『はてな。……閉めて寝た筈だが』
と、
――風が出て来たらしい。
海が近いので、庭木には潮風が
楠平は、手燭を
『あっ、お
口走りながら、楠平はそこへ寄ってみた。雨戸が二尺ほど開いているし、縁の内をそっと
『――お嬢様、お嬢様』
ふた声ほど呼んでみた。
返辞はない。
楠平はすぐ、はっと或る予感の的中を思って、体が
明日は、家中の人、
『旦那様っ、旦那様っ。――お嬢様のお部屋が開いておりますが。そして、お嬢様のお声もしませぬが』
雨戸の外から、主人の寝所をたたいて彼が告げると、
『なにっ、娘が居ないと?』
娘のお市の行状に
『さては、
と、狼狽の中に、惣七の怒りの声が
『おまえが悪いっ。女親として、知らずにおる事があるものか』
と、彼女の母親を、恐しい声で叱りとばした。
――わっと、泣き伏す声がした。お市の母が悔い泣くのである。
その泣き声を、惣七は又叱りながら、
『ば、ばかめ! 泣いていて済む場合か。遺書を見い、上方へ行くとある。わし達が
――まだそう遠く迄は走っていまい。
それに
楠平は、自分の若党部屋へもどって、
『旦那様。ひと足先に、てまえが追いついて、お嬢様を抑えて置きますから、お後からすぐ』
出がけに、外から云うと、惣七は、窓から顔を見せて、
『楠平か、楠平か』
『はい。はい』
『よく気がついた。早く行ってくれ。――浜ではないぞ。道どりは山の方らしい』
『てまえも、そう考えます』
『わし等も、手配をして、すぐ
楠平はもう外へ駈け出していた。主人のおろおろした声が耳に残って、いつまでも心が
中津の城下は、もう何処も寝しずまっていた。
道は、山国川の流れに添って行く。町から離れ、村から遠去かるに従って、登りにかかった。
『あっ? ……やっぱり相手は格之進』
楠平は、覚られないように、身を
もう一人の方は、紛れもない主人の娘の――お市であった。
『お待ちなさいっ。――お嬢様、格之進様っ』
不意に馳け寄って、楠平は、
男女は
『何とした事です。お嬢様もお嬢様なら、格之進様も又、武士にあるまじき為され方。――さ、お帰りなさいませ』
『…………』
若い男女は、
『今のうちにお帰りなされば、誰もまだ知らぬ事、お嬢様も傷がつかず、格之進様も御無事で済みましょうが。……おふたりの仲は、楠平も以前から、薄々はお察し申しておりましたが、お嬢様には、親御様のお口から、嫁に
――すると、それまで黙っていた深見格之進は、
『これ楠平。若党の
『では、何うあっても』
『知れたこと!』
『……でも、お嬢様は、よもや御両親を苦境に捨てて、後は何うでもなれというお考えでは御座いますまい。口の巧い、
『おのれ、今の言葉は、誰を指して? ――』
と、格之進は不意に刀を抜いて、楠平の横顔へ斬りつけた。
楠平は、わっと両手で顔を抑えながら五、六歩ほど
そして一度は、腰をつきかけたが、血を浴びた
『もうこの上は!』
と、刀を抜合せて、烈しく斬返して来た。
格之進は、彼の鋭い切っ先を、何度もかわしながら、彼の弱るのを待って、滅多斬りに刀で
お市は、自分の幼い時から、背にも負われ、手にも抱かれた召使なので、さすがに
『――もう、もう、止してください。格之進様っ。止して下さい。……あっ、誰か
『えっ、追手が来た?』
彼女のことばに度を失って、格之進は血刀を提げたまま、お市の走るのに
だが、その翌々日、
然し、連れ戻されたのは、お市だけで、男の深見格之進は、島の多い海峡の瀬戸口で、追手の隙を見て海へ飛びこんでしまった。
勿論、この事は、田丸家の内輪の者だけで、極秘にされ、お市の婚礼は、急病という
若党の楠平は、重傷だった。けれど
その後、半年以上も過ぎて、お市の結婚は、極めて質素に執り行われた。――かねて正当な婚約のあった同藩の
× ×
× ×
享保二年から八年までの歳月は、またたく流れた。
十九の年の
七夕も近い――夏の或る日の
お市は、ぽつねんと、雑草に委されている庭に立って、夕方の星を仰いでいた。まだ、外も、窓も、仄明るかった。
『お市っ。――
良人の書斎から、兵庫の声が、その姿へ、鋭く投げられた。
『…………』
星を見ていたお市の眼は、そこらの木を梢から梢へ移されたが、良人の方は見もしなかった。
『……居りません』
と、冷ややかに云ったのみで。
兵庫は、書き物に疲れた眼をあげて、
彼の周りは、書物に埋っていた。
伸びるままに委せてある庭の雑草のように、彼の身のまわりも、独り者のように、散らかって、
『居ない? ……。それは当り前だ。そんな所に立った儘、庭木を見ていた所で、見える筈はない。外を歩いて探して来い』
『…………』
彼女は然し――その立っている所から動かなかった。
今し方、良人に代って、鷹小屋の中へ這入って鷹へ
鷹の
飼い馴れている鷹であるから、本来逃げる筈のものではないが、彼女の姿を見ると、鷹も
それを良人の兵庫は、叱りはしなかったが、
(探して来い)
と、
(馴れた者が、口笛をふくなり、手をあげて呼べば[#「呼べば」は底本では「呼べは」]、鷹は
とも云うのである。
だが――彼女はその命に従がえなかった。
星を見ていた……。
ここに居ない、遠くの人が思い出された。
そして現在の自分に、ほろほろと理由なく泣けて来る――
『まだ其処に居るかっ』
兵庫の声は、烈しくなった。
『もう年老いて、猟には使えぬ古鷹だが、年来、わしが
『……御無理です』
『なに、なぜわしの
『女などに、鷹を捕まえて来いなどと仰っしゃっても』
『
『逃がしたから、その
『誰が、妻の困るのを見て嬉ぶものがあろうぞ。そなたも鷹匠の妻でないか、もう五、六年も朝夕わしのする事は見て手心も知っている筈。――今渡した鷹笛をふいて、
『……そ、そんな、見ッともないことが』
『何が見ッともないのか』
『御自身で探していらっしゃれば、よいではございませぬか』
『十日以内には返上すると約束して、他家から拝借した「
すぐ側にある行燈を引き寄せたが、掃除の届かない油皿にも
いつのまにか、お市の姿は、庭から消えていた。
鷹を探しに外へ出て行ったものとばかり思って、兵庫は又、机に
『居るのかッ、未だ!』
こう呶鳴ると、彼は無意識に、机の上の物を掴んで、彼女の部屋へ抛りつけた。
それは、
『――今、行きかけている所です』
お市は、見向きもせず、櫛の手をうごかしていた。くわっとした兵庫も、彼女の声の底に、
――次に、お市は箪笥を開けていた。閉めたり開けたりする
着物を
(又、始まったな)
と、
『……お話がございますが』
と、彼女は、改まって、良人の前へ来て坐った。
『……なんだ』
『お
『…………』
『
『…………』
『この部屋も、鷹の
『わしは、藩の鷹匠だ、書物を見るも、鷹を飼うも、わしの天職――わしの御奉公。――当りまえな勤めではないか』
『ですから、わたくしは、
『
『よ、ようござんすね。……では』
『だが、待て』
『御未練ですか。武士のくせに』
『はははは。――イヤそう思って居てもよい。
『はい、今日こそは、出て参ります。此の家へ嫁いで来てから、わたしはただの一日でも、倖せだった事はないのですから』
『仕方があるまい……』
『ど、どうしてですか』
『そうして、一日一日でも、親に為した不孝の罪を償うのが、せめて
『…………』
お市は、ちょっと青ざめた唇を、きりっと噛んで、詰め寄りながら、
『それは一体……何の……何ういう意味ですか』
『自分の胸に問え』
『父の惣七も、私の母も、
『やかましい』
『いいえ、いいえ』
『だまれ。惣七殿が御無事なのは、わしたち夫婦が、何事もなく、いや何の風波も無いように、世間へ見せているからではないか。――あの好人物な惣七殿を初め――其女の一家が、わしの胸一つで、気の毒な事になると思えばこそ、わしは
『そ、そんな、偽った気持――わたくしは嫌いです』
『何を云う。誰が、偽った気持など抱きたかろう。――だが、わしはお前の両親に、頼むと、手をつかれた事があった』
『知りません。父が貴方と婚約した事すら、わたしに黙ってしたのですから』
『いや、まあ聞け。武士として、頼むと、手をつかれる程、辛い事はない。其女はいつも口癖に、わしには愛がないように申すが、それは
『分りました。――そうです、わたくしなどは、どうせお
『今に分る。もっと長く長く、わしと
『そんな
『不幸が其女を誘惑するのだ。惣七殿の為にも、其女の為にも、わしという者は、大樹の陰ではないか。――逃げた鷹はぜひもないが、不幸になる人を見のがすわけには行かぬ』
『そんな事を云って、又わたくしの気を
『――
『そうです! 貴方の優しいのは、

『……はははは、もう落着け、鷹も探しに行かいでもよい。よく落着いて、もういちど考え直せ』
『いいえ、嫌です、嫌です。何と云われても、もうもう私は……』
良人が冷静な
前の日、一人の
兵庫は又、机に向い直して、筆を執りかけた。
――すると、彼女の跫音が、門を踏み出したか、
『あれッ』
と、
『……?』
兵庫は、執りかけた筆を
この
従って、狭い小路が、幾筋も曲がっていたし、どの家も、簡素を超えて、貧しげな侍ばかり住んでいた。
今――ばたばたっと夕闇を
『た、助けて下さい。――お
と、彼女の裾をつかんで叫んだ。
赤土の肌の崩れている土塀には、夕顔の
『あっ……?』
と、お市が身を
『お、お、お慈悲に――暫くの間、御門内に』
と、這って来る。
見ると、その若い浪人の背筋は、
――きゃっと、彼女が思わず悲鳴を揚げて、門の内へ逃げこんだのは、その時だった。ウーム、ウームと、外には、
良人には、出て行くと云って、踏み出した
――と。手燭の明りが
『何うした? ……』
と、兵庫の声が
さっきも今も、兵庫の声には、少しも変りは無かったが、お市は、未練に思われるのが口惜しかったので、
『ええ今……今行くところです』
と、云った。
兵庫は、薄く苦笑したが、門の外の呻き声に、
『やっ? ……誰じゃ』
と、
もう意識を失いかけて、
『武士のお情に! ……お、お
と、絶叫する程な力で、
兵庫は、夕顔の花より血の気のない――その浪人の顔を見て、愕然としたが、
『
と、一
『そ、そうです。相手は……相手は五、六人もの人数』
『ひとりか、おん身は』
『…………』
頷くと、其儘、がくりとしかけたので、兵庫は急いで手を伸ばした。そして、傷負の体を、引っ抱えるなり、庭の奥へ、駈けこんで行った。
お市は、その隙に、もう二度と兵庫とは顔を合せない覚悟で――ついと門の外へ踏み出しかけたが、途端に、ばらばらと駈けて来た跫音と共に、
『あっ、この家だっ』
『血しおがこぼれている!』
と、口々に喚いて、門の前に立ち塞がった侍たちの
『――それっ』
と、五人の中のひとりが云った。その男の白刃には、ありありと血しおが
その儘、彼等はどやどやと、門の中へ押し込んで来ようとした。すると、飛鳥のように、庭の奥から引っ返して来た兵庫が、
『待てっ、何処へ行くか』
と、門の口いっぱいに、両手を拡げて、立ち塞がった。
『やっ?』――と、その姿に初めて、
『ここは、曾我部どののお
と、気着いたように、一同は、土塀の夕顔を見まわした。
『されば親代々、お
『ただ今、この内へ、傷負の浪人が逃げ込んだ筈――討たでは措かれぬ憎ッくい
頬に古い大傷のある男が喚くと、それに続いて、他の侍たちも、
『年来
『どうか、その曲者を、突き出していただきたい』
『吾々の手に、お渡しください』
『それがお手数とあれば、われわれが勝手に引っ捕えます故、
と、口々に云う声も、殺気立っていた。
兵庫は、依然として、手を拡げた儘、
『いや。その儀は成らぬ。お断りする』
と、云った。
断乎とした言葉でそう答えた。
兵庫の一
『なに! なぜ成らぬか』
と、詰め寄った。
『何とあろうが、いちど侍の
『異なことを申される。あの曲者と、
『縁も、

『分らぬ!』
と、頬に大傷のある男は、味方の者たちを顧みて、絶叫した。
『この曾我部兵庫どのが――あんな事を仰せられる。わし等と共に、あの曲者を、一太刀恨んでもいい人なのに!』
『きっと、われわれが何者か、この門内へ逃げた浪人が誰か、まだ何も御存知ないのだろう。格之進も変っているし、おぬしの顔も、その大傷で変っているからな』
『そうだ。名乗れ名乗れ。――そして、仔細をよく話してみろ』
顔に大傷のある男を中心に、五名の侍は、がやがや云っていたが、
『あいや兵庫どの。これにおる男は、顔の大傷のため、お見違いなされたか知らぬが、以前、田丸様に若党奉公しておった楠平と申すもの。それがしは叔父の太左衛門でござる』
『てまえは、楠平の義兄の尾形周平というもの』
『拙者は、従兄弟の中根倉八』
『友人の沢井又兵衛』
と、順に名乗りかけてから、
『逃げ込んだ卑怯者は、六年前、御当所を
と、前にも増して強硬だった。
云われる迄もなく、兵庫は
『いや、成らぬ。何と云われようが、武士の
と、同じ言葉を、重ねただけであった。
楠平の義兄、尾形周平は、さっきから眼を燃やして、兵庫の顔を
『もう、こんな分らぬ人間に、物を云うな。云うだけ無駄だっ』
と、
『駈け落ち者の片方を、女房に持って、何ともせぬ神経へ、われわれの武士道を、云って聞かせても始まるまい。――この上は、刀にかけても、渡さぬというのか否か。それだけ聞こう』
と、身を開いて、ぱっと
周平が、そうしたので、他の者も、さっと身構えを変えた。当然、相手がふいに、抜打ちに来るものと計ってである。
だが兵庫は、眉も動かしてはいない。ただ微かに苦笑を
『元より、刀にかけても!』
と云った。
『――う、うぬッ』
周平が振り込んだ
『叔父御、背を貸せ』
と、周平は、太左衛門の背に足をかけて、直ぐ塀の内へ躍り込もうとした。
『まあ待て、まあ待て』
太左衛門は、背をかわして、彼やその他を、抱き止めながら、
『
と、何か
四名は、
『――かッ』
と、
楠平やその友達や、尾形一家の者が立ち去って行くらしい跫音に、曾我部兵庫は、ほっとして、家の中へ這入りかけたが、ふと、暗い大地を振向いて、
『お市』
と、呼んだ。
お市は、そこに居るか居ないか分らないように門の脇に、身を沈めたまま、平たく
『――冷えるぞ』
それも常の声だった。
『…………』
突然、お市は、
『――泣いている間に、
云い捨てて、兵庫は家の中へかくれ、又、机の前に、黙然と坐った。
――坐ったが、然し彼もさすがに、筆は持てなかった。
地の下に、
『……うううむ。……ううム……』
庭の隅の鷹小屋から、時折、苦しげな太い

お市の耳へも、それは聞えてゆくに違いない。捨てて置けば、出血は止まるまいし、刻一刻と、
そのうちに――がたんと、裏の方で、物音がした。
兵庫は、すぐ窓を開けて、
『誰だっ』
と、
『あ……
『オ……由松か』
『御用を
『いい所へ戻ってくれた。早速だが、
『ございます』
『それと、
『へい』
由松は、不審な顔をしながら、とにかく
そこに一棟の鷹小屋がある。
這入るなとは主人に云われたが、戸が
白い顔が、傷負の側から振向いて、あっと、軽い声を
由松も吃驚して、
『ヤ。御新造さまでは御座いませんか』
と、さけんだ。
お市は、手を振って、
『叱っ……静かにしておくれ』
『そこに、
『わたしの
『晒布も、金創薬も、焼酎もここへ持って参りましたが』
『え?
『旦那様のおいいつけで……』
『……あ。……そう』
『ここへ持って来ておくれ』
『へ、へい……。けれど、旦那様が、中へは這入るなと仰っしゃいましたが』
『かまいません』
『では――』
『それから、
『
『竹筒に水を入れて、駕へ
『では、その怪我人のお方を』
『別府の
『旦那さまのお耳へは』
『何もかも御存じなのだから、云うには及びません。――もうすぐにお寝みになるだろうし』
『……ほんに』と、由松は庭木を透かして、
『いつのまにか、お部屋の明りが消えております』
『じゃあ、今のうちに、はやく駕を頼んでおいておくれ。
由松は、何処かへ、出て行った。
もう
海騒もない、静かな
沖の水平線だけが、月光色の帯のように、ぎらぎら明るかった。
『御新造さま。……参りました』
『駕?』
『へい』
『旦那さまは』
『あれなり、ずっと、お寝みのようでございますが』
『……じゃあ、ちょっと、手をかしておくれ。……そっと、そっと抱いて上げないと』
『かなり
『でも、すっかり洗って
由松は、何気なく、
『あっ、この男は』
と、思わず口走った。
お市は、顔を
『お前も、この人の顔を、見知っているのかえ』
『知……知らねえで、何としましょう。……御新造さま! お、おまえ様というお方はなあ……』
『もう、何も云っておくれでない』
『――云いますめえ、
由松は、
『……ア、由松や。表門ではなるまい。駕は裏の木戸へ来ているのでしょう』
『うんにゃ』――と由松は首を振って、
『宵から、裏の浜辺に、
『えっ、外に誰か、立っているって?』
『仕方がござりますめえ。この塀の中にいれば、誰にも、指一つ触らせる旦那様ではねえのに……おまえ様が好んで出て行かっしゃる地獄の道だに』
『……いいよ! ……もうわたしは、覚悟をしているのだから』
門の前には、駕が二つ、忍びやかに待っていた。それも由松の気くばりとみえて、
傷負は、そっと、一挺の内へ寝かされた。由松は、鼻をすすって、地を見つめていたが、
『さ、御新造も、はやく……』
と、人目を
『ありがとうよ――』
彼女は、奉公人へ対しても、初めて、心からそんな礼を云った。そして、
『もういいから、中へ這入っておくれ』
と、云った。
由松が中へ姿をかくして、門の
『駕屋さん――やってください。一挺は病人ですから、揺れないように』
駕は、傷負を
お市は、駕の中から、もういちど、草だらけなわが家の門を振り向いた。
中津の城下から南へ向って、道が町屋から離れると間もなく、
『待てーッ』
いきなり横合の
『お市! これへ出ろっ。
惣七の後ろには、宵の五名も、その儘のすがたで、ずらりと立ち
もう霜になった

『ようも家名を
槍を繰り引いて、垂れ籠めている駕の内へ、ずばっと突き入れようとした時、並木の陰から、
『
『あっ――お身は兵庫どの』
『あなたに、こんな事をさせる程なら、拙者も永い
『ない、わしに落度はない。町人なら知らぬ事、武士の娘に――又武士の間に、そんな
『武士。――仰せられたその武士へ、では何で、お市を嫁がせる前にあなたは、頼む! と拙者に手をついたか』
『……む?』
『武士には、一
『…………』
『いや一諾の、信義のと、
『もう、仰せられな。――勿体ない、勿体ない。そう云われては、この惣七、
『お詫びは、今も申した通り、兵庫からせねばなりませぬ。折角の一諾も、お引き請け
『な、なんの。――お身から詫び言など』
『この上は、お慈悲です。二人の然諾も、恨みも解いて、この駕を、行きたい道へやって下さい。――それが縁あって一時良人と
『いや、わしの一量見にはゆかぬ。あれに居らるる五人の衆の心も
惣七は、親心に、もう槍の向け場を失っていた。
兵庫は
『この通りお願いしまする』
と、云った。
そして又、
『その中に、楠平どのは居るか』
と、訊ねた。
『はい、これに居りまする』
と、楠平は一足前へ出て云った。
『おぬしが受けただけの傷は、いやもっと心にまで深く、格之進に与えたではないか。その上、
『……分りました。貴方のお言葉で、小さい意地や男の体面のほかに
『かたじけない』
兵庫は、それを惣七に伝えるつもりで、駕のそばへ戻って来たが、ふと見ると、お市の乗っている底から、血しおのながれが、無数に地を走っていた。
『しまった!』
兵庫は、駈け寄るなり、駕のたれを
そして膝には、夕顔の
『……兵庫どの。娘はやはり武士の娘に違いはなかったのじゃ。わしが悪かったかも知れぬ。いや悪かった、悪かった。……ゆるして下され』
大地へ手をつかえた惣七は、
『――それ』
と、眼くばせ交すと、楠平を初め五名の者は、すぐもう一つの駕を取巻いて、中を
――すでに、ここ迄来る途中で、彼の
(昭和十三年六月)