、自業自得だよ」と云い「いったい、君の親父さんてえ人は、思い上がっていたな。自分はまあ、さんざッぱら、やりたい事をやったんだから、いいようなものの、子供にまでこんな真似までさせちゃあ、寝ざめがよくあるまい」と、ぼくへもお説教みたいな事を云い初めた。
 ぼくへのお説教だけなら、なお素直に聞いていられたかもしれないが、古川氏は、腹をゆすぶッて、ぼくの父を嘲い、父のざんそを、さんざんぼくへ云うのであった。そばにいた奥さんさえ、ぼくの涙を見、聞きかねる顔して「もう、およしなさいッてば」と古川氏の袖を引くほど、ぼくの父を、悪しざまに云った。
 夢中でぼくは、商品箱を畳んでいた。みんなの眼のまえで、それをどう肩にかついだろうか。まったく今は覚えがない。でも古川氏の奥さんが、あわてて半紙にくるんだ物を、ぼくの手へ握らせたことは覚えている。きっと、なにがしかの金であったろう。けれどそれも無意識に、どこかその辺へ打っちゃって来た。
 ――後も見ずに、まったく後も見ずというのは、あんな時の事かと思う。ぼくは門の外の石段を駈け下り、まだそれでも足らないように道をいそいでいた。やっと涙の乾いた顔を上げた時は、どこか知らない裏通りに灯がついていた。


わが盗児像



 その日限りで、ぼくは行商人を廃めた。知人でもあり富豪でもある人の門に、耐え難いものを持ったのであった。同時に、見ず知らずの他人の垣に立って憐れみを乞うような真似もふるふる嫌になってしまったのであった。
 あきらかに、それは古川氏の邸宅へ行商に行った日が境で、また廃めた動機でもあった。けれどそのことは父母には話さなかった。だから両親は急にぼくの容子が違って来たのを理解出来なかったことだろう。こんなばあい、厳格すぎる男親の下にある少年は、心のものを率直に現わしえないで、それを妙なじぶくり顔や別な恰好に出して、幾日も無口になったりするのであった。病床の父は、単に懶惰らんだな子の不良性と見てか、時折、苛々いらいらしている容子だった。

 廃めてから一週間程たって、行商売子の問屋から「預かっておいた保証金を返すから取りに来い」という通知が来た。行ってみると、十円入れた保証金なのに、六円幾らしか返してくれない。行商箱の損料とか、雨具や店舗使用料だのと、いろんな名目で差引勘定がされている。ひどく不当に思われたが、大人でさえこの手に泣き寝入りを見せられていたのだろう。是非なく、渡されただけを持って帰り、母と一しょに、さっそく小島の小母さんへそれを返済に行った。
 男気な小母さんは、母が詫びて「不足分はいつかお返しいたしますから」というのを打消して「いいよ、いいよ。世間はお互い持ちじゃないの。それよりも、英さんはこれからどうする気」と、ぼくへ訊ねた。
 ぼくはこの小母さんにいつか甘えきッた気持ちになっていたらしい。とても出来ない相談に極まっているのに「ぼくは中学へ入りたいんです。どんな苦労してもいいから」と、真剣に訴えてしまった。母は聞くのも辛そうに顔をそむけたきりだった。しかし小島の小母さんは、まともに、ぼくの顔をじっと見つめて「ほんに、そうだろうね、ああ、よく分ってるわよ。だがね英さん、あんたが働かないで誰が今、おっ母さんの力になって上げるのさ。だから夜学でもいいじゃないの。昼間は働いて、夜学に通えるように小母さんも考えといて上げるからね」と、頻りになだめてくれた。ぼくは他人へのひがみを抱きながら、この人のような前では、はなも涙も一しょくたにして、だらしなく顔をこすッた。
 小母さんはその後、ぼくの職業やら勉学の道を夫君の小島市太郎氏に相談して内々心配していてくれたらしい。けれど税務監督局の一官吏に過ぎない小島さんなので早速な思案もなかったろうし、ぼくの母もこれ以上の世話になるのはと、慎しみがちに、わざと不沙汰していた。というよりも母は、ぼくの稼ぎも無くなってからは、一そうその日その日のしのぎに追われていたことだろう。依然、父は病床の儘だし、その暴君ぶりは募っても衰えはしない。前述の義兄の児の世話も大変だった。一体、母はどうして毎日の家計をやったか。芋粥いもがゆで一食を過ごしたり、ランプの石油も買えない晩もあったりして、子供心にも、極貧さは身に徹していた。
 わけて又、父は煙草好きなので、煙草が切れると、不機嫌を超えて狂人の相になり「煙草がないっ。煙草ぐらい、何とかならないのか」と、病床で喚いたりした。そんな時の母のおろおろ姿は見ていられなかった。母は唯一枚の着ている袷まで質草に入れ、以前、みどり屋の暖簾としていた物を腰に巻いて外へも出られずにいた事もあった。この当時、母がふと洩らした呟きで今でも忘れ難い一語がある。それは「――朝、戸を開けなければならないと思うと、私は毎朝、夜が明けるのが怖いよ」と云ったことだった。

 父は自分がいつまで病床から起てない焦躁を、やたらに子のぼくへ向けて爆発させた。ぼくには職を探す能力が足らなかった。暇があると書物にばかりかじりついていた。その姿が怠け者と見え、腑がいなく思えるのであろう、何かで激語になると「この、ごくつぶしめ」とぼくを呶鳴りつけたりした。
 ぼくはあてもなく家を飛出しては、夜おそく帰った。書物を持ち出しては古本屋へ売り、それを小費いとして遊ぶことを覚えた。羽衣座、賑座、喜楽座と大入場の中にもぐって終日を過しながら、家には職探しに歩いたような顔をして帰った。木戸銭も無い時は横浜公園のベンチで塩豆か何かかじっていた。おなじ年頃の不良少年がいくらも居た。浮浪者もうようよいる。そこでは何か安息感に似たものにくるまれた。彼らはすぐ話しかけて来、時には協同の行動をすすめてくる。ぼくは臆病なので彼らのような大胆にはなれず、危険を感じると尻込みしたが、小さい悪事にはくッついて歩いた。そして些細な分け前にありつくと、公園の木蔭で貪り食った。多くは、南京町の裏だの、元町のお薬師さまの縁日だの、砂糖馬車の入る倉庫などから掻っさらって来る物だった。
 しかし、公園の悪の巣は周期的に警官の一掃に会う。すると、その日から仲間は人ッ子一人見えなくなる。公園に行けない日は、ぼくは伊勢佐木町をうろつき廻った。売る本も無くなっていた。汁粉屋の小女に奉公している妹のカエを店の外へ呼びだして「お母さんが困ってるから」と偽ったりした。そしてまだ九ツに過ぎない幼い妹が、お客からツリ銭の端を貰う毎に可憐らしくも貯めている小銭を巻きあげて、買喰いと芝居の立見に費ってしまった。
 その頃読んだハムスンの“飢え”の中に、主人公がいささかな腐肉の附いた牛骨を道で拾い、それを齧ったあげく路傍でヘドを吐くところがある。あの主人公とおなじ飢渇がぼくの眼をぎらぎらさせていた事だったろう。何しろ家にいるのが辛いばかりに、毎日家を出て唯ウロついていたのである。或る晩はベンチに寝て、ついに家に帰らなかった。「穀つぶし」と呶鳴った父の顔をえがくと、いつまでもこの儘でいたいし、母の姿を思い出すと無性に母のそばへ帰りたくなった。

 そのうちに公園で知った不良仲間に連れられて、第二波止場の埋立て地へ、やっと仕事に通うようになった。
 今でいう土建屋の仮事務所みたいな物が埋立て地のまん中にあった。朝、首を揃えて集まると、その日その日、いろんな雑役ざつえきを親方から命じられる。杭打ちと称するヨイトマケの女たちも手甲てっこう脚絆きゃはんで大勢集まった。幾十組ものヨイトマケの唄声で今の第二桟橋辺の広大な埋立て地の毎朝が明けていたといってよい。ぼくらは市内への使い走りだとか、弁当配りだとか、暇があると丸太担ぎもやらせられるといった風に追い廻されていた。夕方になると日給で三十銭ずつその日にくれた。
 ここへぼくは二た月三月通った。春から夏頃までだった。
 ヨイトマケの女たちは、ぼくだの事務所ボーイの敏公などが近くを通ると、さかんにみだらな唄を唄い囃した。そしてぼくらが顔を赤くして走るのを見てよろこんだ。たとえば、筆下ろしはまだだろうとか、可愛がって上げるから晩においで、というような盆踊りめいた原始調を、あのヨイトマケの節に合せて、音頭取りの女が即興詩人のように唄うのだった。女だてらといおうか、ずいぶん大胆な猥歌を唄うのだ。ぼくは顔を赤らめて逃げる風をしながら、じつは自分が女に意識されている歓びを感じていた。胸を弾ませた女たちの中には編笠かぶりや姉さん冠りの若いきれいな女もかなり交じっていたからである。
 事務所に寝泊りしている敏公という少年は、元町警察署から表彰されて、新聞にも出たり親方も感心している親孝行少年というので評判者であった。当人もそれを自慢してぼくに逐一の身の上やら表彰式で撮って貰ったという写真を見せたりしたことがある。その時ではなかったが、或る時この敏公が、ふところから大事そうに取出して「見せてやろうか」と、一枚の春画をぼくへ示したことがある。ぼくはそれまで、表彰された敏公というので、自分のような不良ではないと考え、内心、彼に畏敬を持っていたが、それを見せられたので安心したり又、親近感を持つようになった。だが、ぼくの方は臨時雇なので、間もなく「もう仕事もないから、明日からは来なくてもいいよ」と、あっさり解雇された。仕事に離れる事よりも、ヨイトマケの唄と別れる事の方が正直何となく淋しかった。

 かねがね心がけていてくれた小島さん夫婦から「税務監督局の給仕さんに欠員の口があるが」と、母まで知らせてくれたのは八月か九月に入ってであったと思う。
 が、その前に、ぼくとして書いてしまわなければならない事が残っている。
 監督局の給仕になる前の一、二ヵ月を、ぼくは再び職探しにぶらぶらしていたものだろう。季節もお盆前後の事と覚えているから、その期間としてほぼ間違いはない。
 或る夕方、母は蚊うなりのする台所に腰を下ろして、ぼんやり溜め息をついていた。途方に暮れた顔つきだった。母がそんな眸でいるのは何を意味するのかぼくにはすぐ分った。晩に食べる物が無いに極まっている。無いとなると上ゲ板の下の漬物樽に一個の茄子なす、一切れの菜漬さえ無くなってしまうのだ。ぼくは母を慰めるつもりで何かあても無い事を云って出たのかもしれないし、唯、黙って足を早め出したのかも分らない。とにかく、それから間もない後、ぼくは遠くもない郊外の真っ暗な傾斜地に立っていた。眼の下に大きな池があった。池のふちまでが馬鈴薯ばれいしょの段々畑でつづいている。星の光がすべて、神の眼か世間の人の眼のように見えた。罪を意識しながら犯行に出るまでには、恐ろしいたたかいが自分の中で動悸していた。
 それだけに、過去の中でも、このときの事は、非常に強くあざやかである。池の向う側にある疎林そりんの丘には、県立第一中の校舎が夜目にも見えた。自分が希望していてついに入れなかった学校である。その遠い白い壁が妙に気になった。そこの窓から以前の学友たちがこっちを見ているような恐怖なのだった。しかし、一瞬後のぼくは、馬鈴薯の葉に身を埋め、ほこほこする黒土を両手の爪で無我夢中で掘り起していた。続々といものころげ出てくる穴へ、さらに手を突ッこんで深く掻き捜した。畑の黒土は下へゆくほど、人肌みたいな温かさを持っていた。薯はすぐ一と風呂敷に余った。ぼくはそれを抱えると脱兎のごとく夜露の縁を切って逃げ出した。誰かに謝りながら走ってい、走っても走っても恐怖に追いまくられて、真っすぐ家の方向へは走れなかった。
 その晩、飢餓の一家は、塩ユデの馬鈴薯をふウふウいって喰べあった。元よりぼくの薯泥棒を父は知ろうはずがない。だが、母にもその行為を叱られたような覚えがないのをみると、母も背に腹は更えられぬ思いで子の盗みを許容していたものだろうか。とすれば、ぼくの一家はその頃じつに危うい淵にあったというほかはない。ぼくはその夏、おなじ事を二、三度やった。
 否みようもなく、ぼくには盗癖があったようだ。小学生当時にも、母の小銭をかすめたり、店の銭箱へ手を突っこんだ経験がある。いやそのほかにも一度、野毛坂の古本屋で、盗みを犯したことがある。よくやる店頭の立ち読みをしているうちに、無性に欲しくなって来たのである。ふと見廻すと、店の主人は奥で朝飯を食べている様子だった。ふらふらと、ぼくは一冊の本を持って盲目的に駈けていた。すると古本屋の主人の恐い顔がすぐ後ろに迫った気がした。左側は伊勢山の高い石垣だった。ぼくは恐怖と後悔から手の書物を石垣の下の小溝に抛り捨てた。夢中で逃げた。そして、それから数日後の夜、そっと野毛坂を通ってみたら、捨てた本が、まだ小溝の流れに洗われていた。けれど以後、幾月もの間、ぼくは昼間の野毛坂が通れなかった。

 環境にも依ろうが、少年時代には、少年共通の盗癖みたいなものが、誰にも多少ずつはあるのではあるまいか。
 公園の不良と共にぼくもやったが、あの縁日荒しだの、砂糖馬車の抜き取りなどの類は、一見、ひどく不逞な悪行のようだが、物質の目的よりは、面白半分の方が勝っているといってよい。彼らの冒したがるスリルと集団性がかもし合う小悪魔的な跳躍なのだ。野放しにしておけば、いくらでも本格な悪へ成長してゆくだろうが、それに交わらない通常の児童におなじ素質が無いのではない。菊池寛氏の“啓吉物語”であったか、果物屋の林檎を盗む中学生たちの遊戯的盗癖が、書かれてあったが、彼らの盗癖は遊戯と同居し、協同して外部へ働きに出たりする。その潜在はかなり理性をそなえた大人となっても「自分にはないもの」と馬鹿にしているわけにはゆかない。
 と云っても、自分の過去のとがを正当づけるつもりでは決してない。いやな記憶は一生にわたってつきまとう。こう書いていながらも自分でさえ覗くに恐いような心の割れ目が記憶の底に刻まれている。殊にぼくのばあいは馬鈴薯畑といい古本屋の一例といい、単なる児童心理とは云いくるまれないものがある。あきらかに意識しての行為だった。それだけに長く自責されるだろう。いつか読売紙上の“折々の記”でも書き、又ここでも書かずにいれないでつい書いた。よくよく拭い去れない古傷のようである。
 だが、母でさえ、ぼくの行為を知りつつそのときは、ぼくを叱らなかったという事は、もっと恐ろしい事だった。――小島さん夫婦が税務監督局の給仕の口を世話してくれたのは、じつにそんな危機だったから、神の助けみたいなものである。さっそく試験をうけ、いかめしい辞令書を貰った。月俸七円也であった。
 横浜税務監督局は、岩亀横丁へ曲がる戸部の大通りにあった。煙草専売局支所と一つ構内にあって、赤煉瓦の洋館の方が監督局であり、半工場的なバラック建てが、専売局の支所だった。
 白い作業服を着た女工たちの半身が、工場の窓に並んでいた。ぼくらの常に通う正門道から片側の芝生に望まれるのである。どの女性も看護婦みたいな清潔さに見え、ぼくら給仕は、彼女らの視線の中を使いや用事で通り過ぎるのを光栄にしていた。そのうちにすぐ彼女らの顔のうちでも、或る特定な顔と眸を交じえたり笑顔を交わすようになり、間もなく又、彼女が工場から退けて、自分の着物や帯に返り、お弁当箱を抱えて帰る姿まで見届けていた。白い作業服の彼女は崇高にまで見えたが、薄汚れたメリンスの袂やらお太鼓結びの帯になった身なりは、やはりただの貧乏人の娘にすぎず、何となく興ざめたものだった。
 ぼくは本間君という先輩の給仕と二人で階下の広い属官室の一隅にボロ椅子を与えられていた。本間君は専売局の女工という女工の半分くらいまでの名を知っていた。その中の一人と日曜日に本牧ほんもくの海岸へ遊びに行った話もした。ぼくは羨ましげに聞きほじった。ここに長くいる間には自分にもそんな幸運が巡って来そうな気がした。「そのうち、君の好きな子に紹介してやるよ」と彼は云った。ぼくは息づまるほど本気な顔をして頷いた。
 属官室の正面にある懸時計は、ものういチクタクを一日中繰返している。折々刻み煙草の煙管きせるを叩く音や、ペン、算盤そろばん、咳払いなどが沈澱した空気をよけい重くしていた。どれもこれも猫背がちな姿には、和服に袴もあり、薄汚れた背広に固いカラーの人もいた。ハイカラという流行語が生きていた時代である。その中から「給仕っ」と、一種の調子をおびた声がかかる。命じられた書類などを持ってほかの室へ行く。水曜日には東京の本省から事務官の出張があり、事務官の室へも行った。
 事務官は若い瀟洒な金ブチ眼鏡の官吏さんであり、広い一室と立派な卓に構えていた。この人の卓へ、初めて書類やお茶を運んでゆく前に、ぼくは温厚な老守衛長から、お作法の予習をうけた。九谷くたに焼の湯呑茶碗を茶托に乗せたのを目八分に捧げ、ドアの開け方、足の運び方、退歩の礼など、ずいぶんやかましいしつけであった。だから第一回のときには、手がふるえた。よほど偉い人と思われたのであった。
 五時には退ける。朝も今までの何業よりも遅くていい。間にも、本など読めた。それに白衣の女神たちとも眸を交わせるし、ぼくは今までにない明るい足どりで通勤をつづけていた。けれど小島の小母さんは、すぐぼくに夜学をすすめ、あちこちの夜間中学校から規則書を取り寄せてくれたりした。
 ところが、何があったのか、秋頃から小母さんはぱったりぼくの家に見えなくなった。母は何も語らない。けれど何かがあったに違いなかった。どうかした拍子には父の感情的な口吻が洩れるのだった。「女らしくない女は俺は嫌いだ」と云い「少しばかり世話になったからって、そうそう立ち入られて堪るものじゃない。ひでの方針だの勉強だのと、そんな事は、親として百も承知だ。それをあの調子で俺をやりこめるまで、ツベコベ云やがる」と、父は憤慨した。さては、ぼくの事から小母さんと父とが口喧嘩にでもなったのか。それならぼくは夜学など諦めてもいい。そう思った事であったが、なお母にたずねてみると、そればかりではなかったらしい。父は小母さんの侠気に乗じて金の無心か何か持ち出したものらしい。それでも小母さんは好意をもって例の気性から「何とかしましょう」と引きうけて帰ったが、夫君の小島氏が承知せず、絶交せよとまで、不快にそれを取った。母はそれをぼくへ話しながら「……無理もないのよ、小母さんの立場は。……お父さんを悪く云うんじゃないけれど、まったくお父さんという人は」と、小島さん夫婦の方に同情していた。そして「そんな事を、あの人たちに云えた義理ではないのに」とも嘆いた。
 まもなく小島さん夫妻は、どこか近県税務署へ栄転してしまった。引っ越し先の通知も来なかった。母は「何一つ恩返しもできないで」と、くよくよ独り詫びていた。しかし父は※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびにもそんな事は云わない人である。腹では悔やんだり詫びていても、口では、「何だ、何がお世話になったものか。七円ばかりの給料しか貰えない所へなど世話しやがって」。そんな悪たれをいう病人なのだ。ぼくは、その一語を耳に挟むと、その日に「廃めます」と、父へ云った。「廃めて、勤め口があるのか」と、父が気色を更えた。ぼくは反抗する為の反抗語をさがして父の色をなお突いた。「ええ、有っても無くても、廃めたらいいんでしょう。どうせ七円ばかしの給料なんか、家の足しにもならないんでしょうから」。すると父は「貴さま、いつそんな口をきくようになった」と、頭から一喝した。負けずに、ぼくも口ごたえした。激すと、父は忽ち顔を朱にして烈しい咳に咽んだ。持病の胃潰瘍のほか、この頃から、父には執拗な喘息ぜんそくが併発していた。咳き込むと、数時間は、母に背を撫でさせて苦しむのである。だから母は、ぼくが父へ反抗を示すと、台所にいても何処にいても、すぐ駈けこんで来てぼくの方を叱った。ぼくは母に叱られるのは何ともなく、母に負けるのも口惜しくはなかった。けれど「謝れっ」と言い猛る父には、嘘にも手をつかえて謝れなかった。
 それも結局は、母の為に自分をまげて、「すみません……」と、手をつかえるほか無かったのだが、どっと涙があふれ出てとまらなかった。ぼくは何度も、自分の母の兄弟から二人の発狂者が出ていることを思い出して、ふと慄然となる事があった。事実、父と争って、疾風のごとく外へ飛び出し、一晩中、母を痩せる思いにおいた事も一、二度ならずあった。それとぼくにはいつかしら少年らしい明るさが失われ、ややもすると独り物蔭へ行って泣き抜くような性情が強くなっていた。そして、それも父の癇に触ることが多かった。父はぼくを不良な生れぞこないみたいによく面罵した。事実、ぼくは成長するに従って、父に少しでもよい面を見せようとはしなかった。故意に、父を憂えさせるような素振りや仕向け方ばかり見せた。

 暮の近い十二月であった。母は思い余っての事だったろう。厚ぼったい手紙を書いて「英ちゃん、東京まで一人でお使いに行ける?」と、ぼくへ云った。
 渋谷の松濤園が開放され、その頃そこの土木工事監督に、母の実弟山上三郎が勤めていた。「三郎叔父さんの所へ」と、母は父に内緒で云うのであった。汽車賃だけを握って、ぼくは東京へ行き、松濤園の工事作業事務所を訪ねた。
 三郎叔父は以前、長いこと、ぼくの家に食客をしていたことがある。だから顔はよく知っていた。「暢気のんき屋さん――」という綽名あだながあり、始終ニコニコしている人柄のよい小肥りな青年技師だった。だが一度、精神病の発作を起して、長く入院していたことがあり、その後恢復して、鍋島家との縁故からそこに勤めていたのである。
 手紙を読むと「しようがないな、姉さんもいつまでも、これじゃあ」と呟いて、一円紙幣を一枚封筒に入れてくれた。そして工事場へ行ってしまったので、ぼくもすぐ帰るほかなかった。けれど汽車賃は、行きの片道分だけしか持って出なかったので、汽車に乗るとすれば、封筒を破って、一円紙幣をくずさなければならなかった。その一円紙幣を、くずす気になれなかった。その儘、母へ見せてやりたいと思い、とうとう、渋谷から横浜まで、道を訊き訊き、歩いて帰った。足を棒のようにし、腹もぺこぺこになって、やっと家へ辿り着いたのは、何でも夜半過ぎか夜明けだった。
 しかしこの一円紙幣も、もちろんすぐ焼け石に水だった。奉公先のカエや、きのなども、年暮には僅かな給金を貯めたのを持って、母の顔を見にちょっと帰って来た。長女のきのは、これこそ暢気屋さんで、わが家の貧乏などは、眼に映らないたちだった。芝居見物に連れて行かれた話やら、奉公先の主人の豪奢な生活などを、笑いまじりにキャッキャッと話して、さっさと勇んで帰ってゆく。カエの方は、まるで性質も反対だった。来ると母に「お母さん、納豆売りしてもいいから家に居たい」と、いつも云った。父は、きのの方が好きであった。
 ぼくは今度こそ、家を出たいと思っていた。
 諸所の口入れ所を歩き廻った末、日の出町の周旋屋で、よい口があると云われた。先はおなじ日の出町一丁目の続木商店であった。もう大晦日おおみそかも近い日であった。ぼくは周旋屋を通して、いくらかの給金の前借を頼んだ。目見得をすると、それも先方できき入れてくれた。ぼくは、前借で得たなにがしの金と、周旋屋の婆さんがくれた菜漬をブラ下げて、大晦日の晩、家に帰った。そして続木商店へは五日から住み込みで勤める約束をしてきたことを母に告げた。そして金を見たらよろこんでくれるだろうと一途に思っていたところ「……住込みかえ?」と云って、母は世にも淋しげな顔をした。白い涙のすじを頬に見せた。母はその年暮頃には、もうぼくらにも分る大きなお腹をしていたのである。ぼくが家に居なくなるのは堪え難い心細さであったのだろう。父へたいしては、多少、復讐気味な反抗心さえ抱いていたぼくも、母の案外な反射を見て忽ち後悔していた。けれど、母もぼくが前借までして来た気もちを、よろこんでくれなかったわけではない。むしろ悲しいうれし泣きだったのかもしれなかった。ぼくは弟を連れて、戸部の大通りにある年の市へ出かけ、露店ののし餅やら輪飾りなどを買い歩いた。


小俳人



 続木商店は食料、洋酒、雑貨をあきなっていた。日の出町通りでも屈指な店舗だった。が、小売はどうでもいい風で、ほんとの営業活動は横須賀支店の方にあった。看板には“内外雑貨海軍御用達”とある。つまり横浜本店はその仕入部と、主人夫婦の住居をかねたものだった。
 ぼくはここの丁稚でっちに住込むと、その日に名前を改められた。主人から「英吉としなさい」と云い渡されたのである。以後、主人夫婦は英吉と呼び、ほかの店員や奥の者は、英どんとぼくを呼んだ。
 主人の続木氏はやや背は足りないが色白で小肥りな紳商然たる人で、やたらに金歯や金グサリや金ブチ眼鏡など光らせている嫌味を除けば、四十がらみの好男子で、いつも上等な葉巻をくわえ、大丸髷をきれいに結い上げた若いきれいな御しんさん(御新造さんの略、おかみさんのこと)を携えて、本店と横須賀支店とを一週間おきに往復していた。
 間もなく店員たちの蔭口で知ったが、御しんさんはもと真金町遊廓の神風楼でお職を張っていた全盛の花魁おいらんだったとの事である。が、そんな前身は、みじん感じられず、今でいう八頭身型の美人であった上、教養もあるらしく、常に容姿はくずさず、旦那の続木氏と並ぶと御しんさんの方が立派ですらあった。ぼくら丁稚番頭たちは、よくこの美男美女の若い主人夫妻が人力車をつらねて出入りするのを店で送り迎えするのだったが、御しんさんの姿には往来の人も足をとめる程だった。しかし店の通い番頭から奥の者まで、どっちかというと旦那よりはその若くて美しい御しんさんの方にみなビリビリしていた。「御しんさんに嫌われたらこの店には勤まらない」という風がどこかにある。まだ新米の小僧にすぎない身にも、自然世間的な神経がそんな風にぼくを大人おとなびさせ、ぼくも御しんさんから「英吉」とよばれるとき、特に気を働かせたようだった。

 他人の家の御飯はこれで二度目の経験である。だから初めて川村印章店へやられた時みたいな幼さはなかった。年老った通い番頭、住込みの若い店員、先輩の小僧中僧などに追い廻されても、けっこう元気でよく働く英どんではあったようだ。――けれど唯、また家を離れてみると、あんな悲惨なわが家なのに、相変らず家のことのみが忘れられない。ぼくの性分なのか、余りに母の肌がよすぎたせいなのか、ぼくが出た後、どうして暮しているかと、そればかりは念頭を離れなかった。
 すると、住込んでからまだ一ヵ月と経たない或る夕方のこと、九つになる弟の素助の影が、一人で前の舗道を行ったり来たりしている。店にいたぼくは、すぐ胸騒ぎを覚え、あわてて外へ出た。そして「何しに来たの? 家に何かあったの?」と訊ねたところ、弟はベソを掻き掻き、お使いに来たわけを訴えた。それは何でも「きのうから家じゅう御飯も何も喰べていない……」というような意味だった。途方に暮れるとはこんな時のことか。ぼくは胸がつぶれてしまい、どうしていいか分らなくなった。唯、咄嗟とっさには、ちょうど持合せていた五銭白銅が一枚あった。それはこの頃毎晩のように九時か十時というと、主人の御老母の部屋へよばれて、按摩あんまをするのがぼくの日課となっていた。ぼくはさんざん父の足腰を揉まされた経験があるので「英吉がいちばん上手や」と御隠居にほめられていた。そして数日前に、御褒美に貰った五銭なのである。それを弟に持たせて帰したが、いくら物の安い頃でも白銅一個で一家の飢えがしのげるとは、ぼくにも考えられていない。
 やがて夕飯になったが、飯も喉に入らなかった。自分だけがこんなに飯や汁も口に出来るという事自体が悲しかった。で、通い番頭の平井さんが帰りかけるのをつかまえて「母が急病なので今夜だけお暇をください」と頼んでみた。平井老人は「さ、旦那もお留守だし」と難しい顔をしたが、結局、御隠居さまに一応伺ってから「じゃあ、十一時までに帰るんだぜ。十一時までだよ」と許してくれた。
 その口吻に甘えて、ぼくは又「お給金で返済しますから」と、店の陳列にある牛缶を二個前借した。それを持って、その晩、西戸部のわが家へ駈けるように行った。
 ところで、後々まで、このときのぼくの失敗を、生前の母ともよく思い出しては笑い話にした事だったが、ぼくは弟の知らせで、一家が餓死寸前の急場のように感じたので、家へ行く途中で、蕎麦屋そばやで蕎麦のカケを幾杯か註文していた。とにかくすぐ食べられる物を算段するため少年の頭脳でありッたけの智恵をしぼったつもりだった。
 じっさい、それは病床の父から幾人もの小さい弟妹たちの餓死をくいとめた物ではあった。行ってみると母すら力を失ってたおれていた。きのうから一食もせず、雨戸も開けず一日を唯飢えの中に、墓場のように寝ていたというのである。
 今のような民生委員制度も何もないあの時代では、おそらく一家が餓死しても、餓死した後でなければ、近所隣りも気がつかなかったであろう。又、そうなるまで、なすすべも工夫も知らないぼくの両親ではあった。だから、ぼくの後からすぐ蕎麦屋の出前持ちの景気のいい声と共に、そこへ運ばれて来た蕎麦のカケは起死回生の物だった。まったく、どんな歓喜とふるえつくようなよろこびでそれをすすり合ったことか。それを今、思い出そうと努めても思い出せない。昨日の事に過ぎないあの終戦後の餓鬼道にちかい味覚や雑多な体験も、ぼくらはもう忘れかけている。と同様に、その折の記憶は前世紀層化してしまっているようだ。唯、忘れ難いというだけのものを残して生きつづけて来た。忘却は救いだが、思えばぼくを横着な者にもしている。

 牛缶一個を切り、その汁にまで湯を注いで皆で飲み合い、ぼくは一先ず安心して店へ帰った。それはいいが、慌てた余りに、ぼくがあても無しに蕎麦をあつらえて行った為、母はそれから幾日間、何杯かのカケ蕎麦の代が払えず、毎日出前持ちに門口に立たれて催促され、あんなに困ったことはないと、後々もよく笑いばなしにした。しかしそれ程、ぼくはその晩を、一家の危急と慌てたのだった。
 それから一ヵ月半ほど経って、ぼくは横須賀支店へ廻された。
 当分、横浜へも帰れないので、主人から半日のお暇が出、その事を家へ知らせに寄った。この日もぼくには感銘が深い。前の場合よりは、もっと印象的な記憶がある。というのは、思いがけなく、ぼくの弟が一人ふえていたからだった。母は産褥さんじょくに横たわってい、産れてから間のない赤ンぼをそばに寝かせていた。これが三男の晋だった。
 ぼくは産褥の枕辺に坐って、出来立ての人間の子をしげしげ覗いた。いかにも小さく、しなびて見え、そして真っ赤な皮膚にトウモロコシの生ぶ毛みたいな毛が頭の辺に少し生えていた。
 母は、ぼくの支店行きを聞いても、ぼくを励まそうとするのか、それとも何かべつに生計の目あてがついていたのか、そう落胆はしなかった。父もこの日は機嫌がよかった。ぼくは明るく横須賀へ立った。
 横須賀支店は、若松町の辺で、坂下から数歩の表通りだった。店のまん前には、浅黄暖簾に“てんぷら、若松亭”と染め抜いた料亭があった。舞台で見る信濃屋お半みたいな、結綿ゆいわた鹿の子帯の娘が、よく海軍士官やお客と暖簾の蔭でふざけていた。
 支店の店先へも、のべつ海軍の下士官や主計が来て註文したり話しこんでゆく。時には店先でビールなど開け、剽軽ひょうきんな和平どんという若い店員が盛んに馬鹿ばなしをして笑わせた。横浜本店よりここは陽気で活気があり、夜は戸を下ろして皆、遊びに出かけるので、ぼくにも自由な時間があった。
 思うに、この頃は、やっとぼくの頬にも、少年らしい頬の色と快活さがよみがえっていたのではあるまいか。何といっても、遠くへ離れると、そう家の事もくよくよしないし忘れがちになれた。それと、支店詰は一人のおもしろい爺やと女中と若い店員ばかりな上に、出入りの客はすべて海軍の連中なので、少年のメランコリーなど抱くひまもなかった。ぼくはよく註文取りのオヒゲという綽名のある番頭の伊東さんや和平どんに尾いて、碇泊中の軍艦をあるいた。海軍波止場からランチに乗って各軍艦の酒保へ行き、酒保で御馳走になったり、みなの馬鹿ばなしを側で聞いてるだけだった。「この頃、神風楼のお職さんは、支店に来ないのか」と、おとくいの酒保の下士官が云ったりすると、和平どんは、主人夫婦の古いロマンスやら、まるで覗いて見たような閨中のむつまじさまでを、冗談交じりにしゃべったりした。だからオヒゲの伊東さんよりは、和平どんの方がどこの酒保へ行っても持てた。

 或る日、ぼくに驚くべき吉事が起った。というのは、かなり大きな木箱一ぱいの書物が、運送屋からぼく宛てに届いたのだった。
 開けてみると、何百冊あったろうか、全部が俳句の古雑誌だった。野毛通りの金港堂古書店が差出人となっている。
 それと一しょに、家から母の手紙が来た。手紙にはこうあった。
「――以前、お父さんが世話して上げた事のある奥田さんという人がお父さんの逆境を知って、この頃、たいへん親切にして下さる。そしてこちらでは忘れていたほど古い貸金を返済してくれたので、家の家計も一ぺんに楽になるし、そのせいかお父さんもこの頃は床から起きて、お元気になっていらっしゃる。だから、あんたももうこれからは、家の事も心配しないでください」とあり、それから別便で送った本は、お父さんがめずらしく散歩に出、御自分で金港堂から送らせたものです、ともしてあった。
 ぼくは、うれしくて、その晩は寝られない程だった。そしてさっそく寝床に俳句雑誌を持ちこんで寝た。ホトトギス、卯杖うづえ、秋声、日本俳壇など、その頃の俳句雑誌のあらましはあったような気がする。父はぼくが早くからこんな物になずんでいて、また欲しがっていたのを知っていたのだ。どうかした拍子でぼくを憎しげに「穀つぶし」と呶鳴ったりする事も、病気と貧苦のせいだったのだ、父も遠く離れればやはりぼくをいとしく思い出してはいてくれるのか。そんな感激もあわせて胸につつみながら、当時のホトトギスを、夜更けるまで読みつつ寝たことは、ぼくの夢を少年の夢そのまま毎晩、のどかにしてくれた。

 和平どんは、いつも人気者だが、悪ふざけの度を越す人でもあった。或る晩、店を閉めた後、店員たちが大いに酔った。主人夫妻は不在であった。ぼくは和平どんに呼ばれて奥へ行った。すると、大勢の中でいきなり蒲団にくるまれた。おなじ蒲団の中へ又、支店の女中のお弓さんを一しょにくるんだ。「手を貸せ、手を貸せ」とほかの者を呼び、和平どんは帯か何かでぼくとお弓さんを蒲団巻きにした。
 もちろん、ぼくとお弓さんも、極力抵抗はしたが及ばなかったのである。上をギリギリ巻き締められているのでお弓さんの両手はぼくを抱えていた。ぼくは手のやり場がなく、顔は火照ほてッてしまい、ただ眼をつぶっていた。
 和平どんは、酒宴の同僚たちへ、この余興を提供しながら、ぼくらをさかなに、自分も飲んでいるのだろう。何かきゃッきゃッと笑いながらお弓さんをからかい抜いた。お弓さんが日頃、英どんにたいして余り好意を持ち過ぎているというやきもちらしかった。もっと露骨な猥せつな言であった。伊東さんが、やっと蒲団蒸しの紐を解いてくれたとき、お弓さんは泣いていた。ぼくは店の隅の暗い所へ逃げこんだ。
 又、晩春の頃だった。爺やが風邪で寝ていた為、浦賀造船所へ納めている同地の雑貨店へ、卸し売りの白酒を、荷車に一荷積んで、和平どんが前を曳き、ぼくが後押しして行ったことがある。
 浦賀街道の山道までかかると、和平どんは一ぷくしようと云い出し、車を止めて休んだのはいいが、そのうちに「おまえ、店へ帰っても、喋るんじゃないぞ。いいか、途中でこわれたと云っとくんだから」と云って、四ダース入りの箱をコジ開け、中の白酒を二本ほどラッパ飲みにしてしまった。そして残りをぼくにくれた。
 ぼくは眼がくらくらし出した。いや、それどころではなく、和平どんはすっかり酩酊してしまい、それからの峠の下りを何べんも転びかけた。また崖へ車をぶつけたりして、あと白酒のビンを何本もり、白酒を道々撒いて歩いた。どうなる事かと、ぼくは尾いて行くばかりであり、あんなに困った事もないが、面白かった事もない。
 支店勤めで、辛かった仕事は、サイダーやビールの納入に行くときである。軍艦によって水兵や下士の気質も違い、手を貸してくれる場合もあるが、そうでない時は、あの舷側の下から高いタラップを番頭やぼくが担ぎ上げて行かなければならない。ぼくは軍艦印サイダーの四打入りをよく肩に乗せられた。そして片手でタラップのロップにつかまりながら一歩一歩艦上まで登って行くのだった。――忘れもしない軍艦新高にいたかのタラップの途中から、それを担いだ儘、ふとよろけて、海へまっ逆さまに落ちたことがある。前後は皆目覚えていない。気がついたときは、自分の周りにはゲラゲラ笑う大勢の声がしていた。救助されて酒保に担ぎ込まれていたのである。

 新高へ行くと、いつも、からかわれた。可愛がってくれたのであろう。ぼくはどの軍艦や駆逐艦へ行くよりも、新高の酒保へ行くのが愉しかった。酒保には甘い物も豊富なので、よくいろんな物を貰った。
 ある時一人で何かの使いに行ったことがある。新高は間もなく出航の準備をしていた。用がすんでからぼくは人気のない中甲板など歩いているうち、この儘、船底か石炭庫へでも隠れてしまったら外国へ行けるが、というような空想を抱いていた。そして、ふらふらと空想を実行へ移すような誘惑にかかっていた。が、あぶなく、ぼくは見つけられて、上甲板へつまみ出された。もうタラップも揚げかけていた所だった。そのときは、ひどく怒られた。
 秋、ぼくに、も一つ愉快な事があった。それは人知れず投稿した俳句が、横須賀新聞といったか、土地の新聞の記念募集の一位になった。わずかだが賞金があった。店の人たちは、誰も気づかなかった。
 ところが、それからもちょいちょい投吟しているうち、或る時、選者のなにがしという俳人と新聞社の人が訪ねて来た。新聞社の名刺なので、ほかの店員がそれをちょうど奥へ来ていた主人夫妻に取次いだ。結局、ぼくを訪ねて来たのだと分って、ぼくは顔を真っ赤にして狼狽した。その晩、御しんさんに呼ばれて「うちは商店ですよ」と切口上きりこうじょうで云われた。それから主人夫妻が支店に居るうちは、俳句雑誌を寝床に持ちこむこともやめ、新聞へ投稿するのもやめた。何かこりこりしたような気もちが残っている。ほかの店員からもそれは余りよく思われなかった事だったのかもしれない。

 その冬か翌年の一月頃か、冬というだけで月も日も忘れてしまっているが、その横須賀でぼくは小島の小母さんにぱったり会った。
 雪のあと、みぞれでも降っているような、とにかく寒いそして道の悪い日だった。ぼくは海軍波止場まで、空樽を積んだ車を曳いて行った。おそらく酒保で使う漬物樽か何かであったのだろう。とにかく、軽いことは軽いが、山のような空樽を車で曳いた。
 小島の小母さんを見かけたのは、あの一番繁華な大通りであった。ぼくから呼んだのではない。買物か何かしていた小母さんが、ぼくの姿を見たのだろう。いきさつはよく覚えないが、その往来中で、小島の小母さんに「まあ、英さんじゃないの」と梶棒にすがられた事だけが、あざやかに脳裡にある。まわりに少し人だかりがしたような気まり悪さを覚えているから、ややしばらく立ち話をしたのではなかったろうか。そしてぼくも小母さんも泣いたにちがいない。小母さんが早口に住所を教えてくれたが、ぼくはおそらく人目に間が悪かったり、さまざまな感情に取りみだされていたのだろう。なかば夢中で別れてしまい、その後も、小母さんの赴任先の住所を知ろうとはしなかった。
 又、ひとり小母さんばかりでなく、ぼくはほかの知人も横須賀では一切思い出そうとはしなかった。母の親戚には、芝新銭座の近藤塾の関係から、近藤男爵や山中造船中将など、横須賀海軍工廠には、かなり知人や遠縁の者もいたはずだが、母の手紙がそれらの人に触れていたことはない。従前からも、実弟山上三郎へ、たった一ぺん、無心の手紙を持って使いにやられたほかは、そうした身寄り頼りを一切たのみとしない母であった。だからいつかしら、ぼくもそんな旧縁の人が世にあることなどはまったく忘れ、ただ自分らの破れ小舟一そうを、とにかく必死に漕いでいる気もちだった。

 しかし思わぬ人の恩情に助けられることはあるもので、先に母の手紙にみえた奥田という人が、以後も失意の父を励まし、父へ再起に足る資金を出してくれたものとみえる。その頃、母の便りに依ると、お父さんはこの頃、毎日、お勤めに出ているとしてあった。けれどそれは真面目な勤めでなく、後で聞いた所に依ると、生糸相場に手を染め出し、毎日仲通りへ通っていたものだった。
 父は、あせッていたにちがいない。そのため、せっかくの再起の資金をもまた失い、そして以前よりもひどい貧苦へふたたび一家を投げこんでしまったのだった。


横浜異景



 どうも、ぼくのこの四半自叙伝は、貧乏ばなしに尽きてい、読者も又かと思われるだろうし、書いてるぼくも実は気がヒケ出しているのである。そこで、これははてしがない、少しはしょッてという気になって、前号の終りに以後一年半ほどの事を、ひとまとめに、こう書いてしまった。――父がふと再起の資金を得、一たん家庭も建て直るかにみえたが、又忽ち、生糸相場や何かで元も子も失くし、再び以前にまさるどん底へ落ちてしまった、と。
 ところが、その間の一年余を一足とびに少年期から青年期へまたいでみても、ぼくの“忘れ残り”は依然、家庭の貧苦だの、労働だの苦学だので、ちっとも明るい面はなく、それに肝腎な十六、七から八へかかる年齢期を省略するのも、全体からみて何かこの辺だけをぼかすみたいでおもしろくないから、やはり順を追って変哲もない浮き沈みの経路をここでもつい書かざるを得なくなった。ぼくのかかる徒然めいた少年時代の記も、思わず長くなって恐縮しているが、ま、あと二、三章を以て結ぶつもりであるから、併せて諒恕りょうじょを希っておく。
 直接、両親から続木商店の主人へ、手紙でもあった結果であろうか。まもなく、ぼくは暇をもらって、横須賀から横浜の家へ帰った。家はその間、関内の尾上町二丁目に引っ越していた。大通りに面した三間半間口の店舗で、屋根看板に「日進堂」と大きく、わきに「全国諸新聞広告取扱」としてあった。
 父はこの店を、前経営者の奥田某氏から顧客附き負債附きの居抜きで譲りうけたらしい。奥田さんなる実業家の夫妻を、ぼくは太田の赤門前時代から見知ってはいたが、父との関係については殆ど何も知る所がない。唯、横浜における小成功者ではあったようだ。その人が郷里へ引退するにあたり、父の悲境を知って、当時相当額の貸金を返してくれた上、日進堂の事業を父へ任せて行ったというのが実情らしかった。そんな風に母から聞いたと覚えている。
 いずれにせよ、ぼくの両親にとっては、再生の救いだった。尾上町へ移って以来は、父も長年の病床を出て元気づき、ちりぢりに外へ働きに出されていた妹たちも母の膝下に帰り、ぼくも又、奉公先から呼び返されて、こんどはわが家の一店員として帳場格子の中に坐らせられた。小さい家の歴史でいえば、ま、小康時代といったようなそれからの一年余であったのである。

 その日進堂の位置は、今日の横浜でもそう変っていず、桜木町駅から大江橋を渡って左側の、いま朝日新聞社支局となっている辺りである。
 今日とその頃とのちがいは、ぼくの少年の頃の尾上町二丁目界隈は、関内芸妓の狭斜の町と織り交ざっており、日進堂の並びにも「金春こんぱる」だの「千代本」だのという御神灯ごしんとうの格子先が幾軒もみえた。わが家のすぐ裏は鳥料理の「金田」の庭だし、また大江橋の南詰には、当時すでに代は変っていたろうが有名な富貴楼の名残りもあった。だから昼は爪弾つまびきの音が流れ、夕めくと、店の前を芸妓の木履ぽっくりの鈴が通り、金春の姐さんなどが、湯上がりの上ゲびんを涼やかに見せて行くなど、濃厚な脂粉の気も漂うのだが、それが堅々しい商店やそこらの家庭とも道路の裏表で交錯しながら、新古、何の不調和もなく町の色を組み立てていたのであった。
 日進堂は東京の弘報堂の下請けで、新聞広告取次が本業だが、店の一部に化粧品の陳列棚を据え、美容水本舗の看板をかけていた。その頃、美顔水とかキレイ水とかいう物が流行的に売れ出していたので、それの類似品を製販していたのでもあろうか。棚は卸し売りの見本にあるのだが、近所の芸妓たちはよくそれを分けてくれといって来る。ほかに客が居ないと店員たちは、からかい半分、妓たちと好きな話にふけって、美容水をお線香代の代りにタダやったりしていた。ぼくは帳場格子の中で、いつも好きな書物にかじりついているか、その頃から妙に日本画のまねや水彩画などをぬたくっていたが、店に近所の妓たちが這入ってくると、じつは五官をその方にあつめ、うわべは素知らぬ風を装っているのであった。

 店の斜向いに、日曜日以外は、いつも鉄扉の閉まっている教会堂と、脇沢金次郎翁の邸宅があった。翁は横浜成功者の平沼専蔵とか茂木、原などと並ぶ実業家だとか。どうかすると、その白頭翁が店先へ来て腰掛け込む。そして毎度、ぼくが帳場格子の中で絵ばかり描いているのを覗き、ある時こんなことを云った。「あんた、何に成るつもりかね」ぼくは大真面目で「絵かきになりたい」と答えた。すると翁は「絵かきに成りたいなら成る道へ早う進まんじゃいかんね。お父さんに云って東京の偉い先生につくか、美術学校へでも入れてもらいなさい。あんたくらいな年は大事な年頃だからな」と。これは、ぼくの頭にこびりついた。東京へ出たいという夢を掻き立て、画家だ画家だと将来を念じた。
 だが父の顔を見てはそんなことを云い出せもしなかった。父は病後のせいでなくても、以前から歩くのが嫌いで、用先から用先へ、当時の医者みたいに人力車を乗廻してあるき、店にいることは全くまれであった。もっとも店は馴れた店員に任せておけば済むのかもしれないが、父の胸にはこれを機会に以前の桟橋事業か貿易方面へ返り咲きして、旧知を見返してやろうという気負いや山気が燃えていたのではあるまいか。
 母は父のすることにいたずらな反対をする人でもないのに、貧乏以来は父も多少の気がねを持つ風であった。だから折角の日進堂を店員まかせにして、べつな方面へ金を注いだり、生糸相場に手を出している事など、父の行動は一切、母には知らされていなかった。ただ時折「……ほんとに得手勝手なお父さんね。病気をしてもお金を持っても」と、ぼくら子供と一しょにする食事時に、ふとこぼすぐらいが関の山の愚痴だった。
 父がまた以前のつきあい仲間へ顔を出し初めて、それの見得も伴ったり、一方では、生糸相場でも損に損を追っていたことだったろう。一時持った金は一年とたたないままに失くしていたと、母は後に語っていた。そして後には従来からあった店付きの負債と新しい借金だけが残り、その断りが毎日の店頭業務みたいに続いた。
 けれど、ぼくにとっては、それらの債鬼の客も、一こう恐くも何ともなかった。何も知らない儘「今日は誰も留守です」とか「何日に来て下さい」とか云われた通りを云っていればよいのである。四人居た店員も、水野君一人になってしまい、その水野君も債鬼の恐れを感じると、外交そと歩きに出て晩まで帰って来ない。そして月末には、電灯が切られる。水道も止められる、といったような状態にまで来たが、ぼくの毎日にはいささかの禍福もなく変化もなかった。およそ尾上町の一年半ほど、ぼく自身にとって自身の好きな事がやれていた時期は前後にない。薄暗い帳場格子の中は、借金取にたいして録音されたような断りを云うほか、まったくぼくの小書斎となっていた。
 そこで、ぼくは初めて小説を書いたことがある。高島米峰氏主宰の「学生文壇」が創刊され、その二号に投じた小説が当選した。題はいま考えると、ひどく古風なもので、“浮寝鳥”というのであった。三、四十枚の物であったと思う。だが投稿規定に二十四字詰原稿紙何枚とあるのを見、その原稿紙を探してあるいたが、当時まだ横浜中にも原稿紙なる物を売っている店はなかった。やむなく二十四字詰二十行に自分でけいを引いてそれに墨筆で書いたのを覚えている。
 その頃、もう一つ非常な興味にふれた事がある。店の広告用原画の版木を、頼みつけの版木屋へ取りに行くついでに、新聞小説の挿絵が、どんな工程で出来るものかを、そこの木版師の仕事場で見たことだった。
 ぼくのよく覗いた真砂町の彫繁という家では、横浜貿易新報や毎朝新聞の仕事もしており、小川芋銭のコマ絵だの、連載小説の挿絵などを、いつも数名の木版師が手分けで彫っていた。当時、広告図案には、銅版がよく使われていたが、挿絵にはまだ凸版が用いられていなかったものとみえる。原画は薄い雁皮紙がんぴしにかぎられていて、桜の版木に直接ノリ貼りされた画稿の上から、小さいのみのさきが、一線一線絵を彫り起してゆくのだった。毎日のことだし、たいへんな苦労に見えた。――そしてすぐ翌日か翌々日には、それが小説と共に次々の紙面に掲載されて来るのを見、ぼくは印刷文化の構成やその中の小説欄というものに、何か、ものを知ったような気がしたものだった。

 はっきり何年何月から何月までという記憶が、ぼくの今にはない。が、自分の十七歳はまるまるそこで送ったようだ。そして誰の少年期にもあるように、尾上町時代のぼくには、尾上町附近での好きな少女の印象が幾ツかある。当時の横浜銀座ともいえるかねの橋のすぐそばに関川歯科医院というのがあり、そこの令嬢が夢二の少女みたいに見えた。又、馬車道から大江橋通りへ曲がった商店街の一軒に、老舗の履物屋があって、そこの娘も好きであった。恋などとよぶほどこっちも大胆ではなく、ただ町の柳の揺れまでが、やたらに少年の感傷を染め、未熟な詩心の眸をあやしく悩ませていただけにすぎない。
 素人しろうとの沙翁劇の会、源氏の輪講、句会、短詩の会、いろんな会へも、この頃はよく覗きに行った。鉄砲問屋の西村潤蔵君の北仲通りの家では、毎月読売新聞の句会があり、東京から選者の窪田而笑子がよく見えた。宮島ゆかり女史という青鞜社せいとうしゃの同人みたいな新しい女ぶッた令嬢も交じっていたり、何しろぼくの知らない別の世界の横浜では、一面において、そういう富める人や若いグループでの、強烈な物質外の生き甲斐も、渇望されていたように思われる。
 そして、短かったが、ぼくにとっても、尾上町時代の一年余は、横浜文化のそういう特異な面もちょっと嗅ぎえたし、書物にも親しめ、絵遊びも出来、感謝していい期間だった。
 けれど店も維持しきれず、すべてを負債の抵当に渡して、再び元の貧民窟へ舞いもどる間際には、相当、暗澹あんたんたるものが又、母の朝夕の姿にはうかがわれた。ちょうどその頃、母の父、ぼくにとっては祖父の、例の佐倉のおじいさんが、麻布竜土町の長男山上清の家で、臨終に迫っているという電報が来たが、店も家庭も、そんなさいであった為か、父のゆるしが出ず「……お母さんは、親の臨終にも行けない罰当りなんだよ」と、終日奥で泣いていた母を見た日がある。――今なら桜木町駅から東京へは通勤する人さえ多いが、その頃では、そんなにも東京が億劫おっくうな遠方であったのだろうか。それとも、父の得手勝手で母をやらなかったものだろうか。今なお、その終日の母の嘆きが耳底にのこっているので、ぼくには何ともその事は不可解で仕方がない。
 もっとも、尾上町を立退く間際には、水道料の滞納で、水道までよく止められたりしていた。そのくせ横浜気質かたぎというか、依然、金の出納すいとうなどは、荒っぽかったようでもある。ある時など、急遽、水道税を納める為、母から百円紙幣一枚を渡され、局へ駈けつけたことなどある。当時の百円は大金なので、わざわざ人力車に乗せられて行ったのだが、水道局の窓口に立って、いざ金を納めようと思うと、母から預けられてふところに持っていた状袋がない。俥屋も一しょになって、血眼ちまなこで探してくれたがついに見つからなかった。風の強い日であったのを覚えている。この時ほど、母に「困った困った」と嘆じられて、ぼくも共々色を失ったことはない。百円といえば浮沈にかかわる金であったかもしれないのだ。母が父からどんなに怒られたかは覚えていないが、何しろもうその前後は、せっかく尾上町へ出た機会も一瞬の望みに終り、再び暗い淵にむかって、母のあたまも乱れていたのかもしれなかった。

 古い西戸部という地名は、ぼくの頭には飢餓の辻みたいな印象を今ものこしている。尾上町から越した先は、また西戸部だった。家賃も物価も安くまわりも同格者ばかりなので、貧乏がしよいのである。
 母が「お父さんは、病気をしてもお金を持っても、ほんとに得手勝手な人だ」と云ったが、戸部へ引っこむと、父は又、急に病人臭くなった。のみならず、まもなく何度目かの潰瘍吐血をした。いま思うと、父はじつに感情家なのである。事に破れても、自分の中で穏健な処理がつかず、心身を労しきるのであった。母はまた、あるかぎりの工面を尽して、父の医療費にかけ、その間、住居も二度まで転々した。一度は父が「家相が悪い、ここにいるとおれは死ぬ」と云い出した為だし、次のばあいは、越してからわずか二た月の家賃が、もう払えなくなっていたので、家主に追い立てを食ったのだった。
 いまと違うあの頃の、家主の追い立てほど苛烈なものはない。特に、貧民相手の家主はむちに馴れているせいもあろうが、およそ獣でない人間であったら、野宿するまでも、そのねぐらを出てゆかずにはいられない辱めであった。ぼくは母と二人で、次の借家を、雨の日、探し廻ったことがある。何も、手分けして探せば、それだけ範囲も広く探せるものだが、傘が一本しかないのである。母は生れて二年足らずの晋を背中に負っていた。母は破れ洋傘のしずくで背の子を濡らすまいとするし、ぼくの肩も入れようとするので、自分は濡れ雑巾のようになっていた。
 ぼくは洋傘の柄を持ち添えながら、その日ほど、自分の母が世間の中で不運な人に見えたことはなかった。家の立退きを迫られている気もちは家がない事とちッとも変りはない。そんなせいもあったろうし、一日じゅう歩き暮れていたことなのだ、母の半生の歴史みたいなものが、小さい頭にぐるぐる廻りしていた。そしてもう何らのぼく自身の欲望は失われていた。ただこの母をどうかして一ぺんでも幸福にしてみたい気もちが無性に起った。好きな読書も画家志望も捨てていいとさえ思った。いやそんな考えも持たなかったろう。もっと本能的な動物でも感じるであろうような単純さで、「いまに、お母さんだって、世間の人なみに、こんな苦労のないお母さんにするよ、ぼくはきっとしてみせるよ」と心でつぶやいた。けれど、そういう思いも、ここにこう文字で書いてみると、何だか嘘が交じるようである。素朴といってもまだ当らない、原始的な肉親的感情といったら、やや正しいのかもしれない。

 雨の日、探しあてて、やっとどうやら借りえた家は、崖やぶまだらな中段に細長く建て並んでいる掘井戸のそばの一軒だった。
 長屋の名を「看視長屋」というのは、住んでから後で知った。戸部監獄があったむかし、看視が住んでいた所から起った名だそうである。およそ形容詞は要るまいと思う。
 三、四軒先の隣りに、留さんという労働者がいた。引っ越し蕎麦のお礼からすぐ懇意になり、ぼくは留さん夫婦の侠気で、留さんの仕事場へ働きに連れて行ってもらうことになった。
 早朝、誘いに来てくれた留さんは、わらじ脚絆きゃはんに、印絆纒しるしばんてんを着、真田紐さなだひもでしばった大きな弁当箱を肩に掛け、いなせなとびみたいな恰好していた。ぼくの身仕度にも、ああしろこうしろと世話をやき、自分で買って来た新しい草鞋わらじをぼくの足へ穿かせてくれた。「毎朝だからな、毎朝穿かせちゃ、やれねえぜ。覚えときな、英さん」と、いちど結んだをまた解いて、穿き方を教えてくれた。
 仕事場は保土ヶ谷だった。現在の工業地域が、まだ茫々ぼうぼうたる野水や見渡す限りな田や草原であった時代である。が、すでに巨大な化学工場や何に成るのか知れない煉瓦の高層な煙突工事が、所々に見られた。
 土工たちのコンクリート仕事にぼくの一日は預けられた。そこでの仕事は、大きい担い桶を天秤てんびん棒でかつぎ、小川の水を作業場へ運ぶことだった。一日何十荷の往復になるだろうか、夕方になったら、ぼくの肩は、そっと触っても痛いほどれていた。
 毎夕、三十五銭貰って帰った。
 その一ときのうれしさは云いようもないが、日がたつに従い、足の裏はセメントにむしばまれ、どうにも跛行を引かずにいられなくなった。もっとも常に足ごしらえがよければそんな患いもないのだが、草鞋を毎日新しく買うのも惜しく、又、買うにも買えない日の方が多いのである。朝、家を出るときから足拵えも心ぼそい支度で出て、途々、拾った草鞋の片方を片足に穿き代えたりした。
 そんな足元では、逞しい仲間からわらわれるのも当然だし、又仕事仲間としては、腹立たしくもなるのであろう、コン棒という物で二、三度なぐりつけられた事もある。
 でも、留さん夫婦の親切のてまえ、ぼくは雨の日以外は休みもせず通い続けた。それは何かに以前書いたから(文春・二十九年新年号「煙突と机とぼくの青春など」)簡単にしておくが、毎夜、家に帰ってから父母に黙ってそっと按摩をして歩いたのもこの期間の事だった。駄菓子屋で売っている三角袋の麦コガシには玩具の笛が附いている。あれを二本、木綿糸でしぼったのを、ふところに持って、人の知らない遠くへ行って流したのである。これは或る事情でまもなくやめたが、母だけは知っていた。なぜならその稼ぎの十銭か十五銭は、母に渡していたからである。
 それを済まなく思ったのであろう、母もまた毎朝、大福やあんころ餅を仕入れた箱を背負って、ぼくと共に家を出かけ、工事場で一日売りひさいで、夕方は一しょに帰った。仕入れ先は、高島町の河岸近くで、そのため朝は星のあるうちに家を出るので、殆ど寝る時間は少なかった。けれど、そんな事をしても、母と共にする眠たさや暗い道の朝夕は、何か愉しかった思い出として今も残っているし、その時にしても、少しも辛いとは正直思っていなかった。
 だが、母の餅売りも、結局は無駄骨折りに終ってしまった。なぜなら顔馴じみになると、貸しがつもり、貸したがさいご、それは容易に払ってくれないからであった。元より資本があってしたわけではなく、それも血の出るような無理工面で始めたのだから、忽ち元も子もなくなり、泣き寝入りのほかにはなかった。


木靴の仲間



 ぼくが横浜船渠ドックへ通い出したのは、保土ヶ谷の仕事も終りかけ、留さんもほかへ移ってからである。看視長屋からすぐ上の高台に、宏壮な一軒があった。内藤子爵の親戚とかで、おやしきと近所では呼んでいる。
 母がそこのお針仕事をさせて貰うようになったのが縁で、内藤氏の口添えで横浜船渠へ入れてもらえる事になったのである。内藤氏は、船渠会社の重役であった。
 父はたいへん歓んだ。ぼくもいい口があったと思った。だが、内藤さんのお世話という事が、過大にぼくら貧者の心理に僥倖ぎょうこうを思わせ過ぎていた。内藤氏の手紙を持って、初めて会社へ行ってみると、むずかしい試験もなく、ただ年齢を訊かれただけにすぎなかった。年齢は前以って、内藤さんから「十八歳と、ほんとの事を云ってはいけない。規則として二十歳以上だから、二十歳と云いなさい」と注意されていたので、その通りに答えた。
 するとその日から、即日職場へ就かせられた。「船具部」という所である。機械部、電気部、製缶部などの各職部門では、最下級の雑役部といってよく、体さえ強健ならば素人でもすぐ役に立つ部門らしい。しいて技術的な仕事といえば、船内船腹の塗工ぐらいなもので、そのほか、入渠船舶の出し入れ、船内船底のさび落し、製缶工などの足場懸け、ドック掃除、沖仕事、およそあらゆる入渠船舶の雑役は、みな船具部へかかってくる。
 その船具部には、百人以上の仲間がいた。一部から六部まで分れており、一組十七、八名ずつ配されて一チームになっている。能率を競わせる仕組みであろう、一組一組には組長、小頭こがしらがいて、職工長室の指令をうけ取って来ると、「今日は、何号ドックの入渠船のペンキ塗り」とか「ひるから誰と誰はランチに乗って沖の外国船へ入渠用意に行け」とか伝令する。労務時間は、朝七時から五時半までで、ぼくの日給は、四十五銭であった。夜業一時間二割増し、深夜業や徹夜はもっといい率に割増しがつく、入りたての一頃は、誰からもすぐ「幾ツだい?」とよく怪しまれた。人いちばい小さいぼくだったせいもあろうが、誰も二十歳とは受けとってはくれない。船具部中を見廻しても、ぼくみたいな小さいのは、ぼくだけだった。

 ドン(午砲)という言葉があった。「ドンだよ」といえば正午を意味し、「ドンにしようぜ」と云えば、昼飯にしようぜということになる。
 横浜の空にはその頃、もひとつ朝午夕の三度ブーが鳴った。サイレンとは云わなかった。「船渠会社ドックのブーが聞える」といえば、朝は七時、夕は五時半と極まっていて、全市の時計代りになっていた。
 菜ッ葉服やツメ襟やマドロス然たる数千の職工たちが朝々会社の正門へ流れこむ足なみは壮観でさえあった。七時のブーは就業令なので六時半前後が人海の汐ざかりである。五分でも遅れると、守衛口で遅刻を取られ、支払い日の日勤票には、ちゃんと半時間の割でも日給から差引かれてある。

 ドックの盛況か不況かは、横浜中の景気不景気にまですぐ反映した。会社の正門前に、ふつうの通勤工以外の自由労働者の大群が、毎朝まッ黒に見えるようなときは、一号二号三号ドックとも全部の竜骨キール台に入渠船が坐っていて、沖にも入渠待ちの内外船が混んでいる証拠だった。所謂、“ハマ景気”の活況時と見て間違いない。
 その臨時雇用の黒い群れは、ハマではかんかん虫とよばれていた。上は腰の曲がったお婆あさんから幼は十四、五歳の少年少女までをふくめてい、かんかん虫には余り屈強な壮者はいなかったようである。何しろそれら異様な細民群の稼働かどうが、波止場や桟橋や沖の船にまで雲の如くウヨウヨ充ちていた頃が、貿易港横浜としてはその最盛期であったといえよう。

 かんかん虫という呼称は、ぼくには少しもユモラスには聞えない。反対に、エキゾチックではあるが何か灰色の哀感とそして弱々しい明治世代の訴える“うたごえ”も持たなかった細民たちの無数の顔が、華やかな港の灯を背景として、うかんでくる。
 彼らの仕事は、船のサビ落しと云われているが、ダンブル掃除や貯炭庫の闇や船底の水槽洗いや、およそ船鼠の出入りするような個所へは、どこへでも仕事に追い込まれた。塗りたてのペンキにまみれたり、鼻の穴から肺の中まで粉炭で黒くしたり、セメント箒とセメント缶を持って、船員でも知らないような最船底部の穴から穴へと這いこむのであった。
 だから仕事も終って、黄昏たそがれの陸へ上がって来る個々の彼らは、まっ黒と云っても判じ物と云っても当らない程、どれもこれも奇妙奇怪な顔して目鼻が分るだけである。だが工場裏の排水管の湯煙りにむらがって、その顔や手足を洗っている群れの中には、汚い頬被りが取られる下から、き卵みたいな可憐な少女の顔も見えたり、初々ういういしげな人妻らしい、ほつれ髪の顔もあったりするのであった。もちろん大多数はそのまま百鬼夜行の行列になりそうな雑多な男共だが、それにしてもこの仲間には波止場ゴロだの凄い乱暴者は皆無といってよかった。なぜならかんかん虫クラスの日当は標準以下の安いものだからである。
 が、この零細な老幼男女の雲集も、稼ぎとなると馬鹿にできない。夕方の露店や場末の灯をうるおすことは大変なものだった。家に待つであろう者の為に、経木で包んだ安魚を持ったり、菜漬をブラ下げたり、米屋へ立ち寄っていたりする人影を見ると、ぼくには他人の生活とも見えなかった。おなじ険しさをよじ登る同行者に思われた。
 それにまた、当時ぼくの通勤し初めた横浜船渠の船具部という職場が、ほとんど彼らと隔差のない姿や範囲のものだった。違っているのは、彼らに期待できない危険極まる随所の足場仕事だとか烈しい重労働だけである。要するに会社常雇のA級かんかん虫が船具部であるといってもよい。

 一万トン級が入る第一号ドックを前にして、職工長やパイロットがいる事務所があり、それに隣してトタン屋根の船具部があった。朝夕、百何十人が工服に着更えたり弁当に帰ったり、冬なら大きなペン缶にたきぎを突ッ込み、お手の物の油脂をぶッかけて、炎々濛々もうもうの中で各班の馬鹿話やら喚きが詰め合っている職場小屋である。まあ炭礦の飯場小屋といったような光景だろうか。
 山の労務者と一見違う所は、その服装と特有な気質であろう。入渠船のペンキ塗工はすべて彼らの手に成るので、工服は一人残らずまだらで色さまざまなペンキの粒子を染め重ね、それがゴワゴワに硬ばッて、乾漆かんしつみたいになっている。――※(二の字点、1-2-22)たまたまその仲間へ入ったばかりの、ぼくの菜ッ葉服などは、余りにきれいなので肩身がせまく、人知れずわざとペン刷毛はけで黒ペンや赤ペン白ペンなどを服地へこすりつけて、一目で新米しんまいとわかる身なりから同化しようとしたものだった。それに例外なく木靴きぐつというものを穿いていた。木靴については後で語ろう。
 全員は六班に分れていた。ぼくは第六部に組み入れられた。六部の組長は猪子三郎氏といい、この人の名は忘れられない。後で思えば侠気のある物分りがいいこの組長の下なればこそ勤まったようなものである。
 だが、ほかの連中も、外国船や下級船員に接したり、ハマ特有な気質に洗練されていて、どれも愉快な仲間だった。そして親切であった。ほんとは十八歳でしかないのに年を偽ってこの逞しい仲間に入ったぼくだったが、それと明らかに知っていても、ケチな意地悪などされて泣いた例は一度もない。特に六部の仲間は、自分たちが必然労力のワリを食うわけだが、皆してぼくをかばってくれる風であった。

 パイロットの乗りこんだランチが沖から入渠船を曳いてくる。ぼくらは待ちうけてロップを取り、ドックに入れる。そして閉じられた渠中の海水が電力で排水され尽し、巨大な船底が竜骨キール台に坐るまで約三、四時間はたッぷりかかる。
 神経質なほど注意深いパイロットの間断ない呼子笛と指揮の下に、その間の全操作と、船体定着の作業は、すべて船具部が総がかりでやる。その烈しさといったらない。まるで戦場の血相と騒ぎだ。この間にまごついてなどいると、仮借なく、がなりつけられる、張り仆される。
 船の巨体が漸次、沈下してゆく機微な瞬間に、ドックの石段側と船腹へかけて、車のついたロップを用い、船体の不動を保つ為のツチとよぶ巨材を何十本となく丸木橋のように横へ支え渡すのだった。そして船底が竜骨台に坐るせつな、全員で石段側のツチの根本に分れて立ち、二人ずつ向い合って、大きなハンマーで一せいに欅板けやきいたの締め木を打込む。それは舷頭からパイロットが吹く呼子笛の一声一声の下に、全員のハンマーが鳴るので、一種何ともいえない音響をもち、ドック中を震撼する。
 終るとすぐ、一枚の締め木を持ち、片手には重いハンマーをさげた工員が、石段側からツチの上を猿走りに渡ってゆき、船腹とツチとの[#「船腹とツチとの」は底本では「船腹とツチの」]間隙に、その締め木を打込んで帰って来る。ツチはおよそ電柱よりも一廻り太い巨材だが、角に面をとってあるのもあり、中には殆ど丸材をハスッた程度の物もある。その上を、われら船具部の連中は、木靴で平地を行くように渡るのである。ドックに水のあるうちはまだいいが、排水がすむと、下は何十フィートか知れない眼がまわるような深い石だたみだ。ぼくは初め、彼らの命知らずな作業を見て、見ているだけで足がふるえた。人間わざに見えなかった。けれどやがてぼくも同じことをしなければならず、いやおうなくやらせられた。

 恐い仕事、危険極まりない作業はツチ渡りだけではない。ダンブルの中の暗闇仕事、製缶工の手伝いや何かでマストや煙筒へよじ登るばあい、一本のロップにすがって船のトモからスクリュウへ降りたり、ぶらんぶらんする足場板に乗って競技的に船腹塗りのレッド・ペンキにまみれる時など、ぼくの体躯にはすべて過重な労働である余り無我夢中でやってはいたが、ふと生命の戦慄に足もすくんでしまうことは一再でない。毎日が命がけだった。
 だからふと、朝、家を出るときなど、「――夕方にはこの家へ帰って来ることができるか、どうか」と、よく思ったりして出た。わけて冬中は、まだ暗いうちに戸部の横丁から霜を踏んで出るので、そんな感傷がよけい胸をついた。
 組長の猪子さんの家は、どこか近所だったとみえ、よく途中で会った。この人に声をかけられると、ぼくは勇気づけられた。伝法でんぽうな口調で、通勤にはツメ襟の堅い身なりをしていたがいなせな肌合いの人だった。酒とばくちが好きで、給料日から二、三日は必ず欠勤し、細君が見つけに歩いて、泥酔している猪子さんを往来端で見つけ、炭屋の車に乗せて自分で曳いて帰った、というような話を、職場小屋の昼休みで聞くのは珍しくなかった。
「どうだい。勤まりそうかい。ベソを掻いちゃいけねえぜ。まアいいやな、六部に居りゃあ」
 途々そう云ってくれたりした猪子さんであった。だが、職工長や技師にはよく突ッかかるというので、六部の組長中では、猪子さんがいちばん会社側のウケが悪いのだそうであった。

 六組の班と班とは、自然その仕事を実績上にきそわすような仕組みに出来ていた。で、ぼくといえ、いくら組長が庇ってくれても、それに甘えている事もできなかった。
 だが、何にしても、ぼくは力がないし体躯も小さく、たとえばツチの巨材をチェンにかけて、前後四人で担ぐにしても、相手が腰を切ッても、ぼくには腰が切れない、又、よろけ勝ちになるなど、歯をくいしばッても一人前には出来ない事が多かった。だから使い走りでも個人の用足しでも、何でもして、償いをつけていた。
 雨の日は、船内仕事か、外部にしても、ドックの底の真っ暗な船底のサビ落しなど、比較的らくな作業が多かった。
 そんな日、ハッチからダンブルへ入って、足場板に腰かけ、蝋燭ろうそくの光で、かんかんハンマーで内部の鉄板を叩いている仕事はのんきであった。監督が来る時だけやっていればいい仕事のようにみんな怠けあっていた。ぼくはいつもポケットにしている袖珍本しゅうちんぼんの芭蕉句集を出して盗み読みした。また、作句したり自由な空想に愉しみけることができる。
 船艙も石炭庫だと、無数の小ハンマーの響きで、暗い上にも更に粉炭の闇が濛々と厚くなった。空気がチリチリ燃え、手元の蝋燭の焔に、のべつ微塵みじんのような火花が咲く。それと音響とで、一種不思議な幻覚の世界が感じられるのだ。かさかさな鼻腔の奥を鳴らしてカッとたんをすれば、石炭を溶かしたようなものが口から出るし、うっかり蝋燭の火で煙草をつけようとすると、(ぼくは十五、六から喫煙癖にそまっていた)顔じゅうにたかッている粉炭へチリッと燃えつきそうになる。
 それでもなお、ダンブル仕事は、よかった。自由な空想が愉しめるからである。ドックの一年何ヵ月が勤まったのは、ぼくに空想癖があった救いといっていい。そこの闇黒が苛烈なほど、自分を置く空想の世界は甘く、夕方の退けのブーが聞えてくるのも、いつの間にかのような気がした。

 夜業は任意な日もあるし、強制的な時もある。
 冬の夜など、乾いた事のないドックの底での居残り作業は、零下何度なのか、陸では知らない寒さだった。
 しかし技師や監督も見廻りに来なくなる夜半過ぎになると、彼らは適宜に暖を取りに上がって行ったり、蝋燭の灯を寄せて、ばくちの盆ゴザをこしらえ始める。二個のサイコロを誰かは必ず内ポケットに用意していた。船底とかぎらず、沖仕事に出ても、途中のサイパン船上ですら、上役の眼さえなければ開帳する。
 ぼくはよくその仲間から立番を命じられた。後では五銭玉ぐらいを誰かがくれる。けれど度々のうちには覗いてみたくなり、すぐ彼らの熱中する理由と丁半のルールも分った。恐々こわごわ何枚かの銅貨を手にしてそっと仲間のコマと一しょに張ることも覚え、いつかぼくも機会があると人なみに顔の中へ顔を突っ込んでいた。するとある折、綽名あだなをバテレンとも神父サンとも呼ぶ髯面ひげづらの老工員が、ぼくを上眼うわめごしでジロと見、「よしな。おめえは」と、ぼくを睨んだ。それから夜明け方、小屋へ引揚げてゆく途中で又、ショゲているぼくの肩をその人が叩いた。
「あんなこと、覚えたって、しようがあるめえ。おれみたいに成ッちゃうぜ」
 小屋へ戻ると、彼はぼくに一そくの木靴をくれた。それまでぼくはみんなの穿いている木靴を羨ましいとは思ったが、革靴のように売ってもいず、手に入れる工夫も知らず、始終、水びたしの足に、ただの破れ靴か草鞋しか穿いていなかったのである。

 小屋の仲間は、雨の日とか、夜業の夜には、暇を盗んでよく手製の木靴を作っていた。
 どこからか杉材を見つけて来て、足型ともん数に合せ、なたのこや小刀で、まず靴の底から作り初める。サンダルの底部と思えば間違いはない。
 皮革の部分はズックで作る。これはロップ小屋などから持ち出してくる。そしてブリキ板を細い帯状に切り、木の底部のふちとズックの被包面との継ぎ目を縫糸の代りにびょうでトントン打ち止めるのである。紐通しの穴金具は、これは靴屋で買っておく。――それでもう穿けるのだが、なお防水の為に、ズックの面をお手の物の油脂で塗りたくる。案外丈夫で、何よりも足がとても暖かい。だから船具部ではこれを穿いていない者はない。足だけ見ても、あいつは船具部だなと、ひと目で分った。近頃はどうか知らないが、木靴にペンキの乾漆服という妙な恰好の工員はドックにだけしか見られる風俗ではないかとおもう。
 帽子もペンキが積もってがまの肌みたいになったのを皆かぶっている。船腹塗装を終日する日などは、足場の上はいつも風が強いので、ペンキ刷毛の先からテレビンの飛沫が吹きかかって、睫毛まつげもくッついてしまったりする。夕方は顔見合せて、相互の姿をお笑い物にして笑うのだった。
「この顔、女房子に見せたくねえナ」と、誰かが云えば、「彼女あいつに見せたら何というだろう。おれは税関の倉庫係りという触れ込みになってるんだが」と、ボロに浸したテレビン油で顔をこすっている男もあった。

 いずれ遊廓の女か何かであろう。よく通っている先の女のおのろけを始終自分から云い出しては、からかわれると、それで満悦している森公という小男の工員がいた。勘定日(月二回の日当支払日)というと、それから数日間は極まって休む。取っただけを女のもとで費い果すと、また出て来て次の勘定日までは欠勤なしに働きつづける。森公はまたすこぶる達者で病気一つしたためしはなく、十年一日の如く、その生活定石じょうせきも崩したことがないという。
 だから皆から小馬鹿にされていた。けれど六部では一番の古顔だそうで、通勤にはいつもチックで入念に髪を分け、悪くとも背広は着ていた。どうかすると細いステッキを伊達だてに掻い込み、独りニヤニヤり身で帰りを急いで行くことがある。「行くのか」と仲間からからかわれると、ぼくより背の低い体を反らして「もち!」と得意になっていう。「あいつはもう四十六、七だぜ、一生ドックの古顔で、一生真金町(遊廓)へセッセと運んで行くんだなあ」と、仲間の誰かが云っていた。
 彼の如き独身者は稀れで、女房持ちの方が多かった。十年二十年の勤続者も少なくない。毎日がこんな危険な仕事なのに、よく長の年月、怪我も死にもしないものだと思われた。会社の弔慰金などは雀の涙ほどしか出ない。泣き寝入りというよりは労働階級全般が今日のような自覚も組織も持たなかった時代である。あとの女房子はどうなるつもりで皆いるのだろう。この船具部もふくめて全工場での死者怪我人の数を統計にとれば、年間たいへんな数に昇るにちがいない。
 どうかすると一日に二件も三件も医務員の白服と担架の列を見る日がある。さすがそんな時だけは、ドック内も一瞬シュンとなって「今日は悪日あくびだぜ、気をつけろ」などと云いあうが、一時間もたつと忘れてしまう。もっともいささかの恐怖でも念頭にあったら、船具部の仕事などは半日もやってはいられない。
 そういう地獄の一丁目と普通世間との門を、二十年以上も朝夕のブーを耳にしながら通っていると、森公のような人生観に到達するのは自然かもしれなかった。人は森公を嘲うが、案外、森公の諦観は、ほかの女房子持ちの多くの仲間を憐れと観ていたのかもわからない。

 多くの話題は、職場小屋に全員が集まる昼休みの三十分に沸くのだが、ここでも食い物に次ぐのは猥談であった。森公は甘ッたるいおのろけを眼を細くして云うロマンチストに過ぎなかったが、ほかの連中の猥談というのは、そんな程度のものではなかった。ぼくは幸か不幸か年少から書物を通じて大人たちの秘戯の世界をもう想像の上では充分知悉ちしつしていたつもりであったが、この人達の猥談に依ってさらに啓蒙を深められたことだった。彼らのする猥談は、小咄こばなし的なニュアンスも何の洗練もあるわけではない。事実の報告ならその事実性を、露骨なら露骨に徹した猥行為の打ち明けばなしである程、話題を囲む連中の傾聴と喝采に値した。
 ここに到って、ぼくなどは心ひそかに、まだ自分の未知な未経験な大人の別生活があることを今更のように思って、つばを呑みつつ聞き耳たてたものだったが、しかしその影響が後頭部に幾日もこびりついているような影響は覚えなかった。いや就業のブーに追われて小屋を出るやいなや吹ッ飛んでいたのである。また、かつてはぼくも自慰を覚えて、反省と自己の破れの繰返しに憂鬱がちな日もあったが、ドックの重労働を課せられてからは、全く意識せずにその悪習も忘れていた。家に帰って空腹を充たすと、疲労しきった肉体は、ぜいたくな夢想をえがく瞬間もなく、眠りへ直行してしまうのだった。
 だから――と云って、ぼくの例では適切でないかもしれぬが――猥談の常連みたいな他の大人達も、じっさいはそれ程な猥漢でもないし行為はしていないのではなかったろうか。毎日の職場が一歩あやまればドックの底に落ちて脳骨もみじんとなるような死か生かの奈落を覗いている仕事なので、彼らといえ前夜の不摂生や体のコンディションには非常に細心なのであった。仲間の者の事故を聞き知っても、その者が日頃そうした注意に無頓着な方だとすぐ「ゆうべのせいだろう」と冷笑したりするのである。命知らずに見えながら肌には“お守り”なども人知れず持っている彼らであった。


浜ちゃん



 ドックの勤めだけは辛かった。毎朝の足が重くて、一朝とて元気に家を出られなかった。けれど依然貧乏やつれの母を見ると、そしてその母がお弁当をつめ、子のぼくにいそいそ心をつかって、送り出してくれたりすると、やめたいやめたいと思いながらも、口には、云い出せなかった。
 いつか、半年以上も勤めた。ぼくは十九になった。その年の五月である。四女にあたる妹の浜子が死んだ。浜子の死ほど一家の者に深い痛恨を刻みこんだものはない。

 浜子はわずか九歳だったが、数ヵ月前、房州の田舎町の飲食店へ奉公に出されたのだった。当時の貧乏人の家庭では、単なる口減らしという目的だけでよく子供を外へ出す手段をとったらしいが、そんな幼い者を、どうして房州へなどやったのか。母は、後では悔みに悔んで泣く泣くぼくに打明けたが、どうしても十五円程の必要に迫られ、先はよい主人という口入れ屋の話に乗って、前借の為に手放したものである。
 浜子は人形のように色の白い端麗な子であった。貧窮の中で物心のついたせいか賢い子で母思いだった。遊びたい盛りなのに小さい心を母と一つに貧苦して来た。だから母の側を離れるさえ嫌だったろうに、遠くへと云われても、「……うん」と云ったのだろうと思う。
 行った先の主人の話では、着いた日から御飯もろくに食べず、泣いてばかりいたらしい。そのうちに床についてしまった。医者にせたが、たいした事もないと云う、けれど次第に痩せ細るばかりなので――と、親元へ帰してよこしたのであった。
 家の中へ寝かせたとき、もう意識はなく昏々こんこんとしていたのである。医者は脳膜炎と診立てた。氷嚢をあて、半月程もその儘であり、母は枕元で詫びてばかりいる。母も狂気しはしないかとぼくはおそれた。ぼくもドックから帰ると浜子の枕元に坐りきった。まるで天女てんにょみたいな愛くるしい顔しているのだ。自分の肉親をこういうのも変だが、浜子の顔ほど汚れない美しさを、ぼくは生きている人の中では見たことがない。意識がなくても今は母のそばへ帰っていることを安んじているのだろうか、清々すがすがと昏睡しつづけている。真夜半頃になると、ぼくもそうだったが母も自然なようにその顔へ手をあわせてただ拝んだ。時々微かに囈言うわごとを洩らすのである。囈言はかならずおっ母さんと呼ぶらしかった。そのたびに母は浜子を抱いて慟哭どうこくした。そして、すやすやとそのまま亡くなってしまったのである。

 浜子の死については、今でも思い出すと悔恨といたましさに、ぼくは胸がふさがってくる。五月十三日という命日まで忘れえない。どうその頃の人の矛盾や救いのない貧乏の沼を察しても、今からでは理解できないものがある。口減らしなら口減らしの他の策も、切羽せっぱつまった必要ならその必要の算段にはほかの考え方もあったろうにと、ぼくは浜子の死後、腹立たしさに、母にさえ何か喚いた覚えがある。が余りそれを云うと、母は当時身投げでもしかねないような容子であった。こんどはそれを惧れたこともぼくの記憶に消し難い。
 運命は悪戯者いたずらものというが、こんな弱者の家庭へも同じに見舞った。皮肉にも浜子の死後まもなく、ちょっと家運が開けた。どういう金が入ったのか、家はかねノ橋側の吉田町二丁目へ引移った。このさいの経過は、日々ただ眼をつぶって、辛いドック勤めをつづけていたぼくには、よく分っていない。
 吉田町の家は、繁華街のすぐ横で相当な構えの家であった。だからぼくは今度こそ父に申し出て、ドック勤めはやめたいと、ひそかに折をうかがっていた。そして東京へ出て、苦学したいのが、真意であった。
 ところが、その希望をつよく両親へ云い出しえないでいる前に、ぼくは船腹のペン塗り仕事の最中、仲間の者の過失からドックの底へ、足場もろとも落されて、野毛山の十全病院へかつぎこまれる身となっていた。


十九の朝



 その日ぼくは、ドックの底から担架でかつぎ上げられて、野毛山の十全病院へと運ばれてゆく間に、いつか意識を失っていた。何分か何十分かは、完全な仮死に落ち入っていたわけである。

 病室の白いベッドに気づいてからも、どんな手当をうけたのか、ぼくをめぐっている人々が、いかなる会話を交わしていたのやら、当座も今も、全く何の記憶がない。ただ全身のいたみを歯の根と指に握りしめて、どこにもぬくみのない硬ばッた四肢を慄わせて居ただけだった。
 頭のしんには、いつまでも、ドックへ墜落したせつなの、グヮンという衝撃が、そのまま詰まっている感じで、幾日も止まった時計のように頭脳の働きをしなかった。だから得難い経験を通っていたのに、仮死から蘇生そせいの前後は、やはり夢中であった。後の生涯のしになるような何も掴んでいなかった。のみならず、その日が何日であったやら日まで忘れてしまっている。唯、十一月の末だったことだけは確かである。
 もし自分に日記をつける習慣があったら、きっとその事は多分な感慨で後に書きとめておいたろうが、ぼくには以前からそういう記録癖がちっとも無かった。今でもそうだが、ぞろッぺな一面がどこかにあった。というよりも、そんな貴重な試煉に会っても、それを契機に青年なら青年なりの生命観に触れてみるとか、生涯のエポックとして考えるとか、というまでの自己直視もまだ持っていなかったものだろう。年は十九にもなっていたのだけれど、一こうなおまだ“あんにゃもんにゃ時代”の殻を脱け切れていないうち、この奇禍にって、茫然と、薬びたしのわが身を、白いベッドの中に見出していたというのが偽らないぼくの気もちやら姿であった。

 もちろん三等室である。だが、六畳間ほどな一隅のベッドは、ぼくだけの物だった。いつ眼をさましても白い看護婦の姿が見え、瀬戸の火鉢には湯がチンチン沸いていた。一種のしじまが、重傷患者の気もちを、やがて、すっかり落着かせてくれた。
 朝々の廻診が来るたび、左右から看護婦たちの白い冷たい指先が、ぼくの胸をはだけ、胴中から腰全部にわたる繃帯を解いて行った。いちばんひどく打った個所は※(「骨+低のつくり」、第3水準1-94-21)びていこつの辺で、肩や右腕の怪我は、さしたる事もないらしかった。副院長は、ぼくを眼鏡の下に見て云った。
「うまくちたな、こんな程度ですんだのは奇蹟だ。命びろいしたんだよ、君は」
 ぼくは羞恥はじらいで顔をまッ赤にしていた。医師へではなく、ぼくの腰やら胸の肌をいたわりつつ仕舞ってくれる看護婦たちの白い手に対してである。こんなさいの、瀕死ひんしにちかい意識すら、昆虫の触角みたいにふるえるのだった。そして、自分の肌の汚さが案じられた。頭髪の根には鉄サビの粉を沈めていないか、どこかには赤ペンキの汚染を残しているだろうになどと、ひそかにコンプレックスに身が縮む。そのくせ、彼女たちの些細ないたわりや優しい眼ざしにもすぐ心が鳴って、何か、ここのいこいが、愉しくさえ思われた。そしてようやく、この患者は、廊下を行き交う人の声にも、廻診と一しょに朝夕入って来る白粉や髪の香のほのかな物にも、鋭敏になりつつあった。

 どうして墜ちたのか、奇蹟的に助かったか、前後の事や、せつなの記憶も、やがて徐々に、よみがえって来た。
 船具部の仲間は、その日全員で、一号ドックに入渠中の一万トンちかい欧州航路信濃丸の外装塗工にあたっていた。
 船腹上部の黒ペン塗りが終り、吃水きっすい線部のオートライまで吊り足場を下げて、船首からともへわたる数十組の足場足場の工員は、熟練した動作で、レッド・ペン缶を片手に、迅速な仕事を争っていたのである。
 午後の三時半か四時頃であったろうか。巨大な船腹は塗りたての赤い液と西日にギラついていた。だが、ドックの底は、もうほの暗く、所々に薄氷が光って見える。当然、夜業になるらしかった。
 足場は、尺板二枚を並べただけの物にすぎない。両端を枕木で締め、ロップ車が附いている。そのロップは、船の上甲板に結い附けてある、も一つの車を通って、ドックの宙から陸へと長く渡してあるのだった。陸のくいは、文字どおりの命の綱の根本なので、頑丈にできている。高さ三尺ほどで頭の丸い、鉄製の太い杭だ。ドックではそれをミットとよんでいた。
 ミットの頭には、鉄のこうがいが横に出ている。足場綱をゆるめて、船腹の足場を下げるさいに、過って、ロップがはずれない為にである。ところが、その日は、手不足であったのか、陸のミット番に、船具部以外の人まで狩り出されていた。
 さっきから、ぼくの足場と、ぼくの仕事の進捗しんちょくを、陸から見ていた倉庫係の平井という老人が、ぼくのペン刷毛が、さいごの僅少な面を塗り終るか終らぬうちに、
「下げるぞう。つかまってろ」
 と、うしろで呶鳴るのが聞えた。
 ぼくは慌てて、足場板の中ほどから、端へ駈け寄った。風にさえ、すぐブランブラン揺れる足場だし、歩くと、上下にもしなうので、自然、その上での動作は曲芸師の身ごなしが身につく程なものだった。――平井老人は、ぼくが端へ寄ってロップに掴まったと見たか、陸の上で、もう足場綱の端を、徐々にゆるめ出していた。いや、その一瞬に、足場板もろとも、まッ逆さまにぼくはドックの底へおとされていたのである。高さは約四十フィートぐらいだったかと思われる。もし、体を振り落されていたら、宙をもんどり打って、当然、頭蓋骨を粉な粉なにしたであろうが、幸いに、ぼくは足場板の端と一しょにどんと腰を打ッて、一度、弾み上がり、そして転がるさいに、肩や脚そのほかを傷めるだけですんだのだった。といっても、とたんに、気を失ってしまったのはいうまでもない。

 たちまち駈け寄って来た人たちの声が耳元ではあるが遠くに聞えた。ぼくの体は人々の手や肩で、ドックの胸突きのような石段を担ぎ上げられているらしい。ふと、その間にわれに返った。そして自分の体を見た。胸も手も、ほとんど全身が血に見えた。
 血と感じたとき、ぼくは又、失神状態に落ちてしまった。それきり何も後は知らなかった。後で考えると、血と見たのは、手に持っていたペン缶のレッド・ペンキを満身に浴びていたものだった。ちょうど、夕陽の頃だったから、開いた瞳孔に、その赫光かっこうも手伝って、頭からの鮮血と思われたものにちがいない。
 また、過失の理由も、後で聞くと、こうであった。寒いので、平井老人は、手袋をしていた。船具部の仲間なら、そんな事はないが、係りは倉庫番であったし、年もっているので、足場綱が、杭の肌に火の匂いを出しつつ、キ、キ、キときしみ出すと、もう食い止める力もなく、思わず手を放してしまったらしい。――もっとも、そう成ってから、なお踏ン張ろうとすれば、足場の下降する勢いで、逆に自分の体が、ドックの巨口へ引き込まれてしまうかも知れないから、しまったと思っても、ロップを放さざるを得なかったわけである。
 ぼくの奇禍が、この人の過失と聞かされて、後では妙な気がした事だった。まだ会社へ入りたての頃である。ロップ倉庫の前で、その平井老人が、ぼくを見るなり「おや、アスアかと思ったぜ、よく似てるなあ」と大ゲサに眼を丸くして云った。その後も「おめえ、アスアに似てるぜ」と、ぼくを見るたび云うのである。気になって、アスアって誰? と仲間に訊いてみたら、以前、三部にいたが、製缶工の手伝い仕事で、艫足場から墜ちて即死した混血児だとの事であった。
 それから変に、平井老人の青ぐろい皮膚や出ッ歯が、ぼくには、不吉な象徴に見えて仕方がなかった。先でもぼくを嫌ッていた事だったろう。とにかく、どっちも虫が好かない風だった。でも、こうなったので、或る日ドックの帰りに、いちど病院へ見舞には見えてくれた。しかし何を云って帰ったか、何も耳に残らなかった。

 患部の痛みはべつとして、ぼくは毎日のベッドに退屈も知らなかった。
 朝晩のドック会社のブーは、ここの窓へも聞えて来る。ブーが鳴っても、あの鉄の門へ急がなくてもいい。木靴を穿いて危ない軽業師のような労役に就かないでもいい。そう思うだけでも、偶然な幸福に見舞われている気がした。事実、こんな安息は、何年にもなかった事だ。何もしないで、温かな食事を看護婦の手で給仕され、本も読めるし、自由な空想も描いていられる。嘘みたいな、昨日と今日の違いだ。災難だった、気の毒だったと、人の云ってくれるものが、自分にとっては、逆にこんなにも密かな愉しみだったのである。

 そこへ運び込まれた日、誰より先に、色を失って、駈けつけていたのは、母だったにちがいない、その母の姿さえ、二、三日は、はっきり意識にうけとれもしなかった。痛い痛いとばかり訴えていたらしい。だが、漸く容体の快方が見えてから、母は或る折、今度の事では、あのかたくなな父さえ、どんなに吃驚びっくりしたかという事を、ぼくの枕元へ身をすり寄せて話した。
「――あの日、会社のお使いが来て、おまえが、ドックへ墜ちましたっていう、知らせじゃないの、お母さんも、台所にいて、そのまま腰が抜けそうになったけれど……お父さんも、あの日ばかりは、何ともいえない顔をして、腹のそこから云ってたことよ」
「お父さん、なんて云ってた?」
「ああ、男の子ひとり、なくしてしまったか……って」
「ぼくが即死したと思ったんだね」
「そうよ、それやあ、お母さんだって、どきッとしたわ。病院へ来てみるまではね。でもまだ、あの日一晩中は、お母さんが枕元に附きッ切りで居たのを、おまえは全く知らなかったでしょう」
「知らない」
 ぼくは首を振った。そして、又すぐ、
「……すこし、知ってた」
 と云い直した。
 当時の事も、てんで記憶には少ないのに、母の印象や、母と二人きりで居たときの場合は、こんな些末な会話の端さえ、ふしぎに今も鮮やかなのである。ぼくにとっての母は、たしかに恋人以上な何かを持っていたのだろう。特に又、この病室での印象が濃く残っているのは、その折母がぼくに向って、父の前では見せてくれない愛情のふところを大きくはだけて、ぼくの顔を添え乳してくれたむかしのように、抱きしめてくれたからであった。
 そして、そうしながら、母はぼくの耳元へ囁いた。この折の母の息の香や肌のぬくみは、十九の子にも永遠に忘れられないものだった。ぼくの生涯に大きな転機と勇気をそれは与えてくれた。

ひでちゃん」と、母はぼくの顔を抱くようにして囁いた。「――ね、英ちゃん。体が癒って、この病院を出たら、どうしたいと思っているの。十九だものね、あんたも」
 ぼくは甘えた心地で眼をつむッていた。尾※(「骨+低のつくり」、第3水準1-94-21)骨の辺がまだズキンズキン痛かった。退院後の事など何も頭になかった。体の恢復は、ベッドの安息所から出て、再びドックの冬風や家庭の貧苦に当ることを意味するのだ。ここを出てから先の事を考えるのは、空恐ろしい気もちもあった。
「ねえ、……またドックへ勤めるのは、あんたも嫌なんでしょう、辛いんでしょう。お母さんは、こんな事のない前から、毎朝のように、おまえのお弁当を詰めるたびに思っていたの。あんな危険な勤めは、どうかして止めさせたいし、おまえも、年頃だしと思って」
「だって今、ぼくがやめたら、困るだろ、お母さんも」
「それは困るけれどさ。こんどこそ、病院を出たら、思いきって、お父さんにお云いなさい」
「なんて?」
「いつも、胸に思ってることをさ。……あんたの望みをね」
「東京へ出して勉強させて下さいって云うの」
「ええ。お母さんも、それとなく、お父さんに、おすすめしておくからね。お父さんも、こんどの事では、ひどく感じていらっしゃるから、きっと、ゆるしてくれますよ」
「けれど、ぼくが居なくなったら、お母さんだって、心細くない」
「もう、家の事は心配しないで……。お母さんの事も。……それより、おまえは、もう、おまえだけの方針を取って、苦学するなり、東京で働き口をみつけるなりしておくれ」
 母は、そう云って、急に、あらたまった口ぶりで、
「有難うよ。……英ちゃん、長い間、よく働いてくれたわね、もうおまえは、おまえの道を進まなければ」
 それから十分か十五分後に、看護婦が昼の食事か何か持って入って来るまでは、ぼくは母の胸から顔を離さずにいた。看護婦の山田さんに、母はいつも何か心づけの物を持って来ては、息子のみとりを、心から頼んで帰るのだった。吉田町の家へ移ってからも、家計の内面は依然火の車だったろうし、父の性情も急に変ったわけではないから、病院へ来ても、その後は、母も顔を見るだけで、いつもせかせか帰りを急いだ。けれど、それっ切り何も云わなかったが、母の気もちと、ぼくの心は、ここを出ないうちに、かたく極まっていた。
 退院したのは、十二月の末だった。
 さすが、ぼくの健康で家に帰った姿を見ると、父も「よかった」と何度も云って、しんから欣しそうだった。
 その機嫌をはずさないうちにと、その日か翌日のうちに、ぼくは改まって、父の前へ、日頃の希望をのべてみた。ドックで死んだと思って、ぼくに暇を下さい、東京へ出て、苦学します。そして、職業に就いたら、一家を迎えて、東京で生活するような方針を立てますからと、必死な決意が、自然、大人びた口吻ともなって云った。
 案外、父はかんたんに、「うむ、やってみるさ」と云った。決して、いい顔つきでもなく、うめきみたいな返辞だったが、「苦学か。まあ、苦学もいちどは、やってみるといい」打っちゃるように、ゆるしてくれた。
 苦学とか立志とかいう文字が、青年の脳裡に強い意欲と夢をもたしめていた時代である。父は、ぼくも流行青年病の一人と見ていたものだろう。その点、娘時代を近藤真琴の塾で育てられた母とは、違いがあった。芝新銭座の近藤塾に勉学していた沢山な若い人々の夢を、母は娘時代に知っていた。だから、子のぼくが、十九ともなり、十九の年も、終りかけている今を、父以上、本気になって案じていてくれたかと思われる。
 こればかりは忘れはしない、年暮の三十日であった。ぼくは生れて始めて、家という巣箱を出た。父と母へ、改まって、暇乞いとまごいをした。母はその朝、ぼくの門出の為に、赤の御飯を炊いてくれた。小さい弟妹たちも交ぜて、干魚の尾頭付おかしらつきで、みんなで朝飯を食べ、それから母に送られて、桜木町の駅から汽車に乗った。
 いまから考えると、ちと滑稽である。けれど、その頃は、桜木町駅を離れる汽車の窓から、ホームに立ち残っている母や小さい者たちへ、涙を溜めた目で、離別のハンケチをいつまで振っていても、決して、それが衆目にも、おかしい事ではなかったのである。それほど、横浜東京間の距離は、まだ遠かった。
 汽車が、高島町辺にかかると、車窓の右側に、船渠会社の構内が、すぐ、まる見えに望まれる。一号ドックにも、二号ドックにも、入渠船のマストが見えた。今日もそこの足場で生命いのちがけの作業をしている木靴の仲間の顔が、あれこれ、ぼくの眼にかんでいた。長い間、世話になった組長の猪子さんに、黙って去って行くのが、悪かったと、急に思い出されたりしていた。
 それと、もひとつ、心にすまない事が残っていた。船具部仲間の無尽である。十円取りか、十五円取りか忘れたが、何でも必要があって、ぼくは途中でせり落していた。で当然、あとの掛け金の義務がある。ついにその債務を、ぼくは恩人の猪子さんに背負わせたままで横浜をあとにしてしまった。今でも、これは返していないのである。今日まで、ただすまないと、何十年も思って来た。
 どうしたのか、ぼくは新橋駅まで行かず、品川駅で下車してしまった。八ツ山下の賑わいを見、もうここが東京かと、慌てて降りてしまったものとみえる。
 紺ガスリに、黒木綿の兵児帯。ただ駒下駄だけが、新しかった。母が買ってくれたのである。それと、出がけに、母がぼくへくれたガマ口に、一円七十銭入っていた。いのちから二番目の物と大事に持っていたのだろう、この銀貨銅貨取り交ぜての額は、はっきり覚えている。


上京記



 その頃の、苦学という事、東京へ出るという夢は、当時のぼくら青年にとっては、最高の希望を、最低の手段で掴もうとする唯一の道であった。
 封建中国のむかしにも、洛陽らくようへ上って進士しんしの試験を受けるのを青春第一の関門とした若人たちが――キフヲ負ウテ郷関ヲ出ヅ――と悲歌したが、そんな気もちに似たものが、明治末期のぼくらにも、やはりあったのである。

 それはよく出世主義の世態と間違われるが、当時の風潮は、あながち金持ちや高官を目ざす拝金昇官思想だけに依るものとは考えられない。もちろん、資本主義の隆昌と時の国運が醸成したものにはちがいないが、純粋な志学青年も、芸術家の生涯を夢む若人も、みな惨憺さんたんたる思いを越えて、東京へあこがれ出たものだった。その事は、後年一家をなしても、決して、富裕にもなれないし、食うや食わずの大家すら存在した当時の文学者や画家にさえ一生をして成ろうと志す未来夢の持ち主が、本郷、神田辺を中心に、うようよ居たのを見てもわかる。
 むろん、押しなべて彼らは一様な貧書生であった。しかし書生の名には誇りがあった。彼ら自体に一つの節操と制裁をも持っていた。軽薄を嫌って、持ち前の野性、その蛮カラ振りを都人士の中に振舞うのを快とした。現代のアルバイト学生とたいへん違うところは、明治の若さには、総じて楽天的なものが溢れていたことである。彼らの未来夢の信念が演じる稚気ちきや滑稽にたいして、社会人は寛大だったし、また一般に、書生さんなるものを愛する気もちが、庶民全体の中にあった。現今のように、学生と大人とが対立し、蔑視べっしし合うことはなかった。大人の狡才こうさいならって、抜け道や横丁を巧みにくぐろうとする智恵を持たない若さだった。人生の門戸の正面から堂々と、唯、努力と勉学に依ってのみ通るものと極めている時代の例であったから、一般人の愛や同情に媚びへつらうでもなかったのである。当時の川柳家阪井久良岐くらきの句、
いまに見ろ見ろよと歩く永田町
 というのは、よく当年の彼らの気もちを代弁していたものと云っていいだろう。

 ぼくの出京希望も、間違いなく、そんな時代風潮のせいだった。品川駅前で乗った電車の窓から、漫然とただ街を見ていたが、長い区間、飽くのも覚えなかったのは、出京第一日の不安やら触目の事々に新鮮な驚きを抱いていたせいであろう。もちろん、東京の地理は何も知らず、電車に乗ったものの、どこで降りるあてさえなかったのである。
 終点へ来てしまった。本所の緑町であった。
 日が暮れたら、木賃宿きちんやどでも捜すつもりだったが、ふと町角の貼り紙に「職業を求める方はお出で下さい」とあるのを見つけ、探して行くと、相生あいおい町二丁目の裏通りに、その家があった。見た所ただのしもたやでガラス障子が閉まっている。表の小さい板看板に、日本基督教会青年部職業紹介所とあった。多分間違いはあるまいと、おずおず訪れてみたのである。そして、はからずも出京の第一夜は、いや、それがもう年暮の三十日だったので、正月の四日過ぎまで、ぼくは、ここの若いクリスチャンのインテリ夫婦が家庭的に営んでいた紹介所の二階に置いてもらったのであった。

 この前後の事は、以前オール読物の誌上で、随筆としていちど書いたことがある。で、簡略にするが、職業紹介所という文字を、世間に見たのは、ぼくにとって、その時が初めてだった。――という事を友人に話したら、その友人は、いや明治四十三、四年頃なら、日本でも職業紹介の制が民間に創始された極く初期か、或いは、基督教会青年部のその若いインテリ夫婦が最初の試みをやった人かもしれない、おもしろい因縁だから、ひとつ調べておこう、と云ってくれたが、まだ以後の返辞は聞いていない。
 とにかく、ぼくは運がよかった。路傍をまごつく事もなく、又、一円七十銭しかない乏しい嚢中のうちゅうもそう減らさずに、正月を越せたのだった。食事は外のめし屋へ喰べに出かけ、一回五銭か六銭で足りた。横浜では、小さい時から、教会にも折々は行ったことがあるので、若いクリスチャン夫妻とも、多少宗教的な話もできた。それに自分にはまだ、朝々霜を踏んでドックへ通った勤労癖が身に沁みていたから、云われないでも、門口を掃いたり雑巾がけを手伝うぐらいな仕事は、義務として、何の卑下も億劫おっくうでもなくサッサッとやった。
 鼻下に優しい髭のある知識層らしいそこの主人は「君ネ、勉強しながら働く口となると、実際はなかなか少ないんだよ。けれど、君なら保証して世話して上げられそうだから、きっと探して上げますよ」と、毎日、ぼくの職探しの為だけのように、どこかへ出かけて行った。そしてたしか正月五日だったかと思う、丸ノ内の或るパン屋へぼくを連れて行ってくれた。

 いま考えると、そのパン屋は、数寄屋橋から日比谷交叉点へ出るあの大通りであった。けれど当時は、日比谷寄りの方が、サンドイッチの一片の如き三角な街になっていた。そして街の尖った先が、数寄屋橋方面へ向いており、大きなパン屋の店がそこの角地を占めていた。
 あいにく店主が不在で、長時間待ったが、会えずに帰った。すると翌日、もう一軒べつな口があるが、そこへ行ってみるかとの話が出た。そこで急に気を変えて、こんどは紹介状だけを貰って、一人で行った。本所菊川町の小さい螺旋釘らせんくぎ工場であった。
 五十がらみの素朴な工場主であった。物を云うにも、咄々とつとつと、どもる癖のある人の好さそうな人で、自分も工員とおなじ油ジミた作業服で、一日工場で立ち働いていた。食事付き日給二十八銭、宿舎費はべつ。日曜は休む。仕事は午後五時半までとの事。何か自分の条件に合う気がしたので、すぐ使って貰うと決め、その晩から工場の二階に八、九人の職工たちと一しょに寝た。
 ここの工場主もクリスチャンであった。つまり紹介先はみな日本基督教会のメンバーだったものだろう。工場での仕事は、至極単純なものだった。一台のラセン削り器械を受け持って、終日、真鍮屑しんちゅうくずを足もとに溜め、手とペダルを動かしていればいいような仕事にすぎない。けれどこれが、毎日の夕方になってみると、全身労働にも劣らない疲労になる。晩の宿舎では、誰も彼もくたくたになっていて、およそ書物を手にする者などは一人もいない。自堕落と不潔と無希望な沼に見えた。

 母からはよく便りをくれた。ぼくも出京以来、毎日のように手紙を書いた。安心するようにばかり書いたので、母は、ぼくがもう志望どおり苦学の方途をえて、勉強の緒についていると思ったのか、小包便が届くと、母の夜業に縫われたらしいシャツやら学生股引にくるまれて、必ず何冊かの本が出て来た。欲しいと思っていた竹越三叉さんさの二千五百年史などわけてうれしかった。それと、或る時、“あやめ”の二十匁が一しょに出て来たときだった。家にいるうちから、父には内緒で、煙草の盗み喫みをやっていたぼくの煙草好きを母は知っていたのである。その折の小包は、女物のつづれた腰紐でくくってあった。覚えのある母の腰紐なのである。捨て難くて、自分の寝衣に締めて寝た。機械油だらけな仕事服のズボンの下にも締めていた。すると仲間が見つけて、「……あれ見や、あんな赤い紐を、肌身離さず締めてやがる。いろ女も、本望だろうな」と笑い合った。けれどぼくには、その揶揄やゆが、ちっとも不当には思えなかった。離れてみると、母は、ぼくには恋人であった。いや恋人にも増して、箱弁当の飯を油手で食べている間も、思い出されてばかりいた。
 ふた月三月いるうち、「ここでは勉強も」という焦躁にられ出した。依頼心というでもなく、ふと暗中模索する気もちが、ぼくを闇夜へ追い出していたのである。或る晩、工場が退けてから、ぼくは青山の伯父の家をさがして歩いていた。
 伯父の斎藤恒太郎は、ぼくが幼少の頃、いちど母に連れられて行った覚えのある北白川宮の邸内から、その後、青山南町へ移っていた。と分っていただけで番地も何も知らないのだ。
 それに、片道五銭の電車賃が無くて、ぼくは本所菊川町から青山南町まで歩いたものだ。交番だけでも幾ヵ所訊き歩いたか分らない。唯、伯父の現職は、学習院英文科の教授というだけは聞いていたので、それを頼りに探したのだった。そして漸く、探し当てはしたけれど、もう夜も十二時近い頃だったかと覚えている。
 伯父はひどく吃驚びっくりしたらしい。
「え。おいくさんの息子だって。あの英さんという子か」
 という声が、玄関にまぢかい奥の一室でしていた。しかし、「お上がり」とも云われない儘、ぼくは古風な式台造りの片隅に腰かけて小さくなっていた。長い間待たせられた。その間に文金の高島田に結った令嬢風のひとがお茶とお菓子を供してかくれた。ぼくには、従妹いとこにあたる園子と呼ぶ女性とは分っていたけれど、何のことばも交わせなかった。
 ほどなく伯父はむずかしい顔して玄関に姿を見せた。鳥羽藩の士族出で、攻玉舎の英語教官から宮様の進講係となって、現在、じゅ五位の学習院教授という明治の英文学者である。神経質な細面に金ぶちの眼鏡をかけていた。その眼鏡ごしの視線に、ぼくはもう後悔にせぐられていた。到底、自分の望みなどを訴えても、理解されるはずのない別世間にいる親戚先などへ、わざわざ恥かしい思いをしに来るんではなかったにと、未熟な分別も湧いて、居たたまれなくなり出していた。
 けれど伯父の方は、時ならぬ深夜だし、何事かと驚いたにちがいない。「家出して来たのか」と、まず訊ねた。「いいえ、母も承知の上で、苦学しに出たのです」と、有りの儘をぼくは答えた。そして、駄目だとは思いながら、
「どこか、塾の学僕か、学校の小使みたいな口はないでしょうか。書生に置いて下さる所があれば、なおいいんですが」
 と、志望をのべた。
 けれど伯父は全然受けつけはしなかった。無断で出京したに違いないと見、流行の苦学亡者もうじゃを諭戒するような語で、あたまからぼくを叱った。「まして、おまえの家では、おまえが居なくなったら、困るじゃないかね。お父さんは働けん人だというし、おいくさんだって、まだ小さいのを沢山抱えている所だし」と云ったりした。そして「汽車賃だけは上げるから、帰んなさい。帰って、家の手助けをせにゃ不可いかん。おまえは、おいくさんの長男ではないか」と云うのみで、何も耳には入れてくれないし、又ぼくも、ここまで来る途々考え抜いていた事の一端すらも、口に出すことが出来ずにしまった。

 訪れた悔いをその儘抱いて、ぼくは夜半の一時頃、斎藤家の門をすごすご辞した。金も無いが、もう電車も通っていない。青山の果てから本所の果てまで、又ぶらんぶらん歩いて帰った。
 生来の空想癖にすぐ遊ぶせいか、ぼくはこういう場合も、道の遠さとか、人の辛さとか、そんな事は余り心にこたえない。この晩の長い帰り道も、何を考え考え歩いたろうか。腹も減っていたに違いないが、さっぱり悲痛な気持ちはなかったようだ。親戚の冷たさとか、世間の無理解に不平をなすりつけてみるとか、そういう卑屈感は、少しも心をいたませていなかった。至極のん気に、夜靄のさまよいを愉しみつつ、夜明け近くまでに、ぶらんぶらん菊川町の工場へ帰りついた。そしてひと寝入りして、翌日は又、黙々と、ラセン釘削りの器械を廻していた。
 あとで反省してみると、昨夜の事は、母へも悪い事をしたと思った。ぼくの家が、転々と、どん底からどん底へ落ちて行った多年の間も、引っ越し先を尋ねては、先方から訪うてくれるような人はひとり斎藤の伯父だけだった。しかも、その人に嫁いだ、ぼくの母の姉は、もう故人となって、後添のちぞえの夫人が家庭にいるのである。そんな事も思わず、母に黙って、斎藤家を頼って行ったのは、無分別というものに極っている。ぼくは母への手紙に「……もう行きません、何があっても頼りにはしません、斎藤家へ謝っておいて下さい」と、書いた。
 しかし、斎藤家の方でも、後には、ぼくの出京が、母も諒解上のことであったのを知って、ひどく気の毒がったそうである。という話を、後年、従妹から聞かされた。その従妹の園子は、まもなく横浜の岡野銀行頭取の石渡又七へ嫁いで、つい昨年まで、鎌倉に住んでいた。この“忘れ残りの記”の初めの方に書いた、ぼくの母に関する娘時代の事は、従妹の記憶に依る所が多かったのである。けれど、その従妹も、ついこの春亡くなった。

 菊川町界隈の沢山な小工場の中に、S手提金庫製作があった。四月頃、ぼくはラセン釘工場の主人とも諒解の上で、S工場へ籍を変えた。勤務時間、賃金、勉強する条件なども、S工場の方がよかった。手提金庫という物が盛んに市場へ出はじめた頃で、工場も新しく、活気があり、会社は儲かっているらしかった。
 製缶部、洗滌部、塗工部、包装部などと小さく分れていて、ぼくは事務員の名で入ったのだが、雑役が半分だった。製品が溜ると、品別伝票と数量簿を持って、荷馬車や荷車に付き添い、薬研堀やげんぼりの本店倉庫へ収めに行く。倉庫や本店でよく見かける紳士然たる痩せぎすの、いつも渋好みの洋服を着ている四十恰好の人が、あるときぼくへ、
「君は、工場に泊っているのか」
 と、訊ねた。
 この人が社長さんと聞いていたので、ぼくは「はい、そうであります」と云ったような口調で固くなって答えた。その時は、何か簡単なことだけしか問われなかったが、ふた月三月たった頃、こんどは工場で、「一度、夜でも、ぼくの家へ遊びに来い」と私宅の書いてある名刺を渡された。

 両国河岸の百本杭の辺も、まだ閑静な家やら木々も残っていた頃である。指定された晩、ぼくは百本杭の社長邸へ恐々行ってみた。晩飯を御馳走してくれた。そしてS氏から「君は、苦学しているという事だが、工場勤めでは、勉強も出来まい。それに本所辺の夜間学校などへ通ってみたところで、将来の足しにはならん。工業方面へ出たいなら、蔵前ぐらいは、やっておかなくっちゃ駄目だ。蔵前高工を目ざしたらどうだね」というような口ぶりだった。
 家庭の都合で、中学も出ていません、と答えると、「だから、ほんとに君が勉強したいのなら、勤務も変えて上げる。蔵前とは限るまい。どんな方法でも考えられよう。保証人にもなってやる。ひとつ、熟考しておき給え」と云い、それから自分の事業は、発展の途上にある。将来は南洋にも支那にも支店を拡げるつもりだ、というような事もぼくへは話した。何で私宅にまで、ぼくを呼んで、そういう好意をもらしてくれたのか分らないが、とにかくその晩ぼくは感奮して帰った。思いがけない幸福に囁かれて寝つかれない程だった。
 けれど次の朝にはもう諦めていた。S氏の好意は断るしかない。出京以来まだ半年だが、その間に、何十通となく見た母の手紙には、唯一人の稼ぎ手のぼくを失って、以後の苦しさは、つつみようもないものがうかがわれる。どうかすると、四日も五日も母の手紙の来ない日がある。そんな時は、郵便切手も買えない為にちがいないと思い、ぼくは自分の手紙に添えて、時々郵便切手を十枚も二十枚も入れておいた。また二円でも三円でもゆとりがあれば小為替こがわせにして送った。それでも安心とは思えなかった。吉田町の旧住所は、高島町何番地とかの、ぼくの知らない所に変っていた。

 塗工部の通勤工に、Yさんというのがいた。浅草鳥越町から通っていた本職の塗師職人である。多少ぼくの事を聞きかじってか、昼休みの或る時、ぼくを人無き所へ手招ぎして、「とても、いい仕事があるんだがネ」と、囁いた。「……どう、一年辛抱しない? 眼をつむって一年辛抱すれば、いい金になる。仕事は、横浜へ出す輸出物だし、君も横浜の人だしさ」と、熱心にぼくを説いた。会津なまりはあるが、下町肌で小ざッぱりした気ッぷの人だし、日頃も親切屋さんと云われている程なので、一も二もなくぼくは耳傾けて、そのすすめに動かされた。
 苦学するなどという夢は、半年にして破れていた。それ以前に、ぼくは本所林町の夜間工芸学校へ志願し、すぐ許可されたので、夜はそこへ通学していた。小工場の物置を改造したような所に黒い机が四、五十並べられ、靴や板裏ばきの儘、本所界隈の徒弟や子弟が集まって来る。工芸といっても、図工の養成が主で、初歩の図案、幾何きかなど、単純な課目に過ぎない。それに生徒のだらしの無さ、ぼくは失望にくるまれて、転校などを思っていた。
 そんな矢さきにYさんの耳よりなすすめだった。苦学というのは、身一つの学問へ多年をかけることで、金を得る道ではない。ぼくの義務は金をうる早道に就くことだった。母も後の苦しみは承知でぼくを東京へ出してくれたのだが、今は貧苦にひしがれかけているのだろう。ぼくはYさんの世話で、その後まもなく、浅草三筋町のT氏の許へ、一年ぽっきりの約束で、輸出金属象嵌ぞうがんの下絵描きの徒弟に住みこんだ。

 T氏は若松の人で、その頃、同郷の会津蒔絵まきえ出身の者は、集団的に東京へ出て来て、もっぱら浅草下谷界隈の裏町に住んでいた。
 T氏もその一人で、独身だった。開盛座という芝居小屋があり、その近くの露地を入った四軒長屋の一番奥で、四畳半に六畳の二間きり。師弟二人の男世帯、工房はその六畳で、漆を扱う小机ほどな定盤じょうばんと、蒔絵筆さえあれば足る至極ちんまりした仕事である。だから局外者の眼には、一見、従来の日本蒔絵でもなし、絵付けする物はすべて真鍮材の金属だし、これが何に成ってどういう用途に向くのやら分らなかった。
 輸出ダムシンと称されて、金属面へ漆で描いた様々な図案を、化学薬品に浸して腐蝕ふしょくさせ、その凹刻面に、鉄サビ漆を沈ませて研ぎ出した上、金、青金、銀などのメッキをかけて、さらに精巧な毛彫りをかける。京都には古くから駒井象嵌と称する独得な鉄地象嵌の伝統があったが、それを近代化し、輸出向きに、量産する手法を用いたのが、このダムシン金属製品だった。
 腕輪、ネクタイピン、たばこ入れ、ヘヤピン、耳飾り、ナプキン環、花瓶、文房具類、装身具、家具の類まで、種類はたくさんあった。向く先の多くは、南洋市場らしく、当時は横浜商館の扱う品目のうちでも、かなり重位を占めたものらしく、東京には仲買人が来ており、毎日のように下職の家を廻って、昼夜、督促にあるいているような盛況時だった。
 だが、何と小さな工房か。もちろん、下職や下絵描きの人々は、浅草下谷界隈に、何十軒とあったわけだが、おそらくT氏ほどなささやかな世帯はほかになかったろう。T氏は会津人の辛抱づよい性格と、男ながらたまかな生計に達していて、ぼくが住み込むと、台所の水仕事から、味噌醤油、八百屋物の買出しなど、一切はぼくの任にまかせられた。けれど、味噌二銭、塩鮭の切り身、一銭五厘のを二切れ、といったような買物のさしずも、T氏自身が小銭を数えて命じ、経済上の才覚はなかなかゆるがせな人ではない。思いきや、ぼくは二十歳になって、初めて人の台所で、米をとぐことを覚え、夢みていた苦学の灯下に書を読む代りに、御飯のむし加減のむずかしさを学ばなければならなかった。


人生中学通信簿



 どうかすると、今でも、ぼくは人から「――絵もお上手なんでしょう」などと、からかい半分か知らないが、乞われたりすることがある。
 とんでもない。ぼくが絵も描けるらしいなんて思われたそのもとを洗えば、赤面至極だ。前述したように、苦学目的で上京した当時、蒔絵師T氏の許で多少蒔絵を習ったり、図案をるため、琳派や土佐画の模写に眼をただらした事があるので、何かの折、いたずら描きでもぬたくると、今でもその下地したじが意識なく出るのである。絵なんて云えるものではない。むしろ、そういう工芸目的だった下地に妨げられて、後々まで、ぼくには純な絵は描けなくなってしまったようなものだ。

 浅草三筋町界隈は、まだ旧東京の庶民暮らしが、そっくりその儘、横丁や長屋の隅々にまで残っていた。煮豆屋と荒物屋の横で、四軒長屋が二た側になっており、T氏の家は、ドブ板のいちばん奥で、蛞蝓なめくじの這いあとをもった戸袋やらガタピシいう暗い格子戸がそれだった。
 どこも六畳三畳二畳台所だけの棟割むねわりだが、それでいて二坪三坪の小庭がみな付いており、目隠し板に八ツ手やかえでを覗かせ、夏ならば朝顔や胡瓜をからませたりして、けっこう庶民の雅懐を愉しむには事足りていた。
 それと、隣り三軒、前四軒の箸茶碗の物音から、喜怒哀楽の声まで、手にとる如く聞え合うので、それぞれの職業、家族、出入りまでが、一軒のものとして判断される。で、終日、蒔絵師用のじょうばんと称する机に似た物の前に坐って、輸出物の下絵仕事に根気をつめていても、ぼくはむことを知らなかった。
 横浜の下層と、東京の下町との、違いもわかった。その前に読んでいた一葉の作品やら明治から江戸期の文芸にも見えた風物やら人の生態などにも少しずつは触れている気がした。また、この頃から再び江戸文芸にあらためてなずみはじめた。それも、秋成や西鶴などの高踏的なものより、鯉丈りじょうの八笑人のような作品の人物に、より多くの親しみを感じていた。
 実際に、鯉丈や一九の好モデルになり得そうな人間がまだザラに居た三筋町界隈やら旧東京の下町だった。もう首都としての爛漫らんまんから頽廃期に入っていた古いものに、かえって、ぽッと出のぼくは、新鮮と驚異を覚えていたものとみえる。俳句を忘れて、川柳を作りはじめたのも、そして当時、日本新聞の客員であった井上剣花坊けんかぼう氏に、とつぜん来訪されて面喰ったのも、その頃の事だった。それが縁で、休日に当る日には句会へも出た。柳樽寺発行の「新川柳」の同人にも加わったりした。川上三太郎氏の名も同人の中にみえた。だが、三太郎氏は上海にいるとかで、その頃はまだ顔を見せていなかった。

 何しろ師弟二人きりの男世帯だ。米を磨ぎ、ヌカミソを掻き廻し、七輪に味噌汁を掛けたりしながら、ぼくはT氏に師事して蒔絵、象嵌下絵などの、習得をうけた。幸い、絵は幼少から好きだったから、のみこみは早かった。T氏と同郷の会津蒔絵師の仲間がよく遊びに来ては、ぼくの使う面相筆めんそうふでのうごきや構図を覗いて「初めてじゃあンめえがのし。ろくに年期サ入れねえで、こげんな絵が描けるちゅう事があンますか」と云ったり「Tさんサ、こんなよく稼ぐ弟子をどッから目ッけて来なすった」と、羨望したりした。また、同じ会津人の寺崎広業門下の芥川某という画学生なども、「君イ。絵が好きなら、なぜちゃんとした日本画家を志さないんだ。広業先生に話してあげるから書生になれ」と、おだてたりした。だがぼくは、とうに画家志望などは捨てていた。苦学生たる事もあきらめている。唯紹介者のYさんの言を力に、一年間は辛抱して、両親や弟妹を東京へよびよせ、細々とでも食ってゆける緒につきたいと、それだけが、目標だった。

 ――前後するが、ここへ来る前の四月中旬、吉原の大火があった。
 それから吉原復興の本普請ほんぶしんが出来上るまでの数ヵ月間は、仮店かりみせというものであった。独り者のT氏は、従来、必ず月二回吉原で必要を処理することを、その貯蓄思想や暇を惜しむ点からも、規定していたらしいが、仮店風景となってからは、面白さも加わり、ぼくという留守番もできたせいか、俄然、回数がひんぱんになっていた。
 だから週に幾晩かは、ぼく一人である。かかる夜は愉しかった。母に手紙を書いたり、読みたい物を読みふけった。朝になると、朝帰りの仲間が必ずぞろぞろ立ち寄る。ゆうべのもてたはなし、ふられたはなし、ワリ勘のやり取りなど、人にもこの家は気楽だったに違いない。職人なので長尻をする者はなく、T氏もそんな日のあとは馬力をかけて仕事に打込む。急ぎ仕事がたてこむと、徹夜続きもめずらしくない。仲間はT氏へ面と向って「女郎買いのヌカ味噌汁」と云ったり「そんなに、眼さ赤くただれるまで、金ばかし蓄め込みなすッて、どうする気かね」とからかったりするが、T氏の貯蓄心と吝嗇りんしょくは徹していた。女郎買いを除いた以外では、かれた人のような面もあった。たとえば、婚礼の折詰でも提げて帰ると、その鯛一尾を、幾日間も茶だんすから出し入れして、焼き直しては一人で喰べ、あとの骨でも、味噌汁に入れろと、ぼくへ命じる、といった風であった。横浜ッ子の放漫な気質に馴れていたぼくには、初めは何とも奇異な人にみえたが、後にはその徹底ぶりに感服した。問屋先でも、T氏の吝嗇は有名だったが、しかし信用のできる堅人かたじん、期日を守る勤勉家としては、誰にもみとめられていた。

 のべつ勤勉家とサシでいるので、ぼくも勤勉家でないわけにゆかない。ヘコ帯紺がすりで、沢庵漬や干魚を提げたり、共同水道へ、水汲みに行くなどは、初めはテレたが「Tさんとこのお弟子さん」と、長屋中は親切にしてくれた。そのうちに長屋端れの共同水道へ水汲みにゆくのも、ひそかな愉しみになっていた。折々、水道栓でぶつかる初々ういういしい娘があった。紙人形のように薄手で弱そうな子であった。露地で逢ってもし眼に過ぎるだけだった。が、彼女の家の裏は、こっちの格子先だから、彼女の朝夕の声も、家族の暮らしぶりも、居ながらにしてよく分った。
 花簪や花櫛のみ細工、と云っても、現代人には通じ難いが、下町娘の結綿ゆいわた桃割ももわれなどの髪によく挿したそれの造花仕事を、一家中でやっていた。両親も兄弟も、みな上方かみがた弁なので、彼女も東京生れではあるまい。「N子、N子」と呼ばれるのを、つつ抜けに聞いているから、ぼくは名まで知っていた。自分の思い過ぎか、ぼくがドブ板を踏んで外へ出ると、彼女も買物に出て来たりした。近くの縁日でもよく行き会った。唖蝉あぜん作の流行歌――ああ夢の世や夢の世や、のメロディがどこかでする青白いアセチレン瓦斯の明滅が、ひどく印象的にぼくへ彼女をきつけた晩もある。開盛座の立見席で気づくとすぐ側の人中にN子の横顔が見えたりした。しかしどんな機会にも二人は口をききえなかった。とつぜん、真正面に行き会ったときなど、こっちの胸がつまる程、彼女の眸にもうごく色を見ないでもなかった。けれどそれの反れてしまうことは燕と燕のように、はやかった。ぼくの恋に似た経験といえば、みんなこんな不熟で終っている。臆病なせいではない、境遇のせいだった。彼女は、その年の末頃、忽然と、長屋から見えなくなった。上方の花柳界から舞妓まいこに出たらしい。そして、まもなく上方で急死した。――という消息は、彼女の実兄から後に聞かされたのである。その人は、妹の死をぽつんとぼくへ告げながら、「――妹は、あんたの名を、何度も何度も、死ぬまえに云ったのどすえ。いま初めてお打ち明けしますが」と、云った。終生の悔いである。せめて上方へやられた事情や病気の模様でも、もっと詳しく訊きおくべきであった。ところが、それすら訊き返す勇気がなかった。先もそれしか云ってくれない。あとは何か、ぼくの俯し目を憎しげにめすえていたように受けとれた。

 T氏の許にいる間に、母は二度ほど上京して来た。そしてT氏とも親しく会い、ぼくの次弟素助の身も頼んで帰った。又、それから後、どういう工面をしたものか、母は一家をまとめて、東京へ移って来た。
 行ってみると、本所緑町のガード下に借家していた。見るからにひどい家だ。湿度もだが、光線の入る所がない。父の病気の為にもわるかろう。さっそく、ほかを探すことを母にすすめた。
 それはよいが、家に居るものと思っていた次女のカエが見えないので、母に訊ねると、長野県のS市へ行っているという。土地で一流の旅館料理を営んでいる人が、将来の事もかたく約してくれたので、カエにとっても、むしろ幸福であると、養女にやったというのである。
 ぼくは、どきっとした。前に、幼い浜子を、遠くへ出して、諦めきれない死を見てもいるので、「大丈夫?」と念を押した。母は充分先方を信じているらしく、「こんどは、前のような人の世話じゃないから……」と、いかに先の養父母となる人が好人物か、土地での有力者であるかなどを、話して聞かせた。けれど誰の世話で、どんな形式でやったのか、その辺は語りもしない。多少、世路の複雑をめ歩いたぼくには、母の信じ方が、危ぶまれてならなかった。母は養女形式の戸籍移譲が、十五歳の少女に付帯されたばあい、それがどんな権利や利用価値を生むかなども、てんで知ってはいないのである。また旅館料理というものの内容なども分っている母ではなかった。だが、その辺のうとさは父も同様であった。もっとも父にはもうこの逆境から脱しようとする闘志も全く沮喪そそうしていた。口癖に「ばかにするな、おれだって、今に、もう一旗は」と云っていた、その口癖もなくなっていた。潰瘍だけでなく、心臓もわるい、喘息もと、体じゅう病気の巣みたいにいうこの頃だった。この良人と幼いのを沢山抱えて、母の闘いはもう十年になる。一家心中をしなかったのは不思議である。その点、母はまったく強かった。だがその強さは冬柳の姿のようなものだった。ただ忍受であった。子や良人へするように運命にも抵抗を知らなかった。
 無知といえば可憐なる無知の人であり、愛の一型とみれば、ただ子の涙を以て洗うしかない「家」なるものの犠牲碑だった。

 母は、まもなく本所の番場町辺に間借を見つけた。そして袋貼りやら仕立て物の手内職を探し、また、子供らの通学やら何やら、曲がりなりにも、馴れない土地での暮しの緒につき始めた。
 そんな中でさえ、母は用達しの帰りとか、寸暇があると、よく三筋町へやって来て、男世帯の汚い台所や押入れの中まで、よく見てくれた。洗濯物、ほころびの繕い、晩の御飯の仕掛けまでして帰るのだった。もちろん、T氏も母のおせッかいを好意で見てくれたし、ぼくや弟には、人の家であっても、母が立ち働く姿を見ているだけでもうれしかった。
 だが、とかく病人の父は、母の留守をよろこばなかった。三筋町でつい日が暮れて帰りなどすると、例の癇癖でよく呶鳴られていたらしい。母も、お父さんのそれにはもう馴れッ子になったと云っているが、後は必ず病状が悪いので、それにはらはらするのであった。
 冬の初め頃、母たちは又、その貧しい巣を引っ越した。吉原遊廓にすぐ近いおはぐろどぶのそばだった。そこの一見、しもたやみたいな周旋屋の二階の六畳二間を借りたのだった。
 何で、こんな所へ引っ越したのだろう。昼の妓楼の裏に干し並べてある赤い物や、おはぐろ溝の黒さを覗いて、ぼくは母の気もちが分らなかった。弟妹の千代や晋ももう学校へ通い出しているのだ。夕方になれば遊客がぞろぞろ通るし、夜は茶屋のお囃子はやしぞめきに毎晩ただれた空をしている。当座、母はそれと明らさまに云わなかったが、いつか分った。母は、昼間の幾時間かを、廓内の一妓楼へ、お針さんに通い出していたのである。そこでは、内職以上な賃銀になるし、また妓たちから、手紙の代筆だの小さい用事を頼まれたりして、余分な収入も得られたらしい。そのせいで、父の冬着も小ざッぱりして来たし、二階住居ながら茶ダンスやら火鉢、茶卓の一つずつも殖えていた。けれどそれだけ母の骨身は削られていたのである。いや、後になって考えると、この折の母のお針さん勤めが、ついに、それから十年後の、母の死因をなしていたように思えてならない。何しろ、妓楼のお針仕事など、考えただけでも、不衛生で危険なことに極っている。しかも母には、その危険さをも不気味さをも顧みてなどいられなかったにちがいない。

 どうやら、およそ二年後に、ぼくはT氏を離れて職を持つことが出来た。
 初め、塗師屋のYさんを介しての約束では、一年限りの契約だったが、礼勤めすべきだというので、半年延びた。が、その半年を送ると又、Yさんから苦情が出た。T氏も快くは暇をくれない。その間、多少ごたごたも生じたが、仕事を出す先のO商会の番頭や同業の口ききも手伝って、ともかく暇をとった。けれど弟と同時にでは、T氏の方も困るので、弟はなおT氏の許において、ぼく一人で、下谷西町に間借し、その日から仕事を探した。いちばん先に仕事を与えてくれたのはO商会で、次いで日本橋のH商会でも、励ましてくれた。その頃、H商会主の弟で、大学の制服着の儘、よく下職廻りにも歩いていた笠井政一氏は、いま品川区の区会議長をしている。
 東京で初めて、自分の畳として持ちえたぼくの根じろは、下谷西町の髪結さんの二階であった。梯子段の上がり口が三畳、襖隣りが八畳である。だが、ぼくが借りたのは三畳の方だけで、八畳の方には、落語家の夫婦者が住んでいた。
 ぼくはその落語家を、先々代の左楽さらくか、又は当時の志ん生であったかなどと考え、よく思い出せないのである。ぼくが二十二、三の頃、つまり大正二、三年頃の、その落語家は誰だったろうか、いちど読売のK氏を介して安藤鶴夫氏に調べてもらった事もあるがよく分らない。が、いずれにせよ、相当な師匠格だったような印象をうけている。ぼくは上がり口の三畳に机とじょうばんをすえて、終日仕事の蒔絵筆をもっているだけなので、よく頭の上を、てん屋物やら酒やらが通ってゆく。粋肌いきはだなおかみさんで、弟子後輩もよくやって来、朝から陽気になることもある。「どう。お隣りの書生さんも、こちらへ来て、一杯おやンなすっちゃア」なんて、声をかけられたりするが、その人達の洗練された諧謔かいぎゃくやアカ抜けた小唄など聞いては、首がすくむだけだった。
 しかしぼくの三畳へも、以来とみに訪客は多かった。仕事仲間はべつとして、その頃もう上海から帰っていた川上三太郎氏はすぐ眼と鼻の先の左竹にいたし、柳樽寺同人の誰彼だの、井上剣花坊氏だの、談論風発なら、お隣りにも負けなかった。そして、階下したの余り流行らない髪結さんの御亭主は、キナ粉をまぶした蜜団子を売っていたので、こっちはそれを階下から取寄せて、番茶を貰うことにきめていた。

 句作や江戸文学研究の上で教えをうけたことを除いても、井上氏夫妻からは個人的にも、並ならないお世話をこうむッた。この事は多年いう折もなかったのでぜひ書いておきたい。
 上京前からの御縁だった。井上秋剣の名で、中学文壇その他の文芸誌に、詩や文章の選、また小説評論も書いておられた。日本新聞の上では、三宅みやけ雪嶺、福本日南などと並ぶ社会評論をも見せていたかと記憶する。論文のばあいは、剣花坊の号を用いず、必ず秋剣であった。お会いしたのは、上京後だが、その前に、ぼくが何かへ投じた漢詩のことで、返書をいただいたことがある。新体詩がおこり、漢詩などはもう顧みる者も無かったせいか、その事は、氏も覚えておられた。
 とつぜん、三筋町の長屋へ訪ねて来られたのには、びっくりした。が、そういう見得のない人なのである。長州人の豪朗性そのもので、いつも書生袴、そして手提ゲ袋の紐を、片手の手頸に巻き、体じゅうで笑い、体じゅうで談じる。そして終日でも倦まない。後には、妙にぼくの親父と気が合ったものだった。どこか一脈通じるものがあったらしい。
 お住居は芝愛宕あたご町で、やがて高輪の東禅寺裏へ移った。「遊びに来給え」といわれ、そのどっちへも伺った。よく電車通りの洋食屋露月亭に伴われた。当時における硬派のジャナリストでもある。じつに話はおもしろい。殊に史学家であり、文壇事情だけでなく、政界にも通じていた。ひとり長州だけでなく、薩州とか、熊本とか、なお日本の社会にはどの部門にも閥色の余影があった。剣花坊氏はそれらの閥臭にたいしては常に反逆的口吻を弄していた。堺枯川を大いにみとめていた。柳樽改革をとなえ、新川柳を興し、氏を川柳へ赴かせたものの一因はそこにもあった事かもしれない。「長州人で多少、文化のわかるものは、ぼくと松林桂月くらいなものだ」と云ったりした。画壇の方にも交友は広かった。その桂月氏とぼくとが、以後交友をつづけたのも、剣花坊氏のお宅からであったが、そのほか氏の紹介で辱知をえた人々も少なくない。松居松葉、笹川臨風、小山内薫おさないかおる、水野葉舟、木下杢太郎もくたろう与謝野よさの寛、倉田百三、ちょっと思い出しきれない程である。
 忘れ難いのは、初めてお訪ねしたときの事だ。ぼくは鼻緒の切れかかった汚い下駄をはいていた。奥さんの信子女史が、鰹節かつおぶしの釜飯をたいて御馳走してくれた。その味を忘れていない。又、帰ろうと思って下駄を穿きかけたら、ピシャンコな泥下駄が、きれいに拭かれて、切れかけていた鼻緒まで、ちゃんとスゲ代えられてあった。
 その井上信子女史は、今も御健在らしい。らしいと云っては、御無沙汰の罪、申しわけない。だが終戦後、高田保が“ぶらりひょうたん”の一文の中に、信子女史の近作一句挙げて――これが何と、八十にちかい老女性の感覚であろうかと、めていたことがある。その句は、たしか、
国境も知らず草の実こぼれ合い
 というものであった。それで御健在を知ったわけだった。

 徴兵検査は浅草区役所でうけた。一家の戸籍もそのとき東京へ持って来た。検査日の当日、徴兵司令官というか、さいごの認定をうける所へ来たら、いかめしき人が、つらつらぼくの裸身と検査表とを見くらべて、
「今日の有為な青年が、そんな弱さで君どうするんか。体重といい身長といい、何たるヘッポコか。しっかり鍛えい」
 と、大勢の中で、ぼくを見本において、一場のお説教を垂れた。体重十二貫、丙種であった。
 そこでは大いに赤面したが、しかし、この体を、弱虫とは自分では承知しなかった。働くにも、遊ぶにも、何の不便不足はないからである。
 そろそろ、遊び始めた。自立してから、今まで知らなかった金が入り始めたせいもある。氷雪の下の青春が陽の目に這い出した恰好でもある。何しろ同年配の遊び友達は揃っていたし、夕方になれば夕風へ泳ぎ出すのが習性になり出した。
 大勢の吟友ぎんゆうと、柴又の帝釈天たいしゃくてんへ吟行した帰り途の昼遊びに、俗に吉原では伏見河岸とよばれる辺の安女郎に、ぼくの童貞も、五十銭程度のゲ代で惜しみなく洗礼をうけてしまった。
 五十銭は当時にしても最下級の単位である。資金のない時は、三、四冊の書物を携えて、古本屋へ立ち寄れば、ゆうに一夜の書生天下は現出する。日本堤には、大厦たいか高楼が軒をならべ、サクラ鍋の殿堂に、紺タビの女中さん達が、夜どおし、庶民大衆の盛夜の宴の為に声をからしていた。そこでは知識無知識なく、職別老若の差もなかった。大衆の活力を煮立て、人間の赤裸を謳歌し、どの顔も、生き生き燃えていた。――という光景やら時代官能は、高村光太郎の詩“米久”にも歌い高められている。
 大学の教授と生徒とも、そこらではよく打つかった。ぼくらは※(二の字点、1-2-22)しばしば剣花坊氏、あの和尚おしょうの姿を、その中で発見した。和尚は金持ちを連れていることがある。吉原で最高級の稲本、大文字、河内屋などの長廊下へ、ぼくらの汚い足痕が残るばあいは、おおむねそういう天恵な機会であった。
 花街では、和尚も屡※(二の字点、1-2-22)、浅黄ウラ扱いをうける。事実、あの人の特徴は田舎者たることにあった。敵娼あいかたの選択をヤリテ婆に問われたとき、言下にこう云ったことは有名だった。「ほんとに惚れんでもよいから、惚れたマネをする女をよんでくれい」

 遊蕩は階段の如きものか。金はなくても上りつめる。ぼくらは自分で引手茶屋遊びまで覚えた。ただぼくの取り得は、どんなに夜更けても、こっそり一人抜けて家に帰ることが常だった。
 桐佐の女将には母にあたる年寄りから「あんたはまア、お若いのに、おめずらしい」と、養子にでも欲しいような顔して云われた事がある。何の、お堅いのでも何でもない。ぼくの母や病父や弟妹は、ついくるわの塀一重の外に、まだ二階借りしていたのだ。それを考え出すと、花魁おいらんの寝顔と母の顔を見るのと、どっちがよいか、思い較べずにいられない。結局、夜半でも、つい一と足だから、そっちへ行ってしまうだけの事だった。
 母は起き出して、茶を入れたり、戸外へ出て、甘い物を買って来たりする。吉原界隈に灯の絶える深夜はない。明け方近くまで話しこむ。そして母や弟妹たちの間にもぐり込んで寝る。父は遊んだ人なので、すでに、ぼくの持っていた遊蕩の匂いを知っていたであろう。

 せっかく自立したのに、これでは、何の為かと、自嘲したくなった。といって、夕風がそよぐと、悪友が恋しくなる。手段として、ぼくは西町の二階を引き払い、一時、母たちと一しょになる事にきめた。六畳二間の一方を仕事場とし、少し辛抱して、そのうちどこか、一軒建ちのよい所へ移ろうという方針である。
 ぼくの収入がやや確定してきたので、母もなかのお針さん通いを止め、父も体のよい日は、横丁の隠居みたいに、近所の碁会所ごかいしょへ出かけたりして、この所まあまあ、家計は小康を得たようなものだった。
 ぼくの上京以来、四たび目かの正月もそこで迎えた。だから自分の年齢で二十三の一月十五日だった。
 妙にこの事に限って、日まで明白に覚えているのは、生涯の悔いを、ぼくはその日、父へのこしてしまったのである。年々一月十五日になると、ぼくは自分を責めるが、それをここでも父へ詫びておこうと思う。
 ぼくは漆筆を持って、一方の六畳で例の絵筆をもって仕事していた。冬なので、間の襖は閉めてあった。ところが、隣りの部屋で、何が、父の機嫌を損じたものか、初めの方は、聞き洩らしていたが、さかんに父が母へ怒りぬいているのである。
 めずらしいことではない。しかし、この日のは、ちょっと、どぎつかった。それに、一時間たっても二時間たってもすまないのだ。母はとうに泣きじゃくッている。また父の病を悪化させてはと、その為に、謝っているとしか思えない。父の云い分を隣室で聞いていると、子のぼくには、父には母へのいたわりや愛情などはケチリンも無いように疑われた。そして反対に、ぼくが幼時から覚えている限りな、父の暴君ぶりやら、母への無慈悲やら、親としての無責任さなどが、母の代弁者として、胸のうちに、煮え返ッていた。でもまだ、ぼくは、歯の根をかんで、筆だけは、うごかしていた。しかし、骨肉の憎悪は、人間が原始に持っていた野性に通じるものがある。
 やがて、一だん父の声が荒くなっていた。父自身も、久しく忘れていたであろう、かつての酒狂時代の、あの声に似たものがつづいて聞えた。ぼくは、ふらふらと立っていた。じつは何の考えもなく唯立ってしまったのである。トトトっと階段を降りて、下の台所から、水をいッぱいに湛えたバケツを提げて、元の二階へ上がって来た。見ると、父はなおまだ母を前においていきり立っている。ぼくは父の後ろへ廻った。そして、いきなり父の頭上から、バケツの水をざっと打ッかけてしまった。寒中の冷水である。父も母もアッと云ったであろうが、ぼくの耳にも眼にも残ったものは何もない。空バケツを抛り出すやいなや、ぼくは階段を逃げ降り、凶悪犯人のように、下駄を突ッかけて、戸外へ飛び出してしまったのである。
 ぼくは一日中、六区の雑踏をうろついていた。家には恐くて帰れない気がした。十二階の頂上に上がって、腕組みしたり、ルナパークの観覧席で時間を空費したりした。そして夜の十二時過ぎ頃、そっと、家へ帰ってみた。父は寝ていた。母は起きて何か縫物をしていたが、何も云ってくれない。けれど、ぼくの帰るのはやはり信じていたのであろう、いつもの通りぼくの寝床もしいてあった。
 翌朝になっても、父も母も、ぼくのした事には何も触れて来ない。ぼくは父の前へ出て、ひと言、謝った。何か云い出すかと思いのほか、父はふと、間が悪そうな顔をした。いや、もっと複雑な、何とも云い現し難い顔を子のぼくへ見せた。そして「……おいく、茶でもお入れよ」と、云った。橋場のおせんべいを茶ウケに、母もそこへ来て茶をのんだ。せんべいをボリボリ噛みつつ、ぼくは涙がとまらなくなった。

 その年、浅草の栄久町に一軒借りた。わずか四間だが、小庭もあり、まだ新堀も埋め立てられない頃の柳並木も近く、父も母も、やっとここでは、やや世間なみの暮らしに、ひと息つけたことと思う。
 父はもう完全に、敗者の耐えに馴れ、隠居に甘んじ、小さい弟妹たちの揃った所で「お父さんは、こんな風だから、おまえ達は、兄さんを父と思え。ひでもそう思ってくれ」と云ったりした。
 唯ここに、S市へやられたカエだけが欠けていた。その後、ぼくが知りえた所では、カエを養女にやる仲介をしたのは、母が打ち明けないのも道理で、幾人かいた母の姉妹中の一人だったのである。姉妹じゅうで、その姉(――か、妹かもぼくは知らない)一人だけが、浅草の六区に住み、小料理屋か何かしていたらしいが、後に自分の娘のお和歌さんという器量よしまで店に出して、八区のはずれで銘酒屋を始めていた。
 カエは、養女にというよりも常識上、売られたというべきだろう。母はその話になると、浜子の前例もあるので身をおののかせて泣いた。「私は何たる馬鹿だろう」と、悔ゆるばかりだった。ぼくは或る額の貯金を心がけて、それを持って遠いS市へ出かけて行った。そして親元のY館の主人に会った。カエの身を、戸籍ぐるみ返して欲しいと頼んだのである。幸いにも、Y館の主人は夫婦とも善良そのもののような地方人だった。「……あんさんや、カエは返しても、これを御縁に、親類づきあいして下ッさい」と、云ったりした。で、以後も長年親類同様に往き来していたが、今はその家もつぶれ、その人達もみな世を去った。
 六区で銘酒屋を出していた母の姉妹の一人も、すでに世に亡い人だろう。美人だったという娘のお和歌さんもどうしたか。そのお和歌さんには、伯父の斎藤恒太郎の長男の勤が、従兄妹でもあるのに、熱中して、通ったとかいう話も当時小耳にしている。文学士斎藤勤には、「中世における陰陽学おんようがく卜筮ぼくぜいの研究」の一著がある。それだけで、大学を出てまもなく夭折ようせつしてしまった。

 すこし話はとぶが、父は大正七年の三月、浜町三丁目の新居で亡くなった。料亭“喜文”の裏門の真向いで、うなぎの寝床みたいな細長い家の奥の間だった。
 亡くなる一週間ほど前、父は母へむかって「英のやつ、あんなで、いいのかなあ。……あれでやって行けるかしら」と、ぼくの前途を、沁々しみじみ心配していたという。
 潰瘍症状も、喘息も、慢性なので、かかりつけの医師も何ら警告はしていなかった。唯二、三日前から、呼吸困難をつげていたので、大森の海岸附近にでも、閑静な家を見つけて、療養したら、と母もいうし、医師も同意なので、友人と共に、心当りの転地先を見つけに行った。
 そして、帰って来たら、もう昏睡状態におちており、明日まで、どうかと、医師も首をかしげていた。
 ――その朝にかぎって、こんな事があった。
 父は茶好きで、おまけに、毎朝暗いうちに眼をさます。同時に、湯加減よく、濃い煎茶せんちゃの一ぷくが、すぐ出ないと、機嫌がわるい。
 多年のその習慣で、今朝も母が未明に起きて、勝手口のガス七輪で、お湯をわかしていると、病床の方から「おいく、おいく」と人恋しそうに、何度も呼ぶ。「はい、ただ今」と答えながら、とにかく先に、茶を入れて、いつものように、母が枕元へ持って行くと、父は起き直って、「なあ、おいく。今朝ばかりは、おまえの姿が、観音様のように見えたよ。観音様が台所にいるかと思った……」と、手を合しかけたので「いやですよ」と、母は笑いにまぎらしたが、そんなに云われたのは、夫婦となって、今朝が初めてだったので、うれし涙がこぼれたと、母は云った。
 それから、少したって、「今朝は、むすびにしてくれ」というので、膳にのせてゆくと、手さぐりで、床の上にかしこまった。もう視覚もきかなかったものとみえる。それでも、父は畏まって、むすびを喰べた。病中いちども、あぐらや、寝そべッた儘で、食事した例はない。そういう人であった。その晩の十一時三十五分に息をひきとった。ぼくは、父の顔が、色をひくのを見てから、真っ暗な二階に上がって、唯一人で突っ伏していた。そのうちに、知らせで寄って来た知人の細君が、ぼくを揺り起しに来た。びくッと、我に返ったように、ぼくが顔を上げたら、その細君は悲鳴に似た声を上げて、階段を駈け戻ってしまった。あとで聞いたら、ぼくの顔が、狂気したように見えたのだそうである。自分では知らなかったが、そんな慟哭どうこくに沈んでいたらしい。
 母の死は、なお語るに忍びない。母はそれから三年後の、ぼくが三十歳の六月に死んだ。家は向島の植木場という所へ移っていた。幸田露伴翁の垣のすぐ近くだった。せめて、父の死後の三年間、それぞれ子供たちも成長した中で、余生らしき日を、たまには熱海や千葉海岸などへ、転地もさせたりして送らせた事が、ぼくらには、些かな慰めだったが、しかし母はやっぱり口ぐせに「……お父さんが居たらねエ」とか「お父さんて人は……」とか、常に、淋しみを洩らしていた。
 致命的な病原は腸結核だと、医師が云った。ぼくはすぐ、母が廓へお針さん通いをした事があったのを思い出した。病菌はその頃受けたのではないかという傷ましさが今も消えない。
 さいごの息づかいらしいのが窺われたとき、ぼくたち兄妹は、ひとり余さず、母の周囲に顔をあつめて、涅槃ねはんの母に、からだじゅうの慟哭をしぼった。腸結核は、じつに苦しげなものである。ぼくは、どうかして、母が安らかな永眠につかれるように、という祈りみたいな気持ちから、ついつまらない智恵がうごいて「……お母さん、お母さんは、きっと天国に迎えられますよ。ほら、きれいな花が見えるでしょう。美しい鳥の声がするでしょう」と、耳元へ囁いた。
 そしたら、母は、ぼくをにぶい眼で見つめながら「……よけいな事をお云いでない」と、乾いた唇で、微かに叱った。
 母はふとんの下で、妹たちの手を握りしめていたのである。
「みんな、仲よくしてね」と、次に云った。それぎりだった。ぼくは三十で母と別れるまで、母に叱られた覚えは、二度か三度しかない。それなのに、母が、ぼくへ云ったことばの最後は、※(「口+它」、第3水準1-14-88)しったであった。
 ――よけいな事をお云いでない。
 それから、三十秒か四十秒の後に、母は子供らの前から、物しずかに去ってった。

 母が生前に「……どうしたろうネ。おまえの兄さんは」と、折にふれ、忘れかねるが如く云い暮らしていた、義兄政広についても、後日の深刻な一挿話があるが、ここではやめよう。ぼくにとっても、故人にとっても、お互い慙愧ざんきにたえない事でしかない。唯ぼくが十二歳当時に家出したきりだったその義兄も、三十何年振りかで、とつぜん、ぼくの芝公園八号地の当時の住居を、尋ね当てて来たことだった。ぼくもやっと、作家生活に入り出した初期の頃である。
 だが、すでに両親共、この世にはいなかった。人生、おおかたは、まあそんなものであろうか。

 駄稿、ここで終りとする。
 ろくな記憶も、語るべき内容もないのに、四半自叙伝などと烏滸おこなタイトルを掲げ、気恥かしいことだった。つい、云うまじき事まで云ってしまった気がしてならない。だが、さいごに一言すれば、ぼくの青少年期は、何ともひどい辛酸しんさんをなめて来たかのようだし、読者もそう読まれたか知らないが、ぼく自身は、ちっともそんな気はしていないのである。社会も家もいなみようのない時代のワクの中のものだったせいであろう。いわばぼくも、封建の子の一型だったものに過ぎない。現代の太陽族とかいう溌剌たる青年男女には、おそらく事々一笑にも値しまい。けれど人生の真価とまで云わないでも、どっちが、生命の充実とそのよろこびを持続しうるか、それはさいごの道まで歩いてみないと分るまい。ぼくとしては、これまで書いた十代から二十代まででも、充分愉しかった。いまの青年たちの日々と較べても、悔ゆる思いは湧いて来ない。といって、自分の子や周囲の子弟に、ぼくの過程をひきあいに出して定規じょうぎに当てようなんていう時代知らずでもないつもりだ。
 けれど、過去の親たちが歩いた泥ンこな道にも、振返れば、これからの子が、ぬかるみを歩く用意の足しになるぐらいなものはあろう。ぼくの父は、予期してではあるまいが、偶然、子のぼくをして、ぬかるみを少し歩かせ過ぎてくれたようだ。といっても、父の死までのぼくの体験なども、やっと人生中学の門を卒業して出た程度にすぎない。以上はぼくの人生中学の通信簿といったところだ。父は怖かったが、怖かった父とか先生というものは又、妙に、後ではなつかしく、そして、有難かったりするものである。


あとがき



 なぜか、私はよく訊かれる。「あなたは髪を染めていらっしゃるので?」と人みなが問うのである。飛んでもない。私は日常髪を洗うことさえしない不精者だ。けれど考えてみると、私も間もなく古稀こきといわれる年齢になるらしい。人が疑うのは当然だった。――にもかかわらず気持ちにおいては、この「四半自叙伝」中の私から、いまだに大して成長もしていない自分に思われて仕方がない。だから人がまま「お若いですなあ」と云うのに対して、このちぐはぐな気持ちをどう現わしようもなく、私はいつもこう答えて笑いはぐらすのであった。「いや幼稚なんですよ。若いというよりは、つまり幼稚というもんでしょうな」

 正直、私は自分の中に今以て、老来なおさらもどかしい幼稚が失せないのに当惑している。この書が上梓されたすぐあとでは、谷崎潤一郎氏が「幼年時代」を書かれ、また長与善郎氏の「心の遍歴」などもあった。それを見ると、ほぼおなじ時代をやや後から歩いていた自分ではあるのに、両者の高い晩節の嶺から振向かれた過去の整然とした記憶や心象の構造にひきくらべて、私の少年期や「人生中学」の記などは、何とも他愛のない泥濘の回顧に過ぎぬ感のみが多く、気恥かしいかぎりでしかない。で、折があったらもう少し補筆修正しておくべきであるとも思うのだが、どうもいつまでも幼稚が意識にある自分には、自己の過去像を本気で描き残しておこうなどという感興にはなれないのでついそのままになっているのである。
昭和三十六年正月
英治追記





底本:「忘れ残りの記」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年4月11日第1刷発行
   2012(平成24)年6月1日第19刷発行
初出:「文藝春秋」
   1955(昭和30)年1月号〜1956(昭和31)年10月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「生まれ」と「生れ」、「変わる」と「変る」、「殆ど」と「殆んど」、「角刈」と「角刈り」、「繰返し」と「繰り返し」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、「吉川英治全集・48 忘れ残りの記」講談社、1968(昭和43)年8月20日第1刷発行の表記にそって、あらためました。
※底本巻末の註解は省略しました。
入力:川山隆
校正:トレンドイースト
2019年8月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード