神州天馬侠

吉川英治








 私は、元来、少年小説を書くのが好きである。大人おとなの世界にあるような、きゅうくつ概念がいねんにとらわれないでいいからだ。
 少年小説を書いている間は、自分もまったく、童心どうしんのむかしに返る、少年の気もちになりきッてしまう。――今のわたくしは、もう古い大人だが、この天馬侠てんまきょうを読み直し、校訂こうていの筆を入れていると、そのあいだにも、少年の日が胸によみがえッてくる。
 ああ少年の日。一生のうちの、とうとい季節だ。この小説は、わたくしが少年へ書いた長編の最初のもので、また、いちばん長いものである。諸君の楽しい季節のために、この書が諸君の退屈たいくつな雨の日や、さびしい夜の友になりうればと思い、自分も好きなまま、つい、こんなに長く書いてしまったものである。
 いまの日本は、大人の世界でも、子どもの天地でも、心に楽しむものが少ない。だが、少年の日の夢は、せさせてはいけない。少年の日の自然な空想は、いわば少年の花園はなぞのだ。昔にも、今にも、将来へも、つばさをひろげて、遊びまわるべきである。
 この書は、過去の伝奇でんきと歴史とを、わたくしの夢のまま書いたものだが、過去にも、今と比較して、考えていいところは多分たぶんにある。悪いところは反省し、よいところは知るべきだと思う。その意味で、鞍馬くらま竹童ちくどうも、泣き虫の蛾次郎がじろうも、諸君の友だち仲間へ入れておいてくれ給え。時代はちがうが、よく見てみたまえ、諸君の友だち仲間の腕白わんぱくにも、竹童もいれば、蛾次郎もいるだろう。大人おとなについても、同じことがいえる。
 以前いぜん、これが「少年倶楽部」に連載されていた当時の愛読者は、成人せいじんして、今日では政治家になったり、実業家になったり、文化人になったりして、みな社会の一線に立っている。諸君のお父さんや兄さんのうちにも、その頃の愛読者がたくさんおられることと思う。
 わたくしはよくそういう人たちから、少年時代、天馬侠てんまきょうの愛読者でした――と聞かされて、年月の流れに、おどろくことがある。もし諸君がこのしょを手にしたら、諸君の父兄ふけいやおじさんたちにも、見せて上げてもらいたい。そして、著者の言伝ことづてを、おつたえして欲しい。
 ――ご健在けんざいですか。わたくしは健在です、と。
 そして、いまの少年も、また天馬侠を読むようになりました、と。

昭和二四・春
著者
[#改丁]





武田伊那丸たけだいなまる




 そよ風のうごくたびに、むらさきの波、しろい波、――恵林寺えりんじうらのふじの花が、今をさかりな、ゆく春のひるである。
 しゅ椅子いすによって、しずかな藤波ふじなみへ、目をふさいでいた快川和尚かいせんおしょうは、ふと、風のたえまに流れてくる、法螺ほら遠音とおね陣鉦じんがねのひびきに、ふっさりしたぎん眉毛まゆげをかすかにあげた。
 その時、長廊下ながろうかをどたどたと、かけまろんできたひとりの弟子でしは、まっさおなおもてをぺたりと、そこへせて、
「おッ。おさま! た、大変たいへんなことになりました。あアおそろしい、……一大事いちだいじでござります」
 としたをわななかせてげた。
「しずかにおしなさい」
 と、快川かいせんは、たしなめた。
「――わかっています。織田おだどのの軍勢ぐんぜいが、いよいよ此寺ここへ押しよせてきたのであろう」
「そ、そうです! いそいで鐘楼しょうろうへかけのぼって見ましたら、森も野もはたけも、軍兵ぐんぴょう旗指物はたさしものでうまっていました。あア、もうあのとおり、軍馬のひづめまで聞えてまいります……」
 いいもおわらぬうちだった。
 うら山の断崖だんがいからふじだなの根もとへ、どどどどと、土けむりをあげて落ちてきた者がある。ふたりはハッとして顔をむけると、ふんぷんとゆれ散ったふじの花をあびて鎧櫃よろいびつをせおった血まみれな武士ぶしが、気息きそくもえんえんとして、にわさきにたおれているのだ。
「や、巨摩左文次こまさもんじどのじゃ。これ、はやくのものをおろして、水をあげい、水を」
「はッ」と弟子僧でしそうははだしでとびおりた。鎧櫃をとって泉水の水をふくませた。武士は、気がついて快川かいせんのすがたをあおぐと、
「お! 国師こくしさま」と、大地へ両手りょうてをついた。
「巨摩どの、さいごの便たよりをお待ちしていましたぞ。ご一門はどうなされた」
「はい……」左文次はハラハラとなみだをこぼして、
「ざんねんながら、新府しんぷのおやかたはまたたくまに落城らくじょうです。火の手をうしろに、主君の勝頼公かつよりこうをはじめ、御台みだいさま、太郎君たろうぎみさま、一門のこり少なの人数をひきいて、天目山てんもくざんのふもとまで落ちていきましたが、目にあまる織田おだ徳川とくがわの両軍におしつつまれ、みな、はなばなしく討死うちじにあそばすやら、さ、しちがえてご最期さいごあるやら……」
 と左文次さもんじのこえは涙にかすれる。
「おお、殿とのもご夫人もな……」
「まだおん年も十六の太郎信勝のぶかつさままで、一きわすぐれた目ざましいお討死うちじにでござりました」
「時とはいいながら、信玄公しんげんこうのみまで、てきに一歩も領土りょうどをふませなかったこの甲斐かいの国もほろびたか……」
 と快川かいせんは、しばらく暗然あんぜんとしていたが、
「して、勝頼公の最期のおことばは?」
「これに持ちました武田家たけだけ宝物ほうもつ御旗みはた楯無たてなし(旗と鎧)の二しなを、さきごろからこのお寺のうちへおかくまいくだされてある、伊那丸いなまるさまへわたせよとのおおせにござりました」
 そこへまた、二、三人の弟子僧でしそうが、色を失ってかけてきた。
「おさま! 信長公のぶながこうの家臣が三人ほど、ただいま、ご本堂から土足どそくでこれへかけあがってまいりますぞ」
「や、敵が?」
 と巨摩左文次こまさもんじは、すぐ、陣刀じんとうつかをにぎった。
 快川かいせんは落ちつきはらって、それを手でせいしながら、
「あいや、そこもとは、しばらくそこへ……」
 と床下ゆかしたをゆびさした。急なので、左文次も、宝物ほうもつをかかえたまま、えんの下へ身をひそめた。
 と、すぐに廊下ろうかをふみ鳴らしてきた三人の武者むしゃがある。いずれも、あざやかな陣羽織じんばおりを着、大刀だいとうりうたせていた。まなこをいからせながら、きッとこなたにむかって、
国師こくしッ!」
 と、するどくびかけた。


 天正てんしょう十年の春も早くから、木曾口きそぐち信濃口しなのぐち駿河口するがぐちの八ぽうから、甲斐かい盆地ぼんちへさかおとしに攻めこんだ織田おだ徳川とくがわ連合軍れんごうぐんは、野火のびのようないきおいで、武田勝頼たけだかつより父子、典厩信豊てんきゅうのぶとよ、その他の一族を、新府城しんぷじょうから天目山てんもくざんへ追いつめて、ひとりのこさずちとってしまえと、きびしい軍令ぐんれいのもとに、残党ざんとうりたてていた。
 その結果、信玄しんげん建立こんりゅうした恵林寺えりんじのなかに、武田たけだの客分、佐々木承禎ささきじょうてい三井寺みいでらの上福院、大和淡路守やまとあわじのかみの三人がかくれていることをつきとめたので、使者をたてて、落人おちゅうどどもをわたせと、いくたびも談判だんぱんにきた。
 しかし、長老の快川国師かいせんこくしは、故信玄こしんげんおんにかんじて、断乎だんことして、織田おだの要求をつっぱねたうえに、ひそかに三人をがしてしまった。
 織田おだ間者かんじゃは、夜となく昼となく、恵林寺えりんじの内外をうかがっていた。ところが、はからずも、勝頼かつより末子ばっし伊那丸いなまるが、まだ快川かいせんのふところにかくまわれているという事実をかぎつけて、いちはやく本陣へ急報したため、すわ、それがしてはと、二千の軍兵ぐんぴょう砂塵さじんをまいて、いま――すでにこの寺をさして押しよせてきつつあるのだ。
 快川かいせんは、それと知っていながら、ゆったりと、しゅ椅子いすから立ちもせずに、三人の武将をながめた。
「また、織田おだどのからのお使者ですかな」
 と、しずかにいった。
「知れたことだ」となかのひとりが一歩すすんで、
国師こくしッ、この寺内じない信玄しんげんの孫、伊那丸をかくまっているというたしかな訴人そにんがあった。なわをうってさしだせばよし、さもなくば、寺もろとも、きつくして、みな殺しにせよ、という厳命げんめいであるぞ。きもをすえて返辞へんじをせい」
「返辞はない。ふところにはいった窮鳥きゅうちょうをむごい猟師りょうしの手にわたすわけにはゆかぬ」
 と快川のこえはすんでいた。
「よしッ」
「おぼえておれ」と三人の武将は荒々しくひッ返した。そのうしろ姿すがたを見おくると、快川かいせんははじめて、椅子いすをはなれ、
左文次さもんじどの、おでなさい」
 と合図あいずをしたうえ、さらにおくへむかって、声をつづけた。
忍剣にんけん! 忍剣!」
 呼ぶよりはやく、おうと、そこへあらわれた骨たくましいひとりの若僧わかそうがある。若僧は、白綸子しろりんずにむらさきのはかまをつけた十四、五さい伊那丸いなまるを、そこへつれてきて、ひざまずいた。
「この寺へもいよいよ最後の時がきた。お傅役もりやくのそちは一命にかえても、若君を安らかな地へ、お落としもうしあげねばならぬ」
「はッ」
 と、忍剣にんけんおくへとってかえして、鉄の禅杖ぜんじょうをこわきにかかえてきた。背には左文次さもんじがもたらした武田家たけだけ宝物ほうもつ御旗みはた楯無たてなしひつをせおって、うら庭づたいに、扇山せんざんへとよじのぼっていった。
 ワーッというときの声は、もう山門ちかくまで聞えてきた。寺内は、本堂ほんどうといわず、廻廊かいろうといわずうろたえさわぐ人々の声でたちまち修羅しゅらとなった。白羽しらは黒羽くろはの矢は、疾風はやてのように、バラバラと、庭さきや本堂の障子襖しょうじぶすまへおちてきた。
「さわぐな、うろたえるな! 大衆だいしゅは山門におのぼりめされ。わしについて、楼門ろうもんの上へのぼるがよい」
 と快川かいせんは、伊那丸いなまるの落ちたのを見とどけてから、やおら、払子ほっすころもそでにいだきながら、恵林寺えりんじ楼門ろうもんへしずかにのぼっていった。
「それ、長老と、ご最期さいごをともにしろ――」
 つづいて、一ざん僧侶そうりょたちは、おさな侍童わらわのものまで、楼門の上にひしひしとつめのぼった。
 寄手よせての軍兵は、山門の下へどッとよせてきて、
「一ざんの者どもは、みな山門へのぼったぞ、下から焼きころして、のちの者の、見せしめとしてくれよう」
 と、うずたかくれ草をつんで、ぱッと火をはなった。みるまに、うずまく煙は楼門をつつみ、紅蓮ぐれんほのおは、百千の火龍かりゅうとなって、メラメラともえあがった。
 楼上ろうじょうの大衆は、たがいにだきあって、熱苦のさけびをあげてしまろんだ。なかにひとり、快川和尚かいせんおしょうだけは、自若じじゃくと、椅子いすにかけて、まゆの毛もうごかさず、
「なんの、心頭しんとうをしずめれば、火もおのずからすずしい――」
 と、一のことばを、微笑のもとにとなえて、その全身を、ほのおになぶらせていた。


「おお! 伊那丸いなまるさま。あれをごらんなされませ。すさまじい火の手があがりましたぞ」
 源次郎岳げんじろうだけの山道までおちのびてきた忍剣にんけんは、はるかな火の海をふりむいて、なみだをうかべた。
国師こくしさまも、あのほのおの底で、ご最期さいごになったのであろうか、忍剣よ、わしは悲しい……」
 伊那丸いなまるは、遠くへ向かってを合わせた。空をやく焔は、かれのひとみに、生涯しょうがいわすれぬものとなるまでやきついた。すると、不意だった。
 いきなり、耳をつんざく呼子よびこが、するどく、頭の上で鳴ったと思うと、かなたの岩かげ、こなたの谷間から、やり陣刀じんとうをきらめかせて、おどり立ってくる、数十人の伏勢ふせぜいがあった。それは徳川方とくがわがたの手のもので、酒井さかい黒具足組くろぐそくぐみとみえた。忍剣は、すばやく伊那丸を岩かげにかくして、じぶんは、鉄杖てつじょうをこわきにしごいて、敵を待った。
「それッ、武田の落人おちゅうどにそういない。てッ」
 と呼子をふいた黒具足の部将ぶしょうは、ひらりと、岩上からとびおりて号令ごうれいした。下からは、やりをならべた一隊がせまり、そのなかなる、まッ先のひとりは、流星のごとく忍剣の脾腹ひばらをねらって、やりをくりだした。
「おうッ」と力をふりしぼって、忍剣の手からのびた四しゃく余寸よすんの鉄杖が、パシリーッと、槍の千だんを二つにおって、天空へまきあげた。
はらえ!」と呼子をふいた部将が、またどなった。
 バラバラとみだれるすすきのやりぶすまも、忍剣にんけんが、自由自在にふりまわす鉄杖にあたるが最後だった。わら棒切ぼうきれのように飛ばされて、見るまに、七人十人と、あけをちらして岩角いわかどからすべり落ちる。ワーッという声のなだれ、かかれ、かかれと、ののしるさけび。すさまじい山つなみは、よせつかえしつ、満山を血しぶきにめる。
 一かい若僧わかそうにすぎない忍剣のこの手なみに、さすがの黒具足組くろぐそくぐみきもをひやした。――知る人は知る。忍剣はもと、今川義元いまがわよしもと幕下ばっかで、海道一のもののふといわれた、加賀見能登守かがみのとのかみその人の遺子わすれがたみであるのだ。かれの天性の怪力は、父能登守のそれ以上で、幼少から、快川和尚かいせんおしょう胆力たんりょくをつちかわれ、さらに天稟てんぴんの武勇と血と涙とを、若い五体にみなぎらせている熱血児ねっけつじである。
 あの眼のたかい快川和尚が、一ざんのなかからえりすぐって、武田伊那丸たけだいなまる御旗みはた楯無たてなし宝物ほうもつたくしたのは、よほどの人物と見ぬいたればこそであろう。
 新羅三郎しんらさぶろう以来二十六せいをへて、四りん武威ぶいをかがやかした武田たけだ領土りょうどは、いまや、織田おだ徳川とくがわの軍馬に蹂躪じゅうりんされて、焦土しょうどとなってしまった。しかも、その武田の血をうけたものは、世の中にこの伊那丸いなまるひとりきりとなったのだ。焦土のあとに、たった一粒ひとつぶのこった胚子たねである。
 この一粒の胚子に、ふたたび甲斐源氏かいげんじの花が咲くか咲かないか、忍剣の責任は大きい。また、伊那丸の宿命もよういではない。
 世は戦国である。残虐ざんぎゃくをものともしない天下の弓取りたちは、この一粒の胚子をすら、をださせまいとして前途に、あらゆる毒手をふるってくるにちがいない。
 すでに、その第一の危難は眼前にふってわいた。忍剣にんけん鉄杖てつじょう縦横じゅうおうむじんにふりまわして、やっと黒具足組くろぐそくぐみをおいちらしたが、ふと気がつくと、伊那丸いなまるをのこしてきた場所から大分はなれてきたので、いそいでもとのところへかけあがってくると、南無三なむさん呼子よびこをふいた部将が抜刀ばっとうをさげて、あっちこっちの岩穴いわあなをのぞきまわっている。
「おのれッ」と、かれは身をとばして、一げきを加えたが敵もひらりと身をかわして、
坊主ぼうずッ、徳川家とくがわけにくだって伊那丸をわたしてしまえ、さすればよいように取りなしてやる」
 と、甘言かんげんをにおわせながら、陣刀じんとうをふりかぶった。
「けがらわしい」
 忍剣は、鉄杖をしごいた。らんらんとかがやくひとみは、相手の精気をすって、一歩、でるが早いか、敵の脳骨のうこつはみじんと見えた。
 そのすきに、忍剣のうしろに身ぢかくせまって、片膝かたひざおりに、種子島たねがしま銃口じゅうこうをねらいつけた者がある。ブスブスと、その手もとから火縄ひなわがちった――さすがの忍剣も、それには気がつかなかったのである。
 かれがふりこんだ鉄杖は、相手の陣刀をはらい落としていた。二どめに、ズーンとそれが横薙よこなぎにのびたとおもうと、わッと、部将ぶしょうは血へどをはいてぶったおれた。
 刹那せつなだ。ズドンとたまけむりがあがった――
 はッとして身をしずめた忍剣にんけんが、ふりかえってみると種子島たねがしまをもったひとりの黒具足くろぐそくが、虚空こくうをつかみながら煙のなかであおむけにそりかえっている。
 はて? とひとみをさだめてみると、その脾腹ひばらへうしろ抱きに脇差わきざしをつきたてていたのは、いつのまに飛びよっていたか武田伊那丸たけだいなまるであった。
「お、若さま!」
 忍剣は、あまりなかれの大胆だいたん手練しゅれんに目をみはった。
「忍剣、そちのうしろから、鉄砲てっぽうをむけた卑怯者ひきょうものがあったによって、わしが、このとおりにしたぞ」
 伊那丸は、笑顔えがおでいった。

富士ふじ山大名やまだいみょう




 をたべたり、小鳥をってえをしのいだ。百日あまりも、釈迦しゃかたけの山中にかくれていた忍剣にんけん伊那丸いなまるは、もう甲州こうしゅう攻めの軍勢も引きあげたころであろうと駿河路するがじへ立っていった。峠々とうげとうげには、徳川家とくがわけのきびしい関所せきしょがあって、ふたりの詮議せんぎは、厳密げんみつをきわめている。
 そればかりか、織田おだ領地りょうちのほうでは、伊那丸いなまるをからめてきた者には、五百かん恩賞おんしょうをあたえるという高札こうさつがいたるところに立っているといううわさである。さすがの忍剣にんけんも、はたととほうにくれてしまった。
 きのうまでは、甲山こうざんの軍神といわれた、信玄しんげんの孫伊那丸も、いまは雨露うろによごれた小袖こそでの着がえもなかった。足はいばらにさかれて、みじめに血がにじんでいた。それでも、伊那丸は悲しい顔はしなかった。幼少からうけた快川和尚かいせんおしょう訓育くんいくと、祖父信玄しんげんの血は、この少年のどこかに流れつたわっていた。
「若さま、このうえはいたしかたがありませぬ。相模さがみ叔父おじさまのところへまいって、時節のくるまでおすがりいたすことにしましょう」
 かれは、伊那丸のいじらしい姿すがたをみると、はらわたをかきむしられる気がする。で、ついに最後の考えをいいだした。
小田原城おだわらじょう北条氏政ほうじょううじまさどのは、若さまにとっては、叔父君おじぎみにあたるかたです。北条ほうじょうどのへ身をよせれば、織田家おだけ徳川家とくがわけも手はだせませぬ」
 が、富士ふじ裾野すその迂回うかいして、相模さがみざかいへくると、無情な北条家ほうじょうけではおなじように、関所せきしょをもうけて、武田たけだ落武者おちむしゃがきたら片ッぱしから追いかえせよ、と厳命してあった。叔父おじであろうが、肉親にくしんであろうが、亡国ぼうこくの血すじのものとなれば、よせつけないのが戦国のならいだ。忍剣もうらみをのんでふたたびどこかの山奥へもどるよりすべがなかった。今はまったくふくろのねずみとなって、西へも東へもでる道はない。
 ゆうべは、裾野すそのの青すすきをふすまとして、けさはまだきりの深いころから、どこへというあてもなく、とぼとぼと歩きだした。やがてその日もまた夕暮れになってひとつの大きな湖水こすいのほとりへでた。
 このへんは、富士の五といわれて、湖水の多いところだった。みるとなぎさにちかく、白旗しらはたの宮とがくをあげた小さなほこらがあった。
「白旗の宮? ……」と忍剣にんけんは見あげて、
「オオ、甲斐かい源氏げんじ、白旗といえば、これはえんのあるほこらです。若さましばらく、ここでやすんでまいりましょうに……」
 と、縁へ腰をおろした。
「いや、わしは身軽でつかれはしない。おまえこそ、その鎧櫃よろいびつをしょっているので、ながい道には、くたびれがますであろう」
「なんの、これしきの物は、忍剣の骨にこたえはいたしませぬ。ただ、大せつなご宝物ほうもつですから、まんいちのことがあってはならぬと、その気づかいだけです」
「そうじゃ。わしは、この湖水をみて思いついた」
「なんでござりますか」
「こうして、そのひつをしょって歩くうちに、もし敵の目にかかって、うばわれたらもう取りかえしがつかぬ」
「それこそ、この忍剣としても、生きてはおられませぬ」
「だから――わしがせめて、元服げんぷくをする時節まで、その宝物を、この白旗しらはたの宮へおあずけしておこうではないか」
「とんでもないことです。それは物騒千万ぶっそうせんばんです」
「いや、あずけるというても、御堂みどうのなかへおくのではない。この湖水のそこへしずめておくのだ。ちょうどここにある宮の石櫃いしびつ、これへ入れかえて、沈めておけば安心なものではないか」
「は、なるほど」と、忍剣にんけんも、伊那丸いなまる機智きちにかんじた。
 ふたりはすぐほこらにあった石櫃へ、宝物をいれかえ一てきの水もしみこまぬようにして、岸にあった丸木のくりぬき舟にそれをのせて、忍剣がひとりで、さおをあやつりながら湖の中央へと舟をすすめていった。
 伊那丸はおかにのこって、きしから小舟を見おくっていた。あかい夕陽ゆうひは、きらきらと水面をかえして、舟はだんだんと湖心へむかって小さくなった。
「あッ――」
 とその時、伊那丸は、なにを見たか、さけんだ。
 どこから射出いだしたのか、一本の白羽しらはの矢が湖心の忍剣をねらって、ヒュッと飛んでいったのであった。――つづいて、雨か、たばしるあられのように、数十本のが、バラバラ釣瓶つるべおとしにかけられたのだ。
 さッと湖心には水けむりがあがった。その一しゅん、舟も忍剣も石櫃も、たちまち湖水の波にそのすがたを没してしまった。
「ややッ」
 おどろきのあまり、われをわすれて、伊那丸いなまるが水ぎわまでかけだしたときである。――なにものか、
「待てッ」
 とうしろから、かれのえりがみをつかんだ大きなうでがあった。


小童こわっぱ、うごくといのちがないぞ」
 ずるずると、引きもどされた伊那丸は、声もたてなかった。だが、とっさに、片膝かたひざをおとして、腰の小太刀こだちをぬき打ちに、相手の腕根うでねりあげた。
「や、こいつが」と、不意をくった男は手をはなして飛びのいた。
「だれだッ。なにをする――」
 とそのすきに、小太刀こだちをかまえて、いいはなった伊那丸には、おさないながらも、天性のがあった。
 あなたに立った大男はひとりではなかった。そろいもそろった荒くれ男ばかりが十四、五人、蔓巻つるまき大刀だいとうに、かわ胴服どうふくを着たのもあれば、小具足こぐそくや、むかばきなどをはいた者もあった。いうまでもなく、乱世らんせいうらにおどる野武士のぶし群団ぐんだんである。
「見ろ、おい」と、ひとりが伊那丸をきッとみて、
綸子りんず小袖こそでひしもんだ。武田伊那丸たけだいなまるというやつに相違そういないぜ」と、いった。
「うむ、ふんじばって織田家おだけへわたせば、莫大ばくだい恩賞おんしょうがある、うまいやつがひッかかった」
「やいッ、伊那丸。われわれは富士の人穴ひとあなとりでとしている山大名やまだいみょうの一手だ。てめえの道づれは、あのとおり、湖水のまンなかで水葬式みずそうしきにしてくれたから、もう逃げようとて、逃げるみちはない、すなおにおれたちについてこい」
「や、では忍剣にんけんに矢をたのも、そちたちか」
「忍剣かなにか知らねえが、いまごろは、山椒さんしょうの魚の餌食えじきになっているだろう」
「この土蜘蛛つちぐも……」
 伊那丸は、くやしげにくちびるをかんで、にぎりしめていた小太刀こだちの先をふるわせた。
「さッ、こなけりゃふんじばるぞ」
 と、野武士のぶしたちは、かれを少年とあなどって、不用意にすすみでたところを、伊那丸は、おどりあがって、
「おのれッ」
 といいざま、真眉間まみけんをわりつけた。野武士のぶしどもは、それッと、大刀だいとうをぬきつれて、前後からおッとりかこむ。
 武技ぶぎにかけては、躑躅つつじヶ崎のやかたにいたころから、多くの達人やつわものたちに手をとられて、ふしぎな天才児てんさいじとまで、おどろかれた伊那丸いなまるである。からだは小さいが、太刀たちは短いが、たちまちひとりふたりをってふせた早わざは飛鳥のようだった。
「このわっぱめ、あじをやるぞ、ゆだんするな」
 と、野武士のぶしたちは白刃の鉄壁てっぺきをつくってせまる。その剣光のあいだに、小太刀ひとつを身のまもりとして、りむすび、飛びかわしする伊那丸のすがたは、あたかもあらしのなかにもまれるちょうか千鳥のようであった。しかし時のたつほど疲れはでてくる。いきはきれる。――それに、多勢たぜい無勢ぶぜいだ。
「そうだ、こんな名もない土賊どぞくどもと、りむすぶのはあやまりだ。じぶんは武田家たけだけの一粒としてのこった大せつな身だ。しかもおおきな使命のあるからだ――」
 と伊那丸は、乱刀のなかに立ちながらも、ふとこう思ったので、いっぽうの血路をやぶって、いっさんににげだした。
「のがすなッ」
 と野武士たちも風をついて追いまくってくる。伊那丸はあしからかけあがって、松並木へはしった。ピュッピュッという矢のうなりが、かれの耳をかすって飛んだ。
 夕闇ゆうやみがせまってきたので、足もともほの暗くなったが松並木へでた伊那丸は、けんめいに二町ばかりかけだした。
 と、これはどうであろう、前面の道は八重十文字やえじゅうもんじに、ふじづるのなわがはってあって、かれのちいさな身でもくぐりぬけるすきもない。
「しまった」と伊那丸いなまるはすぐ横の小道へそれていったが、そこにもいばらのふさぎができていたので、さらに道をまがるとふじづるのなわがある。折れてもまがっても抜けられる道はないのだ。万事休ばんじきゅうす――伊那丸は完全に、蜘蛛手くもでかがりという野武士のぶしの術中におちてしまったのだ。身につばさでもないかぎりは、このわなからのがれることはできない。
「そうだ、野武士らの手から、織田家おだけへ売られて名をはずかしめるよりは、いさぎよく自害じがいしよう」
 と、かれは覚悟をきめたとみえて、うすぐらい林のなかにすわりこんで、脇差わきざしを右手にぬいた。
 切っさきをたもとにくるんで、あわや身につきたてようとしたときである。ブーンと、飛んできた分銅ふんどうが、カラッと刀のつばへまきついた。や? とおどろくうちに、刀は手からうばわれて、スルスルとこずえの空へまきあげられていく。
「ふしぎな」と立ちあがったとたん、伊那丸は、ドンとあおむけにたおれた。そしてそのからだはいつのまにかわななわのなかにつつみこまれて、小鳥のようにもがいていた。
 すると、いままで鳴りをしずめていた野武士が、八ぽうからすがたをあらわして、たちまち伊那丸をまりのごとくにしばりあげて、そこから富士ふじ裾野すそのへさして追いたてていった。


 幾里いくりも幾里ものあいだ、ただいちめんに青すすきの波である。その一すじの道を、まッくろな一ぐんの人間が、いそぎに、いそいでいく。それは伊那丸いなまるをまン中にかためてかえる、さっきの野武士のぶしだった。
「や、どこかでふえがするぜ……」
 そういったものがあるので、一同ぴったと足なみをとめて耳をすました。なるほど、寥々りょうりょうと、そよぐ風のとぎれに、笛のえた音がながれてきた。
「ああ、わかった。咲耶子さくやこさまが、また遊びにでているにちがいない」
「そうかしら? だがあのいろは、男のようじゃないか。どんなやつがしのんでいるともかぎらないからゆだんをするなよ」
 とたがいにいましめあって、ふたたび道をいそぎだすと、あなたの草むらから、月毛つきげ野馬のうまにのったさげがみの美少女が、ゆらりと気高けだかいすがたをあらわした。
 一同はそれをみると、
「おう、やっぱり咲耶子さまでございましたか」
 と荒くれ武士ぶしににげなく、花のような美少女のまえには、腰をおって、ていねいにあたまをさげる。
「じゃ、おまえたちにも、わたしが吹いていた笛の音が聞えたかえ?」
 とこまをとめた咲耶子は、美しいほほえみをなげて見おろしたが、ふと、伊那丸のすがたを目にとめて、三日月なりのまゆをちらりとひそめながら、
「まあ、そのおさない人を、ぎょうさんそうにからめてどうするつもりです。伝内でんない兵太ひょうたもいながら、なぜそんなことをするんです」
 と、とがめた。名をさされたふたりの野武士のぶしは、一足ひとあしでて、咲耶子さくやここまに近よった。
「まだ、ごぞんじありませぬか。これこそ、おかしらが、まえまえからねらっていた武田家たけだけ小伜こせがれ伊那丸いなまるです」
「おだまりなさい。とりこにしても身分のある敵なら、礼儀れいぎをつくすのが武門のならいです。おまえたちは、名もない雑人ぞうにんのくせにして、びすてにしたり、縄目なわめにかけるというのはなんという情けしらず、けっして、ご無礼ぶれいしてはなりませぬぞ」
「へえ」と、一同はその声にちぢみあがった。
「わたしは道になれているから、あのかたを、この馬にお乗せもうすがよい」
 と、咲耶子は、ひらりとおりて伊那丸のなわをといた。
 まもなくけわしいのぼりにかかって、ややしばらくいくと、一の洞門どうもんがあった。つづいて二の洞門をくぐると天然てんねん洞窟どうくつにすばらしい巨材きょざいをしくみ、綺羅きらをつくした山大名やまだいみょう殿堂でんどうがあった。
 この時代の野武士の勢力はあなどりがたいものだった。徳川とくがわ北条ほうじょうなどという名だたる弓とりでさえも、その勢力範囲はんいへ手をつけることができないばかりか、戦時でも、野武士の区域くいきといえば、まわり道をしたくらい。またそれを敵とした日には、とうてい天下のをあらそう大事業などは、はかどりっこないのである。
 ここの富士浅間ふじせんげん山大名やまだいみょうはなにものかというに、鎌倉かまくら時代からこの裾野すその一円にばっこしている郷士ごうしのすえで根来小角ねごろしょうかくというものである。
 つれこまれた伊那丸いなまるは、やがて、首領しゅりょうの小角の前へでた。獣蝋じゅうろうしょくが、まばゆいばかりかがやいている大広間は、あたかも、部将ぶしょうの城内へのぞんだような心地がする。
 根来小角は、野武士のぶしとはいえ、さすがにりっぱな男だった。多くの配下を左右にしたがえて、上段にかまえていたが、そこへきた姿をみると座をすべって、みずから上座にすえ、ぴったり両手をついて臣下にひとしい礼をしたのには、伊那丸もややいがいなようすであった。
「お目どおりいたすものは、根来小角ともうすものです。今日こんにち雑人ぞうにんどもが、れいをわきまえぬ無作法ぶさほうをいたしましたとやら、ひらにごかんべんをねがいまする」
 はて? 残虐ざんぎゃくと利慾よりなにも知らぬ野盗やとうかしらが、なんのつもりで、こうていちょうにするのかと、伊那丸は心ひそかにゆだんをしない。
「また、武田たけだの若君ともあるおんかたが、拙者せっしゃやかたへおいでくださったのは天のおひきあわせ。なにとぞ幾年でもご滞留たいりゅうをねがいまする。ところでこのたびは、織田おだ徳川とくがわ両将軍のために、ご一門のご最期さいご、小角ふかくおさっし申しあげます」
 なにをいっても、伊那丸は黙然もくねんと、をみださずにすわっていた。ただこころの奥底まで見とおすような、つぶらなひとみだけがはたらいていた。
「つきましては、小角は微力ですが、三万の野武士と、裾野すそのから駿遠甲相すんえんこうそう四ヵ国の山猟師やまりょうしは、わたくしの指ひとつで、いつでも目のまえに勢ぞろいさせてごらんにいれます。そのうえ若君が、御大将おんたいしょうとおなりあそばして、富士ふじおろしに武田菱たけだびしの旗あげをなされたら、たちまち諸国からこぞってお味方にせさんじてくることは火をみるよりあきらかです」
「おまちなさい」と伊那丸いなまるははじめて口をひらいた。
「ではそちはわしに名のりをあげさせて、軍勢をもよおそうという望みか」
「おさっしのとおりでござります。拙者せっしゃには武力はありますが名はありませぬ。それゆえ、今日こんにちまで髀肉ひにくたんをもっておりましたが、若君のみはたさえおかしくださるならば、織田おだ徳川とくがわ鎧袖がいしゅうの一しょくです。たちまち蹴散けちらしてごむねんをはらします所存」
「だまれ小角しょうかく。わしは年こそおさないが、信玄しんげんの血をうけた武神の孫じゃ。そちのような、野盗人のぬすびとかみにはたたぬ。下郎げろうの力をかりて旗上げはせぬ」
「なんじゃ!」と小角のこえはガラリとかわった。
 じぶんの野心を見ぬかれた腹立ちと、落人おちゅうどの一少年にピシリとはねつけられた不快さに、満面にしゅをそそいだ。
「こりゃ伊那丸、よく申したな。もうなんじの名をかせとはたのまぬわ、その代りその体を売ってやる! 織田家おだけへわたして莫大ばくだい恩賞おんしょうにしたほうが早手まわしだ。兵太ひょうたッ、この餓鬼がき、ふんじばって風穴かざあなへほうりこんでしまえ」
「へいッ」四、五人たって、たちまち伊那丸をしばりあげた。かれはもう観念かんねんの目をふさいでいた。
「歩けッ」
 と兵太ひょうた縄尻なわじりをとって、まッくらな間道かんどうを引っ立てていった。そして地獄の口のような岩穴のなかへポーンとほうりこむと、鉄柵てつさくじょうをガッキリおろしてたちさった。
 うしろ手にしばられているので、よろよろところげこんだ伊那丸いなまるは、しばらく顔もあげずに倒れていた。ザザーッと山砂をつつんだ旋風せんぷうが、たえず暗澹あんたんと吹きめぐっている風穴かざあなのなかでは、一しゅんのまも目をいていられないのだ。そればかりか、夜のけるほど風のつめたさがまして八寒地獄はっかんじごくのそこへ落ちたごとく総身そうみがちぢみあがってくる。
「あア忍剣にんけんはどうした……忍剣はもうあの湖水のくずとなってしまったのか」
 いまとなって、しみじみと思いだされてくるのであった。
「忍剣、忍剣。おまえさえいれば、こんな野武士のぶしのはずかしめを受けるのではないのに……」
 くちびるをかんで、転々と身もだえしていると、なにか、とん、とん、とん……とからだの下の地面がなってくる心地がしたので、
「はてな? ……」と身をおこすと、そのはずみに、目のまえの、二しゃく四方ばかりな一枚石が、ポンとはねあがって、だれやら、覆面ふくめんをした者の頭が、ぬッとその下からあらわれた。

黒衣こくい義人ぎじん




 山大名やまだいみょう根来小角ねごろしょうかく殿堂でんどうは、七つの洞窟どうくつからできている。その七つの洞穴ほらあなから洞穴は、たてに横に、上に下に、自由自在の間道かんどうがついているが、それは小角ひとりがもっているかぎでなければかないようになっていた。
 また、そとには、まえにもいったとおり、二つの洞門どうもんがあって、配下の野武士のぶしが五人ずつ交代こうたいで、篝火かがりびをたきながら夜どおし見はりをしている厳重げんじゅうさである。
 今宵こよいもこの洞門のまえには、赤いほのおと人影がみえて、夜ふけのたいくつしのぎに、何か高声たかごえで話していると、そのさいちゅうに、ひとりがワッとおどろいて飛びのいた。
「なんだッ」
 と一同が総立ちになったとき、洞門のなかからばらばらととびだしてきたのは七、八ひきのさるであった。
「なんださるじゃないか、臆病者おくびょうものめ」
「どうしておりからでてきたのだろう。咲耶子さくやこさまのかわいがっている飼猿かいざるだ。それ、つかまえろッ」
 と八ぽうへちってゆくさるを追いかけていったあと、留守るすになった二の洞門どうもんの入口から脱兎だっとのごとくとびだしたかげ! ひとりは黒装束くろしょうぞく覆面ふくめん、そのかげにそっていたのは、伊那丸いなまるにそういなかった。
「何者だッ」
 と一の洞門では、早くもその足音をさとって、ひとりが大手をひろげてどなると、鉄球てっきゅうのように飛んでいった伊那丸が、どんと当身あてみの一けんをついた。
「うぬ!」と風をきって鳴った山刀やまがたなのひかり。
 よろりとおよいだ影は、伊那丸のちいさな影から、あざやかに投げられて、断崖だんがいやみへのまれた。
曲者くせものだ! みんな、でろ」
 覆面の黒装束へもおそいかかった。姿すがたはほっそりとしているのに、手練しゅれんはあざやかだった。よりつく者を投げすてて、すばやく逃げだすのを、横あいからまた飛びついていったひとりがむんずと組みついて、その覆面の顔をまぢかく見て、
「ああ、あなたは」と、愕然がくぜんとさけんだ。
 顔を見られたと知った覆面は、おどろく男を突ッぱなした。よろりと身をそるところへ、黒装束の腰からさッとほとばしった氷のやいば! 男の肩からけさがけにりさげた。――ワッという絶叫ぜっきょうとともにやみにたちまよった血けむりの血なまぐささ。
「伊那丸さま」
 黒装束くろしょうぞくは、手まねきするやいなや、岩つばめのようなはやさで、たちまち、そこからかけおりていってしまった。


 下界げかいをにらみつけるような大きな月が、人ひとり、鳥一羽の影さえない、裾野すそののそらの一かくに、夜の静寂しじまをまもっている。
 そのびょうとしてひろい平野の一本杉に、一ぴきの白駒しろこまがつながれていた。馬は、さびしさも知らずに、月光をあびながら、のんきに青すすきを食べているのだ。
 いっさんにかけてきた黒装束くろしょうぞくは、白馬しろうまのそばへくるとぴッたり足をとめて、
伊那丸いなまるさま、もうここまでくれば大じょうぶです」
 と、あとからつづいてきた影へ手をあげた。
「ありがとうござりました」
 伊那丸は、ほッとして夢心地ゆめごこちをさましたとき、ふしぎな黒装束の義人ぎじんのすがたを、はじめて落ちついてながめたのであるが、その人は月の光をしょっているので、顔はよくわからなかった。
「もう大じょうぶです。これからこの野馬のうまにのって、明方までに富士川ふじがわの下までお送りしてあげますから、あれから駿府すんぷへでて、いずこへなり、身をおかくしなさいまし、ここに関所札せきしょふだもありますから……」
 と、黒装束くろしょうぞくのさしだした手形てがたをみて、伊那丸いなまるはいよいよふしぎにたえられない。
「そして、そなたはいったいたれびとでござりますぞ」
「だれであろうと、そんなことはいいではありませんか。さ、早く、これへ」
 と白駒しろこま手綱たづなをひきだしたとき、はじめて月に照らされた覆面ふくめんのまなざしを見た伊那丸は、思わずおおきなこえで、
「や! そなたはさっきの女子おなご咲耶子さくやこというのではないか」
「おわかりになりましたか……」すずしいひとみにちらとみを見せて、それへ両手をつきながら、
「おゆるしくださいませ、父の無礼ぶれいは、どうぞわたしにかえてごかんべんあそばしませ……」と、わびた。
「では、そなたは小角しょうかくの娘でしたか」
「そうです、父のしかたはまちがっております。そのおわびにかぎをそッと持ちだしておたすけもうしたのです。伊那丸さま、あなたのおうわさは私も前から聞いておりました、どうぞお身を大切にして、かがやかしい生涯しょうがいをおつくりくださいまし」
「忘れませぬ……」
 伊那丸は、神のような美少女の至情にうたれて、思わずホロリとあつい涙をそでのうちにかくした。
 と、咲耶子はいきなり立ちあがった。
「あ――いけない」と顔いろを変えてさけんだ。
「なんです?」
 と、伊那丸いなまるもそのひとみのむいたほうをみると、あいいろの月の空へ、ひとすじの細い火が、ツツツツーと走りあがってやがてえた。
「あの火は、この裾野すその一帯の、森や河原にいる野伏のぶせり力者りきしゃに、あいずをする知らせです。父は、あなたの逃げたのをもう知ったとみえます。さ、早く、この馬に。……抜けみちは私がよく知っていますから、早くさえあれば、しんぱいはありませぬ」
 とせき立てて、伊那丸の乗ったあとから、じぶんもひらりと前にのって、手ぎわよく、手綱たづなをくりだした。
 その時、すでにうしろのほうからは、百足むかでのようにつらなった松明たいまつが、山峡やまあいやみから月をいぶして、こなたにむかってくるのが見えだした。
「おお、もう近い!」
 咲耶子さくやこは、ピシリッと馬に一鞭ひとむちあてた。一声たかくいなないたこまは、征矢そやよりもはやく、すすきの波をきって、まッしぐらに、南のほうへさしてとぶ――


 それよりも前の、夕ぐれのことである。
 夕陽ゆうひのうすれかけたみずうみの波をザッザときって、おかへさして泳いでくるものがあった。湖水のぬし山椒さんしょううおかとみれば、水をきッてはいあがったのはひとりの若僧わかそう――かの忍剣にんけんなのであった。
 どっかりと、岸辺きしべへからだを落とすと、忍剣はすぐころもをさいて、ひだりのひじ矢傷やきずをギリギリ巻きしめた。そして身をはねかえすがいなや、白旗しらはたの宮へかけつけてきてみると、伊那丸いなまるのすがたはみえないで、ただじぶんの鉄杖てつじょうだけが立てかけてのこっていた。
「若さま――、伊那丸さまア――」
 二ど三ど、こえ高らかに呼んでみたが、さびしい木魂こだまがかえってくるばかりである。それらしい人の影もあたりに見えてはこない。
「さては」と忍剣は、心をくらくした。湖水のなかほどへでたとき、ふいに矢を乱射らんしゃしたやつのしわざにちがいない。小さなくりぬき舟であったため、矢をかわしたはずみに、くつがえってしまったので、石櫃いしびつはかんぜんに湖心のそこへ沈めたけれど、伊那丸の身を何者かにうばわれては、あの宝物ほうもつも、永劫えいごうにこの湖から世にだす時節もなくなるわけだ。
「ともあれ、こうしてはおられない、命にかけても、おゆくえをさがさねばならぬ」
 鉄杖をひッかかえた忍剣は、八ぽうへ血眼ちまなこをくばりながら、湖水の岸、あなたこなたの森、くまなくたずね歩いたはてに、どこへ抜けるかわからないで、とある松並木をとおってくると、いた! 二、三町ばかり先を、白い影がとぼとぼとゆく。
「オーイ」
 と手をあげながらかけだしていくと、半町ほどのところで、フイとその影を見うしなってしまった。
「はてな、ここは一すじ道だのに……」
 小首をひねって見まわしていると、なんのこと、いつかまた、三町も先にその影が歩いている。
「こりゃおかしい。伊那丸いなまるさまではないようだが、あやしいやつだ。一つつかまえてただしてくれよう」
 とちゅうをとんで追いかけていくうちに、また先の者が見えなくなる。足をとめるとまた見える。さすがの忍剣にんけんも少しくたびれて、どっかりと、道の木の根に腰かけて汗をふいた。
「どうもみょうなやつだ。人間の足ではないような早さだ。それとも、あまり伊那丸さまのすがたを血眼ちまなこになってさがしているので、気のせいかな」
 忍剣がひとりでつぶやいていると、その鼻ッ先へ、スーッと、うすむらさき色の煙がながれてきた。
「おや……」ヒョイとふりあおいでみると、すぐじぶんのうしろに、まっ白な衣服をつけた男がたばこをくゆらしながら、忍剣の顔をみてニタリと笑った。
「こいつだ」
 と見て、忍剣もグッとにらみつけた。男はおいをせおっている六部ろくぶである。ばけものではないにちがいない。にらまれても落ちついたもの、スパリスパリと、二、三ぷくすって、ポンと、立木の横で、きせるをはたくと、あいさつもせずに、またすたすたとでかけるようすだ。
「まて、六部ろくぶまて」
 あわてて立ちあがったが、もうかれの姿は、あたりにも先にも見えない。忍剣にんけんはあきれた。世のなかには、奇怪なやつがいればいるものと、ぼうぜんとしてしまった。
 疑心暗鬼ぎしんあんきとでもいおうか、場合がばあいなので、忍剣には、どうも今の六部の挙動きょどうがあやしく思えてならない。なんとなく伊那丸いなまるの身をやみにつつんだのも、きゃつの仕事ではないかと思うと、いま目のさきにいたのをがしたのがざんねんになってきた。
「あやしい六部だ。よし、どんな早足をもっていようがこの忍剣のこんきで、ひッとらえずにはおかぬぞ」
 とかれはまたも、いっさんにかけだした。

つき裾野すその




 並木なみきがとぎれたところからは、一望千里の裾野すそのが見わたされる。
 忍剣にんけんは、この方角とにらんだ道を、一ねんこめて、さがしていくと、やがて、ゆくてにあたって、一の六角堂が目についた。
「おお、あれはいつの年か、このへんでたたかいのあったとき焼けのこった文殊閣もんじゅかくにちがいない。もしかすると、六部ろくぶも、あれかもしれぬぞ……」
 といさみたって近づいていくと、はたして、くずれかけた文殊閣の石段のうえに、白衣びゃくえの六部が、月でもながめているのか、ゆうちょうな顔をして腰かけている。
「こりゃ六部、あれほどんだのになぜ待たないのだ」
 忍剣はこんどこそ逃がさぬぞという気がまえで、その前につッ立った。
「なにかご用でござるか」
 と、かれはそらうそぶいていった。
「おおさ、問うところがあればこそ呼んだのだ。年ごろ十四、五に渡らせられる若君を見失ったのだ。知っていたら教えてくれ」
「知らない、ほかで聞け」
 六部の答えは、まるで忍剣を愚弄ぐろうしている。
「だまれッ、この裾野すそのの夜ふけに、問いたずねる人間がいるか。そういうなんじの口ぶりがあやしい、正直にもうさぬと、これだぞッ」
 ぬッと、鉄杖てつじょうを鼻さきへ突きつけると、六部はかるくその先をつかんで、腰の下へしいてしまった。
「これッ、なんとするのだ」
 忍剣にんけんは、渾力こんりきをしぼって、それを引きぬこうとこころみたが、ぬけるどころか、大山たいざんにのしかかられたごとく一寸のゆるぎもしない。しかも、六部ろくぶはへいきな顔で、両膝りょうひざにほおづえをついて笑っている。
「むッ……」
 と忍剣は、総身そうみの力をふりしぼった。力にかけては、怪童といわれ、恵林寺えりんじのおおきな庭石をかるがるとさして山門の階段をのぼったじぶんである。なにをッ、なにをッと、引けどねじれど、鉄杖てつじょうのほうが、まがりそうで、六部のからだはいぜんとしている。すると、ふいに、六部が腰をうかした。
「あッ――」
 思わずうしろへよろけた忍剣は、かッとなって、その鉄杖をふりかぶるが早いか、磐石ばんじゃくみじんになれと打ちこんだが、六部の姿はひらりとかわって、くうをうった鉄杖のさきが、はっしと、石のをとばした。
「無念ッ」とかえす力で横ざまにはらい上げた鉄杖を、ふたたびくぐりぬけた六部は、つえにしこんである無反むぞりの冷刀れいとうをぬく手も見せず、ピカリと片手にひらめかせて、
若僧わかそう、雲水」とさびをふくんだ声でよんだ。
「なにッ」と持ちなおした鉄杖を、まッこうにふりかぶった忍剣は、怒気どきにもえた目をみひらいて、ジリジリと相手のすきをねらいつめる。
 六部ろくぶはといえば、片手にのばした一刀を、肩から切先きっさきまで水平にかまえて、忍剣にんけんの胸もとへと、うす気味のわるい死のかげを、ひら、ひら――とときおりひらめかせていく――。たがいの息と息は、その一しゅん、水のようにひそやかであった。しかも、総身そうみの毛穴からもえたつ熱気は、ほのおとなって、いまにも、そうほうの切先から火のをえがきそうに見える……。
 とつとして、風を切っておどった銀蛇ぎんだは、忍剣の真眉間まみけんへとんだ。
「おうッ」と、さけびかえした忍剣は、それを鉄杖てつじょうではらったが、くうをうッてのめッたとたん、背をのぞんで、六部はまたさッと斬りおろしてきた。
 そのはやさ、かわすもあらばこそ、忍剣も、ぽんとうしろへとびのくよりさくがなかった。そして、みとどまるが早いか、ふたたび鉄杖を横がまえに持つと、
「待て」と六部の声がかかった。
ひるんだかッ」たたき返すように忍剣がいった。
「いやおくれはとらぬ。しかしきさまの鉄杖はめずらしい。いったいどこの何者だか聞かしてくれ」
「あてなしの旅をつづける雲水の忍剣というものだ。ところで、なんじこそただの六部ではあるまい」
「あやしいことはさらにない。ありふれた木遁もくとん隠形おんぎょうでちょっときさまをからかってみたのだ」
「ふらちなやつだ。さてはきさまは、どこかの大名だいみょうの手先になって、諸国をうかがう、間諜いぬだな」
「ばかをいえ。しのびにけているからといって、諜者ちょうじゃとはかぎるまい。このとおり六部ろくぶを世わたりにする木隠龍太郎こがくれりゅうたろうという者だ。こう名のったところできくが、さっききさまのたずねた若君とは何者だ」
「その口にいつわりがないようすだから聞かしてやる。じつは、さる高貴なおん方のおともをしている」
「そうか。では武田たけだ御曹子おんぞうしだな……」
「や、どうして、なんじはそれを知っているのだ?」
恵林寺えりんじほのおのなかからのがれたときいて、とおくは、飛騨ひだ信濃しなのの山中から、この富士ふじ裾野すそのたいまで、足にかけてさがしぬいていたのだ。きさまの口うらで、もうおいでになるところは拙者せっしゃの目にうつってきた。このさきは、伊那丸いなまるさまはおよばずながら、この六部がお附添つきそいするから、きさまは、安心してどこへでも落ちていったがよかろう」
 忍剣にんけんはおどろいた。まったくこの六部のいうこと、なすことは、いちいちにおちない。のみならず、じぶんをしりぞけて、伊那丸をさがしだそうとする野心もあるらしい。
「たわけたことをもうせ。伊那丸さまはこの忍剣が命にかけて、おまもりいたしているのだわ」
「そのお傅役もりやくが、さらわれたのも知らずにいるとは笑止千万しょうしせんばんじゃないか。御曹子おんぞうしはまえから拙者せっしゃがさがしていたおん方だ、もうきさまに用はない」
「いわせておけば無礼ぶれいなことばを」
「それほどもうすなら、きさまはきさまでかってにさがせ。どれ、拙者せっしゃは、これから明け方までに、おゆくえをつきとめて、思うところへおともをしよう」
「このれものが」
 と、忍剣にんけんは真から腹立たしくなって、ふたたび鉄杖てつじょうをにぎりしめたとき、はるか裾野すそののあなたに、ただならぬ光を見つけた。
 六部ろくぶ木隠龍太郎こがくれりゅうたろうも見つけた。
 ふたりはじッとひとみをすえて、しばらく黙然もくねんと立ちすくんでしまった。
 それは蛇形だぎょうじんのごとく、うねうねと、裾野すそののあなたこなたからぬいめぐってくる一どう火影ほかげである。多くの松明たいまつ右往左往うおうざおうするさまにそういない。
「あれだ!」いうがはやいか龍太郎は、一そくとびに、石段から姿をおどらした。
「うぬ。なんじの手に若君をとられてたまるか」
 忍剣にんけんも、韋駄天いだてんばしり、この一足ひとあしが、必死のあらそいとはなった。


 ただ見る――白い月の裾野すそのを、銀の奔馬ほんばにむちをあげて、ひとつのくらにのった少年の貴公子きこうしと、覆面ふくめんの美少女は、地上をながるる星とも見え、玉兎ぎょくとが波をけっていくかのようにも見える。たちまち、そらの月影が、黒雲のうちにさえぎられると、裾野すそのもいちめんの如法闇夜にょほうあんや、ただ、ザワザワと鳴るすすきの風に、つめたい雨気さえふくんできた。
「あ、折りがわるい――」
 と、こまをとめて、空をあおいだ咲耶子さくやこの声は、うらめしげであった。
「おお、雲は切れめなくいちめんになってきた。咲耶どの、もうこまをはやめてはあぶない、わしはここでおりますから、あなたは岩殿いわどのへお帰りなさい」
「いいえ、まだ富士川ふじがわべりまでは、あいだがあります」
「いや、そなたが帰ってから、小角しょうかくにとがめられるであろうと思うと、わしは胸がいたくなります。さ、わしをここでおろしてください」
伊那丸いなまるさま、こんなはてしも見えぬ裾野のなかで、馬をお捨てあそばして、どうなりますものか」
 いいあらそっているすきに、十けんとは離れない窪地くぼちの下から、ぱッと目を射てきた松明たいまつのあかり。
「いたッ」
「逃がすな」と、八ぽうからの声である。
「あッ、大へん」
 と咲耶子はピシリッとこまをうった。ザザーッと道もえらまずに数十けん、一気にかけさせたのもつかのであった。たのむ馬が、窪地くぼちに落ちてあしを折ったはずみに、ふたりはいきおいよく、草むらのなかへ投げ落とされた。
「それッ、落ちた。そこだッ」
 むらがりよってきた松明たいまつの赤いほのお山刀やまがたなの光、やりさき。
 ふたりのすがたは、たちまちそのかこみのなかに照らしだされた。
「もう、これまで」
 と小太刀こだちをぬいた伊那丸いなまるは、その荒武者あらむしゃのまッただなかへ、運にまかせて、斬りこんだ。
 咲耶子さくやこも、覆面ふくめんなのを幸いに一刀をもって、伊那丸の身をまもろうとしたが、さえぎる槍や大刀にたたみかけられ、はなればなれに斬りむすぶ。
「めんどうくさい。武田たけだわっぱも、手引きしたやつも、片ッぱしから首にしてしまえ」
 大勢のなかから、こうどなった者は、咲耶子と知ってか知らぬのか、山大名やまだいみょう根来小角ねごろしょうかくであった。
 時に、そのすさまじいつるぎのうずへ、とつとして、横合いからことばもかけずに、無反むぞりの大刀をおがみに持って、飛びこんできた人影がある。六部ろくぶ木隠龍太郎こがくれりゅうたろうであった。一せんかならず一人を斬り、一気かならず一を割る、手練しゅれんの腕は、超人的ちょうじんてきなものだった。
 それとみて、愕然がくぜんとした根来小角は、みずから大刀をとって、ふるいたった。
 と同時に、一足ひとあしおくれて、かけつけた忍剣にんけん鉄杖てつじょうも、風を呼んでうなりはじめた。
 空はいよいよ暗かった。降るのはこまかい血の雨である。たばしるつるぎ稲妻いなずまにまきこまれた、可憐かれん咲耶子さくやこの身はどうなるであろう。――そして、武田伊那丸たけだいなまるの運命は、はたしてだれの手ににぎられるのか?

朱柄あかえやりおとこ




 雲の明るさをあおげば、夜はたしかに明けている。しかし、加賀見忍剣かがみにんけんの身のまわりだけは、常闇とこやみだった。かれは、とんでもない奈落ならくのそこに落ちて、土龍もぐらのようにもがいていた。
伊那丸いなまるさまはどうしたであろう。あの武士のれにとりかえされたか、あるいは、六部ろくぶ木隠こがくれというやつにさらわれてしまったか? ――そのどっちにしても大へんだ。アア、こうしちゃいられない、グズグズしている場合じゃない……」
 忍剣は、どんな危地きちに立っても、けっしてうろたえるような男ではない。ただ、伊那丸の身をあんじてあせるのだった。地の理にくらいため、乱闘のさいちゅうに、足をみすべらしたのが、かえすがえすもかれの失敗であった。
 ところが、そこは裾野すそのにおおい断層だんそうのさけ目であって、両面とも、切ってそいだかのごとき岩と岩とにはさまれている数丈すうじょうの地底なので、さすがの忍剣にんけんも、精根せいこんをつからして空の明るみをにらんでいた。
「む! 根気だ。こんなことにくじけてなるものか」
 とふたたびそでをまくりなおした。かれは鉄杖てつじょうを背なかへくくりつけて、護身ごしんの短剣をぬいた。そして、岩の面へむかって、一段いちだん一段、じぶんの足がかりを、掘りはじめたのである。
 すると、なにかやわらかなものが、忍剣のほおをなでてははなれ、なでてははなれするので、かれはうるさそうにそれを手でつかんだ時、はじめて赤いきぬ細帯ほそおびであったことを知った。
「おや? ……」
 と、あおむいて見ると、ちゅうとからふじづるかなにかで結びたしてある一筋ひとすじが、たしかに、上からじぶんを目がけてさがっている。
「ありがたい!」
 と力いっぱい引いてこころみたが、切れそうもないので、それをたよりに、するするとよじのぼっていった。
 ぽんと、大地へとびあがったときのうれしさ。
 忍剣はこおどりして見まわすと、そこに、思いがけない美少女がみをふくんで立っている。少女の足もとには、なぞのような黒装束くろしょうぞく上下うえしたがぬぎ捨てられてあった。
「や、あなたは……」
 と忍剣にんけんはいぶかしそうに目をみはった。その問いにおうじて、少女は、
「わたくしはこの裾野すその山大名やまだいみょう根来小角ねごろしょうかくの娘で、咲耶子さくやこというものでございます」
 と、はっきりしたこわでこたえた。
「そのあなたが、どうしてわたしをたすけてくださったのじゃ」
「ごそうは、伊那丸いなまるさまのおとものかたでございましょうが」
「そうです。若君のお身はどうなったか、それのみがしんぱいです。ごぞんじなら、教えていただきたい」
「伊那丸さまは、ごそうと一しょに斬りこんできた六部ろくぶのひとが、おそろしい早技はやわざでどこともなく連れていってしまいました。あの六部が、善人か悪人か、わたくしにもわからないのです。それをあなたにお知らせするために夜の明けるのを待っていたのです」
「えッ、ではやっぱりあの六部にしてやられたか。して六部めは、どっちへいったか、方角だけでも、ごぞんじありませんか」
「わたくしはそのまえに、富士川ふじがわをくだって、東海道から京へでる関所札せきしょふだをあげておきましたが、その道へ向かったかどうかわかりませぬ」
「しまった……?」
 と、忍剣は吐息といきをもらした。と、咲耶子は、にわかに色をかえてせきだした。
「あれ、父の手下どもが、わたくしをたずねてむこうからくるようです。すこしも早くここをお立ちのきあそばしませ。わたくしは山へ帰りますが、かげながら、伊那丸いなまるさまのお行く末をいのっております」
「ではお別れといたそう。拙僧せっそうとて、安閑あんかんとしておられる身ではありません」
 ふたたび鉄杖てつじょうを手にした忍剣にんけんは、別れをつげて、うらみおおき裾野すそのをあとに、いずこともなく草がくれに立ち去った。
 ――咲耶子さくやこも、しばしのあいだは、そこに立ってうしろ姿すがたを見おくっていた。


 浜松はままつの城下は、海道一の名将、徳川家康とくがわいえやすのいる都会である。その浜松は、ここ七日のあいだは、男山八幡おとこやまはちまんの祭なので、夜ごと町は、おびただしいにぎわいであった。
「どうですな、鎧屋よろいやさん、まだ売れませんか」
 その八幡はちまん玉垣たまがきの前へならんでいた夜店の燈籠売とうろううりがとなりの者へはなしかけた。
「売れませんよ。今日で六日もだしていますがだめです」
 と答えたのは、十八、九の若者で、たった一組のよろいをあき箱の上にかざり、じぶんのそばには、一本の朱柄あかえやりを立てかけて、ぼんやりとそこに腰かけている。
「おまえさんの燈籠とうろうのほうは、女子供が相手だから、さだめし毎日たくさんの売上げがありましたろう」
「どうしてどうして、あの鬼玄蕃おにげんばというご城内の悪侍わるざむらいのために、今年はからきし、あきないがありませんでした」
「ゆうべもわたしがかえったあとで、だれかが、あいつらに斬られたということですが、ほんとでしょうかね」
「そんなことは珍しいことじゃありませんよ。店をメチャメチャにふみつぶされたり、片輪かたわにされたかわいそうな人が、何人あるか知れやしません。まったく弱いものは生きていられない世の中ですね」
 といってる口のそばから、ワーッという声が向こうからあがって、いままで歓楽かんらくの世界そのままであったにぎやかな町のあかりが、バタバタ消えてきた。
 燈籠売とうろううりははねあがってあおくなった。
「大へん大へん、鎧屋よろいやさん、はやく逃げたがいいぜ、鬼玄蕃がきやがったにちがいない」
 にわか雨でもきたように、あたりの商人たちも、ともどもあわてさわいだが、かの若者だけは、腰も立てずに悠長ゆうちょうな顔をしていた。
 案のじょう、そこへ旋風つむじかぜのようにあばれまわってきた四、五人のさむらいがある。なかでも一きわすぐれた強そうな星川玄蕃ほしかわげんばは、つかつかと鎧屋のそばへよってきた。泥酔でいすいしたほかの侍たちも、こいつはいいなぶりものだという顔をして、そこを取りまく。
「やい、町人。このやりはいくらだ」
 と玄蕃げんばはいきなり若者のそばにあった朱柄あかえやりをつかんだ。
「それは売り物じゃありません」
 にべもなく、ひッたくって槍をおきかえたかれは、あいかわらず、無神経むしんけいにすましこんでいた。
「けしからんやつだ、売り物でないものを、なぜ店へさらしておく。こいつ、客をつる山師やましだな」
「槍はわしの持物です。どこへいくんだッて、この槍を手からはなさぬ性分しょうぶんなんだからしかたがない」
「ではこのよろいが売りものなのか。黒皮胴くろかわどう萌黄縅もえぎおどし、なかなかりっぱなものだが、いったいいくらで売るのだ」
「それも売りたいしなではないが、おふくろが病気なので、薬代くすりだいにこまるからやむなく手ばなすんです。ッぱらったみなさまがさわいでいると、せっかくのお客も逃げてしまいます。早くあっちへいってください」
無愛想ぶあいそうなやつだ。買うからねだんを聞いているのだ」
金子きんす五十枚、びた一もんもまかりません。はい」
「たかい、銅銭五十枚にいたせ、買ってくれる」
「いけません、まっぴらです」
「ふらちなやつだ。だれがこんなボロ鎧に、金五十枚をだすやつがあるか、バカめッ」
 玄蕃げんば土足どそくをあげてったので、よろいはガラガラとくずれて土まみれになった。こんならんぼうは、泰平たいへいの世には、めったに見られないが、あけくれ血や白刃しらはになれた戦国武士の悪い者のうちには、町人百姓を蛆虫うじむしとも思わないで、ややともすると、傲慢ごうまんな武力をもってかれらへのぞんでゆくものが多かった。
山師やましめッ」
 ほかの武士ぶしどもも、口を合わせてののしった上によろいみちらして、どッと笑いながら立ちさろうとした時、若者のまゆがピリッとあがった。――と思うまに、朱柄あかえやりは、いつか、その小脇こわきにひッかかえられていた。
「待てッ」
「なにッ」とふりかえりざま、刀のつかへ手をかけた五人の、おそろしい眼つき。
 すわと、弥次馬やじうまは、うしおのごとくたちさわいだ。――と、その群集のなかから、まじろぎもせずに、朱柄の槍先をみつめていた白衣びゃくえ六部ろくぶと、ひとりの貴公子きこうしふうの少年とがあった。
 玉垣たまがきを照らしている春日燈籠かすがどうろう灯影ほかげによく見ると、それこそ、裾野すその危地きちを斬りやぶって、行方ゆくえをくらました木隠龍太郎こがくれりゅうたろうと、武田伊那丸たけだいなまるのふたりであった。
 六部の龍太郎は、はたして、なんの目的で伊那丸をうばいとってきたかわからないが、ここに立ったふたりのようすからさっすると、いつか伊那丸もかれを了解りょうかいしているし、龍太郎も主君のごとくうやまっているようだ。しかしそれにしても武田の残党ざんとうを根だやしにするつもりである敵の本城地に、かく明からさまに姿をあらわしているのは、なんという大胆だいたんな行動であろう。今にもあれ、徳川家とくがわけ目付役めつけやくか、酒井黒具足組くろぐそくぐみの目にでもふれたらば最後、ふたりの身の一大事となりはしまいか?
 それはとにかく、いっぽう、鎧売よろいうりの若者は、はやくも、やりを、穂短ほみじかにしごいて、ジリジリと一寸にじりに五人の武士へ迫ってゆく――
「小僧ッ、気がちがったか」玄蕃げんばはののしった。
「気はちがっていない! 町人のなかにも男はいる、天にかわって、なんじらをこらしてやるのだ」
「なまいきなことをほざく下郎げろうだ、汝らがこのご城下で安穏あんのんにくらしていられるのは、みなわれわれが敵国と戦っている賜物たまものだぞ。ばちあたりめ」
「町人どもへよい見せしめ、そのほそ首をぶッ飛ばしてくれよう」
「うごくなッ」
 鬼玄蕃おにげんばをはじめ、一同の刀が、若者の手もとへ、ものすさまじく斬りこんだ。


 とたんに、朱柄あかえやりは、一本の火柱のごとく、さッと五本の乱刀を天宙てんちゅうからたたきつけた。
 わッと、あいての手もとが乱れたすきに、若者はまた一声「えいッ」とわめいて、ひとりのむなさきを田楽刺でんがくざしにつきぬくがはやいか、すばやく穂先ほさきをくり引いて、ふたたびつぎの相手をねらっている。
 その早技はやわざも、非凡ひぼんであったが、よりおどろくべきものは、かれのこい眉毛まゆげのかげから、らんらんたる底光をはなってくる二つのひとみである。それは、やりの穂先よりするどい光をもっている。
「やりおったな、小僧こぞうッ。もうゆるさん」
 玄蕃げんばは怒りにもえ、金剛力士こんごうりきしのごとく、太刀たちをふりかぶって、槍の真正面に立った。かれのがんじょうな五体は、さすが戦場のちまたできたえあげたほどだけあって、小柄こがらな若者を見おろして、ただ一げきといういきおいをしめした。それさえあるのに、あと三人の武士ぶしも、めいめいきっさきをむけて、ふくろづめに、一寸二寸と、若者のいのちに、くいよってゆくのだ。
 ああ、あぶない。
龍太郎りゅうたろう――」
 と、こなたにいた伊那丸いなまるは、息をのんでかれのそでをひいた、そしてなにかささやくと、龍太郎はうなずいて、ひそかに、例の仕込杖しこみづえ戒刀かいとうをにぎりしめた。いざといわば、一気におどりこんで、木隠こがくれりゅうえを見せんとするらしい。
 ヤッという裂声れっせいがあたりの空気をつんざいた。鬼玄蕃おにげんば星川ほしかわが斬りこんだのだ。あかやりがサッとさがる――玄蕃はふみこんで、二の太刀をかぶったが、そのとき、流星のごとくとんだやりが、ビュッと、鬼玄蕃おにげんば喉笛のどぶえから血玉をとばした。
「わッ――」と弓なりにそってたおれたと見るや、のこる三人のさむらいは、必死に若者の左右からわめきかかる、疾風しっぷうか、稲妻いなずまか、やいばか、そこはただものすごい黒旋風くろつむじとなった。
「えいッ、どもめ!」
 若者は、二、三ど、朱柄あかえやりをふりまわしたが、トンと石突きをついたはずみに、五尺の体をヒラリおどらすが早いか、やしろの玉垣を、飛鳥のごとく飛びこえたまま、あなたのやみへ消えてしまった。
 バラバラと武士もどこかへかけだした。あとは血なまぐさい風に、消えのこったともしびがまたたいているばかり。
「アア、気もちのよい男」
 と伊那丸いなまるは、思わずつぶやいた。
拙者せっしゃも、めずらしいやり玄妙げんみょうをみました」
 龍太郎りゅうたろう助太刀すけだちにでようとおもうまに、みごとに勝負をつけてしまった若者の早技はやわざに、したをまいて感嘆かんたんしていた。そして、ふたりはいつかそこを歩みだして、浜松城に近い濠端ほりばたを、しずかに歩いていたのである。
 すると、大手門の橋から、たちまち空をこがすばかりのほのおの一列が疾走しっそうしてきた。龍太郎は見るより舌うちして、伊那丸とともに、濠端のやなぎのかげに身をひそませていると、まもなく、松明たいまつを持った黒具足くろぐそくの武士が十四、五人、目の前をはしり抜けたが、さいごのひとりが、
「待て、あやしいやつがいた」とさけびだした。
「なに? いたか」
 バラバラと引きかえしてきた人数は、いやおうなく、ふたりのまわりをとり巻いてしまった。
「ちがった、こいつらではない」
 と一目見た一同は、ふり捨ててふたたびゆきすぎかけたが、そのとき、
「ややッ、伊那丸いなまる武田伊那丸たけだいなまるッ」と、だれかいった者がある。


 朱柄あかえやりをもった曲者くせものが、城内の武士ぶしをふたりまで突きころしたという知らせに、さては、敵国の間者かんじゃではないかと、すぐ討手うってにむかってきたのは、酒井黒具足組くろぐそくぐみの人々であった。
 運わるく、そのなかに、伊那丸の容貌かおかたちを見おぼえていた者があった。かれらは、おもわぬ大獲物おおえものに、武者むしゃぶるいをきんじえない。たちまちドキドキする陣刀は、伊那丸と龍太郎りゅうたろうのまわりにかきをつくって、身うごきすれば、五体ははちだぞ――といわんばかりなけんまくである。
「ちがいない。まさしくこの者は、武田伊那丸たけだいなまるだ」
「おしろちかくをうろついているとは、不敵なやつ。尋常にせねばなわをうつぞ、甲斐源氏かいげんじ御曹司おんぞうし縄目なわめを、はじとおもわば、神妙しんみょうにあるきたまえ――」
 侍頭さむらいがしら坂部十郎太さかべじゅうろうたが、おごそかにいいわたした。
 伊那丸は、ちりほどもおくしたさまは見せなかった。りんとはった目をみひらいて、周囲のものをみつめていたが、ちらと、龍太郎りゅうたろうの顔を見ると――かれもひとみをむけてきた。以心伝心いしんでんしん、ふたりの目と目は、瞬間にすべてを語りあってしまう。
「いかにも――」龍太郎はそこでしずかに答えた。
「ここにおわすおんかたは、おさっしのとおり、伊那丸君であります。天下の武将のなかでも徳川とくがわどのは仁君じんくんとうけたまわり、おん情けのそでにすがって、若君のご一身を安全にいたしたいお願いのためまいりました」
「とにかく、きびしいお尋ね人じゃ、おあるきなさい」
「したが、落人おちゅうどのお身の上でこそあれ、無礼のあるときは、この龍太郎が承知いたさぬ、そうおぼしめして、ご案内なさい」
 龍太郎は、戒刀かいとうつえに、伊那丸の身をまもり、すすきをあざむく白刃はくじんのむれは、長蛇ちょうだの列のあいだに、ふたりをはさんで、しずしずと、おにの口にもひとしい、浜松城はままつじょうの大手門のなかへのまれていった。

雷火変らいかへん




 本丸ほんまるとは、城主のすまうところである。築山つきやまの松、たきをたたえたいずみ鶺鴒せきれいがあそんでいる飛石など、いくさのない日は、平和の光がみちあふれている。そこは浜松城のみどりにつつまれていた。
 伊那丸いなまる龍太郎りゅうたろうは、あくる日になって、三の丸、二の丸をとおって、家康いえやすのいるここへ呼びだされた。
勝頼かつよりの次男、武田伊那丸たけだいなまる主従しゅじゅうとは、おん身たちか」
 高座こうざ御簾みすをあげて、こういった家康は、ときに、四十の坂をこえたばかりの男ざかり、智謀ちぼうにとんだ名将のふうはおのずからそなわっている。
「そうです。じぶんが武田伊那丸です」
 龍太郎は、かたわらに両手をついたが、伊那丸ははっきりこたえて、端然たんぜんと、家康の顔をじいとみつめた。――家康も、しかと、こっちをにらむ。
「おう……天目山てんもくざんであいはてた、父の勝頼、また兄の太郎信勝のぶかつに、さても生写いきうつしである……。あのいくさのあとで検分けんぶんした生首なまくびうり二つじゃ」
「うむ……」
 伊那丸いなまるの肩は、あやしく波をうった。かれをにらんだ二つのひとみからは、こらえきれない熱涙が、ハラハラとはふり落ちてとまらない。
 この家康いえやすめが、織田おだと力をあわせ、北条ほうじょうをそそのかして、武田たけだの家をほろぼしたのか、父母や兄や、一族たちをころしたのか――と思うと、くやし涙は、ほおをぬらして、骨にてっしてくる。まなこもらんらんともえるのだった。
「若君、若君……」
 と、龍太郎りゅうたろうはそッとひざをついて目くばせをしたが、伊那丸は、さらに心情をつつまなかった。
「おお……」と家康はうなずいて、そしてやさしそうに、
「父の領地りょうち焦土しょうどとなり、身は天涯てんがい孤児こじとなった伊那丸、さだめし口惜くやしかろう、もっともである。いずれ、家康もとくと考えおくであろうから、しばらくは、まず落ちついて、体をやすめているがよかろう」
 家康はなにか一言ひとこと近侍きんじにいいつけて、その席を立ってしまった。ふたりはやがて、酒井の家臣、坂部十郎太さかべじゅうろうたのうしろにしたがって、二の丸の塗籠造ぬりごめづくりの一室へあんないされた。伊那丸は、ふたりきりになると、ワッとたもとをかんで、泣いてしまった。
「龍太郎、わしは口惜くやしい……くやしかった」
「ごもっともです、おさっしもうしまする」
 とかれもしばらく、伊那丸いなまるの手をとって、あおむいていたが、きッと、あらたまっていった。
「さすがにいまだご若年じゃくねん、ごむりではありますが、だいじなときです。お心をしかとあそばさねば、この大望たいもうをはたすことはできません」
「そうであった、伊那丸は女々めめしいやつのう……」
 と快川和尚かいせんおしょうが、幼心おさなごころへうちこんでおいた教えの力が、そのとき、かれの胸に生々いきいきとよみがえった。にっこりと笑って、涙をふいた。
「わたくしの考えでは、家康いえやすめは、あのするどい目で、若さまのようすから心のそこまで読みぬいてしまったとぞんじます。なかなか、この龍太郎りゅうたろうが考えたにのるような愚将ぐしょうではありませぬから、必然ひつぜん、お身の上もあやういものと見なければなりません」
「わしもそう思った。それゆえに、よしや、いちじの計略はかりごとにせよ、家康などに頭をさげるのがいやであった。龍太郎、そちの教えどおりにしなかった、わしのわがままはゆるしてくれよ」
 果然かぜん、ふたりはまえから、家康の身に近よる秘策ひさくをいだいて、わざと、この城内へとらわれてきたのらしい。しかし、すでにそれを、家康が見破ってしまったからには、さめをうたんがため鮫の腹中にはいって、出られなくなったと、おなじ結果におちたものだ。
 このうえは、家康がどうでるか、敵のでようによってこの窮地きゅうちから活路かつろをひらくか、あるいは、浜松城の鬼となるか、武運の分れめを、一きょにきめるよりほかはない。


 日がくれると、膳所ぜんしょさむらいが、おびただしい料理や美酒をはこんできて、うやうやしくふたりにすすめた。
「わが君のこころざしでござります。おくつろぎあって、じゅうぶんに、おすごしくださるようにとのおことばです」
過分かぶんです。よしなに、お伝えください」
「それと、城内のおきてでござるが、ご所持のもの、ご佩刀はいとうなどは、おあずかりもうせとのことでござりますが」
「いや、それはことわります」と龍太郎りゅうたろうはきっぱり、
「若君のお刀は伝家の宝刀、ひとの手にふれさせていいしなではありませぬ。また、拙者せっしゃつえ護仏ごぶつ法杖ほうじょうおいのなかは三尊さんぞん弥陀みだです。ご不審ふしんならば、おあらためなさるがよいが、お渡しもうすことは、ちかってあいなりません」
「では……」
 と、その威厳いげんにおどろいた家臣たちは、おずおずと笈のなかをあらためたが、そのなかには、龍太郎の言明したとおり、三体のほとけのぞうがあるばかりだった。そして、つえのあやしい点には気づかずに、そこそこに、そこからさがってしまった。
「若君、けっして手をおふれなさるな、この分では、これもあやしい」
 と、膳部ぜんぶ吸物椀すいものわんをとって、なかのしるを、部屋の白壁にパッとかけてみると、すみのように、まっ黒に変化して染まった。
「毒だ! この魚にも、この飯にも、おそろしい毒薬がまぜてある。伊那丸いなまるさま、家康いえやすの心はこれではっきりわかりました。うわべはどこまでも柔和にゅうわにみせて、わたしたちを毒害どくがいしようというはらでした」
「ではここも?」
 と伊那丸は立ちあがって、塗籠ぬりごめの出口の戸をおしてみると、はたしてかない。力いっぱい、おせど引けど開かなくなっている。
「若君――」
 龍太郎りゅうたろうはあんがいおちついて、なにか伊那丸の耳にささやいた。そして、夜のふけるのを待って、足帯あしおび脇差わきざしなど、しっかりと身支度みじたくしはじめた。
 やがて龍太郎は、おいのなかから取りのけておいた一体の仏像ぶつぞうを、部屋へやのすみへおいた。そして燭台しょくだいともしびをその上へ横倒しにのせかける。
 部屋の中は、いちじ、やや暗くなったが、仏像の木に油がしみて、ふたたびプスプスと、まえにもまして、明るいほのおを立ててきた。
 龍太郎は、伊那丸の体をひしと抱きしめて、反対のすみによった。そして、できるだけ身をちぢめながら、じッとその火をみつめていた。プス……プス……ほのおは赤くなり、むらさき色になりしてゆくうちに、パッと部屋のなかが真暗になったせつな、チリチリッと、こまかい火のが、仏像からうつくしくほとばしりはじめた。
「若君、耳を耳を」と、いいながら龍太郎も、かたく眼をつぶった。
 その時――
 轟然ごうぜんたる音響おんきょうとともに、仏像のなかにしかけてあった火薬が爆発した。――浜松城の二の丸の白壁は、雷火らいかかれてくずれ落ちた。
 ガラガラと、すさまじい震動しんどうは、本丸ほんまる、三の丸までもゆるがした。すわ変事へんじと、旗本はたもとや、役人たちは、得物えものをとってきてみると、外廓そとぐるわの白壁がおちたところから、いきおいよくふきだしている怪火! すでに、矢倉やぐらへまでもえうつろうとしているありさまだ。
「火事ッ、火事ッ――」
 りかかる火のをあびて、口々にうろたえた顔をあおむかせていると、ふたたび、どッと、突きくずしてきた白壁の口から、紅蓮ぐれんをついてあらわれた者がある。無反むぞりの戒刀かいとうをふりかぶった木隠龍太郎こがくれりゅうたろう、つづいて、武田伊那丸たけだいなまるのすがた。
曲者くせものッ」
 と下では、騒然そうぜんうずをまいた。その白刃の林をめがけて、ほのおのなかから、ひらりと飛びおりた伊那丸と龍太郎――
 ああ、そのあやうさ。


 小太刀こだちをとっては、伊那丸いなまるはふしぎな天才児である。木隠龍太郎こがくれりゅうたろうも戒刀の名人、しかも隠形おんぎょうの術からえた身のかるさも、そなえている。
 けれど、伊那丸も龍太郎も、けっして、匹夫ひっぷゆうにはやる者ではない。どんな場合にも、うろたえないだけの修養はある。――だのに、なぜ、こんな無謀むぼうをあえてしたろう? 白刃林立のなかへ、肉体をなげこめば、たちまち剣のさきに、メチャメチャにされてしまうのは、あまりにも知れきった結果だのに。
 しかし、ひとたび人間が、信念に身をかためてむかう時は、刀刃とうじんも折れ、どんな悪鬼あっき羅刹らせつも、かならず退しりぞけうるという教えもある。ふたりがふりかぶった太刀は、まさに信念の一刀だ。とびおりた五尺のからだもまた、信念の鎖帷子くさりかたびらをきこんでいるのだった。
「わッ」
 とさけんだ下の武士たちは、ふいにふたりが、頭上へ飛びおりてきたいきおいにひるんで、思わず、サッとそこを開いてしまった。
 どんと、ふたりのからだが下へつくやいな、いちじに、乱刀の波がどッと斬りつけていったが、
退すされッ」
 と、龍太郎の手からふりだされた戒刀かいとうさきに、乱れたつ足もと。それを目がけて伊那丸いなまるの小太刀も、飛箭ひせんのごとく突き進んだ。たちまち火花、たちまちつるぎの音、斬りおられたやりちゅうにとび、太刀さきに当ったものは、無残なうめきをあげて、たおれた。
退けッ! だめだ」
 と城のへいにせばめられて、人数の多い城兵は、かえって自由をいた。武士たちは、ふたたび、見ぎたなく逃げ出した。龍太郎りゅうたろうと伊那丸は、血刀をふって、追いちらしたうえ、昼間ひるまのうちに、見ておいた本丸をめがけて、かけこんでいった。
 家康いえやすにちかづいて、武田たけだ一門の思いを知らそうと思ったことは破れたが、せめて一太刀でも、かれにあびせかけなければ――浜松城の奥ふかくまではいってきたかいがない。めざすは本丸!
 あいてはひとり!
 と、ほかの雑兵ぞうひょうには目もくれないで、まっしぐらに、武者走り城壁じょうへき細道ほそみちをかけぬけた。

てんいかだ




 矢倉やぐらへむかった消火隊と、武器をとって討手うってにむかった者が、あらかたである。――で、家康いえやすのまわりには、わずか七、八人の近侍きんじがいるにすぎなかった。
「火はどうじゃ、手はまわったか」
 寝所をでた家康は、そう問いながら、本丸の四阿あずまやへ足をむけていた。すると、やみのなかから、ばたばたとそこへかけよってきた黒い人影がある。
「や!」
 と侍たちが、立ちふさがって、きッと見ると、物の具で身をかためたひとりの武士ぶしが、大地へ両手をついた。
「おかみ武田たけだ主従しゅじゅうが、火薬をしかけたうえに狼藉ろうぜきにおよびました。ご身辺にまんいちがあっては、一大事です。はやくおおくへお引きかえしをねがいまする」
「おう、坂部十郎太さかべじゅうろうたか。たかが稚児ちごどうような伊那丸いなまる六部ろくぶの一人や二人が、おりをやぶったとて、なにをさほどにうろたえることがある。それよりか、城の火こそ、はやく消さねばならぬ、矢倉やぐらへむかえ!」
「はッ」と十郎太が、立ちかけると――
「家康ッ!」と、ふいに、耳もとをつんざいた声とともに、闇のうちからながれきたった一せんの光。
「無礼ものッ!」
 とさけびながら、よろりと、しりえに、身をながした家康のそでを、さッと、白いさきがかすってきた。
「何者だ!」
 とその太刀影たちかげを見て、ガバと、はねおきるより早く、斬りまぜていった十郎太じゅうろうたの陣刀。
「おかみ、お上」
 と近侍きんじのものは、そのすきに、家康いえやす屏風びょうぶがこいにして、本丸の奥へと引きかえしていった。
「無念ッ――」
 長蛇ちょうだいっした伊那丸いなまるは、なおも、四、五けんほど、追いかけてゆくのを、待てと、坂部十郎太さかべじゅうろうたの陣刀が、そのうしろからしたいよった。
 と、伊那丸はなんにつまずいたか、ア――とやみをおよいだ。ここぞと、十郎太がふりかぶった太刀に、あわれむごい血煙が、立つかと見えたせつな、魔鳥のごとく飛びかかってきた龍太郎りゅうたろうが、やッと、横ざまに戒刀かいとうをもって、ぎつけた。
「むッ……」と十郎太は、苦鳴くめいをあげて、たおれた。
「若君――」
と寄りそってきた龍太郎、
「またの時節じせつがあります。もう、すこしも、ご猶予ゆうよは危険です。さ、この城から逃げださねばなりませぬ」
「でも……龍太郎、ここまできて、家康を討ちもらしたのはざんねんだ。わしは無念だ」
「ごもっともです。しかし、伊那丸いなまるさまの大望は、ひろい天下にあるのではござりませぬか。家康いえやすひとりは小さな敵です。さ、早く」
 とせき立てたかれは、むりにかれの手をとって、築山つきやまから、城の土塀どべいによじのぼり、狭間はざまや、わずかな足がかりを力に、二じょうあまりの石垣いしがきを、すべり落ちた。
 途中に犬走りという中段がある。ふたりはそこまでおりて、ぴったりと石垣に腹をつけながら、しばらくあたりをうかがっていた。上では、城内の武士が声をからして、八ぽうへ手配てくばりをさけびつつ、縄梯子なわばしごを、石垣のそとへかけおろしてきた。南無三なむさん――とあなたを見れば、火の手を見た城下の旗本たちが、やみをついて、これまた城の大手へ刻々に殺到するけはいである。
「どうしたものだろう?」
 さすがの龍太郎りゅうたろうも、ここまできて、はたと当惑とうわくした。もうほりまでわずかに五、六尺だが、そのさきは、満々とたたえた外濠そとぼり、橋なくして、渡ることはとてもできない。ふつう、兵法で十五けん以上と定められてあるほりが、どっちへまわっても、陸と城とのさかいをへだてている。するといきなり上からヒューッと一団の火が尾をひいて、ふたりのそばに落ちてきた。闇夜の敵影をさぐる投げ松明たいまつである。ヒューッ、ヒューッ、とつづけざまにおちてくる光――
「いたッ、犬走りだ」
 と頭のうえで声がしたとたんに、光をたよりに、バラバラと、つるべうちにてきた矢のうなり、――鉄砲のひびき。
「しまった」と龍太郎りゅうたろう伊那丸いなまるの身をかばいながら、石垣にそった犬走りを先へさきへとにげのびた。しかし、どこまでいってもおかへでるはずはない。ただむなしく、城のまわりをまわっているのだ。そのうちには、敵の手配てはいはいよいよきびしく固まるであろう。
 矢と、鉄砲と、投げ松明たいまつは、どこまでも、ふたりの影をおいかけてくる。そのうちに龍太郎は、「あッ」と立ちすくんでしまった。
 ゆくての道はとぎれている。見れば目のまえはまっくらな深淵しんえんで、ごうーッという水音が、やみのそこにうずまいているようす。ここぞ、城内の水をきって落としてくる水門であったのだ。
 矢弾やだまは、ともすると、びんの毛をかすってくる。前はうずまく深淵しんえん、ふたりは、進退きわまった。
「ああ、無念――これまでか」と龍太郎は天をあおいで嘆息たんそくした。
 と、そのまえへ、ぬッと下から突きだしてきたやり
「何者?」
 と思わず引っつかむと、これは、冷たい雫にぬれたさおのさきだった。龍太郎がつかんだ力に引かれて、まっ黒な水門からいかだのような影がゆらゆらと流れよってきた。その上にたって、さおぐってくるふしぎな男はたれ? 敵か味方か、ふたりは目をみはって、やみをすかした。


「お乗りなさい、はやく、はやく」
 いかだのうえの男は、早口にいった。いまはなにをうすきもない。ふたりは、ヒラリと飛びうつった。
 ザーッとはねあがった水玉をあびて、男は、力まかせに石垣いしがきをつく。――筏は外濠そとぼりのなみを切って、意外にはやくおかへすすむ。そして、すでにほりのなかほどまできたとき、
「その方はそも何者だ。われわれをだれとおもって助けてくれたのか」
 龍太郎りゅうたろうが、ふしんな顔をしてきくと、それまで、黙々として、棹をあやつっていた男は、はじめて口を開いてこういった。
武田伊那丸たけだいなまるさまと知ってのうえです。わたくしは、この城の掃除番そうじばん森子之吉もりねのきちという者ですが、根から徳川家とくがわけの家来ではないのです」
「おう、そういえば、どこやらに、甲州こうしゅうなまりらしいところもあるようだ」
「何代もまえから、甲府こうふのご城下にすんでおりました。父は森右兵衛もりうへえといって、おやかた足軽あしがるでした。ところが、運わるく、長篠ながしのの合戦のおりに、父の右兵衛うへえがとらわれたので、わたくしも、心ならず徳川家にくだっていましたが、ささいなあやまちから、父は斬罪ざんざいになってしまったのです。わたくしにとっては、うらみこそあれ、もう奉公する気のない浜松城をすてて、一日もはやく、故郷こきょうの甲府にかえりたいと思っているまに、武田家たけだけは、織田おだ徳川とくがわのためにほろぼされ、いるも敵地、かえるも敵地というはめになってしまいました。ところへ、ゆうべ、伊那丸いなまるさまがつかまってきたという城内のうわさです。びっくりして、お家の不運をなげいていました。けれど、今宵こよいのさわぎには、てっきりお逃げあそばすであろうと、水門のかげへいかだをしのばして、お待ちもうしていたのです」
「ああ、天の助けだ。子之吉ねのきちともうす者、心からお礼をいいます」
 と、伊那丸は、この至誠な若者を、いやしい足軽あしがるの子とさげすんではみられなかった。いくどか、頭をさげてれいをくり返した。そのまに、いかだどんと岸についた。
「さ、おあがりなさいませ」と子之吉は、あしの根をしっかり持って、筏を食いよせながらいった。
「かたじけない」と、ふたりが岸へ飛びあがると、
「あ、お待ちください」とあわててとめた。
子之吉ねのきち、いつかはまたきっとめぐりあうであろう」
「いえ、それより、どっちへお逃げなさるにしても、この濠端ほりばたを、右にいってはいけません。お城固しろがための旗本屋敷はたもとやしきが多いなかへはいったらふくろのねずみです。どこまでもここから、左へ左へとすすんで、入野いりぬせきをこえさえすれば、浜名湖はまなこの岸へでられます」
「や、ではこの先にも関所せきしょがあるか」
「おあんじなさいますな、ここにみのと、わたくしの鑑札かんさつがあります。お姿をつつんで、これをお持ちになれば大じょうぶです」
 子之吉ねのきちは、下からそれを渡すと、岸をついて、ふたたび、いかだほりのなかほどへすすめていったが、にわかに、どぶんとそこから水けむりが立った。
「ややッ」と、岸のふたりはおどろいて手をあげたが、もうなんともすることもできなかった。
 子之吉は、筏をはなすと同時に、脇差わきざしをぬいて、みごとにわが喉笛のどぶえをかッ切ったまま、ほりのなかへ身を沈めてしまったのである。後日に、徳川家とくがわけの手にたおれるよりは、故主の若君のまえで、報恩の一死をいさぎよくささげたほうが、森子之吉もりねのきち本望ほんもうであったのだ。

怪船かいせん巽小文治たつみこぶんじ




 伊那丸いなまる龍太郎りゅうたろう外濠そとぼりをわたって、脱出だっしゅつしたのを、やがて知った浜松城の武士たちは、にわかに、追手おってを組織して、入野いりぬせきへはしった。
 ところが、すでに二刻ふたときもまえに、みのをきた両名のものが、このせきへかかったが、足軽鑑札あしがるかんさつを持っているので、夜中ではあったが、通したということなので、討手うってのものは、地だんだをふんだ。そして、長駆ちょうくして、さらに次の浜名湖はまなこの渡し場へさしていそいだ。
 いっぽう、伊那丸いなまる龍太郎りゅうたろうのふたりは、しゅびよく、浜名湖のきしべまで落ちのびてきたが、一なんさってまた一難、ここまできながら、一そうの船も見あたらないのでむなしくあっちこっちと、さまよっていた。
 月はないが、空いちめんにぎだされ、かがやかしい星の光と、ゆるやかに波をる水明りに、湖は、夜明けのようにほの明るかった。すると、ギイ、ギイ……とどこからか、この静寂しじまをやぶるの音がしてきた。
「お、ありゃなんの船であろう?」
 と伊那丸が指したほうを見ると、いましも、弁天島べんてんじまの岩かげをはなれた一艘の小船に、五、六人の武士が乗りこんで、こなたの岸へかじをむけてくる。
「いずれ徳川家とくがわけ武士ぶしにちがいない。伊那丸さま、しばらくここへ」
 と龍太郎はさしまねいて、ともにくさむらのなかへ身をしずめていると、まもなく船は岸について、黒装束くろしょうぞくの者がバラバラとおかへとびあがり、口々になにかざわめき立ってゆく。
「せっかく仕返しにまいったのに、かんじんなやつがいなかったのはざんねんしごくであった」
「いつかまた、きゃつのすがたを見かけしだいに、ぶッた斬ってやるさ。それに、すまいもつきとめてある」
「あの小僧こぞうも、あとで家へかえって見たら、さだめしびっくりして泣きわめくにちがいない。それだけでも、まアまア、いちじの溜飲りゅういんがさがったというものだ」
 ものかげに、人ありとも知らずにこう話しながら、浜松のほうへつれ立ってゆくのをやり過ごした龍太郎りゅうたろう伊那丸いなまるは、そこを、すばやく飛びだして、かれらが乗りすてた船へとびうつるが早いか、力のかぎりをこいだ。
「龍太郎、いったいいまのは、何者であろう」
 みよしに腰かけていた伊那丸が、ふといいだした。
「さて、この夜中に、黒装束くろしょうぞく横行おうこうするやからは、いずれ、盗賊とうぞくのたぐいであったかもしれませぬ」
「いや、わしはあのなかに、ききおぼえのある声をきいた。盗賊の群れではないと思う」
「はて……?」龍太郎は小首をかしげている。
「そうじゃ、ゆうべ、八幡前はちまんまえで、鎧売よろいうりに斬りちらされた悪侍、あのときの者が二、三人はたしか今の群れにまじっていた」
「おお、そうおっしゃれば、いかにも似通にかようていたやつもおりましたな」
 と、龍太郎はいつもながら、伊那丸のかしこさにしたをまいた。そのまに、船は弁天島べんてんじまへこぎついた。
「若君――」と船をもやってふりかえる。
「浜松から遠くもない、こんな小島に長居ながいは危険です。わたくしの考えでは、夜のあけぬまえに、渥美あつみの海へこぎだして、伊良湖崎いらこざきから志摩しまの国へわたるが一ばんご無事かとぞんじますが」
「どんな荒海、どんな嶮岨けんそをこえてもいい。ただ一ときもはやく、かねがねそちが話したおん方にお目にかかり、また忍剣にんけんをたずね、その他の勇士をりあつめて、この乱れた世を泰平たいへいにしずめるほか、伊那丸いなまるの望みはない」
「そのお心は、龍太郎りゅうたろうもおさっしいたしております。では、わたくしは弁天堂の禰宜ねぎか、どこぞの漁師りょうしをおこしてべ物の用意をいたしてまいりまするから、しばらく船のなかでお待ちくださいまし」
 と龍太郎は、ひとりで島へあがっていった。そしてあなたこなたを物色ぶっしょくしてくると、白砂をしいた、まばらな松のなかにチラチラあかりのもれている一軒の家が目についた。
「漁師の家と見える、ひとつ、おとずれてみよう」
 と龍太郎は、ツカツカと軒下へきて、開けっぱなしになっている雨戸の口からなかをのぞいてみると、うすぐらいともしびのそばに、ひとりの男が、あけにそまった老婆ろうば死骸しがいを抱きしめたまま、よよと、男泣きに泣いているのであった。


 龍太郎りゅうたろうが、そこを立ちさろうとすると、なかの男は、跫音あしおとを耳にとめたか、にわかに、はねおきて、かべに立てかけてあった得物えものをとるやいなや、ばらッと、雨戸のそとへかけおりた。
「待てッ、待て、待てッ!」
 あまりその声のするどさに、龍太郎も、ギョッとしてふりかえった。すると――そのせつな、真眉間まみけんへむかって、ぶんとうなってきたするどい光りものに――はッとおどろいて身をしずめながら、片手にそれをまきこんでそでの下へだきしめてしまった。見ればそれは朱柄あかえやりであった。
「こりゃ、なんだって、拙者せっしゃの不意をつくか」
「えい、かすな、おれのおふくろをころしたのは、おまえだろう。天にも地にも、たったひとりのおふくろさまのかたきだ。どうするかおぼえていろ!」
「勘ちがいするな、さようなおぼえはないぞ」
「だまれ、だまれッ、めったに人のこないこの島に、なんの用があって、うろついていた。今しがた、宿しゅくから帰ってみれば、おふくろさまはズタ斬り、家のなかは乱暴狼藉ろうぜき、あやしいやつは、なんじよりほかにないわッ」
 目に、いっぱいなみだをひからせている。憤怒ふんぬのまなじりをつりあげて、いッかなきかないのだ。この若者は浜松の町で、稀代きたい槍法そうほうをみせた鎧売よろいうりの男で――いまは、この島に落ちぶれているが、もとは武家生まれの、巽小文治たつみこぶんじという者であった。
「うろたえごとをもうすな、だれが、恨みもないきさまの老母などを、殺すものか」
「いや、なんといおうが、おれの目にかかったからにはのがすものか」
「うぬ! 血まよって、後悔こうかいいたすなよ」
「なにを、この朱柄あかえやりでただひと突き、おふくろさまへの手向たむけにしてくれる。覚悟かくごをしろ」
「えい! 聞きわけのないやつだ」
 と、龍太郎りゅうたろうもむッとして、やりのケラ首が折れるばかりにひッたくると、小文治こぶんじも、金剛力こんごうりきをしぼって、ひきもどそうとした。
「やッ――」とその機をねらった龍太郎が、ふいに穂先ほさきをつッ放すと、力負けした小文治は、やりをつかんだままタタタタタと、一、二けんもうしろへよろけていった。――そこを、
「おお――ッ」ととびかかった龍太郎の抜き討ちこそ、木隠流こがくれりゅうのとくいとする、戒刀かいとうのはやわざであった。
 いつか、裾野すその文殊閣もんじゅかくでおちあった加賀見忍剣かがみにんけんも、この戒刀かいとうのはげしさには膏汗あぶらあせをしぼられたものだった。ましてや、若年じゃくねん巽小文治たつみこぶんじは、必然、まッ二つか、袈裟けさがけか? どっちにしても、助かりうべき命ではない。
 と見えたが――意外である! 龍太郎りゅうたろうの刀は、サッとくうを斬って、そのとたんにやりの石突きがトンと大地をついたかと思うと、小文治こぶんじの体は、五、六尺もたかくちゅうにおどって、龍太郎の頭の上を、とびこえてしまった。
 この手練しゅれん――かれはただ平凡な槍使やりつかいではなかった。
 龍太郎は、とっさに、ひとみを抜かれたような気持がした。すぐみとまって、太刀たちを持ちなおすと、すでにかまえなおした小文治は槍を中段ににぎって、龍太郎の鳩尾みぞおちへピタリと穂先ほさきをむけてきた。
 かつて一ども、いまのようにあざやかに、敵にかわされたためしのない龍太郎は、このかまえを見るにおよんで、いよいよ要心ようじんに要心をくわえながら、下段げだん戒刀かいとうをきわめてしぜんに、頭のうえへ持っていった。
 玄妙げんみょうきわまる槍と、精妙無比せいみょうむひな太刀はここにたがいの呼吸をはかり、たがいに、のすきをねらい合って一瞬一瞬、にじりよった。
 ※(「風にょう+炎」、第4水準2-92-35)てんぴょう一陣! ものすごい殺気が、みるまにふたりのあいだにみなぎってきた。ああ龍虎りゅうこたおれるものはいずれであろうか。


 船べりに頬杖ほおづえついて、龍太郎を待っていた伊那丸いなまるは、よいからのつかれにさそわれて、いつか、銀河の空の下でうっとりと眠りの国へさまよっていた。――松かぜのかなでや、ふなばたをうつ波のつづみを、子守唄のように聞いて。
 ――すると。
 内浦鼻うちうらばなのあたりから、かなり大きな黒船のかげが瑠璃るりみずうみをすべって、いっさんにこっちへむかってくるのが見えだした。だんだんと近づいてきたその船を見ると徳川家とくがわけの用船でもなく、また漁船ぎょせんのようでもない。みよしのぐあいや、帆柱ほばしらのさまなどは、この近海に見なれない長崎型ながさきがたの怪船であった。
 ふかしぎな船は、いつか弁天島べんてんじまのうらで船脚ふなあしをとめた。そして、親船をはなれた一そう軽舸はしけが、矢よりも早くあやつられて伊那丸いなまるの夢をうつつに乗せている小船のそばまで近づいてきた。
 ポーンと鈎縄かぎなわを投げられたのを伊那丸はまったく夢にも知らずにいる。――それからも、船のすべりだしたのすら気づかずにいたが、フトむなぐるしい重みを感じて目をさました時には、すでに四、五人のあらくれ男がよりたかって、おのれの体に、荒縄あらなわをまきしめていたのだった。
「あッ、龍太郎りゅうたろう――ッ」
 かれは、おもわず絶叫ぜっきょうした。だがその口も、たちまち綿わたのようなものをつめられてしまったので、声も立てられない。ただ身をもがいて、しまろんだ。
 水なれた怪船の男どもは、毒魚のごとく、どうや軽舸の上におどり立って、なにかてんでに口ぜわしくさけびあっている。
「それッ、北岸きたぎしへ役人の松明たいまつが見えだしたぞ」
「はやく軽舸はしけをあげてしまえッ」
帆綱ほづなたかれーッ、帆綱をまけ――」
 キリキリッ、キリキリッと帆車ほぐるまのきしむおとが高鳴ると同時に、軽舸の底にもがいていた伊那丸いなまるのからだは、
「あッ」というまに鈎綱かぎづなにひっかけられて、ゆらゆらと波の上へつるしあげられた。
 龍太郎りゅうたろうはどうした? この伊那丸の身にふってわいた大変事を、まだ気づかずにいるのかしら? それとも、巽小文治たつみこぶんじ稀代きたい槍先やりさきにかかってあえなく討たれてしまったのか……?
 西北へまわった風をにうけて、あやしの船は、すでにすでに、入江を切って、白い波をかみながら、外海そとうみへでてゆくではないか。

大鷲おおわしくさり




 うわべは歌詠うたよみの法師か、きらくな雲水と見せかけてこころはゆだんもすきもなく、武田伊那丸たけだいなまるのあとをたずねて、きょうは東、あすは南と、血眼ちまなこの旅をつづけている加賀見忍剣かがみにんけん
 裾野すそのやみに乗じられて、まんまと、六部ろくぶ龍太郎りゅうたろうのために、大せつな主君を、うばいさられた、かれの無念むねんさは思いやられる。
 したが、不屈ふくつなかれ忍剣は、たとえ、きもをなめ、身をにくだくまでも、ふたたび伊那丸いなまるをさがしださずに、やむべきか――と果てなき旅をつづけていた。
 おりから、天下は大動乱だいどうらんひなも都も、そのうずにまきこまれていた。
 この年六月二日に、右大臣織田信長うだいじんおだのぶながは、反逆者はんぎゃくしゃ光秀みつひでのために、本能寺であえなき最期さいごをとげた。
 盟主めいしゅをうしなった天下の群雄は、ひとしくうろたえまよった。なかにひとり、山崎のとむらい合戦に、武名をあげたものは秀吉ひでよしであったが、北国の柴田しばた、その北条ほうじょう徳川とくがわなども、おのおのこの機をねらって、おのれこそ天下をとらんものと、野心のせきをかため、虎狼ころうやじりをといで、人の心も、世のさまも、にわかにけわしくなってきた。
 そうした世間であっただけに、忍剣の旅は、なみたいていなものではない。しかも、むくいられてきたものは、けっきょく失望――二月ふたつきあまりの旅はむなしかった。
「伊那丸さまはどこにおわすか。せめて……アアゆめにでもいいから、いどころを知りたい……」
 足をやすめるたびに嘆息たんそくした。
 その一念で、ふと忍剣のあたまに、あることがひらめいた。
「そうだ! クロはまだ生きているはずだ」
 かれはその日から、急に道をかえて、思い出おおき、甲斐かいの国へむかって、いっさんにとってかえした。
 忍剣にんけんが気のついたクロとは、そもなにものかわからないが、かれのすがたは、まもなく、変りはてた恵林寺えりんじあとへあらわれた。


 忍剣は数珠じゅずをだして、しばらくそこに合掌がっしょうしていた。すると、番小屋のなかから、とびだしてきたさむらいがふたり、うむをいわさず、かれの両腕をねじあげた。
「こらッ、そのほうはここで、なにをいたしておった」
「はい、国師こくしさまはじめ、あえなくおくなりはてた、一ざんれいをとむろうていたのでござります」
「ならぬ。甲斐かいたいも、いまでは徳川家とくがわけのご領分だぞ。それをあずかる者は、ご家臣の大須賀康隆おおすかやすたかさまじゃ。みだりにここらをうろついていることはならぬ、とッととたちされ、かえれ!」
「どうぞしばらく。……ほかに用もあるのですから」
「あやしいことをもうすやつ。この焼けあとに何用がある?」
「じつは当寺の裏山、扇山せんざんの奥に、わたしのおさななじみがおります。久しぶりで、その友だちに会いたいとおもいまして、はるばるたずねてまいったのです」
「ばかをいえ、さような者はここらにいない」
「たしかに生きているはずです。それは、友だちともうしても、ただの人ではありません。クロともうす大鷲おおわし、それをひと目見たいのでございます」
「だまれ。あの黒鷲は、当山を攻めおとした時の生捕いけどりもの、大せつにをやって、ちかく浜松城へ献上けんじょういたすことになっているのだ、なんじらの見せ物ではない。帰れというに帰りおらぬか」
 ひとりがうで、ひとりがえりがみをつかんで、ずるずるとひきもどしかけると、忍剣にんけんまゆがピリッとあがった。
「これほど、ことをわけてもうすのに、なおじゃまだてするとゆるさんぞ!」
「なにを」
 ひとりが腰縄こしなわをさぐるすきに、ふいに、忍剣の片足がどんと彼の脾腹ひばらをけとばした。アッと、うしろへたおれて、悶絶もんぜつしたのを見た、べつなさむらいは、
「おのれッ」と太刀のつかへ手をかけて、抜きかけた。
 ――それより早く、
「やッ」と、まッこうから、おがみうちに、うなりおちてきた忍剣の鉄杖てつじょうに、なにかはたまろう。あいては、かッと血へどをはいてたおれた。
 それに見むきもせず、鉄杖をこわきにかかえた忍剣はいっさんに、うら山のおくへおくへとよじのぼってゆく。――と、昼なおくらい木立のあいだから、いような、魔鳥まちょうばたきがつめたいしずくをゆりおとして聞えた。


 らんらんと光る二つの眼は、みがきぬいた琥珀こはくのようだ。その底にすむ金色こんじきひとみ、かしらの逆羽さかばね、見るからに猛々たけだけしい真黒な大鷲おおわしが、足のくさりを、ガチャリガチャリ鳴らしながら、扇山せんざん石柱いしばしらの上にたって、ものすごい絶叫ぜっきょうをあげていた。
 そのくろいつばさを、左右にひろげるときは、一じょうあまりの巨身きょしんとなり、銀のつめをさか立てて、まっ赤な口をあくときは、空とぶ小鳥もすくみ落ちるほどながある。
「おおいた! クロよ、無事でいたか」
 おそれげもなく、そばへかけよってきた忍剣にんけんの手になでられると、わしは、かれの肩にくちばしをすりつけて、あたかも、なつかしい旧友きゅうゆうにでも会ったかのような表情をして、柔和にゅうわであった。
「おなじ鳥類ちょうるいのなかでも、おまえは霊鷲れいしゅうである。さすがにわしの顔を見おぼえているようす……それならきっとこの使命をはたしてくれるであろう」
 忍剣は、かねてしたためておいた一ぺん文字もんじを、油紙あぶらがみにくるんでこよりとなし、クロの片足へ、いくえにもギリギリむすびつけた。
 このわしにもいろいろな運命があった。
 天文てんもん十五年のころ、武田信玄たけだしんげんの軍勢が、上杉憲政うえすぎのりまさを攻めて上野乱入こうずけらんにゅうにかかったとき、碓氷峠うすいとうげの陣中でとらえたのがこのわしであった。
 碓氷の合戦は甲軍こうぐんの大勝となって、敵将の憲政のりまさの首まであげたので、以来いらい信玄しんげんはそのわしやかたにもちかえり、愛育していた。信玄しんげんの死んだあとは、勝頼かつよりの手から、供養くようのためと恵林寺えりんじ寄進きしんしてあったのである。ところがある時、おりをやぶって、民家の五歳になる子を、宙天ちゅうてんへくわえあげたことなどがあったので、扇山の中腹に石柱をたて、太いくさりで、その足をいましめてしまった。
 幼少から、恵林寺にきていた伊那丸いなまるは、いつか忍剣にんけんとともに、このわしをやったり、クロよクロよと、愛撫あいぶするようになっていた。獰猛どうもうわしも、伊那丸や忍剣の手には、ねこのようであった。そして、恵林寺が大紅蓮だいぐれんにつつまれ、一ざんのこらず最期さいごをとげたなかで、わしだけは、この山奥につながれていたために、おそろしいほのおからまぬがれたのだ。
「クロ、いまこそわしが、おまえのくさりをきってやるぞ、そしてそのつばさで、大空を自由にかけまわれ、ただ、おまえをながいあいだかわいがってくだすった、伊那丸さまのお姿を地上に見たらおりてゆけよ」
 そういいながら、鎖に手をかけたが、わしの足にはめられたくろがねかんも、またふとい鎖もれればこそ。
「めんどうだ――」と、忍剣は鉄杖てつじょうをふりかぶって、石柱の角にあたる鎖をはッしと打った。
 そのとき、ふもとのほうから、ワーッという、ただならぬときこえがおこった。くさりはまだきれていないが、忍剣にんけんはその声に、小手こてをかざして見た。
 はやくも、木立のかげから、バラバラと先頭の武士がかけつけてきた。いうまでもなく、大須賀康隆おおすかやすたかの部下である。扇山へあやしの者がいりこんだと聞いて、捕手とりてをひきいてきたものだった。
売僧まいす、その霊鳥れいちょうをなんとする」
「いらざること。このわしこそ、勝頼公かつよりこうのみから当山に寄進きしんされてあるものだ! どうしようとこなたのかってだ」
「うぬ! さては武田たけだ残党ざんとうとはきまった」
「おどろいたかッ」と、いきなりブーンとふりとばした鉄杖てつじょうにあたって、二、三人ははねとばされた。
「それ! とりにがすな」
 ふもとのほうから、追々おいおいとかけあつまってきた人数をがっして、かれこれ三、四十人、やり太刀たちを押ッとって、忍剣のきょをつき、すきをねらって斬ってかかる。
「飛び道具をもった者は、こずえのうえからぶッぱなせ」
 足場がせまいので、捕手のかしらがこうさけぶと、弓、鉄砲てっぽうをひッかかえた十二、三人のものは、ましらのごとく、ちかくのすぎけやきの梢にのぼって、手早く矢をつがえ、火縄ひなわをふいてねらいつける。
 下では忍剣にんけん、近よる者を、かたッぱしからたたきふせて、怪力のかぎりをふるったが、空からくる飛び道具をふせぐべきすべもあろうはずはない。
 はやくも飛んできた一の矢! また、二の矢。
 夜叉やしゃのごとく荒れまわった忍剣は、とつとして、いっぽうの捕手とりてをかけくずし、そのわずかなすきに、ふたたびわしくさりをねらって、一念力、戛然かつぜんとうった。
 きれた! ギャーッという絶鳴ぜつめいをあげたわしは、猛然とつばさを一はたきさせて、地上をはなれたかと見るまに、一陣の山嵐をおこした翼のあおりをくって、大樹たいじゅこずえの上からバラバラとふりおとされた弓組、鉄砲組。
「ア、ア、ア!」とばかり、捕手とりて軍卒ぐんそつがおどろきさわぐうちに、一ど、雲井くもいへたかく舞いあがった魔鳥まちょうは、ふたたびすさまじい※(「風にょう+炎」、第4水準2-92-35)てんぴょうをまいてけおりるや、するどいつめをさかだてて、旋廻せんかいする。
 ふるえ立った捕手どもは、木の根、岩角いわかどにかじりついて、ただアレヨアレヨときもを消しているうちに、いつか忍剣のすがたを見うしない、同時に、偉大なる黒鷲くろわしのかげも、天空はるかに飛びさってしまった。

鞍馬くらま竹童ちくどう




 はなしはふたたびあとへかえって、ここは波明るき弁天島べんてんじま薄月夜うすづきよ――
 いっぽうは太刀たちの名人、いっぽうは錬磨れんまやり、いずれおとらぬさきに秘術のみょうをすまして突きあわせたまま、松風わたる白砂の上に立ちすくみとなっているのは、白衣びゃくえ木隠龍太郎こがくれりゅうたろう朱柄あかえの持ち主、巽小文治たつみこぶんじ
 腕が互角ごかくなのか、いずれにすきもないためか、そうほううごかず、りつけたごとくにらみあっているうちに、魔か、雲か、月をかすめて疾風はやてとともに、天空から、そこへけおりてきたすさまじいものがある。
 バタバタというばたきに、ふたりは、はッと耳をうたれた。弁天島の砂をまきあげて、ぱッと、地をすってかなたへ飛びさった時、不意をおそわれたふたりは、思わず眼をおさえて、左右にとびわかれた。
「あッ――」とおどろきのさけびをもらしたのは、龍太郎のほうであった。それは、もうはるかに飛びさった、わしおおきなのにおどろいたのではない。
 いま、かがみのような入江をすべって浜名湖から外海そとうみへとでてゆく、あやしい船の影――それをチラと見たせつなに、龍太郎のむねを不安にさわがしたのは、小船にのこした伊那丸いなまるの身の上だった。
「もしや?」とおもえば、一こく猶予ゆうよもしてはおられない。やにわに、小文治こぶんじという眼さきの敵をすてて、なぎさのほうへかけだした。
卑怯ひきょうもの!」
 追いすがった小文治こぶんじが、さッと、くりこんでいったやり穂先ほさき、ヒラリ、すばやくかわして、千段せんだんをつかみとめた龍太郎りゅうたろうは、はッたとふりかえって、
卑怯ひきょうではない。わが身ならぬ、大せつなるおかたの一大事なのだ、勝負はあとで決してやるから、しばらく待て」
「いいのがれはよせ。その手は食わぬ」
「だれがうそを。アレ見よ、こうしているまにも、あやしい船が遠のいてゆく、まんいちのことあっては、わが身に代えられぬおんかた、そのお身のうえが気づかわしい、しばらく待て、しばらく待て」
「オオあの船こそ、めったに正体を見せぬ八幡船ばはんせんだ。して、小船にのこしたというのはだれだ。そのしだいによっては、待ってもくれよう」
「いまはなにをつつもう、武田家たけだけ御曹子おんぞうし伊那丸いなまるさまにわたらせられる」
 しばらく、じッと相手をみつめていた小文治こぶんじは、にわかに、槍を投げすててひざまずいてしまった。
「さては伊那丸君いなまるぎみのお傅人もりびとでしたか。今宵こよい、町へわたったとき、さわがしいおうわさは聞いていましたが、よもやあなたがたとは知らず、さきほどからのしつれい、いくえにもごかんべんをねがいまする」
「いや、ことさえわかればいいわけはない、拙者せっしゃはこうしてはおられぬ場合だ。さらば――」
 ほとんど一そくびに、もとのところへひッ返してきた龍太郎りゅうたろうが、と見れば、小船は舫綱もやいをとかれて、湖水のあなたにただようているばかりで、伊那丸いなまるのすがたは見えない。
「チェッ、ざんねん。あの八幡船ばはんせんのしわざにそういない。おのれどうするか、覚えていろ」
 と地だんだんでにらみつけたが、へだては海――それもはや模糊もことして、遠州灘えんしゅうなだなみがくれてゆくものを、いかに、龍太郎でも、飛んでゆく秘術ひじゅつはない。


 ところへ、案じてかけてきたのは、小文治こぶんじだった。
「若君のお身は?」
「しまッたことになった。船はないか、船は」
「あの八幡船のあとを追うなら、とてもむだです」
「たとえ遠州灘のもくずとなってもよい! 追えるところまでゆく覚悟かくごだ。たのむ、早くだしてくれ」
「小船は一そうありますが、八幡船のゆく先ばかりは、いままで領主りょうしゅのご用船が、死に身になって取りまいても、きりのように消えて、つきとめることができないほどでござります」
「ええ、なんとしたことだ――」
 と、思わずどッかり腰をおとしてしまった龍太郎りゅうたろうは、われながらあまりの不覚に、くちびるをかみしめた。
 小文治こぶんじは、それを見ると、不用意なじぶんの行動が後悔されてきた。母をうしなった悲しさに、いちずに龍太郎を下手人げしゅにんとあやまったがため、このことが起ったのだ。さすれば、とうぜん、じぶんにもつみはある。
 かれは、いくたびかそれをわびた。そして、あらためて素性すじょうを名のり、永年よきしゅをさがしていたおりであるゆえ、ぜひとも、力をあわせて伊那丸いなまるさまを取りかえし、ともども天下につくしたいと、真心まごころこめて龍太郎にたのんだ。
 龍太郎も、よい味方を得たとよろこんだ。しかし、さてこれから八幡船ばはんせん根城ねじろをさがそうとなると、それはほとんど雲にかくれた時鳥ほととぎすをもとめるようなものだった。――むろん小文治こぶんじにも、いい智恵ちえは浮かばなかった。
「こうなってはしかたがない」
 龍太郎はやがてこまぬいていた腕から顔をあげた。
「おしかりをうけるかもしれぬが、一たび先生のところへ立ち帰って、この後の方針をきめるとしよう。それよりほかに思案はない」
「して、その先生とおっしゃるおかたは」
「京の西、鞍馬くらまおくにすんではいるが、ある時は、都にもいで、またある時は北国の山、南海のはてにまで姿を見せるという、稀代きたいなご老体で、拙者せっしゃ刀術とうじゅつ隠形おんぎょうの法なども、みなその老人からさずけられたものです」
 鞍馬くらまときくさえ、すぐ、天狗てんぐというような怪奇が聯想れんそうされるところへ、この話をきいた小文治こぶんじは、もっと深くその老人が知りたくなった。
龍太郎りゅうたろうどのの先生とおっしゃる――そのおかたの名はなんともうされますか」
「まことのせいはあかしませぬ。ただみずから、果心居士かしんこじ異号いごうをつけております。じつはこのたびのことも、まったくその先生のおさしずで、織田おだ徳川とくがわ甲府攻こうふぜめをもよおすと同時に、拙者せっしゃは、六部ろくぶに身を変じて、伊那丸いなまるさまをお救いにむかったのです。それがこの不首尾ふしゅびとなっては、先生にあわせる顔もないしだいだが、天下のことながらにして知る先生、またきっと好いおさしずがあろうと思う」
「では、どうかわたしもともに、おともをねがいまする」
異存いぞんはないが、さきをいそぐ、おしたくを早く」
 小文治は、家に取ってかえすと、しばらくあって、粗服そふくながら、たしなみのある旅支度たびじたくに、大小を差し、例の朱柄あかえやりをかついで、ふたたびでてきた。
「お待たせいたしました。小船は、わたしの家のうしろへ着けておきましたから……」
 という言葉に、龍太郎がそのほうへすすんで行くと、小船の上には、ひとつのかんがのせてある。
 武士ぶしにかえった門出かどでに、小文治こぶんじは、母の亡骸なきがらをしずかなうみの底へ水葬すいそうにするつもりと見える。
 と、あやしい羽音はおとが、またも空に鳴った。はッとしてふたりが船からふりあおぐと、大きなをえがいていた怪鳥けちょうのかげが、しおけむる遠州灘えんしゅうなだのあなたへ、一しゅんのまに、かけりさった。


 みんな空をむいて、同じように、眉毛まゆげの上へ片手をかざしている。
 烏帽子えぼしの老人、市女笠いちめがさの女、さむらい、百姓、町人――雑多ざったな人がたかって、なにか評議ひょうぎ最中さいちゅうである。
「さて、ふしぎなやつじゃのう」
仙人せんにんでしょうか」
「いや、天狗てんぐにちがいない」
「だって、この真昼まひるなかに」
「おや、よく見ると本を読んでいますよ」
「いよいよ魔物まものときまった」
 この人々は、そも、なにを見ているのだろう。
 ここは近江おうみの国、比叡山ひえいざんのふもと、坂本さかもとで、日吉ひよしの森からそびえ立った五重塔ごじゅうのとうのてッぺん――そこにみんなのひとみがあつまっているのだった。
 なるほどふしぎ、人だかりのするのもむりではない。太陽のまぶしさにさえぎられて、しかとは見えないが、つるのごとき老人が、五重塔ごじゅうのとうのてッぺんにたしかにいるようだ。しかも目のいい者のことばでは、あの高い、のぼりようもない上でのんきに書物を見ているという。
「なに、魔物まものだと? どけどけ、どいてみろ」
「や、今為朝いまためともがきた」
 群集はすぐまわりをひらいた。今為朝いまためともといわれたのはどんな人物かと見ると、たけたかく、色浅ぐろい二十四、五さい武士ぶしである。黒い紋服もんぷく片肌かたはだをぬぎ、手には、日輪巻にちりんまき強弓ごうきゅうと、一本の矢をさかしまににぎっていた。
「む、いかにも見えるな……」
 と、五重塔のいただきをながめた武士は、ガッキリ、その矢をつがえはじめた。
「や、あれをておしまいなさいますか」
 あたりの者はきょうにそそられて、どよみ立った。
「この霊地れいちへきて、奇怪なまねをするにっくいやつ、ことによったら、南蛮寺なんばんじにいるキリシタンのともがらかもしれぬ。いずれにせよ、ぶッぱなして諸人しょにんへの見せしめとしてくれる」
 弓の持ちかた、矢番やつがいも、なにさまおぼえのあるらしい態度だ。それもそのはず、この武士こそ、坂本さかもとの町に弓術きゅうじゅつの道場をひらいて、都にまで名のきこえている代々木流よよぎりゅう遠矢とおや達人たつじん山県蔦之助やまがたつたのすけという者であるが、町の人は名をよばずに、今為朝いまためともとあだなしていた。
「あの矢先に立ってはたまるまい……」
 人々がかたずをのんでみつめるまに、矢筈やはずつるにかけた蔦之助は、にきらめくやじりを、虚空こくうにむけて、ギリギリと満月にしぼりだした。
 とうのいただきにいる者のすがたは、下界げかいのさわぎを、どこふく風かというようすで、すましこんでいるらしい。


日吉ひよしの森へいってごらんなさい。今為朝が、五重塔ごじゅうのとうの上にでた老人の魔物まものにゆきましたぜ」
 坂本の町の葭簀よしず茶屋でも、こんなうわさがぱッとたった。
 床几しょうぎにかけて、茶をすすっていた木隠龍太郎こがくれりゅうたろうは、それを聞くと、道づれの小文治こぶんじをかえりみながら、にわかにツイと立ちあがった。
「ひょっとすると、その老人こそ、先生かもしれない。このへんでお目にかかることができればなによりだ、とにかく、いそいでまいってみよう」
「え?」
 小文治こぶんじはふしんな顔をしたが、もう龍太郎りゅうたろうがいっさんにかけだしたので、あわててあとからつづいてゆくと、うわさにたがわぬ人れだ。
 両足をふんまえて、ねらいさだめた蔦之助つたのすけは、いまや、プツンとばかり手もとを切ってはなした。
「あ――」と群集は声をのんだ、矢のゆくえにひとみをこらした。と見れば、風をきってとんでいった白羽の矢は、まさしく五重塔ごじゅうのとうの、あやしき老人を射抜いぬいたとおもったのに、ぱッと、そこから飛びたったのは、一羽の白鷺しらさぎ、ヒラヒラと、青空にまいあがったが、やがて、日吉ひよしの森へかげをかくした。
「なアんだ」と多くのものは、口をあいたまま、ぼうぜんとして、まえの老人がまぼろしか、いまの白鷺がまぼろしかと、おのれの目をうたぐって、睫毛まつげをこすっているばかりだ。
 そこへ、一足ひとあしおくれてきた龍太郎と小文治はもう人の散ってゆくのに失望して、そのまま、叡山えいざんの道をグングン登っていった。
 ふたりはこれから、比叡山ひえいざんをこえ、八瀬やせから鞍馬くらまをさして、みねづたいにいそぐのらしい。いうまでもなく果心居士かしんこじのすまいをたずねるためだ。
 音にきく源平げんぺい時代のむかし、天狗てんぐ棲家すみかといわれたほどの鞍馬の山路は、まったく話にきいた以上のけわしさ。おまけにふたりがそこへさしかかってきた時は、ちょうど、とっぷり日も暮れてしまった。
 ふもとでもらった、蛍火ほたるびほどの火縄ひなわをゆいつのたよりにふって、うわばみの歯のような、岩壁をつたい、百足腹むかでばら、鬼すべりなどという嶮路けんろをよじ登ってくる。
 おりから初秋はつあきとはいえ、山の寒さはまたかくべつ、それにいちめん朦朧もうろうとして、ふかいきりが山をつつんでいるので、いつか火縄もしめって、消えてしまった。
小文治こぶんじどの、お気をつけなされよ、よろしいか」
「大じょうぶ、ごしんぱいはいりません」
 とはいったが、小文治も、海ならどんな荒浪にも恐れぬが、山にはなれないので、れいの朱柄あかえやりつえにして足をひきずりひきずりついていった。千段曲せんだんまがりという坂道をやっとおりると、白い霧がムクムクわきあがっている底に、ゴオーッというすごい水音がする。渓流けいりゅうである。
「橋がないから、そのやりをおかしなさい。こうして、おたがいに槍の両端を握りあってゆけば、流されることはありません」
 龍太郎りゅうたろうは山なれているので、先にかるがると、岩石へとびうつった。すると、小文治のうしろにあたる断崖だんがいから、ドドドドッとまっ黒なものが、むらがっておりてきた。
「や?」と小文治は身がまえて見ると、およそ五、六十ぴきの山猿やまざるの大群である。そのなかに、十さいぐらいな少年がただひとり、鹿しかの背にのって笑っている。
「おお、そこへきたのは、竹童ちくどうではないか」
 岩の上から龍太郎が声をかけると、鹿の背からおりた少年も、なれなれしくいった。
龍太郎りゅうたろうさま、ただいまお帰りでございましたか」
「む、して先生はおいでであろうな」
「このあいだから、お客さまがご滞留たいりゅうなので、このごろは、ずっと荘園そうえんにおいでなさいます」
「そうか。じつは拙者せっしゃの道づれも、足をいためたごようすだ。おまえの鹿しかをかしてあげてくれないか」
「アアこのおかたですか、おやすいことです」
 竹童ちくどう口笛くちぶえを鳴らしながら、鹿をおきずてにして、岩燕いわつばめのごとく、渓流けいりゅうをとびこえてゆくと、さるの大群も、口笛について、ワラワラとふかい霧の中へかげを消してしまった。
 鹿の背をかりて、しばらくたどってくると、小文治こぶんじ馥郁ふくいくたるかおりに、仙境せんきょうへでもきたような心地がした。
「やっと僧正谷そうじょうがたにへまいりましたぞ」
 と龍太郎が指さすところを見ると、そこは山芝やましばの平地で、あまいにおいをただよわせている果樹園かじゅえんには、なにかのれ、大きな芭蕉ばしょうのかげには、竹を柱にしたゆかしい一軒の家が見えて、ほんのりと、あかりがもれている。
 門からのぞくと、庵室あんしつのなかには、白髪童顔はくはつどうがんおきなが、果物で酒をみながら、総髪そうはつにゆったりっぱな武士ぶしとむかいあって、なにかしきりに笑いきょうじている。
龍太郎りゅうたろう、ただいま帰りました」
 とかれが両手をついたうしろに、小文治こぶんじもひかえた。
「なんじゃ? おめおめと帰ってきおったと」
 おきな――それは別人ならぬ果心居士かしんこじだ。龍太郎の顔を見ると、ふいと、かたわらのあかざつえをにぎりとって、立ちあがるが早いか、
「ばかもの」ピシリと龍太郎の肩をうった。


 果心居士かしんこじは、なにも聞かないうちに、すべてのことを知っていた。八幡船ばはんせん伊那丸いなまるをうばわれたことも、巽小文治たつみこぶんじの身の上も。――そして、きょうのひる、日吉ひよし五重塔ごじゅうのとうのてッぺんにいたのもじぶんであるといった。
 かれは、仙人せんにんか、幻術師げんじゅつしか、キリシタンの魔法を使う者か? はじめて会った小文治は、いつまでも、奇怪ななぞをとくことに苦しんだ。
 しかし、だんだんとひざをまじえて話しているうちに、ようやくそれがわかってきた、かれは仙人せんにんでもなければ、けっして幻術使げんじゅつつかいでもない。ただおそろしい修養の力である。みな、自得じとく研鑽けんさんから通力つうりきした人間技にんげんわざであることが納得なっとくできた。
 浮体ふたいの法、飛足ひそく呼吸いき遠知えんちじゅつ木遁もくとんその他の隠形おんぎょうなど、みなかれが何十年となく、深山にくらしていたたまもので、それはだれでもこうをつめば、できないふしぎや魔力ではない。
 ところで、果心居士かしんこじがなにゆえに、武田伊那丸たけだいなまる龍太郎りゅうたろうにもとめさせたか、それはのちの説明にゆずって、さしあたり、はてなき海へうばわれたおんかたを、どうしてさがしだすかの相談になった。
竹童ちくどう、竹童――」
 居士は例の少年をよんで、小さなにしきのふくろを持ってこさせた。そのなかから、机の上へカラカラと開けたのはかめ甲羅こうらでつくった、いくつもいくつものこまであった。
 かれの精神がすみきらないで、遠知の術のできないときは、この亀卜きぼくといううらないをたてて見るのが常であった。
「む……」ひとりで占いをこころみて、ひとりうなずいた果心居士は、やがて、客人のほうへむいて、
民部みんぶどの、こんどはあなたがいったがよろしい」といった。龍太郎はびっくりして、それへ進んだ。
「しばらく、先生のおおせながら、余人よじんにそのをおいいつけになられては、手まえのたつも、面目めんぼくもござりませぬ。どうか、まえの不覚をそそぐため、拙者せっしゃにおおせつけねがいとうぞんじます」
「いや龍太郎、おまえには、さらに第二段の、大せつなる役目がある。まずこれをとくと見たがよい」
 と、かわの箱から取りだして、それへひろげたのは、いちめんの山絵図やまえずであった。
「これは?」と龍太郎りゅうたろうにおちない顔である。
「ここにおられる、小幡民部こばたみんぶどのが、苦心してうつされたもの。すなわち、自然の山を城廓じょうかくとして、七陣の兵法をしいてあるものじゃ」
「あ! ではそこにおいでになるのは、甲州流こうしゅうりゅうの軍学家、小幡景憲こばたかげのりどののご子息ですか」
「いかにも、すでにまえから、ご浪人なされていたが、武田たけだのお家のほろびたのを、よそに見るにしのびず、伊那丸いなまるさまをたずねだしてふたたびはたあげなさろうという大願望だいがんもうじゃ、おなじこころざしのものどもがめぐりおうたのも天のおひきあわせ、したが、伊那丸さまのありかが知れても、よるべき天嶮てんけんがなくてはならぬ。そこで、まずひそかに、二、三の者がさきにまいって地理の準備じゅんび、またおおくの勇士をもりもよおしておき、おんかたの知れしだいに、いつなりと、旗あげのできるようにいたしておくのじゃ」
「は、承知いたしました。して、この図面ずめんにあります場所は?」
 という龍太郎の問いに応じてこんどは、小幡民部がひざをすすめた。
武田家たけだけえんのふかき、こうしん駿すんの三ヵ国にまたがっている小太郎山こたろうざんです。また……」
 と、軍扇ぐんせんかなめをもって、民部はたなごころを指すように、ここは何山、ここは何の陣法と、こまかに、みくだいて説明した。
 肝胆かんたんあい照らした、龍太郎、小文治こぶんじ、民部の三人は、夜のふけるをわすれて、旗上げの密議をこらした。果心居士かしんこじは、それ以上は一言ひとことも口をさし入れない。かれの任務にんむは、ただここまでの、気運だけを作るにあるもののようであった。
 翌日は早天に、みな打ちそろって僧正谷そうじょうがたに出立しゅったつした。龍太郎と小文治は、例のすがたのまま、旗あげの小太郎山こたろうざんへ。
 また、小幡民部こばたみんぶひとりは、深編笠ふかあみがさをいただき、片手に鉄扇てっせん野袴のばかまといういでたちで、京都から大阪もよりへと伊那丸いなまるのゆくえをたずねもとめていく。
 その方角は、果心居士の亀卜きぼくがしめしたところであるが、このうらないがあたるかいなか。またあるいは音にひびいた軍学者小幡が、はたしてどんな奇策きさくを胸にめているか、それは余人よじんがうかがうことも、はかり知ることもできない。

智恵ちえのたたかい




 板子いたご一枚下は地獄じごく。――船の底はまッ暗だ。
 空も見えなければ、海の色も見えない。ただときおりドドーン、ドドドドドーン! とどうにぶつかってはくだける怒濤どとうが、百千のつづみを一時にならすか、いかずちのとどろきかとも思えて、人のたましいをおびやかす。
 その船ぞこに、生けるしかばねのように、うつぶしているのは、武田伊那丸たけだいなまるのいたましい姿だった。
 八幡船ばはんせん遠州灘えんしゅうなだへかかった時から、伊那丸の意識いしきはなかった。この海賊船かいぞくせんが、どこへ向かっていくかも、おのれにどんな危害がせまりつつあるのかも、かれはすべてを知らずにいる。
「や、すっかりまいっていやがる」
 さしもはげしかった、船の動揺もやんだと思うと、やがて、入口をポンとはねて、飛びおりてきた手下どもが伊那丸のからだを上へにないあげ、すぐ船暈ふなよいざましの手当にとりかかった。
「やい、そのわっぱ脇差わきざしを持ってきて見せろ」
 とみよしからだみごえをかけたのは、この船の張本ちょうほんで、龍巻たつまき九郎右衛門くろうえもんという大男だった。赤銅しゃくどうづくりの太刀たちにもたれ、南蛮織なんばんおりのきらびやかなものを着ていた。
「はて……?」と龍巻は、いま手下から受けとった脇差の目貫めぬきと、伊那丸の小袖こそでもんとを見くらべて、ふしんな顔をしていたが、にわかにつっ立って、
「えらい者が手に入った。その小童こわっぱは、どうやら武田家たけだけ御曹子おんぞうしらしい。五十や百の金で、人買いの手にわたす代物しろものじゃねえから、めったな手荒をせず、島へあげて、かいほうしろ」
 そういって、三人の腹心の手下をよび、なにかしめしあわせたうえ、その脇差を、そッともとのとおり、伊那丸いなまるの腰へもどしておいた。
 まもなく、軽舸はしけの用意ができると、病人どうような伊那丸を、それへうつして、まえの三人もともに乗りこみ、すぐ鼻先はなさきの小島へむかってこぎだした。
「やい! 親船がかえってくるまで、大せつな玉を、よく見はっていなくっちゃいけねえぞ」
 龍巻たつまきは二、三ど、両手で口をかこって、遠声をおくった。そしてこんどは、足もとから鳥が立つように、あたりの手下をせきたてた。
「それッ、帆綱ほづなをひけ! 大金おおがねもうけだ」
「お頭領かしら、また船をだして、こんどはどこです」
泉州せんしゅうさかいだ。なんでもかまわねえから、張れるッたけをはって、ぶっとおしにいそいでいけ」
 キリキリ、キリキリ、帆車ほぐるまはせわしく鳴りだした。船中の手下どもは、飛魚とびうおのごとく敏捷びんしょうに活躍しだす。みよしに腰かけている龍巻は、その悪魔的あくまてき跳躍ちょうやくをみて、ニタリと、笑みをもらしていた。


 この秋に、京は紫野むらさきの大徳寺だいとくじで、故右大臣信長こうだいじんのぶながの、さかんな葬儀そうぎがいとなまれたので、諸国の大小名だいしょうみょうは、ぞくぞくと京都にのぼっていた。
 なかで、穴山梅雪入道あなやまばいせつにゅうどうは、役目をおえたのち、主人の徳川家康とくがわいえやすにいとまをもらって、甲州北郡きたごおりへかえるところを、廻り道して、見物がてら、泉州のさかいに、半月あまりも滞在たいざいしていた。
 堺は当時の開港場かいこうじょうだったので、ものめずらしい異国いこく色彩しきさいがあふれていた。からや、呂宋ルソンや、南蛮なんばんの器物、織物などを、見たりもとめたりするのも、ぜひここでなければならなかった。
殿との、見なれぬ者がたずねてまいりましたが、通しましょうか、いかがしたものでござります」
 穴山梅雪のかりやかたでは、もうしょくをともして、侍女こしもとたちが、ことをかなでて、にぎわっているところだった。そこへひとりの家臣が、こう取りついできた。
「何者じゃ」
 梅雪入道は、もうまゆにもしものみえる老年、しかし、千軍万馬を疾駆しっくして、きたえあげた骨ぶしだけは、たしかにどこかちがっている。
肥前ひぜん郷士ごうし浪島五兵衛なみしまごへえともうすもので、二、三人の従者じゅうしゃもつれた、いやしからぬ男でござります」
「ふーむ……、してその者が、何用でにあいたいともうすのじゃ」
「その浪島ともうす郷士が、あるおりに呂宋ルソンより海南ハイナンにわたり、なおバタビヤ、ジャガタラなどの国々の珍品もたくさん持ちかえりましたので、殿のお目にいれ、お買いあげを得たいともうすので」
「それは珍しいものが数あろう」
 梅雪入道ばいせつにゅうどうは、このごろしきりに、さかいでそのようなしなをあつめていたところ、思わず心をうごかしたらしい。
「とにかく、通してみろ。ただし、ひとりであるぞ」
「はい」家臣は、さがっていく。
 入れちがって、そこへあんないされてきたのは、衣服、大小や、かっぷくもりっぱなさむらい、ただ色はあくまで黒い。目はおだやかとはいえない光である。
「取りつぎのあった、浪島なみしまとはそちか」
「ヘッ、お目通りをたまわりまして、ありがとうぞんじます」
「さっそく、バタビヤ、ジャガタラの珍品などを、に見せてもらいたいものであるな」
「じつは、他家たけ吹聴ふいちょうしたくない、秘密なしなもござりますゆえ、願わくばお人ばらいをねがいまする」
 という望みまでいれて、あとはふたりの座敷となると梅雪はさらにまたせきだした。
「して、その秘密なしなとは、いかなるものじゃ」
殿との――」
 浪島という、郷士ごうしのまなこが、そのときいような光をおびて、声の調子まで、ガラリと変った。
「買ってもらいたいのは、ジャガタラの品物じゃありません。武田菱たけだびしもんをうった、りっぱな人間です。どうです、ご相談にのりませんか」
「な、なんじゃッ?」
「シッ……大きな声をだすと、殿とのさまのおためにもなりませんぜ。徳川家とくがわけで、血眼ちまなこになっている武田伊那丸たけだいなまる、それをお売りもうそうということなんで」
「む……」入道にゅうどうはじッと郷士ごうしおもてをみつめて、しばらくその大胆だいたんりにあきれていた。
「けっして、そちらにご不用なものではありますまい。武田たけだ御曹子おんぞうしを生けどって、徳川さまへさしだせば、一万ごくや二万ごく恩賞おんしょうはあるにきまっています。先祖代々からろくをはんだ、武田家たけだけほろびるのさえみすてて、徳川家へついたほどのあなただから、よろこんで買ってくださるだろうと思って、あてにしてきた売物です」
 ほとんど、強請ゆすりにもひとしい口吻こうふんである。だのに、梅雪入道ばいせつにゅうどうは顔色をうしなって、この無礼者を手討ちにしようともしない。
 どんな身分であろうと、弱点をつかれると弱いものだ。穴山梅雪入道は、事実、かれのいうとおり、ついこのあいだまでは、武田勝頼たけだかつよりの無二の者とたのまれていた武将であった。
 それが、織田徳川連合軍おだとくがわれんごうぐんの乱入とともに、まッさきに徳川家にくだって、甲府討入こうふうちいりの手引きをしたのみか、信玄しんげんいらい、恩顧おんこのふかい武田たけだ一族の最期さいごを見すてて、じぶんだけの命と栄華えいがをとりとめた武士ぶしである。
 この利慾のふかい武士へ、伊那丸いなまるというえさをもってりにきたのは、いうまでもなく、武士にけているが、八幡船ばはんせん龍巻たつまきであった。


 都より開港場かいこうじょうのほうに、なにかの手がかりが多かろうと、目星をつけて、京都からさかいへいりこんでいたのは、鞍馬くらまを下山した小幡民部こばたみんぶである。
 人手をわけて、要所を見張らせていたあみは、意外な効果こうかをはやくもげてきた。
「たしかに、八幡船のやつらしい者が三人、さむらいにばけて、穴山梅雪あなやまばいせつの宿をたずねた――」
 この知らせをうけた民部は、たずねさきが主家しゅけを売って敵にはしった、犬梅雪いぬばいせつであるだけに、いよいよそれだと直覚した。
 いっぽう、その夜ふけて、梅雪のかりのやかたをでていった三つのかげは、なにかヒソヒソささやきながら堺の町から、くらい波止場はとばのほうへあるいていく。
「おかしら、じゃアとにかく、話はうまくついたっていうわけですね」
上首尾じょうしゅびさ。じぶんも立身のたねになるんだから、いやもおうもありゃあしない。これからすぐに島へかえって、伊那丸をつれてさえくれば、からだの目方と黄金きんの目方のとりかえッこだ」
「しッ……うしろから足音がしますぜ」
「え?」
 と三人とも、すねにきずもつ身なので、おもわずふりかえると、深編笠ふかあみがささむらいが、ピタピタあるき寄ってきて、なれなれしくことばをかけた。
「おかしら、いつもご壮健で、けっこうでござりますな」
「なんだって? おれはそんな者じゃアない」
「エヘヘヘヘ、わたしも、こんな、侍姿にばけているから、ゆだんをなさらないのはごもっともですが、さきほど町で、チラとお見うけして、まちがいがないのです」
「なんだい、おめえはいったい?」
「こう見えても、ずいぶんなみの上でかせいだ者です」
「おれたちの船じゃなかろう、こっちは知らねえもの」
「そりゃア数ある八幡船ばはんせんですから」
「しッ。でっかい声をするねえ」
「すみません。船から船へわたりまわったことですからな、ながいお世話にはなりませんでしょうが、おかしらの船でも一どはたらいたことがあるんです」
 話しながら、いつかおかはずれの、小船のおいてあるところまできてしまった。あとをついてきた侍すがたの男は、ぜひ、もう一ど船ではたらきたいからとせがんでたくみに龍巻たつまきを信じさせ、沖にすがたを隠している、八幡船ばはんせんの仲間のうちへ、まんまと乗りこむことになった。
 その男の正体しょうたいが、小幡民部こばたみんぶであることはいうまでもない。なまじ町人すがたにばけたりなどすると、かえってさきが、ゆだんをしないと見て、生地きじのままの反間苦肉はんかんくにくがみごとに当った。
 民部のこころは躍っていた。けれどもうわべはどこまでもぼんやりに見せて、たえず、船中に目をくばっていたが、どうもこの船にはそれらしい者を、かくしているようすが見えない。で、いちじはちがったかと思ったが、梅雪ばいせつをおとずれたという事実は、どうしても、民部には見のがせない。
 船は、その翌日、闇夜あんやにまぎれて、さかいの沖から、ふたたび南へむかって、満々まんまんをはった。


 伊那丸いなまるは、日ならぬうちに気分もさわやかになった。それと同時に、かれは、生まれてはじめて接した、大海原おおうなばら壮観そうかんに目をみはった。
 ここはどこの島かわからないけれど、りくのかげは、一里ばかりあなたに見える。けれど、伊那丸には、龍巻の手下が五、六人、一歩あるくにもつきまとっているので逃げることも、どうすることもできなかった。
「ああ……」忍剣にんけんを思い、咲耶子さくやこをしのび、龍太郎りゅうたろうのゆくえなどを思うたびに、波うちぎわに立っている伊那丸いなまるのひとみに涙が光った。
「なんとかしてこの島からでたい、名もしれぬ荒くれどもの手にはずかしめられるほどなら、いッそこの海の底に……」
 夜はつめたいいその岩かげに組んだ小屋にねる。だが、そのあいださえ、羅刹らせつのような手下は、交代こうたい見張みはっているのだ。
「そうだ、あの親船が返ってくれば、もう最期さいごの運命、逃げるなら、いまのうちだ」
 きッと、心をけっして、頭をもたげてみると、もう夜あけに近いころとみえて、寝ずの番も頬杖ほおづえをついていねむっている。
「む!」はね起きるよりはやく、ばらばらと、昼みておいた小船のところへ走りだした。ところがきてみると、船は毎夜、かれらの用心で、十けんおかの上へ、引きあげてあった。
「えい、これしきのもの」
 伊那丸は、金剛力こんごうりきをしぼって、波のほうへ、つなをひいてみたが、荒磯あらいそのゴロタ石がつかえて、とてもうごきそうもない。――ああこんな時に、忍剣ほどの力がじぶんに半分あればと、えきないくりごともかれの胸にはうかんだであろう。
「野郎ッ、なにをする!」
 われを忘れて、船をおしている伊那丸のうしろから、松の木のようなうでが、グッと、喉輪のどわをしめあげた。
「見つかったか」伊那丸いなまるは歯がみをした。
「こいつ。逃げる気だな」
 のどかんぬきをかけられたまま、伊那丸はタタタタタと五、六歩あとへ引きもどされた。
 もうこれまでと、脇差わきざしつかに手をやって、やッと、身をねじりながらさきをとばした。
「あッ――き、りやがったなッ」
 とたん――目をさましてきた四、五人の手下たちも、それッと、かいや太刀をふるって、わめきつ、さけびつちこんできたが、伊那丸も捨身すてみだった。小太刀の精のかぎりをつくして、斬りまわった。
 しかし何せよ、慓悍無比ひょうかんむひな命しらずである。ただでさえせいのおとろえている伊那丸は、無念むねんや、ジリジリ追われ勝ちになってきた。


 その時であった。
 空と波との水平線から、こなたの島をめがけて、征矢そやのようにけてきた一羽のくろい大鷲おおわし
 ぱッと、波をうっては水けむりをあげた。空にっては雲にかくれた。――やがて、そのすばらしい雄姿をのあたりに見せてきたと思うと、伊那丸いなまると五人の男の乱闘らんとうのなかを、さっと二、三ど、地をかすってけりまわった。
「わーッ、いけねえ!」
 のこらずの者が、その巨大なつばさにあおりたおされた。むろん、伊那丸も、四、五けんほど、飛ばされてしまった。
 嵐か、旋風つむじか、伊那丸は、なんということをも意識いしきしなかった。ただ五人の敵! それに一念であるため、立つよりはやく、そばにたおれていたひとりを、斬りふせた。
 くろい大鷲おおわしは、伊那丸の頭上をはなれず廻っている。砂礫されきをとばされ、その翼にあたって、のこる四人も散々さんざんになって、気をうしなった。――ふと、伊那丸は、その時はじめて、ふしぎな命びろいをしたことに気づいた。空をあおぐと、オオ! それこそ、恵林寺えりんじにいたころ、つねにをやって愛していたクロではないか。
「お! クロだ、クロだ」
 かれが血刀ちがたなを振って、狂喜きょうきのこえを空になげると、クロはしずかにおりてきて、小船のはしに、翼をやすめた。
「ちがいない。やはりクロだった。それにしても、どうして、あのくさりをきったのであろう」
 ふと見ると、足に油紙あぶらがみったのが巻きしめてある。伊那丸はいよいよふしぎな念に打たれながら、いそいできひらいてみると、なつかしや、忍剣にんけんの文字!

若さま、このてがみが、あなたさまの、お目にふれましたら、若さまのおてがみも、かならず私の手にとどきましょう。忍剣にんけんいのちのあらんかぎりは、ふたたびお目にかからずにはおりません。甲斐かいの山にて。

 ハラハラと、とめどないなみだを、その数行の文字にはふり落として立ちすくんでいた伊那丸いなまるは、いそいで小屋に取ってかえし、今の窮状きゅうじょうをかんたんにしたためて、かけもどってきた。
 夜はほのぼのと、八重やえ汐路しおじに明けはなれてきた。
 見れば、クロはよほどえていたらしく、五人の死骸しがいの上を飛びまわって、生々なまなましい血に、したなめずりをしていた。
 同じように、かえしぶみを、わしの片足へむすびつけて、それのおわったとき、伊那丸の目のまえに、さらにのろいの悪魔あくま悠々ゆうゆうとかげを見せてきた。
 八幡船ばはんせんの親船がかえってきたのだ。もうすぐそこ――島から数町の波間なみまのちかくへ。
「いよいよ最期さいごとなった。クロ! わしの運命はおまえのつばさに乗せてまかすぞよ」
 して死をまつもと、伊那丸は鷲の背中へ、抱きつくように身をのせた。
 思うさま、人の血をすすったクロは、両のつばさでバサと大地をうったかと思うと、伊那丸の身を軽々とのせたまま、天空高く、いあがった。

ふえふく咲耶子さくやこ




「あれ、あれ、ありゃあなんだ?」
「おお、島からとび立ったあやしい魔鳥まちょう
わしだッ。くろい大鷲おおわしだ」
 白浪はくろうをかんで、満々まんまんを張ってきた八幡船ばはんせんの上では多くの手下どもが、あけぼのの空をあおいで、しおなりのようにおどろき叫んでいた。
 さわぎを耳にして、船部屋ふなべやからあらわれた龍巻九郎右衛門たつまきくろうえもんは、ギラギラかえす朝陽あさひに小手をかざして、しばらく虚空こくう旋回せんかいしている大鷲の影をみつめていたが、
「ややッ」にわかに色をかえて、すぐ、
「あのわしおとせッ、はやくはやく。遠のかねえうちだ」
 とあらあらしく叱咤しったした。おう! 手下どもは武器倉ぶきぐらうずをまいて、ゆみ鉄砲てっぽうを取るよりはやく、ちゅうを目がけて火ぶたを切り、矢つぎばやに、征矢そやの嵐をはなしたが、わしはゆうゆうと、遠く近くとびまわって、あたかも矢弾やだまの弱さをあざけっているようだ。
民蔵たみぞう民蔵、新米しんまいの民蔵はどうしたッ」
 龍巻たつまきが足をみならして、こうさけんだ時、船底からかけあがってきたのは、民蔵たみぞうと名をかえて、さかいから手下になって乗りこんでいた、かの小幡民部こばたみんぶであった。
「おかしら、おびになりましたかい」
「どこへもぐりこんでいるんだ。てめえに、ちょうどいいうでだめしをいいつける。あの大鷲おおわしの上に、人間がきついているんだ、島から伊那丸いなまるげだしたにちげえねえ、てめえの腕でぶち落として見ろ」
「えッ、伊那丸とは、なんですか」
「そんなことをグズグズ話しちゃいられねえ、オオまた近くへきやがった、はやくてッ」
「がってんです!」
 小幡民部の民蔵は、伊那丸と聞いてギクッとしたが、龍巻に顔色を見すかされてはと、わざといさみたって、渡された種子島たねがしま銃口つつぐちをかまえ、船の真上へ鷲がちかよってくるのを待った。
 と見るまに、鷲はふたたび低くって、帆柱ほばしらのてッぺんをさッとすりぬけた。
「そこだ」龍巻はおもわずこぶしを握りしめる。
 同時に、ねらいすましていた民部みんぶの手から、ズドン! と白い爆煙ばくえんが立った。
「あたった! あたった」
 ワーッという喊声かんせいが、船をゆるがしたせつな、大鷲はまぢかに腹毛を見せたまま、ななめになってクルクルと海へ落ちてきた――と見えたのは瞬間しゅんかん。――大きなつばさで海面をたたいたかと思うまに、ギャーッと一声ひとこえ、すごい絶鳴ぜつめいをあげて、猛然もうぜんと高く飛び上がった。
 そのとたんに、大鷲おおわしの背から海中へふり落とされたものがある――いうまでもなく武田伊那丸たけだいなまるであった。龍巻たつまきは、雲井くもいへかけり去ったわしの行方などには目もくれず、すぐ手下に軽舸はしけをおろさせて、波間にただよっている伊那丸を、親船へ引きあげさせた。
民蔵たみぞうでかしたぞ。きさまの腕前にゃおそれいッた」
 と龍巻は上機嫌じょうきげんである。そしていままでは、やや心をゆるさずにいた民部みんぶを、すッかり信用してしまった。


 堺見物さかいけんぶつもおわったが、伊那丸のことがあるので、帰国をのばしていた穴山梅雪あなやまばいせつやかたへ、あるゆうべ、ひとりの男が密書みっしょを持っておとずれた。
 吉左右きっそうを待ちかねていた梅雪入道は、くっきょうな武士七、八名に、身のまわりをかためさせて、築山つきやまちんへ足をはこんできた。そこには、黒衣覆面こくいふくめんの密書の使いが、両手をついてひかえていた。
「書面は、しかと見たが、今宵こよいのあんないをするというそのほうは何者だの」
 と梅雪はゆだんのない目くばりでいった。
龍巻たつまきの腹心の者、民蔵たみぞうともうしまする」
「して、伊那丸いなまるの身は、ただいまどこへおいてあるの?」
「しばらく船中で手当を加えておりましたが、こよいこくに、かねてのお約束やくそくどおり、船からあげて阿古屋あこやの松原までかしらが連れてまいり、金子きんすと引きかえに、おやかたへお渡しいたすてはずになっておりまする」
 よどみのない使いの弁舌べんぜつに、梅雪入道ばいせつにゅうどううたがいをといたとみえ、すぐ家臣に三箱の黄金をになわせ、じぶんも頭巾ずきんおもてをかくして騎馬立きばだちとなり、剛者つわもの十数人を引きつれて、阿古屋の松原へと出向いていった。
「殿さま、しばらくお待ちねがいます」
 途中までくると、案内役の民蔵は、梅雪入道の鞍壺くらつぼのそばへよって、ふいに小腰をかがめた。
「少々おねがいのがござります。お馬をとめて、無礼者ぶれいものとお怒りもありましょうが、阿古屋の松原へついてはにあわぬこと、お聞きくださいましょうか」
「なんじゃ、とにかくもうしてみい」
「は、でもござりませぬが、今日こんにちお館のご威光いこうを見、またかくおともいたしているうちに、八幡船ばはんせんの手下となっていることが、つくづく浅ましく感じられ、むかしの武士ぶしにかえって、白日はくじつのもとに、ご奉公いたしたくなってまいりました」
悠長ゆうちょうなやつ、かような出先でさきにたって、なにを述懐じゅっかいめいたことをぬかしおるか。それがなんといたしたのだ」
「ここに一つの手柄てがらをきっと立てますゆえ、おやかたの家来のはしになりと、お加えなされてくださりませ」
「ふウ――どういう手柄てがらを立てて見せるな」
「この三箱の黄金おうごんをかれにわたさずして、まんまと、武田伊那丸たけだいなまる龍巻たつまきの手よりうばい取ってごらんに入れますが」
「ぬからぬことをもうすやつだ。して、そのさくは?」
「わが君、お耳を……」
 小幡民部こばたみんぶ民蔵たみぞうが、なにをささやいたものか、梅雪ばいせつはたちまち慾ぶかいその相好そうごうをくずして、かれのねがいを聞きとどけた。そして、えらびだした武士二、三人に、密命をふくませ、そこからいずこともなく放してやると自身はふたたび、民蔵を行列の先頭にして、闇夜あんやの街道を、しずしずと進んでいった。


 まもなく着いた、阿古屋あこやの松原。
 梅雪入道ばいせつにゅうどうくらからおりて、海神かいじんやしろ床几しょうぎをひかえた。
 と――やがて約束のこくごろ、浜辺はまべのほうから、百夜行やこう八幡船ばはんせんの黒々とした一列が、松明たいまつももたずに、シトシトと足音そろえて、ここへさしてくる。
民蔵たみぞう、民蔵」
 と鳥居まえで、合図あいずをしたのは龍巻たつまきにちがいなかった。民蔵は梅雪ばいせつのそばをすりぬけて、そこへかけていった。
「おかしらですか」
「む、いいつけた使いの首尾しゅびはどうだった」
「こちらは、殿さまごじしんで、早くからきて、あれに待っています。そして伊那丸いなまるは?」
「ふんじばってつれてきた、じゃおれは、梅雪とかけあいをつけるから、きさまが縄尻なわじりを持っていろ。なかなかわっぱのくせに強力ごうりきだから、ゆだんをしてがすなよ」
 龍巻は二、三十人の手下をつれて、梅雪のいる拝殿はいでんの前へおしていった。
 縄尻をうけた民蔵は、
「やいッ、歩かねえか」わざと声をあららげて、伊那丸の背中をつく。――その心のうちでは、手をあわせている小幡民部こばたみんぶであった。
 しばらくのあいだ、龍巻と談合だんごうしていた梅雪は、伊那丸の面体めんていを、しかと見さだめたうえで、約束の褒美ほうびをわたそうといった。龍巻も心得て、うしろへ怒鳴どなった。
「民蔵、その童をここへひいてこい」
「へい」
 民蔵は縄目なわめにかけた伊那丸を、梅雪入道の前へひきすえた。拝殿の上から、とくと、見届みとどけた梅雪は、大きくうなずいて、
「でかしおッた。武田伊那丸たけだいなまるにそういない」
 その時、むッくり首をあげた伊那丸は、穴山あなやまのすがたを、かッとにらみつけて、血をくような声でいった。
「人でなしの梅雪入道ばいせつにゅうどう!」
「な、なにッ」
「お祖父じいさま信玄しんげんの時代より、武田家たけだけろくみながら、徳川とくがわ軍へ内通したばかりか、甲府攻こうふぜめの手引きして、主家しゅけにあだなした犬侍いぬざむらい。どのつらさげて、伊那丸の前へでおった、見るもけがれだ。退さがれッ」
「ワッハッハハハハ」梅雪は内心ギクとしながら、老獪ろうかいなる嘲笑ちょうしょうにまぎらわして、
「なにをいうかと思えば、小賢こざかしい無礼呼ぶれいよばわり。なるほどその昔は、信玄公にもつかえ、勝頼かつよりにもつかえた梅雪じゃが、いまは、しゅでもなければきみでもない。武田の滅亡は、おもとの父、勝頼が暗愚あんぐでおわしたからじゃ。うらむならお許の父をうらめ、馬鹿大将の勝頼をうらむがよい」
「ムムッ……よういッたな!」
 不道の臣に面罵めんばされて、身をふるわせた伊那丸は、やにわに、ガバとはねおきるがはやいか、両手をばくされたまま、梅雪に飛びかかって、ドンと、かれを床几しょうぎからとばした。
「なにをするか」
 縄尻なわじりをひいた民蔵たみぞうの力に、伊那丸いなまるはあおむけざまにひッくり返った。ア――おいたわしい! とおもわず睫毛まつげに涙のさす顔をそむけて、
「ふ、ふざけたまねをすると承知しょうちしねえぞ。立て! こっちのすみへ寄っていろい!」
 ズルズルと引きずってきて、拝殿のはしらへ縄尻をくくりつけた。龍巻たつまきはそれをきッかけにして、
「じゃあ殿とのさま、伊那丸はたしかに渡しましたから、約束の金を、こっちへだしてもらいましょうか」
「む、いかにも褒美ほうびをつかわそう、これ、用意してきた黄金をここへ持て」
 と、家臣にになわせてきた三箱の金をそこへ積ませると、
「さすがは大名だいみょう、これだけの黄金をそくざに持ってきたのはえらいものだ」
 と、ニタリつぼにった。
「やい野郎ども、はやくこの黄金を軽舸はしけへ運んでいけ。どりゃ、用がすんだら引きあげようか」
 と手下にそれをかつがせて、龍巻も立とうとすると、
「やッ、大へんだ、おかしら、少ウしお待ちなさい」
 と民蔵がことさら大きな声で、出足をとめた。
「なんでえ、やかましい」
 龍巻たつまきは、したうちをしてふりかえった。やしろ廻廊かいろうにたって、小手こてをかざしていた民蔵たみぞうは、なおぎょうさんにとびあがって、
「一大事一大事! おかしら、沖の親船が焼ける! あれあれ、親船がえあがってる!」
 と、手をふりまわした。


「なにッ、親船が?」
 龍巻も、さすがにギョッとして、浜辺のほうをすかしてみると、まッ暗な沖合おきあいにあたって、ボウと明るんできたのは、いかにも船火事らしい。
「ややややや」龍巻の目はいようにかがやく。
 見るまに沖の明るみは一だんの火の玉となって、金粉のごとき火のを空にふきあげた。夜のうしお燦爛さんらんめられて、あたかも龍宮城が焼けおちているかのような壮観そうかんを現じた。
「ちぇッ、とんでもねえことになッた。それッ、早くぎつけて、消しとめろ」
 とぎょうてんした龍巻は、二、三十人の手下たちとともに、一どにドッと海神かいじんやしろをかけだしていくと、にわかに、鳥居わきの左右から、ワッという声つなみ!
「海賊ども、待て」
「御用、御用」
 たちまち氷雨ひさめのごとく降りかかる十手じっての雨。――かける足もとを、からみたおす刺股さすまた、逃げるをひきたおすそでがらみ。驚きうろたえるあいだに、バタバタと、ってふせ、ねじふせ、刃向はむかうものは、片っぱしから斬り立ててきた、捕手とりての人数は、七、八十人もあろうかと見えた。
 陣笠じんがさ陣羽織じんばおりのいでたちで、堺奉行所さかいぶぎょうしょ提灯ちょうちんを片手に打ちふり、部下の捕手を激励げきれいしていた佐々木伊勢守ささきいせのかみへ、荒獅子あらじしのごとく奮迅ふんじんしてきたのは、かしらの、龍巻九郎右衛門たつまきくろうえもんであった。
「おのれッ」とさえぎる捕手を斬りとばして、夜叉やしゃを思わせる太刀風たちかぜに、ワッと、ひらいて近よる者もない折から穴山梅雪あなやまばいせつ一手の剛者つわものが、捕手に力をかして、からくも龍巻をしばりあげた。
民蔵たみぞう、そのほうの奇策きさくはまんまとにあたった。こなたより奉行所ぶぎょうしょ密告みっこくしたため、アレ見よ、おきでも、この通りなさわぎをしているわい……小きみよい悪党あくとうばらの最後じゃ」
 穴山梅雪は、帰館きかんすべくふたたびまえのこまにのって、持ってきた黄金をも取りかえし、武田伊那丸たけだいなまるをも手に入れて、得々とくとくと社頭から列をくりだした。
「手はじめの御奉公、首尾しゅびよくまいって、民蔵めも面目至極めんもくしごくです。殿のご運をおよろこびもうしあげます」
「ういやつだ。こよいから近侍きんじにとり立ててくれる。伊那丸いなまるなわをとって、ついてこい」
 いっぽう、捕手とりてにかこまれて、引ッ立てられた龍巻たつまきは、このていをみると、あたりの者をはねとばして、形相ぎょうそうすごく、民蔵たみぞうのそばへかけよった。
畜生ちくしょう。う、うぬはよくも、おれを裏切うらぎりやがったな。一どは、なわにかかっても、このまま、獄門台ごくもんだいに命を落とすような龍巻じゃねえぞ。きっとまたあばれだして、きさまの首をひンねじる日があるからおぼえていろ!」
「おお、心得た。だが、拙者せっしゃは腕力は弱いから、その時には、また今夜のように、智慧ちえくらべで戦おうわい」
 久しぶりに、小幡民部こばたみんぶらしい口調でこたえた民蔵は、子供の悪たれでも聞きながすように笑って、他の武士たちと同列に、梅雪ばいせつやかたへついていった。


 ここしばらく、京都に滞在たいざいしている徳川家康とくがわいえやす陣営じんえいへにわかに目通りをねがってでたのは、梅雪入道ばいせつにゅうどうであった。
 家康は、もうとッくに、甲州こうしゅう北郡きたごおり領土りょうどへ帰国したものと思っていた穴山あなやまが、また途中から引きかえしてきたのは、なにごとかと意外におもって、そくざに、かれを引見いんけんした。
 梅雪ばいせつ御前ごぜんにでて、入道頭にゅうどうあたまをとくいそうにふり立てて、かねて厳探中の伊那丸いなまる捕縛ほばくした顛末てんまつを、さらに誇張こちょうして報告した。さしずめ、その恩賞おんしょうとして、一万ごくや二万ごくのご加増はあってしかるべしであろうといわんばかり。
「ふム……そうか」
 家康いえやすのゆがめた口のあたりに二重のしわがきざまれた。これはいつも、思わしくない感情をあらわすかれの特徴とくちょうである。
「浜松のご城内へまで潜入せんにゅうして、君のおいのちをねらった不敵な伊那丸、生かしておきましては、ながく徳川とくがわもんをおびやかしたてまつるは必定ひつじょうとぞんじまして……」
「待て、待て、わかっておる……」
 梅雪はあんがい、いや、大不服である。
 あれほど、伊那丸の首に、恩賞のぞみのままの沙汰さたをふれておきながら、この無愛想ぶあいそな口ぶりはどうだ。
 しかし家康は、梅雪がうぬぼれているほど、かれを腹心ふくしんとは信じていない。
 日本の歴史にも、中華ちゅうか史上にも少ないくらいな、武士ぶしつらよごしが、武田たけだ滅亡のさいに、二人あった。一人はこの梅雪、一人は小山田信茂おやまだのぶしげである。
 織徳しょくとく連合軍におわれた勝頼主従かつよりしゅじゅうが、そのしん、小山田信茂の岩殿山いわどのやまをたよって落ちたとき、信茂は、さくをかまえて入城をこばみ、勝頼一門が、天目山てんもくざん討死うちじにを見殺しにした。そして、それを軍功顔ぐんこうがおに、織田おだの軍門へくだっていった。
 信長のぶながの子、織田城之助おだじょうのすけは、小山田おやまだを見るよりその不忠不人情を罵倒ばとうして、褒美ほうびはこれぞと、陣刀じんとうせんのもとに首を討ちおとした。――そういう例もある。
 ましてや、梅雪入道ばいせつにゅうどうは、武田家譜代たけだけふだいしんであるのみならず、勝頼かつよりとは従弟いとこえんさえある。その破廉恥はれんちは小山田以上といわねばならぬ。
 ――けれど家康いえやすは、城之助とちがって、何者をも利用することを忘れない大将であった。
「梅雪、伊那丸いなまるとらえたともうすが、それだけか」
「は? それだけとおおせられますると」
「たわけた入道よな。武田家のまもがみともあがめておった御旗みはた楯無たてなし宝物ほうもつは、たしかに、伊那丸がかくしているはずじゃ。そのをもうすのにわからぬか」
「はッ、いかさま。それまでには気がつきませんでした。さっそく、糺明きゅうめいいたしてみます」
ほとけつくって、たましいいれぬようなことは、家康、大のきらいじゃ。伊那丸の首と、御旗みはた楯無たてなしとをそろえて、持参いたしてこそ、はじめて、まったき一つの働きをたてたともうすもの」
「願わくば、ここ二月ふたつきのご猶予ゆうよを、この入道にお与えくださりませ。きっとその宝物と、伊那丸の塩漬しおづけ首とを、ともにごらんにそなえまする」
 梅雪入道は、家康にかたくちかって、そこそこにさかいへ立ちもどった。にわかに家来一同をまとめて、領土へ帰国のむね布令ふれだした。
 その前にさきだって、小幡民部こばたみんぶ民蔵たみぞうは、いずこへか二、三通の密書みっしょをとばした。はたしてどことどことへ、その密書がいったかは、何人なんぴとといえども知るよしはないが、うち一通は、たしかに鞍馬山くらまやま僧正谷そうじょうがたににいる、果心居士かしんこじの手もとへ送られたらしい。
 さかいを出発した穴山あなやまの一族郎党ろうどうは、伊那丸いなまるをげんじゅうな鎖駕籠くさりかごにいれ、威風堂々いふうどうどうと、東海道をくだり、駿府すんぷから西にまがって、一路甲州の山関さんかんへつづく、身延みのぶの街道へさしかかった。
 ここらあたりは、見わたすかぎり果てしもない晩秋の広野である。
 ――ああそこは伊那丸にとって、思い出ふかき富士ふじ裾野すその加賀見忍剣かがみにんけんと手に手をとって、さまよいあるいた富士の裾野。
 けれど、鎖網くさりあみをかけた、駕籠かごのなかなる伊那丸の目には、なつかしい富士のすがたも見えなければ、富士川の流れも、れすすきの波も見えない。
 ただ耳にふれてくるものは、蕭々しょうしょうと鳴る秋風のおと、寥々りょうりょうとすだく虫の音があるばかり。
 すると、どこでするのか、だれのすさびか、秋にふさわしいふえがする。そのたえ音色ねいろは、ふと伊那丸の心のそこへまでみとおってきた。――かれは、まッ暗な駕籠かごのなかで、じッと耳をすました。
「お! 咲耶子さくやこ、咲耶子の笛ではないか」
 思わずつぶやいた時である。なにごとか、いきなりドンと駕籠かごがゆれかえった。


「ぶれい者、お供先ともさきに立ってはならぬ」
「あやしい女、ひッとらえろ!」数人は、バラバラと前列のほうへかけあつまった。穴山あなやま郎党ろうどうたちは、たちまち、押しかぶさって、ひとりの少女をそこへねじふせた。
「しばらくお待ちくださいまし。わたくしは、けっしてあやしい者ではありませぬ。穴山梅雪あなやまばいせつさまのご通行をさいわいに、おうったえもうしたいことがあるのです」
「だまれ、ご道中でさようなことは、聞きとどけないわ、帰れッ」
 と、家来どものののしる声を聞いて、駕籠のとびらをあけさせた梅雪は、
「しさいあり女子おなごじゃ。なんの願いか聞いて取らせる。これへ呼べ」と一同を制止した。
 うるわしいお下髪さげにむすび、おびのあいだへ笛をはさんだその少女おとめは、おずおずと、梅雪の駕籠の前へすすんで手をついた。
「訴えのおもむきをいうてみい。また、このようなさびしい広野ひろのに、ただひとりおるそちは、いったい何者の娘だ」
「野武士の娘、咲耶子さくやこともうしまする。お訴えいたすまえに、おうかがいいたしたいのは、うしろの鎖駕籠くさりかごのなかにいるおかたです。もしや武田伊那丸たけだいなまるさまではございませんでしょうか」
「それを聞いてなんとする」
 梅雪ばいせつはおそろしい目を咲耶子さくやこ挙動きょどうそそぎかけた。
 けれど彼女は、むじゃきにいた野の花のよう、なんのおそれげもわだかまりもなく、あとのことばをさわやかにつづけた。
「まことは、まえに伊那丸さまから、ご大切な宝物ほうもつとやらを、父とわたくしとで、おあずかりもうしておりましたが、そのために、親娘おやこの者が、ひとかたならぬ難儀なんぎをいたしておりますゆえ、きょう、お通りあそばしたのをさいわい、お返しもうしたいのでござります」
「ふーむ、して、その宝物ほうもつとやらはどんな物だ」
「このさきの、五の一つへしずめてありますゆえ、どんな物かはぞんじませぬが、このごろ、あっちこっちの悪者がそれをぎつけて、湖水の底をさぐり合っておりまする。なんでも石櫃いしびつとやらにはいっている、武田たけださまのお家のたからだともうすことでござります」
「む、よううったえてきた。褒美ほうびはぞんぶんにとらすからあんないせい」
 梅雪の顔は、思いがけない幸運にめぐり合ったよろこびにあふれた。――が、駕籠側かごわきにいた民蔵たみぞうは、サッと色をかえて、この不都合ふつごうな密告をしてきた少女を、人目さえなければ、ただ一太刀ひとたちってすてたいような殺気をありありと目のなかにみなぎらせた。
 行列はきゅうに方向をてんじて、五湖の一つに沈んでいる宝物をさぐりにむかった。けれども、道案内みちあんないに立った咲耶子さくやこは西も東もわからぬ広野こうやを、ただグルグルと引きずりまわすのみなので、一同は、道なき道につかれ、梅雪ばいせつもようやくふしんのまゆをひそめはじめた。
民蔵たみぞうはいないか、民蔵」と呼びつけて、
小娘こむすめ挙動きょどう、だんだんと合点がてんがいかぬ。あるいは、野かせぎの土賊どぞくばらが、手先に使っている者かも知れぬ、も一ど、ひッとらえてただしてみろ」
「かしこまりました」
 民蔵は得たりと思った。ばらばらと前列へかけ抜けてきて、いきなり、むんずと咲耶子の腕首うでくびをつかんだ。
「小娘ッ」まことは甲州流兵法こうしゅうりゅうへいほう達人たつじん小幡民部こばたみんぶが、こういってにらんだ眼光はるようだった。
「なんでござりますか」
「さきほどからみるに、わざと、道なき野末のずえへあんないしていくはあやしい。いったいどこへまいる気だ」
「知りませぬ、わたしは、ひとりで好きに歩いているのですから」
「だまれ、五湖へあんないいたすともうしたのではないか」
「だれが、穴山あなやまさまのような、けがらわしい犬侍いぬざむらいのあんないになど立ちましょうか」
「おのれ、さては野盗やとうの手引きか」
「いいえ、ちがいます」
かすなッ。さらば何者にたのまれた」
御旗みはた楯無たてなしの宝物が欲しさに、慾に目がくらんで、わたしのような少女にまんまとだまされた! オホホホホ……やッとお気がつかれましたか」
「おのれッ」
 抜く手も見せず、民蔵たみぞうがサッとりつけたさきからヒラリと、ちょうのごとくびかわした咲耶子さくやこは、バラバラと小高いおかへかけあがるよりはやく、おびの横笛をひき抜いて、片手に持ったままちゅうへ高く、ふってふってふりまわした。
 ああ! こはそもなに? なんの合図あいず
 それと同時に、ただいちめんの野と見えた、あなたこなたのすすきの根、小川のへり、窪地くぼちのかげなどから、たちまち、むくむくとうごきだした人影。
 ウワーッと喊声かんせいをあげて、あらわれたのは四、五十人の野武士のぶしである。手に手に太刀たちをふりかざして、あわてふためく穴山あなやまとうのなかへ、天魔軍てんまぐんのごとく猛然もうぜんりこんだ。
 ニッコと笑って、おかに立った咲耶子が、さッと一せん、笛をあげればかかり、二せん、さッと横にふればしりぞき、三せんすればたちまち姿をかくす――神変しんぺんふしぎな胡蝶こちょうの陣。

天翔あまがけ鞍馬くらま使者ししゃ




 きょうも棒切ぼうきれを手にもって、友だち小猿こざるを二、三十ぴきつれ、僧正谷そうじょうがたにから、百足虫腹むかでばら嶮岨けんそをつたい、鞍馬くらま大深林だいしんりんをあそびまわっているのは、果心居士かしんこじ童弟子わらべでしいがぐりあたまの竹童ちくどうであった。
「おや、こんなところへだれかやってくるぞ……このごろ人間がよくのぼってくるなア」
 竹童がつぶやいた向こうを見ると、なるほど、菅笠すげがさ脚絆きゃはんがけの男が、深林の道にまよってウロウロしている。
「オーイ、オーイ――」
 とかれが口に手をあてて呼ぶと、菅笠の男が、スタスタこっちへかけてきたが、見ればまだ十さいぐらいの男の子が、たッたひとり、多くのさるにとりかれているのでへんな顔をした。
「おじさん、どこへいくんだい、こんなところにマゴマゴしていると、うわばみに食べられちまうぜ」
「おまえこそいったい何者だい、鞍馬寺くらまでら小坊主こぼうずさんでもなし、まさか山男のせがれでもあるまい」
「何者だなんて、生意気なまいきをいうまえに、おじさんこそ、何者だかいうのが本来ほんらいだよ。おいらはこの山に住んでる者だし、おじさんはだまって、人の山へはいってきた風来人ふうらいじんじゃないか」
「おどろいたな」と旅の男はあきれ顔に――「じつは僧正谷そうじょうがたに果心居士かしんこじさまとおっしゃるおかたのところへ、さかいのあるおかたから手紙をたのまれてきたのさ」
「アア、うちのお師匠ししょうさまへ手紙を持ってきたのか、それならおいらにおだしよ。すぐとどけてやる」
「じゃおまえは果心居士さまのお弟子でしか、やれやれありがたい人に会った」
 と、男は竹童ちくどうに手紙をわたしてスタスタ下山していった。
「いそぎの手紙だといけないから、さきへこいつに持たしてやろう」
 と竹童はその手紙を、一ぴき小猿こざるにくわえさせて、むちで僧正谷の方角ほうがくをさすと、さるは心得たようにいっさんにとんでいく。そのあとで、
「さッ、こい、おいらとかけッくらだ」
 竹童は、とくいの口笛くちぶえを吹きながら、ほかのさるとごッたになって、深林のおくへおくへとかけこんでいったが、ややあって、頭の上でバタバタという異様いようなひびき。
「おや? ――」と、かれは立ちどまった。小猿たちは、なんにおびやかされたのか、かれひとりを置きてにして、ワラワラとどこかへ姿すがたをかくしてしまった。
「やア……やア……やア奇態きたいだ」
 なにもかも忘れはてたようすである。あおむいたまま、いつまでも棒立ぼうだちになっている竹童ちくどうの顔へ、上のこずえからバラバラと松の皮がこぼれ落ちてきたが、かれは、それをはらうことすらも忘れている。
 そも、竹童の目は、なんにいつけられているのかと見れば、じっさい、おどろくべき怪物かいぶつ――といってもよい大うわばみが、鞍馬山くらまやまにはめずらしい大鷲おおわしを、つばさの上から十重二十重とえはたえにグルグルきしめ、その首と首だけが、そうほうまっ赤な口から火焔かえんをふきあって、ジッとにらみあっているのだ。まさに龍攘虎搏りゅうじょうこはくよりものすごい決闘けっとう最中さいちゅう
「や……おもしろいな。おもしろいな。どっちが勝つだろう」
 竹童おどろきもせず、口アングリひらいて見ていることややしばし、たちまち、鼓膜こまくをつんざくような大鷲おおわし絶鳴ぜつめいとともに、大蛇おろちに巻きしめられていたそうつばさがバサッとひろがったせつな、あたりいちめん、嵐に吹きちる紅葉こうようのくれないを見せ、寸断すんだんされたうわばみの死骸しがいが、バラバラになって大地へ落ちてきた。
 それを見るやいなや、雲をかすみと、僧正谷そうじょうがたにへとんで帰った竹童。果心居士かしんこじ荘園そうえんへかけこむがはやいか、めずらしい今の話をげるつもりで、
「お師匠ししょうさま、お師匠さま」とびたてた。
「うるさい和子わこじゃ。あまり飛んで歩いてばかりいると、またその足がうごかぬようになるぞよ」
 芭蕉亭ばしょうてい竹縁ちくえんに腰かけていた居士こじの目が、ジロリと光る、その手に持っている手紙をみた竹童ちくどうは、ふいとさっきの用を思いだして、うわばみとわしの話ができなくなった。
「あ、お師匠ししょうさま、さきほど、お手紙がまいりましたから、さるに持たせてよこしました。もうごらんなさいましたか」と目の玉をクルリとさせる。
横着おうちゃくなやつめ。小幡民部こばたみんぶどのからの大切なご書面、もしうしのうたらどうするつもりじゃ」
「ハイ」
 竹童は頭をかいて下をむいた。居士こじは、白髯はくぜんのなかから苦笑をもらしたが、叱言こごとをやめて語調ごちょうをかえる。
「ところでこの手紙によって急用ができた、竹童、おまえちょっとわたしの使いにいってくれねばならぬ」
「お使いは大好きです。どこへでもまいります」
「ム、大いそぎで、武蔵むさしの国、高尾山たかおさん奥院おくのいんまでいってきてくれ、しさいはここに書いておいた」
「お師匠さま、あなたはごむりばかりおっしゃります」
「なにがむりじゃの」
「この鞍馬くらまの山奥から、武蔵の高尾山までは、二百もございましょう。なんでちょっといってくるなんていうわけにいくものですか、だからつねづねわたしにも、お師匠ししょうさまの飛走ひそうの術をおしえてくださいともうすのに、いっこうおしえてくださらないから、こんな時にはこまってしまいます」
「なぜ口をとがらすか、けっしてむりをいいつけるのではない。それにはちょうどいい道案内みちあんないをつけてやるから、和子わこはただ目をつぶってさえいればよい」
「へー、では、だれかわたしを連れていってくれるんですか」
「オオ、いまここへんでやるから見ておれよ」
 と果心居士かしんこじは、露芝つゆしばの上へでて、手に持ったいちめんの白扇はくせんをサッとひらき、かなめにフッと息をかけて、あなたへ投げると、おうぎはツイと風に乗って飛ぶよと見るまに、ひらりと一つるに化してのどかに空へ舞いあがった。
 ア――と竹童ちくどうは目をみはっていると、たちまち、宙天ちゅうてんからすさまじい疾風しっぷうを起してきた黒い大鷲おおわし、鶴を目がけてパッと飛びかかる。鶴は白毛を雪のごとく散らして逃げまわり、鷲のするどいつめに追いかけられて、果心居士の手もとへ逃げて下りてきたが、そのとたん、居士がひょいと手をのばすと、すでに、鶴は一本の扇となって手のうちにつかまれ、それを追ってきた大鷲は、居士のひざの前につばさをおさめて、ピッタリおとなしくうずくまっている。


竹童ちくどう竹童、そのいずみの水を少々くんでこい」
「ハイ」
 あっけにとられて見ていた竹童は、居士こじにいいつけられたまま、岩のあいだから、こんこんときいでている泉をすくってきた。
「かわいそうにこのわしは、片目を鉄砲でたれているため、だいぶ苦しがっている。はやくその霊泉れいせんで洗ってやるがよい。すぐなおる」
「ハイ」
 竹童は草の葉ひとつかみを取ってひたし、いくたびか鷲の目を洗ってやった。大鷲おおわしは心地よげに竹童のなすがままにまかせていた。
「おまえの道案内みちあんないはこの鷲だ。これに乗ってかける時は千里の旅も一日のひまじゃ、よいか」
「これに乗るんですか、お師匠ししょうさま、あぶないナ」
「たわけめが」
 かつ! としかりつけた果心居士かしんこじは、竹童がアッというまにえりくびをグッとよせて、
「エーッ」と一声、片手につかんでほうりなげた。ブーンと風を切った竹童のからだは、たまのごとく飛んで、はるかあなたの築山つきやまの上へいって、ヒョッコリ立ったが、たちまち、そこからかけもどってきてニコニコ笑いながらましている。
「お師匠さま、またいたずらをなさいましたね」
「どうだ、どこかけがでもしたか」
「いいえ、そんな竹童ちくどうではございません。わたしはお師匠ししょうさまから、まえに浮体ふたいの術をさずかっておりますもの」
「それみよ。なぜいつもその心がけでおらぬ。このわしに乗っていくのがなんであぶない、浮体ふたいいきを心得てのれば一本のわらより身のかるいものだ」
「わかりました。さっそくいってまいります」
「オオ書面にてしたためておいたが、時おくれては、武田伊那丸たけだいなまるさまのお身があぶない、いや、あるいは小幡民部こばたみんぶどののいのちにもかかわる、いそいでいくのじゃ」
「そして、だれにこの手紙をわたすのですか」
高尾たかお奥院おくのいんにかくれている、加賀見忍剣かがみにんけんどのという者にわたせばよい。その忍剣はこの鷲のすがたを毎日待ちこがれているであろう。またこの鷲も霊鷲れいしゅうであるから、かならず忍剣のすがたを見れば地におりていくにちがいない」
「かしこまりました。よくわかりました」
「かならず道草みちくさをしていてはならぬぞ」
「ハイ、心得ております」
 と竹童はしたくをした――したくといっても、例のぼう切れを刀のように腰へさして、ひえと草の団子だんごにした兵糧ひょうろうをブラさげて、ヒラリと鷲の背にとびつくが早いか、鷲は地上の木の葉をワラワラとまきあげて、青空たかく飛びあがった。
 伊那丸いなまるとちがって竹童ちくどうは、浮体ふたいの法を心得ているうえ、深山にそだって鳥獣ちょうじゅうをあつかいなれている。かれはしばらく目をつぶっていたがなれるにしたがって平気になりはるかの下界げかいを見廻しはじめた。
「オオ高い高い、もう鞍馬くらま貴船山きぶねやま半国はんごくたけも、あんな遠くへッちゃくなってしまった。やア、京都の町が右手に見える、むこうに見えるかがみのようなのは琵琶湖びわこだナ、この眼下は大津おおつの町……」
 と夢中むちゅうになっているうちに、ヒュッとなにかが、耳のそばをうなってかすりぬけた。
「や、なんだ」
 と竹童はびっくりしてふりかえった時、またもや下からとんできたのは白羽しらは征矢そや、つづいてきらきらとひかるやじりが風を切って、三の矢、四の矢とすきもなくうなってくる。
「おや、さてはだれか、このわしをねらうやつがある、こいつはゆだんができないゾ」
 と竹童は例のぼう切れを片手に持って、くる矢くる矢をパラパラと打ちはらっていたが、それに気をとられていたのが不覚ふかく、たいせつな果心居士かしんこじの手紙を、うッかり懐中ふところから取りおとしてしまった。
「アッ、アアアアア……しまった!」
 ヒラヒラと落ちいく手紙へ、思わず口走りながら身をのばしたせつな、竹童のからだまで、あやうく鷲の背中せなかからふりおとされそうになった。


 大津おおつの町の弓道家きゅうどうか山県蔦之助やまがたつたのすけは、このあいだ、日吉ひよし五重塔ごじゅうのとうであやしいものを射損いそんじたというので、かれを今為朝いまためともとまでたたえていた人々まで、にわかに口うら返して、さんざんに悪い評判ひょうばんをたてた。
 それをうるさいと思ってか、蔦之助は、以来ピッタリ道場の門をとざして、めったにそとへすがたを見せず、世間の悪口もよそに、兵書部屋へいしょべやへこもり、ひたすら武技ぶぎの研究に余念がなかった。
 その日も、しずかに兵書をひもといていた蔦之助つたのすけは、ふと町にあたって、ガヤガヤという人声がどよみだしたので、文字から目をはなして耳をそばだてた。とそこへ、下僕しもべ関市せきいちが、あわただしくかけこんできてこういう。
旦那だんなさま旦那さま。まアはやくでてごらんなさいまし、とてもすばらしい大鷲おおわしが、比叡ひえいのうしろから飛びまわってまいりました。お早く、お早く」
「鷲?」
 と蔦之助は部屋へやから庭へヒラリと、身をおどらして大空をあおぐと、なるほど、関市のぎょうさんなしらせも道理、かつて話に聞いたこともない黒鷲くろわしが、比叡のみねからまッさかさまに大津おおつの空へとかかってくるところ。
「関市! りの強い弓を! それと太矢ふとやを七、八本」
「へい」と関市せきいちが、大あわてで取りだしてきた節巻ふしまきとうくすねきのつるをかけた強弓ごうきゅう。とる手もおそしと、まき葉鏃はやじり太矢ふとやをつがえた蔦之助つたのすけは、虚空こくうへむけて、ギリギリとひきしぼるよと見るまに、はやくも一の矢プツン! と切る、すぐ関市がかわり矢を出す。それを取ってさらにる。そのはやさ、あざやかさ、目にもとまらぬくらい。
 しかしその矢は、二どめからみなちゅうにあがって二つにおれ、ハラリ、ハラリと地上に返ってくる。てっきりわしの上には何者かがいる! 蔦之助ももとよりおとすつもりではない。そのふしぎな人物をなんとかして地上へおろしてみたら、あるいは、日吉ひよしとうの上にいた、奇怪きかいな人間のなぞもとけようかと考えたのであった。
 矢数やかずはひょうひょうとにじのごとくはなたれたが、時間はほんの瞬間しゅんかん、すでに大鷲おおわしは町の空をななめによぎって、その雄姿ゆうし琵琶湖びわこのほうへかけらせたが、なにか白い物をとちゅうからヒラヒラと落としさった。それを見て、
「よしッ」
 ガラリと弓を投げすてた蔦之助は、紙片しへんの落ちたところを目ざして、息もつかさずにかけだした。
 飛ぶがごとく町はずれをでたかれは、一ねんがとどいて、ある原へいおちたものをひろった。
 手にとってひらいてみれば、芭蕉紙ばしょうしぐるみの一通の書面。

加賀見忍剣かがみにんけんどのへ知らせん このじょうを手にされし日 ただちに錫杖しゃくじょうを富士の西裾野にしすそのへむけよ たずねたもう御方おんかたあらん 同志どうしの人々にも会いたまわん
かしん居士こじ


 竹童ちくどうは弱った。しんそこからこまった。
 大切な手紙を取りおとしては、お師匠ししょうさまから、どんなおしかりをうけるか知れないと、かれはあわててわしをおろした。そこはうつくしい鳰鳥におどりの浮いている琵琶湖びわこのほとり、膳所ぜぜの松原のかげであった。
「これクロよ、おいらが手紙をさがしてくるあいだ、後生ごしょうだから待ってるんだぞ、そこでさかなでも取って待っているんだぞ、いいか、いいか」
 竹童は鷲にたいして、人間にいい聞かせるとおりのことばを残し、スタスタ松と松のあいだを走りだしてくると、反対にむこうからも息をきって、こなたへいそいできたひとりの武士があった――いうまでもなく山県蔦之助やまがたつたのすけである。
 ふたりはバッタリ細い小道でゆき会った。竹童がなにげなく蔦之助の片手をみると、まさしくおとした手紙をつかんでいる。蔦之助もまた、はだししりきり衣服に、棒切れを腰にさした、いような小僧こぞうのすがたに目をみはった。
「これ子供、子供。……つんぼか、なぜ返辞へんじをせぬ」
「おじさん、おいら子供じゃないぜ」
「なに子供じゃないと、では何歳なんさいじゃ」
「九ツだよ。だけれど大人おとなだけの働きをするから子供じゃない、アアそんなことはどうでもいい、おいらおじさんに聞きたいけれど、そっちの手につかんでいるものはなんだい? 見せておくれよ」
「ばかをもうせ。それより拙者せっしゃのほうがきくが、いましがた、大津おおつの町の上をとんでいたわしが、ここらあたりでおりた形跡けいせきはないか、どうじゃ」
しらばッくれちゃいけない。その手紙をおだしよ」
「このわっぱめッ、無礼ぶれいをもうすな」
「なにッ、返さなきゃこうだぞ」
 と、竹童ちくどうからだは小さいが身ごなしの敏捷びんしょうおどろくばかり、不意ふい蔦之助つたのすけに飛びかかったと思うと、かれの手から手紙をひッたくって、バラバラと逃げだした。
小僧こぞうッ――」と追いちにのびた蔦之助の烈剣れっけんに、あわや、竹童まッ二つになったかと見れば、さきずんのところから一やくして四、五けんも先へとびのいた。
「きゃつ、ただ者ではない」ととっさにおもった蔦之助は、いっさんに追いかけながら、ピュッと手のうちからなげた流星の手裏剣しゅりけん! それとは、さすがに用心しなかった竹童のかかとをぷッつりしとめた。
「あッ!」ドタリと前へころんだところを、すかさずかけよってねじつけた、蔦之助の強力ごうりき。それには竹童ちくどうも泣きそうになった。
「おじさん、おじさん、なんだっておいらの手紙をそんなにほしがるんだい――苦しいから堪忍かんにんしておくれよ。この手紙は大切な手紙だから」
「なんじゃ、ではこの書面はなんじが持っていた物か」
「ああ、おいらが遠方の人へとどけにいくんだ」
「ではいましがた、わしの上にのっていたのは?」
「おいらだよ、アア、のどがくるしい」
「えッ、そのほうか」
 とびっくりして、竹童をだきおこした蔦之助つたのすけは、しばらくしげしげとかれの姿をみつめていたが、やがて、松の根方ねかたへ腰をおろして、心からこのおさない者に謝罪しゃざいした。
「知らぬこととはもうせ、飛んだ粗相そそうをいたした。どうかゆるしてくれい、そこで、あらためて聞きたいが、御身おんみはその手紙にある果心居士かしんこじのお弟子でしか」
「そうだ……」竹童も岩の上にあぐらをかいて、腰のふくろから薬草の葉を取りだし、手でやわらかにもんだやつをかかとのきずへはりつけている。
「ではさきごろ、日吉ひよし五重塔ごじゅうのとうへ登っていたのも居士ではなかったか、はじをもうせば、里人さとびとの望みにまかせてたところが、一さぎとなって逃げうせた」
「おじさんはむちゃだなあ、おいらのお師匠ししょうさまへ矢をむけるのは、お月さまをるのと同じだよ」
「やっぱりそうであったか、いや面目めんもくもないことであった。ところで、さらにくどいようじゃが、そちの持っている書面にある加賀見忍剣かがみにんけんともうすかたは、ただいまどこにおいでになるのか、また、たずねるお方とはどなたを指したものか、山県蔦之助やまがたつたのすけが頭をさげてたのむ。どうか教えてもらいたい」
「いやだ」
 竹童ちくどうはきつくかぶりをふった。
「なぜ?」
「わからないおじさんだナ、なんだって人がおとした手紙のなかをだまって読んだのさ。だからいやだ」
「ウーム、それも重々じゅうじゅう拙者せっしゃが悪かった、ひらにあやまる」
「じゃあ話してやってもいいが、うかつな人にはうち明けられない、いったいおじさんは何者?」
「父はもと甲州二十七しょうの一人であったが、拙者のだいとなってからは天下の浪人ろうにん大津おおつの町で弓術きゅうじゅつ指南しなんをしている山県蔦之助ともうすものじゃ」
「えッ、じゃあおじさんも武田たけだの浪人か――ふしぎだなア……おいらのお師匠ししょうさまも、ずっと昔は武田家たけだけさむらいだったんだ」
 といいかけて竹童は、まえに居士こじから口止めされたことに気がついたか、ふッと口をつぐんでしまった。そのかわり、これから、居士こじめいをうけて武州ぶしゅう高尾たかおにいる忍剣のところへいくこと、また過日かじつ小幡民部こばたみんぶから通牒つうちょうがきて、なにごとか伊那丸いなまるの身辺に一大事が起っているらしいということ、さては、書中にある御方おんかたという人こそ信玄しんげんまご武田たけだ伊那丸であることまで、残るところなく説明した。
 聞きおわった蔦之助つたのすけは、こおどりせんばかりによろこんだ。武田滅亡たけだめつぼう末路まつろをながめて、悲憤ひふんにたえなかったかれは、伊那丸の行方ゆくえを、今日こんにちまでどれほどたずねにたずねていたか知れないのだ。
「これこそ、まことに天冥てんみょうのお引きあわせだ。拙者せっしゃもこれよりすぐに、富士ふじ裾野すそのへむけて出立しゅったついたす、竹童ちくどうとやら、またいつかの時にあうであろう」
「ではあなたも裾野へかけつけますか、わたしもいそがねば、伊那丸さまの一大事です」
「おお、ずいぶん気をつけていくがよい」
「大じょうぶ、おさらばです」
 竹童はふたたびわしの背にかくれて、舞いあがるよと見るまに、いっきに琵琶湖びわこの空をこえて、伊吹いぶきの山のあなたへ――。
 いっぽう、山県蔦之助やまがたつたのすけは、その日のうちに、武芸者姿ぶげいしゃすがたいさましく、富士ふじさして旅立った。


「まだきょうも空に見えない、ああクロはどうしたろう……?」
 毎日高尾の山巓さんてんにたって、一の鳥影も見のがさずに、わしの帰るのを待ちわびている者は、加賀見忍剣かがみにんけんその人である。
 快風かいふう一陣! かれを狂喜きょうきせしめた便たよりは天の一かくからきた。クロの足にむすびつけられた伊那丸いなまる血書けっしょの文字、竹童ちくどうがもたらしてきた果心居士かしんこじの手紙。かれははふりおつる涙をはらいつつ、二通の文字をくり返しくりかえし読んだ。
「これを手に受けたらその日に立てとある――オオ、こうしてはいられないのだ。竹童とやら、はるばる使いにきてご苦労だったが、わしはこれからすぐ、伊那丸さまのおいでになるところへいそがねばならぬ、鞍馬くらまへ帰ったら、どうかご老台ろうだいへよろしくお礼をもうしあげてくれ」
「ハイ承知しょうちしました。だけれどおぼうさん、おいらは少しこまったことができてしまった」
「なんじゃ、お使いの褒美ほうびに、たいがいのことは聞いてやる、なにか望みがあるならもうすがよい」
「ううん、褒美なんかいらないけれど、そのクロという鷲はお坊さんのものなんだネ」
「いやいや、この鷲はわたしのい鳥でもない、持主もちぬしといえば、武田家たけだけにご由緒ゆいしょのふかい鳥ゆえ、まず伊那丸君の物とでももうそうか」
「ネ、おいら、ほんとをいうと、このクロとわかれるのがいやになってしまったんだよ。きっと大切にして、いつでも用のある時には飛んでいくから、おいらにかしといてくんないか」
 天真爛漫てんしんらんまんな願いに、忍剣もおもわず微笑ほほえんでそれをゆるした。竹童ちくどうは大よろこび、あたかも友だちにだきつくようにクロの背なかへふたたび身を乗せて、忍剣にわかれをげるのも空の上から――いずこともなく飛びさってしまった。
 もなく、高尾の奥院おくのいんからくだってきた加賀見忍剣かがみにんけんは、神馬小舎しんめごやから一頭の馬をひきだし、鉄の錫杖しゃくじょうをななめににむすびつけて、法衣ころもそでも高からげに手綱たづなをとり、夜路よみち山路やまみちのきらいなく、南へ南へとこまをかけとばした。
 ほのぼの明けた次の朝、まだ野も山も森も見えぬきりのなかから、
「オーイ、オーイ」
 と忍剣の駒を追いかけてくる者がある。しかも、あとからくる者も騎馬きばと見えて、パパパパパとひびくひづめの音、はて何者かしらと、忍剣が馬首ばしゅをめぐらせて待ちうけているとたちまち、目の前へあらわれてきた者は、黒鹿毛くろかげにまたがった白衣びゃくえの男と朱柄あかえやりを小わきにかいこんだりりしい若者。
「もしやそれへおいでになるのは、加賀見忍剣どのではござらぬか」
「や! そういわれる其許そこもとたちは」
「おお、いつか裾野すその文殊閣もんじゅかくで、たがいに心のうちを知らず、伊那丸君いなまるぎみをうばいあった木隠龍太郎こがくれりゅうたろう
「またわたくしは、巽小文治たつみこぶんじともうす者」
「おお、ではおのおのがたも、ひとしく伊那丸さまのおんために力をおあわせくださる勇士たちでしたか」
「いうまでもないこと。忍剣にんけんどののおはなしは、くわしくのちにうけたまわった。じつは我々両名の者は、小太郎山こたろうざんとりでをきずく用意にかかっておりましたが、はからずも主君伊那丸さまが、穴山梅雪あなやまばいせつの手にかこまれて、きょう裾野すそのへさしかかるゆえ、出会しゅっかいせよという小幡民部こばたみんぶどのからの諜状しめしじょう、それゆえいそぐところでござる」
「思いがけないところで、同志どうしのおのおのと落ち会いましたことよ。なにをつつみましょう。まこと、わたくしもこれよりさしていくところは、富士ふじの裾野」
「忍剣どのも加わるとあれば、千兵せんぺいにまさる今日きょうの味方、穴山一族の武者どもが、たとえ、いくいくあろうとも、おそるるところはござりませぬ」
「きょうこそ、若君のおすがたをはいしうるは必定ひつじょうです」
「おお、さらば一刻もはやく!」
 くつわをならべて、同時にあてた三むち! 一声ひとこえ高くいななき渡って、霧のあなたへ、こまも勇士もたちまち影をぼっしさったが、まだ目指めざすところまでは、いくたの嶮路けんろいくすじの川、渺茫びょうぼう裾野すそのの道も幾十里かある。
 霧ははれた。そして紺碧こんぺきの空へ、雄大なる芙蓉峰ふようほう麗姿れいしが、きょうはことに壮美そうび極致きょくちにえがきだされた。
 富士は千古せんこのすがた、男の子の清いたましいのすがた、大和撫子やまとなでしこ乙女おとめのすがた。――日本を象徴しょうちょうした天地に一つのほこり。
 いまや、その裾野すそのの一角にあって、咲耶子さくやこがふったただ一本のふえの先から、震天動地しんてんどうちの雲はゆるぎだした。閃々せんせんたる稲妻いなずまはきらめきだした。
 雨を呼ぶか、いかずちが鳴るか、穴山あなやま軍勝つか、胡蝶陣こちょうじん勝つか? 武田伊那丸たけだいなまる小幡民部こばたみんぶ民蔵たみぞうは、どんな行動をとりだすだろうか? 富士はすべて見おろしている――

水火陣法すいかじんぽうくらべ




 胡蝶こちょうの陣! 胡蝶の陣!
 裾野にそよぐすすきが、みな閃々せんせんたる白刃はくじんとなり武者むしゃとなって、声をあげたのかとうたがわれるほど、ふいにおこってきた四面の伏敵ふくてき
 野末のずえのおくにさそいこまれて、このおとしあなにかかった穴山梅雪入道あなやまばいせつにゅうどうは、馬からおちんばかりにぎょうてんしたが、あやうくくらつぼにみこたえて、腰なる陣刀をひきぬき、
退くな。たかの知れた野武士のぶしどもがなにほどぞ、一押ひとおしにもみつぶせや!」
 と、うろたえさわぐ郎党ろうどうたちをはげました。
 音にひびいた穴山あなやまぞく、その旗下はたもとには勇士もけっしてすくなくない。天野刑部あまのぎょうぶ佐分利五郎次さぶりごろうじ猪子伴作いのこばんさく足助主水正あすけもんどのしょうなどは、なかでも有名な四天王てんのう、まッさきにやりをそろえておどりたち、
「おうッ」
 と、えるが早いか、胡蝶こちょうじん中堅ちゅうけんを目がけて、三につきすすんだ。それにいきおいつけられたあとの面々、
「それッ。烏合うごうのやつばら、ひとりあまさず、ってとれ」
 と、具足ぐそくの音をあられのようにさせ、やり陣刀じんとう薙刀なぎなたなど思いおもいな得物えものをふりかざし、四ほうにパッとひらいてりむすんだ。
「やや一大事! だれぞないか、伊那丸いなまる駕籠かごをかためていた者は取ってかえせ、敵の手にうばわれては取りかえしがつかぬぞッ」
 たちまちの乱軍に、梅雪入道ばいせつにゅうどうがこうさけんだのも、もっとも、大切な駕籠はほうりだされて、いつのまにか、警固けいご武士ぶしはみなそのそばをはなれていた。
「心得てござります」
 いち早くも、梅雪の前をはしりぬけて、れいの――伊那丸がおしこめられてある鎖駕籠くさりかごの屋根へ、ヒラリととびあがって八ぽうをにらみまわした者は、別人べつじんならぬ小幡民部こばたみんぶであった。
 かりにも、乗物の上へ、土足どそくひあがったつみ――ゆるしたまえ――と民部みんぶは心にねんじていたが、とは知らぬ梅雪入道ばいせつにゅうどう、ちらとこのていをながめるより、
「お、新参しんざん民蔵たみぞうであるな、いつもながら気転きてんのきいたやつ……」
 とたのもしそうにニッコリとしたが、ふとまた一ぽうをかえりみて、たちまち顔いろを変えてしまった。


 咲耶子さくやこがふった横笛よこぶえ合図あいずとともに、押しつつんできた人数はかれこれ八、九十人、それにりむかっていった穴山方あなやまがた郎党ろうどうもおよそ七、八十人、数の上からこれをみれば、まさに、そうほう互角ごかく対陣たいじんであった。
 しかし、一ぽうは勇あって訓練くんれんなき野武士のぶしのあつまり。こなたは兵法へいほうのかけ引き、実戦じっせんの経験もたしかな兵である。梅雪入道ばいせつにゅうどうならずとも、とうぜん、勝ちは穴山方にありと信じられていた。ところが形勢けいせいはガラリとかわって、なにごとぞ、四天王てんのう以下の面々は名もなき野武士のさきにかけまわされ、胡蝶こちょうじん変化自在へんげじざいの陣法にげんわくされて、浮き足みだしてくずれ立ってきた。と見るや、いかりたった入道は、
「ええ腑甲斐ふがいのない郎党ろうどうども、このうえは、梅雪みずからけちらしてくれよう!」
 両の手綱たづなを左の手にあつめ、右手に陣刀じんとうをふりかざしてあわや、乱軍のなかへ馬首ばしゅをむけてかけ入ろうとした。
 とそのとき、
「しばらくしばらく、そもわが君は、おいのちをいずこへ捨てにいかれるお心でござるか!」
 声たからかにびとめた者がある。
「なに?」ふりかえってみると、それは、伊那丸いなまる駕籠かごの上に立った小幡民部こばたみんぶ梅雪ばいせつはせきこんで、
「やあ、民蔵たみぞうなんじはなにをもって、さような不吉ふきつをもうすのじゃ」
「されば、殿の御身おんみを大切と思えばこそ」
「して、なんのしさいがあって」
「眼を大にしてごらんあれ。敵は野武士のぶしといいながら、神変しんぺんふしぎな少女の陣法によってうごくもの、これすなわち奇兵きへいでござる。あなどってそのさくにおちいるときは、殿のおいのちとてあやうきこと明らかでござりまする」
「うーむ、してかれの陣法じんぽうとは」
伏現自在ふくげんじざい胡蝶こちょうじん
「やぶる手策てだては?」
「ござりませぬ」
「ばかなッ」
「うそとおぼしすか」
「おおさ、年端としはもゆかぬ女童めわらべが指揮する野武士のぶしの百人足らず、なんで破れぬことがあろうか」
「ではしばらくここにて四ほうを観望かんぼうなさるがなにより。おお佐分利五郎次さぶりごろうじ組子くみこはやぶれた、ああ足助主水正あすけもんどのしょうもたちまちふくろのねずみ……」
「なんの、が四天王てんのうじゃ、いまにきっとり返して、あの手の野武士をみな殺しにするであろうわ」
あやういかな、危ういかな、かしこの窪地くぼちへ追いこまれた猪子伴作いのこばんさく天野刑部あまのぎょうぶ、その他十七、八名の味方の者どもこそ、すんでに敵の術中じゅっちゅうにおちいり、みな殺しとなるばかり」
「や、や、や、や、や!」
「おお! 殿とのにもご用意あれや、早くも伊那丸いなまる駕籠かごを目がけて、総勢そうぜいの力をあつめてくるような敵の奇変きへんと見えまするぞ」
「お、お、お、民蔵たみぞう民蔵、なんじになんぞさくはないか」
 梅雪ばいせつのようすは、にわかにうろたえて見えだした。
「おそれながら、しばしのあいだ、殿の采配さいはい拙者せっしゃにおかしたまわるなら、かならず、かれの奇襲きしゅうをやぶって味方の勝利となし、なお、野武士を指揮しきなすあやしき少女をもけどってごらんに入れます」
「ゆるす、すこしも早く味方の者をすくいとらせい」
 さしも強情ごうじょう穴山梅雪あなやまばいせつも、ろんより証拠しょうこ民部みんぶのことばのとおり、味方がさんざん敗北はいぼくとなってきたのを見て、もうゆうよもならなくなったのであろう。こなたへこまを寄せてきて、小幡民部こばたみんぶの手へ采配さいはいをさずけた。
「ごめん」
 受けとって押しいただいた民部みんぶは、駕籠かごの上に立ったまま、八ぽうの戦機をきッと見渡したのち、おごそかに軍師ぐんしたるの姿勢しせいをとり、さいさばきもあざやかに、
 さッ、さッ、さッ。
 虚空こくうに半円をえがいて、風をきること三度みたび
 ああなんという見事さ、それこそ、本朝ほんちょう諸葛亮しょかつりょう孫呉そんごかといわれた甲州流の軍学家ぐんがくか小幡景憲こばたかげのり軍配ぐんばいぶりとそッくりそのまま。
「や?」
 よもや、新参しんざん民蔵たみぞうが、その人の一民部みんぶであろうとは、ゆめにも知らない梅雪入道ばいせつにゅうどう、おもわず驚嘆きょうたんの声をもらしてしまった。


 月の夜にはみ、あしたは露をまろばせても、聞く人もないこの裾野すそのに、ひとり楽しんでいるふえは、咲耶子さくやこが好きで好きでたまらない横笛ではないか。
 しかし、その優雅ゆうがな横笛は、時にとって身を守るつるぎともなり、時には、猛獣もうじゅうのような野武士のぶしどもを自由自在にあやつるムチともなる。
 いましも、小高いおかの上にたって、その愛笛あいてきを頭上にたかくささげ、部下のうごきからひとみをはなたずにいた彼女のすがたは、地上におりた金星の化身けしんといおうか、富士の女神めがみとたとえようか、たけなす黒髪は風にみだれて、うるわしいともなんともいいようがない。
「アッ――」
 ふいに、彼女のくちびるれたかすかなおどろき。
 そのひとみのかがやくところをみれば、いまがいままでしどろもどろにみだれたっていた、穴山梅雪あなやまばいせつ郎党ろうどうたちはひとりの武士ぶし采配さいはいを見るや、たちまちサッと退いて中央に一列となった。
 それは民部みんぶの立てた蛇形だぎょうの陣。
 咲耶子さくやこはチラとまゆをひそめたが、にわかに右手めての笛をはげしくななめにふって落とすこと二へん、最後に左の肩へサッとあげた。――とみた野武士の猛勇もうゆうは、ワッと声つなみをあげて、蛇形陣だぎょうじん腹背ふくはいから、勝ちにのって攻めかかった。
 そのとき早く、ふたたび民部の采配が、りゅうを呼ぶごとくさっとうごいた。と見れば、蛇形の列は忽然こつねんと二つに折れ、まえとは打ってかわって一みだれず、扇形おうぎがたになってジリジリと野武士の隊伍たいごを遠巻きに抱いてきた。
「あッ、いけない。あれはおそろしい鶴翼かくよくの計略」
 咲耶子はややあわてて、笛を天から下へとふってふってふりぬいた。
 それは退軍の合図あいずであったと見えて、いままで攻勢こうせいをとっていた野武士のぶしたちは、一どにどッとうしおのごとく引きあげてきたようす。が、民部みんぶ采配さいはいは、それに息をつくもあたえず、たちまち八しゃの急陣と変え、はやきこと奔流ほんりゅうのように、えや追えやと追撃ついげきしてきた。
「オオ、なんとしたことであろう」
 あまりの口惜くやしさに、咲耶子さくやこはさらに再三再四、胡蝶こちょうじんを立てなおして、応戦おうせんをこころみたが、こなたでほのおの陣をしけば、かれは水の陣を流して防ぎ、その軍配ぐんばい孫呉そんご化身けしんか、くすのきの再来かと、あやしまれるほど、機略縦横きりゃくじゅうおうみょうをきわめ、手足のごとく、奇兵に奇兵をいでくる。
 さすがの胡蝶陣こちょうじんみょうをえた咲耶子さくやこも、いまはほどこすにすべもなくなった。精鋭無比せいえいむひの彼女の部下のやいばも、いまはしだいしだいに疲れてくるばかり。
「それッ、この機をはずすな!」
「いずこまでも追って追って追いまくれッ」
裾野すその野武士のぶし根絶ねだやしにしてくれようぞ」
 穴山あなやまの四天王てんのう猪子伴作いのこばんさく足助主水正あすけもんどのしょう、その他の郎党ろうどうは、民部が神のごとき采配ぶりにたちまち頽勢たいせいりかえし、猛然もうぜん血槍ちやりをふるって追撃ついげきしてきた。
 西へ逃げれば西に敵、南に逃げれば南に敵、まったく民部の作戦に翻弄ほんろうされつくした野武士たちは、いよいよ地にもぐるか、空にかけるのほか、逃げるみちはなくなってしまった。
 と、咲耶子さくやこのいるおかの上から、悲調ひちょうをおびた笛の一声ひとこえ高く聞えたかと思うと、いままでワラワラ逃げまどっていた野武士のぶしたちの影は、忽然こつねんとして、草むらのうちにかくれてしまった。きもをけした穴山あなやま一族の将卒しょうそつは、血眼ちまなこになって、草わけ、小川のへりをかけまわったが、もうどこにも一人の敵すら見あたらず、ただいちめんの秋草の波に、野分のわきの風がザアザアと渡るばかり。
 きつねにつままれたようなうろたえざまを、おかの上からながめた咲耶子は、帯のあいだに笛をはさみながら、ニッコリ微笑びしょうをもらして、丘のうしろへとびおりようとしたその時である。
「咲耶子とやら、もうそちの逃げ道はないぞ」
 りんとした声が、どこからかひびいてきた。
「え?」思わず目をみはった彼女の前に、ヒラリとおどりあがってきたのは、いつのまにここへきたのか、さっきまで采配さいはいをとって敵陣てきじんにすがたをみせていた小幡民部こばたみんぶであった。
「あッ」
 さすがの彼女もびっくりして、おかのあなたへ走りだすと、そのまえに、四天王てんのう佐分利五郎次さぶりごろうじが、八、九人の武士ぶしとともに、やりぶすまをつくってあらわれた。ハッと思って横へまわれば、そこからも、不意にワーッとときの声があがった。うしろへ抜けようとすればそこにも敵。
 いまはもう四めん楚歌そかだ。絶望ぜつぼうの胸をいだいて、立ちすくんでしまうよりほかなかった。とみるまに、丘の上は穴山方あなやまがた薙刀なぎなた太刀たちで、まるで剣をうえた林か、はりの山のように、いっぱいにうずまってしまった。
咲耶子さくやこ、咲耶子、もういかにもがいても、この八もん鉄壁てっぺきのなかからのがれることはできぬぞ、神妙しんみょうなわにかかッてしまえ」
 小幡民部こばたみんぶは、声をはげましてそういった。
 無念むねんそうに、くちびるをかみしめていた咲耶子は、ふたたびかくれた野武士のぶしたちをびだすつもりか、おびのあいだの横笛をひきぬいて、さッと、ふりあげようとしたが、その一しゅん
「えい、不敵な女め」
 佐分利五郎次さぶりごろうじが、飛びかかるが早いか、ガラリとその笛を打ちおとすと、とたんに、右からも、走りよった足助主水正あすけもんどのしょう早業はやわざにかけられて、あわれ、野百合のゆりのような小娘こむすめは、なさ容赦ようしゃもなくねじあげられてしまった。

天罰てんばつくだる




 たったひとりの少女を生けどるのに四天王てんのうともある者や、多くの荒武者あらむしゃが総がかりとなったのは、大人おとなげないとずべきであるのに、かれらは大将の首でもとったように、ワッと、勝鬨かちどきをあげながら、おかの上からおりていった。
 まもなく、馬前ばぜんへひッ立てられてきた咲耶子さくやこをひとめ見た梅雪入道ばいせつにゅうどうは、くらの上からはッたとにらみつけて、
「こりゃ小娘ッ、ようもなんじは、道しるべをいたすなどともうして、思うさまこのほうをなぶりおったな。いまこそ、その細首をぶち落としてくれるから待っておれ」
 おもてしゅをそそいで、くらの上からののしったのち、
民蔵たみぞう民蔵」とはげしく呼び立てた。
「はッ」と走りだした小幡民部こばたみんぶは、チラと、入道のおもてを見ながら片手をつかえた。
「なんぞご用でござりまするか」
「おお民蔵か、あっぱれなそのほうの軍配ぐんばいぶり、褒美ほうびは帰国のうえじゅうぶんにとらすであろう、ところで、不敵なこの小娘、生かしておけぬ、そちに太刀とりをもうしつくるほどに、が面前で、血祭ちまつりにせい」
「あいや、それはしばしご猶予ゆうよねがいまする」
「なに、待てともうすか」
御意ぎょいにござりまする。いまこの小娘を血祭りにするときは、ふたたびまえにもてあましたる野武士のぶしが、復讐ふくしゅうおそうてくること必定ひつじょう。もとより、千万の野武士があらわれようとて、おそるるところはござらぬが、この小娘をおとりとして、さらに殿のお役に立てようがため、せっかく生捕いけどりにいたしたもの、むざむざここで首にいたすのはいかがとぞんじます」
奇略きりゃくにとんだそのほうのことゆえ、なお上策じょうさくがあればまかせおくが、して、この小娘をおとりにしてどうする所存しょぞんであるか」
秘中ひちゅう、味方といえども、余人よじんのいるところでは、ちともうしかねます」
「もっともじゃ、ではこれへしたためて見せい」
 ヒラリと投げてきたのは一面の軍扇ぐんせん
 民部みんぶ即座そくざ矢立やたてをとりよせ、筆をとって、サラサラ八ぎょうを書き、みずから梅雪ばいせつの手もとへ返した。
「どれ」と、入道にゅうどうはそれを受けとり、馬上で扇面せんめんの文字を読みはんじて――
「む、どこまでもそちは軍師ぐんしじゃの」とひざをたたいて、感嘆かんたんした。その秘策ひさくとは、すなわち、これから馬をすすめて五湖の底にあるという武田家たけだけ宝物ほうもつ御旗みはた楯無たてなしをさぐりだし、同時に、伊那丸いなまるをもそこで首にしてしまおうというおそろしい献策けんさく
 じつは穴山梅雪あなやまばいせつも、これから甲斐かいの国へはいる時は、武田たけだ残党ざんとうもあろうゆえ、伊那丸を首にする場所にも、心をいためていたところだった。しかし、この富士の裾野すそのなら安心でもあるし、御旗みはた楯無たてなし宝物ほうもつまで、手にはいれば一挙両決いっきょりょうけつ、こんなうまいことはない。すぐまた都へ取ってかえし、家康いえやすから、多大の恩賞おんしょうをうけ、そのうえ帰国してもけっしておそくはない。
「そうだ、この小娘もそのとき首にすれば、世話なしというもの……」
 梅雪はとっさにそう思ったらしい、あくまで信じきっている民部みんぶ献策けんさくにまかせて、ふたたび郎党ろうどうを一列に立てなおし、民部と咲耶子さくやこさきにして、裾野すそのを西へ西へとうねっていった。
 そのあいだに民部は、なにごとかひくい声で、咲耶子にささやいたようであった。かしこい彼女は、黙々もくもくとして聞えぬふりで歩いていたが、そのひとみは、ときどき意外な表情をして民部にそそがれた。そんな、こまかいふたりの挙動きょどうは、はるかあとから騎馬きばでくる梅雪の目に、べつだんあやしくもうつらなかった。
 やがて、裾野の野道がつきて、長い森林にはいってきた。そこをぬけると、青いさざなみが、から見えだした。
「おお湖水こすいへでた! みずうみが見えた!」
 軍兵ぐんぴょうどもは、沙漠さばくいずみを見つけたように口々に声をもらした。そのほとりには、小さなやしろがあるのも目についた。つかつかと社の前へあゆみ寄った小幡民部こばたみんぶは、「白旗しらはたみや」とあるそこのがくを見あげながら、口のうちで、「白旗の宮? ……源家げんけにゆかりのありそうな……」とつぶやいて小首をかしげたが、ふいと向きなおって、こんどはおそろしい血相けっそうで、咲耶子さくやこをただしはじめた。
「これッ。武田家たけだけ宝物ほうもつをしずめた湖水は、ここにそういあるまい、うそいつわりをもうすと、いたいめにあわすぞ、どうじゃ!」
「は、はい……」咲耶子は、にわかに神妙しんみょうになって、そこへひざまずいた。
「もうおかくしもうしても、かなわぬところでござります。おっしゃるとおり、御旗みはた楯無たてなしの宝物は、石櫃いしびつにおさめて、このみずうみのそこに沈めてあるにそういありませぬ」
「まったくそれにちがいないか!」
「神かけていつわりはもうしませぬ」
「よし、よく白状はくじょういたした。おお殿とのさま。ただいまのことばをお聞きなされましたか」
 ちょうどそこへ、おくればせに着いた梅雪ばいせつのすがたをみて、民部が、こういいながら馬上を見上げると、かれはつぼにってうなずいた。
「聞いた。かれのもうすところたしかとすれば、すぐ湖水からひきあげる手くばりせい」
「はッ、かしこまりました」
 民部はいさみ立ったさまをみせて、郎党ろうどうたちを八ぽうへ走らせた。まもなく、地理にあかるい土着どちゃく里人さとびとが、何十人となくここへ召集されてきた。そして、りだされてきた里人や郎党ろうどうは、多くの小船に乗りわかれて、湖水の底へ鈎綱かぎづなをおろしながら、あちらこちらとぎまわった。


 おかのほうでは穴山梅雪入道あなやまばいせつにゅうどう白旗しらはたみやのまえに床几しょうぎをすえ、四天王てんのうの面々を左右にしたがえて悠然ゆうぜんと見ていた。
 と、かれの貪慾どんよく相好そうごうがニヤニヤみくずれてきた。――湖水の中心では、いましもかぎにかかった獲物えものがあったらしい。多くの小船は、たちまちそこに集まってかぎをおろし、エイヤエイヤの声をあわせて、だんだんと浅瀬あさせのほうへひきずってくるようすだ。
 伊那丸いなまる忍剣にんけん智慧ちえをしぼって世の中からかくしておいた宝物ほうもつも、こうして、苦もなく発見されてしまった。まもなく梅雪入道の床几の前へ運ばれてきたものは、真青まっさお水苔みずごけさびたその石櫃いしびつ
「殿さま、ご苦心のかいあって、いよいよご開運の秘宝ひほうもめでたく手に入りました。祝着しゅうちゃくにぞんじまする」
 里人たちに恩賞おんしょうをやって追いかえしたのち、民部みんぶはそばからいわいのことばをのべた。
「そのほうの手柄てがらは忘れはおかぬぞ。この宝物に伊那丸の首をそえてさしだせば、いかにけちな家康いえやすでも、一万ごくや二万ごく城地じょうちは、いやでも加増するであろう。そのあかつきには、そのほうもじゅうぶんに取りたてさす」
「かたじけのうぞんじます。しかし、お望みの物が手にはいったからは、いっこくもご猶予ゆうよは無用、この場で伊那丸いなまるを首にいたし、あの鎖駕籠くさりかごへは宝物のほうを入れかえにして、寸時もはやく家康公いえやすこうへおとどけあるが上分別じょうふんべつとこころえます」
「おお、きょうのような吉日きちじつはまたとない。いかにもこの場できゃつを成敗せいばいいたそう、その介錯かいしゃくもそちに命じる! ぬかるな!」
「はッ、心してつとめます」
 梅雪ばいせつの目くばせに、きッとなって立ちあがった民部みんぶはすばやく下緒さげおを取ってたすきとなし、刀のつかにしめりをくれた。そのまに、二、三人の郎党ろうどうは、小船の板子いたごを四、五枚はずしてきて、武田伊那丸たけだいなまるの死のをもうけた。
「これこれ、せんこくの小娘もことのついでじゃ。そこへならべて、民蔵たみぞうの腕だめしにさせい。旅の一きょうに見物いたすもよかろうではないか」
 みやもとにくくりつけられていた咲耶子さくやこは、罪人のように追ったてられて、板子いたごのならべてあるとなりへすえられた。彼女は、もうすっかり覚悟を決めてしまったか、ほつれ髪もおののかせず、白百合しらゆりの花そのままな顔をしずかにうつむけている。
 いっぽうでは、よろいの音をさせて、ずかずかと迫っていった四天王てんのうの面々が、例の鎖駕籠くさりかごのまわりへ集まり、乗物の上からかぶせてある鉄のあみをザラザラとはずしはじめた。
 長い道中のあいだ日のめを見ることなく、乗物のうちにゆられてきた伊那丸は、いよいよ運命の最後を宣告され、悪魔あくま断刀だんとうをうけねばならぬこととなった。四天王てんのう天野刑部あまのぎょうぶは、ガチャリ、ガチャリと荒々しくじょうの音をさせて、駕籠かごの引き手をグイとおしけ、
伊那丸いなまる、これへでませいッ」と、涙もなく、ただの罪人でも呼びだすようにどなった。
 が――駕籠かごのなかは、ひっそりとして音もない。
「やい、伊那丸、さッさとこれへでてうせぬか」
 猪子伴作いのこばんさくは、次にこうわめきながら、駕籠の扉口とぐち土足どそくではげしくけとばした。と、あしもとが、不意に軽くすくわれたので、伴作はあッといってうしろへよろめく。
 すわ!
 殺気はたちまちそこにはりつめた。天野あまの佐分利さぶり足助あすけの三人は、陣刀じんとうのつかをにぎりしめつつ、駕籠口かごぐちへ身がまえた。


「おお夜が明けたようだ……」
 つぶやく声といっしょに、伊那丸のすがたは、しずかにそこへあらわれた。じたばたすると思いのほか、落ちつきはらったようすに、四天王の者どもはやや拍子ひょうしぬけがしたらしい。
「歩けッ」
 左右からせきたてて、小船の板子いたごをしいた死の伊那丸いなまるをひかえさせた。そして床几しょうぎにかけた梅雪ばいせつ目礼もくれいをしてひきさがる。
「おッ、伊那丸さま――」
「あ! そなたは」
 席をならべて伊那丸と咲耶子さくやこは、たがいにはッとしたが、彼女は、せつなに顔をそむけ、なにげないようすをした。で伊那丸も、さまざまな疑惑ぎわくに胸をつつまれながら、ひとみをそらして、こんどはきっと、入道にゅうどうの顔をにらみつけた。――梅雪ばいせつもまけずに、
「こりゃ伊那丸、さだめし今まで窮屈きゅうくつであったろうが、いますぐらくにさせてくれる。この世の見おさめに、泣くとも笑うとも、ぞんぶんに狂って見るがいい」
 と、にくにくしい毒口どくぐちをたたいた。
「さて大人気おとなげない武者むしゃどもよ――」
 伊那丸は声もすずしくあざわらって、
「わしひとりのいのちをとるのに、なんとぎょうぎょうしいことであろう。冥土めいどにおわす祖父そふ信玄しんげんやその他の武将たちによい土産話みやげばなし甲州侍こうしゅうざむらいのなかにも、こんな卑劣者ひれつものがあったと笑うてやろう!」
「えい、口がしこいやつめ、民蔵たみぞう早々そうそうこのわっぱの息のねをとめてしまえ!」
 梅雪は、号令ごうれいした。
 声におうじて、
「はッ」と、武者むしゃぶるいして立ちあがった民部みんぶは、伊那丸いなまるのうしろへまわって、ピタリと体をきめ、見る目もさむき業刀わざものをスラリと腰からひきぬいた。
「お覚悟かくごなさい! 太刀取たちとりの民蔵たみぞうが君命によってみしるしはもうしうけた」
「…………」
 覚悟――それは伊那丸にとっていまさらのことではない。かれは一とりみだすさまもなく、観念の眼をふさいでいる。
 正面しょうめん梅雪入道ばいせつにゅうどうをはじめ、四天王てんのう以下の大衆も、かたずをのんで、民部の太刀と伊那丸のようすとを見くらべていた。
 湖水の波も心あるか、つめたい風を吹きおこして、松のこずえにかなしむかと思われ、も雲のうちにかくされて、天地は一しゅん、ひそとした。
 そのとき、民部の口からかすかな声。
八幡はちまん
 水もたまらぬ太刀をふりかぶッて、伊那丸の白いくびをねらいすました。――と、そのするどい眼気がんきが、キラと動いたと見えた一瞬、
「ええいッ!」
 武田伊那丸たけだいなまるの首が落ちたかとおもうと、なにごとぞ、梅雪のまッこうめがけて、とびかかった小幡民部こばたみんぶ
悪逆無道あくぎゃくむどう穴山入道あなやまにゅうどう天罰てんばつ明刀めいとうをくらえ!」
 耳をつんざく声だった。
 ふいをくった梅雪ばいせつは、ぎょうてんして身をさけようとしたが、ヒュッと、眉間みけんをかすめた剣光けんこうに眼もくらんで、
「わーッ」ひたいの血しおを両手でおさえたまま、床几しょうぎのうしろへもんどり打ってぶッたおれた。
曲者くせもの愕然がくぜんと、おどりあがった四天王てんのうたち。同時に、その群猛ぐんもううずをまいて、
「うぬッ、気がくるったかッ」
裏切者うらぎりものッ――退くな」
 とばかり、一どに総立そうだちになるやいなや、民部みんぶの上へ、どッとなだれを打ってきたつるぎ怒濤どとう

湖南の三騎士きし




 梅雪入道は、みだれ立つ郎党ろうどうたちの足もとを、逃げまわりながら、
「曲者は武田たけだ残党ざんとうだッ。伊那丸いなまるを逃がすなッ」
 と絶叫ぜっきょうした。
 民部みんぶはその姿をおって、
「おのれッ」
 三にりつけようとしたが、佐分利五郎次さぶりごろうじにささえられ、じゃまなッ、とばかりはねとばす。そのあいだに、天野あまの猪子いのこ足助あすけなどが、鉾先ほこさきをそろえてきたため、みすみす長蛇ちょうだいっしながら、それと戦わねばならなかった。
 いっぽう、民部にかかりあつまった雑兵ぞうひょうは、伊那丸いなまるのほうへ、バラバラと、かけ集まったが、それよりまえに、咲耶子さくやこが、腰のなわを切るがはやいか、伊那丸の手をとって、
「若君。早く早く」
 と、よりたかる武者むしゃ二、三人を斬りふせながらせきたてた。
 とたんになかから、一人の武者がかぶりついた。伊那丸は身をねじって、ドンと前へ投げつけ、かれのおとした陣刀をひろいとるがはやいか、近よる一人の足をはらって、さらに、咲耶子へやりをつけていた武者を斬ってすてた。
 すべては一しゅんあいだだった。
 伊那丸じしんですら、じぶんでどう動いたかわからない。穴山あなやまがたの郎党ろうどうも、たがいに目から火をだしての狼狽ろうばいだった。そして白熱戦の一瞬がすぎると、だれしもいのちしく、八ぽうへワッと飛びのく。――
 ひらかれた中心にあるのは、伊那丸と咲耶子とである。二人は背なかあわせに立って、血ぬられた陣刀と懐剣かいけんを二方にきっとかまえている。
 目にあまるほどの敵も、うかと近よる者もない。ただわアわアと武者声むしゃごえをあげていた。すると、あなたから加勢にきた四天王てんのう足助主水正あすけもんどのしょう
「えい、これしきの敵にひまどることがあろうか」
 大身おおみやりに行き足つけて、伊那丸いなまるの真正面へ、タタタタタッ、とばかりくりだした。
 伊那丸の身は、その槍先やりさき田楽刺でんがくざしと思われたが、さッとかわしたせつな、槍は伊那丸の胸をかすって流るること四、五尺。
「あッ」
 片足をちゅうにあげてのめりこんだ主水正、しまッたと槍をくりもどしたが、時すでに、ズンとおりた伊那丸の太刀たちに千だんを切りおとされて、無念むねん、手にのこったのはをうしなった半分のばかり。
「やッ」
 捨鉢すてばちに柄を投げつけた。そして陣刀をぬきはらったが、たびたびの血戦になれた伊那丸は、とっさに咲耶子と力をあわせ、いっぽうの雑兵ぞうひょうをきりちらして、湖畔こはんのほうへ疾風しっぷうのようにかけだした。


 そこには、白旗しらはたみやのまえから、追いつ追われつしてきた小幡民部こばたみんぶが、穴山あなやま旗本はたもと雑兵ぞうひょうを八面にうけて、今や必死ひっしりむすんでいる。
 しかし、小幡民部こばたみんぶは、こうした斬合きりあいはごく不得手ふえてであった。太刀たちをもって人にあたることは、かれのよくすることではない。
 けれど、軍配ぐんばいをもって陣頭じんとうに立てば、孫呉そんごのおもかげをみるごとくであり、帷幕いばくに計略をめぐらせば、孔明こうめいも三しゃを避ける小幡民部が、太刀打たちうちが下手へただからといっても、けっしてなんの恥ではない。かれのえらさがひくくなるものではない。民部の本領ほんりょうはどこまでも、奇策無双きさくむそうな軍学家というところにあるのだから。
 だが、それほど智恵ちえのある民部が、なんで、こんな苦しい血戦をみずからもとめ、みずから不得手な太刀を持って斬りむすぶようなことをしたのであろう。なぜ、もっといい機会をねらって、らくらくと伊那丸いなまるすくわないのか。
 民部ははじめ、こう考えた。
 穴山梅雪あなやまばいせつ領内りょうない、甲州北郡きたごおりの土地へはいってからでは、伊那丸を助けることはよういであるまい。これはなんでも途中において目的をはたしてしまうのにかぎる。――でかれは、出発にさきだって鞍馬くらま果心居士かしんこじ小太郎山こたろうざん龍太郎りゅうたろう小文治こぶんじなどの同志どうし通牒つうちょうをとばしておいた。
 ところが、裾野すそのへかかってきた第一日に、咲耶子さくやこという意外なものがあらわれた。かれは少女のふしぎな行動を見て、ははアこれは伊那丸君いなまるぎみを救おうという者だナ、と直覚したが、なにしろ、梅雪の警固けいごには、四天王てんのうをはじめ、手ごわい旗本はたもと郎党ろうどうが百人近くもついているので、あくまで入道にゅうどうをゆだんさせるため、奇計をもって咲耶子さくやこを生けどり、なお、心ひそかに、待つ者がくるひまつぶしに、この湖水までおびきよせたのだ。
 ところが、民部みんぶの心まちにしている人々は、いまもってすがたが見えない。――で、いまは最後の手段があるばかりと、途中で咲耶子にもささやいておいたとおりな、驚天動地きょうてんどうちの火ぶたを切ったのである。
 致命傷ちめいしょうにはなるまいが、怨敵おんてき梅雪ばいせつへは、たしかに一太刀ひとたち手ごたえをくれてあるから、このうえはどうかして、一ぽうの血路をひらき、伊那丸君いなまるぎみをすくいだそうと民部は心にあせった。しかし、まえにも、いったとおり、けんを持っては万夫不当ばんぷふとうのかれではないから、無念むねんや、そこへ追われてきた伊那丸と咲耶子のすがたを見ながら、四天王てんのうの天野、猪子、佐分利などにささえられて近よることもできない。
 それどころか、いまは民部のじぶんがすでにあぶないありさま。
 天野刑部あまのぎょうぶ月山流げつざんりゅう達者たっしゃとて、刃渡はわたり一しゃくすん鉈薙刀なたなぎなたをふるってりゅうりゅうとせまり、佐分利五郎次さぶりごろうじは陣刀せんせんとりつけてくる。その一人にも当りがたい民部は、はッはッと火のような息をきながら、受けつ、逃げつ、かわしつしていたが、一ぽうはみずうみ、だんだんと波のきわまで追いつめられて、もうまったくふくろのねずみだ、背水はいすいの陣にたおれるよりほかない。
「よしッ、もうこのほうはひきうけた。猪子伴作いのこばんさくは伊那丸のほうへいってくれ」
「おお承知しょうちした」
 天野刑部あまのぎょうぶの声にこたえた伴作ばんさくは、笹穂ささほやりをヒラリと返して、一ぽうへ加勢にむかった。ところへ、いっさんにかけだしてきたのは伊那丸いなまる咲耶子さくやこ、そうほうバッタリと出会いながら、ものをいわず七、八ごうやりと太刀の秘術ひじゅつをくらべて斬りむすんだが、たちまち、うしろから足助主水正あすけもんどのしょう、その他の郎党ろうどうが嵐のような勢いで殺到した。
 あなたでは民部みんぶの苦戦、ここでは伊那丸と咲耶子が、腹背ふくはいの敵にはさみ討ちとされている。二ヵ所の狂瀾きょうらんはすさまじい旋風せんぷうのごとく、たばしる血汐ちしお丁々ちょうちょうときらめくやいば、目もけられない修羅しゅらの血戦。
 三つの命は刻々こっこくとせまった。
 そのころから、秀麗しゅうれいな富士の山肌やまはだに、一まつすみがなすられてきた、――と見るまに、黒雲のおびはむくむくとはてなくひろがり、やがて風さえ生じて、みわたっていた空いちめんにさわがしい色をていしてきた。
 雲団々くもだんだんはたちまち暗く、たちまち、ぱッと明るく、明暗たちどころにかわる空の変化はいちいち下界げかいにもうつって、修羅しゅらのさけびをあげている湖畔こはんうずは、しんに凄愴せいそう極致きょくち壮絶そうぜつ、なんといいあらわすべきことばもない。
 おりしもあれ!
 はるか湖水の南岸に、ポチリと見えだした一点の人影。
 画面点景がめんてんけい寸馬豆人すんばとうじんそのまま、人も小さく馬も小さくしか見えないが、たしかに流星のごときはやさで湖畔こはんをはしってくる。それが、空の明るくなった時はくッきりと見え、がかげるとともに、暗澹あんたんたるあしのそよぎに見えなくなる。
 そも何者?
 おお、いよいよ奔馬ほんばは近づいてきた。しかもそれは一ではない。あとからつづくもう一騎がある。
 いや、さらにまた一騎。
 まさしくここへさしてくる者は三騎の勇士だ。そのはやきこと疾風しっぷう、その軽きことかける天馬てんばかとあやしまれる。


 わーッ、わーッと湖畔こはんにあがったどよみごえ。
 さては伊那丸いなまるがとらえられたか、咲耶子さくやこが斬られたか、あるいは、小幡民部こばたみんぶがたおれたのであろうか。
 いやいや、そうではなかった。――一声ひとこえたかくいなないたこまのすがたが、忽然こつねんとそこへあらわれたがため。
 まッ先におどりこんできたのは、高尾の神馬しんめ月毛つきげくらにまたがった加賀見忍剣かがみにんけん、例の禅杖ぜんじょうをふりかぶって真一文字まいちもんじに、
「やあやあ、お心づよくあそばせや伊那丸いなまるさま! 加賀見忍剣、ただいまこれへかけつけましたるぞッ。いでこのうえは穴山あなやまぞくのヘロヘロ武者むしゃども、この忍剣の降魔ごうまの禅杖をくらってくたばれ!」
 天雷てんらいくだるかの大音声だいおんじょう
 むらがるつるぎを雑草ともおもわず、押しかかるやりぶすまをれ木のごとくうちはらって、縦横無尽じゅうおうむじんとあばれまわる怪力かいりきは、さながら金剛力士こんごうりきしか、天魔神てんまじんか。
 時をおかず、またもやこの一かくへ、どッと黒鹿毛くろかげ馬首ばしゅをつッこんできたのは、これなん戒刀かいとうの名人木隠龍太郎こがくれりゅうたろう、つづいて、朱柄あかえやりをとっては玄妙無比げんみょうむひ巽小文治たつみこぶんじのふたり。
 紫白しはく手綱たづなを、左手ゆんでに引きしぼり、右手めてに使いなれた無反むぞりの一けんをひっさげた龍太郎は、声もたからかに、
「それにおいであるのは小幡民部殿こばたみんぶどのか。木隠龍太郎、小太郎山こたろうざんよりただいまご助勢じょせいにかけむかってまいったり。武者むしゃどもは、拙者せっしゃがたしかに引きうけもうしたぞ」
 黒鹿毛のひづめをあげて、三にかけちらしながら、はやくも鞍上あんじょうの高きところより、右に左に、戒刀かいとうをふるって血煙ちけむりをあげる。
「いかに穴山入道あなやまにゅうどうはいずれにある。巽小文治が見参げんざん卑劣者ひれつものよ、いずれにまいったか」
 十ぽう自在じざい妙槍みょうそうをひッかかえ、馬にあわをかませながら、乱軍のうちを血眼ちまなこになって走りまわっていたのは小文治である。
「うぬ、小ざかしい、いいぐさ」
 その姿をチラと見て、まッしぐらにかけよってきた四天王てんのう猪子伴作いのこばんさく怒喝どかつ一番、
素浪人すろうにんッ」
 さッと下から笹穂ささほやりを突きあげた。
「おうッ」と横にはらって返した朱柄あかえやり
 人交ひとまぜもせずに、一打ちとなったやりやりは、閃光せんこうするどく、上々下々、秘練ひれんを戦わせていたが、たちまち、朱柄あかえやりさきにかかって、猪子伴作いのこばんさく田楽刺でんがくざしとなって、草むらのなかへ投げとばされた。
 と、白旗しらはたみやうらから、よろばいだした法師武者ほうしむしゃがある。こなたの混乱こんらんに乗じて、そこなる馬に飛びつくやいな、死にものぐるいであなたへむかって走りだした。
 オオそれこそ、さきに一太刀うけて、さわぎのうちにどこかへもぐりこんでいた梅雪入道ばいせつにゅうどうではないか。
「やッ、きゃつめ!」
 こなたにあって、天野刑部あまのぎょうぶ大薙刀おおなぎなたと渡りあっていた木隠龍太郎こがくれりゅうたろうは、奮然ふんぜんと、刑部を一刀のもとってすて、梅雪のあとからどこまでも追いかけた。
 ピシリ、ピシリ、ピシリ! 戒刀かいとうひらむちにして追いとぶこと一ちょう、二町、三町……だんだんと近づいて、すでに敵のすがたをあいさることわずかに十七、八けん
 すると、何者が切ってはなしたのか、梅雪の馬のわき腹へグサと立った一本の矢、いななく声とともに、人もろとも馬はどうと屏風びょうぶだおれとなった。
 行く手の丘に小高いところがあった。そこの松の切株きりかぶの上に立っていたひとりの武芸者ぶげいしゃは、いななく馬の声をきくと、弓を小わきに持ってヒラリと飛びおりてきた。

悪入道あくにゅうどう末路まつろ




 征矢そやにくるった馬の上から、もんどり打っておとされた穴山梅雪あなやまばいせつは、あけにそんだ身を草むらのなかより起すがはやいか、無我夢中むがむちゅうのさまで、道もない雑木帯ぞうきたいへ逃げこんだ。
 しずかなること一しゅん、たちまち、パパパパパパパッ! と地を打ってきた蹄鉄ていてつのひびき、天馬飛空てんばひくうのような勢いをもって乗りつけてきたのは木隠龍太郎こがくれりゅうたろうである。怨敵おんてき梅雪が道なきしげみへげこんだと見るや、ヒラリと黒鹿毛くろかげを乗りすてて右手めてなる戒刀かいとうを引ッさげたまま、
卑怯ひきょうなやつ、未練なやつ、一国のあるじともあろうものがはじを知れや、かえせ梅雪! かえせ梅雪!」
 とばわりながら、身をぼっするような熊笹くまざさのなかを追いのぼっていった。
 だが、梅雪のほうはそれに耳をかすどころでなく、いのちが助かりたいの一心で、丘のいただき近くまでよじのぼってくると、不意に目の前へ、さるかむささびか雷鳥らいちょうか、上なる岩のいただきから一そくとびにぱッととびおりてきたものがある。
「あッ」
 おびえきっている梅雪の心は、ふたたびギョッとして立ちすくんだけれど、ふと驚異きょういのものを見なおすとともに、これこそ天来てんらいのすくいか、地獄じごくほとけかとこおどりした。それはたくましい重籐しげどうの弓を小わきに持った若い、そしてりんりんたる武芸者ぶげいしゃであるから。
 梅雪は本能的ほんのうてきにさけんだ。
「おおよいところで! は甲州北郡きたごおり領主りょうしゅ穴山梅雪あなやまばいせつじゃ、いまわしのあとより追いかけてくる裾野すその盗賊とうぞくどもを防いでくれ、この難儀なんぎすくうてくれたら、千ごく二千ごくの旗本にも取り立て得させよう。いいや恩賞は望みしだい!」
「さては遠くから見た目にたがわず、そのほうが穴山梅雪入道か」
「かかる姿をしているからとて疑うな、がその梅雪にちがいないのじゃ、そちが一生の出世しゅっせつるは、いまとせまったわしの危急ききゅうすくってくれることにあるぞ」
「だまれ、やかましいわいッ」わかき武芸者ぶげいしゃは、そのほおぺたをはりつけんばかりにどなりつけて、
「音にひびいた甲州の悪入道。よしやどれほどのたからささげてこようと、なんでなんじらごとき犬侍いぬざむらいのくされ扶持ぶちをうけようか、たいがいこんなことであろうと、なんじ逃足にげあしへ遠矢をたのはかくもうすそれがしなのだ」
「げッ、さてはおのれも」
 絶望、驚愕きょうがく憤怒ふんぬ
 奈落ならくへ突きのめされた梅雪は、あたかも虎穴こけつをのがれんとして、龍淵りゅうえんにおちたような破滅はめつとはなった。もうこのうえはいちかばちか、いのちはただそれ自分をたのむことにあるのみだ。
「うーム。ようもじゃま立てをいたしたな! いたりといえども穴山梅雪あなやまばいせつ、そのッ首をはねとばしてくれよう」
「ハハハハハハ、片腹かたはらいたい臆病者おくびょうものたわごとこそ、あわれあわれ、もうなんじの天命は、ここにつきているのだ、男らしく観念してしまえ」
「エエ、いわしておけば」
 死身しにみの勇をふるいおこした梅雪の手は、かッと、陣刀のつかに鳴って、あなや、皎刀こうとうさやばしッて飛びくること六、七しゃく! オオッとばかり、武芸者ぶげいしゃのまッこうのぞんで斬り下げてきた。
笑止しょうしや、蟷螂とうろうおのだ」
 ニヤリと笑った若き武芸者は、さわぐ気色けしきもなく身をかわして、左手ゆんでに持った弓のつるがヒューッと鳴るほどたたきつけた。
「あッ」と梅雪は二の太刀を狂わせ、熊笹くまざさの根につまずいてよろよろとした。
「老いぼれ」
 すかさずそのえりがみをムズとつかんだ武芸者は、その時ガサガサと丘の下からかけあがってくる木隠龍太郎こがくれりゅうたろう姿すがたをみとめた。
「あいや、それへおいであるのは、武田伊那丸君たけだいなまるぎみのお身内みうちでござらぬか」
「オオ!」
 びっくりして、高き岩頭をふりあおいだ龍太郎は、見なれぬ武芸者ぶげいしゃのことばをあやしみながら、
「いかにも、伊那丸さまのお傅人もりびと、木隠龍太郎という者でござるが、もしや、貴殿きでんは、このなかへ逃げこんだ血まみれなる法師武者ほうしむしゃのすがたをお見かけではなかったか」
「その入道なれば、わざわざこれまでお登りなさるまでもないこと」
「や! では、そこにおさえているやつが?」
「オオ、山県蔦之助やまがたつたのすけが伊那丸君へ、初見参ういげんざんのごあいさつがわりに、ただいまそれへおとどけもうすでござろう」
 いうかと思えば、若き武芸者――それはかの近江おうみの住人山県蔦之助――カラリと左手の弓を投げすてて、梅雪入道ばいせつにゅうどうの体に双手もろてをかけ、なんの苦もなくゆらッとばかり目の上にさしあげて、
「それ、お受けあれや龍太郎どの!」声と一しょに梅雪の体を、おかの下へ、投げとばしてきた。


 スポーンと紅葉こうようしげりへおちた梅雪ばいせつのからだは、※(「毬」の「求」に代えて「鞠のつくり」、第4水準2-78-13)まりのごとくころがりだして、土とともに、ゴロゴロと熊笹くまざさがけをころがってきた。龍太郎りゅうたろうは、心得たりと引ッつかんで、さらに上なる人をあおぎながら、
山県蔦之助やまがたつたのすけどのとやら、まことにかたじけのうござった。そもいかなるお人かぞんじませぬが、おことばに甘えて初見参ういげんざんのお引出ひきでもの、たしかにちょうだいつかまつった。おれい伊那丸いなまるさまのご前にまいったうえにて」
拙者せっしゃもすぐあとよりつづきますゆえ、なにぶん、君へのお引合わせを」
委細承知いさいしょうち、はや、まいられい!」
 ヘトヘトになった梅雪を小わきにかかえた龍太郎は、さっき乗りすててきたこまのところへと、いっさんにかけおりていった。
 と、同時に、上からも身軽みがるにヒラリヒラリと飛びおりてきた蔦之助。
 龍太郎は、黒鹿毛くろかげにまたがって、鞍壺くらつぼのわきへ、梅雪をひッつるし、一鞭ひとむちくれて走りだすと、山県蔦之助も、おくれじものと、つづいていく。
 一ぽう、白旗しらはたみやの前では、穴山あなやま郎党ろうどうたちは、すでにひとりとして影を見せなかった。そこには凱歌がいかをあげた忍剣にんけん小文治こぶんじ民部みんぶ咲耶子さくやこなどが、あらためて、伊那丸を宮の階段かいだんに腰かけさせ、無事をよろこんでほッと一息ついていた。人々のすがたはみな、紅葉もみじびたように、点々の血汐ちしおめていた。勇壮といわんか凄美せいびといわんか、あらわすべきことばもない。
 なかでも忍剣にんけんは、疲れたさまもなく、なお、綽々しゃくしゃくたる余裕よゆう禅杖ぜんじょうに見せながら、
武者はどうでもよいが、とうの敵たる穴山入道あなやまにゅうどうちもらしたのは、かえすがえすもざんねんであった。いったいきゃつはどこにうせたか」
「たしかにここで拙者せっしゃが一太刀くれたと思いましたが」
 と小幡民部こばたみんぶも、無念むねんなていに見えたけれど、伊那丸いなまるはあえて、もとめよともいわず、かえって、みなが気のつかぬところに注意をあたえた。
「それはとにかく龍太郎りゅうたろうのすがたが、このなかに見えぬようであるが、どこぞで、傷手いたででもうけているのではあるまいか」
「お、いかにも龍太郎どのが見えぬ」
 一同は入りみだれて、にわかにあたりをたずねだした。すると、咲耶子さくやこは耳ざとくこまひづめを聞きつけて、
「みなさまみなさま。あなたからくるおかたこそ龍太郎さまにそういござりませぬ。オオ、なにやらくらわきにひッつるして、みるみるうちにこれへまいります」
「や! ひッさげたるは、たしかに人」
穴山梅雪あなやまばいせつ?」
「オオ、梅雪をつるしてきた」
龍太郎りゅうたろうどの手柄てがらじゃ、でかしたり、さすがは木隠こがくれ
 口々にさけびながらかれのすがたを迎えさわぐなかにも、忍剣にんけんは、ほとんど児童わらべのように狂喜きょうきして、あおぐように手をふりながらおどりあがっている――と見るまに、それにもどってきた龍太郎は、どんと一同のなかへ梅雪ばいせつをほうりやって、手綱たづなさばきもあざやかにくらの上から飛びおりた。
「それッ」
 待ちかまえていた一同の腕は、せずして、梅雪のからだにのびる。いまはいやもおうもあらばこそ、みにくい姿をズルズルと伊那丸いなまるのまえへ引きだされてきた。
 民部みんぶは、そのえりがみをつかんで、
「入道ッ、おもてをあげろ」と、いった。
「むウ……ム、残念だッ」
 穴山梅雪あなやまばいせつ眉間みけん一太刀ひとたち割られているうえに、ここまでのあいだに、いくどとなく投げられたり鞍壺くらつぼにひッつるされたりしてきたので、この世の者とも見えぬ顔色になっていた。


「まて民部、手荒てあらなことをいたすまい」
 もっともうらみ多きはずの伊那丸が、意外にもこういったので、民部も忍剣も、意外な顔をした。
 伊那丸いなまるはしずかに、階段かいだんからおりて、梅雪入道ばいせつにゅうどうの手をとり、宮の板縁いたえんへ迎えあげて、礼儀ただしてこういった。
「いかに梅雪、いまこそ迷夢めいむがさめたであろう、わしのような少年ですら、甲斐源氏かいげんじおこさんものと、ひたすら心をくだいているのに、いかにとはいえ、二十四将の一人に数えられ、武田家たけだけ血統ちすじでもある其許そこもとが、あかざる慾のためにこのみにくき末路まつろはなにごと。それでも甲州武士こうしゅうぶしかと思えば情けなさに涙がこぼれる。いざ! このうえはいさぎよく自害して、せめて最期さいごを清うし、末代まつだい未練みれんの名を残さぬようにいたすがよい」
「ええうるさいッ」梅雪はもの狂わしげに首をふって、――「自害じがいせいとぬかすか、バカなことを!」
「なんと、もがこうが、すでに天運のつきたるいま、のがれることはなるまいが」
「なろうとなるまいと、なんじらの知ったことか。こりゃ伊那丸、えんからいえば汝の父勝頼かつより従弟いとこ、年からいっても長上めうえにあたるこの梅雪に、やいばを向ける気か、それこそ人倫じんりんの大罪じゃぞ」
「それゆえにこそこのとおり、礼をただして迎え、自害をすすめ、本分をとげさせんといたすものを、さりとは未練みれんなことば」
「いや、もう聞く耳もたぬ」
「では、どうあっても自害せぬか」
「いうまでもない。余はなんじらのめいによって、死ぬわけがない。死ぬるのはいやだ!」
「アア、すくいがたき卑劣者ひれつもの――」
 伊那丸いなまるは空をあおいで長嘆ちょうたんしてのち、
「このうえはぜひもない……」とつぶやくのを聞いた梅雪ばいせつは、伊那丸の命令がくだらぬうち、さきをこして、やにわによろいどおしをひき抜き、
わっぱッ! 冥途めいどの道づれにしてくれる」
 猛然もうぜんとおどりかかッて、伊那丸の胸板むないたへ突いていったが、ヒラリとかわして凛々りんりんたる一かつもと
「悪魔ッ」
 パッと足もとをはらうと見るまに、五体をうかされた梅雪は、板縁いたえんの上からをえがいて下へ落とされた。
人非人にんぴにん、斬ってしまえッ!」伊那丸の命令一下に、
「はッ」
 声におうじてくりだした巽小文治たつみこぶんじ朱柄あかえやり、梅雪の体が地にもつかぬうちにサッと突きあげ、ブーンと一ふりふってたたき落とした。そこをまた木隠龍太郎こがくれりゅうたろうの一刀に、梅雪の首は、ゴロリと前に落ちた。
「それでよし、死骸しがいは湖水の底へ」
 板縁に立って、伊那丸はしずかに目をふさいでいう。
 折から山県蔦之助やまがたつたのすけもかけつけた。あらためて伊那丸いなまるこころざしをのべ、一同にも引きあわされて、一とうのうちへ加わることになった。
 ポツリ、ポツリ、大粒おおつぶの雨がこぼれてきた。空をあおげば団々だんだんのちぎれ雲が、南へ南へとおそろしいはやさで飛び、たちまち、灰色の湖水がピカリッ、ピカリッと走ってまわる稲妻いなずまのかげ。
 濛々もうもうたる白いまくが、はるか裾野すそのの一かくから近づいてくるなと見るまに、だんだんにを消し、ながきなぎさを消し、湖水を消して、はや目の前まできた。と思う間もあらせず、ザザザザザザザアーッとぼんをくつがえすという、文字どおりな大雨おおあめ襲来しゅうらい
 めでたく穴山梅雪あなやまばいせつちとりはしたが、離散りさんして以来のつもる話もあるし、これからさきのそうだんもある折から、爽快そうかいなる大雨たいうの襲来は、ちょうどいい雨宿あまやどりであろうと、一同は、白旗しらはたみやのあれたる拝殿はいでんに入り、そして伊那丸いなまるを中心に、しばらく四方よもの物語にふけっていた。

自然城しぜんじょう小太郎山こたろうざん




 武州ぶしゅう高尾たかおみねから、京は鞍馬山くらまやま僧正谷そうじょうがたにまで、たッた半日でとんでかえったおもしろい旅のあじを、竹童ちくどうはとても忘れることができない。
 果心居士かしんこじのまえに、首尾しゅびよくすましたお使いの復命ふくめいをしたのち、その晩、寝床ねどこにはいったけれども、からだはフワフワ雲の上を飛んでいるような心地、目には、琵琶湖びわこだの伊吹山いぶきやまだの東海道の松並木まつなみきなどがグルグル廻って見えてきて、いくらようとしても寝られればこそ。
「アアおもしろかったなア、あんな気持のいい思いをしたのは生まれてはじめてだ。お師匠ししょうさまは意地悪だから、なかなか飛走のじゅつなんか教えてくれないけれど、おいらにクロという飛行自在じざいな友だちができたから、もう飛走の術なんかいらないや。それにしても今夜はクロはどうしているだろう……天狗てんぐ腰掛松こしかけまつにつないできたんだけれど、あそこでおとなしく寝ているかしら、きっとおいらの顔を見たがっていてるだろうナ。アアもう一ど、クロのなかへ乗ってどこかへ遊びにゆきたい……」
竹童ちくどう竹童」となりの部屋へやで果心居士の声がする。
「ハイ」
「ハイじゃあない、なにをこの夜中にブツブツ寝言ねごとをいっている。なぜ早く寝ないか」
「ハイ」
 竹童はそらいびきをかきだしたが、心はなかなか休まらないで、いよいよ頭脳明晰ずのうめいせきになるばかりだ。
「ハハア、竹童のやつめ、わしの背なかで旅をしたあじをしめて、なにか心にたくらみおるな。よしよし明日あすはひとつなにかでこらしておいてやろう」
 いながらにして百里の先をも見とおす果心居士かしんこじの遠知のじゅつ、となりの部屋へやに寝ている竹童ちくどうのはらを読むぐらいなことはなんでもない。
 とも知らず、夜が明けるか明けないうちに、かめのようにムックリ寝床から首をもたげだした竹童、
「しめた! お師匠ししょうさまはあのとおりないびき、いくらなんでも寝ているうちのことは気がつくまい。どれ、今のうちにおいらの羽をのばしてこようか」
 ほそっこいおびをチョコンとむすび、例の棒切ぼうきれを腰にさして、ゆうべ食べのこした団子だんごをムシャムシャほおばりながら、さるのごとく荘園そうえんをぬけだした。
 そのはやいことは、さながら風!
 空にはまだ有明けの月があった。あっちこっちの岩穴いわあなからムクムクと白いものをいている、あさきりである。竹童のあわい影が平地へいちからがけへ、がけから岩へ、岩から渓流けいりゅうへと走っていくほどに、足音におどろかされたおおかみうさぎ、山鳥などが、かれの足もとからツイツイと右往左往うおうざおうに逃げまわる。
 いつもの竹童ならば、こんな場合、すぐ狼を手捕りにする、兎を渓流のなかへほうりこむ。とてもいたずらをして道草するのだが、きょうはどうしてそれどころではない。なにしろこれからお師匠ししょうさまの朝飯となるまでに、日本国じゅうの半分もまわってこようという勢いなのだから。
「やアどうしたんだろう、いない! いない!」
 やがて、こぶみねのてッぺんにある、天狗てんぐ腰掛松こしかけまつの下にたった竹童ちくどうは、頓狂とんきょうな声をだしてキョロキョロあたりを見まわしていた。
「おかしいな、きのうかえってから、この松の木の根ッこへあんな太いなわでしばっておいたのに、どこへとんでッちゃったのだろう」
 がっかりして、しばらくあっちこっちをうろうろした竹童は、とうとう目から大粒おおつぶなみだをポロリポロリとこぼしながら、あかつきの空にむかって声いッぱい!
「クロクロクロクロ。クロクロクロクロクロ」
 それでも影を見せてこないので、かれはグンニャリとなり、天狗の腰掛松へよりかかってしまったが、ふとこのあいだ居士こじ扇子せんすをなげてわしを呼びよせた幻術げんじゅつをおもいだし、
「よし、おいらもあの術をまねしてみよう」
 竹童はもう目の色かえて一心である。呪文じゅもんはわからないが、腰の棒切れをぬき、一念こめて、エエイッと気合きあいを入れて虚空こくうへ投げる。
 棒はツツツと空へ直線をえがいてあがった。
「やア、奇妙きみょう奇妙」竹童はうれしさのあまり、手をたたき、踊りをおどって狂喜した。
 と見る、谷をへだてたあなたから、とんでくるのはクロではないか、あいたにを、わずか二つ三つの羽ばたきでさっとくるなり、投げあげられた棒切れを、パクリとくわえて、かれのそばまで降りてきた。竹童ちくどう有頂天うちょうてんとなったのもむりではない。


 まもなく、かれはゆうべの夢を実行して、京から大阪おおさか、大阪から奈良ならの空へと遊びまわっている。町も村も橋も河も、まるで箱庭はこにわのような下界げかいの地面がみるみるながれめぐってゆく。そのあげくに、ふと思いついたのは、おととい忍剣にんけんのいったことばである。
「オオそうだ、なんでもきょうあたりは、富士ふじ裾野すそのに大そうどうがあるはずだ。おいらはまだ生まれてからたたかいというものをみたことがない。これから一つ裾野までとんでいって、勇ましいところを空から見物してやろう」
 つねづね、果心居士かしんこじからよくお叱言こごとばかりいただいているくせに、竹童はもう鞍馬山くらまやまへ帰るのもわすれて、こんな大望たいもうをおこした。思いたっては、たてもたまらないかれだった。すぐその足で、富士の姿すがたを目あてにわしをとばした。いかなる名馬で地を飛ぶよりも、こうして空中を自由に飛行する快味は、まるでじぶんがじぶんでなく、生きながら、神か仙人せんにんになったような愉快ゆかいさである。――だが、ここまできたときとちがって、鷲はそれから先一向いっこう竹童の自由にならない。富士の裾野とは方角ほうがくちがいな、北へ北へと向かって、勝手に雲をぬってとぶ。
「やい、クロ。そんなほうへいくんじゃない、こらッ、こらッ、こらッ!」
 竹童はあわてて、いくどもいくども、方向をかえようとしたが、さらにききめがなく、地上へもどらんとしても、いつものようにスラスラとりてもくれない。ああいったいこれはどうしたことだ。
「チェーッ、畜生ちくしょう、畜生、畜生」
 かれはクロの上でかんしゃくをおこし、じれだし、最後にベソをかきだした。
 そもそも今日きょう竹童ちくどうにとっていかなる悪日あくびか、ベソをかくことばかり突発する日だ。しかし、そう気がついてももうおそい、いくら泣いてもわめいても、わしに一身をたくして雲井の高きにある以上、クロのつばさがつかれて、しぜんに大地へ降りるのをまつよりほかはない。それはまだよかったが、泣きつらはち、つづいておそるべき第二の大難が起ってきた。
 すでに今朝から陰険いんけんそうをあらわしていた空は、この時になって、いっそうわるい気流となり、雷鳴らいめいとともに密雲のそうはだんだんとあつくなって、呼吸いきづまるような水粒すいりゅう疾風しっぷうが、たえず、さっさっとぶっつかってきた。
 そして、わしが雲より低くいくときは、滝のごとき雨が竹童の頭からザッザとあたり、上層じょうそうの雲にはいるときは白濛々はくもうもう夢幻界むげんかいにまよい、かみの毛もつめの先も、氷となって折れるような冷寒れいかんをかんじる。しかも、クロはこの難行苦行なんぎょうくぎょうにもくっする色なく、なおとぶことは稲妻いなずまよりもはやい。
 すると漠々ばくばくたる雲の海から、黒い山脈の背骨せぼねもっこりと見えだした。竹童はどうにかして、ここから降りようと苦策くさくを案じ、いきなり手をのばしてわしの両眼をふさいでしまった。
 人間でも目をふさいでは歩けないから、こうしてやったらきっとまるだろうという、竹童ちくどう必死ひっし名案めいあん、はたせるかなわしもおどろいたさまで、糸目のくるったたこのようにクルクルッとめぐりまわりだした。かれの計略けいりゃくにあたって急に元気よく、
「もうこっちのものだぞ、しめた、しめた」
 とよろこんだが、あわれそれもつか
 たちまち鳴りはためいたいかずちが、かれの耳もとをつんざいた一せつな、下界げかいにあっては、ほとんどそうぞうもつかないような朱電しゅでんが、ピカッピカッと、まつげのさきを交錯こうさくしたかと思うまもあらばこそ。
「あッ」
 といった竹童のからだは、おそるべき稲妻いなずま震力しんりょくにあって、鷲の背なかからひッちぎられた、そしてまッさかさまとなって、いずことも知れぬ下へ一直線におちていくなと見るに――追いすがった鷲のくちばしは、いきなりパクリと竹童のおびをくわえ、わら小魚こうおでもさらっていくように、そのまま、模糊もことした深岳しんがくの一かくへ、ななめさがりにかけりだした。


「アいた、アイタタタッ……」
 びっこをひきながら、草むらよりころげだしたのは竹童ちくどうである。地上二、三十しゃくのところまできて、ふいにわしくちばしからはなされたのだ。
 これが尋常じんじょうの者なら、悩乱悶絶のうらんもんぜつはむろんのこと、地に着かぬうちに死んでいるべきだが、山気さんきをうけた一種の奇童きどう三歳児みつごのときから果心居士かしんこじにそだてられて、初歩の幻術げんじゅつ浮体ふたい秘法ひほうぐらいは、多少心得ている竹童なればこそ、五体の骨をくだかなかった。
「オオいたい。クロの野郎やろうめ、おいらがあんなにかあいがってやるのに、よくも恩人をこんな目にあわせやがッたな、アアいたいたいた畜生ちくしょう畜生、どうするか覚えていろ!」
 腰骨をさすりながら、ふと後ろをふりかえって見ると、なんとにくいやつ、すぐじぶんのそばに、すました顔で、つばさをやすめているではないか。
「けッ、しゃくにさわる!」
 竹童はいきなりおび棒切ぼうきれをひッこき、クロをねらってピュッと打ってかかる。と、鷲も猛鳥の本性ほんしょうをあらわして、ギャッとばかり、竹童の頭から一つかみとつめをさかだってきた。
「こいつめッ、生意気なまいきにおいらにむかってくる気だな」
 とかんしゃくすじを立てた勢いで、ブーンと棒を横なぐりにはらいとばすと、こはいかに、鷲の片足が、ムンズとのびて竹童の胸をつかみ、
「これ竹童、なにが生意気なのじゃ」とにらみつけた。
「あッ、あなたはお師匠ししょうさま?」
 さらぬだに目玉の大きい竹童ちくどうが、ひとみをみはってあきれ返った。なんと、わしとおもって打っていたのは、鞍馬くらまにおるはずのお師匠ししょうさま、果心居士かしんこじではないか。
 ふしぎ、ふしぎ。かれは天空から落ちたときよりぎょうてんして、からだを石のようにこわくさせ、口もきけず、逃げもできず、ややしばらくというもの、そこにモジモジとしていたが、ガラリと棒切ぼうきれをすてて、地べたへひたいをすりつけてしまった。
「お師匠さま。わたしがわるうござりました。どうぞごかんべんあそばしくださいまし」
「びっくりしたか、どうじゃ悪いことはできないものであろう」
 居士は、ニヤリと笑って、足もとの岩へ腰をおろした。
「まったくこんなきもをつぶしたことはございません。これからけっしてお師匠さまにむだんで遠くへまいりませんから、どうかおゆるしくださいまし」
「よしよし、仕置しおきはさんざんすんでいるのじゃから、もうこのうえのこごとはいうまい」
「エ、じゃアとんでくるうちに、あんな目にあわしたのもお師匠さまでしたか。エ、お師匠さま。どうして人間が鷲になんかになってとべるのでしょう?」
「ソレ、ゆるすといえばすぐにまた甘えてくる。さようなことはどうでもよい、おまえにはまた一ついいつけることがある。ほかでもないが、これから富士ふじ人穴ひとあなへいって、そこに住みおる和田呂宋兵衛わだるそんべえというぞくのかしらに会うのじゃ。しかし容易よういなことでは、かれにうたがわれるから、あくまでおまえは子供らしく、いざとなったらかくかくのことをもうしのべろ……」
 と居士こじはあかざのつえをもって、なにかこまごまと書いて示したりささやいたりしてむねをふくませたのち、
「よいか、そこで呂宋兵衛るそんべえが、うまうまとこちらのことばに乗ったとみたら、そくざに、五湖の白旗しらはたみやにおわす、武田伊那丸君たけだいなまるぎみそののかたがたにおしらせするのじゃ、なかなか大役であるからばかにしないでつとめなければなりませんぞ」
「かしこまりました。ですけれどお師匠ししょうさま」
わしがいないというのであろう。いまほんもののクロを呼んでやるから、しばらくそのへんにひかえていなさい」
「ハイ」
 竹童ちくどうはそこでやっと落着いて、あたりの景色けしきを見直した。ところでここはいったいどこの何山だろう?
 いま、さしもの豪雨ごううもやんで、空は瑠璃るりいろにんできたが、眼下ははてしもない雲の海だ。それからおしてもここはかなりの高地にちがいないが、この山そのものがあたかも天然てんねんの一城廓じょうかくをなして、どこかに人工のあとがある。
 すると、コーン、コーン、コーンと深いところで石でも切るような音。と思えば、ザザザザーッと谷をけずるようなひびきもしてきた。竹童はこの深山にみょうだなと思いながら、なにごころなくながめまわしてくると、天斧てんぷ石門せきもん蜿々えんえんとながきさく、谷には桟橋さんばし駕籠渡かごわたし、話にきいたしょく桟道さんどうそのままなところなど、すべてはこれ、稀代きたい築城法ちくじょうほう人工じんこうを加味した天嶮無双てんけんむそう自然城しぜんじょうだ。
「これはすてきもないところだナ、いったいなんのためにこんなとりでがあるのだろう」
 竹童ちくどうはふしぎな顔をして、もとのところへ帰ってきてみると、いつのまにか、ほんもののクロが居士こじのそばにちゃんとひかえている。
「竹童、早々そうそうしたくをしていかねばならぬ。用意はできているか」
「ハイいつでもかまいません。けれどお師匠ししょうさま、でがけにひとつうかがいたいことがございます」
「そんなことをいってるまに時刻がたつ」
「いいえ、たった一言ひとこと、いったいここはどこの何山で、だれのもっているとりででございましょうネ」
「おまえなどは知らないでもいいことだが、お使いをする褒美ほうびとして聞かしてやろう。ここは甲斐かい信濃しなの駿河するがさかい、山の名は小太郎山こたろうざん
「え、小太郎山」
「砦にこもる御方おんかたはすなわち武田伊那丸たけだいなまるさまだ」
「えッ、ここがあの小太郎山で、伊那丸さまの立てこもる根城ねじろとなるのでございますか」
 ふかいわけはわからないが、竹童ちくどうはそう聞いて、なんとなく胸おどり血わいて、じぶんも、甲斐源氏かいげんじの旗上げにくみする一人であるようにいさみたった。

奇童きどう怪賊問答かいぞくもんどう




 富士ふじ裾野すそのに、数千人の野武士のぶしをやしなっていた山大名やまだいみょう根来小角ねごろしょうかくほろびてしまった。しかし、野盗やとうである人穴ひとあな殿堂でんどうはいぜんとして、小角の滅亡後めつぼうごにも、かわっている者があった。すなわち、和田呂宋兵衛わだるそんべえという怪人かいじんである。
 あれほどしたたかな小角が、どうしてほろぼされたかといえば、じぶんの腹心とたのんでいた呂宋兵衛にうらぎられたがため、――つまりいぬに手をかまれたのと同じことだ。
 呂宋兵衛というのは、仲間なかま異名いみょうである。
 かれは、和田門兵衛わだもんべえという、長崎からこの土地へ流れてきた南蛮なんばん混血児あいのこであった。右の腕には十、左の腕には呂宋文字るそんもじのいれずみをしているところから、野武士のぶし仲間なかまでは門兵衛を呂宋兵衛とよびならわしていた。また碧瞳紅毛へきどうこうもう金蜘蛛きんぐものようなこの魁偉かいい容貌ようぼうにも、呂宋兵衛の名のほうがふさわしかった。
 呂宋兵衛は富士の人穴ひとあなへきてから、たちまち小角しょうかく無二むにの者となった。かれの父が、南蛮人なんばんじんのキリシタンであったから、呂宋兵衛もはやくから修道者イルマンとなり、いわゆる、切支丹流キリシタンりゅう幻術げんじゅつをきわめていた。小角はそこを見こんで重用した。
 しかし邪悪じゃあくな呂宋兵衛は、たちまちそれにつけあがって陰謀いんぼうをたくらみ、さくをもって、小角を殺し、配下はいか野武士のぶしを手なずけ、人穴の殿堂でんどうを完全に乗っ取ってしまった。
 小角のひとり娘の咲耶子さくやこは、あやうく父とともに、かれの毒手どくしゅにかかるところだったが、せつえぬ七、八十人の野武士もあって、ともに裾野すそのへかくれた。そしていかなる苦しみをなめても、呂宋兵衛をうちとり、小角のれいをなぐさめなければならぬと、毎日広野こうやへでて、武技ぶぎをねり、陣法の工夫くふう他念たねんがなかった。
 ――その健気けなげ乙女おとめごころを天もあわれんだものか、彼女はゆくりなくも、きょう伊那丸いなまると一とうの人々に落ちあうことができた。
 かつて、伊那丸が人穴の殿堂にとらわれたときに、咲耶子のやさしい手にすくわれたことがある。いや、そんなことがなくっても、思いやりのふかい伊那丸と、侠勇勃々きょうゆうぼつぼつたる一党の勇士たちは、かならずや、咲耶子の味方となることをせぬであろう。
 一ぽう、山大名の呂宋兵衛は裾野すそのへかくれた咲耶子の行動にゆだんせず、毎日十数人の諜者ちょうじゃをはなっている。
 きょうも、途中雷雨にあって、ズブぬれとなりながら野馬のうまをとばして人穴へかえってきた三人の諜者ちょうじゃは、すぐ呂宋兵衛るそんべえのまえへでて、五湖のあたりにおこった急変を注進ちゅうしんした。
「おかしら、一大事でございます」
「なに、一大事だ」
 身はぜいたくをしているが、心にはたえず不安のある呂宋兵衛は、琥珀こはくさかずきを手からおとし、さらに、諜者ちょうじゃのさぐってきたちくいち――伊那丸いなまる咲耶子さくやこのうごきを聞くにおよんで、その顔色はいちだんと恐怖的きょうふてきになった。
「むウ、ではなにか、武田伊那丸のやつらが、穴山梅雪あなやまばいせつちとり、また湖水の底から宝物ほうもつ石櫃いしびつを取りだしたというのか。あのなかの御旗みはた楯無たてなしは、とッくにこっちで入れかえて、売りとばしてしまったからいいようなものの、それと知ったら、伊那丸のやつも咲耶子も、一しょになってここへ押しよせてくることは必定ひつじょうだ。こいつは大敵、ゆだんがならねえ、すぐ手配てくばりして、要所ようしょ要所を厳重げんじゅうにかためろ」
 立ちあがって、わめくようにいいつけた時、石門から取次ぎを受けた野武士のぶしのひとりが、ばらばらと進んできて口ぜわしく、
「おかしらへ申しあげます。ただいま、一の門へ、穴山梅雪の残党ざんとうが二、三十人まいって、ぜひお願いがあるといってきましたが、どうしたものでございましょうか」
「穴山の残党なら、湖畔こはんで伊那丸のために討ちもらされた落武者おちむしゃだろう。こんなときには、少しのやつも味方のはしだ。そのなかからおもだった者だけ二、三人とおしてみろ」
承知しょうちしました」
 とひッ返した手下の者は、やがて、殿堂でんどうの広間へ、ふたりの武士をあんないしてきた。呂宋兵衛るそんべえは上段の席から鷹揚おうようにながめて、
富士浅間ふじせんげん山大名やまだいみょう和田門兵衛わだもんべえは身どもでござるが、おたずねなされたご用のおもむきは?」
「さっそくのご会見、かたじけのうぞんじます。じつは拙者せっしゃは、穴山あなやまの四天王てんのう足助主水正あすけもんどのしょうともうしまする者」
「またそれがしは、佐分利さぶり五郎次でござる、すでにごぞんじであろうが、ざんねんながら、伊那丸与党いなまるよとう奸計かんけいにかかり、主君の梅雪ばいせつたれ、われわれ四天王てんのうのうちたる天野あまの猪子いのこの両名まであえなき最期さいごをとげました」
「そのはいま、手下の者からもくわしくうけたまわった」
「主君のほろびたうえは、甲斐かいへかえるも都へかえるもせんなきこと、追腹おいばらきって相果てようかと思いましたが、それも犬死いぬじに、ことによるべなき残り二、三十人の郎党ろうどうどもがふびんゆえ、それらの者を集めておとずれまいったしだい、どうぞ、われわれ両名をはじめ一同を、この山寨さんさいにおとめおきくださるまいか」
「オオ、それはそれはご心中おさっしもうす、武士は相身あいみたがい、かならずお力になりもうそう」
 呂宋兵衛は、ひそかによろこんだ。
 折もおり、いまのこの場合、二勇士が、場なれた郎党ろうどうを二、三十人も連れて、味方についてくるとはなんたる僥倖ぎょうこう、かれは足助あすけ佐分利さぶりに客分の資格しかくをあたえ、下へもおかずもてなししたうえ、にわかに気強くなって、軍議の開催かいさいをふれだした。
 妖韻よういんのこもったかねがゴーンと鳴りわたると、よろいを着た者、雑服ぞうふくの者、陸続りくぞくとして軍議室にはいってくる。
 そこは四面三十七けん、百二十じょうとうむしろをしき、黒く太やかな円柱えんちゅう左右に十本ずつの大殿堂。一ぽうの中庭からほのかな日光ははいるが、座中陰惨いんさんとしてうす暗く、昼から短檠たんけいをともした赤い光に、ぼうと照らしだされた者は、みなこれ、呂宋兵衛るそんべえの腹心の強者つわものぞろい。
「わらうべし、わらうべし、ちちくさい伊那丸いなまる咲耶子さくやこなどが、烏合うごうの小勢でよせまいろうとて、なにをぎょうぎょうしい軍議などにおよぼうか。拙者せっしゃに二、三百の者をおあずけくださるならば、ただひと押しにけちらしてみせようわ」
 破鐘われがねのような声でいう者がある。
 見れば山寨さんさい第一の膂力りょりょく、熊のごときひげをたくわえている轟又八とどろきまたはちだった。すると一ぽうから、軍謀ぐんぼう第一のきこえある丹羽昌仙にわしょうせんがしかつめらしく、
「おひかえなさいとどろき、敵をあなどることはすでに亡兆ぼうちょうでござるぞ。伊那丸は有名なる信玄しんげんの孫、兵法に精通せいつう、つきしたがう傅人もりびともみな稀代きたいの勇士ときく。すべからくこの天嶮てんけんって、かれのきたるところをさくによって討つが上乗じょうじょう
「やアまた、昌仙しょうせん臆病おくびょう意見、富士の山大名やまだいみょうともある者が、あれしきの者に恐れをなしたといわれては、四りんの国へもの笑い。これよりすぐに、五湖へまいって、からめるこそ、上策じょうさく
「いや小勢とはいいながら、かれはありじんあり勇ある者ども。平野のいくさはあやうし、あやうし」
「くどい、拙者せっしゃはどこまでもってでる」
「だまれとどろき、まだ衆議しゅうぎも決せぬうちに、僭越千万せんえつせんばんな」
 両名の争論につづいて、一とうの意見も二派ふたはにわかれ、座中なんとなく騒然としてきたころ――
 これまた何たる皮肉ひにく! 空から中庭のまん中へ、ズシーンとばかり飛び降りてきた、雷獣らいじゅうのような一個の奇童きどうがある。


「や!」
「あッ」
「なにやつ?」
 あまりのことに一同は、しばらくいた口もふさがらず、ヒョッコリ庭先にたった、面妖めんような子供をみつめるのみ。子供とはいうまでもない竹童ちくどうで、人見知りもせず、ニヤリと白い歯を見せた。
「やア、この人穴ひとあなには、ずいぶんおさむらいが大勢いるんだなあ。おじさんたちは、いったいそこでなにをしているんだい」
「バカッ」
 いきなり革足袋かわたびのままとびおりた轟又八とどろきまたはち竹童ちくどうえりがみをおさえて、
「こらッ、きさまは、どこの炭焼すみやきの餓鬼がきだ、またどこのすきまからこんなところへしのびこんでまいった」
「しのびこんでなんかきやしないよ、アア苦しいや、苦しいよ、おじさん……」
「ふざけたことをぬかせ、しのびこまずにこらるべきところではない」
「だっておいらは空からおりてきたんだもの、空はいきぬけだから、ツイきてしまったんだよ」
「なに、空から? ――」
 人々は思わず、物騒ぶっそうらしい顔を空にむけた。
 そして、再び奇怪なる少年の姿を見なおし、こいつ天狗てんぐ化身けしんではあるまいかと、したをまいた。はるかにながめた、呂宋兵衛るそんべえは、
「これこれ又八またはち、とにかくふしぎなわっぱ、おれが素性すじょうをただしてみるから、これへ引きずってこい」
「はッ」と、又八は、かるがると竹童をひッつるして席へあがり、呂宋兵衛のまえへかれをほうりだした。
 なみいる人々は、鬼のごとき武骨者ぶこつものばかりで、あたりは大伽藍だいがらんのような暗殿あんでんである。大人おとなにせよ、この場合、生きたる心地はなかるべきだが、竹童ちくどうはケロリとして、
「ヤ、呂宋兵衛るそんべえ混血児あいのこだ。京都の南蛮寺なんばんじにいるバテレンとそっくり……」
 口にはださないがめずらしそうに目をみはったので、呂宋兵衛は、
小僧こぞうッ」とにらんで、一かつあびせた。
「なんだい、おいらにゃ、竹童っていう名があるんだよ」
「だまれ、さっするところそのほうは、伊那丸いなまるからはなされた隠密おんみつにちがいない、思うに、屋根の上にいて、ただいまの評定ひょうじょうをぬすみ聞きしたのであろう」
「知らない知らない。おいらそんなことを知ってるもんか」
「いいや、なんじの眼光、樵夫きこり炭焼すみやきの小僧でないことはあきらかだ。いったい何者にたのまれてここへまいった。首の飛ばないうちにいってしまえ!」
「おいらが隠密なら、おじさんたちに、すがたなど見せるものか、おいらは、天道てんとうさまのまえだろうが、どこだろうが、ちっともうしろ暗いところがないから、平気さ」
「うーム、まったくそれにそういないか」
「アア。そこになるとおじさんたちはかわいそうだね、もぐらみたいに明るいところをいばって歩けない商売だから、おいらみたいな、ちびが一ぴきとびこんでも、その通りびくびくする」
 不敵な竹童ちくどうつらがまえを、じッとみつめていた呂宋兵衛るそんべえは、ことばの糺問きゅうもん無益むえきと知って、口をつぐみ、黙然もくねんと右手の人さし指をむけ、天井てんじょうから竹童の頭の上へ線をかいた。
「おや」
 と竹童が、なにやらさわるものに手をやると、上より一すじ絹糸きぬいとのようなものがたれ、えりくびから手にはいまわってきたのは一ぴきの金蜘蛛きんぐもだった。
 キャッというかと思えば、竹童はニッコリ笑っていきなり、蜘蛛をわしづかみにし、あんぐり口のなかへほおばって、ムシャムシャみつぶしてしまったようす。
「む、む……」と、呂宋兵衛はいよいよゆだんのない目で、かれの一きょ一動をみまもっていると、竹童はくちびるをつぼめて、みためていたなかのものを、
「プッ――」と呂宋兵衛の顔を目がけて吹きつけた。
 ――その口からとびだしたのは、きたないかみつぶしではなくて、美しい一毒蝶どくちょう、ヒラヒラと毒粉どくふんを散らした。
「エイッ」
 呂宋兵衛がおうぎをもって打ちおとせば、ちょう死骸しがいはまえからそこにあった一ぺんの白紙に返っている。
「わかった、きさまは鞍馬山くらまやま果心居士かしんこじ弟子でしだな」
「だから、竹童という名があるといったじゃないか」
「さてこそ、ものにおどろかぬはず、しかし有名なる果心居士かしんこじ弟子でしが、富士ふじ殿堂でんどうと知らずに、くるわけがない、なんのご用か、あらためて聞こうではないか」
「ムム、そう尋常じんじょうにおっしゃるなら、わたくしもお師匠ししょうさまから受けたお使いのしだいをすなおに話しましょう」
「では、果心先生から、この呂宋兵衛るそんべえへのお使いでござるか」
「そうです。さて、お師匠さまのお伝えというのは、きょうなにげなく鞍馬くらまから富士のあたりをみましたところ、いちまつの殺気さっきが立ちのぼって、ただならぬ戦雲のきざしが歴々れきれきとござりました。あらふしぎ、いま天下信長公のぶながこうきのちは、西に秀吉ひでよし、東に徳川とくがわ北条ほうじょう北国ほっこく柴田しばた滝川たきがわ佐々さっさ、前田のともがらあって、たがいに、中原ちゅうげんねらうといえども、いずれもまんしてはなたぬ今日こんにち、そも何者がうごくのであろうかと、ご承知しょうちでもござりましょうが、先生、ご秘蔵ひぞう亀卜きぼくをカラリと投げてうらなわれました」
「オオ」
 呂宋兵衛はもとより、なみいる猛者もさどもも、この奇童きどうのよどみなきべんによわされてしわぶきすらたてず、ひろき殿堂は、人なきようにシーンと静まりかえってしまった。


 竹童ちくどうは、ここでいささか得意気とくいげに、ちいさな体をちょこなんとかしこまらせ、両肱りょうひじをはって、ことばをつぐ。
「お師匠ししょうさまがつらつら亀卜きぼく卦面かめんを案じまするに、すなわち、――富岳フガク鳳雛ホウスウマレ、五狂風キョウフウショウジ、喬木キョウボクアクツミイダイテライカル――とござりましたそうです」
「なになに? 喬木きょうぼくらいかるとえきにでたか」
 呂宋兵衛るそんべえの顔色土のごとく変るのを見て、竹童ちくどうは手をふりながら、
「おどろいてはいけません、それは穴山梅雪あなやまばいせつの身の上でした。ところで、うらをかえして見ますると、つまり裏の参伍綜錯さんごそうさくして六十四変化へんかをあらわします。これによって結果を考えましたところ、今夕こんせきとり下刻げこくからの刻のあいだに、昼よりましたおそろしい大血戦が裾野すそののどこかで起るということがわかりました」
「むウ、それはあたっていた。して、勝負の結果は」
「さればでござります。にわかにわたくしがわしにのってまいったのもそのため、残念ながらあなたのいのちは、こよいいぬいの星がおつるとともに、きかずに入り、腹心のかたがたもなかば以上は、あえない最期さいごをとげることとなるそうでござります。これを、層雲そううんくずれの凶兆きょうちょうともうしまして、暦数れきすうの運命、ぜひないことだと、お師匠さまも吐息といきをおもらしなさいました」
「えッ、なんといった。しからば呂宋兵衛のいのちは、こよいかぎり腹心のものも大半はほろぶとな?」
「そうおっしゃったことはおっしゃいましたが、ここに一つ、たすかる秘法ひほうがあるのです。お師匠ししょうさまは、わたくしにその秘法ひほうをさずけ、あなたに会って、あることと交換こうかんにして教えてこい、だが、呂宋兵衛るそんべえはずるいやつゆえ、もしも、こっちできくことをちゃんと答えなかったら、なんにもいわずに逃げてこい――といいつかってまいりました」
「待てまて、たずねることがあらば、なんでも答えるほどに、その層雲そううんくずれの凶兆きょうちょうふうじる秘法をおしえてくれ」
「ですから、まずわたくしのほうのたずねることからお答えくださいまし」
「よし、なんでも問うてみるがいい」
「ではおききもうします」
 と、竹童ちくどうはやおらひとひざのりだし、
「湖水のそこに沈めてありました石櫃いしびつをあげて、なかにあった御旗みはた楯無たてなし宝物ほうもつをすりかえたのはたしかにあなた――これはお師匠さまも遠知のじゅつでわかっております。されどその宝物を、あなたはだれにわたしましたか、または、この山寨さんさいのうちにあるのですか。ききたいのはつまりそのこと一つです」
 呂宋兵衛は、心中すくなからずおどろいた。果心居士かしんこじといえば、京で有名な奇道士きどうしだが、まさか、これまでに自分のしたことを知っていようとは思わなかった。それほどの道士なれば、竹童のことばもほんとうにそういないだろうし、ひそかに湖水からすりかえてうばった宝物は、いまでは手もとにないのだから打ち明けたところで、こっちに損得そんとくはない――と思った。
「そんなことならたやすいこと、いかにもあきらかに答えてやろう。だが……」
 と呂宋兵衛るそんべえ武士さむらいだまりの者へ、チラとめくばせをすると、バラバラと立ちあがったふたりのあらくれ武士が、いきなりムンズと竹童ちくどうの左右から両腕りょううでをねじ押さえた。
「ア、おじさんたちはおいらをどうするんだい!」
「いやおこるな、竹童。こっちのいうことだけ聞いて逃げられぬ用心。そうしていても耳はきこえようからよく聞けよ。御旗みはた楯無たてなし宝物ほうもつは、ここにいるとどろき又八に京へ持たせて、いまはぶりも金まわりもよい羽柴秀吉はしばひでよし金子きんすがんで売りとばした。それゆえ、いまの持主もちぬし秀吉ひでよし、この山寨さんさいには置いてない。さ、このうえは果心かしん先生からおさずけの秘法ひほうをうけたまわろう」
「たしかにわかりました。では先生の秘法ひほうをおさずけもうします。そもそも層雲そううんくずれの大難だいなんは、どんな名将でものがれることのできぬものでござりますが、その難をさけるには、まず夜のとりからのあいだに、四里四方けがれのない平野へでて、ふだんのまもり神をおがみ、だんをきずいて霊峰れいほうの水をささげます。――次に、おのれの生年月日をしたためて、人形にんぎょうの紙をみ神光あかしで焼くこと七たび、かくして、十ぽう満天まんてんの星をいのりますれば、兇難きょうなんたちどころに吉兆きっちょうをあらわして、どんな大敵にいましょうとも、けっしておくれをとるということがありません」
 呂宋兵衛は、怪力かいりきもあり幻術げんじゅつにもちょうじているが、異邦人いほうじんの血のまじっている証拠しょうこには、戦いというものに対して、すこぶる考えがちがう。それに修道者イルマンでもあっただけに、迷信めいしんにとらわれやすかった。
 つまりかれがもっているいちばんの弱点に、うまうまとじょうじられた呂宋兵衛るそんべえは、まったく竹童ちくどうげん惑酔わくすいして穴山あなやま残党ざんとうがなんといおうと、とどろき昌仙しょうせんのやからがうたがわしげに反省をもとめても、がんとしてきかず、秘法の星まつりを行うべく、手下の野武士のぶし厳命げんめいした。
 ために、軍議はしぜんと、夜に入って四里四方けがれなき平野に、その式をすましたうえ、出陣ときまってしまった。
 その用意のものものしいさわぎのなかで、有卦うけっていたのは竹童ちくどうだ。別間べつまでたくさんな馳走ちそうをされ、鞍馬くらまでは食べつけない珍味の数々を、はしあごのつづくかぎりたらふくつめこみ、さて、例の棒切ぼうきれ一本さげて、飄然ひょうぜんとここをしてかえる。
 さしも、はげしかった昼の雷雨に、乱雲のかげは、落日とともにみぬいていた。西の甲武こうぶ連山はあかねにそまり、東相豆そうずの海は無限の紺碧こんぺきをなして、天地はくれないこんと、光明とうすやみの二色に分けられ、そのさかいに巍然ぎぜんとそびえているのは、富士ふじ白妙しろたえ
 ――すると、この夕方を、人穴ひとあなから上へ上へとはいあがっていく豆つぶ大の人影が見えた。それはどうも竹童らしい。見るまに、二ごうの下あたりからわしにのって、おともなく五のほうへとび去った。

銀河ぎんがづくり




 富士の二ごうをはなれ、いっきに、五湖の水明かりをのぞんで飛行していた竹童ちくどうは、夜の空から小手こてをかざして、しきりに、下界げかいにある伊那丸主従いなまるしゅじゅうのいどころをさがしている。
「オオ暗い、暗い、暗い。天もまッ暗、地もまッ暗。これじゃいったいどこへりていいんだか、お月さまでもでてくれなきゃア、けんとうがつきあしない」
 大空で迷子星まいごぼしになった竹童は、例の、寝るまもはなさぬ棒切ぼうきれを右手めてにもち、左の手を目のはたへかざして、わしの上から、
「オオーイ、オオーイ」と、とうとう声をはりあげて呼びだした。
 しかし、竹童の声ぐらいは、竹童じしんが乗っている鷲の羽風はかぜしとばされてしまった。そのかわり、人ではないが、はるかな地上にあたって、馬のいななくのが高く聞えた。
「おや、馬のやつが返辞へんじをしたぞ」
 と、つぶやいたが、その竹童のかんがえはちがっている。動物は動物にたいして敏感であるから、いま、下のほうでいなないた馬は、ここにさしかかってきた闇夜あんや飛行の怪物の影に、おどろいたものにそういない。
 けれど竹童ちくどうは、馬が答えたものと信じて、いきなり、棒切れをピューッと下へふった。と、クロはたちまち身をさかしまにして、ツツツツ――とおとしにりていく。
「あ、ここはどこかのお宮の庭だな……」
 わしからおりて、しばらくそのあたりをあるいていた竹童は、やがて、拝殿はいでんからもれるほのあかりをみとめ、そッとしのびよってみると、たしかに六、七人のささやき声がする。
「いた!」かれは思わず叫んで、
「おじさん! おじさんたち」
 呼ぶ声と一しょに、拝殿のなかにいた者は、どやどやと、それへでてきて、七つの人影をあらわした。
「何者じゃッ」と竹童をねめつけた。
「おいらだよ、鞍馬山くらまやまの竹童だよ」
「おお、竹童か」
 ほとんど、そのなかの半分以上の者が、口をあわしてこういった。木隠龍太郎こがくれりゅうたろうも、忍剣にんけんも、民部みんぶ蔦之助つたのすけ小文治こぶんじも竹童にとればみな友だちだ。
 ただ、床几しょうぎにかけて、かれを見おろしていた伊那丸いなまるだけが、すこしせないようすである。
龍太郎りゅうたろう。そちたちはこのわらべをよう知っているようじゃが、いったいどこのものであるの」
「さきほどお話しもうしあげました、果心居士かしんこじ童弟子わらべでしでござります」
「おおあれか」
 伊那丸はニッコリして竹童ちくどうを見なおした。竹童もニヤリと笑って、ともするとなれなれしく、じぶんの友だちにしてしまいそうだ。
「これ竹童、伊那丸君いなまるぎみのおんまえ、つッ立っていてはならぬ、すわれすわれ」
「いや、そうしからぬがよい、鞍馬くらまおくでそだった者じゃ、その天真爛漫てんしんらんまんがかえって美しい。したが、おまえはここへ、何用があってきたのか」
「はい」竹童はかしこまって、
「お師匠ししょうさまのおいいつけでござります」
「なに、果心かしん先生からここへお使いに?」
「さようでござります。みなさまは、きょう穴山梅雪あなやまばいせつをおちになって、さだめしホッとなされたでござりましょうが、勝ってかぶとをしめよ、ここでごゆだんをなされては大へんでござります」
「む、伊那丸はけっしてゆだんはしておらぬぞよ」
「では、湖水の底から引きあげた石櫃いしびつふたをとって、なかをあらためてごらんになりましたか」
「いや、ほかのところへかくしたものとちがって、湖底へ沈めておいた石櫃、あらためるまでもない」
「ところが、お師匠ししょうさまの遠知の術では、どうも、石櫃のなかの宝物ほうもつにうたがいがあるとおっしゃいました。それゆえ、にわかにお師匠さまにいいふくめられて、この竹童ちくどうが、わしつばさのつづくかぎり、とびまわったのでござります。どうぞみなさま、いっこくもはやく、石櫃をおあらためくださいまし」
「さては、それが伊那丸いなまるのゆだんであったかもしれぬ。忍剣にんけん、忍剣、ともあれ石櫃をここへ。また、小文治こぶんじと龍太郎は、あるかぎりのかがり火をあたりにたき立ててください」
「はッ」
 席を立った者たちが三つあしのかがり火を、左右五、六ヵ所へ炎々えんえんと燃したてるまに、忍剣は、さきに梅雪ばいせつ郎党ろうどうたちが、湖底から引きあげておいた石櫃をかかえてきて、やおら、伊那丸のまえにすえた。
「こう見たところでは、ふた合口あいくち異状いじょうはないが」
青苔あおごけがいちめんについているさまともうし、一ども人の手にふれたらしい点はみえませぬ」
「とにかく、ふたをはらってみい」
心得こころえました」
 と忍剣にんけんは立ちあがって、グイと法衣ころもそでをたくしあげ厳重な石のふたをポンとはねのけてみた。


「や、やッ」まず忍剣がきもをつぶした。
「どういたした。なんぞ変りがあったか」
 伊那丸いなまるもおもわず床几しょうぎから腰をうかした。
「ちぇっ。これごらんなさりませ」
 と、くやしそうに忍剣が石櫃を引っくりかえすと、なかからごろごろところがりだしたのは、御旗みはた楯無たてなし宝物ほうもつに、ても似つかぬただの石ころ。
「むウ……」
 伊那丸は顔いろをうしなった。それはむりではない、武田家重代たけだけじゅうだいの軍宝――ことに父の勝頼かつよりが、天目山てんもくざん最期さいごの場所から、かれの手に送りつたえてきたほど大せつなしな
 それがない!
 ないですもうか。
 御旗楯無の宝物は、武田家の三種の神器じんぎだ。これを失っては、甲斐源氏かいげんじ家系かけいはなんの権威けんいもなくなってしまう。伊那丸いなまるをはじめ他の六人まで、ひとしくここに、色をうしなったも当然である。
「アア、やっぱり、おいらの先生はえらい――」
 そのとき、たんずるようにいったのは竹童ちくどうだった。
「ああ、どこまで武田家は衰亡すいぼうするのであろうか……」
 とたんじあわして、伊那丸もつぶやく。
「大じょうぶだよ」竹童は棒切ぼうきれをつえにしてふいにつっ立ち、気の毒そうに伊那丸のおもてを見あげた。
「大じょうぶだ大じょうぶだ。そのなかの物がなくなっても、ぬすんだやつはわかってるから……おいらがちゃんとかぎつけてきてあるから――」
「なに! ではおまえがその者を知っているか」
「ああ知っている。そいつは、人穴ひとあなの殿堂にいる和田呂宋兵衛わだるそんべえという悪いやつだよ。そして、ぬすんだ宝物ほうもつは、手下を京都へやって、羽柴秀吉はしばひでよしに売ってしまったんだ――これはきょうおいらが呂宋兵衛と問答して、かまをかけてきいてきたんだからまちがいのないことなんだ」
「えッ、では御旗みはた楯無たてなしをぬすんだやつも、あの人穴ひとあなの呂宋兵衛か……」
 と、伊那丸が意外そうなひとみ咲耶子さくやこに向けると、彼女も、思いがけぬことのように、
「わたしにとれば父をころした悪人。伊那丸さまにはおいえぞく、八つざきにしてもあきたりない悪党あくとうでござります」
 と、やさしいまゆにもうらみが立った。
 伊那丸いなまる床几しょうぎをはなれ、そしてうごかぬ決意を語気にしめしていった。
「みなのもの、わしはこれからすぐ人穴ひとあなの殿堂へけいり、呂宋兵衛るそんべえの首を剣頭にかけて、祖先におわびをいたすつもりだ。一つには、恩義のある咲耶子さくやこへの助太刀すけだち、われと思わんものはつづけ、御旗みはた楯無たてなしをうしなって、武田たけだの家なく、武田の家なくして、この伊那丸はないぞ!」
「お勇ましいおことば、われわれとて、どこまでもきみのおともいたさずにはおりませぬ」
 山県蔦之助やまがたつたのすけ忍剣にんけん龍太郎りゅうたろう小文治こぶんじなどの、たのもしげな勇士たちは、声をそろえてそういった。
「おう、わたしを入れてここに七の勇士がある。咲耶子も心づよく思うがよい、きっとこよいのうちに、きゃつの首を、このつるぎッ先にさしてみせよう。忍剣、馬を馬を!」
「はッ」
 バラバラと樹立こだちへはいった忍剣は、梅雪ばいせつとうが乗りすてたこまのなかから、逸物いちもつをよって、チャリン、チャリン、チャリン、と轡金具くつわかなぐの音をひびかせて、伊那丸のまえまで手綱たづなをとってくると、いままで黙然もくねんとしていた小幡民部こばたみんぶが、
「しばらく――」と、駒をおさえてをさげた。


「なんじゃ、民部みんぶ
「おいかりにかられて、これより人穴ひとあなの殿堂へかけ入ろうというおぼしは、ごもっともではござりますが、民部はたってお引きとめもうさねばなりませぬ」
「なぜ?」伊那丸いなまるはめずらしくにがい色をあらわした。
「けっして、かれをおそれるわけではありませぬが、音にきこえた天嶮てんけん野武士城のぶしじょう、いかに七の勇があっても攻めて落ちるはずのものとは思われませぬ」
「だまれ、わしも信玄しんげんまごじゃ! 勝頼かつよりの次男じゃ! 野武士のよる山城ぐらいが、なにものぞ」
 かれにしては、これは稀有けうなほど、激越げきえつなことばであった。民部には、またじゅうぶんな敗数のが見えているか、
「いいや、おことばともおもえませぬ」
 と、つよく首をふって、
「いかに信玄公しんげんこうのお孫であろうと、兵法をやぶって勝つというはありませぬ。なにごとも時節がだいじです。しばらくこの裾野すそのにかくれて呂宋兵衛るそんべえが山をでる日を、おまちあそばすが上策じょうさくとこころえまする」
「そうだ」
 その時、横からふいにことばをはさんだのは竹童ちくどうで、さらに頓狂とんきょうな声をあげてこうさけんだ。
「そうだ! おいらもうっかりしていたが、そいつは今夜きっと山をでるよ、うそじゃない、きっと山をでる! 山をでる!」
「竹童、それはほんとうか」
 民部みんぶは、目をかれにうつした。
「うそなんかおいら大きらいだ、まったくの話をするとお師匠ししょうさまが呂宋兵衛るそんべえに、おまえのいのちはこよいのうちにあぶないぞっておどかしたんだよ。おいらはその使いになって、今夜こく(十一時から一時)のころに、裾野すその四里四方人気ひとけのないところへでて、層雲そううんくずれの祈祷きとうをすれば助かると、いいかげんなことを教えてきてあるんだけれど、それも、いま考えあわせてみると、みんなお師匠さまがさきのさきまでを見ぬいた計略けいりゃくで、わざとおいらにそういわせたにちがいない」
 おどろくべき果心居士かしんこじ神機妙算しんきみょうさん、さすがの民部もそれまでにことが運んでいようとは気がつかなかった。
 こくてんまでには、まだだいぶあいだがある。伊那丸いなまるは一同にむかい、それまではここにあって、じゅうぶんに体をやすめ、英気をやしなっておくように厳命した。
 竹童は勇躍ゆうやくして、
「それでは夜中になると、まためざましい戦いがはじまるな。おいらもいまからしっかり英気をやしなっておくことだ……」
 と、クロをだいて、お堂のはしへゴロリと寝てしまった。
 と、かれは横になるかならないうちに、
「おや、ふえが鳴ったぞ」
 と頭をもたげてキョロキョロあたりを見まわした。見ると、咲耶子さくやこがただひとり、社前しゃぜん大楠おおくすのき切株きりかぶにつっ立ち、例の横笛を口にあてて、もさわやかに吹いているのだった。
 竹童は初めのうち、なんのためにするのかとうたがっていたらしいが、まもなく、笛の裾野すそのやみへひろがっていくと、あなたこなたから、ムクムクと姿をあらわしてきた野武士のぶしのかげ。それがたちまち、七十人あまりにもなって、咲耶子のまえに整列したのにはびっくりしてしまった。
 咲耶子は、あつまった野武士たちに、なにかいいわたした。そしてしずかに伊那丸いなまるの前へきて、
「この者たちは、いずれも父の小角しょうかくにつかえていた野武士でござりますが、きょうまで、わたくしとともにこの裾野へかくれ、折があれば呂宋兵衛るそんべえをうってあだをむくいようとしていた忠義者ちゅうぎものでござります。どうかこよいからは、わたくしともどもに、お味方にくわえてくださりますよう」
 伊那丸はまんぞくそうにうなずいた。
 時にとって、ここに七十人の兵があるとないとでは、小幡民部こばたみんぶ軍配ぐんばいのうえにおいても、たいへんなちがいであった。
 ましてや、いまここに集められたほどの者は、みなへいぜいから、咲耶子さくやこ胡蝶こちょうの陣に、りにねり、きたえにきたえられた精鋭せいえいぞろい。
 かくて一同は、敵の目をふさぐ用意に、ばたばたとかがり火を消し、太刀のをひそませ、づくり、やいばのしらべはいうまでもなく、馬に草をもって、時刻のいたるをまちわびている。
 待つほどにくるほどに、夜はやがて三こう玲瓏れいろうとさえかえった空には、微小星びしょうせいの一粒までのこりなくぎすまされ、ただ見る、三千じょう銀河ぎんがが、ななめに夜の富士ふじを越えて見える。
「グウー、グウ、グウーグウ……」
 そのなかで、竹童ちくどうばかりが、わしつばさをはねぶとんにして、さもいい気もちそうに、いびきをかいて寝こんでいた。

魔人隠形まじんおんぎょういん




 まさに、夜はこくの一てん
 人穴ひとあな殿堂でんどうをまもる、三つの洞門どうもんが、ギギーイとあいた。
 と、そのなかから、焔々えんえんと燃えつつながれだしてきたのは、半町はんちょうもつづくまっ赤なほのおの行列。無数の松明たいまつ。その影にうごめく、野武士のぶし、馬、やり、十、旗、すべて血のようにまって見えた。
 なかでも、一じょうあまりな白木しらきの十字架は、八人の手下にゆらゆらとささえられ、すぐそばに呂宋兵衛るそんべえが、南蛮錦なんばんにしき陣羽織じんばおりに身をつつみ、白馬はくばにまたがり、十二鉄騎てっきにまもられながら、妖々ようようと、裾野すそのつゆをはらっていく。
 すすむこと二、三、ひろい平野のまン中へでた。呂宋兵衛は馬からひらりとり、二、三百人の野武士を指揮しきして、見るまにそこへだんをきずかせ、十字架を立て、かがり火をいて、いのりのしたくをととのえさせた。
念珠コンタツ念珠コンタツを、これへ――」
 呂宋兵衛は、まえにもいったとおり、南蛮なんばん混血児あいのこでキリシタンの妖法ようほうしゅうする者であるから、層雲そううんくずれの祈祷きとうも、じぶんが信じる異邦いほうの式でゆくつもりらしい。
 手下の者から、念珠コンタツをうけとったかれは、それをくびへかけ、胸へ、白金はっきんの十字架をたらして、しずしずとだんの前へすすんだ。
 護衛ごえいする野武士たちは、しわぶきもせず、いっせいにやりさきを立てならべた。なかにはきょう味方についた穴山あなやま残党ざんとう足助主水正あすけもんどのしょう佐分利さぶり五郎次、その他の者もここにまじっている。
 だんにむかって、七つの赤蝋せきろうをともし、金明水きんめいすい銀明水ぎんめいすい浄水じょうすいをささげて、そこにぬかずいた呂宋兵衛るそんべえは、なにかわけのわからぬいのりのことばをつぶやきながら、いっしんに空の星をいのりだした。
 すると、どこからともなく、ザッ、ザッ、ザッ、ザッと草をなでてくるような風音かざおと。つづいて、地を打ってくる馬蹄ばていのひびき。
「や!」かれはぎょっと、頭をあげて、
「あの物音は? あのひびきは? おお馬だッ、人声だ。ゆだんするな!」
 さけぶまもなく、ピュッ、ピュッと、風をきってくるあられのような征矢そや。――早くも、四面のやみからワワーッという喊声かんせいが聞えだした。
「さては武田伊那丸たけだいなまるがきたか」
「いやいや咲耶子さくやこが仕返しにまいったのだろう」
「うろたえていずとかがり火を消せ、はやく松明たいまつをすててしまえ、敵方の目じるしになるぞ」
 あたりはたちまち暗瞑あんめい地獄じごく
 ただ、燃えいぶった煙と、ののしる声と、太刀ややりの音ばかりが、ものすごくましていった。
 もう、どこかでりあいがはじまったらしい。
 星明かりをすかしてみると、敵か味方か入りみだれてよくわからないが、白馬はくば黒鹿毛くろかげをかけまわしている七人の影は、たしかにせてきた七勇士。それに斬りまわされて、呂宋兵衛の手下どもは、
「だめだ、足を斬られた」
「敵はあんがいてごわいぞ。もう大変な手負ておいがでた」
「殿堂へ逃げろ!」
人穴ひとあなへ引きあげろ!」
 と声をなだれあわせて、思いおもいな草の細径ほそみち蜘蛛くもの子のちるように逃げくずれた。
 それらの、雑兵ぞうひょうや手下には目もくれず、さきほどから馬上りんりんとかけまわっていた伊那丸いなまるは、
咲耶子さくやこはいずれにある。咲耶子、咲耶子」
 と、しきりに呼びつづけていた。
「おお伊那丸さま、わたくしはここでござります」
 近よってきた白鹿毛しろかげの上には、かいがいしい装束いでたちをした彼女のすがたが、細身の薙刀なぎなた小脇こわきに持って、にっことしていた。
「咲耶子、呂宋兵衛めは、いずれへ姿をかくしたのであろう。忍剣にんけん龍太郎りゅうたろうも、いまだにったと声をあげぬが」
「わたくしも、余の者には目もくれず、八ぽうさがしてまわりましたが、影も形も見あたりませぬ。ざんねんながら、どうやら取り逃がしたらしゅうござります」
「いや、民部みんぶがしいた八門の陣、その逃げ口には、伏兵ふくへいがふせてあるゆえ、かならず討ちもらす気づかいはない」
 とふたりが、馬上で語り合っているすぐうしろで、ふいに、悪魔あくま嘲笑ちょうしょうが高くした。
「わ、はッはわはッは……このバカもの!」
「や!」
 ふりかえってみると、人影はなく、星の空にそびえている一の十
「いまの声は、たしかに呂宋兵衛るそんべえ
かいな笑い声、咲耶子さくやこ、心をゆるすまいぞ」
 きッと、十字架をにらんで、ふたりが息を殺したせつなである、一陣の怪風! とたんに、星祭ほしまつりだんに燃えのこっていた赤蝋せきろうが、メラメラと青いほのおに音をさせてあたりを照らした。
 明滅めいめつの一しゅん、十字架のうしろにかくれていたおぼろげなかげは、たしかに怪人、和田呂宋兵衛わだるそんべえ
「おのれッ!」
怨敵おんてき
 敵将のすがたをのあたりに見て、なんのひるみを持とう。伊那丸いなまるは太刀をふりかぶり、咲耶子さくやこ薙刀なぎなたをしごいて八まん! 十の根もとをねらって斬りつけた。
 と――ほとんど同時である。
 伊那丸がたの軍師ぐんし小幡民部こばたみんぶは、無二無三にこまをここへ飛ばしてきながら、
「やあ、待ちたまえ若君わかぎみ。かならずそれへ近よりたもうな。あ、あ、あッ、あぶないッ!」
 と、かれは狂気ばしって絶叫ぜっきょうした。
 が――その注意はすでに間に合わなかった。
 ふたりのえものは、もう、ザクッと十字架のかげを目がけてふりこんでしまった。と見るまに、ああ、そもなんの詭計きけいぞ、足もとから轟然ごうぜんたる怪火の炸裂さくれつ
 ぽかッと、うずをふいた白煙はくえんとともに、宙天ちゅうてんけのぼった火の柱、同時に、バラバラッとあたりへ落ちてきたいちめんの火の雨――それも火か土か肉か血か、ほとんど目をけて見ることもできない。


 すさまじい雷火のほのおが、パッと立ったせつな、ゲラゲラゲラと十字架のかげで大きく笑う声がした。
 怪人呂宋兵衛るそんべえの目である。口である。
 悪魔あくまめん! それがあざわらった。
「あッ――」
 伊那丸いなまるの馬は、ひづめって横飛びにぶったおれた。咲耶子さくやこは、竿立さおだちとなったこまのたてがみにしがみついて、ほのおのまえに悶絶もんぜつした。
 倒れたのは、馬ばかりか、人ばかりか、二しゃくかく白木しらきの十まで、上からッ二つにさけ、余煙よえんのなかへゆら、――と横になりかかってきた。
 雷火らいか炸裂さくれつは、詭計きけいでもなんでもない。怪人かいじん呂宋兵衛るそんべえが、ふところにめておいた一かい強薬ごうやくを、祭壇さいだんに燃えのこっていたろうそくへ投げつけたのだ。
 長崎やさかいあたりで、南蛮人なんばんじんが日本人と争闘そうとうすると、常習じょうしゅうにやるかれらの手口てぐちである。民部みんぶはそれを知っていたので、あわてて駒を飛ばしてきたが、一足ひとあしおそかった、けた十字架が、いましもドスーンと大地へ音をひびかせた時である。
人穴ひとあなぞく。そこうごくなッ!」
 民部は、乗りつけてきた馬のくらから飛びおりるより早く、だんの上につっ立っているかれを目がけて斬りつけた。
「しゃらくさいわッ」
 呂宋兵衛は、民部の第一刀をひッぱずして、いきなり鬼のような手で彼の右手めてをねじあげた。
 もうふところに強薬は持っていないので、まえのような危険はないが、腕と腕、剣と剣の打ちあいでも、民部は呂宋兵衛るそんべえの敵ではない。
「うーむ、この小僧こぞうッ子め」
 酒呑童子しゅてんどうじもかくやの形相ぎょうそうで、大きなくちびるやい歯をかませた呂宋兵衛は、いきなり民部の利腕ききうでをひとふりふって、やッと一せいだんの上から大地へ投げつけた。
「無念」
 一代の軍師ぐんし小幡民部こばたみんぶも、腕の勝負ではいかんともすることができない。はねおきようとすると、はやくも、呂宋兵衛の山のような体がのしかかってきて、グイとのどわをしめつけ、
「おウ、てめえが伊那丸いなまるの腰について、穴山梅雪あなやまばいせつったという小ざかしい小幡民部というやつだな。こりゃいい首にめぐり会った。山荘さんそうへのみやげにしてやる。覚悟かくごをしろ」
 鎧通よろいどおしをひきぬき、逆手さかてにもって、グイと民部の首根くびねにせまった。民部は、そうはさせまいと、下から短剣たんけんをぬき、足をもがき、ここ一ぱつのあらそいとなって、たがいに必死。
 伊那丸いなまる咲耶子さくやこも、みすみすかたわらにありながら、いまの雷火らいかにふかれて、ふたりとも気を失ってしまっている。
「うーむッ」
 もみ合っているふたりのあいだから、おそろしい苦鳴くめいがあがった。さては、民部が首をかき落とされたか、呂宋兵衛るそんべえ脾腹ひばらをえぐられたか、どッちか一つ。


 さきにはね起きたのは、呂宋兵衛であった。
 かれの左の足に、一本の流れ矢がつき刺さっていた。つづいて民部みんぶも飛びおきた。またすさまじい短剣と短剣の斬りあいになる。
「やッ、呂宋兵衛、ここにおったか」
 そのとき、ゆくりなくもきあわせた巽小文治たつみこぶんじが、朱柄あかえやりをしごいて、横から突っこんだ。
「じゃまするなッ」
 ガラリとはらう。さらに突く。
 さらにはらう。またも突きだす。
 この妙槍みょうそうにかかっては、さすがの呂宋兵衛も、弱腰になった。それさえ、大敵と思うところへ、加賀見忍剣かがみにんけん木隠龍太郎こがくれりゅうたろう山県蔦之助やまがたつたのすけの三人が、ここのあやしき物音を知って、いっせいにひづめをあわせて、三方から、野嵐のあらしのごとく馬を飛ばしてくるようす。
「呂宋兵衛、呂宋兵衛、なんじ、いかにもうなりとも、ふくろのなかのねずみどうようだ、時うつればうつるほど、ここは鉄刀てっとう鉄壁てっぺきにかこまれ、そとは八門暗剣の伏兵ふくへいにみちて、のがれる道はなくなるのじゃ、神妙しんみょう観念かんねんしてしまえ」
 小幡民部こばたみんぶがののしると、呂宋兵衛るそんべえはかッとまなこをいからせて、わざとせせら笑った。
「だまれッ。なんじらのようなとうすみとんぼ、百ぴきこようと千びきあつまろうと、この呂宋兵衛の目から見れば子供のいたずらだわ」
舌長したながなやつ、そのいきのねをとめてやるッ」
「なにを」
 と呂宋兵衛は立ちなおって、剣を、鼻ばしらの前へまッすぐ持ち、あたかも、不死身ふじみいんをむすんでいるような形。
 ふしぎや、小文治こぶんじやりも民部の太刀も、その奇妙きみょうかまえを、どうしても破ることができない。ところへ、同時にかけあつまったまえの三人。
 このていを見るより、めいめい、ひらりひらりとくらからおりて、かけよりざま、
「おうッ、巽小文治たつみこぶんじどの、龍太郎りゅうたろう助太刀すけだちもうすぞ」
加賀見忍剣かがみにんけんこれにあり、いで! 目にものみせてくれよう」
 とばかり、呂宋兵衛の前後からおッつつんだ。
 さすがのかれも、ついにあわてだした。そして、一太刀も合わせず、ふいに忍剣のわきをくぐって疾風しっぷうのように逃げだした。
「待てッ」
 すばやくとびかかった龍太郎が、戒刀かいとうッ先するどくぎつけると、呂宋兵衛はふりかえって、右手の鎧通よろいどおしを手裏剣しゅりけんがわりに、
「えいーッ」
 気合きあいとともに投げつけた。
 龍太郎りゅうたろうは身をしずめながら、刀のみねで、ガラリとそれをはらい落とした。
 と、なにごとだろう?
 ピラピラと、魚鱗ぎょりんのような閃光せんこうをえがいて飛んできた鎧通よろいどおしが、龍太郎の太刀たちにあたると同時に、銀粉ぎんぷんのふくろが切れたように、粉々こなごなとくだけ散って、あたりはにわかに、月光ときりにつつまれたかのようになった。
「や、や。あやしい妖気ようき
「きゃつはキリシタンの幻術師げんじゅつし、かたがたもゆだんするな」
「この忍剣にんけんにならって、破邪はじゃのかたちをおとり召されい」
 と、まッさきに忍剣が、大地にからだをピッタリせ、地から上をすかしてみると、いましも、黒い影がするするとあなたへ足をはやめている。
「おのれッ」
 とびついていった忍剣の禅杖ぜんじょうが、力いッぱい、ブーンとうなった。とたんに、一じんの怪風――そして、わッ、と、さけんだのはまぎれもない呂宋兵衛るそんべえである。
 たしかに手ごたえはあったらしいが、かれもさるもの、すばやく隠形おんぎょういんをむすび、縮地飛走しゅくちひそうじゅをとなえるかと見れば、たちまち雷獣らいじゅうのごとく身をおどらせ、おどろく人々の眼界から、一気に二、三町も遠くとびさってしまった。
「あ、あ、あ、あ、あ!」とさすがの忍剣も、龍太郎りゅうたろうもそのゆくえを、ただ見まもるばかり。
 ばたきするまに、二、三町もとんだ呂宋兵衛るそんべえのあとには、うすいにじか、あわいきりのようなものが一すじ尾をひいてのこった。


 いつまで見送って、たがいに歯がみしていたところで及ばぬことと、忍剣にんけんは一同をはげました。そして、そこにたおれている、伊那丸いなまる咲耶子さくやことに、手当てあてを加えた。
 さいわいに、ふたりはさしたる重傷ふかでを受けていたのではなかった。けれど、やがて気がついてから、賊将ぞくしょう、呂宋兵衛をとり逃がしたと知って、無念がったことは、ほかの者より強かった。ことに、伊那丸は父ににて勝気かちきなたち。
「かれらのさくにおちて、おくれをとったときこえては、のちの世まで武門の名おれ。わしはどこまでも、呂宋兵衛のいくところまで追いつめて、かれの首を見ずにはおかぬ。民部みんぶめるなッ」
 いいすてるが早いか、馬のくらつぼをたたいて、まっしぐらに走りだした。と咲耶子も、
「お待ちあそばせや、伊那丸さま。人穴ひとあなの殿堂は、この咲耶子がそらんじている道、踏みやぶる間道かんどうをごあんないいたしましょうぞ」
 手綱たづなをあざやかに、ひらりとこまにおどった武装ぶそうの少女は一鞭ひとむちあてるよと見るまに、これも、伊那丸にかけつづいた。
 ことここにいたっては、思慮しりょぶかい小幡民部こばたみんぶも、もうこれまでである、いちかばちかと、決心して、
加賀見忍剣かがみにんけんどの。木隠龍太郎こがくれりゅうたろうどの」
 と声高らかに呼ばわった。
「おお」
「おおう」
「そこもとたちふたりは、若君の右翼うよく左翼さよくとなり、おのおの二十名ずつの兵をして、おそばをはなれず、ご先途せんどを見とどけられよ、早く早く」
「かしこまッた」
 軍師ぐんしに礼をほどこして、ふたりは馬にむちをくれる。
「つぎに山県蔦之助やまがたつたのすけどの。巽小文治たつみこぶんじどの」
「おう」
「おう」
「ご両所たちは搦手からめての先陣。まず小文治どのは槍組やりぐみ十五名の猛者もさをつれて、人穴ひとあなの殿堂よりながれ落ちている水門口をやぶり、まッ先に洞門どうもんのなかへ斬りこまれよ」
心得こころえた」
 小文治こぶんじ朱柄あかえやりをひッかかえて、十五名の力者りきしゃをひきつれ、人穴をさして、たちまち草がくれていく。
「さて蔦之助つたのすけどの、そこもとは残る十七名の兵をもって、一隊の弓組ゆみぐみをつくり、殿堂をかこい嶮所けんしょに登ってくるわのなかへ矢をこみ、ときにおうじ、変にのぞんで、奇兵きへいとなって討ちこまれい!」
承知しょうちいたしました」
拙者せっしゃは、のこりの者とともに後詰ごづめをなし、若君の旗本、ならびに、総攻めのをうかがって、その時ごとに、おのおのへ合図あいずをもうそう。さらばでござる」
 軍配ぐんばいのてはずを、残りなくいいわたした民部みんぶは、ひとりそこにみとどまり、人穴攻ひとあなぜめの作戦を胸にえがきながら、無月むげつの秋の空をあおいで、
「敗るるも勝つも、小幡民部こばたみんぶの名は、おしくもなき一かい軍配ぐんばいとりじゃ。しかし……しかし伊那丸いなまるさまは大せつな甲斐源氏かいげんじ一粒種ひとつぶだね、あわれ八まん、あわれいくさの神々、力わかき民部の采配さいはいに、無辺むへんのお力をかしたまえ」
 正義の声は、いつにあっても、だれの口からほとばしっても、ほがらかなものである。


 英気をやしなうため、よいのくちに、ほんのちょっと寝ておくつもりだった竹童ちくどうは、いつかはなから提灯ちょうちんをだしてわれにもなく、大いびき。
 このぶんでほっておいたら、かならずや、夜が明けるのも知らずに寝ているにちがいない。
 ところが、好事こうじおおし、せっかくの白河夜船しらかわよふねを、何者とも知れず、ポカーンとっぺたをはりつけて、かれの夢をおどろかさせた者がある。
「あいたッ、アた、た、た、た!」
 ねぼけまなこではねおきた竹童ちくどうは、むちゃくちゃに腹が立ったと見えて、いつにないおこりようだ。
「おいッ、おいらをぶんなぐったのは、いったいどこのどン畜生ちくしょうだ、さアかんべんできない、ここへでろ、おいらの前へでてうせろッ」
 あまり太くもないうでをまくりあげて、そこへしゃちこ張ったのはいいが、竹童、まだなにを寝ぼけているのか、そこにいた人の顔を見ると、急にすくんで、ひざッ子のまえをかきあわせ、ペコペコお辞儀じぎをしはじめたものだ。
「竹童、おまえは大そう強そうにおこるな」
「はい……」
「どうした。おいらの前へでてうせろといばっておったではないか。なぐったわしはここにいる」
「はい、いいえ……」
不埒者ふらちものめがッ」
 なんのこと、あべこべにまたしかられた。
 もっとも、それはべつだんふしぎなことではない。いつのまにか、ここにきていた人間は、竹童ちくどう小太郎山こたろうざんにいることとばかり思っていた、果心居士かしんこじその人だったのだ。
 しかし、いくら飛走の達人たつじんでも、どうして、いつのまにこんなところへきたんだろうと、竹童はじぶんのゆだんをつねって、目ばかりパチパチさせている。
 けれど、なんとしても、このお師匠ししょうさまは人間じゃあない。ほとんど神さま、このおかたに会ってはかなわないから、三どめの大目玉をいただかないうちに、なんでもかでも、こっちからあやまってしまうほうが先手せんてだと、そこは竹童もなかなかずるい。
「お師匠さま。お師匠さま。どうもすみませんでございました。お使い先で、グウグウ寝てしまったのは、まったくこの竹童、悪いやつでございました。どうぞごかんべんなされてくださいまし」
横着おうちゃく和子わこではある。わしのいう叱言こごとを、みんなさきにじぶんからいってしまう」
「いいえ、お師匠さまの叱言よけではございませんが、ひとりでに、じぶんが悪かったと、ピンピン頭へこたえてくるのでございます」
「しかたのないやつ」
 果心居士も竹童の叱言には、いつも途中から苦笑くしょうしてしまった。
「けれど、叱言ではないが――そちも大せつな使者に立った者ではないか。なぜ、伊那丸いなまるさまのご先途せんどまで見とどけてくるか、あるいは、ひとたび小太郎山まで立ち帰ってきて、ようすはこれこれとわしに返辞へんじを聞かせぬのじゃ」
「はい。ですからわたしは、しばらくここに寝こんでいて、夜中にみなさまがここをでる時、ご一しょについていって見ようと思っていたのでござります」
「たわけ者め。そのご一同がどこにいる?」
「えッ」
 竹童ちくどうは始めてあたりを見まわし、
「おや? もうこくが過ぎたのかしら、伊那丸いなまるさまもお見えにならず、忍剣にんけんさまも、……蔦之助つたのすけさまもおかしいなあ、だれもいないや。お師匠ししょうさま、みなさまはもういくさにでておしまいなされたのでしょうか?」
「もう子の刻もとッくにすぎ、裾野すそのいくさも一段落だんらくとなっているわ」
「アアしまった! しまった! すッかり寝こんでなにも知らなかった。お師匠さま、竹童はどうしてこういつまでおろかなのでござりましょう」
「どうじゃ。わしに打たれたのがむりと思うか」
「けっしてごむりとは思いません。これからこんなゆだんをいたしませんように、もっとたくさんおぶちなされてくださいまし」
「よいよい。それほどに気がつけば、本心にこたえたのじゃろう。ところで竹童、また大役があるぞ」
「もうたくさん寝ましたから、どんなむずかしいご用でも、きッとなまけずに勤めまする」
「む、ほかではないが、こよいの計略けいりゃく呂宋兵衛るそんべえ妖術ようじゅつにやぶられ、いままた、伊那丸いなまるさまはじめ、その他の旗本はたもとたちは人穴ひとあなの殿堂さして攻めのぼっていった。しかし、かれには二千の野武士のぶしがあり、幾百の猛者もさ、幾十人の智者ちしゃ軍師ぐんしもいることじゃ。なかなか七十人や八十人の小勢こぜいでおしよせたところで、たやすく嶮所けんしょくるわは落ちまいと思う」
「わたくしもあのなかを見てきましたが、どうしてどうして、おそろしい厳重げんじゅう山荘さんそうでございました」
「それゆえ、力で押さず、智でおとす。しかし、智にたよって勇をうしなってもならぬゆえ、わざと伊那丸さまにはお知らせいたさず、そちにだけ第二の密計みっけいをさずけるのじゃ。竹童ちくどう、耳を……」
「はい」
 とすりよると、果心居士かしんこじ白髯はくぜんにつつまれたくちびるからひそやかに、二言三言ふたことみこと秘策ひさくをささやいた。
 それが、いかにおどろくべきことであったかは、すぐ聞いている竹童の目の玉にあらわれて、あるいは驚嘆きょうたん、あるいは壮感そうかん、あるいは危惧きぐの色となり、せわしなく、ひとみをクルクル廻転させた。
「よいか、竹童!」
 はなれながら、果心居士かしんこじはさいごにいった。
「一心になって、おおせの通りやりまする」
「そのかわり、この大役を首尾しゅびよくすましたら、伊那丸いなまるさまにおねがいして、そちも武士ぶしのひとりに取り立ててさすであろう」
「ありがとうござります。お師匠ししょうさま、さむらいになれば、わたくしでも、刀がさせるのでござりましょうね」
「差せるさ」
「差したい! きッと差してみせるぞ」
 竹童は、その興奮こうふんで立ちあがった。
 しかし、かれのひきうけた大役とはいったいなんだろう。もとより鞍馬山霊くらまさんれいの気をうけたような怪童子かいどうじ、あやぶむことはあるまいが、居士こじ口吻こうふんからさっしても、ことなかなか容易よういではないらしい。

早足はやあし燕作えんさく




 夜もすがら、百八ヵ所できあかしているかがり火のため、人穴城ひとあなじょう殿堂でんどうは、さながら、地獄じごくの祭のように赤い。
 和田呂宋兵衛わだるそんべえたちが、おおきな十をささげて、層雲そううんくずれの祈祷きとうにでていったあとは、腹心の轟又八とどろきまたはち軍奉行いくさぶぎょうかくになって、伊那丸いなまる咲耶子さくやこをうつべき、明日あすの作戦に忙殺ぼうさつされていた。
「東の空がしらみだしたら一番がいせいぞろいの用意とおもえ。富士川が見えだしたら、二番貝で部署ぶしょにつき、三番貝はおれがふく。同時に、八方から裾野すそのへくだって、時刻時刻の合図あいずとともに、遠巻とおまきのをちぢめて、ひとりあまさず討ってとる計略けいりゃく。かならずこの手はずをわすれるなよ」
 一同へ軍令をおわった轟又八は、やや得意ないろで広場にたち、あすの天候を観測かんそくするらしいていで、暗天を見あげていたが、ふと、なにがしゃくにさわったのか、
「ふふん、このやみの晩に、なにが見えるんだ。バカ軍師ぐんしめ、人のせわしさも知らずに、まだあんなところでのんきづらをかまえていやがる」
 上のほうへはきだすようにつぶやき、そのまま、殿堂のもの部屋べやへ隠れてしまった。
 又八をして、ぷんぷんと怒らせたものとは、いったいなんであろうか――と空をあおいで見ると、炎々えんえんとのぼるかがりの煙にいぶされて、高いやぐらがそびえていた。そのてッぺんに、さっきから、ひとりの影が立っている。
 山寨さんさいの軍師、丹羽昌仙にわしょうせんであった。
 とどろき又八がバカ軍師とののしったわけである。昼間ひるまから、攻守両意見にわかれて、反対していたのだ。そこで昌仙しょうせんせんなきこととあきらめたか、呂宋兵衛るそんべえ裾野すそのをでるとすぐ、軍備にはさらにたずさわらず、継子ままこのように、ひとり望楼ぼうろうのいただきへあがって、寂然じゃくねんとたちすくみ、四暗々あんあんたる裾野をにらみつめている。
 かれは、さっさつたる高きところの風に吹かれながら、そも、なにをみつめているのだろうか。
 星こそあれ、無月荒涼むげつこうりょうのやみよ。――おお、はるかにほのおの列が蜿々えんえんとうごいていく。呂宋兵衛らの祈祷きとうの群れだ、火の行動は人の行動。ちりぢりになる時も、かたまる時も、しずかな時も、さわぐ時も、なるほど、ここにあれば手にとるごとくわかる。
 と、なににおどろいたものか、昌仙の顔いろが、サッと変って、ふいに、
「あああ」
 と望楼の柱につかまりながら身をのばした。見れば、はるかかなたの火が、風に吹き散らされたほたるのごとく、さんをみだしてきはじめたのだ。
「むウ」
 思わず重くるしいうめき声。
「しまった! あの竹童ちくどうという小僧こぞう奇策きさくにはかられた。もうおそい――」
 と、かれがもらした痛嘆つうたんのおわるかおわらぬうち、遠きやみにあたって、ズーンと立った一道の火柱ひばしら、それが消えると、一点の微光びこうもあまさず、すべてを暗黒がつつんでしまった。
「それ見ろ! このほうがいったとおりだッ」
 昌仙しょうせんは手をのばして、いきなり天井てんじょうへ飛びつき、そこにたれていたなわはしをグイと引いた。と、――人穴城ひとあなじょうの八方にしかけてある自鳴鉦じめいしょうがいっせいに、ジジジジジジジジッ……とけたたましく鳴り渡る。
 これ、大手おおて一のもん二の門三の門、人穴門ひとあなもん、水門、間道門かんどうもんの四つの口、すべて一時にまもるための手配てはい。いうまでもなく出門しゅつもんは厳禁。無断むだん持場もちばをうごくべからず――の軍師合図ぐんしあいず
 さらに、櫓番やぐらばんへ声をかけて、部下の一人で、もと道中かせぎの町人であった、燕作えんさくという者をよびあげ、かねて用意しておいたらしい一通の密書みっしょをさずけた。
 そして口ぜわしく、
「これを一こくもはやく羽柴秀吉はしばひでよしどのにわたしてこい。ぐずぐずいたしておると、この山寨さんさいから一歩もでられなくなる。すぐいけよ、なんのしたくもしていてはならんぞ」
 と、いいつけた。
 燕作は、野武士のぶしの仲間から、韋駄天いだてんといわれているほど足早あしばやな男。をさげて、昌仙からうけた密書をふところへ深くねじおさめ、
「へい、承知しょうちいたしました。ですが、その秀吉さまは、山崎の合戦かっせんののち、いったいどこのお城におすまいでござりましょうか」
近江おうみ安土あづちか、長浜の城か、あるいは京都にご滞在たいざいか、まずこの三つを目指めざしていけ」
合点がってんです。では――」
 と立って、クルリとむきなおるが早いか、韋駄天いだてんの名にそむかず、飛鳥ひちょうのように望楼ぼうろうをかけおりていった。


 ふいに自鳴鉦じめいしょうを聞いたとどろき又八は、青筋あおすじをかんかんに立てて立腹した。
「こっちで攻めだす用意をしているのに、どこまでもおれにたてをつくふつごうな丹羽昌仙にわしょうせん軍師ぐんしといえどもゆるしておいてはくせになる」
 恐ろしい血相けっそうで、望楼の登り口へかけよってくると、出合であいがしらに、上からゆうゆうと昌仙がおりてきた。
「おお、轟、籠城ろうじょうの用意は手ぬかりなかろうな」
「だまれ。いつ頭領かしらから籠城の用意をしろとおふれがでた。しかも、夜が明けしだいに、裾野すそのへ討ってでるしたくのさいちゅうだわ」
「ならぬ! 呂宋兵衛るそんべえさまから軍配ぐんばいを預っている、この昌仙がさようなことはゆるさぬ。七つの門は一寸たりともあけることまかりならんぞ」
「めくら軍師ッ。かしらの呂宋兵衛さまも帰らぬうち、洞門どうもんめてしまってどうする気だ」
「いまにみよ、祈祷きとうにでたものはちりぢりばらばら、呂宋兵衛るそんべえさまも手傷てきずをうけていのちからがら立ちかえってくるであろうわ」
「ばかばかしい! そんなことがあってたまるものか」
 と又八が大口おおぐちをあいてあざわらっていると、折もおりだ。祈祷の列に加わっていった足助主水正あすけもんどのしょう佐分利さぶり五郎次などが、さんばら髪に、血汐ちしおをあびて逃げかえってきた。
「やア、その姿は――?」
 今もいまとて、強情ごうじょうをはっていた轟又八、目をみはってこうさけぶと、裾野すそのから逃げかえってきた者どもは声をあわせて、
「一大事、一大事。まんまと敵の計略におちいって、頭領かしらのご生死もわからぬような総くずれ――」
 つづいて逃げてきた手下の口から、
伊那丸いなまるじしんが先手せんてとなり、小幡民部こばたみんぶ軍師ぐんしとなって、もうすぐここへ攻めよせてくるけはい」
 と報告された。さらにあいだも待たず、
「あやしいやつが二、三十人ばかり、嶮岨けんそをよじ登って、人穴ひとあなうらへまわったようす」
「前面のあまたけにも、軍兵ぐんぴょうの声がきこえてきた。水門口のそとでも、ときの声があがった――」
 一刻一刻と、矢のような注進。
 そのごうごうたるさわぎのなかへ、風に乗ってきたごとく、こつぜんと走りかえってきた和田呂宋兵衛わだるそんべえは、一同にすがたを見せるよりはやく、
「なにをうろたえまわっているかッ、洞門どうもんをまもれ、水門へ人数をくばれ、バカッ、バカッ、バカッ」
 八ぽうへ狂気のごとくどなりつけた。そのくせ、かれじしんからしてころもはさかれ目は血ばしり、おもては青味あおみをおびて、よほど度を失っているのだからおかしい。
 昌仙しょうせんは、それ見ろ、といわんばかり、
「おさわぎなさるな、頭領かしら大方おおかたこんなこととぞんじて、すでに手配てはいはいたしておきました」
「おお軍師ぐんし。こののちはかならず御身おんみのことばにそむくまい。どうか寄手よせてのやつらを防ぎやぶってくれ」
「ご安堵あんどあれ、北条流ほうじょうりゅう蘊奥うんおうをきわめた丹羽昌仙にわしょうせんが、ここにあるからは、なんの、伊那丸いなまるごときにこの人穴ひとあなを一歩もませることではござらぬ」
 とどろき又八は、いつのまにか、こそこそと雑兵ぞうひょうのなかへ姿をかくしてしまった。


 はやくも、一の洞門にときの声があがる。
 まッ先に攻めつけてきたのは武田伊那丸たけだいなまるであった。要所のあんないは咲耶子さくやこ。すぐあとから、加賀見忍剣かがみにんけん木隠龍太郎こがくれりゅうたろうのふたりが、右翼うよく左翼の力をあわせて、おのおの二十人ほどひきつれ、えいや、えいや、洞門どうもんの前へおしよせてきた。
 いっぽう――人穴ひとあなから、どッと流れおちている水門口へかかった巽小文治たつみこぶんじは、やりぞろい十五名の部下をつれて、水門をぶちこわそうとしたが、頭の上へガラガラと岩や大木を投げつけてくるのになやまされた。のみならず、水門には、頑丈がんじょう鉄柵てつさくが二重になっているうえ、足場あしばのわるい狭隘きょうあい谿谷けいこくである。おまけに、全身水しぶきをあびての苦戦は一通ひととおりでない。
 うら山のけんにのぼって、殿堂へ矢をこもうとした山県蔦之助やまがたつたのすけ以下の弓組も、とちゅう、おもわぬ道ふさぎのさくにはばめられたり、八ぽうわかれの謎道なぞみちにまよわされたりして、やっとたどりついたが、はやくもそれと知った丹羽昌仙にわしょうせんが、望楼ぼうろうのうえから南蛮銃なんばんじゅう筒口つつぐちをそろえて、はげしく火蓋ひぶたを切ってきた。
 丹羽昌仙の北条流ほうじょうりゅう軍配ぐんばいと、二千の野武士のぶしと、この天嶮無双てんけんむそうとりでによった人穴ひとあな賊徒ぞくとらは、こうしてビクともしなかった。
 ついにむなしくその夜は明けた。――二日目もすぎた。三日目にも落とすことができなかった。ああなにせよ小勢こぜい、いかに伊那丸があせっても、しょせん、百人足らずの小勢では洞門ひとつ突き破ることもむずかしそうである。
民部みんぶ、わしはこんどはじめて、いくさの苦しさを知った。あさはかな勇にはやったのがはずかしい。しかし武夫もののふ、このまま退くのは残念じゃ」
 前面の高地、雨ヶ岳を本陣として、ひとまず寄手よせてをひきあげた伊那丸いなまるが、軍師ぐんし小幡民部こばたみんぶとむかい合って、こういったのがちょうど九日目。
「ごもっともでござります」民部も軍扇ぐんせんひざについて、おなじ無念にうつむきながら思わず、
「ああ、ここにもう二、三百の兵さえあれば、さくをかえて、一つの戦略をめぐらすことができるのだが」
 とつぶやくと、伊那丸も同じように、たんをもらして、
「そのむかし、武田菱たけだびしの旗のもとには、百万二百万の軍兵ぐんぴょうまねかずしてあつまったものを」
「また、わが君のおうえにも、かならず輝きの日がまいりましょう。いや、不肖ふしょう民部の身命しんめいしましても、かならずそういたさねば相なりませぬ」
「うれしいぞ民部。けれど、みすみす敵を目のまえにしながら、わずか七、八十人の味方とともにこのありさまでいるようでは……」
 と無念の涙をたたえていると、いままで、うしろに黙然もくねんとしていた木隠龍太郎こがくれりゅうたろうが、なに思ったか、
「伊那丸さま――」
 とすすみだして、
「どうぞそれがしに四日のおいとまをくださいますよう」
 といいだした。
「なに四日の暇をくれともうすか」
「されば、ただいま民部どのが、しいとおっしゃっただけの兵を、かならずその日限にちげんのうちに、若君のおんまえまでしあつめてごらんにいれまする」
「おお龍太郎どの――」
 と民部は、うれしそうな声と顔をひとつにあげて、
「民部、畢生ひっせい軍配ぐんばいのふりどき、ぜひともごはいりょをおねがいもうすぞ」
「しかし、いまの戦国多端たたんのときに、二、三百の兵を四日にあつめてくるのは容易よういでないこと。龍太郎、それはまちがいないことか……」
 伊那丸いなまるは気づかわしそうな顔をした。
 が龍太郎はもう立ちあがって、敢然かんぜんれいをしながら、
「ちと心算しんさんもござりますゆえ、なにごとも拙者せっしゃの胸におまかせをねがいます。ではわが君、民部どの、きょうから四日のちに、三百人の軍兵ぐんぴょうとともにお目にかかるでござりましょう」
 仮屋かりやまくをしぼって、陣をでた木隠龍太郎は、みずから「項羽こうう」と名づけた黒鹿毛くろかげ駿馬しゅんめにまたがり、雨ヶ岳の山麓さんろくから文字もんじに北へむかった。
 すると、かれのすがたを見かけた者であろうか、
「おおうい。おおうい木隠こがくれどの――」
 とびかけてくる者がある。こまをとめてふとふりかえると、本栖湖もとすこのほうから槍組やりぐみ二隊をひきつれてそこへきた巽小文治たつみこぶんじが、せんとうに朱柄あかえの槍をかついで立ち、
「おそろしい勢いで、どこへおいでなさるのじゃ」
 とふしぎそうにかれを見あげた。
「おお小文治こぶんじどのか、拙者せっしゃはにわかに大役をおびて、これから小太郎山こたろうざんへ立ちかえるところだ」
「ふーむ、ではいよいよ人穴攻ひとあなぜめは断念だんねんでござるか」
「どうしてどうして。ほんとうの合戦かっせんはこれから四日目だ。なにしろいそぎの出先でさき、ごめん――」
「おお待ってくれ。いったいなんの用で小太郎山へお帰りさるのじゃ」
 と小文治こぶんじがききかえすまに、駿馬しゅんめ項羽こううのかげは木隠をのせて、疾風しっぷうのごとく遠ざかってしまった。
 難攻不落なんこうふらくの人穴攻めは、こうしてあと四日ののちを待つことになった。しかし、伊那丸いなまるや、忍剣にんけん民部みんぶなどの七将星のほかに、果心居士かしんこじ秘命ひめいをうけている竹童ちくどうは、そもそもこの大事なときを、どこでなにをまごまごしているのだろう。
 いくらのんきな竹童でも、まさか、お師匠ししょうさまの叱言こごとをわすれて、裾野すそのの野うさぎなんかと、すすきのなかでグウグウ昼寝もしていまいが、もういいかげんに、なにかやりだしてもよいじぶん。
 ぐずぐずしていれば、丹羽昌仙にわしょうせん密使みっしが、秀吉ひでよしのところへついて、いかなる番狂ばんくるわせが起ろうも知れず、四日とたてば、木隠こがくれ龍太郎の吉左右きっそうもわかってくる。どっちにしても、ここ二、三日のうちに果心居士かしんこじめいをはたさなければ、こんどこそ竹童、鞍馬山くらまやまからンだされるにきまっている。


 安土あづちの山は焼け山だ。
 安土の城も半分は焼けくずれている。
 岩はあかくかわき、石垣はいぶり、樹木の葉は、みなカラカラ坊主ぼうずになって黒いみきばかりが立っていた。
 その石段を、ぴょい、ぴょい、ぴょい。まるでりすのようなはやさでかけのぼっていったのは、たけがさ道中合羽どうちゅうがっぱをきて旅商人たびあきんどにばけた丹羽昌仙の密使、早足はやあし燕作えんさくだ。
 中途ちゅうとでちょっと小手をかざし、四方をながめまわして、
「ああ変るものだなあ。戦国の世の中ほど、有為転変ういてんぺんのはやいものはない。どうだい、ついこの夏までは、右大臣織田信長うだいじんおだのぶなが居城きょじょうで、この山のみどりのなかには、すばらしい金殿玉楼きんでんぎょくろうが見えてよ、金のしゃちや七じゅうのお天主てんしゅが、日本中をおさえてるようにそびえていた安土城あづちじょうだ。それが、たった一日でこのありさま。おもえば明智光秀あけちみつひでという野郎やろうも、えらい魔火まびをだしやあがったものだなア……」
 燕作えんさくでなくても、ひとたびここに立って、一ちょう幻滅げんめつをはかなみ、本能寺変ほんのうじへんいらいの、天下の狂乱をながめる者は、だれか、惟任日向守これとうひゅうがのかみ大逆たいぎゃくをにくまずにいられようか。
 けれど、その光秀みつひでじしん、悪因悪果あくいんあっか土冠どこう竹槍たけやりにあえない最期さいごをとげてしまった。で、いまではこの安土城あづちじょうのあとへ、信長のぶなが嫡孫ちゃくそん、三法師ぼうしまる清洲きよすからうつされてきて、焼けのこりの本丸ほんまるを修理し、故右大臣家こうだいじんけ跡目あとめをうけついでいる。
 だが、三法師君は、まだきわめて幼少であったため、もっぱら信長の遺業いぎょうを左右し、後見人こうけんにんとなっている者はすなわち、ここ、にわかに大鵬たいほうのかたちをあらわしてきた左少将羽柴秀吉さしょうしょうはしばひでよし。――つまり、早足はやあし燕作えんさくが、はるばる尋ねてきたその人である。
「おっと、見物は帰りみちのこと、なにしろ役目を果さないうちは気が気じゃない……」
 と燕作は、ふたたびかさふちをおさえながら、一さんに石段から石段をかけのぼっていくと、
「こらッ」
 といきなり合羽かっぱえりをつかまれた。
「へ、へい」
 とびっくりしてふりかえると、具足ぐそくをつけたさむらい――いかにも強そうな侍だ。
 やり石突いしづきをトンとついて、
「どこへいく? きさまのような町人がくるところじゃない。もどれッ」
 とにらみつけた。
 すると、くずれの土塀どべいのかげからさらに、りっぱな武将が四、五人の足軽あしがるをつれて見廻りにきたが、このていを見ると、つかつかとよってきて、
才蔵さいぞう、それは何者じゃ」
 とあごでしゃくった。
「ただいま、取り調べているところでござります」
「うむ、お城のご普請中ふしんちゅうをつけこんで、雑多ざったなやつがまぎれこむようすじゃ。びしびしとめつけて白状はくじょうさせい」
 燕作えんさくはおどろいた。
 そのびしびしのこないうちにと、あわてて密書みっしょを取りだし、
「もしもし、わたくしはけっしてあやしい人間じゃあございません。この通り秀吉ひでよしさまへ大事なご書面を持ってまいりましたもの、どうぞよろしくお取次とりつぎをねがいます。へい、これでございます」
「どれ」
 武将は受けとって、と見、こう見、やがて、うなずいてふところに入れてしまった。
「よろしい。帰っても大事ない」
「へい……」
 燕作えんさくはもじもじして、
「ですが、しつれいでございますが、あなたさまはいったい、どなたでござりましょうか、お名まえだけでもうかがっておきませんと、その……」
「それがしは秀吉公ひでよしこうの家臣、福島市松ふくしまいちまつだわ」
「あ、正則まさのりさま」
 と、燕作はとびあがって、
「それなら大安心、これでわたくしのりたというわけ。ではみなさんごめんなさいまし、さようなら」
 いま、ツイそこでおじぎをしていたかと思うまに、もう燕作のすがたは、松のがくれに小さくなって、琵琶湖びわこのほうへスタコラと歩いていた。
「おそろしい足早あしばやな男もあるもの――」
 福島正則は、家来の可児才蔵かにさいぞうと顔をあわせて、しばし、あきれたように竹ノ子がさを見送っていた。

吹針ふきばり蚕婆かいこばばあ




 うえの羽織はおりは、紺地錦こんじにしきへはなやかな桐散きりぢらし、太刀たち黄金こがねづくり、草色のかわたびをはき、茶筌髷ちゃせんまげはむらさきの糸でむすぶ。すべてはでずきな秀吉ひでよしが、いま、その姿すがたを、本丸ほんまるの一室にあらわした。
 そこでかれは、腰へ手をまわし、少しなかを丸くして、しきりにかべをにらんでいる。達磨大師だるまだいしのごとく、いつまでもあきないようすで、一心に壁とむかいあっている。
 めしをかむまもせわしがっているほどの秀吉が、にらみつめている以上、壁もただの壁ではない。たて六尺あまりよこげんのいちめんにわたって、日本全土、群雄割拠ぐんゆうかっきょのありさまを、青、赤、白、黄などで、一もく瞭然りょうぜんにしめした大地図の壁絵。――さきごろ、絵所えどころ工匠こうしょうそうがかりでうつさせたものだ。
「あるある。安土あづちなどよりはぐんとよい地形がある。まず秀吉が住むとなれば、この摂津せっつ大坂おおさかだな……」
 この地図を見ていると、秀吉はいつもむちゅうだ。青も赤も黄色も眼中にない、かれの目にはもう一色ひといろになっているのだ。
「関東には一ヵ所よい場所があるな。しかし、西国さいごく猛者もさどもをおさえるにはちと遠いぞ。――お、これが富士ふじ神州しんしゅうのまン中にくらいしているが、裾野すそのたいから、甲信越こうしんえつさかいにかけて、無人むじんの平野、山地の広さはどうだ。うむ……なかなかぶっそうな場所が多いわ」
 ひとりごとをもらしながら、若いのかじじいなのか、わからぬような顔をちょっとしかめていると、
秀吉ひでよしどの――」
 かるくなかをたたいた人がある。
「おお」
 われに返ってふりむくと、いつのまにきていたのか、それは右少将徳川家康うしょうしょうとくがわいえやすであった。
「だいぶ、ご熱心なていに見うけられまするのう」
「はッはッはははは。いやほんのたいくつまぎれ。それより家康どのには、近ごろめずらしいご登城とじょう
「ひさしく三法師ぼうしぎみにもご拝顔いたしませぬので、ただいまごきげんうかがいをすまして、おいとまをいただいてまいりました。時に、話はちがいまするが、さきごろ、秀吉どのには世にもめずらしいしなをお手にれたそうな」
「はて? なにか茶道具のるいのお話でもござりますかな」
「いやいや。武田家たけだけにつたわる天下の名宝、御旗みはた楯無たてなし二品ふたしなをお手にれたということではござりませぬか」
「あああれでござるか、いや例のこのみのくせで、求めたことは求めましたが、さて、なんに使うということもできないしなで、とんだ背負物しょいものでござる。あはははははは」
 と、秀吉ひでよしは、こともなく笑ってのけたが、家康いえやすにはいたい皮肉ひにくである。穴山梅雪あなやまばいせつに命じて、じぶんの手におさめようとしたしなを、いわば不意に、横からさらわれたような形。
 しかし、秀吉はそんな小さな皮肉のために、黄金おうごん千枚をんで買いもとめたわけでもなく、また決して、御旗みはた楯無たてなし所有慾しょゆうよくにそそられたものでもない。要は和田呂宋兵衛るそんべえという野武士のぶし潜勢力せんせいりょくを買ったのだ。
 清濁せいだくあわせむ、という筆法で、蜂須賀小六はちすかころくの一族をも、そのでんで利用した秀吉が、呂宋兵衛に目をつけたのもとうぜんである。
 かれを手なずけておいて、甲駿三遠こうすんさんえん四ヵ国の大敵、げんに目のまえにいる徳川家康を、絶えずおびやかし、時によれば、背後をつかせ、つねに間諜かんちょうの役目をさせておこう、――というのが秀吉のどん底にある計画だ。
 と、折からそこへ、
右少将うしょうしょうさまにもうしあげます。ただいま、ご家臣の本多ほんださまがお国もとからおこしあそばしました」
 と、ひとりの小侍こざむらいが取りついできた。すると、入れかわりにまたすぐと、べつな侍が両手をつき、
左少将さしょうしょうさま。福島正則ふくしままさのりさまが、ちとご別室で御意ぎょい得たいと先刻せんこくからおまちかねでござります」
 ふたりは、大地図だいちずのまえをはなれて、目礼もくれいをかわした。
「ではまた、後刻ごこくあらためてお目にかかりましょう」
 端厳たんげん麒麟きりんのごとき左少将秀吉さしょうしょうひでよし。風格、鳳凰ほうおうのような右少将家康うしょうしょういえやす。どっちも胸に大野心だいやしんをいだいて、威風いふうあたりをはらい、安土城本丸あづちじょうほんまる大廓おおくるわを右と左とにわかれていった。


野武士のぶしのうちにも人物があるぞ」
 別室にうつって、福島正則ふくしままさのりの手から密書みっしょをうけ取った秀吉ひでよしは、一読して、すぐグルグルとむぞうさにきながら、
丹羽昌仙にわしょうせんというやつ、ちょっと使えるやつじゃ。したがこの手紙の要求などをいれることはまかりならん。ほっとけ、ほっとけ」
信玄しんげんの孫、伊那丸いなまるとやらが、ふたたび、甲斐源氏かいげんじ旗揚はたあげをいたすきざしが見えると、せっかく、かれからもうしてまいったのに、そのままにいたしておいても、大事はござりますまいか」
市松いちまつ、そこが昌仙のぬからぬところじゃ。われからことに援兵えんぺいをださせて、北条ほうじょう徳川とくがわなどの領地りょうちをさわがせ、そのに乗じておのれの野心をとげんとする。――秀吉ひでよしにそんなひまはない、ちちくさい伊那丸ごとき者にほろぼされる者ならほろんでしまえ」
「では、だれか一、二名をつかわして、呂宋兵衛るそんべえのようす、また、武田伊那丸たけだいなまるの形勢などを、さぐらせて見てはいかがでござりましょうか」
「む、それはよいな。――だが、待てよ、家康いえやすの領内をこえていかにゃならぬ。腹心の者はみな顔を知られているし、そうかともうして、凡々ぼんぼん小者こものではなんの役にも立つまいのう」
「それには、屈強くっきょう新参者しんざんものがひとりござります」
「それやだれだ」
可児才蔵かにさいぞうという豪傑ごうけつでござる。わたくしじまんの家来、ちかごろのほりだし者と、ひそかに鼻を高くしておるほどの者でござりまする」
「む、山崎の合戦かっせんこのかた、そちの幕下ばっかとなった評判ひょうばんの才蔵か、おお、あれならよろしかろう」
 正則まさのりは、秀吉ひでよしのまえをさがって、やがて、このむねを可児才蔵にふくませた。
 才蔵は新参者しんざんものの身にすぎた光栄と、いさんでその夜、こっそりと鳥刺とりさ稼業かぎょうの男に変装へんそうした。そしてもち竿ざお一本肩にかけ安土あづちの城をあかつきに抜けて、富岳ふがくの国へ道をいそぐ――
 ずっと後年こうねん――関ヶ原のえきに、剣頭にあげた首のかずを知らず、斬ってはささの枝にさし、斬っては笹にしたところから、「ささ才蔵さいぞう」と一世に武名をうたわれた評判男は、いよいよこれから、武田伊那丸の身辺に近づこうとする変装へんそうの鳥刺し、この可児才蔵であった。
 剣道は卜伝ぼくでんの父塚原土佐守つかはらとさのかみ直弟子じきでし相弟子あいでしの小太郎と同格といわれた腕、やり天性てんせい得意とする可児才蔵かにさいぞうが、それとはもつかぬもち竿ざおをかついで頭巾ずきんそでなしの鳥刺とりさし姿。
「ピピピピッ、……ピョロッ、ピョロ、ピョロ……」
 時々は、吹きたくない鳥呼笛とりよびぶえをふき、たまには、すずめあとをおっかけたりして、東海道の関所せきしょから、関所を、たくみに切りぬけてくるうちに、これはどうだろう、かほどたくみに変装へんそうしたかれを、もうひとりの男が、見えつかくれつ、あとをつけて、したっていく。
 ところが、世の中はゆだんがならない、その男はとちゅうからつけだしたのではなく、じつは、安土あづちの城からくっついてきているのだ。
 同じ日に、浜松から安土あづちへきた家康いえやすの家臣、徳川四天王てんのうのひとり本多忠勝ほんだただかつが、こッそりその男をつけさせた。――というのは、竹ノ子がさ燕作えんさくが、正則まさのり密書みっしょをわたしたようすを、休息所のまどから、とっくりにらんでいたのである。
「はてな?」小首をかしげた忠勝ただかつは、主人家康と面談をすましてから、とものなかにいる菊池半助きくちはんすけという者をひそかによんだ。そしてなにかささやくと、半助はまたどこかへか立ち去った。
 この菊池半助も、前身は伊賀いが野武士のぶしであったが、わけあって徳川家とくがわけに見いだされ、いまでは忍術組にんじゅつぐみ組頭くみがしらをつとめている。いわゆる、徳川時代の名物、伊賀者いがもの元祖がんそは、この菊池半助きくちはんすけと、柘植半之丞つげはんのじょう服部小源太はっとりこげんたの三がらす。そのひとりである半助が、忍術にんじゅつけているのはあたりまえ、あらためてここにいう要がない。したがって偽鳥刺にせとりさしの可児才蔵かにさいぞうの後をつけ、落ちつく先の行動を見とどけるくらいな芸当は、まったく朝飯前あさめしまえの仕事だった。


ピキ ピッピキ トッピキピ
おなかがへッて北山きたやま
いもでもほッてうべえか
芋泥棒いもどろぼうにゃなりたくない
とんびッてうべえか
ヒョロヒョロ泣かれちゃべかねる
そんなら雪でもッておけ
富士の山でもかじりてえ
ピキ ピッピキ トッピキピ
 だれだろう? そも何者だろう? こんなでたらめなまずい歌を、おくめんもなく、大声でどなってくるものは。
 この村には、家はならんでいるが、ほとんど人間はいなくなっているはず。五湖、裾野すその人穴ひとあな、いたる所ではげしい斬り合があったり、流れ矢が飛んできたりしたため、善良な村の人たちは、すわ、また大戦の前駆ぜんくかと、例によって、甲州の奥ふかく逃げこんだ。
 それゆえ、秋の日和ひよりだというのに、にわとりも鳴かず、きねおともせず、あわれにも閑寂かんじゃくをきわめている。いま聞こえたへたくそな歌も、一つはこのせいで、いっそう、頓狂とんきょうにもひびいてきこえる。
「やア、こいつア、こいつアこいつアうまいものがあらあ――」
 こんどは地声じごえで、人なき村のある軒先のきさきに立ち――こういったのは竹童ちくどうである。
 かれが、目の玉をクルクルさせ、よだれをたらして見あげたのは、大きなかきの木であった。上には枝もたわわに、まだ青いのや、赤ずんできた猿柿さるがきが、七にブラさがっている。
「こッちのはしにある赤いやつはうまそうだなあ。取っちゃあ悪いかしら? かまわないかしら……?」
 いつまでも立って考えている。この姿を、果心居士かしんこじが見たら、なんとあきれるだろう。
 口に葉ッぱをくわえているところを見ると、いま、ぶえを吹きながら、へんなでまかせを歌ったのもこの竹童にそういない。いったいこの子は、お師匠ししょうさまからいいつけられている計略けいりゃくなんか、とっくにドコかへ忘れてしまっているのではないかしら、第一きょうはかんじんな、かの昇天雲しょうてんうんであるわしにも乗っていない。
「いいや、いいや。一ツや二ツくらいとってかまうもんか。かきなんか、ひとりでに、地べたからえてるものなんだ。これを取ったッて、泥棒どろぼうなんかになりゃしない」
 勝手かってなりくつをかんがえて、ぴょいと、木へ飛びつくと、これはまたあざやかなもの。なにしろ、本場ほんば鞍馬くらまの山できたえた木のぼり。するッと上がって、一番赤いかきのなっている枝先へ、鳥のようにとまッてしまった。
「べッ、しぶいや」
 びしゃッと下へたたきすてる。
「ありがたい――」
 次のは甘かったと見える。もう口なんかきいていない。さるのようにカリカリ音をさせてほおばり、たねだけを下へはきだしている。
「甘いなあ、これで一しもかかればなお甘いんだ。おいらばかりべているのはもったいない、お師匠ししょうさまにも一つべさせてあげたいな……」
 うに専念せんねん、ことばはブツブツみつぶれた寝言ねごとのようだ。このぶんなら、まだ十や十五はえそうだという顔でいると、どうしたのか竹童ちくどう、時々、チクリ、チクリと、変に顔をしかめだした。
「アいた!」とねばった手でっぺたをおさえた。
 が、またすぐう。
 木を降りるのもおしいようす。と、一口かじりかけると、またチクリ。
「ちぇッ」としたうちしてえりくびをなでた。こんどは大へん、なでた手がチクリと刺された。
「なんだろう、さっきから――」
 そッとさぐってみると、こいつはふしぎ、針だ、キラキラする二すんばかりの女の縫針ぬいばり
「あッ!」
 そのとたんに、竹童はおもわずひじをまげて顔をよけた。まえの萱葺屋根かやぶきやねの家から、るようなするどい目がキラッとこちらへ光った。
りろ、小僧こぞう!」
 見ると、百姓家ひゃくしょうやのやぶれびさしの下から、白い煙がスーッとはいあがっている。そこには、ひとりのおばあさん、あさのようなかみをうしろにたれ、なべや、糸かけを前に、腰をかけて、まゆながら、湯のなかの白い糸をほぐしだしている。


 かきの木から飛びおりた竹童ちくどうは、はじめてそこに人あるのを知って、軒先のきさきに近より、家の中をのぞいてみると、おくには雑多ざった蚕道具かいこどうぐがちらかっており、土間どまのすみのべっついのまえには、ひとりの男がうしろ向きにしゃがんで、スパリ、スパリ、煙草たばこをつけながら火を見ている。
「ごめんよ、あれ、おばあさんとこのかきの木だったのかい?」
 竹童ちくどうまゆなべをのぞきながら、たッた一つおじぎをした。
 ばあさんは、ぎょろッとした目をあげて、
「人みしりをしねえ餓鬼がきだ。なんだって、人んとこの柿をだまってぬすみさらすのじゃい」
「だからあやまってるじゃないか。ああそうそう、おいらも用があってこの村へきたんだっけ。お婆さん、どこかこのへんに、物をあきなっているうちはないかしらなあ」
「でまかせをこけ。この村には、ここともう一けん鍛冶屋かじやよりほかに人はいやしない。そんなことは承知しょうちのうえで、柿泥棒かきどろぼうにきやがったくせにして」
「ほんとだ、おいらまったく買いたい物があってきたんだ。お婆さんとこにあったらゆずってくんないか」
「なんだい」
松明たいまつさ」
「松明?」
「アア、二十本ばかりほしいんだがなあ」
「餓鬼のくせに、松明なんかなんにするだ」
「ちょッといることがあるんだよ。おばあさんのうちに持ちあわせはないかね」
「ねえッ、そんなものは!」
 といった婆さんの顔を見て、竹童は「あッ」と叫んでしまった。お婆さんの口の中で光った物があったのだ。三、四本の乱杭歯らんぐいばの間を、でたりはいったりしているのは、たしかに四、五十本の縫針ぬいばりだ。
 これだ!
 さっき柿の木の上まで飛んできてっぺたをした針は――竹童はむッとした。
「たぬきばばあ。もう、松明たいまつなんかたのまない!」
「なんだと、この小僧こぞう
「よくも、おいらをさんざんなやめやがったなッ」
 いきなり腰の棒切ぼうきれを抜いてふりかぶり、蚕婆かいこばばあの肩をピシリと打っていったせつな、あら奇怪、身をかわしたばばあの口から、ピラピラピラピラピラピラピラ糸のような細い光線となって、竹童のめんへ吹きつけてきたふくばり
 これこそ、剣、やり薙刀なぎなたの武術のほかのかくしわざ吹針ふきばりじゅつということを、竹童も、話には聞いていたが、であったのは、きょうがはじめてである。
「その時に、目に気をつけろ、敵の目をとるのが吹針の極意ごくい」と、かねて聞いていたので、竹童はハッとして、とっさに顔をそむけて飛びのいた。


 その時だった。
 竹童ちくどう蚕婆かいこばばあ問答もんどうをよそにべっついの火にむかって煙草たばこをくゆらしていた脚絆きゃはんわらじの男が、ふいに戸外おもてへ飛びだしてきた。
 男は、やにわに、竹童の首ッ玉へ、うしろから太腕を引っかけて、かんぬきしばりに、しばりあげた。
鞍馬山くらまやま小僧こぞう、いいところであった!」
「くッ、くッ……」
 竹童はのどをひッかけられて声がでない。顔ばかりをまッにし、喉首のどくびの手を、むちゃくちゃにひッかいた。
「ちッ、畜生ちくしょう。きょうばかりはのがしゃしねえ」
「だれだいッ、くッくくくくるしい」
「ざまあみやがれ。っぽけなぶんざいをしやがって、よくも武田伊那丸たけだいなまる諜者ちょうじゃになって、人穴ひとあなへ飛びこみ、おかしらはじめ、多くの者をたぶらかしやがったな。その返報へんぽうだ、こうしてやる! こうしてやる」
 と、なぐりつけた。
「くそウ! おいらだって、こうなりゃ鞍馬山の竹童だ」
 と、ぼつぜんと、竹童ちくどうもはんぱつした。
 なりこそちいさいが、必死の力をだすと、大人おとなもおよばぬくらい、ねじつけられているからだをもがいて、男の鼻とくちびるへ指をつッこみ、わしのようにつめを立てた。
「あッ」
 これにはさすがの男も、ややたじたじとしたらしい。ゆだんを見すまし、竹童は腕のゆるみをふりほどくが早いか一もくさん――
「おまえみたいなしたに、からかってなんかいられるもんかい!」
 すてぜりふをいって、あとをも見ずに逃げだした。
「バカ野郎やろう
 男は割合わりあいに落ちついて見送っている。
「そうだそうだ。もッと十町でも二十町でも先に逃げてゆけ、はばかりながら、てめえなんかに追いつくにゃ、この燕作えんさくさまにはひと飛びなんだ」
 この男こそ、燕作だった。さてこそ、竹童を伊那丸いなまるの手先と見て、組みついたはず。
 かれは、首尾しゅびよく、丹羽昌仙にわしょうせんの密書をとどけて、ここまで帰ってきたものの、人穴ひとあな城の洞門どうもんはかたくめられ、そこここには伊那丸の一とうが見張っているので、山寨さんさいへも帰るに帰られず、蚕婆かいこばばあうちにかくれていたものらしい。
「あの竹童のやつをひっらえていったら、さだめし呂宋兵衛るそんべえさまもお喜びになるだろうし、おれにとってもいい出世しゅっせ仕事だ。どれ、一つ追いついて、ふんづかまえてくれようか」
 いうかと思うまに、もう燕作えんさくは、つぶてのとんでいくように走っていた。それを見るとなるほど稀代きたい早足はやあしで、日ごろかれが、胸にかさをあててければ、笠を落とすことはないと自慢しているとおり、ほとんど、かかとが地についているとは見えない。
 竹童ちくどうも、逃げに逃げた。折角村おりかどむらからひるたけすそって街道にそって、足のかぎり、こんかぎり、ドンドンドンドンかけだして、さて、
「もうたいがい大じょうぶだろう――」と立ちどまり、ひょいとあとをふりかえってみると、とんでもないこと、もうすぐうしろへ追いついてきている。
「あッ」またかける。燕作もいちだんと足を早めながら、
「やあい、竹童。いくら逃げてもおれのまえをかけるのはむだなこッたぞ」
「おどろいた早足だな、早いな、早いな、早いな」
 さすがの竹童も敵ながら感心しているうちに、とうとう、ふたたび燕作のふと腕が、竹童のえりがみをつかんで、ドスンとあおむけざまに引っくりかえした。
 そこは、釜無川かまなしがわしも富士川ふじがわかみ蘆山あしやま河原かわらに近いところである。燕作は、思いのほかすばしッこい竹童をもてあまして、手捕てどりにすることをだんねんした。そのかわり、かれはにわかにすごい殺気を眉間みけんにみなぎらせ、
「めんどうくせえ、いッそ首にして呂宋兵衛るそんべえさまへおそなえするから覚悟かくごをしろ」とわめいた。
 ひきぬいたのは、二尺四寸の道中差どうちゅうざし、竹童はぎょッとしてはね返った。とすぐに、するどい太刀風たちかぜがかれのみみたぶから鼻ばしらのへんをブーンとかすった。
 哀れ竹童、組打ちならまだしも、くらべならまだしものこと――真剣しんけん白刃交しらはまぜをするには、悲しいかな、まだそれだけの骨組もできていず、剣をとってのわざもなし、第一、腰に差してる刀というのが、頼みすくないかし棒切ぼうきれだ。

石投いしなげの名人めいじん




 秋の水がつめたくなって、はや山魚やまめもいなくなったいまじぶん、なにをる気か、ひとりの少年が、蘆川あしかわとろにむかって、いとをたれていた。
 少年、年のころは十五、六。
 すこし低能ていのうな顔だちだが、目だけはずるく光っている。とりみたいな髪の毛をわらでむすび、まッ黒によごれた山袴やまばかまをはいて、腰にはさやのこわれを、あけびつるでまいた山刀一本さしていた。
「ちぇッ、釣れねえつれねえ、もうやめた!」
 とうとう、かんしゃくを起したとみえて、いきなり竿さおをビシビシと折って、蘆川あしかわのながれへ投げすてた。
「あ、とろの岩にせきれいが遊んでいやがる。そうだ、これからは鳥うちだ、ひとつ小手しらべにけいこしてやろうか」
 と、足もとの小石を三つ四つ拾いとったかと思うと、はるか、流れの中ほどをねらって、おそろしく熟練じゅくれんしたつぶてを投げはじめた。
「やッ――」と、小石に気合いがかかって飛んでいく。
 と見るまに、二のせきれいのうち、一羽がとろの水に落ちて、うつくしい波紋はもんをクルクルとえがきながら早瀬はやせのほうへおぼれていった。
「どんなもんだい。蛾次郎がじろうさまの腕まえは――」
 かれはひとりで鼻うごめかしたが、もうねらうべきものが見あたらないので、こんどは、たくみな水切りの芸をはじめた。一つの小石が、かれの手からはなれるとともに、なめらかな水面を、ツイッ、ツイッ、ツイッと水を切ってはび、切ってはぶ、まるで、小石が千鳥ちどりとなって波をっていくよう。
「七つ切れた! こんどは十!」
 調子ちょうしにのって、蛾次郎がわれをわすれているときだ。
 そこから二、三町はなれたところの河原かわらで、ただならぬさけび声がおこった。かれはふいに耳をたって、四、五けんばかりかけだしてながめると、いましも、ひとりの兇漢きょうかんが、皎々こうこうたる白刃はくじんをふりかぶって、ッぽけな小僧こぞうをまッ二つと斬りかけている。
 それは、燕作えんさくと、竹童ちくどうだった。
 竹童はいまや必死のところ、かし棒切ぼうきれを風車かざぐるまのようにふって、燕作の真剣しんけんと火を飛ばしてたたかっているのだ。しかし、大の男のするどい太刀たちかぜは、かれに目瞬まばたきするすきも与えず、斬り立ててきた。あわや、竹童は血煙とともにそこへ命を落としたかと見えたが、
「あッ――」
 ふいに燕作が、くちびるをおさえながら、タジタジとよろけた。どこからか、風を切って飛んできた小石に打たれたのである。
「しめた!」と、竹童は小さなからだをおどらせて、ピシリッと、燕作のみみたぶをぶんなぐった。
野郎やろうッ!」
 怒髪どはつをさかだてて、ふたたび太刀を持ちなおすと、またブーンとかれの小手へあたった第二のつぶて
「アいたッ」
 ガラリと道中差どうちゅうざしをとり落としたが、さすがの燕作も、それを拾いとって、ふたたび立ち直る勇気もないらしい。笑止しょうしや、四尺にたらぬ竹童にうしろを見せて、例の早足はやあし。雲をかすみと逃げだした。
「待て。意気地いくじなしめ!」
 竹童ちくどうは、急に気がつよくなって、こんどはまえと反対に、かれを追ってドンドン走りだすと、ちょうど、あなたからも河原づたいに、黒鹿毛くろかげこま疾風しっぷうのごとく飛ばしてくるひとりの勇士があった。――見るとそれは秘命をおびて、伊那丸いなまるの本陣あまたけをでた奔馬ほんば項羽こうう」。――上なる人はいうまでもなく、白衣びゃくえ木隠龍太郎こがくれりゅうたろうだ。
「や、や、あいつは伊那丸いなまるがたの武将らしいぞ」
 と、戸まどいした燕作えんさくが、その行く先でうろうろしているうちに、たちまちかけよった龍太郎りゅうたろう
「これッ」
 と、すれちがいざま、右手をのばして燕作の首すじをひっつかみ、やッと馬上へつるし上げたかとおもうと、
往来おうらいのじゃまだ!」
 手玉てだまにとってくさむらのなかへほうりこみ、そのまま走りだすと、こんどはバッタリ竹童にいき会った。
「おお、それへおいでなされたのは龍太郎さま――」
「やあ、竹童ではないか」ピタリと「項羽」の足をとめて、
「なんでこんなところでうろついているのだ。呂宋兵衛るそんべえの手下どもに見つけられたら、いのちがないぞ、はやく鞍馬山くらまやまへ立ち帰れ」
「ありがとうございますが、まだこの竹童には、お師匠ししょうさまからいいつけられている大役があるんです。ところで龍太郎さまは、これからいずれへおいそぎですか」
「されば小太郎山こたろうざんへまいって、三百人の兵をかりあつめ、ここ四日ののちに、人穴城ひとあなじょうを攻めおとす計略けいりゃく
「わたくしがやる仕事も四日目です。どうも、お師匠ししょうさまのおさしずは、ふしぎにピタリピタリと伊那丸いなまるさまの計略と一致するのがみょうでございます」
「ふーむ……してその密計とはどんなことだ?」
天機てんきもらすべからず。――しゃべるとお師匠ししょうさまからお目玉をいます。それよりあなたこそ、どうして三百人という兵がわずか四日で集められますか、まさかわら人形でもありますまいに」
「それも、軍機ぐんきは語るべからずじゃ」
「あ、しっぺ返しでございますか」
「オオ、そんなのんきな問答をいたしている場合ではない、竹童ちくどうさらば!」
 と、ふいにむちをあげて、行く手をいそぎだそうとすると何者か、
「ばかだな、ばかだなあ! あの人はいったいどこへいくつもりなんだい!」とあざわらう声がする。
 木隠龍太郎こがくれりゅうたろうも竹童も、そのことばにびっくりしてふりかえると、石投げをしていた蛾次郎がじろうがいつかのっそりそこに立っていた。

隠密落おんみつおとし




拙者せっしゃをバカともうしたのはきさまだな」
 龍太郎りゅうたろうがにらみつけると、蛾次郎がじろうはいっこうにこたえのないふうで、ゲタゲタと笑いながら、
「ああおれだよ」
「ふらちなやつ、なんでさようなことをぬかした」
「だっておさむらいさんは、小太郎山こたろうざんへいくんだっていうのに、とんでもないほうへ馬の首をむけていそぎだしたから笑ったんだ」
「ふーむ、ではこっちへむかっていってはわるいか」
「悪いことはないけれど、この蘆川あしかわを大まわりして、甲州街道かいどうをグルリとまわった日には、半日もよけいな道を歩かなけりゃならない。それより、この川を乗っきって駿州路すんしゅうじを左にぬけ、野之瀬ののせ、丸山、わしとでて、野呂川のろがわを見さえすれば、すぐそこが、小太郎山じゃないか」
 と、すこし抜けている蛾次郎も、住みなれた土地の地理だけに、くわしくべんじた。
「なるほど、これは拙者せっしゃがこのへんに暗いため、無益むえき遠路とおみちにつかれていたかも知れぬ。しかし、この激流を、馬で乗っきる場所があろうか」
「あるとも、水馬すいばさえ達者たっしゃなら、らくらくとこせるとろがある。ここだよ、おさむらいさん――」
 と蛾次郎がじろうはまえに水切りをやっていたところを教えた。
「む。なるほど、ここは深そうだ、川幅かわはばも四、五十けん、これくらいなところなら乗っ切れぬこともあるまい」
 と龍太郎はよろこんで、浅瀬あさせから項羽こううを乗りいれ、ザブザブ、ザブ……と水を切っていくうちに紺碧こんぺきとろをあざやかに乗りきって、たちまち向こう岸へ泳ぎ着いてしまった。
「ありがとう」
 と、それを見送るとほッとしたさまで、竹童ちくどうが礼をいうと、蛾次郎がじろうはクスンと笑って、
「なにがありがてえんだ、おめえに教えてやったわけじゃあない」といった。
 竹童はじぶんより三歳か四歳上らしい蛾次郎を見上げて、へんなやつだとおもった。
「そのことじゃないよ、さっきおいらが悪いやつに、あやうく殺されそうになったところを、石を投げてがしてくれたから、そのれいをいったのさ」
「あんなことはお茶の子だ、こう見えてもおれは石投げ蛾次郎といわれるくらい、つぶてを打つのは名人なんだぜ」
 と、ボロざやの刀をひねくッて、竹童ちくどうに見せびらかした。
蛾次郎がじろうさんのうちはどこだい?」
「おれか、おれは裾野すその折角村おりかどむらだ、だがいまあの村には、桑畑くわばたけ蚕婆かいこばばあと、おれの親方だけしか住んでいないから人無村ひとなしむらというほうがほんとうだ」
「親方っていう人は、あの村でなにをしているんだい」
「知らねえのかおめえは、おれの親方は、鼻かけ卜斎ぼくさいっていう有名な鏃鍛冶やじりかじだよ。おれの親方のった矢の根は、南蛮鉄なんばんてつでも射抜いぬいてしまうってんで、ほうぼうの大名だいみょうから何万ていう仕事がきているんだ。おれはそこの秘蔵ひぞう弟子だ」
えらいなあ――」竹童ちくどうはわざと仰山ぎょうさんに感心して、
「じゃ、蛾次郎さんとこには、松明たいまつなんかくさるほどあるだろうな」
「あるとも、あんなものならまきにするほどあらあ」
「おいらに二十本ばかりそっとくれないか」
「やってもいいけれど、そのかわりおれになにをくれる」
 と蛾次郎はずるい目を光らした。
 竹童はとうわくした。お金もない。刀もない。なんにもない。持っているのは相変らずの棒切れ一本だ。そこで、
「おれいには、わしに乗せて遊ばしてやら。ね、わしにのって天をけるんだぜ。こんなおもしろいことはない」
 といった。
「ほんとうかい、おい!」蛾次郎がじろうは、目の玉をグルグルさせた。
「うそなんかいうものか、松明たいまつさえ持ってきてくれれば乗せてやる。そのかわり夜でなくッちゃいけない」
「おれも夜の方がつごうがいい。そしておまえはどこに待っている?」
白旗しらはたみやの森で待ってら、まちがいなくくるかい」
「いくとも! じゃ今夜、松明たいまつを二十本持っていったら、きっとわしに乗せてくれるだろうな、うそをいうと承知しょうちしないぜ、おい! おれは切れる刀を差しているんだからな」
 と、またあけびまき山刀やまがたな自慢じまんした。


 木隠龍太郎こがくれりゅうたろうのために、河原かわらへ投げつけられた燕作えんさくは、気をうしなってたおれていたが、ふとだれかに介抱かいほうされて正気しょうきづくと、鳥刺とりさ姿すがたの男が、
「どうだ、気がついたか」
 とそばの岩に腰かけている。見れば、つい四、五日前に安土城あづちじょうで、じぶんの手から密書みっしょをわたした福島正則ふくしままさのりの家来可児才蔵かにさいぞうである。
 燕作はあっけにとられて、
「あ、いつのまにこんなところへ」と、思わず目をみはった。
「しッ、大きな声をいたすな、じつは、秀吉公ひでよしこう密命みつめいをうけて、武田伊那丸たけだいなまるとのいくさのもようを見にまいったのだ、ところで、さっそく丹羽昌仙にわしょうせんに会いたいが、そのほう、これより人穴城ひとあなじょうのなかへあんないいたせ」
「とてもむずかしゅうございます。敵は小人数こにんずながら、小幡民部こばたみんぶという軍配ぐんばいのきくやつがいて、ありものがさぬほど厳重げんじゅうに見張っているところですから」
「どこの城にも、秘密の間道かんどうはかならず一ヵ所はあるべきはず、そちは、それを知らぬのであろう」
「さあ、間道かんどうといえば、ことによると蚕婆かいこばばあが、知っているかもしれません。あいつは呂宋兵衛るそんべえさまの手先になって、それとなくそとのようすを城内へ通じている、裾野すその目付婆めつけばばあ、とにかくそこへいってききただして見ることにいたしましょう」
 と燕作えんさくは、可児才蔵かにさいぞうのあんないにたって、人無村ひとなしむらの蚕婆の家までもどってきた。
「おばあさん、けてくれないか、燕作えんさくだよ。燕作が帰ってきたんだから、ちょっとけておくれ」
 もう日が暮れている。
 とざした門をホトホトとたたくと、なかから婆さんがガラリとあけて、灯影ほかげに立った可児才蔵のすがたをいぶかしそうににらめすました。
「だれだい燕作さん、この人は村ではいっこう見たことがないかたじゃないか」
「このおかたは、姿こそ、変えておいでなさるが、福島正則ふくしままさのりさまのご家臣で可児才蔵かにさいぞうというお人、昌仙しょうせんさまの密書で、わざわざ安土城あづちじょうからおいでくだすったのだ」
 と説明すると、蚕婆かいこばばあはにわかに態度を変えて、下へもおかぬもてなしよう。茶をたり酒をだしたりしてすすめた。


「それはようおいでなされました。さだめし、昌仙さまのお手紙で、多くの軍兵ぐんぴょう秀吉ひでよしさまからおかしくださることになるのでございましょうね」
「いや、とにかく軍師ぐんしと会って、そうだんをしてみたうえじゃ。ところがこれなる燕作えんさくのもうすには、しょせん人穴城ひとあなじょうへは入れぬとのこと、せっかくここまでまいりながら、呂宋兵衛るそんべえどのにも軍師ぐんしにも、会わずにもどるとは残念千万せんばん
「いえいえ。そういう大事なお使者なら、たった一つ人穴城へぬけるかくしみちへ、ごあんないいたしましょう。これ燕作さん、おめえちょっと、裏表うらおもてにあやしいやつがいないかどうかあらためておくれ」
「がってんだ」と燕作が家のあたりを見まわしてきて、
「だれもあやしいような者はいない。ないているのは鹿しかぐらいなもの――」
 というと、蚕婆は、はじめて安心して、じぶんのすわっている下のむしろを、グルグルと巻きはじめた。
 おやと、燕作がびっくりしているに、さらに、二じょうじきほどな床板ゆかいたをはねあげると、えんの下は四角な井戸のように掘り下げられてあった。顔をだすと、つめたい風がふきあげてくる。
「ここをおりると、あとは人穴城ひとあなじょう地下洞門ちかどうもんのなかまで三十三町一本道でいけますのじゃ、さ、人目にかからないうちに、すこしもはやく、おこしなさるがよい」
 と蚕婆かいこばばあがせきたてると、才蔵さいぞうは、間道かんどうの口をのぞいてから、ふいと顔をあげて、
ばばあつえにして飛びこむから、長押なげしにかかっているその錆槍さびやりを、かしてくれい」
 と指さした。婆は彼のいう通り、石突いしづきをたよりに、下へりるのであろうと、なんの気なしに取って渡すと才蔵さいぞうは、
「かたじけない」
 と受けとって、ポンと、やりの石突きを下へろすかと見るまに、意外や、電光石火でんこうせっか
「やッ――」
 と一声、錆槍さびやり穂先ほさきで、いきなり真上の天井板てんじょういたを突いた。とたんに、屋根裏をけものがかけまわるような、すさまじい音が、ドタドタドタひびきまわった。
「やッ、なんだ――」
 と蚕婆と燕作が、飛びあがっておどろくうちに、才蔵は、すばやく間道かんどうのなかへ姿をかくして、下からあおむいて笑っている。
「おどろくことはない、天井うらにしのんでいたやつは、徳川家とくがわけ菊池半助きくちはんすけだ、これで隠密落おんみつおとしの禁厭まじないがすんだから、もう安心。燕作えんさく、はやくこい!」
「じゃあばあさん、あとはたのむよ」
 と燕作もつづいてなかへ姿をけした。その足音が地の下へとおざかるのを聞きながら、蚕婆かいこばばあはすぐもとのとおり床板ゆかいたむしろきつめ、壁にかかっている獣捕けものとりの投げなわをつかむが早いか、いきなりおもてへ飛びだした。
「いやがった!」
 かがりのような目をぎすまして、あなたこなたを見まわした蚕婆は、ふと、七、八けんさきのやみのなかで、なにやらうごめいている人影を見つけて、じっとねらった。
 と――それはまぎれもなく、天井裏てんじょううらひざを突かれた曲者くせものが、小川の水で傷手いたでを洗っているのだ。頭から足のさきまで、からすのように黒装束くろしょうぞくをした隠密おんみつの男、すなわち徳川家とくがわけからまわされた菊池半助きくちはんすけ
「おうッ!」
 ふいにえるような蚕婆の声とともに、さすがは半助、足の痛手いたでを忘れて、ポーンと小川をびこえたが、よりはやく、やみのなかを飛んできた投げなわの輪が無残、五体にからんでザブーンと、水のなかへりおとされてしまった。

はなかけ卜斎ぼくさいむし蛾次郎がじろう




 さすが伊賀衆いがしゅう三羽烏さんばがらす菊池半助きくちはんすけも、可児才蔵かにさいぞうにみやぶられて、錆槍さびやり穂先ほさきひざにうけ、そのうえ、投げなわにかかって五体の自由をうばわれては、どうすることもできない。
「ざまをみさらせ! いのち知らずが」
 蚕婆かいこばばあが毒づきながら、縄のまま半助をひきずってきて、いえの前のかきの木へグルグルきにしばってしまった。
「夜明けまでに、手間てまいらずの法で殺してやる。うぬばかりでなく、この村へ隠密おんみつにはいる者はみんなこうだ」
 蚕婆は、やがてれ木を集めてきて、半助はんすけの身辺にみあげ、端のほうから火をつけてメラメラと燃えあがったのを見ると、そのままうちへはいって寝てしまった。
 ほのおがたっても、はじめのうちは覆面ふくめんや衣類がぬれていたので、しばらくさまでは思わなかったが、やがて衣類がかわき、れ木の火焔かえんが、パチパチと夜風にあおり立てられてくるにつれて、菊池半助は焦熱地獄しょうねつじごくの苦しみ。
「アッ、アッ、アアアアア」
 おもわず悲鳴をあげて、必死に縄を切ろうともだえていた。――すると、その火の手を見て、いっさんにかけてきたのは、鏃鍛冶やじりかじ卜斎ぼくさいの弟子蛾次郎がじろうであった。
「おうそこへまいったもの、はやく拙者せっしゃ脇差わきざしをぬいてこの縄を切ってくれ、早く、早く!」
「やあどうしたんだおさむらいさんは? 死んじまうぞ。死んじまうぞ」
「はやくしてくれ、早く助けてくれい」
「助けてやったら、なにをくれる?」
 石投げの天才のほか、仕事も下手へた、ものおぼえも悪く、すこし足らない蛾次郎がじろうだが、よくにかけては、ぬけめがない、半助はんすけは一ときの熱苦もたまらず、うめきながら、
「なんでもつかわすからはやく、アッ、あッツツツ」
「よし、きっとだぜ」
 念を押しながら飛びこんで、蛾次郎がじろうれ木の火をちらし、山刀やまがたなをぬいて半助の縄目なわめをぶっつり切った。火のなかからびだした半助は、ほッとして大地へたおれたが、やにわにまた足の痛手いたでを忘れておどりたった。
「わるいところへ、またあなたからあやしい人の足音がしてまいった。おい、おれに肩をかせ、そして、しばらく休息するところまで連れてゆけ。褒美ほうびはのぞみしだいにやろう」
「じゃ、おれの親方のうちでもいいかい」
「頼む、あれ、あれ、もう軍馬のひづめがまぢかにせまる」
「たいへんだ! ことによるとあまたけに陣どっている者たちがくだってきたのかも知れないぞ」
 蛾次郎がじろうもにわかにあわてだして、半助のからだを背負せおって、一目散いちもくさんにそこを立ちさった。すると、たった一足ひとあしちがいに、あらしのように殺到した一だんの軍馬があった。
「それ、常からあやしい蚕婆かいこばばあいえをあらためろ!」
「戸をやぶってなかへ、ンごめッ」
 馬上から十四、五人の武士に、はげしく下知げちをしたふたりの武士、これなん、伊那丸いなまる幕下ばっかでも、荒武者あらむしゃ双龍そうりゅうといわれている加賀見忍剣かがみにんけん巽小文治たつみこぶんじのふたり。
「おう!」
 と部下は武者声むしゃごえをあげるやいなや、蚕婆の家の裏表うらおもてから、メリメリッ、バリバリッと戸をみやぶっておどりこんだ。が、なかは暗澹あんたん、どこをさがしても、人かげらしい者は、見あたらなかった。
 と、聞いた忍剣は、
「いや、そんなはずはない。たしかにあやしい男と老婆ろうばとが、密談みつだんいたしていたのを、間諜かんちょうの者が見とどけたとある。この上は自身であらためてくれる」
 と禅杖ぜんじょうをひっかかえひらりと馬を飛びおり、巽小文治とともに、家の中へはいっていって八方家探やさがししたが、部下のことばのとおり、何者もひそんでいなかった。
「ふしぎだ――」
 小文治は、そこにもぬけのからとなっている寝床ねどこへ手を入れてみて、
「このとおり、まだ人のぬくみがある。さすれば、いよいよ逃げた者こそ、あやしい曲者くせものにそういない」
「む、では寝床のわきの床板ゆかいたをはねあげてみよう」
 と、忍剣にんけんが先にたって、むしろを巻き、板をはいでみるとたちまち、一けん四方の間道かんどうの口が、奈落ならくの門のごとく一同の目にうつった。
「おお、これこそ人穴城ひとあなじょうへ通じる間道かんどうにそういない」
「しめた! その方どもはこの口もとをまもっていて、あやしい者が逃げまいったら、かならずりにがさぬように見張っておれ」
 と、いいのこして、忍剣は禅杖ぜんじょうをひっかかえ、小文治こぶんじやりの石突きをトンと下ろして、ともにまッ暗な間道のなかへとびこんでいった。
 あとにのこった部下の者は、ひとしく間道口かんどうぐちに目と耳をぎすまして、いまに、なにかかわった物音がつたわってくるか、あやしいやつが飛びだしてくるかと、夜もすがら、ゆだんもなかった。


 菊池半助きくちはんすけを肩にかけて、まっ暗な人無村ひとなしむらをかけていった蛾次郎がじろうは、やがて、おおきな荒屋敷あれやしきの門へはいった。
 見ると、そこが卜斎ぼくさい細工小屋さいくごやか、東のすみにぽッと明るいほのおがみえて、トンカン、トンカン、つち鉄敷かなしきのひびきがしている。そしてときどき、小屋のなかから白い煙とともに、シューッとふいごの火のがふきだしていた。
「親方、お客さまをつれてきた、旅のお侍さんで、けがをして難渋なんじゅうしているんだから、今夜とめてやっておくんなさい」
 蛾次郎がじろうがおどおどしながら、細工場さいくばのとなりの雨戸をあけて、ひろい土間へはいると、手燭てしょくをもって奥からつかつかとでてきたのは、主人の卜斎ぼくさいであろう。陣羽織じんばおりのようなかわそでなしに、鮫柄さめづかの小刀を一本さし、年は四十がらみ、両眼するどく、おまけに、仕事場で火傷やけどでもしたけがか、片鼻かたはなが、そげたようにけている。
 人呼んで、鼻かけ卜斎ぼくさい綽名あだなしている名人の鏃師やじりし。なにさま、ひとくせありそうな人物である。
蛾次公がじこう、昼間からどこをうろつきまわっているのだ。このバカ野郎やろうめ!」
 卜斎ぼくさいは、つれてきた半助などには目もくれず、頭からこのなまけ者の抜け作などとどなりつけて、さんざん油をしぼったあげく、
「それに、あとで聞けば、てめえは、夕方、物置小屋から二、三十本の松明たいまつをぬすみだしていったそうだが、いったい、そんな物をどこへ持ちだして、なんのために使ったのだ。うそをいうとこれだぞ!」
 いきなり弓の折れを持って、羽目板はめいたをピシリッとうった。その音のはげしいこと、蛾次郎のふるえあがったのはむろん、菊池半助きくちはんすけさえ度胆どぎもを抜かれた。
 卜斎はその時はじめて、半助のほうへ気をかねて、
「まあよいわ、お客人がいるから、てめえの詮議せんぎはあとにしよう。ときに旅のお武家さま、なにしろ今夜はけておりますから、この上の中二階へあがって、ごゆるりとお休みなさるがいい。そこに夜具やぐもある、火のもある、ものもある、男世帯おとこじょたいの屋敷ですから、きにしてお泊りなさい」
「かたじけない、ではお言葉にあまえて夜明けまで……」
 と、半助はそこにいるのも気まずいので、びっこを引きながら、おしえられた中二階の梯子はしごを、ギシリ、ギシリと踏んでいった。
「はてな……」と、梯子をあがりながら一つの疑念――「どこかで見たことのある男だが? ……ただの鏃師やじりしではない、たしかにどこかで? ……」と、しきりに思いなやんだが、とうとう、中二階へあがるまで考えだせなかった。
 卜斎ぼくさいにいわれたまま、押入れから蒲団ふとんをだして、そのうえに身を横たえながら、ひざ槍傷やりきずぬのでまきつけていると、また、すぐ下の土間どまであらあらしい声が起りはじめた。
野郎やろう、どうあってもいわぬな! いわなければ、こうだッ」
 弓の折れがヒュッと鳴ると、蛾次郎がじろうがオイオイと声をあげて泣きだした。まるで七つか八つの子供が泣くような声で泣いている。
「いいます、親方、いいますからかんべんしてください」
「では、何者にたのまれて、松明たいまつを盗みだした。さ、ぬかせ」
白旗しらはたの森にいる、竹童ちくどうというわたしより五歳いつつばかり下のわっぱにたのまれたんです。その者にやりました」
「あきれかえったバカ者だ。じぶんより年下の餓鬼がきに、手先に使われるとは情けないやつ、しかし、てめえもなにかもらったろう。ただで松明たいまつをやるはずがない」
「いいえ、なんにももらいなんかしやしません」
「まだいいぬけをしやがるか!」
 またピシリッと弓の折れがうなる、蛾次郎がじろうがヒイヒイと泣く、すぐその上にいる菊池半助は、これではとても今夜は寝られないと思った。
 それに気をいらいらさせられたか、かれは寝床からはいだして、ふたたび梯子口はしごぐちからコマねずみのようにそッと顔をだした。そのとき、半助ははじめて、卜斎ぼくさい姿容すがたかたちを、よく見ることができて、思わず、
「あッ」と、すべりでそうな声をかみころした。
「どこかで見たと思ったはず――あれは、越前えちぜんきたしょうあるじ柴田権六勝家しばたごんろくかついえの腹心だ――おお、鏃師やじりしの鼻かけ卜斎ぼくさいとは、よくもたくみにけたりな、まことは、鬼柴田おにしばたつめといわれた上部八風斎かんべはっぷうさいという軍師ぐんし築城ちくじょう大家たいか。いつも柴田権六が、攻略の軍をだすときに、そのまえから敵の領土へ住みこんで、とりでのかまえ、水利、地の理、残るくまなくさぐって、一挙に掌握しょうあくするという、おそろしい人物だ。――その八風斎がこの裾野すそのを作ったところをみると、さては、野心のふかい柴田勝家、はやくも天下をこころざす足がかりに、この一たいへ目をつけたものだろう。武田伊那丸たけだいなまるといい呂宋兵衛るそんべえといい、また秀吉ひでよしの手の者が入りこんだことといい、いちいち徳川家とくがわけ大凶兆だいきょうちょう。こりゃ、裾野すそのたいいよいよゆだんのならぬものばかりだ……」
 半助は、耳をたたみにこすりつけて、さらに、階下かいかの声を一語も聞きもらすまいと息をのんでいた。と、下ではまた卜斎ぼくさいの声で、
「なに? ではその竹童ちくどうというわっぱに、二十本の松明たいまつをくれて、そのかわりにわしにのせてもらったというのか。やい! 泣きじゃくってばかりいたのではわからぬわい。はっきりと口をきけ」
「そ、そうなんです……」
 ベソをかきながら答えてるのは蛾次郎がじろうの声だ。
「松明を持っていったら、そのおれいに大きな鷲の背なかへ乗せてくれましたから、白旗しらはたの森の上から空へあがって、五湖や裾野すそのの上をグルグルとまわってまいりました」
「そうか、それでしさいがわかった」
 と卜斎はうなずいて、なお、竹童のようすや、鷲のことなどをつぶさにただしたから、蛾次郎はゆるされるのかと思っていると、荒縄あらなわで両手をしばりあげたまま、松明をぬすみだした物置小屋のなかへ三日間の監禁かんきんをいいわたされてほうりこまれてしまった。
 そのあとは、卜斎も寝入り、細工さいく小屋の槌音つちおともやんでシーンと真夜中の静けさにかえったが、半助だけは、うすい蒲団ふとんをかぶって横になりながらも、まだ寝もやらず目をパチパチとさせていた。
わし、鷲! 竹童というやつが、自由自在につかう飛行の大鷲! おお、そいつを一つ巻きあげて、こんどの手柄てがらとしてかえろう……」
 とかれは、ふと思いついた胸中の奇策きさくに、ニタリとえつをもらしたが、そのとき、なんの気なしに天井てんじょうを見あげるやいな、かれは、全身の血を氷のごとくつめたくして、
「や、や、やッ」と、目をむいて、ふるえあがった。


 菊池半助きくちはんすけが、身をすくませたのも道理、中二階の天井てんじょうには、いちめんの鉄板てっぱんが張ってあって、それに、氷柱つららのような、無数のやじりが植えてあるのだ。
 剣のッ先よりするどい鏃は、ちょうど、あおむけになっている半助の真上に、ドギドギとぶきみな光をならべている。おお、もしその鉄板が、いちどおちてこようものなら、いかに隠身おんしん自由、怪力無双かいりきむそうなものでも、五体ははちとなって圧死あっししてしまうであろう。
天井てんじょう――」
 半助は、とっさに壁ぎわへ、身をすりよせた。
 このおそろしい部屋へじぶんをあんないしたからには鼻かけ卜斎ぼくさい八風斎はっぷうさいは、すでに徳川家の伊賀衆いがしゅう菊池半助ということを見破ったにそういない――と半助は、こころみに梯子口はしごぐちをのぞいてみると、はたしていつのまにか梯子はとりはずされて、下には、あやしい陥穽おとしあなせてあるようす、ほかに出口はむろんない。
 半助は絶体絶命ぜったいぜつめいとなった。
 けれど五本の指と二本の足が、ままになる以上、こんなことで、おめおめいのちをおとすような菊池半助ではない。
 かれは脇差わきざしをぬいて、いきなり、あっちこっちの壁をズブズブとつき刺した。そしてそとへ通じるところをさぐりあて、たちまち二尺四方ぐらいのあなを切りぬいたかとおもうと、ほとんど、ねこ障子しょうじの穴をすりぬけるようにするりと身をはいだして、一じょう四、五しゃくの上から大地へポンとびおりた。そして、
「ここだな……」と、すすり泣きのもれている物置小屋の戸をねじあけて、なかにいる蛾次郎がじろうを助けだした。
「あッ、お武家さん――」
 蛾次郎が頓狂とんきょうな声をだす口をおさえて、
「しずかにせい。さっきそのほうがおれをたすけてくれた返礼に、こんどはきさまを救ってやる。徳川家へまいれば伊賀衆いがしゅう組頭くみがしら、いくらでも取り立ててやるから一しょについてくるがいい」
「あ、ありがとう。おれもこんなやかましい親方にくッついているのはいやでいやでたまらないんだ」
「む、卜斎ぼくさい気取けどられぬうち、そッと馬小屋から足のはやいのを一ぴきひっぱりだしてこい」
「いいとも、馬ぐらい盗みだすのは、ぞうさもないよ」
 蛾次郎がじろうやみのなかへ飛んでいくと、そのとたんに半助はんすけのあたまの上で、ドドドドスン! というすさまじい家鳴やな震動しんどう。ふりあおいでみると、いまかれがのがれだした壁の穴から、濛々もうもうたる土煙がきだしている。
「おれがここへ抜けだしているのに、卜斎めが天井てんじょうつなを切ったんだろう。そんなつぼにおちるような者は、伊賀衆いがしゅうの中には一ぴきもいるもんか」
 せせら笑っていると、ふいに、いえのなかから轟然ごうぜんたる爆音とともに、火蓋ひぶたを切った種子島たねがしまのねらいち。
「あッ、気がついたな、こいつはぶっそうだ」
 バラバラとかけだしていくと、暗闇くらやみから牛をひきだしたということわざどおり蛾次郎のうろたえよう。
「おさむらいさん、――お侍さんじゃないのかい」
「おれだおれだ、馬は? 馬はどこにいる?」
「ここだよ、馬を盗みだしてきたところだ」
「どこだ、アア、まっ暗。どこにいるのじゃ」
「ここだよ、ここだよ」
 と蛾次郎がじろうが手をたたくと、そのおとをたよりにねらった鉄砲てっぽうたまが、またも、つづけざまに、二、三発、ズドンズドン! と火のしまを走らせた。
「わあッ、だめだ、あぶねえ!」
 ふいに、蛾次郎がきもをつぶして腰を抜かしたらしい弱音よわね
「えい、泣くなッ」
 としかりつけた菊池半助きくちはんすけ。いったい、この厄介者やっかいものをなんに利用しようとするのか、むんずと横脇よこわきにひっかかえて馬の鞍壺くらつぼにとびあがり、つるべうちの鉄砲を聞きながして、人無村ひとなしむらからやみ裾野すそのへ、まッしぐらに、逃げおちてしまった。

 いっぽう、蚕婆かいこばばあの家の床下ゆかしたから、人穴城ひとあなじょう間道かんどうをすすんでいった加賀見忍剣かがみにんけん巽小文治たつみこぶんじ
 ひとみはいつか闇になれたが、道は暗々あんあんとして行く手もしれない。冥府めいふへかよう奈落ならくの道をいくような気味わるさ。ポトリ、ポトリとえりもとに落ちてくるしずくのつめたいこと。たえず、冷々ひえびえおもてをかすめてくる陰森いんしんたる風、ものいえば、ガアンと間道中かんどうじゅうの悪魔がこぞって答えるようにひびく。
 ――と、つねに沈着な巽小文治が、ふいに、「あッ」とさけんで一歩とびのき、片手で顔をおさえてしまった。
「どうした、小文治どの」
「なにか風のようなものに、さっとめんをふかれたその痛さ。忍剣にんけんどのもかならずごゆだんなさるまいぞ」
「そんなバカなことがあろうか、あれは年へた蝙蝠こうもりのたぐいじゃ」
 と入れかわって、忍剣が、さきに立って二、三歩すすむと、かれも同じように奇怪ないたさにおもてされて、たちまち片目を押さえてしまった。そして、ふところもの上に、しものように立つものを手でさぐってみて、
「こりゃ! はりだッ」
 とさけんだ。
「えッ、針?」
 その時、はじめてふたりとも身がまえ直して、じッとやみをすかして見ると、白髪しらがをさかだてたひとりの老婆ろうば蜘蛛くものように岩肌いわはだに身をりつけて、プップップッとたえまなく、ふたりのおもてへ吹きつけてくる針の息……
 おお、それこそ竹童ちくどうがなやまされた蚕婆かいこばばあ秘術ひじゅつ吹針ふきばりの目つぶしだった。

深夜しんや珍客ちんきゃく




 早足はやあし燕作えんさく可児才蔵かにさいぞうは、蚕婆かいこばばあより一足ひとあし先に抜けあなへはいったので、すぐあとにおこった異変もなにも知らず、ただひた走りに、地下三十三町の間道かんどう人穴城ひとあなじょうへいそいでいく。
 目というものがあっても、ここでは、目がなんの役にも立たない暗黒界、けれど、足もとは坦々たんたんとたいらであるし、両側は岩壁いわかべの横道なし。――いくらめくらめっぽうに進んでも、けっして、まよう気づかいはないと、燕作はいつもの早足ぐせで、才蔵よりまえにタッタとかけていったが、やがてのこと、
「ホイ! しまったり!」
 目から火でもだしたような声で、勢いよくよつンばいにつんのめった。あとからきた才蔵も、あやうくその上へ折りかさなるところをみとどまって、
「どうした燕作」と声をかける。
「オオ、いてえ! 才蔵さま、どうやらここは行止まりのようです」
「どんづまりにはちと早い、あわてずによくさぐってみい……おおこりゃ石段ではないか」
「え、石段?」
人穴城ひとあなじょうは、裾野すそのより高地となるから、この間道が、しぜんのぼりになるのは、はや近づいた証拠しょうこといえる」
 才蔵がのぼっていく尾について、燕作も石段の数をふんでいく……と道はふたたび平地ひらちの坂となり、それをあくまで進みきると、こんどこそほんとうのゆきづまり、手探てさぐりにも知れるくろがねとびらが、ゆく手の先をふさいでいた。
燕作えんさく燕作、殿堂の間道門かんどうもんは、すなわちこれであろう。なんとかして、なかの者にあいずをするくふうはないか」
「とにかく、どなってみましょう」
 と燕作は鉄門の前に立って、器量きりょういっぱいな大声。
「やアやア搦手からめてがたの兄弟、丹羽昌仙にわしょうせんさまの密書をもって、安土城あづちじょうへ使いした早足はやあし燕作えんさくが、ただいま立ちかえったのだ。開門! 開門」
 鉄壁てっぺきをたたいて呼ばわッたとたん、頭の上からパッとさしてきた龕燈がんどうのひかり、と見れば、高いのぞきまどから首を集めて、がやがや見おろしている七、八人の手下どもの顔がある。
「おお、いかにも、燕作にちがいないらしいが、あとのひとりは人穴城ひとあなじょうで見たこともないやつ、軍師ぐんしさまの厳命げんめいゆえ、さような者は、ここ一すんも、とおすことまかりならん。開門ならん」
「ヤイヤイ、しつれいをもうしあげるな」
 と、燕作はまばゆい光をあおむいて、
鳥刺とりさし姿に身をやつしておいでなさるが、このお方こそ、秀吉公ひでよしこう帷幕いばくの人、福島ふくしまさまのご家臣で、音にきこえた可児才蔵かにさいぞうとおっしゃる勇士だ。うたがわしく思うなら、とッとと軍師ぐんしさまのお耳に入れてくるがいい」
「なんだ、福島正則ふくしままさのりさまのご家来だと?」
 おどろいた手下どもは、すぐことのよしを、丹羽昌仙にわしょうせんげにいった。昌仙は、燕作えんさく吉報きっぽうをまちかねていたところなので、すぐさま、大将呂宋兵衛るそんべえとともに、間道門かんどうもんのてまえまで、秀吉ひでよしの使者を出むこうべくあらわれた。
 しばらくすると、鉄のかんぬきをはずす音がして、明暗の境をなすおもいとびらが、ギ、ギ、ギイ……と一、二寸ずつひらいてきたので、暗黒のなかに立っていた才蔵と燕作のすがたへ、一どうの光線が水のごとくそそぎ流れた。
「はるばるお越しくだされた可児才蔵かにさいぞうさま、いざお入りくだされい」
 内よりおごそかな声があって、門扉もんぴは八文字もんじにひらかれた。――と、ほとんど同時である。またも間道かんどうのあなたから、疾風しっぷうのように走ってきた人間がある! すでに才蔵と燕作がなかへはいって、ふたたびギーッと門がまろうとするところへ、あわただしくきて、
「大へんだ! わたしをれて、はやくあとをめておくれよ」
 ころぶようにたおれこんだ蚕婆かいこばばあ、いつものぶとさに似ず、いきた色もしていない。
「おお裾野すその見付婆みつけばばあ、大へんとはなんだなんだ」
 一せいに色めきたつ人々を見まわして、蚕婆は歯をむきだして、がなッた。
「なんだもかんだも、あるもんか、はやくはやく、さきに門をめなきゃ大へんだ、いまわたしのあとから忍剣にんけん小文治こぶんじというやつが追っかけてくる!」
「えッ、伊那丸いなまる旗本はたもとがおいかけてくるッて? それは、ここへか、こっちへか?」
「くどいことはいっておられないよ、あれ、あの足音がそうだ! あの足音だ!」
「それッ、かたがた、はやく門をとじて厳重げんじゅうにかためてしまえ」
「やア、もうそこへ姿がみえた」
かんぬきはどうした!」
「くさりをかせ! くさりを!」
「わーッ、わーッ」
 ――ととつぜん、暴風にそなえるように、うろたえた手下どもは、とびらへ手をかけて、ドーンというひびきとともに、間道門かんどうもんめてしまった。
「むねんッ」
 と、その下にふたりの声。ああ、たった一足ひとあしちがい――
 蚕婆かいこばばあを追いつめて、人穴城ひとあなじょうのかくし道をきわめてきた忍剣と小文治は、いでや、このまま城内へ斬ってろうと勢いこんできたところを、内からかたくめられてじだんだんだ。
卑怯ひきょうなやつら、臆病おくびょうぞろいよ! わずかふたりの敵をむかえることができぬのか、和田呂宋兵衛わだるそんべえの下ッぱには男らしいやつは一ぴきもいないのか、くやしければ、けろ、開けろッ!」
 さんざんにいいののしったが、こッちでののしれば、内でもののしり返すばかり、果てしがないので、
「えい、めんどうだッ」
 手馴てなれの禅杖ぜんじょうを、ふりかまえた加賀見忍剣かがみにんけん、どうじに巽小文治たつみこぶんじも、
「よし、拙者せっしゃは、あれからとびこんでゆく」
 と、やりを立てかけて、足がかりとなし、十数尺上ののぞき口へ、無二無三にとびつこうとこころみた。
 グワーン!
 たちまち、雷火をしかけたように、鉄門をとどろかした忍剣にんけんの第一撃! この鉄のとびらが破れるか、この禅杖ぜんじょうが折れるかとばかり。
 つづいて、第二、第三撃!
 間道門かんどうもんのなかでは、呂宋兵衛るそんべえをはじめ丹羽昌仙にわしょうせんとどろき又八、そのほか燕作えんさく蚕婆かいこばばあもおおくの手下どもも、思わずきもをひやして、ただ、あれよあれよとおどろき見ているまに、さしもの鉄壁も、あめのようにゆがんでくる。
 すわこそ、人穴城ひとあなじょうの一大事となった。
 呂宋兵衛はまッさおになった。
 手下どもも、見えぬ敵の恐怖きょうふにおそわれた。こんな猛者もさに、ふたりもおどりこまれた日には、よしや、城内に二千の野武士のぶしはあるとも、どれほど死人手負ておいの山をきずかれるか、さいげんの知れたものではないと思った。
「なにを気をまれているか! 意気地いくじなしめ!」
 ふいに、そのなかで、思いだしたようにどなったのはとどろき又八。
「すこしもはやく、水道門のせきをきって、間道かんどうのなかへ濁水だくすいをそそぎこめ、さすれば、いかなる天魔てんま鬼神きじんであろうと、なかのふたりがおぼれ死ぬのはとうぜん、しかも、味方にひとりの怪我人けがにんもなくてすむわ」
 あっぱれ名案と、ほこりがましく命令すると、手下どもが、おうと答えるよりはやく、
「いや、そりゃ断じていかん」
 はげしく異議いぎを申したてた者は、軍師ぐんし丹羽昌仙にわしょうせんであった。かれとは、つねに犬とさるの仲みたいな轟又八、すぐまゆをピリッとさせて、
「こういうときの用意のため、いつでも水道門の堰さえきれば、間道はおろか裾野すその一円、満々と出水でみずになるようしかけておいた計略ではないか。軍師ぐんしには、なんでおめなさる」
「おろかなことをお問いめさるな、それ、溺兵できへいの計りごとは、一城の危急存亡にかかわるさいごの手段、わずかふたりの敵をころすために、なんでそれほどのついえをなそうや」
「心得ぬ軍師ぐんしのいいじょう、では、みすみす間道門かんどうもんをやぶられて、ここにおおくの手負ておいをだすとも、大事ないといいはらるるか」
「なんで昌仙しょうせんが、それまで手をつかねて見ていようぞ、拙者せっしゃにはべつな一計があること、又八どのは、それにてゆるりとご見物あるがよい。やあ者ども、この鉄門の前へ焼草やきくさをつみあげい」
 たちまち、山と積まれた枯草かれくさたば。はこばれてくる獣油じゅうゆかめ、かつぎだされた数百本の松明たいまつ
 洞門どうもんのなかでは、それとも知らず、必死にあえぐ忍剣にんけん小文治こぶんじのかげ。と――いきなり、バラバラバラ、バラバラッ! と上ののぞき口から投げこんできた枯草のたば! つづいてほのおのついた松明たいまつ獣油じゅうゆの雨、火はたちまちパッと枯草についた。いや、ふたりのそですそにもついた。
 火は消しもする、はらいもする、が、もうもうと間道かんどうのなかへこもりだした煙はおえぬ。しかも異臭いしゅうをふくんだ獣油の黒煙が、でどころがなく、うずをまいてふたりをつつんだ。
 目からはしぶい涙がでる。鼻腔びこうはつきさされるよう、のどはかわいて声さえでぬ。……そこにしばらくもがいていれば煙にまかれて窒息ちっそくはとうぜんだ。ふたりは歯ぎしりをしながら、煙におしだされて、しだいしだいにあともどりした――といっても、充満じゅうまんしている煙の底をはいながら……
 間道の半ば過ぎまで引っかえしてきたころ、ふたりは、やっとどうやらうす目をあいて、たがいにことばをかわせるようになった。
「や、小文治こぶんじどの、どうやらここは、先刻せんこくすすんでいった間道かんどうとはちがうようではないか」
拙者せっしゃもすこし変に思ってはいるが、たしかいきがけには、ほかに横穴はないように心得ていた」
「しかし、このように両側のせまい穴ではなかったはず……はてな? こりゃちとおかしい……」
忍剣にんけんどの、また煙のうずがながれてきた。とにかく、もどるところまでもどってみよう」
「せっかく、人穴城ひとあなじょうの根もとまで押しよせたに、煙攻めのさくにかかって引ッ返すとは無念千ばん……ああまたまっ黒に包んできおった」
「ちぇッ、いまいましいが、もうここにもぐずぐずしておれぬわ」
 さすがの勇士も、煙の魔軍には勝つすべがなかった。息づまる苦しさと、目にしむなみだをこらえながら、いっさんにそのあなを走りもどった。
 からくも、前にはいった床下ゆかしたへきた。まさしく、蚕婆かいこばばあの家の下にちがいない。とちゅうの道がちがっているように思えたのも、さすれば、煙のための錯覚さっかくであったかもしれない。
「こりゃ部下の者、この板を退けて、つなをおろせ、早く早く!」
 と小文治こぶんじが、やり石突いしづきを上へむけて、ふたの板を下からポンポンと突きあげた。
 すると、入口に待ちかねていた部下の者であろう、板をはがして、二本のつなを無言のまま下へたれてきた。それを力に、忍剣にんけん小文治こぶんじは、ひらりと上へとびあがる!
 ――あがったところはまッ暗であった。
 だれかが、カチカチ……と火打石ひうちいしっている。部下は二十人ばかり、ここへ置いていったのに、イヤにあたりが静かである。
 カチッ、カチッ、カチッ……火打石はなかなかにつかない……
「たわけ者め!」
 忍剣は、部下の不用意をしかりつけた。じぶんたちがいないに、あるいは、軍律を破って、夜半よわの眠りをむさぼっていたのではないかとさえうたぐった。
「なぜ、かがり火をいておらぬ、この暗さで、いざことある場合になんといたす。不埒者ふらちものめが、はやくをつけい!」
「はい、ただいますぐに明るくいたします」
 と答える者があったが、すこし声音こわねがへんである。調子がおかしい。
 小文治は、部下の者のなかにこんなしわがれた声はなかったはずと思って、きッとなりながら、
「何者だッ、そこにいるのは!」
 と、声あらく、どなりつけてみた。
 にもかかわらず、相手は平気で、まだカチカチとやみのなかで、火打石を磨っている。
「名を申さんと突きころすぞッ、敵か、味方か!」
 ピラリッ――朱柄あかえやり穂先ほさきがうごいて、やみのなかにねらいすまされた。と、その槍先から、ポーッとうす明るいがともった。
「わしは敵でもなければ味方でもない。そうもうすおまえがたこそ、深夜に床下ゆかしたからしのびこんできて、ひとの家へなにしにきた!」
「やや、ここは蚕婆かいこばばあの家ではなかったのか――」
 忍剣にんけん小文治こぶんじも、あまりのことにぼうぜんとしながら、そこに立ったひとりの人物を、そも何者かと、みつめなおした。
 いまともした行燈あんどんを前にだして、しずかに席についたその男は、するどい両眼に片鼻かたはなのそげた顔をもち、くまの毛皮の胴服どうふくに、きざざや小太刀こだち前挟まえばさみとなし、どこかにすごみのあるすがたで、
「あははははは、床下ゆかしたから戸まどいしてござったのは、さてこそ、伊那丸いなまる幕下ばっかのおかたでござるな。なんにせよ、深夜の珍客どの、お話もござりますゆえ、まずそれへおすわりください」
 いう声がら容貌ようぼうも、それは、まぎれもあらぬ鏃鍛冶やじりかじの鼻かけ卜斎ぼくさい


 意外なおもいにうたれた忍剣と小文治の目は、つぎに部屋へやのなかをながめまわした。
 ここは卜斎ぼくさい書斎しょさいとみえて、兵書、武器、種々なやじり型図面かたずめんなどがざったにちらかっており、なかにも一ちょう種子島たねがしまが、いま使ったばかりのように、火縄ひなわをそえて、かれのそばにおいてあった。
「いかにもご推察すいさつのとおり、われわれはいまあまたけを本陣としている、武田伊那丸たけだいなまるさまの旗本はたもとでござるが、してそこもとは何人なんぴと? またここはいったいいずこでござりますか?」
 ややあって、忍剣にんけんが、こう問いただした。
「ここは、やはり裾野すそのの村、おふたりが間道かんどうへはいられた蚕婆かいこばばあの家から、さよう、ざっと五、六町はなれた鏃鍛冶やじりかじの小屋でござる。すなわち、手まえはあるじの卜斎ともうす者」
「ではそちも、鏃鍛冶やじりかじとは世をあざむく稼業かぎょうで、まことは蚕婆とおなじように、人穴城ひとあなじょう見付みつけをいたしているのであろうが!」
 小文治こぶんじが、グッと急所を押すと、卜斎は、ひややかに嘲笑あざわらって、
「とんでもないこと、けっしてさような者ではございません」
「だまれ、呂宋兵衛るそんべえ隠密おんみつでない者が、なんで床下ゆかしたから間道かんどうへ通じるようにしかけてあるのだ」
「なるほど、それはごもっともなおうたがいじゃ。いかにもこの卜斎鏃鍛冶とはほんの一時の表稼業おもてかぎょうで、まことはおさっしのとおり隠密おんみつにそういない」
「さてこそ、間者かんじゃ!」
 小文治こぶんじ忍剣にんけんは、腰の大刀をグイとにぎって、あわやおどりかからんずる気勢をしめした。
 片手をななめにさし向けて、きッと、体をかまえなおした卜斎ぼくさい
「じゃが、おさわぎあるなご両所、隠密おんみつは隠密でも、呂宋兵衛るそんべえのごとき曲者くせものの手先となって、働くような卜斎ではございません――」
 と、左右のふたりへ、するどい眼をそそぎながら、
「――まことかくもうす卜斎こそは、北国ほっこく一のゆう柴田権六勝家しばたごんろくかついえが間者、本名上部八風斎かんべはっぷうさいという者、人穴ひとあな築城ちくじょうをさぐろうがため、ここに鏃師やじりしとなって、家の床下ゆかしたから八ぽうへかくし道をつくり、ここ二星霜せいそうのあいだ、苦心していたのでござる」
「おう……」うめくがようにふたりは顔を見あわせて、
「音にきこえた鬼柴田おにしばたふところ刀、上部八風斎とはそこもとでござったか。してその御人ごじんが、なんのご用ばしあって、われわれをおめなされた」
「されば、それがしの主君勝家より密命があって、ご不運なる武田家たけだけ御曹司おんぞうしへ、ひとつのおくり物をいたそうがため」
「はて、柴田家しばたけより伊那丸君いなまるぎみへ、そもなんの贈り物を?」
「すなわちこのしな――」
 と、八風斎がしめしたのは、かれが学力の蘊蓄うんちくをかたむけて、くまなくさぐりうつした人穴ひとあなの攻城図、獣皮じゅうひにつつんで大せつに密封みっぷうしてあるものだった。
「――かねてから主君勝家かついえは、若年じゃくねんにおわし、しかも、孤立無援こりつむえんに立ちたもう伊那丸いなまるさまへ、よそながらご同情いたしておりました。折から、このたびのご苦戦、ままになるなら、北国勇猛ゆうもうの軍馬をご加勢に送りたいは山々なれど、四りんの国のきこえもいかが、せめては武家の相身あいみたがい、弓取り同士のよしみのしるしまでにもと、この攻城図を、ご本陣へさしあげたいというおいいつけ」
「なんといわるる、ではそこもとが、苦心に苦心をかさねてうつされたこの秘図を、おしげもなく、伊那丸さまへおゆずりなさろうとおっしゃるか」
「いかにも、これさえあれば、人穴城ひとあなじょう要害ようがいは、たなごころをさすごとく、大手おおてからめ手の攻め口、まった殿堂、やぐらにいたるまで、わが家のごとく知れまする。すなわちこの一枚の図面は、千人の援兵えんぺいにもまさること万々ばんばんゆえ、一刻もはやく、ご本陣へまいらせたいこのほうのこころざし、なにとぞ、伊那丸さまへ、よしなにお取次ぎを」
「ああ、世は澆季すえでなかった」
 と、忍剣にんけん小文治こぶんじも、胸をうたれずにおられなかった。
 越前えちぜんきたしょう鬼柴田おにしばたといえば、弱肉強食の乱世らんせいのなかでも、とくに恐ろしがられている梟雄きょうゆうだのに、こんな美しい、情けの持主もちぬしであろうとは、きょうまでゆめにも知らなかった。――なんとゆかしい弓取りのよしみであろう。
 そして、むろんこれはこばむことではないと思った。
 さだめし、伊那丸いなまるさまをはじめ同志の人々がよろこぶことと信じて、そくざに、八風斎はっぷうさいの願いをゆるし、あまたけの本陣へあんないすることを快諾かいだくした。
 八風斎も欣然きんぜんとして、衣服大小をりっぱにあらため、獣皮じゅうひにつつんだ図面を懐中ふところにいれ、ふたりのあとについて屋敷をでた。
 いっぽう、蚕婆かいこばばあの家で、たむろをしていた部下の者たちは、床下ゆかしたの穴から濛々もうもうたる煙がふきだしてきたので、すわこそ、忍剣と小文治の身のうえに、変事があったにちがいないと、すくなからずさわぎあっていた。そこへ意外な方角から、ふたりが無事でかえってきたので、一同あッけにとられてしまった。
 やがて、勢ぞろいをして、人無村ひとなしむらをでてゆく一列の軍馬を見れば、まッさきに馬上の加賀見忍剣かがみにんけん、おなじく騎馬きばたちの上部八風斎かんべはっぷうさい巽小文治たつみこぶんじ、それにしたがう二十余人の兵。――この一列が整々せいせいとしてあまたけの本陣へかえってくるまに、富士ふじの山は、銀のかんむりにうすむらさきのよそおいをして、あかつきの空に君臨くんりんし、流るるきりのたえまに、裾野すそのの朝がところどころ明けかけてくる。
 人無村のかきの木には、今朝けさからすがむれていた。

死地しちにおちたあまたけ




 富士ふじ川の名物、筏舟いかだぶねさおさして、鰍沢かじかざわからくだる筏乗いかだのりのふうをよそおい、矢のように東海へさして逃げたふたりのあやしい男がある。
 海口うみぐちへ着くやいな、しぶきにぬれた蓑笠みのかさとともに、筏をすて、浜べづたいに、蒲原かんばらの町へはいったすがたをみると、これぞまえの夜、鼻かけ卜斎ぼくさいの屋敷から遁走とんそうした菊池半助きくちはんすけ。つれているのは、そのときゆきがけの駄賃だちんに、かどわかしてきたむし蛾次郎がじろうだ。
 十五、六にもなりながら、人にかどわかされるくらいな蛾次郎だから、むろん、じぶんではかどわかされたとは思っていない。バカにしんせつで、じぶんを出世しゅっせさしてくれるいいおじさんにめぐりあったと心得ている。
「蛾次郎、もうここまでくれば、どんなことがあっても安心だから、かならずしんぱいしないで元気をだすがいい」
 半助がふりかえっていうと、あとから宿しゅくのにぎやかさに、キョロつきながら、のこのこと歩いてきた蛾次郎、すこし口をとンがらせながら、
「元気をだせったッて、元気なんかでやしねえや、おさむらいさんはよく腹がすかないねえ」
「ははア、どうもさっきからきげんがわるいと思ったら、空腹くうふくのために、ふくれているんだな」
「だってゆうべッから、一ッ粒もごはんを食べないんだもの、それで今朝けさになっても、まだ歩いてばかりいちゃあ、いくらおれだってたまらねえや」
「まて、もうすこしのしんぼうじゃ。向田むこうだしろへまいれば、なんでも腹いッぱいわせてやる」
「もうだめだ、アア、もう歩けない、なにかべなくッちゃ目がまわりそうだ……」
 なれるにしたがってそろそろ尻尾しっぽをだしてきた蛾次郎がじろうは、宿場人足しゅくばにんそくがよりたかって、うまそうに立ちいしている餅屋もちやの前へくると、ぎょうさんに、腹をかかえてしゃがんでしまった。
 半助はにが笑いして、いくらかの小銭こぜにをだしてやった。それをもらうと、蛾次郎は人ごみをかきわけてふところいッぱい焼餅やきもちを買いもとめ、ムシャムシャほおばりながら歩きだした。
 もなく、ふたりのまえに見えた向田ノ城。
 ここのとりでには、富士、庵原いはら、二ぐんをまもる徳川家とくがわけ松平周防守康重まつだいらすおうのかみやすしげがいる。菊池半助きくちはんすけは、その人に会って、じぶんが探知たんちした裾野すその形勢けいせいをしさいに書面へしたため、それを浜松の本城へ、早打ちで送りとどけてもらうようにたのんだ。
 書状しょじょうの内容は、徳川家とくがわけの領内である富士の人穴ひとあなを中心に、裾野すその一帯の無人むじん広野こうやに、いまや、呂宋兵衛るそんべえだの、伊那丸いなまるだの、あるいは秀吉ひでよし隠密おんみつ柴田勝家しばたかついえ間者かんじゃなどが、跳梁ちょうりょうして、風雲すこぶる険悪けんあくである。はやく、いまのうちに味方の兵をだして、それらの者を、掃滅そうめつしなければ一大事で。――という意味のものであった。
 その密談のあいだに、
「ちぇッ、ばかにしてやがら」
 城内の一室で、プンプンしていたのは蛾次郎がじろうである。もう焼餅やきもちべつくし、腹はいっぱいになったが、まさか寝ることもできず、半助はいつまでも顔を見せないし、遊ぶところはなし、文句もんくのやり場のないところから、ひとりでブツブツこぼしている。
「いやンなっちゃうな。どうしたんだい、あの人は、向田むこうだしろへいったら、なんでも好きなものはやるの、うまいものは食いほうだいだのッて、いっておいてよ、ちぇッくそ! ばかにしてやがら、うそつき! 菊池半助きくちはんすけの大うそつき!」
 腹いせにわめいていると、ふいに、そこへ半助がはいってきたので、さすがの蛾次郎も、これにはすこしが悪かったとみえて作り笑いをした。
「蛾次郎、さだめしたいくつであったろう」
「ううん、そんなでもなかったよ、だけれど、菊池さんはいままでいったいどこへいってたのさ」
「そのほうをりっぱなさむらいに取り立ててやりたいと、城主じょうしゅ周防守すおうのかみさまとそうだんしてまいったのだ。どうだ蛾次郎がじろう、きさまもはやくりっぱな侍になり、堂々と馬にのったり、多くの家来をかかえて、こんなお城に住んでみたくはないか」
「うふふふふふ、おれをその侍にしてくれるのかい」
 蛾次郎は、目をほそくしてうれしがった。
「きっとしてやる。が、それには、ぜひなにか一つの手柄てがらをあらわさなければならん」
「手柄をあらわすには、どんなことをすりゃいいんだろう」
「その方法は拙者せっしゃがおしえてやる。しかも蛾次郎でなければできぬことがあるのだ。これ、耳をかせ……」
 と半助はんすけは、なにやらひそひそささやくと、蛾次郎は目をまるくして、あたりもかまわず、
「えッ、じゃあの竹童ちくどうの使っている大鷲おおわしを、おれがぬすんでくるのかい!」
「シッ、大きな声をいたすな。――そちはたしか、あの大鷲に乗せてもらった経験があるだろう」
「ある、ある。竹童が松明たいまつをくれッていったから、それを持っていって、一晩じゅう、鷲に乗せてもらったよ」
「さすれば、あの小僧こぞうが鷲をつないでおくところも、鷲の背に乗ることも、そちはじゅうぶんに心得ているはず――じつは近いうちに、あの辺で大きないくさがおきるのだ、そのさわぎに乗じて、竹童のわしを徳川家の陣中へ乗りにげしてくれればそれでよいのだ。なんと、やさしいことではないか」
「だけれど、……もしかやりそこなうと大へんだな、竹童ッてやつ、ちびでもなかなか強いからな」
蛾次がじッ」
 半助がこわい目をしたので、かれは、ギョッとして飛びのいた。
「いやといえばこれだぞ――」
 ギラリと脇差わきざしをぬいて、蛾次郎がじろうの鼻ッ先へつきつけた菊池半助は、また、左の手で、たもとからザラザラと小判こばんをつかみだして、刀と金をならべてみせた。
「おうといえば褒美ほうびにこれ。イヤといえば刀で首。さアどっちでもよいほうをのぞめ」


 菊池半助きくちはんすけの書面が、家康いえやす本城ほんじょう浜松へつくと同じ日にいくさになれた三河武士みかわぶしの用意もはやく、旗指物はたさしものをおしならべて、東海道を北へさして出陣した三千の軍兵ぐんぴょう
 精悍無比せいかんむひときこえた亀井武蔵守かめいむさしのかみの兵七百、内藤清成ないとうきよなり手勢てぜい五百、加賀爪甲斐守かがづめかいのかみの一隊六百余人、高力与左衛門こうりきよざえもんの三百五十人、水野勝成みずのかつなり後詰ごづめの人数九百あまり、軍奉行いくさぶぎょう天野三郎兵衛康景あまのさぶろべえやすかげ
 法螺ほら陣鐘じんがねの音に砂けむりをあげつつ、堂々と街道かいどうをおしくだり、蒲原かんばら宿しゅく向田むこうだノ城にはいって、松平周防守まつだいらすおうのかみのむかえをうけた。
 ここで、裾野陣すそのじんの大評議をした各将は、待ちもうけていた菊池半助を、地理の案内役として先陣にくわえ、全軍犬巻峠いぬまきとうげけんをこえて、富士河原ふじがわらを乗りわたし、天子てんしたけのふもとから南裾野みなみすそのへかけて、長蛇ちょうだの陣をはるもよう。
 西をのぞめば、あまたけのいただきを陣地とする武田伊那丸たけだいなまるの一とう、北をみれば、人穴城ひとあなじょうにたてこもる呂宋兵衛るそんべえの一族、また南の平野には、あおい旗指物はたさしものをふきなびかせて、威風いふうりんりんとそなえた三千の三河武士みかわぶしがある。
 ここ、いずれも、敵味方三方わかれの形である。
 こうを攻めればおつきたらん、乙を討たんとせばへいかんという三かく対峙たいじ。はたしてどんな駈引かけひきのもとに、目まぐるしい三つどもえの戦法がおこなわれるか、風雲の急なるほど、裾野のなりゆきは、いよいよ予測よそくすべからざるものとなった。
 けれど、それは人と人とのこと、弓取りと弓取りのこと。晩秋の千草ちぐさを庭としてあそぶ、うずら百舌もずや野うさぎの世界は、うらやましいほど、平和そのものである。
 ちょうどそれとおなじように、のんきのしゃアな顔をして、またぞろ、裾野へいもどってきた泣き虫の蛾次郎がじろうはばかにいい身分になったような顔をして、あっちこっちを、のこのこと歩いていた。


木隠こがくれ出立しゅったつしてから、きょうで、はや四日目。――かれのことだ。よも、裏切うらぎりもすまいが、なんの沙汰さたもないのは、どうしたのか。おいとしや、若君のご武運もいまは神も見はなし給うか」
 床几しょうぎによって、まなこをとじながら、こうつぶやいた小幡民部こばたみんぶ
 ここは、陣屋というもわびしい、武田伊那丸たけだいなまるのいるあまたけ仮屋かりやである。軍師ぐんし民部は、きのうからまくのそとに床几をだして、ジッと裾野すそのをみつめたまま、龍太郎りゅうたろうのかえりを、いまかいまかと待ちかねていた。
 が――龍太郎のすがたはきょうもまだ見えない。四日のあいだには、かならず兵三百をりあつめて、帰陣するとちかってでた木隠龍太郎。ああ、かれの影はまだどこからも見えてこない。
 いよいよ、絶望とすれば、ふたたび、人穴城ひとあなじょうを攻めこころみて、散るか咲くかの、さいごの一戦! それよりほかはみちがない。すでにへいみ、兵糧ひょうろうもとぼしく、もとより譜代ふだいの臣でもない野武士のぶしの部下は、日のたつほどひとり去りふたりにげ、この陣地をすて去るにちがいない。
軍師ぐんし、軍師、小幡民部どの!」
 ふいに、耳もとでこうよぶ声。
 あれやこれ、思いしずんでいた民部が、ふと、見あげると、巽小文治たつみこぶんじ加賀見忍剣かがみにんけんが連れ立ってそこにある。
「オ。これはご両所りょうしょ、なんぞご用で」
一昨日おとといからかなたにあって、待ちわびている者が、もういちどこれを最後として、若君へお取次ぎを願って見てくれいと申して、いッかなきかぬ。――軍師ぐんしから伊那丸いなまるさまへ、もういちどおことばぞえねがわれまいか」
「おお、上部八風斎かんべはっぷうさいのことですか、そのは、拙者せっしゃからも再三若君のお耳へいれたが、だんじて会わんという御意ぎょいのほか、一こうお取上げにならぬしまつ。事情をいうて追いかえされたがよろしかろう」
「は」
 といったが、ふたりのおもてはとうわくの色にくもった。
 じぶんたちが独断で、八風斎を本陣へつれてきたのがわるかったか。伊那丸は対面無用といったまま、耳もかさないのである。また、八風斎のほうでも、あくまで、会わぬうちは、このあまたけをくだらぬといい張って、うごく気色けしきもなかった。
 忍剣と小文治は、なかに立って板ばさみとなった。八風斎はだだをこねるし、伊那丸はきげんがわるい。これでは立つ瀬がないと、いまも民部に、苦しい立場をうちあけていると、ふいに、とばりのかげから伊那丸の声で、
「民部、民部やある」
 としきりに呼ぶ。
「はッ」
 とりいそいで、まくのなかへ姿をいれた小幡民部こばたみんぶは、ふたたびそこへ立ちもどってきて、
「よろこばれよご両所りょうしょ、にわかに若君が、八風斎に会ってやろうとおおせだされた。御意ぎょいのかわらぬうち、いそいで、かれをここへ」
 といった。
 もなく、上部八風斎かんべはっぷうさいはあなたの仮屋かりやから、忍剣にんけん小文治こぶんじにともなわれてそこへきた。迎えにたった民部は、そも、どんな人物かとかれを見るに、はなかけ卜斎ぼくさいの名にそむかず、容貌ようぼうこそ、いたってみにくいが、さすが北越ほくえつ梟雄きょうゆう鬼柴田おにしばたの腹心であり、かつ攻城学こうじょうがく泰斗たいとという貫禄かんろくが、どこかに光っている。
「八風斎どの、それへおひかえなさい」
 制止せいしの声とどうじに、バラバラと陣屋のかげからあらわれた槍組やりぐみのさむらい、左右二列にわかれて立ちならぶ。
 と――武田菱たけだびしもんを打ったまえの陣幕じんまくが、キリリと、上へしぼりあげられた。
 見れば、正面しょうめん床几しょうぎに、だかさと、美しい威容いようをもった伊那丸いなまる、左右には、山県蔦之助やまがたつたのすけ咲耶子さくやこが、やや頭をさげてひかえている。
「これは……」
 と、やりぶすまにひるまぬ八風斎も、うたれたように平伏へいふくした。


 初対面しょたいめんのあいさつや、陣中の見舞みまいなどをのべおわってのち、八風斎はっぷうさいは、れいの秘図ひずをとりだし、主人勝家かついえからのおくり物として、うやうやしく、伊那丸いなまる膝下しっかにささげた。
 が、なぜか、伊那丸は、よろこぶ色はおろか、さらに見向きもしないで、にべなくそれをつッかえした。
「ご好意はかたじけないが、さようなものはじぶんにとってしゅうもない。持ちかえって、柴田しばたどのへお土産みやげとなさるがましです」
「は、心得ぬおおせをうけたまわります。主人勝家かついえこそははるかに御曹司おんぞうしのおうえをあんじている、無二のお味方、人穴城ひとあなじょうをお手にいれたあかつきは、およばずながらよしみをつうじて、ご若年じゃくねんのおすえを、うしろだてしたいとまでもうしております。……なにとぞ、おうたがいなくご受納じゅのうのほどを」
「だまれ、八風斎!」
 はッたとにらんだ伊那丸は、にわかにりんとなって、かれの胸をすくませた。
「いかに、なんじが、懸河けんがべんをふるうとも、なんでそんな甘手あまてにのろうぞ。この伊那丸に恩義を売りつけ、柴田が配下に立たせようはかりごとか、または、後日ごじつに、人穴城をうばおうという汝らの奸策かんさく、この伊那丸は若年じゃくねんでも、そのくらいなことは、あきらかに読めている」
「うーむ……」
 うめきだした八風斎はっぷうさいの顔は、見るまにまッさおになって、じッと、伊那丸いなまるをにらみかえして、もあやしく血走ってくる。
えきないことにひまとらずに、なんじ早々そうそう北越ほくえつへひきあげい。そして、勝家かついえとともに大軍をひきい、この裾野すそのへでなおしてきたおりには、またあらためて見参げんざんするであろう。そちの大事がる図面とやらも、そのとき使うように取っておいたがよい」
 深くたくらんだ胸のうちも、完全に見やぶられた八風斎は、本性ほんしょうをあらわして、ごうぜんとそりかえった。
「なるほど、さすが信玄しんげんまごだけあって、その眼力がんりきはたしかだ。しかしわずか七十人や八十人の小勢こぜいをもって、人穴城ひとあなじょうがなんで落ちよう。敵はまだそればかりか、呂宋兵衛るそんべえにもましておそろしい大敵が、すぐ背後うしろにもせまっているぞ。悪いことはすすめぬから、いまのうちに柴田家しばたけ旗下きかについて、後詰ごづめ援兵えんぺいをあおぐが、よいしあんと申すものじゃ」
「だまれ。よしや伊那丸ひとりになっても、なんで、柴田ずれの下風かふうにつこうや、とくかえれ、八風斎!」
「ではどうあっても、柴田家にはつかぬと申しはるか、あわれや、信玄の孫どのも、いまに、裾野にかばねをさらすであろうわ、笑止しょうし笑止」
 毒口どくぐちたたいて、秘図ひずをふところにしまいかえした八風斎、やおら、伊那丸のまえをさがろうとすると、面目めんもくなげにうつむいていた忍剣にんけん小文治こぶんじが、左右から立って、
「若君にむかってふらちな悪口あっこう、よくもわれわれ両人をだましおったな!」
 と、猿臂えんぴをのばして、八風斎のえりがみをつかもうとしたとき、
方々かたがた! 方々! 敵の大軍が見えましたぞッ」
 にわかに起ったさけび声、陣のあなたこなたにただならぬどよみ声、伊那丸いなまる咲耶子さくやこも、民部みんぶ蔦之助つたのすけも、思わずきッと突っ立った。
「それ見たことか、はやくも地獄じごくの迎えがきたわッ!」
 さわぎのすきに、すてぜりふの嘲笑ちょうしょうをなげながら、疾風しっぷうのように逃げだした上部八風斎かんべはっぷうさい
 忍剣と小文治が、なおも追わんとするのを伊那丸はかたくめて、かれのすがたを見送りもせず、
「小さき敵に目をくるるな、心もとない大軍の出動とやら、だれぞ、はようもの見せい!」
「はい、かしこまりました」
 こたえた声音こわねは意外にやさしい、だれかとみれば、伊那丸のそばから、ちょうのように走りだしたひとりの美少女、いうまでもなく咲耶子である。
 見るまに、物見ものみの松の高きところによじのぼって、こずえにすがりながら、片手をかざし、
「オオ、見えまする! 見えまする!」
「して、その敵のありどころは」
 松の根方ねかたから上をあおいで、一同がこたえを待つ。
 上では、緑の黒髪を吹かれながら、咲耶子さくやこの声いっぱい。
天子てんしたけのふもとから、南すそのへかけて、まんまんと陣取ったるが本陣と思われまする。オオ、しかも、その旗印はたじるしは、徳川方とくがわがた譜代ふだい天野あまの内藤ないとう加賀爪かがづめ亀井かめい高力こうりきなどの面々」
「やや、では呂宋兵衛るそんべえ人穴城ひとあなじょうをでたのではなかったか。してして軍兵ぐんぴょうのかずは?」
「富士川もよりには、和田わだ樋之上ひのかみの七、八百大島峠おおしまとうげにも三、四百余の旗指物はたさしもの、そのほか、津々美つつみ白糸しらいと門野もんののあたりにある兵をあわせておよそ三千あまり」
「その軍兵は、こなたへ向かって、すすんでくるか?」
「いえいえ、まんしてうごかぬようす、敵の気ごみはすさまじゅう見うけられます」
 咲耶子の報告がおわると、物見ものみの松のしたでは、伊那丸いなまる軍師ぐんしを中心にして、悲壮な軍議がひらかれた。まえには、人穴城の強敵あり、うしろには徳川家とくがわけの大軍あり、あまたけは、いまやまったく孤立無援こりつむえんの死地におちた。
 おそらくは、主従しゅじゅうの軍議もこれが最後のものであろう。軍議というも、守るも死、攻むるも死、ただ、その死に方の評定ひょうじょうである。
 時は、たそがれどきか、あるいは、よいか夜中か明け方か、いずれにせよ、闇でも花とちるにはかわりがない。
 こい! 徳川勢とくがわぜい――。
 伊那丸方いなまるがた面々めんめんは、馬には飼糧かいば、身には腹巻をひきしめて、あまたけの陣々に鳴りをしずめた。
 そのころ、人穴城ひとあなじょう望楼ぼうろうのうえにも、三つの人影があらわれた。大将呂宋兵衛るそんべえに、軍師ぐんし丹羽昌仙にわしょうせん、もうひとりは客分の可児才蔵かにさいぞう。三人は、いつまでも暮れゆく陣地をながめわたして、なにやら密議に余念がない。心なしか、こよいはことにとりでのうえに、いちまつの殺気がみち満ちていた。

 富士ふじはくれゆく、裾野すそのはくれる。
 きょうで四日目のは、まさに沈もうとしているのに小太郎山こたろうざんへむかって、駿馬しゅんめ項羽こううをとばせた木隠龍太郎こがくれりゅうたろうはそも、どこになにしているのだろう。
 かれは、よもやあまたけにのこした伊那丸の身や、同志の人々を忘れはてるようなものではけっしてあるまい。いや、断じてないはずの人間だ。それだのに、晩秋のもやひくくとぶ鳥はみえても、駿馬項羽にまたがったかれのすがたが、いつまでも見えてこないのはどうしたわけだ?
 人無村ひとなしむらで、とんだいのちびろいをしたッきり、白旗しらはたもりのおくへもぐりこんでしまった竹童ちくどうも、ほんとに、頭脳あたまがいいならば、いまこそどこかで、
「きょうだぞ、きょうだぞ、さアきょうだぞ」
 とさけんでいなければならないはず。
 お師匠ししょうさまの果心居士かしんこじから、こんどこそ、やりそこなったら大へんだという秘命ひめいを、とっくのまえからさずけられている竹童ちくどうが、その、一生いちどの大使命をやる日はまさにきょうのはずだ。
 ところが、きのうあたりから、あの蛾次郎がじろうが、団子だんご焼餅やきもちなどをたずさえて、チョクチョク白旗の森にすがたを見せ、竹童のごきげんとりをやりだしたのも奇妙きみょうである。

密林みつりん出来事できごと




 雨のような落葉おちばが、よこざまに、ばらばらとる。
 くろい葉、きいろい葉、まっかな葉、入りまじってさんらんと果てしなくとぶ。
 さしもひろいみずうみの水も、ながい道も、このあたりは見るかぎり落葉おちばの色にかくされて、足のふみ場もわからないほどである。
 と――どこかで、
「ぐう、ぐう、ぐう……」
 不敵ふてきないびきの声がする。
 つかれた旅人でも寝ているのであろう、白旗しらはたみやの、蜘蛛くもだらけな狐格子きつねごうしのなかから、そのいびきはもれているのだ。
 旅人なら、夕陽ゆうひの光がまだ、雲間くもまにあるいまのうちに早くどこか、人里ひとざとまでたどりいておしまいなさい――と願わずにいられない。
 この地方は、冬にならぬころから、口のひっけた、れいのおおかみというのが、よく出現して、たびの人を、ほねだけにしてしまう。
 するとあんのじょう、森のかげから、ガサガサという異様な音がちかづいてきた。みると、それはさいわいにして狼ではなかったが、針金頭巾はりがねずきん小具足こぐそくで、甲虫かぶとむしみたいに身をかためたふたりの兵。手には短槍たんそうを引っさげている。
 服装の目印めじるし、どうやら徳川家とくがわけ斥候ものみらしいが、きょう、天子てんしたけに着陣したばかりなのに、はやくもこのへんまで斥候の手がまわってきたとはさすが、海道一の三河勢みかわぜい、ぬけ目のないすばやさである。
 斥候の甲虫は、一歩一歩、あたりに気をくばって、落葉おちばをふむ足音もしのびやかにきたが、
「しッ……」
 と、さきのひとりが、白旗の宮のそばで、うしろの者へ手あいずする。
「なんだ……」
 おなじく、ひくい声でききかえした。
「あやしい声がする」
「えッ」
「しずかに」
 ぴたりと、ふたりはやりとともに落葉のなかへ身をふせてしまった。そして、ややしばらく、耳と目をぎすましていたが、それっきり、いまのいびきも聞えなくなったので、甲虫かぶとむしはふたたび身をおこして、いずこともなく立ちさった。
 あとは、またものさびしい落葉おちばい。
 暮れんとして暮れなやむ晩秋の哀寂あいじゃく
 ぎい……とふいに、白旗しらはたみや狐格子きつねごうしがなかからあいた。そして、むっくり姿をあらわしたのは、なんのこと、鞍馬山くらまやま竹童ちくどうであった。
「あぶない、あぶない。もうこんなほうまで、徳川家の陣笠じんがさがうろついてきたぞ。ところで、おいらは、いよいよ、今夜お師匠ししょうさまのおいいつけをやるのだが、それにしては、もうそろそろどこかで、ときこえがあがってきそうなもの……どれ、ひとつ高見たかみから陣のようすをながめてやろうか」
 ひらりと、宮のえんから飛びおりるがはやいか、湖畔こはんにそびえているもみ大樹たいじゅへ、するするすると、りすの木のぼり、これは、竹童ならではできない芸当げいとう
 数丈すうじょううえのてっぺんに、からすのようにとまった竹童、したり顔して、あたりの形勢けいせいをとくと見とどけてのち、ふたたびりてくると、こんどは、白旗しらはたみやの拝殿にかくしておいた一たばの松明たいまつをかつぎだしてきた。
 この松明こそは、竹童が苦心さんたんして、蛾次郎がじろうから手にいれたものである。かれは、この松明、二十本をなんに使うつもりか、腰に皮の火打石袋ひうちいしぶくろをぶらさげ、いっさんに、白旗の森のおくへ走りこんでいった。


 そこは密林みつりんのおくであったが、地盤じばんの岩石が露出ろしゅつしているため、一町四ほうほど樹木じゅもくがなく、平地はすずりのような黒石、け目くぼみは、いくすじにもわかれた、水が潺湲せんかんとしてながれていた。
 ギャアギャアギャア
 ――ふしぎな怪物のごえがする。そして、すさまじいばたきがそこで聞えた。見ると、ひとつの岩頭がんとう金瞳黒毛きんどうこくもう大鷲おおわしが、威風いふうあたりをはらい、八方を睥睨へいげいしてとまっている。
 いうまでもない、クロである。
 むろん、足はなにかで岩のっこへしばりつけてあるらしかった。
「やい、もひとつけ、もひとつ啼いてみろ」
 七尺ばかりはなれて、わしとあいむきに、腰かけていた者はれいの蛾次郎、竹の先ッぽに、うさぎの肉をつきして、しきりにクロをらそうとしていた。
「おい、蛾次公がじこう、なにをしてるんだい」
「え」
 ふいに肩をたたかれて、蛾次郎がひょいと、うしろを見ると、竹童ちくどうが、松明たいまつまきのようにしょって立っている。
「なにもしてやしないさ、えさをやっているんだ」
「よけいなことをしてくれなくってもいい、さっきも、おいらが鹿しかももを二つやったんだから」
「ああ、竹童さんにも、おれが土産みやげを持ってきたぜ、きょうは焼栗やきぐりだ、ふたりで仲よく食べようじゃないか」
「いやにこのごろは、おいらにおべっかを使うな、そんなにおせじをつかってきたって、もう、そうはちょいちょいわしに乗せてやるわけにはゆかないぜ」
「そんなことをいわないで、おれを弟子でしにしてくれよ、な、たのまあ、そのかわりに、おまえのためなら、おれはどんなことだって、いやといわないからよ」
「きっとか」
「きっとだ!」
「じゃ。さっそく一つ用をたのもうかな」
「たのんでくれよ、さ、なんだい」
「大役だぜ」
「いいとも」
「他人の用ばかりしていると、おまえの主人の鼻かけ卜斎ぼくさいに、しかられやしないか」
「大じょうぶだってことさ、おらあもうあすこのうちをとびだして、いまでは徳川家とくがわけの……」
 と、いいかけて、さすがの低能児ていのうじも、気がついたらしく、口をにごらしながら、
「いまじゃ、天下の浪人ろうにんもおんなじからだなんだ」
「ふうむ……じゃね、これからおいらのために、ちょっとそこまで斥候ものみにいってくれないか」
斥候ものみに?」
 蛾次郎がじろうぎょっと、目を白くした。
 竹童ちくどうは、ことさらに、なんでもないような顔をして、
「このあいだから、あまたけに陣取っている、武田伊那丸たけだいなまるさまの軍勢が、人穴城ひとあなじょうへむかってうごきだしたら、すぐここまで知らしてくれりゃいいのだ」
「そしたら、いったい、どうする気なんだい?」
「どうもしないさ、このわしにのって、大空から戦見物いくさけんぶつにでかけるのさ」
「おもしろいなあ、おれもいっしょに乗せてくれるか」
「やるとも」
「よしきた、いってくら!」
 よく人のだしにつかわれる生まれつきだ。年下の者のおちょうしにのって、もう、一もくさんにかけていく。
 そのあとで竹童ちくどうは、わしの足をといてやった。クロは自由のになっても、竹童のそばを離れることなく、流れる水をすっていると、かれはまた火打石ひうちいしを取りだして、そこらの枯葉かれはに火をうつし、煙の立ちのぼる夕空をあおぎながら、
「おそいなあ。あのぐずの斥候ものみを待っているより、またじぶんでそこいらの木へ登ってみようかしら」
 と、ひとりつぶやいたとこである。
 すると、いつのにか、かれの身辺をねらって、じりじりとはいよってきたふたりの武士ぶし――それはまえの甲虫かぶとむしだ、いきなり飛びついて、
「こらッ、あやしい小僧こぞう!」
「うごくなッ」
 とばかり、竹童の両腕とってねじふせた。竹童はまったくの不意打ち、なにを叫ぶもなく、ねかえそうとしたが、はやくも、甲虫の短刀が、ギラリと目先めさきへきて、
「うごくといのちがないぞ、しずかにせい、しずかにせい」
「な、な、なにをするんだい!」
「なにもくそもあるものか、きさまこそ、餓鬼がきのぶんざいで、この松明たいまつをなんにつかう気だ、文句もんくはあとで聞いてやるから、とにかく天子てんしたけのふもとまでこい」
「や、ではきさまたちは徳川方とくがわがた斥候ものみだな」
「おお、亀井武蔵守かめいむさしのかみの手の者だ」
「ちぇッ、そう聞きゃおいらにも覚悟がある」
生意気なまいきなッ」
 たちまち、大人おとなふたりと、竹童との、乱闘らんとうがはじまった。
 こいつ、からだはちいさいが、一すじなわではいかないぞ――とみた甲虫かぶとむしは、やにわに短槍たんそうをおっ取って、閃々せんせんと突いて突いて、突きまくってくる。
 あわや、竹童あやうし――と見えたせつなである。にわかに、大地をめくり返すような一陣の突風とっぷう! と同時に、パッとつばさをひろげた金瞳きんどう黒鷲くろわしは、ひとりをかたつばさではねとばし、あなよというまに、あとのひとりの肩先へとび乗って、銀のつめをいかり立ッて、かれの顔を、ばりッとかいて宙天ちゅうてんへつるしあげた。
「わッ!」
 と、大地へおちてきたのを見れば、目も鼻も口もわからない。満顔まんがんただからくれないの一コのくび

信玄しんげん再来さいらい




 さても伊那丸いなまるは、小袖こそでのうえに、黒皮くろかわ胴丸どうまる具足ぐそくをつけ、そまつな籠手こて脛当すねあて、黒の陣笠じんがさをまぶかにかぶって、いま、馬上しずかに、あまたけをくだってくる。
 世にめぐまれたときのきみなれば、くわがたのかぶとに、八幡座はちまんざの星をかざし、おどしのよろい黄金こがねの太刀はなやかにかざるおであるものを……と、つきしたがう、民部みんぶをはじめ、忍剣にんけん小文治こぶんじ蔦之助つたのすけも、また咲耶子さくやこも、ともに、馬をすすめながら、思わず、ほろりと小袖こそでをぬらす。
 兵は、わずかに七十人。
 みな、生きてかえるいくさとは思わないので、張りつめた面色めんしょくである。決死のひとみ、ものいわぬ口を、かたくむすんで、粛々しゅくしゅくをそろえた。
 まもなく、梵天台ぼんてんだいたいらへくる。よるとばりはふかくおりて徳川方とくがわがたの陣地はすでに見えなくなったが、すぐ前面の人穴城ひとあなじょうには、魔獣まじゅうの目のような、狭間はざまが、チラチラ見わたされた。その時、やおら、俎岩まないたいわの上につっ立った軍師ぐんし民部みんぶは、人穴城をゆびさして、
「こよいの敵は呂宋兵衛るそんべえ、うしろに、徳川勢とくがわぜいがあるとてひるむな――」
 高らかに、全軍の気をひきしめて、さてまた、
「味方は小勢こぜいなれども、正義の戦い。弓矢八幡ゆみやはちまんのご加勢があるぞ。われと思わんものは、人穴城ひとあなじょうの一番乗りをせよや」
 同時に、きッと、馬首ばしゅを陣頭にたてた伊那丸は、かれのことばをすぐうけついで、
「やよ、面々めんめん、戦いの勝ちは電光石火でんこうせっかじゃ、いまこそ、この武田伊那丸たけだいなまるに、そちたちのいのちをくれよ」
 凛々りんりんたる勇姿ゆうし、あたりをはらった。さしも、烏合うごう野武士のぶしたちも、このけなげさに、一てきなみだを、具足ぐそくにぬらさぬものはない。
「おう、このきみのためならば、いのちをすててもおしくはない」
 と、ほねり、肉おどらせて、勇気は、日ごろに十倍する。
 たちまち、進軍の合図あいず
 さッと、民部みんぶの手から二ぎょうにきれた采配さいはいの鳴りとともに、陣は五段にわかれ、雁行がんこうの形となって、やみ裾野すそのから、人穴城ひとあなじょうのまんまえへ、わき目もふらず攻めかけた。
「わーッ。わーッ……」
 にわかにあがるときこえ
「かかれかかれ、いのちをすてい」
 いまぞ花の散りどころと、伊那丸は、あぶみを踏んばり、くらつぼをたたいて叫びながら、じぶんも、まっさきに陣刀をぬいて、城門まぢかく、奔馬ほんばを飛ばしてゆく。
 と見て、帷幕いばく旗本はたもとは、
「それ、若君わかぎみに一番乗りをとられるな」
「おん大将に死におくれたと聞えては、弓矢の恥辱ちじょく、天下の笑われもの」
「死ねやいまこそ、死ねやわが友」
「おお、死のうぞ方々かたがた
 たがいに、いただく死のかんむり
 えいや、えいや、かけつづく面々めんめんには、忍剣にんけん民部みんぶ蔦之助つたのすけ、そして、女ながらも、咲耶子さくやこまでが、筋金入すじがねいりの鉢巻はちまきに、鎖襦袢くさりじゅばんはだにきて、手ごろの薙刀なぎなたをこわきにかいこみ、父、根来小角ねごろしょうかくのあだを、一太刀ひとたちなりとうらもうものと、猛者もさのあいだに入りまじっていく姿は、勇ましくもあり、また、涙ぐましい。
 ただ、こよいのいくさに、一点のうらみは、ここに、かんじんかなめな、木隠龍太郎こがくれりゅうたろうのすがたを見ないことである。
 かみは大将伊那丸いなまるから、した雑兵ぞうひょうにいたるまで、死の冠をいただいてのこの戦いに、大事なかれのいあわせないのは、かえすがえすも遺憾いかんである。ああ龍太郎、かれはついに、伊那丸の前途ぜんとに見きりをつけ、しゅをすて、友をすて去ったであろうか。――とすれば、龍太郎もまた、武士ぶし風上かざかみにおけない人物といわねばならぬ。


「いよいよ攻めてまいりましたぞ」
「なに、大したことはない。主従がっしても、せいぜい八十人か九十人の小勢こぜいです」
「小勢ながら、正陣せいじんの法をとって、大手へかかってきたようすは、いよいよ決死の意気、うっかりすると、手を焼きますぞ」
「おう、そういえば、天をつくようなときこえ
伊那丸いなまるは、たしかに、いのちをすてて、かかってきた……」
 まっ暗な、空の上での話し声だ。
 そこは、人穴城ひとあなじょう望楼ぼうろうであった。つくねんと、高きところのやみに立っているのは、呂宋兵衛るそんべえ可児才蔵かにさいぞうである。
 呂宋兵衛は、いましがた、軍師ぐんし昌仙しょうせん物頭ものがしらとどろき又八が、すべての手くばりをしたようすなので、ゆうゆう、安心しきっているていだった。
 が、可児才蔵はかんがえた。
「待てよ、こいつは見くびったものじゃない……」と。
 そして日没にちぼつから、伊那丸の陣地を見わたしていると、小勢こぜいながら、守ること林のごとく、攻むること疾風しっぷうのようだ。
 かれは、心のうちで、ひそかにしたをまいた。
「いま、天下の者は豊臣とよとみ徳川とくがわ北条ほうじょう柴田しばたのともがらあるを知って、武田菱たけだびしはたじるしを、とうの昔にわすれているが――いやじぶんもそうだったが――こいつは大きな見当けんとうちがい、あの麒麟児きりんじが、一ちょうの風雲に乗じて、つばさを得ようものなら、それこそ信玄しんげん再来さいらいだろう。天下はどうなるかわからない、下手へたをすると、主人の秀吉公ひでよしこうのご未来に、おそろしいつまずきを、きたそうものでもない――これは、ぐずぐずしている場合ではない。すこしもはやく安土城あづちじょうへ帰って、このよしを復命するのがじぶんの役目、もとより秀吉公は、呂宋兵衛るそんべえには、あまり重きをおいていられないのだ、そうだ、その勝敗を見とどけたら、すぐにも安土へ立ちかえろう」
 ほぞをきめたが、色にはかくして、大手の形勢けいせい観望かんぼうしている。
 そこには、たちまち矢叫やさけび、吶喊とっかんこえ大木たいぼく大石たいせきを投げおとす音などが、ものすさまじく震撼しんかんしだした。もう――と、煙硝えんしょうくさいたまけむりが、釣瓶つるべうちにはなす鉄砲の音ごとに、やぐらの上までまきあがってくる。
 おりから、望楼ぼうろうの上へ、かけあがってきたのは、とどろき又八であった。黒皮胴くろかわどう具足ぐそく大太刀おおだちを横たえ、いかにも、ものものしいいでたちだ。
「お頭領かしらに申しあげます」
「どうした、戦いのもようは?」
「城兵は、一のもん二の門とも、かたく守って、破れる気づかいはありませぬ。だがかれもまた、伊那丸をせんとうに、一歩もひかず、小幡民部こばたみんぶのかけ引き自在じざいに、勝負ははてしないところです。これは、丹羽昌仙にわしょうせんのれいの蓑虫根性みのむしこんじょうから起ること、なにとぞ、とくにお頭領よりこの又八に、城外へ打ってでることを、おゆるし願わしゅうぞんじます」
「む、ではなんじは城門をおっぴらいて、いっきに、寄手よせてちらそうというのか」
「たかのしれた小人数、かならずこの又八が、一ぴきのこらずひっからげて、呂宋兵衛るそんべえさまのおんまえにならべてごらんにいれます」
昌仙しょうせんの手がたい一点ばかりも悪くないが、なるほど、それでははてしがあるまい。ゆるす、又八、打ってでろ」
「はッ、ごめん」
 と会釈えしゃくをして、バラバラと望楼ぼうろうをかけおりていった。
 可児才蔵かにさいぞうはそれを見て、
「ああ、いけない」とひそかに思う。
 軍師ぐんし威命いめいおこなわれず、命令が二からでて、たがいにこうをいそぐこと、兵法の大禁物だいきんもつである。
 大手おおてへかけもどった又八は、すぐ、城兵のなかでも一粒ひとつぶよりの猛者もさ久能見くのみ藤次とうじ岩田郷祐範いわたごうゆうはん浪切右源太なみきりうげんた鬼面突骨斎おにめんとっこつさい荒木田五兵衛あらきだごへえ、そのほか穴山あなやま残党ざんとう足助主水正あすけもんどのしょう佐分利さぶり五郎次などを先手さきてとし、四、五百人を勢ぞろいしておしだした。
 軍師の昌仙がそれを見て、おどろき、おこるもかまわず、呂宋兵衛るそんべえのことばをかさに、
「それッ」
 と、城門を八文字もんじひらいた。
「わーッ」
 と、たちまち、寄手よせての兵と、ま正面しょうめんにぶつかって、人間の怒濤どとうと怒濤があがった。たがいに、退かず、かえさず、もみあい、おめきあっての太刀まぜである。それが、およそ半刻はんときあまりもつづいた。
 しかし、やがて時たつほど、むらがり立って、新手あらて新手と入りかわる城兵におしくずされ、伊那丸いなまるがたは、どっと二、三町ばかり退けいろになる。
「それ、このをはずすな」
 とみずから、八かくの鉄棒をりゅうりゅうと持って、まッ先に立った又八、
「追いつぶせ、追いつぶせ、どこまでも追って、伊那丸一をみなごろしにしてしまえ」
 と、千鳥ちどりを追いたつ大浪おおなみのように、逃げるに乗って、とうとう、裾野すそのたいらまでくりだした。


 時分はよしと、にわかにみとどまった小幡民部こばたみんぶ
 とつぜん、采配さいはいをちぎれるばかりにふって、
まれッ!」
 と、いった。
 さんをみだして、逃げてきた足なみは、ぴたりときびすをかえして、いなむらにおりたすずめのように、ばたばたとやりもろともにをふせる。
「かかれッ、とどろき又八をのがすな」
「おうッ」
 たちまちおこる胡蝶こちょうの陣。かけくる敵の足もとをはらって、乱離らんり、四めんぎたおす。
 なかにも目ざましいのは、山県蔦之助やまがたつたのすけ巽小文治たつみこぶんじのはたらき。見るまに、鬼面突骨斎おにめんとっこつさい浪切右源太なみきりうげんたを乱軍のなかにたおし、縦横無尽じゅうおうむじんとあばれまわった。
「さては、またぞろ民部みんぶさくにのせられたか」
 と、又八は色をうしなって、にわかに道をひき返してくると、こはいかに、すでに逃げみちを断って、ふいに目の前にあらわれた一手ひとての人数。
 そのなかから、ひときわ高い声があって、
武田伊那丸たけだいなまるこれにあり、又八に見参げんざん!」
「めずらしやとどろき小角しょうかくの娘、咲耶子さくやこなるぞ」
「われこそは加賀見忍剣かがみにんけん、いで、くびを申しうけた」
 と、耳をつんざいた。
 轟又八は、思わず、ぶるぶると身の毛をよだてた。腹心の剛力ごうりき荒木田五兵衛あらきだごへえは、忍剣にびかかって、ただ一討ひとうちとなる。
 手下てした野武士のぶしは、敵の三倍四倍もあるけれど、こう浮足うきあしだってしまっては、どうするすべもなかった。かれはやけ半分のをいからして、
「おう、山寨さんさい第一の強者つわものとどろき又八の鉄棒をくらっておけ」
 と、忍剣にんけん禅杖ぜんじょうにわたりあった。
 りゅううそぶきとらえるありさま、ややしばらく、人まぜもせず、石火せっかの秘術をつくし合ったが、すきをみて、走りよった伊那丸いなまるが、陣刀一せん、又八の片腕サッと斬りおとす。
「うーむ」
 よろめくところを、咲耶子さくやこ薙刀なぎなた、みごとに、足をはらって、どうと、ぎたおした。
 又八が討たれたと見て、もう、だれひとり踏みとどまる敵はない、道もえらばず、やみのなかをわれがちに、人穴城ひとあなじょうへ、逃げもどってゆく。
 その時、はるか南裾野みなみすそのにあたって、ぼう――ぼう――と鳴りひびいてきた法螺ほら遠音とおね、また陣鐘じんがね
 みわたせば、いつのまにやら、徳川とくがわ三千の軍兵ぐんぴょうは、裾野すその半円を遠巻とおまきにして、焔々えんえんたる松明たいまつをつらね、本格の陣法くずさず、一そく鶴翼かくよくそなえをじりじりと、ここにつめているようす。
 また、人穴城では、いまの敗北をいかった呂宋兵衛るそんべえがこんどはみずから望楼ぼうろうをくだり、さらに精鋭せいえい野武士のぶし千人をすぐってあらしのごとく殺到さっとうした。
 ひゅッ! ひゅッ!
 と早くも、やみをうなってきた矢走やばしりから見ても、徳川勢とくがわぜい先手さきて亀井武蔵守かめいむさしのかみ内藤清成ないとうきよなり加賀爪甲斐守かがづめかいのかみ軍兵ぐんぴょうはほど遠からぬところまで押しよせてきたものとおもわれる、その証拠には、伊那丸いなまるの陣した、あまたけのうえから噴火山ふんかざんのような火の手があがった。
 三河勢みかわぜいが火をかけたのである。
 その火明かりで、梵天台ぼんてんだいにみちている兵も見えた。まぢかの川を乗りわたしてくる軍馬も見えはじめた。裾野すそのは夕焼けのように赤くなった。
「若君、いよいよご最期さいごとおぼしめせ」
 小幡民部こばたみんぶが、天をあおいでこういった。
「覚悟はいたしておる。わしはうれしい、わしはうれしい!」
「おお、おうれしいとおっしゃいまするか」
野武士のぶしずれの呂宋兵衛るそんべえをあいてに討死するより、ただ一太刀でも、甲斐源氏かいげんじ怨敵おんてき徳川家とくがわけの旗じるしのなかにきりいって死ぬこそ本望ほんもう、うれしゅうなくてなんとするぞ」
「けなげなご一ごん、われらも、斬って斬って斬りまくろう」
 と、忍剣にんけんもいさみたったが、かえりみれば、前後に、この強敵をうけながら、伊那丸のまわりにのこった人数は、わずかに四十五、六人。

幽霊軍隊ゆうれいぐんたい




 竹童ちくどうにたのまれて、人穴城ひとあなじょう附近の斥候ものみにでかけた蛾次郎がじろうは、どうやら戦いがはじまりだしたようすなので、草むらをざわざわかきわけてもどってくると、とある小道で、向こうからくるひとりの男のかげを見つけた。
「ア、あいつはあまたけのほうからきたらしい、あいつに聞けば、伊那丸いなまるがたの、くわしいようすがわかるだろう……」
 道ばたに腰かけて、さきからくるのを待っている。
 ビタ、ビタ、ビタ……足音はちかづいてきたが、星明かりぐらいでは、それが百姓だか侍だかはんじがつかないけれど、蛾次郎は、ひょいとまえへ立ちあらわれて、
「もし、ちょっと、うかがいます」
 と、頭をさげた。
 おおかたびっくりしたのだろう、あいてはしばらくだまって、蛾次郎のかげを見すかしている。
「もしやあなたは、雨ヶ岳のほうから、やってきたのではございませんか」
「ああ、そうだよ」
「あすこに陣どっている、武田伊那丸たけだいなまるの兵は、もう山を下りましたろうか、戦いは、まだおッぱじまりませんでしょうかしら」
「知らないよ。そんなことは、おまえはいったいなにものだ」
「おれかい、おれはさ、もと鼻かけ卜斎ぼくさいという鏃鍛冶やじりかじのとこにいた、人無村ひとなしむら蛾次郎がじろうという者だが、どうも卜斎という師匠ししょうが、やかまし屋で気にくわないから、そこを飛びだして、いまではあるところの大大名だいだいみょうのおかかえさまだ」
「バカッ」
「アいたッ。こんちくしょう、な、な、なんでおれをなぐりやがる」
「蛾次郎、いつきさまにひまをくれた」
「えーッ」
「いつ、この卜斎が、ひまをやると申したか」
「あ、いけねえ!」
 蛾次郎が、くるくるいをして逃げだしたのも道理、それは、あまたけからおりてきたとうの卜斎、すなわち上部八風斎かんべはっぷうさいであった。
野郎やろう!」
 ばらばらッと追いかけて、蛾次郎のえりがみをひっつかみ、足をはやめて、人無村の細工さいく小屋へかえってきた。
「親方、ごめんなさい、ごめんなさい」
「えい、やかましいわい」
「アいてえ、もう、もうけっして、飛びだしません、親方ア、これから、気をつけます。か、かんにんしておくんなさい……」
 わんわんと手ばなしで泣きだした。もっとも、蛾次郎がじろうの泣き虫なること、いまにはじまったことではないから、その泣き声も、たいして改心の意味をなさない。
「バカ野郎、てめえに叱言こごとなどをいっていられるものか。こんどだけは、かんべんしてやるから、これをしょって、早くあるけ」
 と、今夜は八風斎はっぷうさいの鼻かけ卜斎ぼくさいも、家にかえって落ちつくようすもなく、書斎しょさいをかきまわして、だいじな書類だけを、一包ひとつつみにからげ、それを蛾次郎にしょわせて、夜逃げのように、立ちのいてしまった。
 門をでると、いま泣いたからす蛾次がじ、もうけろりとして、
「親方、親方、こんな物をしょって、これからいったいどこへでかけるんですえ」
 とききだした。
いくさばかりで、この人無村ひとなしむらでは仕事ができないから、越前えちぜんきたしょうへ立ちかえるのだ」
「え、越前へ」
 蛾次郎はおどろいた。
「いやだなア」
 と、口にはださないが、はらのなかでは、渋々しぶしぶした。せっかく、菊池半助きくちはんすけが、ああやって、徳川家とくがわけ出世しゅっせつるをさがしてくれたのに、越前なンて雪国へなんかいくなんて、なんとつまらないことだと、また泣きだしたくなった。
 ちょうど、夜逃げのふたりが、人無村ひとなしむらのはずれまできた時、――八風斎はっぷうさいがふいにピタリと足をとめて、
「はてな? ……」
 と、耳をそばだてた。
「な、なんです親方」
「だまっていろ……」
 しばらく立ちすくんでいると、たちまち、ゆくての闇のなかから、とう、とう、とう――と地をひびかせてくる軍馬のひづめ、おびただしい人の足音、行軍こうぐんの貝の音、あッと思うまに、三、四百人の蛇形陣だぎょうじんが、あらしのごとくまっしぐらに、こなたへさしてくるのが見えだした。
 八風斎はっぷうさいは、ぎょっとして、さけんだ。
蛾次郎がじろう、蛾次郎、すがたをかくせ、早くかくれろ」
「え、え、え、なんです。親方親方」
「バカ! ぐず――見つかっては一大事だ、はやくそこらへ姿をけせ」
「ど、どこへ消えるんで? ……」
 と、不意のできごとに、蛾次郎がじろうは、をうしない、まだうろうろしているので、八風斎はっぷうさいは、「えいめんどう」とばかり、かれをものかげに突きとばし、じぶんはすばやく、かたわらの松の木へ、するするとよじ登ってしまった。
 ふたりが、からくも、すがたを隠したかかくさないうちである、八風斎の目のしたへ、うしおの流れるごとき勢いで、さしかかってきた蛇形だぎょう行軍こうぐん、その人数はまさに四百余人。みな、一ようの陣笠じんがさ小具足こぐそく手槍てやり抜刀ぬきみをひっさげて、すでに戦塵せんじんびてるようなものものしさ。
 なかに、目立つはひとりの将、漆黒しっこくの馬にまたがって身にはよろいをまとわず、頭にかぶとをかぶらず、白の小袖こそでに、白鞘しらさやの一刀をびたまま、むち裾野すそのにさして、いそぎにいそぐ。
「あ、あの人は見たことがあるぜ」
 ものかげにいた蛾次郎は、目をみはって、その馬上を見おくったが、ふと気がついて、
「そうだ、そうだ」とばかり、あとからつづく人数のなかにまぎれこみ、まんまと、八風斎の目をくらまして越前落えちぜんおちのとちゅうから、もとの裾野すそのへ逃げてもどってしまった。
「おお、あの矢さけび、火の手もみえる、流れ矢もとんでくるわ、この一時ひとときこそ一の大事、息もつかずに、いそげいそげ!」
 人無村ひとなしむらをかけぬけて、渺漠びょうばくたる裾野すそのの原にはいると、黒馬こくばしょうは、くらのうえから声をからして、はげました。あまたけの火はまだ赤々ともえている。
「敵!」
「敵だッ!」
て!」
 と、俄然がぜん、前方の者から声があがった。四、五けんばかりの小石こいし河原、そこではしなくも、徳川家とくがわけ先鋒せんぽう内藤清成ないとうきよなりの別隊、四、五十人と衝突しょうとつしたのである。
 暗憺あんたんたる闇いくさ、ただものすごい太刀音と、やりの折れる音や人のうめきがあったのみで、敵味方の見定みさだめもつかなかったが、勝負は瞬間に決したと見えて、前の蛇形陣だぎょうじんは、ふたたび一みだれず、しかも足なみいよいよはやく、人穴城ひとあなじょう山下さんかへむかった。
「おうーい、おうーい」
 かけつつ馬上の将は何者をか呼びもとめた。それにつづいて、陣笠じんがさの兵たちも、かわるがわる、声をからして、おーい、おーいとつなみのようにときの声を張りあげた。


 地からいたように、忽然こつねんと、人無村をつきぬけて、ここへかけつけてきた軍勢は、そもいずれの国、いずれの大名だいみょうぞくすものか、あきらかな旗指物はたさしものはないし、それと知らるる騎馬きば大将もなかには見えない。ふしぎといえばふしぎな軍勢。
 海に船幽霊ふなゆうれいのあるように、広野こうやの古戦場にも、また時として、武者幽霊むしゃゆうれいのまぼろしが、野末のずえを夜もすがらかけめぐって、草木もれいあるもののごとく、鬼哭啾々きこくしゅうしゅうのそよぎをなし、陣馬の音をよみがえらせて、里人さとびとの夢をおどろかすことが、ままあるという古記も見える。
 それではないか?
 この軍勢も、その武者幽霊の影ではないか、いかにも、まぼろしの魔軍まぐんのごとく、※(「風にょう+炎」、第4水準2-92-35)てんぴょうのごとく、迅速じんそくな足なみだ。
「おうーい、おうーい」
 魔軍はまた、うしおのように呼んでいる。
 時しもあれ――
 ほど遠からぬところにあって、亀井武蔵守かめいむさしのかみの、精悍せいかんなる三河武士みかわぶし二、三百人に取りまかれていた武田伊那丸たけだいなまるの矢さけびを聞くや、魔軍は忽然こつねんと、三段にそなえをわかって、わッとばかり斬りこんだ。
 ときに、矢来やらいの声があって、伊那丸をはじめ苦境の味方を、夢かとばかり思わせた。
「やあ、やあ、若君はご無事でおわすか、その余のかたがたも聞かれよ、すぐる日、小太郎山こたろうざんへむかった木隠龍太郎こがくれりゅうたろう、ただいまこれへ立ち帰ったり! 龍太郎これへ立ちかえったり!」
「わーッ」
 と、地軸ちじくをゆるがす歓喜かんきの声。
「わーッ」
 と、ふたたびあがる乱軍のなかの熱狂。しばしは、鳴りもやまず、三河勢みかわぜいはその勢いと、新手あらて精鋭せいえいのために、さんざんになって敗走した。
 木隠龍太郎は、やはり愛すべき武士であった。かれはついに、主君の危急ききゅうに間にあった。
 それにしても、かれはどうして、小太郎山から、四百の兵をらっしてきたのであろう。それは、かれについてきた兵士たちのいでたちを見ればわかる。
 陣笠じんがさ具足ぐそくも、昼のあかりで見れば、それは一づくりの紙ごしらえであろう、兵はみな、小太郎山の、とりでの工事にはたらいていた石切りや、鍛冶かじや、大工だいくや、山くずしの土工どこうなのである。武器だけは、とりでをつくるまえに、ひそかに、たくわえてあったので不足がなかった。
 この成算せいさんがあったので、龍太郎は四日のあいだに、四百の兵を引きうけた。そして、その機智きちが、意外に大きなこうをそうした。
 しかし、一同は、ほッとするもなかった。ひとたび、兵をひいた亀井武蔵守かめいむさしのかみは、ふたたび、内藤清成ないとうきよなりの兵とがっして、堂々と、再戦をいどんできた。
 のみならず、人穴城ひとあなじょうを発した呂宋兵衛るそんべえも、すぐ六、七町さきまで野武士勢のぶしぜいをくりだして、四、五百ちょうの鉄砲組をならべ、いざといえば、千鳥落ちどりおとしにぶっぱなすぞとかまえている。


 鼻かけ卜斎ぼくさい越前落えちぜんおちに、とちゅうまでひっぱられていった蛾次郎がじろうが、木隠龍太郎こがくれりゅうたろう行軍こうぐんのなかにまぎれこんで、うまうま逃げてしまったのは、けだし、蛾次郎近来の大出来おおできだった。
 かれはまた、その列のなかから、いいかげんなところで、ぬけだして、すたこらと、白旗しらはたもりのおくへかけつけてきた。
 見ると、そこに焚火たきびがしてあり、わしもはなたれているが、竹童ちくどうのすがたは見えない。
 蛾次郎は、しめた! と思った。今だ今だ、菊池半助きくちはんすけにたのまれているこの鷲をぬすんで、徳川家とくがわけの陣中へ、にげだすのは今だ、と手をたたいた。
「これが天の与えというもんだ、あんなに資本もとをつかって、おまけに、竹童みたいなチビ助に、おべっかをしたり、使いをしたりしてやったんだもの、これくらいなことがなくっちゃ、まらないや、さ、クロ、おまえはきょうからおれのものだぞ」
 ひとりで有頂天うちょうてんになって、するりと、やわらかい鷲の背なかへまたがった。
 蛾次郎は、このあいだ、竹童とともにこれへ乗って、空へまいあがった経験もあるし、また、この数日、腹にいちもつがあるので、せいぜいうさぎの肉や小鳥をあたえているので、かなり鷲にもれている。
 竹童ちくどうのする通り、かるくつばさをたたいて、あわや、乗りにげしようとしたとたん、頭の上から、
「やいッ」
 するすると木から下りてきた竹童、
「なにをするんだッ」
 いきなりわしの上の蛾次郎がじろうを、二、三げんさきへ突きとばした。不意をくって、しりもちついた蛾次郎は、いたい顔をまがわるそうにしかめて、
「なにをおこったのさ、ちょっとくらい、おれにだってかしてくれてもいいだろう。いのちがけで、いくさのもようをさぐってきてやったんだぜ、そんな根性こんじょうの悪いことをするなら、おれだって、なんにも話してやらねえよ」
「いいとも、もうおまえになんか教えてもらうことはない。おいらが木の上から、およそ見当けんとうをつけてしまった」
「かってにしやがれ、いくさなんか、あるもんかい」
「ああ、蛾次公なんかに、かまっちゃいられない、こっちは、今夜が一生一度の大事なときだ」
 竹童は、二十本の松明たいまつを、ふじづるでせなかへかけ、一本の松明には焚火たきびほのおをうつして、ヒラリとわしのせへ乗った。
「やい、おれも一しょにのせてくれ、乗せなきゃ、松明をかえせ、おれのやった松明をかえしてくれえ」
「ええ、うるさいよ!」
「なんだと、こんちくしょう」
 と、胸をつつかれた蛾次郎がじろうは、おのれを知らぬ、ぼろざやの刀をぬいて、いきなり竹童に斬りつけてきた。
「なにをッ」
 竹童は、ほのおのついた松明たいまつで、蛾次郎の鈍刀なまくらをたたきはらい、とっさに、わしをばたばたと舞いあげた。蛾次郎はそのするどいつばさにはたかれて、
「あッ」
 と、四、五けんさきの流れへはねとばされたが、むちゅうになって、飛びあがり、およびもない両手をふって、
「やーい、竹童、竹童」
 と、泣き声まじりに呼びかけた。
 けれど、それに見向きもしない大鷲おおわしは、しずかに、ちゅういあがって、しばらく旋回せんかいしていたが、やがて、ただ見る、一じょうの流星か、ほのおをくわえた火食鳥ひくいどりのごとく、松明たいまつの光をのせて、暗夜あんやの空を一文字もんじにかけり、いまや三かくせんまっ最中さいちゅうである人穴城ひとあなじょうの真上まで飛んできた。

虎穴こけつ鞍馬くらま竹童ちくどう




 軍令ぐんれいをやぶってけがけしたとどろき又八が、伊那丸いなまるがたのはかりごとにおちて、ついに首をあげられてしまったと聞き、人穴城ひとあなじょうのものは、すッかり意気を沮喪そそうさせて、また城門をかためなおした。
 敗走の手下から、その注進をうけた丹羽昌仙にわしょうせんは、
「ええいわぬことではないのに……」とにがりきりながら、望楼ぼうろうの段をみのぼっていった。
 そこには、よいのうちから、呂宋兵衛るそんべえと、可児才蔵かにさいぞう床几しょうぎをならべて、始終しじゅうのようすを俯瞰ふかんしている。
「呂宋兵衛さま」
「おお、軍師ぐんし
「又八は城外へでて討死うちじにいたしました」
「ウム……」
 と、呂宋兵衛は、じぶんにもがあるので、まりわるげに沈んでいたが、
「おお、それはともかく――」
 と、話をそらして、
伊那丸いなまる徳川勢とくがわぜいとの勝敗しょうはいはどうなったな。かすかに、矢さけびは聞えてくるが、この闇夜やみよゆえさらにいくさのもようが知れぬ」
「いまはちょうど、双方必死そうほうひっし最中さいちゅうかと心得ます」
「そうか、いくら伊那丸でも、三千からの三河武士みかわぶしにとりかこまれては、一たまりもあるまい」
「ところが、斥候ものみの者のしらせによると、にわかに四、五百のかくし部隊があらわれて、亀井武蔵守かめいむさしのかみをはじめ、徳川勢をさんざんになやめているとのことでござる」
「ふむ……とすると、勝ち目はどっちに多いであろうか」
「むろん、さいごは、徳川勢が凱歌がいかをあげるでござりましょうが」
「さすれば、こっちは高見たかみの見物、伊那丸の首は、三河勢みかわぜい槍玉やりだまにあげてくれるわけだな」
「が、ゆだんはなりませぬ。なるほど、伊那丸がたは、徳川の手でほろぼされましょうが、次には、勝ちにのった三河の精鋭せいえいどもが、この人穴城ひとあなじょうを乗っとりに、押しよせるは必定ひつじょうです」
「一なんさってまた一難か。こりゃ昌仙しょうせん、こんどこそは、かならずそちの采配さいはいにまかす。なんとか、妙策みょうさくをあんじてくれ」
 と、とうとうかぶとをぬいでしまった。
おおせまでもなく、に応じ、変にのぞんで、昌仙しょうせん軍配ぐんばいみょうをごらんにいれますゆえ、かならずごしんぱいにはおよびませぬ」
「それを聞いて安堵あんどいたした。オオ、また裾野すそのにあたって武者声むしゃごえきあがった。しかしとうぶん、人穴城ひとあなじょう日和見ひよりみでいるがいい、さいわいに、可児才蔵かにさいぞうどのも、これにあることだから、伊那丸がたがみじんになるまで、一こんむといたそう」
 手下にいいつけて、望楼ぼうろうの上へ酒をとりよせた呂宋兵衛るそんべえは、昌仙しょうせん才蔵さいぞうをあいてに、ゆうゆうと酒宴さかもりをしながら、ここしばらく、裾野すそのいくさを、むこう河岸がしの火事とみて、をふかしていた。
 するとにわかに、星なき暗天にあたって、ヒューッという怪音がはしった。その音は遠く近く、人穴城の真上をめぐって鳴りだした。
「風であろう、すこし空が荒れてきたようだ」
 さかずきを持ちながら、三人がひとしく空をふりあおぐと、こはなに? 狐火きつねびのような一怪焔かいえんが、ボーッとうなりを立てつつ、頭の上へ落ちてくるではないか。


 可児才蔵も呂宋兵衛も、また、丹羽昌仙も、おもわず床几しょうぎを立って、
「あッ」
 と、やぐらの三方へ身をさけた。
 とたんに、空からってきた怪火のかたまりが、音をたててそこにくだけたのである。
 たおれたつぼの酒が、望楼ぼうろうの上からザッとこぼれ、花火のような火のがまい散った。
「ふしぎ――どこから落ちてきたのであろう」
昌仙しょうせん昌仙、早くふみ消さぬと望楼ぼうろうへ燃えうつる」
「お、こりゃ松明たいまつじゃ」
「え、松明?」
 三人は唖然あぜんとした。
 いくら天変地異てんぺんちいでも、空から火のついた松明が降ってくるはずはない、あろう道理はないのである。もし、あるとすれば世のなかにこれほどぶっそうな話はない。
 しかし、事実はどこまでも事実で、瞬間しゅんかんののち、またもや同じような怪焔かいえんが、こんどは籾蔵もみぐらへおち、つづいて外廓そとぐるわ獣油じゅうゆ小屋など、よりによって危険なところへばかり落ちてくる。
「火が降る、火が降る」
「それ、あすこへついた」
「そこのをふみ消せ、ふしぎだ、ふしぎだ」
 城中のさわぎはかなえのわくようである。ある者は屋根にのぼり、ある者は水をはこんでいる。
 なかでも、気転きてんのきいたものがあって、闇使やみづかいの龕燈がんどうをあつめ、十四、五人が一ところによって、明かりを空へむけてみた結果、はじめて、そこに、おどろくべき敵のあることを知った。
 かれらの目には、なんというはんだんもつかなかったが、地上から明かりをむけたせつな、かつて、話にきいたこともない怪鳥けちょうが、虚空こくうに風をよんでったのが、チラと見えた。
 それはわしの背をかりて、白旗しらはたもりをとびだした竹童ちくどうなることは、いうまでもない。
 鞍馬くらまそだちの竹童も、こよいは一だいのはなれわざだ。果心居士かしんこじうつしの浮体ふたいの法で、ピタリと、クロのつばさの根へへばりつき、両端りょうはしへ火をつけた松明たいまつをバラバラおとす。火先はさんらんと縞目しまめすじをえがいて、人穴城ひとあなじょうへそそぎ、三千の野武士のぶしの巣を、たちまち大こんらんにおとし入れてしまった。
「ああ、いけねえ」
 と、その時、ふと、つぶやいた竹童。
 空はくらいが、地上は明るい。人穴城のなかで、右往左往うおうさおうしているさまを見おろしながら、
「こっちで投げる松明を、そうがかりで、消されてしまっちゃ、なんにもならない。オヤ、もうあと四、五本しかないぞ」
 なに思ったか、クロの襟頸えりくびをかるくたたいて、スーと下へ舞いおりてきた。いくら大胆だいたん竹童ちくどうでも、まさか人穴城ひとあなじょうのなかへはいるまいと思っていると、あんのじょう、れいの望楼ぼうろう張出はりだし――さっき呂宋兵衛るそんべえたちのいたところから、また一段たかい太鼓櫓たいこやぐらの屋根へかるくとまった。
 クロをそこへとまらせておいて、竹童は、残りの松明たいまつ背負せおって、スルスルと望楼台へ下りてきた。もうそこにはだれもいない、呂宋兵衛も昌仙しょうせん才蔵さいぞうも、下のさわぎにおどろいてりていったものと見える。
「しめた」
 竹童は、五つ六つある階段を、むちゅうでかけおりた。
 そこは、七門のとびらにかためられている人穴城ひとあなじょうのなかだ。あっちこっちの小火ぼやをけすそうどうにまぎれて、さしもきびしい城内ではあるが、ここに、天からふったひとりの怪童かいどうありとは、夢にも気のつく者はなかった。


 果心居士かしんこじめいをおびて、いつかここに使いしたことのある竹童は、そのとき、だいぶ、ようすをさぐっておいたので、城内のかっても、心得ぬいている。
 おそろしい、はしッこさで、かれがねらってきたのは鉄砲火薬てっぽうかやくをつめこんである一棟ひとむねだった。見ると、戦時なので、煙硝箱えんしょうばこも、つみだしてあるし、くらの戸も、観音かんのんびらきにいている。しかも願ったりかなったり、いまのさわぎで、武器番の手下も、あたりにいなかった。
 ちょこちょこと、くらのなかへはいった竹童は、れいの松明たいまつに、火をつけて、まン中におき、藁縄わらなわ綱火つなびが火をさそうとともに、このなかの煙硝箱えんしょうばこが、いちじに爆発するようにしかけた。そして、ポンと、そとのめるがはやいか、もときた望楼ぼうろうへ、息もつかずにかけあがってくる。
「ありがたい、ありがたい。これで人穴城ひとあなじょう蛆虫うじむしどもは、もなくいっぺんに寂滅じゃくめつだ。伊那丸いなまるさまも、およろこびなら、お師匠ししょうさまからも、たくさんめていただかれるだろう」
 望楼に立って、手をふった竹童、待たせてあるクロが飛び去っては一大事と、大いそぎで、欄間らんまから棟木むなぎへ手をかけ、棟木から屋根の上へ、よじ登ろうとすると、
小僧こぞう、待て!」
 ふいに、下からグングンと、足をひッぱる者があった。
「あ! あぶない」
りろ、神妙しんみょうにおりてこないと、きさまのからだは、この望楼からころがり落ちていくぞ」
「あ、しまった」
 竹童はおどろいた。
 平地とちがって、からだは七階のやぐらのすてッぺんにあった。棟木むなぎへかけている五本の指が、いのちをつっているようなもの、ひとつ力まかせに下からひっぱられたひには、たまったものではない。
りろともうすに、降りてこないか」
「いま降りるよ、降りるから、手をはなしてくれ、でなくッちゃ、からだが自由にならないもの」
「ばかを申せ、はなせば、上へあがるんだろう」
 足をつかんでいる者はゆだんがない。
 竹童ちくどう観念かんねんしてしまった。
 ままよ、どうにでもなれ、お師匠ししょうさまからいいつけられた使命は、もう十のものなら九つまでしとげたのもどうよう、呂宋兵衛るそんべえの手下につかまって、首をはねられても残りおしいことはないと思った。
「じゃ、どうしろっていうんだい」
 おのずから、声もことばも、大胆だいたんになる。
「その手をはなしてしまえ」
「手をはなせば、ここから下まで、まッさかさまだ」
「いや、おれがこう持ってやる」
 下の者は背をのばして、竹童の腰帯こしおびをグイとつかんだ。もうどうしたってのがれッこはない、竹童は、運を天にまかせて、棟木むなぎかどへかけていた手を、ヒョイとはなした。
「えいッ」
 はッと思うと、竹童のからだは、望楼台ぼうろうだいの上へまりのように投げつけられていた。覚悟はしていても、こうなると最後までにげたいのが人情、かれは、むちゅうになってはね起きたが、すかさず、いまの男が、上からグンと乗しかかって、
「まだもがくか!」
 と手足の急所をしめて、磐石ばんじゃくの重みをくわえた。それをだれかと見れば、さっき、呂宋兵衛るそんべえ昌仙しょうせんとともに、ここにいた可児才蔵かにさいぞうである。
 安土あづちから選ばれてきた可児才蔵とわかってみれば、なるほど、竹童が、つかまれた足を離せなかったのもむりではない。
「いたい、いたい。苦しい」
 竹童も、呂宋兵衛の手下にしては、どうもすこし、手強てごわいやつにつかまったとうめきをあげた。
「痛いのはあたりまえだ、うごけばうごくほど、急所がしまる」
「殺してくれ、もう死んでもいいんだ」
「いや、殺さない」
「首を斬れ」
「首も斬らぬ。いったいきさまは、どこの何者だ」
「聞くまでもないではないか、おいらはいつか、果心居士かしんこじさまのお使いとなって、この城へきたことのある鞍馬山くらまやま竹童ちくどうだ。首の斬り方をしらないなら、さッさと、呂宋兵衛るそんべえの前へひいていけ」
「ウーム、鞍馬山の竹童というか」
 可児才蔵かにさいぞうも、心中したをまいておどろいた。
 安土あづちの城には、じぶんの主人福島市松ふくしまいちまつをはじめ、幼名ようめい虎之助とらのすけ加藤清正かとうきよまさ、そのほか豪勇ごうゆうな少年のあったことも聞いているが、まだこの竹童のごとく、軽捷けいしょうで、しかも大胆だいたんな口をきく小僧こぞうというものを見たことがない。


 竹童はまた竹童で、才蔵に組みふせられていながら、はらのなかで、ふとこんなことを思った。
「こいつはおもしろい、いましかけてきたあの綱火つなびが、松明たいまつの火からだんだん燃えうつって、もうじきドーンとくるじぶんだ。そうすれば煙硝庫えんしょうぐら人穴城ひとあなじょう野武士のぶしも、この望楼ぼうろうもおいらもこいつも、いっぺんにけし飛んでしまうんだ」
 と、かれはいきなり下から、ぎゅッと才蔵の帯をにぎりしめた。
「あはははは、およばぬ腕だて」
 と、才蔵は力をゆるめて笑いだした。
「笑っていろ、笑っていろ、そして、いまに見ているがいい、この下の煙硝庫えんしょうぐら破裂はれつして、やぐらもきさまもおいらも、一しょくたに、みじんに吹ッ飛ばされるから」
「えッ、煙硝庫が?」
「おお、あのなかへ松明たいまつを、ほうりこんできたんだ。ああいい気味きみ、その火を見ながら死ぬのは竹童ちくどう本望ほんもうだ、おいらは本望だ」
「いよいよ、よういならん小僧こぞうだ」
 さすがの才蔵さいぞうも、これにはすこしとうわくした。がいまの一ごんを聞いて、
「では、もしやなんじは、伊那丸いなまるのために働いている者ではないか」
 と、問いただした。
「あたりまえさ、伊那丸さまをおいて、だれのためにこんなあぶない真似まねをするものか、おいらもお師匠ししょうさまも、みんなあのおかたを世にだしたいために働いているんだ」
「おお、さてはそうか」
 と才蔵は飛びのいて、にわかに態度をあらためた。竹童は、手をひかれて起きあがったが、少しあっけにとられていた。
「そうとわかれば、汝を手いたい目にあわすのではなかった。なにをかくそう、拙者せっしゃはわけがあって、秀吉公ひでよしこうめいをうけ、この裾野すそののようすを探索たんさくにきた、可児才蔵かにさいぞうという者だ」
「おじさん、おじさん、そんなことをいってると、ほんとうに鉄砲薬てっぽうぐすりの山が、ドカーンとくるぜ、おいらのいったのは、うそじゃないからね」
「では竹童、すこしも早く逃げるがいい」
「えッ、おいらを逃がしてくれるというの」
「おお秀吉公ひでよしこうは、伊那丸いなまるどのに悪意をもたぬ。あのおんかたに、会ったらつたえてくれい、可児才蔵かにさいぞうと申す者が、いずれあらためて、お目にかかり申しますと」
「はい、しょうちしました」
 ないとあきらめたいのちを、思いがけなく拾った竹童は、さすがにうれしいとみえて、こおどりしながら、まえの欄間らんまへ足をかけた。
「あぶないぞ、落ちるなよ」
 まえには足をひっ張った才蔵が、こんどは下から助けてくれる。竹童は棟木むなぎの上へ飛びつきながら、
「ありがとう、ありがとう。だが、おじさん――じゃあない可児さま。あなたも早くここをりて、どこかへ逃げださないと、もうそろそろ煙硝えんしょうの山が爆発ばくはつしますよ」
「心得た、では竹童、いまの言伝ことづてを忘れてくれるな」
 といいすてて、可児才蔵はバラバラと望楼ぼうろうをおりていったようす、いっぽうの竹童も、やっと屋根がわらの上へはいのぼってみると、うれしや、畜生ちくしょうながら霊鷲れいしゅうクロにも心あるか、巨人のようにつばさをやすめてかれのもどるのを待っていた。
「さあ、もう天下はこっちのものだ」
 わしの翼にかくれた竹童ちくどうのからだは、みるまに、望楼ぼうろうの屋根をはなれて、磨墨するすみのような暗天たかく舞いあがった。
 ――と思うと同時に、とつぜん、天地をひっくばかりな轟音ごうおん
 ここに、時ならぬ噴火口ふんかこうができて、富士の形が一に変るのかと思われるような火の柱が、人穴城ひとあなじょうから、宙天ちゅうてんをついた。
 ドドドドドドウン!
 二どめの爆音ばくおんとともに、ふたつにけた望楼台ぼうろうだいは、そのとき、まっ黒な濛煙もうえんと、阿鼻叫喚あびきょうかんをつつんで、大紅蓮だいぐれんきだした殿堂のうえへぶっ倒れた。
 そして、八万八千の魔形まぎょうが、火となり煙となって、舞いおどるほのおのそこに、どんな地獄じごくが現じられたであろうか。

果心居士かしんこじ壁叱言かべこごと




「また富士山ふじさんが、火をふきだしたのであろうか」
「おお、まだ今朝けさもあんなに、黒煙くろけむりが、あがっている」
「なあに、お山はあのとおり、いつもと変ったところはない、きっと猟師りょうしが、野火のびでもだしたんだろうよ」
「いやいや、野火ばかりで、あんな音がするものか、いくさのためだ、戦があったにきまっている」
「え、戦? 戦とすればたいへんだ、このへんもぶっそうなことになるのじゃないかしら」
 ここは、裾野すその人無村ひとなしむらからも、ずッとはなれている甲斐国かいのくに法師野ほうしのという山間さんかんの部落。
 人穴城ひとあなじょうがやけた轟音ごうおんは、このへんまで、ひびいたとみえて、うちに落着けないさとの人があっちに一群ひとむれ、こっちにひとかたまり、はるかにのぼる煙へ小手をかざしながら、今朝けさもガヤガヤあんじあっていた。
「おい、与五松よごまつ
 そのうちのひとりがいった。
「おめえのうちで、ゆうべ宿をかした旅の客があったな。なんだかこわらしい顔をしていたが、物しりらしいところもある、一つあの客人にきいて見ようじゃないか」
「なるほど、矢作やさくがいいところへ気がついた、どこにいくさがあるのか、あの人なら知っているかもしれねえ、はやくおびもうしてこいやい」
「あ、その人は、おれがでてくるときに、先をいそぐとやらで支度じたくをしていたから、ことによるともうでかけてしまったかもしれねえが、おいでになったらすぐ連れてこよう」
 与五松という若者は、すぐじぶんのうちへかけだしていった。ちょうど、立ちかけているところへに合ったものか、しばらくすると、かれはひとりの旅人をつれて一同のほうへ取ってかえしてきた。
「あれかい、与五松のうちへとまった、お客というのは」
 里の者たちは、そでひき合って、クスクス笑いあった。なぜかといえば、片鼻かたはなそげている顔が、いかにも怪異かいいに見えたのである。
 旅の男というのは、鼻かけ卜斎ぼくさい八風斎はっぷうさいであった。越後路えちごじへむかっていくかれは、蛾次郎がじろうを見うしなって、ひとりとなり、昨夜ゆうべはこの部落で、一夜をあかした。
「わざわざ恐れいりまする」
 と、年かさな矢作やさくが、卜斎のまえへ、小腰をかがめながら、ていねいにききだした。
「あなたさまは、裾野すそのからおいでになった鏃師やじりしとやらだそうでござりますが、あのとおりな黒煙くろけむりが、二日二晩もつづいて立ちのぼっているのは、いったいなんなのでござりましょう」
「あれかい」卜斎はくだらぬことに、呼びとめられたといわんばかりに、
「あれはたぶん、人穴ひとあな殿堂でんどうが焼けたのでしょう」
「へえ、人穴の殿堂と申しますると」
野武士のぶしの立てこもっていた山城やまじろ――和田呂宋兵衛わだるそんべえ丹羽昌仙にわしょうせんなどというやつらが、ひさしくをつくっていたところだ。それもとうとう時節がきて、あのとおり、焼きはらわれたものだろう」
「ああ野武士ですか、野武士の城なら、いい気味だ」
「お富士ふじさまのばちだ」
 と、里人さとびとはにわかにほッと安心したばかりか、日ごろの欝憤うっぷんをはらしたようにどよみ立った。
 するとまた二、三の者が、
「あ、だれかきた」と叫びだした。
 見ると鳥刺とりさし姿の可児才蔵かにさいぞうが、山路やまじをこえてこの部落にはいってきたのだ。ここは街道衝要しょうようなところなので、甲府こうふへいくにも南信濃みなみしなのへはいるにも、どうしても、通らねばならぬ地点になっている。
「おお鳥刺しだ」
 と、部落の者たちは、また才蔵を取りまいて、裾野すそののようすをくどく聞きたがった。けれど才蔵は、これから安土あづちへ昼夜兼行けんこうでかえろうとしているからだ、裾野におけるちくいちの仔細しさいは、まず第一に、秀吉ひでよしへ復命すべきところなので、多くを語るはずがない。
「さあ、ふかいようすは知りませんが、なにしろ、裾野はいま、人穴城ひとあなじょうの火が、枯野かれのへ燃えひろがって、いちめんの火ですよ、そのために、徳川勢とくがわぜい武田方たけだがた合戦かっせんは、両陣ひき分けになったかと聞きましたが、人穴城から焼けだされた野武士のぶしは、駿河するがのほうへは逃げられないのでたぶん、こっちへ押しなだれてきましょう」
「えッ、野武士の焼けだされが、こっちへ逃げてきますって?」
「ほかに逃げ道もなし、食糧しょくりょうのあるところもありませんから、きっとここへやってくるにそういありません。ところでみなさん、わたしがここを通ったことは、その仲間なかまがきても、けっしていわないでくださいまし、ではさきをいそぎますから――」
 と、可児才蔵はほどよくいって、いっさんに、部落をかけだした。
 そして、甲信両国こうしんりょうごく追分おいわけに立ったとき、右手の道を、いそいでいく男のかげがさきに見えた。
「ははあ、きゃつは、柴田しばたまわし者上部八風斎かんべはっぷうさいだな、これからきたしょうへかえるのだろうが、とても、勝家かついえの腕ではここまで手がびない。やれやれごくろうさまな……」
 苦笑を送ってつぶやいたが、じぶんは、それとは反対な、信濃堺しなのざかいの道へむかって、足をはやめた。


 法師野ほうしのの部落は、それから一刻ひとときともたたないうちに、昼ながら、しんとしてしまった。たださえ兇暴きょうぼう野武士のぶしが焼けだされてきた日には、どんな残虐ざんぎゃくをほしいままにするかも知れないと、家をざして村中恐怖きょうふにおののいている。
 はたして、その日の午後になると、この部落へ、いような落武者おちむしゃの一隊がぞろぞろとはいってきた。各戸かっこの防ぎを蹴破けやぶって、
「ありったけのものをだせ」
「女老人としよりは森へあつまれ、そしてめしをたくんだ」
「村から逃げだすやつは、たたッ斬るぞ」
うちはしばらくのあいだ、われわれの陣屋とする」
 き勝手なことをいって、財宝をうばい、衣類食い物を取りあげ、部落の男どもを一人のこらずしばりあげて、その家々いえいえへ、えたおおかみのごとき野武士が、わがもの顔して、なだれこんだ。
 焼けだされた狼は、わずか三、四十人の隊伍たいごであったが、なにせよ、武器をもっている命知いのちしらずだからたまらない。なかには、呂宋兵衛るそんべえをはじめ、丹羽昌仙にわしょうせん早足はやあし燕作えんさく吹針ふきばり蚕婆かいこばばあまでがまじっていた。
 あの夜、殿堂へ、煙硝爆破えんしょうばくは紅蓮ぐれんがかぶさったときには、さすがの昌仙も、手のつけようがなく、わずかに、呂宋兵衛その他のものとともに、例の間道かんどうから人無村ひとなしむらへ逃げ、からくも危急をだっしたのであるが、多くの手下は城内で焼け死んだり、のがれた者も、大半は、徳川勢とくがわぜい伊那丸いなまるの手におちて、とらわれてしまった。
 城をうしない、裾野すそのの勢力をうしなった呂宋兵衛は、たちまち、野盗やとう本性ほんしょうにかえって、落ちてきながら、通りがけの部落をかたっぱしから荒らしてきた。そしてこれから、秀吉ひでよし居城きょじょう安土あづちへのぼって、助けを借りようという虫のよい考え。――ところが、一しょにおちてきた可児才蔵かにさいぞうは、こんな狼連おおかみれんにつきまとわれては大へんと、いちはやく、とちゅうから姿をかくし、一足ひとあしさきに上方かみがたへ立っていったのである。


 ここに、一だい大手柄おおてがらをやったのは鞍馬くらま竹童ちくどう
 その得意や、思うべしである。
 飛行自在のクロあるにまかせて、かれは、燃えさかる人穴城ひとあなじょうをあとに、ひさしぶりで、京都の鞍馬山くらまやまのおくへ飛んでかえり、お師匠ししょうさまの果心居士かしんこじにあって、得意のちくいちを物語ろうと思ったところが、荘園そうえんいおりがらんどうで、ただ壁に、一枚の紙片かみきれってあり、まさしく居士の筆で、いわく、

竹童よ。ほこるなよ。なまけるなよ。ゆだんするなよ。お前の使命はまだのこっているはず。
ふたたび、われとあう日まで、心のひもをゆるめるなかれ。
果心居士

「おや、こんなものを書きのこして、お師匠さまはいったい、どこへかくれてしまったんだろう」
 竹童は、がっかりしたり、不審ふしんにおもったりして、しばらく庵にぼんやりしていた。
「おまえの使命はまだ残っている――おかしいなあ、お師匠さまの計略は、いいつけられたとおりまんまとしたのに……ああそうか、徳川軍とくがわぐんにかこまれた伊那丸いなまるさまが、勝ったか負けたか、生きたか死んだか、その先途せんどとどけないのがいけないというのかしら、そういえば、可児才蔵かにさいぞうという人からたのまれている伝言ことづてもあったっけ」
 と、にわかに気がついた竹童は、数日らい不眠不休ふみんふきゅうの活動に、ともすると眠くなる目をこすりながら、ふたたび、クロに乗って富士の裾野すそのへ舞いもどった。
 やがて、白砂青松はくしゃせいしょうの東海道の空にかかったとき、竹童がふと見おろすと、たしかに徳川勢とくがわぜい亀井かめい内藤ないとう高力こうりきなんどの武者らしい軍兵ぐんぴょう三千あまり、旗幟堂々きしどうどう、一そく陣足じんそくふんで浜松城へ凱旋がいせんしてきたようす。
「おや、あのあんばいでは、裾野すその合戦かっせん伊那丸いなまるさまの敗亡はいぼうとなったかしら?」
 竹童、いまさら気が気でなくなったから、いやがうえにも、クロをいそがせて、裾野の空へきて見ると、人穴ひとあなから燃えひろがった野火のびは、とどまるところを知らず、ほうにわたって、濛々もうもうと煙をたてているので、下界げかいのようすはさらに見えない。

遠術えんじゅつ日月じつげつあらそ




 七日七夜なぬかななよ、燃えにもえた野火の煙は、裾野一円にたちこめて、昼も日食にっしょくのように暗い。
 富士の白妙しろたえ銀細工ぎんざいくのものなら、とッくに見るかげもなく、くすぶッてしまったところだ。見よ、さしも人穴ひとあな殿堂でんどうすべて灰燼かいじんし、まるでおに黒焼くろやき巌々がんがんたる岩ばかりがまっ黒にのこっている。
 すると、さっきから、そのあとを見まわっていた三のかげが、廃城はいじょうの門をまっしぐらにけだした。そして濛々もうもうたる野火の煙をくぐりながら、金明泉きんめいせんのちかくまできたとき、さきにきた山県蔦之助やまがたつたのすけが、ふいに、ピタッとこまをとめて、
「や? ご両所りょうしょ、しばらく待ってくれ」
 と、あとからきた二――巽小文治たつみこぶんじ木隠龍太郎こがくれりゅうたろうへ、手をふって押しとどめた。
「おお、蔦之助、呂宋兵衛るそんべえ残党ざんとうでもおったか」
「いや、よくはわからぬが、あのいずみのほとりに、なにやらあやしいやつがいる。いま、拙者せっしゃ遠矢とおやをかけて追いたてるから、あとは斬るとも生けどるとも、おのおの鑑定かんていしだいにしてくれ」
「ウム、心得た」
 といったへんじよりは、龍太郎と小文治、金明泉へむかって馬を飛ばしていたほうがはやかった。
 蔦之助は、たかの石打ちの矢を一本とって、弓弦ゆづるにつがえ、馬上、横がまえにキラキラと引きしぼる。
 ――ちょうは、駿馬しゅんめ項羽こううで一そくとび、
「やッ、しまった!」
 と、そこまできて龍太郎はびっくりした。なぜといえば、いましも金明泉のほとりから、笹叢ささむらをガサガサ分けてでてきたのは、呂宋兵衛るそんべえ残党ざんとうどころか、大せつな大せつな鞍馬くらま竹童ちくどう
 竹童はなんにも知らない。金明泉きんめいせんの水でも飲んできたか、そでで口をふきながら、ヒョイと、岩角いわかどへとび乗ってわざわざ蔦之助つたのすけのまとに立ってしまった。
 龍太郎はあわてて、うしろのほうへ馬首ばしゅをめぐらし、
「待てッ、味方だ!」
「竹童だ、うつな!」
 小文治こぶんじ絶叫ぜっきょうした。
 が、にあわなかった。プツン! とたかい弦鳴つるなりがもうかなたでしてしまった。
 射手いては名人、矢はたかの石打ち、ヒューッと風をふくんで飛んだかと思うと、ねらいはあやまたずかれの胸板むないたへ――
 あっけらかんと口をふいていた竹童、睫毛まつげの先にキラリッとやじりの光を感じたせつなに、ヒョイ――と首をすくめて右手すばやく稲妻いなずまつかみに、名人の矢をにぎりめてしまった。
「竹童、みごと」
 矢にもおどろいたし、ごえにもおどろいた竹童、龍太郎と小文治のすがたを見つけて、
木隠こがくれさま。大人おとなのくせに、よくないいたずらをなさいますね」
 と、ニッコリ笑った。
「いや竹童、いまのは木隠こがくれどののわるさではない。むこうにいる山県氏やまがたうじの見そこないだから、まあかんにんしてやるがよい」
 小文治こぶんじがいいわけしていると、蔦之助つたのすけも遠くから、このようすを見てかけてきた。そして、今為朝いまためともともいわれたじぶんの矢を、つかみとるとは、すえおそろしい子だという。
 けれどとうの竹童には、末おそろしくもなんにもない。こんな鍛練たんれんは、果心居士かしんこじのそばにおれば、のべつまくなしにためされている「いろは」のいの字だ。
「ときに龍太郎さま、なによりまっ先に、うかがいたいのは、伊那丸いなまるさまのお身の上、どうか、そののようすをくわしく聞かしてくださいまし」
「ウム、当夜若君の孤軍こぐんは、いちどは重囲じゅういにおちいられたが、折もよし、人穴城ひとあなじょうの殿堂から、にわかに猛火を発したので、さすがの呂宋兵衛るそんべえも、間道かんどうから逃げおちて、のこるものは阿鼻叫喚あびきょうかんの落城となった。どうじに三河勢みかわぜいも浜松より急命がくだって総退軍。そのため、味方の勝利と一変したのだ」
「そして、ただいま、ご本陣のあるところは」
「五湖をまえにして、白旗しらはたもりたい、総軍一千あまりの兵が、物の具をつくろうて、休戦しておる」
「呂宋兵衛の部下が軍門にくだって、それで急に、味方がふえたわけなんですね」
「そうだ。して竹童、おまえはきょうまで、どこにいたのか」
「ちょっと鞍馬くらまへかえって見ましたところが、お師匠ししょうさまの叱言こごとが壁にはってあったので、あわててまたいもどってきたんです」
「フーム、では果心かしん先生には、鞍馬くらま庵室あんしつにも、おすがたが見えなかったか」
「いっこうお行方ゆくえしれずです。またお気がむいて、日本くまなく行脚あんぎゃしておいでになるのかも知れませんが、こまるのはこの竹童ちくどう、先生のおいいつけは、やりとげましたが、こんどはなにをやっていいのか見当けんとうがつきません。龍太郎りゅうたろうさま、あそんでいると眠くなりますから、なにか一つ中役ちゅうやくぐらいなところを、いいつけておくんなさい」
 龍太郎も、じぶんの手柄話てがらばなしらしいことを、おくびにもださなかったが、竹童もまた、あれほどの大軍功だいぐんこうを成しとげていながら、鼻にもかけずちりほどのほこりもみせていない。
 そしてなお、なにか一役いいつけてくれという。よいかな竹童、さすがは果心居士かしんこじが、あかざつえで、ピシピシしこんだ秘蔵弟子ひぞうでしだ。


 武田伊那丸たけだいなまる小幡民部こばたみんぶ、そのほか帷幕いばくのものが、いまなお白旗しらはたに陣をしいて、しきりにあせっているわけは、和田呂宋兵衛わだるそんべえの所在が、かいもく知れないためであった。
 人穴城ひとあなじょうという外廓がいかくは焼けおちたが、中身なかみ魔人まじんどもはのこらず逃亡してしまった。丹羽昌仙にわしょうせん吹針ふきばり蚕婆かいこばばあ穴山残党あなやまざんとう佐分利さぶり足助あすけともがらにいたるまで、みな間道かんどうから抜けだした形跡けいせき。しかも、落ちていったさきが不明とあっては、まことに、この一戦の痛恨事つうこんじである。
「そこできょうも、咲耶子さくやこさまをはじめ忍剣にんけんもわれわれ三名も、八ぽうに馬をとばし、木の根、草の根をわけてさがしているところだ」
 ――と龍太郎からはなされた竹童は、聞くとともに、こともなげにのみこんで、
「では龍太郎さま、この竹童が、ちょっと、一鞭ひとむちあてて見てまいりましょう」
「ウム、なにかおまえに、成算せいさんがあるか」
「あてはございませんが、そのくらいのことなら、なんのぞうさもないこッてす」
「いや、あいかわらず小気味こきみのいいやつ、ではわかりしだいにその場所から、この狼煙のろしを三どうちあげてくれ、こちらでも、その用意をして待つことにいたしているから」
「ハイ。きっとお合図あいずもうします。じゃ蔦之助つたのすけさま、小文治こぶんじさま、これでごめんこうむりますよ」
 竹童、龍太郎から受けとった狼煙筒のろしづつを、ふところにおさめると、またまえにでてきた笹叢ささむらのなかへ、ガサガサとくまの子のように姿をかくしてしまった。
 おや? あんな大言たいげんいておいて、どこへもぐりこんでゆくのかと、こなたに三人がながめていると、折こそあれ、金明泉きんめいせんのほとりから、一陣の旋風せんぷうをおこして、天空たかく舞いあがった大鷲おおわしのすがた――
 地上にあっても小粒の竹童、空へのぼると、わしの一もうにもたらず、かれの姿は、つばさのかげにありとも見え、なしとも思われつつ、鷲そのものも、たちまちはとのごとく小さくなり、すずめほどにうすらぎ、やがて、一点の黒影こくえいとなって、眼界がんかいから消えてゆく。
 雲井にきえたわし竹童ちくどう甲駿こうすん二国のさかいを、じゃまわりに、ゆうゆうと見てまわって、とうとう、この法師野ほうしのの部落に、和田呂宋兵衛わだるそんべえ一族の焼けだされどもが、よわい村民そんみんをしいたげているようすをとくと見さだめた。
 このあたり、野火のびの煙がないので、竹童が鷲の背から小手をかざしてみると、法師野の山村、手にとるごとしだ。部落の家には、みな人穴城ひとあなじょう残党ざんとうがおしこみ、衣食をうばわれた善良な村人むらびとは、老幼男女ろうようなんにょ、のこらず裸体はだかにされて、森のなかに押しこめられている。まことにこれ、白昼の大公盗だいこうとう、目もあてられぬ惨状さんじょうだ。
「ちくしょうめ、人穴城でやけ死んだかと思ったら、またこんなところで悪事をはたらいていやがるな……ウヌいまに一あわふかせてやるからおぼえていろ」
 空にあって、竹童は、おもわず歯がみをしたことである。そして、一刻もはやく、この状況じょうきょうを、伊那丸いなまるの本陣へ知らせようと、大空ななめにけおりる――
 するとそのまえから、法師野の大庄屋おおしょうや狛家こまけの屋敷を横奪おうだつして、わがもの顔にすんでいた和田呂宋兵衛は、腹心の蚕婆かいこばばあ昌仙しょうせんをつれて、庭どなりの施無畏寺せむいじへでかけて、三重の多宝塔たほうとうへのぼり、なにか金目かねめ宝物ほうもつでもないかと、しきりにあっちこっちを荒らしていた。
 吹針ふきばりの蚕婆は、ちょうどその時、三重の塔のいただきへのぼって、しゅ欄干らんかんから向こうをみると、今しも、竹童ののった大鷲おおわしが、しきりにこの部落の上をめぐってあなたへ飛びさらんとしているとき――
「あッ、たいへん」
 顔色をかえて、蚕婆かいこばばあがぎょうさんにさわぎだしたので、塔のなかの宝物をかきまわしていた呂宋兵衛るそんべえ昌仙しょうせんなにごとかとあわてふためいて、細廻廊ほそかいろうの欄干へ立ちあらわれた。
 見ると空の黒鷲くろわし、そのつばさにひそんでいるのは、呂宋兵衛がうらみ骨髄こつずいにてっしている鞍馬くらま小童こわっぱ丹羽昌仙にわしょうせんはきッと見て、
「ウーム、きゃつめ、伊那丸方いなまるがた斥候ものみにきおったな」
 とこぶしをにぎったが、かれの軍学も空へはおよばず、蚕婆かいこばばあ吹針ふきばりも、ここからはとどかず、ただくちびるをかんでいるまに、鷲はいっさんに裾野すそのをさしてななめに遠のく。
「呂宋兵衛さま、もうこうはしておられませぬ」
 さすがの昌仙が、ややろうばいして腰をうかすと、いつも臆病おくびょうな呂宋兵衛が、イヤに落着きはらって、
「なアに、大丈夫」
 とにがっぽく嘲笑あざわらい、じッと、鷲のかげを見つめていたが、やがて、右手に持っていた金無垢肉彫きんむくにくぼりのたか黄金板おうごんばん――それはいまの塔内とうないから引ッぺがしてきた厨子ずし金物かなもの
「はッ……、はッ……」
 と三たびほど息をかけて、術眼じゅつがんをとじた呂宋兵衛、その黄金の板へ、やッと、力をこめて碧空あおぞらへ投げあげたかと思うと、ブーンとうなりを生じて、とんでいった。
「あッ」
「オオ」
 と丹羽昌仙にわしょうせん蚕婆かいこばばあも、おもわず金光こんこうにじに眼をくらまされて、まぶしげに空をあおいだが、こはいかに、その時すでに、黄金板おうごんばんのゆくえは知れず、ただ見る金毛燦然きんもうさんぜんたる一たかが、太陽の飛ぶがごとく、びゅッ――と竹童のわしを追ッかけた。
 これは、前身悪伴天連あくバテレン和田呂宋兵衛わだるそんべえが、蛮流幻術ばんりゅうげんじゅつ奇蹟きせきをおこなって、竹童ちくどうを、鳥縛ちょうばくの術におとさんとするものらしい。――知らず鞍馬くらま怪童子かいどうじ、はたして、どんな対策たいさくがあるだろうか?


「あら、あら、あら! コンちくしょうめ」
 竹童は、にわかに空でめんくらった。
 いや、乗ってる鷲がくるいだしたのだ。――で、いやおうなく、かれが、大声あげて、叱咤しったしたのもむりではない。
「こらッ、クロ、そっちじゃねえ、そっちへ飛ぶんじゃないよ!」
 いつも背なかで調子をとれば、以心伝心いしんでんしん、思うままの方向へ自由になるクロが、にわかに、風をくらったたこのように、一つところを、くるくるまわってばかりいる。
 はるか、多宝塔たほうとうの上で、呂宋兵衛が、放遠の術気じゅっきをかけているとは知らない竹童、ふしぎ、ふしぎとあやしんでいると、怪光をおびた一大鷹おおたかが、かッとくちばしをあいて、じぶんの目玉をねらってきた。
「あッ」
 竹童ちくどうはぎょッとして、わしの背なかへうっぷした。――とクロは猛然と巨瞳きょどうをいからし、たかをめがけて絶叫を浴びせかける。らんらんたる太陽のもと、双鳥そうちょうたちまち血みどろになってつかみあった。飛毛ふんぷんとって、そこはさながら、日月じつげつあらそって万星ばんせいうずを巻くありさまである。
「えいッ」
 そのとき竹童、腰なる名刀がわりの棒切ぼうきれ、ぬく手もみせず、怪光のたかをたたきつけた。とたんに、その鋭い気合いが、術気じゅっきをやぶったものか、たかは、かーんと黄金板おうごんばんをだして、一直線に地上へ落ちていった。
「ウーム、しまった!」
 多宝塔たほうとうの上で、遠術のいんをむすんでいた呂宋兵衛るそんべえ、あおじろいひたいから、タラタラと脂汗あぶらあせをながしたが、すぐ蛮語ばんご呪文じゅもんをとなえ、満口まんこう妖気ようきをふくみ入れて、フーと吹くと、はるかな、竹童と鷲の身辺だけが、薄墨うすずみをかけたように、まるくぼかされてしまった。
 はじめは、そのうす黒い妖気が、雲のように見えたがやがて、チラチラ銀光にくずれだしたのを見ると……数万すうまん数億すうおくの白い毒蝶どくちょう。――打てども、はらえども、銀雲のように舞って、さすがの竹童も、これには弱りぬいた。同時に、さては何者か、妖気を放術してさまたげているにそういないと知ったから、かねて果心居士かしんこじにおしえられてあった破術遁明はじゅつとんめいの急法をおこない、蝶群ちょうぐんの一かくをやぶって、三に、わしを飛ばそうとすると、クロは白蝶群はくちょうぐん毒粉どくふん眩暈よって、つばさを弱められ、クルクルとの葉おとしに舞いおりた。
 多宝塔たほうとうの上から、それをながめた呂宋兵衛るそんべえ、してやったりとほくそんで、塔のなかへ姿をかくしたが、まもなく金銀珠玉きんぎんしゅぎょくの寺宝をぬすみだして、庄屋しょうや狛家こまけへはこびこみ、野武士のぶし残党ざんとうどもに、酒蔵さかぐらをやぶらせて、つらにくい大酒宴おおさかもり
 寺には、僧侶そうりょが斬りころされ、森には裸体はだか老幼ろうようがいましめられて、えと恐怖におののいている。戦国の悲しさには、この暴悪なともがらの暴行に、けつけてくる代官所だいかんしょもなく、取りしまる政府もない。
 こうして呂宋兵衛たちは、この村をいつくしたら、次の部落へ、つぎの部落を蹂躪じゅうりんしきったらその次へ、ぐんをなして桑田そうでんらす害虫のように渡りあるく下心したごころでいるのだ。それは、この一族ばかりでなかったとみえて、戦国時代のよわい民のあいだには「おおかみ野武士のぶしがいなけりゃ山家やまが極楽ごくらく」と、いうことわざさえあった。
 さて、いっぽうの竹童は、どこへりたろう。
 りたところで、ふと見るとそこは、つごうよく、五湖方面から法師野ほうしの地方へかよう街道のとちゅう。小広い平地があって、竹林ちくりんのしげったすみに、一けん茅葺屋根かやぶきやねがみえ、裏手うらてをながるる水勢のしぶきのうちに、ゴットン、ゴットン……水車みずぐるま悠長ゆうちょう諧調かいちょうがきこえる。
 さっきは、呂宋兵衛るそんべえの遠術になやまされて、クロがだいぶつかれているようすなので、竹童は、水車すいしゃのかけてある流れによって、わしにも水を飲ませじぶんも一口すって、さて、一こくもはやく合図あいず狼煙のろしをあげてしらせたいがと、あっちこっちを見まわしたのち、クロをそこへ置きすてて、いっさんにうらの小山へ登りだした。
 ところが、その水車小屋すいしゃごやには、一昨日おとといからひとりの男がりこんでいた。
 呂宋兵衛から、張り番をいいつけられていた早足はやあし燕作えんさく。毎日たいくつなので、きょうは通りかかった泣き虫の蛾次郎がじろうを、小屋のなかへ引っぱりこみ、このいい天気なのに小屋の戸をめきったまま、ふたりでなにかにむちゅうになっていた。

鷲盗わしぬす




 入口もまども閉めきってあるので、水車小屋のなかはまっ暗だ。ただ、蝋燭ろうそくが一本たっている。
 そこで、早足の燕作が、泣き虫の蛾次郎に、よからぬ秘密ひみつを、伝授でんじゅしている。
 なにかと思えば、かけごとである。するものに事をかいて、かけごとの方法をつたえるとは、教授する先生も先生なら、また、教えをうける弟子でしも弟子、どっちも、められた人物でない。
「おい蛾次公がじこう、まだふところに金があるんだろう、勝負ごとは、しみッたれるほど負けるもんだ、なんでも、気まえよくザラザラだしてしまいねえ」
「だって燕作えんさくさん、いまそこへだした小判こばんは?」
「わからねえ男だな、いまのはおまえが負けたからおれにとられてしまったんだよ。それを取りかえそうと思ったら、いっぺんに持ってるだけかけて見ろ」
「だって負けると、つまらねえや」
「そこが男の度胸どきょうじゃねえか、鏃師やじりしの蛾次郎ともあるおまえが、それぐらいな度胸がなくって、将来天下に名をあげることができるもんか、ええ蛾次ちゃん、しッかりしろやい」
 と燕作は、ここ苦心さんたんで、蛾次郎の持ち金のこらず巻きあげようとつとめている。
 蛾次郎が、身にすぎた小判こばんを、ザラザラ持っていたのは、向田むこうだノ城の一室で、菊池半助きくちはんすけからもらった金だった。――かれは、本来その報酬ほうしゅうとして竹童ちくどうわしをぬすんで、裾野戦すそのせんのおこるまえに、菊池半助の陣中へかけつけなければならなかったはずだが、密林みつりんのおくで、鷲をぬすみそこねて、竹童のため、したたか痛められていらい、もうこりごり、のこりの金で買食かいぐいでもしようかと、甲府こうふをさしてきたとちゅう、ここでり番役をしていた燕作えんさくの目にとまり、ひっぱりこまれたものである。
 そしてさっきから、うまうまとふところの小判こばんを、あらかた巻きあげられ、もう三枚しか手になかった。燕作は、その三枚の小判こばんをふんだくってしまったら、おとといおいでと、小屋からつまみだしてしまうつもりだ。
「おい、蛾次公がじこう先生、いつまで考えこんでいるんだい」
「だけれど、こわいなあ、この三枚をだして負けになると、おれは、からッぽになってしまうんだろう」
「そのかわり、おめえが勝てば、六枚になるじゃねえか、六枚はって、また勝てば十二枚、その十二枚をまたはれば、二十四枚、二十四枚は二十四両、どうでえ、それだけの金をふところに入れて、甲府へいってみろ、買えねえ物は、ありゃしねえぞ」
「よし! はった」
「えらい、さすがは男だ、よしかね、勝負をするぜ」
「ウム、燕作さん、ごまかしちゃいけねえよ」
「ばかをいやがれ、いいかい、ほれ……」
 と、燕作がつぼへ手をかける、蛾次郎は目をとぎすます――と、その時だ……
 ドドーンと、裏山うらやまの上で、不意にとどろいた一発の狼煙のろし
 燕作は見張り番の性根しょうねを呼びさまして、「あッ!」とばかりはねかえり、窓の戸をガラッとあけて空をみると、いましも、打ちあげられた狼煙のろしのうすけむり、水に一てき墨汁すみじるをたらしたように、ボーッと碧空あおぞらににじんで合図あいずをしている。
「やッ、なにか伊那丸いなまるの陣のほうへ、合図をしやがったやつがあるな。ウム、もうこうしちゃいられねえ」
 あわただしく取ってかえすやいなけてあった小判こばんをのこらずかきあつめて、ザラザラとふところにねじ込む。
 蛾次郎がじろうはぎょうてんして、そのたもとにしがみついた。
「ずるいやずるいや、燕作えんさくさん、おれの金まで持っていっちゃいけないよ、かえしてくれ、かえしてくれ」
「ええい、この阿呆あほうめ、もう、てめえなんぞに、からかっているひまはねえんだ」
 ポンと蛾次郎をはなして、脇差わきざしをぶちこむがはやいか、ガラリッと土間どまの戸をけっぱなして、狼煙のあがった裏の小山へ、いちもくさんにかけあがった。
 あとで起きあがった蛾次郎、親の死目しにめに会わなかったより悲しいのか、両手を顔にあてて、
「わアん……わアん……わアん……」
 と、手ばなしで泣きだした。
 しかし天性てんせいの泣き虫にかぎって、泣きだすのもはやいが泣きやむのもむぞうさに、ケロリと天気がはれあがる。
 しばらくのあいだ、おもうぞんぶん泣きぬいた蛾次郎は、それで気がさっぱりしたか、プーとつらをふくらましてそとへでてきた。と思うと、なにかんがえたか、さい河原かわら亡者もうじゃのように、そこらの小石をふところいっぱいひろいこんだ。
燕作えんさくめ! 見ていやがれ」
 おそろしい怖ろしい、低能児ていのうじでも復讐心ふくしゅうしんはあるもの。蛾次郎が、小石をつめこんだのは、れいの石投げのわざで、小判こばんかたきをとるつもりらしい。
 燕作がかえってくるのを待伏まちぶせる計略か、蛾次郎はギョロッとすごい目をして水車小屋すいしゃごやの裏へかくれこんだ。
 と、どこまで運のわるいやつ、わッと、そこでまたまた腰をぬかしそこねた。
「やあ、おめえは、クロじゃねえか」
 一どはびっくりしたが、そこにいた怪物は、おなじみの竹童ちくどうのクロだったので、蛾次郎は思わず、人間にむかっていうようなあいさつをしてしまった。
 そして、いまのきッつらを、グニャグニャと笑いくずして、
「しめ、しめ! 竹童がいないまに、このわしをかっぱらッてしまえ。鷲にのって菊池半助きくちはんすけさまのところへいけばお金はくれる、さむらいにはなれる、ときどきクロにのって諸国の見物はしたいほうだい。アアありがてえ、こんな冥利みょうりを取りにがしちゃあ、天道てんとうさまから、苦情がくら」
 竹の小枝を折って棒切ぼうきれとなし、竹童うつしにクロの背なかへのった泣き虫の蛾次郎。ここ一番の勇気をふるいおこして、わしぬすみのはなれわざ、小屋の前からさッと一陣の風をくらって、宙天ちゅうてんへ乗り逃げしてしまった。


 血相けっそうかえて、小山の素天すてッぺんへけあがってきた早足はやあし燕作えんさく、きッと、あたりを見まわすと、はたして、そこの粘土ねんどの地中に狼煙のろしつつがいけてあった。
 スポンとひき抜いて、その筒銘つつめいをあらためていると、すきをねらってものかげから、バラバラと逃げだしたひとりの少年。
「うぬ、間諜まわしもの!」
 ぱッと飛びついて組みかぶさった燕作、肩ごしに対手あいてあごへ手をひっかけて、タタタタタと五、六けんひきずりもどしたが、きッと目をむいて、
「やッ、てめえは鞍馬くらま竹童ちくどうだな」
「オオ竹童だが、どうした」
「狼煙をあげて、伊那丸方いなまるがた合図あいずをするなんて、なりにもにあわぬふてえやつ。きょうこそ呂宋兵衛るそんべえさまのところへ引っつるすからかくごをしろ」
「だれがくそ!」
「ちぇッ。この餓鬼がきめ」
「なにをッ、この大人おとなめ」
 組んずほぐれつ、たちまち大小二つのからだが、もみ合った。――赤土がとぶ、草が飛ぶ。それが火花のように見える。
 さきに、釜無川原かまなしがわらでぶつかった時、燕作えんさくの早足と腕まえを知った竹童は、もう逃げては、やぼとおもったか、いきなりかれの手首へかじりついた。
「あいてッ! ちくしょうッ」
 燕作はこぶしをかためて、イヤというほど、竹童のびんたをなぐる。しかし竹童も、必死にいさがって、はなれればこそ。
「ウム」とくちびるから血をたらして同体に組みたおれた。そしてややしばらく芋虫いもむしのように転々てんてんとして上になり、下になりしていたが、ついにンまたいでねじふせた燕作が、右の拇指おやゆびで、グイと対手あいてのどをついたので、あわれや竹童ちくどうのど三寸のいきのをたたれて、
「ウーム……」
 と、四をぶるるとふるわせたまま、ついに、ぐったりしてしまった。
「ざまア見やがれ! がらちいせえわりに、ぞんがいほねを折らせやがった」
 燕作は、すぐ竹童をひっかかえて、法師野ほうしのにいる呂宋兵衛るそんべえのところへかけつけようとしたが、ふと気がつくと、いまの格闘かくとうで、さっき蛾次郎がじろうからせしめた小判こばんが、あたりに山吹やまぶき落花らっかとなっているので、
「ほい、こいつをすてちゃあゆかれねえ」
 あっちの三枚、こっちの五枚、ザラザラひろいあつめていると、とつ! どこからか風をきって飛んできた石礫いしつぶてが、コツンと、燕作えんさくの肩骨にはねかえった。
「おや」
 とふりむいたが、竹童ちくどう気絶きぜつして横たわっているし、ほかにあやしい人影も見あたらない。どうもへんだとは思ったが、なにしろたいせつな小判こばんをと、ふたたびかき集めていると、こんどはバラバラ小石の雨が、つづけざまにってきた。
「あ、あ、あいたッ!」
 両手で頭をかかえながら、ふとあおむいた燕作の目に、そのとたん! さッと舞いおりた大鷲おおわし赤銅色しゃくどういろの腹が見えた。
 首尾しゅびよく、わしぬすみをやった泣き虫の蛾次郎がじろう、その上にあって、細竹ほそだけつえを口にくわえ、右手に飛礫つぶてをつかんで、
「やい燕作、やアい、燕作のバカ野郎やろう。さっきはよくも蛾次郎さまの金を、いかさまごとで、巻きあげやがったな。その返報には、こうしてやる、こうしてやる!」
 天性てんせい、石なげのみょうをえた蛾次郎が、邪魔物じゃまもののない頭の上からねらいうちするのだからたまらない、さすがの燕作も手むかいのしようがなく、あわてまわって、竹童のからだを横わきに引っかかえるやいな、小山のぐちへむかって、一そくとびに逃げだした。
 が――一せつな、蛾次郎がさいごの力をこめた飛礫つぶてがピュッと、燕作のこめかみにあたったので、かれは、急所の一げきに、くらくらと目をまわして、竹童のからだを横にかかえたまま、粘土ねんど急坂きゅうはんみすべって、竹林ちくりんのなかへころがり落ちていった。
「やあ、いい気味だ、いい気味だ! ひっヒヒヒヒヒ」
 白い歯をむきだして、虚空こくう凱歌がいかをあげた蛾次郎がじろうは、口にくわえていた細竹ほそだけつえを持ちなおし、ここ、竹童そッくりの大得意だいとくい
「さ、クロ、あっちへ飛べ」
 南――遠江とおとうみの国は浜松の城、徳川家康とくがわいえやす隠密組おんみつぐみ菊池半助きくちはんすけのところを指して、いっきにわしをかけらせた。
 幸か不幸か、いま竹童は息のえてそれを知らない。めてのち、かれが天下なにものよりも愛着してやまないクロが、蛾次郎のため盗みさられたと知ったら、その腹立ちはどんなだろう。


 ゴットン、ゴットン、ゴットン……
 水車の諧調かいちょうに、あたりはいつか、たそがれてきた。
 竹林ちくりんのやみに、夜の風がサワサワゆれはじめると、昼はさまでに思えなかった水音みずおとが、いちだんとすごみをびてくる。――ことに今夜は、小屋のをともす者もなかった。
 星あかりで見ると、その燕作えんさくは、水車場すいしゃばのすぐ上のがけに、竹童ちくどうをかかえたまま、だらりと木の根に引っかかっている。
 ――ふたりとも、死せずきず、気絶きぜつしているのだ。
 すると上の竹の葉が、サラサラ……とひそやかにそよぎだしたかと思うと、ささしずくがそそぎこぼれて、燕作えんさくの顔をぬらした。で、かれはハッと正気しょうきをとりもどし、むくむくと起きて、やみのなかにつっ立った、――立ったとたんに、笹の枝からヌルリとしたものが、燕作の首に巻きついた。
「あッ――」と、つかんですてると、それは小さな白蛇しろへびである。こんどはたおれている竹童の胸へのって、かれのふところへ鎌首かまくびを入れ、スルスルと襟首えりくびへ、銀環ぎんかんのように巻きついた。
 夜はいよいよ森々しんしんとしている。燕作は、なんだかゾッとして手がだせないでいた。そして、顔のしずくをなでまわした。
 と、それはあまりに遠くない地点から、ぼウ――ぼウ――と鳴りわたってきた法螺ほら、また陣鐘じんがね。耳をすませば、ごくかすかに甲鎧こうがいのひびきも聞える。兵馬漸進へいばぜんしんの足なみかと思われる音までが、ひたひたとうしおのように近づいてくる。
「オオ!」
 燕作はいきなり、そばの木へのぼって、枝づたいに、水車小屋の屋根の上へポンととびうつった。そして、暗憺あんたんたる裾野すそのの方角へ小手をかざしてみると、こはなにごと!
 急は目前もくぜん、味方の一大事、すでに十数町の近くまでせまってきていた。
 竹童ちくどうがあいずの狼煙のろしをみて、この地方に敵ありと知った武田伊那丸たけだいなまるは、白旗しらはたもり軍旅ぐんりょをととのえ、裾野陣すそのじん降兵こうへいをくわえた約千余の人数を、せいりゅうはくげんの五段にわかち、木隠こがくれたつみ山県やまがた加賀見かがみ咲耶子さくやこの五人を五隊五将の配置とした。
 采配さいはい、陣立て、すべてはむろん、軍師ぐんし小幡民部こばたみんぶこれを指揮しきするところ。
 陣の中央はこれ天象てんしょうの太陽、すなわち、武田伊那丸の大将座、陰陽いんよう脇備わきぞなえ、畳備たたみぞなえ、旗本はたもと随臣ずいしんたちたての如くまんまんとこれをかこみ、伝令でんれい旗持はたもちはその左右に、槍組やりぐみ白刃組はくじんぐみ、弓組をせんとうに、小荷駄こにだ後備うしろぞなえはもっともしんがりに、いましも、三軍ほしをいただき、法師野ほうしのさしていそいできた。
 ひる、それを見れば、孫子そんし四軍の法を整々せいせいとふんだ小幡民部が軍配ぐんばいぶり、さだめしみごとであろうが、いまは荒涼こうりょうたる星あかり、小屋の屋根から小手をかざしてみた燕作えんさくにも、ただその殺気しか感じられなかった。
「ウーム……」
 と、燕作はおもわずうなって、
「いよいよ伊那丸のやつばらが、呂宋兵衛るそんべえさまのあとをかぎつけてきやがったな。オオ、すこしも早くこのことを、法師野ほうしのへ知らせなくっちゃならねえ」
 ひらりと、屋根をとびおりた燕作、この大事に驚愕きょうがくして、いまはひとりの竹童をかえり見ているひまもなく、得意の早足はやあし一もくさん、いずこともなくすッ飛んでった。

白樺しらかばふえ少女おとめ




 けもかけたり早足はやあし燕作えんさく
 水車小屋から法師野ほうしのまで、二八、九ちょうはたっぷりな道、暗夜悪路をものともせず、ひととび、五、六しゃくずつきびすをけって、たちまち大庄屋おおしょうや狛家こまけ土塀門どべいもんのうちへ、息もつかずに走りこんだ。
 きて見ると、こなたは意外、いやのんきしごくなていたらく。
 呂宋兵衛るそんべえ以下、野獣やじゅうのごとき残党輩ざんとうばら竹童ちくどうのあげた狼煙のろしも、伊那丸軍いなまるぐんの出動も知らず、みなゆだんしきッた酒宴さかもり歓楽最中かんらくさいちゅう。なかにはすでにいつぶれて、正体しょうたいのない野武士のぶしさえある。
 息はずませて、門からおくをのぞきこんだ燕作、
「ケッ、ばかにしていやがら」
 と、むッとして、
「おれひとりを、番小屋に張りこませておきゃあがって、てんでに、すきかってなまねをしていやがる。ウム、くせになるから、いちばんきもッ玉のでんぐり返るほど、おどかしてやれ」
 じぶんも蛾次郎がじろうあいてに、かけごとをしていたことなどはたなへあげて、不平づらをとンがらかした燕作えんさく、いきなり庭先のやみへバラッとおどり立ち、声と両手をめちゃくちゃにふりあげて、
「一大事、一大事! 酒宴さかもりどころじゃない、一大事がおこったぞ」
 取次ぎもなく、ふいにどなられたので、呂宋兵衛るそんべえは、さかずきをおとして顔色をかえた。かれのみか、丹羽昌仙にわしょうせん蚕婆かいこばばあ穴山あなやま残党ざんとう足助あすけ佐分利さぶりの二名、そのほかなみいる野武士のぶしたちまで、みな総立そうだちとなり、あさましや、歓楽かんらくの席は、ただ一声ひとこえで乱脈となった。
「おお、そちは番小屋の燕作、さてはなんぞ、伊那丸がたの間諜かんちょうでも、立ちまわってきたと申すか」
「あ、昌仙さまでございましたか、間諜どころか、武田伊那丸たけだいなまるじしんが、一千あまりの軍勢をりたて、この法師野ほうしのへおそってくるようすです」
「ウーム、さすがは伊那丸、もうこのかくざとをさぐりつけてまいったか。よもやまだ四、五日は大丈夫と、たかをくくっていたのが、この昌仙のあやまり、ああ、こりゃどうしたものか……」
 丹羽昌仙は、ためいきついて、つぶやいたが、急に、ヒラリと庭さきへでて、じッと、十方の天界てんかいをみつめだした。
 そらは無月むげつ紺紙こんしはくをふきちらしたかのごとき星月夜ほしづきよ、――五遊星ゆうせい北極星ほっきょくせい北斗星ほくとせい、二十八宿星しゅくせい、その光芒こうぼうによって北条流ほうじょうりゅう軍学の星占ほしうらないをたてているらしい昌仙しょうせんは、しばらくあってのち、なにかひとりうなずいて、もとの席へもどり、呂宋兵衛るそんべえにむかって、離散逃亡りさんとうぼう急策きゅうさくをさずけた。
「ではなんとしても、おれもひとりとなり、そちもひとりとなり、他の者どももみなばらばらとなって、退散せねばあぶないというのか」
 蛮流幻術ばんりゅうげんじゅつにたけて、きたいな神変しんぺんをみせる呂宋兵衛も、臆病おくびょうな生まれつきはあらそえず、語韻ごいんはふるえをおびて昌仙の顔をみまもっていた。
「ざんねんながら、富岳ふがくの一天に凶兆きょうちょうれきれき、もはや、死か離散かの、二よりないようにぞんぜられまする」
伊那丸いなまるずれにほろぼされて、ここに終るのも、無念至極むねんしごく。ウム……では、ひとまずめいめいかってに落ちのびて、またの時節をうかがい、京都へあつまって、人穴城ひとあなじょう栄華えいがにまさる出世のさくを立てるとしよう」
「なるほど、京都へまいれば秀吉公ひでよしこうのお力にすがることもでき、公卿こうけい百官の邸宅ていたく諸侯しょこうの門などいらかをならべておりますから、またなんぞうまい手蔓てづるにぶつからぬかぎりもござりますまい。では、呂宋兵衛さま、すこしもはやく、ここ退散のおしたくを……」
「おう、じゃ、昌仙もほかの者も、のちに京都で落ちあうことはたしかにしょうちしたろうな」
「がってんです、きっとまた頭領とうりょうのところへけあつまります」
 一同が、異口同音いくどうおんに答えるのを聞いて、呂宋兵衛るそんべえは、有り金をあたまわりに分配して、武器、服装、足ごしらえ用意周到よういしゅうとうの逃げじたくをはじめる。
 もあらせず、とうとうたる金鼓きんこや攻め貝もろとも、法師野ほうしのさとへひた押しに寄せてきた伊那丸勢いなまるぜい怒濤どとうのごとく、大庄屋おおしょうや狛家こまけのまわりをグルッととりかこんだ。
 その時おそし、呂宋兵衛一残党ざんとうごとごとの燈火ともしびをふき消して、やくそくどおりの自由行動、はちを突いたように、八方からやみにまぎれて、戸外おもてへ逃げだした。
 へいおどり越そうとする者――木の枝にぶらさがる者、屋根にのぼってすきを見る者、衆を組んで破れかぶれに斬りだす者――いちじにワーッと喊声かんせいをあげると、寄手よせてのほうも木霊こだまがえしに、武者声むしゃごえを合わせて、弓組いっせいにつるを切り、白刃組はくじんぐみしのぎをけずり、ここかしこにたちおこる修羅しゅらちまた
 時に、鉄鋲てっぴょうった鉢兜はちかぶと小具足こぐそくをつけ、背に伝令旗でんれいばたし立てた一、伊那丸のめいをうけて、五陣のあいだをかけめぐりながら、
「――民家へ火をつけるな。――罪なきたみきずつけるな。――こうう者は斬るな。――和田呂宋兵衛わだるそんべえはかならず手捕てどりにせられよ。以上、おん大将ならびに軍師ぐんし厳命げんめいでござるぞ。違背いはいあるにおいては、味方たりといえども斬罪ざんざい
 と、声をからして伝令しった。


「もうだめだ、表のほうは、ありのはいでるすきもねえ。昌仙しょうせんさま、昌仙さま、うまいところが見つかったから、はやく頭領とうりょうをつれてこっちへ逃げておいでなさい」
 まっ暗な裏手うらてに飛びだして、あわただしく手をふったのは早足はやあし燕作えんさく。ひゅうッ、ひゅうッ、とうなりを立てて飛んでくる矢は、そのあたりの戸袋とぶくろ、井戸がわ、ひさし、立木のみき、ところきらわず突きさって、さながら横なぐりに吹雪ふぶきがきたよう。
 と、暗憺あんたんたる家のなかで、丹羽昌仙のひくい声。
「呂宋兵衛さま、裏手のほうが手うすとみえて、燕作がしきりにわめいております。さ、少しもはやくここをお落ちなさいませ」
「ウム」
 となにかささやきながら、おくからゾロゾロとでてきたのは、丹羽昌仙、蚕婆かいこばばあ足助主水正あすけもんどのしょう佐分利さぶり五郎次、そしてそのなかに取りかこまれた黒布蛮衣こくふばんいの大男が、まぎれもない和田呂宋兵衛わだるそんべえか――と思うと、またあとからおなじ黒衣こくいをつけ、おなじ銀の十を胸にたれ、おなじ背かっこうの男がふたりもでてきた。
 しめて、七人。
 そのなかに呂宋兵衛が三人もいる。ふたりはむろん昌仙がとっさの妙策みょうさくでつくった影武者かげむしゃだが、どれが本物の呂宋兵衛か、どれが影武者か、夜目よめではまッたくけんとうがつかない。
燕作えんさく、燕作」
 昌仙しょうせんは用心ぶかく、裏口へ首だけだしてどなってみた。矢はしきりに飛んでくるが、さいわい、まだ伊那丸いなまる手勢てぜいはここまでみこんでいなかった。
「燕作、逃げ口をあんないしろ! 燕作はどこにいるんだ」
「あ、昌仙さまでございますか」
「そうだ、呂宋兵衛るそんべえさまをお落としもうさにゃならぬ、うまい逃げ口が見つかったとは、どこだ」
「ここです――ここです」
「どこだ、そちはどこにいるんだ」
「ここですよ。昌仙さま、呂宋兵衛さま、はやくここへおいでなさいまし」
「はてな?」
 流れ矢があぶないので、七人とも首だけだして、裏手の闇をズーと見わたしたが、ふしぎ、すぐそこで、大きくひびく燕作の声はあるが、どこをどう見つめても、かれのすがたが見あたらない。
 とたんに、表のほうへ、伊那丸の手勢が乱入してきたのか、すさまじい物音。逃げだした部下もあらかたけどられたり斬りたおされたはいである。
「それッ、ぐずぐずしてはいられぬ」
 七人のかげが流れ矢をくぐってそとへとびだし、いっぽうの血路けつろを斬りひらく覚悟で、うらの土塀どべいによじ登ろうとすると、
「あぶない! そっちはあぶない!」
 とまた燕作の声がする。
「どこだ、そのほうはいずれにいるのだ」
「ここだよ、こっちだよ」
「こっちとはどこだ」
 七人は行き場にまよってウロウロした。
 矢は見るまに、めいめいのそですそにも二、三本ずつさってきた。
「ええ、じれッてえな、ここだってば!」
「や、あの声は?」
「早く早く! 早くりておいでなせえ」
「燕作」
「おい」
「どこじゃ」
「ちぇッ、血のめぐりがどうかしているぜ」
 という声が、どうやら地底でしたと思うと、かたわらの車井戸くるまいどにかけてあった釣瓶つるべが、癇癪かんしゃくを起したように、カラカラカラとゆすぶれた。
「や、この井戸底いどそこにいるのか」
「そうです、ここより逃げ場はありませんぜ」
「バカなやつめ」
 影武者かげむしゃのひとりか、ただしは本人の呂宋兵衛るそんべえか、井戸がわに立ってあざ笑いながら、
「こんななかへとびこむのは、じぶんではかへはいるもどうぜんだ」
「おッと、そいつは大安心おおあんしん、ここは空井戸からいどで一てきの水もないばかりか、横へぬけ道ができているからたしかに間道かんどうです」
「なに抜け道になっているとか、そりゃもっけのさいわい」
 と、にわかに元気づいた七人、かわるがわる釣瓶づたいに空井戸の底へキリキリとさがってゆく。
 そして、すでに七人のうち五人までがすがたを隠し、しんがりに残った影武者のひとりと佐分利さぶり五郎次とが、つづいて釣瓶縄つるべなわにすがって片足かけたとき、早くもなだれ入った伊那丸勢いなまるぜいのまっさきに立って、疾風しっぷうのごとく飛んできたひとりの敵。
「おのれッ」
 と、けよりざま、雷喝らいかつせい、闇からうなりをよんだ一じょう鉄杖てつじょうが、ブーンと釣瓶もろとも、影武者のひとりをただ一げきにはね飛ばした。
 そのおそろしい剛力ごうりきに、空井戸の車はわれて、すさまじく飛び、ふとい棕梠縄しゅろなわ大蛇おろちのごとくうねって血へどいた影武者のからだにからみついた。
「あッ――」
 と、あやうく鉄杖てつじょうの二つどうにされそこなった佐分利さぶり五郎次、井戸がわから五、六尺とびのいてきッと見れば、鎧武者よろいむしゃにはあらず、黒の染衣せんえかろやかに、ねずみの手甲てっこう脚絆きゃはんをつけた骨たくましい若僧わかそう、いま、ちぬられた鉄杖をしごきなおして、ふたたび、らんらんとしたまなこをこなたへ射向いむけてくるようす。
「さてはこいつが、伊那丸いなまる幕下ばっかでも、怪力かいりき第一といわれた加賀見忍剣かがみにんけんだな……」
 五郎次はブルッと身ぶるいしたが、すでに空井戸からいどの逃げみちはたれ、四面楚歌しめんそかにかこまれてしまった上は、とうてい助かるすべはないとかんねんして、やにわに陣刀をギラリと抜き、
「おお、そこへきたのは加賀見忍剣とみたがひがめか、もと穴山梅雪あなやまばいせつ四天王してんのうのひとり佐分利五郎次、きさまの法師首ほうしくび剣先けんさきにかけて、亡主ぼうしゅ梅雪の回向えこうにしてくれる、一うちの作法さほうどおり人まじえをせずに、勝負をしろ」
 窮鼠きゅうそねこをかむとはこれだ、すてばちの怒号どごうものものしくも名のりをあげた。
 忍剣は、それを聞くとかえって鉄杖の力をゆるめ、声ほがらかに笑って、
「はははは、さてはなんじは、悪入道あくにゅうどう遺臣いしんであったか、主人梅雪がすでに醜骸しゅうがい裾野すそのにさらして、相果あいはてたるに、いまだいのちほしさに、呂宋兵衛るそんべえの手下にしたがっているとは臆面おくめんなき恥知らず、いで、まことの武門をかがやかしたもう伊那丸いなまるさまの御内人みうちびと加賀見忍剣が、天にかわって誅罰ちゅうばつしてくりょう」
「ほざくな痩法師やせほうし、鬼神といわれたこの五郎次の陣刀を受けられるものなら受けてみろ」
豎子じゅし! まだ忍剣にんけん鉄杖てつじょうのあじを知らぬな」
「うぬ、そのしたを!」
 ――とさけびながら佐分利さぶり五郎次、三日月みかづきのごとき大刀をまっこうにかざして、加賀見忍剣かがみにんけん脳天のうてんへ斬りさげてくる。
「おお」
 ゆうゆう、右にかわして、さッと鉄杖にすんのびをくれて横になぐ。あな――とおもえば佐分利さぶりも一かどの強者つわもの、ぽんとんで空間くうかんをすくわせ、
「ウム、えイッ」
 と陣刀に火をふらして斬ってかかる。パキン! パキン! と二ど三ど、忍剣の鉄杖が舞ってうけたかと思うと、佐分利の大刀は、こおりのかけらが飛んだように三つに折れてつばだけが手にのこった。
 仕損しそんじたり――とおもったか佐分利五郎次、おれた刀をブンと忍剣の面上めんじょう目がけて投げるがはやいか、きびすをめぐらして、いっさんに逃げだしていく。
 時こそあれ、
「えーイッ」とひびいた屋上おくじょうの気合い。
 屋根廂やねびさしからななめさがりに、ぴゅッと一本の朱槍しゅやりが走って、逃げだしていく佐分利の背から胸板をつらぬいて、あわれや笑止しょうし、かれを串刺くしざしにしたまま、けやきみきいつけてしまった。


「何者?」
 鉄杖てつじょうをおさめて、忍剣にんけんひさしの上をふりあおぐと、声におうじて、ひとりの壮漢そうかんが、
巽小文治たつみこぶんじ
 と名のりながら、ひらりと上からとび下りてきた。
「なんだ小文治どのか、よけいなことする男じゃ」
「でも、あやうく逃げるようすだったから」
「だれがこんな弱武者よわむしゃ一ぴき、鉄杖のさきからのがすものか」
「はやまって、失礼もうした」
「いや、なにもあやまることはござらぬよ」
 と忍剣は苦笑して、さきに打ちたおした黒衣こくいの影武者をのぞいたが、呂宋兵衛るそんべえ偽者にせものと知って舌打したうちする。小文治は敵を串刺くしざしにして、大樹たいじゅの幹につき立ったやりをひき抜き、穂先ほさきこぼれをちょっとあらためてみた。
「して、小文治どの、木隠こがくれ山県やまがたなどはどうしたであろう」
龍太郎りゅうたろうどのは表口から奥のへはいって、呂宋兵衛のゆくえをたずね、蔦之助つたのすけどのは、弓組を四町四ほうにせて、かれらの逃げみちをふさいでおります」
「ウム、それまで手配てはいがとどいておれば、いかに神変自在な呂宋兵衛でも、もうふくろのねずみどうよう、ここよりのがれることはできまい。だが……この井戸はどうやら空井戸からいどらしい、念のためにこうしてやろう」
 法衣ころもそでをまくりあげた忍剣にんけん一抱ひとかかえもある庭石をさしあげて、ドーンと、井戸底いどそこへほうりこむ。それを合図あいずに、あとから駈けあつまってきた部下の兵も、めいめい石をおこして投げこんだので、見るまに井戸は完全な石埋いしうめとなってしまった。
 ところへ木隠龍太郎こがくれりゅうたろうが、うちのなかから姿をあらわして、
「オオ、ご両所りょうしょ、ここにいたか」
「やあ、龍太郎どの、呂宋兵衛るそんべえ在所ありかは」
「ふしぎや、いっこう行方ゆくえが知れもうさぬ。どうやらすでに風をくらって、逃げ失せたのではないかと思われる」
「といって、この家の四ほうは、二じゅうじゅうに取りかこんであるから、かれらのしのびだすすきもないが」
「どこかに間道かんどうらしい穴口あなぐちでもないかしら」
「それもわしが手をわけて尋ねさせたが、ここに一つの空井戸があったばかり」
「なに空井戸?」
 と龍太郎がとびりてきて、
「ウム、こりゃあやしい、どこかへ通じる間道かんどうにそういない、なかへはいってあらためて見よう」
「いや、念のために、ただいまわしが石埋いしうめにしてしまった」
 と、忍剣にんけんしたり顔だが、龍太郎はじだんだふんで口惜くやしがった。呂宋兵衛るそんべえや敵のおもなるものが、この口から逃走したとすれば、この空井戸からいどをふさいで、どこからかれらを追跡するか、どこへ兵を廻しておくか、まったくこれでは、みずから手がかりの道を遮断しゃだんしてしまったことに帰結する――と憤慨ふんがいした。そのの当然に、忍剣もすっかり後悔して、しばらくもくしあっていた。
 すると、はるか北方の森にあたって、とぎれとぎれなふえが高鳴った。
 ――おお、それは、げんじんをしいて鳴りをしずめていた咲耶子さくやこが、かねて手はずをあわせてある合図あいずの笛。
「それ、咲耶子どのの笛がよぶ――」
 よみがえったように、加賀見忍剣かがみにんけん巽小文治たつみこぶんじ木隠龍太郎こがくれりゅうたろうの三名、をしたって走り出すと、その余の手勢てぜいも波にすわるるのごとく、声なくおとなく、うずの中心に駈けあつまる――

 城やとりで間道かんどうとちがって、豪農ごうのうの家にある空井戸からいどの横穴は、戦時財宝のかくし場とするか、あるいは、家族の逃避所とする用意に過ぎないので、もとより、二里も三里もとおい先へぬけているはずがない。
 呂宋兵衛るそんべえたち五人のものがわずか二、三ちょう暗闇くらやみをはいぬけて、ガサガサと星影の下に姿をあらわしたのは、黒百合谷くろゆりだにの中腹で、上はれいの多宝塔たほうとうのある施無畏寺せむいじ境内けいだい、下は神代川じんだいがわとよぶ渓流けいりゅうがドーッとつよい水音をとどろかしている。
「道は水にしたがえ」とは山あるきの極意ごくい
 五人は無言のうちに、道どりのこころ一致いっちして、蔓草つるくさ深山笹みやまざさをわけながら、だらだら谷の断崖だんがいりてゆく。
 ――と、その時だ。
 にょッきと、星の空にそびえた一本の白樺しらかば、その高き枝にみどりの黒髪くろかみ風に吹かして、腰かけていたひとりの美少女、心なくしてふと見れば、黒百合谷くろゆりだに百合ゆりの精か星月夜ほしづきよのこぼれ星かとうたがうだろう――ほどにだかい美少女が、手にしていた横笛を、山千鳥のくかとばかり強く吹いた。
「や、や? ……」
 五人の者が、うたがいに、進みもやらずもどりもせず深山笹のしげみに、うろうろしていると、白樺のこずえの少女は、虚空こくうにたかく笛をふって、さっ、さっ、さっと三せん合図あいず知らせをしたようす。
 と思うと、神代川の渓流がさかまきだしたように、ウワーッとあなたこなたの岩石がんせきのかげから、いちじに姿をあらわした伏兵ふくへい
 これなん、咲耶子さくやこの一伏現ふくげんする裾野馴すそのならしの胡蝶こちょうの陣。
「しまった!」
 丹羽昌仙にわしょうせん絶叫ぜっきょうした。
 とたんにがけのうえから木隠龍太郎こがくれりゅうたろうが、
賊徒ぞくと、うごくな」
 と戒刀かいとうさやをはらって、銀蛇ぎんだ頭上にりかぶってとびおりる。発矢はっし、昌仙が、一太刀うけているすきに、呂宋兵衛るそんべえとその影武者、蚕婆かいこばばあ早足はやあし燕作えんさく、四人四ほうへバラバラと逃げわかれた。
 と、ゆくてにまたあらわれた巽小文治たつみこぶんじ朱柄あかえやりをしごいて、燕作を見るやいな、えいッと逆落さかおとしに突っかける。もとより武道の心得のない燕作、受ける気もなくかわす気もなく、ただ助かりたい一念で、神代川じんだいがわの水音めがけて飛びこんだ。が、小文治はそれに目もくれず、ひたすら呂宋兵衛の姿をめざしてけだした。
 一ぽうでは丹羽昌仙、龍太郎のさきをさけるとたんに断崖だんがいをすべり落ちて、伏兵ふくへいの手にくくりあげられそうになったが、必死に四、五人を斬りたおして、その陣笠じんがさ小具足こぐそくをすばやく身にまとい、同じ伏兵ふくへいのような挙動きょどうをして、まんまと伊那丸方いなまるがたの部下にばけ、逃げだす機会をねらっている。
 もっとも足のよわい蚕婆は、れいの針を口にふくんで、まえの抜けあなに舞いもどり、見つけられたら吹き針のおくの手をだそうと、まなこをとぎすましていたけれど、悪運まだつきず、穴の前を加賀見忍剣かがみにんけんと龍太郎が駈け過ぎたにもかかわらず、とうとう見つけられずに、なおも息を殺していた。
どもはどうでもよい、呂宋兵衛るそんべえはどうした」
「かくまで手をつくしながら、とうの呂宋兵衛を取り逃がしたとあっては、若君に対しても面目めんぼくない、者ども、余人よじんには目をくれず、呂宋兵衛を取りおさえろ」
 忍剣と龍太郎が、ほとんど狂気のように※(「口+它」、第3水準1-14-88)しったしてまわったが、なにせよ、身をぼっすばかりな深山笹みやまざさ、杉の若木、蔦葛つたかずらなどがいしげっているので、うごきも自由ならずさがしだすのもよういでなかった。すると、かなたにあって、
「やあやあ、巽小文治たつみこぶんじが和田呂宋兵衛を生けどったり! 和田呂宋兵衛を生けどったり!」
 声、満山まんざん鳴りわたった。
「ワーッ――」
「ワーッ」
 と、手柄てがら名のりにおうずる味方の歓呼かんこ、谷間へ遠く山彦やまびこする。
 さしも、強悪無比きょうあくむひな呂宋兵衛、いよいよここに天運つきたか。

多宝塔たほうとう




 山県蔦之助やまがたつたのすけも、さっきの笛合図ふえあいずと、小文治こぶんじ手柄名てがらなのりをきいて、弓組のなかからいっさんにそこへけつけてきた。
 でかした小文治――と、党友とうゆうこうをよろこびつつ、忍剣にんけん龍太郎りゅうたろうも、声のするほうへとんでいってみると、いましも小文治は、黒衣こくいの大男を組みふせて、あたりの藤蔓ふじづるでギリギリとしばりあげているところだ。
「おお、みごとやったな」
 蔦之助と龍太郎があおぐようにほめそやす。忍剣はちょっとざんねんがって、
「どうもきょうは、よく小文治どのに先陣をしてやられる日だわい……」
 と、うれしいなかにまだ腕をさすっている。
 すると、白樺しらかばのこずえの上にあって、始終をながめていた咲耶子さくやこが、にわかにやさしい声をはって、
「あれあれ、蔦之助さま、忍剣さま! うえの手うすに乗じて、和田呂宋兵衛わだるそんべえが逃げのぼりましたぞ、はやくお手配てはいなされませ!」
「な、なんといわるる!」
 四人は、愕然がくぜんとして空を見あげた。
咲耶子さくやこどの、その呂宋兵衛るそんべえは、ただいま小文治こぶんじどのがこれにて生けどりました。それはなにかの人ちがいであろう」
「いえいえ、たしかにあれへ登ってゆくのこそ、呂宋兵衛にそういありませぬ。オオ、施無畏寺せむいじ境内けいだいへかくれようとしてようすをうかがっておりまする、もう、わたしもこうしてはおられませぬ」
 咲耶子は、ふえおびにたばさんで、スルスルと白樺しらかばこずえからりてしまった。
「や、ことによるときゃつも? ……」
 忍剣にんけんは、さっき空井戸からいどで打ちころした影武者を思いおこして、黒衣こくいえりがみをグイとつかんだ。と同時に、その顔をのぞきこんで龍太郎も、おもわず声をはずませて、
「はてな、呂宋兵衛は蛮人ばんじんの血をまぜた、紅毛碧瞳こうもうへきどうの男であるはずだが、こりゃ、似ても似つかぬただの野武士のぶしだ、ウーム、さてはおのれ、影武者であったな」
「ええ、ざんねんッ」
 怒気心頭どきしんとうにもえた巽小文治たつみこぶんじ朱柄あかえやりをとって、一せんに突きころし、いまあげた手柄てがら名のりの手まえにも、とうの本人を引っとらえずになるものかと、無二無三に崖上がけうえへのぼりかえした。
 一足ひとあしさきに、白樺をりて追いすがった咲耶子は、いましも施無畏寺の境内けいだいへ、ツウとかくれこんでいった黒衣こくいのかげをつけて、
呂宋兵衛るそんべえ、呂宋兵衛」
 と二声ふたこえよんだ。
 意外なところに、やさしい女の声音こわねがひびいたので、
「なに?」
 おもわず足をみとどめて、ギョロッと両眼をふり向けたのは、蛮衣ばんいに十字の念珠ねんじゅくびにかけた怪人かいじん、まさしく、これぞ、正真正銘しょうしんしょうめい和田呂宋兵衛わだるそんべえその者だ。
「や、なんじ根来小角ねごろしょうかくの娘だな」
「おお、かたきたるそちとはともに天をいただかぬ咲耶子さくやこじゃ。伊那丸いなまるさまや、その余のかたがたのお加勢で、ここになんじをとりかこみ得たうれしさ、悪人! もう八ぽうのがれるみちはないぞえ」
「わはははは、おのれや伊那丸ずれの女子供に、この呂宋兵衛が自由になってたまるものか。斬るも突くも不死身ふじみのおれだ。五尺とそばへ近よって見ろ、汝の黒髪は火となって焼きただれるぞ」
「やわか、邪法じゃほう幻術げんじゅつなどにまどわされようぞ」
「ふふウ……その幻術にこりてみたいか」
笑止しょうしやその広言こうげん、咲耶子には、胡蝶こちょうじんの守りがある」
「胡蝶陣? あのいたずらごとがなんになる」
「オオ、そういうじぶんが、すでに胡蝶陣のわなちているのも知らずに……ホホホホ、かれ者の小唄こうたは聞きにくいもの――」
女郎めろう! おぼえていろ」
 かッと、両眼をいからして、呂宋兵衛るそんべえはふいに咲耶子さくやこ咽首のどくびをしめつけてきた。じゅうぶん彼女にも用意があったところなので、ツイと、ふりもぎって、おびふえを抜くよりはやく、れいの合図あいず、さッと打ちふろうとすると呂宋兵衛が強力ごうりきをかけてうばいとり、いきなりじぶんの