「
「佐どのうっ」
「おおういっ」
すさぶ
「見えぬ」
「お見えなさらぬ」
「つい
暗然と、求める
「……もしや敵の手に」
誰も皆、ひとつ憂いに
平治元年の十二月だった。
きのう二十七日の朝から、京都に大乱の起ったらしい事は、この
(――
と、平家の武士や、宿場の沙汰人たちが布令て来たので、戦争の結果も、さてはと知れ、
「……ぜひもない」
やがて。
年ごろ三十七、八。この中でも、眉目のすぐれていることや、
(この君なくば)
と、頼みに仰がれていた人だった。
都を落ちる時は、それでも同勢三、四十人は連れていたが、人目立つため、
郎党では
生捕られでもしたか。
雪にでも
気丈な
すると義朝は、
「もうよい。先へ急ごう。わしが子だ、生きるものなら独りでも生きて行こう。死ぬものなら死ね、ぜひもない」
云いすてて、心づよくも、
――捨てて行け。
義朝の一語には、誰も彼も、意外な気もちに打たれた。
常日頃は、子に甘すぎる
わけて
(
と、わずか十三にしかならぬ三男の佐殿に譲られたほどな愛し方であったのである。
その
(後へもどろう)
とか、
(手分けして尋ねよ)
とか、狂おしいばかりな下知をなさるかと思いのほか、吹きすさぶ雪より冷たく、
――捨てて行け!
と、自身もう先へ駒を急がせているのである。郎党たちは、その姿に、なおさら眼を熱くしてしまったのであった。
頭殿――義朝の心は推しはかるに
六条河原にはたくさんな一族や味方の兵を死なして落ちて来た敗軍の将である。わが子の
なおまた、今、頭殿の胸をいっぱいに
(どう盛り返すか)
の画策であった。大きな責任感と、やわかこのままには、と思い
ひとまず
そして、それからだ。
長男の義平は、東山道の源氏を催して攻めのぼれ。次男朝長は、信州路へ下って、甲斐源氏をよび集めるがよい。自分は坂東一帯の同族を召集して、東海道からふたたび西する。三道から一挙
あの清盛、
「…………」
郎党たちは、そう分っているだけに、何と慰めることばも知らず、黙々と、
「殿っ。――殿っ」
と、前なる無言の人を呼びかけて、そして云うには、あなた様のお胸は知らず、正清としてはどうにも
聞くと、義朝は、
「そうか。ムム、そうか」
吹雪の中に、駒首を向け返して、満足そうに、しかも大きく
鉄甲に
「殿っ。てまえにも、ここでお暇を下さい」
と、何思ってか、突然さけんだ。
義朝は、しばし考えているふうであったが、金王丸がかさねて、
「おねがいです。もいちど京へ立ち戻り、かの
何か、眸も燃ゆるばかり、切な情をこめて訴える声に、義朝も、
「よしっ、行け」
と、遂にゆるして、わずか四、五騎の残る面々と共に、雪けむりのうちへ遠く駈け去ってしまった。
見送ってから。
鎌田兵衛正清と金王丸のふたりは、すぐ道を西へ取って返し、
「
「佐殿はおわさずや」
と、人影は見なくても、もしや、雪の下に埋もれておりはせぬか、田にでも
「兵衛どの」
「おうっ。何か」
「残念ながら佐殿のほうは、あなたへお探しを
別れて行きかける姿へ、
「金王。金王」
「はい」
「しばし待て。あの山陰に、小屋らしき物がある。猟師どもの
兵衛正清はそう云って先に駆けた。獣小屋を
「金王。おぬしは、京へ戻るというが、都の内には、平家に
「元よりです。乱後まだ一日か二日、洛内の
「そして?」
「その先の事ですか」
「されば……おぬしの仰せつかった使命の
「いや、そのお使いは
「よくぞ気づかれた。われら源氏という者の一門は今日亡び去っても、
土間炉の榾が燃えてきた。
「…………」
頭殿にはこんどの合戦に伴った若武者の、男々しい子たちのほかに、まだ母の膝も離れぬ幼いのが、よその
その母なる人はもと九条院の
長居は心がゆるさない。
ふたりはやがてまた、
「では、
「兵衛どの」
改めて、無量の思いを、呼び交わしつつ、
「行く先のご無事を祈り申しておるぞ。
「心得て候」
金王は、頼もしげに、そう答えてからまた、
「この辺りとて、油断はなりません。お身様にも、心なさりませ。――少しも早く、
「おお。ではまた、いつの日か、東国で会おうぞ」
「はっ。おさらば」
「さらば」
ひとりは西へ。
また、辻を東へと折れた兵衛正清は、
けれど、
* * *
何処で父や兄や郎党たちの
雪にふさがれたまま凍りついたような
「さては遅れたか」
頼朝は、にわかに駒を鞭打った。
彼の驚きと共に、駒も驚いて、突然、まっ白な
しかしわずか急ぐとすぐ駒は疲れた。彼も疲れた。心細さもない、愛慾もない、怖ろしさもない。
ただ
彼はまだ十三の童子武者であった。源氏重代の
「……睡たい」
慾も得もなく思う。
思うに。
彼はこんな状態を、きょうは何度も繰返していたにちがいない。その間に、父義朝や
――
――佐殿うっ。
しきりと自分を呼ぶ気がする。頼朝ははっと眼をひらく。きれいだ! 実にきれいなと思う雪ばかりである。
駈けても、人影一つない。
頼朝はまたいつか、馬の上で、うとうと居睡ってしまうのであった。
元、いずれの
昼のうちこの辺りまで、
「
と、あった。
人は
「春の
と、
夜になった。
吹雪の小やみに、時々、青い月かと思うような空明りが
――がさっ。
と、町屋の
「……だ、誰だっ?」
すくみ腰は双方でしていた。
やがて、見さだめてから、
「源内じゃあないか」
「どうだ」
「なにが」
「いい首でも拾わなかったか」
「まだ、まだ」
「はて。……
その雁の
駅路は雪が掻いてある。両側とも
「……やっ?」
「
「何だろう、あいつ?」
「おや。居眠っていやがる」
かえって三人は
しかし、姿がゆるさない。
これだ。由々しい出世のつると云われたのは。春の
「待てっ、
「…………」
右兵衛佐頼朝は、がくと、
見つけない男が、竹槍を向けて何か云った。
さすがに、遠くからである。うかと、近づいては来ないのだ。頼朝は、
「なにか」
とも云わなかった。
怖いという気もそうしない。槍や長柄刀は血ぬられたのを飽きるほど戦場で見たばかりだからである。それを
「
「…………」
「いずれから来て、いずれへ渡らせられる。無用な事。この先とも、
「…………」
頼朝は、依然、押し黙ったまま馬をやりかけた。
「やいっ、待たぬかっ」
源内兵衛は、もうこの獲物を取った気がした。飛びかかって突っかけた。頼朝は駒の
竹の柄は雪にすべる。どこか突いた気はしたが相手には
「うぬっ」
振りかぶると、馬上、
「
と、頼朝は初めて口を開き、髯切の太刀の抜きざまに、無我無心、源内兵衛の
眼の前に起った
「降りろっ」
まだ云っている。それは、長柄刀片手に、馬の口をつかんで離さない男である。
鞍腰上げて、
「
と、
雪に拡がった血の傘は怖ろしく大きく見えた。残る一人の長柄刀はもう近寄りもし得なかった。その
「寄るか!」
と、頼朝は叱って、太刀の
血を見たせいか、馬もにわかに
急に頼朝は怖くなった。
父はどうしたろう。兄は、一族たちは。
頼みの乗馬とも、翌る日は別れなければならなかった。雪に脚を折ったのだ。徒歩となれば、具足は重い。それに人目にもつくので、重代の太刀も
二十八日の夜の頃は、もう自分でも何処を
怖くない。怖いなどというそんな浅いものではない。
(戦争って、こんなものか)
と、頼朝は思うだけだった。そしてそんな幻想と思い出に
夜が明けると、その
「
彼の妻も、
薪の間に

「どこの
ため息つくように、やがて
「
「どうしよう」
「訴えて出なされ」
「かあいそうじゃ」
「そんな事を云うたとて、きのうも何度、平家のお侍衆が、触れて来たことか。
「いや、
この家は、
「
ゆり起されると共に、頼朝はそこを出なければならなかった。
生れて初めて、人に食物を恵まれた時は、さすがに涙がこぼれた。それも山へ去ってから喰べた。
浅井の
「どこへ行きなさる」
「青墓へ」
「山越えで」
尼は顔を振った。
「まあ、
尼は、
暗くて、窮屈で、寒かった。
経文の意味は元より
経のことばのうちには、世尊とか
「もう山も越えられよう」
尼に云われて、頼朝は天井裏を出た。
雪の下から樹々の芽は
細谷川の道を、里へ出て行く
鵜匠の男は、さっきから頼朝の後を怪しみながら
「
「青墓へ」
頼朝は、そう答えるしか、知らなかった。
「青墓に
「うむ」
「何というお方か」
「行けば分るけど」
「そうか」
鵜匠は口をつぐんだ。それきり何も問わなかった。しかし、絶えず頼朝の
人に油断しない事。人の表よりも肚を観ること。そして身を警戒することを、頼朝は、何里か黙って歩いている間に、自然
「
鵜匠は、突然云い出して、頼朝の帯びている刀を、自分の携えている
「こうして、わしが持っていて上げる。あなたは女のようじゃ。人が問うたら、女じゃと答えなされ。女のように
悪人か善人か、頼朝には判断もつかなかった。彼はただ
けれど、そう恐れはしなかった。尼寺に落ちついて、我に
(青墓へ行けば、父義朝がいる。兄たちがいる。郎党どももいる)
道が北側から山を越えて南面へ下がると、少年の心も南向きの明るさになった。時々思い出されるきのうまでの都での
幾日か経て、青墓へ着いた。宿の長者
「さてこそ、あなた様は」
と頼朝の
それまで、鵜匠の肚を、疑いぶかく警戒していた頼朝は、非常にすまない顔して、
「……あ。世尊がいた」
と、つぶやいた。
やがて、大炊の門を訪れてみると、門は閉じてあって、
「義朝の子、
と、たずねると、やがて奥まった屋の内から、
「あな」
とばかり
大炊の娘、
「おいたわしい」
と、彼女は涙にくれていたが、頼朝はこの女性が父の何であるかもよく
けれど、その後で、
「お父君には、ここを去って、
と、聞かされた時は、それまでの無表情を破って、声をあげて
頼朝が泣きやまないので、延寿の父親の
「そればかしの事で悲嘆にくれるようでは、この先、どう生きてゆき召さるか。
と、叱った。
そして、
「まだまだ
と、語った。
悲命の最期をとげたのは、
頭殿は、ここへ着いて、すぐ再び尾張へ向けて立つ
(もうだめです。名もない平氏の地侍などに、恥ずかしい死目に会わされるより、父上の手にかけて殺して下さい。それを楽しみに苦痛をこらえて戻って来ました)
頭殿には、それを聞くと、
(おまえも義朝の子である)
と云って、手ずからわが子の首を斬り落したのであった。
また、長男の義平のほうは、
(かかる上は、ただ一人でも、敵の清盛か重盛か、
と思い定め、
泣き
もう泣いていなかった。
泣け、といっても泣きそうもない顔していた。かえって、
「おわかりかの」
と、大炊は泣き
「源家の正しいお血すじと云っては、もはや
ついつい洟をかんだり眼を拭いたり、しどけなく独り語っていたが、大炊がふと、
頼朝は、
「もう泣きたくありません。皆様も泣かないで下さい」
と、云った。
そして、少し
「父よ! ……。
春もまだ浅い関ヶ原あたりの道をぽつねんと歩きながら、頼朝はうつつに時々さけんでいた。雲を仰げば雲の彼方に父やあると思われ、山を見れば山の彼方に兄やあると思われた。
「ない。誰もいない」
そして自分は十四になった。天下の
頼朝は、道で行き会った。
しかし、うつつな彼は、近づくまで何の
少し端へ寄って、街道の樹の
「はて?」
宗清は小首を
頼朝も、彼の方を見ていた。
「
宗清が馬上から呼ぶと、供の中から
「はっ。ご用ですか」
と、側へ駈け寄った。
宗清は、鞭を指して、
「あれに
と、云った。
「はっ」
と、藤三は、
宗清は、鞍の上なので、すぐ行方を見つけ、
「あっ、並木の堤を跳びこえて、彼方へ逃げおる! 追えッ」
にわかに、烈しく命じた。
藤三を初め、侍たちがわっと
宗清は、手荒にすな、と制しながら、大地へ
「
と、訊ねた。
頼朝は、後ろ手に
「わしを起たせてくれ」
頼朝の乞いに、丹波藤三が、
「起たんでもよい。そのままにてお答え申せ」
と、云うと、
「いや、望みのようにしてやれ」
と宗清の言葉だった。
藤三が頼朝の襟がみをつかんで、起たせてやると、頼朝は、地に
「馬を降りよ」
と、責めるように云った。
「――わしは、平家の地侍などに、馬上から物を云わるるような者の子ではない。問う事があるなら、馬を降りて云えっ」
「お名まえを仰っしゃい」
と、優しく云った。
彼の郎党たちは、たちまちの間にそこらに立った町人や旅の者や女子供などの人だかりを追い払っていた。
宗清の意外に優しい訊ね方に、頼朝はちょっと差し
「わしは、
と、尋常な声で答えた。
学僧には若い人が多かった。
わけて、この京都
「
「樗の木とは」
「五条の獄舎の門前にある巨きな木だ。義朝の首がさらしてある。後からまた、子の義平の首も並んで
訊かれた者は、
「いや、見ぬ」
と、眉をひそめた。
すると一人が、
「いや、おとといからもうないぞ。いつのまにか、
「盗んだのじゃろ」
「誰が?」
皆、眼をみはる。
「云うまでもない。源氏の残党がじゃ。朝夕、六条の館に伺候し、頭殿と仰いでいた一族だったら、見ていらるる事か」
「そうよな」
あわただしい時勢の変相が、
「罰じゃよ。天の刑罰だ」
抛って投げるように、誰かが
「何でそう云うか」
と、詰問する者がある。
「――何でと問うも
「あれは義朝が殺したというよりも、清盛その他の平家が殺させたのだ。朝議ですでに
「いや、何といおうが、最初に上皇へ献策し奉って、合戦の口火を切ったのは、義朝ではないか。敗れて、上皇には
「待ち給え」
論議の相手は手をあげて、
「君の云うのは、人道論だ。もっと
「何をいう、
「そういえば、義朝は非人道の人間に聞えるが、生涯に
「君はまた、平家方を
「感情でいうわけではない」
「そう聞える」
周囲は、そこへ笑いを交ぜて、
「もう止せ」
と云ったが、一方の雄弁家はなかなか口を
「いったい義朝という人は一箇の武弁に過ぎないのさ。それが政治的な
平家源氏を問わず、ゆめ、うわさ話をしてはならぬ。また、大臣や長者を呼ぶに、たとえ誰が聞いていなくても、よび捨てにする法はない。謹むべき生意気沙汰であると、常々かたく学頭から訓戒されているが、若い同士が集まると、いつかそんな事は忘れていた。
「……おや?」
そのうちに一名がふと、聞き耳を
嬰児の声は、
だが。
深夜ではあるし、
嬰児を怪しむのではなく、当然それに
「誰か、この
などと、
「――見て来ましょう」
すると。隅の方からやがて立って行く一人があった。
「
室内から呼び返されて、
「はい」
光厳は、顔と半身を見せた。
いつも病身らしく黙りこくって、灰のように無口でいる若い堂衆である。年もまだ十七、八歳でしかないので、古顔の
「おまえ、見届けに行くのか」
「はい」
「何だって、急にそわそわして、見に行くのだ」
「でも、気になりますから」
「さては、子連れの女を、寺内に
「…………」
光厳の顔いろが青くなったように思われた。
けれど、とたんに大勢の学生たちが、声をそろえて笑ったので、
「いいえ、
と、真面目に云い訳する光厳の
「何でもありません」
と、一同へ報告した。
「何でもないとは?」
意地悪く一人が問うと、
「はい、
と、
「わははは」
「あははは」
多分そんな事かも知れないという考えもあったので、よけいな心配や臆測を描いていた

それを
「眠ろう」
「どれ、寝るか」
ぞろぞろ立って大きな
終りに、
遥かな夜霞の底に、加茂川の水だけが、薄氷でも張っているように白かった。
「
音羽の滝も
「お寝みですか。常磐さま。……ぜひ、まいちど起きて下さいまし。
産寧坂の上である。音羽の山を背に負っている。光厳はあたりを怖れながら、子安観世音の御堂の
「はい。……ただ今」
御堂の中で答えがした。
低い声であった。けれども
静かな
それからして、そもそも、怪しまれてよい事であった。だから、光厳は、外に
「
光厳に
「はい、はい。今ほど」
次の返辞は哀れなばかりうろたえて聞えたので、光厳は気の毒やら済まない思いやらに堪えかねて、
「おそれ入ります」
と、つけ加えた。
それと共に、御堂の扉が、そろりと開いた。
けれど、一足ここに入ると、誰もすぐ遠い昔の自身を思わずにいられない甘い匂いにくるまれた。それは人肌の温かさすら感じられる
「やっとお
ちょうど観世音の
「ええ。よいあんばいに」
明けて二歳になったばかりの
「ああ、
光厳は、云い出す急な用向きも忘れて、もう一枚の
ことし
変れば変る境遇と、光厳は胸が迫ってくる。無常ということばは自分等が説法や雑談にも、余りに云い馴れて平凡な感じしか湧かない語であるが、
この三人の和子は、人も知らぬはない、きのうまでも、源氏の人々から弓矢の棟梁、一族の長者と仰がれて、
それにまた、母なる人も――
幼い時から九条の
十四初めて
光厳は、それやこれ思うと、何も云い出せなくなって、泣きもせで自分の前に坐っている常磐の瞼が、むしろ不思議にすら思えた。
かくては――
と、光厳は心を鬼にとり直して急に云い出した。
「常磐さま、追い立てるようですが、もはやこの御堂も安全ではなくなりました。和子様の泣き声が、
「無理はありません。あのように泣き出すと、火のつくような声ですから」
「学寮の若い人達が、今夜も怪しみ合って、危うく
「ご心配をかけました。ぜひもない事です。ほかへ立ち去ることにいたします」
「
「いえいえ、
「なんの」
光厳は、かえって辛そうに顔を振って、
「
「…………」
常磐のふところに抱かれている
念じるように見まもっていると、よいあんばいに、牛若はすやすや
「――ですから、
「わかりました。夜の明けぬうちに、そっとここを立退きまする」
「……ざ、ざん念です」
遂に、光厳は、それまで
「わたくしが、病弱な
病骨の体ほど、かえって、若い血が烈しく
「みすみす、行くあて
光厳はそう訴えると、男泣きに床へ泣伏したが、常磐の
二月も近い空の寒々と夕冴えした
吹き寄せられた水鳥のように、伏見の船戸の津には、小さい
旅人をのせて
こうして見ると、河の上にも春秋の運命があり、その日その日の
「お世話になりました。お情けで子たちもこのように、元気づいて参りました。
ここも水の上。
狭い
うら若い
――まあ、お可哀そうに。
と、

清水寺の観音堂を出てから幾日幾夜、常磐は、われながら、
――よくぞ生きて。
と思われる日を送って来た。そして、こういう境遇になってみると、自分が生れながら
そうした
常磐は、日頃も思う事には。
雪の日は和歌に暮れ、月の夜は香を聴き、花の昼も恋の何のと、
(あれ見よ、やぶ椿が、
などと、以前の友やら身寄りやらに、
まったく、娘ごころも知らぬ間に――であった。
だから元より、和歌の道とか、香を聴き分ける事とか、そういう

女の二十三。
早くも七ツを頭に三人の子を持って、彼女は、育児の事と、頭殿の愛から見離されないように――念じるの余りに勤める朝夕の化粧としか、常日頃から思いもなく暮して来た。それが精いっぱいの毎日であった。
今日となって、今のわが身を顧みると、悲命な姿にはちがいないが、でも、もし自分が、幼時の貧しい辛い生活も知らない深窓の生れであったら、
いやその前に、この三児を、六波羅の手へ渡して助かる気になろうも知れぬ――と、常磐は顧みて思うごとに、貧賤であった
常磐が、暇を告げると、白拍子の
「では、お気をつけて」
と、止めなかった。
昼の人目を怖れている容子で、およその身の上は察しられていたからである。
抱かれたり、手をひかれたり、
「お坊ッちゃま。また来なされよ。尋ねる先のお家が知れなんだら――」
眼を
「……おさらば」
常磐は、岸から舟へ、ていねいに頭を下げた。
人はみな泣いてくれる。
そのために、一椀の
ただ、舟を去る時には、ふと
(何処に……)
とにわかに胸へせぐり上げて来たからであった。
それも案外、
これから尋ねてゆく
今では、
「いけないっ」
「いやあん」
「母さま! 乙若が」
「うそだあい」
「お出し」
「うそ。うそっ」
ふいに走り出した幼い兄弟が、何を争い始めたのか、彼方の道ばたで、取っ組まぬばかりに、大声をあげていた。
うつつな――ともすれば、うつつとなって考えるともなく考え事に
「これ」
と、小走りに近づいたが、今若も乙若も、喧嘩を止めないばかりか、
「おお、よしよし……よし」
こんな所へ、もし平家の侍や宿場の
「今若さま、これ今若さま。お兄様のくせにして、何を遊ばしますぞ。幼い弟御様をば、そのように打ったりして」
懐には、乳をふくませ、声のない歌拍子に、足をうごかしながら、
「だって。――だってね、お母あ様」
兄の今若は、一本の
「乙若がね、お母あ様、あそこの百姓の家に干してあったこれを……」
「どうしやったのかや」
「黙って、取って来たんですもの。人の家の物、黙って取って来れば、盗人でしょ。――お母あ様」
見れば乙若は、兄の今若が母へそんな告げ口をしようが、耳になどかけず、小さな口を大きく開け、串柿を横ざまに持ちこんで、他念なくむしゃむしゃ咬みついているのだった。
「まあ、和子さまの浅ましい……」
とは嘆いたものの、常磐は、叱る気にもなれないのみか、
――無理もなや。
とさえ
事実、彼女自身さえ、「甘味」を思うと、
「乙若さま。お独りで喰べていないで、お兄様にも、その干柿を分けてお上げなさいませ」
常磐が云うと、
「喰べる?」
乙若はもう自分の欲望は足りた顔つきで、串を二つに折り、その半分を兄へ出した。
「いらない……」
「わしは源義朝の
八歳の今若には、もう自分という者の自覚があった。日頃の庭訓も
常磐は、
「そう仰っしゃらずに、今若さまも貰うてお上げなさい。――弟御様が、黙って持って来たのは良くない事ですけれど、和子達はまだ、物を買うという事はご存知ないのですから無理はありません。串柿を持って来た農家へ戻って、その
常磐は、髪にさしていた一本の
兄弟は、
「さあ和子さまたち。柿を喰べたらその代りに、こんどは仲よう歩いて
励ましながら、
すこし大人しくなったかと思うと、
「嫌だ。嫌だ」
と、地べたへ坐って、泣きじゃくッてしまうのである。
やや聞分けもあると、力にしている今若も、まだ
――
と母に
「もう、どうしょうぞ……?」
子達のそうした姿を眺めると、常磐も坐ってしまいたくなった。ひと思いに、和子たちの喉笛を突き刺し、自分もここに死なんかと思った。
死。
それは絶え間なく襲って来る甘い誘惑であった。今の彼女に、死ほど安らかですぐにも行けそうに思われる所はなかった。そこには、恋しい
けれど彼女は、
「
と、何の苦もなくそんな迷いを否定し去った。強く生きる気もちをすぐ持ち直した。乏しい
ここらはもう
宵を過ぎると、野良犬の声ばかりだった。
ついそこらの
「誰じゃ。
この部落では、今、物持といわれている
声と共に、横窓の
「
と、召使を叱りつけた――それは老女の
「おお」
燈りを見たので、門の辺りにさっきから
「伯母さま! ……。もしっ、もしっ……伯母御さまえ……今のお声は伯母御さまではございませぬか。京の常磐でござりまする。子たちをつれて、ようやくここまで、
さけぶ間にも、乳のみの牛若までが、泣くのであった。
事々しく訪れては、近所の家の耳へも悪かろう。
「今若様よ、今若様よ」
「あい」
「そんな所へ寝てしまうでないと、弟御様を起してよ。――そしての、お
「睡かない。お母あ様、ここは誰のお家」
「母がお親しい身寄りのお方じゃ。よも、
今若は、小さい手で、門の戸を手の痛くなるほど打った。
果ては、押したり、垣を揺すって、
「開けてたも。
と、絶叫した。
牛若が、泣きやんだので、常磐も共に、
「もしっ……伯母御さまえ。ご迷惑でも、ここばかりをお力と、
もう声も
すると、垣の横側のほうから、のっそりと近づいて来た人影がある。
「お前どもは、どこの衆か知らんが、むだな事よ。此家の旦那さまは、京都におざるし、お内儀には、遠国へお旅立ちで、わしら、召使の者のほかは、誰もおりはせんがな」
そう云って、じろじろ眺め、
「こんな所で、吠えたり泣かれたりしておられては迷惑じゃ。さあ、とっとと立ちなされ。――
「…………」
生涯忘れようとて忘れられまい――そういったような眼で――常磐はその男の顔を見、此家の戸を見つめていた。
「去りまする」
召使の男の足もとへ、彼女はしかしそう詫びて
「さ、和子さまよ。起って
ここへ来るなり睡たさに、小犬のように垣の根に眠ってしまった乙若を揺り起して、三人の母はまた、まだ
その翌朝である。
「今、戻ったぞ」
牛飼頭の鳥羽蔵は、久しぶりに家に帰って来た。
帰って来るなり、
「温かい物を腹いっぱい喰いたい。湯なども沸かせ、
と、足腰を伸ばした。
彼の妻や家族たちも、
「よう、まあ達者で」
と、過ぎた正月をし直したいばかり
「ええ
喉を鳴らして、鳥羽蔵は、杯を手から
「何せい、おらの仕えているご主君がよ、目先の見えぬ馬鹿な戦をおっぱじめ、たんだ一日の間に、六条のお館は灰だし、一門は
日頃、牛いじりしているせいでもあるまいが、牛の如く
「そう云えばの」
似た者夫婦の牛の妻が、思い出したように告げた。
「六条の
「えっ、常磐が」
「いつ? ……。いつだ」
「ゆうべ
「で。そ、そして――何処にいるのか」
「家の内へ入れなどしてなろうか。固く戸を
「追い払ったと」
「縁のつながりだけに、なおさら怖ろしい。留守というて、召使に追わせたのじゃ」
「ばかっ」
「……?」
「たわけ」
「何でいのう」
「ええい、智慧のねえ奴だ。せっかく
罵りながら、もう起って、たちまち脱ぎすてた衣裳や太刀を
「ここを追われて行ったからには、
ひどい意気込みなのだ。彼の妻でさえ、その肚は
深草村から大和路の方へ、彼は急ぎに急いでいた。追いつけずに見失う事よりも、無力な常磐
鳥羽蔵の懸命が、ついに、常磐の姿を見出したのは、その夜も過ぎて翌日の
路傍から少し横に這入った杉林の中の氏神の縁に、彼女は、疲れ果てた二児をなだめ、牛若に
「おう、いたか。……姪よ、無事でいてくれたか」
鳥羽蔵は、そこへ駈け寄るなり、さもさも胸いっぱいの情愛を洩らすように呼びかけ、そして、無心に母の側で遊んでいた乙若を、
「和子様も、ござったの」
と、いきなり抱き上げた。
きゃっ――と乙若は叫ぶし、常磐もその不意にびッくりして、身でも斬られたような声を出した。
驚いたのは、悲鳴をあげた
「黙りなされ、黙りなされ。なんでそんなにお泣きやるか。この小父さんは、和子さまたちのお味方じゃ。和子さまたちの父君、義朝様のご家来じゃがな」
と、乙若を手から放し、母の膝へ返して、
「
と、
常磐は、ようやく胸の
「
「そうか。――いや無理もない、その子連れで、これまで落ちて来るには、さだめし容易な事ではなかったろう。何とまあ、
鳥羽蔵は、そら涙を拭くまねをして、
「さてさて、嘆かわしいとも無念とも云いようはない。世も末とはこの事か。ご一門の後を追って、俺も追腹を切ろうかと一度は思ったが、何としても、何としても
「では、伯父様には、わたくし達を、探し歩いて――」
「探したの何のと云って、洛内洛外はおろかな事、いやもうひどい
「…………」
「知っているか、常磐」
「はい。伝え聞いております」
「義平様、朝長様、その他のご一門も、毎日のように、六条河原で首斬られた」
「…………」
「聞いているか」
「おりまする」
「……常磐」
「はい」
「
「悲しいなどという事は、もっと世にありふれた場合の事でございましょう。涙も忘れました。ただ今の私には、この三人の和子さま方の母だという事しか考えられませぬ」
「さ。そこでだ」
鳥羽蔵は、息を
「それなら、おまえの母親は、どうしているか、知っているか」
「存じませぬ」
「六波羅に捕まっているぞ」
「……?」
「夜ごと日ごと、問罪所の
「……ほ、ほんとですか」
「嘘な筈があるか。都では隠れもない取沙汰だ。かあいそうに、あの年よりが、一枚一枚、手足の生爪を
「…………」
「
「…………」
「え。どうする考えだな」
「…………」
「常磐」
「…………」
「
鳥羽蔵は、うろたえ出した。
聞くうちに顔の血の気も失せて、紙より白く見えたと思うと、常磐は、眼をふさぎ唇をかんで
その胸の下になって、牛若は泣き脅えるし、今若、乙若のふたりも、母よ母よと、抱きすがって声も
九条の
そこへ、彼女と幼い子たちは、大和路から連れ戻されて来た。
伯父の鳥羽蔵の言によれば、自分が自首して出ないかぎり、六波羅に捕まっている老母は、日ごと夜ごと、地獄の責苦にひとしい拷問にかけられていようとある。――そう聞くだに、今は身も世もなく、最後の覚悟をきめたのであった。
「
女院の召使たちは、時の大問題が、
「おお、
「あれが、義朝殿とのあいだに
などと聞き耳を
それよりも。
女院をはじめ、
「ようぞ、しやった」
と鳥羽蔵は、その働きを女官から賞めそやされた。この事件に
「見張りを厳しゅう頼むぞ。刃物など持っていたら、
などと寝食も忘れた眼いろして、やがて常磐を一室に監禁して、これでよしと見定めると、
「六波羅へ行ってくる」
と、御所の者に云い残し、気負い込んで出て行った。
それは二月十四日の
九条の女院へ、彼がふたたび姿を見せたのは、その翌日の
壺の梅が、咲き匂っていた。呼び立てられて、常磐が何気なくその庭ごしに
「早くいたせ」
とか、
「中門まで駒を入れよ」
とか、また――縄をかけるには及ぶまいの、いや縄目にかけろのと、問罪所の武士同士で、云い争っている声もする。覚悟はしていたものの、さては迎えかと、常磐は、乳のあたりを刃もので突き抜かれる思いがした。
すると、後ろで、
「姪よ。さあ行こう」
部屋の口へ立った伯父の鳥羽蔵が、もう
「……はい」
答えたが、意志を打っても、常磐は身がふるえてしばしは起てなかった。しかし、瞬間が過ぎると落着いて、
「しばらくお待ちくださいませ」
と、
「お母あ様。どこへ行くの」
「六条のお家?」
今若も乙若も、そこへ来て、鏡の中の母をのぞいた。母が化粧する姿を見るのは、子達も、幾十日ぶりか知れないので、急にはしゃぎ出したのである。
その間に。
院のお側近う仕える女房たちから、この日の騒ぎ事が、お耳へつぶさに聞え上げられたものであろう、九条院のお慈悲なり――とあって、
「
と、女官を通じて、特べつなお扱いが下ったので、迎えに来た問罪所の捕吏や武士どもも否み難く、
「然らば
と呶鳴っていた。
常磐は、鏡をたたみ、
「
静かに、支度のすんだ旨を外へ告げた。
女は女同士。さすがに、彼女がここの雑仕女から玉の
「まあ、あの和子さまたちの、
「何も知らず、母
「
「かあいそうに」
「見るだに胸が
などと、
そうした中に、ただひとり泣かない者は常磐のみであった。
中門の外まで立ち出ると、待ちかまえていた武士どもが、荒々しく急きたてたが、
「それへお坐り遊ばせ」
と、子達にも教え、自分が大地へ坐って見せて、
「――では、お慈悲のお
母が両手をつかえたので、今若も乙若も、ふかい意味はわからないが、手をついて、
「さようなら」
と、御所へおわかれを告げた。
「おお、ようなされた」
起つと共に、裏門へ通じる道の
それは
常磐は、子を抱いて、破れ輦の内へ
「急げよ」
と、牛追を、追い立てた。
鳥羽蔵は、つい先頃まで、六条殿の牛飼宿の
「おれに貸せ」
と、自身、
揺るるたびに、前御簾の裂け目から、常磐の白い顔や、その膝にとり
いつ聞き伝えたか、
「あれよ、常磐御前が六波羅へひかれて行く」
「六条殿のお子もか」
と、往来に群れて指さすもあり、輦についてぞろぞろ指さしながら来る
「…………」
常磐は眼をふさいでいた。
その間とても、乳を吸い止まぬつよい
紲の中に、彼女は、まだ生きている身心地を持っていた。
非常なご機嫌である。
かなり悪い事つづきで、一族が眉を曇らしている時でも、およその事は、
「ばかな。何を
と、陽気にしてしまう清盛が、わけてもこの頃はご機嫌なのであるから、六波羅一
それと。
清盛を始めとして、ここに住む平氏の一族たちは、その郎党の端に至るまでが、
「われわれの力でなければ、時勢はうごかないのだ」
という自信を新たにした。武家自体の力というものを知って来たのである。
こんどの平治の乱を境としてである。あの戦火の中、
「前例もない
と、六波羅武士の誇りを
源氏といい、平氏といい、今日までは、
その上、同じ弓取の源氏という一派の勢力までが、去年の
だから武門といえば、地方の
平家の
そう云ってもいいこの正月だったのである。
その隆運の気は、この六波羅の地相にも、まるで、
北は、六条松原から。
南は、七条のあたりまで。
そして、東と西は、加茂の河辺から山の尾根までを抱き、小松谷の山ふところには、
一族の館のほか、時の勢いで、ここはそのまま政治を評議したり、庶民の訴訟を裁いたり、租税を
いや、一応は、そうしなければ統治がつくまいと、清盛は、もう、
なぜならば。
久しい間、藤原氏が
藤原
それ以後の、またその
清盛は、今年、
「たとえ、自分が権を握っても、藤原氏のような馬鹿なまねは、おれの子孫にはさせんぞ」
と、独り年頭に自粛自戒して、ふかく
彼は、明けて四十三歳の、男ざかりであった。
その清盛はきょうも、朝廷の出仕からたった今、
しきつめた
「おさがりです」
「ご帰館」
と、館の侍部屋といわず、奥まった女たちのいる
「やあ」
大きな声をして、窮屈さを放つように、清盛は、出迎えの一統にそういうのが癖なのである。
車の
「大儀」
ひょッこり降りる。
小柄な体なのである。そのくせ
(威張りおる)
と、反感を
けれど決してわざとでない証拠には、
(もちっと
と、むしろ彼が余り容態に無関心で、威張らないことを時々、
時には、君子風の嫡子重盛などからも、
(お父上は、どうしてそう
と、たしなめられたりするくらいなのである。
しかし、持ったが病というか、清盛は自分で意識しても、むかしの貧乏育ちのくせと、書生気のような無造作が直らなかった。
それも、
正三位参議という位階は、武人として決して低いものでない。しかも、その勢威の衆望は、実際において、源氏全滅の今日では、彼と対立する何者もいないのである。雲上には
(もそっと、
と、望むのであった。
がらは小さいが、声は大きい。彼は大股に館の奥へ、歩を運ばせながらも、何かしゃべってゆく。
「後にせい」
とか、
「待たせておけ」
とか、
「追い払え」
とかいう
公卿の訪問客が多いのであった。ふしぎな現象である。朝廷へは常に出仕しているので、そこで会えばいいに、私邸を訪ねて来るのが多いのだ。
殊に、先頃の乱に、源氏が一敗地に
「やれやれ」
清盛は、平服に
上皇の院政を支持する公卿と、天皇を
「久しいこと、お帰りをお待ち遊ばしていらっしゃいます。これへご案内申しあげましょうか」
近侍は、頃を見て、清盛へそう訊ねた。彼の義母にあたる池の
「なに。尼公が」
清盛は、小首をかしげた。
何の用か、思いよりがないらしい。同じ六波羅の池殿に、余生安らかに住んではいるが、めったに
「ま、会おう。これへご案内には及ばぬ。わしの方から出向くのが礼儀だ。……
終りは独り言のように、ちょっと
彼は自我のつよい、吾儘ものと
貧乏の味を、
よれよれな
(嫌だな嫌だな)
と思いながら
(またか)
と、顔をしかめられ、
(もう来るな)
と、厄病神のように、
(おお、これで今日明日の
と、父も母も、無念とは思わず、かえって随喜したりした頃の――みじめ極まる家庭に
で、父忠盛の死後も、自分には継母にあたる池の禅尼であったが、仕える事は、
「清盛です。今帰りました。……どうも近頃は忙しくて」
彼は、禅尼の待っている
「お、ほ」
禅尼は、恐縮する。
あまりに手軽いので。
けれど悪い気もちでなかった。義理の子ながら良い子をもった倖せを思うのである。
老いても、なお美しい眼元を細めながら、
「おつかれであろ」
と、慰めた。
「いや、体の忙しさは、病身な父などとちがい、清盛は頑健ですから、何ともいたしませんが、どうも分らずやの公卿を相手に、半日、
「
「宮中で呶鳴りましたからね」
「せぬがよい事でしょう」
「自分でも
と、笑って、
「時に、何かご用ですか」
「折入っての」
「……はて。母御前から折入ってと申しますと」
「義朝の子のことじゃが」
「義朝の」
「
「ムム。義朝の三男、
「そうじゃ」
「それを……?」
「斬れとの仰せなそうじゃが、慈悲じゃ、助けてあげて下さるまいか」
清盛は、すぐかぶりを振った。親に遠慮はないという
「嫌です。いけません!」
「いけませんか」
「成りません」
「どうしても」
「母御前などが、お口をさし出す事ではありませぬ」
「…………」
「…………」
禅尼と清盛とは、それなり口をつぐんでしまう。気まずげな沈黙がいつまでもつづく。
「ぜひもない事よ。……
ため息と共に
清盛は、むっと色をなして、
「また、おひがみですか。父の忠盛が生きていたとて同じです。いや清盛としては、父君がすでにご他界だけに、なおさら、あなたのお頼みとあれば、たとえ
「和殿も、弓取の子ではなかったか。きょうの人の身、あすのわが身」
「だからです。
「そのような事を、尼は嘆くのではありません」
「では、なんですか」
「
「また。仏法の因果ばなしですか」
「和殿にもはや、沢山なお子があろうに」
「武門の子等ですから、武門のならわしに育てます」
「とはいえ、もし和殿のお子が、今の義朝の子のように成り召されたら、親として、どのように思わるるか」
「あはははは」
「笑い事ではおざるまいが。
「母御前よ」
「なんじゃ」
「あちらの女どもの
「お
「そうですか」
先に立って、
「では、
遠くの屋に、
禅尼を見送ってから、清盛はひとり橋廊下の角に佇んでいた。東山いったいの眺めは、ここの館の為にあるようだった。北苑を見やれば、加茂の川岸まで、
ぽーん
ぽーん
うららかな音がする。公達たちがまた、
三男の宗盛やら、従兄弟の
「――馬鹿あっ!」
正月このかたのご機嫌は、とたんに一変していた。侍側の家臣も、胆をつぶした。恐らく清盛の頭には、池の禅尼のことばでも、思い出されていたのではなかろうか。
「弓でも射よッ。馬にでも乗り馴れろっ。わいら、公卿の子か!」
乗馬が汗をかいている。
五条松原の末を出端れると、馬場があるから、そこで一鞭当ててきたのであろう。人間ばかりではない、馬もすこし
「やあ」
「おう……」
行き
「
と、口取の小侍へいう。
「はい」
「きょうはまた、わけても多く、ご一門や公卿方が通るの」
「きょうには限りませぬ。いやもう世の中は、正直すぎるものです。源氏滅亡と見えたとたんから、六波羅御門は、牛車、お馬、
「横へ曲がれ」
「裏通を参りますか」
「閑寂でよい」
「
徒然草に見える
やや行くと、池があった。
「脚を冷やしてやれ」
宗清は、池の
「はっ」
と、藤三はすぐ
つよく乗った後では、こうして馬の
一頃は、この池も、源氏の武士と馬で
「藤三、後から曳いて、厩へ入れておけよ。――先へ参るほどに」
宗清は、
――にも
「何も、変りはないか」
宗清は、門衛の兵に訊く。
「ありません」
兵の答えにうなずいて、宗清はずっと通って行った。中門にも、兵が
「お帰りなされませ」
「むむ」
奥ふかい一室まで、彼はそれを提げて通った。
「
云うと、室の内から、
「
と、まだ年少な声がした。
関ヶ原で捕えられて先頃からここに
頼朝は円座を
ふっくら
「ご退屈でしょう」
弥兵衛宗清は、
頼朝は唇元に、
「いいえ」
静かに、かぶりを振る。
そのふさふさした黒髪が、何とはなく、宗清の眼に
髪ばかりではない。
きょうの
「なにをしていらっしゃいましたか。今日は――」
「お借りした唐の
「史記と、詩書と、どちらが面白うございますか、どちらがお好きですか」
「詩文はつまりません」
「では、李白や白居易の詩を読むよりも、支那の治乱興亡の書いてある史記などのほうがお心にかないますか」
「え……」
うなずきかけたが、宗清の眸を見て、急に頼朝は口をにごした。
「好きといっても、そんなにも好きではありませんが」
「じゃあ、何がいちばん、読んでお心をうごかされますか」
「…………」
しばらくは答えない。
聡明そうな眼を、つぶらに見はったまま、考えているふうである。室内は香のにおいに湿っていて
「――お
やがて、宗清の問いに、あどけない顔して、答えるのであった。
「仮名がきのお経文がありましたら、こんどお貸しくださいまし」
「はて、
「亡き
「それで……」
「え、それで、いつのまにか、お経文を解いたおはなしを聴くのが、いちばん好きになりました」
と、うつ向きながら――
「わたくし……。もしかして、首斬られずに、生きていられたら、
と、云った。
宗清は、室の一隅にある小机に目をとめた。
まだ十四歳の童子の言を、いちいち奥底ありげに疑って聞くのは、大人のわるい癖であり人間の
「佐殿。お目なぐさみにと、馬洗い池のそばに咲いていたのを、一枝、
宗清は、縁の端から、それを持ち直して来て、枝ぶりを示しながら、頼朝の手へわたした。
「アア」
頼朝は、口を開いて
いかにも、少年らしく、
「もう、咲いているんですね。外には」
「あれに、銅器の
「自分でやります」
よほど
「いい匂い――」
と、花の香を
「弥兵衛」
「はい」
「もひとつ、お願い事があるのじゃが」
「何ですか」
「きき入れてくれるか」
「仰っしゃってご
「小刀と木切れを賜わるまいか」
「小刀を」
「さればよ、
「……ああ。はや左様な日数になりますかな」
宗清は、あわれに思い、
「
と約束した。
そして自分の部屋へ退がってから、郎党の丹波藤三に、小さな卒塔婆百本を調えさせて、頼朝の牢屋へ持たせてやると、頼朝は非常に満足のていで、
「忘れおかぬぞ」
と、恩に思う由を、藤三の口からまた、伝えてよこした。
「何せい、ご
密かに宗清は
禅尼は大の仏教信者だし、それに慈悲ぶかいお人とはかねがね聞き及んでいるので、数日前に主人の消息を
(あわれな者よの)
と、涙さえうかべ、
(
と、それからそれへと聞きたがるので、宗清は自分の思いのまま話すと、
(そうか)
と、深く息しておられた。
するとその翌日、日ごとに詣る寺院の帰り途とかで、ふいに子の頼盛が留守屋敷に立ち寄った。
元より
(この尼が、十七年前に
とはその後、宗清が泉殿へ伺った時の禅尼の述懐であったが、さらに、
(かなわぬまでも、頼朝の命、何とかお救い賜わるよう、清盛どのへ尼よりおすがりしてみましょう)
とまで云われた。
それを頼みに、宗清は、きのうも待ち、きょうも待ち、すでに死罪打首の日どりは、この月の十三日と、日まで内定しているのも――まだ頼朝へは申し渡さず、ひたすら禅尼からの吉報を心待ちにしているのだった。
待ちきれずに、宗清は、そのあくる日、泉殿へ伺って、禅尼へお目通りをねがった。
禅尼は、宗清が切り出すまでもなく、用向きを察して、
「どうしたものぞ、尼の力ではもはやお
と、打ち
そして、頼朝の首斬られる十三日にも、はや間もないが――と、落涙さえして、清盛の無情を
「いやいや」
宗清は、
「清盛様が、無情なお人だなどとは、世評のことで、実は、涙もろくて情には極くお弱い方にちがいございませぬ。――が、それではご一門をひいて、なお、大きくは天下の
「……じゃが、今度ばかりは、尼がどう
「ひと筆、
「文か」
「はい。小松殿へ」
禅尼は、眉をひらいて、
「そなたも、そう思うか。尼もこの上は、小松殿のお力をかりるしかないと考えていたが」
「宗清が、ひと走り、お使いに立ちまする」
禅尼はすぐ手紙をかいた。
それを携えて宗清は、程近い小松殿――清盛の長子
文を見て、重盛は、
「承知した」
と、云った。
そう難しくない顔に見えた。
「何とぞ、お力をもちまして」
と宗清はつい、わが子の
「もし助命の儀、六波羅様にお聞き入れない時は、この十三日の打首の太刀取は、てまえが望んで、勤める所存でござります」
などと云い
「あんなよけいな事は、云わずもがなであった。頼朝を助けて欲しいと思っているのは、禅尼おひとりで、世間の侍どもや一般は、冷淡らしいとお取りになられたら小松殿のお考えも、自然、冷たくお傾きになろうもしれぬ……」
と悔いたりした。
従者もつれず、駒も持たず、宗清は
「弥兵衛。――まだ歩いておるか」
ふいに、
重盛は、馬上から云う。
「駒の口を取れ。ちょうどよい折。これから父上へ会いに参るが、途中、そちの案内で、幽所におる義朝の子、一目見て参ろう」
宗清は、
長縁を先に立って歩みながら、宗清は、
「おことばをかけてお
と、後から来る重盛へそっとたずねた。
重盛は、ことば静かに、
「その折の様子で」
と、云う。
頼朝のいる幽室へ案内して来たのである。
元より
春とはいえまだ夜は寒いのに、
「ここがお
宗清にささやかれても、重盛はそこの広縁に
頼朝は坐っていた。
円座に乗せている膝の
きのう宗清に乞うと、宗清に
「……?」
ふと。
人の佇んだ気はいに、彼は筆をとめて、つぶらな眼を上げた。
月光へ向けた眸が、らんと光って見えた。けれど広縁に佇んで自分を見ている人は、月を背にしているので、黒い影法師にしか見えなかった。
「…………」
今に何か、
「…………」
頼朝もまた、無言だった。
無理はない。宗清以外の者の跫音が来れば、自分を殺しに来た人ではないかと思うに違いないのである。
ややあって。
自分に害を加えに来た者でない事が分ったらしく、頼朝はだまって、重盛のすがたへ、
それに
「
「はい。寒からぬ程に」
「食膳は」
「魚類は、あがりませぬゆえ、その
「あの
「恐れ入りまする」
「義朝どのの
と、こんどは、頼朝へ向ってやさしく、
「おん身、幼いに似ず、よく供養なさるのう。亡き父殿が恋しいか」
「恋しゅうござります」
「死んだら会える。そう思うておられるか。死んで父殿に会いたいと念じられるか」
「そう思いませぬ」
「どう思う?」
「死ぬのは
「でも、おん身は合戦に出たであろが」
「戦の時は、ただ夢中でしたから……」
「生きたら、どうありたいと思うか」
「清涼寺へお弟子入りしたいとぞんじます。お坊さまになれば……」
筆を持ったまま、その
「ゆるせ。心ない事を訊ねた。……ゆるせ」
重盛は、顔をそむけた。その頬に一すじ、白いものが流れるのを月に見て、宗清はひそかに心を強くした。この
「ばかなっ。ばかな」
これは時々聞くことで珍しからぬことばだったが、
「――親に
という一
寝殿を中央に、左右の対屋から北の
夜もふけてゆくし、それがために一層、清盛の声は、耳だつばかりだった。
「重盛。おまえは子だぞ。わしの子だぞ。いくら賢ぶっても」
「はい。
「今のことばは何だ。親を無慈悲無情の
「羅刹などと父君を
「耳ががんとしておった。言葉じりなどとるな。わしはかっとする
「罵りません」
「面倒だ。枝葉はよせ。口では、そちに
「…………」
「
「が……父君」
「だまれ。待て」
押えてまた、
「子を観ること
「さればこそ、そこを
「何もかも、尼御前のせいにして云うが、由来、若いくせに仏いじりのみして、仏家の真似の好きなのは、そう云う和郎自身だ。――
清盛は赤くなって云う。云って云って云い
けれど、熱に渇いた
「そうです。父君のお察しのとおり、禅尼様ばかりでなく、それは私も望んでいる事にちがいありません。一門の将来と、父君の人望を考えるからです。前に
「何をいう。
「子への慈悲なら鳥獣にもある天性でしょう。何もお父君のみが」
「談義! やかましい」
清盛は、最後の一喝を放つと、両手で耳を
「わしはその慈悲人情が、あまりありすぎて当惑しておるくらいなのだ。申すなっ。もう申すなっ」
他人同士の好き嫌いとは元よりちがうが、わが子にだって嫌いはある。清盛は長男の重盛はどうも嫌いだった。
真っ
また、何かにつけ、仏法や
清盛は清盛の
おれも
どうか百姓万民のためにもよかれとやっているのだ。天津日子の
けれど、彼のそういったふうな我説も、それを一族群臣に云う時には、諸人皆、おそれ入って聴くばかりであるが、一箇の重盛に向っては、聡明なひとみから
もしその口を開けば。
重盛の
まして、清盛はまだ若い、――自分では若いつもりである。
ようやく、貧乏を脱し、人々を見かえし、他人が若い頃に通った青春を、彼は四十過ぎての今、迎え始めた気もちなのである。燃ゆるばかりの元気だった。途方もない大きな設計図を日本中に画いてみたり、そうかと思うと、小さい衣食住などに恋々として、何かにつけ慾というものが
物を喰うにもがつがつと飽食はするし、一族や子等の前でも、平気で女のはなしなどをやったりする。――ふと、その中に重盛が、浅ましげに眉を
――とにかく。そういう父と子であったから、頼朝助命の嘆願は、誰が考えても、重盛をおいて
重盛もまた、禅尼と同じように、梅寒き
その翌々日頃であった。
九条院のうちへ、三児を抱いて
常磐が捕えられて来たと聞いた日から、清盛はしきりと、
「今まで、どこにいたか。どうして
とか、
「子は連れておるか」
とか、また、
「
などと侍側の家臣や、折々見える問罪所の
問罪所からは、やがて彼女を取調べたつぶさな
すると、清盛は、奉行の仕方をひどく不機嫌に、
「かりそめにも、義朝の
と、その無情を
「わしが調べる。西の
と、意外なことばだった。
奉行は、その前に、頼朝に対する清盛の
「席を与えい」
清盛のことばに、侍が、階下の庭さきへ
「上へ。上でよい」
と、早口に云った。
――上とは? と疑うように清盛の顔を仰ぐと、
「はっ」
と、恐縮しながら、
「お上がりなさい」
と、常磐を
常磐は、顔を上げ得ない。
乳のみは無心だが、今若と乙若の二児は、二夜の
「仰せじゃ。上がられて、床の座をいただきなさい」
起たないので、奉行がまた促すと、常磐は二児をあやしすかして、ようやく、俯向きがちに広縁の端まで上がって坐った。
見も知らない怖い小父さんたちが、厳然と、清盛の左右に見えるので、今若も乙若も、母の膝へ爪を立てないばかりにしがみついていた。
「…………」
清盛は、その幼い者と、常磐の
初めて見る常磐ではない。九条院に仕えていて麗名の高かった頃から始終、
死んだ義朝といい清盛といい、お互いが女には眼の早かったものである。どこの
そして人の恋している花を、横から
が――今は。
余りな変りようである。清盛も感慨なしにはいられない
「乳は出るか。……乳はたくさん出るのか」
恐い人と噂にも高い六波羅殿である。その清盛の事だから、どんな激越な
――乳は出るか。
という質問が、最初に出たので、常磐も意外であったろうし、侍側や問罪所の諸人も、あっけにとられた顔して、黙り返っていた。
「…………」
片手に牛若を抱いているので、片手のみを床につかえたまま、常磐がかすかに顔を横に振ると、清盛はうなずいて、
「出ないか。さもあろう」
と、独り
「わしの母親も、貧乏の頃は、乳が出ぬので、悩んでおった。女親とは、愚かなもので、ない食べ物も、あるように見せて、
「…………」
「さすがに義朝を、うつつにさせた
彼の歎声は真実だった。
「常磐」
「……はい」
「
「…………」
「女どもが知った事ではないが、そもそもは、義朝の愚が清盛を幸いさせてくれたようなものだった。彼は、一個の武弁に過ぎない男で、清盛ほどの政略もないのに、公卿の政争に組したのが
「……も。……もしっ」
常磐は、必死にさけんだ。
「わたくしの
ことばの終るも待たなかった。まるで別人がどなったかと思われるような、
「図にのるなッっ。
「…………」
「あわれをかければ、すぐつけ上がる。女どもの憎い癖だ。そちは元より
その
常磐は、ひれ伏したきりとなっている。その黒髪を清盛は
「ちイっ、よしない事」
と、何か悔いたように、ぬっくと不意に起ち上がって、
「
役人たちへ命じると、耳でもふさぎたいように、首を振って、正殿の帳台へかくれてしまった。
下屋は長い廊を隔てて、裏園のはるか彼方にあったが、深夜に入るとそこからでも、乳呑みの泣くのが聞えてくる気がした。もっともそれは清盛の耳のせいかも知れなかった。
なぜならば、彼は夜もすがら眠りつけない容子だったからである。いっそ世間の底も貧苦も知らない家に生れていたら、こんな悩みもすまいと、清盛は思った。
いつになく、翌る朝、早く起き出でたと思うと清盛は、
「小松殿を呼んでこい」
と、侍者を走らせて、重盛を迎えにやった。
朝の光の
「どうかなされましたか」
「むむ……すこし頭が重い」
「おつかれが
「尼どのに、会ったのか」
「はい。いつぞやの儀で――」
「尼どのには、まだあの儀を、歎いておられるか」
「お諦めになりません。亡くなられたご実子の思い出やら、頼朝の事やら、話されたり訊かれたり、よくよくとみえて
「清盛を、無情者よと、恨んでおいでられたろうな」
「お口には出されませぬが」
「――重盛」
「は」
「前の合戦――
「無用にまで人を斬って、人望のよいはずはありません。信西入道からいつとなく人心が離れたのは余りに果断剛毅にすぎて、そこに涙というものが少しもなかったからでしょう」
「うむむ」
「今度の合戦では、信西入道こそと、憎しみの
「いや、仏者ばなしは止せ。そんな茶のみばなしではない。深く、ゆうべわしは考えてみたのだ。その信西入道の仕方と、世上の反響やその結果をな。……と、良くないわい。下策だ。人心をつかむ
「ホ……」
重盛は微笑をたたえ、ついうかと――お気づきになりましたか――と云いかけたが、父の性格は、他の忠言でするのを好まない。たとえ他の忠言で行うにも、一応、自分の考慮と意思から出たものとしなければ実行しない――その
「
と、
すると、清盛は、
「そうか。
「……えっ。では」
むしろその
「大慈悲心を起されました。禅尼にもそれを聞かれたら、どんなにお
「ひとつ孝行したの」
「ああ、
重盛も
さっそくにと、欣んで起ちかける重盛へ、
「あ。それから」
と、清盛はこれも至って簡単に云ってのけた。
「ついでの事に問罪所のほうへ自首して出た常磐
ゆうべ頼朝は、宗清からそれとなく、最期の覚悟を
「さあという時、恥のないように、いつでも死ねる心を、お胸にすえておくのが
「たいがい、大丈夫に、死ねると思っております。――こうして
常のような素直さで頼朝は云う。思いのほか動揺も見えないので、宗清は、いくらか安んじた。
頼朝は、今朝も起きると、幽室にぽつねんと坐って、何やら考えている顔していた。十三日は、その日であった。
「――今日は首斬られる日」
と、知っていた。
怖いようなまた、何でもないような――であった。
鶯の声が、今朝も耳につく。
と――
庭さきの陽の光の中を、その鶯の影が
「……来たか?」
頼朝の顔が、
「
宗清であった。それへ見えるなり声を
「お欣びなさい。今はまだ申されませんが、きょうは、やがて
それでもまだ
「ア。……ことによると?」
頼朝は覚って、急に、体をそこに置いていられないような気持になりだした。
小松重盛が見えて、
「あ、有難うございます」
と、心から礼をのべた。
心からであったが、自分でも余りはしたなく泣いた事を、すぐ後では恥ずかしく思い出したとみえ、
「どこへ、身は流される事か、分りませぬが、禅尼さまへ、何とぞよろしく、おつたえ置き下さいまし」
「いや、その前に、一度お目もじ申しあげて、お礼をのべられるよう、重盛が計ろうてとらせよう」
重盛が帰ると、その夕、正式の沙汰を携えて、六波羅の役人が見え、
伊豆の国へ
三月二十日、京師を立って、配所の地へ、下され申すべき事。
の二つを申し渡した。
その日の来るのを、頼朝はどんなに待ったかしれない。幽室から空ばかり見ていた。
日が近づくと、宗清は、
「伊豆へ下られる道中、六波羅からは、追立役の検使、警固の青侍などがついて行きますが、不親切はいうまでもありません。誰か、せめて途中までも、お付添いしてくれそうな、ご縁故の者はありませんか」
と、訊ねた。
頼朝は小首をかしげて、父の知る辺や、家来の名などを、しきりと思い出しているようだったが、やがて首を振って、
「ありません。――あっても、六波羅どのを
高札が立った。
すわ、何か。
という眼いろが、それへ寄り集まった。市の中にも、橋のたもとにも、東獄の門前にも、そういう人だかりが随所に見られた。
「
「流罪か」
「伊豆の国へ」
「伊豆へ? ……。ほう」
伊豆とは、どんな遠国やら、京の人々には想像もつかないのである。
「――でも、よかった。また加茂川に、
誰もみな、そこでは、ほっとしたような息をついた。六波羅の処断を、
「情けのある仕方」
と、言外に賞めたたえた。
折ふし、民衆の中には、合戦以後、これから自分たちの司権者として臨みかけている清盛という人が、大きく――
「こういう情けのある仁者ならばこれからのご政道もいちだんとよくなろう」
という安心も交じっていた。
けれど、一面のほうで。
清盛の評ばんは、かえって平家の一族のなかでよくなかった。頼朝の処置などは、もっとも悪評で、
「義朝、義平、そのほかを皆斬っていながら、なぜあの
「平常、何事にも、
「池の禅尼や小松殿のお口添えによるというが、他からの進言などに、
などと少壮な
武力をかけて、自分等のなした大業に、そういう私情だの、裏面の処置があっては、画龍点睛を欠くものだ。平家のため、将来を思うならば、頼朝は助けおくべきものではない――という強硬な論議がかなり聞えるのだった。
「そればかりではない」
と、一部強硬な仲間ではまた、
「常磐の罪はどう決まったのか。彼女の抱えている男の子三名のご処分も、高札の
うわさは、うわさを生む。
その常磐は近頃、獄から下げられて、七
そして折々、そこの門には、
(六波羅様が忍ばるる)
などと
常磐の美しいことは有名であるし、清盛が
従って、このばかな噂も、案外ばかにはされず、
「ふム。そんな事も、あり得ない事とは云えぬな」
一族の中にすら、半ば、信じる者があったりした。
そうした世間の沙汰や、ようやく、合戦の悪夢を忘れかけて来た
頼朝は、前日の十九日から、池の禅尼の泉殿のほうへ身を移されて、遠い配所へ旅立つ支度に、夜もすがら眠る間もなく、
表のほうに馬の
「夜が明けたな」
頼朝は
彼の起き出た様子に、泉殿の
――が、夜はまだ明けきれてはいないのであった。星さえ見える
「あ。もし」
「ここのお掃除などは、私たちがいたしまする。それより身支度を遊ばして、禅尼様のお部屋へおいでなされませ」
「禅尼様には、もうお目ざめですか」
「ええ、ゆうべは遅くまで、あなた様とお物語りでしたが、あれからも、ほんの一
頼朝は、云わるるままに、身のまわりを整えて、縁つづきの一室を
「弥兵衛、起きてか」
と、訪れた。
すぐ、宗清が顔を出して、
「おう、
と、縁に立ち並び、
「お早いお目ざめでしたな。ゆうべは、
「いや、たくさん寝たよ」
「そうですか。きょうから長いお旅路です。――また、馬の上で居睡りなど遊ばして、連れにお
「はははは。だいじょうぶだよ、今日は」
頼朝は笑った。
宗清も笑い合った。
馬の上で居ねむりしたため、雪の近江路で、父や一族に
無邪気といえば。
死罪一等を減じられて、伊豆へ流罪ときまってから、頼朝は、口のききようまで、子どもらしくなっていた。きょうまでの毎日毎日を他愛なく暮して、
(待ち遠しい。待ち遠しい。はやく伊豆の国というところを見たい)
と、云っていた。
ゆうべも、禅尼から、
(なんぞ尼からもお
と、訊かれたのに対して、頼朝が、
(
と、答えたので、禅尼はその答えにも、
(あどけないものよ)
と、涙ぐんだりした。
春秋無事に、仏供養のほか、する事もない禅尼には、この善根を施して、きょう頼朝を、東国へ立たせてやることは、人知れぬ大きな楽しみでもあり、生きがいを覚えた事でもあった。
「さ……。お待ちかねでしょう。お部屋へ
宗清は、そう
まだ仄暗いので、次の間にも禅尼のそばにも、結び燈台が
「おう、佐殿には、もうお立ちか。……お名残り惜しいことよの」
禅尼は、頼朝のほうを向いて、しばしは、その姿を見入っていた。頼朝も、さすがにこの朝は、胸がつまって、何といっていいのかわからないのであろう、いつまでも両手をつかえているだけだった。
やがて、頼朝は、
「ご恩によって、ふしぎな一命を長らえました。生々世々、忘れはしません。伊豆へ下っても禅尼様のお
さすがに今朝は、大人びて、涙に眼を曇らせながら云った。
「よう仰っしゃった。
「……はい」
「ゆめ、
「はい」
「人の口はうるさいもの。二度と
「はい」
禅尼は、満足そうに、
「まだ少しは、時刻の
「されば、長くは如何かと存じますが、荷駄へ
宗清は答えると、気をきかして、その準備にと、先へ出て行った。禅尼は、その後で、頼朝へそっと促した。
「そもじに一目会いたいという者が、あれなる下屋に待っておる。名残りを告げて行くがよい」
誰か? ――と頼朝は、下屋へ行ってみた。するとそこには三名の顔を知った者がひかえていた。
一人は叔父の
もう一名は
それと、
――そう三人がいた。
局は、頼朝の
「…………」
頼朝は、つき上げる感情を抑えるように、棒立ちに突っ立っていた。比企の局は、その姿もよく仰ぎ得ないで、泣いてばかりいたが、
「和子様。お
と、云った。
頼朝が、だまって
「きょうが最後のお別れではございませぬぞ。東国へお下り遊ばした後も、また、何かと乳母がお側へまいりますれば……」
と、ささやいた。
「和子さま。和子様。――八幡大菩薩のお計らいで、ふしぎに助からせ給うたお
「……うん」
頼朝は
禅尼から、出家せよといわれればそれにもはいと答え、源吾盛安から髪を惜しみ給えといわれれば、それにも彼はうんと頷いた。
人を捕る淵音 もせぬ
という。彼は素直な子には違いなかった。
その時、中門のほとりで、大声でどなる者があった。
「佐殿には、何を
護送の検視役、
下屋の裡で、髪を上げていた頼朝は、
「乳母、もうよい」
と、比企の
そして、局や叔父の祐範などが、自分のために泣いている
「なぜ泣く」
と
「――
三名の者は、そう云われて、心に持たない所をふいに打たれでもしたように、ハッと涙の顔を
泉殿の殿口、廊門、表門にかけて、一しきり混雑の
「――
「前の者、進め」
「しィッ、叱っ……」
列は動きかけて動かない。
頼朝を乗せた駒を取囲んで――護送人の青侍たちの駒と駒はさかんに狂い合う。
馬上から――
「では」
と頼朝はもう一度、泉殿から見送る人々のほうへ、
とたんに
追立の役人十数騎の中に、特に
――
頼朝は、さっき身寄りの三名に云った自分のことばを、鞍の上で、ふたたび思い出していた。紅色に染めわけられた
――
十四の少年の心はおどる。あしたの事など考えていなかった。きのうの事も忘れていた。いや、たった今、禅尼から
鞍つぼには、その禅尼から
(すこし
と疑った。
並木の所々に、路傍の人がたくさん見に出かけていた。白い
その中には、世をひそむ源氏の
年々、雪が解けると、彼は遠い奥州から上って来た。
大勢の仲間の商人と、それに附随するたくさんな下僕や男どもを連れ、何十騎という馬の背には、厳しい
彼は、その商隊の
「吉次が通る――」
「金売吉次が都へ上る」
と、街道すじで聞えれば、東海道はもう四月頃だし、都は桜若葉だった。
ことしも――
彼の商隊は、都へ着いた。
都へはいると、長の

「ではまた、六月に落ち会おうぜ」
と、隊を解いて、思い思いに、市中の旅舎へ、別れるのが例となっている。
道中は一つに来ても、商品と販路の目的はまちまちであった。
奥州産の
矢に
木地類。
南部駒と都で歓ばれる駿馬。
などが商品の重なる物で、吉次は、多く砂金を扱っていた。奥州の産金は、無限に都で需用された。
もちろんその代価は物品で、中央の物資が、帰りにはまた、馬の背に積まれるのである。
奥州の文化は今、
そこの地には、
「
と、遥かに京都の勢力を
藤原氏三代に
「まさか」
と笑って、信じようとはしなかった。
東国の武蔵ノ原とか、伊豆の
「――そこからまだ、何百里」
などと聞く
「――いや、嘘ではございませんよ。まったくです。嘘と思しめすならば、こんど手前が帰国する折、ひとつお供いたしましょうか。いかがですな」
「は、は、は。ははは」
話し相手は、
吉次は、口をつぐんだ。――もう話してもばからしいという顔つきで。
怒れない。怒ったら
「――馬が仔を産みましてな、いやこんどの道中で」
いきなり途方もない事を云い出して、ひとりで、へらへら笑いだした。
「馬の仔を、ご覧になったことがございますか。産れるとすぐ、歩き出しますんで。――どうして、可愛い奴ですよ」
「何をいうかと思えば、馬の仔のはなしか。やくたいもない」
一条
「長談義、ちと飽いた。――用がなくば、また来い。まだ当分は、都に
「はい、こんども、夏ぐち頃までは……」
「
「左様で。……時に、過日おねがいのご用命は、いかがでございましょう」
「ああ、六波羅殿のご
「それもございますし、小松殿におかれましても、
「あるにはあろう」
「お口添えで、この吉次に、ご用命がねがえれば、こちらのお館へも莫大なお礼物をお
ここで吉次は幾ぶん胸の
「さ。……御所のご用品なれば
「いやいや。――
「なんでそのように親密じゃというのか」
「へへへへ。……存じ上げておりますよ。吉次は、以前からずっと、九条院にも伺って、何かとお出入りを仰せつかっとりましたからね」
「九条の
「へい」
「なんの謎じゃろ?」
「おとぼけ遊ばす事がお上手でいらっしゃいますな。……こちらの奥方様のはなしですよ。世間はもうけろりと忘れておりますが、吉次はお目にかかるたび思い出すんでございます。――九条院にお仕えになっていた頃のお姿を」
「奥のゆかりのことか」
「ゆかり様。――それはご当家に再縁あそばしてからの
「…………」
「――で、ございましたろ」
吉次が、頭をつき出していうと、
「そんな事、だれが世間へ密かにしていた。隠し事でも何でもない。六波羅殿のおことばで、
朝成は、急に、不機嫌になりきった。話が妻の前身に触れればいつもこうなるのである。世間ずれない公卿の感情を左右することは、吉次のような男には
しまった。――ちと薬がきき過ぎたあんばいである。
吉次は、そう思うとすぐ、
「ご免を」
と、部屋を退がって、朝成の前から一時、姿を消してしまった。
「…………」
朝成は、まだ不きげんが去らない。苦虫をかみつぶしたように、
もう九年も前だが――
清盛の口から、
(
と、三人の子連れのまま、後妻として迎え容れたのだった。それが、常磐であった。
正室としてからは、彼女の名も
(もの好きな……)
とか、
(何か深い
とか、
(何もああまで六波羅どのに
などと、何か私慾のためにでもしたように、ひどく陰口を云われたものであった。
もっとも、世間の通念からすれば、源氏に
一条朝成は、そのために、以前よりも六波羅から足を遠くしてしまった。
たびたび、清盛に近づいて、清盛に好感を得ておくことは、勿論、出世の道であることぐらい、十分に知りぬいていたが、世間が妙な眼で見るような気がして、自分の方からここ何年間も疎遠にして来たのである。――現状のひどい貧乏も、官位が進まないのも、友達が寄りつかないのも――原因はそれだけのものだった。
(まあよいわ。貧しくても、妻には慰められている――)
その
その貧乏をつけ目で、
(奥方へ)
などと云っては、奥州の
(あなた様のお口添えで、六波羅様のご普請のご用をひとつ)
と、虫のよい頼み事だ。それはよいが、常磐の前身など口に出して、暗に、九年前の世間の陰口と同じような
「……どうも、失礼を」
吉次はまた、ひょっこりと、彼のいる室へ、戻って来た。そして、朝成の眼のまえに、例年のとおり十匹の
「どうか、お気にかけないで下さいまし。つまらぬ事ばかりしゃべりまして。――これは毎年の物で珍しくもございませんが、ほんのごあいさつまでに」
土産物を置くと、吉次は、ふたつ三つ軽口を云って帰ってしまった。
帰った後で、一条朝成が、何げなくその伊達絹や漆桶の土産物を一見すると、意外な物が見出された。
「
その時は怒ったが、日のたつほど、怒る愚を考えて来た。
しかも吉次は、とうとうその年はそれきり顔を見せなかった。
正直者の朝成は、
「六波羅へでござりますか」
付いている
「うん……六波羅へじゃよ」
だが、西八条の華麗な門をくぐると、彼はいやな気持になった。つい保元平治の合戦の前までは、
「ホ。おめずらしい」
「
「おります」
「あまりごぶさたしたので」
「いや、折角ですが、お訪ね下すってもむだでしょう。何せい父は忙しくて、きょうも御所のお使いを迎え、一族も大勢集まって、何やら評議のようですから」
「……ははあ」
自分の至って
「……では。よんどころありませんが、貴方にまで、そっとお願いいたしますが」
「この宗盛でよければ、折を見て父に取次いでおきましょう」
宗盛は、一室へ迎えて、彼のはなしを聞いてみた。
政治上の問題でもあるかと興を持っていたところが、つまらない奥州の一商人の紹介なので、宗盛は見下げたように、途中からそら耳で
「いや、それどころでない。貴方の顔を見て、思い出した事がある」
と急に、朝成の思いもかけない事を云い出した。
「ほかでもないが、それは貴方の奥方の以前の子――つまり義朝の
「それが、どうかいたしたか」
「鞍馬寺の僧からも、山役人の方からも、たびたび、よからぬ
「……どんな?」
「僧をきらって、武道にばかり熱中し、ややともすれば、師僧にまで
「その儀は、かねがね妻も案じておる事で、たびたび意見の手紙をつかわしておりますが」
「意見ならよいが、よも
六条坊門の
七日ほど前、都へ着いて、彼は今年も、そこへ落着いていた。――が、まだ潮音と
それをいつ知ったか、
「お文使いが見えまして」
と、一条朝成からの手紙が彼の手に届けられた。
「ははあ、おれに出向かれるのを
吉次は、意地のわるい返辞を書いて、その文使いに持たせてやった。
相国からご不興をうけたかどとは鞍馬の稚子 を繞 って、近ごろ諸天狗が出没するという怪聞でしょう。うわさはなかなかあるようですな。てまえも仲間の者から疾 く聞き及んでいます。
従って、あなたの方も、もうあてにはしておりません。策を凝 らして方向を計っているところです。ひとつてまえも諸天狗の仲間入りをして、人界 をあっと云わせてみようかなどと商人 にあるまじき空想などに耽 っておりますよ。
砂金の嚢 など、そんな物に入りきれる夢ではありません。
ご放念、ご放念。
従って、あなたの方も、もうあてにはしておりません。策を
砂金の
ご放念、ご放念。
それから彼はひどくさばさばした顔つきで、実は、皮肉や興を交ぜて、
「ほんとにそうだ。……奥州から何百里、年々の
と、空想から自信へ移しかえて、うむと、大きく
いくらでも空想の中に遊んでいられる男とみえる、陽が暮れたのも知らないで
「おや、何を
潮音はそれへ結び燈台を運んで来て、彼の横顔から程よい距離へすえながら、おかしそうに微笑んだ。
「……もう
「暗いではございません」
「あ、あアっ」
と、伸びをして、両の
「燈りとなったら、また飲んで遊ぼう。
「お姉さまは、今夜から
「三日も」
「ええ」
「ばかだなあ。何でそんなに身を縛られに。――生きているかいがあるのか、それで」
「でも、
「じゃあ、おまえと、いるだけの
「わたしもこれからやがて、化粧を急いで、小松谷の重盛様のお客招きへ伺わなければ……」
「なに。おまえも出かけるって。よせっ、止めちまえ」
「そんな事したら……」
「病気といえ。いくら都の
「されるかも知れません」
「ばかを云え。なんだ平家が。なんだ侍が。世の中は弓矢ばかりで廻っちゃいないぞ。
潮音は泣いてしまった。
「……無理ばかり云って」
と、わが部屋にかくれると、吉次の部屋へ洩れてくるほど、いつまでも
「おもしろくない」
吉次は、手枕かって、寝そべっていたが、耳についてならないとみえ、むくとまた、起き上がって、
「行って来いっ。そんなに、泣きたいほど行きたいなら」
と、どなった。
「行きません」
と、泣きじゃくりながら強く
「行って来いっ」
と、またどなる。
「行きません」
「行けと云うに」
「知らない……」
「そんなら俺から先に出かけてやるっ」
吉次は、
都の繁昌は、洛内九万余戸とひと口にいわれている。保元、平治の乱も十年のむかしとなって、近頃は宵でもなかなか
「なにが」
と、すべての物へ、負けない気を呼び起しながら見歩いた。
ただ悲しいかな、平泉は都市であっても、皇都でない。また、いかんせん美人となっては、京都の血を輸入してゆくしかない。潮音のような美しいのはいない。
その他は、どんな
「ふん……いつまで続くか」
今宵はわけてもそういう
いつか河原へ出てしまった。加茂の水明りに吹かれると、すこし
すると、そのうちに。
「……おや?」
と、彼は眼を近く移した。
誰もいないと思っていたすぐ下の河原に、人影が立ったからである。細っこい法師のように思われるのは誰か、人待ち顔に見まわしたが、誰も河原へ降りて行く者もなかったのでまた、元のように石ころの間へ、
「誰を待っているのだろ?」
若い法師だけに、吉次は、好奇心を起して、美しい京女でも、相手に現れれば、これは見ものになるが――などと想像を
彼の期待には反して、河原に待つその法師へ、やがて同じ河原づたいに歩いて来て、小声をひそめ、
「……光厳か」
と、呼びかけた者は、夜目で知る人影だけでもすぐわかる大木刀を横たえた野武士であった。
「ア。――兄さん」
痩せた若僧は、恋人ででもあるように、野武士の胸へ抱きついた。荒くれた野武士の手も、やさしく抱いて、何やら云っているところを見ると、これは真の骨肉らしかった。
やがて野武士のほうが云う。
「……何か、きょうも常磐様からお託しがあったか」
「はい、お手紙を、いつものように、お預かりして参りました」
僧は、辺りを見まわして、兄の手へそっと渡す。――野武士は、その手紙を、額に押しいただいてから
「これだけか」
「ええ、きょうはこれだけでした。――が、お言葉の上で、こう仰っしゃってでございました」
「牛若様へ、お
「いや、牛若様には聞かして賜もるな。ただ貴方や他の方々の心得までに――とのお断りで、鞍馬へ折々にする便りも、これが終りと思うてくれ――との仰せでした」
「……ウム。近頃の風説で、一条殿の身辺へも、六波羅の眼が注意を向けだしたようだとは、わしも聞いている」
「そうです。良人のため、良人の一族のためじゃ。
「ご無理もない……」
ふたり共、
「光厳、よく分った。もうわしも鞍馬からお便りをいただきには降りて来ぬ。――が、牛若様のお身については、われわれ旧臣もおる事、必ずともお案じ遊ばさぬようにと――今度お目にかかった折、そっと申し上げておいてくれ」
「はい。……けれど、私にも、余り館へ足ぶみしてくれぬようと、きょうはご念を押されましたから、やがて秋にでもなって、知恩院の説教の
「いつでもよい。……が光厳、おまえも気をつけろよ」
「え、注意しています。……でもよく常磐様には、十年前、六波羅へお引かれ遊ばしたあの時、わたくしに
「あ。……長話しをしていて人目につくといけない。では光厳」
「山へお戻りになりますか」
「ムム夜のうちに」
「では、いずれまた」
ふたつの影は別れた。
光厳は、
「……ああ、よく一条朝成のやしきへ、法話に来る若僧だ。道理で、どこか見かけた覚えがあると思ったら……?」
吉次は、老柳の木陰に
光厳は、何も気づかず、やや下流の仮橋を東へ渡っていた。――その影が渡りきる頃、何思ったか、
「――光厳さん」
「え。……どなたです」
「名を云っても、あなたはご存知ないでしょう。奥州上りの金売
「何ぞ用ですか」
「そこの観音堂の濡れ縁にでも腰かけましょう。……先程はついどうも、失礼をいたしまして」
「先程とは」
「つい今し方。加茂河原で」
「えッ、河原で」
「みんな伺ってしまいましたのさ。悪い気じゃありませんが、風下にいたせいか、あなたと鞍馬の使者が、小声で云っているのも、聞くまいとしても聞えて来て――」
「ああ兄上との話を?」
「へい、残らずみんな」
「聞いたと」
「聞きました」
堂の濡れ縁に腰かけこんで、
密偵か?
――
光厳には、いろいろに取られたが、そんなふうでもないらしいのは、相手の次のことばだった。
「まあ、おかけなさい。奥州かよいの生命知らずが、がらにもないとお笑いでしょうが、てまえにも人間なみの悩みはあるんで。――ひとつ善智識のお
「……?」
「聞いてくれますか」
「云ってごらんなさい」
――しかし光厳の返辞は、沙門らしくもなく、声に針をふいていた。その
「――辺りに人もいないお山ですから、開けッ放しに申します。実は、てまえの迷っている悩みというのは、どうしたら今よりもっと大きく
「…………」
「坊さんが
「…………」
「じゃあ、どうしたら、てまえなどのような商人が羽ぶりがよくなれるかといえば、こう世間がおッとり静かでは困るんで。もっと騒いで物がどしどし動いてくれなくちゃいけませんや。……戦争ですな。それも保元、平治のような都の内の乱ではおもしろくない。天下が二つにも三つにも分れて戦ってくれると、この吉次には、やりたい大仕事が山ほども出て来るんでさ。武門同士が、血と血を
「……何をいうかと思えば、おまえは気でも狂っているのじゃないか」
「なぜですか」
「わしは僧侶です。かねの事とか、財物の儲け事とか、戦があるのないの――そんな俗事は聞いてもわからぬ」
「わからないって? ……。ヘエー。……知らないと仰っしゃるのかな……。ふウむ……。ふふふふ」
吉次は笑いだした。
「光厳さん。――何も、そう恐い顔したり、秘し隠しにゃ及びませんぜ。この吉次だって、商法の上では平家様々だが、血を洗えば、源氏の氏子の
「何をいう!」
と、かえって鋭く、
「さっきから黙って聞いておれば、悩みを解く説法を乞いたいの、金儲けの相談をしようのと……。僧のわしへ向って、おまえは
「いいじゃありませんか、金儲けは
「わしの望みは、仏弟子になりきる事だ。おまえなどとは、行く道があべこべだ」
「いいや、同じでしょ。……あなたも、平家の世を
「な、なんだと」
「それでなくて、何でお前さん、常磐御前から頼まれたり、鞍馬の天狗と密会したり、知れたらすぐ首の飛ぶような危ない事を、僧侶の身でなさるんですかねえ。……いけませんよ、吉次だったからよかったが、あんな
「…………」
「それに、近頃のうわさがまた、どうも変だと思いましたよ。奥州だって見た事もねえ天狗様が都のほとりの鞍馬にはたびたび出るっていう評判だ。奥州者といえば、
「…………」
「奥州の土産ばなしに、天狗にお目にかかりてえもんだ――と、こないだうちから念願にかけていたら、ほんとに
指さされた光厳の顔は、青い
吉次は、地を蹴って観音堂の縁へとび上がったが、すぐ飛び下りて、光厳のうしろから
「同士討は止そうじゃありませんか。お味方になりましょう。……てまえも、天狗の仲間へ入れておくんなさい」
こうなっては力ずくで吉次に
「刃ものいじりなんざ、およしなさい。それこそ、僧門の人のがらにもない事だ」
光厳の手から刃を

「お心はよく分る。あなたの身一つだけではないからな。ばれたらこいつは一大事だ。六条河原にまたも首塚が出来上がろう。――だから貴方としたら死んでもここは口を開けないところに違いない。ましてや何処の馬の骨か知れない奥州者の吉次に、おいそれと打明けられないのはごもっともだが――なぜその前に、常磐様から鞍馬へ文の通う事だの、一条朝成なんてお人好しな者までが謀叛の火だねみたいに物騒がられて、いちいち六波羅へ聞えるのか、それを疑ってみないんですか」
「…………」
「光厳さん。注意ぶかいようだが、お前さんもまだ若いな。
「……あ。……ではあれが、常磐様を以前密訴した伯父でしょうか。よく遊びに見えていられる――金田鳥羽蔵正武という五十がらみの武者がありますが」
「元は、姓も名乗りもない
「かたづけてとは?」
「ま。見ていて下さい。光厳さん、その後でまた、会いましょう。――と云っても、商用の都合でことしはもう来ないかも知れませんがね。……そしたら、来年また」
云うともう吉次の姿は闇の底へ――産寧坂から五条の
それは
その
それも不思議だし。
もっと奇怪な事には、鳥羽蔵の一家
久しぶりの
夜になると、蛍が、塚にも、柳にも、水にも飛んでいた。
奥州
木の芽が
ことし承安の二年。
牛若は十四になった。
七ツから山で育った山の子である。血は義朝にうけ、気は
しかも。
鞍馬法師も、
降り積っても積っても、雪の下から芽を出さずにいない雪割草のように、彼は十四にまでなった。
体は小粒だった。しかしいじけた小粒ではない。飽くまでかちっとして
――が、こうなるのは、彼として自然だった。山では誰ひとり、彼の系図に特別な尊敬を払う者もない。生涯、山の飼いごろしとなる宿命の子としか見ていない。ほかにも同じ年頃の
「あれは、義朝の子だそうだ」
などと
「ふーむ。義朝の
と、
今の平家に対してすら、山の衆徒は、決して腹まで服従はしていないのである。まして亡んだ源氏のごときは、散った桜ほども眺めていない。
また、牛若も、人々から憐れがられるような子でなかった。小つぶのくせに、
「あいつ、一度こッぴどく、泣かしてくれねば」
と、憎む法師はあっても、
「あわれなる
などと
平気なのだ。山には住んでも、僧侶の中には住んでいないと、行動で云っているような牛若の日常であった。
今日もである。
朝から
「よし。こんな時だ」
三、四名の法師が、探しに出て行った。つかまえて
麓へ下りたものと見てそこにいたが、牛若は、裏山の谷から上って来た。
「遮那ッ――」
と、呼びとめた。
かぞえ年十四だが、十一、二歳にしかみえない。相変らず
「なに……?」
戻って来る何気ない顔へ、
「何っていう言葉があるかっ。稚子もたくさんいるが、貴さまほど長上に対して、小生意気なやつはないぞ」
ひとりが呶鳴りつけた。
「…………」
牛若は、爪を噛んだ。
鼻の穴まで黒くしているが、その鼻すじは、ちんまりと
その牛若を睨みすえて、
「どこへ行っていたか」
法師のひとりが
「こらっ遮那。なぜ黙っておるか。なぜ返事せぬか」
すると牛若は、叱られるかどもないのにと云わぬばかりの不平を、その口に尖らして答えた。
「何処へも行きはしませんよ。ここにいるじゃありませんか」
「嘘をいえ。いなかった」
「いました」
「こいつ」
「ちゃんと、山にいたのに、いないなんて、僧侶が嘘をついてもいいのかい」
あべこべに、喰ってかかった。
法師たちは
「げんに今、貴さまは裏山の谷から上って来たじゃないか。朝から中堂にも姿を見せず、それでもいたと云うか」
「云う……」
「なに」
「山にはいたんだもの」
牛若は肩を
「…………」
唖然たる法師たちの顔だった。二の句がつげないといったふうな
「――この山にさえいればいいんでしょ。麓から先へ行く事ならんと、常々、お師匠様からも六波羅衆からも固く云われているから出た事はない。こんなにおいいつけを守っているのに、どこがいけないんですか」
鷹の子は生まれながら鷹の子の叛骨をそなえている。この叛骨は、母胎を出た年に、平治の乱の兵火を見、あらゆる
知らないといえば、彼はこの山以外の世の中さえよく知らない。世間の人中というものは
(どうして、わが身は、この山の
と、いう疑問だった。
その理由が、うすうす彼自身に解けて来たことは、実は彼自身で自分の
「ゆるさんぞッ。今日は」
牛若は逃げ損じて、腰のあたりを
「痛いっ」
と、さけびながら転んだ。
「ちと、
法師たちの高歯の下駄や
「引っぱッて来い」
一人が一人へ命じて、先へ歩いた。
「ここがいい」
彼等が去ると、牛若は、身をねじって、その板の文字を見上げていた。――いつもの不敵な眼も、すこし悲しげであった。
許シ無ク縄解クベカラズ。山則ニ依ッテ罰スモノ也
東光坊役僧了範
東光坊役僧
と読まれた。
了範たちの法師は、中院へもどると、牛若の師、東光坊へすぐ届け出た。
「六波羅からお預かりの者ですが、
「……ふん。そうか」
笑ったきりだった。
この老僧だけは、まだかつて牛若へ
――師の坊が甘やかしておる。
と云う者すらある。
日が暮れてきた。
遮那王が縛られたと聞くと、中院にいるほかの稚子たちは、
「行ってみようか」
と、
牛若は、柱に
「遮那。縛られたの」
「どうしたの」
「今夜もここにいるの」
「なぜ謝らないの」
だんだんに側へ寄って、彼の友達は、慰め顔に云ったが、牛若は、
「あっちへ行きなよ。――あっちへ行けよ」
自分のすがたを見られるのが嫌らしく、頭を振って、にわかに、
何処か、遠くで、
「そこへ寄るなッ。遮那へ近寄る者は、共に縛るぞっ。まだ柱が三本空いておるぞ」
法師の呶鳴る声がした。稚子たちは、わらわら逃げ散った。
彼のまわりに
この鞍馬からおよそ三里という
遠く、かすかに、
「ああ……。あの灯のついてる所に」
牛若は、ため息をついた。
「会いたい」
と、思い出した。矢も
母の常磐に――である。
が――会えない宿命にあることを彼はよく知っていた。
それまでも、彼はすでに、鞍馬寺の預け人という表面になっていたが、いよいよ身を鞍馬へ持って行かれたのは、明けて
その時、母から云われた別離のことばは、何分、
前の夜から泣きつづけていた母のすがたも、おぼろに記憶している。
迎えに来た鞍馬の役僧と、六波羅の役人の前で、母から、
(これからは、子でないぞ。母でもないぞ)
と云われた言葉一つは、これは生涯たっても忘れ得ないであろう程、深刻に小さい
(だけど、母上がお悪いのではない。平家が、わしと母上を裂いたのだ)
こう理解されて来た頃から、彼は
「天め!」
と雲に向かって叫んだ。
その時、彼の幼い胸へ、何かどかんと
枕草子に「近くて遠きもの鞍馬のつづら折――」などと見える。
陽が暮れたら通う者はない。あれば
それにまた、麓の
表の麓口さえそうである。道とてない裏山裏谷は、ほとんど想像の世界となっている。わけて鞍馬寺から西北へ十町という
近づくな。谷を覗くな。
そうした里の合言葉さえあるのに、これはまた、どうしたうかつ者だろうか、ただ一人、道もない峰を、闇の
「
男は時々、足もとを探って、梢へ石を投げた。
猿の群れであろう。梢から梢へ、ざわざわと駈け廻る音がひどい。男が、逃げるように崖を
「――ちぇっ、
舌打ちして、男は崖の途中で坐ってしまった。
奥州の吉次だった。
猿のさけびが
「はてな。宵からお目にかかったのは、まだ猿ばかりだ。やはり光厳が打消したとおり、噂は噂だけのものか」
吉次はつぶやいて星を仰いだ。方角を
僧正ヶ谷ならもう会いそうなものにまだ会わないのだ。――と云っても、彼の期待して来たのは、天狗ではない。人間である。
もっぱら高い世間の噂と、自分の睨んでいる観察と、どっちが正しいか、それを突きとめる為に、彼はこの春、例年の一行よりも先へ都へ来て、去年もおととしも、
(今年こそは。今年こそは)
と念願しながらつい果さずに過ぎて来た宿題を、解決しようと、勇を
もう三年も前になるが。
知恩院の光厳をつかまえて、すでにある秘密の
死人に口なしだった。それなり終るしかなかったが、一度抱いた野望と、鞍馬への疑惑とを、光厳の死ぐらいで、思い止まる吉次では元よりなかった。
この僧正ヶ谷で、仲間が落会う時は、いつもここと場所は極まっているようだった。四方の峰は太古のままな松杉だった。天狗の
「…………」
ふたり共、黙然としていた。金王丸は星を見つめ、三郎は水を見ていた。どっちも多感な境遇にあった。平治の乱以来、明るい陽の下を大手を振っては歩けない源氏の残党と呼ばるる者だった。
しかし、日陰の
「……来たらしい」
三郎が囁く。
金王丸も眼を向ける。
向う側の沢の闇から、渓流の星の下へ、猿の群れみたいに連れ立った人影が、岩づたいに、水を跳んで渡ってくる。
三人――四人――七人と。
多くは土民の姿で、武士も
「遅うなりました」
「根井、荻野など両三名、後より参る由でござります」
先に来ている二人を
「こよいのお迎えには、誰が参っておりますか」
一人が問うと、三郎正近が、
「自分の参る番であったが、渋谷殿を誘うて来た道の都合で、箱田の
と云う。
その人を待つもののように、人々は雑談に
ここの谷間の会は、月に何度かこうして集まった。その
(――この和子様をこそ
と、牛若という一粒の
月に幾度か、ここに幼い君を迎えて、義朝の旧臣たちは、各

古来からの史を講じて、牛若に、武将としての
一同の期待は裏切られなかった。牛若は、厳格な鞍馬の僧院から、人々の寝しずまるのを
「遅いのう」
「
ようやく、人々がつぶやき出す程、この渓谷に話も尽きて、時
「見えた、おいで遊ばした」
と
牛若を迎えに行ったという箱田の冠者は、やがて此処へ駈けて来た。しかし、人々の待ちぬいていた牛若は
「や。若君は」
と、訊くと、箱田の冠者は、
「さればじゃ。若君には、日頃から憎まれている法師等のため
「なに、鐘楼に
人々は、色を
「もっと、詳しく話せ。それだけではよく分らぬ。落着いて語れ」
金王丸はたしなめた。一同のうけた衝撃が大きいので、
「はい、仔細はこうです」
箱田の冠者は、その鐘楼で牛若自身から聞いて来たという、ありのままなはなしを伝えて、
「それがしがお縄を解いて、ともかくこれへお供いたそうとすると、若君の仰せには、こよいは谷へ行かぬがよい。なぜならば、
「おお、ではご一身の苦痛よりも、一党の発覚こそ、大事なるぞと、仰っしゃってか」
三郎正近も、金王も、感銘に打たれて、一瞬、眸をそこから鞍馬の峰の黒い影へ向けたまま
大勢の中で、すすり泣く声がした。天与の試煉に会った牛若の偶然に発した言葉が、欣しくもあり、傷ましくもあった。同時に自分等の丹精にも、ようやく苗から一本立ちにまで育てて来た
「ぜひもない儀。では、またの
「お気づかいに及びませぬ。われわれが、夜もすがらでも、陰身に添うて、お守りしておりますれば」
声を
渋谷、

「やっ。誰だッ。――誰かいたっ」
「何っ」
声の起った所へ、戻りかけた面々も足を
「引出せ、引出せ」
辺りが狭いので、近寄れない者たちが云う。心得たと、襟がみを掴んだり、
「六波羅の
一同は取り囲んで、そこにへた這ッている一個の男を、天狗のような眼を揃えて睨めつけた。
不覚。逃げ損じた。
吉次は心の奥で、しまったと思いながら、大地へ顔をすりつけ、出来るだけ身を縮めて、小身を装っていた。
そして飽くまで、
(自分の周りにいる者は、人間でなく、真実の天狗である)
と思おうと努めていた。
人間と思うと、持前の恐いもの知らずな性分が出ないとも限らないからである。奥州から
「わ、わたくしは……た、旅の者で……旅、旅馴れない山を過ぎ……道に、道に……ま、まよいましてございます。……はい、平常は正直にやっている人間でございまする」
金王丸や三郎正近の仲間はクスクス笑った。里のうわさが拡まって、旅人までが、自分たちを天狗と信じている容子が
「しっ……」
と、笑う者の袖をそっと引いて、人々はすぐ天狗になった。
「六波羅者ではないとな。然らば
「奥州の……奥州の商人衆に抱えられて来た、荷駄の男でございます」
「それが何としてかかる
「貴船神社へ、ご寄進の事がござりまして、主人の供をして参りましたが、その主人に
「主人をさがし求めるとて、方角ちがいへ迷うたのか」
「はい……。へい」
吉次の
「何と、虫のような、心細げな声を出す人間ではある」
と云って、いちどに声をそろえ、
「太郎坊、太郎坊。この人間、どうしてくれましょう」
ひとりの天狗が、体の巨きな天狗にいう。
大天狗は厳かに、
「取るに足らぬ男とは見えたり。この谷間を犯した罪はゆるし難いが、
「どう抛り返しますか」
「よいように」
「心得申した」
「いや待った。その前に、裸にして、持物などもよう
「そうだ!」
吉次はたちまち裸にされた。
運よく、怪しまれるような物は、何も持合せていなかった。しかし、誰の
いよいよ
――世間へ抛り返してやれ。
と、ご
翌る朝。――貴船神社の
その年の秋。――奥州の吉次はもう国元へ帰っていた頃である。
鞍馬谷に異変が起った。
天狗の
その後、里の人々は、
(天狗の首がたくさん
と、わざわざ遠い加茂の上流まで見に行った。そして帰って来ての話には、
(人間と似ている)
と、いうことだった。
この
(牛若を早く出家させないからいけないのだ)
という所に帰着した。将来、彼の行状を一層きびしく監視して、外部との連絡を絶対に遮断するかたわら、折を見て、一日も早く牛若を
すまないのは、牛若の
(一日でも早いがいい)
とは思っても、実行にはいろいろな困難が伴った。
そこへもって来て、当の牛若に出家の心はなく、不勉強極まる行状だし、師の蓮忍は、
(まあええ。まあええわ)
という風に相かわらず寛大であるし、外部との交渉こそ、まったく
が――それも長い事ではない。二年目の春であった。別当蓮忍は、彼をよんで告げた。
「
「はい……」
「何を泣くか。十六ともなりながら」
「お……お師匠さま」
「どうした」
「わかりました。けれど、悲しゅうございます」
牛若は左の
「――出家すると、この黒髪にも、こんな美しい
「分りきったことを。いつまでお
「おねがいです。鞍馬の山祭りまで待ってください。五月が過ぎたら出家いたします」
「なぜ、その前は、嫌というか」
「祭りの日には、たくさんな
果ては、よよと
「では、
と、念を押した。
「
ひとりの旅人が、社家の入口を覗いて、訪れていた。
「……お留守ですか。誰もいないんですか」
しばらくして、
「どなたかの」
昼寝でもしていたらしい
「おう、奥州のお
「ごぶさたいたしました。今年もまた、
「ようお
「ごめんなさいまし」
足を洗って、吉次は、
「早速でございますが、荷になる手土産は、お山の事とて、持っても伺えませんので、ぶしつけながら、社殿のご修繕の
と、一封の金を、寄進にとさし出した。
禰宜は眼を細めて、
「これはどうも。昨年もおととしも、莫大なご寄進をいただいておるに」
「どういたしまして、自分に取って、このお
「まったく、あの時は、えらい目にお
「半夜ぢかくも、二丈もある樹の
「誰だって、あのような覚えはあるものじゃない。……だがの、あの後ですぐ、六波羅衆が天狗狩をやって、
「どうしてどうして、人間ではございませんよ」
吉次は、大げさに打消して、
「第一、思うてもご
「わしも、里の人々も、天狗の
「六波羅衆としますれば、
「なるほどな。お
「時に……神主さま」
「なんじゃな」
「このたびは少々、お願いの儀がござりますが、おきき下さいましょうか」
「ほ。……わしへ頼みとは」
「京へ参る道中で大勢の仲間の者が、ちと面倒な

三年ごしの計画だった。いつも難しい大きな商法に運を賭けて、それに
それも、念には念を入れてと、十分、後々の問題まで考慮して、おととし奥州平泉へ帰国して後、何かと商法上の用命をうけて、
(至極、おもしろかろうとの御意じゃ。しかし、ご当家のさしがねと世上へ聞えてはよくない。――飽くまでそち一名の思い寄りとか、牛若自身が平家の手より
そういう藤原家としての意向であった。そこまでを、
また、そこまで突っこんだ
(――奥州藤原は、表面、自己の勢力範囲のうちで、平静を装っているが、決して、平氏一門の隆昌や、太政入道の独裁ぶりを、欣んではいない。むしろその拡大を
これは、藤原一門のみでなく、奥州の天地では、すこし物を考える階級ならば、常識にあることだった。で、吉次の計画は、極めて簡単な一投石で、その目的の
「吉次どの。毎日、よう退屈なさらぬのう」
彼に、社家の一間を貸し与えてから、もう半月の余は経っていた。
「ああ、うたた寝をした」
と、伸びをして起き上がり、
「お察しの通り、そろそろ退屈いたしました。けれど、人間
「はははは。ここへ来ては、金があっても仕方がありませんからな」
「怖くなりました。ぼつぼつ山からお暇を申さなければ」
「怖いとは、何を思い出されたか」
「今仰っしゃったように、余りに金の事や、
「まあ、ごゆるりなさい。そのうちに、鞍馬の祭りもありますから」
「そうそう、あれは幾日でしたっけな」
「この月の二十日ですが」
「ではもう
「一年に一度の人出で、近郷の衆はおろか、都からも、参詣人が
「では、それを見物して、お暇するといたしましょう」
その前にも、彼は時折、ひとり出かけてはいた。先頃も
二十日となった。――その日は
「ことに依ると、鞍馬のまつりを見て、そのままお暇申すかも知れませんが」
と、挨拶して出て行った。
山の祭りで、
天上の山が、下界同様、人出に埋まって、ここの深山も、世間と変わりない色に
「
大廊下を駈けるひどい足音に、法師のひとりが役僧の部屋から出て来て呶鳴りつけた。
「はいっ。何ですか」
暴れ廻っていた稚子は七、八人も一つ所にかたまって振向いた。
「何ですかじゃあないっ。おまえ達は、
「阿闍梨さまのお部屋へ今、都のお客さまがお見えになって、わたし達がお次にいたら、うるさいからしばらく遠くへ行っておれと仰っしゃいました。それで、みんなして遊んでたんです」
「遮那。貴さまはもう十六ではないか、稚子の中の年がしらなのに、何だそのだらしのない恰好は。襟元を直さんか」
「はい」
「阿闍梨さまに、ご内談があって退っておれと云われたら、お次から遠く隔てた廊へでも出て、控えておればよいのだ。遮那など年上のくせに、心得ぬはずはない。――お山の祭りはおまえ達のためにあるのではないぞ」
「わかりました」
「あっちへ行こう」
指さして、どかどかと駈け去ろうとするとまた法師が
「駈けたらいかんと云うのに分らんかっ。静かに歩け」
と怒った。
首をちぢめて、稚子達は、そろそろと廻廊を曲がって行った。
そこを曲がると、観音院と僧正坊の
観音院の縁さきには、太い青竹が幾束も積んである。やがてここで、一山の僧衆が
また、夕方からは、僧正坊の本堂に、里の俗をただ一人坐らせておいて、その人間を
すると。
その人渦の中で、鳥の啼き真似をしたひょうきんな男があった。牛若はふと、廻廊の角に立ちどまって、その声をさがすような眼をしていた。
「……?」
鳥の啼き真似をした男は、いちど首をすくめたが、牛若の姿を遠く見ながら、こんどは人浪の上に片手を出した。
吉次の顔がそこに見えた。
牛若は、彼の顔を見つけると、
「――うん。後で」
と、いうふうに一つ頷いて見せた後、他の稚子たちを追って、さっと、おそろしい
やがて、
けれど。
一歩外の廻廊から広庭にかけては、夜も
呪りにかかっている荒法師は、
すると。
――ぎゃッっ
生きた
その男ではない。
印を切った法師でもない。
異様な声のした方角は、
「ア……?」
「……おや?」
せっかく、天狗がのりうつって来かけた法師も、法力に酔わされていた男も、眼が醒めたように、きょとんと、
――と思うと、
だだだだッと、堂のすぐうしろ辺りで、峰道から人の足音が
何とは知らず、ただ、
「やっ?」
「なんだっ」
廻廊の僧衆が、総立ちとなると同時に、広庭いっぱいの群衆が、わっと揺れ返って
人間が最も敏に知る
その番人たちが、血まみれになって、逃げて来たのである。
そして、大声でこう
「稚子がひとり逃げたぞっ。――
稚子と聞くと、
「
一山の法師は、口をそろえて云った。常々考えていたところは誰も同じだったのである。けれど、十六にもなって、まだ駄々っ子そのままな、何の大人げもついて来ない牛若を眼に見ているので、
(いつかはこんな事が)
と予感しながらも、つい彼の腕白ぶりに、余り子供に見過ぎていた。
「それっ、捕まえろ」
騒ぎ立つと
「ひとりではないぞ。腕ぶしの強い男がついている。油断召さるな」
と、駈けゆく法師たちの後ろから注意を送った。
もう、法力試しどころではなかった。
山は吠え、谷は呼ぶ。
「……とうとう去ったか」
ひとり。
牛若の師、
去った者の未来を
歩くという常識では、歩かれた所ではない。ただ
断崖、渓流、闇黒と
「牛若さま。ここで一息つきましょう。
吉次は、うす笑いをもらした。
「…………」
牛若は、われに返ると、その辺りを見廻してばかりいた。恐怖している眼ではない。
「小父さん」
「おうい。――こっちへおいでなさい。この拝殿の
「吉次……。はやくお目にかかりたい。ほんとに、お母様に会わせてくれるだろうね」
「きっと、吉次が、お会わせいたします」
「それから奥州へ行こう。――おまえのいう通り、藤原
「都を
「……うん」
「あ。素足でしたっけね。血が……。牛若さま、お痛くはありませんか」
「痛くなどない。はやく行こう都まで」
「お待ちなさいよ」
吉次は、そこらに落ちている竹竿を取って、堂の床下から何か掻き出した。
「これでいい」
彼は堂の
もっとも彼とすれば、ここまで来るには二年越しの仕事だというだろう。牛若へ近づくにも、去年今年と何度、
また、その牛若を、得心させるまでにも、何度、説いた事かも知れないのだ。
いくら牛若が、人を疑わない性質でも、見ず知らずの吉次のいう事を、そう
誰に語るよしもない――その孤独感と絶望の底に沈んでいたところへ、吉次が人目を忍んでは、
それに、「東国」ということばは、幼少から心に刻みこまれている。そこにはまだ源氏の
(――今に東国へお迎え申しあげますぞ)
とは、鞍馬谷の人々からも、明け暮れ聞いていた声である。
牛若は日の出るたびに、あこがれていた。――月の落ちる頃には都の母のことを、きっと思い出すように。
わざと遠くを廻って、西加茂の
「おい、起きろ、起きないか」
まだ朝霧も暗い六条坊門の
この家には、吉次の部屋といってもよい程、彼が見える時だけ使われる一棟があった。
中庭の渡り縁から通うのである。母屋に面したほうは壁囲いになっているので、寝ころんでいようと、飲んでいようと、誰にも顔を見られる
「ここは、てまえの親類の家ですから、安心なもんです」
と、吉次は云った。
牛若を連れて、きのうの朝、そこへ隠れ込んだきり、吉次は
牛若は、ぽつねんと、坐ったきりであった。
山は涼しかった。京の町中の暑さはひどい。しかし彼は膝もくずさなかった。
「お暑いでしょう。楽にしておいでなさいまし。寝ころんだり、脚を投げ出したり、ご自由に遊ばして――」
そう傍らからすすめても、
「うん。……うん」
大人しい。行儀がよい。山にいた牛若とは人間が変ったようにさえ思われた。
けれど、牛若の身になって考えてみると、また無理もない。――こういう世間の音の中に身を置くのは、生れて初めてであろうし、吉次という人間にもまだまだ多分に警戒を抱いているであろう。それに、母屋のほうではのべつ
今いる場所も、これからの行末も、不安と考えたら
「吉次」
「はい」
「いつ母上と会うのだい」
「お待ちください。今その工夫をしているところですから」
「はやくお目にかかりたい」
「お察ししております」
「それから、一日も早く、奥州へ下って行こう。こんな所にいても、むだな日を過すようなものだろ」
「いえ」
吉次は強く否定した。
「決してむだな日は
「そうかい」
「そうかいって――
「うん」
聞き分けはいい。
そう吉次は感心したが、十日も経つと、山の子はまた、山の子に返って、そろそろ爪を
ふと、昼寝から醒めて、
「牛若さま。何をしておいでになりますか」
隣の間をのぞくと、姿が見えないので、驚いて、
「いませんか?」
と、これも知らない顔つきである。
「さア事だ」
物に動じない吉次も
「小父さんは?」
と、吉次がいないのを、かえって不審顔して、翠蛾と潮音に訊ねた。
「まあ、何ていう子だろう。――吉次さんも物好きな子を買ってゆく」
と、呟いた。
吉次も程なく帰って来たが、先に戻ってけろりとしている牛若のすがたを見て、
「なんの事だ」
と、探し疲れた
「あれほど、固くお断りしておいたのに、黙って何処へ一体おいでになったんですか」
なかば、
「だって吉次、そんなにいつまで坐っていたら、脚も心も腐ってしまう。町を見物に行って来ただけだよ」
と、平気で云う。
「いや、それだけじゃないでしょう、何か、お望みがあって出かけたのでしょう」
吉次が、かまをかけると、そこはまだ少年らしかった。
「ほんとはね吉次、母上のおいでになるお館は、堀川のあたりと聞いていたから、そっと行ってみた」
「えっ……一条様のお館をさがして」
「人に訊いたらすぐ知れた。――けれど訪ねて行きはしない。遠くから……堀川の柳の木越しに、
「……ふうむ」
「この牛若が、お訪ねして行ったら、母上のお身がお困りになることは、わしだってよく知っているから」
「……そうですか。……いや、それならまアよかったけれど」
それさえいけないとは、吉次にも云いきれなかった。しかし、話を聞いているだけでも、吉次は胆が縮まった。
「牛若さま。ではもうそれで、母御様とお会いなされたような気がしたでしょう。もうお気持はすんだでしょ」
「なぜ」
「でもお
「すむものか!」
少年の眼とも思われない。燃える火の如きものがあった。しかも、そのひとみの炎は、いっぱいな涙にうるんでいたのだった。
「……だがね、吉次」
牛若は、ほろほろと、次には
「わしはあきらめて来たよ。おまえを苦しませても悪い。おまえはわしを山から誘い出すために、つい嘘を云ってしまったのだろう――どう考えても、今の場合では、わしと母上とはお目にかかれるわけもない。……また、それが母上のご不幸になることは知れきっている」
「そ、それまで、牛若さまには、お考えになっておられましたか」
「あたりまえだ」
涙を拭いて、
「自分の事より、この先の事より、いちばん考えるのは母上が、どうしたらお倖せになって行かれるかという事じゃないか。子として当りまえな考えじゃないか。……お会いしたい事も
「恐れ入りました」
吉次は、思わず両手をついて、額を
彼は何か自分の荷物が、急に重たくなり出した心地だった。――折もわるくその時、部屋の戸口へ、妹の潮音が来ていた。
「潮音、ちょっと坐ってくれ」
吉次はそこで、あらましの事情を彼女へ打明けた。
潮音はそう驚いたふうもなかった。打明けられない前に、牛若とは察していたというのでもない。要するに、男の考えているほど、問題を重大とは思わないのであるらしい。世情に至って無関心なのだ。彼女も、上流人の宴楽に
「分ったか、潮音」
「ええ」
「他言するなよ」
「はい」
「もし牛若さまを
「誰にも、告げはしません」
「姉にもよう云うておけ」
「すぐ話して来ましょうか」
「待て」
吉次は、声を抑えて、
「おれは今夜立つとする」
「え。今夜のうちに」
「町の気はいも観てきたが、だいぶ
「わたし達もよく耳にしました」
「どこで」
「諸処のお館で」
「牛若さまのうわさをか」
「ええ。あれが世にいう神隠しというものじゃろうと、平家の大将方も、お公卿方も」
「わずか十六歳の牛若さま一人を、六波羅の威勢をもっても捕まらないとなると、これは
「あなたは、とんだ
「おれかい。――いやおれはお使い役の木っ葉天狗さ。ご本尊は奥州の
女に心をゆるし過ぎてよかった
「さっそくだが、おまえの衣裳を
「何になさるんですか」
「牛若さまにお着せするのだ。――誰が見ても、女にしか見えないように、
「今、姉さんを呼んで来ます」
やがて、翠蛾も来る。
翠蛾は、妹の
「まあ、今夜お立ちですって。――お名残り惜しい」
それから翠蛾は、自分たちの衣裳を寄せて、あれこれと牛若に装ってみた。また、牛若の髪を解いて女結びに直したり、
「お綺麗な……」
牛若は、黙って、身をまかせたきりだった。若い殊に
「もういいよ、いいよ」
しまいには
吉次の仲間がいつも泊る家へ、馬を一頭取りにやったり、腹ごしらえや弁当など作らせている間に、夜立ちのつもりが、いつか夜明けの早立ちぐらいな時刻になっていた。
まだ町は暗く、霧が深かった。
吉次は、馬の口輪を取り、女装した牛若は、笠や荷物を鞍につけて、馬の背につかまっていた。
振り仰いで、吉次は、
「女らしく、
と、注意した。
「だいじょうぶだよ、わしは、馬に乗るのは初めてだから、怖そうにしないでも怖いよ」
牛若は云う。
だが吉次は、ゆうべからもうこの少年の少年らしい言葉には、めったに油断をしないことに肚を決めている。――怖いというのはこっちのことと云いたかった。
辻を曲がりしなに、出て来た家の方を振向くと、翠蛾と潮音の
――引っ込め。引っ込め。
というふうに。
あわてて、
「女ですよ、あなたは。――道中は牛若さまとは呼びませんよ」
吉次は何度も注意した。
「うん、うん」
三条へ出る。
陽が出た。
京の町から朝霧が白々と離れてゆく。
「吉次、待ってくれ」
牛若は、坂の上で、馬を止めた。そして、いつまでもいつまでも、都の町屋根を、じいっと見つめているのだった。
「…………」
吉次も黙って、その顔を下から仰いでいた。べつだん泣いていない。また、去りがてに恋々としている眼でもない。
むしろ、それは、何ものかを睨みつけているようだった。――吉次は、牛若の意中をいろいろに
宿場帳場も幸いに難なく旅は
「吉次吉次」
「なんですか」
吉次は、道を見まわした。優しげに女を装っているかと思うと、出しぬけに、大人も及ばぬ
「暑いっ。――こんな着物はもう嫌だ。
「脱いで何をお召になりますか」
「そこらの宿場で、何なと、裾の短いすずしげな肌着
「そいつあいけません」
「なぜさ!」
「女が……」
「わしは男だ」
「あっ、
「かまわない」
「かまわない事はありません」
「
自分の頭から塗笠を

「あっ!」
彼の
先は、馬の迅さだ。
吉次は息が切れてしまった。へとへとになったがなお駈けた。果ては、肺も心臓も口から吐き出しそうな息をした。
「うっ……もうだめだ」
苦しい。眼に汗が
愚を
後ろに森の宮がある。青葉の日蔭に、
「吉次。どうした」
と、牛若が呼びかけた。
駒を
吉次は、この時ほど、腹の立ったことはない。
「吉次。わしの脱いだ女の着ものは、持ってゆくのか。捨ててゆくのか」
「そんな物は……」
「だって、これは潮音の着物だろ。潮音はそちの……」
と
吉次はまた、肚のうちで呟いた。――あんな事を云やがる。何も知らない蜂の子と思っていたら大間違い、どうして、飛んでもなく、
「吉次、吉次」
「なんですか」
「不用ならば、その衣服は、この御堂の床下の奥へ、まろめて突っこんでおくがよい」
「へい」
つい返辞はしてしまうが、吉次は
餌をやったり乳を与えたりしているうちに、
「ああ、やっと少し汗がおさまった。牛若さま、ひどい目に会わせましたな」
「はははは」
「笑い事じゃありませんぜ。恩人の吉次をそんなに困らせると、行末のご武運にも
「怒ったのかい、吉次」
「誰だって怒りますとも」
「わしはね、そんな悪い気持でしたのじゃない。ちょっと、神隠しの真似してみたんだよ」
「…………」
吉次は呆れて、そう云う彼の顔を見ていた。京を立つ朝、馬には乗った事もないから恐いなどと云っていた事を考え合せると、

「この宮の裏に、井戸がある。何か、
渋々、吉次が、竹筒に水を汲んで来ると、牛若はそれを飲み乾してから、
「吉次、そちは、わしへ水を持って来る前に、自分が先に、飲んで来たな。
と、叱った。
そしてまた、吉次に二の句を云わせず、次の用をいいつけた。
「馬にも水を飼ってやれよ。暑いのは人間ばかりではない」
もういちいち腹立てている
「どこかこの地方に、源氏に縁故のある
と、訊ねた。
だしぬけな質問なので、吉次はまたまごついた。
だが、大人の不用意へ、唐突に質問を出すのは子どもの持前というもので、何もふかい根拠があるのではない。吉次は、そう
「さあ? 存じませんね。源氏に
と、空うそぶいた。
すると牛若は、
「そちは知らぬのか」
と、かえって今度は、教えるような
「
「誰に聞きましたか。そんな事まで」
「僧正ヶ谷の天狗どもに習うた」
「ヘエ。天狗は何でも教えたんですなあ」
むしろ
「まだ見ぬ
「え。男になろうとは」
「元服するのじゃ。――十六、あやうく髪を
「いや。それは」
と、吉次はあわてて、
「もすこし、時を待って遊ばしませ。これよりあなた様が頼って行く先のお方は、富強ご威勢、
「…………」
「お嫌ですか」
「…………」
「元服の事ばかりでなく、何もかも、秀衡様へ
「いやだ」
少し気色も直して調子づいて来た吉次のことばを、牛若はまた、
「秀衡を、烏帽子親にして、人となったら、後にわしが源家の一族の上に立っても、秀衡には頭が上がらないだろ。わしにつれて
「そんな事はありません」
「あるよ」
と、
「それとまた、秀衡だって、どんな人物か、善悪も知れない人じゃないか。身は寄せても、烏帽子親など、頼まいでもいい。――わしの元服
牛若は、馬の背へ移ると、またも彼にかまわず、道を急ぎ出すのだった。
吉次はもう、謝った――と呶鳴りたくなった。後を追い追い、彼の機嫌をとるほかなかった。
宿場で、吉次も馬を雇い、日を重ねて熱田へ入った。――そこへ着くと、すぐ牛若は宮の森へ駒をつないで、真っ直ぐに、夏木立の神さびた奥へ進んで行った。
牛若は拝殿の下に立って、
吉次もうしろで、ぽんぽんと
「こいつは涼しい」
と、つぶやいた。
「吉次」
「はい」
「社家はどこであろ?」
「さあ、どこでしょう」
「元服いたすには、
「へ。――何とですか」
「名もなき東国の地侍が小せがれでございますが、神前において、加冠お式をしてたもれと」
「変に思いましょうが」
「なぜ」
「旅の者が、親どもも付き添わず、元服してくれなどと申し入れたら」
「かまわぬ。
「では、てまえが叔父という事にして、頼んでみましょう」
「そのような云い構えは要らぬことだ。家来といえばよい」
吉次はまた、
それきり返辞もしに来ない。しかし牛若は平気である。いてもいないでもいい人間のように、むしろ拝殿の廻廊に、神主のすがたが見えるのを待ち仰いでいた。
やがて、若い神主が、廊の上にひざまずいて、
「神前で元服して欲しいといわれたのは、お前様か」
と訊ねた。
牛若が、そうですと答えると、
「父は東国の武士、わけがあって、名は申せません。
「では、しばらく」
若い神主は、自分の一存ではゆかないらしく、そう云いおいて、奥へかくれた。
ややあってまた、そこに現れ、
「お上がりあれ」
と、拝殿の床に、青い
奥ふかい御鏡の影を、きっと見つめて、
「われを男となし給ううえは、われに御神のこころと力の影なりともうつし給え」
と心に
「ありがとう存じました」
「冠者となられたお祝に参らせる」
と、彼の前へ置いた。
牛若は、両手をつかえて、
「あなたは?」
と、その人の
老宮司も、牛若の姿を、飽かずながめていた。
「わしは大宮司藤原
やがて、声をひくめて、季範が云うと、牛若は、わずかに顔を横に振って、
「い、いいえ」
「……あるか。何ぞわしについて聞き覚えでも」
「よそながら存じあげております。あなたと私とは、あかの他人ではございません」
「む、む……」
季範は、ほろりとしかけた。
「
「知らないでどうしましょう。あなた様は、わたくしの
「おお――
「どうしてお分りになりました」
「社家へ見えた供の男の口うらが
「似ているとは、誰にですか」
「
「あっ……。そ、そうですか」
牛若は、
「無念か」
「いいえ。もう、もうこの頃では……それよりか、父に似た子と云われたのが、何だか、
「これより
「奥州の藤原秀衡どのを頼って下る途中でござります」
「そこまで行き着けば、後日の策も立とう。しかし途中は心に心をつけて」
「はい。……ではこの
「召してゆくがよい。そう人目立つほどの衣裳ではない」
旅の小冠者にはふさわしい派手派手しくない
「む。よい若者振り。亡き頭殿にも見せたいのう。――が、加冠はしたが、名は何と
「そう。元服すれば、名も改めるのが
「して呼び名は」
「義朝の八男ですから、八郎と称ぶところですが、叔父に鎮西八郎為朝があります。その武名を
「九郎義経か」
「はい」
「よいお名じゃ。
「ありがとうございました。――では」
拝殿を降りると、義経は、吉次吉次と、呼びたててその姿をさがした。
「これにいますよ」
吉次は、拝殿のすぐ下に、膝をかかえて、土台柱の根に
旅は日をかさねて。
真夏の大空に、しかも眉に迫るほど近く、富士の嶺が、頂きからその裾野の線を、大地へ消えこむまで、くっきりと見せていた。
ここは
「吉次。休もう」
九郎冠者は、道のべの岩に腰をおろした。頂きに近いので、歩みを止めさえすれば、風は冷たく、全身の汗も、すぐ乾いた。
「九郎様。あなたは存外、何でもお心得ですから、おおかたご存知の事でしょうが、北は
「ウム。ウム」
九郎は、何度も
「とうとう来たな。――吉次、そちにも骨折りであった。忘れはおかぬ」
と、いつになく
今日までの間にない事だった。吉次は、かえってあわて気味に、
「ど、どう致しまして。そう仰っしゃられては、こっちの不行届きは、どうお詫びしていいか分りません」
「いや、礼は礼としていう、恩は恩として長く忘れまい。――けれど吉次」
「はい」
「そちは二度ばかり、人手をかりて、この源九郎を
「あっ、もし……九郎様。もう仰っしゃって下さいますな。吉次は、
「立てたら骨折り
「お言葉どおりです」
「が、吉次。平泉へ行き着いても、
「心得ました。秀衡様へも、館のご一族へも、吉次がよいように申し告げまする」
「そのかわり、わしが大きくなったらば、わしの名を用いて、そちも大きな利得をするがいい。小慾はかかぬがよい」
「吉次はずいぶん大慾のつもりでおりましたし、
「あ。相模の海が見える。……伊豆の島々も」
九郎はもう吉次の
伊豆の
母のちがう
九郎義経なる
「……でも血はひとつだ。わしも
彼は、胸の底で、そう呼んでいた。その思いは宇宙を
この国の
山もまた、いつ火を噴くか知れない性質をもっている。富士、
いったいに、男でも女でも、早熟であった。情熱に富んでもいた。しかし、山地が多く物産が
ことしはもう安元二年。
安元二年というと、元服した九郎義経が、ここから近い足柄山を越えて、奥州へ下って行ったその年から二年後である。
時に、
指を繰ってかぞえてみると、ここの配所へ送られて来てから、ちょうど今年で十七年目になる。
年は二十九歳。
「三十にして立つ」
という古語を、彼もことしは、人知れず心に
けれど、彼の十七年の配所生活は、至って穏やかなもので、むしろ平和に
その無事と無為の日々は、きょうこの頃も変らない。
ただ、山河には、花の開落があり、鳥魚の去来がある。
「オオ、
瓜畑で瓜をもいでいた
「
と、山を仰ぐ。
箱根連峰は、見ているまに、
ここは、箱根の南裾野といってよい。小高い畑地で、まわりは崖だった。そして崖の根土は、どっちを見ても、
藪をきり
それでも。
流人の住居としては、ずいぶん整っているといってよい。母屋の中心に、
――ポツ……ポツリ
雨が斜めに落ちて来た。
ここから一里ほどもない駿河湾の静浦、江の浦のあたりまでも、もう一面な低い雲に
「あっ、夕立」
と、籠をかかえて女童は近くの
「おお、ひどかった」
すぐ
「おや。お馬がいない。殿さまはいらっしゃるのに、
馬を大切にすることは、貨幣以上であった。良い馬は、黄金を以ても、容易に得難いものとして、財宝の一に数えられるほどだった。
殊に、武人は、弓矢太刀などもさる事ながら、名馬を厩に持つことは、心がけの一つだった。けれど、諸国の牧から市へ出る
だから平家一門の


(人は都。馬も、田舎に名馬なし)
いかにも、思い上がった言葉である。果たして、田舎に人はないだろうか。田舎に名馬はないだろうか。
頼朝が、自ら、
しかもその黒は、この西伊豆の豪族でありまた、配所の経済や頼朝の身に就いてなど、六波羅からその世話や監視の役をも命じられている北条時政が、ある折、特に自分の一頭のうちから選んで送ってくれた駒である。
この配所から程近い北条家の
(馬がないので何かにつけ不自由いたしている)
と、頼朝がもらしたのを、その折、初めて会った時政のむすめの政子が、
(この頃、お手に入れた黒鹿毛は、
と、暗に父の時政へせがんで、その帰りに、
政子の印象もよかったし、駒を馴らしてみると、案外な
(蚊に喰わすな。――どこか悪いのではないか)
と、いつもそこに、馬と共に暮している鬼藤次へ、注意しに来るほどだった。
それほど、主人が愛している龍胆黒であることは、召使たちも知りぬいている事なので、今
「鬼藤次さん。鬼藤次さんっ――」
草を喰わせに行くのも、配所の外まで
その頼朝は、持仏堂の窓で、きょうも写経にくらしている。その姿は、たった今、瓜畑から見ているので、どうしても不審が去らなかった。
「
「また、河原へ降りて、
「あ。そうだ。きっと」
駈け出してゆくと、
「盛綱様――。盛綱様アっ」
女童は、口のそばに、手をかこんで呼びたてた。
今の一夕立で、渓流は、すさまじく水音を高めていた。さっきから釣糸をそこの瀬へ垂れていた百姓の
「なんだーっ。用があるなら降りて来うっ」
と、粗野な声で答えた。
夕立が
「盛綱さま。
口を
「何。
盛綱は、
「ほんとか」
「ほんとですもの」
「鬼藤次のやつ。先頃から不審なところが見えた。あっ……それに今日は四の日」
彼はやがて、崖を
「
と、釜殿の
南条、中之条、北条などと庄田の名は
月の四の日ごとに、市が立つので、そう
穀物、
その中に、一頭、鼻すじの白い黒鹿毛がいた。鞍もあぶみも外してあるので、ちょっと見違えるが、盛綱の眼が見あやまるわけはなかった。
「あっ、
手をかけると、ひとりの
「何をなさる」
「何をって。おまえのか」
「きょうの市で、大金を出して求めた馬じゃ」
「それは気の毒なことをした。これはわしのご主人の持馬だ」
「何だと」
「そちは誰から買った」
「誰やら知らぬが、売りに来た若者が、市へ出したので買うたまでじゃ」
「その若者は鬼藤次といいはせぬか」
「名など知らぬが、あれ、あの
「さては」
と、うなずいて、
「では、この駒は、しばらくそちに預けておこう。だが、ここから動かしたら承知せぬぞ」
盛綱は、そう固く云いおいて、
「はて、いないが?」
盛綱は呟いた。
そこの仲間のうちには、鬼藤次の顔は見えない。彼はまた、
そういう
わが子は二十 になりぬらん
博奕 してこそありくなれ
国々の博徒に
さすがに子なれば憎からじ
怪我 負わせ給ふな
王子の住吉西の宮
国々の博徒に
さすがに子なれば憎からじ
王子の住吉西の宮
孫を負った
世の風紀が悪くなったといえば、富士の宿から足柄越えにかかる旅行者のよく云う事にも、あの
足柄山の関にさえ、あやしげな女の袖を引く世であるから街道の風儀や国々の府の
まして、
「おっ。いた」
一つの囲いの中に、盛綱はとうとう彼を見つけ出した。
あそびに夢中になっていた鬼藤次は、盛綱の腕が、自分の襟くびへ来て、襟がみを掴まれるまで気づかなかった。
「
耳元の声に、あっと、びっくりして後ろへ手をやった時は、鬼藤次の背中は、もう地を
「おゆるし下さいっ。――もしっ。謝ります。盛綱様っ」
「やかましい」
「面目もございません。……つい、つい、出来心から」
「やかましい」
足を上げて、盛綱は、その顔へ一つ喰らわせながら、
「お馬と代えたかねをこれへ残らず出せ」
「かねはございません」
「どうした」
「みな、
「おのれっ」
盛綱は、
「よくも、
「もう、まったく、僅かもございません。何とか、取返しますから、どうかしばらくのご
彼は懸命に、哀訴したつもりだったが、盛綱の怒りはかえって
鬼藤次は、悲鳴をあげて、転んだが、運よく、周りをかこんでいた人垣の中へ
輪を
「これなる黒鹿毛は、わがご主人の乗馬。盗んだ物を求めたのは、求めた者の買損というもの。ともかく申しうけて参るぞ」
以前の馬つなぎから龍胆を解くと、盛綱はとび乗って、あれよと人々の騒ぐ間に、
まだ山々も霧、野も霧、
配所の持仏堂では、朗々と、
十年一日の如く、
少年の日、死刑にされるところだったのを、
(たとえ
と、
しかしその禅尼も既にみまかって、もうこの世の人ではない。――彼のりんりんたる読経の声のうちには、明らかに、今はその人の後生を念じているのが聞き取れる。
とは云え、尼が生前、くれぐれも彼に云った、髪を下ろす一ヵ条は、決して守っていなかった。二十九歳の黒髪は、ふっさりと
また、読経の日課にしても、果たしてそれが、
彼を
が、事実は動かし難い。頼朝の肚はともあれ、こういう配所の生活は、至極神妙なものとして、京都へは報告されていた。
従って、年々、彼への監視や
二度目というのは、今より二年ほど前に、
祐親は、伊東の豪族で、北条家とならぶ権門であったから、その事件では親の祐親に
亀の前は、伊豆の女に似げなくうち気なほうであった。その頃、
男怖じせぬもの
加茂女 、伊よ女、上総女
などという
そういう煩悩や頭のにごりを清掃するためにも、朝ごとの
「亀。――水をくれい」
持仏堂を出てくると、彼は汗ばんだ顔をしていた。亀の前の手から一杯の冷水を取って飲みほすとすぐ股立取って、まだ露の冷たい夏草をふんで
馬は
「
と、彼の寝小屋へ呼んだ。
すると、はいっと答えて、厩の陰から立出でたのは、
「ただ今、曳きまする」
と心得顔に、りんどう黒を厩から解いて、前へ曳いて来た。
頼朝は、不審顔に、
「鬼藤次はいかがなせしか。今朝はそちが厩の世話をいたしたのか」
と、訊ねた。
盛綱は、何気ない顔して、
「昨夜おそく、急病を発したとやらいうて、南条の里へ帰りました。夜中なれば、お暇も告げずに行ったのでございましょう」
と、答えた。
人も駒も、一汗かいて、野から帰って来る頃に、陽は朝霧を破って山のうえに昇っていた。
「なるほど」
盛綱は、何を感心したか、その帰るさ、駒の口輪をつかみながら、頼朝のすがたを振仰いで、
「兄者人の定綱が、いつも云わるるには、殿のご大食には驚く、あの
と、云った。
頼朝は、笑って、
「調馬は
「いや、配所へご給仕に参りましてから、私ども兄弟も、はや十年の余、よい修行に相成りました」
「十年の余にもなるかのう」
「なります。父のいいつけで、初めて上がった頃は、私はまだ
露を踏みながら、盛綱は、自分の
盛綱は兄弟四人のうちの三男だった。父の佐々木源三
――思い出すと、長い間には、こんな事もあったりした。
兄の定綱は、父秀義にも劣らない、矢を
(おまえ達の作る矢を、一体いつになったら、この手でいっぱいに引く日が来るだろうな)
と、呟いたので、兄弟は急に胸がせまって、何も答え得ずに泣いてしまった。主従、
「……何度、この足の指の
盛綱は今朝も――そんな事を考えながら、主人の駒を曳いて帰って来た。
すると、配所の門前に、何事が起ったのか、大勢の
「や。流人の主従が」
「あれへ来た」
「戻って来おった」
雑人たちは、露骨な敵意を示しながら、指さしたり、
「何事ぞ」
頼朝は、盛綱を顧みた。盛綱は、馬前に
「何事やら分りません。――ただ今、
と、答えた。
その間にも、雑人たちは、口汚い
「馬盗人よ」
「主従、肚を合せて、馬の
「流人根性!」
「配所の
「馬を
「その馬を渡せ」
何かそんな意味らしい。市の
「盛綱、どうしたものだ」
「はっ」
「何か、間違い事ではないか」
「はい」
「なぜ、黙っておるか、そちは」
「彼等の勘ちがいもありますなれど、すべてが間違いでもございませんので」
「覚えがあるのか」
「少々あります。実は、市の伯楽に払う馬代を、忘れ果てておりましたため、ああ申すのでござりましょう」
「馬の代と?」
「はい」
「どの馬の代?」
「面目もございません。恐れ入りまする」
盛綱は、さし
きのう市で、りんどう黒を求めた男は、仲間の者にケシかけられて、
「それだ。その馬だ」
と、頼朝の乗っているのを指さした。
「何、この馬の代じゃと」
頼朝は、鞍を下りた。そして、伯楽たちの云いならべる文句を、黙って聞き取った。――聞いてみれば、敢えて、盛綱の罪というのでもないので、何で彼が面目なげに
「騒ぐな、馬の代を払うてつかわせばよかろう」
「払うてさえくれれば文句はない」
「それに待っておれ」
「おお、待っていよう」
大勢も、配所の
彼等が疑うのもあながち無理ではなかった。頼朝の貧しい
「はて。困った事が」
盛綱を外に残して、頼朝は内へ入ったが、馬の
池の
「亀どの、そこの料紙と
縁に腰かけたまま、頼朝は一筆書いて、封の上に、北条どの
亀の前は、ちらと、その名宛を見たような顔いろであったが、頼朝から、
「定綱を呼べ」
と云われて、素直に、侍部屋のほうへ立って行った。
兄の定綱が、主人のりんどう黒に乗って、あわただしく、配所から出て行く様子に、外にいた三郎盛綱は、
「兄者人どこへ?」
と、声をかけた。
「北条どのまで」
定綱は鞭打って、急いで行った。
政子に宛てた文を
「これをとのお伝えです」
家臣は政子の返し文と共に、唐綾の小袖一かさねと、唐鏡一面を定綱に渡した。
定綱は、それを持って、また急いで配所へ帰って来た。
頼朝は、政子の文を読むと、すぐ細かに裂いてしまった。そして外にいる盛綱を呼びよせ、
「この二品を、馬の代に、市の雑人どもへ渡してやれ」
と、云った。
「いや、その伯楽どもは、もう外におりません。兄者人が、北条殿へと、馬を打って駈けたのを見て、さては役人でも連れて来る事かと思い、ちりぢりに逃げ去りました」
盛綱は、おかしがって語ったが、頼朝は、それは
盛綱が出て行くと、定綱も、
「ご用はすみましたか」
と侍部屋へ退がって行った。
思わぬ事件に半日は
「今から行っては、話す間もなし……帰りも暮れよう。
頼朝は、
――先も流人、こちらも流人、一度会ってみたら都の消息などもいろいろ知れましょう。そう云った事が、頼朝の胸に、きょうは訪ねようか、
「が。――それも、考えものかな?」
彼の
「……?」
頼朝はふと、その眸を、廂ごしの空から自分の傍らへ振向けた。よよと、
亀の前であった。
何で、彼女が泣くか、頼朝にはわかりきっていた。政子へ使いをやった事からに違いない。もっと彼女の胸に入って云えば、なぜ、馬の
それを恨みともしているであろう。また、いくら素直な性格でも、女である以上、
「何を泣いておるか。……男の胸、女子には
泣くな、と叱られれば叱られるほど、亀の前は、泣きぬれていた。
頼朝は、舌打ちして、
「この暑さに、蝉が啼くだけでもたくさんだ。……聞きわけのない」
と、起ち上がった。
亀の前は、その
「しばらくの間、里方へ帰らせていただきまする」
「……帰る?」
頼朝は、問い返した。わざと冷たい
「よいとも、しばらくと云わず、いつまででも、いたい所にいるがよい」
わっと、泣き伏す声がうしろでした。彼は、振向きもせず、長い
「……おっ」
誰か、小机の前から、びっくりしたように振向いた。
都から流浪して来た藤原
「――
「書いておるね」
頼朝は、亀の前に示した顔いろを、すぐ微笑に消して、邦通のうしろに立ち、彼の筆や絵具のちらかっている机の上を
「こんな風に、時々、諸方を歩いて、写しを取って来ては、書いておりますので、なかなか
邦通は、云い訳した。
そこに書きかけてあるのは、ただの画ではなく、伊豆半国の絵図であった。山河から道路や宿駅や社寺の所在など、ずいぶん克明に、一部は出来かけている。
「暑いからなあ。歩くにはたいへんだろう。年内にできればよい」
「年内にはできます。雪が降ると、箱根その
「うむ……」
縁の隅へ、昼顔の
「邦通。使いしてくれまいか」
「何処へ参りますか」
「亀の前が、里親の許へ帰りたいという。
「え。お帰りになりますと?」
「ひとり帰すも
「それはようござりますが、何かと、お身まわりにも、ご不自由ではございませんか」
「大した事はない」
「なんぞ、
「猿楽は、今いたして来た。われながら愚かしき猿楽を」
云い捨てて持仏堂へ
やがて。また日課の読経がそこから洩れた。亀の前は、暇を告げるべく、室の外に手をつかえたが、ただすすり泣きのみして、
草の穂に、夕風が立ち
山の秋は早い。もう霜を見たような
「兄者人。帰ろう」
「まだ陽が高いのに」
「でも、
狩支度で、
負って来た矢も残り少ないのに、四、五羽の鳥を腰に獲ただけだった。
「何という日だ。せめて
「まだ季節が早い」
ふたりは、疲れた脚を、草に投げた。――谷は暮れかけたが、箱根の頂には、まだ赤い陽が見える。
「弟」
「ウム?」
「きのうもそちは、殿のお文を持って、北条殿の奥向へ、お使いに行ったの」
「行った」
「よく参るのう、しげしげと」
「おいいつけだ」
盛綱は、ぶあいそな顔して云う。俺が行きたくて行くのではないと云いたそうである。
すぐ下の山寺で、読経の声が聞える。その経文で思い出したように、
「……困ったものだ」
定綱は、ひとり呟いた。
「何が」
と盛綱は、兄の
「そちは、そのように、
「兄者人。ひがんでいるのか」
「ばかを申せ」
「わしは暢気者かなあ」
「
「憂いたって仕方がない。――あれでいいのかしら? とはわしも時々考えるが」
「そちでさえ、そう思うのか」
「思わぬ事はない」
「父上は、わしら兄弟を、とんだお方へご奉公につけてくれたものだ。
「源家に運がなく、平家の運がいいのだ。ぜひもない」
「盛綱、わしらふたりの配所奉公も、はや十年の余だぞ。諦めきれるか。わしは諦めきれない。……一度、
「意見って。何を」
「
「それを申し上げるのか」
「云うのが臣の道だろう」
「わしはいやだ」
「なぜ」
「女のことなど、云えぬ。……誰しものことだもの」
「愚かなやつ。
「
「案じられるのじゃ」
「そうでもあるまい」
盛綱は、物事をすべて、兄よりも、大づかみに観る方らしく、
「難しいものだとよく人のいう、女に対して才がおありなくらいだから、
と、かえって、兄の
夕雲へ眸がゆく、
「……分らぬ」
定綱はまだ云い足らぬように、やがて独り呟いた。
「
「兄者人、行こうか」
つまらなそうに、盛綱は
定綱は、矢先を眺めながら、
「弟、何を射る?」
「…………」
盛綱は答えもしない。ひき
「――落ちた」
矢を負った鳥影が、山寺の裏あたりへ垂直に
下の山寺は観音大悲を本尊とするので観音院とも、
獲物の鳥と矢を拾って、盛綱が去ろうとした時である。――読経の声がやんだ。――そしてぬッとそこの新木の縁ばたへ出て来た大男が、一
「誰だっ。待て」
盛綱は、振向いた。――坊主だな、と思っただけである。
「なんだ」
すると、大法師は、
「
「
「なお、許せぬ。小冠者、ひとの庭へ矢を射込んで、詫びもせいで、立去る気か」
「悪かった」
「――では済まん」
「然らば、どうせいと云うのか」
「両手をついて謝れ」
隆々たる筋肉をもち、下腹も肥えているので、わざと
「これ以上は謝らぬ。手をついて謝らなかったら如何する」
と、冷笑した。
法師は、毛の生えた鉄拳を、ぬっと突出して、
「小冠者、これが
と、云った。
「何っ」
盛綱が、太刀へ手をかけて寄ると、大法師は、
「
と、大口あいて笑った。
田舎漢っと、彼が弟を
「ひかえろ」
弟を叱った。そして法師に向って訊ねた。
「もしやご僧は、
「文覚はわしだが」
「おお、ではやはり」
「お
「失礼しました。――盛綱、お詫びせい。高尾の
弟へ、そう責めたが、盛綱は下げる頭は持たないといった顔だ。ただ文覚の
「わかった」
文覚は急に白い歯を出した。盛綱と聞いたのですぐ察したのであろう。げらげら笑いながら云った。
「さては、お汝等は、
「お察しの通りの者です。佐々木
「
文覚は、炉へ導いて、自分は先に、その前に坐っている。
「弟、どうする?」
小声で計ると盛綱は、上がれと云うのだから上がろうと云う。
「
定綱は弟を、小声でたしなめながら、室へ入った。
文覚は、炉へ
すでにこの人の
その後の修行ぶりもまた、人なみ超えていて、那智山の荒行の如きも、諸国の名山
「善相人」
と称している。
善相だろうか。――自分でそういうところなど、人の
ここへ流罪となって来た原因なども、
そこで文覚は、無断に庭へはいって、大声で、勧進の文を読みだした。その折から、
やがて、文覚は、
「伊豆にもはや長い月日となるが、
と、
盛綱は、いと無愛相に、坐っているだけのものなので、定綱はよけいに
「されば、配所のお住居も、いつか十七年とおなり遊ばし、至ってお
「お
「二十九歳におなりです」
「もう、三十か」
文覚は、何やら
「早いものだのう。
「…………」
「そうではないか」
「はい」
「お
「…………」
どう答えたらよいか。この僧のいうように、そう
文覚は、世評を裏切らない――言葉多き僧であった。――相手の顔いろなどは問うところではなく、云いたい事を云っていた。
「佐殿にも、
独り説法のかたちである。そしていつか自身が頼朝であるかのような
「――いや、日常の行いなどは、いずれでもいいが、佐殿も、この片田舎に、十七年となっては、眼界までが、伊豆半国にとどまり世を大処から広く見る眼を、お忘れありはしまいかな。憂えられる。嘆かれる。――まずよくよく通じておかねばならぬのは都の事情、ひいて諸国の人心だが、それらの事は誰より聞き、いかなる心懸けで備えておらるるか」
「
定綱は、程よく、そう云って立ちかけたが、盛綱は兄に促されても、すぐ起とうとはしなかった。
初めからの眼をそのまま、文覚の顔ばかり不遠慮にながめていた。そして彼の多弁にあらわれる皮膚の上の熱情を、むしろ冷やかに見て幾分かの苦笑を
何か議論でも仕かけたそうな弟の
「そこの
文覚が後ろから教えていた。
奈古谷寺の境内をぬけて、兄弟は帰りを急いだ。宵空は、星雲にけむっている。野路まで出ると、闇のかぎり、虫の音だった。
「お案じなされて
定綱は、用事の多い夕方の怠りを、気にかけている風だったが、盛綱は、
「兄者人、兄者人」
と、呼びかけて、
「どうせもう宵のご用はすんだ頃。夜道に日は暮れぬ。ゆっくり参りましょう」
と、落着きこんで云う。
云われてみればそうでもある。配所まで道はまだ一里の余もあった。定綱もあきらめて、
「――しかし、殿へのおみやげばなしはあるな。殿にも、一度、文覚を訪ねてみようかなどと仰っしゃっておられたから」
「兄者人は、また参るというような事を、帰りがけに云われて来たが、殿をご案内するつもりか」
「お会わせしてもよい
「盛綱は、感服せぬ」
「そちは初めから感情であの上人を視ておるからだ」
「それもある」
盛綱は、率直に肯定して、
「けれど、その嫌いを除いても、やはり嫌いだ。あれがわれわれ同様に、太刀を
「そこがいいのだ。僧らしくしている今の僧に、よい上人があるかしら」
「ある」
盛綱は、ことばを切って、
「都の
「念仏、
「いや、わし達の行く道とは、まるで西と東ほどちがうが、広い
「――が、きょうの言葉は、源氏びいきの余りに、ああ気を吐かれたものだろう」
「わし達、武人にとっては、あんな
虫の音の闇に灯が見えた。いつか蛭ヶ小島へ帰り着いていた。――と、配所の門に
「……あ。今のお方は?」
定綱は、弟の顔を見て、息をのんだ。
北条殿の
「誰だっていいじゃありませんか――」
笑いながら彼は、兄の先に立って、配所の門へ入るなり、留守居の家人たちと、もう何か大声で、きょうの狩の獲物のない事を話していた。
初冬である。
田の刈入れも終っている。きょうのように、
「ことしの田の刈入れは、どんなだったな。例年よりは、よい方か」
北条時政は、馬上から振向いて、嫡男の
「いや、今年も狩野川の出水があったり、ひどい
宗時の答えだった。
父の時政はうなずいて視野へ
時政は五十ぢかい男ざかりで、骨ぐみの頑健なことは、息子たちより

「もう間近です。お館の森、狩野川の水、宿場の屋根。はやあれに見えて来ました」
宗時は、指さした。
さぞ、父の眼も、それが懐かしかろうと思われたからである。
「むむ。ウむ」
時政は、うなずく。
見えるかぎりの山河は自分の領地だった。遠く、平貞盛からの
彼にも、老後の計はある。そろそろそれに就いても、考えていた。その一端が、長女の政子の縁談となって、思いがけなく、こんどの旅の途中で、
彼は、先頃まで京都に在って、
「政子は、変りないか」
他のむすめ達もいるのに、時政の口から、特にその名だけが出たのは、旅先で纏まった縁組のはなしが、案じるともなく、それ以来、常に胸にあるからだった。
「はい、元気です」
宗時がいうと、そのうしろの黒駒の上から次男の義時が、
「元気すぎますよ。父上がいないので、毎日、奥の
と、つけ加えた。
――そうか、そうか。時政はそれで安心なのである。頷きながら笑っている。
けれど、政子にだけは、その観方が少しこんどの下向の途中から変っていた。旅行中に一緒になった
父親がむすめに対して、それを一個の女として見直すのは、誰しも、嫁入りばなしの時からであった。
旅装を解いたその日は、わけもなく暮れてしまい、それからの数日も、一族の来訪やら、留守居の用務を訊ねたりなどして、時政はまだ家庭の父らしく
――が、ようやく、その
(北条殿はよいお子持で――)
とよく人にも云わるるとおり、時政はまだ五十もこえないのに、
十六、十八の
しかし、父の時政は、
恥ずかしくない家がらで都会の子弟とあっては、伊豆の片田舎からわざわざ妻を
(
と、目にもくれる気風ではないのである。殊に、近頃のように
――と云うて、政子の性情や好みは、伊豆、
ふた口めには、
「坂東武士ぞ」
と、それのみを
父の時政が、もっと負担にしているのは、余り
「
折ふし小侍が、時政の手許へ、書面を
「何。山木殿から。――
あわてて
時政から返書をうけた山木判官の使いが、俗にこの辺の土民が「
「先からこのように挙式を急いできたが、山木兼隆なら政子の
と今、山木兼隆から来た手紙を示し、にわかに、その日取やらまた、妻の意見など、同時に求めていた。
「目代の山木様なら、よろしいご縁組とぞんじますが、もうそんなにまで、お進みになっているお
「京都から帰る途中、山木殿と一夜、旅舎で落合った折、何かのはなしから、政子のうわさが出て、山木判官には、前々から
「……まあ。でははっきりと、お約束なされましたので」
「なにをいう。帰るとすぐ、そちの耳へも入れてある筈」
「けれどもそんな急のおはなしとは、思いも寄りませんでしたから」
「では、どんな事と、思うていたのか」
「折を見て、そっと、政子の胸を聞いておけというような……仰せつけかと存じておりました」
「好きか、嫌いかなどと、
「でも、
「だから急ぐのだ」
「でも……。人なみ優れて、先の先まで、考えている娘でございますから、
「
「あなた様から、仰っしゃっていただきとうぞんじます。わたくしから申し告げても、もしこんどの縁談も気がすすまず、
「なんだ……?」
時政は、すこし
「そういうお前からして、この縁組には気のすすまぬ容子ではないか」
「そんな事はございません」
「はての? ……。何か、わしの留守中に、政子の行状に、変ったふしでもあるのではないか」
「いいえ」
「では、なぜ不服か」
「決して、不服などと」
「真っ先に、そちなどが、歓んでよいはずなのに……その当惑そうな顔いろは何事だ。……いや、何か、わしに
「
「いいや、そう見える。義理の子ゆえと
時政の声は、勢い大きくなって来た。やがて、総領の宗時は、呼ばれて、父の前に坐った。――そして父の難しい顔いろと、
「何か、ご用ですか」
と、軽く訊ねた。
「そちに訊くが――」
「はい」
「わしの留守中に、政子に何ぞ変ったことはなかったか」
「変った事と云いますと……?」
「たとえばだな」
時政は、父として、言い難そうに、ちょっと口を
「――
「あ。妹の行状などで」
「そうだ」
「――
宗時は、あっさり云った。
「……い、いいえ」
牧の方は、困った容子で、
「お前はいないがよい。しばらくあちらへ退がっておれ」
と、退けた。
総領と二人きりになった。時政はよけい厳格な顔を示して宗時に
「実はな……」
「は」
「今も牧と相談していたところだが、山木判官兼隆から、このたびの下向中、政子を妻にと望まれてな――約束を交わしたわけだが」
「そんなおはなしですな」
「聞いたか」
「
「それ、その通り、十分に
「ご無理はありません。義母上にも、政子へは、人知れぬお
「そちなら、何なりと、答えられよう。――どうだな、わしの取極めた縁組は」
「ちと、早まりましたな」
「早まったとは」
「妹は、嫌だと申すにちがいありません。――父上のお眼には、どう見えるか知れませんが、そういう点は、政子はふつうの
「ふウむ」
「山木の目代兼隆などは、妹の気に添わぬ男と極まっておりましょう。酒くせの悪いのは通り者です。中央へは受けがよいそうですが、目代を鼻にかけて、
「そう人間の
「父上とは、ご気性が合いましょう。才人には才人ですから」
「では、そちもこの縁組には、同意でないのか」
「私より父上よりも、
「どうして政子の胸を、そちはそのように云い
「では――義母上からも云い難いでしょうし、政子に云わせるのも
と、宗時が、改まると、時政の顔いろは、
「待て待て、宗時」
あわてて彼は顔をふった。われながら
「断っておくが、このたびの縁組は、いつものはなしとは違う。時政が眼鏡をもって、山木判官兼隆ならば、多少、
語ろうとする前に、父にそう釘を打たれてしまうと、宗時は、何も云えなくなってしまった。
若い情熱と純潔をもって、ひそかに誇っている彼は、父の時政が、何をするにも――わが
さっき、山木判官の人物を、
むしろ、そういう風に、心をくだいていることが、親の愛であるとしているかの如くに見えた。
「宗時。……口を
「でも、今のおことばは、もはや私が、何を申す余地もありませんから」
「然らば、わしが取結んだ縁談を、そちまでも、不承知というか」
「私が嫁ぐわけではありませんから、私に異存はあろう筈もございません。けれど、政子は、おうけ致しますまい」
「どうして?」
「政子には、政子が
宗時は、自分の一言に、父の顔いろがさっと変ったのを見たが、妹の身になって
「――それは、今でこそ、
「…………」
ややあってから、
「……ほんとか?」
と、
宗時が、臆面なく、近ごろ頼朝と妹のあいだに、眼につくほど恋文のやり取りや、忍んで会う夜もあるらしいなどと語ると、時政の面色は、何とも名状しようのない
宗時は、父の怒りが、そのまま政子や
「――山木殿のほうは、何とか、この宗時から、
両手をつかえて、宗時が、妹に代って云うと、とたんに、時政は、ぬっくと立って、
「な、なにを、そちまでが、
「大殿がお召しです。政子様お一方で、あちらまで、お運び下さいますように」
と、迎えによこした。
政子は、鏡に向って、髪を
呼びに来た父の使いへ、
「はい」
と、
ふたりの妹は、
――が、今、小舎人が来て、政子へ告げて行った声を聞くと、
「……お姉君だけ?」
「そう。……そう聞えたが」
「お叱りではないかしら」
「どうであろう」
急に、不安に襲われて、末の妹は、そっと、帳のすきまから、政子の容子を、のぞき見した。
「お姉君は、どんな顔していらっしゃるの……。恐ろしそう?」
黙って、末の妹は、首を振った。そして、姉の耳へ、小さな声で云った。
「平気。――ちっとも」
そのまに、政子は庭へ降りた様子だった。侍女を退けてただひとりで、庭園の奥へ笑ってゆく姿が見えた。
母違いの妹たちも、政子とは決して不和ではなかった。
さっき、父の部屋で、総領の宗時から、留守中の政子の行いを聞いて、父が激怒していたことは、もうここへも分っていた。政子も知っていたし、ふたりの妹も知っていた。
「私たちには、お優しい父君が、あのようにお怒りなされたことはない。――それに、わざわざお
妹たちは、廊を走って、母のすがたをさがし歩いた。
「姉君が、お山のほうへ、おひとりで召されて行きましたが、誰も行ってあげないでいいでしょうか」
妹たちが、そこへ告げると、宗時は起って、
「父上も、お山か」
「ええ、長いこと、庭の
「そうか。わしが行ってみる。
すぐ宗時も庭へ出たが、牧の方はそのうしろへ、くれぐれも、短気な言を吐かないように、また、父の時政を、あれ以上、怒らせないようにと、頼むばかりな
「お案じなさいますな。――けれどどうしても、一度は知れずにいない事です。父上のお辛い立場も分りますが、
彼もやや
彼にすれば、これは妹の恋愛だけの問題でもないし、家庭の一争議でもなかったのである。宗時の胸には、もっと大きな時代の波が打っていた。それへ乗り出そうとする壮図の
大日堂は、御所之内の丘にあった。時政の父時家の代に、守山の
何か、重大な考え事でもあると時政はよくここへ黙想に来る。ここに立てば、父祖の遺業の地は一望に見られる。また、大日の像を拝すれば、物事に当って、すぐ
――そうではないぞ。
と、
「お父様。お召でございましたか」
そこへ登って来た政子が、自分の前にあるのも知らずに、彼は、御堂のぬれ縁に腰かけたまま、
「……オオ」
と、時政は、充血した顔をあげた。素直なむすめのやや
「政子か。ここへかけるがよい。……何、べつにこれまで呼ぶ程の用でもないが、誰もおらぬ所のほうが、
「何か、わたくしへ、お
「嫁入りのことだが」
「……はい」
政子は父の
「山木兼隆を知っておろうが。
「ぞんじ上げておりまする」
「ひとかどの男だ。六波羅のお覚えも至極よい。従って将来にも富む人物と見こんで、其女をつかわす事にした。異存はなかろうな」
「…………」
「なかろうな」
時政の眼には、親の
「返辞は……どうじゃな……。父の眼をもって選ぶむすめの良人、末悪しかれと祈るわけはない。……嫌ではあるまいな」
「…………」
「異存があるか」
「……ありません」
吐息と共に、政子は云った。声は
「お。
と、声を
「それで、わしも、ほっといたした。
「仰せつけならば」
「よう、得心してくれた。そなたも
「その事も、悩んでおりました。……ついては、おねがいがございます」
「むむ。何か」
時政は、膝をすすめた。
案ずるより生むが易いといった
「嫁ぐと、心をきめましたからには、少しも早く嫁ぎとうございます。……それと、わたくしは、きょうまでも、なおお父上様にご苦労ばかりかけて来たように、生れつきの吾儘者ですから、嫁いでも、この吾儘だけは、おゆるし下さいますかどうかを、もう一度、山木判官様へ、念を押して、お訊ねおき下さいますように」
すると、時政は、自分が先の聟でもあるように、手を振って云い
「いや、その事は、親として、わしからも幾度も云った。――事実そなたは、吾儘でない方ではないからな。――が山木判官が云うには、そこがむしろ、ご息女のよい所、大まかな明るいご性質と、わし以上、そなたの短所も承知の上のはなしだ。なお、念はおしておくが、気に懸くるには及ばぬ。……ははははは、嫁君とても、生ける観世音ではないからな」
時政は、腰を上げた。
さがしても苦労らしいものはない幸福な父親という顔になって、
「政子。もどろう」
と、歩み出した。
政子は、まだ御堂の縁にあった。俯向いていたが、
「お後から参りまする」
「風邪ひくな。陽が陰ると、寒うなるぞ」
「はい」
「来ぬか」
「お詣りしてもどります」
時政は、にこと頷き、館の屋根と広い庭を下に見ながら小道を降りて行った。
父のすがたが、樹々の陰へ沈んでゆくと、待ちもうけていたかの如く、御堂の横から総領の宗時が、
「妹っ」
と、駈け寄るなり、政子の手くびを、痛むばかりつかんで云った。
「お
「お静かになさいませ」
政子は、
「お父上の立場もあります。親のいいつけでもあります。
と、涙も見せずに云う。
宗時は、この妹が、こんな問題にぶつかりながら、自分に計りもせず、父へあんな承諾を与えたのが、
「ふうム、ではお許は、
「ちと、お口が過ぎましょう。いかにお兄上なればとて」
「なにっ」
「政子をそんな
「口惜しいのは、この兄だ。お許は、父の立場と云ったが、宗時の立場は何となるか。――いや、自分の妹だ、わしなど
「政子も考えておりまする」
「どう? ……どう考えてか」
「落着いてください」
「ばか、落着いている」
「そんな
「当りまえ。これが癇ばしらずにいられるか。自分の妹とはいえ、次第に依っては、お許を首にしても、誓いを
「……ホ、ホ、ホ」
政子は、笑って、正直な兄を
「お兄様。あなた方の遊ばしているお
「
「いいえ、貴方ばかりではありません。ご一味の
「おのれ、ではこの兄や、友達の殿輩は、みな乳くさいと云うのか」
「そう思います」
「云ったな!」
「その通り、ご短気ではありませんか。それでは、政子がおはなししても、むだ事でしょう。――もう一夜、わたくしを、
いちめん
「誰か通るが……?」
ひとりが、芒の中から首をのばして見まわした。
「
首が沈む。
銀いろの
「――で。
「盛長、おぬしから話してくれい。――宗時からは、妹の事、云い難いところもあろうで」
その側には、北条の総領宗時。そして、配所の家人で、夫婦して常に頼朝の世話をみている安達藤九郎盛長とが並んでいた。
他の若人輩とは、やや離れて、
形の上では、そう三名が、この青年達の会合では、首謀者といった格に見えた。
――北条殿のむすめと、山木判官とが、近いうちに結婚するという噂も、隠れないものとなって、冬も十一月の半ばという頃だった。
かねて、政子の希望としてもう一度、嫁ぐ前に頼朝に会いたい。そして自分の本心も併せて佐殿まで告げておく。――という事が、ゆうべ実行されたので、今日は、その佐殿が、
(彼女と会って、彼女から何を打明けられたか)
を聞こうとて、こうして集まった腹心の友だちどもであった。
友だちといっても、
いや、もっと率直に云えば、平家を追って、自身、平家に代ろうとしているのである。しかし、それに代って、それ以上な時代を創り上げてみるだけの抱負や理想は皆持っていた。
土着の地侍というに過ぎない者もいるが、このうちの北条宗時はいうまでもなく、土肥次郎
いつとはなく、この若い群は、若い頼朝を中心に結びついて、
(時しあらば――)
と、世のうごきを、見まもっていたものだった。
で、佐殿の事とあれば、彼の浮気な恋の後始末まで、この若い群が陰になってした。とりわけ、北条殿のむすめとの関係には、自分たちの目的をも結びつけて、その恋を
その時政をうごかすには、総領の
が、子には甘い時政、わけて政子には目のない親だった。政子と
二世までとも見えた政子と頼朝との
――捨てて置くのか。
当然、騒ぎ出したのは、この若い群だった。問題は、佐殿の恋愛沙汰ではない。佐殿は元より浮気者だ。そんな事を
――大事の
――政子どのは、われわれの
――目代の妻となれば。
と、当然な
宗時は、個々に訪ねて、今一度、妹と佐殿と会わせた上で、真実を

そう
「では、わしから話すとするか」
藤九郎盛長は、少し遠慮がちに、こう断ってから、一同へ告げた。
「ゆうべさる場所で、政子どのの望みにまかせ、佐殿と密かにお会わせ申した。――その後で、佐殿から承った姫の考えとは、次のような仔細でござった。……お聞きください」
以下は――
藤九郎盛長が、政子と頼朝に代って、腹心の人々へ向って打明けた「嫁ぐ本心」なるものである。
* * *
自分が、あの縁談に、いやとかぶりを振ったら、父の時政は、嘘をいった事になる。向後、山木判官から、どう
それと、
彼女はそういうが、より以上な理由としては、政子自身が一刻もはやく、頼朝のそばへ行きたい事だった。
彼女を知る人たちは、誰もみな彼女の聡明を挙げるが、彼女も恋をすれば
いや、境遇や年齢からも、政子の生きがいは、今となっては、唯一人の男性へひた向きにかかっていた。しかもその男性は、彼女の理想に最もかなった高い家門の
政子の心が囚われたのは、それだけを男が
(あのお方を護り立てて)
と
――だのに。
何で、山木判官へ嫁ごう。
嫁いで、その夜逃げる。
身を潜める。
父のせいにはならない。
父は、
その頃、頼朝のそばへ行って、共に暮す。――当然山木方から挑戦の火の手があがろう。こちらも戦う。
絶好な口火だ。
世上へは、恋の紛争と聞えよう。京都も油断があろう。そのまに、大事の第一歩を踏み出して、同時に旗挙げを宣言する。
* * *
「叱っ……。人が来る」
盛長の話がちょうど終りかけた時である。見張の一名が、彼方の
「目代の家人だ。山木の郎党が付いてくる」
見張の者から、二度目の声が伝わると、
「なに、山木判官の
若人輩は、すぐ険しい目になって、太刀へ手を触れながら起ちかけた。
「起つな。――起っては先へ
盛長も制し、宗時もあわてて共に制した。
「…………」
黙り合って、一同はまた、芒の中に
夕風の渡る穂すすきの間から、彼方へ眼を送ると、なるほど、山のほうから降りて来る馬と人がある。
馬の上に揺られて来る顔は、夕雲に赤く映えて、その白い歯や
「はてな、何処へ?」
「旅へ立つらしい
宗時や盛長たちは、怪しみながら見まもっていた。その間に、彼方の野路を斜めに、馬と人は過ぎかけた。
――と思うと、馬上の文覚が、ふと
「ちょっと待ってくれ」
文覚は、馬を降りて、馬と役人を置き残して、独りざわざわと歩いて来た。
「やあ」
「何してござった。北条どのの息子を初め、だいぶ元気な面々のお揃いだが、よもや女盗みの相談などではなかろう。……これだけの
何を笑うか。おかしくもない――と云わぬばかりな顔をわざと揃えて、若人輩は、文覚を黙殺していた。
日頃から、この若い仲間では、一人も文覚に心服していなかった。会った者から聞き伝えただけでも好きになれなかった。人を見れば豪語を吐く癖がある。地方の武人はみな無能のように
けれど文覚は、それを淋しいとはしない。人を
「起つさ、起たないでどうするか。自然の循環は

「…………」
文覚は振向いた。目代の役人が伸び上がって此方を見ている。彼はにわかに、自分の行先を思い出したように、
「では。……おさらば」
いつになく
「実は、この文覚に対して、どう風のふき廻してか、都より
云い終ると、文覚はすたすた去って、待たせてある馬の側へ戻り、やがて
落日の赤い
去ってみれば何か淋しく、
「あの僧も
と皆、惜しむもののように、野の果てを見まもっていた。
それから数日の後である。
この日の
北条家の御所之内の地域とは、狩野川の引き水の
宗時も、その弟の義時も、その晩は来ていた。
この間の会合に見えなかった者では、三浦一族の和田小太郎義盛が、先頃、京都へ使いに上って帰って来たという三浦
「どんな状況ですか、近頃の
人々は、その義連を中心に、こよいの座を囲んでいた。
誰にもあれ、京都の消息を
義連は、大勢の
「こんど父の義明に
「ほ。……長田が」
駿河にまで、そんな事がもう洩れかけていたかと、若人輩は、
「その手紙を、忠清から見せられて来た。こう大庭景親は、父へ云ったそうでござる。――恐らく東国の侍奉行たる忠清は馬鹿者に組したりして身を
義連の意見に、誰もうなずいた。事実、最初のうちは四、五人に過ぎなかった若い群の会が、いつか三十人となり五十人となり、寄合には顔を見せなくても、
(お前方がやるならば――)
と、黙約の
この若い群が、
(春は、
などと激励していた。
昼間、時々、
――と思うと、雨の
十二月だった。
吉日と云おう。きょうは政子の
御所之内の
「よい雨、おめでたい」
「
時政夫婦の前に出て、礼をのべて
夫婦は、さすがに落着かない歓びにつつまれていた。客を客にまかせて、

政子は、その中に立っていた。
侍女、乳母などに囲まれて、白い絹につつまれかけていた。
ちらと、振向いて、
「…………」
時政の顔は、いつか大日の御堂で見た折のように、歓びにばかり溢れていない。さびしい影が見える。
「……二十年」
政子は、自分の年だけの恩を思った。眼がうるんでくる。
さし
時政も、
すると、何かと手伝っていた下の妹たちが、
「父君は、きょうはここにいらっしゃってはいけません。あちらへ行っていてください」
二人して、廊の端まで、背なかを押して行った。
「ははは。いいじゃないか。はははは、よいではないか」
子どもに甘える気もちで、押されて行った時政は、独りぽっち、そこへ置かれると、気の弱いものが、ぽろりと、瞼からこぼれかけた。
――がすぐ、その眼は、御所之内に満ちている一族、近郷の諸侍などの、馬いきれ人いきれの上へ移った。何とたくさんな若い者がいることだろう。自分の持つ手兵、親類の子等、知己の子弟、伊豆には若者がわけて多い気がする。いや世の一般もその通りだろうが、その若い力の全体を何となく握っている老人というものも不思議に感じられる。――時政はまだ自身老人とは思っていないが、さりとてこの若い者の仲間ではない。いつか彼もそこを出て次の人生の事をしきりと考えるふうにはなっている。
「宗時、宗時」
突然、大声で呼んだ。総領のすがたを彼方の廊に見かけたからである。
細い雨の中を駈けて、宗時は、父のいる
「お召ですか」
「むむ」
と、時政はなぜか口を
「
「……?」
「分らぬのか」
「……分りましたが」
「武器は、
「では、伏勢として」
「武門の嫁入りだ。どんな変がないとも限らぬ。あっては聟殿に申しわけあるまいが。……父親の心添えだ。総領のそちは、婚儀の席に連なるより、陰にあって、
宗時が、
誰も彼も、華やかな忙しさに追われている中に、時政の顔のみは、不機嫌とも見えるほど
政子の
「牧っ……。牧っ」
と、妻を呼びたてた。
そして、牧の方の姿を見ると、
「後でよいが、政子の支度が終ったなら、広間へ入る前に、これへと申せ」
と、いいつけた。
そのまま、時政は、座に着いて、黙然と、守山の雲の去来を、
燭を運んでゆく侍女たちは、袖で灯りをかざしていた。
「もし……。先程から政子がおん前に参っておりまするが」
牧の方にそう云われて、時政は初めて眼をひらき、そして自分の前に、両手をつかえたままでいるわが
「…………」
「もう行くか」
と云った。
政子は、それに、何か答えたようであったが、父の耳へは聞きとれなかった。泣いているのである。
「この折に、改めて父からいう何事もない。ただ嫁ぐからには、女子は、良人のほか、何ものも頼るものはない筈である。父は、平貞盛が
と、声を含んで、
「女子は、
「……はい」
政子は、
父のことばは、ことば通りのものか、それとも、何か謎をこめての仰せなのか? ――と。
「はははは」
時政は笑い消した。
「泣いているのか。はてさて、まだ子どもよのう」
と、牧の方を顧みて、
「
「…………」
政子が、
「いそいで、顔の
牧の方は、彼女を伴って、
花嫁が輿へかくれてからも、
さすがに彼女も胸がいっぱいで前後もよく分らない程だった。やがてわが輿がかき上げられると、
――不孝の子の吾儘をゆるして下さい。
政子は、何度も胸のうちで繰返していた。父の時政へ、というよりも一族全体へ、祖先からの旧い
嫁ぐ花嫁の心には、奇怪な決心が秘められていたのであった。輿をになう者も、列に従う人々も、見送る一族も、当然、彼女は山木判官が邸へ
花嫁の列は、生家の門を出る時から、すでに
またそれまでの覚悟をするには、女という一身の方向だけではなく、この結果が、どんな重大事をたちどころに招来するかをも、当然、聡明な彼女の考えていないはずはない――北条家も一族を率いる武門、山木判官も武門。すべてのものを弓矢
(不孝。ひいては不忠の子)
花嫁は恐ろしい自分の大罪をそう知って
(どう逃げようか? ……。逃げた後は、どこへ身を隠そうか)
何も知らない輿入れの列につづく人々は、また一しきり
が、宿場を
さあっと、野を横ざまに、一
道はひどく
晴着を雨にぬらした人々は、寒さにふるえあがった。
けれど、山之木郷の婚家までは、わずか二里ほどしかなかった。行く手の夜空に黒々と望まれる
程なく。
その韮山のすそにも、ちらちらと、たくさんな灯が見え
輿は間もなくそこへ着く。迎えの灯と、列の灯とが合流して、
後から急いだ父の時政や一族たちの騎馬も、同時に、山木家の門前に着いたのであった。
岩石の露出した木の少ない山である。石山の多いのは伊豆の特徴でもある。そうした低い山が、幾つも田野から
「――通る、通る」
「あの
「ご息女の
岩山の岩かどに這いつくばっていた物見の兵が云い合った。二、三人がからからと後ろの谷間へ降りてゆく。
七、八十の兵が、夕方から
「宗時様っ。宗時様」
物見の者の声に、
「おう」
と、どこかで答えがする。
篝もないし、星もない雨夜なので、ほとんど、声をたよりに、
「どちらにおいでなされますか」
「ここだ、ここだ。杉の木の下におる」
「オ……。ただ今、政子様のお輿と、供の列が、山之木郷へ着きました」
「着いたか」
「すぐ目代邸へお入り遊ばしたように見られます」
「よし。――おまえ達は、以前の所へ戻って、なおもじっと、物見をしておれ。そして山木の邸のほうに、何か変った様子が見えたら知らせて来い」
「はっ」
兵はすぐ、岩を
父の時政のいいつけで、惣領の宗時は、山之木郷の附近の山々に、七十、五十と兵を分けて宵からじっと武器を伏せて万一の変に備えていたが――いったい婚礼の席をも外させて、何の為に、父がこういう備えに自分をさし向けたか――宗時には、父の
父の平常の主張からすれば、今夜の婚礼に、万一の変事などを、予測するわけもないのに、何で、家の子郎党に武装させて、伏兵の手配りなど命じたか、考えても考えてもその矛盾が宗時には解けなかった。
ポタ、ポタと、杉の
「……妹は、どんな心地で」
と、宗時は、それをも思い
「待てっ」
「だっ、だれだッ」
下の狭い
「来たな」
宗時は、先に起っていた。そしてそれへ来た歩哨の兵の言葉も聞かないうちに、
「
と、云った。
「そうです」
「これへご案内しろ」
待ちかねていたものとみえる。すぐ下からその人々の影が登って来た。土肥次郎実平である。
また、仁田四郎忠常である。藤九郎盛長も、天野遠景も一緒に来た。――が、皆、それとも分らないほど具足には
「宗時殿か」
「おう、
「こちらはかねての手筈どおり、かく
この面々は、時政のさしずに依って動いてもいないし、時政が宗時にいいつけた事も知らないので、まったく不審にたえないもののようであった。
今夜の出兵は、自分の意思ではなく、父時政のさしずに依るものであると、宗時から事情を聞くと、一同はなおさら、
「何、北条殿の
と、土肥
自分たち若人
で、しきりと不安がる友へ、
「いや、偶然だ。父はただ近郷の土豪とか、万一とかいう、漠然たる要心のために、兵の配備を命じたにちがいない。さもなくば、誰よりも先に、密謀の張本人たるこの宗時を、監禁なさらなければならない筈だから」
信じるまま云った。
宗時はまた、ことばを重ね、
「たとえ山木判官や父が多少感づいておろうとも、この
と、激励した。
一同の
「よし。宗時殿さえ、そのお覚悟ならば、われわれの
土肥実平のことばを
「…………」
宗時は、その人々が、彼方にかくれるまで、黙然と見送っていたが、やがて、われに返ったように、岩山のみねへ
そこから山之木郷の目代邸は明々と見えた。
もう妹は
「……今に。今に」
宗時は、じっと、歯の根をかみながら、政子を思い
刻、一刻と、宗時の胸には、婚礼の席にいる妹と同じような
すると、突然、
「あっ、火っ、火が!」
と、そばにいた物見の兵がどなった。宗時は、
「
と制しながら、眸をこらしていた。そしてわずかに炎の舌が
火は、そこの釜殿か、納屋あたりから燃え出したらしく思われる。立騒いで、右往左往する人影が、火光の中に蚊みたいに見えた。
北条家の
花聟はまだ着坐しない。
花嫁もなお輿を降りたまま、どこぞの一室に、ひかえている頃だった。
嫁親の北条時政は、聟の父にあたる
時政は、社交に
「このような
そんな雑談をしているうちに、広い邸なので、よほど遠くではあったが、火事、火事っ――と駈けまわる召使たちの足音や大声が突然立ちはじめたのであった。
「なにッ」
「失火だと」
すべての人が騒然と立った。わけて山木家の人々は狼狽を極めてみな出て行った。ここかしこの
――花嫁はしずかに
そこの
「…………」
彼女は、にこと
そして燭台の灯をふき消し、水のごとく人のいない部屋を歩いて行った。
山木家の侍がふとそれを見つけ、怪しみながら花嫁の後をつけて行った。政子は広間の次へ出たが、そこに明りが見えたので、廊を引っ返して、白い衣裳のまま、
「あっ。どこへっ」
組みついた者がある。政子は声もたてなかった。振向いて、その顔を見ると、山木家の家来なので、
「火を避けに行きます」
と、静かに云った。
「火は、大勢して、消しとめています。大事には立至りません。不審なご様子、邸外にお出し申すわけには参りませぬ」
「
「何であろうと」
「お離し……」
「いや。お戻りください」
云い終ると共に、その侍は、いきなり政子の肩を荒々しく押し返した。
痛さに、われを忘れて、政子は悲鳴をあげたが、同時に、その侍の口からも異様な
「政子さま。私の背に」
片手に、短刀をひっさげた覆面の男が、彼女に背を向けた。土肥次郎実平であった。
釜殿の出火は、元より実平の仲間が
ほとんどが、火に気をとられて、何を顧みる
「
仁田四郎の声である。手柄手柄と、藤九郎盛長が賞める、実平は、姫をかかえて跳び乗った。
駒につづいて、面々も駈け出した。そして、山へかかるとまた、実平は政子を負い直して、半島の背ぼねをなしている伊豆山の裏道の
年は変っても、やがて、伊豆の春とはなっても、花嫁の失踪に端を発した去年からの紛争は、この国の空に、険悪な雲ゆきを持越したままであった。
「北条家で隠したに違いない」
「時政の奸計だ」
「いや、
山木方が、
「仕儀によっては」
と、弓矢に
「必ずお顔を立てる」
時政は誓った。
そして娘の親として、
「何と、仰せられようとも、お詫びの仕方はない。面目次第もござらぬ。切腹いたしてもと思うが、死は易し、今この時政が
詫びる一手で押通していた。
その間、双方の親類が寄って、幾たびか、善後の処置とか、懸合い事とかの席でも、
「済まぬ。唯々申しわけない」
の一点張りで、時政は、平謝りに謝り通して来たものだった。
そうこうする間に、月日は過ぎて行くが、時政のいう謝罪の立証は、すこしも事実となって来ないので、山木家側の
「政子どのの首は、いつご持参あるのか」
「親として知らぬはずはあるまいが」
「それで、北条家の
「大たわけ殿。まだ、老いぼれる年でもあるまいが」
あらゆる
「この方においても、極力、探し
とか、
「もうしばしのご
とか。――そして相かわらず、山木家の親類の前に坐れば、身分も恥もすてて、低頭するばかりだし、懸合いの使者を迎えれば、いんぎん
時には、
「生きるも辛し、死にもならず、かくまでの
と、落涙を見せた事もあった。
――めっきりと
――
躍起となって、北条家の無能無責任を
事実、北条家では、以来、箱根伊豆の山々は元より、近国までも、手分けして、政子の行方をさがしてはいた。
十人二十人と、一組ずつにして、のべつ山狩のように、郎党たちを、歩かせてはいた。
が、何の手懸りも
「何たる手ぬるさ」
と、山木方でも、勿論、諸所へ手勢を放って、血眼になっている。わけて、臭いとにらんでいる
すると、三月になって。
伊東入道
伊東入道からそっと
(政子は、伊豆山権現の一院に
と、あり、なおまた、
(頼朝という流人は、困った男である。
とも
文面によると、伊豆山には、逃亡した政子ばかりでなく、頼朝もそこへ移って、
「おのれ」
と、山木兼隆は、前後の弁えもなく、怒りに燃えた。
「すぐ行け」
とばかり、何百という家の子郎党は、彼の命をうけるや、先を争って十国峠へよじ登った。
一方、早打ちをうけて、伊東入道祐親も、手勢をくり出して、
――が、山木勢は、峠づたい、伊豆山へかかろうとすると、途中一隊の軍勢にさえぎられて、そこから先へ進む事ができなかった。
「通るなら弓矢にかけて通って見よ。ひとりも生かしては帰さんぞ」
と、生命知らずな面がまえが、高原に列を
旗じるしもない、大将らしい者とて見えない。まったくの
「各

そう訊ねても、
「何者の
と云い、
「
と、
「通すわけにゆかぬから通さぬまでの事。通りたければ弓矢で来い」
と、いう暴言ぶりである。
山木方でも、血気なのは、
「押通れっ」
などと人数の中から喚いたが、所詮、
そのうちに、山木方の兵が、
「あの中に、北条家の郎党も交じっておるぞ。日ごと、山を
と、騒ぎだした。
よくよく目を注ぐと、北条家の者ばかりでなく、土肥実平の家来、仁田の縁類、宇佐美、加藤、天野なんどの家僕や、伊豆の土豪の次男三男などの顔が幾つもその中に見出された。
「よし。かく
遂に、交渉を見限って、味方を抑えていた山木勢の年
箱根
別当行実は、僧兵に囲まれて、両軍の間に立つと、こういった。
「何故の争いかしらぬが、箱根、伊豆の両権現の地域の近くで、みだりに兵をうごかすにおいては、われらとても、黙視しているわけに参らぬ。――まず、山木殿の云い分から伺おう」
すると山木方の人数から、
「主人兼隆の命により、伊豆山権現に
と、云い立てると、
「それは近ごろ奇怪な沙汰を聞くものだ。伊豆山権現に、政子どのが潜みおるとは、誰が云った。眼に見た事か、証拠でもあることか」
と、事の理非は
そこへまた、誰が告げたか、伊豆山走り湯の僧兵が一群れ、また一群れと何十人も
「われわれが北条殿のむすめを
と、息まいた。
時経つほど、山木勢は、不利にもなるし、最初の意気ごみも
「もういちどよく山木判官の肚を
僧兵たちの
「――どうしてやろう?」
山木判官は憤怒のやり場がなかった。彼の面目はまったく踏みにじられた形だ。あがけば
「平家の政道が悪い」
遂には、その恨みを、中央の無能に向けて、独り
目代という職務からも、彼は何度も中央に訴えを出していた。また、伊豆地方の人心が、何とはなく反平家に傾いて、わけて少壮な土豪の子弟などの思想は極めてよろしくないとも報じてある。
今のうちに、この危険な
そう矢の如く催促の使者も立ててはある。
にもかかわらず、六波羅からは何も沙汰がないのだった。かえって、近国の武将などへ調査を命じたりしていた。殊に、山木判官が不快としたのは、北条家へ向って、六波羅から事情の上申書を求めたりしている事だった。
北条家に、事情を書かせれば、当然、いいように
地方事情にうとい中央の役人は、公平を期するつもりか何かで、山木方の訴えと、北条家の中し分とを、書類のうえで見較べながら、日を過しているらしく察しられるのだった。
「何たることか」
と、山木兼隆は、歯がみをして毎日を送っていた。それが
「今までは、庶民の訴訟や争いも、
そう反省したりして来ると、彼はもう目代として、権力ばかりで地方民へ臨む六波羅の一吏員という仕事さえも、熱心には勤められなくなってしまった。
世間に何が起ろうと、配所はいつも
その配所に、変った事が一つ起った。
可愛らしい
頼朝は、
その閑日も楽しみ、またよく、天下の事を談じたりもする男は、ここへ食客となって
雲雀も、彼が孵したのである。
「邦通、絵図はまだ出来上がらないのか。――雲雀にばかりかまっておるな」
「そんな事はありませんが」
縁に雲雀の籠をおいて、
「あの通り、やってはおりまする」
「すこし急げ」
「はい。……急にご入用で」
「急ではないが」
「まだ一、両年はよいでしょう」
「いつ
「
「もうよかろう……。だいぶ、
「――とは思いますが」
「いちど探って来い」
「いや、止しましょう。この際、山木家の附近の絵図など写し取りに行って捕まったら、せっかく下火になったものを、再燃させるようなものです」
「それもそうだな」
「ご退屈でしょう」
邦通は、頼朝の顔を見上げた。
「……いかがです。こよいあたりまた、お忍びあっては」
頼朝の気もちを察して、邦通はそっとすすめた。配所に
だから、頼朝を盟主とし、頼朝を名君としたがる謹厳な一部では、
(邦通をお側におくのはよくない。彼は、遊芸が巧者ばかりでなく口も巧い
と、
けれど頼朝は、彼が好きであった。
「……参りたいが」
頼朝は、彼の誘いに、正直につぶやいた。
自分を
「お供しましょう」
気軽な邦通は、すぐにもと支度にかかり始めたが、頼朝はまだ決しきらず、
「盛長や定綱や、家人どもへ、無断で出ることもなるまい。と云うて告げれば、彼等がまた面倒に申すであろうし……」
「お召使の家人たちへ、何のご遠慮がいりましょう。
と、彼は独りのみこんで、
「山絵図を写しに歩いたおかげで、山には明るいつもりですから、誰の目にもふれずに通える道を、ご案内いたしまする。――家人衆へは、私からお出ましの由、ちょっと申して来ましょう」
彼は飽くまで物事を手軽に考える楽天家であった。
走り湯の
尼院の庭は
風の日は、風がつよい。――が、よく晴れた日は、見はらしが
政子は、飽かなかった。
毎日ぼんやり――一見そう見える姿で――尼院の縁にかけて海を見ていた。
夜も昼も、ここでは海鳴りがやまずに聞える。海鳴りの中に、彼女の心はようやくこの頃、落着きを得たようであった。
「政姫さま。おさびしゅうあろうな」
法音比丘尼は、彼女のぽつねんとしている姿を見ると、慰める気か、側へ来ては話しかけた。
この尼は、北条家へも前から出入りしていたし、わけて政子には、幼い時から和歌を教えたり、法華経の読解を
「いいえ」
政子は、顔を振った。
寂しかろと問われた時、政子は「ええ」と答えたことはなかった。
正直、彼女は、婚礼の夜、山木家を逃げて来てから、一度でもさびしいなどと
夢といえば。
いつか妹が、
今。――こうなっている姉の身を、家にある妹たちは、どう考えているだろう。
(
幾つも年はちがわない妹たちであったが、政子から見ると、まったく他愛ないお人形に見えた。――家を出て、今ここから、思うと、その感じはなおさらであった。世の中を知らない深窓の
肉親の妹ばかりではない。世の多くの良家の
(自分だけは)
という理想があった。嫁すべきものへ嫁す運命をさがしていた。
頼朝の恋文を初めてうけた時、彼女の気もちは、うろたえなかった。むしろその前から彼女からも頼朝へ志を贈っていたほどだからである。
彼女は、頼朝の貴公子的な人品にも心を寄せていたがまた、頼朝の不遇な――配所の
――どうしていらっしゃるか?
今も、それを独り思い
「
「はい」
「余り先の先までは、考え
「何も考えておりません」
「おつつみなされても、この頃のお
法音比丘尼は、眼をうるませて云う。――幼少から手塩にかけた政子なので、いつまでも子どもと思うているらしい。
政子は、何かというと、尼が自分をいたわる為に、涙をこぼすので、いつもかえって当惑した。
尼は、彼女のした事を、まったく
政子の心とは遠かった。尼が涙して自分をなぐさめるのを、政子はむしろおかしく眺めて、
(お師さまもお
と、思うだけだった。
「――お師さま。わたくしの身の事は、どうか、ご心配しないで下さいまし。自分にも、固く思うところがあってした事ですから」
「きついご気性のう」
尼は、見上げて、
「お小さい頃から、お気性は勝っておいでなされたが、何というても、
と、昔からの口ぐせで自然、
「
「だいじょうぶです」
「どうして大丈夫ですか」
「兄の宗時が、よそながら護っていてくれます。兄の友達どもも、今ですから申しますが、私を
「相手は誰と思いますか」
悲しみをこえて、尼は、叱るような声になった。
「六波羅の目代でござりますぞ。それに弓をひいたら、天下を敵としなければなりません」
「そうです」
「……そうですとな?」
尼は、疑うように、姫の顔を見すえていた。その眼へかすかな
政子は、もうこの
「老尼さま。
そこへ一人の尼弟子が告げに来た。法音は、きょうは何か、これ以上、政子へ
「
そう云い残して、自分は冷たい尼院の奥へかくれた。
「萱でござります。おかわりもございませぬか」
やがて
「おう萱か。十日余りも見えないので、案じていました。遠慮はない。そこへおかけ」
と、縁の端をすすめた。
萱は、地に
「ここには、姫様のほか、誰もおりませぬか」
と、見まわした。
政子も、あたりを見て、
「なんじゃ?」
声をひそめた。
萱は、すばやく近づいて、政子の手へ、何か渡した。そして、
「お館さまからのお文です」
と
政子は、父の文を
牧場の妻の萱を使いにして、父の時政は、たびたび、ここへ便りをよこした。
表向きは、当然、義絶も同様――あれ以来、父と呼ばせないと、
いや、むしろよけいに、親としての憐れみで、
で、便りのたびに、きっと書いてある事は、
――変りはないか。
そしてまた、
――短慮をすな。じっと、時の到るを待て。
といったような事だった。
もし政子が、絶望を抱いて、自害でもしはせぬか――それをのみを彼女の父は、いつの手紙にでも、ひたすら
ところが、きょうの便りには、それがやや具体的に書いてあった。世間のうわさも、だいぶ薄らいできたという事。また、相手方(山木家)の感情も、ひと頃ほどではなく、従って、自分の考えているように、徐々と、事件の解決も見込みがついて来た――というような事などが、いつもながら、
(短慮すな。短慮すな)
と、言外に
政子は読み終るとすぐ、細かに裂いて、
「姫さま……」
彼女は起って、何か抱えて来た
「あまり屋の内にばかり籠っていては、お体にようございませぬ。裏山からわしの牧場の近くまで、お
とすすめた。
言葉は唯、形式に云っているだけで、彼女の眼は、政子の眼へ、べつな意味を何やら知らせていた。
「…………」
政子は黙ってうなずいた。
その頬に、紅がさしたのを見ると、それだけで、意味を受け取ったものとみえる。
奥の法音比丘尼にも、
「――こちらへ」
と手招きしては、かなり急な石の多い山の小道を、登って行った。
尼院の屋根はすぐ眼の下になった。走り湯権現の堂閣も下に見えた。
「登れますか、姫さま」
「ええ。これくらいな道」
牧場の妻は当然山馴れてもいる。しかし山馴れない政子はと、時折、
山は深くなった。
云うまでもなく、
彼は政子の姿を見た。政子も頼朝のすがたを見出した。無表情とさえ見えるほど、二人は声も放たず近づき合った。
黙って、そこの木の根の草むらに腰をおろす。寄り添って、そうしてからも、しばらくは言葉もない……。
どういう言葉を以てしても、政子は今の自分の胸を伝えるには足らない気がするからである。
――我とてもそうである。
彼女の沈黙を
が、ここはもう、日金の牧のすぐ下である。誰もいない。世間の眼もない。頼朝の供をして来た藤原邦通も、牧の妻の萱も側にいなかった。
何でも云える。そして、
政子は、
「お支度はできましたか。毎日そればかりを待ち暮しておりまする。いつ二人の婚儀を挙げて下さいますのか」
「……もう少し先に」
「いつのお言葉も」
と、政子は、彼のにえきらない
「もうあれ以来、半年もこえているのに、まだいろいろなご準備ができないのですか」
「婚儀には何の支度もいらぬが、それを挙げるには、同時に、大きな覚悟が
「分りきっている事です。それはこれから先に持つ覚悟ではなく、始めからの事ではありませんでしたか。……わたくしと、貴方とが、結ばれる始めからの」
「元よりわしとても、その肚はすえている」
「それを、今となってまで、これ以上、何を
「迷いはないが、機を計らねばならぬ。生涯のわかれ目――二人の恋とだけは考えおらぬ。――それは天下の大事、男の胸にあることだ」
「でも……機はもう熟しているではございませぬか。父の時政も、初めは、わたくし達の大望には、所詮、
「それは、宗時からも聞いた。……しかし、わしは伊豆一国だけを見ておるのではない」
「…………」
「
ふたりはそれからもかなり長い間そこに語らい合っていた。けれど、その話には、恋の蜜もなかった。――頼朝にとっても、時政にとっても、恋は第二義であった。ただ政子は女性であるがゆえ、父よりも、頼朝よりも、純粋であった。初めから生命がけであった。
配所の柿は、あらかた配所の者がたたき落しては喰べてしまった。
手も
「お。……ここか」
ひとりの山伏は、杖を止めた。配所の外に立って、しばし奥の屋根作りの
「ああ、長い年月を、ここに暮しておられたのか」
と、その
やがて、山伏は、ずかずか通って行った。
柵の内には、畑がある、
釜殿からは、
「はて?」
玄関をさがして横へ曲がる。
厩の内から、白い人影を見ていた三郎盛綱が、怪しんで駈けて来たのを山伏は知らなかった。
「たのもうっ」
杖を立てて、玄関から訪れているところへ、
「どなた」
と、盛綱が後ろから声をかけた。
「や」
と、振向いて、
「こちらの
「そうです。――
「いや、合力ではない」
「然らば、何者か」
と、
山伏は容易にゆるさない
「
と、云う。
「用向きも知れぬ者を、お取次するわけにはゆかぬ。ご姓名を承ろう」
「怪しい者ではない。ともあれ佐殿にお目にかかった上で」
「
「お
「佐々木源三が子、三郎盛綱でござる」
「そうか。源三秀義が子か。かねて聞き及んではいたが、佐殿の身内には、なかなかよい若者がおるとは嘘ではなかった。――然らば、申してもさしつかえはない。
盛綱は驚いた。
間もなく、黒光りのしている廊の板敷や柱に、灯の影がゆらいだ。そして端麗なる貴公子といった風采の頼朝が、自身でずかずかと出て来た。
そこに立って、しばらくは、夕闇の中の人影をすかしていたが、
「
と、訊ねた。
山伏は、寄って来て、これもじいっと、頼朝を見上げていたが、
「……佐殿か」
と、云って、
「そうだ。新宮十郎行家とは、近ごろ改めた名、以前の陸奥十郎義盛でなくてはわからぬ筈だった。その叔父の十郎じゃよ」
「おお、あなたが」
「火急、お目にかかりたい儀があって、
頼朝は、振向いて、
「盛綱、盛綱。叔父上に水を汲んでさしあげい。……さあ、お足を
と、頼朝は先に立って、行家を奥へ伴った。
「お疲れでしょう」
頼朝は云った。
それは
なぜならば、彼には、余りに多くの
行家は、頼朝がまだ十二、三歳の頃を知っていた。兄弟の義朝が六条に栄えていた時代の家庭に、幼い頼朝をよく見ていたものである。
それから十七、八年。
ひと昔――
実にひと昔である。茫々と年月は過ぎてきた。そして、ここは伊豆の山中、当年の頼朝は、はや三十歳の男ざかりである。父義朝にどこか似て、より以上、気品がある。智的な、温容なふうがある。
「…………」
行家は、感慨なくしてはいられないのである。けれど頼朝は、さほどでもない。朝暮の訪客に接するのと、大して変りもない程度に、
(――ご用談は)
と、
しかしよく考えてみると、それは頼朝が情熱に
「この頃は、都においでですか。それとも、お国元ですか」
余り行家が黙っているので、頼朝は、そんな話題を出したりまた、
「ここにいては、まったく、世上の事は何も分りません。こよいは
と、云った。
それも至ってお座なりの歓待にしか聞えなかった。行家は初めのうちは少し不足であったが、十四歳から伊豆にいる頼朝に、いきなり十七、八年ぶりに訪ねて来て、血縁の情を望んだ自分のほうが無理と
「いや。その前に」
と、彼も他人行儀に、改まって、用向きの口を切って、
「
「お易いことです」
頼朝は、起って、
「こちらならば、誰も入って参りません」
と、持仏堂へ案内した。
今し方、彼は、そこで日課の
行家は、そこに入って、義朝や一族の位牌を見ると、すぐ涙を
「これは、
と、頼朝を顧みて訊いた。
頼朝も、仰ぎながら、
「私にとっては忘れられない
と、答えた。
頼朝が十四の時の恩人を忘れずに、今もなお、その人の霊に、
(やはりこの甥は、義も情も解さない冷薄な人間ではないのだ)
と思って、急に、自分の情熱まで
それかあらぬか、彼は
「――実は、このたび自分が東国へ下って来たのは、わたくし事ではなく、
と、厳かに云い出した。
宮のお使いと聞いて、頼朝も驚いたらしかった。
「お待ちください」
叔父の行家へこう云うと、彼は持仏堂からどこかへ出て行った。
手を浄め、口を
座も遠く退がって、
「この配所へ、そも、何事のご令旨にござりましょうか、仰せ聞けくださいまし」
と、両手をついた。
行家は、肌身に奉じて来た宮の
「お近う」
と、さしまねいた。
頼朝は、にじり寄って、両の手に捧げて受けた。
――が、それを開かぬうちに、行家が注意した。
「一通は、
頼朝は、はっとした。
ご赦免――という一語にも。
それとまた、北条殿と同席でという行家の注意にも。――大きな歓びと、大きな当惑とが、
流人という幽暗な壁は十幾年ぶりで除かれた。けれどその歓びにもまさる当惑は、政子の事件以来、時政とは、
で、翌朝。
頼朝は、ゆうべの客が、まだ眼ざめぬうちに、使いを走らせて、時政の総領の宗時をよび、
「どうしたものだろう」
と、何事でも打明けられる彼に計ってみた。
宗時は、若い眼をかがやかし、
「宮のお使いとは、何事かわかりませんが、ご赦免と共にあれば、
「では頼朝が、突然、北条どのを館に訪ねて行っても、不快はあるまいか」
「何の」
と、自信ありげに、
「私が先に戻って、父時政へ、この
「しかし、もしご令旨を拝しても、時政の考えに、異存ある時は、六波羅に通じられる
「…………」
宗時は、さし俯向いていたが、やがて頼朝を正視して、沈痛な小声で云った。
「大義親を滅すです。わたくし達の
「元よりだ」
「……ならば、ご安心ください。宗時には決する覚悟が持てます。私におまかせおき下さい」
そう云って、彼は帰った。悲壮な顔いろはして戻ったが取乱れた容子もない後ろ姿だった。頼朝は、縁ごしに見送っていたが、彼ひとりあればと思うほど、意を強くした。
その晩、行家は頼朝と共に、密かに北条家を訪れた。
館は清掃されていた。主客は奥ふかい室へかくれたまま、侍たちも遠く退けて、室外には、総領の宗時が見張っていた。
その後で、行家を主賓とした小宴がひらかれた。極めて内輪の者だけで。
夜も
「どうですか。この際、いっその事、政子どのを
と、行家が叔父として、時政へ云い出した。
「異存はない。もはや時節もよかろうで」
と、時政は云った。
宗時は頼朝の面を見た。頼朝はふと眼を熱くして俯向いた。自分から申し出たい程の事だったし、恋人の父に、自分たちの恋が正式に認められたのも
行家が
けれど、ここで察するに
その重大な計画に対しては、頼朝の志と、時政の考えとが、少しも喰い違わないで、合致していたということは、杯のあいだに語らっている相互の容子でも見て取れる。
頼朝には、時政がそんな考えでいたのも意外であったが、もっと案外だったのは、政子と自分との関係も、山木家へ婚約した初めの頃から、時政の胸には、
(
なる事を、認めていたらしい事であった。
それを承知しながら、なぜ山木判官へむすめをやる約束をしたかは――時政自身は何をも云わないが――
(彼から求められた以上、彼を
と、考えを極めていたらしいのである。つまり最初から結果を見越して、ただその「方法」として、政子を山木家へ輿入れさせたと思われる
「油断のならない
と、頼朝は、彼の遠謀に心では将来を
「北条どのがそうご承諾なれば、幸い、自分が参っているうちに、二人の目出度い姿を見て都へもどりたいが」
と、行家が重ねていうと、
「それはよい。ぜひ近日にも」
と、宗時も同意した。
にわかに話は
時政の忠告どおりな挙式が、それから十日ほど後に、配所の一室で、華燭というよりは、しめやかに挙げられた。
伊豆山の尼院から密かに移って来た政子も至って粗服であった。花聟の頼朝も何の色彩もない姿である。――が、むしろ精彩のないところに清麗があった。配所の寒燈がかえって
時政も密かに列していた。政子の
西八条の清盛の別邸も、この秋ばかりは寂としていた。八月、重盛の病が
「……秋だなあ」
入道は、一室から
「わしも六十を二つこえた」
自分の老齢を、こう心弱く、自分で肯定したりするようになったのも、重盛を亡くしてからであった。
常日頃は、何かの
「もはやお年ですから」
とでも口を
「ばかなっ」
と、すぐにわざと若々しげな声を出してみせる入道であったが、この秋は、そんな声も蓬壺に聞かれなかった。
相変らず、
「よい子だった。わしにとっては片腕であった」
と、人前もなく、泣いたりはするが、
そのくせ、
「
と、いうのである。
しかし彼の
(――世に入道相国の御意のままにならぬ事は一つもあるまい)
と、世上の人々は云っているそうだが、入道自身の身になると、
(――世に自分の思う事は一つだに思うように行っていない)
と、嘆じたいほどだった。
山と寺がその一例である。叡山と三井寺にかたまっている僧徒の勢力である。彼は明雲僧正などを巧みにあやなして、表面そこをも事なく
入道が、入道としての、面目を発すれば、彼等の
(これがほんとの仏だ)
と、たった一つの
何にせよ、叡山や三井寺の徒は、兵力と財力と、信仰の力とを
「
と、入道も軽く見ていられたが、信仰の力となると、これは自分の持たないものであることを、入道もよく弁えていた。――信仰どころか、一世の悪評一身にあつまっている現状をも、――入道は決して知らずにいるわけではない。
けれど、彼がそのように忌み嫌った腐敗
入道はその活眼で、一面実によく世上を観てはいたが、一面やはりどこか抜けている所もあった。
入道に云わせると、
(余は宗教を憎むのではない。誤った信仰を
入道の仏徒嫌いは、そういう達見から来てもいるが、元来が感情の度の
たとえば、こんな一例がある。
春の頃からひどく
すると
「まず澄憲ほどな名僧は近代にあるまい」
「
万民みな、彼の
「
ひとり
「さんざん薬や医者でこじらせた病人が、もう駄目といわれると、生死の
それが山門に聞えたので、澄憲をはじめ、一山の怒りは、浄海入道にふりかかって、
「
と、
朝廷の臣も、民衆も、たちまちその声に和して、六波羅殿の無情を
死んだ重盛も、よく父の入道を云い負かしたが、清盛はまったく口下手であった。彼はいつも宣伝戦で打負かされる男だった。そのために、ついに、自分の正しさが理論で受けいれられなくなると、
「やってしまえ」
と、六波羅の精兵をさし向けてもの云わすので、庶民の同情は少ないし、朝廷の百官からも、
「
と眉をひそめられ、そのたびに陰口されるのが、彼の私的生活だった。
六波羅いったいの経営や西八条の別荘の
もっとも藤原氏もその全盛期には、思いきった
この世をばわが世とぞおもふ望月 の――
と、歌った藤原道長などの比較ではなかった。彼の家弟
必然に、世の人々のそねみは、平家一門の栄華を見て、
(いつかこの反動が)
と、それの来ることを
口に出さないその憎しみはまた、一門の誰彼がした事でも皆、
(入道殿をかさにきて)
と、清盛の
かつて――もうだいぶ以前の事ではあるけれど。
重盛の子の
(なぜ、礼をなさらぬか。小松殿のような賢者のご子息でありながら、途上の礼もお
と、
――それを清盛が聞いて、
(わが孫を往来中で、
とて、暴兵を向けて、さんざんに摂政家へ仕返しをした――などという事が、どうした誤りか
仕返しをやったのは、事実であるが、それをさせたのは、入道ではなく、資盛の父の重盛なのである。
入道殿のお子に似あわぬ君子である、賢者であると、院中にも世間にも、平家のうちでは評判の専らよい重盛のした事であったが、事件の形から見て、
(あれも入道殿の
と、臆測がすぐ真をなして、誰も、君子風な重盛の人品を、疑ってみる者もないのであった。
そんなふうに、重盛ばかりでなく、宗盛の所行でも、
「仕方のないやつ」
と、苦笑するに止まっていた。
身内びいきは、入道の大きな短所にちがいなかったが、それは彼が、幼少から余りに
――と云って、彼の志や慾望が、彼の私生活に見られる如く他へも小乗的なものかといえば、なかなかそんな入道でない事は、彼が前人のやれない政策でも、よいと信ずれば、信念をもってやり通して来ているのを見ても
彼が政治をやり出してから、支那宋代の文化が活溌に流入して来た。物資ばかりでなく、宋代の歴史経済の書物などもとりよせて、朝廷へ献上したりしている。瀬戸内海の航路を開いたり、兵庫港を築修して、和船宋船を
その兵庫港の築港をつくる時も、
(どうだ)
と、迷信を打破して
その筆法で、寺社の領土を没取して、僧兵の勢力を削ろうとするのも、入道の方針だった。
明らかに、それらの事は、国家に
ひとしお
「ああ――」
彼らしくもない
そして、われ知らず頬をながれるものを
入道は、あわてて眼を
「誰だっ。静かに歩めっ」
と、叱った。
「わたくしです。早くお知らせしなければと思ったので、つい……」
子息の宗盛と――入道には孫にあたる――
「なんだ?
「父上。……ここにおる資盛が、当然うけ継ぐはずの越前の所領が、兄重盛が死んで間もないのに、何のお沙汰もなく、没収と、仰せ出されました。お聞き及びでございますか」
「何、重盛の所領を」
「嘘かと思ったくらいですが、
「……そうか」
努めて冷静であろうとしたが、入道の顔いろは抑えきれないものに変っていた。
「そればかりではありませぬ」
宗盛が、なお図に乗って、告げ口しかけると、
「うるさいっ」
入道は、吠えるように叱って、
「つべこべ云わんでもよい。また、例の
彼を大胆とか不敵とか世の知らぬ人は云っているが、事実は小心といったほうが当っている。激発しそうな感情が抑えきれなくなると、身を揺るがすのである。――重盛などは生前よくそれをたしなめて、
(
と、注意したものであるが、彼の持前は死ぬまで止みそうもない。そして額から
もっともその
今もそうである。
彼は、面上一杯な
「おらぬかっ。宗盛っ。――宗盛っ」
と、近くの室にいる侍たちは、胆をつぶして度を失うほどな大声で彼方へどなっていた。
何事かと驚いて、宗盛や資盛もあわててそれへ見えるし、侍たちも
すると入道は、
「福原へ
性急に云い出したものである。
「――都はおもしろくない。事々に気が
もう入道は、室をすてて、先へ歩み出すのであった。
「お出ましであるぞ」
「お車の用意」
と、供触れして駈ける。
これから福原へ行くには夜をとおして
が、入道は
「宗盛も行け、資盛も行け」
と、いったふうに、その
入道の気もちとしては、誰も行きたかろう、彼も遊びたかろう、孫や女どもへも、歓びを分けてやる気でいうのであったが、女たちも孫たちも、いや一族の誰でもが、入道と同行するのは余り
そんな心理は、入道は少しも知らないので、
「みな乗ったか。何……まだ化粧していると。化粧などは、車の中でいたせばよいに」
と、独り上機嫌になって――いや努めて機嫌よく気を取り直そうとして、
ようやく支度が
十
――夏の夜は短い。
と、
ただひとり、その夜の歓楽にも見えなかったのは、もうその頃から体も悪かったが、
世間から君子と見られ、また、
「あれは独りで何しているか。また、こよいも、
などと、宴の半ばにも、自身から問わず語りを
福原へ行くとさえいえば、一門の
入道は、以前から、
(もっと海外との交易を盛んにして新しい文化を入れ、自分の栄華を、自分一門のみでなく、庶民の中の繁栄ともさせたい)
と、抱負していた。
宋船との交易を盛んにするには、良い港が必要なので、築港の工事を起し、それと共に、都市の計画にかかったが、彼の設計図には、多分に、政治的な考えも入らずにいなかった。
また平家の
(いっその事、福原へ
いい――というのは、自己を中心としての考えであるのだが、入道は、その位置、その権力の上に、いつのまにか自己も公人も混同していた。自分の考えをそのまま政治に移すことの危険をそう人ほど反省してみなかった。だから、政治を執る者には
なぜ入道が、福原へ
(折だにあれば――)
と、平家打倒を画策していることが、多年のいろいろな事件や
(それを切離すには、京都という因習の都を捨て、新しい都会と文化の中にすべてを
と、立案したのであった。
そしてどしどし実現へうつし始めて、政治機関の一部さえ、今では福原にあるのである。
海外との交通を促進したり、誰もが認めている僧徒の武力や政治運動に対して、それを
(福原へ遷都などとは以てのほかである。いったい何の必要があって――)
と、
藤原氏などの
(一門の栄華を固める為ではない。国富のためまた、庶民のための国策である)
と、政治らしい政治として発表するであろうに、入道は、そんな上手もなく、また
それもまだいいが。
政治機関の一部を移すのと同時に、孫や子や一門の子女など
いったい入道の頭脳というものは、時の公卿や僧侶には見られない大理想も革新的な考えもいっぱいにあったが、よく
「何を思われたか、入道殿には、にわかに福原へ
と、洛中に沙汰されてから、およそ一月余り後の出来事であった。
それは十一月七日の夜、
宵から雲の
幸いに、死者や民家の被害は、思ったほどでもなかったと分って、数日の後には、人々もややほっとして、災後の始末に
「
と、例によって
「まだ、この上にも、これ以上の災害があるとは、いったいどんな天変地異が起るのか」
と、
「怪しからぬ泰親が泣き言かな」
と、笑いとばした。
するとその月の十四日。
「たいへんじゃ」
という声がどこからともなく聞え渡った。何が大変か、よく分らない殿上人たちが専ら先に騒いでいた。
「何と聞分けた事もござりませんが、ただ町中も
とのみで、真相は
しかし、長い間ではない。――やがて大変の実相は続々参内してくる朝臣たちの口から知れた。
わけても、関白
「福原の入道相国には、何をまた、思いたがえたか、物々しゅう軍馬を呼びあつめて、
と、
入道を極度に怖れる者は、百人が百人まであった。だから入道を
けれど怖れながらも、ほんの一部には、彼の一面を知って、嫌いでない者もいた。もっと今の位置にいて、陽気な政治を
そういう人たちは、かくと聞くより、さっと顔いろを変えて、
「さても、お持病の
と、惜しみもし、
「ゆめ、
洛中の庶民まで、神々を念じ合っていたが、ついに、浄海入道の狂暴は、都の中に事実となって現れ出した。
入道は自分を自分で火の車にのせ、火焔の中から常識の人にはあるまじき指図をした。法皇の近臣三十余名の官職を
「何たる悪行ぞ」
もう百人中の一人も、入道の支持者ではなくなった。
ひどく
「
小侍が走り出て、
「お閉めいたしますか」
と、念を押したが、訊かれるのさえ、息苦しそうに、
「ウむ。……むむ……」
頷きながら、
もう四月である。邸のすぐ裏を、今年の花も、
――もう河風も冷たくはなかろう。
冬のように
「ぜひもない。わしももう……」
独り
彼は、七十七になっていた。
年ばかりではない。ここの住居も古びた。平治の乱から二十年、
何といっても、義朝が六条に栄えていた時代は、彼も源氏の名門の一として、共々華やかに暮していた。
では、なぜ平治の乱に、その義朝へ協力を約してあるくせに、合戦が起ると裏切って、身、源氏でありながら六波羅へ
そして戦後あんなにも沢山な源氏方が、毎日のように、目のさきの河原で斬られたり、各地で
臆病者よ。
侍にも似げなき人間よ。
禽獣でも恩は知る。情はある。
人扱いすな。
武門の生れ
あらゆる
それから二十年。彼はその中にじっと生きて来た。
何をいわれても黙々として。
が、彼は、自分の胸には独り慰めも持ち、
なるほど、平治の乱には、はっきり義朝を捨て、六波羅へ加担した。一族を裏切った。
けれど、それは武門の道を踏み違えた事にはならない。たとえ一族へ弓をひいても、国家の大本へひく弓ではないからである。
義朝を始め一門の不覚は、源氏の興亡にばかり武者ぶるいして、国家の大本に思いを怠っていた事にある。敗北の因もそれと云ってよい。
清盛はそうでなかった。――晩年の行状とは人がちがっているような頭脳だった。――彼は、都の乱と聞くと、熊野の途中から引き返し、わずか五十騎ばかりで六波羅の邸に入ると、すぐ
――何であの時、引く弓があろう。源氏といい平氏というも、私名である。ほんとの弓取の立つところは、私名の中にはない筈だ。
「自分は天地に恥じない」
頼政は、今も、そう思いながら、二十年、無言を通して来たその唇をかむのであった。
世の人々はまた。
(――彼が平家に
という見方から今にも頼政が
(否とよ。
と、ひとり答えていた。
けれど
(若い
と、息子や郎党たちが、共に肩身を狭く世間の端に住んでいるのを、
恩爵はおろか、邸宅も

(裏切者のよい見せしめ)
とのみで、栄華の
(彼は源家の人間だ)
という観念も除かれなかった。
それくらいだから、長年、禁門の
――あわれな心根、昇殿をゆるしてやれ。
との有難い
その時、頼政は一晩じゅう、君恩に感泣して、
(いつかは、この老骨を朝廷の
と

(犬ともよべ、畜生とも
と、なお老後を養っていた。
そういう彼に対して、平家一門の中で、ただひとり、ふと同情の眼を寄せた者がある。
(あれも七十にもなって、まだ
思い出したようににわかに、そう云ったのは、清盛であった。
入道相国の恩命も、余りに遅きに失していたが、たとえそれが
(入道殿も本来は、近年見るような人物ではない筈だが、余りに恵まれた順調と
頼政は今でも、人間としての清盛に一片の
裏門の戸をたたいて、
「ご子息の仲綱殿にお目にかかりたいが、おられますか」
と訪れた色の黒い――顔半分
日陰日なたのそこらの地上に、毛虫が這っていた。――耳をすますと、頼政の
「誰だ?」
「
「ここは、入口ではありません。ご当家にだって、表門はちゃんとある。あちらへ行って、訪うたがよい」
「いや、
「誰が仰っしゃった?」
「仲綱殿が、お手紙の中に仰っしゃった」
「あ。では新宮から、わざわざお招きした山伏どのか。……では大殿のご病気のお
「左様でござる」
取澄ましていると、小舎人は、あわただしく駈けて行った。やがて頼政の子息の仲綱が自身でそれへ来ると、
「おう……これは」
とのみで、お互いに多くも云わず、黙々と木戸を開け、木戸を通り、邸の内のどこかに姿をかくした。
それからだいぶ時刻を
「新宮十郎行家どのが、旅からお帰りになりました」
と、告げた。
すぐ後から山伏の行家がはいって来た。
頼政は、顔をながめて、
「黙っておられたら人違いするほど、姿も顔もお変りになったのう。……して、諸国の様子はどんなふうでござったか。伊豆へも参られたか。配所におる頼朝様にもお会いなされた事であろうな」
待ちかねていた人であろう。頼政はもう
「ここは、何を申しても、おさしつかえない所か」
と、行家は仲綱へ、室外の
「西国は歩きませんが、都から東北はみちのくの近くに至るまで、ほとんど
「その人々は」
「申しきれないほどの数です。後で自分の書いた物でお示し申そう。なお、歩き洩れた地方もあるなれど、昨年来、浄海入道の暴状は日に
「すこし待て。すこし……」
馬上の影が、先へゆく駒をよびとめた。
――何用かと振向くと、後なる
「父上、お苦しゅうござるか」
「行け、行け。……なんの大した事はない」
と、頼政は顔を振る。そして仲綱におくれじとまた急いだ。
三条高倉に、大きな森とも見える一劃があった。後白河法皇第二の皇子、
頼政
宮のご不遇にある事は久しかった。平家の専横に依ることはいうまでもない。
不遇な老将頼政の胸と、不遇な宮の
「引けない弓矢を捨てて二十年め、今こそ引く弓矢を取れと、天地がわたくしへ命じております。――あわれ八十になんなんとする老齢頼政の力では、
頼政は、そう真情を吐いて、宮のご決意をうごかし奉ったのであった。――ゆめ、令旨をいただこう為の巧言などではないことを、彼自身の心は神へさけんでいた。宮へそう申しあげた折、頼政は、その老骨をふるわせて泣いた。
新宮十郎行家は、紀州新宮の住人であるが、在京中に、頼政と親しくなり、この計画にもあずかったので、まず諸国の動静を
九日の夜の
次の日、十日の夜。
十郎行家は、ふたたびその山伏すがたを、京の
美濃、尾張と出て、伊豆へはいり、頼朝の配所にも、わずか一夜しか泊まらなかったが、北条時政とも会して、すぐまた、
――が、この旅の間に都では、大きな
行家の国元である新宮の武士たちの動きから、
浄海入道は、それを知ると
彼はまだ、老将頼政が、密謀の張本人とはゆめにも気づかずにいたのである。――単に、入道はかくの如く半面はお人好しだったというだけでは当らない。彼の
「政子。――政子」
もう妻として呼び馴れている頼朝の声であった。
配所の
そこも済み、良人の読経も終る頃と、彼女は、
「お召でございますか」
四月の朝の
「――急ではあるが、今日立って、お
「はい」
素直な妻である。
――が、いつもその後で、
「
「いや、そうか」
――実は、一時でも別れるといったら、涙でも見せられはしないかと、頼朝は、話し出すまで、
(わたくしなどに
と、励ますような妻のことばだったので、ほっとしたり、何かまた、心に足らないものを覚えたりした。
「それと――これも昨日、書面で伺ったことであるが、この二十年亡き父祖恩人たちの
政子は黙って聞いていたが、良人がそんな点にまで気を懸けていたり、吉兆をよろこんだりしているのを、何か
修養のひとつとして、彼女も法華経は修めているが、良人の朝暮の転読は、そんな立願からであったのかと、今初めて聞いて、その信仰心にはすこし驚いた。そして自分の心の中には、常識としてはあるが、まだそれまでの信仰はないのにも気づいた。
「――ついては」
と、頼朝はなお云いつづけていたのである。
「お
「かしこまりました」
「頼んだぞ」
「はい」
と、いいつけを受けてから、
「――では、けさの
さすが、別れを
「そうだ。共にむかい馴れた膳部も、けさが当分のわかれ。……武運つたなくば、最後のものとなるかも知れない。楽しんでいただこう」
政子のすがたが、配所に見えなくなった頃から、配所の人出入りは急に活溌になった。しかも夜中の往来が多かった。
例の、北条家の総領の宗時をはじめ、
北条時政も、時折見えた。
もとより、彼の行動は、この地方では大きな目標となるので、いつも
わけて、めずらしい客は、渋谷庄司重国などが、
――長年、ここの配所に仕えている佐々木定綱の弟の経高を、こんど養子に入れたので、その挨拶に――という事であったが、
「いつのまにか、世も移ったのう。何せい、若い者の時勢じゃよ。夏が来れば、夏が来るのを、人間の誰が
そんな事を云って帰った。
月がかわると。
京都にある
行平は、
――書面の内容は、
この
かくて、せっかくの計画も、一朝に壊滅の惨を見、またしても、平氏
その夜は。
頼朝から忍んで、北条家の
「……ああ」
終日、彼はものも云わず、
それから六月にかけて。
乳母の妹の子にあたる
みな、こんどの大変を細々と書いて、そしていい合せたように、
(伊豆とても、安心はなるまいぞ。身を大事に、万一の備えを)
と、それとなく、彼の身辺の危急を注意してよこした。
頼朝自身も、刻々と、自分の生命が、もう
同時に、また。
その危険が、無事の中からはなかなか奮い起せない――乗るかそるかの出発へ――勇気と決断とを、いや応なく抱かせてくれていることにも、大きな感謝をもった。
自分の本質は、誰よりも自分が知っている。もしこういう四囲の状態が生じなかったら、美しき新妻との生活に、断ちきれない未練も持ち、生来の
そう考えると、危険は、生命の外部の事態よりも、生命の内部にあるもののほうが、はるかに危険であったと思う。
――が、もう彼はその心のうちに、果断をすえていた。政子を伊豆山へ移して、身ひとつになった心地の朝から、彼はわれながら、何か、日頃の凡夫でなくなった気がしていた。誰もいない所で、独り坐っているにしても、その「断」を胆において、端厳と威をつくろっていた。
(――あなたは源家の統領でお
三善康信から来た二度目のてがみには、もう足元へ火がついたように書いている。
三浦次郎、千葉六郎など、先頃の事変で、京都へ出向いた者たちも、続々と、帰郷して来るにつれ、皆ここへ立寄って、
「頼政の旗挙げに、六波羅の神経は、ひどく過敏になった。
と、告げ、それとなく、
「お心構えを」
と、
勿論、こうした空気は、北条の
容易にうごかない頼朝は、また、容易にうごきそうもない北条時政のほうの様子を、じっと、我慢するような気もちで眺めていた。
彼は、自分から北条家のほうへ足を運ぶことを、努めて避けていた。時政の態度にも同じ
(わしの加担がなくば、
と、している風がある。
頼朝もまた、人いちばい鋭い感受性に富んでいるほうなので、暗に、
(余と共に起つのを好まないなら、手を
と、云わぬばかりな
(彼なくては)
と、時政の実力や門地を、この際の唯一の力とはしているのであったが。
すると、ついに、六月ももう末頃、時政のほうから
明け方近くまで、聟、舅は密議をしていた。その席へ家人の藤九郎
暗いうちに時政は帰った。
夜が白むと、つづいて藤九郎盛長は、軽装して、どこかへ旅立った。
――後で分った事であるが、その藤九郎盛長は、先に山伏すがたの新宮十郎行家が
――時節到来、旗下 に参ぜよ
との「
頼朝はまた、奥の棟へ自分から足を運んで、そこにいる
「や。殿ですか」
邦通は、女のように針をもって
頼朝も、それを眺めて、苦笑した。
「そちは、縫物までするか。はてさて、器用な男ではある」
「針を持つ
「なるほど。さては
「役に立たない物といっては、どんな時でも何一つないかと存じます。ですから、わたくしの如き無能でも、当所にお養い下さるものと存じております」
「いかにも。……時にもう数年前からの絵図面は、出来上がっているだろうな」
「とうに出来ておりまする。――が、まだあれを持てと、お声のないうちは、あれの
「見せてくれい」
頼朝は、そこへ坐って、彼の取出した近郷一帯の図面を見て、非常に満足そうであったが、
「至急、もう一面、図を写してもらいたいが」
「これと同じものを」
「いや、これにないものだ。それは山木判官兼隆の邸の内部。明細にとは望まぬが」
「
「生命がけの仕事であるの」
「元よりです。けれど幸い、山木家の郎党にも、兼隆の一族にも、てまえは少しも顔を知られておりません。
その後、どう手づるを求めて入りこんだものか、邦通は例の人あたりのよい弁舌と、遊芸の才を利用して、山木家へ近づき、目代の判官兼隆の宴席になど現れていた。
すでに、藤九郎盛長が、頼朝の
今は、もう起ち上がったのも同じことである。――そうなると、たとえ失敗しても、裸の一
「時政、いざとなったら、兵はどのくらいできるか。糧食はどれほど続くか。まっ先に
頼朝は、いつのまにか、そんな事を
「時政、時政」
と、呼び捨てにした。
時政は、内心、
「この若者、若いに似げなく、なかなか駈引に心をつかうな」
と思ったが、もう彼の立場は、対頼朝との地歩などに、心を労していられなかった。
それに、時政は、伊豆半国に
秋となった。
今朝、邦通はひょっこり帰って来た。釜殿の者や、
「永い事、どこへ旅してござった?」
と問われても、にやにや笑ったのみで奥の棟へかくれたが、いつとはなく、頼朝の手許へ、頼朝が待ち望んでいたものを届けていた。
八月七日の朝。
頼朝は、何思ったか、急にその藤原邦通と、
「わが生涯の門立ちを決する日は、いつが吉日か、謹んで
と、いいつけた。
二人は、はっと、大きな衝撃をうけた面持で、
ふたりは、
「この月、十七日こそ、何のお
「十七日」
頼朝は、大きな眸をした。その眸から発したものに、二人は何という事なく驚いた。だが、気のせいでそう見えたのかも知れない。
「十七日か。よかろう」
とまた、口のうちで、
その十三日となると、佐々木定綱、盛綱の兄弟は、頼朝の
「ちょっと、
と、
「
「叔父貴から手紙が来た」
「三島まで買いものに行く」
などと、それから続いて、ここの家人が次々に、配所から暇を告げて出て行ったので、配所は急に、無人になった。
けれど、入れ代りに。
「異存なあるや?」
と、十七日を旗挙げと決めている――意中の底を打明けられた。
もとより、将来の大計とか、当日の戦略とかいう機密は、頼朝と時政のふたりだけが、胸にたたんでいた事だった。
「この
誰の答えにも、ためらいは見えなかった。むしろ実行に迫ってから、各

彼は、力づいた。
夜の眠りも、その
「こんなことでは困る」
と、自分をたしなめてみても、落着かないで仕方がなかった。配所の二十年間に、実にめずらしく、ここ数日だけ、読経の声もしなかった。
十五日のたそがれから雨が降り出した。十六日も降りつづけた。――かなりな雨量で、富士も箱根連山も見えない。白い
「あすは、

無言のうちに、誰の
待ちどおしい――しかしまた、恐ろしい気もする一夜を、彼は、北条家の奥に眠った。ふと、眼のあくたびに、
チチ、チチと、
「――
衣服をまといながら彼は口のうちで云った。
この日を、想念に刻んで、心のまん中へ、
「
誰やら早足に来て、戸の外からこう
「おうっ」
と答えると、また、ばらばらと駈け去ってゆく。
館のうちには、すでに物々しい空気がみちている。夜来の豪雨を
「お。……
頼朝は、
「
廊を奥へと、歩いて行きながら、ふと見た老女に問うと、
「はや、お山の大日堂へお渡りなされました」
と、云う。
道理で、母屋や客殿は、余りに平常と変りがない。大玄関のほうもひそとしている。頼朝は、時政の用意をうなずきながら、小侍に導かれて、庭つづきの小高い山へ登って行った。
おとといからの雨に、木々の葉は地をかくしていた。所々に、生木の折れが目につく。こんな小山でも、方々に水が出て、無数の小さい滝音が、館の濠へ落ちていた。
紫ばんだ
「やあ。みんな!」
頼朝は、そこに立つと、粗野な大声を出して、呼びかけた。
「早いことだな。わしは、ゆうべに限って、深々と眠ってしまった。――今朝、起されるまで、何も知らないほどに」
と、云って笑った。
実際は、そうでなかったが、そう云ったのである。それと、平常の謹厳を解いて、今朝は非常に
反対に、
「待ちに待ったる日が参りました。おさしずに従って、かねてさし上げおいた誓紙の如く、各

と、揃って礼をした。
頼朝は、武者たちが
堂の上には、北条時政と、牧の方としかいなかった。縁にいた次男の義時が、母によばれて、母と共に、頼朝が具足をつけるのを、側から共に
「…………」
時政は、一方にあって、さっきから黙然と、外の頭数のみかぞえていた。彼の予定していた人数よりも、思いのほか集まりが
わけて、今朝の勢揃いには、必ず見えていなければならない顔が見えない。時政は、それを
佐々木太郎定綱を
いや、四人の数はともあれ、彼等の不参は、その父とか、養父とか、
そう時政は
一族中の大庭景親などは、もっとも平家色の濃厚な人物である。もし、佐々木兄弟の行動から、今朝の勢ぞろいの事でも
「定綱、盛綱などは、見えておろうか」
頼朝も、気にかけていたとみえて、身支度を終ると、堂の縁近くへ坐して、人数の上を見渡しながら、傍らの義時へたずねた。
「おらぬようだ」
答えたのは、義時でなく、その父の時政であった。
「……はてな」
頼朝も、急に、気色をくもらせた。――時政の考えると同じように、彼もまた、兄弟の不参と聞いて、隣国の大きな一勢力の
(あれ程、多年、自分へ忠実に仕えてくれた
と、何かしら、もう、裏切られたように、主従のあいだの信念を
「そういえば、どうしたものであろう」
「見えぬのか。佐々木兄弟は」
「来ておらぬが……」
「はや時刻。朝討ちの機は
寄り
頼朝は、心のうちで、
(不覚……。つい彼等の志にうごかされ、大事を告げたのはわが一生の
と、悔いた。
時政は、やや
「いったい何しに、佐々木の兄弟どもは、相模まで帰ったのでござるか。……帰るのからして
と、
「されば、十二日の夜半、定綱、盛綱のふたりへ、旗挙げの事を打明けたところ、勇躍して、家より甲冑を取って参ると申し――十三日の朝方、相模へ帰ったのであったが」
頼朝が、悔いを
「……では、参るまい。いずれ親どもや一族に、
暗に、頼朝の不覚を、
――が、しかし、庭上にある百人足らずの若い若者
「いざ、立ちましょう。あの通り、陽も昇りかけました」
と、意気は
いつの間にか、頼朝と時政は、そこを立って、大日像の壇のうしろへ隠れ、二人だけで、ひそひそ協議していた。
「何を
堂の外では、気負い立っている人数が口々に云い合いながら、両将の号令一下を待ち
――が、容易に、時政も立たず、頼朝も出て来なかった。
そのうちに、ようやく、
「大事は、はや取止めか。この
と、聞えよがしに、怒りさえおびて云い放ったのであった。
むりもない。すでに陽は高くなりかけてゆく。夜討朝がけは敵の
「しずまれ」
やがて頼朝の声がした。その姿を堂の縁に見せて、一同へ告げ渡した。
「佐々木兄弟その他、なお遅着の者がだいぶ多い。また、兵略上にも、最初の方針をすこし変更の必要もあるので、今暁の朝がけは延期することに決めた。――次の命令の下るまで、一同は、ここを去らずに、静かに休息いたしおるように」
云い終ると、頼朝も時政も、そのまま、館のほうへ歩み去ってしまった。
前の夜から眠りもせず、まだ風雨さえひどかった暗いうちに、三里、四里も距てている諸所の在所から馳せつけて来た面々は、そう聞くと、一時は
「ままよ」
「睡くなった」
「その
などと
頼朝も、時政も、いったん館へもどって、休息していたが、その日の
(まだか? ……。佐々木の兄弟どもは、まだ
と、待ちかねていた。
その佐々木の兄弟はおろか、不参の者も、一人として来なかった。――馳せつけて来るほどの者は、当然、時刻もたがえず、すでに来ていた筈であった。
「どう召さるな」
時政は、頼朝へ、最後の肚を
「あれへ集まっただけの人数を以て、ともかく、決然とやりますかな。到着の人員は八十五騎という。……たんだ八十五騎じゃが」
「元より最初から
「それと、朝がけを取止めたからには、当然、夜討となるが、こよいは三島
――すると、そこへ、
「見えられました。佐々木定綱どの、
と、館の侍一、二名が、あわただしく廊を駈けて来て、二人のいる室へどなった。
「なに。佐々木の兄弟どもが、今馳せつけて見えたとか」
よほど
「どこにおるか。何処に――」
と、大股に廊を急いで駈け出していた。
門内の広間に、疲れきった二頭の
兄の定綱も、次の経高も、三男の盛綱も、末の四郎高綱も、池から這い上がったように、武装した全身、雨と泥にまみれていた。
「オオ」
頼朝が、駈けよると、兄弟たちも等しく、
「おう……」
と、それへひざまずいたまま、しばらくは、ことばもなかった。
(――お前たちのために、大事な今朝の朝討の機を逸したではないか! 何を愚図愚図していたのだ!)
兄弟が見えたら頭から叱るつもりであったことばも頼朝は、眼がしらに
やがて、兄の定綱が、こう云い訳した。
「遅着の罪、いかようとも、お叱り下さいませ。――今朝の東が白まぬうちにと、兄弟ども、夜来の風雨の中を衝いて、必死と急ぎましたなれど、豪雨のため、

頼朝は聞いているうちに、
「よい、よい。……もう云うな。合戦は夜となった。やすめ、疲れたであろう」
彼も、真情を吐いた。
主君の真情にふれると、兄弟たちはもう疲れもわすれて、
(この君の為には)
と、なおさら、心をかため、
(夜となったら、この遅着の罪を、働きの上に)
と、
静かに、十七日の午さがりは過ぎて行った。伊豆の山々も、田も、町の人々も、やがて何事が今夜を待っているか、知るものはない。ただ
やや残光が
大きな
「いざ、行こう」
時政は、先に立った。
八十余騎の黒い影はゆるぎ出した。――頼朝は、時政の意見に従って、後に残ることになった。――佐々木三郎盛綱、加藤次
彼は、堂の縁へ跳び上がって、駈けてゆく味方の勢を見送っていた。御所内の
時政は、自分が兵の先に立って、館を立つ前に、
「あいにく今日は、三島明神の祭日ゆえ、大路を進めば、往来の者の目にふれて、
と、案じて、頼朝や子息たちに計ったが、誰もみな、
「大事の一歩から、裏道づたいはおもしろくない。大道を堂々行こう」
と、いうに一致したので、
「さらば」
と一気に、まだ宵の街道を山之木
途中、肥田原まで来ると、時政は馬上から定綱をふり向いて、
「山木判官の後見、

と、いいつけた。
定綱の兄弟たちは、
「心得た」
と、わずかな別軍をひきいて
時政からつけてよこした源藤太という
裏の方で、
「信遠やある!」
と、屋内へどなった。
邸の内は、突然の事に、うろたえた人影が、屋鳴りをさせて駈けあるいていた。その大屋根の上に、八月十七日の月が昼のようにあった。
「あっ、そこにか」
兄弟たちの影を見て、六、七名の郎党が、思い思いな
ひとり組み伏せて、
「くッ」
と、上と下で、白刃を
「やられたッ」
と、さけんだ。
その隙に、猛然と、
「おのれ」
と、飛びついて、うしろから弟の敵を斬り仆した。
矢は滅茶苦茶にどこからともなく飛んで来るが、案外、相手に立って来る敵は少ない。中にひとり
「その首を」
と、経高が、
「
と、太刀をかぶって、向って来た。
経高は、危うく見えた。死力をしぼって、渡りあっている間に、屋内を駈けまわって、
「信遠はどこに」
と、
「やっ、あれだ」
縁を跳び降りて、三方から信遠をかこみ、
――その頃。
本軍の時政以下の者は、山木家の山裾を流れている天満橋を押渡って、そこの中腹に見える土塀門へ近づくまでは、正面の石段道を避けて、左右の崖を、
寝ている人の体から酒のにおいが霧のように立っている。ふたりの侍女は、黙然と、側に坐して蚊を追っていた。
「――殿っ。殿っッ」
突然であった。
跫音も、ここの部屋までは来ない間にである。
「
「夜討っ、夜討っ」
あわただしく聞えて来た。
うつらうつら眠っていた山木
「何っ?」
と、
「――あっ」
跳び起きて、うしろへ、
「
早口に呼んだが、侍女はもういなかった。
びゅんっ――
どこかで
同時に、
「ぬかった」
と、悔いもし、その悔いに、総毛立つような怒りに燃えた。
「遂に、自暴自棄となった
そう思った。――その程度にしか、この
政子を奪われた事件でも、兼隆が胸をなでて、あのまま紛争の表面化するのを避けていたのは、
(配所の流人ずれと、六波羅の地方官たる自分とが、対等に、喧嘩するのも大人げない)
と、自分を高く持して、頼朝をあくまで
六波羅の目代という官僚的な
(
としていたし、また、それらの青年を
(生意気ざかりな不良の徒)
と、いう程度の概念で、法規の末節ばかりをやかましく云い、
平家を
たとえそんな事を、こん夜の前に、彼の耳元で大きくどなる者があっても、彼は腹をかかえて笑ったに違いないのである。
「
と、
ちょうどその夜は、三島明神の祭で、山木家の家人も、大半は
攻め矢、防ぎ矢、双方から射る矢うなりの一瞬がやむと、ばらばらと石などが投げこまれ、続いて
そこへ。
北山の方面から、堤信遠を討ちとめた佐々木定綱や経高の兄弟が、信遠の首を刃の先に刺しつらぬいて、
「討った。討った」
「信遠を討ち取ったっ」
と、口々にさけびながら、ここへ加勢に駈けて来たので、
「北山は、はや陥ちたぞ。味方の幸先はいいぞ。山木兼隆を討ちもらすな。塀まわりへ気をくばられよ」
と、声を
甲冑の兵に追いつつまれながら、死にもの狂いに、逃げ、踏みとどまり、また逃げ走っては、また戦いして、
「おッっ? ――その声は」
と、時政のほうへ向って、まっしぐらに、大長刀をひっ提げて駈けて来た。
そして、
「ああっ。……時政かっ?」
なおも、信じられないように、
「
と、無念そうに、歯がみをしながら、長刀を振って、いきなり時政の真っこうへ跳びついて来た。
* * *
頼朝は、山の大日堂の縁に、じっと立ったまま身動きもせず、そこから、山之木郷の空を見ていた。
北条家の館は、しいんとしていた。男という男はあらかた時政について、こよいの人数に加わって行ったので、女たちの
後に残った者のほうが、
「
と、心配していた。
味方の負けた場合は?
当然、頼朝は、考えていた。――一死あるまで、と初めはそう覚悟していたが、こよいになってから、
(いやそうでない。逃げきれるまで逃げ
と、思い直したりしていた。
その場合、館に残っている時政の妻や娘などを、どうして救って行こうか、そんな事まで案じられたが、どうしても、
「
と、
「まだ、火の手は
時折、彼が仰向いて、そう声をかける空には、新平太という
首尾よく、山木兼隆を討ち取ったら、直ちに目代屋敷から火の手をあげる――
火の手を見たら、味方の勝ち
が、火の手は見えない。
宵の月も高くなって、時刻はあれからだいぶ経つが、いっこう世間は静かないつもの夏の夜に過ぎない。待ちもせぬ
「はてな」
遂に、頼朝も身をゆるがし、堂の縁を降りると、
「新平太」
「はい」
「まだ火の手は見えぬか」
「見えません」
「よく見い、月光で分らぬのではないか」
「いいえ、何の気も」
頼朝は、大樹の下に、沈黙していた。新平太が上で身うごきするたび、梢の
「
ふいに、後ろを向いて呼ぶ。
堂の
「何、ご用で」
と、ひざまずいて、頼朝の
頼朝は手に持っていた
「まだ火の手の見えぬは、味方の苦戦とみえる。時移しては、大事は去る。ここはよい、わしの身などに護りはいらぬ。そちたちも駈けつけて加勢せよ。――この長刀に、山木兼隆の血を塗って来い」
「はっ」
三名は、頼朝のことばに、武者ぶるいを覚えながら突っ立った。――さらぬだに、こよいの初の戦に洩れて、
――が、
「でも、われわれ三名まで、ここを離れては」
と、頼朝の身を気づかうと、
「何を猶予っ。はやく行けっ」
と、かつて聞かないほどな
けれど。
三名が、いかに足の限り駈けても、まだ山之木郷までは到底、行き着いていまいと思われる頃に――青い月空の一方に、炎というよりは、夜明けの美しさに似た
「あっ。火っ、火の手が」
梢の上から新平太が、われを忘れたように叫ぶと、
「――おおう」
頼朝のひとみも、それを見ていた。
「殿っ。火の手が……火の手が……あがりました」
狂喜の余り
頼朝もまた、石のように、じっと、飽かずに空の火の粉を仰いでいた。けれど彼は、さっきからの焦躁と反対に、至って無表情に返っていた。ただ次第に烈々と火色を増してくる空に、その眸は、
「……よしっ」
そういうと、彼は、暗い
自分では、かたく自分を、
(落ち着いている。どこも、ふだんと
と、信じているが、きのうの事を今日
十七日の夜から、ここ七日ばかりというもの、頼朝はそうであった。
頼朝がようやく、
(われまだ死なず)
と、自分の生命を、自分の中の静かな泉に映して、
その晩は、敵に襲われる
また味方から敵へかかろうとする能動的な気もちも、起そうとしても起らなかった。
それほど、人間の存在は、力のない小さいものになって、唯、伊豆山中をふき
「――十四の時すら死ななかった。それから二十年も死なずに来た。今、旗挙げをして、山木兼隆をその血まつりに討ってから七夜目、わしはまだ死んでいない」
頼朝は、
「わたしはよほど、運がよいとみえる。いや、神仏の加護に見まもられている生命の持主とみえる。このぶんなら三十三歳の今年も、いや五十までも、七十八十の先まで、生きとおして行けるかもしれない」
洞窟の口が、真っ白なしぶきになると、瞬間、
「――生きている」
こんな自然の暴威の中にも、
「わしの
彼の意志は、もうこの伊豆
「殿……。殿……」
誰か、洞窟の奥から呼ぶ。
が――滝つぼの中にいるような大雨の音である、
また。
ふしぎにも、こよいは、頼朝にとって、山之木郷に火の手をあげて以来の心たのしい晩であった。瞑想の
バチャ、バチャ……と水のなかを四つ這いになって、誰か、奥から這い寄って来た。佐々木高綱であった。
「水が溜って参りました。お坐りになっている
「高綱か……」
「はい」
「まだ眠らずにいたのか」
「水に浸されて眼がさめました」
「ほかの者どもは」
「ずっと奥に、
「――ならば、ここにいよう。わしが参って、眼ざめるといけない。みな疲れたろう。わしはゆうべ
とこうする間に夜が明けた。
白みかけるとすぐ、
「おウいっ」
と、谷間で声がする。
「おうーい」
と、峰で答えあう。
頼朝は、洞窟を出た。
「
「起きろ」
其処此処の岩間の蔭や木蔭から這い出して、身を伸ばした武者どもが、口々に、そう呼び交わすと、どこに
「時政は、つつがないか。
頼朝が、
「何の、
と、老年の茂光も、また、その
時政は、前へ進んで、
「
と、訊ねた。
頼朝は、顔を振って、肌身にふかく護持している
「旗竿の先に結びつけて、軍勢のうえに高々と捧げよ」
と、いいつけた。
時政は、
「これは、亡き宮の御心のこもっていた令旨であり、また、われわれの魂でもある。心して持て」
と、
「身にあまる誉れです。一命をかけて」
平四郎惟重は、ひざまずいて旗を押し戴いた。その父、
「せがれめに過ぎた大役、
と、
「物見は帰らぬか」
頼朝の問に、
「物見の者も、あの
時政は、そう云って、
「その間に、肚ごしらえをしておいては」
と、頼朝の
「ム、ム」
頼朝は、荒海のすさまじさを遠くながめていた。
「兵糧を解け」
「馬にも草を
命令が伝わると、将士は、携えている食糧を解いて、思い思いに場所を取って坐った。
焼米とか、味噌を塗った麦餅の
でも、誰も黙って喰っている。頼朝は何とはなく、熱いものが眼に
山木攻めの第一夜には、わずか八十余騎の小勢に過ぎなかったが、あれから伊豆を発して、三浦郷をこえ、相模の土肥へかかるまでに、三浦次郎義澄の兄弟や、和田小太郎義盛の一族などが、各

その朝。
同じように、夜来の大風雨に、旗を伏せて、声も形もなかった平家方の軍勢は、日の出と共に、ぞろぞろ峰の上に姿をあらわして、
「あれに、敵が見える」
「叛軍が、山へ
などと、小手をかざしたり、指さしたりしていた。
それが、源氏のほうからも、豆粒のように、点々と見えた。
その陣地は、幾つにもわかれていて、東国に住む平家方として、名ある大将が、それぞれ一族郎党をひきつれ、ここへ会して、
「叛乱の不平分子ども。何ほどの事があろう」
と、ひかえていた。
まず、
曾我太郎
滝口三郎
長尾新五郎為宗。同じく新六定景――といったような侍たちの中には、
「大庭景親どのの兄、景義とかは、頼朝との誓い、とりわけ深く、こんども叛軍のうちにおるそうだが、骨肉同士が、こう谷を隔てて、敵味方と
夜明けの大気を吸ったばかりで、まだどこか、戦気は立って来ない。侍たちのうちでは、こんな話が交わされていた。
「いや、大庭どのばかりか、そういう
「それが、当りまえであるに、敵の北条時政のごときは、祖先も平家から出て、代々平家のご恩にあずかりながら、年がいもなく、血気な若者の火いたずらに乗せられたか、それとも、彼が
「七日ばかり存分に暴れまわったから、もう彼等の
平家方では、勝敗は問題としていなかった。敵の三百余騎に対して、味方の総勢は、三千騎をこえ、絶対の優位を
また。
きのう今日の
だから、その
ただ、北条時政だけは、彼の門地や年配や日頃の人物からしても、その存在を認めないわけにはゆかなかった。それだけに、若い不平分子の火いたずらの仲間などに、何で加盟したものか、分らない心理の持主として、平家方の陣地から眺めると、ただ
そうして、向う山と
戦わぬうちから、勝算歴々なものとして、平家の陣が、いやに落着きこんでいた理由は
それは。
かねて頼朝とは宿怨のある伊豆の
そして源氏の陣所の山と自分等の占めた高地とで、ちょうど、
「伊東の入道が着いた」
「備えは成った」
「いで、
と星山の頂きから、やや戦気がうごき出した頃、はるか丸子河の下流のもう海辺に近い辺りの森から、むくむくと黒煙の揚がるのが眺められた。
「やっ。あの火の手は?」
「大庭どのの
「そうだ。大庭どののやしきが焼けている」
立ち騒いでいるところへ、物見の者の駈け上がって来て云うには、三浦一族の者から大祖父と仰がれている
「え。あの
と、平家方の将は、顔を見合せた事だった。その煙よりも、八十余齢という
どうして、そのような老齢な一族の
今。義明の襲来と聞いてもまだ分らないところに、平家方の軍勢三千余騎の美々しさと、愚かな
もっとも中には、
(さもあろう)
と、
渋谷庄司や、熊谷直実などは、身を平家方に置いてはいるが、火悪戯と人の
知っていながら、その時代精神をもった信念の敵へ、弓をひかねばならないのも、複雑な世間の性質やら侍で立つ者のむずかしさだった。
飯田五郎という郎党がある。大庭景親の家来だった。その男なども、
(飛んでゆきたい)
と思うほど、実は、頼朝に日頃から志を寄せ、今も、向う山の源氏の陣地を見ていたが、主人景親という者を持っている身で、どうにもならなかった。
なお、三千の平家軍のうちには、そうした者は幾人かあったろう。――なぜならば、平家は平家の既成勢力しか誇るものはなかったが、頼朝のほうは、誰も頼朝や、一時政の力を
天の味方を力としていた。
天とは、もちろん、時勢のことをいう。大きな時の転回を見とおして、その方向を誤たず、正しく地に立ち上がった姿勢の上に
――それはそうと。
谷間は早くも暮れかけた。何か、敵味方大声が
合戦は夕方から始まった。
一日中、
それに、きょうの
谷を
それも、睨み合いの原因になっていたが、もう一つの理由は、敵へ挑むには、どうしても谷を
で、薄暮に谷は紫ばんだ陽かげの底になりながらも、まだ根気よく、両軍、
「来たっ」
「
どうっと、その後から、源氏方が駈け降りる、平家方も駈け降りる。――きっかけといえばそれが合戦のきっかけだった。
「ちいッ」
「射止めたっ」
「矢をっ。矢を運べ」
平家方の半数近くはまだ山上に残っていた。手を
「味方を射るなっ。
山の中腹で誰か注意する。谷あいの闇は、だいぶ濃い。両軍はもう眉と眉を接しての混乱となっている。
「それっ、行けっ」
いちどに数百挺の弓が下へ置かれた。それだけの数の侍が新手となってまた、ひとつ谷へ真っ黒に降りた。
矢に
その矢の幾つかは、向う山の上に立つ頼朝が射た矢である。
頼朝が今朝から
石橋山のうえには、一日中、
その一体の人数も、今はあらかた谷底で戦っている。頼朝のそばには、加藤次
「高綱、高綱」
頼朝は、弓を投げすてるとすぐ、堀藤次の手から、長刀をうけ取って、
「面倒。
「あっ、しばし」
高綱や景廉も、弓をおくと、慌てて頼朝を
「乱軍です。暗さも暗し」
「眺めておる場合か」
「でも、大事のお身に」
「十四の年も死ななかった。二十年来死ななかった。死なば天命、ここにいても死のう。――聞け、あの
若い肉体は、
そこでの戦いは、一瞬で終っていた。源氏方の敗北らしい。
合戦の中に立ち交じると、勝敗は分らなくなる。わけて谷あいの
駈ける者に
「
声で、味方と知り、戦は、敗けだなと
そうかと思うと、
「こいつッ」
いきなりすぐ側の者を斬ったり、斬られたりする程、敵もこの中に入り交じっているらしい。
そういう中で、
石ころと雑草ばかりな河原へ出た。西と南に谷口への道がある。味方の大部分は、そのどっちへ行ったか。
頼朝は、幾度か
「討死か」
と、
なぜか、ふしぎにも、生きようとする執念が稀薄である。はっと、それを危険と気づいた時、極度な肉体の疲労が思い出された。もう一歩も耐えられないほど
「なんの!」
今は、後ろに迫る敵以上の敵が、頼朝自身の中にあった。歯がみをして、起つ、よろ這う。また転ぶ。
「しゃあッ」
と、
振向くと、馬に乗った敵方の一将である。頼朝を見て、駒をとばして来たのだ。そして、大きな口を
「あっ。――景親」
頼朝の
すると、その平家方の武将の郎党らしい男が、いきなり駈け寄って主人の駒の前脚を刀で
「得たりっ」
と、頼朝が、その上へ、一撃加えようとすると、彼の郎党は、
「
と叫びながら、頼朝の体を突き飛ばし――そしてすぐ頼朝を
「誰だっ?」
「後で。後でいいます」
「敵か」
「敵ではありません」
「味方か」
「お味方でもありません」
「では。……何者だ」
「迷っている人間です。――たった今までは、大庭三郎景親様の家人でしたが」
「あっ、飯田五郎か」
「そうです」
「五郎か」
「……そうです」
足を止めて、頼朝は、自分の体を扶けている男の顔を見た。たった一度、大庭景親の兄景義に伴われて、配所に来たことがある。また志を共にする若人の会合でも顔を一、二度見たことがある。あれは臭い、怪しい男だと、人々が注意したので、景義もそれきり
「前々から、心ではお慕い申しておりましたが、主人や妻子を捨ててまで、
飯田五郎は、一生懸命で話すのだった。どう云ったら、自分の真心が、頼朝に
「……で。いろいろと、迷ったり悩んだり致しましたが、大義と小義だと、考えつきましたので、源氏方のほうへ、走りこむ隙を
ここまで云うと、飯田五郎は泣き声になってしまった。
「この頼朝の敗れを見ながら、敗軍の将に
と、頼朝も涙ぐんで、行末長く主従たることを誓った。
けれど、源氏系でも平家系でも、縁故などはどうでもよい一士卒に過ぎない飯田五郎が、敵方に身を投じて来たのは、頼朝という人間のみに
「あっ。こうしていると、またさっきのような重囲に
五郎はふたたび頼朝を扶け励ましながら、
明くれば、二十四日。
追々と、彼の所在を知って、味方が集まって来たので、頼朝は、後ろの峰へ上って、陣を立て直そうと云う。
元より否やはない。
「きょうこそ、きのうの
と、面々の意気は、すこしも
「登れ」
「登れっ」
天上へでもさして行くように、人は峰の肌につかまって
すると、敵の大庭景親以下、三千余騎が
まだ、布陣の整わないうちであったため、またしても、源氏の勢は、個々に力を分散して戦うほかなかった。
それでも、加藤次
「ここは、われらで
と、味方へさけびながら、もう敢然と、敵の白刃を迎えていた。
退くのが賢明――と思いながら、やはり、そういう味方ほど捨てきれないで、誰しも後ろ髪をひかれるとみえ、頼朝を初めとし、時政
景廉の父、加藤五
大見平太の兄政光も、弟に心をひかれ、
そのほか、加藤太
「うぬっ」
「おおうっ」
「かッ」
と、いうような
矢だねも尽きると、みな太刀長刀の接戦になった。平家方は、大庭景親をはじめ、重なる者は騎馬だったが、石ころの多い谷あいでは、名馬の
「馬上は不利」
と、云い合せたように駒を捨てて戦った。
源氏方一人に、平家方は十人以上を以て当り得る優位にあったが、その優位がものいうまでには、かなりな時を
「くそっ、
と、俄然、平家方も、
組む、組んだまま、水へ転げ落ちる。
首を掻いて、
「討ったッ。――敵の」
と、躍りあがって、血のしたたる物を差しあげながら、何か功名をさけんでいると、
「こいつッ」
と、その後ろから、躍りかかって来た太刀の下に、首を持ったまま、首を掻かれかけている武者もある。
「あっ、殿ッ。――
乱軍の中で、名もない敵と、斬りむすんでいる頼朝を見つけて、天野遠景は、腹が立った。
腹立ちまぎれに、
「木っ葉どもめ」
と、頼朝へ挑んでいる敵の、四、五人を、遠景は大長刀で滅茶苦茶に叩き伏せ、
「おッ、お逃げにならなければいけませんッ」
と、恐い顔のまま
敵の武者の乗りすてた駒が、鞍のまま、放牧されてあるように、
「殿っ。これへ」
一頭の
「や。殿には、まだここに」
と、その無事を、奇蹟のように驚きながら、駒の前後を
景親たち平家勢は、
「逃がすな」
「あれこそ頼朝」
と、後から気づいて、真っ黒に追って来たが、高綱、景廉などの烈しい矢に、ばたばたと死者を出したので先鋒はみな身を伏せ、矢風が
「時政は。――時政
逃げのびて行く道々も、頼朝は幾たびとなく、左右の者に云った。
「駈けもどって、
と、供の人々は答えた。
その中に、土肥次郎
「いたか」
と、やや力づよい顔をした。
「さて、この大勢では、どこへ隠れ忍ぶにも、すぐ敵の目に見出される

「…………」
誰も、答える者はなかった。誰の
ともすれば、
「今のお別れが、誓って、後日の倖せとなるように、ここは、
誰か、手放しで泣く者があった。一瞬、みな
頼朝は泣きたいよりは、自分の不徳を詫びたかった。この惨敗の責任がみな自分にあるものと責められていた。
だが、こうなっても、
(これ
という希望は、誰よりも頼朝の信念にあった。今が初めての
「ぜひ、最後までは、
と、それは、ここにいる者のすべての
頼朝、実平だけを残して、あらましは皆、落ちのびて行った頃、乱軍の中で見失った飯田五郎が、
「
見れば、自分の落した物なので、頼朝は、非常に
「きょうが最後ではない。ふたたび旗を見たら来い」
と、頼朝は
一方、頼朝に
「もうだめだ。これまで」
と、絶叫すると、腹を切って、最期をいそいでしまった。
峰の背を、実平と共に、逃げのびてゆく頼朝の眼には、遠く、
「あの峰だ」
「いや、
執念ぶかく追いかけて来た敵の大庭景親の兵は、頼朝が、どう
「おウーいッ。味方の衆、この山にはいない。それがしの手勢で探し尽した。向うの山だ。彼方の谷や峰ふところが怪しいぞ」
平家方の一将、梶原
「こよいも、……赤い?」
政子は、夜空を見つめていた。――ここから幾里もない石橋山、
雲に映る戦火よりも、彼女の眸に燃えるものの方が、むしろ炎に似ていた。
「どうなされて? ……」
と、父を思う。兄を思う。――頼朝の身をひしと
先頃の
あらゆる人手を頼んで
石橋山の味方の惨敗は、もうつぶさに聞いていた。
「――お
と、今はただ、それのみが一
そして、心の底に、
「うかとは、死ぬまい」
と、固く自分を
良人の頼朝が果てたら、父も死ぬであろう、兄も
それだけに、軽はずみを
「政子様よ。夜露はからだに毒。もう屋の内へおはいりなされ。こよいは、お寝みなされたがよい」
走り湯の
「はい。……はい」
庭垣の隅の方から、政子の返辞は素直に聞えてくる。けれど、室内へ戻って来る様子はなかった。
「……ご無理もない」
と、法音尼は、草むらの中に
その人の影へ、掌を合せて念じるしか――老尼には政子を慰めることばもないのである。
伊豆の海は、
「政子さま。それにおいでなされましたか」
「誰じゃ」
「牧場の
「萱か。……待っていました。何ぞ変った事でも聞きましたか」
「はい。ようやくのことで、ご先途がわかりました」
庭口から忍んで来た牧場の妻の於萱は、それへ来て、夜露の中にひざまずいた。
彼女も、政子のために、
「――頼朝様には、二十四日の戦に、お味方と、ちりぢりにお別れ遊ばした後、実平殿お一人がお供して、椙山から箱根へお越えなされ、そこで都合よく、舅君の北条時政様とめぐり会い、ひと先ず箱根権現の別当の弟
政子は、聞いているうちから、涙があふれて――天佑に感謝する気もちと歓びにいっぱいになって――於萱の労を
では、良人もこよいは、戦い疲れた身を、久しぶりに、屋根の下に横たえているだろう。
――そう思うと、彼女も
「奥方。
折ふし、垣の外からまた、そう小声で告げる者があった。
ゆうべは、牧場の妻や、走り湯権現の覚明からの報告。――またきょうも、政子の
それらの帰結は、各

*
有力な源氏の味方と期待されていた三浦義澄の一族は、かんじんな石橋山の戦いに間に合わず、丸子河から由比ヶ浜方面へ出たところ、平家方の畠山重忠の軍と行き遭い、重忠方は郎党五十余人の首を失って退却し、三浦一族も、多くの
*
最初から目のかたきに頼朝を狙うていた大庭景親は、二十五日の夕方、一斉に、
(頼朝を
と辻々に高札を立て、およそ諸国へ通じる宿駅は元より、山伝いの小道から、浜辺の一帯に
*
折も折。
石橋山へ駈けつけると、この地方を通った源氏方の安田義定、工藤景光、同じく小次郎などの手勢とばったり遭遇したので、
(それっ)
と、たちまち戦になったが、一方は飛び道具がみな役に立たないので散々に射立てられ、逃げるをまた追い
*
一時、箱根の別当の許にかくれた頼朝主従は、急にまた、そこを去って、土肥方面へ落ちて行ったらしい。
原因は、頼朝に組している別当の弟の
*
三浦一族の衣笠城には、一族の大祖父と仰ぐ八十九歳の
(古巣の城は焼け落ちてしまう。かえってお前たちの為だ。広い世の中へ、各

そして、去りがての孫や子たちが、落ちてゆくのを見届けてから、八十九歳の老将は、華々しく戦死した。
*
佐々木定綱、盛綱、高綱の兄弟三人は、主とわかれて、ひそかに、渋谷庄司重国の館を訪ねてゆくと、重国は、兄弟を
(なぜここに、次郎経高は見えぬのか。戦死したか)
との質問に、
(いえ、無事ではいますが、仔細あって、お館には足踏みできぬと、一人どこかへ立ち去りました)
兄弟が答えると、重国は眼をしばだたいて、
(さてこそ、いつぞや頼朝の加勢に行くとて、
と、すぐ郎党を四方へやって、次郎経高を尋ねさせた。――かくの如く、平家とよばれ、源氏と称えて、戦場では立ち分れても、血はひとつの国民だった。涙はお互いに持っていた。
彼女はもう庭にも立たなかった。二十六、七日の両日は、ほとんど机の前と、
その二十七日の
「お
と、
「おお、あなたは」
彼女は、眼をすえた。それは加藤次景廉の父、
「せがれどもは、甲斐へ落ちのびましたが、
見れば、そういう景員は、もう髪を
この老人は、実戦に参加した一人である。さだめし、きょうまでの消息以上、詳しい事を知っていよう。
彼女は何より先に訊ねた。
「父は? ……どうしておりましょうか」
「時政殿には、首尾よう舟を手に入れられて、
「安房へ」
彼女は、少しも欣しい顔でなかった。――頼朝と一緒にとは、
顔いろを察して、老人はすぐ口早に、後のことばを続けた。
「――また、
「……そうか」
初めて彼女の面に、ほっとした容子が
景員がそこを辞して、僧房へもどると間もなく、彼女も寝所へかくれた。けれど彼女は
高原の牧へ出た。
そこの小屋をほとほとと叩き、牧場の妻の
「萱。……ここは
「湯河原の北山でございまする。この下が、
「では、もう少し」
と、また歩いた。
「政子様。もう行けませぬ。……この先は
「そこの磯は」
「
「…………」
政子は、黙ってうなずきながら、露や草の実に
磯を打つ波音のほか何の物音も聞えなかった。安房、
――が、いつとはなく、それが水と空と、雲とにわかれて見えて来た。
「萱! ……」
政子は立って、にわかに眼をいっぱいに働かせた。
「見えぬか。……見えぬか。……殿のお舟が、今朝のお舟立ちが」
「見えませぬ。何も」
「……あれは?」
「磯辺の
遠い一連の山影は、
刻、刻、見ているうちに、陽は半島の上に離れた。海はいちめん
政子は、その日から、
九月の空も、海の
七月頃から、橋口には、交代で見張りの武士が立ち始めている。――伊豆半島とこの地方とは、海を隔てているとはいえ、晴れた日には、
当然、伊豆に揚がった
下総、上総、安房、それぞれ派別を明らかにし始めた。いや、自身はその
(
(誰と誰は、どうなっても、平家方をうごくまい)
そう人々が色別けを押しつけて観るし、また、頼朝の旗挙げなるものが、ここではその実力以上に思われていたので「源氏方」という言葉が、ここでは平家方と対立して、通り言葉に使われていた。
頼朝の人間的評価も、地元の伊豆よりは、この地方のほうが、より高く買われていた。彼が伊東祐親入道のむすめと恋をしたり、配所へ亀の前をひき入れたり、北条家の政子とも同様に浮名をながしたり――そんな半面的な
そして、六月末の挙兵が聞えてくると、
(ついに、起ったな……)
と、誰もそれに一応の同情を抱いたし、また、
(さすがは、やはり名門の子である。二十年の
と、彼の系図を
その頼朝が、一敗地にまみれて、行方も知れない――と伝わって来た時、はっきり世間に現れた事は、この地方でも、若い人の層に、一様に濃い落胆が見えたことだった。
間もなく、
(
と知れ渡ると、
が、ここにもある古い勢力や秩序が、それとは反対な衝動から、
「落武者を入れるな」
と、各

宿人町から郭内へ通じる橋口に番兵が立ちだしたのも、その現れの一つと云えよう。長元年中、関東の騒乱に功のあった平忠常以来、累代平家の御家人であり、この地方の豪族として、現状のままである事が、最も安泰を
「はてな、怪しい
「引ッ捕えてみろ」
橋口の守りの武士が、こう指さすと、その指を振向いた旅商人は、急に足を早めて、町の方へ曲ってしまった。
千葉介常胤の次男
「おい、何事だ」
胤頼は、馬上から声をかけた。
すると、武士たちに囲まれて、それへ引据えられていた旅商人は、
「おおっ」
と、彼を振向いて、跳び上がらないばかり
胤頼には、ちょっと思い出せなかったとみえ、
「何者だ」
と、近づいたら鞭で打ちすえそうな姿勢をした。
「それがしです。お忘れか」
「……それがし?」
と、じっと見直してから、初めて姿の変っている事に気づいたらしく、
「やあ、藤九郎盛長どのか」
と、眼をみはった。
かつて、その藤九郎盛長は、頼朝の召状を携えて、
「無礼すな!」
胤頼は、武士たちを叱って、
「よく何事もなかったものだ。このお方が本気になって
と駒を降りて、
「いやいや落度はそれがしにある。取次を願っても、われらの今の境遇では、尋常にお通しあるまいと、あなた様か、胤正様のお出ましを待とうと、うろついていたため、疑われたのでござる」
「何にしても、ここでは、お話しもならぬ。館まで、お越し下さい」
胤頼は、駒を、侍の手にあずけて、旅商人姿の盛長と、肩をならべて歩み出した。
落着いてから訊くべき事と思いながら、その間も待ちどおしげに、胤頼は、歩きながら言葉
「ご無事か。佐殿には」
「は。天佑といいましょうか、おつつがもなく」
「して、今は
盛長は、後ろを見た。供の侍たちは、ずっと後ろから、胤頼の駒を曳いて来るので、
「安房におられまする」
「安房とは、およそ世間も観ているが……安房のどこに」
「安西三郎
「ウム。北条どのは」
「ご一緒です」
「そうか、それ伺って安心いたしました」
「実は、この
「それは」
と、抑えて、
「後で
「いや、その辺のご事情は、よく分っておりまする。……千葉ご一族にとっても重大な分れ目でござる。ましてや、あなた様や胤正様の上にも、お父上常胤様という者がおありなのですから、左様に、手軽く
二人の影は、寺院の登り口でもあるような、森の木蔭と
「とにかく、会うだけでも、お会いになって下さい」
胤正、胤頼の兄弟は、結束して父にせがんだ。――議論もし、情にも訴え、口を極めて頼んだ。
「それ程に申すならば」
と、父の常胤も、とうとう承知してしまった。
兄弟は、
盛長は、胤頼の館で、すっかり装束を着更えて出た。――意地わるい眼で、その言語動作を見つめていた常胤も、
(よい侍だ)
と、心で呟いたふうだった。
「初めてお目通りを得ます。自分事は、源家の棟梁故義朝様のご嫡男、頼朝様の家人でござりまして、藤九郎盛長と申します者」
と彼の
「左様であるか。
と、一方は、至ってあっさりと受ける。
藤九郎は、一目見て、千葉介が気さくな老人であるのを知った。年は、当年六十四と、さっき胤頼から聞いてもいた。
味方の北条時政などは、まだ老人というほどな老境でもないせいか、多分に
「京都へ参られた事があるかの。京都はよいな」
そんな話からはじめた。
合戦がどうの、源氏がどうの、平家が――とそんな噂は

藤九郎盛長は、足のしびれるほど、長い間、常胤の世間ばなしを聞かされた。
都の女から、恋歌をもらったりした事のある若い時代の秘め事まで、おもしろげに云い出すのであった。
「時に」
幾度か、改まって、口を切り出そうとしたが、
そのうちに
なおいけない。
宴がすすむと、孫たちから、家人の
「さあ、お
と杯をすすめた。
盛長は、元来が武骨者である。行儀も長持ちはしないので、もう
千葉介も、微酔のよい機嫌になって、
「それでこそ、坂東武者よ。どうも、最前はまだ、
と、
老人は、何もかも分っている。――あの言葉の様子では、頼朝様の書面も受け取ってくれる気持にちがいない。
盛長は、そう感じたが、
(待てよ、そうして、自分の
とも、密かに警戒した。
警戒しながら、彼は、大胆に飲みつぶれて、そこに眠ってしまった。
海が近いし、しかも夜は秋、丘の上の宏壮な豪族の館なので、寝ごこちは実に
「……盛長どの。盛長どの」
もう深夜。胤頼が、ゆり起していた。
「そっと、奥の間で、父がもう一度、誰も交じえず会おうと仰っしゃる。お越し下さい」
上首尾と、盛長は、血のおどる思いがしたが、
「しばしご
と、
「いつまでこうして、安房にじっとしていても仕方があるまい」
頼朝は、
いつまで――と云ってもまだ安房に上陸してから、半月程にしかならないのであるが、頼朝に取っては、永い気がした。
毎日を無為に過しているまに、刻々、眼前の機会が、逃げてゆく気がしてならない。
しかし、その半月の間も、決して手を
――
――志のある
と、味方を
小山四郎
豊島権守清元。
中でも、葛西清重からは、
(江戸、河越なんどの平家方に
と嘆いて来た。
頼朝は、またすぐ返書を送って、
(陸路がむずかしければ、海路を渡って来い。時逸しては、千載までの
と云って
それほど、彼の胸では、事を急いでいた。――お味方申そうと云って来た
「時政」
「はっ」
「こちらから上総へ出向こうではないか。こんな
「――が、もうしばらく、お待ちなされませ。当所の安西殿が今は旅先にあって留守でもござれば」
「安西三郎の
「それにしても、まだ下総へ参った藤九郎盛長も帰らず、その他、諸豪の動向もよう分らぬうちは」
「お
軍事を語る時の彼は、時政だからとて舅御と
「諸豪のうごきと、よく云わるるが、今となっては、誰が参らずとも、何者が敵と立とうとも、頼朝の方針に変りあろう
この頃の彼は、云い出したら
「――では、大勢は人目立ちますれば、五、六騎ほどお連れ遊ばして、密かに、お体だけを先にお移しあるおつもりで、上総介の館へお越しあっては如何でしょうか」
時政も、遂に、妥協してそう云い出したので、何分にも
二日目の晩である。
然るべき家も見当らないので、大きな沼の
何者か、およそ六、七十人、中には騎馬の影もある。
この辺に
「降って湧いた幸運」
とばかり、頼朝の首を取りに、夜襲して来た者だった。
三浦二郎義澄は、
「殿っ、お目ざめ下さい」
と、家の中へ
「各


と、裏口から起した。
起きて騒ぎ立てているのは、
「
義澄が、早口に問うと、
「お客方は、あれに」
と、嬰児をかかえた女房が、唖のように、舌を
裏の畑の地先は、すぐ沼の
「義澄っ、はやく乗れ、
「あっ、殿ですか。――そのまま殿こそ早く岸を」
「乗れと申すに」
「いや、
云い捨てると、義澄はもう敢然と、家の前の往来へ出て、近づく敵と斬りむすんでいた。
「義澄を討たすな」
と、頼朝のそばから、二人立ち、三人立ち、五人まで駈け上がって行くと、
「みんな来いっ」
と、頼朝まで、跳び上がって、遂に敵へ当り始めた。
敵は、六、七倍の人数だが、当ってみると、案外弱かった。いや、こっちの皮膚や精神が、伊豆でさんざん
「追うな追うな。深入りすな」
五、六町先まで、追い崩して、頼朝は引っ返して来た。
「
と、頼朝は、持合せの物など与えて、夜の明けないうち、小舟で沼を越えた。
翌日。
安西三郎
「行く先々、前夜のような狼藉者や、この際、何とか平家の恩賞にあずかろうと、慾にかかっている者も無数にある。
「前へ行く道のみがどうして危ういと云うか。後ろへ
頼朝は笑って
ぜひなく、彼も供に加わり、かくなる上は、とその由を、安房へ報じて、北条時政やその他の人々へ、
(途中で待つ。急いでご参加あれ)
と、云い
時政以下の者は、安房を引払って、追いついて来た。総勢ここに三百余人となった。――もう忍びの旅行とはゆかない。公然たる源氏の出動だった。安房に上陸して以来、初めて「軍」としての歩みを開始したものだった。
武器、武装、元より安全ではない。三百の小勢は、まったく心もとない人数にちがいなかった。
しかし、頼朝が
――ところが。
待ちかねていた頼朝は、盛長が帰ったと聞くと、すぐ招いた。
「千葉介が返答はどうであったか。――応か、否か」
「ご書の趣、承知とのお答えでした。最初は、難しいお気色に
「そうか」
頼朝の胸は、どっと鳴るほど、歓びに開けたに違いなかった。しかし、そう
盛長は、なお、復命をつづけて、
「――また、常胤殿が仰せには、安房、
「鎌倉へ」
彼は、天来の声でも聞いたように、眸をあげて、
「――鎌倉へ。ムム、鎌倉へとか」
と、何度も呟いた。
それから盛長に、大儀であった、休むがよいと、
評議の結果、急に、軍の方向が変った。
ここまでは、
「上総介広常の館へ」
と、それが目標であったし、次の行動にかかる根拠地と目されていたが、頼朝は、その方針を一変して、
「鎌倉へ進もう」
と、ここで云い出したのであった。
「鎌倉は源氏
やや迷いの見える諸将の顔色を見まわしたが、頼朝は、自分の熱意を押しつけるように、なおも、説いた。
「頼義公の威徳は、当時、坂東の
口を極めて、彼は、鎌倉を主張した。いや、その何れにするかを、
鎌倉と聞いて、誰も皆、
「なるほど」
と、そこの有利なことや、源氏にゆかりのあるという点など、異存はなかった。けれど、頼朝の云うのを聞いていると、頼朝は、そこに
実際、頼朝は考えていなかった。この際、考えてなどいたら一歩も進む地はないからである。彼はただ、良い! と信じ、行こう! と思い立った方へ指さした。――そして、
「来る者は、われに従って来いっ」
と、他を云わず、三百余の兵の真っ先に立った。――鎌倉へ、鎌倉へ。道を
そのまま頼朝の人数が、
「手みやげのしるしに」
と、常胤は、頼朝との見参に、一名の捕虜を曳かせて来た。
「これは、何者か」
頼朝が、訊ねると、
「千田判官代
老人は誇らしそうに云った。
「その孫は、いずれに?」
常胤の誇りに花を添えてやるように頼朝が訊ねると、
「小太郎、小太郎」
と老人は、孫の成胤をさしまねいて、頼朝の
まだ十六、七の若者だった。頼朝は、平治の乱に、自分たち兄弟が初陣に立った時を思い出すなどと語って、次々に、常胤老人の子息を近くへ招いて、
「みな、あっぱれな
と、云った。
わずか三百の小勢を
「子息も、孫どもも、挙げてお預け申すからには、如何ようとも、お引廻し下されませ」
と主従の約をつがえた。
その日、千葉城からは、頼朝の軍勢一同に、弁当を贈った。
行軍の将士は、それを野外で開きながら、久しぶり飯の味を噛みしめた。――こんな飯を今日ここで味わおうとは、予期しなかったところである。――ある者は、
(きょう下総へ入ったら、早速に合戦となろうも知れぬぞ)
と、
将士でさえ、そうであった程だから、顔に出さない頼朝の歓びも、内心はどれほどだったか分るまい。――その歓びの溢れがつい云わせたのであろう、頼朝は、その夜、
「何だか、自分までも、あなたの子息の一人かのような心地がする。以後、貴殿を以て、父とも思うぞ」
と、云った。
そう云われた常胤は、頼朝の世辞とは思いながらも、
「よい息子がまた殖えた。日本一の息子どのではあるまいか」
と、心からほくほくしたが、頼朝の側にいた北条時政は、何か、嫌な顔をしていた。――同じような巧い言葉を、かつて、頼朝の口から、自分もうけた事があるので、それが思いだされたのである。
城内に、一夜泊って、十八日の朝、頼朝はここから出発した。
すると、館の出口に、
「あれにおる者は?」
と、頼朝が訊ねると、常胤は、待っていたように、その若者へ、
「近う。――頼隆殿、近う」
と、さしまねいた。
「これは、毛利
と、常胤は
「さては、陸奥六郎義隆が子か」
と、思い出して云った。
「はっ」
と、
「忘れもせぬ……」
と、頼朝は
「平治の合戦に、父義朝は敗れて、都を落ちたが、その折、
「
と、
「常胤。ようぞ長い間、この
彼は、館から歩み出した。猪鼻台の丘を大股に下って行った。
追いかけ、先立つ武者たちの物の具が、秋の陽に
武者が、旗を振って来るうしろから、頼朝を真ん中に、常胤の一族や、北条時政や、諸将の姿が見えて来ると、辻の人影はみな大地にうずくまった。――そして、頼朝の顔を見た者はなく、わずかに、力づよく運んで行くたくさんの武者
「あれが、もしや?」
と、思い寄せて見ただけであった。
陣貝が
頼朝と常胤の兵を併せると、総勢七百からの行軍になった。ただ一色の源氏の白旗につづいて、千葉家の
この日を、味方の数の殖えはじめとして、半日の間に、千を越えた。
「千葉殿がご加勢あるからには――」
と、五人十人ずつの、小さい仲間も
――鎌倉へ!
――鎌倉へ!
次第に全軍の足なみは大きくなった。そして、武総の堺、隅田川河原まで来た頃は、その河原で、待ち合せていた者や、海のほうから船で
その夜は、河原に陣して、思うさま、人々は、秋の夜空をながめた。
河幅は怖ろしく広かったが、水は
――が、こよいにも、武総の地にある平家が、いつ夜襲して来ないとも限らない。水が
すると、隅田の
「おういっ」
何事かあったように、鞭を上げて、
「大軍が来るぞ」
河原で馬を降りながら、物見の兵は、そこらに立っている歩哨へ云った。
「なにっ、敵かっ」
と
実平が、時政を訪れ、時政が常胤を起し、中軍の篝は
――これへ大兵が来る。
との報らせは、次々に告げて来る者の口から、その装備、兵数、旗じるしなど、すぐつぶさに知れた。
兵数は、およそ二万余と聞えた。
――お迎えに参向する。
と、味方を約し、
二万。
という兵数を聞いただけでも、諸将の面上には、包みきれない歓喜が
「ほ、ほう……」
と眼をかがやかした。
「この有力な大軍が、お味方に加わるからには」
と、きょうの
その朝空は、隅田川の水ひとつに、うっすらと白みかけていた。
広常の大軍は、隅田の宿あたりを境に、河原から野へ
そして夜明けの光を見ると、その中軍から、
「オオ。上総介殿が来られる。ごあいさつに見えられる」
頼朝の営外に立っている兵たちは、小手をかざしながら、新しい味方の堂々たる
四、五の将も、そこへ出て、
「道を開け。その駒の群れを、彼方へ移せ」
などと指図していた。
広常は、間もなく、陣所へ近く来て、ゆらりと駒を降りた。――そして士卒を遠く立たせ、嫡男以下の肉親だけを従えて、幕の近くまで進み、
「これは上総介広常でござる。一族、近国の
朝露に
「…………」
いつまでも、頼朝が唇をむすんでいるので、辺りの将たちは、彼の
「
再び、取次の武士が云いかけると、石橋山の谷間以来、久しく聞かれなかった頼朝の大声がいきなり、
「ならぬっ! 追い返せ」
と、
「頼朝が安房より進軍してから、はや幾日になると思う。その間に、合戦あらば、二万十万の兵とて、間にあわぬ味方だ。――
主従の
千葉、土肥、北条など居あわせた諸将は誰もが皆、ハッと顔色を変えずにいられなかった。
第一に恐れた。
上総介広常の耳へも聞えたであろう事を。
第二には憂えた。
せっかく味方に来た二万の軍勢が、為に、離反して行くことを。
第三には、疑った。
頼朝の
そして、茫然の
正当だ!
これでいいのだ!
大喝を発して、ぽっと熱した
「
云い
「ご機嫌がお悪いようでござりますな。ご不興を
と、
辞色も静かで、丁寧には云っているが、上総介広常も、土のような顔色をしていた。心のうちの穏やかでない事は当然わかる。
二万の兵をつれて、子や孫や一族どもまで語らい、ここへ見参に来ながら、頭から今のように叱りつけられて、何でそのままこの陣門を退がられよう。老将が、この年まで覚えない恥をさえ感じたにちがいない。――身も
「……では、
同情にたえないふうである。武士はまた、幕営の奥へもどって行った。
その姿が、隠れるとすぐ、
「ちッ、父上っ」
「大殿っ」
「広常殿っ。かッ、帰ろうっ」
彼のそばにいた子息や一族の誰彼は、左右から彼の手や
「な、なんだっ、千にも足らぬ小勢を引いて――。伊豆に敗れ、
同じ年配に近い同族の老人さえこう云って歯がみをすると、なおさら、子息や孫の若武者
「佐殿が何じゃッ。今の大声を聞けば、思い上がった阿呆に近い。あんな大将に、何で大事がなろう。こんな陣門へ礼を執って来ただに口惜しい限りじゃわッ。――さっ、引っ返そう! お
「父上っ」
と、動かぬ広常の体へ寄り集まって、無理にでも、引き戻そうとした。
「…………」
が。広常は動かない。
そのうちにまた、頼朝の座所から前にも増して烈しい声がながれて来た。
「――ならぬっ。いらざる
広常の身をつつんでいた一族の
「うぬっ」
一斉に、陣刀のつかを掴んだ。
「何をするっ。推参な」
広常は、叱りつけると、どう考えたか、それへ坐って、両手をつかえないばかり身を
二度、三度まで、取次の役目に立った者は、広常と頼朝のあいだを往復したが、頼朝の怒りは依然解けなかった。
三度目には、余り気の毒と思ったか、取次の者と共に、土肥実平も出て来て、
「きょうは一先ずお引取あって、他日、再度ご見参に出られては如何でござる。その間に、われわれよりも、ご気色を
と、慰めた。
しかし、広常もまた、辛抱づよく、これほどまでに叱られながら、なおも、大地に坐ったまま起とうともしなかった。
「いやいや、佐殿のお怒りは重々ご理由のあることでござる。大事な西上のご発向に、馳せ遅れ申したは、広常が一代の不覚と、
いつか陽は高くなる。
馬には
対岸から伝令が来る。
また、
それらも皆、江戸、河越、甲府、秩父などの諸地へ行った使者の戻りや、或いは、その返書を
石浜宿の住民が、隅田川で
陽はいよいよ高くなる。
「聞いたか」
駒寄場の辺りで四、五人の兵が大声ではなしている。
「けさの早打ちによれば、この月の九日に、
「ほ! それは初耳だ。――だが、こちらにも吉報がある」
「何か」
「伊豆では、平家方に立って、三浦殿を悩ました秩父の畠山重忠が、一族の衆、数人を使いとして、何やら殿の
「武田太郎信義どの以下、甲斐の源氏も、どこかで合流するという。江戸、河越も、きょう
兵のうわさは、単にうわさだけのものとも見えない。その半日の間だけでも、三十人四十人と一隊になって、舟で海口から
そうして、随身した兵は、すぐ労役を命じられた。半日の間も遊ばせてはおかないのである。附近の民家を壊したり、小舟を集めて大河を貫く舟橋の
「…………」
広常は、まだ坐っていた。
つい先頃までの彼は、頼朝の召をうけても、
――味方と見せて、二万の兵をもって包囲し、一挙に討ってしまう――であった。
彼の考えは、三度変った。
――会う要はない追い返せっ。
と、頼朝から案に相違した
「誰じゃ。そこにおる
何かの指図に、陣の外へ歩み出て来た頼朝は、まだ、大地にじっと坐っている上総介広常を見かけて、
「あれは、何者か」
と、もう今朝の事など、忘れているような――その実、忘れていないらしくも見える顔をして――傍らの土肥次郎実平に訊ねた。
「上総介どのにござります」
答えると、
「何。広常か」
「はい」
「まだおったのか」
「お怒りの解けぬうちはと――」
「ああ、それほどまでに」
大きく、頼朝は云いながら、自身つかつかと広常の前へ歩み寄って、
「老人、
と、軽く彼の肩をたたいた。
「――あっ、これは」
あわてて広常が、手をつかえかけると、頼朝は、その手を
「挨拶はあちらにて受けよう。さるにてもご堪忍のつよい事ではある。頼朝は今、ここ生涯の門立ち、死にもの狂いの気と、
と自身、自分の幕営のうちへ、手を取らぬばかり
で、広常はようやく、源氏のお味方たることを許されて、初めて自分の陣所へ帰った。
けれどもまだ納まらないのは、彼の肉親たち諸将の
「いったい
と、
広常は首を振って、
「いやそうではない。わしは今日という今日ほど胆を
そして彼はなお、次のように自分の観るところと、一つの例を、一族の後進のために説いて聞かせた。
すると将門は歓びの余り、結びかけていた髪のむすびも結びあえず、
それに反して。
頼朝のきょうの態度は、見上げたものと云っていい。今、天下は
遅参の条、
と怒ったのは、怒られながらも実に
大事はあのお方の手に依って成し遂げられるにちがいない。そち達も、もはや迷うな。――もっとも誰よりも一番迷っていたのはこのわしじゃが、今日以後、上総介広常はまぎれない頼朝殿の
相模の大庭景親から出した注進の早馬が、京都に着いたのは、九月
六波羅では、
「片づいたな」
と、軽く見て、すぐ注進の一通を太政入道の手元へ。べつの一通は役人たちで開封した。
それより前に。
判官兼隆ヲ
兇徒、ワヅカニ三、四十名ノミ。
とあったので、「なんじゃ、人騒がせな」
と笑った程であった。
次の早打ちには、
――兇徒、勢ヲ得、三百余人、石橋山ニ立籠 ル。
と見えたが、その僅少な徒党に対して、伊豆、相模、武蔵の平氏が何千と駈け向ったというので、「ても、
と、なお、
今、景親からの三度目の報告を開いてみると、案のじょう、その文には、
二十四日暁天 。
頼朝、堪 ヘ得ズシテ、遂ニ当所ヲ退キ、不知行方 。
或説ニ曰 フ。穴ヲ掘 テ自ラ埋 リタリト。
又、説ヲ為 ス者曰フ。
石ヲ抱イテ水ニ入レリト。
巷説 多端 、ソノ首ヲ見ザレバ確 メ難シト雖 モ、滅亡ノ条勿論歟 。
頼朝、
或説ニ
又、説ヲ
石ヲ抱イテ水ニ入レリト。
「はははは。石を抱いて水に入る――はよかったな。火へとびこめば夏の虫だった」
一場の笑いばなしと過ぐる中に、景親に対しては、兇徒というかどで、恩賞の
入道相国の身近に出入りする大将のひとりから洩れたはなしでは、頼朝謀叛と聞えた時、入道はひどく不機嫌ないろを示し、
「恩知らずの
と、口汚く
「ばか者である!」
と、暑い日に、一杯の
福原の海岸へは、ことしの夏も、

その都はまた、秋は秋とて、やれ月の宴とか、管絃の会とか、
この世は遊ぶためにあって、百姓庶民は自分たちを遊び飽かせる為に生きている――そういう
今に見ろ。
今に見ろ。
と、水ッ
そんな孫どもや子息やまた、それにつながる
「いっその事、
と、世の為に憂うることもままあったが、時しもあれ、九月下旬、
兵衛佐頼朝、其後モ生存アツテ、武総 ノ隅田河原ニ陣シ、千葉、上総、甲信、武相ノ諸源氏ヲ語ラヒ、兵員三万余騎ト聞エ、ソノ勢 逐日 熾烈 。
と、ある諜状を手にすると、嘘みたいに皆思った。
信じようとしても、信じられないのである。
石橋山から行方知れずになった頼朝が、わずか一ヵ月の間に、総勢三万余騎で、隅田川をこえ、大井をこえ、徐々、西上して来る形勢だという。
いや。それどころでない。
次々と、情報のはいるたびに、三万騎が五万騎となり、七万騎に近いといい、果ては、十万余騎の軍勢と伝えてくる。
「ばかな」
「あわて過ぎておる」
「理に合わぬ事ではないか」
理に合わなければ、彼等は
いつしかそういう習性を以て最も
――それと。
もうひとつ、彼等の知性のうちには不思議な病症が
それは。
驚かない!
という奇異な
どんな事が起っても驚かないのである。
たとえば。
ひどい
困る者は困るばかりに追いこまれてゆき、富有な者は、平家一門の風をまねて、世をも人をも恐れない
日常、事々に、驚くことを忘れ果てた人々は、この春、
(それみろ、すぐ片づいてしまったではないか)
と、むしろ騒動の後のいろいろな話題を興がって、しばらくは退屈をなぐさめられたくらいな顔していた。
あらゆる角度から
華美に驚かず、美食に驚かず、果ては、あらゆる自分等の生活のまわりにさえ、良き驚きを失っている神経は、とうとうこの月、木曾義仲が挙兵の報を北方から聞いても、頼朝が西上の急を東から聞いても――なお依然として、驚かない
「近頃、おかしなうわさを耳にしたぞよ」
その評定も、ともすれば、雑談にばかり流れ
「また、うわさか、よくいろいろなうわさが飛び出す。頼政にかつがれて、宇治でご最期遂げられた
「そうじゃ。御身もはや耳にされたか。――生きておられるくらいはまだよろしいが、それが、頼朝の陣中にあって、指揮に当っておられるというのじゃ。そのため、何十万の源氏が立ちどころに寄ったというのじゃ。……さも、
「はははは」
一方で軍議しているかと思えば、一方では笑いどよめいているといった
そういう驚かない
彼の側近くまで進み出て、何かしきりと
頼朝頼朝という声が、しきりと
「そういう人が、まだ東国とやらに生きていたのか」
と、気がついたふうだった。
今更のように、彼等は、平治の乱や保元の頃の
「そうそう、あの折、六条の
「その下の乳呑みは、鞍馬へ追いあげられ、
「鷹の子は、鷹の子よの」
「何しても、早いもの。もう二十年経ったか」
話題には興を抱いても、庶民たちはまだ
それでも、民衆は、いよいよ六波羅の軍勢が、五万余騎も編成されて、
頼朝追討
と称して京都を進発した当日には、辻々へ山のように見物に出て、その物々しさに、意外な顔をしていた。
「こんな大軍で向わなければ討てないほど頼朝も大軍を持っているのか」
と、
二十年前、十騎に足らぬ
「その日も、この辻でな……」
と、見物しながら、当年の有様をはなしている人々も多かった。
道も同じ六波羅の大路から粟田口――
大将は
その一人一人の
海道を下って、
「いったい、頼朝の手勢の中には、
問われた実盛は、世にも情けない顔をした。余りにも認識の足らない大将たちではあると思ったが、その認識不足を補佐することが、多年、
「何を仰せられまする。この実盛ごときを、よき者と思し召してか」
と、歯に
「――弓は三人張り、五人張りをふつうに引き、一矢に二人三人を射仆す者はいくらもおります。日頃の
維盛も忠度も、半信半疑に、
鎌倉へ。
鎌倉へ。
一兵卒にいたるまでこの目標は持っていた。分りのよい相言葉だった。
たちまち、それは時の声となり、
鎌倉へ。鎌倉へ。
と、意志づけられた。その足なみから
――京都へ。六波羅へ。
頼朝がそう云ったら、或いは、危なげを抱いて、
どの顔も、どの顔も、秋の陽に
細谷川の水も草間の小川も、すべてを
土地の郡司や村の
「
と、いきなり訊ねた。
北条、千葉、土肥、その他の諸将も、そんな地名を聞くのは今初めてだったから、ふと不審な顔をした。
「遠くではござりませぬ。ならばご案内いたしましょうか」
「そうだ……ともあれその、亀ヶ谷まで参りたい。先に立て」
そこは
「あ。狭いなあ!」
駒を降りるなり、傍らの北条時政、土肥次郎、千葉常胤などを顧みて、いかにも惜しそうに云った。
「お狭いとは……。ご陣地のことで?」
「いや何。わしはこの亀ヶ谷へ、わしの居館を建てようかと、道々も、その
「お住いの地相をお選びなれば、この広い鎌倉中、御意のままでございましょうに」
「いやいや。亀ヶ谷には、
「あれに、古い
「さてこそ。父の歿後、岡崎
頼朝は、つかつか歩み寄って前に立った。――無言のままだった。
鎌倉の第一夜を、彼は民家に泊って明かした。翌日は彼自身、鎌倉中の地を
頼朝の口から出る命令には、すべてに
――息をもつかせじ。
とする気合が見えた。
安房を立ち、隅田川を発し、鎌倉へ着いてからでも、何事にまれ、
前進。前進。前進!
もちろん彼自身の生活が、その足なみの先頭にある事はいうまでもない。彼自身が、
ただの民家を一時の居館として鎌倉の第一夜を明かした頼朝は、
「土民には、安心して生業にいそしむよう。兵には、軍律を
と、命じた。
その足ですぐ、彼は、
「鶴ヶ岡へ参拝にゆく」
と、云い出した。
この事は、きょう明日には、必ずあろうと予測していたので、列伍は立ちどころに整った。畠山次郎重忠を先に、千葉介常胤の隊が後ろに、頼朝のすがたを護って、粛々、道を進んだ。
道は、山之内村の耕地からやがて杉並木につつまれた木蔭にはいった。
「鶴ヶ岡か」
「さようでござります」
左右の答えを聞きながら、頼朝は駒を降りて、もう大股にその赤橋を渡っていた。
が。すぐ足を止めて、
「……此処か」
と、前なる山の
「静かだのう」
諸将を顧みながらまた呟いた。そして地上に眼をうつした。山清水のにじみ出している其処此処に、小さな池が幾ヵ所かできていた。池には蓮の葉が破れ、赤い
「――祖先、頼義公も、義家公も、また
心あるもののように、全山の
そこへ、急な使いが来た。
伊豆の
「ここへ呼べ」
と、そのまま待った。
使いの侍は、余りの晴れがましさに遠く平伏したきりだった。御台所のご書面を
――なつかしや妻の文
と、顔にもそれは現れていたが封はひらかず、肌に納めてただ一言、
「政子は無事か」
と、たずねた。
「近ごろはわけてもお
と、使者が答えると、
「いずれ沙汰いたせば、それまで待っておれと伝えよ」
そう云うと、頼朝は、出迎えの神官を先に立てて、鶴ヶ岡の社前へ、静々、登って行った。
その夜、頼朝は手紙をかいて、伊豆へ急使を立てた。
妻の政子へである。
女というものの身になれば、この二月ほどがいかに長いものであったか。いかに辛い日ごとであったろうか。――頼朝は、その夜にわかに妻が恋しくなった。女の身を
一日、措いて、
「
と、大倉郷の地ならしを検分に出向いた。
わずか四日目にしかならなかったが、そこの広い宅地はあらまし整理されていた。
「早かった」
作事の奉行大庭景義は
「景義。あとはもはや石を
「されば、門石垣の粧いなどいたせば限りもござりませぬが」
「まだ庭を見、出入りの門を飾る
「七日は要しましょう」
「七日」
頼朝は、そこへ自分がすぐ住もうとは考えていないのである。一日もはやく妻の政子に、自分の手で造った家と安心を与えてやりたかった。
「続いて、そちへ作事を申しつけておく。
その日の
「道をひらけ。下におれ」
そこへ、騎馬
「何じゃ。何者じゃ」
「どこの
人夫を指揮している将のひとりが
「無礼すな。これに
「……あっ、御台所で」
人々は驚いて牛を
輿のうちには、美しい人の気はいが
そのすべてが、良人の権威に見えた。良人の偉さに見えた。それにしても、わずか数名の
その夜、ふつうの民屋の何ひとつ飾りとてない一室に、政子は、良人を見た。頼朝は、妻のすがたを見た。
夜はやや寒い一室には、白い
その清らかな魂と魂とを抱いて、ふたりは翌朝、また改めて鶴ヶ岡へ
七日と日限した大倉郷の居館は、一日早く
しかし、頼朝が、そこにいたのは、たった一日でしかなかった。
その早打ちを受けとりながら、頼朝が、たった一夜でも、その仮館に妻と共に送ったのは、
――そなたの為に。
と彼は妻に云ったが、男たる者の胸には、べつな
石橋山から
それと、こんどの京勢との対陣は、今までの部分的な
「二千の兵は、鎌倉に残しておく。三百の兵は、この館の護りに付けて参る。今までのような憂き目はもう見せまい。またしばし、留守をしていよ」
立つ日の朝。――それは十六日であった。頼朝は、妻へこう云いのこして、大倉郷の館を出た。
令は、すでに発しられていた。
鶴ヶ岡を中心として、数万の兵馬は、彼の発進を待っていた。
頼朝は、三度、鶴ヶ岡に上って社前に
この日の出陣の祈願は、この山初めての盛儀だった。
走り湯権現の
その日。
鎌倉の海は、波が高かった。しかし、初冬の空はすみ風は冴えて、山下の数万の兵も、その間、
やがて――
進発の貝の音がながれた。
旗が、
別働隊の加藤次景廉や甲斐源氏の
二十日。――全軍は駿河国の加島についた。
「おお、見える」
武者たちは、物珍しげに手をかざした。陣地となったすぐ前には、富士川の大河が横たわっている。けれど眼に大河はない。彼方の岸辺にひめられている無数の
「あな、目ざまし」
と、思わず眼をみはったのであった。
けれど、その感嘆は、坂東武者たちには、すぐ反対な苦笑になった。
「さすがに、派手やか」
「うわさに聞く、福原の船遊びと、間違えているのではないか」
「一矢、挨拶いたそうか」
「待て待て。まだ射よと命令の出ぬうちに、
その日は、陣の備えに、源氏方は暮れた。
「はて、
夜になると、陣の囲いを出て、
オーイと呼べば、敵の陣からもオーイと答えそうな気がする。
この十数日は、大雨もなかったので、富士川の水は、星明りでも底がすいて見えそうなほどきれいだった。河の中ほどにも、所々、
「おい。……風のあいまに、笛の音がしてくるぞ」
「どこから」
「対岸から」
「嘘をいえ、この合戦に」
「いや、
「気のせいだ」
「そうかな?」
そう思えば、そういう気もして、何より明らかに聞えるのは、やはり水の音と、
そのうちに、何処かで、大きな人声がした。水の中である。馬が
「ばかっ、どうした」
綱を投げて、救い上げてやると、それは馬を洗いに下りた
「あははは。まだ敵へ、矢一すじも射ぬうちに、水に溺れたりなどしたら、
笑い声が高いので、陣地の陰から一人の侍が出て来て、叱りつけた。
「何をしておるっ。身をかくせっ。馬を後ろへ曳き込めろ。この薄月夜に、いい
兵たちは、あわてて陣地へ駈けこんだ。楯や物陰には、むっとする程、汗くさい人いきれがしていた。
「いつ来るか?」
と、敵の夜襲に備えて、夕方、
夜が明けた。
敵は来ない。――いや一矢の矢うなりも切って来ないのだ。

危険を冒して、河の深さを偵察に行った者が帰って来ての報告によると、
「なんのそれしきの激流。海ならば知らぬこと、馬を乗り入れて、一度に越えれば」
と、その日のうちにも、渡河戦を決行しようとの議もあったが、数日前に着いている敵でさえ容易に越えて来ないところを見ると、想像以上、流れは早いのかも知れない。――また、それを利して、敵にも
「あっ、来たっ」
夕方、源氏方は、自分たちの頭の上を越えて行く矢の
楯まで届かない矢が二、三十本河原に落ちた。さらばと、源氏方からも、五、六騎河べりへ乗り出して、鞍上からキリキリと満を引きしぼって返し矢を送った。
その
その夜、源氏方では、
「河を越え渡るには、未明を計って、敵の寝込みを襲うしかあるまい」
と、朝討の評議がきまって、部将たちは、夜おそく、各

武田太郎信義は、次郎忠頼、三郎兼信の二人を連れて、そこから帰る途中、
「あすこそは、甲斐源氏の名に恥じぬよう、人に
と、洩らした。
すると二郎忠頼が、
「お味方のうちには、われこそと、腕をさすって、あすの一番乗りを期している面々が余りに多すぎますゆえ、尋常一様なことでは衆に
「いや、どうしても、あすの名誉は、甲斐源氏のわれわれが
「では、こうしては如何です。……こよいのうちに、そっと、陣所を払って」
「抜け駈けか」
「ずっと上流へ行けば、浅瀬があります。迂回して、平家方の後ろにひそみ、お味方が一斉に、河を渡りかかるや否、同時に、平家の陣中へ突き入るのです。――さすれば、
「よく気づいた。よしっ――すぐに立とう」
武田兄弟は、走り帰ると、にわかに兵をまとめ、駒に
すると、すでに一群の騎馬が、河を渡って、彼方の岸へ、忍び忍び上がってゆくのが見える。すばやいやつ、そも何者かと追いついてみると、それはやはり同郷
「待たれよ」
と、太郎信義は、安田三郎へ声をかけた。
「抜け駈けのまた抜け駈けは、同士討に似る。
と、云った。
義定、光長も、
「元よりの事」
と、武田勢に合体した。――陣所が近かったので逸早く太郎信義たちの行動を知って、彼等も、置き捨てられじと、先へ急いで来たものだった。
大きな沼にさしかかった。北方にこの富士沼があるため、平家方では、上流の守りを安心しきっていたのである。もちろん武田太郎信義たちは、
すると、何千羽とも知れない
「すわ、敵の大軍が」
と、あわてたのか、その時、平家の陣所の方で、
どんな事が世上に起っても、驚くことを忘れていた平家の人々は気も
頼朝は、侍臣に、呼び起された。
「何事が起ったやら分りませぬが、平家勢が、
夜明け前に、渡河を決行する予定なので、彼は、
「なに。敵が遽にひきあげて行くと?」
いぶかしげに、外へ出て見ると千葉介常胤も、
「さては誰か、軍令を犯して、先駈けした味方があるとみゆる。ともあれ、すでに合戦となったからには、
頼朝は、全軍へ向って、進撃の令を下した。
「誰だ、味方を出しぬいて、先へ渡った者は」
憤激した人々は、争いあって、駒の群れを富士川の流れに駈け入った。
しぶきの列を破って、洲へ躍りあがる。また、流れへ突き入って、真っ白なしぶきを浴び合う。
本流へかかると、元より駒の脚も届かなかった。
一団、また一団。馬は黒々と、先を競って、白波を揉みながら泳ぎ渡ってゆく。
「ふしぎだぞ!」
流れの中で、武者たちは、話していた。
「――一筋の防ぎ矢だに来ない」
「彼方の岸辺にも、敵の影が見えぬのは何故か」
「張合いもない事だ」
しかし、それだからとて、他の戦友におくれていいとは誰も思っていないらしい。一騎が先へ出れば、すぐ一騎が追い抜く。また
「つかまれつかまれ」
と、
二、三百騎、いちどに水を切って
「おうーいっ」
と、呼べば、
「おおういっ」
と答えてくる。どこを駈けている者も味方ばかりだった。平家の旗や
「何で、かくも
源氏方には、ただ不思議でならなかった。そのうちに、
「いたわ、いたわ!」
と、味方の若い一組が、大声で騒いでいた。何がいたかと、駈け集まってみると、平家方の大将の陣所らしい
「なんだ、敵ではないのか」
「この近くの宿駅から狩りあつめて来た
「あきれたものだ。――陣中へ」
「ここばかりでない。どこの陣所にも残っているのは女ばかり。――都そだちの平家人は、女子にまで、かくも無情よ。日頃の軽薄は、あたりまえであった」
「あはははは」
「わははは」
遊女たちの話で、平家方の大将たちが先になって、水禽の羽音と共に逃げ出したという始末がわかった。
また、大地を見まわせば、
その日、
富士川の帰りであった。
一戦も交じえずに、
「このまま攻め上ろう!」
とは、その折の当然な頼朝の意気ぐみであったが、
「いや、ここが大事でしょう。まだ東国は源氏一色となったわけではありません。まず、一応お味方も鎌倉へ退いて、
と、説いたのは、さすがに東国の事情に精通している広常や常胤などの老巧であった。
「……そうか」
頼朝は、自身へ考慮の間を与えて、口をつぐんだ。
彼は老人の言にはいつも一応の考慮は払う。常に、老人の意志など無視して若い意力のまま前進しているかのようであるが、
――これは。
と、耳にとめた事は、老人の意見とて、決して聞き流してはいなかった。
鎌倉に。
という着想も、常胤の云い出した事であったし、今、富士川から退軍するのが利だという説も、その常胤と広常の
だが、いくら東国の事情にくわしい二人の説でも、
「なぜ、
そう質問した。
広常は、それに答えて、
「――されば。
と、そればかりではない理由を――味方の弱点を広常は指摘した。
要するに、いかに士気は
平家は一見、その組織も士気も早、末期のものとは見えるが――と云って、一挙になどと
「うむ。そうか」
頼朝は、釈然として、すぐ総軍にひき揚げを令した。――そして今日、黄瀬川に駐屯して、明日は
彼の宿舎は、土地の旧家であった。
「止まるなっ。旅人」
「――通れっ。ご門前で、駒を止めてはならぬ。馬の腹帯など、
門を守り固めている番の武士が往来へ向ってどなった。――その往来の人影は、夕闇を織って一通りな混雑ではない。
その中に。
今、馬の背から降りて、何やらまごついている主従七、八名の者がある。番の武士にどなられると、
「はいっ」
と、振向いて、番の武士たちへニコと微笑をもって答えた。そして、乗って来た駒を路傍へ片寄せよと供の者にいいつけ、二人の郎党を
二十歳ばかりのその冠者は、
でも。どこか
左の手を、太刀のあたりに、右の手を握って提げ、ずかずかと、胸を正して門へかかって来たので、警固の武者たちは、
「はて。何者か」
と、眼をこらしていると、
「鎌倉殿のお陣屋はここでござるか」
と、問う。
武者たちは、声をそろえて、
「いかにも」
頷きを与えながらも、眼は、油断なく、冠者のうえに注いでいると、
「――お取次ぎを
「……なに?」
皆耳を疑った。
聞きちがいではないかというような顔つきを示した。
冠者の語音には、なるほど、奥州らしい
――それとまた。
兄頼朝と云ったのが
「おねがい致しまする」
九郎義経は、ことばを重ねたのみならず、武者たちの眼いろを察して、ていねいにその
「不審の者ではありません。年久しく鞍馬にあり、その後、
義経には冷静に云いつづけられなかった。ともすれば、ここの門前で、もう涙が先立ちそうでならなかった。彼の胸には鞍馬以来の――いやそれよりもずっと前の――雪のふる日までが胸を往来していた。その雪の日や平治の戦乱は、記憶にあるはずもなかったが、幼な心に聞いていたくさぐさの事が、後には皆、幼少の体験をそのまま記憶しているように、今でも胸に
「ならぬッ」
番の武者は、水でも浴びせるように、いきなり叱った。
「鎌倉殿に対して、兄の弟のと、
と、義経のうしろに立っている二名の郎党へ向って、
「これは、
「あいや!」
ふたりの郎党は、義経の前へ出て、さらに大声で何か云おうとした。――その骨柄や
「
と、威圧した。
「いや、狼藉はしません!」
騒然と、ふた言三言、それから双方で烈しく云い争っていた。――折ふし、門のうちを通りかけた土肥次郎実平は、何事かと、外へ出て来てみると、この
「
と、引わけて、さて、一方に毅然として佇んでいる小がらな冠者に眼をとめた。
「おん身は、誰か」
と、彼も不審そうな顔して、その前へ寄った。
土肥次郎実平は背が高い。
小づくりな義経は、上から見下ろされた姿であった。
「…………」
義経は、答える代りに、
実平は、もう一遍、同じことを訊ねた。
「鎌倉殿へお目通りしたいという事だが、あなたは一体、どこの何者だ」
すると、義経は、
「そういうお前は?」
と、訊ね返した。
番の武者には至極ていねいで腰低かったが、実平に対してから彼の態度はまるでちがっていた。
たたみかけて、
「兄の家臣であろうが、姓は何という? 人の
と、
実平は、異様な気もちに襲われた。見も知らない小男から、こんな
「申し遅れました」
実平は、思わず
「して、
と、問いつめた。
かりそめにも疑わしいふしがあったら
「
と、義経は、
「よく分りました」
実平は、前よりも低く
ちょうどその時頼朝は、奥の間で
「お食事中ではありますが、ちょっとお耳まで」
実平は、席のすそへ坐って、こう取次いだ。彼は、自分で取次ぎに出た事柄に、自分でもまだ
「なに九郎が。……あの
頼朝は、口のうちで呟くように云いながら、茫然と、その眼は、二十年前の思い出をあわただしく心の奥で
「……はい」
実平は、遠くから、その気色を
「……オオ」
頼朝は、声と共に、ハタと膝へ手を落して、
「さては、
と、声を
土肥実平は、はっと起つと、顔いろを変えて退がった。――さては、やはり骨肉の弟君であったのかと、うろたえと、緊張とに、跫音も大きく、駈けて行った。
「一同はしばらくここを退がっておれ。――そうだ、別間へ宴を移して、
頼朝は、左右の人々へ、そう告げて、膳も酒器も、片づけさせた。
一
やがて、広縁の外で、
「どうぞ、
と、案内に立つ実平の声がきこえた。つづいて、静かに、縁を踏んでくる跫音がする。――その気配にさえ、頼朝は、あやしく胸が
どんな弟であろうか。
会って、まず、何といおうか。
ふしぎな血がしきりと胸に鼓動してくる。この音こそ、争えない血しおのつながりを証拠だてるものではあるまいか。きょうまでの二十年間、胸をさびしく
「兄君でございますか」
――と、見ればその義経は、実平に
「…………」
頼朝は、義経の云った最初のことばを、よく聞き取っていなかった。
義経の声も、おののいて、情の
「お会い申すのは、今初めてでござりますが、物心つき初めてから、人と成るまで、一日だに、世に、一人の兄上ありと、伊豆の空を憶わぬ日とてはありませんでした。――兄上にも、お心の隅に、
「覚えている」
頼朝は、云うと、われを忘れて、手をあげた。
「なぜ、そのように、遠くにおるぞ。他人のように
義経は、なお遠慮して、側にいる実平の顔をそっと
「おことばですから、ずっとお近くへ行って、ご
と、小声で云った。
義経は、一人となると、なお、生れて初めて会った兄に対して、
――よい
頼朝は眼をほそめた。
自分も席をすすませた。義経もすり寄って出た。
「おなつかしゅうございました」
相寄ると、そこには、もう身分の隔ても、権力の相違もなかった。家臣や儀礼の形式もなかった。おたがいが親なき子であった。また、逆境から芽生えて、ふしぎにもここまで、無事に成人して来たと思うばかりな――運命の子と運命の子であった。
「よくぞ、訪ねて参られた」
頼朝は、手をさしのべて、義経の手をつかんだ。義経は、
この
この骨肉の手。
それは、生れて初めて知ったものである。母こそちがえ、血は
「夢にまで。――夢にまで。……幾たび兄君のことを夢みたか知れませぬ。……会いとうござりました」
「わしとても」
頼朝は、はふり落つる涙を、
「風のたよりに、遠いうわさに、そちの消息を聞く折々、いつ会う日があろうか、どんな
「同じように、私も、年十六の頃、鞍馬をのがれ、
義経の声も、甘い
「――またこのたびも、兄君のお旗上げと伝え聞くなり、矢も
義経は、そう綿々と話しかけたが、前後のつながりも欠いて、余りに欣しまぎれになっている自分の話し方に気づいて、
「つい、取乱しました。
と涙をふいて、少し身を退けながら、礼を保った。
頼朝も、茫然たるここちから自分に返って、
「こよいは、
「はい」
素直な弟の返辞までが、頼朝には、又なく欣しく見えた。これからの家庭に、ひとりの
「実平、実平」
呼ぶと、次の間で、
「はっ」
答えがした。そして最前の土肥次郎のすがたが、縁の端にうずくまって見えた。
「弟を、どこぞ一室へ案内してつかわせ。――そして、何かと鎌倉までは、面倒を見てやってくれい」
「
実平も、次の間で、貰い泣きしていたとみえて、すこし
鎌倉の秋は色濃くなっていた。
頼朝は、
こんどの富士川は――戦わざる
が、石橋山以来の論功行賞が初めて発表された。
北条時政
何といっても、功労では、この人の筆頭であることに、誰も異存はなかった。
次いで、
千葉介常胤、武田一族。
和田、三浦、土肥などの人々。
佐々木定綱、経高、盛綱、高綱。
などの兄弟や、同じように、配所に長年仕えてきた天野遠景、加藤次
四日
常陸の佐竹一族を討ちに。
この方面は、地理情勢の明るい
十二月常陸平定の業は終った。
風のない冬
頼朝はその日、大倉郷の新邸へ移転した。富士川へ出陣のまえに
その
政子は、終始、良人と共に、

「きついお
と、初めて謁した老将たちは、その態度に、そっと
館は、頼朝夫妻の館ばかりではなく、そこの政庁、
三日にわたって、祝いが挙げられた。
その間にも、庶民に対して、次々と法令が出、また、武士たちに対しては、特に厳かに「武士たるの道」と「
「お忙しくはあらせられましょうが、九郎様にも、折を見てお目通りを
頼朝の左右のすきを見て土肥次郎は、義経に代って、こう願い出た。
義経はその後、九郎御曹子と
で、それとなく、土肥次郎に、頼んでおいたのであろう。実平が今、よい折と見て、頼朝に告げると、
「そうそう。九郎にはまだ鎌倉へ来てから落着いて会う折もなかったの。政子にも、ひき会わせておかねばなるまい。これへ呼べ」
と、早速、ゆるした。
義経は、召されて、程なく兄と
「九郎か。その後は侍勤めにも馴れたか。
と、あっさりして、妻の政子に向っては、
「これが、いつぞや
とのみ云って、義経がひそかに胸に
するとまた、実平がそれへ来て頼朝の方へ手をつかえながら訊ねた。
「滝口の老母へすでにお目通りの儀を、おゆるしなされましたか。……唯今、訪れて見えましたが」
「お。
頼朝は、目の前にいる義経よりも、むしろその方へ
実平が退がると、彼も立って、席を更え、庭へ曳かれて来る者を待ちかまえた。それを
「……おう、
よろめくように庭先へ来て、へたと坐りくずれた老母があった。それは頼朝が幼い頃の乳母であった。
しかし、頼朝はなつかしそうな顔も見せず、かえって、はたと厳しい眼をして、老母が昔のごとく自分へ馴々しくものを云うのを防ぐかのような威厳を示した。
「……あ、あ」
その容子に、とりつく島もなくなって、老母は階下に泣き伏した。
老母の子は、滝口三郎
ところが。
その景親は、石橋山の合戦では、大いに意気を上げていたが、その後、頼朝の
景親をはじめ、降人どもは、それぞれ諸将の手に分けて預けられたが、その中に、滝口三郎も交じっていたのであった。
彼の所領は取上げとなり、身がらは土肥次郎の邸へ預けられていた。そして評議の末、近いうちに斬罪と極まっていた者であるが――その母は、かつての頼朝の乳母で縁故があるので、
「どうぞ、
と、子の可愛さに、これへ嘆願に出たものであった。
――が、彼女はここへ来ると、泣いてばかりいてそれも云えなかった。しかし、嘆願の事はいくたびも頼朝に通じてあったし、
「…………」
然るに頼朝は冷然と見ていただけで、何を問うてやろうともしない。――側にいた義経は、いるにも堪えないここちがして、何とか兄に取りなしてやりたい程に思ったが、頼朝の
「……遠い、遠いことではございますが、滝口家の祖は、八幡様(義家)にも、
老母は、懸命に、涙と闘いながらしゃべり出した。――その声は、上わずッたり、かすれたり、
「実平」
頼朝は眼を
「いつぞや、そちの手許へ預けおいた
やがて、実平がもどると、一
「滝口の老母」
頼朝は、そう呼び直して、改まった調子で云った。
「それは石橋山の合戦に、この頼朝が身につけていた物じゃが、後日の証拠にと、残しておいた。――というわけは、その鎧の袖を
老母はぎくとしたように、
「見よ」
「…………」
「手にとって見よ」
頼朝のことばこそ、箭のように鋭かった。
「――
「…………」
老母は、鎧のうえに、泣き伏してしまった。
後日の証拠に――
と云った頼朝の意中を
見るに忍びなくなったのであろう。実平はいつの間にか庭にいなかった。さっきから兄の側にじっと控えていた義経も、許されるものなら座を立ってしまいたかった。
老母はまだよよと泣きじゃくっている。起てないのもむりはない――義経は
いつのまにか義経の胸は、兄に対する
兄と思うべきではない。鎌倉殿のなさる人事の処置に対して、そんな心を抱いてはならないと思ってみても、どうしようもない嫌厭だった。
骨肉である以上、血はひとつである。兄の血は自分にもある血にちがいない。義経は自分を憎むと同じように兄のそうした
「……申しわけも……申しわけもござりませぬ」
ややあって――である。
経俊の母は、
十歩。十五歩。
地も見ずに、老母は中門のほうへ、しょぼしょぼと歩きかけた。――義経は、もうそれを、そのまま見送れなくなった。老母に代って、助命をとりなしてやろうという気が、胸をつきあげたが、ベタと、両手をつかえて、何か兄へ向って云おうとした。
その容子を、頼朝は、じろと冷たい眼で見ながら、義経へは何も問わずに、
「乳母。待て」
と、呼びとめた。
乳母――と初めてその時呼んだのである。そして、
「こらえられぬところではあるが、先祖の功に免じて、このたびだけは、経俊の一命、助けおいてとらせる。……
と、云った。
腰がぬけたように、老母は、大地に平たくなって、座を立つ頼朝のすがたを拝んでいた。義経も手をついたままでいた。しかし義経の感情はなお感情のまま胸のすみに
その年の鎌倉は、
この相言葉は、もう軍の用語から転じて、民間のものになっていた。
「鎌倉へ行けば仕事がある」
東国から北のほうまで、国々の往来で、旅の者が、旅の者に、
「何処へ?」
と行く先をたずねれば、
「鎌倉へ」
と、極まっていう。
妻子を連れたり、弟子たちを従えたり、道具を
「ふしぎな現象だ」
ある者は、懐疑した。
理由が見出せないからである。
なるほど、鎌倉では目下、さかんに土木を起している。

けれど、よく考えてみれば、危うい事にも思われる。なぜならば、天下はまだ厳然として平家のものである。
東国から
まして、相模から西はまだ、全面的の平家色である。東国を失っても、京より西にはなお中国、九州があり四国や伊勢方面の地盤もある。
総じて、平家の富力と勢力とは根を東国には置いてない。西国こそ平相国が多年にわたって
――こう観る者は、
「鎌倉鎌倉と、みな浮いてゆくが、鎌倉殿の力はまだ知れぬ。うっかり移住して、またぞろ兵火に焼き立てられて、路頭に迷うよりは動かぬがましじゃろう」
と、危うげな
それは多く、庶民のうちでも、知性に
割りきれないといえば、第一、半年やそこらで、地方的な合戦には勝ったところで、鎌倉殿のふところに、そう財力があるわけがない。――京都へでも攻め上って、然るべく、中枢の政権でも取ったうえなら知らない事だがと、説をなす者もある。
知識顔したそれらの人々のいう事はいちいち尤もで道理が立っていたが――にも関わらず民衆の足は、夜が明けても、夜が明けても、鎌倉へ鎌倉へと向いて行った。一日ましに
それとまた。
鎌倉へ住んだが最後、彼等は各

なぜだろう?
そんな事を考えている
「これからさ!」
「世の中はこれからだよ!」
みな云うのである。
要するに、人間は建設を好むからである。建設を終って、
だが、そう一つに、人心をひっぱっている力は鎌倉そのものではない。やはり人である。しかも一人の人であった。
その頃、鎌倉への聞えに対し、
太政入道の重い病である。
「近ごろ
とは、京都の庶民たちも、うすうす変には感じていたが、
「また、何かあるんだろう」
鎌倉の民衆とちがって、ここでは庶民と上流の層とが、完全にかけ離れていた。
「驚き忘れた一門」の無反省が反映して、庶民たちも何が起ろうと、驚かない習性に
東国には頼朝が。木曾方面からは義仲が。
九州では肥後の菊池。豊後、肥前なども源氏に呼応して大宰府へ攻めかけたという。
――四国の伊予にも、吉野、奈良にも、近江にも畿内にも、騒乱が起った。みな平家に
等、等、等――、今にも天地が
「ホウ。またですか」
上層の驚かないのと、彼等の驚かないのとは、質はちがうが、いずれにしても、京都のもっている
しかし。そうした中でも、
あの事件の時ばかりは、さすがに心なき人々までも、
「南無――」
と、思わず唱えて、その数日は、朝夕の飯も
その生々しい記憶のある矢さきなので、明けて今年、養和元年の
「入道には、もはや今日か
と、誰からともなく、清盛の危篤がもれ伝わると、みな一図に、
「それ見たか。仏罰はおそろしい」
と、すべてをその
深く秘せられている入道の容体が、そう下々にすぐ分るはずもないのに、大熱に苦しみ
(われは、閻王
と、云うのが大殿の棟に燃えつかんばかり聞えたが、二位殿の看護の真心や、
だが、そんな噂が京中に拡がっていた頃には、実は、すでに清盛は死んでいた。
二月四日の夕だった。
遺言は、何もない。
ただ、臨終の日、こう云ったという。
「みんなおるか。……わしは悔いない事をただひとつ仕残した。頼朝を助けた。おまえたちは、頼朝に亡ぼされるなよ。わしのために、月々の
清盛の死は、さすがに日本中を
よく云う人々も、悪くいう人々も、共々に、大きな感慨に打たれて、
人間。
それを考えさせられた。
鎌倉の海には夏が来た。
河口には、奥州船も、京船も、西国船もついていた。建設まだ半年というのに、ここから陸揚げされた荷は
「早いなあ。……一船ごとに見違えるばかりな
「おうい、行ってくるぞ。おれは鶴ヶ岡へ海上の祈願にだが、おまえ達は、いずれ
五十をこえていよう。身なりばかりでなく、人間としてもでき上がっているという感じのする人物である。
金売の吉次だった。
吉次は、その日、頼朝が納涼のために、三浦
「よそながら一目」
と、思い立って出かけたのであった。
佐賀山の下の海辺道まで頼朝が来かかると、それを出迎えに出ていた郎従五十人ばかりは、一斉に馬を下りて、砂上に平伏した。
「ご老人、ご老人ッ」
突然、三浦義連が、こう誰にも聞えるような大声で、注意をした。
「わしの事か」
上総介広常は、馬の上から見まわした。
すべての将士が、下馬して、砂上に平伏しているのに、彼のみは馬を下りずに胸も
「お年のせいか。なぜ下馬なさらん。ご前でござるぞ」
義連が重ねてたしなめると、老人は、彼の
「広常、まだ年を
そう云って、彼のみはとうとう馬を下りなかった。
頼朝は、苦笑して通った。
こういう一
「ここは、
義連の
岡崎四郎義実は、ひどく酔っていた。酔うて若者のようにはしゃぐ老人で、
「殿の召されてお
などと云い出した。
頼朝は、笑って、
「これが欲しいか」
と、脱いで、投げ与えた。
「かたじけのうござる。どうじゃ、どうじゃ、身の面目は」
義実は、子どものように、すぐそれを着て、
岡崎四郎義実は、さっそく拝領の水干を、上に着こんで、
「あら
と、子どものように、左右の袖をひろげて、吾儘のかなった身の面目を、座中へ向って自慢した。
するとまた、上総介広常が、その口真似をするように、
「あら勿体なや。――いかに各

と、云った。
四郎義実は、なお
「やあ、そねむな老人。どれほどな手柄があって」
「なんじゃ、手柄くらべなら、和殿ごときに、おくれはとらぬ」
老人も、負けずに云う。
酔ってはいるし、聞えた荒武者である。四郎義実は、顔を燃やして、
「なにを」
つめ寄ると、老人は、
「
と、云い放った。
「後日とな。笑止笑止。すぐにとは、なぜ云わん。老ぼれ、海べへ出よ」
君前でもこの始末である。
頼朝も、笑って見ているほかなかった。
すると、こよいの亭主、三浦義連が、ひきわけて、
「どっちが平家か」
と、双方を見くらべながら詰問した。
双方とも、それで黙りこんでしまうと、
「せっかく、涼しゅうご酒興をと、殿のおいでを仰いで、義連が設けた席で、私闘は何事でござるか。おふたり共、少し自分のお年を弁えたがいい」
と、たしなめた。
頼朝は、この日から、わけて義連に目をかけた。さすが三浦
そうかと云って、頼朝は、岡崎四郎や広常老人を、
「年がいもない者」
とも思わなかった。
また、そういう傍若無人ぶりを、
むしろ、老人の中にさえ、そういう老人らしくない粗暴、率直、豪放、無邪気といったような性情が、精練されない鉱石のように、善悪ともありのままにあることが、愛すべきものとさえ眺められた。
武士。――鎌倉武士!
武士――武士の道。
それを、武士道などと、口やさしくは云わずに、各

そのひとつとして。
酔っぱらって頼朝の水干をねだったりした岡崎四郎にも、近ごろこんな
彼は、石橋山で戦死した佐奈田余一の実父であるところから、先頃、その余一を討った長尾新六が捕虜となって来ると、
「子の怨みをはらせ」
と、いわぬばかり頼朝はその
ところが、捕虜の新六は、よほど仏教信者とみえ、
「こよいこそは」
と、余一の父たる彼は、毎夜のように、太刀のつかをしめして、牢舎の戸口まで忍び寄ったが、いつも心静かに法華経を唱える声につい聞き入って、
「いや……?」
と、思い直しては、幾月かを、過してしまった。
そのあげく、ついに、頼朝の前に出て、彼はこう願い出したというのである。
「討ちました。――子の
頼朝が、それをゆるした事はいうまでもない。実に、一面には、こういう涙もある鎌倉の人々だった。
奥州船は近ごろ京方面の輸送をほとんど怠って、大部分の物資を、京より近い鎌倉で荷上げしていた。
金銀、鉄砂、織物、
それらの物資も船舶も、すべて吉次の胸ひとつで動くものだった。彼にとって今こそ待ちもうけていた絶好の「時」であった。一躍、天下の富を積むべき汐どきが、頼朝の旗挙げと同時に、彼にも、商法の旗挙げを促した。
鎌倉には金がない。
坂東武者がいくら寄ったところで、武力だけで大兵を養う経済力といったら甚だ心細いものでしかない。
由来、東国そのものに、財力はなかった。長年にわたる平家文化の
「鎌倉殿も、金をもって立ったのではないからなあ。武者たちの弓にしろ矢にしろ、手作りが多いのを見てもわかる。
とは、誰もいうことで、すこし商才のある者なら、鎌倉の創業景気が経済的には、いかに不安心なものかは、すぐ考えさせられるに違いなかった。
商人たちの見解もそうだし、平家でも勿論、ここへの輸送路には手配をして
当初、経済方面の奉行にあたった北条時政も、これにはひどく困惑しているとか聞いたが、吉次は、自分の手にうごかし得るだけの物資を、去年以来、すでに、三、四度も鎌倉へ廻送しているばかりか、まだ一度も、
「
とも、何が欲しいとも、申し出ていなかった。奉行の北条時政から召されて用のある時でも、彼自身はまだ出向いたこともない。いつも
そのくせ彼は、船が鎌倉についているうちは、ほとんど船にいなかった。物売りや職人たちをつかまえては、
三浦
私行上、面目ない事は、面目ないとし、不覚だった事は不覚だとして、恥を責められることは当然な制裁をうけることとしていた。卑屈な隠しだては、恥以上の恥とした。ふた口目には、
「恥を知れ」
とか、恥をそそげとか、

法令などよりも、吉次は、そんなところから自然にできかけている新秩序に対して信用を賭けた。彼はすでに
吉次は、どこかで義経に会いたいものと、念じていた。
「ご無事か。どうか」
案じられたのである。
子のように、彼の将来が、吉次には憂えられてならない。
鞍馬から奥州へと、かつて、彼の大きな運命の手綱をひいて
彼は、伊豆の頼朝よりも、木曾の義仲よりも、
「この人こそ」
と、将来の大計を、義経に
「九郎殿を措いては」
とさえ思っていよう。
今にして、彼はそれを自分の誤算とも眼ちがいとも思っていない。
「鎌倉殿が先に立たれたのは、地の理、ご身分、年齢からいっても当りまえだ。……だが、要するに、反平家の人々は、鎌倉殿のその好条件を、旗として、持ち上げているのだ。真に、頼朝という人間に尊敬して盛りあがっている衆望ではない」
彼はそんなふうに観る。
そして、どう現状を見ても、
「九郎殿こそ」
と、やがて一世の上にぬき出る実力の人は、彼であるという見込みを変えなかった。
「――けれど、その九郎殿の真価を誰が知ろう?」
と、考えると彼の理想の実現も甚だ遠い気がするのだった。
たとえば、彼と会いたさに、それとなく、行き
「鎌倉殿の弟君、九郎御曹子様のお住居はどこでしょうか。それとも、やはり大倉郷のお館のうちに、兄君とご一しょにお住いでしょうか」
などと訊ねても、
「鎌倉殿のご舎弟と?」
そんな人がいるのかと云わぬばかり
「大倉郷の内にいらっしゃる」
その後、北条家へ出入りする自分の代人から、それだけの消息はさぐり得たが、近づくことはできなかった。何分にも、大倉郷一郭は、鎌倉殿の住居であるばかりではなく、東国軍の本営ともなっているので、家人以外の者が立ち入ることは望めなかった。
――で、今日も。
頼朝が三浦義連の亭へ招かれて外出すると聞いたので、その行列の中に、
「もしや、九郎殿が」
と、期待して遠くから見まもっていたのであるが、義経のすがたは、頼朝の前後にも、たくさんの将士のうちにも、ついに見出されなかった。
それから幾日か後だった。
いつも彼がよく立ち寄る雪之下村の餅などひさぐ
「兄者人。兄者人」
後の若者が、先へゆく若者を呼びとめた。そして急に、駒を止めながら、
「餅がある。この家で、餅を売っておりますぞ」
と、軒を指した。
「なんじゃ忠信。子どものように」
兄らしい先の若者は、笑いながら振向いた。忠信と呼ばれた若い武士は、
「ひもじくてなりません。泳いだ後は、
と云いながら、もう鞍からとび降りていた。
「いったい何処の
と、眼をみはっていた。
由比ヶ浜へ水泳ぎに行った帰りとみえる。兄弟とも
「やれ、腹もできた。弟、参ろうか」
と、軒ばの
「――あ。もし」
吉次は立ち上がって、初めて
「……なにか?」
と、すでに兄弟は馬上にある。
「失礼ですが、もしやあなた方は、九郎義経様について、奥州より下られた方達ではございませぬか」
「なに。……どうして、左様な事がわかるか」
「てまえも奥州ですから。……おはなしの様子で」
「そういえば、そちも奥州ことば。――奥州はどこだ」
「栗原郷でござりまする。多くは平泉の国府に住んでおりますが」
「ふうむ。……この鎌倉へ商いにでも参っておるか」
「お察しのとおりです」
「名は?」
「ちと、ここでは
「どこまで」
と、兄弟は顔を見あわせて、やや迷惑そうに云う。
「いえ、そこらの、人なき所までで」
「駈けるぞ」
「結構です」
「行こう、兄者人」
駒をならべて、
馬上と馬上とで、兄弟は何か談合しているふうだったが、吉次を
「さき程は、失礼いたしました。実は、てまえは金売吉次と申す者で」
それへ来て、吉次が改めて名を告げると、ふたりは驚きの目をみはった。京、鎌倉でこそ、吉次の名は小さいものだったが、奥州の国府では知らぬ者はなかった。
「吉次とは、和殿のことか」
その名に比して、何と
「して、その吉次が、われらに何の用があって、呼びとめたのか」
「御曹子の九郎様に、ぜひお目にかかりたい事があるので……実は、お手引をお願い申したいのです」
「然るべきご用があるなら、大倉郷のお館へ、願い出たらよろしかろう」
「公でなく、そっとお目にかかった方が、九郎様のお為にも、てまえの為にも、双方によろしいので……。てまえの名を
「御意を伺った上でなければ、応とも否ともいえないことだ。――がしかし、同国の
「
「分らぬが、暇があれば行くかもしれぬ」
「浜で、ご返辞を、お待ちしておりまする。……ついでの事に、ご姓名をお聞かせ下さいませんか」
「それがしは、佐藤
ふたたび馬上の人となると、
吉次は次の日、由比ヶ浜へ来てみた。
約束の人は見えなかった。
翌日、彼はまた、同じところで待っていた。佐藤継信、忠信の兄弟のすがたはその日もついに見当らない。
五日も七日も通った。
「はて。あれきりだが?」
――月もかわって七月に入ってしまった。はや船の荷あげも商用も終ったので、彼の手代は
「そうだなあ、ついでの事に、この月の
吉次の云った鶴ヶ岡の上棟式には、頼朝夫妻から
「その事は北条殿からも伺いました。せっかくだから、ぜひ当日のご盛儀を、よそながら拝観してゆけ。国への
「そうか。では、北条殿におねがいすれば当日、どこぞお
「いとお易いことで。拝殿のお間近は如何か存じませぬが、鳥居
「では、その日にはぜひ、わしも
吉次は、待ちかねた。
そういう折なら義経も必ず参列するにちがいない。継信、忠信の兄弟が、あれきり浜にも来ないところを見ると、義経のほうにも、四囲の事情、ままにならないものがあるのであろう。そう思いやられもした。
庶民は祭がすきである。鎌倉じゅうがその日を待ちかねていた。新しい宮の屋根が、百年もまつりの絶えていた山の木々を透いて仰がれるのも歓びだった。そして大鳥居から由比ヶ浜のほうへ一条の大路が
吉次は、鳥居わきの駒つなぎ場に近いところに土下座していた。ここの一かたまりは、特に拝観をゆるされた武家以外の者ばかりだった。吉次は、前の列に、早くから坐っていた。
頼朝夫妻が、群臣にかこまれて、眼のまえを通って行った。新しく築かれた高い石段を踏み登ってゆく姿は神々しくさえあった。眼もくらむばかりとは、その一人一人の装いであった。――が吉次の眼には、その金銀の飾りも
あたりの人々を見れば皆、なみだを流さぬばかり心から平伏している。自分のような考え方は不幸であると思ってみても、にわかに随喜のなみだも出なかったが、そのうちに、
「……あっ?」
あやうく声を
すぐ前を、九郎御曹子が――久しく見ないので見違えるばかり成人したその人が――いつぞやの継信、忠信のふたりをつれて通った。
義経はちらと、吉次のほうを見たようであった。
「……ああ、お立派になった」
彼は、眼がしらに、熱いものをたたえた。
――何か、安心した気もちと、自分から遠くなったと思うさびしさにつつまれた。
「物」と「金」しか頭にないかのような彼も、義経にだけは、愚かしいほど、情に揺りうごかされた。――子のないせいかとも思っている。いや、子のような気持を寄せるには怖ろしい対象なのにと、自分の情を疑ってもいた。
しかし
「……どこかで?」
彼はなおも義経のすがたを見ていたくてならない容子であった。
いつのまにか、彼のすがたは、そこを去って、鶴ヶ岡の山林へ立入っていた。
深い木の間に身を埋めてながめていると、東側の仮屋に、頼朝夫妻のすがたが眺められた。
以前の
きのうは、治承の年号が、養和と改元された日であった。
で、改元の第二日目に、きょうの棟上げの式は行われたわけである。
式が終ると頼朝は、作事に功労のあった二人の
「九郎。――九郎はいずれにおるか」
と、呼んだ。
「はい」
義経は、東側の列の幾人目かに伍していたが、すぐ起って、
「
と、兄の座を拝した。
「九郎か。――大工棟梁に、
と、いいつけた。
「…………」
義経は、俯向いたまま、いつまでも返辞をしなかった。
土肥、北条、千葉、畠山など並居る人々の顔こそかえってはっと変った。
馬を引けとは。
しかも、大工棟梁へ、馬を引けとは。
「なんでそんな卑しい役目を、
人々は、頼朝の心を、
「…………」
「嫌か」
頼朝の眼は小兵な弟の
「…………」
義経も、無言のままである。
一瞬、せっかくの
「九郎。なぜ起たぬか」
二度目の声は、さらにきびしい。
頼朝もまた、その言を吐くために、心のうちでは、非常な努力をしているらしい顔いろであった。
「……はい」
義経は、ようやく起ち上がった。――けれど、
若宮の辻や、寿福寺の並木道あたり、いや鎌倉じゅうが、うすい
頼朝の帰館を、今しがた見送った路傍の人々が、行列の通過と共に、静粛をくずして散らかり出した埃である。
「あぶないっ」
「端へ寄れっ」
行列が終ってからも、後から後から二騎、三騎と絶えない
「しばらく」
と、その駒の口輪をつかんだ男があった。
「誰だっ?」
馬上の人は源九郎義経だった。ふたりの従者は云うまでもない継信、忠信の兄弟で、
「やっ、和殿はいつぞやの男よな」
「吉次ではないか、何をするか」
共に、馬前から吉次を押し
「しばらく、しばらく」
云いつづけながら遮二無二、森の小道へと馬を引き込んでしまい、往来の目から離れると、ようやく草むらにうずくまって手をつかえた。
「おゆるし下さい。おなつかしさの余りです。御曹子様、わたしめでござります」
「オオ、吉次か」
義経は、馬を降りて、手綱を継信にあずけ、
「会いたいと思っていた」
と、云った。
そのことばだけで、吉次は胸につかえていたものすべてを
義経は、継信、忠信のふたりへ、ここで待っているようにと云いつけ、森の奥へと、先に歩き出しながらまだ手をつかえている彼を、
「吉次。来ないか」
と、振向いた。
吉次は起って、
「ここは、寿福寺の森かな?」
「さようでございます」
「ここなら誰も来まい。――吉次、そこらの石へでも腰かけるがよい。そう礼儀を
義経は、木の切株に腰かけて、足もとから泉へ注いでゆく水を見ていた。
「奥州におる間も、めったに会う折もなかったが、いつも達者でよいな」
「あなた様にも」
「む、む。……」と、義経は口のあたりで微笑しながら、
「わしなどはまだ乳くさい子どもだからな。育つばかりだよ。どうだ、大きくなったろう」
「お見ちがえ申す程でござります。しかしお恨みにぞんじます」
「何をの……」
「平泉のお館を脱けて、
「はははは。そうか」
とのみで、義経は、べつに云いわけもしなかった。
「
吉次は、鳥の羽音に、眼をそらした。寿福寺の
吉次は、すり寄って、じっと、相手の
「……何か?」
とも訊ねてくれない。
むしろ放心したように前の泉を見つめていた。
吉次は、その様子を見て、ふと瞼を熱くした。
義経の胸には、今なお、澄みきれないものがあろう。その
きょうの棟上げの式に、兄の頼朝から、大工の棟梁に馬を引けと――あの
(よくも、お
と、無事に式の終った後で、多くの家人衆はうわさしていたが、吉次は、そんな傍観者のことばをわざわざ重ねてこの人に告げようなどとは思っていない。
むしろ彼の云おうとするのは、
(あなたは世間知らずだ。あなたは純情すぎる。あなたは余りにお人よしだ。云いかえれば愚人ともいえる。そしてご自分を余り粗末になさりすぎる!)
とまで、
「…………」
が、云えなくなった。
云おうとする矢さき、ふと見れば義経の頬に涙がながれていたからである。
突然、吉次も不覚な
「吉次。何を泣く」
泣いている人が、冷然と、彼にたずねた。吉次は面をあげて、
「泣かずにおられましょうか。――あなた様とて、あなた様とて、きょうの事は、さぞご無念でございましたろうに」
「兄のことばだ。いや鎌倉殿のおいいつけだ。心外なことはない」
「嘘を仰っしゃいませ」
「なに」
「あなた様が、そんな
「鎌倉殿は嫡流でおわす」
「とはいえ、いかに何でも、平侍のするような
「もう、その事は、云うてくれるな」
「申しますまい。けれどこれだけはお分りになっておいて下さい。――鎌倉殿のなされた事ははっきりと、故意でございますぞ。……これ見よ家人ども、わしは自分の弟に対してすら、かようにする。骨肉の情愛などにはひかれておらぬぞと、そう故意に、あなたの面目を犠牲にして、大勢へしてお見せになったのです」
「…………」
「一面にまた、あなたへも、兄弟とはいえ、わが命令には、
「云うなと申すに」
「……で、でも」
「政治には、私心を交じえず、人事には、一点の私情もゆるさぬというお示し。……いいことではないか。有難いお心だ」
「ではなぜ、あなた様は、あの時平御家人のように、歓び勇んで、大工棟梁へ馬が引けませんでしたのか。――二頭まで、馬を引きに、お起ちなされましたが、誰が目にも、あなたのお顔は蒼かった。
「それはな吉次……」
云いかけて、義経は
義経は、自分と兄とのあいだに抱きあっている珠のごときものを、傷つけたくない。――他人から
珠とは。
兄弟のつよい愛である。骨肉の情である。
(この世に一人の兄あり!)
とは、鞍馬にいた頃から、また、
「吉次」
「へい」
「おまえは、他人の眼で、また他人の感情で、ひとり無念がっているが、鎌倉殿と義経のあいだは、切れない血と愛情でつながっている
「それ故に、なお」
「だまれ。――兄の鎌倉殿は、愛すればこそ、この義経を、公然とお叱りになったのだ。愚かなわしは、その大愛が、すぐ胸に
「な、なんの
「誰にも云わなかったが、おまえはわしの巣立ちの親だ。おまえにだけは云う。……聞いてくれ」
「はいっ」
「わしは常々兄の鎌倉殿へ、よい顔を見せたことがない。――黄瀬川の宿で、初めてお会いして、手を取り合って泣いた時以来は」
「どういうわけで」
「まあ聞け。……兄はすでに群臣の上にある
「ぜひない事でございましょう。――が、ご不平とは、いったいどういうご不平ですか」
「なぜ一日も早く、平家を
「仰っしゃった事がございますか。鎌倉殿へ
「そういうお話をする折はない。昼は昼で、公務にお忙しいし、夜は夜で」
「御台所の政子様におひかれでございましょうな」
うっかり吉次が口を
――と、いうのは、つい先頃のこと、頼朝がまだ配所にいた時分、側近くおいていた
牧の方は、娘可愛さに、ついそれを政子の耳へ入れたので、ふたりの愛には、当然、大きな亀裂がはいった。政子は、聡明なので、世のつねの妻女のように、
林の外に、駒のいななきが聞えた。義経は、にわかに立って、
「吉次。また会おう」
と、去りかけた。
吉次はあわてた。徒らに時をうつしたが、彼はまだ、云おうとする何も云っていない気がした。
「あっ。もうしばし……」
「きょうは忙しい。折も折、わしの姿が見えぬなどと、義経の心を知らぬ人々は、立ち騒いでおろうも知れぬ」
「では、たった
と、吉次は彼の袖をとらえて、よほど思いきった顔をして云った。
「あなた様は、いつまでも、鎌倉殿の下について、そうしておいで遊ばすおつもりですか」
「……そうしてとは?」
「でも、ご不平でしょう。この鎌倉の現状には」
「わしの不平は、世のうごきに対する大きな不平なのだ。……兄鎌倉殿への不平ではない、そちは混同している」
「いません!」
「うるさい。そちは義経に、なにを云おうとするのだ」
「あなた様は、世間をごぞんじない。人間の複雑な心を見るにお目が若い」
「――だから?」
「失礼ながら、鎌倉殿に利用されるだけでしょう。きょうの棟上げの式でのように」
「歓んで利用していただこう。それが、世のためになる事なら」
「鎌倉殿が栄華をなさるお為でしかないとしたら、如何なされます」
「兄が、平家の二の舞をするというのか」
「なさらぬお方と、誰が保証できましょう」
「吉次!」
「……お気に触りましたか」
「そちは義経に、謀叛をすすめるのか。せっかく兄が建てられた新しい陣営に、もう仲間割れが起るようにと
「希わなくとも、そういう事実はもう起っていますから避けられません。――木曾殿と鎌倉殿との不和はかくれもない事です。おふたりの
「…………」
「旗あげの初めに、
「……何でもない! そんな小さい私事はみな
「まだ仰っしゃるか、九郎様。――あなたも今に、その塵芥のひとつと見なされますぞよ」
「…………」
「悪いことは申しません。
「離せっ」
義経は、いきなり彼の手を
「根はひとつだ! そちのような
云いすてると、義経は、蝉のごとく、木の間の小道を駈け去っていた。
それから、わずか二年め。
養和の年号は、一年で
秋も近い七月二十五日の事である。昼からひどい暑さであったし、雨のすくない後なので、都の屋根は、乾ききっていた。
前の夜の
「木曾、北陸の怖ろしげな
と、まるで
逃げたのではない。
「な、なんじゃろ?」
床下の
往来まで、
「――途方もない
「総大将のおふたりを見たのかよ」
「なんの、どれが知盛様やら、重衡様やら、分るものではない。四、五百ほどの人数が、ごっちゃになって、馬も
「三位中将
「もう防げまい。叡山の衆も、木曾殿と合体して、谷々から、太刀弓矢をとり出し、はや加茂川の上に、
「……どうなるのじゃ」
床下からも、小屋の中の闇からも、悲しげなうめきが
すると、裏店の
「どうもなりはしない! どうなろうが、京都は京都じゃ。案じなさるなよ!」
と、どなった男がある。
驚いて、首をのばした人々が、木の洞を指さして、一層、恐怖にかられていると、やがて男は、そこから這い出して来て、空地のまん中へ立った。
「誰じゃろ。この近所で、見たこともない人だが?」
怪しみながら、その男を見まもっていると、男は、
「平家が追われれば木曾殿が京都に入る。木曾殿がよい
どこか、奥州
乳のみを抱いて、小屋の中に交じっていた職人の妻らしい
「あ……。あの人は、見たことがある。白拍子の
と、そばの人達へ
「ホ、翠蛾さんの?」
「翠蛾さんではなかろ、妹の潮音さんの旦那であろ」
「どちらにしても、あの白拍子の家に五、六年前までは、時折見えたことのある奥州の
しきりと、自分のすがたへ眼をそそぎ、指さし合って、
「いや、わたしは旅の者で、どっちみち京都に長居はしていないが、まあ、今の世の大きな変りようは京都だけの事ではない。日本じゅうは地つづきだからの」
そう云って
「お前がたのうちで、誰か、知っている者はないか。この表の通りに住んでいた白拍子の翠蛾と潮音の
「…………」
「実はここ六、七年も、あの
「…………」
知らないのか、知っていても、
「あっ? 煙が」
と大声がした。
屋根に上がって這っていた職人らしい男が下へ向ってどなったのである。
「たいへんだぞ。七条、八条、池殿、小松殿、泉殿、東は二条三条のここかしこからも、いちどに黒煙が揚がりはじめた」
「えっ、煙が?」
人々は、どよめき出した。
床下にも小屋の内にもいたたまれなくなって、どやどや空地へ群れ立った。
「いよいよ、木曾勢がなだれこんだか」
老人たちが、
「まだ、木曾勢は加茂を渡りもせぬに、大路は、平家衆の馬や車がなだれ打って、西へ西へと落ちて行かれる」
と、手をかざし、
「あれよ、六波羅も火、西八条からも、大きな火の手が立ちのぼった。――平家衆は都を焼きすてて逃げたのじゃ、わしらも、ここにいたら焼け死ぬぞ!」
もう片々と、黒い火の塵が降って来た。
燃えちぎれた錦襴。
火の鳥のように、火を曳いて飛んでゆく無数の黒点が、どこへその火を移そうかと、煙の空を、翔けめぐっている。
「死ぬぞっ」
「焼け死ぬぞ」

陽の光も煙につつまれたまま、七月二十五日の夕べは、夕方のあいろも
一門の
こうも早く、自分たちの没落が迫って来ようとは、平家の誰も思わなかった。
ことしの四月頃には、まだまだわが世の春と、うららかに、酔っていた。
義仲征伐に、北陸へ向けた
「戦えば、勝つのみ」
と、いつも連戦連勝が報じられて来るし、鎌倉の頼朝は、あれきり東国にいてうごく様子もないし――と。
それが、
逃げ足立った平家軍を、追いに追って、木曾勢は、加賀、越前を突破して長駆、近江まで追撃をゆるめずに来てしまった。
――と、思うまに、この月二十二日には、もう湖水を渡って、叡山に
「もう、いつでも」
と、攻略の手配を完全にととのえて、それから二、三日の余裕すら示している敵であった。
「どうすればよいか」
を、宗盛以下の一門へ
――知らなんだ!
今となって、彼等は、ため息ついて、後悔の
つい目と鼻のさきに、朝夕栄華の日の手枕にも眺めていた叡山の大衆までが、
「木曾に味方しようとは」
と、怨みがましく、彼方の嶺を見つめるのだった。
平家の敗色が明瞭になると、
いや、それらの事々よりも、平家一門の
宗盛以下、評議の末、
「このうえは、京都を捨てて大宰府へ立ちのき、あの地にある一族の家貞や
と、いうのに意見の一致を見て二十五日はもう洛中から総退去と決していたのであるが、今朝になって、
「法皇には、昨夜おそく、ひそかに院を忍び出られ、鞍馬より
との事実が分った。
これも寝耳に水であった。
元より宗盛たちは、自分たち一門の退却と共に、後白河法皇のお供をしてゆく予定でいたことは云うまでもない。
「何たる不覚を」
と今さら、自分たちの不用意に気づいたり、天をうらむが如く呟いてみたが、何もかも後のまつりである。
そこで、この上はと、畏れ多くも建礼門院が手に、まだお
その後は。
平家は、平家自身の栄華の寝床を各

――こういえば平家の退却は、予定のもとに、秩序整然と行われたようにもあるが、それは

「それ、お後をしたえ」
と、わが身わが身の始末と、取り残されまいとする先を争う最後になると、
「これが、きのうまで、わが世の春を誇っていた
「これが、きのうまでの都か」
と、怪しまれるばかり、浅ましい喧騒と混雑が、火焔と煙のちまたに描きだされた。
「落ちゆく先とて定かでない。いたずらに家具
こういう令は、きびしく達しられていたにかかわらず、いざとなると、馬、車に積めるだけの財宝を積もうと
早くも、素ばやい盗児は、焔をくぐって、空巣をあらし廻っている。
宵になると、洛中数十町のあいだは、焔々と、軒をつらねて、火をふいていた。
そのため、辻の口から押し返す者と、後から押してくる馬、車の人なみとが、殺し合うような混乱を起していた。
「――お
「中将様っ」
「どこにお
「時移している間に、
「先なるご一門が、お姿が見えぬとて、いたくお案じです。――いずれにお渡りあそばしますにや」
ここは三位中将維盛の第宅であったが、明りもなく人気もない館のうちを、土足の郎党らしい者七、八名が、

察するところ、主上に
「ここじゃ。ここにおいでられる――」
暗い寝殿のあたりで、人声がした。近づいてみると、広縁から
赤い夜空には、いちめん火の粉が舞っている、天体が大きくうごいているように見える。じっと、うつろな眼を上げたまま誰も彼もだまっていた。一つとして、生きているような顔はない。
さがしに来た侍どもは、その気はいに、何かハッとしたように、あわてて庭へ下りた。そして畏る畏る一族の左少将有盛、侍従忠房その他の
「いかがなされましたか。もう洛中も、あのとおりで、残っているお館もありませぬが」
すると、ひとりの公達が、寝殿の奥を指さして、
「……お名残りがつきぬのじゃ」
と、
維盛
また維盛も、断ちきれない
「かくては」
と、卿の弟新三位資盛や備中守
法皇を奉じて、義仲は京都へ入った。
彼は、昇殿をゆるされた。
勿論、政治に参与した。
のみならず、法皇の御意をさえ
彼の我意が、政治のうえに現われてくる。
期待していた民衆は失望した。――が、
「平家は朝敵である」
義仲は、西国へ落ちた平家の官爵を
――天下一日も主なかるべからずと、九条
「事々に、おれの意見は、
義仲は、粗暴をあらわしはじめた。
彼は以仁王のご遺志ととなえて、王の御子
幾日か、参殿もしなかった。
彼の部下たちも、それぞれ任官していたが、いずれも粗野な北国そだちである。文化に対する理解が浅い。
平家の治下に、これはまた、余りに
そればかりか。
洛中に充ちている北国兵は、やがて糧食や物資の不足から、暴を働きだした。
守護するはずの兵が、民家に押入って、酒を
「何を」
ふた言めには、権力で
――一方。
平家はひとたび九州へ落ちたが、この人々も、多年の生活がまだ身にしみている。ややもすれば、都が恋しい。
殊には、建礼門院をはじめ、婦人たちは一しお嘆く。
南海、山陽の大兵を
平家の動静は、刻々、義仲の耳へはいる。義仲は、
「すておけない」
と、
ところが、
それに気の腐っているところへまた、京都方面の情報によると、
(法皇には、鎌倉の頼朝をお召になって、ひそかに、何かお
と聞いたので、彼は、
(この義仲をさし措いて)
と即日、
帰ってみると、自分の腹心と思っていた新宮行家も、法皇のご信任に誇って、自分へ反目しているようである。
彼の不安は、狂躁を加えてきた――彼が、法住寺殿を焼いたり、公卿の官爵を思いのまま
…………
それが十月末頃の京都の実状であったが、以来、鎌倉の頼朝は、何が伝えられて来ても動かなかった。義経もその下にいるのかいないのか、世間に消息も聞えなかった。
いつのまにか、時代の勢力は、三つに分れている。
京都を中心とする義仲と。
山陽、四国にある平家のまだ
それと、ここ鎌倉――と。
京都も中国方面も、外交に、政争に、軍備の
「どうしたものか?」
一頃の頼朝の迅速ぶりと思いくらべて、怪しまれるばかりであった。
「近ごろは、御台所との
と、いう噂は、その問題を気にしたがる家人衆のあいだでも一致した観測であり、それと共に、
「あのほうのご手腕にかけても、人すぐれた所がおありとみえる」
などという――悪い意味ではない陰口が――臣下のなかでほほ笑ましく
が、そういう無事と見えるなかに、鎌倉そのものは、実は大きなものを生みかけていたのである。
平家が
その一つ二つの現われとして、
そこでは、政治をきき、司法上の裁きをし、役人には、大江広元とか、三善康信などをおいた。
広元も康信も、長く京都にあって、政務には熟練している文官の逸材である。
彼は、自分には難しいと思う部門には、旧勢力のなかからでも、人材を抜いて、重用した。
しかし、彼の信念は、
「野性を失ってはならない。新鮮とか、革新とかいうものは、健全な野性のもつ生活力だから。――と云って、反省も洗練も持たない野性では、義仲のようなものになるし――余りに野性を失えばまた、平家になってしまう」
その
「まず、武士から先に、庶民への模範を、その実生活で示すように」
と、云いわたした。
頼朝は、武士たちへ、武士道を求めた。それを誇り磨きあうように仕向けた。
一面にまた、
「いかに民心を得るか」
を、大江広元にたえず
だが彼は、この創業期において、大きな見のがしをただ一つしていた。――それは彼自ら東国の一方に
だから、やがて彼の
――といって頼朝という一臣民が、他の国民にくらべて、決して、朝廷に奉ずる念がうすかったわけではない。彼もまた、朝廷への忠勤には、心を傾けた武将といえるひとりである。しかし人間は往々、余りに大きなものは、かえって、うかとし易いものである。
たとえば、人はよく空を仰ぐが、仰ぐたびに、太陽と自己の生命との関係を考えたりはしないように。
「はて。誰がよいか」
頼朝は、考えていた。
彼にとって今、彼自身がいうところの健全な野性が、にわかに必要となって来たのである。
京都、中国、鎌倉と、三分されている天下の勢力を、
「わが手に」
と、考える時、それが容易な事でないにつけ、誰をして、その難事業に当らせるか――見まわすところ多くの武将のうちにも、そう人はなかった。
後白河法皇からひそかなお招きもあったが、彼は、義仲のいる京都へ上る気はなかった。
彼の身はもう鎌倉からたやすく動けないものになっている。
鎌倉を
「……人はないもの」
と、頼朝はつくづく思った。
大軍をまかして、安心できるような老将には、義仲を討つ

「義経なら……」
頼朝は、知っている、見ぬいている。――あの弟の素質を。
久しく鞍馬や
「彼ならば、自分の代官として、大軍の上に立たせても、みな服従するだろう」
その点もうなずいていた。
けれど、頼朝もまた、義経を考える時、どうしても義経を一臣下として、考えきれなかった。
わけの分らない感情がからむのである。――あまり義経への衆望が、高まりすぎても困ると思う。彼への服従が、彼への忠誠になったりすると、今、ようやく
そうでなくても東国の武士は感情にうごきやすく激しやすい。単純な所がある。
――死なば共に。
と、骨肉以上な、つよい情愛にもむすばれてくるものである。
「どうしたものだろう」
頼朝は、迷っていた。
――が、その事ばかりは、妻の政子へも、
「やはり誰よりも、義経こそ、信頼のできる自分の弟だ」
と、血は水よりも濃いということばに、気がつくのだった。
その義経は今、鎌倉にはいなかった。使いの途中、近江の佐々木ノ庄に
「そうだ。やはり弟に命じるべきだ。思い迷っているも
頼朝は、心を決めた。
決意は短時日に迫られていたのだった。なぜならば、彼の手許には、後白河法皇の
義経は、それより少し前に、
(――東国の年貢を朝廷に
として、
尾張の熱田の宮前で休息していると、
「源九郎御曹子ではないか」
と、声をかけた旅人がある。
「あ、これは」
義経は近づいて、先の礼儀に、急いで会釈した。
供も二、三しか連れていないし、姿も見ちがえられたが、それは後白河院の北面の

「いずれへお旅立ちですか」
「東国へ」
「東国は?」
「鎌倉のあたりまで」
と、公朝は、何か意味ありげに、にことして見せた。
振向いて、宮の森を指さし、
「ご参詣は」
「ただ今、参拝をすまして、これに休息しておるところですが」
「では、そこまで、お顔をかして給わらぬか」
公朝は、供の者をそこへ残して、もう先へ歩いてゆく。
問いたい事は、義経にもある。
義経は、忠信、継信の兄弟へ、何かささやいていたが、すぐ一人で公朝の後を追った。
十月末の空は澄んでいるが日蔭はいとど寒い。杉木立のふかい中に、
神前に坐って公朝は、長いあいだ礼拝していた。
義経は、つい今し方、先に参拝をすましていたが、ここに立つとまた、さっきも想い
十六歳であった――
ここで貧しい加冠の式をして、吉次と共に、
吉次といえば。
どこかそこらの物陰から、今にも
「いや、お待たせした」
公朝は、膝の
「御曹子、近日のうちに、きっと、あなたのお身の上にも、大きな使命が下りますぞ。……こう申せば、もうお分りでしょう」
「……では、鎌倉へのご用は」
「
と、いよいよ声を落して、
「人になおもらしあるな。実は鎌倉殿へ、御院宣をお伝え申すために下る途中なのです。義仲の暴状は、もはや一日も捨ておかれないまでになっている」
「そうですか」
静かな
「貢ぎのお使いにお上りですか」
「そうです」
「ご入洛は待たれたがよい。危険です。――それに、それがしが鎌倉殿へ着く日もまもない」
「…………」
義経の眼は、何か、迷っているように見られた。
「いっそ、それがしと共に、一応鎌倉へお引返しあっては如何ですな」
「そうはなりませぬ」
「――さもなくば、早々、海道の源氏に、用意を命じ、お手勢とあわせて、京へ迫るお支度をひそかに進めておかれるもよい」
「いえ、何事も、兄のいいつけが下らぬうちは出来ません。……やはり貢ぎの荷駄を曳いて、京都へ参るといたしましょう」
云い
「――それよりも、あなたにお伺いしたい事は」
と、話を
「それがしに、お訊きになりたい事とは?」
「兄の
「オオ、八条宮の坊官円済どのか。お変りもなくお過しのように聞いておるが」
公朝は、答えながら、義経の眸をとおして、この人の血につながる人々をふと思いうかべた。
後白河法皇の皇子八条宮に坊官として仕えている
あの時――
いちばん上で、当時
(――やはりそうした
公朝は、思いやった。そして、義経の何か怖れ
「御曹子……。あなたが、お訊きになりたいのは、円済どののお便りもさる事ながら、もっと
「…………」
常磐――という
「……そ、そうです。お察しのとおりです。何ぞ、母の身についてご存知なればお聞かせ下さい。兄円済へもよそながら、書状にて、問い合せてはみましたが――出家の身、世事何事も
「素気ないのではございますまい。宮のおそば近う仕える身、ご無理はありません。――それにまた事実、常磐どののお身の上とて、京都の大きな変りようと共に、何もかも押流されて、今では平家方について行かれた多くの公卿衆のうちに在るやら、誰ぞの領所を頼って
「この世に生きておいであることは、
「さあ、それとても、如何なものでしょうか。お互いにいつ知れぬ身ですから」
「嘆きはしません。もし、ご病気か何ぞで、もはや世に亡いものなれば、世を果てたと、お教えください」
「そういう事がないにしても、なお世にあるお方と、あなたがそう恋い慕われるのは、お察しはできるが、おまちがいでしょう」
「……まちがい?」
「牛若どの、乙若どの、今若どの――そう三人の
「…………」
「世間はみなそうお察しして、陰ながらわれわれまでも、美しき前世のお方よ、と密かに
測らぬ人に行会って、測らぬ想いは義経の胸に増していた。
その
雨の日が多く関ヶ原あたりの河川は
鎌倉殿のお使いという。
「何事か」
と、書状を
入洛の儀はしばし見あわせ、佐々木ノ庄に滞留あって、再度の沙汰を待つように。
とある。思うに、院の密使公朝が、鎌倉へ着いたその夜か翌朝にでも、すぐ出した早馬にちがいない。
義経は、心のうちで、
「……時が来た!」
それをどんなに彼は待っていたことか。
彼は小さいもう一つの悩みを――公朝にも打明けた乳児のような心の奥の泣き声を――切り捨てなければいけないと思っている。
大乗をもって、小乗を。
大志をもって小我の迷いを。
まだ見ぬ母を一目でもと恋いわずらう過去への
「お目にかかる事が倖せか。お目にかからぬほうが倖せか。――愚かよ。公朝が云ったとおりだ」
義経は湖のうえを行く片雲を見た。道の辺の冬草を見まわした。――在りやなしや。母はそこはかとなく居もする。すでに
「この世におわすとも、おわさずとも、義経が、人として、
近江路は、源氏のもののふに取って、恨み多く、胸傷む思い出の道である。
ここらの草木、ここらの水の
「――が、こんどは」
義経は、身のうちに、血ぶるいをおぼえた。
佐々木ノ庄は、湖畔の
そこの本郷山に、以前のままな
十一月になった。
まだ来ない。
月も
この間の彼の焦躁は、はた目にも
「院宣を奉じて、いよいよ鎌倉殿にも、軍勢を催されておらるるが、義仲追討の総大将には、やはり北条殿がお立ちになるらしい」
とか、また、
「いや、
などと
鎌倉殿の弟君といえば、誰もすぐ
あれほど義経に対しては、思慮をめぐらし過ぎるほど気を
「心して参れよ。陣中は、何よりも軍律を
「はい」
「このたびの一戦こそ、大事なうちでも大事な
「よう心得ております」
「その心得顔が、まちがいの
「はい」
「義仲もさる者ぞ。
「張合いがあります。死にばえがございます。決してお名はけがしません」
いよいよ義仲討伐の軍勢が出発という朝方である。
頼朝は、華やかに
「そちを瀬田口の総大将に、義経を宇治川のほうの攻め口の大将に命じたのも、頼朝の心のあるところ、不覚をとるなよ」
この弟へは、何をいうにも気の
範頼もまた、何事にも兄への服従と慎みを怠らない。
故義朝の第六子にあたり、母は池田の宿の遊女とかいう。藤原範季の手に養われてきたが、頼朝の旗上げと聞いて、その
「……不覚をとるなよ」
今、頼朝がそう云ったのは、義経に
「弟には負けません」
と、温順な彼も、いささか心外なような顔色を示して答えた。
すると頼朝は、そんな顔色を見てもやらず、頭から云った。
「――
「はい。……分りました」
範頼は二言もない。
その他、細々と、注意をうけて、彼は出発した。――とはいえ、馬上、大軍の上に立てば、
義経のところへも、早、飛状が着いている頃である。
範頼と途中で会え。
攻略の軍議して、ふた手にわかれよ。
何事も、仲よく
――二人の兄として、頼朝はそういう点まで書き添えた。
範頼の立った後から、なお、続々、関東の大名小名は、令をうけて、西へ上ってゆく。――上る途中にはまた、必ず鎌倉へ立ちよって、頼朝に

「生きて、再び帰らん心も候わず」
と、名残りを告げたり、
「
などと、去る者、去る者の姿、悲壮でもあり
そのうちにも、
「ご秘蔵の名馬


頼朝は、やや呆れ顔した。

「胆太い無心をいうやつ」
呆れ顔が、やがて苦笑になる。
景季は、そこを押して、
「何とぞ。何とぞ」
と、
馬を乞うために、
当時の武風である。その頃の戦には、馬の偉力は唯一の器械力であった。心ある武士ほど良馬を持とうとした。世に聞えるほどな名馬とあれば争って自分の料にしたがった。
わけて、こんど義経の手について、宇治川の渡河戦に当るものは、まずあの激流とあらゆる
奥州、東国は名馬の産地だし、坂東武者はみな馬術に熟練している。その中に伍して先陣の名のりを
「おれを措いて誰が?」
と、景季の抱いているような自信は、それに加わる五千騎はみな持っているであろう。
人も人だが、馬も馬だ。
「いかがでしょう」
景季は、押強く、
「

頼朝は、笑いだした。
「八ヵ国の大小名みな眼をつけおるが、あれのみは許さぬ。
「さればこそ、たって景季が望みでござる」
「いや、頼朝みずから出陣の日までは、
「
景季は舌打ちして、
「合戦中は、夜ごと、名馬が厩で悲しみましょう。この千
「云うわ、
頼朝は、愉快になった。彼の押太さに負けてやりたい気がした。
「つかわそう」
「えっ、賜わりますか」
「――が、生


「ありがとう存じます」
景季は、満足した。
誇らしかった。
「――宇治川の先陣は、おれのもの」
もう十分な自信があった。
聞くならく、こんどの合戦に、鎌倉殿のお厩から曳き出された逸物には、義経の料にとて
範頼には
御家人たちのうちでは、熊谷二郎直実の権太栗毛は自慢の駿足であるから、こんども彼を曳いたであろう。畠山重忠にも、秩父
「だが、磨墨には、どれも及ぶべくもない」
箱根、

景季は、途中、駿河の浮島ヶ原に、軍勢を休めて、磨墨に草を飼いながら、自分も草に脚を投げていた。
――すると彼方の道を、何者の部下か、三、四人して、生

「……はてな?」
眸をこらして見たが、どう見ても紛れのない、名馬生

何か、景季からいいつかって、駈け出して行った郎党は、彼方の道を、

「やはり生

「左様でした」
「して、誰の部下だ、あの者たちは」
「佐々木家の御家人と承りました」
「佐々木……佐々木の誰」
「高綱どので」
「馬も高綱のものか」
「鎌倉殿から拝領なされたとかで、この
「高綱はまだ通らぬな」
「やがて後より見えられましょう」
「……よし」
顎を振って、また草のなかへ坐りこんだ。
景季の顔いろは
「あれ程、自分の所望したものを。……賜わらぬはぜひないにしても、佐々木の末弟などにおやりなされるは、当てつけがましい。ご
死場所へゆく途中である。さなきだに血は荒ぶる。激し易くなっている。
「人の

諸将の部隊が過ぎてゆく。
景季は、待ちかまえていた。
そのうちに、佐々木隊が通った。高綱のすがたも馬上に見えた。
「おううい。佐々木殿」
景季が呼びとめた。
高綱は、列を脱けて、歩み寄って来た。
「やあ、
「むむむ」
先の顔いろが明るすぎるので、景季は、自分の不快な眉や
「おたがいだ。ところで、佐々木殿、先にここを曳かせて通ったのは、生

「あ。あれか」
高綱は、にっと景季のひとみを見つめながら、自分の頬のあたりを、右の掌で一つ打った。
「見つかっては是非もない。実を吐くが、他言して給わるな」
「戴いたのではないのか」
「どうして、あれを下さろうぞ。――出陣の真際、恥ずかしいが、良い馬に事を欠き、思案にくれたあげく、お
「えっ、盗んで来たと」
「所詮、われわれ
「盗みおったとは。――いや、押太さにも、上には上のあるものよ、アハハハ」
高綱は笑う。
景季も笑ってしまう。
手をたたいて、二人は笑った。
もうそこには何のわだかまりもない。
「ご免。――また戦場で」
高綱は先に行ってしまった。すこし彼の方が人が悪い。
実のところ生

ひとりの女性は、
黒髪のなかに
「だまれっ。――妖怪のように細々と泣くなっ。泣くなら大声で
義仲は、酒を
燈火のせいか、どす赤い顔に、眼が大きく光る。
年は三十一。
決して醜悪な容貌の部類ではないが、公卿や宮中の女房たちが恐れることは甚だしい。
「やめないか」
「…………」
そこに泣き伏しているのは、彼の妻というのも、気の毒な――
義仲に
「どうしたな、使者は。……きょうは昼にも立帰るはずだが」
つぶやいて、
三名の侍が、木像のように、固く坐っていた。
義仲の焦躁から出る――どうしたな――の嘆息とも呟きともつかない問は、夕方からの連発である。
答えようがなく、
「……されば、もはや」
と侍たちも、同じことを繰返すしかない。
「枕。……枕をもて」
ごろりと横になる。
「はっ」
と、侍のうちから一人が起ちかけると、義仲は、強く手を振って、
「いい! 起つな! そちにいいつけたのではない」
と、泣き伏している人の黒髪を指さして、
「おいっ、枕を取って来い」
「…………」
「関白の
こう怒ってばかりいる彼ではないのであるが、きのう今日はわけて、彼の性格の良いところは少しも出さなかった。
いやもう少し
それが、日の経つにつれて、狂暴になった。義仲の性格にも、もちろん悪い血があればこそだが、ひとつにはこの京都に平家が、残して行った文化の
たとえば、院の女房たちにしても、彼が衣冠した姿を見れば、おかしくもないのに笑う。笑いこけて隠れこむ。
公卿堂上人の冷たい目も、彼の前には立たないで、薄暗い物陰からのみ隙見している。
「いかにして笑われまいか」
だけでも、木曾殿の神経は疲れたにちがいない。
それを通り越したので、
「笑わば笑え」
彼は、
為に、都の文化も秩序も乱脈に陥入ったが、実は、義仲もうろたえに囲まれていた。彼は渇望していた都の文化や中央の府が、こんな厄介なところとは予期していなかったのである。
「こんな厄介ものを、平家も恋々とし、頼朝も欲しがりぬいておる。ばかなやつら」
もう抛り出してしまいたい。ほんとに彼はそう思っている。彼には割あいに偽りはない。
だが、頼朝の権力を入れる事は意地でもできない。平家に負けて押出されるのもなお嫌である。
夜も更けた。
どこかで馬の
「なに、
がばと起きて、坐り直した。
「ただ今、戻りました」
大夫房覚明は、旅装も解かず、そこへ来て、燭から遠く坐りかけた。
「寄れ。もそっと近う」
待ちかねていた義仲は、さしまねいてすぐ訊いた。
「どうだった、平家方の意向は――。和議は
「調えて参りました」
覚明の答えに、
「そうか」
と義仲は、まずほっとしたと云わぬばかりの顔いろだった。
義仲は今、窮地にあった。
東軍は大挙して、瀬田口や宇治方面から迫ると聞えてくるし、平家も水島の
この険悪な
「なんの、頼朝ずれが」
とか、
「範頼、義経ごときが」
とか気焔のみ上げていたが、朝夕、彼の呶号が多くなって来たのは、もう酒では誤魔化しきれない現実が、ようやく、彼の目にも、さし迫って
――で、義仲は、腹心の大夫房覚明を使者として、平家方へ、
「背後の
と彼は、この苦しい体制で、今の窮地が、打開されるものと信じていた。
われながら、窮余の一策、とは思ったが、武門の醜態とは考えなかった。
彼の
義仲をはじめ、その部下は、多分に人間的で、赤裸ではあったが、武士としては、匹夫の勇にすぎなかった。軍としては、当然、この京都を維持しきるだけの性能はなかった。
「――やすめ。大儀だった。細かい評議は
覚明の報告をきくと、義仲は、寝所へはいった。
すると、夜に入って、近江へ入れておいた物見から
「宇治口へまわった義経の軍勢は、わずか一千余騎にすぎない」
と、いう事が聞えてきた。
次の日の朝、また、
「近江に集結した東軍も、思ったほどの大軍ではなく、士気も至って
との
義仲は、日のたつほど、
「思ったほどでもないらしいな」
と、楽観して来た。
こういう際にまた義仲は、不自然な栄進をした。征夷大将軍の
今にもと気づかわれた東軍のうごきも、その後は、思いのほか緩慢である。
「宇治川の急流や瀬田の要害を見ては、坂東武者も、さすがに二の足をふんだにちがいない」
義仲は、そこの天嶮を
その心理が、
「
となった。
河内にも、自分の敵が、
その主謀者は、頼朝を離れていちど自分につき、また、不平を抱いて自分から離反した新宮十郎行家だった。
兵七百を
――後に思えば。
この七百の兵力を割いたのは、彼にとって重大な用兵の失策であった。
なぜならば今、洛中にある彼の兵力は、三千に足らなかった。
今井兼平を将として約九百の軍勢を瀬田の防備に向け、また根井
その三百の兵をひいて、義仲自身は、院の御所を守護していた。
心ある者の眼には、
「あの将軍の心には、一体、何を
と、怪しまれるほどだった。
また、時の人々は、彼が平家へ
平家こそは、源氏にとって、石にかじりついても屈しられない
そう問いたいのであった。
けれどそれは、血縁というものの特殊な感情を解さない人のことばであるという者もある。
血は濃いものであるが故に、その血の近い同族が争うことになると、他人と他人の憎悪よりは、烈しいのが常である。
だから、同族中で、その主体たらんとする一人があれば、自分の腕と知りながらも切って取捨てる。自分の指と知りながらも
そんな公卿たちの評も聞かれるほど、院の御所も平穏であった。洛中の庶民も、戦争に馴れて来たのか、こんどは
けれど、眼を転じて。
瀬田口の前線を見れば、そこの水路も道もまったく遮断されて、湖をよぎる鳥影もなかった。
さらに、宇治川方面の防禦のきびしさはいうまでもない。きのうの朝も今日の朝も、雲は低く、ひょうひょうと寒風をふき落して、橋板の引かれた
義経は、河辺に立って、
「水練の達者なものは名のり
と、味方を顧みて云った。
そのことばも終らないうちに、
「おうっ」
「おお!」
と、
渋谷
「待て待て」
義経は、手をあげて、後からつづく者へも、注意した。
「春とはいえ、水は冷たい。雪のある山々にも近いゆえ、恐らくここの流れは身を切るほどだろう。そち達、水練には巧者でも、素肌では、寒烈な水底で、長い働きはできまいぞ。肌着のみは、着けてはいれ」
宇治川も
当時の宇治川は後の世のそれのように、悠々と穏やかな
ただ幾分か、人工が加えられてある所は、今、義経が立っているここ平等院の北の辺り――土民が
ここには、往来のため長い橋が
しかし橋板はもちろん対岸の敵がのこらず引いてしまった。また、渡河の攻め口としては、地形や水勢から見ても、この附近しかない事は分っているので、敵は、ここの
「なんの、これしきの河」
坂東武者はみな気負いたって、義経の令をむしろもどかしげに待ち
「いや、難しい」
と、正直に自然を怖れ、先に、馬を降りてしまったのであった。
兄の範頼を瀬田にのこし、彼の軍は、伊賀路から
「両軍、合せて四万」
と、
それを義経が、正直に、
「瀬田口に二千五百を向け、宇治川へは一千五百をひいて行く」
と、誰にも、ありのまま実数を云いふらしたというので、範頼は腹を立てて、
「九郎殿は、余りにも兵法の弁えがなさすぎる。あんな事で、宇治川の備えを破れようか」
と、陰で怒ったというくらいである。
実際兵力の不足は範頼も義経も苦心していたところだった。
木曾方も、
それなのに、義経はなぜ、敵方の士気をよろこばせるような味方の弱点を、わざと云いふらしたのだろうか。
彼の答えは簡明であった。
「――義仲を、都のうちに、
水中にはいった半裸体の
ひろい奔流の諸所には、うかとすれば、すぐ
その水はまた氷の如く冷たくて手足の知覚もたちまち失われてしまう。
彼等は、その寒さや危険を
「あれよ、
義経は、それらの名もない雑兵の必死な働きを見ていると、眼が熱くなった。
対岸の敵は、
「すわこそ」
と、
もちろん義経の身をも、矢うなりは絶えまなく
「
と、しきりに、周りの武将たちが、さっきから
「――御大将が見ている」
死も生も考えない決死の兵ではあるが、義経がそこにあることは、勇気を百倍にさせた。
同じ死ぬにも、歓んで死ねるのであった。
用兵の極致は、兵をして、
歓んで死なしむにあり。
意識的でなく、将としての義経の言動には、そのことばと合致するものがあった。歓んで死なしむにあり。
歓んで死ねる兵は、末代、そのたましいに生きがいの歓びをつないでゆくだろう。
義経は、ひとつひとつ、矢に
「おまえ達のいのちを、この後とも、あだにはせぬぞ」
と、胸に念じた。
「重忠、重忠。――
矢風の中からいう彼の声は、自分も身を
「抜かりましたっ」
畠山重忠は、そう云われて、初めて味方の
「
と、自分の隊へ、大声で命じながら、手を打振った。
すると、熊谷直実の部隊も、渋谷
そこからの掩護は的確にききめがあった。たちまち、敵の矢数は減って来た。飛んでくる矢にも最初ほどな
河中の
その
「

義経は、馬上から指揮に声をからしていた。われこそ一番にと、流れを前に、河原へむらがり立った各部隊の騎馬武者たちは、ひとしく
「
「もそっと寄れ」
千余騎の横列は、馬首をそろえたまま、順に横へ横へ押しあった。そして約半町ほど陣列が移ると、
「それっ、押渡れ」
と、各隊の将が、義経の手を遠く見て、一斉に令を下した。
ざんぶと、一列にしぶきが上がった。
大きなうねりの波が河面を岸から拡げてゆく。味方の
「――今だ!」
平等院の小島ヶ崎から、一騎、鞭を打って駈けて来た侍があった。
するとまた、一方の森陰からも、
二騎は近づいて、駒足をそろえた。そして、顔を見あわせた。
「やあ、梶原どのか」
「オオ、佐々木どのよな」
さすがに、今日のみは、にこと
景季は、ひそかに、
「高綱におくれてなろうか」
と、思っているし、高綱も、
「彼に名はなさしめぬ」
と、この宇治川へかかる前から固く自分に誓っているのである。
わざと、部隊を離れて、ほかに渡る戦友の影もない下流の水路を選んだのも、約束したように、ふたりの考えが
馬の力が弱ければ、勢いこの激流では、河のまん中まで進むうちにも、かなり
――で、むしろ味方同士の
「景季もやりおる」
「高綱もぬからぬ男」
無言のうちに、ふたりは

生

景季の磨墨は、駈け足をもったまま無造作に浅瀬を蹴だててもうざんぶと平首のあたりまで流れに沈んでいた。
「しめた」
景季は、巧みに、水馬の技術をこらして、楽々と馬を泳がせながら、後ろの岸をふりかえった。
高綱はまだ、

強く、一鞭加えると、生

――が、すでに景季の磨墨は、数十間先をとって、あざやかに泳ぎ渡ってゆく。
「不覚。おくれては」
と、高綱はあせった。
「あれほど、広言吐いて、ご愛馬を賜わっておきながら、先陣は景季に取られたりと聞えては、一代の名折れ」
と、恥を思った。
河波は、横ざまに
「おおうい」
「えええい」
「おうい」
その時、
景季、高綱の二騎も、やがてその馬群のなかに巻き込まれていた。もうこの大河の一番乗りは景季ひとりが相手ではなかった。高綱ひとりが目標ではなかった。――三浦、
義経もその中にあった。
畠山庄司重忠は、自分の功名は捨てて義経のそばへ、ひたと駒をよせ、義経の司令と共に、声を援けて、渡河中の全軍へ、始終、水馬戦の注意をさけんでいた。
「――馬と馬とは、寄りおうて、
矢うなりは、風をきる。波しぶきは、声を消してゆく。
義経と重忠とは、時折、渦まく濁流のなかに駒を止めて、全軍を見まわした。一兵でも惜しむように、溺れる者や、矢に
「――馬の足の届くまでは、手綱をゆるめて泳がせよ。手綱強めて、誤ちすな。尾口沈まば、
重忠が声を疲らせてしまうと、義経がまた云った。
「――敵は射るとも、河中にて、弓は射返すな。うち
こたえる
先だつ
敵は射る。
まるで
――と見れば、一騎は、すでに馬筏の先鋒を離れて、はや、敵の顔もあざやかに見える岸近くまで進んでいた。
梶原景季の
「オオイっ。梶原っ」
高綱は、そのうしろに迫りながら、呼びとめた。
うしろの高綱は、また、
「やあ、危ういぞ梶原。この大事な河渡しに、
それには景季も、ためらわずにいられなかった。
彼は、弓を口にくわえて、

「――佐々木四郎高綱先陣。――この宇治川の先陣、佐々木四郎高綱っ」
呼ばわる声と共に、そのすがたは敵の中に没していた。
「してやられた!」
景季は、歯がみをしながら、二番目に
三番四番はもう誰とも分らないほどだった。鼻さきを
これまでのあいだ、敵もむなしく見ていたわけではない。主将は、木曾方でも聞えのある根井
けれど時代の
戦う上に全体的な信念を持つ兵と、戦うにただ個々の猛勇と個々の結果しか考えられない兵との相違である。
決死の渡河を行って来た敵を見ながら、前線に射手をならべて、矢ばかり射ていたのも不覚の一つであった。
それに反して、義経の兵は、人馬共、濡れねずみのまま、
「息をつかすな」
とばかり追撃また追撃して――一部は
深草や伏見辺へ、少数で迷い出た兵もある。何しても、逃げる敵は道を選ばないので、急追した義経のほうも、八方へ分裂して、京都へはいった。
宇治川の敗報を知ると、義仲は、
「すわ」
と、今さらのようにあわて出した。彼の面上には、すさまじい自暴自棄のいろが
その血相をもって、彼は、院の御所へ駈けつけ、法皇に対し奉って臨幸を
「はや、敵の先鋒が、六条河原のあたりまで来ています」
との声に、
「これまで」
と、義仲は大きく
そこで散々に敗れた彼は、
「幾月あれにいたろうな」
と、側の者にたずねた。いつになく余り素直な義仲の顔いろだったので、侍臣はふと涙を催したそうである。
その日、院の御所はかたく門をとじて、ただ
すると門外に、どかどかと
「さては、暴兵が?」
と、はや顔いろを失って、法皇のお座近くにかたまりあい、息をこらしていると、何やら外では高声に呼ばわっているので、耳をすましていると、
「これは、鎌倉殿の代官として、御院宣をかしこみ、洛中守護のため、宇治川より木曾勢を破って、ただ今馳せ参じた頼朝が舎弟源九郎義経です。――洛中諸所もはや平穏に復し、火災もこれなく、庶民もみな戸をひらき、町の往来も常のごとく見えますれば、何とぞ、
すると。
誰とはなく、院に仕える者の下々にいたるまでが、一斉に、わあっという声をあげた。闇の底へ陽の光がさしたような歓声であった。
法皇にも
院のご門はひらかれ、
「――通れ」
と、ゆるされた。
主従は六騎だった。
義経以下、あわただしく、門外に下馬して、畏る畏る通ってゆく。
中門の外の
法皇は、その骨がらをご覧の上、一同の年齢や姓名、住国などをご下問になって、
「みな若いのう。どれも雄々しき面だましい。
と、近側へ仰せになった。
義経主従は、面目をほどこして退出した。そして、当座の兵舎まで戻って来ると、辻々に立ちむらがった民衆は、手をふり声をあげて、彼を歓迎した。
その頃もう、瀬田、石山方面の
義仲の死が、確報されて来たのは、二十三日の晩であった。粟津ヶ原で、今井兼平とわずか二騎となって、あわれな討死をとげたと聞えた時は、何とはなく、
宇治川以来、ここ三日二晩というもの、義経以下の将士みな、ほとんど一睡もしていなかった。――で、一夜の眠りは、何よりも大切な急務だった。
ところが、二十五日の朝となると、誰の口からともなく、
「平軍が大挙して来る」
と云いふらされた。
義経は、仮の兵舎に一夜をやすんだが、起きぬけに、ぎくとした。
彼が、心ひそかに、
元より平家の大軍も、彼の武勇も恐れはしないが、義経は、その時機と、攻守の立場の逆になるのをかねてから惧れていたのである。
義経は、どこまでも、
「攻めるに利」
と、信念していた。
またそれが、兵法の原則でもある。この攻勢が、取れない場合、あらゆる味方の不利と苦戦は避けられないものと考えていた。
しかし、周囲の政治的事情は、義経が
義経は思う。
もし宇治川で手間どって、ここ三日も入洛が遅れていたら、平家の先鋒が自分等より先に都へはいっていたかも知れない。
その惧れは、今も決して解除されていなかった。屋島から兵庫港に上陸した西軍は、一ノ谷に城廓をかまえて、
きのう今日の、微妙な政治的のうごきは、そこまで移動して来た颱風の余波ともいえる。
朝廷におかれては、連夜のご評議と洩れ聞えているが、容易に、範頼と義経に対して、今後の方向をお明示にならなかった。
今なお、勅使を平家につかわして、何とか、両軍の和議の方法を見出しては、と唱える公卿たちすらあるらしかった。
義経は、気を揉んだ。
「鎌倉どのへ、早打ちを立て、そっと兵を
などと云っている。
何たる悠長さ!
義経は、なおさら、東軍の危うさを思わずにいられない。
「いや、今こそ、ここ一日か二日が、源氏全体の興亡のわかれ目だ。時代の峠だ」
と痛切に思う。
こんな急激な転換期を見ながら、十日も半月も、悠々と、空しく待っていられようか。
いや、何事にも大事をとる筈の頼朝は、中央の政治的な雲行きの
(――そう面倒ならば、一応軍を
と、云って来ない限りもない。
それやこれや、気ばかり
「そうだ!」
彼の座所へ、侍が、
「――まだ鞍馬にあった幼年の頃、夜ごと鞍馬谷へわしを誘い出して、わしの幼い魂へ、兵学を教えこんでくれた父義朝の遺臣たちがよく云っていた」
(――悪い世をよい世の中に
ふと、
「高綱はおらぬか」
と、妻戸口を出て、辺りへ呼んだ。
ここの仮の兵舎は、かつて平家のなにがしが住んでいた
「お召ですか」
高綱が駈けてくる。暗い地上にうずくまって彼の姿を見あげながら云う。
「景季もおるか」
「おりまする」
「四、五名供をして来い」
「どちらへ」
「
義経は自身、厩の前まで歩いて行って、馬を出させ、もう二条の方へ急いでいた。景季、高綱たち五、六名が、後から
するとまた一騎、追いかけて来た。畠山重忠であった。
「取急いで、お耳にまで」
と、重忠が駒を降りようとすると、
「下馬に及ばん。何か」
義経から駒を寄せた。
「うわさの実否を確かめんものと、洛外遠くまで出向いて参りましたが、平軍
「そうか」
義経は、少し眉をひらいて、
「いずれにせよ、わしはこれから蒲殿へお目にかかりに参る。そちは陣所へ帰ってよい」
別れて、また急いだ。
「またか」
と、云わぬばかり、
義経はもう通って来た。
範頼に対しても、義経は
当然、義経は、何をいうにも、そういう礼と格から云わなければならなかった。
「平家方の軍勢が、入洛の姿勢をもって、こよいにも、動きかけているという情報は、もうお聞き及びとぞんじますが」
義経が云いかけると、
「風説にすぎない」
と、範頼はすぐ打消した。
「うわさは、虚報だそうです。しかし、それで安心はなりません」
「備えはできている」
「守備は不利です。ましてこの洛中にあって、この小勢では」
「九郎殿にはまた、ここを出て、攻勢に向えと、短気をすすめに見えられたか」
「これで三度、くどいとお思いになりましょうが」
と義経は、自分の主張を、耳の熱するまで説き出した。
けれど範頼は、
「院のお沙汰のないうちは」
と、彼と一致する容子もなかった。そのうちに鎌倉殿のご返事もあろうなどと、依然として、悠長なものだった。
その悠長にかまえている事のいかに危険であるかを、義経は泣いて説破した。ついには、ことばも激越になってくると、範頼は、
「九郎殿。ではお許は、院のお沙汰も待つに及ばぬ。鎌倉殿のご意向にもかかわるなと云うのか。この範頼に、
と、云った。
義経は、口をつぐんだ。
そして悄然と、二条から戻って来る頃、夜は白みかけていた。
この日の朝。
義仲以下の首を、六条の河原に
その人声を振向きながら、義経の馬は、七条松並木のほうへ曲った。すると、河原の下から、
「九郎様。九郎様っ」
と、にわかに声をあげて、追い慕って来た男がある。
義経はふり向いて、
「やっ、吉次ではないか」
と、眼をみはった。
吉次は、馬前に両手をついて、
「お出ましと
前後には、人がいる。義経にも憚られた。
「むむ。参るがよい」
そのまま吉次をつれて、駒は急いだ。――と云っても、七条の陣所はもうそこに見えていた。
人を払って、義経は、戻るとすぐ一室へ吉次を通した。吉次もきょうは十分、義経の立場を察しているらしく、相手にとって無用らしい言は費やさないように慎んでいた。
「ここ数日が、大事な山、何かとご
「そちは、以来、京都にいたのか」
「いえ、ずっと、奥州へ帰っておりましたが、去年、木曾殿の攻め入った頃、ちょうど都へ上る用があって、あの
と、吉次はいつも変らない自分の誠意をまず相手に示してから、
「時に、ゆうべ蒲殿とご談合の末、平家の機先を制して、一ノ谷のご進軍の議は、ご意見一致なさいましたか」
と、訊ねた。
義経は、
「どうしてそちは、左様な機密を知っておるのか。わしと蒲殿とのはなしの内容は、極く少数な者しか知らぬはずだが」
と、疑った。
吉次は笑って、
「鎌倉ではそうも参りませんが、この洛中の事ならどんな事でも、吉次の耳にはいらない事はありません。公卿堂上方のうごきでも、町々の出来事でも、誰かが吉次に聞かせてくれますから。……けれどゆうべは、そういう手づるもなかったので、実は今朝お目にかかって、お顔いろを拝してから、さてはまたも蒲殿とのご意見が合わずにお帰りだな――と、かようにてまえの胸のうちで、お察し申しあげた次第です」
「でも、わしの胸に今、そうした苦しみのある事は、どうして読めたか」
「お公卿方の一部で、お噂しているのを聞きました」
「はて、誰が、義経の胸を左様に申していたか」
「九条
と、吉次は答えながらすり寄って、声をひそめた。
「今日中に、内々、その方面の方々へ、
ふしぎな男である。庶民層のなかに住みながら、上層の事情や政局のうごきなどにも実に詳しい。
(どうして知るのか)
と疑うよりも、
(吉次如きが、聞き知るはずはない)
と、義経も初めは、頭から信を
多年の事である。その間に彼は自然、多くの貴紳から知遇を得、また特べつな
そう考えると、義経はまた、
「嘘とも思えぬ」
と、彼の言に、耳をひかれた。
吉次としては嘘どころではない。彼は、義経に対してだけは、敬愛の心をもって、
「そちのことばに従って、九条殿へお願いに出てみよう」
ついに、義経が云うと、
「いえ、いきなり九条殿へ、あなたがお訪ね遊ばしては、人目立ちましょう。てまえにお
吉次は自信をもって云う。
彼はその朝、そこを辞して、一日姿を見せなかったが、夜に入ると、約束の時刻もたがえず迎えに来て、
「お身なりを変え、お
と、迎えに来た。
そして何処ともなく、彼の駒を導いて行った。
後に、人は
その晩、義経は、九条どのをこっそり訪れたのだとも、また、いや、さる寺院の奥ふかくで、院のお側近く仕える朝方卿や親信卿など反平家の、そして特に義経に好意をもつ一派の人々と会っていたのだとも、取沙汰は
その翌日、朝議は一変して平家追討となった。
義経の出発は早かった。
余り早いので、範頼は、
「院宣もこうむらぬうちに、私に兵をすすめ、万一、朝議のご決定にそむくようになったら、何とする心であったか」
と、後に義経をなじった。
しかしその範頼も、院宣をうけては、義経のあとを追って、義経の軍に合流しなければならなかった。
先鋒の義経は、丹波路をとって亀岡から園部、
三草山をこえて、
もちろんこういう大迂回は、大軍ではできない。彼の腹心とその手勢だけである。範頼の本軍は、行動をべつにとって、一ノ谷の東の
「一ノ谷へ総攻めは、二月三日ぞ。――三日を期して、総がかりに攻めつぶすのだ」
義経は、そう揚言した。
二日の道を一日に歩くほどな強行軍をつづけながら、道々そう云って、士卒を励ました。
けれど、その三日には、総攻撃もなかった。四日も、何事もなかった。
「――四日は、清盛の忌日である。敵もさだめし仏事供養をしてあろうに」
と、思いやって猶予したかの如くであったが、五日になるとまた、
「きょうは、悪日であるから」
などと云いふらし、幾日かをわざと過して、一ノ谷に
「梶原どのが見廻っておいでになりました」
義経は、そう聞いて、
「景時か」
と、いやな顔をした。
中軍の陣幕は、冬木立のなかに張りめぐらされてある。
その日も、何の行動も起さず、ここの林に駐屯していたので、焚火の煙の立ちのぼる空に、
「おつつがもなくて、まずは祝着」
と、景時は、義経のすがたを見ると、皮肉な語気でまず云った。頭を下げるにも、武骨というよりは、ぞんざいなふうがあった。
景時は、軍監として、こんどの西上には、総軍のうえに、重きをなしていた。
彼は、自分の口から常に、
(蒲殿も、九郎殿も、何分大将としてはお若いので、そちがよく
と、人にも語っていた。
そのことばの裏には、暗に、鎌倉殿の
そういった人がらが、義経は好かなかった。また、宇治、瀬田と分れて戦う前からも、景時とはよく評議のうえで意見の相違を来した。
義経は、義経の信念で押し通して来た。そうしなければ勝てない
(九郎殿には、事々に、軍監たる此方へ
と、範頼などに向っては、その感情を口に出して云った。
範頼と彼とはよく気が合う。
いや、範頼なら景時の意のままにもなるからと云ったほうが正しい。
だから彼は、あたかも範頼の後見のように、多くは範頼の陣にいた。そして、義経の陣地のほうはほとんど顧みなかった。
先頃も義経が、一ノ谷にある平家の攻勢に対して、
――一日も早く。
と、味方の積極的な行動をいそいで範頼を説いていた折も、いつも範頼のそばには、景時が、黙ってついていた。
口に出して、
義経も察していた。
義経はまた、その感情を巧みにつつんでいられない性情である。きらいな人間に対しては、きらいだという顔をする。わけて景時に向うと濃厚にそれが出る。
(自分は、鎌倉殿の弟だ)
というような自尊心から出る
(
と、いう態度で見た。
それが、景時には、
年齢、経歴、手腕、いろいろな誇りが彼にも
「ご老台。この山中まで、わざわざ大儀なことだの。何か、蒲殿のほうに、手違いでも起ったか」
ことばの端にさえ、義経の云うことは、気にさわる。自分をさして、ご老台とよぶのは、義経の
「蒲殿のほうには何の誤算もない。いぶかしいのはこの方面だ。あれほど急ぎながら、何で悠々とここへ来て
義経は笑って答えた。
「戦うとは、ただ敵に会えばよい事ではない。必勝の機をつかんで当らねばならぬ。また緩急は
軍監たる梶原景時は、元よりこんな軍事の初歩を義経から講義されようなどとは思いも依らない。心外な顔いろを露骨に示して、
「あいや」
と、
――自分が云おうとするのはそんな乳くさい論議ではない。実際問題である。すでに京を発足する時から、総攻撃は三日に決行すると揚言している。故に、糺方面では、息もつかず合戦を開始しているのに、それと一致して行動すべきここの陣地が、幾日も空しく送っているという法はなかろう。
三日もすぎ、四日もすぎ、五日も経って、きょうはすでに六日ではないか。
「ご所存がわからん。いったい、
景時は、自分のことばは、鎌倉殿のおことばも同様であるぞと云わぬばかり、かさにかかって
その
「総がかりを三日と云いふらしたは、敵に攻勢を取らせぬ為の策。四日は、亡き清盛入道の忌日とて、武士のなさけに、わざと過した。五日は
「ば、ばかな!」
景時は、
「敵が仏事をいとなむ日まで遠慮していたら、攻め入る日などありはしまい。まして、清盛入道など、源氏にとっては、その墳墓をあばいても飽きたらぬ仇敵だ」
「仇敵ながら、あの入道にも、人なみの涙はあったればこそ、幼時この義経も、ふしぎに
「むむ。なるほど」
「そういえば、御曹子の生みの母、常磐どのとやらも、入道のお世話になられたそうな。……無理もない」
義経の顔いろがさっと変った。ちらとそれを見ると、景時は、座を起って、
「いや、つまらぬ事のみつい申し上げた。余事はさて
と、云い直した。
それに対して義経はしばし答えもしなかった。彼の血は明らかにかき乱されていた。しかし水の澄むような落着きに帰ると、もとの笑くぼがその
「あすの夜明けまでには」
「え。あすの夜明け」
「蒲殿と一ノ谷で会おう。見事それまでに、東の城戸を打破って、お入りあるよう伝えてくれい」
景時は、無言で去った。
林の外に待たせてある一隊の従者を従え、ひどく急いで駒を飛ばして行った。義経は、その後で、軍議をひらき、静かに、人々の意見を徴していた。
「一ノ谷へかかるには、その前に、平
義経は、一同をながめて、そのいずれが上策かを、訊ねた。
夜討か。明方か。
この問題は、
(奇襲がよいか、正攻法に依るがよいか)
ということになる。
義経はこの問題を、ひどく重大に扱って、衆議にかけて、一同の意見をただしたが、考える余地もない事として、誰もみな、
「夜討」
「無論、夜討」
と、異口同音だった。
世間の
が、実数は甚だしく違う。
平軍は少なくも二万はあろう。けれど源軍は、宇治川以来の
しかも義経がこれへ率いて来た兵は、初めから荷駄も後続部隊もなく、軽敏な性格を隊伍にそなえて来たので、多くを範頼の指揮下にのこし、およそ七百ばかりの兵しか持たなかった。
それで敵の中核へと。
三草山の塁をふみ破って、一挙に、一ノ谷へ衝き入ろうというのである。
――それをなぜ?
「きょうの事は、ご評議までにも及ばぬ儀と思われますのに、なお、あのような分りきった問題を、何故、物々しゅう一同の意見へおただしにはなられましたか」
義経は、うなずいて、
「そちなどは、そうも思おう。しかし諸将には諸将の自負心がある。義経の所存は極まっているが、一義二義、わざと問題を出して、皆のものに、味わわせ、また気負い立たせて、一決を
と、教えた。
実平は舌をまいて
この御曹子は、いったい、いつのまに、こう兵学の
よほど感じたとみえて、彼はこの事を畠山重忠に、ありのまま
「われわれが、進んであの君の
と、おたがいに本望らしくほほ笑みを見交わした。
重忠も実平も、初めは範頼の指揮をうけていた将たちであった。ふたり共、感じることがあって、途中から義経の陣へ転じたのである。常に、義経のほうは、難攻の敵に向うので、志望者の少ないのを幸いに、進んで義経について来た者どもであった。
物見はたえず放っているが、その日も、
「敵は、新三位中将
夜に入ると、星影の
平家方でも
「さもあろう」
と、資盛以下、三草山の東麓にある将士は、義経の動かぬ様子を肯定していた。
「義経ごとき黄口児が、わずかな手勢をもって、この
と、
そこへ山上から急雨のような夜襲だった。闇のなかに狼狽をきわめた平軍は、われがちに
「討ちもらすな」
「ひとりも城戸の内へ生かして帰すな」
急追して
「長追いすな。みな集まれ。みな集まって一息いれよ」
義経は、
もう
「
この数日は
その間に義経は、重忠、実平などの重なる将たちと何ごとか手短に議していた。
ここに立って義経が、改めて一同に云うには、
「敵の逃げ足が早かったのは、あながち敵が弱いためばかりとは思えぬ。ここで戦うよりは、一ノ谷の要害に
彼は、そう前提してから、
「この小勢、この地形、味方に勝目のない事はいうまでもない」
と、絶対に尋常では
「――が、いつの世、いかなる場合でも、見た眼からして、
篝の火は、義経の横顔を燃やしていた。人のなし得ない役割をも甘んじてやりのける人とおなりなさい――鞍馬谷で打ちこまれた信念がその眸にはすわっていた。そこには、私心がない、小さな功名心とはちがうものである。何か、
「実平」
「はっ」
「ここよりは、全軍をお身の手にあずけるぞ。心して、西の城戸へ駈け向え」
「はっ。……して」
「わしは、なお、山路を深くはいって、
云いかけた時、うしろの兵のなかで、何か急に立ち騒ぐ声がした。
ひと所にかためておいた七、八名の捕虜が、隙をうかがって
「やっ、どこへ」
たちまち、追いかぶさって、逃げた捕虜もめった斬りにされたり突き伏せられたりして、一瞬ではあったが、血なまぐさい絶叫がそこに聞えた。
「斬るなっ」
義経はあわてて制した。しかし間にあわなかった。無傷にまだ生きていた捕虜はひとりしかなかった。
「大事にせよ。その者を、これへ曳いて来い」
やがて
その捕虜は、
生国姓名だけ聞きとると、義経はすぐ諸将に向き直って、
「では」
と、
ここで軍を二分し、そのあらましを土肥実平にゆだね、義経自身は少数の一部隊をひっさげて、
「――ちと、無謀だ」
と云いたげな色が、そのせつな諸将の顔にうごいたが、義経の眉を仰ぐと、なぜか
それは義経の
――成らねば死ぬまで。
鎌倉武士の心はそこへ飛躍すると華やかなここちになる。理はすてて、信念の究極へ、一気に行ってしまうのである。
それまでは、各

さわやかに、
「蒲殿が東門へ寄するも、あすの夜明けを期してかかろう。――それにおくるるな。呼応して、明け方までに、西の城戸へおめき寄せよ。義経も、
別れにのぞんで馬上から彼はもう一度こう本軍を励ました。
実平について須磨へ下った本軍のほうはおよそ六百余騎、――義経の手について、そこからなおも、山また山の道もない闇へ分け入って行った数は、七、八十騎にすぎなかった。
「道案内をせよ。一ノ谷のうしろまで出たら
捕虜の多賀菅六を馬の先に歩かせて、義経主従は、遮二無二馬をすすめた。
「
義経は、うしろに続く人々へ、そう云った。笑い声が答えてくる。誰か、とたんに落馬したらしい。また笑う。
密林の沢をこえると、徒歩でも困難な石山の嶮しい胸に行きあたる。星明りにも光るほど馬は汗にぬれていた。時折、鞍を下りて、駒を休ませた。
「もう、敵地の中」
誰も笑わなくなった。
また進む。いよいよ道はかすかだ。遅れる者、姿の見えない者などができてくる。
「あすは
さすがの武者ばらも、名残りのように時々星を見た。しかし義経は、死中に活路の希望も持った。死中の道を避けて、必勝の道はないと信じていた。
「はて。迷ったかな」
そのうちに、人々は、駒をとめて
「方角が違う気がするが」
「そうだ、いくら行っても、山深くなるばかり」
畠山重忠は、道案内の多賀菅六へ向って
「菅六とやら、この方角に間違いないか」
「はい。たぶん、間違いは、ないつもりでございますが」
今になって、捕虜の菅六はあいまいな
「さては故意に、われらを道に迷わせたな」
三浦
「待て義連。悪意ではあるまい。生命惜しさに、道案内には立ったが、常には人も通わぬ難所、その男とて、詳しい道はわからぬのがほんとだろう。――誰ぞ、身軽に駈けあるいて、この附近に
人数は少ない。義経のそういいつける声は一隊の端まで聞えた。
たちまち、馬をつないでわらわらと幾人かが駈け去ってゆく、その間を、義経も鞍から降りて休んでいた。
すると程なく、
若者はそこまで来ると、恐れたものか、どうしても歩かないので、小二郎は腕ずくで、義経の前へひきすえた。
「あの山のうしろの沢に、小屋の灯が見えましたゆえ、近づいてみると、年老いた猟師とこの伜がおりましたので、親を承知させて借受けて参りました。このあたりの山の事なら知らない事はない息子だと親は自慢でござりました」
直家が云うと、大勢のなかに引きすえられたその若者は、眼が
「……ホ。左様か」
と、義経は、やさしく、
「名は、何という」
まず訊ねた。
若者はかぶりを振った。名はないのかと訊くと、頭をたてに振ってうなずく。
まわりの人々が笑うので、若者はよけいに固くなるばかりだった。――年はと訊けば、十七と答える。
十七にもなって、名のない者はあるまい。親たちは何と呼ぶかと訊ねると、せがれとしか呼んだことはないという。
「では、世間の人は」
と、訊くと、自分の小屋のある辺が、
「そうか」
最前からの彼の容子に、義経は始終ほほ笑まれた。愛らしくさえ思われた。武士になるかときけば率直に、なりたいと云う。そして初めて、強烈な眸をして義経のすがたを仰ぎ、幾たびも頭を下げた。
「姓は、鷲尾でよかろう。時は春、わが一字を添えて、
義経のことばに、若者は、身のおき場も知らぬばかりな
「
と、案内を促されると、彼は勇躍して、一同の先に立ち、
「そう遠くはない」
と、無造作に歩きだした。
急に、大地は眼のまえで
「一ノ谷」
「一ノ谷だ」
口々に思わず云う。その
人よりも勘のするどい馬は、早、
「崖へのぞんで、岩を崩すな。馬を締めて、
義経は、戒めながら全軍を後ろの木の間にかためた。
そして四、五騎の者だけで、
「お、お」
のぞき下ろすと、敵の本拠はあまりにも眼に近いのではっとした。眼もくらむほど深さは深いが、平家の中枢と、自分等との距離としては、最小限度の近さである。
しかも平家方では、夜来の情勢に緊張して、寝もやらず諸所に
そのあたりを
「どうしてここを
重忠も、また日頃我武者をもって任じる三浦義連も――凝然と下を見ているだけだった。
義経の馬の口輪をしかと握っていた佐藤
「これは」
と、五、六歩駒をうしろへひいて、
「如何召さるお心?」
と、主の面を仰いだ。
義経は、しきりと
元より彼は、一ノ谷のうしろの
平常の常識の程度は、敵にもある常識である。
人の眼と智がみな、
不可能!
と、極めているなかに可能を見出すことこそ、非常な時の常識というものではあるまいか。
「…………」
義経はしきりとまだ
「鷲尾。鷲尾」
案内して来た例の若者をかえりみて訊ねた。
「この山を鹿は通わぬか」
「鹿? ……。ああ鹿ですか。冬近くなると丹波の鹿が、よく一ノ谷へ越えます。春暖かになるとまた、一ノ谷から丹波へ帰って行くので」
「そうか。鹿の
「いえ、鹿なればこそで、馬や人では」
鷲尾の若者さえ危ぶんでいるのに、義経は耳にもかけない眉して云った。
「忠信、継信、空馬を二頭これへ曳いて来い」
「はっ。馬をですか」
――心得て、継信、忠信の兄弟は味方の七、八十騎がひそんでいる後方の林へ駈けて行った。
そのあいだ、義経は鞍のうえに静かな姿を見せていた。今は、もう何も雑念のない姿かに見える。海も空も一色のまま未だ明けない宇宙にむかって、駒を
「九郎様」
誰か、馬のわきに、ひざまずいたようである。義経は、地を見て、
「まだおったか」
と、不興気に云った。
「へい」
吉次は、
「……へい。もうここで、帰らせていただきまする。
「帰るがいい。気をつけて。……そうだ鷲尾の若者と一しょに戻れ」
「ありがとう存じます。……が、後へもどるてまえの身よりも、あなた様こそ、どうか、どうか、ご武運よく、戦いぬいて、またお目にかかれますよう、吉次は祈っておりまする」
「何をいう」
声なく笑って、
「吉次、あてにもならぬ事、祈らぬがましぞ。祈れば後がくやまれる」
「くやまれましょう。もしもの事があった場合は。……もうそうなったら、吉次は望みもございません。僧門にでもはいります」
「鞍馬以来、そちにはずいぶん世話をやかせたな。わがままをしたな。礼をいおう。吉次、そちにも一つの恩はある」
「もったいない」
吉次が、あわてて手をふりながら、馬上を仰いだ時である。義経の横顔に、
東の
義経の眼も心も、しばしその
「あ、吉次。まだいたか」
「はいっ」
「よかった。そちには、そちならでは出来ぬ大役の頼みがあった」
「な、なんでございますか」
「――それも、この断崖の下へ行きつくまで、義経のいのちが無事であったらば――だが」
「ともあれ、仰せ下さい。伺っておきましょう」
「
「奥州船は、いかほども参っておりませぬが」
「ともあれ、難波へ急ぎ、そちの力で集められるだけの船を、淀の口、渡辺あたりへ寄せおいてくれ。――船底には
「船数は」
「多いほどよい。いかに多くても余るほどは寄るまい。源氏の兵馬がみな乗るには」
「わかりました」
吉次は、辞儀をして起った。もう義経の胸にできている次の作戦が彼にもおぼろながら読めた。
「たのむぞ。はやく行け」
「では――」
と、吉次は、万一これが最期の別れとなるかも知れないと思うので、なお、すぐには立去りもせず、すこし後へ退がると、待ちかねていた佐藤兄弟が、
「馬を引きました。これでよろしゅうございましょうか」
二頭の口輪をとって、その裸馬を、義経の左右へ寄せた。
義経は打ちうなずいて、
「その二頭を、絶壁の真下へ、落してみよ」
と、命じた。
継信も忠信も、彼の心をはかりかねたように、念を押した。
「落せとは」
「追い落すのだ」
「はっ」
ふたりは、断崖の際へ、馬の首を引っ張った。しかしやや近づくと、馬は恐れてそれ以上は動かなかった。
「誰ぞ、駒のしりを打て」
あわてて兄弟が云うと、おうと、他の者が馬のうしろへ廻って、
「打つぞ」
鞭を鳴らした。
とたんに、継信も忠信も、馬の口から手を離した。あやうく、宙へたてがみを振り立てた馬
二頭の裸馬は、断崖からまっ逆さまに落ちて行った。下まで、深さは何百尺か眼づもりもつかない。
「…………」
義経以下、大勢の顔が、息もせず、その一瞬をのぞき下ろしていた。白っぽい小石まじりの土砂に、所々、大きな岩石が露出している。土層の段ごとに、雑草や小松がまばらに
元よりその一つの縞にも、馬は立ちどまらなかった。ひと段ごとに、土砂を蹴りくずし、下まで勢いよく落ちて、一頭は脚を折ったらしくそのまま
この試みからみると、危険率はちょうど相なかばしている。
「見たか、各

義経は早、断崖にのぞんで、駒を立てならべた人々をかえりみながら云った。
「馬と人一体に、心して駈け落せば、七十の兵のうち、三十五騎は生きのころうぞ。――まず義経が先駈けして見せ申さん。義経が馬の立てようを見習い候え」
彼は、云い終ると、すぐ自身の馬の後脚を折敷かせ、手綱を
「おうっ」
「――おうっッ」
「それっ」
おくれじと、劣らじと、鎌倉武士のたましいは、白熱して
彼のやしきは新たに六条室町にさだめられた。義経が一部の手勢を引いて、そこへ
市中は、まるで祭のような騒ぎだった。その中で、平家のために、
「変れば変るもの」
と、泣いている女もあるし、
「いよいよ時代は
と、興奮している若者もあり、念仏をとなえて、
一ノ谷で討たれたと聞えた平家の将は、重なる人々だけでも
平
首は十三日の頃、
奏聞の儀もすみ、鎌倉へはもちろん次々に早打ちで報告もした。居ながらに、合戦の状況と処理のよく分るよう、義経は特に兄頼朝へ心をつかった。いや鎌倉どのの代官として
――が、その兄からは、
「よくいたした」
という一片の返事もない。
範頼のほうへは、それが来ているらしいと聞くが、義経には沙汰もなかった。しかし義経は、兄から恩賞の沙汰を聞こうなどと期待しているのではない。彼の帰京は、朝廷、鎌倉への報告と共に、平家方の打首や
彼の
「いかにして、屋島を?」
彼は、一ノ谷を
一ノ谷から
しかも、九州をひかえ、中国に接し、日一日、その勢力は増強するに極まっていた。
――もし生あらば。
と、彼が次の作戦のため、吉次にいいつけておいた船の準備も、あの男の事である、もう手配もついて
それやこれ。
彼の胸はせわしかったが、鎌倉の指令は、いっこうに急でなく、朝臣のうちにはまた、政治的なうごきが再燃しだした。
源氏に
「源氏と和議を講ぜよ」
と、云い送ってあるというようなうわさも聞えた。
とこうするうち、半年の余、むなしく過ぎてしまった。義経は、むなしい日々をどうする事もできなかった。
「――近ごろ心外に存じまする」
と、
佐藤継信、忠信の兄弟だった。
義経は、
「心外とは、何を」
と、さりげなく訊ねた。
継信は、いつになく激して、その義経の面を見つめながら、
「おつくろい遊ばしますな。おそらく、われら以上、殿のお胸には、ご無念が抑えられておありでしょう」
「はての……。なぜ?」
「くちおしゅうございます」
兄弟とも、両手と共に、それへ
「わからぬ。何の事やら」
「……鎌倉殿のお
「よいではないか。――それが何で心外か」
「――にも関わらず殿へ対しては、その後も何のお沙汰もないそうです。露骨なご
「何をいう。義経は、恩賞をのぞんで戦ったものと、そち達まで思うか」
「いや。……決して左様な心根とはぞんじません。しかし事実上、京都ご守護のお役を奉じながら、何の官職もなくては、朝廷のご用が勤まりません。無位無官では、いかに忠勤をおはげみ遊ばそうとしても」
「そんな事はない。鎌倉殿の代官とし、京都にある身ゆえ、この三月には、高野の僧衆と
「それは人々が殿へ帰服を示しているからで、その実績に対しても、鎌倉殿から何らかのおことばがあって然るべきでしょう。ましてや宇治川以来、一ノ谷のあのように迅く陥ちた功績は、いったい誰にあると思し召しておらるるのか。おこころの程が
云うなと叱っても、二人は云い
で、義経の直臣たちは、先ごろ
ところが、その願いはかえりみられず、嘆願書は問注所から突っ返され、かえって義経に対して、頼朝の不興と疑いは深まっているという噂さえ鎌倉から聞いたのである。
嘆願書に名を連ねた面々は、自分らの盲動が、予期に反して、主君をより以上の苦境に立たせたという点から、
「申しわけない」
と、悲涙を押しぬぐって、
「――この上はどうする」
という策もなかったが、佐藤兄弟のみは、かねて奥州を去る折、藤原秀衡から云いふくめられていた事もあるので、今は都にとどまって何のかいがありましょう、はや、ご加勢の事は断念して、いさぎよくこの地を去り、ふたたび奥州へさしてお帰りあれと――そう義経のために、真心をもって、
――と、義経は、ふたりの諫言を、
「義経は、死しても帰らぬ。そち達、
と、きっぱり云った。
平家退去の時、大半、焼払われもしたが、京都の町や、途ゆく人の粧いは、わずかなまに
べつに、法令をもって、
(平家風は相ならぬ)
と、律したわけではないが、一頃のこれ見よがしな華奢な音階や色調は去って、どことなく実質を内容にもとうとする風が見えだして来た。
――と云っても、庶民の心には今、言わず語らず、次の時勢にかけている希望がある。大きな行くてを望んで理想する民衆は、必然、明るい色を好んだ。高い足なみに合う音楽を欲した。地味よりも派手を求めた。
だが。
派手も明るさも、平家の人々が
剛健な明るさである。われこそ奉公の道にかけては人に
(鎌倉
と、人々はささやいた。
多くは義経の部下だった。その人々から一つの風が興ったともいえる。いつか庶民の風俗もそれに
「ここだな、弟」
「むむ。この寺」
六条坊門から北山のほうへ曲がって、もう農家しか見えない辺りに、
佐藤兄弟は、そこを通って、寺僧へ何かいうと、僧は顔見知りと見え、すぐ二人を案内して奥の客室へ導いた。
「おう、これは」
腹這いになって、頬杖つきながら、
「どうなさいました。おふたり共、いつになくお元気がないが」
寺の食客は、奥州の吉次であった。白拍子の家で幾月もこうしていた彼の都ぐらしも一時代前となった。洛中大火の時、
「いや吉次。実は、こう
「ほ。お暇を出されましたか」
「奥州へ帰るがよいと、きついご不興をうけ、お詫びいたしたが、お聞入れもない。……で、
「いけません」
吉次は、手を振った。
「この吉次も、一ノ谷でお別れしたきり、ずっと、お目にかからずにいるところです。難波の淀の口に、たくさんの船を借りあつめ、今か今かと、ご出軍を待っていたが、とうとうお沙汰なしで、えらい手違いをやってしもうた。……しかし、その私が、お目にかかりに参上したら、お辛いに相違ない。……手前もまた、あの君の、ご無念なお顔を見てもしかたがない。そのうちには、風のふき廻しも変るだろう――そう気永に考えて、きょうも半日、蟻の
「そう出ばなを取られては」
と、継信と忠信は、当惑そうに顔を見あわせて、
「でもまあ、はなしだけでも聞いてくれい」
「おはなしだけなら伺ってみましょう。……が、たいがい分っています。きっとあなた方お
「そうだ。――だが、申し上げたが無理だろうか。わし達は、残念でたまらぬのだ。吉次、そちはどう思う。鎌倉殿のお仕打を」
義経を思う余りに、ふたりの抱いている不平は、元より吉次も抱いている不平だった。
従って、継信と忠信が、泣かぬばかり憤慨して云うところは、いちいち同感であった。共に、貰い泣きしてしまわぬばかりその
だが、吉次は、
「もう、やめましょう」
と、顔を振った。
今は、何も語りたくない、また聞きたくもないと、興のない
「それよりは、ご勘当をうけたあなた方は、これからどう召さるお心か。――故郷の奥州へお立帰りなさいますか」
と、訊ねた。
「なんでこのまま、帰られるものか。
弟の忠信は、兄以上、感情にさし迫っていた。
このうえは関東へ下って、問注所の人々をうごかすか、鎌倉殿へ
「いけません。むだですよ」
吉次はまた、手を振った。
「なぜ鎌倉殿が、あのように、源九郎様に
「それでいいものか。
「
「わし達の
「いや、鎌倉殿とて、まるで血の気のないわけでもございますまい。人しれず、そこは悩んでおられましょう。……が、そうした心の
「讒者。……ムム、梶原景時の
「聡明なお方に似あわず、
「――とあればなおさら、死を
「それも、讒者に悪用されるだけでしょう。鎌倉殿のお憎しみは、九郎様へ深まるとも、薄らぐはずはありません。――それ程、あなた方が、ご主君を思うならば」
と、吉次の眼はそこで急に燃えつきそうに二人へ迫って来た。彼は、からだまでのり出して、声をひそめ、思い入れをしてから云った。
「どうです、いっその事、源九郎様を立てて鎌倉殿の手から離れるように
「では、鎌倉殿へ弓をひけとそちは、云うのか」
「ま。そういうわけです」
平然と、吉次は答えた。
吉次の
そうかといって、鎌倉殿へ直訴のことも、効果は疑われる。
佐藤兄弟は、迷った。
奥州へ帰る気は元よりない。吉次のいる寺に、ふたりもつい幾月かをなす
――が、毎日
政治的に、軍事的に、義経をめぐって、事情はよほど変ってきた。
秋、十月の
六条室町の義経のやしきから美々しい八葉の車がひき出された。
「判官どのが出られる」
「大夫判官様が、初のご参内じゃそうな」
辻々に人が駈け出て、車のうちなる人を見ようとした。
八葉の車のうちには、平和な装いをした義経が
容貌優雅にして、進退のやさしさ、義仲などの類 にはあらず。
ことのほか京馴れてこそ見えたれ。
と、あるほど、それは端麗でもの静かな人がらと群衆の眼にも映った。ことのほか京馴れてこそ見えたれ。
鎌倉殿との、複雑ないきさつなどは、群衆のあたまにはない。ただ当然なこととして見送っていたのである。
「だが、これは、一体、どうした事?」
と、佐藤継信と忠信は、ひそかに六条のやしきに残った旧友に訊ねてみると、鎌倉と義経とのあいだは、以前にもまして良くないが、特に、後白河法皇の
いずれその前から、法皇のお耳にも入っていたにちがいない。義経の人間、義経の功労に対して、先に、
(兄のゆるしを待たずには)
と、固辞して、ただ恩命のありがたさに涙していた。
が、たっての院旨を、そんな私の理由で、再三拝辞することの
(恐らく、義経が内々の所望によって、
と、ひどく不興であったという。
そしてその返辞には、
(頼朝の代官として、平家追討使たるの役目は、今日以後、その任を解く)
と、いう沙汰だった。
義経は、兄の心を知るに苦しんだ。そしてその苦しみを、兄の怒りを解くほうへ向けようと心をくだいた。
そういう心境のままに、この十月、かさねて今度の恩命に接したのであった。――従五位下、大夫判官とよばれることとなり、同時に、院内ならびに参殿をもさし許されたのである。
八葉の車は今日、お礼のため、
「そういえば、あのお顔に、お欣しそうな影もなかった。秋日の
継信と忠信は、そう語りあって、断腸の思いがした。
法皇の恩寵と、鎌倉との板ばさみになって、この
「――忠信」
「はい」
「わしたち
「あたりまえです!」
吉次のいる寺へと、その日も帰ってゆく
――転じて、屋島を中心に、瀬戸内海を抱く国々の動静を見るに、一ノ谷敗退後の平家は、まったく勢いをもり返して、その陣容からでは、
「いったい戦は、源氏が勝ったのか、平家が勝っているのか」
と、疑われるような形を
「義経なくとも」
と、中国から九州へまで、源軍の大将として下ったが、むしろ彼を、手に
「船がありません。
と、鎌倉へあてて、
義経にはきびしい頼朝も、範頼には甘すぎるほど寛大だった。自身で
正月となる。文治元年。
ここを基地として、平家を攻めるつもりだったが、ここでも兵船が手に入らない。また、糧食もつづかない。
「何たる
部下さえ感じ出した。範頼の作戦は根本から
屋島を本拠に、平家は、瀬戸内海の制海権を占めている。それに対して、いたずらに沿岸各地をさまよい、敵の誘導戦術にのって、九州まで南下してしまい、気がついた時は、京都との連絡を、うしろの中国路で敵に見事遮断されていたのである。
「無能」
という衆評が、誰いうとなく源軍のあいだに
「故郷がこいしい」
大びらに云う者がある。和田義盛すら、鎌倉へ帰ろうとした。兵の脱軍が続出する。
鎌倉でもさすがに見ていられなくなった。頼朝は急使を向けて、
「九州攻めはよさぬか、敵の本拠は九州ではない。四国を討て」
と命じたが、間にあいそうもない。
京都にある義経に対して、
「急遽、出動せよ」
と、兄頼朝の書状がとどいたのはこの際であった。
義経は、それを見て、
(身勝手な兄)
と思う
「これで、兄の怒りも解けた。この天下大事の
真実、彼の考えはとたんに死ぬ事であった。死を誓わずしての今度の出陣などは、彼には、思いもよらなかった。
その日、勢揃いして、院の御所を拝し、いよいよ戦地へ出発という際、彼は、国々の武者どもへ向ってこういい渡した。
「義経、このたび
隣の部屋の物音に、吉次は寝どこの内で眼をさましていた。
朝、眼をさますと、
「おれの持船も、ことし中には百艘になろう。国もとで
と、全財産を計ってみたり、貨幣の運転を考えてみたりするのが、彼の習性であり、楽しみであり、またその日の生活の始まりだった。
――が、その朝は、隣の部屋のひそひそ声や、微かな音が、妙に気になって、
「侍というものは、底の知れないばかな者だ」
と、冷淡にはしていても、自分の夢だけに楽しんでもいられなかった。
隣には、寺に乞うて去年から佐藤兄弟が住まっていた。その継信、忠信のふたりは、昨夜、
「もう生きてお目にかかる折もあるまい」
と、改まって、吉次に別れをのべ、酒を
今日、義経の出軍に、何と主君から叱られようが、追いついて
「……それを、あんなに?」
吉次には、不可解であった。侍の心理にあきれ果てた。
「死に行くのが、あんなに欣しいものか」
ゆうべはまだ疑っていたが、今朝は暗いうちに起き、いそいそと、時折、笑いさざめいたりして、この半年、
余り楽しげなので、吉次は
「いよいよお立ちですかな」
と、そこをさし覗いた。
若い者たちの血気の愚を、もう
「おう吉次か、今、声をかけようかと思っていたところ」
兄弟はすでに
すぐ起って、
「さらば。そちも
と、
陽が高くなる。
吉次はいつもの如く朝飯の膳についた。まずそうに
「…………」
小半日、陽なたの縁で、膝をくんでいた。
北側の
初めのうちは、死者と自分は、区別がついていたが、いつのまにか分らなくなって来た。
「……どっちが生きているんだろう? いつまでも」
そんな気がしだして来た。
なぜなら、白骨となっても、生きているものが無数にある。形はないが、文化の流れに、国土のうえに、その仕事や精神を、
「……おれは?」
どう生きても十年か二十年にすぎない自己の肉体をながめまわした時、吉次の心は、生きる力とも信じ、歓びともしていた国元の莫大な財産が、そこらの日陰に積もっている落葉の山に思われて来た。
「……変だぞ、今日は」
気を持直すつもりで、起って、本堂のほうへ歩いて行った。すると、わずかな
「――
会葬者の一群は、寺の縁にかたまって、鐘の鳴りだすまでの間を、のどかに語りあっていた。
その日、四月十二日、頼朝夫妻は、亡父義朝の
式事もすむ頃――
そこへ、義経からの、壇ノ浦
「折も折、この快報!」
居あわせた群臣は、万歳のどよめきを揚げた。
「…………」
終ると、頼朝は
政子の
「遂に平家も、亡び去った」
日を経て。
頼朝は営中の一室に、梶原景時を近づけていた。
「……義経が行状、その後もやはりそうした
頼朝は怒っていた。
聡明なる
「幼少生死にさまよい、二十年を配所にひそみ、
だが、こうした言を、彼もまったく
世の衆望は今、にわかに、義経を
――が、感嘆は、恐怖にまで変ってきた。たえず自分との比較の対象にした。小心なと、反省もしてみるが、無視するには、義経の天質が
わけて法皇の
ところへ、
でも、義経は、なお兄を信じて疑わず、
「やがて、よいご消息も」
と、便りを待ちぬいていたのである。
それにこたえた頼朝の沙汰は、同月二十九日に発しられた彼への「勘当」であった。
「おまちがいだ! 何者かの讒言だ」
義経は、火となった。情に
が、頼朝は、彼の鎌倉に入るを許さない。
義経は
世にいう「
その後――
吉野の
豆ヲ煮ルニ豆ノ箕 ヲ燃 ク
豆ハ釜中 ニアツテ泣ク
本 是レ同根ヨリ生ズ
相煮ル何ゾ太 ダ急ナル
有名な豆ハ
相煮ル何ゾ
幕府鎌倉。
それも遂に、長くなかった。この時代、ひとり頼朝のみではないが、自己の手脚の主体を知りながら、同根
作者はいつも、覇者頼朝に、その一点を惜しみ、人間頼朝に、「豆の詩」を思うて