剣の四君子

柳生石舟斎

吉川英治




草廬そうろの剣




 新介しんすけは、その年、十六歳であった。
 大和国神戸かんべしょう小柳生城こやぎゅうじょうあるじ、柳生美作守家厳みまさかのかみいえとし嫡男ちゃくなんとして生れ、産れ落ちた嬰児えいじの時から、体はあまり丈夫なほうでなかった。
 母なる人が、青梅あおうめにあたって、月たぬうちに早産したせいだとか。――いわゆる月足らずの子であったとみえる。
いくさに出たい。戦に連れて行って下さい」
 彼も、武門の子である。合戦のあるたび父にせがんだ。
 が、父の家厳は、
「そちのような弱い肉体では、戦いに出ても物の役に立たぬ。柳生の一族は、病弱な子まで狩り出したと、敵方に笑われよう。――そういう望みはって、むしろそちは僧侶になれ、学問をしておけ。柳生家の累代るいだい、戦に次ぐ戦に、代々何十名の戦死者があったか数も知れぬほどだ。そちの兄、やす太郎も二上山ふたがみやまの合戦に討死した。叔父御もおととしの出陣から帰らなかった。……のう、そういう人々の霊をとむらうべく、僧門に入るのも意義のないことではない。そちの体の生れつきひよわいのは、一族の中から一子はそれに捧げよとの、仏天のおいいつけかも知れないのだ。宿命というものである。いらざる憂悶ゆうもんいだかぬがよい」
 と、ねんごろさとすのであった。
「…………」
 新介は、黙って聞いているが、いつも涙をこぼした。顔を横に振るたび、その顔から涙が飛んだ。
「わからぬやつ! 女のくさったようなやつ! 嫌いだっ、あっちへ退がれっ」
 ては、その涙へ、こわい顔を示して、家厳は大喝した。
 それも、父性の大愛からほとばしる声以外なものではない。
 ところが。
 ことし天文十三年の七月には、その父が好むと好まないに関わらず――子が望むと望まないに関わらず――否応のない戦火が、柳生父子おやこを、一つ戦場に捲き落した。
 連年、しのぎを削りあってきた宿敵、大和の筒井栄舜房法印順昭えいしゅんぼうほういんじゅんしょう麾下きか二十万石の領土の精兵を、挙げて、この小柳生ノ庄のわずか七千石足らずの小城ひとつを、取巻いて、
「三日のうちに踏みつぶして見せる」
 と、豪語し、そこの山上山下、野も畑も部落も、兵馬に埋めてしまったのである。
 新介は、こうした危急が、わがの石垣の下まで迫ったのを眺めやると、
「もう父もお叱りはなさるまい」
 と、生れて初めての武者ぶるいを――恐怖の快感を、よろいの下の血は楽しむのだった。
 そして、昼夜必死の防戦に、彼は搦手からめてから水の手までの線を死守し、父の家厳いえとしは、一族と共に、もっぱ大曲輪おおぐるわの指揮に当り、時には自身、大手の木戸まで出て、士卒と共に奮戦していた。


 石垣は血にそまった。
 その血が黒くならないうちに、次の敵が、また石垣につかまってのぼってくる。
 岩石、材木、沸湯にえゆ――糞泥ふんでいまでを、執念ぶかいその敵に浴びせかけた。
「多聞院日記」の記事によれば、この時の激戦は、三日にわたるとあるが、「柳生家家譜かふ」には、七日をすぐとある――
 何にしても、相互、おびただしい犠牲を出して、み戦った酸鼻さんびは分る。
 筒井勢は、小柳生の在家散郷へ火をつけたから、その煙は、天を焦がし、畑はふみ荒され、百姓のすがたはおろか、家畜の影も絶えてしまった。
 糧食の道、水の手の落口も、たれてしまった。城中の兵は、眼に領内の焦土をながめ、身のまわりには、飢渇きかつか死の影しか見られなかった。
 が、なおも城は、頑強に落ちなかったので、筒井順昭じゅんしょうは、自身伊賀を発して、忍辱山にんにくさんに陣を取り、
「これしきの小城に、七日もかかって、なお落ちぬと四隣に聞えては、筒井衆の名折れぞ」
 と、激励した。
 順昭は、後の筒井順慶じゅんけいの父にあたる人である。順慶とちがって、英武な名将と知られていた。――その忍辱山の陣所へ、柳生方の捕虜が一名、高手小手に縛られて来た。
 その晩も、諸所の放火、陣地陣地のかがりなどで、夏の夜空は、真っ赤に煙って、地の草露に虫の音もなかった。
「坐れっ」
「それへ直れっ。――直らんかっ」
 繩付の弱腰を蹴って、一群の将士が、床几しょうぎの前へ突きのめした捕虜を一目見ると、筒井順昭は、
「ああ待て。手荒にするな」
 と、思わず眉をひそめずにいられなかった。


「女か。病人か」
 順昭は、まず訊ねた。
 見るからに弱々しい一名の敵を、大勢して、さも手柄顔に生擒いけどって来た味方の将士も、むしろ不快とするような順昭の語気だった。
「わしは、女ではないっ。病人などでもないっ。――柳生家厳いえとしの嫡男、新介宗厳むねとしなのだ。はや首を打てっ。首を打て!」
 順昭の声に応じて絶叫したのは、彼の部下ではなく、彼の前にひき据えられている捕虜だったのである。
「何っ。柳生家の総領じゃと」
 順昭が、思わず眼をみはると、籠手こての傷口を縛りながら、繩付のうしろに付いて控えていた朝山氏堯あさやまうじたかという赭顔しゃがんの勇将が、頭を下げて答え直した。
「幾度、水の手のといを断ち切りましても、いつの間にか、城内へ水の通っている容子なので、それがしの手勢を伏せておきますと、夜ごと、この若武者が、決死の一隊をひきつれて、搦手からめてから裏山へじ、貯水池の樋をかけ直し、水路をひいて城内へ走りこむのを見届けました。――で、こよいこそと、それがし自身、待ちかまえて、袋づつみにしましたが、若年とはいえ――また、見たところ、仰せの如く、病人か女のような弱々しい姿に似気にげなく、死にもの狂いに抵抗し、味方の兵を、八、九人まで斬りつづけました」
「……ふうム?」
 順昭は、うめきながら、毅然きぜんとしている捕虜の色白なおもてに、じいっと、眸をすえたまま聞いていた。
「――憎ッくい小冠者めがと、それがしが槍を突けると、それにおる野添盛八、漆間うるしま八郎右衛門の両人も、左右から力をあわせ、追いつめ追いつめ、扇形おうぎなり空濠からぼりくぼへ、敵が足ふみ外してころげ落ちたので――討つなと、野添の槍を止めて、引っからげて参ったのでござります。――からめ捕ってから気づいたのは、意外にも、それが城主柳生家厳いえとしの息子であったということです。さして手柄とも存じませぬが、ほかならぬ敵将の嫡子、君前にささげるのが至当と考え、物々しゅう思し召されましたろうが、ともあれこれへ引っ立てて来た次第でございまする」
「そうか。……いや、よくからめて来た」
 順昭は、初めの気色を改めて、
小冠者こかんじゃおもてを上げろ」
 と、柳生新介を、めつけて、もう語気の端にも、不愍ふびんなどはかけていなかった。
 新介は、死闘に燃やした眸を、まだそのまま持って、かたちこそ、自若じじゃくとしていたが、
「面は上げておる。これ以上あげて、天を笑えというか。首をねる際には、うなじは伸ばすものと心得ておる。いらざる多言はお互いに無用であろう。はやく首を打てっ」
 と、さすがに声は甲走かんばしっていた。


 暁早い短夜。――濛々もうもうとこめる戦雲と朝霧に明けて、夜もすがら戦い通した籠城の兵に、ふたたび飢餓きがと、炎暑と、重い疲労が思い出された朝の一瞬ひととき
「新介様あっ」
「若殿うっ。――若殿には、何処いずこに」
 搦手からめての兵たちが、大曲輪おおぐるわから大手のあたりまでを、血眼ちまなこに、さがし合っていた。
 それと同じ頃に、望楼やぐらの上では、
「敵が退いたっ。筒井勢は、いつのまにか、全軍退いて、今朝は、一兵も見あたらぬぞっ」
 と、狂気して呼ばわる声もしていた。
 敵が囲みを解いて、総退却したという歓びと、同時に、城主の嫡男の姿が見当らぬといううれいの声とが、黎明れいめいの一瞬に、もたらされたのであった。
 城外の水の手附近で、新介についていた部下は、全滅していた。生き残った者も、割腹かっぷくしていた。――が、新介の死骸はなかった。
「……もしや?」
 父の家厳いえとしを初め、城中の者が、こぞって案じていた一つの推定は、その日のうまの刻になって、不幸にも、適中していたことが知れた。
 囲みを解いて引揚げた敵の筒井城から、軍使が来た。
「御子息の生命は、捕虜として預かってある。降伏人として、城池を出らるる場合は、御子息の身は返して進ぜる。――御評議もあろうゆえ、回答には、三日の猶予ゆうよをお待ち申すであろう」
 軍使は、すでに勝者の態度で臨んで来たのである。いずれを選ぶも随意ずいいと、あっさり告げて帰った。
 帰った後、惨たる一族の顔が、大曲輪おおぐるわの一室に集まった。どの顔も、眼は落ちくぼみ、髪は茫々として、血や泥や汗のうえに、さらに、い憂色に塗りつぶされていた。
「……どうするか?」
 それだけのことだが、一致は難しかった。
 家厳いえとしは、父として、心強く云う。
「生れながら、武門の後継あとつぎとはなりかねる病弱な子だ。いつかは、僧門へ入れようとすら思い断っていた新介……。祖父以来の城池と名誉にはかえられぬ」――と。
 だが一方。
 親族の柳生河内、菅原夕菴せきあん譜代ふだいの木村五平太、服部織部介はっとりおりべのすけ、庄田喜兵衛次きへえじ、和田、野々宮、松枝などの老臣旗下はたもとたちは、
「仰せではありますが、それは殿のお眼ちがいでありまた、われわれどもも、昨日きのうまで、まったく若殿を、お見損ね申していたので、今日となっては、断じて、新介様を見殺しにいたすわけには参りませぬ」
 と、頑強に云い張った。
 三日の猶予ゆうよは、経ってしまった。しかもなお、家厳の意見と、臣下の意見は、一致を見なかった。家厳としては、生けるわが子を受け取っても、筒井家に屈する恥辱を受けるに忍びなかった。また、自分のみか、城中七百の忠勇な将士をして、敵の足もとへ、拝跪はいきさせるに耐えなかった。――どう考えても、武門を捨てて武人はない。そうしか思えなかったのである。
 すると。
 三日目の黄昏たそがれ、一書が届いた。
 大和やまと生駒いこま郡の筒井城からである。――が、書面は公式なものではなく、また、敵からでもなく、そこに捕われている柳生新介から父へ宛てて来た私信であった。


 敵の中にあるわが子。何をもたらしてきたこの手紙か。――父家厳いえとしの手はおののかずにいられなかった。
 ――が、ひらいて、一目、その文字の様を見ると、何か、彼はすぐほっとした。少しも字体が乱れていなかったからである。
 文面の意味は、次のようなものであった。
 父上。
 さても人間とは明日あしたも知れないものであります。きのうまで御膝下ごしっかで甘えておりましたが、きょうは見も知らぬ敵方の中に、捕虜の身となっていること、ふしぎなる天命と、柔順に深思しております。
 不覚とは思いません。新介は、最後まで戦いました。恥ともいたしません。勝敗は兵家の常です。一生は今日だけのものではありませんから。
 むしろ私はこの天命を奉じて歓びさえ覚えています。生れて十六年、不孝のみ重ねてきたこの病骨が、今こそ幾分のお役に立つかと存ぜられます。新介はすでに討死なしたるものと思し召され、この身を筒井家のとなし、即刻、和議をお講じ下さい。
 祖廟そびょうの地こそ、病骨の子ひとりよりは、大事な筈です。忠勇な家士の面々こそ、私一人などには代えられない柳生家の石垣かと考えられます。
 どうぞ御善処ありますように。
 さもあらばあれ新介もまた、自ら生きゆく道を選んでゆくでしょう。御膝下を離れてむしろ今、人となる道をおしえられ、また、御両親様の大愛の一しお身に迫るものを新たに覚えておりまする。では呉々くれぐれも、御自重のほどを。
筒井城内の短檠たんけいすいもとにてしるす
新介拝
 父うえ様
「…………」
 家厳いえとしは落涙がとまらなかった。玉砕ぎょくさいいさぎよしとして主張していた一徹な愚かさを、日ごろ病弱あつかいにしていた子から訓えられて、背に百杖を下された心地に打たれた。
「そうだ。云うが如く、善処いたそう。……新介の志を生かして」
 評議のへ出ると、老臣以下、まだ暗澹あんたんとそこに坐っていた。家厳は、面々が夜に入ったのも知らずにいる態を見て、
しょくともせ」
 と、武士どもへいいつけた。そして、
「燭が燈ったら、一同これへ寄れ。ただ今、敵方におる新介から、かような書面が届いたに依って、改めてはかりたい」
 と、新介の手紙を示した。
 それを見て、泣かない家臣はなかった。或る者は、声をもらして嗚咽おえつした。
「――ついては、わしの心も決した。この新介が手紙の文面をとくと見よ。降伏とは書いてない。和議を講じてくれとある。ここに新介の真意があるらしい。――降伏は受け難いが、和睦わぼくを結ぶなれば悪しかるまじ、その代りに、自分は質子ちしとして、筒井家にとどまる――という存念と相見える」
 評議は一決した。
 新介の意をむねとして、即刻、筒井家へ使者を送った。使者は、
「降伏は申し出ぬが、和議なれば応じ申そう。条件としては、嫡男新介宗厳むねとし様を、長く質子ちしとして貴家へお預け申すべしとの主人家厳が意見にござります」
 と、口上で伝えた。
 これでは、対等にひとしい返答である。筒井方の不満は明らかなように思われたが、意外にも、
「承知いたした。御提示の条件をもって、宿怨しゅくえんを水に流し、改めて、隣交のよしみを結び申そう」
 と、筒井順昭は、一言に許した。
 思えば危うい限りだった小柳生の城も――天慶てんぎょう以来つづいて来た柳生ノ庄七千石の領土も――ために、計らずも無事なるを得た。筒井家の属国的な位地に落ちたことはぜひもなかったが、ともあれ新介の身一つで、父家厳以下、多くの家臣までも、一応は滅亡の淵から救われた。


 兵は強く、領土は広い。
 覇業はぎょうを成した人物だけあって、筒井順昭は、やはり一世のゆうであった。
 彼に足らないものは、子であった。女子のみが多いのである。一男は夭折ようせつし、その下の藤勝ふじかつはまだ幼い。
「他家の質子ちしながら、新介ほどの嫡男があれば」
 とは、彼がいつも独り思うことだった。
 合戦には十分に勝っていながら、また、筒井家とは比較にならぬほど領地も狭いし兵力もとぼしい柳生家と、対等に近い和議をれたのも、捕虜として連れて来た新介のくまで毅然きぜんたる態度と、一族を思う至誠に動かされた結果だった。
藤勝ふじかつ。そちもちと、新介を見習えよ。いつまでも家臣どもに甘やかされて駄々ばかりこねている和子様であってはならぬぞ。新介の刻苦こっくに見習うて、朝はつとに起き、馬術、弓道の稽古けいこに励み、読書もせねばならぬぞ」
 四年間。――新介が質子ちしとしてここへ来てからいつか四年となる、――その間の彼の起居や修養ぶりに感じるたびに、順昭は、わが子にひき較べて、藤勝ふじかつを訓戒せずにいられなかった。
「はい。はい」
 藤勝ふじかつは、ことし十五である。父の前では、非常にかしこまるが、駄々で懶惰らんだで底意地がわるい。順昭の歿後、領土をうけて、伊賀に本城を移し、筒井順慶と称したのは、この藤勝であった。
 父から叱られるたび、新介の名が手本に出される。藤勝は、その反動で、城内に住むもののうちでは、誰よりも新介が嫌いだった。犬よりも下に新介を見げていた。
 この新介は、城内の片隅に、質子構ちしがまえとわれる小さい一棟を当てがわれて住んでいた。戦国の世のならいで、強国の城廓には、幾人も他国の質子が養われていた。
「弁之助。また、あの擒人とりこの新介が、経文みたいな書を読んでるよ。石を投げこんでやれ、やかましいから」
 藤勝は質子構えのかきを覗いて、供の近習にいいつけた。
「そんなことをなすってはいけません。およしなさい」
「お前がほうらなければわしが抛る」
 小石を拾うと、止める間もなく、の内へ投げこんだ。
 家の中で、石のはじける音がした。しかし、読書の声は止まなかった。
「まだやっているな」
 意地になって、三ツ四ツと投げこんだ。すると、かきの小門が開いて、
悪戯わるさをするのは何者ですか。そんなことをなさると承知しませんよ」
 と、怒って出て来た者がある。
 見ると、新介ではない。女である。しかも藤勝ふじかつの姉にあたる由利女ゆりじょであった。
「あらっ? ……。姉上は、何だって、質子構ちしがまえになんか来ているんですか」
「いいでしょう。来ていても」
「いけませんよ。擒人とりこのいる囲いへなんか……おまけに、男の所へ、女のくせに」
「あなたこそ、今、何を投げたのですか」
「石さ、いけない?」
「なお悪いでしょう」
「大きなお世話」
「今日ばかりではありません。のべついろいろな悪戯わるさをして」
「じゃあ、姉上ものべつ来ているんだな」
「お可哀そうではありませんか」
「誰が」
「新介様のことです。ですから、時折、お見舞に来て上げるのです。其方そなただって、もしいくさに負けて、敵方へ質子ちしとなって行ったら、どんなに思いますか」
「父上にいいつけてやるぞ。こんな所へ、女のくせに、遊びに来て。――弁之助。行こう」
 姉にはかなわない。藤勝はぷいとそこから立ち去ってしまった。


「父上。由利ゆりどのは、質子構ちしがまえにおる柳生新介の所へ、時々、行っておりますよ。いいんですか、あんな所へ女が行って」
 藤勝ふじかつが、或る折、口をとがらして、順昭じゅんしょうへ告げ口すると、順昭は、非常に怖い顔を示して、反対に叱りとばした。
「何を云う。由利は、学問好きゆえ、新介がよく書を読むので、解らぬ所をただしに行くのじゃ。そちもちと、新介について、学ぶがいい」
 藤勝はまた、新介のために叱られた。
 順昭は、すでに自分の末娘の由利を以て、ひそかに新介へゆるしていたのである。和睦して六年、柳生家との間も、その後は至って円満なので、わが娘の一人を柳生家に入れ、それをしおに、新介の身も、花嫁の輿こしと共に、柳生ノ庄へ帰してやろうと考えていたのだった。
 父のそんな深い胸は知ろう筈もなく、藤勝は、それから四、五日後、新介が馬場から帰る途中に待っていて、
「おい、おい、擒人とりこの新介。待て」
 弁之助と二人で呼び止めた。
 新介は、馬の稽古の帰りなので、身軽に扮装いでたち、少し汗ばんだ顔をしていた。
「これは、若殿でございましたか。何かご用ですか」
「おまえ、幾歳いくつになる」
「二十一歳に相なりました」
「二十一にもなって、まだ質子ちしか。よその国に飼われているのか」
「……はい」
「お前のからだは、お前の体ではないのだぞ」
「はい」
「何でもはいはい云っているぞ。お前は意気地がないな」
「恐れ入ります」
「恐れ入ったら、俺のまたくぐれ」
「はい」
「張合いのない奴だな。そんなに尾を振られては、おかしくない。……怒れ、怒ってみろ」
「…………」
「何を笑う。怒れと云っているのだ。こら、怒らないか」
 すねを蹴った。胸を突いてみた。それでも新介が怒らないので、図に乗った藤勝ふじかつは、いきなり彼の耳をつかんで引っ張った。
 新介は、それでもさからわなかった。犬のように引廻されていた。藤勝は、
「犬じゃ、犬じゃ、犬でも怒るが、この犬は、臆病おくびょう犬だ」
 突き離すと、その顔へ、つばを吐いて、逃げて行った。
 新介は、懐紙を出して、顔の唾を拭きながら、さしたる血相も現わさず、静かに歩き出した。すると、物蔭から一人の武士が、寄って来て、
「新介どの、よい御修行だな」
 と、その肩を叩いて慰めた。
 ――誰か?
 と、振向いてみると、それはこの城に二ヵ月ほど前から滞留して、家中の士に剣の法を教えていた神取かんどり新十郎とよぶ新当流しんとうりゅうの武芸者であった。
 新十郎はまた、新介の耳へ、こう信念をもってささやいた。
「あなたは今に名を成すだろう。きっと大成する質だ。大事になさいよ」


 天文二十年、新介宗厳むねとしは、二十五歳になった。
 その春、彼は、由利女ゆりじょを携えて、十年ぶりで、柳生の城へ帰った。
 ――が、父の家厳はもうこの世にいなかった。彼は、山間の八千石に足らぬ痩地やせちと、数百の家臣と、古びたままの小城とをけて、乱世の中からさらに乱世へと臨んで行ったのである。
 永禄二年。筒井順昭もすでにその頃病死していた。
 時は近づいた。信貴山しぎさん城の松永久秀が、大和へ攻め入る事前に、
呼応こおうして、南の地より、筒井領へ斬り入られよ」
 と、かんを通じてきた。
 この時から、柳生一族は、筒井の隷属れいぞくから離れた。そして松永弾正だんじょうの七手の旗頭はたがしらとして重用された。
 多武とうみねの合戦では、山徒の僧兵と戦い、松永氏の勢がたかまるに従って、柳生家も当然、隆昌に向ったが、その弾正久秀が、三好義継と共に、永禄八年の夏、二条御所へ放火して、乱刃のもとに、将軍義輝よしてる弑逆しいぎゃくしてから、柳生宗厳むねとしは、彼にもすっかり望みを断って、
「わが兵馬は、逆のために動かさず。わが剣は、乱のためにらず」
 と、絶縁状を送りつけて、それ以後、ただ山間の孤城に拠り、深く守って、敢て、天下の乱へ出なかった。
 義輝将軍の亡き後の京洛は、まるで無政府状態に近かった。中央の乱は当然、諸州に波及して、いよいよ天下大乱の相貌そうぼうを呈して来た。
 禅に。
 読書に。
 また、養身鍛心に。
 世の春秋もよそにして、以来数年のあいだというもの、柳生宗厳は、まったく門を閉じ客を謝して、草廬そうろこもっていた。
 柳生から近い月ヶ瀬に、ことしもうぐいすの声が渓川たにがわ伝いに聞えてきた。――折から、奈良の宝蔵院ほうぞういんの僧を案内として、柳生村へ入って来た一行九人づれの武士がある。騎馬で先に立った人物はわけて風格が高い。
 一行は柳生城の坂下門で駒を下り、宝蔵院の案内僧は、門をたたいて中の番士へ告げた。
「――前もって、書面にて申し上げておきましたお客方、元、上州箕輪みのわの御城主、上泉伊勢守かみいずみいせのかみどのを御案内申しあげて参りました。宗厳様へ、その由、お伝えをお願いいたしまする」


弓の家



「奈良の宝蔵院ほうぞういん」の住職で、胤栄いんえいという変った法師がある。宝蔵院流と称する槍をよくつかう。
 宗厳むねとしは、彼をさして、
「わが道友」
 と呼んで深く交わっていた。
 彼も「道」をさがしている人間だった。宗厳も「道」を求めてまない。人生の道、兵法の道、禅の道、極まりのない道である。――おたがいに迷悟の定まらない者同士が、
「人と生れたからには、何とかして、人間が到り得る境地まで、この心を磨いて、辿たどり着いてみたい」
 という熱望のもだえを――いわゆる道心を――常日頃から語りあっている仲であった。
 月々、父母の忌日には、必ずその胤栄いんえいが自身で読経どきょうにやってくる。そしては、お互いの修行を語りあっていたが、つい四、五日前に見えた折、
「時に、わしは近頃、稀代きたいな人を見たぞよ」
 と、胤栄いんえいが云った。
「稀代な人とは」
 宗厳が問うと、
「剣の達人じゃ。いや名人の境に達していよう。人品もよい。深淵をのぞくようでな。乱世のちまたからもあんな人物が出るものかのう」
「よほど傾倒されておられますな。御僧はいったい、なかなか人にゆるさぬ方だが」
「四十年来、わしが参ったと感じたのは、ひとり伊勢守いせのかみ殿だけじゃ」
「伊勢守と云われますか」
「もと上州大胡おおごの城主であったが、後、長野信濃守に仕えて一方の将となり、その主家長野氏も武田信玄に攻略されたので、以来、甲州武田家に随身して、客分同様、気ままに諸国を遊歴しておらるるとか」
「えっ。……では、上泉秀綱かみいずみひでつな殿ではありませんか」
「御存じか」
「近頃、兵家のあいだでは、恐らく知らぬ者はございますまい」
「それにしては、まこと謙譲けんじょうなお人がらではある」
「その伊勢守殿と、御僧はどこでお会いなされましたか」
「わしの寺で」
「ほ。何として?」
「訪ねて御座られたのじゃ。その前に、伊勢のふとの御所――あの北畠具教とものり卿を訪ねられ、具教卿より、奈良へ渡られたら、胤栄いんえいという変な坊主といちど会って御覧なされと聞いて来られたらしい」
「ああ。残念なことをしました」
「なぜな?」
「会い難い御仁ごじんに会える機を逸したではございませんか」
「そんなことはない。まだ当分は、わしの寺に遊んでおるというている」
「や。まだ御滞在ですか」
「いつでも御案内して参ろう。柳生城の当主宗厳むねとしどのにも、兵法の道には執心しゅうしんと、ゆうべも何かの折、おうわさしたところ、一度は御見ぎょけんに入りたいものと、伊勢どのにも云われてござった」
「何の、自分こそ、願うてもない倖せ、おさしつかえなき日を仰せ下されば、当方より出向くのが礼儀。御内意を聞いておいてください」
「よろしい。さっそく、寺へ戻ったら伝えてみましょう」
 ところがその翌日、胤栄から折返して来た使いの手紙によると、伊勢守がいうには、自分は、武田家の客臣ではありまた、兵法修行のため遊歴中の身である。それにひきかえ、柳生殿には、一城の御当主、領民への御体面もある。先にお訪ねをうけては恐縮、自身から出向いて、御拝眉ごはいびをねがおう。――そう当人の伊勢守が希望することであるから、近日、寺僧を案内につけて、お城まで参上する。当日は自分は同道できないが、さだめしきょうある御清談が交わされよう。取敢とりあえず、御返辞までを、としたためてあった。
 ――それが、今日の伊勢守の来訪となったのである。勿論、前の日、宗厳から命じられてあるので、番士は、ただちに城門をひらき、そこにはまた、
「ようぞお越しを」
 と、老臣以下、幾人かが出迎えに立ち並んでいた。


「お客様が見えられました」
 小侍が、先にひとり、大手の坂道を駈け上って来て、宗厳むねとしのいる庭先から告げた。
 宗厳は、朝から心待ちにしていた。
「そうか。今参る」
 沓脱くつぬぎから草履ぞうりをはいて歩み出た。
 彼はことしもう四十七歳になる。
 妻の由利ゆりとのあいだには、長男厳勝としかつ、次男厳久としひさのふたりの子もあった。
 いつか父となって――初めて亡き父の心がわかる心地も※(二の字点、1-2-22)しばしばであったが――剣の道に志してから、彼はふたたび、幼稚なおのれに帰ってしまった気がする。
未熟
煩悩
迷妄
邪心
 あらゆる痴人のもち前の短所と、身のみ大人になりながらなお、どこか大人になりきれない幼稚なものとが――四十七歳の自分を見まわす時、情けないほど、こびりついている。
 抜いても抜いても伸びてくる雑草のように、未熟から脱けられない。迷妄から離れられない。邪心のにごりから澄みきれない。
 こんなことで、剣の工夫などなろうか。
 時には、あきらめて、捨てようとした。
 しかし。
 剣を捨てたら、自己のみにくさを、明らかに、自己に映してくれるものは無くなる気もする。
 剣は鏡だと思う。
 明澄な剣。――純一に心をぎすまそうとする剣。不断な心の緊張。
 その道を捨てたら、何が、自分を救ってくれよう。――亡父ちちのいた時は、亡父ちちの訓誡に、たえずゆがみをめられていたが。
 ……などとこの日頃、しきりと思い悩んでいた折も折である。宗厳は、
そも、どんな人物か」
 と、客の伊勢守を想像しながら、出迎えのため、彼方へ足早に歩いてゆく間も、何か少年じみた動悸ときめきさえ抱いていた。


 この山は古い、砦作とりでづくりの城も古い。
 柳生一族が、この土地に住みはじめたのは、平将門たいらのまさかどの乱があった承平、天慶の時代からであった。
 うじは、菅原の系類で、遠祖は、春日神社の神職をしていたが――武家勃興ぼっこうの機運から、ここの城寨じょうさいって、弓矢をね、いつか豪族となって、源頼朝のが成った時、初めて柳生谷三千石を本領と扶持ふちされた家がらであった。
 北条氏が強権を執った頃、いちど敗れて一族離散したこともあったが、後にまた、本領を回復し、後醍醐ごだいご天皇が笠置山かさぎやま行幸みゆき遊ばされて、官軍を召しつのられた折には、柳生一族からも、中之坊という勤皇僧が出て、笠置衆徒に列し、正成まさしげ帷幕いばくに参じ、建武の復古によく働いた。
 ――そんな話も、宗厳むねとしは、御先祖の事績として、幼い時からよく聞いていたものである。
 玄関前のおおきな杉。まき喬木きょうぼく
 そこらのこけや草。
 老仙のごとき磐石ばんじゃく。石を縫うささ流れ。
 みな、それからの物であった。
 宗厳は今、そこに立って、坂の下から上って来る伊勢守と一行の者を待っていた。
「おお……奈良はあの森よな。月ヶ瀬は、南の方か。ああびやかな」
 客の一群れは、悠長であった。坂の途中の曲り角に立ちどまって、大和やまとの春の昼霞ひるがすみ恍惚こうこつと眼を細めていたり、辺りの老梅の半開の花をでたりしていて、なかなか上って来ないのである。
 ――が、やがて、此方こなたへ足を向けると、伊勢守らしい先なる人物が、
「あれにたたずんでおられるのは御主人であるか」
 と、かたわらの柳生家の者に訊ねていた。
 宗厳の家臣が、
「左様にござりまする」
 と答えると、伊勢守は、非常に恐縮した様子で、やや足を早め、真っすぐに宗厳の前まで来て挨拶した。
「武術修行の遍歴者に、御自身、勿体ないお出迎え、いたみ入りまする。てまえが伊勢守秀綱です。――よいお構え、遠方此方おちこち、思わず眺め入りました」
 宗厳も、礼を返した。
 そして初めて見る高名な剣人の風貌に眼をそそいだ。
 伊勢守秀綱は、永正七年の生れ、その時五十七歳にあたる。
 見たところ、至極しごく平凡人である。ひなびた老武士といおうか、素朴の一語で尽きている。
 別段烱々けいけいたる眼光を持っているわけでもないし、骨格もすぐれて頑健ともみえない。ただことなっているのは、何となく、接していると、春風のような温雅な和気につつまれる。髪はまだ白くない。唇の色も歯なみも壮者と変りがない。いて普通人よりすぐれているかと思われるところをもとめればそんな点ぐらいしか、見出せなかった。
「どうぞ」
 客殿へしょうじると、伊勢守は、従者のうちから二人だけを伴って座敷へ通った。
 座についてから、その二人を、改めてあるじ紹介ひきあわせた。
「こちらは、門人鈴木意伯いはくと申す者。――また、これにおるのも、弟子の疋田ひった文五郎でござる」
 その後から、
「よろしく」
 と、両人が手をつかえた。
 意伯はすでに老人であり、文五郎は、元服して間もないくらいな若者だった。


 いつか、梅のこずえに、宵月よいづきが水々しい。
 短檠たんけいもかすむ宵となったが、客もあるじも、話に飽かないのであった。
「剣の御修行へは、いかなる御発心から?」
 と、伊勢守に、その動機をただされて、宗厳は、
「道に入りたいために」
 と、答えた。
 伊勢守は、黙ってうなずいた。
 話題を転じて、
「御当家は、天慶以来、武名のきこえある武門でおわすゆえ、定めし御先祖のうちには、兵法に心をひそめたお方もおわそうな」
「特に、剣を学んだという者はございませぬ。――祖父のはなしに聞き覚えておりますことには、応仁の頃、柳生孫次郎家宗いえむねと申すのが、強弓ごうきゅうをよく引きました由で、その頃、奈良坂八町を射通し、世間に伝えられましたため、弓の柳生よ、弓の家よ、と云われていたようでござった」
「ホ。然らば、弓にかけて、名誉なお家だの」
「祖父も、亡父ちちも、そのせいか弓術は人なみに致したようです」
「では、剣に心を向けられたのは、御当主が初めてといえますな」
「少年の頃、筒井家に人質ひとじちとしていたことがあります。その折、筒井家の客となっていた神取かんどり新十郎という剣者と知りあい、後、当城へ招いて、数年のあいだ新当流を学び、その奥旨おうしさずかりましたが――なぜか自身、どうしても、満足ができません。分け入れば分け入るほど、踏み迷うばかりです。おのれの未熟と不才がわかってくるばかりで、お恥かしゅうぞんじます」
「神取新十郎は、五畿内きない随一の兵法者。その人から、新当流の奥旨をうけられながら、なお御不足かの」
「生れつきの鈍才どんさいとみえまする」
「ははは。御謙遜ごけんそんであろう」
「いや、まったく」
 我れ知らず、宗厳は、斬り込むような語気で云った。
 必死に道を求める者の懸命なさけびが、ついほとばしって、眸からも燃え出たのである。
 今だ。この人にこそ、日頃の懐疑かいぎただし、もだえを打明けてみよう。そして、礼をあつうして師事してもよい。
 ――この心の眼さえあくならば!
 宗厳の胸には、さっきから、そうした熱情が抑えられていたので、我れにもあらず膝をすすめたのであった。
 ところが。
 伊勢守は、とたんに手の杯を、軽く下において、
「思わず長座を。……文五郎、意伯、おいとま致そうか」
 と、さり気なくらして、宗厳の眸が、何を訴えているかも見てくれない。
「せめて一夜」
 と、留めてみたが、伊勢守は、春の夜道も好ましいゆえ、帰るという。
 宗厳は、心残りでならなかったが、家臣三名に松明たいまつを持たせて、ここから奈良まで二里足らずの道を、送って行くようにいいつけた。


 惜しい。実に惜しい。
 つまらない座談に千載せんざいの好機を逸してしまった。
 何ものかを、あの人から学ぶべきであった。
 客の帰った後で、宗厳むねとしは、寝もやらずそんないをくり返していたが、また、
(案外、平凡な人物でもある)
 と云う考えもわいて来た。
 世間の大家とか達人とかのうちには、ずいぶんまやかし者も多い。ぜんをやってみて、禅門の名僧智識などに見参してみても、よくそういう失望に会う。
 得態えたいのしれない公案や一かつをくれて取り澄ましていられると、
(これはそもほんものなりや、にせものなりや)
 ちょっとまどわさせられる。
 何ぞ知らん、ただの交際つきあいになってみると、ただの俗人以上の何ものでもなかったりする。いや俗衆以下の場合さえ往々にある。
 書にもにも陶器や仏像にさえ偽物ぎぶつは世上に横行しているのだ。いわんや人間にあって不思議はない。
 彼があざむくのではなく、こちらの眼が曇っている罪ともいえよう。――真を観るむずかしさ。直指人心。これができれば、もう或る所までその人間は達している。
「はてな?」
 宗厳は、疑いだした。
 宝蔵院の和尚おしょうにしても、ああ極言してめちぎったが、道において、あの和尚と自分と境地は、大差はない。
「真価はわからぬ。よし、もう一度、こちらから出向いて会ってみよう。そのうえで、伊勢守の人物が、名声の如く、高潔であり、彼の剣に学ぶものがあったら、改めて、師礼をっても決して遅くない」
 もし近日にでも、先へ旅立たれてはとおそれて、それから一日いてすぐ、柳生宗厳はただひとりで城を出た。
 ここに久しく、絶えて何処へも出ない主人が、にわかに、
「奈良まで」
 と、城戸きどへ向って行ったので、家臣の庄田喜兵衛次きへえじ、服部織部介おりべのすけなどが大手の坂まで追いかけて、
「どちらへお出ましなされますか」
 と、顔いろをのぞいた。
「宝蔵院まで参る。供はいらぬ。供にくな」
「でも、お馬の口輪なと」
「いや歩いてゆく」
 家臣たちは、茫然と見送っていた。
 それほど、宗厳の姿は、道を求めるうつつな人であった。
 彼の学んだ新当流の剣といわず、この時代のいわゆる刀法は、まだ極めて、技術も理論もあらい――ただいかに人を斬るかの工夫でしかなかった。
 彼の理念は、そんな粗雑な構成の熟達じゅくたつで甘んじられなかった。
 いちど、剣を離れて、禅に入ったのも、そのためだった。
 けれども、混沌こんとんと、迷いに入るばかりだった。禅は禅、わざわざ、ばらばらである。自己の一体に溶けて一つの力となって生命の泉を滾々こんこんと音立てて湧かして来ない。――むしろその技すらいたずらに伸びなくなるばかりだった。
「…………」
 黙々と、村を通ると、村の人々は争って、路傍にかがんだ。野を通れば、野の百姓たちは、土に坐って、彼の姿に礼をした。
「みな父の遺徳、祖先の恩沢おんたくだ。……わしはまだわしとして、真に、領民から土下座をうけるほどな何事もしていない」
 彼はむしろ恥かしかった。
 しかも彼のすがたは、よほど年った百姓でなければ、
「御領主様……」
 とはささやかなかった。実に、質素な身なりであった。木綿と藁草履わらぞうりと、一がいの笠しか飾っていない。
 やがて、宝蔵院の寺内へかかった。
 ここの寺も、住持が変り者なので、ひどく虚飾きょしょくがない。がらんとして巨大な空洞のようである。
 青銅の訪鉦ほうしょうが下がっている。備えつけの撞木しゅもくでたたく。
「おうっ」
 と、井戸の底から答えるように、黒衣の坊主がのしのしと出てくる。この僧も、柳生の城主の顔を知らない。
 突っ立ったまま、見下ろして訊ねた。
「誰だ。武者修行か。……近国の郷士か」


求道の門




「――いや、遊歴の者ではない。自分は柳生宗厳むねとしでござる。胤栄いんえいどの在院なればお目にかかりたいが」
 取次の法師の無礼をとがめないのみか、宗厳は、丁寧ていねいすぎるくらい、慇懃いんぎんに云った。
 しかも彼の気持は、極めて自然であった。
 これへ来るまでのあいだに、宗厳の心は、自分が柳生城のあるじであるというような日頃の習慣や気位きぐらいはとうにりすてていた。道を求めてまないものだけが胸を占めていた。同時に身は出家にひとしい謙虚けんきょになっていた。
「あっ、宗厳様で」
 突っ立っていた法師は、あわててかしこまった。知らぬがための非礼をくどく詫びて、舞い込むように奥へかくれた。
「どうなされたのです」
 代って、胤栄が笑いながら姿を見せた。親しいうちにも、貴人を迎える如く鄭重ていちょうに、自身案内に立って、宝蔵院の一間に招じた。
まこと唐突とうとつだが、当寺の客、伊勢守どのには、まだ御逗留であろうか」
「御滞在でござるが、何か……?」
「されば、貴僧を通じて、お願いの儀があって参ったが」
「先日、伊勢どのから足を運ばれて、もう御昵懇ごじっこんのあいだだから、何も御遠慮には及びますまい。――御自身、おはなしなされてはどうです」
「いや一応、御内意をただして欲しい」
「よほど何か重大な儀でも」
「されば。この宗厳にとって、生死にかかわる問題です」
「生死に」
 動じない胤栄も、すこし眼をみはった。
 長い交友なので、宗厳の人がらはよく知っている。かりそめにも衒気げんき大袈裟おおげさを云わない人である。その宗厳がきょうは沈痛なおももちで、
 ――生死の問題
 と云ったので、胤栄も驚いたのである。
「ほかの儀ではないが」
 と、宗厳は、伊勢守に出会って後、またその前からも抱いていた苦悶を、何の見得みえもなく打明けた。
「――要するに、自分は自分に対して、日頃から不満でならない。未熟を知っている。多分な疑いを抱いている。まだ一日として、これでよいと、自分で安んじたことはない」
 宗厳は、云うのであった。
「しかし人は、この身をさして、新当流の奥儀おうぎに達した者とかいう。畿内きない第一の剣であるなどとも噂する。いよいよもって恥かしい。何ぞ知ろうわし自身は、ここ数年前から、殆ど、壁に頭を打ちつけたように、道もさとれず、わざも進まず、ただ昏迷こんめいがあるばかりだ。時にはつかれ、時にはあきらめの嘆息が出て、剣も捨ててしまいたくなる。――かくまであえぎつめてきた剣の道、それはもうわしの生命だ、それを捨てて、宗厳の生はない」
「…………」
 胤栄いんえいは耳をすましていた。
 時には、怪しむように、宗厳のおもてを凝視したが、また、うなずいては聞き入った。
 道を求める熾烈しれつな人のすがたは、路傍の眼から見れば、狂人かと疑われさえするものである。しかし宝蔵院胤栄には解る。胤栄も道の人である。同情せずにはいられなかった。
「それにしても、余りな御卑下ごひげ。いかに自省のお強い性質とはいえ」
 と、彼は心のうちで呟いた。
 宗厳は、ことばを続けて、
「つい、他事よそごとのみ申し上げたが、そうした自分の衷心ちゅうしんです。……実は一昨日、伊勢守どのに拝顔の折、よほどお打明けして、と存じたが、貴僧にこう申すようには云えぬのでござった。――小城ではあるが、柳生ノ庄のあるじとして、あの城に坐しておることが、もういけないのです。今日は改めて、ただ一介の修行中の者として出直して来た次第。願わくば伊勢守どのへお通じ下されて、ひと手、御指南にあずかり申したい」
 と、云った。彼は、そう云い終ると、胤栄に対して、両手をついた。


 渡り縁をこえた宝蔵坊の一棟に、上泉伊勢守は、もうだいぶ長いこと逗留とうりゅうしている。
 おい疋田ひった文五郎と、高弟の鈴木意伯いはくをつれて、今、裏門のほうからそこへ帰って来た。
「御見物でございましたか」
「おう、御住職か。あまりうららかさに、春日かすが御社みやしろまでまいって来た」
「実は、お待ちしているお方がございます」
「どなたかの」
「柳生殿でござります」
「何、宗厳むねとしどのが。……それはまた思わぬ失礼を。いざ、お迎え下さい」
「いや、きょうのお越しは、そうした徒然つれづれのお訪ねではなく、実は必死なお気もちでお出でなされました」
「必死とな」
「実は、かような次第です」
 胤栄いんえいは、板縁へ坐ったまま、宗厳の気もちと望みとを、つぶさに話した。
 伊勢守は、縁のなたに腰かけたまま、聞いていた。いつのまにか、眼をふさいでいる。やがて、その眼をひらいて、胤栄を振向くと云った。
「近ごろ殊勝な人に出会うた。いかにもお望みにまかせよう。……しかし此方こちらが観た眼も、世間のうわさにたがわず、すでに柳生殿には、一流に達しておられるお方、この伊勢守に御指南するほどな力があるや否や疑わしいゆえ、仕合とあれば、承知いたしたとお告げ下さい」
「ありがとう存じます」
 胤栄は、静かに、退がって行った。
 しばらくすると、再び姿を見せて、
御斟酌ごしんしゃくの儀、柳生殿にも、御承知のうえで、先へ、道場へ通ってお待ちなされております。おさしつかえなくば」
 胤栄が、促すと、
「おう、すぐ参ろう」と腰を上げながら、伊勢守は、意伯と文五郎を振向いて云いのこした。
明日あすは、当寺をおいとまする。そち達はこれにおって、何かと旅行李たびごうりの物など、取りまとめておくがよい」
 伊勢守が立つと、胤栄は長い廊下を導きながら、今のことばをただした。
「どうしても明日あすは、御発足でございますかな」
「はからず長いことお世話になった」
「奈良から何処いずこへおまわりですか」
「四国を、九州へ渡ろうと思う」
「何やらお名残惜しいことで」
 云ううちに、もう道場の床が見えた。寺院造りの太い丸柱のある広床は、講堂と云ったほうがよい[#「云ったほうがよい」は底本では「云ったほうが よい」]かも知れぬ。
 南都宝蔵坊の槍の道場といえば有名である。現住持の覚禅法師胤栄かくぜんほうしいんえいの槍も共に宇内うだいに鳴っている。後に新井白石が本朝軍器考にしるすところの鎌槍かまやり――素槍に鎌を付けた工夫は、胤栄が晩年の発現といわれているから、伊勢守が同寺を訪れた頃は、まだそういう特色までは持っていなかったのであろう。
 けれど毎日のように、ここの床を訪れて来る遠来の修行者と在住の法師たちとの間で、激しい仕合が行われていた。南都の僧俗そうぞくにも稽古けいこをうけに通って来る者が多かった。
 つい先刻までは、その人々の鋭い気合だの、床を踏み鳴らす響きがしていたが、今来てみると、みな追い返したのか、せきとして人影もない、また足脂あしあぶらに磨かれた広い板敷にも、ちりひとつ見えず、ただ何処からかす春の陽が長閑のどか斜影しゃえいをながしている。
「お。これは」
 伊勢守は、そこにただひとりで坐っている宗厳のすがたを見ると、自分もひたと坐って、礼儀をした。
 宗厳も、遠くから頭をさげた。
 軽い挨拶がすむと、上泉伊勢守から起って、物腰しずかに、
「では」
 と、支度をうながした。


 木剣ぼっけんと木剣である。木剣はすでに真剣しんけんにひとしい。それが仕合を約して立ちむかった際はなおそうである。打ち所が悪ければ死にもする。腕を折られ、脚をくじき、生涯の不具者となる例などはめずらしくない。
 危険に対して何ら約束のない仕合。それがその頃の仕合だった。
「…………」
 伊勢守は、まず宗厳むねとしが、どの程度に、身を捨ててかかっているか。それを木剣のさきから観るようなまなざしであった。
 かりそめにも宗厳は一城のあるじである。多くの眷族けんぞくも養っている当主だ。必死と口にはいうものの、どれほどに、その身分や俗念が捨てきれているか?
「……これは」
 伊勢守のひとみがあらたまった。
 彼は宗厳を、自分の想像していた以上に見直したらしい。きょうは生死の問題だと云ったという、最前胤栄いんえいから聞いたことばを思い出して、
「さもあろうか」
 と、うなずいた。
 動かない。
 一方は山の如く、一方は水のように、木剣と木剣とは、ひそとしたまま動かないのである。
 ただ刻々と、宗厳の形相ぎょうそうが蒼白くこわばって来た。毛髪のすべてが気息にあえぎ出したように見える。
 宗厳はそうした丹田たんでんのそこで、
「何ほどのことが」
 と、気をもって、まず伊勢守を圧しようとした。
 彼は無数の剣者を、きょうまでは、およそその気をもって圧伏し得た。剣はその後に加える勝利の形を取るものにすぎなかった。
 ――が、きょうの相手は、如何いかんともすることができなかった。まるで無反応な存在である。山へ向って声を張るように、気ばかりれてしまうのだった。
「彼も人! われも人!」
 はらの底で喚いてみた。が、そんな空しい相対性の観念をふるってみても何のかいもない。いたずらに毛の根が汗ばむばかりだった。
 猛鷲もうしゅうかかるように、宗厳はいきなり跳びついた。理念をふみ超えた一瞬の捨身である。床板が踏み抜けるように鳴った。ふたつの体のうごきが一うず旋風せんぷうとも見えたせつな、
 ――かつっ。ぱツん!
 二だんに異様なひびきがした。
 宗厳の木剣は打落されていたのである。
 そして宗厳は、茫然ぼうぜんと立っていた。
「おそれいりました」
 坐って、両手をつかえると、しばらくは胸を正せなかった。肩で大きく息をしていた。
 伊勢守も静かに坐って、
「失礼いたした」
 心もちにこやかに顔をなごませて云う。宗厳は、その変らないすがたを仰ぐと、心の底から、
「無念な」
 と、思った。
 敵に怨みをふくむような小さいゆがんだ憤念ふんねんではない。自分の未熟みじゅくに対するいきどおりだった。
 ――彼も人、われも人。
 と思いくらぶるところからく無念である。自分へ責めそそぐ悲涙であった。


「席を改めて、お詫び申そう。何かと、一昨日おとといのお名残もござれば」
 伊勢守が起つと、胤栄も、さんたる面持おももちして、気の毒そうに、
「いかがですか。奥へお越しになって、御悠ごゆるりと遊ばしませぬか」
 と、云いえた。
 さし俯向うつむいていた宗厳むねとしは、
「いや、きょうはこれでおいとまいたしたい。ただ上泉かみいずみ殿へお願いがござる。明日またお訪ね申しますゆえ、もう一度、お仕合くださいますまいか」
「折角のお望みながら、明日は早、当寺を辞して、旅の先へ立つつもりですが」
「えっ、明日、御出発とな……」
 落胆がっかりしたように、宗厳は云ったが、では早暁そうぎょうにでも出直して来るゆえ、ぜひぜひ、出立の間際でも、もう一度、仕合ってもらいたいと口を極めて頼んだ。
「それまでに仰せあるものを、無碍むげにお別れもなるまい。然らば左様に早朝でなくても、お待ち申していましょう」
 伊勢守は、約束を承諾してくれた。
「どうして敗れた」
 宗厳は、一夜を工夫にこらして、次の日また柳生ノ庄から宝蔵坊まで歩いた。
 そして望みどおり立合ったが、殆どきのうと同じような負け方をした。
 どう思ったか、伊勢守は、どうせのこと、もう一日滞在を延ばそうから、明日あすさらに一回、仕合してみようと、彼の方から云った。
「願うてもないこと」
 と、宗厳は次の日は、さらに、思念に思念をらし、彼の前に立った。
 ところが、その三回目の勝負も、無残に敗北してしまった。
 しかも三日が三日とも、同じ負け方のもとに敗れたのである。心外も無念も二日目までだった。最後の一敗をうけた時は、かえって何か痛烈な爽快さを覚えた。
「この人に敗れたのは当然だ」
 伊勢守に対する欽仰きんぎょうの念が、彼の小我や妄念もうねんのすべてを解決したのである。――いさぎよく、彼は伊勢守に入門をうた。
「お心根を見とどけた。不肖ふしょうながらお手を取って進ぜよう」
 伊勢守は、九州へ立つ日取をにわかに変更して、柳生城へのぞんだ。
 柳生城では、元より師として、朝夕の礼をうけ、本丸の一棟に住んでいた。後に、彼の起臥きがの跡というので「新陰堂しんいんどう」と名づけられた建物である。
 春の頃から秋まで、およそ半年の滞在だった。
 その間に、疋田ひった文五郎は、暇をもらって、ひとり廻国に出た。後に疋田陰流を創始して、栖雲斎せいうんさいと号し、伊勢守の門を出た者として、また伊勢守のおいとしても、名をはずかしめなかった。
 宗厳も、刻苦した。
「長い御縁の望まれぬ師」
 と思えば、なおさら、伊勢守の一言半句も、一挙一動も、あだには接していられなかった。


 朝、昼、夜、時も選ばず師事し研鑚けんさんした。また伊勢守もまた、おしえをしまなかった。
 天地に秋の声を聴くと、一日、伊勢守は宗厳むねとしへやに招いて、
「もうよいでしょう。お別れしたい」
 と、云った。
 そして、別れるに臨んで、最後のことばとして訓えた。
「宝蔵坊へ三日お通いになって三日ともあなたが敗れた。その以後も、ただの一回も、この伊勢守に、あなたの木剣がれたということはない。……これは何故か。お考えつかれたか」
「わかりません。ただ到らざるを知るだけです。――それは理法に依りましょうや、わざに依りましょうか」
「理も技もえたものです。理と考えれば、理念にとらわれ、技と考えれば、体にとらわれる。いったい人間の真体というものは、それ二つしかないものでしょうか。……否とはすぐにお気づきになろう。然らば、理にあらず、技にもあらぬ体は何か」
「…………」
「実はの」
 伊勢守の語気も熱した。
「こうは申しながら、此方こちら自身もまだ、容易にそこの会得えとくはなりかねておる。ただ伊勢守として、信念いたしておるところは、無刀、その二字が極意です」
「無刀。――無刀の極意とは」
「医術の究明きゅうめいは、医術の無用になることを以て目標とし、法令の要旨は、法令の無き世をつるにあり、兵馬の理想は、兵馬なき平和を招来するにある。――剣は、殺人をもって大願とせず、剣はまた、剣をぶるがために、剣禍けんかにも会う」
 宗厳は、頭を垂れて、心に銘じていた。
「なぜ、あなたは、この伊勢守にどうしても勝てないか。理は簡単である。あなたは剣を持ってかかる。常に常に、剣にたのみ剣に迷い剣に執着しておられる。それに反して、伊勢守はとくより剣を捨てておる。剣は持てど、剣にたのまず、剣に妄執もうしゅうせず、無刀の心をもって、体としておる。……いや理も体も超え、剣をすらあるとも思わず対しているのです」
「……あっ」
 かすかに、声を放って、宗厳はそれと共に、ひとみをあげた。
 師と自分との、今までの距離が、心態の相違が、はっきりと心に見えた眸であった。
 伊勢守は、なお語をつづけて、
「――が、それにしても、此方このほうの申したことは、多年の体験と感得かんとくからつかみ得た単純な道理にすぎない。まだ、その理法を明らかにし、それを基本として一流の兵法を構成するまでには至っていない。それがしはすでに老年のこと、あなたはなお春秋に富む身、どうかそれを研鑚けんさんし、完成して、あなた独自の一流をおこして下さい。――そこを闡明せんめいして天下をえきしてくれるほどな人は、御身をいて他にはない。伊勢守は、実は非常なよろこびを以て、この半歳はんとし[#ルビの「はんとし」は底本では「ほんとし」]を送っていたのでござる。――わたくしからかくの通りお願いする」
 伊勢守は、そう告げ終ると、門人たる宗厳へ、心から頭をさげた。
「三年後に、もう一度、お訪ねする」
 次の日。
 伊勢守はそう約束して立った。中国から九州路への遊歴に。
「三年後の仕合には」
 と、宗厳は、ひそかに自分へも誓った。そのあいだの彼のすさまじい修行の辛苦と克己こっきとはいうまでもない。彼の位置が、何不自由ない一城のあるじの身であるだけに、その苦しみは、自ら求めて苦しまなければ、けられない苦しみだった。
 苦しみのない修行などはあり得ない。
 苦しみに迫られて、やむを得ずする苦しみと、進んで苦しみを求める心とは、大きな相違がある。
 彼は、それにった。
 永禄八年の初夏、伊勢守がふたたび訪れた時、それは実証された。
「こうもお違いになったか」
 伊勢守は嘆賞たんしょうして、
「おそらく、自分の眼界では、今はあなたにまさる人はあるまい。天下無双の剣といってもよいでしょう。爾今じこんは、あなた独自の一流をもって柳生流と称されるがよい」
 と、云った。
 同時に、一国一人に限るとしてある新陰流の正統の印可と共に、伊勢守が旅すがら描いた絵目録えもくろくをも添えて授けた。
 絵目録の末巻には、伊勢守が筆をとって、そのむねしるし、永禄八年卯月うげつの月日をも追記した。


石のふね




 天はふたつを与えない。
 彼の十数年にもわた刻苦こっく精神がをむすんで、心、体、理の基本を一系に統合し、ここに、柳生新陰流やぎゅうしんかげりゅう――なるものの大成もほぼまっとうされたかと思われる頃、
「ああ。世も変った」
 と、大和の一角から天下の推移すいいに眼をうつすと、思いなかばに過ぐるものがあった。
 彼が一度は扶持ふちをうけて合力ごうりきもした松永久秀は亡び、続いて、足利義昭よしあきも滅亡を遂げている。さらに、それらの旧勢力を一掃して、革新陣の先頭にあった織田信長も、本能寺一夜の兵燹裡へいせんりに歿し去っている。
「いや、変ったのは、世の中ばかりではなかった……」
 今さらのように、宗厳むねとしは、自分の身のまわりを顧みた。
 住居すまいは、依然として、柳生ノ庄の元の位置にあったが、彼の所領は、もう彼の手を離れて、領主の名は変っていた。
 一家一族は、ここ数年、ろくを離れ、放浪せざる牢人ろうにんの境遇であった。
「これで三度か」
 宗厳は苦笑して、自らあざけった。
 筒井順昭じゅんしょうやぶれた時、一度、領地を失い、足利家没落と共に、二度、所領を没収された。
 その後、大和に在りながら、九州の大友宗麟そうりんに属して、金子きんすで三千石の扶持ふちを送られてたが、その大友家が島津氏に侵略されてからは、仕送りも途断えていた。
 のみならず、わずかな衣食のかてたのむ所領も、大和大納言秀長がこの地に来てから没収されて、まったく無領の一郷士にまで成下がってしまったのである。――幸いにも、祖先以来のとりでの山は、邸内といえるので、やぶり林をひらいて、家族召使もみなすきくわを持ち、自分で耕して自分で喰う――自給自足をからくも生活として今をしのいでいる有様であった。
「思えば気の毒な――」
 と、宗厳は、わが身をあわれむより、まず家族があわれまれた。家族をあわれむよりは、多くの家士を不愍ふびんに思った。
 三度も領地を失っているので、その間に、おのずから家臣も減り、また他へ仕官を求めて去った家士もあるが、今もなお、
「御主君がくわを持つなら鍬を持って。御主君が肥桶こえおけをかつぐなら自分らも肥桶をかつぎ。――たとえ、ひえを喰っても!」
 と、踏み止まっている家中も多いのである。そうした不平も鳴らさない家士たちを見ると、宗厳は眼を熱くして、
「――何の徳もない自分に」
 と、主人たる自分の不才が、独り責められもして、
「済まない」
 と、心のうちでをあわせた。
 慶長元年。
 ことし柳生石舟斎宗厳せきしゅうさいむねとしは、六十八歳。
 わが鬢髪びんぱつの霜に気づいて、彼が見まわした彼の境遇はそんな中にあったのである。
兵法のかじをとりても
世のなみを
渡りかねたる
石の舟かも
 処世の如才じょさいに欠けている自分の――いわゆる世渡り下手をかこって、彼はこんな歌を詠んだ。
 石舟斎という号も、おそらくはそんな自嘲をもって――或いは超然たる自負心をもって、――その時代から自身の称としたのではあるまいか。自分の愚を、浮かぬ石舟となぞらえて、自嘲した和歌の作はもう一首みえる。
兵法は
沈みてあるぞとうとけれ
千代のながれに
ちぬ石ふね


 七月。山城の国を中心に、大地震があった。
 伏見の都市は、もっとも被害が多かったので、伏見の大地震といわれている。
 もちろん大和やまとも相当にれた。
 七、八百年も前から祖先代々住み古している柳生城の石垣なども、至るところ崩壊ほうかいして、土の肌をむき出していた。
 農家もかしいでいる屋根が多い。秋も近く、百姓はたださえ忙しいのに、※(二の字点、1-2-22)めいめいの家のこともいて、
「お陣屋の石垣から先に」
 と、その修築に集まって来た。
 領主の資格がなくなってからでも、柳生城のまわりの百姓たちは、石舟斎を見かけると、
「御領主さまが」
 と、単なる口ぐせではなく、心からなついて、以前と少しも変るふうが見えなかった。
 石舟斎も、子どもや孫どもを従えて、自身、諸所の崖くずれやたおれた門の修築を指図し、また自身手をくだして、泥まみれに働いていた。
「お年をめした大殿様が、わしらの手で足る土仕事を、あのようにまでなされないでも」
 と、百姓たちは、家士を通じて、幾たびも、石舟斎が草鞋わらじなど召さないようにと願ったが、石舟斎は笑って、
「とんでもないことだ、それは百姓どもへ対して、わしの方から申すことばだ。百姓たちは、田にあって働ければ、五こくを産む手をもっておるのに、その暇をつぶして、わしの如き、無禄むろくの隠士の住居すまいなおすに集まって来てくれておる。――勿体ないことである。何で、わしが安閑あんかんとしていてよいものか」
 そう云って、
「孫よ。土をかつげ。――土を担ぐも兵法であるぞ。――五郎右衛門と宗矩むねのりとは、その石垣の崩れに石を積め。――石を積むは、智を積むのだぞ、智を積むのは、手でないぞ、頭で積むのだぞ」
 と、従えている子息や孫たちを指揮し、その労働のあいだにも、何ものか、学ぶものを得させようとしておしえていた。
 家士も日頃から百姓仕事には馴れている。主従は一体となって汗と土にまみれ、明るい初秋の陽のもとに、勇壮な鍬の音、土の音などが、掛声の中にあがっていた。
 ばらばらっと、大手の坂の下から、やはり野良仕度のらじたくの家士のひとりが駈け上って来て、
甲斐守かいのかみ様がお越しになりました。――黒田甲斐守様が、ほんのお身軽で」
 と、あわただしく告げた。
 石舟斎は、くわを立てて、
「なに、長政ながまさ殿が」
 と、坂下へ目をやった。
 馬を家臣の手にあずけ、ただ一名で、もうこれへ登って来る人が見える。黒田甲斐守長政の姿であった。


 長政は、黒田如水じょすい嫡男ちゃくなんであった。
 彼はまだ若い。しかし父官兵衛孝高よしたかが早くも薙髪ちはつして、その封土豊前ぶぜん十六万石の家督を譲っているので、長政は若くしてすでに一城のあるじであり、京大坂にあっては、錚々そうそうたる若手の武将だった。
「やあ、老先生。えらい姿でお働きですな。この辺の地震の被害も、思ったより大きいので、道々、驚いて参りました」
 長政は、師礼をって、石舟斎の前に、こう挨拶した。
 石舟斎は、木陰の床几しょうぎへ、彼を招じ、自分も一憩ひとやすみと腰かけて、
「いつもお身軽ではあるが、今日はまた、何事で?」
 と、来意をたずねた。
 双方、気軽な応対のうちに、親しみがある、情味が見える。石舟斎は、長政の恩師であり、長政は、石舟斎のまな弟子だった。
 多年、剣の究明に没入して、世事をかえりみなかったために、石舟斎は領地をも失ったが、その代りに心には不動の光明を点じ、周囲にはいつとなく有為ゆういな弟子が多く集まっていた。
 長政もその一人だった。父の如水と石舟斎とは茶禅の相識であった関係から、もっとも早く入門して、在京中は月に幾度となく騎馬でこの山荘まで通って来て、わざみがき、道をたずね、心法の鍛錬たんれんをうけていた。
「いや実は、老先生を世の中へ引出す大役を帯びて、徳川殿にも、必ずお連れして参ると、堅い約束をしてまかり越したわけです。――老先生、長政がお供つかまつります。げても、一度お会い下さい」
「誰とな?」
「徳川殿と」
「家康公へお目にかかって、どういうはなしをせいと仰せか」
「いえ、ただ一度会いたいと御意ぎょいされておるだけのことです」
「天下多事の際、徳川殿ともあろう忙しいお方が」
「何の、多事なればこそです。――世は挙げて、老先生のような人材を求めているときなのです」
「石の舟は石の舟、不器用が生れ性だ。沈んだが最期浮び出る気もない。――石舟斎には左様な御推挙ごすいきょ無用でござる」
いて御推挙するつもりでもありませんでしたが、自然、武芸のはなしとなれば、老先生のおうわさに及び、長政のみならず、大徳寺の和尚も、その他の人々も、天下の剣道の名人といえば、上泉伊勢守きのちは、柳生の老龍ろうりゅう以外にはないと――これは、吾々が推挙までもなく、世の名声というもので、徳川殿にもつとに聞かれておいでなされます」
「…………」
「で。それがしに対し、また父の如水じょすいに対しても、再三の御懇望ごこんもうなのでござる。――ぜひ一度、召連れて参るようにと」
「…………」
「折ふしこのたびは、大坂城、聚楽じゅらく、洛内などの、地震御見舞として、関東よりのぼられ、ここしばらく、京都紫竹村の鷹ヶ峰に、王城御警固の任につかれ、野津の仮屋におられましたが、いよいよ、近日には関東へお帰りとあって、一しお御催促が急なのでござりまする。――げて、御苦労には存じますが、京都までお運び下さいますよう。長政の面目めんぼくも立ちまする。かくの通り、おねがい申しあげます」
「…………」
 老龍――柳生谷の老龍――近ごろ誰となく宗厳むねとしのことを世人はそうよんでいる。深淵の潜龍せんりゅうという意味か、蛟龍こうりょうにひそむは伸びんがためというところか、とにかくそう称されている彼は、
「……さて」と、口のうちでつぶやいたまま、久しい間、秋の空に眼を放ったまま、考えこんでいる面持おももちであった。
 その眼を、ふと地に落すと、そこには土けむりを浴びて、哀れな家士や孫たちが、汗みどろに働いていた。彼の眸は、不愍ふびんにうごかされた。涙をめないばかりであった。
長政ながまさどの」
「はっ」
「参ろう。すぐお供申そう」
「えっ。では、お越し下さいますとな」
「ただし、嫡子ちゃくし五郎右衛門と宗矩むねのりの両名に、もう一名まごの兵庫利厳としとしを連れて参りたいが、どうあろうか」
「願うてもないことです。御子息、お孫たちまで、みな老先生をしのぐ俊才しゅんさいと、徳川殿もよくおうわさのことゆえ、おれ立ってあれば、徳川殿にもいっそうおよろこびでございましょう」
「では、ぐにも」と、心を極めると、悠長に構えたり、いたずらに勿体ぶっている石舟斎ではなかった。
「おうい。五郎右衛門、宗矩もこれへ来い。……孫はおらぬか、兵庫も呼べ」
 と、自身さしまねいて、れてゆく若者たちを、土けむりのれの中から呼び出した。


「何ですか。父上」
祖父様じじさま。およびでございます」
 名をさされた若者たちは、たちまち彼の前へ駆けて来て並んだ。どれもこれも土くさい百姓のように日けしているが、さすがにその態度や眼ざしには、老龍の子とも鳳凰ほうおうひなとも見える気稟きひんを備えていた。
 ――四男の五郎右衛門が、その時二十八歳。
 ――五男宗矩むねのりは二十六歳。
 そして、孫の兵庫利厳としとしが、まだ十六歳だった[#「十六歳だった」はママ]
「支度せい。これよりわしと共に、長政殿の案内で、京都にある徳川公の御陣所までまかり出る。――各※(二の字点、1-2-22)、手足を洗うて、うまやの馬にくらをつけ、先に坂下の門まで出ておるがよい」
 いい渡すと、
暫時ざんじ、失礼を」
 と、石舟斎は、自分も身支度のため、たちのうちへ入って行った。


 彼は、子福者のほうであった。
 由利女ゆりじょと結婚したのが早かったせいもあろうが、男女十一人の子と、三人の孫とがあった。
 だが、現在、男子で健康なのは、四男五郎右衛門と、五男の宗矩むねのり、そして孫の兵庫ぐらいしかなかった。
 長男新次郎厳勝としかつも、衆にすぐれた若者だったが、備前の浮田家に仕え、十六歳の初陣に鉄砲で腰を打たれ、不具の身となってから、柳生に帰って引籠ひきこもったままである。
 孫の兵庫は、その子である。
 また。
 次男は久斎といって、早くから沙門しゃもんに入り、三男の徳斎も病身で仏門に帰依きえしていた。
「娘どもには苦労はない。……女子おなごは産み捨て」
 と、石舟斎はいつも笑った。その半面には、いかに男の子や孫たちには、彼が人知れず育成の丹精たんせいをこめているか、世に送り出す苦労をしているか、思いやらるるものがあった。
「そちたちは、石の舟ではならぬ」
 どうかして、晩酌ばんしゃくへやに、子や孫たちを集めて、微酔びすいのことばでたわむれなどする折、戯れのうちにも、石舟斎はおしえていた。
「わしが石の舟となったのは、わしがたち頃から近年にいたるまで、世は乱麻らんまのごとく、武門の道も、生きる道も、洪水こうずいのような濁流だくりゅうおかされ、正しく道をとろうにも、正しく進めず、正義にあろうとすれば、滅亡か餓死がししかないような時代であったからである。――いわばこの石の舟は、洪水の濁流に、ずる韜晦とうかいして来たのじゃ。かくせねば、とうに柳生家そのものは、水泡の如く、亡び去っていたかもしれぬ。……いや七百年来のわが家も、この辺りのすでに亡き土豪の如く、過去の土中へほうむられ去ったにちがいない。石の舟なればこそ、貧しくとも、今なお、有る所にこうして有ることができたのじゃ。……柳生城この山に、消えずにあるこの団欒まどい燈火ともしびは、わしの眼には、むしろ奇蹟とも見える」
 そういう述懐じゅっかいをしたことがある。
 宗矩も五郎右衛門も、こうべを垂れて、聞き入っていた。――わけて多感な兵庫利厳としとしなどは、
祖父じじ様は、おつらかったでしょう。口惜しいことが、幾度もあったでしょうね」
 と、幼い胸にも、祖父の忍苦の生涯を思いやって、すすり泣きをし始めた。
「兵庫は、たのもしいやつ」
 孫は可愛いいものという。老龍石舟斎も、眼のうちにも入れたそうな程、兵庫は愛していた。
 しかし、盲愛ではなかった。
 兵庫の天稟てんぴんの才を愛したのである。事実、十六歳の兵庫は、すでに、叔父の五郎右衛門や宗矩をしのぐものがあった。
 とはいえ、その五郎右衛門といい、宗矩といい、おそらく畿内きないの剣人では、比肩ひけんし得る者はなかった。
「もう何処へ出しても、独り歩きはできる者達よ」
 と、石舟斎は、当人にも、他人にも、許してそう語っていた。
 ――が、世間の真ん中へ連れて行くことは、恐らくその日が初めてといっていい。しかも、征韓せいかん大役たいえきにかかってからとみに落陽寂寞せきばくの感ある大坂城の老太閤たいこうに比して、今や次の時代を負う人と目されている徳川家康の前へ出るなど、余りにも、この山の子らには、唐突なはれがましさであったに違いない。


「支度はよいか」
 一がいの陣笠を手に、老龍はもう身支度をして出て来た。
祖父じじ様。こちらです、こちらです」
 はるか、坂下の大手門のそばで、孫の兵庫が手招きしていた。石舟斎は、自分の早支度をひそかに誇っていたらしいが、
「やっ、もう出おるか、さすがに、若者どもの早さよ。そうなくてはならぬ」
 と、負けたのを欣ばしげに、足を早めて降りて行った。
 馬の口輪は兵庫がる。
 石舟斎は、それに乗った。二人の子は、徒歩である。
 案内役の黒田長政ながまさは、
「どうぞ御子息方にも、お馬に召されますように」
 と、謙遜けんそんして、騎馬をすすめたが、
「いや、若い者には鉄脚がある。――いざ参ろう。御案内へ、先へ立たれい」
 坂の途中の石垣の土煙はその時んで、秋の大気は澄んでいた。汗をふき、くわの手を止め、百姓たちは、を出る老龍と、ともなわれてゆく鳳雛ほうすうのすがたとを、見送っていた。――
「ああ、こうしてみると、大殿もお年を召したはず、若様にもお孫様にも、いつしかお立派な骨柄になられた……」
 じっと、立ち並んで、目礼を送っている家士たちの眸には、涙があふれかけていた。


一剣治天下




 近くの地には、紫野むらさきのの大徳寺とか、その他、宿舎として恰好かっこうな建物がないではないが、家康いえやすはわざとたかみねふもとに野陣をいて、将士と共に野営していた。
 こんどの大地震には、御所の築地ついじも大破して、内裏だいりの方々さえ幾夜か夜露よつゆの外に明かされたと聞えているほどなので、地震御見舞として上洛した家康のそうしたつつしみは、当然でもあった。
 洛内守護の任を果し、あわせて伏見城に秀吉の安否を見舞って、彼は近く関東に帰る予定であったが、なお、ここに野陣している間も、
「すべて戦時下の心得であること」
 を、陣中の法規として、自身も日中は物具もののぐすら解かなかった。
 日盛りの木陰に、軍馬もものうげにまぶたをふさいでいた。せみしぐれは、耳をろうするばかりである。
「やれやれようやく辿たどり着きました。老先生、どうか駒を降りて、暫時、木陰でお涼みください」
 黒田長政ながまさは、そう云って、陣門のかたわらに師の馬をきよせた。
 石舟斎は、くらの上からそっと降りた。いて来た四男の五郎右衛門、五男の宗矩むねのり、孫の兵庫の三人は、
「おつかれでございましょう」
 と、各※(二の字点、1-2-22)、側へ寄って、老体の石舟斎をいたわった。
 長政は、その間に、
「すぐ戻って参りますから」
 と、断って、陣中へはいって行った。もちろん家康へ取次ぐためであった。
 間もなく引っ返して来ると、
「どうぞ」
 と、改めて、長政は自身、案内役に立って、柳生家の人々を、営内へ導いた。
 木陰木陰に幕舎ばくしゃがある。整然とした中にも、将士の笑いさざめきなどがれてくる――家康のいる仮屋は、林の小道をだいぶ歩いてからであった。みどりを映して、あおいの紋幕が、涼やかにうごいている。
 鷹ヶ峰から落ちてくる水音がせんかんと耳を洗う。林間の一茶亭には、釜がかかっていた。その辺りのたたずまいでは、今し方まで、家康の主従と、大徳寺の僧などが、そこで茶をきっしていたらしく思える。
「すぐにと、お仮屋の方で、お待ちうけになられていますが、お急ぎにはあたりません。それなる清流でゆるゆる汗をおぬぐい遊ばした上で、お支度もととのえ、それからお目通りなされたがよいでしょう」
 長政は、士卒にいいつけて、小桶こおけやら手拭などを、流れの側に運ばせた。
「――何事も其許そこもとまかせに」
 と云わぬばかり、石舟斎はうなずいて、彼のいうがままに、そこで顔の汗塩あせじおを洗い、手足をそそぎ、刀のこうがいを抜いて、孫の兵庫の髪まででつけてやった。
祖父じじ様のおまげもすこし直しましょう」
 と、兵庫は、こうがいを取って、石舟斎のうしろに廻った。
 兄の五郎右衛門はまた、弟の袴腰はかまごしをうしろから締め直してやっている。――こうした些事さじは日常の家庭で繰返している生活の断片にすぎないが、この林間に切離して見ていると、日頃の家風もしのばれて、美しくもありゆかしい情景でもあった。
「お支度はおよろしゅうございますか」
 長政も一休みして、物陰から立出て来ると、石舟斎は礼儀をほどこして、
「お待たせいたした。御厄介ごやっかいながら」
 と、案内を乞うた。
 そしてふと、もう一度、子や孫たちの姿を振顧ふりかえったが、五郎右衛門の顔いろが何となく蒼白あおじろく見えたので、
「そちは昨夜、充分にねむりをとらなかったとみえるな」
 と、訊ねた。
 五郎右衛門は、はいとうなずいて、
旅籠はたごのみが気になって、まじまじと眼ばかりえ、明け方になってすこしばかり眠っただけでした」
 と、有りのままに答えると、石舟斎はたもとから少量の紅殻べにがらをふくませた打粉を取出して、
「貴人の前へ出るに、そのような憔悴しょうすいしたおもてをもって、お目通りに伺うものではない。病者かと御覧ぜられるだけでも御不快であろう。これで程よくほほいて、不つつかのなきように心を慥乎しかと持てよ」
 と、おしえた。


 仮屋と云っても、二の間三の間もある。わけて主室はかなり広い。
 涼やかな藺筵いむしろが敷いてある。大名らしい客が二、三名、ほかに天海とよぶ僧、大徳寺の和尚などが座にあった。武将は各※(二の字点、1-2-22)武装しているが、座談は至極しごく気らくらしいおもむきであった。
 柳生谷に古い豪族ではあるが、今は無禄むろく郷士ごうしにすぎない。当然、柳生父子おやこは庭へまわって、地上に座を占めた。そして奥まった仮屋の一室に聞える人々の気配をそれと察して、両手をついて控えていた。――石舟斎、五郎右衛門、宗矩、兵庫という順に。
 つかつかと奥から跫音あしおとが渡って来た。簀子縁すのこえんから降りて、床几しょうぎを持てとその人はあたりの者にいいつけている。それが家康であった。
「はっ。これへ」
 と、近侍きんじが彼のみへ、一つの床几を置くと、家康はなお、腰をおろさず、
「老体へもお席をさしあげい」
 と、云った。
 近侍は恐縮して、あわててもう一つの床几しょうぎを、石舟斎の方にすえた。石舟斎は、
おそれ多いお扱い」
 と、固辞して、容易にそれへ着かなかった。
 彼は、自分を迎える家康の厚い好遇に、年のせいか、涙もろいまぶたの熱きをまず覚えた。六十八歳の今日まで、世が彼に遇して来たものは、白眼か、策謀さくぼうか、利用か、酷薄こくはくか、いずれにしてもかくの如く温かなものには絶えてったためしがない。
 家康の心をむならば。
 室には格式のうるさい僧侶や大名などもいるので、無名の一郷族ごうぞくを、座へ招じることはできないし、と云って、長政を使いとして、自身から迎えた客なので、礼もらねばならない。――そう考えて自分から室を下り、石舟斎にも床几をすすめて、主客対等に話そうとする心もちが、云わでも、石舟斎にはよくみ取れたのである。
「老人、遠慮は無用じゃ、床几へおりあれ。室内よりは、ここの木陰のほうが、むしろ清涼、ゆるりと語り申そう。――長政、老人へ床几をすすめてつかわさぬか」
「はっ。……老先生、あのように仰せられます。頂戴ちょうだいなされてはいかがでございますか」
「では、おことばに甘えるかの」
 石舟斎は、ようやく、起って腰をうつした。
 家康も剣道は学んだ。また、幾多の達人と称する者を見ている。
 その眼と体験から見れば、石舟斎の何らの覇気はき衒気げんきもない、淡々たる朴醇ぼくじゅんな風は、これが上泉伊勢守なき後の宇内の名人かと疑われるほどであった。
 が、さすがに家康は、
「これでこそ、真の名人」と、むしろその覇気のない姿に傾倒した。
「使いをもって、遠路、老体をわずらわしたが、実を申せば、江戸にある嫡子ちゃくし秀忠ひでただに、剣の良師を求めておる。早速であるが、徳川家に随身ずいしんの意志はないか。それが問いたいのじゃ。もっとも長政を通じて、先に、余り気のすすまぬようなことは聞いておるが、もいちど、念のために……。どうであるな?」
 家康は率直に、求めるところを云い出した。
 それに対して、石舟斎は、心から頭をさげた。大きな知己ちきの言として、感謝の色を満面にあらわして答えた。
「まことにかたじけないお言葉にござりますが、この老骨は、すでに御奉公申しても、御奉公のかいなき老朽に過ぎませぬ。また、物事にはやものういくせがつきめて、仕官の意志だに燃え立ちません。――が、願わくば、これに連れ参りました二人の男の子と、一名の孫のうちに、万一お眼鑑めがねにかなう者がござりましたら、お取立て下されますように。実は、わたくしの方よりその儀お願いのために、このたびは進んで長政殿の御案内にいて来た次第にござりまする」
 すでに自分のさきめいを自覚している石舟斎は、この雛鳥ひなどりの孫や子を如何にもして世に出したいと思っていたに違いない。今、彼が家康にべたことばは、何のかざりも誇言こげんもなく、平凡な頼みに過ぎなかったが、しかし、その淡なる辞句のうちには慈父の大愛というような切実な情愛がこもっていた。真心はおもてにあふれ、やはり愛児の将来を江戸の地にいつも想う家康には、その気もちが分りすぎるほどよく分った。
「いや、よく分った」
 家康は大きくうなずいて、
「三名とも、さすがは柳生の子息なり孫なり、いずれもよいつらだましいの若者とは見うけるが、して、石舟斎には、この家康が子息への師範しはんとして、このうちの誰をかわしへ推挙すいきょしたいと申すか」
所詮しょせん、まだ若年者、御師範などとは、烏滸おこがましゅう思われますが、お相手という程なれば」
「どちらでもよい」
「五男の宗矩むねのりをお召しつれ給われば、ありがたい仕合せに存じまする」
「宗矩をか」
 と、家康は、改めて、石舟斎の床几の左に坐っている二人の若者をながめた。
 家康から眼を注がれると、宗矩はハッとしたようにかしらを下げた。けれど彼の隣にある兄の五郎右衛門は、ここの木陰のそよ風と、耳を洗うようなこころよい蝉しぐれの音に、先刻さっきからうっとりとしていたが、いつのまにか居眠りをし始めていた。
 また。石舟斎の右側にひかえていた孫の兵庫は、眼をつぶらに見はって、無遠慮に家康の顔ばかり見ているのである。血はひとつの父母から生れても、その性格は三人三様であった。


 五郎右衛門の居眠りも、兵庫の無遠慮も、石舟斎は、これがありのままの若者と、許しているかのように、とがめもしなかった。
 家康も、にやにやながめて、あえて、それに依って、石舟斎のしつけを疑おうとしなかった。
宗矩むねのりは幾歳になるの?」
「二十六歳にございます」
「そちが推挙するからには、この三名のうちでは、宗矩がもっとも道に達しておると認めておるのか」
「いや」すこしあわてて石舟斎が答えた。
「当人を前において申してはいささか不愍ふびんにござりますが、剣の強弱としては、この三名の中で、宗矩がもっとも弱いかと存ぜられます」
「……ふウむ、一番未熟みじゅくというか」
「未熟というおことばは恐れながらちと当りませぬが、弱いことは、たしかに弱いと申されます。――けれども不肖石舟斎が宗矩に仕込みましたものは、いたずらに、強きをのうとする剣道ではございません。――また、宗矩の性格に、そうした剣は身に持てぬところでもありますので」
「然らば、何をもって、宗矩は能とするか」
治国ちこくの剣にございます」
「治国の剣。……それは初耳はつみみじゃが、どういう意味か」
「世を治めるの剣。民を愛護し泰平たいへいを招来するの経世けいせいの剣にござります」
「剣にもそういう徳があるか」
「術ではなく、道であります故に。――すでに道である以上、聖賢せいけんのこころ、禅の要諦ようたい、経世の要義、その道のうちにあらぬはございません」
「すると、学問だな、まるで」
「学問は理念を基とし、人の知性にのみ多くりますが、剣は、体得の実相を主として、生死の解決から先にして、ただ実践をもって道に入るものです。故に、これを君主が行って、治国経世ちこくけいせいに、その理を用いうるにしても、自ら知識から得たそれと、実相体得から入ったそれとは、現わされる御政道の上に、大きな相違があるかと考えられます」
「わかった」
 家康は、豁然かつぜんと、眼をあげて、梢のあいだのあおい夏空を見入った。
「……そうか。ムム、そうか。いやよく相分った。宗矩むねのりの性質もおよそその言葉で察せらるる。では宗矩を、今日より江戸の秀忠へ、奉公に差出すこと、異存ないな」
「何とぞ、おともないねがいまする。宗矩、そちも、よう心を定めておろうな」
「はい」宗矩は、明確に答えたが、身に過ぎた大任を、果たして充分に勤められるかどうか、さすがにやや不安ないろをおもてにかくしきれなかった。
「彼方の茶屋へ来ぬか。……茶などつかわそう。めでたい主従のかため」
 家康が床几しょうぎを立った頃、五郎右衛門は渋そうな眼をあいて、そのくせ、何もかも知っているように、取澄ました顔をしていた。


陽なた竹




 二十六歳、初めて老父の膝を離れて、彼は「奉公」の生涯にはいった。世の中に立ったのである。
 その又右衛門宗矩むねのりが、ちょうど三十歳となった年の六月には、主君家康の軍に従って、上杉景勝かげかつを討つため、野州小山おやまの陣中に、一旗本として働いていた。
「柳生どの、柳生どの。御主君のお召しであるぞ。急いで――」
 近習の一名にさしまねかれて、宗矩は、何事かと急いで、家康の幕営ばくえいへ駈けて行った。
 家康は、祐筆ゆうひつしたためさせた自身の書面を、膝においた手に持って、床几にっていたが、
「宗矩か――」と、彼のすがたへ眼を与えると、手にしていたその書面を授けてから云った。
「この一書を持って、そちはすぐに陣を脱し、そちの郷里大和やまとの柳生谷へ急げ。仔細しさいはこれにある。……ただ老来、久しゅう相会わぬが、石舟斎にも変りないか、くれぐれ身をいたわるように、家康が申したと、よしなに伝えてくれい」
「えっ……では私は、せっかくの御合戦に、お供はかないませぬか」
「何も問うな。ただ急げばよい」
「……でも、上杉攻めの御陣中から、私のみ退去を命じられ、故郷へ帰って参りましたと、何でおめおめ老父に会って申されましょう。身不つつかのため、御陣中に留めおくこと相成らぬとの御叱責ごしっせきなれば、自決して相はてたほうが老父のよろこびと存じまする」
「はははは、疑うはもっともじゃが、そち一身にかかわったことではない。何も申さず立帰って、石舟斎にが書面をわたし、そのうえのこととせよ」
 宗矩はぜひなく退がって、即日、大和やまとへ急いだ。――が、その途中、江州ごうしゅうまで来ると、事態の真相がわかった。
 上方かみがたの形勢は一変して険悪を極めていたのである。家康が野州へ向って手薄となったのを観て石田三成、小早川秀秋、浮田中納言、その他の反徳川聯合は、俄然、活溌な行動を起し、この機会に、大坂城以外の関東勢力を一掃せんものと、すでに大きな陣容のうごきが、京、伏見、近江、美濃の尨大ぼうだいな地域にわたって起され、その先鋒はもう関ヶ原の一端に、いわゆる「天下分け目」のただならぬ気をはらんでいたのだった。
 小山陣から帰された者は、ひとり自分だけでないこともわかった。大小名の帰国してゆく者も多い。単身、物の具をたずさえて、何処へやら急ぐ藩士や浪人も町に見えた。
「何か、容易ならぬ御書面とみえる。時遅れては――」
 と、宗矩は夜を日についで馬を励まし、郷里柳生谷へ急ぎに急いだ。


 たかみねで手放されてから、そのまま父と相会わぬこともすでに四年ぶりであった。どんなにお変りになったろう。いやいや、平常ふだんのお心懸こころがけ、老来いよいよ御壮健かも知れない。
 宗矩むねのりの心は、公私二つにかれていた。――主君から託された父への書面の内容も気がかりであった。
「やっ、叔父上ではありませんか」
 兄の厳勝としかつの子――兵庫はちょうど何処からか帰って来たところだった。以前とすこしも変らない小柳生城の坂門の外で、今、馬を降りた宗矩のすがたを見ると、驚いて駈寄かけよって来た。
「オオ兵庫か、大きゅうなったな。はや二十二か。むむよい若者ぶり……。思わず見ちがえた」
「叔父上にもお変りになりましたぞ。たくましくおなりになりました。祖父じじ様が御覧になったらどんなにお歓びでございましょう」
「父上は、御健勝か」
「おかわりもなく、近頃は静かに御書見をこのまれています」
「……ああ、それを聞いて、ひとつは安心。兵庫、先に行って、お耳に入れい。宗矩が立帰りましたと」
「はいっ」
 兵庫は、奥の丸へ、駈込んで行った。
 宗矩は、外曲輪そとぐるわの玄関にかかる。かくと知ると、若殿のお帰りと伝え合って、昔ながら仕えている家臣や小者たちが、彼を迎えて、下へもかない騒ぎである。
「おう、助九郎も達者か。庄兵衛も髪が白うなったの。やあ、五平太もおるか」
 なつかしさに包まれながら、家臣たちに笠をあずけ、衣服のほこりを打たせたり、草鞋わらじなどかせていると、奥からばたばたと駈けて来た一家臣が、
「お待ちください! 大殿からのおいいつけでござる!」
 父のいいつけと聞き、また、その家臣の口吻くちぶりにも、何やら峻厳しゅんげんなものを覚えたので、宗矩は、はっと立って、命を待った。
 石舟斎の命を伝えて来たその家臣は、厳しい態度のうちにも、気の毒そうな容子ようすを見せて告げた。
「ゆるしなきうちは、草鞋わらじを解いて家に入ることは相成らぬ。用談は中門のかきを隔てて聞くであろうから、奥庭のさかいまで廻れ――とのお言葉でござりまする」
「かしこまってござる」
 宗矩むねのりは、父の意に従って、解きかけた草鞋の緒を結び直し、庭づたいに、中門のほうへ廻って行った。
 中門のは、片扉だけ開いていた。石舟斎は、その内側に立っていた。兵庫のことばでは、お変りもないといったが、四年ぶりに仰いだ宗矩の眼には、世にいう寄る年波の変り方が、余りにもはっきり父のすがたに見られた。
 彼は、一目見ると、胸がせまって、あやうくもあふれかけるものをまぶたに抑えながら、門の外に坐って一礼した。
「……宗矩むねのりでございまする。おわかれ申して後は、しては大御所様の御陣に、平素、仕えては江戸表の秀忠様のお側に。――以後、御奉公に明け暮れもなく過ぎておりましたので、ついぞ御膝下ごしっかへ来て孝養もいたしませず、御ぶさたの罪、おゆるし下されますように」
 彼が、そう云えば云うほど、眼にも見えるほど、老父のおもては不機嫌な色になった。いや、いわきざんだ何人なんびとかの巨像のように、峻厳しゅんげんそのものを示すだけで、宗矩が胸にこみあげているような父子の温情らしいものは、その白い眉毛の一すじも見えなかった。
「……宗矩、何しに来た」
 やがて老父が四年ぶりの子に対して、初めて云ったことばは、その一語だった。
「はっ。……申しおくれました。実は、大御所家康公おおごしょいえやすこうの御一書をたずさえて、小山おやまの陣中からせ参りました」
「では、飛脚ひきゃく役か」
「何かは存じませぬが、ただ急いで、柳生へ帰れとのおことばに依って」
「さてさて、そちも日頃、物の役に立たぬ者と、お眼鑑めがねに見られておるものとみえる。――今は一兵たりと、おろそかにならぬ場合。ただならぬ急な風雲の際。――可惜あたら、物の役に立つほどな男なら、御幕下ごばっかより除いて、お飛脚などはお命じあるまいに」
「……面目次第めんぼくしだいもございませぬ。が、何はともあれ、この御書面を」
 懐中ふところのそれを取出して、老父の前へ捧げたが、石舟斎はなお手も伸べず苦々にがにがしげに云いかさねた。
「――と云うても、御奉公に出て以来、まだ四年、御用に立つ間もないは是非もないが、この父に対して、日頃の無沙汰のびなどは何事か。奉公はどんなものかさえわきまえおらぬか。……すでに、そちを御奉公にさし上げたその日から、石舟斎は、わしに宗矩という子があるとは思うておらぬ。ただわしが養育して世に出した一箇の者が、世にあって、いささかの奉公などしておるかどうか……それを案じる日はあったが」
「宗矩の心得ちがいでございました。おゆるし下さいまし」
「家康公の御書面を託されて参ったからには、そちはりもなおさず徳川家の使臣ではないか。なぜ、家臣どもにもてなされて、わが家へでも帰ったように嬉々ききとするか。また、石舟斎のまえに来て、大地になど手をつくか。――主命の何たるものかすら忘れ果てるなど、言語道断ごんごどうだん
「……はいっ」
「立て。――あらためて、徳川殿のお使いとして迎えよう。ここは庭口ではあるが、石舟斎が隠居所、略儀はおゆるしあって、お通りください」
 老父は、手ずから、左右の門をひらいて、わが子の使者を、座敷に迎え入れた。


 家康からの内書には、上方かみがたの急変を告げてあった。それについて、柳生家もこの際できるかぎりの、兵員を至急ととのえ、関東軍の出向うまでに、その戦場へ駈けつけて合力ごうりきするように――とのことだった。
 石舟斎は、読み終って、
「内書のおむねしかと承知いたしました」
 と、宗矩むねのりに答えてから、
「御苦労であった。お使いはこれで達した。そなたもお役を果した上は、ゆるゆる旅装を解き、皆の者とも会って来たがよかろう」
 と、初めて彼をねぎらった。
 その夜、石舟斎は、一族や家臣を呼びあつめて、家康の内書を披露ひろうした。もとより石舟斎自身も、年こそよれ出陣して、曠古こうこの大戦に加わる意気であった。
「では、われわれも、こんどの御合戦に加われますか」
 心ばかりな酒宴となって、みかわす杯のあいだに、人々はどよめき合った。年久しく用いなかった髀肉ひにくうずき、淵にひそんでただ鍛えるのみだった腕は鳴った。
「……時に、この中に、兄の五郎右衛門だけが見えませぬが、如何いかがいたしましたか」
 宗矩は、さっきからそれを怪しんでいたが、老人も兄弟はらからも、五郎右衛門については、一言も触れないので、とうとう訊ね出したのである。
 父石舟斎に伴われて、鷹ヶ峰のふもとで初めて家康にえっした時は――自分と兵庫と、そして兄の五郎右衛門とが、三人してお目見得したものをと、宗矩は当時のことも思い合せながら、その姿の見えない座中を見まわして、一まつのさびしさを覚えたのである。
「ムム、五郎右衛門か。……あれについては、家臣のうちでもまだ知らぬ者もあろう。ちょうどよい折、語っておこう」
 石舟斎はそう云うと、胸のいたむような面持おももちであったが、実はと――その夜まで公表されていなかった四男五郎右衛門の所在をうち明けた。
 五人の子のうち、ひとり五郎右衛門だけは、さすがの石舟斎も手におえない男だった。型にはまらないというよりは型以上に大きいのだなど日常も自身で豪語ごうごしてはばからないような人物だった。従って、このこけふかい柳生谷になど壮年までじっと屈していられる性格ではない。早くから家を飛出して、諸国を奔放ほんぽうに遍歴していたが、近頃、何かの手づるがあって、金吾中納言秀秋の小早川家へ仕えているという噂だけが聞えていた。
「ひとりぐらいは、柳生のつるにも、ああいう変質へんなりの瓜もできてよかろう。――宗矩のごときは、余りに南向みなみむきのやぶ竹でありすぎるからの」
 話し終って、石舟斎は、つぶやくようにこう述懐した。
 南向きのやぶ竹とは、いったい何の比喩ひゆであろうかと、家臣たちは解けない顔していたが、そう例えられた当の宗矩には、よく分っていたとみえて、面目なげにさし俯向うつむいていた。
 幼少の頃、父の石舟斎が、道場に立って、手ずから子を木剣で打ちきたえ、また訓誡するたびによく、
(――陽なたの竹ではだめだぞ!)
 と、云ったことを、宗矩は今、思い出すのであった。
 宝蔵院ほうぞういん胤栄いんえいが、よく尺八を吹くので、その胤栄がある折、尺八のはなしにことよせて、
(御当家もお子達がたくさんであるが、子を育てるには、北向きのやぶ竹にしておかねばいけませんな)
 と、云ったのを、石舟斎がひどく感心して、それ以来、つい子どもへも、口ぐせになって出ることばであった。
 胤栄いんえいが云った尺八のはなしというのはこうである。彼が、多年の経験に依ると、尺八を作るため、よい竹を探し求め、多年手にかけてみると、結局、地味も肥え、陽あたりもよい南向きの藪に育った竹からは、一本の名管も生れたためしはない。
 それに反して、地はせ、冬は氷や霜ばしらにしいたげられ、生れながらの若竹のうちから、蕭々しょうしょうと寒風に苦しめられて育った北向きの藪からは、勿論、笛にもならない拗者すねものもできるが、多くの名管はみなそこからえた竹にかぎる――という話なのであった。


「老父のお眼からみれば、なおわしは、陽なたの竹か」
 宗矩むねのりは恥じた。
 ことし男子の三十歳ともなって、徳川家の一麾下きかとなり、三千石の知行をうけて、奉公にある身が――と慚愧ざんきせずにはいられなかった。
 また、不孝の大なるものと思った。
 なぜなれば、石舟斎が、そういう胸のうちには、尺八の例もよくわきまえながら、子を育てる親には、どうしても子を南の藪に育ててしまう――平常ふだんの反省と苦慮と愛情とがわだかまっているからである。そして今宵こよい――もう三十になったわが子を見てもなお、心ひそかに、陽なたの竹に育てたといういをにじませている胸を察しると、宗矩は必然に、
「まだどこか、自分が至らないからである。――自分の将来を、なお案じておいでになるからだ」
 と、天性の未熟を、自ら責めずにいられなかった。
 その宗矩とくらべると、兄五郎右衛門の素質はまったく反対である。早くから器量は一族にぬきんでて、老父の剣すらひそかに睥睨へいげいするの風があった。が、その兄も、老父の膝下しっかを去っているのみか、こんどは西軍の一方の雄たる小早川秀秋の陣にある。いうまでもなく、東軍に参加する石舟斎や宗矩とは、敵味方とわかれてまみえることになったのである。
 初めて聞かされた家臣は、
「お心のうちはどんなであろう」
 と、石舟斎のおもてを仰ぐのも胸の痛むここちがした。平常ふだん秋霜しゅうそうのようにきびしいが、実は、世の親の誰よりも子には甘い煩悩をも一面に持っていることをみなよく知っているからだった。
 それから数日の後。
 久しくこの古城に聞かなかったよろいや具足の音が、鏘々しょうしょうと打揃って、陣列をなし、旗さし物や槍の光や馬のいななきと共に、美濃の戦場へ立って行った。
 その中に、ことし七十二になる眉雪びせつの老将が、ひときわ、途上に見送る領民の眼をひいた。


こおりえん




 九月十九日、関ヶ原の戦端はひらかれた。
 宗矩むねのりは、家康に対して、
「父も何分老年ですから、願わくは父に代って、柳生の手勢をひっさげ、私に先鋒せんぽうの一手をおいいつけ賜わりますように」
 と、懇願こんがんしてゆるされた。
 家康がその東軍の大部隊を、野州小山から引っ返して、三州の池鯉鮒ちりふにまですすめて来たのを、いちはやく宗矩がそこまで出迎えに出た時に――であった。
 大戦が終って、天下の事は徳川家に帰すと、宗矩もまた論功行賞ろんこうこうしょうにあずかった。
 柳生本領二千石を封ぜられ、すぐ翌年、また一千石の加増をうけた。
 そしてそれまでは、単に徳川秀忠の近衆のひとりであり、お相手役にすぎなかったが、以後明らかに、将軍家兵法師範という重職に登用され、但馬守たじまのかみに任官した。
 で、かれは初めて、江戸に一家をおこし、江戸柳生家の基礎をたてた。
 世に出た子の将来を、そこまで見届けて、石舟斎も初めて、
「……まず、但馬もあれで」
 と、安心したらしく見えた。
 だが、世に巣立つ幾羽のうちには、悲運に終る子鳥もある。但馬守宗矩の兄――四男の五郎右衛門がそれであった。
 元々、五郎右衛門だけは、幼年から石舟斎の規格にもはまらない豪放ごうほうな性質ではあったが、その後、諸国をあるいているうちに、小早川金吾秀秋の家に仕えていると、風の便りに聞えていた。
 関ヶ原の陣中にもいたであろう。一時は、徳川家と対陣した西軍のなかに。――いくさなかばからは味方の石田三成以下を裏切って、関東軍の一翼となった秀秋の麾下きかに。
 けれど、五郎右衛門は、石舟斎にも弟の宗矩にも、ついぞ姿を見せなかった。
 その後、慶長七年。
 小早川家は断絶した。――彼もまた流浪るろうして、伯耆国ほうきのくにの横田内膳ないぜん飯山いいやま城に身をよせていたが、※(二の字点、1-2-22)たまたま、その内膳は、主筋にあたる中村伯耆守ほうきのかみに殺害され、飯山城は伯耆守の手勢にとり囲まれるところとなった。
 五郎右衛門は、城内にいて、内膳の子主馬助しゅめのすけをたすけ、まったく義のために、寄手の大兵をうけて奮戦したのであった。
 城は、慶長八年の十一月十五日にちた。その落城の際の彼の働きこそ、当時しばらく中国の武人たちにとどろいたものであった。
 五郎右衛門は、ほのおをついて、城から半具足で討って出たが、大太刀をふるって、たおむまで、敵の甲胄かっちゅう武者十八人まで斬り伏せて戦死したという。
 新陰流の古勢「逆風さかかぜ」の太刀を平常へいぜいから得意としていたので、その働きぶりは、殊にものものしかったとある。彼の従者の森地五郎八も、よく戦ってたおれた。
 彼の豪勇ぶりは、中国地方に、一躍、柳生流の名を高からしめた。――けれど石舟斎は、そのうわさはやがて柳生谷に聞えて人々の語りぐさとなっても、ただ暗然とするのみで、すこしも歓ぶ色は見せなかった。
「彼の剣は、わしの本意でない。柳生流の剣の一面を具現した強さにすぎぬ。五郎右衛門になろうてはならぬ」
 むしろそう云って、周囲の子弟をいましめた。


 長男の厳勝としかつは先だち、その子久三郎は、朝鮮役で戦死し、次男の久斎、三男の徳斎、ふたりとも僧門に入ってしまうし、四男五郎右衛門は旅に果て、老齢の入道石舟斎の身辺も、ようやく、落寞らくばくとして、さびしげなものがあった。
 ひとり五男の但馬守宗矩むねのりに、伝血の望みはしょくされていたが、それも江戸常住となって、※(二の字点、1-2-22)たまたまの便りが、せめての楽しみであった。
 ことし七十六歳の八月吉日。
 彼はひとり焚香ふんこう静坐して、長巻の極意がきをしたためていたらしい。
 しかし、ふかく筐底きょうていに秘めて、人にも示さず、翌年またあらたに一代の工夫と体験の精髄とをしるし、その年の末、ふたたび晩年に悟得ごとくした吹毛剣のことについて書き加えなどしていたが、翌年の春になると、長巻の末尾に奥書を染めて、ここにその業を終っていた。
「兵庫はいつ帰るのじゃ?」
 時折、家人にたずねていた。
 もうその頃、彼はひそかに、自分の天命に、ひとり期しているものがあったらしい。青葉若葉は、ことしの夏もしずかに山城の一荘をつつみ始めていた。


 石舟斎が、掌上のたまのように、眼にも入れたいほど、鍾愛しょうあいしてかなかったのは、孫の兵庫利厳としとしだった。
 骨肉的にも、その天性の剣をも、彼はこの孫を、
「わが至宝しほう
 と、珍重していた。
 だから平常へいぜいもよく、
「そちは、他家から求められても、千石が一粒欠けても、仕官してはならない」
 と、云っていたほどである。
 肥後ひごの加藤清正から、彼と昵懇じっこんな黒田長政をかいして、正式に兵庫をその家中へ懇望して来た折も、
「千石ならでは」
 と、断わった。ところが清正は、他の家士のふりあいもあるので、表向き五百石、内分千五百石、客分として迎えましょうと、要求以上の好遇をもって答えて来たので、
「それほどまで、孫の器量を御属望ごしょくもうくださるなら」
 と、一切を長政に託して肥後へった。
 けれどその交渉の最後にも、もう一つ石舟斎から清正へ条件を云いたした。その条件とは、
「兵庫ことは、天性、御奉公を懈怠けたいいたすようなものではござらぬが、何といっても、若年者、それに短慮たんりょのところもありますゆえ、落度あっても、死罪三たびまでは、おゆるしありたい」
 ということであった。
 これを見ても、石舟斎が、どれほど兵庫を熱愛していたかがわかる。しかしまた、その無理な条件をもれてまで客分に迎えた清正の熱心と寛度も大きなものと云わなければなるまい。
 その兵庫利厳が、肥後へ行ったのは二十五の年だった。肥後にとどまることも短く、わずか二年で加藤家を辞し、その足で彼は九州中国から北陸地方を遊歴していたのである。
 本年二十八歳となった。先頃の便りでは、四月頃までには柳生に帰るとしてあったが、五月にも見えず、六月も過ぎかけていた。
「……兵庫はまだ帰らぬか」
 石舟斎は、病床について、寝たきりとなると、なおさら、それのみ待ちこがれているふうであった。
「ただいま戻りました。兵庫でございまする」
 秋の初め、秋の訪れ――。久しぶりな声は柳生家に聞えた。
 石舟斎のよろこび方はいうまでもなかった。

 一日、秋のさわやかな昼。
「兵庫、こちらへ来い」
 石舟斎は、病床を離れ、衣服もあらため、嗽水うがい手水ちょうずまでつかって、奥の一室へ、孫の兵庫を呼び入れた。
「おからだは如何ですか」
「たいへん気分がよい。しかしもう枯木こぼくじゃ、もう咲く花は待たれん。たいがい秋の末か、この冬であろう」
「何を仰せられますか」
「死期のことじゃ」
「そ、そんな……ことは」
 兵庫は泣き出した。二十八の――しかも千五百石で求められるほどな武士の偉材だったが、幼少から一倍愛された祖父のまえでは、やはりただの孫であった。
「愚かな涙を……」
 と、叱りながらも、石舟斎のおもてもまた、一抹の哀愁あいしゅうはある。人間と生れたからは、何人にも是非ない別離の傷心であった。
「あらためて、今日はそちにさずけておくものがある」
 彼は自筆の「柳生流印可」の長巻に添えて、かつて自身が、上泉伊勢守からうけた、「新陰流相伝の書」「新陰絵目録」の三つをことごとく兵庫に授けたのだった。
「わしに一族の児輩は多いが、これを役立たしてくれそうなものは、そちしかない。終生、師鑑としてこれに怠るな。道業はそち一身や一生のみじかいものではないぞ。世々ひろく末代の衆と国土にえきさねばならぬ。これをくる者の任はゆえに重い……たのむぞ、兵庫」


 江戸表の但馬守宗矩たじまのかみむねのりは、国元の急報に接して、将軍家にいとまを乞い、落葉しきりな晩秋の駅路うまやじを、大和やまとへさして急いでいた。
 にわかにやまいのあらたまった石舟斎は、病床からひとみを動かして、
「宗矩にも遙々はるばる見えられたか……」
 と、将軍家へ対して済まないようなつぶやきをもらした。
 枕頭には、門下の木村助九郎、庄田喜左衛門、出淵孫兵衛、そのほか、多くの直門がみまもっていた。
 その人々もみな、紀州家へ、仙台家へ、浅野家へ、各※(二の字点、1-2-22)仕官して一流一派をもう立てている者たちだった。
「心にかかるものもない」
 石舟斎は、自分という巨幹から、枝となり葉となり花となりとなっている一門の子弟をながめて、むしろ楽しげであった。
 諸家からの訪問、諸侯自身の見舞も絶えなかった。
 泉州せんしゅう沢庵たくあんなどが見えた日は、病室には談笑の声さえ聞えた。奈良なら宝蔵院胤栄ほうぞういんいんえいは、かれよりも十数年まえに歿していた。
 冬が近づく。極寒ごっかんに入る。
 病はあつくなるばかりだった。
 かれは一日、病臥のまま、その枕頭に、宗矩むねのりひとりだけを招いて、
「見国の機――というむねを心得ておるか」
 と、たずねた。
 宗矩がつつしんで教えを乞うと、
「見国の機とは、兵法を通じて、一国の情勢をることである。剣理を基本として、経世民治の要を知ることじゃ」
 と、云い、またやがて、
「そちは常に将軍家に対し、どういう心を旨として、剣を御師範ごしはん申しあげておるか」
 と、たずねた。
「天下をおさむるの兵法をもって」
 と、宗矩が答えると、石舟斎は満足して、かすかにうなずきながら、
「――庶人これを学べばすなわち身を修め、君子これを学べば学識を修め、王侯これを学べばすなわち国を治む。――庶人より王侯君子にいたるまで、みなその道はひとつ」
 と、大声で云って、しずかに眼をふさぎ、ややあってから、
「そちには何のうれいもない。これで安心いたした」
 と、云った。
 きょうか明日あすかとも見える容態になっても、石舟斎は決してかわやへ通うのに、ひとの手を借らなかった。手沢しゅたくのかかった細竹の杖をついて、病室の濡縁ぬれえんから後架こうかへゆくのを常としていた。
 折ふし十二月の極寒ではあるし、伊賀境の山々から、粉雪は舞って、いても掃いても縁にたまった。板縁は鏡のように凍るので、誰もよくすべっては怪我をした。周囲の者は、石舟斎の足もとをそこに見るたびにきもを冷やしたが、石舟斎は決して辷らなかった。
「あの御病体でありながら、何として? ……」
 と、人々がいぶかるのを耳に挾むと、石舟斎は枯葉こようのような頬にすこし笑みをたたえて云った。
「氷のえんをあるいて、後架こうかへ通ううちに、わしは工夫をこらし、浮身の法というのを発明した。それは浮身の太刀とも名づけられるもの。……一太刀、って、宗矩にも兵庫にも示したいが……」
 そのよいから昏々こんこんとして、遂に、彼の七十八歳の生涯は、雪ふかい柳生谷のあした、静かに終りを告げた。いやその遺業に悠久を約して大往生をとげたものと云えよう。
 すでに死期を悟り、その死の迫っていた数日前まで、氷の縁を杖つきながら、なお、剣の工夫をしていた彼のごときこそ、真の名人というべきであろう。ゆかしいかな、尊い哉。この心をもってすれば、あらゆる道に達し得ぬ道はあるまい。





底本:「剣の四君子・日本名婦伝」吉川英治文庫、講談社
   1977(昭和52)年4月1日第1刷発行
初出:「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社
   1940(昭和15)年9月〜1941(昭和16)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「日本剣人伝(三)柳生石舟斎」です。
入力:川山隆
校正:岡村和彦
2014年8月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード