御鷹

吉川英治





 眼がしぶい、冬日の障子越しに、もずの声はもうひる近く思われる。
 弁馬べんまは、寝床の上に、腹ばいになり、まだ一皮寝不足のまくかぶっている頭脳あたまを、頬杖ほおづえに乗せて、生欠伸なまあくびをした。
 顔中のあばたが動く。
 煙管きせるを取って、すぱっと一ぷくくゆらしながら、ゆうべ打粉を与えて措いた枕元の腰の刀を見ると、さすがに体がまって来た。
『――あいつも、寝られなかったに違いない』
 弁馬はこう自嘲すると共に、すぐ明け方の夢の中から、おえつと、角三郎の顔だけを脳膜にぼんやり映し出していた。
 その後頭部と瞼のうえに、鈍いしびれを感じると、弁馬はこぶしを当てて、
『こんな事では――』
 がばと、筋肉へはりを入れて、ね起きた。
 裏へ出て、井戸で含嗽うがい[#「含嗽を」は底本では「含※[#「口+敕」、213-上-17]を」]していると、
『若旦那、奥で、皆様がお眼ざめを待ちかねて居らっしゃいますよ』
 と、下婢おんながいう。
 庭の隅で、落葉をいている仲間ちゅうげんの爺やが、憂わしげに、煙の中から振向いていた。
『皆様とは、誰が?』
『弓町の伯父様』
『それから』
『駒込のお従弟様、まだ他にも、御親類の方がおそろいで』
『何しに来たんだ。親類が首を揃えるような事はないじゃないか』
『御飯を、どうぞ』
『飯。――今朝はいらん』


『――修業しゅぎょうして来い、両三年』
 突然、父の新五左衛門が、親類一同の相談を突きつけて、こうせがれの弁馬に申し渡すのであった。
『甘やかして育てたわしが、誰よりも悪い。然し、貴様もまだ二十四、今からでも遅くあるまい。お役向きのほうは、一切、従兄弟の小平太が済ましてくれるという。今日からでよいのだ、すぐ立て』
 弁馬は、あばたの為に、人いちばい厚ぼったい唇に不平を示して云った。
『どこへですか』
『馬鹿』
『何が、馬鹿で』
『わからんか、伯父御、叔母御まで、こうして貴様の為に――いや家名の為にだ――案じてお居でられる事が』
『わからない!』弁馬は、父の前の煙草盆たばこぼんを、自分の膝へ引っぱり寄せて、
『――眼をさますと、いきなりここへ来い、ここへ来ると、又唐突とうとつに修業に出ろ。――わかる筈はない』
 新五左は、唇へ歯を当てて、
『これじゃよ! 何うもならん』
 と、隣りの老人へさじを投げていう。弓町の旗本に用人をしている伯父である、寒いのでかじかんでいる手を、先刻さっきから火鉢にもかけず、膝にふしを立てて、弁馬をめつけていたが、
『これ。――これこれ、何を云うかおまえは。黙って、三年ばかり他国へ行って、他藩のお鳥見小屋へ御奉公してこい。生涯の薬だ』
『中里お鳥見組の役を勤めるには、弁馬は、未熟だと仰っしゃるので』
『いや、御鷹おたかをあつかわせては、黄瀬川きせがわ弁馬は、一人前じゃろう。――だが、まるで貴様は、世間を知らんじゃないか。父が、こうして有らっしゃるうちはいいが、貴様が黄瀬川家をつぐとなったら後々が思いやられるのだ。――修業というのは、何も、御鷹の飼い方や、あつかいを習えというのじゃない。それならば何も、将軍家の御鷹をあずかる中里御鳥見の家にいて、立派に一かどの鷹匠になれるんじゃからのう』
『そんなに、この弁馬は、世間知らずでしょうか』
『成っておらんよ、貴様は』
『ははあ』
『不服そうだな。……そう不平面をいたすなら云ってやるぞ』
『云ってもらいましょう』
『貴様』――と少し弓町の老人もたかぶって来た。
『も、もっと、前へ出ろ』
『いくらでも出ます』
『組頭のお娘に、懸想けそういたして居ろうが』
『いけませんか』
『付け文など、ぶ、武士にあるまじきことと思わんか!』
『……思いません、伯父上は、たしか、真宗でしょう』
『なんじゃあ? 宗旨がどうしたというのか』
祖師そし親鸞しんらんでさえしたことです』
『た、たわけめ!』


 中里御鳥見組頭の阿部白翁はくおうは、近年はもうお野駈のがけの供にもいて行けなかった。中風で、人と話すにも、変なしわが、顔を斜めに、絶えず横切るのである。
『や。……それ迄には』
 と、ひどく何か感情に今もその顔をぴくぴくと痙攣けいれんさせていた。
 客は、組下の黄瀬川新五左と、その親類という弓町の老人。
 平謝ひらあやまりである。何とも重々申しわけがないとのみ繰返している。
 近く、聟君さえ決まっている噂のある御当家の息女に、あるまじき伜の不埓ふらち、きっと糾明きゅうめいのうえで、両三年は他国へ修業にやることに親類共が取り計らいましたれば――と、これは弁馬の父として責任のある新五左が、ろくも大事、身も大事、伜も大事と、両刀を投げ出さないばかりにいう詫言だった。
『恐縮、恐縮。……いや何、御両所、そうまでせんでも、よかったのじゃよ。……だがな、わしが中風で体がきかぬと思うてか、御子息の弁馬、だんだんれ居って、近頃では、塀の外から、娘の部屋へつぶてを打つ、口笛などをふきおる。――のみか、娘を強迫しての、すんでに決まっておる、角三郎との縁組を破約など云うらしい』
『もう、もう、……その儀は、仰せ下さりますな。伺えば伺うほど、腹でも切らねばと、親の身は』
『道理じゃ。……もう云いますまい。御処置、白翁も満足いたしました』
 手をたたいて、奥へ、
『これ、娘、茶が冷えたぞ』


 白翁の家庭を見れば、禄こそゆたからしいが、いかにも、一日もはやく、聟でも迎えて、孫でも見ねば、老後がさびしかろうにと、新五左は、それも弁馬の所為が邪魔して取りおくれているのかと思うにつけ、よけいに、相済まなく思った。
『粗菓でござりますが、どうぞ』
 うつつだったが、気がついて、
『もう、お構い下さらずに』
 新五左は、ふと、お悦を見て――もうこの娘が乳母の手にある頃から見ているのだが――今日はひどくその成長と女になっている美しさが目についた。
 お悦は、最後の茶を、父の前に置いて、そのまま、何か客の耳にとどかないような低い声で囁いていた。
『ウむ……吹雪ふぶきか……そうそう。近いうちに駒場の御鷹じゃの、角三郎に手飼わせておいたが、んなあんばいか、わしが行って見たいにもこの体じゃ、そなたが参って取りよせて来たがよかろう。仲間ちゅうげんを連れて行け、仲間をな』
『いえ、近うございますから……』と、すぐ客のほうへ挨拶して、何処かへ出て行った。
『新五左、わし等も、おいとまをしよう』
『まあ……』
 白翁はとめたが、二人は、居心地もなかったのである。外へ出てほっと顔を見合せた。
 明るい霜解けの道に、一足先に屋敷を出たお悦のうしろ帯が見える。――弓町は、じっと、見つめながら歩いていたが、顔を寄せて、
『新五左。……あの娘、妊娠みごもって居りはせんか?』
『まさか』
『いや』
 自信のある首の振り方だった。
『……どうも、わしの眼では、そう見えるが』
『どうして』
『歩き方を見ても』
『霜解けのせいじゃよ。あの厳しい白翁の眼を見たか、まるで御鷹だ、なんであの眼の蔭でお息女むすめにそんな……』
 草履ぞうりの裏に粘りつく黒土によろめきながら、新五左が、強情を張った。


『お留守? ……。どちらへと仰しゃってお出かけでしたか』
『何もお告げにならずに』
 と、小柴家の召使は云う。
 お悦とこの屋敷とは、もう一つ家のようにしていた。角三郎が自分の屋敷へ来た時も同じである。
『黙って? ……。それなら、きっとお帰りなんでしょう』
 庭へまわって来て、角三郎の部屋の縁に腰をやすめ、夫婦ふたりになって生活くらす日の陽ざしをうっとりと思ってみる。
 御鳥見組のうちでは――いや今まで知った男性のうちでは――誰よりもの人はすぐれていると彼女は思う。結婚した長い後になっても、彼の人ならば悔いを咬むことはあり得ないと思う。
 父の白翁の眼鑑めがねでも、角三郎は、御鷹をあつかうことにかけて、天才だとさえ云っている。将軍家のお覚えもよいし野駈といえばいつも殊勲を立てるのはの人と決まっている。上司のうちでも、角三郎を賞めない人はないというし――何よりは又、自分に対しても優しい。
 弁馬などとは、比較にならない。なぜ私は、一時でも、弁馬の強迫に負けたのだろう。あの押しのつよい黒あばたに。
 お悦は、それだけを、悔いていた。
『お嬢様、おあがりなさいませ』
 小間使いが、敷物を部屋にすすめる。
『ありがとう。……でも、ここが暖かですから』
『何ですか、お悦様がおいでになったら、これをお渡しするようにと、若様が置いていらっしゃいましたが』
『あ……御鷹小屋の鍵ですね』
『きっと、お帰りが遅いおつもりではないでしょうか』
『そうね……』
 将軍家の吹雪を、今日、自分が取りに来ることを、何うして知っていたのかしら?
 お悦は、鍵を持つと、御鷹部屋へ入って行った。父がひなから飼い馴らした吹雪がそこの止まり木に、御野駈の晴の日を待つように、朱房を脚につけて、網窓からす陽に琥珀こはくいろの眼をぎらぎらさせていた。
 ふと見ると、その脚に、結び文が付けてある。お悦は角三郎の行きとどいた気持がうれしかった。
 だが――彼女の顔はそれをひらいてから真っ蒼になってしまった。自分の訪れを予期して角三郎が書いて行ったものには違いないが、いつものうれしい文字ではない遺書かきおきと云ってもいい悲壮なものであった。


 文字はみだれていない、角三郎のふだんの姿や面ざしのように理智に澄んでいる。
 文面に依ると――
 昨夜、黄瀬川弁馬から、自分の手へ果し状をつけて来た。御薬園裏の萱原かやはらで――と場所までして。
 日頃、腕自慢の弁馬であるから、恋も力で解決するつもりらしい。見せしめにもなる、すぐ、承知の返事を持たせてやった。
 それはよいが――その文中に、聞きずてならない雑言ぞうごんしるしてある。それは、おまえの妊娠にんしんだ。おれはいつぞやそれと其女そなたからささやかれた時も、何の顔いろもうごかしていなかったように信じていた。自分のした事を、おまえの欣しそうな顔を。
 ところが、弁馬は、
『すでに、おれの子を妊振みごもっている女を』
 と手紙のうちに押ぶとく書いているのだ。おれは迷った。然し――今さら何うしよう。果し状をつきつけられて、女を敵に捧げるほど、小柴角三郎はお人よしにはなれない。
 その事は、後で二人の解決としよう、とにかく、時刻もないから――
 と、墨はうすくそこで尽ているのであった。
(違います……違います! ……弁馬などの子では……)
 もうぼろぼろと涙になる胸の裡で、お悦はさけんでいたが、心の片隅では、自分を暗い疑惑にひき込む恐い記憶が爪を出して、掻きむしっていた。
(……それは……それはたった一度……自分も知らない間の過失あやまちです。……腕ぶしのつよい弁馬に強迫されて、無態むたいに気を失っているうちに。……いいえ知りません! ……私の知らないことです。私の知っているのは、あなた以外には)
 夢中で、御鷹部屋の戸を押した。さっと入る光を見ると、吹雪は、突然、大きな羽音をって、彼女の肩へ移った。
 お悦は、吹雪の脚から胸へ垂れたあかい房をつかんで、庭木戸から外へ走って出た。濡れた睫毛まつげで見る冬の中里の野や林は、みな虹色に滲んで見えた。


 智識、理智、仕事、どんな事にかけても、角三郎は弁馬の遙か上にあるが、武力となっては、敵ではない。
 お悦は、枯野を、まだ霜ばしらのある湿地を、息をって御薬園裏の原へ駈けた。
 ――もう間に合わないかも知れぬ。
 弁馬の前に立っては、幾太刀いくたち合すいとまもあるまい。の人は討たれている。
(……死のう、その側で。何を云わないでも、それでゆるして下さるに違いない。身の明りは、それで立つ)
 低い丘の疎林の中を、この附近の若侍たちが、三、四人して、犬でも追うように彼方へ駈け降りてゆくのをお悦は見た。
 然し、そんな物は、ひとみに映っても、心には映らなかった。丘をのぼってゆくと、地線に起伏のある広い萱原が眼にひらけて来た。その枯野を踏んで、一人の男が血刀ちがたなを提げて、起っていた。
 足もとには、あけになった人間がっ伏しているのだ。もう果し合は決していたのである。そして、血に酔ったように、茫と眸をひらいて立っていたのは、弁馬ではなくて、小柴角三郎だった。
 生きていようと思わなかった人の姿を見ると、お悦は、欣しいのか悲しいのかわからなかった。わっと甘えるような泣き声が、枯野いっぱいに流れた。
『……違います……ち……ち……違います。……あ、あんまりです』
 それだけしかお悦は云えなかった。
 角三郎は、常の冷たい美貌びぼうに、きょうは、なお、冴えたものを持って、お悦が、泣くだけ泣かせていた。それから、こう云った。
ようがないさ! ……。嬰児あかごに紋は付いていないからな』
 ――いつものように優しい言葉で、
『おれは、おまえを信じるとしよう。だが、阿部白翁のあとを継いで、おれが御鳥見組頭の位置に坐っても、又これからどんな立身をしても、おまえは、おれの行いについてものを云う資格はないぞ。――いいか、それだけは、一緒になった後々の為に、念を押しておくぞ』
 ――それ程、疑われながらも、夫婦になるかいがあろうか、女として生きている力があろうか。
 彼女は、責めない角三郎が、何だか頼りなかった。打って打って打ちすえてくれたら――と思うのであった。いや、ここへ来るまでの間に予期していたように、角三郎が討たれていたら、弁馬の見ている前で、女の心をみせ、立派に復讐してやったものをと、むしろその事に悲しまれて来るのでさえあった。
『馬鹿なやつだ』
 血からめて、落着きをとり戻すと、角三郎は、死骸の弁馬を愍然びんぜんあざむように、っ伏しているその衣服きもののすそで、刀の血糊のりをふきながら呟いた。
『――おれが、どれ程、こんな女一人に惚れ込んでいるかと思っていやがる。――最も、弁馬の容貌きりょうでは、女から惚れられた覚えなどは、生れてから一度もないだろうからな』
 お悦は、涙がとまってしまった。炎に水をかけられた気がしたのである。角三郎の顔を初めてじっと見つめたが、いつもの彼のように賢い修養が冷然としている。何の変りもないその人なのだ。
『行こうか』
 と、云う。
 だが、お悦は、動けなかった。その人にいて行くよりも朱まみれの死骸へ眼を奪われていた。死骸の背には二太刀ほど、大きな後ろ傷が負わせてある。これが、角三郎の手で負わせた勝利の傷だろうか?
 お悦は、ふと思い出していた。――今、ここへ来る途中の林で行きちがった三、四名の若侍たちの姿を。
 ――だまうちに?
(しかも、助太刀すけだちたのんで……)
 お悦は、身ぶるいが出た。彼女の血潮の中に胎養たいようされつつある肉塊は、そのとたんに、まだ母体のうえに変化という程なすがたも持たないのに、どこかで、悲鳴を揚げているようだった。切りさいなまれてそこに絶息している人間と同じ痛みを感じるように、のた打ち廻っているのであった。
『馬鹿』
 角三郎は、振向いて――
『何を泣いているんだ。もう話は済んでいる。――世間が知った事じゃなし……。早く来い』
 今日までお悦に見せなかった性格の端を、角三郎はちらと見せ出した。そう云って歩み出しながら、霜のような白い歯を冷たい唇から見せて薄く笑った。
『あ。……そうだ』
 不意に、思い出したように、角三郎は又、二、三歩戻って、
『お悦……。おいっ……お悦っ……返辞をせんかっ……』
『……はい』
『御鷹部屋は、閉めて来たか』


『御鷹? ……』
 そう云われて、お悦は、自分の肩を――背を――見まわした。
 朱い房は、襟元にかかっていたが、鷹のすがたは、何処どこで離れたのだろうか。――屋敷を駈け出す時までは、自分の肩に止まっていたように覚えていたが? ……。
『何を見ているのだ。――御鷹小屋の戸は閉めて来たかと訊くのだ』
『いいえ……』
『何、閉めて来ない?』
『吹雪は、私の肩に乗っていたのですが』
『持って出たのか』
『…………』
『将軍家の御鷹。近いうちに、御野駈におつかいになるあの吹雪。――何処へおいた、それを』
『……探して参ります。まだそこらに』
 裾を踏んで、よろめきながら、お悦が起ちかけると――
『女に、鷹が呼べるかっ、間抜まぬけな』
 舌打ちしたが、然し、彼には、飼い馴らしている多年の自信と、逃げても、姿さえ見出せば、空から自分のこぶしへ呼びもどせる確信は充分にあった。
 ただ、もう彼女に対して、何も飾る必要を感じなくなった角三郎のそれはほんとの自分を見せたに過ぎない舌打ちなのである。
『――な。陽が暮れてくる、中風の白翁は、娘自慢、どうしたかと、縁先から首をのばしているだろうから早く戻ってやれ、それでも、公儀の御役は有難いものだ。鳥見組頭という家格があればこそ、近いうちに、おれのようなよいむこが入る。……だが、聟だなどと、云って、待遇が悪いと居てやらないぞ』
 疎林の下はもうほの暗かった。白骨のならんでいるような樹々の肌を見ると、お悦は、地獄の八寒をさまよっている気がした。
『そう、あいつは、こっちへ貰っておこう。――お悦、吹雪の脚に結いつけてあった手紙、おれによこせ』
『…………』
 無言で、帯の間に、しわになっているそれを角三郎の手へわたすと、
『も一つのほうも』
『これだけでした』
『これだけ? ――これだけなものか――ほかに、もう一通、弁馬の奴からよこした猪口才ちょこざいな果し状も、紙捻こよりのようにって、結いつけておいたのだ。――彼奴きゃつが、お悦は、自分の子を懐妊かいにんしているのだと、それには広言して書いてあるから、おまえに見せる為わざとそれと共に結いつけておいたのだ』
『……見ませぬ』
『見なければ、どうしたのか』
『…………』
 お悦は、眼をふさいだ。云われてみれば、それらしい物が吹雪の脚にまだ結いつけてあったような気もする……。
『何うしたんだ!』
 角三郎は、声を荒らげ、つて、お悦の知らない恐い眼をしてののしった。
『まさか、吹雪にゆわいつけてあるままではあるまいな。――弁馬の手蹟など、見るもけがらわしいと思って棄てたのか』
『い、い、え……』
『出せっ、後の証拠だ』
『……気がつきませんでした。やはり、吹雪の脚かも知れません』
『あきれたな! おまえの気のきかないのも。――あれを、他人ひとに見られたらどうするか。おまえも俺も、もの笑いだぞ、世間へ恥さらしになると思わんか、白翁が、いくら中風の身を訴えて、聟になってくれの、鳥見組頭の家が絶えるのと云っても、継いでやるわけにも行かなくなるじゃないか!』
『…………』
『――飼い馴れた吹雪のこと、明日の朝にもと思ったが、ほかの同役の手にでも捕まえられたら取返しはつかん。――どうせ、五十年の不作は覚悟の前だが、今から、世話ばかりやかす奴だっ。おまえも、一緒になって、その辺を見ろっ――樹の上を――』
 然し、角三郎はまだ落着いていた。鷹の寄りそうな樹を眺めているのか、丘の小高い所に立って、やや暫く、夕雲に顔をいて、じっと立っている――
 そこから、広い夕空が見渡されるのであった。角三郎は、右手の人差指と中指を口の中へ頬ばった。そして、野駈けの折にふく鷹笛を吹きぬいた。
 頭の上で――さっと風が答えたような気がした。然し、仰向いても、鷹のすがたは見えないのである。
 幾たびか、指笛を、彼は繰返していた。――そのうちに、お悦がさけんだ。
『――居ました! 居ました! あのこずえに』
 高い樫の木の梢である。肩を張って、黒い物がとまっている。角三郎は、落着き払って、適度に近づいて行った。そして、自分の拳を見せるように振った。
 だが、鷹の眼は、彼の拳を見向きもしない。樫の木から凝と、地上の何ものかを、鋭い眼で見つめているのだ。そこには、木枯しに吹き磨かれて、もう青くえている二日月の下に、弁馬の死骸が、まだ生々しい血しおをたたえて横たわっているのである。


 仰向いたきりだった。頸の骨が痛くなるのも忘れて。
『ちいッ……』
 舌打ちして角三郎は、懐中ふところの物を、空へほうった。印籠いんろうまで抛り上げた、そして指笛を吹いた。
 だが、鷹の眼は、彼が良家の女をうかがう時のように冷智に澄ましていた。夕月に光る琥珀色こはくいろの双眸が星のように光る。
『……どうしたというのだ! いつもになく』
 忌々いまいましげに、顔をゆがめ、角三郎は小石を拾って、梢へ投げた。――ぱっと、すごい羽搏はばたきが、そこを離れ、枯野の上を、ゆるった。
『しめた――』
 角三郎は、駈け出した。
 自分のすがたを、何ものの障害もない枯野のまっただ中に起たせて、ふたたび、指笛を吹きぬいた。息のつづく限りに。そして、拳を見せ、日頃の飼い主のやさしさを、媚態びたいであるほど、誇張して見せた。
 ――だが、鷹は、彼の拳に下りなかった。
『こんな筈はないが――』
 鷹をつかわせては、御鳥見組のうちでも中里の小柴といわれている自分。少年の頃から鷹を拳にあつかい馴れている自分。
『こんな――こんなわけはない――。まして、吹雪は、今朝まで手に飼っていたものが……』
 絶対な自信があるのだ。あるが故に、小柴角三郎は、肺も心臓も、へとへとになるまで、指笛に息をついやした。しまいには、血を吐くと思われるほど、音がれ、全身がつかれてしまった。
『こんな等はない。――畜生、畜生』
 鷹は、つかれを知らないのである。空のあいが濃く暗くよいを作ってきても、まだ、未練そうに、旋回せんかいしていた。――美味うまそうな血しおの上を。
『ふぶき! ……ふぶき……』
 遂に、声をもって、角三郎はさけび出した。明らかに、その青い顔は、鷹について十何年にもなる飼主の自信を失っていた。
『ふ、ふ、ふぶき……』
 角三郎は、何か、やわらかいぬくみのある物につまずいて、その上へ、膝も手もついてしまった。
『やっ? ……ば、ばかっ……おいっ……おいっ……お悦っ』
 お悦は、弁馬の持っていた刃で自分を突いてもう死んでいた。――角三郎にしてはめずらしい程、度を外した狼狽ろうばいの声と、気狂いじみた眼ざしをして、その体を、抱き起そうと試みたが、お悦のろうみたいな指は、固く、弁馬を抱いていて離れなかった。
 ――魔みたいな笑い声が、二日月のあたりで聞えた。黒い物体は、えた意慾を他に求めるように、どこかへ飛んで行った。
(昭和十一年二月)





底本:「吉川英治全集・43 新・水滸傳(二)」講談社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「オール讀物」文藝春秋
   1936(昭和11)年2月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2014年2月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「口+敕」    213-上-17


●図書カード