原始のすがたから、徐々に、人間のすむ大地へ。
――ために、太古からの自然も、ようやく、あちこち、
たとえば、
年は、ことし十四ぐらい。
かた肥りの、
だが、今年になってから、その童臭も、黒い瞳も、どこか、ぼやっと、溌剌を欠いていた。
父の死後。家に飼っている
「
と、一大事のように、吹聴された事件があった。どうしてか、後見の叔父たちは、小次郎には、何もいわなかったが、女奴の蝦夷萩は、きびしい仕置にあい、大勢のまえで、
それきり、女奴の蝦夷萩は、小次郎のまえに、一度も、姿を見せなくなった。小次郎もまた、以後はよけいに、家に在る大叔父や
ここの牧は、坂東平野のうちでも、最も大きな、広い牧場だと、いってよい。
わが家には、こんな牧が、所領の内に、四ヵ所もある。
馬は、土地につぐ財産だ。都へ
その馬が、わが家には、こんなにもいるのだ。
「――いいか、おまえは、その跡目をつぐ、総領息子であるのだぞ」
と、死んだ父の
そんな時。――行く雲を見るともなく見ている眼から、急に、ぽろぽろと、涙を
ここでは、いくら泣いていても、なだめてもなし、
「御子……。御子うっ」
たれか、遠くで、彼をよんだ。
馬舎働きの男が、丘の下から、手招ぎしていた。飯時を告げるのであった。小次郎は、首を振って見せた。
「おらあ、食わねえよ。食いとうねえだ、晩に食う」
男が、なお
「ばかっ。そんなに、食わせたけれや、烏にくれてやれ」
石は、男を
牧の中には、こんな丘が、幾つもある。そして、沢の水を飲んでいる馬、横になって眠っている馬、草を泳いでゆく仔馬の群など――眼をやるところに、馬の影が見られる。
けれど、去年の暮、父の良持が死んでから後は、急に、馬の数が減っていた。
父の家人で、いまも牧の管理をしている
「御子。――馬ばかりではありませんぞ。
と、小次郎の耳へ、さも、深刻そうに、
ただ、子ども心にも、深く
大叔父というのは、父の良持の兄にあたる人で、常陸の
そのほか、良持の弟、
小次郎の父良持が
これを、不当なかたちと、見る者はなかった。なぜならば、小次郎の父良持が、息をひく寸前に、親類、家の子など、大勢を枕もとにおいて、親しく、国香、良兼、良正の三名へ、こう遺言して逝った事実があるからである。
「わしに、七人の子はあるが、総領の小次郎とて、まだ幼い。わしが
かくれもない事なので、御厨の浦人が、何度もいって聞かせるまでもなく、小次郎もよく知っている。そしてその事に、彼はなんの不平もない。
彼が彼らしい童心の溌剌を急に
良持が、遺言に、所領の土や馬などと一しょに、奴婢までを、遺産にかぞえているのは、おかしく聞えるが、当時の世代では、まちがいなく、奴婢
後の将門、相馬の小次郎が、十四歳頃の世は、史家の推定で、
西暦で九一六年。指を繰れば、今日から一千三十四年前になる。
千年は、宇宙の一瞬でしかない。――が、人間の社会にとっては、こんなにも、観念がちがう。
奴婢といい、奴僕というも、女を女奴とよび、男を
どんな苛酷な使役にも、貞操にも、衣食の供与にも、身体の移動にも、絶対に自分で意志の自由を持ち得ない約束の人間が、この国の地上には、まだ全人口の三分の二以上もいた。
それらの無数な生命の一個が死ぬまでの価としては、稲何百
人買いは、東北地方から、野生の労働力をあつめて、近畿や都へ売りこみ、都の貧しい
だから、奴婢、奴僕、小者などと呼ぶ者を、
小次郎の父、良持などは、それの主人として、坂東八州のうちでも、
かれの家は、この未開坂東の一端に根を下ろしてから、五代になる。
――
系図は、正しく、
また、帝系的な都の血液と、アイヌ種族の野生の血液とが、次のものを、生み生みしてゆけば、母系の野生が、著しく、退化種族の長を再現して、一種の中和種族とも呼べるような、性情、骨相をもって生れてくることは、遺伝の自然でもあった。
だから、小次郎の親の良持はすでに、その
性情もちがい、処世の考え方も、良持の代になって、ちがって来た。
良持は、先祖からの、官途の職をすてて、土に仕えた。
荘園では、いやでも、課税の対象にされるが、朝廷の
こうして、彼が一代に作った田産と、
「常陸の兄も、上総の弟共も、おれを羨むというが、どうだおれの一生仕事は。――百姓でも、大百姓なら、これで結構。
いま、中央では、藤原氏か、藤原姓の端ッくれにでも、縁のつながる者でなければ、人間仲間ではないようにいわれている時の
だが、ことし十四の小次郎には、亡父が遺した何一つとて、さほどの物には、見えなかった。
強いて、その中で、彼に役立ったものといえば、アイヌ娘の蝦夷萩が、叔父たちの眼をしのんでは、着る物、喰う物などに、あたたかな愛情を寄せ、
「可哀そうな御子。……御子は、かわいそうなお生れね」
と、自分が、奴隷というあわれな宿命なのをも思わず、しまいには、
北武蔵から、
小次郎は、まだ、丘にいた。
土もあらく、風もあらく、水の質もあらく、それと等しく、人間もあらあらとして、野生のままな坂東の天地であったが、さすがに、春の夕ぐれは、余りにともいいたいほど、何事もない。なんのうごき一つもない。
目に見えないほどずつ、陽が沈み、雲の
「御子っ。そんな所に、何して、ござらッしゃる。はよう、おいでなされ、身どもと、一しょに」
また、誰か、呼びに来た。
いずれ、
「おらあ、行かぬぞ。飯も食いとうない。こん夜は、馬と寝る」
と、ふり向きもせず、いった。
すると、下の影は、丘へ駈け上ッてきた。――手こずらす童よと、口叱言をいうのが聞え、同時に、小次郎の腕は、抜けるほど、力づよく、引ッ張られていた。
「御子っ、なにをいい召さるッ。そんな悪たいばかり申さるる故、叔父御たちからも、
「うるせえッ」と小次郎は、突ッ放して、「そうなら、そうと
ぷんぷんと、
その晩、彼は、大叔父の腹心らしい家臣から、一つの急用を、命じられた。大叔父の国香や、小い叔父たちが、奥で酒もりしているらしい間にである。
「
小次郎はむしろ、よろこんだ。幾日かの解放をゆるされたように、いそいそして、母屋から遠くの
すると、真夜中に、蝦夷萩が忍んできて、彼を、ゆり起した。
奴婢長屋は、曲輪の遠い隅ッこで、晩には、逃げないように、
「御子は、あした、横山ノ牧へ、行くんでしょう。そしたら、途中の武蔵野で、殺されますよ。わたしは、叔父御さまたちが、密談しているのを、
彼女は、一心に、小次郎を想っている。小次郎は、かの女が告げた恐ろしさより、べつなものに襲われた。すぐ取って喰べてしまいたいような衝動に駆られ、アイヌ族の特有な梨の花みたいな肌をすぐ頭にえがいた。
「……ね。ですから、ここは出ても、遠くへ行くのは、およしなさい。武蔵野は通ってはいけませんよ」
蝦夷萩は、それだけ告げると、暗い床むしろを、
――と、小次郎の鼻に、彼女が日ごろ髪につけている
まだ、人間たちの間には、人間の自覚すら、ほとんど、稀薄な時代であったから、わずかに、夫婦の制度とか、
宮廷の人々から、一般の都人さえそうだから、この坂東地方などは、原始人時代の男女間から、まだいくらも自覚の男女に近づいてはいない。掠奪結婚も、折々あるし、恋愛争奪戦争に、家人奴僕を武装させ、
蝦夷萩は、十六だったから、奴隷仲間で、ただ
厩は、牧のほかにも、本屋の曲輪を中心として、小さいのが、諸所にあった。いつでも、戦に応じられるように、
この栗毛は、
鞍には、旅の
どこかで、蝦夷萩の顔が、自分を見送っているような気がしたが、振向いても、仰いでも、行くてに
――殺されますよ。武蔵野を通ると。
と、あんなに熱い息でささやかれたのに、彼の頭には、自分の死が、ちっとも、考え出されて来なかった。水々しい果物のような乳くびだの、すこし
沼、川、また沼、
「おうい。豊田の童、どこへ、おじゃる?」
旅の二日目。
小次郎は、誰やらに、呼びとめられた。
彼は、うしろの人を見かけると、彼らしくもなく、あわてて馬を降りた。お辞儀もした。
「
「
「大叔父のいいつけで、この栗毛を、タネ付けに持って行きます」
「どこの牧への」
「横山ノ牧まで」
「え、横山へ。和子ひとりでか」
「はあ」
景行も、馬上だった。うしろには七、八名の従者をつれていた。……
「横山とは、遠すぎる。もう
「叱られます。叔父御たちに」
「庁から、横山ノ牧の者へ、ほどよく、口をあわしておくように、使いを出しておいてやる。大掾の国香どのへは、知れぬようにしてやるから、わしの供に、交じって来い」
「はい。じゃあ、そうします」
菅原景行は、尊敬している人だった。彼にとって、どういう印象があるわけでもなかったが、亡父の良持が、賞めていた人だからである。その亡父のはなしでは、この人は、今でこそ、こんな田舎へ落ちて来て常陸の大掾国香よりも低い身分の地方吏を勤めているが、ほんとは、朝廷で、
菅公の名は、こんな遠い地方でも、知らない者はなかった。今から十三年前、
筑波山の麓には、わずかな
一時、もっぱらいわれた
景行としては、小次郎の旅行を、はて、おかしいがと、すぐに、疑われたものがあったのである。良持の死後、豊田の館にはいりこんで、後見している三名の叔父たちが、なにを、意図しているか、察し難いことではない。殊に自分の上官ではあるが、大掾の平国香なる人物が、どんな性格かということは、吏務のうえからも、よく分っている。
「わしに出会って、おまえは、命びろいをしているのだぞ」
景行は、それとなく、小次郎にいいきかせ、菅生ノ牧まで連れて行って、そこでも、
「わしは、これから公用で、比企の庁へ行って、
と、くれぐれも、
「ええ。……うん。……うん」
小次郎は、幾度も
牧で、幾日かを遊び、横山へ行ったほど日数をわざとおいて、彼は、なに食わぬ顔で、豊田の館の本屋へ帰った。
「……
大叔父も、小い叔父も、こぞって、変な顔をした。御苦労とも、いわなかった。
常陸笠間の北方の山岳で、つねに、平野の豪族たちに反抗している蝦夷ばかりの柵の者が、乱を起したという早馬が来、国香、良正たちは、それから九十日ほど、見えなかった。
翌年の春にも、秋にも、同じ乱が多かった。
叔父どもが、多忙だと、小次郎は、羽を伸ばした。しきりに、蝦夷萩と会う機会にも、めぐまれた。家人たちは、彼女の血を
だが、その年の冬の
空壕の底に落ちて、烏の死骸みたいに死んでいた少女がある。蝦夷萩であった。
「小次郎。見て来い」
小い叔父に突きのめされて、小次郎は、ぜひなく覗きに行った。崖際から、矛を逆さに植えたような
正月も、牧の馬と一しょに、馬房の
彼には、人間の家よりは、馬の仲間のほうが、あたたかだった。
二月である。大掾の国香は、館の奥で、毛皮の上に坐りこみ、良兼、良正の両叔父をも、左右において、小次郎へいい渡した。
「都へ、遊学に行け。人間らしくなるように、学んで来い」
小次郎は、むッそり、口をむすんでいた。不服と、とったものか、小い叔父まで、声をいかつくして、
「なんだ、貴様は。桓武天皇からの血を
ただちに、旅費の砂金、少しと、旅装一通りと、そして、一通の書状とが、小次郎の眼のまえに置かれた。
いやも応もない。小次郎は、それを持って、退がりかけた。
「待て待て」と、国香がよびとめた。「――その書状を、途中で、失くすまいぞよ。時の右大臣、
この頃は、この三叔父の腹のなかは、小次郎にでも、すこし読めている。小次郎は、憎まれ口でも叩きたかったが、京都へ放たれることは、意外な歓びだったので、それをいう余裕もない。
一人の野の自然児は、こうして、家郷千里の想いもする京都への初旅を、いそいそ西へ向って立った。延喜十八年。小次郎が十六歳の春である。
叔父どもは、あれほどある一頭の馬もくれなかった。けれど彼は、なんの不平も思わず歩いた。武蔵野の端から端へ出るまでを、三日も四日もかかって歩いた。人の通った跡さえ
近々と、富士を仰いだ日、かれは感激に燃えた。都へ出たら、勉強せよ、えらくなれよと、富士の噴煙に、いわれる気がした。
富士は、近年、また鳴動を起し、さかんに、噴煙をあげていた。そして、風向きにより、武蔵野の草も白くなるほど、灰を降らした。小次郎は、髪の毛の根に溜った灰を、爪で掻いて、不思議なものを見るように見つめた。
東海の
平安の都は、これ以上、美しいにちがいない。道ゆく人々は、どんなに気高いだろうか。まだ
延喜十八年の晩春の
「そこの、低い山を越えれば、もう眼の下が平安の都だよ」
志賀寺の下で、そう教えられ、彼は、胸ふくらませて、西の視野の展けるまで、汗の顔を真ッすぐに持ったまま、長い登りを、登りつめた。
「……ああ」
と、やがて彼は、
未知の世界に寄せて来た彼のつよい
「ああ。……都へ来た。……都だ」
感涙しやすい少年の純真は、いつか頬をぬらしていた。自分も、今日からは、都人のうちに立ち交じり、あの荘厳な社会の中に生きるのだとする感動の
東西一里五町、南北一里十二町といわれたその頃の平安の都府は、
ましてや、坂東平野の未開土に生れ、朝に那須や浅間の噴煙を見、昼は、牧の野馬を友として育ち、あらい土、あらい風、あらあらした人間たちばかりの中に、およそ文化らしいものの匂いも知らず、十六歳の肉塊となってきた相馬の小次郎が、ここも同じ人間のすむ地上かと忘我のあやしみに打たれたのも無理はなかった。
「和子は、どこの和子やの。どこから来て、どこへ、おじゃるかえ」
ふと、誰かに、こういわれ、彼は、ようやく、われに返った。
尼すがたの、中年女である。やはり同じ長い坂道を登って来たものとみえ、腰を立てて、彼のすぐそばに休んでいた。
「まだかい。忠平公のお住居は。――小母さんは、ほんとに、お館のある所を、知ってるんだろうね」
小次郎は、やや不安になって、尼にたずねた。
「ああ。心配おしでない。そこの御門前まで、連れて行ってあげる」
尼は、初めに、約束したとおり、平然として、うなずいた。
けれど、田舎者の小次郎にも、同じ道を二度も歩いたり、いちど曲がった辻へまた出て来たりすれば、疑わずにいられなくなる。
尼は、よくしゃべった。「和子がこれから訪ねてゆく右大臣家は、小一条のお館だけれど、九条にも御別荘があるし、河原の石水亭も、お住居のひとつなんだよ。そのうちの、どこへ行くがいちばんいいか、私は、ひとに親切をかけるにも、親切を尽さないと、気のすまない
ほんとに、親切な尼であると思い、小次郎は、彼女のいうなりに、腰をおろして、辺りに見とれた。なんという寺院か知らないが、山門があり堂閣がそばだち、五重の塔の腰をつつんだ
「ねえ、和子……」と、並んで足を休めると、尼はすぐいい出した。「おまえが、背に負っている旅包みは、
いともあわれに手を出して乞うのである。
道理で、この尼は、初めから自分の旅包みにばかり眼をそそいでいたことよ、と小次郎も今にして、思いあわせた。それを解いて、食べたかったことは、彼の空腹も変りなかったが、連れの尼にたいして、むしろ我慢して来たところだった。で、彼はさっそく旅包みからそれを出して、尼の手に渡した。
尼は、礼もいわずに、食べはじめた。もとより今朝、木賃でこしらえてくれた貧しい
「寺の者に、湯など乞うて、ひと口、飲んで来るほどにな。和子は、ここで待って
尼は、立ち去った。
それきり尼の影は見えず、辺りは暗くなった。彼は待ちくたびれて、体をもてあました。するとさっきから
「おい、旅の童。
御堂裏の焚火には、なお七人ばかりの男どもがいた。
「どうだ、みんな、この童は、拾い物だろうが」
小次郎の腕をつかんで連れて来た男は、仲間の者と思われる男共を見くだして、大自慢で、こういった。
「何たッて、
むくむくと、みな起き出して、小次郎の顔を見、装いを見、全姿を、ジロジロ眼で撫でまわして、
「安い。これやあ、安いものだぞ」と、ひとりがいえば、他の者も、安い安いといい
「なんだ、それじゃあ、たった今、黒谷の尼と、物蔭で耳こすりしていたのは、その取引だったのか」
「童の着けている
「ふてえ奴。ひとり儲けは、よくねえぞ。おれたち
「酒を買えやい」
「そうだ。やい、
仲間といい、組という。一体、これはどういう
相馬の小次郎が、昼、初めて、逢坂山の高所から眺め知った平安の都は、決して、彼の幻覚ではない。王朝設計による人間楽土の顕現であり、世に
けれど一歩、その市中に、足をふみ入れてみたときは、余りにも、表裏のちがいの
いったい、
――というよりも、貴族たちが、貴族たちだけの生活設計と、繁栄の意図のもとに創案して、零細な庶民の生態と、大きな力の作用などは、考慮にいれなかったものといったほうが早い。
だから、年をふるに従って、平安の都なるものは、実にへんてこな発展を描いてきた。
たとえば、宮門や太政官、
そういう地上に、また、

「阿呆よ。何を拝むのだ」と、かれらにたいして、憤る者は、坊主の口まねを借りて、こういった。
「――
こういう声は、徐々に、巷に聞えだし、上流層も庶民も、ひと頃からみれば、よほど自己の信仰に、懐疑し出してはいたけれど、それでもなお、素朴なる知的水準にあるこの国の上では、およそ仏陀の鐘の音みたいに、無条件に衆を跪伏させてしまうほどな魅力あるものは、他になかった。
天智、天武、持統、聖武天皇などの歴世を通じて、仏教の興隆このかた、全国に創建された寺院の数はたいへんなものである。財も労も精も、国力の――それはみな下層民の汗と税によるものが――限りなく投じられてきたといっても過言ではない。
だが、その中枢の信仰者である王朝貴族たちは、自らの政治や私的生活の中に、その仏教を急激に腐敗堕落させる経路ばかりを追ってきた。藤原閥のここ一世紀余にわたる栄華と専横は、その歴史でもある。
それでも、大化の革新以後、藤原
そして、そのどっちかに
中流階級という層は、その頃まだ、日本には見あたらなかった。それらしき知性人や、無産文化人の極く少数が、いることはいても、それとてみな、ボロ衣冠をまとい、
――だから、相馬の小次郎が、入京の第一日に接触した者はみな、その一方の黒い層に住む人間たちだったことは、もう再言するまでもなかろう。ただ、それにしても、暗夜の寺域に、鬼火のごとき火光をかこんで、
酒を振舞え、酒をおごれ、と仲間たちからせびられて、不死人と呼ばれていた大男は、腰の革ぶくろから、銭をかぞえて、投げてやった。すると、一人はたちまちどこかへ走って行き、やがて素焼の
「さあ、
と、さらに車座を、睦み合った。
「待て待て、すこし火が、不景気になった。
「なに、薪か。薪なんざ、あんなにもある」
伽藍を指さした一名の者は、立ちどころに、そこの廻廊へ上がって、すでに壊れている
「ほい。まだあるが」
「もう、たくさん、たくさん」
かくて素焼の瓶から、どろどろした液体を、酌ぎ交わし、飲み廻している程に、ようやく、火気にあぶられた手脚のさきにまで、酒がまわり始めたとなると、彼等の卑猥に飽きた話ぶりは、一転して、胸中の
小次郎は、不死人のそばに、ぴったりと寄せつけられて、立ちも逃げもできないように置かれていたので、ただぽかんと、この光景を見ていたが、彼にとって、実にびッくりさせられたことは、この連中が、時の
いや、公卿堂上だけの悪口ならまだしも、はては、天子の暗愚におよび、藤原氏の
「いったい、こんな世の中にした一族めらは、極悪党といっても足りねえが、させた者もまたさせた者で、天子様だから仕方がねえという法はあるまい。むかしむかし、おれたちの
と、
かれらは、祖々からの慣わしで、天子というも、父母というも、自分たちのものという同意義に考えていた。だから、子が親に悪たれをたたく場合もありうるように、そこらの天皇や法皇の御名にたいしてもくそみそに悪口をいって
だが、小次郎がもっている習慣では、これは、
「なんだろう? この人たちは」
彼は、入京の第一夜に、第一の疑問にぶつかった。
だが、てんで見当もつかないのである。ようやく、落着き得た眼をもって仔細に連中の風俗を見ても、公卿の子弟かとも思えるような、人品服装の若者もいるし、猟師か、
仲間同士で呼びあっている名前にしても、
不死人が、一同の
「天子の多くは、愚蒙だというのは、当らない。仁徳帝は、申すも
と、
不死人の雄弁は、急に、ぷつんと、口をつぐんだ。
「な、なにか?」と、すぐ怪しんで、浮き腰立てる仲間たちを、彼は笑って、かたわらの小次郎の頭の上へ、自分の大きな
「童。てめえは今、大きな眼をして、おれの顔を見たな。おれたちの仕事を知って、驚いたのだろうが。……いいか、仕込んでやるぞ、てめえにも。あしたから俺の手先になって、その道を、覚えるがいい。
彼がまだ、いい終りもしないうちだった。真向いにいた禿鷹が、ぎょッと、突き上げられたようにひとり起ち上がって、
「変だ。やっぱり……、何か、おかしい?」
「禿鷹。なにが、いぶかしいんだ」
「おれの勘は、
「よせやい、おい。いやだぜ、おどすなよ、禿鷹」
「いや! もう近い。来たぞ」
「げっ。ほんとか」
「あっ――
一せいに、わっと起ったとたんに、突きのめされて、小次郎は、燃え残りの焚火の上に、尻もちをついた。
「あわてるな。いつもの山の穴へ」と、不死人は、われがちに逃げまどう仲間へ
「あっ。いけねえ」
と、身をひるがえして、方角を
脚に二本、肩のあたりにも一本、矢が立った。小次郎はその後、なにも知らなかった。気がついたときは、
そこは、王朝官衙の八省のひとつ、
省内には、

かつては、
いうまでもなく、ここの管下では、巡察、糺弾、勘問、聴訴、追捕、囚獄、断罪、免囚など、刑務と検察行政のすべてに
「おいらは、罪人じゃない。何も、悪い事はしていない」
小次郎は、昨夜から、気がつくと同時に、自分の不安に、自分でいい聞かせていた。
「
「童。おめえも、火
と、それらの者から訊かれたりした。
小次郎は、時々、ぽろぽろと、涙をこぼした。なにか、無念なのである。童心の潔癖が、心外さに、
「おいらは、桓武天皇から、六代目の御子だ。坂東武士の
みずからの純潔を奮いたたせるために、彼の胸は、ふだんには意識もしてない血液のことが、
「役人の前へ出たら、そういって、威張ってやらなければならない」
唇をかんで、獄舎に、待ちうけていた。
すると昨夜、自分に“気つけ水”を呑ませてくれた最下級の捕吏が、覗き窓から、眼を見せて、
「おう、元気だな、童。おまえは、直きに出されるよ」と、教えてくれた。
間もなく、衣冠の囚獄吏が、
「出してやれ」
と、顎で命じた。
そして、小次郎を、
「立ち帰って、よろしい」と、いい渡した。
所持品の中には、大叔父、常陸の大掾国香から、藤原忠平にあてた大事な書類がつつんである。彼は、解いて、たしかに、あるのをよろこび、今度は、
すると、獄司は、門まで送って来て、しきりと、小次郎の物腰を見ていたが、
「おいおい、東国の
と、訊ねた。
「ええ、参るんです。どっちへ行ったらいいでしょう」
「じゃあ、その書状に見ゆる、大掾国香どのの、
「はい。国香は、私の大叔父です。私は、東国の豪族、平良持の子、相馬の小次郎と申すんです」
こういえば、獄司にも、帝系の御子だということくらいは、いわなくても分るだろうと、小次郎は、ひそかに、晴がましい血を頬にのぼせた。
案のじょう、獄司は、態度をあらためた。そして、初めて都の地をふむのでは、大臣のお館たりとも、方角に迷おう。放免(下級の
「これよ、小次郎冠者。もしな、そのおてがみを、直々に、忠平公へ出す折、何ぞ、途中の事どもを、公のお口からたずねられたら、
と、露骨な、自己宣伝の依頼を、平気な顔でいった。
放免は、気がるな男だった。
「東国ッていうと、ずいぶん、遠いだろうな。よく一人ぼッちで、来たもんだね。ゆうべみたいな目に、何度も、道中で
「ううん」と、小次郎は、かぶりを振り――「あんな目に遭ったのは、初めてだよ。
「賢いな、おまえは。都へ出て、何になるつもりなんだい」
「学問したり、いろいろ、一人前の男の道を、勉強したりして、
「とんでもない事だ。いい人間になろうというなら、都から田舎へ、見習いに行った方がほんとだ」
「ねえ。放免さん」
「なんだい。小冠者」
「へんな事、訊くようだけれど、どうして、都の人は、女も……それから時々の男でも、あんなに、色が白いんだろう?」
「はははは。
「白粉って、何」
「化粧に、顔へ
「なアんだ。顔へくッつけてるのか」
「きまっているじゃないか。女が、白粉をつけ始めたのは、今から二百余年もむかしの、持統天皇の頃からだというのに、まだ、東国へは、行っていないのかなあ」
「見たこともないよ。初めは、ほんとに、色が白い人なのかと思った」
「じゃあ、
「うそだい。それは、遣唐使が、
「ほ。なかなか、おまえも、知ってるな。けれど、輸入して来たのはやっぱり坊主だったにちがいない。どうして、僧侶というものは、あれでなかなか如才のないものだ。
「放免さん、まだかい。小一条は」
「あ。もう見えている。……あれだよ、あれに見える長い長い
小次郎はもう連れへの返辞もわすれていた。近づくにつれ、彼のひとみは、その宏壮と優雅なる寝殿造りの邸宅の美に打たれて、ただもう驚異と、ある
「あ。……今日はまた、お
門前を、やや離れた所で、二人は、ふと
さくら
「小冠者。おれが先に、ちょっと、取次を頼んでやるから、そこらに、待っていな」
放免は、轅門をはいって、白砂のしきつめてある広前をきょときょと見まわし、もう
「こらっ。いけないっ。――出ろ、出ろ」
と、引きもどした。
放免が、小次郎になり代って、はるばる訪ねて来たわけやら、ゆうべからの仔細を、つまびらかに、述べたてているまに、
放免は、出過ぎた親切気を、悔いるように、
「じゃあ、てまえは、これで……」と、辞儀ひとつ残して、
だが、後には依然、小次郎を取囲んで、はなしにのみ聞く、蝦夷の子でも見るように、好奇な眼と、疑惑とを、露骨にあびせながら、なお騒々と、
そして、結局は、
「御遊宴のさなか。お客人たちもおらるる所へ、ひょんなお取次は、興ざめのお叱りもうけよう。まずまず、童は、そこらに留めて、人目にふれぬようにしておいたがいい」
と、家司(老職)のさしずが下って、小次郎は、そこから更に、外庭を歩かせられ、
「ここで、待っていろ」
と、雑色の指さす所へ入れられた。
そこは、邸隅の
たくさんな牛輦が、幾台も曳きこんであり、所々は、牛の糞が、山をなしている。
糞と
“
小次郎も、覗きこんでいた。博奕は、坂東地方でも盛んである。けれど、もっと原始的な博技で、それに、こんなにもざらざらと
ここでも、彼は、眼をくるめかせた。銭がまるで石ころみたいに扱われていることもだが、もっと彼を昂奮させたものは、赤裸な人間の欲心をつよく描いた彼ら同士の顔つきであり、その語気と語気の火を発するような遣り奪りであり、また、殺気立つばかりな闘争の光景だった。
大人たちのするのを、傍観しているだけでも、小次郎は充分に、血を遊ばせて、退屈をわすれていた。
――が、やがて、銭の手もとも夕闇にまつわられて灯が欲しくなりかけた頃。
「牛飼の衆。お客人方いずれも、お座立ちと見えまするぞ。輦寄せへ、そろそろ、立ちならび候え」
と、奥の者から触れて来た。
それとばかり、勝った者も、負けた者、一せいに出払って、おのおのの牛輦を曳き出して行った。あわただしい
小次郎は暗がりで、何やらむしゃむしゃ頬ばッていた。邸側から供人たちへ出た弁当の余りを拾ったものらしい。あんなに、虫のいい依頼をした刑部省の獄司ですら、食物などは囚人にくれる
だが、心配はない。さっきの家司も雑色も、彼を置き忘れてはいなかった。紙燭の影が揺れて来、ふたたび、以前の平門前の
すでに、彼がさきに述べた口上と、大叔父国香からの書状とは、家司から取次がれて、右大臣忠平の
決して、客らしい扱いではないが、召使たちから、一部の建物のうちに、まず上がることをゆるされ、
「やい、やいっ。家司の
と、不きげんな気色をこめて、
世に、自分の意志の行われぬことを知らぬ藤原一門の長者たる主人の声癖を、家司の臣賀は、遠くでうける老いの耳でも、聞きあやまることはなかった。
「はいっ、はいっ。臣賀めは、
「ここな、不つつか者よ。よい年をしおって」
「あっ、なんぞ、お心にそいませぬか」
「おどけ者よ、爺は。なんぼ、客のあとかたづけに忙しかろうと、あれ程、かたくいいつけた事、なぜおろそかにいたしよった」
亡兄の藤原時平も、著名な大声で、よく殿上の論争にも、菅原道真という文人肌の政客を、その声できめつけたという話をのこしているが、その弟の忠平も、豊満な肉体の持ち主ではあり、ことし三十八歳という壮年でもあるせいか、兄に負けない
「お叱りついでに、まいちど、仰せ下さりませ。爺め、やはり幾ぶん、年
「東国の餓鬼のことじゃよ。国香の書状を持って来たとかいう童じゃよ。まだ、わからぬか」
「は、はい。その小冠者を、どうせいと、おさしずでござりましたやら」
「ええい、やくたいもない
「や、や。それは、しもうた」
「もう遅いわ。穢れ者を上げた所は、すぐ
果ては、肩に
この異様な怒りかたは、病的にすら見えたが、臣賀でも他の召使でも、これを、不自然な
なぜであろうか――というに。ひとりここの
強烈な信仰は、半面に、極端なまでの迷信をいつか伴っていた。
たとえば、
産婦にふれた者、家畜の死にふれた者、火を出した家の者、みな、触穢の者と忌まれるのである。
その一人ばかりでなく、周囲の者、家人、時には、出入りの知人までが、同様な目に遭うこと、少なくない。
史書に、実例を
=朱雀帝ノ天暦 元年。左近衛府ノ少将ノ飼犬ガ、死者ノ骨片ヲ咥ヘテ来タトイフノデ、府ハ、三十日ノ穢トナツテ門ヲ閉ズ。
=同月、府ノ井戸ヲ、ソレト知ラズ、修法所ノ童ガ汲ンデ用ヰタト騒イデ、大内裏中、七日ノ穢ニ服ス。
=光孝帝ノ世代、貞観殿ノ南ニ、少女ノ死髪ヲ見出デ、諸司 釈典 ヲシテ、三十日ノ祓 ヲス。
このほか、産児の=同月、府ノ井戸ヲ、ソレト知ラズ、修法所ノ童ガ汲ンデ用ヰタト騒イデ、大内裏中、七日ノ穢ニ服ス。
=光孝帝ノ世代、貞観殿ノ南ニ、少女ノ死髪ヲ見出デ、
これは、穢とはいえないが、王朝の華奢に彩られた当時の貴族たちが、常日頃には、物の祟りだの、
加うるに、この階級の驕奢淫蕩は、各人の生命を、みな短くしていた。三十歳、四十歳を多く出ぬまに、
延喜の当代、その最も陰鬱な実例は、現在の宮中にあった。時の醍醐帝は、
せっかく今日、客を招いて、晩春の陰鬱を、
だが、その
臣賀は臣賀で、また、雑色部屋へ来て、どなり立てていた。結果は、いちどそこまで、招き上げられた小次郎の身へ返って来た。小次郎は、横の土居門から、河原へ連れ出され、まる裸にされて、加茂川の水の中へと、突きのめされた。
「――穢を洗うのじゃ、穢を。朝のお陽さまが、東の峯から昇るまで、何度も、沈んでは、祓して、穢を浄めたまえと、諸天にお祈りしておるのだぞ。よいか。昼は、小屋籠りして、夜は夜で、七日の祓をやらねばならん」
臣賀は、きびしくいいつけて、雑色たちと共に、邸内へもどって行った。
小次郎は、さて、なんの事やら、分らなかった。
けれど、これが右大臣家への、奉公初めの一つかと思い、ぽかっと、急流の中から、首だけを出していた。
水はまだ、
「……あの月も、都に来ている。ああ、おいらも、都にいる」
彼は、たくさんな、馬の顔を、朧雲の上に描いた。故郷の大結ノ牧の馬房に、こん夜も、うまや藁を踏まえ、平和に眠っているであろう馬たちに、心から告げていた。――おいらの友達たちよ、淋しむなかれ。おいらは幸福だ。都人になるために、加茂川の水がいま、おいらの旅の
延喜は、二十二年までで、その翌年から、
相馬の小次郎も、はや二十一歳である。彼が、右大臣家に仕えてから、いつか、五年はすぎたわけだ。生意気ざかりの年頃といっていい。
もちろん、元服もし、帯刀もゆるされ、もう一人前の男である。小ざッぱりと結髪して、垢のつかない
邸内での、彼の役がらは、
きょうも彼は、参内の供について、
ほかの納言、参議など、諸大臣の輦も、轅をならべて、供待ちしている。
ここでは、他家の雑色がよりあつまるので、都のなかの出来事は、一として噂から洩れることはない。
「なにがしの
などと、ひとりが語れば、またひとりも。
「いやいや、色事と群盗のはなしなら、都には、毎日、掃くほどもある。これはごく内密になっているが、内裏のうちにだって、こんな事があった。ことしの
雑談がわくと、
京師を横行する群盗は、いまや、市中をあらすだけでは物足らなくなり、折々、宮門をうかがって、後宮の女御更衣たちをも、おびやかすばかりでなく、あるときなど、真昼、陛下がおあるきになる弘徽殿の橋廊下のしたに
――そういう、兇悪なものの出没を聞くたびに、小次郎は、かつて十六歳の春、この都の土を初めて踏んだ日の宵に、東山のふもとで見た焚火の群をいつも記憶から呼びもどされた。そしてその仲間たちの顔や、また、八坂の不死人だの、禿鷹だの、穴彦だのと呼び交わしていた彼らの名まえまで思い出された。
いかめしい、八省十二門のうちには、兵部省もあり、刑部省もあり、また市中には、検非違使もいるのに、どうしてそんな群盗どもに横行されているのか、小次郎には、ふしぎでならない。
けれど、供待ち仲間の、諸家の奴僕や舎人たちの放談が教えるところによると、
「こうなるのは、あたりまえだ……」と、みないって、憚らなかった。
「御政治がわるいのさ。……いや、悪いにも、いいにも、今は、御政治なんかないんだから、群盗たちには、こんなありがたい
話題が、この理由と、原因ということになると、小次郎は、いつも、肩身がせまくなった。なぜならば、彼の仕えている主人――右大臣藤原忠平が、だれよりも、くそみそに、悪口の対象になるからであった。
忠平は、
それは、さきに、若くて亡くなった、左大臣時平の位置と権勢とを――弟の彼がそっくり受け継いでいるからであるが――兄の時平とは、その政治的な才腕も、見識も、抱負も、人間そのものも、まるで段ちがいに、格落ちしているのが、いまの右大臣家であるというのだ。
すくなくも、
ところが、弟の忠平と来ては、比べるにも、おはなしにならない。
“宮中の
という評が、それを尽している。
優柔で姑息。わがままで、
画は、自慢で、かつて扇に、
(あ。この時鳥が啼いた――)
と、戯れに仰っしゃった。それをまた、おベッかな公卿たちが、そばから、
(さすがは、お筆の妙、名画のしるし、時鳥は画いても、啼く声までを画きあらわした者は、古今、忠平の君おひとりであろう)
などと賞めたてた。
それを忠平は、自分で、自慢ばなしにしたり、歌の草稿などにも、自ら“時鳥の大臣”などと署名している。
また
ちかごろ、宮廷のうちも、際だって、華美になり、むかしは、天皇のほかには着なかったような物を、
こういう大官や宮廷のもとに、ひとり刑部省や兵部省の官人たちだけが、精勤とまごころを以て、服務を看ているはずもない。――かれらは彼らの領野において、やはり同じ型の逸楽と役徳をさがして時世に同調している。群盗にとってありがたい御世たる所以のひとつである。
こんなふうに、ここ輦溜りの供待ちで、小次郎が、毎日、見ること聞くことは、なに一つとして、ろくな事ではない。
「
小次郎は、時には、ひとの放談に、われを忘れて、おもしろがりもしたが、また、折には、腹が立って、なにか、反抗して見たくもなった。
なぜ、というまでもなく。
彼は、今でも、この平安の都を、美しい花の都として、抱いていた。初めて、不毛の坂東曠野から
(ああ、こんな天国が、人間のすむ地上にあったのか? ……)
と、恍惚として、
そして、自分も、その美しい都人のなかの一人となり得たことを誇っていた。
さらには、また、
故郷の人々からもいわれた通り、ここに遊学した
「だが、勉強のほうは、まるでだめだ。藤原氏の子だと、
彼の素朴は、まだ上京の初志を、わすれてはいなかった。だから、夜間、ひそかに夜学したり、昼も、この輦溜りでつぶす多くの時間を、なるべく、読書することにしていた。
――で、今も、轅と轅のあいだに、ひとり潜んで、近ごろの学者といわれる
すると、たれやらその側へ来て、だまって、小次郎の手の書物を、共に、見おろしている者があった。
「……? やあ」
ふと、気がついて、小次郎は、書物から眼をはなした。
そして、恥かしそうに、あわてて、
「――まだ、陽が高いようですね。諸卿のお退がりには、だいぶ、間がありましょうな」
と、てれかくしに、午後の陽を、ふり仰いだ。
供人宿の
「よく勉学されるな。そこもとは」
さきも、初めて、にやりと笑った。小次郎は、顔をあからめた。事実、自分が読んでいたのは、中華の書物ではあるが、ごく初学者の読本にすぎない孔子の一著書であったからだ。
「……いえ。勉学なんて。……それほどなものじゃありません」
「でも、心がけは、
「さあ。どこかで、お会いしたことが、あるでしょうか?」
「こっちから
「失礼ですが……覚えがございません」
「そうだろうな。ハハハハ」
「どなた様でございますか。おさしつかえなくば、お聞かせ下さい」
「そこもとの生国は、東国であろうが」
「そうです。あなたは」
「わかるだろ。ことばでも。……わしも東国さ。しかも、お身の生れた下総の豊田郷から程遠くない常陸の笠間だ」
「や。……」なつかしさに、小次郎は、いきなり立ち上がった。
「……じゃあ、常陸の大掾国香どのを、御存知でしょう」
「知らないで、どうするものか。わしは、国香のせがれだもの」
「ああ。じゃあ、この私とあなたとは、
「ちがう。貞盛は、わしの長兄。わしは弟の
「では。御兄弟おふたりで、都にいらっしゃるのですか。これは、羨ましいことです。いつから、この京都においでなので」
「お身が、豊田郷から、京都へ出た、翌々年のことさ。もっとも、兄の方は、それよりずッと前に、来ているが……」
「で、今は、どちらに、お
「兄の貞盛は、もうとくに、勧学院を卒業して、御所の
「御舎兄の貞盛どのは、私が、小一条の右大臣家に身をよせていることを、御存知のようですか」
「……うム。知っているらしいが、くわしい事は、何も聞かなかった。会って、話したことがあるかい」
「いえ。一ぺんも……」
小次郎は、ふと淋しい顔を見せた。実は、たった一度、応天門の
だが。――それには触れるいとまもなく、彼は、繁盛から今、ことばをかけられたのがうれしかった。従兄弟といえば、血は他人よりも濃い、いや、他人にしても、異郷千里のこの京都で、初めて、同じ故郷の、同じ坂東平野の土に育った人間に会ったのである。なつかしさ、うれしさ、小次郎は、淡い郷愁と同時に、大きな力強さを感じた。
彼のこの気もちは、決して、誇大な感傷ではない。その頃――人皇第六十代、醍醐帝の皇紀一五九〇年という時代の日本のうちでは、
たとえば、

この異郷の空で、小次郎が、たまたま、同じ坂東者に、出会ったのであるから、繁盛を見る彼の眼が、従兄以上な、ある、同血種の親しみとなつかしさを感じたのは、決してむりなことではない。
「小次郎、お身も、勉強したいのか」
「したい」と、小次郎は、率直に、繁盛に答えた。
「奨学院へも、勧学院へも、入らないで、雑色なんかして働いていてはだめだ。体が疲れて、勉学など、思いもよらぬ」
「でも、奨学院へは、在原氏。勧学院へは、藤原氏の子弟でないと、入れないのでしょう」
「校則は、そうなっているが、右大臣家から、たった一言、お声をかけてもらえば、なんでもないさ。博士たちも、学者はみな、貧乏だから、袖の下も欲しがっておるし、方法はいくらもある」
「そうでしょうか……?」
「また、正面からいっても、そうじゃないか。おたがいは、坂東の地方豪族の子に生れ、公卿でも、藤原一族でもないが、系図からいえば、正しく、桓武天皇から六代めの孫たちだ――帝系じゃないか、われわれも」
「そうだ。なるほど……。けれど、右大臣家に、身をおいても、まだ一度も、忠平公からお声をかけられたことすらなし――どうして頼んだらいいだろう」
「わしのいる御子息の九条師輔さまのお館へは、折々、わしの兄が、管絃のおあいてに召されるから、そのとき、兄に話しておいてやろう。兄から、師輔さまへ、師輔さまから、父の君の忠平公へと、頼むようにすれば、きっと、お耳に達するだろう」
「おねがいします。まだ、お会いいたしませぬが、兄上の貞盛どのにも、どうかよろしく、仰っしゃってください」
「よし、よし。心配するな……」と、繁盛は、のみ込んで、別れかけたが、またふと、足をもどして――
「おい、小次郎。近いうちに、もひとり、坂東者が、きっと、右大臣家へ顔を出すぜ」
「へえ。誰ですか」
「九条家の者から聞いたのだが――
「下野の秀郷の名は、私の郷のほうへも聞えています。けれど、その秀郷は、私がまだ豊田郷にいた頃に、何か、大きな争いを起して、
「それが、
その日は、それで別れた。
しかし、繁盛と会い得たことから、彼の希望は、一そう大きく
ただ、わずかに、不平だったのは、
(従兄たちは、ああして学業を終え、みな、低くても、位置を得ているのに、どうして自分のみ、いつまで、こんな牛部屋の隣に住み、学院へも入れられずに、きょうまで放ッておかれたのか?)
という不審だけであった。
しかし、彼は元来、もの事を、善意にうけとる素朴な本質と、人を信ずる純一な性情がつよい。で、こういう疑問がわいても、彼が彼にする答えは、
(きっと、大叔父の国香が、おれに持たしてくれた添え状に、そんな事まで、細かに書くのは忘れていたからにちがいない。――そして、忠平公も、あんな
ひたすら、彼は、その吉報を、待ちかねた。――繁盛から、何かいって来てくれる。あるいは、突然、忠平公から、
(――小次郎。庭さきへ来い)
とでも、家司を通じて、おことばが、かかるかと。
待てば、長い。なかなか、なんの吉事もない。
八月。――秋の初めである。
ある日、小一条のやかたに、一群の訪客があった。
訪客たちは、遠国からの人々らしく、同日、
「これは、東国下野の掾、俵藤太秀郷にござりまする。越し方、かずかずの御鴻恩にも、たえて、親しゅうお礼も申しあげず、御不沙汰をかさねておりました故、いささか、
ひとり、秀郷だけ、内へはいって、ほかの郎党は、平門にのこし、こう、大臣家の
秀郷も、小次郎の亡き父、平良持とひとしく、坂東地方の北辺に、幾代かをかさねている土豪の族長であった。
かれの
かれは生え抜きの坂東土豪だが、母系が藤原氏の縁をひいているところから、藤原姓も名乗っていた。それもあって、官職を得、早くから京都へも出て、大番も勤めたり、また近年、下野ノ掾を任ぜられ、その系図、縁故、京都との折衝などにおいて、いよいよ地方的な勢力を加えていた。
ところが。――去る延喜十六年の事である。秀郷の腹心の配下が、国司にタテを衝いて、いたく辱められた。法規と腕力の抗争となり、果ては、血を見るような私闘となった。同族のうけた辱めには、理非を超えて結束することの強いのが、彼等の特質であり、また、族長をいただく者の自然な生態でもあった。
秀郷は、まだ、四十前の、血気旺盛である。いかでか
これは、直ちに、中央に早打ちされ、朝廷、
(甘んじて、罪に服し、
彼がすすんで、服罪したので、一族もみな、兇器を捨て、
そして、配所の罪人と月日をすごすこと、およそ三年。
そのあいだには、彼の妻の縁をたよって、都の大官たちの間に、あらゆる赦免運動が行われていたことはいうまでもない。
三年にみたず、
そこで、秀郷は、将来のため、また、その折にあずかって庇護をうけた右大臣忠平へ、かさねて、莫大な
小一条のひろやかな庭園には、無数のささ流れを、自然の小川のようにひき、おちこちの泉石のほとりには、
「小舎人、小舎人。……おん内庭の御門をひらき、
右大臣家の老家司、
かれの語調をまねて、雑色部屋の者も、
「心得て候う」
と、笑いながら、腰をあげ、なお臣賀老人が、しつこくいうのに、再び答えて、
「御献上の下野鹿毛。ただいま、釣殿のおん前へ、
と、どっと笑った。
臣賀は、さらに、他の小者に、松かがりを、庭に焚かせて、露芝の遠くに、ひざまずいていた。
「小次郎、口輪をもってくれい。……小次郎、口輪を」
雑色たちは、庭門のそばで、
日頃から、召使たちの間でも、馬にかけては相馬の小次郎――と、これだけは、通り者になっていた。実際、かれの手にかかって、おとなしくならない馬はないからである。
小次郎は、性来、馬が好きだ。馬を見ると、肉親の者を見るような気がした。あの、故郷のひろい天地を、馬のにおいに感じる。また、大結ノ牧の馬房で、馬と一しょに、寝藁の中で寝た夜もおもい、馬の腹に枕して、泣き泣き眠った悲しい日のおもい出も
「おいっ。心得た。――離してよい」
小次郎は、同僚から、口輪をうけとって、しっかり、つかんだ。
そして馬の駻気を、なだめながら、しずしずと、貴人のまえに臨む歩調をとらせた。
客の秀郷と、主の忠平は、廊の間へ出て、立っていた。
「……ほ。この馬か。なるほど、見事よな」
忠平は、酔眼をほそめて、しきりに賞めた。この大臣は、輦の飾りには、ひどく凝っているが、乗馬には、まるで趣味はない。しかし、こう褒めるのは、馬は、貨幣だからである。殊に、名馬ともなれば、それは驚くべき高価だということは、よく知っているからだった。
秀郷は、贈り物が、気に入ったと見て、さらに、自分で庭へ降りてきた。そして、この馬が、いかに名馬であるかという専門的知識をかたむけて、庭上から説明した。
そのことばつきは、どう丁寧に述べても、いわゆる坂東なまりの粗野な語である。それが、耳なつかしく、心をひかれて、小次郎は馬をわすれて、秀郷の顔ばかり見ていた。
年の頃は、三十八、九か。皮膚の色さえ、小次郎には、故郷のにおいが感ぜられる
「これ……小舎人。なんでそちは、わしの顔ばかり見ているか」
秀郷は、彼のぶしつけな視線に、不快をおぼえたのか、やがて、馬の説明を終ると、こう叱った。
「よも、
小次郎は、それが、忠平の耳へもはいったと思ったので、はっと、身をすくめ、われにもあらず、地へ、ぬかずいてしまった。
「おお、どうされたの客人……」と、果たして、忠平は、聞き咎めて――「その、小舎人を、御存知か」
「いや、見も知りませぬが……」
「なにか、粗相いたしたか。その召使は、お
「良持? ……と、仰っしゃると、下総の豊田の郷にいた平良持がことでございますか」
「そうじゃよ。知らんかの。常陸の国香から添え手紙あって、生来、
「これは、亡き良持の、何番目の伜にございますか」
「さあて。三男やら、四男やら、そのほどは
小次郎は、地にぬかずいている耳へ、そのまぢかな声が、何か、ただがんがんと、地うなりのように聞える心地で、満足には、聞きとれなかった。
忠平のことばの途中から、くわっと、血が
常平太貞盛は、もう誰の眼にも、坂東者とは、見えなかった。父の国香に似て、背もすぐれ、
身だしなみもいい。執務もまじめである。有為な青年だ――と、たれにも、感心されている。
勤めている
道風は、
それでいて、年はもう六十をこえ、子が多く、孫もたくさんいる。書斎の板縁は腐っているし、
だが、道風は、書家である。筆硯のそばに、いつも独自の天地を楽しんでいるふうだ。しかし、この老書家は、行儀がわるく、夏など、冠だけはかぶっているが、
はなし好きで、文学のことになると、すぐ熱しるが、より以上、夢中になるのは、
「君側を、清新にしなければだめだ。もう小手先の、小政策では、どうにもならない。藤原氏が政権を離さないうちは、それも見込みはない。……が、いまに見て居給え。こんなことを、やっているうちに、何が、起るかしれんよ。天を
というふうに、時もわすれ、
こうなると、いつ果つべしとも見えない気しきなので、きょうも、そこを訪ねていた常平太貞盛は、
「先生。……実は、ちょっと今日は、さるお方の許へ、寄り道しますので……」
と、逃げ腰をうかせた。――すると、道風は、
「アアそう……」とかろく舌鋒をおさめて、自分も、乾いた硯の
「寄り道? ……どこのお館。歌の会でもあるかの」と、たずねた。
貞盛が、いつも愛顧をうけている右大臣家の御子息、九条師輔さまの所へ――と答えると、急に、それで思い出したように、道風は、立て膝を上げて、かたわらの書棚から、一帖の書の手本を取り、無造作に、彼に托した。
「長いこと、お頼まれしていたのじゃが、気がすすまんのでね……放っといたが、ついでがあったので、書いといたよ。これを、師輔君に、さしあげてくれい。……書いてあげたところで、どうせ、ろくな手習いもしまいがね」
「かしこまりました。では……たしかに、おあずかりして」
と、貞盛は、匆々に、そこのあばら屋同然な門を辞した。
その夕べ、師輔に会い、書の手本を、渡した。そして、いつものごとく、和琴を
「兄上。ちょっと、お顔を……」と、自分の小部屋へまねいて、こういった。
「相馬の小次郎が、都へ来て、右大臣家に仕えていますが、まだ、御存知ありませんか」
「……小次郎か」と、ちょっと、いやな顔をして――「おまえは、会ったのか」
「え。いつぞや、宮門の御輦溜りで、会いました」
「あまり親しくせんほうがいいな」
「なぜですか」
「常陸の父上から、そういって来ている。わしも、一度おまえに、注意しようと思っていたのだが……」
「はて。でも、その父上が、右大臣家へ、添え状を書いて、特に修学させてくれと、御依頼申したのではないのですか」
「修学なんて、あの男に、滑稽な望みだよ。田舎にいたときから、粗野で暴れ※[#小書き片仮名ン、83-14]ぼで、人にも、嫌われていた小次郎だ。良持どのの亡いあとは、父上が、あれの大叔父として、あとあと、家のつぶれぬよう、一族や召使の将来も見てあげなければならん立場にある……。そういう点から、小次郎の性格は、おもしろくないと思っておられるらしいな」
「じゃあ、小次郎に、豊田郷の跡目は継がせないおつもりなのでしょうか。しかし、そうはいっても、小次郎は、まぎれもない良持どのの長男だし、私の見るところでは、そう悪くいうほど欠陥のある性格とも見えませんが」
「繁盛、繁盛……」と、貞盛は、兄として、たしなめるような眼で――「めったな臆測を、みだりに、口へ出すものじゃない。何事も、父上のお
「
「おくびにも……。よいか」
貞盛は、すぐ立った。
いつぞや、小次郎と約束したことなど、何も、いい出さないうちに――である。でも、繁盛は、小次郎への返辞もしなければならないと思い、兄を送って、邸外まで歩いた。そして、それとなく、小次郎の希望をいってみると、貞盛は、ニベもなく反対した。
「そんなこと、師輔様へも、右大臣家へも、お頼みできるすじのものじゃない。よせよ、よけいな、おせッかいは」
それから、こうもいった。
「わしだって、いつか、応天門の附近で、あれに会っているよ。その時、小次郎が、物欲しそうに、何かいいかけて来そうにしたから、あわてて、身をそらした程なんだ。右大臣家でも、雑色の中へ入れて、小舎人ぐらいにしかお用いになっていないじゃないか。それを見ても、わかることだ。あんな者に、親類顔されたり、妙に、親しくなって来られたら、われらまで、同じように、周囲から見られてしまう。それは、出世の
繁盛は、兄のうしろ姿を、夜霧のなかに見送って――なにか、兄弟ながら、冷たい人だなあと思った。
しかし、彼には、兄の意にそむいてまで、小次郎のために、単独でうごく勇気もない。
ただ、それからは、努めて、小次郎に会わないことのみ、心がけていた。
小次郎の「都への恋」は、ようやく懐疑にかわってきた。
都を知らないがための都への恋は、おなじ夢の子が、みな、いちどはひとしく味わう滅失の苦杯ではあった。小次郎とても、おおむね、多くの世の夢の子たちと、おなじ轍をふんでいたわけである。だが彼自身にとれば、独り自分だけに限っている薄命みたいにうけとれた。
「右大臣家は、おれを、一生涯でも、輦宿の小舎人のまま、飼いごろしにしておくつもりだろうか?」
若い前途を、いたく脅かしたこの不安不平は、以来、小次郎の胸に、
東国の客、秀郷が、右大臣家を訪れたさい、主の忠平が秀郷にもらしていたことばに依って、彼は、自分の運命の前途が――いや、前途も何もない、これッきりなものだという運命を――初めて、身に知ったのであった。
「大叔父の国香も、ほかの叔父めらも、ていよく、おれを故郷から追ったのだ。……右大臣家への、頼み状は、おれを都へ捨て子する、身売り証文もおなじだったのだ」
今にして、それを知ったものの、東国の遠さ、現在の境遇。――うらみは、独りの中で悶々と、独りを燃やすだけに過ぎない。
――故郷の小さい弟どもは、どうしているか。牧の馬は、どうなったろう?
郷愁も、また、不安を手つだう。
殊に、大叔父の国香の、肚ぐろい遠謀が、あきらかに、読めてきた今では、都にとどまって、
「だが。帰ったら、叔父たちが、どんな顔するか。大叔父たちの勢力をむこうにまわして、自分の小さい力が、どれほどに対抗できるか?」
必然な、
「……いや、今は帰るまい。帰ってもだめだ。おれさえ、一人前に成長すれば、自然、時が解決する。……また、いつかは、忠平公も、事情を知って下さるだろう。辛抱のしどころだ」
小次郎は、思い直した。
かくて、ひとりの輦舎人は、せッせと、輦の輪を洗い、牛を飼い、日ごと、参内する主人の轅に従って、勤勉を旨とした。
そして、大内裏の供待では――
「繁盛どのは、来ていないかしら。あの頼みは、どうなったろう」
と、いつかの約束による彼の返辞を楽しむことも久しかったが、繁盛の主人九条師輔の輦がここに見える日でも、繁盛のすがたは、あれきり見かけない。
年は暮れて、延長二年の春、忠平は、左大臣に昇った。
任官式やら、諸家の賀の参礼やら、
“歩み”というのは、行列の意味である。
勧学院出身者の、同い年ぐらいな学生や公達が、冠のおいかけに、藤の花を
藤原氏の誰かが、昇官したとか、朝廷によろこびがあるとかすると、かならずこの“勧学院の歩み”を、そこの門に見るのが、例であった。もともと藤原氏が
それはともあれ、小次郎は、当日、その“歩み”の中の一人に、繁盛の姿を見た。また、繁盛の兄――貞盛の姿も見た。
「あ。……従兄たちがいる」
と、気づいたとき、たしかに、二人とも、自分の方を見たような気がしたが、なぜか、貞盛も繁盛も横を向いてしまった。あきらかに、避ける様子が感じられた。
この事についても、彼は、かなり時をおいてから、やっと悟ったような顔をした。
「……そうか。考えてみれば、二人とも、国香の息子だ。大叔父の腹からいっても、おれをよく思っているわけはない。おれは、何たるおめでたい男だろう。そんな奴らを、従兄と慕ったり、頼み事の吉報を、正直に、待ちこがれたり……。ああ、おれは国香の書状に書かれたとおり、ほんとに、愚鈍な生れかもしれない」
彼は、自分の馬鹿にも、気がついて来た。
忠平はよく肥っている。ぶよぶよな
しかし、小一条の館の管絃は、毎晩のようであった。宴楽には、
むかし、河原左大臣
佳人の名は、壺(庭、建物の称)の名をとって、紫陽花の君とよばれている。天皇をはじめ、総じて、一夫多妻はあたりまえな慣いとされている世なので、この君が、忠平にとって、何番目の夫人というべきかなどは、詮索のかぎりでない。けれど、いぶかるべきは、かりにも、時めく大臣の愛人であるものが、いつのまにか、いつからここに住むようになったのか、邸内でも知る者がないのだった。それのみか、氏素姓を何よりやかましくいう階級において、この君の身元についても、誰知る者もないのである。
この不審が、もっとも露骨にささやかれているのは、
「……見たか」と、いい、「……いや、見ぬ」といい。
「おれは、ちらと、
その紫陽花の壺へは、老家司の臣賀のほかは、庭掃除の舎人でも、男は、ゆるしなくは入れぬことになっているが――麗人を見たという幸運なる一人の雑色のはなしによると、「お年ごろは思いのほか、二十四、五に見られたが、それはもう、この世のひととは思えない。夏なので、
小次郎も、それは幾たびか耳にして、ひとしい物好みの血を、彼も人知れず
彼は時々、こっそりと、館の裏へ抜け出して、加茂川の中に身を沈め、独りジャブジャブと夜を水に遊ぶ習慣をもっていた。からだの垢や汗を流すばかりでなく、自然なる水の意志や生気と戯れあって、本来の野性と、若い体熱に、思いのままな呼吸をさせる楽しさが、何ともいえぬよろこびだった。
これは、彼ひとりでなく、他の多くの下部でも、たそがれ過ぎには、皆やる水浴であった。しかし彼のばあいは、
――その晩も。いや、もう五
「あっ……。群盗だ。……とうとう、ここへもやって来た」
およそ、盗賊の跳梁ぶりは、いま、いかなる貴紳の第宅でも、その出没の土足に、まぬがれている館はない。
この夏の、公卿の別荘のさびれは、一つは、その脅威だといわれている。つい五月雨ごろには、内裏の
――が、さすがに、時めく、小一条の
しかし、いま、小次郎が眼に見たのは、たしかに、ふつうの人間の群ではない。折ふし、時刻も
「たいへんだっ……。ただ事ではない」小次郎は、水から飛び出しかけた。
だが、両岸に、見張がいる。うかつに、立ったら
小次郎が、すぐ眼のまえに、紫陽花の君を見たのは、このせつなである。
思うに、悲鳴を聞かなかったので、紫陽花の君は、気を失っていたものにちがいない。ひとりの男の小脇に抱えられた彼女の顔は、
「待てっ」といったのか「泥棒っ」と怒鳴ったのか、小次郎には、わきまえもなかった。意識にあったのは、瞬間に見た紫陽花の君の白い顔だけだった。その美しさが、彼を無謀にさせたといえよう。いきなり、賊の毛脛へしがみつき、力いっぱい、持ち上げたのだ。ついでに――彼女の足の方を持っていた男の横顔をも、
足もとに、石ころや河鹿はいても、まさか人間がいようとは、賊も、思いもしていなかった。――わっと、喚きながら、紫陽花の君を抱えたまま、浅瀬のしぶきへ、よろめいた。そして大声で、これも先へゆく仲間の者へ、何か怒鳴った。
まっ先に、そばへ来たのは、一ばんさいごに、館から引きあげてきた賊の頭目らしい男だった。
「何を騒ぐ。騒ぐこたあない」
と頭目は叱った。さすがに落ちつき払ったもので、すぐ小次郎のうしろへ廻って、襟がみをつかんでしまった。そして、
「こんな小舎人一匹。おれが片づけるから、てめえたちは、さっさと、女をかついで、川を渡ってしまえ」
と、部下へいいつけた。
小次郎は、首をあげて、彼等の行方を見ようとしたが、たった一つの
これには、頭目の男も愕いたらしく、
「小ざかしい奴ッ」
と吠えて、大きく振り放そうとした。ところが、小次郎は両手を懸けてしまったし、男は、左手だったので、勢いは、小次郎を利し、小次郎のからだが、ぶん廻しみたいに廻った代りに、長柄は、彼の手に移ってしまった。
「たたっ殺すぞっ」
頭目の男は、さそくに、野太刀をひき抜いて、
すると、頭目の男は、からからと笑って、
「おい待て。相馬の小次郎。おもい出せないのか。八坂の不死人を」
と、いって、また笑った。
「あっ? ……。オオ、覚えている。……八坂の下で、焚火にあたっていた中の一人だ」
「おぬしは、まるで
「ええ。どうして、そんな事まで、知っているのですか」
「はははは。タネ明しをすれば、おぬしを、あの翌日、刑部省の獄舎から、小一条の館まで、送ってくれた放免(目明し)があるだろう。あの放免も、おれの手下さ」
小次郎は唖然たるばかりである。不死人の
「……が、小次郎。おぬしも、だいぶ都を知ったろう。いい若者になったといえる。いちど、どこかで、ゆっくり飲み合おうじゃないか。そうだ……さし当って、おぬしに一手柄たてさせてやる。まあ、そこの土手の下へでも坐って話そう」
逃げるに急であるはずの賊が落ちつき込んでいうのである。けれど、仔細を聞いてみれば、そうあわてない理由もわかった。不死人は、左大臣忠平の、痛い弱味を、握っている。――今ごろは、おれを、追うにも追えず、泣きベソをかいて、独りもだえているだろうよ。彼は、あざ笑って、小次郎に話すのだった。
紫陽花の君というのは、もともと、女の本名ではなく、忠平が、彼女を奪って、この小一条に、かくまってから後、仮に呼び慣わせているにすぎない。まことの名は、
忠平は、かねてから、藍子の容姿に、食指をうごかしていたので、さまざまな手だてをつくして、射落そうと試みたが、藍子は、うるさく思ったか、かえって、
「ところで、小次郎……」と、彼は声を落して――「おぬしは、左大臣の召使だ。ここでひとつ、手がらを立てろ。な……こうして」
と、何か一策を、ささやいた。
そして、やおら立ち上がると――
「じゃあ、待っているぞ。八坂の塔で」
不死人は、さいごに、念を押すと、それこそ、燕が川を
気がつくと、一乗寺の峰のふところから、白い雲が、ゆるぎかけていた。その辺りの白雲がゆらぎ出すと、いつも峰の肩に、夜明けの光がほの白むのが近い
「――大臣。大臣」
開け放されてある妻戸のひとつから入って、奥まった一間のうちへ、こう呼ぶと、うめきが聞え、そして、誰じゃ? ……と、
「小次郎です。輦宿の小舎人、小次郎にござりますが、裏御門のほとりで、賊を見かけて、戦って来ました。――何も、お怪我はございませぬか」
というと、忠平は、非常に驚いたらしく、かえって、しばらくは、うんもすんも答えなかったが、ややあって、
「たれでもよい。はやく、
と、あたふたいった。
彼は、まっ裸にされて、柱にくくしつけられていた。あちこち、蚊にくわれたあとが、おかしいほど、
「賊を見かけたなら、壺の君が、
「藍子さまのお行方ですか」
「なに……」と、呆れるばかり驚いた表情をして――「ど、どうして、そちは、彼女の名を、知っているのか」
「賊の頭目が、そう呼びました」
「ああ、あの悪魔めが? ……。して、そちは、斬り合ったのか」
「はい、ちょうど、今晩は、いつもより早くに目ざめ、牛に土手の草を飼っておりました。怪しと見て、追いましたところ、大勢は、藍子さまをかついで、先に、川の彼方へ渡りこえ、あとに残った賊の頭目が、こう申すのでございました」
「どういった……。どう?」
「藍子の身が、いとおしかったら、二日のうちに、砂金
小次郎は、そうしゃべっている者が、自分ではないように、一息にうまくしゃべれた。
たれにもいうなよ。――小次郎はかたく口どめされた。もとより大臣のおん為に悪いような事、何しに口外いたしましょう。小次郎は答えた。ただちに、彼は、信頼を得た。
約束の、翌々日の夕がたである。
彼は、忠平からあずかった砂金の
たれもいない。不死人も来ていない。
「やあ、来ていたのか」
待ちあぐねて、放心していた頃、いきなり木蔭から不死人の声だった。小次郎は、おとといの、結果を告げて、
「お約束の物です」と、すぐ、金を渡した。
不死人は、大笑いして、受け取ると、うしろにいた手下の男へ、
「禿鷹、預かっておけ」と、右から左へ渡して、なお何やらいいのこすと、小次郎を見て、こう誘った。
「そこまで、一しょに来ないか。仕事はうまく行ったし、涼やかな晩だ。約束どおり、飲もうよ、今夜は」
小次郎にとっても、小一条に仕えて以来、かかる自由を得た夜は初めてである。殊には、いまや主人の忠平も、自分に
意外だった。不死人に誘われて来た家は、四条六角堂の木立を横にした大きな公卿やしきである。このあたり、おちこちに、門戸のみえる第宅も、みな然るべき朝廷の顕官が多い。――不死人は、大きな
「おられるか。
といった風。
はばかる小次郎を、ふりむいて、
「友だちの家だよ。上がり給え」
先に立って、長い
「やあ。寄っていたのか」
「おう不死人か。よい折へ」
どれが主人やら分らない。小次郎には、いずれも同じ公卿の
各

「これは、左大臣家の小舎人、相馬の小次郎という者……。生れは、東国だが、父は亡き平良持。面がまえを見てもらいたい。なかなかたのもしげな若者だろうが」
これが、不死人の紹介のことばであった。
――そういう不死人も、思い合すと、初めて、八坂の焚火の仲間で見たときも、今夜の姿も、まぎれなく、公卿くずれにちがいなかった。
「あ。……そう」と、正面にいて飲んでいた青年は、こっちを向いて、すぐ、気がるに杯を、小次郎へさした。
「私は、南海の海賊といわれる藤原純友です。それにおるのは、
――海賊とは、
だが、
公卿の子弟といえば、笛でもふくか、歌の一つも作るしか、ほかに能のない公達輩でも、みな衣冠を飾り、牛輦にかまえ、人を見ること芥のようなのが、すべてである。ところが、ここには、主の純友始め、たれにも、そんな臭気がない。
虚飾や権力のそれがない代りに、汗や垢のにおいは、誰にもする。直衣、狩衣、布直垂など、まちまちの物を着、袖を捲りあげて、夏の夜らしき、談論風発である。かたわらには皆、太刀をおいていた。
そのはなしも、小次郎には、耳めずらしく、また、事々に、未知への驚異であった。
いまは無人で、いと荒れ古びてはいるが、ここの邸が、宏大なのは、ふしぎではない。純友の祖父、
遠経は、
基経の次男、
いまの、小一条の左相忠平は、父や兄の余光を継いだものにすぎない。無能とは、いわれながらも、氏の長者、宮廷の権与、ふたつながら、しかし、彼のものだ。
――ところが、おなじ摂関家の孫でいながら、藤原純友は、父
純友は、不平にたえない。
「なんだ、忠平ごときが」
伊予にいても、中央の政令といえば、私情の反抗心が手つだって、素直に、服従する気になれなかった。
殊に、南海方面には、中央の威も、とどいていない。彼はつねに、
「おれの父は、左大臣忠平の従兄だ。彼の無能は、父はよく知っていた。画や管絃は、器用だが、とても政治などのできる男じゃないといっていた」
周囲の者に語っていた。そして、政令を批判し、悪政を、罵倒していた。
こういう彼に、いつか、一味の党がつくられて来たのも、自然である。
強権を発して、未納税を取りたてにきた中央の徴税船を襲って、税物の奪り返しをやったりし出して、いよいよ、純友の名は、四国では、英雄視されていた。
捨ててもおけず、官では、先ごろ、問罪使をさし向けて、純友以下――五、六名の共犯者を、都へ拉して来たのである。
「おれを、罰するというのか」
純友は、
「どうだ。そのあとで、おれに、伊予の掾から介へ、一階級ほど、昇格の辞令をいってよこした。……忠平が、うしろにあって、おれの
こよい、不死人や、ほかの人々の前でも、彼は、こういって、笑いぬくのであった。そして、
「どうせ、官費で上洛のついでだ。なお、滞京して、秋までは、遊んで行こう」
とも、語っている。
胆の太さ、人もなげな大言、小次郎は、ただ聞き惚れるばかりである。
いや、もっと小次郎が、驚いたのは、紫陽花の君の藍子を、不死人たちに、盗ませたのも、この仲間うちの、紀秋茂の入れ智恵だったという事である。その秋茂も、小野氏彦も、津時成も、また八坂の不死人も加えて、すべてここに会している二十四、五歳から三十前の公達どもは、その所在と、放縦や悪行ぶりこそ、各

――夜も更けた。小次郎は、主人を、思い出した。
「帰るのか」と、不死人は、彼の容子を見て「――女は、二、三日うちに、紫陽花の壺へ帰してやるから、腑抜けの大臣に、そう告げて、おぬしも、褒美を取ったがいいぞ。氏の長者なんていう奴ほど、肚は
と、けしかけた。
すると、純友や秋茂たちが、そういう不死人の横顔をながめながら、意味ありげに、笑いあった。
「女は、返すだろうが、女のからだは、元のとおりでは、返すまい。不死人のことだ。さんざん、楽しんだあげく、
小次郎は、
次の朝、彼のみそっと、紫陽花の壺へ呼ばれた。ただひとりで、庭さきに、うずくまっていると、忠平は、病人みたいな顔して、廊にあらわれた。
「どうじゃった? ……小次郎。
訊くにさえ、小声である。しかし、小次郎の返事を得て、忠平は、大げさに、眉をひらいた。まるで、よくきく薬でものんだように、機嫌をよくして、
「そうか。……イヤそうであったか。大儀大儀。二、三日あとになっても、ぜひはない。安堵したぞよ。彼女の体さえ、戻るとわかれば」
そして、なお、こういった。
「そちも、当家に仕えて、はや六年ほどにはなるのう。あとで、家司の臣賀に、申しておこう。……きょうよりは、小次郎を、
これは、思いもうけない、恩命であった。小次郎として、これがもし、紫陽花の君の事件がない前であったなら、地にぬかずいて、感泣したかもしれなかった。けれど彼には、ゆうべの純友たちのことばが思い出されて、感涙よりは、おかしさが、こみあげていた。
彼は、主家から、青い狩衣を、
遠侍や、
服色によって、人の位階や身分が、一目で分る時代なのだ。青色階級の若侍は「青侍」とも呼ばれていた。後世の、“青二才””や“あいつはまだ青い”などという言葉の起原かと思われる。
時に、相馬の小次郎は、二十二歳。――上京遊学してから六年目、とにかく、忠平にやっと知られ、その一人となったのである。充分、まだ青くさかったには違いない。
――その年。秋も暮れる頃である。
左大臣家の裏の河原で、口笛が聞えた。小次郎は、すぐ邸内から顔を出した。
もう、人は見えなかったが、いつもの所に、紙きれが、草の穂に、縛ってある。八坂の不死人からの連絡である。――彼は、あれ以来、その不死人とも、藤原純友たちとも、
(たそがれ、八坂ノ塔まで参られよ)
文面は簡にして明だ。彼は、約をたがえず、出かけて行った。手下が立っている。そして、黙って、彼を、八坂からもっと奥の――
むかしは、祇園の末寺であったらしいが、いまは廃寺同様に荒れはて、不死人等の住むにかっこうな、巣となっている隠れ家である。
「やあ、小次郎」と、不死人は、彼を迎え――「ほかでもないが、いよいよ、純友たちが、伊予ノ国へ帰るというので――その送別を、どうしようか、という相談だが」
不死人は、まず、小次郎に、酒を
この仲間と親しくなってから、小次郎は、急に酒の手が上がった。酒の味と共に、人間同士の肌合いも覚え、都に知己あり、と思いそめた。
「おれの考えでは、いつも、同じ所で、色気もなく、飲んでいても、
「それは、いつですか」
「
「すると、帰りは、その翌日の晩になりますね」
「まあ、三日がかりと思えばいい」
「弱りましたな」
「どうして?」と、不死人は、彼の当惑を見て、笑いだした。
「おいおい。まさか、主人の忠平に気がねしているわけじゃあるまいな」
「でも。……やはり、召使われている身では」
「人が良いにも、程がある。――忠平こそ、おぬしに、気がねしていい筈じゃないか。ええ、おい。左大臣忠平だとか、
「いや。行きましょう。――主人には、なんとかいって、暇をもらい、ぜひ、同行することにします」
小次郎は、つい、約してしまった。――たびたび、馳走になったり、以後、いろいろな点で、友情もうけている純友への義理からも、その壮行に、欠けるには、忍びなかった。
あくる日。――何かの事で、忠平に召されたついでに、小次郎は、三日の休暇を、願ってみた。
すると、忠平は、言下に、
「そんな事は、家司の臣賀にでもいえ」
と、ひどく不機嫌に、いい放った。
小次郎は、顔を赤くしたまま、平伏をつづけてしまった。嘘が、出ないのである。考えていた口実が、にわかに、口へ出て来ない。
「…………」
だが、この沈黙の間に、忠平も、思いちがいしていた。――家司を通さずに、自分へ、直接申し出るからには、小次郎にも、肚があっての事にちがいない。……とすると、いやな奴だ、ヘタに、紫陽花の君のことを、いいふらされても、世間がうるさい。忠平は、内心の負け目に、そう
「……三日のあいだも、どこへ何しに、参るのかよ。日頃は、よう勤めておるし、暇をくれぬでもないが」
と、自分の方から、いい直した。
そのむかしの淀川は、後の世よりも、河幅もひろく、そして「大坂」などというものは、まだ、地上に存在もしていなかった。
けれど、都から、西国や紀州へ行くには、ぜひ、この舟航に依ったので、旅船や小舟は、水郷の漁村に、あちこち、
「――江口は、まだか、江口は」
「右手の岸に見えるのが、
「思いのほか、迅かったな」
「遊び
「いや、後をいうまい。
大河を下る一ツの小舟に、七人ほどの男が乗っていた。
伊予へ帰る藤原純友を始め――小野氏彦、紀秋茂、津時成の四人と、こちらの見送り人は、八坂の不死人、手下の禿鷹、そして相馬の小次郎の三名。
朝、舟の中へつみこんだ酒や弁当も、飲みつくし食いつくし、放歌朗吟に、声もつぶし、果ては、舟底を枕に、思い思い、ひと昼寝して、いま、眼が醒めあったところである。
「……やあ、あれが江口か。岸に、柳が見え、家かずも多く、大ふね小ふねも、おびただしく着いている――」
「やれやれ、江口の里か。日も暮れぬうち、はやく着いた。……オオ、女たちの舟が来る」
俄然、退屈は、けし飛び、遊び心に、たれの顔も、冴えてくる。
殊に、小次郎には、
歌人で地方官吏だった紀貫之も、任地の四国から都へ帰る途中、ここを通って、水村の遊里の繁昌を、「土佐日記」に書いている。――まことに、山陽、南海、西国にわかれ去る旅人たちにとって、江口の一夜の泊りこそ、忘れえない旅情を残すものだった。
「おう、
「まるで、
舟が、岸へ近づくにつれ、待ちもうけていた遊女船が、客をとらえるために、一せいに漕ぎ寄せてきた。彼女たちは、絵日傘に似た物を
いま、この遊里には、こんな話が、人々に語り継がれている――。
つい、おととしの、夏の頃。
ここから遠くない、やはり同じ淀川の岸にある鳥飼の院(離宮)へ、避暑においでになっていた宇多上皇が、ある日、つれづれのまま、江口の遊女を、たくさんに、院へ召された。そして、
「この中に、よしある人の娘もいるか」
と、訊ねられた。
ひとりが、答えて、
「されば、江口の君たちには、
と、奏した。
大江玉淵というのは、大江
音人は、清和帝に仕え、従三位
帝は、さっそく、白女を召されて、
「鳥飼の地名を詠み入れて、一首詠め」
と、その歌才を、試みられた。
浅みどりかひある春に逢ひぬれば
霞ならねど立ちのぼりけり
霞ならねど立ちのぼりけり
白女が、すぐ、こう詠んだので、宇多上皇は、彼女が、以前の家がらや身を恥じている心根を察して、
「よしないことを、思い出させた」
と、酔い泣きをさえ、催された。そして
「何か、
と、なぐさめて帰したということである。
上皇は、それからも、たびたび、白女をよんで、
これは「大和物語」にも載っている話で、当時、この遊里の、語り草になったことであろうが――純友、不死人、小次郎などが、まみえた遊女たちのうちには、上皇の御感に入るほどなたおや
いずれも、
もっとも、客も客だった。
純友や、秋茂などにいわせると、
「瀬戸内の、
七人は、一楼に上がって、宵から夜半まで、飲みつづけた。
踊りもし、歌いもし、およそ遊ぶ手だてが尽きるほど、遊び呆うけた。
「ああ酔った。こんなに、飲んだことはない――」
小次郎は、眼まいを覚えて、ぶッ仆れた。そのまま前後不覚に寝入った。……そして、ふと眼をさました時は、川や海に近い水郷の常として、そこらの壁や、夜の
夜は白んでいるが、カタともせず、家の中はまだ夜である。――正体なく、そばに寝ている女は、ゆうべ、酒席にいた遊女のひとりに違いあるまい。が、小次郎は、初めて、見る女のように、ぎょっと、寝顔に眼をみはった……。そして、なぜか、
「……蝦夷萩。……死んだ蝦夷萩と、瓜二つだ。これは、
そう思われるほど、小次郎が十四のときに初めて知った、美しい奴隷の娘と、よく似ていた。
彼は、卒然と、寝醒めのうつつに、坂東平野の牧の馬小舎を思い出した。馬の寝ワラの中で、年上の奴隷の乙女に愛撫されたときの匂いが、そばの女からも
霧もふかく、夜も明けきれていないので、柳の木々は、
「……どこ? 生れた国は」
小次郎は、女とならんで、散りかける柳の水際を、歩いていた。自分たちの宿もまだ寝ているし、同じような屋造りの遊女宿も、商い家も、いまが夜半のように、ひそまっている暁だった。
「……東国ですの」
女は、答えた。年は、十八という。――そして、睫毛の黒さや、小麦色の
「じゃあ、売られて来たんだね。――東国から」
「ええ。……おっ母さんが」
「あ。そうか。おまえは、何も知らない、子どものうちにか」
名は――と、たずねると、
「草笛といいます……」と、小声だった。
小次郎は、率直に、おれも、坂東の生れだから、何だか、おまえが好きだ。また、きっと、通って来る――といったりした。
草笛も、商売のうそや、おざなりではないらしく、私も、何となく、あなたが好きです、きっと、忘れないで……と、ながし眼に、いった。
幼稚な客に出会って、彼女も、幼稚な娘のときめきを、真実、共に持ったものかもしれない。恋は、幼稚なほど、当人たちには、楽しい筈である。
あたりの、明るくなるにつれ、ちらほら、舟もうごき、人影も見えだして来た。二人は、もとの宿の方へ、帰りかけて来た。
すると、一軒の水亭から、やはり一人の遊女に送られて、舟に乗りかけている都人らしい客があった。男女は、岸と、舟の上で、後朝の惜しみを、くり返していたが、やがて、客の舟は河中に、女は、岸に立ち残った。
「あ。……?」
小次郎と、その客と、思わず、視線をあわせてしまった。――それは、従兄の常平太貞盛に、ちがいない。
貞盛も、小次郎の姿を、しかと、見たように思われる。小次郎は、理由もなく、胸さわぎを、覚えた。
「御存知なのですか」
草笛にきかれて、小次郎は、
「うム、仲の悪い、従兄なんだ。……あの男、たびたび、ここへ来るのかい」
「
草笛は、小次郎が、貞盛の従兄ときいて、なお、信頼をましたようであった。
宿へもどると、純友を始め、ゆうべの仲間は、みな起きていた。不死人は、しきりに、もう一日、ここで遊ぼうという説を主張したが、それでは、浪華から四国への船便に、また七日も待たねばならぬ。いずれまた、上洛するから――と、純友たちは、ここで旅装を調えた上、やがて、二艘の船に乗り別れ、大河のうえで、西と東へ、袂を分かった。
遊女たちも皆、船の上に、日傘をさし並べて、淀の流れの中ほどまで、一行を送りに出た。その中の、草笛の顔一ツだけしか、小次郎の眼には、残らなかった。
「これ。小次郎――」と、ある折、忠平は、彼にむかって咎め出した。
「聞くところに依ると、そちは近頃、しばしば、公務を欠いて、幾夜も、館を空けるそうだの。――言語道断な」
嘘ではない。小次郎は、恐れ入って、
「いったい、どこの誰と、江口へなど、通い始めたのか。遊びの
「申しまする。……が、大臣には、たれから、そんな事をお耳に入れ遊ばしましたか」
「左様なことは、訊かいでもいい。そちのいう事をいえ。そちの、身の明しを」
「実は……」と、小次郎は、嘘を考えたが、面倒くさくなってしまって、求められる通り、こういってしまった。
「後の月、初めて、江口へ誘われました。それは、親しい友が、伊予ノ国へ帰るので、送別のため、
「なに。親しい友? ……そちに、どんな親しい友があるのか」
「はい。伊予の六位ノ掾、藤原純友です。また、紀秋茂や小野氏彦たちとも、滞京中、懇意になりました」
「えっ、あの、純友と」
これは、衝撃であったとみえ、忠平は、穴のあく程、小次郎を、見まもった。
小次郎は、心のうちで、なるほど、純友がいったのは、嘘ではないと、感心した。
純友は、小次郎が、主人にたいし、常に
(こんど、何かあったら、おれの名をいってみろ。純友と、友達だといえば、あの忠平が、きっと、眼を白黒させて、以後は貴様にも、一
小次郎は、今、その言葉を思い出して、その言の適確さに、おかしさを、かくしきれなかった。彼のそうした容子が、忠平には、なお意味ありげに、取れたものか、
「よいほどに慎め。ほかの青侍共の、てまえもあるに」
と、うやむやに、叱りを収めてしまったが、以後何があっても、小次郎参れ――と、身近くへは、呼ばなくなった。
そのうちに、突然、彼は、小一条の館から、滝口の
衛府は、禁門の兵の詰所である。
左衛門府、右衛門府に、各、六百人ずつの常備兵がいる。
ほかに、
滝口にも、古くから、
暁起の点呼、午前午後の訓練や調馬など、さすがに、皇城内の兵部だけに、きびしさもきびしいし、第一、外出がやかましい。
六衛府の長官は、中納言で、
「ははあ、おれを、封じ込めたな」
小次郎にも、忠平のこころは読めた。しかし小一条にいるよりは、はるかに、羽翼が伸ばされて、決して、不愉快な日々ではなかった。ただ、かなしいのは、ふたたび江口へ通う機会のなくなった事だけである。
休暇はあるが、わずか、一日に過ぎない。郷里のある者は、郷里へも帰れるが、それは三年に一度しか、
「今にして、やっと、わかった。小一条の大臣へ、おれの江口通いを、いいつけたのは、常平太貞盛にちがいない。……畜生、いやにおれを、目のかたきにしやがる」
彼が、こう覚ったのも、滝口へ移って後、偶然、左馬寮の門前で、彼とすれちがったので、はっと思いついたのである。
その時も、貞盛は、
「お。……」
と、遠くから、軽く、小次郎の会釈を、眼でうけたきりで、
以後、禁門の内では、自然、貞盛と行き会うことも多かったが、貞盛はつねに、貴公子然と構えて、滝口の
衛府の武者生活は、小次郎に、苦痛ではなかった。曠野の野性に、むすびついて、彼の体躯は、いよいよ
さらに、皇城内の生活は、彼の心に、新たな野望をめざめさせた。何をするにも、位官等級の差別がある。自然、小次郎の意中にも、栄達の欲望が、頭を
精励した、勉学もした。何をしても、他の兵には、劣るまいとした。
特に、調馬――馬をあつかわせては、左馬寮、右馬寮を通じても、滝口の小次郎に及ぶ者はないといわれた。
四年の後、彼は、七位ノ
その四年目の春。
久しぶりに、また、伊予の藤原純友が、上洛した。――そして、純友が滝口へ誘いに来たので、連れ立って、遊びに出た。
滝口の允ともなれば、外出も、自由であった。だが、江口の草笛は、水辺の
「どこへ行こう……?」と、純友はいう。小次郎にも、あてはなかった。
「まず、八坂の不死人を誘ってみよう。――衛府に入ってから、実は、不死人にも、あれきり一度も会っていないのだが」
「や。……じゃあ、おぬしは、都にいながら、不死人の
「不死人が、死んだって」
「――と、聞いているが」
「嘘だろう。うわさにも、おれは耳にしていない」
「捕まって、投獄された事だけは、嘘ではない。これは、諸国へ逃げ散った手下の一人から、直かに、聞いたことだから」
「あの神出鬼没な男が、どうして、検非違使などに、捕まったろう」
「いや、庁の手ではなく、常平太貞盛とかいう男の指揮で、突然、八坂の巣を、寝込みに襲われ――刑部省の獄屋へ投げこまれたというはなしだ。……何でも、それは左大臣家に取入っている貞盛が、忠平に乞うて、進んでやった仕事だと、いわれている」
「……知らなかった。いつの事だろう?」
「つい、この正月のことだという。貴様も知らない程では、世間へも、よほど、
「それが、ほんととすれば、やがては、おれの身にも、何が、降りかかって来るかも知れぬ」
「だが、どんな拷問をうけようと、不死人が、貴様との関係まで、口を割るとは思われない。その辺は、心配するにも当るまいが、貞盛には、飽くまで、気をつけていることだ。何をたくむか、予測はできぬ。――いつか、おぬしの身の上ばなしに、故郷元の事情も聞いたが」
加茂の岸を、いつか、上がって、
「おい、
ふいに、純友が、いい出した。
麓で、酒を買い、それを携えて、二人は、四明ヶ岳へ登った。
春霞の下に、京洛の屋根と、皇居の諸門が、望まれた。
「……ああ、平安の都、人間の都」
小次郎は、感慨にたえない。
十六、はるばる、坂東平野から、都へ上って、初めて、京都を見た日の美しい夢や希望と、今、見ている思いとでは、余りにも、ちがいがある。
きょうの歎声は、都への、嘲笑だった。また、人間の地上への、怒りだった。
「小次郎、ひどく、考えこんだじゃないか」
「うム……。ばからしさに、唖然としているのだ。おれは、正直者だった」
「いや、その愚直は、直るまいよ。――お互いにだ」
「君は、賢い」
「はははは。賢ければ、なんで、南海の片隅に、いつまで、六位ノ地方吏などして、くすぶッているものか。とうに、都へ出て、左大臣忠平ごときに、大きな顔はさせておかない。――おれの祖父は、関白基経の弟だ。――陽成、光孝の二帝の朝に仕え、藤原氏の繁栄をひらいた基経の血すじなのだ」
純友の語気は、悲調をおび、充血した眼に、涙が光った。南海の狂児と、いつも、自嘲していう、持ちまえのものだった。
「伊予にいれば、国司の腐敗や、郡司の弱い者いじめが、目にふれて、黙っていられなくなるし、都に出れば、朝廷を栄花の巣にして、明け暮れの猟官、夜も日もない宴楽、小刀細工をして立ち廻る小人輩の
純友は、杯で、面をかくした。途中の寺院で乞うて来た杯。それを、小次郎に、つきつけて、
「飲まんか。――おぬしも、桓武天皇から六世。正しく、帝系の御子ではないか。しっかりし給え」
「そうだ。おれも……父の生きていた頃までは、故郷では、御子とよばれていた」
「滝口の

純友は、爪まで赤い手で、彼方なる平安の都を、指さした。
「――あの屋根の下に、どれ程な人間が、きょうを、楽しく、暮しているか。おおむねは、栄花の大樹の下草か、石にひしがれている雑草だ。氏の長者といい、一門の誰彼といい、藤原氏だけが、有ることを知って、無数の飢えを、地に見ようともしない。そして朝廷までを、内部から
「おれには、政治向きのことは、分らないが、毎年の
「いや、天災は、まだしも。人災を坐視している法はない。
「でも、おれたち、身分のない者が、どう思っても、初まらないじゃないか」
「見てい給え、こんど、伊予へ帰ったら、おれは必ず、何かやる。――小次郎、ここ数年のうちに、南海に変ありと聞いたら、そこに、藤原純友ありと、思ってくれ。やる、おれは、どうしてもやる」
純友の、こんどの上洛は、何の為だったか、わからない。彼自身も、その事は、小次郎に、何も語らなかった。
まもなく、彼は、ふたたび、南海の任地へ、帰った。
「不死人の生死が分ったら、分り次第、便りをくれ……」
それが、彼の残して行った頼みだった。
しかし小次郎の聞き探りぐらいでは、刑部省の内秘は分るはずもない。
彼は、一案を思いついた。ある日、手土産を調えて、唐突に、刑部省の獄司、
「お見忘れで、ございましょうか……」と、小次郎は、
「もう、十年も前になります。私は、東国から
「え。……もう十年も前にとな? ……。ふウむ、して、何といわれるの、おん許の、姓名は」
「相馬の小次郎といい、小一条の大臣へあてた叔父
「おう……思い出した。あのときの、小冠者でおわすか。思い出せぬはずよ。余りな、お変りではある」
「その折は、獄舎の内でも、また小一条まで、お下役に、案内を命じて下さったり、ご親切を、忘れぬつもりでしたが、つい、ご無沙汰しておりました」
「いや、よう見えられたな。……そして、今も、左大臣家に、お仕えかの」
「近頃は、滝口の武者所に、仕えています。実は、きょうは、ちと、お伺いしたい儀があって、出向きましたが」
小次郎は、ここで「八坂の不死人」の名をもち出した。――近頃、内裏の更衣殿を
「えっ、更衣殿へ、不死人らしい賊がはいったとな。もうそんな大胆を、働きおるか……」
犬養善嗣は、眼をまるくして、自分からしゃべり出した。
「いや、たしかに、不死人の身は、左大臣家から差し廻され、いちどは、獄へ入ったが、二晩と、ここにいず、獄を破って逃げてしもうたわ。……そのため、わしも百日の慎みをうけ、つい四、五日前から出仕したばかりでな」
「――が、一切、内秘という事になっておるのに、おん許には、どこから聞いて参られたか。左大臣家から、何ぞ、いいつかってのお越しかの?」
と、不審がった。
足もとの明るいうちにと、小次郎は、いい
どうしたのか、純友からは、それきり何の便りもない。
翌、延長八年は、世上に、いい事が、一つもなかった。
前年の、近畿一帯の水害で、春から、都の両京は、路傍に、餓死者の
小次郎始め、滝口の兵は、毎日、死骸片づけに、忙しかった。死骸捨ツベカラズ――の制札など、何のききめもなく、夜が明けると、あちこちに、また、捨ててあった。
京職は、病人や飢餓の者を、洛外の
もう、食物のある所は、寺院と、公卿と、
その上、夏、疫痢の流行があり、清涼殿に落雷があって、大火を起した。
人心、
こういう世態のうちに、醍醐天皇は、崩御せられ、まだ八歳の朱雀帝が、皇位につかれた。――左大臣、藤原忠平を摂政として。
改元して、承平元年。――春になっても、京師の群盗横行はやまなかった。
その中に、不死人や、八坂の一味共が、ありやなしやも分らない。うわさに依れば、公卿朝臣の家人すら、それらの仲間にいるという。
にも関わらず、小一条の大臣の館では、盛大な、摂政就任の祝いが、三日にわたって催され、それをしおに、諸家の権門でも、春の淡雪に、また、
「世の中が、分らなくなった。いちど、元の坂東平野へ帰って、弟たちの顔も見たり、父の遺産も整理して、郷土で終るか、なお都で生きるか、考えてから、人生を出直そう」
滝口の小次郎は、今年になって、こう決心した。
そこで、官を辞し、
富士は富士のままである。武蔵野は武蔵野のままである。また、坂東の平野も、丘も、大河も、小川も、十三年前にわかれた旧山河は、そっくり、彼の記憶のままだった。
「……何ひとつ、変っていない」
小次郎は、近づく郷里の空へ、つぶやいた。
しかし、さすがに、豊田郷に近づいた日は、生れた
「おお。兄だ。――兄が見えた」
「小次郎様にちがいない。小次郎様よ」
ゆくての道に、一かたまりの人群れが見え、彼を指さして、がやがやいっていたと思うと、中から三、四人の若者が、駈け出して来た。
「兄上。お迎えに出ていました。弟の三郎
「四郎
――それから、
「あーあ。大きくなったなあ、みんな」
小次郎は、その弟たちの、どの顔を見ても、十三年の空間を、つよく覚えた。田舎武者にはちがいなくても、それぞれ頼もしげな
「どうだ。おれも変ったろう。おれも、二十九だからな。長い間、留守にして、おまえ達にも、いろいろ苦労が多かったにちがいない。――が、帰って来たぞ。これからは、共に働いて、父の
――ありがたいありがたいと、彼は、しきりにいうのである。何へ向ってでもない。ただいッぱいな感謝だった。一人一人の肩を抱き、手を握り、瞼からあふれる涙も知らずにいる。
ほかの、出迎えは、家人たちである。叔父共の顔は一つも見えなかった。人々が曳いて来た馬の背に乗り、弟たちに口輪を把られ、幸福の門へ迎えられたように、小次郎は、その日、自分の生れた家、すなわち、豊田の館へ、着いたのである。
部落の民も、この日は、業を休んで、
「館の御子が、成人して、都から帰られたそうな」
と、祝いあっていた。古い巨大な門の外には、郷の老幼が、むらがって、内を覗き込んでいる。
あたたかい人々、あたたかい言葉、あたたかい家中の酒宴。小次郎は、心も肉体も、愛撫と
だが、翌日。――この巨大な構造の中の一部屋に坐って、あらためて、
「これが、父から遺されて、自分が家長として、これから営んでゆく家だ――」という、覚悟と、感慨をもった時、小次郎は、なぜか、いいしれない、空しさと、
父の良持がいた頃の館とは、まるで違う。その父が死に、十六で郷を離れた頃の館ともなおちがう。こう
変らないのは山河だけだ。また、古い柱や
起き抜けに、彼は、広い館や
あんなに多かった召使たちも、数えるほどしかいない。それも皆、ほかへ行き場のないような老朽や弱々しい病者ばかりである。
「蝦夷萩のような女奴もいない。……」
彼は、奴隷長屋の前の
――冬の、
「兄上。ここにおいででしたか。まだ、お眠りかと思っていました」
「おう、三郎か。よく寝たよ、ゆうべは。――ほかの、弟たちは、どうした?」
「今朝、早立ちして。――四郎は、石田の
「なんだ。放ッておけばいいに」
小次郎は、無意識にも、いやな顔いろが、出てしまった。
「おれの帰る日が、どうして、先に、分っていたのか」
「その叔父御たちから、
「うウむ……。じゃあ、おれが都を立つと、追っかけに、貞盛から親の国香へ、
「何か、知りませんが、日を報らせて来ました。そして、小次郎が戻ったら、すぐその旨を、届けに来いと、いいつけられていましたので」
「なに。届けろと。……まるで官庁みたいだな。近頃、叔父共は、ここへ見えるのか」
「ええ。大叔父は、余り参りませんが、良兼様と、良正様とは、こもごもに、よく来ます」
「じゃあ、おれの留守、おまえ達の世話は、その叔父二人が、見てくれたか」
「……いえ」と、つよく顔を横に振ると、三郎将頼は、
「三郎。何を泣く……。おれが、郷土を立つとき、いったじゃないか。おまえは、おれのいない後では、小さい兄弟中の、
「せっかく、お帰りになったばかりの兄上に、ベソは、お見せしまいと、きのうから、じっと、気を張りつめていたのです。――兄上っ。この館には、もう、父が遺してくれた遺産は何もありません」
「見たよ。
「私たちは、ここにいても、叔父御たちの、召使も同様でした。多少、物事が分ってからは、不平を抱かずにいられませんでしたが、いえば、
「ううム。……おまえたちには、恩を着せ、そして、おまえ達の為に、父が遺してくれた財物は、みな叔父共が、こそこそ運び去ったのだろう」
「ええ。この館は、空家同然です。もう何も残っていませぬ。兄上、私たちが、失ったのではありませんから、ゆるして下さい」
「ばか。たれが、おまえ達を、疑うものか。気の弱いやつ。泣くなもう……」
「は、はい」
「いいじゃないか、三郎。家財、調度、穀倉の穀、武器倉の武器が、みんな失くなろうと、ここに、おれが帰って来た。なお、父の代に、父が開拓した広大な田野や、血をもって、父が戦い守って来た相伝の土地は、小さい末弟たちに頒け与えても、余りある程な面積だ。気を取り直して、働けばいい。父の一代を、もいちど、おれたち自身が、父になって、やり直すことだ。……なあに、土さえあれば、何が、なくたって」
「ところが、その古くからの荘園も、

「たれに? ……。たれの物に」
「叔父たちや、叔父たちの息子の物に」
「ば、ばかな」と、小次郎は、笑い出しそうに――しかし、ちょっと、不安な眉の翳りを見せながら、吐き出すように、自分へ否定した。「そんな事が、あるものじゃない、そんな事が。――家の
「けれど……。そうではないと、人が、いいます。みな、勿体ないことだ。ひどい
「それは、他人の
「大結ノ牧ですか」
「む、む。牧の馬どもにも、おれの帰って来た顔を、見せてやるのさ……」
「馬とても、以前のような、良い馬も、馬数も、今はおりません。老馬、廃馬が、わずかに残っているだけです」
「馬まで、持って行ってしまったのか」
「奴婢、奴僕まで、連れ去ってしまった程ですから」
「いいさ、土さえあれば。――とにかく、行って来るからな」
と、小次郎は、柵を出た。
故郷へ帰ったら、少年の日の多くを過ごした、あの牧の丘へ坐って、もう一ぺん、行く雲を眺め、那須、浅間、富士の三煙を遠望してみたい――と、それは、都にいた頃からの願いであった。憶いであった。
いま、望郷の日の、憶いはとげた。
小次郎は、一つの丘の上に坐り、ぽつねんと、少年の日のとおりの恰好で、膝を抱えた。
――が。充たされてくるなにものもない。
空しい天地。馬のいない
どうして、幼い日、こんな寂寥の中に、終日、独りでいられたのだろう。また、都にいても、折にふれ、事にふれ、恋しく憶い出されて、いたのだろう。
長くいるにも耐えなかった。
しかし、肚をきめよう。この静かな天地の中で、――この丘に抱いていた夢とは、まったくべつな現実の中に、小次郎は、考え耽ってしまった。――何よりは、一人前の男として帰った以上、これから、いやでも、自分の双肩にかかってくる家長の責任だった。
「――都へ出たのは、ムダではなかった。何は学ばなくても、おれは人間を観てきた。都を知らない弟たちとは少しちがうぞ。おれは、叔父共に、ごま化されはしない。また、怖れもしない」
しきりに、彼は、自分へむかって、呟き出した。郷土の大自然は、やはり、肉親の父に次いでの、無言の慈父であった。正しい勇気と、良心とが、さかんに、彼の若い体を励ますものとみえる。
「そうだ。人間を相手に思うまい。都にいても、人間仲間は、あの通りだ。腹ばかり立って、おれも、純友や不死人のような考えになってしまう。郷里もそうだ。叔父共の肚ぐろさには、
帰り途に、彼は、父の代から牧の番をしていた御厨の浦人の住居をのぞいた。厩は朽ち、馬の影も見えない。ただ、破れ戸の内の土間に、白髪の
――それは、変り果てていたが、浦人の妻だった。彼女は、涙をながして、良人の浦人が、もう世にないことを語って、
「やがて、和子様が、都の空からおもどりになったら、そっと、これをお見せ申しあげろというて、あの人は、息をひきとりました。……それは、もう、おととしの秋のことで、ございまするが」
と、遺書らしい物を取出して、小次郎に渡した。
その夜、小次郎は、浦人の遺書を読んで、灯に、すすり泣いた。浦人は、ひたすら、小次郎の帰国を待ち、あらゆる迫害と、貧窮に耐えつつ、さいごの最期まで、牧を守っていたのだった。遺書の終りには、こうあった。(――三ヵ所の、牧のうち。ほか二ヵ所は、すでに、良兼、良正様たちの、家人方に持たれています。そのほか、
切々たる
しかし、その後に、また、
(これだけは、確かに、御家門に付いている相伝の御領地にちがいありませんが、太政官の地券の下文や、国司の証などは、どなたの手にあるや、聞いておりませぬ)
と、追記してある。
小次郎は、大きな、不安に襲われた。それでもなお、よもや? よもや? ……と、打ち消したい気もちの方が勝っていた。叔父といえば、父の兄弟たちである。自分たち兄弟にも、血の濃い人々ではないか。年もみな、五十、六十という長上の年配であり、しかも、それぞれ家人郎党もたくさん抱え、困るという家柄ではない。
二、三日すると、四郎将平や、ほかの弟たちも、次々に、帰って来た。
小次郎は、将平へ、たずねた。
「常陸の大叔父(国香)は、なんといったか。――おれが、帰国したことを」
「そうか……と、いっただけでした。そして、総領の兄も帰った上は、もうわし達を、いつまで、頼っていてはいけない。親戚などは、ないものと思って、働けよ、と仰っしゃいました」
「おまえは、なんと答えたのだ。え、将平」
「……ただ、はい、と挨拶して、一晩、泊めてもらって戻りました」
「ばかにしていやがる」
「将文は。……筑波の叔父(良正)の所へ、行ったわけか」
「え、よろしく、いいました」
「よろしく? ……。それだけか」
「いえ。兄上にも、落着いたら、遊びに来い。わしも、そのうちに行くと」
「将武。――良兼叔父は、どうした」
「お留守でした。何ですか、
「新治の館とは、誰のやしきか」
「
「叔父の
不機嫌な、兄の語気に、弟たちは、黙ってしまった。
――肚を立つべきではない。この孤児たちは、こう意気地なく、しつけられて来たのだ。小次郎は、すぐ思い直した。
「祝言ではないが、わが家でも、人招びを、やらねばならぬ。いつにしような。――おれの帰国披露目だ」
陽気に、いった。弟たちは、眼を見あわせた。老人みたいに、すぐ、費用の思案などするらしい。
「状を廻せ。いいか、叔父共へも。そのほか、父の旧知、もとの郎党、社寺の僧や
文案を書いて、彼は、弟たちへ渡した。
これらの材料は、大半、市で
――が、単なる衒気ばかりではなく、人のよろこびをよろこびとする性質は、たしかに、彼の中にはある。その日は、べつに、餅をつかせ、豊田郷の老幼に、餅を撒いた。門前にむらがった土民にも、酒だの、菓子だのを、振舞った。
客は七、八十人も見えた。
むかし、仕えていた郎党たちは、客に来ても、依然、末座にいて、手伝った。その人々の眼ざしや、顔つきに、小次郎はかえって、肉親を感じた。大叔父の国香は、風邪ぎみといって来ず、筑波の叔父も、旅行といって、姿が見えない。上総介良正だけが、叔父組の代表みたいに、席に見え、人々へ、口あたりのいい辞令や杯のやりとりを、ひきうけていた。
その客の中で、小次郎にとって、もっとも、うれしい人が、来ていてくれた。それは真実、忘れ難い人なのである。
「お久しゅうございました」
小次郎は、その人の前へ坐って、いつまで、ほかを、かえりみなかった。
「御成人ぶりだの……」と、その人は、しげしげと、彼を見て、温和な唇もとに、杯をあげていた。
少年の日、この人に、あやうい一命を、助けられたことがある。――菅原
「どうだったね。……都は」
「お恥かしいことですが、何一つ、習い得た事もありません」
「これからは、ずっと、お国元かの」
「総領ですから」
「良持どのが、生きておいでたらなあ。……よろこぶだろうし、お許も、倖せなものだが」
叔父の良正が、じろじろ、見ているせいか、景行は、口かずを、きかなかった。そして、満座の酔が、歌や、手拍子に、崩れ出す頃、いつのまにか、そっと、先に帰ってしまった。
この夜の、帰国披露目を、さかいに、小次郎は、以後、
元服のときから、将門という名のりは持っていたが、都へ出たので、何となく童名のまま、つい過ぎたのである。弟たちすら、童名はつかっていない。彼は、その頃の、大家族制度のもとに、家長となり、また、将門となった。
将門の帰国が知れわたると、何となく、以前、身を寄せていた郎党や家人が、ぼつぼつ、豊田の館へ、もどって来た。
かれらは皆、大掾国香や、良兼、良正などの叔父組が、肚をあわせて、ここの田産や財物を、将門が在京中に、分け奪りしてしまった非道な事実を、知っている。
「あんな非人情な者を、主人とするのはいやだが、御子がお帰りになったと聞いたので、戻って来たのだ」
いい合わせたように、仲間同士で、語りあっている。
将門は、うれしかった。同時に、よしっ、と何か、力づよい、自信をもった。
むかし程にはゆかないが、市で、奴婢奴僕も購い、馬も買い、附近の耕作や、未開墾地へも、手をつけ出した。
が、人が殖えれば、すぐ食糧がいる。その稲すらも、稲倉にない。
「
いいつけて、ここ、四、五日にわたり、刈るそばから、麦束の山を、豊田の館へ、運ばせていた。
その日、将門は、奴僕と一しょに、足場の上で、土倉の上塗りをやっていた。
夏ちかい薄日照りが、この地方特有な土の香を蒸している午ごろだった。物々しい人声に、将門が、ふと、足場の上から、柵門の外をのぞくと、毛野川へ刈込みにやった郎党や奴僕たちが、怪我人をかついで、後から後から入って来る。
「どうしたっ?」
将門の声を仰いで、郎党の一人が、
「やられました。――やられました」と、子が親へ、訴えるような、声を投げた。
「喧嘩か。あいては、どこの、たれだ」
「喧嘩はしません。いきなり、向うから、大勢して、討ってかかって来たのです。――麦は、たれに断わって刈入れるぞ。ここの河原畑は、どこの所領か、知っているかと」
「相手を訊いているのだ。相手を」
「筑波の郎党たちです」
「なに。良正の家来だと」
将門は、足場を降りて、
「どの辺だ。たれか、案内しろ」
と、血相をかえて走りかけた。
「兄上。およしなさいっ……」
三郎将頼や、ほかの小さい弟たちは、抱きついて、ひき止めた。
「毛野川の河原畑は、去年の暮、叔父御の召使が、
「ばかっ、ばかっ。知らないのは、おまえ達だ。あの河原地はな、父上が生きていた頃、毎年毎年の出水を、やっと、
将門は、弟たちの耳に聞かすには、必要以上の大声で、そうわめいた。どうしても、いちどは、天へむかって、わめきたがっていたような声だった。
「それっ、お館に、ついて行け。相手は、大勢だ」
奴僕も、郎党も、得物をもって、彼の駈け出したあとにつづいた。しかし、毛野川べりの、長い畑には、どこを眺めても、すでに、相手の影は、見えなかった。
ただ、そこに、制札が立っていた。見ると、こう書いてあった。
河原地、西南、二十七町、総テ、筑波水守ノ住、平良正 ガ所領ノ一地タリ。盗ミ鎌ヲ入ルル者、見付ケ次第、訴人アルベキコト。
良正家人 景久
「笑わすな。盗人の
将門は、それを、
なお、腹がいえないように、
彼につづいて来た十数名の顔は、それを、小気味よしと見るよりも、何か、さっと、血の色をひいたように、口をつぐんだ。殊に、性格のおとなしい三郎将頼は、
「……ア」と、驚きの声すら放って、まっ蒼な顔をした。
「将頼っ」
「はい」
「案じるな。いつかはと、おれは、肚のうちで、いい出す時を待っていたのだ。――ちょうどいい。おれはこれから、叔父共へ、
「な、なんの、お話しにですか」
「知れている。――叔父共が、おれから預かっている広大な土地を、おれに返してもらうのだ。こんな、猫の
「でも。……、ああ兄上。今となって、そう仰っしゃっても」
「だまって見ておれ。将門は、叔父共が、望みどおりに、都へ出て、少しは、育って帰って来た。いちど、石田の大叔父にも、ごあいさつを、したい事もある。かたがた、預けた物を、返してもらうだけの事だ。行って来る。……なに、一人でいい。数日は帰らなくても、心配するな」
歩き出してから、将門は、なお、憂い気な弟や郎党たちを、振りかえって、いいつけた。
「かまわぬから、つづいて、麦を刈れ、麦を館の土倉へ、どしどし運んでしまえ。なにも、
気の向くまま、心の澄むまま、遊ぶまま、狂いたいまま、しかも無理はしないで、この天地間に、水ほど、領野を自分の物にしきって、自由に暮しているやつはない。
「――羨ましい姿だ。水の心だ。
将門は、のべつ、大股に、汗をかいて歩いていたが、ふとそんな考えも起した。
――というのは、歩けば歩くほど、実に、この地方は、水だらけで、およそ、視界や足もとから、水と縁の切れることはない程だからである。
従って、河原だらけで、すこし草の生えている土壌でも森でも、それは河原の中の島にすぎない。そして河原を走る縦横無尽な、幾すじもの水脈が、やがて中心部に相寄って、
「……はてな。おれが子供の時分には、たしか、この辺に、
将門は、
その行々子の声に、彼は、自分がまだ、幼い頃、両親に伴われ、侍女や郎党に
招かれた先の、常陸石田の大叔父も、
その日、この大河を渡って帰るためにも、叔父共は、殊更、新しい船を用意し、若い女達に、大きな絵日傘を
父が、死ぬとき、あの叔父たちの良心を、信頼したのもムリはない。父も神ではない。今日の叔父共が、あのときの人間と同じ者だったということは、神でもなければ、分ろうはずはない。当然、父は、あとの小さい子供らと、一代に開拓した遺産の
……もし、霊があったら、父は、ここにこうして毛野川の水を見ている今の小次郎将門を、どう眺めていらっしゃるだろう?
「もし父が生きていたら、奴等を、ただおくものではない。その父が世にいないのをつけめに勝手なまねをしている叔父共なのだ。ようし。父良持は、まだ生きているという事実を、悪叔父めらに、思いしらしてやろう。どこに生きているというか。……問うも愚かよ。おれは平良持の子だ。おれの中に、父がいるのはあたりまえだ」
彼は、ぬっと、突ッ立った。何かに衝き上げられたように。――そして
「おうっ。お館さま。河の上にも、岸辺にも、お姿が見えないので、どうしたかと、ずいぶん探しましたよ」
と、思いがけぬ声をかけて近づいて来た。
男は、豊田の館の郎党のひとりで、
「――梨丸か。何しに来たんだ? おれは、常陸へ出かけるのだ」
「ですから、馬がなくては、御不便でしょう。いずれ、水守の叔父御さまか、羽鳥へも、お廻りでしょう」
「うム。……ずいぶんな、
「河原畑で、かっと、御立腹なすって、そのまま、一散に、お立ちになってしまったと、ほかの者から聞きましたので」
「館の馬を、曳いて、追いかけて来てくれたのか」
「そして、私も、ぜひ御一緒に、お供をしたいと思って来ました」
梨丸は、将門の眼を、じっと見て、哀願するように、そういった。何しに、常陸へ渡るかを、彼は知っているふうである。将門は、だまって、うなずいた。こんな無言のうちにも、情にはすぐ涙ッぽくなるのが、彼のくせであった。
「渡舟口は、こんな所ではありませんよ」
梨丸は、主人をすぐ馬の背にのせて、そこから五、六町も下流へつれて行った。
馬を乗せ、自分たちも乗り、渡舟は、岸を離れて、河心へ漂い出した。河幅はおそろしく広いが、所々に、浅瀬があり、そのたびに、舟底が、ガリガリ鳴った。舟は、下流へ流され流され、斜めに、対岸を招きよせてゆく。
「将頼や、ほかの者は、あれから、館へ帰ったか」
「お帰りになりましたが、みな、お行先の事を心配して、つつがなく、帰って下さればよいがと、お身を気遣っておいでです」
「そうか。……おれを除くと、まだ、まるで世間見ずな弟たちばかりだからなあ」
舟の上から振向くと、豊田の館や、森や、また館のある辺りの小高い地形が、呼べば、答えて来そうな、彼方に見られる。
(――生きて、ふたたび、ここを渡るだろうか?)
彼はふと、運命観みたいな、明日、あさっても知れぬ人間と思う思いにとらわれていた。その反面には、それほど危険な怒りが、一朝でない怨恨の器が、自分だということも分っていた。
(対岸へ着いたら、梨丸は、帰すとしよう。行く先で、おれに万一があろうとも、乳母の子までを死なせてはすまぬ)
そう考えたがまた、
(いや、おれの骨など拾って貰いたくもないが、梨丸でもいなければ、誰が、豊田の館へ、万一を報らせよう。やはり連れてゆくとしよう。梨丸には、巻きぞえを喰わせないように)
渡舟の
馬の背に移って、梨丸に口輪を
夜に入ると、十方、何もないだだっ広い闇の果てに、
「市があるのか。じゃあ、そこへ行って泊ろうか」
「あんな遠くへ参るほどなら、まだまだ、水守の良正様のおやしきへ行った方が、よっぽど近うございますよ」
「そうかなあ。それならやはり、良正叔父の邸へ行こうよ。なあに、夜半になってもかまうものか。……だが、腹がへるぞ、腹が。……梨丸、何か食い物は持ったか」
「持ちませぬ。それには、抜かりました」
「灯の洩る家をみたら
「なりましょうとも」
主従は表面、気がるだった。どっちも若い賜ものである。不自然でなく、死も、どんな危難も、明日の事を今夜はまだ心のうちで幾ぶんでも遊戯していられるのだった。
「あ。……家が見えます。寄ってみましょうか」
「百姓家か」
「――でもないようです。土塀もあり、門も見えます。ははあ、思い出しました。ここは、野霜の部落です。まだ、あちこちに、小さな家もたくさんある」
「野霜か。……とすると、ここには、むかし、武具を作るなんとかいう古い家があったはずだぞ。ここの部落は、弓師、鍛冶、染革師、よろい師、鞍師。みんな武具馬具ばかり作っている者たちの部落だ」
「ともあれ、そこの土塀門を、訪うてみましょう。――お館は、ちょっと、ここでお待ちください」
梨丸は、ひとりで、門を叩きに行った。なかなか戻って来なかったが、やがて、何かいそいそして飛んで来た。
「主が出て参りまして、実は、かくかくと、事情を語りましたところ、――なに、豊田の御子が、お寄り下されたとか。それは、まことでおざるか。――と、まるで、賓客に訪われたような歓びかたです」
「おい、おい、梨丸。おまえは、家の主へ、おれだということを、触れたのか」
「いい触らすほどには申しませんでしたが、余り先で訊きます故、豊田の将門様だと、つい申しました。すると、主は、にわかに、仕事着を着更えたり、家の者に、あたりを清めよといったりして、どうぞと、
「でも、おれは、そこの主など知らないが」
「先では、ようく、存じ上げておりますよ。――ともあれ、駒を、おあずかりいたしましょう」
と、梨丸は、
常陸、下総を両岸にして、武蔵へ流れる他の
この大水郷を
もちろん、その中には、都の
分野の、もう一半はというと。
これは、新治郡大串に住む源護に属する所領や管理地であった。その
一族はみな、嵯峨源氏のように、一家名をもっている。護の子、
将門の父良持の健在だった頃には、まさに、常陸源氏に応ずる“
護は、肚のふとい、武力もあり、政略もゆたかな男にちがいなかった。常陸大掾なる官職は、実は、彼がもっていた役だが、自分は
こうして、名利と、結婚政策の両面から、護は、平氏の三家を、手もなく、常陸源氏の族党に加えてしまい、そしていまや、この地方随一の豪族中の長老として、たれも、威権をくらべうる者もない。
――こんな、現状の中に、将門は、何も知らずに、帰っていたのだ。十三年も、都にいて、ただ、親ののこした広大な土だけはあると信じて帰って来たのである。ところが、残っていたのは、何もない豊田の
しかし、どうしても、返さなかったら、どうするか。
将門は、もちろん、この場合も、途々、ずいぶん考えた。が、すぐ命をかけても、というような結末の怒りが血に
「……おう。そうして、おいで遊ばすと、まこと、よう似ておいでなされますぞや。お亡くなり遊ばした良持様と。……血はあらそわれぬ。瓜二つじゃわ」
武具作りの野霜の
実のところ、腹がへっていてたまらないのだ。礼儀よりは、飯を食いたい。そして、先の夜道も急がれる。
「なあ、梨丸」
将門は、きゅうくつそうに、横へ話しかけた。
「何でもいい。ざっと、粟でも
翁は、以てのほかな顔をした。
「どうしてでござりまする。せっかく、かかる野末のあばら屋へ、わざわざお訪い下されたものを」
泊ってもらうつもりだという。
そのため、もう、湯殿では風呂を焚かせ、厨では、老妻や娘までが、あの通り、
「すぐ、お立ちとは、余りも、味気のうございまするぞ。豊田の御先代には、どれ程、お目をかけていただいたか知れませぬ。そもそも、てまえが、都から
――涙を、拭くのである。
将門は、立ちかねてしまった。腹がへったなどとも、いい出せない。
翁の名は、
唯一の後援者であった良持の没後は、一時、部落の諸職とも、仕事を失って、途方にくれたが、その後、大串の源護が、それに代る以上の註文を出し始め、以来常陸源氏の諸家の武具をひきうけて、年中、手のあくことはないなどとも、話し出した。
「御先代の良持様にお納めした、美々しい御鎧やら、雑兵具足やら、弓、
将門は、つい淋しい顔をした。梨丸も、それをいわれると、感情が顔に見えた。地方の豪族の頼みとするのは、土の次には、武器なのだ。自分の主人には、その二つとも、今はない。
「明日の朝は、どちらへ向けて、お立ちでございますな」
翁は、もう泊るものと、独りぎめして、そう訊いた。――筑波の叔父共のやしきへ、と将門が答えると、
「ははあ、水守や羽鳥へいらっしゃいますか。やれやれ、それは」
と、なにか浮かない顔をした。
野霜の翁も、将門の今の境遇は、知っているらしい
良持の遺子たちへ返すべき広大な土地を、その叔父たちが結托して横領しているという事実は、相当、近郷の土民にまで知れ渡ってかくれない噂になっているらしい。――野霜の翁の歓待は、ただ、むかし懐かしいとする情のみではなく、実は、そうした将門を、哀れがっているのかもしれなかった。
いや、それから、夜更くるまで、馳走になりながら、次第に打ち解けて話しこんでみると、ここの家族が皆、こぞって、将門を、気のどくな、あわれな、御不運な御子として、同情しているものであったことが、なお、はっきりした。翁の妻の、もう五十以上とみえる媼も出て来て、給仕に
「羽鳥へお出でなされても、石田の国香様のお館へおこしなされても、ゆめ、お腹をお立てなされますな。ひとは皆、知っております事じゃ。それに、万一、お身に怪我などあってはなりませぬ。それこそ、亡きお父上良持様が浮かばれませぬ……」
媼もいう。翁もいう。
あたたかな人心にくるまれ、あたたかな食物に腹をみたし、将門は、ついにその晩は、野霜の具足師の家に寝た。家はなかなか広く、弟子やら召使やらも多く、ゆたかな感じである。そして、
夜明けに立ちたい、といっておいたので、まだ、朝霧のふかいうちに起された。食事をし、弁当も作ってもらい、家族たちに送られて、門を出るとき、ふと、将門は馬の上から媼のそばにいる十六、七歳の娘を見た。まるで平安の都で見たような娘だった。将門の視線がゆくと、娘は母の肩の蔭へ、身をかくした。朝の陽が、まばゆげな彼女の顔を、鮮らかに、浮かせていた。
「……お帰りがけにも」
と、家族たちがいった。将門はうなずいたが、実は自信がなかった。土塀門の方へ、馬の尾がめぐると、梨丸はすぐ口輪を把った。梨丸も、この道を、もう一度通るでしょうとは誰にもいわない。
「おさらば」
と、馬が歩き出してから、将門は振り
相互から近づくほどに、当然、その者たちとすれ
やり過ごしてから、将門が訊いた。
「梨丸。いまのを、知ってるか――。誰だい、あれは?」
「あれが、源扶ですよ。大串の源護の嫡男とかいう」
「常陸源氏か。……成程、派手やかなものだな」
「息子たちはもう、
梨丸は、ひとりでしゃべっていた。将門がうしろを振向いているのを知らないのである。将門の眼は、ただ今、自分が別れて来た土塀門の前で、その常陸源氏の御曹子が、馬を降りて、家来たちと共に、威儀づくりながら、家の中へ迎えられているのを――馬の背に揺られ揺られて見ていたのだった。
筑波山の西南のふもと、筑波平野と、毛野川の方へ向って、水守の庄、石田の庄、羽鳥の庄などが、二里おき、三里おきにある。
どれも皆、筑波を背にした麓の人里だ。
その日、将門は、まず水守の良正のやしきへ行ったが、叔父はいなかった。居留守をつかっている様子でもない。
しかし、家来たちの顔つきには、将門を見たとたんに、さっと、うごく色があり、
(来たな!)
といったような反撥が、あきらかに見られた。そして、将門が小冠者をひとり連れただけでやってきたことに、むしろ、気抜けを食ったほどな緊張ぶりが
「お留守だ。お館は、昨夜から御不在だ。何ぞ、御用か」
と、家人郎党は、幾人も、大きな
おそらくは昨日、毛野川の河原畑で、わが家の奴僕や郎党を
道程からいえば、
「……後にしよう。さいごの対決として」
将門は、さきに、羽鳥の上総介良兼を訪うことにきめた。
この叔父も、食わせ者かもしれないが、一族の中では以前から、いちばん信仰家であった。仏法に
羽鳥の叔父の館は、山荘だった。麓からすこし山へ食い入った高所に構え、屈折した石段の山に、さながら大寺院のような門が、自然の老杉や松を美しく
馬は、麓で降り、梨丸も、下に待たせておいて、ただ一人で、門をはいった。大玄関を見まわしていると、横の家人小屋から、武士が出て来た。初めは、つまみ出しそうな権まくだったが、彼が、毅然として、小次郎将門だと告げると、さすがに
取次ぎに去ったまま、家人は、なかなか出て来ない。夕ぐれ近い陽が、針葉樹を虹のように透いて、もう裏の山ふかい所では、
「遅いなあ。何をしているのだろう?」
取次にかくれた家人は、主が、いるともいわず、いないともいわなかった。ここにも、昨日の毛野川原の事が、聞えているものとみえる。とすると、ある覚悟はしていなければならない。叔父の館へ来て、危険を
「よし。何が、突然起っても、おれは決して、驚きはしないぞ。それ程なら、毛野川を渡って来はしない」
将門は、自分へむかって、そういっておく必要を覚えた。大股に、
きれいに、手のとどいている灌木や、岩苔や、松の巨木は、目につくが、水は、どこを通っているのか、見つからなかった。そのかわりに、彼は、思いがけないものを、ふと、彼方の木蔭に見出した。
先でも、いぶかるように、将門を見ていた。
「あ。……?」
将門は、理由なく、顔をあからめた。いま以て、彼は、美しい女性と感じると、理由の生じない前に、顔はもちろんだが、体じゅうに反射が起った。
彼が、うっかり立ち入ったところは、女の住居のある壺であったかも知れない。都の忠平左大臣の小一条の壺が思い出された。大臣が、そこに秘して可愛がっていた紫陽花の君によく似ていて、それよりはやや小づくりで年も若い女性が、じっと、なおまだ木蔭から、彼の姿を、見すましているのだった。
「ここは通れませぬ」――彼女は好意のある注意を与えてほほ笑んだ。「何か、御用ですの? ……。木戸を間違えたのじゃありませんか」
親しげにこう訊かれて、将門は、また、どぎまぎした。理由のない羞恥を、自分では、見ッともないと思いながら、思うほど、なお、顔を赤くした。
「いえ、水です。水を一ぱい、欲しいと思って」
「お
「ええ。朝から、
「ホホホホ。それなら、こちらへ来て、おあがりなさいませ。おやすいことです」
彼女は、壺の木の間を縫い、そこの
器に水をたたえ、こんどは、廊の妻戸から立ち現われて、将門の前へすすめた。将門は、
「こうしていると、どこか、都のお住居のようですな」
「都。……あの平安の都を、あなたは、ごぞんじなのですか」
「え。永いこと、あちらへ、行っておりました」
「まあ」と、女性は、大げさな程、なつかしむ表情をして「都は、どちらに、おいででしたの」
「小一条の左大臣家にもおりましたし、後に、御所の滝口にも、勤めたりなどして」
「では、あなたは、豊田の御子の、将門様ではありませんか」
「そうです。小次郎将門です」ようやく、彼は彼女を正視することができて――「私を、御存知ですか」と、心の距離を急にのぞいた。
「いいえ。お会いするのは、初めてですが、おうわさは、聞いていました。それに私も、元は、都の者ですから」
「そうですか。どうも、そうではないかと思いました」
「どうしてです?」
「どこやら、都の
「あれ、あんなことを、仰っしゃって」
彼女は、耳のあたりを、ぱっと染めて、自分の顔を、自分の肩のうしろへ隠した。からだの姿態につれて、長やかな黒髪もやさしい曲線を描いた。将門は、彼女の
すると、さっき奥へ取次にはいった良兼の家人たちに違いなかった三、四人の声がして、しきりに将門を探し廻っていた。そしてふと、中の一人が、ここの廂の下を、木の間ごしに窺って、
「や。いたわ。ここにおる。玉虫どのの局に来て、話しこんでいるわ」
と、あきれたように、ほかの者を、呼びたてた。
将門は、
「豊田の
と、先に立った。そしてもとの広前に戻り、そこから館の内へ、案内して行った。
京風の建築をまねたのであろう。寝殿、対ノ屋づくりである。しかし、この地方の風雪に耐えるためには、柱もふとく、壁も多くなければならない。自然、頑固であり、粗野であり、薄暗くもなる。――後の鎌倉建築と似るところが多かった。
内の坪(中庭)へ面した広床の間に、
上総介良兼と、水守の六郎良正である。
将門の父良持の弟たちだ。つまり叔父共である。ここにはいないが、常陸の大掾国香が、いちばん上で、その下が将門の父、次が良兼、良正の順だった。
「良正。――将門がこれへ来ても、余り
「ですが、いちどは、首の根をとっちめておいた方がいいと思うな。……くせになる」
「ま。それもあるが、それにしても」
「きのう、河原畑で、将門の奴僕と、わが家の家人とが、喧嘩の果て、それに怒って、彼自身、ここまでやって来たところをみると、まだ以前の所領地にこだわって、おれ共の処置を、ふかく、遺恨にしているにちがいない」
「その執着は、一朝には、抜けまいよ。手をかえ品をかえ、気長に、諦めさすにかぎる」
「あなたは、よくそういわれるが、将門も、今では、むかしの鼻たらしとちがい、都のかぜにも吹かれて来て、理屈の一つも覚えたろうし、ごまかしのきく年でもない。――力で抑えつけるに限りますよ。ぐわんと、一度、こちら側の、力のほどを、思い知らしておかぬことには」
廊の端に、足音がした。二人は、眼まぜと共に、むずかしい顔を作って、口をつぐんだ。
将門は、ぬっと、室の外に立った。そして、叔父たちの視線に視線をもってこたえた。しかし、努めるように
「お邪魔します」と、一隅に坐った。
将門を案内して来た家人たちは、付け人みたいに、彼の背をにらまえたまま、廊の間にかしこまっていた。
「やあ、将門か。もっと、寄らぬか。そんな遠くに、
良兼は、さりげなく、あしらった。――が、良正は、きのうからの事もあるし、嘘にも、仏いじりをしている良兼とちがい、平常でも、武勇を以て、近郷に鳴っている男である。てんで、甥の将門など、眼のうちにもないように、横を向いて、酒をのんでいたが、
「何しに来たのだ。何しに? ……」
と、いきなり将門の方を見ていった。
将門の全身が、感情にふくれて、丸くなったように見えた。が、彼は、手をつかえて、自分の烈しい面色を隠すように
「帰国以来、つい、ご無沙汰しておりました……で、いちどは、ごあいさつに出なければと、思いまして」
「礼に来たのか。多年の礼に」
「……え。……まあ、そうです」
「まあとは何だ。
「いえ。まだ、参りません」
「なぜ行かん。ここへ来るなら、通り道ではないか。すべてのやり口が、
「……とは、思いましたが」
「将門っ」
「は」
「奥歯に物のはさまったようないい方をするな。貴様は、何か、思いちがいしているな。へんに」
「…………」
「よろしいか。よく聞けよ。十数年という永い間、とまれ、将頼以下の、
「…………」
「そればかりじゃない。もしまた、われら叔父共の庇護がなかったら、兄良持の遺した土地といえ、館といえ、牧場といえ、あの通りに、
「そんな甘い考え方だから、ひいては、恩義は忘れて、
「お、おじ上、ちょっと、待って下さい」
「だまれ。それから答えてみろ。たれの力が、四隣の狼から、土地や館を、防ぎ、守っていてくれたかを」
「わ、わかっています。……けれど」
「わかったら、それでいい。分ったといいながら、何だ、その涙は、……ぼろぼろ、何で涙を出すのだ」
「そう、仰っしゃるなら、私も、申します」
「なにっ」
「たれの恩だ、たれの情けだと、仰っしゃいますが、その事は、私ども兄弟が幼少であったため、父の良持が、肉親のあなた方を信じて、死……死ぬまえに……父が、たのむと遺言し……あなた方は、死んでゆく者に、心配するな、かならず、子らが成人の後には、荘園も、拓いた土地も、返してやると、誓って、お預り下されたものではありませんか」
「そうだ。……だから、今日、貴さまは、豊田の館に、住んでいるではないか。ほかの弟どもも、飢えずに、生きているではないか」
「いや。まだ、返って来ないものがあります。――父が、一代をかけてきり拓いた土地、功によって賜わった相伝の荘園。それらに附属している太政官の地券、下文、国司の証など、遺産の大部分は、返していただいておりません」
「つけあがるなッ」
「これこれ、将門。肉親だからいいようなものの、そんな得手勝手は、いうものではない」
「得手勝手でしょうか。――叔父御たちでなく私の方が?」
「何。何だと。これ……おまえはな」と、良兼も、勢い、自己の利得の防禦に立たざるを得なくなった。いや、自分たちで分割横領した土地の正当化を、ここで弁じておく必要に迫られたのだ。
「返せの、返らぬのと、単純に、いっているが、広大な田領を多年、守ってくるには、それだけの、犠牲があるのだぞ。国香殿でも、ここにいる良正でも、その為には、何度、隣郡の侵入者や、俘囚の族長などと、血をながして、喧嘩や、争いもしたか知れぬ」
「それは、それです。お返し下さる以上は、将門始め、弟共も、終生、それは御恩に感じ、また、叔父御たちのお家に、一朝、変乱のあるときには、いつでも、弓矢を
「た、たれがいった、そんな事を」
「たれでも、世間では、知っています。――父が、あなた方に
「生意気なっ」
こんどは、間にあわなかった。呶鳴ったのは、良正である。良兼がとめるすきもなく、突っ立って、良兼のうしろを跨ぎ、
「忘恩といったな。叔父にむかって、悪罵したな。この青二才め」
将門の左の肩へ、彼の大きな足が、蹴ってきた。将門は、その足を、両手でつかまえた。そして、彼が腰を立てるのと、良正が、そこらの
「やったなっ、将門」
良正は、吠えた。しかし良正が、起き上がるまえに、廊の間にひかえている家人たちが、おどりかかって、うしろから、将門に、くみついていた。
頑丈な曲輪造りの家も、一瞬、家鳴りに似た物音と、獣じみた人間の呶号に、揺すぶられた。
――が。一瞬にそれは、ハタとやんだ。
そのあとの、
「……ち、畜生め。……甥だとおもって、よいほどにしておけば」
良正は、やっと、口がきけて来たように、呟いた。そして、大勢で滅茶滅茶に撲ったり蹴ったりして、半殺しの目にあわせた将門の姿を、そのもがきを、いつまで、にらみつけていた。
「立てっ。さ。もう一ぺん立って、今みたいな口をきいてみろ。――将門っ。どうした。立てないのか」
良正、良兼、はじめ、人々はようやく、あたりの杯盤の粉々になっているのや、仆れている
将門は、身を揉んで、まだ、
「たわけ者が」
良兼は、
「せっかくの酒もりも、だいなしだ。つまみ出してくれい。この甥を」
物音に駈け集まっていた家人郎党は、十人をこえていた。将門を、かつぎかけた。よほど、荒っぽく、袋叩きにされたとみえ、将門は、立ちも得ない。無念を、もがくだけだった。
「まてまて、まだ」
良正は、彼をかついで、歩き出す群れをとめて――
「将門。わすれるなよ。きょうのところは、ゆるして帰すが、これが、青空の下だと、おそらく、
と、四肢の自由を失っている彼の耳もとへいってきかせた。
将門も、何か、死力をふるって、喚こうとしたが、とたんに、長い廊の橋をこえて、
「どうする……?」と、そこで、郎党たちの相談だったが、やがて、面倒だとばかり、館の門を出た所の
崖は急だが、
「……うごいている。死にはしない」
上で、郎党たちが、いって去ったのが、将門に、聞えていた。が、意識のそのほかの何ものもとらえ得ない。
一つの木の根から次の木の根へズルズルと転がった。痛いと、思い、首をもたげることができた。
「……うごいてはだめ。うごいてはいけません。下は、流れですから」
たれか、どこかで、いっている。まったく、時間の経過を無知覚でいたらしい。真っ赤な夕空が、黒杉の梢のすきまを鮮らかにしている。夕露が、肌に沁む。
「いま、行きますからね……。もがかないで」
声が近い。いや近づいてくる。将門は、とろんとした眼を上へ向けた。
一所懸命に、少しずつ、生命がけの冒険に臨んででもいるように、上から降りてくる者がある。昼見た、袿衣の人である。良兼の郎党が、玉虫どのとよんだあの女性にちがいない。
「あ……?」愕然とし、おもわず、将門は下から、
「あぶない」と、さけんだ。
さけぶまでに、意識がはっきりすると、全身の痛みも、熱をおびて、彼を、
玉虫は、ついにそばまで、降りて来た。彼女は、彼に気力をかして、ここから上がるようにすすめたが、だめだった。といって、彼女の
「つれて来た梨丸という小冠者が、正門の石段の下で、待っています。その梨丸に、知らせて下さい」
将門は、やっといい得た。彼女は、もいちど、袿衣の
ようやく、将門を、連れ上げて、梨丸は、主人のからだを、背にかけた。高い、暗い、石だん道を、玉虫は、途中までついて来ながら、いたわった。そして、その傷ましい主従の影が、麓の夕闇と一つになるまで見送っていた。
――ふと、人の気はいを感じて、彼女は、石だんを、上へ、戻った。ところが、そこには、彼女にとって、ひどく気まずい人物が渋面をつくって佇んでいた。もちろん、彼女を所有している肉体の主人である。その良兼は、仏教信者でもあるが、また、妻以外に幾人もの女を抱えては、この山荘の局に飼っておくのが、無上な道楽でもある人物だった。
玉虫は、かつて彼が、官途の公用で、上洛したとき、左京の常平太貞盛の案内で、江口の遊里にかよい、ついに、莫大な物代と交易して、東国へつれ帰った女なのである。
家人から聞くと、昼も、その玉虫の局に、将門が、話しこんでいたというし、今も、局を覗いてみると、玉虫の姿が見えない。そして、ここのこの有様なのである。
将門も、都にいたのだし、その将門のすがたを、江口の遊里で、見かけたこともあるというはなしを――かつて、貞盛から、聞いてもいたので、良兼は、初老の男の駆られやすい、ひがみと嫉妬に、むらっと、燃えた。しかし、それをすぐ口に出して、安直な気やすめを急ぐような彼でもなかった。
「何しているのだ、こんな所で。……また、良正と二人して、そなたの琵琶でも聞こうと思うて、さっきから探させていたのに」
「…………」
玉虫も、くすぐったそうに、笑うだけで、すみませんとも、いいはしない。彼女には充分彼女の自信みたいなものがあり、おいやならいつでも都へ帰ります、というのが口ぐせなのである。
「おいっ。どこへ行くのだ、どこへ」
さっさと、彼女が、ひとりして、先に、歩き出したので、良兼が、追いかけるように、いうと、玉虫は、投げやりに、うしろへ答えた。
「だって、女には、お化粧がありますのよ。こんな恰好で琵琶をひけの、また、舞えのといっても、ごむりでしょう」
良兼は、にが笑いしたが、彼女が、局に入るまで、彼女の虫籠である住居の小壺にうしろから尾いて行った。
野霜の翁――具足師の
源護の嫡男、扶から、
三ヵ所に、
「……どうなすったろうの。豊田の小殿は」
ふと、思い出したように、伏見掾が、つぶやいた。きのうの朝、夜明けと共に、ここを立った将門のことが、きょうは、家族たちの口に、何度も、うわさにのぼった。
「きょうも、ここの道を、まだ、通られはしなんだのう。――たれか、お姿を、見たものは、あるか」
媼もいった。弟子たちは、顔を振った。
「ここの道を、おつつがなく帰るお姿を見るまでは、何となく、気にかかることではある。……あの叔父御たちの、肚ぐろい
翁のことばについて、弟子達も、水守の良正や、羽鳥の良兼の悪口を、不遠慮に、いい出した。奴婢を、牛馬のごとく、ムチで追い使うことだの、その家来たちまで、
「いやいや、あの二人は、まだ良い方なのだよ」
と伏見掾はいった。媼や、弟子が、意外な顔つきをすると、翁は、「そうだとも……」と、自問自答して、仕事の手をつづけ、やがてまた、いい足した。
「――ほんとに、お肚の悪いのは、石田に住む常陸大掾国香さまじゃ。豊田の良持様の大きな御遺産を、あんぐり、呑んでおしまいになって、ほんの
遠くで、さかんに、犬が吠える。野盗のそなえに、この部落でも、犬を飼っていた。――娘は、白い顔を、灯皿の
「仕舞えや。眠ろうぞよ、もう」
細工場を、片づけ、あちこち、広い家の戸じまりを、手分けして、しはじめている時だった。
土塀門を、たたく者があった。
弟子が、二人して、覗きに出た。馬のいななきが聞える。雨気をもった低い雲間に、もう夜半をすぎた月が、ぼやっと、ほの白い。
「たれだえ。……どなた?」
「梨丸です。――豊田の将門様の召使で、おとといの夜、お世話になりました、あの主従です。夜更けに、おそれいりますが」
「え。将門様ですって」
「そうです。あのときの、おことばを思い出し、これまで、急いで、戻って来ました」
「やれ。ようこそ」と、翁は、尻ごみしている弟子たちにむかい、
「はやく、小門をあけて、お通し申さぬか」
と、叱った。
やがて、梨丸が、将門を、背に負って、はいって来たのを見て、翁も媼も、初めて、顔いろを、失った。……娘は、茫然と、片すみに、立ちすくんだ。
梨丸は、馬の背に、主人をのせて、からくも、あれから水も飲まずに、野路から野路を、これまで引っ返して来たのである。驚愕してむかえる家族たちに、あらましを、無念そうに語って、将門の体のいたみが、やや癒えるまで、どうか、一室をかして下さるまいかと、頼むのであった。
もとより、ここの家族に、否やはない。挙げて、将門主従に、同情をよせ、その夜から
「なに。たいした事はない。だいぶ、心もおちつきましたし」
朝になると、将門は、家族たちに、感謝して、その日のうちにも、豊田郷へ帰るような事をいい出した。伏見掾は、以てのほかな顔をした。
「お気がねなさるのでございましょう。ところが、私共には、よろこびなのです。先夜も、お物語りいたした通り、小殿のお父上良持様には、どんなに、お世話になったことやら知れません。
翁のことばは、そのまま、ここの家族の、真心な世話ぶりに出ていた。将門は、気がゆるんだせいか、その日から、大熱を発した。次の日も、夢うつつな、容態であった。
すこし、意識づくと、彼は、無念そうに、泣いてばかりいた。泣くことに、そう、人前をはばからなかったのは、この時代――平安朝期の日本人のすべてであったが、幼少から特に、癇が強くて、泣き虫な将門であった。その将門が、たまたま、こんな奇禍のあとに、思いがけない曠野の家の人情にふれて、すっかり、幼児のような心理に返っていたのかもしれなかった。またそれ程に、日頃から、愛情に飢えていた彼でもあったにちがいない。
けれど彼は、三日目ごろから、意識的に、泣くのをやめた。と、いうのは、いつも彼の枕許に、
娘の名は、
「桔梗どの。なぜ、お泣きになるんです」
将門は、ある折、彼女にそういった。病人と看護する者の間ほど、心と心との接近を、急速にするものはない。
「だって、将門様が、お泣きになるんですもの」と、桔梗は、はにかみながら答えた。
「ひとが泣くのに、何も、つきあって、一しょに泣かないでもいいんですよ」
「おつきあいではありませんよ。泣きたいから泣くのですもの」
「どうして、泣きたくなるのですか」
「でも……。あなたが、お泣きになるから」
「では、おれが泣かなかったら」
「私も、泣きますまい。けれど、将門様は、心のうちでは、時々、お泣きにならずにいられないのでしょう」
「そうかも、しれない」
「そうしたら、私も時々、心のうちで、泣かずにいられなくなるかもしれません」
「え。どうして」
「なぜでしょう。あなたのお心が、だまっていても、私には、いちいち、月と水のように、すぐ映ったり、揺れたりします」
「桔梗どの。……ほんとに」
「え。ほんとに」
「ほんとなら。……」と、彼は手をのばした。そして急に、むくっと、身を起しかけたが、
「……痛い」と、顔をしかめて、からだを、折り曲げた。
「あれ。いけません。急にお起きになっては」
桔梗は、彼を抱えて、寝かしつけた。それは、弟をいたわる姉のようなしぐさであった。
体は
留守をしている豊田の弟共も、さだめし、案じていることだろう。帰らなければなるまいと思う。が、帰りたくない思いもする。
同じ容子が、桔梗にも見える。
うすうす、知っているかのように、野霜の具足師の老夫婦は、なお将門に親切であった。客人としてでなく、家族あつかいの、温かさである。
「自分の館でも、このように、朝夕、揃って、
羨ましいことに思った。
豊田へは、梨丸を使いに出して、心配するなといってやってたのに、その梨丸について、弟の将平、将文の、二人が迎えに来た。
将門は、それを
「わざわざ、二人も揃って、迎えになど来なくても、よかったのに」
毛野川の
桔梗の面影が、頭から消えない。眼のまえに弟たちを置いても、彼女の顔が、重なって見える。もう一日はいたかったのに。――
未練の不機嫌が、いわせたのである。
「――が、留守中にも、何も変りはなかったか」
「え。べつに。……お留守中は」
弟たちは、兄がこわかった。都から帰って来たこの兄には、自分たちには、
「将頼は、どうしている? ……気の弱い将頼だ。心配し抜いていたろうな。――が、おれはこの通り、何ともない。叔父共ぐらい、
叔父の事を、口にすると、将門の眼は、眼の底から、無意識に燃えだした。筑波の山影を、はるかに、振りむいて、しばらく、ものもいわなかった。
ふとまた、われに返って――
「またも途中で、万一があってはと、梨丸がいるのに、お前たちまで、迎えによこしたのは、将頼のさしずだろう。そんな取り越し苦労はするな。お前たちまで、将頼みたいに神経が細くなってはいけないぞ」
「いえ。ちがいます」
「何が、ちがう」
「私たちに、兄上を、早く連れて来いと仰っしゃったのは、都から来ているお客人です」
「都の客人?」
「え。ずっと、泊って、兄者人のお帰りを、豊田の館で、待っておいでです」
「ばか。それなら、そうと、なぜ早くいわないのだ」
「将門を、びッくりさせてやるのだから、会うまでは、黙っておれと、固く、お客人から、口止めされたものですから」
「そういうのを、馬鹿正直と、都ではいうのだ。冗戯をまにうけるやつがあるものか。して、そのお人の名は、何と、聞いたか」
「お名は、伺っておりません」
「将頼からも、聞いていないのか」
「ええ、将頼兄も、知らないようです。けれど、偉い人らしいといっていました」
「年ごろは、幾つぐらい」
「四十ぐらいかと思います」
「一人か?」
「え。お一人です。けれど、太刀も立派なのを横たえ、都の人々でも、左大臣家の誰彼でも、この地方の国司、郡司でも、みな呼び捨てになさいます。――そして、酒がお好きで、朝から飲んでは、将頼兄をつかまえて、一日中、杯を離しません。都はおろか、九州の果てから、この坂東地方の事まで、じつによく何でも知っていると、将頼兄も舌をまいて、尊敬しておりましたよ」
「はてなあ。誰だろう」
将門には、思い当りがない。左大臣の使いなら、供の四、五名は連れているはずと思う。
それにしても、
(都も都だし、田舎もこれだ。正直者が正直に住める地上など、ありそうもない。――その中を、下の弟五人も抱えて、世に
おれだけはと、将門は、肚にちかった。
豊田の孤児六人で、あの叔父共を見返してやる為には――と、自分の性情にはない性情を持とうとした。――成ろうと思えば、叔父共以上な無慈悲な悪人に成れないことはないと、思いきめた。
良兼、良正を、筑波に訪ねて、彼が肚にもって帰ったものは、それだった。いや、それと、左の眼の下に、うす黒く残った
豊田の館へ、帰った晩。彼は、よろこび迎える家人や奴僕に、一わたり、無事な顔を見せて後、すぐに、
「都の客人とは、どこにおるのか」
と、将頼にたずねた。
咎めている彼の眼つきも覚らず、将頼は、いそいそと、
「もう、四日も泊って、毎日、待ちわびておられます。奥の客殿で」
と、もう先へそこへ走ろうとする。
「待て待て将頼。おれが、
将門は、奥へ行って、
――なるほど、見馴れない奴がいる。
しかも、飲んで飲んで飲み飽いたという風に、杯盤や、肴の
「……?」
将門は、不快と、
「……おや?」
と思ったとき、反射的に、男も眼をあいた。
熟柿のような顔の眼は、まだ、いくぶんか、とろんとしている。が、将門は、
「あっ、不死人ではないか。――八坂の不死人」
「おう、帰ったのか。小次郎」
男は、むっくり、起き上がった。将門の手へ、手を伸ばした。そして固く握りあった。
「しばらくぶりだなあ。小次郎。いや近ごろは、将門といっているそうだが」
「うム。お久しぶりだ。まさか、客が
「驚いたろう」
「正直。驚いた」
「あはははは。まあ、健在で何よりだ。なるほど、都でも聞いていたが、貴様の館は、大したものだな。さすが、坂東の豪族、桓武天皇の御子、
「しているよ。しっかり、やっている」
「うそをいえ。――留守中、弟たちに聞けば、親の良持が
「知っていたか。察してくれ。残念で残念で堪らない。この無念をどうしてはらそうか。そればかり考えて帰って来たのだ……いいところへ訪ねてくれた。おいっ、将頼、いちどここを片づけさせて、改めて、酒を運べ。おれも飲みたい」
弟たちには、兄と客が、どういう関係なのか、分らなかった。在京中の親友だろうくらいに想像した。家人は、燭を
その間も、不死人と将門は、ひッきりなしにしゃべっていた。話したい事、聞きたい事が、山ほどあって、何から、
まだ、将門が都の左大臣家にいた頃。――
不死人と、会わないのも、それ以来の――久しいことだった。
ひとつには、将門が、左大臣家から滝口の衛士へ、役替えされたためでもある。
その間に、左大臣家にあだした八坂の仲間が検挙され、首魁の不死人は刑部省の牢で獄死したと、噂された。
その後、純友が二度目に上洛したとき、将門は、彼と叡山の一角へ登った。酒を酌みながら、共に、青年
(みて居給え。いまに、南海の一隅から、大事を挙げる天兵があるぞ。貴族政治の腐敗の府を揺り
こう、情熱の
(うん。君のいう通りだ。君のいう事を聞いていると、じつに、愉快になるよ)
と、いった。
純友は、片手に杯をあげながら、
(じゃあ、今日の誓いを記念しよう。君も、杯を持て)
といい、二人して、乾杯した。そして、
(不死人の生死が分らない。分ったら、伊予へ、知らせてくれ)
とは、そのとき純友から初めて聞き、また、依頼もされた事だった。そのため将門は、刑部省の獄司、犬養善嗣をたずねて、探ってみたこともある。しかし、八坂の仲間とも、連絡が絶え、不死人の消息も不明のまま、以来、忘れるともなく忘れていた。――殊に、帰国の後は、生活も頭も一変していた。それどころでない事々日々に追われ通している。
「……時に。おれの事ばかり、問われたり話したりしているが」と、将門は、酒景の一新したところで、あらためて、客に杯を呈し、話題を、不死人の身の上に向け
「いったい、和主は、その後、どうしていたのだ。――獄死もせず、生きていたことは、今、眼に見ているが、この坂東の遠くへまで、将門を訪ねて来たには、何ぞ、仔細がなくてはなるまい」
「それはあるとも。たれが、
「聞こうではないか。まずそれを……」
「ひと口にいえば、藤原純友の使者だ。じつは、この春、瀬戸の
「往年の約とは」
「和主と純友とが、杯をあげて誓ったとかいう――叡山の約だ」
「待ってくれ。べつに、おれは何も、約束はしないが」
「いや、純友は、打ちあけた。おれだけにはと、その秘密を」
「そうかなあ……。そうかなあ? あの時」
将門は、首をかしげた。
共に、酒中、虹のような気を吐いた事は覚えている。純友が、腐敗貴族をののしり、
けれど、それは、純友の
「むむ。……そういえば、純友は、大望めいた事をよくいっていたが、瀬戸内で海賊を働いた前科もあるから、おれは、その事かと聞いていたのだ。叡山の約とは、何をさすのだろうか」
「あはははは。隠さんでもよい。おれも一味の人間だ」
「でも、それについて、使いに来たというのは?」
「まあ、そう性急に、片づけるにも及ぶまい。おたがい、遠大な計をもつ身だ。当分は、厄介になるつもりだから、折を見て、また
かなわない。どうにも、五分に取組めない。不死人と彼とでは、大人と子どもだ。
もっとも、十六の春、将門が都の土を踏んだその日、へんな尼に、
(かなわないのも、むりはない……)
将門は、
弟共に、彼がまだ、素姓を名乗っていないのは、倖せだった。彼の前身は、知らすべきでない。まして、仇敵の叔父共に知られたら、ゆゆしい事になろう。自分を葬る悪宣伝には、絶好な事実だ。将門は、とつおいつ、酔えもしない思いになった。
「……おいっ。どうした。酔わんじゃないか、さっぱり」
不死人は、ひとり杯をかさねて、
「女気がない館は、なにやら淋しい。なぜ、北の方をもらわないのだ」
と、眼をすえて、酔わない相手の顔を見つめた。
「いや、そのうちに、
将門は、ちょっぴり笑った。桔梗を、胸に想い出していた。
「
「ない事もない」
「それやあいい。安心した。――安心したところで、今夜は寝よう。愉快さに、おれは、思いやりを忘れていた。
始末のいい客ではあった。けれど、どこかに、
将門は、翌日、弟たちへ、こう告げた。
「ものいいは、荒っぽいが、おもしろいお人だろう。あれでも、都では、五位蔵人という立派な朝臣の御次男なのだ。ただ大酒と
弟たちは、疑わなかった。
将門は、ただ一つの満足を、この弟たちが、揃って頷く顔に見た。無条件に、兄を信じているその従順さである。兄以上、世間知らずの素朴さだ。責任を感じる。彼は、この顔の一つ一つの上に幸福を持たせてやらなければならないと、重荷を思う。
「
末の七郎将為が、ふと、訊いた。
「あ。そうそう。お名は、藤原不死人。――遊んでいるから職名はない」
答えながら、毛穴のどこかが、汗ばんだ。
当の不死人は、昼からもう飲んでいる。将門は、またつかまると、座を抜けられない気がしたので、
「今のうちに、
と、梨丸と
何か知れないが、留守中に、出頭するようにとの、通達が来ていたのである。庁の所在地までは、一夜泊りの往復だった。悪くすると、大掾国香や良正あたりから、先手廻しをして、訴訟でも出ているのではないかと思われ、将門は、恟々としながらも、相手の虚構をいい破ることばを、途々、無数に用意していた。
予想は
太政官
将門は、意外なだけに、歓びが、大きかった。
御厨とは、地方地方の
都の朝臣たちにくらべれば、微々たる地方の一小官だが、地方にあっては、どんなに低くても、官職があるとないとでは、住民の信頼も重さもちがう。将門は、多年、酷使された左大臣家の恨みも忘れて、はるかに、小一条の忠平公へ、心を向け、心から恩を謝して、欣然と、豊田に帰った。
弟たちも、欣んだ。家人奴僕も、あげて祝いを述べた。悪いことつづきの
だが、これを聞いて、ひとり
「笑止だぞ、将門。畑や、沼の水鳥の番人を仰せ付かって、何がそんなに、めでたいのだ。もっとも、遠謀の計ならよいが、そう
郷土は祭り好きである。猿島も葛飾も、筑波や結城も、この豊田郡も、何かといえば祭りだった。
館の御子が、太政官下文をいただき、御厨の職をうけられたと聞き、
「じゃあ、将門。自重してくれ。――
この晩。
不死人は急に、別れを告げた。
東北の奥地――まだ
目的は金。事を
(――盗みにでも行くのか)
よほど、訊いてみたかった。――が、そこまではいえないでいると、顔いろだけで、不死人は、将門の心を読み取ったように、笑い出した。
「都の怪盗も、都を追われてからは、木から落ちた猿だ。田舎は、おれに働きにくい。変現出没のきかない所だ。
「それならよかろうが、しかし、物代は」
「物代は、よその館に置いてある。当ててみろ。何だか」
「分るものか。ひとの館にある物などが」
「ところが、和主は、見ているはずだ」
「おれが。はてな」
「
「え。……玉虫か」
「そうだ。いつかの年、大勢して、純友や、
「ある。あるが……玉虫とその事と、何の関りがあるのか」
「打ちあけるが、
信じられない。彼のいうが如き女性とは将門に、思えないのだ。高貴な、そして優しい親切な女性であった気がする。少なくとも彼の印象と感銘ではそうである。
「いずれ、わかる。とにかく、来年また訪れよう。おさらば……」
夜というのに、彼は、豊田を立って行った。馬の背を借るでもなく、どこへ泊るつもりかと、曠野に育った将門ですら、彼の棲息の仕方には、驚きを覚えた。
ところが、半月ほどたつと、いやな噂が、耳にはいった。
常陸の
――というのは、良兼の寵愛しておかない
(これはてっきり、将門の許へ、逃げて行ったにちがいない。怪しむに充分な理由はある)
と、羽鳥の人々が、いい触れたのが動機で、またその
(事もあろうに、豊田の御子は、叔父御の愛妾を、横奪りなされた)
と、もっぱら、
野霜の具足師の家へ来て、それを将門の行為ときめ、人非人だと罵ったのは、
「そんな、ばかな事はない。まるで、嘘ッぱちだ。羽鳥の奴らが、それほど疑うなら、なぜ豊田の館へ見に来ないか。見にも来ないで、何をいうか。――と、私は思うさま、野霜の家で、怒鳴ってやりました。が、そこの翁や媼も、そうであろ、そうであろと、共々怒っておりました。お娘御の、桔梗さまも泣いていました。……残念です。この間も、無念でしたが、きょうは、それにもまさる口惜し涙をのんで帰りました」
将門は、黙然と聞いているだけだった。
――余り気にもかけないのかと、梨丸は、木像のような主人をふと見上げた。怒気とも、泣き顔ともつかない面色が、そこにあった。梨丸は、後悔して、口をとじた。そして涙を抑えながら、主人の前に
ある期間、自分だけに誓って、黙々と馬鹿みたいになって働く――ということは、真面目な人物がよく思い立つことである。
一種の
「これは、気が楽になった」
将門は、自分を、危機から救ったと思った。馬鹿でない自分が、馬鹿みたいになって、その実、
「おもしろい。
彼は、世間に耳をふさいだ。家人や奴婢が、外から何を聞いて来て告げ口しようと、笑っていることに決めた。
開拓しさえすれば、新たな
折ふし、承平二年から三年にかけては、全国的な大
秋には、寒冷がつづき、翌年五月には、
そのため、二年目の秋には、地方の
天皇は、
(――更ニ、
という、倹約のために諸卿へ
おまけに、比較的、被害のない四国、九州などの西海地方では、海賊の
内海の海賊は、都の官庫へ輸送されてくる調貢船を狙っては、襲った。
「伊予の純友だ。……純友のしわざだ」
と、それも、都の不安に、輪をかけた。
穀倉院の在庫高は、洛内の窮民に、
当然、各地とも、
抗するにも、訴えるにも、何ら、法の庇護をもたないこの時代の無力の民は、どんな
平安朝の民の、その頃の民謡に。
ありしかど
取りしかば
挿し櫛もなし
わずかな税物の代りに、髪飾りすら、地方の掾の下吏に持って行かれたと嘆いている土民の妻の顔が目に見えるような
が、櫛はおろか、自分たちの露命をつなぐ、何物すらなくなってしまうと、彼らは、最後の手段として、小屋を捨て、郷を捨て、一家離散して、思い思いに、自分の身を、奴隷に、落した。
寺院であれ、官家であれ、豪族の家人であれ、どこでも、力のある所へ、奴婢奴僕として、奉公するのである。そういう、無籍の民には、税は負わせられない。つまり、身をすてて、税の負担から
そういう
将門は、追わなかった。むしろ、幸いとして、
「食えない者は、おれと働け、働くところに、飢饉はない」
と、かかえ込んだ。そのため、館の大家族形態は、
世は、承平の大飢饉といわれた程なのに、豊田郷は、この期間に、かえって、富を増した。
朝廷から任ぜられていた相馬御厨からの御料の
また、さっそく、種つけし始めた牧の
いや、もっと、大きな力を加えたことは、隣郡の結城や猿島の小豪族が、
それにたいしても、彼は、
「うむ、一つになるか。よかろう。小さく、こせこせ、茂り合うよりは、一門となって、力をむすび、深く根を張って、大木となろう」
来る者は、拒まず、誰とでも、杯をくみ交わした。彼にはどこか、そんな風に慕われる親分肌な人がらがあったとみえる。由来、関東八州は、後世まで、ややもすると、杯によって義を約す侠徒の風習を生じたのも、遠く、平安の世の坂東曠野時代、この辺の原始制度の中で強く生きるために自然に仕組まれた族党結束の名残といえないこともない。
到底、三人の叔父に横領された遺産の大には、及びもしないが、それでも、将門はひとまず、家運を
すんでの事に、建ち腐れともなる、父祖以来の、豊田の館を、もりかえした。叔父共の手からは、依然、一枚の田も返されてはいないが、奪られた家産田領の何十分の一かは、自分の努力と汗から取りもどした。
「――天はおれを憐んでくれている。おれには、励みがある、人知れぬ楽しみもある」
黙々三年の間、彼を時々ニタニタさせていた胸中の秘密は、承平五年の正月、初めて、一族兄弟に、披露された。
「ことしは、おれも、妻をもつぞ。……誰だ? 当ててみろ」
と、初春の宴会の夜である。いきなり大勢の前で、こう、彼らしく、いい出したものである。
「ほんとなら、一族の歓びです。お
みな、どよめいて、杯を上げ合ったが、さて、将門が正室として迎えようと決意したほどの女性は、誰であろうか? 誰にも見当はつかなかった。
当時、早婚の風は、平安の都ばかりでなく、
「
いったのは、弟の将頼である。
将頼は、うしろにいた梨丸と、顔を見合せて笑った。
「なに。知っていると?」
「分っていますとも」
「当ててみろ」
「当てたら、何を下さる?」
「おまえには、御厨の御料地をふくむ、
「え。……まさか、兄者人、そんな、おねだりはしません」
「よいから、いえ。当ててみろ」
「野霜の……
「そうだ」
将門は、手を打った。そうだといった声も、途方もない大声だったので、みな、あっ気にとられて、将門を、見まもった。
しかも将門は、あわてて杯を唇へ運び、眼に涙をためていた。そして、将頼に、杯を与えた。
「当たったよ、将頼。分っていてくれたのだな、うれしいぞ。……どうだ、将平も、将文も、将武も、将為も」
ずっと、弟たち、すべての顔を見わたして、
「桔梗どのを、おれが、娶ってもいいか、どうか。それが聞きたい。家人共も、いってくれ、遠慮なくいってくれ。この館の北の方としてよいか、悪いかを」
と、おそろしく真剣になって訊ねた。
将頼を始め、彼の弟たちは、口々にそれへ答えた。
「よいも悪いもございません。兄者人が、お好きな方なら」
「兄者人も、御決意なのでございましょうが」
「うすうすは、将頼兄から、聞いていました。そんな、お好きな方があるのに、いつお
「…………」
将門は、大きな味方を得たように、弟たちの一語一語を、うなずきで受けては、だらしなく、鼻のあたまの涙を、
「そうか、お前たちが、そういってくれれば」
「なぜ、そのように、私たちへ、お気がねなさるのですか」
「いや。あれを娶うには、お前たちの力もかりなければならないからだ。手ッ取りばやく、結末をいうならば、桔梗どのの親、野霜の翁のことばには、晴れて、嫁入らすというわけにはまいらぬ程に、
「あ、そうですか。余りに身分が違いすぎると、あの実直な親共は、卑下しているわけですな」
「……とも、ちがう。理由は、まったく、べつにある」
「ではなんで、そんな古風な事を、望むのでしょう。遠い昔には、望むところの家の娘を、聟と、聟の一族が行って、
「それも、先方の望みだから仕方がない。おれには、桔梗どのの親共の苦しい気もちは充分にわかっているのだ。そして、お前たちにも、その苦しみが、やがては、
将門は、指で髪を掻きあげた。その手は、いつまで、髪の根をつかんだまま、彼らしくもない溜め息になっていた。
将頼にも将平にも、ふかい事情はわからない。ただ、兄の恋が、四年ごし、胸の中におかれていたことだけは知っている。そして、その兄が、酒興ではなく、大勢のまえで、こう苦悶するのを見、何でわれわれに否やがあろう、と一せいに、兄の恋を励ますような
家人郎党たちにしろ、それは、ここで更に祝杯を重ねてもいい程な思いこそあれ、異議のあるべきはずはない。やがて、異口同音に、
「吉事は早くこそ。花に雨、月に雲のたとえもありますぞ」
と、凱歌のようにいい
一族の者に、そう祝福され、励まされて、将門も、いよいよ
「では、
と、宣言した。
酒の強いのは、この時代の、殊に、この原野の人種の特色である。
ところが、ただひとり、不安そうに、これを眺めていた老人がある。将門の父良持の代からいる
経明は、もう眼もかすみ、腰も曲がって、物の役には立たない老齢なので、御厨の御料の池の番所に詰め、めったに、館へも来なかったが、たまたま、新年の宴に会して、かえってひどく憂い顔に沈んでいた。
何か、彼も一言、いいたげであったが、この若者ぞろいの、逞しい野性に酒気をそそいだ雰囲気に
――と、悟ったように、彼のみは、独り、とぼとぼと、暗い遠い道を、御厨の御料園へ帰って行った。
正月中は、
将門は、坐ったきり、客に接して、のべつ酔っているような恰好だった。
きょうも、菅原景行が来ていた。
「よくぞよくぞ、これまでに励まれた。亡き良持どのがお
景行は、口を極めて、ここ数年の、将門の克己を
この謹直な
「たのむぞ。この上ともに」
まるで、真の父が、真の息子を、励ますようにいって帰る景行であった。
その人を、館の中門まで、送り出して、ふと土倉の方を見ると、五、六頭の荷駄が着いている。弟たちと、家人が、馬の背から下ろした武具の
「おう、また、野霜から、
「はい。なお
「馬具も、長柄も、弓も、もう相当、量は溜ったろうな」
「だいぶ、揃って参りました。いちど、三つの土倉を、御覧なさいますか」
「いや、きょうは止そう。……それより将頼と将平は、ちょっと、おれの居間まで、来てくれないか」
将門は、やがて、後から
「おとといの晩な。初春の
「はい」
「おれは、よほど、心が浮いていたものとみえる。われ知らず、桔梗どのの事を、口に出してしまった。あきらめきれぬ女性ではあり、決して、諦めようとも、思ってはいなかったが、さりとて……ああいうつもりもなかったのだ」
「よいではございませぬか。想いを、想いのまま、いつまで、おつつみ遊ばしているよりは」
「そういって貰うて、おれは、涙がこぼれたよ。――将頼、将平。……打ち明けるが、実は、桔梗どのには、おれのほかにも、いのちを賭けて、恋している男がある。おれにとっては、何しろ、
「どうしたことです。兄者人、恋に負けてなるものですか。相手があると聞けば、私たちも、兄者人を、失恋の人にはさせられません。なア将平」
「そうですとも。たれです、相手は」
「それがよ。源護の息子たちだ」
「息子たちとは、おかしいではありませんか。護の嫡男、扶ですか。次男の隆か。それとも、三男繁ですか」
「げにも、笑止なことだ。その扶と、次男の隆とが、これまた、ひとりの桔梗を争いあっているわけだ。そのため、彼ら兄弟も、
「――と、仰っしゃるのは」
「扶と隆の兄弟が、やはり兄弟だけに、話し合って、この恋、どっちに幸いするか、
「ば、ばかにしている。恋する女性を、賭け物にするなんて……」と、気の優しい将頼すら、義憤をもらして、「――それで、野霜の伏見掾は、娘を、そのどっちかへ、与えるつもりなのでしょうか」
「いや、あの翁は、職は具足師でも、心は硬骨だ。もちろん、やる気はない。それはおれにも誓っている」
「いつ、お会いでした」
「ここへ来ては、人目にたつ。そこでいつも、御厨の御料園へ、そっと忍んで見える。あの経明の住んでいる
「それでは、親御の伏見掾も、兄者人へ、
「ま。……そうなのだ」
将門は、顔を赤くした。弟たちに、
「――ならば、何を、さは、
「いや、おれの惧れるのは、それから先だ。――何といっても、源護一家は、新治、真壁、筑波三郡にわたる常陸源氏の宗族だ。坂東一帯にも、数少ない大族ではあり、嵯峨源氏の与党も各地にもっている」
「だって……兄者人。恋でしょう、問題は。いくら嵯峨源氏の嫡男でも、女ひとりに、そんな表立った権力を振えもしますまい」
「……が、なあ弟。あいにくと、その護の
「縁は、どうつながっていようともです。――では、兄者人は、桔梗どのを、想い切れるのですか」
「きれない……」
将門は、眼をつむった。
「じゃあ、あとの苦情や、多少のいやな思いは、お覚悟の上でも、思いをつらぬくしかないではありませんか」
「ゆるしてくれるか」
「そんなお気の弱いことを」
「おれに
「この時に、私たちの身まで、そんなにお考え下さらなくても」
「いつかは、将文、将武にも、追々、そうしてやらねばならない年頃にみな来ている。父の亡い家だから、おれが父の仕残しを仕遂げねばなるまいわさ。あははは……。今ごろ、恋にとらわれて、おまえ達にまで、心配させている困った親代りだ。
弟二人は、しゅくしゅく、俯向いた。共に、
すると、常には気の弱い神経質な将頼なのに、決然と、涙を払って、いい出した。
「わかりました。お気もちも、御事情も、よく分りました。おいいつけのように、私は、数日中に、御厨へ別れます。将平も、そうせい。――ところで、兄者人。兄者人の恋人は、いつお迎えしますか。野霜へ、桔梗どのを、
「兄者人。――私も」
と、将平もまた、兄へ迫った。
まだ、野も丘も、冬枯れのままだった。
――その日。伏見掾の家は、
彼女は、化粧した。泣き腫れた顔を、幾たびも、鏡にむかって直した。
弟子たちは、裏表を、見張っている。
――やがて、遠く野の中で、
「……では」
と、にわかに、翁も媼も、家中して、ざわめいた。
「しずかに。……静かによ」
涙ながら、桔梗の姿を、土塀門の小さなくぐりから、送り出すのだった。桔梗は、うす紅梅、緑、白、紫と襟色を重ねた
すぐ、その辺に、身を伏せていたものだろう。さっと、木蔭や草むらから、十人余りの人影が立ち、桔梗のそばへ近づいた。
さすがに、桔梗が、ア――と、かろい声を流した。ともう、彼女は、馬の背に、押しあげられ、
それを、遥かで待っている者の合図らしく、さっき見えた松明が、またしきりに、
媼と翁は、家のうちへ戻ると、おたがいに、老いの涙のとめどなさを、慰めあった。
「ああ、寂しい。手のうちの
夜もすがら、この老夫婦は、桔梗が生まれた時から、きょうまでの想い出を、いくら話しても話しつきないように、語りあっては、泣き沈んでいた。次の日も、この具足師のやしきは、夜のように、ひそまり返っていた。
弟子たちは、部落の同職の人々へすら、
「桔梗さまが、きのうの夕方から、行方知れずにおなりなされた」
と、事実を隠していた。そして、
「平泉の人買いに、
と、わざと大仰に吹聴した。
こういう例はないではない。陸奥の俘囚(半蝦夷領)の勢力地へ行くと、美しい女が高価に売買されるという。また、はるばる都から美女を輸入してゆく人買いはよく北の方へ通って行く。
現に、数年前には、羽鳥の良兼の局にかこわれていた――あんな堅固な館のうちの女人すら、忽然と、姿が見えなくなってしまった実例さえある。
しかもこれは、国司の庁や、郡司の役所へ訴えても、どうしようもない事だった。あの羽鳥の良兼の勢力を以てさえ、ついに、愛妾の玉虫は、あれきり、どこへ行ったか、分らず仕舞いである。一時は、将門が隠したのだと、もっぱら嫌疑をかけて、探りを入れたが、真実、豊田にも、どこにもいないと分って、ようやく、ここ一、二年前に、噂もなくなっていたところだった。
「何、何。――桔梗が行方知れずになったと」
源護の嫡男、扶は、その日、水守の良正の館へ遊びに出向き、まだ良正にも会わないうちの門前で、良正の家来たちから、その事を聞かされた。
「それは、捨ておけん。一大事だ」
彼は、たちまち、馬を
この嵯峨源氏の嫡子も、年はもういい程である。正妻も側室も持っていた。だが、恋は、べつな道としているらしい。地方にめずらしい
「はやく来い。ばかっ。おくれな、郎党共」
追いつき切れない家来たちを、時々、馬上から振り返って叱りながら、まるで、戦場へでも急ぐような語気である。
「隆の仕業かな? ……。そうだ。悪くすると、弟め、それくらいな事はやりかねん」
充分に、疑って、野霜の具足師、伏見掾の部落屋敷へ、駈けこんだ。
ところが、どこで聞いたか、弟の隆の方が、もう先にそこへ来ていた。翁も媼も、その夕から、床について、嘆き沈んでいるといって会わない。弟子たちや、部落の諸職の者を集めて、細々、訊きただしていたのだった。
「どうも、よくわからん。――桔梗がいなくなったのは、事実らしいが、前後のいきさつが、辻つま合わぬ」
「隆。何も、手がかりは、ないのか」
「やあ兄上。これはちと、おれ達の不覚だった。察するに、豊田ではないかと思う」
「将門か。……うム、一度は、そうも考えたが、あの小心者に、大それたまねは出来まい。桔梗の身には、われらの息がかかっていると、彼奴は、百も承知のはずだ」
「そう考えていた
隆は、ずんぐり短い体を振って、しきりに、かなつぼ眼を、あたりへ動かした。自分の嗅覚に、確信をもって、いいきるのである。
扶は、青ざめた。憤怒するとそうなる性質らしい。
「おい、隆。伏見掾夫婦を、おまえの馬の背に引っ
そういいつけて、自分は、不快
まもなく、隆が、後から来た。しかし、野霜の老夫婦は、
「豊田領へ、
隆の言があたっていたことは、数日の後に、立証された。共に、失意となってみれば、この兄弟は、将門を憎むことに於いて、また、報復を期す目的に於いて、どこの兄弟仲よりも、急に、仲がよくなった。
「彼奴にも、家人郎党はある。うかつには、手が出せん。どうしてやろうか」
行ったら完全に将門の致命を
すると、二月の末頃である。
石田の大掾国香から、使者が来た。書状をひらいてみると、こうあった。
――長らく在京中のせがれ常平太貞盛が、突然、帰省いたしました。
このたびの帰省は、新たに、右馬允 に任官した歓びをこの老父に告げるためと、今春の御馬上 せの貢馬 を、東国の各地の牧に、下見 するための公用の途次との事です。
ここわずか両三日ほど、郷家に旅の身を休める暇をもつのみとか。ぜひその間に、久々ぶり、お会いもして、四方 のお物語りなど、日頃の思慕の想いを尽したいと、念じております。
お待ち申しあげる。どうか、おそろいにて、お立ち越しのほどを。
このたびの帰省は、新たに、
ここわずか両三日ほど、郷家に旅の身を休める暇をもつのみとか。ぜひその間に、久々ぶり、お会いもして、
お待ち申しあげる。どうか、おそろいにて、お立ち越しのほどを。
常陸も北と南では、かなり季節がちがう。
石田の館は、南常陸にあった。
二月。筑波の風はまだ冷たいが、宏大な館の築土にも、中門の
大掾国香は、朝から機嫌である。
やがて、家職や侍たちが来て、準備の出来たことを告げると、
「そうか。客門の辺りばかりでなく、
「藁一つ散らしてないように、清掃しておきました」
「よし、よし。……もうやがてお見えだろう」と、幸福そうに老眼を
「右馬どのには、何しておられるか」
「今し方、お湯殿を出られ、
「すっかり、都風よの。あれもなかなか洒落者ではある。支度がすんだら、客人たちのお見えになるまで、これへ来て、父と話さぬかというてくれ」
右馬どのとは、自分の長男、さきの常平太貞盛をいうのである。新たに、右馬允に昇官したので、この老父は、愛情と自慢を併せて、意識的に、家人たちには、近頃そう呼ばせていた。
「父上、これにおいでで」
「お、貞盛か。まあ坐れ。
「きょうの客人は、
「正客は、源護どの。
「護どのの御子息たちは」
「来るだろう。案内はしておいたから」
「都へ出たまま、久しく帰国もしませんでしたが、以前とは、比較にならぬ程、荘園も拡まり、家人郎党も殖え、このお館など、見違えるばかり華麗になりましたな。これ程な
「しかし、わしの官位などは、依然として、大掾に止まったままだ。何というても、田舎にいては、
「あちらでは、
「将門か。……ふふふふ」と、国香は下唇を反らして笑った。貞盛を見るときは、眼の内へも入れてしまいたいような愛情に
坂東にいて、都にも負けない居館や、
「いや、弱るよ、あの将門にはな。……ややもすると今でも、良持の遺言だの、荘園の古証文など持ち出して
「
「笑い事かよ貞盛。そもそもは、お許もすこし怠慢であったぞ」
「ホ。私にも罪がありますか」
「あるぞよ。――それ、そのように、忘れ顔ではないか」
「はて? 仰っしゃってみて下さい」
「過ぎ去った事だが、将門がまだ都にあるうち、お許への密書のうちに、いいつけておいたであろが。……将門めが、国許へ無事帰って来ては面倒になる。都にいるうちに、何とか、処分するようにと」
「あ、なるほど。思い出されます。――彼の在京中、折あらばと、私も
「いや、鈍は鈍でも、彼奴を帰国さしたのは、せっかく、都の
「これは、時過ぎてから、思わぬきついお叱りで」
「なにも、改まっていうではないが、いずれきょうの宴には、良正、良兼などからも必ずその話がむし返されて出るにちがいない。あらかじめ、親心でいうておくのだ。もし叔父共が責めたら、よいようにいい解けよ」
貞盛の帰洛の別宴とはなっているが、兼ねては彼が右馬允に昇官した披露目の意味もあろう。夜に入るまでの盛宴だった。
主賓の源護は、老齢なので、ちょっと顔は見せたが、
広間の燭を、一隅に縮めて、国香を中心、内輪だけがなお夜を飲み更かしているのは、話題が、将門の事になったからである。
「きょうは、この兄の嘆きも聞いてやって下さい」と、弟の隆は、自分の横恋慕は棚に上げて――
「長年、恋していた女を、兄は、将門に奪われて、悲嘆やる方なし……というこの頃なのです。うんと飲ませて、元気をつけていただかないと、恋死ぬかも知れません」
などと酔いにまかせていった。
貞盛は、かえって、
「そうか、扶どの。――道理で浮かぬ顔よ。したが、失恋は、酒では
と、おかしがった。
けれど良正、良兼たちは、わざと深刻な表情を持して笑わなかった。その事は、数日前から聞いていたし、相手が、将門と聞いて、われらも共に、恥辱を感じていたところだ――と、
その間、国香も、むずかしい顔して、
それでなくても、鬱憤にくるまれていた、扶、隆の血気は、わけもなく誘い出された。そして、激越な語気のもとに日頃の大胆な考えを口にし出した。
「もとより、このまま、私たちも引っこんではいない。どうしたら将門を、必殺の地へ、おびき出せるか――と、じつはその
酔いを蒼白なものに沈めて訴えるのである。その
貞盛も、さきに自分の手でやり得なかった事が、扶や隆の手で行われれば、これに越したことはないと思った。それも、それをやる者の
貞盛も、そんな意見を出した。知性的な態度の彼からそういわれると、扶たちは、自己の考えに、なお確信をもった。殊に、中央の工作を、貞盛が受け持ってくれるとあれば、――と、それも大きな力とした。
とにかく、その夜、一つの密謀が、かためられた事は、確かである。――久しく都にいて、めったに帰省しない貞盛が、居合せたことも、後に思えば、宿命的であった。
その貞盛は、やがて、都へ帰った。
三月から四月への、坂東一帯の春の野の
将門は、そうした自然に身まで染まって、相変らず、家人奴僕を督励して、働いていた。
わけて、恋人を妻として、館の一棟に、その桔梗の前と、蜜のような楽しい新家庭を
すると、五月の
石田の大叔父、大掾国香から、いんぎんな使者が来た。そして、将門宛に、書面があった。
「あ。……もう
彼はふと、茫として、遠い回顧にとらわれた。
――日は、五月四日。場所は、新治郡の大宝寺。
一族相寄って、良持どのの法要を営み申したい。ほかならぬ故人のこと、
という意味の文章である。
「……参ります。何は
つい眼に涙が溜った。返事をしたため、また、使者へ口でもことづけた。
桔梗は、四日の事を聞いて、
「いらっしゃらなければ、いけないのでしょうか……」
俯し目になって、それだけをいい、どこか
明日となった。
桔梗は、また、
「どうしても、おいでにならなければいけませんの……?」
おとといと、同じようにいった。
将門は、ちょっと、眉を
「そんな事より、新しい
「ええ……。御装束は、みな、調うていますけれど」
「なぜ、そんな淋しい顔をするのか。――桔梗、よせよ、そんな悲しそうに、睫毛をふるわせるのは。おれまでが、悲しくなって、何だか、行きたくなくなってしまう」
「おねがいですから……」
桔梗は、抱かれた良人の手の甲へ、濡れた睫毛を、ひたと、すりつけた。
「――いらっしゃらないで下さい。四日の御法事には」
「どうしてか。なぜ」
「でも……私、心配でなりません。いいえ、御舎弟たちも、寄り寄り、お案じ申して、私へ、
「将頼がか?」
「いいえ。将平様も、将文様も」
「新治の大宝寺というので、敵地へ行くように案じるのだろうが、常陸源氏の息子たちは、この法要には関りはない。羽鳥や水守の叔父共は見えるだろうが、おれさえ、何事にも
「将頼様の御代参ではいけませんか」
「総領のおれがいるのに。……殊には、ほんとなら、法要はおれの名をもって営まねばならないところだ。……な、そうであろうが」
「え、え」
「この二、三年は、おれはただ、家運の挽回に、無我夢中だった。起きれば、田野へ出て、奴僕と共に、土にまみれ、疲れた身を、横たえると……桔梗、おまえの夢ばかりみていたよ。……夢が、昼の働きを励まし、昼のつかれも、夜の夢を楽しみに、ここ三年は暮していた」
「……私も。……私もです」
「二人の夢が、こう結ばれた。その
「ですから、この愛しい日を、いつまでも続けてゆけるように、じっと守っていたいのです」
「もとよりだ。……ただ、そんな幸福に、ここ百日も、恵まれていたものだから、まったく、亡父の十七年の年忌など、頭のうちに、思い出されもしなかったのだ。不孝といわれても仕方がないが、しかし、死んだ父上は、知っていてくれるよ。……ゆるして下さっているに違いない」
「…………」
「おれは、母とは、顔も知らないうちに別れ、父も少年の日に死なれてしもうた。こういう
「ですから、明日の御法要へも」
「行くなというのか。さあ、今となっては、ちと遅い。行くと、返書もしてあるのに、その日になって、おれが姿を見せなかったら、
桔梗はもう止めることばを失った。また、そういう
「行って来るぞ」
将門は、馬寄せから、
小冠者二人に、郎党十人ばかりしか連れなかった。
承平五年の五月四日だった。
早朝の新緑の風が、爽やかであった。――豊田の町家を通って行く。里の老幼が、あわてて馬を避け、朝のあいさつを、ていねいにする。――将門は、
「
大宝寺へは、豊田から
「ははあ、弟共の手兵だな」
将頼か、将平か、将文か。それともみな揃ってか。とにかく、おれを一心に案じて、協議の結果、やって来たにちがいない。ありがたい、うれしい奴らだ。それまでの心を無下に叱って追い返すこともない。――将門は知って知らない振りをしていた。
ところが、川西の
「はてな? ……あれも、弟かしら」
鞍の上から、伸び上がった時、耳のそばを、ひゅっと、へんな音が
「やっ、身内じゃないっ」
将門は、仰天して、どなった。
「な、なんだろ。あの人数は、何か、人違いしているんじゃないか。おうーい、豊田の将門だ。間違えるな、おれは将門だが」
彼はまだ気がつかない。身は、平日の狩衣である。矢の一つもうけたらそれまでなのに、彼は、まだ、わざと標的になるように、手を高く振りぬいている。
何たる愚鈍な兄。お人よしな兄。
むしろ、敵の伏兵よりも、それに腹が立ったように、うしろから、鉄甲武者が二騎、
「
と、
ちらと、二騎の横顔を見て、
「あっ、将文、将平」
と、鈍重な彼もようやく事態のただ事でないのを知った。
するとまた、すぐ後から、将頼が馬をとばして来た。そして、
「兄上、兄上。早く、これをお召しなさい」
と、一領の具足を抱えて、馬をとび降りた。将門も、つられて跳び降りた。
「将頼。いったい相手は何者だ」
「知れきっております。――源護の息子共です。あれ、あの軍勢の装いをごらんなさい」
「なに、扶や、隆だと」
「今頃、どうして、そんなに
「が。……あれは、恋の上の事。……きょうの途中は、ほかならぬ仏の
「兄上を狙っている敵に、何を、そんな
将頼は、具足の着込みを手伝って、兄の体を、元の鞍の上へ、押し上げるように
矢は飛んで来なくなった。しかし、彼方では、将文たちに続いた豊田の郎党が、敵との間に白兵戦を起していた。
将門は、郎党の長柄を
「もう、我慢しないぞ。おれは」
と、曠野へむかって、一声
ひとむらのけやき林がある。
整った林のある所には、かならず家があり、部落をなしていると見てまちがいはない。それは原野の住民が初めに防風林として植えた集団生活の
沼地の葦の間を縫い、また、広い野原を駈け、畑を駈け、一すじの土けむりを曳いた騎兵の群れが、今、吸いこまれるように、そこの
「来るぞっ、来るぞ。将門が」
「やがて、
「かくれろ。――姿を伏せろ」
毛野川の東を、伏兵線の一陣とし、ここの欅林を二陣として、源扶、隆たち兄弟の兵は、二段がまえに、
その第一線から戻って来た物見の騎馬たちは、あちこちの味方へこう呶鳴りながら、部落の中の一番大きな家の前へ来て、土塀の中へ、馬をかくし入れた。
「どうした、将門は」
ここには、扶と隆が、物々しい武装をして、報告を待っていた。屈強の郎党を、二十名もまわりに従え、まるで、大将の本営めかした備えであった。
「うまく行ったか。彼奴を、袋づつみにして、戦闘中か」
兄と一しょに、弟の隆も、物見の者へ、こうたずねた。
五、六人の物見の中から一人が答えた。
「はい。合戦は今、
「なに。先にも、合戦の備えがあったと。それはへんだな? ……。まさか、こっちの計りを、内通した者もないだろうに」
「どうか、分りませんが、とにかく豊田の郎党も、将門の姿を、遠く離れて、あとから隊をなして
「しまった。それでは、やはりあそこ一ヵ所に、総がかりで、伏せておればよかったのだ。――して、戦のもようは」
「何しろ、将門が、怒り出しましたので、豊田勢の強さといったらありません。それに、将頼、将文など、将門の弟たちも一つになり、お味方は、駈けちらされている有様です」
「では、来るな、こっちへ」
「
扶は、こらえているふうだが、具足の下に、ふるえを見せ、顔も、硬直していた。
隆は、かえって、あざ笑った。
「いいじゃないか。こっちの作戦どおりだ。ここにも二陣の伏兵はひそめてある。わざと、勝ち誇らして、彼奴を、部落にさそい入れ、四方から火を放って、焼き殺してしまえばいい」
そこの屋根より高い空で呶鳴る者があった。三男の繁である。繁は、欅の大木から
「毛野べりの方から、真っ黒なほど、土ぼこりが、こっちへ向いて、駈けて来るぞ。将門と、豊田の奴らにちがいない」
土塀の中は、騒然と殺気だった。扶たちは、馬の背に跳びつくと、たちまちどこかへ、走り去った。郎党たちも、後につづき、残った者は、巧妙に、家々の蔭に、身をひそめた。
やがて
さすがに皆、戦いつかれて、血と土にまみれた姿を、かえりみ合った。たれの具足にも、矢が立っている。
「もう追うな。これくらい痛めてやれば、
将門は、馬を降りた。水が飲みたかったのである。家々の間を、水の
将文も、兄をまね、郎党たちも、池のまわりへ、屈み合った。
すると、将頼が、注意した。
「やあ、兄者人。かりにも、馬を降りてはいけませんぞ。あぶないあぶない」
「なぜか。将頼」
「ごらんなさい。どこの農家も、空き家です。空き部落だ。察するところ、今まで、敵がいたにちがいない。四方から火を放たれる怖れがありましょう」
「や、そうか」将門は、急いで、馬を寄せた。日頃は、意気地のない、気弱な将頼と思っていたが、その将頼が、きょうは自分よりも、落着いているし、よく何かに気がつくのには、驚かされた。
「早く、野へ出ましょう。味方も追々、寄って来ましょうが、部落の中にかたまるのは、物騒です。遠見もきかないし」
「オオ、いう通りだ」
急に、人数をまとめて、走りかけたが、将頼が不安がっていたように、もうその行動は、遅すぎていた。
家々の狭い間から黒煙が這い、道を駈ければ、どっちへ出ても、いつのまにか、山のように、柴が積んであり、柴はパチパチと、火をはぜている。
木の間、笹むらへさえ、火が這い出した。また、木の間には、縄を張り渡したり、木を仆したりしてある所もあって、馬を入れるのはおろか、徒歩で駈けるのも、危ういことこの上もない。
「気をつけろ。ここらにも、まだ敵の伏せ勢がいるらしいぞ」
それに答えるように、
「あ、兄者人っ」
「弟っ。弟っ」
呼びあい、呼びあい、見えぬ敵と戦う
何しろ彼はここで死ぬ目にあったわけだが、ただ一つの僥倖があった。それは、毛野べりの乱闘で、兄の姿を見失い、そのため、他へ
将平は、べつな敵を追って、方角ちがいへ駈けていたが、煙を見たので、一散にここへ駈けつけて来た。そして道の
「将平か。あやうく、おれは死ぬところだった。よく来てくれた。おれは生きた」
「どこにも、お
「矢傷の二つや三つ、何のことはない。――おれは生きた。弟たち、見ておれ。おれがどうするか」
「――が、兄上。ここは一度、豊田へ引き揚げた方がよろしいでしょう。何といっても、敵は、充分、用意をもって
将頼の
扶、隆、繁たちの常陸源氏の兵は、ここから半里ほど東の
「みろ。奴らは、おれの叔父共と、
将門は、悲壮な語調で、あたりの一族たちへいった。
「館へ、
彼はもう馬上になって、
館の
「野爪へ行け。将門殿を助けろ」
と、火の手を見て、集まって来た。
それに、もとよりこの地方も、かつては、将門の父良持の旧領であったから、大掾国香や、良正、良兼たちの多年にわたる悪行を憎んで、ひそかに将門に同情をよせていた者も少なくない。
それらの人々も、すべて、
「野爪に、合戦があるぞ」
と聞くと、破れ具足をまとったり、サビ刀を横たえたり、また、鞍もない野馬の背にまたがって、飛んで来る者も多かった。
かくて、やがて将門は、敵の
「おや、どうして、こんなに、おれのうしろに味方がいるのか」
と、大いに驚いたということである。
将門が初めに挙げた火の手ではない。
嵯峨源氏のせがれ達が、将門の叔父の大掾国香や良正、良兼などに、うまく
五月四日という夏も初め頃の
「それっ、合戦だ」
と、こぞり立って、煙を目あてに、野の十方から、駈け出したことは、たしかに、ここの広い土壌にもめったにない大異変であった。
しかも、その駈け出す者のほとんどが、優勢な常陸源氏のせがれ達の陣地へ行かず、豊田の殿の為に――と、将門方へついたという事も、彼にとって、幸か、不幸か、わからなかった。なぜなれば、そのため、俄然、将門は優勢となり、ほとんど、彼の思うままに、戦は勝ってしまったからである。
その勝ち方がまた、じつにひどかった。
扶たちの野寺の陣は、やがて将門について押し
その中で、気のつよい源隆が、矢にあたって、討死したし、また、三男の繁も、逃げそこなって、落命した。
こうなると、野獣化した猛兵は、とどまるところを知らないし、第一、将門自身が、
しかも、この襲撃で、源護の大串の館をも、焼き払い、そのさい、遂に、護の嫡子扶も、火中の戦いで、討ちとってしまった。
いや。
大掾国香も、見ているわけにゆかないので、大串へ加勢に馳けつける途中、将門のために、返り討ちになった。その場で討死したのではないが、負傷して、一たん石田の居館まで逃げ帰り、その晩、苦しみにたえかねて、自害して果てたのだった。
そのほか、将門の前を
以て、いかに、怒れる阿修羅のあばれかたが、ひどいものであったか、想像に難くない。
おそらくは、七日のあと、
「……ちと、やりすぎたかな?」
と、自分のした事に自分で茫然としたかもしれなかった。
けれど、これ以後、豊田の館は、家人郎党で、充満してしまった。彼らはもう勝手に将門の
「わが、お館」と尊称した。
もっとも、常陸から凱旋するときに、敵地の馬は、何百頭も曳いて来たし、その馬の背には、財物、食糧など、積めるだけ積んできた。彼らにいわせれば、
「多年、わがお館の先代良持さまの荘園田領を、横どりしていた人間の物だ。これくらいは、年貢としても、取上げてやるのが当りまえだ」
と、いうのである。
野爪の合戦の結果が、やがて四隣にまで聞えわたると、久しく音絶えていた父方や母方の縁類までが、おのおの豊田の一族と名のって、幾組も将門を訪ねて来た。そして口を極めて、
「こうあるのが、当然じゃ。これは、
と、
それら縁類の家族も、またいつか、豊田の館の附近に、門を並べて住み始めた。豊田の郷はもう昔年のさびれた屋並みではなく、商戸も市も繁昌を見せ始め、この地方の小首都らしい
戦乱の結果は、たちまち、広い土壌の移動になって、現われた。常陸荘園の大半が、国香や護の支配をはなれて、将門の下に帰属して来たのである。
土と人の流動は、いつもこういう事から、形を変えてゆく。まして、かつては、元々、豊田領であった土地が多く、人もまた、良持に縁故の
しかし、常陸源氏や筑波の良正、良兼などから見れば、事態は坐視できないものであった。殊に良正のうけた精神的な打撃は、ひと通りであるまい。彼は、この大事件をひき起した蔭の煽動者として、第一に、源護の
「かならず、甥の将門を討って、御子息方のおうらみをはらします。きゃつめを、八ツ裂きにして、その肉をくらわねば、私の胸もおさまりません」
十遍も百遍も、良正は床にひたいをすりつけて、護に謝罪した。それを、詫びの、誓いとした。
護は、館を焼かれるし、息子たち三人は、一時に、戦没してしまったし、それに老齢なので、焼け出されの
「わしの身になってくれい。無念じゃ。ただ無念じゃ。嵯峨源氏の兵をあげて、わぬしに委せてもいいが、あの将門が討てるかよ、あの将門が」
「多寡のしれたものです。ただ過日は、御子息がたが、余りにも、彼をあまく見過ぎたための不覚でした」
「それにしても、どうして、なぜ、せがれ達が、将門と、あのように、争わねばならなかったのか。喧嘩は、
「いや、そ、その事はですな」と、良正は、苦しそうな顔をして、額を抑え――「いずれまた、折を見て、ゆるりと、おはなしいたします。これには、深い仔細もあり、御災厄は、何とも、お察しされますが」
しどろもどろに、いいつくろい、匆々、護の前を立ち去った。
一方。――彼は京都へ、早馬を立て、書状をもって、今度の事件と、大掾国香の横死を、こまごまと国香の
貞盛の驚きは、いうまでもあるまい。
つい先頃、別れて来たばかりの老父の死。
また、自分の右馬允昇進を、あんなにも、有頂天に、よろこんでいた老父。
――だが、考えてみると、余りにも、吉事吉事のかさなりを、思いあがって、人の世の中を、自分らの意のままに、あまく見過ぎていた結果の禍いであったとも、貞盛は、反省せずにもいられなかった。
なぜならば、都へ帰る数日前の別れの宴で、老父の国香や、将門の叔父良兼、良正などが語っていたことは、余りにも、得手勝手な望みであり悪
「あのとき、つよく、そんな企みは、止めておけばよかった。――が、自分も悪かった。自分も、右馬允任官に、まったくいい気でいたところだったから」
何はともあれ、都へ帰ったばかりであるが、ふたたび帰国しなければなるまいと、彼は、
水守の良正は、都から貞盛が、夜を日についでやって来たと聞いたので、さっそく、石田の館へ、彼をたずねた。そして、何とも気のどくそうに、
「……どうも、このたびは」
といったきりで、ちょっと、なぐさめる言葉が出なかった。
貞盛は、道中で疲れてもいたろうが、良正に会うと、何ともいえない不愉快な顔をしめし、
「叔父上。えらい愚をやりましたな。何とも、ばかな事を――。いったい、良正どのは、老父のそばにいなかったのですか。あんな老人を、先頭にたたせて、あなたや良兼殿は、どうしていたんですか」
と、涙をたたえて、やや突っかかりぎみになじった。
「誤解してはこまる」と、良正は、当時のもようを、つぶさに説明して、「よせばいいのに、源護どのの大串の館があやうしと聞いて、あの御気性だ……止めるもきかずに馬を馳せ、将門めに、射られたのだ」
「射たのは、将門ですか。たしかに」
「そうだ。将門は、叔父殺しだぞよ。――宿命だな。こうなるのも」
「どうして、宿命ですか」
「考えてもみるがいい。将門が、まだ、都におるうちに、幾たびか、お許に、密書が行っていたであろうが……あれが、郷里へ無事に帰って来ては、かならず後に禍いをなすにちがいないから、何とか、手段をめぐらして、在京中に、将門を
「それは、老父からもいわれていたし、たしか一、二度、あなたのお手紙にもありましたが、都のうちでは、そうやすやすと、彼を殺すような機会などはあるものではありません。……まして、将門は、左大臣家に仕えていたことですし、後には、禁門の滝口にもいて、武力では、めったに、この貞盛の手にもおえる者ではありません」
「いや、なにも、お許が、それを果さなかったことを、今さら愚痴ったり、咎めだてするわけではない。ただ、そうまで、行く末を考えてしていたことが、今日、こういう結果になったことを、宿命とはいったまでだ……」
「この不幸の中で、私も、今更、叔父上と喧嘩したくもありません。どうくやんでも始まらないことだ。それよりは、
「さ。その後々が、容易でない。早くも、あちこちの荘園やお家の私田まで、豊田の将門へ、奪われている。たとえば、野爪あたりの百姓も、以来、まったく、常陸源氏には、背をむけて、何につけても、豊田へ足をむけてゆく」
「それは、困った事ですな。手をこまぬいたら……」
「もちろん、両三年を出ないまに、石田の領は、何もなくなってしまうだろう。柱としていた石田が侵されれば、われらの水守や羽鳥も、将門めに、脅かされてくるのは当然。貞盛どの、しっかりしてくれ」
数日の後。――貞盛の名をもって、大宝寺では、大掾国香の葬儀が行われた。もちろん、将門は来ないし、将門に心をよせる者は、みな顔を見せなかった。
この葬儀の参会者の顔ぶれによって、およそ、敵味方の分類がはっきりついた。これは、偶然だが、葬儀のもたらした効果といえるものだった。
貞盛は、考えこんだ。なぜというのに、あんな愚劣なと、都では思っていた将門に、案外、味方する者の多いことが分ったからである。これでは、うかつに、彼にむかって武力を
どうしたのか、貞盛は、いっこうに、積極的でない。
水守の六郎良正は、
「だめだ、
と、こんどは、独力、豊田攻めを計って、ひそかに、部下に、
夏もすぎ、承平五年の十月二十一日である。
水守を出た千人ぢかい軽兵と騎馬隊が、豊田へ向って行った。
将門の方でも、つねに物見を配っていたので、すぐこれを知った。
「郷を焼かすな」
と、将門は、新治まで、駈け出して、陣をした。
六郎良正は、これを見て、
「叔父ごろしの将門を討て」
将門は、
「ばかをいえ。国香をころしたのは、汝らだ。おれが手にかけて討ったのではない」
と、いい返した。
こんな場合でも、将門は、何か、自分の正しさを、大勢に、いい開きをたてたいような気もちが捨てられないのであった。その愚鈍を、
「おう、いつまで、そうして立っておれ」
と、自分も、
「くそっ、そんなヘロヘロ矢にあたってたまるかっ」
将門は、長柄を横に持って、馬をとばして来た。矢が、彼の体から
良正は、あわてて、味方の中へ逃げこんだ。
この日の合戦も、ついに、水守勢の総くずれに終り、いたずらに、豊田の将門一党に、再度の誇りを持たせてしまった。
良正は、さんざんな目を見て、水守のやしきへ帰ると、すぐ筑波の兄良兼の所へ行って、うらみをいった。
「ちと、おひどいではありませんか」
「なぜ、何を、いうのか」
「
「その事か。……いや実は、なにも、将門を怖れてではないが、わしには、すこし腑におちぬ事があるので、この羽鳥の
「――と、
「例の貞盛の行動だが」
「なるほど。不審です。いや、不満です、私も」
「父の国香を討たれているのだ。誰よりも、将門を怒り、まっ先に、義を唱えて、起たねばならないはずの貞盛がよ……」
「ひとつ、御同伴して、彼の真意を叩いてみようではありませんか。私も、内心大いに、あきたらなく思っているところなんで」
二人は、数日の後、つれだって、右馬允貞盛を訪い、その冷静さを詰問した。
貞盛の答えるところは、こうだった。
「……どうも郷里の風聞は、ひとつも、われわれに、いい事はない。たれに
良正、良兼は、そう聞いて、愕然とした。これでは、味方の内から、切り崩しが出たようなものである。喧嘩すれば、また同士討ちだ。そこで、二人は、口を酢くして、その非を説いた。
「何しろお許は、都にいて、常日頃の郷土の実情を知らないからだ。それらの事は、みな将門がいわせている豊田方の流言にすぎない。つまりお許からして、敵の流言の策に乗っている。つい、この間までは、こうまででもなかったが、ひとたび、将門が、勝ち誇って、将門方が強いとみたので、急に、百姓共までが、そんな事をいい出したのだ。……かつはまた、右馬允貞盛ともある
老獪な叔父二人は、かわるがわる、虚実をまぜて、力説した。責めたり、すかしたりである。貞盛も、ついには、そうかと思い直して、あらためて、将門征伐の加担を約した。
しかし、賜暇の日限もせまったし、また、政治的に、中央において先手を打っておく工作も、大いに必要なので、ひとまず、彼はまた、京都へひっ返す事になった。
こうして、その年は暮れ、翌、承平六年の夏である。
良正、良兼の兵力にあわせて、さらに石田の貞盛の家人や、常陸源氏をも加えた数千の軍隊が、焼きつくような夏野をわけて、三たび、将門を襲った。――初めの、叔父甥喧嘩から思うと、じつに、思いもよらぬ本格的な戦争状態になったものというしかない。
野火は狂う。
狂いだした火は果てもなくひろまってゆく。
四隣の噂もようやくこの戦闘にもちきって、一波は万波、あっちも、こっちも、物騒な動揺が
――と。その頃、
この地方の
その頃、坂東地方から京都への
東山道は、
「折よく、いて下さればよいがな」
貞盛は馬の上から、供の郎従たちへ、何度もいった。
「いや、おられましょうとも。通る駅路で訊いてみても、近頃は田沼の館にひき籠ったきりで、めったに、お旅立ちなど見かけないそうですから」
供のひとり、貞盛の侍臣牛浜忠太がそう答える。
一行は主従十二名、騎馬は貞盛と忠太だけで、ほかは徒歩だった。いや、もう一人、進物の荷を積んだ馬一頭を、小舎人が手綱で曳いて行く。
まぢかに、赤城の長い山裾が、くっきりと夏空を劃して見えた。田沼の宿は、東山道から横へ数里、北方にはいりこんでいる。押領使、藤原藤太秀郷の役邸がそこにあり、すこし離れた田原には居館がある。そこで、田原藤太秀郷とも人は
「ほう。右馬允貞盛。あの貞盛が、訪ねて来たとか。ま、通せ通せ。……
田原の館の宏大な門に、旅人たちの馬は
主の秀郷は、もう六十に近かった。地方人で、藤原の姓を
しかし秀郷は、都人でも、貴族の流れでもなかった。生れながらの
もっとも、母は藤原氏から出た者の女であるから、母方の家系を辿って、都の大官と近親をむすび、母姓の藤原氏を名乗ることは出来たにちがいない。
それをみても、若いうちから、相当な策士でもあり、野心のつよい性質で、地方人特有な“顔きき”に成るべく、早くから心がけていたことが分る。そして彼は、まんまと志を遂げた成功者であるといってよい。
この地方における彼の官職は、押領使兼
押領使の任は、治安、警察、司刑などの職権をもち、掾は、徴税を監察するにあった。つまり後世の八州十手預りの顔役を配下にもち、併せて、税吏を督す位置にあったのであるから、これ以上な
「じつに、久しいこと、お目にかかりませんでしたが、いよいよ御壮健のようで」
客殿に通された貞盛は、長上の礼をとって、主へ、あいさつした。
「いや、あなたも、さすがお立派になられたの」
秀郷もまた、鄭重に、彼を迎えた。そして、
「……いや申しおくれたが、お父上の国香殿の御死去。はるかに、お噂はきいた。さぞ御無念でおわそう。お
「都にて、報らせをうけ、まったく仰天いたしました。葬儀のため、帰国いたしましたが、その節には、ねんごろな御弔使をさし向けられ、また、霊前へ
「なんの、心ばかりじゃよ。――が、困ったものだの。その後も、騒乱はやまず、源護の子息三人までも、将門に討たれたとやら、この地方まで、えらい噂だが」
「何もかも、お聞き及びでしょうが、今は、
「どうして、ひとりの将門を、嵯峨源氏の力や、あなたや、また良兼、良正殿まで揃っていて、抑えられぬのか」
「あいにくと、ここ数年間、飢饉がつづきました。それらの飢民や浮浪の徒を加え、良持殿からの旧領の地ざむらいが、みな、豊田の郷に集まり、将門をおだてあげて、乱によって、利を食おうとしています。ですから、その兇暴なこと、当るべからずです」
「そこで、あなたは、どういうお考えでおられるのじゃ」
「なにぶん私は、右馬允の官職を奉じ、都に在勤の身ですから、父国香の葬儀もすんだ以上は、どうしても、一たん帰洛いたさねばなりません」
「うム。ごもっともだ」
「将門の乱暴、眼に余るものがあり、これ以上、乱の波及を坐視してはおられませぬ故、帰洛のついでに、源護どのの訴状と、叔父良兼、良正の
「なるほど」
「そういうわけで、都へ急ぐ途中ではありますが、先に、御弔使を賜ったまま、つい今日までも、騒乱に暮れて、御音信を欠いておりましたので、
と、貞盛は、馬に曳かせてきた数々な弔礼の返物と手みやげとを、次の室に積ませて、秀郷へ贈った。
貞盛は、歓待された。彼の考えにある外交的な意図からも、この訪問は、充分に効果があった。
秀郷もまた、この客をとらえて、多分に、自己勢力の拡充に、利用するのを忘れていない。夜は特に、宴をひらいて、貞盛をねぎらい、老熟した人あつかいのうちに、貞盛の肚を見抜いて、
「何なりと、また御相談にみえるがよい」
と、力づけた。そしてなお、
「苦労負けして、おからだを、こわし召さるなよ。国香殿のない後は、なおさら大事な、あなただ」
と、いたわったりして、貞盛を涙ぐませた。と思うとまた杯を向けては、豪放に気を変えて、その健闘を励ましたりした。
けれど、秀郷は、将門個人については、悪くも良くもいわなかった。貞盛などより、はるかに年上の彼である。将門の父良持がまだ生きていた時代からの常総地方の事情も、各家の勢力分布のいきさつに就いても、貞盛以上、古い事実と、土と人の歴史を知っているのだった。がしかし、この老獪は、知っている風も余り顔には出さなかった。
その辺が、何となく物足らない気がしたのであろう。貞盛は、意識的に、彼が、将門をどう考えているか、ひき出そうと試みた。
「秀郷様。あなたは、将門という人間と、お会いになったことがおありですか」
「いや。将門には、訪ねられたこともなし、会ったこともない」
「むかし、もう十三、四年前になりましょうか。たった一度、おありでしたな」
「どこで」
「都の右大臣家のお壺で」
「……あ。そうか」
思い出した顔つきである。しかし、その頃の小次郎将門の姿よりも、秀郷には、べつな事が思い出された。
あれは延長元年、秀郷は、まだ三十台だった。国司の下の役人と、大喧嘩を起し、国庁を焼いたり、吏員を殺傷し、
百方、運動の手を廻し、時の右大臣
あとにも先にも、秀郷が、将門を見たのは、その時かぎりである。今は遠いむかしである。近頃、
「――左大臣家へ、参られたら、忠平公へ、よろしくお伝え申しあげてくれい。春秋の
秀郷はすぐ話をそらした。自分が、前科者だったような記憶にはふれたくないのだ。貞盛も、さとって、
「帰洛の上は、さっそくにも、参上するつもりです。ほかに、御書面でもあるなら、持参して、お取次ぎいたしましょう」
と、いった。
翌日、貞盛が、田沼を立つさいには、秀郷は、屈強な侍を三名、彼の供に加えさせて、
「何しろ、碓氷越えは物騒です。
と、館の外まで出て、見送った。
貞盛は、やがて、都へ着いた。
彼は、ただちに、太政官に出向いて、護や叔父たちの訴文を提出し、
「よろしく、
と、なお自分からも、べつに詳細な一文を認めて、出しておいた。
が、それだけではと、彼は、知るかぎりの高貴や大官を訪ねて、将門の非をいいふらして歩いた。
貞盛が、若年から
もちろん、その九条殿の父君であり、またかつては、小次郎将門が仕えていた左大臣家――宮中第一座の顕職にある藤原忠平の私邸を訪うことは怠るはずもない。
ところが、どうも行く先々では、彼の訴えを、たれも余り熱心に耳をかたむけて、聞いてくれなかった。
「ほう。ほほ……?」と、都人らしい、いつもながらの、
「時もわるい」
と、貞盛はさとった。――というのは、あいにく、この夏頃からまた、南海に
それでなくても、都人の距離感と、また生活関心は、未開土の東国などよりは、
秋になった。
なおまだ訴文にたいする沙汰はない。
この秋、藤原忠平は、摂政をかねて、太政大臣に
一しきりは、その昇任の祝賀やら何やらで、また、公卿たちの車馬は管絃や賀宴の式事にばかり往来し、南海の賊乱さえ、都の表情には、影も見られなかった。
「もし、このまま、放っておかれたら、東国の乱もまた、どんな大事にいたるやもしれません。坂東の諸地方には摂関家の荘園、
師輔を説くこと、幾度かしれない。忠平へは再度の上訴もした。なお、さまざまな彼の運動が、ついにものをいったか、その年も十月になって、やっと、
――下総御厨 ノ下司 、平将門。兇乱ヲナシ、謀叛 ノ状、明カナリ。使 ヲ派シテ、コレヲ捕ヘ、ヨロシク朝ノ法廷ニ於テ、指弾 、問責 アルベキ也。
という公卿ただちに、下総の将門へ、召喚状が発せられ、将門は、官符をうけると、まもなく、東国から馳せのぼって来た。そして太政官に、着到をとどけ、しばらく、彼は街の旅舎に泊っていた。
彼にとっては、二度めの上京であり、六年ぶりに見る平安の都であった。
「逆手を打たれた。こっちが、訴人として、出たいところを」
将門は、出し抜かれたと知って、心外になった。
「……だが、白は白、黒は黒だ」
彼は、怒りをなだめた。中央に出て、法官の前に、理非を争うのは、むしろいい事ではないか。正義の者に与えられた好機ではないか。そう、思い直した。
「卑屈になるまい。堂々と、いうところを述べ、けちな袖の下だの、裏から諸卿へ、泣きつきに歩くことはしまい」
在京中も、彼は、行状につつしみ、進退を守った。
緊張の中に、毎日を送っていた。
けれど、官の
男の三十五となった元旦を、彼は訴訟中の旅舎で、わびしく迎えた。
妻の桔梗から、便りが届いた。なつかしい彼女の文字。一字一字が、詩のように、将門にひびく。将門は、涙をためて、読み終った。しかし、かなしい事は何一つないのだ。留守はみな無事だとある。そして、彼女は、終りの方に、
(お帰りのころには、あなたと私との、初めての
と、書いてあった。
彼女は、彼が上洛のまえから、
――と、もうひとつ、用事がしるしてあった。
ちッと、心の奥で舌打ちに似た気もちがうずいた。あの無頼な男が、また将頼や将平などを、手こずらしているのであるまいか。わが家へでも、帰ったように、酒を出せの、どうせよのと、桔梗にも、難儀をさせていることだろう。……酒や
一月の末。やっと、初めて、太政官のよび出しをうけ、彼は、おととし以来の、親族間の争いのいきさつを、詳しく申し立てて宿へ帰った。
帰ってから、独りで、しまったと、胸のうちでつぶやいた。
「出つけない場所へ出たためか、あんなに、考えていたのに、いいわすれた。おととしからの、喧嘩沙汰だけではだめだ。そもそも、父良持の死後、おれたち、幼いみなし子が、叔父共の手に、ゆだねられ、そして、おれが十六で、都へ追いやられたその時の大掾国香のたくみだの、国香が、貞盛にいいつけて、おれを、都にいるうち刺し殺してしまえといいつけていた内輪事まで、つつまず打ち明けねば、わかるまい」
思いつつ、彼は、刑部卿だの、
あるとき、
「
と、弁じた。
将門は、貞盛の弁論に聞きほれて、敵ながら感心した。時々、なるほどとうなずき顔にさえなった。大判事は、憐れむように、彼を見て、
「将門。おまえの申しぶんを、存分、申したててみい」
と、いった。
だが、到底、彼の
しかし、かれの言は、激すほど、彼の粗暴を証拠だてた。情に激して来なければ、ことばも烈々と
「きょうは、退がれ」
靫負庁を出ると、彼はいつも、馬上で戦ったときのように疲れていた。
よび出しは七回、うち二度は、貞盛と、対決された。そして、しばらくまた、沙汰もなかった。
すると、三月の末。さいごの判決が、朝議の末、公卿列座の上、いい渡された。
「将門の罪は、厳罰に値するが、折ふし、天皇御元服の
無罪であった。将門は、夢みるごとく、かえって、ぽかんとしていた。
貞盛への申し渡しには、
「一族
と、あった。
貞盛には意外だった。落胆顔は、いうまでもない。非常な不平である。しかし、返すことばもなく、命を奉じて、その日は退廷した。
将門は、国へ早馬を立て、
「訴訟は、勝った」と、妻や一族へ、
それから初めて、彼は、自分の身になったような心地で四、五日、京洛を歩きまわった。妻の桔梗へ、都のみやげをと、都の
きょうも彼は、
近づき合って、やっと分った。それは、八坂の不死人である。
「おう。……いつ、どうして、都へ」
「わぬしが、上洛と聞いて、あとを追って来たのだ。ところが、
「そうか。……もう、都を歩いていても、かまわぬのか」
「かまわぬかとは」
「
「はははは。人のうわさも、幾日とかだよ。南海の海賊騒ぎで、それどころか、検非違使も、兵部省も、手いっぱいだ。彼らはとっくに、わすれておる。もうあの頃の事は、時効というものさ」
不死人は、いつも不死人である。変らないし、また、相かわらず、官を官と思っていないし、人を人とも、思っていない口吻である。
「旅舎へ行くか。どこか、ほかで飲むか」
「明日は、国へ立つつもりだ。とかく用事もあるから」
「ははは。将門ともある者が、ひどく、真面目じゃないか。国もとに美しい妻が待っているせいだろう。しかし別杯ぐらいは、つきあえよ。まあ、おれについて来い。いい隠れ遊びの家がある」
不死人と、初めて会った時から、彼はすでに大人であったが、以後全く成長もない。幾年たっても、会えばすぐ
しかし、まがりなりにも、将門は、成長している。内容の変化もある。どうも、この男とは、これ以上、つきあいきれない気もするのだった。
そのくせ、彼はやはり、拒みきれず、不死人について、洛内の遊女宿へ、はいって行った。
酒の座になると、不死人は、一だん不死人らしく、冴えてきて、
「まず、君の訴訟の勝ちを祝そう」
と、いい、杯を、眼の高さに上げた。
「え。知っているのか。貞盛との、訴訟のことを。いやそれは、豊田の留守の者に聞いたろうが――おれが勝った事を、一体、たれに聞いたのか」
「おいおい、将門。おぬしは、自分の力で勝ったつもりでいるのか。こんどの訴訟を」
「正しい者は、ついに勝つさ」
「あははは。アハハハ」不死人はいよいよ笑って――「まあ、いい。まアいい」と、ひとりして、頷いた。
「何が、まあいいのだ」
「余り、滑稽だからだ。いつまでたっても、君は、大人にならない。天然の童子だ」
「おかしな事をいうじゃないか」
「じゃあ、実を明かすが。――貞盛が訴えたと聞いたから、これはいかん、貴様の負けと決まっている。悪くすると、死罪かもしれない。おれは、そう直感した。――おぬしの豊田を訪ねたが、急いで、あとを追うように、上洛して来たのもそのためだ」
「そして」
「貴様は知るまいが、おれは、陸奥から持って来た
いっているところへ、
「やあ、不死人。もう始めたのか」
ひょっこり、一名の公卿がはいって来た。どこかで、見たような公卿だがと、将門は、小首をかしげた。そして、やがて杯を交わし始めてから、愕然とした。
それは、靫負庁の法官のひとりだ。たしかに、自分の裁きに立った公卿の一名にちがいない。
「いま、仔細を、将門に打ち明けているところだが、この男、どうしても、おれのいうことを、真実と思わないのだ。あんたからも、話してやってくれ」
不死人は、突っ放すようにいって笑った。そして、交情蜜のごとく、その公卿と、酒を酌みあい、そして、裏面にとってくれた公卿の労を、謝しているふうであった。
やがてなお、三人、四人と、公卿たちが、寄って来た。彼らは、不死人の前では、
「こういう、馬鹿正直な男ですからな、将門とは」
面とむかって、不死人はいった。まるで、将門の
夜が更けると、彼らはそれぞれ遊女を抱いて、ほかの寝屋へかくれた。泊ってゆけと、しきりにいうのを、断って、将門は、旅舎へ帰って、独りで寝た。
「なるほど、おれは、ばかだった」
将門は、自分の愚を、今はみとめていた。
官府の腐敗も、大宮人の貧しい裏面も、都会のどんなものかという事も、かつて、長い遊学中に、ずいぶん、知っていたはずなのに、もうそれを、忘れはてて、正しいものは必ず勝つと、信じていたほどなばかであった事を、自ら
「――今朝は、立つのか」
不死人は、早朝にやって来て、彼の帰国を見送った。そして、別れ際に、これだけは、声を、ひそめて、真面目にいった。
「南海の藤原純友が、いよいよ、暴れはじめた。官庫の財政も、出費で、火の車だ。討伐の官兵たちは、いくら増派されても、
「時機とは」
「まだあんな事をいっている……」と、あきれ顔に「純友との約を果たすことだ。呼応して、兵を、東北の地と、南海で挙げることだ」
「おれにそんな力はない。叡山の約束なら、あれはもう
「そうはなるまい。天下の大事を約しておいて」
「身内の喧嘩にさえ、精いっぱいだ。天下に、何を野望しよう。おれは、くたびれた。ただ、国へ帰って、平和な燭のそばで、妻の顔が見たい」
将門は、馬上になって、それきり振り返らなかった。三人の従者をつれ、
「いずれ、純友に会ってから、秋ごろにはまた、東国へ下ってゆく。なお、ゆるりと、そのとき話そう」と、告げて別れた。
家郷を離れてから、いつか半年はたった。以前の帰国とちがって、こんどは、はっきり、豊田の家には、自分を待っていてくれる妻がある。壮気、孤独の頃、ふと藤原純友と会って、血のけの多いことを語りあった頃と今とは、まったく、心のありかたが、違っていた。
まして、訴訟にも勝った。その訴訟が、後には、自分の正義によって剋ちとったものでなかったのを知ったのは、淋しいことだし、何だか、心の負担にたえないが、しかし、勝ったことは、事実である。間違いはない。
新緑の豊田の館では、もう先に、彼の便りで知っていたので、彼がここに着く日には、一族郎従が出揃って、門に、凱旋の主を待っていた。
桔梗は、
この晩春ほど、妻の桔梗が、
すこやかな
「わたくしは倖せです。あなたは愛してくださるし……。けれどあんまり幸福で、こんな幸福な日が、いつまでつづくかと思って」
彼女はまったく幸福の
「そんな取越し苦労はしないがいい。どうも、おまえはちと苦労性すぎるよ」
将門は、
「そういう不安は、いい替えれば、おれが余りに頼りにならない良人だと、おまえがいっていることにもなるぞ。なぜ、おれの腕につかまって生きてゆくのがそう不安なのか」
「もったいない。私は満足しきっています。――見てください。母の私の腕に、こんなに、安心しきって抱かれているこの乳のみ子のように……です」
「おお。よく寝ているね」
「やがて、あなたの、お
「おかしなもんだな。おれもいつか、父となったか」
「……ですから、どうぞもう、お心を
「そうか。おまえはまた、羽鳥の叔父や貞盛などが、何かやり出して来やしないか――とそれを心配しているのだな」
「折々、いやな噂も聞きますので」
「聞けば聞き腹で、おれも時には、むかつくが、しかし、奴等が何を策動しようと、先頃の上洛により、おれは正しく、太政官の法廷で、訴訟に勝っているのだからな。中央の政府がすでにおれの正当を認め、法律に照らして――叔父共が横領をくわだてた領田の地券は、これを一切、将門に返せ――と判決を下しているのだ。奴らとしても、これ以上、どうにもなるまい」
「けれど、人の心は
「そうだ、これ以上にはな」
将門も、共に、思う。妻のことばは、聡明であり、また生命を愛する者の声だと思う。
事実、今ほど幸福に
(良持殿のあとを
四方の小地主や地侍は、招かずして、豊田の門に馬を
しかし、すぐいい気になる彼でもない。彼は、それらの者のおだてには乗るまいとして、
(いや、とても、おれは父の良持どのには、似もつかない、不肖の子だ。おれはおれの馬鹿をよく知っているのさ。けれど、正直者が
と、誰にも一様にいうのである。しかし、その単純で開け放しな人がらが、かえって、魅力でもあるように、四隣の客は、よけいに絶えない。
そうした四隣の客はまた、かならず、豊田の館の内部から、領下一般の勤勉と和楽が稔らせている繁昌を見て帰った。
養蚕も農作も、水産も林業も、この地方の進歩はじつに目ざましい。市は諸方に立ち、交通もよくなり、農家の一つ一つを覗いても、飢えているような顔はない。祭りといえば、どこの地方より、賑うし、酔って、土民が唄うのを聞けば、唄にまで、将門の徳を、
将門自身も、よい妻を得、よい子を生み、いまは何の不足もないのだ。――だから彼はこれ以上、むりな
また彼には、少年の頃、自分を熱愛してくれた
「あ。わかったよ。何が起っても、堪忍しよう。だからもうそんな取越し苦労はおよし」
子どもの寝顔をのぞきに来たついでに、彼は、妻の唇にも、唇を以て、愛撫を与えた。
日に、何度となく、こんなふうに、館の北の殿をたずねて、繭の中の平和と愛情に浸りに来るのが、このところ数ヵ月の、彼の唯一な楽しみであった。
けれど、この館の平和も、春から秋ぐちまでの、わずか半年ほどの間でしかなかった。桔梗の予感は、不幸にもあたっていた。
八月。
将門の弟――去年、分家して、
「兄者人っ。ただ事ではない」
と、馬を飛ばして、豊田へ報らせに来た。
「なんだ、あわただしく」
その朝も、将門は、乳児のにおいのする妻の部屋にいた。外の小鳥の音と、桔梗の明るい声が、いつもの朝のように、良人の笑顔をつつみ、これから近くの領下へ
「ゆうべ
「また、叔父共のカラ騒ぎか。頼みもせぬのに、わざわざ、何だかだと、報らせて来るのもいるから困るな」
「困ることはありません。お
「が、なあ四郎。おれはもう、いつまで、
「それは、私たちでも、同様ですが、叔父たちは、今でも、豊田のわれら兄弟を、あくまで敵として、やじりを
「相手にするな。どう悪声を放とうと、
「充分、こっちは避けています。しかし、羽鳥や水守の衆は、この半年、いよいよ武器馬具を集めて、戦備に怠りなく、しかも、太政官の訴訟では、自分等の方が、正しく勝ったと、いい触れています」
「何といおうが、おれの手には、おれの勝訴となった
「そんな物は、彼らにとって、何の威令でもありません。――むしろ、そこまで、追いつめられたので、なおさら、策謀と武力に、邪心を集注し、一挙に、豊田を破って、中央の敗訴を、うやむやにしてしまおうという肚なんです。それに極まっています」
「……ま、待てよ。四郎」
将門は、弟の憤激がやまないので、口を抑えるように、ふと、語気を変えた。
そばにいて、息をつめながら聞いている妻の顔に、はっと、聞かせたくない思いをつきあげられたからである。
「おれは、出かけるところだ。郎党たちも、馬をすえて待っている。話は、あっちで聞こうよ。道々、駒を並べて聞いてもよい」
桔梗の顔は、もうまっ蒼になっている。母の恐怖はすぐ乳腺にひびいて、抱かれている子までが、乳の味にそれを知るのである。急に、彼女のふところでムズカリ始めた。――四郎将平の胸はこの朝、早鐘をついている思いだったが、兄の気もち、あによめの心を
「あ。そうでしたか。では、ともかくその辺まで、ご一緒に出かけましょう」
と、さりげなく、桔梗の部屋を先に出た。
将門、将平のふたりが、館の表の、
「何を騒いでいるのか」
将門が、郎党のひとりを、叱ると、
「いえ、郷の者が、騒ぐので。そして、それを聞いた女奴や下僕どもが、あらぬ事を、口走るものですから」
「あらぬ事とは?」
「今朝、豊田を通ってゆく旅人が――豊田は何と
四郎将平は、それを聞くと、
「それ、ごらんなさい。旅人や百姓まで、もう聞き伝えているでしょう。――察するところ、羽鳥の叔父は、昨夜のうちに、筑波を発し、水守の兵を合せて、この豊田へさして急いでいるにちがいない」
「いやだなあ、売り喧嘩か」
「兄者人! 備えてください」
「四郎」
「はいっ」
「何とか、
「ば、ばかな事を仰っしゃって。――それなら、豊田を捨てて逃げるしかありません」
「逃げもしたいが」
「冗談じゃありません。あなたを、豊田の
そこへ、守谷に住んでいる
将頼は、下の弟の四郎将平よりは、気もやさしく、兄の将門よりも、めったに、激さない
「良兼を大将に、二千以上の大兵が、子飼の渡しをさして、続々と、向かって来るそうです。――良兼、良正たちは、去年の敗れに懲りて、このたびこそと、軍備作戦をねっているとかいう事は、
三郎将頼は、息をはずませて、いった後、
「もし、子飼の渡しを、彼らに断たれると、こちらは、豊由一郡に、追いつめられ、戦うに、不利となります。兄者人、すぐ駈け向ってください。一刻を、争いましょうぞ」
「……ちいっ。ぜひもない」
将門も、肚をきめた。
しかし、彼の命令を待つまでもなく、あたりにいた郎党は、館、柵内の味方へむかって、事態をどなり歩いていたので、馬を曳き出し、武器を押っとり、前後して、甲冑の
将門も、大急ぎで、具足を身に着けた。その間とて、彼の心のどこかでは、
(いやだなあ、血みどろは、見たくないが……)
と、しきりに
その間に、五郎将文、六郎将武なども、大結ノ牧や、附近の邸から、駈けあわせ、またたくまに七、八百騎。
「子飼の渡し口へゆけ」
「子飼を守れ」
と、まっ黒に、駈け出した。
後から後から、なお駈け続く兵も多い。曠野の兵は、その頃まだ、みな「半農半武」か、「半農半猟」か、とにかく、館の郎党から散在している地侍にいたるまで、純然たる武士という者は一般にごく少なかったようである。「今昔物語」などには、“合戦ヲモツテ、業トナス――”人種のようには書いてあるが、
こういう兵団。こういう原始的な武力。――従ってまだ軍律や、秩序ある陣法もなく、ただ極めて幼稚な作戦知識と、大ざっぱな階級別とがあるだけだった。
とはいえ、
「やや。遅かったか」
「しまった。もう遅い」
子飼へ殺到してみると、敵はそこの渡し口を、もう完全に、
羽鳥の良兼を大将としたこんどの奇襲は、じつに、彼らにとっては、四度目の来攻である。
地の理も、将門の戦い方も、経験によって、彼らは、相当、研究をつんで来たらしい。
まず、前日から、変装した散兵を放ち、この辺に、隠密な予備工作をとげてから、一挙に、
将門は、遠くから、敵勢のかたちを見て、
「畜生」
と、体じゅうに、たちまち、彼らしい
(やはりおれは、
と、悲涙して、悔い
すごい矢ひびきが、風を切って、左右を
彼の弟たちはもう部下と一しょに、敵のまっただ中へ、肉迫していた。ゆとりをもって、充分に、待ちをかけていた敵の弓は、序戦において、多くの犠牲を、豊田兵に払わせた。
「やや、敵は、ここだけではないぞ」
将門は、すこし狼狽した。というのは、
「やったな。糞叔父めら」
耐えている
「ひとたび、おれが怒ったら、どんな事になるか、奴らはまだ、思い知っていないのか」
彼は、
「良兼っ、出て来いっ。今日こそは、おれと、勝負をしろ」
と、一騎討ちを挑んだ。
もとより良兼や良正が、彼の求めに応じるわけはない。むしろ、波上にあらわれた大魚の背を見て気負う漁師のように、
「それっ、将門だぞ」
「将門をねらえ。将門を射ろ」
「逃げ口を取って、逸するな」
などと口々にどよめき渡って、一瞬、彼ひとりに、矢をあつめた。
矢風の外へ出るのが重要である。将門は一心不乱の
そこが、あきらかに、良兼のいる陣の中核と分ったわけは、いちめんな
「良兼は、どこにいるぞ。良正はいないのか。小次郎将門が、今日はここまで来たのに、なぜ、おれの首を取りに出ないか」
「おうっ、将門、来たか」
それは、誰の声とも、
「……おうっ、将門、来たか」
と、唱歌のように、声をそろえて、どなった。
「や、や? ……何だろ」
将門は、思わず、悍馬の手綱をしぼった。
木彫の人間像は、二体とも、坐像である。衣冠束帯のすがたで、台座の横木には、あざらかに、こう書いてある。
家祖高望王 、尊霊
故 、平良持公 、尊霊
――つまり平氏の先祖と、将門の亡父の木像とを、どこからか持ち出して、陣頭に押し進めて来たわけだ。将門が、ちょっと、たじろいだ様子を見ると、木像陣を
「
「高望王の尊像に」
「さきの良持公の前に」
「射るや、矢を」
「懸るや、不敵に」
「畏れろ、将門っ」
と、相手の耳もつんぼにしてしまおうと計ってでもいるように、
そして、ザッザ、ザッザと、草の波を分けて、押し進んで来るのを見て、将門は、急に馬を
――と見て、木像の前にいた前列が、
「将門、くたばれっ」
と、急に、
がばと、将門は、馬のたてがみに打っ伏した。迅速だった。馬は尻を
「それっ、追い討ちにかかれ」
「焼き立てろ、火攻めに移れ」
良兼の部下は、余勢を駆って、さらに、豊田郷の深くに進攻し、放火、掠奪、
一夜のうちに、豊田郡一帯は、無数の焦土を、ここかしこに、作っていた。たのみ難い人の世の平和を語るように、余燼のけむりが、次の日も、もうもうと、水郷いちめんを
「何も知らない百姓の女わらべや
将門は、馬で、あちこち、見舞ってあるいた。その惨状を、眼で見、耳に聞いた。
去年。――敵地へ駈け入ったとき、将門が敵へ与えた通りな惨害が、今日は、彼の領下に、加えられていた。
幸いに、豊田の本拠は、無事だった。館にも、柵前にも、また彼の妻子にも、何事もなかった。
けれど、将門は、辛かった。正しく、自分の精神と肉体に、痛打をうけた感じである。
救い
「どうしたのです、兄者人」
将頼もいい、将平、将文も、彼を囲んでいった。
「いや、どうもせん。ただ少しくたびれたよ、おれは」
「いつにないお顔色ですが」
「そうか……」と、将門は、自分の頬をなでた。知覚がにぶく、何だか、顔の幅が倍もあるような気がした。
「寝不足とみえる。案じることはない。きのうは、まずい戦をやってしまったが……なあに、こっちに、油断がなければ、あんなばかな負け方はせぬ」
「むしろ、私たちは、よかったと思います。――余りにも兄者人は、自分の気もちで、他を量りすぎる。これからは、私たちのことばも、きっと、きいて下さるでしょうから」
「……悪かった」
素直である。将門の、こんな素直も、弟たちにすれば、かえって、どうしたことかと、心ぼそい。
「いえ、決して、兄者人を、私たちが揃って、お責めするわけではありません。――ただ、いかに危険な相手共か、それを、もう一ぺん胆に知っておいていただかないと」
「わかった。もう、不覚はとらん。もういちど、おれの本当の力を、思い知らしておく必要がある。三郎、四郎」
「はい」
「近いうちに、見ておれよ。そうだ、充分に、郎党や馬を休ませておいてくれ」
それから、十日ほど後である。
将門は、一情報をつかむと、すぐ主なる家人や弟たちを寄せて、万全な密議をこらし、夜半、豊田の兵一千余を引率して、子飼の江上を渡った。
ここは、四方の大河、江頭をあわせても、どこより水を渡る最短距離であった。
なおまだ暁天も暗いうちに、彼は、敵領に近い
葦も芒も秋草も伸びるだけ伸びきっている季節である。伏兵には時を得ていた。そして、
「……見えぬぞ、まだ」
「はて、来ないなあ」
この日、羽鳥の良兼が、先日の奇襲に味をしめて、ふたたび、豊田へ襲せてくるという密報が、前日に探られていたのである。
――と、果たして。
陽も高くなった頃、筑波、常陸、水守の兵をあわせた大軍が、えんえんと、長蛇の影を見せてきた。
渡しへ、かかった。
筏にのり、馬を、浅瀬に曳き、列も陣も、みだれた時を計って、将門が、
「射ろ」
と、急に命令を下した。
敵は、狼狽した。江の水は、赤くなった。
しかし、良兼の部下は、先頃にもまさる大兵であり、あらかじめ、途中の伏兵には、要心もしていたらしく、たちまち、勢いを、もり返して、
「ござんなれ。きょうこそ、将門を
と、反撃してきた。
どうしたのか、この日、将門は、ややもすると、逃げ廻っていた。
「はて。いぶかしい」
「おかしいぞ、兄者人の
彼の弟たちも、それが、一抹の憂いとなって、充分に、戦えなかった。
――理由は、後になって、分ったことだが、将門は、すでにこの夏頃から、この水郷地方に多い風土病ともいえる“
この前の、子飼の渡しの合戦でも、何となく、全体がだるく、そして、頭も冴えない心地がしていたのだ。
――殊に、その日は、暗いうちから、沼地の葦や水溜りの多い湿地に半日も
このため、積極的に、ここまで敵を迎え討ちに出陣しながら、彼の軍は、ふたたび、みじめな退却を、余儀なくされた。
「将門の勇猛も、底が見えた。もう彼の腰はくだけているぞ」
良兼は、そう観た。
「きょうこそは、さいごのところまで、豊田を攻めろ。おそらく、夜には、将門の首が、わしの前にすえられるだろう」
そういって、堂々と、
そして、この前のように、行く所の民家屯倉などを焼き立て、ついに将門の本拠にまで迫った。ここは郡の中心地であり、将門館の門前町なので、人家も建て混んでいる。煙の下を、逃げまどう女子供の悲鳴が、たちまち、
一ノ柵に、火がついた。
二ノ柵門も、館の正門も、はや炎にくるまれ、領下の火ばかりにとどまらず、将門の妻子が住んでいる北ノ殿まで、炎は、余すなく狂い出した。
「どっちを見ても火だ。火ばかりだ。弟。豊田の館の運命も、今日が終りとみえる」
敵の攻勢がゆるむと、かえって、将門も気がゆるむ様子だった。路傍の木蔭へ、流れ矢を避け、さも、疲れきったように、馬の背で
「兄者人。頑張ってください。いつもの兄者人らしくもない」
弟の五郎
「水がありますが、ひと口、水をおあがりになりませんか」と、手渡した。
「あ、ありがたい」
将門は、ごく、ごく、と
「将文。――三郎や四郎たちは、どうしたか。姿も見えなくなったが」
「ほかの兄達は、奮戦して、
「いや、敵は
「どうして、今日に限って、そんな
「だが、見ろ。父からの館も、門前町も、
「どこか、お体でも、お悪いのですか」
「なに。体?」
「お顔が、常の二倍にも、
「そうか。……いや、おれは、何ともないぞ。体は、常の通りだよ」
いわれるまでもなく、将門は自覚していた。自分の顔を撫でても、まったく知覚がなく、全身は重く、勇気の欠如が、われながら、もどかしかった。しかし、病気のことだけは、まだ、弟たちには秘して、今も、さあらぬ態を持つのだった。
一方。御厨三郎将頼、大葦原四郎将平、そのほか六郎将武などの弟たちは、さんざんに戦って、敵を、ともかく遠くまで撃退したので、
「長追いは」
と、いましめ合い、
「兄者人のお身の上こそ、案ぜられる」
と、戦線をさげて、将門の姿を、あちこち求めて来た。
そして、ここに長兄の無事を見て、よろこび合ったのも、つかの間、敵はまた、
「ここは、われらして、防ぎます。兄者人は、館にある味方を励まして下さい。館へ籠って、女子供らを、お守りください」
弟たちのすすめに従って、将門は郎党二、三十騎をつれて、さいごの
しかし、東西の柵門から、母家下屋まで、火の手は大きく廻っている。家人や奴婢長屋の男女まで、総がかりで消火に努めているものの何の防ぎになろうとも見えない。ただ幸いな事は、火は、飛び火によるものらしく、敵勢の影は、まだここまでは侵入していなかった。
「桔梗っ。……桔梗はどうした。桔梗よっ……」
将門は、広い柵内を、走り廻り、走り廻り、炎へ向って呼びぬいた。彼女のいる北の殿も、火をかぶっていたからである。
「おおっ、お館っ」――煙の中から泳ぐように、郎党の
「北の方様を始め、女房衆も老幼も、みな、
「ついに、だめか」
狂風は、炎をあおり立てて、眼の及ぶかぎりを、火の海としている。しかも、敵影は見えないが、どこからとなく、敵の矢は、巨大な明りを目標に集中されていた。
父の良持が、生涯をかけて、土とたたかい、四隣と戦って、築きのこした物も、今や一ときに
けれど、桔梗を思い、乳のみ子の顔をえがくと、このままには、死にきれなかった。
豊田一帯の火は、夜になると、いよいよその範囲を、
桔梗は、乳のみ子を抱いて、牧の馬小屋の中に、身をひそめ、
「わが
と、そばに従いている老臣の
経明は、折々、丘へのぼって、赤い夜空をながめ、自分の生涯と、自分が仕えて来た前代良持からの半世紀に
「ああ長い年月だった。また、短いつかの間の夢でもあった。空の星だけは、何も知らぬげに、悠久と、またたいていることよ。――何百年、何千年、今夜のような
八十をこえた老臣は、さして
「まだ、お館様は、必死に、御合戦と見えまする。敵を追いしりぞけて後、かならず、お見え遊ばしましょう。余りに、お気づかいなされると、和子さまの、お
と、落着き切った語調で彼女の暴風のような不安をなだめていた。
そのうちに、負傷した味方やら、防ぎ口を破られた人々が、いい合せたように、この大結ノ牧へ、逃げ退いて来る。
やがて、将門も。また将頼、将平たちも、「残念だ」「無念だ」と、口々にさけびながら、
「こうなっては、一時、ちりぢりに身を潜めて、再挙を図るしかありません。兄者人は、お体もすぐれぬ御様子ゆえ、どうか、ここを落ちて、御養生に努めてください」
彼の弟等も、老臣の経明も、また主なる郎党にしても、すべてが、それを
「桔梗さまも、御一しょに」
と、いや応なく、疲れていない馬を選んで、馬の背へ、押しあげた。
それと、経明のさしずで、ここまで、火中から運び出した財宝の品々も、十数頭の馬に積んで、
「一刻も早く」
と、大結ノ牧の丘から、南の曠野へ、急がせた。経明はその後で心静かに
将門には屈強な郎党が四、五十騎ほど従いて行った。彼と桔梗を乗せた二頭の馬をまん中にして、行くあてもなく、その夜の危地を脱したのであった。
その、わずかな郎党と、妻子をつれて将門は数日のあいだ、
初めの四、五日は、
「ここも、物騒です。良兼の兵が、あちこち、農家の一軒一軒まで、豊田の残党はいないか、将門を
と、報告した。
翌日。また六郎将武も、十騎ばかりつれて、ここへ加わり、
「三郎兄や四郎兄は、他日を期して、遠くへ落ちて行きました。兄者人も、こんな近くにいては、物騒です。――敵は豊田を占領して、勝ちほこり、草の根を分けても、こんどは、将門の首を持って帰ると豪語しておるのに」と、将門の油断をいさめた。
将門も、それを、
が、危険は、そのほかにも、いろいろ、身近に、感じられてきた。
「しかたがない。しばしの間、さびしい思いを忍んでくれ。きっと、冬の初霜が降りぬまに、以前にまさる味方を
桔梗は、良人のこの言葉に、涙ながら、うなずいた。いや、乳の香ふかく、ふところに眠っていた
「嫌です。……死んでも、離れるのは……」
と、つよく面を振っていたのかも知れないが、将門の眼も、あたりに、深刻な眼をそむけていた郎党たちも、彼女が、豪族の妻らしい覚悟のもとに、けなげにも、
三艘の漁船が用意された。
漁船の上は、すっかり、
彼の妻子をのせた三艘の
将門は、陸路をたどって、妻子の落着きを、見とどけた後。
「わずかの間の船住居だぞ。長くは、待たさぬ。つつがなく、病気をせぬよう、いてくれよ」
遠くから祈った。その辺りの秋の
じとじとと、長い秋雨がつづいた。
山蔭に、横穴を掘り、穴の口に、丸木を組み、木の皮で屋根を
同じような物を、その附近に、
けれど将門は、ここへ落着いた日から、まったく、病が重って、寝ついたきり、身うごきもできなくなった。
脚は、樽のように太く、指で圧すと、ふかく
「桔梗は、無事か。……和子も、変りはないか」
「お難しいかもしれない……」
末弟の将武は、郎党たちが、ひそひそ声で、そう
「もし、ここへ、敵に
すると、どうして、知ったものか。
「これは、
と、いって帰った。
将門は、その人のうしろ姿を伏し拝んで、
「ああ、申しわけがない。あの人には、何事も
と、病床に、涙を流していた。
数日の後、景行の使いが、薬を届けてよこした。薬草袋を煮ては、毎日何度となく、その薬を飲みつづけた。驚くほど、尿がよく出る。それに比例して、気分が
将門は、ひとり語に、
「おれは癒る!」
と、大声でいった。すると、空洞の
肉体に、健康がよび返され、その健康が、彼の彼らしい意志気力を、恢復してくると、
「はて。おれはどうして、こんな目に
むらむらと、こんな考えかたが、頭を
「どうだ、おれの顔は。……もうすっかり
――その朝は、わけて将門は、気分が快かった。穴住居には耐えなくなり、早暁に鳥の音の中を歩いて帰った。そして大勢の郎党たちと共に、雑穀や木の実をつき交ぜた異様な粥に、小鳥の肉など
誰か、麓から、駈け上ってくる。本能的に、みな立った。しかし、味方の物見の者とわかったので、すぐにまた、腰をすえかけると、近づいて来た味方のその物見たちが、口々に、たいへんだっ――といきなり
「北の方の船が襲われた」
「敵に知られて、桔梗さまや、和子様まで」
舌がひッつれて、多くを、正しく、いえないのである。口々の声はみな、報告というよりは、ここへ来て、とたんに、息ぎれと一しょに吐いた絶叫であった。
「なにっ」
将門のそれにたいする声も、ふるえを曳いて、あとは、
「桔梗や、和子が」
と、いったきりである。
唇のほか、血のいろもない顔を、じっと、持ち耐えながら、
「もっと、詳しくいえ。敵に見つかって、どうしたのだ?」
と、やっと次の語を吐いた。そして、物見の三名を、睨みつけた。
「無残や、お姿も見えません。……血にそんだ船や、あなたこなたに、
すべてを聞き終らないまに、将門は、山を駈け下りていた。もちろん、すべての彼の部下が、山つなみのような勢いをなして、彼に駈けつづいたことはいうまでもない。
麓に近い平地に、味方の馬十数頭が隠してある。彼は、その一頭へ、とびのった。うしろに、兵が続いて来ようと来まいと、問題ではないらしい。彼はただ、彼の魂が
陸閑岸から、彼の妻子の船のある湖辺まで二、三里はある。その間、将門は、道も眼に見えなかった。
蘆荻と、水が近づいた。
晩秋の大気は、水も空も、ひとつの物みたいに、しいんと、澄みきって、そこに、何があったかを、疑わせる。余りにも、自然は、平和であったし、美しすぎるほど、美しい秋を深めている。
「……桔梗っ」
馬を降りた将門の声が、水へひびいた。同じ叫びを、彼は、白痴の児のように、何度も、水へむかって、繰り返した。
「き、き……桔梗……」
やがては、ただ
「おれだぞ。将門だ。……桔梗よ」
と、水の中へ、ざぶざぶ、
すでに、後から駈けて来た面々も、そこらの地上を、物色したり、そして、芦間に、血に
「あっ。どこへ。……お館様、どこへ」
将門の異様な行動を見て、郎党のひとりが、抱きとめた。将武も走りよって、手をつかまえた。
「離せっ、おいっ。……離さぬか」
将門は、恐ろしい力で、二人を
将武は、足に、しがみついて、
「あ、あぶのうございます。兄者人っ、あの船には、誰も、おりません。桔梗さまも、誰も……」
「いる。……いる……。おれには、見える。……桔梗が、和子が」
「おういっ。み、みんな、ここへ来てくれ」
と、将武は絶叫した。
「――兄者人が、発狂なされた。……あ、兄者人を、どこか、よそへ、担いで行ってくれ」
たれか、密告した者が、あったのかも知れない。
羽鳥の良兼は、将門の妻子が、湖上の
すでに彼は、豊田郡の本拠を、占領して、
しかし、彼の本来の目的は、それにあるのではなく、じつに将門の首を見ることにあるのだ。
かんじんな将門を逸したことは、良兼にとって、なお一抹の不気味をのこしている。いつ彼が、兵を
「もういい。ぞんぶん、腹は癒えた。ひとまず、羽鳥へ引揚げよう」
凱旋の途中で彼は、将門の妻子の居場所を知ったのである。で、そのため急に、道を変えたのだ。
「あれへ、射込んでみろ」
良兼は、兵に、弓を揃えさせた。
数百
桔梗の守りについていた十数名の郎党は、いちどに、船を躍り出して、
「これまで」と、船を近づけ、阿修羅になって、斬りこんで来たが、多くは、矢にあたって、水中に落ち、岸を踏んだ者も、なぶり斬りになって、討死にした。
その一艘に、良兼の部下が乗って、すぐ他の二艘を、岸へ曳いて来た。一艘は、女房や
「桔梗を
と、わめいていた。しかし、船が、岸近くへ、曳かれて来るまでに、桔梗は、将門との中に生じた――この春、生んだばかりの愛しい――あれほど
良兼は、何か、彼女の行為が、非常に
――それが、きのうの、夕暮であった。
将門は、一たんは、たしかに、狂いにちかい発作をやった。
「みろ、みろ、おのれ
と、拳を振るもあり、
彼らのような半原始人のあいだにも、なお女性や幼い者への
――爰 ニ将門、本土ヲ敵ノ馬蹄ニ足躙 サレ、奮怨 ヤム所ヲ知ラズ、ソノ身ハ生キナガラ、ソノ魂ハ死セルガ如シ
とある程、将門にとっては、致命的な暗黒を生涯に約されたものではあるが、しかし、彼の部下が、彼と共に哭き、彼の一身に、心を結束させたことは、非常なものであったろう。あらゆる犠牲と同情をあつめて、将門のいちど、姿をかくした三郎将頼や四郎将平たちは、叔父の良兼勢が、筑波へ帰ると、ただちにまた、豊田の焦土へ、帰って来た。
さきの敗北で、味方は半分以下にも、減っていたが、これが諸地方に聞えると、かえって、以前の数に倍するほどな人数が、山川草木まで、焼けいぶっている豊田郡へ集まって来た。
「ひとまず、石井ノ柵をひろげて、石井にたてこもろう」
石井は、豊田の隣郡で、猿島郡の内になる。
将門もやがて、ここに帰って来た。
この石井時代から、彼の性格、彼の人間観は、たしかに一変を来している。その原因が、この秋の湖上の悲劇にあることはいうまでもない。
ぽかんと、馬鹿みたいに、
「兄者人は、あの日から、まだすこし変ですぞ」
と、将武は、上の将頼や将平にささやいた。
弟たちには、思いやり深い長兄であったが、この頃は、どうかすると、その弟たちすら、頭ごなしに、どなりつける事がある。そして、ともすると、
「飲もう」と、いい出すのであった。酒量は、以前のようなものではない。大酔を欲しながら、いくら飲んでも、酔えないふうであった。
「怒っても、怒っても、おれはまだ、ほんとに、捨て身で怒ったことはない。それはおれに、
彼は、それを、何度もいった。
気のせいか、将門の相貌までが、前とは、違って来たように、誰にも思えた。らんとした光をもち、しかも、あたたかさが、失われている。
冬の初め。ああ、冬の初め。
彼は、初霜を見ると、思い出した。
桔梗と、別れて、落ちるときに、
(さびしくても、しばらくの
そういって慰めたあの最後のことばを――である。将門は、石井の営兵を数えた。部下は二千をこえている。以後、まったく積極的に鍛えてきた精鋭である。
「よし、備えはできた。妻子のとむらい合戦ぞ」
将門は、兵千八百人をつれて、筑波へ立った。なお六、七百の兵を、石井の営に残して、弟たちには、留守をたのんだ。
羽鳥の良兼は、これを知ると、
「そういう
と、一族をつれ、
「ええ、存分に戦って、夏以来の思いをそそいでやろうとしたのに」
将門は、羽鳥へ来てみて、無念がった。あらゆる手段をつくして、良兼をおびき出そうとしたが、さきは
ぜひなく、彼は、それが目的ではないが、豊田郷の館や自分の領民に与えられた通りな、狼藉、放火、掠奪を、良兼の領下に振舞って還って来た。まさに、歯を以て歯に酬いたのである。
こうして、その年は、暮れかけた。承平七年も、十一月にはいった。坂東平野は、
すると、突として、朝廷から、
(平小次郎将門事、徒党を狩り、暴を
と、いうのである。
ところが、諸国の郡司や押領使は、この官符をうけながら、いっこう朝命を奉じる様子はなかった。中央の命なるもの自体が、それほどまでに、地方には行われなかった証拠でもあるが、また一面、
「どうして、将門に、追捕が発せられて、良兼やその他には、何の
という疑いも、多分にあり、お互いが、隣国の出方をまず見ているという態度であった。
官符の通達された範囲は、武蔵、安房、上総、常陸、
すぐ翌年は、
右馬允貞盛は、ちぬの浦(江戸川尻)の沖を行く便船の上に、坐っていた。
ほかの沢山な旅客とはべつに、艫の一部を囲い、従者の
土民的な地方人は、この主従に、眼をそばだてたが、
「都の堂上人が、
と、いったような観察しか持てなかった。
便船は、今朝、上総の浜を出て、武蔵の芝崎村(後の浅草附近)へ向っていた。――で、船がいま、ちぬの浦をよぎる頃になると、旅客はみんな騒然と一方の天を見て指さしあった。――はるか西方に
「おお、西の空、えらい黒煙だ。数日前から、富士山が爆発したという噂だったが、あれがその煙だろうか。……まるで、雪雲のような灰ではないか」
貞盛は、杯を片手に、ふしぎな天変の相貌を、見上げて、いった。
従者、二人も、
「ごらんなさい。この辺の海まで、何やら、霧のようなものが、立ちこめています」
「や。……杯の酒の上まで、灰が降ってくる。これでは、相模、武蔵などは、灰に埋まってしまうかも知れませんな」
「まさか……」と、笑って、「富士の噴火は、初めてではない。噴くだけのものを噴き上げ、燃えるだけのものを燃やしてしまえば、自ら、
貞盛は、杯を覗きながら、ひと口に飲みほした。そして今、なにげなく出た自分のことばが、常総平野に大乱を捲き起している将門の猛威を、無意識に、予言したように思った。
「……そうだ。あわてることはない」
飯を噛みながら、彼は、自分へいって聞かしていた。正直のところ、彼は、将門が想像以上、屈しないし、まだ幾らでも、彼への味方が出てくるので、先頃来、あわてていた。
京都へ上っては、政治的工作に奔走し、常陸へ帰っては、国々の郡司や、国庁の役人たちを、説き廻って、
(すでに、中央では、将門の罪をみとめ、将門追捕の令が、発せられている。――四隣の諸国は、協力してこれを討つべし――と官符もそれぞれ届いているはずだ。なぜ、兵を出して、筑波に
と、それの督促に、常陸、下野、上総、安房、武蔵などを、歴訪している彼であった。
夏以来――将門と良兼との戦闘はじつに激烈を極めていたのに、たえて、戦場には貞盛の名すら聞えなかった。――意識的に、彼自身、表に立つのを、避けていたものにちがいない。
彼は、将門とは正反対な、理性家であり、良正、良兼などという老獪以上に、若いが悧巧者なのだ。野蛮な喧嘩や殺し合いは、良兼に、受け持たせて、自己の姿を巧みにぼかしていたものと思われる。
だが、このところ、賢明なはずの彼も、少々、慌て気味だった。折角の“官符ノ令”も、いっこう威令が行われない。国々の国司や郡司は、みな傍観的である。貞盛として、これは
船は、芝崎の入江にはいった。船を降りると、彼の前に、
「やあ、日和もよくて、お早いお着きでしたな」
と、早速、駒を曳いて、一群の郎従と共に、貞盛を、出迎えて来ていた人物がある。
経基は、秋ごろ、都からこの武蔵へ赴任して来たばかりの、新任の「
「お疲れでしょう。ともあれ、こよいは、私の渋谷の
「御好意に甘えよう。先に出しておいた書面は、もう、お手許へ届いていたかな」
「拝見しました。……出兵の儀も、
と、経基は、口を濁して、
「仔細は、後でお耳に入れましょう。何せい地方事情というものは、地方へ居着いてみると、想像外なものですな。着任半年で、ほとほとその難しさが、やっと分って来たぐらいなところです」
と、駒をならべて、嘆息した。
郎従たちは、途中で
貞盛は寝坊した。――翌る日、起き出てみると、もう
「お目ざめですか。権守殿が、早朝から来て、客殿でお待ちいたしております」
主の経基に、紹介されて、貞盛はやがて、その人と、客殿で対面した。
「――
と、彼は、名乗った。貞盛も、都人らしい態度で、
「右馬允貞盛でおざる。お名まえは、
と、片言にも、すぐ相手をよろこばすような挨拶をした。
酒宴となった。
都の官人を迎えれば、必ず、饗宴となるのは、この時代からの、地方吏の風習だった。
しかし、興世王という男は、どこか、癖の多い、
(好もしくない人間だ)
貞盛が、そう思うせいか、興世王の方でも、
(いやな、やつだ。都風を吹かせやがって)
と、観ているらしい。
けれど、新任の経基は、貞盛が推薦した者であるし、興世王の次官である。――で、貞盛は、経基のために、
「ひとつ、よろしく、ひき立てていただきたい」
と、心にもない機嫌をとっていた。
その後で、彼は、
「時に、当国もまだ、出兵の御様子がないが、もし、官符の命に
と、これは、太政官の名においてであるから、貞盛も、相当強く、二人の真意を
「いや、決して、朝命を軽んじるわけではないが……。ま、仔細は、経基からお聞きとり下されい」
と、興世王は、次官たる彼の方へ、ちょっと、顎をしゃくって、自分は、空うそぶいていた。
経基が、代って、事情をのべた。
――その理由というのは。
経基も新任だが、興世王もまた、一年ほど前に、「権守」を拝命して、この武蔵へ来た地方長官なのである。
ところが。
この武蔵の国には――
これが、新任の「権守」や「介」を、
(おれは、認めない)
と、拒否して、税務その他、一切の行政に、
武芝のいい分は、こうなのだ。
(――おれの治績と
武芝は、郡司。
興世王は、権守だから、国司ノ
それも、気に食わない一つらしい。
とにかく、武芝は、いろいろ苦情をつけて、新任の「権守」と「介」を絶対に排斥しつづけていた。そういう実情にあるので、官符の命による出兵の実行などは、今のばあい、思いもよらぬことである――という経基の釈明であった。
「ははあ。……そんなわけがあるのか」
貞盛は、一応は、うなずいた。
とはいえ、あるまじき事だ、と呆れもしなかった。
後世の国家のすがたから観れば、驚くべき国家への反抗だし、無秩序なはなしであるが、ひとり武蔵一国に限らず、遠隔の地方ほど、中央の政令は、まだまだ行われていなかったのである。
自分たちに、都合のいい政令なら、受けるが、不利な政令なら、無視する、あるいは、反撥する。
まして、一片の太政官辞令などは、古くから地方に根を下ろしている者にとっては、権威でも何ものでもない。それも、自己の地位を
「じつに、
経基は、憤慨して、貞盛がこの地方へ来るのを待っていたように、いきさつを訴えた。
貞盛は、裁きに、困った。
自分の目的は、将門退治の出兵の督促である。こういう紛争の中へとびこんで、訴えを聞こうとは思わなかった。
「仔細を、中央へ上申し、武芝へ対し、何らかの措置をとって貰ってはどうです。――摂関家の御名を以て、再度、武芝へ厳達していただくなり、さもなくば、朝議にかけて」
「いや、だめです。そういう手続きは、何度、くり返したか知れません。ところが、朝廷でも、太政官でも、かえって、武芝をおそれて、何のお沙汰も返って来ない。理由は――今や、南海方面には、伊予の純友一類の海賊が、頻々と乱を起しており、また、坂東平野には、将門の
「いや、事実、南海の賊は、年々、猛威を
「……といって、われわれ両名が、官の辞令を持ちながら、空しく、都へ帰れましょうか」
「何とか、足立武芝と、そこの折り合いは、つかぬものか」
「それもずいぶん、辞を低うして、試みましたが、府中の国庁へ参っても、兵を以て、われわれを拒み、一歩も入れないのですから、妥協のしようもありません。――ただこの上の一策は、こちらは、太政官任命の辞令を持っているのですから、官命を称えて、武芝を、一度、武力で叩いてしまうことですが」
「兵力は、どうなんです。充分、彼を圧する実力があればですが……」
「それは、充分に、勝目がある」
興世王は、初めて、ここで口をあいた。――それ以外に、方法はないので、ひそかに、先頃から武力は準備しているというのである。
「しかし、
「なるほど。――その上ならといわれるか。いや、
彼は、それを約した。
同時にまた、その紛争が一決次第、将門退治に、武蔵の兵を、必ず、協力させる確約も取った。
貞盛としても、官符を仰ぎながら、その官命にたいして、諸国、いい合せたように、一兵も出さないとあっては、中央にたいして、面目が欠けるばかりでなく、自身の立場も危うくなる。
それには、多少、恩を着せてある経基に手つだわせて、興世王に、それくらいな冒険はやらせても仕方がない。出兵を確実にさせる為には、彼等の内部にある異分子の
興世王と経基は、
「いや、これで、此方共も、武芝にたいする決意がつきました。貞盛どのが、官辺への証人として、お立ちくださると聞く以上」
と、
数日の間、貞盛は、渋谷の館へ滞在して、彼等の密議にあずかっていた。――武芝の邸宅を奇襲して、国庁を占領し、武芝を監禁してしまおう――という手筈がその間に進んでいた。
しかし、貞盛はなおこれから、
以来、彼の消息は、また、
貞盛の性格と、その行動は、あくまで、陰性であり、惑星のごときものであった。
けれど、こういう間にも、将門を中心とする常総の野にも、また一波瀾が起っており、更に、貞盛の去った直後には、武蔵の国庁に、予定されていたところの騒乱が表面化されていた。
富士山噴火は、こうして、いたる所の地表と、そこに住む人間の生理にも、何か、狂噴的な作用を、鳴々動々、伝播していたのかも知れなかった。
足立郡司判官代武芝のやしきは、後世、江戸時代には三田聖坂といった芝の高台にあった。
古文書には、武芝はまた、竹柴村とも書かれ、あの辺の高地は、すぐ断崖の真下を、打寄せる東海の波が洗っていた。
そして、磯を、武芝ノ浦とよび、牟邪志乃国造以来の豪族――
当時。
ここから、彼の管領している武蔵一国を、
まず、いまの東京都の下町一帯は、ほとんど、海であったと観てよい。
浅草の森、根津、本郷辺の原始林、そして、太やかな大河が、高地の鬱林の間から、海へ吐け出し、その河辺に沿って、所々、自然に土砂が溜って出来た洲が彼方此方に葭や芦を生い茂らせていたであろう。(それらの洲や沼や自然なる泥土が、後の千代田区、中央区などである)
武蔵は、江戸時代で二十二郡といわれたが、中古では、武蔵十郡に分れていた。そして、その内の中武蔵は、北を豊島郡といい、南を
で、武芝の居館は、時代的に観ると、やはりその頃にあっては、領下の荘園を管理するに都合のいい枢要地にあったものにちがいない。
そして、彼は折々、ここから、多摩の府中にある国府ノ庁へ、通っていた。
「近頃、都から、右馬允貞盛が来て、経基の館に、逗留しているようです。――いちど、お訪ねなされてはどうでしょう」
武芝の家人は、市で聞いて来た噂というのを、主人につたえて、そう勧めた。
「ばかをいえ、おれから出向くことがあるものか」
武芝は、武蔵の国主をもって、自ら任じていたので、
「――右馬允風情が、来たからとて、なにもおれから膝を曲げて、御機嫌伺いに出向くことはない。用があるなら、彼の方からやって来るさ」
と、ほとんど、眼もくれていなかった。
ところが、やはり気には懸るので、内々、入れてある密偵をよび寄せて、探らせてみると、貞盛の滞在中、興世王も加わって、たびたび、密議がひらかれ、また、ひそかに、兵備も進められているらしいという。
「……はてな?」
と、武芝が、警戒し出した時は、もう遅かったのである。ある日の早暁、約二千ほどの兵が、ここを急襲して来た。
武芝には、応戦の備えがなかった。
彼は、伝来の家宝や財を、そっくり居館に残したまま、妻子を、磯から船で落し、自分は、わずかな郎党をつれて、丘づたいに、多摩河原を辿って、調布にのがれ、府中の国庁には、異変はないと知ったので、府中へ逃げて行った。
しかし、翌日にはもう、府中へも、興世王と経基の兵が襲せて来ると聞えたので、
「よし。国庁にたて籠って、さいごまで、戦おう」
と、俄に、戦備を触れ出したが、庁の地方吏たちは、日頃から彼の暴慢を憎んでいたし、領民もまた、多年、武芝に反感をいだいていたので、進んで、彼と共に、難に当ろうという者もない。
「ええ、ふがいない奴らだ。今に見ておれ」
と、捨てぜりふを残して、ぜひなく、武芝はまた、そこを落ちのびた。そして、はるか多摩の西北地方――
興世王と経基の示威運動は成功した。
二人は、武芝の居館の財物を没収し、国府に君臨して、訓令を発し、武芝に代って、新たに時務を執った。
「うぬ。どうして、くれよう」
武芝は、鬱憤やる方なく、日夜、報復を考えた。
国庁の内には、なお彼の方へも、二股かけて、色気をもつ小吏も多い。
それらを操って、内部の時務を怠らせ、外部からは、流言や放火やさまざまな不安を起して、
筑波の麓の柵に、同族を糾合して、羽鳥の良兼は、石井ノ柵の将門と、この冬中、
「いっこう消息もないが、一体、貞盛はどうしたか?」
彼が待つものは、諸国の援兵である。――貞盛の画策に依って発せられた官符の効果だった。
さきには、将門の復讐に会って、弓袋山へ逃げこみ、からくも彼の襲撃から遁れたが、帰ってみると、羽鳥の館も、附近一帯の民家から屯倉まで、一夜に、焼野原と化している。
加うるに、この前後、彼が
「官符は降ったが、諸国とも、兵は出さないし、貞盛は陣頭に立ちもしない。――こうして、この身一人が、将門の目の
良兼も、もう、いい
それに、深い堅固な信仰ではないにしても、
「貞盛こそ、怪しからぬ。――本来、誰よりも、貞盛自身が、矢表に立つべきではないか」
その不合理にも思い至って、ようやく、右馬允貞盛の
しかし、今にして、こう気づいても、すでに遅い。
彼の部下は、将門の豊田郷に侵入して、穀倉、御厨、門前町、民家にいたるまでを焼き払い、ついには、将門が自分の生命ともしている最愛の妻子までを捜し出して、みなごろしにしてしまっている。――すべてそれは良兼の所業として、将門から終生の恨みをうけているのだ。今さら、骨肉の血みどろと、領土の荒し合いが
しかも、弓袋山から里へ出て来た彼の眷族や伴類たちは、将門が石井へひき揚げたあとで、歯噛みをしあい、
「見ておれ、こんどは、こっちから、ひと泡ふかせてやるから」
と、再挙、おさおさ怠りはない。
げにも、歯ヲ以テ歯ニ酬ウ――の報復をくり返せば、人間の野獣化と残忍な手段は、とどまるところを知らなくなる。復讐に対して、復讐を返し、その復讐にまた復讐を思うのである。
ここに。
将門方の走り
もと、水守附近の、百姓の小伜である。
良兼の家人景久が、この子春丸を誘惑して、利を食らわせ、石井ノ柵を内偵させた。
「柵は、手薄です。大した兵力はありません。ちょうど、
子春丸は、欲に目がくらんで、羽鳥方に内通し、ついに、こんな計略の手先を働くことになった。
彼の奇策は用いられた。
為に、その事の行われた夕方、石井ノ柵は、炭倉から火を発し、同時に、内から内応する者と、外から奇襲した筑波勢とに囲まれて、まったく、一時は、危急に陥ちかけた。
しかし、将門は、その年の夏から秋へかけてのような脚気患者ではなかった。もう彼の健康は、
「ござんなれ、良兼」
という意気である。
慌てはしたが、たちどころに、営中の郎党から兄弟たちも団結して、それに当った。奮戦力闘、攻め寄る敵を
「裏切り者は、子春丸です」
彼をよく知る仲間の梨丸が、その後ですぐ将門に訴えた。
「幼少の時から、眼をかけてくれていたのに、憎い童め」
将門は、弟の将平にいいつけて、ただちに、彼を引っ捕え、首を打って、羽鳥の良兼へ、わざと、送り届けてやった。
子春丸には、老いたる母があった。羽鳥ノ柵へ、その首を貰いに来て、良兼の前で、首を抱いて
「わしの伜を、このようにしたのは誰じゃ。誰が、わしの子を……わしの子を! ……」と、老母は、泣き沈んでいるうちに、突然、発狂したらしく、わが子の首のもとどりをつかんで、おそろしい形相をしながら立ちよろめくと、良兼へ向って、
「おまえじゃろ。おまえにちがいない。わしの子を、元のようにして返せ!」
と、いきなり、抱いていたわが子の首を、
良兼は、その晩から発熱した。
ついに正月中も、床を上げられなかった。
「……
そんな事をいい出したのも、気の弱りであろう。二月に入ると、病はなお重り、彼も良正のあとを追って逝くかとさえ思われた。
「この上は、どうしても、右馬允どの(貞盛)を表面に立てねばならぬ。自体、あのお人が、妙に、蔭にばかり隠れているので、四隣の国々も、連合して来ないのだ」
良兼にも、いい息子がある。
貞盛の所在をたずねていたのは、羽鳥方の良兼一族だけではない。
将門もまた、八方、手をわけて、
「大叔父の大掾国香以来、おれを亡き者にしようと、幼少、都にいた頃から、おれの一命をねらっていたのは、あの
と、部下の者へ、厳命していた。彼の弟たちも、坂東平野の草の根を分けてもと、血眼になって、行方を嗅ぎあるいていた。
安房、上総から、武蔵へ渡り、そして両毛を徘徊して、田沼の田原藤太秀郷を訪うたということまでは、うすうす分ってきた。
しかし、秀郷の所では、ていよく援助を断られて、どこかへ立ち去ったという噂なのだ。それは、どうも真実らしい。
ただ、その以後が、わからない。まったく、杳として分らない。
「――もし、また、ふたたび、都へ上ったものとすると、ちと厄介だ。いずれ、摂関家などを立ち廻り、ろくな事は、ふれ歩くまい。それならそれで、おれとしても、何とか、都へ手を打たねばならぬが」
と、将門は、それのみを、苦にやんでいた。
彼は、都を知っている。十数年の生活を、都人の中で送り、摂関家の何たるものか、朝廷のどういうものかを、地方人としては、
天慶元年の二月末――山も野も春めいてきた矢さきである。
「兄者人! 知れましたぞ。貞盛の居どころが」
と、弟の将平、将文のふたりが、石井ノ柵へ駆けこんで来て告げた。
「常陸にいる彼の姉の良人、藤原
「なに、碓氷越えに出て、都へ向って行ったと」
「まちがいなく、それを眼に見とどけた者の知らせです。――このときを逸しては、再び、彼奴を、手捕りにする機会はありますまい」
「しめたっ――」と、将門は、手を打ってさけんだ。
「天の与えだ。貞盛の運の尽きだ。直ぐ追おうぞ」
具足を着こみ、矢を負い、馬を曳き、将門は、広場に立って勇躍した。
居合せた家人郎党は、百名に足らない。
「柵は、空き巣になってもかまわぬ。一人のこらず従いて来い」
砂ぼこりを揚げて、この日、柵門から出払った。
今は、愛する子も妻もない仮の館といえ、ここを羽鳥の敵に明け放しても、ただ一個の貞盛を逃がすまいとする彼の決意であった。
その意気ごみから見ても、いかに彼が、貞盛という賢くて陰性な敵にたいして、日頃から、いや都に
高原の二月は、まだ残雪の国だった。
春は、足もとの若草にだけ見えるが、遠い視界の山々は、八ヶ岳でも、
「――なに、将門が追い慕って来たと?」
右馬允貞盛は、そう聞いても、初めはほんとにしなかった。
けれど、ゆうべ
(およそ百数十騎の兵が、今日は、佐久高原から
と、そこの牧夫たちから聞かされたので、今は、疑う余地もなかった。
「――
貞盛は、馬上から振り向いた。長田真樹、
「彼奴に、追いつかれては大変だ。――というて、この信濃路、山越えして
「さ。山に雪さえなければですが」
真樹も忠太も、暗澹と、行き暮れたような顔つきである。将門と聞いただけでも、彼等は、胆のすくむ思いがする。まして味方はこの小勢、しかも都へ向って、常陸からそっと落ちのびて来た旅装のままだ。何しろ逃げられるだけ逃げるに
貞盛にも、
「さらば、
騎馬、
そして、千曲の
「や。将門の豊田兵らしいぞ」
「それにしては、小人数ですが」
「先廻りして待伏せていた一小隊にちがいない。後の人数が来ぬうちに」
「そうだ。将門さえいなければ、あのくらいな小人数の敵は……」
急に、貞盛たちも、戦備をととのえた。
まったく何の陣形の用意も偵察もなしに、突然、双方の間に、猛烈な矢戦が始まった。――十五、六人の豊田兵の中にいて、指揮している若い騎馬武者は、たしかに、将門の弟の将頼か将平にちがいない。
「
と、自身、真っ先に、しぶきをあげて、浅瀬へ、駈け入った。
ところが。
そこから二町ほど上流を、一群の騎馬が、先に対岸へ渡ってゆくのが望まれたし、また下流の方からも、黒々と、一陣の兵馬がこっちへ
「あっ。いけないっ。――将門だ」
貞盛は、そう叫ぶと、仰天のあまり、あやうく馬から河中へ落ちそうになった。
山岳地帯は、まだ雪
将門の手勢は、三ヵ所に分れていた。将門にとって、この日ほど、快味を感じたことはなかったろう。貞盛はもう網の中にはいった魚だ。あとは網をしぼって、手づかみに捕えるだけのものである。
しかし、貞盛とて、こうなれば、やみやみ坐して敵手にかかるほど
「しまった」
一度は絶望的な叫びをもらしたが、たとえ敵の半数以下にしろ、四十人の郎従は連れている。これだけの者が死を決すれば――と思い直した。
彼は、戦にも、勇よりは智が働いた。
「あの渡船小屋に拠って戦え。小屋の蔭や
何の掩護物もない戦場では、これは有利にちがいない。しかし、将門方は戦備して来た兵だし、貞盛たちは、旅装である。また何よりも、持っている矢の数にも限度がある。
当然、矢が尽きてきた。
頃はよしと、将門の兵は、渡船小屋を中心に、取り巻いた。将門、将頼、将文、将平と、兄弟、駒をそろえて、
「貞盛。出ろっ」
と、呼びかけた。
「おうっ――」と、小屋の蔭から、悍馬を躍らせて、出て来た者がある。
貞盛と見たので、将門が、
「手捕りに、手捕りに――」
と、弟たちへ注意した。
その一騎はなかなか勇猛だった。彼のために傷つく者が少なくない。
いやここばかりでなく、乱闘乱戦、さながら野獣群の
やがて、勝つ方が勝った。討ち洩らされた貞盛の郎従は、蜘蛛の子みたいに、山地の方へ逃げ散った。将門は血ぶるいしながら、敵の屍を辺りに見て、
「将頼、将平っ。……どうした、貞盛の身は」
と、弟たちの姿へいった。
「惜しいことをしました」と、将頼が答えながら馬を寄せて来た。「――生け捕りにして、郷里へ曳いてくれんと思いましたのに」
「なに。逃がしたのか」
「いや、自害してしまいました」
「自害したか――」と、将門は
「憎い奴だが、さすがは、恥を知っている。自害したものなら仕方がない。将頼」
「はいっ」
「首を挙げろ」
「心得ました」
将頼は馬の背から飛び降りた。
将門以下、豊田の将兵は、そのとき、
ところが、次の瞬間には、じつに計らざる事実が起っていた。
「や! こ、これは貞盛ではない」
と、首を挙げてみた将頼もいえば、また、周囲の者も、騒ぎ出したのである。
「太刀、具足など、貞盛の物を着けているが、貞盛の郎従、長田真樹だ――。長田真樹が、身代りに立ち、貞盛らしく振舞っていたのだ」
「では……当の貞盛は?」
と、将門の眼には、涙がこぼれかけて来た。
「供の郎従たちの中にまぎれて逃げ失せたか。それとも?」
乱戦のあとを思い出してみれば、小屋が黒煙を吐いたとき、中にいた渡船の老爺だの、土民らしい者が何人か、こけつ
ひょっとしたら、その中に、姿を変えていたかもしれない。
いやいや、そんな隙があったとも思われぬ。あるいは、
将頼、将平たちは、兄の茫然たる面を見るに耐えないように、辺りの敵の死骸を一個ずつ見て行った。が、すぐにその徒労を
「残念だ。しかし、落胆しているばあいでない。……この上は、手分けをして、たとえ、貞盛がどこへ潜もうと、尋ね出さずにおいていいものか」
将門は面を蒼白にして、弟たちへ命令した。百余人が八組に分れ、里、野末、山岳方面など――思い思いに捜索に向った。
が、その日はついに手懸りもなく暮れた。
翌日もその翌日も、山里の部落や道という道を捜し廻った。こうなると、不利なのは、かえって大人数の方だということになる。いちいちの行動がすぐ遁走者には覚られているにちがいない。それと、土地の郡司は、「下総の将門の手勢らしい――」と聞くと、邪魔はしないまでも、すこぶる冷淡な態度を示した。むしろ、右馬允という肩書をもち、中央政府にも、公卿社会にも関係のある貞盛の方へ、暗々裡な庇護がうごいていた。当然、貞盛もその方面の手に隠れて、危地を脱していたにちがいない。
それにしても、貞盛は、惨憺たる苦労をしたもののようである。
おそらく、身一つで木曾路へのがれ、やがて京師に辿りついたものであろう。さっそく、帰洛届と共に、将門の暴状を、太政官に訴え出た。その上訴文の一部に、彼自身、千曲川の難をこう書いている。
――寧 ロ京師ニ上リ訴フル所アラント、二月上旬、東山道ヲ発ス。将門、謀 ヲシテ、我ガ上京ヲ知リ、軽兵百余騎、疾風ノ如ク追躡 シ来ル。二十九日、信濃小県 国分寺ヲ通 グルニ、既ニ将門、千曲川ヲ帯 シテ待チ、前後ヲ合囲ス。我ハ小勢ニシテ大敗スルモ、貞盛ナホ天助アリ、山ヲ家トシ、薪 ニ枕シ、艱難 漸ク都ニ帰リ着クコトヲ得タリ……。
この年(天慶元年)の頃、京都には、僧の
空也は、諸国を歩いて、貧者を見舞い、病人を
都の中にも、空也の掘った井戸が幾つもあって、その井を、街の人々は“
とにかく、彼は、庶民の中の庶民の友人であった、師であった。
だから、街の人々は、彼を呼ぶのに、
「
といって、親しんでいる。
いや、何かこの人が、自分たちの力であるように、空也が夜の辻に立つと、みな彼のまわりに集まった。そして、説教に耳をかたむけ、念仏を唱和し、やがて誰ともなく静かに叩く
空也念仏――空也踊り――
春の星が、都の空を、
「きょうも、西の早馬が、太政官の門へはいった」
「いや、きのうもだ」
「伊予の純友一類が、南海ばかりでなく、近頃は、つい淡路や津の海まで、荒し廻っているというぞ」
「いったい、官の追討は、何しているのであろ?」
こういう不安な囁きは、絶えず聞く。
ここ数年、中央政府は、純友一類の海賊征伐には、まったく、手をやいている。
小野維幹、紀淑人などは、いくたび
「行けば行くほど海のもくずよ」
誰とはなく、敗戦は知れるものである。ついには、兵を徴しても、応じる
その最もひどい一例は、天慶元年からいえば、つい二年前の承平六年三月、
南海ノ賊、船、千余艘ヲ以テ、官ノ調貢 ヲ剽掠 シ、為ニ、西海一帯ノ海路マツタク通ゼズ
という太政官日誌の一項を見てもわかる。貢税の物資を載せた官船が、海賊たちに狙われた例は、一度や二度の事ではない。甚だしいばあいは、船ぐるみ、孤島へ運び去られ、裸にされた官人が、幾月も後になって、都へ逃げ帰って来たという嘘のような話すらある。天下の乱兆は、純友一派の海賊ばかりでなく、山陽北陸地方には、国司や土民の争乱がのべつ聞え、殊に、出羽の俘囚[#「俘囚」は底本では「俘因」](蝦夷の帰化人)が、国司の秋田城を焼打ちしたというような飛報は、いたく堂上の神経をついた。おまけに、洛中名物の放火沙汰や群盗の横行は毎晩の事で、それはもう珍しくも何ともなくなっている。
こういう洛内。こういう上下の不安が満ちていたところへ、右馬允貞盛が――山ヲ家トシ、薪ニ枕シ、艱難漸ク都ニ帰リ着クコトヲ得タリ――という姿で関東から逃げ帰って来たのであるから、
「すわ、何事かある?」
と、遠隔の事情にうとい大臣、参議たちが、彼の上告文なるものを、重視したのもむりではない。
上告文には、坂東一帯の騒擾は、すべてこれ、彼の野望と、中央無視の反意によるものであるとなし――為ニ、荘園ハ
「すててはおけない」
太政官は、これを取り上げた。
しかし、先年、将門上京のとき、貞盛との訴訟の対決では、将門の申したてを正しいとして、「彼に罪なし」という判決を下してあるばかりでなく、「将門が父以来の遺産田領はこれを直ちに、将門の手に帰すべし」という宣告を貞盛へ申し渡してある。要するに、そのときの官の裁判は、将門を正当とし、貞盛の訴えを、不当としたのだ。
――それを今また、敗訴の貞盛の上告文を取り上げて、軽々しく、将門を朝廷の罪人視するのは、どういうものであろう。すこしヘンなものではあるまいか。――というような正論も、公卿の一部にいわれていた。
「一応、貞盛を召して、つぶさに、貞盛の口から、坂東の実情を、訊き取ってみるべきであろう」
堂上の意見は、それに一致した。貞盛はその日、衣冠して、朝廷の南庭に畏まった。
殿上には、三卿以下の大官が、列座して、彼の口から、東国の実情を聞き知ろうと、居並んでいた。
その中には、太政大臣忠平(前左大臣)の子息――大納言
貞盛は、庭上から仰いで、
(お。見えておられるな……)
と心づよさを、ひそかに抱いた。権中納言九条師輔は、弟の繁盛が多年召仕えている主人であるし、また、その兄君の実頼も、自分に好意をもっているお人であることを、常々、繁盛から聞いていた。
「上告文は、あの通りに違いないか。将門にたいし、右馬允は、
実頼が、質問した。
「ちがいありません」
貞盛は、すずやかに、答えた。
こういう所で、思いのまま智弁をふるうことは、貞盛として、得意中の得意である。まして、実頼が質問に当ってくれるなど、願ってもない事だと思った。
貞盛の地方事情の説明は、
ことばは爽やかで、理念はよく通っているし、第一、貞盛の態度がしおらしい。こういう印象には、わけもなく、好感をもつのが、公卿心理でもあった。
「……なるほど」
「そうしたわけか」
殿上の諸官は、みな、貞盛の説明に、肯定した。実頼は、さいごに、訊ねた。
「しかし貞盛。お
「左様であります」
「なぜ、令旨を奉じて、将門を捕えぬか――前には、久しい月日、東国においては、お汝の所在も知る者なく、そのため、将門をして、ほしいままに、暴威を振わせたとも聞き及ぶが」
「その儀は、申しわけもありません」
貞盛は、素直に、庭上へぬかずいて、罪を謝した。
「けれど、それには、仔細がないわけではございません。――理由は、すでに、私の父国香、叔父良正、良兼、また源護の一家までが、ほとんど将門のために、滅されております。それ故、今や将門一人が、勢威を占め、四隣の国々も、将門の仕返しを恐れて、官符の令旨を奉じる心にならないのです。すべて、将門を恐れるところから来ております」
「けれど、その害を除かん為の、官符の令ではないか。なぜ、努めぬ」
「されば、私としては、武蔵、下野、常陸、安房、上総と、国々を歴訪して、官命にこたえ、各

「世間も歩けぬほどに始終、将門が狙うておるのか」
「刺客、密偵を放って、この貞盛をつけ廻し、折あらばと、諸道を塞いでおります故、常に、生けるそらもありません。……加うるに敗残の叔父、羽鳥の良兼も、将門のため、居館、領土を焼きつくされ、ついに、悲憤の余り、病床に仆れ……
「む。千曲川の難は、その途中の事であったよな。やれやれ、将門の執念の烈しさよ」
と、実頼は歎声と共に、訊問を終った。――こうして、貞盛はその日、まもなく退出したが、殿上の反応にたいして、彼は、
「まずは、上首尾」
と、心のうちで、独り満足して帰った。
そしてまた、数日の後、彼は大納言実頼の私邸を訪ね、また九条の権中納言師輔の邸宅へも伺って、
「いまや私は、東国の郷里では、父祖以来の家園も将門に
などと雑談にまぎらせて、若い師輔の同情をひくような事をいった。
若いといっても、九条師輔は三十二歳。長兄の実頼はもう四十歳である。
むかし、将門が仕えた藤原忠平は、すでに六十からの老齢であり、太政大臣の
「いや、さは案ずるな、お汝の弟繁盛に、わしの内意は申してある。ただ、父の忠平公がどうも、将門にたいして、多少、お
師輔は、貞盛を力づけた。
貞盛が、表向きの訴文や裏面運動によって、官に求めているものは、将門を朝敵として、決定づける事にある。――けれど、朝敵の詔が発せられれば、当然、これが討伐には、正式な征賊将軍を任命し、また都から官軍を派遣しなければならない。
「たとえ、貞盛の上告文の通りであろうと、朝敵と断ずるのは、由々しいことである。将門を
廟議は今、こういうところで低迷しているとも師輔は貞盛に洩らした。――貞盛としては、その廟議の帰決を、あらゆる方法のもとに、自分に有利に
今や、彼にとって、中央の方針の
天慶二年の夏中は、
「戦がある」
「大乱の兆しが見える」
「宮門の
秋の頃には、念仏の声よりも、流言の方が多くいわれ出して来た。
「伊予の純友と、たくさんな海賊兵は、もう瀬戸内を上って、摂津、難波ノ津あたりに時を
また、こういう者もあった。
「――それは、東国の将門が、攻め上って来るのを待っているのだ。純友と将門とは、十年も前から、世直しをやる約束を結び、天下を二分して、分け取りにする
いったい、誰が、そんな事をいい流すのか。
天に口なし、人をしていわしむ――というそれなのだろうか。
「……なあ、弟。まるで、わしたちの為に、誰か、代弁してくれているようなものじゃないか」
貞盛は、ある夕べ、弟の繁盛と共に、辻の空也念仏の群れを見物に出かけながら、途々、そういって、微笑しあった。
――そして、夢に憑かれて踊っているような人影の輪を眺めていた。
すると、
「もしや、あなた様は、右馬允貞盛どのではありませんか」
と、馴れ馴れしく話しかけて来た。
「? ……。そうだが、おぬしは誰だ」
「数年前まで、東国の源護殿のお館に仕えていた者にございます」
「おお。護殿の
「御一族、みな、あの通りになりましたので、流浪の末、都へ来ておりましたが、思いがけない所で、お姿をお見かけいたし、おなつかしさにたえませぬ。……おお、それよ、あなた様に、お訊きすれば、確かな事が分ると思いますが」
「わしに、何を訊きたいというのか」
「いえ、自分一人だけでなく、ここらに黒々と踊っている者や、都じゅうの民は、それが嘘かほんとか、知りたがっておりましょうよ。――おういっ、みんな寄って来い」
貞盛が、びっくりしているまに、男は両手を振りあげて、こう呶鳴っていた。
「ここにいらっしゃるのは、右馬允貞盛様だ。東国の事情なら、このお方ほど知っているお人はない。……みんなして、お訊ねしてみろ。この頃のいろいろな噂が、嘘か、ほんとか」
「これ、何をいうぞ。町の流言など、貞盛の知ったことか」
「だって、あなた様は、この春、東国から御帰京になるやいな、太政官へ長い上告文をさし出して、将門に謀反が見えるというお訴えを出しておられたでしょう」
「や。どうして、そんな事を、おぬし如きが知っているのか」
「いくら、つんぼにされているわれわれ下民でも、それくらいな事は、いつか、聞きかじっておりますよ。……流説流説と仰っしゃるが、その流説、何ぞ計らん、堂上方から出ているんですよ。いや、張本人は、あなた様なんです。……さあ、大勢に答えてやって下さい」
すると、群集の中から、姿は見せないが、貞盛へ、こう質問の声がとんで来た。
「東国の将門が、常陸の大掾国香や、叔父の良正、良兼などを滅ぼして、あの地方に、急に猛威を振い出したというのは、噂だけではありませんか」
「…………」
「嘘ですか」
貞盛もつい答えてしまった。
「決して、嘘ではない」
「じゃあ、ほんとなんですね」
「ほんとだとも」
「すると、兵をあつめて、諸地方を焼払ったり、乱暴狼藉を働いている事も」
「むむ……」
「じゃ、将門は、あきらかに、謀反人なんで?」
「そうだ。官符の令旨にも、服さぬから」
「今に、大軍をつくって、都へ上って来ましょうか」
「放っておけば、燎原の火、どこまで、野望をほしいままにして来るかわからぬ」
「するとやはり、海賊の純友と、噂のような、示し合わせがあるのですな」
「知らん。そんな事は」
「まあ、はっきり、仰っしゃって下さい。
「つまらぬ流言を申すな」
貞盛は、群衆を叱って、繁盛と共に、そこから逃げるように、辻の暗がりへ曲がりかけた。
すると、一部の人影が、
「やい待てっ。――その流言は、誰がいい出したのだ」
「馬鹿野郎っ」
ばらばらと、彼の影へ向って、
「わははは。あははは。……いや、今夜はうまく彼奴を利用してやったな。こんなおもしろい目を見たのは久しぶりだ」
同じ夜の事。
六条坊門附近の娼家の多い横丁を曲がって行きながら、傍若無人な高声でこう話し合ってゆく四、五人の遊蕩児らしい男がいた。
その中の年上な一人は、たしかに、八坂の不死人らしい声だし、また特徴のある彼のするどい眼であった。
この六条坊門附近は、娼家の巣であった。近くに市があり、細民町だの盛り場もある。八坂の不死人は、この辺を根じろに、官憲を
夏の末頃。
不死人は、海の仲間から、連絡をうけとった。
(いつもの会合を、江口でやるから、江口まで出て来てくれ)
という純友の手紙である。
そこへ出向く日、不死人は手下の穴彦、
「――ぬかりはあるまいが、例の右馬允(貞盛)の門の見張りだけは、怠るなよ。それに弟の繁盛の方もだ。このところ、奴らと官辺のあいだに、何やら往来が多いようだし」
不死人は、穴彦に送られて、淀から小舟で、摂津へ下って行った。
江口の一楼には、もう大勢の友人が来ていた。――藤原純友、小野氏彦、津時成、紀秋茂、
公卿の果てや、地方吏のくずれである。
そして、南海の任地で、海賊に変じ、数年前から、公然と、瀬戸内の海を、わがもの顔に横行している連中である。
それも初めは、伊予の
彼等は、江口、神崎の上客だった。往来の旅人や、公卿などとは、散財ぶりがまるでちがう。
何か、密議をやったあとは、
すると、早舟に乗って、六条の留守の巣から、禿鷹が、知らせに来た。
「貞盛が、急に、東国へ立ちましたよ。それに、太政官では、いよいよ、将門を叛逆者とみとめて、征討の令を出すとか、征討大将軍を誰にするとか、評議が始まっているそうですぜ」
不死人は、聞くと、
「そいつは大変だ。こうしてはいられない」
と、俄に、あわてた。
「じゃあ、都では、将門討伐軍が、もう出発すると、騒いでいるんだな」
「いや、まだ、そこまでは行っていません。だらしのない公卿評議ですから、そいつもまた、いつ、立ち消えになるか知れませんがね、まあ、探ってみたところでは、九条師輔や大納言実頼などが、そう運ぼうとしているということなんで」
「貞盛は、その約束を握って、東国へ下ったんだな」
「それだけは、確かでしょう。――ところが、おかしい事には、誰も、将門討伐の大将軍になりてがないっていう噂です。何しろ今、東国じゃあ、将門と聞くと、ふるえ上がって、立ち向う奴もないほどな勢いだと……公卿たちも皆、聞いていますからね。こいつあ、右馬允貞盛が、堂上衆を
不死人は、このままをすぐ、純友に話した。
純友は、そう聞くと、杯の満をひいて、
「機は、熟して来たな。――前祝いだ」
と不死人に、
「じゃあ、おぬしも、貞盛を追っかけて、東国へ下ってくれ」
と、いった。
もとより不死人もその気らしい。東国においては、将門に大乱を起させ、海上からは、純友一党が、摂津に上陸して、本格的な革命行動へ持って行こうというのが、この仲間の狙いであった。
「将門とおれとは、叡山の約がある。――いまや、その誓いを、ほんとに見る日が来たのだ。彼に会ったら、そういってくれ。……おたがいに、都へ攻めのぼって、志をとげたあかつきには、あの思い出の叡山の上で、手を握ろうと。……純友がそう申したと、忘れずにつたえてくれ」
純友は、将門が帝系の御子たるところに、魅力を寄せている。つまり利用価値なのだ。けれど彼は賢明な打算家ではなく、いわば一種の狂児である。飲むと、その狂児の眸は、虹を発し、いつも、詩を歌うような語調になる。
じつをいうと、不死人の心のうちに、まだ不安があった。
その“叡山の約”なるものを、将門の方では、てんから問題にしていないのだ。いつかも、口に出してみたことがあったが、ほとんど、忘れたような顔つきだったし、まったく一時の酒興の言葉としかしていない。
――だが、そんな空漠な言葉の上よりも、運命は将門をして、思うつぼに、また思う方角へ、彼をとらえている。不死人はそこが
まさか、純友へは、彼が叡山の約などは、一笑に附しているとも、いえないので、
「そいつは、劇的だ。そういう事になれば、すばらしいもんです。将門に会ったら、そういっておきましょう」
と、答えた。
「うム。叡山の約は、おれの恋なんだ。それを実現して、劇的な再会をとげたい。――そうだ。彼も今では、むかしの滝口の小次郎とはちがう。こんど、おぬしが下るついでに、純友からの
「あ。……あの
「草笛もだが――もっと若いきれいなのも三人ほど加えて行った方がいい。ケチなと思われては、おれの
草笛は、ここの妓である。
もう三十にちかいが、水々しさが失せていないし、素朴といってよいほど、都ずれがしていない。
(あの人なら、わたし、よく知っています。東国にいるのなら、会いに行きたい。ええ、どんな遠国でも、行きますとも)
と、その小次郎が、まだ小一条の右大臣家に、舎人としていた頃、自分の許へ通っていた“好ましい
不死人も、当時の悪友のひとり。いわれてみれば、なるほど、そんな事もあった――と思い出されはする。
純友は、この里に、小次郎の古馴染みを見つけた事を、興深くおもって、ひとつ彼を驚かしてやろうと、草笛の
だが、それだけでは、興がない。草笛は、いくらむかしの彼の恋人でも、三十といっては年をとりすぎている。――どうせの事、もう三人も、若いのを、連れてゆけ。むかしは知らず、今は南海の純友が、東国の平将門へ
女人の貢とか、女人の贈りものとか、女を物質視する風習は、その頃の人身売買を常識としていた世間では、ふつうの事としていたのである。純友は、莫大な物代を払って、江口の妓三名と草笛の身を、不死人に托し、そして将門へ一書をしたためて、持たせてやった。
それから幾日かの後。
不死人は、妓たちを、駒に乗せ、自分も馬の背にまたがり、
妓たちや不死人が、旅の木賃を重ねて、ちょうど、富士の
武蔵ノ国の府中へ出向いていたのである。
弟の将頼、将文を留守におき、自身は将平以下、一族郎党を
この物々しい行装は、まるで出陣のような兵馬だが、将門としても、それだけの用意をもたなければ、出向かれない危険を感じての事である。――何しろ、旅の目的というのが、戦争の仲裁をすることであったし、しかも武蔵ノ国は、彼にとって、いわば敵地にひとしい土地である。
「この将門の顔で、うまく和解がつくかどうか。まず、相手の
彼は、深大寺まで迎え出て来た
「よろしくお願い申しあげる。――武芝の方さえ、兵をひけば、こちらはもとより、乱を好むのではない。いつでも、彼を国庁にむかえて、共に、庁務に努める寛度はもっているつもりなので」
「よろしい。将門にお
「もとより、お出向きを願った以上、何のかのと、条件めいた事は、いい立てぬ」
「では、府中へ帰って、吉左右を、お待ちなさい」
将門は、こう呑みこんで、二人を帰した。
問題は小さくない。
しかし、争いの根は、簡単だ。
「――これは、
将門は、そう見越していた。また――確信をもったので、口ききをひきうけて、敵地とも味方とも分らぬ武蔵へ出向いて来たわけでもある。
この武蔵地方には、先年、彼にとっては、
うすうす、彼も、それは偵知しているのだ。
ところが。
その後、武蔵地方を注意していると、貞盛が、協力を求めて、出兵を説いて廻ったにもかかわらず、ここの国庁を中心に――内紛、また内紛をつづけたあげく、近頃では、ついに、毎日の小合戦に、双方、まったく疲れてしまったらしい。
双方というのは。
例の、
この連中のいがみ合いは、さきに、貞盛がこの地方へ来たとき、貞盛の策と、加担に励まされて、興世たちは、竹柴台の武芝の居館を襲撃し、そのとき、一応は、彼らの勝利で、終っていた。
けれど、武芝も、
で。その
(ひとつ、仲裁の労をとっていただきたい)
と、泣き込む羽目を余儀なくさせたものだった。
将門は、そう聞いたとき、おかしくて堪らなかった。
本来は、貞盛が始末するものだ。
貞盛が、あとの事を保証し、貞盛にケシかけられて、武芝追放をやったような興世王と経基の二人と彼は知りぬいている。
だが。その貞盛は、さきに自分が、信濃の千曲川まで、追い捲くし、ついに、長蛇は逸したが、おそらく、骨身に沁むような恐怖を与えて、都へ追いやってしまった。おそらくはもう二度と、この将門がいる東国へは、足ぶみも出来ないはず――と、彼は、ひそかに、うぬぼれていた。
いわば、貞盛から離れて、木から落ちた猿みたいな興世と経基だ。――そう見たので、その二人が、自分を頼って来たことが、何とも、おかしくもあり、哀れにも見え、
(よし。おれが、話をつけてやる)
と、
要するに、これが将門の性格だった。
彼の甘さであり、彼の人の好さでもある。
もし、将門に、もうすこし、人のわるさがあるならば、この機会に乗じて、武蔵一国を
後に、世上でいわれたごとく、彼に、心からな謀叛気と、大きな野望があるならば、こんな絶好な機を、つかまないでどうしよう。得にもならない仲裁役に、危険を冒してまで、のめのめと、敵地にひとしい武蔵へ出て来るなどは、そもそも、よほど人を疑わず、また、頭を下げて頼まれれば、嫌といえない人間のすることで、まことに――いわゆる後世の関東者、江戸ッ子人種の祖先たるに恥じない性格の持主ではあった。
数日の後。
将門は、武芝と、会見した。
多摩川上流の山岳をうしろにし、武蔵の原を、東南一帯に見わたした一丘陵に、武芝は、別荘をもっていて、その附近を、砦造りに、かためていた。
(なるほど、この
と、将門すら、来て見て、いささか驚いた。
「よく、遠路もいとわず、来て下すった」
と、武芝は、酒食をもうけて、歓待した。
「いや、自分の労などは、何でもない。ただ貴公が、大度量を以て、この将門に、まかせるといってもらえれば――だが」
「おまかせしてもよい。……けれども、相馬殿(彼は将門をそう呼んだ)――この武芝が、興世や経基のために、祖先代々の居館も財物も、
「それは、聞き及んでおる」
「――と、いたしたら、その
「もとより、その財物や居館は、償わせようではないか。……相互に、明けても暮れても、今のような泥合戦をやり合って、焼打ちだの田畑の踏み荒しをつづけ合うことを思えば、国庁の損失はたいへんなものだ。いや、かわいそうなのは領民だ。――貴公さえ、うんというなら、そのくらいな償いは、何ほどの事でもない。きっと、興世王と経基に、承知させよう」
将門は、こういった上に、
「自分の身に代えても、その儀は、ひきうけた」
と、断言した。
第三者たる彼に、こうまで真心を以ていわれては、武芝も、渋ってはいられなかった。
「然らば、相馬殿に、御一任いたそう」
となった。
「ありがたい」
彼は、ほんとに、歓んだ。その笑い顔には、何のくもりもない。
そして、府中の国庁で、日時をきめて、和解の式を挙げようとなった。その日どりと時刻も約束して、やがて狭山の砦を辞した。
休戦の協約はできた。
ただちに、興世の許へ知らせてやる。
興世王と経基の方でも、異議のあろうはずはない。
将門が、指定の日を待ち、その日は、国庁のある府中の
たれより歓喜したのは住民である。
「やれやれ、これで商売もでき、夜も寝られる」
と、その日は、祭のような賑いを呈した。
将門は、隊伍を作って、町へはいった。そして、部下は町屋の辻に
時刻近くに、武芝もやって来た。
幔幕を打ち廻した神前で、将門立会いの下に、双互の者が居ながれ、
「よかった」
将門は、一同へいった。
一同の者も、
「おかげを以て」
と、彼の労を、感謝した。そして、以後の親和を誓った。
さて、それからの事である。
もちろん祝いだ、大祝いの酒もりだ。一時に、心もほどけたにちがいない。
ここでは、
泥酔乱舞は、武蔵野人種のお互いに好むことである。これあるがための人生みたいなものだった。しかも、平和がきたのだ。――殺し合いと焼打ち騒ぎが
――すると。日も
境内のそこここや、町屋の辻にも、かがりの火が、ほのかに、いぶり始めた頃。どこかで、
「喧嘩だっ」
と、いう声が、つき流れた。
急雨のような人の跫音、つづいて怒号。
「喧嘩だっ、殴りあいだッ」
「いや、喧嘩じゃない。斬り合いだ。いや、合戦だ」
「武芝の兵と、こっちの者と」
「――武芝方が、不意討ちを仕かけたぞ。油断するなっ」
きれぎれに、そんな大声が、飛び乱れる。
「――
何しろ、酔っていない者はない。おまけに、陽も暮れはじめた夕闇だ。
「騒ぐな」
と、将門は、声をからして、制したが、鎮まればこそである。
あわてた人影は、その将門を、後ろから突きとばして、武器を小脇に、駈け出してゆく。
「将平。――見て来い」
兄のいいつけに、将平は、飛んで行ったが、はや森のあちこちでは、取ッ組みあいや、白刃のひらめきや、数百頭の闘牛を放したような乱闘が、始まっている。
誰が、やったのか、町屋の一角には、もう火の手だ。
未開土の住人の習癖として、すぐ火を闘争の手段に使う。火つけを、何ともおもわない。
「興世王。いるか」
将門は、呼んでみた。
「――経基どの。介ノ経基どのは、おらるるか」
それも、返辞はない。
「武芝どの。武芝どの」
あたりへ向って、彼は、そう三名を、さっきから呼び廻っていたが、いずれも、部下を案じて、駈け出して行ったものか、いい合せたように、みな見えない。
将平が、やっと、帰って来た。
「
「どうしたわけだ。一体」
「よく分りませんが、何でも、興世王や経基の家来が、町屋の辻で、祝い酒をのみながら、大はしゃぎに、騒いでいたらしいのです」
「ウム。……武芝の家来も、一しょにか」
「もちろん、武芝の身内も、また、私たちの郎党も、その辺に、小屋を分けて、酒もりをしていたものでしょう。――ところが、つい今頃になって、また、甲冑に身をかためた百人ばかりの武芝の郎党が、狭山から――主人武芝の帰りを案じて、迎えに来たらしいのですが――それを、経基の家来が邪推して、町の入口で立ち
「ば、馬鹿な奴等め! こんなに、骨を折って、やっと和睦のできた日に」
「馬鹿です。まったく、馬鹿者ぞろいです。――兄者人、もうこんな馬鹿者喧嘩に立ち入って、こけの踊りを見ているのはやめましょう。一兵でも損じてはつまりません」
「そうだ。もう腹も立たない」
「決して、馬鹿合戦に
将平は、あいそが尽きたように、遮二無二、兄を引っ張って、六所の森から、外へ連れ出した。
そして府中の火光と叫喚を見捨てて、夜どおし馬を急がせ、下総の領内へ向って帰ってしまった。
また。――あとの府中の方でも、その晩、
たしかに、椿事といっていい。
新任の武蔵介経基は、どう考えたか、任地を捨てて、この夜かぎり、都へ逃げ帰ってしまったのである。
彼は、その夜の部下同士の争いを、武芝の計った“不意討ち”とかたく思い込み、また、その武芝と将門が肚ぐろい密約をむすんで、自分たちを殺そうとした“計画”であったのだと、
それが誤解であったことは、彼がもすこし落着いていたら、充分、すぐ翌日にも分っていたはずだが、何しろ、よほど仰天したか、慌て者だったにちがいない。
即夜、命からがら、任地を逃亡してしまったので、都へ着くやいなや、太政官へ出て、
「将門の野望は、ついに、武蔵ノ国まで、魔手をのばしてきました。武芝と心をあわせ、われらを追って、国庁の奪取をもくろみ、府中はついに混乱に陥入るのほかない有様となり果てましたゆえ、こは大事と、御報告に上洛した次第にござりまする」
と、自分の不ていさいを隠すためにも、極力、将門の野望を主題とし、武芝との紛争は二義的なものとして訴え、また堂上の諸公卿にも、
俄然。――将門にたいする中央の疑いは、この事件にも、火へ油をそそがれた。いまや将門謀叛の沙汰は、確定的なものとされて、あとはただ、東国の大謀叛人を、どうして討ち平げるかが、朝議の重大問題として、
あとの出来事などは、将門は、何も知らない。
もとより彼は、一片の義侠から、乗り出したまでの事だ。
「馬鹿を見たよ。なあ、将平」
「それはもう当りまえです。馬鹿を相手にすれば、きっと馬鹿を見ますよ」
「上には上のあるものだ。……おれもずいぶん馬鹿の方だと思っていたが」
「何しろ、あんな馬鹿仲間は、見たことがありません。将平には、いい見学になりました」
「痛い事をいうなよ。それはこの兄のことだ。おれが十年余りの上洛中なども、今思えば、馬鹿世界の見学さ。何の役にも立っていやしない。……あはははは、そういうと、やはり自分は馬鹿とは思っていないようだな」
馬の背と、馬の背とで、兄弟はこんな気軽い話を途々にしていた。
「そうだ、途のついでに、豊田の
豊田は、羽鳥の良兼に、焼打ちされた廃墟の旧邸だ。その後、大工事をさせている。以前にまさる
彼は、それを見て、石井ノ柵へ帰り、将頼に会って、笑いばなしをした上、鎌輪の仮屋敷へはいって、旅装を解いた。
すると、家人や弟の将文が、
「お留守中に、都からお客人が来て、べつな棟で、お帰りを待ちますと、毎日、賑やかに滞留しておられます」
と、告げた。
「なに、賑やかに。……誰と誰だ。いったい」
「数年前にも見えられた八坂の不死人殿と、そして今度は、幾名もの下郎と、なお四人の
「ふうむ? ……あの不死人がか」
不死人と聞けば、妙に、なつかしくもあり、重くるしい圧迫も感じてくる。――年少、都へ遊学に出た日の第一夜から、八坂の暗闇で
「どの壺か」
と、彼は、将文を案内に、その棟へ行ってみた。
なるほど、廊を渡ってゆくまに、もうたいへんな声が聞える。不死人や連れの者のだみ声に交じって、キャッキャッと笑う女たちの嬌声やら何やら、まるで旗亭の一室といったような騒ぎである。
「おう、不死人。来ていたのか」
彼が、そこに現われると、男たちの顔、女たちの眼、一せいに、彼を振り向いて、そしてやや居ずまいを直した。
「やあ、戻ったか。おん
と、不死人は、さっそく、杯を洗って、
「まず、ここへ」
と、席をすすめて、一応の辞儀やら、一別以来の旧情をのべてから、さて、にやにやといった。
「ときに、相馬殿(彼も、以前のような呼び捨てをやめて、世間でいうように、そう呼んだ)――そこにいる女性をお見忘れはあるまいの。……おい、何を黙って、はにかんでおるのだ。はるばる連れて来てやったものを」
と、草笛を指さした。
将門は、さっきから彼女の横顔を、まじまじ見ていたところである。眸が合った。女の顔は、ぱっと紅くなった。
「おお、おまえは、江口の……」
「お覚えでございましたでしょうか。江口の草笛でございまする」
「ああ。これは意外な」
将門は、心から、そういって十余年の過ぎた日を、思わず詠歎した。
「――女はいつまで、変らないものだなあ。わが身の方は、こんなにも変ったが」
「いいえ。あなた様も、すこしもお変りになりませぬ。ほんとに、そうお変りになっていらっしゃいません」
「いや。そうでもあるまい。まだ都では、あの頃、右大臣家の小舎人か、滝口の小次郎であったはずだ。以来、坂東の野に帰って、
「お心が変られたと仰っしゃるなら、それは私には分りませんが……」
草笛は、ふと、
「おいおい。さっそくの
「忘れてしまった。もう……まったく遠い夢のようでしかない」
「そうであろう。じつは……さもこそ、淋しくお
「貢物とは、おかしいではないか。贈り物なら、お受けしてもよいが」
「いや。純友どのは、あなたを、いつも帝系の
「いや、ありがたい。そういう贈り物なら、折ふし、将門の身のまわりは、
と、将門は、彼女の方へ手をのばした。草笛は、年ばえ過ぎた花嫁のように、恥じらいながら、銚子の柄を把った。
――その
由来、武蔵野人種は政治的性格にはまったく欠けている。先天的に、狩猟の武勇を得意とする野性の民で、これの
その後も――
武蔵一国は、混乱のまま治まりがつかなかった。
せっかく将門が仲裁に出向いて、
「いや、あきれたものだ。もう再びあんな馬鹿共の馬鹿合戦に立ち入って、仲裁の口きき役などは真ッ平だ。まあ、やるところまでやっていたら、眼がさめるだろう」
と、以来、どっちから仲介を頼みに来ても、笑って相手にしない程だった。
しかし、この武蔵の内乱も、将門の運命にとっては、そう笑って見ていられる対岸の火災ではなかったのだ。
任地の官職を
「まったく、将門の
と、中央の官辺へ、吹聴して廻った。
「――和睦の仲裁に立つと称して、じつはいよいよ喧嘩を大きくさせ、その虚に乗じて、国庁を荒らし、ひいては武蔵を自己の勢力下に抱き込もうとしたものにちがいありません」
と、
何しろ、さきには、貞盛の訴えがあったところだし、将門の人気は非常にわるい。将門を悪しざまにいいさえすれば、実相を深くも見ないで、
「……さもありなん。さもそうず」
と、肯定してしまうような公卿一般の先入主であった。
放置してはおけないという朝議である。
「武蔵へ
として、新たに選ばれたのが、
この貞連が、武蔵の新任知事として、東国へ下向してから数ヵ月の後に、将門の旧主たる太政大臣家――藤原忠平は、余りに紛々たる将門の悪評と、そして朝議がすでに彼を謀叛人視している事からも、
「すておけまい」
とあって、忠平は特に、
「なお一応。事の実否をあきらに
と、東国へ立たせた。
真人が、
「おそらくは、真人が下っても、何の益にもなりますまい。さきには、貞盛の訴えもある事です。彼が、尊属を殺して、所領をひろげた結果、勢いに誇って、ついに今日では、朝廷も憚らず、官に抗しても、なおその暴欲をほしいままに伸ばそうとしている事は、余りにも明白です。――今さら、
と、反対した。
けれど、忠平の心の奥には、まだ小次郎時代の将門が残っていた。――あの小次郎がと疑われるのである。
「いや、念のためよ。何事にも、念を入れ過ぎて悪いということはない」
忠平は顔を振って、初めの考えを変えようとはしなかった。彼も今では、小次郎が仕えていた頃の色好みな風流
糺問使の多治真人は、約二ヵ月ほどに亘って、武蔵、下総、その他の地方を視察し、そして将門にたいしては、直接、面談して、その釈明を、求めた。
将門にとっては、すべてが
貞盛の
彼は、それをさらに確証づけるために、武蔵、上野、下野、常陸、下総など、五ヵ国の
「かくのごとく、中央は知らず、坂東地方では、自分を非なりと認めている者はありません。すべては
と、自身の認めた弁明の
「神妙です」と、真人は、彼を好意に見た。
表と解文を携えて、やがて彼は、ありのままを忠平に報告すべく、京都へ帰って行ったのである。
ここまでは、まず、無事であった。
この約半年ほどの短い無事の期間こそ、将門の一生涯を通じても少ない“無事の日”であったかも分らない。
豊田の新邸も、竣工していた。
彼はそこに移り、人数の一部は、鎌輪ノ柵に残った。また石井ノ柵にも、
初めは、客分として、将門の館に身を寄せていた八坂の不死人も、いつか将門の家臣同様に、彼に仕え、
「相馬殿――」と、彼を
将門自身の貫禄もまた、自ら以前とはちがって来ている。
今や、彼の衆望は、たいへんなものであった。かつての常陸大掾だの、源護だの、羽鳥や水守の叔父たちの下にあった土地と人間とは、招かずして、草木のなびくように、彼の門へ、彼を慕って、集まって来た。
野の王者であり、野人の中の親分であった。
けれど、こういう順調な、そして隆運の日が巡って来ても、彼には、どこか虚無的な影が拭いきれていなかった。――こういう変り方が彼の人間に見え出してきたのは、最愛の桔梗と、彼女との仲に生まれた[#「彼女との仲に生まれた」はママ]一子とを、叔父の良兼の兵のために、芦ヶ谷の入江で惨殺された時からの現象である。
あのときの、彼の絶望感と、人間の残虐性への烈しい憤怒とは、今もって、
顔ばかりでなく、その陰影は、もちろん、心の壁にも、カビみたいに、
酒は、年と共に、量を増した。いまでは大酒の方である。
「おい、蝦夷萩。……おまえはもう都へ帰さないぞ。それとも江口へ帰りたいか」
将門は、草笛のほそい腕くびを握っていった。ある夕べの酔いの中であった。
「まあ、私を、蝦夷萩だなんて……。私は江口の草笛ですよ。そんな名ではありません」
「
「だって、ほかの女と間違えられたりすれば、どんな女だって怒るでしょう」
「怒るなら怒れ。……都にいた頃、初めて、おまえと
「ひどいお館ですこと。私は私でないんですね」
「いや、おまえは、蝦夷萩だ」
「いいえ、草笛ですよ、わたくしは」
「うそをつけ。これでも蝦夷萩でないか」
抱きすくめて、息がつまる程、草笛の唇をむさぼった。薄い肩をふるわせ、眉をひそめて、三日月
「……や、これは……。悪い折でしたかな」
廊の外に、不死人の影が、立ち淀んでいた。
「おう、不死人か。べつに見られて悪いほどな事じゃない。
「では、お取次だけここから申しておきますが」
「うむ、何だ?」
「武蔵の興世王という者が、今、御門前へ、同勢二十騎ばかりで見えましたが」
「あ、また泥合戦の末、仲にはいってくれとかなんとか、仲裁事の頼みだろう。おぬしが会って、用向きを訊きおいてくれ」
「では、先年、府中へ出向かれて、和睦にまで成りかけたものを、当夜の喧嘩で、またぶち壊してしまったあの一方の者ですな」
「そうだよ。
「心得ました。何を申し入れて来たか、会ってやりましょう」
不死人はのみこんで、すぐそこを退がって行った。
客といっても、二十騎の同勢である。馬は厩に預かり、人間は控えに通し、そして興世王だけを、客殿に案内した。
「てまえは、相馬殿の
と、彼は、将門に代って、応対に出た。そしてさっそく、来意をたずねた。
興世王は、亡命して来たのである。
ついに武蔵にいたたまれずに、一族をつれて、国外へ逃げて来たのであった。
前から不和な武芝とも、なお抗争をつづけていたところへ、都から新たに赴任してきた百済貞連とも合わないで、
「ここばかりが天地ではない」
と、夜陰に乗じて、武蔵を立ち退いて来たのである。
――が、ひろい天地とは思ったが、さて見まわす所、坂東十州の平野では、頼む木蔭も多くはない。
「どこへ行っても、昨今、相馬殿の名を聞かぬことはない。将門殿とは、かねて御面識も得ておるし、仁侠寛懐なお方とは、
興世王は、こういった後で、かさねて、
「ひとつ、御辺からも、相馬殿へお取りなしを頼む。かくの通りおねがい申しあげる」
と、両手をつかえた。
不死人は、考えた。
これはおもしろい鳥が舞いこんで来た。――こういう人間は、どしどし傘下に集めなければいけない。
不死人の画策からいうと、この館の余りに無事なのは本意に
富士は噴煙を吐いている。
坂東の平野も、あの如く荒れよ、と彼は思う。
彼は何か、機会をつかんで、点火役を演じなければならない。そして、将門の身辺をつつんでいる無事と安易を吹き飛ばしてしまうことを考えていた。そうしたところへの客である。亡命者興世王が同勢を持ち込んで来たのである。
(これは歓迎すべき窮鳥だ。何とか、将門を説いても、仲間に加えてやろう)
不死人の肚はそうきまったが、これを将門に取次いでみると、彼の助言などは不必要であった。なぜならば、興世王の事情を聞くと、将門は、旧事も忘れて、率直にその境遇に、同情して、
「それは、可哀そうだ」
と、いうのである。
「ひとたびは、権守まで勤めながら、一族をつれて、他国へ
数日の後には、興世王の妻、女、童、下郎たちも辿りついて、彼の一家族だけでも五十人近い人間がまた、豊田
いわゆる風を慕って集まるというものであろうか。相馬殿の門へ頼ってゆけば、何とかしてくれる――と伝え聞いた者共が、興世王のほかにも、幾組もあった。
しかし、そういう類の者は、いずれも曰く付きに極まっている。もっとも、それを承知で、禍いも共に、ひきうけたと、呑み込んでやるのが、後世のいわゆる仁侠の親分であり、その性情は、武蔵野人種のあいだには、将門時代から持ち前のものであったらしい。
天慶二年の秋、十月初めの頃だった。
常陸の国から、また、この下総豊田へ、流亡して来た人間がある。
藤原
これも大勢の妻子や召使を連れ――
「どうか、お
と、泣きこんで来たのであった。
玄明は常陸の下官として、余り評判のいい男ではない。
彼が、下官のくせに、つねに上司に反抗し、粗暴で冷酷な官吏だということは将門もかねてうすうす耳にしていたので、
「玄明が職を離れたのは、いずれ自業自得というものだろう。そんな者、匿まってやるわけにはゆかぬ。追い払ってしまえ」
と、彼だけには、いつもの寛度も仁侠も示さなかった。
「いかにも、仰っしゃる通り、
不死人はこういって、人を
「なんだ。おれにとって、ゆるがせにならぬ一大事とは」
と、早口に訊き返した。
「右馬允貞盛が、とうから常陸へ帰って、密々に、また策動をめぐらしているらしいので……」
「なに、貞盛のやつが?」
貞盛ときくと、将門はすぐ
玄明の妻子や召使も、また、豊田の内に匿まわれた。
同時に、この人物の密告が、将門を驚かせたことは一通りでない。
いや豊田、御厨、大葦原、石井などにある彼の一族をして、
「油断はならぬぞ。……いつのまにか、貞盛めが、また常陸へ潜りこんでいるというぞ」
とばかり、すべてに、ただならぬ緊張を持たせた。準戦時体制に入ったように、川すじには哨兵を立て、夜は夜警の兵を布いて、
「――ござんなれ、貞盛」
という将兵の眼光であった。
では、藤原玄明が、どういう密告をここに
しかし、常陸との国境は、
さらに、その後、玄明の手によって、貞盛が常陸で何を企んでいるかという輪郭は、
常陸の国司(長官)藤原維茂と、貞盛とは、切っても切れない間である。――貞盛の姉は維茂の妻だった。
この義兄の子息に、
為憲は、文官の父親には似ず、弓馬の達者で、常に、国庁の兵を、私兵のようによく動かし、わが家にも、子飼いの武者をたくさんに養っている。――玄明のことばによれば、もし為憲が指揮をとれば、少なく見ても、三千の兵馬はいつでも自由に駆使する力があるという。
貞盛は、相変らず賢明だ。決して、表に自分は立たない。
そして、為憲を、抱きこみ、
「もし、あなたが、わが家の恥辱をそそいで給わるならば――そして大きくは、治国と平和のために、兇暴将門を、討ち取ってくれるならば、亡父国香の
と、ことば巧みに、説きつけていた。
さなきだに、弓馬にかけては、自信のある為憲である。心を動かさないはずはない。
「私の言は、決して、
と、貞盛はなおも、官符の写しや、訴状に関する書類を示し、また中央における堂上の空気なども、つまびらかに、為憲に語って、
「いま、大功を立てようとするならば、将門を討って、太政官の嘉賞を賜う事が第一でしょう」
と、この血気なる地方武者を、煽動した。
「やるとも」
と為憲は、功に燃えた。
「わしにとっても、将門は、縁につながる人々の仇敵だ……やらいでか、いつの日にか」
「しかし、先へ行くほど、将門の兵力は、強大になります。いつの日にかといってはいられません」
「味方は、誰と誰か」
「群小の
「ふウむ……。そんな大人物が、どこにいるのか」
「ここから遠くない下野の田沼におります。あなたとは、姓も同じ藤原氏ですが、所の名を称えて、田原藤太
「ああ田原藤太殿か。……だが、あのような人物が、味方に起つだろうか」
「私が説客として参るからには、かならず起たせずには
「どうして、それが分る?」
「かつて、田沼の館に、一夜を過ごした事がある。その折の彼の語気で、彼は決して、今の下野の押領使ぐらいで、満足しているものではないことを見抜いています。むしろ、野望満々たる人物です。けれど老獪ですから、将門のような下手はしません。――将門に、野を焼かせ、芦を刈らせておいて、後から、麦や麻でも植えようと考えているのが、藤太秀郷であると――私は見ました」
「怖ろしい人物だな。ちと、小気味の悪い……」
「それ程な者でなくては、味方に寄せても寄せ効いがありますまい」
「それはそうだ……。相手は将門だし」
事態は、こういうところまで、密々に進んでいたのである。
そして貞盛は、常陸から山越えをしては、幾たびか、下野の田沼へ往来していたのであったが、将門方には、まだそれまでの機密は探り得ていなかったらしい。
玄明にしてもそうである。
彼の
だが、不死人にすれば、何はともあれ、おもしろくなって来た。思うつぼへ向いて来たといってよい。
「不意をついて、相手の狼狽のうちに、虚実を見る、という計略でしょう。ひとつ常陸へ乗り込んでみようではありませんか」
その年の冬、十一月のことである。
不死人は「時来れり」と考えたので、こう将門へ、献策した。
「え。……乗込む? おぬしが常陸へ行くというのか」
「いや、そんなケチな小策ではありません。堂々と、兵馬を立て、陣容を作って、相馬殿が国司維茂に見参せん――と公言を払って行くのです」
「口実がないではないか、口実が」
「表面の理由は、いくらでもあります。――藤原玄明なる者が、豊田へ哀訴して来たによって、これを助けてやって欲しい、玄明の追捕を止め、彼を、旧職に復してもらいたいと申せば、世上への聞えもよいでしょう」
「やろうか。不死人」
「やるべしです。そして、われわれが常陸に入れば、彼らの狼狽ぶりがどうか、すぐ分る。また、貞盛も慌て出して、尻っ尾を出すにちがいない。――場合によっては、その途端に、貞盛めを、生け捕るなり、首にして
この策には、興世王も、口を極めて、賛同した。将頼、将平、将文なども、
「さあ、そう巧く行くだろうか?」
と、多少の二の足をふんだが、まったく不賛成でもない。
そして、その年、十一月二十一日のこと。
将門はついに肚をきめた。部下の将兵一千名を従え、豊田から常陸へ向って出発となった。
後に思い合せれば、この一歩こそ、彼にとって、致命的なものであり、これまでの私闘的な争いから、天下の乱賊と呼ばれる境を踏みこえたものであったが、その朝の彼の行装や人馬は、意気揚々たるものであった。――すべての場合、人間が他の
常陸の国庁には、先頃から太政官の巡察使が来ていた。そして数日間、中央との行政の打合せやら、
その弾正忠定遠は、昨夜、国司の藤原維茂の邸に招かれて、盛大な饗宴の主賓にすえられた。
歓をつくして、旅舎にひきあげたのは、かなり深更のことであった。もちろん、彼の随員たちも、それぞれ酒食の饗応をうけ、みな飽満して眠りについた。
公務は、終ったのである。
ゆうべの宴は、送別の意味でもあった。しかし、わずかな残務と旅支度のために、翌一日は休養していた。
すると、荷駄に山と積ませた土産物をもって、維茂とその従者が、早朝に彼の旅舎を訪ねて来た。
「昨夜は、お疲れでしたろう。ろくなおもてなしもなくて」
「いや、それどころではない。あんな御饗宴には、都でも滅多に出会えません」
「やがて、伜の為憲と、そして昨夜御一しょになった貞盛も、ちょっと、御挨拶に伺いたいとか申していました。何かと、旅のお支度に、お心もそぞろな中でございましょうが」
雑談しているうちに、その為憲と貞盛が、連れ立って、またここへ来た。――この二人も、餞別の品々を、定遠の前に供えて、
「何かまだ、お名残が尽きぬ気がしますな。今夜はひとつ、お気軽に、私の家へ遊びに来てください」
と、為憲がいったりした。
「伺いましょう。旅の支度さえ調えば、もう用のない体ですから。……もちろん維茂どのや貞盛どのも御一しょでしょうな」
「出かけます」と、貞盛は答えて――「自分の邸も、以前のようなら、ぜひ一夜は泊っていただきたいのですが」と、いった。
「そうそう。お父上の大掾国香どのも亡くなられ、以後の御災難で、お館なども焼かれておしまいになったとか」
「さだめし、醜い噂ばかりがお耳にはいっている事でしょう。いやお恥かしい次第です」
「して、お住居は近頃?」
「
貞盛の自嘲していう顔には、複雑な影があった。それに昨夜から同席して打ち解けたふうは示していても、自分の住所にしろ、近頃の進退についても、どこか話に明瞭を欠いていた。秘密をもつ人間のような、誰にでも細心な気をつかって物をいっているふうが見える。
しかし、弾正忠定遠が、何もそんな観察をくだしていたわけではない。彼も、貞盛と将門との険悪な葛藤や、またこの地方を含めた坂東一帯の積年にわたる闘争なども、中央を立つときから耳にしていた。けれど、それに触れたら厄介な話になるのをよく
ところが、その日。
為憲や貞盛たちも、まだこの旅舎で定遠と話しこんでいる間に、国庁の早馬が、長官たる維茂を、ここまで、探し当てて来て、
「兵変です。隣国の侵入です。下総の将門勢が、大挙して、常陸の国境を踏み越えて来たとの報らせがありました」
と、二騎三騎と、相次いで、急に維茂に訴えて来た。
――まあ、一献、と旅舎の者に命じて、酒肴の支度をさせ、定遠がしきりに、三名をひき止めていた折であったが、途端に、そんな主客のくつろぎは消し飛ばされてしまった。
「なに、将門の軍勢だと」
と、まず貞盛が蒼白な顔をして、浮き腰を立てたし、為憲は、予期するところもあったので、
「来たな! 機先を制して」
と、
けれど、誰よりも、責任上、仰天したのは、維茂である。維茂は、息子の為憲と貞盛とが、ここ数ヵ月にわたって、何か、将門を
「ど、どういう事なのだ。これは一体」
貞盛を見、息子の顔を見、彼はその狼狽ぶりを隠すこともなく狼狽して、二人に正した。
「何か、間違いではないのか。……あの一徹者の将門を相手に、事を起したら、必ずやまた、かの国香や水守の良正や羽鳥の良兼と同じ轍を踏むだろう。――構えて相手にするなと、おまえ達にも固くいっておいた」
貞盛は、眼をそらした。眉間に、彼らしい神経を青白く漂わせて、廂ごしに、十一月の空を見ていた。
維茂と為憲との父子の間に、ちょっと感情のもつれが露骨になりかけた。父の文治主義と息子の覇力主義との食いちがいが、はしなくも表面に出たのである。
「まあ、御父子でありながらの議論はおやめなさい。そんな場合ではないでしょう」
定遠がいったのはもっともである。たしかにそんな事態ではない。そして定遠もまた、急に座を立っていい出した。
「明朝と思っていたが、私もこれから直ちに宿を立ちます。――貞盛どのには、都でお会いする折もあろうが、御父子には、いつまたお会い出来るやら分らぬ。……どうぞ御機嫌よう。……私に構わず、どうか国庁の方へ、すぐお駈けつけ下さい。一刻も早く、どうぞ」
半日のまに、国庁は、城塞のように固められた。
常陸の
一時、騒然と
「いざ来たれ。ひと泡吹かしてくれん」
と、弓を張り、楯を並べて、待ち構えた。
一軍を柵から遠く出して、始終、物見を放ったり、馬の脚を馴らしたり、闘志満々たる意気を示していたのは、いうまでもなく為憲で、
「あわれ将門も、ここへ迫らば網の魚だ。この為憲の下に、常陸には常備の強兵三千が、いつでも事に備えて錬られているのを彼は知らぬとみえる」
と、あたりの味方へ、豪語を払っていた。
しかし、諜報によると、将門の軍勢は、およそ四、五里も先に兵馬を止めて、どうやらそれ以上には前進して来るもようなく、夜営の準備までしているという。
「兵数は、どれ程だな」
と、為憲は物見へたずねた。
「ざっと、千騎程かと見えます」
「なに、千人。なんの事だ」
と、為憲は大いに笑った。他国へ侵攻するには、少なくもその国の常備以上な兵力を以て向うのが常識だ。こけ脅しな――と若い為憲は、それだけで、もう将門の力を、充分に
以後の物見は、夕方に迫っても、何の変化も告げて来ない。
彼は、兵を分けて、要地要地に
すると国庁の広場に、
「やあ、弾正忠殿。どうなすったのです」
「お。為憲どのか。合戦のもようは、どうなのです」
「合戦。そんなものは、どこにも起ってはおりませぬよ。それよりも、御出発はどうなされたので」
「いや、かくの如く、荷駄供人も旅装をさせて、宿は立っては来たのですが、途中、戦に巻き込まれては大変だと思うし、維茂どのも貞盛どのも、そこは保証の限りでない、危険は充分に考えられると、しきりにお引き留め下さるのでな」
「ははは。初めの驚きが大きかったので、父もちと狼狽しているのでしょう」
「街道は無事に行けましょうか」
「まだ一本の矢も射てはいません。明日の事は知れぬが、今宵は平穏です。もしお立ちを急ぐお心ならば、途中、安全な所まで、部下の兵を守りにつけて送らせましょう」
為憲にいわれてから、急に定遠は腹を極めた。両軍の矢交ぜを見ないうちに、何しろ、常陸を離れてしまうに限ると、気が
貞盛は、昼間から国庁の内にあって、維茂や府官の中に立ち交じり、いわゆる
「弾正忠様には、やはり夜にかけても今のうちに、御出発になりたいと仰せられますが」
府官の一人が、維茂に知らせて来た。
貞盛も、聞いて、
「それは、物騒だが?」
と、ひき止めるつもりで、慌てて庁の庭へ出て来てみると、定遠はもう馬に乗って、従者に口輪を取らせていた。
「大丈夫ですよ。御心配はありません……」
そう告げたのは、出発して行く当人ではなく、側に見ていた為憲である。
「私の部下にいいつけて、途中まで、送らせますから」――と、父や貞盛の杞憂を笑っていうのだった。
ぜひなく、二人も、
「では、お気をつけて」
と、定遠の一行を、庁の門外まで、見送った。
すると、その夜も明けないうちに、弾正忠定遠とその随員を送って行った国庁の兵が、逃げ帰って来て、
「一大事です。途中、将門の兵に取囲まれ有無もいわせず、弾正忠様には、捕虜として、敵の手に奪われてしまいました。――その他の随員も、みな縄目をうけて、将門の陣中へ引っ立てられた様子に見えます」
と、意気地のない報告であった。
しかも、二十名も付けてやった兵のうち、帰って来たのは四、五名にすぎない。
「すわ、将門が挑戦して来る前ぶれとみえるぞ」
為憲は、暁のうちに、陣頭に立ち、国府の内も、色めき立っていた。
――と、その朝。将門方から、騎馬甲冑の一団が、進んで来て、
「これは、下総の平将門が使者です。常陸の国司維茂どのに物申す事のあって推参して候。――維茂どのの営へ導き給え」
と、為憲の陣前に向い、まんまると寄り合いながら、大声にいっていた。
常陸側の首脳部と、将門方の軍使とが、国庁の広庭で会見したのは、その日の昼で、冬の冴えきった空に、陽がらんとして
「せっかくのお申し入れだが、その藤原玄明という男は、当庁にあって、府官にあるまじき悪行を働き、ついに身の置き所もなくて、他国へ
維茂の返答である。
その返答でも分るように、将門方の軍使は、将門の扱いと称して、玄明の無罪と、彼への追捕を止めることを、常陸側へ、求めたのだった。
「
こういったのは、将門方を代表して、ここに使いとして来た御厨三郎将頼で、
「……さて、困ったのう」
と、副使格で付いてきた藤原不死人の横顔を見て呟いた。
将頼は、初めから、この出兵に、反対だった。それに、藤原玄明の人物も分っていたし、その罪科も知っている。どう聞いても、先方のいい分の方が正しく思えて仕方がない。
だが、副使役を買って将頼について来た不死人はまた違う。穏和な将頼とは、人間も違うし、その目的も肚も違っている。
彼はさっきから
「や、お待ち下さい。お言葉ですが」
と、このとき初めて口を開いた。
「なるほど、仰せの如く、玄明には、多少の罪もあるでしょう。たとえば、国外へ逃亡するさい、行方郡、河内郡などの官倉の物を持って逃げたとか、また、在職中にも、貢税の者の頭を
為憲は、ぴりっと、眉をうごかした。
貞盛は、ここに姿を見せていない。――もし、為憲が発言してはと、問題のもつれを怖れて、維茂はあわてて答えた。
「お訊ねは、少々、お
「何を……いや何で門違いといわれるか」
「ここは常陸の国ですぞ。下総の領下ではない。他国の内政に、いらざる御懸念は止めて欲しい」
「なるほど。そう出る事であろうとは心得ていた。しかし、常陸の国庁に勤めていた府官が、主人相馬殿(将門)にすがって、豊田の館に泣きこんで来ていることを御存知か。――国司たる御辺の不始末が、隣国へまで、迷惑をかけたものとは思われぬのか」
「これは思いもよらぬいい懸りだ」と、維茂は、顔じゅうに不快な
「窮鳥
「ならば、それでもよい。しかし、そんな小我の情を以て、玄明を
「いや、その内政が
「当国として、詫びる筋はないゆえ詫びぬまでの事、べつに傲慢なお答えはしておらぬ」
「何せい、そんな一片の挨拶で、追い返されたなどといっては帰れん。玄明の罪を解いて、謝意を表すか、あるいは、一戦も辞さんと仰せられるか。明白な御返辞を聞こう」
「貴公の態度こそ、まるで喧嘩腰だ。よう思うてもみられい。明らかな罪人を罪なしとして免したり、その上、国司が膝を曲げて詫びるなどという馬鹿げた事がどうして出来ますか。そんな事をしたら藤原維茂は、府官の長として、明日から庁務を執ることはできません。――何と
「なに。威嚇だと。いつ威嚇したか。――御辺の部下のために、わざわざ、穏便な話し合いをつけに来たものを、威嚇とは、何事だ。おいッ、何とかいえ、維茂どの」
不死人は、だんだんに声を荒らげた。努めて、相手の激発を誘おうと仕掛けてゆく。
しかし、さすがに、国司の維茂は、その手には乗って来ない。怒りの代りに、にゅっと、無理な笑いをたたえて見せる。――老練だな、と不死人は見たので、ついに暴言を承知で「……おいッ、何とかいえ」と、
果たせるかな、為憲はすぐそれに引っ懸って来た。維茂が何かいうまもあらず、火を呼んだ油壺のように、くわっと口を開いた。
「だまれっ。先刻からいわしておけば、好き勝手な小理屈をひねくり廻す奴めが。――わずか一小吏の扱い事に、仰山な兵馬を進め、しかも、挨拶もなく常陸の国土へ踏みこんで来るとは何事だ。それでも、威嚇でないといえるか」
「お。いわれたな。……いわれたのは御子息為憲どのか」不死人は、その不気味なほど動じない面構えに、ニコと冷笑をうかべた。彼にとって、この血気らしい息子は、好餌に見えたにちがいない。どうしても、ここで事件を紛糾させ、ここに戦端を切らして、坂東一面を燎原の火に染め、遠く、南の海に拠って、大挙の機を待ちかまえている藤原純友たち一味に、答えてやらなければならない時が来ていた。
で、不死人は、舌なめずりして、為憲の憤怒を、
「やあ、為憲どの。父上とはちがい、あんたなら
「なに、常陸は物騒だと」
「白ばッくれては困る。お若いくせに」
「事々にいい懸りをつけるな。かつて常陸から下総へ理不尽な兵など一兵も入れた事はないぞ」
「だが、一挙にそれをやろうと、密々、
「ば、ばかな事を。何を証拠に」
「証拠呼ばわりなどはおかしい。聞きたくば、ここへ
「えっ。……貞盛などが」
「さ、連れていらっしゃいっ。どうだ。貞盛がこの国庁に折々姿を現わし、しかも数日前からいることも、こっちでは既に偵知している」
「問うに落ちず語るに落つ。汝らこそ、その通り、常に密偵を使って、犬の如く、他領を探っているのであろう」
「探っておらんとはいうまい。それも自領の安全を護るためだ。何となれば、貞盛こそは、年来、相馬殿を亡くさんと、都と
「…………」
「しかも、貞盛にそそのかされて、御辺父子も、兵力を増大にし、弓馬の猛訓練をさせて、虎視
「…………」
「なお、武器を蓄え、兵糧を積み、庁の政務などは、怠っても、軍備を第一に努めているとは、玄明の告げ口に聞くまでもなく、われらの諜報には確かめられている。……そのため、貢税の時務を滞り、領民も
「何を申す。その定遠どのは、汝らの兵が、捕虜として引っ立てたのではないか。そのような暴力と脅迫を以ていわした言葉が、何の証拠になろう」
「あはははは。こうすべて内部が分ってしまっては、さすが維茂どのも、二の句があるまい」
「分った。……すべては、喧嘩を売るために、そして常陸へ兵を入れる口実を作るために、よくよく企んで来た事だの。そうだ、売る喧嘩なら買ってやる。ただし、口幅ったい名分をいうのはよせ。汝らは明らかに暴賊だ」
「暴賊と申したな」
「いった。土の暴賊だ。しかし、われにも備えはある。常陸の寸土も、汝らに渡すことではない」
「よしっ。話は終った」
不死人は、そういって立ち上がった。そしてさっきからしきりに何かいおうとしている将頼には、ついに何もいわせず仕舞いに帰ってしまった。
右馬允貞盛は、国庁の内から、庭上における下総と常陸側の談判を、息をこらして覗いていた。
「……はてな。甲冑は着ているが、あのよくしゃべっておる将頼の側の男は、たしかにどこか見覚えのある顔だが」
彼は、それのみに、気を奪われていた。
「そうだ。――
そう思い出したせつな、彼は、身の毛がよだつような気がした。
ひと頃、都では、群盗の首領として、
何という不可解な、そして変現に巧みな男だろう。天地を
「恐るべき奴が将門に味方している……」
やがて、相互のいい分は、決裂したとみえ、維茂父子は、
「帰りましたな。将門の使者共は」
「じつに乱暴ないいぐさだ。談合でも何でもない」
維茂は、憤然と呟き、為憲は、充血した眼で、貞盛を見ながら、強いて苦笑して告げた。
「矢は放たれたも同じだ。一戦あるのみですよ」
「が、為憲どの。大丈夫か」
「その為に、ここ数ヵ月、兵馬も鍛えてある。奴らに
「きょうの使者のうちで、ひとりでしゃべっていた男があったでしょう。あれに油断はなりませんぞ」
「藤原不死人とか、名乗っていたが、あれが何だというのです」
「南海の乱賊、藤原純友とも交わっている人物です。一時は、検非違使の手に捕われて、刑部省の獄中で死んだはずだが、それがまだ東国へ来て生きている……」
「純友の……?」と、維茂父子もその噂は聞いていないでもないが、南海の賊だの、純友といわれても、それは千里も先の別世界なものとしか心に響いて来なかった。
「そうだ、自分は……」と、貞盛は俄にその冷たい眉宇に意識的な意気を描いて、「――これから山越えして、
半ばは、独り語のようにいい、庁の廊を急ぎ足に出て行った。
従来、どんなばあいでも、決して、戦場には立たないで来た貞盛である。この日も、その要心が働いたのであろうが、彼としては、やや姿を消すのに、時を失したきらいがないでもない。
なぜならば、時すでに、国庁の内は、すわ戦ぞ、将門が
貞盛は、従者の控えへ駈けて行ったが、そこには牛浜忠太も他の郎党の影も見えない。
庁の四門を見歩いても、
おびただしい兵馬や町の庶民が逃げ廻る間を、彼は心もそらに、仮のわが家まで帰ってみた。そしてしばらく休んでいると、忠太と郎党たちとは、かえって彼の姿が見えないのを憂えて、ここへ探しに帰って来た。
「旅だ、旅だ。山越えして、下野の田沼へ行くぞ。大急ぎで、旅装をせい」
するともう町の一角には、将門の兵が乱入していた。
寡兵を以て、常陸の大軍へ当って来たので、その攻勢には、堤を切って落ちて来た濁流のような勢いがある。
貞盛は、矢の中を、行き迷い、彼方此方と、西の山道へ出る安全な落ち口をさがし歩いた。
そのうちに、民家の一部から、黒煙が揚がった。煙の下には必ず
激戦は半日以上もつづき、やがて暮色も迫る頃だった。どうしたのか、まだ守りは崩れず、常陸勢の鉄兵の中に、安泰と見えていた国庁の内部から、味方の失火か、めらめらと、真っ赤な
それは見るまに、官衙の
「――裏切だ。味方のうちから、寝返った者があるぞ」
火焔に染まった赤い大地を、こう呼ばわり呼ばわり、
国庁の兵火を見捨てて、山づたいに、常陸から下野へ逃げ
押領使藤原秀郷は、
「――おう。来たか」
と、予期していたもののように頷いた。
だが、すぐに会おうとはいわなかった。
右手の中指を、頬のクボに当てて考え込む
「いるといったのか」
主人の意外な受け方に、取次の家人は、まごついた。
「は。つい、御在邸と申してしまいましたが」
「そうか。……ならば」と、秀郷はここでまた、老獪そうな
「風邪で
「心得ました。お
家人は引き退がった。
翌日、秀郷は、饗応に当った家臣の一名を呼んで、そっと様子を訊ねた。
「どうした。客の貞盛は……」
「手厚いおもてなしに、たいへん恐縮しておられまする」
「立帰るような
「何か、容易ならぬ事で、ぜひ、お
「そうだろう。……ま、もう二、三日は待たせておくもよい。秀郷に会わずに帰る筈はない」
彼は、何もかも見抜いていた。貞盛の来意ばかりではない。およそ坂東平野の出来事なら、知らない事はないほどである。わけても、
そういう秀郷の眼から見ると、いかに
ましてや今は、将門に追われて、空しく都にも帰れず、常陸にも止まれず、いわば五尺の身を容れる所もない窮鳥であるのだ。――秀郷ほどな男が、これに対して、五分と五分の取引を考えているはずはない。
数日の余も、貞盛を
貞盛は、焦躁から解かれただけでも、ほっとした顔つきだった。当然、主客の応対は、あべこべとなる。つまり秀郷は尊大に構え、貞盛はそれに
「わしに兵力を貸してくれといわれるのか」
「ぜひ、御助勢を願いたいのです」
「したが、あんたは中央の命を持ち廻っておられるのじゃろ。官符を
「仰せまでもなく、都へは、幾たびも早馬をのぼせております。……が、いつの場合でも、こんなとき、征夷大将軍が任命されて、兵が下って来るまでには、数ヵ月を要しまするので」
「はははは。堂上の公卿集議と来ては、
「いや、このたびだけは朝廷でも、天下の大事と、いたく驚きもし、諸令を急いでもおるのです。しかし、何せい時を同じゅうして、またぞろ、伊予の純友が、内海に乱を起したため、都は、海陸からの腹背の恐れに会い、まったく、狼狽の状にあるものらしく思われます――」と、貞盛は、自分の苦境はいわず、ただ中央のそればかりを説いて、「――すでに、御当家へも、いくたびとなく、官符の御催促は来ているはずですが、正義のため、また朝廷の御為に、
と、
「うム……。むむ……。なるほど」
秀郷は、いちいち頷いてみせる。肚のうちでは、貞盛の弁舌ぶりを、よくしゃべる男だわいと、べつな意味していた。
「だがのう、右馬殿(貞盛のこと)――年を
「……が、乱賊将門の悪業ぶりは、お聞き及びでもございましょうに」
「知っている。……しかし、なにも将門だけが悪人でもあるまい。あんたの前だが、常陸の大掾国香どのといい、羽鳥の良兼、水守の良正など、どれもこれも相当なお人じゃよ」
「それは……」貞盛は、赤面した。貞盛自身にも、後ろめたいものが多分にある。秀郷の細い眼に、眼皺の中から、それを見すかされているような気がするのだった。
「何分、多年にわたるもつれなので、お聞き苦しい事も数々お耳に入っておりましょうが――詮ずるところ、近年、将門は思い上がって、近隣の領土を奪い、また、不平の
「……かも、知れんなあ」
「さすれば、
「わしが起つのは当然だといわるるのか」
「ま。理屈になっては、失礼に存じますが」
「いや、それは、ほんとじゃよ。……だが、朝廷にせよ、太政大臣家にせよ、こんな騒ぎになると、すぐ忠誠をもち出すが、一体、わしの官位はどうだ。何十年、一介の押領使のままで、捨ておかれて来たことか。年々、
「いや、ごもっともです。しかし、もし将門平定の後は、必ず、こんどこそは、中央でも、すておかれますまい」
「それがさ……。勲功勲功と、匂わせておきながら、血をながして、さて、乱が
「貞盛が、こう罷り出て、御出馬を仰ぐからには、誓って、左様なことはないように致しまする」
「ふム……。あんたが、誓うというのか」
「誓紙をさしあげても」
「おう、誓紙とあれば、受けようか。――そして、秀郷を
実際に貞盛が誓紙を入れたかどうかは不明である。しかし、それ程な礼をとって懇請したことには違いない。秀郷は、相手にさんざん気を揉ませておいてから、やっと「うん……」と承諾したのだった。
永年の間、下野一帯の治安、警察、徴税の監察などに当って、秀郷一族がこの地方に
四千騎の兵が、田沼に糾合され、武庫を開いて、
けれど、その行動はまだ極秘のうちに行われていた。あくまで用意ぶかい秀郷は、なお田原の居館を出ず、ただ密偵を派して、将門の以後の行動をさぐり、周到な情勢判断だけを握って、ひそと、出撃の機会をうかがっていた。
将門は
彼の部下は、声をからして、
「捷つには捷ったが、これはちとやり過ぎたな」
将門がそう気づいた時は、すでに狂兵の乱舞も終っていた後である。
たれが火を放ったのか、将門さえ知らないまに、常陸の国庁は、焼け落ちていた。そのほかの官衙官倉と、あとかたすらない。
敵の死屍は、累々と、辻にみだれ、町を舐めつくした炎は、遠い野を焼いて行き、土民の小屋や寺や森までが煙を吐いている。
「何という
「あははは、いうもおろかよ。今や、わが相馬殿の御威勢の前に、立ち得る敵があるものか」
将門の耳に、そんな声高な話が、ふと聞えて来た。
彼が、振り向いてみると、相馬軍の帷幕の将星として、自ら任じ合っている興世王や不死人や玄明などが、国庁の焼け跡に、早くも幕を張って、祝いの酒瓶をあけ、各

将門もいまそこで、一杯、勝祝いを飲み干して来たところだが、余りに、荒涼たる戦火の焼野原に対して、何か、自分のした事ではないような気もちにつつまれながら、茫然と、
(……しまった。何も、これ程までに、やる事もなかったのに)
彼の心は、呟いていた。
明らかな侵略行為だ、官衙や官倉の焼打ちは、官への叛乱である。乱賊といわれても弁解の余地はない……。
「殿。将平様の兵が、生捕った敵を、曳きつれて来ました。すぐ首を打って、領民の見える所に
興世王が勢い込んで、彼の前に告げた。
「待て待て。――そう、やたらに、首ばかり斬りたがるな。どんな捕虜か、おれが見る」
将門は、
二人の縄付の敵が、悄然と、地上にうなだれていた。
将門は、弟の将頼や将平や、また不死人、玄明などの幕僚をふり
「この敵は、誰だ。――敵の何者だ」
と、たずねた。
「ひとりは、都の使者、藤原定遠です。そして、もう一名は、常陸介維茂にございまする」
と、誰かが答えた。
すると、将門は、急にいやな顔をして、まるで唾を吐くようにいった。
「なんだ! 為憲でもなければ、貞盛でもないのか。おれが、斬らんと欲しているのは、第一に右馬允貞盛、次に、為憲なのだ。こんな者に、用はない。縄を解いて、追ッ払え」
「えっ。
「貞盛こそは、八ツ裂きにしてもあき足らぬが、都の巡察使や、維茂ごとき老いぼれを斬ったところで、何になろう」
将門は、いよいよ憂鬱な顔をした。そして、
「豊田へ帰ろう」
と、俄に、引揚げの命を出した。
このとき、退軍のさいにも、不死人の手下や、興世王の部下は、さんざんに常陸領を掠奪して行った。掠奪隊の指揮には、いつも玄明があたっていた。
将門は、そういう末端の行動には気もつかずに、豊田へ帰った。領下の民衆は、彼を凱旋の将軍として迎えた。下総四郡は、万歳の声で沸き返り、門には、祝賀の車馬が、毎日、市をなす有様だった。
帰来、将門は飲んでばかりいた。
彼のそばには、いつも草笛を始め、江口の
そうした乱酔の日が続くうちに、十二月となった。しかもまだ、毎日の酒はつづき、門には、
「相馬の大殿」
と、呼び奉っていたりした。
醒めれば、
「うるさい」と、
「……桔梗よ。……桔梗は……桔梗はいないか」
と、まなじりを濡らして呼んだりするのであった。
そうした
例のごとく、大ざかもりとなって、将門がそろそろ
「何と、わが大殿は、情にもろく、そして、女子のように、お気が小さい事よ」
と、興世王が、やや意識的に、将門へ
将門は、果たして、かっと怒った。
「おい、興世。どうして、おれが女みたいに、気が小さいというか」
「でも、いつまでも、桔梗さまの愚痴を仰っしゃいますから」
「笑え。笑わば笑え。おれは、忘れ難いのだ。……愛しい桔梗を。……そればかりか、あのような酷い目に遭わせて死なせたと思うと、泣かずにいられない」
「天下には、桔梗さまにも勝る美女は、星のごとくおりますものを」
「天上の星を何かせん。……おれはただ一輪の桔梗が恋しい。だが、踏みにじられてしまった」
「敢ない事でございます。けれど、死んだお方が甦るはずもありません。お心をふるい直して、どうか、桔梗さまに勝るお方を、天下の野辺におさがし下さい」
「それほどな
「あははは。おりますとも」
それは、満座の笑い声だった。将門は、はっと、われに返ったような顔をした。まが悪そうに、大杯で顔を隠した。
「――大殿」と、興世は、膝をすすめた。同時に、不死人や玄明も、左右から、つめよるように、将門に迫った。
「なお、申し上げたい儀があります」
「なんだ」
「すでに、わがお館の兵は、国庁を焼き、官倉を破り、多くの官人を撃ちました」
「たれが、あのような、乱暴をやれと、命じたか」
「騎虎の勢いというものです。誰の命でもありません。……が、すでに、常陸を侵した以上、一国を奪るも、乱賊の汚名をうけ、八州を討つも、公辺の問責をうくることは、同じものです」
「だから、どうだというのだ」
「このままでは、やがて、中央から必然に下るであろう問罪の軍を、神妙に待っているようなものではございませんか」
「おれに縄を打つなら、打たれて、都へ曳かれて行こう。そして、太政官の諸公卿の前で、ふたたび、自分のやましくない肚をぶちまけて見せるまでの事よ」
「滅相もない!」
三人は、異口同音に、反対した。
藤原不死人は、前々から、まず興世王を手なずけ、玄明や、そのほか、目ぼしい諸将を、
要するに、不死人の使命は、将門を立てて、天下の大乱に、突入させることにある。
その混乱に乗じて、彼がつねに気脈を通じている藤原純友が、海上から
もちろん、彼らは、累代の摂関家と、一連の朝廷貴族に、うらみはあるが、それを以て、朝廷をどうしようという考えはない。
ところが、将門には、そんな気もちは、毛頭もない。彼はただ郷土の平和の中で、凡々たる幸福の子でありたいだけなのである。しかし、事々に、その小なる願いも妨げられて来たのだった。――事ここに到ってもまだ彼は、恋々として、桔梗を想い、酒に悲しみ、なろう事なら、このまま、酔い死なんとさえしているふうに見える。
――かくては、と三人は眼まぜを交わして、(一国を奪るも、八州を奪るも、乱を問わるる公責は同じですぞ)
という前提を以て、将門に、こうすすめたのである。
「このさい、唯一の策は、権力を拡大することです。たとえ問罪の軍が、中央から下って来ても、われに、十万の兵も恐れぬ強大な結束があれば、どうする事もできません。かえって、公卿共の方から妥協してくることでしょう。力です、武力です。――一刻も早く、坂東八国を掌管して、善政を布き、諸民を手なずけてしまうに限ります」
「そうか。……いや、おれも、死を待っているわけにはゆかぬ」
将門は、ついに、毒杯を
ふたたび、馬上の人となって、十二月十一日、豊田の
――各
、龍ノ如キ馬ニ騎 リ、士卒雲ノ如ク、コレニ従フ。
とは「将門記」の描写である。大陸的な誇張であることはいうまでもない。しかし、この頃の相馬殿の勢威は、そんな風にいっても、おかしくない程、いわば
坂東占領の挙は、将門としては、窮余の一策であり、常陸侵入の暴挙を、それで埋め合わせようとしたものだった。けれど、死中に活路を得ようとした彼の意図は、客観的には、
(いよいよ、将門大乱を謀る)
という大旋風の序曲となってしまったことはいうまでもない。
下野の国府へ、軍勢が着くと、一戦を交じえる者もなく、勅司藤原
それを見ても、相馬軍の勢威と、そして、将門のうごきが、いかに四隣を恐怖させたものかわかる。
その月十五日には、もう彼の大兵は、上野へ侵攻していた。
ここでも、ほとんど、抵抗はなかった。
介ノ藤原
行くところ、まるで草木もなびく勢いである。そして国司は国庁の印を捧げて、彼の軍馬を迎えるのだ。その領民はいうまでもない。
彼は、だんだん八州の大将軍のような気になった。これは悪い気もちではない。しかも彼は、乱暴を働かない。一時は、逃げ惑った領民も、彼を礼拝した。
将門は、また、国司たちの都へ帰りたいと乞う者には、兵を付けて、その家族を守らせ、信濃路の境まで、いちいちこれを送らせた程である。
武蔵、相模の国司などは、
“――コノ風聞ニ依ツテ、諸国ノ長官、魚ノ如ク飛ビ、鳥ノ如ク驚キ、将門ノ軍到ラザルニ、早クモ皆、上洛シ去ル”
と古記に見えるとおり、ほとんど、八州の官衙は、空き家になってしまったらしい。まさに、無人の境を行くようなものだったろう。こうして、坂東八国の掌握は、難なく、その年のうちに成ってしまった。
将門の部下は、威風堂々と、豊田に帰った。
そして、その凱旋と、八国掌管の祝典を、
この日に、彼はまた、はからずも大酔のあとで、生涯の大失態を演じてしまった。
失態といえば、弱冠の帰郷以来、将門の生活は、ほとんど、次から次へ、失態の連続ばかりやって来たようなものだが、この日の失態だけは、取返しのつかないものとなった。終生、いや千年の後までも、そのために、彼としては
なぜならば、彼は、肚ぐろい一分子と、酔狂な周囲の者から、無理に、天皇にされてしまったからである。
大宝八幡の地域とか、宮前町の戸数や概況が、どんな程度の土地であったかは、今では、想像に拠るほかはない。
地理的にいえば。
真壁、結城、新治と、三郡の境にあたっている。現今の小貝川をへだてて、筑波山麓の石田ノ庄(以前、大掾国香の邸宅地)があり、またすこし東南の街道には、大串(以前、源
こう見てくると、この辺が、数郡の中心をなす国庁の所在地であったことが窺われる。また、かつては源護一族や、大掾国香のような豪族を始め、多くの府官の邸宅、屯倉、民家なども軒を並べていたにちがいない。そうした大部落と大部落とが、数里のあいだに接し合っていた。そして
こういう郷里に、国分寺時代の創建にかかる大宝八幡があるのは不自然ではない。境内も広かったであろう。大宝沼の水が、社前の木立の間から眺められ、楼門の外には、門前町の賑わいが見られ、いずこの
ここへ。
しかも、時は、正月でもあったし、大宝八幡を中心として、おそらく
大串や石田ノ庄の豪家の邸は、これまでの戦いで、ほとんど、
「ひとつ、常総の諸氏が、あっと驚くように、盛大にやろうではないか」
と、彼らしい豪放さで、左右の者に計った。そして、彼の弟たちを始め、帷幕の興世王、玄明、不死人などの輩も、
「――新たに
と、各

準備には、おそらく、十数日を要したにちがいない。何しろ、凱旋早々、軍旅をここに
で。その日は、天慶三年の一月も、
とにかく、布令は、新領下の八ヵ国に、早馬を継いで、公達された。
伝え聞いた諸郡の人々は、
「相馬殿の御威勢を以て、どんな大祭典をやるのか」
と、ここ大宝郷へ、
大宝八幡の祭典は、三日にわたって執行された。第一日は、東八ヵ国掌管の戦捷を告げて、楽土安民を祈願し、第二日目には、新たに、各州の庁に任用された百官の礼拝と、神前の宣誓式があり、さて、三日目には、
「軍功を賞し、祝酒を給わるであろう。全軍の将兵も、弓を袋に収め、このよき新春を、
と、あって、早朝に、恩賞の沙汰が発表され、社前の満庭を、大宴会場として、
神楽は、夜神楽、朝神楽と、三日間というもの、たえまなく奏されていたが、特に、大饗楽となると、土俗的な

その将門は、というと。
拝殿前の広庭に、臨時に出来た大桟敷が見える。そこには、彼の一族や諸将の顔ぶれはもちろん、新任の府官や
そして、彼自身は、将台と
その上に、彼のそばには、彼の侍妾かと思われる十数名の美姫が
「なんと、これほどな大典と盛宴は、大宝八幡はもとより、この土地開けて以来、初めてのことだろう。――いや、こう上から下まで、一堂に会したことも、諸郡の百姓が、群集した例も、かつて、坂東八ヵ国になかったことだ。めでたいではないか。じつにめでたい春だ」
興世王は、もう
すると、藤原玄明だの、藤原不死人だの、将門の股肱を以て任じている一連の首脳部たちも、
「めでたい。万歳」
と、何度も、杯を高く上げたりして、
「しかし、ほんとの事をいうと、これでもまだ、何だか、祝い足らんな。もっと、何か、わんわと、沸かしてもよかった」
などと、呟いた。
将頼や、将平、将文なども側にいて、
「それは、奉行役の諸公にすれば、いくら盛大に運んでも、多少、不足はあろうが、ま、これほどにゆけば」
「ところが、ちと、淋しいことがあるので」
玄明が、将門の弟たちに対して、なおいった。
「――というのは、百姓万民、また神前の式事、昼夜の神楽なども、あのとおり賑々と、
「あれは、兄のもちまえですよ」
と、将頼は、あっさりいった。
「――酔わねば、どこか、うつろな影があるし、酔えば酔うで、淋しげなお顔の
「ですから、われわれ共が談合して、豊田のお館から、草笛やらそのほか、お気に入りの女性も招いておき、またなお、お目にとまる美女もあらばと思って――八州の内から選りすぐった美姫も何人か、お側に侍らせておきましたのに」
「そのためでしたか。あんなに、女性がたくさん来ていたのは」と、将頼は、兄の将門の座を振り仰いで、「折角の配慮だったが、しかしそれは無駄であろう。兄上にとっては返らぬ愚痴であっても、悟りの悪い未練と笑われても、桔梗どのでなければ、いけないのだ。たとえ、桔梗どのより美しい女性でも、桔梗どのでなくては駄目なのだ」
「そうでしょうか。はて、そんな男というものがあるだろうか」
「あっても、なくても、兄上は、そういうお人だ。だから、お酔いになると、なお、心の寂しみが、
すると、さっきから、黙々と、杯をかさねていた藤原不死人が、
「やあ、はなしが、ちと理になった。第一、この辺の座がいけない。われらからして、浮かねばいかん。御舎弟方も、まじまじと、
と、妓たちをさし招いて、杯を、改めさせた。
ここばかりではない。歓声酔語は、あちこちに沸騰している。酒気は、満堂に
「たれか舞え、舞わぬか、陽気に」
と、わめき出した。
こんなに大陽気なのに、将門はなお、陽気に陽気にと、不足らしくいっていた。肌の
忘れかねる桔梗の面影やら、死んだ愛児のことばかりでなく、もうひとつ、彼の心には、孤独な
それは、およそ彼の表面の言行とは、正反対な、小心さで、人知れず、くよくよしているものだった。――後悔、反省、中央への憂い、弟共への未来の心配など、すべて、愚痴といってよい種類の凡情と、愚直ともいえるほどな、持ちまえの正直さから来るものだった。――それをかりに彼の良心とよぶならば、彼の良心は、こんな時、酒漬けにされる
それゆえに彼は、十一月の末以来、常陸へ攻め入り、官衙穀倉を焼き払い、貞盛、為憲を追い、転じて、破竹の勢いで、上野、下野、相模、武蔵、伊豆、上総と、いたる所の国庁を占領し、降人を容れ、軍の威容を、数十倍にもして、ここに凱旋しながらも――またこの大祝典を挙行しながらも――それを悔いる気もちのほうがしきりであった。戦っては悔い、勝っては悔い、八ヵ国の官民に、万歳を以て迎えられるや、いよいよ、人知れず、後悔の
将門は楯の両面を持っていた。一面には暴兵の首将として、八州を席巻しながら、また、一面のそうした小心さにはのべつ破れていた。そしてその正直な自己をなぐさめるべく、年の暮、この大宝郷に滞陣すると共に、一夜、大宝八幡の神殿に、ひとり燭をかかげ、
それは、真実の身分を披瀝して、中央に訴えんとする上告文であった。
むかし、十六歳の弱冠から、
それは、かなり長文ではあり、かつ、古文の
将門、謹んで言 す。
閣下の貴誨 を蒙 るなく、星霜多く改まる。常に渇望の至り、造次 も忘れず、伏して、高察を給へ。
先年、源護等が、愁訴によりて召さる。将門、官府を恐るゝがゆゑに、急に上京して、天裁を仰ぎ、事実、明白となつて、帰国をゆるされ、旧堵 に帰る。
すでに、旅憊 いまだ止まざるに、叔父良兼、みだりに将門を攻め襲ふ。われ又、やむをえず、防禦す。
良兼が為に、人を損じ、物を掠 めとられたる次第は、つぶさに、下総の国庁より、さきに、解文 を註して、言上せり。朝家においても、隣国合勢して、良兼等を追捕すべきの官符を下さる。
然 るに又、翻 へつて、将門を罪に召すの使 を給ふ。心、甚 だ安からず。誠に、鬱悒 の至りなり。
さらに、咄々 怪事にこそ。平貞盛が、将門を召すの官符を奉じて、常陸国へ至れるをや。
右、貞盛はかつて追捕を脱し、跼蹐 して、上京せる者なり。官府において、その事由を、糺 せらるべきに、何ぞはからん、彼が理を得るの官符を下し賜はんとは。
これ全く、彼がために、矯飾 せらるゝに依るもの。また、右少弁源相職 よりも、仰せの旨とて、書を送り来る。今般、武蔵介経基の告状によりて、将門を推問せらるべきの由なり。よつて、謹で、詔使のいたるを待つ。
然るに、常陸介維茂の息、為憲、みだりに公威をかり、冤枉 を逞しうす。ここに将門の従兵、藤原玄明の愁訴により、その実をたゞさんと、彼の国府に赴 く。
為憲、明に、貞盛と協謀し、三千余の兵を発し、恣 に、兵庫の器仗をとり出して、戦ひを挑む。こゝにおいて将門、やむをえず、士卒を励まし、為憲等が軍を討ち伏せたり。これ、介ノ維茂が、子息為憲に、訓 へざるの致す所なり。
将門、本意に非ずといへども、すでに是 を討伐す。罪科、軽からず、自首に及ぶところ也 。たゞし、将門とて、柏原帝五代の孫、たとひ国庁を領するも、豈、当らずとせんや。
将門が武芸天授、たれか、将門の右に出づるものあらん。公家、さらに褒賞の典は無くして、しばしば、譴責 を下さるゝこと、かへりみれば恥のみ多し。面目、いづこに施さん。推して、察し給はらば、甚だ以て幸なり。
抑
、将門少年の日より、名籍を太政大殿に奉ずる今に十数年、相国摂政の世に、思はざりき、かゝる匪事 を挙 られんとは。
まことに、歎息の至りにたへず、将門、立身の計を思ふといへども、何ぞ旧主の貴閣を忘れんや。
閣下の
先年、源護等が、愁訴によりて召さる。将門、官府を恐るゝがゆゑに、急に上京して、天裁を仰ぎ、事実、明白となつて、帰国をゆるされ、
すでに、
良兼が為に、人を損じ、物を
さらに、
右、貞盛はかつて追捕を脱し、
これ全く、彼がために、
然るに、常陸介維茂の息、為憲、みだりに公威をかり、
為憲、明に、貞盛と協謀し、三千余の兵を発し、
将門、本意に非ずといへども、すでに
将門が武芸天授、たれか、将門の右に出づるものあらん。公家、さらに褒賞の典は無くして、しばしば、

まことに、歎息の至りにたへず、将門、立身の計を思ふといへども、何ぞ旧主の貴閣を忘れんや。
天慶二年十二月
太政大殿少将閣賀 恩下将門謹言
この上告文を持たせてやった使者は、暮のうちに立っているので、とうに都へ着いているはずである。しかし、使者もまだ帰って来ないし、摂関家の沙汰も、中央の反響も、皆目、まだ、分っていない。
将門が、
なぜならば、正直な彼にも、やはり文には、偽飾がある。すべてが、真実ではない。また、
だが、中央の
誰よりも、飲んでいるように見えて、じつは、誰よりも酔っていない男がいた。つねに、将門の気色や、また満座の雰囲気に、ひそかな注意を怠らずにいる藤原不死人だった。
「おい、おい、玄明。こら、玄明。おぬし、きょうの大役をひとつ、忘れておりはしないか」
「なんだ、不死人。いきなり、おれの腕くびなどをとらえて。これ、離せ」
「おれは、酔うた。……だが、おぬしはまだ、酩酊してはおるまいが」
「呂律を、はっきり申せ。何が、何だと」
「わからぬか。いや、忘れ惚けたのか、この、老いぼれは」
「老いぼれとは」
「まあ、怒り給うな。おんめでたき吉日ではないか。――なあ、興世王どの」と、不死人は、両手で両方の者に、
「これは、いかん」興世王は、酒豪である。性根は、たしかだ。「――玄明どの。不死人が、くだくだ申しておるのは、それ、三名して、昨夜ひそかに仕組んでおいたあの
「そうだ、その事よ。何たるうつけ者ぞや、玄明は」
「や。なるほど」玄明も、そういわれて、急に、思い出した顔つきである。大仰に、頭を掻いた。
「まこと、酔いにまぎれて、うっかりしておったよ。……だが、せっかく、仕組んだ宴遊戯の筋書ではあるが、こう満座が酔いみだれてしもうては、ちと遅いな。まあ、やめておくか」
「ばかをいえ、ばかな事を。――祝宴はこれからだ。いままでは、
「だが、おぬしも、興世王どのも、その酩酊ぶりでは」
「なんの、おれは、酔わぬ。どこに、酔うているか。さあ、
「
「森比女は、かしこに、人と戯れておる。それ、立ち給え、そして筋書通り、
不死人は、玄明の尻を、押し上げた。
玄明は、よろめき、よろめき、酒間を泳ぎ渡った。そして、武将たちをあいてに、杯を持って、何か、おしゃべりしていた森の巫女という女を横から
興世王と、不死人とは、それを見届けると、
「はははは。あはははは。連れて行ったわ、行きおったわ。どれ、それでは、こっちも、こうしてはおられぬぞ」
二人も起って、こっそり、橋廊下の彼方の建物の内へかくれた。
社家の住居は、大混雑であった。母屋も釜屋も、料理人やら饗膳の支度に立ち働く男女で足のふみ場もない有様だ。その騒ぎをよそに、さきの玄明と森の巫女も、また後から来た興世王と不死人も、小部屋にはいりこんで、神楽殿の
「よいか。そろそろ」
「よかろう。さきに出て、
「では……」と、小部屋の
「しいッ……。静まれ、ひそまれい」
と、
玄明は、
「おや。何を演るのか」
「八幡の神職か」
「いや、ほんものの神主にしては、すこしおかしい。誰かの、酒興だろう。何か、
満座の顔が、玄明の方を見た。彼は、いよいよ、しかつめらしく、何か、
すると、物々しい雅楽が、一せいに吹奏され出した。笙だの、ひちりきだの、笛だの、胡弓だの、竪琴だの、竪笛だの、
ところへ、また、どたどたと、橋廊下を走り渡って来た役者がある。一方は、背に

そして、二人は、裳と裳を、曳き合って、
「……ああら、ああら、ふしぎや、
と、唱歌しながら、
「ひんがしの、空の
と、眼の
「おお。あれは……」と、仰山に、
鈴の音が、堂を
そして、風のように、天女たちは姿をかくし去ったが、たったひとり、あとに、森の巫女だけが、立ち残っていた。それが、趣向の眼目とみえ、彼女は、高貴な神の使わし
森の巫女の姿と、そしてその顔を見たものは、誰もが、酒の気をさまして、一瞬、しいんと、満堂、水を打ったような鬼気にとらわれてしまった。
迷信は、都の貴族ばかりにあった病弊ではない。未開土にはまたもっと素朴な原始教そのままの祟りとか、
これは、たれかが演出させた余興である、茶番狂言にすぎないのだ――とは、満座のすべては知っていたが、森の巫女の魔芸は、そう知りぬいている人々をも、ひっそりさせてしまったのである。
彼女はまた、こういう魔芸にかけては、
「――こはこれ、われこそは、八幡大菩薩の御使にて候うぞや。
どういう心理やら分らない。けれど、演技者に溶けこんで自分も一しょに演技する心理は、酔っぱらいにはよくある事である。――さっきから失神していたように平べッたく身を伏せていた左大臣、右大臣が、しいッというと、満座の酔っぱらいが、一せいに頭を下げた。将門も彼女を再拝した。――そしてその奇妙な一瞬が、すべての人間の頭脳を、風のように掠め去ったとたんに、誰ともなく、わっと、喝采のあらしを捲き起し、つづいて、
「万歳っ」
と、どなった者があったかと思うと、負けない気で、また、何者かが、
「新皇、万歳っ」と、さけび、もう次には、「わが君、万歳」と杯をもって、起ち上がる者があったり――「相馬の御子は、もともと、正しい帝血をひいておられるのだ。帝位をとなえても、何のふしぎがあろう。相馬の新皇、万歳」などと、演説する者が現われたり、いちど、毛穴から内に潜んでいた酒気が、反動的に、爆発したかたちで、その狂態と、乱酔の旋風は、いつやむとも見えない有頂天をつつんでいた。
さて、それからの悪ふざけであった。
将門の座を、
興世王や、玄明などが、ちょうどよく、衣冠束帯をしていたので、これが
「宣旨――」
などと、とりすまし、
「舎弟、平朝臣将頼を、下野守に叙せらる。
などと、出放題なことをいうのが、いちいち拍手を呼び、爆笑を起し、将門までが手を打って、興じぬいている様子なので、彼らは、いよいよ図に乗っていた。
「右大臣。王城はどうする。新皇が即位されながら、王城の地も定まらないでは」
「いや、王城は、下総国、亭南の地とする。南面して、皇居を作り奉らん」
「やよ、左右の大臣。納言、参議を始め、文武百官、六弁八史の叙目は、到底、一日には任じきれぬ。したが、かんじんな
「たった今、八幡大菩薩の神告があったばかりだ。まだ、そこまでは手がとどかん。それに、玉璽には、古文を正し、鋳印には、寸法の故実も考えねば」
「わははは。もっともらしい事をいうわ。左大臣も、右大臣も、それらしい。したが、暦日博士には、誰がなるか」
「さあ、暦日博士は、ちょっと、見つかるまいぞ」
「何の、上総の浜から、
将門はもう泥んこに酔いつぶれていた。乱舞の声も狂酔の歌も、遠いものにしか聞えていなかった。そこらにいる女と女たちの間に横たわって、眼じりから涙みたいなものを垂らしていた。
――ふと、醒めたのは、暁天の頃である。たれに、どこへ運ばれ、どう寝たのかも、まるで覚えはない。
「……水をくれい」
がばと、起き上がりざま、そういった。
ほの暗い燭と、帳の蔭に、黒髪を寝くたらして、幾人もの女が、木枕をならべていた。――何たる寒々しい光景だ。将門は、水を飲み終ると、ぶるっと、骨も鳴るばかりな胴ぶるいした。
「出かけよう。いや、豊田の館へ、引揚げよう。……もう、桔梗のいた奥の館も、和子の乳の香がしみていた部屋も、あとかたはなく新しい木の香になってしまったが、それでも、豊田の家に眠っていると、そこはかとなく、在りし日のことが夢にも通ってくる。――さあ、ここを立つぞ。女ども、下着を出せ。具足を出せ」
それは、独り言なのか、そこらの女たちに命じているのか、分らない口調であったし、起き抜けだというのに、ひどく腹立ちっぽい荒々しさがこもっていた。
「まだ、きのうの酔いが、
女たちは、
侍臣を、呼び立て、将頼や将平たちにも、出立の用意を伝えさせる。
兵は、愕いた。――朝の兵糧をとれという命令はなく、すぐ、馬を立て並べろとある。
将門は、恐い顔をして、馬上になった。――頭上には、まだ、朝の月がある。
でも、ようやく、三軍が揃って、大宝八幡の社前から、
将門は、諸将の馬にかこまれて、むっそりと、苦々しい眉をひそめながら、門前町の辻を、街道の方へ、ゆらゆら、馬首を向けて行った。
道の端や、軒下に、黒々とうずくまって、彼を送迎しているかたちの土民たちは、口々に、新皇様だ、と囁きあった。いつもより恐ろしそうに、そして、上げることもゆるされない首のように、地に低く垂れたまま、じっと、馬のつま先だけを、
「……はてな?」
将門は、へんに思った。
けれど、その日の行く先々の路傍で、彼は同じような庶民を見、また、自分をさして、新皇様と、恐れ囁く声を聞いた。まるで、悪夢を見つづけているような思いである。そうした彼は、やっとわが家の門を見た日、初めて、自分のものらしい息を、ほっとついた。
坂東、大乱に陥つ。
という公報が、都へとどいたのは、暮もおしつまった十二月末である。
東八ヵ国の官衙から、蜂の子のように叩き出された国司や府生たちが、やがて、命からがら、都へ逃げ上って来ては、
「いやもう、大変というも、おろかな程だ。まさかと思っていたが、やはり将門の謀叛気は噂だけではなく、ほんものだった」
といい、
「あのぶんでは、相模、遠江と、順に国庁を焼き立てて、都までを、騒乱に捲きこむかもしれぬ」
などと、恐怖的なことばを、火の粉のように、ばら撒いた。
武蔵の百済貞連を始め、諸国の介や掾も、前後して、太政官へ駈けこみ、
「いまさら、将門謀叛などと、上訴に及ぶも、
と、極力、言を大にした。そして
それだけでも、洛中は、不安に明け、不安に暮れた。上下、
「南海の賊と、坂東の大乱とは、別なものではない」
「純友と将門とは、かねてから気脈を通じ、軍を同時に挙げたものだ」
公卿百官の驚きようと、そして恐怖の声は、もう頂点という有様だった。
勅使は、奈良へゆき、
祈祷。――じつに、祈祷以外の処置も政策もない政府だった。
時に、太政大臣の藤原忠平も、もう
「わしは、将門という人間を知っておる。愚直だが、
これが、忠平の観ている将門であり、従来からの、彼の情勢判断の基調となっていたのである。
ところが、子息の実頼や師輔の考えは、まったく違う。
この二人は、貞盛の報告や、貞盛の訴えに、まったく同調していた。
「父君は、あまい。どこやら、もうろくしていらっしゃる」
「いや、むかし、わが家の青侍に置いたことのある将門なので……」
「うむ。人情、やはり肩を持ってやりたいのであろ」
「それもあるし、とかく、時勢にも、どこか、おうとくなられてもいるし」
そんなふうに、忠平の判断は、将門の肩持ちにすぎないもの、そして、老父が一片の私情であると、頭から決めてかかって、従来、幾たびかの対将門方針を選ぶばあいにも、「まあ、まあ」と、片づけておくだけで、これを朝議のうえでは、採らなかった。
で。――これまでの間、糺問使を派すにも、処断を下すにも、つねに、煮えきらないような中央の東国対策の裏面には、執政父子のあいだの、こういうもつれや、意見のくいちがいも、多々、原因をなしていたものにちがいない。
ところが、こんどは、捨ておけない。坂東の将門は、皇位を僭称し、みずから、いる所を、王城に
これには、忠平も、暗然として「……ば、ばかな奴だ」と洩らしたのみで、もう将門については、一言も触れる容子はない。
「純友の平定には、さらに、援兵を急派し、摂津から兵船百艘をさし向けました。……が、将門には。……やはり討伐の軍には、誰かを以て、征夷大将軍に任命しなければなりますまいな」
兄弟が、老父の意見を求めると、忠平は、そっけなくいった。
「なに、軍の編成。そのような手続きは、分りきった事であろうが」
「しかし、
「朝命でもか」
「いえ、まだ、
「何を、ぐずぐずしておるか。
やがて、藤原
すでに、一月に入っていたのである。忠文へたいし、征夷大将軍として、賊を平定せよとの勅命が降った。天皇おんみずから、南殿に出御され、忠文に、節刀を賜い、任命式が行われた。侍立の百官は、
「首尾よく、凱旋あれよ」
と、万歳を唱えて、それを歓送した。
副将には、藤原
征討軍が、都を発向したのは、一月二十七日であり、二月上旬には、もう大行軍の列が、東海の駅路を、東へ東へ、
ところが、大将軍忠文を初め、副将国幹にも、全軍の将士にも、将門にたいして、どれ程な自信と意気があったか、甚だ疑わしい。
――というのは、都を立つ前から、かねて貞盛がいいさとしたり、また、坂東の国司たちが、逃げのぼって来ては、吹聴しちらした“
いや、これはひとり、彼等の臆病風ばかりではない。西海には、純友、坂東には、将門が、暴れ出したと聞えてから、北越、信州地方にも、頻々と、騒乱の噂が立ち、現に、忠文以下の征討軍が行く道にさえ、その無政府状態が見られた。
駿河の国府は、炎々と、焼けていた。
「もう、将門の兵が、こんな方にまで、進出している? ――」と、一時は、大動揺をきたしたものだが、物見を出して、調べてみると、それは将門とはまったく無関係な富士の人穴辺に
「この分なら、俺たちにも、一国や二国は伐り取れるぞ」
と、急拵えの名分を唱えて、地方の叛兵と化したものであることが分った。
同国の袖ヶ崎の関や国分寺も、襲われている。
旅行者は絶え、駅路の
後に、彼らの軍が、いったい何をしていたのかと、大いに、世論から責められたのは、こんな理由からである。
こういう状勢は、けだし、東海道だけではなかったろう。文字どおりな「天下大乱」を、天下の人心が、自ら
「どうなるのか?」
と、善良な民をして、ただ右往左往、働く土地も、住む家も、食も失わせるような、悲しむべき日がつづいた。
「時は、来ました。これを救う者は、あなた以外にはありません。かねてのお約束を、今こそ、眼に見せてください」
下野国、田沼の
――また、出兵するとしても、朝廷から任命されたわけではないから、彼としては、大きな思惑なのだ。火中の栗を拾うまいとするならば、
その藤太秀郷が、どう思ったか、
「貞盛どの、常陸へ帰れ。そして常陸の維茂、為憲の父子と語らい、残兵を狩りあつめて、わしの出兵を待ち給え」
と、詳細なる策をさずけた。
貞盛は、そのとき、よろこびの余り、泣いて、老獪の姿を拝したという。
そして、貞盛は、押領使秀郷が、
「よし、この味方を、得るからには」
と、常陸へ、舞いもどった。――けれど、さきに、将門のために国庁を焼かれた藤原維茂、為憲などは、どこへ逃げ隠れたか、捕われたか、その兵も、全く四散し尽して、消息すらわからない。その間を、東奔西走して、とにかく、短時日のあいだに、常陸勢の再編成を遂げ、下野勢の新手を加えて、将門へ当ろうと計っていた貞盛の根気のよさと苦心の程も、また、生やさしい軽薄才子のよくなしうる業ではない。陰性な理智と、舌さきで立ち廻って来た彼も、今や一生を賭けた、底力をここにふるい出している姿が見える。
将門は、大宝八幡から、豊田の新館へ帰った後、二、三日というものは、馬鹿みたいに、寝てばかりいた。
まったく、身心ともに、疲れはてたという態である。
まる三日にわたる戦捷と、新年の大饗宴にも、余りに、飲みすぎていたが、何よりは、周囲の有頂天な雰囲気に、悪酔いしたにちがいない。
天皇にされ、新皇万歳だの、王城をどこにするの、左右両大臣以下の任官式――などという悪ふざけが、まだ、彼の後頭部に、むうんと、重たく、祟っているらしい顔いろである。
「さっぱりしない。どうも、気分が冴えぬ。岩井へ移ろう」
岩井の
「
猿島へ上がると、将平、将文の兄弟が、彼を迎えるやいな、そう告げた。
「なに、残党が、うごいていると」
将門は、このところ、ひどく神経質になっていた。誰か、
「すぐ、陣揃いを触れろ。おれも赴く」
と、いい出した。
豊田にいるより、岩井の館で、冬日を楽しむよりも、彼の心理は、今や、馬上の曠野の方が、かえって心が休まるもののようだった。――その日に、猿島へ立ち、南常陸方面の、那珂、久慈郡などを巡遊した。
事実、残党のうごきなどは、見られなかったので、庶民の眼からは、新皇の巡遊ぐらいに、見えたのであろう。そしてその行く先々では、将門が好むと好まないに関わらず、沿道の民が、道に平伏していた。郡司や府官は、堺まで出迎え、宿舎には、砂を撒き、白木の御所を調え、ここでも新皇あつかいである。
ところへ、彼の部下が、吉田郡の蒜間ノ江で、敵の一船群を見つけた。
といっても、戦闘にかかってみると、手にあう敵兵はいくらも出て来ず、それらの者を射尽して、あとの船を調べて見ると、女子供や老女みたいな者ばかりが、苫の下から曳き出された。
しかし、その中には、
「これは、思いがけない獲物であったわ。貞盛の行方は、とんと、知れぬが……その妻とて、正しく、仇の片われ」
と、部将の
将門は、そうした敵将の女たちを見ると、どうしたのか、眼のふちを充血させ、鼻をつまらせたきり、ろくに、ものもいわなかった。――思うに、彼の愚痴な性情が、ふと、何かを思い出していたのではあるまいか。
彼の最愛の妻と、最愛の子も、かつて、陸閑岸のほとりで、同じような運命に漂い、敵兵の手にかかって、惨殺された。――はからずも、その敵の妻が、こんどは、自分の前にひきすえられている。
(桔梗よ、わが子よ、因果は、こんなものだ。お前たちだけが、悲運なのではない)
しかし彼は、眼のまえの敵将の女たちを、桔梗が受けたごとくに、また、わが子がされたように、刃を以て、なぶり殺しにする気にはなれなかった。
むしろその正反対な、
よそにても風の便りをわれは問ふ枝離れたる花の宿りを
貞盛の妻は、泣きぬれながら、
よそにても花の匂ひの散りくればわが身わびしとおもほへぬかも
と、返歌し、また、源扶の妻も、将門の情に、一首の和歌をよみ、共に、縄を解かれて、放たれたという、一挿話がある。
将門のような坂東男でも、多年、都に遊学し、右大臣家のみやびも真似ていた時代もあるのだから、生涯に一度や二度の彼の作歌があっても、べつだん、それだけを怪しむことはないが、しかし、この話は、たれか後世の将門びいきが作為したものではあるまいか。彼の歌も、貞盛の妻の歌も、何となく、そらぞらしい。巧拙はとにかく、そんなばあいの真情らしい余情もひびきも感じられない。
といって、将門が、彼女をゆるして放した事までを、すべて、虚伝とするのはどうであろうか。貞盛や扶の妻が、身のおきどころもなく、蘆荻のあいだを、漂泊していたなどの事は、当時の実情として、甚だ、ありそうなことだし、将門がこれを殺さなかったという郷土の伝説には、多分に、それらしい事実もあったものと思われる。
とにかく、彼は、こんな事で、むなしく一月末頃までを、空虚に暮していたのである。その間に、偽宮の造営を計ったとか、
ところが、彼にむくわれて来たものは、
「貞盛に、呼応して、田沼の藤原秀郷が、下野の兵四千をひっさげて、山越えに進軍してくる」
という寝耳に水の報らせだった。
「え、秀郷が。……間違いだろう? ……どうして秀郷が、この将門の敵にまわるわけがあるのか」
初め、将門は、信じなかった。
第二、第三の早馬がはいっても、疑っていた。
が、事実と、わかるや、彼は見得もなくあわて出した。秀郷の老練や、下野の武力には、脅威も抱いている。また、押領使たる彼の地位へも尊敬を払って、従来、秀郷の職能と一族の田野は侵害しないことに努めても来たのである。
それが、その秀郷が。
彼は、自分の敵と考えられる以外の人間は、すべて、味方ではなくても、善なる人間として、少なくも、万一のばあいとか、応変の危害など感じないで通して来た男である。――だから、こんな時、狼狽の色もつつまず、あわてふためいたり、極端に、こんどは、感情をあらわして、罵ったりするのを見ると、部下の眼にさえ、彼の魯鈍と、愚直さえ、はっきり見えた。頼みがいなき人物と、見えもした。
さきに、敵将の妻を放してやったことといい、この仰天ぶりを見て、その涙もろさや、人のよさに、いっそう心を彼に
ともあれ、急遽、対戦の策をたてた。
そして、多治員経、坂上時高らが、逆に、秀郷の本拠地に近い――阿蘇郡へむかって、進撃した。
出ばなを、叩かれた形で、下野勢の先鋒は、敗れては退き、戦っては破れ、後方へ潰走した。
員経や、時高らは、
「秀郷の手のうち見えたり」
と、気負い込んで、敵地へふかく
秀郷は、部下に、やおら命を発した。
「さあ、これからだ。まず、目前の賊を、存分に、包囲して、一兵も余すな」
彼の、予定の作戦は、思うつぼに、はまったのである。――それからは、
一方。
貞盛と、為憲は、常陸、上総から同時に起った。序戦において、秀郷の術中に陥ちたがための、将門勢敗北の声は――その他の国々のうごきにも、大きな作用を起した。
「新皇は、しょせん、本皇には敵わないものだ」
「官軍につけば、他日、恩賞もあろうが、賊兵につけば、かならず、首はあるまいぞ。九族まで、重罰に処せられようぞ」
貞盛は、声を大にして、百姓のあいだにも、こういい触れさせた。
一戦ごとに、将門は、敗退をかさね、ついに、岩井ノ館一柵が、彼の余す防塁となってしまった。
猿島の館は、自分の手で焼き払い、ここにたて籠って、さいごの一戦を――と計ったのであるが、なんと、営中の兵をかぞえれば、わずか四、五百騎しか余していない。
これが、二月一日以来、わずか十日程な間の転落ぶりであった。
そして、二月十四日の朝。
将門は、その岩井を、すこし離れ、北を背に、陣を布いた。――敵は、われより八、九倍の大軍と見て、
「待つよりは、機を計って、敵の虚を
と、奇襲の構えを取ったものである。
その日は、ひどい烈風だった。日光
――ソノ日、暴風枝ヲ鳴ラシ、地籟 、塊 ヲ運ビ、新皇ノ楯ハ、前ヲ払ツテ、自ラ倒レ、貞盛ガ楯モ、面 ヲ覆 ヘシテ、飛ブ。
と「将門記」にも見える通り、いわゆるこの地方特有な空ッ風の日であった。――将門が、奇襲法をとろうとしたのは、この天候の利用を考えたものと観てよい。将門は、その手兵、全部をあげて、敵の大軍に近接し、射戦を仕懸けた。風向きは、彼に有利であった。いかに、十倍の兵力と、弓勢をつらねても、この烈風が味方しない以上、秀郷、貞盛の連合軍も、いたずらに矢を費い、手負いや死者を、積むだけであった。
乱れ立った敵陣のさまを見て、
「かかれっ。――貞盛の首、秀郷の首、二つを、余すな」
将門自身、馬を躍らせて、敵の怒濤のなかへ没して行った。あんな、涙もろい、鈍愚な、しかも事に当っては、うろたえたりする彼が、どうして、あんなに強いのか。強いという事と、日頃の侠気や魯鈍とは、べつなものであるのだろうか。将門の兄弟も、麾下も、驚いた。いや、励まされた。
貞盛は、馬をとばして逃げまどい、秀郷勢も、右往左往、荒野の雁の群れ、その物のような影を見せ、四散するのに、
まさに、乱軍の状である。
いや、坂東の土が生んだ、将門という一個の人間の終末を、吹き
将門はもう、将門という人間ではなくなっている。一個の阿修羅である。睫毛から髪の毛の先までの生命が、みな焔のごとく燃焼していた。勝ち誇った双眸である。血も血と見えない顔つきである。――せめてその前に、もう一個の貞盛という者を見たがっていただけである。荒ら駒の躍る背に、彼は、それだけを、探していた。
「…………」
何の声もなかった。
戦い疲れた顔が、兜の重みと、矢のとまった圧力に、がくと、首の骨が折れたように、うしろへ仰向いたと――見えただけである。
馬から、どうと、地ひびきを打ってころげ落ちた体躯へ向って、たちまち、投げられた餌へ痩せ犬の群れが懸るように、わっと、真っ黒な雑兵やら将やらが、寄りたかっていた。あっけなく、天下の騒乱といい
その陣没は、天慶三年、二月十四日。時に、年歯はまだ三十八歳であった。
何があっけないといって、史上では、将門の死ほど、あっけないものはない。
が、彼としては、精いっぱい、生きるだけ生き
だが、彼が生存していては、自分の生存に都合のわるい人々が、彼を死へ急がせた。なぶり殺しにしたといってもよい程に。
この日、彼に殉じて、斬り死にした者、百九十七人というのが、後に、下野の国庁から都へ報告された数である。
彼の首が、都へついたのは、四月二十四日といわれ、遺骸は、江戸の庄芝崎村の一寺や、あちこちの有縁な地で、分骨的に葬られ、それが後世の塚や遺跡などになっている。死後には、案外、彼を慕い、彼を憐れむ者が、坂東地方には多かった証拠といえよう。
弟の御厨三郎将頼は、相模へ落ちのびる途中、追捕の手に打たれ、藤原玄明も、常陸で殺された。興世王は、上総の伊南で、射られた。
将平は、陸奥へ逃げ入ったともいわれ、将武は、甲斐の山中まで落ちながら、やはりまもなく命を終っている。しかし、それらの将門の弟たちの没命地にも、
× ×
江戸の神田明神もまた、将門を
初めて、将門の
「将門を、大謀叛人とか、魔神とかいっているのは、おかしい事だ、いわれなき妄説である」
と、朝廷にも奏して、勅免を仰いだのである。で、神田祭りの大祭を、勅免祭りともいったという。
旧、大蔵省玄関前には、明治頃まで、将門の首洗い池があった。また、日本橋の
そのほか、将門伝説は、関東地方一円にあって、挙げきれない程である。けだし、将門の子孫とか、坂東平氏の末流とかいうものが、この地方の土壌には、草分けの家々として繁殖して来た関係によることはいうまでもない。
× ×
ここで、乱後、おかしなことは、征夷大将軍忠文の、凱旋ぶりと、論功行賞などの取沙汰である。
彼の正統な討伐軍が、坂東へ着いたときは、もう戦乱は、終っていた。それにたいし、秀郷が、どんなあいさつを以て、朝廷から節刀を受けて来た征夷大将軍をあしらったであろうか。前後の事情を想像してみても、興味ぶかいものがある。
忠文のばあいは、凱旋ともいえない帰還だった。そのせいか、都に帰っても、朝廷からは、忠文以下に、何の論功行賞もなかった。
忠文は、公卿の衆議にふんがいし、それを怨みに、憤死したなどという記事が「古事談」などに見える。
彼の憤死も、また、忠平の子息実頼が、その後、とかく多病がちになった事も、関係者の凶事は、みな、将門の祟りだといわれ出した。いや堂上ばかりでなく、一般が、将門天魔説にとり
しかし、純友については、余り、あとの祟りは、いわれていない。彼も、やがて西海のもくずと消え、さしも、
忠文の始末は、さきにいった通りだが、押領使藤原秀郷には、将門の首が、まだ、都へも着きもしないうちに、彼への勲功叙位が、発せられている。
しかも、貞盛よりも、数等上の従四位が与えられたのだ。貞盛は、従五位下をもらった。
とにかく、
だから、秀郷、貞盛などは、今日まで、どんな美名をもって来たところで、それは偶像であって、ほんとの人間そのものではなかった。しかし将門は、今でも人間そのままを感ぜしめる。天慶以来、一千年。大逆人の濡れ
世に