夏虫行燈

吉川英治




かぜれ異変




 迅い雲脚くもあしである。裾野の方から墨を流すように拡がって、見る間に、盆地の町――甲府の空をおおってしまう。
 にわかに、日蝕のようにくらかった。
 板簾いたすだれの裾は、大きく風に揚げられて、ひさしをたたき、庭の樹々は皆、白い葉裏をかえしてそよぎ立つ――
『おう。雷鳴かみなりか』
 昼寝をしていた高安平四郎たかやすへいしろうは、顔に乗せていた書籍ほんを落して、むくりと寝転ねがえると、
『……るかな? 一暴ひとあれ』
 頬杖ほおづえついて、廂越しに、暫く雲行くもゆきでも観測しているように、呟いた。
 ――と。その睫毛まつげの先を、白い電光いなびかりが、チカッとかすめて、霹靂へきれきはすぐの上をまわった。
『お、大きいぞ。――これやあ、出向かずばなるまい』
 平四郎は、ね起きて、すぐ身支度じたくした。
 甲府城の森や天主には、過去に幾たびも落雷の歴史がある。その都度、火災を起しては、苦い経験を重ねているので、大きな雷鳴の伴う風雨には、たとえ非番の者でも、即刻、お城へ馳けつけるというおきてになっている。
 もっともそれは、俗に『番衆ばんしゅう番衆ばんしゅう』とばれる軽輩の番士役に限ってはいたが。
 平四郎は、その組役の一人で、番衆長屋に住む気軽な独り者、然し、年齢としはわりあいに取っていて、もう三十は超えていた。
『おい、婆や、お城へ行って参るぞ』
 庭へ呶鳴どなって――
五刻いつつを過ぎたら、お城へ泊ったと思ってよい。戸締りして、早く寝めよ』
 と、云いたした。
 紫陽花あじさいや八ツ手が、海のように揺れている裏庭の方で、
『はい。はい』
 婆やの返辞がしたが、ふと、縁先に取り込んである、一抱え程な干衣ほしものを見ると、中に、あでやかな女着物おんなものが一枚、まぎれこんでいた。
『はて、こんな物は、家には無い筈だが――。婆や、婆や、何処から取り込んで来たのだ』
 云っているうちに、婆やは又、次の一抱えを、持って来て、縁先へ置いた。
 その中にも、羅衣うすもの女小袖おんなこそでだの、扱帯しごきだのがあった。
『――旦那様。それは多分、上のお屋敷からでございましょう。きのうも今日も、虫干をして居らっしゃいましたから、風に舞って、お庭の中へ、吹き落ちて来たに違いございません』
『ウム、萩井はぎい家のか』
 平四郎は、その衣裳を手に持って、さがふじ刺繍紋ぬいもんを見ながら呟いた。
 婆やも、眼をみはって、
『たいそうお金に飽かせた衣裳でございまするの。京染きょうぞめ裾模様すそもよう――』
『婚礼着だな』
『きっと、お小夜様さよさまの……』
『こんなもの!』
 平四郎は、それを、ふわーっと庭先へほうり投げて、婆やへ云った。
『風に舞って来たとはいえ、これ見よがしな贅沢衣裳ぜいたくもの、取り込んで置くには及ばん。崖の下から呶鳴って、萩井家の者に、取りに来いと云え』
 庭へ捨てられた裾模様へ、もう白い雨の線が、斜めに降りかけていた。
 その間にも、雷鳴かみなりは、絶え間なく鳴りはためいて――


 甲府の御番城は、平城ひらじろだった。
 城主はない。
 幕府から支配役をいいつかって、御城番として松野豊後守まつのぶんごのかみ、加役として宮崎若狭守みやざきわかさのかみ――っちも千五百石程度の旗本が、甲府在住で、これを守っているのだった。
『やあ、お出合御苦労』
『よいあんばいに、大した事もないらしいな』
 詰め合った番衆たちは、持場持場で、そう云い合った。
 暮れ方――雲は切れて、笛吹川の上流かみの空は、うすい虹さえ見せた。
『これだから、夏中は非番の日でも、落々おちおち休んじゃ居られぬよ』
『拙者も、きょうは大丈夫と、釜無川かまなしがわの瀬へ、はやを釣りに出かけて居ったところ――あの雷鳴かみなりだ』
『――が、まあ無事でよかった。休みはまだ三、四日あるし』
 ふだんは二日づめの一日休みであったが、この土用中は、交代に七日ずつの賜暇しかをもらっていた。
 空を見さだめて、非番の者たちは、夕虹の下を帰って行ったが、平四郎は、宿直とのい部屋の同僚と話しているうちに、将棋しょうぎが初まったので、つい燈火ともしびを見てしまった。
 すると、同僚の雑賀丹治さいがたんじが、
『高安。ちょっと顔を――』
 と、外へ誘った。
『なんだ? ……』
『まだ其許そこもとは知るまいな。御城内でも、内密に伏せておるから』
『知るまいとは』
『貴公が聞いたら、定めし小気味よがる事だろうと思って、そっと耳に入れるわけだが、図書係りの海野甚三郎な、何うやら、切腹ものらしいぞ』
『えっ、海野が』
『されば』
『いったい、それはうした理由わけで』
『貴公に取っては恋敵こいがたき――まあ隠さんでもいいさ――その海野甚三郎が、切腹ものとは、耳よりな話じゃないか。萩井家のお小夜どのを挾んで、甚三郎と其許そこもとのあいだに、紛争いきさつのあった事は、おれも薄々知っていた』
『そうか、海野が切腹となるのか』
『いや、まだ決まった事ではないが、九分九厘までは……という破目になっておるのだ。もっと詳しい事を聞かせたいが』
 と、見廻して、
『そうだ、れへ行かないか』
 と、櫓門やぐらもんのあるどての陰へ誘った。


 三日ほど前から、御番城の蔵方くらかたでは、武器係り、道具係り、図書係りなど総勢で、例年のように、御蔵の風入れにかかって、毎日、虫ぼしに忙殺されていた。
 事件は、つい昨日きのうのこと。
 御蔵奉行の岩瀬志摩いわせしまが、台帳にあわせて、順々に、検分してくるうち、図書係り海野甚三郎が持場の品が一点、不足している事実を発見した。
 しかもそれは、この甲府城の宝物中でも、代表的なもので、つては、将軍の台覧にも供え、元禄年中の城主柳沢吉保やなぎさわよしやすも、垂涎すいせんかなかったといわれる――土佐光吉とさみつよしの歌仙図に近衛信尹このえのぶたださんのある――紙数にすればわずか十二、三枚の薄いじょうだった。
(あれが紛失したと!)
 居合した者は青くなって、
(一大事だ。何と、幕府おかみへ云い訳を――)と、騒ぎ立った。
 奉行の岩瀬志摩は、
(詮議のさまたげになる。ここにおる者以外への口外は、一切差し控えられたい。――係り海野甚三郎は、お品の出るまで、退城はならぬ)
 と、云い渡した。
 で――昨日から、甚三郎は、一室に閉じこめられ、紛失した歌仙本の行方には、密々、厳しい捜査が行われているが、今日に至るも、行方ゆくえとんと分らぬらしいというのである。
      ×         ×
          ×         ×
『虫干の御蔵収めは、後四日。――その四日のうちに、紛失物が出なければ、甚三郎は、切腹するしかない。――まあ事情は、こういう理由わけだが』
 と、雑賀丹治は、薄ら笑って、
『そんな破目はめにある甚三郎を、悪く云うではないが、日頃からいやに君子ぶッて、い男を鼻にかけ、交際つきあいはしない奴だから、誰も同情する者はない。――この事件を、知っている者は、あいつ近頃、お小夜どのとの縁談で、ふわふわしているから、こんな失態を起したのだろう――と誰も皆、云っておる』
 ちょうど、五刻いつつが、やぐらで鳴った。
『ふーム、そうか。……そういう事情わけか』
 とのみうなずいて、平四郎はただ聞いていたが、平四郎は、決して愉快そうな顔いろではなかった。
『どれ、帰ろうか』
 丹治と別れて、彼は、帰途についた。
 城の乾門いぬいもんでは、果して、奉行の下役が詰めていて、退城の者をとどめ、いちいち体調からだしらべをして通した。
 平四郎も、あらためられた。
『何か、御城内に、変った事でもあったのでござるか』
 知らぬ顔して聞くと、
『いや、ちと……』
 と、口を濁して、役人たちは、真相に触れることを避けた。


葉隠れ恋




 ――見たことか。人の思いでも。
 同僚の前では、そんな顔は見せなかったが、平四郎は心のうちで、そう思わないこともなかった。
 甚三郎とは、お互いに、終生、解けない宿怨に結ばれている仲である。
『萩井家のお小夜も思い知ったろう』
 星になった夜空の下を歩きながら――彼は苦笑した。
 ――あの甚三郎さえなければ、お小夜は、自分の妻となっている筈の女だ。
(ちょうど、こんな、星の夜だった……)
 と、彼は今も思い出される。
 一夏、笛吹川のほとりで、おぼれかけている少女を救ったことがある。乳母らしい女のさけび声に、馳けつけてみると、それは御番城の兵学教頭、萩井十太夫の娘。
 身をていして、激流の中から彼が救い上げて来た娘は――その頃まだ軽かった。十四ぐらいな愛くるしい少女おとめで、お小夜という名は、後に知ったのである。
(娘の恩人だ)
 と、いうので、それ以来、平四郎は萩井家の家族から、特別親しく扱われた。
 お小夜も、年つほど、親しみを見せ、又、妙齢の美しさを増して行った。
 ――それはもう、七年前になる。
 然し今では、萩井家の家族は何うか。
 彼女が、自分を見る眼は何うか?
 以前とは、まるで違う!
 ひと頃は、彼女のむこに――と、堅い約束こそしないが、口にらさぬばかりに、萩井家の家族は皆、自分を遇したものだった。
 自分も、いつか心に、彼女を未来の妻として、抱いていた。
 その為に、勉強した。誰よりも励んだ。兵学も、剣道も、弓道も。――やがて萩井十太夫の後を継いでも、
(彼なら恥しくない)
 と、云われる迄、自分をきたえて置こうとしたのも、その希望があるからだった。


 海野甚三郎は、そうした折へ、忽然と、帰って来た。甚三郎は、長崎へ遊学していた者である。新しい蘭学らんがくも、西洋兵学も、砲術も、あらゆる新知識をたくわえて帰って来たばかりか、家すじも、平四郎と比較にならないし――何よりは又、彼は美貌で挙止も正しく、品行もよかった。
(甚三郎様、甚三郎様)
 萩井家の家族たちは、皆、彼の知識や新しい話に傾倒した。
 わけて、お小夜は、彼に依って、つぼみの春を、訪れられたように、急に、容子まで変って来た。
 そのうちに、間もなく、甚三郎は正式に、縁談を持ちこんだらしい。異議なくまとまって、この五月には挙式を――と云う噂だったが、十太夫がふと病床に就いたので、秋までに延期されたのだった。
 だが。
 平四郎にとっては、延びようと、何日いつになろうと、それはもう、萩井家から云わせても、かかわりのない他人でしかない。
 生憎あいにくと又、平四郎の住居すまいは、萩井家の崖下で、心の外に置こうとしても、何かにつけて、崖上の屋敷の様子は、手に取るように映るのだった。
 未練がましく、近くに住んで居たくないとは、重々思う事であったが、崖下の番衆長屋は、いわゆる組屋敷で、勝手に転居する事も許されない――
 怏々おうおうと、楽しまない日を、幾月もうそこで暮したことか、人知れず葉隠はがくれに燃えて腐って、やがて散るしかない――真紅しんくの花の悩みのように。
 近頃は、兵書、剣道の修行も抛って、くさくさすれば、町へ出て、居酒屋の床几しょうぎを占めた。――そんな事から二、三の同僚のうちでは、
(まあ、我慢せい)
 とか、
(お小夜ばかりが女じゃなし、もっといいのを持って見返してやるさ)
 とか、同情する者もあった。
 けれど彼の意中には、そんな程度の言葉では、慰めきれないものがある。――又、今日聞いた甚三郎の破滅を知っても――猶々、慰めきれないものがある。
 それは、お小夜の心だった。
 何うして、彼女が、自分にそむいて、甚三郎へ傾いて行ったか――。恨みつらみは、親の十太夫にもない、家族たちにもない、甚三郎にもない。
 ただ、彼女のそれにあった。


 帰りがけ――その晩も、いつもの居酒屋に立寄って、平四郎は、
『亭主、冷酒ひやでよい、一杯くれい』
 薄暗い片隅の床几しょうぎに腰かけて、黙然と、ひじをついていた。
 誰か、後でコソコソ話し声がするので、何気なく振向いてみると、土間から上って、三畳ばかり敷ける小部屋に、衝立ついたてを置いて、飲んでいる二人の浪人者の腰だけが見えた。
『――だって、何うせ京都へは上らなければなるまい』
 と、一方が小声でいう。
『それやあそうだが……』
『してみれば、山越えして、奥多摩おくたまから武州ぶしゅうへ出るなんて、嶮岨けんそな道をとって、しかも廻り道したりするよりは、江戸表へ寄らずに、真っ直に京都へ出てしまおうじゃないか』
中山道なかせんどうを取ってか』
『いや、そう行くのは、誰も考える所だから、裾野へ出て五湖を横ぎり、東海道へ突き抜ける』
『ウム、だが何っにしても、もういちど、市之丞いちのじょう様に会った上で――』
 と、云いかけた時、一方の浪人が、
しっ……』
 と、目くばせして、ひざ小突こづいた手が、衝立の陰にちらと見えた。
 平四郎は、耳にも止めない様子をして、
『亭主、きょうの酒は、いつもの酒とは少し違いはせぬか。――もう一つ、いでみてくれ』
 その間に――二人の浪人は、土間の草鞋わらじへ手を伸ばして、
勘定かんじょうは置いたぞ』
 ややあわて気味に出て行った。


 市之丞。――確にそう聞えた。妙に、その名が、平四郎の耳へ残った。
(この城下で、市之丞と名乗る者は? ……)
 と、考えていると、
『旦那、召上ってみて下さい。たるを代えてみましたが』
 と、亭主がそれへ、ますでなみなみと、次のをんで来てそっと渡す。
『おやじ』
『へい』
『今出て行ったのは、毎度ここへ見える客か』
『いいえ、先刻さっきの雨上りに、飛び込んできたフリのお客でございます』
『江戸者のようだな、言葉や物腰ものごしが……』
『左様でございます。けれど、何かお話の様子では、青沼の光沢寺こうたくじに泊って居るような口吻くちぶりでございましたが』
『光沢寺といえば――一蓮寺の別院だな』
『はい、左様に聞いておりますが』
『ふウ……む』と、何か独り頷いて、
『亭主、きょうのも又、お帳面だぞ』
『へいへい、何日いつでも』
 平四郎は、ぶらぶら帰って来たが、五刻いつつ過ぎたら寝ろといっておいたので、婆やはもう戸締りを固くして寝ていた。
 戸を軽く叩いて、呼び起しているまに、彼は、崖上の萩井家の灯影ほかげの辺りから、かすかに、琴の音が流れて来るのを聞いた。
『……オ。お小夜はまだ、知らないと見える』
 平四郎は崖を仰いで、ふと唇を噛んだ。
 婆やが、眠たい顔して、戸を開けた。平四郎は家に這入るとすぐ、
『昼間、風に吹かれて、紛れ込んで来た女小袖は、萩井家へ返してくれたか』
『はい、お返しいたしました』
『誰が取りに来た?』
『わたくしが持って行って、裏門にいる小者へ渡してやりました』
 聞くと、平四郎は不機嫌に、
『だれが届けてつかわせといったか。崖の下から呶鳴どなって、取りに来いと云ってやれと、吩咐いいつけておいたではないか。――何で此方こちらから持って行くような弱味がある。ろくの高下はあるが、萩井家も武家なら、高安平四郎も武家だ。――ばかなッ』
 と、珍らしく老婆としよりを叱って、たおれるように、寝床へ横になってしまった。


宿怨の介錯人かいしゃくにん




 詮議せんぎは、極秘のうちに行われているらしい。
 萩井家でさえ、知らない様子なのである。
(もう後三日。――もう後二日)
 と、平四郎は心のどこかで、朝夕、海野甚三郎の身に迫る死期を数えていた。
 寝転んで、ほんを読んでいる間もふと、ニタリと、悪魔的な微笑ほほえみがひとりでにくちの辺へのぼってくる――
(俺は何も知らぬ間に、他人ひとがしてくれた復讐ふくしゅうだ。天のす事だ。思えばよくしたもの……)
 と、思う。
 ――琴のは、毎夜聞えた。――音は澄んでいて、乱れていない。何う聞いても、清純な処女おとめの指からまろぶ音であった。
『だが、思えば、可哀そうな』
 と、平四郎もふと思わぬでもなかったが、強いて、自分の心を、残酷に持って、
(いや、当然だ。おれの苦しんで来たことに較べれば)
 と、やがての快哉かいさいを――その八絃の夢がれて、お小夜が怨歎えんたんする日のこころよさを――昨日きのうも今日も、ひそかに待ちつつ、土用の休み日を暮していた。


 もう今日は、虫干仕舞むしぼしじまい。蔵収めの日であった。
 同時に、詮議の日数も、その日限り。
(分ったか。無い儘か?)
 紛失した歌仙本の安否よりも――実は海野甚三郎の生死のわかれに興味を抱いて、平四郎は、その日から、城へ詰めた。
 城内へ来てみると、いつぞやは知らない顔をしていた者も、今日は、公然と、
『盗賊は一体、外の者か、内の者か?』
『元より、外部の者だろう』
『いや、外部から忍び込んで、盗まれたとすれば、吾々も共に落度ではないか』
『下手人が城内にあるとすれば?』
『いう迄もなく、図書係りの甚三郎を疑うしかあるまい』
『だが、んな物を、盗んでどうするか』
『金になるさ』
『なるかな?』
『しかも莫大な金になる。上方かみがたの茶道具屋の手にでもかかれば、あの一枚でも、数百金に売れようというものだ』
 などと、詰所をのぞいても、何処へ行っても、首を集めてその噂に持ちきりのていだった。
 紛失の歌仙本は、遂に、其日そのひに至るも、下手人が知れなかった。
 ――そこで、城番の松野豊後守は、係り役甚三郎に、自決をうながし、その由を、江戸表へ急報すると共に、彼も又、幕府のお叱りを待つ、となったのだ。
 事件は、そうして、その朝、全貌を衆にさらしたのである。
 ――甚三郎が切腹する!
 これも人々を驚かせたに違いない。
 何処よりも真っ先に、彼の家には、夜明け方、使が走った。
 萩井家へも、誰かが駈けた筈である。
しい人間を――)
 と、彼の才気や新知識を、哀傷いたむ者もあった。
(才人才におぼる――じゃないかな?)
 と、密かに、歌仙本の行方も、彼の所為しょいらしく、疑いの目で見る者もある。
 半日は、騒ぎに暮れ、ひる過ぎは、城内は重い空気につつまれ、夕方からは、城全体が、死ぬ者の死の座のように、冷ややかな夜気の中にあった。
 その中では、誰も皆、かかとが地につかないように歩いていたが、唯一人、高安平四郎だけは、終日ひねもす、冷然と、乾門いぬいの番衆小屋に腰かけて、人の噂に口を入れなかった。


 真夜半まよなかの九ツどき(午前零時)――までには、もう一とき(二時間)ほどしかない。
 正九刻しょうここのつに切腹と聞いているので、
(近づいて来たな)
 と、口には誰も出さないが、番衆小屋の人々も、皆、無口になった。
 どんな人間に対しても、その死となれば、日頃の憎悪ぞうおや感情を超えて、誰もが、一種冷ややかな厳粛感に打たれてくるものとみえる。
『高安うじ、交代だ。――休むがいい』
 乾門は、四人ずつ交代で、四刻半よつはんから明け方までの入れ替りだった。
 平四郎は、黙々と頷いて、内曲輪うちぐるわの休息所の方へ歩いて行った。
 ――すると、後から馳けて来て、
『高安』
 と、呼び止める者があった。
 振向いて見ると、奥役の頼母木与四郎兵衛たのもぎよしろべえであった。
 与四郎兵衛は、胸と胸のつくほど近く寄って来て、
『平四郎。聞けばおぬしは、萩井家の道場でも、据物斬すえものぎりでは、第一の腕だそうだな。……嫌な役目だがひとつ引受けてくれんか』
『何ですか』
介錯人かいしゃくにんだ』
『……?』
『――嫌だろう。誰も嫌がって承知せんのだ。何といっても、日頃から一つお城に勤めていた同僚の首を斬るのだからな』
『甚三郎殿の介錯ですな』
『ウム』
『拙者で御不足がなければ勤めましょう』
『やってくれるか』
 と、与四郎兵衛は安堵あんどした容子で、
『じゃあ、奥の丸へすぐ来てくれい』
 と、先に立った。


 そこは、武器やぐらの下で、昼間でも暗い、板敷の部屋だった。
 ほかの部屋から持って来たらしい絹行燈きぬあんどうが一つ、ぼうと燈っていた。
『甚三郎殿』
 頼母木与四郎兵衛が、頑丈がんじょうな板戸を開けて、中へ云うと、
『はい』
 と、割合に落着いた返事が聞えた。
 甚三郎の声である。
 数日、陽の目を見ず、ここに坐ったきりなので、色はよけいに白く見え、心もち憔忰しょうすいして、日頃の美貌が、よけい凄愴せいそうえて見えた。
『もはや、時刻でござりますか』
 と、与えられてある一枚の畳のうえから云った。
『いや――時刻はまだ――半刻の余もござるが、介錯人かいしゃくにんの事でござる』
まことにお手数てかずで……』
『番衆の内より、高安平四郎を選びました故、左様御承知ねがいたい』
『えっ』
 甚三郎は、髪の毛までおののかせて、
『平四郎が、私の介錯人ですとな?』
『お望みもあろうが、勝手はゆるされませぬぞ』
『はっ……。だが、お訊ねいたしとうござる』
『何か』
『それは、平四郎から申し出たことでございまするか、それとも又』
『いやいや、然るべき者がないので、立会人の吾々から頼んだことじゃ』
 いささか、心を安らいだように、甚三郎はがっくりと首を垂れ、
『……あ、左様でござりますか』
『まだ、時刻もある故、その間に、お書遺かきのこしておく事でもあれば、それへ料紙りょうしすずりを上げてあるから、何なりとも』
『御好意かたじけない。それぞれへ、先程から一筆ずついたして置きました』
『お、左様か。――では』
 と、与四郎兵衛が引き退がろうとすると――
『あ、もし。……暫く』
『何ぞまだ……?』
『お願いがござります』
『仰っしゃってみるがいい』
の儀ではありませぬが、介錯人が、腕に聞えのある高安平四郎とあれば、私も身躾みだしなみして、立派に死にたいと存じます』
『いや、もっともなおことば』
ついては、甚だ恐れ入るが、妻の許まで、使をせて、水装束みずしょうぞくを取寄せたいと存じますが、お許し下さいましょうか』
『はて、其許そこもとに、妻がござったか』
『萩井十太夫殿の娘小夜は、十太夫殿の御病気のため、挙式は取りおくれましたなれど、自分の云い交した妻に相違ございませぬ。――その小夜の許まで、誰方どなたかお使を願いたいのです』
『自分の一存では計らいかねる。お待ち下さい』
 と、与四郎兵衛は退がった。


水装束みずしょうぞく




『お城からお使でござりまする』
 なかばふるえ声で、取次の者は、しきいの外から告げた。
 ほの暗い彼女の部屋は、萩戸と目の細かい絵簾えすだれに囲まれながらも、冷ややかな香のけむりと、密やかな嗚咽おえつを今朝から閉じこめていた。
『……はい、何ですか』
 人の気配に、お小夜は、強いてきっとした声で振向いた。
『御城内から、使の者が見えて、甚三郎様の水装束みずしょうぞくを取りに参りましたが』
 水装束――云う迄もない死装束――彼女はぎくっとしたが、なお、落着きを失うまいと努めながら、
『承知しましたと云って、使を返して下さい』
『お品は』
『後から私が自身でお城まで持参いたします』
 取次が去ると、彼女は、次の化粧部屋へそっと移った。
 彼女は、鏡台に向って、眉をり、そして歯も染めた。
 自分の所へ、死装束を取りによこしたのは、甚三郎もすでに、自分を妻として、検死や立会へ届け出たにちがいない。
(妻としてなら、死にぎわに、一目の別れを許して下さるかも知れぬ。……もしそれがかなわぬ時は、せめて、死骸をここへ戴いて帰って来ましょう)
 こう突嗟とっさに思い出したからである。
 お城までは、さして遠くもない。わざと仲間ちゅうげん一人連れず、彼女は、甚三郎の死装束を、白木の衣裳ぶたへ乗せて、心づよくも、歩いて行った。
 病床にいる父へも、何も告げなかった。十太夫の容態は今朝からくなかった。
 まだ、杯も挙げないうちに、この悲嘆である、怒濤どとうのような涙がこみ上げたがっていた。けれど、十太夫の娘だった。兵学教頭の家庭に仕込まれたお小夜であった。――もう胸には次の大事をいっぱいに考えつめていたのである。
のお方に、よこしまおこないがある筈はない。誰か、甚三郎様をおとし入れよう為に、計ったことじゃ、たとえ甚三郎様のい後も、きっと、その下手人を見出して、お怨みをお晴らし申しあげねばならぬ。それが私の生涯の勤めになった……)
 大手へ行く町通りを避けて、乾門いぬい搦手からめてへ行く草原の中の町を、夜露に裾を濡らしながら、うつつに歩いてゆく彼女だった。
 ――すると、野中のひょろ長い樹の下から、誰か、人影がうごいて、彼女のうしろから近づいて来たかと思うと、
『小夜どの。小夜どの』
 と、呼びかけた。
 彼女は、何かしら、ぞっとした。
 高安平四郎の声――とすぐ感じたからである。


 城内から使の出た後、平四郎も又すぐ、
たしなみの一腰ひとこしを差し代えて参ります故――』
 と、立会衆のひかえ部屋へ断って、わがへ、刀を取りに帰ったのである。
 ――だが、果して、それが目的だったか、又は、彼女をここに待ち受けるのが目的だったかは分らない。
 然し、打ち見た所、平常の腰のものとは、確かに違って、寸長な見るからに反打そりうちの烈しい刀を横たえては居た。
『どなたかと思ったら、平四郎様でございましたか』
『暫くお目にかからなかったが、今宵こよいは計らずも、一生に、又とあるまじき、不思議な役目を仰せつけられた。――貴女あなたも、この平四郎も』
『…………』
 彼女は、胸に抱いている水装束の台へ、ふと、眼を落したが、
『貴方に、不思議なお役目とは?』
 と、涙も見せず問い返した。――いや、平四郎の姿を見た途端に、涙とは反対な、むしろ抗争的な強い意志が、ぐっと胸に立ち直っていた。
 平四郎は、薄ら笑いに、歯を見せて、
『これが不思議な宿縁しゅくえんでなくて何としよう。――海野甚三郎の介錯人は、かくいう平四郎に吩咐いいつけられましたぞ』
『げッ……。あなたが……あの甚三郎様の御介錯を』
『お小夜どの。今、茅屋ぼうおくから取って来たこの備前長船びぜんおさふねは、自慢ではないが、すばらしく斬れますぞ。御安心なさるがよい』
『…………』
 彼女の涙は、遂に、理性のせきを突き破った。肩をふるわせて、俯向うつむくと共に、思わず地へむせんでしまった。
 けれどそれは、このになって、甚三郎の死を悲しむ涙などではなかった。もっと強い、反抗的な、呪咀じゅそをこめた――口惜し涙であった。
『あなたは……平四郎様! ……あなたはよくも、そんな事を、私の前で仰っしゃられます』
『云われないで何うしましょう。海野甚三郎に対して、一寸の恩もなければ、友達のよしみもない』
『けれど……そうして御自慢なさる据物斬すえものぎりのお腕前は、一体、誰から教えられたのでございますか』
『……ム。それは貴女の父十太夫殿からだったなあ』
『又。……今誇って仰っしゃった、備前長船も、誰から戴いた刀だと思し召すか。それも、父の十太夫が……私が幼い時、笛吹川で溺れる所を、助けて戴いたお礼にと――貴方へ贈った物ではございませぬか』
『それを、覚えておられたか』
『忘れて何といたしましょう』
『――ならば、生涯、口が腐っても云うまいと思ったが、平四郎も一言申すぞ』
『オオ、仰っしゃいませ!』
『……いや。……止そう』
 と、平四郎は、感情の儘、こみ上げかけた声をふと落して、
『……大人げない。はははは』
 相手が、冷ややかになると、彼女はむしろかっとして、
『卑怯な! 卑屈な! ……。その通り、何も仰っしゃれないではございませんか』
『云えないと思うか』
『ええ、私には、何も云われる覚えはございませんもの』
『じゃあ云うが――小夜どの、貴女あなたはよくも、この平四郎をなぶったな』
『え……弄ったとは』
『まだ、甚三郎が長崎表から帰らぬうちの事……よう胸に手を当てて思い出してみるがよい』
『思い出す事? べつに、あなたとの間に、そんな、心にふかく刻まれた憶い出は何もございません』
『ないっ?』
『ええ……ありませぬ!』
『では……では何日いつか――』と、平四郎の声の方が、ふるえを帯びて、むしろ彼女よりは、女々めめしく聞えるほど甲走かんばしった。


『忘れもせぬ――』と、眼をふとふさいで、
『そうだ、其女そなたが十六の春、お父上の十太夫殿も、家族もあらかた、花見に出て留守だった。其女そなた風邪かぜの床に、瞼をらして寝ておった。――そこへ拙者も留守を頼まれてうれしい看護みとりをしていた時、其女は、この平四郎に何というたか』
『その事は覚えていますが……そんな言葉は忘れました』
『忘れた?』
 と、早口にたたみかけて、
『――では、その夏、荒川の堤へ、螢狩りに行って、あの帰るさ、闇路やみじを戻りながらの言葉は』
『みんなして、笑いさざめきながら、冗談を云い合って帰りました』
『何! 冗談だと? ……。ウーム……冗談』
 平四郎はもう、自分へ云って自分で答えるようにうめいて、
『すると……其女がこれ程の言葉は皆、たわむれ事であったというのか』
『もしも、何か貴方のお心に、恋として残るような言葉でも云ったことがあったでしょうか』
『――もうよい。アアそんなものか』
 平四郎は、何か、悪夢から醒めたように、じっと、うつし身になって星を仰いでいたが、
『小夜どの。……よく判っきり云ってくれた。では、其女はこの平四郎を、微塵みじんも、好きだと思ったことはなかったのだな』
『ええ……。ただ、父から、生命いのちの御恩人じゃ、忘れてはならぬ、有難く思わねばならぬと、何かにつけて云われていたので――何うしたら、それが貴方に映るかと』
『……ふ、ふ。そうか。それだけのものか』と、自嘲じちょうして――
『それが、拙者をなぶり物にした証拠だ。だが小夜どの、きのうは他人ひとの身、今日はわが身。――天は公平だな、あははは』
『今のお言葉は、それ見た事かという意味でございますか』
『元よりの事』
『解りました。さては、卑劣なたくらみ事をして、甚三郎様をおとし入れた下手人は……?』
『なにッ』
『いいえ! 貴方でございましょうが。問うに落ちず語るに落ちる、今の言葉、貴方の仕業しわざにちがいないっ』
『――で、あったら、うするか』
『もう、恩人とは云わさぬ。女ながら、萩井十太夫の娘、縄を打ってお城へ――』
『はははは。その細腕で』
『おのれっ』
 お小夜は、抱えていた装束台を、小袖ぐるみ、相手のおもてへ投げつけて、次の突嗟とっさに、短い刃を抜くや否、身をていして、斬りつけて行った。


 平四郎は、かっと、気当てを返して、
洒落しゃれた真似をするなっ』
 と、身をひらいた。
 刃のような彼の平掌ひらてが、彼女の手元を強くはたいた。
 懐剣は、草むらへ飛び、彼女の体は、平四郎に手頸をつかまれて、前へ泳ぎかけた。
其女そなたの惚れた男とは、少し骨の筋がちがうぞ。――介錯人の使命をうけたのを幸に、甚三郎の細首を落して無念をはらし、明け方迄には、他国へ逐電と考えていたが、もうこう口を割ったからには、お城へも戻れまい。女を討ったと云われては、末代まで、高安平四郎の恥になるから、生命いのちだけは助けてくれる。はやく城内へ戻って、好きな甚三郎でも、助太刀すけだちに連れて来い。尋常の勝負なら、青沼の光沢寺で待っていてやる』
『……オオ。云やったな! ……。ではたしかに、紛失物の下手人は』
『もうここ迄云ったら、誰の仕業しわざか、推量がつくだろう。――早く、御城内へ訴えに馳けて行け。九刻ここのつを過ぎると、間にあわぬぞ』
 云いながら、平四郎は、彼女の体を、勢よく草の中へ突き放した。
 ――女の力! 及ばぬ腕! 口惜しさに、彼女はいちど、わっとその儘、泣き崩れたが、
『ま! まてッ――』
 叫んで、再び起ちかけた時は、もう平四郎の姿は、草露の光る彼方へ、跳る魔形まぎょうのように、馳け去っていた。


荒川づたい




うしたのであろう?』
 立会の者の控え部屋では、当夜の検死を初め、役人たちが、顔を見合せていた。
『もう、九刻ここのつに近かろうが……』
『平四郎も戻らぬし』
『水装束もまだ届かぬというが』
 云っている間に、その九刻は、髪切虫の啼く音のように、時計のからギリギリと聞えた。
『いつ迄、待っても居られまい。――死罪の者に対して、猶予ゆうよを与えなどしては、江戸表への御報告も偽りになる』
 当夜の立会人のひとり――城番加役宮崎若狭守わかさのかみの子息市之丞がそう云って、真っ先に、執行に立った。
 それにれられて、
『では、折角せっかくの望みだが、水装束も間にあわぬな』
『小袖はよいが、介錯は誰がいたすな』
 などと口々に呟きながら、時刻と、市之丞の言葉に促されて皆、起ち上った。
『平四郎の戻りが間にあわねば、ぜひもない、介錯はそれがしがする』
 この中では、市之丞が若かった。――で当然の意気らしく、それは響いた。
 然し、御城番の次席である若狭守の次男なので、家柄としては、この中の誰よりも高い。それを老人達は、ややはばかって、
『いや、市之丞様のお手をわずらわさぬ迄も、誰か、居らぬ事はござりますまい。――誰か、即刻呼んで、申しつけますれば』
『いや、もう時刻がない』
 市之丞は、大股に控え部屋を出、武器のやぐらの下まで歩みかけた。
 ――と。そこへあわただしく、
『お待ち下さい。甚三郎の切腹、暫く、お待ち下さいっ』
 息をいて馳けて来た与四郎兵衛が、切腹部屋の前まで出揃った人々を見て、手を振った。
『何で留めなさる』
 一人が、強くたしなめた。
『いや、下手人が、分ったのでござる!』
 与四郎兵衛の言葉は、絶叫するようだった。
『――われわれは[#「『――われわれは」は底本では「 ――われわれは」]、まんまと、その下手人に、たばかられたのじゃ。折角、御城内にいたものを、いっしてしもうたのだ』
『――して、誰だ? 下手人とは』
 市之丞は、眼を光らして、問い詰めた。
『されば高安平四郎と相分った』
『何、平四郎――が』
 皆、意外な顔を見あわせて、
『然らば、紛失物を奪ったのは、平四郎の仕業しわざと仰せあるか』
『甚三郎に、恨みがあって、彼奴きゃつはかったことだと申す』
『――誰の口からそれが知れましたか』
『今。御城門へ訴えて来た、萩井十太夫殿のお娘――小夜どのがそう申すのじゃ。しかも、その訴えによれば、平四郎自身が、小夜どのに、自己のやった復讐しかえしを誇って、そのまま逐電ちくてんしたとも云う。――これはいつわりであろう筈はない』


 他に、下手人が出た以上、海野甚三郎にはもう、下手人の嫌疑はない。
 然し、責任はまだ、充分にある。
 それは、真実の下手人を、捕えることだ。人々の意見は、そこで即決を見て、すぐ甚三郎を、切腹部屋から出した。
 そして、立会人と共に、すぐお小夜に会わせ、猶つぶさに、彼女の口から、真相を聞き取らせた。
『――では平四郎は、尋常に勝負するなら、青沼の光沢寺で待つといったか。確かに、そう云ったか』
 甚三郎は、何度も、お小夜に確めた。
 人々も、そこを大事と、耳をそばだてた。
 お小夜は、ありの儘に、
『はい、まだ貴方の死を見ないで去るのが、心のこりのように、確かに、そう云って、逃げ退きました』
 と、答えた。
『それっ、すぐ手配をすれば――』
 と、役人たちは、先をいて、すぐそれぞれの支度に急いだ。
 討手の人数は、忽ちそろった。
 日頃、平四郎と余りよしみのない若侍のうちから、約二十名ほど選抜すぐって、それに、練達な役人が三、四名付き添い――宮崎市之丞を、先に立てて甲府城から馳け出した。
 それより一足先に、海野甚三郎と、お小夜の二人が、青沼村をさして、急いでいた。こう二人は、当然、討手の誰よりも真っ先に向わなければ、一分が立たない立場にある。
 城下はずれから、荒川に添って、山地へ向いながら小一里も行くと、右側の小高い所に、一の寺が見える。
 まだ、明け方には、間があったが、水明り星明りに、何処となくほの青い明るさのある道だった。


北斗のおのの




 ――それよりは、やや先に。
 お小夜を突き放して、住み馴れた甲府の深夜も、惜気おしげもなく捨てて馳けた高安平四郎は、真っ暗な光沢寺の山門を風のようにくぐっていた。
 庫裡くりへ廻って、
『起きろ。起きろ』
 ほとほととそこの戸を揺すぶる。
 寝ぼけまなこ納所僧なっしょそうが、
『どなたで?』
 と、見上げた。
『江戸の者だが――』無造作むぞうさに云って、
『泊っているだろう?』
 と、訊ねた。
 皆まで訊かずに、
『あ……御浪人方のお連れで』
『そうだ』
『どうぞ……』
 すぐ、蝋燭ろうそくをつけかける手を制して、
『坊主』
『はい』
『この光沢寺は、一蓮寺の別院だな』
『左様で――』
『一蓮寺は、御勤番加役、甲府在住の宮崎若狭守どのの菩提寺ぼだいじだな』
『仰っしゃる通りでございます』
『――すると、この光沢寺と、宮崎家との縁故も、だいぶ浅くないな』
『はい。何かにつけ、お世話になっておりまする』
『江戸から来ている――おれ達の連れの浪人達は、そんな筋から、ここへ寝泊りしているのじゃないか』
『よく……存じませんが、何しろまあ、どうぞ』
『いや、ちょっと聞いておきたいのだ。御加役の御子息、市之丞どのは、何日いつ見えられたえ』
『今朝ほども、お見えになりました』
『今朝ほども――か。成程なるほど
『蚊がひどう御座いますから、どうか、中へお這入り遊ばして』
『奥に泊っている浪人たちは、何と申す名だな』
『えっ……御存じないので』
『忘れたのだ。まだ浅いつきあいだから』
『お一人は、菅馬之助すがうまのすけ様、御一名は、服部太蔵はっとりたぞう様と仰っしゃいます』
『どこにいる』
『この広い廊下を突き当って、右のはずれの広間を御寝所にしていらっしゃいますが、お起し申して参りましょうか』
『それには及ばん。――おい坊主ちょっと出い。戸外そとへ出い』
『な……なんでござりまするか』
 平四郎は、僧侶の襟元をぐいと掴みよせて、怖しい眼でにらみつけた。
『怪我をしない所へ行っておれ。そして、静かにするのだぞ。声を立てたら、斬り捨てるぞよ』


 柳町のに飲み歩いて、今し方、大酔して帰って来るなり、寝汚なく夜具の上に身を抛り出した二人だった。
 ――でも、油断のない男とみえて、服部太蔵がふと、
『おい、馬之助、馬之助』
 と、連れの菅馬之助の耳を引っ張った。
 ううむ……と寝呆ねぼけ声を出して、何か、云いかける口を、叱っ、と抑えて、
『おかしいぞ。――おいっ、眼をさませよ。何か、庫裡くりの戸があいて、人声がするようだ』
 と、囁いた。
 ようやく、菅馬之助も、首をもたげて、
『人声が? ……何処に』
『もう聞えなくなったが』
『耳のせいだろう』
『風の音にも、心を措くという奴だな』
『金儲けとなれば仕方がない』
明日あしたは立とうぞ。足もとの明るいうちに』
『だが、あれだけ持っていた所で、路銀がなくっちゃあ』
『今夜は、事が決まると云っていたから、明日はお見えになって、路銀もくださるだろう』
『……おやっ?』
『……?』
 二人とも、のどに、つばを溜めた。みしりっと、廊下のきしみが、はりに伝わって、何か神経を尖らせられたからである。
 ――と。障子のすぐ外であった。
『馬之助。太蔵。路銀をやろう、顔を貸せ』
『――げっ?』
 ね起きて、あわてて、大刀を抱えこみながら、
『だ、だれだっ』
『この辺の遊び人だ。顔を貸してもらいてえ』
 遊び人と聞いたので、頭から呑んで、
『こらっ、誰に断って、這入はいって来たか』
 馬之助が、がらりと、障子をあけて顔を出す途端に、
冥途あのよ草鞋銭わらじせん。それっ』
 ぴゅっん――と細い刃金はがねでも唸るように刀が鳴った。馬之助の首はわずかに胴へ皮を余して、でんと、廊下へぶっ仆れた。
『――あッ』
 仰天して、服部太蔵が逃げかける背へ、平四郎は跳びかかって、ぶんと、肩先へもう一つ入れた。
 うーむと、服部太蔵は、仰向けにひっくりかえった。然し彼の浴びたのはミネ打ちであって、単に、眼をくらましたに過ぎないらしい。
 平四郎は、太蔵の体を、横抱きにして、元の庫裡から、何処ともなく、出て行った。
 ――然し、それから後、間もなく、彼の姿は再び、本堂の前に現われた。そして、正面の階段に、腰をおろして、白い北斗ほくとのまたたきを、無言で見つめながら、何ものかを心待ちに待ち構えているふうであった。


『――おうっ、れに、人影が』
 今、此の寺の石段をあえぎ登って来た男女ふたりは、一歩、山門を這入るとすぐ、そう云って、ぎくと足をすくめ合った。
 いう迄もなく、お小夜と、海野甚三郎のふたり。
 白く、冴え切ったお小夜の決死の顔に反して、甚三郎の方は、むしろ土気いろに、体もこわばり、どこか微かにふるえていた。
 切腹部屋から出された瞬間から――彼は、ふたたびもう、死というものを、思うのも怖しくなってしまった。
 わけて、お小夜の姿を見てから、にわかに、未練な――生への執着が――堪らなく強くなっていた。
 それに、武道にかけては、自信がない。
 いわんや高安平四郎を相手にしては。
 ――だから、今、平四郎のすがたを、本堂の階段に見ると共に、
(まだ、後詰ごづめは来ないか)
 と、山門からうしろを、無意識にふり顧った。
 平四郎は、意地悪く、
『来たか!』
 と、彼方から男女ふたりへ声をかけた。
 声をかけられてはもうそれ迄だった。
『オ! 居ったな、高安平四郎』
 男女ふたりして、左右から駈け寄っても、平四郎は、腰かけている階段から、動こうともしなかった。
『待っていたのだ』
 そう云って、底気味のわるい眼で――から先に刀のさびにするか――と舌なめずりして見較べるように、
『相思相愛、死ぬも生きるも、一蓮托生れんたくしょうと、ふたりして追って来たな。――だが、こう見るところ、男の甚三郎にはふるえが見える。長崎仕込みの軽薄才子――もし生きて添っても、その構えでは、末始終すえしじゅうが心もとない』
『な、なにを云うぞ。このになって、世囈よまい言を』
『ふン……後の加勢が来るあいだ、世囈い言を聞いていたほうが、其っに取っては、無難ではないか。――今度はお小夜に一こと云おう』
 と、少し膝を向けかえて、
わらってくれ、おれは何という煩悩ぼんのうの痴人か。其女そなたの一ぴんしょうを、みな自分勝手に受け取って、独りで恋をし、独りで悩み、独りで迷い、揚句あげくの果に――又これからも、生涯独りで彷徨さまよい出そうとしている』
『……もう……もうそんなり言、聞く耳はないっ。甚三郎様に罪を着せる為、盗んだ品を、これへ出して、武士らしく、そなたこそ腹を切ったがよい』
 彼女は、健気けなげに、詰め寄った。
 眼にも入れない容子で、平四郎は、云いたい事を、云い続けた――
『そこで、凡痴なおれは、腹の底から、甚三郎も又其女そなたも、恨みに思ったこともあるが、一日一日、おれの描いていたおれの幻は消え――わけても先刻さっき、草原の中で、正直な其女の気持を聞いてからは、朝の月みたいに、恋の相手は消えてしまった。――そして唯、今も胸に残っているのは、笛吹川から抱き上げた頃の――十三、四歳のあどけない小娘だけだ。その小娘は、たとえわらわれても、永遠におれは愛する! ……愛さずにいられない!』
 と、怪しくたかぶった声を顫わせて、
『……では、甚三郎の御家内、お小夜どの、倖せに送るがよい。――又、お小夜どのの良人甚三郎へも云おう。どうか末長く、可愛がってやるがいい。生憎あいにくとおてまえは才子肌だ、男にすら、今度のように鼻毛はなげを抜かれる。まして女には、長いうちにうあろうか。こんな女房を持って、浮気をしては罪だぞ。その時は、平四郎がゆるさんぞ。――』
 と、ぬっくと起ち上ったかと思うと、
『では、おさらば』
 と、二人を捨てて、右の廻廊の方へ、ずかずか歩き出して行った。


灯皿ひざらの罪




 何やら、謎めいた言葉に、お小夜も、甚三郎もややっ気にとられていたが、平四郎が逃げる気と勘づいたので、はっとしながら、
『――待てっ、御番城の宝物をかすめて、その儘、巧みに逃げようとて、そうはさせぬ』
 と、甚三郎は、大きく呶鳴りながら、廻廊の上へ、ね上って、背後から抜打に斬りつけた。
 ばっ――と、刃風を顔の前へかわして、
『云い残した』
 と、平四郎は、彼の小手先を、ぐいと掴んだ。
『お小夜どの』
 と、次に、突いてかかろうとしている血相へ振向いて、
『紛失した歌仙本は、確かに、この寺の奥の客間にある筈。血まみれの中を後でよくたしかめてみるがよい。――なお、不審な事、分らぬ点は、この床下へ、ふんじばって突っ込んである浪人へ問いただすがよい。――もっとも、彼奴きゃつの口書は、いずれ密封の上、江戸表の評定所ひょうじょうしょへ一通、御城番松野豊後守ぶんごのかみどのへ一通――各※(二の字点、1-2-22)へ二通にしたためて、後から飛脚でお届けするつもり』
 と、伸び上って、
『おお、後詰が来たな。――あの中には、御加番宮崎若狭守のせがれ市之丞も居ることだろう。あれもしょうの悪い凡痴の一人』
 と、笑って又、
『お小夜どの。其女そなたのような、あどけなくて、美しい処女おとめは、ちょうど、夏の夜の虫を焼く絵行燈えあんどんのようなもの――に罪はないが、焼かれる虫にも無理はないのだ。――ただ市之丞のような佞物ねいぶつは、焼いても飽き足らぬ佞物だが……』
 もうその時、早くも、廻廊の横へ、裏手へ、
『逃がすなっ』
 討手の声――そして跫音の雪崩なだれ、――喚き、ひしめき。
 ――さらば!
 と、云っている間もなかった。
 どどどどっ……と廻廊の一角へ馳けて、ひらりとらんを越えた平四郎の影は二、三名の者を刎ねとばして、裏山の闇ふかく――いやもう小禽ことりの声に明けかけた水色の黎明れいめいの中へ、溶け入るように紛れてしまった。


『しまったっ。――早く、近道を登って、先をふさげっ』
 市之丞は、けて来て、追い惑う侍たちを、叱咤しったした。
『うぬっ』
 暁闇ぎょうあんの大地から、不意に誰か、彼の足をつかんだ。
 市之丞は、もんどり打って、
『あっ、何をいたすっ』
 云わせも果てず、海野甚三郎は、彼の上へ、馬乗りになって、
『下手人ッ、召捕った』
 と、呶鳴った。
 市之丞は、もがきながら又、怒りの眼をつりあげて、
『ば、ばかなッ。わしを下手人とは、何を申す。――発狂したか、甚三郎』
『だまれっ。かねて不審なかどもあるにはあったが、よもや御加番の子息がと、打ち消していたのが不覚だった。――それがしを罪におとし入れ、自滅させようと計った曲者しれものは、確かに、汝に相違ないっ』
 意外なことばに、役人や討手の侍たちも、ばらばらと駈け寄って来て、一時は、まったく甚三郎の発狂かと怪しんだが、お小夜も共に、信念をもっていうので、
『では』
 と、言葉にまかせて、床下を捜すと、俵縛たわらくくりに縛られた浪人の服部太蔵が引っ張り出されて、
『市之丞様、もう運のつきだ。あっしゃあ、平四郎に責められて、もうすっかり喋舌しゃべってしまいましたぜ』
 と、泥を吐いてしまった。
 彼の自白に依って、総ては、明白になった。
 市之丞も又、かねてから、お小夜を恋していた一人だったのである。
 だが、お小夜はそれも、平四郎に対するのと同じように、何の警戒もしなかったし、甚三郎に向って、べつに注意もしていなかった。
 ――けれど市之丞としては、多年の恋に、ごうを煮やし、あらゆる術策を尽した上の――自暴自棄なのであった。その果に、彼女の良人と選ばれた甚三郎を、自滅させる為に、二人の浪人を雇って、歌仙本を盗めとそそのかし、城内へ忍び込む手引までしてやったものである。
 だが、市之丞のた手口も、洗ってみると、極めてまずい、坊っちゃん仕事でしかなかった。――やはり焼け死ぬ虫はおろかには違いないが、無心の絵行燈の皿の方に、むしろ罪ふかいものがある。無心であっても、罪ふかい灯のまたたきに、処女おとめは心しなければならない。
(昭和十三年八月)





底本:「吉川英治全集・43 新・水滸傳(二)」講談社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「婦人倶楽部 別冊付録」大日本雄弁会講談社
   1938(昭和13)年8月
※「行燈」に対するルビの「あんどう」と「あんどん」の混在は、底本通りです。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2014年2月14日作成
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