第一章
「犬がうらやましい。ああ、なぜ人間なぞに生れたろう」
笑えるうちは、まだよかったが、この頃ではそんな
「何しろ、
これは、庶民とよぶ人間の群の、一致していうことばだったが、人々のあたまの中は、言葉どおりに、一致してはいなかった。こういう時代の特徴として、各

夏の夜である。――
「おいおい、
「どうしたい。
「
「よくドジばかりふむ男だ。味噌久はかまわねえが、背負わせておいた御馳走は、まさか田ン圃へ
べつな声が、闇の中で、
「ええ、ひでえことをいう。ふたりとも身軽なくせに。すこし荷物を代ってくれやい」
と、田の
大亀と阿能十は、おかしさやら、暗さやら、わけもなく笑いあって、
「まあ、そういうなよ。目ざす中野はもうすぐだ。辛抱しろ、辛抱しろ」
「だが、着物の裾をしぼらねえことにゃあ、どうにも、
「阿能。泣きベソがまた泣いていら。そこらで一ぷくやるとするか」
小高い雑木林の丘に、男たちは腰をおろした。
三人とも、
どう人間を信じたらいいのか。どう世の中を考えていいのか。また、どう自分を生かしてゆくのが真実なのか。元禄の当代人には、厳密にいって、たれにも分っていないらしい。それを明らかにしてよく生命を
ことに、若い者には、刹那的な享楽をぬすむほかは、なんの方向があるでもなく、希望もなかった。いまよりはまだ健康な世代といわれる寛永から万治までの世を知っていないかれらには、前期との比較がないので、
「こう、阿能十、あれ見ねえ。こんな
「ほんに、今ごろは、芝居小屋も
「よせやい阿能。アアいけねえ、ここらは虫の声ばかり、女の顔をおもい出すと、今夜の先が急に
「兄貴らしくもねえことを。……なあ、味噌久」
「そうだとも。そっちが
「ばかをいえ」
阿能十は、ここぞと強がった。
あばた顔の大亀が、この仲間では、年かさで、体つきも頑丈だが、小柄ながら阿能十には、武家息子らしい
「今夜のことは、おれの
阿能十は、
色街でもない真ッくら闇を、いつもの癖で、阿能がイヤに気取って歩くのをうしろから見て笑いながら、あばたの大亀も、のそのそと味噌久を中に挟んで歩き出した。
だん畠の傾斜地を下り、谷をわたって、向うがわの丘へ上がる。そして雑木林の細道を半里ほども行くと、いんいんとして犬の遠吠えが聞えてきた。一頭や二頭ではない。何百、何千ともしれない群犬の声である。それが
「お、あれだ、お犬小屋は」
「ちがった人間の
遠吠えは、まもなくやみ、三人はまた道をさぐった。
林を
「しッ。もどろう。そっちへ行くと、番所の明りがさしている」
「いや、犬になって行け。犬になって」
「ど、どうするんだ。犬になれとは」
「こうよ。こうやって……」
と、阿能は、四ツん這いになって、
大亀も、味噌久も、それに
目的にかかり出した。味噌久に背負わせて来た風呂敷には、犬どもの食欲をそそるにちがいない魚肉の
「阿能さん、もう品切れだぜ」
「なくなったか。よし」
と、味噌久の背をとび降りて、
「――夜明けを待とう。どこかそこらの木の上で」
と、あたりの
「ここらが、手頃」
と、阿能十は、高い赤松の梢をめがけて、もうよじ登っていた。
大亀も、隣の大木へ登りかけたが、ふと、味噌久のうろうろ姿を見て、
「おい、久の字。ここらで帰るがいいぜ。あしたの
するすると、彼の影は、もう木の上の
ここまでのつきあいが、精いッぱいの辛抱だった味噌久は、大亀にそういわれると、元気づいて、
「ほい、心得た。じゃあ、お袖のうちで、待ちあわせているぜ」
彼のすがたも、夜鳥に似て、江戸府内の方へいちもくさんに消え去った。
夏のみじか夜とはいうが、梟のまねして、木の上にとまっているふたりには、それからの空がひどく長い気がした。
「阿能。寒いようだなあ」
「ウム。
「寝られるかい。
「寝たら落ッこちるだろうと思ってよ」
「おれたち、人間の先祖は、穴に住む以前は、木の上に寝たんだそうだ。寝られねえわけはねえが」
「それで読めた。いまの地上では、お犬様をはじめ、畜生どもが、人間以上にあつかわれ、おれたち人間は、木の上で寝る。――なるほどなんのふしぎもありゃしねえ。これやあ、大昔に返っただけのことだ」
「ははは。そうかもしれねえ」
この暗天の笑い声も、もし聞く者があったら、異様な感にうたれたろう。しかし、これも世が人にさせてる一つの
いわゆる元禄若衆姿というものは、風俗画的に見れば優雅にして
何しろいまは不良が多い。というよりは、天下不良に満つである。
ときの将軍家、五代綱吉。この人の不良も庶民は知りぬいている。
いま、閣老随一のきけ者といわれ、同じ老中の酒井、阿部、大久保、土屋などをも、意のまま操縦しているという柳沢
とまれ、上下とも、多少の不良性をおびない者はなく、真ッ直に世を歩けば、この春の、浅野
そして、いまの世間の特徴は、どんな政令が出ても、もう悪政には驚かない――という
慨嘆の聞かれる時代は、まだ多少健康な時代といいうる。それを聞くには、
「まだまだ島原の孤城に、十字架旗をたてて、天下の軍勢をひきうけるのがいたり、由井正雪とか丸橋みたいな男が出て、成らないまでも、徳川に
悪政のうちでも、新貨幣への切り換えと、生類
さしもの幕府の
柳沢、荻原らが、その間に、私腹をこやし、新貨幣の威力をもって、さらに悪政閥を活溌にしたのはいうまでもない。悪貨の増発は、物価をハネあげる。物価の狂騰はまた貨幣の
そのくせ、五代綱吉は、臣下の柳沢吉保の招待をよろこんで、年に何回となく、その邸へ
その日は、
綱吉の“柳沢お成り”は、五十数回にも及んでいたが、吉保はなお、将軍の生母桂昌院をも、いくたびとなく招待した。
しかし彼女には、そこの
なべて、彼女は盲情家だった。
綱吉を盲愛し、吉保を
護持院の七堂
暗君、暴君は世界にも少なくないが、まだかつて、どこの国の悪政史にも見ない――生類御あわれみという、奇異な法令が、とつとして、発せられたのも、それからのことであった。
“生類
この発令は、
いま、元禄十四年は、その発令から十年めにあたっていたが、まだ人間は、その法に、馴れきれなかった。
猫に石を
「いったい、蚊をいぶしたり、たたいたりは、どうなるんだい?」
「きまってら。いぶしたやつは、松葉いぶし。たたいたやつは、百叩きよ」
「じゃあ、
「そうさ。へたに
江戸の庶民は、法の重圧や、疾苦を、こんな
そして、落首や
幕府も、お犬さまは、諸生類の最上級において、禁令条項のうちでも、特別に犬は重視した。
将軍綱吉が、
こんなつまらぬ暗合も、護持院隆光にとっては、大いに用うべき偶然事だった。かれの献策は、まず迷信家の桂昌院を信じさせ、桂昌院は将軍を
時の人、
――王、太子(将軍の世子)ヲ喪 ウテ、後宮、マタ子ヲ産ムナシ。僧隆光、進言シテ云フ、人ノ嗣 ニ乏シキ者、ミナ生前多ク殺生ノ報 イナリ。王(将軍のこと)マコト嗣ヲ欲セバ、ナンゾ殺生ヲ禁ゼザル。且、王ハ丙戌 ヲ以テ生ル。戌ハ犬ニ属ス、最モ犬ヲ愛スルニ宜シト。王コレヲ然リトス。太后 (桂昌院)マタ隆光ニ帰依 深シ、共ニコレヲ説ク。王イハク諾。スナハチ殺生ノ禁ヲ立テ、即日、愛狗犬 令ヲ、都鄙 ニ下ダス。
法令は、人間どもを、驚かせた。いや、まごつかせた。しかも、徹底的に厳行され、違犯第一にあげられたのは、その年の春さき、
同じ年の二月、
また、夏の初めごろ。
秋田淡路守の下屋敷の軽輩が、吹矢で
あとで沙汰にされた噂によると、この軽輩の士には、まだ幼い
これらの例は、法令が出たばかりの僅々四、五ヵ月のうちに起ったことで、その一年だけでも、江戸市中や諸国であげられた違犯者の数は何千人かわからない。
“生類おんあわれみ”は結果的に“人民
法令は、年ごとに、
石を投げた子供が、自身番へしょッ引かれて、その親が、犬目付の告発にあい、手錠、所払いになるような小事件は、一町内にも、毎日あった。
日常、牛馬をつかう稼業の者からは、特に多くの違犯者があげられた。牛馬に鞭を振ったとか、病馬を捨てたとかいうだけの理由で、死罪、遠島になった者も少なくない。
幕府の主旨は、すべて人民は、将軍家のみならず畜生にも仕え、もし畜生の病み傷つくときには、人間の子に喰わせる
――犬になりたい。犬がうらやましい。
死罪、遠島、重追放などの、家を失った数々の人間の子は、必然、浮浪者のなかまに入り、また、良家の子弟ではあっても、世のばからしさ、あほらしさから、犬になりたい仲間も
深夜。中野の原のお犬小屋をうかがい、
お犬小屋は、大久保、四谷、その他、府外数ヵ所にあったが、中野が最も規模が大きかった。
犬は仔を産むし、多産だし、しかも十数年来、太鼓の製皮も禁ぜられてきた程なので、その繁殖率は、たいへんなものになっている。
世上の違犯数も、当然、それに準じて増すばかりなので、さすがの幕府も、犬目付も、法の厳励を期すには、いまや悲鳴をあげないでいられない。
そこで、市中の飼い主のない犬は(官に
このため、勘定奉行の荻原近江守は、八州の代官に
犬一疋、一日の供食には、白米三合、味噌五十目、
家なき人間の子は、
――犬、病ムアレバ、冬ナレバ、夜着蒲団ヲ厚ウシ、犬医者ヲ呼ブ也。犬医者ト申スハ、御用医者ニテ、典薬 ノゴトク、六人肩ニシテ、若党、草履取、薬箱持チ、召シツレテ来ル。脈ヲ見、薬ヲ処方シテ帰ル。マタ御徒士目付 、御小人 目付、二日オキニ御検分ナリ。カヤウノ事故、町方モ、ソレニ準ジ、物入リオビタダシケレド、モシ犬ヲ痛メバ、牢ヘマヰル者、縁類ニモ一町内ニモ及ビ、何百人トイフコトヲ知ラズ。通リスガリニモ、ワント云ヘバ、身ノ毛モヨダチ、食ヒ付カレテモ、叱ルコトナラズ、逃グルホカハナカリケリ。科人 、毎日五十人、三十人ヅツアリ、打首ニナルモアリ、血マブレナル首ヲ俵ヘ入レ、三十荷モ持チ出シテ、大坑 ヘ打捨テタリトモ聞エタリ。
悪政にたいする世間沙汰をあげたら限りがない。――とまれこれは、人間が人間を苦しめていることだったが、一介の浮浪人、大岡亀次郎にも、阿能十蔵にも、その人間に抗議する力はない。意気もない。(ひとつ、お犬小屋を、ひッくり返すような目にあわせて、
と、いうのが、今夜の目的であり、そこらが精いッぱいの義憤だった。
これは阿能十――阿能十蔵のいい出しである。かれの父、阿能静山は、
大亀の――大岡亀次郎のほうは、ちと身の上もちがうが、いまの境遇と気もちとは、まったく同じだし、どうせかれも、何をやってもやらなくても、ひとたび
(おもしろい。――知らアん顔して、あとの騒ぎを見てやろう)
と、すぐ相談は、まとまったのだ。
親は深川の味噌問屋だったが、古金銀の
……チチ。チチ。チチ――
「おい。大亀、大亀」
「なんだい、阿能」
「見や。うッすら、東の方が、明るくなりかけて来たぜ」
「明けたか。おれはとろりと、寝ていたらしい」
「いい度胸だの。……あっ、おい。出て来た、出て来た」
「えっ、何が」
「何がって、犬の群れがよ」
「おお……。ふふん、来る来る」
樹上のふたりは、一望に見える囲い内へ、そこから眼をこらしていた。
十六万坪の原には、数多い犬舎も、点々と、朝霧の海の小舟みたいでしかない。
――と、官舎から出て来た
「あっ、食った。大亀、見ろ、見ろ」
「
「あ。ほんとだ。食ってる。食ってる」
「阿能、静かにしろよ。あんまり伸びあがると、おめえの松の木がゆさゆさ揺れて、遠くからでも
かれらが夜のうちに撒いた揚団子は、あっちでもこっちでも、犬どもの
そのうちに、けんッ! と異様な啼き声とともに、二、三頭がくるくると狂い廻って、あらぬ方角へ、矢のようにすッ飛んで行ったかと思うと、バタ、バタとつづいて
「やっ。やっ?」
犬同心も、何か、絶叫し出した。
「阿能っ。――逃げろ」
「ええっ、畜生。胸がすうとした。――大亀、逃げッこだぞ」
ふたりは、
もうことばを
大亀は、
久しい殺生禁断で、
が、裏には裏があり、闇舟屋も闇漁師もいるらしい。屋敷すじへもそっと入るし、料亭はみな
で、京橋尻の河岸ぞいなどは、一時はさびれ果てたものだが、近頃では、また、たそがれれば裏の
「久助さんてば、嘘ばかりおいいだね。ふたりとも、影も形も見せやしないじゃないか」
お袖は、
味噌久は、三ツになるお袖の子のお
「ほんとに、どうしたんだろう。もう、日が暮れるっていうに」
ゆうべ別れた大亀と阿能のあれからを想像して、味噌久はふと夕雲に、不安な眼をあげた。
「さ、お燕ちゃん、お
お袖は、子どもを抱きに来た。そして台所の軒下に、雨戸を横にして囲った
夕闇にこぼれる、湯の音にまぎらして、
「オオ、きれいにおなりだこと。こんなよいお子になったのに、お燕ちゃんのお父さまは、なぜこんな可愛いお顔を見に来ないんでしょ、お燕ちゃんも、お父さんに会いたかろうにね」
聞く人もなしと思ってか、若い母親は、無心なこと神のような肉塊をあいてに、心のうちのものを、
物干しのてすりに暮れ沈んでいた味噌久は、小耳にはさんで、身につまされ、
「……むりもねえ。そうだろうなあ」
と、口のうちで呟いた。
「十七で、あの子を産んで、あの子がいま三ツ、お袖さんは、まだ十九歳。――かわいそうだなあ、母親になるのは、若すぎらあ」
膝の蚊を、ぴしゃっと叩いて、かれはまた、やかましい禁令のことを思った。もしや、ゆうべの二人は、やり損なって、捕まったのではないかとおもい、じっとしていられなくなった。
「オヤ、久助さん、どこへ出て行くのさ」
「ちょっと、見て来ようと思って」
「行水が
「それどころじゃねえ」
久助が出て行ったので、彼女は夕化粧をし、お燕の額にも、
そのとき、門口で、コツコツと、杖の音がした。
「あ。お父さん、お帰んなさい」
「帰ったよ。暑かったのう、きょうも」
「お袖さん。ちょっと、もういちど耳を」
小声だが、あわただしげに、外から戻って来た味噌久が、土間の暗がりに、身をすくめてさし招いていた。
「なにさ。顔いろを変えて」
「なんとなく、気になるので、その辺まで、ちょっと出てみたら、いやもう町はえらい騒ぎなんで」
「なにがさ。よく落ちついて話しておくれな」
「だから……今朝、あっしが、
と、うしろの戸口をキョトキョト見て――
「お犬小屋の一件さ」
「あ。あのふたりのことかい」
「やったらしいんで。……もう町じゃ、その噂やら
「そうだろうね」と、お袖も、ニコと笑った。
「じゃあ、この春殿中で、浅野様が吉良上野介を
「まさか、それほどでもありませんがね。しかし、腹ん中じゃ、あの時よりも、こん夜のほうが、誰でも胸をスウとさせていましょうよ。――だが、
「アア、いいよ。……だが、そんなに手配が廻っては、あの人たちも当分、ここへは寄りつけまい」
「梅賀さんにも、耳打ちしておいておくんなさい。じゃあ、そのうちまた」
いちど飛び出したが、味噌久は、また、あたふた戻って来て、
「お袖さんお袖さん。なんだか町調べの役人や手先が、こん夜は、川筋の軒並みを洗ってあるいているそうだ。気をつけねえといけないぜ」
早口に注意して、どこともなく、
導引の梅賀は、湯から上がった体を拭き、浴衣、
「お袖、阿能と大亀が、とうとう馬鹿を、やったらしいな」
「いまのを、聞いていたんですか」
「なあに、客先の茶屋で療治をしているうちにもう、噂は聞いていたのよ」
「
「
飯茶碗を持ちながら、梅賀は、ちらと、そこにうたた寝しているお燕のあどけない寝顔を見て、
「こいつの父親というやつも、気のしれねえ男のひとりだ。今どきの若いやつらは、お犬様にかぶれて、生ませッ放しをあたり前にしていやがる」
「ま。そんな、ひどいこといわないでも」
「ふ、ふ、ふ。……お袖。こんなに薄情にされても、てめえはまだ市十郎を待っている気なのかい」
「だって、しようがありませんもの。あちらはやかましいお屋敷の部屋住みという御身分だし」
「笑わせやがる。市十郎は養子だぜ。きまった家つきの娘もある」
「でも、わたしとは子を
「待つというのかい。おそれ入った
「大亀さんとは、
「そいつあ、当てになるまいよ。なるほど、大亀と市十郎とは、親戚かもしれねえが、身寄りはおろか、どこへだって、拙者は以前大岡亀次郎と申した者でござるとは、名乗って歩けねえ日蔭者だ。……といやあ、お袖もおれも、同じ日蔭の人間だが」
畳に落ちた涙の音が、ふと耳を打ったので、梅賀も、
近所の者でも、梅賀は盲とたれも信じているが箸のさき、またさっきお燕の寝顔を見た
ふたりの話しぶりも、どこかほんとの親子らしくない水くささがあった。これは近所でも感づいているが、養女と聞いているだけで、深い事情を知っている者はない。
お袖のまことの父は、秋田淡路守の家来で、わずか五十石暮らしの軽輩だった。お袖がまだ五ツの年、大病して、医者にも見離された折、その病の薬には、燕がよく奇効を奏すと人から教えられ、吹矢で燕を射たことが発覚し、あいにくその日が、将軍家の
縁につながる身寄りもみな、それぞれ罪に問われて、世を去り、離散して果てたが、お袖はかえって人の手に病も
十七。かの女は、恋を知った。
その頃、よく水茶屋へ通って来た、若い武家息子たちのうちの一人に。
赤坂辺にやしきのある大岡市十郎と名も初めてのときから覚えた。
その市十郎を連れて来たのは、従兄の大岡亀次郎で、亀次郎の方が、二つ三つ年上でもあり
(とり持ってやる)
と、亀次郎が、あの夜ついに、導引の梅賀の家を借りて、灯もない一間へ、若い
梅賀は、おもて向きは、
が、老賊の老巧で、やりたい
しかしその家は、
亀次郎は、
従弟の市十郎も、うかと、ひッぱりこまれたのである。気がついたときはもうおそい。お袖とはできていたし、養子の身なので、養家にたいし、それは怖ろしい弱点であった。
悔いは、かれの良心をさいなんだが、お袖との
市十郎も、嘘をおぼえ、悪智をしぼり、教養を
ところが、幸か不幸か、大岡市十郎がお袖と知りそめた翌年、一族の亀次郎の家庭に、兇事が起った。
いや、同姓の大岡十一家に、みな難のかかって来た事件だった。
それは、亀次郎の父、大岡五郎左衛門
親戚の他の大岡十家も、みな
市十郎の養家、大岡忠右衛門の家も、まぬがれなかった。家族みなが、共にかたい禁足である。どんな恋も、この厳戒の眼と、この
この期間――閉門一年四ヵ月のあいだに――市十郎はわれに返った。かれの素質は反省にかえる一面をもっていた。
――が、
かれのあばたは、
「市十郎さま。お
家つきのお
ふたりは、ふたりが
「茶ですか。さあ、よしましょう」
市十郎は、読書からちょっと眼をはなしたが、体は机から向きを変えず、お縫には、すぐ去って欲しいような顔に見えた。
が、彼女は、市十郎が十歳のときから、共にひとつ家に暮らしているので、恋人同士のあいだに触れあうような、細かい神経の
「おつかれでしょう、そんなに、御本ばかり読んでいらっしって」
「いいんです。
「お父上も、お母様も、市十郎は、まるで変った。閉門の事などから、どうかしたのではないかなどと……陰で心配していらっしゃいますよ」
「出かければ、出かけるで、やかましいし」
「ほんとにね。でも、三、四年前は、いくら何でも、あんまりでした。毎晩のように、夜遊びにばかり出ていらしって」
「…………」
うるさげな彼の顔いろにもかまわず、お縫はひとりで話しかけていた。
「いちどなんか、夜明け近くに、塀をこえて、お帰りになったことなんかあったでしょ」
「縫どの。お
「まだ、
「自分で閉めます」
「じゃあ、おさきに、
もういくらか、かれの妻らしくさえしている風に見える。
市十郎には、感興がない。きらいではないが、好きでもない。
読書。かれは常に、今でも、その中に潜入していないと、自分の心が、なおどこか危うげでならない。
三年前の閉門は、まこと、自分の危うい青春のわかれ道を、一歩前で救ってくれた事だったとおもう。
古人の書に、素直に
「……おや?」
かれは、ふと、
「おい。……市の字。おぼえているかい。おれを」
「た、たれだ、そちは? ……」
息をつめて、
「わかるめえ。わからねえはずだよ、
悪友仲間のきずなほど、宿命的なものはない。
兄弟のきずな、主従のきずなは、なお断ちえても、悪い仲間の籍を抜けて、正しきへ返ろうとする道はむずかしい。
かれらの、仲間心理にいわせれば、
(ナニ、真人間へ。それやア誰だって、考えねえ馬鹿はあるもんか。だがいまさら、てめえひとりで、いい子になろうったって、そうはゆかねえ。虫がよすぎらあな)
そういうにちがいないのである。
その夜――
この秋を、書に親しんで、燈下しずかに、過去の非を心から洗っていた市十郎の書斎へ忍びこみ、
「ふん、勉強か、於市。……ええ、おい。いやに学者ぶッて、なにを読んでるんだい」
と、亀次郎は、縁がわから
「なアんだ、論語か。いまさら、論語でもあるめえに、
日ごろ憎悪する相手にめぐりあって、いきなりその
「孔子だの、
「亀次。……し、しずかにしてくれ」
たまりかねて、市十郎は、
亀次郎の大亀も、首をすくめて、ペロと、舌のさきを見せ、
「まだ、起きてるのか。……奥は」
「寝たが、もし、
「おらあ、いいよ。かまわねえよ」
大亀は、わざといって、
「――だが、おめえは養子。気をつかうのもむりはねえ。しずかにしよう」
「亀次。いったい、あれから、どうしていたのか」
「長いはなしは、あとでする。とにかく市の字。
「え? ここへか」
「ほんの当座だ。二十日もたてば、十手風もきっと
かれは、のそのそ上がって来た。そして書斎のすみの戸棚をあけ、もうわが
大岡家の紋は、
そのせいか、赤坂のやしきの地内には、昔から豊川稲荷を
丘の西裏から、一すじ、ほそい道がついていた。これは、聞きつたえた町の信心家が、いつとはなく踏みならしたお詣りの通い路で、地境の柵のやぶれも、やしきでは、
「……まあ。いい気もちそうに、寝てしまって」
稲荷の祠と、背なか合せに、
そっと、乳くびをもぎ離すと、乳のみ子の本能は、かえって、痛いほど吸いついて、音さえたてた。
「……もう、いや、いや。そんなに」
若すぎる母は、身もだえした。からだじゅうの異様なうずきが、そのあとを、うッとりさせて、官能のなやましさと、こころに
「お袖さん。……たんと、待ったかい」
ひょっこり、そこへ味噌久がのぼって来た。きょうは、本屋の手代となりすましていた。
「見附辺から、くさい奴が、あとを
「あんまり待ったので、もう帰ろうかしらと、おもってたところさ」
「ウソ。嘘いってらあ、お袖さんは。――市の字と会わねえうちに、帰れといったって、帰るもんかな」
「そんなに、わたしの気もちが分ってるなら、さあ、あそこへ行って、市十郎さまを、はやく、呼び出して来ておくれなね」
「まア、そうセカセカいわなくても……」
と、久助は、煙草のけむりを、ぷウと、輪にして、彼方の大屋根を横目に見ながら、
「市の字を、連れて来るッたって、お袖さんのいうように、そう
「臆病だね、久助さんは」
「その久助に、手をあわせて、後生、たのむ、一生恩にきるからと、あんなに泣いて、かき
「そんなこと、いいからさ」
打つ真似して、追いたてると、久助はやっと腰をあげ、ひと風呂敷の和本を、肩から脇にかかえ、
「じゃあ、ここを
「おねがい……」
お袖は、拝むようにいって、味噌久を見送った。もとの道からそこを下りて行ったかれは、丘のすそを巡って、やがて大岡家の表門のある赤坂筋の広い通りを歩いていた。
大岡家は、十一家もあり、ここの忠右衛門
男子がないので、同族の弥右衛門忠高の家から、七男の市十郎(幼名は
ところが、養子の市十郎も、年ごろになるにつれ、近頃の若い者の風潮にもれず、おもしろくない素行が見えだした。
で、お縫との結婚を、こころに急いでいるうちに、同族五郎左衛門
――とはいえ、家つきのお縫はまだ二十歳、決して
きょうも。――その時刻に。
お縫は、門を出て、
と、道の木蔭にたたずんでいた味噌久が、
「あ。お嬢さま。……大岡様の御息女さまでいらっしゃいましたな。どうも、よいところで」
前へまわって、頭を下げた。
「まいど、ごひいきになりまして」
「たれなの。そなたは」
「
「お目にかかっているというの」
「はい、はい。今日も、実はその、かねがねお探しの
「おかしいこと。市十郎さまは、このごろ……もう一年も二年も、まったく外へお出になったことはないのに」
「いえいえ、お嬢さま」
と、味噌久はあわてて前言を打消し――
「よくお目にかかったのは、以前のことで、近頃は、おてがみなどで、これこれの書物が、もし売物に出たら、ぜひ持参せいと……。はい、おことづてを、いただいておりましたんで」
「そうかえ」
――お縫は、小首をかしげたのち、
「じゃあ、御門をはいって、左り側の脇玄関から、用人にいって、取次いでおもらい」
「そこを、お嬢さまからひとつ、もう一ぺん、若旦那さまへ、じかにお取次を、おねがいできませんでしょうか」
「おや、なぜ」
「あの御用人のお年寄が、何か、勘ちがいなすったとみえて、先程、お取次をねがったところ、市十郎さまは、そんな書肆は知らぬと仰っしゃるッて、お断りをくッちまったんです」
「だって、御存知なのだろう。おまえ」
「ええ、それやアもう、お
「じゃあ、待っておいで」
お縫は、かれをおいて、気がるに、やしきの内へもどって行ったが、やや暫くして、ようやくすがたを見せたとおもうと、
「久助とやら、市十郎さまは、やっぱり、そなたのような者は知らぬと仰っしゃる。そして、蔦屋へ書物など註文したおぼえもないということです。おまえ、どこぞのお客さまと、やしき違いしているのじゃありませんか」
いい捨てると、かの女は、おもわぬ暇つぶしを取りもどすべく急ぐように、
忠右衛門
が、その忠右衛門も、子のためには、意志を曲げて、きょうは、老中の秋元但馬守の私邸を訪うて来たとかいって、
「
風呂を出て、
――そんなに、養子の市十郎とお縫との婚礼をはやく実現したいなら、なぜ手をまわして、柳沢吉保に
(おぬしも、浅野
親戚でも、その愚をわらう者が多かった。――が、忠右衛門は、ついに一度も、柳沢家の門をくぐらなかった。
秋元但馬守は、去年、老中の欠員に補せられたばかりで、この人へなら近づいても、自分に恥じないような気がした。そこで、思いきって、出かけたのである。結果はよかった。近いうちに、拝謁の機会をつくってやろう、そしてその後に、婚儀のおゆるし願いを出したがよかろう、といってくれた。
――と、聞いて、かれの妻も、
「ちょうど、むすめも
と、日数をかぞえたり、若夫婦のために、奥の書斎と古い一棟を、
夕食のしらせに、お縫も来て、むつまじい膳の一方に加わった。けれど、お縫には、食事のたびに、近ごろ、物足らないおもいがあった。
十日ほど前から、市十郎が、朝夕とも、食事を、奥の書斎に運ばせて、家族のなかに、顔を見せないことだった。
「どうなすッたんでしょう、市十郎さまは。……ねえ、お
「いや。気ままにさせておけ」
忠右衛門は、顔を振った。
「夜も昼も、読書に没頭しておる様子。多少、
「でもお父さま。たまに私がのぞいても、とても恐い顔なさるんでございますの」
「よいではないか。勉強に熱しておると、女など、うるさいのだ」
そうかしら? ――かの女には、もっと不審もあったが、告げ口めいた事を挙げて、ほんとに父を怒らせてはならない、とも
その不審で、いまも胸につかえている一つは、きょうの昼、
市十郎も、知らぬというので、あんなにニベなく断ってやったのに、夕方、帰宅して召使にきくと、押しづよく、あれからまたもやって来て、「お嬢様にも今そこでお目にかかりまして……」とか何とかいって、小間使いを通じて、とうとう市十郎の書斎に通り、何か、だいぶ話して帰ったというのである。
市十郎にきくと、市十郎は、「会わぬ」と首を振ッたきり、きょうは特に気色がよくない。――お縫はあまり物事にくよくよしない性格だが、「なぜ、私に嘘を……」と思いつめると、食後の
こんな時には、琴でもと、部屋にもどって、昼、習った曲をさらいかけたが、それも心に染まず、
窓の外にも、冬ちかい
この屋敷ができない前からあったという古い池がある。茂るにまかせた秋草が水辺を
かの女は、池をめぐって、知らず知らずその灯の方へ足を向けていたが、ふと、薄月夜のひろい闇いッぱいに、耳をすまして、立ちどまっていた。
「オヤ。幼な児の泣き声がする……? どこであろ。たしかに、小さい子が泣いているような?」
それは、遠くして、遠くないような。夜風に絶え、また夜風に聞こえ、
日の短い晩秋といえ、もう昼からのことである。木々の露もうす寒い宵ともなるのに、丘の稲荷の
「どうしたのよ、お袖さん。……さ、帰ろう。帰って、またいつか、出直したらいいじゃねえか。……ねえ、おい。お袖さんたら」
味噌久は、そばに立って、しきりと、なだめたり、
泣きベソの久助と、日頃、仲間からいわれている味噌久の方が、今夜はよッぽど、泣きたかった。
「よう、お袖さん。いい加減にもう、おれを困らせないでくれやい。きょうは、ありッたけな智恵をしぼって、市の字に、会うことは会ったんだが、どうしても、ここへ出て来ねえんだから仕方がねえ。いくら、おれが
「久助さん……」
お袖は、紅く濡れた眼をあげて――
「だから、わたしは、あのひとに捨てられても、仕方がないっておいいなの」
「そ、そんな、おッかない眼をして、おれに喰ってかかっても、おれは知らないよ。……が、もともと、三千石の御養子なんぞに、おまえが、かまわれたのが、悪縁さ」
「なにさッ。――三千石が何さ!」
「おや。怒ったのかい」
「あたりまえ……」
と、お袖は、泣く子の顔へ顔を伏せて、泣きじゃくった。
「お、おまえなんか……久助さんなんか、知ったことじゃあるものか。わたしと、市十郎さまとの仲は、そ、そんな水くさいんじゃありませんよ」
「あれ。まだあんなことをいってらあ。……じゃあ、罪だから、いッそ、はっきりいってしまうが、市十郎は、きょうこの久助に、こういったんだぜ」
「あのひとが」
「うむ。おれにいうのさ。――自分は、ふかく
「えっ。市十郎さまが、そんなことを」
「だからもうお袖さんも、あんなやつのことは、思いきって、ここはきれいに、帰るがましだとおらあ思うがネ」
「ほ、ほんとかえ。久助さん。市十郎さまが、おまえに、いったということは」
かの女は、にわかに身を起した。立ちよろめくのを久助があわてて抱き支えると、お袖は、久助の手へ、子を抱かせて、ひとり、よろよろと歩みはじめた。
「あっ、お袖さんっ。……どこへゆく。どこへ?」
追いすがる味噌久へ、
「うるさいね。もう、おまえなどに、頼んでいられるものじゃない。自分で、自分の男に会いにゆくのがなぜ悪い。市十郎さまの心をはッきりときかないうちは、私は死んでも帰らないよ。――お
「ば、ばかなことを、いいなさんな。あいては、
「その御大身ぶりが、癪にさわる。御大身なら
それはもう久助にいっているのではない。かの女は、
ふと、お袖の見たあいての女性も、
「?」
「そなたは、どこの、誰ですか。……そして、どこへ行こうとなさるんですか」
やがてその女性は、しずかに、――けれど底には女性特有のきびしい針をふくんだふるえ声で、こう
水と火だった。
お袖は、下町ことばの、つよい響きと、竹を割るような感情で、反撥した。
「大きなお世話、どこへ行こうと、わたしの勝手でしょ」
「そうは、ゆきませぬ」
「なぜさ」
「ここは、お庭外でも、大岡家の
「市十郎さんに訊くがいい。市十郎さんのいる所へなら、庭はおろかお部屋へも、わたしは上がって行きますよ。行ッて悪いわけはないんだから」
「いけない! わたくしが、そんなこと、ゆるしませぬ」
「ゆるすもゆるさないも、ありやしない。自分の
「な、なんですッて」
お縫はもう口惜しさに、いい返してやることばも出ない。紙より白い顔に、その全身に――ふるえを走らせているだけだった。
人中の――しかも十三、四歳から水茶屋にもいて、苦労にもまれ、
が――言葉の上では強くても、お袖には、
――このむすめが家つきの――そして市十郎と同じ家にいるのかとおもうと――涙につきあげられて、なおいわずにいられなかった。
「そちらは、家つきのお嬢様か何か知らないが、わたしと市十郎さんとは、可愛い子まで
「おだまりっ――」
と、お縫も、負けていず、
「これから先へ、ひと足でも入ると、屋敷の者を呼びますぞ」
「ああ、お呼び。誰であろうと」
「行っては、いけないっ。――あれッ、たれか、来てえっ――」
それより少し前に。
用人の
その
屈強な若党のひとりが、それと一足違いに登って来て、いきなり、
「この女め」
と、お袖を
お縫もそこに、泣き伏している。
この
その後。
若党と、仲間たちは、気を失ったままのお袖を、粗末な駕籠に押しこんで、丘の裏から夜の町へ担ぎ出した。四谷の
何かの
「よしっ、この辺で」
とたんに、仲間たちは、並木の暗がりへ、駕籠ぐるみ、かの女のからだを
その夜じゅう……。また、次の日も。
大岡家は、家じゅうが、重くるしい苦悩の沼に沈んでいた。十日余りも同じ日がつづいた。
ゆうべからの
「おい。……おい。……市の字」
市十郎の書斎には、机の前の、市十郎以外に人は見えなかったが、どこかで、こう低い低い小声がしていた。
「とうとうばれたな。どうする気だい」
隅の戸棚の内側から、その戸の裏を、爪でコツコツ叩きながら、外へむかって囁くのである。
「おたがい、足もとの明るいうちに、逃げ出そうぜ。なあ市の字。世間はひろいよ。しかも、こんな狭ッこくて面白くもねえ世間とはちがう。おれも、二十日はここに辛抱してと思ったが、おめえの尻が割れて来ちゃあ、いたくもいられなくなった。……お袖の身になってみれやあ、こう出てきたのもむりはねえ」
もちろんそれは市十郎に話しかけているのだが、市十郎は、机へ
眼は、書物へ落していても、もとより市十郎の心は、どこにあるやら、乱れに乱れ、生きているそらもないにちがいない。夜来、家族も、召使も、かれの部屋を、覗きもしなかった。が、一切はかれにも分っていた。かれは、自ら作った牢獄の中に、自ら最大な
「おれも悪かったのさ」
返辞はなくても、戸棚の中の小声は外の雨のように、独りぽそぽそと話しかけてやまなかった。
「お袖には、前々から、おめえに会わせてくれ、連れて来てくれと、おれもどんなに、せがまれたかしれなかった。ところが、この間も話したようなお犬小屋一件からは、こッちの身一つも、危くなり、梅賀の家へも寄りつかねえので、女心のやきもちから、お人よしの久助をくどいて、とうとうやッて来ちまったにちげえねえ」
戸棚の声がとぎれると、雨の音が、耳につく。雨は、日暮れに近づくほど、いとど
「……なあ、
「あと、十日も経てば、お犬小屋の一件の
「しッ……しっ」
市十郎は、うしろ向きのまま、机の下で手を振った。
「おるか」
男の声だ。ふすまの音あらく、入って来たのは、忠右衛門とおもいのほか、市十郎にとっては、その養父より恐い実家の兄の大岡
坐るか坐らぬ、うちにである。
主殿はやにわに、机の上の書物をひッ
「えい、おのれが。なんの為に、こんなものを読みおって」
と、障子へ向って、
「弟っ。これっ、
主殿は、昂奮している。その眼からは、市十郎の沈黙が、いかにも冷然たる姿に見え、主殿の激越な心の波を、いやが上にも
「
畳を打って、膝を、つめ寄せながら、
「家祖、
声を
「さ、そこじゃ。そこのところは、この兄も、刀にかけておちかいする。さほどまでの弟とは思われませぬと――たった今、忠右どののお部屋での、お三名に申して来たのだ。……さ、察してもくれやい、弟。そう申すしか、この兄の立場があろうか。たとえここに、亡きお父上が御存命でおわそうともじゃ」
市十郎は、首を垂れ、
「のう、弟。真実また、貴様の心もそうであろ。……ここに両三年、閉門以後の
「あ……兄上」
「まあ、まて」と、抑えて――「むごいことをするおれかい。まかせろ、おれにまかしておけ。たとえ伝来の家宝を売っても、女に手切れの金をつかわし、子どもの始末もつけてやる」
「そ、それがです、兄上」
「なんとした。まだ、未練か」
「未練は、ございませぬが……女が、承知してくれませぬ」
「ばか者っ」と、一
「だから書けというのじゃ、あいそづかしの切れ状を。――それを見せて、兄が切ってやる。もし、わからぬことを、
「最後の手……と、仰っしゃるのは」
「貴様の一生には代えられぬ。ひいては、おととし、叔父五郎左衛門の不首尾にかさねて、またも、公儀の耳にまずい噂が聞えては、大岡十家の
「げッ。……手にかけてもと、おいいですか」
「何をおどろく。さてはなお、未練をもつか」
「ふ、ふびんです、兄上。罪はまったく、この市十郎にあるのですから」
「いいや、貴様は、女を知らんのだ。なんで、水茶屋の女などが」
「そ、それが、お袖ばかりは、ありふれた世間の女とは」
「どうちがう」
「気だても……」
いいかける弟へ、主殿は、いきなり手をのばして、その襟もとをひッつかみ、
「うぬ、のめのめと、まだ眼がさめぬか」
と、満身の力で小突いた。
肉親への、愛情の怒りには、どんな他人の仇に怒るよりも、烈しい本能が加わるのだった。
まッ青になった市十郎の顔は、
「切れ状を、書くか書かぬか。さ、いえっ。いわぬか」
「……書きます」
「なに、書くと」
「け、けれど、兄上。おねがいです。万一
「そんな、ばかな約束を、貴様に与えられるか。忠右どのや、お縫どのにたいしても」
「では……嫌です」
「なにっ。嫌だ?」
「お袖がほんとに
「この、大たわけ!」
離した手は、あっというまに、市十郎の横顔を、ぴしゃッと打った。
顔をかかえて、
「養家のてまえもあるに、よくもよくも、そのようなことがいえたものだ。この体を、たれのものと思いおるか。さむらいの家に生れながら、祖先にたいし、御公儀にたいし、身のほどもわきまえぬ奴。こ、この、生れぞこないめが!」
撲られている弟よりも、
「こう撲るのは、おれではないぞ。貴様ごとき馬鹿者を、おれには、撲るまでの大きな愛は持てぬわい。おれの身をかりて、貴様を打ったのは、亡き父上だ。父上とおもえ、この拳を」
と、突ッ放して、
「もう一ぺん、考えろっ。ようく心を落着けて、考えてみい」
主殿は、いいすてて、室外へ、立ち去った。廊下の外へ、用人の嘉平が来て、大岡兵九郎が来た旨を告げたからである。
兵九郎というのは、やはり大岡十家の一軒で、市十郎兄弟の叔父にあたり、市十郎の養子縁組は、この兵九郎の口ききだった。――で、やがてお縫との結婚にも、
日が暮れた。……雨はやまない。
たれも彼の部屋へ、燭を運ばなかった。夜ごとの
蒼白な顔ひとつが、そこに、
「すみませぬっ。……兄上。亡き父上。……また養家の御両親さまにも」
かれは、独りして、手をつかえた。
「――生れぞこないの市十郎には、迷いのみ出て、どうしてよいか分りませぬ。ただ、お縫どのに、この上の
むくと、かれは
「あッ。あぶねえ。――と、とんでもねえ真似をするもんじゃあねえ」
あわてたので、戸棚の中の大亀は、頭をぶつけ、戸を
「行こう! 死ぬくれえなら、町へ飛び出そう。どッちみち、おれも、今夜がおさらばだ。――おいっ、お袖のいる所へ行こうぜ」
ぐいぐいと腕を引ッ張った。いちど、短刀を取り落した市十郎の手には、従兄のそういう力に、抗し得ない魅力をおぼえた。その力にまかせて行けば、そこには、お袖がいるのだ。気まま仕たいままな、享楽の灯があるし、苦悩を知らない
「おっ、たれか来るっ。早くしろ」
「兄だっ。ああ、兄上……」
「ええ、もう。何を、ベソ掻いて、うろうろするんだ。おれの腕に、つかまって来い。大船に乗った気で――」
腕に腕をかたく組んで、ずるずると、廊下へ出、そのままぱッと白い
「ややっ。待てッ弟。――何者だっ、もうひとりは」
声は、
異様な物音に、
「主殿、ぬかるな。ひとりじゃないぞ」
兵九郎も、ばッと降りて、一方へ槍をつけた。穂さきを、雨に洗わせながら――。
叔父の声に応じて、主殿も、刀へ手をかけ、雨に
「オオ、何やつか知らぬが、弟を
すると――墨のような闇と雨との中で、ゲラゲラと笑う声がした。
大亀は、自分たちの住む世界とくらべて、いまのふたりの意気ごみ方が、おかしくて
「おいおい、叔父貴たち、あんまり騒がない方がお身のためだぜ。それを、
「な、なんじゃと?」
「世間へ分ったら、大岡十家は、また三年前の閉門
「身寄りの? ……。と申すそちは」
「知りたいか。知って、腰をぬかすなよ。同族五郎左衛門のせがれ、亀次郎だ」
「げえッ。か、かめ次郎じゃと」
「聞かない方がよかったろう。だが、なにもヘボ親類へあだしたり、同族どもの細扶持を喰って歩こうなんて
かれは、市十郎の腕を、いよいよ強く脇の下へ抱きこんで、
「なあ、市の字」
と、すぐ側の顔を見た。
市十郎の手は、無意識に、またも自分の腰の
「いけねえよ、いけねえよ。死のうなんて、ケチな量見。このおれを、見るがいいや」
「ううむ……世をおそれぬ、不敵なやつ。親類でも手にかけて、そのそッ首を公儀にさし出さねば」
兵九郎の槍が、殺意を示し、こう憎み、罵ると、
「よせやい、叔父貴。おれを殺して、

そのとき、ふッと、忠右衛門が、手燭の明りをふき消した。風かのようであったが、次のことばによっても、忠右衛門が意識的に、消したにちがいなかった。
「行け。行くがいい。……もう止めぬ。ふたりとも、迷うだけ迷って来い。若いのだ。――しかし、気がついたらいつでも帰れよ。亀次郎にも、帰ればいつでもあたたかくそちを抱いてやる家はあるぞ」
「ないっ――」
彼は、
「おれには、ないっ。だから広い
「いいや、ある。忠右衛門の手もとへ来い」
「そして、縄付きにして、公儀へのいいわけに突き出すか」
「そんなことをするほどなら、ここを去らせず、汝の首ぐらいは、ひん抜いてみせられぬことはない。老いたりといえ、忠右衛門だぞ。――市十郎。そちにもいっておく。帰りとうなったらいつでも帰れよ。帰ってくれよ。……お、お縫も……」
いいかけて、さすがに、ほろと、声をかすらせ――
「お縫も、いつまででも、待っておろう。……さあ行け。あまり
と、自身、戸ぶくろから雨戸を繰り出し、一枚一枚、敷居のうえを送り出しながらまたいった。
「さあさあ。兵九郎どのも、主殿どのも、風呂場へまわって、浴衣に
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第二章
まだまだ眠たい目を、むりに刺戟されて、市十郎は渋そうに眼をあいた。朝の陽が、破れ障子の穴から射しこみ、かれの寝顔と、もひとつの、
「お目ざめ?」
と、女は、
その口臭、
「ううウむ……」
と、かれは伸びをして、何か堪えきれぬ心のものを誤魔化しながら、むくと、起きかけると、
「ま。……なぜだろ、この人は」
と、女は寝たまま、
すると、蒲団の横に立ててある小
「おや、お隣りは?」
「あら、覗いちゃいけないよ。それでなくても、この坊やは……」
と、女はその恰好のまま、ことさら、市十郎の首のねを、ぎゅうぎゅう、息づまるほど抱きしめて、
「
「どれどれ。どんなふうに」
ゆうべからの悪遊びだが、大亀はまだ気分を
「――あら、あらっ。ま。ひどい……」
屏風の蔭だった所からも、またべつな女が飛び起きた。小屏風一つを境にして、そこにも二つの枕がころがっている。
ここは神田辺の汚ない風呂屋の裏二階なのである。
ふたりは、今朝でもう三日も、自堕落をやっていた。
さきおとといの雨の闇夜、大岡家を飛び出して、二人とも、濡れ鼠の姿で、
「おい、市の字。何をぼんやりしてるんだ。
大亀は、寝ても醒めても、くッたく知らずだ。天性、遊蕩児にできているのか、女たちを、怒らせたり、笑わせたり、嬉しがらせることに、妙を得ていて、しかも、
それにひきかえ、市十郎は、ここへ来ても、養父の最後のことばがなお耳から去らなかった。あの後での、お縫の心根を察してみたり、兄や一族の怒りを考えたり……また、赤い蒲団の中に寝てさえ、何かに、夜どおし自責されたり――身をここにおいているだけで、
「短い命で、この世を、楽しみきろうッていうのに、そんな気の小ッせいことでどうするか。――くよくよするなッてことよ。お袖にも、今にきッと逢わせてやらあな」
風呂場の流しで、市十郎に背中を洗わせながら、大亀は、傲然と、説教した。その背中には、刀傷が幾ヵ所もあった。
「……
――欲望のかたまりそのもののような五体を拭きながら、かれはまた、小声になって、囁いた。
「金さ。金だよ。何とか、金を手に入れて来なくッちゃあ、この先、どこを泳ぎまわるにも、おもしろくも何ともねえやな」
大亀は、ニヤと凄味を見せて笑った。湯から上がったばかりなのに、市十郎は、
――が、今となっては、あらゆる悔いも
すると、下座敷の
「おい。
と、
「雛鳥ッ子たあ、何だ。ばかにするな」
大亀は、梯子の中途から云って、
「気にさわッたかい」
――武家ごろはセセラ笑った。
「おれは、ここの亭主の友達で、風呂屋町の
「払うとも、払うさ。なんだ三日や四日の
「ふん、そうか。さ、払え」
「だが、今は。今に払ってやる」
「なにを」
三平は、右の手に、大亀の胸ぐらをつかみ、左の手に市十郎の腕くびを
「このチンピラ
「いや、きょうは屋敷から取りよせるつもりだったのだ」
「屋敷? どこだ、てめえ達の巣は」
「それだけは、訊かないでくれ。きっと、持ってくる。……市の字。すまないが、おまえだけ、残っていてくれ。おれはちょっと、屋敷へ行って、用人に金を
「きっと、午までには、持ってくるか」
「必ず、持参します。――じゃあ、市の字、淋しかろうが、暫くひとりで」
と、大亀は、その軽い舌先と、変に応じて弱くもなる物腰とで、さすがの赤螺三平をも煙に巻き、支度もそこそこ、朝飯前に往来へ飛び出してしまった。
「こう天気はいいし、朝ッぱらからでは、何とも、金に巡り会いようがねえ」
悪心も、途方にくれた。十月末の清澄な昼。くまなき太陽。かれの悪智も、働き出るすきがない。
「そうだ、
ぶらりと、彼はあれ以来の、梅賀の家をのぞいた。
子どもの泣き声が聞える。お燕だな――と思いながら、土間へはいって、裏の川まで見通しの奥を覗き、
「お袖。いるかい?」
「たれだい」
――案外、返辞は男の声。
「おや、味噌久じゃねえか」
「オオ、大亀か」
「どうしたい。子どもを背負って、台所なんぞしやがって、不景気な」
「だって、この子を、
久助は、背なかで泣きぬくお燕をあやしながら、箸や茶碗を洗っていた。
「ところで、お袖は……?」
「あの晩きりさ。……
「え。あの晩きりだって」
「どうしても、市の字に会わせろというので、大岡家へ連れて行ったさきおとといの晩からさ。……ここへも、どこへも、帰って来ねえ」
「はてな。……まさか、身投げをしたわけでも、あるめえが」
「それとも、屋敷の奴らにでも殺されたかと、心配で堪らねえから、実あ、きのう思いきッて、大岡家の
「梅賀も、留守かい」
「これも四、五日前に出たきりだ」
「久助、とにかく、朝飯をくれよ。飯を食っての、思案としよう」
大亀はすぐ寝そべッた。
頬杖ついて、家の中を見まわしていたが、やがて、飯ができると、悠々と
「久助、こんな物はもう洗わなくッてもいいや。それより夜逃げ屋を呼んで来い」
「何だい、夜逃げ屋というなあ」
「道具屋だよ。どこかそこらに、古道具屋があるだろう。ぐずぐずしてると、てめえも、お犬小屋一件の御用風に抱きこむぞ」
味噌久を
そのうち、二両を、味噌久へ渡して、
「これだけやるから、てめえはこれを持って、市の字の体を、遊び風呂の
風の如く、大亀は、町の辻に、彼を捨てて、その姿を消してしまった。
久助はすぐ丁字屋をたずねた。
市十郎は、裏二階から首をのばして待っていた。大亀とおもいのほか、久助が来て、しかもその背に、わが子が負われているのを見て、ぞくと全身の血を凍らせたふうである。女たちは、ここの内緒へ、久助が勘定を払ったのを見て、
「オオ。可愛い子だ」
と、お燕を抱きとって、あばき合ったが、やがてそれが市十郎の子だと知ると、俄然、邪けんに突ッ返して、
「まあ、憎らしいね」
と、こんどは、市十郎をとり巻き、どうしても、返さないと、
女たちをもぎ離して、市十郎は逃げるように
「市の字。ひどいよ。逃げちゃあ、ひどいや。自分の子だぜ、この
久助も、うしろから飛んで来た。お燕のくびが、宙へ向いて、がくがく揺られぬいて来る。市十郎は、振り向いて、棒のように立ちすくんだ。
「亀次は? そして、お袖は?」
もう散り初めてきた柳並木を、市十郎は、
そして久助の口から、大亀の突拍子もない行動やら、お袖が、あの夜以来、消息がなくなったことなど聞いて――彼の顔は、お濠の水よりも青くにごった。
「どうする? ……。市の字」
お人よしの久助も、背中の子どもは、持て余し気味だ。市十郎の眼へ、つきつけるように、お燕の顔を見せた。
市十郎は、腕ぐみを解いた。そして素直に、自分の背なかを向けていった。
「わしの子だ。わしが負う。……久助、こっちへ背負わせてくれ」
十一月にはいった。寒さは心へもくいついてくる。
木賃を泊りあるいているうち、ふところの金もなくなってきた。味噌久は、冬空を仰いで、しょんぼり、嘆くようにいった。
「ねえ市の字。どこかで、何かやらなきゃだめだよ。泥棒はできねえの、たかりはいけねえのと、臆病なことばかりいッてたんじゃ、この子が、
お燕を、
寒さと、空き腹は、悪への盲目を駆り立てるが、大亀や阿能十のような先輩がいなくては、味噌久も、
いや、市十郎は、こうして毎日、泣く子を負って、町をうらぶれ歩くのも、今では何か、楽しみになりかけていた。――お袖、お袖、お袖はどこに。心は、常にそぞろだった。かの女の行方をさがすための、恋の苦労と思うと、
――だが、お袖の行方は
「アア、良い
久助は、前へ行く美少年の腰に気をとられていた。長身で色白な人だった。粗服だが、どこか
芝居小屋の多い堺町に近い抜け道――
から風に鳴る幾すじもの小屋
「あッ、ごめんなさいっ」
と、人ごみの間で、大きくわめいた。幼な子の悲鳴もつんざき、市十郎の胸をぎょッと
お燕は、久助の背なかだった。子どもを背負っているくせに、久助は、ふらふらと、美少年のうしろを
ところが、美少年は、一人ではなかった。数歩離れて、そのうしろから、同じように、黒布で、頭巾結びに顔をつつんだ侍が、ひそかに随行していたのである。
「おのれッ――」と、ほとんど間髪も容れず、久助の襟がみは、その武士の迅速な手に引ッつかまれ、路傍の煮売屋の
「何とした? 半之丞」
「お腰の印籠がございますまい」
「ほ。……ないわ。盗まれたか」
「こやつめです」
半之丞とよばれた随行の武士は、久助の手から印籠を引ッ
「お気をつけ遊ばしませ」
と、主人らしい美少年の手へもどした。
たちまち周りは人間の黒山をつくりかけた。口々に、
そのとき美少年の
「これか。……子どもがこれを欲しがるか」
と、久助の膝へむかって、ぽんと投げ与え、
ゆうべは、寺の縁へ寝た。こん夜はお竹蔵の竹置場に、むしろを
久助は夕方からあの印籠を売りにゆき、人目もないので市十郎は、抱いているお燕の顔に頬ずりした。どこかに、お袖の肌を思わせてくれる。
「お母あちゃまは、どうしたろうな。おまえも母をさがして泣くか。おお、よしよし。
折々、立って歩いたり、小声で子守唄をうたってやったり……そしてそのわが子守唄に、若い父は、感傷になって、独り涙をたれていた。
なんのために屋敷を出てしまったか。あやしい自分の気もちを今さら疑わずにはいられない。
従兄の誘惑に負けたのか。家つきのお縫とつれ添う将来が
――と、数えてきても、どれもこれも、それ一つが理由ではない。やはり最大の原因は、自分の内にあった。何かに吐け口を見なければやまない物騒な青春の火――その火が運命の
この
だが、この境遇を、自分はほんとに悔いているだろうか。真に、後悔しているなら、養父はいった(――迷うだけ迷って来い。そして目が醒めたらいつでも帰れよ)と。……今からでも前非をわびて帰れないやしきでもない。
にも関わらず、自分はこの子を捨て児にもしきれないのだ。こうしていれば可愛さはますのみである。本能というか、愛というか、われながら分らない
あらゆる理由はあるに似て、実は何もないのである。あるのはただお袖だけだ。もしお袖との相愛に祝福される境遇を得たら、ほかの理由はことごとく
「オオ寒。くたびれ儲けさ。どうしても買手がねえよ。宝の持ちぐされとはこのことだ」
やがて久助が帰って来た。売りあるいた印籠は、どこへ見せても売れないという。理由は、
葵の紋は、お犬様と同じだ。さわらぬ神に祟りなし、誰も嫌うのが常識である。まして久助の身なりとそれを見較べては、買手がないのは当然といえる。
「……だがネ市の字。こんな物を、ちッとばかり買って来たから、お燕坊に、やってくんな。この子に罪はねえものを。なあお燕坊。……オヤ、笑ったよ、おれを見て」
そこへ、夜鷹
「――おっ、蕎麦屋さん」と、久助はわれを忘れたように呼びとめて「熱いのを、
ふたりは、やがて、かじかんだ手に、夜鷹蕎麦の
「アア、
「お代りは? ……」と、蕎麦屋がいった。久助は、よほど、もう一杯といいたそうだったが、心のうちで、闘っているらしい顔をした。そしていいにくそうに、蕎麦屋の屋台
「蕎麦屋さん。実あ、金はないんだよ。これを
「え、何です、これやあ……」蕎麦屋は、じっと、手にも取らず見ていたが、
「これやあ、紀州様の御紋章つきの印籠じゃございませんか」
「そうだよ。盗んだ物じゃあない。堺町の抜け裏で、紫頭巾をなすった立派なお若衆からいただいたんだ」
「へえ、なるほど、それじゃあ嘘ではありますまい。あのお若衆は、赤坂のおやしきからよくお
「この子のおもちゃに
「そうですかねえ。そんな気まぐれもなさるかもしれない。何しろ変った
と、蕎麦屋は
やはり
かれが、芝居を見物中は、これを小屋の木戸番へ預けて入る。木戸番は、お犬様のために、特に、入口に別席をもうけ、地上に
すると、ある日、賎しからぬ若衆が、その前に
さしもの猛犬も、これには牙を立ついとまもなかったとみえ、ぐわッと五臓を吐くような
犬の声よりも、見ていた群集の歓声が、小屋の前を揺すったのである。権力と悪政の法規のまえに、いかんともし難い屈辱と隠忍を強いられていた庶民は“お犬様”の暴力にたいし、若衆が毅然たる正当防衛を示したので、おもわず溜飲をさげ、またうれしさの余りというような狂喜の
老中の息子と、その家来たちは、血相を変えて、小屋の内から出て来た。さきの若衆はそのときまだ悠然と去りもやらずにいた。木戸番は責任上、すぐすッ飛んで行って町役人をよんできた。もちろんこんな盛り場にも、お犬目付は随所にいる。――御法規をおそれぬ
しかもなお、若衆は沈着を極めていた。役人捕手が取り囲んだ。が、風采を見て、犬目付が何かふた言三言、訊問した。と思うと、役人たちがみな犬の如く初めの気勢を失ってしまい、老中の息子等と共に、こそこそ協議の上、何事もなく退散してしまった。
その事があって以来、若衆の
――蕎麦屋は、巷の
「
と、そのまま行ってしまった。
夜が明け、夜を迎え、それでも何とか、人間は喰べつないでゆく。久助が、食物を
葵ぢらしの印籠は、お燕のよい
「あっ、泥棒ッ。――泥棒泥棒っ」
町中はちょうど
「曲がッた。――そっちへ抜けたッ。――捕まえてくれっ。泥棒だ泥棒だ」
コソ泥は必死に逃げ、
京橋尻の、もと梅賀がいた家の近くに、河に添って広い空地があり、
市十郎は、そこの
「おやっ?」
捕手らしい人影に囲まれて、ひとりの男が、むごく引ッ張られて来るのが見える。撲られるたびに、泣くような
「久助だっ」
夕闇せまる往来には、黒々と人立ちがして、縄付を指さしあっていた。悄然と、腰縄で首うなだれてゆく小柄な男――やはり久助にちがいなかった。
「……オオ!」
久助――と喉まで出かかる声を
かれが本来持っているあの親切気、あのお人好し、そして他人の子のよろこびを見るのをもって、無上に自分も他愛なくよろこぶ性質は――どうして悪人といえよう。
だが、あきらかに彼は、泥棒を働いた。いかなる罪をもって律せられても苦情のいえない縄付にちがいない。市十郎は、
――その時、久助の方でも、彼の影を認めたらしい。ふと、足をすくめて
出来心の軽い罪。長い牢舎でもあるまい。出て来たらどんなにも詫びて――と市十郎は、自責のつぐないを
が――お袖のたよりは
それが彼の今では第一の目的だったが、日毎の木賃の払いにも金がいる。かれは、背にお燕を負い、
行方さだめぬ道なれば
ゆくへ定めぬ道なれば
こし方も、いづくならまし
もう町はゆくへ定めぬ道なれば
こし方も、いづくならまし
――しかもこのほど、雪ふりて
仙人に仕へし雪山の薪
かくこそあらめ
われも身を――
捨人のための鉢の木
切るとても、よしや惜しからじと
雪うち払ひて見れば
おもしろや、いかにせん
きょうも“鉢の木”の一節を流しながら、鳥越から浅草見附の方へ出てくると、わらわらっと町中に人の跫音が仙人に仕へし雪山の薪



切るとても、よしや惜しからじと
雪うち払ひて見れば
おもしろや、いかにせん
「なんだなんだ。何が行くんだ」
「さらし者だ。罪人だ。――曳き廻しが、裸馬で通るんだ」
「この夏の、中野のお犬小屋荒しが捕まったんだ。江戸中引きまわしの上、小塚ッ原へ引ッ立てられてゆく途中だ」
「え。中野のお犬小屋荒しだって。そいつあ、拝んでおかなくッちゃ、申し訳ねえ」
口々にいい交わしては、争い走ってゆく人々の足に、乾ききった十二月の昼は、馬糞色に
この日、江戸町奉行は、懸案の難問題を解決して、百数十日ぶりの明るさを取りもどしていた。おそらく、現江戸町奉行
中野お犬小屋のお犬が、一夜に十数頭も
(事態、容易ならず)とされ――(天下の椿事)と
と、例のごとき献言まで行った。
さなきだに、激怒していた綱吉は、老中を通じ、町奉行丹羽遠江守へ、犯人の逮捕を、
期限の百日が、老中の説明で、やっと猶予され、さらに犯人逮捕の日限は、五十日延期された。それ以上は、奉行の無能を謝して、切腹でもするしか、丹羽遠江守の立場はないまで、さし迫っていたところなのである。
町の情報通は、虚と実のけじめもなく、そんなことをガヤガヤ話しあいながら、裸馬の
――やがて、錆槍をかついだ刑場人夫を先頭に、罪状の
裸馬、三頭。その一頭一頭に、囚衣の罪人が、
白い弔旗のような
市十郎は、眼を疑った。――かれも、路傍の人なかに立ち交じっていて。――そして、さきに来る三頭のうちの一頭の裸馬の背を見て。
なんとそれは、姿こそ変れ、ひと月ほど前に、微罪で捕まった味噌屋の久助ではないか。
「よもや?」と、
「……久助だ! おお、何として?」
何か、わけのわからない疑念で、頭がぐらぐらした。阿能十なら知らぬこと。大亀なら知らぬこと。久助とは? ……信じられないのである。――が、すぐ次の裸馬が通った。その上の者は、まったく見も知らない人間だ。更に、三番目の裸馬が通った。その上の者も見覚えがない。――久助のみである。久助のみが、彼のあたまの中を、いつまでもいつまでも、果てなき死出の道へ通って行く。打消そうとしても、そのあわれなる姿は、もう一生消えまい。
だが、見物人の声の中には、よくある強盗、放火、殺人などを犯した者にたいするような悪罵も怒りも聞かれなかった。むしろ、かれらは暗黙のうちに、裸馬の背に同情していた。ある者は、お念仏をとなえたりした。ある者は、ひそかに
それらの人影も、
「めずらしいじゃねえか。市十郎。おめえはたしか、
思いきや、まだ柳の木蔭に、もひとり人影が
「えっ。……ど、どなたでござったろうか」
「ござったろうかもねえもんだ。おれを忘れちゃ困る。その子を生んだお袖なざあ、おめえよりは、この
「おう、阿能十か」
「於市。ちか頃、お袖に会ったかい?」
夜になるとよくこの辺の売笑婦たちが集まってくる茶めし屋の
「まあ、掛けねえ」
と、阿能十のさす一つの
「お祝いだ。きょうはおれにも祝っていいことがある。――おい、亭主、熱いのを
かれも、床几に
「かわいそうなのは、お人好しの味噌久だが、これで一件は、めでたく落着だ。奉行なんてやつあ、自分が切腹とでもなると、何をやるか分らねえ。――さっきの裸馬を見たろうが。あの三人の下手人のうち、久助は、半分下手人といってもいいだろうが、後の二人は、奉行の身代りだよ。どこかの唖乞食か、半馬鹿の罪人をつかまえて、お犬殺しに仕立てたにちげえねえ。ふふふふ、こッちにとっちゃあ
そしてまた、不敵に、こうもいった。
「なあに、老中だって、将軍だって、柳沢次第の世の中だアな。奉行も、切腹と来ちゃあ堪らねえから、そこはそれ、柳沢の
酒が来たので、ちょっと、黙ったが、またすぐ小声と、前屈みになり、こんどは、お袖のことをいい初めた。
「――そんなに、捜していたのかい?」
と、ここへ来る途々から、かれはいったことなのである。
阿能十にいわせれば、
「お袖にゃあおれはちょいちょい会ってるんだ。先月あたりは、毎晩のようによ」
と、いとも
「会わせてやるぜ。いつでも」
阿能十は、ぐっと一杯ほして、その杯を、市十郎に持たせ、
「はやくおれにぶつかれば、いつでも連れて行ってやったものを……」
と、まだ明らかには、居場所を口に出そうとしない。
市十郎は、てもなく
「よし、きっと、会わせてやろう。おれは、大亀のような、ずぼらは嫌いだ。約束する、かたい約束を」
「この通りです。何とぞ」
「そう、いんぎんになるなよ於市。こっちも武家出、つい固くならあ。――じゃあ、その約束がわりに、おめえにひとつ、持って来てもらいたい物があるんだが」
「何ですか。自分に持って来いというものは」
「おめえの親戚に、たしか大岡兵九郎とかいうのがあったなあ。屋敷は牛込だ。小普請奉行の古手の方だ」
「あります。自分を養家の大岡忠右衛門へ世話いたし、その折の
「そうかい。ううむ……。その兵九郎のやしきへ行って、江戸城のお金蔵の絵図面をひとつ持って来てくれねえか。なあに、あるさ。小普請組の家にゃあるに極まってるものだ。――なに? 借りには行けぬと。ばかアいえ。どんな親しい仲だって貸しなどするものか。忍び込んで、黙って拝借して来るのよ。おめえなら、屋敷の勝手は知ってるだろう。金なぞ盗めというんじゃねえ。やってみろ、やってみろ。度胸試しにゃいい仕事だ。……そして、お袖にも会わせようじゃねえか。なんの、金輪際、それに嘘いつわりがあるものか」
ひそひそ声の雄弁に、市十郎は多くを答えるいとまなかった。この阿能十には、従兄の大亀とはべつな、陰性にして強い
眼をつむって――
「では、いつ?」と、ついに市十郎はいってしまった。「お袖に会わせて下さるか」
阿能十は、いつでもと答え、ただし、その絵図面は、
「持って来ます。十三日の晩までに」
「では、おれもここで、待っているぜ」
「承知した。……だが、困るのは、この子ども。この子を連れては、身のうごきがつきかねる」
「そこは合点だ。おれが預かって行くよ。おれが」
と、阿能十は、もう自分の膝へ抱きとった。が、なお市十郎には、かれへの不安がいっぱいで、馴れない男手にはどうであろうと、危ぶんで見せると、阿能十は、もうほろ酔いきげんの大口をあいて笑っていった。
「これからすぐ駕籠に乗って、遠くもねえお袖のいる所へ行くんだ。おめえの背中で寒風にふかれているより、あの色のいいお母あちゃんの乳ぶさに抱かった方が、この子だって、どんなにいいかしれやしめえ。あはははは。……といったら、お燕坊よりは先に、おめえの方が、その乳が恋しいところだろうな」
市十郎は、ほんとのことをいわれた気がした。やがて、かれと連れ立って、茶めし屋の葭簀の外へ出た頃には、ふしぎに、良心のありかもわすれ、かえって、お袖に会えることのみが心を占めて、久しぶり心にかすかな明るみさえ覚えていた。
「その間の、お
と、阿能十は、銀子を二粒三粒、かれの手に渡し、すぐ橋袂の町駕籠を自分でよんで――
「おい。番町まで」と、お燕を抱いて、一しょに乗ってしまった。
「番町まで? ……。はて、番町までといったようだが」
市十郎は、いつまでも、遠ざかる町駕籠の影を見送っていた。そして、こよい子に抱きすがられるであろう白い乳ぶさを思いえがいた。――まだ陽はたかい真昼の闇に。
「
兵九郎は、ざらと碁石を掻きおさめて、盤を横へ押しやった。
召使をよび、
「持って来い」と、鈍くいった。
待たせておいた夕食の膳である。酒もあたため直し、燭も
「ひとつ、ゆこう」
「まあ、叔父上から」
と、初めたが、碁のあいだに、おたがい感じあっていた
牛込の赤城下に抜ける坂の途中。この辺には崖へ
「――主殿。赤坂へは、折々、訪れてくれておるか」
「はい。昨日もちょっとお見舞い申しましたが」
「そうか。気の毒さに、つい訪れも欠いておるが、このところ、忠右どのの容態は、どんなふうか。少しは、
「それが……どうも今度は、日にまし御病状が快くないようで」
「ずいぶん
「お縫どのの姿を見るたび、拙者も、市十郎の兄として、申し訳なさに、
折々、
雨。雨を連想すると、主殿も兵九郎も、同じ思いに沈み入った。
――やがて二た月前にもなる。あの夜も真ッ暗な雨の夜だった。
養父の忠右衛門や、
(この年の暮を、どこをどううろついていることか。悪い仲間に、深入りしておらねばよいが。そして、
憎い弟、憎い奴と、口に出せば、たちまち憤りとなるが、心の底では、主殿も兵九郎も、――こう祈る気もちに変りはなかった。
「あまり夜更けぬうちに、おいとまいたします。どうやら雪でも催しそうな寒さ。叔父上も、この
「もう帰るか。……ひき止めても、何やら今は、おたがいに心も楽しまん。わしは達者だが、公務のひまがあったら、折々、赤坂を見舞ってやってくれよ」
「おことばまでもございません。では……」と、兵九郎に送られて、主殿は、玄関を出た。そして門までの暗い飛石づたいを、足さぐりに歩いてゆくと、がたっと、袖垣の蔭にあたって、不自然な雨戸の音がし、たしかに人間らしいものが、そこらの庭木をくぐって、塀のミネへ登っていた。
「賊だッ。叔父上っ、叔父上のお部屋へ、何者か、忍びこみましたぞっ」
大きく家の内へ告げておいて、主殿はすぐ往来へ躍り出ていた。
まるで、
賊は、
「待てッ。盗賊!」
声に射られたように、賊は一瞬、ぎくと足をすくめたようだったが、近づいた主殿の方が、もっと大きな愕きに打たれた。
「あっ、弟っ。――市十郎だろう、貴様はッ」
賊は、よろめきかけながら、うしろを見、手を合せるような恰好をした。――が、主殿の意外さは、一そうな憤怒を加え、足は砂を蹴って、もうわずかで、賊の襟がみへ、その手が、とどきかけた。
しかし、とたんに主殿の体は、烈しい
雪もよいの夕だった。
約束の、
市十郎は、いつも着通しの
「来ているかしら?」
と、この前、ここで別れた阿能十蔵の姿を、奥の
「
背を叩かれて、ふり向くと、その阿能十が、この前と同じ荒編笠を
「あ。もうお先に来ておられたので」
「なあに、今さ。ちょうどよかった。まア、一杯やって、暖まろう」と、中へ入って、型のごとき煮込や
「ときに、どうしたい、約束の物は」
「持って参りました」
「なに、持って来た。そいつあ豪儀だ。どれ、見せてくれ」
「……が、ここでは、人目もありますから」
「なんの、おめえ、傍の者にゃあ、何を見ているか、分る気づかいはねえ」と、眼で
「よし、確かに、貰ったよ」
幾つかに折畳んである一片の図面だった。それを自分のふところ深くおさめてしまうと、阿能は、またニタニタ笑っていった。
「市の字。ゆうべの逃げッ振りはよかったなあ。あれで、もすこし度胸がつけば、おめえもそろそろ素人じゃあねえ」
「え。ゆうべの……?」
「よせやい、於市。もしやヘマをやりゃあしねえかと、救いに出ていた恩人を、お見それ申しちゃ困るじゃねえか。――赤城下でよ。すんでに、ふん捕まるところだったろうが」
「あっ――」おもわず出る驚きを顔いろのうちに抑えて、
「……で、では、あの時、うしろの方で、ふいに、兄へぶつかッて、兄を仆して行った人影は」
「オオ、おれさ。あんな事もあろうかと、夜毎、小普請屋敷の近辺を、見まわっていてよかったよ。……だが、あの男は、おめえの兄貴だったのか」
「夢中でしたが、二度ほど、背に浴びせられた大声が、どうやら兄の主殿のようでした」
「そいつア、しまった」
「えッ。しまったとは――な、なにかあの折」
「いいや」と、阿能十はあわてて首を横に振り、「何でもありゃしねえがネ」
「もしや、何か、兄の体に?」
答えもせず、阿能十は、手を叩いた。茶めしやのおやじに、銭を払い、早くも笠をかぶり出している。
外へ出た。市十郎も、追いすがるようにそこを出て、忘れたような顔をしている相手の素振りへ、つよく迫った。
「約束だ、阿能。お袖の居所を教えてくれい。――約束ではないか」
「わかッてら、於市。あわてるなよ」
阿能は、そッ気ない大股になって、厩の渡しの方へ歩き、そこにうずくまっていた駕籠屋溜りへ手をあげた。
「二挺だよ。――番町まで」
駕籠賃を先に渡し、道順か何か、
「約束どおり、お袖に会わせざなるまいが、余り見せつけてくれるなよ」
と、からかって、駕籠の内へ、乗り分れた。
駕籠の内で、夜となった。――あしたは雪だろうと走りながら駕籠屋はいう。市十郎は、膝の冷えも覚えなかった。ゆうべ犯した罪の怖ろしさもわすれていた。さっき、兄の主殿の身にチラと危惧された不安も掻き消されていた。心はただお袖に会えることだけにあった。恋する者でなければ、刻々、
「あ。……駕籠屋。なぜ降ろす。なぜ止める。先の駕籠を、見失うではないか」
「旦那あ」と、駕籠屋は、落ちつきこんでいった。
「相棒が、草鞋の緒を切ッたんでさ。――すこし待っておくんなさい」
「待つはよいが、先の駕籠は?」
「行く先は伺ってありますから、後から行ったって、御心配はありません」
「いや、いけないっ」
「ま。一ぷく、お
「呼びとめろ。先のを」
「――もう、見えませんや、旦那」
「な、なに」
市十郎が、飛び出すと、とたんに駕籠屋も逃げてしまい、外濠の水と、枯れ柳の影のほか、前後に何も見えなかった。
「
追いついた。果たして先にチラと見えた。たしかにそれだ。――だが、市十郎もこんどは阿能のウラをかいた。やがて駕籠の灯がとまった荒れ屋敷の門を見届け、そこの崩れた土塀の横に身をひそめていた。そして阿能が中へ入ったのを見すましてから、彼も、土塀をとび越えた。
中は広い。すくなくも千石以上の家らしいが、無住の山寺といっていい程な荒れかただ。戸締まりなどはまるでありそうもない。――市十郎は
どこの部屋からも、明り一つささないが、家の中央の広間からは、
「オヤ。……ここは」
細目に開いていた杉戸の隙からのぞきこんで、市十郎は怪しみにとらわれた。そしてすぐ、こんな所に、お袖がいるだろうかと危ぶんだ。
すさまじい
阿能は、この群れの中でも、もっとも
男は、五十がらみ。おそらくこの荒れ屋敷の主人だろう。場中の者が、その者を呼ぶには特に「番町様」といったり「
刑部様は、稀代な
そのうちに、阿能が、
「刑部様。……ちょっと、お手のあいたところで」
と、耳打ちして、彼と共に、市十郎が覗き見している杉戸の方へ、連れ立って来た。
市十郎は、戸惑った。あわてた。
だが、出て来た二人は、すぐ暗い中で、立ち話をしはじめた。
「……どうです。こいつあ」
「お。二の丸の金蔵図面か。よく手に入ったなあ、阿能」
「その代り大骨折りでさ。褒美は、うんと貰わなくッちゃ埋まりませんぜ」
「ケチな欲はかくな。仕事はこれからだわ。……だが、これを持ち出す手先に使った、市十郎とかは、どうしたい?」
「お袖に会わせてやる約束だったが、七面倒くせえから、駕籠やに
「可哀そうに、会わせてやれあいいに。……何も、おれに遠慮はねえんだぜ、阿能」
「でも、会わせずにすむものなら、刑部様だって、やっぱり会わせたかあねえでしょうに」
「なに。そうとも思わない。ぶつけ合してみたい気もして、連れて来るなら来いといっておいたのだが。……まあ、どうでもいい。とにかく、図面はおれが預かっておく。何かの相談は、ゆっくり後のことにして」
「じゃあ、たしかに」
「うむ、受け取った。……おや。また土蔵の二階でピイピイ泣いているらしいが、阿能、この間、てめえが背負いこんで来たあれだけは、余計もんだったなあ」
「まさか、お犬小屋へ持ってゆくわけにもゆきませんでネ。そのうちに、里子へでもやってしまいましょうよ。何だって、人間の子になぞ生れやがったか。犬ッ仔にでも生れればよかったろうに……」
二人は、廊下窓から土蔵の方をながめていたが、すぐ元の広間へ姿をかくした。
市十郎は、小部屋の蔭から這い出した。そして、二人が立った窓口へすがりつき、墓場のようなここの裏庭を見廻した。二棟の土蔵がある。一ツの土蔵口の大格子から、かすかな
幼い者の泣き声は、そこから聞えてくるものだった。お燕にちがいない。その泣き声は、
「――誰? どなた?」
土蔵二階から女の声がとがめた。
「たれなの?」
と、白い胸肌をつくろいながら、身をもたげて、今度は暗い梯子の穴へ、覗きこむように、もいちどいった。
「おっ。お袖っ……」
――茫然と、そこに立ち、涙をたれたまま、市十郎は暫く大きな
「お袖。わしだ、市十郎だ。……ここ幾十日。どんなにそなたを探したことか」
「…………」
「ああ、それでも、こうして会えてよかった。よく無事でいてくれた。もう離れまいぞ、別れまいぞ。のうお袖」
「…………」
お袖は、
「……どうしたのだ。お袖。そなたは、うれしくもないのか。さ、こんな所に、好んでいるのではなかろう。お燕はわしが背に負って行こう。そなたも支度をせい。ふたりして――この子を育てて――これからは楽しく暮らそう。どんな
すり寄って、背へ手をまわし、その横顔へ、横顔をよせて、紅い耳もとへささやくと、お袖は、いきなり身を起して、市十郎の肩を、烈しく突きとばした。
「なにさっ、今頃になッて――。これからは、離れまいも、別れまいも、あるもんか。……い、い、いま頃になッて……。な、なにしに来やがッたんだ……」
「あ、あっ。お袖、そなたは、何をおもいちがいして」
「――市十郎さん」
もう泣くまい、としているように、お袖は歯の根をぎりぎりかんだ。まなじりの
「――そんな気もちがあったなら、なぜ、秋の末頃、わたしがお燕を抱いて、赤坂の豊川さんの丘まで会いに行ったときに、ひと目、会ってくれなかったんですえ。……あ、あの日の、くやしさ、なさけなさ……。おまえさんにはわかるまい。――いいえ! あの時、おまえさんは久助へ何とおいいだッたえ。もう思いきった。市十郎のことは忘れてくれ。よその男へ縁づくがいい……そういったじゃありませんか」
「お袖。わしが悪い。あの日の心は、そうであった。あの部屋から一足出て、そなたに顔を見せもしなかった。……けれど、市十郎の」
「ああ、うるさい。よして下さいよ。こっちは女の一生をかけて、しかも、子どもまで生まされて――男といえばこの世に市十郎という男のほかにないものとしているのに……ば、ばかばかしい。何たるわたしはお馬鹿だろう。――わしが悪い、あの日の心はそうであったッて。……ふふん。よくもまあ、いえたもんですねえ。おぼえておいでなさいよ。その薄情をね」
「あやまる。お袖。……ゆるしてくれ」
「ええ。見たくもない、そんな恰好。……今さら、百まんだらあやまられたって、破れた恋がどうなるんだ。わたしはもう、前のお袖じゃありませんよ」
「えっ。前のお袖でないとは」
「その日その日に気が変るあてにならない男ともおもわず、あの赤坂の屋敷まで、おまえに会いに行ったのが、魔の辻やら、夢の辻やら、あの晩、屋敷の召使たちに、まるで
お袖は、また、さめざめと泣きぬれた。袂を顔に押しあてて、そのときの苦悶と、苦悶から抜け出るまでの、幾夜幾日かの心の経過を、みじかくて強いことばで、市十郎へいおうとするらしかったが、いえないのであった。涙になってしまうのであった。
かの女のからだは、外濠並木の括り駕籠から、この荒れ屋敷へつれ込まれて以来――その夜からもうここの
この化物屋敷は、銀歯組の巣であった。刑部様なる者が、つまりここの
この陰湿な土蔵二階で、厭な厭な心にもない夜を、あの
「……思い直してくれ。ゆるしてくれ。お袖、わしは余りに自分だけのことにとらわれていた。わるかった。……どんな
市十郎は、そうしたかの女の前に、どんな悪罵をもうけるのが当然だと思った。
「何さ。……ちッ、うるさい」
お袖は、自分の体へ
「償い? ……ふん……償いって、どうするんですよ。償えるものなら償ってごらん。この子を、わたしを、元のとおりにして返してください」
と、お燕を抱き上げて、突きつけた。
無心に眠っていたお燕は、びっくりして、泣き出した。その声も、父を責めた。
「オオ、堪忍してくれ」
市十郎が、腰を浮かして、手をさし伸ばしたのと、お袖が、烈しく彼の胸を突いたのと、一しょであった。
「嘘つき。おまえなぞに、そんなやさしい心があるものか。畜生のくせにして」
「お袖っ……」
うしろへ、手をささえ
「あ、あんまりだ。
父の
阿能十だった。また、広間の博奕場に見えた顔のごろ侍や得態のしれない男や女たちであった。
市十郎とお袖のまわりに六、七名もの顔が、
「阿能。――こいつか、市十郎というのは」
「そうです。どうしてここへ来ていたか」
「まあ、いい」と、刑部は大きくゆるすような頷きをして――
「ひと目見たら、気がすんだろうし、かえって、これで片づいたというものだ。……おい」
と、うしろの連中をふり向き、顎を上げて、いいつけた。
「こいつを、つまみ出せ。二度と、寄りつかねえように」
それからの
それから。どれほどな時が経ったか――彼には、はっきり意識がない。
……ふと、気がついた。
われに返ってみると、自分は、真っ白なものの中に俯ッ伏していた。白いものは、手も袖も胸も埋ずめていた。身をうごかすと、髪の毛からも肩からもサラサラ落ちた。すべて、真っ白なものだった。
「ああ、いいあんばい、気がつきましたね。お侍さん。……このままでいたら、
市十郎は、おもいがけない女の声に、顔を上げた。
自分の上に、蛇の目傘が、ひらいている。
世間は静かな雪の夜になっていた。傘の下をのぞいては、その美しい柔らかな冬の華が、降りしきっているのである。まだ、五体に何の感覚もよみがえらない市十郎の眸は、ぼうとその幻光に
「
傘の柄を持ち代えて、女は、彼へ肱を向けた。市十郎は、初めて、お
「あ。どなたか知らぬが、ありがとうございます。かたじけない」
と、頭を下げた。
「その辺まで、お歩きなさいな。どこまでお帰りか、駕籠を見つけて上げますから」
いわるるままに、市十郎は、女の肱につかまって
ゆうべからの雪は、今朝もまだチラチラ小やみを見せたり、降ったりしていた。
市十郎は、夢うつつに、糸の遠音を、寝床の中で聞いていた。身をつつんでいる夜具の友禅模様も、何か、不思議な世界のものであるような気がされる。
「おや。お目ざめ?」
枕屏風の横から、こうさし覗いて笑った顔は、ゆうべの人であった。お高祖頭巾の女――あとで分ったことであるが、名はお島、年頃は市十郎より幾つか上らしく、そしてこの家のある所は、南八丁堀の、とある新道で、小粋な二階家造り。障子明りに、雪を持った松の影が
「昨夜は、思わぬお世話になりました。お礼の申しあげようもありませぬ」
市十郎は、あわてて、床を出、真四角に、両手をついた。
「ホホホホ。まあ、ごあいさつに困ッちまう」
と、お島は唇へ手をあてて笑った。もとよりかの女は、そんな肌の女とはちがう。化物刑部のやしきへ行くと、銀歯組やごろ男を相手にしても、折には、勝負に勝って来ようという女である。
きのうも、広間の
――どちらまで? と訊かれても、帰るに帰る先のない市十郎の
「お礼なんて、もう、そんな、窮屈なお行儀ずくめは、おやめにして下さいな。家には、婆やのほかには、たれも気づまりな者はいないんだし……それにこういう私は、正直、
お島は、気性そのまま、さばさばといって、柄のいい男ものの丹前に下着をかさね、うしろから着せかけて、
「まだ、体が痛うござんすか」
「なに、今朝は大したことはないようです。何かと、お世話かけて」
「また、そんな……」と、軽く背をたたいて、肩ごしに、市十郎の襟元を、指先でかき合せてやりながら、顔と顔をふれあうばかりに、
「雪ですよ、今朝もまだ。……お風呂へでも、おはいりなさいな。その間に、朝の御飯をしたくしておきますから」
雪のささめくように耳元へいった。
湯から出ると、かの女は、自分もまだ食べずに待っていたといい、朝の膳からもう帆たて貝の小鍋を立て――そして酒さえつけて杯をすすめる。
つい、うけて、また飲んで、市十郎は雪の日を酔いつぶれた。いやその酔を強烈に強いるものは、お島の白い手ではなく、彼自身の心のうちにあるものだった。自分を怨むお袖を怨みかえす理由は
人間の正味には、もともと賢人も愚人もない。善人と悪人の差もない。が、それは動物と原始の社会へ人間をひきもどしての話であるのはいうまでもない。そして人間はまだその当時の尻尾の
自暴自棄は、その状態である。他からでなく、自ら、原始の人間に近いものへ、自分で自分を追いもどすことだ。ここへ自分を
市十郎は、よく飲んだ。お島もつよい。しかし、そのお島より飲んだ。そしてふたりとも、屋根に重たく雪の降り積んだ二階の小座敷に酔い臥したまま、灯ともし頃まで、降りても来なかった。
灯を見て起き出し、また風呂に入り、出ると、婆やがもう晩飯の膳。――お島は、
「市さん、どう。……今夜も
「酒か。
ふたりの言葉つきは、朝とちがっていた。
すると、誰か、用のある者が、
「好かないねえ。――こんな晩に」
お島は、舌打ちして、降りて行った。そのうちに、かの女の
それが、時たつほど、荒っぽくなって来たので、市十郎も落着かず、
狼の影を見た兎のように、市十郎は、足音をぬすんで、こっそり二階へ逃げもどった。
化物刑部が叩き出した青二才を、てめえはここへ
また。――よし、てめえがそういう量見なら、てめえの本当の渡世は、
(甘くお見でない。女掏摸がどうしたッていうのさ。そんな
これはお島の方のたんかである。
この手の脅しが
(二階にいるだろう。おれに会わせろ)
(会わせたら、どうする気さ)
(女を
(ばかなことをおいいでない)
(いや、赤螺三平の男がたたねえ。銀歯組の名折れにもなる。野郎を出せ)
そのうちに、どたどたという物音がひびき、すぐ梯子だんの下から、赤螺三平が、二階へ向って、吠え出した。
「やいっ、市十郎。よくもおれの女を
市十郎は胆を冷やした、[#「、」はママ]察するところ、三平はお島の情夫だったにちがいない。しかも、お島が、女掏摸とは気づかなかった。どうしよう? ――と、彼は、逃げ口を見まわした。
だが、三平の
「帰ったのか? ……」
と、市十郎は心を安めかけたが、門の格子の音もしない。いや、よくよく耳を澄ましていると、
市十郎はそこにある酒を独りで
――ようやく、三平は帰って行った。二階でそれを物音で察した市十郎は、ほッと、
お島の顔が、彼の顔へ重なった。――怒ッたの? と、子どもでもあやすようにいい、
「それとも、わたしが女掏摸とわかって、急に
と、かの女も
「なに。掏摸がどうしたッて。……そんな事に、今さら驚くか」
市十郎は、
「よし、おれも飲むぞ」
と、起き直った。
ふたりは、どろんこになるまで飲んだ。そのあとの行為も本能にまかせた。どっちの心が、どんな心でもよかった。
――どろんこの夜が明けた。
今朝は、まばゆい
市十郎は、重い、鈍い、そしてどこかずきずき痛む頭を起した。お島が寝ざめにふかす煙草のけむりが顔に来て、何か、吐きたいような
「おやっ? 何だろう」
ふいに、お島が
朝の陽と雪との反射が、部屋いッぱい
ここの二階のすぐ下でも、駈けてゆく者、
「――まだですか。まだ、通りませんか」
「なんです? 何ですえ、いったい」
「赤穂の浪人たちが、今にここを通るとさ。それ、去年の春、松の廊下で大騒動を起した、浅野
「あっ。やったんですか。……ヘエ。じゃあ、うわさは、噂じゃなかったんですね」
「四十何人とかですとさ。ええ、松坂町でしょう、吉良上野様のおやしきはね。えらいこッてすなあ、どうも」
「やりましたなあ、とうとう。ウーム、どうも、何ともいいようがねえ。胸がいっぱいになっちまった。そういえば、夢かな、と思ったが、ゆうべの太鼓は、その陣太鼓だったのか」
「うそをおつきなさい。松坂町からこんな所まで聞えるもんかね。あれや、こんにゃく島の火事さ」
「そうか。……まだ通りませんか。道すじは、どう来るんで?」
「何でも、きょうは
「たいそう詳しいねえ。まだ、通っても来ねえ道順を。まさか、おめえさんは、大石
「なアに。夜明け方、自身番の六兵衛さんに、こうこうだと、早耳に聞いたから、それッ行って見ろってンで、経師屋の安さんや棟梁の
「道理で……。今にここを通るんじゃ、おれたちも、飯どころじゃあねえ」
お島と市十郎は、近所のそんな声々を、ちぎれちぎれに聞きながら、二階の窓に、姿をならべて立っていた。
――お島は、独り言のように、笑っていった。
「びッくりさせるよ。わたしゃアまた、ゆうべのことがあったから、てっきり、捕手がお
そして、市十郎の横顔を、ながし眼に見たが、市十郎は、
やがて、往来は真ッ黒になった。人垣ばかりでなく、屋根の上にまで、人間が見えた。
赤穂浪人の何十名かが、静かな列伍をなして、いまそこの往来を芝口の方へ向って通行してゆくらしい。
静かである。久しぶりの青空が、雪に映じて、明るい、和やかな光を、町々へそそいでいた。今しがたの、あれほどな騒音も、一刻、
「…………」
二階の窓口にいた市十郎は、ぺたっと、そこに坐ってしまった。
お島は、いつか側にいなかった。捕手でなかった安心と、婆あやまで飛出して行ったので、かの女も、往来まで、見物に行ったものとみえる。
――市十郎は、肩の間へ、ガクリと首を垂れ、いつまでも、そうしていた。
元禄という今を、時代の中を――ある見えざるものが、大きな黙示をもって静かにながれてゆく様が――市十郎の閉じた瞼にも映ってゆく。
ふと、かれの心は、べつな心のなかで、シュクシュク泣き出していた。ひとつの人間の中に、二つの心があったのである。
が――その一つの方の心を見出すことは、かれにとって、
狂気したように、市十郎は、どどどどッと
「いねえのか。……お島」
がらりと、そこの腰障子を開けた者がある。
市十郎は、軽くなった貧乏徳利を、ゆっくり顔から離した。
見ると、赤螺三平だ。後ろにも、同じ恰好なのが、四人ほど首をのばしている。
「やッ。てめえは、市十郎だな」
「……市、十、郎なら……?」
市十郎は、虹のような酒気を、ふーッと吐き、またやや苦しげに、たじたじと、
「そうだ。市十郎だ。……だ、だッたら、どうするッてんだ」
「出ろっ」
「ど、どこへ」
「きょうは勝負をつけてやると、お島へもいってある。聞いたろうが」
「知らぬ」
「ええい、四の五を聞きに来たんじゃねえ。そこの空地まで出ろ。出て来いっ」
「よしっ。死んでやる」
「な、なんだと」
「死ねっ、死ねっ、こんなもの!」と、かれは自分の体を振りもだえながら、ひとり歯がみを鳴らして――
「あってもなくッても、ゴミみたいな
二階へ駈け上がった。そして寝巻のうえに、丹前を着かさね、帯もぐるぐる巻に、大小をつかみ、まずその小刀を差し、大刀を次に差そうとしたが、もう全身に酔いがまわっていて、手もとも怪しく、刀のこじりが、帯に
――が、その酔眼にも、ふと、
その赤い眼は、すぐ熱湯のような涙を
市十郎の頭は、その思い出を、ふと、泡つぶのように呼び起して、もう
――階下では、その時、お島の声がしていた。
三平のどす声と、お島の癇性な声が、また、ゆうべよりも烈しく、何か、
「そ、そうだ。……どこで野たれ死にするまでも、せめて、兄上だけには。――兄上だけには一ぺん会って」
雪をつかんで喰べた。
往来の方からは、ぞろぞろと、崩れて帰って来る人たちが見える。その人々は、ふたたび、たったいま眼に見て来たものの感動を、口々にいい
市十郎は、耳をふさいだ。そして、もう一つかみ、雪を喰べ、人の流れる横丁は避けて、北屋根の方へ、四ツン這いに這い出した。
――とたんに、勢いよく、足を前にして
歳の市は、一年中の人出だ。浅草の観音堂を中心に、雷門も、横丁横丁も、人間の波、波、波である。
茶屋女たちに、おだてられ、男の意地みたいに、大羽子板だの、
「じゃあ、また、お正月に、顔を見せて下さいよ。お年玉をわすれずにね」
と、態よく、女たちから身限られて、
「ばかにしてやがら。
男は、舌打ちして、観音堂の横に腰をおろした。たちまち、鳩が、寄って来た。その一羽を彼の足が蹴とばした。パッと、たくさんな砂つむじが舞い、観音堂の大廂に、鳩の傘がひろがった。
(なんていう気狂いだろう? ……)
その辺りにごろごろしていた無数の浮浪者たちは、
――すると、その中に、
「あっ。亀次」
と、口走った。鳩を蹴とばして、ぽかんと膝を抱いていた男も、振向いて、莚の木の葉虫と、顔を見合せ、びっくりして突ッ立った。
「
歩み寄るなり、手を取って、人影まばらな五重ノ塔の裏へ、むりやりに連れて行った。
神田の
「どうしたい。すっかり痩せ細って、まるで
「あ。ありがとう……」
「なに? ありがとうだッて。べら棒め、誰に礼なぞいってるんだ。まるでおめえの声は、幽霊の声だ、
「めんぼくない」
市十郎はいよいよ俯向いた。
「聞けば、おめえは、いつぞやお袖にも会ったというじゃねえか」
「えっ。亀次。どうして、それを知っているのか」
「おととい、化物刑部のやしきで、阿能十に会ったら、そんなことをいっていた。そればかりじゃねえ。八丁堀のお島に可愛がられて、お島の
「いや。三平ごときを怖れているわけではない」
「ホ。元気が出たな」
「ただ一目、兄上に会いたさ。兄上に会いたいばかりに、生きているのだ。亀次。わしの兄、
「主殿に会ってどうする気だい」
「今生のお詫びを申して……身の始末をつけるつもりだ」
「今生の? ……あははは。今生というと、来世もあるつもりか。よせやい。来世なんてものはありゃしねえ。あったにしても、あてになるもんか。人間の世の中なんてものは、来世も、来々世も、こんなもンだよ。――と、すれやあ、今生の根かぎり、楽しむしか手はねえじゃねえか。何を、せッかちに、死ぬ気になどなったもんだ」
「わしには、どうしても、おぬしのような気になれぬ。なろうと思って、やってみても」
「ハハハ。
と、なぐさめて、
「時に、腹はどうなんだ。まだ朝飯も喰っていねえんだろう」
市十郎は、黙ってうなずいた。大亀は、ちょっと
「とにかく、どこかで
――この月の十五日。あの大雪の朝。
お島の家をとび出してから、市十郎はふたたび、
兄の主殿に一目会って――と、実家の近所を幾日もうろついたが、ついに主殿の姿は見られなかった。のみならず、どうしたことか、実家の門は、昼も夜もなく
赤城下の叔父の屋敷を
「半月ほど前、賊が入った時、公儀のお城図面の一枚が紛失したので、旦那様はその申しわけにと、
と、いい、また同夜の盗賊については、
「ちょうど、その晩、来合せていた主殿様が、賊を追って、かえって、賊の仲間に、闇打ちをくい、右の脚に、お怪我をなされ、兵九郎様のお葬儀がすむまでは、ここで手当てをしておいでになりましたが、何でもお
この大変を新たに聞いて、市十郎はいよいよ、生きていられない自分を知った。その夜の賊は、自分なのだ。自分が、叔父を殺したのも同じである。
お袖のことさえ、いまだに未練があった。よその子を見ればお燕を考え出す。――そしてまた、赤坂の養父を思い、お縫にもすまないと思い、心で
かくて、いまの市十郎は、市十郎であって市十郎でないような人間に変っていた。
人間は簡単に変るものだ。彼という一個もそれを実証している。
人間の肉体には、いまでも、尻ッ尾のあった時代の痕がある。人間の遠祖は、まぎれもなく動物だった。その動物が、人間らしい社会をもち、文化をもち、道徳や宗教や文学や美術や音楽を誇る人間となるまでには、何千年もの時と、そして全体の努力が、かかって来ている。
けれど、数千年の進歩も、実はまだ、尻ッ尾の痕のある人間だけに、大きな社会的堕落を来すと、一足飛びに、もとの原始人へ
悪政の社会のどん底をのぞけばわかる。そこにうようよしている群れは、今日の人間から原始の人間へ逆もどりした本来の生態にすぎない。あれを見て一般人が、
――その点で、大亀も市十郎も、正直者だといえないこともない。二人とも自分の尻ッ尾を充分にむき出してしまった人間だからだ。しかし、市十郎はそれを苦悶し、大亀はむしろそれを得意にしていた。
「於市。飲めよ。もっと飲まねえかよ」
「酒。……酒は、もう、たくさんだ」
「飯は」
「飯も」
「いくら食ッても、おれのふところ勘定は同じだ。たらふく詰め込んどいた方がいいぞ」
二人は馬道の馬子茶屋へはいっていた。
「アア、
ちょうど灯ともし頃となり、吉原通いの客や駕籠屋が混み初めて来た。大亀は、市十郎の耳へ、囁いた。
「――おめえは、先へ出て、二天門の前で待っていてくれ。後から行くから」
市十郎は、先に出て、二天門で待っていた。――と、間もなく、ばたばたと大亀の影が駈けて来て、
「それ、逃げろ」
と、市十郎を突きとばした。何の事かも、わけが分らず、市十郎は、大亀と一緒に逃げ走った。やがて大亀は、暗い町筋を振りかえって、
「もういい。於市、もう追ッ駈けて来ねえようだ。食い逃げも楽じゃあねえな」
と、胸をさすった。
だが、市十郎は、せっかくの胃の物を、ゲッゲッと、路傍の溝へ吐いていた。空腹の急変と、余り駈けたので、胃ぶくろが、どうかしたとみえる。
「世話のやける男だなア」
大亀は、うしろへ廻って、市十郎の背をさすってやりながら……「ええ、勿体ねえ。どうだ。落着いたかい」
「いや、すまぬ。かたじけない。もう、だいじょうぶ……」
「今夜は吉原へシケこもうというのに、なんと不景気な
暗い田ン圃道を渡って、根岸から
この辺には、江戸の商家や吉原の楼主の寮が多い。ここもその一軒か、船板塀に
「さ、これから金の算段だが、宵強盗は荒仕事ときまっている。おめえはしばらく外を見張っていねえ」
ふところから、
「オイ……。見張を抜かるなよ。
市十郎は、いわれた通り、しばらく外で立番していた。
宵なので、折々、通る人影がある。そのたび彼は
ひとつには、奥へ、大亀が這入って行ったとたんに、異様な物音と、女の叫び声が起り、それが一瞬に止むと、不気味な静けさに返ったので――外にいた市十郎の気も
宵強盗は荒仕事――といっていた通り、大亀は、家人がまだ起きているのを承知の上で押し込んだ。前々から、女ばかりの寮と目をつけていた家であったのだろう。
宵強盗は、凶器を突きつけて、まず家人を縛りあげ、金のありかに案内させているらしい。奥の
「か、亀次……」
と彼も、手探りで、家のうちへ四ツン這いにはいって行った。足の裏から総身へかけて、ふるえが走った。
「ま、まだか、亀次」
廊下のつき当りに、奥座敷が見え、そこから、灯影がゆらいでいる。大亀だなと思い、及び腰で、立ってゆくと、ぬるりと何か、足がすべりかけた。
「おや? ……」思わず手をついて、身の毛をよだてた。人間の死骸である。いうまでもなく血の池である。
うしろの柱に、もうひとり家人が縛りつけられている。大亀は、
だがなかなか現金が出ないらしい。大亀の影が、障子の間から顔を出した。
「於市か……」
市十郎は返辞の声が出なかった。するとまた、
「何をしているんだ。そこらの部屋から金を探せよ、金を――」と、いらいら
だが、市十郎は、歩こうにも、歩けないのである。恐ろしさに、足のつがいが外れたように動けなかった。しかし事実は、死骸と思った瀕死の
「やいっ、何を愚図愚図してるんだよ。早くそこらの部屋を掻き廻して、金を見つけるんだ。金を。――荷物になる物なんぞ持っても駄目だぞ」
夢中の市十郎は、
そこには薄明りがあった。行燈に、女の羽織が
「…………」
かの女の白い顔は失神していた。けれど
アッ――と市十郎は、
女は、手をさしのばしていた。見ると、その手に幾枚かの小判がのっている。そして、血の気のない唇は、
(これを上げるから助けて……)と、声なくいっているようだった。
市十郎の頭の中には、ぼやっと、お袖とわが子の姿が、夢みるように、そのまま
お袖とわが子を、ふと思い出したことは――彼自身がハッと我れの一部を取り戻したことでもあった。
彼は、自分を、オヤ? ……と怪しんだ。
――自分は今、どこへ来ていたのか? ――と、いぶかッた。そして、何を、行為しようとしているのかとも、瞬間に考えた。
まッ暗な
「あっ、金ッ。金じゃねえか。……ええばかめ、なぜ早くその金を、こッちへ取らねえか」
うしろへ来て、小判を見た大亀は、いきなり市十郎を突きのけて、餌にかかる野獣のように飛びついた。
女は、
「助けてーッ」と、俯ッ伏した。
市十郎は、その上へよろめき倒れ、大亀は、散らばッた小判を、無我夢中で拾いかけた。
女の肌の下で、幼な子が、わーんッと、泣き出したのも一しょだった。おお、その
「おッ、於市っ。何か、来たのかっ。ま、待てッたら」
大亀も、あわてた。二人のうち、どッちの足がつまずいたのか、行燈が蹴仆され、灯皿の油と、火の粒が散った。
どたどたっと、そこから逃げ出す跫音のうちに、なお大亀の叫ぶ声がしきりにしたが、市十郎は、夢のようにただ走った。
「火事だっ。三輪の方が」
「火事。火事。寮らしいぞ」
わらわらと人が駈けてくる。彼の走ってゆく反対の方から駈けてくる。にもかかわらず、市十郎には、その沢山な人影の疾風はみな
雪の多い年である。明けて、正月二日も雪だった。
どこに寝、どこを歩いたかも、覚えのない市十郎。
彼は、そんな雪の夜も、道で拾った
正月の晩なので、家々はみな、早くから戸を
色街に近いのか、堀の雪見舟から洩れてくるのか、三味線の水調子も、どこやらで聞えたが、彼の耳には、何の音でもなかった。
ただ真ッ白な夜の道を、彼の影は、迷い犬のように歩いていた。――が、やがて彼方に、一団の火のかたまりが、赤々と見え出し、彼の眼をひきつけた。
近づいてみると、そこは大きな
傍らの、古木綿の
問うまでもなく、これは施粥の大
そして、市十郎が、そッとその中へ交じっても、誰も、
「なあ、お
ひとりがいった。
浮浪者たちから、お上人さまと呼ばれている者こそ、
同苦坊は、もう十年以上も、毎年の正月には、この深川八幡の境内を初め、市中の諸所で、
年々十余年間も、それが続いているので、浮浪者たちは、彼に、慈父のごとく親しみ、彼のすがたを見ることを、盆正月の楽しみとしていた。
――が、同苦坊は、あべこべに、去年見た者を、また見ることを悲しんだ。五年経ッても、七年経ッても、なお大焚火の集まりに見る顔を、特に嘆いて、意見したり、励ましたり、
「辰が、阿呆いッてら。ぐウぐウ鳴ってるのは、腹の虫じゃあねえわ。大釜の粥が、煮え出して来た音だによ。なあ、お上人さま」
「そんなこた、おらだッて知ってらい。だが、
「あんな負け惜しみをいう」
「だって、正月からいい負けたら、
「どん底のおら達に、縁起が
「いや、病気と、死ぬことだけが、まだ残ってるぞ」
「あはははは。それもそうか」
みんなは笑いどよめいたが、死――という一語が出た時、夢うつつに、膝を抱いていた市十郎の首が、ビクッと上がった。そしてまた、とろんと俯向いてしまった。
また、子を抱いた女のひとりが、
「あら、いやだ。安さんてば、
すると、安の隣りにいた老人が、
「安。正月じゃないか。殺生は止せよ。いまに
と、いった。
薪の束に腰をおろし、大勢の者の他愛ない
同苦坊は、四十がらみだが、寺の名も、素姓も人に語ったことがない。強いて訊く者があると、
(寺かい? わしの寺は、ほウれ、いつもみんなのいる社会寺さ。またの名は、浮世山どん底寺と申し、御本尊は、こっち持ちでなく、そっち持ち。つまり皆さん檀家の

胸を指して、いうのである。
しかし、いつとはなく、この風変りな僧は、もと
この半さんが、
鉄眼は、人も知る通り、一生涯のうちに、
半さんは、その鉄眼の弟子となり、多年、苦難を師と共にした。路傍に立っては、
鉄眼が、大往生をとげた後も、半さんは、救民の
寺におさまれば、当然、住職ともなれように、半さんは、十数年来、いまだに樹下石上をつづけてきた。世は、お犬様時代、人間が人間にあいそをつかし、
彼が、語らなくても、浮浪者たちは、いつか知って、語りつたえ、それらのことを知らない者はないくらいである。
で、今夜も――
こうして大焚火をかこみつつ、彼等は、粥が煮えるのを待ちながら、時には法話に耳をすまし、時には、女ばなしに笑いあい、また時には、同苦坊の身の上なども、訊いたりして、正月の夜の楽しみを満足しきっているのだった。
これはこれ、見方に依っては、浄土の光景であり、
「…………」
市十郎は、抱えていた膝がしらを、びッしょり涙でぬらしていた。
「ああ……」
慈愛の炎は、
「オ。……東が、明るくなってきた」
「明け鴉が啼いた。晴れだぞ、きょうは」
「粥も、煮えた」
人々が立つ頃、八幡
世話人を買って出た者が、大勢を行列に就かせ、粥を汲んでやる者、後の米を
うらうらと、朝日がのぼる頃には、これを知って、集まってくる老幼の貧しい群れや病人などが、
市十郎も、群れに交じって、白い温い粥を、ふウふウいってすすった。その
「……そうだ」
箸と茶碗をもどすと、彼は、たれに命じられたのでもなく、
同苦坊や、ほかの世話人たちがしているように、彼もそれに
誰も、
終ると、ゆうべの人々も、みな
ただ一人、市十郎だけは残って、同苦坊と共に、手伝っていた。
「……?」
同苦坊は、チラと、彼の顔を、注意して見た気ぶりもあったが、べつに何も訊ねもしなければ、御苦労と一言いうのでもなかった。
どこからか借りている
「さて。あしたは
ひとり言に呟いて、同苦坊は、車を曳き出した。
市十郎は、その後を押して行った。――蔵前の不動堂についたのは、夕方ちかくであった。
大釜をそこへおくと、同苦坊は、またすぐ深川の佐賀町の米問屋まで、幾俵かの米を取りに行った。
彼が、一年中の
――それが十年以上もつづいているので、佐賀忠とよぶここの主人も、彼の
「今まで見ないお方だが、こんどお弟子さんになられたのか」
その佐賀忠に、市十郎はたずねられた。
市十郎は、顔を振った。
車に、米を積み終って、佐賀忠と同苦坊が、茶のみばなしをしている間に、車のそばへ寄って来た老番頭が、やはり彼を同苦坊の新弟子とおもいこみ、
「何しろ、あんなお坊さまは、今の世にはありませんな。寺へ、隠し売女をおいて、遊女屋のお株をとったり、うまい手づるをつかんで、大奥の女中衆でも
それから、老番頭はまた、自分が知るかぎりの、同苦坊と師鉄眼との、因縁やら、
市十郎はただ鞭打たれるように聞いていた。
「どれ、行こうか。またみんなが待ちかねていよう……」
やがて、同苦坊が出て来た。かれの姿を見、市十郎は、こんどは自分が車の
荷車を曳いたのは初めてだし、米俵は、重量がある。市十郎は、よろよろしてばかりいた。しかし同苦坊は、代ってやろうともいわない。
やッと、蔵前へもどり着いた。――
前の夜にも増して、附近の浮浪者が、真ッ黒に寄っていた。そして、薪を積み、釜下を
「お上人さんが来た」
「お上人さんが見えた」
子どもらが、慈父の姿を見たように、浮浪者たちは、彼を迎え、山と降ろされた俵をながめて、
「お上人さんは、どうして、どこから、こんなに米を持ってくるのだい?」
と、よろこびと、怪しみと、それが大勢なので、歓呼の声みたいに聞こえた。
「わしは、田を持ってるさ。人間なら誰でも持っている慈悲の田だよ、善心の田だよ。わしは、日本中にまたがる大地主じゃから、あちこち、諸国のその田から、一穂ふた穂と、いただき集めてくるんだよ。――今にな、みんなも、自分自分の田から穂を咲かせて、何年後でもよいが、わしにお分け穂を与えてくれよ。いいかい」
ゆうべのような
あくる日は、芝の神明。次の日は、本所のどこと、毎日つづいた。市十郎は、同苦のそばを離れなかった。――いや、離れたらすぐ絶壁から谷底へ、ふたたび、一気に落ちてゆきそうな気がして、大釜と荷車に、しがみついている姿だった。
その日の場所は、下谷の広徳寺前で、ここは歓楽街の吉原裏に近いのに、なぜか窮民の混雑は、ほかよりひどい。
その尽きない飢えの行列も、やっと残り少なになった頃である。――杖に身をささえ、
市十郎は、大釜の粥を、
「あいや、その鉄鉢では、召上りにくい。御遠慮なく、こちらの
と、僧侶のいんぎんな礼を見たので、つい彼も、武家ことばが出て、べつな器へ、粥を入れて、さし出した。
――すると、その若僧は、手も出さずに、何か、凝然として、かすかな
「弟ッ。これっ、市十郎」
「げっ?」
「兄の
あッ――と、市十郎は、粥の茶碗を地へ落した。そして、つかまれた手頸の手を、必死にもぎ離そうとした。逃げるつもりどころか、会いたさに、市十郎こそ、兄の屋敷附近をうろついたり、探し求めていた程なのに――
「お、おのれ」
主殿は、よろめいた。片脚の
もし、そのままだったら、心ならずも、市十郎は姿を消し、主殿もその脚では、追いきれなかったろうが、幸いにも、途端に、同苦坊の腕が、ぱッと、市十郎の襟がみをつかみ戻していた。
「御僧は、この者の、お兄上か」
「左様でござりまする」
「これ、市十郎とやら。そこのお人は、そなたの兄か」
「そ、そうです。ああ……」
市十郎は、総毛立ッた襟がみをつかまれながらも、両手を顔へやったまま、
「骨肉の兄弟でありながら、相見たとたんに、仇敵のように、逃げようとするのは、どうしたわけじゃ。不幸な人間たちではあるよ。――が、ともあれ、施粥の中途じゃ。市十郎、やりかけた
同苦坊は、手を放して、主殿へ告げた。
「お案じなさるな、逃げはしません。御舎弟の胸のうちは、この幾日かで、わしにはわかっている。ま、その辺りに腰かけて、休んでおいでなさい」
市十郎は、粥汲みをつづけた。
それをしているうちに、彼の心は、かなり平調にもどってきた。この数日の間に、
その夕方。――施行のすべても片づいてから。
兄弟は、同苦坊を信じて、同苦の前に、一切をうちあけた。
市十郎も、家出以来、きょうまでのことを――語り難いお袖のことも、お島のことも、それからの自堕落も、今は兄への謝罪として、つつまず話した。
けれど、彼の
彼にいわせると、決して、つつみ隠すのではなく、まだ、本当の自分に立ち
そして、最後に、彼はいった。
「今は、いささか自分に返っておりまする。決して、取り乱して申すのではございませぬ。お慈悲をもって、兄上にも、上人にも、私をここでお見放し下さい。――さき程、恥をしのんでお話し申したお島の家を出たときの気持は、ひと目、兄上におあいして、罪をお詫びし、その足で、大岡家の菩提寺、
主殿は、久しぶりに、弟らしい弟を見て、思わず、熱い眼をそむけた。
この弟のために、叔父兵九郎は切腹した。養家の義父は病床につき、
そう、思いつめていたのである。
けれど、前の弟に返った弟を見ては、そんな悲壮な覚悟もくつがえっていた。何とかして、連れもどしたい。元の養家へ、詫びが入れたい。そして、以前のように、兄よ弟よとよび合いたい。
しかし、それには、難問題がありすぎる。お袖との仲に
「な、なに。御先祖の
「…………」
市十郎は、答えなかった。――本心がさめてくれば来るほど、何で、皆に、合わせる顔があろう。生きておめおめ、実家へもどることができよう。そう責められるのみだった。
「死なせたがよい。望みどおりにしてやりなさい」
同苦坊はいった。それがむしろ、慈悲であると説いた。
主殿の考えは、そういわれると、
また、かれを、一族の
「……そうだ」
主殿はひとり期するところがあった。
「弟に代って、この不具の身を……」と、ふと思ったのである。
それには、市十郎のいう通り、大岡家の菩提寺へ行こう。祖先の前で、この身を捨て、さいごの一言をもって、この弟の心を、
そう決意したので、主殿は、同苦坊のことばに従った。同苦坊は、これも宿縁、自分も浄見寺まで同行して、一片の
その晩は、広徳寺に一宿し、次の朝、三名はうち連れて、相模国
浄見寺は、藤沢の宿から
「江戸から墓参に――」
と、寺の住持には告げて、やがて、三名は、大岡家代々の
すっかり落着き、また覚悟しきった市十郎は、見ちがえるほど、顔いろもよくなり、眉も眸も、
野梅が咲いていた。
やぶ
市十郎は、そこに坐った。祖先の石にむかって、端然と。
「…………」
うしろに立った同苦坊は、傍らの主殿をかえりみ、何か、眼でいった。主殿の眼も、うなずいた。
こう二人のあいだには、旅の間に、広徳寺で約したこととはちがう新たな
かれはもう、土に、ひれ伏して、長い詫びを、石へむかって、心のうちから告げていた。
静かに、もろ肌をぬぎ、短い刀の鞘を払った。
そして、その右手が、袂で巻いた氷のような切ッ先を、拳の端から余して、われとわが
うしろから見すえていた同苦坊は、ふいに、主殿の杖を取って、びゅッと振りかぶるやいな、
「――死んで来いっ」
と、大喝して、市十郎の体を、撲りつけた。
おそろしい本気な力だったにちがいない。市十郎は、ただ一打の下に、気絶した。
「あ……」と、主殿はすぐ寄って、打ち所をあらためたが、同苦は笑って、
「御心配はない。わしも一度は、師の鉄眼和尚からこれを食わされたものだ」
と、何の事もないように杖を返した。
「では、おさしず通り、即刻、江戸へ急ぎます故」
「ああ、気をつけて」
「何かと、お礼のことばも、今は……」
「何の何の。それどころじゃない。早く、行かっしゃれ」
主殿はすぐ、杖にすがった不自由な足を、せかせかと急がせて、門前へ出て行った。
早
主殿の真情は、みなの心を打った。異存はない、任すと一致して、彼はまたすぐ早駕籠で、藤沢在へひッ返した。
しかし、こんどの時は、早駕籠二挺づれであった。
一つの方には、お縫が乗っていた。
市十郎は、浄見寺の一室に、寝かされていた。
杖で打たれた
けれど、気分は、爽快であった。――たしかに一ぺん死んだ覚えがある。記憶がふっと
この
「ひとの生命を愛せない者に、自分の生命の愛せるわけはない。――自分の生命すら粗雑に持ち扱う人間が、何で、ひとからその生命を祝福されようか、愛されようか。……不幸なことはきまっている。ひとのせいでも、世の中のせいでもない」
そんな事もいったりした。
兄の主殿が着いた。お縫も、そっとうしろに添って、ここの明るい病室へ通った。
――が、そこにもう同苦はいなかった。その日の朝、すでに彼は旅立っていた。
お縫のすがたを見ると、市十郎は、さすがに、
お縫は、ただいっぱいな涙を眼に見せただけで、何もいえなかった。しかし市十郎の枕元には、その時から常に彼女の姿があった。
数日の後、市十郎は床を払った。
お縫が、養家から持って来た新たなる衣服や身のまわりの物。市十郎は、風呂場で、髪を洗い、伸びた
その年の四月頃。
養子の大岡市十郎は、正式に、家付きのお縫との結婚の届けを幕府へ出した。――養父の忠右衛門は同時に隠居し、市十郎に、役付きの下命があった。
初め、
定日の非番ごとに、彼は、赤坂の家庭へきちんと帰った。
お縫もよい新妻すがたであった。
年は終りかけた。冬となり、新家庭に初めての正月も送った。
すると翌年十一月の二十二日の夜半、大地震が起った。
天災史のうちでも特筆されている元禄の大地震である。
四谷塩町から出火し、下町は火の海、山の手も、青山、赤坂、麻布と焼け、芝浦まで焼け抜けた。家屋の
市十郎は、ちょうど非番の日で、家に泊っていた。
すぐ、わが家もかえりみず、馬を出して、お城へ駈けつけた。本丸、二の丸、どこにも火災はなかったが、半蔵方面からの火の粉をふせぐに、必死の働きだった。
夜が明けると、ひとまず柳営は無事と安心がついて、
「御城外を見聞し、報告を
と、老中から命が出た。
若い旗本ばかりが選ばれ、彼もそのひとりとなって、まだ
行くところ、凄惨を極めて、目もむけられない。
「あ。……ここも」
彼はふと、番町の一角に、馬を立てて、思うまいとしても、思わずにいられないものに胸を
お袖はどこに。わが子のお燕は? ……と。
あの化物刑部のやしきもあとかたもないのだ。土蔵らしいものも崩れ果てたあげく、そこらも焼けて、荒涼たる一面の灰でしかない。
――が、あなたこなたの、屋敷あとの大樹の蔭には、むしろを張り、雨戸をひろい、生き残った避難者たちが、
「お袖っ……。お袖っ」
かれは、満目の焼野原へむかって、こう声かぎり呼ぶことを、ただ一度だけ、我にゆるしてと、心に詫びながら呼んでみた。
たれの答えもしなかった。
彼は、灰にまみれた黒い涙のすじを頬に描いて、ヒタ走りに馬を返した。
以後、かれは人知れずにでも、お袖の名はさけばないと意志した。けれど、なおその後も、ともすれば、お燕の泣き声はおもい出された。登城下城の道すがらも、幼な児を見、幼ない者の泣くのを聞けば――はっと意識なく胸をつかれた。
わが子のそれは、胸のうちから呼び起すのではなく、胸の底から呼ばれるのであった。――血の
けれど、歳月の流れは、そうした血の責めも、少しずつは薄れさせてくれる。
殊に、お縫とのあいだにも、子が生れ、彼自身も
かれの栄進は、著しかった。いつも職務に、誠意と熱がうちこまれた。これは生れ変らない前の彼の体験がむしろ下地になっていたようだ。彼には、どんな困難も、辛いという気もちは出なかった。忍苦、辛抱といったようなことでは、どうやら
評定所出仕の命をうけてからも、精勤賞をもらった程だった。そして翌年すぐ、山田奉行となって、伊勢へ赴任した。
山田奉行としての彼の名は、
「彼は、
と、
やがて、この人の上には、
――江戸町奉行に任ず。
という重命が待っていた。彼は、その辞令をうけ、山田地方の人々から惜しまれて、江戸へ帰った。――江戸城へ一書院番として仕えてから、十二年目のことである。
同時に、越前守となった。人間が人間を喪失して、
が、その時に、この人が出る、宿命といってよい。大岡越前守
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第三章
大江戸の深夜は、江戸人がよくいう“
ただ大通りの要所要所に、自身番の柵門があり、番屋の軒に、
「おたつ、まだかい。
番太郎の庄七は、番小屋の土間で
おたつは、七輪の土鍋をおろしながら、ふり向いた。
「おや、
「ほい。気がつかなかった」
庄七は、それへ蝋燭をつぎ足して、もどるとすぐ、熱いうどん鍋へ、箸を取って、ふウふウいっていた。
その時、ガラッと、油障子があいて、
「庄七、木戸触れだぞ」
と、
「えっ、木戸触れですッて。また何かあったんですかえ」
庄七は、箸をすてて、すぐ外へ出、番屋と並んでいる木戸の小門を閉め切った。
江戸の警備には、江戸三十六門と俗にいう見附や城門のほか、市中の要所要所にも、こうした木戸があって、暮れ六ツから明け六ツまでの間は、大門が閉められ、夜中の通行は、せまい小門に限られていた。
そして何か市中に事件が起ると、警板が鳴り、木戸締めのふれが廻って、ただちに、ここが非常線となった。
「何かあったのかッて。べら棒め、江戸の
「へえ。五人組ですか。悪いものが
「いや、まだ御検死も来ねえからよく分らねえが、今夜の奴ア、思いきッて
安は、いいすてて、ほかの自身番へ駈けて行った。すぐ、そのあとで、
「おたつ、由蔵も起してくれ。
と、庄七は、喰べのこしのうどんをあわてて、
首一ツ落ちぬ夜はなし江戸の春
と、物騒なこの頃を「ええ、うどんは冷えちまうし、何だか、よけえ寒くなっちまった。おおい、由っ。お固めだぞ。早く木戸へ立ってくれやい」
六尺棒を持って、彼も、外へ出て行った。
やがてまた、同心、捕手の一組が、
「怪しげな者は、見ないか」
と、見廻って来て、立ち去った。
事件の全貌も、追々、わかってきた。呉服問屋の
ちょうど
金以外、品物は何一つ持ち去られていない。襲うことも疾風なら、去ることも疾風だった。家人を縄目や猿ぐつわにかけたりするような、手間どることもせず、目的を迅速に達するためには、無用な
で――証跡らしいものは何一つとどめていない。ただ、生き残った召使のことばでは、五人組の五人がすべて一様の
「なあ、由。いったい、どういうもんだろう?」
庄七と由。二人の番太郎は、木戸に立ちながら、それッきり往来もない深夜の
「――将軍様もお代がわりになり、十何年も続いた“生類おん
「まったく。……きっと、人間に、クセがついてしまったんだろう」
「何の癖が?」
「十何年もの間、お犬様を
「そうかもしれねえ。何しろ、おれたち人間は、ひねくれたね。自分を考えても、どうも、むかしのように、
「真ッ直に歩けば人につき当り――サ。浅野
「思い出したが、その家来たち四十七人が、切腹を命じられたあとで、おもしろいことがあったな」
「ヘエ、どんな?」
「忘れたかい。いや、もう赤穂騒動も、十年以上も前の事になるからな。――その四十七士が切腹したあとで、日本橋を始め、江戸の要所に立っていた御制札が、どこのも、泥や墨で塗りつぶされたり、川ン中へ叩き込まれたりして、いくら立て直しても、三日と無事に立っていなかったことがある」
「ウム、あの頃の、御高札荒しか。あれやあ一体、下手人は捕まったかしら」
「一人だって、捕まっているもんか。今だからいうが、捕まえる方の俺たちまで、一緒になってやったんだからな。あはははは」
「そして、どうなったんだろ。しまいには」
「とうとう、お
「ヘエ。どこかへ、忠孝を仕舞いこんでしまったわけだね。もっとも、お犬様をお駕籠にのせて歩いた人間どもには要らねえ文句だが」
「その元禄の世も、宝永、正徳と変って、ことしは享保三年だが、人間の悪さは、ちッとも、変って来ねえ気がするんだ。……こうなってみると、やっぱり、お犬様以下という値段が、人間の本当だったかもしれねえな」
立ちしびれて来ると、二人は地にしゃがみこみ、そっと、なた豆
木戸触れ中の煙草は、見つかると厳罰の定めだが、こんな規律も今は
「大きな声じゃいえないが、こんな物騒や、
「それやあ出るだろうよ。由井正雪には、よい口実になる」
「オイ、
「ははは。勘弁しろよ。洒落でも
「まず、お歴代の江戸町奉行にもないだろうよ」
「ないだろうな。あんなにまで能のないお奉行もめずらしい」
「山田の
「それにひきかえ、北町奉行の中山出雲守様は、いよいよ凄腕を
「北と南とでは、余りちがい過ぎて、勝負にも何もなりはしない。あんな田舎奉行を、大江戸の南町奉行になど、何だってもって来たものだろう」
「新将軍吉宗公のお
「……あっ、庄七。来たぜ」
二人は、六尺棒を持ち直し、棒のように、
「北町奉行所」の提灯を振り、検死役人と騎馬与力が二名、それに同心たちの一団が、さッと、通り抜けた。
大門は、ふたたび閉まった。
雲の切れ間に、傾いたおぼろ月が、ちょっと顔を見せた。――だが、春の夜明けにはなお間がある。町から町は、墨のような濃い夜気を曳き、いまの馬蹄におどろいたか、しきりに犬が吠えていた。
「――やっ、誰だっ」
「こらっ。木戸の通行はならんぞ」
二人は突然、六尺棒で大地を叩いた。そして半ば、恐怖にみちた眸を、じっと番小屋の横へ向けあった。
自身番小屋の間口の半分は、庄七の女房が内職にしている駄菓子屋の店になっていて、雨戸が二枚ほど閉まっている。――いま、二人が見たのは、そこの暗がりから柳の樹蔭へ歩み寄って、そのままジッと佇んでいる人影だった。
「おいっ、何でそこに立っておるかっ。木戸止めだ。夜明けまでここは通れん。戻れ戻れ」
庄七が、こう二度目に呶鳴ったときである。
――人影は、柳を離れ、番屋の油障子のそばまで、おずおず近づいて来た。
白い
「はい。わかっております。……どうも、相すみません」
姿も姿だが、声も、まるで女である。幾度も、頭を下げているものの、あとへ帰る様子もない。
由と庄七は、顔見あわせた。もしやと、握りしめた六尺棒の力も抜け、なアんだと、急に除かれた恐怖と緊張が、反対なおかしさをつきあげた。
「おい、おめえは、
「はい、左様でございます」
「身装もいいし、
「ええ、もっと宵の内に、帰らしていただくつもりだったんですが、浜町まで送って行ったお客様に、またおやしきでひきとめられ、お酒をのませられたりなぞしていたものですから……」
「客を送って行ったのか。駕籠でも貰って帰ればいいに」
「まさか、お屋敷のお駕籠で、蔭間茶屋へ帰るわけにもゆきませんし」
「先は、
「お名前は申しあげられませんが、立派なお下屋敷もあり、御家来衆もたんといて、
「はて、
「それだけは、どうぞ、訊かないで下さいまし……。後生ですから」
と、白い手を合せて拝むような
「いや、何もむりに、訊こうたあいわねえよ。当節のお大名や旗本たちが、ただのお部屋様や妾遊びにも飽いて、
「
「と、とんでもねえこッた!」庄七も由も、眼を
「そんな事が、ひょッと知れたら、おれたちの首は、すぐコロリだ。おれが生きていてさえ喰いかねる女房や子供はどうなると思う」
「では、御迷惑でしょうが、夜の明けるまで、お宅のすみへでも、泊めて下さいませんか」
「なるほど、色子ずれがしていやがる。いろんなことをいうなあ。……番屋は土間だし、畳は六畳一間しかねえんだよ。おめえのような綺麗なのを、女房のそばに寝かせるのはおもしろくねえし、女房は女房で、ヘンに亭主へ気をまわすかも知れねえしよ……。断るよ」
「そんなこと、いわないでよう、ねえ、おじさん」
「よせよ、人の手にしなだれ掛ッたりするのは。……なあ、由、どうしたもんだろう」
「お兄さんからも、おねがいして下さいよ。もう夜明けにも、間がないことでしょ」
「庄七。こいつあ、おれにも、手がねえや。おめえの方が、惚れられているらしいから、いいようにしたがいいや」
由は笑って、木戸の端から端を、行ったり来たり、六尺棒を突いて歩いた。
「弱ったなあ」と、庄七は、油障子をあけて、中をのぞいた。そして、
「おい、吉弥。そこでよければ、寝てゆきねえ」
と、炉の掘ってある土間の隅を指さした。炉には、
「おお、暖かそうな……」
と、吉弥はよろこんで、それへ腰をかけ、板の間の
庄七は、六畳の方をのぞいて、何かいっていたが、女房のおたつは、乳のみ子を抱いて、もう
「夜明け前は、寒いからな、これでもかけて……」と、庄七は、壁の
「あっ……?」と、口に出るほど驚いた。
三家か将軍家のほかは、似せても用いられなかった葵の紋に、こういう畏敬とも恐れともつかない衝動をうけるのは、徳川
庄七は外へ出ると、由の耳にこのことをささやいて、吉弥のお客というのは、ひょッとすると、案外な貴人かもしれないといった。――と聞いて、由もまた好奇心を新たにし、油障子の穴からそっと覗いてみた。吉弥は、壁にもたれて、もう心地よげに居眠っている。それは、奥村政信が画くところの、紅絵の中から抜け出て来た男のように見えた。
北町奉行の中山出雲守は、
この人にして、この部下ありで、彼の
正徳四年に就役して以来、出雲守は、行政警視の両面に、大いに見るべき実績をあげていたが、去年の享保二年二月三日附で、新たに、大岡越前守
由来、北と南とは、
一つ都府に、二人の警視総監がいるのである。しかも大江戸といううるさい人種の中なので、勢い競争意識に駆られないわけにゆかない。それに
そこで、大岡越前が、南にすわると、たちまち、
(こんどの南町奉行は、新将軍のお目がねで、山田奉行から御
巷の声は、すぐそれを期待した。北の奉行組も、巷の声に刺戟されて、
(何の、田舎出の奉行ごときに)
と、例に依って、対立意識を燃やしたのはいうまでもない。それかあらぬか、昨夏以来、北の鬼与力や三十手の面々は、俄然、腕によりをかけて征悪活動を展開し、その検挙数は、ここ何年にもない目ざましさといわれた。
――で。今夜の、伊勢町の五人組強盗の突発にも。
北の鬼与力、佐藤剛蔵は、すぐさま現場へ駈けつけていたし、三十手のひとり倉橋剣助は、
すると、どこかの袋路地で、捕手の声がわっと揚がった。獲物を捕ったどよめきにちがいない。――やがて、一かたまりの人影に囲まれた縄付が、番所の方へ引っ立てられて来るのが見えた。
「女だ。……女だった」
捕手たちは口々に、その意外さをいい交わしていた。
「ウーム、なるほど、女だ。……はてな、今夜の
と、同心の倉橋剣助は、大きくうなずいて、番太の由と庄七を呼び、
「この縄付を、自身番へ預けたぞ。しっかり見張っておけよ」と、いいつけた。
剣助は、捕手の二、三へ何かひそひそ耳打ちをした。女は他の同類の女房か
捕手は、三組に分れ、
「もう一度、堀留から瀬戸物町、伊勢町なども一巡して、すぐここへ戻って来るが、その間、少しの油断もしてはならねえぞ」
と、自身番へいいのこし、大股に、立ち去った。
庄七と由は、預けられた縄付を、番屋の前の大柳の根もとへ、必要以上にまで厳重に縄を廻して
――だが、それでもなお、不安な気がして、二人とも、六尺棒を立てて、油障子をうしろに、立ちッきりで番をしていた。
「おどろいたなあ、由。これが強盗のひとりたあ」
「そうよ。今までにも、何人組というなア随分あったが、女が
「だが、北のお奉行衆が、いくらこう必死に働いても、南が、ああ無能じゃ、とても江戸の悪党は、狩り尽くせめえぜ。女の悪党までが、南を甘く見て、こんな真似をしやがる程だもの」
「まあ、南ばかりを、そう悪くいうなよ。いい評判だって、ちッたあ、あらあな」
「何か、挙げたかい、南の方でも」
「いや、捕物じゃねえが、この間、大工町の仕出し屋太郎兵衛が
「ヘエ、そして」
「
「なアんだ、そんな事かい」
「まだ一つ、この頃、聞いたことがある。下谷辺の魚屋が、八軒もの寺へ、貸しが溜り、どう責めても払ってくれねえので、八軒で二百両近くになる貸分の帳面を証拠に、大岡様へ願い出たんだ。すると、大岡様は、八寺の坊主へ
「ヘエ。気の長いものだね」
「まあ、聞けよ。坊主たちは、退屈はする、腹はへる。
「なるほど、悠長なお白洲で、江戸の悪党には、ありがたいお奉行様にちげえねえや」
由は
すると、うしろの庄七が、突然、異様なうめきを発して、前へ
「わっ」
仰天して、由は、庄七を抱いたまま、尻をついた。番屋の油障子は二尺ほど開いていた。そして、土間の内から、さっきの蔭間茶屋の色子――姉崎吉弥が、きっと、由の顔のまえに、血刀をつきつけながら出て来た。
由は、声を立て得なかった。吉弥は、柳の根方へ寄り、あざやかに、黒衣の女の縛めを切り
「さっ、おっ母さん、今のうち……」
と、
「ち、畜生っ」
と、吉弥のすそへ、しがみついた。
吉弥の刀は、片手なぐりに、うしろを払った。それは、庄七の身を
倉橋剣助をはじめ、町々を洗い歩いた捕手たちが、網をしぼるように、やがてここに戻って来たのは、それから半刻も後だった。
春はあけぼの。――その頃やっと、江戸橋、日本橋の欄干に、ほんのり、
そして、霞のほかは、まだ大通りに一軒の大戸も開け放たれていなかったが、ぽかっと、魔の通った口のように、ゆうべの木戸の小門だけが、誰の手に依ってか、開いていた。
また。
ここの自身番から一町半ほど先の路傍に、たれが脱ぎ捨てた物か、極めて
上げ汐時だ。海口の方から市街の河すじへさして、夜明け雲の下を、無数の
堀留川を下って、
「おうっ。お
無数の
手をあげて、苫の蔭から、こう陸へ向って呼んでいる顔を見つけると、
「ああ、よかった。おっ母さん、
と、ゆうべの姉崎吉弥は、江戸橋詰の木戸を破って救い出して来た黒衣の女と一緒に、苫舟の方へ、ニコと
苫の蔭から出て来た男は、すぐ舟に立って、
小舟はゆるやかに寄って来る……。
その間に、陸の女は、黒衣や頭巾や膝行袴などの
脱ぎすてると、彼女は、ただの堅々しい御寮人さまか、武家の奥さんという風の女としか見えない。
髪は、あっさりと結い、あられ小紋の着もの。
舟が寄って来るひまに、彼女は、きりりと、帯を直し、髪のほつれをなであげて、男まさりの――というよりは、何か、烈しい風雪と闘っている花のような、きかない眼と
ああ、十数年の歳月は、あの夕顔の花のように弱々しくて、
そのお袖を、おっ母さんと呼ぶからには、自身番の庄七に、万字屋の色子、姉崎吉弥だといっていた若衆も、蔭間ではなく――お袖の実のむすめ、お燕であるにまちがいない。
数うれば、ちょうど、あの頃、母の乳ぶさによく泣いてばかりいた乳呑み児のお燕も、十六、七の娘ざかりとなっているはずである。
「どうしたい、お燕ちゃん。とても、おめえのおふくろが、心配しちまッてよ。――おかげで、おれ達も、仕事は上首尾に行ったものの、あと白浪と、逃げるに逃げられず、とんだ目に遭ッちまったぜ。……さ、乗んな。跳べるかい、そこから」
と、小舟の上で、しゃべりながら、どんと

「あら、だめよ。もっと、舟のゆれないように、抑えていてくれなくッちゃ」
お燕は、岸から覗いて、ためらった。――すると、まだ
「黒衣を着こめば、おれ達悪党も、三
「いやだあ」
お燕は、
しかし、刻々に、空は白み、朝は賑わい立ってくる。
小舟は程なく彼女たちを苫の下にかくして、矢のように、
いうまでもなく、堀留の山善へはいった五人組は、この顔ぶれだ。往来の不良児や御家人ごろの単なる
しかし、悪と悪とは、その犯す罪の大きく数を重ねている仲間ほど、仲間内だけでは、骨肉みたいに仲がよかった。一家族のように他愛がなかった。
「お燕ちゃん。おめえは一体、みんなが約束した手筈を、よく呑みこんでいなかったのかい。ひどい心配をかけるじゃねえか」
舟は、大川を
もう大丈夫と、落着くと、三平も大亀も、お燕にむかって、しきりに
――というのは、ゆうべ、かれらの目的をとげて、いざ、引き揚げとなって、堀留川へ繋いでおいたこの小舟のうちへ、一斉に逃げ降りてみると、お燕ひとりが、見えないのだった。
(あの娘がいない?)と知ると、いちど舟まで逃げたお袖は、また、あとへ引っ返し、もう警板が鳴り、非常太鼓の聞える町を、身の危うさもわすれて、探しあるいた。
北の同心や捕手にその姿を見つけられ――お袖は、子を探しつつ、追いつめられた。そして、江戸橋詰で、縄を打たれたのであった。
「まさか、自身番の中に、お燕がいようとは、わたしだって、夢にも思えないだろうじゃないか。だから、何が何だか、夢中で逃げて来たけれど……。ねえお燕、いったいおまえは、どうしてあんな所にいたのさ」
お袖も、同じ不審を、訊ねてやまなかった。
「…………」
お燕はただ笑っているのだ。なぜか、答えたがらないのである。
だが、訊き取らずにはおけないとばかり、三平も大亀も、根ほり葉ほり、なお訊きほじった。
「出かける前からの
「いいえ」
「じゃあなんでおれたちが引き揚げの合図をしたのに、手筈どおり、山善の裏河岸につないだこの舟へ、すぐやって来なかったのさ。……そいつが、どうもわからねえんだよ」
「だって……」
「だって、どうしたのさ」
「わたし……大事な物を、どこかへ、落しちまったんだもの」
「へえ。何を、落したの?」
と、お袖は、眼をみはって、お燕の顔を、ふかく見つめた。
お燕は、なお口しぶっていたが、問いつめられて、ついにいいだした。
「わたしが、ものごころもつかないうちから、肌身離さず持っていた大事な大事な印籠を、山善から逃げ出すときに、どこかへ落してしまったので、それを探しているうちに……みんなにはぐれてしまったんです」
「ヘエ。印籠を落したのかい?」
「やっと、印籠を見つけたと思ったら、もう近所では非常太鼓。わらわらと、人は馳けつけてくるし……。これはと、町中へ走り出してしまったの。そして、江戸橋前まで来ると、自身番の灯が見えたので、頭巾や黒衣を道ばたへ脱ぎすて、蔭間茶屋の色子だと出たら目をいって、番太郎の小屋へ泊めてもらったわけなんですよ」
「ふーむ……」と、大亀も三平も、そういうお燕の顔を、今更のようにしげしげ見て、「いい度胸だなあ。イヤ驚いた。こいつあ、おふくろにも勝る
と、舌を巻いていいあった。
だが、お袖は、気にくわない顔色を見せて、
「まあ、あきれたお馬鹿ちゃんだよ、おまえは。――何さ、あんな印籠一つを」
「でも、わたしには、わたしの
お燕は、打って変って、つよい口ごたえを返した。母と娘のことばの
「お出しなさい、その印籠を。いッそのこと、大川へ捨ててしまってやるから」
「いやですよ。そんな事したら、いくらおっ母さんでも……承知しないからいい」
「じゃあ、おまえは」
お袖は、ことばの下に、お燕の腰から、印籠を

「いやっ――」と、お燕は、その手に、しがみついた。手と手の間に、
ぱんと、重ね蓋が、口をあいた。そしてその中から、お
お袖は、印籠を離して、それへ手を走らせた。だが、お燕の手の方が、
「まあ、よしなよ。舟が揺れるじゃねえか。
大亀と三平は、むりに、ふたりをひき離した。
お燕は泣く。お袖も涙ぐむ。
「一体ぜんたい、泣くたあどういうわけなんだい」
わけがわからない他人同士は、顔見あわせてそういった。
お燕はまだ小さい
「なんだい? それは」
赤螺三平も、顔をよせた。幾つにも折れている小さな紙は、大亀の手でひらかれた。それには、仮名書きの墨あとも
あめつちの、かみ、ほとけに、
いのりたてまつる。
この身の諸悪罪業 のむくい、この身ほろぶまで、責苦あらせたまうとも、あわれこの子に、科 あらせ給うな。
この子の罪みな父にあり。この子のすこやかを、守らせたまえ。
いのりたてまつる。
この身の諸悪
この子の罪みな父にあり。この子のすこやかを、守らせたまえ。
元禄寒年飢日
「なんだろ。大亀、おめえには、わかるか」
「わからねえの。何の、お守りやら」
すると、櫓の手をやすめた阿能十が、
「わかってるじゃねえか。それやアそれ、お袖さんの初恋のよ――そしてお燕ちゃんにとっては、実の男親の……市の字が書いたものさ」
「あ。むかしの市の字。今じゃあ、大岡越前とかいって、江戸町奉行になりすましている、あの男が書いたものか」
と、赤螺三平は、好奇心を眼に燃やし、阿能十は、まだ上からしゃべっていた。
「いつか、お燕ちゃんが、そっと、おれにだけ見せて、父親があるのに会えないというのは、何たる因果者だろうッて、涙ながら嘆いたことがあるんだ」
「おいおい、阿能。よけいな事を、上からいうなよ。見ろ、お袖さんの眼が、見るまに、
「ほい。いって、悪かったかな」
「悪いにきまってら。市の字のいの字を口にふと出しても、さっと、顔いろの変る人だ。――女の一生をこうされた恨みを、生きているかぎり、思い知らしてやるのだと、いつもいっているのを、てめえだって、知ってるじゃあねえか」
「いや、すまんすまん。黙って舟を漕いでいよう。――ええと、お乗合の衆、舟はただ今、両国橋の下をすぎて、首尾の松へさしかかっておりますよ。そろそろお上がりの支度をなさいませ」
阿能十は、
舟の着く所へ、近づいたのか、それなり苫の下も、静かになった。
お燕は、母の顔いろに頓着なく、父の生きがたみとして持っている筆蹟を、また、ていねいに折り畳んで、印籠底へそっと秘めた。
お袖は、「もういいたくもない――」としているように横顔を
阿能や大亀や三平などの、
わけて、お燕が、ふと「父」ということばでも洩らそうものなら、かの女の、呪咀の
久しいあいだ、かの女の愛は、お燕ひとりに、かけられて来た。お燕が生れていたばかりに、かの女は、人間の中に愛というものがあるのを知っていた。
「ああ、おれにも、母親があったっけ」
と、思わず、嘆じさせるほどだった。
それなのに、お燕が、ともすると、母以外なる「父」を求める気をひそかに抱くので、かの女は、いよいよその父の憎さを年と共に強めるばかりだった。
お燕は、成人するほど、父恋しさを、意識に育て、お袖は、年経つほど、その父を、うらみの
だが、その父なる人間が、遠い地方で、田舎奉行をしているとか聞いていたうちは、まだ、かの女の胸の火は灰のうちにあった。――それが、去年、江戸南町奉行の任について、大岡越前守忠相として、市中の警政にのぞむと知ってからは、男の虚偽に、宿年のうらみをも併せて、朝に夕に、忘れるという間もない呪いに燃えた。
(ふん、いくら
ともかく、悪の巣の中に生きているかの女は、むかしの市十郎から、あたかも、挑戦をうけたように思ったのだ。
(大岡越前なんて名は、
かの女は、たった一つの生きがいを、ここに見つけ、そして、
(そしたら、どんなに胸がせいせいとするだろう。そのあとなら、死んでもいい)
と、かたく思った。
ゆうべの五人組へ
「――ええ、いらっしゃいまし。これはこれは御寮人さままで、御一しょで。きのう、お
舟は、せまい
吉原帰りの朝の客がよく立ち寄る堀の茶漬屋では、そこの
朝風呂にはいって、軽いもので、朝飯をたべて、舟はそこへ預け、町駕籠を雇って、お袖とお燕は、先に帰った。
駕籠は、下谷から根岸の里へ。――根岸もずっと淋しい寛永寺裏の一軒の小屋敷、まず、上野の寺侍の住みそうな門のまえで降ろされた。
近くには、同じ寺侍のやしきが多い。お袖はここの御寮人さまである。お燕は、お嬢様とよばれながら、折々、男装したりして出るが、近所の者は、怪しみもしなかった。上野ばかりでなく、僧院に、男か女かわからない者が出入りするのは、
ここは、しいんと、冷やッこい。うす暗い中庭を抱いたどの部屋も、
「お袖。もどったのか」
と、その
お袖は、部屋をのぞいたが、坐りもしなかった。
「帰りましたよ」
「どうだった、首尾はうまく行ったか」
むくりと、蒲団の上に起きたのは、すでに六十ぢかい怪異な大男。持病にくるしむとみえて、白髪まじりの髪を
「お袖。まあ、坐ったらいいじゃねえか。そして、山善じゃあ、どのくらいな金が
「七百両ほどだとさ」
「それッぱかりか。前々から、おれの授けた智恵をもって、あれだけの頭数が押込みに出かけ、それで千両と持って来られねえたあ、どいつも、腕の細い奴らだ」
「何さ、御苦労ともいわないで……。病人のくせに、
「いや、おめえには、御苦労だったが、おれが達者で出かければ、
と、すぐ仰向けに寝てしまった。
みじんの愛情も感じないのに、もう十何年も、お袖は刑部のそばに暮してきた。今もって、厭で厭でならないのに、どうして一緒にいるかも、かの女自身、わからなかった。
お燕を、育てたいために。それもあった。だが、何よりは、刑部にそむくときは、すぐ生命に危険があった。こう喘息もちで病臥しているが、この男には、今でも、江戸中にたくさんな同類や手下がある。
江戸城の金蔵絵図を手に入れて、根気よく、機会をうかがい、ついに城内から莫大な金を盗み出したことは、同類中の畏敬をあつめている
(もうこれで、一生食うんだ)
と、寺侍の株を買い、以来、ぷつんと、ひき籠ったきり、世間のうわさを避けていたが、その坐食の
金がなくなると、一度しめた味が思い出された。刑部は、寝床の中で、悪智をえがき、堀留の山善へ目をつけた。まずお袖とお燕を、大身の奥の女性に仕立てて、二度ほど、山善へ買物やら注文に出かけさせた。そして探りを取り、その上でやった仕事なのである。
阿能、大亀、三平などは、夜に入ってから帰って来た。かれらも、とうに刑部の腹心だった。悪の上では段ちがいなので、悪の世界に籍をおくかぎり、どうにも頭が上がらないのだ。
刑部は、かれらに金の分け前を渡して、寝ながらにして大金を眺めた。そして、お袖をまたよんで、
「おまえもいいだけ取るがいい」
といったが、お袖は、手もふれなかった。
次の日。たんまり
「おい、気をつけな、お燕ちゃん。今朝も出がけに、寛永寺の横で、同心くせえ奴が目明しを連れて歩いていた。こいつア、いやな勘がするがと、道を
お燕は、黙っていたが、南と聞くと、お袖はすぐ反抗を眼に燃やして、
「何さ、意気地のない」と、叱った。
「大亀もこの頃は、すっかりぼけ亀になっちまったね。大岡越前は、おまえの
「やられたね。恐れ入った。いつまでも、以前のお袖さんと思っていたら、いつかおめえも
お袖に小胆をわらわれて、大亀は、首を振り振り、またどこかへ
まだ部屋住み頃には、堺町の盛り場などもよく歩いていた彼。祖父大納言
――その彼自身も、五代
彼は、中興の革新児をもって、自ら任じた。将軍様らしくない将軍家だった。旧来の
着物は、
「
吉宗は、
紀州から連れて来た家来のひとりに、藪田助八なるものがあった。略して、吉宗は、藪八とよび、これを庭番に用いていた。
庭番頭は秘役である。隠し
「お召ですか」
「おお、水を汲んで来てくれい」
さっき、坊主がたててさし上げた薄茶茶碗を、助八につき出して、
「坊主のくれる水では
やがて助八が、紅葉山から流れて来る清水をたたえて、捧げて来ると、
「越前はまだか。遅いではないか」
と、それを
「いえ。ただ今、見えられました」
「や。来たか」
「呼べ」
と、助八へゆるしを伝えさせた。
やがて、助八は、表に立ち、越前守忠相は、吉宗のまえに平伏していた。
「表では、会うが、そちと、親しく
「いつなと、お召し給わりませ」
「山田では、紀州の家臣どもが、そちの正しい裁決に、ひねられたそうだな。紀州領と山田との境界争いやら、紀州材の
「お聞き及びでございましたか」
「聞いたとも。あの頃、吉宗も、紀州に帰国して、
「おそれいりまする。この
「いやいや。
「身命をなげうちまして――」
「が、越前。江戸ではだいぶ不評を聞くぞ」
「越前も、もっともな事と、恐縮いたしております」
「いや、よろしい。町奉行は、人気商売とはちがう。思うようにやってみい」
「おことば、百万人力にぞんじまする」
話は、そんなものだった。吉宗は、もう越前の職にはふれず、茶をのむかとたずね、のみますと彼が答えると、助八に命じて、茶坊主をよび、薄茶を与えた。
「ときに越前。
「はい」と、越前は、突然、何かに打ち
吉宗は、わらって、
「折には、見てあるけよ」
と、軽くいった。
越前は、お庭を辞して、下城の途々も、(折には、見てあるけよ)といった吉宗のことばの真意を、考えさせられた。
おもい出すだに、彼は、体の組織がすぐ変るような気がした。その頃の実感を、また自分を、今の身によびもどした。
あられ降る
味噌久の背に、お燕を負わせ、木賃を出ては、巷に、食物をひろいあるいた日を、
駕籠が、数寄屋橋門内に入り、役宅の玄関に、降ろされるまで、ふと、心をとられていた。
もう、
越前はすぐ机により、その日の
ふと、山善の一件書類が、かれの眼をひきつけた。
当夜の押込み五人組の強賊の――かおだちや年頃やらが、山善の召使や、重傷を負った夫婦の
そのほか、江戸橋自身番の、庄七と由蔵の証言も、つぶさに、書きあげられてあった。
「……?」
越前は、数回、蝋燭の
夕食をわすれていた。――いや、常ならばもうとうに、家庭に帰って、妻のお縫や、わが子の中に、一個の私として解かれている時間なのに、それすら忘れはてていた。
「
越前は、
「万字屋の蔭間といつわって自身番に夜を明かしていた十六、七の若衆が、それを所持していたとあるが。……十六、七?」
彼は、膝の上で、指を繰りながら、
お袖との仲に
「だが、調書には、若衆とある。……お燕にしては、その点が」
迷っては、他の部分を読み、また、思いあたる点に、触れては、
「もしや? ……」
と、胸を
お縫は、いま、幸福であった。
いまはむかし、結婚前のひと頃の、涙にばかり明け暮れした日をかえりみると、
(いま、帰ったぞ――)
と、公務から解かれた姿を玄関に見せ、部屋に入れば、なお心から、家庭のまどいを楽しんでくれる。
結婚後に生れた長男の
「父に見せたい。父が生きていたら……」
と、お縫は、この幸福に感謝するたびに、亡き忠右衛門を、思わぬ日はない。
その良人がめずらしく、今夜はおそい。
「どう遊ばしたのか」
お縫は、奥の寝間で、園子に
まだ、乳もはなれない園子には、乳母もつけてあるが、きのうから風邪ぎみで、熱もたかく、母の肌を恋しがって、離さないのである。
「――お月番でもないのに」
と、彼女は、気をもんだ。家にあっても、良人の職とする町奉行というものの重責に何か、大事が起ったと感じると、彼女の
「殿さまのお帰りでございます。――奥方様」
廊下のそとで、いつものように、女中の知らせる声がした。
お縫は、ほっとした。
園子を、乳母にあずけ、いそいで、鏡台の前へ寄ってから、迎えに出た。
駕籠をおりた越前守は、ちょうど、玄関の式台へ上っていた。
「お帰りあそばしませ」
「きょうは、ちと
いつもの
公服を解き、風呂に入り、やがてお縫の給仕で夜食の膳につきながら、
「子どもたちは、もう寝たか」
「はい、宵のうちまで、求太郎も雪子もしきりと、お父さまをお待ちしておりましたが」
「園が、寝所で泣いておるようだの」
「きょうは、咳が出るので、むずかってばかりおります」
「医師の楽翁は、どういうておるのか」
「きょうは、
「あれ、呼びぬいておるわ。行って見てやれ」
かの女は、いそいそと病児の部屋へ。越前守は、いつものように、書斎にはいった。
読書は、かれの夜の日課であり、趣味であったが、その夜は、園子の泣き声が、耳について、何としても、心がみだれがちだった。
「……あらそえぬもの」――と、彼は、自ら責められた。
父の罪は、まだ、消えていない。お燕の幼いときの泣き声と――奥の園子の泣き声と、余りにも、よく似ている。
いや、それは決して、ちがったものであるはずはない。
「……母こそ、ちがうが」
罪の父は、
奉行所にあるときは、日々、白洲へ曳かれてくる無数の人間を裁く法官の彼であったが、
――ふすま際へ、小侍が来て、そっと、たずねた。
「お医師の楽翁どのが、お戻りがけに、ちょっとお目にかかって帰りたいと仰っしゃいますが?」
「さしつかえない。通すがいい」
越前は、彼を待った。
楽翁は、
「ときに、先頃はまた、堀留河岸の山善とかいう呉服問屋へ、女まじりの五人組強盗が押入りましたとやら……いやもう、町のうわさは大変ですが……お奉行様にも、ご苦労がたえませんな」
と、あちこちでの、聞きかじりを、茶のあいだに、語りはじめた。
衆の
どんな政治の裏も、大奥の
あざむけないものは、衆の
大衆は大智識である。大衆こそ、
越前守は、いつも、それを痛感している。
――だから、楽翁の世事ばなしといえど、おろそかには、聞いていない。
「五人組のうちの、女ふたりは、何でも、
楽翁の言を、町の声とすると、庶民たちはもう、そんな事まで知っているのだ。
越前守は、心のうちで、
(ああ、裁かれている者は誰か)
と、自問自答していた。
楽翁は、かれの胸中に、何があるか、知るはずもなく、
「それにまた、町の者は、この事件の犯人を
老人がいいたかったことは、この点らしい。町の者より、楽翁自身が、ひどくこの「北か南か」に、肩入れなのだ。――そこで自分の激励を終ったように、かれは処方の
翌る日。――また、それからの毎日。
越前守は、平日どおり、奉行所に出仕し、白洲の訴訟を聴き、市政万般の
就任以来、世評のとおり、この南町奉行所は、悪党狩りの方では、検挙の成績がわるく、数寄屋橋の
かれは、何とかして、江戸に火災をなくしたいと、考えた。
「火事は江戸の花」――などというものの、明暦の大火には、全市の半分が焼け、死傷十万という災害を生んでいる。
万治三年の年などは、正月二日から三月末までのわずかな間に、百五回という火災数の新記録を出している。
越前守が、自分の幼いときから、今までに、覚えている大火を憶い出してみても、何十回か知れないほどである。
(捨てておけない)
と、かれは、市井の悪党以上、この災魔をなくすことの方を、急務と、信じたのであった。
そこで彼は、火災を起した火元の罰則を立て、大火となったときは、さらに、町名主以下、家主、地主たちにまで、連帯の責任を問う法令をもうけた。
――が、むしろ、火の出ないうちの、予防策に、かれは重点をおいた。
市中にたくさんな、
家屋の構造に、それまで制約されていた条件(たとえば、大名武家以外は、
また、消防組を、新たに、組織させた。
全市の、各町ごとに、常備の駈付け火消しを、三十人ずつおいて、ジャンと鳴れば、競って、
江戸“いろは”四十八組の創案は――このときからといわれている。
だが、土木だの、交通だの、風紀だの、火事だのという地味な行政は、なかなか、市民の注目をひかない。
(南は、無能だ)
という非難にひきかえ、北の奉行、中山出雲守の配下は、
(腕ききぞろい)
という一般評のたかい
そこで、一般の悪評は、南町奉行にあつまっていたが、越前守は、すこしも
きょうも、同心部屋の昼飯のあとでは、ちょうど、聞き込み歩きから帰って来た二、三名の目明したちを
「こんどこそ、何としても、おれたち南の手で、犯人を揚げてみせなくっちゃ、十手をさして、昼中歩くにも、気がひける。辰、何かホシはつかねえか」
と、中のひとりが訊ねていた。
目明しの辰も、松も、勘十も、いいあわせたように、首をふった。
「てんで、耳よりなと思うようなことは、何ひとつ、ありやしません。毎日、犬もあるけばの空だのみで、北組の方だって、その後は、調書以上の聞き込みは、何もつかねえはずです」
「油断じゃないか。北ではまた、南のやつらを、あっといわせようなどと思って、ひっそり、
「いや、こんどだけは、金輪際、こっちも、北に抜かれるようなドジを踏んじゃおりません。……だが、何度、現場を調べても、江戸橋の番太郎ふたりを
かれらの言も、誇張ではない。
もともと南北町奉行所には、各、与力五十人、同心二百四十人が、所属されていて、それらの大半以上は、一般市政や、所内の事務に就いており、犯罪の検挙にあたる与力同心の実数は、一部の人員にすぎないが、それにしても、大きな事件ともなれば、奉行所の機能の最高度なものがそれに集中することになっている。
にもかかわらず、事件以来、二十日もたって、しかも、南北のその機動力をあわせてもなお
――というのが、正直、かれら下役の、いい分らしいが、さりとて、泣き言をいうのは、中山出雲守の北組にたいし、なんとも、小癪だという意地もあって、忍んでいる顔つきだった。
「――山本はここに見えんか。山本
そこへ、吟味役の市川義平太が、与力山本左右太をさがしに来た。
「左右太どのなら、いまし方、湯呑み所で、弁当をつこうておられましたが」
「いや、与力部屋も、湯呑み所も、のぞいて来たのだが」
「何か、急な御用ですか」
「お奉行が、呼んでいらっしゃるのだ」
「じゃあ、さがしましょう」
と、みな同心部屋を出払って、ひろい役宅、吟味所、各詰所、
奉行所の西門前に、俗に、石焼豆腐とよばれている「訴訟人休み茶屋」がある。
公事訴訟の手つづきやら、牢内の知人へ差入れ物をする身寄りの人々などが、ここで書類をかいてもらったり、時刻を待ったりしているので、いつも繁昌していた。
山本左右太は、与力のなかでの若手で、年はまだ三十がらみ、苦みばしった男前もわるくなく、石焼豆腐の評判娘といわれるお
目明しの辰三は、うすうす知っていたので、
「まさか……?」とは思ったが、念のため、そこの住居となっている
「こいつあ、あきれた」
辰三は、ためらったが、役所の急用というのに、姿が見えず、同僚たちも心配しているところなので、
「左右太様。みんなが、探していましたぜ」
窓の外に立って、気がねしながら注意した。
「なに、おれか」
左右太は立つ様子もなく、
「飯休みに、ちょっと、ひと昼寝していたのだ。たいした用でもあるまい」
「何か知りませんが、お奉行がおよびだとかいうことで」
「うそをつけ。おれはここ三日間の報告を
ところへ、義平太も、
「
と、共に声をあららげて、窓からどなった。
「左右太。何をしておるッ、お奉行のお召しだぞ、すぐに来いっ」
これには、山本左右太も、疑ってはいられなくなったとみえ、
「ほんとか。義平太」
「たれが、わざわざこんな所まで来て、嘘をいうか。いま、
「では、今すぐ行く」
左右太は、店の方へまわって、そこの土間から、二人より先に外へ出た。そして、礼もいわず、すたすたと役宅の裏門へはいって行く姿を見て、
「あんな男じゃなかったが、近頃どうかしているな」
と、市川義平太は、辰三をかえりみていった。辰三も、小首をかしげて、
「ヘンですなあ?」と、つぶやき――
「いくら、恋は熱病だといっても、まだお役宅も
「なにか、自暴自棄のような、ふうも見えるが」
「もっとも、この間うちから、しきりに、町の非難をかりて、
「では、そんな陰口が、越前守様のお耳にでもはいったのではないか」
ふたりが、元の同心部屋へもどってくると、他の同僚たちも、声をひそめて、何か、左右太のうわさをしていた。
するとまもなく、当の山本左右太が、ここへ姿をあらわした。――顔色がかわっている。人々は、かれが越前守の室へよばれて、何かいわれたな、と直感した。
あんのじょう、左右太は、ここへ来ると、噛んではき出すように、すぐいった。
「

「えっ。免役になったのか」
「うム。当分、ぶらついているつもりだ」
「どうしたのだ、いったい。――何か、お奉行のお気もちによほど
「逆らわずにおられんからな」
「……どうして」
「貴公たちは、南の不評を、世間で耳にしないか。――いやもう、いうのはよそう。さんざん越前守様へ、

左右太は、同僚に
「あの足で、またすぐ石焼豆腐へ寄るんじゃないか」
同心のひとりがいうと、たれもが、そう思ったことらしく、みな笑った。
目安方の小林勘蔵を通じて、越前守から、山本左右太の解役が、各役部屋へ公表された。
行状、粗暴
たれも、ちか頃のかれを見ては、不当なる免職とおもえなかった。
しかし、左右太と同室のごく親しい人々のあいだでは、
「どうして、このところ急に、あんな
と、不審がられもしていた。
越前守は、そんな中を、定例の辰の口評定所の出仕日とあって、午すぎ、
たそがれと共に、役宅は
小林勘蔵と市川義平太のふたりは、たれより
ふたりは、立ちどまって、
「では、義平太。貴公ひとりで行ってくれるか」
「その方が、人目にたたないで、いいとおもう」
「では、たのむ」
「いずれまた、役宅で、何かと、そッと連絡する」
勘蔵は、自宅へかえり、義平太ひとり、あとにのこった。
その義平太は、もう夕暮と共に、
「お次さん。おるかね」
「オ……。市川さま」
「さっき、左右太が、立ち寄ったろう」
「ええ、お寄りになりました。そして、あなた様がお見えになったら、これを渡してくれと仰っしゃって」
お次は、帯のあいだから、左右太に托された手紙代りの紙片を出して渡した。義平太は、その短い文字をひと目に読んで、「ありがとう」と、さりげなく、すぐ立ち去りかけたが、お次によび返されて、またふと足をとめた。
「何だね。お次さん」
「左右太さまは、どうかしたんですか。お役向きか何かで」
「聞いたか」
「ええ、夕方、目明し衆が、お店の
「じゃあ話すが、左右太は、免役になった。もう奉行所へは来ない」
「……わたくしが悪かったんでしょうか」
お次は、袂の端を
「ははは。なんで
軽く、笑いまぎらして、義平太は、どこかへ足を早めて行った。
その頃、山本左右太は、
「左右太か……」と、やがて宵闇からよびかける声に、
「オ、義平太。来てくれたか」
ふたりは、河へ向って、石置場の石へ腰かけた。
「左右太。辛かったろう、今日は」
「察してくれい。それを知っているのは、貴公と小林勘蔵と、あわせてこう三人きりだ。……すべての同僚下僚から、
「だが、それも皆、おれ達三名が、親とも、御主君とも思って、御助力申しあげている越前守様の大難に当るのだとおもえば。……なあ、左右太、何でもあるまい」
「うム。何でもない」
ふたりは、夜の
義平太は、町医師の市川楽翁の子。
左右太は、もと
前々から、与力として、立派に資格をもっていたのは、もう一名の同僚、小林勘蔵だけである。
勘蔵は、前の江戸町奉行、松野
他にも、与力同心は、ずいぶん多いが、とまれ、越前守を中心に、世上の悪評のあらしにもたちむかい、
(この人のために尽すことは、
と、信念して、かたく結びあっている三人なのである。
もとより、きょうの左右太の免役は、ある必要のために、越前守と、腹心三名とが、かねて相談の上で、ああやったことで、その
「ところで左右太。――おれたち三名を、頼む者と、お見こみあって、越前守様が、御自分の若い日の過ちを、あんなにまで、かざり気もなく、お打ちあけして下すったが、それについて、貴様がひきうけたことは、実際に、何とか、目ぼしの手懸りをもってお答えいたしたことか」
「それは、もとよりだ。――こうして、わざと、免役まで
「だが、その間に、北町奉行の手で、先を越されなければいいがなあ。万一、北組に、さきに手をつけられると」
「そこは、
「当座の住居は、どこと極めたか」
「あの、二階――」と、左右太は、ふり向いて、一軒の釣舟屋の灯りを指した。
「覚えておいてくれ。
「お次ではどうだ。なお、まずいか」
「貴公まで、からかってはいけない。わざと、ここ数日は、入り
「……おや?」と、そのとき、義平太は、あたりの河柳を見まわして、
「たれか、泣いたような声がしたとおもうが、おれの耳のせいか」
と、耳をすまし、そして、ふいに、うしろの樹蔭へ立って行った。
「あ。お次さんだ……左右太、お次さんが、こんな所で、いまの貴様のことばを、立ち聞きしていたのだ」
「いつのまに?」
と、左右太は、当惑そうな顔をした。だが、かの女へ頼んでおいた
いや、義平太は、むしろそれを友のためにも、これからのある策の上からも、好都合だとよろこんだ。
「お次さんの気性もわかっている。あれを、打ちあけてやってもいいだろう」
義平太はいったが、左右太は、さあ? と、考えこんで、
「女は、口がかるいからなあ」
と、難色をみせた。
お次は、信じられない自分を、恥じるように、ただ泣いていた。きのうまでは、人のうわさの、いわゆる浮名にすぎなかったものが、きょうの事から、かの女の心は、一どに、火ともなる恋の
「いいよ、泣くな。義平太が、のみこんでおるよ。――それに、誰よりは、お次さんが信じられるし、お次さんのほかに、奉行所内のわれらと、左右太とのあいだを、うまく連絡してくれる者はほかにない。左右太にはなせぬなら、おれから話す。……お次さん、ちょっと、こっちへ顔をかしてくれ」
義平太は、少し離れた所へ、かの女を誘って、ある秘密を、うち明けた。
ある秘密というのは、現町奉行越前守の、若き日の過失だった。
堀留事件の五人組の賊のうちには、その若き日にむすばれた――越前守とは宿命の人間が、犯罪のうらにひそんでいる。
越前守は、それを
人間越前として、幾夜か、悩んだことはいうまでもない。
が、より以上、かれの職は、町奉行だった。人の罪を裁く法官であった。
勘蔵、左右太、義平太の三人は、かれにこのことを、率直に、語られたのである。
(お奉行には、それを、どう御処置あそばすお覚悟ですか。私どもは、ただあなたの手足となって働きましょう。腹心となって、秘密裡に
これが三名の一致したそのときの答えであった。
きょうのことは、人間越前守へかかって来た大難打開の一着手なのだった。仕事は、すべてこれからなのだ。
「お次さん、手伝ってくれるか。いや、もうこう打ちあけた以上、いやとはいわせない。」
「うれしゅうございます。……どんな事でも」
「左右太。うしろで聞いたろう。仲よく、
三人は、それからも、一刻ほど、何事か
左右太は、舟源の二階を借り、役所をしくじッたのを自慢のように、浪人ぐらしを初めていた。
舟源の夫婦は、かれと同郷の
「旦那、やっと分りましたぜ。――あの晩の舟が」
この二階へ来てから七日目。舟源の亭主は、仲間のばくち場から飛んで帰って来て、かれに知らせた。
「やっぱり、旦那のカンは
「どうして分った」
「岩五郎の
「大金をとったのか。貸しちんは」
「何でも、茶漬屋のおかみが、仲へはいっての相談だというこってす」
「木更津船は、大川へ、何度はいる?」
「さ、親船は、月にいちどぐらいなもんでしょうが」
「分っているだろうな、岩五郎の木更津の家は」
「網元もやっているし、かくれもねえ
「まず、あしはついたな」
「おめでとうございます」
「ばかを申せ、これからだ。……が、他言は無用だぞ」
「仰っしゃるまでもございません」
「褒美に、
「ごじょうだんを。……旦那も一しょに、うちの女房に、追ン出されますぜ」
「いや、今夜一ばん、貴様は借りものだ。女房にはおれから渡りをつけておく」
「ほんとですかい」
「ただし、舟だぞ。――酒に、火桶、座ぶとんなど、入れておけ」
左右太は、
「源吉、おゆるしが出たぞ」
笑いながら、
――と。出あいがしらに、
「左右太さま。どちらへ」
何か、お
源吉はふりかえって、大げさに、手を打ってわらった。
「旦那あ。こんだあ旦那の番ですぜ。どうです、おゆるしが出そうですか」
もう遅桜も
釣舟も、
舟源の猪牙舟は、お次ものせて、客ふたりに、船頭ひとり。火鉢を中に、さし向うには、頃あいな舟のひろさだ。
「おい、源吉、待った待った」
「なんです。忘れ物ですか」
「いや、まだ宵だろう。すぐ大川へ出さないで、逆に、堀留の方へ漕いでみてくれ」
「ヘエ、堀留へ」
「なんでもよいから、舟を向け直せ」
「わかりましたよ。何もいいますまい」
源吉は、
川幅は、だんだんせまくなり、岸は高くなって、両側に、土蔵や荷揚げ桟橋ばかりが見えてくる。
「……ここだな。山善の裏は」
土蔵
かれは、
「いいよ、源吉、やってくれ」
「どっちへです」
「
お次は、聞えないような、顔をした。
源吉は、わざと、
「いいんですか、お次さん」
「そんな
左右太が代って、答えてしまった。
初夏の夜の川風になぶられながら、猪牙舟は
三人は、
「ま。おめずらしい」
と、茶屋の
「もう、桜も散ったな」
「ごぶさたでござんすこと。やがて、仲の町は、
「こん夜は、上総の身寄りの娘が来たので、見物につれて来た。……が、しらふで帰るのも
かろく飲んで、時刻をはかり、帰りがけに、
「おかみ。堀の辺で、何か、朝めしを、おつに喰わせる家はないか」
「茶漬屋はいかがです。
「ふりの客でもいいのか。……ちょっと、ひと筆、巴屋からとして書いてもらいたいな」
「おやすいこと」と、おかみは、客の送り
猪牙舟が、堀へもどって来たのは、まだ夜明け前で、いくら朝帰りの客にしても、ちと早すぎるきらいがあった。
だが、茶漬屋の座敷の灯は、堀の水に影を
三人は、座しきをとって、隅田堤のまだ明けきらない水と空をながめた。
「いまのは、ほととぎすの声だろう」
「君はいま駒形あたり――ですか」
「源吉。味なことを、知ってるな」
そこへ、女中が、お風呂をといってくる。
左右太が、さきに入り、次に源吉が上がって来た頃、空が、美しく
「お次さんも、さっぱりしておいで」
かの女を立たせてから、女中をよび、ちょっと、おかみに顔をかしてくれといった。
巴屋の送りをもって来た客なので、お内儀はすぐあいさつに来た。
「おい、おめえは、ちょっと、
左右太は、源吉も遠ざけてから――
「おかみさん、うしろをお閉め」
「え。……なんでござんすか」
「ふすまも、障子も、閉めたがいい。此方はかまわぬが、奉公人も多勢の様子。おまえのためだ」
左右太は、ふくさに包んで持っていた十手を、おかみの前においた。
おかみは、顔いろを失った。立って、うしろを閉めるのがやっとだった。
「驚かしてすまないな。だが、おまえを
「いったい、何のお訊ねで……」
「ほかじゃあないが」
左右太は、静かに、たずね出した。
堀留の事件の前夜に、ここで木更津船の岩五郎から、
おかみは、つつまず話した。――だが、あくる朝、その苫舟から、男女五人の連れが、
「じゃあ訊くまい。実あ、分っているのだから。……だが、同罪に
もちろんこれは左右太のおどしだった。
おかみは、ふるえ上がって、一切を告げた。その朝の様子も、つぶさに話した。――ただ、この場合、かの女の心理には、化物刑部といわれる悪の元兇から、後々、あだをされることを、極度に
「刑部も、苫舟から、一緒に降りたのか」
「いえ、あの化物刑部は、ぜん息病みで、床についているということですが、それでも、すごい睨みがきくとみえて、悪党仲間では、刑部をおそれない者はございませぬ」
「案内してくれないか。刑部の家へ」
「そればかりは、どうぞごかんべんを」
奉行所以上に、刑部といえば、恐れるのだった。
左右太は、笑って、
「よしよし。……その代りに、これから折々、この家を、使わしてもらおう。今のことは、他言するなよ」
朝めしを喰べ、左右太と源吉は、枕をかりて
いつも、この家から、刑部の家へ、通いつけている駕籠屋というのを頼んでもらい、左右太は、源吉とお次へ、
「舟で、さきへ帰るがいい。おれは、思うところをぶらついて、いつか、楓河岸の二階へ帰るから」
と、支度をした。
「何か、お奉行所の方へ、おことづけはありませんか」
物蔭で、そっというと、左右太は、いつのまにか
「市川義平太か、小林勘蔵か、御両所のうち、どちらへか、しかと、手渡してくれ」
と頼んで別れた。
駕籠は、上野の山裏の方へ、いそいでいた。
鶯谷の
「かご屋。まだ遠くか」
「いえ。もう、このすぐ先の、だらだら坂の中途です」
「じゃあ、降ろしてくれ」
「いいんですか、旦那」
「その家の門さえ分ればよい」
かご屋は、かれを連れて、だらだら坂をすこしのぼった。
古い寺侍の家ばかりがある。その一軒の、わけても古色な冠木門を、かご屋が指さした。
――すると、その門や、あたりの様とは、余りにもふさわしくない
「……おや?」
と、物蔭へ、とび移って、ひとみをこらしていると、その牡丹日傘につづいて、紺地に、燕のもようを抜いた地味な日傘がまた開いた。
日傘と日傘は、連れだって、坂をのぼり、鶯橋に姿を見せ、上野の寛永寺裏の方へ渡ってゆく。
「……お袖と、お燕の
左右太は、眼に見てさえも、もしや、人ちがいではないかと、自分の行動を、いくたびも、疑ってみた。
「どこへゆくのか?」
かれも、あらゆる気をくばって、しかも、そ知らぬふりを
美しい
――と。その日傘が、くるりと、まわって、白い顔が二つ、あざらかに、こっちを見てホホ笑んだ。
「あ、いけない」
気づかれたかと――身を欄へ寄せて、顔をそらしかけたときである。たれか、ふいに、左右太のうしろから組みついて――いや、そんな手ぬるさではなく、がッと、いきなり締めつけられたような呼吸の
橋の下は、深い、谷だった。
左右太は、一とき、毛の根が、熱くなったが、それを忘れたとき、実は、気を失いかけていたにちがいない。
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第四章
訴訟の裁きは、月番奉行の役宅で、月々、まわり持ちの定めである。
今月は、南が、月番だった。
目安方の小林勘蔵も、吟味役の市川義平太も、下役たちも、そのため、めッきり公務がふえ、湯沸し部屋で、同僚たちの世間ばなしも、めったに聞けなかった。
「おお、ずいぶん早い御出仕だな」
「やあ、義平太か」
「今朝ばかりは、自分がいちばんの早出だろうと
「いや、ちと調べ物を、仰せつかってな。――昼中は、白洲が多くて、出来ぬので、二、三日、明け方出勤をつづけておる」
「なんだ、調べ物とは」
「いや、やっていると、おもしろいぞ。色気の方だからな」
「ふウむ……なるほど……」
同僚のなかでも、兄弟以上にも、親しくしている間なので、市川義平太は、小林勘蔵の机のうえをのぞいて、そこらの書類を、手にとって見た。
江戸じゅうの隠し売女(私娼)の統計やら、身元分けやら、宿の調査などだった。
中に一通、享保初年調べの、江戸の人口表もある。
それによると、いま、江戸の総人口は、
――五十万一千四百四人
と、いうことになっており、男女に分けると、
(男)三十二万三千二百八十五人
(女)十七万八千百十九人
の分類になる。
「小林。この表は、ほんとかな。余りに、男の数が、女に比して、多すぎるじゃないか」
「いや、その表は、市民だけの数だから、大名の家中、お抱え町人、能役者、その他、
「もっと、男の数が、多くなるわけか」
「もちろん、江戸詰の諸大名の大家族は、ほとんど男ばかりだからな」
「そうかなあ。そんなにまで、江戸の男と女の数が、片ちんばだとはおもわなかった。――なるほど、これでは、
「諸大名の家中は、どうも調べにくいが、少なくみても、参覲交代制で、常時に、二十万人以上は、江戸にいることはたしかだ。それがみんな、妻子は国元だから――それらを計算すると、ざっと、江戸の男と女は、男三倍、女三分の一ぐらいになる」
「ふうむ。しかも、少ない女の目ぼしいところは、大奥やら大名やら金持にもたれて……」
「あははは。朝から変な話になったな」
「だが、お奉行は、そんなことを調べさせて、何をなさろうというおつもりだろう」
「でたらめな市民の風紀を、何とかなさりたいものと、先頃から、御思案して、おられるようだ」
「何ともなるまい。こればかりは」
「うム。いまもいったような、男女の数の
「だが、むずかしかろう」
「うム、これも、至難なお望みだ。――どうも、わがお奉行は、至難なことのみ探しては、御苦労しておられるかたちだ。苦労性というものだろうか」
まだ、
ふたりは、顔をあわせると、奉行越前守の身を、心から案じていた。
越前守自身の身にも、ほかにも、山ほどな難問題が、山積しているのに、この上なお、私娼整理などに手をつけ出したら――と、ふたりの眉は、すぐ、その難を思って、越前守の、健康までを、心配した。
これまで、歴代の奉行のうちでも、私娼の整理や、風紀粛正の問題に、手をそめた者がないわけでは決してない。
しかし、それを、やり遂げた奉行は、ひとりもいなかった。
実際――江戸の夜の暗さのように、その頃の、風紀の
舟まんじゅう、
これを、取り締ると。
影は、消える。
けれど、たちまち、琴や小唄の稽古所、しもたやの貸二階、寺院、寺やしき、果ては、旗本の邸内までが、人肉の市になり、弊害は、なおひどく、病毒や犯罪のあり方も、陰性の度を加えるばかりだった。
特に、寺院や旗本やしきに、隠し売女をかくまって、ひそと、労力のない利をむさぼる習慣は、以来、抜けきらないものになって、これが、柳営の大奥とも、いつのまにか、肉欲の地下道をつくり、奉行所の力でも、今では、牢固として、触れ難いものにすらなっていた。
――手をつければ、自己があぶない。
しかし、手をくださなければ、町奉行として、雑草を抜きながら、実は、雑草の根は抜いていないような、おろかなる繰返しを、お役目にやっているだけのものになる。
「お。……はなしに
「いや、何も」
「では、山本左右太からも、なんの、便りなしか」
「ありそうなものだと、心待ちしているのだが……」
勘蔵の心待ちは、共に、義平太の心待ちでもあった。こう二人にとっては、越前守が、寝食をわすれてやっている江戸火消しの創立や、
その打開について、越前守も了解のうえで、役所を
差入れ茶屋のお次は、ゆうべ、左右太と船頭の源吉について、堀の茶漬屋へゆき、きょうの午少し前に帰っていたが、
「人に頼んでは、もしやのことが心配になるし、自分が、奉行所の中へ行くわけにはゆかないし……」
と、例の、左右太から頼まれて来た連絡の手紙を、帯のあいだに持って、気が気ではない
店の石焼豆腐は、与力部屋や同心部屋へも、折々、出前に入るので、もし註文があったら、自分が、岡持をさげて――などと考えていたが、午もすぎたせいか、店には客がいッぱいだが、役宅からは、お
すると、たそがれ近く――
「お次さん。いるか」
偶然、小林勘蔵が、四、五日前に、かの女の手からよそへ頼んでくれた
「まあ、そんなもの、よろしいんですのに」
「いや、取ってもらわないと、これから
「そうですか。じゃあ、いただいておきますが、
そこには、人がいたので、お次は、庭向きの小座敷の方へ、茶を運んで、
「どうぞ、こちらで一ぷく遊ばして」
と、敷きものを、すすめた。
勘蔵も、実は、人なき所で、お次の口から、以後の左右太の動静を知りたくて来たらしく、すすめられるまま、腰かけて、
「ふッさりと、藤が咲いたね。白と紫と……そよ風にうごくたび、いい匂いがする」
かれが独り言をいっているまに、お次は、あたりを見て、帯の間から、小さく折った手紙を、そっと、勘蔵の手のそばへおいた。
勘蔵は、黙って、庭向きに腰かけたまま、眼ばやく、読みくだしていたが、はッと、顔いろも変え、声も落して、
「お次さん。……おまえも行ったのか。堀へ」
「ええ。茶漬屋のおかみさんの口から、すっかり分ったと、左右太さまは、ひどく、武者ぶるいしておりましたが……。何か、そのお手紙にも、よい手がかりがあったと、書いてございましたか」
「うム。
「どうしてです?」
「そこは、悪党の巣。ヘタをしたら、
「えっ……左右太さまの、おいのちが」
お次は、唇を白くした。
かの女のまえで、無造作に、左右太の生命が、危ないなどといって、いじらしい恋仲を
(左右太、危うし)
と、彼の心をも、ただならず、
「お次さんも、一しょに来るか」
「どこへです」
「牛込の市川楽翁の家……義平太の父のやしきだ。きょうは二人とも、明け方から、役宅へ詰めたので、少し早目に帰ろうと、一緒に役宅を出たが、彼は、思案にあまる相談事もあるから、父の屋敷へまわるといって別れたのだ」
「お邪魔でなければ」
「いや、お次さんこそ、ゆうべに続く今夜、疲れていなければ、来て欲しいが」
「お供いたしましょう。ゆうべも今朝も、舟の中では、たんと居眠りましたから、そんなでもございませぬ」
お次は、店の裏から出た。
その間に、小林勘蔵は、もいちど役宅の同心部屋へ馳けてもどり、夜詰番へ、何かいいのこして、
「人目に立つ。駕籠を拾おう」
お次も乗せて、牛込の柳町へいそがせた。
町医者らしい門造り。
「よ。これや、おめずらしい。さあ……」
と、奥へ招じてゆく。
友達の父なので、小林勘蔵も、かねてから親しくしている間。お次を、ひきあわせ、さて、その事件についてですがと、早速、
「義平太どのも、こちらへ、参っておられるはずですが」
「いや、
「じゃあ、
「来ることにはなっておるが、まだ見えん。……何か、例の事件について、目鼻がおつきかの」
「明日をも待っておられないので」
「やれ、それはめでたいな」
老人はすでに、南の手で、事件の解決は見たもののように、よろこびぬいた。
そこで、夕飯の馳走になっていると、息せいて、額に、汗をにじませた市川義平太が、あらあらと、入って来て、
「やあ、来ておられたか。こっちから、訪ねようかと思っていたのだ。おお、お次さんも」
共に、膳へついたものの、義平太は、いつになく、酒もひかえ、早飯に喰べ終って、
「実は、きのうも立ち寄ったばかりだから、ムダとは思ったが、ふと、気になって、目明しの辰の
「えっ、辰の方にも、何か、手がかりがあったのか」
「辰三が下に使っている半次というのが、ちょうど、おれのいる時にすッとんで来て、たいへんだというのだ」
「えっ、大変とは」
「左右太の一命が、今夜中にも、あるかないか、知れないという報らせだ。……何しろ、こんどのことは、一切、役宅へは、表立って、連絡に来るなといってあったものだから、辰三も弱ったらしい。――どこへこの急を知らせようかと」
「むりもない。しかし、お次さんの手から報らせをうけたのも今だし、辰の方から聞くのもたッた今だ。何を、どうする
「急転直下というやつだ。何しろ、左右太が若い。手がかりをつかむやいなや、待ちも、準備もしていられないで、直ちに、ただ一人で、敵地へ踏みこんで行ったらしい」
まず、義平太から、半次のもたらした知らせを、語った。
目明しの辰三は、その長い経験と、老練でしかも、実直なところを、二人に見こまれて、こんどの事件と、裏面の秘事も、のこらず打ち明けられていた。
――辰が、頼まれた役は、左右太の身に、万一がないように、つねに左右太の出入りを、見守っていてくれということだった。
大きな事件、あるいは、悪の仲間へ、挑戦を示すときは、必ずその者へ、怖ろしい毒手、迫害、あらゆる魔の手が、伸びてくるものだ。
二人の友情は、左右太のために、その危険を、何よりも、案じたのである。
だから、
辰は、左右太の知ったことを、同時に、すべて知った。左右太が、堀の茶漬屋から、根岸の御隠殿下へいそがせたことも。――そしてまた、そこの寺やしきの門を出た二つの絵日傘を
――なぜ、助けなかったか。
を、連絡の半次になじってみても、むりであった。
相手は、腕力の強そうな浪人ばかり三名だったというし、しかも、側にいたわけではないし、アッというまに、事はすんでしまっていたという。
今夜中にも、左右太の一命が危ういという事態は、一刻も、ふたりをそこに落着かせなかった。
すでに、魔の全貌は、あきらかにされた。
義平太と、勘蔵とは、すぐ手入れの
もう、夜だったが、半次は指令をうけて、奉行所へ、飛んで行った。
二人は、身仕度をそろえて、十手をたばさみ、
「お次さんも、左右太の身が心配で、帰るにも帰れまい。ひょっとしたら、行った先で、ひと役、頼むことがあるかもしれない。怪我はさせないから、一緒に来たがいい」
勘蔵は、楽翁へも、
「お騒がせしましたが、これでまず、堀留の一件は、南の手で揚げてしまう確信ができました。いずれまた」
と、そこそこに辞して、お次と共に、玄関へ立ちかけた。
つねに、北町奉行との競争心にもえ、南びいきに、躍起となる市川楽翁が、なぜか、二人の門出にも、浮かぬ顔して、
「せがれ。ちょっと待て」
と、義平太を、よび返した。
「なにか、御用ですか」
「どうも、わしには、不安がある。――勘蔵どのを待たせてすまぬが、ちょっと、そちだけでも、別室へ顔をかせ」
「お
義平太は、一間にはいって、坐るとすぐ、怖い父の顔を、真ん前に見た。
「これっ、伜。……不心得いたすなよ」
「何がですか。何が、不心得で」
「いやさ、功に
「どうも、お父上のことばが、
「じゃあ、いうが、貴様たちは、越前守様を、犠牲にしても、五人組の賊を揚げる気かの」
「心得ぬことを仰っしゃいます。山本左右太も、小林勘蔵も、またかくいう義平太も、三友、血をすすりあって、大岡越前守様のお身を、何とかして、守りぬきたい一心でいるのです。お父上のおことばは、心外です」
義平太は涙をうかべて、語気を
老齢の父親も、涙によわく、子の眼を見ると、すぐ自分の瞼も、赤くした。
しかし、頑固に、首を振ッて、
「それでは、そち達の誠意と、やっていることとが、矛盾しはせぬか。……最前からのはなしを聞いておると、賊の五人組のうち、女ふたりは、越前守様がお若い頃に
「きょうまで、お父上にすら、
「め、め、めッ相もない……」と、楽翁は、わが子の口から聞くのすら、身ぶるいして、世間の耳をおそれた。
そして、土のような顔色に、吐息をたたえて――
「伜よ。おそろしい事だぞ。ほかのお役儀ならば、まだ知らぬこと、人を裁く、大岡どのが、何ぞはからん、自身にそんな過去をもっていたと知れたら……世間の者の怒りはどうじゃ。お
「では、北町奉行の者の手へ、あずけますか」
「ば、ばかを、申せっ。そんな、卑劣なわしではない。この楽翁とても、大岡どのの、得難い町奉行であることは、たれよりも存じておる。――かつての歴代の町奉行にはなし
楽翁も、息子におとらず、耳をあかくして、ことばも熱していた。
「たまたま、
「だ、だからですよ! 父上――」と、義平太は、のり出して、
「われわれ、若い市吏どもが、久しく渇望していたお奉行を、この人こそと、越前守様の人間に見たのです。……だから、自分たちの若い力では出来難いことを、越前守様に、やりとげていただかねばなりません。その同じ気持から、左右太、勘蔵、義平太の三名は、かたい約束をむすび、志のうえにおいて、義の兄弟ともなったのです。お父上、御安心ください」
「けれど、もし、そちたちの手で、事件の一味を
「では、お父上のお考えは」
「知れたことじゃ。汝等、浪人して、賊の五名を、斬ッちまえ! どうせ、白洲となっても、獄門と極まっておる奴らではないか」
「だめです。その策は」
「なぜじゃ」
「その考えは、初めに、私たち若者が、すぐ思いついたことですが、越前守様には、断じて、おゆるしになりません」
「なに、大岡どのが、ゆるさぬ。――では、大岡どのは、そんな死罪の賊のいのちと、自身の大事な身とを、取り替える気でおられるのか」
「そう単純なお考えでもありません。――越前守さまのお覚悟は、御自身も、裁かれることを、望んでおられ、いかに遠い過去の過ちでも、自分のなした罪にたいし、苦しむだけ苦しもうと、敢て、天の処罰を、身に待っておられまする」
「じゃあ、折角の、お奉行の職も、
「そうは参りませぬ。あのお方が、ひとたび、こうと思い極めたこと、決して、うごくものではございませぬ」
いわれてみれば、楽翁にも、自信はない。
「しからば、そち達は一体、この難問題を、どうして、越前守様のお身にも、つつがなきよう、始末いたす考えか」
「何の、考えも、ありませぬ」
「思案なしか

「ただ、越前守様の御意志のままに、誠意をつくして、やるだけです。――決して、私心に
「よろしいっ」
楽翁は、もう反対しなかった。非常に大きな眼と、おもわず出た声とに、かれも覚悟をこめて、いい渡した。
「それ程まで、公明に、自己の裁きも、天の処罰もというなら、大いにやれ。止めはせん……わしとて、止めはせん、はやく行け」
「では、心
義平太は、立って、ふすまから廊下へ出た。そして、そこに
――ふと、気がついてみると、自分は、荒縄で
陰湿なにおいにみち、あたりは、まッ暗だ。
どこかの床下にちがいない。
左右太は、何を考えるよりも先に、無意識に、すぐ立ちかけた。けれど当然、床板の裏か何かに、ゴツンと、頭をぶつけて、また腰をついてしまった。
「……あっ」と、眼まいをおぼえて、左右太はふたたび、気が遠くなりかけた。だが、そのときすぐ、かれの頭の上で、人声が聞えたのである。
「おや。へんな物音がしたぜ。ごとん――と」
「なあに、野郎が、正気づいて、もがき出したのにちげえねえ」
「そうか。うっかり、忘れていたが、逃げやしめえな」
「大丈夫、がんじ
室内の声は、三、四人らしく聞える。――左右太にはみな聞き覚えのない声ばかりだ。
「どこだろう? ……ここは」
ようやく、左右太は、前後の記憶を、
お袖とお燕とが連れ立って、寺屋敷の門から出てゆくのを
「そうだ。あのとき、ふいに、何者かが、自分のうしろから組みついて、いきなり
――それから、どこへ運ばれて来たか。その間の径路は、まったく思い出せないのである。
しかし、山本左右太は、案外、うろたえもせず、絶望的な
かれは、かりに自分の生命が、これきり終るとしても、もう使命の大半は果たしているという――安心と見とおしを抱いていた。
堀の茶漬屋で、船頭の源吉とお次に別れるとき、お次の手へ、
(これを奉行所の市川義平太か、小林勘蔵に、渡すように)
と托しておいた走り書の一通が、いまとなってみれば、
あの一通には、堀の茶漬屋で
「来る! いまに義平太か、勘蔵かが、きっと手配して、やって来る」
彼は、信念して、眼をとじた。今になって、体じゅうの痛みが知覚されてくる。夜か昼か、何刻かもわからない。――が、鶯橋の上から、そう長い時間が、過ぎたとは考えられない。
遠くもない鐘の音が聞えた、寛永寺の鐘だ。とすれば、ここはやはり上野に近い御隠殿あたりだろう。あの化物刑部の寺屋敷か。そうだ、そんな気がされる……。
その、時の鐘を、何度か聞いた。やがて、暮れ六ツが、かぞえられた。
「旦那……。山本の旦那」
ひくい声が、どこかで呼ぶ。
「旦那……。辰です、辰三ですよ。わかりますか」
聞きとれないような小声だが、たしかに、床上の声ではない。左右太は、闇に馴れたひとみを、一方へこらした。
「おっ。辰か」
「しッ……」と、辰は手を振った、そして、しきりに、
地つづきの同じ床下ではあるが、よく見ると、左右太のいる所は、太い木材を横に廻し、
――ギイ、ギイ、ギイ……と、ゆるい低い、異様な音がすぐし初めた。
辰の手もとで、
床上の室内で、何か、わずかな物音がしても、辰はすぐ鋸の手を止めた。――耳をすまし、眼をくばり――そしてまた、忍びやかに、ギイ、ギイ、と
十数軒もある寺侍の屋敷町のうちの一軒だが、その一軒も、なかなか広い。
すべてが、寛永寺の
日が暮れると、あっちの門には、
中には、隠し売女をおき、板前をもち、あやしげな小唄や、
だから、輪王寺の寺侍の株は、ふつうの御家人株の売買よりも、はるかに
化物刑部と、その一類の者は、もうここに住んでから、久しい年月になるが、株に
――ところが、今朝。
お袖とお燕が、堺町の歌舞伎見物にゆくというので、大亀や阿能十や
三人は、すぐ、覚った。
悪の直感だ。――鶯橋の上で、その男を、
(たしかに、こいつは、北か南の、同心か与力にちげえねえ)
と見極めて、さんざん、足蹴や棒切れのノシをくれて、室内の畳を上げ、床下の
「親分。なぜ野郎を、ひと思いに、たたっ殺しちゃいけねえんですか」
赤螺三平は、不平
「ばかあいえ」
刑部は、坊主枕へ、
「生かしておけば、何かの、懸け引にはなろう。殺そうと思えば、今でも殺せる」
大亀は、今朝からしきりに、動揺していた。もうここにいるのが、不安でならない顔つきなのだ。
「どうも、堀留以来、すこしここの古巣も、安心できなくなった。親分……」
「なんだ、亀」
「もう江戸もよい程に
「うム、
「いったい、その島っていうなあ、どこなんです」
「そいつあ、たれにも、口外できない仲間の約束になっている。
「いつも、そういうから、訊かずにいるんだが、
「島の仲間というのは、
「なるほどね。それじゃこちとらは、
「まあ、そんなわけだろう。だが、将軍家が代替りもせずに、もうすこし、犬公方綱吉の、人間失格時代と、おめでたい自滅世相の代がつづけば、おめえたちにも、一役買わせて、もっともっと、おもしろい時世を見せてやれたんだが……惜しいことに、馬鹿将軍が死んでしまい、今の、八代吉宗になっちまったので、その方は、もう見込みがねえ」
「その方っていうと」
阿能十蔵は、かねてからうすうすそれに多分な興味をいだいていたらしく、この時と、突ッこんで、刑部にたずねた。
「いまだから、いってしまうが……」と、刑部は、もちまえの
元禄の
利に飽くと、人間は、名と地位である。国禁の密貿易では、白昼、晴れて
犬公方の悪政の下で、天下、不平の声にみちている。世相はくさり、道義は乱脈だ。いまなら、やれるぞ――と、類をもって集まる浪人どもやら、西国大名の野心家の家臣なども気脈を通じて、ここにいつか、もっともらしい幕府顛覆の盟約書などが、起草されていた。
刑部は、江戸表における、一謀員だった。
かれの任務は、時節のくるまで、世相を不安と
家は、旗本だったが、すぐに廃家を命ぜられ、家財は飲みつぶし、およそ旗本悪のうちの典型であった彼には、ひと山、これに張りこむには、もって来いの、壮挙だった。
「……というわけさ。ひと頃は、おれもひそかに、一城一国を、夢みたが、自堕落のたたりで、世が腐るより先に、こっちの体が、喘息病みの、万年床に
かつて、おくびにも吐かなかった過去の秘密をいってしまったせいか、刑部にしては、めずらしくも、ふと、あわれな人間的述懐をもらした。
「ええ、縁起でもねえ」
「鶴亀鶴亀。――つまらねえことを、親分ほどな悪党が」
と、三人は、手を振りあったが、悪党性の深い者ほど、実は、たえ間なき死に際のおもいに
「いやに今日は、
たれか、出て行って、てん屋物を
酒をふくむと、すぐ咳になるので、刑部は、杯も、手にふれない。なんのために、生涯、日蔭におくり、自らの魔夢にうなされ、こんな万年床の
「親分も、やきが廻った。どうかしたぜ」
「あいにくと、お袖さんは、側にいねえし」
「いれやあ、また、悪たれをいわれるさ。以前のお袖さんたアちがって、
「それにしても、お燕さんも、
「なんの、堺町の芝居見だもの、まだまだ二番狂言という頃、駕籠で帰っても、この根岸までじゃ、
「何か、みやげがあるだろう。それまで、飲んでいるとするか。……親分も、どうです。お
「だ……だめだ」
刑部は、力なく手を振って、その手が、間にあわないように、また咳を抑えた。
そのとき、何を感じたか、大亀が、
「あっ、変だぞ」
気永に、半刻もかけて、辰三は、横の角材を、
這いよるやいな、脇差で、山本左右太の縄目を切りはらい、その脇差を手に持たせて、
「さ……。はやく、そっと」
するとその時、外の明るい星明りに、誰か、二本の足だけの影が見えた。
はッと、身を返したその肩が、ひとつの土台柱へぶつかると、自分でも、驚くような音がした。
「しまったっ」と、辰三はとたんに、頭上の光へさけんでしまった。ふいに、畳一枚分の床板が、上から取り除かれたのである。
阿能十、三平、大亀と、三つの顔が、一しょに覗いた。
「野郎っ」
なぐり落しに、三本の刀が、四角な闇の穴を、乱打した。――が、左右太も辰も、白い切ッ先の雨を、からくも避けて、
二人にとっての、この瞬間は、まさに絶体絶命に思われた。なぜならば、さきに見た外の脚だけの人影は、いつか五人となり十人となり、さらに数を増して、この床下へ、包囲形に、這いすすんで来たのであった。
――だが、辰三は、それらの黒い影が、這いつつ来る

「おお、半次か」
と、ひとりへ呼んだ。
答えはないが、彼の声を知ると、無数の影は、一せいにそこの
室内では、それにも
「三平っ、三平。床板を、その畳を、早く
刑部の
だが、赤螺三平が、そこへ戻って、床口をふさぐ
ふすまの倒れる音。格闘する屋鳴り。
どどどどっ――と、刑部は縁に馳け出して、
「うぬらっ」
もの凄い眼光を、追いしたう捕手たちに、かッと投げた。
化物と、異名のあるかれが、最期と知って、怒った顔は、近づき得ないものだった。
「それっ、
同心のひとりは、体あたりに、十手を躍らせた。刑部が
ばりばりッという物音は、逃げ足の早かった大亀が、台所部屋の竹窓を破って、遮二無二、逃げ出そうとしているものだった。
「こいつ」
「おっ、阿能っ」
「亀か。だめだぞ、こっちも」
「えっ、潜り戸は」
「外にも、いっぱいな捕手の群れと、御用
「じゃあ、裏門か、隣へ、塀越しに」
「そこも、捕手だ。大亀、無念ながら、
「なんの、おれは、死ぬのはいやだ。――おお、あの御用提灯は、南町奉行所のものじゃあねえか。南のなら、おれは助かる。おれは、大岡市十郎の――いや大岡越前守の従兄にあたる者だ。そうだ、おれは越前守の従兄、亀次郎だぞ。召捕ってみろ、町奉行越前の旧悪も、白洲でしゃべりたててやるから」
かれは、うわ言のように、罵り罵り逃げまわっていたが、
「その亀次郎、御用」
と、隣家へ塀越しに逃げようとしたところを、小林勘蔵の手で、組み捕られた。
かれは、まだ吠えた。
「越前守に会わせろっ。――越前守に、いい分があるんだぞ。さ、曳くならどこへでも曳いてゆけ」
一方、赤螺三平も、裏の井戸端で、包囲され、ついに、縄にかかった。
「
捕手たちが、あなた
「巨魁だ」
「刑部っ」
それを、求めていた市川義平太が、馳け上って、すでに、火となっている障子際に近づくと、
「寄るな、馬鹿野郎」
さすが、大悪である、自ら火を放って、立ち腹を切りかけていた。
赤不動の怒相を見るような、かれの一瞬の顔は、正視もできないものだったが、義平太は、火をくぐって、敢然、その悪像へ、組みついて行った。
――だが、
「駕籠屋さん、火事じゃないかえ。空が、赤いが」
「ほんとに、火事のようですぜ」
「どこ?」
「さあ」
「ちょっと、駕籠から降ろしておくれ」
鶯橋の崖坂を下に見て、ちょうどその頃、二挺の駕籠が、女の客をふたり、降ろしていた。
お袖とお燕であった。堺町の歌舞伎飴のみやげを持って、星と火との、散りまじる夜空を仰いで、しばらく、何か考えていた。
「駕籠屋さん。御苦労さん、ここでいいのよ……」
お燕と一緒に、坂を下って、鶯谷の橋袂まで来ると、かの女の六感は、何かをもう覚ったらしく、
「お燕、いけないよ」
急に、もとの上野の裏山の方へ、走りかけた。
「――待てっ」
するどい声が、あとを追った。しかし、あたりの山木立は、彼女たち二つの影を、すぐ何事もないようにどこかへ隠した。
寛永寺の森だった。暗さと、下草の茂りに、ふたりは幾たびも、夜露に
夜風が捕手の声をなすのか、捕手の声が夜風をなすのか、恐怖に吹かれ、不安に狩りたてられ、逃げても逃げても、すぐうしろに、何かが迫っている気がした。
「お燕っ。どうしたの。こっちだよ。お燕――」
「おっ母さん。待ってえっ。……何かが、袂にからみ付いてしまッて」
性の善もない悪もない。この場合、このふたりには、ただ母と子の本能があるだけだった。
お袖は駈けもどって、
「しッかりおし。大丈夫かえ」
「おっ母さん、いったい、どうしたんでしょう、今夜の騒ぎは」
「まだ分らないのかえ。御隠殿下へ、手が廻ったにちがいないのさ。もうわたし達も、覚悟をしなけれやならないんだよ」
「そしてこれから、どこへ逃げてゆくつもり」
「さあ? ……」
お袖は、途方にくれた顔いろを、お燕に見せまいとするように、くちびるを噛みしめた。
「なあに、心配おしでない。大内
上野は
「いいかえお燕。わたしが来るまで、そこを動いてはいけないよ。捕手に勘づかれないように、もっと、木蔭に身を寄せて――」
お袖は、何度も振り向きながら、やがて中堂の裏門の方へ走っていた。
ここは幕府の
「うまく承知してくれるかしら? ……おっ母さんは思い込んで行ったけれど」
あとに、お燕はひとりで、気をもむだけだった。――どうぞ、お慈悲で、と身の
けれどまた、お燕の胸のどこかでは、
「もし、不伝さんに助けられるのだったら……?」
と、助けられたくないような気もしていた。次の難儀、次の悩みが、すぐ想像され、それは、十手に追われる今よりも、もっと辛いものに考えられた。
寛永寺の僧や寺侍のうちには、不伝ばかりでなく、知った者は幾人もいる。かれらもまた、近頃の寺侍に劣らない自堕落な裏面を内部にもっているので、御隠殿下の一群の寺侍町では、お袖
大内不伝は別院執事の次席で、一山でも顔のきく男だし、母のお袖には、日頃、親しみを示しているが、お燕は虫がすかなかった。その不伝に、救われたら、どうなるだろう。考えるまでもないことだった。
「ああ、死にたい!」
ほんとに、かの女はそう思った。捕手も恐いし、救われるのも怖ろしい。何たる宿命の生れかと、そのときふと、かの女は、世間なみの感傷的な一
ひそかに、実に細心に。さっきから彼女たちの後を
お袖も気がつかず、お燕もなお知らずにいた。
ふいに、お燕が、悲鳴に似た驚きをあげたとき、男の黒い影は、
「
と、おどりかかって、もがき闘う美しい鳥を、
「もう、もう、
と、必死の息をはずませた。けれど、妙なことには、その声も、捕手らしくない
それに反して、いざとなると、お燕はただの処女ではない。生れながら悪と野性の中に育てられた敏捷と不敵をもっている。
「ちいッ、おまえたちに捕まって、たまるものか」
凄艶な死力の手は、
「あッ。おっ母さん――っ」
やはり処女は処女。かの女はついに、叫んでしまった。何かに、つまずいて仆れた途端に。
だが、その声は、思わず敵をよんでしまった。ざざざッと、すぐ馳けよって来た者を見ると、これは明らかな奉行所与力だ。手に「南」の提灯をかざしている。
「やっ。あなたは?」
「おッ。おまえか。早く、手伝え」
お燕を、上から抑えつけて、持て余していた黒ふく面の老人は、
市川義平太は、すぐお燕を
起き上がった黒ふく面の老人は、命じるようにいった。
「せがれ。うるさいから、ついでに、猿ぐつわをかけてしまえ」
義平太は、さらにお燕の顔の半分を、布でしばった。
そして初めて、驚きを、驚きとして、表情した。
「意外です。父上が御出馬とは、実に意外だ。まッたく、思いもかけぬことで――」
「さもあろう」
と、楽翁自身すら、医者として、また、この老年を、よくやって来たものと、自分を疑っているように、
「ま。わしの心や、今夜の仔細は、あとで話すことにしよう。……何よりは、そち達の向った、御隠殿下の方の捕物は、どうじゃった。うまく行ったか」
「
「そいつは惜しいな。して、ほかの賊徒は」
「赤螺三平も、大亀も召捕りました。阿能十蔵は、その場から逃げ出し、鶯橋から下の谷へ飛びこみましたが、追ッつけ、これも
「いや、わしは与力でも同心でもないからな。わしの召捕った者は、奉行所へはやらんぞ」
「それは困ります。父上、違法になりますぞ」
「なってもいい。そちも、奉行所与力として、今度の事に身命を
楽翁は、深く思うところがあってか、
やがて、二挺の町駕籠が、森の木蔭へ寄せられた。
見ると、牛込柳町の
「おい、かご寅。この若い女の方をな、先に乗せて、一足先に、わしの申しつけた所まで、急がせてくれい」
「へい、承知しました。おや、義平太様もこれにおいでで……。今夜は、お手柄なことでございましたな」
「これこれ寅。よけいなことをいわんでもいい。早くせい、早く。……そして、その方ばかりでなく、若い者達にも、くれぐれ口外いたすな、と口どめを固く……よいか、頼むぞ」
「御念には及びません。先生が生涯かけてのお頼みというんで、若い奴らも、欲得なしに、一肌脱いでいる意気ですからね」
その間に、お燕は駕籠へ移され、かご寅もそれに
「義平太」
「はっ……」
「何をぼんやり見送っておるのだ」
「父上。いったい、あなたはお燕の身を、どこへ差立てられたのです」
「まあよい。わしにまかせておけ。――悪いようにはせん」
「ですが、てまえも、十手を帯びている身です。このままには」
「たれが、そちの十手を
いいながら、楽翁もすぐ駕籠のうちへ、身をかくした。そして、駕籠の中から、赤坂へやれ、といったような声を、義平太は耳にした。
「赤坂へ?」――義平太は小首をかしげ「はてな? ……」と、いよいよいぶかった。越前守のやしきへ父が急いだとすれば、なおさらわからないことになる。
けれど、義平太は、父を信じる。単なる子としてでなく、正しい人間としての楽翁を信じる。互に心をゆるし合っている越前守のために、事件以来、いかに
腕
「そうだ。同僚たちも、何しておるかと、案じていよう。ともあれ今夜は、奉行所へひきあげよう」
思い返して、一方の小道へ、歩み出したときである。
がさっと、闇が揺れた。木の間の暗がりを、白い顔が、泳ぐように、逃げ去って行く。
「あっ、女?」
お袖だ。お袖にちがいない。義平太は身ぶるいに
お袖と越前守。
こうふたりの関係が、
(――何事に当ろうと、私心に負くるな。そちたちは公吏である。越前守一個の家臣ではない、公臣なのだ)
こんどの事が起ってから、越前守は町奉行として、自分たちへ、いい
けれど今、目前に、その女性の影を見たとき――そして
白い光が――それは十手にちがいない――あわや、魚のように、お袖の後ろへ跳びかかった。
捕えた、と
義平太は、勢いよくよろめいて行ったが、反転して、その人間をふり向いた。
「こらッ、思いちがいするな。拙者は奉行所の者だ、奉行所の者だっ」
「わかっておる。奉行所役人が、何とした」
「やっ。承知しながら、邪魔いたすかっ。――あっ、逃がしては」
義平太が、また、お袖へ向って、躍りかけるのを、
「ここを何処と思う。寛永寺の境内であるぞ。輪王寺の宮のおそば近くへ、不浄役人が十手をたずさえて立ち入るなどは、以てのほかだ。奉行以下、
寺侍らしいその男は、
義平太は、かっと、ひとみを燃やして、
「な、なに。不浄役人と、申したな」
「奉行、町与力、同心、岡ッ引。それらを
「余事は
「おお、場合とは、どんな場合だ」
「ここは俗称、寛永寺の森とはいっているが、まだ、山内の御門内ではあるまい。平常、往来もしてよい地域、われらが立入ったとて、いっこう、さしつかえはないはずだ」
「だから、ここまでは、ゆるしておく。これから先はまかりならん。眼をあいて、よく見るがいい。ついそこは
男の指さすうしろを見て、義平太はおもわず、しまったと、歯がみをした。十六弁の裏菊の紋のついた大提灯がほのかに明りを投げている寛永寺裏門の袖塀をかすめ、小さい
「や、や。お袖を」
「お袖とは、何を、たれをいうのか」
「
「おいおい町方」と、冷ややかに――「何か貴公は血まよっておりはせんか。いまの女は、この大内不伝の身寄りの者だが」
「いや、そんなはずはない。たしかに」
「黙ンなせえ」と、不伝は威圧を
「ううむ……残念だ。が、致し方もない」
「帰れ帰れ。なおなお不審なら、改めて出直して来い。此方は、別院の大内不伝と申す人間。ついでに、貴公の姓名を聞いておこうか」
「てまえは南の与力、市川義平太」
「そうか。南は余り評判がよくないな。あははは。近ごろ、少々、あせり気味か」
不伝は、
ここ十数日の南町奉行所は、異様な緊張にとざされていた。
まだなんの発表もなされたわけではないが、たれいうとなく、堀留五人組強盗は、南の手によって、召捕られたと、江戸中に聞えて、北町奉行との対立に、興味をいだいていた市民たちは、
「南も、やりましたね」
「やッたねえ。大岡様も」
と、黒ボシつづきの負け組に一点入ったような、新しい感興をもって、噂まちまちであった。
しかし、南町奉行所自体の内部には、決して、そんな浮わついた昂奮もなく、
きょうも越前守は、一室を
うずたかき書類を、身辺に置き、そばには、目安方の小林勘蔵、

三与力の一名、山本左右太は、なお外部にあって、目明しの辰三や半次を手足に、ここから命ぜられる多方面な調査の資料
「夏が近いの」
越前守は、書類につかれた眼を、ふとあげて、
「勘蔵。うしろの障子をすこし開けんか」
と、いった。獄舎、白洲のあるこの役邸にも、中庭があり、ぬれ縁の外には、
石の
「静かだのう。義平太も、一ぷくせぬか。唐詩選であったか、たれやらの詩に――
「お奉行。どういう意味ですか」
「幽。……つまりほんとのしずけさというものは、人もない山野の中のそれよりは、かえって、騒然たる市中のふとしたうちに、真の
「ははあ。詩人の逆説ですか」
「逆説といってはあたるまい。理念ではないのだから。――だから理くつでは逆になるが、ようく考えてみると、理くつ以上の真実にちがいない」
「では物事も、理づめでは、絶対な真実には、達しませぬな」
「そうもいえようか」
「御法令は、理でございましょう」
「理のたたぬ法律はない。しかし、理が法令という考え方はどうかの。非理をもって正理をたばかる
「では、法令は、道義でございますか」
「法は、法それ自体が、道義の
「では、情でしょうか」
「法は人の情を主として裁くべきかと訊くのか。かまえて、左様な量見では、判官として正しい裁きは相成るまい。情は、学ぶべきも、白洲においても、どこに於いても、意識してはならぬ。なぜならば、裁く我が身も、情の
「じゃあ、何と考えてよいでしょう、法の真体は」
「人間にはなし難いことを、人間がする。示し……とでも申そうか」
「示しとは」
「神の意じゃ。――神ならねば、裁き得ぬはずのものを、人間が代って、それを示す。おもえば、難かしい……。おたがいは、人間すぎる」
「けれど、人間を裁くには、人間なればこそ、よく裁き得ることもありましょう」
「そうだ」
越前守は、

「所詮、神の裁きはなし得ない。人間はついに、人間の裁きしかできぬものと――初めから神仏に詫びておくがまず無難だろう」
「法の理想は何でしょう」
「法のいらない世間。
「すると、
「いやそうもいえん。こういう世相の時代では」
「でも、あのように、ほこりを叩いて、細かな罪人までを、びしびし牢舎に投げ入れては、いまに、世間が獄舎か、獄舎が世間か、分らなくなりましょう」
「いうな。ひと事は」
越前守は、それを
かれは、
その点で、この頃は、江戸の町名主や五人組の町年寄たちのあいだに、
(
などという隠語がつかわれたりしていた。
北の中山出雲守の白洲へ持ち出した
――だが、越前守の真意は、そんな功や成績にはなく、ひたすら、法のいらない世間、罪人のいない牢舎の実現が、理想であった。もとより、それは、理想にはすぎないとしても、それに近い社会をのぞむことが、法官の任としていた。
それにはどうしても、現実の罪悪の府から大罪小罪の人間どもを狩りあげるよりも、まず、罪悪の
とはいえ。志すのは道は遠く、いまや、かえって、かれ自身が、かれを裁かなければならないような――複雑な難題が、かれを囲み、かれの机にも、のっている。
かれは、屈しなかった。
「お奉行」
と、そこへ次室からの声。
「たれだ」
「左右太めでございます。おさしつかえございませぬか」
「オ、左右太か。はいれ、心待ちにしておったところだ」
一時、表面の解職をうけて、舟源の二階に浪居していた三与力のひとり山本左右太は、御隠殿下の手入れに功があった者として、ふたたび、現職の復帰ではないが、奉行所出入りをゆるされ――町方勤めとして、折々、ここへ顔を見せていた。
かれの姿を見ると、義平太も勘蔵も、
「やあ、左右太か。ひどい汗ではないか。まっくろな顔をして」
と、机から顔をあげて、
左右太は、手拭で、ひたいを拭いながら、
「いや、もう往来を歩くと、陽が暑い。――苗売り、すだれ売りの声をきくにつれ、月日のはやさに、鞭打たれる」
と、ふところから、手控えを取出して、越前守のまえに、膝をあらためた。
「まことに、日かずを
「そうか」と、越前守は、お袖の名にも、無表情のまま――「勘蔵。それに、お袖に関する書類が一
「かしこまりました」
と、勘蔵は、筆をとる。これも、冷然たる書記の態度だ。
「多くのことは、お袖の父までの、代々の墓所のある
左右太は、覚え書を、読みながら話した。
「お袖の父親、今村
「…………」
大岡越前は、しずかな半眼に、縁先の若葉のいろを
「その、今村
「うむ」と、越前は、大きく、うなずいた。
「あいにくまた、その日が、将軍家の御生母様が、護国寺へ仏参の日にもあたり、燕を黒焼にし、子に服ませたなど、極罪なりと、要人夫婦は、断罪に処せられ、家名は取潰し、縁類も離散。お袖は、それから人手に育てられ、子守奉公やら辻占売りなどもして、その果てに、水茶屋の茶汲み女に売られたものにございます」
「…………」
「十六の春ともなれば、夜も客をとらねばならぬことは、水茶屋
無心に語ろうとし、無心に書きとめようとしても、かれらの筆はみだれ、語音には、切なげな、いかにも、辛そうな乱れが、かすれる――
ひとり越前守は、ひと事みたいに、それをうけ取っていた。
「うム、お燕という、世間にすくない名は、さては、そうしたお袖の生い立ちから、
越前から、あとを、なお訊ねた。
当然、越前守のその頃の
お袖が、女の一生を、めちゃめちゃにした一歩の動機は――男のためだ、市十郎のためだ――と、
左右太が、諸所で、調べ
刑部が、多年にわたって、西国の
また、その十蔵の、もとの身分、悪の仲間へすべり落ちた動機。それも、明白にされている。
大岡亀次郎といい、阿能十といい、死んだ味噌屋の久助といい、お袖といい、およそ、それらの人間たちが、青年期に、岐路を
もし、当時の犬公方、徳川綱吉が、その生母や悪僧の
大亀でも、阿能でもそうであるが如く、化物刑部すら、そういえる。もし、社会がもっと明るく、庶民に不満不平の声がなかったら、かれらとて、一世をひッくり返して、
(おれたちでも、これよりは、ちッとはましな政治ぐらいはやってみせる)
と、無謀な乱をたくませるようなことはなかったろう。
弱い、女の一生をもつ――いとけないお袖の生い立ちなどは、あの悪い政治、あの腐った世風の下では、犠牲というほどな力さえない。まして、あとに生れた、お燕の運命までが、
――そう、聞いているのか、否か、越前守の面上には、何も、はたから読みうるほどな顔いろも見えず、この一室は、かくてこの事件の全貌を、個々にも、外廓からも、根本的に洗いあげるべき、一大吟味室とはなっていたのである。
長いこと、左右太の報告はつづき、更に、べつな報告を出して、机上の資料に、いろいろな、新材料を加えていた。
いつか、中庭の
すると、どこやら、遠くに――
「ばか野郎っ。やいっ、牢番どもっ。なぜ寄って来ぬ。
吠えるような大声である。
暮れかけている牢長屋の屋根をこえ、柵を越え、役宅の幾棟をもこえて聞えてくるのである。
よほどな大声で
越前守は、はたと、耳をすました。
つぶやくように、三人へいった。
「また、亀次郎がわめきおる。あれでは、体が
「よく、獄医に、気をつけさせておりまする」
と、勘蔵が、答えた。勘蔵やほかの者たちの方が、胸をえぐられているような眉根を見せている。
「獄医では、何かと、届かぬふしもあろう。義平太」
「はい」
「いちど、
「申し伝えておきます」
――するとまた、聞えて来た。暮れるにつれて、
「越前っ。やあいっ、
とぎれとぎれ、喉もやぶれそうな
「お奉行。ちょっと、行って見てまいります」
勘蔵、義平太が、立ちかけると、
「ま。すてておけ」
越前は、馴れたという顔つきである。
「けれど、牢番どもが、いつも閉口いたしております。少々、なだめておかないと、今夜また、寝ずに、狂うやも知れません」
「そうだの、体にこたえよう。……が参っても、逆らうなよ」
「決して。その辺は」
ふたりは、立って行った。
そのあとで、山本左右太は、思いきったように、膝をすすめた。
「最前からの、御報告のうち、一つ申し残しがございまする」
「お袖、お燕のふたりの行方であろう」
「お明察のとおりです」
「同僚のふたりにたいして、そちは、明らかに申すのを、
「よいか……わるいかと……」
「あれ程、越前の虚心を、いっておいたが、まだそち達には、
「いや、御心中は、よく相分っておりますものの。……お察しくださいませ」
「おたがいは、人間じゃ。その心づかいは、うれしいと思う。しかし、それを超えねば、おたがい、奉行役人たる生命はない。左右太、何なりと、申してくれい」
「実は……。お燕の身は、ただ今、牛込柳町の町医、市川楽翁どのの隣家に
「義平太が、隠したか」
「いえ、楽翁どの自身、あの夜、寛永寺附近に、見張っていて、近所のかご寅という者をかたらい、御子息の義平太とは、論争のあげく、遮二無二、連れ去ったもののように思われます」
「して、お袖の方は」
「これは、楽翁どのも、手が廻らず、取り逃がしたらしく、あの後、組下の辰三、半次のふたりが、必死に探索しましたところ、どうも、寛永寺別院の副執事、大内不伝の手によって、山内にかくされているらしゅうございます」
「宮御住持の別院にとか。……ちと、うるさいの」
「何よりの、心配です」
「案じるな。越前の心さえ、しかと、最初の覚悟のままであれば、いかようなろうと、あわてることはない」
「この事、てまえからお奉行のお耳に入れたと、義平太に、申したものでしょうか。また、つつんでおいたがよろしゅうございましょうか」
「かくさぬがいい。しかし、義平太の

ばたばたと、中庭の方から、前のふたりが、馳けもどって来た。
「お奉行。ちと、変です」
「どうしたっ?」
「亀次郎が、余りに、狂い廻ったせいか、突然、牢のうちで、
「なに、絶命したか」
「いえいえ。一時の、
「獄医を呼んだか」
「牢屋づきの中根
「万一があってはならぬ――」越前は、すぐ立って、中庭の草履をはき、
「義平太、義平太」
「はいっ」
「大急ぎで、楽翁どのを、迎えて来てくれ。駕籠で、飛ばしてゆけよ」
「は。承知しました」
義平太は、すぐ走り去った。越前は、ふたたび、自室へもどって、文庫から、印籠をとり出し、またすぐ降りて、中庭門から、役宅
揚屋牢、百日牢、重罪牢――猛獣小屋のような棟が、
「や。お奉行さまが」
と、ここの獄吏たちは、めったに見ない人のすがたに、何か、恐怖的な目をしたり、うろたえたりした。
「亀次郎の牢は」
かれのあとには、勘蔵と左右太が、従っていた。牢番頭は、
「こちらで」
と、
吠えるので、他の牢長屋とは、まったくかけ離れた一隅にあった。
うしろは藪。前には、雑木が五、六本。あたりは、
「ここか……」
「左様でございます」
「しずかだのう。落着いたか」
越前守は牢格子の前へ寄った。外はまだ、夕明りが、ほのかでも、牢のうちは、まっ暗である。
むくむくと、何か、闇にうごいた。
「だ、だれだっ。
大亀は、床板から、半身を起して、じいっと、眼だけを光らした。
そして、ず、ず……と少しずり寄って来たかとおもうと、
「やっ、ち、ちくしょう!」と、いきなり牢格子へ、がりっと、噛みつくように、口を当てて来た。
「越前だなっ。――いや、ちがう! てめえは、大岡市十郎だ。
「亀次郎。いかがいたした。体は、よいのか」
「な、な、なにを、いッてやがるんだ。笑わかすな、この
「苦悶しておると聞き、薬を持って来た。
「服んでやる。さあ、服ませろ。おれは、きのうから、体じゅうが、炎のように燃えている。おぼえておけよ。これはみんな、てめえの恨みだぞ」
「――牢番。これを服ましてやってみい。
越前が、印籠を手渡すと、亀次郎は、
「ばかにするなっ。おれを、毒殺しようなどと思っても、その手は食わねえ。やいっ、市十郎、ここへ来い、牢の中へはいって来い。いい分がある」
「いずれ、白洲で聞こう。白洲で、存分に申せ」
「いやがったな。やいっ、おれを白洲で、貴様が、調べられるのか。ちゃんちゃら
「その気がしずまらぬうちは、吟味もなるまい。白洲に出たくば、早く、落ちつくがいい」
「おれを、気狂いあつかいする気だな。ウム、分った、おれのことばを、みな、狂人のたわ言だと、調書をごまかし、世間をうまく、飾ろうというんだろう。くそでもくらえ、おれが獄門なら、てめえも獄門へ抱いてゆく。おれが
昂奮のあまり、ほんとに、
「それっ」と、牢番は、すぐ中へはいって、水を与え、薬をのませた。気がつくと、亀次郎はまた吠える。また、牢格子へ、噛みついてくる。
そこへ、義平太の迎えに行った市川楽翁が、
「たいそう、お丈夫だの。このぶんなら、心配なし。ただ、風邪ぎみにすぎん。熱がたかい」
笑いながら、楽翁は出て来た。そして、薬を取りに来いと告げて、牢番頭を伴って、役宅の一間へもどった。
調剤を渡し、手をそそぎ、
「お奉行は」
と、義平太に、たずねた。
「奥で、お待ちしておられます」
「ちょうど、近日、お目にかかりたいと思っていたところ。折入って、暫時、お会いいただけるかと、お伺い申してくれい」
やがて、さしつかえないとの返辞が来、こんどは、小林勘蔵が、案内に来た。
「用があったら呼ぶ。みな、休息して、与力部屋へ、
越前守も、こよいは、かれと自分とだけで対坐して、何か、はなしたい一宿題をもっているようなふうだった。
「さ。楽翁どの。くつろごう」
「終日。おつかれでおわそう。くつろがせていただきます」
敷物をとり、それに、ぺたと膝をのせて、楽翁は、小さい床の間へ眼をやった。
と、細軸の一
「ほ。どなたの書で」
「おはずかしい。自分の手習いです」
「同苦和尚とは」
「越前の再生の恩人でござる。いまはいずこにおらるるやら……
「――慕わしさ。まことに、人間の世界は、そうした情のうるおいや張りあいのみが、助けでおざるし、いささか人間を善くもするものでございましょうな。……で、お目にかけたい物があります」
楽翁は、小さい紫のふくさ包みを取出して、あいての膝のまえに置いた。
「何か、あらたまっての
「ま。お手にとって、ごらん下さいまし」
楽翁は、手をのばして、遠くの燭を、そばへ寄せた。
越前守は、ふくさを
紫のしずかな色の上に、一箇の
「お奉行……。御記憶がありますか」
「あります」
眼を、印籠に吸われたまま、声ひくく、越前守は、答えた。
覚えがなくてどうしよう。この紋ぢらしの蒔絵印籠は、いまの将軍吉宗がまだ紀州の部屋住み時代、徳川新之助といっていたころの持ち物であった。
いやいや、それは忘れ得べくも、この印籠を、路傍に得て、
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第五章
楽翁は、たしかに、越前守の眼にも、それを見た。
――と思った時、かれ自身が、自分の頬をつたわるものに気づいて、あわてて、顔をそむけてしまった。
越前守も、
「楽翁どの――」と、燈下の印籠に、なお眼を落しながら静かにたずねた。
「いったい、この印籠は、どうして、老兄のお手にあるのでございますか」
「それをお
「されば、この印籠の所持者は、越前が、ただ今、詮議中の女賊のひとりです。御承知の五人組強盗のうちに交じっておった若い女の持物ゆえ。……それで、お尋ね申すわけで」
「では……越前どの」と、楽翁は、あいてを正視して、何か、いおうとするらしかったが、唇ばかりわなないて、ことばは洩れて出ないのである。
かれの正視に対して、越前守もまた眼をそらさず、その
「では、お奉行には、もしこの印籠の持ち主の居所がわかれば、
「もとよりです!」
かれは、かれ自身へ、断乎、命じるごとく、いった。
「自分の任として、当然、すぐさま捕手をさし向けまする」
「しかし、お奉行。いや越前どの。もしそのために……仮にといたそう。大岡
「心得ぬおたずねじゃ。越前は、不肖ながら、江戸町奉行の現職にあります」
「いやさ、越前どの、人間としての、あなたのお気もちを、伺うのでおざる。……人の子の親として」
「これは、迷惑なおたずね。越前が、親であり、
「公と私との、けじめくらいは分っておる。なれど、愚老のいうのは――
「お待ち下さい。……仰っしゃることは、自己の弁護にはなりましょう。けれど、世間から見れば、醜いもの頬かぶりといいましょう。世人は、
「いや、あなたの場合は」
「私に、それほどな世人の信頼や徳望はない」
「いまはなくても、あなたを
「決して適材とも存ぜぬが、越前も、なしうる最善はつくす所存でござる」
「それなのに、なぜ、この
「もう止めましょう……」
越前守は、ふと気を
「御老人。ま、安心していて下さい」
「いや。安心どころか。愚老は寝られませぬ」
「はははは。忠相のごとき、小吏の代りは、いくらでも、世間に人がおりますよ。――ただこの際、幸い、自分が先に歩む者の立場におかれておりますから、久しい間のぬかるみを、道
「おいとま、いたす」
楽翁は、何か、思いきったように、起ちかけた。そして、二人の間に置いていた印籠を、
「あいや。これは、置いて行かれい」
と、越前守も手をのばし、印籠を持った楽翁の手を抑えた。
「いや、これは預り物。当人の胸を訊かねば、お渡しできん」
楽翁は、越前守の手を払って、さっさと、
「愚老には愚老の信じるところもござれば、悪うお思い下さるな」
と、もいちど、礼をほどこして、室外へ出ようとした。すると、越前守は、
「老人。待てっ」
と、うしろからいった。楽翁は、ふり向いて、
「お奉行。何ぞ御用かの」
「その印籠を持って、ここを出ては、
「いや。時の奉行たるおん身すら、職のためには、身にかかる禍いを避けようとはなさらない。医は仁術とか。愚老も、仁愛のためには、身の禍いも、
暗い廊下を、楽翁の足音が、遠くなって行った。――越前守は、残された
「たれかおらぬか。勘蔵っ、左右太。……はよう来いっ」
与力部屋の方で、はっという返辞がした。けれど何か、その三名で、押し問答でもしているらしい。そんな声がしながらなかなか誰も来ないのである。
越前守は、やや甲高く、また、呼んだ。
「与力部屋にはたれもおらんのか。……義平太でもよいっ。すぐ来い」
「はっ、ただ今っ」
ばたばたと、窓の外に、足音がとまった。そこから、ひざまずいて、
「――御用は?」
「お。義平太か」
「義平太にございます」
「…………」
越前守のことばは、容易に、かれの口から出なかった。が、押し出すような語気で。
「うむ。そちでもよい。今、医者の市川楽翁が立ち帰って行ったが、見たか」
「はっ。承知しております」
「楽翁を追いかけて、いま越前に示した印籠を、受け取って来い。……もし、あくまで渡さぬときは、必然、かれは当奉行所で詮議中の犯人を、承知のうえで、
「あっ。……では」
「渡さぬ時はだ。……義平太、そちの手では、心もとなく思われるなら、左右太か、勘蔵の手をかりるがよい」
「な、なんの……。てまえの腰にも、十手は帯びておりまする。御免っ」
と、市川義平太は、役宅の裏玄関まで――長い暗い大廊下を幾曲りもする間――唇に
夜なので、同心部屋にも、そこらの小者部屋にも、たれも見えない。かれは、誰のとも知れない草履へ足をのせた。――と、すぐ後から駈け続いて来た同僚の小林勘蔵と、山本左右太とが、
「おっ、おいっ、待て」
と、抱き止め――
「貴様が、行くことはない。――肉親の父親を、子の貴様が、召捕りに立ちむかうなんて」
「いや、離せっ。離してくれ」
「こらっ、義平太。貴様まで、お奉行と同じように、そう頑固を申して、どうするんだ。おれ達に、まかせろ。……な、な、義平太。おれたちで、何とか、扱ってくる」
「よけいな真似をしてくれるな。お奉行から拙者へ申しつかった役目を」
「ばか。市川楽翁は、貴様の、親だぞ。父親ではないか」
「公務の上では、父も子もない」
「お奉行のお立場はわかるが、その御苦境をお助け申さねばならん
「おれは落着いている。狂っているわけじゃない。法の正しさを守るためには、わが身も、裁かれ、わが子といえど、ゆるさぬとしているお奉行の胸をおもえば」
「まあいい。ひっこめ」
「
振りほどいて、義平太は、たった今、ここを出たはずの、楽翁の駕籠を追って、裏門を走り出た。
数寄屋橋門内の夜は人通りも稀である。例の石焼豆腐の
「待ッた。待ってくれ」
義平太は、追いついた駕籠の前へ廻って、両手をひろげた。
「南の与力でござるが、駕籠の内のお人に、ちとお
さすが、声のどこかに、ふるえが帯びる。
義平太はその慄えを
「……お出しなさいっ、楽翁どの。御所持の印籠をお渡しあればよし、さもなくば、やむを得ず、十手にかけて引立てますぞ」
――すると、駕籠の内から、
「なに、十手にかけてもだと。……おいおい人違いしては困る。いったい、誰にむかって、何を渡せといっておるのか」
かごの垂れを
「……あっ。こ、これは?」
人違いと知って、義平太は、自分の不覚に
さっき、二人の同僚に向っても、自分は、落着いている、決して、逆上してはいない――と広言したが、やはり心が
――と。かれは、駕籠の棒先にさげてある提灯を見直したが、それは、市川家の紋の三ツ
「はてな。おかしい」
人違いには相違なかったが、駕籠違いでは決してない。
どうして、父楽翁の駕籠に、見知らぬ武家が、乗っているのか。
義平太は、深い夜霧にも似た疑いの中につつまれて、依然、駕籠の前から、身を退けなかった。
「南の与力殿とやら。何を、まじまじと、不審そうに見ておるのだ。――失礼したと、謝罪もせずに」
「まことに――」と、あわてて一礼しながら、
「人ちがいの儀は、お詫び申すが、この駕籠は、どこから乗っておいでになったか」
「差入れ茶屋の石焼豆腐で一
「その辺で、拾ってお乗りなされたのか」
「いいや。家から乗って出た雇い駕籠じゃ」
「いよいよおかしい。これは、牛込柳町のかご寅の若い者と見うけるが」
「拙宅も、その柳町の附近。べつだん異なこともあるまいが」
「それにしても、この提灯の紋は、柳町の町医、市川楽翁の家の紋でござるが」
「何をいうか」
と、侍は一笑に附した。
「それがしの家の紋も、三ツ
義平太は、ここぞと、迫って。
「そうはいわさん。貴公の小袖には、
「なに、鷹の羽。これは表紋だ。俗用には、裏紋を使用しておる。――一家に二つの紋があってもふしぎはない。……いや、それよりも、先程から人の通行を
「……ウウむ。何とも、
「疑いがはれたからには、貴公から名乗んなさい」
「申しおくれました。南町奉行付きの、市川義平太という者。して、あなたは」
「藪八と申す」
「御姓は」
「藪」
「お名は」
「八でござる」
「おふざけなく」
「たれがふざけておりますか。姓は藪、名は八――相違ござらん!」
ひどく、語尾に権威があった。何か、ぴしっと、その語気に打たれた感じで、義平太が口をつぐんでしまうと、その侍は、
「はやく、やれっ。……とんだ道くさ」
と、駕籠の者を叱咤して、たちまち草間隠れ、灯は、濠端の闇を小さくなって行った。
「――義平太。いつまで、ぼんやりしていても仕方があるまい。さ、帰ろう一度」
茫然としている彼の側へ寄って来て、さっきの同僚二人は、左右から義平太の腕を組んで、一しょに歩かせた。
「なあ、義平太。実は、おれたちも、物蔭で聞いていたのだが、世間には、ふしぎな人間もあるものだ。左右太は、今の男を、何だと思う?」
「拙者にも、てんで見当がつかぬ。まるで、人を
「狐かな」
「まさか」
「ともあれ、お奉行が、お待ちにちがいない。楽翁どのの
「いやっ、おれは」
と、義平太が、もがいて、友の腕から脱けようとするのを、二人は、しっかと抑えて、
「おいっ、どこへ行く。どうする気だ」
「もいちど、今の駕籠を、追ってみる」
「よせッ。ムダだ」
「でなければ――牛込柳町の」
「自分の家へ、自分で捕物に乗りこむ気か。いい加減に、友達に世話を焼かすなよ」
その言葉には、義平太も、いッぺんに顔じゅうを涙にしてしまった。
「泣くな。見ッともない」
左右太が、背をたたくと、義平太はなお、
左右太も顔をそむけてしまい、勘蔵も
黒い奉行所の裏門が、地を見ない三人の前へ、
「はははは……。おい、顔を拭けよ」
「アハハハ。どうもいかんな、ちか頃の、南は」
「みんな泣き虫になって」
「気を取り直そう。……おい、左右太、鼻紙があったらくれよ」
「鼻紙か」
三人はそこで、何とはなく、意味もなく、笑い合ってしまった。
そして、小林勘蔵は、左右太から鼻紙をもらっていたが、何か、ちらと、眼くばせをした。左右太は、うなずいて、石焼豆腐の方を、振り向いた。勘蔵は、義平太にも、紙を分けてやり、顔を拭かせて、門内へ連れて入った。
越前守は、まだ同じ部屋の、同じ燭の前に、
まるで、肖像画のように、かみしも、袴のヒダも、さっきのまま、くずれもしていない。
そして、瞑目していた。
かれは常に、かれ自身の精神を平調に
「勘蔵に、義平太でございます。行って参りました」
「お……。御苦労。印籠は、受け取って来たか」
「いえ。もどりませぬ」
「では、楽翁を、召捕って来たか」
「急ぎましたが、とんと、帰りを見失いました」
「なんじゃ。知れぬと……」
「おいいつけを果たさず、立ち帰っては、お叱りをうけようかとも
勘蔵は、何もいい得ない義平太に代って、人違いした怪しげな人物のことを――また、駕籠だけは、まちがいなく、楽翁の駕籠だったことを――ありのまま、話した。
だが、これは、越前守の判断にも及ばないとみえ、かれも眉を沈めて、ただ聞き入るのほかはなかった。
「
「もう一度、話してみい」
と、かれは更に、慎重になって、耳をかたむけた。
「――あ。そうでした。申し忘れましたが、義平太が、その武家の姓名をたずねましたところ、姓は藪、名は八。姓と名とで、藪八と申す者であるなどと……まるで人を愚弄するような言を吐いて立ち去りました。世の中に、左様なふざけた姓名はないとは存じましたものの、さりとて、その人間には、どこか謹直な風も見られ、それ以上、故なく
藪八――という名が出たとき、越前守の
が、ふたりには、見えもしなかった。
「ウーム……そうか」と、越前守は、
「……ま、いずれにせよ、市川楽翁、逃げかくれする者ではない。明朝、ふたたび両名して、柳町のかれの自宅を訪れ、先刻、義平太に申しつけた通りにいたして来い。――印籠を差出さすとも、召捕って参るとも」
「かしこまりました」
義平太も初めて、勘蔵と一しょに答えた。
ここずッと、毎夜のように、越前守が公務から解かれることは遅かったが、今夜もまた、もう更け沈んだ時刻だった。かれは、二人の部下にも、夜ごとの労を詫びて、自身もやっと駕籠に移り、間もなく赤坂の私邸へ帰って行った。
「お次さん。……お次さん」
差入れ茶屋は、夕がた、奉行所の門が閉まるのと一しょに、ここもみな、
だが、名物石焼豆腐の裏口には、明りが洩れていた。――そこの戸を軽く叩いていたのは、今、奉行所の裏門際で、義平太や勘蔵と別れて来たばかりの、山本左右太だった。
「……お次さん。おい、ちょっと、顔をかしてくれんか。
左右太とお次の仲は、雇いの小女まで知っている。かれは家人に気がさすらしいのである。
やっと、家のうちに、返辞があった。戸のあいだから、お次の白い顔。――愛人の顔は、書物のようにすぐ読めるものだ。左右太は、かの女の眉が、いつになく冴えないのがすぐ見えた。
「急に、訊きたいことが出来てな……。いいか、入っても」
「あの……左右太さま。今夜は……」
「たれか、奥に、客でもいるのか」
「いえ。……お客っていうわけでもないんですが」
「都合がわるければ、外で、立ち話でもいい。ちょっと、抜けられないか」
「待ってくださる?」
「うん。どこにいよう」
「いつもの、船小屋は」
「じゃあ、そこにおるぞ」
左右太は、先に、遠くもない河岸ぷちの――
「なんです。急なお話って」
「だしぬけに、妙なことを訊くが、店が閉まってから、今夜は、たれか客がいただろう」
「え……。夕方、楽翁さまを乗せて来た駕籠の衆に、店はもう閉めたんですが、断れずに、
「もう帰ったんだね。その駕籠かきたちは」
「ええ、帰りました」
「つい今しがた?」
「そうですの」
「――誰をのせて」
「お奉行所の御用がすんだので、楽翁さまをお乗せしてです」
「はて。どこから乗ったのかなあ」
「うちの前からです」
「うそをいってはいかぬ。ははあ、お次さん……口止めされたな」
見つめられると、お次は突然、ぽろぽろと、涙を見せた。
「左右太さま。なんで私が、あなたに、嘘をいいましょう。……私を……左右太さまは、まだ、そんな女だと、思っていらっしゃるんでしょう」
「あ。どうしたことだ。それッぱかしのことにもう泣くなんて。……失言は取消す。疑って悪かった、じゃあ、おれの想像が、ちと違ったとみえる」
「どうして、そんなことを、お訊きになるんですか。あなたも、ほんとをいって下さいよ」
「大きにそうだった。そなたが左右太を信じてくれるのに、おれが真実をいわぬ法はない。実は、今夜、こういう事があったのだ」
奉行所以外の者で、先頃からの事件を、ほのかにでも知っている者は、市川楽翁と、かの女あるのみである。また同僚二人も、そのことは、諒解の上だ。打ち明けて、さしつかえない。――と思ったので、左右太は、相愛の感情とは、
感傷になり
「え。お次さん……。その藪八という
「そのお武家なら、たしかに、うちにおりました」
「えっ。ではやっぱり、夕方から来ていたのか」
「楽翁さまを乗せて来た駕籠の衆よりは、すこし遅れて、やはり同じかご寅の若い衆が、駕籠でお連れして来た方です」
「へえ。……そして」
「楽翁どのと、ここで落ち合う約束をしてあるので、夜中、すまないが、座敷を貸してくれいと仰っしゃって」
「楽翁どのを待っていたわけだな」
「――ですが、楽翁さまのお声が外ですると、ここでは、何も話さずに、すぐ御一緒に、
「あっ。わかった。……読めたぞ、それで」
左右太は、思わず手を打った。二人が、二つの駕籠をスリ
しかし、藪八とは何者か。どうして、そんな行為をとったか。これは依然として、彼にもわからない。
お次にも、それ以上は、分りッこないが、なお次のような事実は、左右太の判断を、一そう深い謎にした。
お次がいうには。――先ごろの御隠殿下の捕物以後――市川楽翁と藪八という武家とは、いく度となく、
(ちょっと、奥を貸してくれい)
といっては、石焼豆腐の店へ見えて、店では話ができぬといい、そのたび狭い
また、折には、藪八ひとりで来たこともあり、来ると、お次をよび、南の補佐役たる三与力のうわさをしたり、それとなく、奉行所内の実状を細大もらさず訊き知ろうとする様子は、よほど越前守の一身と、こんどの事件に、深い関心をもっている者にはちがいない――ともいう。
「いよいよ分らなくなってしまったが、……ま、お次さん、おかげで、今夜の謎の駕籠だけは、楽翁と藪八の、馴れ合いと、明白になった。――そこで、もひとつ、訊きたいがなあ」
「なんです、左右太さま。……じいっと、ひとの顔を見たりして」
「どうも、いつものお次さんとは見えないもの。何か内輪事の、心配でも起ったのか。……え、お次さん。それとも、どこか気分でも」
左右太は、そっと、かの女の肩を抱いていった。その肩も、おくれ毛も、すぐ泣きふるえ、訊ねられた二つのうちのどっちかに、触れたことは確かである。
「わ、わたくし……。もう、あなたとは」
「えっ、何。……あなたとは? ……どうしたって」
「左右太さま」と、いきなり彼の胸へ、しがみつくように、泣き顔を押しあてて、
「……あ、あなたと、交わしたお約束は、どうか、水に流してくださいませ。お次はもう左右太さまとは、夫婦になれない身になりました」
「な、なにをいうか」
と、左右太も、
「わけをいえ。泣くのが、いい訳ではあるまい。わけに依っては、どこへでも、好きな所へ、嫁にゆけ」
「ほかへ、お嫁になんか、行くので泣いているのではありません」
「では。……どうした仔細だ」
「ね、姉さんが……。家出していた姉さんが、急に家へ……帰って来たんですもの」
左右太は、笑い出した。――何のこッたと、わざと、表情していった。
けれど、お次は、かれが笑うほど、悲しんだ。泣きじゃくッてやまない程に。
そう思いつめた理由も、聞いてみれば、無理もない。左右太は、笑ったことを、すぐ悔いた。
かの女に、お島という、ひとりの姉があった。
お島は、
それが、前の月。――あの御隠殿下の手入れのあった翌日。ぶらと、
(ここが、私の生れた家だッてね)
と、物珍しそうに帰って来た。
お島が、家出した頃は、まだ石焼豆腐はしていなかった。日本ばし裏の、ただの豆腐屋だった。店を、こうしたのは、死んだ父親である。母は、
――父が死んでも、店が繁昌しているのは、お次が、かんばん娘として、たれにも評判がよいからだった。
(おまえは、私を覚えていまいね。私は、おまえの姉だよ。あんまり、邪魔者あつかいにしないでね)
帰った日のその晩から、こんな言葉で、お次を悲しませた。そのお島は、もう四十ぢかい年だったが、どこかまだ水々しく、さっそく髪を洗ったり、
(やはり江戸には
と、平気でそんなこともいう。
――が、お次は、そんなことを、左右太へ悲しんでいるのではない。
姉のお島は、久しい前に、上方へ流れて行って、
(だがね、お次。わたしは、どうせ助からない体。いつまでおまえの厄介になってはいないよ。……ただ、離れ島で一生あのまま送って死ぬより、ひと目、もいちどお江戸を見て、したいことをやって、さッさと、おさらばしようと思って逃げたんだよ。その間だけ、頼みますよ。――奉行所が、つい目と鼻の先だからといって、密告なんかしたら、ただはおかないよ)
こういう姉が、肉親として、現われてみると、お次は、どう考えても、与力の御
それを、左右太に、いつ打ち明けようかと、この間うちから悩んでいたが、姉のお島は、島破りという兇状持ちだけに、何事につけ、疑いぶかく、自分がちょっと
「ああ、ここにもまた、一難が」
左右太は、ふたりの恋だけは、醜悪な世間の外に、小さな花野として、心に持ち合っていられるものと思っていたが――ここもまた、人間の罪悪と
が、かれは、心のうちで、
(これは、お奉行のお立場や、義平太の苦しみなどとは、大いに、事情がちがう)
と、すぐ自信をもって、割りきっていた。恋人のお次にたいして、こういい
「よしっ、分った。嘆くのは、むりもないが、おれとの約束を、水に流すなどと、狭い考えは、起さぬがいい。――何も、そなたには、罪もないこと」
「でも、奉行与力のあなたのお名に」
「
「左右太さま。……うれしい。ほんとに、そう思って、ようございますか」
「ただ、弱ったことには、島破りの女掏摸が、奉行所のすぐ鼻っ先に、隠れているということを、与力の左右太が知ったことだ。――これは、捨ててはおけない。恋のために、見て見ぬ振りをしていたら、おれはお奉行が今、一身を
「では、どうしましょう。……どうなさるおつもりですか」
「お島を、召捕るだけのことだ」
「えっ……」お次は、そんな結果を、予想もしていなかったように、急に、唇のいろを失ってふるえた。
すると、船小屋の横から
「あっ……。姉さん」
「なに、お島か」
左右太が、堤へ、駈け上がろうとすると、お次は、われを忘れて、かれの腕に、しがみついた。たった今、恋と職分との、明白な差別と、心がまえを、理非をわけて、聞かされたばかりであっても、お次には、眼のまえで、姉が縄目にかかるのを、見てはいられなかった。また、
「お次ちゃん、倖せ者だね。……おまえは、女の道を、大事にお歩きよ」
なんという大胆さだろう。駈け出しもせず、お島は、下のふたりへ、そういって、ふっと、姿を消した。
その夜、お島は、帰らなかった。どこへ行ったか、そのまま姿は見えなくなった。あくる日、お次は、いつものように、石焼豆腐の店さきに姿を見せ、多くの客に、世辞をこぼしていたが、そのほほ笑みには、苦悩を伴う淋しい影が、前の夜よりも、濃く見えた。
朝――早かった。
牛込柳町の町医、市川楽翁の門へ、
「御免――」と訪れた二人の与力がある。
ひとりは、市川義平太、この家の子だが、きょうの彼は、南の与力だ。――同様に、もうひとりの小林勘蔵にしても、親しい仲の家ではあるが、それだけに、眉には、きびしき決意を、きっと、示していた。
「どうぞ、こちらへ」
楽翁自身、すぐ出て来て、奥の客間。――用談は、多言を要さない。
「あ。……印籠のことで、お奉行のおさしずをうけて来られたか。それは恐縮」
と、楽翁は、あっさり、こういった。
「――その印籠は、昨夜、駕籠で急いで帰る途中、どこかへ、取り落してござる。いや、しもうたと、気がついたが、夜道の暗さ、駕籠の早さ。どこへ落したことやら……いやはや、何とも」
二人は、茫然と、二の句がつげない。
ここに臨むからにはと、死の座につくような気持でやって来たのである。そういわれても、にわかに二人の硬直は
「よろしい」
小林勘蔵は、きっぱりいって、膝を、つめよせた。
「しからば、ムリに印籠をとは申すまい。その代りに」
みなまでいわせず、楽翁の方から、覚悟のていで、先にいった。
「お連れください。――ありがたくお縄をいただいて、御一しょに参る」
「いや、
「女賊とは」
「五人組のひとり、お燕という女」
「知らん……。そんな者」
「知らぬとはいわさぬ。証人がある」
「どこに、そのような証人が」
「これにおる御子息の……」と、いいかけたのを、慌てて、勘蔵は、いい直した。
「――これにおる同僚が、先夜、上野の寛永寺の森で、たしかに、
「ははあ、あの夜の、若い可憐な娘が、お燕というのでおざるか。たれかは知らぬが、寛永寺の帰途、救いをさけぶ女があったので、
「よく、仰っしゃった。その女が、お尋ね中の、大事な犯人のひとりでござる。お引渡しも、面倒でおざろう。二人して、隣家へまいり、召捕って帰りますから、御承知ねがいたい。さすれば、自然、老台には、奉行所まで御足労を
「あ、もし。起って、どこへ行かれるのじゃ」
「いま、申した者を、縄打ちに」
「それや、ムダじゃ」
「どうして」
「あの
「えっ、投身したとは」
「裏の井戸へ」
「あっ……井戸へ……」
起ち上がった二人は、楽翁の意中が、あまりにも、鏡を見るように読めたので、突然、こみ上げて来る涙を抑止する理性のいとまなく、ありのまま、泣いてしまった。
越前守も、一身を賭し、まったく私心を断ちきっているが、この老人も、その越前守を生かしきるため、あきらかに、老いの
印籠のいい分といい、お燕の
(よくぞ、お燕を逃がして下された)
勘蔵も、義平太も、心のうちでは、伏し拝みたいほどだった。
実は、おそらく、こうもあろうかと、
義平太の顔には、複雑な、よろこびと、父を案じるこの後の
「――井戸へ投身したとは、
「腑に落ちぬは、ごもっともじゃ。あの娘は、狂気しておった。大岡越前守様を、自分の父であるなどといい、父に会いたや、会いたやと、呼びつづけたりしておった。……と思ううち、数日前の夜、身を投げおった。隣家の庭は広いし、近所の者すら古井戸でおざれば……たれも幾日も知らなんだ」
ひとり語りである。いや、作り語りにちがいない。しかし聞き入る二人にとっては、切実だった。少なくも涙をとどめ得ない嘘であった。
「……わしの手に預っておいた印籠一つが、
楽翁は、先に立って、隣家の庭へ、案内した。
井戸は、なかった。
あったという、新しい土盛りの上に、
“狂女お燕之碑”
と、朱書した小さい石が、ただ一つ、載せてある。
「これですか? ……これが井戸で」
「そのまま
「ともかく、この通りを、越前守様に、御復命はしておくが、御得心なき時は、掘り返すやも知れませんぞ」
「おおいつでも。……なお御不審があれば、楽翁に縄打って、いかにお白洲で
長くもいたたまれない気もちで、二人は、庭の木戸から往来へ飛び出した。そして、おもわず、顔を見合せて、
「義平太。よかったなあ」
「よかった……。ほんとに、よかった」
「だが、貴様には、気のどくだな。楽翁どのの申し立てを、そのまま左様かと受けて、御自分の窮地をのがれるようなお奉行ではないからの」
「父は、すべてを背負って、死ぬつもりかもしれぬ。どうも、今朝の様子は、余りにも
「あっ……。おいっ、義平太。あれを見ろ」
「えっ、な、なんだ?」
急に、勘蔵にそういわれて、勘蔵の見ている方を、何気なく、振り仰ぐと、いま出て来た楽翁の隣の二階に、頬づえついて、窓から往来を見ている男がある。
「わからんか、あの男……」
「ううむ、ゆうべの、
「そうだ。その藪八だぞ」
「はてな。どうして、この家に……?」
余り、見ているので、気がついたか、彼方の藪八も、ぴたと、そこの窓障子を閉めて、首をひっこめた。
小林勘蔵は、義平太に何か囁いて、かれ一人、奉行所へ、帰って行った。
義平太は、根気よく、附近の寺の境内から、その家の出入りを、監視していた。
果たして午近い頃、庭門の方から、ゆうべの藪八が、出て行った。――見えがくれに、義平太は、尾行した。さきは、気がつかないらしい。
だがやがて、何処までもと思って
それから約、半刻ほど後。
例の、江戸城本丸の
「藪八。調べは、ついたか」
「は。いささか」
「どうじゃ、越前の身は。……何とか、救えそうか」
「なかなか、むずかしい事のようでございます」
「はて。至難かの」
吉宗は、眉をひそめ、何か、意志のうずく時にする癖のように、右の膝を、かろく叩いて、
「やはり、北町奉行の
「いやいや、左様ばかりでもございませぬ。越前自身が、敢て、自分の過去を、つつもうともせず、飽くまで、事件の真相を、洗いたてておるからでございます」
「さすれば、かれ自身、失脚するのみか、ふたたび世に出ることはできまいに」
「法の正明を守るためには、失脚などはおろか、おそらく、死を決して、当っておるものと思われます」
「おそろしい奴のう……」と、苦笑しながらも、何か、内心の
「――藪八。よくないな」
「何がでございますか」
「老中どもや、寺社奉行などの噂を通じ、それとなく、吉宗の耳へ、越前の過去の非行を、大げさに伝えてくる者は、常に、越前を功名争いの敵としておる北町奉行の
「御明察のように思われます。が、その辺のこと、まことに微妙で」
「……と、いたせば、左様なことで、かれらに凱歌をあげさせるのは、役人根性の助長というもの。後々の、弊害も大きい」
「てまえも、心をくだきおりますものの、何せい、明らかな、事実があるので」
「藪八は、智者ではなかったかの。……頼もしからぬ奴ではあるよ」
「おそれ入ります。……が、もう少々、長い目で御覧じくださいませ」
藪田助八は、頭を掻いたり、平伏したりした。けれど、真底から
十日ほど後。――藪田助八はまた彼の
近頃、かれが折々すがたを見せる仮住居というのは、例の牛込柳町の市川楽翁の隣家である。家主も隣の楽翁なら、留守中の戸締りも、食事の世話も、一切、
その代り、彼の咳ばらいか声でもすると、案内なしの庭づたいに、すぐ楽翁がやって来る。病家の迎えか、患者でも来ない間は、この医者は、
「楽翁どの。南の与力たちは、あれきりかの」
と、今日も二人は、二階の一室で話しこんでいた。
「されば。あれきり、やッて来おりません。お燕は井戸へ身を投げたし――その墓石はこの通り――といい張ったので、あの深い井戸の
「だが。なお目明しなどが、この家の出入りを、見張っているような事もないとはいえぬから、油断はできぬぞ」
「注意は充分にいたしておる。――南はともかく、北町奉行の方でも、だいぶ動いている様子もおざれば」
「それよ」と、藪八は、膝を打って「――われらの手で、一日も早く、遮二無二、事件の落着を急がねばならぬ理由は、その北町奉行の策動こそおそろしいのじゃ」
「ところで、お燕の身は、あなたのお力添えで、ひとまず世間の外へ、
「それには、この藪八が、一案をもっておる。――楽翁どの、きょうは一つ、
「どちらまで?」
「それ、いつぞやのお話の、寛永寺の別院へ」
「あ、なるほど」
と、楽翁はすぐうなずいた。その事についても、二人は、もうある打合せをすましているらしかった。
いや、お袖、お燕の始末に限らず、楽翁と藪八のあいだには、今度の越前守をめぐる問題のすべてに
その関与が、実は、将軍吉宗の
(こうせい。かくいたせ)
と、ある結論を与えて、先頃からしきりに奔走させているものであることは、もう疑う余地はない。
またその藪八こと藪田助八が、ひとたび将軍
「では、間もなく、お出かけかの」
「ウム。せがれ
藪八は、言外の意味を、笑顔に見せて、二階の窓から、庭の
「采女。――采女」
かろく手をたたいて、その屋根へ呼んだ。
「はいっ」と、やさしい声の返辞がきこえ、そこの小窓があいたと思うと、
「お呼びでしたか」
と、前髪姿の若者が、白い顔を振り上げて見せた。
おおその顔。いや、藪八に采女とは呼ばれたが、また、前髪立ちの小姓姿こそしているが――かつて山善に兇悪な強盗事件の起った当夜、江戸橋の自身番にふと姿を現して、万字屋の姉崎吉弥と名を偽って、そこに捕われていた母のお袖を助けて逃げたあの男装の妖女と、まるで瓜二つともいえるではないか。
――と、すれば、その後、御隠殿下の手入れの夜、寛永寺の森へ追いつめられた
当夜、医者の楽翁が駕籠にのせて、
二階の藪八は、離室の顔へ、眼でうなずいて、
「うム、呼んだよ。今日はな、
「え。上野へ……ですか」
「うれしいか。采女」
「うれしゅうございます。いますぐ支度して参りまする」
窓が閉まった。
藪八は、楽翁と、顔見あわせて、
「おもえば、
と、呟いた。
が、楽翁は、後から首を振って、
「いや。不愍と申せば、
「赤坂の御病人とは」
「越前守さまのお末の子――お三ツになられるのが、春には重い風邪を病み、また
「やれやれ。それは越前どのにとって、まことに内憂外患だ。今の苦衷は、お察しに難くない。――にも関らず、毎日、平然と奉行所に出仕して、あらゆる四囲の逆境と、おのれに打ち
――その時、しずかに、梯子段を上がって来る跫音がした。
お燕であった。いや、
采女は、上品な武家の子息のような
「あの……。支度して参りましたが」
ああいけない。
かご寅の駕籠に乗って、藪八と采女は、牛込柳町から上野へ向った。
「ここらでよかろう」
山下で降りて、藪八は、祝儀をやり、見知らぬ者に何か問われても、一切、いうなと、口止めした。
かご寅の若い者は、楽翁との関係から、その辺のことはのみこんでいる。
「お案じなさいますな。その事あ、親方からも、堅くいわれておりますから」
「御苦労。帰ってよい」
まだ
が、寛永寺坂の森近くまで来ると、ここらは、根岸へ抜ける稀な人影のほか、往来人もめッたにない。
「采女。くたびれたか」
「いいえ……べつに」
「おお。花見の頃の、茶店の空家がある。茶売りも見えぬが、そこの蔭で休もうか」
「腰掛けもございます」
采女は、チリを払って、藪八にすすめた。
「そちも、かけたがよい」
「はい……」
「ところで、きょう出向いて来た目あては、そちにも、およそ察しがついているだろうな」
「ええ……」と、采女はさしうつ向いて、
「この寛永寺の別院に
「その通りだ。輪王寺の宮の寺侍、大内不伝という者が、お袖を匿っていると分っていても、そこは町奉行でも、手を入れることができない。――けれど、この藪田助八の申し入れは、宮御自身といえど、むげに
「藪田様。……どうぞ、おっ母さんに、会わせて下さいませ」
「会いたいか」
「会いたくて会いたくて。夢に見るほど、会いとうございます」
「よし、会わせてやる。……だがお燕、いや采女。会いたいのは、母だけか」
「いいえ」と、采女は、ありのままな、女になって、しゅくしゅく
「――まだ見ぬ父親には、もそッと会いたいことであろうが」
「どうぞ、お慈悲に……、そのお父さまにも、会えるように、おはからい下さいませ。そして父と母とが、私の眼のまえで、ただ一度でも……手を握りあって……そして、私の口から、お父さん、おっ母さんと呼ばせてくれたら、私はすぐ死んでもよいと思います。ああ自分も、
「望みは、キッとかなえてやる。しかし、柳町の隠れ家でも、何度もいいきかせておいた通り、それにはそち自身がまず、楽翁どのへ誓ったように、堅い堅い決意をもって、その時を、待たねばなるまい。いや、自らその幸福を、
「はいっ……」と、采女は、涙の瞼を拭って、誓っている意志を、眸にきッと
「楽翁様やあなた様から、じゅんじゅんと、深いお話を伺って、父の立場も、よく分りました。母の恨みは、もっともでも、父の立場は、それ以上大切です。そして、母が父を呪っているかぎり、子の私も救われませぬ。……きっと、私の真心で、母の思いちがいも、改めさせます。人を呪い世を呪う、あの怖ろしい心の
「おお、よくいった。それでこそ、そちもたしかに大岡どのの血につながる者といえる」
「あの隠れ家に閉じこもって、毎日、じっと、身の宿命を考えてみてから、悲しいうちにも、一つの希望が、何やら心にさして参りました」
「生い立ちから今日までを振り返って、そぞろ空怖ろしい気もいたそうな」
「……でも、よくも母が、これまでに、私を育てて来てくれたと思います。長い年月、悪党仲間に
「うム。きょうこそ、その目的で来たのだから、母に会っても、必ず、一時の情に引かれてはならぬぞ」
「だいじょうぶです。おっ母さんも、情のつよい人ですが、私にも、母を想う子の愛がありますから」
「では、行こうか」
「ちょっと、お待ちくださいませ」
采女は、物蔭へ立って、ふところ鏡を取出し、涙によごれた眼元を、直していた。
愛をもって愛と化す。――これが藪田助八の着想だった。
お袖が、いかに、
それにしても。
実に、意外だったのは、お燕の心の変化だった。ほとんど、生れ落ちたときから、悪の巣の中で育てられた娘。どんなに、手を焼かすかと思いのほか、ひとたび、父越前守に会わせてやるというたッた一つの希望を与えただけで、その日から、まったく、素直な、純情な、そして善を楽しむよい娘になってしまった。
そう説教したり、
おもうに、かの女が、母と共に、いろいろな悪事をして生きて来たのは、むしろ辛い努力の継続であったにちがいない。いや、母のお袖もまた、男を呪い通さねばやまないという誓いのために――ひいては世を悪く悪くと
(いや、おそらくそうだろう。そうとしたら、これは、あわれむべき純情な女のひとりだ)
藪八は、心で、そう見極めていた。
元来、藪田助八ほど、道楽者はないのである。侍のくせに、
藪八はまた、その命を恥かしめずに、よく新之助に
世に、悪友というものはあるが、こんな悪主従という仲はあるまい。しかし藪田助八には、かたい信念があってのことだった。――朱に交われば赤くなる――なんていう
だが後に、しかも、間もなく、自分の仕立てた部屋住みの不良児が、天下の将軍に坐ろうなどとは、夢にも、予測していなかった。しかし、なってみてから考えた結論では、
(やはり、あんな
と、自分では確信しており、吉宗もまた、少しも悔いているふうはない。
そんな下世話の世界のことは、まるで覗いたこともないような顔して、吉宗は、むしろ従来のどの将軍家よりも厳格で
(……藪八。もういちど、行ってみたいな)
などと
藪八も、戯れ半分に、大げさに、手を振って見せ、
(いけませんいけません。もう、生れかわっておいでにならぬ限りは、とても、いけません)
大真面目にいって、ひそかに、笑いあったりする、主従だった。
――こういう、因縁つきの主従なので、吉宗に附するに、彼の隠し目付は、たしかに適役にちがいなかった。そして、今度という今度の事件に当っては、いよいよもって若い頃、君臣一致してやっておいた極道の妙が、実際政治の活用のうえに、大きく役立っていることを、吉宗も感じているだろうし、彼も内心、ムダではなかったと、ひとり得意に思う程だった。
――それは、さて
藪田助八は、お燕の采女をうしろに連れ、寛永寺の正門を、ずっと、通った。
そして、輪王寺の宮の、別院を訪れ、
「大内不伝どのに、お会い申したい」
と、だまって、寺役人に、
「おられませぬ。ただ今、お出まし中でござる」
と、いう返辞。
どこへ? ――とは訊かず、藪八は、
「しからば、おそれいるが、宮家ご
と、いった。
寺役人は、おどろいたような眼で、もう一度、かれの
江戸城お庭番、吹上お茶屋付、藪田助八とある。
執事が出て来た。そして、いんぎんに、宮家にはあいにくと御病中なので――と、さすがに、面接をわびて、
「何事の御用向きか、もし執事の私でおさしつかえなくば、お取次ぎ仕りますが」
と、自身、客殿にみちびいた。
藪八は、采女を別室に待たせて、かなり長い間、執事と懇談していた。そしてさいごに、執事は、宮家の内意を得るために、奥まった所へ立ってゆき、程なく、座にもどって来て、確答した。
「大内不伝の素行については、平常、おもしろからぬ風評もあり、

「では、念のため、別院の内を、調べさせていただくが」
「どうぞ。よろしきように」
藪八は、そこを去って、別院内の不伝の部屋へ案内を乞うた。
もちろん、不伝は留守。和書の本棚や、机や経巻などが、
「はて。彼の帰るまで、ここで待つといたそうか」
わざと、独り
将軍家の隠し目付がここに臨んだという囁きは、たちまち、全院の僧侶や寺侍につたわって、
僧侶の秘事や、寺侍たちの悪風は、市中に
廊下の隅、大台所、講堂などの、あちこちに首を寄せて、
「何か、御詮議でございましょうか」
と、代表がいう。
「さればで――」と、藪八は、思うつぼへ来た者の顔を、ニヤリと見ながらいった。
「当別院のうちに、大内不伝が女を隠しておると聞き、その女に、用があって参ったのでござる」
「その女なれば、もうここにはおりません。……実は、われわれどもへまで、
「それは御好意」
「先頃、
「蓮見茶屋とな。……なるほど。では、そこの
「いえ。女将か、どうかは、分りませぬが」
「場所は」
「中の島の弁天堂の側。そこには、一軒しかないそうで」
「いや、かたじけない。では、そこへ参ってみよう。采女、来い」
彼は急ぎ足で、寛永寺の門を出た。
途中、連れの采女をかえりみて、
「母に会っても、わしが、何か申すまでは、ひかえておれよ。不伝を見ても、同様に」
と、いいふくめた。
池の端から弁天島の灯のそよぎは、夕方からの夏景色だが、まだ陽が高いし、蓮の花にも、早かった。
「この家だな」
それらしい門をのぞいて、
「部屋はあるか」
「さ。どうぞこちらへ」
蓮見茶屋の女は、心得顔に、二人をいちばん奥の、池に臨んでいる小部屋へ通した。
酒、小皿物など、四、五品ならべると、
「御用があったら、お手をならして下さいませ」
と、気をきかすような
その蔭間茶屋は、池の端にたくさんあって、俗称には、いろは茶屋とも呼ばれている。客の多くは、上野の坊さん達だった。そして寺侍の
(いるか、いないか。不伝とお袖のそれを、確かめてからの上としよう)
藪八は、そう計っているもののように、おっとりと、杯をもち、時折、采女と、さりげない話をしていた。
――すると、池に臨んだ並びの二
「何だッて。わたしの名をいっても、ここの女主人は、そんな者は知らないッていうのかえ。――そして、お勘定をだッて。じょうだんおいいでない。お金がないから、わざわざ
女の声だが、声でも分るほど、酔っている。
さっき、藪八がここへ通った時、つまらなそうに、独りぼッちで、池を見ながら手酌で飲んでいた四十がらみの女がちらと見えた。境のふすまを、女中がすぐ閉めたので、よくも見えなかったが、その年増女にちがいない。
ひどく
奥ではさっきから、爪弾きの低い
「だれだえ。私を、知っていると仰っしゃるのは」
「まあ、やっぱりお袖さんだったね。ほんに、久しぶりじゃないか。ま、
「たれかと思ったら、むかし八丁堀にいたスリのお島さんだね」
「おまえさんも、変ったこと。化物刑部のお仕込みで、その後は、たいそう凄いお
「ご親切さま。だけど、生憎と、お祝いをいただくようなこともないよ」
「おかくしでない」と、お島は、また独りで
「寺侍の大内不伝とかに、茶屋の株を買わせて、すっかりここに、納まっておいでじゃないか。……それにひきかえ、私の末路ッたらありゃしない」
「八丈島へ保養においでだと聞いていたが、その様子じゃ、おおかた島破りという筋だね」
「あんな所で、長生きしてみても仕方がないから、ひと思いに、舞い戻って来たのさ。この世の見おさめに、したい放題な事をして――と、そッちこッちで、手出しをしてみるけれど、十年も島暮しをしていたせいか、むかしのように勘も働かないし、体もしなやかに動けないので、稼ぎはさッぱり上がらないし、厚化粧して、盛り場を歩いても、もうこんな年増には、釣られるような男もない。……ああ、考えると味気ない。女も、四十の声を聞いちゃあ、もう悪事や色気の裏街道じゃ暮せなくなるものだよ。おまえさんも今のうちに、色香も
その言葉には、女の晩秋におののいている女の真実がこもっていた。酒がいわせる一場の
初めは、つまみ出すつもりで来たものの、お袖も、お島と似たり寄ったりの、はぐれた女の生涯を歩いている。ふと、身につまされて、晩秋の女の末路を、眺めないではいられなかった。
――で、急に、やさしく、
「わかったよ、わかったよ。ネ……お島さん、お勘定はいいから、帰っておくれ。夕方になると、客商売で、断われないお客様も見えるんだから」
「いいじゃないか、まだ。……おまえさんの顔を見たら、
「こまるじゃないか、お島さん」
「困らないよ、私はちっとも。……花のお江戸も、私にとっちゃ、枯れ野の
「あら、そんな所へ、寝てしまって。……ま、困った人だね」
「このまま、南町奉行所へ、かつぎ込んでおくれな。ね、
「南町奉行所へだって」
「あ。自訴するなら、私あ南へ、駈けこむつもりさ。本望だものね」
なぜか、お袖は、むかっと顔いろをうごかして、急に、お島の手を抜けるほど引ッ張った。
「さ、出ておいで、出ておいでよ。そして、さッさと、南へ自訴して行くがいいじゃないか」
物音を聞いて、奥の内緒から、男の足音が、あらあらと、近づいて来た。
そして、お袖と共に、お島を外へ引きずり出そうとする時、それまで物静かに杯をなめていた藪八は、つと立って、
「ちょっと、そなたに会わせたい者がある。こっちへ顔をかしてくれい」
お袖の手を横から捉えて、自分の部屋へ連れて来てしまった。
「あっ……おまえは?」
お袖は、お燕の姿を見ると、本能的に走り寄った。だがお燕は、藪八の顔ばかり見ていた。かれの許しのないうちは、何もいってはならないと、ここへ来る前の約束をかたく守って――。
「お燕! どうしておまえは、ものをいわないの。お燕! わたしだよ。おっ母さんですよ。そんな取り澄ました顔をしてさ。一体、どうしたわけなんだえ。……そして、そこにいる人は?」
と、かの女は、わが子の膝を揺すぶッた。そしてふと、後ろを振り
「貴公が、寺侍の大内不伝か」
藪八が、とたんに、口を切った。
「いかにも、おれが不伝だが。――それがどうした」
「すると、その女は?」
「なんだ、貴様は。それからいえ」
「わしは、こういう者だが」
と、
「あっ、こ、これは……」
「不伝っ。まっ直ぐに申さぬと縛り上げるぞ」
「いけねえ」
と、いうやいな、不伝は、駈け出して、ばっと、往来へ逃げ出した。
藪八はすぐ往来へ向いた縁の障子を開け、そこから弁天堂の方へ呶鳴った。
「おーいっ、蔭の者、その男を、ひッ捕えろ」
蔭の者とは誰なのか。供の者という意味だろうか。だが藪八に供が
けれど事実は、かれの行くところ、必ず、見えない供の者が、
果たして、不伝が駈け出した先に、二人の武士が、横から躍り出していた。大手をひろげて、難なく捕まえ、藪八の次の命令を、耳澄まして待っていると、
「いや、よせよせ。どうせ
そう聞えて来たので、二人の蔭の者は、不伝の背中を突き飛ばして、苦笑しながらその影を見送った。そしてまた、もとの木蔭に腰をおろし、悠長に、煙草のけむりをふいていた。
「采女。もうよいわ。……何でも話すがよい」
藪八は、部屋の障子、ふすまを閉めきって、そういった。
だが、許されても、涙ばかりで、お燕は母に、何もいえなかった。
お袖の
「ああわかった……。お燕、おまえは、町奉行の
「ま。おっ母さん、何を仰っしゃるんです。私が何で、おっ母さんを、釣り出そうなんて」
「じゃあ、そこにいる人間は誰さ。やはり南の与力か何かにちがいあるまい」
「いいえ、ちがいます。私の大恩人です」
「恩人だって。どうして、恩人なのか、いってごらん」
「でも、私を、まだ見ぬ私のお父さまに、会わせて下さると、仰っしゃいますもの。また、おっ母さんのお身についても」
「おだまりッ。お黙りっ。聞きたくもないよ、わたしは……」
お袖の声は、叫びに変った。お燕が――父――と呼んだたった
「それごらんな! おまえはこのおっ母さんを裏切って、あの
お袖は、たちまち、顔じゅうを涙にしながらも、
「死んだって、あんな男に、おまえを、わが子なんて呼ばせるものか。また、あの血の冷たい人間が、どうして、おまえなぞを、わが子と思ったりするもんかね! ……お燕、おまえは
「いいえ、いいえ。落着いて、よくわけを聞いて下さいよ、おっ母さん。……ここにいらっしゃる藪田様も、あのお医者の楽翁様も、決して、私たちを、そんな不幸にしようと、御苦労なすっているのではございません。……おっ母さんが、そう思いちがえておいでになっては、おっ母さんも、遂には、獄門台にまで上らなければなりません」
「ホホホホ。今さら何をおいいだえ。獄門台。ああ私は、そこがさいごの私の笑い場所だと思っているのさ」
「よしてくださいっ。怖ろしい!」お燕は、母の膝へ、爪を立てるように泣き
「おっ母さんには、まだあの化物刑部たちの、悪魔のたましいが、
「ええ、何さ、いわしておけばいい気になって。――南町奉行か何か知らないけれど、あんな
燃えては
その激情の機微なる息づきを見て、藪田助八は、横からことばをさし挿んだ。
「お袖。くわしいことは、ここでは話しかねるのだ。わしと共に、静かな所まで来てくれぬか」
「牢屋へですか」
お袖の
「いや、この藪田助八の屋敷だよ。わしは、南町奉行所とは、何の関係もない者だ。むしろ、越前守の過去の素行を、さるお方のいいつけで、つぶさに調べ上げておる者じゃ」
お燕も、拝むようにいって、共に
「おっ母さん。藪田様のおことばに、決して決して、偽りはありません。私も一緒にまいりますから。……ね、ね、おっ母さん」
でもなお、お袖は疑っていたが、そのとき、あなたの空き部屋で、酔い伏しているとばかり思われていたお島が、這うように、身をもたげて、ふすま越しに、こういうのが聞えて来た。
「ああ、羨ましいねえ! ……お袖さんには、そんないい子があったじゃないか。余りぜいたくをおいいでないよ。わたしなら、わたしを騙して捨てた男のでもいいから、わが子と名のつくものが欲しい。――もし、そんな子があって、子に引かれて行くならば、針の山へでも登ってゆくよ。……何を迷っているのさ、お袖さん。行っておやりなね。ああ、欲には
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第六章
湯島天神の縁日でもあろうか。切通しの森を
「お燕。――遠いのかえ、行く先は」
「いいえ。牛込の矢来ですから、そんなにも……」
母と
けれど、すこし離れた後からは、お袖にとって、まだ何となく心のゆるせない藪田助八が
(いったい、矢来の家とやらへ、自分を連れて行って、どうする気だろう?)
かの女には、この
(自分にとって、敵か味方か)
こう考えると、お袖は急に、しまッたという気がした。
悪の仲間に住んで来た通念からいえば、この世の中に、真実の味方などはない。ほんとに、お互いを思い合う者は、悪の仲間の悪同士だけで、世間の善人
「お燕。……これっきりだよ」
「あ。おっ母さん。どこへ」
「
お袖は、自分の袂の端を持ったわが娘の手を、袂の蔭で、そっともぎ離しながら、きつい眼をして囁いた。
「おまえは、あの藪八とかいう手先に
「ちがいます。ちがいますよ。おっ母さん」
「いいえ。わたしには、もう読めた。お燕。これっきり、おまえとも、会わないからね」
小声でいったと思うと、お袖の影は、ふいに縁日の辻へ、ツイと走りこんでしまった。
ちょうど、暗い切通しを登りきって、そこらの灯影人影に、立ち
「やっ。お袖は? ――」
「あ、あの、人混みの、露店の蔭へ」
お燕も走った。
藪八も追いかけた。
また、藪八に
「や。藪八どの、もうお眼ざめか」
「何の、いま帰ったばかりだ」
「ほ。それでは、寝もやらずに?」
「されば。昨夜は、えらい目にあってな。藪八一代の不覚をやってしもうた」
「……では。お袖は、お連れにならなかったので」
「首尾よく、居どころを突きとめて、途中までは、連れて来たのだが……」
きのうの出先から昨夜までの始末を――そして湯島天神の辻で、ふと、そのお袖の姿を見失い、ついに
そう聞いて、楽翁も、
「はて、これやいよいよ、事難かしくなりおったわい」
と、額に手をあててみたり、腕こまぬいて考えこんだり、藪八と共に、果てなく憂いに沈みこんだ。
「……して。お燕は今朝、どうしておりますか」
「いや、あれは、戻るとすぐ、そっと
「やれやれ、病人ばかり出る。今に、こっちも、病みつきそうじゃ」
「きのうは、赤坂のやしきを見舞われたか」
「うム。越前どのの小さい息女(次女、園子)もまだ癒えぬうちに、こんどは御内室のお縫様が――なんとまた二、三日前から大熱じゃ」
「え。奥がたも、病床か」
「聞けば、むりもない次第じゃ。お奉行どのは、あの御気性ゆえ、御家庭に帰っても、一切、公務については、おくびにも、家人にお話しになるようなことはないらしいが――ここ幾月となく、何となく、家にあっても気色のすぐれぬ良人の
「さもあろう。妻として」
「あいにく、この春以来、末の息女が、風邪とも、
「越前どのは、毎夜、やしきには、帰っておられるか」
「いや、ここ十数日も、役宅に泊りづめで、おやしきへは、戻っておらぬ。奥がたへも、ある重要な事件が起きたゆえ、それの決着をみるまでは、家には戻らぬぞ――と、それとなく、覚悟のほどをいい
「……ううむ、さては」
藪八は口のうちで思わず
察するに、越前守の
「これや、いかん。もう、
「貴公ひとりが、頼みの綱じゃ。そう、サジを投げては困る。愚老の力もつきはてておるのに」
「この上は、さいごの、一案しかない。好むことではないが、今は、その一案を仰ぐしかあるまい」
「さいごの、案とは」
「将軍家のお声をもって、一切、この事件を、闇に葬り去ることだ」
「はーて。それができればな」
「吉宗公の御代になっては、そんな例は一つもないが、前代、前々代の綱吉公の頃などには、例は、
「それに較べれば、越前どのの事件などは」
「軽い軽い。それ故にこそ、上様が、この藪八に申しつけて、何とか、表面に出ぬように済ませろ――と御内意あったくらいなのだ。しかし、われらの才覚では、到底、越前どのの、決意を曲げられず、また、北町奉行の攻勢を防げぬとあれば」
「そうだ、藪八どの。……こうなれば、鶴の一声。それを仰ぐしか、
「うム。申しあげてみよう。上様にも、おそらく、思し召し違いはあるまい」
その日、藪田助八は、お燕の身や、あとの要心を、楽翁に托して、ひそかに、江戸城の吉宗へ、会いに行った。
しかし、その手順も、難かしいのか、あるいは、吉宗の
その五、六日の間に――である。
江戸の町々には、毎夜、奇怪な事件が、幾つも起った。
“女の
“女の高札斬り”
夏の夜々の涼み台では、その噂でもちきりだった。男女の心中とか、幽霊が出るとか出ないとか、
上野を追放になった寺侍の大内不伝は、さっそく、下谷の練塀小路の裏に借家して、その日のうちに、蓮見茶屋の世帯道具を、運ばせていた。
すると、それで知ったか、すぐ翌る日、お袖もここへ尋ねて来た。
「お袖、こんな句があったじゃねえか。――お手討の夫婦なりしを
「ふ、ふ、ふ……」お袖は、紅皿を持ちながら、唇を
「なにを笑うんだ」
不伝は、浴衣がけの体を、寝そべらして、頬づきながら、女の化粧をながめていた。
「だって。お燕がいれば、お燕を口説くし、あれがいなくなると、私だなんて。あほらしくって」
「いや、真面目にさ。こう見ていると、どうして、
「やめておくれ。こう見えても、お燕をあの年まで育てて来たきょうの日まで、男に目をくれたことはない私なんだから」
「へえ……」と、
「化物刑部は、おめえの、旦那だったのとは、ちがうか」
「男のはなしをしてるんでしょ。あんな獣を、私あ、男とも何とも思って来たわけじゃないもの」
「じゃあ。その前の、大岡市十郎ってなあ、どうなんだい」
「うるさいね」
「うるさかねえさ。男ぎらいだなんていうからつい訊きたくなるんだ」
「知らないよ!」
お袖の眉が、鏡の中で、ぴくとうごいた。怒るとも泣くともつかない眼であった。そして、手の紅皿を無意識に、
「
と、庭石へ投げつけた。
紅と白の
「お、おい。どこへ行くんだ?」
と、かの女の狂的な姿を、呆ッ気にとられて、次の間へ、見送った。
「大きに、お世話」
お袖は、
男があるな。――と、不伝は気をまわした。それまでは、お燕がかれの目標だったが、急に、嫉妬が出てくると、お袖にもまだ捨て難い年増の魅力があると思い初めた。
「こう。どこへ行くんだ、どこへ。……また出かけるのか」
「だって、こう暑いのに、家にいても、退屈ですもの」
「他人の世話になりながら、退屈はおそれ入るな。おめえみたいな
――お袖はもう
「そうだ」と、不伝は
大川端の方へ行く。やがて、厩河岸をぶらぶらゆく。
涼み船、涼み床几。水の上も岸の上も、夏をたのしむ
「はて。やはり涼みだけに歩いているのかしら?」
不伝は、折々、うしろも振向いた。蓮見茶屋での出来事は、かれにとって、まだ生々しかった。お袖、お燕の素姓は、うすうす知っていたが、何となく、不気味なものは拭いきれない。しかもその不気味さが、かれにとっては、ただの町女よりは、一そうな魅惑でもあったのである。
「おや?」
不伝は、立ちどまった。夜になると、大川端には、たくさんな闇の女が出る。夜鷹、舟まんじゅう、麦湯売り、
柳に
黒い
「おいっ、今、ここから出て行ったのは、客か、誰だ。嘘を申すと、承知しねえぞ」
不伝は、葭簀の蔭にいた闇の女を、
女は不伝を、町方とでも思ったか、顔いろを変えて、すぐしゃべった。
どこの御新造やら知れないが、何でも、淋しいお寺へとか、百夜詣りに通ってゆくと、いうことで、途中、お
「じゃあ、毎晩ここで、今のように、身なりを変えて行くんだな」
「ええ。わたしは、そのお着物と大小を預かって、駄ちんをお貰いしているだけです」
「そうか」不伝は、すぐそこから駈け出した。そして、また、お袖の影を先に見つけた。
あなた、こなた、お袖は、夜の物蔭ばかりを、さまよった。
そして、深夜を待った。
かの女のひとみは、夜の更けるほど、美しい野獣の眼に似た。五体は、敏捷を加え、世間にたいし、不敵になった。
「こん夜は、どこのを?」
呪咀に燃えるその眼は、路傍の高札を見つけると、仇に出会ったように立ちすくんだ。
町奉行所の名を以て、政令や禁令の“べからず”を箇条書きした高札は、江戸の橋々や見附や盛り場の辻などには、必ず立っている。
幕府の
しかしお袖は、それらの中でも“南町奉行所”の名のある高札だけに挑戦した。かの女の挑戦とは、その高札を、斬ッて捨て、踏みにじり、あるいは、附近の溝へ捨てたり、明らかに、南町奉行への反抗とわかる行為をして
その夜も、かの女は二ヵ所の高札にいたずらした。いや、かの女にとれば、
「お袖……もう帰らねえか」
竹屋河岸の人通りもない所で――かの女はふと呼びとめられた。
「あ。……たれかと思ったら」
「大内不伝だ。はははは……気がつかなかったか。ずっとあとを
「そう……」お袖は、水のようにとり澄まして、驚いた気ぶりもなかった。宵のうちのかの女と、深夜のかの女とは、不伝の眼にさえ、別人のようだった。何か、寄り難い
「おいお袖。この頃、町で噂の高札斬りは、おめえの
「身の為……」と、お袖はほほ笑んで、「身なぞはとうに捨てている私ですよ」
「ばかをいいねえ。御用を食ったら、それッきりだぞ」
「ああ、いつでもと、待っているのさ。白洲や獄門が
「よせ。ばか」
近づいて、不伝は、お袖の肩を抱いた。そして、もし夫婦になる気なら、世帯道具を売り払って、暫く、旅暮らしに出ようじゃないか、金はあるぞと、囁いた。
お袖の手が、不意に、不伝の胸いたを突きとばした。不伝は、うしろの
「やっ、何をしやがる。恩を仇で、返すつもりか」
と、わめいた。起ち上がろうとする弱腰を、お袖はまた突き飛ばした。うしろはすぐ河だった。あっという不伝の声と水音が、河の下から水玉になって
お袖は一とき、ひた走りに駈けたが、すぐもとの歩調にもどっていた。――これでもう練塀町の不伝の家にも帰れないと思い、何かしら、自分の歩いている突き当りが、もう近づいている気がした。
――江戸ばし。
橋の欄干にある文字に、お袖は、何かぎょっとした。その文字の読めるほど、近くの番屋の腰障子から、明りが流れていたのである。
自身番があると知れば、自分から近づくわけもなかったが、何か、もの思いしながら、うかと、橋の前まで来ていたのだった。――当然、かの女は本能的に、びくッと、身を
ここにも、高札が立っていたのだ。
わけて、南町奉行とある墨のあとは、かの女の眸を、ひきよせた。
「おい。……何か、遠くで、へんな水音がしたぜ。じゃぼーんと」
自身番小屋に寝ていた庄七は、寝床の中から、由蔵にいった。
「耳のせいだろう。俺には、聞えなかったが」
「そうかな。うとうとしていたところだったから、そういわれれば、夢だったかもしれねえ」
「庄七。気を休めろよ。気を
「有難う。だが、すこし熱が
「この春の……黒装束の女の親子か」
「ウム。堀留の山善に、押込み強盗がはいった晩よ。……思い出してもぞっとするが、思えば、おめえも俺も、よくもまあ、命拾いをしたもんだ」
「俺は、思いのほか、
「でもなあ、由。あれが、女の力だったから、これくらいですんだが、男の腕でやられていたら、その場で、命はなかったろうッて、お医者がいった。……欲には
話しこんでいると、その時、たれか番屋の裏を、通り抜けたような
「おや? ……由。どうもおかしいぜ。ちょっと、裏を廻ってみな」
「
「おめえの臆病は、この頃のことじゃアあるめえに」
「だが、あんな目に遭えば、誰だって、当分、オジ
やっと腰をあげて、土間の隅から六尺棒を手に持った。そして、油障子を開け、外へ、顔を出したと思うと――どうしたのか、由蔵は、ぶるッと、胸をふるわせて、そのままそこに、声をのんで、自失してしまった。
すぐ目と鼻の先の橋のたもとに、黒い人影を見たのだった。しかも夜目にも白い覆面のうちの横顔は、この春の、恐怖の夜を、思い出させるに、充分だった。
――お袖は、自身番の灯も、辺りの気配も、否、あらゆる怖れをすでに忘れていた。
奉行! 南町奉行……その文字へ、かの女は、
なんたる権威の嘘。そらぞらしい掟の箇条書。コケ脅し。そんな偽善に、私だけは、騙されはしない――と、かの女の憤りは燃えやまない。
しかし、その根底にある悲恋の傷痕が
「ちッ、ちくしょうっ」
と、刀を抜き、脳裡の人間像を斬るように、高札の脚へ斜めに斬り込んだ。
斬れない。腕の弱いせいか、一打ちには、斬れないのである。かの女は、一撃ごとに、
――と。その手もとへ。
ひゅッと、何か、飛んで来た。
「あッ――」と、よろめいた時、かの女はそれが、一条の麻縄であることを知った。いうまでもなく、捕り縄だ。
「それっ、左右太。早くっ、早く召捕れ」
「えい、おぬしこそ、なぜ捕えぬ」
たがいに、
「義平太、来いっ」
さきに、そこから捕り縄を
「――鬼になれ、鬼になれっ。ここでまた、見のがしては、お奉行の心を、踏みにじるのも同じだぞ」
「オオ。もう迷わん。おれが召捕る」
二人の脚の
「観念っ」
「お袖。御用っ」
ふたつの
「南の役人かえ。北の人間かえ。どっちなのさ。どっちだか、それを、聞かして」
答えず、あともいわせず、二人は、お袖をからめ上げて、すぐ自身番の方へ、引ッたてた。
その縄尻を持つ市川義平太も、山本左右太も、見るにたえないもののように、お袖の姿に、眼をそらして歩いた。いや、二人の眼には、涙すらあった。暗然と、唇をかみ、またあわてて、肱を曲げては、両眼を拭った。
「番太郎っ、ここを開けろ。腰障子を」
ふたりは、縄付のお袖をそこの土間へ連れこむと、ほっと、炎のような大息をつき、番屋の中の片隅へ、へなへなと、崩れるように、腰をついてしまった。
「…………」
左右太も義平太も、もう何もいう気力はない。
これで、越前守様の運命も、はや、決まったと、思うだけであった。
どうしても、泣けてくる。泣くまいとすればするほど、こみあげてくる。
いかに、江戸町奉行という重職にあるとはいえ、これほどまでに、しなければならないだろうか。
義平太の父、市川楽翁が、いつも激越な自信をもって、その非をいってやまない声が、たちまち、二人の耳に、
――とはいえ、もうお袖に縄をかけた今夜、何を今更、考える余地があろう。おそらく、これを知ったら、市川楽翁は、自説の破れを悲憤して、自刃するかもわからない。いや、
「……自分らも、生きてはおれぬ」
ふたりはもう言外に、それを誓いあっていた。もう一名の同僚、小林勘蔵とて、いさぎよく、自決の道をとるだろう。
「……何たることだ。人間、いかなる貧しさや、辛い職業に生きようとも、法をかかげて、法を
義平太は、自分さえ、南町奉行所に職を奉じなければ、医者の父までを、こんな渦中に捲き込みはしなかったろうにと、身一つならぬ悔いに打たれた。
実に、きょうまでの間には、幾たびとなく、この者たちは、お袖について、
(召捕るべきか。見のがそうか)
を、迷いに迷い、悩みに悩んで来たあげくだった。
越前守は、ここ十日余りも、赤坂の邸へも帰らず、役宅に泊りづめで、
(他の者の調査は一切すんだぞ。お袖ひとりを召捕れば、直ちに、白洲はひらかれる。私心を払って、一刻もはやく
と、朝に夕に、部下の者を、
(さてさて、おろかな愚痴どもよ。そちたちの手にあわぬとあれば、越前守自身、捕縄をたずさえて、ひっ
とまで、痛烈な
殊に、諸所において、毎晩のような高札仆しが報ぜられると越前守は、
(そち達は、日ごろ、何かにつけて、北町奉行に劣るまいと努めながら、この下手人のみは、北に渡すつもりか)
と、左右太、義平太、勘蔵たちを、並べていった。
左右太と義平太が悲涙の眼を、奉行の
それが四、五日前のことだ。
わざと、捕手の手を借らず、二人はあくまで、二人の手で――と祈った。
目明し組では、辰三と半次だけが、折々の探りを、知らせてよこした。お袖の足どりはすぐ分った。練塀町の家、
が二人は、その影を見、そのあとを
いや、夜ごとの、お袖の行動を見るにつけ、また遠い以前からの、かの女の運命を考えあわせても、こうなるのは無理もない。決して悪人、毒婦などとよべる者ではなく、むしろ世にも憐れむべき善なる女性――と、いつか同情さえ持たれて来たのだった。とても縄を打つには忍びなくなったのだ。
(――とはいえ、それでは越前守様お心にそむき、まちがえば、北町奉行の手にあげられて、取返しのつかぬことにもなる!)
こころを鬼に、励まし合って、ついに今夜――たった今、ふたりは、江戸橋自身番の内へ、ひとまず縄付として、お袖の身を、土間へ引きすえたのであるが、さて、非情有情こもごもに、胸へせまって、しばしは、
驚いたのは、庄七と由蔵だった。
「やっ、こ、これは、いつかの晩の、あの女だ。山善へはいった押込み仲間の――」
「オオ……。万字屋の
その夜の恐怖を、眼のまえに、再現して見せられたように、寝床の中の庄七も、油障子をうしろに、棒立ちになっている由蔵も、
左右太は、やっと、われに返ったように、義平太へ、よびかけた。
「義平太。どうしよう」
「しようかとは」
「駕籠で送るか、引っ立てて歩くか」
「縄付を、町駕籠でやっては、あとで世間の口がうるさかろう。深夜だ。引ッ立てよう」
「では、貴公、ひと足さきに、奉行所へ駈けて、お奉行と、勘蔵どのに、
「心得た。……だが、一人でよいか」
「案じるな、早く行け。――こうなれば、寸時も早く、お奉行のお耳へ入れたがいい」
「じゃあ、先に」
と市川義平太は、深夜の底を、走りに走った。
数寄屋橋御門をはいる。また、奉行所の西門の潜りを通る。幾棟もの暗がりを、うねり曲がると、一つの窓に、うす明りがさしていた。
脇玄関をあがり、そこの役部屋を、そっと覗くと、まだ起きて、何かの
「おう、義平太。どうした」
「……め、めし捕った。お奉行は、こん夜も、役宅にお泊りだろうか」
「宵に、一睡なされたようだが、また起き出られて御書見の後、お客と、お話しになっておられる」
「こんな深夜にお客とはいぶかしい。たれだ、それは?」
「いやいや、お客の見えたのは
「ともあれ、お袖を召捕ったむねを、すぐお耳に達したいが」
「義平太。……やったか」
「うム。おたがいに、覚悟のときだぞ」
「法に殉じ、あの奉行に殉じるのだ。悔いはない、よくやったなあ。……して、左右太は」
「あとからお袖を引ッ立てて来る」
「では、すぐこれへ来るか。これや、あわただしい」
「おれは、お奉行のお部屋へ、仔細を申し上げにゆく。左右太が着くまでに、手順をたのむぞ」
義平太は、さらに、長い廊下をあるいて、奥へ通った。
「義平太にござります。お眼ざめでございましょうか」
室外に、膝をついて、越前守の答えを待った。
勘蔵がいっていたとおり、中では、話し声がする。それも、めったに聞かれないほどな越前守の笑い声と、誰やら、対坐している客との、無遠慮な哄笑だった。
義平太はふと、氷のような気をくだかれた。はりつめていた胸の感傷を、その余りにも楽しげな主客の笑い声に、思わず、戸惑いさせられた。
「お奉行さま。義平太です。いま戻りましてござりまする。おさしつかえなくば、火急、お耳に入れたい儀がございますが」
「お。義平太か……」と、やっと気づいたような越前守の声が、すぐ、内からいった。
「かまわぬ。はいれ……」
義平太は、室内へはいって、まず越前守の方へ、両手をつかえ、
「深夜ではございますが、かねてお申し付けの者を召捕りましたので、即刻、お耳にまで……」
と、平静を努めていった。
「そうか」
と、越前守は、うなずいた。
義平太はつづいて、越前守と対坐している客へ向って、無言で一礼した。
「…………」
客も黙って、
客は、粗末な
――と、思って、義平太は、
「縄付は、すぐ後から、左右太が曳いて参りますが、
と、客に
越前守も、ためらいなく、
「おお、白洲へ曳け。すぐ下吟味をいたすであろう」
と、答えた。
「はっ。……では、用意の
義平太は、異常な緊張をもって、その部屋を退がって行った。
じっと、眺めていた客の老僧は、義平太の姿が、襖の外にかくれると、越前守と、眸をあわせ、
「来たの。……遂に、来る日が」
と、つぶやいた。
「参ったようです」と、越前守も響きに応じるようにいった。二人のあいだに、一
「禅師。……白洲へのぞむ前に、何か、越前へ一言、御叱咤を下さいませ」
弟子が、師へ求めるように、越前守は、謙虚にいった。
「はははは。お奉行、何を仰っしゃる。あんたは、江戸町奉行じゃないか」
同苦坊は、燭が揺れるほど笑った。
いや同苦坊というのは、かれの遠いむかしの名であり、今では、宇治
十数年前、年ごとに、江戸の窮民の群れの中に姿をあらわして、大釜に粥を焚き、無数の飢えを救って、浮浪者たちから慕われていた彼も――例の犬公方の悪政がやんだ頃から、いつともなく、その便りを絶っていた。
けれど、あの折、路傍の一機縁から、かれの
ところが、この鉄淵は、先師鉄眼の遺業である開版大蔵経の恒久的な保存法を朝廷や幕府の援護にも、仰ぐため、京都にゆき、次いで江戸表に出て、要路の人々を
そして、老中、若年寄などを歴訪しているうち、寺社奉行の本多伊予守から、
(大岡越前どのは今、ある事件のため、非常な苦境に立っておられるそうだ)
という噂を聞いた。
鉄淵は、それだけで、およその事態を、すぐ察した。前々から書簡の往来で、越前守から、それとなく訊かされていたことなど、思い合わされたからだった。
「慰めてやろう」
かろい気持で、彼は今夕、越前守を役宅に訪ねたのである。
ふたりは、久し振りに会って、心から
「よくよくな宿縁じゃの、あんたと、わしとは」
鉄淵は、やがていった。
「――あんたにとって重大な人生の
「まことに、有難い仏縁です」と、越前守も微笑して、
「一度ならず二度までも。……きっと、三度目には、
「すぐに、死を意識するのは、好くない。さむらいの口癖だが」
「はい。べつに、急ぎもしませんが」
「なるべく、生きる道をとった方がいいからな。ある境を生き抜くと、それから先の生き味はまた違ってくる。――生きてみなければ分らぬ先が人間には無限にあるからの。そう、四十や五十で、生き飽いてしまう程、浅い、薄ッぺらな、世の中でもない」
「……では、白洲の用意ができると、出なければなりませぬ故、ちょっと、中座さしていただきます」
「いや、御苦労だな。わしも物蔭で、聴かせてもらいたいと思うが、いいかの?」
「……どうぞ」
越前守は、そういって、用部屋へはいった。白洲に出るための制服――
奉行所へ罪人が曳かれて来る場合、それを
これは奉行所規約の大事な法例になっている。
しかしこの慣例も、近頃はくずれて、仮吟味を、自身番での下調べで済ませてしまったり、奉行に代って、与力の宣言で下獄させたり、いわゆる人権の扱いを極端に粗雑にする傾向が強かったのを、越前守が
(ああ、それも、今はわが身に)
おそらく、彼は、多感であったろう。表面、淡々と、平常の罪人に接するときのように、裃、袴を着けて、用部屋に身支度はしていたが、それだけに容易ならない自制心を努力していたにちがいない。
「お奉行。……お白洲の用意はすべて調いましたが」
小林勘蔵の声である。外から告げて、奉行の出るのを、廊下で待っているらしい。
「いま、参る」
越前守は、すぐ吟味所の方へ歩いた。うしろから、勘蔵が、書類を抱えて、
夜に入って一応、諸所の役部屋も
(すわ、最後の時が来た――)という空気が、人々の跫音や、深夜の灯にも色めき出して、江戸市中は何も知らずに眠り落ちていた頃だが、この南町奉行所の内だけは、空前な緊張を呈していた。
事件の解決までは私邸に帰るまいと、奉行がずっと役宅に起居していたので、補佐の与力や下役たちも、大半は交代制をとって、泊っていた。
白洲には、はや燭台が
「…………」
越前守がそれに坐ると、日頃にしてもそうだが、きょう特に、静粛な――というよりは、もっときびしい、法廷のもつ一種の神聖が、人々の気をひきしめた。
白洲には、一人の女性が、縄付のまま、据えられていた。
いうまでもなく、お袖である。
また小林勘蔵は、目安席に。書記の机には市川義平太が着席し、なおその与力席に、上杉
仮吟味とはいえ、日頃の白洲にもまさる物々しさである。――越前守は、それらの奉行所付きの所員のほかに、なお、見かけない二名の武士が、奉行席から一段低い所に坐っているのを眺めて、
「あれは、誰か」
とでも訊ねているのか、目安の小林勘蔵へ、何か、小声を向けていた。
「……?」勘蔵にも、分らないらしく、小首をかしげて、横の義平太の机へ、囁きを伝えた、が、義平太も、不審な顔をするだけだった。
――と見て、反対側の与力席から、加藤直枝が、越前守へ向って、
「
と、知らせた。
すると、初めて、その二名は、奉行の方へ一礼して、
「てまえは、松平殿の組下、横目付秋山左内でござる」
「それがしは有馬源之丞殿の内、同じく横目付を勤める太田喜左衛門と申す者……」
と、同時に、名乗った。
さらぬだに緊張していた仮白洲は、二名の横目付の
目付は、千石程度の旗本格から選ばれ、身分は大した者ではないが、老中、勘定奉行、若年寄、両町奉行も、すべてその監察下に置かれてあり、将軍家へ直言する権能も持っていたので、うしろ暗いものをつつんでいる武家たちには、目付といえば、怖れられていた。
俗に“横目”というのは、目付役の組下である。そして目付も、横目の者も、町奉行所へなども、突然、随時随意に出入りすることができたので、市民には
(横目が来た)
と、囁かれると、たちまち、警戒して、皆いやな顔をしたものだったという。
だが、その横目たちが、どうして今夜の事をもう知ったのだろうか。いかに“見る眼、
与力、同心たちなどの、奉行所付の人々は、内心、そう思ったにちがいないが、しかし、かれらの傍聴を拒む理由は何もなかった。
「御苦労にぞんずる」
越前守は、二人にそう答えた。そしてこころもち微笑をふくんだ。むしろかれらの公的な傍聴を本懐とするようにである。――そしてやや居住いをあらため、白洲にすえているお袖の影へ眼を向けた。しずかな、穏やかな眼であった。
おそらくはこの一瞬のかれの眼を、満廷の者は、たれもみな多分な不安と
(さて、いざとなったら、どうあろうか)
と、
「お袖というか」
と、越前守は静かに口を切った。そして、
「
と、かさねていった。
「…………」
お袖はここへ据えられてからじっと俯向いたきりであった。雨の中の濡れ
越前守は、ふと、眸をうごかして、
「左右太。縄を
と、命じた。
左右太は、自分が救われたように、すぐ縄を解いて、うしろへ
「先頃来、夜々、市中をさまようて、公儀の御高札を仆し、
「…………」
「また、この春、堀留の呉服問屋山善へはいった五人組強盗の中に、そちもおったな。そちもその仲間であったな」
「…………」
「勘蔵。ちょっと、その調書を」
と、越前守はふと手を伸ばして、目安の机から一
越前守は落ちつきこんで調書をめくり返していた。やがてそれを目安の手に返して、また、お袖に
「仮吟味の事ゆえ、仔細の取調べは、他日といたしおく。――ただ、その方の父母の素姓や、きょうまでの径路について、ざっと聞きおかねばならぬ。……まず訊くが、そちの両親は?」
「…………」
「調書に依れば、そちの両親は、小石川水道端の秋田淡路守どののお長屋に住み、
「…………」
お袖の姿は、石ではなくなった。あきらかに感情のうごきを見せ、ぽろりと、涙をこぼしたようだった。それは、父母の名が出たときであり、それから、ほんの一瞬だったが、急に顔を上げて、また
「妹の袖は、五ツの年、大病に
「…………」
「どうじゃ、相違の箇所があらば申せ」
「…………」
お袖は、何かいおうとした。しかし、声が出ない。意志がまとまらない。
かの女が、必死にいおうとすることは、そんな質問の答えではないのだ。日頃から――いや十何年間も、思いつめてきた無情な男への復讐を、今こそいわずにおくものかと――心のうちで思い燃えているのであった。
――にも
こうして、その憎い男と、上下にむかい合って坐りながら、お袖はまだ、その男の姿をすら、顔を上げて見ることができないのである。
だが、越前守の声は耳にはいってくる。その声こそ、以前の市十郎の声ではないか。白々しい偽善者、皮をかぶった嘘つき、何が奉行だ、
「それらの事も、覚えないか。むりもない。五ツの頃から、両親に死別し、以後は、人の子にして、人の子の情けを知らず、世間に生きながら、世間の何かも知らず、ただ人の世に漂うて生きて来ただけの女だ。……追ってまた、白洲へ呼び出すであろう。立て!」
と、越前守は、あっさり仮吟味を終って、目安、書記、同心たち一同へむかって、
「女を、
と、宣告した。
そして越前守が、つと、席を立ちかけると、それまでは、自分と自分との闘いに、
「お待ちッ。お待ちよっ。市十郎!」
と、
「すわ」
と、何事かを予期していた山本左右太は、まっ先に、お袖のうしろからその片腕を抑えた。
「何するんだえ、お前たちは」
お袖は、振りほどいて、奉行の席へ、飛びついて行きそうにした。しかし、たちまち大勢の同心たちが、彼女の狂いまわる力を、もとの白洲の上に、
「…………」
越前守は、振り向きもせず、さや形模様の襖の内へ、退席してしまった。
人々もすぐ立つべきであった。また、傍聴の横目たちも、退席すべきである。しかし、その後、いつまでも、白洲は人影にみだれ、騒然たる気配の中に、お袖の叫び声がやまなかった。しかしそれも悲痛な泣き声に変り、やがて
暁に就寝して、目をさましたのは、午近くであった。
越前守は、熟睡した。
ここに坐ると、所内の空気が、すぐわかる。
今朝の奉行所内は、ただならぬ動揺をもっていた。中に、幾つかの部屋は、
小林勘蔵、山本左右太、市川義平太など、それぞれのいる役部屋だ。
奉行の周囲にも、一般の公事訴訟の事務は山積している。同様に、各与力部屋も、忙しいはずだった。事件は決して、お袖のこと一つではない。
「勘蔵を――」
と、越前守は、まず目安方の彼をよんで、今日の処理すべき日程を聞き、程なく、平常のように白洲へ出た。
幾つかの、裁決をすまし、午後、独りで茶をたてて、静かに一ぷく
「来たな……」と、思いながら越前守は、老人の坐るのを待った。
「お奉行。ついに、やられましたな」
楽翁は、坐るとすぐ、そういった。越前守は、茶をたてて、彼にもすすめた。
「……お蔭で、まずすこし、目鼻がつきかけました。御老人にも、お心を
「何といおうか、申す言葉もおざらぬ」
楽翁は、
「ときに、きょうお伺いしたのは、赤坂のおやしきの
「や。何か、留守の家族どもが、だいぶお世話になっておるとのことですが」
「それはかまわんが、越前どの。御内室の病状が、ここ二、三日、とてもお悪い。……御危篤というてもよいほどお悪い。いちど、御帰邸になって上げてはどうかの」
「縫が……」と、さすがに、越前守も、胸の
「ずっと、
「ば、ばかな……女ではある」
眼には、涙をもちながら、越前守は、吐き出すように呟いた。
楽翁は、さっと、顔いろを変えた。この老人は、すぐこうなるのである。
「あいや、お奉行。ばかとは、お言葉とも思えぬ。ばかでしょうか、奥方の心事は」
「あわれむべき、おろかさです。女ほど
「不愍はよいが、愚かとは、どういうわけじゃ。良人の大難を想い、身の
「ですから、愚かというのです。神に祈って、何になりましょう。なぜ、園子や子等のために、
「
「でも、私は、一切の前非と、後々の事までを、妻にだけは、隠すことなく話してあるのです。たとえば、お袖という一女性のことまでも」
「なお悪い。なおさら苦悩するのは女の常じゃ。そしてあなたは家庭にもお帰りがない。成程、お奉行としては、立派だろうが、一体、それでよいのかな。人間として、良人として」
「まことに、不出来な人間であり、無情な良人であると、越前自身、詫びております。……が私事はさて
「お燕。……ああお燕は、宅の隣家の古井戸へ身を投げて死にましたよ。小林勘蔵どのと義平太もすでに見届けて帰った通りじゃ」
「越前には、
「と仰っしゃっても、公儀へのお届けはすみ、お目付、寺社奉行への手続きも
越前守は口をつぐんだ。この老人は、強い好意からではあるが、自分の所信とは全く対立している。まるで善意の敵という立場にある。好意、善意、こんな抗し難い敵はない。
「お役宅において、私事を申しては恐れ入るが、愚老は医者としての職務上、ここで申し上げねば相成らん。……では、事件の落着までは、どうしても、お邸へお帰りはないのでござろうか」
「妻にも篤と申しおいてござれば、覚悟の事とぞんずる。ただ……何分、最善のお手当を、おねがい申しあげる」
「万一、奥方が、御危篤とあっても」
「貴老におまかせ申しておく」
「ぜひもない……」と、楽翁も
「――が、あなたはお奉行、愚老は医者。どちらも、天職のため、仆れるまでは、最善の任を尽し合いましょう。やれ、お忙しいところを長座いたした。御免」
と、楽翁は、いつになく、あっさり引き退がって、ほかの役部屋をあるき、小林勘蔵や山本左右太などと、何事かひそひそ話しこんで立帰った。
それと前後して、鉄淵禅師も、
「今夕は、老中の土屋相模どのと、会う約束があるので」
と、
一日
そして今度は、これまで一回の下吟味しかしていない大亀こと――大岡亀次郎、赤螺三平、阿能十蔵なども、次々に白洲へ呼び出し、いよいよ本裁判にかかるであろうと、奉行の名をもって言明した。
その朝。――石焼豆腐のお次と、山本左右太は、まだ朝霧のふかい裏河岸に、人目を忍んで会っていた。
「お次さん。きのうわしがいった事。そなたの母親に、訊ねてみたか」
「え。訊いてみました。やはりあなたの仰っしゃったように、お島姉さんは、実の子ではなく、日本ばし裏にいた時分、死んだ父が御懇意にしていたお武家様が夫婦とも亡くなったので、身寄りなしの子を引取って、養育して来たんだそうです」
「その、貰い子の実家先は、何といったか、訊かなかったか」
「あの……秋田淡路守様の御家来で、今村
「では、間違いなしだ! ……。お次さん、おまえの姉だといって、いつぞや家へ帰って来た島破りのお島は、いま、越前守様の苦悩の中心になっているあのお袖という女と、実の
「えっ。ほ、ほんとですか」
「そなたとは、ただ、名だけの、姉妹にすぎないが、お袖とは、血もひとつ、両親もひとつの、真実の姉――妹だ。お袖は、お島の妹だった」
「どうしてそれが分りましたの」
「仮吟味のお白洲で、お奉行が、調書の表からそういったのだ。おれも
「まあ」と、お次は、ありッたけな瞼をみひらいて、心の驚きを、左右太の顔へ
「どうしましょう。それでは?」
「どうしようかって? ……何を」
「そのお島姉さんが、また、使い屋に手紙を持たせて、どうしても、もう一ぺん、お前に会わなければならないことがあるから、
「あ、きのう相談されたあの事か。もうお島が、お袖の実の姉と、はッきり分ったからには、ぜひ、会いに行った方がよい。どういう用かわからぬが」
「では今夜、約束の時間に行ってみます。そしてまた、あしたの明け方、ここで会って下さいます」
「うむ。御用の前に、来ているからな。……しかし、こうした
「いやです。そんな悲しいことを仰っしゃっては」
お次は、男の胸にすがって、痩せの目立って来た白い
「河原に咲いた朝顔みたいに、ふたりの恋は短か過ぎるなあ。けれど、あきらめてくれい、お次さん、おれたちは、お奉行の死に殉じる覚悟だ。義平太、勘蔵なども、堅く約束してあるのだ」
「どうして、越前守様は、死ななければいけないのでしょう」
「お奉行とて、決して、好んで死をえらぶわけはない。……が、四囲の事情、法のきびしさを、身を以て、お示しになる為にも、おそらく、自決以外のことは考えておられまい」
そのとき、もう大根河岸や魚河岸を中心に、烈しい朝の往来が流れ初めている中を、ひとりの男が、瓦版の呼び売りを呶鳴りながら通った。
「瓦版瓦版。――さあ、たったいま刷り出した大椿事の瓦版じゃ。高札斬りの曲者は、召捕られましたぞ。しかも、女
噂は、一日のまに、江戸中にひろがった。
瓦版の呼び売りは、うまく逃げて書いているが、噂の根は、突いている。
「北町奉行の
市民は、そういい足して、いい伝えた。これも、事実に近そうである。
何しても、お袖の逮捕をきっかけに、これまでは、南北両奉行の間にも、暗闘として、伏せられていた事件の全貌が、白昼の話題にされ、五人組強盗の始末から、高札斬りの下手人、そして、越前守個人の過去につながるすべての問題まで、余すところなく、世間の耳に伝わった。
世間の表情と、人心のうごきは、すぐ奉行所内に、反映してくる。
越前守は、相かわらず、日常どおりに執務しているが、その事では、むしろ本懐であり、望むところとしているふうであった。かれの顔は、数日前より、よほど明るくさえ見えた。――白洲を前に、奉行席へ、着座したとき、そう見えた。
きょうも、例の二名の横目が、傍聴に来ている。
与力席、目安、書記方など、前の仮吟味のときより、一層、粛として、頭かずも幾人か多い。
「袖っ。
越前守が、まずこう口を開くと、おとといの夜とはちがって、お袖は、すぐ顔を上げた。
そして、越前守の顔を、下から凝視した。
「…………」
おそらく
越前守の顔を射た、眸が、それを物語っている。何と、形容すべき眼だろうか。怨みのこもった、憤怒に燃えた、そして
越前守も、さすがに、その眼にたいし、一瞬、自分がいかなる人間として対すべきかをふと忘れかけた。満身に呼び起される人間当然な
「な、なんですか。顔を上げたじゃありませんか。私にも、いい分がたくさんあるんですからね。……さっさと、訊くことがあるなら、訊いて下さいよ」
次に、いい出したのは、お袖の方からであった。きょうのお袖は、わずかな間の沈黙にも耐えないほど、瞼も耳も、充血していた。
「なんですえ! こんな
「袖。ここは裁きの庭だぞ。わたくし事をいう所ではない。この身も、むかしの市十郎でもなければ、越前守個人でもなく、天下の
「ホホホホ。人をばかにおしでない。だれがお前なぞの調べをうけるものですかえ。何も知らぬ世間の衆は、お奉行さまと恐れ入るかしらないけれど、お袖は、そんな手には乗りませんとさ」
「だまれっ。なお分らぬか」
「分るはずがあるもんですか」
お袖は、食ってかかった。戦いは今日こそであるというように、眉は女の必死を描き、
「いいえ! いいえ。……分らない女なら、分らして貰おうじゃありませんか。そんな高い所に、糊のこわい物を着て、しゃちこ張ッている得態の知れない人間は、いったい全体、どこのどういう男なんですか。以前、大岡市十郎といって、何も知らない女をだまし、揚句の果てに、子を産ませて、その女房子も捨てッ放しに、自分の立身出世ばかり心がけて来た、嘘つきの
余りにも、聞きかねて、もずもずしていた縄取の山本左右太が、われを忘れて、
「こ、これッ。黙りおらんかっ。黙れっ。ここを、
と、うしろから呶鳴りつけると、越前守は、こころもち上気したような顔をわずかに振って、
「いや左右太。止めるな。――いわせい、いわしておけい」
「ええ。いわずにおくものですか」
と、お袖の
裁きの白洲は、俄然、
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第七章
その日の白洲は、お袖のために与えられたようなものだった。越前守に向って、お袖はいいたい限りのことがいえた。積年の恨みを、思いのこすこともなくいってのけた。あとの心に、もう
――にも関わらず、かの女は、その後で、どっと、せきあげる涙と淋しさとを、どうしようもなく、
「袖。――もう申したいことはないか」
越前守は、かの女の
「では、越前の方から問うぞよ」
傍聴の横目も、下役の人々も、越前守が奉行の位置や法廷という場所も忘れているのではないかと疑った。――余りにも、奉行らしくないからである。そして、
「先頃から、夜毎、諸所の高札を仆して歩いたのは、そちが越前に、それをいいたいためであったか。袖、どうじゃ」
「…………」
「そうに違いあるまい。特に、南町奉行所のみの高札に狼藉を働いていたところから見るも、そちの真意は明白だ。よし、その儀は、分った」
書記机の市川義平太は、終始、筆を走らせて、吟味書を速記していた。越前守は、次に、
「堀留の山善へ押込の際には、そちは堀留川の舟の中に残っていて、屋内へ入って、強盗を働き、家人を殺傷した者は、男の三人だけであったと、阿能十蔵も申し、赤螺三平も自白しておるが、相違あるまいな」
お袖は、答えもせず、否定もしない。越前守はもう一度念を押した。そして、次の質問へ移った。
「そちが、江戸橋自身番に、捕われたのは、その折、連れていた娘のお燕を案じ、お燕を町に捜しに出て捕方の手にかかったものと――自身番の番太庄七、由蔵も申し立てておるし、十蔵、三平の自白とも合致しておる故、これも相違ないものと認めるが、異存はないか」
「…………」
「ないの。では、この事は、どうじゃ。俗称化物刑部こと元公儀お旗本の長坂刑部と申す者に、そちは十数年の間、身をまかせ、かれらの仲間同様に暮して来たが、それはそちの意志であったか。そちが好んで刑部と連れ添うて参ったのか」
この時、お袖は、反射的に、顔を上げた。きっと、越前守を
「――いや、越前守の調書には、初め、刑部はそちを番町の土蔵二階に監禁し、
白洲は、しいんとして、かの女の
「よろしい。相分った。要するに、そちは刑部の妻でもなく妾でもなく、もとより何の愛情もなく、
勿論、そんな秘事は、お袖は今聞くのが初めてだった。越前守は、かの女の眸のうつろを見つめていった。
「袖。そちが申し立てた最前からの怨みつらみは、すべてこの白洲の吟味上には、何の関りもない、
その日の午過ぎには、続いて、大岡亀次郎の白洲が開かれた。
大亀は、ぺたんと、白洲に曳きすえられると、越前守の姿も見上げず、終始、うな垂れたままだった。
「面目ねえ。もう、どうにでもしてくれ……」
と、彼の姿が、すでにそういっているふうだった。
しかしこの大亀も、初めは、猛烈な反抗をもって、越前守の悪罵を昼夜牢内でわめき狂っていたのである。仮吟味の時も、その後一、二回の本白洲の折も、奉行の席に向かって、毒舌、
――が、越前守は、あくまで、かれの
「
と、いい出した。
きょう五回目の白洲は、越前守から、むかし、かれの父大岡五郎左衛門
大亀は、知っている限りの事を、素直に述べた。
この事件も、五代綱吉時代の、腐敗政治の裏面につつまれた
しかし、当時にあっては、勘定奉行の荻原近江守や柳沢一門の権勢に
事件のかたちは終って、事件が生んだ災厄の家の、一人一人の運命は、それから新たな長い地獄の旅に立った。大岡亀次郎などの転落もまさに、その一つである。いや、大岡十家のうちの一人であり、また亀次郎とは、
同じ、大きな時代的災厄の悲運から突き出されて、同じ危険な谷や崖を歩いて来ながら――
彼と、自分と、どこがどれほど違うだろう。
人間として、何も、違いはしない。
彼の生活力や、一部の才智などは、むしろ彼の方が
違ったのは、ただ、どこかの道の
それも、全部が自分の意志力ではなかった。兄
(思えば、自分の今日は、ただそれらの機縁と一歩によく恵まれたというだけの者でしかない。……あわれや、亀次郎)
かれは、従兄の亀次郎に、こういう同情を心からいだき、また、偽りなく自分にもある亀次郎と同質な人間性を認めていた。
で、亀次郎が初め、
大亀の吟味や聞き取りは、かくてすらすら運んだ。翌日、また翌々日にかけ、赤螺三平や阿能十蔵の調べもどしどし
阿能十蔵の吟味中には、越前守の方から、こういう事件が、質問され出した。
「以前、大岡市十郎なる者を、存じていたか」
「もちろん、知っている」
「市十郎にたいし、化物刑部の土蔵に監禁されていたお袖に会わせてやると約し、市十郎の親戚、
「ある」
「その絵図面は、その後、いかがいたしたか」
「刑部に、売りつけた」
「刑部はそれを?」
「一時はよろこんだが、後に、役に立たねえ絵図と分り、金蔵破りは、やらなかった」
「それも、幕府顛覆の軍用金にするつもりであったか」
「その辺、刑部の腹は、おれたちには分らねえ。刑部が西国浪人や
この申し立ては、三平、大亀、みな一致していた。
阿能十は、初めから、さっぱりしていた。もう年貢の納め時と――中野お犬小屋荒しの遠い事から今日までのこと、何でも、あッさりと記憶を述べた。
総括的に越前守の意図していた調べはここ二十日ほどであらまし終った。あとは彼の“断”による判決のいい渡しだけが残っているにすぎない。
しかし彼は、全事件の重点を、長坂刑部と西国浪人や
評定所は、最高裁判所組織である。老中、若年寄、勘定奉行、寺社奉行、目付など、すべての幕府首脳と部門の要路者とが衆判合議のうえで重大な
だが、越前守は、自己の問題をもふくめたこの全事件を、龍ノ口へ廻して、評定所の大白洲がひらかれる前に――その前提として、一つの希望条件を、必要欠くべからざるものとして、
その条件というのは。
(この事件は、ただ
こういう意見書の内容であった。そして、終りに、かれは、こういう一条を明記していた。
(元兇を捕り抑える必要がある。実はまだ、元兇を揚げていない。元兇を
以上の、主旨であった。
前例にないことだ。評定所規定にもまったくない。老中、諸奉行は、極秘の会議をつづけた。
その間にはまた、越前守をうたがい、彼の個人攻撃や
(おそらく、その間に、越前守は、自己の立場を守るため、あらゆる
(白洲と、職能を、彼は
(越前守一人のため、町奉行の権威は、地に
(おどけた町奉行も出たものよ)
中には、お袖と彼との遠い私行上のことに尾ヒレをつけ、聞くにたえない悪口のたねにする者もある。
それが皆、位置あり、権威あり、相当、要路の人物といわれる者たちの声だから世の中はどこも同じ世の中、同じ人間と世間にすぎないことがわかる。
「お母あ様。お父さまのお帰りっ……」
「お父さまっ。お父さまが、帰った。――お母あ様っ」
もう秋も近い日の庭垣根の
大岡家の前で、駕籠が降ろされた。
黒い塗り駕籠を出た人は――オオとなつかしむように、玄関前の敷石に
「お父さまお父さま!」
と、手に持っていた朝顔や草の花を投げすてて、父の越前守の膝へとびついて来た。
「おお、雪子か。求太郎も、元気でいたか」
抱きよせて――子等の姿を見るのも、幾十日ぶりぞと、父の眼は、熱くなりかけた。
「父の留守中、ようおとなしく、遊んでいたの。雪子は、お稽古を励んでいたか。求太郎も勉強しておったか」
「ええ、毎日、お姉様も、私も、お勉強しています。お父様は……」
「お父様も、お役所で、お勉強していたのだよ。さて、きょう一日は、おいとまが出たので戻って来たぞ」
「うれしい。うれしい」
十二の雪子。九ツの求太郎。ふたりは、父の袂にぶら下がって、式台まで、離れなかった。
供の者の知らせで、屋内の人々は、みな玄関へ出迎えていた。見えないのは、病妻のお縫と、乳のみ児だけだった。
が、越前守は、すぐ、何より先に、その妻子を、一室に見ていた。いや、二月ぶりの自分を、お縫に見せていた。
「……お帰り遊ばしませ。お出迎えもいたしませんで」
お縫は、寝ぐせのついた髪をやや整え、寝床を降りて、手をつかえた。その手の細さ、襟あしの衰え、
「縫。……寝ておれ、無理するな。ささ、
「いいえ、きょうは、気分もよろしゅうございまする。思いがけないお帰りで、子どもたちも」
「オオ、離れはせぬ」
と、両膝に、雪子と求太郎をかかえながら、
「御用のため、そなたの
「なんの、お役儀のためですもの……。お町奉行の妻ともなれば、いたし方もございません。それよりも、お留守の家を、御安心して、御用にお尽し遊ばすようにもできず、私の不つつか……おゆるし下さいませ」
妻は詫び、良人も詫びた。
お縫は、つとめて、ほほ笑みを作り、どうして、久しぶりの良人を慰めようか、自分も、楽しもうか、そぞろ、
「雪子も、求太郎も、さだめし、うれしいことでしょう」
「お母あ様。お父さまは、もう、どこへも行かないんでしょう」
「ええ、そうして、二人を、抱いていて下さるではありませんか。……それよりも、お母あ様が、お台所へ行けませんから、お勝手の者たちに、たくさんに、お父様へおいしい物をさしあげるように。そして、あなた方も、お父様のお部屋を、おきれいにしてお置きなさい」
「はい」
と、二人は、争って、廊下へ走った。
「あれ、あの、うれしげな
「不びんなのは、子達であるわよ」
「あなた様のお心も、縫は、お察し申しあげておりまする」
「そなたを信じて、いっておく。越前にも、最後の日が来た。明朝は、別れになるぞよ」
「長い……お別れでございましょうか」
「おそらくは。……縫、そちこそ、かなしい一生を送らせたの。あらためて、わしはそちに、手をついて、詫びるぞよ。ゆるしてくれい」
「め、めっそうもございませぬ。縫こそ……ああ縫こそ、お詫びせねばなりません。――おもえば、私が、悪うござりました」
「そなたが、わしに、わび入ることはない。そなたは何も知らぬ家つきの息女であった」
「……でも、私のまえに、お袖さまという
「えっ。そなたと、お袖とが。――して、それは
「やしきのお庭の隅の丘で。あの、
「おう、では……味噌屋の久助という悪い遊び仲間がまだいた頃だの。その久助が、お袖をつれて、わしへ会わせに来たときだの」
「稲荷の丘で、幼い者の泣き声がするので、ふと、私が庭づたいに参りますと、お袖さまが、久助とやらをつき
「…………」
「――が、後には、勝った自分も、折にふれて、いい知れぬ悩みと、淋しさに襲われました。今ですから申します。縫は、あなた様を信じながらも、長い年月、もしやその後もと……良人を疑って見る自分の浅ましさを、どうしようもございませんでした。いつ、お袖さまが、また自分のまえに現われるかと、それを怖れてばかりいました……」
「女だ。それはむりもない。
「いいえ、縫は、
恋に勝ったお縫もまた、決して、完全な幸福ではあり得なかった。いま長年の人知れぬ苦しみを、良人のまえに、心の隅々まで、涙に洗って告白すると、それだけでも、彼女はかすかな安らけさを覚えた。
たれから見ても、かの女は幸福なはずだった。その彼女にも、心の
人間には、完全なる幸福というものはあり得ないものなのか。いや、一方に絶対に不幸な者が作られるのに、その一方側だけが、いかに満足な目的のかたちを遂げても、それは往々、不幸な
ほんとうの幸福とは、多くの場合、他の者の幸福の中に、自分の幸福を見出すのでなければ、完全なそして長い人生の果てまでの幸福にはならないらしい。
お縫の場合は、
その夜の
子どもらは、はしゃぎ抜いた。越前守は、独り酒を
(おまえたちの、ものだぞ)
と与えきって、なすがままに
肩にのり、膝にもたれ、子等は、自分たちの父を、意志のまま
けれど、お縫は、越前守が、何で突然、この一夜を家に帰って来たか、余りにも、良人の気もちが分っていた。
朝。夜が明けるか、明けないうち。
越前守は、湯殿で水音をさせていた。自分の手で、結髪し、
前の夜、妻は女中を呼んで、何か小声でいいつけていた。そのとき出させておいたものらしい。良人のための真新しい衣服一切が
良人は妻の用意に胸がいっぱいになった。かの女は自分の心に何があるかを語らずとても知っている。越前守にとり、これは何より心強かった。幼な子たちの養育にも思い残りのない気がする。ただ彼は、彼女がこれからの
万感のうちに、彼は肌着をつけ、上着、
裃と小袖を除けば、かれの今朝の
妻の病間に来た。お縫は、うす化粧して、床の外に坐り、園子を抱いていた。
「お送りさせていただきます」
と、いった。
「よい子になれよ」
と、雪子と求太郎の
用人が駕籠の用意のできたことを外から告げた。越前守は、袂にからむ子をおいて立った。妻も、立って、
「ここでよい。……縫、丈夫になってくれよ。子たちの為に」
さすがに、お縫は、泣き伏した。園子を乳ぶさに、雪子と求太郎を、両方に
その時、たれか馳け込むように、廊下の外まで息せいて来た者がある。目安方の小林勘蔵と、山本左右太だった。
「や、お身達は、何しに来た。越前、不在の間は、寸刻も役所を離るるなと申しておいたに」
「はっ。おいいつけを違背して相すみませぬが、今朝あたりの
「警固に。……はて、越前の身に、何の警固。
「いや、周章えはいたしませぬ。が、いずこから出た風説やら、越前守は、きょう評定所の指命で召捕らるるであろうとか。いや彼は、旧悪の
「はてさて、頼みにならぬ人どもよ。それ故にこそ、
「何しても、今日のお出まし先まで、われわれ二人に、お供をおゆるし下さいませ」
「ばかな。町奉行に、何の警固がいるぞ。奉行自身、独り歩きの出来ぬような世間を、奉行が身に証拠立てて歩いたら、まことに、政道の
「いや、御警固などと申す意味でなく、一同の安心のために」
「なぜ、そち達は、安心できぬか。越前は配下の者にも、さまでに、不信な者となったか」
「滅相もございませぬ。……では、せめて、今日のお行先なと、お聞かせ下されませ。一同に申し告げて取り鎮めまする」
「ウム。さほど、その儀を案じるなら、申し明かしてもよい。聞けよ、越前守は今日、
それは何か巨像が
啼きすだく虫の秋をこの朝に、露ふかい木蔭
「あ、もし。越前どの、すこしお待ち……」
と、呼びかけた者がある。
「おお、師の御坊」
越前も、振向いて、ニコと笑った。
鉄淵禅師だった。
うしろに、もう一人、僧形の雲水がいた。
「
「あっ、兄上でしたか」
「
「
「何さ、弟。お蔭でわしは、両刀を捨て、ほんとの人間らしい安住の別天地を見出したよ。仏恩とおもうておる」
鉄淵が、その間に、ことばを挟んだ。
「越前どの。今見ておると、せっかく参った山本左右太を、いたく叱ったので、左右太は、もそッと、いいたい事もあったのを、あんたにいえずにしもうたらしい。……お島という
「えっ、島と申すのは」
「お身自身、過去の
「その島とやらが、何といたしましたか」
「遠島の身を、何としてか、江戸へ逃げ帰っていたが、先頃、義理の妹にあたる石焼豆腐のお次を誘うて、大川へ屋形舟を出し、
泣きぬれている沢山な眼の中に彼は置かれている。鉄淵はそんなことは問題でないらしい。法衣の袂から一片の巻紙を取出して手渡した。風に
――紙の白さは、遠い遠い雪の夜を越前守に思い出させた。冬の夜の美しい女スリの肌のぬくみや友禅の夜具の
赤穂浪士の列が、
お島の手紙はたどたどしい。が、大意はこんな意味だった。
――死にます。死ぬしかない女です。自分でも、いとしく惜しくもありません。やりたい事はやりつくした女です。
お次は、私とは、義理の仲だったことが分りました。私のほんとの妹は、お袖というものです。お驚きでしょう。
いたずら女のかりそめ事も、思えば怖ろしい、世の中の真実や、真面目な人たちの運命にも、つながっていました。私がこうなるのも、法のお裁きではないでしょうが、天道のお裁きです。
けれど、病児の愛のために、たッた一羽の燕を吹矢で射たばかりの、私たち両親の
私は、たれも人には、
さいごのお願いです。
実の妹の、お袖を助けてやってください。あれも牢舎と聞きましたから、どうせ無罪にはできないでしょう。けれど、私の遺骸に、お袖の名を着せ、お袖は牢死したものとして、世間から隠してください。
あなた様の、おん為にも。
くわしくは、お次より、山本さまに、一切をおはなしするように頼んで、せめては、一代のいたずら女の成れの果てに、自ら一つのなぐさめとして、この世をおいとましまする……。
「読んだか。越前どの」
「読みました。これは、お手元に、お預りおきを」
「
「……わしの用はすんだ。では、心おきなく、行ったがいい」
身を退くと、待っていたように、市川楽翁が、前へ出て別れを述べた。
「お奉行。いまは、何も申さぬ。……
「なんの。御老人。越前ごときに、一命を賭しての御
「ひきうけた。……御心配なく」
「では、これにて、お別れを」
駕籠は、越前守の姿を、内にかくして、門外へ出た。人々は、
どこへ、行くのか。
その日、彼は、一人の従者もゆるさなかった。世を
彼以外、知る者はない。いや、師の坊鉄淵と兄の主殿と、そして極く少数だけは、知っていたらしくもあるが、それと、口に出した者はいない。
「いそげ。――ちと、時刻もおくれた」
途上、彼の声が、駕籠の足をいそがせていた。
濠端へ出た。水辺にけむる葉柳の上に、江戸城の天主の白壁が、駕籠の内からも透いて見える。
「あっ、待たれい。その駕籠」
その日、越前守は、例の江戸城内の人気ない吹上の
吹上で、直々、将軍家に会うときは、いつも、御庭番の藪田助八ひとりが、特に、君側にいるのが例であった。
だが、そういう異例は、町奉行でも、彼以外にまで許されていることではない。
藪田助八の支配する伊賀、甲賀組の者。また、ごく特殊な場合の、公儀目付の者ぐらいに過ぎない。
しかし、越前守は、かつて将軍吉宗から特に、吹上の一亭に招かれた例がある。その時、吉宗は、いつでも、ここでそちの言を聞いてやろうと約した。もちろんその言葉の範囲は、直接、献言の必要ある場合か、何か非常の時に限っていることは、いうまでもない。
「おお、藪田どのか。お迎えをうけて痛みいる」
越前守が、駕籠を出ようとすると、助八はあわてて止めた。
「そのまま、そのまま。お上にも、きょうはひどく、お待ちかねでござる。すぐ、御案内申そう」
助八と目付二人は、かれの駕籠を挟んで、江戸城の隠し門ともいうべき牛ヶ淵の
「ここは、奥庭口の
助八が、去ると、あとの“横目の者”ふたりは、どうぞと、越前守の先に立って、だだッ広いだけで、調度も何もない、黒鍬屋敷の奥へみちびいた。
黒鍬というのは、奥庭番の異名である。黒鍬の者といったり、黒鍬衆と呼んだりする。その組屋敷に、自分を待っている者とは誰か? ――越前守はいぶかりながら、がらんとした奥の広間まで通った。
一瞬――彼はハッと足をとめた。
寺社奉行の牧野
(これは? ……)
と、さすがの彼も眼をみはったのである。
「おう、大岡どの。さ、こちらへ、こちらへ」
寺社奉行の牧野因幡守は立って、彼を迎え、一同の中ほど、彼と隣り合せに、席を占めた。
「いったい、ここのお寄合いは、何の為でございまするか。越前には、とんと不審で、御挨拶のいたしようもござらぬが」
「いや、御挨拶には及びませぬ。われらからすすんで、あなたのお越しを待ちうけたのじゃ。いや、待ち伏せしたと申した方が当っておるやも知れん」
因幡守の
「大岡どのの御不審は
すこし膝を進め、こういい出したのは若年寄の板倉伊予守であった。座中の総意を、この人が代表して、何か、口をきろうとするらしく思われた。
伊予守
昨夜、突然、評定所に席をもつ役員全部が、老中安藤
(いかに、問題を、よく処理するか)
を、熟議し合ったというのである。
老中の意は、もちろん、将軍家の意にももとづくものに違いない。事の起りを、考えると、ちょうど昨日、越前守が、きょうの吹上の拝謁を願い出た――直後に、吉宗から、
(何とか、善処せよ)
と、老中へ内意が洩らされたものであろう。
吉宗が、どうして、こんな内意を出したか。それには更に、勝重の説明があった。
吉宗が、こんどの事件に関心をもち、同時に、窮地にある越前守の進退について、深く心配し出したのは、すでに事件の表裏や
そこで、吉宗は、さっそく、藪田助八の手で、問題の真相を、側面から調べさせ、かたがた極力、これが越前守の
吉宗も、まだ新之助といって、紀州家の部屋住みでいた当時は、よく市中に出て、
で。助八のそれからの暗躍は、つまり吉宗の内命によるものだった。事件がすすむにつれ、詳細、いちいちの実相は、吉宗の耳へはいっていた。
町医市川楽翁のことも、楽翁と
つい、数日前まで行われて来た、南町奉行所の白洲におけるお袖の吟味や、大岡亀次郎、阿能十蔵、赤螺三平などの予審ぶりなども、傍聴に立会った横目の二人から細大、洩らすところなく、報告されていたのである。
その結果――
吉宗のあたまにも、くッきり、事件の全貌と
そういう世代が作った危険な社会地盤の下には、当然、もっと大きな
中央の眼から遠い西国方面の倒幕陰謀がそれである。不平浪人の
化物刑部は、江戸におけるその一員だった。彼の任は、江戸にある不平、無頼、野望、自暴、の徒を駆って、さなきだに悪政下にある世相人心へ拍車をかけて、とことんまで、人間を自堕落と不安の底に追い
はしなくも、かれは、自分のかけたワナに懸って炎の中で、自刃し、かれを通じて、西国方面の陰謀や、密貿易仲間のうごきが、どういう現状にあるかは、ついに今度の調査では、余りにも、
新将軍の職をうけ、前々代からの政治改革と積年の悪弊一掃に、果断で、時には、周囲を唖然とさせるほど勇敢なる吉宗が――これらのものを、一夜、市井の山善に押込んだ五人組強盗事件というだけのものとして、小さな
また、吉宗にしては、自分が、この改革期に、職を継いだというほかに、二重の責任感もあった。
伊勢山田の一地方吏から、中央の江戸南町奉行という重要な職に、越前守忠相を
この破格な、思いきった人材登用は、吉宗の前例無視や、弊政一掃の画期的な断行ぶりと共に、当時、一般を驚かせたものだった。
その奉行越前守――吉宗の
しかも、その忠相は、吉宗のかくばかりな蔭の
(困ったやつ。……おそろしいやつ)
という呟きは、吉宗がいつか、藪八を前においてもらした腹の底からの嘆息だったが、
(おそらく、職にある日のうちにと、
こう察したので、かれはいよいよ一刻もすておけないと考え、老中を通じて、事の善処を、急命したのである。内意の要点は、
一、評定所は、越前の持ち出した裁判を、取り上げないこと。
一、問題は、南町奉行の権限において、一切、解決し去ること。
一、北町奉行は、南にたいする対立を抑止 し、南と協力して、この際の臆測や風説を解くに努めること。
――などの三ヵ板倉伊予守は、以上のいきさつを、
「そこで、われわれどもの談合は、北町奉行の中山殿や、折ふし、寺社奉行の牧野殿をたずねて、宇治より

と、いった。
いや、伊予守たちには、何かは分らなかったが、ただならぬ決意とだけは分る――越前守の今日の
黙然と、聞き終ってから――。なお、やや時を
「思いもよらぬ御心配をわずらわし、そのことは、深くおわびいたします。……しかし、お示しの、御内意とやらに、従うわけにはゆきませぬ」
「それは。何として?」
伊予守に、越前のこの返辞は、よほど意外だったらしい。
いや、座中、
「せっかくの、御
「それは、また……。余りにも、
「これは、意外なお訊ねです。すでに、一切の調書、予審経過は、評定所お開きの上、公明な御裁決を仰ぎたい旨を申し添えて、龍ノ口へさし出してあります。御処置は、越前の手を放れ、そこに於いて、越前も、罪をまつ心底でおりますこと――すでにお存知のはずと存ずる」
「――が。その儀、龍ノ口には受け付けるなとの、御内意なのじゃ」
「その御内意に、
「越前どの。暴言ではないか。将軍家のありがたい思し召を、無視せいといわるるのか」
「そうです」と、きッぱり、答えた。「龍ノ口評定所は、何の為にありますか。御内意などによって、うごくものとしたら、法の威厳は、どうなりましょう」
「ば、ばかな」――黙っていられなくなったのであろう。久世大和守が、わきから強い語気で、口をいれた。
「徳川家が制定せられた大法。その大法をもって天下の
「あいや、大和どの、お怒りをしずめられい。越前が尊ぶのは、やはりそこです。法とは、すでに、いささかの“
「……これは、手がつけられん」
大和守は、うしろを振向いて、北町奉行の中山
「まあ、越前どの。そう理屈一図に、仰っしゃるものではない。貴公は、年久しく、伊勢山田のような、
――元々、東洋の法は、
――聖人ノ
と。まあ、そんなものではござるまいか。越前どの、そうこちこちに、法をたてに
と、世俗的に笑った。――うなずく顔が多かった。――常識の肯定として。
しかし越前は、答えもしない。黙殺した。
そのとき、牧野因幡守は、鉄淵のそばへすり寄って、何か、小声で話していた。
鉄淵は、先師の
小声なので、因幡守が、何をいったのか、聞えなかったが、鉄淵の返辞は、あたりに遠慮もない大声だった。
「はははは。知らんよ。わしには、政治だの法律だの、そんなことは、分らぬ。わけも分らぬ坊主が、越前どのに、何をいえよう。越前どののやりたいように、やらせて見るわけにはいかんのかなあ。……わしは、見物のつもりで来ておるんじゃが。アハハハ」
むずかしい空気になった。人々の眼は、越前守の態度を、あきらかな
(そうだ。彼のやりたいように、やらせて見ていたがいい)
とする傾きが濃くなった。
その頃、吹上の裏の密林から、大樹の間のせまい坂道を馳け下りてくる者があった。何か、あわてているような藪田助八の姿である。
「越前どのとの、お話し合いは、つきましたかな」
「いや。まだじゃ……」
「まだ、だいぶお暇が
「あのように皆、気まずい沈黙と沈黙になってしもうた。おそらく、越前どのの
「では、御内意は」
「
「それは、弱りましたな。はて、何としたものだろう」
「上様は」
「きょうの事が、しきりと、お気にかかるのでしょう。仰せ出しの時刻よりもちと早く、すでに、吹上のお茶亭へお渡りになり、ただお一人で、越前はまだかと、再三の御催促なので」
「ありがたい思し召に
「それは元よりです。さだめし、越前が、御仁慈によろこび、君恩に泣きぬれて、御自身の前に来るであろうに――と、その姿をお待ちかねなのです。それを、どうして、越前どのには」
「この上は、もはや御上意に委せるほかはありますまい。万一、事
「では、もはや、猶予はならぬし……。是非もない儀。お連れいたそう」
因幡守の前から顔を離すと、助八は、縁にのぼって、
「越前どの、お越しあれ。お待ちかねであらせられる」
と、告げた。
さすがに、人々の面上を、サッと、一種の緊迫感が青白くよぎった。上様と聞けば、他人のいう声にも身の
「では」
と静かに、助八へ
吹上の裏は、深山を想わせる。何人も
芝生の彼方に、またるいるいたる岩積みが見え、その上に、一亭の
亭のうちに、人影があった。
ぴたと、その人は、坐っていた。――と、その顔が、こっちを見た。吉宗である。
越前守は、
「おお、越前か。あがれ、上がれ」
待ちかねていた声である。
これで二度めだが、ここで会う吉宗のそれは冷たい将軍家ではない。どこか、あたたかい徳川吉宗――そのむかしの紀州家のぼんち新之助のにおいすらある。
つねならば、はっと、ひとまず遠く次室で平伏すべきが通例である。ところが、越前守の足は――いや全身は、そのまま押し通るような態度で、吉宗の顔の前まで行ってしまった。
「……?」
吉宗は、
「――越前。坐らぬか」
ついに、叱った。
しかも、越前守は、なお、突っ立ったまま吉宗を見すえて、不気味なほど、冷静にいった。
「あなたこそ、席をお退がり下さい。お敷物を払って、座をお
「な、なに」
吉宗は、耳を疑った。
ここでは、必ず、数寄屋の外に立っているはずの藪田助八も、ふと、その様子を見て、
越前守は、あくまで冷静である。背すじに、何が、襲いかかっているか、知っていた。――が、見向きもせず、吉宗の眸にたいし、かれも眸を以て、圧して行った。
「おことわり申しておく、大岡忠相は、今日、将軍家の一御家来としてこれへ参ったのではありません。江戸南町奉行の職をおびて
「な、なにをいうぞ、越前。――
「いや、かりそめにも、天下の御法令にたずさわる判官忠相です。左様なおたずねこそ、御正気とも覚えませぬ」
「さらば、ゆるさぬぞっ。ゆるし
吉宗の
むしろ、それを誘発し、その心理的な機会を待ってでもいたように、この時、大岡越前守も満身の気をこめて、
「おだまりなさい。罪悪の
「吉宗にたいし、それを、用に立たせる所存か」
「場合によっては」
「狂気とも思えぬが、この吉宗を、罪の元兇とは、何を考えて申す暴言か」
「構えて、左様な、
「よしっ。聞いてやる」
と、吉宗は、膝の下の敷物を、抜き取るように、ばっと、外へ投げすてて、
「さ。申してみい。
「いや。ともあれ、この奉行の問いに、御不服あれば、率直に、御反問ください。――まず、お訊ね申すが、
「この国の地上の人間、ひとりも余すものではない」
「では、将軍職といえ、法の外に在ってよいものではございませぬな」
「つ……つまらんことを訊くなっ」
「いや、治世の重大事です。忠相は、必死をもって、伺います。――将軍家は、法の上のものか、やはり、法の下にあるものかを」
「吉宗が、いつ、法を
「左様な、
「……ううむ。それを、いうのか」
吉宗の
――と、感じると、越前守も、にわかに、心の
「……そうか。そちは、それをいおうというのか」
吉宗は、もいちど、心の底からうめいた。
八代将軍の職をうけてから、吉宗はまだ幾年にもなっていない。彼の革新的抱負は、甚だ、果断で勇敢には見えたが、その実績は、なお思うようには、行われていない。
形は、変るが、中は変らないのだ。威令には伏するが、内実の腐敗は、かえって、
悪習の根はふかい。弊政の禍因は遠い。それを、一朝にして、改革しようと意気ごんで職についた三十五歳の新将軍は、近頃ほとほと理想と現実との、遠さを、またいかにその実現のむずかしく、行われ難いものであるかを――敗軍の将のように痛感していた。
正面の弊政改革にしてもそうなのだ。改廃の令はしきりに出たが、その精神と実績は少しも生きて
吉宗自身、着ものは
北町奉行中山出雲守の報告によれば、いちど減った市中の犯罪者も、昨年あたりから、急激にまた
いったい、牢舎の増築は、何を意味するものか。
吉宗は、考えざるを得なかった。
北町奉行はそれを誇りとしている。果たして、誇りだろうか。――ということよりも、新将軍たる吉宗自身の安んじられるところだろうか。
彼の年少時代にはあった本来の野性。そして野性から磨きあげられた情熱と理想とは、大きな人間群の実態にぶつかって、近来、手も足も出ないような気もちに追いこまれかけていた。――あとの行く道は、このまま美衣美食に肥えたぬるい神経のもち主となって、大奥に
とても、吉宗に、我慢のできた生活ではない。一膳めし屋の飯の味や、肉を売る闇の女が
が、その越前を、
いまかれの口から、将軍家こそ罪悪の元兇であるといわれたとき、吉宗は、一とき、
(そうだ。その通りである!)
と、叫んでいるのが自分でもはっきり分った。自分とはべつな声を以てである。
だが、吉宗は、間もなく、その声を、自分のものと、はっきり認めた。さすがに、彼はこの時もう、越前守の意中を、充分に見てとった。
伊勢の山田奉行であった時から、すでに二、三の事件で、御三家たる紀州家を相手どって、地方民のため、
「奉行。よくこそ、そこを問うてくれた。おん身ならでは、幾世にもわたる罪悪の府、将軍家の
彼は、率直に、座を
越前守も、下に坐った。
「さきほどからの無礼、何とぞ、おゆるし下さいまし。その御
一、慈眼、衆生 ヲ視ル。
一、無刑、空牢コソ、法ノ理想。
一、人間ニ神ノ裁キハ難シ。人間ガ人間ヲ裁クノ畏 レヲ常ニ想ヘ。裁カバ裁カレン。
一、一牢万生――。一刑ヲ施ス毎ニ万祷 ノ涙ヲ垂レヨ。
以上の事どもを、反省とし、日々夜々、自分の胸にいいきかせては、おぼつかない町奉行の職を歯に
五代綱吉が、みずから悪法を作って、諸民に
「たとえば……です」
と、越前は、自ら、熱湯を呑む思いでなおいった。
――お袖の悪。お燕の悪。また、大岡亀次郎たち一連の浮浪の徒の発生もみな、それを
化物刑部たち一味に見られる武家自体からの腐敗や堕落も、また西国方面の危険なる陰謀も、海外をかけての
あわれなのは、こんな世代に、宿命づけられた、かよわい女、無智なる人の子、また、やりばない若さをもった鬱血児たちではあるまいか。
こう観じて来れば。
かつての、中野お犬小屋荒しのような
お袖、お燕にも、罪ありとすれば、より以上、大なる罪を、彼女たちの父に加えた、悪政の罪は、これをたれに科してよいか。
大岡亀次郎の父、五郎左衛門の死もまた、同様なる原因による。もし、かれの父が、悪政腐吏の間になかったら、亀次郎も、生涯を
何で、これらの者を、一越前守が、裁ききれよう。まして、越前自身も、
これが、越前の
「ああ、何やら、大きな明りを、見出したように思うぞ。――奉行、吉宗に、たとえ一ときでも、縄を打て、正に、将軍家なるものは、罪の元兇だ。縛れ、そして、天に代って十手でわしの体を打て」
吉宗は、卒然と、叫んだ。
「あ。ありがとう存じまする。おわかり下さいましたでしょうか」
「
と、吉宗は、
「
「いや、吉宗は、安んじきれぬぞ。――越前、十手と縄を、あれへ置け」
彼の身は、縁をとび降りて、真下の、広芝へ馳け下りていた。
何思ったか、芝生のうえに、ぴたと坐った。
越前守は、命にまかせて、彼の前に、十手捕縄をおいた。吉宗は、両手をついて、それに誓った。
「おもえば、怖ろしいことであった。いかに、
そしてまた、吉宗は、膝を、広く
秋の澄んだ空の下には、大江戸の町々の屋根が、また橋や大川や小舟や両岸の柳までが、湖の底のもののように、
吉宗の心は、たしかに、遠くはあっても、それと向きあっている心持ちをとったものだろう。かれは、大地に、正しく手をつかえ、前とひとしい言葉をもって、民衆に謝罪した。かつての将軍家が
「…………」
越前守も、遠く、芝の上に坐して、吉宗のすがたへ、随臣の礼をとっていたが、ふと、吉宗が立つと、とたんに、五体の骨がばらばらになったように、
「越前」
「…………」
「越前」
「は。……はい」
「こっちへ来い――」と、
「なあ、越前。……そちも、わしも、考えると、えらい居場所を、生涯の坐り場所にしてしまったのう。はははは、人間としては、ちと、やり
「まことに」と、越前守も、まだ乾かない顔を上げて、泣き笑いをうかべた。
「――が、これは、上様が、私にだけ冒した罪でございましょう。越前は、正直、人間として、たいへん後悔をいたしております」
「勘弁せい。生れ合せた悪縁じゃ。……心を取り直して、きょうは
「はや、お暇つかまつりまする」
「が。……待て。……越前、死ぬなよ」
「えっ。おことばは」
「死ぬな、死ぬことは、相成らんと、申し渡しておくのじゃ。そちはさきに、奉行の名をもって、将軍家を裁いたであろう。吉宗は、武門の棟梁の名をもって、命じておくぞ。切腹などいたしてはならんぞ」
「……はっ、はい」越前守は、上げかけた腰を、また、ぺたんと、地に崩してしまった。
年は、暮れ、また、次の年の秋が来た。
南町奉行所の門は、事なく、いや、事しげく、市民の中に、その使命を、つづけている。
大江戸の
さしも、噂だった、お袖たち一連の事件も、遠島、その他の重罪で落着し、市民も、いつか忘れ顔だった。
死罪は、一名も、出なかった。のみならず、この一年の間に、
お袖も、その一人であり、中野お犬小屋荒しに発足した亀次郎たちの悪の仲間も、遠島から
この秋ぐち。初秋の風と共に、それらの人々は、思い思いに、どこかへ散った。
お袖は、船の上から考えていたように、巷を歩き廻らない足で、すぐ青山善光院へ行って、髪をおろした。馴れない
「お燕は……?」
と、思い出しては、枕をぬらした。切々と、彼女の身のなかには、以前にもまさる母性の本能が強まっていた。尼院のしじまと、黙想とは、それひとつに、彼女の
「お燕は、つつがなく、暮らしておるよ。会わせてやろう」
それはもう晩秋だった。ぶらりと、訪ねて来て、彼女を連れ出した旅僧がある。――宇治の鉄淵の弟子で、鉄雲という僧。いうまでもなく、越前守の肉親の兄、以前、
鉄雲は、びッこであった。その不自由な足をひきずりひきずり、
何町かは、分らない。四隣はみな、静かな小屋敷ばかりである。そこの辻を曲がり、路地の深まったつき当りの黒塀の下に立った。裏門と見える潜りが開いている。鉄雲はだまって、手招きした。
「はいっても、よいのでございますか」
それにも、鉄雲は、黙って、うなずいたきりである。お袖は、こわごわ、身を入れた。庭を斜めに、露草に濡れながら忍んで行く。
――と、窓が見えた。古風な、
「……あっ」
立ちすくんだまま、一瞬、身がふるえた。そこに、半身見えるのは、たしかに越前守その人にちがいない。そして、前の机をへだて、それに対して、きちんと、坐っているのは、お燕であった。
机の上には、書物が置かれてある。越前守は、お燕に、その読みと、意味とを、講義していた。寺小屋の先生が、幼い子どもに、教えているように。
お袖は、ひと足、ひと足、いつか、窓のすぐ外まで、身を寄せていた。
「……よし、よし。もう読めて来たな。どうじゃお燕、わかり出して来ると、書物を
「ええ。この頃になって、やっと、楽しいものになって参りました。初めは、どうしても、頭にはいらなくって」
「そうだろう。そなたは、寺小屋の子も読むような、やさしい往来物一つすら、読めなんだ」
「文字というものを、読む気で見たのは、生れて初めてでしたから」
「いまから、生れたと思えばよい。越前も、古典はあまり
「いいえ。私は、いつまでも、お父さまを、お師匠さまにしていとうございます」
「はははは。そなたは、どこかまだ、ほんとうに、生れたての
「お習字は、好きです。お父さま、もう次のお手本を書いて下さいませんと……」
「もう、そんなに、やっておるのか」
「昼間、ひまさえあると」
「どれどれ、見せい。ううむ。ほんに、すこしの間に、うまくなったの。……が、ここがまだ、すこしいかんな。よし、わしが手を
お燕の一面に、たあいのない純真さのあるために、父の越前守も、ここではまるで、寺小屋のよい先生になりきっている。
彼は、立って、お燕の背なかにまわり、肩ごしに、お燕の筆をもつ手を把って、根気よく、筆法を教えていた。――もう、こんなふうに、いろはのいの字から手を取って教え出してから、一年近くになる。
彼は、心友市川楽翁のすすめにまかせて、世間にもそッと、ここに一軒の別宅をもった。
たれもが、妾宅だと、思っている。うすうす越前の出入りに気づいた近所では、
「お奉行もよいお楽しみができた」
と蔭でいっている。
が、楽翁の養女と称して、野の花からこの家の庭へ移し植えられて来た者は、
越前守は、彼女にたいして、大きな父の任務を、見出した。それは彼にとって、思いもうけぬ、よろこびと、張り合いだった。
十八というこの年頃まで、まったく、無智と、悪の仲間におかれて、ただ美しい
「そうだ、それはわしが、お袖にたいする謝罪でもある」
折々に、ここへ来ては、彼が熱心になり初めたのは、それからだった。教える彼も、
お袖は、その夜の空のように、心にのこっていたかすかな曇りも、今は、きれいに拭い
「さ。……戻ろう。つい、知れては、お燕のためにも、お身のためにも、かえって、苦しいものがまた生れよう」
鉄雲は、そっと、彼女の耳にささやいた。
素直に、うなずいて、お袖は、窓の
気づかれもせず、もとの木戸の口まで帰った。振り向いたとき、また一さんに涙があふれた。そのとき、お燕が、窓から白い顔を外へのばした。お袖は、あわてて、往来へ出た。
「
鉄雲は、びッこを曳いて、月の色か霧の色かとまごう