日本名婦伝

大楠公夫人

吉川英治





 木も草も枯れ果てて、河内かわちの野は、霜の白さばかりが目にみる。
 世はいくさに次ぐ戦であった。建武けんむの平和もつかの間でしかなかった。楠木正成くすのきまさしげ、弟正氏まさうじたち一族のおびただしい戦死が聞えた後も、乱はまなかった。山は燃え、河はさけび、この辺りを中心として、楠氏なんしの軍と、足利勢あしかがぜいとの激戦は、繰返され繰返されて、人皆が、冬野の白い枯木立のように、白骨となり終らなければまないかに思われた。
「……何として近づこう」
 ひとり野を歩いて行く男は考えていた。
 足利方の大将山名時氏やまなときうじの家来で、漆間うるしまぞう六という者だった。蔵六の顎にも霜が生えていた。五十がらみの武者である。
 蔵六はしかし武者いでたちはしていない。薬売りの持つ旅つづら一つになって、それに似合う下人げにん脛当はぎあてを着け、野太刀ひと腰さしていた。
「おや。……輿こしが行くぞ。女人にょにんのお輿らしいが」
 冬木立の間を駈けぬけ、にわかに、野の一すじ道へ急ぎ出した。
 彼が、大声して、手を振ったので、先を行く輿は、
「何者?」
 と、止まったが、同時に、それを守る七名ばかりの郎党は、怪しみの眼をそろえて、長巻刀ながまきを向けたり、弓に矢をつがえかけたりした。
 蔵六は、次にまた、怪しい者でない由を呶鳴り立てた。京都みやこで聞えている薬師くすしの店のあるじだと云った。妙心寺のお書付も所持しているし、授翁和尚じゅおうおしょうもよく存じ上げている。自分の家法とする金創きんそうの名薬は、以前、その授翁様を通じて、さきに討死遊ばした正成様の御陣へもさしあげて、おほめにあずかったことがあると云った。
「して、その薬師が、この戦場へ何しに、また何用で、われらを呼びとめたか」
 輿の従者たちがとがめ返すと、蔵六は、家法の陣中薬を、東条の城へ献納のために来たと答え、洛内らくないの商民である自分らとしては、せめてこういうことでもするしか、朝廷への御奉公の道はないので――などと云い足した。
「いかがしたものでしょうか」
 従者のひとりは、輿の内なる若い女性に伺っていた。蔵六のことばを民草のしおらしい真心と聞いたか、※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ろうたけた声音こわねの主は、計ろうてとらせてやるがよいと、内で云った。


 千早ちはや金剛山こんごうせんは云わずもがなである。この辺はどんな小山も窪地くぼちも、さくとりででないところはない。
 だが蔵六は、折ふし途中で会った内侍ないしの供に加わって来たので、難なく要塞の本拠まで入れた。後で聞けば、輿の※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)じょうろうは、吉野の仮宮に仕える内侍所の女性で、何かのお使いで東条の城へ見えた途中であったという。
 正成の戦死して後、ここは楠氏の本城地ほんじょうちであった。十八郷の勤皇の将士の多くは、正成と共に湊川で殉じたが、なお孤塁には三千の忠精があった。いわおのような結束があった。
「――だが、屈強な者は、目立ってっているな」
 蔵六は、そう観た。
 彼が、入り込んだのは、正平しょうへい二年、足利勢の細川兵部大輔ひょうぶだゆうや山名時氏の軍が、もろくも年少の大将楠木正行のために、一敗地にまみれて敗走したすぐ後のことだった。
 で、ここには今、戦捷の意気がみなぎっていた。山名細川の首も近く見ようぞ。春ともなれば、尊氏たかうじの首級を、京にけて、神璽しんじを奉じ、主上の還幸をお願いし奉ろうぞ。そうみな希望にかがやいていた。
 けれど、蔵六の眼で見れば、その人々の信念にただ驚くばかりであった。彼が仕えている足利の軍隊からみれば、兵数は勿論、兵器、食糧、装備の諸具、欠乏を告げていない物はない。
 農倉のひえあわは云うまでもなく、畑の物も土をふるいにかけたように喰べ尽している。龍泉寺の樹々も、ここの草木も、焚物たきものとして焚き尽し、立っているのは、風雨に黒くよごれた幾十りゅうかの菊水の旗ばかりであった。
 わけてもここで欠乏して困っているのは、病舎にいるたくさんな負傷者に用いる陣中薬であろう。そう察して、蔵六が、献上と称して持って来た物は、案のじょう、
「よくぞ」
 とばかりとりでの人々に歓ばれた。
 各所の小合戦は絶え間ないし、傷者は殖えるばかりだし、それにまた、蔵六が、薬師くすしというので、
「御奉公のため、働きたいというか。殊勝しゅしょうなことである」
 と、そのまま、城寨じょうさいのうちにいることも許された。
「しめた。ここまで事が運べば」
 蔵六は、目的に向って、徐々と眼を光らし始めた。


 漆間うるしま四郎綱高つなたかは、こんど十七歳での出陣だった。初陣ではなく、何度かの合戦で、いつも敵の強豪を打ち、足利勢のうちでも、
小綱こつなは、一の武者よ。親まさり、主まさりよ」
 と、褒められ者であった。
 その小綱は、漆間蔵六の子息であった。自慢息子なのである。男の子三人のうちの次男であった。
 ところが、この秋、浪華なにわ附近の激戦の折、乱軍の中で、楠木ぜいの手に、捕虜ほりょになったと伝えられた。
「よもや、彼が」
 親の欲目のみではない。彼の主人山名時氏も、戦死であろうと、思っていたところ、その後、やはり楠木氏の捕虜になったが、逃げ帰って来たという者のはなしによると、
「小綱は、敵方の東条に生きている。しかも、楠木一族へ、忠誠を誓って、助かっている」
 とのことだった。
 それはかなり確実そうな消息だったので、山名時氏は、小四郎綱高を憎む前に、親の漆間蔵六に、
「ていよく子を渡して、敵へ内通しておるのではないか」
 と、疑いの目を向けた。
 次の合戦には、漆間蔵六も、小綱の兄や従兄弟たちも、戦士の籍から除外されていた。
 蔵六は、さむらいの最大な不名誉「わらわれ者」の汚名を、どうして拭おうかを、必死で考えたあげく、
「そうだ。小綱の首を切って来て、一門の潔白を示そう。また、小綱に考えがあってのことなら、力を協せて、敵地の子を救い、共に脱走して京都へ帰ろう」
 と決心して来たものであった。


 十二月の二十日頃である。
 正平しょうへい二年のとしも押しつまってきたが、戦雲はいよいよけわしい。正行が陣頭に立ってから、前後二度の大戦に敗れた尊氏たかうじは、それまでに味方のうちに、
 ――多門兵衛正成たもんひょうえまさしげが再来よ。
 と、正行を怖るる声があっても、何の、まだ弱冠の小児がと、見くびっていたが、ここ敗報しきりとなって、ようやく、
「これは、嫩葉ふたばのうちに、んでおかぬと」
 と、にわかに大規模な作戦を立て、高師直こうのもろなお師泰もろやす総帥そうすいとする、二十余ヵ国の兵六万をもって、東条、赤坂の攻略に大挙さしむけた。
 十六、七日の頃には、もう中河内の平野には、その前哨戦がさかんとなった。
 こえて二十一日の夜半。
 前線にあった河内守正行かわちのかみまさつらと、弟大和守正時やまとのかみまさときとは、東条の本城へ一度引揚げて来た様子である。
 牛頭山医王院ごずさんいおういん大伽藍だいがらんでは、正行、正時を中心として、一族の楠木将監くすのきしょうげん、和田新発意しんぼち、舎弟新兵衛、同紀六左衛門の子ら、野田四郎とその子ら、関地良円せきじりょうえんなどが、翌日も、翌々日も、軍議であった。
 正行、正時の弟、三男の正儀まさのりはしにいた。
 朝廷の親衛軍しんえいぐん興良おきなが親王の御陣地や、四じょう隆資たかすけのほうへも、いちいち軍議が報じられ、また、御意見をうかがい、使者が走るという有様だった。
「はて。どこにも見えぬ」
 蔵六は、こういう折こそ、捕虜のわが子をさがす屈強な時であると思って、出入りする将兵の顔は勿論、小者こものや百姓たちのたむろ、またはどこか幽閉されていそうな牢舎、穀倉、薪小屋までさがしたが、わが子とは限らず、捕虜らしい者は見えなかった。
 そのうち城内の混雑はいよいよ加わり、天王寺や八尾あたりに布陣していた人数も、一度皆、引揚げて来た。
 するとまた、その人数の大部分、およそ二千余騎の兵が、一様に城寨とりでから出払って、急に、東条、龍泉寺りゅうせんじ、赤坂の一帯が、人まばらになったのを見た朝のことである。
 城寨とりでの山、東条の麓にある龍泉寺の医王院いおういん広苑ひろにわに、いつになく、鮮やかな菊水の旗と、遠目にも眼を射らるるような卯の花、緋、萠黄縅もえぎおどしなどの鎧、太刀たち、艶やかな塗弓ぬりゆみ長巻刀ながまきなどの揃い立った一群の兵馬が見下ろされた。
「あ……。正行、正時の兄弟だな。さては、いよいよ今朝、必死の出陣とみえる」
 山の中腹にある病舎の軒下から、唯そう感じただけで眺めていた蔵六は、そのうちに躍り上がるほど驚いた。わが子の小四郎綱高つなたかの姿を、偶然、その群れの近くに見たからであった。


 列の左の端を頭に――
 ことし二十三歳の正行。ことし二十一歳の大和守正時。ことし十九の三男正儀。
 順にならんで、以下、一族の者十数名も整然と、立ち並んでいた。
「…………」
「…………」
 声もない。だが、言葉にまさるものが、人々の面には澄み切っていた。
 正行以下、列の人々は、今、出陣の別離を告げていたのであった。その列を前に、戦住居いくさずまい伽藍がらんをうしろに、故楠木判官正成くすのきほうがんまさしげの妻、未亡人の久子ひさこは、相対して立っていた。
 その年、久子は、もう四十のうえであった。
 けれど、二十歳はたちの年の暮――ちょうど今頃の冬、ここから近い甘南備かんなびさと南江みなみえの生家から、土地の名族楠木家にしてから、正成とのあいだに、六人の男子をしてきょうまでに至る間、片時も心のたゆむ間とてなかったせいであろうか、その毛髪くしには一すじの霜もなかった。皮膚はほの赤くまり、田舎人のように少し肥えてすらあった。
 衣服もここらの在所の女房たちが着る粗末な物と変らないのをまとっていた。裾短すそみじかくくっている山繭やままゆの腰帯もそれも自身の手織りなのである。
 戦場の寺住居ではあったが、空地には、桑畑もあり機屋はたやもあった。それを染める染瓶そめがめも備えてあった。将士の家族や百姓の女房たちに教えて、ここの兵站部へいたんぶでは、平常、衣食住あらゆる物を自給自足していた。
 亡き良人の位牌、また、一族の誰彼と、数限りなく本堂の壇にならんでいる護国の英霊の前に、朝暮、陰膳かげぜんを参らせる時のほかは、めったに裲襠うちかけもすそを曳いてはいなかった。
 ゆうべも殆ど眠っていない。
 かねて覚悟の日。
(こたびは生きて還りませぬ)
 と門立つ子らに対しても云うべきことは平常に尽してある。このにおいては、涙もないのである。
 むしろその子らにも、生きて還らぬ部下たちにも、一椀の温かい汁でも――と彼女はつい今し方まで、下部しもべたちを指図し、自身も大厨おおくりやに立ち働いて、水仕みずしわざをしていたのであった。
 先には、まだ仄暗ほのぐらいうちに、二千余騎の将士が、白い息を吐いて、ここを発し、今また、正行以下が最後の別れを告げて立たんとするのであった。
 ――泣くまじ。
 と思うほど、母の眼、子たちの眼、一族の人々の眼は、あやしき熱さにかすんだ。
 見送る母の側には、久子をまん中にして、ことし十六の正秀まさひで、十四の正平まさひら、十一の朝成ともしげの三児が、立ち並んでいた。
「――では母上」
 正行は、すこし頭を下げ、
「これより出立いでたちまする。父君の御遺訓、母うえが日常の御庭訓ていきん御旗みはたに生かしてひるがえす日は今です。ふたたび、お膝の許に、正行が身、生きては還りますまい。長いおいつくしみ、死してもわすれませぬ。母者人ははじゃびとにも、ようようお年、この後は正行をおいつくしみ下されたように、御自身のおからだを御いたわりくださいまし」
 人々は皆、うなじを垂れたが、久子は常と変りなく、
「はい」
 うなずいて見せた。
 正行はまた、
「これより吉野の御所に伺候して、よそながら今生のおんいとまを申しあげ、直ちに、賊軍のうちへ駈け入ります。弟正時は召しつれますが、正儀は御所より戻します。留守後々の事、正儀によう申してありますれば、お心づよく思し召されませ」
「そなたも、心おきのう」
 列は正行を先にして、総門のほうへ進んで行った。門の外に、馬のいななきや、戛々かつかつくつわのひびきが聞えた。
「これ、ここで。――大人しゅう、ここに居やい」
 追いかけて、駈け出そうとする少年の正平や正秀を、久子は両手にひき寄せた。ここの水入らずな袂別のすむのを、さっきから待ちかまえていた僧衆や、下部らや、百姓の女房たちや、留守に残る将兵たちが、いちどにどっと、総門のほうへと、送りに雪崩なだれて行ったからである。
 正秀、正平のふたりは、母のそばにこらえていたが、まだ幼い朝成は、母の手をかいくぐって、
「わしも。わしも行く」
 と、駈け出した。
 それを追って、
「あっ、和子わこ様。和子様」
 急いで抱き止めて戻って来た若い郎党がある。四男の正秀と同い年ぐらい。つい近頃、子供らの傅人もりとに抱えられたという小冠者こかんじゃである。
 とりでの山の中腹にたたずんで、じっと、此方を眺めていた、蔵六の眼を突然愕かせたものは、その小冠者の姿だった。
 親の眼である。遠くではあったが、まぎれはない。それこそ彼がこの城郭じょうかくのうちに血眼ちまなこで求めていた捕虜のわが子、小四郎綱高であった。


 年暮くれもない、正月もない。
 天日はくらく、人々はうつつだった。
 人に病のあるように、天地にも災厄があり、国体にも患いの時代がある。かかる有るまじき世をも超えなければ、真の国礎は万代にすわらぬものとみゆる――と時の民ぐさはかこった。
 年は明けた。日本じゅうの憂いの中に。
 血腥ちなまぐさい木枯らしの矢叫やたけびは、元日とても吹きすさんだ。低い冬雲の乱流する下、葛城連峰かつらぎれんぽうから飛ぶ粉雪の果て、
いくさは。――勝敗は?」
 と、留守の東条の人々は、河内の野を、心配にみちた眼で、見まもっていた。
 兄の正行が出陣の折、吉野の仮宮まで、行を共にして、そこから別れて城寨とりでへ帰って来た三男の正儀は、戻るとすぐ、母の居間に姿を見せて、
「母うえ。お欣びなされませ」
 と、復命した。
 正儀の伝えに依れば、後村上天皇には、正行が、よそながら今生の御いとま乞いにと伺候した心のうちを、くお察しになって、冬風のふせぎも粗末な仮御所のきざはしの下、間近まで、正行を召されて、御簾ぎょれんをさえかかげられ、
ちんは汝を股肱ここうとたのむぞ」
 と、親しく仰せられたという。
「ありがたい、勿体もったいない、御諚ごじょうではござりませぬか」
 語りながら正儀が、鎧の袖を顔へ押当てて涙すると、母の久子も、この日頃、一しずくも見せなかった涙を、一度にはふりこぼして、
「勿体なや」
 急いで膝を、吉野の仮宮のほうへ、正しく向けかえ、伏し拝んで、
「……そして、正行は」
「余りのおそれ多さに、兄は、何のお答えもよう申し得ませぬようでした。やや後ろに離れて、わたくしどもまで、涙にむせびつつ、俯目ふしめ兄者人あにじゃびとのほうを見てありましたところ、母うえが着せてあげた赤地錦あかじにしき小袖こそで萠黄縅もえぎおどしよろい、太刀のこじり、いつまでも、石のように、ひれ伏してありましたが、かすかにわなないていたように見られました」
「欣しさに。……さこそ、さこそ」
 大きな歓びに会うたびに、久子は、良人正成を胸によび起した。そして、心のうちで、
(かようにござりました。こういたしました)
 と、在りし日の通りに、歓びを、また自分のつとめを、胸のうちで報告した。
 何かまた、それとは反対に、子たちに落度があり、自分のつとめに欠けたと顧みられる節のある時も、
(ふつつかを致しました。これからは心いたしまする)
 と、胸に詫びることも、良人が世にある日の通りであった。
 ここに移り住むまでは、観心寺かんしんじにもいて、また、良人とは道契どうけいのふかい妙心寺の授翁和尚じゅおうおしょうとも親しく、自然、彼女も信仰にあつかったが、有憂無憂うゆうむゆう仏華ぶつげ後世ごせのながめであった。修羅しゅらの矢たけびを、くりやの外に聞き、六人の育児、一族の融和、それから着る物、く物の欠乏などとも、年月長く闘って、内助にかくれきりながら、しかも強く、敵の矢風の中に立つよりも強く、生きて生きて生きぬいて来るまでには、世の常の菩提ぼだいのねがいとはちがうものがあった。
 彼女の胸にって今もかわらぬ根本のものは、やはり良人正成の満身にながれていたものであった。ひとつ血の夫婦が、良人の世にあるうち、常にかたらい合っていたことは、この国に生れたさちであった。無窮な国体のうえに生をつ安心であった。大君の恩であった。これも大御民おおみたからのひとりびとりぞ、と見まわす家庭と家の子らであった。
 久子は、正成に嫁してから、かねがねおぼろに抱いていた考えを、さらにしかと、信念づけられた。子をし、世が騒がしくなるほどに、またその信念は、よけい強められて行った。
 末子の朝成ともしげを生んだ翌年。延元えんげんの元年五月。
 湊川に戦死した良人の首級を、やがて敵方から送られ、その変り果てた面を、観心寺の一室に迎えて、仰ぎ見た時も、あのまま泣き絶え果ててもしまわずに、心と心とで、語りあうかの気もちを抱き、生ける時の夫婦以上の誓いをも、その刹那せつなひそかに成し得た意志の力も、後に思えば、やはり生前良人から知らず知らずけていた国本の大義に明らかな眼があいていたおかげであった。それと、武夫もののふの妻たる日頃の覚悟と、弥陀みだの御さとしの助けであった。
正儀まさのり
 やがて静かに、久子は呼びかけた。この正月を迎えて、二十歳はたちとなった正儀のすがたをじっと見てである――
「一天の大君さまの御口ずから、臣下の正行まさつらへ、汝を股肱ここうとたのむぞと御諚ごじょうあそばされたことは、まこと正行のほまれ、亡き父君にも、御満足に在すらめとはふと思うたが、深く思えば、この御国に、こうした畏れ多いことのあってよいものか。――おこともはや二十歳ぞや。父君の御遺訓、よも忘れはあるまいの。朝廷への御奉公にかけて、兄たちに劣るまいぞ。留守は、おことが総大将、母は、どこまで家の母じゃ。つわものたちの指揮、心がまえ、忠義一すじの鍛え、皆おことが軍配と徳にあること。きょうよりはなおなお、心しても。その身を、父君や兄達の亡き後の三世の忠義に備えておかれよ」
「わかりました。よくわかっておりまする」
 正儀まさのりむせび泣き、彼の母も、ほかに従者や幼い者がいなかったせいか、いつになくしばしば袖口をまぶたにあてた。
 正儀は、母のそのすがたが、おおきな慈愛の樹のようにながめられた。
 その大樹は、年経るごとに、枝を伐られ、葉をふるい落されてゆく。良人おっとの正成、良人の弟正氏、また、里方さとかたの兄南江正忠みなみえまさただと、次々に戦死し、一族遠縁の人々までも、それからそれへとこずえから去って行った。
 右の枝を伐られ、左の力を※(「てへん+宛」、第3水準1-84-80)がれても、樹は傷む顔も見せない。老いのつかれも口に出さない。きっと来る春を信じて大地に立ちそびえている。
 だが――さすがに。
 二十余年を積んで良人に恥じぬ若人と育てあげた正行と正時を、還らぬ戦場へ送ってからは、正儀まさのりには、母の年輪としわが改めてかぞえられた。いたしとかぬ樹のすがたに、自分のほうが泣けて来てたまらなかった。
 そんな一日のうちの一刻ひとときもあったが、しとみを出て、東条の山から、雪もよいの河内方面の空を見やれば、矢たけびか、枯野の風か、びゅーっ、びゅーっと、きのうもきょうも、天地は灰色の晦冥かいめいにつつまれていた。
「どうあろう? 戦の様子は」
「兄たちは」――と思いはすぐ遠く駆ける。
 留守寨るすとりでの兵たちも、総門の方に、馬のいななくのを聞けば、
「すわ。お使いぞ」
 と、刻々、待ちうけている前線からの伝令と見て、われがちに駈け出した。


 誰の眼も、眸の先に光りものがちらついて、気が逆上あがったように、血走っていた。
 夜来からの城寨じょうさいの混雑は、六日の明け方までつづいていた。
 味方の敗戦、それから四条畷しじょうなわての全滅、一族数々の人の名が、討死討死と、次々にここへ聞えて来たのである。
 折弓や血刀を杖に、血と泥にまみれた虫の息で、這うが如く、引揚げて来た味方の者たちから報じられたのであった。
「騒いではなりません」
 正儀の制止にも余って、城郭内じょうかくないさわぎがしずまらないので、明け方には、遂に、兵のたむろにはめったに姿を見せたことのない久子自身が出て行って、何かの指揮や処置に、正儀を励ましている様子であった。
 出てゆく折、末子の朝成ともしげが、眼をさまして、母の姿を追いかけたので、
「小綱、和子わこを見ていても」
 傅役もりやく小冠者こかんじゃにあずけて行った。
「和子様、和子様、さ、狩衣かりぎぬを召しませ。おかぜをひきますぞ。そして小綱と、きょうも竹山たけやまじて、遊びましょう。よい竹伐って、竹馬を作りましょう」
 あやしすかしながら、狩衣かりぎぬを着せて、しとみえんから降りかけた時だった。
「小四郎っ」
 ふいに、物陰ものかげから躍り出て、漆間うるしまぞう六が前に立った。
「あっ、父上」
 愕然と、立ちすくむ子の処へとびかかって、蔵六は、彼を大地へ組み伏せた。
「お、おっ、おのれは」
 骨肉への憤りは、自分が自分へ怒るように残酷の度も見失って、ぐいぐいのどをしめつけていた。けれど云わんとすることは、感情の火に、口ばかり渇いて出ないのである。
 その父の形相にひさかえて、
「何をなさるんです。父上、お怒りのわけを承りましょう」
 てた大地へ、顔をこづかれていながら、小綱のおもてはむしろ憎いほど落着いていた。
 子の落着いている眼を見ると、蔵六は、はっと親に回った。大人げないことを自省した。殊に、無意識に右手に抜いていた脇差に気づいて、それをどうする気だったろうと、慄然りつぜんとした。
 ゆるむ父の手を押しいただきながら、小綱は身を起して、
「いや、お怒りのわけは、解りました。より先に、私が、楠木家に随身ずいしんして、なぜ武士の道をたがえたかのようなことをしたか、仔細しさいを申し上げましょう」
 大地へ、坐り直して云った。
「父上も、どうか、落着いて、お坐りください」
「こうか。――さッ申せ、聞こうっ」
 蔵六は、肩も膝も四角にとがらして坐った。父親たるの顔を厳と示した。
「あれは、去年こぞの十月中旬なかばでした。浪華なにわの御合戦の際、暗夜とはいえ、不覚にも、私は楠木勢のために、擒人とりことなりました。けれど、恥とは一時の思いでした。今では、よくぞ擒人とりこになって、真の人の道と、武士の道を、踏み迷わずにすんだと、天恩に謝しておりまする」
「な、なんだと」
「しまいまでお聞き下さい。あの折の合戦は、足利方の惨敗でした。四天王寺のあたりから駈け崩され、ふかい暗夜を、押しもまれて、退くみちすがらも、しばしばふいの伏勢に襲われ、渡辺橋の断崖から、淀川の早瀬へ、墜ちた者が無数でした。私もその中の一人で、深いふちちこみ、寒さは寒し、重い具足や身拵みごしらえ、すんでに凍え溺れるかと思ったところを、繩梯子にすがれと、断崖の上へ、助け上げられたのであります。――味方ではありません、楠木方のほうにです」
「そして」
「見ると、河に墜入って、救われた足利方の兵、百二、三十名もおりましたろうか。一団になって、陣所へ曳かれ、さては首切られるかと、覚悟定めていましたところ、いとうら若い大将、楠木河内守正行まさつら殿でした。下知げちなされて、幾ヵ所にも、焚火たきびかせ、さて、怪訝いぶかる敵のわれわれへ云われるには――(あわれやつわものばら、武士は相見互いと云いならわすぞ。勝つも敗けるも時の運なれ。賊軍とはいえ、主のために働いてのこと、妻もあらむ、子もあらむ、はやはや都に帰れ、縁あらばまた、戦場にてまみえんものを)と、こう仰せられまして、火にあたれ、肌着をせ、薬はいかに、かゆを喰べよと、傷負ておいには馬まで下されて、放たれたのでござります」
「ふーむ……」
「泣きました。命知らずの強者輩つわものばらも、さすがは正成公の御嫡子ごちゃくしよと、泣かぬ擒人とりことてはなかったのです。そして半分は、京都へさして帰りましたが、残る半数は、その場で降伏を誓い、正行様の旗本で働きたいと云い出しました。私も、その一名でした」
「なに、降伏したのか。降伏を」
「はい」
「恥を知れ。この父や一族どもの、御主人を裏切って、おのれ、二君にまみえる気でか」
「いえ、父上」
 小綱は、さえぎって云った。
「そのことについては、私も苦しみました。けれど楠木様に召仕われてからは、あやまりてわが武士道と、さらりと悩みも解けました。――二君とは誰と誰。この日本ひのもとには、君たる御方は、主上御一人しかないはずであります。足利殿は、また足利殿に加担の衆は、そこの根本の理にくろうござります。故に、彼等の戦は乱です。名は賊子ぞくしです。――父上がもしここへ来られなかったら、いつか私は、父上を賊徒の陣から救い出しにゆく考えでおりました。武夫もののふの家に生れて、武夫の道をふみはずし、賊の汚名をきて朽ちては、口惜しゅうはござりませぬか」


「…………」
 蔵六は、大きなうめきばかりして、いつまで、胸にんだ腕を解こうともしなかった。
 ――その時、ふと気づくと。
 城寨とりでの山々は急に湖のような寂寞しじまになっていた。跫音あしおともさせぬ静かな一すじの列が、水の流るるように、総門のほうからここへ上って来るのが見えた。
 その列の先に見えた人は、葛城かつらぎの峰の雪よりも真白い喪服もふくを着、白木の台に白い覆布おおいをかけたのを捧げていた。覆布おおいの下には、血にそんだよろい草摺くさずりの片袖と、血糊のりによごれた黒髪とがせられてあった。
 今し方、戦場から拾われて来た正行まさつらと、弟正時の遺物かたみかと思われた。
 喪服して、それを出迎え、捧持してくる女性は、いうまでもなくその正行、正時を生んだ母なる人である。
 正儀まさのり、正秀、正平、留守の兄弟たちも、俯向うつむきがちに母に従って来た。従者や老臣は涙を拭うていたが、久子ひさこの面にも、兄弟たちの眼にも、涙はなかった。むしろ次々に自分らもやがて赴く殉国の日を思うて、強烈な意志と誓いとを、悲痛な眉のかげにたたえていた。
「母さま。――何? 何? それ何?」
 いきなり駈け寄って行った末子の朝成は、母の喪服へすがって訊ねた。
「お兄様たちが、お帰りになったのじゃ。大人しゅうそなたも来やれ」
「どこへ。どこへですか。母さま」
「お父君が、いつもおで遊ばすお部屋に。――そして、湊川でおかくれ遊ばした叔父様も、みな揃うて、天子様のほうに向い、なお、残る子らには、正儀がおりまする。正秀もひかえておりまする。また、正平や朝成も成人して、御所のお護りに参りますると、おこたえ申しあげるのじゃ。そなたも席に欠けてよいものか。母に従うて来やい」
「あい」
 朝成は、よく解った顔して、大きく頷いた。
「…………」
 屋の内深くへ、すべての人々がみなかくれた後も、まだ解らぬ面持おももちして見送っていたのは漆間蔵六であった。
 だが、そのうちに突然、両手で顔を蔽うと、彼は声をあげて泣き出した。天を恐れ地へ詫びるように慟哭どうこくした。
 そしていきなり小綱の手を固く握りしめ、
「この眼に、この眼に、わしは初めて、ほんとうの人を見た。いや神を見た、日本ひのもとという国を見た。――小四郎、さッ急ごう、京都へだ」
「いやです。私は帰りません。正儀様の御旗みはたの下に踏みとどまります」
「なにまたすぐに帰って来るのだ。妻、おまえの兄弟たち、縁者のともがら、ひとりとして賊名の中に見捨ててよいものか。漆間蔵六とて、語らいあえば四、五十名のつわものは連れて来られよう。そのまに正儀様の御旗も、他へお移しになろうが、何処までも馳せ参ずる所存だ」
「では、父上も」
「礼をいう、小四郎、ようみちびいてくれた。そうだ、そちを連れては、京都の世間がうるさい。わしひとりで行って来る。子に手を引かれるのは恥かしいが、お味方に参じた節は、お取做とりなしを頼むぞよ」
 観心寺、龍泉寺、天野山金剛寺あまのざんこんごうじみね谷々の寨寺とりででらで、護国のかねが鳴りひびいた。正行、正時の霊を弔う鐘であった。折から降り出した満天の散華さんげは、白い春の雪とって――。





底本:「剣の四君子・日本名婦伝」吉川英治文庫、講談社
   1977(昭和52)年4月1日第1刷発行
初出:「主婦之友」
   1940(昭和15)年1月号
入力:川山隆
校正:雪森
2014年8月7日作成
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