彼は、俗にいう、ずんぐりむッくりな体格で、年は廿六、七歳だった。若いくせにいつも
『オイ、
と、呼ぶと、
『ウウム』
と、
従って、彼にはまだ友達ができない。尊敬する気にはなれないし、

だから御用部屋が
『誰だ、あれは』
『は、あれは先頃、お国表の方から江戸詰に転役して参った――
そう同僚が答えると、次にはきっと、誰でも同じように頷いて
『――道理で、
さむらいの中には、
(
と、よく云うのである。
数右衛門がそれだし、彼の親の岡野治太夫が又それだった。
べつに、罪科があっての浪人ではないから、その子の数右衛門は又、元の浅野藩の家へ養子に貰われて来た。しかし、親ほど浪人骨がぶといとは、養家でも思わなかったに違いない。
ところが、数右衛門の浪人骨は、親の治太夫以上にぶといものだった。
今でも、国元の者のあいだに、
『何せい、殿様を
と、
それは、或る夏だった。
赤穂城に近い
『誰ぞ、あの飛び交う
『そちに申し付ける』
数右衛門はだまってお辞儀をした。お断りするだろうと皆思っていると、彼は小舟を放して、川の中ほどへ行き、刀を抜いて
するどい声と共に、彼の体と
『ようした』
と、内匠頭は呼びよせて、杯を与えようとしたが、数右衛門はすっかり
『何とした?』
内匠頭が云うと、
『今日限り、お
彼の理由には当然なところがあった。自分の武芸は、一朝君家に何事かあった場合に役立たせる為のもので、こんな座興に供する為に
『悪かった。数右衛門、わしが悪かった』
――それ以後、内匠頭は、家臣へ向って、そういう座興めいた事を
だが、数右衛門のぶとい浪人骨は、少しも細くなって居ない。
この夏(元禄七年であった)――彼が、国許から転役を命じられて、江戸
国家老の大野九郎兵衛から、在府の殿の手へ届いている人事上の文書には、
(数右衛門
として、三つの箇条が書上げられてあった。その三箇条というのは、
第一、平生
第二、勤務粗暴にて忠誠なき事
第三、平素勝手元
――だが内匠頭はその書面を握りつぶしているのであった。彼はなかなか人を捨てない主君であった。国表では使い難いそうだから江戸へ廻せという程度で、
数右衛門は勿論、この転役を歓ばなかった。国許なら自由もきくし、
それに、江戸詰の人間は、どれもこれも軽薄に見えた。社交が上手で、身綺麗で、何かというと、殿様の前で声を
今も。
『…………』
その数右衛門が、時々、くすくす笑うので、
時々、じろっと、数右衛門の顔を
側には、中村清右衛門だの、他四五名も見ているが、誰も立ってなど居る者はない。その者たちも、数右衛門の不作法や笑い方が気に
で、一局
『不破氏』
と、清右衛門が振向いた。
『――貴公、だいぶやるようだな。一戦、試みよう。坐んなさい』
『いやあ、拙者あ、碁など一向に知らん』
『でも、覗いていたではないか』
『退屈だからで』
『然し――何も分らない者が、そう長く熱心に見ていられる訳のものではない』
『拙者が見ていたのは、つい襟元から盤の上に取り落した
『小僧、小僧……』
数右衛門は、自分の手を、犬の子に
『お
『さればで……』と、彼も自分の持て余している体に気づいて、苦笑した。
『どうですか、御一
『お供いたそう』
数右衛門はすぐ
その人は、
(友達がないな)
と、察していたのである。
外へ出てから、数右衛門は訊ねた。
『何処へおいでになるのでござるか』
『深川ですよ』
『深川』
『今夜の会は、
物柔かい言葉づかいが、京都の大町人を思わせるような所がある。数右衛門は心の中で、こんな侍は国許の方には居ないなと思った。
久しく酒にも
ところが、そこは静かな川沿いの貸席で、

(来るのでなかった)
と、数右衛門は後悔したが、追いつかなかった。
夕方、弁当に酒が一本ずつ出たので、せめて、それを慰みに、
――
――新酒
――
そんな席題が貼り出されてある。何の事か、彼には分らなかった。大高源吾の句が読みあげられると、子葉という名で答えたので、
(ははあ、子葉という
と、数右衛門は初めて知った程だった。彼の前にも、紙と筆が配られてあったが、元より句など作れもしなかったし、作ろうとも思わない。そのうちに
運座の帰り途である。
『まだ御存じはあるまい。こちらは、
と、大高子葉に
『わたくしが、不破数右衛門でござる』
と、
『御子息は、まだお独りですかな?』
何かの話から、子葉が云うと、老人は尖った肩を振って、
『さて、
闇を払うように、大きく笑ってから又、
『兄よりは、妹のほうがもう
と、真面目に云った。
『あのお千賀どのが、もうそんなお年頃かの』
『
と、一閑は舌打ちするように、嘆じて云う。
永代橋まで来ると、子葉は俳友の雪中庵が、風邪で寝ているので、見舞に立ち寄ると云って――別れ際に、
『数右衛門殿、ちょうど鉄砲洲への行き道故、御老人をお宅の側まで、送ってあげて下さらぬか』
云い残して、川筋へ曲がった。
数右衛門はちょっと
だが、一閑はさばけた老人だった。若い者のそういう顔色が
『まだ早い、ついでに拙宅へお寄りなさらんか。
と、云う。
寄ってもいいと考えていた。ところが、
『小山田の隠居か』
と、呼びかけた。
一閑が、何気なく、
『おう、誰か』
振向いた時、その男は、いきなり羽織を脱ぎすてて跳びかかって来た。――きらッと、
『――何するッ』
一閑は
『老人。おれに恥をかかせたな。恥をっ』
こう
『覚えたかっ』
と、大なぐりに振り下ろそうとした。
その
彼の伸ばした腕は、一閑の頭へ、刃が降りない先に、その武士の襟がみを
『下手め! そんな事で、辻斬りができるか。顔でも洗って出直せっ』
――どぼうんと、
『……わっ、冷たい』
不意打の白刃よりも、その方が彼を遙かに
『お父様っ……』
と、走り寄って、一閑に抱きついた女性があった。数右衛門が、生れて以来、美しい人――と此の世で意識した女性の、最初のものを、彼はそこに見たのであった。
末娘のお
娘も次男も三男も、みな他家へかたづいてしまい、小山田家には今、後とりの庄左衛門と、末娘のお千賀としか残っていない。
一閑は、腰をさすって、欄干を力に起ちながら、
『ややお千賀じゃないか。なんでこんな所へ? ――』と、眉をひそめた。
『でも……今の織田雄之助様がひどい御血相で、お父上の出先へ行き、一分を立てるのだ、ほんとに怖い捨て言葉を
『じゃあ、わしの留守に、又来おったのか』
『ええ……兄様は、織田様の声を聞くと、居てはまずいと、裏口から出ておしまいになるし』
『それは困ったろう。
『
『はははは。あんな骨の柔い次男坊に、小山田一閑の首が斬れて
『……でも』と、お千賀は暗い
『後で又、どんな事になるでしょう。旗本衆は、
『
一閑は、自分で相手を投げ込んだようにそう云ったが、ふと気づいて、
『そうじゃ、お千賀、数右衛門殿に礼を云え。ここまで送って下すったのじゃ』
数右衛門は、感心したように、お千賀の顔ばかり見ていた。当然、彼は
『もう、もう、これ以上は、頂戴できませぬ。又、次の日に、後の分を、飲みに参ることにいたして……
数右衛門は、へべれけに酔って、久しぶりに堪能したらしく、帰って行った。
お千賀は、後で、
『おもしろい無邪気なお方でございますね』
と、父へ云った。
その晩から、数右衛門は度々遊びに来た。いつ来ても、息子の庄左衛門とは出会わなかった。
あまり家庭に見えないので、或る時、無遠慮に聞いてみると、
『旗本仲間に友だちが出来おって、近頃、
と、一閑は苦り切って答えた。
そんな事情を知ると、いつかの晩、蠣浜橋で一閑に斬りつけて来た男も、何の意趣か、事情が読めてきた。
あれは旗本の織田雄之助という男だった。家柄はおそろしくいい。織田右大臣の血脈だというのである。――それが息子の庄左衛門と
庄左衛門は、父には隠しているが、だいぶ彼から
(妹を妻にくれないか)
と、雄之助から切り出されて、庄左衛門は断り
(承知いたした。尊公が貰ってくださる事なら、父も妹も、ふたつ返辞で欣びましょう)
まったく、彼自身も、そう思い込んだから、その通りに請合ってしまったのだ。ところが、つむじ曲がりな一閑は、息子からそれを聞くと、
(何も、旗本などに、娘をもらって貰わんでもいい。――家筋が何じゃ、わけて近頃、名門の次男坊共の風紀は
すこし庄左衛門の持ちかけ方が、父や妹を喜ばせようとし過ぎて、誇大でもあったせいか、よけいに反感を買って、手きびしくこう一
だが又、機嫌のいい折もあろうと、庄左衛門は
半年過ぎ、一年経った。
織田雄之助は、友達へも、
(お千賀どのを、妻に
結局、その嘘は皆、親父が頑迷で、この結婚を理解しない――というせいに帰着させて、庄左衛門は近頃、雄之助を避け初めたので、物質的な損害もうけている雄之助としては、
(父子共謀のうえに相違ない)
と怒って、ひどく一閑を怨み初めた。
それでもまだ、お千賀の意志に、多分な頼みを残して、留守を
(よしっ、その分ならば、一閑の出先へ行って、今夜こそ、俺の一分を立ててみせる。後で嘆くな)
と、最後の捨言葉を
『――まあよかった。あれでもう来まい』
一閑は、そう云って、ひどく肩の荷を下ろしたつもりでいた。もちろん彼としては、織田家に借も貸もないつもりであるから。そして、
『数右衛門、又来いよ』
と、彼を
偶然――そういう事情の中に
で、数右衛門は、
(雄之助へは断っても、おれならばくれるな)
と、思った。
何かで、旗本のうわさだの、雄之助の話が出れば、お千賀も一閑と共に、よく云わないし、反対に、自分には絶対な好意を示す。――数右衛門の癖で、
『御息女。もう一本……』
と、酒と
『では、これっきりで御座いますよ』
お千賀が、愛くるしい眼で、
その上、酔った戻りに、
『お国元から参りましょうが、お間に合せに、お召しくださいませ』
と、お千賀が、しつけ糸まで抜いて、
気だての良さ、お千賀の美しさ。身分の高下もたんとない。それに同藩ではあるし――数右衛門はすっかり自分の幸福を信じていた。
江戸
数右衛門は、
当然、藩邸にいても、此頃の彼はちがっている。
同僚があやしんで、
『不破氏、何か欣しい事でもあるのか』
すると彼は、
『あるっ』
と、例の締まりの悪い襟元から毛ぶかい猪首を伸ばして云うのだった。
『拙者に、相愛の
『ほんとか。冬にしては、この頃ちと陽気が暖か過ぎるが』
『笑い事ではござらぬ。まだ
『貴公の胸だけで』
『なんの、先方でも、そういう考えでいるらしい。恋は色に出ぬ程のよさと
『貴公から恋の
『小山田一閑どのの娘』
『え。……お千賀どのか』
『されば』
『あれならば美人だが』
――然し、同僚の誰も、呑み込めない顔つきだった。信じぬいて居るのは、彼自身だけだった。
――と、或る日、
『不破氏、ちょっと、顔を貸してくれないか』
背の高い、苦み走った美男子で、
『や。
と、数右衛門は、丸っこい眼を上げて、彼としては、最大な
『――お千賀どのの御兄上でござったな』
『左様、てまえが、お千賀の兄、庄左衛門です。隠居や妹が、いろいろお世話になっておるそうな』
『
『いちど、お礼を述べたいと思っていたが、お役部屋も懸け離れ、先頃までお下屋敷の方に詰めていたので、つい折もなく、失礼いたして居りました』
『何の、その御挨拶は、それがしの方からいたす事』
『所で――今日は御用の御都合は』
『さしつかえない体でござるが』
『そこ迄、何うでしょう。
『この頃、俳諧ばやりの由でござるが、運座の席へでも』
『はははは。子葉殿のような風流は、それがしなどのがらではありません。もっと俗な所で――』
と、其処では一度別れて、約束の
『――
と、庄左衛門は、すぐ通りかかる
『さあ、どうぞそれへ』
と、数右衛門へすすめ、自分も乗ってタレをぱらっと下ろす。
いかにも、江戸馴れている肌合が、数右衛門には、これでも同藩の人かとふしぎに思えた。もっとも、江戸表の定府組の
駕が着く。
そこは、日本
堀の涙橋から、少し歩いて、隅田川の方へ入ると、数右衛門などは、
酒が来る、
『――寒いわえ、何ぞ、温まる物でも』
というので、鍋物が
だが、彼はいつになく、余り酔えない。庄左衛門から、大事な話があるにちがいないと思うからだった。もちろんその用談は、お千賀と一閑の意中を伝えて、自分の意志を聞くことと極まっている。そう話を進めて来られたら何と返辞をしよう。――来年はまだちと早い。さらい年か、三年後か。
そんな事を描きつつも、酒は好きだし、つい陶然ともなって来る。数右衛門は顔が
『おい、そこを少し、開けておくれぬか』
『まあ、こんなお寒いのに――』
『おや、めずらしいものが。……まあ、綺麗だねえ』
と、さけんで、いっぱいに
隅田川の広い闇を、まるで幻を見るように、降り出した初雪が、白い
『寒い、寒い。――そう開けるな』
庄左衛門のことばに、
『時に、数右衛門どの』
と、
『は……』と、数右衛門は待っていた言葉を聞いたように思った。そこで彼も、努めて、着物の前を合せたり、膝を正そうとしたが、
『あいや、そう
『な、なに事でござるか。……拙者に、折入っての、御用向とは』
『ほかでもないが、藩邸の中で、近頃しきりに
『それは? ……。ははあ、思い当ることもある』
『妹のことです。お覚えがありますか』
『ござりまする』
『お千賀と、すでに婚約があるような事を仰っしゃるそうだが、小山田家としては、ちと迷惑に存ずる。どうか、あのような事は、以後云われぬようにして貰いたい』
『いやあ、ついそんな事を云い申したが、以後は云い申さぬ事にいたしまする。まだ、いずれにしても、両三年は、お取極めなさるまいな』
『何もまだ、考えておりません。とかく、人の
数右衛門は、言葉の
『……ああ、又酔ったか。こ、これはいかん、もう
数右衛門は、酔いつぶれていた。――ふと眼をさますと、妓もいない、庄左衛門の姿もない。
手を
『お目ざめでございますか』
『小山田殿は、いつのまに帰られたのじゃ。帰り途が、分らぬではないか。弱ったぞ、これは』
『御心配なさいますな。鉄砲洲のお近くまで、
『猪牙舟とはなんだ』
『お舟でございます』
『舟か、それはいい』
『あれ、あぶのうございます。唯今、お支度させますから、ちょっと、お待ちあそばして』
雪は小やみだったが、猪牙舟の上は、耳が
『船頭。茶屋の者が、確か酒を入れてくれた筈だの』
『その、
『オオこれか』――数右衛門は
『ああいい心地じゃ。ゆるりとやれ、
『
『はやいのう。――そんなにこの河は流れが急か』
徳利を片手に、覗き込んでいた時だった。猪牙舟に
『あっ、あぶねえ』
彼の腰を、とんと突いた。
数右衛門は、徳利を持った儘、川の中へ、もんどり打って飛び込んでしまった。
厚着をしていたのと、酔っていた所なので、彼は少からず
近くに、素知らぬ顔して、屋形船は雪見をしていた。船障子を細目にあけて、
『見ろ、あの田舎者が、飲みつけぬ酒を喰らったので、まだあぶあぶやっている』
『いい
『あははは、今夜あたりは定めし冷たかろうなあ』
狭い屋形船の中に、灯は華やいでいた。酒もある
『雄之助様、これでもういつかの晩の、
その庄左衛門が、杯を洗って、旗本の中の一人へ
『いやいや、すっかり胸が晴れたと迄はゆかぬ。もひとつ、晴れねばならぬものがあるぞ』
と、次男坊らしい物云いで、左右にかぶりを振って見せた。
数右衛門はもうあの事を口にはしなくなった、小山田家へもそう行かない、大いに慎んでいるわけだった。それだけに又、彼のみの心理としては、前より強く、胸の中で独り楽しみを暖めている傾きもある。
『なぜか、此頃あまり、あれを云わなくなったぞ』
わざと、話しかける同僚もある。でも数右衛門は、お千賀のことは
『おめでたいというのは、数右衛門のような人物のことだろうな』
陰のうわさは、少しも彼に反映しない。眼で見ても、物事を疑うとか、疑ってみようとかしない彼であった。
隅田川の災難も、
けれど真実は結局、誰か真実を見ている。至って、友達のなかった彼にも、
『いや、あれには、いい所がある』
と、次第に親しみを加える者が、いつとはなく藩邸の中にも幾人かは出来てきた。
押しつまって、御用
藩邸の御長屋で、数右衛門並みの同僚ばかりで十四、五名で、持ち寄りで一酌やった。
その時一人が、数右衛門をつかまえて、おれは貴様の友達だからこそ云うのだぞと、酒の上のみではない熱意をもって聞かせた。
小山田家のお千賀どのは、この
『そんな筈はござらぬ』
数右衛門は、
だが
『つい先夜も、拙者は、一閑殿を訪れて、晩くまで飲み合ったのだ。お千賀どのも、何も話は御座らなんだ』
と、云う。
『では何か。貴公は、一閑どのなり、又お千賀どのなりと、何ぞ固い約束でもなされた事があるのか』
友達が
『うんにゃ』
と、数右衛門はかぶりを振って、そんな口約などはしてないが、自分の肚はきまっているし、お千賀どのも、自分が望めば、嫌という気づかいはないのだと、どこまでも云い張る。
『こうなると、むしろ
友達は、彼を前にさし置いて、
『じゃあ、すっかり話して聞かせた方がいい。数右衛門と来ては、まるで世間も、女というものも、知らないのだから』
『云おうか……』と、友達共は、
『だめだよ、諦めろ』
と、宣告した。
その打明け話によると。
織田家の方では、其後も、少しも手を緩めずに、婚儀のはなしを進めていた。蠣浜橋での乱暴を、織田家の方から、かえって人を介して、謝罪してくるし、又、多年積もっている小山田の親戚先の負債まで整理してくれるやらで、さしもの頑固な一閑も、すっかり我を折ってしまい、先頃、和解と結納が一緒に済んで、藩庁へも、婚儀の届出がもう差し出されているというのである。
『――数右衛門、これでもおぬしは、お千賀どのを、妻に持つ気か。持てるとまだ思ってるか』
数右衛門は、
『何、持てないとは思わない』
と、答えた。
『え?』
『まだ、分らぬ。まだ、お千賀どのの、心というものがござる。その心を、誰が知ろうぞや』
彼は先へ出て行った。残った連中が、後から出て行って、帰りがけに数右衛門の長屋の戸を
『――あいつは倖せ者だよ、まだ疑わないのだ。
かえって彼等は、数右衛門を羨しく思って寝た。
数右衛門のは、それがいきなり行動として出てしまうものだった。この三、四日は、多少むッつりしていたが、べつだんな様子もなかったのに、三十日が
『そうだ、お千賀どのの、心のほどは、誰にもわからぬ』
ぷいと、外へ飛出した。
もう門限で、藩邸は裏門ともに閉まっている。だが門番とは日頃仲がよいし、又彼は正直に、事情を訴えて頼んだので、門番もそっと
『夜明け前には帰る』
そこを出ると、数右衛門の
明日は花嫁として、他家へ輿入する女性の部屋へ、深夜、外部から戸をこじ開けて訪問するという事が、どんな非常識であり罪悪であるかを、彼は、そうふかく自分に咎めなかった。がたがたと戸に手をかけている間も、数右衛門の眼には、いつも自分に会えば
――当然、彼の物音に、部屋のうちの者は、すぐ眼をさました。
『あっ……誰じゃ』と、女の声が中でおののく。
『お千賀どの。――拙者だ、数右衛門でござる』
『げっ……』
『あっ、お静かに。――お千賀どの、静かに』
そのくせ、数右衛門の仕方は少しも静かでない。一枚の戸を、がたがた揺すって、外へはずし、のっそり入って行こうとすると、
『
――びゅッと、胸いたへ向って、手槍の光が、闇の中から飛んで来た。
『しまったっ』
後ろ
『この痴れ者ッ』
と、槍は彼の影を
『やあ、待たれい。庄左衛門殿ではないか。数右衛門でござる』
『だまれっ、
『何が不埓』
『その無恥、もうゆるさん』
『お千賀どのに、胸の底を、問いに来たのじゃ。お千賀どのを、これへ呼んでくだされい』
『ば、ばかっ!』
庄左衛門は、声のつぶれるほど、
『あれ程、いつかも申したのに、まだ
数右衛門の
『何ッ、もう一言申してみい』
蒼白の顔から、髪がさっと立った。
『犬のようだと云ったのだ。小山田家には、犬にくれるような娘はおらぬ』
『云ったなっ』
数右衛門は、相手の槍を引ッ
『なんだ、犬に獲物を奪られて、それでも武士か』
力まかせに、槍の柄で、相手の背ぼねをたたき伸めし、その槍を、お千賀の部屋の中へ、ぶんと抛り込んだ。
『わかった。売女のように、金や
一目散に、その儘、数右衛門は藩邸の長屋へ帰って来た。足を洗って寝床の中へ潜り込んでいた。すると
『卑怯者っ、怖いのか』
『数右衛門、出て失せい』
と、門口で云い
喧嘩だという声が御長屋の
『何の
『家名に代えても、数右衛門の
小山田
どうして又、数右衛門が藩邸を出たか、門番の責任を云い出す者があるし、老臣を迎えに駈ける者があり、屋内へ入って、数右衛門に何か詰問している同僚たちもある。
その間に、夫人は、
『
『
『長屋じゃの、若侍どもが、何か
『源吾でございました』
『茶は、後にしよう』
内匠頭は、書院の
『源吾、源吾』
『はっ』
ゆうべの
『お耳にさわりましたか……』
と
『誰じゃ、あの
『小山田一閑父子でござりまする』
『喧嘩じゃの、隠居が、何しに又、伜と共に、あのように立腹いたしているのか』
『……はっ』
『相手は誰』
『不破数右衛門でござります』
『ウム、あれか――』
と、内匠頭は、苦笑を閉じるように
『数右衛門ではめずらしくない事だ。……源吾。そちにも、云い含めておいたはずではないか。ちと、あの
『
『そうも云えるのう。……何じゃ、まだ
聞き役は、源吾が聞き取った。双方の申し分はそのまま、源吾から内匠頭の耳へとどいた。
(……困った問題が)
という顔は、裁決を待つあいだの、源吾の面にだけあるもので、内匠頭は、さほどな態でもない。
何っ方も、藩士である、可愛い家来なのだ、傷つけたくない。そういう気色は見られる。
『――こう沙汰せい』
裁決はついた。
内匠頭の
『きょうは、御息女が輿入の当日であろうが。遠慮のう、
一閑は、やや不服な色を、眉にあらわした。庄左衛門にも特にお
だが――親の慾目でも、それへ触れてゆくのは、後ろめたかった。自分の知らない不埓がありそうにも思えるのである。――然し老人のくせで、何もいわずに引き退がれなかった。
『して、相手方の、数右衛門は何うなりましょうな。その次第に依っては、一閑の
『――不届き者と、
『それだけでお座ろうか』
『
『又、お国表の方へ』
『いやいや、先頃より松山城の城受取り方の公命が当藩に下っておる。その為、お国表から、大石内蔵助殿が御人数を率いて四国へ渡っておられる故――その方へ、
『何の御勘気もなく』
源吾は、改まって、
『御隠居、あなたも若気の御子息をお持ちのことだ。今までも今迄、この先も猶どのような事が起るまいも限らぬぞ。――余りその辺のお沙汰には、論議なさらぬ方がお為ではなかろうか』
『いや、お上のお沙汰でござった。今のことばは、子葉殿として聞いておくりゃれ。……どれ、今日は
老人も源吾の言葉の裏を読んで、あたふたと、引取った。
もちろん、その晩の婚儀は万端運んでいる様子だった。
それにひきかえて、数右衛門は長屋の一室に、平日の
『うむ。うむ……』
と、頷いてみせるきりで、やはり
午頃、お表へ呼び出された。
殿のおことばであるぞ――と
『至急、松山城外にある大石殿の手元まで、殿の御
『はっ』
『御書状、粗末にすまいぞ』
と、殿墨付一通を渡されて、数右衛門は夢心地に引き退がった。
すぐ旅支度。
そう伝え聞いて、彼の同僚たちは、彼の住居へどやどやと押しかけて、
『数右衛門、女はいくらでもあるぞ、あんな女に、未練を持つなよ』
『いくら庄左衛門や一閑が、貴公の不埓を云い立てても、その儘、受け取られるようなお上ではない。今度の縁組も、小山田の一家が、金に眼が
『庄左衛門の行状など、分っている限りのことは、吾々からも、源吾殿を通じて、お耳に達してあるしな』
『はははは。ざまを見ろというものさ。――
と、言葉の餞別も、
海路、
『早かったなあ』
『ウム、ちと早かった』
『ちょうどよいではないか。数右衛門の行を祝って、どこかで
近くの
『あっちの婚礼に負けるな』
と、酒がまわると、誰かが云い出して、誰の歓送やら日頃の鬱を晴らすやら分らない騒ぎになった。数右衛門も初めは浮かなかったが、
『船が出るそうでございますから、そろそろ、お支度遊ばして』
茶屋の女中は、少し早めに、そう告げて来た。
『まだ、まだっ』
『もっと持って来いっ、酒を』
云う者もあるし、又、
『いやもう止めい。乗り
『いくら急いでも、着く船は、着く日にしか着かぬぞ』
『まあいい。――おうい、数右衛門殿、貴公はもう身支度をしたがよいぞ』
数右衛門は、その前から、席を起って、支度にかかっていたが、何か探すように、帯を振ったり、
『数右衛門。――何をしているのじゃ、何を』
『うむ……。無いのだ』
『何が?』
『殿の御書面が』
『えっ』
『立ってくれ』
『ほんとか、おい』
『
『
『ウム……そこを退いて見せてくれ』
『今、見たよ。……切腹ものだぞ、数右衛門』
『なければ、切腹だ』
『そう平気な
『多少どころではない。これは大変な事になったものだ。すっかり、
『まさか、君公のお手紙を』
『でも、念の為だ』
皆、顔いろを失った。
酒の酔も、一
船の出るのももう間があるまい。
『どうしたものだ!』
ただ数右衛門がここで腹を切ったからと云って、それで済む問題でない、第一、松山への使命が遅れる。
数右衛門は、悄然となった。まったく彼の影は、
もう探しあぐねた。それでも無いのである。
(お詫びだけだ!)
と、密かに肚をすえた。
彼は、墓場のような今までの部屋をそっと出て、
そっと、
『待てッ、ま、待てっ』
と、必死で抑えた。
『――今、御一同が、とにかく藩邸へ駈け戻って、
数右衛門は、やや落着いて、
『そうかなあ……』
『そうしてくれ、そうしてくれい……。あっ? ……
ばたばたと、廊下へその同僚が出て行くと、すぐその者を案内して、藩邸から駈けつけて来た大高源吾が、息をきりながら入って来た。
源吾は、彼のすがたの無事を見ると、ほっとしたように、すぐ上意を伝えた。
『数右衛門、そちは何処まで倖せな者であろう。殿のお言葉には、そちに託した一札は、御書面ではなく、お手近の文庫より見出された松山城の絵図面であるとの仰せ。――松山城に城受取りの任を帯びて出向いておる内蔵助殿にとって、何かの参考にもなろうかと、そちを
『…………』
数右衛門は、何と云ってよいのか、到底、言葉には、胸いっぱいの感情を――その一端でも、あらわす事はできなかった。
『……か、か、かたじけのう御座りまする』



一人が、
――まだ数右衛門は、泣いていた。君恩の大と、身の不つつかが、口惜しく考え出されて。
源吾はふと、彼が、涙の眼に当てている

『……や? 数右衛門』
『…………』
『これ、そちが今、

『えっ? ……』
源吾は濡れてくしゃくしゃになった

『あったっ。――御書状がここにあった』
*
『惜しい』
と、云った者が多かった。
けれどそれから六年後、内匠頭の
浪士四十七名のうち、内匠頭が生前中からの浪人として、義盟に名を連ねた者は、彼一人だった。いや真の浪人骨のぶとさを持った人間も、彼一人だったと云ってよかろう。
小山田庄左衛門は、世皆知るとおり、討入の直前に脱走して、彼らしい
一閑は、それを聞いて、
(昭和十三年一月)