画でも書でも掛ければそこの壁にはその作者が存在する。つまり一個の客と自分との同棲の状態がおこる。だから書斎掛けの幅には、自分と異質を感じるようなものはがまんにも下げておかれない。
いくら名画でも余りきびしい堅い作品は窮屈である。といって浮世絵の濃艶も困るし、妙にくだけて洒脱めかしたお客も少々、小うるさい。気にならない水墨などがよく、そして、ふと眼をやったとき、何か無口なうちに話し合えるような画でもあれば、これは常住坐臥の愉しい友としてつきあえる。
この「雪村筆・茄子図」などは、見得もない朴とつな田舎出の一老爺が、ちんと、うずくまっている姿で邪魔にもならない。しかし仔細にみると、二箇の大茄子の重量感といい、花落ちの実や花の異様なモザイク風な描線の組み方といい、尋常でない画人の風戯であることはすぐわかる。
雪村は、雪舟に私淑し、足利末期の周文とか芸阿弥、真阿弥などにもならぶ、独自な画境をもった奇才だといわれている。けれど彼は当時の東山文化に
ところでこの「茄子図」はそんな正面切った雪村ではない。畑作りの余戯みたいなものだ。私にはそれが一そう親しめる。第一買った値だんも戦後だが安かった。しかもあとで函底の書付類をみたら、岸田劉生の旧蔵であることがわかった。そして速水御舟がこの茄子図の構成をとって、べつに自己の茄子図を描いたともいわれている。そういえば、どこかでこれに似た御舟の茄子図を観たことがある。
それとまた、横山大観も雪村が好きだった。で、その生前に、私の、も一ツ持っている

(昭和三十四年)