私は、元来、少年小説を書くのが好きである。
大人の世界にあるような、
きゅうくつな
概念にとらわれないでいいからだ。
少年小説を書いている間は、自分もまったく、
童心のむかしに返る、少年の気もちになりきッてしまう。――今のわたくしは、もう古い大人だが、この
天馬侠を読み直し、
校訂の筆を入れていると、そのあいだにも、少年の日が胸によみがえッてくる。
ああ少年の日。一生のうちの、
尊い季節だ。この小説は、わたくしが少年へ書いた長編の最初のもので、また、いちばん長いものである。諸君の楽しい季節のために、この書が諸君の
退屈な雨の日や、
淋しい夜の友になりうればと思い、自分も好きなまま、つい、こんなに長く書いてしまったものである。
いまの日本は、大人の世界でも、子どもの天地でも、心に楽しむものが少ない。だが、少年の日の夢は、
痩せさせてはいけない。少年の日の自然な空想は、いわば少年の
花園だ。昔にも、今にも、将来へも、つばさをひろげて、遊びまわるべきである。
この書は、過去の
伝奇と歴史とを、わたくしの夢のまま書いたものだが、過去にも、今と比較して、考えていいところは
多分にある。悪いところは反省し、よいところは知るべきだと思う。その意味で、
鞍馬の
竹童も、泣き虫の
蛾次郎も、諸君の友だち仲間へ入れておいてくれ給え。時代はちがうが、よく見てみたまえ、諸君の友だち仲間の
腕白にも、竹童もいれば、蛾次郎もいるだろう。
大人についても、同じことがいえる。
以前、これが「少年倶楽部」に連載されていた当時の愛読者は、
成人して、今日では政治家になったり、実業家になったり、文化人になったりして、みな社会の一線に立っている。諸君のお父さんや兄さんのうちにも、その頃の愛読者がたくさんおられることと思う。
わたくしはよくそういう人たちから、少年時代、
天馬侠の愛読者でした――と聞かされて、年月の流れに、おどろくことがある。もし諸君がこの
書を手にしたら、諸君の
父兄やおじさんたちにも、見せて上げてもらいたい。そして、著者の
言伝てを、おつたえして欲しい。
――ご
健在ですか。わたくしは健在です、と。
そして、いまの少年も、また天馬侠を読むようになりました、と。
昭和二四・春
著者
[#改丁]
そよ風のうごくたびに、むらさきの波、しろい波、――
恵林寺うらの
藤の花が、今をさかりな、ゆく春のひるである。
朱の
椅子によって、しずかな
藤波へ、目をふさいでいた
快川和尚は、ふと、風のたえまに流れてくる、
法螺の
遠音や
陣鉦のひびきに、ふっさりした
銀の
眉毛をかすかにあげた。
その時、
長廊下をどたどたと、かけまろんできたひとりの
弟子は、まっさおな
面をぺたりと、そこへ
伏せて、
「おッ。お
師さま! た、
大変なことになりました。あアおそろしい、……
一大事でござります」
と
舌をわななかせて
告げた。
「しずかにおしなさい」
と、
快川は、たしなめた。
「――わかっています。
織田どのの
軍勢が、いよいよ
此寺へ押しよせてきたのであろう」
「そ、そうです! いそいで
鐘楼へかけのぼって見ましたら、森も野も
畠も、
軍兵の
旗指物でうまっていました。あア、もうあのとおり、軍馬の
蹄まで聞えてまいります……」
いいもおわらぬうちだった。
うら山の
断崖から
藤だなの根もとへ、どどどどと、土けむりをあげて落ちてきた者がある。ふたりはハッとして顔をむけると、ふんぷんとゆれ散った
藤の花をあびて
鎧櫃をせおった血まみれな
武士が、
気息もえんえんとして、
庭さきに
倒れているのだ。
「や、
巨摩左文次どのじゃ。これ、はやく
背のものをおろして、水をあげい、水を」
「はッ」と
弟子僧ははだしでとびおりた。鎧櫃をとって泉水の水をふくませた。武士は、気がついて
快川のすがたをあおぐと、
「お!
国師さま」と、大地へ
両手をついた。
「巨摩どの、さいごの
便りをお待ちしていましたぞ。ご一門はどうなされた」
「はい……」左文次はハラハラと
涙をこぼして、
「ざんねんながら、
新府のお
館はまたたくまに
落城です。火の手をうしろに、主君の
勝頼公をはじめ、
御台さま、
太郎君さま、一門のこり少なの人数をひきいて、
天目山のふもとまで落ちていきましたが、目にあまる
織田徳川の両軍におしつつまれ、みな、はなばなしく
討死あそばすやら、さ、
刺しちがえてご
最期あるやら……」
と
左文次のこえは涙にかすれる。
「おお、
殿もご夫人もな……」
「まだおん年も十六の太郎
信勝さままで、一きわすぐれた目ざましいお
討死でござりました」
「時とはいいながら、
信玄公のみ
代まで、
敵に一歩も
領土をふませなかったこの
甲斐の国もほろびたか……」
と
快川は、しばらく
暗然としていたが、
「して、勝頼公の最期のおことばは?」
「これに持ちました
武田家の
宝物、
御旗楯無(旗と鎧)の二
品を、さきごろからこのお寺のうちへおかくまいくだされてある、
伊那丸さまへわたせよとのおおせにござりました」
そこへまた、二、三人の
弟子僧が、色を失ってかけてきた。
「お
師さま!
信長公の家臣が三人ほど、ただいま、ご本堂から
土足でこれへかけあがってまいりますぞ」
「や、敵が?」
と
巨摩左文次は、すぐ、
陣刀の
柄をにぎった。
快川は落ちつきはらって、それを手でせいしながら、
「あいや、そこもとは、しばらくそこへ……」
と
床下をゆびさした。急なので、左文次も、
宝物をかかえたまま、
縁の下へ身をひそめた。
と、すぐに
廊下をふみ鳴らしてきた三人の
武者がある。いずれも、あざやかな
陣羽織を着、
大刀の
反りうたせていた。
眼をいからせながら、きッとこなたにむかって、
「
国師ッ!」
と、するどく
呼びかけた。
天正十年の春も早くから、
木曾口、
信濃口、
駿河口の八ぽうから、
甲斐の
盆地へさかおとしに攻めこんだ
織田徳川の
連合軍は、
野火のようないきおいで、
武田勝頼父子、
典厩信豊、その他の一族を、
新府城から
天目山へ追いつめて、ひとりのこさず
討ちとってしまえと、きびしい
軍令のもとに、
残党を
狩りたてていた。
その結果、
信玄が
建立した
恵林寺のなかに、
武田の客分、
佐々木承禎、
三井寺の上福院、
大和淡路守の三人がかくれていることをつきとめたので、使者をたてて、
落人どもをわたせと、いくたびも
談判にきた。
しかし、長老の
快川国師は、
故信玄の
恩にかんじて、
断乎として、
織田の要求をつっぱねたうえに、ひそかに三人を
逃がしてしまった。
織田の
間者は、夜となく昼となく、
恵林寺の内外をうかがっていた。ところが、はからずも、
勝頼の
末子伊那丸が、まだ
快川のふところにかくまわれているという事実をかぎつけて、いちはやく本陣へ急報したため、すわ、それ
逃がしてはと、二千の
軍兵は
砂塵をまいて、いま――すでにこの寺をさして押しよせてきつつあるのだ。
快川は、それと知っていながら、ゆったりと、
朱の
椅子から立ちもせずに、三人の武将をながめた。
「また、
織田どのからのお使者ですかな」
と、しずかにいった。
「知れたことだ」となかのひとりが一歩すすんで、
「
国師ッ、この
寺内に
信玄の孫、伊那丸をかくまっているというたしかな
訴人があった。
縄をうってさしだせばよし、さもなくば、寺もろとも、
焼きつくして、みな殺しにせよ、という
厳命であるぞ。
胆をすえて
返辞をせい」
「返辞はない。ふところにはいった
窮鳥をむごい
猟師の手にわたすわけにはゆかぬ」
と快川のこえはすんでいた。
「よしッ」
「おぼえておれ」と三人の武将は荒々しくひッ返した。そのうしろ
姿を見おくると、
快川ははじめて、
椅子をはなれ、
「
左文次どの、おでなさい」
と
合図をしたうえ、さらに
奥へむかって、声をつづけた。
「
忍剣! 忍剣!」
呼ぶよりはやく、おうと、そこへあらわれた骨たくましいひとりの
若僧がある。若僧は、
白綸子にむらさきの
袴をつけた十四、五
歳の
伊那丸を、そこへつれてきて、ひざまずいた。
「この寺へもいよいよ最後の時がきた。お
傅役のそちは一命にかえても、若君を安らかな地へ、お落としもうしあげねばならぬ」
「はッ」
と、
忍剣は
奥へとってかえして、鉄の
禅杖をこわきにかかえてきた。背には
左文次がもたらした
武田家の
宝物、
御旗楯無の
櫃をせおって、うら庭づたいに、
扇山へとよじのぼっていった。
ワーッという
鬨の声は、もう山門ちかくまで聞えてきた。寺内は、
本堂といわず、
廻廊といわずうろたえさわぐ人々の声でたちまち
修羅となった。
白羽黒羽の矢は、
疾風のように、バラバラと、庭さきや本堂の
障子襖へおちてきた。
「さわぐな、うろたえるな!
大衆は山門におのぼりめされ。わしについて、
楼門の上へのぼるがよい」
と
快川は、
伊那丸の落ちたのを見とどけてから、やおら、
払子を
衣の
袖にいだきながら、
恵林寺の
楼門へしずかにのぼっていった。
「それ、長老と、ご
最期をともにしろ――」
つづいて、一
山の
僧侶たちは、
幼い
侍童のものまで、楼門の上にひしひしとつめのぼった。
寄手の軍兵は、山門の下へどッとよせてきて、
「一
山の者どもは、みな山門へのぼったぞ、下から焼きころして、のちの者の、見せしめとしてくれよう」
と、うずたかく
枯れ草をつんで、ぱッと火をはなった。みるまに、
渦まく煙は楼門をつつみ、
紅蓮の
炎は、百千の
火龍となって、メラメラともえあがった。
楼上の大衆は、たがいにだきあって、熱苦のさけびをあげて
伏しまろんだ。なかにひとり、
快川和尚だけは、
自若と、
椅子にかけて、
眉の毛もうごかさず、
「なんの、
心頭をしずめれば、火もおのずから
涼しい――」
と、一
句のことばを、微笑のもとにとなえて、その全身を、
焔になぶらせていた。
「おお!
伊那丸さま。あれをごらんなされませ。すさまじい火の手があがりましたぞ」
源次郎岳の山道までおちのびてきた
忍剣は、はるかな火の海をふりむいて、
涙をうかべた。
「
国師さまも、あの
焔の底で、ご
最期になったのであろうか、忍剣よ、わしは悲しい……」
伊那丸は、遠くへ向かって
掌を合わせた。空をやく焔は、かれのひとみに、
生涯わすれぬものとなるまでやきついた。すると、不意だった。
いきなり、耳をつんざく
呼子の
音が、するどく、頭の上で鳴ったと思うと、かなたの岩かげ、こなたの谷間から、
槍や
陣刀をきらめかせて、おどり立ってくる、数十人の
伏勢があった。それは
徳川方の手のもので、
酒井の
黒具足組とみえた。忍剣は、すばやく伊那丸を岩かげにかくして、じぶんは、
鉄杖をこわきにしごいて、敵を待った。
「それッ、武田の
落人にそういない。
討てッ」
と呼子をふいた黒具足の
部将は、ひらりと、岩上からとびおりて
号令した。下からは、
槍をならべた一隊がせまり、そのなかなる、まッ先のひとりは、流星のごとく忍剣の
脾腹をねらって、
槍をくりだした。
「おうッ」と力をふりしぼって、忍剣の手からのびた四
尺余寸の鉄杖が、パシリーッと、槍の千
段を二つにおって、天空へまきあげた。
「
払え!」と呼子をふいた部将が、またどなった。
バラバラとみだれる
穂すすきの
槍ぶすまも、
忍剣が、自由自在にふりまわす鉄杖にあたるが最後だった。
藁か
棒切れのように飛ばされて、見るまに、七人十人と、
朱をちらして
岩角からすべり落ちる。ワーッという声のなだれ、かかれ、かかれと、ののしる
叫び。すさまじい山つなみは、よせつかえしつ、満山を血しぶきに
染める。
一
介の
若僧にすぎない忍剣のこの手なみに、さすがの
黒具足組も
胆をひやした。――知る人は知る。忍剣はもと、
今川義元の
幕下で、海道一のもののふといわれた、
加賀見能登守その人の
遺子であるのだ。かれの天性の怪力は、父能登守のそれ以上で、幼少から、
快川和尚に
胆力をつちかわれ、さらに
天稟の武勇と血と涙とを、若い五体にみなぎらせている
熱血児である。
あの眼のたかい快川和尚が、一
山のなかからえりすぐって、
武田伊那丸と
御旗楯無の
宝物を
托したのは、よほどの人物と見ぬいたればこそであろう。
新羅三郎以来二十六
世をへて、四
隣に
武威をかがやかした
武田の
領土は、いまや、
織田と
徳川の軍馬に
蹂躪されて、
焦土となってしまった。しかも、その武田の血をうけたものは、世の中にこの
伊那丸ひとりきりとなったのだ。焦土のあとに、たった
一粒のこった
胚子である。
この一粒の胚子に、ふたたび
甲斐源氏の花が咲くか咲かないか、忍剣の責任は大きい。また、伊那丸の宿命もよういではない。
世は戦国である。
残虐をものともしない天下の弓取りたちは、この一粒の胚子をすら、
芽をださせまいとして前途に、あらゆる毒手をふるってくるにちがいない。
すでに、その第一の危難は眼前にふってわいた。
忍剣は
鉄杖を
縦横むじんにふりまわして、やっと
黒具足組をおいちらしたが、ふと気がつくと、
伊那丸をのこしてきた場所から大分はなれてきたので、いそいでもとのところへかけあがってくると、
南無三、
呼子をふいた部将が
抜刀をさげて、あっちこっちの
岩穴をのぞきまわっている。
「おのれッ」と、かれは身をとばして、一
撃を加えたが敵もひらりと身をかわして、
「
坊主ッ、
徳川家にくだって伊那丸をわたしてしまえ、さすればよいように取りなしてやる」
と、
甘言の
餌をにおわせながら、
陣刀をふりかぶった。
「けがらわしい」
忍剣は、鉄杖をしごいた。らんらんとかがやく
眸は、相手の精気をすって、一歩、でるが早いか、敵の
脳骨はみじんと見えた。
そのすきに、忍剣のうしろに身ぢかくせまって、
片膝おりに、
種子島の
銃口をねらいつけた者がある。ブスブスと、その手もとから
火縄がちった――さすがの忍剣も、それには気がつかなかったのである。
かれがふりこんだ鉄杖は、相手の陣刀をはらい落としていた。二どめに、ズーンとそれが
横薙ぎにのびたとおもうと、わッと、
部将は血へどをはいてぶったおれた。
刹那だ。ズドンと
弾けむりがあがった――
はッとして身をしずめた
忍剣が、ふりかえってみると
種子島をもったひとりの
黒具足が、
虚空をつかみながら煙のなかであおむけにそりかえっている。
はて? と
眸をさだめてみると、その
脾腹へうしろ抱きに
脇差をつきたてていたのは、いつのまに飛びよっていたか
武田伊那丸であった。
「お、若さま!」
忍剣は、あまりなかれの
大胆と
手練に目をみはった。
「忍剣、そちのうしろから、
鉄砲をむけた
卑怯者があったによって、わしが、このとおりにしたぞ」
伊那丸は、
笑顔でいった。
木の
実をたべたり、小鳥を
捕って
飢えをしのいだ。百日あまりも、
釈迦ヶ
岳の山中にかくれていた
忍剣と
伊那丸は、もう
甲州攻めの軍勢も引きあげたころであろうと
駿河路へ立っていった。
峠々には、
徳川家のきびしい
関所があって、ふたりの
詮議は、
厳密をきわめている。
そればかりか、
織田の
領地のほうでは、
伊那丸をからめてきた者には、五百
貫の
恩賞をあたえるという
高札がいたるところに立っているといううわさである。さすがの
忍剣も、はたととほうにくれてしまった。
きのうまでは、
甲山の軍神といわれた、
信玄の孫伊那丸も、いまは
雨露によごれた
小袖の着がえもなかった。足は
茨にさかれて、みじめに血がにじんでいた。それでも、伊那丸は悲しい顔はしなかった。幼少からうけた
快川和尚の
訓育と、祖父
信玄の血は、この少年のどこかに流れつたわっていた。
「若さま、このうえはいたしかたがありませぬ。
相模の
叔父さまのところへまいって、時節のくるまでおすがりいたすことにしましょう」
かれは、伊那丸のいじらしい
姿をみると、はらわたをかきむしられる気がする。で、ついに最後の考えをいいだした。
「
小田原城の
北条氏政どのは、若さまにとっては、
叔父君にあたるかたです。
北条どのへ身をよせれば、
織田家も
徳川家も手はだせませぬ」
が、
富士の
裾野を
迂回して、
相模ざかいへくると、無情な
北条家ではおなじように、
関所をもうけて、
武田の
落武者がきたら片ッぱしから追いかえせよ、と厳命してあった。
叔父であろうが、
肉親であろうが、
亡国の血すじのものとなれば、よせつけないのが戦国のならいだ。忍剣もうらみをのんでふたたびどこかの山奥へもどるより
術がなかった。今はまったく
袋のねずみとなって、西へも東へもでる道はない。
ゆうべは、
裾野の青すすきを
ふすまとして
寝、けさはまだ
霧の深いころから、どこへというあてもなく、とぼとぼと歩きだした。やがてその日もまた夕暮れになってひとつの大きな
湖水のほとりへでた。
このへんは、富士の五
湖といわれて、湖水の多いところだった。みると
汀にちかく、
白旗の宮と
額をあげた小さな
祠があった。
「白旗の宮? ……」と
忍剣は見あげて、
「オオ、
甲斐も
源氏、白旗といえば、これは
縁のある
祠です。若さましばらく、ここでやすんでまいりましょうに……」
と、縁へ腰をおろした。
「いや、わしは身軽でつかれはしない。おまえこそ、その
鎧櫃をしょっているので、ながい道には、くたびれがますであろう」
「なんの、これしきの物は、忍剣の骨にこたえはいたしませぬ。ただ、大せつなご
宝物ですから、まんいちのことがあってはならぬと、その気づかいだけです」
「そうじゃ。わしは、この湖水をみて思いついた」
「なんでござりますか」
「こうして、その
櫃をしょって歩くうちに、もし敵の目にかかって、
奪われたらもう取りかえしがつかぬ」
「それこそ、この忍剣としても、生きてはおられませぬ」
「だから――わしがせめて、
元服をする時節まで、その宝物を、この
白旗の宮へおあずけしておこうではないか」
「とんでもないことです。それは
物騒千万です」
「いや、あずけるというても、
御堂のなかへおくのではない。この湖水のそこへ
沈めておくのだ。ちょうどここにある宮の
石櫃、これへ入れかえて、沈めておけば安心なものではないか」
「は、なるほど」と、
忍剣も、
伊那丸の
機智にかんじた。
ふたりはすぐ
祠にあった石櫃へ、宝物をいれかえ一
滴の水もしみこまぬようにして、岸にあった丸木のくりぬき舟にそれをのせて、忍剣がひとりで、
棹をあやつりながら湖の中央へと舟をすすめていった。
伊那丸は
陸にのこって、
岸から小舟を見おくっていた。あかい
夕陽は、きらきらと水面を
射かえして、舟はだんだんと湖心へむかって小さくなった。
「あッ――」
とその時、伊那丸は、なにを見たか、さけんだ。
どこから
射出したのか、一本の
白羽の矢が湖心の忍剣をねらって、ヒュッと飛んでいったのであった。――つづいて、雨か、たばしる
霰のように、数十本の
矢が、バラバラ
釣瓶おとしに
射かけられたのだ。
さッと湖心には水けむりがあがった。その一しゅん、舟も忍剣も石櫃も、たちまち湖水の波にそのすがたを没してしまった。
「ややッ」
おどろきのあまり、われを
忘れて、
伊那丸が水ぎわまでかけだしたときである。――なにものか、
「待てッ」
とうしろから、かれの
襟がみをつかんだ大きな
腕があった。
「
小童、うごくと
命がないぞ」
ずるずると、引きもどされた伊那丸は、声もたて
得なかった。だが、とっさに、
片膝をおとして、腰の
小太刀をぬき打ちに、相手の
腕根を
斬りあげた。
「や、こいつが」と、不意をくった男は手をはなして飛びのいた。
「だれだッ。なにをする――」
とそのすきに、
小太刀をかまえて、いいはなった伊那丸には、おさないながらも、天性の
威があった。
あなたに立った大男はひとりではなかった。そろいもそろった荒くれ男ばかりが十四、五人、
蔓巻の
大刀に、
革の
胴服を着たのもあれば、
小具足や、むかばきなどをはいた者もあった。いうまでもなく、
乱世の
裏におどる
野武士の
群団である。
「見ろ、おい」と、ひとりが伊那丸をきッとみて、
「
綸子の
小袖に
菱の
紋だ。
武田伊那丸というやつに
相違ないぜ」と、いった。
「うむ、ふんじばって
織田家へわたせば、
莫大な
恩賞がある、うまいやつがひッかかった」
「やいッ、伊那丸。われわれは富士の
人穴を
砦としている
山大名の一手だ。てめえの道づれは、あのとおり、湖水のまンなかで
水葬式にしてくれたから、もう逃げようとて、逃げるみちはない、すなおにおれたちについてこい」
「や、では
忍剣に矢を
射たのも、そちたちか」
「忍剣かなにか知らねえが、いまごろは、
山椒の魚の
餌食になっているだろう」
「この
土蜘蛛……」
伊那丸は、くやしげに
唇をかんで、にぎりしめていた
小太刀の先をふるわせた。
「さッ、こなけりゃふんじばるぞ」
と、
野武士たちは、かれを少年とあなどって、不用意にすすみでたところを、伊那丸は、おどりあがって、
「おのれッ」
といいざま、
真眉間をわりつけた。
野武士どもは、それッと、
大刀をぬきつれて、前後からおッとりかこむ。
武技にかけては、
躑躅ヶ崎の
館にいたころから、多くの達人やつわものたちに手をとられて、ふしぎな
天才児とまで、おどろかれた
伊那丸である。からだは小さいが、
太刀は短いが、たちまちひとりふたりを
斬ってふせた早わざは飛鳥のようだった。
「この
童め、
味をやるぞ、ゆだんするな」
と、
野武士たちは白刃の
鉄壁をつくってせまる。その剣光のあいだに、小太刀ひとつを身のまもりとして、
斬りむすび、飛びかわしする伊那丸のすがたは、あたかも
嵐のなかにもまれる
蝶か千鳥のようであった。しかし時のたつほど疲れはでてくる。
息はきれる。――それに、
多勢に
無勢だ。
「そうだ、こんな名もない
土賊どもと、
斬りむすぶのはあやまりだ。じぶんは
武田家の一粒としてのこった大せつな身だ。しかもおおきな使命のあるからだ――」
と伊那丸は、乱刀のなかに立ちながらも、ふとこう思ったので、いっぽうの血路をやぶって、いっさんににげだした。
「のがすなッ」
と野武士たちも風をついて追いまくってくる。伊那丸は
芦の
洲からかけあがって、松並木へはしった。ピュッピュッという矢のうなりが、かれの耳をかすって飛んだ。
夕闇がせまってきたので、足もともほの暗くなったが松並木へでた伊那丸は、けんめいに二町ばかりかけだした。
と、これはどうであろう、前面の道は
八重十文字に、
藤づるの
縄がはってあって、かれのちいさな身でもくぐりぬけるすきもない。
「しまった」と
伊那丸はすぐ横の小道へそれていったが、そこにも
茨のふさぎができていたので、さらに道をまがると
藤づるの
縄がある。折れてもまがっても抜けられる道はないのだ。
万事休す――伊那丸は完全に、
蜘蛛手かがりという
野武士の術中におちてしまったのだ。身に
翼でもないかぎりは、この
罠からのがれることはできない。
「そうだ、野武士らの手から、
織田家へ売られて名をはずかしめるよりは、いさぎよく
自害しよう」
と、かれは覚悟をきめたとみえて、うすぐらい林のなかにすわりこんで、
脇差を右手にぬいた。
切っさきを
袂にくるんで、あわや身につきたてようとしたときである。ブーンと、飛んできた
分銅が、カラッと刀の
鍔へまきついた。や? とおどろくうちに、刀は手からうばわれて、スルスルと
梢の空へまきあげられていく。
「ふしぎな」と立ちあがったとたん、伊那丸は、ドンとあおむけにたおれた。そしてそのからだはいつのまにか
罠なわのなかにつつみこまれて、小鳥のようにもがいていた。
すると、いままで鳴りをしずめていた野武士が、八ぽうからすがたをあらわして、たちまち伊那丸をまりのごとくにしばりあげて、そこから
富士の
裾野へさして追いたてていった。
幾里も幾里ものあいだ、ただいちめんに青すすきの波である。その一すじの道を、まッくろな一
群の人間が、いそぎに、いそいでいく。それは
伊那丸をまン中にかためてかえる、さっきの
野武士だった。
「や、どこかで
笛の
音がするぜ……」
そういったものがあるので、一同ぴったと足なみをとめて耳をすました。なるほど、
寥々と、そよぐ風のとぎれに、笛の
冴えた音がながれてきた。
「ああ、わかった。
咲耶子さまが、また遊びにでているにちがいない」
「そうかしら? だがあの
音いろは、男のようじゃないか。どんなやつが
忍んでいるともかぎらないからゆだんをするなよ」
とたがいにいましめあって、ふたたび道をいそぎだすと、あなたの草むらから、
月毛の
野馬にのったさげ
髪の美少女が、ゆらりと
気高いすがたをあらわした。
一同はそれをみると、
「おう、やっぱり咲耶子さまでございましたか」
と荒くれ
武士ににげなく、花のような美少女のまえには、腰をおって、ていねいにあたまをさげる。
「じゃ、おまえたちにも、わたしが吹いていた笛の音が聞えたかえ?」
と
駒をとめた咲耶子は、美しいほほえみをなげて見おろしたが、ふと、伊那丸のすがたを目にとめて、三日月なりの
眉をちらりとひそめながら、
「まあ、そのおさない人を、ぎょうさんそうにからめてどうするつもりです。
伝内や
兵太もいながら、なぜそんなことをするんです」
と、とがめた。名をさされたふたりの
野武士は、
一足でて、
咲耶子の
駒に近よった。
「まだ、ごぞんじありませぬか。これこそ、お
頭が、まえまえからねらっていた
武田家の
小伜、
伊那丸です」
「おだまりなさい。とりこにしても身分のある敵なら、
礼儀をつくすのが武門のならいです。おまえたちは、名もない
雑人のくせにして、
呼びすてにしたり、
縄目にかけるというのはなんという情けしらず、けっして、ご
無礼してはなりませぬぞ」
「へえ」と、一同はその声にちぢみあがった。
「わたしは道になれているから、あのかたを、この馬にお乗せもうすがよい」
と、咲耶子は、ひらりとおりて伊那丸の
縄をといた。
まもなくけわしいのぼりにかかって、ややしばらくいくと、一の
洞門があった。つづいて二の洞門をくぐると
天然の
洞窟にすばらしい
巨材をしくみ、
綺羅をつくした
山大名の
殿堂があった。
この時代の野武士の勢力はあなどりがたいものだった。
徳川北条などという名だたる弓とりでさえも、その勢力
範囲へ手をつけることができないばかりか、戦時でも、野武士の
区域といえば、まわり道をしたくらい。またそれを敵とした日には、とうてい天下の
覇をあらそう大事業などは、はかどりっこないのである。
ここの
富士浅間の
山大名はなにものかというに、
鎌倉時代からこの
裾野一円に
ばっこしている
郷士のすえで
根来小角というものである。
つれこまれた
伊那丸は、やがて、
首領の小角の前へでた。
獣蝋の
燭が、まばゆいばかりかがやいている大広間は、あたかも、
部将の城内へのぞんだような心地がする。
根来小角は、
野武士とはいえ、さすがにりっぱな男だった。多くの配下を左右にしたがえて、上段にかまえていたが、そこへきた姿をみると座をすべって、みずから上座にすえ、ぴったり両手をついて臣下にひとしい礼をしたのには、伊那丸もややいがいなようすであった。
「お目どおりいたすものは、根来小角ともうすものです。
今日は
雑人どもが、
礼をわきまえぬ
無作法をいたしましたとやら、ひらにごかんべんをねがいまする」
はて?
残虐と利慾よりなにも知らぬ
野盗の
頭が、なんのつもりで、こうていちょうにするのかと、伊那丸は心ひそかにゆだんをしない。
「また、
武田の若君ともあるおんかたが、
拙者の
館へおいでくださったのは天のおひきあわせ。なにとぞ幾年でもご
滞留をねがいまする。ところでこのたびは、
織田徳川両将軍のために、ご一門のご
最期、小角ふかくおさっし申しあげます」
なにをいっても、伊那丸は
黙然と、
威をみださずにすわっていた。ただこころの奥底まで見とおすような、つぶらな
瞳だけがはたらいていた。
「つきましては、小角は微力ですが、三万の野武士と、
裾野から
駿遠甲相四ヵ国の
山猟師は、わたくしの指ひとつで、いつでも目のまえに勢ぞろいさせてごらんにいれます。そのうえ若君が、
御大将とおなりあそばして、
富士ヶ
根おろしに
武田菱の旗あげをなされたら、たちまち諸国からこぞってお味方に
馳せさんじてくることは火をみるよりあきらかです」
「おまちなさい」と
伊那丸ははじめて口をひらいた。
「ではそちはわしに名のりをあげさせて、軍勢をもよおそうという望みか」
「おさっしのとおりでござります。
拙者には武力はありますが名はありませぬ。それゆえ、
今日まで
髀肉の
歎をもっておりましたが、若君のみ
旗さえおかしくださるならば、
織田や
徳川は
鎧袖の一
触です。たちまち
蹴散らしてごむねんをはらします所存」
「だまれ
小角。わしは年こそおさないが、
信玄の血をうけた武神の孫じゃ。そちのような、
野盗人の
上にはたたぬ。
下郎の力をかりて旗上げはせぬ」
「なんじゃ!」と小角のこえはガラリとかわった。
じぶんの野心を見ぬかれた腹立ちと、
落人の一少年にピシリとはねつけられた不快さに、満面に
朱をそそいだ。
「こりゃ伊那丸、よく申したな。もう
汝の名をかせとはたのまぬわ、その代りその体を売ってやる!
織田家へわたして
莫大な
恩賞にしたほうが早手まわしだ。
兵太ッ、この
餓鬼、ふんじばって
風穴へほうりこんでしまえ」
「へいッ」四、五人たって、たちまち伊那丸をしばりあげた。かれはもう
観念の目をふさいでいた。
「歩けッ」
と
兵太は
縄尻をとって、まッくらな
間道を引っ立てていった。そして地獄の口のような岩穴のなかへポーンとほうりこむと、
鉄柵の
錠をガッキリおろしてたちさった。
うしろ手にしばられているので、よろよろところげこんだ
伊那丸は、しばらく顔もあげずに倒れていた。ザザーッと山砂をつつんだ
旋風が、たえず
暗澹と吹きめぐっている
風穴のなかでは、一しゅんのまも目を
開いていられないのだ。そればかりか、夜の
更けるほど風のつめたさがまして
八寒地獄のそこへ落ちたごとく
総身がちぢみあがってくる。
「あア
忍剣はどうした……忍剣はもうあの湖水の
藻くずとなってしまったのか」
いまとなって、しみじみと思いだされてくるのであった。
「忍剣、忍剣。おまえさえいれば、こんな
野武士のはずかしめを受けるのではないのに……」
唇をかんで、転々と身もだえしていると、なにか、とん、とん、とん……とからだの下の地面がなってくる心地がしたので、
「はてな? ……」と身をおこすと、そのはずみに、目のまえの、二
尺四方ばかりな一枚石が、ポンとはねあがって、だれやら、
覆面をした者の頭が、ぬッとその下からあらわれた。
山大名の
根来小角の
殿堂は、七つの
洞窟からできている。その七つの
洞穴から洞穴は、
縦に横に、上に下に、自由自在の
間道がついているが、それは小角ひとりがもっている
鍵でなければ
開かないようになっていた。
また、そとには、まえにもいったとおり、二つの
洞門があって、配下の
野武士が五人ずつ
交代で、
篝火をたきながら夜どおし見はりをしている
厳重さである。
今宵もこの洞門のまえには、赤い
焔と人影がみえて、夜ふけのたいくつしのぎに、何か
高声で話していると、そのさいちゅうに、ひとりがワッとおどろいて飛びのいた。
「なんだッ」
と一同が総立ちになったとき、洞門のなかからばらばらととびだしてきたのは七、八ひきの
猿であった。
「なんだ
猿じゃないか、
臆病者め」
「どうして
檻からでてきたのだろう。
咲耶子さまのかわいがっている
飼猿だ。それ、つかまえろッ」
と八ぽうへちってゆく
猿を追いかけていったあと、
留守になった二の
洞門の入口から
脱兎のごとくとびだした
影! ひとりは
黒装束の
覆面、そのかげにそっていたのは、
伊那丸にそういなかった。
「何者だッ」
と一の洞門では、早くもその足音をさとって、ひとりが大手をひろげてどなると、
鉄球のように飛んでいった伊那丸が、どんと
当身の一
拳をついた。
「うぬ!」と風をきって鳴った
山刀のひかり。
よろりと
泳いだ影は、伊那丸のちいさな影から、あざやかに投げられて、
断崖の
闇へのまれた。
「
曲者だ! みんな、でろ」
覆面の黒装束へも
襲いかかった。
姿はほっそりとしているのに、
手練はあざやかだった。よりつく者を投げすてて、すばやく逃げだすのを、横あいからまた飛びついていったひとりがむんずと組みついて、その覆面の顔をまぢかく見て、
「ああ、あなたは」と、
愕然とさけんだ。
顔を見られたと知った覆面は、おどろく男を突ッぱなした。よろりと身をそるところへ、黒装束の腰からさッとほとばしった氷の
刃! 男の肩からけさがけに
斬りさげた。――ワッという
絶叫とともに
闇にたちまよった血けむりの血なまぐささ。
「伊那丸さま」
黒装束は、手まねきするやいなや、岩
つばめのようなはやさで、たちまち、そこからかけおりていってしまった。
下界をにらみつけるような大きな月が、人ひとり、鳥一羽の影さえない、
裾野のそらの一
角に、夜の
静寂をまもっている。
その
渺としてひろい平野の一本杉に、一ぴきの
白駒がつながれていた。馬は、さびしさも知らずに、月光をあびながら、のんきに青すすきを食べているのだ。
いっさんにかけてきた
黒装束は、
白馬のそばへくるとぴッたり足をとめて、
「
伊那丸さま、もうここまでくれば大じょうぶです」
と、あとからつづいてきた影へ手をあげた。
「ありがとうござりました」
伊那丸は、ほッとして
夢心地をさましたとき、ふしぎな黒装束の
義人のすがたを、はじめて落ちついてながめたのであるが、その人は月の光をしょっているので、顔はよくわからなかった。
「もう大じょうぶです。これからこの
野馬にのって、明方までに
富士川の下までお送りしてあげますから、あれから
駿府へでて、いずこへなり、身をおかくしなさいまし、ここに
関所札もありますから……」
と、
黒装束のさしだした
手形をみて、
伊那丸はいよいよふしぎにたえられない。
「そして、そなたはいったいたれびとでござりますぞ」
「だれであろうと、そんなことはいいではありませんか。さ、早く、これへ」
と
白駒の
手綱をひきだしたとき、はじめて月に照らされた
覆面のまなざしを見た伊那丸は、思わずおおきなこえで、
「や! そなたはさっきの
女子、
咲耶子というのではないか」
「おわかりになりましたか……」
涼しい
眸にちらと
笑みを見せて、それへ両手をつきながら、
「おゆるしくださいませ、父の
無礼は、どうぞわたしにかえてごかんべんあそばしませ……」と、わびた。
「では、そなたは
小角の娘でしたか」
「そうです、父のしかたはまちがっております。そのおわびに
鍵をそッと持ちだしておたすけもうしたのです。伊那丸さま、あなたのおうわさは私も前から聞いておりました、どうぞお身を大切にして、かがやかしい
生涯をおつくりくださいまし」
「忘れませぬ……」
伊那丸は、神のような美少女の至情にうたれて、思わずホロリとあつい涙を
袖のうちにかくした。
と、咲耶子はいきなり立ちあがった。
「あ――いけない」と顔いろを変えてさけんだ。
「なんです?」
と、
伊那丸もその
眸のむいたほうをみると、
藍いろの月の空へ、ひとすじの細い火が、ツツツツーと走りあがってやがて
消えた。
「あの火は、この
裾野一帯の、森や河原にいる
野伏の
力者に、あいずをする知らせです。父は、あなたの逃げたのをもう知ったとみえます。さ、早く、この馬に。……抜けみちは私がよく知っていますから、早くさえあれば、しんぱいはありませぬ」
とせき立てて、伊那丸の乗ったあとから、じぶんもひらりと前にのって、手ぎわよく、
手綱をくりだした。
その時、すでにうしろのほうからは、
百足のようにつらなった
松明が、
山峡の
闇から月をいぶして、こなたにむかってくるのが見えだした。
「おお、もう近い!」
咲耶子は、ピシリッと馬に
一鞭あてた。一声たかくいなないた
駒は、
征矢よりもはやく、すすきの波をきって、まッしぐらに、南のほうへさしてとぶ――
それよりも前の、夕ぐれのことである。
夕陽のうすれかけた
湖の波をザッザときって、
陸へさして泳いでくるものがあった。湖水の
主の
山椒の
魚かとみれば、水をきッてはいあがったのはひとりの
若僧――かの
忍剣なのであった。
どっかりと、
岸辺へからだを落とすと、忍剣はすぐ
衣をさいて、ひだりの
肘の
矢傷をギリギリ巻きしめた。そして身をはねかえすが
否や、
白旗の宮へかけつけてきてみると、
伊那丸のすがたはみえないで、ただじぶんの
鉄杖だけが立てかけてのこっていた。
「若さま――、伊那丸さまア――」
二ど三ど、こえ高らかに呼んでみたが、さびしい
木魂がかえってくるばかりである。それらしい人の影もあたりに見えてはこない。
「さては」と忍剣は、心をくらくした。湖水のなかほどへでたとき、ふいに矢を
乱射したやつのしわざにちがいない。小さな
くりぬき舟であったため、矢をかわしたはずみに、くつがえってしまったので、
石櫃はかんぜんに湖心のそこへ沈めたけれど、伊那丸の身を何者かにうばわれては、あの
宝物も、
永劫にこの湖から世にだす時節もなくなるわけだ。
「ともあれ、こうしてはおられない、命にかけても、おゆくえをさがさねばならぬ」
鉄杖をひッかかえた忍剣は、八ぽうへ
血眼をくばりながら、湖水の岸、あなたこなたの森、くまなくたずね歩いたはてに、どこへ抜けるかわからないで、とある松並木をとおってくると、いた! 二、三町ばかり先を、白い影がとぼとぼとゆく。
「オーイ」
と手をあげながらかけだしていくと、半町ほどのところで、フイとその影を見うしなってしまった。
「はてな、ここは一すじ道だのに……」
小首をひねって見まわしていると、なんのこと、いつかまた、三町も先にその影が歩いている。
「こりゃおかしい。
伊那丸さまではないようだが、あやしいやつだ。一つつかまえてただしてくれよう」
と
宙をとんで追いかけていくうちに、また先の者が見えなくなる。足をとめるとまた見える。さすがの
忍剣も少しくたびれて、どっかりと、道の木の根に腰かけて汗をふいた。
「どうもみょうなやつだ。人間の足ではないような早さだ。それとも、あまり伊那丸さまのすがたを
血眼になってさがしているので、気のせいかな」
忍剣がひとりでつぶやいていると、その鼻ッ先へ、スーッと、うすむらさき色の煙がながれてきた。
「おや……」ヒョイとふりあおいでみると、すぐじぶんのうしろに、まっ白な衣服をつけた男がたばこをくゆらしながら、忍剣の顔をみてニタリと笑った。
「こいつだ」
と見て、忍剣もグッとにらみつけた。男は
背に
笈をせおっている
六部である。ばけものではないにちがいない。にらまれても落ちついたもの、スパリスパリと、二、三ぷくすって、ポンと、立木の横で、きせるをはたくと、あいさつもせずに、またすたすたとでかけるようすだ。
「まて、
六部まて」
あわてて立ちあがったが、もうかれの姿は、あたりにも先にも見えない。
忍剣はあきれた。世のなかには、奇怪なやつがいればいるものと、ぼうぜんとしてしまった。
疑心暗鬼とでもいおうか、場合がばあいなので、忍剣には、どうも今の六部の
挙動があやしく思えてならない。なんとなく
伊那丸の身を
闇につつんだのも、きゃつの仕事ではないかと思うと、いま目のさきにいたのを
逃がしたのがざんねんになってきた。
「あやしい六部だ。よし、どんな早足をもっていようがこの忍剣のこんきで、ひッとらえずにはおかぬぞ」
とかれはまたも、いっさんにかけだした。
並木がとぎれたところからは、一望千里の
裾野が見わたされる。
忍剣は、この方角とにらんだ道を、一
念こめて、さがしていくと、やがて、ゆくてにあたって、一
宇の六角堂が目についた。
「おお、あれはいつの年か、このへんで
戦いのあったとき焼けのこった
文殊閣にちがいない。もしかすると、
六部の
巣も、あれかもしれぬぞ……」
と
勇みたって近づいていくと、はたして、くずれかけた文殊閣の石段のうえに、
白衣の六部が、月でもながめているのか、
ゆうちょうな顔をして腰かけている。
「こりゃ六部、あれほど
呼んだのになぜ待たないのだ」
忍剣はこんどこそ逃がさぬぞという気がまえで、その前につッ立った。
「なにかご用でござるか」
と、かれはそらうそぶいていった。
「おおさ、問うところがあればこそ呼んだのだ。年ごろ十四、五に渡らせられる若君を見失ったのだ。知っていたら教えてくれ」
「知らない、ほかで聞け」
六部の答えは、まるで忍剣を
愚弄している。
「だまれッ、この
裾野の夜ふけに、問いたずねる人間がいるか。そういう
汝の口ぶりがあやしい、正直にもうさぬと、これだぞッ」
ぬッと、
鉄杖を鼻さきへ突きつけると、六部はかるくその先をつかんで、腰の下へしいてしまった。
「これッ、なんとするのだ」
忍剣は、
渾力をしぼって、それを引きぬこうとこころみたが、ぬけるどころか、
大山にのしかかられたごとく一寸のゆるぎもしない。しかも、
六部はへいきな顔で、
両膝にほおづえをついて笑っている。
「むッ……」
と忍剣は、
総身の力をふりしぼった。力にかけては、怪童といわれ、
恵林寺のおおきな庭石をかるがるとさして山門の階段をのぼったじぶんである。なにをッ、なにをッと、引けどねじれど、
鉄杖のほうが、まがりそうで、六部のからだはいぜんとしている。すると、ふいに、六部が腰をうかした。
「あッ――」
思わずうしろへよろけた忍剣は、かッとなって、その鉄杖をふりかぶるが早いか、
磐石も
みじんになれと打ちこんだが、六部の姿はひらりとかわって、
空をうった鉄杖のさきが、
はっしと、石の
粉をとばした。
「無念ッ」とかえす力で横ざまにはらい上げた鉄杖を、ふたたびくぐりぬけた六部は、
杖にしこんである
無反りの
冷刀をぬく手も見せず、ピカリと片手にひらめかせて、
「
若僧、雲水」と
錆をふくんだ声でよんだ。
「なにッ」と持ちなおした鉄杖を、まッこうにふりかぶった忍剣は、
怒気にもえた目をみひらいて、ジリジリと相手のすきをねらいつめる。
六部はといえば、片手にのばした一刀を、肩から
切先まで水平にかまえて、
忍剣の胸もとへと、うす気味のわるい死のかげを、ひら、ひら――とときおりひらめかせていく――。たがいの息と息は、その一しゅん、水のようにひそやかであった。しかも、
総身の毛穴からもえたつ熱気は、
焔となって、いまにも、そうほうの切先から火の
輪をえがきそうに見える……。
突として、風を切っておどった
銀蛇は、忍剣の
真眉間へとんだ。
「おうッ」と、さけびかえした忍剣は、それを
鉄杖ではらったが、
空をうッてのめッたとたん、背をのぞんで、六部はまたさッと斬りおろしてきた。
そのはやさ、かわす
間もあらばこそ、忍剣も、ぽんとうしろへとびのくより
策がなかった。そして、
踏みとどまるが早いか、ふたたび鉄杖を横がまえに持つと、
「待て」と六部の声がかかった。
「
怯んだかッ」たたき返すように忍剣がいった。
「いやおくれはとらぬ。しかしきさまの鉄杖はめずらしい。いったいどこの何者だか聞かしてくれ」
「あてなしの旅をつづける雲水の忍剣というものだ。ところで、なんじこそただの六部ではあるまい」
「あやしいことはさらにない。ありふれた
木遁の
隠形でちょっときさまをからかってみたのだ」
「ふらちなやつだ。さてはきさまは、どこかの
大名の手先になって、諸国をうかがう、
間諜だな」
「ばかをいえ。しのびに
長けているからといって、
諜者とはかぎるまい。このとおり
六部を世わたりにする
木隠龍太郎という者だ。こう名のったところできくが、さっききさまのたずねた若君とは何者だ」
「その口にいつわりがないようすだから聞かしてやる。じつは、さる高貴なおん方のお
供をしている」
「そうか。では
武田の
御曹子だな……」
「や、どうして、
汝はそれを知っているのだ?」
「
恵林寺の
焔のなかからのがれたときいて、とおくは、
飛騨信濃の山中から、この
富士の
裾野一
帯まで、足にかけてさがしぬいていたのだ。きさまの口うらで、もうおいでになるところは
拙者の目にうつってきた。このさきは、
伊那丸さまはおよばずながら、この六部がお
附添いするから、きさまは、安心してどこへでも落ちていったがよかろう」
忍剣はおどろいた。まったくこの六部のいうこと、なすことは、いちいち
ふにおちない。のみならず、じぶんをしりぞけて、伊那丸をさがしだそうとする野心もあるらしい。
「たわけたことをもうせ。伊那丸さまはこの忍剣が命にかけて、お
護りいたしているのだわ」
「そのお
傅役が、さらわれたのも知らずにいるとは
笑止千万じゃないか。
御曹子はまえから
拙者がさがしていたおん方だ、もうきさまに用はない」
「いわせておけば
無礼なことばを」
「それほどもうすなら、きさまはきさまでかってにさがせ。どれ、
拙者は、これから明け方までに、おゆくえをつきとめて、思うところへお
供をしよう」
「この
痴れものが」
と、
忍剣は真から腹立たしくなって、ふたたび
鉄杖をにぎりしめたとき、はるか
裾野のあなたに、ただならぬ光を見つけた。
六部の
木隠龍太郎も見つけた。
ふたりはじッとひとみをすえて、しばらく
黙然と立ちすくんでしまった。
それは
蛇形の
陣のごとく、うねうねと、
裾野のあなたこなたからぬいめぐってくる一
道の
火影である。多くの
松明が
右往左往するさまにそういない。
「あれだ!」いうがはやいか龍太郎は、一
足とびに、石段から姿をおどらした。
「うぬ。
汝の手に若君をとられてたまるか」
忍剣も、
韋駄天ばしり、この
一足が、必死のあらそいとはなった。
ただ見る――白い月の
裾野を、銀の
奔馬にむちをあげて、ひとつの
鞍にのった少年の
貴公子と、
覆面の美少女は、地上をながるる星とも見え、
玉兎が波をけっていくかのようにも見える。たちまち、そらの月影が、黒雲のうちにさえぎられると、
裾野もいちめんの
如法闇夜、ただ、ザワザワと鳴るすすきの風に、つめたい雨気さえふくんできた。
「あ、折りがわるい――」
と、
駒をとめて、空をあおいだ
咲耶子の声は、うらめしげであった。
「おお、雲は切れめなくいちめんになってきた。咲耶どの、もう
駒をはやめてはあぶない、わしはここでおりますから、あなたは
岩殿へお帰りなさい」
「いいえ、まだ
富士川べりまでは、あいだがあります」
「いや、そなたが帰ってから、
小角にとがめられるであろうと思うと、わしは胸がいたくなります。さ、わしをここでおろしてください」
「
伊那丸さま、こんなはてしも見えぬ裾野のなかで、馬をお捨てあそばして、どうなりますものか」
いい
争っているすきに、十
間とは離れない
窪地の下から、ぱッと目を射てきた
松明のあかり。
「いたッ」
「逃がすな」と、八ぽうからの声である。
「あッ、大へん」
と咲耶子はピシリッと
駒をうった。ザザーッと道もえらまずに数十
間、一気にかけさせたのもつかの
間であった。たのむ馬が、
窪地に落ちて
脚を折ったはずみに、ふたりはいきおいよく、草むらのなかへ投げ落とされた。
「それッ、落ちた。そこだッ」
むらがりよってきた
松明の赤い
焔、
山刀の光、
槍の
穂さき。
ふたりのすがたは、たちまちそのかこみのなかに照らしだされた。
「もう、これまで」
と
小太刀をぬいた
伊那丸は、その
荒武者のまッただなかへ、運にまかせて、斬りこんだ。
咲耶子も、
覆面なのを幸いに一刀をもって、伊那丸の身をまもろうとしたが、さえぎる槍や大刀に
畳みかけられ、はなればなれに斬りむすぶ。
「めんどうくさい。
武田の
童も、手引きしたやつも、片ッぱしから首にしてしまえ」
大勢のなかから、こうどなった者は、咲耶子と知ってか知らぬのか、
山大名の
根来小角であった。
時に、そのすさまじいつるぎの
渦へ、
突として、横合いからことばもかけずに、
無反りの大刀をおがみに持って、飛びこんできた人影がある。
六部の
木隠龍太郎であった。一
閃かならず一人を斬り、一気かならず一
夫を割る、
手練の腕は、
超人的なものだった。
それとみて、
愕然とした根来小角は、みずから大刀をとって、
奮いたった。
と同時に、
一足おくれて、かけつけた
忍剣の
鉄杖も、風を呼んでうなりはじめた。
空はいよいよ暗かった。降るのはこまかい血の雨である。たばしる
剣の
稲妻にまきこまれた、
可憐な
咲耶子の身はどうなるであろう。――そして、
武田伊那丸の運命は、はたしてだれの手ににぎられるのか?
雲の明るさをあおげば、夜はたしかに明けている。しかし、
加賀見忍剣の身のまわりだけは、
常闇だった。かれは、とんでもない
奈落のそこに落ちて、
土龍のようにもがいていた。
「
伊那丸さまはどうしたであろう。あの武士の
群れにとりかえされたか、あるいは、
六部の
木隠というやつにさらわれてしまったか? ――そのどっちにしても大へんだ。アア、こうしちゃいられない、グズグズしている場合じゃない……」
忍剣は、どんな
危地に立っても、けっしてうろたえるような男ではない。ただ、伊那丸の身をあんじてあせるのだった。地の理にくらいため、乱闘のさいちゅうに、足を
踏みすべらしたのが、かえすがえすもかれの失敗であった。
ところが、そこは
裾野におおい
断層のさけ目であって、両面とも、切ってそいだかのごとき岩と岩とにはさまれている
数丈の地底なので、さすがの
忍剣も、
精根をつからして空の明るみをにらんでいた。
「む! 根気だ。こんなことにくじけてなるものか」
とふたたび
袖をまくりなおした。かれは
鉄杖を背なかへくくりつけて、
護身の短剣をぬいた。そして、岩の面へむかって、
一段一段、じぶんの足がかりを、掘りはじめたのである。
すると、なにかやわらかなものが、忍剣の
頬をなでてははなれ、なでてははなれするので、かれはうるさそうにそれを手でつかんだ時、はじめて赤い
絹の
細帯であったことを知った。
「おや? ……」
と、あおむいて見ると、ちゅうとから
藤づるかなにかで結びたしてある
一筋が、たしかに、上からじぶんを目がけてさがっている。
「ありがたい!」
と力いっぱい引いてこころみたが、切れそうもないので、それをたよりに、するするとよじのぼっていった。
ぽんと、大地へとびあがったときのうれしさ。
忍剣はこおどりして見まわすと、そこに、思いがけない美少女が
笑みをふくんで立っている。少女の足もとには、
謎のような
黒装束の
上下がぬぎ捨てられてあった。
「や、あなたは……」
と
忍剣はいぶかしそうに目をみはった。その問いにおうじて、少女は、
「わたくしはこの
裾野の
山大名、
根来小角の娘で、
咲耶子というものでございます」
と、はっきりしたこわ
音でこたえた。
「そのあなたが、どうしてわたしをたすけてくださったのじゃ」
「ご
僧は、
伊那丸さまのお
供のかたでございましょうが」
「そうです。若君のお身はどうなったか、それのみがしんぱいです。ごぞんじなら、教えていただきたい」
「伊那丸さまは、ご
僧と一しょに斬りこんできた
六部のひとが、おそろしい
早技でどこともなく連れていってしまいました。あの六部が、善人か悪人か、わたくしにもわからないのです。それをあなたにお知らせするために夜の明けるのを待っていたのです」
「えッ、ではやっぱりあの六部にしてやられたか。して六部めは、どっちへいったか、方角だけでも、ごぞんじありませんか」
「わたくしはそのまえに、
富士川をくだって、東海道から京へでる
関所札をあげておきましたが、その道へ向かったかどうかわかりませぬ」
「しまった……?」
と、忍剣は
吐息をもらした。と、咲耶子は、にわかに色をかえてせきだした。
「あれ、父の手下どもが、わたくしをたずねてむこうからくるようです。すこしも早くここをお立ちのきあそばしませ。わたくしは山へ帰りますが、かげながら、
伊那丸さまのお行く末をいのっております」
「ではお別れといたそう。
拙僧とて、
安閑としておられる身ではありません」
ふたたび
鉄杖を手にした
忍剣は、別れをつげて、
恨みおおき
裾野をあとに、いずこともなく草がくれに立ち去った。
――
咲耶子も、しばしのあいだは、そこに立ってうしろ
姿を見おくっていた。
浜松の城下は、海道一の名将、
徳川家康のいる都会である。その浜松は、ここ七日のあいだは、
男山八幡の祭なので、夜ごと町は、おびただしいにぎわいであった。
「どうですな、
鎧屋さん、まだ売れませんか」
その
八幡の
玉垣の前へならんでいた夜店の
燈籠売りがとなりの者へはなしかけた。
「売れませんよ。今日で六日もだしていますがだめです」
と答えたのは、十八、九の若者で、たった一組の
鎧をあき箱の上にかざり、じぶんのそばには、一本の
朱柄の
槍を立てかけて、ぼんやりとそこに腰かけている。
「おまえさんの
燈籠のほうは、女子供が相手だから、さだめし毎日たくさんの売上げがありましたろう」
「どうしてどうして、あの
鬼玄蕃というご城内の
悪侍のために、今年はからきし、
商いがありませんでした」
「ゆうべもわたしがかえったあとで、だれかが、あいつらに斬られたということですが、ほんとでしょうかね」
「そんなことは珍しいことじゃありませんよ。店をメチャメチャにふみつぶされたり、
片輪にされたかわいそうな人が、何人あるか知れやしません。まったく弱いものは生きていられない世の中ですね」
といってる口のそばから、ワーッという声が向こうからあがって、いままで
歓楽の世界そのままであったにぎやかな町の
灯りが、バタバタ消えてきた。
燈籠売りははねあがってあおくなった。
「大へん大へん、
鎧屋さん、はやく逃げたがいいぜ、鬼玄蕃がきやがったにちがいない」
にわか雨でもきたように、あたりの商人たちも、ともどもあわてさわいだが、かの若者だけは、腰も立てずに
悠長な顔をしていた。
案のじょう、そこへ
旋風のようにあばれまわってきた四、五人の
侍がある。なかでも一きわすぐれた強そうな
星川玄蕃は、つかつかと鎧屋のそばへよってきた。
泥酔したほかの侍たちも、こいつはいいなぶりものだという顔をして、そこを取りまく。
「やい、町人。この
槍はいくらだ」
と
玄蕃はいきなり若者のそばにあった
朱柄の
槍をつかんだ。
「それは売り物じゃありません」
にべもなく、ひッたくって槍をおきかえたかれは、あいかわらず、
無神経にすましこんでいた。
「けしからんやつだ、売り物でないものを、なぜ店へさらしておく。こいつ、客をつる
山師だな」
「槍はわしの持物です。どこへいくんだッて、この槍を手からはなさぬ
性分なんだからしかたがない」
「ではこの
鎧が売りものなのか。
黒皮胴、
萌黄縅、なかなかりっぱなものだが、いったいいくらで売るのだ」
「それも売りたい
品ではないが、お
母が病気なので、
薬代にこまるからやむなく手ばなすんです。
酔ッぱらったみなさまがさわいでいると、せっかくのお客も逃げてしまいます。早くあっちへいってください」
「
無愛想なやつだ。買うからねだんを聞いているのだ」
「
金子五十枚、びた一
文もまかりません。はい」
「たかい、銅銭五十枚にいたせ、買ってくれる」
「いけません、まっぴらです」
「ふらちなやつだ。だれがこんなボロ鎧に、金五十枚をだすやつがあるか、バカめッ」
玄蕃が
土足をあげて
蹴ったので、
鎧はガラガラとくずれて土まみれになった。こんならんぼうは、
泰平の世には、めったに見られないが、あけくれ血や
白刃になれた戦国武士の悪い者のうちには、町人百姓を
蛆虫とも思わないで、ややともすると、
傲慢な武力をもってかれらへのぞんでゆくものが多かった。
「
山師めッ」
ほかの
武士どもも、口を合わせてののしった上に
鎧を
踏みちらして、どッと笑いながら立ちさろうとした時、若者の
眉がピリッとあがった。――と思うまに、
朱柄の
槍は、いつか、その
小脇にひッかかえられていた。
「待てッ」
「なにッ」とふりかえりざま、刀の
柄へ手をかけた五人の、おそろしい眼つき。
すわと、
弥次馬は、
潮のごとくたちさわいだ。――と、その群集のなかから、まじろぎもせずに、朱柄の槍先をみつめていた
白衣の
六部と、ひとりの
貴公子ふうの少年とがあった。
玉垣を照らしている
春日燈籠の
灯影によく見ると、それこそ、
裾野の
危地を斬りやぶって、
行方をくらました
木隠龍太郎と、
武田伊那丸のふたりであった。
六部の龍太郎は、はたして、なんの目的で伊那丸をうばいとってきたかわからないが、ここに立ったふたりのようすから
察すると、いつか伊那丸もかれを
了解しているし、龍太郎も主君のごとく
敬っているようだ。しかしそれにしても武田の
残党を根だやしにするつもりである敵の本城地に、かく明からさまに姿をあらわしているのは、なんという
大胆な行動であろう。今にもあれ、
徳川家の
目付役か、酒井
黒具足組の目にでもふれたらば最後、ふたりの身の一大事となりはしまいか?
それはとにかく、いっぽう、
鎧売りの若者は、はやくも、
槍を、
穂短にしごいて、ジリジリと一寸にじりに五人の武士へ迫ってゆく――
「小僧ッ、気がちがったか」
玄蕃はののしった。
「気は
狂っていない! 町人のなかにも男はいる、天にかわって、
汝らをこらしてやるのだ」
「なまいきなことをほざく
下郎だ、汝らがこのご城下で
安穏にくらしていられるのは、みなわれわれが敵国と戦っている
賜物だぞ。
罰あたりめ」
「町人どもへよい見せしめ、そのほそ首をぶッ飛ばしてくれよう」
「うごくなッ」
鬼玄蕃をはじめ、一同の刀が、若者の手もとへ、ものすさまじく斬りこんだ。
とたんに、
朱柄の
槍は、一本の火柱のごとく、さッと五本の乱刀を
天宙からたたきつけた。
わッと、あいての手もとが乱れたすきに、若者はまた一声「えいッ」とわめいて、ひとりのむなさきを
田楽刺しにつきぬくがはやいか、すばやく
穂先をくり引いて、ふたたびつぎの相手をねらっている。
その
早技も、
非凡であったが、よりおどろくべきものは、かれのこい
眉毛のかげから、らんらんたる底光をはなってくる二つの
眸である。それは、
槍の穂先よりするどい光をもっている。
「やりおったな、
小僧ッ。もうゆるさん」
玄蕃は怒りにもえ、
金剛力士のごとく、
太刀をふりかぶって、槍の真正面に立った。かれのがんじょうな五体は、さすが戦場のちまたで
鍛えあげたほどだけあって、
小柄な若者を見おろして、ただ一
撃といういきおいをしめした。それさえあるのに、あと三人の
武士も、めいめいきっさきをむけて、ふくろづめに、一寸二寸と、若者の
命に、くいよってゆくのだ。
ああ、あぶない。
「
龍太郎――」
と、こなたにいた
伊那丸は、息をのんでかれの
袖をひいた、そしてなにかささやくと、龍太郎はうなずいて、ひそかに、例の
仕込杖の
戒刀をにぎりしめた。いざといわば、一気におどりこんで、
木隠一
流の
冴えを見せんとするらしい。
ヤッという
裂声があたりの空気をつんざいた。
鬼玄蕃星川が斬りこんだのだ。
朱い
槍がサッとさがる――玄蕃はふみこんで、二の太刀をかぶったが、そのとき、流星のごとくとんだ
槍の
穂が、ビュッと、
鬼玄蕃の
喉笛から血玉をとばした。
「わッ――」と弓なりにそってたおれたと見るや、のこる三人の
侍は、必死に若者の左右からわめきかかる、
疾風か、
稲妻か、
刃か、そこはただものすごい
黒旋風となった。
「えいッ、
木ッ
葉どもめ!」
若者は、二、三ど、
朱柄の
槍をふりまわしたが、トンと石突きをついたはずみに、五尺の体をヒラリおどらすが早いか、
社の玉垣を、飛鳥のごとく飛びこえたまま、あなたの
闇へ消えてしまった。
バラバラと武士もどこかへかけだした。あとは血なまぐさい風に、消えのこった
灯がまたたいているばかり。
「アア、気もちのよい男」
と
伊那丸は、思わずつぶやいた。
「
拙者も、めずらしい
槍の
玄妙をみました」
龍太郎は
助太刀にでようとおもうまに、みごとに勝負をつけてしまった若者の
早技に、
舌をまいて
感嘆していた。そして、ふたりはいつかそこを歩みだして、浜松城に近い
濠端を、しずかに歩いていたのである。
すると、大手門の橋から、たちまち空をこがすばかりの
焔の一列が
疾走してきた。龍太郎は見るより舌うちして、伊那丸とともに、濠端の
柳のかげに身をひそませていると、まもなく、
松明を持った
黒具足の武士が十四、五人、目の前をはしり抜けたが、さいごのひとりが、
「待て、あやしいやつがいた」とさけびだした。
「なに? いたか」
バラバラと引きかえしてきた人数は、いやおうなく、ふたりのまわりをとり巻いてしまった。
「ちがった、こいつらではない」
と一目見た一同は、ふり捨ててふたたびゆきすぎかけたが、そのとき、
「ややッ、
伊那丸、
武田伊那丸ッ」と、だれかいった者がある。
朱柄の
槍をもった
曲者が、城内の
武士をふたりまで突きころしたという知らせに、さては、敵国の
間者ではないかと、すぐ
討手にむかってきたのは、酒井
黒具足組の人々であった。
運わるく、そのなかに、伊那丸の
容貌を見おぼえていた者があった。かれらは、おもわぬ
大獲物に、
武者ぶるいを
禁じえない。たちまちドキドキする陣刀は、伊那丸と
龍太郎のまわりに
垣をつくって、身うごきすれば、五体は
蜂の
巣だぞ――といわんばかりなけんまくである。
「ちがいない。まさしくこの者は、
武田伊那丸だ」
「お
城ちかくをうろついているとは、不敵なやつ。尋常にせねば
縄をうつぞ、
甲斐源氏の
御曹司、
縄目を、
恥とおもわば、
神妙にあるきたまえ――」
侍頭の
坂部十郎太が、おごそかにいいわたした。
伊那丸は、ちりほども
臆したさまは見せなかった。
りんとはった目をみひらいて、周囲のものをみつめていたが、ちらと、
龍太郎の顔を見ると――かれも
眸をむけてきた。
以心伝心、ふたりの目と目は、瞬間にすべてを語りあってしまう。
「いかにも――」龍太郎はそこでしずかに答えた。
「ここにおわすおん
方は、おさっしのとおり、伊那丸君であります。天下の武将のなかでも
徳川どのは
仁君とうけたまわり、おん情けの
袖にすがって、若君のご一身を安全にいたしたいお願いのためまいりました」
「とにかく、きびしいお尋ね人じゃ、おあるきなさい」
「したが、
落人のお身の上でこそあれ、無礼のあるときは、この龍太郎が承知いたさぬ、そう
思しめして、ご案内なさい」
龍太郎は、
戒刀の
杖に、伊那丸の身をまもり、すすきをあざむく
白刃のむれは、
長蛇の列のあいだに、ふたりをはさんで、しずしずと、
鬼の口にもひとしい、
浜松城の大手門のなかへのまれていった。
本丸とは、城主のすまうところである。
築山の松、
滝をたたえた
泉、
鶺鴒があそんでいる飛石など、
戦のない日は、平和の光がみちあふれている。そこは浜松城のみどりにつつまれていた。
伊那丸と
龍太郎は、あくる日になって、三の丸、二の丸をとおって、
家康のいるここへ呼びだされた。
「
勝頼の次男、
武田伊那丸の
主従とは、おん身たちか」
高座の
御簾をあげて、こういった家康は、ときに、四十の坂をこえたばかりの男ざかり、
智謀にとんだ名将の
ふうはおのずからそなわっている。
「そうです。じぶんが武田伊那丸です」
龍太郎は、かたわらに両手をついたが、伊那丸ははっきりこたえて、
端然と、家康の顔をじいとみつめた。――家康も、しかと、こっちをにらむ。
「おう……
天目山であいはてた、父の勝頼、また兄の太郎
信勝に、さても
生写しである……。あの
戦のあとで
検分した
生首に
瓜二つじゃ」
「うむ……」
伊那丸の肩は、あやしく波をうった。かれをにらんだ二つの
眸からは、こらえきれない熱涙が、ハラハラとはふり落ちてとまらない。
この
家康めが、
織田と力をあわせ、
北条をそそのかして、
武田の家をほろぼしたのか、父母や兄や、一族たちをころしたのか――と思うと、くやし涙は、
頬をぬらして、骨に
徹してくる。
眼もらんらんともえるのだった。
「若君、若君……」
と、
龍太郎はそッと
膝をついて目くばせをしたが、伊那丸は、さらに心情をつつまなかった。
「おお……」と家康はうなずいて、そしてやさしそうに、
「父の
領地は
焦土となり、身は
天涯の
孤児となった伊那丸、さだめし
口惜しかろう、もっともである。いずれ、家康もとくと考えおくであろうから、しばらくは、まず落ちついて、体をやすめているがよかろう」
家康はなにか
一言、
近侍にいいつけて、その席を立ってしまった。ふたりはやがて、酒井の家臣、
坂部十郎太のうしろにしたがって、二の丸の
塗籠造りの一室へあんないされた。伊那丸は、ふたりきりになると、ワッと
袂をかんで、泣いてしまった。
「龍太郎、わしは
口惜しい……くやしかった」
「ごもっともです、おさっしもうしまする」
とかれもしばらく、
伊那丸の手をとって、あおむいていたが、きッと、あらたまっていった。
「さすがにいまだご
若年、ごむりではありますが、だいじなときです。お心をしかとあそばさねば、この
大望をはたすことはできません」
「そうであった、伊那丸は
女々しいやつのう……」
と
快川和尚が、
幼心へうちこんでおいた教えの力が、そのとき、かれの胸に
生々とよみがえった。にっこりと笑って、涙をふいた。
「わたくしの考えでは、
家康めは、あのするどい目で、若さまのようすから心のそこまで読みぬいてしまったとぞんじます。なかなか、この
龍太郎が考えた
策にのるような
愚将ではありませぬから、
必然、お身の上もあやういものと見なければなりません」
「わしもそう思った。それゆえに、よしや、いちじの
計略にせよ、家康などに頭をさげるのがいやであった。龍太郎、そちの教えどおりにしなかった、わしのわがままはゆるしてくれよ」
果然、ふたりはまえから、家康の身に近よる
秘策をいだいて、わざと、この城内へとらわれてきたのらしい。しかし、すでにそれを、家康が見破ってしまったからには、
鮫をうたんがため鮫の腹中にはいって、出られなくなったと、おなじ結果におちたものだ。
このうえは、家康がどうでるか、敵のでようによってこの
窮地から
活路をひらくか、あるいは、浜松城の鬼となるか、武運の分れめを、一
挙にきめるよりほかはない。
日がくれると、
膳所の
侍が、おびただしい料理や美酒をはこんできて、うやうやしくふたりにすすめた。
「わが君の
志でござります。おくつろぎあって、じゅうぶんに、おすごしくださるようにとのおことばです」
「
過分です。よしなに、お伝えください」
「それと、城内の
掟でござるが、ご所持のもの、ご
佩刀などは、おあずかりもうせとのことでござりますが」
「いや、それはことわります」と
龍太郎はきっぱり、
「若君のお刀は伝家の宝刀、ひとの手にふれさせていい
品ではありませぬ。また、
拙者の
杖は
護仏の
法杖、
笈のなかは
三尊の
弥陀です。ご
不審ならば、おあらためなさるがよいが、お渡しもうすことは、
誓ってあいなりません」
「では……」
と、その
威厳におどろいた家臣たちは、おずおずと笈のなかをあらためたが、そのなかには、龍太郎の言明したとおり、三体のほとけの
像があるばかりだった。そして、
杖のあやしい点には気づかずに、そこそこに、そこからさがってしまった。
「若君、けっして手をおふれなさるな、この分では、これもあやしい」
と、
膳部の
吸物椀をとって、なかの
汁を、部屋の白壁にパッとかけてみると、
墨のように、まっ黒に変化して染まった。
「毒だ! この魚にも、この飯にも、おそろしい毒薬がまぜてある。
伊那丸さま、
家康の心はこれではっきりわかりました。うわべはどこまでも
柔和にみせて、わたしたちを
毒害しようという
肚でした」
「ではここも?」
と伊那丸は立ちあがって、
塗籠の出口の戸をおしてみると、はたして
開かない。力いっぱい、おせど引けど開かなくなっている。
「若君――」
龍太郎はあんがいおちついて、なにか伊那丸の耳にささやいた。そして、夜のふけるのを待って、
足帯、
脇差など、しっかりと
身支度しはじめた。
やがて龍太郎は、
笈のなかから取りのけておいた一体の
仏像を、
部屋のすみへおいた。そして
燭台の
灯をその上へ横倒しにのせかける。
部屋の中は、いちじ、やや暗くなったが、仏像の木に油がしみて、ふたたびプスプスと、まえにもまして、明るい
焔を立ててきた。
龍太郎は、伊那丸の体をひしと抱きしめて、反対のすみによった。そして、できるだけ身をちぢめながら、じッとその火をみつめていた。プス……プス……
焔は赤くなり、むらさき色になりしてゆくうちに、パッと部屋のなかが真暗になったせつな、チリチリッと、こまかい火の
粉が、仏像からうつくしくほとばしりはじめた。
「若君、耳を耳を」と、いいながら龍太郎も、かたく眼をつぶった。
その時――
轟然たる
音響とともに、仏像のなかにしかけてあった火薬が爆発した。――浜松城の二の丸の白壁は、
雷火に
裂かれてくずれ落ちた。
ガラガラと、すさまじい
震動は、
本丸、三の丸までもゆるがした。すわ
変事と、
旗本や、役人たちは、
得物をとってきてみると、
外廓の白壁がおちたところから、いきおいよくふきだしている怪火! すでに、
矢倉へまでもえうつろうとしているありさまだ。
「火事ッ、火事ッ――」
降りかかる火の
粉をあびて、口々にうろたえた顔をあおむかせていると、ふたたび、どッと、突きくずしてきた白壁の口から、
紅蓮をついてあらわれた者がある。
無反りの
戒刀をふりかぶった
木隠龍太郎、つづいて、
武田伊那丸のすがた。
「
曲者ッ」
と下では、
騒然と
渦をまいた。その白刃の林をめがけて、
焔のなかから、ひらりと飛びおりた伊那丸と龍太郎――
ああ、その
危うさ。
小太刀をとっては、
伊那丸はふしぎな天才児である。
木隠龍太郎も戒刀の名人、しかも
隠形の術からえた身のかるさも、そなえている。
けれど、伊那丸も龍太郎も、けっして、
匹夫の
勇にはやる者ではない。どんな場合にも、うろたえないだけの修養はある。――だのに、なぜ、こんな
無謀をあえてしたろう? 白刃林立のなかへ、肉体をなげこめば、たちまち剣のさきに、メチャメチャに
刺されてしまうのは、あまりにも知れきった結果だのに。
しかし、ひとたび人間が、信念に身をかためてむかう時は、
刀刃も折れ、どんな
悪鬼も
羅刹も、かならず
退けうるという教えもある。ふたりがふりかぶった太刀は、まさに信念の一刀だ。とびおりた五尺の
体もまた、信念の
鎖帷子をきこんでいるのだった。
「わッ」
とさけんだ下の武士たちは、ふいにふたりが、頭上へ飛びおりてきたいきおいにひるんで、思わず、サッとそこを開いてしまった。
どんと、ふたりのからだが下へつくやいな、いちじに、乱刀の波がどッと斬りつけていったが、
「
退れッ」
と、龍太郎の手からふりだされた
戒刀の
切ッ
先に、乱れたつ足もと。それを目がけて
伊那丸の小太刀も、
飛箭のごとく突き進んだ。たちまち火花、たちまち
剣の音、斬りおられた
槍は
宙にとび、太刀さきに当ったものは、無残なうめきをあげて、たおれた。
「
退けッ! だめだ」
と城の
塀にせばめられて、人数の多い城兵は、かえって自由を
欠いた。武士たちは、ふたたび、見ぎたなく逃げ出した。
龍太郎と伊那丸は、血刀をふって、追いちらしたうえ、
昼間のうちに、見ておいた本丸をめがけて、かけこんでいった。
家康にちかづいて、
武田一門の思いを知らそうと思ったことは破れたが、せめて一太刀でも、かれにあびせかけなければ――浜松城の奥ふかくまではいってきたかいがない。めざすは本丸!
あいてはひとり!
と、ほかの
雑兵には目もくれないで、まっしぐらに、武者走り
(城壁の細道)をかけぬけた。
矢倉へむかった消火隊と、武器をとって
討手にむかった者が、あらかたである。――で、
家康のまわりには、わずか七、八人の
近侍がいるにすぎなかった。
「火はどうじゃ、手はまわったか」
寝所をでた家康は、そう問いながら、本丸の
四阿へ足をむけていた。すると、
闇のなかから、ばたばたとそこへかけよってきた黒い人影がある。
「や!」
と侍たちが、立ちふさがって、きッと見ると、物の具で身をかためたひとりの
武士が、大地へ両手をついた。
「お
上、
武田の
主従が、火薬をしかけたうえに
狼藉におよびました。ご身辺にまんいちがあっては、一大事です。はやくお
奥へお引きかえしをねがいまする」
「おう、
坂部十郎太か。たかが
稚児どうような
伊那丸と
六部の一人や二人が、
檻をやぶったとて、なにをさほどにうろたえることがある。それよりか、城の火こそ、はやく消さねばならぬ、
矢倉へむかえ!」
「はッ」と十郎太が、立ちかけると――
「家康ッ!」と、ふいに、耳もとをつんざいた声とともに、闇のうちからながれきたった一
閃の光。
「無礼ものッ!」
とさけびながら、よろりと、しりえに、身をながした家康の
袖を、さッと、白い
切ッ
先がかすってきた。
「何者だ!」
とその
太刀影を見て、ガバと、はねおきるより早く、斬りまぜていった
十郎太の陣刀。
「お
上、お上」
と
近侍のものは、そのすきに、
家康を
屏風がこいにして、本丸の奥へと引きかえしていった。
「無念ッ――」
長蛇を
逸した
伊那丸は、なおも、四、五
間ほど、追いかけてゆくのを、待てと、
坂部十郎太の陣刀が、そのうしろから
慕いよった。
と、伊那丸はなんにつまずいたか、ア――と
闇をおよいだ。ここぞと、十郎太がふりかぶった太刀に、あわれむごい血煙が、立つかと見えたせつな、魔鳥のごとく飛びかかってきた
龍太郎が、やッと、横ざまに
戒刀をもって、
薙ぎつけた。
「むッ……」と十郎太は、
苦鳴をあげて、たおれた。
「若君――」
と寄りそってきた龍太郎、
「またの
時節があります。もう、すこしも、ご
猶予は危険です。さ、この城から逃げださねばなりませぬ」
「でも……龍太郎、ここまできて、家康を討ちもらしたのはざんねんだ。わしは無念だ」
「ごもっともです。しかし、
伊那丸さまの大望は、ひろい天下にあるのではござりませぬか。
家康ひとりは小さな敵です。さ、早く」
とせき立てたかれは、むりにかれの手をとって、
築山から、城の
土塀によじのぼり、
狭間や、わずかな足がかりを力に、二
丈あまりの
石垣を、すべり落ちた。
途中に犬走りという中段がある。ふたりはそこまでおりて、ぴったりと石垣に腹をつけながら、しばらくあたりをうかがっていた。上では、城内の武士が声をからして、八ぽうへ
手配りをさけびつつ、
縄梯子を、石垣のそとへかけおろしてきた。
南無三――とあなたを見れば、火の手を見た城下の旗本たちが、
闇をついて、これまた城の大手へ刻々に殺到するけはいである。
「どうしたものだろう?」
さすがの
龍太郎も、ここまできて、はたと
当惑した。もう
濠までわずかに五、六尺だが、そのさきは、満々とたたえた
外濠、橋なくして、渡ることはとてもできない。ふつう、兵法で十五
間以上と定められてある
濠が、どっちへまわっても、陸と城との
境をへだてている。するといきなり上からヒューッと一団の火が尾をひいて、ふたりのそばに落ちてきた。闇夜の敵影をさぐる投げ
松明である。ヒューッ、ヒューッ、とつづけざまにおちてくる光――
「いたッ、犬走りだ」
と頭のうえで声がしたとたんに、光をたよりに、バラバラと、つるべうちに
射てきた矢のうなり、――鉄砲のひびき。
「しまった」と
龍太郎は
伊那丸の身をかばいながら、石垣にそった犬走りを先へさきへとにげのびた。しかし、どこまでいっても
陸へでるはずはない。ただむなしく、城のまわりをまわっているのだ。そのうちには、敵の
手配はいよいよきびしく固まるであろう。
矢と、鉄砲と、投げ
松明は、どこまでも、ふたりの影をおいかけてくる。そのうちに龍太郎は、「あッ」と立ちすくんでしまった。
ゆくての道はとぎれている。見れば目のまえはまっくらな
深淵で、ごうーッという水音が、
闇のそこに
渦まいているようす。ここぞ、城内の水をきって落としてくる水門であったのだ。
矢弾は、ともすると、
鬢の毛をかすってくる。前はうずまく
深淵、ふたりは、進退きわまった。
「ああ、無念――これまでか」と龍太郎は天をあおいで
嘆息した。
と、そのまえへ、ぬッと下から突きだしてきた
槍の
穂?
「何者?」
と思わず引っつかむと、これは、冷たい雫にぬれた
棹のさきだった。龍太郎がつかんだ力に引かれて、まっ黒な水門から
筏のような影がゆらゆらと流れよってきた。その上にたって、
棹を
手ぐってくるふしぎな男はたれ? 敵か味方か、ふたりは目をみはって、
闇をすかした。
「お乗りなさい、はやく、はやく」
筏のうえの男は、早口にいった。いまはなにを
問うすきもない。ふたりは、ヒラリと飛びうつった。
ザーッとはねあがった水玉をあびて、男は、力まかせに
石垣をつく。――筏は
外濠のなみを切って、意外にはやく
陸へすすむ。そして、すでに
濠のなかほどまできたとき、
「その方はそも何者だ。われわれをだれとおもって助けてくれたのか」
龍太郎が、ふしんな顔をしてきくと、それまで、黙々として、棹をあやつっていた男は、はじめて口を開いてこういった。
「
武田伊那丸さまと知ってのうえです。わたくしは、この城の
掃除番、
森子之吉という者ですが、根から
徳川家の家来ではないのです」
「おう、そういえば、どこやらに、
甲州なまりらしいところもあるようだ」
「何代もまえから、
甲府のご城下にすんでおりました。父は
森右兵衛といって、お
館の
足軽でした。ところが、運わるく、
長篠の合戦のおりに、父の
右兵衛がとらわれたので、わたくしも、心ならず徳川家に
降っていましたが、ささいなあやまちから、父は
斬罪になってしまったのです。わたくしにとっては、
怨みこそあれ、もう奉公する気のない浜松城をすてて、一日もはやく、
故郷の甲府にかえりたいと思っているまに、
武田家は、
織田徳川のためにほろぼされ、いるも敵地、かえるも敵地という
はめになってしまいました。ところへ、ゆうべ、
伊那丸さまがつかまってきたという城内のうわさです。びっくりして、お家の不運をなげいていました。けれど、
今宵のさわぎには、てっきりお逃げあそばすであろうと、水門のかげへ
筏をしのばして、お待ちもうしていたのです」
「ああ、天の助けだ。
子之吉ともうす者、心からお礼をいいます」
と、伊那丸は、この至誠な若者を、いやしい
足軽の子とさげすんではみられなかった。いくどか、頭をさげて
礼をくり返した。そのまに、
筏は
どんと岸についた。
「さ、おあがりなさいませ」と子之吉は、
葦の根をしっかり持って、筏を食いよせながらいった。
「かたじけない」と、ふたりが岸へ飛びあがると、
「あ、お待ちください」とあわててとめた。
「
子之吉、いつかはまたきっとめぐりあうであろう」
「いえ、それより、どっちへお逃げなさるにしても、この
濠端を、右にいってはいけません。お
城固めの
旗本屋敷が多いなかへはいったら
袋のねずみです。どこまでもここから、左へ左へとすすんで、
入野の
関をこえさえすれば、
浜名湖の岸へでられます」
「や、ではこの先にも
関所があるか」
「おあんじなさいますな、ここに
蓑と、わたくしの
鑑札があります。お姿をつつんで、これをお持ちになれば大じょうぶです」
子之吉は、下からそれを渡すと、岸をついて、ふたたび、
筏を
濠のなかほどへすすめていったが、にわかに、
どぶんとそこから水けむりが立った。
「ややッ」と、岸のふたりはおどろいて手をあげたが、もうなんともすることもできなかった。
子之吉は、筏をはなすと同時に、
脇差をぬいて、みごとにわが
喉笛をかッ切ったまま、
濠のなかへ身を沈めてしまったのである。後日に、
徳川家の手にたおれるよりは、故主の若君のまえで、報恩の一死をいさぎよくささげたほうが、
森子之吉の
本望であったのだ。
伊那丸と
龍太郎が
外濠をわたって、
脱出したのを、やがて知った浜松城の武士たちは、にわかに、
追手を組織して、
入野の
関へはしった。
ところが、すでに
二刻もまえに、
蓑をきた両名のものが、この
関へかかったが、
足軽鑑札を持っているので、夜中ではあったが、通したということなので、
討手のものは、地だんだをふんだ。そして、
長駆して、さらに次の
浜名湖の渡し場へさしていそいだ。
いっぽう、
伊那丸、
龍太郎のふたりは、しゅびよく、浜名湖のきしべまで落ちのびてきたが、一
難さってまた一難、ここまできながら、一
艘の船も見あたらないのでむなしくあっちこっちと、さまよっていた。
月はないが、空いちめんに
磨ぎだされ、かがやかしい星の光と、ゆるやかに波を
縒る水明りに、湖は、夜明けのようにほの明るかった。すると、ギイ、ギイ……とどこからか、この
静寂をやぶる
櫓の音がしてきた。
「お、ありゃなんの船であろう?」
と伊那丸が指したほうを見ると、いましも、
弁天島の岩かげをはなれた一艘の小船に、五、六人の武士が乗りこんで、こなたの岸へ
舵をむけてくる。
「いずれ
徳川家の
武士にちがいない。伊那丸さま、しばらくここへ」
と龍太郎はさしまねいて、ともにくさむらのなかへ身をしずめていると、まもなく船は岸について、
黒装束の者がバラバラと
陸へとびあがり、口々になにかざわめき立ってゆく。
「せっかく仕返しにまいったのに、かんじんなやつがいなかったのはざんねんしごくであった」
「いつかまた、きゃつのすがたを見かけしだいに、ぶッた斬ってやるさ。それに、すまいもつきとめてある」
「あの
小僧も、あとで家へかえって見たら、さだめしびっくりして泣きわめくにちがいない。それだけでも、まアまア、いちじの
溜飲がさがったというものだ」
ものかげに、人ありとも知らずにこう話しながら、浜松のほうへつれ立ってゆくのをやり過ごした
龍太郎と
伊那丸は、そこを、すばやく飛びだして、かれらが乗りすてた船へとびうつるが早いか、力のかぎり
櫓をこいだ。
「龍太郎、いったいいまのは、何者であろう」
舳に腰かけていた伊那丸が、ふといいだした。
「さて、この夜中に、
黒装束で
横行するやからは、いずれ、
盗賊のたぐいであったかもしれませぬ」
「いや、わしはあのなかに、ききおぼえのある声をきいた。盗賊の群れではないと思う」
「はて……?」龍太郎は小首をかしげている。
「そうじゃ、ゆうべ、
八幡前で、
鎧売りに斬りちらされた悪侍、あのときの者が二、三人はたしか今の群れにまじっていた」
「おお、そうおっしゃれば、いかにも
似通うていたやつもおりましたな」
と、龍太郎はいつもながら、伊那丸のかしこさに
舌をまいた。そのまに、船は
弁天島へこぎついた。
「若君――」と船をもやってふりかえる。
「浜松から遠くもない、こんな小島に
長居は危険です。わたくしの考えでは、夜のあけぬまえに、
渥美の海へこぎだして、
伊良湖崎から
志摩の国へわたるが一ばんご無事かとぞんじますが」
「どんな荒海、どんな
嶮岨をこえてもいい。ただ一ときもはやく、かねがねそちが話したおん方にお目にかかり、また
忍剣をたずね、その他の勇士を
狩りあつめて、この乱れた世を
泰平にしずめるほか、
伊那丸の望みはない」
「そのお心は、
龍太郎もおさっしいたしております。では、わたくしは弁天堂の
禰宜か、どこぞの
漁師をおこして
食べ物の用意をいたしてまいりまするから、しばらく船のなかでお待ちくださいまし」
と龍太郎は、ひとりで島へあがっていった。そしてあなたこなたを
物色してくると、白砂をしいた、まばらな松のなかにチラチラ
灯りのもれている一軒の家が目についた。
「漁師の家と見える、ひとつ、
訪れてみよう」
と龍太郎は、ツカツカと軒下へきて、開けっぱなしになっている雨戸の口からなかをのぞいてみると、うすぐらい
灯のそばに、ひとりの男が、
朱にそまった
老婆の
死骸を抱きしめたまま、よよと、男泣きに泣いているのであった。
龍太郎が、そこを立ちさろうとすると、なかの男は、
跫音を耳にとめたか、にわかに、はねおきて、
壁に立てかけてあった
得物をとるやいなや、ばらッと、雨戸のそとへかけおりた。
「待てッ、待て、待てッ!」
あまりその声のするどさに、龍太郎も、ギョッとしてふりかえった。すると――そのせつな、
真眉間へむかって、ぶんとうなってきたするどい光りものに――はッとおどろいて身をしずめながら、片手にそれをまきこんで
袖の下へだきしめてしまった。見ればそれは
朱柄の
槍であった。
「こりゃ、なんだって、
拙者の不意をつくか」
「えい、
吐かすな、おれのお
母をころしたのは、おまえだろう。天にも地にも、たったひとりのお
母さまのかたきだ。どうするかおぼえていろ!」
「勘ちがいするな、さようなおぼえはないぞ」
「だまれ、だまれッ、めったに人のこないこの島に、なんの用があって、うろついていた。今しがた、
宿から帰ってみれば、お
母さまはズタ斬り、家のなかは乱暴
狼藉、あやしいやつは、
汝よりほかにないわッ」
目に、いっぱい
溜め
涙をひからせている。
憤怒のまなじりをつりあげて、
いッかなきかないのだ。この若者は浜松の町で、
稀代な
槍法をみせた
鎧売りの男で――いまは、この島に落ちぶれているが、もとは武家生まれの、
巽小文治という者であった。
「うろたえ
言をもうすな、だれが、恨みもないきさまの老母などを、殺すものか」
「いや、なんといおうが、おれの目にかかったからにはのがすものか」
「うぬ! 血まよって、
後悔いたすなよ」
「なにを、この
朱柄の
槍でただひと突き、おふくろさまへの
手向けにしてくれる。
覚悟をしろ」
「えい! 聞きわけのないやつだ」
と、
龍太郎もむッとして、
槍のケラ首が折れるばかりにひッたくると、
小文治も、
金剛力をしぼって、ひきもどそうとした。
「やッ――」とその機をねらった龍太郎が、ふいに
穂先をつッ放すと、力負けした小文治は、
槍をつかんだままタタタタタと、一、二
間もうしろへよろけていった。――そこを、
「おお――ッ」ととびかかった龍太郎の抜き討ちこそ、
木隠流のとくいとする、
戒刀のはやわざであった。
いつか、
裾野の
文殊閣でおちあった
加賀見忍剣も、この
戒刀のはげしさには
膏汗をしぼられたものだった。ましてや、
若年な
巽小文治は、必然、まッ二つか、
袈裟がけか? どっちにしても、助かりうべき命ではない。
と見えたが――意外である!
龍太郎の刀は、サッと
空を斬って、そのとたんに
槍の石突きがトンと大地をついたかと思うと、
小文治の体は、五、六尺もたかく
宙におどって、龍太郎の頭の上を、とびこえてしまった。
この
手練――かれはただ平凡な
槍使いではなかった。
龍太郎は、とっさに、
眸を抜かれたような気持がした。すぐ
踏みとまって、
太刀を持ちなおすと、すでにかまえなおした小文治は槍を中段ににぎって、龍太郎の
鳩尾へピタリと
穂先をむけてきた。
かつて一ども、いまのようにあざやかに、敵にかわされたためしのない龍太郎は、このかまえを見るにおよんで、いよいよ
要心に要心をくわえながら、
下段の
戒刀をきわめてしぜんに、頭のうえへ持っていった。
玄妙きわまる槍と、
精妙無比な太刀はここにたがいの呼吸をはかり、たがいに、
兎の
毛のすきをねらい合って一瞬一瞬、にじりよった。
天
一陣! ものすごい殺気が、みるまにふたりのあいだにみなぎってきた。ああ
龍虎たおれるものはいずれであろうか。
船べりに
頬杖ついて、龍太郎を待っていた
伊那丸は、
宵からのつかれにさそわれて、いつか、銀河の空の下でうっとりと眠りの国へさまよっていた。――松かぜの
奏でや、
舷をうつ波の
鼓を、子守唄のように聞いて。
――すると。
内浦鼻のあたりから、かなり大きな黒船のかげが
瑠璃の
湖をすべって、いっさんにこっちへむかってくるのが見えだした。だんだんと近づいてきたその船を見ると
徳川家の用船でもなく、また
漁船のようでもない。
舳のぐあいや、
帆柱のさまなどは、この近海に見なれない
長崎型の怪船であった。
ふかしぎな船は、いつか
弁天島のうらで
船脚をとめた。そして、親船をはなれた一
艘の
軽舸が、矢よりも早くあやつられて
伊那丸の夢をうつつに乗せている小船のそばまで近づいてきた。
ポーンと
鈎縄を投げられたのを伊那丸はまったく夢にも知らずにいる。――それからも、船のすべりだしたのすら気づかずにいたが、フト
胸ぐるしい重みを感じて目をさました時には、すでに四、五人のあらくれ男がよりたかって、おのれの体に、
荒縄をまきしめていたのだった。
「あッ、
龍太郎――ッ」
かれは、おもわず
絶叫した。だがその口も、たちまち
綿のようなものをつめられてしまったので、声も立てられない。ただ身をもがいて、
伏しまろんだ。
水なれた怪船の男どもは、毒魚のごとく、
胴の
間や軽舸の上におどり立って、なにかてんでに口ぜわしくさけびあっている。
「それッ、
北岸へ役人の
松明が見えだしたぞ」
「はやく
軽舸をあげてしまえッ」
「
帆綱に
集れーッ、帆綱をまけ――」
キリキリッ、キリキリッと
帆車のきしむおとが高鳴ると同時に、軽舸の底にもがいていた
伊那丸のからだは、
「あッ」というまに
鈎綱にひっかけられて、ゆらゆらと波の上へつるしあげられた。
龍太郎はどうした? この伊那丸の身にふってわいた大変事を、まだ気づかずにいるのかしら? それとも、
巽小文治の
稀代な
槍先にかかってあえなく討たれてしまったのか……?
西北へまわった風を
帆にうけて、あやしの船は、すでにすでに、入江を切って、白い波をかみながら、
外海へでてゆくではないか。
うわべは
歌詠みの法師か、きらくな雲水と見せかけてこころはゆだんもすきもなく、
武田伊那丸のあとをたずねて、きょうは東、あすは南と、
血眼の旅をつづけている
加賀見忍剣。
裾野の
闇に乗じられて、
まんまと、
六部の
龍太郎のために、大せつな主君を、うばいさられた、かれの
無念さは思いやられる。
したが、
不屈なかれ忍剣は、たとえ、
胆をなめ、身を
粉にくだくまでも、ふたたび
伊那丸をさがしださずに、やむべきか――と果てなき旅をつづけていた。
おりから、天下は
大動乱、
鄙も都も、その
渦にまきこまれていた。
この年六月二日に、
右大臣織田信長は、
反逆者光秀のために、本能寺であえなき
最期をとげた。
盟主をうしなった天下の群雄は、ひとしくうろたえまよった。なかにひとり、山崎の
弔い合戦に、武名をあげたものは
秀吉であったが、北国の
柴田、その
他、
北条徳川なども、おのおのこの機をねらって、おのれこそ天下をとらんものと、野心の
関をかため、
虎狼の
鏃をといで、人の心も、世のさまも、にわかに
険しくなってきた。
そうした世間であっただけに、忍剣の旅は、なみたいていなものではない。しかも、
酬いられてきたものは、けっきょく失望――
二月あまりの旅はむなしかった。
「伊那丸さまはどこにおわすか。せめて……アア
夢にでもいいから、いどころを知りたい……」
足をやすめるたびに
嘆息した。
その一念で、ふと忍剣のあたまに、あることがひらめいた。
「そうだ! クロはまだ生きているはずだ」
かれはその日から、急に道をかえて、思い出おおき、
甲斐の国へむかって、いっさんにとってかえした。
忍剣が気のついたクロとは、そもなにものかわからないが、かれのすがたは、まもなく、変りはてた
恵林寺の
焼け
跡へあらわれた。
忍剣は
数珠をだして、しばらくそこに
合掌していた。すると、番小屋のなかから、とびだしてきた
侍がふたり、うむをいわさず、かれの両腕をねじあげた。
「こらッ、そのほうはここで、なにをいたしておった」
「はい、
国師さまはじめ、あえなくお
亡くなりはてた、一
山の
霊をとむろうていたのでござります」
「ならぬ。
甲斐一
帯も、いまでは
徳川家のご領分だぞ。それをあずかる者は、ご家臣の
大須賀康隆さまじゃ。みだりにここらをうろついていることはならぬ、とッととたちされ、かえれ!」
「どうぞしばらく。……ほかに用もあるのですから」
「あやしいことをもうすやつ。この焼けあとに何用がある?」
「じつは当寺の裏山、
扇山の奥に、わたしの
幼なじみがおります。久しぶりで、その友だちに会いたいとおもいまして、はるばる
尋ねてまいったのです」
「ばかをいえ、さような者はここらにいない」
「たしかに生きているはずです。それは、友だちともうしても、ただの人ではありません。クロともうす
大鷲、それをひと目見たいのでございます」
「だまれ。あの黒鷲は、当山を攻めおとした時の
生捕りもの、大せつに
餌をやって、ちかく浜松城へ
献上いたすことになっているのだ、
汝らの見せ物ではない。帰れというに帰りおらぬか」
ひとりが
腕、ひとりが
襟がみをつかんで、ずるずるとひきもどしかけると、
忍剣の
眉がピリッとあがった。
「これほど、ことをわけてもうすのに、なおじゃまだてするとゆるさんぞ!」
「なにを」
ひとりが
腰縄をさぐるすきに、ふいに、忍剣の片足が
どんと彼の
脾腹をけとばした。アッと、うしろへたおれて、
悶絶したのを見た、べつな
侍は、
「おのれッ」と太刀の
柄へ手をかけて、抜きかけた。
――それより早く、
「やッ」と、まッこうから、おがみうちに、うなりおちてきた忍剣の
鉄杖に、なにかはたまろう。あいては、
かッと血へどをはいてたおれた。
それに見むきもせず、鉄杖をこわきにかかえた忍剣はいっさんに、うら山の
奥へおくへとよじのぼってゆく。――と、昼なおくらい木立のあいだから、いような、
魔鳥の
羽ばたきがつめたい
雫をゆりおとして聞えた。
らんらんと光る二つの眼は、みがきぬいた
琥珀のようだ。その底にすむ
金色の
瞳、かしらの
逆羽、見るからに
猛々しい真黒な
大鷲が、足の
鎖を、ガチャリガチャリ鳴らしながら、
扇山の
石柱の上にたって、ものすごい
絶叫をあげていた。
そのくろい
翼を、左右にひろげるときは、一
丈あまりの
巨身となり、銀の
爪をさか立てて、まっ赤な口をあくときは、空とぶ小鳥もすくみ落ちるほどな
威がある。
「おおいた! クロよ、無事でいたか」
おそれげもなく、そばへかけよってきた
忍剣の手になでられると、
鷲は、かれの肩に
嘴をすりつけて、あたかも、なつかしい
旧友にでも会ったかのような表情をして、
柔和であった。
「おなじ
鳥類のなかでも、おまえは
霊鷲である。さすがにわしの顔を見おぼえているようす……それならきっとこの使命をはたしてくれるであろう」
忍剣は、かねてしたためておいた一
片の
文字を、
油紙にくるんでこよりとなし、クロの片足へ、いくえにもギリギリむすびつけた。
この
鷲にもいろいろな運命があった。
天文十五年のころ、
武田信玄の軍勢が、
上杉憲政を攻めて
上野乱入にかかったとき、
碓氷峠の陣中でとらえたのがこの
鷲であった。
碓氷の合戦は
甲軍の大勝となって、敵将の
憲政の首まであげたので、
以来、
信玄はその
鷲を
館にもちかえり、愛育していた。
信玄の死んだあとは、
勝頼の手から、
供養のためと
恵林寺に
寄進してあったのである。ところがある時、
檻をやぶって、民家の五歳になる子を、
宙天へくわえあげたことなどがあったので、扇山の中腹に石柱をたて、太い
鎖で、その足をいましめてしまった。
幼少から、恵林寺にきていた
伊那丸は、いつか
忍剣とともに、この
鷲に
餌をやったり、クロよクロよと、
愛撫するようになっていた。
獰猛な
鷲も、伊那丸や忍剣の手には、
猫のようであった。そして、恵林寺が
大紅蓮につつまれ、一
山のこらず
最期をとげたなかで、
鷲だけは、この山奥につながれていたために、おそろしい
焔からまぬがれたのだ。
「クロ、いまこそわしが、おまえの
鎖をきってやるぞ、そしてその
翼で、大空を自由にかけまわれ、ただ、おまえをながいあいだかわいがってくだすった、伊那丸さまのお姿を地上に見たらおりてゆけよ」
そういいながら、鎖に手をかけたが、
鷲の足にはめられた
鉄の
環も、またふとい鎖も
断れればこそ。
「めんどうだ――」と、忍剣は
鉄杖をふりかぶって、石柱の角にあたる鎖を
はッしと打った。
そのとき、ふもとのほうから、ワーッという、ただならぬ
鬨の
声がおこった。
鎖はまだきれていないが、
忍剣はその声に、
小手をかざして見た。
はやくも、木立のかげから、バラバラと先頭の武士がかけつけてきた。いうまでもなく、
大須賀康隆の部下である。扇山へあやしの者がいりこんだと聞いて、
捕手をひきいてきたものだった。
「
売僧、その
霊鳥をなんとする」
「いらざること。この
鷲こそ、
勝頼公のみ
代から当山に
寄進されてあるものだ! どうしようとこなたのかってだ」
「うぬ! さては
武田の
残党とはきまった」
「おどろいたかッ」と、いきなりブーンとふりとばした
鉄杖にあたって、二、三人ははねとばされた。
「それ! とりにがすな」
ふもとのほうから、
追々とかけあつまってきた人数を
合して、かれこれ三、四十人、
槍や
太刀を押ッとって、忍剣の
虚をつき、すきをねらって斬ってかかる。
「飛び道具をもった者は、
梢のうえからぶッぱなせ」
足場がせまいので、捕手の
頭がこうさけぶと、弓、
鉄砲をひッかかえた十二、三人のものは、
猿のごとく、ちかくの
杉や
欅の梢にのぼって、手早く矢をつがえ、
火縄をふいてねらいつける。
下では
忍剣、近よる者を、かたッぱしからたたきふせて、怪力のかぎりをふるったが、空からくる飛び道具をふせぐべき
術もあろうはずはない。
はやくも飛んできた一の矢! また、二の矢。
夜叉のごとく荒れまわった忍剣は、
突として、いっぽうの
捕手をかけくずし、そのわずかなすきに、ふたたび
鷲の
鎖をねらって、一念力、
戛然とうった。
きれた! ギャーッという
絶鳴をあげた
鷲は、猛然と
翼を一はたきさせて、地上をはなれたかと見るまに、一陣の山嵐をおこした翼のあおりをくって、
大樹の
梢の上からバラバラとふりおとされた弓組、鉄砲組。
「ア、ア、ア!」とばかり、
捕手の
軍卒がおどろきさわぐうちに、一ど、
雲井へたかく舞いあがった
魔鳥は、ふたたびすさまじい
天
をまいて
翔けおりるや、するどい
爪をさかだてて、
旋廻する。
ふるえ立った捕手どもは、木の根、
岩角にかじりついて、ただアレヨアレヨと
胆を消しているうちに、いつか忍剣のすがたを見うしない、同時に、偉大なる
黒鷲のかげも、天空はるかに飛びさってしまった。
はなしはふたたびあとへかえって、ここは波明るき
弁天島の
薄月夜――
いっぽうは
太刀の名人、いっぽうは
錬磨の
槍、いずれ
劣らぬ
切ッ
先に秘術の
妙をすまして突きあわせたまま、松風わたる白砂の上に立ちすくみとなっているのは、
白衣の
木隠龍太郎と
朱柄の持ち主、
巽小文治。
腕が
互角なのか、いずれに
隙もないためか、そうほううごかず、
彫りつけたごとくにらみあっているうちに、魔か、雲か、月をかすめて
疾風とともに、天空から、そこへ
翔けおりてきたすさまじいものがある。
バタバタという
羽ばたきに、ふたりは、はッと耳をうたれた。弁天島の砂をまきあげて、ぱッと、地をすってかなたへ飛びさった時、不意をおそわれたふたりは、思わず眼をおさえて、左右にとびわかれた。
「あッ――」とおどろきの
叫びをもらしたのは、龍太郎のほうであった。それは、もうはるかに飛びさった、
鷲の
巨きなのにおどろいたのではない。
いま、
鏡のような入江をすべって浜名湖から
外海へとでてゆく、あやしい船の影――それをチラと見たせつなに、龍太郎のむねを不安にさわがしたのは、小船にのこした
伊那丸の身の上だった。
「もしや?」とおもえば、一
刻の
猶予もしてはおられない。やにわに、
小文治という眼さきの敵をすてて、なぎさのほうへかけだした。
「
卑怯もの!」
追いすがった
小文治が、さッと、くりこんでいった
槍の
穂先、ヒラリ、すばやくかわして、
千段をつかみとめた
龍太郎は、はッたとふりかえって、
「
卑怯ではない。わが身ならぬ、大せつなるおかたの一大事なのだ、勝負はあとで決してやるから、しばらく待て」
「いいのがれはよせ。その手は食わぬ」
「だれがうそを。アレ見よ、こうしているまにも、あやしい船が遠のいてゆく、まんいちのことあっては、わが身に代えられぬおんかた、そのお身のうえが気づかわしい、しばらく待て、しばらく待て」
「オオあの船こそ、めったに正体を見せぬ
八幡船だ。して、小船にのこしたというのはだれだ。そのしだいによっては、待ってもくれよう」
「いまはなにをつつもう、
武田家の
御曹子、
伊那丸さまにわたらせられる」
しばらく、じッと相手をみつめていた
小文治は、にわかに、槍を投げすててひざまずいてしまった。
「さては
伊那丸君のお
傅人でしたか。
今宵、町へわたったとき、さわがしいおうわさは聞いていましたが、よもやあなたがたとは知らず、さきほどからのしつれい、いくえにもごかんべんをねがいまする」
「いや、ことさえわかればいいわけはない、
拙者はこうしてはおられぬ場合だ。さらば――」
ほとんど一
足跳びに、もとのところへひッ返してきた
龍太郎が、と見れば、小船は
舫綱をとかれて、湖水のあなたにただようているばかりで、
伊那丸のすがたは見えない。
「チェッ、ざんねん。あの
八幡船のしわざにそういない。おのれどうするか、覚えていろ」
と地
だんだ踏んでにらみつけたが、へだては海――それもはや
模糊として、
遠州灘へ
浪がくれてゆくものを、いかに、龍太郎でも、飛んでゆく
秘術はない。
ところへ、案じてかけてきたのは、
小文治だった。
「若君のお身は?」
「しまッたことになった。船はないか、船は」
「あの八幡船のあとを追うなら、とてもむだです」
「たとえ遠州灘のもくずとなってもよい! 追えるところまでゆく
覚悟だ。たのむ、早くだしてくれ」
「小船は一
艘ありますが、八幡船のゆく先ばかりは、いままで
領主のご用船が、死に身になって取りまいても、
霧のように消えて、つきとめることができないほどでござります」
「ええ、なんとしたことだ――」
と、思わずどッかり腰をおとしてしまった
龍太郎は、われながらあまりの不覚に、
唇をかみしめた。
小文治は、それを見ると、不用意なじぶんの行動が後悔されてきた。母をうしなった悲しさに、いちずに龍太郎を
下手人とあやまったがため、このことが起ったのだ。さすれば、とうぜん、じぶんにも
罪はある。
かれは、いくたびかそれをわびた。そして、あらためて
素性を名のり、永年よき
主をさがしていたおりであるゆえ、ぜひとも、力をあわせて
伊那丸さまを取りかえし、ともども天下につくしたいと、
真心こめて龍太郎にたのんだ。
龍太郎も、よい味方を得たとよろこんだ。しかし、さてこれから
八幡船の
根城をさがそうとなると、それはほとんど雲にかくれた
時鳥をもとめるようなものだった。――むろん
小文治にも、いい
智恵は浮かばなかった。
「こうなってはしかたがない」
龍太郎はやがてこまぬいていた腕から顔をあげた。
「お
叱りをうけるかもしれぬが、一たび先生のところへ立ち帰って、この後の方針をきめるとしよう。それよりほかに思案はない」
「して、その先生とおっしゃるおかたは」
「京の西、
鞍馬の
奥にすんではいるが、ある時は、都にもいで、またある時は北国の山、南海のはてにまで姿を見せるという、
稀代なご老体で、
拙者の
刀術、
隠形の法なども、みなその老人からさずけられたものです」
鞍馬ときくさえ、すぐ、
天狗というような怪奇が
聯想されるところへ、この話をきいた
小文治は、もっと深くその老人が知りたくなった。
「
龍太郎どのの先生とおっしゃる――そのおかたの名はなんともうされますか」
「まことの
姓はあかしませぬ。ただみずから、
果心居士と
異号をつけております。じつはこのたびのことも、まったくその先生のおさしずで、
織田徳川が
甲府攻めをもよおすと同時に、
拙者は、
六部に身を変じて、
伊那丸さまをお救いにむかったのです。それがこの
不首尾となっては、先生にあわせる顔もないしだいだが、天下のこと
居ながらにして知る先生、またきっと好いおさしずがあろうと思う」
「では、どうかわたしもともに、お
供をねがいまする」
「
異存はないが、さきをいそぐ、おしたくを早く」
小文治は、家に取ってかえすと、しばらくあって、
粗服ながら、たしなみのある
旅支度に、大小を差し、例の
朱柄の
槍をかついで、ふたたびでてきた。
「お待たせいたしました。小船は、わたしの家のうしろへ着けておきましたから……」
という言葉に、龍太郎がそのほうへすすんで行くと、小船の上には、ひとつの
棺がのせてある。
武士にかえった
門出に、
小文治は、母の
亡骸をしずかな
湖の底へ
水葬にするつもりと見える。
と、あやしい
羽音が、またも空に鳴った。はッとしてふたりが船からふりあおぐと、大きな
輪をえがいていた
怪鳥のかげが、
潮けむる
遠州灘のあなたへ、一しゅんのまに、かけりさった。
みんな空をむいて、同じように、
眉毛の上へ片手をかざしている。
烏帽子の老人、
市女笠の女、
侍、百姓、町人――
雑多な人がたかって、なにか
評議の
最中である。
「さて、ふしぎなやつじゃのう」
「
仙人でしょうか」
「いや、
天狗にちがいない」
「だって、この
真昼なかに」
「おや、よく見ると本を読んでいますよ」
「いよいよ
魔物ときまった」
この人々は、そも、なにを見ているのだろう。
ここは
近江の国、
比叡山のふもと、
坂本で、
日吉の森からそびえ立った
五重塔のてッぺん――そこにみんなの
瞳があつまっているのだった。
なるほどふしぎ、人だかりのするのもむりではない。太陽のまぶしさにさえぎられて、しかとは見えないが、
鶴のごとき老人が、
五重塔のてッぺんにたしかにいるようだ。しかも目のいい者のことばでは、あの高い、
登りようもない上でのんきに書物を見ているという。
「なに、
魔物だと? どけどけ、どいてみろ」
「や、
今為朝がきた」
群集はすぐまわりをひらいた。
今為朝といわれたのはどんな人物かと見ると、
丈たかく、色浅ぐろい二十四、五
歳の
武士である。黒い
紋服の
片肌をぬぎ、手には、
日輪巻の
強弓と、一本の矢をさかしまに
握っていた。
「む、いかにも見えるな……」
と、五重塔のいただきをながめた武士は、ガッキリ、その矢をつがえはじめた。
「や、あれを
射ておしまいなさいますか」
あたりの者は
興にそそられて、どよみ立った。
「この
霊地へきて、奇怪なまねをするにっくいやつ、ことによったら、
南蛮寺にいるキリシタンのともがらかもしれぬ。いずれにせよ、ぶッぱなして
諸人への見せしめとしてくれる」
弓の持ちかた、
矢番も、なにさまおぼえのあるらしい態度だ。それもそのはず、この武士こそ、
坂本の町に
弓術の道場をひらいて、都にまで名のきこえている
代々木流の
遠矢の
達人、
山県蔦之助という者であるが、町の人は名をよばずに、
今為朝とあだなしていた。
「あの矢先に立ってはたまるまい……」
人々がかたずをのんでみつめるまに、
矢筈を
弦にかけた蔦之助は、
陽にきらめく
鏃を、
虚空にむけて、ギリギリと満月にしぼりだした。
塔のいただきにいる者のすがたは、
下界のさわぎを、どこふく風かというようすで、すましこんでいるらしい。
「
日吉の森へいってごらんなさい。今為朝が、
五重塔の上にでた老人の
魔物を
射にゆきましたぜ」
坂本の町の
葭簀茶屋でも、こんなうわさがぱッとたった。
床几にかけて、茶をすすっていた
木隠龍太郎は、それを聞くと、道づれの
小文治をかえりみながら、にわかにツイと立ちあがった。
「ひょっとすると、その老人こそ、先生かもしれない。このへんでお目にかかることができればなによりだ、とにかく、いそいでまいってみよう」
「え?」
小文治はふしんな顔をしたが、もう
龍太郎がいっさんにかけだしたので、あわててあとからつづいてゆくと、うわさにたがわぬ人
群れだ。
両足をふんまえて、
狙いさだめた
蔦之助は、いまや、プツンとばかり手もとを切ってはなした。
「あ――」と群集は声をのんだ、矢のゆくえにひとみをこらした。と見れば、風をきってとんでいった白羽の矢は、まさしく
五重塔の、あやしき老人を
射抜いたとおもったのに、ぱッと、そこから飛びたったのは、一羽の
白鷺、ヒラヒラと、青空にまいあがったが、やがて、
日吉の森へ
影をかくした。
「なアんだ」と多くのものは、口をあいたまま、ぼうぜんとして、まえの老人がまぼろしか、いまの白鷺がまぼろしかと、おのれの目をうたぐって、
睫毛をこすっているばかりだ。
そこへ、
一足おくれてきた龍太郎と小文治はもう人の散ってゆくのに失望して、そのまま、
叡山の道をグングン登っていった。
ふたりはこれから、
比叡山をこえ、
八瀬から
鞍馬をさして、
峰づたいにいそぐのらしい。いうまでもなく
果心居士のすまいをたずねるためだ。
音にきく
源平時代のむかし、
天狗の
棲家といわれたほどの鞍馬の山路は、まったく話にきいた以上のけわしさ。おまけにふたりがそこへさしかかってきた時は、ちょうど、とっぷり日も暮れてしまった。
ふもとでもらった、
蛍火ほどの
火縄をゆいつのたよりにふって、うわばみの歯のような、岩壁をつたい、
百足腹、鬼すべりなどという
嶮路をよじ登ってくる。
おりから
初秋とはいえ、山の寒さはまたかくべつ、それにいちめん
朦朧として、ふかい
霧が山をつつんでいるので、いつか火縄もしめって、消えてしまった。
「
小文治どの、お気をつけなされよ、よろしいか」
「大じょうぶ、ごしんぱいはいりません」
とはいったが、小文治も、海ならどんな荒浪にも恐れぬが、山にはなれないので、れいの
朱柄の
槍を
杖にして足をひきずりひきずりついていった。
千段曲りという坂道をやっとおりると、白い霧がムクムクわきあがっている底に、ゴオーッというすごい水音がする。
渓流である。
「橋がないから、その
槍をおかしなさい。こうして、おたがいに槍の両端を握りあってゆけば、流されることはありません」
龍太郎は山なれているので、先にかるがると、岩石へとびうつった。すると、小文治のうしろにあたる
断崖から、ドドドドッとまっ黒なものが、むらがっておりてきた。
「や?」と小文治は身がまえて見ると、およそ五、六十ぴきの
山猿の大群である。そのなかに、十
歳ぐらいな少年がただひとり、
鹿の背にのって笑っている。
「おお、そこへきたのは、
竹童ではないか」
岩の上から龍太郎が声をかけると、鹿の背からおりた少年も、なれなれしくいった。
「
龍太郎さま、ただいまお帰りでございましたか」
「む、して先生はおいでであろうな」
「このあいだから、お客さまがご
滞留なので、このごろは、ずっと
荘園においでなさいます」
「そうか。じつは
拙者の道づれも、足をいためたごようすだ。おまえの
鹿をかしてあげてくれないか」
「アアこのおかたですか、おやすいことです」
竹童は
口笛を鳴らしながら、鹿をおきずてにして、
岩燕のごとく、
渓流をとびこえてゆくと、
猿の大群も、口笛について、ワラワラとふかい霧の中へかげを消してしまった。
鹿の背をかりて、しばらくたどってくると、
小文治は
馥郁たる
香りに、
仙境へでもきたような心地がした。
「やっと
僧正谷へまいりましたぞ」
と龍太郎が指さすところを見ると、そこは
山芝の平地で、
甘いにおいをただよわせている
果樹園には、なにかの
実が
熟れ、大きな
芭蕉のかげには、竹を柱にしたゆかしい一軒の家が見えて、ほんのりと、
灯りがもれている。
門からのぞくと、
庵室のなかには、
白髪童顔の
翁が、果物で酒を
酌みながら、
総髪にゆったりっぱな
武士とむかいあって、なにかしきりに笑い
興じている。
「
龍太郎、ただいま帰りました」
とかれが両手をついたうしろに、
小文治もひかえた。
「なんじゃ? おめおめと帰ってきおったと」
翁――それは別人ならぬ
果心居士だ。龍太郎の顔を見ると、
ふいと、かたわらの
藜の
杖をにぎりとって、立ちあがるが早いか、
「ばかもの」ピシリと龍太郎の肩をうった。
果心居士は、なにも聞かないうちに、すべてのことを知っていた。
八幡船に
伊那丸をうばわれたことも、
巽小文治の身の上も。――そして、きょうのひる、
日吉の
五重塔のてッぺんにいたのもじぶんであるといった。
かれは、
仙人か、
幻術師か、キリシタンの魔法を使う者か? はじめて会った小文治は、いつまでも、奇怪な
謎をとくことに苦しんだ。
しかし、だんだんと
膝をまじえて話しているうちに、ようやくそれがわかってきた、かれは
仙人でもなければ、けっして
幻術使でもない。ただおそろしい修養の力である。みな、
自得の
研鑽から
通力した
人間技であることが
納得できた。
浮体の法、
飛足の
呼吸、
遠知の
術、
木遁その他の
隠形など、みなかれが何十年となく、深山にくらしていたたまもので、それはだれでも
劫をつめば、できないふしぎや魔力ではない。
ところで、
果心居士がなにゆえに、
武田伊那丸を
龍太郎にもとめさせたか、それはのちの説明にゆずって、さしあたり、はてなき海へうばわれたおんかたを、どうしてさがしだすかの相談になった。
「
竹童、竹童――」
居士は例の少年をよんで、小さな
錦のふくろを持ってこさせた。そのなかから、机の上へカラカラと開けたのは
亀の
甲羅でつくった、いくつもいくつもの
駒であった。
かれの精神がすみきらないで、遠知の術のできないときは、この
亀卜という
占いをたてて見るのが常であった。
「む……」ひとりで占いをこころみて、ひとりうなずいた果心居士は、やがて、客人のほうへむいて、
「
民部どの、こんどはあなたがいったがよろしい」といった。龍太郎はびっくりして、それへ進んだ。
「しばらく、先生のおおせながら、
余人にその
儀をおいいつけになられては、手まえのたつ
瀬も、
面目もござりませぬ。どうか、まえの不覚をそそぐため、
拙者におおせつけねがいとうぞんじます」
「いや龍太郎、おまえには、さらに第二段の、大せつなる役目がある。まずこれをとくと見たがよい」
と、
革の箱から取りだして、それへひろげたのは、いちめんの
山絵図であった。
「これは?」と
龍太郎は
腑におちない顔である。
「ここにおられる、
小幡民部どのが、苦心してうつされたもの。すなわち、自然の山を
城廓として、七陣の兵法をしいてあるものじゃ」
「あ! ではそこにおいでになるのは、
甲州流の軍学家、
小幡景憲どののご子息ですか」
「いかにも、すでにまえから、ご浪人なされていたが、
武田のお家のほろびたのを、よそに見るにしのびず、
伊那丸さまをたずねだしてふたたび
旗あげなさろうという
大願望じゃ、おなじ
志のものどもがめぐりおうたのも天のおひきあわせ、したが、伊那丸さまのありかが知れても、よるべき
天嶮がなくてはならぬ。そこで、まずひそかに、二、三の者がさきにまいって地理の
準備、またおおくの勇士をも
狩りもよおしておき、おんかたの知れしだいに、いつなりと、旗あげのできるようにいたしておくのじゃ」
「は、承知いたしました。して、この
図面にあります場所は?」
という龍太郎の問いに応じてこんどは、小幡民部が
膝をすすめた。
「
武田家に
縁のふかき、
甲、
信、
駿の三ヵ国にまたがっている
小太郎山です。また……」
と、
軍扇の
要をもって、民部は
掌を指すように、ここは何山、ここは何の陣法と、こまかに、
噛みくだいて説明した。
肝胆あい照らした、龍太郎、
小文治、民部の三人は、夜のふけるをわすれて、旗上げの密議をこらした。
果心居士は、それ以上は
一言も口をさし入れない。かれの
任務は、ただここまでの、気運だけを作るにあるもののようであった。
翌日は早天に、みな打ちそろって
僧正谷を
出立した。龍太郎と小文治は、例のすがたのまま、旗あげの
小太郎山へ。
また、
小幡民部ひとりは、
深編笠をいただき、片手に
鉄扇、
野袴といういでたちで、京都から大阪
もよりへと
伊那丸のゆくえをたずねもとめていく。
その方角は、果心居士の
亀卜がしめしたところであるが、この
占いがあたるか
否か。またあるいは音にひびいた軍学者小幡が、はたしてどんな
奇策を胸に
秘めているか、それは
余人がうかがうことも、はかり知ることもできない。
板子一枚下は
地獄。――船の底はまッ暗だ。
空も見えなければ、海の色も見えない。ただときおりドドーン、ドドドドドーン! と
胴の
間にぶつかってはくだける
怒濤が、百千の
鼓を一時にならすか、
雷のとどろきかとも思えて、人の
魂をおびやかす。
その船ぞこに、生ける
屍のように、うつぶしているのは、
武田伊那丸のいたましい姿だった。
八幡船が
遠州灘へかかった時から、伊那丸の
意識はなかった。この
海賊船が、どこへ向かっていくかも、おのれにどんな危害が
迫りつつあるのかも、かれはすべてを知らずにいる。
「や、すっかりまいっていやがる」
さしもはげしかった、船の動揺もやんだと思うと、やがて、入口をポンとはねて、飛びおりてきた手下どもが伊那丸のからだを上へにないあげ、すぐ
船暈ざましの手当にとりかかった。
「やい、その
童の
脇差を持ってきて見せろ」
と
舳からだみごえをかけたのは、この船の
張本で、
龍巻の
九郎右衛門という大男だった。
赤銅づくりの
太刀にもたれ、
南蛮織のきらびやかなものを着ていた。
「はて……?」と龍巻は、いま手下から受けとった脇差の
目貫と、伊那丸の
小袖の
紋とを見くらべて、ふしんな顔をしていたが、にわかにつっ立って、
「えらい者が手に入った。その
小童は、どうやら
武田家の
御曹子らしい。五十や百の金で、人買いの手にわたす
代物じゃねえから、めったな手荒をせず、島へあげて、かいほうしろ」
そういって、三人の腹心の手下をよび、なにかしめしあわせたうえ、その脇差を、そッともとのとおり、
伊那丸の腰へもどしておいた。
まもなく、
軽舸の用意ができると、病人どうような伊那丸を、それへうつして、まえの三人もともに乗りこみ、すぐ
鼻先の小島へむかってこぎだした。
「やい! 親船がかえってくるまで、大せつな玉を、よく見はっていなくっちゃいけねえぞ」
龍巻は二、三ど、両手で口をかこって、遠声をおくった。そしてこんどは、足もとから鳥が立つように、あたりの手下をせきたてた。
「それッ、
帆綱をひけ!
大金もうけだ」
「お
頭領、また船をだして、こんどはどこです」
「
泉州の
堺だ。なんでもかまわねえから、張れるッたけ
帆をはって、ぶっとおしにいそいでいけ」
キリキリ、キリキリ、
帆車はせわしく鳴りだした。船中の手下どもは、
飛魚のごとく
敏捷に活躍しだす。
舳に腰かけている龍巻は、その
悪魔的な
跳躍をみて、ニタリと、笑みをもらしていた。
この秋に、京は
紫野の
大徳寺で、
故右大臣信長の、さかんな
葬儀がいとなまれたので、諸国の
大小名は、ぞくぞくと京都にのぼっていた。
なかで、
穴山梅雪入道は、役目をおえたのち、主人の
徳川家康にいとまをもらって、甲州
北郡へかえるところを、廻り道して、見物がてら、泉州の
堺に、半月あまりも
滞在していた。
堺は当時の
開港場だったので、ものめずらしい
異国の
色彩があふれていた。
唐や、
呂宋や、
南蛮の器物、織物などを、見たりもとめたりするのも、ぜひここでなければならなかった。
「
殿、見なれぬ者がたずねてまいりましたが、通しましょうか、いかがしたものでござります」
穴山梅雪の
仮の
館では、もう
燭をともして、
侍女たちが、
琴をかなでて、にぎわっているところだった。そこへひとりの家臣が、こう取りついできた。
「何者じゃ」
梅雪入道は、もう
眉にも
霜のみえる老年、しかし、千軍万馬を
疾駆して、
鍛えあげた骨
ぶしだけは、たしかにどこかちがっている。
「
肥前の
郷士、
浪島五兵衛ともうすもので、二、三人の
従者もつれた、いやしからぬ男でござります」
「ふーむ……、してその者が、何用で
余にあいたいともうすのじゃ」
「その浪島ともうす郷士が、あるおりに
呂宋より
海南にわたり、なおバタビヤ、ジャガタラなどの国々の珍品もたくさん持ちかえりましたので、殿のお目にいれ、お買いあげを得たいともうすので」
「それは珍しいものが数あろう」
梅雪入道は、このごろしきりに、
堺でそのような
品をあつめていたところ、思わず心をうごかしたらしい。
「とにかく、通してみろ。ただし、ひとりであるぞ」
「はい」家臣は、さがっていく。
入れちがって、そこへあんないされてきたのは、衣服、大小や、かっぷくもりっぱな
侍、ただ色はあくまで黒い。目はおだやかとはいえない光である。
「取りつぎのあった、
浪島とはそちか」
「ヘッ、お目通りをたまわりまして、ありがとうぞんじます」
「さっそく、バタビヤ、ジャガタラの珍品などを、
余に見せてもらいたいものであるな」
「じつは、
他家へ
吹聴したくない、秘密な
品もござりますゆえ、願わくばお人
払いをねがいまする」
という望みまでいれて、あとはふたりの座敷となると梅雪はさらにまたせきだした。
「して、その秘密な
品とは、いかなるものじゃ」
「
殿――」
浪島という、
郷士のまなこが、そのときいような光をおびて、声の調子まで、ガラリと変った。
「買ってもらいたいのは、ジャガタラの品物じゃありません。
武田菱の
紋をうった、りっぱな人間です。どうです、ご相談にのりませんか」
「な、なんじゃッ?」
「シッ……大きな声をだすと、
殿さまのおためにもなりませんぜ。
徳川家で、
血眼になっている
武田伊那丸、それをお売りもうそうということなんで」
「む……」
入道はじッと
郷士の
面をみつめて、しばらくその
大胆な
押し
売りにあきれていた。
「けっして、そちらにご不用なものではありますまい。
武田の
御曹子を生けどって、徳川さまへさしだせば、一万
石や二万
石の
恩賞はあるにきまっています。先祖代々から
禄をはんだ、
武田家の
亡びるのさえみすてて、徳川家へついたほどのあなただから、よろこんで買ってくださるだろうと思って、あてにしてきた売物です」
ほとんど、
強請にもひとしい
口吻である。だのに、
梅雪入道は顔色をうしなって、この無礼者を手討ちにしようともしない。
どんな身分であろうと、弱点をつかれると弱いものだ。穴山梅雪入道は、事実、かれのいうとおり、ついこのあいだまでは、
武田勝頼の無二の者とたのまれていた武将であった。
それが、
織田徳川連合軍の乱入とともに、まッさきに徳川家にくだって、
甲府討入りの手引きをしたのみか、
信玄いらい、
恩顧のふかい
武田一族の
最期を見すてて、じぶんだけの命と
栄華をとりとめた
武士である。
この利慾のふかい武士へ、
伊那丸という
餌をもって
釣りにきたのは、いうまでもなく、武士に
化けているが、
八幡船の
龍巻であった。
都より
開港場のほうに、なにかの手がかりが多かろうと、目星をつけて、京都から
堺へいりこんでいたのは、
鞍馬を下山した
小幡民部である。
人手をわけて、要所を見張らせていた
網は、意外な
効果をはやくも
告げてきた。
「たしかに、八幡船のやつらしい者が三人、
侍にばけて、
穴山梅雪の宿をたずねた――」
この知らせをうけた民部は、たずねさきが
主家を売って敵にはしった、
犬梅雪であるだけに、いよいよそれだと直覚した。
いっぽう、その夜ふけて、梅雪のかりの
館をでていった三つのかげは、なにかヒソヒソささやきながら堺の町から、くらい
波止場のほうへあるいていく。
「おかしら、じゃアとにかく、話はうまくついたっていうわけですね」
「
上首尾さ。じぶんも立身の
種になるんだから、いやもおうもありゃあしない。これからすぐに島へかえって、伊那丸をつれてさえくれば、からだの目方と
黄金の目方のとりかえッこだ」
「しッ……うしろから足音がしますぜ」
「え?」
と三人とも、
脛にきずもつ身なので、おもわずふりかえると、
深編笠の
侍が、ピタピタあるき寄ってきて、なれなれしくことばをかけた。
「おかしら、いつもご壮健で、けっこうでござりますな」
「なんだって? おれはそんな者じゃアない」
「エヘヘヘヘ、わたしも、こんな、侍姿にばけているから、ゆだんをなさらないのはごもっともですが、さきほど町で、チラとお見うけして、まちがいがないのです」
「なんだい、おめえはいったい?」
「こう見えても、ずいぶん
浪の上でかせいだ者です」
「おれたちの船じゃなかろう、こっちは知らねえもの」
「そりゃア数ある
八幡船ですから」
「しッ。でっかい声をするねえ」
「すみません。船から船へわたりまわったことですからな、ながいお世話にはなりませんでしょうが、おかしらの船でも一どはたらいたことがあるんです」
話しながら、いつか
陸はずれの、小船のおいてあるところまできてしまった。あとをついてきた侍すがたの男は、ぜひ、もう一ど船ではたらきたいからとせがんでたくみに
龍巻を信じさせ、沖にすがたを隠している、
八幡船の仲間のうちへ、まんまと乗りこむことになった。
その男の
正体が、
小幡民部であることはいうまでもない。なまじ町人すがたにばけたりなどすると、かえってさきが、ゆだんをしないと見て、
生地のままの
反間苦肉がみごとに当った。
民部のこころは躍っていた。けれどもうわべはどこまでもぼんやりに見せて、たえず、船中に目をくばっていたが、どうもこの船にはそれらしい者を、かくしているようすが見えない。で、いちじはちがったかと思ったが、
梅雪をおとずれたという事実は、どうしても、民部には見のがせない。
船は、その翌日、
闇夜にまぎれて、
堺の沖から、ふたたび南へむかって、
満々と
帆をはった。
伊那丸は、日ならぬうちに気分もさわやかになった。それと同時に、かれは、生まれてはじめて接した、
大海原の
壮観に目をみはった。
ここはどこの島かわからないけれど、
陸のかげは、一里ばかりあなたに見える。けれど、伊那丸には、龍巻の手下が五、六人、一歩あるくにもつきまとっているので逃げることも、どうすることもできなかった。
「ああ……」
忍剣を思い、
咲耶子をしのび、
龍太郎のゆくえなどを思うたびに、波うちぎわに立っている
伊那丸のひとみに涙が光った。
「なんとかしてこの島からでたい、名もしれぬ荒くれどもの手にはずかしめられるほどなら、いッそこの海の底に……」
夜はつめたい
磯の岩かげに組んだ小屋にねる。だが、そのあいださえ、
羅刹のような手下は、
交代で
見張っているのだ。
「そうだ、あの親船が返ってくれば、もう
最期の運命、逃げるなら、いまのうちだ」
きッと、心をけっして、頭をもたげてみると、もう夜あけに近いころとみえて、寝ずの番も
頬杖をついていねむっている。
「む!」はね起きるよりはやく、ばらばらと、昼みておいた小船のところへ走りだした。ところがきてみると、船は毎夜、かれらの用心で、十
間も
陸の上へ、引きあげてあった。
「えい、これしきのもの」
伊那丸は、
金剛力をしぼって、波のほうへ、
綱をひいてみたが、
荒磯のゴロタ石がつかえて、とてもうごきそうもない。――ああこんな時に、忍剣ほどの力がじぶんに半分あればと、
益ないくり
言もかれの胸にはうかんだであろう。
「野郎ッ、なにをする!」
われを忘れて、船をおしている伊那丸のうしろから、松の木のような
腕が、グッと、
喉輪をしめあげた。
「見つかったか」
伊那丸は歯がみをした。
「こいつ。逃げる気だな」
喉に
閂をかけられたまま、伊那丸はタタタタタと五、六歩あとへ引きもどされた。
もうこれまでと、
脇差の
柄に手をやって、やッと、身をねじりながら
切ッ
先をとばした。
「あッ――き、
斬りやがったなッ」
とたん――目をさましてきた四、五人の手下たちも、それッと、
櫂や太刀をふるって、わめきつ、さけびつ
撃ちこんできたが、伊那丸も
捨身だった。小太刀の精のかぎりをつくして、斬りまわった。
しかし何せよ、
慓悍無比な命しらずである。ただでさえ
精のおとろえている伊那丸は、
無念や、ジリジリ追われ勝ちになってきた。
その時であった。
空と波との水平線から、こなたの島をめがけて、
征矢のように
翔けてきた一羽のくろい
大鷲。
ぱッと、波をうっては水けむりをあげた。空に
舞っては雲にかくれた。――やがて、そのすばらしい雄姿を
目のあたりに見せてきたと思うと、
伊那丸と五人の男の
乱闘のなかを、さっと二、三ど、地をかすって
翔けりまわった。
「わーッ、いけねえ!」
のこらずの者が、その巨大な
翼にあおりたおされた。むろん、伊那丸も、四、五
間ほど、飛ばされてしまった。
嵐か、
旋風か、伊那丸は、なんということをも
意識しなかった。ただ五人の敵! それに一念であるため、立つよりはやく、そばにたおれていたひとりを、斬りふせた。
くろい
大鷲は、伊那丸の頭上をはなれず廻っている。
砂礫をとばされ、その翼にあたって、のこる四人も
散々になって、気を
失った。――ふと、伊那丸は、その時はじめて、ふしぎな命びろいをしたことに気づいた。空をあおぐと、オオ! それこそ、
恵林寺にいたころ、つねに
餌をやって愛していたクロではないか。
「お! クロだ、クロだ」
かれが
血刀を振って、
狂喜のこえを空になげると、クロはしずかにおりてきて、小船のはしに、翼をやすめた。
「ちがいない。やはりクロだった。それにしても、どうして、あの
鎖をきったのであろう」
ふと見ると、足に
油紙の
縒ったのが巻きしめてある。伊那丸はいよいよふしぎな念に打たれながら、いそいで
解きひらいてみると、なつかしや、
忍剣の文字!
若さま、このてがみが、あなたさまの、お目にふれましたら、若さまのおてがみも、かならず私の手にとどきましょう。忍剣いのちのあらんかぎりは、ふたたびお目にかからずにはおりません。甲斐の山にて。
ハラハラと、とめどない
涙を、その数行の文字にはふり落として立ちすくんでいた
伊那丸は、いそいで小屋に取ってかえし、今の
窮状をかんたんに
認めて、かけもどってきた。
夜はほのぼのと、
八重の
汐路に明けはなれてきた。
見れば、クロはよほど
飢えていたらしく、五人の
死骸の上を飛びまわって、
生々しい血に、
舌なめずりをしていた。
同じように、かえし
文を、
鷲の片足へむすびつけて、それのおわったとき、伊那丸の目のまえに、さらに
呪いの
悪魔が
悠々とかげを見せてきた。
八幡船の親船がかえってきたのだ。もうすぐそこ――島から数町の
波間のちかくへ。
「いよいよ
最期となった。クロ! わしの運命はおまえのつばさに乗せてまかすぞよ」
坐して死をまつも
愚と、伊那丸は鷲の背中へ、抱きつくように身をのせた。
思うさま、人の血をすすったクロは、両の
翼でバサと大地をうったかと思うと、伊那丸の身を軽々とのせたまま、天空高く、
舞いあがった。
「あれ、あれ、ありゃあなんだ?」
「おお、島からとび立ったあやしい
魔鳥」
「
鷲だッ。くろい
大鷲だ」
白浪をかんで、
満々と
帆を張ってきた
八幡船の上では多くの手下どもが、あけぼのの空をあおいで、
潮なりのようにおどろき叫んでいた。
さわぎを耳にして、
船部屋からあらわれた
龍巻九郎右衛門は、ギラギラ
射かえす
朝陽に小手をかざして、しばらく
虚空に
旋回している大鷲の影をみつめていたが、
「ややッ」にわかに色をかえて、すぐ、
「あの
鷲を
射おとせッ、はやくはやく。遠のかねえうちだ」
とあらあらしく
叱咤した。おう! 手下どもは
武器倉へ
渦をまいて、
弓鉄砲を取るよりはやく、
宙を目がけて火ぶたを切り、矢つぎばやに、
征矢の嵐をはなしたが、
鷲はゆうゆうと、遠く近くとびまわって、あたかも
矢弾の弱さをあざけっているようだ。
「
民蔵民蔵、
新米の民蔵はどうしたッ」
龍巻が足を
踏みならして、こうさけんだ時、船底からかけあがってきたのは、
民蔵と名をかえて、
堺から手下になって乗りこんでいた、かの
小幡民部であった。
「おかしら、お
呼びになりましたかい」
「どこへもぐりこんでいるんだ。てめえに、ちょうどいい
腕だめしをいいつける。あの
大鷲の上に、人間が
抱きついているんだ、島から
伊那丸が
逃げだしたにちげえねえ、てめえの腕でぶち落として見ろ」
「えッ、伊那丸とは、なんですか」
「そんなことをグズグズ話しちゃいられねえ、オオまた近くへきやがった、はやく
撃てッ」
「がってんです!」
小幡民部の民蔵は、伊那丸と聞いてギクッとしたが、龍巻に顔色を見すかされてはと、わざと
勇みたって、渡された
種子島の
銃口をかまえ、船の真上へ鷲がちかよってくるのを待った。
と見るまに、鷲はふたたび低く
舞って、
帆柱のてッぺんをさッとすりぬけた。
「そこだ」龍巻はおもわず
拳を握りしめる。
同時に、
狙いすましていた
民部の手から、ズドン! と白い
爆煙が立った。
「あたった! あたった」
ワーッという
喊声が、船をゆるがしたせつな、大鷲はまぢかに腹毛を見せたまま、ななめになってクルクルと海へ落ちてきた――と見えたのは
瞬間。――大きなつばさで海面をたたいたかと思うまに、ギャーッと
一声、すごい
絶鳴をあげて、
猛然と高く飛び上がった。
そのとたんに、
大鷲の背から海中へふり落とされたものがある――いうまでもなく
武田伊那丸であった。
龍巻は、
雲井へかけり去った
鷲の行方などには目もくれず、すぐ手下に
軽舸をおろさせて、波間にただよっている伊那丸を、親船へ引きあげさせた。
「
民蔵でかしたぞ。きさまの腕前にゃおそれいッた」
と龍巻は
上機嫌である。そしていままでは、やや心をゆるさずにいた
民部を、すッかり信用してしまった。
堺見物もおわったが、伊那丸のことがあるので、帰国をのばしていた
穴山梅雪の
館へ、ある
夕べ、ひとりの男が
密書を持っておとずれた。
吉左右を待ちかねていた梅雪入道は、くっきょうな武士七、八名に、身のまわりをかためさせて、
築山の
亭へ足をはこんできた。そこには、
黒衣覆面の密書の使いが、両手をついてひかえていた。
「書面は、しかと見たが、
今宵のあんないをするというそのほうは何者だの」
と梅雪はゆだんのない目くばりでいった。
「
龍巻の腹心の者、
民蔵ともうしまする」
「して、
伊那丸の身は、ただいまどこへおいてあるの?」
「しばらく船中で手当を加えておりましたが、こよい
亥の
刻に、かねてのお
約束どおり、船からあげて
阿古屋の松原まで
頭が連れてまいり、
金子と引きかえに、お
館へお渡しいたすてはずになっておりまする」
よどみのない使いの
弁舌に、
梅雪入道も
疑いをといたとみえ、すぐ家臣に三箱の黄金をになわせ、じぶんも
頭巾に
面をかくして
騎馬立ちとなり、
剛者十数人を引きつれて、阿古屋の松原へと出向いていった。
「殿さま、しばらくお待ちねがいます」
途中までくると、案内役の民蔵は、梅雪入道の
鞍壺のそばへよって、ふいに小腰をかがめた。
「少々おねがいの
儀がござります。お馬をとめて、
無礼者とお怒りもありましょうが、阿古屋の松原へついては
間にあわぬこと、お聞きくださいましょうか」
「なんじゃ、とにかくもうしてみい」
「は、
余の
儀でもござりませぬが、
今日お館のご
威光を見、またかくお
供いたしているうちに、
八幡船の手下となっていることが、つくづく浅ましく感じられ、むかしの
武士にかえって、
白日のもとに、ご奉公いたしたくなってまいりました」
「
悠長なやつ、かような
出先にたって、なにを
述懐めいたことをぬかしおるか。それがなんといたしたのだ」
「ここに一つの
手柄をきっと立てますゆえ、お
館の家来の
端になりと、お加えなされてくださりませ」
「ふウ――どういう
手柄を立てて見せるな」
「この三箱の
黄金をかれにわたさずして、まんまと、
武田伊那丸を
龍巻の手よりうばい取ってごらんに入れますが」
「ぬからぬことをもうすやつだ。して、その
策は?」
「わが君、お耳を……」
小幡民部の
民蔵が、なにをささやいたものか、
梅雪はたちまち慾ぶかいその
相好をくずして、かれのねがいを聞きとどけた。そして、えらびだした武士二、三人に、密命をふくませ、そこからいずこともなく放してやると自身はふたたび、民蔵を行列の先頭にして、
闇夜の街道を、しずしずと進んでいった。
まもなく着いた、
阿古屋の松原。
梅雪入道は
鞍からおりて、
海神の
社に
床几をひかえた。
と――やがて約束の
亥の
刻ごろ、
浜辺のほうから、百
鬼夜行、
八幡船の黒々とした一列が、
松明ももたずに、シトシトと足音そろえて、ここへさしてくる。
「
民蔵、民蔵」
と鳥居まえで、
合図をしたのは
龍巻にちがいなかった。民蔵は
梅雪のそばをすりぬけて、そこへかけていった。
「お
頭ですか」
「む、いいつけた使いの
首尾はどうだった」
「こちらは、殿さまごじしんで、早くからきて、あれに待っています。そして
伊那丸は?」
「ふんじばってつれてきた、じゃおれは、梅雪とかけあいをつけるから、きさまが
縄尻を持っていろ。なかなか
童のくせに
強力だから、ゆだんをして
逃がすなよ」
龍巻は二、三十人の手下をつれて、梅雪のいる
拝殿の前へおしていった。
縄尻をうけた民蔵は、
「やいッ、歩かねえか」わざと声をあららげて、伊那丸の背中をつく。――その心のうちでは、手をあわせている
小幡民部であった。
しばらくのあいだ、龍巻と
談合していた梅雪は、伊那丸の
面体を、しかと見さだめたうえで、約束の
褒美をわたそうといった。龍巻も心得て、うしろへ
怒鳴った。
「民蔵、その童をここへひいてこい」
「へい」
民蔵は
縄目にかけた伊那丸を、梅雪入道の前へひきすえた。拝殿の上から、とくと、
見届けた梅雪は、大きくうなずいて、
「でかしおッた。
武田伊那丸にそういない」
その時、むッくり首をあげた伊那丸は、
穴山のすがたを、
かッとにらみつけて、血を
吐くような声でいった。
「人でなしの
梅雪入道!」
「な、なにッ」
「お
祖父さま
(信玄)の時代より、
武田家の
禄を
食みながら、
徳川軍へ内通したばかりか、
甲府攻めの手引きして、
主家にあだなした
犬侍。どの
面さげて、伊那丸の前へでおった、見るもけがれだ。
退れッ」
「ワッハッハハハハ」梅雪は内心ギクとしながら、
老獪なる
嘲笑にまぎらわして、
「なにをいうかと思えば、
小賢しい
無礼呼ばわり。なるほどその昔は、信玄公にも
仕え、
勝頼にも
仕えた梅雪じゃが、いまは、
主でもなければ
君でもない。武田の滅亡は、お
許の父、勝頼が
暗愚でおわしたからじゃ。うらむならお許の父をうらめ、馬鹿大将の勝頼をうらむがよい」
「ムムッ……よういッたな!」
不道の臣に
面罵されて、身をふるわせた伊那丸は、やにわに、ガバとはねおきるがはやいか、両手を
縛されたまま、梅雪に飛びかかって、ドンと、かれを
床几から
蹴とばした。
「なにをするか」
縄尻をひいた
民蔵の力に、
伊那丸はあおむけざまにひッくり返った。ア――おいたわしい! とおもわず
睫毛に涙のさす顔をそむけて、
「ふ、ふざけたまねをすると
承知しねえぞ。立て! こっちの
隅へ寄っていろい!」
ズルズルと引きずってきて、拝殿の
柱へ縄尻をくくりつけた。
龍巻はそれをきッかけにして、
「じゃあ
殿さま、伊那丸はたしかに渡しましたから、約束の金を、こっちへだしてもらいましょうか」
「む、いかにも
褒美をつかわそう、これ、用意してきた黄金をここへ持て」
と、家臣にになわせてきた三箱の金をそこへ積ませると、
「さすがは
大名、これだけの黄金をそくざに持ってきたのはえらいものだ」
と、ニタリ
笑つぼに
入った。
「やい野郎ども、はやくこの黄金を
軽舸へ運んでいけ。どりゃ、用がすんだら引きあげようか」
と手下にそれをかつがせて、龍巻も立とうとすると、
「やッ、大へんだ、おかしら、少ウしお待ちなさい」
と民蔵がことさら大きな声で、出足をとめた。
「なんでえ、やかましい」
龍巻は、
舌うちをしてふりかえった。
社の
廻廊にたって、
小手をかざしていた
民蔵は、なおぎょうさんにとびあがって、
「一大事一大事! おかしら、沖の親船が焼ける! あれあれ、親船が
燃えあがってる!」
と、手をふりまわした。
「なにッ、親船が?」
龍巻も、さすがにギョッとして、浜辺のほうをすかしてみると、まッ暗な
沖合にあたって、ボウと明るんできたのは、いかにも船火事らしい。
「ややややや」龍巻の目はいようにかがやく。
見るまに沖の明るみは一
団の火の玉となって、金粉のごとき火の
粉を空にふきあげた。夜の
潮は
燦爛と
染められて、あたかも龍宮城が焼けおちているかのような
壮観を現じた。
「ちぇッ、とんでもねえことになッた。それッ、早く
漕ぎつけて、消しとめろ」
とぎょうてんした龍巻は、二、三十人の手下たちとともに、一どにドッと
海神の
社をかけだしていくと、にわかに、鳥居わきの左右から、ワッという声つなみ!
「海賊ども、待て」
「御用、御用」
たちまち
氷雨のごとく降りかかる
十手の雨。――かける足もとを、からみたおす
刺股、逃げるをひきたおす
袖がらみ。驚きうろたえるあいだに、バタバタと、
捕ってふせ、ねじふせ、
刃向かうものは、片っぱしから斬り立ててきた、
捕手の人数は、七、八十人もあろうかと見えた。
陣笠、
陣羽織のいでたちで、
堺奉行所の
提灯を片手に打ちふり、部下の捕手を
激励していた
佐々木伊勢守へ、
荒獅子のごとく
奮迅してきたのは、
頭の、
龍巻九郎右衛門であった。
「おのれッ」とさえぎる捕手を斬りとばして、
夜叉を思わせる
太刀風に、ワッと、
開いて近よる者もない折から
穴山梅雪一手の
剛者が、捕手に力をかして、からくも龍巻をしばりあげた。
「
民蔵、そのほうの
奇策はまんまと
図にあたった。こなたより
奉行所へ
密告したため、アレ見よ、
沖でも、この通りなさわぎをしているわい……小きみよい
悪党ばらの最後じゃ」
穴山梅雪は、
帰館すべくふたたびまえの
駒にのって、持ってきた黄金をも取りかえし、
武田伊那丸をも手に入れて、
得々と社頭から列をくりだした。
「手はじめの御奉公、
首尾よくまいって、民蔵めも
面目至極です。殿のご運をおよろこびもうしあげます」
「ういやつだ。こよいから
余の
近侍にとり立ててくれる。
伊那丸の
縄をとって、ついてこい」
いっぽう、
捕手にかこまれて、引ッ立てられた
龍巻は、この
態をみると、あたりの者をはねとばして、
形相すごく、
民蔵のそばへかけよった。
「
畜生。う、うぬはよくも、おれを
裏切りやがったな。一どは、
縄にかかっても、このまま、
獄門台に命を落とすような龍巻じゃねえぞ。きっとまたあばれだして、きさまの首をひンねじる日があるからおぼえていろ!」
「おお、心得た。だが、
拙者は腕力は弱いから、その時には、また今夜のように、
智慧くらべで戦おうわい」
久しぶりに、
小幡民部らしい口調でこたえた民蔵は、子供の悪たれでも聞きながすように笑って、他の武士たちと同列に、
梅雪の
館へついていった。
ここしばらく、京都に
滞在している
徳川家康の
陣営へにわかに目通りをねがってでたのは、
梅雪入道であった。
家康は、もうとッくに、
甲州北郡の
領土へ帰国したものと思っていた
穴山が、また途中から引きかえしてきたのは、なにごとかと意外におもって、そくざに、かれを
引見した。
梅雪は
御前にでて、
入道頭をとくいそうにふり立てて、かねて厳探中の
伊那丸を
捕縛した
顛末を、さらに
誇張して報告した。さしずめ、その
恩賞として、一万
石や二万
石のご加増はあってしかるべしであろうといわんばかり。
「ふム……そうか」
家康のゆがめた口のあたりに二重の
皺がきざまれた。これはいつも、思わしくない感情をあらわすかれの
特徴である。
「浜松のご城内へまで
潜入して、君のお
命をねらった不敵な伊那丸、生かしておきましては、ながく
徳川御一
門をおびやかし
奉るは
必定とぞんじまして……」
「待て、待て、わかっておる……」
梅雪はあんがい、いや、大不服である。
あれほど、伊那丸の首に、恩賞のぞみのままの
沙汰をふれておきながら、この
無愛想な口ぶりはどうだ。
しかし家康は、梅雪がうぬぼれているほど、かれを
腹心とは信じていない。
日本の歴史にも、
中華史上にも少ないくらいな、
武士の
面よごしが、
武田滅亡のさいに、二人あった。一人はこの梅雪、一人は
小山田信茂である。
織徳連合軍におわれた
勝頼主従が、その
臣、小山田信茂の
岩殿山をたよって落ちたとき、信茂は、
柵をかまえて入城をこばみ、勝頼一門が、
天目山の
討死を見殺しにした。そして、それを
軍功顔に、
織田の軍門へ
降っていった。
信長の子、
織田城之助は、
小山田を見るよりその不忠不人情を
罵倒して、
褒美はこれぞと、
陣刀一
閃のもとに首を討ちおとした。――そういう例もある。
ましてや、
梅雪入道は、
武田家譜代の
臣であるのみならず、
勝頼とは
従弟の
縁さえある。その
破廉恥は小山田以上といわねばならぬ。
――けれど
家康は、城之助とちがって、何者をも利用することを忘れない大将であった。
「梅雪、
伊那丸を
捕えたともうすが、それだけか」
「は? それだけとおおせられますると」
「たわけた入道よな。武田家の
護り
神とも
崇めておった
御旗楯無の
宝物は、たしかに、伊那丸がかくしているはずじゃ。その
儀をもうすのにわからぬか」
「はッ、いかさま。それまでには気がつきませんでした。さっそく、
糺明いたしてみます」
「
仏つくって、
魂いれぬようなことは、家康、大のきらいじゃ。伊那丸の首と、
御旗楯無とをそろえて、持参いたしてこそ、はじめて、まったき一つの働きをたてたともうすもの」
「願わくば、ここ
二月のご
猶予を、この入道にお与えくださりませ。きっとその宝物と、伊那丸の
塩漬け首とを、ともにごらんに
供えまする」
梅雪入道は、家康にかたく
誓って、そこそこに
堺へ立ちもどった。にわかに家来一同をまとめて、領土へ帰国の
旨を
布令だした。
その前にさきだって、
小幡民部の
民蔵は、いずこへか二、三通の
密書をとばした。はたしてどことどことへ、その密書がいったかは、
何人といえども知るよしはないが、うち一通は、たしかに
鞍馬山の
僧正谷にいる、
果心居士の手もとへ送られたらしい。
堺を出発した
穴山の一族
郎党は、
伊那丸をげんじゅうな
鎖駕籠にいれ、
威風堂々と、東海道をくだり、
駿府から西にまがって、一路甲州の
山関へつづく、
身延の街道へさしかかった。
ここらあたりは、見わたすかぎり果てしもない晩秋の広野である。
――ああそこは伊那丸にとって、思い出ふかき
富士の
裾野。
加賀見忍剣と手に手をとって、さまよいあるいた富士の裾野。
けれど、
鎖網をかけた、
駕籠のなかなる伊那丸の目には、なつかしい富士のすがたも見えなければ、富士川の流れも、
枯れすすきの波も見えない。
ただ耳にふれてくるものは、
蕭々と鳴る秋風のおと、
寥々とすだく虫の音があるばかり。
すると、どこでするのか、だれのすさびか、秋にふさわしい
笛の
音がする。その
妙な
音色は、
ふと伊那丸の心のそこへまで
沁みとおってきた。――かれは、まッ暗な
駕籠のなかで、じッと耳をすました。
「お!
咲耶子、咲耶子の笛ではないか」
思わずつぶやいた時である。なにごとか、いきなりドンと
駕籠がゆれかえった。
「ぶれい者、お
供先に立ってはならぬ」
「あやしい女、ひッ
捕えろ!」数人は、バラバラと前列のほうへかけあつまった。
穴山の
郎党たちは、たちまち、押しかぶさって、ひとりの少女をそこへねじふせた。
「しばらくお待ちくださいまし。わたくしは、けっしてあやしい者ではありませぬ。
穴山梅雪さまのご通行を
幸いに、お
訴えもうしたいことがあるのです」
「だまれ、ご道中でさようなことは、聞きとどけないわ、帰れッ」
と、家来どものののしる声を聞いて、駕籠の
扉をあけさせた梅雪は、
「しさいあり
気な
女子じゃ。なんの願いか聞いて取らせる。これへ呼べ」と一同を制止した。
うるわしいお
下髪にむすび、
帯のあいだへ笛をはさんだその
少女は、おずおずと、梅雪の駕籠の前へすすんで手をついた。
「訴えのおもむきをいうてみい。また、このようなさびしい
広野に、ただひとりおるそちは、いったい何者の娘だ」
「野武士の娘、
咲耶子ともうしまする。お訴えいたすまえに、おうかがいいたしたいのは、うしろの
鎖駕籠のなかにいるおかたです。もしや
武田伊那丸さまではございませんでしょうか」
「それを聞いてなんとする」
梅雪はおそろしい目を
咲耶子の
挙動に
注ぎかけた。
けれど彼女は、むじゃきに
咲いた野の花のよう、なんのおそれげもわだかまりもなく、あとのことばをさわやかにつづけた。
「まことは、まえに伊那丸さまから、ご大切な
宝物とやらを、父とわたくしとで、お
預かりもうしておりましたが、そのために、
親娘の者が、ひとかたならぬ
難儀をいたしておりますゆえ、きょう、お通りあそばしたのを
幸い、お返しもうしたいのでござります」
「ふーむ、して、その
宝物とやらはどんな物だ」
「このさきの、五
湖の一つへ
沈めてありますゆえ、どんな物かはぞんじませぬが、このごろ、あっちこっちの悪者がそれを
嗅ぎつけて、湖水の底をさぐり合っておりまする。なんでも
石櫃とやらにはいっている、
武田さまのお家の
宝だともうすことでござります」
「む、よう
訴えてきた。
褒美はぞんぶんにとらすからあんないせい」
梅雪の顔は、思いがけない幸運にめぐり合ったよろこびにあふれた。――が、
駕籠側にいた
民蔵は、サッと色をかえて、この
不都合な密告をしてきた少女を、人目さえなければ、ただ
一太刀に
斬ってすてたいような殺気をありありと目のなかにみなぎらせた。
行列はきゅうに方向を
転じて、五湖の一つに沈んでいる宝物をさぐりにむかった。けれども、
道案内に立った
咲耶子は西も東もわからぬ
広野を、ただグルグルと引きずりまわすのみなので、一同は、道なき道につかれ、
梅雪もようやくふしんの
眉をひそめはじめた。
「
民蔵はいないか、民蔵」と呼びつけて、
「
小娘の
挙動、だんだんと
合点がいかぬ。あるいは、野かせぎの
土賊ばらが、手先に使っている者かも知れぬ、も一ど、ひッ
捕えてただしてみろ」
「かしこまりました」
民蔵は得たりと思った。ばらばらと前列へかけ抜けてきて、いきなり、
むんずと咲耶子の
腕首をつかんだ。
「小娘ッ」まことは
甲州流兵法の
達人小幡民部が、こういってにらんだ眼光は
射るようだった。
「なんでござりますか」
「さきほどからみるに、わざと、道なき
野末へあんないしていくはあやしい。いったいどこへまいる気だ」
「知りませぬ、わたしは、ひとりで好きに歩いているのですから」
「だまれ、五湖へあんないいたすともうしたのではないか」
「だれが、
穴山さまのような、けがらわしい
犬侍のあんないになど立ちましょうか」
「おのれ、さては
野盗の手引きか」
「いいえ、ちがいます」
「
吐かすなッ。さらば何者にたのまれた」
「
御旗楯無の宝物が欲しさに、慾に目がくらんで、わたしのような少女にまんまとだまされた! オホホホホ……やッとお気がつかれましたか」
「おのれッ」
抜く手も見せず、
民蔵がサッと
斬りつけた
切ッ
先からヒラリと、
蝶のごとく
跳びかわした
咲耶子は、バラバラと小高い
丘へかけあがるよりはやく、
帯の横笛をひき抜いて、片手に持ったまま
宙へ高く、ふってふってふりまわした。
ああ! こはそもなに? なんの
合図。
それと同時に、ただいちめんの野と見えた、あなたこなたのすすきの根、小川のへり、
窪地のかげなどから、たちまち、むくむくとうごきだした人影。
ウワーッと
喊声をあげて、あらわれたのは四、五十人の
野武士である。手に手に
太刀をふりかざして、あわてふためく
穴山一
党のなかへ、
天魔軍のごとく
猛然と
斬りこんだ。
ニッコと笑って、
丘に立った咲耶子が、さッと一
閃、笛をあげればかかり、二
閃、さッと横にふればしりぞき、三
閃すればたちまち姿をかくす――
神変ふしぎな
胡蝶の陣。
きょうも
棒切れを手にもって、友だち
小猿を二、三十
匹つれ、
僧正谷から、
百足虫腹の
嶮岨をつたい、
鞍馬の
大深林をあそびまわっているのは、
果心居士の
童弟子、
いが栗あたまの
竹童であった。
「おや、こんなところへだれかやってくるぞ……このごろ人間がよくのぼってくるなア」
竹童がつぶやいた向こうを見ると、なるほど、
菅笠に
脚絆がけの男が、深林の道にまよってウロウロしている。
「オーイ、オーイ――」
とかれが口に手をあてて呼ぶと、菅笠の男が、スタスタこっちへかけてきたが、見ればまだ十
歳ぐらいの男の子が、たッたひとり、多くの
猿にとり
巻かれているのでへんな顔をした。
「おじさん、どこへいくんだい、こんなところにマゴマゴしていると、うわばみに食べられちまうぜ」
「おまえこそいったい何者だい、
鞍馬寺の
小坊主さんでもなし、まさか山男の
伜でもあるまい」
「何者だなんて、
生意気をいうまえに、おじさんこそ、何者だかいうのが
本来だよ。おいらはこの山に住んでる者だし、おじさんはだまって、人の山へはいってきた
風来人じゃないか」
「おどろいたな」と旅の男はあきれ顔に――「じつは
僧正谷の
果心居士さまとおっしゃるおかたのところへ、
堺のあるおかたから手紙をたのまれてきたのさ」
「アア、うちのお
師匠さまへ手紙を持ってきたのか、それならおいらにおだしよ。すぐとどけてやる」
「じゃおまえは果心居士さまのお
弟子か、やれやれありがたい人に会った」
と、男は
竹童に手紙をわたしてスタスタ下山していった。
「いそぎの手紙だといけないから、さきへこいつに持たしてやろう」
と竹童はその手紙を、一
匹の
小猿にくわえさせて、
鞭で僧正谷の
方角をさすと、
猿は心得たようにいっさんにとんでいく。そのあとで、
「さッ、こい、おいらとかけッくらだ」
竹童は、とくいの
口笛を吹きながら、ほかの
猿とごッたになって、深林の
奥へおくへとかけこんでいったが、ややあって、頭の上でバタバタという
異様なひびき。
「おや? ――」と、かれは立ちどまった。小猿たちは、なんにおびやかされたのか、かれひとりを置き
捨てにして、ワラワラとどこかへ
姿をかくしてしまった。
「やア……やア……やア
奇態だ」
なにもかも忘れはてたようすである。あおむいたまま、いつまでも
棒立ちになっている
竹童の顔へ、上の
梢からバラバラと松の皮がこぼれ落ちてきたが、かれは、それをはらうことすらも忘れている。
そも、竹童の目は、なんに
吸いつけられているのかと見れば、じっさい、おどろくべき
怪物――といってもよい大うわばみが、
鞍馬山にはめずらしい
大鷲を、
翼の上から
十重二十重にグルグル
巻きしめ、その首と首だけが、そうほうまっ赤な口から
火焔をふきあって、ジッとにらみあっているのだ。まさに
龍攘虎搏よりものすごい
決闘の
最中。
「や……おもしろいな。おもしろいな。どっちが勝つだろう」
竹童おどろきもせず、口アングリ
開いて見ていることややしばし、たちまち、
鼓膜をつんざくような
大鷲の
絶鳴とともに、
大蛇に巻きしめられていた
双の
翼がバサッとひろがったせつな、あたりいちめん、嵐に吹きちる
紅葉のくれないを見せ、
寸断されたうわばみの
死骸が、バラバラになって大地へ落ちてきた。
それを見るや
否や、雲を
霞と、
僧正谷へとんで帰った竹童。
果心居士の
荘園へかけこむがはやいか、めずらしい今の話を
告げるつもりで、
「お
師匠さま、お師匠さま」と
呼びたてた。
「うるさい
和子じゃ。あまり飛んで歩いてばかりいると、またその足がうごかぬようになるぞよ」
芭蕉亭の
竹縁に腰かけていた
居士の目が、ジロリと光る、その手に持っている手紙をみた
竹童は、ふいとさっきの用を思いだして、うわばみと
鷲の話ができなくなった。
「あ、お
師匠さま、さきほど、お手紙がまいりましたから、
猿に持たせてよこしました。もうごらんなさいましたか」と目の玉をクルリとさせる。
「
横着なやつめ。
小幡民部どのからの大切なご書面、もし
失のうたらどうするつもりじゃ」
「ハイ」
竹童は頭をかいて下をむいた。
居士は、
白髯のなかから苦笑をもらしたが、
叱言をやめて
語調をかえる。
「ところでこの手紙によって急用ができた、竹童、おまえちょっとわたしの使いにいってくれねばならぬ」
「お使いは大好きです。どこへでもまいります」
「ム、大いそぎで、
武蔵の国、
高尾山の
奥院までいってきてくれ、しさいはここに書いておいた」
「お師匠さま、あなたはごむりばかりおっしゃります」
「なにがむりじゃの」
「この
鞍馬の山奥から、武蔵の高尾山までは、二百
里もございましょう。なんでちょっといってくるなんていうわけにいくものですか、だからつねづねわたしにも、お
師匠さまの
飛走の術をおしえてくださいともうすのに、いっこうおしえてくださらないから、こんな時にはこまってしまいます」
「なぜ口をとがらすか、けっしてむりをいいつけるのではない。それにはちょうどいい
道案内をつけてやるから、
和子はただ目をつぶってさえいればよい」
「へー、では、だれかわたしを連れていってくれるんですか」
「オオ、いまここへ
呼んでやるから見ておれよ」
と
果心居士は、
露芝の上へでて、手に持ったいちめんの
白扇をサッとひらき、
要にフッと息をかけて、あなたへ投げると、
扇はツイと風に乗って飛ぶよと見るまに、ひらりと一
羽の
鶴に化してのどかに空へ舞いあがった。
ア――と
竹童は目をみはっていると、たちまち、
宙天からすさまじい
疾風を起してきた黒い
大鷲、鶴を目がけてパッと飛びかかる。鶴は白毛を雪のごとく散らして逃げまわり、鷲のするどい
爪に追いかけられて、果心居士の手もとへ逃げて下りてきたが、そのとたん、居士がひょいと手をのばすと、すでに、鶴は一本の扇となって手のうちにつかまれ、それを追ってきた大鷲は、居士の
膝の前に
翼をおさめて、ピッタリおとなしくうずくまっている。
「
竹童竹童、その
泉の水を少々くんでこい」
「ハイ」
あっけにとられて見ていた竹童は、
居士にいいつけられたまま、岩のあいだから、こんこんと
湧きいでている泉をすくってきた。
「かわいそうにこの
鷲は、片目を鉄砲で
撃たれているため、だいぶ苦しがっている。はやくその
霊泉で洗ってやるがよい。すぐなおる」
「ハイ」
竹童は草の葉ひとつかみを取ってひたし、いくたびか鷲の目を洗ってやった。
大鷲は心地よげに竹童のなすがままにまかせていた。
「おまえの
道案内はこの鷲だ。これに乗ってかける時は千里の旅も一日の
暇じゃ、よいか」
「これに乗るんですか、お
師匠さま、あぶないナ」
「たわけめが」
喝! と
叱りつけた
果心居士は、竹童がアッというまに
襟くびをグッとよせて、
「エーッ」と一声、片手につかんでほうりなげた。ブーンと風を切った竹童のからだは、
珠のごとく飛んで、はるかあなたの
築山の上へいって、ヒョッコリ立ったが、たちまち、そこからかけもどってきてニコニコ笑いながら
澄ましている。
「お師匠さま、またいたずらをなさいましたね」
「どうだ、どこかけがでもしたか」
「いいえ、そんな
竹童ではございません。わたしはお
師匠さまから、まえに
浮体の術を
授かっておりますもの」
「それみよ。なぜいつもその心がけでおらぬ。この
鷲に乗っていくのがなんであぶない、
浮体の
息を心得てのれば一本の
藁より身のかるいものだ」
「わかりました。さっそくいってまいります」
「オオ書面にて
認めておいたが、時おくれては、
武田伊那丸さまのお身があぶない、いや、あるいは
小幡民部どのの
命にもかかわる、いそいでいくのじゃ」
「そして、だれにこの手紙をわたすのですか」
「
高尾の
奥院にかくれている、
加賀見忍剣どのという者にわたせばよい。その忍剣はこの鷲のすがたを毎日待ちこがれているであろう。またこの鷲も
霊鷲であるから、かならず忍剣のすがたを見れば地におりていくにちがいない」
「かしこまりました。よくわかりました」
「かならず
道草をしていてはならぬぞ」
「ハイ、心得ております」
と竹童はしたくをした――したくといっても、例の
棒切れを刀のように腰へさして、
稗と草の
芽を
団子にした
兵糧をブラさげて、ヒラリと鷲の背にとびつくが早いか、鷲は地上の木の葉をワラワラとまきあげて、青空たかく飛びあがった。
伊那丸とちがって
竹童は、
浮体の法を心得ているうえ、深山にそだって
鳥獣をあつかいなれている。かれはしばらく目をつぶっていたがなれるにしたがって平気になりはるかの
下界を見廻しはじめた。
「オオ高い高い、もう
鞍馬も
貴船山も
半国ヶ
岳も、あんな遠くへ
小ッちゃくなってしまった。やア、京都の町が右手に見える、むこうに見える
鏡のようなのは
琵琶湖だナ、この眼下は
大津の町……」
と
夢中になっているうちに、ヒュッとなにかが、耳のそばをうなってかすりぬけた。
「や、なんだ」
と竹童はびっくりしてふりかえった時、またもや下からとんできたのは
白羽の
征矢、つづいてきらきらとひかる
鏃が風を切って、三の矢、四の矢と
隙もなくうなってくる。
「おや、さてはだれか、この
鷲をねらうやつがある、こいつはゆだんができないゾ」
と竹童は例の
棒切れを片手に持って、くる矢くる矢をパラパラと打ちはらっていたが、それに気をとられていたのが
不覚、たいせつな
果心居士の手紙を、うッかり
懐中から取りおとしてしまった。
「アッ、アアアアア……しまった!」
ヒラヒラと落ちいく手紙へ、思わず口走りながら身をのばしたせつな、竹童のからだまで、あやうく鷲の
背中からふりおとされそうになった。
大津の町の
弓道家、
山県蔦之助は、このあいだ、
日吉の
五重塔であやしいものを
射損じたというので、かれを
今為朝とまでたたえていた人々まで、にわかに口うら返して、さんざんに悪い
評判をたてた。
それをうるさいと思ってか、蔦之助は、以来ピッタリ道場の門をとざして、めったにそとへすがたを見せず、世間の悪口もよそに、
兵書部屋へこもり、ひたすら
武技の研究に余念がなかった。
その日も、しずかに兵書をひもといていた
蔦之助は、ふと町にあたって、ガヤガヤという人声がどよみだしたので、文字から目をはなして耳をそばだてた。とそこへ、
下僕の
関市が、あわただしくかけこんできてこういう。
「
旦那さま旦那さま。まアはやくでてごらんなさいまし、とてもすばらしい
大鷲が、
比叡のうしろから飛びまわってまいりました。お早く、お早く」
「鷲?」
と蔦之助は
部屋から庭へヒラリと、身をおどらして大空をあおぐと、なるほど、関市のぎょうさんなしらせも道理、かつて話に聞いたこともない
黒鷲が、比叡の
峰の
背からまッさかさまに
大津の空へとかかってくるところ。
「関市!
張りの強い弓を! それと
太矢を七、八本」
「へい」と
関市が、大あわてで取りだしてきた
節巻の
籐に
くすね引きの
弦をかけた
強弓。とる手もおそしと、
槙の
葉鏃の
太矢をつがえた
蔦之助は、
虚空へむけて、ギリギリとひきしぼるよと見るまに、はやくも一の矢プツン! と切る、すぐ関市が
代り矢を出す。それを取ってさらに
射る。その
迅さ、あざやかさ、目にもとまらぬくらい。
しかしその矢は、二どめからみな
宙にあがって二つにおれ、ハラリ、ハラリと地上に返ってくる。てっきり
鷲の上には何者かがいる! 蔦之助ももとより
射おとすつもりではない。そのふしぎな人物をなんとかして地上へおろしてみたら、あるいは、
日吉の
塔の上にいた、
奇怪な人間のなぞもとけようかと考えたのであった。
矢数はひょうひょうと
虹のごとく
放たれたが、時間はほんの
瞬間、すでに
大鷲は町の空を
斜めによぎって、その
雄姿を
琵琶湖のほうへかけらせたが、なにか白い物をとちゅうからヒラヒラと落としさった。それを見て、
「よしッ」
ガラリと弓を投げすてた蔦之助は、
紙片の落ちたところを目ざして、息もつかさずにかけだした。
飛ぶがごとく町はずれをでたかれは、一
念がとどいて、ある原へ
舞いおちたものをひろった。
手にとって
開いてみれば、
芭蕉紙ぐるみの一通の書面。
加賀見忍剣どのへ知らせん この状を手にされし日 ただちに錫杖を富士の西裾野へむけよ たずねたもう御方あらん 同志の人々にも会い給わん
かしん居士
竹童は弱った。
しんそこからこまった。
大切な手紙を取りおとしては、お
師匠さまから、どんなお
叱りをうけるか知れないと、かれはあわてて
鷲をおろした。そこはうつくしい
鳰鳥の浮いている
琵琶湖のほとり、
膳所の松原のかげであった。
「これクロよ、おいらが手紙をさがしてくるあいだ、
後生だから待ってるんだぞ、そこで
魚でも取って待っているんだぞ、いいか、いいか」
竹童は鷲にたいして、人間にいい聞かせるとおりのことばを残し、スタスタ松と松のあいだを走りだしてくると、反対にむこうからも息をきって、こなたへいそいできたひとりの武士があった――いうまでもなく
山県蔦之助である。
ふたりはバッタリ細い小道でゆき会った。竹童がなにげなく蔦之助の片手をみると、まさしくおとした手紙をつかんでいる。蔦之助もまた、
素はだし
尻きり衣服に、棒切れを腰にさした、いような
小僧のすがたに目をみはった。
「これ子供、子供。……つんぼか、なぜ
返辞をせぬ」
「おじさん、おいら子供じゃないぜ」
「なに子供じゃないと、では
何歳じゃ」
「九ツだよ。だけれど
大人だけの働きをするから子供じゃない、アアそんなことはどうでもいい、おいらおじさんに聞きたいけれど、そっちの手につかんでいるものはなんだい? 見せておくれよ」
「ばかをもうせ。それより
拙者のほうがきくが、いましがた、
大津の町の上をとんでいた
鷲が、ここらあたりでおりた
形跡はないか、どうじゃ」
「
白ばッくれちゃいけない。その手紙をおだしよ」
「この
童めッ、
無礼をもうすな」
「なにッ、返さなきゃこうだぞ」
と、
竹童からだは小さいが身ごなしの
敏捷おどろくばかり、
不意に
蔦之助に飛びかかったと思うと、かれの手から手紙をひッたくって、バラバラと逃げだした。
「
小僧ッ――」と追い
討ちにのびた蔦之助の
烈剣に、あわや、竹童まッ二つになったかと見れば、
切ッ
先三
寸のところから一
躍して四、五
間も先へとびのいた。
「きゃつ、ただ者ではない」ととっさにおもった蔦之助は、いっさんに追いかけながら、ピュッと手のうちからなげた流星の
手裏剣! それとは、さすがに用心しなかった竹童の
踵をぷッつり
刺しとめた。
「あッ!」ドタリと前へころんだところを、すかさずかけよってねじつけた、蔦之助の
強力。それには
竹童も泣きそうになった。
「おじさん、おじさん、なんだっておいらの手紙をそんなにほしがるんだい――苦しいから
堪忍しておくれよ。この手紙は大切な手紙だから」
「なんじゃ、ではこの書面は
汝が持っていた物か」
「ああ、おいらが遠方の人へとどけにいくんだ」
「ではいましがた、
鷲の上にのっていたのは?」
「おいらだよ、アア、
喉がくるしい」
「えッ、そのほうか」
とびっくりして、竹童をだきおこした
蔦之助は、しばらくしげしげとかれの姿をみつめていたが、やがて、松の
根方へ腰をおろして、心からこのおさない者に
謝罪した。
「知らぬこととはもうせ、飛んだ
粗相をいたした。どうかゆるしてくれい、そこで、あらためて聞きたいが、
御身はその手紙にある
果心居士のお
弟子か」
「そうだ……」竹童も岩の上にあぐらをかいて、腰のふくろから薬草の葉を取りだし、手でやわらかにもんだやつを
踵のきずへはりつけている。
「ではさきごろ、
日吉の
五重塔へ登っていたのも居士ではなかったか、
恥をもうせば、
里人の望みにまかせて
射たところが、一
羽の
鷺となって逃げうせた」
「おじさんはむちゃだなあ、おいらのお
師匠さまへ矢をむけるのは、お月さまを
射るのと同じだよ」
「やっぱりそうであったか、いや
面目もないことであった。ところで、さらにくどいようじゃが、そちの持っている書面にある
加賀見忍剣ともうすかたは、ただいまどこにおいでになるのか、また、たずねるお方とはどなたを指したものか、
山県蔦之助が頭をさげてたのむ。どうか教えてもらいたい」
「いやだ」
竹童はきつくかぶりをふった。
「なぜ?」
「わからないおじさんだナ、なんだって人がおとした手紙のなかをだまって読んだのさ。だからいやだ」
「ウーム、それも
重々拙者が悪かった、ひらにあやまる」
「じゃあ話してやってもいいが、うかつな人にはうち明けられない、いったいおじさんは何者?」
「父はもと甲州二十七
将の一人であったが、拙者の
代となってからは天下の
浪人、
大津の町で
弓術の
指南をしている山県蔦之助ともうすものじゃ」
「えッ、じゃあおじさんも
武田の浪人か――ふしぎだなア……おいらのお
師匠さまも、ずっと昔は
武田家の
侍だったんだ」
といいかけて竹童は、まえに
居士から口止めされたことに気がついたか、ふッと口をつぐんでしまった。そのかわり、これから、
居士の
命をうけて
武州高尾にいる忍剣のところへいくこと、また
過日、
小幡民部から
通牒がきて、なにごとか
伊那丸の身辺に一大事が起っているらしいということ、さては、書中にある
御方という人こそ
信玄の
孫武田伊那丸であることまで、残るところなく説明した。
聞きおわった
蔦之助は、こおどりせんばかりによろこんだ。
武田滅亡の
末路をながめて、
悲憤にたえなかったかれは、伊那丸の
行方を、
今日までどれほどたずねにたずねていたか知れないのだ。
「これこそ、まことに
天冥のお引きあわせだ。
拙者もこれよりすぐに、
富士の
裾野へむけて
出立いたす、
竹童とやら、またいつかの時にあうであろう」
「ではあなたも裾野へかけつけますか、わたしもいそがねば、伊那丸さまの一大事です」
「おお、ずいぶん気をつけていくがよい」
「大じょうぶ、おさらばです」
竹童はふたたび
鷲の背にかくれて、舞いあがるよと見るまに、いっきに
琵琶湖の空をこえて、
伊吹の山のあなたへ――。
いっぽう、
山県蔦之助は、その日のうちに、
武芸者姿いさましく、
富士ヶ
根さして旅立った。
「まだきょうも空に見えない、ああクロはどうしたろう……?」
毎日高尾の
山巓にたって、一
羽の鳥影も見のがさずに、
鷲の帰るのを待ちわびている者は、
加賀見忍剣その人である。
快風一陣! かれを
狂喜せしめた
便りは天の一
角からきた。クロの足にむすびつけられた
伊那丸の
血書の文字、
竹童がもたらしてきた
果心居士の手紙。かれははふりおつる涙をはらいつつ、二通の文字をくり返しくりかえし読んだ。
「これを手に受けたらその日に立てとある――オオ、こうしてはいられないのだ。竹童とやら、はるばる使いにきてご苦労だったが、わしはこれからすぐ、伊那丸さまのおいでになるところへいそがねばならぬ、
鞍馬へ帰ったら、どうかご
老台へよろしくお礼をもうしあげてくれ」
「ハイ
承知しました。だけれどお
坊さん、おいらは少しこまったことができてしまった」
「なんじゃ、お使いの
褒美に、たいがいのことは聞いてやる、なにか望みがあるならもうすがよい」
「ううん、褒美なんかいらないけれど、そのクロという鷲はお坊さんのものなんだネ」
「いやいや、この鷲はわたしの
飼い鳥でもない、
持主といえば、
武田家にご
由緒のふかい鳥ゆえ、まず伊那丸君の物とでももうそうか」
「ネ、おいら、ほんとをいうと、このクロと
別れるのがいやになってしまったんだよ。きっと大切にして、いつでも用のある時には飛んでいくから、おいらにかしといてくんないか」
天真爛漫な願いに、忍剣もおもわず
微笑んでそれをゆるした。
竹童は大よろこび、あたかも友だちにだきつくようにクロの背なかへふたたび身を乗せて、忍剣に
別れを
告げるのも空の上から――いずこともなく飛びさってしまった。
間もなく、高尾の
奥院からくだってきた
加賀見忍剣は、
神馬小舎から一頭の馬をひきだし、鉄の
錫杖をななめに
背にむすびつけて、
法衣の
袖も高からげに
手綱をとり、
夜路山路のきらいなく、南へ南へと
駒をかけとばした。
ほのぼの明けた次の朝、まだ野も山も森も見えぬ
霧のなかから、
「オーイ、オーイ」
と忍剣の駒を追いかけてくる者がある。しかも、あとからくる者も
騎馬と見えて、パパパパパとひびく
蹄の音、はて何者かしらと、忍剣が
馬首をめぐらせて待ちうけているとたちまち、目の前へあらわれてきた者は、
黒鹿毛にまたがった
白衣の男と
朱柄の
槍を小わきにかいこんだりりしい若者。
「もしやそれへおいでになるのは、加賀見忍剣どのではござらぬか」
「や! そういわれる
其許たちは」
「おお、いつか
裾野の
文殊閣で、たがいに心のうちを知らず、
伊那丸君をうばいあった
木隠龍太郎」
「またわたくしは、
巽小文治ともうす者」
「おお、ではおのおのがたも、ひとしく伊那丸さまのおんために力をおあわせくださる勇士たちでしたか」
「いうまでもないこと。
忍剣どののおはなしは、くわしくのちにうけたまわった。じつは我々両名の者は、
小太郎山に
砦をきずく用意にかかっておりましたが、はからずも主君伊那丸さまが、
穴山梅雪の手にかこまれて、きょう
裾野へさしかかるゆえ、
出会せよという
小幡民部どのからの
諜状、それゆえいそぐところでござる」
「思いがけないところで、
同志のおのおのと落ち会いましたことよ。なにをつつみましょう。まこと、わたくしもこれよりさしていくところは、
富士の裾野」
「忍剣どのも加わるとあれば、
千兵にまさる
今日の味方、穴山一族の
木ッ
葉武者どもが、たとえ、
幾百
幾千
騎あろうとも、おそるるところはござりませぬ」
「きょうこそ、若君のおすがたを
拝しうるは
必定です」
「おお、さらば一刻もはやく!」
轡をならべて、同時にあてた三
騎の
鞭!
一声高くいななき渡って、霧のあなたへ、
駒も勇士もたちまち影を
没しさったが、まだ
目指すところまでは、いくたの
嶮路いくすじの川、
渺茫裾野の道も幾十里かある。
霧ははれた。そして
紺碧の空へ、雄大なる
芙蓉峰の
麗姿が、きょうはことに
壮美の
極致にえがきだされた。
富士は
千古のすがた、男の子の清い
魂のすがた、
大和撫子の
乙女のすがた。――日本を
象徴した天地に一つの
誇り。
いまや、その
裾野の一角にあって、
咲耶子がふったただ一本の
笛の先から、
震天動地の雲はゆるぎだした。
閃々たる
稲妻はきらめきだした。
雨を呼ぶか、
雷が鳴るか、
穴山軍勝つか、
胡蝶陣勝つか?
武田伊那丸と
小幡民部の
民蔵は、どんな行動をとりだすだろうか? 富士はすべて見おろしている――
胡蝶の陣! 胡蝶の陣!
裾野にそよぐ
穂すすきが、みな
閃々たる
白刃となり
武者となって、声をあげたのかと
疑われるほど、ふいにおこってきた四面の
伏敵。
野末のおくにさそいこまれて、このおとしあなにかかった
穴山梅雪入道は、馬からおちんばかりにぎょうてんしたが、あやうく
鞍つぼに
踏みこたえて、腰なる陣刀をひきぬき、
「
退くな。たかの知れた
野武士どもがなにほどぞ、
一押しにもみつぶせや!」
と、うろたえさわぐ
郎党たちをはげました。
音にひびいた
穴山一
族、その
旗下には勇士もけっしてすくなくない。
天野刑部、
佐分利五郎次、
猪子伴作、
足助主水正などは、なかでも有名な四
天王、まッさきに
槍の
穂をそろえておどりたち、
「おうッ」
と、
吠えるが早いか、
胡蝶の
陣の
中堅を目がけて、
無二
無三につきすすんだ。それにいきおいつけられたあとの面々、
「それッ。
烏合のやつばら、ひとりあまさず、
討ってとれ」
と、
具足の音を
霰のようにさせ、
槍、
陣刀、
薙刀など思いおもいな
得物をふりかざし、四ほうにパッとひらいて
斬りむすんだ。
「やや一大事! だれぞないか、
伊那丸の
駕籠をかためていた者は取ってかえせ、敵の手にうばわれては取りかえしがつかぬぞッ」
たちまちの乱軍に、
梅雪入道がこうさけんだのも、もっとも、大切な駕籠はほうりだされて、いつのまにか、
警固の
武士はみなそのそばをはなれていた。
「心得てござります」
いち早くも、梅雪の前をはしりぬけて、れいの――伊那丸がおしこめられてある
鎖駕籠の屋根へ、ヒラリととびあがって八ぽうをにらみまわした者は、
別人ならぬ
小幡民部であった。
かりにも、乗物の上へ、
土足で
跳ひあがった
罪――ゆるし
給え――と
民部は心に
念じていたが、とは知らぬ
梅雪入道、ちらとこの
態をながめるより、
「お、
新参の
民蔵であるな、いつもながら
気転のきいたやつ……」
とたのもしそうにニッコリとしたが、ふとまた一ぽうをかえりみて、たちまち顔いろを変えてしまった。
咲耶子がふった
横笛の
合図とともに、押しつつんできた人数はかれこれ八、九十人、それに
斬りむかっていった
穴山方の
郎党もおよそ七、八十人、数の上からこれをみれば、まさに、そうほう
互角の
対陣であった。
しかし、一ぽうは勇あって
訓練なき
野武士のあつまり。こなたは
兵法のかけ引き、
実戦の経験もたしかな兵である。
梅雪入道ならずとも、とうぜん、勝ちは穴山方にありと信じられていた。ところが
形勢はガラリとかわって、なにごとぞ、四
天王以下の面々は名もなき野武士の
切ッ
先にかけまわされ、
胡蝶の
陣の
変化自在の陣法にげんわくされて、浮き足みだしてくずれ立ってきた。と見るや、
怒りたった入道は、
「ええ
腑甲斐のない
郎党ども、このうえは、梅雪みずからけちらしてくれよう!」
両の
手綱を左の手にあつめ、右手に
陣刀をふりかざしてあわや、乱軍のなかへ
馬首をむけてかけ入ろうとした。
とそのとき、
「しばらくしばらく、そもわが君は、お
命をいずこへ捨てにいかれるお心でござるか!」
声たからかに
呼びとめた者がある。
「なに?」ふりかえってみると、それは、
伊那丸の
駕籠の上に立った
小幡民部。
梅雪はせきこんで、
「やあ、
民蔵、
汝はなにをもって、さような
不吉をもうすのじゃ」
「されば、殿の
御身を大切と思えばこそ」
「して、なんのしさいがあって」
「眼を大にしてごらんあれ。敵は
野武士といいながら、
神変ふしぎな少女の陣法によってうごくもの、これすなわち
奇兵でござる。あなどってその
策におちいるときは、殿のお
命とてあやうきこと明らかでござりまする」
「うーむ、してかれの
陣法とは」
「
伏現自在の
胡蝶の
陣」
「やぶる
手策は?」
「ござりませぬ」
「ばかなッ」
「うそとおぼし
召すか」
「おおさ、
年端もゆかぬ
女童が指揮する
野武士の百人足らず、なんで破れぬことがあろうか」
「ではしばらくここにて四ほうを
観望なさるがなにより。おお
佐分利五郎次の
組子はやぶれた、ああ
足助主水正もたちまち
袋のねずみ……」
「なんの、
余が四
天王じゃ、いまにきっと
盛り返して、あの手の野武士をみな殺しにするであろうわ」
「
危ういかな、危ういかな、かしこの
窪地へ追いこまれた
猪子伴作、
天野刑部、その他十七、八名の味方の者どもこそ、すんでに敵の
術中におちいり、みな殺しとなるばかり」
「や、や、や、や、や!」
「おお!
殿にもご用意あれや、早くも
伊那丸の
駕籠を目がけて、
総勢の力をあつめてくるような敵の
奇変と見えまするぞ」
「お、お、お、
民蔵民蔵、
汝になんぞ
策はないか」
梅雪のようすは、にわかにうろたえて見えだした。
「おそれながら、しばしのあいだ、殿の
采配を
拙者におかしたまわるなら、かならず、かれの
奇襲をやぶって味方の勝利となし、なお、野武士を
指揮なすあやしき少女をも
生けどってごらんに入れます」
「ゆるす、すこしも早く味方の者を
救いとらせい」
さしも
強情な
穴山梅雪も、
論より
証拠、
民部のことばのとおり、味方がさんざん
敗北となってきたのを見て、もう
ゆうよもならなくなったのであろう。こなたへ
駒を寄せてきて、
小幡民部の手へ
采配をさずけた。
「ごめん」
受けとって押しいただいた
民部は、
駕籠の上に立ったまま、八ぽうの戦機をきッと見渡したのち、おごそかに
軍師たるの
姿勢をとり、
采の
さばきもあざやかに、
さッ、さッ、さッ。
虚空に半円をえがいて、風をきること
三度。
ああなんという見事さ、それこそ、
本朝の
諸葛亮か
孫呉かといわれた甲州流の
軍学家、
小幡景憲の
軍配ぶりとそッくりそのまま。
「や?」
よもや、
新参の
民蔵が、その人の一
子、
民部であろうとは、
夢にも知らない
梅雪入道、おもわず
驚嘆の声をもらしてしまった。
月の夜には
澄み、
朝は露をまろばせても、聞く人もないこの
裾野に、ひとり楽しんでいる
笛は、
咲耶子が好きで好きでたまらない横笛ではないか。
しかし、その
優雅な横笛は、時にとって身を守る
剣ともなり、時には、
猛獣のような
野武士どもを自由自在にあやつるムチともなる。
いましも、小高い
丘の上にたって、その
愛笛を頭上にたかくささげ、部下のうごきから
瞳をはなたずにいた彼女のすがたは、地上におりた金星の
化身といおうか、富士の
女神とたとえようか、
丈なす黒髪は風にみだれて、
麗しいともなんともいいようがない。
「アッ――」
ふいに、彼女の
唇を
洩れたかすかなおどろき。
その
眸のかがやくところをみれば、いまがいままでしどろもどろにみだれたっていた、
穴山梅雪の
郎党たちはひとりの
武士の
采配を見るや、たちまちサッと
退いて中央に一列となった。
それは
民部の立てた
蛇形の陣。
咲耶子はチラと
眉をひそめたが、にわかに
右手の笛をはげしく
斜めにふって落とすこと二へん、最後に左の肩へサッとあげた。――とみた野武士の
猛勇は、ワッと声つなみをあげて、
蛇形陣の
腹背から、勝ちにのって攻めかかった。
そのとき早く、ふたたび民部の采配が、
龍を呼ぶごとくさっとうごいた。と見れば、蛇形の列は
忽然と二つに折れ、まえとは打ってかわって一
糸みだれず、
扇形になってジリジリと野武士の
隊伍を遠巻きに抱いてきた。
「あッ、いけない。あれはおそろしい
鶴翼の計略」
咲耶子はややあわてて、笛を天から下へとふってふってふりぬいた。
それは退軍の
合図であったと見えて、いままで
攻勢をとっていた
野武士たちは、一どにどッと
潮のごとく引きあげてきたようす。が、
民部の
采配は、それに息をつく
間もあたえず、たちまち八
射の急陣と変え、はやきこと
奔流のように、
追えや追えやと
追撃してきた。
「オオ、なんとしたことであろう」
あまりの
口惜しさに、
咲耶子はさらに再三再四、
胡蝶の
陣を立てなおして、
応戦をこころみたが、こなたで
焔の陣をしけば、かれは水の陣を流して防ぎ、その
軍配は
孫呉の
化身か、
楠の再来かと、あやしまれるほど、
機略縦横の
妙をきわめ、手足のごとく、奇兵に奇兵を
次いでくる。
さすがの
胡蝶陣に
妙をえた
咲耶子も、いまはほどこすに
術もなくなった。
精鋭無比の彼女の部下の
刃も、いまはしだいしだいに疲れてくるばかり。
「それッ、この機をはずすな!」
「いずこまでも追って追って追いまくれッ」
「
裾野の
野武士を
根絶やしにしてくれようぞ」
穴山の四
天王猪子伴作、
足助主水正、その他の
郎党は、民部が神のごとき采配ぶりにたちまち
頽勢を
盛りかえし、
猛然と
血槍をふるって
追撃してきた。
西へ逃げれば西に敵、南に逃げれば南に敵、まったく民部の作戦に
翻弄されつくした野武士たちは、いよいよ地にもぐるか、空にかけるのほか、逃げる
路はなくなってしまった。
と、
咲耶子のいる
丘の上から、
悲調をおびた笛の
音が
一声高く聞えたかと思うと、いままでワラワラ逃げまどっていた
野武士たちの影は、
忽然として、草むらのうちにかくれてしまった。
胆をけした
穴山一族の
将卒は、
血眼になって、草わけ、小川の
縁をかけまわったが、もうどこにも一人の敵すら見あたらず、ただいちめんの秋草の波に、
野分の風がザアザアと渡るばかり。
狐につままれたようなうろたえざまを、
丘の上からながめた咲耶子は、帯のあいだに笛をはさみながら、ニッコリ
微笑をもらして、丘のうしろへとびおりようとしたその時である。
「咲耶子とやら、もうそちの逃げ道はないぞ」
りんとした声が、どこからか
響いてきた。
「え?」思わず目をみはった彼女の前に、ヒラリとおどりあがってきたのは、いつのまにここへきたのか、さっきまで
采配をとって
敵陣にすがたをみせていた
小幡民部であった。
「あッ」
さすがの彼女もびっくりして、
丘のあなたへ走りだすと、そのまえに、四
天王の
佐分利五郎次が、八、九人の
武士とともに、
槍ぶすまをつくってあらわれた。ハッと思って横へまわれば、そこからも、不意にワーッと
鬨の声があがった。うしろへ抜けようとすればそこにも敵。
いまはもう四
面楚歌だ。
絶望の胸をいだいて、立ちすくんでしまうよりほかなかった。とみるまに、丘の上は
穴山方の
薙刀や
太刀で、まるで剣をうえた林か、
針の山のように、いっぱいにうずまってしまった。
「
咲耶子、咲耶子、もういかにもがいても、この八
門鉄壁のなかからのがれることはできぬぞ、
神妙に
縄にかかッてしまえ」
小幡民部は、声をはげましてそういった。
無念そうに、
唇をかみしめていた咲耶子は、ふたたびかくれた
野武士たちを
呼びだすつもりか、
帯のあいだの横笛をひきぬいて、さッと、ふりあげようとしたが、その一
瞬、
「えい、不敵な女め」
佐分利五郎次が、飛びかかるが早いか、ガラリとその笛を打ちおとすと、とたんに、右からも、走りよった
足助主水正が
早業にかけられて、あわれ、
野百合のような
小娘は、
情け
容赦もなくねじあげられてしまった。
たったひとりの少女を生けどるのに四
天王ともある者や、多くの
荒武者が総がかりとなったのは、
大人げないと
恥ずべきであるのに、かれらは大将の首でもとったように、ワッと、
勝鬨をあげながら、
丘の上からおりていった。
まもなく、
馬前へひッ立てられてきた
咲耶子をひとめ見た
梅雪入道は、
鞍の上から
はッたとにらみつけて、
「こりゃ小娘ッ、ようも
汝は、道しるべをいたすなどともうして、思うさまこの
方をなぶりおったな。いまこそ、その細首をぶち落としてくれるから待っておれ」
面に
朱をそそいで、
鞍の上からののしったのち、
「
民蔵民蔵」とはげしく呼び立てた。
「はッ」と走りだした
小幡民部は、チラと、入道のおもてを見ながら片手をつかえた。
「なんぞご用でござりまするか」
「おお民蔵か、あっぱれなそのほうの
軍配ぶり、
褒美は帰国のうえじゅうぶんにとらすであろう、ところで、不敵なこの小娘、生かしておけぬ、そちに太刀とりをもうしつくるほどに、
余が面前で、
血祭りにせい」
「あいや、それはしばしご
猶予ねがいまする」
「なに、待てともうすか」
「
御意にござりまする。いまこの小娘を血祭りにするときは、ふたたびまえにもてあましたる
野武士が、
復讐に
襲うてくること
必定。もとより、千万の野武士があらわれようとて、おそるるところはござらぬが、この小娘を
おとりとして、さらに殿のお役に立てようがため、せっかく
生捕りにいたしたもの、むざむざここで首にいたすのはいかがとぞんじます」
「
奇略にとんだその
方のことゆえ、なお
上策があればまかせおくが、して、この小娘をおとりにしてどうする
所存であるか」
「
秘中の
秘、味方といえども、
余人のいるところでは、ちともうしかねます」
「もっともじゃ、ではこれへしたためて見せい」
ヒラリと投げてきたのは一面の
軍扇。
民部は
即座に
矢立をとりよせ、筆をとって、サラサラ八
行の
詩を書き、みずから
梅雪の手もとへ返した。
「どれ」と、
入道はそれを受けとり、馬上で
扇面の文字を読み
判じて――
「む、どこまでもそちは
軍師じゃの」と
膝をたたいて、
感嘆した。その
秘策とは、すなわち、これから馬をすすめて五湖の底にあるという
武田家の
宝物御旗楯無をさぐりだし、同時に、
伊那丸をもそこで首にしてしまおうというおそろしい
献策。
じつは
穴山梅雪も、これから
甲斐の国へはいる時は、
武田の
残党もあろうゆえ、伊那丸を首にする場所にも、心をいためていたところだった。しかし、この富士の
裾野なら安心でもあるし、
御旗楯無の
宝物まで、手にはいれば
一挙両決、こんなうまいことはない。すぐまた都へ取ってかえし、
家康から、多大の
恩賞をうけ、そのうえ帰国してもけっしておそくはない。
「そうだ、この小娘もそのとき首にすれば、世話なしというもの……」
梅雪はとっさにそう思ったらしい、あくまで信じきっている
民部の
献策にまかせて、ふたたび
郎党を一列に立てなおし、民部と
咲耶子を
先にして、
裾野を西へ西へとうねっていった。
そのあいだに民部は、なにごとかひくい声で、咲耶子にささやいたようであった。かしこい彼女は、
黙々として聞えぬふりで歩いていたが、その
瞳は、ときどき意外な表情をして民部にそそがれた。そんな、こまかいふたりの
挙動は、はるかあとから
騎馬でくる梅雪の目に、べつだんあやしくもうつらなかった。
やがて、裾野の野道がつきて、長い森林にはいってきた。そこをぬけると、青いさざなみが、
木の
間から見えだした。
「おお
湖水へでた!
湖が見えた!」
軍兵どもは、
沙漠に
泉を見つけたように口々に声をもらした。そのほとりには、小さな
社があるのも目についた。つかつかと社の前へあゆみ寄った
小幡民部は、「
白旗の
宮」とあるそこの
額を見あげながら、口のうちで、「白旗の宮? ……
源家にゆかりのありそうな……」とつぶやいて小首をかしげたが、ふいと向きなおって、こんどはおそろしい
血相で、
咲耶子をただしはじめた。
「これッ。
武田家の
宝物をしずめた湖水は、ここにそういあるまい、うそいつわりをもうすと、
痛いめにあわすぞ、どうじゃ!」
「は、はい……」咲耶子は、にわかに
神妙になって、そこへひざまずいた。
「もうお
隠しもうしても、かなわぬところでござります。おっしゃるとおり、
御旗楯無の宝物は、
石櫃におさめて、この
湖のそこに沈めてあるにそういありませぬ」
「まったくそれにちがいないか!」
「神かけていつわりはもうしませぬ」
「よし、よく
白状いたした。おお
殿さま。ただいまのことばをお聞きなされましたか」
ちょうどそこへ、おくればせに着いた
梅雪のすがたをみて、民部が、こういいながら馬上を見上げると、かれは
笑つぼに
入ってうなずいた。
「聞いた。かれのもうすところたしかとすれば、すぐ湖水からひきあげる手くばりせい」
「はッ、かしこまりました」
民部はいさみ立ったさまをみせて、
郎党たちを八ぽうへ走らせた。まもなく、地理にあかるい
土着の
里人が、何十人となくここへ召集されてきた。そして、
狩りだされてきた里人や
郎党は、多くの小船に乗りわかれて、湖水の底へ
鈎綱をおろしながら、あちらこちらと
漕ぎまわった。
陸のほうでは
穴山梅雪入道が
白旗の
宮のまえに
床几をすえ、四
天王の面々を左右にしたがえて
悠然と見ていた。
と、かれの
貪慾な
相好がニヤニヤ
笑みくずれてきた。――湖水の中心では、いましも
鈎にかかった
獲物があったらしい。多くの小船は、たちまちそこに集まって
鈎をおろし、エイヤエイヤの声をあわせて、だんだんと
浅瀬のほうへひきずってくるようすだ。
伊那丸と
忍剣が
智慧をしぼって世の中からかくしておいた
宝物も、こうして、苦もなく発見されてしまった。まもなく梅雪入道の床几の前へ運ばれてきたものは、
真青に
水苔さびたその
石櫃。
「殿さま、ご苦心のかいあって、いよいよご開運の
秘宝もめでたく手に入りました。
祝着にぞんじまする」
里人たちに
恩賞をやって追いかえしたのち、
民部はそばから
祝いのことばをのべた。
「そのほうの
手柄は忘れはおかぬぞ。この宝物に伊那丸の首をそえてさしだせば、いかにけちな
家康でも、一万
石や二万
石の
城地は、いやでも加増するであろう。そのあかつきには、そのほうもじゅうぶんに取りたて
得さす」
「かたじけのうぞんじます。しかし、お望みの物が手にはいったからは、いっこくもご
猶予は無用、この場で
伊那丸を首にいたし、あの
鎖駕籠へは宝物のほうを入れかえにして、寸時もはやく
家康公へおとどけあるが
上分別とこころえます」
「おお、きょうのような
吉日はまたとない。いかにもこの場できゃつを
成敗いたそう、その
介錯もそちに命じる! ぬかるな!」
「はッ、心してつとめます」
梅雪の目くばせに、きッとなって立ちあがった
民部はすばやく
下緒を取って
襷となし、刀のつかにしめりをくれた。そのまに、二、三人の
郎党は、小船の
板子を四、五枚はずしてきて、
武田伊那丸の死の
座をもうけた。
「これこれ、せんこくの小娘もことのついでじゃ。そこへならべて、
民蔵の腕だめしにさせい。旅の一
興に見物いたすもよかろうではないか」
宮の
根もとにくくりつけられていた
咲耶子は、罪人のように追ったてられて、
板子のならべてあるとなりへすえられた。彼女は、もうすっかり覚悟を決めてしまったか、ほつれ髪もおののかせず、
白百合の花そのままな顔をしずかにうつむけている。
いっぽうでは、
鎧の音をさせて、ずかずかと迫っていった四
天王の面々が、例の
鎖駕籠のまわりへ集まり、乗物の上からかぶせてある鉄の
網をザラザラとはずしはじめた。
長い道中のあいだ日のめを見ることなく、乗物のうちにゆられてきた伊那丸は、いよいよ運命の最後を宣告され、
悪魔の
断刀をうけねばならぬこととなった。四
天王の
天野刑部は、ガチャリ、ガチャリと荒々しく
錠の音をさせて、
駕籠の引き手をグイとおし
開け、
「
伊那丸、これへでませいッ」と、涙もなく、ただの罪人でも呼びだすようにどなった。
が――
駕籠のなかは、ひっそりとして音もない。
「やい、伊那丸、さッさとこれへでてうせぬか」
猪子伴作は、次にこうわめきながら、駕籠の
扉口を
土足ではげしくけとばした。と、
足もとが、不意に軽くすくわれたので、伴作はあッといってうしろへよろめく。
すわ!
殺気はたちまちそこにはりつめた。
天野、
佐分利、
足助の三人は、
陣刀のつかを
握りしめつつ、
駕籠口へ身がまえた。
「おお夜が明けたようだ……」
つぶやく声といっしょに、伊那丸のすがたは、しずかにそこへあらわれた。じたばたすると思いのほか、落ちつきはらったようすに、四天王の者どもはやや
拍子ぬけがしたらしい。
「歩けッ」
左右からせきたてて、小船の
板子をしいた死の
座へ
伊那丸をひかえさせた。そして
床几にかけた
梅雪に
目礼をしてひきさがる。
「おッ、伊那丸さま――」
「あ! そなたは」
席をならべて伊那丸と
咲耶子は、たがいにはッとしたが、彼女は、せつなに顔をそむけ、なにげないようすをした。で伊那丸も、さまざまな
疑惑に胸をつつまれながら、
眸をそらして、こんどはきっと、
入道の顔をにらみつけた。――
梅雪もまけずに、
「こりゃ伊那丸、さだめし今まで
窮屈であったろうが、いますぐ
楽にさせてくれる。この世の見おさめに、泣くとも笑うとも、ぞんぶんに狂って見るがいい」
と、にくにくしい
毒口をたたいた。
「さて
大人気ない
武者どもよ――」
伊那丸は声もすずしくあざわらって、
「わしひとりの
命をとるのに、なんとぎょうぎょうしいことであろう。
冥土におわす
祖父信玄やその他の武将たちによい
土産話、
甲州侍のなかにも、こんな
卑劣者があったと笑うてやろう!」
「えい、口がしこいやつめ、
民蔵、
早々この
童の息のねをとめてしまえ!」
梅雪は、
号令した。
声におうじて、
「はッ」と、
武者ぶるいして立ちあがった
民部は、
伊那丸のうしろへまわって、ピタリと体をきめ、見る目もさむき
業刀をスラリと腰からひきぬいた。
「お
覚悟なさい!
太刀取りの
民蔵が君命によってみ
首はもうしうけた」
「…………」
覚悟――それは伊那丸にとっていまさらのことではない。かれは一
糸とりみだすさまもなく、観念の眼をふさいでいる。
正面の
梅雪入道をはじめ、四
天王以下の大衆も、かたずをのんで、民部の太刀と伊那丸のようすとを見くらべていた。
湖水の波も心あるか、
冷たい風を吹きおこして、松の
梢にかなしむかと思われ、
陽も雲のうちにかくされて、天地は一
瞬、ひそとした。
そのとき、民部の口からかすかな声。
「
八幡」
水もたまらぬ太刀をふりかぶッて、伊那丸の白い
頸をねらいすました。――と、そのするどい
眼気が、キラと動いたと見えた一瞬、
「ええいッ!」
武田伊那丸の首が落ちたかとおもうと、なにごとぞ、梅雪のまッこうめがけて、とびかかった
小幡民部、
「
悪逆無道の
穴山入道、
天罰の
明刀をくらえ!」
耳をつんざく声だった。
ふいをくった
梅雪は、ぎょうてんして身をさけようとしたが、ヒュッと、
眉間をかすめた
剣光に眼もくらんで、
「わーッ」
額の血しおを両手でおさえたまま、
床几のうしろへもんどり打ってぶッたおれた。
「
曲者」
愕然と、おどりあがった四
天王たち。同時に、その
余の
群猛も
渦をまいて、
「うぬッ、気が
狂ったかッ」
「
裏切者ッ――
退くな」
とばかり、一どに
総立ちになるやいなや、
民部の上へ、どッとなだれを打ってきた
剣の
怒濤。
梅雪入道は、みだれ立つ
郎党たちの足もとを、逃げまわりながら、
「曲者は
武田の
残党だッ。
伊那丸を逃がすなッ」
と
絶叫した。
民部はその姿をおって、
「おのれッ」
無二
無三に
斬りつけようとしたが、
佐分利五郎次にささえられ、じゃまなッ、とばかりはねとばす。そのあいだに、
天野、
猪子、
足助などが、
鉾先をそろえてきたため、みすみす
長蛇を
逸しながら、それと戦わねばならなかった。
いっぽう、民部にかかりあつまった
雑兵は、
伊那丸のほうへ、バラバラと、かけ集まったが、それよりまえに、
咲耶子が、腰の
縄を切るがはやいか、伊那丸の手をとって、
「若君。早く早く」
と、よりたかる
武者二、三人を斬りふせながらせきたてた。
とたんに
背なかから、一人の武者がかぶりついた。伊那丸は身をねじって、ドンと前へ投げつけ、かれのおとした陣刀をひろいとるがはやいか、近よる一人の足をはらって、さらに、咲耶子へ
槍をつけていた武者を斬ってすてた。
すべては一
瞬の
間だった。
伊那丸じしんですら、じぶんでどう動いたかわからない。
穴山がたの
郎党も、たがいに目から火をだしての
狼狽だった。そして白熱戦の一瞬がすぎると、だれしも
命は
惜しく、八ぽうへワッと飛びのく。――
ひらかれた中心にあるのは、伊那丸と咲耶子とである。二人は背なかあわせに立って、血ぬられた陣刀と
懐剣を二方にきっとかまえている。
目にあまるほどの敵も、
うかと近よる者もない。ただわアわアと
武者声をあげていた。すると、あなたから加勢にきた四
天王の
足助主水正。
「えい、これしきの敵にひまどることがあろうか」
大身の
槍に行き足つけて、
伊那丸の真正面へ、タタタタタッ、とばかりくりだした。
伊那丸の身は、その
槍先に
田楽刺しと思われたが、さッとかわしたせつな、槍は伊那丸の胸をかすって流るること四、五尺。
「あッ」
片足を
宙にあげてのめりこんだ主水正、しまッたと槍をくりもどしたが、時すでに、ズンとおりた伊那丸の
太刀に千
段を切りおとされて、
無念、手にのこったのは
穂をうしなった半分の
柄ばかり。
「やッ」
捨鉢に柄を投げつけた。そして陣刀をぬきはらったが、たびたびの血戦になれた伊那丸は、とっさに咲耶子と力をあわせ、いっぽうの
雑兵をきりちらして、
湖畔のほうへ
疾風のようにかけだした。
そこには、
白旗の
宮のまえから、追いつ追われつしてきた
小幡民部が、
穴山の
旗本雑兵を八面にうけて、今や
必死に
斬りむすんでいる。
しかし、
小幡民部は、こうした
斬合はごく
不得手であった。
太刀をもって人にあたることは、かれのよくすることではない。
けれど、
軍配をもって
陣頭に立てば、
孫呉のおもかげをみるごとくであり、
帷幕に計略をめぐらせば、
孔明も三
舎を避ける小幡民部が、
太刀打ちが
下手だからといっても、けっしてなんの恥ではない。かれの
偉さがひくくなるものではない。民部の
本領はどこまでも、
奇策無双な軍学家というところにあるのだから。
だが、それほど
智恵のある民部が、なんで、こんな苦しい血戦をみずからもとめ、みずから不得手な太刀を持って斬りむすぶようなことをしたのであろう。なぜ、もっといい機会をねらって、らくらくと
伊那丸を
救わないのか。
民部ははじめ、こう考えた。
穴山梅雪の
領内、甲州
北郡の土地へはいってからでは、伊那丸を助けることはよういであるまい。これはなんでも途中において目的をはたしてしまうのにかぎる。――でかれは、出発にさきだって
鞍馬の
果心居士、
小太郎山の
龍太郎、
小文治などの
同志へ
通牒をとばしておいた。
ところが、
裾野へかかってきた第一日に、
咲耶子という意外なものがあらわれた。かれは少女のふしぎな行動を見て、ははアこれは
伊那丸君を救おうという者だナ、と直覚したが、なにしろ、梅雪の
警固には、四
天王をはじめ、手ごわい
旗本や
郎党が百人近くもついているので、あくまで
入道をゆだんさせるため、奇計をもって
咲耶子を生けどり、なお、心ひそかに、待つ者がくるひまつぶしに、この湖水までおびきよせたのだ。
ところが、
民部の心まちにしている人々は、いまもってすがたが見えない。――で、いまは最後の手段があるばかりと、途中で咲耶子にもささやいておいたとおりな、
驚天動地の火ぶたを切ったのである。
致命傷にはなるまいが、
怨敵梅雪へは、たしかに
一太刀手ごたえをくれてあるから、このうえはどうかして、一ぽうの血路をひらき、
伊那丸君をすくいだそうと民部は心にあせった。しかし、まえにも、いったとおり、
剣を持っては
万夫不当のかれではないから、
無念や、そこへ追われてきた伊那丸と咲耶子のすがたを見ながら、四
天王の天野、猪子、佐分利などにささえられて近よることもできない。
それどころか、いまは民部のじぶんがすでにあぶないありさま。
天野刑部は
月山流の
達者とて、
刃渡り一
尺四
寸の
鉈薙刀をふるって
りゅうりゅうとせまり、
佐分利五郎次は陣刀せんせんと
斬りつけてくる。その一人にも当りがたい民部は、はッはッと火のような息を
吐きながら、受けつ、逃げつ、かわしつしていたが、一ぽうは
湖、だんだんと波のきわまで追いつめられて、もうまったく
袋のねずみだ、
背水の陣にたおれるよりほかない。
「よしッ、もうこのほうはひきうけた。
猪子伴作は伊那丸のほうへいってくれ」
「おお
承知した」
天野刑部の声にこたえた
伴作は、
笹穂の
槍をヒラリと返して、一ぽうへ加勢にむかった。ところへ、いっさんにかけだしてきたのは
伊那丸と
咲耶子、そうほうバッタリと出会いながら、ものをいわず七、八
合槍と太刀の
秘術をくらべて斬りむすんだが、たちまち、うしろから
足助主水正、その他の
郎党が嵐のような勢いで殺到した。
あなたでは
民部の苦戦、ここでは伊那丸と咲耶子が、
腹背の敵にはさみ討ちとされている。二ヵ所の
狂瀾はすさまじい
旋風のごとく、たばしる
血汐、
丁々ときらめく
刃、目も
開けられない
修羅の血戦。
三つの命は
刻々とせまった。
そのころから、
秀麗な富士の
山肌に、一
抹の
墨がなすられてきた、――と見るまに、黒雲の
帯はむくむくとはてなくひろがり、やがて風さえ生じて、
澄みわたっていた空いちめんにさわがしい色を
呈してきた。
雲団々、
陽はたちまち暗く、たちまち、ぱッと明るく、明暗たちどころにかわる空の変化はいちいち
下界にもうつって、
修羅のさけびをあげている
湖畔の
渦は、しんに
凄愴、
極致の
壮絶、なんといいあらわすべきことばもない。
おりしもあれ!
はるか湖水の南岸に、ポチリと見えだした一点の人影。
画面点景の
寸馬豆人そのまま、人も小さく馬も小さくしか見えないが、たしかに流星のごときはやさで
湖畔をはしってくる。それが、空の明るくなった時はくッきりと見え、
陽がかげるとともに、
暗澹たる
蘆のそよぎに見えなくなる。
そも何者?
おお、いよいよ
奔馬は近づいてきた。しかもそれは一
騎ではない。あとからつづくもう一騎がある。
いや、さらにまた一騎。
まさしくここへさしてくる者は三騎の勇士だ。そのはやきこと
疾風、その軽きことかける
天馬かとあやしまれる。
わーッ、わーッと
湖畔にあがったどよみごえ。
さては
伊那丸がとらえられたか、
咲耶子が斬られたか、あるいは、
小幡民部がたおれたのであろうか。
いやいや、そうではなかった。――
一声たかくいなないた
駒のすがたが、
忽然とそこへあらわれたがため。
まッ先におどりこんできたのは、高尾の
神馬、
月毛の
鞍にまたがった
加賀見忍剣、例の
禅杖をふりかぶって
真一文字に、
「やあやあ、お心づよくあそばせや
伊那丸さま! 加賀見忍剣、ただいまこれへかけつけましたるぞッ。いでこのうえは
穴山一
族のヘロヘロ
武者ども、この忍剣の
降魔の禅杖をくらってくたばれ!」
天雷くだるかの
大音声。
むらがる
剣を雑草ともおもわず、押しかかる
槍ぶすまを
枯れ木のごとくうちはらって、
縦横無尽とあばれまわる
怪力は、さながら
金剛力士か、
天魔神か。
時をおかず、またもやこの一
角へ、どッと
黒鹿毛の
馬首をつッこんできたのは、これなん
戒刀の名人
木隠龍太郎、つづいて、
朱柄の
槍をとっては
玄妙無比な
巽小文治のふたり。
紫白の
手綱を、
左手に引きしぼり、
右手に使いなれた
無反りの一
剣をひっさげた龍太郎は、声もたからかに、
「それにおいであるのは
小幡民部殿か。木隠龍太郎、
小太郎山よりただいまご
助勢にかけむかってまいったり。
木ッ
葉武者どもは、
拙者がたしかに引きうけもうしたぞ」
黒鹿毛の
蹄をあげて、
無二
無三にかけちらしながら、はやくも
鞍上の高きところより、右に左に、
戒刀をふるって
血煙をあげる。
「いかに
穴山入道はいずれにある。巽小文治が
見参、
卑劣者よ、いずれにまいったか」
十
方自在の
妙槍をひッ
抱え、馬に
泡をかませながら、乱軍のうちを
血眼になって走りまわっていたのは小文治である。
「うぬ、小ざかしい、いいぐさ」
その姿をチラと見て、まッしぐらにかけよってきた四
天王の
猪子伴作は
怒喝一番、
「
素浪人ッ」
さッと下から
笹穂の
槍を突きあげた。
「おうッ」と横にはらって返した
朱柄の
槍。
人交ぜもせずに、一
騎打ちとなった
槍と
槍は、
閃光するどく、上々下々、
秘練を戦わせていたが、たちまち、
朱柄の
槍さきにかかって、
猪子伴作は
田楽刺しとなって、草むらのなかへ投げとばされた。
と、
白旗の
宮の
裏から、よろばいだした
法師武者がある。こなたの
混乱に乗じて、そこなる馬に飛びつくや
否、死にものぐるいであなたへむかって走りだした。
オオそれこそ、さきに一太刀うけて、さわぎのうちにどこかへもぐりこんでいた
梅雪入道ではないか。
「やッ、きゃつめ!」
こなたにあって、
天野刑部の
大薙刀と渡りあっていた
木隠龍太郎は、
奮然と、刑部を一刀の
下に
斬ってすて、梅雪の
跡からどこまでも追いかけた。
ピシリ、ピシリ、ピシリ!
戒刀の
平を
鞭にして追いとぶこと一
町、二町、三町……だんだんと近づいて、すでに敵のすがたをあいさることわずかに十七、八
間。
すると、何者が切ってはなしたのか、梅雪の馬のわき腹へグサと立った一本の矢、いななく声とともに、人もろとも馬はどうと
屏風だおれとなった。
行く手の丘に小高いところがあった。そこの松の
切株の上に立っていたひとりの
武芸者は、いななく馬の声をきくと、弓を小わきに持ってヒラリと飛びおりてきた。
征矢にくるった馬の上から、もんどり打っておとされた
穴山梅雪は、
朱にそんだ身を草むらのなかより起すがはやいか、
無我夢中のさまで、道もない
雑木帯へ逃げこんだ。
しずかなること一
瞬、たちまち、パパパパパパパッ! と地を打ってきた
蹄鉄のひびき、
天馬飛空のような勢いをもって乗りつけてきたのは
木隠龍太郎である。
怨敵梅雪が道なきしげみへ
逃げこんだと見るや、ヒラリと
黒鹿毛を乗りすてて
右手なる
戒刀を引ッさげたまま、
「
卑怯なやつ、未練なやつ、一国の
主ともあろうものが
恥を知れや、かえせ梅雪! かえせ梅雪!」
と
呼ばわりながら、身を
没するような
熊笹のなかを追いのぼっていった。
だが、梅雪のほうはそれに耳をかすどころでなく、
命が助かりたいの一心で、丘のいただき近くまでよじのぼってくると、不意に目の前へ、
猿かむささびか
雷鳥か、上なる岩のいただきから一
足とびにぱッととびおりてきたものがある。
「あッ」
おびえきっている梅雪の心は、ふたたびギョッとして立ちすくんだけれど、ふと
驚異のものを見なおすとともに、これこそ
天来のすくいか、
地獄に
仏かとこおどりした。それはたくましい
重籐の弓を小わきに持った若い、そしてりんりんたる
武芸者であるから。
梅雪は
本能的にさけんだ。
「おおよいところで!
余は甲州
北郡の
領主穴山梅雪じゃ、いまわしのあとより追いかけてくる
裾野の
盗賊どもを防いでくれ、この
難儀を
救うてくれたら、千
石二千
石の旗本にも取り立て得させよう。いいや恩賞は望みしだい!」
「さては遠くから見た目にたがわず、そのほうが穴山梅雪入道か」
「かかる姿をしているからとて疑うな、
余がその梅雪にちがいないのじゃ、そちが一生の
出世の
蔓は、いまとせまったわしの
危急を
救ってくれることにあるぞ」
「だまれ、やかましいわいッ」わかき
武芸者は、その
頬ぺたをはりつけんばかりにどなりつけて、
「音にひびいた甲州の悪入道。よしやどれほどの
宝を
捧げてこようと、なんで
汝らごとき
犬侍のくされ
扶持をうけようか、たいがいこんなことであろうと、
汝の
逃足へ遠矢を
射たのはかくもうすそれがしなのだ」
「げッ、さてはおのれも」
絶望、
驚愕、
憤怒!
奈落へ突きのめされた梅雪は、あたかも
虎穴をのがれんとして、
龍淵におちたような
破滅とはなった。もうこのうえはいちかばちか、
命はただそれ自分をたのむことにあるのみだ。
「うーム。ようもじゃま立てをいたしたな!
老いたりといえども
穴山梅雪、その
素ッ首をはねとばしてくれよう」
「ハハハハハハ、
片腹いたい
臆病者の
たわ言こそ、あわれあわれ、もう
汝の天命は、ここにつきているのだ、男らしく観念してしまえ」
「エエ、いわしておけば」
死身の勇を
奮いおこした梅雪の手は、かッと、陣刀の
柄に鳴って、あなや、
皎刀の
鞘ばしッて飛びくること六、七
尺! オオッとばかり、
武芸者のまッこうのぞんで斬り下げてきた。
「
笑止や、
蟷螂の
斧だ」
ニヤリと笑った若き武芸者は、さわぐ
気色もなく身をかわして、
左手に持った弓の
弦がヒューッと鳴るほどたたきつけた。
「あッ」と梅雪は二の太刀を狂わせ、
熊笹の根につまずいてよろよろとした。
「老いぼれ」
すかさずその
襟がみをムズとつかんだ武芸者は、その時ガサガサと丘の下からかけあがってくる
木隠龍太郎の
姿をみとめた。
「あいや、それへおいであるのは、
武田伊那丸君のお
身内でござらぬか」
「オオ!」
びっくりして、高き岩頭をふりあおいだ龍太郎は、見なれぬ
武芸者のことばをあやしみながら、
「いかにも、伊那丸さまのお
傅人、木隠龍太郎という者でござるが、もしや、
貴殿は、このなかへ逃げこんだ血まみれなる
法師武者のすがたをお見かけではなかったか」
「その入道なれば、わざわざこれまでお登りなさるまでもないこと」
「や! では、そこにおさえているやつが?」
「オオ、
山県蔦之助が伊那丸君へ、
初見参のごあいさつがわりに、ただいまそれへおとどけもうすでござろう」
いうかと思えば、若き武芸者――それはかの
近江の住人山県蔦之助――カラリと左手の弓を投げすてて、
梅雪入道の体に
双手をかけ、なんの苦もなくゆらッとばかり目の上にさしあげて、
「それ、お受けあれや龍太郎どの!」声と一しょに梅雪の体を、
丘の下へ、投げとばしてきた。
スポーンと
紅葉の
茂りへおちた
梅雪のからだは、

のごとくころがりだして、土とともに、ゴロゴロと
熊笹の
崖をころがってきた。
龍太郎は、心得たりと引ッつかんで、さらに上なる人をあおぎながら、
「
山県蔦之助どのとやら、まことにかたじけのうござった。そもいかなるお人かぞんじませぬが、おことばに甘えて
初見参のお
引出もの、たしかにちょうだいつかまつった。お
礼は
伊那丸さまのご前にまいったうえにて」
「
拙者もすぐあとよりつづきますゆえ、なにぶん、君へのお引合わせを」
「
委細承知、はや、まいられい!」
ヘトヘトになった梅雪を小わきにかかえた龍太郎は、さっき乗りすててきた
駒のところへと、いっさんにかけおりていった。
と、同時に、上からも
身軽にヒラリヒラリと飛びおりてきた蔦之助。
龍太郎は、
黒鹿毛にまたがって、
鞍壺のわきへ、梅雪をひッつるし、
一鞭くれて走りだすと、山県蔦之助も、
遅れじものと、つづいていく。
一ぽう、
白旗の
宮の前では、
穴山の
郎党たちは、すでにひとりとして影を見せなかった。そこには
凱歌をあげた
忍剣、
小文治、
民部、
咲耶子などが、あらためて、伊那丸を宮の
階段に腰かけさせ、無事をよろこんでほッと一息ついていた。人々のすがたはみな、
紅葉を
浴びたように、点々の
血汐を
染めていた。勇壮といわんか
凄美といわんか、あらわすべきことばもない。
なかでも
忍剣は、疲れたさまもなく、なお、
綽々たる
余裕を
禅杖に見せながら、
「
木ッ
葉武者はどうでもよいが、
当の敵たる
穴山入道を
討ちもらしたのは、かえすがえすもざんねんであった。いったいきゃつはどこにうせたか」
「たしかにここで
拙者が一太刀くれたと思いましたが」
と
小幡民部も、
無念なていに見えたけれど、
伊那丸はあえて、もとめよともいわず、かえって、みなが気のつかぬところに注意をあたえた。
「それはとにかく
龍太郎のすがたが、このなかに見えぬようであるが、どこぞで、
傷手でもうけているのではあるまいか」
「お、いかにも龍太郎どのが見えぬ」
一同は入りみだれて、にわかにあたりをたずねだした。すると、
咲耶子は耳ざとく
駒の
蹄を聞きつけて、
「みなさまみなさま。あなたからくるおかたこそ龍太郎さまにそういござりませぬ。オオ、なにやら
鞍わきにひッつるして、みるみるうちにこれへまいります」
「や! ひッさげたるは、たしかに人」
「
穴山梅雪?」
「オオ、梅雪をつるしてきた」
「
龍太郎どの
手柄じゃ、でかしたり、さすがは
木隠」
口々にさけびながらかれのすがたを迎えさわぐなかにも、
忍剣は、ほとんど
児童のように
狂喜して、あおぐように手をふりながらおどりあがっている――と見るまに、それにもどってきた龍太郎は、どんと一同のなかへ
梅雪をほうりやって、
手綱さばきもあざやかに
鞍の上から飛びおりた。
「それッ」
待ちかまえていた一同の腕は、
期せずして、梅雪のからだにのびる。いまはいやも
応もあらばこそ、みにくい姿をズルズルと
伊那丸のまえへ引きだされてきた。
民部は、その
襟がみをつかんで、
「入道ッ、
面をあげろ」と、いった。
「むウ……ム、残念だッ」
穴山梅雪は
眉間を
一太刀割られているうえに、ここまでのあいだに、いくどとなく投げられたり
鞍壺にひッつるされたりしてきたので、この世の者とも見えぬ顔色になっていた。
「まて民部、
手荒なことをいたすまい」
もっともうらみ多きはずの伊那丸が、意外にもこういったので、民部も忍剣も、意外な顔をした。
伊那丸はしずかに、
階段からおりて、
梅雪入道の手をとり、宮の
板縁へ迎えあげて、礼儀ただしてこういった。
「いかに梅雪、いまこそ
迷夢がさめたであろう、わしのような少年ですら、
甲斐源氏を
興さんものと、ひたすら心をくだいているのに、いかにとはいえ、二十四将の一人に数えられ、
武田家の
血統でもある
其許が、あかざる慾のためにこのみにくき
末路はなにごと。それでも
甲州武士かと思えば情けなさに涙がこぼれる。いざ! このうえはいさぎよく自害して、せめて
最期を清うし、
末代未練の名を残さぬようにいたすがよい」
「ええうるさいッ」梅雪はもの狂わしげに首をふって、――「
余に
自害せいとぬかすか、バカなことを!」
「なんと、もがこうが、すでに天運のつきたるいま、のがれることはなるまいが」
「なろうとなるまいと、
汝らの知ったことか。こりゃ伊那丸、
縁からいえば汝の父
勝頼の
従弟、年からいっても
長上にあたるこの梅雪に、
刃を向ける気か、それこそ
人倫の大罪じゃぞ」
「それゆえにこそこのとおり、礼をただして迎え、自害をすすめ、本分をとげさせんといたすものを、さりとは
未練なことば」
「いや、もう聞く耳もたぬ」
「では、どうあっても自害せぬか」
「いうまでもない。余は
汝らの
命によって、死ぬわけがない。死ぬるのはいやだ!」
「アア、
救いがたき
卑劣者――」
伊那丸は空をあおいで
長嘆してのち、
「このうえはぜひもない……」とつぶやくのを聞いた
梅雪は、伊那丸の命令がくだらぬうち、
先をこして、やにわに
鎧どおしをひき抜き、
「
童ッ!
冥途の道づれにしてくれる」
猛然とおどりかかッて、伊那丸の
胸板へ突いていったが、ヒラリとかわして
凛々たる一
喝の
下。
「悪魔ッ」
パッと足もとをはらうと見るまに、五体をうかされた梅雪は、
板縁の上から
輪をえがいて下へ落とされた。
「
人非人、斬ってしまえッ!」伊那丸の命令一下に、
「はッ」
声におうじてくりだした
巽小文治の
朱柄の
槍、梅雪の体が地にもつかぬうちにサッと突きあげ、ブーンと一ふりふってたたき落とした。そこをまた
木隠龍太郎の一刀に、梅雪の首は、ゴロリと前に落ちた。
「それでよし、
死骸は湖水の底へ」
板縁に立って、伊那丸はしずかに目をふさいでいう。
折から
山県蔦之助もかけつけた。あらためて
伊那丸に
志をのべ、一同にも引きあわされて、一
党のうちへ加わることになった。
ポツリ、ポツリ、
大粒の雨がこぼれてきた。空をあおげば
団々のちぎれ雲が、南へ南へとおそろしいはやさで飛び、たちまち、灰色の湖水がピカリッ、ピカリッと走ってまわる
稲妻のかげ。
濛々たる白い
幕が、はるか
裾野の一
角から近づいてくるなと見るまに、だんだんに
野を消し、ながき
渚を消し、湖水を消して、はや目の前まできた。と思う間もあらせず、ザザザザザザザアーッと
盆をくつがえすという、文字どおりな
大雨の
襲来。
めでたく
穴山梅雪を
討ちとりはしたが、
離散して以来のつもる話もあるし、これからさきのそうだんもある折から、
爽快なる
大雨の襲来は、ちょうどいい
雨宿りであろうと、一同は、
白旗の
宮のあれたる
拝殿に入り、そして
伊那丸を中心に、しばらく
四方の物語にふけっていた。
武州高尾の
峰から、京は
鞍馬山の
僧正谷まで、たッた半日でとんでかえったおもしろい旅の
味を、
竹童はとても忘れることができない。
果心居士のまえに、
首尾よくすましたお使いの
復命をしたのち、その晩、
寝床にはいったけれども、からだはフワフワ雲の上を飛んでいるような心地、目には、
琵琶湖だの
伊吹山だの東海道の
松並木などがグルグル廻って見えてきて、いくら
寝ようとしても寝られればこそ。
「アアおもしろかったなア、あんな気持のいい思いをしたのは生まれてはじめてだ。お
師匠さまは意地悪だから、なかなか飛走の
術なんか教えてくれないけれど、おいらにクロという飛行
自在な友だちができたから、もう飛走の術なんかいらないや。それにしても今夜はクロはどうしているだろう……
天狗の
腰掛松につないできたんだけれど、あそこでおとなしく寝ているかしら、きっとおいらの顔を見たがって
啼いてるだろうナ。アアもう一ど、クロの
背なかへ乗ってどこかへ遊びにゆきたい……」
「
竹童竹童」となりの
部屋で果心居士の声がする。
「ハイ」
「ハイじゃあない、なにをこの夜中にブツブツ
寝言をいっている。なぜ早く寝ないか」
「ハイ」
竹童はそら
鼾をかきだしたが、心はなかなか休まらないで、いよいよ
頭脳明晰になるばかりだ。
「ハハア、竹童のやつめ、
鷲の背なかで旅をした
味をしめて、なにか心にたくらみおるな。よしよし
明日はひとつなにかでこらしておいてやろう」
いながらにして百里の先をも見とおす
果心居士の遠知の
術、となりの
部屋に寝ている
竹童のはらを読むぐらいなことはなんでもない。
とも知らず、夜が明けるか明けないうちに、
亀の
子のようにムックリ寝床から首をもたげだした竹童、
「しめた! お
師匠さまはあのとおりな
鼾、いくらなんでも寝ているうちのことは気がつくまい。どれ、今のうちにおいらの羽をのばしてこようか」
ほそっこい
帯をチョコンとむすび、例の
棒切れを腰にさして、ゆうべ食べのこした
木の
芽団子をムシャムシャほおばりながら、
猿のごとく
荘園をぬけだした。
そのはやいことは、さながら風!
空にはまだ有明けの月があった。あっちこっちの
岩穴からムクムクと白いものを
噴いている、
朝の
霧である。竹童のあわい影が
平地から
崖へ、
崖から岩へ、岩から
渓流へと走っていくほどに、足音におどろかされた
狼や
兎、山鳥などが、かれの足もとからツイツイと
右往左往に逃げまわる。
いつもの竹童ならば、こんな場合、すぐ狼を手捕りにする、兎を渓流のなかへほうりこむ。とてもいたずらをして道草するのだが、きょうはどうしてそれどころではない。なにしろこれからお
師匠さまの朝飯となるまでに、日本国じゅうの半分もまわってこようという勢いなのだから。
「やアどうしたんだろう、いない! いない!」
やがて、
瘤ヶ
峰のてッぺんにある、
天狗の
腰掛松の下にたった
竹童は、
素ッ
頓狂な声をだしてキョロキョロあたりを見まわしていた。
「おかしいな、きのうかえってから、この松の木の根ッこへあんな太い
縄でしばっておいたのに、どこへとんでッちゃったのだろう」
がっかりして、しばらくあっちこっちをうろうろした竹童は、とうとう目から
大粒の
涙をポロリポロリとこぼしながら、あかつきの空にむかって声いッぱい!
「クロクロクロクロ。クロクロクロクロクロ」
それでも影を見せてこないので、かれはグンニャリとなり、天狗の腰掛松へよりかかってしまったが、ふとこのあいだ
居士が
扇子をなげて
鷲を呼びよせた
幻術をおもいだし、
「よし、おいらもあの術をまねしてみよう」
竹童はもう目の色かえて一心である。
呪文はわからないが、腰の棒切れをぬき、一念こめて、エエイッと
気合を入れて
虚空へ投げる。
棒はツツツと空へ直線をえがいてあがった。
「やア、
奇妙奇妙」竹童は
嬉しさのあまり、手をたたき、踊りをおどって狂喜した。
と見る、谷をへだてたあなたから、とんでくるのはクロではないか、
間の
谷を、わずか二つ三つの羽ばたきでさっとくるなり、投げあげられた棒切れを、パクリとくわえて、かれのそばまで降りてきた。
竹童が
有頂天となったのもむりではない。
まもなく、かれはゆうべの夢を実行して、京から
大阪、大阪から
奈良の空へと遊びまわっている。町も村も橋も河も、まるで
箱庭のような
下界の地面がみるみるながれめぐってゆく。そのあげくに、ふと思いついたのは、おととい
忍剣のいったことばである。
「オオそうだ、なんでもきょうあたりは、
富士の
裾野に大そうどうがあるはずだ。おいらはまだ生まれてから
戦いというものをみたことがない。これから一つ裾野までとんでいって、勇ましいところを空から見物してやろう」
つねづね、
果心居士からよくお
叱言ばかりいただいているくせに、竹童はもう
鞍馬山へ帰るのもわすれて、こんな
大望をおこした。思いたっては、
矢も
楯もたまらないかれだった。すぐその足で、富士の
姿を目あてに
鷲をとばした。いかなる名馬で地を飛ぶよりも、こうして空中を自由に飛行する快味は、まるでじぶんがじぶんでなく、生きながら、神か
仙人になったような
愉快さである。――だが、ここまできたときとちがって、鷲はそれから先
一向竹童の自由にならない。富士の裾野とは
方角ちがいな、北へ北へと向かって、勝手に雲をぬってとぶ。
「やい、クロ。そんなほうへいくんじゃない、こらッ、こらッ、こらッ!」
竹童はあわてて、いくどもいくども、方向をかえようとしたが、さらにききめがなく、地上へもどらんとしても、いつものようにスラスラと
降りてもくれない。ああいったいこれはどうしたことだ。
「チェーッ、
畜生、畜生、畜生」
かれはクロの上でかんしゃくをおこし、じれだし、最後にベソをかきだした。
そもそも
今日は
竹童にとっていかなる
悪日か、ベソをかくことばかり突発する日だ。しかし、そう気がついてももうおそい、いくら泣いてもわめいても、
鷲に一身をたくして雲井の高きにある以上、クロの
翼がつかれて、しぜんに大地へ降りるのをまつよりほかはない。それはまだよかったが、泣き
面に
蜂、つづいておそるべき第二の大難が起ってきた。
すでに今朝から
陰険な
相をあらわしていた空は、この時になって、いっそうわるい気流となり、
雷鳴とともに密雲の
層はだんだんとあつくなって、
呼吸づまるような
水粒の
疾風が、たえず、さっさっとぶっつかってきた。
そして、
鷲が雲より低くいくときは、滝のごとき雨が竹童の頭からザッザとあたり、
上層の雲にはいるときは
白濛々の
夢幻界にまよい、
髪の毛も
爪の先も、氷となって折れるような
冷寒をかんじる。しかも、クロはこの
難行苦行にも
屈する色なく、なおとぶことは
稲妻よりもはやい。
すると
漠々たる雲の海から、黒い山脈の
背骨が
もっこりと見えだした。竹童はどうにかして、ここから降りようと
苦策を案じ、いきなり手をのばして
鷲の両眼をふさいでしまった。
人間でも目をふさいでは歩けないから、こうしてやったらきっと
止まるだろうという、
竹童が
必死の
名案、はたせるかな
鷲もおどろいたさまで、糸目のくるった
凧のようにクルクルッとめぐりまわりだした。かれの
計略が
図にあたって急に元気よく、
「もうこっちのものだぞ、しめた、しめた」
とよろこんだが、あわれそれも
束の
間。
たちまち鳴りはためいた
雷が、かれの耳もとをつんざいた一せつな、
下界にあっては、ほとんどそうぞうもつかないような
朱電が、ピカッピカッと、まつげのさきを
交錯したかと思うまもあらばこそ。
「あッ」
といった竹童のからだは、おそるべき
稲妻の
震力にあって、鷲の背なかからひッちぎられた、そしてまッさかさまとなって、いずことも知れぬ下へ一直線におちていくなと見る
間に――追いすがった鷲の
嘴は、いきなりパクリと竹童の
帯をくわえ、
わらか
小魚でもさらっていくように、そのまま、
模糊とした
深岳の一
角へ、ななめさがりにかけりだした。
「ア
痛、アイタタタッ……」
跛をひきながら、草むらよりころげだしたのは
竹童である。地上二、三十
尺のところまできて、ふいに
鷲の
嘴からはなされたのだ。
これが
尋常の者なら、
悩乱悶絶はむろんのこと、地に着かぬうちに死んでいるべきだが、
山気をうけた一種の
奇童、
三歳児のときから
果心居士にそだてられて、初歩の
幻術や
浮体の
秘法ぐらいは、多少心得ている竹童なればこそ、五体の骨をくだかなかった。
「オオ
痛い。クロの
野郎め、おいらがあんなにかあいがってやるのに、よくも恩人をこんな目にあわせやがッたな、アア
痛、
痛、
痛、
畜生畜生、どうするか覚えていろ!」
腰骨をさすりながら、ふと後ろをふりかえって見ると、なんとにくいやつ、すぐじぶんのそばに、すました顔で、
翼をやすめているではないか。
「けッ、
癪にさわる!」
竹童はいきなり
帯の
棒切れをひッこ
抜き、クロをねらってピュッと打ってかかる。と、鷲も猛鳥の
本性をあらわして、ギャッとばかり、竹童の頭から一つかみと
爪をさかだってきた。
「こいつめッ、
生意気においらにむかってくる気だな」
とかんしゃくすじを立てた勢いで、ブーンと棒を横なぐりにはらいとばすと、こはいかに、鷲の片足が、ムンズとのびて竹童の胸をつかみ、
「これ竹童、なにが生意気なのじゃ」とにらみつけた。
「あッ、あなたはお
師匠さま?」
さらぬだに目玉の大きい
竹童が、
瞳をみはってあきれ返った。なんと、
鷲とおもって打っていたのは、
鞍馬におるはずのお
師匠さま、
果心居士ではないか。
ふしぎ、ふしぎ。かれは天空から落ちたときよりぎょうてんして、からだを石のようにこわくさせ、口もきけず、逃げもできず、ややしばらくというもの、そこにモジモジとしていたが、ガラリと
棒切れをすてて、地べたへ
額をすりつけてしまった。
「お師匠さま。わたしがわるうござりました。どうぞごかんべんあそばしくださいまし」
「びっくりしたか、どうじゃ悪いことはできないものであろう」
居士は、ニヤリと笑って、足もとの岩へ腰をおろした。
「まったくこんな
胆をつぶしたことはございません。これからけっしてお師匠さまにむだんで遠くへまいりませんから、どうかおゆるしくださいまし」
「よしよし、
仕置はさんざんすんでいるのじゃから、もうこのうえのこごとはいうまい」
「エ、じゃアとんでくるうちに、あんな目にあわしたのもお師匠さまでしたか。エ、お師匠さま。どうして人間が鷲になんかになってとべるのでしょう?」
「ソレ、ゆるすといえばすぐにまた甘えてくる。さようなことはどうでもよい、おまえにはまた一ついいつけることがある。ほかでもないが、これから
富士の
人穴へいって、そこに住みおる
和田呂宋兵衛という
賊のかしらに会うのじゃ。しかし
容易なことでは、かれにうたがわれるから、あくまでおまえは子供らしく、いざとなったらかくかくのことをもうしのべろ……」
と
居士はあかざの
杖をもって、なにかこまごまと書いて示したりささやいたりして
旨をふくませたのち、
「よいか、そこで
呂宋兵衛が、うまうまとこちらのことばに乗ったとみたら、そくざに、五湖の
白旗の
宮におわす、
武田伊那丸君その
余のかたがたにおしらせするのじゃ、なかなか大役であるからばかにしないでつとめなければなりませんぞ」
「かしこまりました。ですけれどお
師匠さま」
「
鷲がいないというのであろう。いまほんもののクロを呼んでやるから、しばらくそのへんにひかえていなさい」
「ハイ」
竹童はそこでやっと落着いて、あたりの
景色を見直した。ところでここはいったいどこの何山だろう?
いま、さしもの
豪雨もやんで、空は
瑠璃いろに
澄んできたが、眼下ははてしもない雲の海だ。それからおしてもここはかなりの高地にちがいないが、この山そのものがあたかも
天然の一
城廓をなして、どこかに人工のあとがある。
すると、コーン、コーン、コーンと深いところで石でも切るような音。と思えば、ザザザザーッと谷をけずるような
響きもしてきた。竹童はこの深山に
妙だなと思いながら、なにごころなくながめまわしてくると、
天斧の
石門、
蜿々とながき
柵、谷には
桟橋、
駕籠渡し、話にきいた
蜀の
桟道そのままなところなど、すべてはこれ、
稀代な
築城法の
人工を加味した
天嶮無双な
自然城だ。
「これはすてきもないところだナ、いったいなんのためにこんな
砦があるのだろう」
竹童はふしぎな顔をして、もとのところへ帰ってきてみると、いつのまにか、ほんもののクロが
居士のそばにちゃんとひかえている。
「竹童、
早々したくをしていかねばならぬ。用意はできているか」
「ハイいつでもかまいません。けれどお
師匠さま、でがけにひとつうかがいたいことがございます」
「そんなことをいってるまに時刻がたつ」
「いいえ、たった
一言、いったいここはどこの何山で、だれのもっている
砦でございましょうネ」
「おまえなどは知らないでもいいことだが、お使いをする
褒美として聞かしてやろう。ここは
甲斐と
信濃と
駿河の
堺、山の名は
小太郎山」
「え、小太郎山」
「砦にこもる
御方はすなわち
武田伊那丸さまだ」
「えッ、ここがあの小太郎山で、伊那丸さまの立てこもる
根城となるのでございますか」
ふかいわけはわからないが、
竹童はそう聞いて、なんとなく胸おどり血わいて、じぶんも、
甲斐源氏の旗上げにくみする一人であるように
勇みたった。
富士の
裾野に、数千人の
野武士をやしなっていた
山大名の
根来小角は
亡びてしまった。しかし、
野盗の
巣である
人穴の
殿堂はいぜんとして、小角の
滅亡後にも、かわっている者があった。すなわち、
和田呂宋兵衛という
怪人である。
あれほどしたたかな小角が、どうして
亡されたかといえば、じぶんの腹心とたのんでいた呂宋兵衛にうらぎられたがため、――つまり
飼い
犬に手をかまれたのと同じことだ。
呂宋兵衛というのは、
仲間の
異名である。
かれは、
和田門兵衛という、長崎からこの土地へ流れてきた
南蛮の
混血児であった。右の腕には十
字架、左の腕には
呂宋文字のいれずみをしているところから、
野武士の
仲間では門兵衛を呂宋兵衛とよびならわしていた。また
碧瞳紅毛、
金蜘蛛のようなこの
魁偉な
容貌にも、呂宋兵衛の名のほうがふさわしかった。
呂宋兵衛は富士の
人穴へきてから、たちまち
小角の
無二の者となった。かれの父が、
南蛮人のキリシタンであったから、呂宋兵衛もはやくから
修道者となり、いわゆる、
切支丹流の
幻術をきわめていた。小角はそこを見こんで重用した。
しかし
根が
邪悪な呂宋兵衛は、たちまちそれにつけあがって
陰謀をたくらみ、
策をもって、小角を殺し、
配下の
野武士を手なずけ、人穴の
殿堂を完全に乗っ取ってしまった。
小角のひとり娘の
咲耶子は、あやうく父とともに、かれの
毒手にかかるところだったが、
節を
変えぬ七、八十人の野武士もあって、ともに
裾野へかくれた。そしていかなる苦しみをなめても、呂宋兵衛をうちとり、小角の
霊をなぐさめなければならぬと、毎日
広野へでて、
武技をねり、陣法の
工夫に
他念がなかった。
――その
健気な
乙女ごころを天もあわれんだものか、彼女はゆくりなくも、きょう
伊那丸と一
党の人々に落ちあうことができた。
かつて、伊那丸が人穴の殿堂にとらわれたときに、咲耶子のやさしい手にすくわれたことがある。いや、そんなことがなくっても、思いやりのふかい伊那丸と、
侠勇勃々たる一党の勇士たちは、かならずや、咲耶子の味方となることを
辞せぬであろう。
一ぽう、山大名の呂宋兵衛は
裾野へかくれた咲耶子の行動にゆだんせず、毎日十数人の
諜者をはなっている。
きょうも、途中雷雨にあって、ズブぬれとなりながら
野馬をとばして人穴へかえってきた三人の
諜者は、すぐ
呂宋兵衛のまえへでて、五湖のあたりにおこった急変を
注進した。
「おかしら、一大事でございます」
「なに、一大事だ」
身はぜいたくをしているが、心にはたえず不安のある呂宋兵衛は、
琥珀の
盃を手からおとし、さらに、
諜者のさぐってきたちくいち――
伊那丸と
咲耶子のうごきを聞くにおよんで、その顔色はいちだんと
恐怖的になった。
「むウ、ではなにか、武田伊那丸のやつらが、
穴山梅雪を
討ちとり、また湖水の底から
宝物の
石櫃を取りだしたというのか。あのなかの
御旗楯無は、とッくにこっちで入れかえて、売りとばしてしまったからいいようなものの、それと知ったら、伊那丸のやつも咲耶子も、一しょになってここへ押しよせてくることは
必定だ。こいつは大敵、ゆだんがならねえ、すぐ
手配りして、
要所要所を
厳重にかためろ」
立ちあがって、わめくようにいいつけた時、石門から取次ぎを受けた
野武士のひとりが、ばらばらと進んできて口ぜわしく、
「おかしらへ申しあげます。ただいま、一の門へ、穴山梅雪の
残党が二、三十人まいって、ぜひお願いがあるといってきましたが、どうしたものでございましょうか」
「穴山の残党なら、
湖畔で伊那丸のために討ちもらされた
落武者だろう。こんなときには、少しのやつも味方の
端だ。そのなかからおもだった者だけ二、三人とおしてみろ」
「
承知しました」
とひッ返した手下の者は、やがて、
殿堂の広間へ、ふたりの武士をあんないしてきた。
呂宋兵衛は上段の席から
鷹揚にながめて、
「
富士浅間の
山大名和田門兵衛は身どもでござるが、おたずねなされたご用のおもむきは?」
「さっそくのご会見、かたじけのうぞんじます。じつは
拙者は、
穴山の四
天王足助主水正ともうしまする者」
「また
某は、
佐分利五郎次でござる、すでにごぞんじであろうが、ざんねんながら、
伊那丸与党の
奸計にかかり、主君の
梅雪は
討たれ、われわれ四
天王のうちたる
天野、
猪子の両名まであえなき
最期をとげました」
「その
儀はいま、手下の者からもくわしくうけたまわった」
「主君のほろびたうえは、
甲斐へかえるも都へかえるも
詮なきこと、
追腹きって相果てようかと思いましたが、それも
犬死、ことによるべなき残り二、三十人の
郎党どもがふびんゆえ、それらの者を集めておとずれまいったしだい、どうぞ、われわれ両名をはじめ一同を、この
山寨におとめおきくださるまいか」
「オオ、それはそれはご心中おさっしもうす、武士は
相身たがい、かならずお力になりもうそう」
呂宋兵衛は、ひそかによろこんだ。
折もおり、いまのこの場合、二勇士が、場なれた
郎党を二、三十人も連れて、味方についてくるとはなんたる
僥倖、かれは
足助と
佐分利に客分の
資格をあたえ、下へもおかずもてなししたうえ、にわかに気強くなって、軍議の
開催をふれだした。
妖韻のこもった
鐘がゴーンと鳴りわたると、
鎧を着た者、
雑服の者、
陸続として軍議室にはいってくる。
そこは四面三十七
間、百二十
畳の
籐の
筵をしき、黒く太やかな
円柱左右に十本ずつの大殿堂。一ぽうの中庭からほのかな日光ははいるが、座中
陰惨としてうす暗く、昼から
短檠をともした赤い光に、ぼうと照らしだされた者は、みなこれ、
呂宋兵衛の腹心の
強者ぞろい。
「わらうべし、わらうべし、
乳くさい
伊那丸や
咲耶子などが、
烏合の小勢でよせまいろうとて、なにをぎょうぎょうしい軍議などにおよぼうか。
拙者に二、三百の者をおあずけくださるならば、ただひと押しにけちらしてみせようわ」
破鐘のような声でいう者がある。
見れば
山寨第一の
膂力、熊のごとき
髯をたくわえている
轟又八だった。すると一ぽうから、
軍謀第一のきこえある
丹羽昌仙がしかつめらしく、
「おひかえなさい
轟、敵をあなどることはすでに
亡兆でござるぞ。伊那丸は有名なる
信玄の孫、兵法に
精通、つきしたがう
傅人もみな
稀代の勇士ときく。すべからくこの
天嶮に
拠って、かれのきたるところを
策によって討つが
上乗」
「やアまた、
昌仙の
臆病意見、富士の
山大名ともある者が、あれしきの者に恐れをなしたといわれては、四
隣の国へもの笑い。これよりすぐに、五湖へまいって、からめ
捕るこそ、
上策」
「いや小勢とはいいながら、かれは
智あり
仁あり勇ある者ども。平野の
戦はあやうし、あやうし」
「くどい、
拙者はどこまでも
討ってでる」
「だまれ
轟、まだ
衆議も決せぬうちに、
僭越千万な」
両名の争論につづいて、一
統の意見も
二派にわかれ、座中なんとなく騒然としてきたころ――
これまた何たる
皮肉! 空から中庭のまん中へ、ズシーンとばかり飛び降りてきた、
雷獣のような一個の
奇童がある。
「や!」
「あッ」
「なにやつ?」
あまりのことに一同は、しばらく
開いた口もふさがらず、ヒョッコリ庭先にたった、
面妖な子供をみつめるのみ。子供とはいうまでもない
竹童で、人見知りもせず、ニヤリと白い歯を見せた。
「やア、この
人穴には、ずいぶんお
侍が大勢いるんだなあ。おじさんたちは、いったいそこでなにをしているんだい」
「バカッ」
いきなり
革足袋のままとびおりた
轟又八、
竹童の
襟がみをおさえて、
「こらッ、きさまは、どこの
炭焼きの
餓鬼だ、またどこのすきまからこんなところへしのびこんでまいった」
「しのびこんでなんかきやしないよ、アア苦しいや、苦しいよ、おじさん……」
「ふざけたことをぬかせ、しのびこまずにこらるべきところではない」
「だっておいらは空からおりてきたんだもの、空はいきぬけだから、ツイきてしまったんだよ」
「なに、空から? ――」
人々は思わず、
物騒らしい顔を空にむけた。
そして、再び奇怪なる少年の姿を見なおし、こいつ
天狗の
化身ではあるまいかと、
舌をまいた。はるかにながめた、
呂宋兵衛は、
「これこれ
又八、とにかくふしぎな
童、おれが
素性をただしてみるから、これへ引きずってこい」
「はッ」と、又八は、かるがると竹童をひッつるして席へあがり、呂宋兵衛のまえへかれをほうりだした。
なみいる人々は、鬼のごとき
武骨者ばかりで、あたりは
大伽藍のような
暗殿である。
大人にせよ、この場合、生きたる心地はなかるべきだが、
竹童はケロリとして、
「ヤ、
呂宋兵衛は
混血児だ。京都の
南蛮寺にいるバテレンとそっくり……」
口にはださないがめずらしそうに目をみはったので、呂宋兵衛は、
「
小僧ッ」とにらんで、一
喝あびせた。
「なんだい、おいらにゃ、竹童っていう名があるんだよ」
「だまれ、さっするところそのほうは、
伊那丸からはなされた
隠密にちがいない、思うに、屋根の上にいて、ただいまの
評定をぬすみ聞きしたのであろう」
「知らない知らない。おいらそんなことを知ってるもんか」
「いいや、
汝の眼光、
樵夫や
炭焼きの小僧でないことはあきらかだ。いったい何者にたのまれてここへまいった。首の飛ばないうちにいってしまえ!」
「おいらが隠密なら、おじさんたちに、すがたなど見せるものか、おいらは、
天道さまのまえだろうが、どこだろうが、ちっともうしろ暗いところがないから、平気さ」
「うーム、まったくそれにそういないか」
「アア。そこになるとおじさんたちはかわいそうだね、もぐらみたいに明るいところをいばって歩けない商売だから、おいらみたいな、
ちびが一ぴきとびこんでも、その通りびくびくする」
不敵な
竹童の
面がまえを、じッとみつめていた
呂宋兵衛は、ことばの
糺問は
無益と知って、口をつぐみ、
黙然と右手の人さし指をむけ、
天井から竹童の頭の上へ線をかいた。
「おや」
と竹童が、なにやらさわるものに手をやると、上より一すじ
絹糸のようなものがたれ、
襟くびから手にはいまわってきたのは一ぴきの
金蜘蛛だった。
キャッというかと思えば、竹童はニッコリ笑っていきなり、蜘蛛を
鷲づかみにし、あんぐり口のなかへほおばって、ムシャムシャ
噛みつぶしてしまったようす。
「む、む……」と、呂宋兵衛はいよいよゆだんのない目で、かれの一
挙一動をみまもっていると、竹童は
唇をつぼめて、
噛みためていたなかのものを、
「プッ――」と呂宋兵衛の顔を目がけて吹きつけた。
――その口からとびだしたのは、きたないかみつぶしではなくて、美しい一
羽の
毒蝶、ヒラヒラと
毒粉を散らした。
「エイッ」
呂宋兵衛が
扇をもって打ちおとせば、
蝶の
死骸はまえからそこにあった一
片の白紙に返っている。
「わかった、きさまは
鞍馬山の
果心居士の
弟子だな」
「だから、竹童という名があるといったじゃないか」
「さてこそ、ものにおどろかぬはず、しかし有名なる
果心居士の
弟子が、
富士の
殿堂と知らずに、くるわけがない、なんのご用か、あらためて聞こうではないか」
「ムム、そう
尋常におっしゃるなら、わたくしもお
師匠さまから受けたお使いのしだいをすなおに話しましょう」
「では、果心先生から、この
呂宋兵衛へのお使いでござるか」
「そうです。さて、お師匠さまのお伝えというのは、きょうなにげなく
鞍馬から富士のあたりをみましたところ、いちまつの
殺気が立ちのぼって、ただならぬ戦雲のきざしが
歴々とござりました。あらふしぎ、いま天下
信長公の
亡きのちは、西に
秀吉、東に
徳川、
北条、
北国に
柴田、
滝川、
佐々、前田のともがらあって、たがいに、
中原を
狙うといえども、いずれも
満を
持してはなたぬ
今日、そも何者がうごくのであろうかと、ご
承知でもござりましょうが、先生、ご
秘蔵の
亀卜をカラリと投げて
占われました」
「オオ」
呂宋兵衛はもとより、なみいる
猛者どもも、この
奇童のよどみなき
弁によわされてしわぶきすらたてず、ひろき殿堂は、人なきようにシーンと静まりかえってしまった。
竹童は、ここでいささか
得意気に、ちいさな体をちょこなんとかしこまらせ、
両肱をはって、ことばをつぐ。
「お
師匠さまがつらつら
亀卜の
卦面を案じまするに、すなわち、――
富岳ニ
鳳雛生マレ、五
湖ニ
狂風生ジ、
喬木十
悪ノ
罪ヲ
抱イテ
雷ニ
裂カル――とござりましたそうです」
「なになに?
喬木、
雷に
裂かると
易にでたか」
呂宋兵衛の顔色土のごとく変るのを見て、
竹童は手をふりながら、
「おどろいてはいけません、それは
穴山梅雪の身の上でした。ところで、
裏をかえして見ますると、つまり裏の
卦、
参伍綜錯して六十四
卦の
変化をあらわします。これによって結果を考えましたところ、
今夕酉の
下刻から
亥の刻のあいだに、昼よりましたおそろしい大血戦が
裾野のどこかで起るということがわかりました」
「むウ、それはあたっていた。して、勝負の結果は」
「さればでござります。にわかにわたくしが
鷲にのってまいったのもそのため、残念ながらあなたの
命は、こよい
乾の星がおつるとともに、
亡きかずに入り、腹心のかたがたもなかば以上は、あえない
最期をとげることとなるそうでござります。これを、
層雲くずれの
凶兆ともうしまして、
暦数の運命、ぜひないことだと、お師匠さまも
吐息をおもらしなさいました」
「えッ、なんといった。しからば呂宋兵衛のいのちは、こよいかぎり腹心のものも大半はほろぶとな?」
「そうおっしゃったことはおっしゃいましたが、ここに一つ、たすかる
秘法があるのです。お
師匠さまは、わたくしにその
秘法をさずけ、あなたに会って、あることと
交換にして教えてこい、だが、
呂宋兵衛はずるいやつゆえ、もしも、こっちできくことをちゃんと答えなかったら、なんにもいわずに逃げてこい――といいつかってまいりました」
「待てまて、たずねることがあらば、なんでも答えるほどに、その
層雲くずれの
凶兆を
封じる秘法をおしえてくれ」
「ですから、まずわたくしのほうのたずねることからお答えくださいまし」
「よし、なんでも問うてみるがいい」
「ではおききもうします」
と、
竹童はやおらひと
膝のりだし、
「湖水のそこに沈めてありました
石櫃をあげて、なかにあった
御旗楯無の
宝物をすりかえたのはたしかにあなた――これはお師匠さまも遠知の
術でわかっております。されどその宝物を、あなたはだれにわたしましたか、または、この
山寨のうちにあるのですか。ききたいのはつまりそのこと一つです」
呂宋兵衛は、心中すくなからずおどろいた。
果心居士といえば、京で有名な
奇道士だが、まさか、これまでに自分のしたことを知っていようとは思わなかった。それほどの道士なれば、竹童のことばもほんとうにそういないだろうし、ひそかに湖水からすりかえてうばった宝物は、いまでは手もとにないのだから打ち明けたところで、こっちに
損得はない――と思った。
「そんなことならたやすいこと、いかにもあきらかに答えてやろう。だが……」
と
呂宋兵衛が
武士だまりの者へ、チラとめくばせをすると、バラバラと立ちあがったふたりの
荒くれ武士が、いきなりムンズと
竹童の左右から
両腕をねじ押さえた。
「ア、おじさんたちはおいらをどうするんだい!」
「いやおこるな、竹童。こっちのいうことだけ聞いて逃げられぬ用心。そうしていても耳はきこえようからよく聞けよ。
御旗楯無の
宝物は、ここにいる
轟又八に京へ持たせて、いまはぶりも金まわりもよい
羽柴秀吉に
金子千
貫で売りとばした。それゆえ、いまの
持主は
秀吉、この
山寨には置いてない。さ、このうえは
果心先生からおさずけの
秘法をうけたまわろう」
「たしかにわかりました。では先生の
秘法をおさずけもうします。そもそも
層雲くずれの
大難は、どんな名将でものがれることのできぬものでござりますが、その難をさけるには、まず夜の
酉から
亥のあいだに、四里四方けがれのない平野へでて、ふだんの
護り神をおがみ、
壇をきずいて
霊峰の水をささげます。――次に、おのれの生年月日をしたためて、
人形の紙をみ
神光で焼くこと七たび、かくして、十
方満天の星をいのりますれば、
兇難たちどころに
吉兆をあらわして、どんな大敵に
遭いましょうとも、けっしておくれをとるということがありません」
呂宋兵衛は、
怪力もあり
幻術にも
長じているが、
異邦人の血のまじっている
証拠には、戦いというものに対して、すこぶる考えがちがう。それに
修道者でもあっただけに、
迷信にとらわれやすかった。
つまりかれがもっているいちばんの弱点に、うまうまと
乗じられた
呂宋兵衛は、まったく
竹童の
言に
惑酔して
穴山の
残党がなんといおうと、
轟や
昌仙のやからが
疑わしげに反省をもとめても、
頑としてきかず、秘法の星まつりを行うべく、手下の
野武士に
厳命した。
ために、軍議はしぜんと、夜に入って四里四方けがれなき平野に、その式をすましたうえ、出陣ときまってしまった。
その用意のものものしいさわぎのなかで、
有卦に
入っていたのは
竹童だ。
別間でたくさんな
馳走をされ、
鞍馬では食べつけない珍味の数々を、
箸と
頤のつづくかぎりたらふくつめこみ、さて、例の
棒切れ一本さげて、
飄然とここを
辞してかえる。
さしも、はげしかった昼の雷雨に、乱雲のかげは、落日とともに
澄みぬいていた。西の
甲武連山は
茜にそまり、東
相豆の海は無限の
紺碧をなして、天地は
紅と
紺と、光明とうす
闇の二色に分けられ、そのさかいに
巍然とそびえているのは、
富士の
白妙。
――すると、この夕方を、
人穴から上へ上へとはいあがっていく豆つぶ大の人影が見えた。それはどうも竹童らしい。見るまに、二
合目の下あたりから
鷲にのって、おともなく五
湖のほうへとび去った。
富士の二
合目をはなれ、いっきに、五湖の水明かりをのぞんで飛行していた
竹童は、夜の空から
小手をかざして、しきりに、
下界にある
伊那丸主従のいどころをさがしている。
「オオ暗い、暗い、暗い。天もまッ暗、地もまッ暗。これじゃいったいどこへ
降りていいんだか、お月さまでもでてくれなきゃア、けんとうがつきあしない」
大空で
迷子星になった竹童は、例の、寝るまもはなさぬ
棒切れを
右手にもち、左の手を目のはたへかざして、
鷲の上から、
「オオーイ、オオーイ」と、とうとう声をはりあげて呼びだした。
しかし、竹童の声ぐらいは、竹童じしんが乗っている鷲の
羽風に
消しとばされてしまった。そのかわり、人ではないが、はるかな地上にあたって、馬のいななくのが高く聞えた。
「おや、馬のやつが
返辞をしたぞ」
と、つぶやいたが、その竹童のかんがえはちがっている。動物は動物にたいして敏感であるから、いま、下のほうでいなないた馬は、ここにさしかかってきた
闇夜飛行の怪物の影に、おどろいたものにそういない。
けれど
竹童は、馬が答えたものと信じて、いきなり、棒切れをピューッと下へふった。と、クロはたちまち身をさかしまにして、ツツツツ――と
木の
葉おとしに
降りていく。
「あ、ここはどこかのお宮の庭だな……」
鷲からおりて、しばらくそのあたりをあるいていた竹童は、やがて、
拝殿からもれるほのあかりをみとめ、そッと
忍びよってみると、たしかに六、七人のささやき声がする。
「いた!」かれは思わず叫んで、
「おじさん! おじさんたち」
呼ぶ声と一しょに、拝殿のなかにいた者は、どやどやと、それへでてきて、七つの人影をあらわした。
「何者じゃッ」と竹童をねめつけた。
「おいらだよ、
鞍馬山の竹童だよ」
「おお、竹童か」
ほとんど、そのなかの半分以上の者が、口をあわしてこういった。
木隠龍太郎も、
忍剣も、
民部も
蔦之助も
小文治も竹童にとればみな友だちだ。
ただ、
床几にかけて、かれを見おろしていた
伊那丸だけが、すこし
解せないようすである。
「
龍太郎。そちたちはこの
童をよう知っているようじゃが、いったいどこのものであるの」
「さきほどお話しもうしあげました、
果心居士の
童弟子でござります」
「おおあれか」
伊那丸はニッコリして
竹童を見なおした。竹童もニヤリと笑って、ともするとなれなれしく、じぶんの友だちにしてしまいそうだ。
「これ竹童、
伊那丸君のおんまえ、つッ立っていてはならぬ、すわれすわれ」
「いや、そう
叱らぬがよい、
鞍馬の
奥でそだった者じゃ、その
天真爛漫がかえって美しい。したが、おまえはここへ、何用があってきたのか」
「はい」竹童はかしこまって、
「お
師匠さまのおいいつけでござります」
「なに、
果心先生からここへお使いに?」
「さようでござります。みなさまは、きょう
穴山梅雪をお
討ちになって、さだめしホッとなされたでござりましょうが、勝って
兜の
緒をしめよ、ここでごゆだんをなされては大へんでござります」
「む、伊那丸はけっしてゆだんはしておらぬぞよ」
「では、湖水の底から引きあげた
石櫃の
蓋をとって、なかをあらためてごらんになりましたか」
「いや、ほかのところへかくしたものとちがって、湖底へ沈めておいた石櫃、あらためるまでもない」
「ところが、お
師匠さまの遠知の術では、どうも、石櫃のなかの
宝物にうたがいがあるとおっしゃいました。それゆえ、にわかにお師匠さまにいいふくめられて、この
竹童が、
鷲の
翼のつづくかぎり、とびまわったのでござります。どうぞみなさま、いっこくもはやく、石櫃をおあらためくださいまし」
「さては、それが
伊那丸のゆだんであったかもしれぬ。
忍剣、忍剣、ともあれ石櫃をここへ。また、
小文治と龍太郎は、あるかぎりのかがり火をあたりにたき立ててください」
「はッ」
席を立った者たちが三つ
脚のかがり火を、左右五、六ヵ所へ
炎々と燃したてるまに、忍剣は、さきに
梅雪の
郎党たちが、湖底から引きあげておいた石櫃をかかえてきて、やおら、伊那丸のまえにすえた。
「こう見たところでは、
蓋の
合口に
異状はないが」
「
青苔がいちめんについているさまともうし、一ども人の手にふれたらしい点はみえませぬ」
「とにかく、
蓋をはらってみい」
「
心得ました」
と
忍剣は立ちあがって、グイと
法衣の
袖をたくしあげ厳重な石の
蓋をポンとはねのけてみた。
「や、やッ」まず忍剣がきもをつぶした。
「どういたした。なんぞ変りがあったか」
伊那丸もおもわず
床几から腰をうかした。
「ちぇっ。これごらんなさりませ」
と、くやしそうに忍剣が石櫃を引っくりかえすと、なかからごろごろところがりだしたのは、
御旗楯無の
宝物に、
似ても似つかぬただの石ころ。
「むウ……」
伊那丸は顔いろをうしなった。それはむりではない、
武田家重代の軍宝――ことに父の
勝頼が、
天目山の
最期の場所から、かれの手に送りつたえてきたほど大せつな
品。
それがない!
ないですもうか。
御旗楯無の宝物は、武田家の三種の
神器だ。これを失っては、
甲斐源氏の
家系はなんの
権威もなくなってしまう。
伊那丸をはじめ他の六人まで、ひとしくここに、色をうしなったも当然である。
「アア、やっぱり、おいらの先生はえらい――」
そのとき、
嘆ずるようにいったのは
竹童だった。
「ああ、どこまで武田家は
衰亡するのであろうか……」
と
嘆じあわして、伊那丸もつぶやく。
「大じょうぶだよ」竹童は
棒切れを
杖にしてふいにつっ立ち、気の毒そうに伊那丸の
面を見あげた。
「大じょうぶだ大じょうぶだ。そのなかの物がなくなっても、ぬすんだやつはわかってるから……おいらがちゃんとかぎつけてきてあるから――」
「なに! ではおまえがその者を知っているか」
「ああ知っている。そいつは、
人穴の殿堂にいる
和田呂宋兵衛という悪いやつだよ。そして、
盗んだ
宝物は、手下を京都へやって、
羽柴秀吉に売ってしまったんだ――これはきょうおいらが呂宋兵衛と問答して、
鎌をかけてきいてきたんだからまちがいのないことなんだ」
「えッ、では
御旗楯無をぬすんだやつも、あの
人穴の呂宋兵衛か……」
と、伊那丸が意外そうな
瞳を
咲耶子に向けると、彼女も、思いがけぬことのように、
「わたしにとれば父をころした悪人。伊那丸さまにはお
家の
賊、八つざきにしてもあきたりない
悪党でござります」
と、やさしい
眉にもうらみが立った。
伊那丸は
床几をはなれ、そしてうごかぬ決意を語気にしめしていった。
「みなのもの、わしはこれからすぐ
人穴の殿堂へ
駈けいり、
呂宋兵衛の首を剣頭にかけて、祖先におわびをいたすつもりだ。一つには、恩義のある
咲耶子への
助太刀、われと思わんものはつづけ、
御旗楯無をうしなって、
武田の家なく、武田の家なくして、この伊那丸はないぞ!」
「お勇ましいおことば、われわれとて、どこまでも
君のお
供いたさずにはおりませぬ」
山県蔦之助、
忍剣、
龍太郎、
小文治などの、たのもしげな勇士たちは、声をそろえてそういった。
「おう、わたしを入れてここに七
騎の勇士がある。咲耶子も心づよく思うがよい、きっとこよいのうちに、きゃつの首を、この
剣の
切ッ先にさしてみせよう。忍剣、馬を馬を!」
「はッ」
バラバラと
樹立ちへはいった忍剣は、
梅雪一
党が乗りすてた
駒のなかから、
逸物をよって、チャリン、チャリン、チャリン、と
轡金具の音をひびかせて、伊那丸のまえまで
手綱をとってくると、いままで
黙然としていた
小幡民部が、
「しばらく――」と、駒をおさえて
頭をさげた。
「なんじゃ、
民部」
「お
怒りにかられて、これより
人穴の殿堂へかけ入ろうという
思し
召しは、ごもっともではござりますが、民部はたってお引きとめもうさねばなりませぬ」
「なぜ?」
伊那丸はめずらしく
苦い色をあらわした。
「けっして、かれをおそれるわけではありませぬが、音にきこえた
天嶮の
野武士城、いかに七
騎の勇があっても攻めて落ちるはずのものとは思われませぬ」
「だまれ、わしも
信玄の
孫じゃ!
勝頼の次男じゃ! 野武士のよる山城ぐらいが、なにものぞ」
かれにしては、これは
稀有なほど、
激越なことばであった。民部には、またじゅうぶんな敗数の
理が見えているか、
「いいや、おことばともおもえませぬ」
と、つよく首をふって、
「いかに
信玄公のお孫であろうと、兵法をやぶって勝つという
理はありませぬ。なにごとも時節がだいじです。しばらくこの
裾野にかくれて
呂宋兵衛が山をでる日を、おまちあそばすが
上策とこころえまする」
「そうだ」
その時、横からふいにことばをはさんだのは
竹童で、さらに
頓狂な声をあげてこうさけんだ。
「そうだ! おいらもうっかりしていたが、そいつは今夜きっと山をでるよ、うそじゃない、きっと山をでる! 山をでる!」
「竹童、それはほんとうか」
民部は、目をかれにうつした。
「うそなんかおいら大きらいだ、まったくの話をするとお
師匠さまが
呂宋兵衛に、おまえの
命はこよいのうちにあぶないぞっておどかしたんだよ。おいらはその使いになって、今夜
子の
刻(十一時から一時)のころに、
裾野四里四方
人気のないところへでて、
層雲くずれの
祈祷をすれば助かると、いいかげんなことを教えてきてあるんだけれど、それも、いま考えあわせてみると、みんなお師匠さまがさきのさきまでを見ぬいた
計略で、わざとおいらにそういわせたにちがいない」
おどろくべき
果心居士の
神機妙算、さすがの民部もそれまでにことが運んでいようとは気がつかなかった。
子の
刻一
天までには、まだだいぶあいだがある。
伊那丸は一同にむかい、それまではここにあって、じゅうぶんに体をやすめ、英気をやしなっておくように厳命した。
竹童は
勇躍して、
「それでは夜中になると、まためざましい戦いがはじまるな。おいらもいまからしっかり英気をやしなっておくことだ……」
と、クロをだいて、お堂の
端へゴロリと寝てしまった。
と、かれは横になるかならないうちに、
「おや、
笛が鳴ったぞ」
と頭をもたげてキョロキョロあたりを見まわした。見ると、
咲耶子がただひとり、
社前の
大楠の
切株につっ立ち、例の横笛を口にあてて、
音もさわやかに吹いているのだった。
竹童は初めのうち、なんのためにするのかとうたがっていたらしいが、まもなく、笛の
音が
裾野の
闇へひろがっていくと、あなたこなたから、ムクムクと姿をあらわしてきた
野武士のかげ。それがたちまち、七十人あまりにもなって、咲耶子のまえに整列したのにはびっくりしてしまった。
咲耶子は、あつまった野武士たちに、なにかいいわたした。そしてしずかに
伊那丸の前へきて、
「この者たちは、いずれも父の
小角につかえていた野武士でござりますが、きょうまで、わたくしとともにこの裾野へかくれ、折があれば
呂宋兵衛をうって
仇をむくいようとしていた
忠義者でござります。どうかこよいからは、わたくしともどもに、お味方にくわえてくださりますよう」
伊那丸はまんぞくそうにうなずいた。
時にとって、ここに七十人の兵があるとないとでは、
小幡民部が
軍配のうえにおいても、たいへんなちがいであった。
ましてや、いまここに集められたほどの者は、みなへいぜいから、
咲耶子の
胡蝶の陣に、
練りにねり、
鍛えにきたえられた
精鋭ぞろい。
かくて一同は、敵の目をふさぐ用意に、ばたばたとかがり火を消し、太刀の
音をひそませ、
箭づくり、
刃のしらべはいうまでもなく、馬に草をも
飼って、時刻のいたるをまちわびている。
待つほどに
更くるほどに、夜はやがて三
更、
玲瓏とさえかえった空には、
微小星の一粒までのこりなく
研ぎすまされ、ただ見る、三千
丈の
銀河が、ななめに夜の
富士を越えて見える。
「グウー、グウ、グウーグウ……」
そのなかで、
竹童ばかりが、
鷲の
翼をはねぶとんにして、さもいい気もちそうに、いびきをかいて寝こんでいた。
まさに、夜は
子の
刻の一
天。
人穴の
殿堂をまもる、三つの
洞門が、ギギーイとあいた。
と、そのなかから、
焔々と燃えつつながれだしてきたのは、
半町もつづくまっ赤な
焔の行列。無数の
松明。その影にうごめく、
野武士、馬、
槍、十
字架、旗、すべて血のように
染まって見えた。
なかでも、一
丈あまりな
白木の十字架は、八人の手下にゆらゆらとささえられ、すぐそばに
呂宋兵衛が、
南蛮錦の
陣羽織に身をつつみ、
白馬にまたがり、十二
鉄騎にまもられながら、
妖々と、
裾野の
露をはらっていく。
すすむこと二、三
里、ひろい平野のまン中へでた。呂宋兵衛は馬からひらりと
降り、二、三百人の野武士を
指揮して、見るまにそこへ
壇をきずかせ、十字架を立て、かがり火を
焚いて、いのりのしたくをととのえさせた。
「
念珠を
念珠を、これへ――」
呂宋兵衛は、まえにもいったとおり、
南蛮の
混血児でキリシタンの
妖法を
修する者であるから、
層雲くずれの
祈祷も、じぶんが信じる
異邦の式でゆくつもりらしい。
手下の者から、
念珠をうけとったかれは、それを
頸へかけ、胸へ、
白金の十字架をたらして、しずしずと
壇の前へすすんだ。
護衛する野武士たちは、しわぶきもせず、いっせいに
槍の
穂さきを立てならべた。なかにはきょう味方についた
穴山の
残党、
足助主水正、
佐分利五郎次、その他の者もここにまじっている。
壇にむかって、七つの
赤蝋をともし、
金明水、
銀明水の
浄水をささげて、そこにぬかずいた
呂宋兵衛は、なにかわけのわからぬいのりのことばをつぶやきながら、いっしんに空の星を
祈りだした。
すると、どこからともなく、ザッ、ザッ、ザッ、ザッと草をなでてくるような
風音。つづいて、地を打ってくる
馬蹄のひびき。
「や!」かれはぎょっと、頭をあげて、
「あの物音は? あのひびきは? おお馬だッ、人声だ。ゆだんするな!」
叫ぶまもなく、ピュッ、ピュッと、風をきってくる
霰のような
征矢。――早くも、四面の
闇からワワーッという
喊声が聞えだした。
「さては
武田伊那丸がきたか」
「いやいや
咲耶子が仕返しにまいったのだろう」
「うろたえていずとかがり火を消せ、はやく
松明をすててしまえ、敵方の目じるしになるぞ」
あたりはたちまち
暗瞑の
地獄。
ただ、燃えいぶった煙と、ののしる声と、太刀や
槍の音ばかりが、ものすごくましていった。
もう、どこかで
斬りあいがはじまったらしい。
星明かりをすかしてみると、敵か味方か入りみだれてよくわからないが、
白馬黒鹿毛をかけまわしている七人の影は、たしかに
襲せてきた七勇士。それに斬りまわされて、呂宋兵衛の手下どもは、
「だめだ、足を斬られた」
「敵はあんがいてごわいぞ。もう大変な
手負いがでた」
「殿堂へ逃げろ!」
「
人穴へ引きあげろ!」
と声をなだれあわせて、思いおもいな草の
細径へ
蜘蛛の子のちるように逃げくずれた。
それらの、
雑兵や手下には目もくれず、さきほどから馬上りんりんとかけまわっていた
伊那丸は、
「
咲耶子はいずれにある。咲耶子、咲耶子」
と、しきりに呼びつづけていた。
「おお伊那丸さま、わたくしはここでござります」
近よってきた
白鹿毛の上には、かいがいしい
装束をした彼女のすがたが、細身の
薙刀を
小脇に持って、にっことしていた。
「咲耶子、呂宋兵衛めは、いずれへ姿をかくしたのであろう。
忍剣も
龍太郎も、いまだに
討ったと声をあげぬが」
「わたくしも、余の者には目もくれず、八ぽうさがしてまわりましたが、影も形も見あたりませぬ。ざんねんながら、どうやら取り逃がしたらしゅうござります」
「いや、
民部がしいた八門の陣、その逃げ口には、
伏兵がふせてあるゆえ、かならず討ちもらす気づかいはない」
とふたりが、馬上で語り合っているすぐうしろで、ふいに、
悪魔の
嘲笑が高くした。
「わ、はッはわはッは……このバカもの!」
「や!」
ふりかえってみると、人影はなく、星の空にそびえている一
基の十
字架。
「いまの声は、たしかに
呂宋兵衛」
「
奇ッ
怪な笑い声、
咲耶子、心をゆるすまいぞ」
きッと、十字架をにらんで、ふたりが息を殺したせつなである、一陣の怪風! とたんに、
星祭の
壇に燃えのこっていた
赤蝋が、メラメラと青い
焔に音をさせてあたりを照らした。
明滅の一
瞬、十字架のうしろにかくれていたおぼろげなかげは、たしかに怪人、
和田呂宋兵衛。
「おのれッ!」
「
怨敵」
敵将のすがたを
目のあたりに見て、なんのひるみを持とう。
伊那丸は太刀をふりかぶり、
咲耶子は
薙刀の
柄をしごいて八
幡! 十
字架の根もとをねらって斬りつけた。
と――ほとんど同時である。
伊那丸がたの
軍師、
小幡民部は、無二無三に
駒をここへ飛ばしてきながら、
「やあ、待ちたまえ
若君。かならずそれへ近よりたもうな。あ、あ、あッ、
危ないッ!」
と、かれは狂気ばしって
絶叫した。
が――その注意はすでに間に合わなかった。
ふたりのえものは、もう、ザクッと十字架のかげを目がけてふりこんでしまった。と見るまに、ああ、そもなんの
詭計ぞ、足もとから
轟然たる怪火の
炸裂。
ぽかッと、
渦をふいた
白煙とともに、
宙天へ
裂けのぼった火の柱、同時に、バラバラッとあたりへ落ちてきたいちめんの火の雨――それも火か土か肉か血か、ほとんど目を
開けて見ることもできない。
すさまじい雷火の
焔が、パッと立ったせつな、ゲラゲラゲラと十字架のかげで大きく笑う声がした。
怪人
呂宋兵衛の目である。口である。
悪魔の
面! それがあざわらった。
「あッ――」
伊那丸の馬は、
蹄を
蹴って横飛びにぶったおれた。
咲耶子は、
竿立ちとなった
駒のたてがみにしがみついて、
焔のまえに
悶絶した。
倒れたのは、馬ばかりか、人ばかりか、二
尺角の
白木の十
字架まで、上から
真ッ二つにさけ、
余煙のなかへゆら、――と横になりかかってきた。
雷火の
炸裂は、
詭計でもなんでもない。
怪人呂宋兵衛が、ふところに
秘めておいた一
塊の
強薬を、
祭壇に燃えのこっていたろうそく
火へ投げつけたのだ。
長崎や
堺あたりで、
南蛮人が日本人と
争闘すると、
常習にやるかれらの
手口である。
民部はそれを知っていたので、あわてて駒を飛ばしてきたが、
一足おそかった、
裂けた十字架が、いましもドスーンと大地へ音をひびかせた時である。
「
人穴の
賊。そこうごくなッ!」
民部は、乗りつけてきた馬の
鞍から飛びおりるより早く、
壇の上につっ立っているかれを目がけて斬りつけた。
「しゃらくさいわッ」
呂宋兵衛は、民部の第一刀をひッぱずして、いきなり鬼のような手で彼の
右手をねじあげた。
もうふところに強薬は持っていないので、まえのような危険はないが、腕と腕、剣と剣の打ちあいでも、民部は
呂宋兵衛の敵ではない。
「うーむ、この
小僧ッ子め」
酒呑童子もかくやの
形相で、大きな
唇へ
やい歯をかませた呂宋兵衛は、いきなり民部の
利腕をひとふりふって、やッと一
声、
壇の上から大地へ投げつけた。
「無念」
一代の
軍師、
小幡民部も、腕の勝負ではいかんともすることができない。はねおきようとすると、はやくも、呂宋兵衛の山のような体がのしかかってきて、グイとのどわをしめつけ、
「おウ、てめえが
伊那丸の腰について、
穴山梅雪を
討ったという小ざかしい小幡民部というやつだな。こりゃいい首にめぐり会った。
山荘へのみやげにしてやる。
覚悟をしろ」
鎧通しをひきぬき、
逆手にもって、グイと民部の
首根にせまった。民部は、そうはさせまいと、下から
短剣をぬき、足をもがき、ここ一
髪のあらそいとなって、たがいに必死。
伊那丸も
咲耶子も、みすみすかたわらにありながら、いまの
雷火にふかれて、ふたりとも気を失ってしまっている。
「うーむッ」
もみ合っているふたりのあいだから、おそろしい
苦鳴があがった。さては、民部が首をかき落とされたか、
呂宋兵衛が
脾腹をえぐられたか、どッちか一つ。
さきにはね起きたのは、呂宋兵衛であった。
かれの左の足に、一本の流れ矢がつき刺さっていた。つづいて
民部も飛びおきた。またすさまじい短剣と短剣の斬りあいになる。
「やッ、呂宋兵衛、ここにおったか」
そのとき、ゆくりなくもきあわせた
巽小文治が、
朱柄の
槍をしごいて、横から突っこんだ。
「じゃまするなッ」
ガラリとはらう。さらに突く。
さらにはらう。またも突きだす。
この
妙槍にかかっては、さすがの呂宋兵衛も、弱腰になった。それさえ、大敵と思うところへ、
加賀見忍剣、
木隠龍太郎、
山県蔦之助の三人が、ここのあやしき物音を知って、いっせいに
蹄をあわせて、三方から、
野嵐のごとく馬を飛ばしてくるようす。
「呂宋兵衛、呂宋兵衛、
汝、いかに
猛なりとも、ふくろのなかのねずみどうようだ、時うつればうつるほど、ここは
鉄刀鉄壁にかこまれ、そとは八門暗剣の
伏兵にみちて、のがれる道はなくなるのじゃ、
神妙に
観念してしまえ」
小幡民部がののしると、
呂宋兵衛はかッと
眼をいからせて、わざとせせら笑った。
「だまれッ。
汝らのような
とうすみとんぼ、百ぴきこようと千びきあつまろうと、この呂宋兵衛の目から見れば子供のいたずらだわ」
「
舌長なやつ、その
息のねをとめてやるッ」
「なにを」
と呂宋兵衛は立ちなおって、剣を、鼻ばしらの前へまッすぐ持ち、あたかも、
不死身の
印をむすんでいるような形。
ふしぎや、
小文治の
槍も民部の太刀も、その
奇妙な
構えを、どうしても破ることができない。ところへ、同時にかけあつまったまえの三人。
この
態を見るより、めいめい、ひらりひらりと
鞍からおりて、かけよりざま、
「おうッ、
巽小文治どの、
龍太郎が
助太刀もうすぞ」
「
加賀見忍剣これにあり、いで! 目にものみせてくれよう」
とばかり、呂宋兵衛の前後からおッつつんだ。
さすがのかれも、ついにあわてだした。そして、一太刀も合わせず、ふいに忍剣の
側をくぐって
疾風のように逃げだした。
「待てッ」
すばやくとびかかった龍太郎が、
戒刀の
切ッ先するどく
薙ぎつけると、呂宋兵衛はふりかえって、右手の
鎧通しを
手裏剣がわりに、
「えいーッ」
気合いとともに投げつけた。
龍太郎は身をしずめながら、刀のみねで、ガラリとそれをはらい落とした。
と、なにごとだろう?
ピラピラと、
魚鱗のような
閃光をえがいて飛んできた
鎧通しが、龍太郎の
太刀にあたると同時に、
銀粉のふくろが切れたように、
粉々とくだけ散って、あたりはにわかに、月光と
霧につつまれたかのようになった。
「や、や。あやしい
妖気」
「きゃつはキリシタンの
幻術師、かたがたもゆだんするな」
「この
忍剣にならって、
破邪のかたちをおとり召されい」
と、まッさきに忍剣が、大地にからだをピッタリ
伏せ、地から上をすかしてみると、いましも、黒い影がするするとあなたへ足をはやめている。
「おのれッ」
とびついていった忍剣の
禅杖が、力いッぱい、ブーンとうなった。とたんに、一
陣の怪風――そして、わッ、と、さけんだのはまぎれもない
呂宋兵衛である。
たしかに手ごたえはあったらしいが、かれもさるもの、すばやく
隠形の
印をむすび、
縮地飛走の
呪をとなえるかと見れば、たちまち
雷獣のごとく身をおどらせ、おどろく人々の眼界から、一気に二、三町も遠くとびさってしまった。
「あ、あ、あ、あ、あ!」とさすがの忍剣も、
龍太郎もそのゆくえを、ただ見まもるばかり。
目ばたきするまに、二、三町もとんだ
呂宋兵衛のあとには、うすい
虹か、あわい
霧のようなものが一すじ尾をひいてのこった。
いつまで見送って、たがいに歯がみしていたところで及ばぬことと、
忍剣は一同をはげました。そして、そこにたおれている、
伊那丸と
咲耶子とに、
手当を加えた。
さいわいに、ふたりはさしたる
重傷を受けていたのではなかった。けれど、やがて気がついてから、
賊将、呂宋兵衛をとり逃がしたと知って、無念がったことは、ほかの者より強かった。ことに、伊那丸は父ににて
勝気なたち。
「かれらの
策におちて、おくれをとったときこえては、のちの世まで武門の名おれ。わしはどこまでも、呂宋兵衛のいくところまで追いつめて、かれの首を見ずにはおかぬ。
民部、
止めるなッ」
いいすてるが早いか、馬の
鞍つぼをたたいて、まっしぐらに走りだした。と咲耶子も、
「お待ちあそばせや、伊那丸さま。
人穴の殿堂は、この咲耶子が
空んじている道、踏みやぶる
間道をごあんないいたしましょうぞ」
手綱をあざやかに、ひらりと
駒におどった
武装の少女は
一鞭あてるよと見るまに、これも、伊那丸にかけつづいた。
ことここにいたっては、
思慮ぶかい
小幡民部も、もうこれまでである、いちかばちかと、決心して、
「
加賀見忍剣どの。
木隠龍太郎どの」
と声高らかに呼ばわった。
「おお」
「おおう」
「そこもとたちふたりは、若君の
右翼左翼となり、おのおの二十名ずつの兵を
具して、おそばをはなれず、ご
先途を見とどけられよ、早く早く」
「かしこまッた」
軍師に礼をほどこして、ふたりは馬に
鞭をくれる。
「つぎに
山県蔦之助どの。
巽小文治どの」
「おう」
「おう」
「ご両所たちは
搦手の先陣。まず小文治どのは
槍組十五名の
猛者をつれて、
人穴の殿堂よりながれ落ちている水門口をやぶり、まッ先に
洞門のなかへ斬りこまれよ」
「
心得た」
小文治は
朱柄の
槍をひッかかえて、十五名の
力者をひきつれ、人穴をさして、たちまち草がくれていく。
「さて
蔦之助どの、そこもとは残る十七名の兵をもって、一隊の
弓組をつくり、殿堂をかこい
嶮所に登って
廓のなかへ矢を
射こみ、ときに
応じ、変にのぞんで、
奇兵となって討ちこまれい!」
「
承知いたしました」
「
拙者は、のこりの者とともに
後詰をなし、若君の旗本、ならびに、総攻めの
機をうかがって、その時ごとに、おのおのへ
合図をもうそう。さらばでござる」
軍配のてはずを、残りなくいいわたした
民部は、ひとりそこに
踏みとどまり、
人穴攻めの作戦
図を胸にえがきながら、
無月の秋の空をあおいで、
「敗るるも勝つも、
小幡民部の名は、おしくもなき一
介の
軍配とりじゃ。しかし……しかし
伊那丸さまは大せつな
甲斐源氏の
一粒種、あわれ八
幡、あわれ
軍の神々、力わかき民部の
采配に、
無辺のお力をかしたまえ」
正義の声は、いつにあっても、だれの口からほとばしっても、ほがらかなものである。
英気をやしなうため、
宵のくちに、ほんのちょっと寝ておくつもりだった
竹童は、いつか
鼻から
提灯をだしてわれにもなく、大いびき。
このぶんでほっておいたら、かならずや、夜が明けるのも知らずに寝ているにちがいない。
ところが、
好事魔おおし、せっかくの
白河夜船を、何者とも知れず、ポカーンと
頬っぺたをはりつけて、かれの夢をおどろかさせた者がある。
「あ
痛ッ、アた、た、た、た!」
ねぼけ
眼ではねおきた
竹童は、むちゃくちゃに腹が立ったと見えて、いつにない
怒りようだ。
「おいッ、おいらをぶんなぐったのは、いったいどこのどン
畜生だ、さアかんべんできない、ここへでろ、おいらの前へでてうせろッ」
あまり太くもない
腕をまくりあげて、そこへ
しゃちこ張ったのはいいが、竹童、まだなにを寝ぼけているのか、そこにいた人の顔を見ると、急にすくんで、
膝ッ子のまえをかきあわせ、ペコペコお
辞儀をしはじめたものだ。
「竹童、おまえは大そう強そうに
怒るな」
「はい……」
「どうした。おいらの前へでてうせろといばっておったではないか。なぐったわしはここにいる」
「はい、いいえ……」
「
不埒者めがッ」
なんのこと、あべこべにまた
叱られた。
もっとも、それはべつだんふしぎなことではない。いつのまにか、ここにきていた人間は、
竹童が
小太郎山にいることとばかり思っていた、
果心居士その人だったのだ。
しかし、いくら飛走の
達人でも、どうして、いつのまにこんなところへきたんだろうと、竹童はじぶんのゆだんをつねって、目ばかりパチパチさせている。
けれど、なんとしても、このお
師匠さまは人間じゃあない。ほとんど神さま、このおかたに会ってはかなわないから、三どめの大目玉をいただかないうちに、なんでもかでも、こっちからあやまってしまうほうが
先手だと、そこは竹童もなかなかずるい。
「お師匠さま。お師匠さま。どうもすみませんでございました。お使い先で、グウグウ寝てしまったのは、まったくこの竹童、悪いやつでございました。どうぞごかんべんなされてくださいまし」
「
横着な
和子ではある。わしのいう
叱言を、みんなさきにじぶんからいってしまう」
「いいえ、お師匠さまの叱言よけではございませんが、ひとりでに、じぶんが悪かったと、ピンピン頭へこたえてくるのでございます」
「しかたのないやつ」
果心居士も竹童の叱言には、いつも途中から
苦笑してしまった。
「けれど、叱言ではないが――そちも大せつな使者に立った者ではないか。なぜ、
伊那丸さまのご
先途まで見とどけてくるか、あるいは、ひとたび小太郎山まで立ち帰ってきて、ようすはこれこれとわしに
返辞を聞かせぬのじゃ」
「はい。ですからわたしは、しばらくここに寝こんでいて、夜中にみなさまがここをでる時、ご一しょについていって見ようと思っていたのでござります」
「たわけ者め。そのご一同がどこにいる?」
「えッ」
竹童は始めてあたりを見まわし、
「おや? もう
子の
刻が過ぎたのかしら、
伊那丸さまもお見えにならず、
忍剣さまも、……
蔦之助さまもおかしいなあ、だれもいないや。お
師匠さま、みなさまはもう
戦にでておしまいなされたのでしょうか?」
「もう子の刻もとッくにすぎ、
裾野の
戦も一
段落となっているわ」
「アアしまった! しまった! すッかり寝こんでなにも知らなかった。お師匠さま、竹童はどうしてこういつまでおろかなのでござりましょう」
「どうじゃ。わしに打たれたのがむりと思うか」
「けっしてごむりとは思いません。これからこんなゆだんをいたしませんように、もっとたくさんおぶちなされてくださいまし」
「よいよい。それほどに気がつけば、本心にこたえたのじゃろう。ところで竹童、また大役があるぞ」
「もうたくさん寝ましたから、どんなむずかしいご用でも、きッとなまけずに勤めまする」
「む、ほかではないが、こよいの
計略は
呂宋兵衛の
妖術にやぶられ、いままた、
伊那丸さまはじめ、その他の
旗本たちは
人穴の殿堂さして攻めのぼっていった。しかし、かれには二千の
野武士があり、幾百の
猛者、幾十人の
智者軍師もいることじゃ。なかなか七十人や八十人の
小勢でおしよせたところで、たやすく
嶮所の
廓は落ちまいと思う」
「わたくしもあのなかを見てきましたが、どうしてどうして、おそろしい
厳重な
山荘でございました」
「それゆえ、力で押さず、智でおとす。しかし、智にたよって勇をうしなってもならぬゆえ、わざと伊那丸さまにはお知らせいたさず、そちにだけ第二の
密計をさずけるのじゃ。
竹童、耳を……」
「はい」
とすりよると、
果心居士は
白髯につつまれた
唇からひそやかに、
二言三言の
秘策をささやいた。
それが、いかにおどろくべきことであったかは、すぐ聞いている竹童の目の玉にあらわれて、あるいは
驚嘆、あるいは
壮感、あるいは
危惧の色となり、せわしなく、
瞳をクルクル廻転させた。
「よいか、竹童!」
はなれながら、
果心居士はさいごにいった。
「一心になって、おおせの通りやりまする」
「そのかわり、この大役を
首尾よくすましたら、
伊那丸さまにおねがいして、そちも
武士のひとりに取り立てて
得さすであろう」
「ありがとうござります。お
師匠さま、
侍になれば、わたくしでも、刀がさせるのでござりましょうね」
「差せるさ」
「差したい! きッと差してみせるぞ」
竹童は、その
興奮で立ちあがった。
しかし、かれのひきうけた大役とはいったいなんだろう。もとより
鞍馬山霊の気をうけたような
怪童子、あやぶむことはあるまいが、
居士の
口吻からさっしても、ことなかなか
容易ではないらしい。
夜もすがら、百八ヵ所で
焚きあかしているかがり火のため、
人穴城の
殿堂は、さながら、
地獄の祭のように赤い。
和田呂宋兵衛たちが、おおきな十
字架をささげて、
層雲くずれの
祈祷にでていったあとは、腹心の
轟又八が
軍奉行の
格になって、
伊那丸と
咲耶子をうつべき、
明日の作戦に
忙殺されていた。
「東の空がしらみだしたら一番
貝、
勢ぞろいの用意とおもえ。富士川が見えだしたら、二番貝で
部署につき、三番貝はおれがふく。同時に、八方から
裾野へくだって、時刻時刻の
合図とともに、
遠巻きの
輪をちぢめて、ひとりあまさず討ってとる
計略。かならずこの手はずをわすれるなよ」
一同へ軍令をおわった轟又八は、やや得意ないろで広場にたち、あすの天候を
観測するらしいていで、暗天を見あげていたが、ふと、なにがしゃくにさわったのか、
「ふふん、この
闇の晩に、なにが見えるんだ。バカ
軍師め、人のせわしさも知らずに、まだあんなところでのんき
面をかまえていやがる」
上のほうへはきだすようにつぶやき、そのまま、殿堂の
物の
具部屋へ隠れてしまった。
又八をして、ぷんぷんと怒らせたものとは、いったいなんであろうか――と空をあおいで見ると、
炎々とのぼるかがりの煙にいぶされて、高い
櫓がそびえていた。そのてッぺんに、さっきから、ひとりの影が立っている。
山寨の軍師、
丹羽昌仙であった。
轟又八がバカ軍師とののしったわけである。
昼間から、攻守両意見にわかれて、反対していたのだ。そこで
昌仙は
詮なきこととあきらめたか、
呂宋兵衛が
裾野をでるとすぐ、軍備にはさらにたずさわらず、
継子のように、ひとり
望楼のいただきへあがって、
寂然とたちすくみ、四
顧暗々たる裾野をにらみつめている。
かれは、さっさつたる高きところの風に吹かれながら、そも、なにをみつめているのだろうか。
星こそあれ、
無月荒涼のやみよ。――おお、はるかに
焔の列が
蜿々とうごいていく。呂宋兵衛らの
祈祷の群れだ、火の行動は人の行動。ちりぢりになる時も、かたまる時も、しずかな時も、さわぐ時も、なるほど、ここにあれば手にとるごとくわかる。
と、なににおどろいたものか、昌仙の顔いろが、サッと変って、ふいに、
「あああ」
と望楼の柱につかまりながら身をのばした。見れば、はるかかなたの火が、風に吹き散らされた
蛍のごとく、
算をみだしてきはじめたのだ。
「むウ」
思わず重くるしいうめき声。
「しまった! あの
竹童という
小僧の
奇策にはかられた。もうおそい――」
と、かれがもらした
痛嘆のおわるかおわらぬうち、遠き
闇にあたって、ズーンと立った一道の
火柱、それが消えると、一点の
微光もあまさず、すべてを暗黒がつつんでしまった。
「それ見ろ! このほうがいったとおりだッ」
昌仙は手をのばして、いきなり
天井へ飛びつき、そこにたれていた
縄の
端をグイと引いた。と、――
人穴城の八方にしかけてある
自鳴鉦がいっせいに、ジジジジジジジジッ……とけたたましく鳴り渡る。
これ、
大手一の
門二の門三の門、
人穴門、水門、
間道門の四つの口、すべて一時に
護るための
手配。いうまでもなく
出門は厳禁。
無断持場をうごくべからず――の
軍師合図。
さらに、
櫓番へ声をかけて、部下の一人で、もと道中かせぎの町人であった、
燕作という者をよびあげ、かねて用意しておいたらしい一通の
密書をさずけた。
そして口ぜわしく、
「これを一
刻もはやく
羽柴秀吉どのにわたしてこい。ぐずぐずいたしておると、この
山寨から一歩もでられなくなる。すぐいけよ、なんのしたくもしていてはならんぞ」
と、いいつけた。
燕作は、
野武士の仲間から、
韋駄天といわれているほど
足早な男。
頭をさげて、昌仙からうけた密書をふところへ深くねじおさめ、
「へい、
承知いたしました。ですが、その秀吉さまは、山崎の
合戦ののち、いったいどこのお城にお
住いでござりましょうか」
「
近江の
安土か、長浜の城か、あるいは京都にご
滞在か、まずこの三つを
目指していけ」
「
合点です。では――」
と立って、クルリとむきなおるが早いか、
韋駄天の名にそむかず、
飛鳥のように
望楼をかけおりていった。
ふいに
自鳴鉦を聞いた
轟又八は、
青筋をかんかんに立てて立腹した。
「こっちで攻めだす用意をしているのに、どこまでもおれに
楯をつくふつごうな
丹羽昌仙。
軍師といえどもゆるしておいてはくせになる」
恐ろしい
血相で、望楼の登り口へかけよってくると、
出合いがしらに、上からゆうゆうと昌仙がおりてきた。
「おお、轟、
籠城の用意は手ぬかりなかろうな」
「だまれ。いつ
頭領から籠城の用意をしろとおふれがでた。しかも、夜が明けしだいに、
裾野へ討ってでるしたくのさいちゅうだわ」
「ならぬ!
呂宋兵衛さまから
軍配を預っている、この昌仙がさようなことはゆるさぬ。七つの門は一寸たりともあけることまかりならんぞ」
「めくら軍師ッ。かしらの呂宋兵衛さまも帰らぬうち、
洞門を
閉めてしまってどうする気だ」
「いまにみよ、
祈祷にでたものはちりぢりばらばら、
呂宋兵衛さまも
手傷をうけて
命からがら立ちかえってくるであろうわ」
「ばかばかしい! そんなことがあってたまるものか」
と又八が
大口をあいてあざわらっていると、折もおりだ。祈祷の列に加わっていった
足助主水正と
佐分利五郎次などが、さんばら髪に、
血汐をあびて逃げかえってきた。
「やア、その姿は――?」
今もいまとて、
強情をはっていた轟又八、目をみはってこうさけぶと、
裾野から逃げかえってきた者どもは声をあわせて、
「一大事、一大事。まんまと敵の計略におちいって、
頭領のご生死もわからぬような総くずれ――」
つづいて逃げてきた手下の口から、
「
伊那丸じしんが
先手となり、
小幡民部が
軍師となって、もうすぐここへ攻めよせてくるけはい」
と報告された。さらにあいだも待たず、
「あやしいやつが二、三十人ばかり、
嶮岨をよじ登って、
人穴の
裏へまわったようす」
「前面の
雨ヶ
岳にも、
軍兵の声がきこえてきた。水門口のそとでも、
鬨の声があがった――」
一刻一刻と、矢のような注進。
そのごうごうたるさわぎのなかへ、風に乗ってきたごとく、こつぜんと走りかえってきた
和田呂宋兵衛は、一同にすがたを見せるよりはやく、
「なにをうろたえまわっているかッ、
洞門をまもれ、水門へ人数をくばれ、バカッ、バカッ、バカッ」
八
方へ狂気のごとくどなりつけた。そのくせ、かれじしんからして
衣はさかれ目は血ばしり、おもては
青味をおびて、よほど度を失っているのだからおかしい。
昌仙は、それ見ろ、といわんばかり、
「おさわぎなさるな、
頭領。
大方こんなこととぞんじて、すでに
手配はいたしておきました」
「おお
軍師。こののちはかならず
御身のことばにそむくまい。どうか
寄手のやつらを防ぎやぶってくれ」
「ご
安堵あれ、
北条流の
蘊奥をきわめた
丹羽昌仙が、ここにあるからは、なんの、
伊那丸ごときにこの
人穴を一歩も
踏ませることではござらぬ」
轟又八は、いつのまにか、こそこそと
雑兵のなかへ姿をかくしてしまった。
はやくも、一の洞門に
鬨の声があがる。
まッ先に攻めつけてきたのは
武田伊那丸であった。要所のあんないは
咲耶子。すぐあとから、
加賀見忍剣と
木隠龍太郎のふたりが、
右翼左翼の力をあわせて、おのおの二十人ほどひきつれ、えいや、えいや、
洞門の前へおしよせてきた。
いっぽう――
人穴から、どッと流れおちている水門口へかかった
巽小文治は、
槍ぞろい十五名の部下をつれて、水門をぶちこわそうとしたが、頭の上へガラガラと岩や大木を投げつけてくるのに
悩まされた。のみならず、水門には、
頑丈な
鉄柵が二重になっているうえ、
足場のわるい
狭隘な
谿谷である。おまけに、全身水しぶきをあびての苦戦は
一通りでない。
うら山の
嶮にのぼって、殿堂へ矢を
射こもうとした
山県蔦之助以下の弓組も、とちゅう、おもわぬ道ふさぎの
柵にはばめられたり、八
方わかれの
謎道にまよわされたりして、やっとたどりついたが、はやくもそれと知った
丹羽昌仙が、
望楼のうえから
南蛮銃の
筒口をそろえて、はげしく
火蓋を切ってきた。
丹羽昌仙の
北条流の
軍配と、二千の
野武士と、この
天嶮無双な
砦によった
人穴の
賊徒らは、こうしてビクともしなかった。
ついにむなしくその夜は明けた。――二日目もすぎた。三日目にも落とすことができなかった。ああなにせよ
小勢、いかに伊那丸があせっても、しょせん、百人足らずの小勢では洞門ひとつ突き破ることもむずかしそうである。
「
民部、わしはこんどはじめて、
戦の苦しさを知った。あさはかな勇にはやったのが
恥かしい。しかし
武夫、このまま
退くのは残念じゃ」
前面の高地、雨ヶ岳を本陣として、ひとまず
寄手をひきあげた
伊那丸が、
軍師小幡民部とむかい合って、こういったのがちょうど九日目。
「ごもっともでござります」民部も
軍扇を
膝について、おなじ無念にうつむきながら思わず、
「ああ、ここにもう二、三百の兵さえあれば、
策をかえて、一つの戦略をめぐらすことができるのだが」
とつぶやくと、伊那丸も同じように、
嘆をもらして、
「そのむかし、
武田菱の旗の
下には、百万二百万の
軍兵が
招かずしてあつまったものを」
「また、わが君のおうえにも、かならず輝きの日がまいりましょう。いや、
不肖民部の
身命を
賭しましても、かならずそういたさねば相なりませぬ」
「うれしいぞ民部。けれど、みすみす敵を目のまえにしながら、わずか七、八十人の味方とともにこのありさまでいるようでは……」
と無念の涙をたたえていると、いままで、うしろに
黙然としていた
木隠龍太郎が、なに思ったか、
「伊那丸さま――」
とすすみだして、
「どうぞ
某に四日のお
暇をくださいますよう」
といいだした。
「なに四日の暇をくれともうすか」
「されば、ただいま民部どのが、
欲しいとおっしゃっただけの兵を、かならずその
日限のうちに、若君のおんまえまで
召しあつめてごらんにいれまする」
「おお龍太郎どの――」
と民部は、うれしそうな声と顔をひとつにあげて、
「民部、
畢生の
軍配のふりどき、ぜひともごはいりょをおねがいもうすぞ」
「しかし、いまの戦国
多端のときに、二、三百の兵を四日にあつめてくるのは
容易でないこと。龍太郎、それはまちがいないことか……」
伊那丸は気づかわしそうな顔をした。
が龍太郎はもう立ちあがって、
敢然と
礼をしながら、
「ちと
心算もござりますゆえ、なにごとも
拙者の胸におまかせをねがいます。ではわが君、民部どの、きょうから四日のちに、三百人の
軍兵とともにお目にかかるでござりましょう」
仮屋の
幕をしぼって、陣をでた木隠龍太郎は、みずから「
項羽」と名づけた
黒鹿毛の
駿馬にまたがり、雨ヶ岳の
山麓から
真一
文字に北へむかった。
すると、かれのすがたを見かけた者であろうか、
「おおうい。おおうい
木隠どの――」
と
呼びかけてくる者がある。
駒をとめてふとふりかえると、
本栖湖のほうから
槍組二隊をひきつれてそこへきた
巽小文治が、せんとうに
朱柄の槍をかついで立ち、
「おそろしい勢いで、どこへおいでなさるのじゃ」
とふしぎそうにかれを見あげた。
「おお
小文治どのか、
拙者はにわかに大役をおびて、これから
小太郎山へ立ちかえるところだ」
「ふーむ、ではいよいよ
人穴攻めは
断念でござるか」
「どうしてどうして。ほんとうの
合戦はこれから四日目だ。なにしろいそぎの
出先、ごめん――」
「おお待ってくれ。いったいなんの用で小太郎山へお帰り
召さるのじゃ」
と
小文治がききかえすまに、
駿馬項羽のかげは木隠をのせて、
疾風のごとく遠ざかってしまった。
難攻不落の人穴攻めは、こうしてあと四日ののちを待つことになった。しかし、
伊那丸や、
忍剣や
民部などの七将星のほかに、
果心居士の
秘命をうけている
竹童は、そもそもこの大事なときを、どこでなにをまごまごしているのだろう。
いくらのんきな竹童でも、まさか、お
師匠さまの
叱言をわすれて、
裾野の野うさぎなんかと、すすきのなかでグウグウ昼寝もしていまいが、もういいかげんに、なにかやりだしてもよいじぶん。
ぐずぐずしていれば、
丹羽昌仙の
密使が、
秀吉のところへついて、いかなる
番狂わせが起ろうも知れず、四日とたてば、
木隠龍太郎の
吉左右もわかってくる。どっちにしても、ここ二、三日のうちに
果心居士の
命をはたさなければ、こんどこそ竹童、
鞍馬山から
追ンだされるにきまっている。
安土の山は焼け山だ。
安土の城も半分は焼けくずれている。
岩は
赭くかわき、石垣はいぶり、樹木の葉は、みなカラカラ
坊主になって黒い
幹ばかりが立っていた。
その石段を、ぴょい、ぴょい、ぴょい。まるでりすのようなはやさでかけのぼっていったのは、
竹ノ
子笠に
道中合羽をきて
旅商人にばけた丹羽昌仙の密使、
早足の
燕作だ。
中途でちょっと小手をかざし、四方をながめまわして、
「ああ変るものだなあ。戦国の世の中ほど、
有為転変のはやいものはない。どうだい、ついこの夏までは、
右大臣織田信長の
居城で、この山の
緑のなかには、すばらしい
金殿玉楼が見えてよ、金の
鯱や七
重のお
天主が、日本中をおさえてるようにそびえていた
安土城だ。それが、たった一日でこのありさま。おもえば
明智光秀という
野郎も、えらい
魔火をだしやあがったものだなア……」
燕作でなくても、ひとたびここに立って、一
朝の
幻滅をはかなみ、
本能寺変いらいの、天下の狂乱をながめる者は、だれか、
惟任日向守の
大逆をにくまずにいられようか。
けれど、その
光秀じしん、
悪因悪果、
土冠の
竹槍にあえない
最期をとげてしまった。で、いまではこの
安土城のあとへ、
信長の
嫡孫、三
法師丸が
清洲からうつされてきて、焼けのこりの
本丸を修理し、
故右大臣家の
跡目をうけついでいる。
だが、三法師君は、まだきわめて幼少であったため、もっぱら信長の
遺業を左右し、
後見人となっている者はすなわち、ここ、にわかに
大鵬のかたちをあらわしてきた
左少将羽柴秀吉。――つまり、
早足の
燕作が、はるばる尋ねてきたその人である。
「おっと、見物は帰りみちのこと、なにしろ役目を果さないうちは気が気じゃない……」
と燕作は、ふたたび
笠の
ふちをおさえながら、一
散に石段から石段をかけのぼっていくと、
「こらッ」
といきなり
合羽の
襟をつかまれた。
「へ、へい」
とびっくりしてふりかえると、
具足をつけた
侍――いかにも強そうな侍だ。
槍の
石突きをトンとついて、
「どこへいく? きさまのような町人がくるところじゃない。もどれッ」
とにらみつけた。
すると、
焼け
崩れの
土塀のかげからさらに、りっぱな武将が四、五人の
足軽をつれて見廻りにきたが、この
ていを見ると、つかつかとよってきて、
「
才蔵、それは何者じゃ」
とあごでしゃくった。
「ただいま、取り調べているところでござります」
「うむ、お城のご
普請中をつけこんで、
雑多なやつがまぎれこむようすじゃ。びしびしと
締めつけて
白状させい」
燕作はおどろいた。
そのびしびしのこないうちにと、あわてて
密書を取りだし、
「もしもし、わたくしはけっしてあやしい人間じゃあございません。この通り
秀吉さまへ大事なご書面を持ってまいりましたもの、どうぞよろしくお
取次ぎをねがいます。へい、これでございます」
「どれ」
武将は受けとって、と見、こう見、やがて、うなずいてふところに入れてしまった。
「よろしい。帰っても大事ない」
「へい……」
燕作はもじもじして、
「ですが、しつれいでございますが、あなたさまはいったい、どなたでござりましょうか、お名まえだけでもうかがっておきませんと、その……」
「それがしは
秀吉公の家臣、
福島市松だわ」
「あ、
正則さま」
と、燕作はとびあがって、
「それなら大安心、これでわたくしの
荷も
降りたというわけ。ではみなさんごめんなさいまし、さようなら」
いま、ツイそこでおじぎをしていたかと思うまに、もう燕作のすがたは、松の
樹がくれに小さくなって、
琵琶湖のほうへスタコラと歩いていた。
「おそろしい
足早な男もあるもの――」
福島正則は、家来の
可児才蔵と顔をあわせて、しばし、あきれたように竹ノ子
笠を見送っていた。
うえの
羽織は、
紺地錦へはなやかな
桐散し、
太刀は
黄金づくり、草色の
革たびをはき、
茶筌髷はむらさきの糸でむすぶ。すべてはでずきな
秀吉が、いま、その
姿を、
本丸の一室にあらわした。
そこでかれは、腰へ手をまわし、少し
背なかを丸くして、しきりに
壁をにらんでいる。
達磨大師のごとく、いつまでもあきないようすで、一心に壁とむかいあっている。
飯をかむまもせわしがっているほどの秀吉が、にらみつめている以上、壁もただの壁ではない。
縦六尺あまり
横三
間余のいちめんにわたって、日本全土、
群雄割拠のありさまを、青、赤、白、黄などで、一
目瞭然にしめした大地図の壁絵。――さきごろ、
絵所の
工匠を
総がかりで
写させたものだ。
「あるある。
安土などよりはぐんとよい地形がある。まず秀吉が住むとなれば、この
摂津の
大坂だな……」
この地図を見ていると、秀吉はいつもむちゅうだ。青も赤も黄色も眼中にない、かれの目にはもう
一色になっているのだ。
「関東には一ヵ所よい場所があるな。しかし、
西国の
猛者どもをおさえるにはちと遠いぞ。――お、これが
富士、
神州のまン中に
位しているが、
裾野一
帯から、
甲信越の
堺にかけて、
無人の平野、山地の広さはどうだ。うむ……なかなかぶっそうな場所が多いわ」
ひとり
語をもらしながら、若いのか
爺いなのか、わからぬような顔をちょっとしかめていると、
「
秀吉どの――」
かるく
背なかをたたいた人がある。
「おお」
われに返ってふりむくと、いつのまにきていたのか、それは
右少将徳川家康であった。
「だいぶ、ご熱心なていに見うけられまするのう」
「はッはッはははは。いや
ほんのたいくつまぎれ。それより家康どのには、近ごろめずらしいご
登城」
「ひさしく三
法師君にもご拝顔いたしませぬので、ただいまごきげんうかがいをすまして、お
暇をいただいてまいりました。時に、話はちがいまするが、さきごろ、秀吉どのには世にもめずらしい
品をお手に
入れたそうな」
「はて? なにか茶道具の
類のお話でもござりますかな」
「いやいや。
武田家につたわる天下の名宝、
御旗楯無の
二品をお手に
入れたということではござりませぬか」
「あああれでござるか、いや例の
好みのくせで、求めたことは求めましたが、さて、なんに使うということもできない
品で、とんだ
背負物でござる。あはははははは」
と、
秀吉は、こともなく笑ってのけたが、
家康にはいたい
皮肉である。
穴山梅雪に命じて、じぶんの手におさめようとした
品を、いわば不意に、横からさらわれたような形。
しかし、秀吉はそんな小さな皮肉のために、
黄金千枚を
積んで買いもとめたわけでもなく、また決して、
御旗楯無の
所有慾にそそられたものでもない。要は和田
呂宋兵衛という
野武士の
潜勢力を買ったのだ。
清濁あわせ
呑む、という筆法で、
蜂須賀小六の一族をも、その
伝で利用した秀吉が、呂宋兵衛に目をつけたのもとうぜんである。
かれを手なずけておいて、
甲駿三遠四ヵ国の大敵、げんに目のまえにいる徳川家康を、絶えずおびやかし、時によれば、背後をつかせ、つねに
間諜の役目をさせておこう、――というのが秀吉のどん底にある計画だ。
と、折からそこへ、
「
右少将さまにもうしあげます。ただいま、ご家臣の
本多さまがお国もとからおこしあそばしました」
と、ひとりの
小侍が取りついできた。すると、入れかわりにまたすぐと、べつな侍が両手をつき、
「
左少将さま。
福島正則さまが、ちとご別室で
御意得たいと
先刻からおまちかねでござります」
ふたりは、
大地図のまえをはなれて、
目礼をかわした。
「ではまた、
後刻あらためてお目にかかりましょう」
端厳、
麒麟のごとき
左少将秀吉。風格、
鳳凰のような
右少将家康。どっちも胸に
大野心をいだいて、
威風あたりをはらい、
安土城本丸の
大廓を右と左とにわかれていった。
「
野武士のうちにも人物があるぞ」
別室にうつって、
福島正則の手から
密書をうけ取った
秀吉は、一読して、すぐグルグルとむぞうさに
巻きながら、
「
丹羽昌仙というやつ、ちょっと使えるやつじゃ。したがこの手紙の要求などをいれることはまかりならん。ほっとけ、ほっとけ」
「
信玄の孫、
伊那丸とやらが、ふたたび、
甲斐源氏の
旗揚げをいたす
兆しが見えると、せっかく、かれからもうしてまいったのに、そのままにいたしておいても、大事はござりますまいか」
「
市松、そこが昌仙のぬからぬところじゃ。われからことに
援兵をださせて、
北条、
徳川などの
領地をさわがせ、その
機に乗じておのれの野心をとげんとする。――
秀吉にそんな
暇はない、
乳くさい伊那丸ごとき者にほろぼされる者なら
滅んでしまえ」
「では、だれか一、二名をつかわして、
呂宋兵衛のようす、また、
武田伊那丸の形勢などを、さぐらせて見てはいかがでござりましょうか」
「む、それはよいな。――だが、待てよ、
家康の領内をこえていかにゃならぬ。腹心の者はみな顔を知られているし、そうかともうして、
凡々な
小者ではなんの役にも立つまいのう」
「それには、
屈強な
新参者がひとりござります」
「それやだれだ」
「
可児才蔵という
豪傑でござる。わたくしじまんの家来、ちかごろのほりだし者と、ひそかに鼻を高くしておるほどの者でござりまする」
「む、山崎の
合戦このかた、そちの
幕下となった
評判の才蔵か、おお、あれならよろしかろう」
正則は、
秀吉のまえをさがって、やがて、この
旨を可児才蔵にふくませた。
才蔵は
新参者の身にすぎた光栄と、いさんでその夜、こっそりと
鳥刺し
稼業の男に
変装した。そして
もち竿一本肩にかけ
安土の城をあかつきに抜けて、
富岳の国へ道をいそぐ――
ずっと
後年――関ヶ原の
役に、剣頭にあげた首のかずを知らず、斬っては
笹の枝にさし、斬っては笹に
刺したところから、「
笹の
才蔵」と一世に武名をうたわれた評判男は、いよいよこれから、武田伊那丸の身辺に近づこうとする
変装の鳥刺し、この可児才蔵であった。
剣道は
卜伝の父
塚原土佐守の
直弟子。
相弟子の小太郎と同格といわれた腕、
槍は
天性得意とする
可児才蔵が、それとは
似もつかぬもち
竿をかついで
頭巾に
袖なしの
鳥刺し姿。
「ピピピピッ、……ピョロッ、ピョロ、ピョロ……」
時々は、吹きたくない
鳥呼笛をふき、たまには、
雀の
後をおっかけたりして、東海道の
関所から、関所を、たくみに切りぬけてくるうちに、これはどうだろう、かほどたくみに
変装したかれを、もうひとりの男が、見えつかくれつ、あとをつけて、
慕っていく。
ところが、世の中はゆだんがならない、その男はとちゅうからつけだしたのではなく、じつは、
安土の城からくっついてきているのだ。
同じ日に、浜松から
安土へきた
家康の家臣、徳川四
天王のひとり
本多忠勝が、こッそりその男をつけさせた。――というのは、竹ノ子
笠の
燕作が、
正則に
密書をわたしたようすを、休息所の
窓から、とっくりにらんでいたのである。
「はてな?」小首をかしげた
忠勝は、主人家康と面談をすましてから、とものなかにいる
菊池半助という者をひそかによんだ。そしてなにかささやくと、半助はまたどこかへか立ち去った。
この菊池半助も、前身は
伊賀の
野武士であったが、わけあって
徳川家に見いだされ、いまでは
忍術組の
組頭をつとめている。いわゆる、徳川時代の名物、
伊賀者の
元祖は、この
菊池半助と、
柘植半之丞、
服部小源太の三
羽烏。そのひとりである半助が、
忍術に
長けているのはあたりまえ、あらためてここにいう要がない。したがって
偽鳥刺しの
可児才蔵の後をつけ、落ちつく先の行動を見とどけるくらいな芸当は、まったく
朝飯前の仕事だった。
ピキ ピッピキ トッピキピ
おなかがへッて北山だ
芋でもほッて食うべえか
芋泥棒にゃなりたくない
鳶を捕ッて食うべえか
ヒョロヒョロ泣かれちゃ喰べかねる
そんなら雪でも食ッておけ
富士の山でもかじりてえ
ピキ ピッピキ トッピキピ
だれだろう? そも何者だろう? こんなでたらめなまずい歌を、おくめんもなく、大声でどなってくるものは。
この村には、家はならんでいるが、ほとんど人間はいなくなっているはず。五湖、
裾野、
人穴、いたる所ではげしい斬り合があったり、流れ矢が飛んできたりしたため、善良な村の人たちは、すわ、また大戦の
前駆かと、例によって、甲州の奥ふかく逃げこんだ。
それゆえ、秋の
日和だというのに、にわとりも鳴かず、
杵の
音もせず、あわれにも
閑寂をきわめている。いま聞こえたへたくそな歌も、一つはこのせいで、いっそう、
素ッ
頓狂にもひびいてきこえる。
「やア、こいつア、こいつアこいつア
うまいものがあらあ――」
こんどは
地声で、人なき村のある
軒先に立ち――こういったのは
竹童である。
かれが、目の玉をクルクルさせ、よだれをたらして見あげたのは、大きな
柿の木であった。上には枝もたわわに、まだ青いのや、赤ずんできた
猿柿が、七
分三
分にブラさがっている。
「こッちの
端にある赤いやつはうまそうだなあ。取っちゃあ悪いかしら? かまわないかしら……?」
いつまでも立って考えている。この姿を、
果心居士が見たら、なんとあきれるだろう。
口に葉ッぱをくわえているところを見ると、いま、
木の
葉笛を吹きながら、へんなでまかせを歌ったのもこの竹童にそういない。いったいこの子は、お
師匠さまからいいつけられている
計略なんか、とっくにドコかへ忘れてしまっているのではないかしら、第一きょうはかんじんな、かの
昇天雲である
鷲にも乗っていない。
「いいや、いいや。一ツや二ツくらいとってかまうもんか。
柿なんか、ひとりでに、地
べたから
生えてるものなんだ。これを取ったッて、
泥棒なんかになりゃしない」
勝手なりくつをかんがえて、ぴょいと、木へ飛びつくと、これはまたあざやかなもの。なにしろ、
本場鞍馬の山で
鍛えた木のぼり。するッと上がって、一番赤い
柿のなっている枝先へ、鳥のようにとまッてしまった。
「べッ、しぶいや」
びしゃッと下へたたきすてる。
「ありがたい――」
次のは甘かったと見える。もう口なんかきいていない。
猿のようにカリカリ音をさせて
頬ばり、たねだけを下へはきだしている。
「甘いなあ、これで一
霜かかればなお甘いんだ。おいらばかり
食べているのはもったいない、お
師匠さまにも一つ
食べさせてあげたいな……」
食うに
専念、ことばはブツブツ
噛みつぶれた
寝言のようだ。このぶんなら、まだ十や十五は
食えそうだという顔でいると、どうしたのか
竹童、時々、チクリ、チクリと、変に顔をしかめだした。
「ア
痛!」と
粘った手で
頬っぺたをおさえた。
が、またすぐ
食う。
木を降りるのもおしいようす。と、一口かじりかけると、またチクリ。
「ちぇッ」と
舌うちして
襟くびをなでた。こんどは大へん、なでた手がチクリと刺された。
「なんだろう、さっきから――」
そッとさぐってみると、こいつはふしぎ、針だ、キラキラする二
寸ばかりの女の
縫針。
「あッ!」
そのとたんに、竹童はおもわず
肱をまげて顔をよけた。まえの
萱葺屋根の家から、
射るようなするどい目がキラッとこちらへ光った。
「
降りろ、
小僧!」
見ると、
百姓家のやぶれ
廂の下から、白い煙がスーッとはいあがっている。そこには、ひとりのお
婆さん、
麻のような
髪をうしろにたれ、
鍋や、糸かけを前に、腰をかけて、
繭を
煮ながら、湯のなかの白い糸をほぐしだしている。
柿の木から飛びおりた
竹童は、はじめてそこに人あるのを知って、
軒先に近より、家の中をのぞいてみると、
奥には
雑多な
蚕道具がちらかっており、
土間のすみの
土べっついのまえには、ひとりの男がうしろ向きにしゃがんで、スパリ、スパリ、
煙草をつけながら火を見ている。
「ごめんよ、あれ、お
婆さんとこの
柿の木だったのかい?」
竹童は
繭の
鍋をのぞきながら、たッた一つおじぎをした。
婆さんは、ぎょろッとした目をあげて、
「人みしりをしねえ
餓鬼だ。なんだって、人んとこの柿をだまってぬすみさらすのじゃい」
「だからあやまってるじゃないか。ああそうそう、おいらも用があってこの村へきたんだっけ。お婆さん、どこかこのへんに、物をあきなっている
家はないかしらなあ」
「でまかせをこけ。この村には、ここともう一
軒鍛冶屋よりほかに人はいやしない。そんなことは
承知のうえで、
柿泥棒にきやがったくせにして」
「ほんとだ、おいらまったく買いたい物があってきたんだ。お婆さんとこにあったらゆずってくんないか」
「なんだい」
「
松明さ」
「松明?」
「アア、二十本ばかりほしいんだがなあ」
「餓鬼のくせに、松明なんかなんにするだ」
「ちょッといることがあるんだよ。お
婆さんの
家に持ちあわせはないかね」
「ねえッ、そんなものは!」
といった婆さんの顔を見て、竹童は「あッ」と叫んでしまった。お婆さんの口の中で光った物があったのだ。三、四本の
乱杭歯の間を、でたり
入ったりしているのは、たしかに四、五十本の
縫針だ。
これだ!
さっき柿の木の上まで飛んできて
頬っぺたを
刺した針は――竹童はむッとした。
「たぬき
婆。もう、
松明なんかたのまない!」
「なんだと、この
小僧」
「よくも、
おいらをさんざん
悩めやがったなッ」
いきなり腰の
棒切れを抜いてふりかぶり、
蚕婆の肩をピシリと打っていったせつな、あら奇怪、身をかわした
婆の口から、ピラピラピラピラピラピラピラ糸のような細い光線となって、竹童の
面へ吹きつけてきた
含み
針!
これこそ、剣、
槍、
薙刀の武術のほかのかくし
技、
吹針の
術ということを、竹童も、話には聞いていたが、であったのは、きょうがはじめてである。
「その時に、目に気をつけろ、敵の目をとるのが吹針の
極意」と、かねて聞いていたので、竹童はハッとして、とっさに顔をそむけて飛びのいた。
その時だった。
竹童と
蚕婆の
問答をよそに
土べっついの火にむかって
煙草をくゆらしていた
脚絆わらじの男が、ふいに
戸外へ飛びだしてきた。
男は、やにわに、竹童の首ッ玉へ、うしろから太腕を引っかけて、かんぬきしばりに、しばりあげた。
「
鞍馬山の
小僧、いいところであった!」
「くッ、くッ……」
竹童はのどをひッかけられて声がでない。顔ばかりをまッ
赤にし、
喉首の手を、むちゃくちゃにひッかいた。
「ちッ、
畜生。きょうばかりはのがしゃしねえ」
「だれだいッ、くッくくくくるしい」
「ざまあみやがれ。
小っぽけなぶんざいをしやがって、よくも
武田伊那丸の
諜者になって、
人穴へ飛びこみ、おかしらはじめ、多くの者をたぶらかしやがったな。その
返報だ、こうしてやる! こうしてやる」
と、なぐりつけた。
「くそウ!
おいらだって、こうなりゃ鞍馬山の竹童だ」
と、ぼつぜんと、
竹童もはんぱつした。
なりこそちいさいが、必死の力をだすと、
大人もおよばぬくらい、ねじつけられている
体をもがいて、男の鼻と
唇へ指をつッこみ、
鷲のように
爪を立てた。
「あッ」
これにはさすがの男も、やや
たじたじとしたらしい。ゆだんを見すまし、竹童は腕のゆるみをふりほどくが早いか一
目散――
「おまえみたいな
下っ
端に、からかってなんかいられるもんかい!」
すてぜりふをいって、あとをも見ずに逃げだした。
「バカ
野郎」
男は
割合に落ちついて見送っている。
「そうだそうだ。もッと十町でも二十町でも先に逃げてゆけ、はばかりながら、てめえなんかに追いつくにゃ、この
燕作さまにはひと飛びなんだ」
この男こそ、燕作だった。さてこそ、竹童を
伊那丸の手先と見て、組みついたはず。
かれは、
首尾よく、
丹羽昌仙の密書をとどけて、ここまで帰ってきたものの、
人穴城の
洞門はかたく
閉められ、そこここには伊那丸の一
党が見張っているので、
山寨へも帰るに帰られず、
蚕婆の
家にかくれていたものらしい。
「あの竹童のやつをひっ
捕らえていったら、さだめし
呂宋兵衛さまもお喜びになるだろうし、おれにとってもいい
出世仕事だ。どれ、一つ追いついて、ふんづかまえてくれようか」
いうかと思うまに、もう
燕作は、
礫のとんでいくように走っていた。それを見るとなるほど
稀代な
早足で、日ごろかれが、胸に
笠をあてて
馳ければ、笠を落とすことはないと自慢しているとおり、ほとんど、
踵が地についているとは見えない。
竹童も、逃げに逃げた。
折角村から
蛭ヶ
岳の
裾を
縫って街道にそって、足のかぎり、
根かぎり、ドンドンドンドンかけだして、さて、
「もうたいがい大じょうぶだろう――」と立ちどまり、ひょいとあとをふりかえってみると、とんでもないこと、もうすぐうしろへ追いついてきている。
「あッ」またかける。燕作もいちだんと足を早めながら、
「やあい、竹童。いくら逃げてもおれのまえをかけるのはむだなこッたぞ」
「おどろいた早足だな、早いな、早いな、早いな」
さすがの竹童も敵ながら感心しているうちに、とうとう、ふたたび燕作のふと腕が、竹童の
襟がみをつかんで、ドスンとあおむけざまに引っくりかえした。
そこは、
釜無川の
下、
富士川の
上、
蘆山の
河原に近いところである。燕作は、思いのほかすばしッこい竹童をもてあまして、
手捕りにすることをだんねんした。そのかわり、かれはにわかにすごい殺気を
眉間にみなぎらせ、
「めんどうくせえ、いッそ首にして
呂宋兵衛さまへお
供えするから
覚悟をしろ」とわめいた。
ひきぬいたのは、二尺四寸の
道中差、竹童はぎょッとしてはね返った。とすぐに、するどい
太刀風がかれの
耳たぶから鼻ばしらのへんをブーンとかすった。
哀れ竹童、組打ちならまだしも、
駈け
競べならまだしものこと――
真剣の
白刃交ぜをするには、悲しいかな、まだそれだけの骨組もできていず、剣をとっての
技もなし、第一、腰に差してる刀というのが、頼みすくない
樫の
棒切れだ。
秋の水がつめたくなって、
鮠も
山魚もいなくなったいまじぶん、なにを
釣る気か、ひとりの少年が、
蘆川の
瀞にむかって、
釣り
糸をたれていた。
少年、年のころは十五、六。
すこし
低能な顔だちだが、目だけはずるく光っている。
鳥の
巣みたいな髪の毛をわらでむすび、まッ黒によごれた
山袴をはいて、腰には
鞘のこわれを、
あけびの
蔓でまいた山刀一本さしていた。
「ちぇッ、釣れねえつれねえ、もうやめた!」
とうとう、かんしゃくを起したとみえて、いきなり
竿をビシビシと折って、
蘆川のながれへ投げすてた。
「あ、
瀞の岩にせきれいが遊んでいやがる。そうだ、これからは鳥うちだ、ひとつ小手しらべにけいこしてやろうか」
と、足もとの小石を三つ四つ拾いとったかと思うと、はるか、流れの中ほどをねらって、おそろしく
熟練した
礫を投げはじめた。
「やッ――」と、小石に気合いがかかって飛んでいく。
と見るまに、二
羽のせきれいのうち、一羽が
瀞の水に落ちて、うつくしい
波紋をクルクルと
描きながら
早瀬のほうへおぼれていった。
「どんなもんだい。
蛾次郎さまの腕まえは――」
かれはひとりで鼻うごめかしたが、もうねらうべきものが見あたらないので、こんどは、たくみな水切りの芸をはじめた。一つの小石が、かれの手からはなれるとともに、なめらかな水面を、ツイッ、ツイッ、ツイッと水を切っては
跳び、切っては
跳ぶ、まるで、小石が
千鳥となって波を
蹴っていくよう。
「七つ切れた! こんどは十!」
調子にのって、蛾次郎がわれをわすれているときだ。
そこから二、三町はなれたところの
河原で、ただならぬさけび声がおこった。かれはふいに耳をたって、四、五
間ばかりかけだしてながめると、いましも、ひとりの
兇漢が、
皎々たる
白刃をふりかぶって、
小ッぽけな
小僧をまッ二つと斬りかけている。
それは、
燕作と、
竹童だった。
竹童はいまや必死のところ、
樫の
棒切れを
風車のようにふって、燕作の
真剣と火を飛ばしてたたかっているのだ。しかし、大の男のするどい
太刀かぜは、かれに
目瞬するすきも与えず、斬り立ててきた。あわや、竹童は血煙とともにそこへ命を落としたかと見えたが、
「あッ――」
ふいに燕作が、
唇をおさえながら、タジタジとよろけた。どこからか、風を切って飛んできた小石に打たれたのである。
「しめた!」と、竹童は小さな
体をおどらせて、ピシリッと、燕作の
耳たぶをぶんなぐった。
「
野郎ッ!」
怒髪をさかだてて、ふたたび太刀を持ちなおすと、またブーンとかれの小手へあたった第二の
礫。
「ア
痛ッ」
ガラリと
道中差をとり落としたが、さすがの燕作も、それを拾いとって、ふたたび立ち直る勇気もないらしい。
笑止や、四尺にたらぬ竹童にうしろを見せて、例の
早足。雲を
霞と逃げだした。
「待て。
意気地なしめ!」
竹童は、急に気がつよくなって、こんどはまえと反対に、かれを追ってドンドン走りだすと、ちょうど、あなたからも河原づたいに、
黒鹿毛の
駒を
疾風のごとく飛ばしてくるひとりの勇士があった。――見るとそれは秘命をおびて、
伊那丸の本陣
雨ヶ
岳をでた
奔馬「
項羽」。――上なる人はいうまでもなく、
白衣の
木隠龍太郎だ。
「や、や、あいつは
伊那丸がたの武将らしいぞ」
と、戸まどいした
燕作が、その行く先でうろうろしているうちに、たちまちかけよった
龍太郎、
「これッ」
と、すれちがいざま、右手をのばして燕作の首すじをひっつかみ、やッと馬上へつるし上げたかとおもうと、
「
往来のじゃまだ!」
手玉にとってくさむらのなかへほうりこみ、そのまま走りだすと、こんどはバッタリ竹童にいき会った。
「おお、それへおいでなされたのは龍太郎さま――」
「やあ、竹童ではないか」ピタリと「項羽」の足をとめて、
「なんでこんなところでうろついているのだ。
呂宋兵衛の手下どもに見つけられたら、
命がないぞ、はやく
鞍馬山へ立ち帰れ」
「ありがとうございますが、まだこの竹童には、お
師匠さまからいいつけられている大役があるんです。ところで龍太郎さまは、これからいずれへおいそぎですか」
「されば
小太郎山へまいって、三百人の兵をかりあつめ、ここ四日ののちに、
人穴城を攻めおとす
計略」
「わたくしがやる仕事も四日目です。どうも、お
師匠さまのおさしずは、ふしぎにピタリピタリと
伊那丸さまの計略と一致するのが
妙でございます」
「ふーむ……してその密計とはどんなことだ?」
「
天機もらすべからず。――しゃべるとお
師匠さまからお目玉を
食います。それよりあなたこそ、どうして三百人という兵がわずか四日で集められますか、まさかわら人形でもありますまいに」
「それも、
軍機は語るべからずじゃ」
「あ、しっぺ返しでございますか」
「オオ、そんなのんきな問答をいたしている場合ではない、
竹童さらば!」
と、ふいに
鞭をあげて、行く手をいそぎだそうとすると何者か、
「ばかだな、ばかだなあ! あの人はいったいどこへいくつもりなんだい!」とあざわらう声がする。
木隠龍太郎も竹童も、そのことばにびっくりしてふりかえると、石投げをしていた
蛾次郎がいつかのっそりそこに立っていた。
「
拙者をバカともうしたのはきさまだな」
龍太郎がにらみつけると、
蛾次郎はいっこうにこたえのないふうで、ゲタゲタと笑いながら、
「ああおれだよ」
「ふらちなやつ、なんでさようなことをぬかした」
「だってお
侍さんは、
小太郎山へいくんだっていうのに、とんでもないほうへ馬の首をむけていそぎだしたから笑ったんだ」
「ふーむ、ではこっちへむかっていってはわるいか」
「悪いことはないけれど、この
蘆川を大まわりして、甲州
街道をグルリとまわった日には、半日もよけいな道を歩かなけりゃならない。それより、この川を乗っきって
駿州路を左にぬけ、
野之瀬、丸山、
鷲の
巣とでて、
野呂川を見さえすれば、すぐそこが、小太郎山じゃないか」
と、すこし抜けている蛾次郎も、住みなれた土地の地理だけに、くわしく
弁じた。
「なるほど、これは
拙者がこのへんに暗いため、
無益の
遠路につかれていたかも知れぬ。しかし、この激流を、馬で乗っきる場所があろうか」
「あるとも、
水馬さえ
達者なら、らくらくとこせる
瀞がある。ここだよ、お
侍さん――」
と
蛾次郎はまえに水切りをやっていたところを教えた。
「む。なるほど、ここは深そうだ、
川幅も四、五十
間、これくらいなところなら乗っ切れぬこともあるまい」
と龍太郎はよろこんで、
浅瀬から
項羽を乗りいれ、ザブザブ、ザブ……と水を切っていくうちに
紺碧の
瀞をあざやかに乗りきって、たちまち向こう岸へ泳ぎ着いてしまった。
「ありがとう」
と、それを見送るとほッとしたさまで、
竹童が礼をいうと、
蛾次郎はクスンと笑って、
「なにがありがてえんだ、おめえに教えてやったわけじゃあない」といった。
竹童はじぶんより三歳か四歳上らしい蛾次郎を見上げて、へんなやつだとおもった。
「そのことじゃないよ、さっきおいらが悪いやつに、あやうく殺されそうになったところを、石を投げて
逃がしてくれたから、その
礼をいったのさ」
「あんなことはお茶の子だ、こう見えてもおれは石投げ蛾次郎といわれるくらい、
礫を打つのは名人なんだぜ」
と、ボロ
鞘の刀をひねくッて、
竹童に見せびらかした。
「
蛾次郎さんの
家はどこだい?」
「おれか、おれは
裾野の
折角村だ、だがいまあの村には、
桑畑の
蚕婆と、おれの親方だけしか住んでいないから
人無村というほうがほんとうだ」
「親方っていう人は、あの村でなにをしているんだい」
「知らねえのかおめえは、おれの親方は、鼻かけ
卜斎っていう有名な
鏃鍛冶だよ。おれの親方の
鍛った矢の根は、
南蛮鉄でも
射抜いてしまうってんで、ほうぼうの
大名から何万ていう仕事がきているんだ。おれはそこの
秘蔵弟子だ」
「
偉いなあ――」
竹童はわざと
仰山に感心して、
「じゃ、蛾次郎さんとこには、
松明なんかくさるほどあるだろうな」
「あるとも、あんなものなら
薪にするほどあらあ」
「おいらに二十本ばかりそっとくれないか」
「やってもいいけれど、そのかわりおれになにをくれる」
と蛾次郎はずるい目を光らした。
竹童はとうわくした。お金もない。刀もない。なんにもない。持っているのは相変らずの棒切れ一本だ。そこで、
「お
礼には、
鷲に乗せて遊ばしてやら。ね、
鷲にのって天を
翔けるんだぜ。こんなおもしろいことはない」
といった。
「ほんとうかい、おい!」
蛾次郎は、目の玉をグルグルさせた。
「うそなんかいうものか、
松明さえ持ってきてくれれば乗せてやる。そのかわり夜でなくッちゃいけない」
「おれも夜の方がつごうがいい。そしておまえはどこに待っている?」
「
白旗の
宮の森で待ってら、まちがいなくくるかい」
「いくとも! じゃ今夜、
松明を二十本持っていったら、きっと
鷲に乗せてくれるだろうな、うそをいうと
承知しないぜ、おい! おれは切れる刀を差しているんだからな」
と、また
あけび巻の
山刀を
自慢した。
木隠龍太郎のために、
河原へ投げつけられた
燕作は、気をうしなってたおれていたが、ふとだれかに
介抱されて
正気づくと、
鳥刺し
姿の男が、
「どうだ、気がついたか」
とそばの岩に腰かけている。見れば、つい四、五日前に
安土城で、じぶんの手から
密書をわたした
福島正則の家来
可児才蔵である。
燕作はあっけにとられて、
「あ、いつのまにこんなところへ」と、思わず目をみはった。
「しッ、大きな声をいたすな、じつは、
秀吉公の
密命をうけて、
武田伊那丸との
戦のもようを見にまいったのだ、ところで、さっそく
丹羽昌仙に会いたいが、そのほう、これより
人穴城のなかへあんないいたせ」
「とてもむずかしゅうございます。敵は
小人数ながら、
小幡民部という
軍配のきくやつがいて、
蟻ものがさぬほど
厳重に見張っているところですから」
「どこの城にも、秘密の
間道はかならず一ヵ所はあるべきはず、そちは、それを知らぬのであろう」
「さあ、
間道といえば、ことによると
蚕婆が、知っているかもしれません。あいつは
呂宋兵衛さまの手先になって、それとなくそとのようすを城内へ通じている、
裾野の
目付婆、とにかくそこへいってききただして見ることにいたしましょう」
と
燕作は、
可児才蔵のあんないにたって、
人無村の蚕婆の家までもどってきた。
「お
婆さん、
開けてくれないか、
燕作だよ。燕作が帰ってきたんだから、ちょっと
開けておくれ」
もう日が暮れている。
とざした門をホトホトとたたくと、なかから婆さんがガラリとあけて、
灯影に立った可児才蔵のすがたをいぶかしそうに
睨めすました。
「だれだい燕作さん、この人は村ではいっこう見たことがないかたじゃないか」
「このおかたは、姿こそ、変えておいでなさるが、
福島正則さまのご家臣で
可児才蔵というお人、
昌仙さまの密書で、わざわざ
安土城からおいでくだすったのだ」
と説明すると、
蚕婆はにわかに態度を変えて、下へもおかぬもてなしよう。茶を
煮たり酒をだしたりしてすすめた。
「それはようおいでなされました。さだめし、昌仙さまのお手紙で、多くの
軍兵を
秀吉さまからおかしくださることになるのでございましょうね」
「いや、とにかく
軍師と会って、そうだんをしてみたうえじゃ。ところがこれなる
燕作のもうすには、しょせん
人穴城へは入れぬとのこと、せっかくここまでまいりながら、
呂宋兵衛どのにも
軍師にも、会わずにもどるとは残念
千万」
「いえいえ。そういう大事なお使者なら、たった一つ人穴城へぬける
秘しみちへ、ごあんないいたしましょう。これ燕作さん、おめえちょっと、
裏表にあやしいやつがいないかどうか
検めておくれ」
「がってんだ」と燕作が家のあたりを見まわしてきて、
「だれもあやしいような者はいない。ないているのは
鹿ぐらいなもの――」
というと、蚕婆は、はじめて安心して、じぶんのすわっている下の
蓆を、グルグルと巻きはじめた。
おやと、燕作がびっくりしている
間に、さらに、二
畳敷ほどな
床板をはねあげると、
縁の下は四角な井戸のように掘り下げられてあった。顔をだすと、つめたい風がふきあげてくる。
「ここをおりると、あとは
人穴城の
地下洞門のなかまで三十三町一本道でいけますのじゃ、さ、人目にかからないうちに、すこしもはやく、おこしなさるがよい」
と
蚕婆がせきたてると、
才蔵は、
間道の口をのぞいてから、ふいと顔をあげて、
「
婆、
杖にして飛びこむから、
長押にかかっているその
錆槍を、かしてくれい」
と指さした。婆は彼のいう通り、
石突きをたよりに、下へ
降りるのであろうと、なんの気なしに取って渡すと
才蔵は、
「かたじけない」
と受けとって、ポンと、
槍の石突きを下へ
降ろすかと見るまに、意外や、
電光石火、
「やッ――」
と一声、
錆槍の
穂先で、いきなり真上の
天井板を突いた。とたんに、屋根裏を
獣がかけまわるような、すさまじい音が、ドタドタドタ
響きまわった。
「やッ、なんだ――」
と蚕婆と燕作が、飛びあがっておどろくうちに、才蔵は、すばやく
間道のなかへ姿をかくして、下からあおむいて笑っている。
「おどろくことはない、天井うらに
忍んでいたやつは、
徳川家の
菊池半助だ、これで
隠密落としの
禁厭がすんだから、もう安心。
燕作、はやくこい!」
「じゃあ
婆さん、あとはたのむよ」
と燕作もつづいてなかへ姿をけした。その足音が地の下へとおざかるのを聞きながら、
蚕婆はすぐもとのとおり
床板や
蓆を
敷きつめ、壁にかかっている
獣捕りの投げ
縄をつかむが早いか、いきなりおもてへ飛びだした。
「いやがった!」
かがりのような目を
磨ぎすまして、あなたこなたを見まわした蚕婆は、ふと、七、八
間さきの
闇のなかで、なにやらうごめいている人影を見つけて、じっとねらった。
と――それはまぎれもなく、
天井裏で
膝を突かれた
曲者が、小川の水で
傷手を洗っているのだ。頭から足のさきまで、
烏のように
黒装束をした
隠密の男、すなわち
徳川家からまわされた
菊池半助。
「おうッ!」
ふいに
吠えるような蚕婆の声とともに、さすがは半助、足の
痛手を忘れて、ポーンと小川を
跳びこえたが、よりはやく、
闇のなかを飛んできた投げ
縄の輪が無残、五体にからんでザブーンと、水のなかへ
捕りおとされてしまった。
さすが
伊賀衆の
三羽烏、
菊池半助も、
可児才蔵にみやぶられて、
錆槍の
穂先を
膝にうけ、そのうえ、投げ
縄にかかって五体の自由を
奪われては、どうすることもできない。
「ざまをみさらせ!
命知らずが」
蚕婆が毒づきながら、縄のまま半助をひきずってきて、
家の前の
柿の木へグルグル
巻きにしばってしまった。
「夜明けまでに、
手間いらずの法で殺してやる。うぬばかりでなく、この村へ
隠密にはいる者はみんなこうだ」
蚕婆は、やがて
枯れ木を集めてきて、
半助の身辺に
積みあげ、端のほうから火をつけてメラメラと燃えあがったのを見ると、そのまま
家へはいって寝てしまった。
焔がたっても、はじめのうちは
覆面や衣類がぬれていたので、しばらくさまでは思わなかったが、やがて衣類がかわき、
枯れ木の
火焔が、パチパチと夜風にあおり立てられてくるにつれて、菊池半助は
焦熱地獄の苦しみ。
「ア
熱ッ、ア
熱ッ、アアアアア」
おもわず悲鳴をあげて、必死に縄を切ろうともだえていた。――すると、その火の手を見て、いっさんにかけてきたのは、
鏃鍛冶卜斎の弟子
蛾次郎であった。
「おうそこへまいったもの、はやく
拙者の
脇差をぬいてこの縄を切ってくれ、早く、早く!」
「やあどうしたんだお
侍さんは? 死んじまうぞ。死んじまうぞ」
「はやくしてくれ、早く助けてくれい」
「助けてやったら、なにをくれる?」
石投げの天才のほか、仕事も
下手、もの
覚えも悪く、すこし足らない
蛾次郎だが、
慾にかけては、ぬけめがない、
半助は一ときの熱苦もたまらず、うめきながら、
「なんでもつかわすからはやく、ア
熱ッ、あッツツツ」
「よし、きっとだぜ」
念を押しながら飛びこんで、
蛾次郎は
枯れ木の火を
蹴ちらし、
山刀をぬいて半助の
縄目をぶっつり切った。火のなかから
跳びだした半助は、ほッとして大地へたおれたが、やにわにまた足の
痛手を忘れておどりたった。
「わるいところへ、またあなたからあやしい人の足音がしてまいった。おい、おれに肩をかせ、そして、しばらく休息するところまで連れてゆけ。
褒美はのぞみしだいにやろう」
「じゃ、おれの親方の
家でもいいかい」
「頼む、あれ、あれ、もう軍馬の
蹄がまぢかにせまる」
「たいへんだ! ことによると
雨ヶ
岳に陣どっている者たちがくだってきたのかも知れないぞ」
蛾次郎もにわかにあわてだして、半助のからだを
背負って、
一目散にそこを立ちさった。すると、たった
一足ちがいに、
嵐のように殺到した一
団の軍馬があった。
「それ、常からあやしい
蚕婆の
家をあらためろ!」
「戸を
蹴やぶってなかへ、
踏ンごめッ」
馬上から十四、五人の武士に、はげしく
下知をしたふたりの武士、これなん、
伊那丸の
幕下でも、
荒武者の
双龍といわれている
加賀見忍剣と
巽小文治のふたり。
「おう!」
と部下は
武者声をあげるやいなや、蚕婆の家の
裏表から、メリメリッ、バリバリッと戸を
踏みやぶっておどりこんだ。が、なかは
暗澹、どこをさがしても、人かげらしい者は、見あたらなかった。
と、聞いた忍剣は、
「いや、そんなはずはない。たしかにあやしい男と
老婆とが、
密談いたしていたのを、
間諜の者が見とどけたとある。この上は自身であらためてくれる」
と
禅杖をひっかかえひらりと馬を飛びおり、巽小文治とともに、家の中へはいっていって八方
家探ししたが、部下のことばのとおり、何者もひそんでいなかった。
「ふしぎだ――」
小文治は、そこにもぬけの
殻となっている
寝床へ手を入れてみて、
「このとおり、まだ人のぬくみがある。さすれば、いよいよ逃げた者こそ、あやしい
曲者にそういない」
「む、では寝床のわきの
床板をはねあげてみよう」
と、
忍剣が先にたって、
蓆を巻き、板をはいでみるとたちまち、一
間四方の
間道の口が、
奈落の門のごとく一同の目にうつった。
「おお、これこそ
人穴城へ通じる
間道にそういない」
「しめた! その方どもはこの口もとを
護っていて、あやしい者が逃げまいったら、かならず
捕りにがさぬように見張っておれ」
と、いいのこして、忍剣は
禅杖をひっ
抱え、
小文治は
槍の石突きをトンと下ろして、ともにまッ暗な間道のなかへとびこんでいった。
あとにのこった部下の者は、ひとしく
間道口に目と耳を
磨ぎすまして、いまに、なにかかわった物音がつたわってくるか、あやしいやつが飛びだしてくるかと、夜もすがら、ゆだんもなかった。
菊池半助を肩にかけて、まっ暗な
人無村をかけていった
蛾次郎は、やがて、おおきな
荒屋敷の門へはいった。
見ると、そこが
卜斎の
細工小屋か、東のすみにぽッと明るい
焔がみえて、トンカン、トンカン、
槌と
鉄敷のひびきがしている。そしてときどき、小屋のなかから白い煙とともに、シューッとふいごの火の
粉がふきだしていた。
「親方、お客さまをつれてきた、旅のお侍さんで、けがをして
難渋しているんだから、今夜とめてやっておくんなさい」
蛾次郎がおどおどしながら、
細工場のとなりの雨戸をあけて、ひろい土間へはいると、
手燭をもって奥からつかつかとでてきたのは、主人の
卜斎であろう。
陣羽織のような
革の
袖なしに、
鮫柄の小刀を一本さし、年は四十がらみ、両眼するどく、おまけに、仕事場で
火傷でもしたけがか、
片鼻が、そげたように
欠けている。
人呼んで、鼻かけ
卜斎と
綽名している名人の
鏃師。なにさま、ひとくせありそうな人物である。
「
蛾次公、昼間からどこをうろつきまわっているのだ。このバカ
野郎め!」
卜斎は、つれてきた半助などには目もくれず、頭からこの
怠け者の抜け作などとどなりつけて、さんざん油をしぼったあげく、
「それに、あとで聞けば、てめえは、夕方、物置小屋から二、三十本の
松明をぬすみだしていったそうだが、いったい、そんな物をどこへ持ちだして、なんのために使ったのだ。うそをいうとこれだぞ!」
いきなり弓の折れを持って、
羽目板をピシリッとうった。その音のはげしいこと、蛾次郎のふるえあがったのはむろん、
菊池半助さえ
度胆を抜かれた。
卜斎はその時はじめて、半助のほうへ気をかねて、
「まあよいわ、お客人がいるから、てめえの
詮議はあとにしよう。ときに旅のお武家さま、なにしろ今夜は
更けておりますから、この上の中二階へあがって、ごゆるりとお休みなさるがいい。そこに
夜具もある、火の
気もある、
食い
物もある、
男世帯の屋敷ですから、
好きにしてお泊りなさい」
「かたじけない、ではお言葉にあまえて夜明けまで……」
と、半助はそこにいるのも気まずいので、びっこを引きながら、おしえられた中二階の
梯子を、ギシリ、ギシリと踏んでいった。
「はてな……」と、梯子をあがりながら一つの疑念――「どこかで見たことのある男だが? ……ただの
鏃師ではない、たしかにどこかで? ……」と、しきりに思いなやんだが、とうとう、中二階へあがるまで考えだせなかった。
卜斎にいわれたまま、押入れから
蒲団をだして、そのうえに身を横たえながら、
膝の
槍傷を
布でまきつけていると、また、すぐ下の
土間であらあらしい声が起りはじめた。
「
野郎、どうあってもいわぬな! いわなければ、こうだッ」
弓の折れがヒュッと鳴ると、
蛾次郎がオイオイと声をあげて泣きだした。まるで七つか八つの子供が泣くような声で泣いている。
「いいます、親方、いいますからかんべんしてください」
「では、何者にたのまれて、
松明を盗みだした。さ、ぬかせ」
「
白旗の森にいる、
竹童というわたしより
五歳ばかり下の
童にたのまれたんです。その者にやりました」
「あきれかえったバカ者だ。じぶんより年下の
餓鬼に、手先に使われるとは情けないやつ、しかし、てめえもなにかもらったろう。ただで
松明をやるはずがない」
「いいえ、なんにももらいなんかしやしません」
「まだいいぬけをしやがるか!」
またピシリッと弓の折れがうなる、
蛾次郎がヒイヒイと泣く、すぐその上にいる菊池半助は、これではとても今夜は寝られないと思った。
それに気をいらいらさせられたか、かれは寝床からはいだして、ふたたび
梯子口からコマねずみのようにそッと顔をだした。そのとき、半助ははじめて、
卜斎の
姿容を、よく見ることができて、思わず、
「あッ」と、すべりでそうな声をかみころした。
「どこかで見たと思ったはず――あれは、
越前北ノ
庄の
主、
柴田権六勝家の腹心だ――おお、
鏃師の鼻かけ
卜斎とは、よくも
巧みに
化けたりな、まことは、
鬼柴田の
爪といわれた
上部八風斎という
軍師築城の
大家。いつも柴田権六が、攻略の軍をだすときに、そのまえから敵の領土へ住みこんで、
砦のかまえ、水利、地の理、残るくまなくさぐって、一挙に
掌握するという、おそろしい人物だ。――その八風斎がこの
裾野へ
巣を作ったところをみると、さては、野心のふかい柴田勝家、はやくも天下をこころざす足がかりに、この一
帯へ目をつけたものだろう。
武田伊那丸といい
呂宋兵衛といい、また
秀吉の手の者が入りこんだことといい、いちいち
徳川家の
大凶兆。こりゃ、
裾野一
帯いよいよゆだんのならぬものばかりだ……」
半助は、耳を
畳にこすりつけて、さらに、
階下の声を一語も聞きもらすまいと息をのんでいた。と、下ではまた
卜斎の声で、
「なに? ではその
竹童という
童に、二十本の
松明をくれて、そのかわりに
鷲にのせてもらったというのか。やい! 泣きじゃくってばかりいたのではわからぬわい。はっきりと口をきけ」
「そ、そうなんです……」
ベソをかきながら答えてるのは
蛾次郎の声だ。
「松明を持っていったら、そのお
礼に大きな鷲の背なかへ乗せてくれましたから、
白旗の森の上から空へあがって、五湖や
裾野の上をグルグルとまわってまいりました」
「そうか、それでしさいがわかった」
と卜斎はうなずいて、なお、竹童のようすや、鷲のことなどをつぶさにただしたから、蛾次郎はゆるされるのかと思っていると、
荒縄で両手をしばりあげたまま、松明をぬすみだした物置小屋のなかへ三日間の
監禁をいいわたされてほうりこまれてしまった。
そのあとは、卜斎も寝入り、
細工小屋の
槌音もやんでシーンと真夜中の静けさにかえったが、半助だけは、うすい
蒲団をかぶって横になりながらも、まだ寝もやらず目をパチパチとさせていた。
「
鷲、鷲! 竹童というやつが、自由自在につかう飛行の大鷲! おお、そいつを一つ巻きあげて、こんどの
手柄としてかえろう……」
とかれは、ふと思いついた胸中の
奇策に、ニタリと
悦をもらしたが、そのとき、なんの気なしに
天井を見あげるや
否、かれは、全身の血を氷のごとく
冷たくして、
「や、や、やッ」と、目をむいて、ふるえあがった。
菊池半助が、身をすくませたのも道理、中二階の
天井には、いちめんの
鉄板が張ってあって、それに、
氷柱のような、無数の
鏃が植えてあるのだ。
剣の
切ッ先よりするどい鏃は、ちょうど、あおむけになっている半助の真上に、ドギドギとぶきみな光をならべている。おお、もしその鉄板が、いちどおちてこようものなら、いかに
隠身自由、
怪力無双なものでも、五体は
蜂の
巣となって
圧死してしまうであろう。
「
釣り
天井――」
半助は、とっさに壁ぎわへ、身をすりよせた。
このおそろしい部屋へじぶんをあんないしたからには鼻かけ
卜斎の
八風斎は、すでに徳川家の
伊賀衆菊池半助ということを見破ったにそういない――と半助は、こころみに
梯子口をのぞいてみると、はたしていつのまにか梯子はとりはずされて、下には、あやしい
陥穽が
伏せてあるようす、ほかに出口はむろんない。
半助は
絶体絶命となった。
けれど五本の指と二本の足が、ままになる以上、こんなことで、おめおめ
命をおとすような菊池半助ではない。
かれは
脇差をぬいて、いきなり、あっちこっちの壁をズブズブとつき刺した。そしてそとへ通じるところをさぐりあて、たちまち二尺四方ぐらいの
穴を切りぬいたかとおもうと、ほとんど、
猫が
障子の穴をすりぬけるようにするりと身をはいだして、一
丈四、五
尺の上から大地へポンと
跳びおりた。そして、
「ここだな……」と、すすり泣きのもれている物置小屋の戸をねじあけて、なかにいる
蛾次郎を助けだした。
「あッ、お武家さん――」
蛾次郎が
素ッ
頓狂な声をだす口をおさえて、
「しずかにせい。さっきそのほうがおれをたすけてくれた返礼に、こんどはきさまを救ってやる。徳川家へまいれば
伊賀衆の
組頭、いくらでも取り立ててやるから一しょについてくるがいい」
「あ、ありがとう。おれもこんなやかましい親方にくッついているのはいやでいやでたまらないんだ」
「む、
卜斎に
気取られぬうち、そッと馬小屋から足のはやいのを一ぴきひっぱりだしてこい」
「いいとも、馬ぐらい盗みだすのは、ぞうさもないよ」
蛾次郎が
闇のなかへ飛んでいくと、そのとたんに
半助のあたまの上で、ドドドドスン! というすさまじい
家鳴り
震動。ふり
仰いでみると、いまかれがのがれだした壁の穴から、
濛々たる土煙が
噴きだしている。
「おれがここへ抜けだしているのに、卜斎めが
釣り
天井の
綱を切ったんだろう。そんな
壺におちるような者は、
伊賀衆の中には一ぴきもいるもんか」
せせら笑っていると、ふいに、
家のなかから
轟然たる爆音とともに、
火蓋を切った
種子島のねらい
撃ち。
「あッ、気がついたな、こいつはぶっそうだ」
バラバラとかけだしていくと、
暗闇から牛をひきだしたという
諺どおり蛾次郎のうろたえよう。
「お
侍さん、――お侍さんじゃないのかい」
「おれだおれだ、馬は? 馬はどこにいる?」
「ここだよ、馬を盗みだしてきたところだ」
「どこだ、アア、まっ暗。どこにいるのじゃ」
「ここだよ、ここだよ」
と
蛾次郎が手をたたくと、その
音をたよりにねらった
鉄砲の
弾が、またも、つづけざまに、二、三発、ズドンズドン! と火の
縞を走らせた。
「わあッ、だめだ、あぶねえ!」
ふいに、蛾次郎が
胆をつぶして腰を抜かしたらしい
弱音。
「えい、泣くなッ」
と
叱りつけた
菊池半助。いったい、この
厄介者をなんに利用しようとするのか、むんずと
横脇にひっかかえて馬の
鞍壺にとびあがり、つるべうちの鉄砲を聞きながして、
人無村から
闇の
裾野へ、まッしぐらに、逃げおちてしまった。
いっぽう、
蚕婆の家の
床下から、
人穴城の
間道をすすんでいった
加賀見忍剣と
巽小文治。
瞳はいつか闇になれたが、道は
暗々として行く手もしれない。
冥府へかよう
奈落の道をいくような気味わるさ。ポトリ、ポトリと
襟もとに落ちてくる
雫のつめたいこと。たえず、
冷々と
面をかすめてくる
陰森たる風、ものいえば、ガアンと
間道中の悪魔がこぞって答えるようにひびく。
――と、つねに沈着な巽小文治が、ふいに、「あッ」とさけんで一歩とびのき、片手で顔をおさえてしまった。
「どうした、小文治どの」
「なにか風のようなものに、さっと
面をふかれたその痛さ。
忍剣どのもかならずごゆだんなさるまいぞ」
「そんなバカなことがあろうか、あれは年へた
蝙蝠のたぐいじゃ」
と入れかわって、忍剣が、さきに立って二、三歩すすむと、かれも同じように奇怪ないたさに
面を
刺されて、たちまち片目を押さえてしまった。そして、ふと
衣の上に、
霜のように立つものを手でさぐってみて、
「こりゃ!
針だッ」
と
叫んだ。
「えッ、針?」
その時、はじめてふたりとも身がまえ直して、じッとやみをすかして見ると、
白髪をさかだてたひとりの
老婆が
蜘蛛のように
岩肌に身を
貼りつけて、プップップッとたえまなく、ふたりの
面へ吹きつけてくる針の息……
おお、それこそ
竹童がなやまされた
蚕婆の
秘術吹針の目つぶしだった。
早足の
燕作と
可児才蔵は、
蚕婆より
一足先に抜け
穴へはいったので、すぐあとにおこった異変もなにも知らず、ただひた走りに、地下三十三町の
間道を
人穴城へいそいでいく。
目というものがあっても、ここでは、目がなんの役にも立たない暗黒界、けれど、足もとは
坦々とたいらであるし、両側は
岩壁の横道なし。――いくら
盲めっぽうに進んでも、けっして、
迷う気づかいはないと、燕作はいつもの早足ぐせで、才蔵よりまえにタッタとかけていったが、やがてのこと、
「ホイ! しまったり!」
目から火でもだしたような声で、勢いよく
四ンばいにつんのめった。あとからきた才蔵も、あやうくその上へ折りかさなるところを
踏みとどまって、
「どうした燕作」と声をかける。
「オオ、
痛え! 才蔵さま、どうやらここは行止まりのようです」
「どんづまりにはちと早い、あわてずによくさぐってみい……おおこりゃ石段ではないか」
「え、石段?」
「
人穴城は、
裾野より高地となるから、この間道が、しぜんのぼりになるのは、はや近づいた
証拠といえる」
才蔵がのぼっていく尾について、燕作も石段の数をふんでいく……と道はふたたび
平地の坂となり、それをあくまで進みきると、こんどこそほんとうのゆきづまり、
手探りにも知れる
鉄の
扉が、ゆく手の先をふさいでいた。
「
燕作燕作、殿堂の
間道門は、すなわちこれであろう。なんとかして、なかの者にあいずをするくふうはないか」
「とにかく、どなってみましょう」
と燕作は鉄門の前に立って、
器量いっぱいな大声。
「やアやア
搦手がたの兄弟、
丹羽昌仙さまの密書をもって、
安土城へ使いした
早足の
燕作が、ただいま立ちかえったのだ。開門! 開門」
鉄壁をたたいて呼ばわッたとたん、頭の上からパッとさしてきた
龕燈のひかり、と見れば、高いのぞき
窓から首を集めて、がやがや見おろしている七、八人の手下どもの顔がある。
「おお、いかにも、燕作にちがいないらしいが、あとのひとりは
人穴城で見たこともないやつ、
軍師さまの
厳命ゆえ、さような者は、ここ一
寸も、とおすことまかりならん。開門ならん」
「ヤイヤイ、しつれいをもうしあげるな」
と、燕作はまばゆい光をあおむいて、
「
鳥刺し姿に身を
やつしておいでなさるが、このお方こそ、
秀吉公の
帷幕の人、
福島さまのご家臣で、音にきこえた
可児才蔵とおっしゃる勇士だ。うたがわしく思うなら、とッとと
軍師さまのお耳に入れてくるがいい」
「なんだ、
福島正則さまのご家来だと?」
おどろいた手下どもは、すぐことの
由を、
丹羽昌仙へ
告げにいった。昌仙は、
燕作の
吉報をまちかねていたところなので、すぐさま、大将
呂宋兵衛とともに、
間道門のてまえまで、
秀吉の使者を出むこうべくあらわれた。
しばらくすると、鉄の
閂をはずす音がして、明暗の境をなすおもい
扉が、ギ、ギ、ギイ……と一、二寸ずつ
開いてきたので、暗黒のなかに立っていた才蔵と燕作のすがたへ、一
道の光線が水のごとくそそぎ流れた。
「はるばるお越しくだされた
可児才蔵さま、いざお入りくだされい」
内よりおごそかな声があって、
門扉は八
文字にひらかれた。――と、ほとんど同時である。またも
間道のあなたから、
疾風のように走ってきた人間がある! すでに才蔵と燕作がなかへはいって、ふたたびギーッと門が
閉まろうとするところへ、あわただしくきて、
「大へんだ! わたしを
入れて、はやくあとを
閉めておくれよ」
ころぶようにたおれこんだ
蚕婆、いつもの
し太さに似ず、いきた色もしていない。
「おお
裾野の
見付婆、大へんとはなんだなんだ」
一せいに色めきたつ人々を見まわして、蚕婆は歯をむきだして、がなッた。
「なんだもかんだも、あるもんか、はやくはやく、さきに門を
閉めなきゃ大へんだ、いまわたしのあとから
忍剣と
小文治というやつが追っかけてくる!」
「えッ、
伊那丸の
旗本がおいかけてくるッて? それは、ここへか、こっちへか?」
「くどいことはいっておられないよ、あれ、あの足音がそうだ! あの足音だ!」
「それッ、かたがた、はやく門をとじて
厳重にかためてしまえ」
「やア、もうそこへ姿がみえた」
「
閂はどうした!」
「くさりをかせ!
鎖を!」
「わーッ、わーッ」
――ととつぜん、暴風にそなえるように、うろたえた手下どもは、
扉へ手をかけて、ドーンという
響きとともに、
間道門を
閉めてしまった。
「むねんッ」
と、その下にふたりの声。ああ、たった
一足ちがい――
蚕婆を追いつめて、
人穴城のかくし道をきわめてきた忍剣と小文治は、いでや、このまま城内へ斬って
入ろうと勢いこんできたところを、内からかたく
閉められてじだんだ
踏んだ。
「
卑怯なやつら、
臆病ぞろいよ! わずかふたりの敵をむかえることができぬのか、
和田呂宋兵衛の下ッぱには男らしいやつは一ぴきもいないのか、くやしければ、
開けろ、開けろッ!」
さんざんにいいののしったが、こッちでののしれば、内でもののしり返すばかり、果てしがないので、
「えい、めんどうだッ」
手馴れの
禅杖を、ふりかまえた
加賀見忍剣、どうじに
巽小文治も、
「よし、
拙者は、あれからとびこんでゆく」
と、
槍を立てかけて、足がかりとなし、十数尺上ののぞき口へ、無二無三にとびつこうとこころみた。
グワーン!
たちまち、雷火をしかけたように、鉄門をとどろかした
忍剣の第一撃! この鉄の
扉が破れるか、この
禅杖が折れるかとばかり。
つづいて、第二、第三撃!
間道門のなかでは、
呂宋兵衛をはじめ
丹羽昌仙、
轟又八、そのほか
燕作も
蚕婆もおおくの手下どもも、思わず
胆をひやして、ただ、あれよあれよとおどろき見ているまに、さしもの鉄壁も、
飴のようにゆがんでくる。
すわこそ、
人穴城の一大事となった。
呂宋兵衛はまッさおになった。
手下どもも、見えぬ敵の
恐怖におそわれた。こんな
猛者に、ふたりもおどりこまれた日には、よしや、城内に二千の
野武士はあるとも、どれほど死人
手負いの山をきずかれるか、さいげんの知れたものではないと思った。
「なにを気を
呑まれているか!
意気地なしめ!」
ふいに、そのなかで、思いだしたようにどなったのは
轟又八。
「すこしもはやく、水道門の
堰をきって、
間道のなかへ
濁水をそそぎこめ、さすれば、いかなる
天魔鬼神であろうと、なかのふたりが
溺れ死ぬのはとうぜん、しかも、味方にひとりの
怪我人もなくてすむわ」
あっぱれ名案と、
誇りがましく命令すると、手下どもが、おうと答えるよりはやく、
「いや、そりゃ断じていかん」
はげしく
異議を申したてた者は、
軍師丹羽昌仙であった。かれとは、つねに犬と
猿の仲みたいな轟又八、すぐ
眉をピリッとさせて、
「こういうときの用意のため、いつでも水道門の堰さえきれば、間道はおろか
裾野一円、満々と
出水になるようしかけておいた計略ではないか。
軍師には、なんでお
止めなさる」
「おろかなことをお問いめさるな、それ、
溺兵の計りごとは、一城の危急存亡にかかわるさいごの手段、わずかふたりの敵をころすために、なんでそれほどの
費えをなそうや」
「心得ぬ
軍師のいい
条、では、みすみす
間道門をやぶられて、ここにおおくの
手負いをだすとも、大事ないといいはらるるか」
「なんで
昌仙が、それまで手をつかねて見ていようぞ、
拙者にはべつな一計があること、又八どのは、それにてゆるりとご見物あるがよい。やあ者ども、この鉄門の前へ
焼草をつみあげい」
たちまち、山と積まれた
枯草の
束。はこばれてくる
獣油の
瓶、かつぎだされた数百本の
松明。
洞門のなかでは、それとも知らず、必死にあえぐ
忍剣と
小文治のかげ。と――いきなり、バラバラバラ、バラバラッ! と上ののぞき口から投げこんできた枯草のたば! つづいて
焔のついた
松明、
獣油の雨、火はたちまちパッと枯草についた。いや、ふたりの
袖や
裾にもついた。
火は消しもする、はらいもする、が、もうもうと
間道のなかへこもりだした煙はおえぬ。しかも
異臭をふくんだ獣油の黒煙が、でどころがなく、
渦をまいてふたりをつつんだ。
目からはしぶい涙がでる。
鼻腔はつきさされるよう、
咽はかわいて声さえでぬ。……そこにしばらくもがいていれば煙にまかれて
窒息はとうぜんだ。ふたりは歯ぎしりをしながら、煙におしだされて、しだいしだいにあともどりした――といっても、
充満している煙の底をはいながら……
間道の半ば過ぎまで引っかえしてきたころ、ふたりは、やっとどうやらうす目をあいて、たがいにことばをかわせるようになった。
「や、
小文治どの、どうやらここは、
先刻すすんでいった
間道とはちがうようではないか」
「
拙者もすこし変に思ってはいるが、たしかいきがけには、ほかに横穴はないように心得ていた」
「しかし、このように両側のせまい穴ではなかったはず……はてな? こりゃちとおかしい……」
「
忍剣どの、また煙の
渦がながれてきた。とにかく、もどるところまでもどってみよう」
「せっかく、
人穴城の根もとまで押しよせたに、煙攻めの
策にかかって引ッ返すとは無念千
万……ああまたまっ黒に包んできおった」
「ちぇッ、いまいましいが、もうここにもぐずぐずしておれぬわ」
さすがの勇士も、煙の魔軍には勝つ
術がなかった。息づまる苦しさと、目にしむ
涙をこらえながら、いっさんにその
穴を走りもどった。
からくも、前にはいった
床下へきた。まさしく、
蚕婆の家の下にちがいない。とちゅうの道がちがっているように思えたのも、さすれば、煙のための
錯覚であったかもしれない。
「こりゃ部下の者、この板を
退けて、
綱をおろせ、早く早く!」
と
小文治が、
槍の
石突きを上へむけて、
蓋の板を下からポンポンと突きあげた。
すると、入口に待ちかねていた部下の者であろう、板をはがして、二本の
綱を無言のまま下へたれてきた。それを力に、
忍剣と
小文治は、ひらりと上へとびあがる!
――あがったところはまッ暗であった。
だれかが、カチカチ……と
火打石を
磨っている。部下は二十人ばかり、ここへ置いていったのに、イヤにあたりが静かである。
カチッ、カチッ、カチッ……火打石はなかなかにつかない……
「たわけ者め!」
忍剣は、部下の不用意を
叱りつけた。じぶんたちがいない
間に、あるいは、軍律を破って、
夜半の眠りをむさぼっていたのではないかとさえうたぐった。
「なぜ、かがり火を
焚いておらぬ、この暗さで、いざことある場合になんといたす。
不埒者めが、はやく
灯をつけい!」
「はい、ただいますぐに明るくいたします」
と答える者があったが、すこし
声音がへんである。調子がおかしい。
小文治は、部下の者のなかにこんなしわがれた声はなかったはずと思って、きッとなりながら、
「何者だッ、そこにいるのは!」
と、声あらく、どなりつけてみた。
にもかかわらず、相手は平気で、まだカチカチと
闇のなかで、火打石を磨っている。
「名を申さんと突きころすぞッ、敵か、味方か!」
ピラリッ――
朱柄の
槍の
穂先がうごいて、
闇のなかにねらいすまされた。と、その槍先から、ポーッとうす明るい
灯がともった。
「わしは敵でもなければ味方でもない。そうもうすおまえがたこそ、深夜に
床下から
忍びこんできて、ひとの家へなにしにきた!」
「やや、ここは
蚕婆の家ではなかったのか――」
忍剣も
小文治も、あまりのことにぼうぜんとしながら、そこに立ったひとりの人物を、そも何者かと、みつめなおした。
いまともした
行燈を前にだして、しずかに席についたその男は、するどい両眼に
片鼻のそげた顔をもち、
熊の毛皮の
胴服に、
刻み
鞘の
小太刀を
前挟みとなし、どこかにすごみのあるすがたで、
「あははははは、
床下から戸まどいしてござったのは、さてこそ、
伊那丸が
幕下のおかたでござるな。なんにせよ、深夜の珍客どの、お話もござりますゆえ、まずそれへおすわりください」
いう声
がら、
容貌も、それは、まぎれもあらぬ
鏃鍛冶の鼻
かけ卜斎。
意外なおもいにうたれた忍剣と小文治の目は、つぎに
部屋のなかをながめまわした。
ここは
卜斎の
書斎とみえて、兵書、武器、種々な
鏃の
型図面などがざったにちらかっており、なかにも一
挺の
種子島が、いま使ったばかりのように、
火縄をそえて、かれのそばにおいてあった。
「いかにもご
推察のとおり、われわれはいま
雨ヶ
岳を本陣としている、
武田伊那丸さまの
旗本でござるが、してそこもとは
何人? またここはいったいいずこでござりますか?」
ややあって、
忍剣が、こう問いただした。
「ここは、やはり
裾野の村、おふたりが
間道へはいられた
蚕婆の家から、さよう、ざっと五、六町はなれた
鏃鍛冶の小屋でござる。すなわち、手まえは
主の卜斎ともうす者」
「ではそちも、
鏃鍛冶とは世をあざむく
稼業で、まことは蚕婆とおなじように、
人穴城の
見付をいたしているのであろうが!」
小文治が、グッと急所を押すと、卜斎は、ひややかに
嘲笑って、
「とんでもないこと、けっしてさような者ではございません」
「だまれ、
呂宋兵衛の
隠密でない者が、なんで
床下から
間道へ通じるようにしかけてあるのだ」
「なるほど、それはごもっともなおうたがいじゃ。いかにもこの卜斎鏃鍛冶とはほんの一時の
表稼業で、まことはおさっしのとおり
隠密にそういない」
「さてこそ、
間者!」
小文治と
忍剣は、腰の大刀をグイとにぎって、あわやおどりかからんずる気勢をしめした。
片手を
斜めにさし向けて、きッと、体をかまえなおした
卜斎、
「じゃが、おさわぎあるなご両所、
隠密は隠密でも、
呂宋兵衛のごとき
曲者の手先となって、働くような卜斎ではございません――」
と、左右のふたりへ、するどい眼をそそぎながら、
「――まことかくもうす卜斎こそは、
北国一の
雄、
柴田権六勝家が間者、本名
上部八風斎という者、
人穴の
築城をさぐろうがため、ここに
鏃師となって、家の
床下から八ぽうへかくし道をつくり、ここ二
星霜のあいだ、苦心していたのでござる」
「おう……」うめくがようにふたりは顔を見あわせて、
「音にきこえた
鬼柴田の
ふところ刀、上部八風斎とはそこもとでござったか。してその
御人が、なんのご用ばしあって、われわれをお
止めなされた」
「されば、それがしの主君勝家より密命があって、ご不運なる
武田家の
御曹司へ、ひとつの
贈り物をいたそうがため」
「はて、
柴田家より
伊那丸君へ、そもなんの贈り物を?」
「すなわちこの
品――」
と、八風斎がしめしたのは、かれが学力の
蘊蓄をかたむけて、くまなくさぐりうつした
人穴の攻城図、
獣皮につつんで大せつに
密封してあるものだった。
「――かねてから主君
勝家は、
若年におわし、しかも、
孤立無援に立ちたもう
伊那丸さまへ、よそながらご同情いたしておりました。折から、このたびのご苦戦、ままになるなら、北国
勇猛の軍馬をご加勢に送りたいは山々なれど、四
隣の国のきこえもいかが、せめては武家の
相身たがい、弓取り同士のよしみの
印までにもと、この攻城図を、ご本陣へさしあげたいというおいいつけ」
「なんといわるる、ではそこもとが、苦心に苦心をかさねて
写されたこの秘図を、おしげもなく、伊那丸さまへおゆずりなさろうとおっしゃるか」
「いかにも、これさえあれば、
人穴城の
要害は、
掌をさすごとく、
大手搦め手の攻め口、まった殿堂、
櫓にいたるまで、わが家のごとく知れまする。すなわちこの一枚の図面は、千人の
援兵にもまさること
万々ゆえ、一刻もはやく、ご本陣へまいらせたいこのほうの
志、なにとぞ、伊那丸さまへ、よしなにお取次ぎを」
「ああ、世は
澆季でなかった」
と、
忍剣も
小文治も、胸をうたれずにおられなかった。
越前北ノ
庄の
鬼柴田といえば、弱肉強食の
乱世のなかでも、とくに恐ろしがられている
梟雄だのに、こんな美しい、情けの
持主であろうとは、きょうまで
夢にも知らなかった。――なんとゆかしい弓取りのよしみであろう。
そして、むろんこれはこばむことではないと思った。
さだめし、
伊那丸さまをはじめ同志の人々がよろこぶことと信じて、そくざに、
八風斎の願いをゆるし、
雨ヶ
岳の本陣へあんないすることを
快諾した。
八風斎も
欣然として、衣服大小をりっぱにあらため、
獣皮につつんだ図面を
懐中にいれ、ふたりのあとについて屋敷をでた。
いっぽう、
蚕婆の家で、たむろをしていた部下の者たちは、
床下の穴から
濛々たる煙がふきだしてきたので、すわこそ、忍剣と小文治の身のうえに、変事があったにちがいないと、すくなからずさわぎあっていた。そこへ意外な方角から、ふたりが無事でかえってきたので、一同あッけにとられてしまった。
やがて、勢ぞろいをして、
人無村をでてゆく一列の軍馬を見れば、まッさきに馬上の
加賀見忍剣、おなじく
騎馬たちの
上部八風斎、
巽小文治、それにしたがう二十余人の兵。――この一列が
整々として
雨ヶ
岳の本陣へかえってくるまに、
富士の山は、銀の
冠にうす
紫のよそおいをして、あかつきの空に
君臨し、流るる
霧のたえまに、
裾野の朝がところどころ明けかけてくる。
人無村の
柿の木には、
今朝も
烏がむれていた。
富士川の名物、
筏舟に
棹さして、
鰍沢からくだる
筏乗りのふうをよそおい、矢のように東海へさして逃げたふたりのあやしい男がある。
海口へ着くやいな、しぶきにぬれた
蓑笠とともに、筏をすて、浜べづたいに、
蒲原の町へはいったすがたをみると、これぞまえの夜、鼻かけ
卜斎の屋敷から
遁走した
菊池半助。つれているのは、そのときゆきがけの
駄賃に、かどわかしてきた
泣き
虫の
蛾次郎だ。
十五、六にもなりながら、人にかどわかされるくらいな蛾次郎だから、むろん、じぶんではかどわかされたとは思っていない。バカにしんせつで、じぶんを
出世さしてくれるいいおじさんにめぐりあったと心得ている。
「蛾次郎、もうここまでくれば、どんなことがあっても安心だから、かならずしんぱいしないで元気をだすがいい」
半助がふりかえっていうと、あとから
宿のにぎやかさに、キョロつきながら、のこのこと歩いてきた蛾次郎、すこし口をとンがらせながら、
「元気をだせったッて、元気なんかでやしねえや、お
侍さんはよく腹がすかないねえ」
「ははア、どうもさっきからきげんがわるいと思ったら、
空腹のために、ふくれているんだな」
「だってゆうべッから、一ッ粒もごはんを食べないんだもの、それで
今朝になっても、まだ歩いてばかりいちゃあ、いくらおれだってたまらねえや」
「まて、もうすこしのしんぼうじゃ。
向田ノ
城へまいれば、なんでも腹いッぱい
食わせてやる」
「もうだめだ、アア、もう歩けない、なにか
食べなくッちゃ目がまわりそうだ……」
なれるにしたがってそろそろ
尻尾をだしてきた
蛾次郎は、
宿場人足がよりたかって、うまそうに立ち
食いしている
餅屋の前へくると、ぎょうさんに、腹をかかえてしゃがんでしまった。
半助はにが笑いして、いくらかの
小銭をだしてやった。それをもらうと、蛾次郎は人ごみをかきわけてふところいッぱい
焼餅を買いもとめ、ムシャムシャほおばりながら歩きだした。
間もなく、ふたりのまえに見えた向田ノ城。
ここの
砦には、富士、
庵原、二
郡をまもる
徳川家の
松平周防守康重がいる。
菊池半助は、その人に会って、じぶんが
探知した
裾野の
形勢をしさいに書面へしたため、それを浜松の本城へ、早打ちで送りとどけてもらうようにたのんだ。
書状の内容は、
徳川家の領内である富士の
人穴を中心に、
裾野一帯の
無人の
広野に、いまや、
呂宋兵衛だの、
伊那丸だの、あるいは
秀吉の
隠密、
柴田勝家の
間者などが、
跳梁して、風雲すこぶる
険悪である。はやく、いまのうちに味方の兵をだして、それらの者を、
掃滅しなければ一大事で。――という意味のものであった。
その密談のあいだに、
「ちぇッ、ばかにしてやがら」
城内の一室で、プンプンしていたのは
蛾次郎である。もう
焼餅を
食べつくし、腹はいっぱいになったが、まさか寝ることもできず、半助はいつまでも顔を見せないし、遊ぶところはなし、
文句のやり場のないところから、ひとりでブツブツこぼしている。
「いやンなっちゃうな。どうしたんだい、あの人は、
向田ノ
城へいったら、なんでも好きなものはやるの、うまいものは食いほうだいだのッて、いっておいてよ、ちぇッくそ! ばかにしてやがら、うそつき!
菊池半助の大うそつき!」
腹いせにわめいていると、ふいに、そこへ半助がはいってきたので、さすがの蛾次郎も、これにはすこし
間が悪かったとみえて作り笑いをした。
「蛾次郎、さだめしたいくつであったろう」
「ううん、そんなでもなかったよ、だけれど、菊池さんはいままでいったいどこへいってたのさ」
「その
方をりっぱな
侍に取り立ててやりたいと、
城主周防守さまとそうだんしてまいったのだ。どうだ
蛾次郎、きさまもはやくりっぱな侍になり、堂々と馬にのったり、多くの家来をかかえて、こんなお城に住んでみたくはないか」
「うふふふふふ、おれをその侍にしてくれるのかい」
蛾次郎は、目をほそくしてうれしがった。
「きっとしてやる。が、それには、ぜひなにか一つの
手柄をあらわさなければならん」
「手柄をあらわすには、どんなことをすりゃいいんだろう」
「その方法は
拙者がおしえてやる。しかも蛾次郎でなければできぬことがあるのだ。これ、耳をかせ……」
と
半助は、なにやらひそひそささやくと、蛾次郎は目をまるくして、あたりもかまわず、
「えッ、じゃあの
竹童の使っている
大鷲を、おれがぬすんでくるのかい!」
「シッ、大きな声をいたすな。――そちはたしか、あの大鷲に乗せてもらった経験があるだろう」
「ある、ある。竹童が
松明をくれッていったから、それを持っていって、一晩じゅう、鷲に乗せてもらったよ」
「さすれば、あの
小僧が鷲をつないでおくところも、鷲の背に乗ることも、そちはじゅうぶんに心得ているはず――じつは近いうちに、あの辺で大きな
戦がおきるのだ、そのさわぎに乗じて、竹童の
鷲を徳川家の陣中へ乗りにげしてくれればそれでよいのだ。なんと、やさしいことではないか」
「だけれど、……もしかやりそこなうと大へんだな、竹童ッてやつ、ちびでもなかなか強いからな」
「
蛾次ッ」
半助がこわい目をしたので、かれは、ギョッとして飛びのいた。
「いやといえばこれだぞ――」
ギラリと
脇差をぬいて、
蛾次郎の鼻ッ先へつきつけた菊池半助は、また、左の手で、
袂からザラザラと
小判をつかみだして、刀と金をならべてみせた。
「おうといえば
褒美にこれ。イヤといえば刀で首。さアどっちでもよい
方をのぞめ」
菊池半助の書面が、
家康の
本城浜松へつくと同じ日にいくさになれた
三河武士の用意もはやく、
旗指物をおしならべて、東海道を北へさして出陣した三千の
軍兵。
精悍無比ときこえた
亀井武蔵守の兵七百、
内藤清成の
手勢五百、
加賀爪甲斐守の一隊六百余人、
高力与左衛門の三百五十人、
水野勝成が
後詰の人数九百あまり、
軍奉行は
天野三郎兵衛康景。
法螺、
陣鐘の音に砂けむりをあげつつ、堂々と
街道をおしくだり、
蒲原の
宿、
向田ノ城にはいって、
松平周防守のむかえをうけた。
ここで、
裾野陣の大評議をした各将は、待ちもうけていた菊池半助を、地理の案内役として先陣にくわえ、全軍
犬巻峠の
嶮をこえて、
富士河原を乗りわたし、
天子ヶ
岳のふもとから
南裾野へかけて、
長蛇の陣をはるもよう。
西をのぞめば、
雨ヶ
岳のいただきを陣地とする
武田伊那丸の一
党、北をみれば、
人穴城にたてこもる
呂宋兵衛の一族、また南の平野には、
葵の
旗指物をふきなびかせて、
威風りんりんとそなえた三千の
三河武士がある。
ここ、いずれも、敵味方三方わかれの形である。
甲を攻めれば
乙きたらん、乙を討たんとせば
丙突かんという三
角対峙。はたしてどんな
駈引きのもとに、目まぐるしい三つ
巴の戦法がおこなわれるか、風雲の急なるほど、裾野のなりゆきは、いよいよ
予測すべからざるものとなった。
けれど、それは人と人とのこと、弓取りと弓取りのこと。晩秋の
千草を庭としてあそぶ、
鶉や
百舌や野うさぎの世界は、うらやましいほど、平和そのものである。
ちょうどそれとおなじように、のんきの
洒アな顔をして、またぞろ、裾野へ
舞いもどってきた泣き虫の
蛾次郎はばかにいい身分になったような顔をして、あっちこっちを、のこのこと歩いていた。
「
木隠が
出立してから、きょうで、はや四日目。――かれのことだ。よも、
裏切りもすまいが、なんの
沙汰もないのは、どうしたのか。おいとしや、若君のご武運もいまは神も見はなし給うか」
床几によって、まなこをとじながら、こうつぶやいた
小幡民部。
ここは、陣屋というもわびしい、
武田伊那丸のいる
雨ヶ
岳の
仮屋である。
軍師民部は、きのうから
幕のそとに床几をだして、ジッと
裾野をみつめたまま、
龍太郎のかえりを、いまかいまかと待ちかねていた。
が――龍太郎のすがたはきょうもまだ見えない。四日のあいだには、かならず兵三百を
狩りあつめて、帰陣すると
誓ってでた木隠龍太郎。ああ、かれの影はまだどこからも見えてこない。
いよいよ、絶望とすれば、ふたたび、
人穴城を攻めこころみて、散るか咲くかの、さいごの一戦! それよりほかはみちがない。すでに
兵倦み、
兵糧もとぼしく、もとより
譜代の臣でもない
野武士の部下は、日のたつほどひとり去りふたりにげ、この陣地をすて去るにちがいない。
「
軍師、軍師、小幡民部どの!」
ふいに、耳もとでこうよぶ声。
あれやこれ、思いしずんでいた民部が、ふと、見あげると、
巽小文治と
加賀見忍剣が連れ立ってそこにある。
「オ。これはご
両所、なんぞご用で」
「
一昨日からかなたにあって、待ちわびている者が、もういちどこれを最後として、若君へお取次ぎを願って見てくれいと申して、いッかなきかぬ。――
軍師から
伊那丸さまへ、もういちどおことばぞえねがわれまいか」
「おお、
上部八風斎のことですか、その
儀は、
拙者からも再三若君のお耳へいれたが、
断じて会わんという
御意のほか、一こうお取上げにならぬしまつ。事情をいうて追いかえされたがよろしかろう」
「は」
といったが、ふたりの
面はとうわくの色にくもった。
じぶんたちが独断で、八風斎を本陣へつれてきたのがわるかったか。伊那丸は対面無用といったまま、耳もかさないのである。また、八風斎のほうでも、あくまで、会わぬうちは、この
雨ヶ
岳をくだらぬといい張って、うごく
気色もなかった。
忍剣と小文治は、なかに立って板ばさみとなった。八風斎はだだをこねるし、伊那丸はきげんがわるい。これでは立つ瀬がないと、いまも民部に、苦しい立場をうちあけていると、ふいに、
帳のかげから伊那丸の声で、
「民部、民部やある」
としきりに呼ぶ。
「はッ」
とりいそいで、
幕のなかへ姿をいれた
小幡民部は、ふたたびそこへ立ちもどってきて、
「よろこばれよご
両所、にわかに若君が、八風斎に会ってやろうとおおせだされた。
御意のかわらぬうち、いそいで、かれをここへ」
といった。
間もなく、
上部八風斎はあなたの
仮屋から、
忍剣と
小文治にともなわれてそこへきた。迎えにたった民部は、そも、どんな人物かとかれを見るに、
鼻かけ
卜斎の名にそむかず、
容貌こそ、いたってみにくいが、さすが
北越の
梟雄鬼柴田の腹心であり、かつ
攻城学の
泰斗という
貫禄が、どこかに光っている。
「八風斎どの、それへおひかえなさい」
制止の声とどうじに、バラバラと陣屋のかげからあらわれた
槍組のさむらい、左右二列にわかれて立ちならぶ。
と――
武田菱の
紋を打ったまえの
陣幕が、キリリと、上へしぼりあげられた。
見れば、
正面の
床几に、
気だかさと、美しい
威容をもった
伊那丸、左右には、
山県蔦之助と
咲耶子が、やや頭をさげてひかえている。
「これは……」
と、
槍ぶすまにひるまぬ八風斎も、うたれたように
平伏した。
初対面のあいさつや、陣中の
見舞いなどをのべおわってのち、
八風斎は、れいの
秘図をとりだし、主人
勝家からの
贈り物として、うやうやしく、
伊那丸の
膝下にささげた。
が、なぜか、伊那丸は、よろこぶ色はおろか、さらに見向きもしないで、
にべなくそれをつッかえした。
「ご好意はかたじけないが、さようなものはじぶんにとって
欲しゅうもない。持ちかえって、
柴田どのへお
土産となさるがましです」
「は、心得ぬ
仰せをうけたまわります。主人
勝家こそははるかに
御曹司のお
身の
上をあんじている、無二のお味方、
人穴城をお手にいれたあかつきは、およばずながらよしみをつうじて、ご
若年のお
行く
末を、うしろだてしたいとまでもうしております。……なにとぞ、おうたがいなくご
受納のほどを」
「だまれ、八風斎!」
はッたとにらんだ伊那丸は、にわかにりんとなって、かれの胸をすくませた。
「いかに、
汝が、
懸河の
弁をふるうとも、なんでそんな
甘手にのろうぞ。この伊那丸に恩義を売りつけ、柴田が配下に立たせよう
計りごとか、または、
後日に、人穴城をうばおうという汝らの
奸策、この伊那丸は
若年でも、そのくらいなことは、あきらかに読めている」
「うーむ……」
うめきだした
八風斎の顔は、見るまにまッさおになって、じッと、
伊那丸をにらみかえして、
眼もあやしく血走ってくる。
「
益ないことに
暇とらずに、
汝も
早々、
北越へひきあげい。そして、
勝家とともに大軍をひきい、この
裾野へでなおしてきたおりには、またあらためて
見参するであろう。そちの大事がる図面とやらも、そのとき使うように取っておいたがよい」
深くたくらんだ胸のうちも、完全に見やぶられた八風斎は、
本性をあらわして、ごうぜんとそりかえった。
「なるほど、さすが
信玄の
孫だけあって、その
眼力はたしかだ。しかしわずか七十人や八十人の
小勢をもって、
人穴城がなんで落ちよう。敵はまだそればかりか、
呂宋兵衛にもましておそろしい大敵が、すぐ
背後にもせまっているぞ。悪いことはすすめぬから、いまのうちに
柴田家の
旗下について、
後詰の
援兵をあおぐが、よいしあんと申すものじゃ」
「だまれ。よしや伊那丸ひとりになっても、なんで、柴田ずれの
下風につこうや、とくかえれ、八風斎!」
「ではどうあっても、柴田家にはつかぬと申しはるか、あわれや、信玄の孫どのも、いまに、裾野に
屍をさらすであろうわ、
笑止笑止」
毒口たたいて、
秘図をふところにしまいかえした八風斎、やおら、伊那丸のまえをさがろうとすると、
面目なげにうつむいていた
忍剣と
小文治が、左右から立って、
「若君にむかってふらちな
悪口、よくもわれわれ両人をだましおったな!」
と、
猿臂をのばして、八風斎のえりがみをつかもうとしたとき、
「
方々! 方々! 敵の大軍が見えましたぞッ」
にわかに起ったさけび声、陣のあなたこなたにただならぬどよみ声、
伊那丸も
咲耶子も、
民部も
蔦之助も、思わずきッと突っ立った。
「それ見たことか、はやくも
地獄の迎えがきたわッ!」
さわぎのすきに、すてぜりふの
嘲笑をなげながら、
疾風のように逃げだした
上部八風斎。
忍剣と小文治が、なおも追わんとするのを伊那丸はかたく
止めて、かれのすがたを見送りもせず、
「小さき敵に目をくるるな、心もとない大軍の出動とやら、だれぞ、はようもの見せい!」
「はい、かしこまりました」
こたえた
声音は意外にやさしい、だれかとみれば、伊那丸のそばから、
蝶のように走りだしたひとりの美少女、いうまでもなく咲耶子である。
見るまに、
物見の松の高きところによじのぼって、
梢にすがりながら、片手をかざし、
「オオ、見えまする! 見えまする!」
「して、その敵のありどころは」
松の
根方から上をあおいで、一同がこたえを待つ。
上では、緑の黒髪を吹かれながら、
咲耶子の声いっぱい。
「
天子ヶ
岳のふもとから、南すそのへかけて、まんまんと陣取ったるが本陣と思われまする。オオ、しかも、その
旗印は、
徳川方の
譜代、
天野、
内藤、
加賀爪、
亀井、
高力などの面々」
「やや、では
呂宋兵衛が
人穴城をでたのではなかったか。してして
軍兵のかずは?」
「富士川もよりには、
和田、
樋之上の七、八百
騎、
大島峠にも三、四百余の
旗指物、そのほか、
津々美、
白糸、
門野のあたりにある兵をあわせておよそ三千あまり」
「その軍兵は、こなたへ向かって、すすんでくるか?」
「いえいえ、
満を
持してうごかぬようす、敵の気ごみはすさまじゅう見うけられます」
咲耶子の報告がおわると、
物見の松のしたでは、
伊那丸と
軍師を中心にして、悲壮な軍議がひらかれた。まえには、人穴城の強敵あり、うしろには
徳川家の大軍あり、
雨ヶ
岳は、いまやまったく
孤立無援の死地におちた。
おそらくは、
主従の軍議もこれが最後のものであろう。軍議というも、守るも死、攻むるも死、ただ、その死に方の
評定である。
時は、たそがれ
刻か、あるいは、
宵か夜中か明け方か、いずれにせよ、闇でも花とちる
身にはかわりがない。
こい!
徳川勢――。
伊那丸方の
面々は、馬には
飼糧、身には腹巻をひきしめて、
雨ヶ
岳の陣々に鳴りをしずめた。
そのころ、
人穴城の
望楼のうえにも、三つの人影があらわれた。大将
呂宋兵衛に、
軍師丹羽昌仙、もうひとりは客分の
可児才蔵。三人は、いつまでも暮れゆく陣地をながめわたして、なにやら密議に余念がない。心なしか、こよいはことに
砦のうえに、いちまつの殺気がみち満ちていた。
富士はくれゆく、
裾野はくれる。
きょうで四日目の
陽は、まさに沈もうとしているのに
小太郎山へむかって、
駿馬項羽をとばせた
木隠龍太郎はそも、どこになにしているのだろう。
かれは、よもや
雨ヶ
岳にのこした伊那丸の身や、同志の人々を忘れはてるようなものではけっしてあるまい。いや、断じてないはずの人間だ。それだのに、晩秋の
靄ひくくとぶ鳥はみえても、駿馬項羽にまたがったかれのすがたが、いつまでも見えてこないのはどうしたわけだ?
人無村で、とんだ
命びろいをしたッきり、
白旗の
森のおくへもぐりこんでしまった
竹童も、ほんとに、
頭脳がいいならば、いまこそどこかで、
「きょうだぞ、きょうだぞ、さアきょうだぞ」
と
叫んでいなければならないはず。
お
師匠さまの
果心居士から、こんどこそ、やりそこなったら大へんだという
秘命を、とっくのまえからさずけられている
竹童が、その、一生いちどの大使命をやる日はまさにきょうのはずだ。
ところが、きのうあたりから、あの
蛾次郎が、
団子や
焼餅などをたずさえて、チョクチョク白旗の森にすがたを見せ、竹童のごきげんとりをやりだしたのも
奇妙である。
雨のような
落葉が、よこざまに、ばらばらと
降る。
くろい葉、きいろい葉、まっかな葉、入りまじってさんらんと果てしなくとぶ。
さしもひろい
湖の水も、ながい道も、このあたりは見るかぎり
落葉の色にかくされて、足のふみ場もわからないほどである。
と――どこかで、
「ぐう、ぐう、ぐう……」
不敵ないびきの声がする。
つかれた旅人でも寝ているのであろう、
白旗の
宮の、
蜘蛛の
巣だらけな
狐格子のなかから、そのいびきはもれているのだ。
旅人なら、
夕陽の光がまだ、
雲間にあるいまのうちに早くどこか、
人里までたどり
着いておしまいなさい――と願わずにいられない。
この地方は、冬にならぬころから、口のひっ
裂けた、れいの
狼というのが、よく出現して、たびの人を、
骨だけにしてしまう。
するとあんのじょう、森のかげから、ガサガサという異様な音がちかづいてきた。みると、それは
幸いにして狼ではなかったが、
針金頭巾や
小具足で、
甲虫みたいに身をかためたふたりの兵。手には
短槍を引っさげている。
服装の
目印、どうやら
徳川家の
斥候らしいが、きょう、
天子ヶ
岳に着陣したばかりなのに、はやくもこのへんまで斥候の手がまわってきたとはさすが、海道一の
三河勢、ぬけ目のないすばやさである。
斥候の甲虫は、一歩一歩、あたりに気をくばって、
落葉をふむ足音もしのびやかにきたが、
「しッ……」
と、さきのひとりが、白旗の宮のそばで、うしろの者へ手あいずする。
「なんだ……」
おなじく、ひくい声でききかえした。
「あやしい声がする」
「えッ」
「しずかに」
ぴたりと、ふたりは
槍とともに落葉のなかへ身をふせてしまった。そして、ややしばらく、耳と目を
研ぎすましていたが、それっきり、いまのいびきも聞えなくなったので、
甲虫はふたたび身をおこして、いずこともなく立ちさった。
あとは、またものさびしい
落葉の
舞い。
暮れんとして暮れなやむ晩秋の
哀寂。
ぎい……とふいに、
白旗の
宮の
狐格子がなかからあいた。そして、むっくり姿をあらわしたのは、なんのこと、
鞍馬山の
竹童であった。
「あぶない、あぶない。もうこんなほうまで、徳川家の
陣笠がうろついてきたぞ。ところで、おいらは、いよいよ、今夜お
師匠さまのおいいつけをやるのだが、それにしては、もうそろそろどこかで、
鬨の
声があがってきそうなもの……どれ、ひとつ
高見から陣のようすをながめてやろうか」
ひらりと、宮の
縁から飛びおりるがはやいか、
湖畔にそびえている
樅の
大樹へ、するするすると、りすの木のぼり、これは、竹童ならではできない
芸当。
数丈うえのてっぺんに、
烏のようにとまった竹童、したり顔して、あたりの
形勢をとくと見とどけてのち、ふたたび
降りてくると、こんどは、
白旗の
宮の拝殿にかくしておいた一たばの
松明をかつぎだしてきた。
この松明こそは、竹童が苦心さんたんして、
蛾次郎から手にいれたものである。かれは、この松明、二十本をなんに使うつもりか、腰に皮の
火打石袋をぶらさげ、いっさんに、白旗の森のおくへ走りこんでいった。
そこは
密林のおくであったが、
地盤の岩石が
露出しているため、一町四
方ほど
樹木がなく、平地は
硯のような黒石、
裂け目くぼみは、いくすじにもわかれた、水が
潺湲としてながれていた。
ギャアギャアギャア
――ふしぎな怪物の
啼き
声がする。そして、すさまじい
羽ばたきがそこで聞えた。見ると、ひとつの
岩頭に
金瞳黒毛の
大鷲が、
威風あたりをはらい、八方を
睥睨してとまっている。
いうまでもない、クロである。
むろん、足はなにかで岩の
根っこへしばりつけてあるらしかった。
「やい、もひとつ
啼け、もひとつ啼いてみろ」
七尺ばかりはなれて、
鷲とあいむきに、腰かけていた者はれいの蛾次郎、竹の先ッぽに、
兎の肉をつき
刺して、しきりにクロを
馴らそうとしていた。
「おい、
蛾次公、なにをしてるんだい」
「え」
ふいに肩をたたかれて、蛾次郎がひょいと、うしろを見ると、
竹童が、
松明を
薪のようにしょって立っている。
「なにもしてやしないさ、
餌をやっているんだ」
「よけいなことをしてくれなくってもいい、さっきも、おいらが
鹿の
股を二つやったんだから」
「ああ、竹童さんにも、おれが
土産を持ってきたぜ、きょうは
焼栗だ、ふたりで仲よく食べようじゃないか」
「いやにこのごろは、おいらにおべっかを使うな、そんなにおせじをつかってきたって、もう、そうはちょいちょい
鷲に乗せてやるわけにはゆかないぜ」
「そんなことをいわないで、おれを
弟子にしてくれよ、な、たのまあ、そのかわりに、おまえのためなら、おれはどんなことだって、いやといわないからよ」
「きっとか」
「きっとだ!」
「じゃ。さっそく一つ用をたのもうかな」
「たのんでくれよ、さ、なんだい」
「大役だぜ」
「いいとも」
「他人の用ばかりしていると、おまえの主人の鼻かけ
卜斎に、
叱られやしないか」
「大じょうぶだってことさ、おらあもうあすこの
家をとびだして、いまでは
徳川家の……」
と、いいかけて、さすがの
低能児も、気がついたらしく、口をにごらしながら、
「いまじゃ、天下の
浪人もおんなじ
体なんだ」
「ふうむ……じゃね、これからおいらのために、ちょっとそこまで
斥候にいってくれないか」
「
斥候に?」
蛾次郎ぎょっと、目を白くした。
竹童は、ことさらに、なんでもないような顔をして、
「このあいだから、
雨ヶ
岳に陣取っている、
武田伊那丸さまの軍勢が、
人穴城へむかってうごきだしたら、すぐここまで知らしてくれりゃいいのだ」
「そしたら、いったい、どうする気なんだい?」
「どうもしないさ、この
鷲にのって、大空から
戦見物にでかけるのさ」
「おもしろいなあ、おれもいっしょに乗せてくれるか」
「やるとも」
「よしきた、いってくら!」
よく人のだしにつかわれる生まれつきだ。年下の者のおちょうしにのって、もう、一もくさんにかけていく。
そのあとで
竹童は、
鷲の足をといてやった。クロは自由の
身になっても、竹童のそばを離れることなく、流れる水をすっていると、かれはまた
火打石を取りだして、そこらの
枯葉に火をうつし、煙の立ちのぼる夕空をあおぎながら、
「おそいなあ。あのぐずの
斥候を待っているより、またじぶんでそこいらの木へ登ってみようかしら」
と、ひとりつぶやいたとこである。
すると、いつの
間にか、かれの身辺をねらって、じりじりとはいよってきたふたりの
武士――それはまえの
甲虫だ、いきなり飛びついて、
「こらッ、あやしい
小僧!」
「うごくなッ」
とばかり、竹童の両腕とってねじふせた。竹童はまったくの不意打ち、なにを叫ぶ
間もなく、
跳ねかえそうとしたが、はやくも、甲虫の短刀が、ギラリと
目先へきて、
「うごくと
命がないぞ、しずかにせい、しずかにせい」
「な、な、なにをするんだい!」
「なにもくそもあるものか、きさまこそ、
餓鬼のぶんざいで、この
松明をなんにつかう気だ、
文句はあとで聞いてやるから、とにかく
天子ヶ
岳のふもとまでこい」
「や、ではきさまたちは
徳川方の
斥候だな」
「おお、
亀井武蔵守の手の者だ」
「ちぇッ、そう聞きゃおいらにも覚悟がある」
「
生意気なッ」
たちまち、
大人ふたりと、竹童との、
乱闘がはじまった。
こいつ、
体はちいさいが、一すじなわではいかないぞ――とみた
甲虫は、やにわに
短槍をおっ取って、
閃々と突いて突いて、突きまくってくる。
あわや、竹童あやうし――と見えたせつなである。にわかに、大地をめくり返すような一陣の
突風! と同時に、パッと
翼をひろげた
金瞳の
黒鷲は、ひとりを
片つばさではねとばし、あなよというまに、あとのひとりの肩先へとび乗って、銀の
爪をいかり立ッて、かれの顔を、ばりッとかいて
宙天へつるしあげた。
「わッ!」
と、大地へおちてきたのを見れば、目も鼻も口もわからない。
満顔ただからくれないの一コの
首。
さても
伊那丸は、
小袖のうえに、
黒皮の
胴丸具足をつけ、そまつな
籠手脛当、黒の
陣笠をまぶかにかぶって、いま、馬上しずかに、
雨ヶ
岳をくだってくる。
世にめぐまれたときの
君なれば、
鍬がたの
兜に、
八幡座の星をかざし、
緋おどしの
鎧、
黄金の太刀はなやかにかざるお
身であるものを……と、つきしたがう、
民部をはじめ、
忍剣も
小文治も
蔦之助も、また
咲耶子も、ともに、馬をすすめながら、思わず、ほろりと
小袖をぬらす。
兵は、わずかに七十人。
みな、生きてかえる
戦とは思わないので、張りつめた
面色である。決死のひとみ、ものいわぬ口を、かたくむすんで、
粛々、
歩をそろえた。
まもなく、
梵天台の
平へくる。
夜の
帳はふかくおりて
徳川方の陣地はすでに見えなくなったが、すぐ前面の
人穴城には、
魔獣の目のような、
狭間の
灯が、チラチラ見わたされた。その時、やおら、
俎岩の上につっ立った
軍師民部は、人穴城をゆびさして、
「こよいの敵は
呂宋兵衛、うしろに、
徳川勢があるとてひるむな――」
高らかに、全軍の気をひきしめて、さてまた、
「味方は
小勢なれども、正義の戦い。
弓矢八幡のご加勢があるぞ。われと思わんものは、
人穴城の一番乗りをせよや」
同時に、きッと、
馬首を陣頭にたてた伊那丸は、かれのことばをすぐうけついで、
「やよ、
面々、戦いの勝ちは
電光石火じゃ、いまこそ、この
武田伊那丸に、そちたちの
命をくれよ」
凛々たる
勇姿、あたりをはらった。さしも、
烏合の
野武士たちも、このけなげさに、一
滴の
涙を、
具足にぬらさぬものはない。
「おう、この
君のためならば、
命をすててもおしくはない」
と、
骨鳴り、肉おどらせて、勇気は、日ごろに十倍する。
たちまち、進軍の
合図。
さッと、
民部の手から二
行にきれた
采配の鳴りとともに、陣は五段にわかれ、
雁行の形となって、
闇の
裾野から、
人穴城のまんまえへ、わき目もふらず攻めかけた。
「わーッ。わーッ……」
にわかにあがる
鬨の
声。
「かかれかかれ、
命をすてい」
いまぞ花の散りどころと、伊那丸は、あぶみを踏んばり、
鞍つぼをたたいて叫びながら、じぶんも、まっさきに陣刀をぬいて、城門まぢかく、
奔馬を飛ばしてゆく。
と見て、
帷幕の
旗本は、
「それ、
若君に一番乗りをとられるな」
「おん大将に死におくれたと聞えては、弓矢の
恥辱、天下の笑われもの」
「死ねやいまこそ、死ねやわが友」
「おお、死のうぞ
方々」
たがいに、いただく死の
冠。
えいや、えいや、かけつづく
面々には、
忍剣、
民部、
蔦之助、そして、女ながらも、
咲耶子までが、
筋金入りの
鉢巻に、
鎖襦袢を
肌にきて、手ごろの
薙刀をこわきにかいこみ、父、
根来小角のあだを、
一太刀なりと
恨もうものと、
猛者のあいだに入りまじっていく姿は、勇ましくもあり、また、涙ぐましい。
ただ、こよいのいくさに、一点のうらみは、ここに、かんじんかなめな、
木隠龍太郎のすがたを見ないことである。
上は大将
伊那丸から、
下は
雑兵にいたるまで、死の冠をいただいてのこの戦いに、大事なかれのいあわせないのは、かえすがえすも
遺憾である。ああ龍太郎、かれはついに、伊那丸の
前途に見きりをつけ、
主をすて、友をすて去ったであろうか。――とすれば、龍太郎もまた、
武士の
風上におけない人物といわねばならぬ。
「いよいよ攻めてまいりましたぞ」
「なに、大したことはない。主従
合しても、せいぜい八十人か九十人の
小勢です」
「小勢ながら、
正陣の法をとって、大手へかかってきたようすは、いよいよ決死の意気、うっかりすると、手を焼きますぞ」
「おう、そういえば、天をつくような
鬨の
声」
「
伊那丸は、たしかに、
命をすてて、かかってきた……」
まっ暗な、空の上での話し声だ。
そこは、
人穴城の
望楼であった。つくねんと、高きところの
闇に立っているのは、
呂宋兵衛と
可児才蔵である。
呂宋兵衛は、いましがた、
軍師昌仙と
物頭の
轟又八が、すべての手くばりをしたようすなので、ゆうゆう、安心しきっているていだった。
が、可児才蔵はかんがえた。
「待てよ、こいつは見くびったものじゃない……」と。
そして
日没から、伊那丸の陣地を見わたしていると、
小勢ながら、守ること林のごとく、攻むること
疾風のようだ。
かれは、心のうちで、ひそかに
舌をまいた。
「いま、天下の者は
豊臣、
徳川、
北条、
柴田のともがらあるを知って、
武田菱の
旗じるしを、とうの昔にわすれているが――いやじぶんもそうだったが――こいつは大きな
見当ちがい、あの
麒麟児が、一
朝の風雲に乗じて、つばさを得ようものなら、それこそ
信玄の
再来だろう。天下はどうなるかわからない、
下手をすると、主人の
秀吉公のご未来に、おそろしいつまずきを、きたそうものでもない――これは、ぐずぐずしている場合ではない。すこしもはやく
安土城へ帰って、この
由を復命するのがじぶんの役目、もとより秀吉公は、
呂宋兵衛には、あまり重きをおいていられないのだ、そうだ、その勝敗を見とどけたら、すぐにも安土へ立ちかえろう」
臍をきめたが、色にはかくして、大手の
形勢を
観望している。
そこには、たちまち
矢叫び、
吶喊の
声、
大木大石を投げおとす音などが、ものすさまじく
震撼しだした。
濛――と、
煙硝くさい
弾けむりが、
釣瓶うちにはなす鉄砲の音ごとに、
櫓の上までまきあがってくる。
おりから、
望楼の上へ、かけあがってきたのは、
轟又八であった。
黒皮胴の
具足に
大太刀を横たえ、いかにも、ものものしいいでたちだ。
「お
頭領に申しあげます」
「どうした、戦いのもようは?」
「城兵は、一の
門二の門とも、かたく守って、破れる気づかいはありませぬ。だがかれもまた、伊那丸をせんとうに、一歩もひかず、
小幡民部のかけ引き
自在に、勝負ははてしないところです。これは、
丹羽昌仙のれいの
蓑虫根性から起ること、なにとぞ、とくにお頭領よりこの又八に、城外へ打ってでることを、お
許し願わしゅうぞんじます」
「む、では
汝は城門をおっ
開いて、いっきに、
寄手を
蹴ちらそうというのか」
「たかのしれた小人数、かならずこの又八が、一ぴきのこらずひっからげて、
呂宋兵衛さまのおんまえにならべてごらんにいれます」
「
昌仙の手がたい一点ばかりも悪くないが、なるほど、それでは
果しがあるまい。ゆるす、又八、打ってでろ」
「はッ、ごめん」
と
会釈をして、バラバラと
望楼をかけおりていった。
可児才蔵はそれを見て、
「ああ、いけない」とひそかに思う。
軍師の
威命おこなわれず、命令が二
途からでて、たがいに
功をいそぐこと、兵法の
大禁物である。
大手へかけもどった又八は、すぐ、城兵のなかでも
一粒よりの
猛者、
久能見の
藤次、
岩田郷祐範、
浪切右源太、
鬼面突骨斎、
荒木田五兵衛、そのほか
穴山の
残党、
足助主水正、
佐分利五郎次などを
先手とし、四、五百人を勢ぞろいしておしだした。
軍師の昌仙がそれを見て、おどろき、
怒るもかまわず、
呂宋兵衛のことばをかさに、
「それッ」
と、城門を八
文字に
開いた。
「わーッ」
と、たちまち、
寄手の兵と、ま
正面にぶつかって、人間の
怒濤と怒濤があがった。たがいに、
退かず、かえさず、もみあい、おめきあっての太刀まぜである。それが、およそ
半刻あまりもつづいた。
しかし、やがて時たつほど、むらがり立って、
新手新手と入りかわる城兵におしくずされ、
伊那丸がたは、どっと二、三町ばかり
退けいろになる。
「それ、この
機をはずすな」
とみずから、八
角の鉄棒を
りゅうりゅうと持って、まッ先に立った又八、
「追いつぶせ、追いつぶせ、どこまでも追って、伊那丸一
味をみなごろしにしてしまえ」
と、
千鳥を追いたつ
大浪のように、逃げるに乗って、とうとう、
裾野の
平までくりだした。
時分はよしと、にわかに
踏みとどまった
小幡民部。
とつぜん、
采配をちぎれるばかりにふって、
「
止まれッ!」
と、いった。
算をみだして、逃げてきた足なみは、ぴたりと
踵をかえして、
稲むらにおりた
雀のように、ばたばたと
槍もろともに
身をふせる。
「かかれッ、
轟又八をのがすな」
「おうッ」
たちまちおこる
胡蝶の陣。かけくる敵の足もとをはらって、
乱離、四
面に
薙ぎたおす。
なかにも目ざましいのは、
山県蔦之助と
巽小文治のはたらき。見るまに、
鬼面突骨斎、
浪切右源太を乱軍のなかにたおし、
縦横無尽とあばれまわった。
「さては、またぞろ
民部の
策にのせられたか」
と、又八は色をうしなって、にわかに道をひき返してくると、こはいかに、すでに逃げみちを断って、ふいに目の前にあらわれた
一手の人数。
そのなかから、ひときわ高い声があって、
「
武田伊那丸これにあり、又八に
見参!」
「めずらしや
轟、
小角の娘、
咲耶子なるぞ」
「われこそは
加賀見忍剣、いで、
素ッ
首を申しうけた」
と、耳をつんざいた。
轟又八は、思わず、ぶるぶると身の毛をよだてた。腹心の
剛力、
荒木田五兵衛は、忍剣に
跳びかかって、ただ
一討ちとなる。
手下の
野武士は、敵の三倍四倍もあるけれど、こう
浮足だってしまっては、どうするすべもなかった。かれはやけ半分の
眼をいからして、
「おう、
山寨第一の
強者、
轟又八の鉄棒をくらっておけ」
と、
忍剣の
禅杖にわたりあった。
龍うそぶき
虎哮えるありさま、ややしばらく、人まぜもせず、
石火の秘術をつくし合ったが、
隙をみて、走りよった
伊那丸が、陣刀一
閃、又八の片腕サッと斬りおとす。
「うーむ」
よろめくところを、
咲耶子の
薙刀、みごとに、足をはらって、どうと、
薙ぎたおした。
又八が討たれたと見て、もう、だれひとり踏みとどまる敵はない、道もえらばず、
闇のなかをわれがちに、
人穴城へ、逃げもどってゆく。
その時、はるか
南裾野にあたって、ぼう――ぼう――と鳴りひびいてきた
法螺の
遠音、また
陣鐘。
みわたせば、いつのまにやら、
徳川三千の
軍兵は、
裾野半円を
遠巻きにして、
焔々たる
松明をつらね、本格の陣法くずさず、一
鼓六
足、
鶴翼の
備えをじりじりと、ここにつめているようす。
また、人穴城では、いまの敗北をいかった
呂宋兵衛がこんどはみずから
望楼をくだり、さらに
精鋭の
野武士千人をすぐって
嵐のごとく
殺到した。
ひゅッ! ひゅッ!
と早くも、
闇をうなってきた
矢走りから見ても、
徳川勢の
先手、
亀井武蔵守、
内藤清成、
加賀爪甲斐守の
軍兵はほど遠からぬところまで押しよせてきたものとおもわれる、その証拠には、
伊那丸の陣した、
雨ヶ
岳のうえから
噴火山のような火の手があがった。
三河勢が火をかけたのである。
その火明かりで、
梵天台にみちている兵も見えた。まぢかの川を乗りわたしてくる軍馬も見えはじめた。
裾野は夕焼けのように赤くなった。
「若君、いよいよご
最期とおぼしめせ」
小幡民部が、天をあおいでこういった。
「覚悟はいたしておる。わしはうれしい、わしはうれしい!」
「おお、おうれしいとおっしゃいまするか」
「
野武士ずれの
呂宋兵衛をあいてに討死するより、ただ一太刀でも、
甲斐源氏の
怨敵、
徳川家の旗じるしのなかにきりいって死ぬこそ
本望、うれしゅうなくてなんとするぞ」
「けなげなご一
言、われらも、斬って斬って斬りまくろう」
と、
忍剣もいさみたったが、かえりみれば、前後に、この強敵をうけながら、伊那丸のまわりにのこった人数は、わずかに四十五、六人。
竹童にたのまれて、
人穴城附近の
斥候にでかけた
蛾次郎は、どうやら戦いがはじまりだしたようすなので、草むらをざわざわかきわけてもどってくると、とある小道で、向こうからくるひとりの男のかげを見つけた。
「ア、あいつは
雨ヶ
岳のほうからきたらしい、あいつに聞けば、
伊那丸がたの、くわしいようすがわかるだろう……」
道ばたに腰かけて、さきからくるのを待っている。
ビタ、ビタ、ビタ……足音はちかづいてきたが、星明かりぐらいでは、それが百姓だか侍だか
判じがつかないけれど、蛾次郎は、ひょいとまえへ立ちあらわれて、
「もし、ちょっと、うかがいます」
と、頭をさげた。
おおかたびっくりしたのだろう、あいてはしばらくだまって、蛾次郎のかげを見すかしている。
「もしやあなたは、雨ヶ岳のほうから、やってきたのではございませんか」
「ああ、そうだよ」
「あすこに陣どっている、
武田伊那丸の兵は、もう山を下りましたろうか、戦いは、まだおッぱじまりませんでしょうかしら」
「知らないよ。そんなことは、おまえはいったいなにものだ」
「おれかい、おれはさ、もと鼻かけ
卜斎という
鏃鍛冶のとこにいた、
人無村の
蛾次郎という者だが、どうも卜斎という
師匠が、やかまし屋で気にくわないから、そこを飛びだして、いまではあるところの
大大名のお
抱えさまだ」
「バカッ」
「ア
痛ッ。こんちくしょう、な、な、なんでおれをなぐりやがる」
「蛾次郎、いつきさまにひまをくれた」
「えーッ」
「いつ、この卜斎が、
暇をやると申したか」
「あ、いけねえ!」
蛾次郎が、くるくる
舞いをして逃げだしたのも道理、それは、
雨ヶ
岳からおりてきた
当の卜斎、すなわち
上部八風斎であった。
「
野郎!」
ばらばらッと追いかけて、蛾次郎の
襟がみをひっつかみ、足をはやめて、人無村の
細工小屋へかえってきた。
「親方、ごめんなさい、ごめんなさい」
「えい、やかましいわい」
「ア
痛え、もう、もうけっして、飛びだしません、親方ア、これから、気をつけます。か、かんにんしておくんなさい……」
わんわんと手ばなしで泣きだした。もっとも、
蛾次郎の泣き虫なること、いまにはじまったことではないから、その泣き声も、たいして改心の意味をなさない。
「バカ野郎、てめえに
叱言などをいっていられるものか。こんどだけは、かんべんしてやるから、これをしょって、早くあるけ」
と、今夜は
八風斎の鼻かけ
卜斎も、家にかえって落ちつくようすもなく、
書斎をかきまわして、だいじな書類だけを、
一包みにからげ、それを蛾次郎にしょわせて、夜逃げのように、立ちのいてしまった。
門をでると、いま泣いた
烏の
蛾次、もうけろりとして、
「親方、親方、こんな物をしょって、これからいったいどこへでかけるんですえ」
とききだした。
「
戦ばかりで、この
人無村では仕事ができないから、
越前北ノ
庄へ立ちかえるのだ」
「え、越前へ」
蛾次郎はおどろいた。
「いやだなア」
と、口にはださないが、
肚のなかでは、
渋々した。せっかく、
菊池半助が、ああやって、
徳川家で
出世の
蔓をさがしてくれたのに、越前なンて雪国へなんかいくなんて、なんとつまらないことだと、また泣きだしたくなった。
ちょうど、夜逃げのふたりが、
人無村のはずれまできた時、――
八風斎がふいにピタリと足をとめて、
「はてな? ……」
と、耳をそばだてた。
「な、なんです親方」
「だまっていろ……」
しばらく立ちすくんでいると、たちまち、ゆくての闇のなかから、とう、とう、とう――と地をひびかせてくる軍馬の
蹄、おびただしい人の足音、
行軍の貝の音、あッと思うまに、三、四百人の
蛇形陣が、
嵐のごとくまっしぐらに、こなたへさしてくるのが見えだした。
八風斎は、ぎょっとして、さけんだ。
「
蛾次郎、蛾次郎、すがたをかくせ、早くかくれろ」
「え、え、え、なんです。親方親方」
「バカ! ぐず――見つかっては一大事だ、はやくそこらへ姿をけせ」
「ど、どこへ消えるんで? ……」
と、不意のできごとに、
蛾次郎は、
度をうしない、まだうろうろしているので、
八風斎は、「えいめんどう」とばかり、かれをものかげに突きとばし、じぶんはすばやく、かたわらの松の木へ、するするとよじ登ってしまった。
ふたりが、からくも、すがたを隠したかかくさないうちである、八風斎の目のしたへ、
潮の流れるごとき勢いで、さしかかってきた
蛇形の
行軍、その人数はまさに四百余人。みな、一ようの
陣笠小具足、
手槍抜刀をひっさげて、すでに
戦塵を
浴びてるようなものものしさ。
なかに、目立つはひとりの将、
漆黒の馬にまたがって身には
鎧をまとわず、頭に
兜をかぶらず、白の
小袖に、
白鞘の一刀を
帯びたまま、
鞭を
裾野にさして、いそぎにいそぐ。
「あ、あの人は見たことがあるぜ」
ものかげにいた蛾次郎は、目をみはって、その馬上を見おくったが、ふと気がついて、
「そうだ、そうだ」とばかり、あとからつづく人数のなかにまぎれこみ、まんまと、八風斎の目をくらまして
越前落ちのとちゅうから、もとの
裾野へ逃げてもどってしまった。
「おお、あの矢さけび、火の手もみえる、流れ矢もとんでくるわ、この
一時こそ一
期の大事、息もつかずに、いそげいそげ!」
人無村をかけぬけて、
渺漠たる
裾野の原にはいると、
黒馬の
将は、
鞍のうえから声をからして、はげました。
雨ヶ
岳の火はまだ赤々ともえている。
「敵!」
「敵だッ!」
「
討て!」
と、
俄然、前方の者から声があがった。四、五
間ばかりの
小石河原、そこではしなくも、
徳川家の
先鋒、
内藤清成の別隊、四、五十人と
衝突したのである。
暗憺たる闇いくさ、ただものすごい太刀音と、
槍の折れる音や人のうめきがあったのみで、敵味方の
見定めもつかなかったが、勝負は瞬間に決したと見えて、前の
蛇形陣は、ふたたび一
糸みだれず、しかも足なみいよいよはやく、
人穴城の
山下へむかった。
「おうーい、おうーい」
かけつつ馬上の将は何者をか呼びもとめた。それにつづいて、
陣笠の兵たちも、かわるがわる、声をからして、おーい、おーいとつなみのように
鬨の声を張りあげた。
地から
湧いたように、
忽然と、人無村をつきぬけて、ここへかけつけてきた軍勢は、そもいずれの国、いずれの
大名に
属すものか、あきらかな
旗指物はないし、それと知らるる
騎馬大将もなかには見えない。ふしぎといえばふしぎな軍勢。
海に
船幽霊のあるように、
広野の古戦場にも、また時として、
武者幽霊のまぼろしが、
野末を夜もすがらかけめぐって、草木も
霊あるもののごとく、
鬼哭啾々のそよぎをなし、陣馬の音をよみがえらせて、
里人の夢をおどろかすことが、ままあるという古記も見える。
それではないか?
この軍勢も、その武者幽霊の影ではないか、いかにも、まぼろしの
魔軍のごとく、
天
のごとく、
迅速な足なみだ。
「おうーい、おうーい」
魔軍はまた、
潮のように呼んでいる。
時しもあれ――
ほど遠からぬところにあって、
亀井武蔵守の、
精悍なる
三河武士二、三百人に取りまかれていた
武田伊那丸の矢さけびを聞くや、魔軍は
忽然と、三段に
備えをわかって、わッとばかり斬りこんだ。
ときに、
矢来の声があって、伊那丸をはじめ苦境の味方を、夢かとばかり思わせた。
「やあ、やあ、若君はご無事でおわすか、その余のかたがたも聞かれよ、すぐる日、
小太郎山へむかった
木隠龍太郎、ただいまこれへ立ち帰ったり! 龍太郎これへ立ちかえったり!」
「わーッ」
と、
地軸をゆるがす
歓喜の声。
「わーッ」
と、ふたたびあがる乱軍のなかの熱狂。しばしは、鳴りもやまず、
三河勢はその勢いと、
新手の
精鋭のために、さんざんになって敗走した。
木隠龍太郎は、やはり愛すべき武士であった。かれはついに、主君の
危急に間にあった。
それにしても、かれはどうして、小太郎山から、四百の兵を
拉してきたのであろう。それは、かれについてきた兵士たちのいでたちを見ればわかる。
陣笠も
具足も、昼のあかりで見れば、それは一
夜づくりの紙ごしらえであろう、兵はみな、小太郎山の、とりでの工事にはたらいていた石切りや、
鍛冶や、
大工や、山
崩しの
土工なのである。武器だけは、
砦をつくるまえに、ひそかに、
蓄えてあったので不足がなかった。
この
成算があったので、龍太郎は四日のあいだに、四百の兵を引きうけた。そして、その
機智が、意外に大きな
功をそうした。
しかし、一同は、ほッとする
間もなかった。ひとたび、兵をひいた
亀井武蔵守は、ふたたび、
内藤清成の兵と
合して、堂々と、再戦をいどんできた。
のみならず、
人穴城を発した
呂宋兵衛も、すぐ六、七町さきまで
野武士勢をくりだして、四、五百
挺の鉄砲組をならべ、いざといえば、
千鳥落としにぶっぱなすぞとかまえている。
鼻かけ
卜斎の
越前落ちに、とちゅうまでひっぱられていった
蛾次郎が、
木隠龍太郎の
行軍のなかにまぎれこんで、うまうま逃げてしまったのは、けだし、蛾次郎近来の
大出来だった。
かれはまた、その列のなかから、いいかげんなところで、ぬけだして、すたこらと、
白旗の
森のおくへかけつけてきた。
見ると、そこに
焚火がしてあり、
鷲もはなたれているが、
竹童のすがたは見えない。
蛾次郎は、しめた! と思った。今だ今だ、
菊池半助にたのまれているこの鷲をぬすんで、
徳川家の陣中へ、にげだすのは今だ、と手をたたいた。
「これが天の与えというもんだ、あんなに
資本をつかって、おまけに、竹童みたいなチビ助に、おべっかをしたり、使いをしたりしてやったんだもの、これくらいなことがなくっちゃ、
埋まらないや、さ、クロ、おまえはきょうからおれのものだぞ」
ひとりで
有頂天になって、するりと、やわらかい鷲の背なかへまたがった。
蛾次郎は、このあいだ、竹童とともにこれへ乗って、空へまいあがった経験もあるし、また、この数日、腹にいちもつがあるので、せいぜい
兎の肉や小鳥をあたえているので、かなり鷲にも
馴れている。
竹童のする通り、かるく
翼をたたいて、あわや、乗りにげしようとしたとたん、頭の上から、
「やいッ」
するすると木から下りてきた竹童、
「なにをするんだッ」
いきなり
鷲の上の
蛾次郎を、二、三
間さきへ突きとばした。不意をくって、
尻もちついた蛾次郎は、いたい顔をまがわるそうにしかめて、
「なにを
怒ったのさ、ちょっとくらい、おれにだってかしてくれてもいいだろう。
命がけで、いくさのもようをさぐってきてやったんだぜ、そんな
根性の悪いことをするなら、おれだって、なんにも話してやらねえよ」
「いいとも、もうおまえになんか教えてもらうことはない。おいらが木の上から、およそ
見当をつけてしまった」
「かってにしやがれ、
戦なんか、あるもんかい」
「ああ、蛾次公なんかに、かまっちゃいられない、こっちは、今夜が一生一度の大事なときだ」
竹童は、二十本の
松明を、
藤づるでせなかへかけ、一本の松明には
焚火の
焔をうつして、ヒラリと
鷲のせへ乗った。
「やい、おれも一しょにのせてくれ、乗せなきゃ、松明をかえせ、おれのやった松明をかえしてくれえ」
「ええ、うるさいよ!」
「なんだと、こんちくしょう」
と、胸をつつかれた
蛾次郎は、おのれを知らぬ、
ぼろ鞘の刀をぬいて、いきなり竹童に斬りつけてきた。
「なにをッ」
竹童は、
焔のついた
松明で、蛾次郎の
鈍刀をたたきはらい、とっさに、
鷲をばたばたと舞いあげた。蛾次郎はそのするどい
翼にはたかれて、
「あッ」
と、四、五
間さきの流れへはねとばされたが、むちゅうになって、飛びあがり、およびもない両手をふって、
「やーい、竹童、竹童」
と、泣き声まじりに呼びかけた。
けれど、それに見向きもしない
大鷲は、しずかに、
宙へ
舞いあがって、しばらく
旋回していたが、やがて、ただ見る、一
条の流星か、
焔をくわえた
火食鳥のごとく、
松明の光をのせて、
暗夜の空を一
文字にかけり、いまや三
角戦の
まっ最中である
人穴城の真上まで飛んできた。
軍令をやぶって
抜けがけした
轟又八が、
伊那丸がたのはかりごとにおちて、ついに首をあげられてしまったと聞き、
人穴城のものは、すッかり意気を
沮喪させて、また城門を
固めなおした。
敗走の手下から、その注進をうけた
丹羽昌仙は、
「ええいわぬことではないのに……」と
苦りきりながら、
望楼の段を
踏みのぼっていった。
そこには、
宵のうちから、
呂宋兵衛と、
可児才蔵が
床几をならべて、
始終のようすを
俯瞰している。
「呂宋兵衛さま」
「おお、
軍師」
「又八は城外へでて
討死いたしました」
「ウム……」
と、呂宋兵衛は、じぶんにも
非があるので、
決まりわるげに沈んでいたが、
「おお、それはともかく――」
と、話をそらして、
「
伊那丸と
徳川勢との
勝敗はどうなったな。かすかに、矢さけびは聞えてくるが、この
闇夜ゆえさらにいくさのもようが知れぬ」
「いまはちょうど、
双方必死の
最中かと心得ます」
「そうか、いくら伊那丸でも、三千からの
三河武士にとりかこまれては、一たまりもあるまい」
「ところが、
斥候の者のしらせによると、にわかに四、五百のかくし部隊があらわれて、
亀井武蔵守をはじめ、徳川勢をさんざんに
悩めているとのことでござる」
「ふむ……とすると、勝ち目はどっちに多いであろうか」
「むろん、さいごは、徳川勢が
凱歌をあげるでござりましょうが」
「さすれば、こっちは
高見の見物、伊那丸の首は、
三河勢が
槍玉にあげてくれるわけだな」
「が、ゆだんはなりませぬ。なるほど、伊那丸がたは、徳川の手でほろぼされましょうが、次には、勝ちにのった三河の
精鋭どもが、この
人穴城を乗っとりに、押しよせるは
必定です」
「一
難さってまた一難か。こりゃ
昌仙、こんどこそは、かならずそちの
采配にまかす。なんとか、
妙策をあんじてくれ」
と、とうとう
兜をぬいでしまった。
「
仰せまでもなく、
機に応じ、変にのぞんで、
昌仙が
軍配の
妙をごらんにいれますゆえ、かならずごしんぱいにはおよびませぬ」
「それを聞いて
安堵いたした。オオ、また
裾野にあたって
武者声が
湧きあがった。しかしとうぶん、
人穴城は
日和見でいるがいい、
幸いに、
可児才蔵どのも、これにあることだから、伊那丸がたがみじんになるまで、一
献酌むといたそう」
手下にいいつけて、
望楼の上へ酒をとりよせた
呂宋兵衛は、
昌仙と
才蔵をあいてに、ゆうゆうと
酒宴をしながら、ここしばらく、
裾野の
戦を、むこう
河岸の火事とみて、
夜をふかしていた。
するとにわかに、星なき暗天にあたって、ヒューッという怪音がはしった。その音は遠く近く、人穴城の真上をめぐって鳴りだした。
「風であろう、すこし空が荒れてきたようだ」
杯を持ちながら、三人がひとしく空をふりあおぐと、こはなに?
狐火のような一
朶の
怪焔が、ボーッとうなりを立てつつ、頭の上へ落ちてくるではないか。
可児才蔵も呂宋兵衛も、また、丹羽昌仙も、おもわず
床几を立って、
「あッ」
と、
櫓の三方へ身をさけた。
とたんに、空から
降ってきた怪火のかたまりが、音をたててそこにくだけたのである。
たおれた
壺の酒が、
望楼の上からザッとこぼれ、花火のような火の
粉がまい散った。
「ふしぎ――どこから落ちてきたのであろう」
「
昌仙昌仙、早くふみ消さぬと
望楼へ燃えうつる」
「お、こりゃ
松明じゃ」
「え、松明?」
三人は
唖然とした。
いくら
天変地異でも、空から火のついた松明が降ってくるはずはない、あろう道理はないのである。もし、あるとすれば世のなかにこれほどぶっそうな話はない。
しかし、事実はどこまでも事実で、
瞬間ののち、またもや同じような
怪焔が、こんどは
籾蔵へおち、つづいて
外廓、
獣油小屋など、よりによって危険なところへばかり落ちてくる。
「火が降る、火が降る」
「それ、あすこへついた」
「そこのをふみ消せ、ふしぎだ、ふしぎだ」
城中のさわぎは
鼎のわくようである。ある者は屋根にのぼり、ある者は水をはこんでいる。
なかでも、
気転のきいたものがあって、
闇使いの
龕燈をあつめ、十四、五人が一ところによって、明かりを空へむけてみた結果、はじめて、そこに、おどろくべき敵のあることを知った。
かれらの目には、なんというはんだんもつかなかったが、地上から明かりをむけたせつな、かつて、話にきいたこともない
怪鳥が、
虚空に風をよんで
舞ったのが、チラと見えた。
それは
鷲の背をかりて、
白旗の
森をとびだした
竹童なることは、いうまでもない。
鞍馬そだちの竹童も、こよいは一
世一
代のはなれわざだ。
果心居士うつしの
浮体の法で、ピタリと、クロの
翼の根へへばりつき、
両端へ火をつけた
松明をバラバラおとす。火先はさんらんと
縞目の
筋をえがいて、
人穴城へそそぎ、三千の
野武士の巣を、たちまち大こんらんにおとし入れてしまった。
「ああ、いけねえ」
と、その時、ふと、つぶやいた竹童。
空はくらいが、地上は明るい。人穴城のなかで、
右往左往している
態を見おろしながら、
「こっちで投げる松明を、そうがかりで、消されてしまっちゃ、なんにもならない。オヤ、もうあと四、五本しかないぞ」
なに思ったか、クロの
襟頸をかるくたたいて、スーと下へ舞いおりてきた。いくら
大胆な
竹童でも、まさか
人穴城のなかへはいるまいと思っていると、あんのじょう、れいの
望楼の
張出し――さっき
呂宋兵衛たちのいたところから、また一段たかい
太鼓櫓の屋根へかるくとまった。
クロをそこへ
止らせておいて、竹童は、残りの
松明を
背負って、スルスルと望楼台へ下りてきた。もうそこにはだれもいない、呂宋兵衛も
昌仙も
才蔵も、下のさわぎにおどろいて
降りていったものと見える。
「しめた」
竹童は、五つ六つある階段を、むちゅうでかけおりた。
そこは、七門の
扉にかためられている
人穴城のなかだ。あっちこっちの
小火をけすそうどうにまぎれて、さしもきびしい城内ではあるが、ここに、天からふったひとりの
怪童ありとは、夢にも気のつく者はなかった。
果心居士の
命をおびて、いつかここに使いしたことのある竹童は、そのとき、だいぶ、ようすをさぐっておいたので、城内のかっても、心得ぬいている。
おそろしい、はしッこさで、かれがねらってきたのは
鉄砲火薬をつめこんである
一棟だった。見ると、戦時なので、
煙硝箱も、つみだしてあるし、
庫の戸も、
観音びらきに
開いている。しかも願ったりかなったり、いまのさわぎで、武器番の手下も、あたりにいなかった。
ちょこちょこと、
庫のなかへはいった竹童は、れいの
松明に、火をつけて、まン中におき、
藁縄の
綱火が火をさそうとともに、このなかの
煙硝箱が、いちじに爆発するようにしかけた。そして、ポンと、そとの
扉を
閉めるがはやいか、もときた
望楼へ、息もつかずにかけあがってくる。
「ありがたい、ありがたい。これで
人穴城の
蛆虫どもは、
間もなくいっぺんに
寂滅だ。
伊那丸さまも、およろこびなら、お
師匠さまからも、たくさん
褒めていただかれるだろう」
望楼に立って、手をふった竹童、待たせてあるクロが飛び去っては一大事と、大いそぎで、
欄間から
棟木へ手をかけ、棟木から屋根の上へ、よじ登ろうとすると、
「
小僧、待て!」
ふいに、下からグングンと、足をひッぱる者があった。
「あ! あぶない」
「
降りろ、
神妙におりてこないと、きさまのからだは、この望楼からころがり落ちていくぞ」
「あ、しまった」
竹童はおどろいた。
平地とちがって、からだは七階の
櫓のすてッぺんにあった。
棟木へかけている五本の指が、
命をつっているようなもの、ひとつ力まかせに下からひっぱられたひには、たまったものではない。
「
降りろともうすに、降りてこないか」
「いま降りるよ、降りるから、手をはなしてくれ、でなくッちゃ、からだが自由にならないもの」
「ばかを申せ、はなせば、上へあがるんだろう」
足をつかんでいる者はゆだんがない。
竹童は
観念してしまった。
ままよ、どうにでもなれ、お
師匠さまからいいつけられた使命は、もう十のものなら九つまでしとげたのもどうよう、
呂宋兵衛の手下につかまって、首をはねられても残りおしいことはないと思った。
「じゃ、どうしろっていうんだい」
おのずから、声もことばも、
大胆になる。
「その手をはなしてしまえ」
「手をはなせば、ここから下まで、まッさかさまだ」
「いや、おれがこう持ってやる」
下の者は背をのばして、竹童の
腰帯をグイとつかんだ。もうどうしたってのがれッこはない、竹童は、運を天にまかせて、
棟木の
角へかけていた手を、ヒョイとはなした。
「えいッ」
はッと思うと、竹童のからだは、
望楼台の上へ
鞠のように投げつけられていた。覚悟はしていても、こうなると最後までにげたいのが人情、かれは、むちゅうになってはね起きたが、すかさず、いまの男が、上からグンと乗しかかって、
「まだもがくか!」
と手足の急所をしめて、
磐石の重みをくわえた。それをだれかと見れば、さっき、
呂宋兵衛や
昌仙とともに、ここにいた
可児才蔵である。
安土から選ばれてきた可児才蔵とわかってみれば、なるほど、竹童が、つかまれた足を離せなかったのもむりではない。
「いたい、いたい。苦しい」
竹童も、呂宋兵衛の手下にしては、どうもすこし、
手強いやつに
捕まったとうめきをあげた。
「痛いのはあたりまえだ、うごけばうごくほど、急所がしまる」
「殺してくれ、もう死んでもいいんだ」
「いや、殺さない」
「首を斬れ」
「首も斬らぬ。いったいきさまは、どこの何者だ」
「聞くまでもないではないか、おいらはいつか、
果心居士さまのお使いとなって、この城へきたことのある
鞍馬山の
竹童だ。首の斬り方をしらないなら、さッさと、
呂宋兵衛の前へひいていけ」
「ウーム、鞍馬山の竹童というか」
可児才蔵も、心中
舌をまいておどろいた。
安土の城には、じぶんの主人
福島市松をはじめ、
幼名虎之助の
加藤清正、そのほか
豪勇な少年のあったことも聞いているが、まだこの竹童のごとく、
軽捷で、しかも
大胆な口をきく
小僧というものを見たことがない。
竹童はまた竹童で、才蔵に組みふせられていながら、
肚のなかで、ふとこんなことを思った。
「こいつはおもしろい、いましかけてきたあの
綱火が、
松明の火からだんだん燃えうつって、もうじきドーンとくるじぶんだ。そうすれば
煙硝庫も
人穴城の
野武士も、この
望楼もおいらもこいつも、いっぺんに
けし飛んでしまうんだ」
と、かれはいきなり下から、ぎゅッと才蔵の帯をにぎりしめた。
「あはははは、およばぬ腕だて」
と、才蔵は力をゆるめて笑いだした。
「笑っていろ、笑っていろ、そして、いまに見ているがいい、この下の
煙硝庫が
破裂して、やぐらもきさまもおいらも、一しょくたに、
木ッ
葉みじんに吹ッ飛ばされるから」
「えッ、煙硝庫が?」
「おお、あのなかへ
松明を、ほうりこんできたんだ。ああいい
気味、その火を見ながら死ぬのは
竹童の
本望だ、おいらは本望だ」
「いよいよ、よういならん
小僧だ」
さすがの
才蔵も、これにはすこしとうわくした。がいまの一
言を聞いて、
「では、もしや
汝は、
伊那丸のために働いている者ではないか」
と、問いただした。
「あたりまえさ、伊那丸さまをおいて、だれのためにこんなあぶない
真似をするものか、おいらもお
師匠さまも、みんなあのお
方を世にだしたいために働いているんだ」
「おお、さてはそうか」
と才蔵は飛びのいて、にわかに態度をあらためた。竹童は、手をひかれて起きあがったが、少しあっけにとられていた。
「そうとわかれば、汝を手いたい目にあわすのではなかった。なにをかくそう、
拙者はわけがあって、
秀吉公の
命をうけ、この
裾野のようすを
探索にきた、
可児才蔵という者だ」
「おじさん、おじさん、そんなことをいってると、ほんとうに
鉄砲薬の山が、ドカーンとくるぜ、おいらのいったのは、うそじゃないからね」
「では竹童、すこしも早く逃げるがいい」
「えッ、おいらを逃がしてくれるというの」
「おお
秀吉公は、
伊那丸どのに悪意をもたぬ。あのおん
方に、会ったらつたえてくれい、
可児才蔵と申す者が、いずれあらためて、お目にかかり申しますと」
「はい、しょうちしました」
ないとあきらめた
命を、思いがけなく拾った竹童は、さすがにうれしいとみえて、こおどりしながら、まえの
欄間へ足をかけた。
「あぶないぞ、落ちるなよ」
まえには足をひっ張った才蔵が、こんどは下から助けてくれる。竹童は
棟木の上へ飛びつきながら、
「ありがとう、ありがとう。だが、おじさん――じゃあない可児さま。あなたも早くここを
降りて、どこかへ逃げださないと、もうそろそろ
煙硝の山が
爆発しますよ」
「心得た、では竹童、いまの
言伝を忘れてくれるな」
といいすてて、可児才蔵はバラバラと
望楼をおりていったようす、いっぽうの竹童も、やっと屋根
瓦の上へはいのぼってみると、うれしや、
畜生ながら
霊鷲クロにも心あるか、巨人のように
翼をやすめてかれのもどるのを待っていた。
「さあ、もう天下はこっちのものだ」
鷲の翼にかくれた
竹童のからだは、みるまに、
望楼の屋根をはなれて、
磨墨のような暗天たかく舞いあがった。
――と思うと同時に、とつぜん、天地をひっ
裂くばかりな
轟音。
ここに、時ならぬ
噴火口ができて、富士の形が一
夜に変るのかと思われるような火の柱が、
人穴城から、
宙天をついた。
ドドドドドドウン!
二どめの
爆音とともに、ふたつに
裂けた
望楼台は、そのとき、まっ黒な
濛煙と、
阿鼻叫喚をつつんで、
大紅蓮を
噴きだした殿堂のうえへぶっ倒れた。
そして、八万八千の
魔形が、火となり煙となって、舞いおどる
焔のそこに、どんな
地獄が現じられたであろうか。
「また
富士山が、火をふきだしたのであろうか」
「おお、まだ
今朝もあんなに、
黒煙が、あがっている」
「なあに、お山はあのとおり、いつもと変ったところはない、きっと
猟師が、
野火でもだしたんだろうよ」
「いやいや、野火ばかりで、あんな音がするものか、
戦のためだ、戦があったにきまっている」
「え、戦? 戦とすればたいへんだ、このへんもぶっそうなことになるのじゃないかしら」
ここは、
裾野や
人無村からも、ずッとはなれている
甲斐国の
法師野という
山間の部落。
人穴城がやけた
轟音は、このへんまで、ひびいたとみえて、
家に落着けない
里の人があっちに
一群れ、こっちにひとかたまり、はるかにのぼる煙へ小手をかざしながら、
今朝もガヤガヤあんじあっていた。
「おい、
与五松」
そのうちのひとりがいった。
「おめえの
家で、ゆうべ宿をかした旅の客があったな。なんだかこわらしい顔をしていたが、物しりらしいところもある、一つあの客人にきいて見ようじゃないか」
「なるほど、
矢作がいいところへ気がついた、どこに
戦があるのか、あの人なら知っているかもしれねえ、はやくお
呼びもうしてこいやい」
「あ、その人は、おれがでてくるときに、先をいそぐとやらで
立ち
支度をしていたから、ことによるともうでかけてしまったかもしれねえが、おいでになったらすぐ連れてこよう」
与五松という若者は、すぐじぶんの
家へかけだしていった。ちょうど、立ちかけているところへ
間に合ったものか、しばらくすると、かれはひとりの旅人をつれて一同のほうへ取ってかえしてきた。
「あれかい、与五松の
家へとまった、お客というのは」
里の者たちは、
袖ひき合って、クスクス笑いあった。なぜかといえば、
片鼻そげている顔が、いかにも
怪異に見えたのである。
旅の男というのは、鼻かけ
卜斎の
八風斎であった。
越後路へむかっていくかれは、
蛾次郎を見うしなって、ひとりとなり、
昨夜はこの部落で、一夜をあかした。
「わざわざ恐れいりまする」
と、年かさな
矢作が、卜斎のまえへ、小腰をかがめながら、ていねいにききだした。
「あなたさまは、
裾野からおいでになった
鏃師とやらだそうでござりますが、あのとおりな
黒煙が、二日二晩もつづいて立ちのぼっているのは、いったいなんなのでござりましょう」
「あれかい」卜斎はくだらぬことに、呼びとめられたといわんばかりに、
「あれはたぶん、
人穴の
殿堂が焼けたのでしょう」
「へえ、人穴の殿堂と申しますると」
「
野武士の立てこもっていた
山城――
和田呂宋兵衛、
丹羽昌仙などというやつらが、ひさしく
巣をつくっていたところだ。それもとうとう時節がきて、あのとおり、焼きはらわれたものだろう」
「ああ野武士ですか、野武士の城なら、いい気味だ」
「お
富士さまの
罰だ」
と、
里人はにわかにほッと安心したばかりか、日ごろの
欝憤をはらしたようにどよみ立った。
するとまた二、三の者が、
「あ、だれかきた」と叫びだした。
見ると
鳥刺し姿の
可児才蔵が、
山路をこえてこの部落にはいってきたのだ。ここは街道
衝要なところなので、
甲府へいくにも
南信濃へはいるにも、どうしても、通らねばならぬ地点になっている。
「おお鳥刺しだ」
と、部落の者たちは、また才蔵を取りまいて、
裾野のようすをくどく聞きたがった。けれど才蔵は、これから
安土へ昼夜
兼行でかえろうとしている
体、裾野におけるちくいちの
仔細は、まず第一に、
秀吉へ復命すべきところなので、多くを語るはずがない。
「さあ、ふかいようすは知りませんが、なにしろ、裾野はいま、
人穴城の火が、
枯野へ燃えひろがって、いちめんの火ですよ、そのために、
徳川勢と
武田方の
合戦は、両陣ひき分けになったかと聞きましたが、人穴城から焼けだされた
野武士は、
駿河のほうへは逃げられないのでたぶん、こっちへ押しなだれてきましょう」
「えッ、野武士の焼けだされが、こっちへ逃げてきますって?」
「ほかに逃げ道もなし、
食糧のあるところもありませんから、きっとここへやってくるにそういありません。ところでみなさん、わたしがここを通ったことは、その
仲間がきても、けっしていわないでくださいまし、ではさきをいそぎますから――」
と、可児才蔵はほどよくいって、いっさんに、部落をかけだした。
そして、
甲信両国の
追分に立ったとき、右手の道を、いそいでいく男のかげがさきに見えた。
「ははあ、きゃつは、
柴田の
廻し者
上部八風斎だな、これから
北ノ
庄へかえるのだろうが、とても、
勝家の腕ではここまで手が
伸びない。やれやれごくろうさまな……」
苦笑を送ってつぶやいたが、じぶんは、それとは反対な、
信濃堺の道へむかって、足をはやめた。
法師野の部落は、それから
一刻ともたたないうちに、昼ながら、
森としてしまった。たださえ
兇暴な
野武士が焼けだされてきた日には、どんな
残虐をほしいままにするかも知れないと、家を
閉ざして村中
恐怖におののいている。
はたして、その日の午後になると、この部落へ、いような
落武者の一隊がぞろぞろとはいってきた。
各戸の防ぎを
蹴破って、
「ありったけの
食べ
物をだせ」
「女
老人は森へあつまれ、そして
飯をたくんだ」
「村から逃げだすやつは、たたッ斬るぞ」
「
家はしばらくのあいだ、われわれの陣屋とする」
好き勝手なことをいって、財宝をうばい、衣類食い物を取りあげ、部落の男どもを一人のこらずしばりあげて、その
家々へ、
飢えた
狼のごとき野武士が、わがもの顔して、なだれこんだ。
焼けだされた狼は、わずか三、四十人の
隊伍であったが、なにせよ、武器をもっている
命知らずだからたまらない。なかには、
呂宋兵衛をはじめ、
丹羽昌仙、
早足の
燕作、
吹針の
蚕婆までがまじっていた。
あの夜、殿堂へ、
煙硝爆破の
紅蓮がかぶさったときには、さすがの昌仙も、手のつけようがなく、わずかに、呂宋兵衛その他のものとともに、例の
間道から
人無村へ逃げ、からくも危急を
脱したのであるが、多くの手下は城内で焼け死んだり、のがれた者も、大半は、
徳川勢や
伊那丸の手におちて、
捕われてしまった。
城をうしない、
裾野の勢力をうしなった呂宋兵衛は、たちまち、
野盗の
本性にかえって、落ちてきながら、通りがけの部落をかたっぱしから荒らしてきた。そしてこれから、
秀吉の
居城安土へのぼって、助けを借りようという虫のよい考え。――ところが、一しょにおちてきた
可児才蔵は、こんな
狼連につきまとわれては大へんと、いちはやく、とちゅうから姿をかくし、
一足さきに
上方へ立っていったのである。
ここに、一
世一
代の
大手柄をやったのは
鞍馬の
竹童。
その得意や、思うべしである。
飛行自在のクロあるにまかせて、かれは、燃えさかる
人穴城をあとに、ひさしぶりで、京都の
鞍馬山のおくへ飛んでかえり、お
師匠さまの
果心居士にあって、得意のちくいちを物語ろうと思ったところが、
荘園の
庵は
がらん洞で、ただ壁に、一枚の
紙片が
貼ってあり、まさしく居士の筆で、いわく、
竹童よ。誇るなよ。なまけるなよ。ゆだんするなよ。お前の使命はまだ残っているはず。
ふたたび、われとあう日まで、心の紐をゆるめるなかれ。
果心居士
「おや、こんなものを書きのこして、お師匠さまはいったい、どこへ
隠れてしまったんだろう」
竹童は、がっかりしたり、
不審におもったりして、しばらく庵にぼんやりしていた。
「おまえの使命はまだ残っている――おかしいなあ、お師匠さまの計略は、いいつけられたとおり
まんまとしたのに……ああそうか、
徳川軍にかこまれた
伊那丸さまが、勝ったか負けたか、生きたか死んだか、その
先途も
見とどけないのがいけないというのかしら、そういえば、
可児才蔵という人からたのまれている
伝言もあったっけ」
と、にわかに気がついた竹童は、数日
来、
不眠不休の活動に、ともすると眠くなる目をこすりながら、ふたたび、クロに乗って富士の
裾野へ舞いもどった。
やがて、
白砂青松の東海道の空にかかったとき、竹童がふと見おろすと、たしかに
徳川勢の
亀井、
内藤、
高力なんどの武者らしい
軍兵三千あまり、
旗幟堂々、一
鼓六
足の
陣足ふんで浜松城へ
凱旋してきたようす。
「おや、あのあんばいでは、
裾野の
合戦は
伊那丸さまの
敗亡となったかしら?」
竹童、いまさら気が気でなくなったから、いやがうえにも、クロをいそがせて、裾野の空へきて見ると、
人穴から燃えひろがった
野火は、
止まるところを知らず、
方三
里にわたって、
濛々と煙をたてているので、
下界のようすはさらに見えない。
七日七夜、燃えにもえた野火の煙は、裾野一円にたちこめて、昼も
日食のように暗い。
富士の
白妙が
銀細工のものなら、とッくに見るかげもなく、くすぶッてしまったところだ。見よ、さしも
人穴の
殿堂すべて
灰燼に
帰し、まるで
鬼の
黒焼、
巌々たる岩ばかりがまっ黒にのこっている。
すると、さっきから、その
焼け
跡を見まわっていた三
騎のかげが、
廃城の門をまっしぐらに
駈けだした。そして
濛々たる野火の煙をくぐりながら、
金明泉のちかくまできたとき、さきにきた
山県蔦之助が、ふいに、ピタッと
駒をとめて、
「や? ご
両所、しばらく待ってくれ」
と、あとからきた二
騎――
巽小文治と
木隠龍太郎へ、手をふって押しとどめた。
「おお、蔦之助、
呂宋兵衛の
残党でもおったか」
「いや、よくはわからぬが、あの
泉のほとりに、なにやらあやしいやつがいる。いま、
拙者が
遠矢をかけて追いたてるから、あとは斬るとも生けどるとも、おのおの
鑑定しだいにしてくれ」
「ウム、心得た」
といったへんじよりは、龍太郎と小文治、金明泉へむかって馬を飛ばしていたほうがはやかった。
蔦之助は、
鷹の石打ちの矢を一本とって、
弓弦につがえ、馬上、横がまえにキラキラと引きしぼる。
――
小一
町は、
駿馬項羽で一
足とび、
「やッ、しまった!」
と、そこまできて龍太郎はびっくりした。なぜといえば、いましも金明泉のほとりから、
笹叢をガサガサ分けてでてきたのは、
呂宋兵衛の
残党どころか、大せつな大せつな
鞍馬の
竹童。
竹童はなんにも知らない。
金明泉の水でも飲んできたか、
袖で口をふきながら、ヒョイと、
岩角へとび乗ってわざわざ
蔦之助のまとに立ってしまった。
龍太郎はあわてて、うしろのほうへ
馬首をめぐらし、
「待てッ、味方だ!」
「竹童だ、うつな!」
小文治も
絶叫した。
が、
間にあわなかった。プツン! とたかい
弦鳴りがもうかなたでしてしまった。
射手は名人、矢は
鷹の石打ち、ヒューッと風をふくんで飛んだかと思うと、
狙いはあやまたずかれの
胸板へ――
あっけらかんと口をふいていた竹童、
睫毛の先にキラリッと
鏃の光を感じたせつなに、ヒョイ――と首をすくめて右手すばやく
稲妻つかみに、名人の矢をにぎり
止めてしまった。
「竹童、みごと」
矢にもおどろいたし、
褒め
声にもおどろいた竹童、龍太郎と小文治のすがたを見つけて、
「
木隠さま。
大人のくせに、よくないいたずらをなさいますね」
と、ニッコリ笑った。
「いや竹童、いまのは
木隠どののわるさではない。むこうにいる
山県氏の見そこないだから、まあかんにんしてやるがよい」
小文治がいいわけしていると、
蔦之助も遠くから、このようすを見てかけてきた。そして、
今為朝ともいわれたじぶんの矢を、つかみとるとは、
末おそろしい子だという。
けれど
当の竹童には、末おそろしくもなんにもない。こんな
鍛練は、
果心居士のそばにおれば、のべつ
幕なしにためされている「いろは」のいの字だ。
「ときに龍太郎さま、なによりまっ先に、うかがいたいのは、
伊那丸さまのお身の上、どうか、その
後のようすをくわしく聞かしてくださいまし」
「ウム、当夜若君の
孤軍は、いちどは
重囲におちいられたが、折もよし、
人穴城の殿堂から、にわかに猛火を発したので、さすがの
呂宋兵衛も、
間道から逃げおちて、のこるものは
阿鼻叫喚の落城となった。どうじに
三河勢も浜松より急命がくだって総退軍。そのため、味方の勝利と一変したのだ」
「そして、ただいま、ご本陣のあるところは」
「五湖をまえにして、
白旗の
森一
帯、総軍一千あまりの兵が、物の具をつくろうて、休戦しておる」
「呂宋兵衛の部下が軍門にくだって、それで急に、味方がふえたわけなんですね」
「そうだ。して竹童、おまえはきょうまで、どこにいたのか」
「ちょっと
鞍馬へかえって見ましたところが、お
師匠さまの
叱言が壁にはってあったので、あわててまた
舞いもどってきたんです」
「フーム、では
果心先生には、
鞍馬の
庵室にも、おすがたが見えなかったか」
「いっこうお
行方しれずです。またお気がむいて、日本くまなく
行脚しておいでになるのかも知れませんが、
困るのはこの
竹童、先生のおいいつけは、やりとげましたが、こんどはなにをやっていいのか
見当がつきません。
龍太郎さま、あそんでいると眠くなりますから、なにか一つ
中役ぐらいなところを、いいつけておくんなさい」
龍太郎も、じぶんの
手柄話らしいことを、おくびにもださなかったが、竹童もまた、あれほどの
大軍功を成しとげていながら、鼻にもかけず
塵ほどの
誇りもみせていない。
そしてなお、なにか一役いいつけてくれという。よいかな竹童、さすがは
果心居士が、
藜の
杖で、ピシピシしこんだ
秘蔵弟子だ。
武田伊那丸、
小幡民部、そのほか
帷幕のものが、いまなお
白旗に陣をしいて、しきりにあせっているわけは、
和田呂宋兵衛の所在が、かいもく知れないためであった。
人穴城という
外廓は焼けおちたが、
中身の
魔人どもはのこらず逃亡してしまった。
丹羽昌仙、
吹針の
蚕婆、
穴山残党の
佐分利、
足助の
輩にいたるまで、みな
間道から抜けだした
形跡。しかも、落ちていったさきが不明とあっては、
真に、この一戦の
痛恨事である。
「そこできょうも、
咲耶子さまをはじめ
忍剣もわれわれ三名も、八ぽうに馬をとばし、木の根、草の根をわけてさがしているところだ」
――と龍太郎からはなされた竹童は、聞くとともに、こともなげにのみこんで、
「では龍太郎さま、この竹童が、ちょっと、
一鞭あてて見てまいりましょう」
「ウム、なにかおまえに、
成算があるか」
「あてはございませんが、そのくらいのことなら、なんのぞうさもないこッてす」
「いや、あいかわらず
小気味のいいやつ、ではわかりしだいにその場所から、この
狼煙を三どうちあげてくれ、こちらでも、その用意をして待つことにいたしているから」
「ハイ。きっとお
合図もうします。じゃ
蔦之助さま、
小文治さま、これでごめんこうむりますよ」
竹童、龍太郎から受けとった
狼煙筒を、ふところに
納めると、またまえにでてきた
笹叢のなかへ、ガサガサと
熊の子のように姿をかくしてしまった。
おや? あんな
大言を
吐いておいて、どこへもぐりこんでゆくのかと、こなたに三人がながめていると、折こそあれ、
金明泉のほとりから、一陣の
旋風をおこして、天空たかく舞いあがった
大鷲のすがた――
地上にあっても小粒の竹童、空へのぼると、
鷲の一
毛にもたらず、かれの姿は、
翼のかげにありとも見え、なしとも思われつつ、鷲そのものも、たちまち
鳩のごとく小さくなり、
雀ほどにうすらぎ、やがて、一点の
黒影となって、
眼界から消えてゆく。
雲井にきえた
鷲と
竹童。
甲駿二国のさかいを、
蛇の
目まわりに、ゆうゆうと見てまわって、とうとう、この
法師野の部落に、
和田呂宋兵衛一族の焼けだされどもが、よわい
村民をしいたげているようすを
とくと見さだめた。
このあたり、
野火の煙がないので、竹童が鷲の背から小手をかざしてみると、法師野の山村、手にとるごとしだ。部落の家には、みな
人穴城の
残党がおしこみ、衣食をうばわれた善良な
村人は、
老幼男女、のこらず
裸体にされて、森のなかに押しこめられている。
真にこれ、白昼の
大公盗、目もあてられぬ
惨状だ。
「ちくしょうめ、人穴城でやけ死んだかと思ったら、またこんなところで悪事をはたらいていやがるな……ウヌいまに一あわふかせてやるからおぼえていろ」
空にあって、竹童は、おもわず歯がみをしたことである。そして、一刻もはやく、この
状況を、
伊那丸の本陣へ知らせようと、大空ななめに
翔けおりる――
するとそのまえから、法師野の
大庄屋狛家の屋敷を
横奪して、わがもの顔にすんでいた和田呂宋兵衛は、腹心の
蚕婆や
昌仙をつれて、庭どなりの
施無畏寺へでかけて、三重の
多宝塔へのぼり、なにか
金目な
宝物でもないかと、しきりにあっちこっちを荒らしていた。
吹針の蚕婆は、ちょうどその時、三重の塔のいただきへのぼって、
朱の
欄干から向こうをみると、今しも、竹童ののった
大鷲が、しきりにこの部落の上をめぐってあなたへ飛びさらんとしているとき――
「あッ、たいへん」
顔色をかえて、
蚕婆がぎょうさんにさわぎだしたので、塔のなかの宝物をかきまわしていた
呂宋兵衛と
昌仙なにごとかとあわてふためいて、
細廻廊の欄干へ立ちあらわれた。
見ると空の
黒鷲、その
翼にひそんでいるのは、呂宋兵衛がうらみ
骨髄にてっしている
鞍馬の
小童。
丹羽昌仙はきッと見て、
「ウーム、きゃつめ、
伊那丸方の
斥候にきおったな」
と
拳をにぎったが、かれの軍学も空へはおよばず、
蚕婆の
吹針も、ここからはとどかず、ただ
唇をかんでいるまに、鷲はいっさんに
裾野をさしてななめに遠のく。
「呂宋兵衛さま、もうこうはしておられませぬ」
さすがの昌仙が、ややろうばいして腰をうかすと、いつも
臆病な呂宋兵衛が、イヤに落着きはらって、
「なアに、大丈夫」
と
苦っぽく
嘲笑い、じッと、鷲のかげを見つめていたが、やがて、右手に持っていた
金無垢肉彫りの
鷹の
黄金板――それはいまの
塔内から引ッぺがしてきた
厨子の
金物。
「はッ……、はッ……」
と三たびほど息をかけて、
術眼をとじた呂宋兵衛、その黄金の板へ、やッと、力をこめて
碧空へ投げあげたかと思うと、ブーンとうなりを生じて、とんでいった。
「あッ」
「オオ」
と
丹羽昌仙も
蚕婆も、おもわず
金光の
虹に眼をくらまされて、まぶしげに空をあおいだが、こはいかに、その時すでに、
黄金板のゆくえは知れず、ただ見る
金毛燦然たる一
羽の
鷹が、太陽の飛ぶがごとく、びゅッ――と竹童の
鷲を追ッかけた。
これは、前身
悪伴天連の
和田呂宋兵衛が、
蛮流幻術の
奇蹟をおこなって、
竹童を、
鳥縛の術におとさんとするものらしい。――知らず
鞍馬の
怪童子、はたして、どんな
対策があるだろうか?
「あら、あら、あら! コンちくしょうめ」
竹童は、にわかに空でめんくらった。
いや、乗ってる鷲がくるいだしたのだ。――で、いやおうなく、かれが、大声あげて、
叱咤したのもむりではない。
「こらッ、クロ、そっちじゃねえ、そっちへ飛ぶんじゃないよ!」
いつも背なかで調子をとれば、
以心伝心、思うままの方向へ自由になるクロが、にわかに、風をくらった
凧のように、一つところを、くるくるまわってばかりいる。
はるか、
多宝塔の上で、呂宋兵衛が、放遠の
術気をかけているとは知らない竹童、ふしぎ、ふしぎとあやしんでいると、怪光をおびた一
羽の
大鷹が、かッと
嘴をあいて、じぶんの目玉をねらってきた。
「あッ」
竹童はぎょッとして、
鷲の背なかへうっぷした。――とクロは猛然と
巨瞳をいからし、
鷹をめがけて絶叫を浴びせかける。らんらんたる太陽のもと、
双鳥たちまち血みどろになってつかみあった。飛毛ふんぷんと
降って、そこはさながら、
日月あらそって
万星うずを巻くありさまである。
「えいッ」
そのとき竹童、腰なる名刀がわりの
棒切れ、ぬく手もみせず、怪光の
鷹をたたきつけた。とたんに、その鋭い気合いが、
術気をやぶったものか、
鷹は、かーんと
黄金板の
音をだして、一直線に地上へ落ちていった。
「ウーム、しまった!」
多宝塔の上で、遠術の
印をむすんでいた
呂宋兵衛、あおじろい
額から、タラタラと
脂汗をながしたが、すぐ
蛮語の
呪文をとなえ、
満口に
妖気をふくみ入れて、フーと吹くと、はるかな、竹童と鷲の身辺だけが、
薄墨をかけたように、
円くぼかされてしまった。
はじめは、そのうす黒い妖気が、雲のように見えたがやがて、チラチラ銀光にくずれだしたのを見ると……
数万数億の白い
毒蝶。――打てども、はらえども、銀雲のように舞って、さすがの竹童も、これには弱りぬいた。同時に、さては何者か、妖気を放術してさまたげているにそういないと知ったから、かねて
果心居士におしえられてあった
破術遁明の急法をおこない、
蝶群の一
角をやぶって、
無二
無三に、
鷲を飛ばそうとすると、クロは
白蝶群の
毒粉に
眩暈て、
翼を弱められ、クルクルと
木の葉おとしに舞いおりた。
多宝塔の上から、それをながめた
呂宋兵衛、してやったりと
ほくそ笑んで、塔のなかへ姿をかくしたが、まもなく
金銀珠玉の寺宝をぬすみだして、
庄屋の
狛家へはこびこみ、
野武士の
残党どもに、
酒蔵をやぶらせて、
面にくい
大酒宴。
寺には、
僧侶が斬りころされ、森には
裸体の
老幼がいましめられて、
飢えと恐怖におののいている。戦国の悲しさには、この暴悪なともがらの暴行に、
駈けつけてくる
代官所もなく、取りしまる政府もない。
こうして呂宋兵衛たちは、この村を
食いつくしたら、次の部落へ、つぎの部落を
蹂躪しきったらその次へ、
群をなして
桑田を
枯らす害虫のように渡りあるく
下心でいるのだ。それは、この一族ばかりでなかったとみえて、戦国時代のよわい民のあいだには「
狼と
野武士がいなけりゃ
山家は
極楽」と、いう
諺さえあった。
さて、いっぽうの竹童は、どこへ
降りたろう。
降りたところで、ふと見るとそこは、つごうよく、五湖方面から
法師野地方へかよう街道のとちゅう。小広い平地があって、
竹林のしげった
隅に、一
軒の
茅葺屋根がみえ、
裏手をながるる水勢のしぶきのうちに、ゴットン、ゴットン……
水車の
悠長な
諧調がきこえる。
さっきは、
呂宋兵衛の遠術になやまされて、クロがだいぶつかれているようすなので、竹童は、
水車のかけてある流れによって、
鷲にも水を飲ませじぶんも一口すって、さて、一
刻もはやく
合図の
狼煙をあげてしらせたいがと、あっちこっちを見まわした
後、クロをそこへ置きすてて、いっさんにうらの小山へ登りだした。
ところが、その
水車小屋には、
一昨日からひとりの男が
張りこんでいた。
呂宋兵衛から、張り番をいいつけられていた
早足の
燕作。毎日たいくつなので、きょうは通りかかった泣き虫の
蛾次郎を、小屋のなかへ引っぱりこみ、このいい天気なのに小屋の戸を
閉めきったまま、ふたりでなにかにむちゅうになっていた。
入口も
窓も閉めきってあるので、水車小屋のなかはまっ暗だ。ただ、
蝋燭が一本たっている。
そこで、早足の燕作が、泣き虫の蛾次郎に、よからぬ
秘密を、
伝授している。
なにかと思えば、かけごとである。するものに事をかいて、かけごとの方法をつたえるとは、教授する先生も先生なら、また、教えをうける
弟子も弟子、どっちも、
褒められた人物でない。
「おい
蛾次公、まだふところに金があるんだろう、勝負ごとは、しみッたれるほど負けるもんだ、なんでも、気まえよくザラザラだしてしまいねえ」
「だって
燕作さん、いまそこへだした
小判は?」
「わからねえ男だな、いまのはおまえが負けたからおれにとられてしまったんだよ。それを取りかえそうと思ったら、いっぺんに持ってるだけかけて見ろ」
「だって負けると、つまらねえや」
「そこが男の
度胸じゃねえか、
鏃師の蛾次郎ともあるおまえが、それぐらいな度胸がなくって、将来天下に名をあげることができるもんか、ええ蛾次ちゃん、しッかりしろやい」
と燕作は、ここ苦心
さんたんで、蛾次郎の持ち金のこらず巻きあげようとつとめている。
蛾次郎が、身にすぎた
小判を、ザラザラ持っていたのは、
向田ノ城の一室で、
菊池半助からもらった金だった。――かれは、本来その
報酬として
竹童の
鷲をぬすんで、
裾野戦のおこるまえに、菊池半助の陣中へかけつけなければならなかったはずだが、
密林のおくで、鷲をぬすみそこねて、竹童のため、したたか痛められていらい、もうこりごり、のこりの金で
買食いでもしようかと、
甲府をさしてきたとちゅう、ここで
張り番役をしていた
燕作の目にとまり、ひっぱりこまれたものである。
そしてさっきから、うまうまとふところの
小判を、あらかた巻きあげられ、もう三枚しか手になかった。燕作は、その三枚の
小判をふんだくってしまったら、おとといおいでと、小屋からつまみだしてしまうつもりだ。
「おい、
蛾次公先生、いつまで考えこんでいるんだい」
「だけれど、こわいなあ、この三枚をだして負けになると、おれは、
空ッぽになってしまうんだろう」
「そのかわり、おめえが勝てば、六枚になるじゃねえか、六枚はって、また勝てば十二枚、その十二枚をまたはれば、二十四枚、二十四枚は二十四両、どうでえ、それだけの金をふところに入れて、甲府へいってみろ、買えねえ物は、ありゃしねえぞ」
「よし! はった」
「えらい、さすがは男だ、よしかね、勝負をするぜ」
「ウム、燕作さん、ごまかしちゃいけねえよ」
「ばかをいやがれ、いいかい、ほれ……」
と、燕作が
壺へ手をかける、蛾次郎は目をとぎすます――と、その時だ……
ドドーンと、
裏山の上で、不意にとどろいた一発の
狼煙。
燕作は見張り番の
性根を呼びさまして、「あッ!」とばかりはねかえり、窓の戸をガラッとあけて空をみると、いましも、打ちあげられた
狼煙のうすけむり、水に一
滴の
墨汁をたらしたように、ボーッと
碧空ににじんで
合図をしている。
「やッ、なにか
伊那丸の陣のほうへ、合図をしやがったやつがあるな。ウム、もうこうしちゃいられねえ」
あわただしく取ってかえすや
否、
賭けてあった
小判をのこらずかきあつめて、ザラザラとふところにねじ込む。
蛾次郎はぎょうてんして、その
袂にしがみついた。
「ずるいやずるいや、
燕作さん、おれの金まで持っていっちゃいけないよ、かえしてくれ、かえしてくれ」
「ええい、この
阿呆め、もう、てめえなんぞに、からかっているひまはねえんだ」
ポンと蛾次郎を
蹴はなして、
脇差をぶちこむがはやいか、ガラリッと
土間の戸を
開けっぱなして、狼煙のあがった裏の小山へ、いちもくさんにかけあがった。
あとで起きあがった蛾次郎、親の
死目に会わなかったより悲しいのか、両手を顔にあてて、
「わアん……わアん……わアん……」
と、手ばなしで泣きだした。
しかし
天性の泣き虫にかぎって、泣きだすのもはやいが泣きやむのもむぞうさに、ケロリと天気がはれあがる。
しばらくのあいだ、おもうぞんぶん泣きぬいた蛾次郎は、それで気がさっぱりしたか、プーと
面をふくらましてそとへでてきた。と思うと、なにかんがえたか、
賽の
河原の
亡者のように、そこらの小石をふところいっぱいひろいこんだ。
「
燕作め! 見ていやがれ」
怖ろしい怖ろしい、
低能児でも
復讐心はあるもの。蛾次郎が、小石をつめこんだのは、れいの石投げの
技で、
小判の
仇をとるつもりらしい。
燕作がかえってくるのを
待伏せる計略か、蛾次郎はギョロッとすごい目をして
水車小屋の裏へかくれこんだ。
と、どこまで運のわるいやつ、わッと、そこでまたまた腰をぬかしそこねた。
「やあ、おめえは、クロじゃねえか」
一どはびっくりしたが、そこにいた怪物は、おなじみの
竹童のクロだったので、蛾次郎は思わず、人間にむかっていうようなあいさつをしてしまった。
そして、いまの
泣きッ
面を、グニャグニャと笑いくずして、
「しめ、しめ! 竹童がいないまに、この
鷲をかっぱらッてしまえ。鷲にのって
菊池半助さまのところへいけばお金はくれる、
侍にはなれる、ときどきクロにのって諸国の見物はしたいほうだい。アアありがてえ、こんな
冥利を取りにがしちゃあ、
天道さまから、苦情がくら」
竹の小枝を折って
棒切れとなし、竹童うつしにクロの背なかへのった泣き虫の蛾次郎。ここ一番の勇気をふるいおこして、
鷲ぬすみのはなれわざ、小屋の前からさッと一陣の風をくらって、
宙天へ乗り逃げしてしまった。
血相かえて、小山の
素天ッぺんへ
駈けあがってきた
早足の
燕作、きッと、あたりを見まわすと、はたして、そこの
粘土の地中に
狼煙の
筒がいけてあった。
スポンとひき抜いて、その
筒銘をあらためていると、すきをねらってものかげから、バラバラと逃げだしたひとりの少年。
「うぬ、
間諜!」
ぱッと飛びついて組みかぶさった燕作、肩ごしに
対手の
頤へ手をひっかけて、タタタタタと五、六
間ひきずりもどしたが、きッと目をむいて、
「やッ、てめえは
鞍馬の
竹童だな」
「オオ竹童だが、どうした」
「狼煙をあげて、
伊那丸方へ
合図をするなんて、
なりにもにあわぬふてえやつ。きょうこそ
呂宋兵衛さまのところへ引っつるすからかくごをしろ」
「だれがくそ!」
「ちぇッ。この
餓鬼め」
「なにをッ、この
大人め」
組んずほぐれつ、たちまち大小二つの
体が、もみ合った。――赤土がとぶ、草が飛ぶ。それが火花のように見える。
さきに、
釜無川原でぶつかった時、
燕作の早足と腕まえを知った竹童は、もう逃げては、やぼとおもったか、いきなりかれの手首へかじりついた。
「あ
痛ッ! ちくしょうッ」
燕作は
拳をかためて、イヤというほど、竹童の
びんたをなぐる。しかし竹童も、必死に
食いさがって、はなれればこそ。
「ウム」と
唇から血をたらして同体に組みたおれた。そしてややしばらく
芋虫のように
転々として上になり、下になりしていたが、ついに
踏ンまたいでねじふせた燕作が、右の
拇指で、グイと
対手の
喉をついたので、あわれや
竹童、
喉三寸のいきの
根をたたれて、
「ウーム……」
と、四
肢をぶるるとふるわせたまま、ついに、ぐったりしてしまった。
「ざまア見やがれ!
がらの
小せえわりに、ぞんがいほねを折らせやがった」
燕作は、すぐ竹童をひっかかえて、
法師野にいる
呂宋兵衛のところへかけつけようとしたが、ふと気がつくと、いまの
格闘で、さっき
蛾次郎からせしめた
小判が、あたりに
山吹の
落花となっているので、
「ほい、こいつをすてちゃあゆかれねえ」
あっちの三枚、こっちの五枚、ザラザラひろいあつめていると、
突! どこからか風をきって飛んできた
石礫が、コツンと、
燕作の肩骨にはねかえった。
「おや」
とふりむいたが、
竹童は
気絶して横たわっているし、ほかにあやしい人影も見あたらない。どうもへんだとは思ったが、なにしろ
大せつな
小判をと、ふたたびかき集めていると、こんどはバラバラ小石の雨が、つづけざまに
降ってきた。
「あ、あ、あいたッ!」
両手で頭をかかえながら、ふとあおむいた燕作の目に、そのとたん! さッと舞いおりた
大鷲の
赤銅色の腹が見えた。
首尾よく、
鷲ぬすみをやった泣き虫の
蛾次郎、その上にあって、
細竹の
杖を口にくわえ、右手に
飛礫をつかんで、
「やい燕作、やアい、燕作のバカ
野郎。さっきはよくも蛾次郎さまの金を、いかさまごとで、巻きあげやがったな。その返報には、こうしてやる、こうしてやる!」
天性、石なげの
妙をえた蛾次郎が、
邪魔物のない頭の上からねらいうちするのだからたまらない、さすがの燕作も手むかいのしようがなく、あわてまわって、竹童のからだを横わきに引っかかえるや
否、小山の
降り
口へむかって、一
足とびに逃げだした。
が――一せつな、蛾次郎がさいごの力をこめた
飛礫がピュッと、燕作のこめかみにあたったので、かれは、急所の一
撃に、くらくらと目をまわして、竹童のからだを横にかかえたまま、
粘土の
急坂を
踏みすべって、
竹林のなかへころがり落ちていった。
「やあ、いい気味だ、いい気味だ! ひっヒヒヒヒヒ」
白い歯をむきだして、
虚空に
凱歌をあげた
蛾次郎は、口にくわえていた
細竹の
杖を持ちなおし、ここ、竹童そッくりの
大得意。
「さ、クロ、あっちへ飛べ」
南――
遠江の国は浜松の城、
徳川家康の
隠密組菊池半助のところを指して、いっきに
鷲をかけらせた。
幸か不幸か、いま竹童は息の
根絶えてそれを知らない。
醒めてのち、かれが天下なにものよりも愛着してやまないクロが、蛾次郎のため盗みさられたと知ったら、その腹立ちはどんなだろう。
ゴットン、ゴットン、ゴットン……
水車の
諧調に、あたりはいつか、たそがれてきた。
竹林のやみに、夜の風がサワサワゆれはじめると、昼はさまでに思えなかった
水音が、いちだんとすごみを
帯びてくる。――ことに今夜は、小屋の
灯をともす者もなかった。
星あかりで見ると、その
燕作は、
水車場のすぐ上の
崖に、
竹童をかかえたまま、だらりと木の根に引っかかっている。
――ふたりとも、死せず
活きず、
気絶しているのだ。
すると上の竹の葉が、サラサラ……とひそやかにそよぎだしたかと思うと、
笹の
雫がそそぎこぼれて、
燕作の顔をぬらした。で、かれはハッと
正気をとりもどし、むくむくと起きて、
闇のなかにつっ立った、――立ったとたんに、笹の枝からヌルリとしたものが、燕作の首に巻きついた。
「あッ――」と、つかんですてると、それは小さな
白蛇である。こんどはたおれている竹童の胸へのって、かれのふところへ
鎌首を入れ、スルスルと
襟首へ、
銀環のように巻きついた。
夜はいよいよ
森々としている。燕作は、なんだかゾッとして手がだせないでいた。そして、顔のしずくをなでまわした。
と、それはあまりに遠くない地点から、ぼウ――ぼウ――と鳴りわたってきた
法螺の
音、また
陣鐘。耳をすませば、ごくかすかに
甲鎧のひびきも聞える。
兵馬漸進の足なみかと思われる音までが、ひたひたと
潮のように近づいてくる。
「オオ!」
燕作はいきなり、そばの木へのぼって、枝づたいに、水車小屋の屋根の上へポンととびうつった。そして、
暗憺たる
裾野の方角へ小手をかざしてみると、こはなにごと!
急は
目前、味方の一大事、すでに十数町の近くまでせまってきていた。
竹童があいずの
狼煙をみて、この地方に敵ありと知った
武田伊那丸は、
白旗の
森に
軍旅をととのえ、
裾野陣の
降兵をくわえた約千余の人数を、
星、
流、
騎、
白、
幻の五段にわかち、
木隠、
巽、
山県、
加賀見、
咲耶子の五人を五隊五将の配置とした。
采配、陣立て、すべてはむろん、
軍師小幡民部これを
指揮するところ。
陣の中央はこれ
天象の太陽
座、すなわち、武田伊那丸の大将座、
陰陽脇備え、
畳備え、
旗本随臣たち
楯の如くまんまんとこれをかこみ、
伝令旗持ちはその左右に、
槍組、
白刃組、弓組をせんとうに、
小荷駄、
後備えはもっともしんがりに、いましも、三軍
星をいただき、
法師野さしていそいできた。
ひる、それを見れば、
孫子四軍の法を
整々とふんだ小幡民部が
軍配ぶり、さだめしみごとであろうが、いまは
荒涼たる星あかり、小屋の屋根から小手をかざしてみた
燕作にも、ただその殺気しか感じられなかった。
「ウーム……」
と、燕作はおもわずうなって、
「いよいよ伊那丸のやつばらが、
呂宋兵衛さまのあとをかぎつけてきやがったな。オオ、すこしも早くこのことを、
法師野へ知らせなくっちゃならねえ」
ひらりと、屋根をとびおりた燕作、この大事に
驚愕して、いまはひとりの竹童をかえり見ている
暇もなく、得意の
早足一もくさん、いずこともなくすッ飛んでった。
駈けもかけたり
早足の
燕作。
水車小屋から
法師野まで、二
里八、九
丁はたっぷりな道、暗夜悪路をものともせず、ひととび、五、六
尺ずつ
踵をけって、たちまち
大庄屋狛家の
土塀門のうちへ、息もつかずに走りこんだ。
きて見ると、こなたは意外、いやのんきしごくなていたらく。
呂宋兵衛以下、
野獣のごとき
残党輩。
竹童のあげた
狼煙も、
伊那丸軍の出動も知らず、みなゆだんしきッた
酒宴の
歓楽最中。なかにはすでに
酔いつぶれて、
正体のない
野武士さえある。
息はずませて、門から
奥をのぞきこんだ燕作、
「ケッ、ばかにしていやがら」
と、むッとして、
「おれひとりを、番小屋に張りこませておきゃあがって、てんでに、すきかってなまねをしていやがる。ウム、くせになるから、いちばん
胆ッ玉のでんぐり返るほど、おどかしてやれ」
じぶんも
蛾次郎あいてに、かけごとをしていたことなどは
棚へあげて、不平づらをとンがらかした
燕作、いきなり庭先のやみへバラッとおどり立ち、声と両手をめちゃくちゃにふりあげて、
「一大事、一大事!
酒宴どころじゃない、一大事がおこったぞ」
取次ぎもなく、ふいにどなられたので、
呂宋兵衛は、
杯をおとして顔色をかえた。かれのみか、
丹羽昌仙、
蚕婆、
穴山の
残党足助、
佐分利の二名、そのほかなみいる
野武士たちまで、みな
総立ちとなり、あさましや、
歓楽の席は、ただ
一声で乱脈となった。
「おお、そちは番小屋の燕作、さてはなんぞ、伊那丸がたの
間諜でも、立ちまわってきたと申すか」
「あ、昌仙さまでございましたか、間諜どころか、
武田伊那丸じしんが、一千あまりの軍勢を
狩りたて、この
法師野へおそってくるようすです」
「ウーム、さすがは伊那丸、もうこの
隠れ
里をさぐりつけてまいったか。よもやまだ四、五日は大丈夫と、たかをくくっていたのが、この昌仙のあやまり、ああ、こりゃどうしたものか……」
丹羽昌仙は、ためいきついて、つぶやいたが、急に、ヒラリと庭さきへでて、じッと、十方の
天界をみつめだした。
そらは
無月、
紺紙に
箔をふきちらしたかのごとき
星月夜、――五
遊星、
北極星、
北斗星、二十八
宿星、その
光芒によって
北条流軍学の
星占いをたてているらしい
昌仙は、しばらくあってのち、なにかひとりうなずいて、もとの席へもどり、
呂宋兵衛にむかって、
離散逃亡の
急策をさずけた。
「ではなんとしても、おれもひとりとなり、そちもひとりとなり、他の者どももみなばらばらとなって、退散せねば
危ないというのか」
蛮流幻術にたけて、きたいな
神変をみせる呂宋兵衛も、
臆病な生まれつきは
争えず、
語韻はふるえをおびて昌仙の顔をみまもっていた。
「ざんねんながら、
富岳の一天に
凶兆れきれき、もはや、死か離散かの、二
途よりないようにぞんぜられまする」
「
伊那丸ずれに
亡ぼされて、ここに終るのも、
無念至極。ウム……では、ひとまずめいめいかってに落ちのびて、またの時節をうかがい、京都へあつまって、
人穴城の
栄華にまさる出世の
策を立てるとしよう」
「なるほど、京都へまいれば
秀吉公のお力にすがることもでき、
公卿百官の
邸宅や
諸侯の門など
甍をならべておりますから、またなんぞうまい
手蔓にぶつからぬかぎりもござりますまい。では、呂宋兵衛さま、すこしもはやく、ここ退散のおしたくを……」
「おう、じゃ、昌仙もほかの者も、のちに京都で落ちあうことはたしかにしょうちしたろうな」
「がってんです、きっとまた
頭領のところへ
駈けあつまります」
一同が、
異口同音に答えるのを聞いて、
呂宋兵衛は、有り金をあたまわりに分配して、武器、服装、足ごしらえ
用意周到の逃げじたくをはじめる。
間もあらせず、とうとうたる
金鼓や攻め貝もろとも、
法師野の
里へひた押しに寄せてきた
伊那丸勢、
怒濤のごとく、
大庄屋狛家のまわりをグルッととりかこんだ。
その時おそし、呂宋兵衛一
味の
残党、
間ごと
間ごとの
燈火をふき消して、やくそくどおりの自由行動、
蜂の
巣を突いたように、八方から
闇にまぎれて、
戸外へ逃げだした。
塀を
躍り越そうとする者――木の枝にぶらさがる者、屋根にのぼってすきを見る者、衆を組んで破れかぶれに斬りだす者――いちじにワーッと
喊声をあげると、
寄手のほうも
木霊がえしに、
武者声を合わせて、弓組いっせいに
弦を切り、
白刃組は
鎬をけずり、ここかしこにたちおこる
修羅の
巷。
時に、
鉄鋲打った
鉢兜に
小具足をつけ、背に
伝令旗を
差し立てた一
騎、伊那丸の
命をうけて、五陣のあいだをかけめぐりながら、
「――民家へ火をつけるな。――罪なき
民を
傷つけるな。――
降を
乞う者は斬るな。――
和田呂宋兵衛はかならず
手捕りにせられよ。以上、おん大将ならびに
軍師の
厳命でござるぞ。
違背あるにおいては、味方たりといえども
斬罪」
と、声をからして伝令し
去った。
「もうだめだ、表のほうは、
蟻のはいでるすきもねえ。
昌仙さま、昌仙さま、うまいところが見つかったから、はやく
頭領をつれてこっちへ逃げておいでなさい」
まっ暗な
裏手に飛びだして、あわただしく手をふったのは
早足の
燕作。ひゅうッ、ひゅうッ、とうなりを立てて飛んでくる矢は、そのあたりの
戸袋、井戸がわ、
廂、立木の
幹、ところきらわず突き
刺さって、さながら横なぐりに
吹雪がきたよう。
と、
暗憺たる家のなかで、丹羽昌仙のひくい声。
「呂宋兵衛さま、裏手のほうが手うすとみえて、燕作がしきりにわめいております。さ、少しもはやくここをお落ちなさいませ」
「ウム」
となにかささやきながら、
奥からゾロゾロとでてきたのは、丹羽昌仙、
蚕婆、
足助主水正、
佐分利五郎次、そしてそのなかに取りかこまれた
黒布蛮衣の大男が、まぎれもない
和田呂宋兵衛か――と思うと、またあとからおなじ
黒衣をつけ、おなじ銀の十
字架を胸にたれ、おなじ背かっこうの男がふたりもでてきた。
しめて、七人。
そのなかに呂宋兵衛が三人もいる。ふたりはむろん昌仙がとっさの
妙策でつくった
影武者だが、どれが本物の呂宋兵衛か、どれが影武者か、
夜目ではまッたくけんとうがつかない。
「
燕作、燕作」
昌仙は用心ぶかく、裏口へ首だけだしてどなってみた。矢はしきりに飛んでくるが、さいわい、まだ
伊那丸の
手勢はここまで
踏みこんでいなかった。
「燕作、逃げ口をあんないしろ! 燕作はどこにいるんだ」
「あ、昌仙さまでございますか」
「そうだ、
呂宋兵衛さまをお落としもうさにゃならぬ、うまい逃げ口が見つかったとは、どこだ」
「ここです――ここです」
「どこだ、そちはどこにいるんだ」
「ここですよ。昌仙さま、呂宋兵衛さま、はやくここへおいでなさいまし」
「はてな?」
流れ矢があぶないので、七人とも首だけだして、裏手の闇をズーと見わたしたが、ふしぎ、すぐそこで、大きくひびく燕作の声はあるが、どこをどう見つめても、かれのすがたが見あたらない。
とたんに、表のほうへ、伊那丸の手勢が乱入してきたのか、すさまじい物音。逃げだした部下もあらかた
生けどられたり斬りたおされた
気はいである。
「それッ、ぐずぐずしてはいられぬ」
七人のかげが流れ矢をくぐってそとへとびだし、いっぽうの
血路を斬りひらく覚悟で、うらの
土塀によじ登ろうとすると、
「あぶない! そっちは
危ない!」
とまた燕作の声がする。
「どこだ、そのほうはいずれにいるのだ」
「ここだよ、こっちだよ」
「こっちとはどこだ」
七人は行き場にまよってウロウロした。
矢は見るまに、めいめいの
袖や
裾にも二、三本ずつ
刺さってきた。
「ええ、じれッてえな、ここだってば!」
「や、あの声は?」
「早く早く! 早く
降りておいでなせえ」
「燕作」
「おい」
「どこじゃ」
「ちぇッ、血のめぐりがどうかしているぜ」
という声が、どうやら地底でしたと思うと、かたわらの
車井戸にかけてあった
釣瓶が、
癇癪を起したように、カラカラカラとゆすぶれた。
「や、この
井戸底にいるのか」
「そうです、ここより逃げ場はありませんぜ」
「バカなやつめ」
影武者のひとりか、ただしは本人の
呂宋兵衛か、井戸がわに立ってあざ笑いながら、
「こんななかへとびこむのは、じぶんで
墓へはいるもどうぜんだ」
「おッと、そいつは
大安心、ここは
空井戸で一
滴の水もないばかりか、横へぬけ道ができているからたしかに
間道です」
「なに抜け道になっているとか、そりゃもっけの
幸い」
と、にわかに元気づいた七人、かわるがわる釣瓶づたいに空井戸の底へキリキリとさがってゆく。
そして、すでに七人のうち五人までがすがたを隠し、しんがりに残った影武者のひとりと
佐分利五郎次とが、つづいて
釣瓶縄にすがって片足かけたとき、早くもなだれ入った
伊那丸勢のまっさきに立って、
疾風のごとく飛んできたひとりの敵。
「おのれッ」
と、
駈けよりざま、
雷喝一
声、闇からうなりをよんだ一
条の
鉄杖が、ブーンと釣瓶もろとも、影武者のひとりをただ一
撃にはね飛ばした。
そのおそろしい
剛力に、空井戸の車はわれて、すさまじく飛び、ふとい
棕梠縄は
大蛇のごとく
蜿って血
へどを
吐いた影武者のからだにからみついた。
「あッ――」
と、あやうく
鉄杖の二つ
胴にされそこなった
佐分利五郎次、井戸がわから五、六尺とびのいてきッと見れば、
鎧武者にはあらず、黒の
染衣かろやかに、ねずみの
手甲脚絆をつけた骨たくましい
若僧、いま、ちぬられた鉄杖をしごきなおして、ふたたび、らんらんとした
眼をこなたへ
射向けてくるようす。
「さてはこいつが、
伊那丸の
幕下でも、
怪力第一といわれた
加賀見忍剣だな……」
五郎次はブルッと身ぶるいしたが、すでに
空井戸の逃げみちは
断たれ、
四面楚歌にかこまれてしまった上は、とうてい助かる
術はないとかんねんして、やにわに陣刀をギラリと抜き、
「おお、そこへきたのは加賀見忍剣とみたがひがめか、もと
穴山梅雪が
四天王のひとり佐分利五郎次、きさまの
法師首を
剣先にかけて、
亡主梅雪の
回向にしてくれる、一
騎うちの
作法どおり人まじえをせずに、勝負をしろ」
窮鼠猫をかむとはこれだ、すてばちの
怒号ものものしくも名のりをあげた。
忍剣は、それを聞くとかえって鉄杖の力をゆるめ、声ほがらかに笑って、
「はははは、さては
汝は、
悪入道の
遺臣であったか、主人梅雪がすでに
醜骸を
裾野にさらして、
相果てたるに、いまだ
命ほしさに、
呂宋兵衛の手下にしたがっているとは
臆面なき恥知らず、いで、まことの武門をかがやかしたもう
伊那丸さまの
御内人加賀見忍剣が、天にかわって
誅罰してくりょう」
「ほざくな
痩法師、鬼神といわれたこの五郎次の陣刀を受けられるものなら受けてみろ」
「
豎子! まだ
忍剣の
鉄杖のあじを知らぬな」
「うぬ、その
舌の
根を!」
――とさけびながら
佐分利五郎次、
三日月のごとき大刀をまっ
向にかざして、
加賀見忍剣の
脳天へ斬りさげてくる。
「おお」
ゆうゆう、右にかわして、さッと鉄杖に
寸のびをくれて横になぐ。あな――とおもえば
佐分利も一かどの
強者、ぽんと
跳んで
空間をすくわせ、
「ウム、えイッ」
と陣刀に火をふらして斬ってかかる。パキン! パキン! と二ど三ど、忍剣の鉄杖が舞ってうけたかと思うと、佐分利の大刀は、
氷のかけらが飛んだように三つに折れて
鍔だけが手にのこった。
仕損じたり――とおもったか佐分利五郎次、おれた刀をブンと忍剣の
面上目がけて投げるがはやいか、
踵をめぐらして、いっさんに逃げだしていく。
時こそあれ、
「えーイッ」とひびいた
屋上の気合い。
屋根廂からななめさがりに、ぴゅッと一本の
朱槍が走って、逃げだしていく佐分利の背から胸板をつらぬいて、あわれや
笑止、かれを
串刺しにしたまま、
欅の
幹に
縫いつけてしまった。
「何者?」
鉄杖をおさめて、
忍剣が
廂の上をふりあおぐと、声におうじて、ひとりの
壮漢が、
「
巽小文治」
と名のりながら、ひらりと上からとび下りてきた。
「なんだ小文治どのか、よけいなことする男じゃ」
「でも、あやうく逃げるようすだったから」
「だれがこんな
弱武者一ぴき、鉄杖のさきからのがすものか」
「はやまって、失礼もうした」
「いや、なにもあやまることはござらぬよ」
と忍剣は苦笑して、さきに打ちたおした
黒衣の影武者をのぞいたが、
呂宋兵衛の
偽者と知って
舌打ちする。小文治は敵を
串刺しにして、
大樹の幹につき立った
槍をひき抜き、
穂先の
刃こぼれをちょっとあらためてみた。
「して、小文治どの、
木隠や
山県などはどうしたであろう」
「
龍太郎どのは表口から奥の
間へはいって、呂宋兵衛のゆくえをたずね、
蔦之助どのは、弓組を四町四ほうに
伏せて、かれらの逃げみちをふさいでおります」
「ウム、それまで
手配がとどいておれば、いかに神変自在な呂宋兵衛でも、もう
袋のねずみどうよう、ここよりのがれることはできまい。だが……この井戸はどうやら
空井戸らしい、念のためにこうしてやろう」
法衣の
袖をまくりあげた
忍剣、
一抱えもある庭石をさしあげて、ドーンと、
井戸底へほうりこむ。それを
合図に、あとから駈けあつまってきた部下の兵も、めいめい石をおこして投げこんだので、見るまに井戸は完全な
石埋めとなってしまった。
ところへ
木隠龍太郎が、うちのなかから姿をあらわして、
「オオ、ご
両所、ここにいたか」
「やあ、龍太郎どの、
呂宋兵衛の
在所は」
「ふしぎや、いっこう
行方が知れもうさぬ。どうやらすでに風をくらって、逃げ失せたのではないかと思われる」
「といって、この家の四ほうは、二
重三
重に取りかこんであるから、かれらのしのびだすすきもないが」
「どこかに
間道らしい
穴口でもないかしら」
「それもわしが手をわけて尋ねさせたが、ここに一つの空井戸があったばかり」
「なに空井戸?」
と龍太郎がとび
降りてきて、
「ウム、こりゃあやしい、どこかへ通じる
間道にそういない、なかへはいってあらためて見よう」
「いや、念のために、ただいまわしが
石埋めにしてしまった」
と、
忍剣は
したり顔だが、龍太郎は
じだんだふんで
口惜しがった。
呂宋兵衛や敵の
主なるものが、この口から逃走したとすれば、この
空井戸をふさいで、どこからかれらを追跡するか、どこへ兵を廻しておくか、まったくこれでは、みずから手がかりの道を
遮断してしまったことに帰結する――と
憤慨した。その
理の当然に、忍剣もすっかり後悔して、しばらく
黙しあっていた。
すると、はるか北方の森にあたって、とぎれとぎれな
笛の
音が高鳴った。
――おお、それは、
幻の
陣をしいて鳴りをしずめていた
咲耶子が、かねて手はずをあわせてある
合図の笛。
「それ、咲耶子どのの笛がよぶ――」
よみがえったように、
加賀見忍剣、
巽小文治、
木隠龍太郎の三名、
音をしたって走り出すと、その余の
手勢も波にすわるる
木の
葉のごとく、声なく
音なく、
渦の中心に駈けあつまる――
城や
とりでの
間道とちがって、
豪農の家にある
空井戸の横穴は、戦時財宝のかくし場とするか、あるいは、家族の逃避所とする用意に過ぎないので、もとより、二里も三里もとおい先へぬけているはずがない。
呂宋兵衛たち五人のものがわずか二、三
丁の
暗闇をはいぬけて、ガサガサと星影の下に姿をあらわしたのは、
黒百合谷の中腹で、上はれいの
多宝塔のある
施無畏寺の
境内、下は
神代川とよぶ
渓流がドーッとつよい水音をとどろかしている。
「道は水にしたがえ」とは山あるきの
極意。
五人は無言のうちに、道どりの
心一致して、
蔓草、
深山笹をわけながら、だらだら谷の
断崖を
降りてゆく。
――と、その時だ。
にょッきと、星の空にそびえた一本の
白樺、その高き枝にみどりの
黒髪風に吹かして、腰かけていたひとりの美少女、心なくしてふと見れば、
黒百合谷の
百合の精か
星月夜のこぼれ星かとうたがうだろう――ほどに
気だかい美少女が、手にしていた横笛を、山千鳥の
啼くかとばかり強く吹いた。
「や、や? ……」
五人の者が、うたがいに、進みもやらずもどりもせず深山笹のしげみに、うろうろしていると、白樺のこずえの少女は、
虚空にたかく笛をふって、さっ、さっ、さっと三
閃の
合図知らせをしたようす。
と思うと、神代川の渓流がさかまきだしたように、ウワーッとあなたこなたの
岩石のかげから、いちじに姿をあらわした
伏兵。
これなん、
咲耶子の一
指一
揮に
伏現する
裾野馴らしの
胡蝶の陣。
「しまった!」
丹羽昌仙が
絶叫した。
とたんに
崖のうえから
木隠龍太郎が、
「
賊徒、うごくな」
と
戒刀の
鞘をはらって、
銀蛇頭上に
揮りかぶってとびおりる。
発矢、昌仙が、一太刀うけているすきに、
呂宋兵衛とその影武者、
蚕婆と
早足の
燕作、四人四ほうへバラバラと逃げわかれた。
と、ゆくてにまたあらわれた
巽小文治、
朱柄の
槍をしごいて、燕作を見るやいな、えいッと
逆落としに突っかける。もとより武道の心得のない燕作、受ける気もなくかわす気もなく、ただ助かりたい一念で、
神代川の水音めがけて飛びこんだ。が、小文治はそれに目もくれず、ひたすら呂宋兵衛の姿をめざして
駈けだした。
一ぽうでは丹羽昌仙、龍太郎の
切ッ
先をさけるとたんに
断崖をすべり落ちて、
伏兵の手にくくりあげられそうになったが、必死に四、五人を斬りたおして、その
陣笠と
小具足をすばやく身にまとい、同じ
伏兵のような
挙動をして、まんまと
伊那丸方の部下にばけ、逃げだす機会をねらっている。
もっとも足のよわい蚕婆は、れいの針を口にふくんで、まえの抜け
穴に舞いもどり、見つけられたら吹き針のおくの手をだそうと、
眼をとぎすましていたけれど、悪運まだつきず、穴の前を
加賀見忍剣と龍太郎が駈け過ぎたにもかかわらず、とうとう見つけられずに、なおも息を殺していた。
「
木ッ
葉どもはどうでもよい、
呂宋兵衛はどうした」
「かくまで手をつくしながら、
当の呂宋兵衛を取り逃がしたとあっては、若君に対しても
面目ない、者ども、
余人には目をくれず、呂宋兵衛を取りおさえろ」
忍剣と龍太郎が、ほとんど狂気のように
叱
してまわったが、なにせよ、身を
没すばかりな
深山笹、杉の若木、
蔦葛などが
生いしげっているので、うごきも自由ならずさがしだすのもよういでなかった。すると、かなたにあって、
「やあやあ、
巽小文治が和田呂宋兵衛を生けどったり! 和田呂宋兵衛を生けどったり!」
声、
満山鳴りわたった。
「ワーッ――」
「ワーッ」
と、
手柄名のりにおうずる味方の
歓呼、谷間へ遠く
山彦する。
さしも、
強悪無比な呂宋兵衛、いよいよここに天運つきたか。
山県蔦之助も、さっきの
笛合図と、
小文治の
手柄名のりをきいて、弓組のなかからいっさんにそこへ
駈けつけてきた。
でかした小文治――と、
党友の
功をよろこびつつ、
忍剣も
龍太郎も、声のするほうへとんでいってみると、いましも小文治は、
黒衣の大男を組みふせて、あたりの
藤蔓でギリギリとしばりあげているところだ。
「おお、みごとやったな」
蔦之助と龍太郎があおぐようにほめそやす。忍剣はちょっとざんねんがって、
「どうもきょうは、よく小文治どのに先陣をしてやられる日だわい……」
と、うれしいなかにまだ腕をさすっている。
すると、
白樺のこずえの上にあって、始終をながめていた
咲耶子が、にわかに
優しい声をはって、
「あれあれ、蔦之助さま、忍剣さま!
上の手うすに乗じて、
和田呂宋兵衛が逃げのぼりましたぞ、はやくお
手配なされませ!」
「な、なんといわるる!」
四人は、
愕然として空を見あげた。
「
咲耶子どの、その
呂宋兵衛は、ただいま
小文治どのがこれにて生けどりました。それはなにかの人ちがいであろう」
「いえいえ、たしかにあれへ登ってゆくのこそ、呂宋兵衛にそういありませぬ。オオ、
施無畏寺の
境内へかくれようとしてようすをうかがっておりまする、もう、わたしもこうしてはおられませぬ」
咲耶子は、
笛を
帯にたばさんで、スルスルと
白樺の
梢から
下りてしまった。
「や、ことによるときゃつも? ……」
忍剣は、さっき
空井戸で打ちころした影武者を思いおこして、
黒衣の
襟がみをグイとつかんだ。と同時に、その顔をのぞきこんで龍太郎も、おもわず声をはずませて、
「はてな、呂宋兵衛は
蛮人の血をまぜた、
紅毛碧瞳の男であるはずだが、こりゃ、似ても似つかぬただの
野武士だ、ウーム、さてはおのれ、影武者であったな」
「ええ、ざんねんッ」
怒気心頭にもえた
巽小文治、
朱柄の
槍をとって、一
閃に突きころし、いまあげた
手柄名のりの手まえにも、
当の本人を引っとらえずになるものかと、無二無三に
崖上へのぼりかえした。
一足さきに、白樺を
下りて追いすがった咲耶子は、いましも施無畏寺の
境内へ、ツウとかくれこんでいった
黒衣のかげをつけて、
「
呂宋兵衛、呂宋兵衛」
と
二声よんだ。
意外なところに、やさしい女の
声音がひびいたので、
「なに?」
おもわず足を
踏みとどめて、ギョロッと両眼をふり向けたのは、
蛮衣に十字の
念珠を
頸にかけた
怪人、まさしく、これぞ、
正真正銘の
和田呂宋兵衛その者だ。
「や、
汝は
根来小角の娘だな」
「おお、
仇たるそちとはともに天をいただかぬ
咲耶子じゃ。
伊那丸さまや、その余のかたがたのお加勢で、ここに
汝をとりかこみ得たうれしさ、悪人! もう八ぽうのがれるみちはないぞえ」
「わはははは、おのれや伊那丸ずれの女子供に、この呂宋兵衛が自由になってたまるものか。斬るも突くも
不死身のおれだ。五尺とそばへ近よって見ろ、汝の黒髪は火となって焼きただれるぞ」
「やわか、
邪法の
幻術などにまどわされようぞ」
「ふふウ……その幻術にこりてみたいか」
「
笑止やその
広言、咲耶子には、
胡蝶の
陣の守りがある」
「胡蝶陣? あのいたずらごとがなんになる」
「オオ、そういうじぶんが、すでに胡蝶陣の
罠に
墜ちているのも知らずに……ホホホホ、
曳かれ者の
小唄は聞きにくいもの――」
「
女郎! おぼえていろ」
かッと、両眼をいからして、
呂宋兵衛はふいに
咲耶子の
咽首をしめつけてきた。じゅうぶん彼女にも用意があったところなので、ツイと、ふりもぎって、
帯の
笛を抜くよりはやく、れいの
合図、さッと打ちふろうとすると呂宋兵衛が
強力をかけて
奪いとり、いきなりじぶんの力で
縦横にふってふってふりぬいた。
するとピューッ、ピューッというぶきみな笛鳴りは、たちまちおそろしい暴風となって、
満地満天に木々の
落葉をふき巻くりあれよと見るまに、咲耶子は
砂塵をかおに吹きつけられて、あ――と
眼をつぶされてしまう。
「おのれ!」
きらめく
懐剣、ぴかッと呂宋兵衛の
脇腹をかすめる。――カラリ、と笛をなげすてた呂宋兵衛は、肩にとまった一枚の
紅葉を
唇にくわえて、プーッと彼女の顔に吹きつけるやいなや、ひらりと舞った紅葉の葉は、とんで一
片の
焔となり、吹きぬく風にあおりをえて、あやし、咲耶子の黒髪にボウとばかり燃えついた。
あッとおどろいたのは、一瞬の
幻覚である。どこからか飛んできた一本の矢が、あやうく呂宋兵衛の耳をかすりぬけたせつな、かれの
術気は、ぱたッとやんだ風とともに破れて、ばらばらとかなたをさして逃げだした。
それは、
忽然とかけあがってきた四勇士の影をそこに見たがためであろう。――のがさじと、おいすがる
咲耶子につづいて、
忍剣は
鉄杖をひっさげ、
龍太郎は
戒刀をひらめかし、
蔦之助は弓に矢をつがえ、
小文治は
朱柄の
槍をしごいて、八
門必殺のふくろづめに、
呂宋兵衛を、
多宝塔のねもとまでタタタタと追いまくした。
さきに、
伝令が陣ぶれをしたことばには、かならず、呂宋兵衛を手捕りにせよとの
達しであった。けれど、もうこうなっては、
騎虎の勢いというもの、戒刀を引っさげた龍太郎は、まッさきに
背後からとびかかって、
「
奸賊、
和田呂宋兵衛、
伊那丸方にさる者ありと知られたる
木隠が
素ッ首もらった」
さッと一陣の
太刀風をなげた。
「あッ」
呂宋兵衛はきもをひやして、
切ッ先三寸のさきからツウと左へ逃げかわす。
そこには
加賀見忍剣、鉄杖をまっこうに
押っとって、かれのゆくてに立ちあらわれ、
「おのれ、
極悪の
山大名!」
みじんになれとふりつける。
右へよければ
巽小文治、大音とともに、
「呂宋兵衛、はや天命はつきたるぞッ」
とばかり
朱電の
槍をくり出して、まつげを
焦くばかりな
槍影閃々。
「えい、なんのおのれ
輩に!」
絶体絶命となった
呂宋兵衛。そのとき、とんと
踏みとまって腰の大刀を横なぎに抜きはらったかとおもうと、剣は、火をふいて夜光の
珠を散らすかと思われるような
閃光を投げつけた。
「おお!」
おもわず目をふさいだ四勇士。
はッと
虚をうたれて飛びのいたが、これ、
火遁幻惑の
逃術であって、まことの剣を抜いたのではなかった。そのすきに、呂宋兵衛はしめたとばかり、
多宝塔の階段へ向かってトントントンとかけのぼった。
そこへプツン! と
山県蔦之助がねらいはなしてきた二の矢を、みごとに
袖でからみおとした呂宋兵衛は、すばやく多宝塔のとびらへ手をかけた。
この
鉄壁の
塔へかくれて、なかから
扉をもってふせぐさんだん。
咲耶子も四勇士も、あッ、しまった! と階段へ追いすがってきたが、呂宋兵衛はそれを
尻目にかけて、早くも塔の扉をひらき、そのなかへ風のごとく姿をすいこませてしまった。
けれど、かれのからだがそこへかくれるやいな、
漆のような
塔内の
闇から、とつじょ、
「
奸賊すさりおろう!」
声のひびきに
呂宋兵衛の五体、はじき返しに、階段の下までゴロゴロとけおとされてきた。
忍剣をはじめ
小文治や
龍太郎は、得たりとばかり、
得物をすてて呂宋兵衛に折りかさなり、歯がみをしてもがきまわる奸賊を
高手小手にからめあげた。――が、いま頭上でひびいた声の
主は、そも何者であろうか、味方にしては意外なと、思ってふと見あげた人々は、
「や、わが
君」
と、階段の下へひれふしてしまった。
「オオ、心地よいこと!」
そのとき、
多宝塔の
扉をはいして、
悠然と
壇上に
床几をすえ、ふくみ
笑いをして、こう見下ろしたのは、
伊那丸であった。
白綸子の着込みに、むらさき
縅しの
具足、
太刀のきらめきもはなばなしい。
そのわきに、
片膝折って、手をついたのは、すなわち
軍師小幡民部である。
紺地無紋の
陣羽織をつけ、ひだりの
籠手に
采配をもち、
銀作りの太刀をうしろへ長くそらしていた。
兵は味方より
計るというが、あまり意外なことなので龍太郎は、呂宋兵衛の
縄尻をとりながら、民部に向かってたずねてみた。
「こよいは
法師野に
平陣をしかれて、あれにおいであることとばかり思っておりましたに、いつのまに、この
塔のうちへお越しなされてでござります」
「おん大将の陣は、ありと見ゆるところになく、なしと見ゆるところにあるのが常、べつにふしぎはござりませぬ」
と、
民部はことばすくなく答えたのみ。
「いつもながら
軍師の
妙策、敬服のほかはござりませぬ。ところでこやつはいかがいたしましょうか」
「わが
君の
御意は!」
「そうじゃの……」
伊那丸はじッと考えて、
「厳重にひっくくって、ひとまず、この三
重の
塔のいただきへからげつけておくのはどうじゃ」
「ともすると、
幻術をもって人をまどわす
妖賊、なにさま、陣ぞろいのまもありますゆえ、それが
上策かも知れませぬ」
「ウム、軍馬をそろえて、
小太郎山の
砦へひきあげたうえは、
御旗楯無の宝物のありかも、とくと
糺してみねばならぬゆえ、そのあとで
咲耶子に討たせてやるもおそくはあるまい」
「おおせ、ごもっともです。では
方々、
呂宋兵衛をこの三
重へひっ立てて、かならず
妖術などで逃げ
失せぬように厳重なご用意あるよう」
「はッ、しょうちいたした」
「立てッ!」
と、
呂宋兵衛を引ったてた四勇士は、
多宝塔三
重のいただきまで追いあげて、その一室の丸柱に
鎖をもって厳重にしばりつけ、二階三階の
梯子まではずした上、
扉の口々はそとから
鉄錠をおろしてしまった。
水車は、
夜もすがらふだんの
諧音をたてて、いつか、
孟宗藪の葉もれに、さえた
紺色の
夜があけていた。
燕作の
拇指で、息の
根をとめられた
鞍馬の
竹童は、いぜんとして、水車小屋のうら
崖に、ダラリとなったまま木の根にからんであおむけざまに倒れている――
とはいえ、まだ
幽明の
境にあって、まったく死んでしまったわけではないので、いくぶん、
温みがあるが、
笹の小枝からはいうつった小さな
白蛇は、かれの
体温へこころよげにそって、腕から
喉へ、
銀の輪となって巻きついたきり、去りもやらず、害をくわえるようすもない。
おりから、
法師野の空にあって、三
鼓七
流の
陣鐘が鳴りわたるを
合図に、天地にとどろくばかりな
勝鬨の声があがった。
それは、
人穴の
残党を一
挙に
蹴散らして、主将
呂宋兵衛を生けどり、
多宝塔の三
重へ
封じこめた
伊那丸の
軍兵が、あかつきの陣ぞろいに
富岳の
紅雲をのぞんで、三軍おもわず声をあわせてあげた
凱歌であろう。
とおい
動揺みが、失神の耳にも通じたものか、そのとき
竹童は、ピクリと
鳩尾をうごかして、すこし顔を横にふった。その
唇へ、
白蛇は銀の
鎌首をむけて、
緋撫子のような
舌をペロリと
吐く。
すると、幾十の
麗人が、
笙をあわせて吹くごとき
竹林の風――ザザザザザッ……とそよぎ渡ったかと思うと、竹童ははッきりと
意識を呼びかえされて、パッチリこの世の目をひらいた。
――気がつくと、じぶんはだれかに
抱かれている。
白衣白髯の
老道士、片手を彼の首にまき、片手を胸にまわして、わが
膝に
抱きながら、なにやら、かんばしい
仙丹を
噛みつぶして、竹童の口へ
唇うつしにのませてくれる。
「こりゃ、竹童、竹童……」
「あ?」
「気がついたか」
「オオ、あなたはお
師匠さま!」
「ウム」
とうなずいたとたんに、
老道士は
竹童を手からおろして、すばやく七、八
間ばかり離れてしまった。
その人は、竹童がぎょうてんして
呼んだごとく、かれの
恩師果心居士であった。みずから
仙丹をかんで
唇うつしにのませてくれるほどやさしい居士も、竹童が
正気にかえるとともに、いつもの気むずかしい
厳格なすがたにもどっている。
「
不覚者めが、この
後もあること、敵にあったらかならずわしの教えをおもいだすのじゃぞ」
「はい、
面目しだいもございません。
燕作というやつにつかまって、とうとうおくれをとりましたが、こんど会ったら、きっと負けはいたしません」
「よし、早うゆけ」
「ですが、お師匠さま――」
竹童はなつかしそうに近寄って、居士のおもてを見上げながら、
「いつか、
人穴城へなげ
松明をせよと、お師匠さまから
密策をさずけられました時に、お別れしたきり、その
後さらにお姿が見えませんでしたが、一たい
今日まで、どこにおいでなされたのでござります」
「おお、わしのいたところか、じつは、そちだけにいってきかすが、わしはゆえあって、
常陸鹿島の宮、
下総香取の
両神社に、七日ずつの
祈願をこめて
参籠しておったのじゃ」
「そして、お
師匠さまのご祈願というのは?」
「
伊那丸さまのご武運をうらなうに、どうも
亀卜の示すところがよくないので、前途のおため
神願をたてた」
「では、お師匠さまの
易によると、伊那丸さまには、
甲斐源氏のみ旗をもって、天下をお
握りあそばすほどな、ご運がないとおっしゃいますか」
「いやいやそうともいえぬ、しかしそのことばかりは、ただ天これを知るのほか、
凡夫な
居士には
予察ができぬ」
と、
果心居士はふかくもいわず口をにごして
話頭一
転。
「それはとにかく、
法師野に陣ぞろいいたしている伊那丸君や
龍太郎などは、さだめし、そちの見えぬのをあんじているであろう」
「ここで
狼煙をあげたッきりですから、ほんとうにしんぱいしていられるかもしれません」
「ウム、少しもはやく、ご
幕下へはせくわわって、このうえとも、伊那丸さまのおんために働けよ」
「はい」
「わしも、もういちど
鞍馬のおくにこもって、星座を
観じ、天下の風雲をうかがい、
機あらばあらわれ、変あらば
退いて、
伊那丸さまの善後の
策を立てるかんがえ。――では
竹童、またしばらくそちにも会わぬぞ」
「あッ、お
師匠さま――」
竹童が声をあげて呼ぶうちに
居士のすがたは、風のごとく
竹林をぬって、見えなくなった。
ふたたび
法師野にあたって聞ゆる
法螺の
音――。すでに
夜はまったく明けはなれて、
紫金紅流の朝雲が、
裾野の空を
縦横にいろどっていた。
多宝塔を中心として、
施無畏寺の庭に陣ぞろいした
武田の
軍勢は、
手負い
討死の
点呼をしたのち、
伊那丸の命令一下に、またも一部の
軍卒が、法師野の部落を八方にかけわかれる。
まだ戦いがあるのか――と思うとそうではない。
武田の
士卒は、
呂宋兵衛らのために森にいましめられていた善良の民を第一に解放し、
衣なき者には
衣をあたえ、財は
家々へかえしてやり、宝物は寺にはこび返し、老人には
慰安を、わかき者には活動を、女には希望を、子供には元気をつけてやる。
「オオ、あの旗じるしを見ろ、
多宝塔の下にいるおん大将をおがめ、あれこそ、この土地のむかしのご領主、
信玄さまのおんまご
武田伊那丸さま――」
と、部落の民は、わかれた
慈父にめぐり会ったごとく大地にぬかずくもの、おどって狂喜するもの、うれし涙にくれる者などさまざまで、さながらそこは、
修羅暗憺の
地獄から、
天華ふる
極楽の
寂光土へ一変したような光景である。
一たび、めいめい、家へかえった
百姓たちは、取ってかえしに、
名主の
狛家一族をせんとうとして、
「これを、どうぞおん
曹子さまにさしあげてくださいませ」
「八
車の米と十
駄の
粟は、ご陣屋の
兵糧としてご使用くださいますよう」
「わたくしたち若いものは、なんなりと
軍役をつとめますから、
仰せつけねがいとうぞんじます」
と、兵糧軍用品を、車につんでひきこむかと思えば、
家畜野菜をもたらしてくる者、あるいは労力の奉仕を申しこむ若者もあり、なかにはしおらしくも、まずしい一家がよろこびの
餅をついて
献納するなど、人情の真美と
歓喜のこえは、
陣屋の内外にあふれて、まことこれこそ
極楽の
景色かと、見るからにただ涙ぐましい。
かくて、民の平和をながめたうえで、伊那丸をはじめ
幕下の人々、一千の
軍兵、おもいおもいに
屯をかまえ、はじめて朝の兵糧をとった。
勝戦のあとの兵糧――その味はまたかくべつ。
そしてきょう一日は、
夜来一
睡もせぬ兵馬のため、陣やすみという
触れ
太鼓がなる。
ところへ、ションボリした顔で、陣屋のうちへ、力なくかえってきた
鞍馬の
竹童。
こんな元気のないことは、竹童として
稀有なことだ。
「オオ、どうした竹童!」
「竹童が見えた、竹童がもどってまいった」
さっきから、
士卒を八方にやって、その
行方をたずねさせていた
龍太郎や
忍剣らは、
栄光の勇士を迎えるように手をとって、
狼煙のてがらを
褒めたたえた。
ことに
伊那丸は、竹童かえるの声をきくと、みずから
幔幕をしぼってそれへ立ちいで、
人穴城いらいの
功を
称揚して、手ずから
般若丸長光の
脇差を
褒美として、かれにあたえた。
主君から刀をさずけられたのは、武士の
資格をゆるされたもどうよう、竹童もきょうからは
幕下のひとりである。なりこそ小さいが、押しもおされもせぬ伊那丸の
旗本。しかも
拝領したその刀は、
武田家伝来の名刀
般若丸尺七、八寸の
丁字みだれ、抜くにも手ごろ、斬るにも自在な
反り
按配、かの泣き虫
蛾次郎がじまんする、
あけび蔓をまいた山刀などとは、
質がちがう。
これからは竹童も、
鞍馬いらいの
棒切れをすてて、一人前の
大人のように、玉ちる
刃で敵にむかうことができる。
もう、
早足の
燕作ごときは、一刀のもとに斬ッても捨てられるんだ。
長いあいだの希望がかなって、さだめしこおどりしたろうと思うと、スゴスゴとご
前をさがった
竹童、
般若丸の
太刀をいだいて、ひとけなき
陣屋のすみで、ひとりシクシクと泣きはじめた。
「はてな? ……」
龍太郎は
眉をひそめて、そッと、竹童のあとについていった――見るとそのありさま。
「ウーム。こりゃふしぎだ。
鞍馬の奥にいたころから、泣いたことのない竹童だが……」
すきまからのぞき見をしていた龍太郎、こうつぶやきながら、しばらく考えていたが、やがて、
「こりゃ、竹童、なんでこんなところに泣いているのだ」
幕をはらって、やさしくかれの背なかをたたいた。
竹童はふいに声をかけられて、
恥ずかしそうに、泣き顔をかくしながら、
「いいえ、なにも泣いてなんかいやしません」
「うそをつけ、
瞼はまッ赤だし、
拝領のおん刀は、このとおりおまえの涙にぬれているではないか、いったいどういうわけか、おまえと
拙者とは
果心居士先生の兄弟
弟子、うち明けられぬということはあるまい」
「はい、……じつは
龍太郎さま……」
「ウム、どうした」
「あの、クロがどこかへ逃げてしまいました」
「オオ、そちが何者よりかわいがっていた、あの
大鷲がにげ
失せたと申すか」
「きのう、
狼煙をうちあげる時、水車小屋のうしろへおいといたのに、
今朝みると、影も形もみえないんです、……ああとうとう、クロはわたしを見すててどこかの山へかくれてしまいました」
「あれほどなついていたし、そちもかわいがっていた
鷲だから、さだめしさびしく思うだろうが、いくら
霊鷲でもやはり
畜生、
詮ないこととあきらめるよりほかないであろう」
「いいえ、おいらはあきらめきれません……」
竹童は
駄々ッ子のように頭をふって、
「おいらは悲しい、クロがいなくッちゃ一日もさびしくって生きていられない」
「はははは」
龍太郎は、思わず笑ってしまいながら、
「さてさて、おまえも
鞍馬の竹童というと、いかにも
稀代な神童だが、こんなところは、やッぱり年だけのわからず屋だな、これ竹童、そちはクロを失ったかわりに、若君から
般若丸長光の名刀を
拝領したではないか、さ、元気をだして、きょうからそれを
差し
料とするがいい」
「だから、おいらはよけいにかなしいんだ……。
人穴城へなげ
松明をした
手柄も、きのうの
誉れをあげたこともみんな、おいらの力よりはクロの手柄。……クロがあってこそこの竹童も、人並以上の働きができたのに、おいらばかりこんなに
褒美をもらっても、ちっともうれしくありゃしない……」
いうところは
天真爛漫、竹童はいよいよクロの別れをかなしみ、いよいよ声をだして泣くばかり――さすがの龍太郎も、これには弱りぬいて、ことばをつくしてなぐさめたうえ、きょう一日は陣休みだから、とにかく久しぶりに、じゅうぶん心もからだも養っておくようにと、
幕のあなたへでていった。
「はい、もう泣くのはやめます……」
竹童は龍太郎の立ちぎわにそういったが、ひとりになるとまたさびしさに
耐えぬもののごとく、ションボリと陣屋の空を見あげていた。そして、つまらなそうに、
馬糧のなかにゴロリと身をよこたえたが、やがて連日の
疲労がいちじにでて、むじゃきないびきが、スヤスヤそこからもれはじめた。
ここに、
得意なやつは、泣き虫の
蛾次郎。
首尾よく、
鷲ぬすみのはなれ
業をやりとげて、
飛行天行の
怪をほしいままに、たちまちきたのは
家康の
采地浜松の城下。
竹童の
故智にならって、乗りすてた
鷲を、とある森のなかにかくし、じぶんはれいの、あけび
巻の山刀をひねくりまわして、意気ようようと城下
隠密組の
黒屋敷、
菊池半助の
住居をたずねあててきた。
「おねがい申します」
反りかえって立ちはだかった
玄関口。
猪口才にも、もっともらしい顔をして、取次ぎの
小侍に申しいれることには、
「まかりでました者は、富士の
裾野の住人
鼻かけ卜斎の弟子
鏃師の
蛾次郎と申す者、ご主人半助さまに、至急お目にかかりとうぞんじます」
取ってかえしに、奥からでてきたのは、
菊池家の家来とみえて、いかさまがんじょうな
三河武士、
横柄に頭の上から見くだして、
「フーム、おまえか、泣き虫の
蛾次公というのは?」
「はて心得ぬ」
蛾次郎、口をとンがらかして、すこぶる
威厳を傷つけられたように、
憤然と、
「
鍛冶にかけては
鏃鍛ちの名人、石をなげては百発百中の
早技をもつわたくし。しかも、半助さまのおたのみにより、
命がけで
稀代の
大鷲を連れてまいりましたのに、近ごろ無礼なごあいさつ。よけいなことをいわないで、さッさとご主人にお取次ぎあれ」
胸に
慢心のいっぱいな蛾次郎、
天狗の面をかぶったように、鼻たかだかと
大見得をきった。
「やかましいッ」
侍の一
喝に、
蛾次郎はひやりと首をすくめる。
「ご主人
半助さまには、きさまのような
小僧になんのご用もないとおっしゃった。ペラペラむだ口をたたきおらずと
退散せい」
「へえ、……こりゃ
妙だ。あれほど
蛾次郎に、
鷲をぬすんでくれとたのんだ半助さまが、きょうになって、用がないとはずいぶんひどい。それはなにかのおまちがいでしょう」
「だまれ、へらず口の
達者なやつだ。いつまでお
玄関に立ちはだかっていると、つまみだすからそのつもりでおれ」
「ちぇッ、ばかにしやがら」
「こいつめ、まだでて
失せぬかッ」
「いまいましい! けッ、よくも人にカスを
食わせやがったな、おぼえていろ、いまに鷲に乗って、この屋敷の上から小便をひっかけてやるから」
得意と、えがいてきた
慾望を、めちゃめちゃに
裏切られた蛾次郎は、腹立たしさのあまり、
出放題なにくまれ口をたたいて、
黒屋敷の門をでようとすると、横からふいに、
「これッ、待て!」
と、ふとい腕が、むんずとかれの
襟がみをつかみもどした。
「あッ、――あなたは
菊池さま」
「ただいまなんと申した」
「くッ、くるしい。……べつになんにもいいはしません」
「いやいった!
不埒なやつめ」
「だって、だってそいつはむりでしょう。あなたさまこそ、
竹童の
鷲をぬすんでくれば、
徳川家の武士に取りたててやる。
褒美はなんでも望みしだいと、
向田ノ
城でおっしゃったじゃありませんか」
「ばかッ。いやはやあきれかえった
低能児だ。
汝のような
うすのろを、
戦の用に立てようとしたのが半助の
大失策、ご
当家の軍勢が
裾野陣へくりだすときに
間にあってこそ、鷲もご用に立つとおもって申したのだ。それをなんだ、すでに
戦もすみ、軍勢もひいてしまった
今日のめのめといまごろ鷲をぬすんできたとてなんになるかッ。あのここな
慾張り
小僧めッ」
ピシリッ、と
頬げたを一つくらわしたうえ、足をもって門外へけとばすと、さっきの小侍や仲間などが下水の水をくんで、
蛾次郎の頭からぶっかけ、門をしめて笑いあった。
半死半生の
泥ねずみとなって、泣くにも泣けぬ蛾次郎先生、
命からがら浜松の城下を、鷲にのって逃げだしたはいいが、夜に入るにしたがって、
空天の
寒冷は
骨身にてっし、腹はへるし、寝る場所のあてはなし、
青息吐息の
盲飛行、わるくすると先生、雲のなかへ
迷子となってしまいそうだ。
されば、
村正の斬れあじも、もつ人の腕しだいであるし、千
里の
駒も乗り手による。――
自体、
蛾次郎の腕なり頭なりでは
荷の勝ちすぎたこの
大鷲が、はたしてかれの自由になるかどうか、ここ、おもしろい見ものである。
法師野の空には平和の星がかがやいている。
今夜ばかりは、部落の人も、はじめて楽しい
夢路にはいっているのだ。
老人はご陣屋のほうへ足をむけずに寝ているだろう。
嬰児は母の
乳房にすがって、スヤスヤと寝ついているだろう。――そして
施無畏寺の庭に陣した千人の
軍兵も、
鞍や
物の
具を
枕にしてつかのまの眠りにつき、馬もいななかず、
篝もきえ、陣の
幕にしめっぽい夜がふける。
すると、
多宝塔のまわりを、ぴた……ぴた……と、しずかに歩いてくる人影。
また、
廻廊のかげからも、ふたりの武士が、足音ひそやかに、階段をおりてきた。
「オオ、
山県どのに
小文治どのか……」
「これは
忍剣どの、おたがいに、こよいの寝ずの番、ごくろう」
「どこにも異状はありませぬか」
「かくべつ」
「では
後刻に……」
黙礼して左右にわかれる。
カーン、カーン、――水にひびくような
寂しい音。
時刻番が
丑時(午前二時から三時の間)の
報らせ。
本陣、おん大将の
寝所幕のあたりにも、
夜詰めの
侍が
警固する
槍の
穂が、ときおり、ピカリ、ピカリとうごいてまわる。
そのころ――、まさにそのころ。
多宝塔三
重の
頂上にある暗室へ、ゆうべからほうりこまれていた
和田呂宋兵衛は、らんらんたる
眼をとぎすまして、しばられている鉄の
鎖を、時おり、ガチャリ、ガチャリと鳴らしていた。
「ウーム、いまいましい」
音を立てないようにはしているが、しきりに身もだえして、あらんかぎりの力を鎖にこころみているようす。しかし、しょせんそれはむだな努力。
だれかに、腕でも斬ってもらわないかぎり、鎖の寸断されるはずもなし、
塔の
太柱が
砕けるはずもないのだ。
「ああ、ざんねんッ……ウーム、つつつッ……」
もがきにもがくうち、
呂宋兵衛は
唇をかみわって、タラタラと
血潮をたらした。
とたんに、バサッと
天井を打ったまっ黒な
怪物がある。見ると、
楼閣の
欄間から飛びこんでいた一尺ばかりの
蝙蝠、すでに秋の
暑さもすぎているこのごろなので、
翼に力もなく、
厨子の板壁をズルズルとすべってきた。
「オ! しめた」
呂宋兵衛はジリジリと身をにじらせた。蝙蝠をみたとっさに思いうかんだのは、
獣遁の一
法、
南蛮流の
妖術では
化獣縮身の術という。が、それを行うには、ちょっとでもよいから蝙蝠のからだにふれなければやれない。いや、蝙蝠にかぎることはない、なんでも動物
霊気の
感応を必要とするのだから、ねずみでも
猫でもいいが、いまこの
塔中には蝙蝠よりいないのだから、ぜひそれへ指でもふれたいのである。
しかし、なかなか蝙蝠のほうでちかづいてくれない。
たまに、頭の上へはってきたなとおもって、体をよせていくと柱にしばりつけてある
鎖がガチャッと鳴るので蝙蝠はびっくりして
天井へはねあがる――が、六角形の密室なので、そとへはでずにまたバサバサと板壁に
羽すべりをしてきた。
こんど近くへきたらのがすまいと、呂宋兵衛は息をころした。けんめいになるとおそろしいもの、かれの
額は魚の油を
塗ったように汗ばんでいる。
けれど、蝙蝠の
敏覚に、七たび八たびおなじことをくりかえしても、呂宋兵衛の努力はむなしかった。はやくも
里では一番
鶏がなく、かれは気が気でなくなった。
そこで、
呂宋兵衛はまた考えなおした。
かれは
坐禅を組むようにすわった。そして、さいごにもういちど
蝙蝠が壁をすべってくるのを待ちかまえこんどは、口に
呪をとなえて、つーッと一本のほそい絹糸のような線を
吐きだした。
と思うと――一ぴきの小さな
金蜘蛛が、呂宋兵衛の口からスススススと、その細い糸をつたわりだした。
これはかつて、
人穴城で
竹童と初対面のときに、
問答ちゅうにかれがやってみせたことのある、呂宋兵衛得意の
口術、いま、
吐いて糸をわたらせた金蜘蛛は、壁にはりついている
大蝙蝠のそばへはいよったが、それを見ると蝙蝠は、バサリと一すべりして、いきなり
蜘蛛を
食いにかかった。
と、蜘蛛はつーッ、と二尺ばかり糸をもどってとまる。蝙蝠はまたソロリと寄って
餌をうかがう――その
機微なころあいをはかって、呂宋兵衛はスッと、吸う息とともに、蜘蛛を口のなかに引きいれてしまうと、蝙蝠は
餌を追ってパッとかれの顔へぶつかってきた。
「えいッ!」
とたんに、かれの五体からおそろしい気合いが発した。そして、
忽然と
床に鳴った
鎖の上へ、大蝙蝠のくろい
妖影が、クルクルと舞いおちた。
「やッ」
愕然と、
多宝塔の下で立ちすくんだのは、寝ずの番の
加賀見忍剣。
左に
鉄杖をつき、右手を
眉にあてて、
暁闇の空をじッとみつめていたが、やがて、
「おお!
山県、
巽!」
と
同僚の名を呼びたてた。
「なんじゃ」
「異変かッ」
バラバラと、すぐそこへ飛んできた
小文治と
蔦之助、――忍剣は、
「しッ」
と手でせいして、
「
愚僧の気のせいかも知れぬが、あの塔の三
重目にあたる
欄干に、何者か立っておらぬだろうか」
「どれ……」
すこし身を横にかがませて、
暁天の
闇をすかしたふたりは、なるほど、よくよく
眸をこらして見ると、忍剣のいうとおり
楼閣の三階目に、うす黒い影が立っているような気がした。
「しかし、あれに人のいるはずはなし、ことによったら
棟木の
瓔珞ではないか」
「いや、瓔珞がアア大きく見えるはずはない」
「といって、厳重にいましめておいた
呂宋兵衛ではなおさらあるまい。ウーム、おや……、影がうごいた!」
「なに影がうごいた? オオ、いよいよあやしい」
「ちぇッ、やっぱり呂宋兵衛だ、どうして自由になりおったか、あれあれ、棟木の瓔珞に身をのばして、
塔の屋根によじ登ろうとしておるのだ」
「一大事! それのがすなッ」
「オオ」
三人は
疾風のごとく階段をあがって、
扉を
蹴ひらき、塔のなかへ
躍りこんだが、
南無三、二階三階へあがる
梯子は、呂宋兵衛を頂上にほうりこんだ時、まんいちをおもんぱかって、みんな取りはずしたまま
施無畏寺へはこんでしまった。
うっかり、それを忘れて飛びこんだ三人は、じだんだをふんで、
「しまった!」
とふたたびそとへかけだしてきた。
「なんじゃ、なにごとが起ったのだ」
ところへ、
木隠龍太郎がくる。
小幡民部がはせつける。たちまちにして、陣々の大そうどう、大将
伊那丸も
幕をはらってそれへきたが、
閣上の呂宋兵衛は、いちはやく屋根の上へとびうつり、九
輪の
根もとに身をかがめてしまったので、
遠矢を
射かけるすべもない。
「あれあれ、
呂宋兵衛は
幻術に
長けた
曲者、どう逃げようもしれませぬ、みなさま、はやくお
手配をしてくださりませ」
と、うろたえまわる
軍兵のなかにまじって、しきりに
叫んでいるのは
咲耶子の声らしい。十数人の軍兵は同時に、
施無畏寺へ
塔の
梯子を取りに走りだした。
それを待つのももどかしいと思ったか、れいによっておくれをとらぬ
木隠龍太郎、ばらばらと
多宝塔の
裾にかけよったかと見るまに、一階の
欄干にひらりと立って、えいッとさけんだ気合いもろとも、千
本廂の
瓔珞にとびついた。
「オオ、やったり、
木隠!」
と、こなたの一同は、その
機智に
感嘆の声をあげたが瓔珞の
飾り
座金がくさっていたとみえて、龍太郎の体がつりさがるとともに、
金鈴青銅の
金物といっしょにかれの五体は、ドーンと大地におちてしまった。
「ウーム、無念」
ふたたび立ってよじのぼるくふうをしていると、
朱柄の
槍をひっさげた
小文治。すっくとそこに立って、
槍の石突きを勢いよくトンと大地につくやいなや、
「やッ――」
と叫んで、みごとに一階の
屋根廂へ飛びあがった。そしてすぐ槍を引こうとすると、
「待ったッ」
と九尺
柄のなかごろに、
龍太郎がすがりつく。
「おうッ」
と、上から
小文治が力をこめると、龍太郎も息をあわせて、
槍の
柄とともにポンと
跳ねあがった。
たちまち、槍をたよりに二階へあがり、三階目の
欄干までよじのぼって、
呂宋兵衛監禁の六
角室を見ると、一ぴきの
蝙蝠が死んでいるほか、そこには何者のかげもない。
「あ! いよいよ逃げたは、きゃつときまった」
「それッ、この上だ」
とふたりは、東のすみの欄干に足をかけたが、そこから九
輪のたっている
塔のてっぺんへのぼるには、どうしても、千本
廂につってある
瓔珞に身をのばして、ブラさがるより道がない。
ところが、それをたよりにすることは、一階のときの失敗があるので、さすがの
小文治も二の足をふんだが、龍太郎はなんのおそれげもなく、やッと、欄干から瓔珞の根にとびついた。
下にながめていた
伊那丸をはじめ、あまたの勇士も、思わず、
胆をひやしたが、こんどは瓔珞も落ちず、龍太郎も完全に
棟木へ片手をかけてしまった。これ、さっきは、瓔珞の
頑丈をたよって不覚をとったが、こんどは、
果心居士相伝の
浮体の法をじゅうぶんにおこなっているためだ。
そのかわり、
龍太郎、最後の頂上へのぼるにはだいぶ
手間がとれている。片足を
瓔珞の
鈴環にかけ、そろそろと手をのばして、屋根の
青銅瓦に
半身ほど乗りだしたところで、
小文治のさしだした
槍をつかんでやる。
巽小文治は、もとより
果心居士の門下でないから、
浮体の息を知らない。したがってただ
度胸のはや
業。
槍の一
端を
塔の
角金具にひっかけ、いっぽうを龍太郎につかんでいてもらって、スッと瓔珞の鈴環へ足をかけると、ともに、ふたりの重みがかかっては
危ないので、龍太郎はすばやく上へはいあがった。
とたんに、雨とも見えぬ
空合なのに、塔の
先端九
輪の根もとから、ザーッと
滝のような水がながれてきて、塔の四面はさながら、
水晶の
簾珠をかけつらねたごとく、龍太郎の身も小文治のからだも、水の勢いでおし流されそうにおぼえた。
「
呂宋兵衛の
妖術だ、まことの水ではない、小文治どのひるむなッ」
龍太郎は果心居士の手もとにいただけに、
幻術しのびの
技などには多少の心得がある。いま、九輪の根もとから吹いてきた水勢もてっきり、呂宋兵衛の
水龍隠れの術とみたから、こう注意して、無二無三に青銅瓦の大屋根へ踏みあがった。
そして、気は
宙天へ、声は、大地にひびくばかりに、
「やあ、
奸賊和田呂宋兵衛、この
期になってはのがれぬところ、
神妙に
木隠龍太郎の
縄目をうけろ」
「だまれ、青二
才、
汝らごとき者の手にかかる呂宋兵衛ではない。うかと、わが身にちかよると、このいただきから
蹴落として、
木ッ
葉微塵にしてくれるぞ」
水術の
印を
解くとひとしく、あきらかに姿をみせた
和田呂宋兵衛、九
輪の
銅柱をしっかと
抱いて、
夜叉のごとく突ッ立っていた。
「おのれッ――」
と
片膝おりに、
戒刀の
鞘を横にはらった龍太郎、銅の九
輪も斬れろとばかり、呂宋兵衛の足もと目がけて
薙ぎつけた。
同時に、波のごとき
瓦のうえへ、ヒラリと飛びあがった
巽小文治は、いま龍太郎が斬りつけたとたんに、
朱柄の
槍をさッとしごいて、呂宋兵衛がかわさば突かんと身がまえた。
下では、あッと、手に汗をにぎる
諸軍の
声。
伊那丸をはじめ、
幕下の面々、また
竹童も
咲耶子も、
塔の一点に
眸をあつめ、ハラハラしながら鳴りをしずめた。
時こそあれ、――
大へん。
三
重の
屋根瓦から
塔の九
輪のまっ先へ、
雷獣のごとくスルスルとはいあがった
和田呂宋兵衛、
「おうッ……」
なにやら叫んだかと思うと、片手をブンとふりまわした。
と――またこそ、かれの
幻術か、ふいに、さッと落ちてきた一陣の
風鳴り。
すると
明方の
天空から、思いがけない人声がきこえた。
「いけねえいけねえ、おいクロ! こんなところへおりちゃアいけねえ」
いうまもなく、ななめに
翔けりきたった、まっ黒な怪物があった。
まさしく
鷲!
竹童の盗まれたクロ。
乗っているのは――わめいているのは、
菊池半助にドヤされて、
遠江の国をすッ飛んできた、泣き虫の
蛾次郎であった。
鷲は見るまに九
輪をかすった。
一大事!
巽小文治はふたたび
槍をとりなおして、あおむけざまに、ヤッと突きあげたが、鷲の
羽風にふき倒され、さらにいっぽうの
龍太郎が、九輪の根もとからはらいあげた
戒刀の
切ッ先も敵のからだにまでとどかなかった。
その時、それと同時に、
呂宋兵衛はとんできた鷲の背なかへ乗りうつっていた――ほとんど、
電光一
過――
目ばたきする
間だ。
塔上の二勇士、
塔下の三軍が、あれよと、おどろきさけんだ時には、
万事休す、
蛾次郎、
呂宋兵衛、ふたりを乗せた
大鷲の影はまっしぐらに、
三国山脈の
雲井はるかに消えていく。
「しまった!」
伊那丸以下の者、でる声は、ただこの
たんそくばかりであった。
なかにひとり竹童のみは、陣屋をかけだして、
「おお、クロだクロだ、おいらのクロだ」
空にむかって叫びながら、追えどもおよばぬ
大鷲の
行方へ
無我夢中で走りだした。
さて、おどろいたのは、
蛾次郎である。
多宝塔のてッぺんを通りすぎたとたんに、ヘンなやつがじぶんの腰へとびついたと思ったが、なにしろ、
鷲の走っているあいだはふり向くこともできず、話しかけることもできない。
目の下に、クルクルまわる山や
峠や町や村をいくつも見て、およそ
小半日も飛んだころ、やっと青々とした
海辺におりた。
「アア、お
腹がペコペコだ。これで
命も無事だったし、なにか
食べ物にもありつけるだろう……」
すぐにキョロキョロ見まわして、
漁師の
干しておいた
小魚を見つけ、それを火にあぶりもせず、引ッ
裂いて
食べはじめた。
食べながら波打ちぎわを見ると、黒の
蛮衣をきた大男が、小手をかざして、しきりに地理をあんじている。
「あッ、あの男だナ、おれの腰に取っついてきた
蠅のようなやつは」
蛾次郎、
干魚をムシャムシャ
噛みながら、そばへ寄ってみると、
裾野で見かけたことのある
呂宋兵衛なので、二どびっくりという顔で、
「お、あなたは
人穴の……」
「ウム、
呂宋兵衛じゃ、ああ、おまえは、
鏃師鼻
かけ卜斎の
弟子だったな」
「ええ、よくごぞんじでございますね。おおせのとおり蛾次郎という者。……ところで呂宋兵衛さま」
「なんじゃ」
「ここはいったい、東海道のどのへんにあたりましょう」
「まるで方角ちがい――北陸道の
糸魚川と申すところだ」
「すると向こうに見える
岬は
伊豆の国とはちがいますか」
「あたりまえだ、北日本の海に
伊豆はない。すなわちあれが
能登の半島、また、うしろに見える山々は、
白馬、
戸隠、
妙高、
赤倉、そして、
武田家と
鎬をけずった
謙信の居城
春日山も、ここよりほど遠からぬ北にあたっておる」
「へえ……そしてあなたは、ここからどこへ行こうってえつもりなんです?」
「京へのぼるのじゃ」
「いいなあ。わたくしも一つお
供につれてッてくれませんか」
「おまえにはたのみがある。
蚕婆と
早足の
燕作、それに
丹羽昌仙、この三名にあったら、わしが京都へのぼっておるゆえ、あとからかならずくるようにと、
言伝をしてもらいたい」
「燕作は大きらいだけれど、あとのふたりは引きうけますよ。……オヤ、アッ、大へん……」
なにを見たか、にわかぎょうてんしてうろたえだした
蛾次郎、さようならともいわず、クロにとび乗って、ツーと空へ逃げてしまった。
と、
間もなく、スタスタここへきた旅人。
「や、それにまいったのは、
人無村の
卜斎ではないか」
「これはこれは、
呂宋兵衛さま、意外なところで……」
と
双方、
磯岩に腰かけて、
裾野落ち以来のことを話しあったが――卜斎の
上部八風斎、
伊那丸へ
人穴城の
絵図面を持ちこんだことや、自分が
柴田勝家の
家中であることなどは、もとよりおくびにもださずにいる。
「しかし、卜斎。おまえは裾野に住みついている
鏃鍛冶、なにもこんどのことで、逃げる必要もなかろうではないか。いったいこれからどこへまいろうとするのだ」
「
裾野もよろしゅうございますが、ああしばしば
戦があった日には、とても、のんびり
金敷をたたいてはおられません。そこで、
越前北ノ
庄へ
巣をかえようと申すわけで」
「なるほど。じつはわしもこれから
都へでて、
安土の
秀吉公へすがり、なんとかいとぐちをつけようと考えているが、うまくとちゅうまでの
便船でもあるまいか」
「さあ、わたくしも、北ノ庄まででる船はないかと、ずいぶん
尋ねてみましたが、どうも折り悪く、
出船のついでがないそうで」
と、ふたりが話すのを聞いていたものか、波打ちぎわにあげてあった
空船のなかから、ムックリ起きあがったひとりの
船頭。
「おい」
と、いけぞんざいに呼びかけて、
「おめえたち、
上方のほうへいきてえなら船をだしてやろうか。
越前へでも
若狭へでも着けてやるぜ」
「それはかたじけない。しかし、そこにあげてあるような
小舟ではどうにもならぬ」
「いや、長崎から
越後港へ、
南蛮呉服をつんできた
親船が、この
沖にとまってるんでさ。どうせ南へ帰る
便船だ、えんりょなく乗っていくがいい」
船頭は空船の
艫をおして、砂地から海のなかへ突きだした。そして
呂宋兵衛、
卜斎のふたりを乗せるや
否、勢いよく
櫓柄をとって、沖の親船へ
漕ぎだした。
まもなく、
海潮けむるかなたの沖に長崎
型の
呉服船、
紅帆船の影らしいのが、だんだん近く見えはじめる。
紅がら色の
帆に、まんまんたる風をはらんだ呉服船はいま、
能登の
輪島と七つ
島の
間をピュウピュウ走っている――
カーン カーン カーン……
船楼の
鐘。
もう
真夜中であろう、風はないほうだがかなり
高波。パッと、
舳にくだける
潮の花にもうもうたる
霧が立ってゆく。
その霧のなかに、ブランブランと、
人魂のようにゆれている
魚油のあかり。ギリギリ、ギリギリと
帆綱のきしむ気味の悪さ……
「やい、起きろッ」
ふいに
木枕を
蹴とばされて、はねおきたのは
便乗してきた
卜斎と
呂宋兵衛。フト見ると、
胴の
間のグルリに、
閃々と光るものが立ちならんでいる。
「なにをするんだおまえたちは?」
卜斎は、前差しの短刀をつかんで、きッとなった。
「まぬけめ、なにをする者か聞かなくッちゃわからねえのか。こいつを見たら少しゃ目がさめるだろう」
わざと、ふりうごかして見せた光は、まさしく
槍、刀、
鏃、
薙刀――どれ一つを食っても
命のないものばかり。
「ウーム、さては
汝らは海賊だな」
呂宋兵衛は、その時のっそり突っ立って、
魚油のあかりに照らしだされている二十四、五人の荒くれ男を
睨めまわした。
「知れたことだッ」
槍の
穂は、いっせいに横になって、車の歯のごとく中心へ向いた。
「おとなしく
素ッ
裸になッちまえ、体だけは、ここから
輪島の
磯へながれ着くようにほうりこんでくれる」
「待てッ。望みどおりになってもやるが、汝らの
頭領はいったいなんという者だ」
「そいつを聞くと
命がない
掟だぞ。それでも聞きたけりゃ聞かしてやる」
「ウム、しょうちのうえでも聞きたいものじゃ」
「よし、
冥途の
土産に知っておけ。この船の頭領は、
龍巻の
九郎右衛門。もと東海の
龍王といわれた
八幡船十八
艘のお頭領さまだ。サ、こう聞かしたからにゃ
命ぐるみもらったからかくごしろ」
「ばかをぬかせ」
「なんだとッ」
「まごまごいたすとこっちでこそ、
汝らの持ち物はおろか船ぐるみ巻きあげてしまうから用心しろ」
「や、こいつが! てめえいったい何者だ」
「
富士の
人穴にいた
山賊だ」
「なに山賊……」
「おお、
海賊の腕が強いか、山賊の
智恵がたしかか、ここでいちばん腕くらべをしてもいい。それともすなおに
頭領の
龍巻をよんできて
詫びをするか」
「なまいきなッ!」
勃然と海賊の武器がうごいた。
が――
無益な問答をしているあいだに、
呂宋兵衛は、じゅうぶんに
幻術のしたくをしていた。
「ふッ……」
と、前後の
対手へ
二息かけると、たちまち、かれのすがたは一
条の
水気となって、あるがごとくなきがごとく乱打の武器もむなしく風を斬るばかり。
「うぬッ」
ひとりがすさまじい気合いで、おぼろの影を
槍で突く。すると、ピチリと一ぴきの
魚がはねた。
目の下、二尺もある
鯔だ。
ザアッと、
舷から二どめの
浪がしらがきて、
鯔を海中に巻きかえそうとしたが、海賊の手下どもはこれこそ
蛮流幻術をやる山賊の変身と、よってたかって、手づかみにしようときそったが、ピチピチはねまわる死力の
魚は、むしろ人間一ぴきつかまえるのよりしまつがわるい。
「ちくしょッ――」
バラリと
網をなげた者がある。
鉛の
重味にしばられて、とうとう鯔はそのなかにくるまってしまったが、同時に頭の上で、
「わッはッはははは、あはははは。やい、
野郎ども、いいかげんにしねえか」
と、ふたりして、笑う声がする。
ひょいと
仰向いてみると、
船楼の
櫓に腰かけている
頭領の
龍巻と、いま下にいた
呂宋兵衛。
どッちも
卓へ
頬杖をつきながら、下のありさまを見物して、仲よく酒を飲んでいる。
「じょうだんじゃねえ。お頭領、こいつア、いったいどうしたわけなんで……」
手下どもは、わいわいそこへ寄ってきて、ただふしんにたえぬという
面もち。
「しんぱいするな、こりゃ
和田呂宋兵衛といって、おれが長崎にゴロついていた時代の兄弟分だ」
「へえ? ……」
「見ろ」
と、
龍巻は、じぶんの二の腕と、
呂宋兵衛の二の腕をまくりあげて、手下どもに見くらべさせながら、
「このとおり、ふたりとも
蜘蛛の
文身を
彫りあって、おれは海で
一旗あげるし、呂宋兵衛は山に立てこもって、おたがいに天下をねらおうとちかって別れた仲なのだ」
「なるほど、そういう兄弟分があるということは、いつかお
頭領の話にも聞いていました」
「そのふたりが、思いがけなくめぐりあった
心祝いに、てめえたちにも飲ませるから、いまの
魚を料理して、もっと酒をはこんでこい」
「しょうちしました。だが、そうとするといまの
鯔はいったいどうしたってんだろう?」
「あれは呂宋兵衛が、
水気魚陰の法をかけて、てめえたちみてえな
半間なやつの目をくらましたのだ。しかし、魚はちょうど船へ
跳ねこんだほんものだそうだから、安心して料理するがいい」
手下どもを追いはらって、ふたりとなった
船櫓に、龍巻と呂宋兵衛、久しぶりの酒を
酌みかわして、話はつきないもよう。
名はおそろしい
海賊と
山賊だが、
久濶の人情には、かわりのないものとみえる。
「なあ、龍巻。てめえとおれとは、その昔、天下を二分するような元気で別れたんだが、おたがいに、いつまでケチな
賊の
頭領じゃしようがないなあ」
「しかし
呂宋兵衛」
「なんだ」
「おめえは富士の
山大名とか、
野武士の
総締めとかいわれて、
豪勢なはぶりだってことをうわさに聞いていたが」
「さ、それが
残念千万な話で、いちじは富士の殿堂に、一国一城の
主を気どっていたが、
武田伊那丸という
小童のために、とうとう
人穴城を焼けだされて
落武者となってしまったのだ」
「なに、武田伊那丸だッて」
「ウム、てめえもうわさに聞いていたろう」
いま、船は
加賀の北浦に
沿って、
紅帆黒風のはためき高く、いよいよ
水脚をはやめている。
龍巻の
九郎右衛門は、
杯の
南蛮酒をゴクリと
乾し、呂宋兵衛へもついでやりながら、
「ふウむ、そいつはふしぎないんねんだ……」
とうめくようにいったものである。
「じつは
兄貴、うわさどころかこの
龍巻も、あの伊那丸のやつと、家来の
小幡民部という
野郎には、ひどい目にあわされたことがあるんだ」
と、
紅帆船以前のことを、無念そうに語りだす。
それは、かれが東海をさかんに荒していたころ――といっても古い話ではない、
伊那丸が
忍剣にわかれて、
弁天島から
八幡船の
とりこになった時のこと――
穴山梅雪の手をへて、伊那丸のからだを
徳川家へ売りこもうとした晩、
小幡民部に計略の裏をかかれて、沖の八幡船は焼打ちされ、かれじしんは、
堺町奉行の手に召しとらえられてしまった。
その後、
龍巻は、堺町奉行の
牢をやぶって逃亡したが警戒がきびしいため、こんどは、
紅がら色の
帆をあげて北日本の海へまわり、長崎から往復する
呉服船と見せかけて、海上の諸船や、
諸港の旅人をなやましている。
「こういうわけで、おれはいまでも、その
恨みを忘れやしねえ。この龍巻の息のねのあるうちは、きっと、あの伊那丸と小幡民部の野郎を、取ッちめずにはおかねえつもりだ」
「そうか……」
と、
呂宋兵衛は、聞きおわって、
「してみれば、伊那丸一族は、この呂宋兵衛にも、龍巻にとっても、
遺恨のつもりかさなるやつ。おれもこれから京へのぼって、
秀吉公の力を借り、
武田一族を
狩りつくすさんだんをするから、てめえも
折さえあったら、この仕返しをすることを忘れるなよ」
「いわれるまでもないことだ。……オオそりゃいいが、さっき、兄貴がつれていた男はどうしたろう」
「ウム、すっかり忘れていた。あの
槍襖におどろいて、
胴の
間のすみで、気を失っているかもしれねえ。……なにしろ
裾野の
鏃鍛冶で、おそろしい
修羅場は知らねえやつだから」
すると、そこへばらばらと、
櫓へ駈けあがってきた手下のひとりが、
「お
頭領、さっきのどさくさまぎれに、もうひとりの男が、
艫の
小舟を切りおとして、逃げッちまったようですぜ」
「なに、
卜斎が逃げてしまったと?」
それと聞いて、
呂宋兵衛は、はじめてかれに疑いをいだき、櫓の
欄に駈けよって、
漆のような海面を見わたしたが、もとより一
片の小舟が、ひろい
闇から見いだされるはずもない。
いっぽう、あやしげな
親船を逃げだした鼻かけ
卜斎の
八風斎。たちまち
加賀の
美川ヶ浜に上陸して、陸路
越前の
北ノ
庄へ帰りつき、主人
勝家に、
裾野陣のありさまを残りなく復命した。
そして勝家は、ちかごろひんぴんと領海をあらす
海賊に
討手を向けたが、すでに、
紅帆呉服船の
行方はまったく知れなかった。
「あ、あ、あア――」
と、
煙草くさいあくびを一つ。
「だいぶ遊んでしまったな、もう
陸へあがって四十日目か。おやおや
都入りのとちゅうで、おもわぬ道草を
食ってしまったわい……」
ひとりごちながら
寝台をおり、二階の窓ぎわへ、
唐風の
朱椅子をかつぎだして、そこへ
頬杖をついたのは、こういう
異人屋敷にふさわしい
和田呂宋兵衛。
そとは海――それも
鯖の背のような、あお黒い冬の海。
昼の
陽ざしも、こたえがなく、北日本特有の寒風が、
槍のごとく
波面をかすッて、港
泊りの
諸船の
帆ばしら、ゆッさゆッさとゆさぶれあうさま、まるで
盥のなかの
玩具を見るよう。
その港を、どこかといえば、
賤ヶ
岳を南にせおい、北陸
無双の
要害ではあり商業の
繁昌地。――
陸には
南蛮屋敷があり、
唐人館の
棟がならび、
湾には
福州船やスペイン船などの影がたえない
角鹿(いまは敦賀と書く)の町である。
「さてと、ことしは
天正十年、もう十二月だな……」
この海を見、この異国
情調をながめても、
呂宋兵衛には、詩をつくる頭もないと見え、みょうなことをつぶやいている。
「天正十年、――へんな年だッたな、ばかに天下をかきまわした年だ。まずちょっとおもいだしたところでも、春
早々、
甲斐の
武田が
亡ぼされ、六月には、
信長が
本能寺で
焼打ちにあった。うまくやったのは
猿面の
秀吉、山崎の一戦から
柴田も
佐々も
滝川も眼中になく、メキメキ
羽振りをあげたが、ずるいやつは
徳川家康だ。どさくさまぎれに、
甲州から
信濃の国をわが物にして、こっそり
領分をふくらませてしまった。――だが、まずゆくゆくの天下取りは、どうしても秀吉だろうな。
北ノ
庄の
柴田勝家、こいつもなかなか指をくわえてはいまい。いまに秀吉と、のるかそるかの大勝負だ。……ウム、のるかそるかは
俺のこと、手ぶらで
都入りも気がきかない。手近なところでなにか一つ、秀吉のやつに取りいるお
土産を、かんがえようか……」
その時、コツコツ
扉をたたく者があった。
「オイ、
兄貴、いねえのか、寝ているのか!」
「だれだ」
「
龍巻だ、あけてくれ」
「いや、こいつはすまなかった」
窓をはなれて、重い
扉をギーとひらく。と、待つ
間おそしの勢いで、飛びこんできた
九郎右衛門、片目をおさえたまま、
呂宋兵衛の
寝台の上へ、ゴロリとあおむけに寝てしまった。
「どうしたんだ、耳のほうへ血がたれてくるではないか」
「すまねえが
兄貴、この左の目へささッている物を、そッとやわらかに抜きとってくれないか」
「いいとも、だが、
棘でもさしたのか」
「針だ、針がささッてるんだ」
「針?」
「ウン、ゆうべ沖の客船から、四、五人の旅人をさらってきて、この下の
穴蔵へほうりこんでおいたのだ。そこでいま手下どもと、ひとりひとりの持ち物や身の皮をはいでいると、そのなかにふんじばられていた
婆めが、いきなりおれの顔へ針をふきつけやがったんだ。ア、痛、……なにしろ早く抜いてくれなきゃ話もできねえ」
「うごいてはいけないぞ、いま洗い薬を、こしらえているから」
「たのむからはやく……」
「よし、じッとしていろよ」
と、多少
蛮法の医術にも心得があるらしい呂宋兵衛、口をもって
龍巻の
眸にふかく突きささっている針をくわえとり、すぐ洗い薬をあたえておちつかせた。
すると、四、五人の手下が、
扉口から首をだして、
「おかしら」
と、どなった。
「いよいよあの船へ、
角鹿町の
和唐屋から一
万両の銀を送りこみましたぜ。船積みするところまでたしかに
見届けてきました」
「そうか!」
龍巻は、苦痛もわすれ、
「して、
厦門船は、いつ
纜を巻きそうだ」
「いつどころじゃねえ、もう
出船のしたくをしているようすなんで、風のあんばいじゃ夕方にも、港をズリだすかも知れませんぜ」
「じゃ、こうしちゃいられねえ。てめえたちは、
穴蔵にいる子分を呼びあげて、すぐ
沖の鼻へ、船をまわして見張っていろ。おれはあとから、
早船で追いつくから」
「がってんです。じゃ、お
頭領もすぐにきておくんなさい」
ドカドカと階段を
降りていった。
「大そうな仕事じゃあないか」
呂宋兵衛は、いまの話であらかたのもようをさっしていた。
「この角鹿へ
煙草を売りこんだ厦門船が、一万両の売り代を積んでかえるやつを、
玄海灘あたりで物にしようというたくらみさ。そこでこんどはしばらくこの
仲間屋敷へも帰らねえから、
兄貴はここで冬を越すとも、また
閉めて京都へ立つなりと
好きにしてくれ」
「ちょうどいい。じつはおれも、いつまでここにいい心持になってもいられないから、一つゆきがけの
駄賃に
北ノ
庄のようすをさぐり、それを
土産に
都入りして、うまうまと
秀吉のふところへ飛びこむつもりで考えていたところだ。すぐおれもここを立つとしよう」
「するととうぶんお別れだが、
秀吉公へ取りいったら、おれもお船手の
侍大将かなにかになれるように、うまく
手蔓をしてもらいてえものだな」
「
野武士だろうが
海賊だろうが、人見知りをせず味方にする秀吉だから、おれが
上手に売りこんで、
龍巻壱岐守ぐらいにはしてやるよ。まあそれを楽しみにしているがいい」
「あ――
厦門船がでやがった」
窓口から港をながめて、龍巻はにわかに立った。そしてせわしい別れをつげ、
部屋からかげを消したかと思うと、やがて、海賊の
巣である異人屋敷の裏手から、一
艘の
はしけを矢のごとく
漕がせていった。
「ははあ、
紅帆船は、むこうの
岬のかげにかくれているんだな」
それを見つつ、
呂宋兵衛も
伴天連の
黒服をつけ、首に十
字架をかけて、ふところには短刀をのんだ。さて、すっかり
身支度がおわると、バタバタ窓をしめて、かれもこの家を立ちかけたが、
門口でフイと一つの忘れ物を思いだした。
「
針……針……針がいたッけ……」
呪文のようにつぶやくと、クルッと
踵をかえして、うす暗い石段をスルスルと地の底へ――
陰湿な
穴蔵部屋、手さぐりで
近寄ると、
鉄格子の
錆がザラザラ落ちた。すると、ウーム……とうめきだしたかすかな人声。
海賊たちにつれこまれた旅人らしい、ムクムクと身をおこして、人のけはいにおびえている。
「おい、おい」
呂宋兵衛は、鉄格子からのぞきこんで、
「もしやおまえは、富士の
裾野にいた
蚕婆ではないか」
「えッ!」
と、びっくりしたが、しばられているので、そばへは寄ってこられぬらしい。
「わ、わたしを知っているのは、いったい、だ、だれだい……」
「
人穴の呂宋兵衛よ」
「ひえッ、呂宋兵衛さま? ああありがたい、助かった。海賊の龍巻がこないうち、はやくここからだしてやっておくんなさい」
「どうしておまえはまた、こんなところへつれこまれたのだ」
「どうしてだって、このくろうをするのも、みんなおまえさんに味方をしたためじゃないか。
人穴城から
法師野へ逃げて、落ちつくまもなく、
伊那丸の夜討ちにあい、やッと北陸道まで逃げのびたと思うと、こんどは海賊につかまってこのありさまさ」
「やッぱり、おれの
想像があたっていた」
「くやしいから
龍巻の目の玉へ、針を一本吹いてやったら、いまになぶり殺しにしてやるからおぼえていろと、おそろしい
血相で、二階へかけあがっていったが……」
「その龍巻や手下どもは、にわかに船をだすことになって、おまえをここへおき
去りにしていった」
「すると、わたしを
餓死させる気だったんだね。
呂宋兵衛さま、とにかく早くだしてくださいまし」
「よし、そのかわりにこれからさきは、おれのために、火の中へでも水の中へでも飛びこむだろうな」
「ごめん、ごめん。わたしはもう大きな
慾のない身だから、また
裾野で、
蚕の糸でものんきに引きたいよ」
「ふん、それじゃ、いッそ、死ぬまでこの
穴蔵で
隠居をしていろ。たぶんもう二、三年は、この屋敷の戸を
開けにくる人間はないはずだから」
呂宋兵衛が、もどりかけると、
蚕婆は悲鳴をあげた。いやおうなく、いろいろな
誓いを立てさせられて、そこから助けだしてもらうと、
婆は、頭にくろい
頭巾、身に
黒布をまとわせられて、あたかも
女修道士のような姿となり、呂宋兵衛のあとからあてもなくついていった。
それから数日ののち――
角鹿の浦から十六、七里、
足羽御厨の
北ノ
庄(今の福井市)の城下に、ふたりの
偽伴天連があらわれて、さかんに
奇蹟や説教をふりまわしていた。
と、ある日である。
濠端にたって、なにやら
祈祷をささげている伴天連をみかけて、美しい夫人が
鋲乗物を
止めさせた。
「もし、伴天連さま」
きれいな
侍女たちが三、四人、
駕籠をはなれて腰をかがめた。伴天連――
呂宋兵衛と蚕婆は、もったいらしく、祈祷の
膝をおこして、
「はい、なんぞご用でござりますかな」
「あの
駕籠のうちにおいでなされますのは、ご城主さまの奥方
小谷の
方さまでいらっしゃいます」
「ああそれはそれは、
右大臣信長公のお妹
君で小谷の方さま、おうわさにもうけたまわっておりました」
「奥方さまは、そのむかし、
安土においでのころから、マリヤさまをふかいご
信仰でいらっしゃいます。ついては、なにかお祈祷のお願いがあるとのこと、ごめいわくでも城内までお越しあそばしてくださいませぬか」
「おやすいこと、すぐにもお
供もうしましょう」
と、呂宋兵衛は、人知れず蚕婆に目くばせして、
聖僧気どりのうやうやしく、小谷の方の乗物について大手の橋を渡りこえた。
すると
多門の
塀際ですれちがった、りっぱな武士がある。
「おや?」
と
伴天連のすがたを見送って、
「こりゃふしぎだ、いま奥方の
供に加わっていったやつは、たしかに、いつぞや
海賊船で別れた
和田呂宋兵衛、ひとりは
裾野の
蚕婆によく似たやつだ……はて、みょうだわい」
と、
下城のとちゅうで腕ぐみをしてしまった。
「ウーム、あの呂宋兵衛がこの城内へ……伴天連になりすまして……蚕婆をつれて……こりゃ時節がらゆだんがならん!」
従者だけをそこから下城させて、スタスタとふたたび
曲輪へ帰りだしたのは、もと裾野では
鏃師の鼻かけ
卜斎――いまではこの城の
礎とたのまれる
上部八風斎だった。
足羽九十九橋を
脚下にして、そびえたつ
北ノ
庄の城は北国一の
荒大名、
鬼柴田勝家がいる
砦である。
塁濠は
宏大、天主や
楼閣のけっこうさ、さすがに、
秀吉を成りあがりものと見くだして、大徳寺では、
筑前守に足をもませたと、うそにも、いわれるほどなものはある。
「
憎っくい
猿面、ウーム、一あわふかしてくれねばならぬ」
と、本丸の上段、毛皮の
褥に、どッかりかまえた
修理亮勝家は、その年、五十三の老将である。こよいも、
岐阜の
侍従信孝からの
飛状を読みおわって、
憤怒を
面にみなぎらしていた。
評定の
間のあかりは、
晃々と照って、席には一族の
権六勝敏、おなじく
勝豊、
徳山則秀、
不破光治、小島
若狭守、
毛受勝介、
佐久間玄蕃允など、
万夫不当の北国衆が、評定の座へズラリといならんでいる。
「この
勝家が冬ごもりのまを、
鬼のいぬまと思うて、
猿面秀吉がすき勝手なふるまい。この
書状のようすでは、
疾く
佐和山をおとしいれ、長浜の城まで手をだしてまいったらしい。ウム、もう
隠忍している場合ではない。
若狭! 若狭守!」
「はッ」
「そちはすぐ
天守へあがって、
陣触れの貝をふけ」
「はッ」
「
勝敏、
勝豊! また
玄蕃允! その
方どもは先陣に立ってまッしぐらに、
近江へむかえ、すぐにじゃぞ……」
「
君! しばらく待たせられい」
「なんじゃ、
毛受勝介、そちも一陣のさきがけをのぞむか」
「いや、もってのほかな――」
とニジリだした
勝介、やや色をあらためて、きッと、
「さきほど、
軍師の
八風斎どのが、列席のおりには、
秀吉退治のご出陣は、来春の
雪解けと、同時に遊ばすことに決したではござりませぬか」
「ひかえろ、それはまだ
信孝公の
御書がつかぬまえじゃ。秀吉の独断かくまでと思わぬからじゃ」
「ご立腹はさりながら、時はいま十二月の真冬、北国
街道の雪たかく、軍馬の進路、おもいもよりませぬ」
「だまれ、
勝介、おりから
今年は雪がすくない。このくらいな天候ならば、
柳ヶ
瀬越えもなんのその、一
挙に、長浜を取りかえして、
猿めに、一あわふかすぐらいなんのぞうさがある」
「
仰せながら、ひとたび軍旅を遠くはせて、
木ノ
芽峠や
賤ヶ
岳の
険路を、
吹雪にとじこめられるときは、それこそ
腹背の
難儀、軍馬はこごえ、
兵糧はつづかず、ふたたびこの
北ノ
庄へご
凱旋はなりますまい」
「ウーム……」
勝家も
愚将ではない、ましてや分別もじゅうぶんな年ごろ。
理のとうぜんに、やり場のない
怒気が、うめきとなって口からもれる。
「いちおうの理がある、しかし……」
とやや落ちついて、
「来春を待つとして、ほかになんぞ、よい
策があるか」
と
極めつけた。
「ござります――それは
裾野よりご帰参の
上部どのが、
一月あまりお屋敷にこもって、苦心のすえ作戦された、
秀吉袋攻めの
奇陣、必勝の
布陣、軍旅の用意にいたるまで、お
書付としてご
家老徳山どのへお渡しになっております」
「そんなものがあったか。
伊那丸を味方につけ、
甲駿へ根を張らんとしてながらくでていた
八風斎、それが
不首尾で、帰参後も、めッたに顔をみせぬと思うていたら、すでに、秀吉袋攻めの奇陣を
策しておったのか、どれ、一
見いたそう」
と、
勝家はことごとくきげんをなおして、
徳山則秀の取りだした書類や図面に目をとおし、また時折にはなにか小声でヒソヒソと
密謀をささやいていた。
するとこの
夜陰、おくの
曲輪にあたって、にわかにジャラン! ……と
妖異な
鐘のひびきがゆすりわたった。
「なんじゃ」
折もおりなので、一同おもわず、ガバと顔をはねあげる。
勝家も聞きとがめて、
「
南蛮寺で聞くような、いまわしい鐘の
音色、奥の
局でするらしいが、やかましいゆえ、
止めてまいれ」
「はッ――」
と
気転よくたった
小姓の
藤巻石弥、ふと
廊下へでるとこは何者?
評定の
間の
袖部屋へじッとしゃがみこんでいる
黒衣の人間。
「
間諜ッ!」
大声に叫んで、ダッ! と組みついた。
奮然と、むこうからもむかってくるかと思ったがあんがい、グズグズとくじけてしまったので
石弥もあっ気にとられた。
「なに、
諜者が入りこんでいたと?」
勝家をはじめ、
玄蕃允、
若狭守など、めいめい
燭をかざしてそれへでてきた。
「なんじゃ、そちは
伴天連……しかも
老婆ではないか」
「はい、はい、……どうぞおゆるしくださりませ」
黒いかげは、
竿でハタキ落とされた
蝙蝠のようにおののいていた。
毛受勝介はッたとにらんで、
「きさま、ただいまの密議を、ここで聞きおッたな!」
「めっそうもないこと、わたくしは神さまに仕える
修道士でございます……
戦のご評議などを立ちぎきしてなんになりましょう」
「その修道士が、なんでかような場所へ
入りこんだか。
婆! うそをもうすと八ツ
裂きだぞ」
「奥方さまのおたのみで、お
祈祷にあがりました……ハイ、三人の姫君さまが、そろいもそろうてご
風気の
大熱……そのご
平癒を神さまにお
祈りしてくれとのご
諚をうけてまいりました」
「ほ、なるほど……」
勝家の
面がすこしやわらいだ。
「おさない
姫たちが、このあいだから
風邪に
悩んでいる。奥もきょうはそれで
祈祷にまいった。アレは昔からその
宗門でもあった」
「まったく、ご
錠口をまちがえまして……」
「
石弥、この
修道士の
婆を、おくの
局へつれていってやれ、
間諜でもないらしい」
「かしこまりました」
と、
石弥が立ち、一同がちりかけると、そのとき、四十九
間の
長廊下を、かけみだれてくる人々!
小谷の
方をまっ先に、
局侍女など奥の者ばかり、めいめい
鞘をはらった
薙刀をかかえ、
雪洞花のごとくふりてらしてきた。
「奥ではないか、なにごとじゃ」
「オオ殿さま、ごゆだんあそばしますな」
と小谷の方は、薙刀をふせて、
「今がいままで、一
間のうちに
祈祷の鐘をならしていた
伴天連がみょうなそぶりで、ご城内の
要害をさぐり歩いているという小者の知らせでござります」
と息をあえいだ。
「うかつな者をめしいれるから悪い。む! さすればただいまの
老婆もその片われじゃな」
「オオ、そこにいる
修道士、引っくくってごせんぎなされませ」
といわせもはてず、
小谷の
方のうるわしい
頬へピラピラッと四、五本の針がふき
刺さった。
「あッ!」と
藤巻石弥も、同時にひとみをおさえて飛びしさる、とたんにすきをねらった
老婆は、
黒布をひるがえしてドドドドドッと
大廊下から庭先へ飛びおりた。
「それッ」
と
近侍をはじめ
侍女の
薙刀、八
面をつつんでワッと追いかぶさったが、雪ともつかぬ
雹ともつかぬふしぎなものが、近よる者のひとみに刺さって、見るまに
怪異な老婆のかげは、
外曲輪の闇へ、
飛鳥と消える。
ふいのそうどうに、ガランとしていた
評定の
間。
一
羽の
蛾がピラピラと飛んでいる。……
これはあやしい。
蛾は
妖異だ。夏なら知らず十二月、蛾が生きているはずがない――と思うと
灯取り虫、一つ一つの
燭をはたきまわって、
殿中にわかにボーッと暗くなってきた。
スウーッとその
蛾が吸いこまれてしまった。
いつの
間にか
襖のかげに立っていた
呂宋兵衛の口のなかへ――
滅光の
口術? ニヤリと笑って、評定の間へスルスルとはいってきた。
暗闇のなかで、
呂宋兵衛、ムズとつかんだ。一同が評議にかけていた
秀吉袋攻めの
秘帖、それだ! それをつかんだ。――片手につかんで
蟇のように
評定の
間をはいだした。
大廊下には人がいる、ワイワイとさわいでいる。そッちへは逃げられない、次の
間へ、スーと抜けてくると、
障子に
槍をもってる人影がうつっている。
「こいつは
危ない……」
と、あとずさりをした壁ぎわで息をのむ。と、うしろからだれか、指のさきで、チョイと背中をついた者がある。
二寸ばかり
納戸襖があいていた。そのなかから手がでて呂宋兵衛の指へやわらかにさわった。
「
蚕婆だな……」
と、すぐ
肚のうちで、うなずいた。
そして、手につかんでいた秘帖を、スルリと引っぱられたが、
婆があずかるつもりだろう――と思ってわたしてしまった。
とたんに、ズドン! と
短銃の
弾がまつげをかすった。白いけむりが評定の間でムクッとあがった。いけねえ! と思ったので呂宋兵衛、いきなり
障子を
開けるやいな、バラッと飛びだすと、待ちかまえていた
長身の
槍先が、
「えいッ」
と、するどい光をつッかけてきた。
「おッ!」
と、すばやくつかみとめた槍の千
段、顔を見るとおどろいた、
闇でも知れる鼻――あの鼻のもちぬし、
上部八風斎である。
こいつは
苦手だ、ばらばらともとの部屋へ逃げこむ、と同時に、
佐久間玄蕃允の声で、
「
曲者ッ!」
組んできた。ドンとつぎの
千畳敷へ投げつけられた。起きあがると、またふたたび、
毛受勝介の
大喝一
声、
「おのれ、
間諜!」
グンと
襟がみを引ッつかまれた。が、こんどは
呂宋兵衛にれいの奥の手をだすよゆうがあった。ポンとその手をはらうや
否、
跳びあがって広間の壁へ、
守宮のようにペタリと背なかを
貼りつけてしまった。
上部八風斎、すばやく見つけて、槍の
素扱きをくれながらブーンと壁の下からつき上げた。――もんどり打って呂宋兵衛のからだが
畳の上へおちたかと思うと、
木の
葉をめくるように一枚の畳がヒラリと起きて槍へかぶった。
「おおッ」
と、毛受、佐久間が飛びつくまに、かれのすがたは
畳の下へもぐって消える。
「
方々、方々、
曲者はこの
部屋でござる。千
畳敷を取りまきめされい!」
毛受勝介が城中へ鳴りわたるばかりにどなった。
と――あら奇怪、畳から次の畳へ、ムクムクムクと波のごとくうごいていった。そして、向こうの
端の一枚がポンとめくれる――たちまち飛びだした
呂宋兵衛、
脱兎のごとく
大廊下から
武者走りににげだした。
「
幻術師! のがすなッ」
とひしめきあって、あらん限りの武者がそれへ殺到してしまった。そのようすを見すまして、はじめて、
納戸襖をソロリとあけた
黒装束、押入れからとびだして、呂宋兵衛からわたされた
攻軍の
秘図をふところにおさめ、別なほうから
築山づたいで、
北庄城の
石垣をすべり落ちていった。
橡ノ
木峠の
大吹雪――
軍飛脚か
狼か雪女よりほかはとおるまい。
ところがひとりのお
婆さん、元気なものだ。
歓喜天さまのお宮の
絵馬を引ッぺがして、ドンドン
焚火をしてあたっている。
黒い
頭巾をかぶって、姿は
気だかい
修道士だが、
中身は
裾野の
蚕婆だ。たきびで焼いた
兎の肉をひとりでムシャムシャ
食べている。
「ここで落ちあうやくそくだのに、どうしたんだろう……にげ
損なってやられたのかしら」
同じことを、口のうちでなんどいったか知らない。そのうち
麓のほうから、雪をおかしてくる人かげ。
「おお、
呂宋兵衛さま」
「
婆、待っていたか」
かぶってきた
蓙をすてて
焚火のそばへふるえついたのは、おなじ姿の呂宋兵衛だった。
「待っていたかもないもんだ、半日もおさきだったあね」
「気の毒だった、
捕手に逃げ口をふさがれて、
足羽川の
上を遠まわりしてきたため、ばかに
手間をとってしまった。それはいいが、城中でわたしたアレは落とさずもってきたろうな」
「城中で? おやなにを……」
「この
呂宋兵衛が、命がけでとった
柴田方攻軍の
秘帖、
秀吉公への
土産にするのだ」
「いいえ、わしはなんにも知りませんよ」
「城中のくらがりで、たしかに
汝の手へわたしたはず」
「ごじょうだんを……この
婆はおまえさんがはたらくまえに、逃げだしたんじゃないか」
「はてな? するとあの手はだれだろう」
早打ちの男か、またサクサクとここへ雪の
峠越えをしてきたものがある。
頬かむりの上に
藁帽子、まるで、顔はわからないが
蓑の下から大小の
鐺がみえた。
ふたりの前をとおりかかって、
「
吹雪がくる――、
追手もくるぞ」
ヘンなことをいって通りすぎた。
「なるほど、また北から黒い雲がまいてきた。日の暮れないうち
麓の
宿へたどりつこう」
呂宋兵衛と蚕婆は、また
伴天連になりすます約束でサクリ、サクリと歩きはじめた。
案の
定、ドーッと、
陣太鼓をぶつけるような吹雪がきた。燃えのこった
焚火が雪にまじって、
虚空に舞い、
歓喜天の堂の
扉もさらってゆかれそう。このぶんで一晩ふったら、お宮も
埋もって山の木がみんな二、三
尺になるかも知れない。
「オオ寒ッ!」
いたたまれないで、お堂のなかから飛びだしたはひとりの少年。寒いはずだ、
膝行袴に
筒袖の
布子一枚、しかし、腰の刀は身なりにも年にも似あわぬ名刀の
銀づくり。
「こんな雪が降ってるうちは、クロも空をとべないだろう。アア、いつおいらとめぐりあえるのかしら」
吹雪の空を見あげて、くろい
大鷲の
幻影をえがいたのは、
法師野いらい、その
行方をたずね歩いている
鞍馬の
竹童である。
信濃をこえて、
飛騨を越えて、クロを尋ねつ冬にはいって、この大雪にゆきくれた竹童、腰に名刀
般若丸のほこりはあるも、お
師匠さまは
尊いもの、クロはおいらのかわいいものとしている、あの
鷲にあえざる心はさびしかろう。
あければ、
天正の十一年。
本能寺の焼け
跡にも、
柳があおい
芽をふいた。
都の春のにぎやかさ。ことに、
羽柴従四
位の
参議秀吉が
入洛ちゅうのにぎやかさ。――金の
千瓢、あかい
陣羽織、もえ
黄縅、
小桜おどし、ピカピカひかる
鉄砲、あたらしい弓組、こんな行列が
大路小路に絶えまがない。
戦があっても貧相でなく、
新鋳の
小判がザラザラ町にあらわれ、はでで、
厳粛で、陽気で、活動する
人気は秀吉の
気質どおりだ。京ばかりではない、
姫路へ
下向すれば姫路の町が秀吉になり、
安土へゆけば安土の町がそッくり秀吉の
気性をうつす。
「ご
前」
馬廻りの
福島正則、ニヤニヤ笑いながら、秀吉の前へひざまずいた。京都の
仮陣営、ここに天下の
覇握をもくろんでいるかれ、
飯を
噛むまもないせわしさ。いまも、
祐筆になにか書かせながら、じぶんは
花判黒印をペタペタ
捺している。
ちかく
出師せんとする
柴田がたの滝川
征伐、その兵を
糾合する
諸大名への
檄文であるらしい。
「なんじゃ」
むぞうさにこたえて、次のへ、ペタリと一つ捺した。
「とうとうやってまいりました」
「だれが」
「
裾野の
和田呂宋兵衛。おそるおそるご
拝謁を願いに、陣前へまかりこしております」
「富士の
人穴で、二千の
軍兵をかかえながら、
勝頼の
遺子、
武田伊那丸に追いまくられて、こんどはわしへとりいる気だな」
「むろん、ご
賢察のごとくでござりましょう」
「まアいい、ここへ持ってこい」
と、まるで品物を見るようにいった。
「
可児才蔵はあるか!」
おおきな声でどなった。
はなやかな
小具足をつけた
可児才蔵、
幕をはらって階下に
頭をさげる。
「しばらくそこにおれ」
といったまま、また
祐筆にむかってなにか
文言をさずけている。と、
福島正則、
和田呂宋兵衛と
蚕婆の
修道士を連れてはるかに
平伏させた。
呂宋兵衛は、ここぞ出世の
緒口と、あらんかぎりの
巧舌と
甘言で、お
目見得した。まず、将来
天下人の
兆瑞がお見えあそばすということ、君のおんためには死も一
毛より軽しということ、それから、こんどは手まえ
味噌で天下の
野武士はわが指一本にうごくというじまん、
幻術は天下
無双、兵法智略には、
丹羽昌仙という腹心の者があること、――かぎりもなくならべたてる。
秀吉は、フン、フン、フン、で、聞くことだけは聞いている。
さてと呂宋兵衛、まだなにかいうつもりだ。
「さてこのたびのご
拝謁に、なにがなよき
土産ともぞんじまして、
上洛のとちゅう、
命がけでさぐりえましたのは
柴田勝家の
攻略、まった
北庄城の
縄ばり
本丸外廓、
濠のふかさにいたるまでのこと、それを
密々言上いたしますれば、ちかきご
合戦はご勝利うたがいもなきこととぞんじまする」
と、
蚕婆にさぐらせた
評定のもよう、じぶんがしらべた
砦の秘密など、
得々然とかたり出した。
いま、
勝家と
秀吉の仲、日ごとに
険悪となりつつあることは天下の
周知。さだめし、秀吉が目をほそくしてよろこぶだろうと思うと、
呂宋兵衛がしゃべっているまに、
「うッははははは」
と腹をおさえて笑いだした。
「呂宋兵衛、
柴田の
内幕話ならもうやめい」
「はッ」とかれは目をぱちくり。
「
仰せにはござりますが、
勝家一族が、ご当家を
袋攻めにせん奇陣をくふうし、
雪解けとどうじに出陣の
密策をさぐってまいりましたゆえ」
「わかった、わかった。そちの申すのはこれであろう」
座右の文庫から、むぞうさにとりあげて、呂宋兵衛のほうへみせた書類! ヒョイと
仰ぐと、いつぞや、
北庄城の一室で、
納戸襖から
合図されて手へわたした、あの攻軍の
秘帖だ! あの手が
秀吉だったのか? あの手が? 呂宋兵衛はぼうぜんとして二の
句がでない。
「こりゃ、そちは
幻術をやるだろうが、
諜者はから
下手じゃの。さぐりにかけては、まだそこにいる男のほうがはるかにうまい」
と、
可児才蔵を
顎でさした。
「才蔵、びっくりしておるわ、
種をあかしてやれ」
「はッ、呂宋兵衛どの」
と、こんどは才蔵があとをうけた。
「先日はまことに失礼つかまつった」
「や! ではあの時、うしろから手をだされたのは?」
「
貴公よりまえに、
北庄城へさぐりにはいっていた
拙者でござる。また、
橡ノ
木峠でごあいさつして通ったのもすなわち拙者で」
「ははあ……」といったまま、
呂宋兵衛も
蚕婆も、すっかり
毒気をぬかれたていで、いままで
喋々とならべたてた
吹聴が、いっそう
器量を悪くした。
と、そのとき、
羽柴の
荒旗本、
脇坂甚内、
平野三十郎、
加藤虎之助の三人、バラバラと
幕屋の
裾にあらわれて一大事を報告した。
しかも、ふしぎな事件である。
いま、ふいにこの陣屋へ
徳川家の
武士五人がおとずれてきた、というのである。五人の
頭は、徳川家のうちでも、音にきこえた
菊池半助。
その半助のいうには、
武田勝頼、ほかふたりの従者がすみぞめの
衣に
網代笠を
目ぶかにかぶり、ひそかに、東海道からこの京都へはいったので
追跡してきたが、ついに、この
洛中で見うしなったゆえ、羽柴どののご手勢でからめてもらいたいとの
口上である。
こんな
奇怪な話はない。
武田四郎勝頼――、すなわち、
伊那丸の父なる大将は去年天正十年三月、
織田徳川の連合軍にほろぼされて、
天目山の
麓ではなばなしい
討死をとげていること、天下の有名、だれあって知らぬものはない。
だのに、その勝頼が、すみぞめの
衣をきて、京都にはいったとは、なんとしても
面妖である。
「おまちがいないか」
と、
虎之助が念をおした時、
「断じてそういはござらん」
と、
菊池半助が
語をつよめていった。
しかし、京都は
徳川家の
勢力圏内ではない。ぜひお
手配をわずらわしたい、との
懇願。事件、人物がまた
容易ならぬ人、なんとへんじをしましょうかと、三人の
旗本がこもごも申したてた。
「ふウむ……勝頼がな」
と
秀吉も、これを聞くとしばらく
沈思瞑目していたがやがて重く、
「ほかならぬ徳川どののおたのみ、聞いてあげずばなるまい。しょうちいたしましたとごへんじをいたせ」
「はッ、お
伝え申しまする」
と
平野三十郎ひとりだけが立ってゆく。と、
脇坂甚内すぐに
小膝をゆるがして、
「ご
承引のうえは、それがしと
虎之助どのとにて、四郎
勝頼のありかをたしかめ引っとらえてまいりましょうか」
「待てまて……」
秀吉は、まだ
瞑目をつづけていたが、はじめて、いつもの調子でいいのける。
「やがてこの
筑前守は
伊勢の
滝川攻めじゃ、この用意のなか、死んだ勝頼をさがしているひまな
郎党はもたぬ」
「はッ」
甚内は五体をしびらせておそれいった。
「じゃが、ひきうけたこと
抛ってもおけまい、この役目は
和田呂宋兵衛に申しつける。よいか」
「しょうちいたしました、すぐ
洛中をくまなくただしてご
前へその者を
召しつれます」
「やってみろ、そちには手ごろな尋ねものじゃ」
人使いの名人、顔を見たとたんに、もう呂宋兵衛をあそばせておかなかった。が、ふしぎな
大役、いいつけられた、呂宋兵衛のほうでも、なんだかムズムズ油がのる。
秀吉公への
目見得の
初役、ぜひ引っからめて見せねばならぬとひそかにちかった。
ましてや、
武田四郎勝頼、
伊那丸の父である。事実、
天目山で
討死していなかったとすれば、天下の風雲、さらに
逆睹すべからざることになる。
里の二月は
紅梅のほころぶころだが、ここは
小太郎山の中腹、西をみても東をながめても、
駒城の峰や
白間ヶ
岳など、
白皚々たる
袖をつらねているいちめんの銀世界で、およそ雪でないものは、
伊那をながるる
三峰川か、
甲斐へそそぐ
笛吹川のあおいうねりがあるばかり。
「北国すじへ
間者にいった、
巽小文治はどうしたであろう」
「そういえば、東海道へいった
山県蔦之助も、もうもどってこなければならないじぶんだが? ……」
小太郎山の山ふところ、
石垣をきずき
洞窟をうがち、
巨材巨石でたたみあげた
砦のなかは、そこに立てこもっている人と火気で、
室のようにあたたかい。
いま、砦の一ヵ所に
炎々と
篝をたいて、
床几にかけながらこう話しているのは、
忍剣と
龍太郎であった。
「ふたりとも、あまりに日数がかかりすぎる。悪くするとこの雪に道でもふみちがえて
凍えたのではあるまいか」
「いや、とちゅうには
番卒小屋もあり、部落部落には味方もいるから、けっしてそんなはずはない」
「では深入りして
徳川家のやつに、生けどられたかな」
「
蔦之助も
小文治も、おめおめ敵の
縄目にかかる男でもなし……きっとなにか大事なことでもさぐっているのだろう。それよりあんじられるのは
竹童じゃ」
と、龍太郎は
眉をくもらせた。
「オオ、竹童といえば、いったいどこへいってしまったのか、とんと
尻のおちつかぬやつだ」
「しかしあいつのことだから、かならずクロをさがしだして、元気な顔でもどってくるだろうが、この雪や氷の冬のうちを、どこで送っているかと思うと、ふびんでもありしんぱいでならぬ……」
さすがに
木隠龍太郎は、兄弟
弟子の竹童を、明けくれ忘れていないのである。
去年の晩秋――
人穴城をおとし
法師野の里に
凱歌をあげた
武田伊那丸は、折から冬にかかってきたので、
幕下の
旗本をはじめ二千の
軍兵をひきいて、ひとまずこの小太郎山へ引きあげたのだ。
しばらくは、この山城で冬ごもりだ。
陣具をつくり武器をとぎ、英気をやしなわせて、春の
雪解けをまっている。
で、おん大将をはじめ
軍師の
民部も、
咲耶子も、みな一
家のごとく
団欒して、この冬をこし、
初春をむかえたのであるが、ただひとり、人気者の竹童がいないのは、なにかにつけて、だれもがさびしく感じていた。
竹童よ、竹童よ。おまえはいったいどこにいるか?
ああ、クロの
行方がわからないように、竹童のたよりもいっこうわからない――と、いまも龍太郎が灰色の空をあおいで
長嘆していると、バラバラと、
砦の
柵の方から、ひとりの
番卒がかけてきた。
「
木隠さま!
加賀見さま!」
「なんじゃ」
煙のかげからふたりの声が一しょにおうじた。
「ただいま、
巽小文治さまと
山県さまが、ふもとのほうからこちらへのぼっておいでになります」
「オオ、かえってきたか!」
ふたりはすぐに
篝をはなれて立ち、バラバラと砦の一の柵まで迎えにかけだした。
ここは大将の陣座とみえて、
綺羅ではないが
巨材をくんだ本丸づくり、おくには
武田菱の
幕がはりまわされ、そのなかにあって、
当の
武田伊那丸は、いましも、
軍師小幡民部から、
呉子の
兵法図国編の
講義をうけているところであった。
そばには、
咲耶子もいて、氷のような
板敷にかしこまり両手を
膝において、つつしんで聞いている。
と――、幕をはらって
加賀見忍剣、
「わが君」
と声をかけた。
「おお忍剣、なんであるな」
「ご講義ちゅうでござりますか」
「いや、兵学のつとめも、ちょうどおわったところじゃ」
「では、せんこく帰陣しました
山県、
巽のふたり、すぐこれへ
召入れましてもよろしゅうござりましょうか」
「オオ、北国と
徳川領へさぐりにいったふたりのもの、日ごとに帰りを待っていた。すぐここへ呼んでよかろう」
「はッ」
幕をおとして忍剣のすがたが消えると、やがてふたたびその幕がはねあげられ、
山県蔦之助と
巽小文治、それに
龍太郎と忍剣もつづいて、
伊那丸の前へひざまずいた。
「雪中の
細作、さだめし
難儀にあったであろう」
と伊那丸は、まずふたりの使いをねぎらって、
「順序として、北国
筋の動静をさきに聞きたい、小文治そちのさぐりはどうであった」
「はッ」
威儀をただして、小文治が復命する。
「
多宝塔のいただきから、たくみに
鷲をつかって逃げうせました
呂宋兵衛は、どうやら、
越前北ノ
庄を経て、京都へ入りこみましたような
形跡にござります」
「ウーム、京都へ!」
小幡民部がうなずいた。
「おりから、
裾野にいた
鏃鍛冶の
卜斎も、
柴田の家中へひきあげて、
北庄城では
雪解けとともに、
筑前守秀吉と一戦をなす用意おさおさおこたりなく、国境の
関はきびしい固めでござります」
「それでおよそのようすはわかった……」
と
伊那丸はつぎに
山県蔦之助へことばをむける。
「して、東海道のほうにはなんぞかわりはないかの」
「若君――」
すぐ受けて蔦之助、
「
容易ならぬうわさをきいてござります」
といった。
「なに、容易ならぬうわさとな?」
「また
徳川の
痩武者どもが、この
砦へ
攻めよせてくるとでもいうことか」
忍剣は
気早な肩をそびやかした。
「それとはちがって、世にもふしぎなうわさでござる」
と、
蔦之助は
伊那丸の顔をあおぎ見ながら、
「――若君、おおどろき遊ばしますな、そのうわさともうすのは、お
家滅亡のみぎり、あえなく
討死あそばしたと人も信じ、またわれわれどもまでが、うたがって見ませぬ四郎
勝頼さま」
「オオ、父上――その父上がなんとあるのじゃ」
「じつはお
討死とは
表向きで、まことは、
天目山の
峰つづき、
裂石山雲峰寺へいちじお落ちなされて、世間のしずまるころをお待ちなされたうえ、このほど身をいぶせき
旅僧にかえられ、ひそかに、京都へお入りあそばした
由にござります」
「えッ!」
はたして伊那丸のおどろきは一通りではなかった。
勝頼――と父の名をきいただけでも、はやその
眸はうるみ、胸は恋しさにわななくものを、まだ
存命ときいては、そぞろ恩愛の
情あらたにひたひたと胸をうって、
歓喜と
驚愕と、またそれを、怪しみうたがう心の雲が
入りみだれる。
「ではなんといやる、父上にはなおご武運つきず、旅の僧となって、都へおちゆかれたと申すのか――蔦之助もっとくわしゅう話してくれ」
「されば、まだことの
虚実は明確に申しあげられませぬが、東海道――ことに
徳川家の
家中においてはもっぱら
評判いたしております。それゆえ、なお浜松の城下まで
入りこみまして、ふかく
実否をさぐりましたところ、その
旅僧を
勝頼なりといって、
隠密組の
菊池半助、京都へ
追跡いたしました」
「ウーム、さては
真にちがいない」
心そぞろに、
伊那丸のひとみは
燃える。
「意外なこともあるものじゃ。
真実、
勝頼公が世におわすとすれば、
武田のご武運もつきませぬところ、若君のよろこびはいうもおろか、われわれにとっても、かようなうれしいことはないが……」
つぶやきながら
軍扇をついて、ふかく考えているのは
小幡民部である。しかし、
加賀見忍剣や
龍太郎やまた
咲耶子にいたるまで、みなこの報告を天来の
福音ときいて
武田再興の
喜悦にみなぎり、春風
陣屋にみちてきた。
「京都へまいろう! そうじゃ、すぐ京都へまいってお父上にめぐりあおう!」
なかにも伊那丸は、おさなくして別れた父、なき人とばかり思っていた父――その父の
存命を知っては、いても立ってもいられなかった。
「民部、わしはこれよりすぐに京都へまいるぞ、そしてお父上を
小太郎山へおむかえ申さねばならぬ」
一
刻のゆうよもならずと立ちあがった。
「しばらくお待ちあそばしませ」
いつも
思慮ぶかい
小幡民部、しずかに、
伊那丸の
裾へよって両手をついた。
「民部、そちはわしの孝心をとめるのか」
「なんとしてお
止め申しましょう。若君のお心、そうなくてはならぬところでござります。しかしようお考えあそばせ、元来、
徳川家には
策士の
伝言多く、
虚言浮説は戦国の常、にわかにそれをお信じなされるもいかがかとぞんじます」
「いいや、徳川家の
菊池半助が、それとみた旅の
僧を、京都まで追いつめていったとあれば、こんどのうわさはうそではあるまい。まんいち、時をあやまって、お父上が、
家康の手にでも
捕われたのちには、もうほどこすすべはないぞ、この伊那丸が
生涯の大不孝となろうぞ」
「おお、ぜひもござりませぬ……」
さすがの
民部にもそれをはばむことはできない。かれはとちゅうの変をあんじ、伊那丸じしんがとおく旅する危険を
予感しているが、孝の一
言! それをさえぎる
文字は、兵法にもなかった。
にわかに、旅のしたくがふれだされた。
旅から旅をつぐ
道筋は、みな敵の
領土だ。むろんしのびの旅である――ともは
加賀見忍剣、
木隠龍太郎のふたりにきまった。
雪をふんだ一列の人馬が、
蟻のように小さくくろく
小太郎山の
砦をくだった。ふもとの
野呂川は富士川へ水つづき、
筏にうつった伊那丸と忍剣、龍太郎の三人は、そこで送りの兵をかえし、雪と水しぶきの
銀屑を突ッきって、まっしぐらに、東へ東へと
下っていった。
父にめぐり
会いたさの一
心、
伊那丸は敵地をぬけ、
関をかすめて旅する苦しさやおそろしさを思わなかった。
東海道のうら道をぬけて、主従三人が京都へたどりついたのは二月のすえ。おりから
伊勢路一円は、いよいよ
秀吉が三万の強軍を
狩りもよおして、
桑名の
滝川一益を攻めたてていたので、
多羅安楽の山からむこうは
濛々たる
戦塵がまきあがっていた。
伊勢は
戦といううわさだが、京都の空はのどかなものだ。
公卿屋敷の
築地には、
白梅の
香がたかく、
加茂川の
堤には、若草がもえている。
そのやわらかい草のうえに、グタリと足をのばしている少年。ときどき、水をみてはさびしい顔――空をあおいではポロポロと、
涙をこぼしている。
「クロ! クロ! こんなにおまえをさがしているおいらをすててどこへかくれてしまったんだい、クロ、もう一どおまえのすがたを見せておくれ。おいらはおまえがいないので、こんなにさびしがっているんだぜ! さがしてさがしぬいて、こんなにつかれているんだぜ!」
鞍馬の
竹童は空へむかってこう叫んだ。
しかし、その
訴えに答えてくれるものもなければ、クロの
幻影さえも見えてこない。かれはまたぼんやりと加茂の流れをみつめていた。
すると、往来からこっちへ歩みよってきた男が、
「おい、おまえは
竹童じゃねえか」
ふいに背なかをたたいていった。
「え?」
と、すこしおどろいた顔をして、その男をふりあおいだ竹童は、へんじをするまえにパッと立ちあがって、
般若丸の
柄へ手をかけた。
「おいおい、やぼなことをするなよ」
と、男は手をかまえて、飛びのきながら、
「人の
面をみると、すぐ
喧嘩面だから
怖ッかなくってしようがねえなあ。竹童、おめえとおれとは、なにも
仇同志じゃあるめえし、そういつまで
根を持つことはねえじゃねえか」
としきりとなだめている男は、
裾野落ちのひとりである
早足の
燕作。なぜか、きょうにかぎってばかに
下手だ。
「なあ竹童――じゃあない、竹童さん。そういつまでも
怒ってるのはやぼだぜ。
呂宋兵衛は
没落するし、
人穴城の
住人でもなくなってみれば、おまえとおれはなんの仇でもありゃしねえ。久しぶりで仲よく話でもしようじゃねえか」
竹童は
純なものだ。そういわれてまで、かれを
敵視する気にもなれないので、
意気ごんだ
力抜けに、またもとの
堤草へ腰をおろした。
「みょうなところで
会ったなア」
と
燕作もそばへ
寄ってきて、
「どうしておまえひとりで、こんなところにぼんやりしているのよ。え? ばかに元気のねえ顔つきじゃねえか」
「クロがいなくなったので、それでがっかりしているんだよ」
「クロ? ……なんだい、クロってえのは」
「おいらのかわいがっていた
大鷲」
「ああなるほど――」
と燕作は手をうって、
「あれならなにもしんぱいすることはねえぜ。泣き虫の
蛾次公が、おまえのすきをねらって、乗りにげしたッていう話だから」
「ところが
行方が知れないんだもの――しんぱいしずにいられないよ」
「なアに、蛾次公のことだもの、いまにあっちこっちを飛びまわったあげくに、この京都へもやってくるにきまってら。な、そこをギュッと取っつかまえてしまいねえ」
「ああ、おいらもそう思って、
北国街道から、雪のふる
橡ノ
木峠をこえて、この京都へきたけれど……まだ鷲の
影さえも見あたらない」
「そう
短気なことをいったってむりだ。ものはなんでもしんぼうがかんじんだからな……おや、そりゃそうと、
竹童さん、おまえはたいそうすばらしい刀をさしているじゃねえか」
と、
燕作はソロソロ
狡獪な
本性をあらわして、なれなれしく竹童の
帯びている
般若丸の
鍔や
目貫をなでまわしながら、
「こりゃ
大したものだ。目貫の
獅子は
本金で、
鍔は
後藤祐乗の作らしい。ウーム……どうだい竹童さん、ものはひとつそうだんだが、その刀をおれに四、五日
貸してくれないか」
「えッ」
竹童は
図々しい相手のことばにびっくりして、
「とんでもないこと! この刀は貸すどころか、ちょっとでも
肌身をはなすことのできないだいじな
品物だよ」
「そんな
意地の悪いことをいうなよ。じつは
裾野を落ちていらい、
着のみ着のままで、
路銀もなし
資本もなし、なにをすることもできずに
困っているところだ。
後生だから、その刀を貸してくんねえ。二、三百両にゃ売れるだろうから、そうしたらおまえにも、
小判の十枚や二十枚は分けてやるぜ」
「ばかなことをいうとしょうちしないぞ」
「オヤ、こんちくしょう」
と
燕作はグッと
腕をまくりあげて立ちあがって、竹童の胸ぐらをつかんだ。
「さっきから
下手にでていればツケあがって、
素直にわたさねえとまた
痛い目に会わすからそう思え」
「おのれ、さてはやさしくいいよって、はじめからこの刀をとろうとしていたんだな」
「知れたことよ。だれが、てめえみてえな
山猿に、ただペコペコするやつがあるものか!」
「ちぇッ、そう聞けばなおのこと、
命にかけても
般若丸をわたすものか!」
「命知らずめ、
後悔するなよッ」
もろ手で
咽をしめつけながら、足がらみをかけて、ドンとねじたおすと、たおれたとたんに竹童が、さっと下から般若丸の
冷光をよこざまにはらった。
「おッとあぶねえ!」
一
足とびに
切ッ
先をかわして、おのれも
脇差をぬきはらった燕作、
陽にかがやく大刀をふりかざして、ふたたびタタッ――と斬りこんでくる。
竹童はすばやく
跳ねかえって、チャリン! とそれを引ッぱずした。が、それは
剣の法ではなく、いつも使いなれている
棒の
呼吸だ。
鞍馬のおくを
下りてから、きょうまでいくたびも生死のさかいを
超えてきたが、ほんものの刀をとって、
敵と
刃交ぜするのは竹童きょうがはじめての
経験である。なんともいえぬおそろしさだが、またなんともいえぬ
壮快な気分と、
必死の力が五
肢にも
刃にもみなぎってくる――
「この
山猿め、
味なまねをしやがるな」
燕作は見くびりぬいて
上段にかまえ、すきをねらって竹童の手もとへ、パッと斬りつける。
鞍馬の竹童、
剣道は知らぬが、
胆は
斗のごとしだ。
「なにをッ」
と
叫ぶがはやいか、名刀
般若丸を
棒とおなじに
心得て燕作の刀へわが刀をガチャッとたたきつけていった。
なんでたまろう、二
条の
白虹、パッと火花をちらしたかと思うと、燕作の
鈍刀がパキンと折れて、
氷のごとき
鋩子の
破片、クルッ――と
虚空へまいあがった。
「しまった!」
と燕作、
悲鳴をあげて
逃げだすところを、やっと
追いすがった竹童が、ただ
一息に、
斬りさげようとすると、サヤサヤと葉をそよがせた
楊柳のこずえから、雨でもない、
露でもない、ただの光でもない、音のない銀の風!
オオ、
無数の
針!
光線をそそぐがごとくピラピラピラピラ! と吹きつけてきて竹童の目、竹童の耳、竹童の
毛穴、ところきらわずつき
刺さッた。
「ウーム?」
と
息ぐるしい
悶絶の
一声。
さすが
気丈な
怪童子も、その一
瞬に、にわかにあたりが
暗くなった
心地がして、名刀
般若丸をふりかぶったまま、五
肢を
弓形に
屈して、ドーンとうしろへたおれてしまった。
「ざまをみやがれ、すなおに
渡してしまえばいいに、おあつらえどおりに、
苦しい目を見やがった」
セセラ笑って、ひっ返した
早足の
燕作、
歯がみをする竹童の
胸板に足をふんがけて、つかんでいる
般若丸を力まかせに引ったくった。
そして、ニヤリと
刃渡りをながめていると、ふいにだれか、えりくびをムズとつかんだ。
「あッ、なにをするんだ」
いうまもなかった。
フワリと足が大地をはなれたとたんに、かれのからだは
宙をかすって、
堤の若草を二、三
間さきへズデンともんどり打っている。
「ア
痛ッ」
と
跳ねおきて見ると、いつの
間にそこへきたか、
網代の
笠を
眉深にかぶったひとりの
旅僧、ひだりに
鉄鉢をもち、みぎに
拳をふりあげて、
「こりゃ、かような少年をとらえてなんとするのじゃ」
はッたと
睨めて、よらばふたたび投げつけそうな
構えである。
「おや、この
乞食坊主め、よくも
生意気な手だしをしやがったな!」
うばい取った
般若丸を持ちなおして、いきなり
燕作が
斬ってかかると、旅僧はやすやすと体をかわして、手もとへよろけてきた小手をピシリと打った。――燕作はしたたかに
手首をうたれて、ホロリと刀を落としたので、それをひろい取ろうとすると、ふたたびヤッ! というするどい気合い、こんどは
堤の下へつき落とされた。
ズルズルとすべり落ちたが、まだ
性こりもなく起きあがって、いまの
仕返しをする気でいると、ひとりとおもった旅僧のほかに、まだ同じすがたの
行脚僧がふたり、すぐそこにたたずんでいたので、
「あッ、いけねえ!」
とばかり一もくさん、堤のしたを
縫って
逃げだしてしまった。
そのうしろすがたのおかしさに、ふたりの
僧は見おくりながら、
「ははははは」
とほがらかに笑い合う。
と、堤の上から先のひとりの僧が
降りてきて、燕作のすてていった
般若丸をたずさえてきて、
「この
太刀を見おぼえはござりませぬか……」
膝をおって、
丈のたかい
僧のひとりへさしだした。
網代笠にかくされて、
僧のおもざしはうかがいようもないが、
丸ぐけの
紐をむすんだ口もとの色白く、どこか
凛々しいその
行脚僧は、
衣のそでで
陽をよけながら、ジイッと
刃をみつめていたが、やがてきわめてひくい声で、
「さてさて
珍しい刀をみることじゃ」
感慨無量な
語調をこめて、
瞳もはなたずつぶやいた。
「見るもなつかしいことである。これはまぎれもなき
伊那丸の
守り
刀……」
「わたしも、しかとさように
心得ますが」
「つきぬ
奇縁じゃ……おもえばふしぎな刀とわが身のめぐりあわせのう」
「
御意にござります、あれにたおれている少年を
介抱して、ひとつしさいをただしてみましょうか」
「いや、世をしのぶ身じゃ。それはソッと少年の
鞘にもどしておいたほうがよい」
「しかしなにやら、
苦しんでおりますものを、このまま
見捨ててまいるのもつれないようにぞんじますが」
「オオ、では、
河原の水でもすくってきてやれい。じゃが、
夢にも刀のことはきかぬがよいぞ。
訊けばこなたの
素性も人に
気どられるわけになる」
「しょうちいたしました……」
と、ひとりが
河原へ
下りていくと、ひとりは
竹童を
抱きおこして
活をいれ、口に水をあたえただけで、ことばはかけずにスタスタといき
過ぎてしまった。
「ア
痛……どなたですか……ありがとうございました。ありがとうございました……」
竹童は
遠退く
跫音へいくども
礼をいったが、
両手で顔をおさえているので、それがどんな
風の人であったか、見送ることができなかった。
顔をおさえている指のあいだから、タラタラと赤い血の
筋……
「あ
痛ッ……」
と
片手さぐりに河原の水音をたどっていった竹童、岩と岩との間から首をのばして、ザアッと流れる水の
瀬で
血汐をあらい、顔をひやし、そして目や
髪の毛のあいだに
刺さッた
針を一本ずつ抜いてはまた目を洗っていた。
そのあいだに――
以前の場所の
楊柳のこずえから、ヒラリと飛びおりたひとりの女がある。
女といってもお
婆さんだ。
修道士の
服をかぶった
蚕婆――。
くろい
頭巾の中から、
梟のような目をギョロリとさせて、
柳がくれに
遠去かる三つの
網代笠を見おくっていたが、やがてウムとひとりでうなずいた。
いつか河原は
暮れている――
青いぶきみな
妖星が、四
条の水にうつりだした。
伊勢路に
戦のあるせいか、日が
沈んだのちまでも東の空だけはほの赤い。
「あいつだ! たしかにあいつにちがいない!」
こうさけんだ
蚕婆、
妖霊星をグッとにらんで、しばらく首をかしげていたが、まもなく、黒い
蝶々が飛ぶように、そこからヒラヒラと走りだした。
空にはうつくしい
金剛雲、
朱雀のはらには、
観世水の
小流れが、ゆるい
波紋をながしている。
月はあるが、
月食のような春のよい――たちこめている
夜霞に、家も
灯も野も水も、おぼろおぼろとした夜であった。いつともなく
菊亭右大臣家の
釣り
橋にたたずんだ三人づれの
旅僧は、
人目をはばかりがちに、ホトホトと裏門の
扉をおとずれていた。
「はて、まだ
答えがござりませぬが、どうしたものでござりましょう」
やがて、
当惑そうにつぶやく声がきこえた。
「まえもって、
密書をさしあげてあることゆえ、
館にはとくよりごぞんじのあるはずだが……」
「あまりあたりをはばかりますゆえ、まだ
詰め
侍が気がつかぬのでござりましょう。どれ……」
となかのひとりが、こころみにまた、
閂をガタガタゆすっていると、こんどは、その
合図がとどいたとみえて奥にもれていた
小鼓の
音が
はたとやみ、同時に人の
跫音がこなたへ近づいてくるらしい。
ギイ……とうちから
裏門の
扉があかった。
ななめに、
紙燭の黄色い明かりがながれた。その明かりに、
泛いた
僧形のかげを見ると、顔をだした
公卿侍は、
「や! これは?」
とおどろいたさまで、すぐに、ふッとかざしてきた紙燭を吹きけしてしまった。
「意外にお早いお
着き、お
館さまもお待ちかねでござります。いざ……」
あたかも、
貴人の
微行でも
迎えるように、いんぎんをきわめて、
扉のすそにひざまずいた。
網代笠をかぶった三人の僧形は、
黙々として、その
礼をうけ、やがてあんないにしたがって、
菊亭殿の奥へ、スーッと
姿をかくしてしまった。
ふたたび
閉めきられた
裏門は、
秘密をのんでものいわぬ口のようにかたく
封じられた。夜はふけてくるほど、草にも花にも
甘い
香が
蒸れて、あとはただ
釣り
橋の
紅梅が、
築地をめぐる水の上へ、ヒラ、ヒラと花びらくろく散りこぼれているばかり。
すると、その
濠ぎわの木のかげから、ツイとはなれた
人影があった。
黒布をかぶった
妖婆である。いうまでもなく、それは
加茂の
堤から、三人の
僧をつけてきた
蚕婆――
修道士すがたの黒いかたちが、
朧月の大地へほそながく
影をひいた。
婆はヒラヒラと
釣り
橋のそばまできて、かたく
閉じた
裏門を見まわしていたが、やがて
得意そうに「ひひひひひひひひ」と、ひとりで笑いをもらした。
「あれだあれだ、やっぱりわしの目にまちがいはなかったぞよ。あの三人の
僧侶のうちのひとりがたしかに
武田勝頼、あとのふたりは
家来であろう。うまく
姿をかえて
天目山からのがれてはきたが、もうこの
婆の目にとまったからには、
運のつき……すこしも早く、
呂宋兵衛さまへ、このことを知らさなければならぬが、めったにここをはなれて、また
抜けだされたら
虻蜂とらずじゃ、ええ、あの
半間の
燕作のやつ、いったいどこへいってしまったのだろう」
ブツブツ
口小言をいいながら、
濠のまわりをいきつもどりつしていると、向こうから足をはやめてきた男が、ひょいと木を
楯にとって、
「だれだ! そこにいるなあ?」
と、ゆだんのない目を光らした。
「おや、おまえは燕作じゃないか」
「なアんだ、
婆さん、おめえだったのか」
と、声に安心して、
早足の燕作、木のそばをはなれて
蚕婆のほうへのそのそと
寄ってきた。
「どうしたんだい、半間にもほどがあるじゃないか」
と
婆は
燕作を
息子のように
叱りつけて、
「
竹童みたいな
小僧には
斬りまくられ、
旅僧ににらまれればすぐ
逃げだすなんて、いくら
町人にしても、あまり
度胸がなさすぎるね」
「
婆さん婆さん、そうガミガミといいなさんな。あれでも燕作にしてみりゃ、
精いっぱいにやったつもりなんだが、なにしろ竹童のやつが
必死に
食ってかかってきたので、すこし
面食らったというものさ。だがおまえが木の上にかくれていて、れいの
針をふいてくれたので大助かりだッたぜ」
「そうでもなければ、おまえさんは、あんな小さな者のために、
般若丸のためし斬りにされていたろうよ」
「まったく! あいつは
鷲乗りの名人だとは思ったが、
剣道まで、アア
上手だとは
夢にも気がつかなかった」
「なアに竹童は
剣術なんて、ちっとも知っていやしないのだけれど、おまえのほうが
弱過ぎるのさ。だがまア、そんなことはもうどうでもいいや、燕作さんや、一
大事が起ったよ」
「え? またいそがしくなるのかい」
「用をたのみもしないうちから、いやな顔をおしでないよ。おたがいにこれが
首尾よくいけば、
呂宋兵衛さまも一
国一
城の
主となり、わたしや、おまえも
秀吉さまからウンとご
褒美にありつけるんじゃないか、しっかりしなくッちゃいけないよ」
「
合点合点。ところでなんだい、その一大事とは」
「それはね……」
婆はギョロリと
館のほうへ目をくばってから、
燕作のそばへすりよって、その耳へ口をつけてなにやらひそひそとささやきだした。
しばらく、目を白黒させて聞いていた燕作。
「えッ、じゃさっきの
旅僧が、
天目山からのがれてきた
勝頼だったのか」
「しッ……」
その
素頓狂な声をおさえつけて、
「わたしはここに
見張っているから、はやくこのことを
呂宋兵衛さまに知らせてきておくれ。こんな
役目はおまえさんにかぎるのだから」
「よしきた! おれの
足なら一
足とびだ」
「そして、すぐに
手配をまわすようにね」
「おッと
心得た!」
いうが早いか燕作は、
朱雀の原をななめにきッて、お手のものの
韋駄天ばしり、どこへ
駈けたか、たちまち、すがたは
朧の
末にかくれてしまう。
あとにのこった
蚕婆は、黒い
袖を頭からかぶって、
釣り
橋のかげにピッタリと
身をひそめている。そして
菊亭殿の
奥のようすをジッと聞きすましているらしかったが、ひろい
大殿作りの内からは、あれきり
鼓の
音も人声ももれてはこず、ただ
花橘や梅の
香に、ぬるい夜風がゆらめくのを知った。
駈けるほどにいくほどに、
早足の
燕作は、さっさつたる
松風の声が、しだいに耳ちかくなるのを知った。
臥龍に似たる
洛外天ヶ
丘のすがたは、もう目のまえにおぼろの空をおおっている。
「アア、
息がきれた……」
よほどいそいだものと見えて、さすがの燕作も、そこでホッと
一息やすめた。
丘はさして高くはないが、
奇岩乱石の
急勾配、いちめんに
生いしげっている
落葉松の中を、わずかに、石をたたんだ
細道が
稲妻形についている。
「どりゃ、もう一息――」
というと燕作は、
兎のようにその道をピョイピョイと
登りだした。やや中ごろまでのぼってくると、道は
二股に分れて右をあおぐと、
石壁の
堂に
鉄骨の
鐘楼がみえ、左をあおぐと、松のあいだに
朱い
楼門がそびえていた。燕作はひだりの
朱門へさして
駈けのぼった。
これこそ、有名な洛外天ヶ丘の朱門。
なんで有名かといえば、その
門作りがかわっているためでもなく、
風光明媚なためでもない。ここのいただきの平地に、
織田信長の
建立した
異国風の
南蛮寺があるからである。
まだ信長の世に時めいていたころは、
長崎、
平戸、
堺などから京都へあつまってきた、
伴天連や
修道士たちは、みなこの
南蛮寺に住んでいた。そして
仏教の
叡山におけるがごとく、ここに
教会堂を建て、十
字架の
聖壇をまつり、マリヤの
讃歌をたたえて、朝夕、南蛮寺のかわった
鐘の
音が、
京都の町へもひびいていた。
しかし、
本能寺の
変とどうじに、
異国の
宣教師たちは信長というただひとりの
庇護者をうしなって、この南蛮寺も
荒廃してしまった。そして
無住どうようになっていたので、
秀吉は
呂宋兵衛に、
天ヶ
丘へ
居住することをゆるした。だが、南蛮寺をおまえにやるぞとはいわない。しばらくのあいだ、あれに住めといったばかり、要するに呂宋兵衛は、
荒廃した南蛮寺の
番人におかれたわけである。
だが、
慾のふかい呂宋兵衛は、もう南蛮寺を
拝領したようなつもりで、すっかりここに根を
生やし、またボツボツと
浪人者を
山内へあつめて、あわよくば、一
国一
城の
主をゆめみている。
だから、むろん、
祭壇はあれほうだいだし、もとの
教会堂には、
槍や
鉄砲をたくわえこみ、うわべこそ
伴天連の
黒布をまとっているが、心は、
人穴時代からかわりのない
残忍なるかれであった。
「よくいう
諺に、
天道さまと米の
飯はつきものだというが、まッたく世のなかはしんぱいしたものじゃない。
人穴城がなくなったと思えば、こんないい
棲家がたちまちめっかる。わはははは、富士の
裾野だの
大江山だのにこもっているより、いくら
増しだか知れやしねえ。しかもこんどは、
羽柴秀吉から
公にゆるされているのだからなおさら安心、しかし、だれもかれも、悪事をやるなら
上手にやれよ、
裾野とちがって
都のなか、あの秀吉ににらまれると、おれもすこし
困るからな」
広間には、
燃えるような
絨氈をしきつめてあった。そこは
南蛮寺の一室。四
方に大きな
絵蝋燭をたて、
呂宋兵衛は、中央に
毛皮のしとねをしき、大あぐらをかいて、
美酒をついだ
琥珀のさかずきをあげながら、いかにも
傲慢らしい
口調でいった。
「なあ
昌仙、そんなものじゃないか」
「
仰せのとおり、こうなるのも、
頭領のご武運のつよい
証拠でござる」
そばにいて、
相槌を打ちながら、頭をさげた武士の
容形、どこやら、見たようなと思うと、それもそのはず、
人穴落城のときに、
法師野までともに落ちてきて別れわかれになった
軍師、
丹羽昌仙だ。
席には、昌仙以外にも、人穴城から落ちのびてきた
野武士もあり、あらたに加わった
やくざ浪人もいならんでその数四、五十人、
呂宋兵衛のお
流れをいただきながらどれもこれも、
軽薄なお
追従をのべたてている。
ところへ、
朱門をぬけて、
本堂の
階段からバラバラと
駈けあがってきたのは
早足の
燕作。
「お
頭、とうとう
目っけてまいりました」
と、
廻廊のそとへ、
膝をついて
大汗をふいた。
「おう、
燕作か」
と、
呂宋兵衛は、
大広間からかれのすがたを見て、
「目っけてきたとは
吉報らしい。ではなにか、
勝頼の
在り
家が、知れたというのか」
「へい……それなんで」と燕作は、
唾で
喉をうるおしながら、
「じつあ、きょうも、それを
探索するために、
蚕婆とふたりで、
加茂川の岸をブラブラ歩いていると、ごしょうちでがしょう、あの
鞍馬の
竹童のやつがボンヤリ
堤に腰かけていたんです。見ると、すがたに
似合わぬ名刀をさしているので、こいつ一番セシめてやろうと、蚕婆はやなぎの木の上にかくれ、わっしはそしらぬ顔で、なれなれしく話しかけたものです」
「やいやい、燕作!」
ふいに呂宋兵衛が
魔のような口を開いてさえぎった。
「バカ
野郎め。目っけたというのはその竹童のことをいうのか。ふざけやがッて! だれがあんな
小僧をさがせといいつけたのだ」
「ま、ま、待っておくんなさい」と燕作はちぢみあがってどもりながら、
「その竹童のことは、話の
順序なんで……じゃ、てッとり
早く
本筋をもうしあげます。そこへ通りかかった三人の
旅僧、
挙動があやしいので
蚕婆がつけていくと、
朱雀の原の……ええと……なんといッたっけ……おおそれそれ
菊亭右大臣という
公卿屋敷の
裏門から、こッそり姿をかくしました。そのうちのひとりは、たしかに、
武田勝頼にそういないから、すぐこのことを、
呂宋兵衛さまにお知らせもうせという蚕婆からの
言伝なんで」
「ウーム、そうか……」
と、呂宋兵衛はやっとまんぞくそうにうなずいたが、まだうたがい深い顔をして、
「どうだろう、
昌仙、そいつアたしかに勝頼かしら?」
「さよう……」
と
丹羽昌仙、じッとうつむいてかんがえていたが、なにか思いあたったらしく、
丁と
膝をうって、
「たしかにそういござるまい!」
と
断言した。
「どうしてそれがわかるのだ」
「そのわけは、
菊亭家と、
武田の
祖先とは、
縁戚のあいだがら。のみならず、勝頼の祖父
信虎とは、ことに
親密であったよしを、耳にいたしました。さすれば、いま天下に身のおきどころのない、
落人が、そこをたよってくるのは、まことに
自然だとかんがえます」
「なるほど、ウム……さてはそうか!」
と
呂宋兵衛は、
昌仙の
説をきいて、それこそ、
落人勝頼の
化身にちがいなかろうと、大きく一つうなずいた。
で、すぐに、それを
召しとる方法を
議しはじめたが、昌仙にも
名案がなくなかなかそうだんがまとまらない。なぜかといえば、
菊亭右大臣ともある
堂上の
館へ、うかつに手を入れれば、
後日朝廷から、どんなおとがめがあるかもしれないから――これは
秀吉じしんの手をもってしても、めったなことはできないのであろう。
といっても、あのやかましい秀吉から、その
捕縛をいいつけられている呂宋兵衛は、なんとしても、勝頼を秀吉の面前へ
拉致していかなければ、たちまち、かれの信用が
失墜することになる。
――
策はないか! 策はないか! なにかいい
名策はないか! と呂宋兵衛はややしばらく、
額を
押さえて考えこんでいたが、やがてのこと、
「うむ、どうしても、こよいをはずしてはなおまずい。昌仙、耳を……」
決断がついたか、あの大きな
碧瞳をギョロリと光らし丹羽昌仙の耳もとへなにかの
計略をささやいて、ことばのおわりに、
「よいか!」
ときつく
念をおした。
「ご
名案、
心得ました」
「ではさきにでかけるぞ、
燕作、その
菊亭の
館へあんないをしろ」
呂宋兵衛は、くろい
蛮衣をふわりとかぶって立ちあがり、
早足の燕作をさきにたたせて、風のごとく、
天ヶ
丘から
駈けだした。
満山を鳴らして、ゴーッという一
陣の松風が、
朧月へ
墨をなすッてすぎさった。と、呂宋兵衛が、立ちさったのち、――
南蛮寺の
絵蝋燭は一つ一つふき消されて、かなたこなたから
狩りだされた四、五十人の
浪人が、いずれも
覆面黒装束になって、
荒廃した
石壁の
会堂へあつまってくる。
ガチャン! という
錠前をはずす音。ガラガラとおもい鉄の
扉を
開けるひびき――。そして
狼が
食い物へとびつくかのように、覆面の者どもが一せいにそのなかへゾロゾロはいると、たちまち
鉄砲、
鉄弓、
槍、
捕縄など、おもいおもいな
得物をえらび、
丹羽昌仙の
指揮にみちびかれて、
百鬼夜行! 天ヶ丘からシトシトと京の町へさしてまぎれだした。
風もないのに、
紅梅や
白梅の花びらが、
釣り
橋の水に
点々とちって、そのにおいがあやしいまで
闇にゆらぐ。――と、
更けわたった
菊亭家の
裏門のあたりから、
築土をこえて、ヒラリと
屋敷のなかへ
忍びこんだ三つの人かげがある。
月ヶ
瀬の
景趣をちぢめたような庭作り、
丘あり
橋あり流れあり、ところどころには、
蟇のような石、みやびた
春日燈籠の
灯が、かすかにまたたいていた。
その
館の
奥庭を、もののかげからかげへ、
暗がりから暗がりへ、ソロ……ソロ……と
息をころして
忍んでいった三つの
影は、やがてひろい
泉水の
縁へでて、たがいになにかうなずき合いながら、ひとりは右へ、ひとりは左へ、別れわかれに
姿をかくして、そこにうッすらと立ちのこったのは、
和田呂宋兵衛だけになった。
呂宋兵衛はじッとたたずんで、泉水のなかほどをみつめていた。そこには
泉殿とよぶ
一棟の
水亭がある。
泉の
亭の
障子にはあわい明かりがもれていた。その
燈影は水にうつって、ものしずかな
小波に
縒れている。
「…………」
呂宋兵衛は
唇だけをうごかして、
印咒のまなこを
閉じだした。と思うと、そッと足もとの小石をとって、池のなかへ、ポーンと投げる。
「あ!」
とおどろいたような声が、泉の亭のなかからもれ、池に面した
塗り
骨の
障子がスッと
開いた。
その
部屋から、なかば身をさしだして、音のした池の
面をながめたのは、
館の
菊亭右大臣晴季公で、そのまえには、さっきの
僧のひとりが
対坐し、ふたりの僧は、
末のほうにひかえているらしかった。
「なんじゃ……」
晴季は
微笑をふくんで、
波紋のなかにしずんでいく
魚のかげを見ながら、
「
緋鯉であったそうな……ごあんじなさるまい」
こういって、またピシャリと
障子をしめてしまった。
ところが――そのわずかもわずか、ほんの
目ばたきするあいだに、
泉の
ふちに立っていた
呂宋兵衛のすがたが
忽然と
消えてしまった。いや、消えてしまったのではない。
水遁の
秘法をもちいて、
泉殿の
橋をわたり、いつのまにか、晴季や
僧たちのいる
室のどこかに
忍びこんでいたのだ。
とも知らず――晴季は、
障子を
閉めてほッとしたもののように、また小声で、目のまえにいる
僧形の
貴人へ話しかけていたことばをつづける。
「いや、なにごとも
時世時節……こうおあきらめがかんじんじゃ。あのような水音にさえ、はッと心をおくお身の上、さだめしおつらかろうとお
察し申すが、またいつか天運のお
恵みもあろうでな。まずそれまではご一
身こそなによりの大事、かならず早まったことをなさらぬがようござる」
「お
情け、かたじけのう思います」
正面にすわった僧形の貴人は、ことばすくなに沈んでいた。これ、はたして
武田勝頼その人であるか
否かは、あまりに、主客の
対話がかすかで、にわかに
判じがたいのである。しかし
短檠の光に照らされたその
風貌をみるに、色こそ
雨露にさらされて
下人のごとく日にやけているが、
双眸らんとして人を
射るの光があり、
眉色うるしのごとく
濃く、
頬麗丹脣にして
威のあるようす、どうみても、
尋常人でないことだけはたしかである。
「とにかく、いちじこうなされてはどうであろう……」
晴季は、さらにいちだんと声をひくめて、
「
嵯峨の
仁和寺に、
麿の
親身な
阿闍梨がわたらせられるほどに、ひとまずそれへお
越し
召されて、しばらくは天下の
風雲をよそに、世のなりゆきを見ておわせ。そしてご
武運だにあらば、
機を待ってまたの大事をお
計りなさるのがなによりの
万全じゃ。……晴季はそう思うが、
御意のほどはどうおわすの?」
「しごくなお
計らい……いまの身になんのかってな
我意を申しましょうぞ。よろずとも、よろしきようにお
願いするばかりじゃ」
「では、
追い立てるようではあるが、ここの
館は
召使どもも多いことゆえ、夜明けをまって一
刻もはやく嵯峨へお身を落ちつけあそばしたほうがよい、麿から阿闍梨どのへ、しさいに
頼み
状を書いておきますでの……」
こういって
晴季は、
千鳥棚の
硯筥と
懐紙を取りよせ、さらさらと
文言をしたためだした。ところがいつになく
筆がにぶって、書いているまに
頭脳がボーと重くなり、さながらムシムシとした黒い
霧に身をつつまれているようなだるさをおぼえてきた。
はッとして、こころを
冴え
澄まそうとした。そしてなにげなく見まわすと、まえの人は
端然としているが、ふたりの
従僧は
坐しながら、われをわすれていねむっている。
「
奇怪な!」
晴季はクルクルと手紙をまいてゆだんのない目をみはった。とたんに、三人の
僧たちも、なにかいいしれぬ
魔魅の
気におそわれているのを知って、
無言のまま、ジロジロと
部屋のすみずみをみつめ合った。
しかし、
短檠のかげ、
棚のかげ、
調度のもののかげのほか、あやしいというものの
影は見あたらない。
「では……」
と晴季は、したためた手紙を僧の手にわたした。――とはるかに、ガラガラと戸をあける音や、人声のザワめきや、また
牛車の
轍、
鶏の声など、夜明けを知らせる
雑音が、
入りまじって、かすかに聞えだしてきた。
「はてな? まだ夜明けにしては、あまり早すぎるが」
ふと、池の
面の
障子をひらいてみると、いつか
暁の光が、ほのぼのと水にういて、あなたこなたの庭木の花さえ、しらじらと明けはなれている。
「オオ、
不覚不覚、あまり話に身がいって、
時刻のたつのを忘れていたとみえる」
「ではお
館、人目にたたぬうちお
暇をいたす」
「お
疲れでもあろうが、昼のおでましは、かなわぬおからだ、すぐにお立ちがよろしかろう」
にわかに取りいそいで、三人の
僧はそこから、
網代笠をかぶり、
菊亭晴季に見おくられて、
泉殿から
池の
橋をわたってきた。
すると、四人が橋を渡りおえるとともに、いまがいままで、さえざえと夜明けの光をたたえていたあたりは、また、どんよりとしたおぼろ
月夜となり、人声や車の
雑音もバッタリ聞えなくなった。
「や、や? ……」
立ちどまっていると、ものかげから、ひとりの男、すがたは見せずに、
「お
館さま」と、声をかけた。
「だれじゃ」
「
番の者でござります」
「ウム、門まわりの
小者か。して、なにか変ったことはないか」
「
忍びの
者が
入りこみました」
「なに、忍びの者?」
「はい、
徳川家の
菊池半助というしのびの名人が」
「なんという! すりゃ一大事じゃ」
「世をしのぶ
危ないお
方、はやくお落としなさいませ。早く、早く、早く……」
「ウム、そちが
裏門をあけてご
案内してさしあげい。かならずそそうのないように」
「
心得ました。さ、こちらへ……」
ガサガサと
木の
葉をわけて、男がさきに立ったので、三つの
網代笠が
晴季に
目礼をしてついていった。
が晴季は、そのあとで、ふと不安な
疑念におそわれたか、小走りに
僧たちのあとを追おうとした。するとそのとたんに、かれは背なかから、何者かに、ペタリと
抱きつかれて、
蝙蝠の
翼のようなものに、さえぎられてしまった。
「だれじゃ、
麿を
止めるものは」
ふりはなそうとしたが、その力はねばり強く抱きすくめていた。さては! と感じたので、晴季は
前差の小太刀をぬいて、ピュッと一
揮に、
「
曲者!」
力まかせに後ろにはらった。
「ひッ……」
とさけんで四尺ばかり、まッ黒なかげが、身をはなれた。みると、
黒衣の
妖婆。――晴季の
切ッ先を
跳びのくが早いか、
乱杭歯の口を、カッと開いて、ピラピラピラピラ! と目にもとまらぬ
針をふいた。
妖婆の吹き針に目をつぶされて、なにかたまろう、
菊亭晴季はウームとそこへ気をうしなってしまった。
と、すぐにまたそこへ一つの人かげ、ヒラ――とこなたへかけてきて、
「
婆、いそげ!」
と、あとには目もくれずに、
屋敷のそとへ走りだした。いうまでもなく、
呂宋兵衛と
蚕婆で、さきに、屋敷の
小者のふりをして、
貴人の
僧をさそいだしていったのは、
早足の
燕作であった。
その燕作は、いましも、三人の僧を早く早くと
急かしながら、
朱雀の
馬場を右にそって、しだいに道を
天ヶ
丘の方角へとって
駈けている。
「待てまて、小者まて!」
従僧のひとりが、ふいに足をとめて、
「こうまいっては、
嵯峨の方向とはまるで
反対ではないか。
仁和寺へまいるのであるぞ」
「
心得ております」
「心得ておりながら、なんでかようなところへ、あんないするのじゃ」
「まアだまって、わっしについておいでなさい。どうせあなたがたは、
甲州の
田舎者、都のみちは、ごあんないじゃありますめえが」
「まだ、いうか」
飛びかかッた
従僧のひとり、
燕作の
襟がみをつかんでグッとうしろへ引きたおした。
「
無礼なやつめ、
甲州の
田舎者とはなにをいうのじゃ、おそれ多くもこれにわたらせらるるは……」
怒りのあまり、口をすべらしかけると、別のひとりがハッとしたようすで
袖をひいた。
「ええ、なにをするんだッ」
燕作は、よろけながらヤケになって大声にわめいた。
「そのことばが、
甲州なまりだから、甲州の田舎者といったのがどうした、甲州も甲州、二十七代もつづいた
武田の
落人、四郎
勝頼はてめえだろう!」
「あッ、こやつ――」
声と一しょに従僧の手から、
隠し
差しの一刀が、サッとのびて燕作の
肩をかすった。
「おッとあぶねえ」
燕作は、バッと五、六
間ほど、
泳ぐようにつんのめっていきながら、ピピピピピ……と
合図の
呼子をふいて
逃げた。――と思うと八方から、おどりたった
覆面の
浪人どもが、
「落人待った!」
「武田勝頼! ご用!」
「
天命はつきたぞ」
口々に
呼ばわりながら、ドッと三人の
僧侶をとりかこんだ。
「ちぇッ、さては早くも……」
歯ぎしりを
噛んだふたりの
従僧、
網代笠をかなぐり
捨て、大刀をふりかぶって、
主僧の身をまもり、きたるをうけて
槍や刀をうけはらった。
いつか
白刃はみだれ合って、
朱になったふたりの従僧は、別れわかれの
渦に
巻きこまれてしまった。そして、すきをねらった一本の
飛縄が、松のこずえからピューッと風をきってきたかと思うと、かれらの
主と守る
僧は、あッ――と大地へ
搦めたおされたようす。
「これ、用意の
駕籠を」
闇にあたって、
丹羽昌仙の声がひびいた。
「おうッ」
というと
覆面のむれ、ガチャガチャと一
挺の
鎖駕籠を
舁きこんできて、七
重八
重にしばりあげた
貴人の僧をそのなかに
押しこみ、それッとかつぎあげるや
否、まッ黒にもんで、
天ヶ
丘の
南蛮寺へいそぎだした。
「ええ、しまった!」
「わが君ッ――」
悲痛な声が、
血煙のなかに残った。
満身の
太刀傷にさいなまれたふたりの従僧、斬ッつ、
追いつ、
小半町ほど鎖駕籠を追いかけたが、刀おれ力もつきて、とうとう
馬場のはずれの若草の上で、たがいに
喉と喉とを
刺しちがえたまま、
無念の
鬼となってしまった。
東山に、
金色の
雲がゆるぎだした。
京の
大宮人が歌よむ春のあけぼのは、
加茂の水、
清水の花あかりから、ほのぼのと明けようとしている。
だれもいない
南蛮寺、
緑青のふいた
銅瓦の上へ、あけぼのの空から、サッ――と
舞いおりてきた
怪物がある。みると、ひさしく
裾野からその影をたっていた、
竹童の
愛鷲、――いやいや、いまでは泣き虫の
蛾次郎が、わがもの顔に乗りまわしている
大鷲だ。
「やあ、いよいよここが都だな、ゆうべは
伊吹山でさびしい思いをしたが、きょうはひとつ、クロにも
楽をさせて、京都の町でブラブラ遊んでやろう」
あれからのち――どこをどう
飛んで歩きまわっていたか、あいかわらず、のんきの
洒アな顔をして、泣き虫の蛾次郎。南蛮寺の屋根の上から、
小手をかざしてひとりごと……
「いいなア、いいなア、さすがに
天子さまの都だけあるなあ。オーむこうに見えるのが
御所の屋根だな。
霞をひいて
絵のとおりだ。二
条、三条、四条、五条。こうしているあいだにだんだんみえてくる……おッとこんなところで感心していたところでつまらない、はやく一つ
腹ごしらえして
金閣寺だの
祇園だの、ゆっくり一つ
見物してこよう」
ふわりと
鷲を地へ
舞わせて、
南蛮寺の
朱門へおりた
蛾次郎。あッちこッちを見まわしていたが、やがて、
天ヶ
丘の松林を
奥ふかくはいってしまった。
そして、とある松の
大木へ、用意の
鎖で、
鷲の足をしばりつけてから、
「おいおい、クロ
公」
と、人間へいうように、いいきかせる。
「おれはな、ちょッと久しぶりだ、きょうはほうぼうあるいてくるから、おれのるすに、どこへもいっちゃいけねえぜ。いいかい、帰りにゃ
兎の肉をウンと買ってきてやるからな、たのむぜ、クロ
公」
これで安心したらしい。
そこでさて泣き虫蛾次郎、すこし気どって、れいのボロ
鞘の刀を
差しなおし、松の小道をとって、ふもとの方へ歩きだしながら、みちみち、
山椿の葉を一枚もいで
唇にくわえ、
木の
葉笛で調子をとりつつ、へんな歌をさけびだした。
ピキ、ピッピキ トッピッピ
竹童ちッぽけ ちッぱッぱ
鷲を盗られて ちッぱッぱ
とられる半間に 盗る利口
鴉がないても おら知らねえ
竹童ちッぽけ ちッぱッぱ
ピキ、ピッピキ トッピッピ
「わアおもしれえおもしれえ。竹童のやつがきいたら
口惜しがるだろうな。フフンだ、もうだめだッてことよ。クロは死んでも
蛾次ちゃんのそばを
離れるのはいやだとさ……あはははははだ。うふふふふふだ。やアい――竹童
小ッぽけちッぱッぱ」
ひとりで、はしゃぎ立て、ひとりで
踊り足をふりながら、
天ヶ
丘をなかほどまでくだってきたが、そこで、なにを見つけたか
蛾次郎は急に、
「おやッ?」
と目玉をデングリかえした。
「オヤオヤオヤ、なんだなんだありゃ、まッ黒に顔をつつんで、目ばかり光らした
侍が
大勢ここへのぼってくるぞ」
崖の上へはいあがって、
木の
葉を頭から引っかぶり、なおも目をみはってつぶやいた。
「ずいぶんくるなあ、四、五十人もくるぞ。オオ
鎖駕籠もやってくる。だれがいるんだろうあのなかに。
罪人かしら? えらい人かしら? アレアレ見たような
奴が、おさきに立ってくるぞ……いけねえ!
呂宋兵衛に
蚕婆だッ」
というと
蛾次郎は、その
覆面の
群れが、目の下へくるよりはやく、
鉄砲玉の
反れたうさぎのように、横ッとびの一もくさん――
崖から崖をころげていってしまった。
――きょうは、
西陣の
今宮祭。
紫野から
加茂の
里あたりまで、なんとすばらしいにぎわいではないか。
太鼓の
音に、道の
紅梅は散りしき、
笛の
音にふくらみだす
桜のつぼみ。
鐘チャンギリも
浮きうきとして、
風流小袖の
老幼男女が、くることくること、帰ること帰ること、
今宮神社の八
神殿から、
斎院、
絵馬堂、
矢大臣門、ほとんど
織りなすばかりな
人出である。
これで、世が戦国だ、
乱世だとはまったく、ふしぎなくらいのもの。
ときしも、
羽柴筑前守秀吉は、
北国の
柴田権六をうつ小手しらべに、
南海の
雄、
滝川一益の
桑名の
城を、エイヤ、エイヤ、血けむり
石火矢で、
攻めぬいているまッさいちゅうなのである。
留守の都で、ピイヒャラドンドンの今宮祭は、やや
悠長すぎるようだが、日本はもともと
祭りの国だ。かりそめの
戦雲が
日月をおおうても、
神のまつりは
絶えないがいい。また、じしんはとおく
戦陣の
旅にあるとも、
留守の
町人百姓や女子供には、こうして、春は春らしく、平和にのんきに
景気よく、
今宮祭ができるようにしておくのも、つまり、
筑前守秀吉が、やがて
大をなすゆえんであるかも知れない。
なにしろきょうは、けっこうな日である。
戦をしている秀吉にはここへくるひまもないだろうが、百姓には百姓のわざ、
商人には商人のわざがある。大いにお祭をし、大いにはたらけ、それが秀吉さまもおすきだぞ! とばかり、いまも
本殿三
座の
御榊をひっかついで、ワーッと
矢大臣門へなだれてきたのは、
やすらい踊りのひとかたまり。
紅衣の
楽人たちが
笛をはやし、
白丁狩衣の男たちが
鉾や榊をふって、歌いに歌う。そして
輪になった女子供が
花棒ふりふりおどって歩く。
するとこの踊りの
渦まきが
境内の
神馬小屋のまえまできたとき、
だれか! どこかで?
「キャーッ!」
と
悲鳴をあげたのである。
だが――うかれ、
熱している踊りのむれ。それにも気がつかずに、なおも足なみを
練ってゆくと、こんどは、
「わーッ」
といって、
白丁の
衛士がふいにぶッ
倒れた。
白丁だから目についた。たおれた
姿が
血まみれである。
「
踊りをやめろ! 踊りをやめろ!」
「踊るやつは、ぶッた
斬るぞッ」
おどろくべき
乱暴者が、いつのまにやら、この
極楽へまぎれこんでいたのだ。
ふいに、
破れ
鐘ごえでこう叫んだのを見ると、雲つくような大男が三人、大小
打ッこみ、侍すがた、
へべれけに
酔って
熟柿のような
息をはき、
晃々たる大刀をぬきはらい、花や
女子の踊りにまじって、ブンブンふりまわしているのだからたまらぬ。
「アレーッ」
と泣いて逃げるもの。
神馬小屋へ
飛びこんで、馬のお
尻にかくれるもの、さては
韋駄天と
逃げちる者など――いまが今までの
散華舞踊は、一しゅんのまにこの
我武者のろうぜきで
荒涼たるありさまと
化してしまった。
それにも
飽かず、この三人の
浪人者。
またぞろ八
神殿の
参詣道に、ヒョロヒョロとあらわれて、あッちへ当り、こッちへ当りちらし、
肩で風をきってくる。
「こらッ、
物売りどもは、店をかたづけい」
「
見世物小屋はたたんでしまえ」
「
鳴り
物をはやすことはまかりならんぞ。いまは、そんな
時世ではないのだッ、このバカどもめ!」
「
秀吉さまは、
合戦のまッただ中、
町人のくせに、
祭などとはもってのほか、さッ、店や
小屋はドシドシとたたんでしまえ!」
手には刀をふりまわし、足はそこらの
物売りの
荷を
片ッ
端から
蹴ちらしてゆく。――
烏帽子を売っていたおじいさん、
鳩の豆を売っているおばあさん、
逃げそこなってかわいそうに、
燈籠の下で
腰をぬかしてしまう。
さらに
哀れをとどめたのは――
大勢の客を呼びあつめ
足駄ばきで三
方にのっていた
歯磨き売りの若い男、
居合の刀を持っていたところから、一も二もなく目がけられて、
豹のごとく
飛びついてきた
酒乱の
浪人者に、血まつりの
贄とされた。
「あぶないぞウ!」
と、なだれる
群集。
「よるなようッ」
「
母アちゃあん――」
悲鳴!
叫喚! 子をかばい、親をだいて、砂けむりをあげる
人情地獄。それは
面も向けられない砂ほこりであった。
「ざまをみろ、
蛆虫めら」
「祭がやりたかッたら、なぜ
天ヶ
丘へ付けとどけをしておかねえのだ」
「
商いがしたいと思うなら、ここから近い
南蛮寺へ、さきに
礼物を持ってこい」
かってなことを
吠えた上に、カラカラッとあざわらった三名の
酒乱。
「おおッ、こんどは
今宮の
社へかけあいをつけろ!」
「うむ、いいところへ気がついたぞ。すぐ目のまえの
南蛮寺へ、なんの
貢物もせずに
祭をするとは太い
神主だ。グズグズぬかしたら
拝殿をけちらかして、あの
賽銭箱を引ッかついでゆけ!」
神慮をおそれぬ
罰あたり、
土足、はだかの
皎刀を引っさげたまま、
酒気にまかせてバラバラッと八
神殿の
階段をのぼりかけた。
なだれを打って
逃げかけた
群集も、このさまをみて、どうなることかと、こわいもの見たさの
好奇心に、遠くからアレヨアレヨとながめている。
すると。
八神殿の
朱柱のかげから、ヒラリとあらわれたふたりの男があった。
右の
丸柱から
駈けよってきたのは、
白衣に
白鞘の刀をさしたひとりの
六部、左からぬッと立ったのは
墨の
法衣をまとって、色しろく、クリクリとした
若僧である。
そのふたり。
手をつなぐように、階段の上へ大手をひろげて、
「待て!
酔いどれッ」
「ここを通すことはまかりならぬ!」
どッちの声も、
威力がある。
「な、なんだとッ」
頭をおさえられた
狼は、ふんぜんと、
牙をむいて
食ってかかった。
「見うけるところ、二
匹とも、
乞食にちかい
六部と
雲水。
下手なところへでしゃばると、
足腰たたぬ
片端者にしてくれるぞ」
「
酔いを
醒ませ、この
白痴者! ここをいずこと
心得ておるのだ」
「オオ、ここは
紫野の
今宮神社、八
神殿と
心得ておる。それが一たいどうしたのだ」
「ははは。
生酔い
本性にたがわずだ。このバカ
侍どもよく聞けよ。それ、
日の
本の
武士たるものは、弱きをあわれみ、力なき者を愛し、
神仏をうやまい、心やさしくみだりに
猛きをあらわさず、
知をもって、
誠の
胸とするのが、
真の武士というもの――」
色白な
若僧が、右手の
禅杖を
床へついてから、
諭したが、そんなことに、耳をかすかれらではない。
「エエ、口がしこいことを申すな。われわれをただの
浪人者と思いおるか。おそれ多くも、
羽柴どのよりお声がかりで、
天ヶ
丘一
帯の取りしまりをなす、
南蛮寺の
番士だぞ」
「だまれッ、番士であろうと
秀吉じしんであろうと、
民をしいたげ、神をけがするなど、天、人ともにゆるさぬところじゃ」
「ゆるすゆるさぬはこっちのことだ。南蛮寺へことわりなしに、
ぎょうぎょうしい
祭や
踊りをなすゆえに、この
神主へかけあいにまいったのが悪いか。やい、じゃまだッ、そこをどかぬと、うぬらも血まつりにするぞ」
「きさまたちのいい
分は
腑におちぬ。秀吉ほどな人物がさような
沙汰をするはずがない。アアわかった、
主もなし
能もなしに、かようなことをして、
良民をくるしめ歩く
野武士だなッ」
「野武士とは
無礼なことを申すやつ。耳をかッぽじって聞いておけ、いま、
天ヶ
丘の
南蛮寺を支配する、
和田呂宋兵衛さまの
身内人、
斧大九郎とは
拙者のことだ」
「やッ、呂宋兵衛? ……」
と、
六部は
若僧と目ばやくうなずき合って、
「うむ、呂宋兵衛の
手下ときけばなおのこと!」
「なおのことどうしたッ」
いきり立って
駈けあがってきたやつを、グイと右手で
猫づかみにつるしあげた若僧、
「
間答無用! こうしてやる」
すこし力を入れたかと、思うと、ふわりと
宙へおよがせて
冠桜の
根瘤のあたりへ、エエッ、ずでーんと
気味よくたたきつけた。
「うぬッ」
と、また飛びついてきたやつは、待ちかまえていた六部が、気合いをかけた
当身のこぶしで、
顎をねらってひと
突きに、突きとばす。
なにかたまろう、ウームというと
蝦反りになって、階段の中途からデンとおちる。それも、
冠桜の根ッこのやつも、
神罰覿面、血
へどを
吐いてたおれたままとなってしまった。
「わーッ、わあッ――」
と、かなたでよろこぶ
群集の声々、
八百万の
神々も
神楽ばやしのように、
興じ
給うやと思われるばかりに聞える。
じぶんたちから、
南蛮寺にある
呂宋兵衛の部下と名のった
斧大九郎、それを見ると、かッと
逆上したていである。ひっさげていた大刀の下からはらいあげて、ふたりの足を、
諸薙ぎにせんず勢いで、またかかってきた。
「
猪口才なやつめ」
手もとへよせて、
怪力の
若僧が、また、虫でもつまむように引っとらえた時である。いつか、
六部のうしろまで進んできた
品よき
公達が、
「
忍剣、そやつを投げころしては
相ならぬぞ」
あわや――という手をさえぎった。
思いがけない
悪魔がでて、のろわれた
今宮祭や
踊りのむれも、また思いがけない
侠人の力で、
午すぎからは、午前におとらぬ
歓楽の
巷にかえってにぎわった。
「いったいあのわかい
坊さまと
六部はなんであろう?」
「
天狗のような力と早わざ、よも、
尋常人ではございますまいよ」
「それに、もうひとりうしろにいて、だまってみていた
公達がいたではありませんか」
「そうそう、
藺笠をかぶっておりましたが、年は十五、六、スラリとして、
観音さまがお
武家になってきたようなおすがた」
「それそれ、あの人たちは、神か
菩薩かの
化身でしょうよ。まったく、悪いことはできないもので」
うわさはどこもかしこもであるが、その
焦点の人々はあれからどこへいったろう?
紫野の
芝原には、
野天小屋がけの
見世物が
散在していた。おおくの人が、
大がいそれへ目をうばわれているのをさいわいに、れいの
若僧が、
斧大九郎を
小脇にひっかかえ、飛ぶがごとく
駈けぬける――とあとから
大股に、
藺笠の
公達と
六部のすがたが、つづいていった。
「ここらでよかろう」
立ちどまったのは、
舟岡山のすそ。
高からぬこの山にのぼるとすれば、西に
愛宕や、
衣笠の
峰の
影、東はとおく、
加茂の松原ごしに、
比叡をのぞんでいる。さらに北をあおぐと、
竹童の
故郷鞍馬山の
翠巒が、よべば答えんばかりに近い。
「若君ここへおかけなさりませ」
たかだかとそびえた杉林の下――。
一つの
切株の
塵をはらって、
六部はわきへ
片膝をついた。
「…………」
目でうなずいて、
藺笠の美少年は、それへ
腰をおろした。この
公達こそ、
甲州小太郎山の雪の
砦から、はるばる、父
勝頼の
消息を都へたずねにきた
武田伊那丸であった。
そのわきに、頭を下げたのは
木隠龍太郎で、
加賀見忍剣は、ひッかかえてきた
斧大九郎をそこへほうりだして、
「若君、いざ、おしらべなさいませ」
と、少しさがったところで、れいの
鉄杖を、持ちなおしている。
「
下郎、おもてを見せい」
伊那丸はいった。これはまた、忍剣の鉄杖より、龍太郎のはや
技より、一
種べつな
気稟というもの、下郎大九郎は、すでに
面色もなく、ふるえあがって両手をついた。
「ま、まったく持ちまして、さいぜんのことは
泥酔のあまりでござる。どうぞ、ひらにひらに、おゆるしのほどを……」
これがつい、いましがた、
今宮の
境内を
修羅にして
暴れまわった男とは、思えぬような、
弱音である。
いうのをおさえつけて、伊那丸は、ハッタとにらんだ。
「
卑怯なやつではある。むだ口を申さずと、ただこのほうがたずねることに答えればよいのじゃ」
「は……はい、
命さえ、おたすけくださるぶんには、
斧大九郎、なんなりとぞんじよりを申しあげます」
「その口を
忘れまいぞ」
きッと、
半身をつきだした
伊那丸、
針葉樹の
木洩れ
陽を、
藺笠としろい
面貌へうつくしくうけて、
「なんじはさいぜん、
和田呂宋兵衛の
家来じゃというていばっていたの?」
「あ……あれは」
「いや申した! たしかに聞いた」
「いいましたにそういございませんが、じつは、こ、心にもないでたらめごと」
いいかけるとあとから、
忍剣の
鉄杖のさきが背なかへ
穴があくかとばかりドンとついて、
「このうそつきめが。呂宋兵衛の部下なるがゆえに、ことわりなしに
祭をもよおした
神主をこらしめるとか、かけ合うとか、ほざいていたではないか。
若君のおしらべにたいして、
寸言たりともあいまいなことを申すと、いちいちこれだぞ」
も一つ、ドンと
食わせる。
「ウーム、フフフ、
痛うござる、痛うござる」
「痛かったら申しあげろ」
「も、もうしあげます。まったく
和田呂宋兵衛の手のものにそういございません」
「よくいった」
伊那丸は、うなずいて、
「して、その呂宋兵衛は、ただいま、どこに
巣をかまえそしてなにをいたしておるな」
「
秀吉さまのお気に入り者となりまして、
天ヶ
丘の
寺領と、
南蛮寺を
拝領いたし、
裾野いらいの一
味、
丹羽昌仙や
蚕婆や
燕作など、みなそこに
住居をいたしております」
「オオ、
定めしそれらのものは、
一味同類となって、
武田勝頼の
行方をたずねておるであろうな」
「えッ、どうしてごぞんじでござりますか」
「知らないでか!」
と伊那丸のかけたかまを、たくみに引きうけた
龍太郎。わざと少しわらいすまして、
「これにおいで遊ばすは、
徳川家のさる
御公達。まった
某やこの
若僧は、みな、
浜松城の
隠密組だ」
「あッ、さては
貴殿たちも、
菊池半助どのたちと一しょに、あの
僧形を京都へつけてこられたおかたで?」
「さよう――」
と龍太郎は、おかしく思いながら、まじめにおうじて、
「ところで、その
僧形であるが、なんと変った
消息はないか。すなおに話してくれれば、
敵でも
味方でもないお
主とわれわれ、そこらで仲なおりの酒でも
酌もうし、また、ここにおわす
徳川家の
御公達に、
出世の口を取りもってやらぬものでもないが……」
「へへッ」
というと大九郎、
慾につりこまれて、
草芝の上へあらたまり、おとといの
真夜中、
呂宋兵衛が
手策をつくして
従僧ふたりを
殺め、ひとりの
主僧をいけどってきて、
天ヶ
丘の
古会堂へ打ちこんであるということまでベラベラしゃべってしまった。
すぐお
追従をいう
軽薄なかれの
舌は、それでもまだいいたらずに、つけ加えて、また話すことには、
「ところで、その
勝頼公。たしかに
生けどってきた僧形の
貴人にそういないとはにらんでおりますが、なんせい、
野武士や
浪人どもばかりの天ヶ丘、
真実の勝頼公の
面態を見知るものがないのでござった」
「して、その
謎の
僧は、いまもって、
南蛮寺の古会堂に押しこめてあるのか――」
と、龍太郎も
忍剣も
息をころして聞いている。
「されば、ただいまも申したとおり、まだ
真の勝頼公なるや、いなや一
点のうたがいがござりますゆえ、いッそのこと、
桑名にご
在陣の
秀吉公のところへ、かれを
差したて送ろうという、昨夜の
評定で」
「なんと申す!
滝川攻めのため、近ごろ桑名にいると聞く秀吉の陣へそれを送りこむという手はずになっているのか。してそれは何日、
時刻は
何時じゃ」
「
明日の朝まだきに、
東山から
陽がのぼるを
出立の時刻として、
天ヶ
丘から
桑名城へ。そのために、きょう一日は、われわれも
骨やすみのひまをもらい、かようなところをブラついておりましたわけ、さきほどの
無礼の
段はひらにお目こぼしねがいまする」
一伍一什のはなし。
聞くからに
伊那丸は、われをわすれて、
両のこぶしを
膝の上ににぎりしめつつ、
「ウーム! さてはお父上には、早くも
毒手に
墜ちたもうて、桑名へさしたてられるご
武運の
末とはおなり遊ばしたか、……ああ、おそかった……」
と、まなじりに血をにじませ、
藺笠のうちに
鬢髪をブルブルとふるわせた。
父上、という一
句をきいて、
斧大九郎、ハッとあっけにとられながら、じりじりと
尻ごみする。
伊那丸がハラハラと
落涙するようすを見て、
「
若君、かならずお力おとしはご無用でござります」
と、
忍剣、
龍太郎のふたりが、口を合わせてなだめるのだった。
「すでにお
命のないものなら、
真にご武運のすえ、また
人力のおよぶところではござりませぬが、ただいま、大九郎の話によれば、まだご
尊体にはなんのご
異状なく、明朝、天ヶ丘から桑名の
陣へうつされてまいるとのこと、折こそよし、これ天の与えたもう
好機会ではござりませぬか」
「おお! かならずお父上を、お救い申しあげねばならぬ」
立ちあがった時である。
「ややッ! さては
武田の?」
ぎょうてんした大九郎、
跳ねあがって逃げだすと、
伊那丸の一
喝。
「龍太郎、そやつを
討て!」
「はッ」
と答えるまでもなく、立ちあがった
木隠が、やらじと
猿臂をのばしたので、
胆をとばした
斧大九郎、にげみちをうしなって
無我夢中に松のこずえへ飛びついた。
「ええ――ッ」
つんざいた木隠の
気殺!
とたんに、
抜きはなたれた
無反りの
戒刀、横にないでただ一
閃の光が、松の枝にブラさがった大九郎の
胴を通りぬけてしまった。
バサリと血のなかにおちたのは、
胴から下、
上半身は枝をつかんだまま、
虚空にみにくく
止っていた。
そのとき、あなた――
今宮の
舞楽殿では、
笛や
太鼓、そして
鈴の
音がゆるぎだした。
やすらい踊りのどよめきにあわせて、
神楽囃子がはじまったのであろう。――
悪魔たいじの
御神楽歌。
ピイヒャラ ドン助 ひゃらりこドン!
鷲をとられて オッぺけぺ!
竹童ドン助 ひゃらりこ ドン!
これは、あちらの
神楽歌ではない。
暮れなんとする杉林から
芝生のへんを、しきりに浮かれまわっている少年の
放歌である。
はるかに聞える
神楽にあわせて、
ピイヒャラ ドン助 ひゃらりこドン!
すっかりゆかいになっている。
右手に一本もっているのは、
串へさしたお
芋の
田楽、左につかんでいるのは黒い
飴ン
棒、ひゃらりこドンと
踊りながら、
芋をたべては
飴をなめ、
飴をなめては
芋をくい、かわりばんこに
舌を楽しませて、
竹童ドン助 ひゃらりこドン!
いよいよ無上の
大歓楽、歌もおどりもやむことを知らず、
陽が暮れようとするのも知らず、いましも林をぬけてきた。
このお天気な少年は、いうまでもなく
蛾次郎である。
きのうから遊びつづけて、きょうは、
今宮祭の
見物としゃれているのか。
胸や口のまわりには、
田楽の
味噌だの、
黄粉だの、あまくさい
蜜糖の
粘りだのがこびりついていて、いかに、かれの
胃袋が、きょう一日をまんぞくにおくっていたかを物語っている。
のみならず蛾次郎は、目のかたきにしている竹童にたいして、いま、大なる
優越感をもっている。
「竹童のやつめ、さぞいまごろは、クロを
盗られて、メソメソしているだろうな。まっ黒な富士の
裾野で、まぬけな
面をしているだろうな。
このおれさまはどうだ! 日本中クロを乗りまわしてきて、いまは、
天子さまと同じ
都の土をふんでいるんだ。
九重の都をよ!
どうだい、
蛾次郎さまの
光栄は!
食べたいものをウンと食べたぜ。見たいものもウンと見たぜ。だからおいらは
踊るのさ、踊らずにはいられないや。ワーーイだ、ワーーイ! ワイ竹童、ざまをみやがれ!」
こんな気分が、かれ蛾次郎の歌となり、
舞躍となるのであった。
ところで、
有頂天の蛾次郎が、いま、なんの気なしに林の中をおどってくると、なんだか、ぬらりとしたものが
鼻の頭をなでたのである。
「おやッ?」
と思ってさわってみた。
どうも人間らしいのである。しかし、
今晩は、とはいわなかった。
「おかしいなア、この人は……」
と、上から下へ、ソーとなでてみると、へんだ! へんだ! へんな人間!
腰から下がなにもない。
「わッ、
化け
物ッ」
蛾次郎は
芋の
串をほうりだして、
逃げるわ逃げるわ、むちゅうでにげた――
一心不乱に、あかるいほうへかけだした。
夜になっても、
今宮の
境内はにぎやかであった。そこで蛾次郎は、はじめてホッと
人心地にかえった。
更けるにしたがって、
踊りの
輪もちり、
参詣の人もたえ、いつか、あなたこなたの
燈籠の
灯さえ、一つ一つ消えかかってくる。
「こんやの
宿屋はどこにしようか」
額堂は吹きさらしだし、
拝殿の
廊下へねては
神主が
怒るだろうし、と、しきりに
寝床を
物色してきた
蛾次郎。
「ウム、ここがいい。
神さまの
足もとなら、
化け
物もでないだろう」
と、四つンばいになって、のこのこはいこんだのは、八
神殿の
床下。
藁蓙を一枚かかえこんで、だんだん
奥のほうへいざってきた。
むろん、
縁の下はまっ暗で、鼻をつままれてもわからないくらいだが、蛾次郎がはいすすんでいったすこしさきに、なにやら、ゴソ……という音がした。
「ははあ、お
仲間がいるな」
そう思って、地べたへ
顎をつけながら、じッと
闇をみつめていると、しだいに
眸がなれてきて、おぼろげながら、人かげがみとめられた。
姿かたちは、だれともわからぬけれど、やはり蛾次郎と同じように、
土台柱のしたへ一枚の
蓙をしき、そこへじッと身をかがめたまま、しきりに、
器の水へ
布をひたして、目を
洗っているらしい。
しばらくするとその
影は、
小布で目をおさえたまま、蛾次郎のいるのは知らぬようすで、
「ああ、
困ったなア……」
ひとり
惆然として、つぶやくのである。
「もう春にもなったし、目さえ見えれば、山のおくへでも海の果てまでも、たずねてさがしだすのだけれども……急にこの目が見えなくなってしまった、
蚕婆の
針にふかれて! あの吹き
針に目をいられて――おいらはとうとう
盲になってしまったんだ……」
見えぬのは目ばかりでなく、心も
憂いの雲にとじられているのであろう。なんともいえぬ、
悲哀のこもったつぶやきである。
「神さまッ……」
ガバと
伏して、その影が
合掌した。
「八
神殿の
神々さま! このお
社にまつられてある神々さま。おいらはそれがなんという名の神さまだか知りませんが、どうぞこの目をなおしてください。神さまのお力で、
針にふかれたこの目の
痛みをとってください……」
こっちにいた
蛾次郎は、オヤオヤ、という
腰つきで、じッと聞き耳をたてている。
「なんだいあいつは? 気ちがいじゃねえのかな、みょうに、ふるえた声をだしやがって……アレ見や、むちゅうになって手を合わせている、ア、泣いていやがら……ばかだなあ、泣くなよ兄弟」
と、うっかり声をすべらしかけたが、待て、もうすこし、見ていてやろうと
息をころした。
盲のすがたは一心
不乱に、
掌をあわせ、八
神殿の
神々に
念じていた。
信仰に
熱してくると、おのずから手がふるえ、声もわれ知らず高くなって、
「この目のいたみをおなおしくださいませ! 八神殿の八つの神さま、おいらにはどうしても、さがしたいものがあるのです。クロという
鷲をたずねだしたいのです。そして、
伊那丸さまのおんために、もっともっと、大きな
手柄を立てなければなりません。こんなところにもぐっていると、お
師匠さまに
叱られます。盲のすがたを見られたら、一
味の人たちにも恥ずかしゅうございます。なおしてください。八神殿の神々さま、その
大望をとげましたら、わたしの
腰にさしている
般若丸を、きッと
奉納いたします」
血汐も
吐かんばかりである。
一念の声、一念のいのり!
祈らなくても、人の
誠は天地をうごかすという……。だが、
床下のやみは、しいんとしていた。
おどろいたのは
蛾次郎だった。
梟のように目をまるくして、ソーッと、また一、二
間ちかづいて、よくよくその
影を見さだめていると、あんにたがわず、それは
鞍馬の
竹童である。
いつぞや、
加茂の
堤で
蚕婆の
吹き
針にふかれてその目をつぶされ、いまは
黒白もわかたぬ不自由な身となった。
町をあるけば人につまずき、森をあるけば木の
根にたおされるしまつ。クロの
行方を知るよしもないので、
瀬戸物のかけらに
御洗水の
清水をすくってきて、この
床下へ身をひそめ、ただ一
念にいのり、一念に目を洗っているのだった。
「ふウん……やっぱり、
竹童にちがいない」
蛾次郎は犬つくばいにようすをながめて、
「へんなところで、でッ
会したな。目がわるいようすだから、一つ、からかッてやろうかしら」
手にさわった
土塊をつかんで、竹童のかげへ、バラッと投げつけた。
「だれだッ」
さなきだに、
盲になってからは、
神経のとがり立っている
鞍馬の竹童、こういって、からだをねじむけてきたのである。
蛾次郎は、おもわずズルズルとあとへさがった。
だが、目がわるい、ここまではきやしまいと、たかをくくってまた、
「どうだい
大将――」
と、あざわらった。
「なんだと」
「おもらいがたくさんあるかい。え、お
菰さん」
「…………」
「はははは、さすがは
偉いもんだ、
果心居士のお
弟子さんはな。
鞍馬の竹童はえらいよ偉いよ、とうとう花の
都へでて、天下のお
乞食になったんだからな」
「だれだ、だれだッ、おいらの名を知っているのは?」
「おめえ、
盲のくせに
勘がわるいな。アアにわか盲だから、声まで見えなくなったのか。じゃアいって聞かしてやろう。びっくりして
気絶するなよ。こう申す者こそはすなわち、おめえのクロを
頂戴して、天下に名をあげている
蛾次郎さまだア」
「なにッ! 蛾次郎だとッ」
さけぶや
否、鞍馬の竹童、
般若丸の名刀をピュッと抜きはなって、声のするほうを、さッと
斬りはらった。
まさか鞍馬の竹童が、こんな名刀を持っていようとは夢にも知らなかった蛾次郎、アッといって
床下からころげだし、すぐむこうにあった
小屋のなかへ、四つンばいにかくれこんだ。
が、そこはれいの
神馬小屋であったので、
注連飾りをつけた
白馬が、ふいの
闖入者におどろいて、ヒーンと一
声いなないたかと思うと、飛びこんできた蛾次郎の
脾腹を
蹄でパッと蹴りかえした。
「ウーム……」
と、
打ったおれた泣き虫の蛾次郎は、脾腹をおさえてフンぞったとたんに、昼間のうち
胃袋を楽しませたご
馳走をのこらず口から
吐きだして、
厩のまえに
へたばってしまった。
馬は、見むきもせず、われ
関せず
焉と、かッたるそうに目の皮をふさいでいる。
――
更けてくると、
祭の夜も
寂としてものさびしい。
一
陣の
山嵐が、
鞍馬山の肩あたりから、サーッと
冷気をふり落としてきたかと思うと、八
神殿の
冠桜の下あたりに――
竹童のお
師匠さま
果心居士のすがたが、めずらしくもほのかに見えたのである。そして、もくもくとして
裏宮のほうへ
杖をひいていった。
右手に、名刀
般若丸を、ひだりの手では、地や
蜘蛛の
巣をなでまわしながら、ソロリと、八神殿の
床下をはいだしてきた者がある。
それはさっき、泣き虫の
蛾次郎に、さんざんな
悪口や
揶揄をなげられていた
盲の少年――鞍馬の竹童。
あたりをさぐって、そとにでれば、夜は四
更の
闇ながら、空には、
女菩薩たちの
御瞳にも
似る、うるわしい春の星が、またたいている。
鳥の
巣のようなかれの頭、土にまみれた
肩や
肘、そして、血のにじんだかれの
素足――。それらのあわれな物のかげをつづった竹童のすがたは、
星影の下にあおく
隈どられて見えたが、かれの目には、ただ
一粒の春の星さえ、うつらぬのである。
見えぬがために、見ようとする、心の
異常なはたらきが、
心眼ともいうべき
感覚を全身にするどく
研いで、
右手につかんだ
般若丸を、おのれの背なかにかくしながら、
「
蛾次郎……蛾次郎はどこへいった!」
八
神殿の
石段にそって、
裏宮の方へしのびやかに歩いてくる。おお、その
影のいたましくもおそろしい。
かれは、心のうちでこう
叫ぶのだ。
返せクロを! 返せクロを!
おいらの手から
横奪りした、あの
鷲をかえせ、おいらの手にタッタいまかえせ!
竹童の目は見えないはずでありながら、その一
念に、あたかも、なにものかを、
的確に見ているように、いうのであった。歩きだすのであった。
でてこい蛾次郎! 泣き虫の
腰ぬけ。
でてこい蛾次郎、どこへいった!
よくもよくもクロをうばったな。また、よくもさっきは、この竹童を
盲とあなどって、
土塊をぶつけたり、お
師匠さまの
悪口をたたいたり、そして、
鞍馬の竹童のことを、天下のお
乞食さまとののしり恥ずかしめたな。
おまえはさっきたいそうなじまんをいった。いかにも
得意らしいことをいった。だが泣き虫
蛾次郎よ、ひとの愛している
鷲をうばって乗りまわしたり、ひとのダシに使われてもらったお金で買いぐいをしたり、また
益もなく都の町を
浮かれあるいたりして、それがなんの
自慢になる! それがなんで男の
誇りだ!
あの
秀麗なる
神州美の
象徴。
富士の
裾野に生まれながら、どうしておまえはそんなきたない
下司根性をもっているんだろう。
情けないやつ、
意気地のないやつ、
怠けもの、
腰ぬけ
腑抜け、お天気な少年!
それはみんな、蛾次郎よ! おまえの名だ。
おいらは
鞍馬の山育ちだ。
だが、蛾次郎よ。
おいらはおまえのような
下卑たやつとは心のみがき
方がちがっている。また、おいらがこんな乞食のような
姿になっていたり、
盲になってしまったのも、みんな自分の
慾ではない。
甲斐源氏の
御曹子、
武田伊那丸さまへ
忠義をつくすため、また、お
師匠のおいいつけを
守らんがためしていることだぞ。
おいらは
恥じない。
乞食になっても、盲になっても、この
竹童の心は八
神殿の
神々さまや、
弓矢八幡がご
照覧ある。
罵るものなら罵ってみろ。
鷲を返さぬというならば、男らしくどうどうと
竹童の前へたっていいきってみろ! オオこの
般若丸の名刀でおのれただ一刀に
斬りすててくれるから……
いきどおろしい、竹童の心は
湯のごとく
沸りたって、こう
叫びながら
方角もさだめず、
裏宮のお
堂を
巡り、いましも、
斎院の前まであるいてきた。
――すると、かれより六、七
歩まえを、だれやら、しずかに、ピタピタと足をはこんでいく者がある。
夜はすでに
更けしずんで、さまよう者とてあるはずのないこの
境内、さては
蛾次郎めが、またわれを
盲とあなどってからかうつもりだな!
竹童はかッとなって、こう思った。
しかし、かなしいかな目がみえぬ。すぐそこをピタピタといく
跫音を聞くのであるが、ただ
一討ちにとびかかってはいかれない。
「おのれ目がみえぬとて、たかのしれた蛾次郎ぐらい、斬って
捨てられないでどうするものか」
竹童は、とっさに、地べたへ身をかがませた。
そして、般若丸の
太刀を背中にかくし、左の手と
膝ではい歩くように、まえなるものの跫音をスルスルとつけてゆく……
一
歩――二
歩。
さきの者の
草履のかかとが、かれの顔へ土をはねかえしてくる近さまで
寄りついたので、いまこそと
胸おどらした
鞍馬の竹童。
猛然と、たつが早いか、ふりかぶった
般若丸に風をきらせて、
「
覚えたかッ」
とばかり、
鉄も切るような一刀、一念の
気、
盲となってから、それは一そうすさまじいするどさをもって、まえなる人のあり場をねらって、
揮りおろした。
剣は、
空をきって、七、八
尺はしった。
あたかも
闇なる
彗星が、
地界へ吸われていったように。
燦然たる
蛍いろの
太刀! かかとをあげて、ダッ――と
斬りすべっていった竹童の手にそれが持たれている。
「ウウム、
無念!」
とさけんだ
悲痛な声。
竹童の
唇から、血のようにもれて、かれはあやうく
突ンのめりそうになった足取りを
踏みしめた。
そして、さらに、まえよりはすごい
血相で、般若丸の
切ッ先を向けなおし、剣を目とし、見えぬ目に、ジリジリと闇をさぐってくる。
針がふれてもピリッと感じるであろう
柄手の
神経に、なにか、ソロリとさわったものがあったので竹童は、まさしく相手の
得物と直覚し、
「エ――エイッ」
身をおどらして
斬りかかった。
飛躍は、竹童の
得意である。
かつて、かれがまだ
鞍馬の
山奥にいたころは、朝ごと
薪をとりに
僧正谷をでて、森林の
梢をながめては、
丈余の大木へとびかかって、
枯れたる枝をはらい落とした――その
練習によるのである。
だが、いままでは
剣をもつと剣をつかおうとする気に
支配され、
棒をもつと棒をつかう心にくらまされて、この
呼吸というものが、いつかまったく忘れていた。
いま、かれは
無我無心に、相手の
脳天をねらってとんだ。
――それは
剣法でいう
梢斬りともいうべきあざやかなものである。たれかよく、
宙天から斬りさげてくるこの
殺剣をのがれ得よう。
ところが――相手は
苦もなくかわした。
風のごとく身をひるがえし、さらに持ったるなんらかの得物で、パーンと竹童の
般若丸をはらいつけたのである。
と、竹童、思わず両手のしびれに
柄をゆるめたので、般若丸は彼の手をはなれて地上におちた。
無手無眼となった竹童は、もう打ってかかるものは、五体そのものよりほかはない。
「おのれッ!」
というと、
隼のように、相手の
胸もとへとびかかって、ムズと
襟をつかんだのである。
だが、そのとたんに
竹童は、
「あッ――人ちがい!」
といったまま、のけ
反るばかりな
驚きにうたれた。いまが今まで、
蛾次郎とばかり思って
斬りつけていた
当の人は、
枯巌枯骨そのもののような老人であったのだ。
「オオ、ちがった、人ちがいであった。――どなたかぞんじませぬが飛んでもない
無礼をしました。どうぞかんにんしてくださいまし」
こういうとその老人、
枯れ木のような手をのばして、竹童の
肩をやさしくかかえこんだ。
「竹童よ」
「えッ……」
見えぬ目をしばたたきつつ、かれは、じぶんの名をあきらかに
呼んだ者を、だれかしらとあやしむように、両手でその人の
衣服をなでまわした。
「あやまることはない、あやまることはない。
他の者ならあぶなかったが、わしであったからまアよかった……」
「オオ!」
竹童は、こごえていた
嬰児が、母のあたたかな
乳房へすがりついた時のように、ひしと、ひしと、その人の
胸にかじりついて、
「あなたは
鞍馬のお
師匠さま! オオ、お師匠さまではございませんか」
と、声もからだもふるわせた。
「わかったか竹童、いかにもわしは
果心居士じゃ。ずいぶん久しく見えなかったのう」
「では、やっぱりお師匠さまでございましたか、ああ、おすがたを見たいにも、竹童めは、なんの
罰でか、このような
盲となってしまいました」
「竹童、目がつぶれたことを、おまえはそんなに不自由とおもうか」
「はい、
伊那丸さまのおんために働くことはおろか、だいじな
鷲をとり返すことさえできませぬ」
「そして、それを
悲しいと思うか」
「お師匠さま。これがなんで悲しまずにおられましょう」
「まだまだおまえは
修行が足りない。なぜ
盲となったなら、
心眼をひらくくふうをせぬ。ものは目ばかりでみるものではない。心の目をひらけば
宇宙の果てまで見えてくるよ。……しかし、おまえはまだ
歳も歳じゃ、このりくつは、ちっとむずかしかろう」
「はい、わたしにはよくわかりませぬ」
「よしよし、おまえの目は、もともと生まれつきの
眼病ではない。吹針の
蚕婆、あれの
毒針に目をふかれたためじゃ。わしが一つなおしてやろう」
「えッ、お、お
師匠さまッ。ではこの目を見えるようにしてくださいますか」
「ウム!
竹童。まずその
太刀を
鞘におさめて、わしの腕にしっかりとつかまっているがよい」
いわれるまま竹童は、地べたをさぐって
般若丸をひろい、
果心居士の
右腕にからみつくと、居士は
藁でも持つようにフワリと竹童のからだを
小脇にかかえ、やがて、八
神殿の
裏宮から
境内をぬけ、
森々たる
木立のおくへ、
疾風のように
駈けこんでいった。
竹童はおよぐように引っかかえられていた。
さっさつと――風があたる。
バラバラと雨のごとき夜露がぶつかる。
居士は
愛弟子竹童をかかえて、いったいどこへつれていく気か? やがて森林をぬけて、
紫野のはて、
舟岡山の道を一さんにのぼりだした。
ゴウ――ッという水のおと。
それはほどなく近づいた
雷神の
滝のひびきである。
暗々たる
梢から梢を、バラバラッと飛びかうものは、夜の
夢をやぶられたむささびか
怪鳥であろう。
鞍馬の
道士果心居士、竹童をひっかかえて
岩頭にたち、
鞳たる
雷神の滝を
眼下にみた。
「竹童!」
居士の、こう呼ぶ声をきいたが、かれは
小脇に引っかかえられていて、こたえる声さえでなかったのである。
と――居士は両手をさし
伸ばして、あわやという
間に
竹童のからだを、目よりも高くさし上げた。
そして、もいちど呼んだのである。
「竹童!」
「はい……」
かれは、
虚空におよぎながら、かすかに、しかし、はっきりと答えた。
「おまえはその目が
開きたいか」
「ハイ、開きとうございます」
「なんのために」
「…………」
「なんのために?」
「りっぱな人間となりますために」
「ウム」
「そして
正義の
武士となりますために」
「ウム。ではそのためには、どんな
艱難辛苦もいとうまいな」
「いといませぬ。たとえこの身がどうなりますとも」
敢然たる声でいった。
「オオ、それでこそ、師たるわしもはりあいがある。
雷神の
滝の
宙天で
誓いをたてたことばを
終身の
守りとするなら、おまえはおそらく天下の
何人にも、おくれをとらぬ
武士となるであろう。オオ、苦しめ苦しめ! 苦しまぬ者はみがかれぬ。八
神殿の
八柱の神々、あわれ竹童を、このうえとも苦しめたまえッ」
祈るがごとく、
吠えるがごとく、雷神の滝の
岩頭に、
果心居士の声がこうひびいた時である。
「あッ――」
と、いうと
鞍馬の竹童。
ドウッ――と鳴る
滝津瀬の音を、さかしまに聞いて、居士の手から
闇のそこへまッさかさまに投げこまれた。
枯れ木をあつめて
焚いた
燃えのこりの火が、パチパチとわずかな火の粉をちらし、一すじのうすじろい
煙は、森の
梢をぬけて、まっすぐに立ちのぼっていた。
その火のまわりを取りまいて、夜の明けるのを待ちさびしげに語りあっている三人の
武士。
あかき光を
正面にうけて、
薪束のうえに
腰をかけている
影こそ、まさしく
伊那丸であり、その
両側にそっているのは、
木隠龍太郎、
加賀見忍剣、いつも、すきなき身がまえである。
「
若君。待つというものは久しいもの、まだなかなか夜が明けそうもござりませぬな」
「そちたちは、火にぬくもったところで、少しここでやすんではどうじゃ」
「いや、なかなか
寝られるどころではございませぬ」
こういったのは忍剣である。
「夜明けと同時に、
天ヶ
丘をくだる
呂宋兵衛の
列を待ちうけ、
勝頼公のお
乗物を、
首尾よくとるかいなかのさかい。――それを思うても眠られぬし、また、
日陰に
敵のいましめをうけておわす、
大殿のご
心中を思うても、なかなか
安閑とねている場合ではございませぬ」
「おっしゃる通りじゃ」
木隠もうなずいて、
「たくみに大殿をワナにおとし
入れ、
桑名にいる
秀吉の
陣屋まで、送りとどけんとする呂宋兵衛、さだめし
明日はぎょうさんな
人数をもってくりだすことでしょう。ここぞ、若君にとって、武運のわかれめ、忍剣どのもおぬかりあるなよ」
「いうまでもない。たとえなにほどの敵だろうとも、
降魔の
禅杖は、にぶりはしませぬ」
「いつもながらふたりの者のたのもしさ、わしはよい味方を持ってしあわせに思う」
と、
伊那丸は心から、よろこばしげに、
「その
意気をもってするからには、たとえ
敵陣のかこみのうちに、
無念の
鬼となろうとも、わしは
心残りではない」
「心よわいことをおおせ遊ばすな。
呂宋兵衛こそ、多少
蛮流の
幻術を
心得ておりますが、他の
有象無象は、みなたかの知れた
野武士や
浮浪人の
寄りあつまり、きっとけちらしてごらんに入れましょうから、お心やすく
思しめせ」
「そうとも、死をいとうのではないが、こんど、
木隠とこの
忍剣がお
供をしてきて、
首尾よう
大殿のご
安否をつきとめねば、
小太郎山にのこっている、
小幡民部や
咲耶子や
小文治などにも笑われ草……」
と、つとめて、伊那丸の
勇気を
鼓舞するため、ふたりが
快活に話していると、あなたの林をへだてた
闇にあたって、ドボーン! とすさまじい水音がたった。
「や、あれは……?」
「
雷神の
滝のあたり、まさしくその
滝壺になにかあやしいもの音がいたしたようす」
「それ、あらためてみよう」
というと、
木隠龍太郎は、手ばやく、
用意の
松明を
焚火に
突っこんで
燃えうつし、それをふりかざしてまっさきに走りだした。
木々のあいだを
縫っていく、
松明のあかい光について
伊那丸も
忍剣も
滝壺のほとりへ向かって
歩をはやめる。
たちまち見る、
眼前の
銀河、ドウッ――と
噴霧を白くたてて、
宙天の
闇から滝壺へそそいでいる。
「龍太郎、龍太郎!」
伊那丸は
雑木をわけて、まっ暗な
淵をのぞきながら指さした。
「そこへ松明をふってみい」
「はッ」
「あぶない!
岩苔にすべるなよ」
「おあんじなさいますな」
と龍太郎、松明を左手にもって、ヒラリ、ヒラリ、と岩から岩へとびうつっていった。
漆の
渦まくを見るようなものすごい闇の滝壺である。そこに、百千の
水龍が、
泡をかみ
霧をのぞんで
躍っている。
「おお、人がおぼれているぞ」
さけんだのは、
加賀見忍剣。
「なに、人がおぼれていると?」
「やッ――また沈んでいった、
木隠木隠、早くこっちへ
松明をかざしてみてくれ」
「待て、ただいままいるから」
と
龍太郎は、また二つ三つの岩をとんで、忍剣のそばへ寄っていった。
焔を高くささげながら、じッと、あわだつ水面を
透かしてみていると、やがて
真白な
泡がブクブクと
湧きあがって、そのなかから、
蓬のような、人間の黒髪がういてみえた。
「しめた!」
と忍剣は、岩につかまって
鉄杖のさきをのばした。おぼれている者は、まだ多少の
意識があるとみえて、目のまえにだされた鉄杖へシッカリと、両手をかけた。
「オオ、はなすなよ――」
と声をかけながら、ズーと岩の根へひき寄せると、
滝壺のなかのものはプーッと水を吹きながら、けんめいにはい
上がろうともがくのである。
「
拙者の手にすがるがよい」
龍太郎が片手をだした。
氷のようにこごえた手が、ビッショリと
雫をたらしてそこへすがってきた。――と同時に、滝壺のなかからはいあがってきた少年をみたふたりは、おもわず声をあげて、
「やッ、そちは
竹童ではないか!」
見まもると、上にいた
伊那丸も、
「なに、竹童じゃ……」
とうたがうように
叫んだ。そして、森のなかへすくいあげてから、たしかに
鞍馬の竹童だとわかると、伊那丸をはじめ、あまりの
意外さにぼうぜんとしたほどだった。場所もあろうに、
深夜の
滝壺から、
法師野いらい、久しく
姿を見うしなっていた竹童をすくいだそうとは、なんたる
奇蹟! あまりのことにあきれるばかりであった。
しかし、その人々のおどろきよりは、竹童のおどろきのほうが、どんなに強いものだったか知れない。
かれは、
忍剣に、森のなかへかかえこまれてきた時にありありとそこに
燃えている赤い火をみた。
その火に照らされている、伊那丸のすがた、龍太郎の顔、忍剣の
禅杖も、あきらかに、かれの
眸に見えたではないか。
かれの目が
癒えた。竹童の目があいた。
鞳たる
滝の水にうたれて
毒が洗われたためか――あるいは、竹童の精神を
修養させる
果心居士の心で、居士が、神力をもって癒やしたものか、とにかく、竹童はおのれの目の見えるのを
疑い、と同時に、
絶えてひさしき人々を、ここに見たのを夢のように、ふしぎがった。
竹童の話をさきに聞いてから、
龍太郎と
忍剣は、かわるがわるに、こんどの、
都入りの大事をはなして聞かせた。
竹童は
四方の話をしているあいだに、ぬれた
衣服を
焚火にほして身にまとった。その火のぬくみに
全身の血が
活々とよみがえってくるのをおぼえて、かれは、この新しい力を、どこへそそごうかと
勇みたった。
話をきけば、夜明けとともに、
若君の
伊那丸は、ふたりを力に、
天ヶ
丘から
降りてくる
和田呂宋兵衛の一
族をむかえ、
桑名に送られる父
勝頼君をうばいとらねばならぬとのことである。
いい
機会にめぐりあった竹童は、その
壮挙に加わりたいとねがって、すぐ伊那丸の
許しを得た。
「では、龍太郎さま、忍剣さま」
かれは、
気早に立ちあがって、
「まだ夜は明けておりませぬが、わたしは
一足さきに、天ヶ丘へのぼって、呂宋兵衛のようすをさぐり、やがてほどよいところから、みなさまに
合図をいたすことにいたしまする」
「ウム、いつも
間諜の
役は竹童の
得意、おまかしなされてはどうでござりましょう」
忍剣が伊那丸の顔をあおぐと、伊那丸も
小気味よいやつとうなずいて、竹童のすがたを見ながらこういった。
「では、われわれ三人は、
天ヶ
丘から十四、五
町手まえ
寒松院の
並木にかくれて待つであろう。そちは身なりの目立たぬのをさいわい、
出立のようす、
人数、
道順、落ちなくさぐって知らせてくれい」
「はい。かならずくまなく見とどけてまいります。ではまだ
雷神の
滝の上に、お
師匠さまがおいでになるかも知れませぬゆえ、ひとことお礼を申しあげて、すぐその足で天ヶ丘へむかいまする」
「なんという。では、
果心居士先生が、この近くにおいであるのか。オオ、ちょうどよいおり、ぜひお目にかかっておこう」
と
伊那丸はにわかに立ちあがった。
龍太郎や忍剣も、居士のすがたを
拝さぬこと久しいので、先の
松明をふりかざし、竹童をあんないにして、雷神の滝の
断崖をよじ
登っていくと、やがて竹童。
「みなさま、ごらんなさいませ。あのいちばん高い岩の上に、お師匠さまが立っておられます。そしてこちらの
松明が、近づいていくのを待っておいでなされます」
指さすかたをみると、なるほど、滝の水明かりと、ほのかな
星影の光をあびて、
孤岩の上に立っている白い
道士の
衣がみえる。
「おお、老先生――」
龍太郎は、はるかに見てさえ、なつかしさにたえぬように、声をあげた。
熊笹にせばめられた道、
凹凸のはげしい坂、
息をあえぎあえぎ、その
岩の
根もとまでいそいできた四人は、そこへくると同時に、岩の上をふりあおぎ、声もひとつによびかけた。
「
果心先生! 果心先生!」
すると――おおという声はなく、ふいに、
孤岩の上の
道士のすがたが、ふわりと
宙へ
舞いあがったので、四人のひとみも、あッ――と空へつられていった。
その時――
夜はまだ明けぬが
有明けの
月、かすかに雲の
膜をやぶって黒い
鞍馬の山の
端にかかっていた。
白き
衣をつけた
居士のすがたとみえたのは、はからざりき一
羽の
丹頂! まっ白な
翼をハタハタとひろげて、四人の上に
輪をえがいて
舞いめぐり、あれよと見るまに有明けの月のかげをかすめて、いずこともなく飛んでしまった。
しかし、四人はまだ、なお岩の上に、
果心居士がいるような
心地がして、その上まで登ってみた。そこにはだれもいなかった。
ただ残っていたのは一本の刀。
滝壺のなかに落としたとばかり思っていた、
竹童の愛刀
般若丸は、水にもぬれずにおいてある。
「や、まだなにやらここに……?」
と、
伊那丸は
たいまつの光をよんで足もとをみつめた。
見ると、岩をけずって、
数行の文字が
小柄で
彫りのこされてある。それは、うたがう
余地もなく、
果心居士らしい
枯淡な
筆せきで、
父子の邂逅はむなしく
小太郎山の砦はあやうし
とただ二
行の文字であった。
しかし、この二行にすぎぬ文字の
予言は、
武田伊那丸にとって、
否、その
帷幕の人すべてにとって、なんと
絶望的な、そして
戦慄すべき
予言ではあるまいか。
予言は、よき
未来の
暗示であり、いましめの
謎である。かならずしも、文字の
表にあらわれている意味ばかりが
真なのではない。その
裏の意味もふかく
味読してみねばならぬ。
父子の邂逅はむなしく
小太郎山の砦はあやうし
孤岩の上に――こう
彫りのこした
果心居士の心は、どう
解いたらいいであろうか?
伊那丸をはじめ、
忍剣も
龍太郎も、また
竹童も、ひとしく
松明の
燃えつきるのを忘れて、
岩上の文字をみつめ
予言の
意味をときなやんでしまった。
これを、読んで文字のごとく考えれば、
(伊那丸よ――おまえのいま
望んでいることは
無益であるぞ、
徒労であるぞ、
幻滅をもとめているにすぎないぞよ、そして、そんなことをしているまに、
留守の
小太郎山の
砦は、
徳川家康におそわれて、あの
裾野の
陣の
終局をむすばれてしまうぞよ――)
思うてみるさえ、おそろしい声がきこえる。
だが、まさかそんなことはあるまい!
伊那丸は心のそこで、
否定した。
これは老先生の
激励であろう。いまが大事なときであるぞと、
凡夫のわれわれを
鼓舞してくださる
垂訓なのであろう。すなわち、予言の
裏にふくむ
真意をくめば、
――ここに
最善のつとめをなさねば
汝と
父勝頼との、
父子のめぐり会うのぞみはついにむなしいぞ。
――ここにゆうゆうといたずらな日を
過すときは、小太郎山の砦もあるいは
危うからん。
というおことばなのにそういない!
忍剣もそう
解いた。
龍太郎も、それにちがいないといった。
で、
武田伊那丸は、いやがうえにも、
希望をもった。
武者ぶるいとでもいうような、
全霊の血と
肉との
躍りたつのがじぶんでもわかった。
「おのれ
和田呂宋兵衛、きょうこそは、かならず
汝の手から
父君をとり返してみせるぞ」
固くかたく、こう
誓った。
そして、
予言の文字に
吸いつけられていた
眸をあげてふと
有明けの空をふりあおぐと、おお希望の
象徴!
熱血のかがやき! らんらんたる
日輪の
半身が、
白馬金鞍の
若武者のように、東の雲をやぶってあらわれた。
夢からさめたようにあたりをみると、
舟岡山は水いろにあけている。春のあけぼの! 春のあけぼの! 小鳥はそういって歌っていた。森をこえて
紫野の
里に、うす
桃色の花の雲をひいて、
今宮神社の
大屋根が青さびて見える。
「夜が明けた!」
竹童が、とびあがるような声でいった。
「おお!」
と龍太郎と忍剣、きッとなって、
伊那丸の顔をみながら、
「
若君、
時刻をうつしては一大事です。ともあれ竹童を先にやって、
天ヶ
丘のようすを、しかと見とどけさせましょう」
「ウム、そしてわれわれは、
寒松院の
松並木に待ち
伏せているか」
「それが、
上策とかんがえまする」
「竹童」
「はい」
「
心得たか」
「たしかにうけたまわりました」
「では、これを――」
と龍太郎が、
狼煙筒を、竹童の手へわたして、
「
呂宋兵衛をはじめ天ヶ丘の者どもが、山をくだって、寒松院の並木へかかるころを見はからい、この狼煙をうちあげてくれい。時ならぬ狼煙の音におびやかされて、きゃつらは、かならずうろたえるにちがいない」
「その
虚につけ入って、呂宋兵衛の一族をけちらし、
勝頼公のお
駕籠をうばいとる、ご
計略でございますか」
「そうじゃ。
機をあやまらぬようにいたせ」
「かしこまりました。ではみなさま――」
般若丸をさしなおして、
伊那丸に一礼すると、もうヒラリと岩の上から飛びおりていた。そして、バラバラと
舟岡山をかけおりていく彼のすがたを見送っていると、たちまち、
崖をこえ、
雷神の
滝の流れをとび、やがて森から
紫野のはてへ
霞んでしまった。
そのはやいことはやいこと、まるで
鹿のようである。もっとも、あのけわしい
鞍馬の谷や細道になれきッている
竹童だ。ここらの山や森などは、ほとんど、
坦々たる
芝生の庭をかけるようなものだろう。
「あれ、ごらんあそばせ」
龍太郎が、そのうしろ姿を指さしていう。
「竹童め、
今朝はすッかり
忘れております」
「なにを?」
と、伊那丸がきく。
「きのうまでは
盲であったが、老先生のお力で、にわかにアアなったことをまるで忘れているらしゅうございます」
「お、……それが
童子らしいところである」
微笑をもってながめていた伊那丸は、愛らしいやつ、――たのもしいやつ――そう思ってうなずいた。
やがて、その三人も、
雷神の
滝の
岩頭をおりた。そして、
裏道をめぐって、敵の
廻しものに
覚られぬように、ひそかに
寒松院の
並木にかくれ、
腕をさすッて、
合図の
狼煙を、待ちうけていた。
「オオ、
寒い」
正気にかえって、ポカンとあたりを見まわしたのは、ゆうべ、
今宮神社の
境内で、馬にけられてヘドを
吐いて、あのまま
気絶していた泣き虫の
蛾次郎。
「オオ寒、寒、寒……」
ブルブルガタガタふるえている。
ひょいと見ると、目のまえには、じぶんの
吐いたご
馳走やら、馬の
糞やら
紙屑やらで、きれいな物は一つもない。
この
汚穢だらけな地面の上に、気をうしなって寝ていたかと思うと、いくら
洒アつくな蛾次郎でも、さすがにすこしあさましくなって、
今朝の
寝起きは、あまりいい気持でなかった。
「アア、おなかがペコペコだ……」
起きるとすぐに
食うしんぱい。
ゆうべスッカリ吐きだして、
今朝は
胃袋が、カラッポになっているとみえて、
食慾ばかりになった目つきで、しきりに、そこらをキョトキョトと見まわしながら、
「なにかないかナ、なにかないかナ……」
泥だらけな着物もハタかず、ふらふらと立ちあがった。
その姿や寝ぼけ
面が、おかしいとみえて、すぐそばの
神馬小屋で、白と黒と二
疋の馬が、ヒーンと鼻で吹きだした。すると頭の上のモチの木でも、
鴉がカーッと
啼き合わせた。
虫のいどころが悪かった。
「ばかア! てめえのことじゃねえやい」
と、
蛾次郎、鴉をどなりつけて、スタスタと向こうへ歩きだした。
すると、あった! あった!
ひとつの
御堂の
神前に、蛾次郎の見のがしならぬものがあった。
蕎麦まんじゅうのお
供物である。
きのうのお
祭に、
氏子があげた物であろう。
三方の上に、うずたかく、大げさにいえば、
富士の山ほど
積んであった。
犬もあるけば
棒にあたる!
これなるかな、これなるかなと、蛾次郎はそこで、よだれをたらして見とれてしまった。
「ちぇッ、ありがたし、かたじけなし」
と泣き虫の蛾次郎、じぶんのおでこをピシャリとたたいて、神さまに
感謝したのである。が、さてと口に
唾をわかせてみると、いけないことには、
厳重な
柵をめぐらしてあって、いくら長い手をのばしてみても、とても、そこまではとどかない。
「ウーム、いまいましいなア」
宝の山に
入りながら、この
蕎麦まんじゅうに手がとどかないとは、なんたる
無念しごくだろうというふうに、
胃液をわかせながら
蛾次郎の目がすわってしまった。だが、こういう事業にたいしては、人一
倍の熱をもつ蛾次郎である。たちまち一
策をあんじだして、蕎麦まんじゅうの
曲取りをやりはじめた。
そこらで見つけてきた一本の
細竹、先をそいでとがらせ、
柵のそとから手をのばして、三
方の上のまんじゅうを上から一
箇ずつ
突いては取り、突いては
食べ、口の中へ五つばかり、ふところの中へ八つばかり、まんまと、せしめてしまったのである。
「エヘン。どんなものだい、蛾次郎さまのお手なみは」
これで
兵糧もでき、目もさめた。
「さア、これからきょうはどうしよう、どうしておもしろくあそぼうか」
富士の
裾野をでていらい、
鷲に乗って
北国も見たし、
東海道も
見物したし、
奈良の
堂塔、
大和の平野、京都の
今宮祭まで見たから、こんどはひとつ思いきって、四国へ飛ぼうか、九州へいこうか?
なにしろ――
前途は
洋々たるものだ。
ひとまず、きょうは
天ヶ
丘へかえって、ゆッくりと考えたうえにしよう。
おお、天ヶ丘といえば、おればかりご
馳走を
食べあるいて、クロのことをすッかり忘れていた。あの
丘の
奥の松の木へ、
鎖でしばりつけておいたから、
逃げる気づかいはちっともないが、きッと腹をへらしているだろう。
こう気がついたので
蛾次郎も、にわかに足をはやめて
今宮神社の
内から、
天ヶ
丘のほうへ歩きだした。
すると、ちょうどその
麓。
南蛮寺ののぼりにかかろうとする
参道の
並木を、
忍びやかにゆく人かげがある。
まだ
朝霞がたちこめているので、おおかた
薪拾いの
小僧か、
物売りだろうくらいに思っていた蛾次郎は、だんだん近づいて見てびっくりした。どうも、それは
鞍馬の
竹童らしい。
「おやッ」
蛾次郎は、もういっそうちかくよってみた。まちがいなく竹童である。
「だが、へんだなあ。……あいつ目が見えないくせにして、いやにまっすぐに向いて歩いていやがる。ははア
読めた……よく
盲というやつは、見えるふりをして歩くというが、竹童もそれであんなにすましているんだな。うふッ、……また一つからかって見てやろうか」
と、ひとり
合点をして泣き虫の蛾次郎、
止せばよいのに
性懲りもなく、また
悪戯心をおこして、竹童の後からピタピタとついていった。
霞にぼかされた松の丘に、
南蛮寺の
朱門は、まだ、かたくとざされてあった。
稲妻形についている
石段の道を見まわしても、きれいな
朝露がたたえられて、人の
土足にふみにじられているようすはない。
きょうの朝まだきに、
桑名に
在陣する
秀吉のところへ向けて、
和田呂宋兵衛が
護送していこうとする
勝頼の
駕籠は、まだあの
朱門をでて山をくだっていないようだ。……
竹童はまずよかったと、そこでいっそう身をかがませながら、はうようにして、石段を一
歩一歩とのぼっていく……
それを見ると、
蛾次郎は、
「あはははは。やっぱり
盲だ、石段を四つンばいになって
登っていきゃアがる」
と、
嘲笑いながら、心をゆるめてしまった。そこで、ふところの
蕎麦まんじゅうを半分たべて、のこりの半分を、ポンと竹童の背なかへ投げつけながら、
「おい、
鞍馬の竹童――どこへいくンだい」
と呼びかけた。竹童は、ハッとして石段へ身をねかせた。そしてジロリと、ふりかえって見ると、ゆうべ八
神殿の
床下でにがした蛾次郎だ。
「ああ、またきたな」
と思ったが、はやる心をおさえて、なお盲のふりをしながら、しずかに
天ヶ
丘へのぼりだすと、
蛾次郎は、それとも知らずに、
「オイオイ、つんぼかい?」
いよいよ
図にのって、
減らず
口をたたきだした。
「ゆうべはつんぼじゃなかったはずだ。
盲の上にツン
的ときたひにゃ、それこそ、でくの
坊よりなッちゃあいねえからな。ええオイ竹童……おッと、こいつは
俺がまちがった。おまえは八
神殿の
床下をお
屋敷としている、天下のお
乞食だッたんだっけ。それじゃ返事をしないはずだよ。ではあらためて呼びなおすことにしよう……」
蛾次郎、ますますお
調子づいて、いまや、その身が竹童の
般若丸の
切ッ先に、まねき
寄せられているとは知らずに、ノコノコとすぐ
後ろへまで近よっていった。
そして、
黄色い
歯をムキだして、ゲタゲタと笑いながら、竹童の顔を、
肩ごしにのぞくようにしながら、
「――もし、天下のお乞食さま。おめえ、これからどこへいくのよ。
南蛮寺の
台所か、それにゃ、まずすこし
時刻が早かろうぜ。おあまりは
朝飯すぎにいかなけりゃくれやしないよ。うふふふふ……
怒ってるのか。
澄ますなよ。はずかしいのか、蛾次郎さまにすがたを見られて……。まアいいじゃアねえか、なアおい竹童、おれとおめえとは、いまじゃ身分がちがってしまったが、もとは
裾野の
人無村で、おなじ
柿の木の柿をかじりあった仲だ。――おれはおめえに
同情しているんだぜ。だからよ、ゆうべだッて、おれから声をかけたんじゃねえか。うまい
飴ン
棒でもしゃぶらしてやろうと思って、ひとが
親切にいったものを、コケおどしの
刃物なんぞふりまわして、よせやい、おれだって、はばかりながら、刀ぐらいは
差しているんだからな」
竹童は、
唖のようにだまっていた。
しかし、全身の血は、
沸りたち、毛もよだつほど
怒っていた。だが、――いまは、どこまで
盲の
態をみせて
蛾次郎にゆだんをさせ、その
素ッ
首をひンねじってやろうと、心の
奥にためきって、かれの
悪口雑言を、いうがままにこらえている。
「エエ、オイ、なんとかいえよ、なんとか」
蛾次郎は、竹童のからだから
棘の立っているのに気づかず、いきなり
蕎麦まんじゅうをムシャムシャ
食べて、
「やい
乞食、これでも
食らえ」
と、その
食いかけを、竹童の口もとへ持っていった。
待っていたぞ――と、いわぬばかりに。
「逃げるな、蛾次!」
と、いうがはやいか、
鞍馬の竹童、顔まできた蛾次郎の右の手を、いきなりつかんでひきよせた。
「あッ! こ、こいつ」
「よくやってきた。思いしれ」
と竹童は、その
利き
腕をねじあげて、石段の
中途へ、
押したおした。
「おう! て、てめえ目が見えるのか」
と
押しふせられながら
蛾次郎は、
胆をつぶして、ふるえあがった。
竹童はその上へのって、
膝がしらで、相手の腕をおしつけ、両手で
喉と腕首をしめつけて、ビクとも動きをとらせずに、
「やい
蛾次公! よくもおのれは、この竹童を、さんざんに
恥ずかしめたな。うぬッ、どうするかおぼえていろ」
「あッ――か、か、かんにんしてくれ」
「えい、いまになって、
卑怯なことをいうな」
「あやまる、あやまる、あやまる! あやまりますから! かんべんしてくれッ!」
「だめだ! だめだ! だめだッ。もうなんといッたってゆるすもんか、ここでおいらの手につかまったのが百年目だ、
般若丸の
斬れあじを
試してやるから、そう思え」
と、刀の
柄へ手をやった。
「アア待ってくれ、竹童、竹童さまーッ」
と、蛾次郎はついに
本性をだして、ベソをかきながら
悲鳴をあげた。
「待ってくれよ、おめえに返すものがある。おれを殺してしまうと、それがわからなくなるぜ」
「なに? 返すものが……オオ
鷲をか」
「そうだ。クロを返すから、
命だけを助けてくれ」
「きっとだな!」
「きっと!」
「よし、クロを返すというならば
命だけは助けてやる。だが、それはいったいどこにあるのだ」
「す、す、……すこうし手をゆるめてくれなくちゃ、のどがくるしくって、声が……」
「さッ、はやくいえ!」
と少しからだを浮かしてやると、そのとたんに、泣き虫の
蛾次郎、ドンと足をあげて竹童の
頤を
蹴とばした。あッ、と竹童もふいを
食ったが、
胸ぐらをつかんでいた手をはなさなかったので、足を
踏みはずした勢いで、蛾次郎もろともに、ゴロゴロゴロと、二つのからだが、
俵のように、石段の中ほどから下までころげ落ちていった。
ごろんと石段の下にとどまると、蛾次郎はいきなり、竹童の
唇へ、
爪をひっかけた。
「なまいきなッ」
と竹童、その手をはらって、
襟がみをつかみ、
腰をあてて、
車投げに、――ぶんと、大地へなげつける。が、蛾次郎もここ一生の
命がけ、投げつけられて立つや
否、バラバラッと横ッとびに
逃げだした。
「待てッ――」
なんで竹童の足にかなうものか! すぐ
追いつかれそうになる、これはとおどろいて、蛾次郎、高くそびえ立った一本の
樫の木へ
猿のようにツツッ――とよじのぼった。
木登りは、また竹童の
得意とするところ。
かれが
猿なら、竹童はむささびのごとく
敏捷だ。ピョンと枝へ
飛びつくと、もう蛾次郎の
踵をつかまえた。
「わッ!」と蛾次郎。
あぶなくすべり落ちそうになったところを、
蹴はなして、ザワザワと横枝へはいだした。人の重味で
樫の枝が
弓なりになって
崖へさがる――すぐあとからまた、竹童が
猿臂をのばしてきた。
南無三! 蛾次郎はポンと枝から
崖へ飛びうつっていちもくさんに
天ヶ
丘へかけのぼった。
鷲だ、鷲だ!
こんな時には手のとどかない、地面をはなれてしまうのが一番
安全。
こう思って蛾次郎は、いつぞや、クロをつないでおいた松の木の下まで、
無我夢中にかけのぼってきてみると鷲は、人の
跫音を聞きつけて、
羽ばたきの音を高々とさせている。
「おお、いたな! ありがてえ」
息をはずませてかけよった。
そして
汗を
拭くまもなく、クロの足をしばりつけてある
鎖をガチャガチャ
解きはじめた。だが、――
意地わるく、急げばいそぐほど、鎖は
笹や
枯草にひっからんで、
容易にむすびこぶしが
解けない。
とこうするまに、
鞍馬の
竹童、ヒョイと見うしなった
蛾次郎のすがたを
血眼で、さがしながら、もうすぐそこまで、のぼってきた。
「オオ、クロがいた! おれのクロだ!」
かれは思わずこうさけんだ。あたかも、
暗夜に見うしなった肉親の姿でも見つけたように――
と、ちょうどその時である。
南蛮寺の
奥のほうから、ジャン、ジャン、ジャン!
妖韻のこもった
鐘の
音――そして一種の
凄味をおびた
貝の
音がひびいてきた。ハッと思ってふり向くとたんに、
丘のいただきにある南面の
朱門が、
魔王の口を開いたように、ギーイと八文字に
押しひらかれた。
同時に――
その朱門の中からワラワラとあふれだしたおびただしい
浪人武者!
黒装束へ
小具足をつけたるもの、
鎖襦袢をガッシリと
着こんだもの、わらじ
野袴に
朱鞘のもの、
異風さまざまないでたちで、その数五十人あまり。
百鬼夜行ということはあるが、これは
爛々たる朝の
陽をあびて、その
装束が同じからぬごとく、その
武器も
槍、
太刀、かけや、
薙刀、
鉄弓、
鎖鎌、見れば見るほど十人十色。
「それッ、
列をみだすな、駕籠わきへつけ、駕籠わきへ」
なかに、ひとりこういって、手をふりあげた者がある。これぞたしかに、
紅毛黒衣の
怪人、
和田呂宋兵衛にまぎれもない。
黄金の
鎖を
胸にたらした
銀色の十
字架、それが、
朝陽をうけて、ギラギラ光っている。
「おう!」
と答えて、ひとつの駕籠のまわりへ、
警固についた者たちを見ると、おなじ
黒布をかぶり
黒衣をつけた
吹針の
蚕婆をはじめ、呂宋兵衛のふところ刀、
丹羽昌仙、
早足の
燕作、このほか、
腕ぶしの強そうな者ばかり、ひしひしと足なみをそろえた。
そして、あたかも、
深岳の
狼が、
群れをなして
里へでるごとく、
列をつくって、
天ヶ
丘の
石段を
下りはじめる。中にはさんでいく一
挺の
鎖駕籠は――まさしく、
桑名の
羽柴秀吉へおくらんとする
貴人の
僧形、
武田勝頼が
幽囚されているものと見られる。
「やッ! 呂宋兵衛がいく、勝頼さまのお
駕籠がいく」
それを見るや
竹童は思った。
寒松院の
並木に待ちぶせている
伊那丸やそのほかの人々に、すこしも早く、このことを
合図してやらねばならぬと。――
といって――
狼煙のしたくをしているまには、おお、すぐそこにいる
蛾次郎めが、クロの背をかりて、
宙天へ逃げ失せてしまうであろう。
蛾次郎を見のがすぐらいは、虫ケラと思えばなんでもないが、いまここで、せっかくその姿を見たクロとふたたび別れてしまうのは、なんとしてもしのびない。いつまた、それが蛾次郎の手から、じぶんの手へ返ってくる
時節があるかわからない。
さればといって――それにグズグズ
手間どっているまに、
呂宋兵衛一
族が
天ヶ
丘から道をかえて、
勝頼公をとおく
護送してしまったら、それこそ
伊那丸さまへたいしてぬぐわれざる
不忠不義! 腹を切っておわびしても、その
大罪をつぐなうには
値しない。
「ああ、
困った」
竹童は、
髪の
毛をつかんで、
迷いにまよった。
合図か?
鷲か? 合図か? 鷲か?
どっちへこの身をむけていいか。
「おお、クロを?」かれはとつぜん蛾次郎のいるほうへ
征矢のごとく飛んでッた。
クロこそは、人間のもつなにものも、
匹敵するあたわざる飛行の
武器だ、生ける武器だ。クロさえ蛾次郎の手からとり返せば、のろしをあげるまでもなく、あの
偉大なつばさで一はたきで、
寒松院の
並木にいる
味方へ、このようすをお知らせにも飛んでいける。
そのうえ、たとえ
呂宋兵衛が、どこをどう
逃げまわっても、空からそれを見てとることもできるというもの。――こう
竹童はかんがえた。
しかし、その時すでに、
蛾次郎は、
鎖をといて
鷲の背へ、フワリと乗っていたのである。
「あッ、待て!」
飛びついていった竹童と、地上をはなれた
大鷲とはそのとき、ほとんど同時であった。
「くそうッ」と蛾次郎、鷲の上から竹をふるって、竹童の
肩をピシーッとなぐった。
「ちイッ……」と、こらえながら、竹童は、
必死につかんだ蛾次郎の足をはなさず、大鷲のつばさが、さッと大地を打ってまいあがるのと一しょに、かれも蛾次郎とともに、
無二
無三に、鷲の
背なかへかじりついてしまった……
かくて
巨大な
黒鷲の背には、いまやたがいに、
敵たり
仇たるふたりの
童子が、ところもあろうに、飛行する大空において、ひとつ
翼の上に乗りあってしまった。
だが、しかし――鷲そのものは、
蛾次郎を敵ともおもわず、また竹童を
仇とも思うようすもない。
軽々と、二少年を背にのせて、そのゆうゆうたるすがたを、
南蛮寺の空にまいあがらせた。
おお、みるまに
下界は遠くなる――遠くなる――
南蛮寺の
屋根、
天ヶ
丘一
帯、さらに四方の山川まで、たちまち
箱庭を見るように、すぐ目の下へ
展開されて、それが、ゆるい
渦巻のように巻いてながれる……
蹴おとされては大へんと、泣き虫の
蛾次郎は、
歯を
食いしばって、
鷲の
頸毛にしがみついた。
と――同じように、地上とちがって、大空の風をきってゆく鷲の背なかにいては、さすがの竹童も、手がはなせないので、みすみすそばに乗りあっている蛾次郎をどうすることもできないのである。
それはいいが、ここに、なおなお困ったことは、ひとりならば自由な
方角をさして
飛ばすこともできるが、こうして蛾次郎と
相乗りになってしまったために、クロはただクロ自身の
意志で、勝手なほうへさっさつとして飛んでいく。それでは、
伊那丸たちへ、
合図をするたよりがないので、かかるまも、竹童の腹のなかは、引っくり返るような
心配である。
ピューッ、ピューッと顔をかすっていく風の
絶えまにはるかに下をみてあれば、もう
和田呂宋兵衛一
族の列は
蟻のように小さく見えながら、天ヶ丘の石段を
降りきっている。
「かならず――
合図をまちがえてくれるなよ――」
くれぐれもことわられた
龍太郎のことばが、空の上なる竹童の耳に、いまもありありと聞える心地がする。
――とそのせつなである。竹童は、すぐ
真下の地上に一点の火の
塊を見いだした。
枯草をやく
百姓の
野火か、あるいは、きこりのたいた
焚火であろうか、とある原のなかほどに、チラチラと赤くもえている
焔があった。
「しめた」
竹童は、やっと片手をふところへ入れて、龍太郎から
渡されてきた、
狼煙筒をかたくつかんだ。そして、
鷲の腹がちょうどその火の上へ
舞いめぐってきたとたんに、ポーンと下へ投げおとした。
ツーと
斜線をえがいて落ちていく、小さい
物体の
行方に、竹童は
祈りを送った。
しめた! 狼煙の
筒は、うまく、地上に見えるその焔の
廓のなかへ落ちた。
と、思うまもあらず、
轟然たる
青天の
霹靂。
筒の中の
火薬が
破裂して、ドーン! とすさまじい火と
灰と
炸裂した
物体の
破片を
舞いあげた。
合図の狼煙! それは一
倍ものすごい
響きをもって、
寒松院の
並木にいる、
伊那丸、
忍剣、龍太郎の耳へまでつんざいていったことは
必定である。だが――? そのとたんに、ビックリした
大鷲は、
雷気にあって天空をそれたようにパッ! ――と一
陣の風をついて、竹童と蛾次郎をのせたまま、いずこともなく飛びさってしまった。
さて――。
寒松院の
松並木――ここもまだ、朝がすみがこめていた。四
条五
条へ花売りにでる
大原女が、散りこぼしていったのであろう、道のところどころに、
連翹の花や、
白桃の
小枝が、
牛車のわだちにもひかれずに、おちている。
並木のこずえには、高々とうたう春の
百鳥、大地はシットリと
露をふくんで、なんともいわれないすがすがしさ。
かかるところへ、
霞のなかから、ポカリと
浮きだした一列の人かげがある。
寂光浄土の
極楽へ、
地獄の
獄卒どもが
練ってきたように、それは
殺風景なものであった。
きょう、
桑名の
陣をさして、
天ヶ
丘をくだってきた、
和田呂宋兵衛の一
行である。れいの
鎖駕籠をいと
厳重に
警固して、
随行には
軍師の
昌仙、
早足の
燕作、吹針の
蚕婆、そのほか五十余名の
浪人が、鳴り物こそ使わないが、いわゆる一
鼓六
足の陣あゆみで、ピタッ、ピタッ、ピタッ、ピタッ……と、足なみをそろえてくる。
せんとうに立ったのは三人の
野武士である。さえぎるものあらばと、刀の
柄に手をかけたまま歩いてくる。次には、
黒柄九尺の
槍を横にもち、するどい
穂先をならべてくる者が七人。――そのつぎに、
和田呂宋兵衛、
黒衣に
蛮刀を
佩き、いかにも意気ようようとしていた。
追分へでたら、左だぞ、左だぞ。すこしは道がまわりになっても、なるべく
裏街道をえらんでいけよ。――
途中、ほかの
大名にあったらば、
同格の
会釈をして、かまわないから、
羽柴筑前守のみ
内と名のれ――
関所へかかったときは、
武器を
伏せろよ! いいか、関所で武器をふせるのを忘れるなよ! そのほか、
桑名のご
陣につくまでは、みちみち話をかわすことはならぬ。
列の前後へむかって、こう
号令したが、令をくだす自分だけは
軍律もなにもなく、
黒布のかくしぶくろから
陶器製のパイプを出し、それへ、
葉煙草をつめたかと思うと、歩きながら、スパスパとむらさき色の煙をくゆらしはじめた。
しばらくゆくと、また
呼んだ。
「
昌仙、昌仙」
「はッ」
と、うしろのほうでこたえる。
丹羽昌仙と
早足の
燕作とは、
鎖駕籠の両わきに、つきそっていた。
「京の
大津口から桑名まで、およそ
何里ほどあるだろう」
「さよう? ……」
と
昌仙は歩きながら
懐中絵図をひろげて見て、
「二十九
里余町――まア、ざっと三十里でございまする。すると
桑名のご
陣へつきますまでには、約三日ののちとあいなります」
「三日はすこしかかりすぎるな。どこか
間道をとおって、二日ぐらいでまいれる
工夫はなかろうか」
「なにしろ途中には、
大津の
関所、松本の
渡舟、
鈴鹿山の
難路などがございますので……」
と、しきりに懐中絵図の説明をしていたが、そのうちに列のまっさきにあたって、あッ、という声がした。さきの
野武士三人の手から、ふいに、
虹のような
陣刀がひらめいたのだ。
と思うと、その三名は、
電光一
瞬のまにたおれ、すさまじい一
陣の風をついて、何者かが、向かってくる。
「おお!」
と、五十余名の
大衆が、シタシタと足をひいて、まえをみると、
霞のふかい
松並木のかげから、
忽然とおどりだした年わかい
怪僧があった。
染衣の
袖を
綾にしてうしろにからげ、手には、
禅杖をふりまわして、
曠野をはしる
獅子のごとくおどりこんできた。
「おのれッ!」
さけぶやいな、第二段の
浪人組七人が、
黒柄九
尺の
槍の
穂さきを、サッと
若僧の一
身にあつめ、リラッ、リラッ、リラッ、と
しごきをくれて八面を
押っとりかこんだ。
「や、や?」
と、
呂宋兵衛は、
陶器パイプを口からおとして、
「おう! ありゃ、
武田方の
加賀見忍剣だ。さては、
勝頼をうばいかえすために、
伊那丸をはじめ、その
他のやつらも、このちかくに身をふせているとおぼえたぞ。
昌仙、昌仙!
燕作もゆだんするなッ」
いうもおそし、その伊那丸は、いきなり横あいの草むらから、バラバラとおどりだして、
木隠龍太郎とともに刀のこじりをはねあげ、呂宋兵衛の前へぬッくと立った。
「
野武士ども待て、しばらく待て、むりにおし通らんとすれば、
命がないぞ」
「おッ――おのれは武田伊那丸に龍太郎だな。
秀吉公の
威勢をもおそれず、都へ
入りこんでくるとは、
不敵なやつ。この呂宋兵衛の
手並にもこりず、わざわざ
富士の
裾野から討たれにきたか」
内心、
胆をつぶしながらも、
怯みを見せまいとする呂宋兵衛は、
蛮音をはりあげて、刀へ手をかけた。
「やかましいッ!」と、木隠龍太郎。
「はるばる、
若君がここへ、お越しあそばしたのは、お
父上勝頼公をお迎えにまいったのだ。その
鎖駕籠のうちに、お身をひそめたもうおん
方こそ、まぎれもなき
勝頼公と見た。
呂宋兵衛、
神妙に渡してしまえ」
「なにを、ばかな。いかにも鎖駕籠のうちには、これから
桑名のご
陣屋へ
護送するひとりの
落武者が
入れてある! だがよくきけよ! おれも
人穴城にいた
野武士とちがって、いまでは、
南蛮寺を
守護する
羽柴家の呂宋兵衛だぞ。なんで勝頼をうぬらの手にわたすものか」
「渡さぬとあらば、なおおもしろい。
木隠龍太郎や
忍剣が力をあわせて、
汝らを、この
松並木の
生き
肥にしてくれる」
「わはははは、
片腹いたいいいぐさを
聞いちゃいられねえ。オオ! めんどうだが、桑名へのいきがけの
駄賃にうぬらの
生首を
槍のとッ
尖にさしていくのも一
興だろう。それッ、この虫けらを
踏みつぶしてしまえッ」
剣をはらって、うしろの
狼軍をケシかけようとすると
伊那丸の声が、またひびいた。
「ひかえろッ、
雑人ども!」
機山大居士武田信玄の
孫、
天性そなわる
威容には、おのずから人をうつものがあるか、こういうと呂宋兵衛にしたがう山犬武士ども、おもわず耳の
膜をつン
抜かれたように、たじたじとして、われ一番にと
斬りつける者もない。
「えいッ、相手はわずか二人か三人、なにを
猶予しているのだ、ふくろづつみにして、そッ首をあげちまえッ」
呂宋兵衛が
怒号したとたんに、ズドンッ! と一発、つづいてまた一発のたま! シュッと、
硝煙をあげて
伊那丸の耳をかする。
「おッ、
若君、
飛道具のそなえがありますぞ」
「なんの!」
と、
武田伊那丸、
小太刀をぬいて、身をおどらせ、目ざす呂宋兵衛の手もとへとびかかった。
「それッ、
頭領をうたすな」
と、なだれてくるのをおさえて、
木隠龍太郎はかれが
得意の
戒刀をぬいた。――たちまち、前後の四、五人を斬りふせつつ、かの
鎖駕籠のてまえまで走りよった。
と――
駕籠の屋根にはさっきから、一人の
老野武士が立っていた。その上から、
銀象嵌の
短銃をとってかまえ、いましも、三度目の
筒口に、伊那丸の姿をねらっていたが、龍太郎が近づいたのをみると、オオ! とそのつつ先を向けかえた。
「おのれッ!」
とたんに、ごうぜんと、また一発のけむりが立った。老野武士は短銃を持ったまま、駕籠の屋根から向こうがわへぶっ
倒れ、龍太郎のすがたは、
太刀を走らせたまま煙の下へよろめいた。
短銃をつかんでいた者こそ、すなわち
人穴以来、呂宋兵衛の
軍師格となっている
丹羽昌仙――ああ好漢、木隠龍太郎、とうとうかかる無名の
野軍師と、あい
討ちになってしまったか?
龍太郎と
伊那丸が、
呂宋兵衛の
側面をつくよりまえに、ただひとり、列のまっ正面から
禅杖をふっておどりこんだ
勇僧は、いうまでもなく
加賀見忍剣だ。
七、八人の
野武士どもが、九
尺柄の
槍尖をそろえて、ズラリと
円陣をつくり、かれをまんなかに押しつつんでしまったが、
笑止や、忍剣の眼から見れば、こんなうすッぺらな
殺陣は、紙のふすまを
蹴やぶるよりもたやすいことであろう。――見よ、
錬鉄の禅杖が、かれの
頭上にふりかぶられて、いまにも
疾風をよぼうとしているのを!
かッと、目を見ひらいて、加賀見忍剣、
「
命のおしいやつはどけッ!」と
大喝した。
と思えば――
虚空からさッとおちた禅杖が、右なる槍を二、三本たたき
伏せる! それッと、ひだり
側から
間髪をいれずにくりこんだ槍は、ビューッと禅杖が
輪をえがいてかえったとたんに、
乱離微塵! 三
段四
段におれとんで、その
持主は血の下になった。
「わッ」
と円陣の一
角がくずれると、もうかれらは、こらえもなく
浮きあしをみだした。忍剣はといえば、その
瞬隙に、
檻をでた
猛虎のごとく、伊那丸の
側へかけだしている。
伊那丸はどこまでも、呂宋兵衛をのがさじと
追いつめて、いまや、火をふらして
血戦をいどんでいた。そこへ
忍剣がかけつけて、あたりの
木ッ
葉浪人を八面にたたき
伏せ、
「
若君、お
助太刀」
いきなり、
呂宋兵衛の横から打ってかかった。
「おう!」
と
魔もののように
吼えた呂宋兵衛は、すでに、
味方の
半ばはきずつき、半ばはどこかへ逃げうせたのを見て、いよいよ
狼狽したようす。
伊那丸のするどい
切ッさきと、忍剣の
禅杖をうけかねて、息をあえぎ、
脂汗をしぼりながら、一
歩一
歩追いつめられたが、そのうちに、ドンとうしろへつまずいた。
ほうりだされた
鎖駕籠――それへ
打つかって、呂宋兵衛がヨロリと
駕籠の
棒へささえられた。
「しめたッ!」
と、いう声がそのうしろでした。――だれかとおもうと、さいぜん、
弾煙のなかにたおれた
木隠龍太郎である。
いかなる
戒刀の
達人も、
飛道具のまえに立っては
危険なので、わざと身をうっ
伏せたものだった。
しかし龍太郎は、たおれたまま
仮死をよそおっていただけではない。かれは、
丹羽昌仙が、じぶんの
切ッさきからとんで逃げ、あたりの者も見えないしおに、
得たりとばかり鎖駕籠の
側へはいより、その
錠まえをねじ切っていたところである――そこへ、呂宋兵衛がヨロケこんできたから、
龍太郎はなんの苦もなく、
「しめた!」
と、その片足をつかんでしまった。
まえには
忍剣、横には
伊那丸の太刀、足をつかまれて立ちすくみになった
呂宋兵衛は、いよいよいまが最後とみえたが、いつもこうした
破滅には、かならず
南蛮流幻術で
姿を消すのが、かれの
奥の手だ。
いまもいまとて、伊那丸と忍剣が、一気にかれを
討ちとろうとしたせつな、どこからともなく、ビラビラビラビラビラッと吹きつけてきた
針の風! それは呂宋兵衛の
幻術ではない、すぐかたわらの松の木のうえに、
蝙蝠のごとく
逃げあがっていた
蚕婆が、呂宋兵衛あやうしと見て、例の
妖異な
唇から、ふくみ
針を吹いたのだ。
梢はたかく、下へはかなりの
間隔があった。無数の針は音なき風となって、ピラピラと飛んできても
肌につき立つほどではないが、あたかも
毒蛾の
粉のように身を
刺したので、ふたりはあッ――と
面をそむけた。その一
瞬だ!
「ええッ!」
と、するどく龍太郎の手を
蹴はらった呂宋兵衛は、いきなり
駕籠にかぶせてある
鎖の
網をつかんで、パッと大地へ
投網のように投げた。
「あッ、また
妖術を――」
とさけぶまに、龍太郎のからだがその
鎖網のなかへつつみこまれたので、おどろいた
忍剣、
禅杖に風をきらせて五体みじんになれとふりつけると、おお
奇怪! 一
陣の黒風がサッと流れて、いままでほがらかだった
春暁の光はどこへやら、あたりは見るまに
墨色にぬりつぶされ、ザアッ――という
木の
葉のそよぎとともに、雨か
霧かしぶきか、なんともいえないしめッぽい
水粒がもうもうと立ってきた。
とたんに、
呂宋兵衛のからだは、
邪法秘密の
印をむすびながら、ヒラリと
駕籠の
屋根へ
飛びうつっていた。あれよ! と眼をみはるまに、まッ暗になった両側の
松並木の根もとから、サラサラサラサラ……という水音がしてたちまち
滾々とあふれてくる
清冽が、その駕籠をうごかして、呂宋兵衛を乗せたままツウ――と舟のように流れだした。
「
魔人め。また
邪術をほどこしたな」
「
若君若君。これは呂宋兵衛の
幻惑ですぞ、かならず、その手に乗って、おひるみあそばすな」
投げかけられた
鎖をはらって、龍太郎と忍剣が、流るる駕籠をジャブジャブと
追いかける、その時もうこの
街道は、まんまんたる
濁水の川となって、
槍の折れや、血あぶらや、
死骸がうきだし、ともすると
伊那丸まで足をながされておぼれそうだ。
「ちぇッ、ざんねんだ!」
なにしろ水の勢いが、とうとうと足の運びをはばめるので、さすがの伊那丸も二勇士も、
目前に
仇を見、目前に父の駕籠を
目撃しながら、どうしても追いつくことができない。そのまに、
筏のように水に浮いた駕籠がグングンとゆれつつ押しながれ、その上には
和田呂宋兵衛、ざまを見ろといわんばかりに、白い
歯をむいてあざわらっている。
「ウーム、おのれ
邪法の
外道め、見ておれよ!」
水勢に巻かれて、むなしく
立ち
往生してしまった
主従三人は、もう胸の上まで
濁水にひたって、
樹の枝につかまりながら、敵のゆくえをにらんでいたが、そのとき、
加賀見忍剣は、はじめて
破術の法を思いだして、
散魔文の
秘句をとなえ、手の
禅杖をふりあげ、エイッ! と水流を
切断するように打ちおろした。
水面をうった
法密の禅杖に、サッと水がふたつに分れたと思うと、散魔文の破術にあって
狼狽した呂宋兵衛は
徒歩になってまッしぐらにかなたへ逃げだし、まんまんと
波流をえがいていた濁水は、みるみるうちに、一
抹の
水蒸気となって
上昇してゆく……そして
松並木の
街道は、ふたたびもとののどかな朝にかえっていた。
まるで、
悪夢から
醒めたよう……ふとみると春の
陽はさんさんと木の間からもれて若草にもえ、鳥はほがらかに
音を
張ってうたっている。それのみか、呂宋兵衛が水に浮かして乗りさったと思えた
鎖駕籠は、一
寸の場所もかえずに、もとのところにすえられてある。
呂宋兵衛が得意とする水術に
眩惑されて、かれをとり逃がしたのは
遺憾だが、
勝頼の駕籠をうばったのは、せめて
伊那丸の心をなぐさめるに
足るものであった。
「待て待て、
忍剣。
龍太郎も待て!」
伊那丸は、なおも
憎ッくき
賊を追おうとするふたりを
止めて、
「このたび
都へまいったのは、まず何よりもお父上の
危急をお
救い申すにあった。いまここに、その
駕籠を迎えまいらせた以上、
呂宋兵衛を討つのは、いまにかぎったことではない。それ、一
刻もはやく、お駕籠のうちからお救い申しあげて、
小太郎山のとりでへもどろうぞ」
「おっしゃるごとく、それこそ、
大願の
目標でした」
「忍剣! 手をかせ」
「はッ」
と、
主従三人、バラバラと駕籠のそばへ寄っていったが、ああ、
去年の春、
織徳連合軍の
襲うところとなって、
天目山の
露と
化したまうと聞えて以来、ここにはやくも一めぐりの春。――いまこそ、
亡き君とのみ思うていた、
武田四郎勝頼その人のかわれる
姿を
拝すことができるのかと、龍太郎も忍剣も、思わず
胸をわななかせて、大地にひざまずき、伊那丸もまだその
姿を
拝さぬうちから、
睫毛になみだの
露をたたえている。
一同、
駕籠のまえに、ピタと両手をついて、
「あいや、それにおわす
貴人のご
僧に申しあげまする。われわれは
武田家恩顧のともがら、ここにいますは、お
家のご次男伊那丸さまにおわします。ひそかにおうわさのあとをしたって、遠き小太郎山のとりでより、ここまでお迎えに
参じましてござります。このうえはなにとぞ、もとの
甲山にお帰りあそばして、あわれ、
甲斐源氏再興のために、
臥薪嘗胆いたしている
若君をはじめ、われわれどもの
盟主とおなりくださいますよう。またそれをごしょうちくださいますとあらば、なにとぞ、ここにて久しぶりに、若君へご
対顔おおせつけ願いとうぞんじます」
誠意をこめて、ふたりがいうと、
「うむ……」と
駕籠のうちで、かすかにうなずく声がした。
「さてはおゆるし? ……」
と龍太郎、
忍剣と目くばせしながら、おそるおそる寄って駕籠の
塗戸へ手をかけ、
「若君、ご
対面なされませ」
スーと
開けると、なかには、まぎれもなきひとりの
僧形、
網代笠をまぶかにかぶって、うつむきかげんに乗っていた。
「おお、お父上でござりましたか。おなつかしゅうぞんじまする。わたくしは
伊那丸でござります――
天目山のご
合戦にもい合わさず、むなしく生き
永らえておりました。お父上! お父上!」
ほとばしる
激情! われをわすれて駕籠の戸にすがりつき、僧形の人の手をとると、僧も
黙然として手をとられ、ゆらりと駕籠のそとに立った。
「お父上! またもや敵の手がまわらぬうちに、一
刻もはやく、ここを去ってお
越しくださいませ、いざ伊那丸がごあんないいたしまする」
「どこへ? ……わしを連れていくというのじゃ」
「
甲信駿三ヵ国のさかい、
小太郎山のとりでの
奥へ。――オオ父上、そここそ山また山、自然の
嶮城、
難攻不落の地にござります。お父上のご武運つたなく、ひとたびは
織田徳川のために
亡びこそすれ、まだその
深岳のいただきには、
甲斐源氏の
旗一
旒、
秋をのぞんでひるがえっておりまする」
「ああ、その
秋はすでに去りました――、天の
運行は去ってかえらず、
還るは百年ののちか千年の後か――」
「えッ、なんとおっしゃいます……父上!」
染衣の
袖にすがりついて、ふと、
網代笠の下からあおいだ
伊那丸は、あッといって、ぼうぜん――ただぼうぜん、その手をはなしてこういった。
「父上とのみ思うていたが、そちは、
鞍馬の
果心居士ではないか」
聞くより
龍太郎もびっくりして、
「やッ、老先生でござりますと? ――」
あまりのことにあきれはてて、
忍剣とともに、ただ顔を見あわせているばかり。しばらくの
間は、口もきけないほどであった。
「定めしおおどろきでござろう。……しかし、わしが
雷神の
滝の
孤岩の上に、書きのこしておいた通り、これもみな、まえからわかっていることなのでござる。おう、ご
不審の晴れるように、いまその
次第をお話しいたそう。
若君も、まず、そのあたりへ
御座をかまえられい」
居士はゆうゆうと、ちかくの石へ腰をおろした。そして、
伊那丸へ、
「おん
曹子――」と
重々しく呼びかけた。
「はい」と伊那丸は、老師のまえへ、
神妙に首をたれてこたえる。
「あなたは、
甲斐源氏の一つぶ
種――世にもとうとい
身でありながら、
危地をおかしてお父上を求めにまいられた。
孝道の
赤心、涙ぐましいほどでござる。が、しかし――その
勝頼公が世に生きているということは、はたして真実でござりますか? あなたはその
証拠をにぎっておいでなさりますか?」
「わしは知らぬが、
伝うところによれば、父君は
天目山にて
討死したと見せかけて、じつは
裂石山の
古寺にのがれて姿をかえ、京都へ落ちられたといううわさ……」
「さ。それが真実か
虚伝かは、まだまだ深いなぞでござるぞ。いかにも、この
果心居士が知るところでも、
呂宋兵衛の手にとらえられた
僧形の
貴人は、
勝頼公によう似ておった」
「おお、してその
僧侶はどうしました。また、居士はなんで、かような姿をして、この
鎖駕籠のなかにはいっておいでになりましたか」
「されば、じつをいうと、その貴人の僧は、
南蛮寺の
武器倉に押しこめられている
間に、わしがソッと逃がしてやりました。そして――その人の
笠や
衣をそのまま着て、わしがこの鎖駕籠に乗っていたのじゃ」
「お! では老先生、やはりその僧こそ、父の
勝頼ではございませぬか」
「さあ? ……その人が勝頼であるかないか、それはだれにもはっきりは申されぬ」
「な、なぜでござります」
「
武門をすて、世をすて、あらゆる
恩愛や
争闘の
修羅界を、すてられた人の身の上でござるもの。話すべきにあらず、また話して返らぬことでもある」
「や、や、や! ではこの
伊那丸が、かくまで心をくだいて、
武田家の
再興を
計っているのに、お父上には、もう
現世の争闘をお
忌みあそばして、まったく、心からの
世捨人とおなりなされたのですか」
「もし、おん
曹子――まえにもいったとおり、まだその僧が、勝頼公かいなか、はっきり分っておらぬのに、そうご
悲嘆なされてはこまる。どれ、わしもそろそろ
鞍馬の奥へ立ちかえろう」
「老先生、しばらくお待ちくださいませ。……もう
一言うかがいますが、
居士が
身代りとなって逃がしたとおっしゃるその僧は、いったいどこへいったのでござりましょうか」
「おそらく、
浮世の
巷ではありますまい」
「と、すると」
「
浄悪すべてをつつむ八
葉蓮華の秘密の
峰――
高野の奥には、
数多の武人が弓矢を捨てていると聞く」
と、
謎のような言葉をのこして、
果心居士は
飄然と松のあいだへ姿をかくした。
幻滅の悲しみをいだいて、ぼうぜんと気ぬけのした
伊那丸は、ややあってわれにかえった。そして、なお
問いたいことのいくつかを思いだし、あわただしくあとを追って、
老師! 老師! ――といくたびも声のかぎり呼んで見たけれど、もう
春影の
林間にそのうしろ姿はなく、ほろほろとなく山鳥の声に、なにかの花がまッ白に
散っていた。
ああわからない、わからない。どう考えても伊那丸にはわからない。
果心居士の話しぶりでは、居士はすでに貴人の僧に会っているのだ。そして、自身がその
身代りになり、
桑名に
護送されるまえに、どこかへ落としてしまったとおっしゃる。だのに、居士はそれが父の
勝頼であるとは決していいきらない。その一点だけをどうしても打ち明けてくれない。
なぜだろう? ――ああさてはお父上には、居士が口をもらしたとおり、まったく弓矢の道をすてて、
高野の道場にこもるおつもりなのか? ……そして
浮世に
未練をもたぬため、いさぎよく、わざとじぶんにも会わず、父とも名のらず、愛情のきずなを
断って三
密の雲ふかきみ山にかくれてゆかれたのであろう?
そう伊那丸はかんがえた。
お父上よ! お父上よ! ではぜひないことでござります。
敗軍の
将は兵をかたらずと申します。ひとたび
天目山に
惨敗をとられた父上が、弓矢をなげうつのご決心は、よくわかっておりまする。
甲山に
鎮守して二十七
世の
名家、
武田菱の
名聞をなくし、あまたの一
族郎党を討死させた責任をご一
身におい、
沙門遁世のご
発心! アア、それはよくわかっておりまする! お父上のご心中、
戦国春秋の常とはいえ、ご
推察するだに、熱いなみだがわきます。
さあれ、
伊那丸はまだ
若年です。
伝家の
宝什、
御旗楯無の心をまもり、
大祖父信玄の
衣鉢をつぎ、一
片の
白旗を
小太郎山の
孤塁にたてます。
われに
越王勾践の
忍苦あり、
帷幕に
民部、
咲耶子、
蔦之助あり、
忍剣、
龍太郎の
驍勇あり、
不倶戴天のあだ
徳川家を討ち、やがて
武田再興の熱願、いな、天下
掌握の
壮図、やわか、やむべくもありませぬ。
伊那丸は心のそこで、高く高く、こう思い、こう
誓い、こうさけんだ。
そして彼は、まもなく忍剣と龍太郎とをつれて、
寒松院の
松並木をたち去った。
かかるうえは一
刻もはやく、小太郎山のとりでへ帰って、一
党の
面々にこのしまつをつげ、いよいよ兵をねり陣をならし、一
旦の風雲に乗じるの備えをなすこそ
急務である――と思ったのである。
伊那丸はほんぜんとさとった。
大悟すれば、
居士の
謎めいた言葉も、おのずから
解けたような心地がする。
会わねど、見ねど、さらば父上よ
高野の道場にいませ。
――かれの心はすがすがしかった。
いそぎにいそいで京都をでた
伊那丸主従が、
大津越え
関の
峠にさしかかったのは、すでに、その日の
薄暮であった。
ここは
木曾街道、東海道、
北国街道、三道のわかれ道で、いずれを取るもその人の心まかせ。伊那丸は
三井寺山のふもとに立ち、
魚鱗の
小波をたたえている
琵琶のみずうみをながめながらかんがえた。
「
忍剣、
龍太郎。そちたちは、これから
小太郎山へもどる道を、いずれにえらぶがよいと思うか」
「されば」と、龍太郎はすぐこたえた。
「
北国路には、
上部八風斎のつかえる
柴田権六勝家が、厳重に
柵をかまえていて、めッたな旅人は通しますまい、また、東海道はなおのこと、
徳川家康の城下あり、
井伊、
本多、
榊原などの、陣屋陣屋もござりますゆえ、ここを破ってまいるのもひとかたならぬご
難儀かとぞんじまする」
「とわれらのとる道は、まず
木曾路が一番安全であるという意見じゃの」
「さようにござります」
というと、
忍剣が、異論をとなえて、木曾路ゆきに反対した。
「イヤ龍太郎どののお言葉は、もっとものようであるが、木曾路もけっして安心な道中ではない。なんとなれば、木曾の
木曾義昌、きゃつも昔は
武田家の忠族であったが、いまでは
徳川家の
走狗となっている、かならず若君に弓をひくやつであろう。ことに木曾路はゆくところみな
難所折所、いざという場合にはいちだんと危険が多いように考えられる」
「では、忍剣どのには、北国路がよいと
仰せられるか」
「北国路とて同じこと、
柴田権六、ちかく
賤ヶ
岳まで
軍兵をだして、
木ノ
芽峠には
厳重な
柵をかまえているように聞きますゆえ、ここを通るも
難中の難でござる。で、おなじ難儀をみるものなら、むしろどうどうと徳川家の
領土をぬけ、あわよくば浜松城のやつばらに、一あわふかせて引きあげたほうがおもしろいとぞんじます」
ちょっと聞くと忍剣の説は、
暴論のように聞えるが、ふかく考えれば北国も木曾も東海も、その危険さは一つである。ましてやいま、天下に一国の領土もなく、一城の
知己もない
伊那丸に、安全な通路というものがあろうはずはない。
おなじ敵地をふむものなら、忍剣のいうとおり、徳川家の
蟠踞する東海道こそもっとも
小太郎山に近く、もっとも地理平明である。では――と
相談がまとまって伊那丸は
藺笠の
緒をしめ、
忍剣は
禅杖をもち直し、やおら、そこを立ちかけたせつなである。
頭のいただきから、
山嵐をゆする
三井寺の
大梵鐘が、ゴウーン……と
余韻を長くひいて湖水のはてへうなりこんでいった。と、一しょに――これはそもなに?
逢坂山の森をかすめて、ピューッと
凧のうなるがごとき音をさせつつ、
斜めにひくく、直線にたかく、そしてゆるく、またはやく
旋回してきたあやしいものがある。――オ、舞いめぐる空の
怪物! それは
丈余の
大鷲だ。
そのとき、暮れなんとする春の夕空は、ひがし一面を
紺碧に
染め、西半面の空は夕やけに赤く、
琵琶の湖水を境にして染めわけられたころあいである。空にかかった大鷲の影も、遠き
夕照りをうけて
金羽さんらんとして見えるかと思えば、またたちまち
藍色の空にとけて、ただものすごき一点の
妖影と化している。
「おお、ありゃクロだ!
竹童がたずねている大鷲だ」
禅杖をあげて忍剣が高くさけぶと、
龍太郎と
伊那丸も目をみはって、
「うむ! まさしくクロにそういない。
寒松院の
並木へのろしの音はきこえてきたが、竹童はあのまま帰らぬ。もしや鷲に乗って、追いついてきたのではあるまいか」
「そういえばだれか乗っているようす、――や、竹童だ!」
「なに竹童が乗っている。オオ、竹童――竹童ッ――」
とふたりが、声をあげて大空に呼んだが、鷲はひくく樹木のさきへふれるばかりにおりてきて、また、ツーッとあらぬ方角へそれてしまう。と、龍太郎が、なにを見いだしたかおどろきの声をはずませて、
「や、ふしぎな! あの
鷲には、竹童ばかりでなく、ほかの
童子も乗っている。たしかにふたりの人間が乗っている」
「龍太郎どのの目にもそう見えたか、わしもそう思ってふしぎに感じていたのだ。アレアレ、こんどは湖水のほうへいっさんにかけりだした――」
瞳をこらして見ていれば、さっさつたる
怪影は、
関の
山から
竹生島のあたりへかけて、ゆうゆうと
翼をのばして
舞うのであった。その鷲の背にありとみえた
両童子こそ、まぎれもあらず、
南蛮寺の丘からムシャブリついて飛びあがった、
鞍馬の竹童――泣き虫の
蛾次郎。
天空のふたりは、朝から今まで、たがいに、飲まず
食わずである。
竹童は、蛾次郎を鷲の背から
蹴おとさんとし、蛾次郎は、竹童をふりおとして、じぶんひとりで翼を
占有しようとしている。
しかもそれは、
寸分の休みもなく走っている鷲の背なかで、天空の上で――行われつつある
争闘だ。一しゅんのゆだん、一
分のすきでもあれば、鷲じしんにふりおとされるか、そのいずれかが見舞ってくる。朝から飲まず食わずでも、またこれからいく
日、一
滴の水を口にしないまでも、そんなことは
念頭にない。まさに真剣以上の真剣だ。それに早くまいったほうが
惨敗者だ。
「やい、
蛾次郎!」
かけりゆく
鷲の上で、こういう声は
鞍馬の
竹童。
「なんだ、竹童」
蛾次郎は、ただそれ
下界へ
蹴おとされまい一念で、鷲の
頸毛にダニのようにたかっていた。
「いいかげんに
降参してしまえ。そしてこの鷲をおいらに返してしまえ。そしたら
命だけは助けてやる」
「いやなこッた。てめえこそ、低いところへ
降りたときに、飛び降りてしまやがれ。そしたら命だけたすけてやる」
「こいつめ、人の口まねをするな。おのれ、今にどこかで突きおとしてくれるから見ていろよ」
「手をはなせば、人を落とすまえに、じぶんのからだがお
陀仏だぞ。ざま見やがれ、
唐変木、突きとばせるものならやッて見ろ」
「おのれきっとか」
「くそうッ!」
と、ののしり合った空のけんか。
両手をはなして組みあえば、蛾次郎のいう通り、鷲の上からふりすてられてしまうので、片手と片手のつかみ合い。
蛾次郎は
猫のごとく
爪をたって、竹童の
頬ッぺたをひっかいたが、指にかみつかれたので、びっくりして手を引っこめ、こんどはいきなり
対手の
髪の毛を引っつかんだ。
「うむ! こんちくしょうッ」
竹童は
拳骨をかためて、かれの
脇のしたから
顎をねらった。そして、二つばかり顔を突いたが、蛾次郎も
命がけだ。くちびるを
噛みしめて、なおも必死にこらえている。
「ちぇッ――
強情なやつだ、
降参しろ、降参しろ! まいったといわないうちは、こうしてくれる!」
竹童の
鉄拳が、目といわず鼻といわず、ポンポン突いてくるので、さすがの蛾次郎も、だんだん色をうしなって顔色まっ青にかわってきた。これがいつもならば泣き虫の蛾次郎、
本領を
発揮してワアワア泣き声をあげているはずだが、かれも生死の境にたった以上、ふだんよりは
相当につよい。タラタラと鼻血をながして、くちびるの色まで変えたが、まだ
参ったとはいわないで、
「ちッ、ちッ、
畜生ッ!」
というがはやいか、竹童の
腰に差されてあった
般若丸の刀に目をつけ、あっという
間に、それを抜いてふりかぶった。
雲井にあらそう
両童子を乗せて、
鷲はいましも
満々たる
琵琶の湖水をめぐっている。
はてしもなく
舞う
大鷲の
背なかに、はてしもなき
両童子の
争闘!
蛾次郎は、敵の
剣を抜きとッてふりかぶり、
竹童はその
腕くびを引ッつかんで、やわか! とばかり
般若丸の
柄をもぎ取ろうとする。
黒毛ふんぷん、大地の上なら、まさに
組ンずほぐれつである。
蛾次郎勝つか? 竹童勝つか。
雲井に
賭した
命と命! かれも
必死、これも必死だ。
だが、大鷲の
神経は、かかる火花をちらす
活闘が、おのれの背におこなわれているのも、知らぬかのように、ゆうゆうとして
翼をまわし、いま、
比叡の
峰や
四明ヶ
岳の影をかすめたかとみれば、たちまち湖面の波を白くかすって、
伊吹の上をめぐり、
彦根の岸から
打出ヶ
浜へともどってくる。――
さッきから
三井寺の
丘のふもとに立って、かたずをのんで見つめていた
伊那丸と、
忍剣、
龍太郎の三人は、その
巨影がありありと目前へ近づいたせつなに、
「あッ――竹童!」
と、
異口同音にさけんだが、いかにかれの
危難を知っても、それへ力を
貸してやることもならず、
鷲はまた、バッと山かげに突きあたって
飛翼をかえし、広い
琵琶湖の上を高くひくく舞いはじめた。
と思うと――一しゅんのまに、鷲はいような
羽ばたきをして、
糸目のからんだ
凧のように、クルクルッと
狂いはじめた。
両童子が背なかの上で、たがいに、斬らんとし、
奪わんとしていた
般若丸の
切ッさきが、あやまッて鷲のどこかを傷つけたのにそういない。あッ――というまもなく、
虚空の上から引ッからんだ二つの
体が、フーッと真ッさかさまに落ちたなと思うと、琵琶湖のまン中に、
龍巻でも起ったような水煙が、ザブーンと高くはねあがった。
しぶきの散ッたあとは、雪かとばかり白い
泡がいちめんにみなぎっていた。そしてその
泡沫が消えゆくにつれて、夕ぐれの青黒い波が、モクリ、モクリと、大きな
波紋をえがいていたが、ジッと波の中をすかして見ると、
電魚のような光がして、たッたいままで
天空にあった
竹童と
蛾次郎、こんどは湖水の底で、なおもはげしくあらそっている。
時おり、黒い波を切ッて、ピカリピカリとひらめくのは、般若丸の光であった。やがて、竹童の力がまさったか、その刀をもぎ取ってブクリッ……と水面に浮かびだしてくると、その
腰にからんで蛾次郎も、
「ア、ぷッ……」
と
鮫のように水をふいた。
「えい、じゃまなッ」
と
鞍馬の
竹童は、
般若丸を口にくわえるやいなや、
蛾次郎をけって……サッと抜き手をきったが、かれはまた一方の足をかたくつかんで、死んでもはなすまいとした。
ふたたび三たび、浮いては
沈み、浮いては沈みするうちに、さすがの竹童もきょくどに
心身をつからして、蛾次郎に足を引かれたまま、ブクブクと深みへ重くしずんでしまった。
そしてついに、
湖面へ浮かんでこなかったが、ややしばらくたつと、そこからズッとはなれた
竹生島の
西浦あたりに、名刀
般若丸の血流しをくわえたまま失神している竹童と、その右足にからんでグンニャリした泣き虫の蛾次郎とが、くらげのごとく、フワリ、フワリ……と夜の湖水の波をよりつつただよっていた。
「これッ、だれかおらぬか、この
渡場のものはおらぬか!」
もうトップリ日がくれた
松本の
渡船場へきてあわただしく、そこの
船小屋の戸をたたいていたのは、
加賀見忍剣であった。
「湖水に落ちておぼれたものがある、それを救ってやるいそぎの船を
借りたい。これ、だれかおらぬか、
船頭は!」
と、破れんばかり戸をたたいたが、なかにもれる
灯影があるのに、いっこうこたえがないので、
加賀見忍剣、
禅杖をかかえて附近の波うちぎわを見まわしていると、
三井寺のふもとから、おくればせに
馳けてきた
伊那丸と
龍太郎も、はるかに見た
竹童の危急をあんじて、
「忍剣、船はあったか」と、そこへくるなり声をいそがした。
「ふしぎなこと、……この
渡船場に、一そうもそれが見あたりませぬ」
「まだ
宵なのに、
矢走(矢橋または八馳)へかよう船がないはずはない。そのへんの小屋に、
船頭がいるであろう」
「さ、それをただいま、呼んでいるところでございますが」
「船頭もおらぬのか。――さては、さきに逃げた
呂宋兵衛やその手下どもが、このあたりの船を
狩り集めて、
琵琶湖を渡ったものとみえる。アーふびんなことをいたした。いかに竹童でも、あの高い空から落ちて、はや日も暮れてしまったことゆえ、さだめし水におぼれたであろう……なんとか、助けてやる
工夫はないものか」
主従三人、
愁然と手をつかねて湖水の
闇を見つめていると、
瀬田川の川上、――はるか
彼方の
唐橋の上から、
炬火をつらねた一列の人数が、まッしぐらにそこへいそいできた。
危難は竹童の身ばかりではない。
敵地に身をおいて、草木の音にも気をくばっている伊那丸主従は、それを見ると、ハッとして、
和田呂宋兵衛がさかよせをしてきたか、
膳所の城にある
徳川方の武士がきたかと、身がまえをしていると、やがて、
炬火の
先駆となって、
駒をとばしてきた一
騎の武者。
「やあ、それにおいであるのは、
武田伊那丸さまではございませぬか」
音声たからかに呼んで近づいてきた。
「おお、いかにもこれに渡らせらるるは、伊那丸君でおわすが、して、そこもとたちは何者でござる」
まえにたって
龍太郎と
忍剣、きびしくこういって
油断をしずにいると、
「さては!」
とその
騎馬武者三人、ヒラリ、ヒラリ、と
鞍から飛びおりて、
具足陣太刀の音をひびかせながら面前に立った。
「それがしは、
福島市松の家来、
可児才蔵」
こう
名のると、つぎの武者が――
「
拙者は、加藤
虎之助の家臣、井上大九郎と申す」
「おなじく、木村
又蔵でござる」
と、いずれもりっぱな
態度で
会釈をした。
そしてふたたび、なかの可児才蔵が、一
歩すすんで、
「
不意にかような戦場のすがたで、人数をひきいてまいりましては、さだめしお驚きとぞんじますが、じつはこれお
迎えの
軍卒、さっそく、あれへ用意いたしてまいった馬にお
召しをねがいます」
「なんといわれる。
伊那丸さまをお迎えにまいられたとか?」
意外な
口上をきいて、
忍剣と
龍太郎が顔を見あわせていると、井上大九郎が語をついで、
「それは、
桑名のご陣にある、
秀吉公からの、
直命でござる。殿のおおせには、このたび伊那丸さまのご
上洛こそよきおりなれば、ぜひ一どお目にかかったうえ、ながらくおあずかりいたしている
品を、手ずからお返し申したいとの
御意、なにとぞ、ご同道のほどくださいますように」
「はて、
不審なおおせではある? ……」
伊那丸は優美な
眉をひそめて、
「べつにこの
方より、
秀吉どのへおあずけいたした
品もないが……」
「イヤ、たしかに、大事な品をおあずかりしているとおおせられました。そのために、
桑名攻めの陣中から、われわれどもが、
騎馬をとばしてお迎えにまいったわけ」
というと、
加賀見忍剣、もしや
巧言をもって、若君を
生けどろうとする秀吉の
策ではないかと、わざと、
鉄杖をズシーンと大地へつき鳴らして、
「ではおうかがいいたすが、桑名攻めの戦場にあられたかたがたが、どうして、ここへ伊那丸さまがお通りあることを、かように早く
承知めされたのじゃ」
「その
不審はごもっともであるが、じつはきょうの
午の
刻まえに、
南蛮寺の
番人和田呂宋兵衛をはじめその他の者が、ちりぢりばらばらとなって、
桑名のご陣へかけつけてまいりました」
「ウム。
勝頼公を
差したてよとは、アレも、
秀吉どのの
指図であろうが」
「都に
風聞の立ったとき、その
在所をしらべよとはおいいつけになりましたが、
罪人あつかいにして、桑名に
護送することなどは、まッたく、秀吉公のごぞんじないこと。――しかるに呂宋兵衛、桑名のご陣へまいって、いろいろと
差出がましいことを申しあげたため、かえって秀吉公のお
怒りをうけて、そくざに、ご陣屋を追いはらわれ、
南蛮寺の
番衛役も
召しあげられ、この後は、京都へ立ち入ることはならぬと、手下のものまで
追放になりました」
まことはおもてにあふれるもの。
使者三名の
口上には、その
真実味がこもっていた。
では、
筑前守秀吉は、かならずしも、悪意があって勝頼のゆくえをたずねさせたのではなかろう……と
伊那丸も心がとけ、
忍剣や
龍太郎も、さらばと、その
意に
従うことになった。
いつか、一同のまわりには、
松明をあかあかと照らした
軍兵が五、六十人、ズラリと
輪形になって陣列を組んでいた。
「それ、用意のみ
鞍をさしあげい」
と、木村
又蔵が
合図をすると、おッといって
馬廻りの武士、
月毛、
黒鹿毛の馬三頭のくつわをならべ、
馬具の
金属音をりんりんとひびかせて、三人の前へひいてきた。と――
伊那丸が、
「ごめん――」
と、
目礼をして、まッ先に、
白駒の
金鞍にヒラリと乗る。つづいて
忍剣と
龍太郎、波に
月兎の
鞍をおいた
黒鹿毛の背へヒラリとまたがって、キッと
手綱をしぼり、たがいにあいかえりみながら、
「
裾野以来、こうして馬上になるのは、久しぶりだなあ……」という
風に微笑しあった。
やがて、まッくらな
瀬田の
唐橋、
小橋三十六
間、大橋九十六
間を、
粛々とわたってゆく一
行の
松明が、あたかも火の
百足がはってゆくかのごとくにみえた。
夜も
昼も、
伊勢の空は、もうもうと
戦塵にくもっていた。
七万の兵をひきいて、
滝川攻めにかかった
秀吉は、あの
無類な
根気と、熱と、
智謀をめぐらして、またたくうちに、
亀山城をおとし、
国府の城をぬき、さらに敵の野陣や海べの軍船を
焼きたてて、
一益の本城、
桑名のとりでへ
肉迫してゆく。
それが、
天正十一年、三月上
旬のことである。
春となれば、
焼蛤の
汐のかおりに、
龍宮城の
蜃気楼がたつといわれる
那古の
浦も、今年は、焼けしずんだ兵船の
船板や、
軍兵のかばねや、あまたの矢や
楯が、
洪水のあとのように浮いて、ドンヨリした
赤銅色の太陽が、その水面へ
反映もなく照っていた。
陸をみれば、
泊、
八幡、
白子の
在所在所、いずれをみても
荒涼たる
焼け
原と化して、あわれ、
並木のおちこちには、にげる途中でなげすてた
在家の人の
家財荷物が、うらめしげに散乱して、ここにも、
斬ッつ斬られつした
血汐や
槍の折れや、なまなましい
片腕などがゆくところに目をそむけさせる。
すると、この
酸鼻な戦場の
地獄へ、血をなめずる山犬のように、のそのそとウロついてくる人影がある。
「お、こいつの差している刀はすばらしい」
「しめた、ふところから
金がでたぞ」
「やあ、この
陣羽織は血にもよごれていねえ。ドレ、こっちへ
召上げてやろうか」
ざわざわと、こんなことをささやきながら、あなたこなたにたおれている武士の
物の
具や持ち物を
剥ぎまわっているのだ。
ああ戦国の
餓鬼! 戦場のあとに
白昼の
公盗をはたらく
野武士の餓鬼! その一
群であった。
「おい! もう大がいにしておけ。あまりかせぎすぎると、こんどは道中の
荷やッかいになって、
釜をかぶって歩くようなことになるぞ」
すると、この
野盗の
頭とみえて、ふとい声が
土手の上からひびいた。ヒョイとそこをふり
仰ぐと、
臥龍にはった松の木のねッこに、手下の
稼ぐのをニヤニヤとながめている者がある。
「もうたくさんだ、たくさんだ。そう一ぺんに
慾ばらねえでも、ちかごろは、ゆくさきざきに
戦のある世の中だ。まごまごしているまに、
秀吉の
陣見まわりでもきた日には大へんだ」
また、こういって、そこにスパスパ
煙草を
吸っていたのは、すなわち、
和田呂宋兵衛、ほかの二人は
蚕婆と
丹羽昌仙だ。
これで事情はおよそわかった。
秀吉の
御感にいって、
出世の階段をとびあがるつもりでいた
勝頼探索の結果が、あの通りマズイはめとなったうえに、命令以上なでしゃばりをやッたので、ついに、
軍律をもって陣屋追放をうけたというから、そこで呂宋兵衛は、もちまえの
盗賊化して、これから他国へ
逐電するゆきがけの
駄賃とでかけているところであろう。
いくら
捨て
鉢になったにしろ、よくこんな、
残忍な盗みができることと思うが、
根を考えると、富士の
人穴に
巣をかまえていた時から、和田呂宋兵衛、このほうが本業なのだ。
「
頭領、思いがけなく、
金目なものがありましたぜ」
と、二、三十人ほどの手下が、そこへ、
剥ぎとった太刀や
陣羽織や金をつんでみせると、
呂宋兵衛は
土手の上からニタリと横目にながめて、
「そうだろう。このへんに
討死しているやつらは、おおかた
滝川一益の家来で、ツイきのうまでは、
桑名城でぜいたく
三昧なくらしをしていた者ばかりだからな。……う、そりゃアとにかく、もう
南蛮寺も
秀吉のやつにとりあげられてしまったから、京都へもどることはできねえ。いッたいこれからどこへ
指して落ちのびたものだろう?」
と、
昌仙と
蚕婆のほうに
相談をもちかけた。
「また、
富士の
人穴へかえろうじゃないか」
と、蚕婆は常に思っていることを、このさいにもちだして、あの
曠野の
棲みよいことや、安心なことを数えたてた。
「そうよ、もうほとぼりもさめたから、久しぶりで、富士のすがたも
拝みてえな」
「だが――それはまだよろしゅうござるまい」
といったのは
丹羽昌仙。
野武士のなかにいても、
軍師格なだけに、この者はすこし
厳めしくかまえこんでいる。
「なぜだい?」
「なぜと申しても、
小太郎山の
砦には、
伊那丸の
幕下、
小幡民部、また、
頭領を親の
仇とねらっている
咲耶子などが、きびしく
裾野を見張っております」
「ウームなるほど。すると、おれがまた
人穴城へ
入りこむと、さっそく、小太郎山からやつらがドッと攻めかけてくるわけだな」
「火をみるよりも明らかな話でござる。まず、もうしばらく、こッちの力がじゅうぶんにととのうまで、
裾野へはいるのは、見合わせたほうがいいようにぞんじます」
「じゃアひとつ、北国路へでもいって、あの
敦賀津の海に
紅がら帆をおッ立てている、
龍巻の
九郎右衛門と
合体して、こんどは海べのほうでも荒してやるか」
「イヤイヤ、それもダメなことで」
と、
昌仙はいう下からかぶりをふって――
「もうそろそろ北国
街道の雪も
解けてまいったはず、春となれば、
秀吉と、
弔合戦をやるべく意気ごんでいた
柴田勝家が、
北ノ
庄から
近江路へかけて、ミッシリ
軍勢をそなえているでございましょう」
「じゃ、そッちへもいけねえとしたら、いったいどこへ落ちのびたらいいのだ」
「まず、いまのところしずかなのは、東海道でございますな」
「フーン。すると
徳川家の
領分だな」
「さよう。近ごろ
家康と秀吉とは、たがいに、
珠をあらそう
龍虎のかたち。その仲の悪いところをつけこんで、こんどは家康のふところへ
食いいる
算段が、第一かと考えます」
「そううまくこっちの
註文にハマるかな」
「いくら
狡獪な
家康でも、
策をもって
乗せれば、乗らぬものでもございますまい、じつはその用意のために、
早足の
燕作を
物見にやッてありますゆえ、やがてそろそろここへ帰るじぶん……」
と、話ついでに、のびあがって向こうを見ていると、オオその燕作であろう、
竹ノ
子笠に
紺無地の
合羽、
片袖をはねて
手拭で
拭きふき、得意な足をタッタと飛ばして、みるまにここへ
駈けついた。
「やあ、ごくろう、ごくろう」
と
丹羽昌仙、
土手の上から飛びおりて、
「して、どうだッた。
伊那丸のようすは?」
「やッぱり、東海道から
裾野へはいって、それから
小太郎山へかえる
道順をとるらしゅうございます」
と、さすがに
早足、あれほど
韋駄天と走ってきながら息もきらさずこう答えた。
「そうか、やッぱりこっちの
想像どおり、思うつぼにハマったわい」
「ところが昌仙さま、あまり思うつぼでもありませんぜ。というなあ、
秀吉の
指図で、
瀬田まで迎えにでやがった軍勢があるんで」
「ほ……秀吉が? フーン
猿面め、じょさいないことをやりおって、うまく伊那丸を
抱きこもうという腹だな。だがよいわ、まさかに
家康の
領分まで、その
軍兵がクッついてもいけないだろう」
「
昌仙――」
と
呂宋兵衛もズルズルと下へおりてきて、
「
徳川家へ取りいる
算段とは、やッぱりなにか、その伊那丸をおとりにして? ……」
「こいつを利用しないのは
愚でござる。
武田伊那丸を心のそこから
憎みぬいて、あくまでもかれを殺害してしまいたいと願っているのは、
秀吉よりは家康でございますからな。また伊那丸にとっても、かれは、父の
勝頼をほろぼした
仇。どッち道、このふたりのあいだは
生涯の
敵同志でおわるでしょう。――ところが、こんど伊那丸が
小太郎山へかえるには、どうしても、その家康の城下を通らねばなりますまい。さア、おもしろいのはここの
細工で、そのさきにわれわれが浜松城へまいって、なにかのことを教えてやったら、あのずるい家康も、眼をほそめて、うれしがるにきまッております」
「
名策! 名策!」
呂宋兵衛、手を打ってよろこんだ。
「そいつアいい考えだ。ではさっそく、浜松へ乗りこもう! だがなんでも
慾得ずくだ、
無条件じゃいけねえぜ」
「むろん、伊那丸を
討ったあかつきには、こうしてくれという
条件もつけてのうえに」
「
富士の
裾野は徳川領だから、あのへん一帯から
人穴を、おれの領分としてくれりゃありがたいが」
「
家康が
夢にまでみておそれている、
伊那丸がないものとなれば、それくらいなことは
承知しましょう」
「天下はひろい! もう
草履とりあがりの
猿面なんざア、くそでも
食らえだ。ワハハハハハ」
にわかに前途を明るくみて、小心な
呂宋兵衛が、こう元気づいていると、しきりに向こうを見はっていた
早足の
燕作が、
「あッ、いけねえ! もうきやがッた」
と、いかにも
狼狽したらしくさわぎだした。
「な、な、なんだ、なにがきたンだ」
「ゆうべ
瀬田から伊那丸をむかえてきた、木村
又蔵、
可児才蔵、井上大九郎なんていうやつの
軍兵で」
「そいつア大へんだ、ヤイ、てめえたち、はやく
獲物を引ッかついで浜べのほうへ姿をかくせ! オオ
蚕婆、おまえがさッき目をつけておいた船があッたな、船で逃げろよ船で――。燕作燕作、向こうだ向こうだ、蚕婆と一しょにいって、はやく船のしたくをしていろい」
まるで、
突風に見まわれた
紙屑か、
白日に照らされた
蜘蛛の子のように、クルクル舞いをして呂宋兵衛とその手下ども、スルスルと
土手草へとびついて、
雑木林の深みへもぐりこんだかと思うと、木の葉ばかりをザワザワとそよがせて、首もみせずに海べのほうへ逃げぬける。
二里さきには
桑名の城が見える。
亀山の
出城、
関、
国府の手足まで、むごたらしくもぎとられた
滝川一益、そこに、死にもの狂いの
籠城をする気で、
狭間からはブスブスと
硝煙をあげ、
矢倉には血さけびの武者をあげて、
合図おこたりないさま、いかにも
悲壮な空気をみなぎらしている。
その城とは、三里
弱の
距離をおいて、
水屋ノ
原にかりの野陣をしいているのは、すなわち
秀吉方の
軍勢で、
紅紫白黄の旗さしもの、まんまんとして
春風に吹きなびいていた。
きょう――あかつきの
半刻ばかりの間に、バタバタとここへ集団した野陣であるから、板小屋一ツありはしない。
ところどころに
鉄柱を打ちこみ、
桐紋の
幔幕をザッとかけたのが本陣であろう。今――このかげから四、五人の
軍卒、
鎖具足に血のにじんだ
鉢巻をして、手に手に
鍬や
鋤をひッさげ、バラバラと陣屋へ
駈けだしてきた。
れんげがいっぱい
咲いている。
やわらかい若草が、二、三
寸ほどな
芽をそろえている野原を、
血汐だらけな
武者わらじがズカズカと踏ンづけてひとところへかたまったかと思うと、
鋤を持ったものが、サク、サク、サク、と四角い
仕切りをつけてゆく。と、ただちにそのあとから、
鍬をふりかぶッた
方が
戦をするような力で、線のうちがわを、パッ、パッ、パッと土をかきだして、みるまに
穴を
掘ってしまった。
と――こんどは、その穴へあつい
桐油紙を一面にしき、五
寸かすがいでふちを
止めて、ドウッと水を入れはじめる。
そのまに
他のものが、まッ
赤に焼けた
金の
棒を持ッてきては、ジュウッ、ジュウッ……とその中へ突っこむうちに、いつか、中の水は湯にかわって、モクリと白い
湯気を立てた。
「できた――」
といって、
軍兵たちは、むこうの陣場へかくれてしまった。
何ができたのだろう?
すると、ややあってから、一方の
幕をサッとはらって、
羽柴筑前守秀吉、ズカズカと
大股にあるいてきた。
「殿、――しばらく、ただいまお
支度を
設けます」
あわてながら追っかけてきたのは、
秀吉の
脇小姓、
朝野弥平次、
加藤孫一。
抱えてきた
楯を、バタバタと四、五枚そこへ敷きならべて、なおも、あとから運んできたのを、まわりへ立てようとすると、秀吉手をふって、
「うっとうしい」と、うしろ向きになった。
「はッ……では」
と
陣礼儀をして、ふたりがそこをさがると、秀吉は
鎧草摺をガチャリと楯の上へ投げすてて、まッぱだかになった。
そして、一
片の
布をもって、前に
軍兵がつくっていった、野陣の
野風呂へドブリと首までつかりこんだ。
「ウーム……ウウム……」
と、秀吉、湯のなかに首まではいって、さも心地よげにうなっていたが、ザブリと一つ顔をあらって、
「ああ、よい湯かげん――」
と、
湯穴のフチにしいてある楯の上に腰かけ、
両の足だけを、ダラリとなかへブラさげていた。そしてときどき
無意識にジャブリジャブリとさせながら、
「
智恵じまんな
一益も、ゆうべは定めしおどろいたろう……」
苦笑をうかべて、
桑名城を
観望している。
そうだ。昨夜は
滝川一益が、ここから五、六里離れたところの
白子の陣へ
夜討ちをかけた。
秀吉は、きゃつめかならずこうくるな――と手を読んでいたから、四
方の
平地や森の人家のかげに、
堀尾茂助、
黒田官兵衛、
福島市松、
伊藤掃部、
加藤虎之助、
小川土佐守など配置よろしくしいておいて、
左近将監一益が
枚をふくんで寄せてきたところを、
逆に、ワ――ッと
鬨の声をあげさせて、敵が森へ逃げんとすれば森の中から、海辺へはしれば海の中から、
金鼓を鳴らして追いまわし追いまわし、とうとう
桑名城まで
袋づめに追いこんだ。
これは
兵法でいう八
門遁甲。
諸葛孔明が
司馬仲達をおとし入れた
術でもある。秀吉、それを
試みて、
滝川一益をなぶったのだ。
「まずこれで
伊勢は片づけた、――つぎには
柴田権六か、きゃつも、ソロソロ
熊のように、雪国の
穴から首をだしかけておろう……」
敵城を前にして、すッかり
野風呂であたたまった秀吉は、こうつぶやきつつ、まッ
赤になった下ッ腹へ、ウン、と、一つ力をいれて、いかにも
愛撫するごとくへそのまわりをなではじめた。
なでると黒い
垢がボロボロ落ちた。
それもそのはず、この二月十日に七万の大軍を三道にわけて、都を発してきて以来の
入浴で、寝ぬ日もきょうで三日つづく。しかし、垢はでるがいねむりはでない。かれは精力の
権化であった。
「どれ……上がろうか」
湯の中に立って、手ばやく上半身を
拭きはじめると、オオ、その時だ! れんげの花へピタリとからだを
伏せて、
蛇のようにスルリ、スルリ……とはってきた
異形の武士が、寝たまま
片腕をズーッと
伸ばして、
種子島の
筒先を、
秀吉の
背骨へピタリとねらいつけた。
火縄をプッと吹いたようす――、ドーンと
弾けむりがあがるかと思うと、せつなに、パッとはねかえった異形の武士は、
串にさされた
蛙のように、九尺
柄の
槍に
胸板をつきぬかれ、しかもその
槍尖はグザと大地につき立っていた。
「
孫一、やりおったの」
それをニヤニヤ笑ってながめながら、秀吉、足を
拭いて
楯の上にあがった。加藤
孫一、すがたは見せないが、向こうの楯のかげで、
「は、
一益のまわし者と見ましたので」と答えた。
「イヤちがう。ありゃおそらく、
徳川家の
隠密組であろう。
家康もなかなか人が悪いからの。あとでよく
死骸のふところをあらためてみい」
ところへ、バタバタと
早運びの足音がひびいてきた。フト見ると、加藤
虎之助、はるかにはなれて
具足の
膝を地につかえる。
「お
上」
「ウム、
虎之助」
「
近江路へやりました井上大九郎、その他の者、ただいま
武田伊那丸をご陣屋まで召しつれましたが」
「や、帰ってきたか。ウム、
伊那丸も同道して。――そうか。では
表陣屋西幕のうちに
床几をあたえて、
鄭重におとりなし申して置くがよい」
これだけの言葉をはくうちに、
秀吉は、
肌着小手脛当をピチンと
着けて、
皆朱碁石おどしの
鎧をザクリと着こみ、
唐織銀文地に
日月を織りうかした
具足羽織まで着てしまった。
そして鎧のアイビキ
紐、
草摺のクリシメ
紐、陣太刀の
緒と、
端からキチキチむすんでゆく指の早さといったらない。まるで
神技と思わるるくらいだ。もっとも秀吉ばかりでなく、およそ戦国の世に男とうまれ武士の子と生まれたほどの者は、みな、
陣太鼓の
音が三ツ鳴るあいだに、
具足着こみのできるくらいの
修養を、ふだんのうちにつんでいた。
「
孫一」
武将いでたちとなると、秀吉の
威風、あたりをはらって、
日輪のごとき
赫々さがある。
「はッ、
御意は?」
「
右陣にいる
福島市松のところへ伝令せい! ただ今、
武田伊那丸が見えたによって、あずけておいた
一品、そっこくここへ持参いたせと」
「は、かしこまりました」
ヒラリと
溜りへかえった加藤孫一、
使番目印の
黄幌に赤の
差旗を
背につッたて、馬をあおって、
右陣福島市松のところへ
馳けとばした。
伊那丸から
秀吉があずかったという
品、――それは果たしてなんであろうか?
伊那丸は与えられた
床几によって、
秀吉のくるのを待っていた。右には
忍剣、左には
龍太郎が
烱とした眼をひからせている。
張りめぐらした
幔幕のそとには、
槍の
穂さきがチカチカと
霜のごとくうごいていた。やがて、加藤
虎之助があらわれて、いんぎんに礼をして、
秀吉の大将座をもうけ、その
脇にひかえていると、順をおって
堀休太郎、
蜂須賀小六、
仙石権兵衛、
一柳市介などの、
旗本がいならび、やがて幕をはらって、秀吉の
碁石縅の姿がそこへあらわれた。
「おお、伊那丸どのな――」
こういいながら秀吉は、ズカリと前へよってきた。その
満顔の
笑みをみると伊那丸も
旧知のような気がして、笑みをもって迎えずにはいられなかった。
「まずもって、あっぱれなご成人ぶりを祝福いたす。つねにうわさはきいておるが、イヤ、さすがは
機山大居士の
御孫、
末たのもしい
御曹子じゃ……」
みじんのわだかまりもなく、胸をひらいて手をつかんだ。そして、その手をふって明るく笑った。あたかも肉親の
邂逅のように。
「さて、
眼前にまだ
一攻めいたす
桑名城もござるゆえ、ゆるりとお話もいたしかねるが、お迎えもうしお返しせねばならぬ
一品。おじゃまではあろうなれど、
小太郎山のとりでへ、
土産としてお持ちかえり願いたい」
床几になおって、
羽柴秀吉、こういうと手の
軍扇を
膝にとってかまえながら、
「
市松! 市松!」とおごそかに
呼ばわった。
「はッ」
という
幕かげの答え。
主命によって、いまそこへ、
控えたばかりの
福島市松、一
箇の
鎧櫃をもって、秀吉と
伊那丸の中央にすえた。
「伊那丸どの、お返し申す
品はこのなかにある。すなわち、それは
武田家のご
再興になくてかなわぬ
什宝、
御旗楯無の
名器でござりますぞ」
「や、ではこの中に、御旗楯無の
宝物が?」
「秀吉の手にあるわけは、あの
和田呂宋兵衛めが、
人穴城におったころ、京へ売りつけにきた物をもとめておいたからでござる。もとより、もとめる時からこの秀吉には用のない
品、いつかそこもとの手へ返してあげたいと念じていたのじゃ、どうぞ、あらためて
貴手へお受け取り願いたい」
武田家無二の什宝――御旗楯無。それこそは、伊那丸にとってなによりなものである。
裾野の湖水へしずめて隠しておいた後、それが何者かに盗みさられて、呂宋兵衛の手で京都にはこばれ秀吉の手からふたたび伊那丸へ返ってきたのは、これ武田家再興の大願がなる
吉兆か――と、かれはなつかしくそれをながめ、また、
秀吉の好意を
謝さずにもいられない。
二言三言、その礼をのべている時だった。なにごとか、にわかに、陣々に
脈々たる兵気がみなぎってきたかと思うと、本陣へ京都からの早馬の急使がきて、秀吉に、時ならぬ急報をつげた。
いわく、
北国
北ノ
庄の
柴田勝家、
盟友一益の
桑名の
城危うしと聞いて、なお残雪のある
峠の
嶮をこえ、
佐久間盛政を
先鋒に、
上部八風斎を
軍師にして
近江へ乱入し、民家を焼き
要害のとりでをきずいて、作戦おさおさおこたりない――と。
その
飛状を手にした秀吉は、あわてもせず、
莞爾として、
「では残りおしいが、
伊那丸どの、また会う機会もあるであろう。その宝物の
御旗、その
楯無の
鎧が、かがやく日をお待ちするぞ」
「ご
芳志、ありがたくおうけいたします」
「おお、それより
小太郎山へお帰りあるは、途中さだめし多難であろう。秀吉の部下五、六十
騎おかし申そう」
「イヤ、
徳川領を通るのがおそろしゅうて、秀吉どののさむらいを借りてきたと申されては……」
「ウウム、
名折れといわるか」
「多難は旅の道ばかりではございませぬ」
「そうじゃ。天下は
暗澹――いずれ、光明の
冠をいただく
天下人はあろうが、その
道程は
刀林地獄、
血汐の
修羅じゃ。この
秀吉のまえにも多難な
嶮山が
累々とそびえている」
「ましてやおさない
伊那丸が、わずかな旅路を苦にしてどうなりましょうか」
「愉快なおことば、秀吉もその意気ごみで、ドレ北国の
荒熊どもを、
一煽りに
蹴ちらしてまいろうよ」
さらば――と別れて、秀吉はたって作戦の用意にかかり、伊那丸は、はからずも手にもどった
御旗楯無の
具足櫃を
忍剣の背に背おわせて、陣のうらかられんげ草のさく野道へ走りだした。
ワーーッという武者押しの声をきいた。
小手をかざして
桑名の
方をみると、はやくも秀吉の先陣は、ふたたび戦雲をあげて
孤城奪取の総攻めにかかり、後陣は
鳥雲のかたちになって、
長駆、
柴田との
迎戦に引ッかえしてゆく様子――。
その戦雲をくぐり、敵味方の乱軍をぬけて、伊那丸主従は、やがて名古屋から岡崎へとすすんでいった。――ああ、いよいよあと十数里で、
徳川家康の本城、浜松の地へ入ることになる。
さきに、
奸策をえがいていた
呂宋兵衛が、こんどは、
狡智深謀な家康と、どう手を組んでくるだろうか。
伊那丸のまえには、いまや、おそるべき死の
坑穴が何者かの手で掘られている。
死といえば、夜の湖水にただよっていた、
鞍馬の
竹童と泣き虫の
蛾次郎。あのふたりの死はどうなっただろう。
死はどうなるものでもない。
死は
絶対であり永遠である。
琵琶湖のなかにひとつの島がある。
本朝五
奇景のうちに数えられている
竹生島。
島の西がわ、
天狗の
爪とよぶ岩の上に、さっきからひとりの
神官、手に
笙の笛をもち、
大口の
袴をはき、水色のひたたれを風にふかせて立っている。
そこから小手をかざしてみると、うッすらとした
昼霞のあなたに、
若狭の
三国山、
敦賀の
乗鞍、
北近江の山々などが
眉にせっしてそびえている。そして、はるか
柳ヶ
瀬のおくから、この琵琶湖へ一
冽の銀流をそそいでくる
高時川のとちゅうに、のッと空に肩をそびやかしているのは、
賤ヶ
岳の
巨影で、そのうしろに光っているいちめんの
明鏡は
余呉の湖水と思われる。
と、――その
神官の眼が、そこにピタリと
吸いついて時ひさしくたたずんでいるうちに、賤ヶ岳から
柳ヶ
瀬にわたる方角に、モクリと黄色いけむりがあがった。
見るまに、それを一手として、つぎには、
大岩山、
木之本附近、
岩崎山のとりでとおぼしきところから山火事のような
黒煙がうずをまいて、
日輪の光をかくした。と思うと、余呉の湖水や
琵琶の
大湖も、銀のつやをかき消されて、
鉛のような
鈍色にかわってくる。
「ああ、敗れた!」
神官は手にもてる
笙のような声でさけんだ。
「賤ヶ岳のとりでも落ちた――柳ヶ瀬の陣も総くずれだ――
柴田勢はとうとう
秀吉のためにほろぼされる運命ときまった……」
いかにも
悲痛な色をうかべた。
神官のひとみには、かすかな涙の光さえみえる。
そして、
亡国の余煙をとむらわんとするのか、おがむように笙を持って、しずかに、その
歌口へくちびるをあてた。
壮な
音色、
悲愁な叫び、または
々としてさわやかに転変する笙の
余韻が、
志賀のさざ波へ
微に
妙によれていった――
「
宮内さま、――
菊村さまア!」
すると、その
笙の
音をたよりにして、
岩々たる島の根を
漕ぎまわってくる小船があった。
呼ぶこえ、
櫓の
音。船のなかにはひとりの若い
漁師が、
櫓柄をにぎって、
屏風のような
絶壁をふりあおいでくる。
「おう、
源五か」
天狗の
爪からのびあがって、こう答えた神官は、すなわち
菊村宮内である。松の枝に手をささえて、波うちぎわを見おろした。
「宮内さま、おたのみをうけまして、すっかり
陸のようすをみてまいりました」
「ごくろうごくろう、さきほどから、その
返辞を待ちかねていたところ、どうであった
戦の結果は」
「
伊勢の陣から引っかえした
秀吉勢は、おそろしい勢いで、
無二無三に北国
街道をすすみ、
堂木山に本陣をおいて、
柴田勢を追いちらし、
北ノ
庄まで
馳けすすんでゆくというありさまです」
「ウーム、そうか、北国一の
荒武者といわれた、
佐久間盛政もそれを
食いとめることができなかったか……」
「
佐久間勢も、一どは
秀吉方の
中川清兵衛を破ったそうですが、
丹羽長秀が不意の加勢についたため、
勝軍は
逆になって、
北国勢は何千という
死骸を山や谷へすてたまま、
越前へなだれて
退いたといううわさです。このあんばいでは、やがて
北ノ
庄の
柴田勝家も、近いうちには
秀吉の
軍門にくだるか、でなければ
生くびを
塩づけにされて
凱旋の
土産になってしまうだろうと、もっぱら
風聞しております」
「おうわかった――北国勢の敗軍であろうとは、ここからながめても、およそ見当がついていた。
源五、ごくろうだった。また用があったら
笙を吹くから……」
力なくこういうと、
神官の
菊村宮内は、
天狗の
爪からすべりおちるように、よろよろと島のなかへすがたをかくしてしまった。
島にはつつじ、
山吹、
連翹、
糸桜、春の
万花が
らんまんと咲いて、一面なる
矮生植物と
落葉松のあいだを色どっている。宮内のすがたは、その
美わしい自然に目もくれないで、しおしおと細道をたどっていった。
かれの
直垂の
袖をかすめて、まッ黄色な
金糸雀がツウ――と飛んだ。
と、その向こうには、神さびた
弁天堂の建物が見えた。なお、あたりには、
宇賀の
御社、
観音堂、
多聞堂、
月天堂などの屋根が樹の葉のなかに
浮いている。
「宮内さま、もうお
午でございます」
社の内から走りだしてきた
巫女の少女が、かれの姿をみるとこう
告げた。だが、宮内はゆううつな顔をうつむけたまま、
「う、お
午か。やめよう、今日はなんだか
食べたくない」
とかぶりをふった。ちいさい巫女はそれを追って、
「ですけれど、あの、
可愛御堂のなかにいるお
方へは、いつものように、お
粥を作っておけとおっしゃったので、もうできておりますが」
「お、忘れていた。じぶんの心がみだされたので、ツイそのことを忘れていた。さだめしお
腹がすいていよう」
「じゃ、いつもの通り、あそこへ運んでまいりましょうか」
「あ、
両方へ同じようにな」
宮内は急にいそぎ足になって、
境内のかたすみにある六
角堂へ向かっていった。一
間の
木連格子が、六面の入口にはまっていた。
その一方の
錠をあけて、宮内はやさしい声をかけた。うすぐらい御堂の中には、
蒲団をかぶって寝ている少年のすがたがある。――ふと見ると、それは泣き虫の
蛾次郎だった。
「どうだな、蛾次郎さん」
と宮内はそこへしゃがみこんで、
体の、
容体をききはじめた。そのようすをみると、かれはしばらく病人となって、この可愛御堂に
閉じこもっていたものとみえる。
だが、蛾次郎は、蒲団のなかにねてこそいるが、もうあらかたご
全快のていとみえて、宮内の顔をみるや
否、ムックリとそこへ起きあがった。そして、
「おじさん、ひどいじゃねえか! どうしたンだいッ」
とどなりつけた。
病人にどなりつけられたので、
宮内も少しびっくりしたが、二十
日あまりもこの
蛾次郎の世話をやいて、いまではすッかりその性質をのみこんでいるから、かくべつ
怒りもしなかった。
「たいそうな元気じゃの。けっこうけっこう、それくらいな勢いなら、もうじきに元の
体になるだろう」
「なにをいッてやがるンだい」
蛾次郎は不平の口をとンがらして、
「もうとッくの昔に、このとおりまえの体になっているんじゃないか。それを、いつまでこんな中へほうりこんでおいて、だしてくれないッて法があるかい。え、おじさん――どこの国へいったって、そんなばかな法はないぜ」
「そうかな、それは悪かったよ」
と、宮内は、どこまでも
好人物らしく笑っている。
「おまけに、
笙ばかり吹いていて、まだお
午の
飯も持ってきてくれやしねえ。ちぇッ、おらア腹がへってしまった」
「いまじきに持ってきてあげるから、おとなしくしておいでなさい」
宮内はこうなだめておいて、そこの
扉をピンと
閉めたかと思うと、こんどは、つぎから二ツ目の
木連格子の
錠をあけた。と、みょうなことに、この中にも
蛾次郎のところと同じように、一組の
夜具が敷きのべてあって、その
蒲団の上にも、やはりひとりの少年がいる。
だが、これは向こうの蛾次郎のごとく
不作法ではなくいかにもものしずかに、いるかいないかわからぬようにしてすわっていたが、木連格子がギーッと
開いたので、顔をさし入れた
菊村宮内と目を見あわせ、だまって、頭をさげた。
「うっかりして、昼の
食物をおそくいたした。さだめし空腹になったであろう」
「どういたしまして、それどころではございません」
こういった者こそ、かの
鞍馬の
竹童なのである。
その日からおよそ二十
日ほどまえ、
海月のようにただよって、湖水におぼれていた竹童と蛾次郎が、いまなお、この
竹生島の
可愛御堂という建物のなかに
生をたもっているところをみると、あの夜か翌朝、島の
西浦で、
弁天堂の神官菊村宮内の手で救いあげられたにそういない。そして、
柔和で子供ずきな宮内の
手当が
厚かったために、こうしてふたりとも、もとのからだに近いまでに、健康をとりもどしてきたのだろう。
「ありがとうぞんじます。もう
体もよほどよくなりましたから、けっして、ごしんぱいくださいますな。そして、わがままのようですが、どうぞわたくしのからだを、この島からおはなしなすッてくださいまし」
竹童が、こういったものごしを見るにつけても、宮内は、向こうにいる蛾次郎とこの少年とは、なんという性格の違い方だろうと思った。
だが、かれは、どッちも憎いと思わなかった。
竹童が好きなら、
蛾次郎も好きだった。イヤ、
菊村宮内という人物は、すべての子供――どんな
鼻垂れでもオビンズルでもきたない子でも、子供と名のつく者ならみんな好きだった。
それがために、かれは武士の身分をすてて、この
竹生島へ、
可愛御堂という六角屋根の建物をたてた。
今日は東の国、あすは西の国と、つぎからつぎへ
戦いがあってやまない世の中。――その兵火のたびごとに、武士も死ねば女も死ぬ百姓も死ぬ、まして、たくさんな子供のたましいも
犠牲になる。
菊村宮内は、もと
柴田勝家の
家中でも、重きをなしていた武将であったが、そういう世のありさまをながめると、まことに心がかなしくなった。で、主君の勝家から
暇をもらって、いくたの戦場をたずね、やがて竹生島の
弁天の
社にそって、この可愛御堂を
建立した。
「
弁財天は母である。そしてわしは不運なおおくの子供たちの
慈父になりたい」
こういう願いをもっている。
ところが、さきごろから、
琵琶湖の附近にも、
戦の
黄塵がまきあがった。すなわち、
伊勢の
滝川一益をうった
秀吉が、さらにその
余勢をもって、北国の
柴田軍と、
天下分け
目の
迎戦をこころみたのである。
不幸な子供の
魂をとむらいながら、
可愛御堂の
堂守で
生涯をおわろうと思っていた
菊村宮内も、むかしの主人であり、ふるさとの兵である
北国勢が、すぐ
向う
岸の
木之本でやぶれ、
賤ヶ
岳から
潰走するありさまを見ると、なんとなく心がいたんで、いっそのこと、島をでてふたたび主君の馬前に立とうかとさえ――ツイさっきも迷ったのである。
しかし、それもそれだが、まったくみじめな、
乱世の子供たちの
慈父となる生涯も、けっして悪い目的ではない。ことに、いま、この島には、じぶんが心をそそいで救いかけている
竹童という少年、
蛾次郎という少年がいる。
もう、からだはなおったが、からだだけなおしてやっただけでは、まんぞくとはいえない。ふたりの
境遇や、心までも、幸福に
健全にして、そして、この
竹生島をだしてやりたいと、かれは願った。
でいまここに、蛾次郎の顔をみ、竹童のすがたを見ると同時に、
宮内は、
湖をへだてたかなたの
戦のことも、きれいに
心頭から忘れさって、まことに
慈父のような
温顔になっていた。
「この島からだしてくれといわれるか?」
「はい」竹童はキチンとすわって、そしてすなおに、
「わたくしには、一
刻も忘れてはならない主君がありますし、それに、だいじな
鷲のゆくえもさがさなければなりませんから……」
「おお、おまえは主人持ちか。してそのお人という者の名は?」
「ここでは、お話し申されません。ですが、お
師匠さまの名まえなら、打ちあけてもかまわないでしょう。わたくしは
鞍馬山の
僧正谷にいる
果心居士先生の
弟子のひとりでございます」
「ウム、有名な、果心居士のお弟子であったか。なるほど、それならものの聞きわけもよいはずだ。……ではおまえに一つのたのみがあるが」
「はい、
命をたすけられたご恩人」
「なんでも聞いてくれるというのか」
「できることならきっとききます」
「ほかではないが、おまえと一しょに、湖水におぼれていた
蛾次郎な」
「ああ、あの蛾次郎がどうかしましたか」
「どうも、ひどく
仲が悪そうだが、なんとかわしの顔にめんじて、これからさき、仲をよくしてくれないか」
「…………」
竹童はだまって下を向いてしまった。
「でないと、ふたりをこの
御堂からだしてやることができない。せっかくわしが助けてあげても、この
塔をでるとたんに、
檻をでた犬と
猿のように、また血まみれになったり、取ッ組んだりされては、わしの親切がかえって
仇になってしまう。それがゆえに、
罪のようだが、ふたりを別々な口へいれて、
錠までおろしているのだよ、これもひとつの情けのかぎだ。悪く思ってくれてはこまる」
宮内のあたたかい真心が、じゅんじゅんと胸にひたってくるので、竹童も思わず涙ぐましくさえなった。
だが、そればかりは、竹童にも、ハイとすなおに
快諾されなかった。かれはだまって、いつまでも下をむいていた。
「いけないと見えるな……ウーム、これだけはさすがのわしも
困ったな」
そこへ、
巫女の少女が
粥をはこんできたので、宮内はそれを竹童にあたえ、
蛾次郎の分はじぶんが持って、また以前のところへもどってきた。
お粥のけむりを見ると、
空腹で、
喉から手がでそうなくせにして、蛾次郎はプンプンと
怒った。
「けッ、またおかゆかい、おじさん」
「うごかずにいる
間は、まアまアこれでがまんをしなければ」
「じょうだんじゃねえや、おれなんか、
裾野にいたじぶんから、ズッと
奈良や京都のほうを見物して歩いてる時なんかも、こんなまずいものを一どだって
食ったことはありゃしねえ」
「ほウ、おまえはそんなぜいたくだったのか」
「そうさ、おいらはこう見えても、
徳川家へゆけばはぶりがきくんだからな。浜松にいる
菊池半助という人を知っているかい。おじさんなんか知るめえ。
隠密組で第一ッていう人よ。おれはその人にずいぶん
小判をもらったぜ、つかいきれないほどあった――アアつまらねえつまらねえ、また浜松へいって、少しお金を
せびッてこよう」
ひとりでペラペラしゃべりながら、まずいといった
粥を一つぶのこらずなめてしまった。
そして、すぐにゴロリと横になって、
手枕をかいながら、
生意気そうな鼻の
穴を
宮内のほうにむけ、
「おじさん、いまおめえは、この向こうにはいっている
竹童のところで、なにかコソコソ耳こすりをやっていたろう」
といった。
「ウム。おまえと
仲をよくせぬかと、そのそうだんをしていたのじゃ」
「くそウくらえ――だれがあんなやつと仲をよくするもんか。おいらは徳川びいきだし、あの竹童ッてやつは、
山乞食の
伊那丸って
餓鬼や、イヤな
坊主に味方をしているんだ」
「ではどうもしかたがないな。……ふたりの気がおれて、仲をよくするというまで、この
塔にはいっていてもらうよりほかに方法はあるまい」
宮内は
竹童のたべた
土鍋のからと、
蛾次郎の
食べたからを両手にもって、
社家のほうへもどってしまった。
格子のすきまから、そのうしろ姿をみて、蛾次郎は声のあるッたけ
悪たれをついた。
「やい、早くここをだしてくれよ。いッてしまっちゃいけないよ! やい
神主! つんぼか
唖か
でくの
坊か! オイきこえないふりをしてゆくない。オーイ、バカ神主め、おいらをいつまで
竹生島へおいておくんだい。かえせ、帰せ、かえしてくれ! 帰さねえと、いまに
弁天さまへ火をつけるぞッ!」
あおむけに
寝ながら、足で
床板をふみ鳴らし、口から
出放題にあたりちらしていると、その
仕切境の板のむこうがわで、
「やかましいッ」と、
小気味のいい一
喝がツンざいた。
「オヤ、なんだと!」
ムクムクと身をおこした蛾次郎。
「なにがやかましいッ!」と負けずにどなりかえした。
だが、じぶんの声が、ガーンとくらい
塔の内部へひびいただけで、もう向こうにいる竹童は、それきり、かれの相手になってこなかった。
強がりンぼで
横着で、すぐツケあがる泣き虫の
蛾次郎。いざとなれば声をだしてわめくくせに向こうでだまりこむと、その足もとをつけこんで「やい、
竹童ッ」と、こっちからけんかを吹ッかける。
これだから
菊村宮内も、この
性のあわないふたりを、一つのじぶんの手にすくって、
難儀をしているところなのだ。で、どうかして、仲をよくしてやりたいと考えてはいるが、なにしろ蛾次郎は、からだを
養生するうちに菊村宮内のやさしさに
馴れ、すっかり
増長している
気味だから、とても竹童と手をにぎって、心から打ちとけるべくもない。
「やいなんとかいえよ!」
業をにやして蛾次郎は、さかいの板をドンドンとたたいた。すると、向こうにいて、ジッと
我慢をしているらしい竹童も、ついに、
堪忍袋の
緒をきって、
「だまれッ、
狂人!」と
叱りつけた。
「なに、狂人だと! おれのこと、狂人だとぬかしたな。なまいきなア! いまに
野郎おぼえておれよ。フーンだ――いまにこの島をでてみやがれ、あの
大鷲をまたおいらの手に取りかえして、きさまたちに目にもの見せてくれるから」
「
井の中の
蛙――おまえなんかに天下のことがわかるものか、この島をでたら、
分相応に、人の
荷物でもかついで、その
駄賃で
焼餅でも
頬ばッておれよ」
「よけいなおせッかいをやくな。てめえこそこの島からだされると、また八
神殿の
床下で、お
乞食さまのまねをするより道がねえので、それで、おとなしくしていやがるンだろう。
武田伊那丸だッて、
忍剣とかいうやつだって、
龍太郎という
唐変木だって、てめえの味方は、みんなロクでもねえ
山乞食ばかりだ」
「うぬッ、伊那丸さまのことをよくも
悪ざまにいったな」
「オイオイ、どッちもでられないと思って、強そうなことをいうなよ、なぐれるものならなぐってごらんだ。お
手々が
痛くなるばかりだ」
「バカ! こんなほそい
木連格子ぐらい、破ろうと思えば破れるが、それでは、ご
恩になった
菊村さまにすまないから、おゆるしのあるまで、ジッとしんぼうしてはいっているのだ」
「ちぇッ!
おつなことをおっしゃったよ。お
腹の虫がチャンチャラおどりをしたいとサ」
「きッとか!
蛾次郎!」
「おどかすねえ、
琵琶湖の水をのんで、助かったばかりのところを」
「だからだまっていろというのだ」
「そういわれりゃなおさわぐぞ」
「勝手にしろい」
「ざまを見やがれ、へッこみやがって!」
「こいつ!」
と
竹童がわれをわすれて立ったとたんに、ヒョイと手をかけると
格子のとびらが、
観音びらきにサッと
開いた。
「あッ――」
はずみを
食って、
塔の口からころがりだしたせつなに、
蛾次郎も
仰天して
扉をおした。すると、意外や、そこも
容易にパッとひらいて、かごの鳥が舞うようにかれも表へとんででる。――
そうだ、
菊村宮内は、さッき
社家のほうへもどる時、いつものように、そとから
錠をおろしてゆかないようであった。なにか考えごとをしていて、ウッカリそれを忘れていたのだ。
それはいいが、さてまたここに一大事。
パッと両方の口からとびだした蛾次郎と竹童とは、
王庭に
血戦をいどむ
闘鶏のように、ジリジリとよりあって、いまにもつかみ合いそうなかたちをとった。
裾野以来――また、京都の八
神殿以来――かれとこれとは、いよいよ
怨みのふかい
仇敵となるばかりであった。ことに蛾次郎は、一ど
徳川家からあまい
汁をすわされているので、その
方に肩をもち、竹童はそれを
伊那丸とともに敵としている。また、いまはいずこの空へ飛んでいるかわからないが、あの
大鷲をたがいにわが手におさめんとする
競い
人も蛾次郎は竹童をめざし、竹童は蛾次郎の息のねをとめてしまわなければやまない。
ところが、蛾次郎も、近ごろは
先のうちより、だいぶ強くなってきた。もともと彼は石投げの天才であって、
智能の点はともかくも、
糞度胸がつくとなると、どうして、
容易にあなどりがたい。
ましてやいまは、竹童も
般若丸を
宮内の手にあずけてあるし、蛾次郎も
あけび巻の
一腰を取りあげられているから、この勝負こそ、まったく
無手と無手。
「ウーム、よくもいまは
広言をはいたな」
と、
掌につばきをくれながら、竹童がジーッとせまると、蛾次郎もまた
腕をまくりあげて、
「こん
畜生、もう一ど
琵琶湖の水をくらいたいのか」
いきなり
拳をかためて、電火のごとき力まかせに、グワンと相手の
頬骨をなぐりつけていったが、なにをッ! と引っぱらって
鞍馬の竹童、パッと身をかわしたので、ふたりはすれちがいに位置を取りかえ、またそこで血ばしった眼をにらみ合った。
と――思うと蛾次郎は、ふいに五、六
間ほどとびさがって、足もとから小石をひろった。
卑怯!
飛礫をつかんだな! と見たので竹童も、おなじように大地のものを右手につかんだ。
だが、竹童のつかんだのは、石でもない、土でもない。
あたり一面に、雪かとばかり白く散っていた、
糸桜の花びらである。
花びらの
武器? なんになるのか
蛾次郎にはわからない。
畜生、すこし血があがっていやがるなと見くびってひろいとった
石飛礫、ピューッと敵の
眉間へ打ってはなすと、竹童すばやく身をしずめて指の先から一
片の花をもみだして
唇へあて、息をくれて、プーッと吹いたかと思うと、それは飛んで一ぴきの
縞蜘蛛となり、つぎの飛礫をねらいかけていた蛾次郎の鼻へコビリついた。
これはかつて竹童が、
人穴城へ使者としていったとき、
呂宋兵衛の前でやって見せたことのある初歩の
幻術、きわめて
幼稚なものであるが、蛾次郎ははじめてなのでおどろいた。
「わッ」
といって、おもわず顔へ手をやった。すでに
体はみだれたのだ。
得たりと竹童、そこをねらって
馳けよりざま、さらにつかんでいた無数の花びらを、エエッと、力いッぱい蛾次郎の頭からたたきつけた。オオ
落花みじん、相手はふんぷんたる白点につつまれたであろうと見ると、それとはちがって、竹童の手からパッと生まれて飛んだのは、まッくろな羽に赤い
渦のある
鎌倉蝶々、――蛾次郎の目へ粉をはたいてすぐにどこかへ消えてしまった。
いよいようろたえた泣き虫の蛾次郎、たわいもなく竹童の足がらみにけたおされて、ギュッと
喉笛をしめつけられ、さらにうらみかさなる
拳の雨が、ところきらわずに
乱打してきそうなので、いまは強がりンぼの
鼻柱がくじけたらしく、
「たッ、たすけてーッ、
神主さま、神主さま」
最前、ここをだしてくれなければ、火をつけるぞと
悪たれを
吐いていた、その
弁天さまのほうへ、声をしぼって救いをよんだ。
その晩である。
瘤だらけになった蛾次郎と、みみずばれをこしらえた竹童とが、
菊村宮内の
住居のほうで、かた苦しくすわらされていた。
昼間、もう少し蛾次郎がやせがまんをしていたら、竹童のためにしめ殺されていたかもしれない。あのとき、すぐに宮内が
馳けつけて引き分けてくれたからこそ、かれの頭が多少のでこぼこを
呈しただけですんでいる。
「なんとしても、ふたりは死ぬまで、敵となり
仇となり、仲よくしてはくれないというのか。アア……どうもこまった
因縁だの」
宮内は
双方の顔を見くらべて、つくづくとこう
嘆息した。
およそどんな者にでも、真心から熱い
慈愛をそそぎこめば、まがれる竹もまっすぐになり、ねじけた心も
矯めなおせると信じているかれだったが、竹童はとにかく、蛾次郎の
横着と
奸智と
強情には、すっかり手を焼いてしまった。
こういう
性質の不良なものでは、日本に
天邪鬼という名があり、西洋にはキリストの弟子のうちに、ユダという男がいた。ユダの
悪魔ぶりにはキリストも持てあましたし、十二
使徒の人々も
顰蹙して、あいつはとても、
真人間にはなりませんといったくらいだ――という話を、
宮内はいつか
伴天連の
説教にきいたことがあるので、蛾次郎もそれに近い人間かなと考えた。
「では、なんともいたしかたがない。いつまでおまえたちを、この
竹生島へ
鎖でつないでおくわけにもゆかぬから、
明日はふたりをむこうの
陸におくってあげよう」
とうとう宮内もあきらめてこういいわたした。
「まことに、永いあいだ、手あついお世話になりました」
竹童は
尋常に
礼をいったが、蛾次郎は、ヘン、お
粥ばかり
食わせておきやがって、大きな顔をしていやがる――といわんばかり、
面と
瘤をふくらましてそッぽを向いたままである。
「だが? ……」と宮内はまたなにか考えて、
「
明日までにはまだだいぶ
間がある。たがいに顔を見ているとツイつかみ合いをやりたくなるから、向こうへゆくまでの
間、これをかぶって
双方口をきかぬことにしているがよい」
と、
奥へいって持ってきたのは、ふるい二つの
仮面である。あおい
烏天狗の
仮面を
蛾次郎にわたし、白い
尊の
仮面を竹童にわたした。
それをかぶらせておいてから、宮内はも一つのほうの箱を開けてふたりの前に
妙なものをならべてみせた。
なにかと思って目をみはった蛾次郎が、
「オヤ、
独楽だ!」と、すぐに手をだしそうになるのを、
「まあ、お待ち」
と宮内がそれをおさえて、じぶんの両手に一
箇ずつ持ち、さて、ふたりの者へ、たのむようにいうには、
「この古代
独楽は、
竹生島の宮にあった
火独楽と
水独楽という
珍しいものだ。この火独楽を地に打ってまわせば、
火焔のもえて
狂うかとばかりに見え、この水独楽を
空にはなせば、サンサンとして雨のような
玉露がふる……」
「おもしろいな!」
説明をきいているうちに、蛾次郎、もう
瘤のいたさを忘れて
盗んでもほしそうな様子をする。
「これこれ、そうおもしろいことばかり聞いてくれては、わしが話をする意味がなくなる。まだこの独楽にはふしぎな力がたくさんあって、たとえば、じぶんの
迷うことを
問わんとし、または指すべき方角をこころみる時に、この独楽をまわせば自然にそのほうへまわってゆく――、などということもあるが、あまり話すと、また
蛾次郎が
勘ちがいをいたすから、もうそのほうのことはいうまい」
「おじさん、――じゃアなかった。
神主さま、もう蛾次郎も、けっして勘ちがいなんかしないことにいたします」
「わかったわかった、ところで
竹童」
「はい」
「この
紅い
火独楽はそなたに進上する」
「えッ!」
といったのは、もらった竹童ではなくって、それをながめた蛾次郎である。
「そ、それを竹童に? ……もったいないなあ。じゃおれにもこっちをくれるんだろう」
「やらないとはいわない。この青い
水独楽は、すなわちおまえにあげようと思って、とうから考えていたくらいなのだ」
「ちぇッ、かたじけねえ」
独楽を押しいただいた蛾次郎は、そのままうしろへ引っくりかえって、
鯱鉾だちでもやりたかったが、また
叱られて取りあげられては大へんと、かたくにぎって
踊りだしたいのをこらえていた。
「そこでな、ふたりの者」
きッとあらたまった
宮内は、まず少年の心理をつかんでおいてから、その
本道を
説こうとする。
「こんどはわしのいうことをきいてくれる番だぞ。よいかな。
明日この島をでて、向こうの
陸へあがってから、もうわしがそばにいないからよいと思って、その
仮面をとるが早いか、
喧嘩や斬りあいをするのでは、
今日までの宮内のこころは
無になってしまう」
「ごもっともでございます」
と
蛾次郎、みょうなところでばかていねいな
返辞をした。笑いもしないで
竹童はまじめに、
「それで、宮内さまのおたのみというのは、いったいなんでございますか」
とかたずをのむ。
「ほかではないが、ふたりの
遺恨を、きょうからこの
独楽にあずけてしまって、たがいに、討つか討たれるか、
命のやり取りをしようという時には、この独楽で勝負をしてもらいたい。そうすれば、独楽はくだけても、そなたたちのからだに
怪我はできないから」
「わかりました」
「その
儀、きっと
承知してくれるだろうな」
「じゃア、なんですか?」とまた蛾次郎が
反問した。
「たとえば、わたしたちの争っている
大鷲を、どっちのものにするかという時にも、つまり、この
独楽のまわしッくらで、きめるんですか」
「そうだ、そればかりでなく、今日のような
場合でも、腹がたったら独楽で勝った者のいいぶんを通すなり、または、あやまるということにしたら、なにもつかみあって湖水におぼれるまでの必要もなくなるであろう」
欲しいものは与えられ、
愉快な方法はおしえられて、なんで少年の心がおどり立たずにいよう。
竹童はむろんそれに
異存もなし、
蛾次郎も一
言の不平なく、きっとその約束を守りますといって
宮内にちかった。
でふたりは、いいつけられた
仮面をかぶり、あたえられた
独楽をかたく
抱いて、
奥の
部屋に、今夜だけは
仲よく寝こんでしまった。
死人の顔のように青い月があった。
にらんでいるかと思うほど
冴えている。月も
或る夜はおそろしいものだ。
昼は
蓬莱山の絵ともみえた
竹生島が、いまは湖水から
半身だしている
巨魔のごとく、松ふく風は、その息かと思われてものすごい。
まさに
夜半をすぎている。
ザブーン! と
西浦の岩になにか当った。パッと散ったのは
波光である。百千の
夜光珠とみえた
飛沫である。だが、そこに、
怪魚のごとき影がおどっていた。舟だ、人だ。
「やッ」
とさけんだのは
舟中の男だろう。ほかに人はだれもいない。またつづいて、やッ! という声がかかった、声というよりは気合いである。
ピューッと舟から空に走ったのは、
鈎のついた一本のなわ。ガリッというと手にもどって、上からザラザラと岩のかけらが落ちてくる。
エイッ、ガリッ! というこの物音、なんどくり返されたかわからない。そのうちに、
「しめた!」
という声。うまく投げた鈎のさきが岩松の根に引っからんだとみえる。
力をこめて
手応えをためし、よしと思うとその男のかげ、
度胸よく乗ってきた小舟を
蹴ながし、スルスルと一本
綱へよじのぼりだした。
胆も太いが手ぎわもいい、たちまち三
丈あまりの
絶壁の上へみごとに
手ぐりついて、
竹生島の樹木の中へヒラリと姿をひそませてしまった。
と。それからすぐに――。
弁天堂のわきにある
菊村宮内の家の戸を、トントントンと
根よくたたき起していたのはその男で、やがて
手燭を持ってでてきた
宮内と、たがいに顔を見合わせると、
「や」
「おお」
といったまま、中にはいって
厳重に戸じまりをかい、
奥の一室に席をしめて、声ひそやかに話しはじめた。
「どうなすった。こんどの
合戦に、
北国勢の
軍師であるそこもとが、かかる真夜中に落ちてくるようでは、いよいよ
北ノ
庄の城もあぶないとみえますな」
「おさっしのとおりまことにみじめな負けいくさ。ここへきて
貴殿に顔をあわすのも
面目ないが、じつは、
賤ヶ
岳の一戦に、この
方と
佐久間盛政との意見が
衝突いたし、そのためにいろいろな手ちがいを生んだので、いまさら
越前へももどれず……」
深夜の客は
暗然として、話す
間に、その顔すらもあげなかった。
宮内も、いまは
浪人の身であり、まったく弓矢をすてた心ではあるが、
北庄城にいたころの友が、かく
負軍で逃げこんできた姿をみたり、または
旧主の
亡びる
消息をつたえられては、さすがに一
掬の涙が
眼ぞこにわきたってくる。
「オオ……ではあの
我のつよい佐久間どのと意見がちがって……なるほど、
得て、一国の亡びる時には、そういうふうに人心へヒビの入りやすいもので」
「のみならず、かれは賤ヶ岳をすてて、先に北ノ庄へ逃げかえり、このほうの
軍配すべて
乱脈をきわめたりと、
勝家公へざん
言いたしたとやら」
「ウ、それはまたあまりなこと」
「でなくてさえ、味方の
敗軍に、いらだっている主君には、手もなくそれを信じて、
身どもを
軍罰にかけよという命令をくだしました」
「や、では」
「
北ノ
庄へかえれば、軍罰に照らされて首を打たれるは
必定。といって戦場にとどまれば、
秀吉の手におさえられて、
生恥をかかねばならぬ
窮地に落ちたのでござる。で、ぜひなく、
羽柴勢の目をくぐって、ここまで落ちのびて、まいったわけじゃ、ごめいわくでも、二、三日この島にかくまっておいてくださるまいか」
深沈とふけゆく
座敷のうちに、こう
湿ッぽい
密々話。ハテナ? ハテナ? なんだかどこかで、聞いたことのある声だぞと、
亀の子のように、のこのこと
蒲団の中から首をもたげだしたのは、
独楽をもらったうれしさに
昂奮して、つい寝つかれずにいた泣き虫の
蛾次郎。
こういうことに
出ッ
会すと、がんらい、ジッとしていられない
性分。よせばいいのに、ソロリ、ソロリと四ツン
這いにはいだして、つぎの
部屋の向こうがわの、
線香のようにスーと明かりの立っているところを目あてに、
「だれだろう? そばできくと、よけいに聞きおぼえのある声だが……」
と、
細目にすかして、
烏天狗の
仮面をつけたまま息を殺してさしのぞいた。
見てびっくりするくらいなら、のぞかなければいいものを、
襖のすきへ
仮面をつけたとたんに、
「あッ! こいツアいけねえ」
と
仰天して、
蛾次郎みずから、そこにじぶんのいることを、となりの武士に知らしてしまった。
草木のそよぎにも心をおくという、
落武者の
境遇にある者が、なんでそれを気づかずにいよう。
イヤ、
当の蛾次郎よりははるかに
胆をひやしたかもしれない。
「ヤ、だれか、となりへ!」
太刀をつかんでパッと立った。おそろしく
背のたかい武士。
筋骨も太く、
容貌がまたなくすごいようにみえたが――オオなるほどこれには蛾次郎が仰天したのも
無理ではない。だれあろう、この
落人こそ、
柴田方では一
方の
軍師とあおがれていた
上部八風斎――すなわち、富士の
裾野にいた当時は、
綽名されて
鏃師の
鼻かけ卜斎といわれていた人物。
蛾次郎はそのころかれの弟子であった。じつはまだはっきりとお
暇もいただいてないのだから、ここで
逢ったのはまずいというより運のつきだ。
「
南無三。とんでもねえやつが舞いこんできやがった。こいつアどうもたまらねえ」
と、バタバタと奥のほうへ逃げこんだので、
八風斎の鼻
かけ卜斎は、さてこそ、
秀吉のまわし者でもあろうかと
邪推をまわして、そこの
唐紙を
蹴たおすばかりな勢い――
間髪をいれずにあとを追いかけていった。
一
足とびに二
間ほど
馳けぬけてくると、卜斎はなにかにドンとつまずいた。
「あッ」
といって、
蒲団のなかから躍りだしたのは、
尊の
仮面をつけて寝ていた
竹童である。
だが卜斎は、その
背かっこうの
似ているところから、これこそ、奥へ逃げこんだ
小童であろうと、
拳をかためてなぐりつけた。
寝ごみの不意をくったので、さすがの竹童もかわすひまなく、グワンと
血管の破れるような
激痛をかんじてぶッ
倒れたが、とっさに
枕もとへおいて寝た、
般若丸を抜きはらって、かれの足もとをさッと
薙ぎつける。
「うむ」
と卜斎一流の
妖気みなぎる
含み気合いが、それをはねこえて壁ぎわへ身を
貼りつけると、
「オオ、なんじは
鞍馬の竹童だな」
らんらんとして
眸を
射て、こなたのかげをすかしたものだ。ハッと思って、竹童は自分の顔に気がついた。
卜斎の
鉄拳をくったせつなに、
仮面は二つに
割られてしまった。そして二つに割られた仮面が、
畳の上に片目をあけて
嘲笑っている。
「なんでおいらの寝ているところをぶンなぐった。
裾野にいた
鏃鍛冶、顔は知っているが、
怨みをうけるおぼえはない」
「ではなにか、今この
方が
宮内と話をしていたのを、ぬすみ聞きしていたのは、きさまではなかったか」
「それは向こうに寝ていた泣き虫の
蛾次郎だろう」
「や? ――蛾次郎もここにおったか。ちッ、ちくしょうめ」
と、そのほうへ走りだそうとしたが、卜斎、なにをフト思いなおしたかにわかに大刀の
柄をつかんでジリジリと竹童のほうへよってきながら、
「いやいや、たとえ怨みがあろうとなかろうと、ここへおれが
潜伏しているということを知られた以上は、もうきさまも助けておけない」
「なにッ」竹童も身がまえを
直した。
「
秀吉の陣へ内通されれば、
八風斎の
運命にかかわる。気の毒だが
生命はもらうぞ――だめだだめだ!
鞍馬の竹童ジリジリ二
寸や三寸ずつ
後退さりしても、八風斎の
殺剣がのがすものか、立って逃げればうしろ
袈裟へひと
浴びせまいるぞ、――ジッとしていろ、運が悪いとあきらめて、そのままそこに、ジッとしていろ」
スラリと
青光りの
業物を抜いた。
戦国時代の
猛者が好んでさした、
胴田貫の
厚重ねという刀である。竹童ぐらいな細い首なら、三つや四つならべておいても
優に斬れるだろうと思われるほどな。――
そいつを
抜いて、鼻
かけ卜斎、ダラリと
右手にさげたのである。そして、
「ジッとしていろ!」
とおそろしい
威迫を感じる声で、ズカリとくるなり足をあげて、
般若丸を
構えていた竹童の小手を横に
蹴った。しかも、その
足力がまたすばらしい、あッというと、般若丸はかれの手をもろくはなれて、ガラリと向こうへ飛ばされてしまった。
「これでおれの
力量はわかったろう、じたばたするなよ、とてもむだだ。――ジッとしていろ! ジッとしていろ!
痛くないように斬ってやる」
こういいながら胴田貫、おもむろに
切ッさきを持ちあげて、ヌッと竹童のひとみへ直線にきたと思うと、パッと風を切って卜斎の
頭上にふりかぶられた。
なんで、これがジッとしていられよう。そのすきに
鞍馬の竹童、グッとうしろへ身を
反らしたが、落とした刀へは手がとどかず、立って逃げれば、われから卜斎の
殺剣へはずみを加えてゆくようなものだし? ……
絶体絶命。
いまは、のがれんとするもその
術はなく、この五体、ついに
鮮麗な血をあびるのかと、おもわず胸をだきしめる、とその手のいったふところに、さっきの
火独楽が指にさわった。
賤ヶ
岳の
総くずれから、
敵営、
秀吉方の目をかすめて、やっと世をはなれた
竹生島に、
旧知の
菊村宮内をたよってきた――
柴田の
落武者、
上部八風斎の鼻
かけ卜斎。
草木のそよぎにも、
恟々と、心をおどろかす敗軍の
落伍者が、身をかくまってもらおうと、
弁天堂の
神主、宮内の
社家にヒソヒソと
密話をかわしていると、
止せばよいのに、でしゃばりずきな泣き虫の
蛾次郎が、ワザワザ
寝床からはいだして、それを、ぬすみぎきしていたのを、卜斎、
気取るや
否や、おそろしい
形相で、かれを奥へ追いまくした。
南無三――もとの主人卜斎だったかと、
仰天した蛾次郎は、すばやく風を
食らって逃げだした。けれど、その
禍いは、なにも知らずに寝こんでいた、
鞍馬の
竹童の身にふりかかって、すでに、自身のあるところを知られては、秀吉のほうへ、
密告されるおそれがある、きさまも生かしてはおけぬ、目をつぶって、
覚悟をしろ、逃げようとしても、それは
無駄だぞ――と、おそろしい
威迫の目をもって、
胴田貫の大刀を面前にふりかぶった。
「――ジッとしていろ! ジッとしていろ。
痛くないように斬ってやる!」
卜斎の足の
拇指が、
蝮のように、ジリジリと
畳をかんでつめよってくるのに、なんで、
鞍馬の
竹童、ジッと、その
死剣を待っていられるものか。そんな
無意義な
殺刀にあまんじる理由があろうか。
といって、身をまもる
唯一の愛刀、
般若丸はそのまえに、卜斎の
足蹴にはねとばされて、
拾いとって立つ
間はない。しかも、
寸秒の
危機は
目前、おもわず、
額や
腋の下から、つめたい
脂汗をしぼって、ハッと、ときめきの息を一つ
吐いたが――その
絶体絶命のとっさ、ふと、指さきに
触れたのは、さっき、菊村宮内からもらって、ふところに入れていた、
希代な
火独楽! その火独楽だ。
宵に、
神官の菊村宮内が竹童と
蛾次郎をならべておいて、蛾次郎には青い
水独楽をあたえ、竹童にはあかい火独楽をくれて――その時ふたりにいったことには、これは、
竹生島の
弁天に、
歳久しく伝わっている
奇蹟の
独楽だといった。
宮内は、この独楽をもって、仲のわるい二
童子の手をむすぼうとしたのである。だから、その奇蹟についてはあまり、多くを語らなかったが、
火独楽水独楽、どっちも、なにかの
不可思議力を持つものにちがいない。
だが、――竹童の今は、しんに、
間一
髪をおく
間もない
危機である。もとより、かれが、
卜斎が大刀をふりかぶったとたんに、ふところの
独楽をつかんだとはいえ、ふかい、冷静な、
思慮ののちにそうしたのではない。
寸鉄もおびていない
自衛意志が、おのずから独楽をつかませたのだ。
それが、たとえば一個の石にすぎなくとも、この
場合、
竹童の手は、その石へふれていたにちがいない。
「なんできさまたちの
刃にたおれるものか!」
口にはださないが、竹童の
顔筋肉はそういう
風に引きしまっていた。
そして、独楽をかたくにぎった。
遊戯に、まわすべき独楽なら、
紐のこともかんがえるが、いまの
場合そうでない。
武器として、目つぶしとして、敵が大刀へ風を切らせてくるとたんに、卜斎の眼玉へ、それをたたきつけようと気がまえているのだ。
卜斎も、竹童のたいどをみて、うかつにはそれをふりおろしてこない。ジリ、ジリ、と一
寸にじりに
寄りながら息をはかり、気合いをかけたが最後、ただ一刀に、
息の
根をとめてしまおうとするらしい。
「まいるぞッ!」
と、いきなり
魔獣のような気合いがかかった。
はッ――として、竹童の五体も、おもわずその
凄まじさにすくんでしまおうとしたせつな――
「ええッ」
とわめいた
卜斎の大剣が、
電火のごとく
竹童の頭上におちてきた。あッ――といったのは
刀下一
閃のさけび、どッと、血けむりを立てるかと思うと、必死の
寸隙をねらって、竹童の
右手がふところをでるやいなや、
「なにをッ」
と一声、待ちかまえていた独楽のつぶてを、パッと卜斎の
眉間へ投げつけた。
すると、まっ赤な
火独楽は、文字どおり、一
条の
火箭をえがいて、しかも、ピュッとおそろしい
唸りを立て、鼻
かけ卜斎の顔へ
食いつくように飛んでいった。
「おお、これはッ?」
と、おどろいた卜斎、斬りすべった
厚重ねの
太刀を持ちなおす
間もなく、火の玉のように
宙まわりをしてきた
火焔独楽をガッキと刀の
鍔でうけたが、そのとたんに、
独楽の
金輪と
鍔のあいだから、まるで
蛍籠でもブチ
砕いたような、青白い火花が、
鏘然として八
方へ散った。
「うつッ……」
と、卜斎が、片手で眼をふさいだ
間髪に、竹童はいちはやく、
般若丸の刀をひろって、バラバラッと
廊下へでたが、それと一しょに、
奇蹟の火焔独楽、ポーンとはね返って、竹童の
手もとへ舞いもどってきた。
いかにもふしぎな
魔独楽の力よ!
とあやしまれたがのちによく見れば、
独楽の
金輪の一
端に、ほそい
金環がついていて、その金環から
数丈の
紐が
心棒にまいてあるのだ。はねもどったのは、
独楽それ自身の
魔力ではなく、
竹童の
帯に結んであった
紐の
弾撥。手もとへおどり返ってきたのは、とうぜんなのであった。
竹童をとり
逃がして
卜斎は、不意の
燦光に目をいられて、一時は、あたりがボーッとなってしまったが、
廊下を走ってゆく足音を聞きとめると同時に、
「うぬッ」
憤然として、その
真ッ
暗な
部屋からかけだした。
そして、いきなり廊下から、
庭先へ
降りようとして、やみのなかにそれと見えた、
沓脱石へ足をかけると、こはいかに、それは庭の
踏石ではなくて、ふわりとしたものが、足の
裏にやわらかくグラついたかと思うと、
「ぎゃッ」と、
蛙のようにつぶれてしまった。
それは、竹童より先ににげた泣き虫の
蛾次郎で、いま、
床下へもぐりこもうとしているところへ、卜斎の足音がしてきたので、そのまま、
縁の下へ首をつっこんだなりに、石の
真似をしていたものらしい。
あの
勢いで、
大兵な、卜斎に
踏みつけられたのだから、蛾次郎もギャッといって、
ぴしゃんこにつぶれたのはもっともだが。
おどろいたのは、むしろそれへ足を乗せた
卜斎のほうで、まさか、やわらかい石だとは、
夢にも思わなかったはずみから、よろよろとツンのめって、あやうく、向こうの
梅の
老木に頭をぶつけ、ふたたび、目から火のでるつらい思いをするところだった。
「やッ……おのれは
蛾次郎だな」
気がつくと卜斎は、いきなり蛾次郎のえりがみをつかんで、ウンと、そとへ引きずりだそうとした。
蛾次郎は、半分もぐりこんだまま
縁の下の
土台にかじりついて、
「ごめんなさい!
親方、親方!」
と
土龍のように、でようとしない。
なにしろ蛾次郎は、この卜斎ほどおっかないものはないと
心得ている。
裾野にいた時分から、気にいらないことがあると、すぐに
鏃をきたえる
金槌で、頭をコーンとくるくらいはまだやさしいほう、
ふいごで
拳骨を
食ったり、弓のおれでビシビシとどやされたおそろしさが、頭のしんにしみこんでいる。
しかもまだその
当時の、
弟子師匠の関係を
断っているわけではなく、卜斎が
北ノ
庄へかえるとちゅう、目をくらまして
逃げだしていたところだから、見つけられたがさいご、こんどこそ、どんな目に
遭わされるかと、いきた空もないのである。
「たわけめ。でろ、ここへ!」
とどなりながら、
卜斎はすこし
苦笑をもらしてしまった。
いまでも、
裾野当時の気持で、じぶんへあやまるのに、
親方親方と
呼んだところが、いくぶんか
正直らしいと、おかしくなって、この蛾次郎には、竹童へ向かったような、ああいう本気にはなれなかった。
「かんべんしてください、親方、
後生です」
「でろと
申すに!」
「あッ、
苦しい……いまでます、いま……」
「このバカッ」
力まかせに引ッ
張りだして、イヤというほど
叩きつけようとすると、蛾次郎、
頬ッぺたをおさえて
飛び
退きながら、
「
親方、どうも、お
久しぶりでした」
ピョコンと、おじぎをして、たくみに、あとの
拳骨を
予防した。
「蛾次郎!」
「へいッ」
「きさまはだれにゆるされて、
方々かってにとびまわっているんだ」
「もうしわけございません」
「まだ、きさまにひまをだしてはいないぞ」
「
承知しています。これから、けっして気ままにあそんで歩きません。はい、親方の
腰についております」
「また、なんのために、この
竹生島へなどきているのだ」
「
琵琶湖で
土左衛門になるところを、ここの
神主のやつが助けやがったんで……わたしがきたいと思ってきたところじゃありません」
「
竹童もか」
「そうです」
「
武田伊那丸やあの一
党の者は、その
後、どうしているか、なにか、うわさを聞いているだろう」
「あのなかの、
小幡民部や
咲耶子や
山県蔦之助などは、
小太郎山のとりでに、
留守番をしているそうです」
「そして、伊那丸は?」
「
加賀見忍剣と
木隠龍太郎をつれて、しばらく京都におりましたが、そのうちに、なんでも
秀吉の
陣をとおって
桑名から
東海道のほうへ帰っていったという話です。……けれども、それは、わたしが見たわけじゃありませんから、親方、ちがっていても、かんにんしてください」
と
蛾次郎は、
卜斎の
顔色が、だんだん
和らいでくるのを見ると、
甘ッたれたような
調子でしゃべりだしてくる。
「ウーム。秀吉は伊那丸に
好意をよせて、
暗に、かれを
庇護しているものとみえる。だが……」
というと、
卜斎は、なにか自分の
前途について、だいじな
方針をかんがえかけてきたとみえ、
逃げたる
竹童のことはともかく、どっかりと、庭石へ
腰をおろして
腕ぐみをしてしまった。
「――だが、
家康は
伊那丸をにくんでいる。たしかに、かれを
亡き者にせねば、ある不安から
離れられまい。伊那丸も家康を
武田家の
仇とねらっているのは知れきったこと……」
「そ、その通りですよ、親方」
と、
蛾次郎は、そばから、おちょぼ口をつぼめて、
「これからまた、富士山のまわりで、すさまじい
戦があるとすりゃ、伊那丸と家康の
喧嘩でしょうよ。家康も
東海道の名将だが、伊那丸のほうにいる
忍剣や
龍太郎というやつも強いからな。それに、
小太郎山にのこっている
小幡民部というやつが、たいへんな
軍師だそうで」
いいかけたところで、また、卜斎の顔色をみて、
「だが、親方には、かなわねえやきっと――」
と
前言をあいまいにした。
「おれも
柴田家から
爪弾きをされてみれば、なんとか、ここで
行く
末の方針を立てなければならない
場合だが」
「はい、そうです」
と深いわけもわからぬくせに、
卜斎が
問わず
語りにつぶやくのへ、
蛾次郎、いちいちあいづちをうって、じぶんも
腕ぐみのまねをしている。
「ウム」
それには相手にならないで、卜斎はなにかひとりでこううなずき、上に着ていた
陣羽織を
脱ぎすてて、
「しばらくの
間、またもとの
鏃鍛冶にばけて、
世間のなりゆきを見ているとしよう。そのうちには、なんとかいい
運がひらけてくるだろう」
「じゃ
親方、また
裾野の
人無村へかえって、テンカンテンカンやるんですか」
「どこに
住むかわからないが、てめえもこれからは、
無断でほうぼうとんであるくと
承知しないぞ」
「へ、へい」
「どこまでもおれについていろ。そして一
人前の
鏃師になったら
暇をくれてやる。お、そんなことはとにかく、おれがここへきたことを、
竹童に知られてしまったから、もう
永居をしているのはぶっそうだ。鏃師卜斎にすがたをかえて、
夜の明けないうちに、
竹生島をでるとしよう」
卜斎は陣羽織をすててつぎに、手ばやく
籠手の
具足をとり、
脛当の
鎖を
脚絆にかえて、旅の鏃師らしいすがたにかわった。そして蛾次郎に、
「
菊村宮内どのへ、ちょっとお
暇をつげてまいるから、おまえも、そのあいだに
支度をして、ここに
待っているんだぞ」
と、いいのこして、そこを立とうとすると、なんだろう?
周囲の
闇――
樹木や
笹や
燈籠のかげに、チカチカとうごく
数多の
閃光。
槍だ――槍の
穂先だ。
いつのまにか、
卜斎と
蛾次郎のまわりには、十
数槍の
抜身の
穂尖、音もせずに、ただ光だけをギラギラさせて、
芒のように
植えならんでいた。
「さては、
秀吉の
陣から、もう
追手がまわってきたな」
卜斎ははやくも
観念して、
飾りをとった
陣刀を
脇差にぶっこみ、りゅうッ――と
抜くがはやいか、その
槍襖の一
角へ、われから
血路をひらきに走った。
「
親方――ッ」
と泣きごえをだした蛾次郎は、そのとたんにいきなり、
突っかけてきた槍の
柄にむこうずねをたたかれ、ワッといって、
打ッたおれた。
あとはおそらく、蛾次郎じしんにも、むちゅうであったにちがいない。とにかく、ひとりや半分の敵ではなく十数人――あるいは二、三十人もあったろうと思われる
甲冑の
武士が、なにも知らずにいるところへ、なにもいわずに、ズラリと槍の尖をそろえてきたのだから、
胆は
天外に吹ッとんでいる。
一どたおれた
蛾次郎は
本能的にはねかえって、起きるが早いか、そばの
大樹へ、
無我夢中によじのぼった。
猿のように
梢へのぼるとちゅうでも、
秀吉方の
甲冑武者に、
槍の
柄でピシリッと
叩かれたが、それさえ、
必死であったので、
痛いともなんとも
性にこたえなかった。
そして、運よく大樹の枝先が、
弁天堂の上へおおいかぶさっていたのを
幸いに、かれはヒラリと身をおどらして、枝から屋根へ飛びうつり、てんてんと
影をおどらせて、やっと
竹生島の
磯へかけ
下りてきた。
するといっぽうの
急坂からも、
血路をひらいた
卜斎が、
血刀を引っさげてこの磯へ目ざしてきたので、ふたりは
前後になって磯の
岩石から岩石を飛びつたい、やがて、一
艘の小舟を見つけだすとともに、それへ飛び乗って
櫓をおっとり、
粘墨のように黒い
志賀ノ
浦の
波を切って、いずこともなく
逃げのびてしまった。
それよりまえに、あやうく卜斎の
殺刃をのがれて、
堂の
裏に
姿をかくしていた
鞍馬の
竹童は、ほど
経てあたりをうかがいながら、そっと、ようすをながめにでた。見ると、弁天堂のまえへ、
大勢の武士をつれて
篝火を
焚かせている者は、かの
賤ヶ
岳で
勇名をはせた、
加藤虎之助の
臣、井上大九郎であることがわかった。
思いがけないところで、大九郎にあった竹童は、かれの口から、その
後の
伊那丸の
消息をくわしく知ることができた。
すなわち、武田伊那丸と
従臣のふたりは、大九郎が
桑名の
陣を引きはらうと同時に、
秀吉にわかれて
小太郎山へかえるべく、
徳川家の
城地へ
危険をおかして進んでいったという話。――
それを聞くと、
竹童は、すぐにあとをしたって、三人に
追いつき、ひとまず小太郎山のとりでへ帰ろうと
決心した。そののちに、
琵琶湖の上で乗り落ちたまま
行方をうしなったクロをさがす
方針もかんがえ、また、一
党の人々にも、
久しぶりで
会いたいと願った。あの、
温厚にして
深略のある
小幡民部、あのやさしくて
凛々しい
咲耶子、あの
絶倫な
槍術家と弓の名人である、
蔦之助や
巽小文治にもずいぶんながく会わなかった。あの人たちは、みなじぶんを心の
底からいとしんでくれる、
骨肉のようなやさしさと、
温味をもっている。
その人たちに
久しぶりで会おう。
小太郎山は、
乱世の中にあってゆるがず、みだされずにある、
義血の兄弟たちの
家だ。その
家へ帰ろう。こう思うと
矢も
楯もなく、竹童は、
神官の
菊村宮内に、きょうまでうけた
親切の
礼をのべ、井上大九郎の舟に送られて、ほのぼのと
夜の
白みかけた
竹生島へ別れをつげた――。
もとより、
辛苦になれている竹童には、野に
伏し
樹下にねむることも、なんのいとうところではなく、また
鞍馬の
谷で
馴らした足には、
近江街道の
折所や
東海道の
山路なども、もののかずにはならないので、なみの
旅人のはかどるよりは数日もはやく
里数をとって、
間もなく、
家康の
領地、
遠江の国へ近づいてきた。
しかしそこまでいって、ハタと
竹童がとうわくした、というのは、いたるところの
国境に、
徳川家の
関所がきびしく
往来をかためていて、めったな者は通さないという
風評であった。
で、やむなく、
街道を
遠くはなれて、人もとおらぬ
山河を
越え、ようよう遠江の国へはいったが、こんな
厳重さでは、さきに
桑名を立った
伊那丸たちも、やすやす、
無事にここを通れたとは思われない。なにかの
危険にであっているにちがいない。
「ああ、だれかに、ご
安否をたずねてみたいが、めったなものに、そんなことをきけば、みずから人のうたがいを
招くようなものだし……」
こう思いながら、
鞍馬の竹童は、野末にうすづく
夕陽をあびて、見わたすかぎり
渺茫とした
曠野の夕ぐれをトボトボと歩いていた。
ここは、どこの
野辺ともわからないが、いま
渡ってきた川の
瀬には、
都田川という
杭が立っていた。
なお、はるかにあなたの
野のはてには、一
抹、
霞のように白い
河原がみえる。あとは、西をあおいでも、北を見ても、うっすらした
山脈のうねりが
黙思しているのみだ。
微風もない
晩春の夕ぐれ、――ありやなしの霞をすかして、
夕陽の光が
金色にかがやいている。いちめんの草にも、霞にも、竹童の
肩にも――。
するとやがて、
耀々とした夕がすみのなかから、あまたの青竹と
杉丸太をつんだ車が、ガラガラと
竹童のそばを通りぬけた。そのあとについて、八、九人の
足軽と十数名の
人夫たちが、
斧や、
鉞や、
木槌などをかついで、なにかザワザワと話しながら歩いてゆく。
すれちがった時に、なんの気もなく竹童がふりかえると、一ばんさいごについてゆく足軽が、一本の立て
札をかついでいる。
生あたらしいその
高札の
片面に、なにか
墨色もまざまざと書いてあったが、その文字のうちに、ふと、
武田と読めた一
行があったので、竹童はハッと
胸をさわがしたが、
「あ、もし」
と、
呼びとめておいて、つとめて
冷静をよそおいながら、
「浜松のご
城下へゆくには、これをまっすぐにゆけばいいんですか……」
と道にまよっているふりをして、そのあいだに、足軽が
肩にかけている高札の文字を読もうとしたが、
意地わるく、
文字面の
裏を向けていて、よく読むことができなかった。
「うむ、ご城下へは一本道だが、まだだいぶ道のりがあるぜ」
「じゃ、日が
暮れてしまいましょうね」
「いそいでゆきねえ。ぶっそうだから」
曠野にさまよう子供と見て、その足軽は、さきへ青竹をつんでいった車やつれの人数からひとりおくれて、こまごまと、十
字路の
方角や
里数をおしえてくれている。
「どうもありがとうございました」
竹童はその道
しるべより、
肩にかついでいる
高札のことを、なんとかして聞きほじりたいがと
苦慮したが、いきなりたずねだすのもさきの
疑いを買うであろうと、わざと
空とぼけて、
「それでよく道はわかりました。ですけれど、おじさん、この広い原ッぱは、いったいなんという所なんでしょうね」
「おまえは、それも知らずに歩いているのか。子供ってえものはたわいのねえものだ。ここはおまえ、
甲斐の
信玄と
家康さまとが、
鎬をけずった有名な
戦場で、――ほれ、
三方ヶ
原というところだ」
「あ、ここが、三方ヶ原でございますか。――なるほど、広いもんだなあ。そして、おじさんたちは、やっぱり
徳川さまのご
家来ですか」
「そうよ、おれたちは、
浜松城の
足軽組だ」
「いまごろから、あんな青竹や
松明をたくさん車につんで、いったい、どこへおいでになりますので?」
「おれたちか……」足軽は、ちょッといやな顔をして、
「これから
都田川の手まえまでいって、
夜明かしで、人の死に
場所をこしらえにかかるんだよ」
「へえ、人の死に場所を」
「うむ。つまり、
刑場のしたくにゆくんだ」
「ああ、それで、
矢来にする竹や
丸太や、
獄門台をつくる
道具をかついで、みんながさっき向こうへいったんだな」
「そうだ、おまえも、こんなこわい話を聞いてしまうと、たださえさびしい
三方ヶ
原が、よけいにさびしくなって歩けなくなるぜ。だがまだいまのうちなら、
夕陽がキラキラしているからいい、はやく、いそいでゆくことにしねえ」
クルリとふり向くと、さきの者とは、だいぶ
距離ができたのにびっくりして、
足軽の男は、急にいそぎ足に
別れかけた。
「あ、おじさん。もしもし」
竹童は、あわててそれを呼びかえしたが、べつに、どういう
口実もないので、とっさの
機智を口からでまかせに、
「
腰の
手拭が落ちますよ」といった。
「ありがとう」
と、さきの男が、うっかり
釣りこまれている
間に、かれは、すかさず、
矢つぎ
早にさぐりをいれた。
「あの、いまおじさんがいった刑場で、いったいだれがいつ
斬られることになるんです」
「よくいろんなことをききたがるな。子供のおまえにそんなことを話してもしかたがねえが、男は一どは見ておくものだそうだから、あさっての夕方、
都田川の
竹矢来のそとへ見にきねえ。この
高札に書いてある通り、こんど
徳川さまの手でつかまった、
武田伊那丸とその
他二人の者がバッサリとやられるのだから」
もう、うるさいと思ったか、こんどはそっけなくいいはなした。
肩の高札を持ちかえると、ふり向きもせずにタッタとさきの人数を
追いかけていった。
ゆき別れた
足軽のすがたが
半町ばかり遠ざかると、
生ける色もなく、そこに取りのこされた竹童は、
「ウウム……」
髪の毛をつかんだまま、よろよろと、草のなかへ
腰をついて、
「た、たいへんだ」
身をゆすぶッて、もだえだした。
「伊那丸さまが――あとのふたりも? ――」
くわっと、眼をひらいて、
宇宙に
眸をさまよわせたが、
「こうしてはおられない!」
また、ものぐるわしくそこを立った。
いても立ってもいられない
焦燥である。
その
驚愕とうろたえのさまは、
鞍馬の
竹童として、いつにない取りみだしようだ。はね起きたが、その足を向けようとする
方角にも、
迷いともだえがからんでみえる。
「アア、どうしたらいいだろう」
三方ヶ
原は
渺として、そこには、ただようようにうすれてゆく
夕陽の色があるばかりだ。
「はやく、
小太郎山にのこっている、一
党の人たちへ、この大事を知らせるのが、一ばんいい
工夫だけれど、そんなことに、四
日も五日もかかっていては
間に合いはしない。エエ、どうしたらいいだろうッ……」
歯を食いしばったまま、
湧きたつ
胸を、
両手でギュッとだきしめた。
「どうして、
伊那丸さまが……おまけに
龍太郎さまや
忍剣さままでついていて、やみやみと、
徳川家の手へつかまっておしまいなされたのであろう。アア、だけれど、いまはそんなことを考えている
間などない。おいらの頭の上へ
降りかかってきた
使命は――どうして、はやくこのことを、小太郎山へ知らせてあげるか、どうしたら伊那丸さまをお助けすることができるか、この二つだ! この二つが目のまえの大事だ」
ひとり
問い、ひとり答えて、はては
当面の
大難にあたまも
惑乱して、ぼうぜんと、そこに、
腕ぐみのまま立ちすくんでしまったのである。
すると、野原のどこからか、ワ――ッと、元気のいい声が、
潮のように近づいてきたかと思うと、やがて
青々とした草の
波から、おなじ
年頃の少年ばかりが二十人ほど、まっ黒になって、
竹童のほうへなだれてくる。
「や、なんだろう?」
ぼうぜんとしていた竹童は、その
気配に顔をあげたが、ようすがわからないので、いち早く、草のなかに身をふせてしまった。
姿をかくして、
眸だけをジッとそれへ向けていると、あまたの少年たちは、いずれも、
前髪だちで、とんぼ
模様のついたそろいの
小袖、おなじ色の
袴をうがち、なにか、大きな動物に
綱をつけて、その動物の力にワイワイと引きずられてくる。
見ると、それはクロだ。
竹童の
愛鷲――あの大きな
鷲だ。
とんぼのついたそろいの小袖を
着ているところでは、これこそ、
浜松城で有名な、お
小姓とんぼの少年たちにちがいはない。そして、このとんぼ
組の
餓鬼大将とかげ口をいわれているものは、
結城秀康の子で
家康には
孫にあたる、
徳川万千代である。
万千代は、いまもこのとんぼ組の小姓たちの
先達となって、しきりに
大鷲の
背なかへ乗ろうとしては落ち、乗ろうとしては、
翼にハタかれて、ぶッたおれた。
足に結びつけた、
綱にすがりついている多くの小姓も万千代も、手や足にすり
傷をこしらえて
血だらけになっているが、さすがに、戦国の少年、
三河武士の
卵たちである。あくまで鷲と力をあらそって、自由にせずにはおかないふうだ。
竹童は、われを忘れて草の中から立っていた。
草の
嵐にうすづく夕日。
日の
暮れるのも忘れてしまって、
三方ヶ
原の
奥へ奥へ、
鷲にひきずられてゆくとんぼ
組のお
小姓たち。
鷲をオモチャにしているのか、鷲にオモチャにされているのか、ともすると、あべこべに、
空へつるしあげられそうになるのを、からくも、一
本杉の
根ッこへ、その
手綱を
巻きつけて
食いとめたとたんに、
「あア、くたびれた」
と、ヘトヘトにつかれたこえを合わせながら、
「
休もう」
「休もう」
「休んでからまた飛ぼう!」
と、これでも鷲のつばさと一しょに、飛んできた気でいるのだからたわいない。
見ればみな、なつめのような眼をもった、十二、三から十五ぐらいまでの
前髪少年。
浜松城のお
小姓であれば、しかるべき
家柄の
息子たちにはちがいないが、
城下からこんなところまで、
鷲と取っくんできたのだからたまらない、とんぼぢらしのおそろいの
小袖も、カギ
裂きやら
泥だらけ。
なかには、手や
頬ッぺたをすりむいて、ざくろみたいになっている者、鼻血をだしておさえている者、
髷の
草ッ
葉がとれないでこまっているもの、
脇差の
鞘だけさしてすましているもの。――どれもこれも
弟たりがたく
兄たりがたき
腕白顔だ。さだめし、
屋敷へかえったのちには、
母者人からお
小言であろう。
お山の
大将おれひとり――という
格で、中にまじっている
徳川万千代は、みんなと一しょに、つなぎ
止めた
大鷲を取りまきながら、
「やあ、
金光りの眼で、ギョロギョロとにらんでいるわ。
怒るなおこるな、いまに
餌をやるからな。
余一、余一、さっきの
餌を持ってこい」
と、
鞭をあげてさしまねいた。
「はい」
というと、とんぼ
組の中でも一番チビなお小姓余一、にわとりの死んだのを、竹のさきにかけて、万千代の手へ
渡した。
「おお、鷲のごちそう」
と一同にみせて、
笑わせながら、万千代はそれを
猛禽の
鼻ッ先へ持っていった。そして、くちばしのそばへぶらぶらさせたが鷲は横をむいて、その
匂いすらかごうとしない。
業を
煮やした
万千代は、
意地になって、
「こりゃ
食え、食え。くれたものを、なぜ食わんか」
と、よけいに
突きつけると、うるさいとでも感じたか、
金瞳黒羽の
大鷲、
嵐に吹かれたようにムラムラと
満身、
逆羽をたててきた。
と思うと――
畳二
枚ほどは
優にある
両の
翼が、ウワーッと上へひろがって、白い
腋毛が見えたから、びっくりしたお
小姓とんぼ。
「そら――ッ」
とまわりを飛びはなれたが、
偉大なる
猛禽のつばさが、たッたひと打ち、風をあおるとともに、
笑止笑止、まるで
豆人形でもフリまいたように、そこらの草へころがった。
「アー
痛い」
「オーひどい」
やがてめいめい、
腰をさすって起きあがってみると、
鷲は
杉の
根もとにケロリとして、とんぼ
組の
諸君、なにを
踊っているんです、といわないばかりの様子である。
だが、えらいやつがいた。
たッたひとり、いまの
羽風にも
倒されずに、鷲のそばに
突っ立ったまま、ジッと
腕ぐみをしている少年。
お
小姓とんぼのなかにも、あんな
強胆な者がいたかしら? とみんなが眼をみはって見ると、ちがッてるちがッてる、
肩つぎのある
筒袖に、よごれきった
膝行袴を
穿き、なりにふさわぬ
太刀を
差して、
鷲にも負けない眼の持ち
主。
浜松城の
小姓組には、こんなきたない
小僧はいない。
「だれだ、あいつは?」
「いつのまに、どこから
降ってきおったのじゃ」
ぞろぞろと
集まった。
そして、こんどは
鷲よりも、この小僧に
好奇の目をそそいだ。けれど、そこに
黙然と立った
鞍馬の
竹童は、じぶんをとり
巻いてジロジロと見る、小姓たちのあることなどは忘れはてて、
「オオ、おまえはクロじゃあないか」
と、心のそこから、いっぱいななつかしさを、
無言に
呼びかけているのである。――
ああ、ずいぶん
久しぶりだったねえ――
そう思うと、竹童は、なんだかボッと顔が赤くなる気がした。かれの
愛着とあこがれは、
不意にめぐり
会ったクロを見て、やさしく
動悸を打っていた。
そこに動物と人との、なんのへだたりもなく、
「おまえを
蛾次郎にぬすまれてから、おいらはどんなに
諸国をさがし歩いていたろう。
波のあらい北の海、
吹雪のすさぶ
橡ノ
木峠、それから
盲目になってまで、京都の空へ向かっても、おいらは、クロよ、クロよと
呼んでいた。そのかいがあって、やっと、
天ヶ
丘で
蛾次郎とうばい合いをしたかと思うと、おまえはまた、ふたりを
琵琶湖へふりおとしたまま、どこかへ
姿を
消してしまった――さあ、それからも
竹生島にいるあいだ、おいらは、朝となく夜となく、どれほど空を気にしていたか知れやしない……だがよかったなア、いいところでめぐり
会ったなア。わかるかい、おぼえているかい? この
鞍馬の竹童の顔を……」
と、口にはださないが、
熱い
思慕をこめて、ジイッとみつめているうちに、思いもうけぬ
邂逅の
情が、ついには、
滂沱の
涙となって目にあふれてくる。
そして、なにげなく
愛撫の手が、クロの
襟毛へ
伸びようとすると、
「これッ」
鞭をかまえながら、
徳川万千代、
「わしの大事な
飼い
鳥へ、なんで手をふれるのじゃ」
「あ」
竹童はその声に、はじめてわれに
返ったように、万千代のすがたと、あたりに
群れているとんぼ
組の少年たちを見まわした。
そして、だまって、頭をさげた。
「なんだ、おまえはッ。どこの子だ」
「わたくしは」
「あやしい
小僧じゃ、
敵国の
間者であろう。おじいさまのお
城へつれて、役人の手へ
渡してくれる」
「アアもし、けっして、そんな者ではございません。わたくしは、たびたび
東海道へもきております、
伊吹村の
独楽まわしです」
「なに独楽まわしじゃ?」と、みんなどよめきだして、
「独楽まわしなら
廻してみろ! うそをついたら
承知せんぞ」
と、
腕まくりをして見せた。
「ハイ。独楽のご用ならおやすいこと、
商売ですから、お
望みにまかせてまわします。ですが、わたくしが
首尾よく
芸をごらんにいれましたら、そのご
褒美には、なにがいただけるでございましょう」
「
鳥目を投げてやる」
「いえ、お鳥目はいりません。そのかわりに、ひとつのお願いがございますから」
「では、
扇子がほしいか、きれいな
巾着がのぞみなのか」
「いえいえ、わたくしのお願いと申すのは、この
鷲に乗らしていただきたいのです。はい、上まであがりましたら、すぐにまた
降りてまいりますから」
「これへ乗るッて」
万千代は目をまるくして、
「そんなことができるのか」
「できますとも。伊吹の山にいたころは、毎日、鷲や
鷹をあい手にあそんでいたわたくしです」
たわいのないお
小姓とんぼは、
興にそそられて、一も二もなくかれのことばを
信じてしまった。そして
竹童にむかって、はやく
独楽をまわせ、独楽をまわしたら
鷲をかしてやる、とせがんだ。
「じゃ、まわしますから、ズッとそこを
開いてください」
かれはどこかの町で見かけた
旅芸人の
所作を思いうかべて、わざと、
興をそえながら、
杖でクルリと
円形の
線をえがいて、
「――そもそも独楽にもいろいろござります、古くは
狛江の
高句麗ゴマ、
島からわたった
貝独楽も、五
色にまわる
天竺独楽も、みんな
渡来でございます。そこで
日本独楽のはじまりは、
行成大納言、
小松つぶりに
村濃の糸をそえまして、
御所でまわしたのがヤンヤとはやりだしました
初め。さあそれからできましたこと、できましたこと、
竹筒の
半鐘独楽をはじめとしまして、
独楽鍛冶もたくさんできました。
陀羅ゴマ
銭ゴマ
真鍮ゴマ、ぶんぶん鳴るのが
神鳴りゴマ、おどけて
踊るが
道化ゴマ、
背のたかいは
但馬ゴマ、
名人独楽は
金造づくり、豆ゴマ、
賭ゴマ、
坊主ゴマ、
都ではやっておりまする。そこで手まえのあつかいますのは、
近江は
琵琶湖の
竹生島に、千年あまり
伝わりました、
希代ふしぎな
火焔独楽――はい、火焔独楽!」
と、ここに
竹童が、にわか
芸人の
口上をうつして、
弁にまかせてのべ立てると、
万千代はじめ、とんぼ
組、パチパチと手をたたいて
無性にうれしがってしまった。
だが、竹童は、
真剣である。
口に
道化ても
肚のそこでは、たえず、
伊那丸の
危急をあんじているのだ。
さきに、
都田川の
刑場へ、したくにいそいでいったあの
足軽のはなしが
事実ならば――
武田伊那丸と
忍剣と
龍太郎とが、むなしく
徳川家の手に
縛されて、あさっての夕ぐれ、
河原の刑場に
斬られるという、あの
高札が事実ならば――
じつに、武田一
党の
致命的な
危難は、
目睫にせまっているのだ。
竹童の
胸がなんで安かろうはずはない。かれは、一
刻もはやく、この大へんを、
小太郎山のとりでへしらせたいともだえている。どうしても、四、五日かかる道のりのある小太郎山へ、今夜のうちに、かけつけたいと
苦念している。
とうてい、人の力でおよばぬことをなさんがために、竹童は心にもない
大道芸人のまねをするのだ。見ているお
小姓とんぼはおもしろかろうが、ああ、かれには
涙の
芸であった。
「さあ、それから、それから――」
と、
輪になっている
前髪たちは、待ちきれないで、あとをせがんだ。
きわどいところで、竹童はたくみにおッとりして、
「さ、
火焔独楽の
曲まわし、いよいよかかりますがそのまえに、ちょっと、おうかがいしたいことがございます。どうか、話してくださいまし」
「なんじゃ?
独楽まわし」
「あの、近ごろ
浜松のご
城下で、
武田伊那丸という
方が
徳川さまの手でつかまったそうですが、それは、ほんとでございますか」
「
捕まったのはまことじゃ、
家来のやつふたりも一しょに」
「ああ、では……」
思わず、あおざめたかと思う顔を、むりに
微笑させて、
「やっぱり、うわさはまことでございましたか。それで、さだめし
家康さまもご安心でございましょう。けれど伊那丸や家来のふたりも、なかなか
智勇のある者とききましたが、どうしてそんなに、たやすく捕まってしまったのでしょう?」
「いいではないか、そんなこと。早くそれより独楽をまわして見せい」
「はい、いままわします。ですけれど、じつはこのさきの
都田川で、そんな
高札を見ました時に、
仲間の者と
賭をしたのでございます」
「じゃ、話してやるから、それがすんだら、すぐに
火焔独楽をまわすのじゃぞ」
「ええ、まわしますとも、まわしますとも」
「その武田伊那丸は、まえからほうぼうへ
手配をしていたが、なかなか捕まえることができなかった。するとこんど、
桑名のほうから、
和田呂宋兵衛という者が
密訴をしてきた。その者のことばで、伊那丸のとおる道がわかったから、
関所に兵を
伏せておいて、
苦もなくしばりあげたのじゃ。だから、あさっての
太刀取りは
呂宋兵衛が
役をおおせつかって、
都田川の
刑場で、その三人の首を
斬ることになっている」
「ああ、そうですか。いや、それでよくわかりました」
と、さり
気なく聞いていたものの、
竹童の
胸は
早鐘をついている。
「そして、この
大鷲は、どうしてまた、あなたがたのお手に入りましたか。浜松にも、めったにこんな大鷲は飛ばないでしょうに」
「この
鷲か。――これもその呂宋兵衛が、
桑名から浜松へくるとちゅうで
捕まえたのを、
菊池半助のところへ
土産に持ってきたのじゃ。それを
万千代さまが、おねだりして、こうしてとんぼ
組で
飼っているのじゃ。だから、めッたな者にはかさないが、おまえが
上手に
独楽をまわせば、万千代さまもかしてやろうとおっしゃる。サ、はやくまわしてみせい、はやく
火焔独楽の
曲まわしをやってみせい」
もうすっかり、竹童を旅の独楽まわしと思っているので
小姓たちは、
城内で聞きかじっていたことを、みんなベラベラしゃべってしまった。
事実だ。
伊那丸の
遭難はまことであった。ああ、大事はついにきた。
「ウウム、もうこうしてはおられない!」
と竹童の眼はわれ知らずかッと
燃えた。
その
真剣な
気ぶりに、万千代や小姓たちが、少しあとへさがったのをしおとして、かれはまた、ふたたび
芸にとりかかるような
身構えをキッと取り、
「では!
竹生島神伝の
魔独楽!」
と、こえ
高らかに
叫んで――
「――
小手しらべは
剣の
刃渡りッー」
片手に
独楽――まわすと見せて、一方の手に、
般若丸の
脇差を
抜きはなったかと思うと、
杉の根もとにつながれている、クロの
綱をさッと
斬った。
紫電のおどろきに、
鷲は地をうってユラリ――と、空に足をちぢめた。
ふたたび帰らぬ高き上に。
「あ、あ、あッー」
と、
不意をくったとんぼ
組の
小姓たちは、
旋風にまかれた
木の葉のように、
睥睨する
大鷲の
腹の下で、こけつ、まろびつ、
悲鳴をあげて、
「
逃がすな」
「いまの独楽まわしーッ」
「あッちへいった!」
「鷲も
逃げた!」
「それ」
「そらッ」
「
追ッかけろ!」と
走りだした。
見れば竹童もまッ先に
馳けてゆく。
竹童は
鷲を追い、
万千代は竹童を追い、
小姓とんぼは万千代のあとからあとから――
いつか
茜いろの
曠野は、海のような青い
黄昏とかわっていた。草をけって、
追いつ追われつする者たちには、十
方なにものの
障壁もない。
すると
不意に、
さきへ走った竹童が、するどい
気合いをあげて、なにやら、
虚空へ
棒のようなものを投げあげた。
クルクルと
螺旋に
舞って、それが、空の
藍へとけ
入ったかと思うと、高いところで、かッ、という音がひびいた。そして、前の
棒切れが
反落してくるのと一しょに、クロの
巨影もそれにつれて
真一
文字に地へ
降りてきた。
そしてやがて。
「
独楽まわしのにせ者め」
「鷲をかえせ、鷲をかえせ」
声をそろえて、そこへ
万千代たちのなだれてきたころには、すでに、地上に竹童のすがたもなく、
大鷲の
影もなかった。
ただ、あッ
気にとられていた眼へ、ふとうつったものはちょうどそのとき
野末をはなれた、大きな
宵月の光に、なにやら知れぬものの影が、草の上をフワフワとさまよった――それだけであった。
おお、お
小姓とんぼの
坊ッちゃんたち!
三方ヶ
原をあとにしながら下に月光の
山川を見、あたりに
銀鱗の雲を見ながら、
鞍馬の
竹童は
鷲の上から
叫ぶのである。
これはもともとおいらの
鷲だ。
おいらのものはおいらに
帰る。なんのふしぎもないはなしだ。
蛾次郎みたいに、ぬすんで
逃げるのとはわけがちがう。
独楽でだましたのは悪かったけれど、おとなしくクロを
渡してくれといっても、かせといってたのんでも、
浜松城の
腕白坊ッちゃん、けっして、すなおには
承知しないでしょう。だから、あんな
詐術をやりました。
それも
武田一
党のため。ああ、しかも
伊那丸さまの
危難を知った日に、この鷲が、ふたたびじぶんの手にかえるとは、天がこの
竹童をあわれんでか、
果心居士さまのお
護りであろうか。
なにしろ、おいらは、これからいそがなくってはならない身だ。久しぶりでこのクロを、じぶんひとりで、ほしいままにのってかけるのだが、いまは、その
翼の力さえなんだかおそい
心地がする。
クロよ、ひとはたきにとんでくれ。
小太郎山へ、小太郎山へ。
右少将徳川家康、いつになく、ほころんだ顔をしている。ごきげんがよいのである。
常に、かれが気にしている
秀吉が、近ごろメキメキとはぶりをよくして、一
挙に
桑名の
滝川を
陥し、軍をかえして
北国をつき、
猛将勝家の
本城、
北ノ
庄にせまって、
抜くべからざる勢力をきずき、
北陸の
豪族前田利家と
仲をよくしたという
間諜もあった。
で、はなはだ、かれの
気色がうるわしくない。
どこかで秀吉がつまずけかし、と
祈っているのに、その
反対なうわさばかりが飛んできて、ここしばらくの
間、かれの心を楽しませぬのであった。
しかし、きょうはいたって
和らかい
眉目である。
がんらい、家康という人、心のうちの
喜怒哀楽を色にださない
質である。いつも、むッつりと
武者ずわりをして、少し
猫背になりながら、
寡言多聞を心がけている。ひじょうに
狡猾で気むずかしく、
腹ぐろい
人相のようでもあり、ばかに
柔和であたたかい
相好のようにも見える。だから、その顔を
好くものは深くしたしみ、
忌みきらうものはまたひどくきらう。
めずらしく、
酒宴をのべていた。
多くの
近侍や
旗本をあいてに、ほがらかな
座談。それが
倦むと、つづみの名人
大倉六蔵に、
鼓をうたせて聞きとれる。
そこへ、おそく
酒宴にまねかれた、
菊池半助が
末席にすわった。
隠密のものは、
禄は高いが
士格としては
下輩なので、めったに、こういう席に
招じられることはない。
半助のすがたをチラリと見ると、
「
鼓をやめい」
と
盃を取って、
「かれへ」
と、
近侍へ取りつがせた。
破格な盃をいただいた半助へ、人々は
羨望の目を送った。そして、半助、なにかよほど
手柄をやったな、とささやいていた。
そういう様子をながめながら、
家康はまた、
近う、とかれをまぢかく
呼んで、
「
数日来のはたらき、まことに、
過分である」
と
賞めことばをあたえた。めったに、人を賞めない家康、これもあまりないことである。
「は」
とのみいって、半助は
平伏していた。
伊賀衆のなかでも、隠密の
上手とは聞いたが、なんという
光栄をもった男だろうと、人々の目は、いよいよかれと
主君とにそそがれていた。
「して、こんどのことに、
偉功を立てた、
和田呂宋兵衛は、いかがいたした」
「せっかく、ご
酒宴のお
招きをうけましたが、まだ身分の
定まらぬ
浪人境界で、出席はおそれおおいと
辞退しましたので、手まえの
屋敷にのこしてまいりました」
「そうか、
野武士でも、なかなか
作法を
心得ている。そちの
家に
食客しているあいだ、じゅうぶんにいたわってとらせろ。そのうちに、なにか、
適宜な
処置をとってつかわす」
「かれが聞きましたなら、さだめし、ご
恩に
感泣いたしましょう」
「ながらく
捕らえ
得なかった
武田伊那丸、またふたりの者まで、一
網に
召捕り得たのは、いつにかれの
訴えと、そちの
手柄じゃ」
「は、ご
過賞、身にあまるしだいでござります」
「当日、
都田川の
刑場で、伊那丸を
斬る
太刀とり
役、それも呂宋兵衛とそちとに申しつけてあるが、
用意万端、手ぬかりはあるまいな」
「じゅうぶん、ご
奉行とともに、お打ち合せをいたしますつもり」
「
矢来、
高札、送り
駕、また
警固の
人数など、そのほうは?」
「いちいち、
手配ずみでございます」
「またその日はうわさを聞きおよんで、あまたの
領民があつまるにちがいない。
甲賀組、
伊賀組の者、残りなく
狩りだして、あやしい者の
見張りに
放ちおくように」
「
変装組百人ばかり、もう今日のうちに、ご
領内へ
散らしておきました」
「ウム、ではもう
牢内の、武田伊那丸、
加賀見忍剣、
木隠龍太郎、その三人を都田川にひきだして首を
洗って
斬るばかりか」
「
御意。もはや、
裾野の雲は晴れました」
「
甲斐ざかいの
憂惧がされば、これで心を
安らかにして、
旗を
中原にこころざすことができるというもの。
家康にとって、伊那丸はおそろしい
癌であった。幼少ながら、かれの
行く
末は
浜松城の
呪いであった。それを
捕らえ
得たのは近ごろの
快事、いずれも
斬刑のすみしだいに、
恩賞におよぶであろうが、その日のくるまでは、かならず
油断せまいぞ。よいか、
半助」
さては、家康のごきげんなわけは、伊那丸が
捕らえられたことであるか。と一同はうなずいて、
徳川家のため、
暗雲の晴れた
心地がした。そして、城を
退ったものは、このうわさを
城下につたえて、その日のくるのを、
心待ちにしていた。そして、かつて
軍神の
信玄が、
甲山の兵をあげて、
梟雄家康へ、
乾坤一
擲の
血戦をいどんだ
三方ヶ
原。
そのいわれのある
古戦場で、その信玄の
孫が、わずかふたりの
従者とともに、
錆刀で首を落とされるとは、なんと、あわれにもまた
皮肉な
因縁よ!
と、気の
毒がるささやきもあれば、
心地よげに
嘲む
三河武士もある。
とにかく、春もくれかかる
東海道の
辻には、そのうわさが、なにかしら、人に
無情を思わせた。
すんだ
笛の
音が
流れてくる。
鬼一
管とか
天彦とかいう
名笛の
音のようだ。なんともいえない
諧調と
余韻がある。ことに、笛の音は、
霧のない
月明の夜ほど
音がとおるものだ。ちょうど今夜もそんな
晩――。
そこは、
白樺の林であった。
さらぬだに白い
斑のある
樺の木に、一本一本、あおじろい月光が横から
射している。
笛がとぎれた時の、シーンとした
静寂と
冷気とは、まるで深海の
底のようだ。けれど、
事実はおそろしい
高地なのだ。
小太郎山の
中腹、
陣馬ヶ
原の
高原つづき。
かの、
伊那丸の
留守をあずかる
帷幕の人々、
民部や
蔦之助や
小文治などが、
天嶮を
擁してたてこもるとりでの山。
笛は
喨々とうむことなく、樺の林をさまよっている。やがて、そこに人かげがうごいた。見ればひとりの美少女である。長くたれた
黒髪に、
蘭の花をさしていた。
その人かげのあとから、
幾年も
朽つんだ
落葉をふんで、ガサ、ガサと、歩いてくる者があった。
小具足をまとった
武士である。
七、八本の
槍が、月光をくだいてギラギラとした。
「だれだッ!」
呼びかけると、ひとりの手から、黄色い
閃光が三
角形に
放射された。
龕燈のあかりのなかに
浮きたった少女のすがたをみると、
「おお、
咲耶子さま――」
と、
目礼して、武士たちは、
樺の林をぬけてしまった。とりでを
見張る
番士たちである。
そのうしろ
姿を、咲耶子はたのもしい思いで見おくった。ああして、
寝ずに、夜なか、あかつきもこの
要害を見まわっている人々の忠実さに
感謝した。そして、まだこのとりでに
雪のあるころ、山をくだって京都へ向かった伊那丸の上にも、どうぞ、この山のように
無事があるように――と
祈った。
咲耶子は
裾野にいたころから、月の
夜に
笛をすさびながら歩くのが
好きであった。この
小太郎山にきてからは、ことに
白樺の林に、ほのかな
蘭の
香のながれる道を、しずかに歩むのが
好ましく、今夜も
陣馬の
搦手から、月にさそわれて、思わず
夜のふけるのを忘れてしまった。
「おお、ひえびえとしてきた。
二子山に見えた月が、もうあんなに遠い
谷間にある。……あまり
遅うなっては、さだめし、
民部さまや
小文治さまがおあんじなされているかもしれぬ……」
そう思いながら、それでもまだ、
帰る道をむなしく歩いていくことはおしそうに、
狛笛をとって、その
歌口を
湿しはじめる。
するとどこかで、びゅうッ――という風のような音がした。だが、
樺の
梢はゆれてもいなかった。
野呂川のひびきにしては一しゅんである。いや、それは天地をゆく音ではなく、高いところをかすめた
音響にちがいなかった。
「なにかしら? ――」
咲耶子はいそいで林をかけぬけた。
陣馬の
高原には、さまざまな植物の花が、
露をふくんで
黒々と
眠っていた。ここに立てば、
昼は東の
真正面に
富士の
銀影や
裾野の
樹海がひと目にながめられ、西には
信濃の山々、北には
甲斐の
盆地、
笛吹川のうねり、村、町、
城下の
地点までかぞえられる。
「耳のせいであったか、それとも、やはりただの風か? ……」
見まわした空には、なにものの
影も見あたらなかった。ただ、しずかに
黙している、月はある、星はある。
ふたたび、
狛笛の
音が高くすんだ。そして咲耶子が、われとわが吹く
音色にじぶんをすら忘れかけたころ、さらにすさまじい一
陣の
疾風が、月のふところをでて、
小太郎山の
真上をびゅうッ――と
旋回しはじめた。
「オオ!」
咲耶子は、
笛を
唇からはなして、高く高くうちふった。
「――
竹童ではないか! 鷲! 鷲! 竹童の鷲よ――」
おどり立つばかりに
叫んだが、すぐにまた、笛を持ちなおして、
息いッぱいに、空へ向かって高らかに吹く。
砦の
灯は、夜はまったく
隠されてあるので、このあたりの
重畳たる山の
起伏に、どれが目ざす
小太郎山か、
宙に
迷いめぐっていた
鞍馬の竹童も、やっと、その
音を聞きあてた。
こころみに鷲の上から、
下界へ向かって、声いっぱいに、
「咲耶子さまーッ」と
呼んでみる。
小手をかざしてみれば、いちめんの
高原植物、月光と
露に
繚乱たるなかに、ぽちりと、ひとりの少女のすがたが、ありありと立って見えた。
少女は笛で呼んでいる。
竹童もまた声をはって、
「咲耶子さまア。咲耶子さまアー」
巨大なる
波紋を
宇宙にえがきながら、だんだんに
陣馬の地上へくだってきた。
ただならぬ
怪影を見つけた
砦の
番士は、なにかとおどろいて、
変を
小幡民部につげた、その夜、
自然城の
山曲輪には、
巽小文治と
山県蔦之助も、虫の知らせか、しきりに
伊那丸の
安否や、
随従していった
忍剣と
龍太郎から、なんの
消息もないことなどをうわさし合っているところであった。
三方ヶ
原をとんで、夜の空をいそいだ
鞍馬の
竹童は、そうして、
小太郎山の
同志へ、伊那丸の
急変をもたらした。
かれは、かれの
使命をとげた。一
念を
達した。
けれど、
寝耳に水の変を聞いた、一
党のものの
驚きはどんなであったか。なかにも、
小幡民部はその
急報をうけるとともに、
「ううむ……」
と、深くうめいたまま、しばらく、いうべき言葉もなかったくらい。
山曲輪の一
廓、
評定場の
扉はかたくとざされた。
ひそやかに、そこへ
集まった人々は、むろん、
帷幕の者ばかりで、民部を中心に、
山県蔦之助、
巽小文治。そして、竹童はそのまえに
疲れたからだをすえ、咲耶子はうちしおれて、
紫蘭のかおる
黒髪を、あかい
獣蝋の
灯のそばにうつむけていた。
「竹童」
やがて、民部はおもおもしい
顔をあげて、
「そちがさぐってきた、
若君のご
異変、また
都田川の
刑場でおこなわれる
時日、かならずまちがいのないことであろうな」
「たしかに、そういないこととぞんじます。その
刑場をつくる
足軽のはなしや、またお
小姓のいったこともみなピッタリと、合っております」
「すると、
今宵もやがて夜明けに近いから、のこる日は
明日だけじゃ……」
さすが、
甲州流の
軍学家、
智謀のたけた
民部といえども、この
急迫な
処置には、ほとんど
困惑したらしく、
憂悶の色がそのおもてを
暗くしている。
「
若君のご
運命がそうなっては、もう、われわれもこの
砦をまもる
意義がない」
巽小文治は、
悲痛なこえでいった。
「そうだ!」と
蔦之助も
嘆声をあわせて、
「このうえは、
砦にのこる兵をあげて、
小勢ながら
裾野へくだり、
怨敵家康の
城地へ、さいごの一戦を」
みなまでいわせず、民部は首をよこにふった。
「そのとむらい
合戦なら、すこしも、いそぐことはありますまい。いつでもできることじゃ」
「といって、むなしく、手をつかねておられましょうか」
「むろん、どうにか
工夫をせねばならぬ。しかし、人数をくりだして、とおく
浜松へ
着くころには、若君のお
命が、すでにないものと思わねばならぬ」
「おお、それもごもっとも」
と、
蔦之助はまた
悶々とだまって、いまはただ、この民部の
頭脳に、神のような
明智がひらめけかし、とジッと
祈るよりほかはなかった。
「ともあれ、
若君のご一
命や忍剣や
龍太郎を、いかにせば
救いうるか、それが
目睫の大問題であると思う。いたずらに最後の決戦をいそいで、千や二千の
小勢をもって、
東海道を
攻めのぼったとて、とちゅうの
出城や
関所でむなしく
討死するのほかはない。それでは、きょうまでの
臥薪甞胆、
伊那丸君のおこころざし、すべては
水泡となり、また
世の笑われぐさにすぎぬものとなる」
やはり民部の
説は
常識であった。
あくまで伊那丸を中心とする一
党が、その
盟主をうしなって、なんの最後の一戦がはなばなしかろう。どうしても、いかなる
手段をもって、石に
噛みついても! 伊那丸をたすけなければ
意義がない!
武士道がない。
はなやかならぬ、また
勇にのみはやれぬ、
軍師のつらい
立場はそこにあるのだ。
「ああ
策は一つしかない」やがて、かれは
決然といった。
「
蔦之助どの、
小文治どの、すぐに、
旅のおしたくを!」
「や、われわれのみで? その
他の
味方は?」
「むしろ
秘密に――」
と、民部は
席をたって、
太刀をはき、身ごしらえにかかった。
熟考の長さにひきかえて、
意を
決するとすぐであった。蔦之助と小文治も、
膝行袴の
紐をしめ、
脇差をさし、
手馴れの
弓と、
朱柄の
槍をそばへ取りよせた。
「
民部さま……」
咲耶子と
竹童は、じぶんたちに
指図のないのを、やや
不満に思って、おなじように身じたくをしようとしながら、
「わたしも」
「わたくしも」
一しょに立つと、民部はそれを
制して、
「ふたりは、どうかとりでのるすを
護っていてくれい。なお、われわれがおらぬ
間も、われわれがいるように見せかけて、こよい、三人が
小太郎山をぬけだしたことは、かならず、
敵にも
味方にも
秘密にしておくように」
そういって、
評定場の
床を上げた。
まっくらな
空洞が口をあけた。
峡谷の一方へひくくくだっていく
間道である。
「では」と、そこへ足を
入れながら、民部はもういちど咲耶子と竹童をふりかえった。
「いまのたのみ、くれぐれも
心得てくれよ、なにごとも
若君のおためじゃ」
いなむこともならず、ふたりはさびしい目で見おくった。
小文治と
蔦之助は、目と目で別れをつげながら、民部につづいて、もくもくと間道の下へすがたを
入れる。
ドーンと、下から入口をふさいでしまわれると、
山曲輪の一
室にはもう、竹童と咲耶子、たッたふたりきりになってしまった。
それから
二刻か、
一刻ばかりの
後――。
味方の目をしのんで、一
散に、ふもとへ走っていった
小幡民部とほかふたりは、やがて、夜のしらしら明けに、
麓の
馬舎から三
頭の
駿馬をよりだして、ヒラリと、それへまたがった。
あいたいと、たなびく雲の
高御座に、
富士のすがたがゆうぜんとあおがれる。民部は、
鞭をさして、
「ご
両所!」と
呼んだ。
「竹童のしらせによると、若君が
刑場へひかれるのは、
明日の夕方ということじゃ。きょう一日で、
裾野から
東海道のなかばまではかどれば、その
時刻にようよう
間に合おうかと思う。いや、たとえ、
駒とともに
血を
吐くまでも、それまでに
三方ヶ
原へかけつけねばならぬ」
「おお、もとよりそれぐらいなこと、この
場合になんのことでもござりませぬ。して、その時には?」
「なんの
手段をめぐらす時間もない。ただ、
群集のなかにまぎれて、せつなに、
矢来のなかへ
斬りこみ、
若君をはじめふたりの
盟友を
救いだすばかり」
「
心得ました」
小文治は
腕をうならせて、
朱柄の
槍をからぶりさせた。
さっさつたる朝の風が、
駒のたてがみをこころよく
吹き
散らす。
ひゅうッ、と
一鞭あてると、三
騎はそのまま
馬首をそろえて、東へひがしへ
疾走していった。
やがて、やがて、
渺茫とした
裾野と、はてなき
碧落が目の前にめぐりまわってくる。
海のようだ。五月の
裾野、五月の大気。
目のとどくかぎり、十
何里、ただ一
色の青ずすきが、うねうねと風のままに波に
似たる、波を立てている。
そのなかを、いとも小さな三
騎がはしっていく。
風にかくれ、風に見え、風をついて疾走する。
ああまだ
東海道へはへだてがある。なお
浜松や
三方ヶ
原には
間がある。
覚悟のとおり、あの三騎は、とちゅうで
血を
吐いてしまいはせぬだろうか。
かかる
場合は、千
里をとぶ
逸足ももどかしく、一日の
陽脚もまたたくひまである。すでにその日は、
天龍川のほとりに
暮れた三騎のひとびと、はたして、
翌日の午後までに、
刑場の
矢来ぎわまで、
馳けつけることができるのであろうか?
ついに、その日、その
時刻はきた。
都田川の
右岸には、
青竹をくんだ
矢来の先が、
針の山のように見えている。そのまわりに、うわさを聞きつたえて
集まった群集が、ヒシヒシと
押していた。
夕ぐれの風が、
矢来の竹にカラカラとものさびしい音を鳴らすほか、むらがった
大衆も、シーンとして、水のようにひそまっていた。
さっき、
浜松の
城下から、
三方ヶ
原をとおっていった
裸馬には、まだおさない
公達と、
僧形の者と六
部のすがたがくくりつけられて、この
刑場へ運ばれてきたから、もうほどなく、
首斬りの役人が、
太刀に水をそそぐであろうと、
予想するだけでも、みんなの
息がつまってくる。
と――
丁字形に
幕をはった矢来のすみの
溜り場から、くろい服をまとった男が、のっそりと刑場のまン中にでてきて、ジロジロと矢来の
周囲を見たり、天をあおいでなにかつぶやいているようす。
「おや、
伴天連がきています」と、みんな、耳や口をよせあっていた。
すると、ややおくれて、矢来の
死門から三人の
縄つきがひかれてきた。
菊池半助がその
縄取りのうしろから、おごそかに口をむすんでくる。
「ごくろうでした」
「そこもとにも」
と、伴天連と半助は、こう
会釈をして、すぐに
刑吏へさしずして、
死座をつくらせ、
血だまりの
穴をほらせ、
水柄杓をはこばせる。
あなたには
奉行、
検視の役人などが、
床几をすえて、いそがしくはたらく
下人たちのようすをながめ、ときどき、なにか
下役へ注意をあたえている。
かけやを持ったひとりの男は、やがて、三ツの死のむしろのそばへ、三本の
杭をコーン、コーンと打ちこんだ。
「それッ」と、
菊池半助が、
時刻をはかって目くばせする。
「
武田伊那丸ッ、立て!」
まっ先の杭へ、あらあらしく引きずってきて、ギリギリ
巻きにいましめの
端をからめつけた。
むしろの上にすえられた
姿は、
悄然と、うつ向いていた。さすがな
家康も、その
身分を思ってか、
衣服は
着けたままの
白綸子、あきらかに、
武田菱の
紋がみえて、
前髪だちのすがたとともに、心なき
群集の眼にも、あわれに、いたいたしい
涙をもよおさせる。
さらに、ひどかったのは、つぎの、
法師すがたのものと、
白衣の人をあつかった
刑吏の
待遇である。打つ、
蹴る、あげくの
果てに、伊那丸と同じように引きすえて、何か、口あらくののしりちらした。そのふたりも、ついにはこらえかねて、刑吏にするどい言葉を
返していた。
だが、目は
布をもってふさがれ、
両手は杭にしばりつけられている二人の
怒声は、むざんな役人たちの心に、ありふれた、
世迷い
言としかひびかなかった。なお、
矢来のそとの群集には、そのありさまを見るだけで、ことばの
意味は聞きとれない。
「
罪人どもの泣きほえるのを、いちいち取りあげていては
果てしがない。それッ、
時刻の
過ぎぬうちに
支度をせい」
こう、
奉行役人が、大きな声でどなったのは、だれの耳にもわかった。
「
太刀取りのお
方――」
と、目くばせすると、それまで、
小気味よげに三人をにらんでいた
伴天連風の
怪人は、
「
半助どのに、
代理をお願いいたしたい。この呂宋兵衛は、さきごろ
桑名で少し
右腕をいためておりますので……」
と、
辞退した。
その
妖異なすがたをした者こそ、
伊那丸の
通過を
密告して、またうまうまと
徳川家のふところに
食い
入ろうとして、
猫をかぶっている
和田呂宋兵衛である。
呂宋兵衛の辞退をきくと、半助は、だれも
刑場へでると、一
種の
鬼気におそわれる、その
臆病風に
見舞われたなと、
苦笑するさまで、
「さようか。では、
不肖ですが、半助
代刀をつかまつります」
と、奉行にもいって、
刑吏の手から、
無作りの大刀をうけとり、すぐに、
鞘をはらった。
小柄杓の水を、サラサラと
刃にながして、その
雫のしたたる
切ッさきを、まず、右の
端にいた者の目の前につきつけて、
「
忍剣ッ!」
と、声をかけた。
白布で、目をふさがれている
法師すがたは、その時、顔をあげ、
肩をゆすぶッて、なにやら、
無念そうに
叫ぼうとしたが、
「
徳川家に
仇なすやつ、やがて、あとからいく
伊那丸の
先駆けをしろッ」
という、半助のののしりに
消され、それと同時に、
戛然と
剣がひらめいた。
バサッ――と
血しぶきが立った。
とたんに、
俯ッ
伏せとなった
死骸の
斬り口から、百千の
蚯蚓が走りだすように血がながれた。
矢来のそとに
息をのんでいた
群集も、さすがに、目をそむけて、手につめたい
汗をにぎりしめた。
「
木隠龍太郎ッ――」
つづいて、こう
叫ぶ声がしたので、こわいもの見たさの眼をソッと向けてみると、
袴の
裾に、
返り血をつけた
半助のすがたが、すさまじく
斬れた大刀へ、ふたたび
手桶の水をそそぎ
直して、つぎの者へズカリと
寄っていったかと思うと、
「龍太郎ッ!
覚悟は? ――」と、
光流をふりかぶった。
「
覚悟? そんなものはないッ」
と、どなることばもおわらぬまに、風をきる
刃がはすかいに
下りて、
白衣の全身がまッ
赤になった。
あとは伊那丸ひとりだ。
菊池半助はゆうゆうとして、三人目の
成敗にかかろうとしている。
点々たる
返り血は、
夜叉のように、かれの
腕や
袖をいろどった。
哀寂な夕雲は、
矢来の上におもくたれて、一しゅん、そこを吹く風もハタと
止んだ。
ああ、ついに
間に合わなかった。
小幡民部。
山県蔦之助。
巽小文治。
かれらはなにをしているのか!
いそぎにいそいで、
小太郎山から
疾駆してくるとちゅうで、馬もろとも、血を
吐いてぶったおれたのか。あるいは、もう、そのへんまで――
三方ヶ
原の北のへんまでは、きているのか!
それにしても、ああ、もう大事は
過ぎてしまった。
一
党になくてはならない
盟友、
加賀見忍剣はたおれている。
木隠龍太郎も血の中に
俯ッ
伏してしまっている。
と――思うまに菊池半助の
無情な
刃は、
颯然と、
伊那丸の
襟もとへおちた。
目をおおうべし。
菊池半助が気をこめた
刑刀は、一
閃、ひゅッと
虹光をえがいて、
伊那丸のすがたを血けむりにさせた。
「アーアー」
群集はただ、こう口からもらしただけであった。
正視するにしのびないで、なかには、
矢来につかまったまま
蒼ざめた者すらある。
八
双截鉄の
落剣!
異様なる血の音を立って、
武田伊那丸の首はバスッとまえにおちた。
胴はそのとたんに
死座から前向きにガクッとつっぷしてしまう。あの
小袖につけた
武田菱の
紋も、
朱に
染まって、もうビクリともしなかった。
完全な死だ、完全な
断刀だ!
家康もまた
選りによって
斬れる刀を、
刑吏へ
授けたものとみえる。
忍剣を斬り、龍太郎の首をうち、いままた伊那丸を
刑した半助は、さすがに斬りつかれがしたとみえて、
滴々と、
血流しから赤い
雫のたるる
刃をさげて、ぽうッとしばらく立っていた。そのあたりの草いッぱい、
曼珠沙華という
地獄花が
咲いたように、三ツの
死骸の
返り
血が
斑々とあかく
燃えている。
斬刑がすんで、
浜松城からきている
奉行や
検死役人などは、みな
床几を立ちはじめた。
入りみだれて立ちはたらく
下人たちの
間に、血なまぐさい
陰風が
吹く。
ひとつ
星、ふたつ星。……空は
凄愴な
暮色をもってきた。だが、
矢来のそとの
群集は
容易にそこをさろうとしない。
「ああ、いやな気持になった! はじめのうちはおもしろかったが、なんだかいまになって
毛穴がゾーッとしてきやがった。へんなもんだなあ、人の
斬られるッていうものは」
矢来にたかっている
数多の中で、こういった、ひとりの
見物人がある。
「
親方! 親方はなんともないような顔をしていますね」
つれの男は太い口をむすんで、
黙然と、
刑場のなかを見つめていた。
革胴服にもんぺを
穿き、
脇差をさした
工匠風、だれかと思うと、
秀吉の
追捕をのがれて、
竹生島から落ちてきた
上部八風斎、いまではもとにかえって
鏃鍛冶の
鼻かけ卜斎。
しゃべっているのは
蛾次郎だった。
「だけれど、考えてみると、
伊那丸もかわいそうだな。ちょっと、
旗上げのまねをしたばかりで、もう首を
斬られちまった。
忍剣も
龍太郎もとうとう
冥土のお
相伴。アアいやだいやだ死ぬなんて。ねえ親方、こういうところを見ると、やっぱり
富士の
裾野あたりで、テンカンテンカンと
鏃をたたいているのが一ばん
安泰ですね」
卜斎はそばのおしゃべりへ、耳もかさずに
腕組みをしていた。
だが蛾次郎は、卜斎が
返辞をするとしないとにかかわらず、ひとり
所感をのべている。
「これで、木から落ちた
猿みたいに、ベソをかくのは
竹童だろう。この
見物のなかにあいつがいたら、いまの
景色をどんな顔して見ているだろうな……オヤ、もうおしまいかしら、役人がみんな
幕のかげへはいってしまった――つまらねえな。ア!
非人がきたぞ非人が、三ツの
死骸をかたづけるんだな。やあいけねえ、
伊那丸の首を
河原の
方へ持っていってしまやがった。ホウ、あんなところの
台へ首をのせてどうするんだろう、
龍太郎の首も、
忍剣の首も――アア、
獄門というのはあれかしら? 親方親方、あれですか、獄門にかけるッていうことは?」
指差しをして
卜斎の顔を見あげたが、その卜斎は、
蛾次郎とは、まるで
見当ちがいなほうに目をすえているのであった。
さっきから、なにを見ているんだい親方は?
と――蛾次郎も卜斎の
視線にならってその
方角へ目をやってみると、
竹矢来の一
角、そこはいまあらかたの
弥次馬が
獄門台と
掲示の
高札を見になだれさったあとで、ほのあかるい
夕闇に、
点々と、かぞえるほどの人しか
残っていなかった。
卜斎は
最前から、そこばかりをじっとにらんでいた。横目づかいの
白眼で――
蛾次郎の注意もはじめて同じ
焦点へ向いた。
とたんに、
かれ蛾次郎の目の
玉が、デングリかえるようにグルグルとうごいた。そしてその
睫毛がせわしなくパチパチと
目ばたきをし、
眉に八の
字をこしらえた。なにか
叫ぼうとした
唇が
上下にゆがんだが、いう言葉さえ知らぬように、
鼻の
穴をひろげたまま、アングリと口をあいて
茫然自失のていたらく……。
あたかも
磁力にすいつけられてしまったよう。そも、泣き虫の
蛾次郎および
親方の
卜斎までが、なにを見てそんなにぼうぜんとしているのかと思えば――それも
道理、ふしぎ! イヤふしぎなどという
生やさしい
形容をこえた、あるべからざる
事実が、そこに、
顕然とあったのである。
見れば
北側の
矢来そと、人かげまばらなあとにのこって、なにかヒソヒソとささやき合ってる
旅人がある。よくよく
凝視するとおどろいたことには、それが、たったいま、
刑場のなかで首をおとされたはずの
忍剣、
龍太郎、
伊那丸の
主従三人。
あやしいといってもこれほど
怪異なことはない。
菊池半助が、
大衆環視のなかでたしかに
斬った三人――しかもその
血汐は、なおまざまざと
刑場の草をそめており、その首は
都田川の
獄門台にのせられているのに!
その人間がここにいる。
話している。
笑っている。
ときどき、じぶんの首がのせられた獄門台のほうを見ている。
そして
微笑する。
くすぐったいように――
不審なように――ささやき、うなずき合っている。
卜斎が眼をはなさなかったのもあたりまえ。
蛾次郎が
鼻から
息を
吸ったままぼうとあッけにとられてしまったのももっともだ。
人ちがいじゃないか?
とも思って、眼をこすって見なおしたが、やはり
記憶はいつわらない。どう見てもあの三人、
菊池半助にバサと
斬られた三ツの首の
主にまぎれはない。
すなわち
武田伊那丸は、
眉目をあさく
藺笠にかくし、
浮織琥珀の
膝行袴に、肩からななめへ
武者結びの
包みをかけ、
木隠龍太郎は
白衣白鞘のいつもの
風姿、また
加賀見忍剣もありのままな
雲水すがた、手には
例の
禅杖をつっ立てている。
「ウーム……
親方……」
蛾次郎はうなるように卜斎を見あげた。
「……はアて……」と卜斎もまたしきりに首をひねっていたが、
「どうもわからぬことがあるものだ。
弥次馬にはなにもわかるまいが、わかる者から見ていると、世の中の
裏表は、じつに
奇妙だ。いや裏が表だか、表が裏だか、こう見ているとおれにさえわからなくなってくる」
「まったくです!」と蛾次郎も
相槌をうって、
「
斬られた首が
本ものの伊那丸か、見ている首が本ものか、なにがなんだか、さっぱりワケがわからなくなっちまった」
「そりゃもちろん、あっちのやつがにせ者だろう」
「テ、どっちがです?」
「
矢来のそとに立っているやつらよ」
「すると、生きてるほうの
伊那丸ですか」
「ウム、
方々の
落武者や
浪人で、
飯の
食えない
侍などは、よく名のある者のすがたと
偽名をつかって、
無智な
在所の者をたぶらかして歩く
手輩がずいぶんある。おおかたそんな者たちだろう」
「だって
親方、それにしちゃ、あんまり
似過ぎているじゃありませんか。ちょっとそばへいって、わたしが
目利きをつけてきましょう」
「これッ、よけいなとこへ
突っ走るな」
「へい!」
「ばかめ、すぐに
調子に乗りおって!」
「でも……」
と
蛾次郎は
河豚のようにプーッとふくれた。――なにもそう頭からこんなことをガンと
叱らなくッたってよかりそうなもんだと。
と思ったが、
卜斎に
袖をひっぱられたので、気がついた。うしろに、いやな目つきをした
町人が立っている。
うさん
臭い目つきをして、じぶんたちの
挙動に
注意しているらしい。
蛾次郎は口をむすんで、あわてて
夕星へ顔をそらしながら、
「
親方、そろそろ
晩になりましたネ」
と
空とぼけた。
「もどろうかな、ご
城下へ」
「帰りましょうよ。はやく、宿屋のご
飯が
食べたい」
空の星がふえるのと
反比例に、地上の
人影はぼつぼつへっていた。ふたりは
矢来のきわをはなれながら、それとなく気をつけたが、いつのまにか
疑問の三名は
忽然とかげを
消して、あたりのどこにも見えなかった。まるでたったいま、ありありと見えたあの
姿が、まぼろしか? 人間の
蜃気楼でもあったかのように。
妖麗な
夜霞をふいて、
三方ヶ
原の
野末から
卵黄色な
夕月がのっとあがった。
都田川のながれは
刻々に水の色を
研ぎかえてくる、――
藍、黒、金、
銀波。
そして
河原はシーンとしてしまった。秋のようだ。虫でも
啼きそうだ。
獄門台の
釘に
刺された三ツの首は、その月光に向かっても、
睫毛をふかくふさいでいた。
そばには
生々しい
新木の
高札が立ってある。
いつぞやこの原の
細道で、
足軽がになっていくのを
竹童がチラと見かけた、あの
高札が打ってあるのだ。――といつの
間にか、その
立札と
獄門の前へ、三ツの
人影が近づいている。
「わしの
首級がさらしてある」
こういったのは、
伊那丸の首のまえに立った伊那丸である。
「これが
拙者の首でございますな」と
龍太郎も、おのれの首をながめて
笑った。
「じぶんの首と
対面して話をすることはおもしろい。これ
忍剣の首! よくそちの
面体をわしに見せろ」
加賀見忍剣は
禅杖を持ちかえ、いきなり、
獄門台の首のもとどりをつかんで月光に高くさし上げ、
「は、は、は、は。
運のわるい弱虫の忍剣め、つぎの世には
拙僧のような
不死身を持って生まれかわってこい。
喝!
南無阿弥陀仏ッ――」
ドボーンと
都田川の
流れへ首をほうりこんだ。
その水音があがったとたん。
獄門番の
寝る
むしろ小屋から、
銀の
鞭をたずさえた
黒衣の
伴天連、
豹のごとくおどりだして、
「
計略ッ、
図にあたった!」と
絶叫した。
だれかと思えば、それこそ、
和田呂宋兵衛なのであった。
「ウウむ、
網にかかった!」
と、呂宋兵衛の
叫びにこたえてどなったのは、
隠密頭の
菊池半助、いつのまにか、三人の
背後に
姿をあらわして、
「しめた!
伊那丸主従のやつら、そこを
去らすな」
と四方へ
叱咤する。
同時に、ピピピピピ……と二人が
音をあわせて
吹いた
高呼笛につれて、
河原のかげや草むらの中から
蝗のように、わらわらとおどり立った百人の
町人。これ、その日
見物のなかにまぎれこませておいた菊池半助
配下の
伊賀衆、
小具足十手の
腕ぞろい、
変装百人
組の者たちであった。
さらに見れば、川向こうから
三方ヶ
原のおちこちには、いつか、
秋霜のごとき
槍と刀と
人影をもって、完全な
人縄を
張り、
遠巻きに二
重のにげ道をふさいでいる。
そのおなじ日の落ちゆく
陽脚をいそいで、まだ
逆川に
夕照りのあかあかと
反映していたころ、
小夜の
中山、
日坂の
急をさか落としに、
松並木のつづく
掛川から
袋井の
宿へと、あたかも
鉄球がとぶように、
砂塵をついて
疾走していく
悍馬があった。
くろく
点々と、その
数三
頭。
いうまでもなく
小太郎山から、
伊那丸の
急変に
鞭をはげましてきた
小幡民部、
山県蔦之助、
巽小文治の三
勇士である。
天龍の
瀬を乗っきって、
遮二
無二
笠井の
里へあがったのも
夢心地、ふと気がつくと、その時はもう
西遠江の
連峰の背に、ゆうよのない
陽がふかく
沈んで、
刻一刻、一
跳一
足ごとに、
馬前の
暮色は
濃くなっていた。
「
暮れたぞ! 暮れたぞ!」
蔦之助は
鞭も折れろとばかり、ぴゅうッと
馬背を打ってさけんだ。馬もはやいがより
以上に、こころは
三方ヶ
原にいっている。
「
刑場はもう近い!
落胆するな、気をくじくな!」
と、
民部はいよいよ
手綱に
勢をつけて、そればかりはげましてきた。
しかし、ああしかし、その三方ヶ原の
北端をのぞんだ時には、もう
夕刻とはいいがたい、すでに夜である。草と
平にうっすらとした月光さえ流れてきた。
すると原の道をちりぢりにくる人かげが見えだした。みな
浜松の
城下へかえっていく
見物人である。それを見ると
巽小文治は、
「ウウム、ざんねんッ――
間に合わなかった! もはや
刑場のことがすんだとみえて、みなあの通りにもどってくる」
と、
歯がみをして、われとわが
膝を、かかえている
槍の
柄でなぐりつけた。
民部のようすもさすがに
平色ではなかった。それを見ても、なお気をくじくなとははげましきれなかった。かれは、道々すれちがった
町人に、
都田川のもようをたずねたがそれは、みな
伊那丸以下のものが、
菊池半助の
斬刀に
命をたたれて、その
首級も
河原の
獄門にさらしものとなった、という
答えに一
致していた。
絶望! 三人は馬から落ちるように草原へおりて、よろよろと
腰をついてしまった。
民部はものをいわなかった。小文治も
黙然とふかい
息をつくのみだった。蔦之助もまた
暗然と言葉をわすれて、
無情な
星のまたたきに
涙ぐむばかり……
「ぜひがない! おれは
一足さきにごめんこうむる!」
小文治はいきなり
脇差をぬいて自分の
腹へつき立てようとした。と一しょに
蔦之助も、
「おお、この
期になってなんの生き
甲斐があろう。小文治、
拙者もともに
若君のお
供をするぞッ」
と、同じく
自害の
刃を取りかける。
「これッ――」と、民部は
叱りつけるような
語気で、
左右にふたりの
腕くびをつかみながら、
「なにをするのかッ!」
「おたずねはむしろ
意外にぞんじます」
「死のうという考えならしばらくお待ちなさい」
「すでに
伊那丸君がごさいごとわかった
以上は、いさぎよくお
供をして、
臣下の
本分をまっとういたしとうござります」
「ご
心情はさもあること。しかしまだそのまえに、
臣としての役目がいくらものこされてある。
都田川にかけられた
御首級をうばって、
浄地へおかくし申すこと。また
刑刀をとった
菊池半助を
討って、いささか
龍太郎や
忍剣の
霊をなぐさめることも友情の一ツ。さらに、しばらくこらえて
小太郎山の
味方をすぐり、
怨敵家康に一
矢をむくいたのちに死ぬとも、けっして
若君のお
供におくれはいたしますまい」
民部のかんがえ
方は、どういう
絶望の
壁に
打つかっても、けっして
狂うことがなかった。
情熱の一方に走りがちな
蔦之助や
小文治は、それに、
反省されはげまされて、ふたたび馬の
背にとび乗った。
そしてふと。
夜色をこめた草原のはてを
鞍上から見ると――はるかに
白々とみえる
都田川のほとり、そこに、なんであろうか、一
脈の
殺気、形なくうごく
陣気が民部に感じられた。
「はてな? ……」
眸をこらしてみつめていると、ときおり、
面をなでてくる
微風にまじってかすかな
叫喚……
矢唸り……
呼子笛……
激闘の
剣声。
「
計策は
図にあたったぞ!」
と
呂宋兵衛がさけび、しめたと
菊池半助がいったところからみると、きょう
都田川でおこなわれた
刑罪は、
家康が呂宋兵衛と半助にふかくたくらませてやった、一つの
計りごとであったことはうたがいもない。
すなわち家康は、さきに
伊那丸の
主従が、
桑名からこの
浜松へはいってくるという呂宋兵衛の
密告はきいたが、
容易にそのすがたを
見出すことができないので、
奉行所の
牢内にいる
罪人のうちから、同じ年ごろの
僧侶と少年と六
部とをよりだし、
服装までそれらしく
似かよわせて、わざとことごとしく
斬らせたのだ。
つまり、
虚をつたえて
実をさそう、ひとつの
陥穽を作らせたのだ。そしてかならず、その日の
見物のうちには、まことの
伊那丸や
龍太郎が
入りまじってくるにちがいないといった。で、
群集のなかには、百人の
伊賀衆を
変装させてまきちらし、
片っぱしからその顔を
改めていたのである。
はたして、伊那丸の
主従は、
捕らえられもせぬじぶんたちが、きょう
刑場で
斬られるといううわさを聞いて、
奇異な感じに
誘惑された。
にせ首を斬らせて、まことの首を
得ようと
計ったもくろみは、かれらにとって
筋書どおりにいったのである。
もとより龍太郎も忍剣も、この
奇怪な
事実が、
意味もないものだとは思わなかったが、そうまでの落とし
穴とは気がつかなかった。
「あッ!」
と
獄門台のそばをはなれたときには、すでに、
敵影八
面に
満ちている。
呂宋兵衛は、今夜こそ伊那丸をとらえて、家康にひとつの
功を立てようものと、
銀鞭をふるってじぶんたちの一
味、
丹羽昌仙や
早足の
燕作や、二、三十人あまりの
野武士たちを、
獣使いのようにケシかけた。
菊池半助はその
側面にかかって、
部下の
変装組に、
激励の声をからした。
軽捷むひな
伊賀者ばかりが、百人も
小具足術の十
手をとって、雨か、小石かのように、入れかわり立ち
代り、三人の手足にまといついてくるには、
野武士の大刀などよりも、むしろ防ぎなやむものだった。
龍太郎の
戒刀は、四
角八
面に
斬って斬って、
柄まで
血汐になっていた。
一
揮風をよび、一
打颯血を立てるものは、
加賀見忍剣の
禅杖でなくてはならない。さきに
身代りの自分の首に
引導を
渡して、
都田川へ
水葬礼をおこなった
快侠僧、なんとその
猛闘ぶりの
男々しさよ!
生命力の
絶倫なことよ!
見るまに、かれと龍太郎の
犠牲となる者のかずが知れなかった。そのふたりにまもられながら
伊那丸も
小太刀をぬいて
幾人か
斬った。だが、かれは
敵をかけまわして
浴びせかけることはしない。身を守って、よりつく者を斬りたおすばかりであった。
それは、平時に
民部の教えるところであった。民部は伊那丸を
勇士猛夫の
部類には育てたくなかった。
器の大きな、
徳のゆたかな、
品位と
天禀のまろく
融合した
名将にみがきあげたいと
念じている。
伊那丸はそうして最後を見ていた。
しずかに、
覚悟の
機会を待っていた。
いくら、
追っても斬りふせても、
三方ヶ
原からわいてでる敵の人数は、少しもへっていくとは見えない。
そして、都田川を
背水にしいて、やや、
半刻あまりの苦戦をつづけていると、フイに、思いがけぬ
方角から、ワーッという
乱声があがった。
「それッ、
獄門の
御首級をうばえ」
「うぬ、
伊那丸さまのかたきの
片われ!」
と、
馬首をあげておどってきた
影!
黒々とそこに見えた。
そのまッ先に乗りつけてきたのは、
朱柄の
槍をもった
巽小文治である。
「
退けどけどけ、
邪魔するやつはこの
槍を
呑ますぞ」
とばかり、まっしぐらに獄門台の前まできたが、
「やッ、み首級がない!」
「なに、み首級がないと? さては
逃げたやつらが
素早くどこかへかくしたのだろう。それ、向こうの
河原に
馳けたやつを引きとらえてみろ!」
蔦之助は馬上からそこの
高札を引きぬいてふりかざし、どっと、十四、五
間ほどかけだしたが、あッ――と思うまに蔦之助、くぼの草かげから
閃めいた
銀鞭にはらわれて、馬もろとも、ドーンともんどり打ってたおれてしまった。
「やッ、どうした?」
と、小文治が乗りつけてみると、ひとりの
怪人、蔦之助を
組みふせて
鋭利な短刀をその
胸板へ
突きとおそうとしている。
「おのれ!」
くりだした槍。
黒衣の
影は、そのケラ首をつかんでふりかえった。
「あッ、
呂宋兵衛」
とおどろいたせつなに、
小文治の馬も
屏風だおれにぶったおれた。
朱柄の
槍先をつかんでいた呂宋兵衛も、それにつれてからだを
浮かした。
「
得たり!」
とはね起きた
蔦之助、持ったる
高札で黒衣の
影に一
撃をくらわせた。すごい声をあげたのは呂宋兵衛、したたかに
肩を打たれたのだ。そして
疾風のごとく
逃げだした。
追おうとすると
横合から、小文治の
馬腹をついた
菊池半助が、槍をしごいてさまたげた。
「よし、ひきうけた」
と朱柄の槍がからみあう。
黒樫の槍と朱柄の槍、せんせんと光を合わしてたたかっている。
それは小文治にまかせて、蔦之助は逃げる呂宋兵衛を追っていく、へんぺんと風をくぐって同じ色の
闇にまぎれていく黒衣のはやさ、たちまち見うしなって
河原へくだると、
不意に、引っさげていた
高札が、
屋根板のようにくだけて手から飛んだ。
「
何奴?」と大刀をぬく。
相手に眼をつけるまもあらばこそ、ぶーんッとうなってくる
鉄の
禅杖。
発矢、
火花!
「待てッ!」と、うしろで
伊那丸がさけんだ。
「
蔦之助ではないか!
忍剣、待て!」
「オオ
加賀見――ヤヤ、そちらにおいで
遊ばすのは
若君? ……」
とあっけにとられて立ちすくんでいると、そこへ
奇遇におどろきながら、
小幡民部と
龍太郎がうちつれて
馳けつけてくる。
小文治も相手の半助をいっして、かなたこなたをさまよった
後、やがて、ここの人かげを見つけて走ってきた。
はしなく落ちあった
主従は、かたく手をとって喜びあった。
どうしてここへ?
どうして生きて?
同じ問いが
双方の口をついてかわされた。
嵐のような声つなみがいくたびかくりかえされて、月は
三方ヶ
原の東から西へまわった。
渋面をつくった
呂宋兵衛と、にがりきった
菊池半助とが、
片輪や
死骸になった
味方のなかに立ってぼんやりと朝の光を見ていた。
敵はどうした! 敵は?
陽が高くあがったが、その
行方はついにわからなかった。
家康の
不首尾な顔が思いやられる……
「どうするんだ、この
復命を?」
「どうするったッて、ありのままに申しあげて、おわびを願うよりほかにない」
「
計略はうまくあたったんだが……」
「あんな
助太刀がうしろを
衝いてこようとは思わなかったからなあ」
気をくさらして、
疲れたからだをグッタリと草の上に投げあった。その顔へ、ブーンと
虻がなぶってくる。
「ちイッ……」
と半助は
舌打ちをした。
そのころ
武田伊那丸は、ゆらゆらと
駒にゆられて、
大井川の上流、
地蔵峠にかかっていた。
五人の
屈強なるものが、その
前後につきしたがっている。
この
裏道をくるのにも、とちゅう、一、二ヵ
所の
山関があったが、
小人数の
関守りや、
徳川家の名もない小役人などは、この一
行のまえには、
鎧袖一
触の
価すらもない。
山路の
険しさはあるが、道は
坦々、
無人の
境をすすむごとしだ。
武田一
党のまえには、
洋々としたひろい
光明が待っているかと感ぜられる。見よ! もう
大根沢の
渓谷のあいだから、
莞爾とした
富士のかおが、伊那丸の
無事をむかえているではないか。
立って
地蔵峠の
頂からふりかえると、もう
三方ヶ
原は
遠くボカされて、ゆうべのことも
夢のようだ。
あおい
駿河の海岸線の一
端には、
家康の
居城が、松葉でつつんだ一
個の
菓子のごとく小さく
望まれる。
「さだめしいまごろは、あのむずかしい顔を一そうむずかしくしているだろう」
と思う
想像が、みんなの顔に、
禁じえないほほえみをのぼせた。
なにか、今日ばかりは、はればれしい
旅ごこちがした。
伊那丸も
民部も、そして、
龍太郎やそのほかの者も。
そう思うこころの
矢さきへ、
峠の
間道を、のんきな
唄がとおっていった。
崖の下へきた時に、
小文治がのぞいてみると、
裾野で見おぼえのある
鼻かけ卜斎、
唄は、おともの
蛾次郎が、大きな口を天へむかって開いているのだ。
「オヤ」
と、向こうで気がついて、すぐわき道へ
影をかくしたので、一
行の者もあえて
追わず、そのままさきをいそいでゆく。
そしてようよう、
駿遠の
山境を
踏破してきた。もとより
旅人もあまり通らぬ道、
里数はあまりはかどらない。
服織という二、三十
戸の
山村、みな
素朴な
山家者らしいので、その一
軒へ
伊勢の
郷士といつわって
宿をかりた。
はいった家は、その村の
長の
邸らしい。
土着の
旧家らしい
土塀や
樹木が、
母屋を深くつつんでいた。
渓流へいってからだを
洗い、宿の
主にひかれて、
奥の一
室へ落ちつくと、
床に一
幅の
軸がかかっていた。それはその
部屋へはいったとたんに、だれにもすぐ目についた。
伊那丸はサッと色をかえて、
「
亭主」と
案内してきた
村長を見おろした。
「はい、なにかお気にさからいましたか」
「この
石摺りの軸はどうしてそちが手に
入れた」
「ああ、それは石摺りと申しますか。じつはわたしにもよく読めませず、へんなものだと思いましたが、このあいだ、村へまよってまいりました
妙な老人が、
宿をかりた
礼にといって、自分でかけてまいりましたので、そのままほッておいたのでござります」
「
忍剣、
龍太郎。これを見い!」
と伊那丸はさらに
床の
間にちかづいて指さした。それまでは
他の者も、なにか、
得体の知れない、ただ
岩の
肌へ
墨をつけてそれを
転写した
碑文かなにかと思っていた。が、そういわれてよく見ると、まっ黒な黒と白い
筋のあいだに二
行の文字が
刷りだされてある。
「あッ!」龍太郎はぎょッとした。忍剣もふしぎにたえない
面持であった。
父子の邂逅はむなしく
小太郎山の砦はあやうし
いつか、京都の
舟岡山、
雷神の
滝の
岩頭に、
果心居士が
彫りのこしていった二
行の
予言!
それが岩のしわ目と文字の
痕をほの白く、そッくりそのまま、
石摺りに
写ってここにあるのではないか。
勝頼と
伊那丸のことを、
未然に
暗示した一
行の文字はいま思えばあたっていた。
戦慄すべきもう一
行の
予言!
小太郎山の
砦があやういとはどういうわけか? それは伊那丸にも
民部にも、どうしてもわからなかった。
村長の話をきけば、数日前に、この
家へとまって
飄然と
去ったという
妙な老人というのこそ、どうやら果心居士であるような気がする。
躑躅ヶ
崎の
館というのは、
甲府の町に
南面した
平城である。
平城というのは、
天嶮によらず
平地にきずいた
城塞のことで、
要害といっては、高さ一
丈ばかりの
芝土手と、
清冽な水をあさく流した
濠があるだけだ。
土手は南北百六
間、三ツの
郭にわかれ、八
門の
石築に
出入りを
守られている。
青銅瓦のご
殿の
屋根、
樹林からすいてみえる
高楼づくりの
朱の
勾欄、
芝の
土手にのびのびと枝ぶりを
舞わせている松のすがたなど城というよりは、まことに、
館とよぶほうがふさわしい。
甲斐の土は一
歩も敵にふませぬ。
終生このことばをもって通した
信玄には、ものものしい
要害は
無用であった。けれど、
勝頼が
敗れたのちは、その
躑躅ヶ
崎の
館も、
織田の
代官の
居邸となり、さらにそののち
火事泥的に
甲府へ兵をだしてかすめとった
小田原の
北条氏直が
持主にかわった。
氏直が甲府を手にいれたと知ると、
家康は
眉をひそめた。
「もし
小太郎山と甲府とが
結びついたら? どうだろう?」
想像するだけでもおそろしいことだと思った。
で、かれ一
流の
反間苦肉の
策をほどこし、
奇兵をだして、躑躅ヶ崎の館をうばった。それは、
伊那丸が京都へいっているあいだのできごとであった。
大久保石見守長安は、家康の
腹心で、
能役者の子から
金座奉行に
立身した男、ひじょうに
才智にたけ
算盤にたっしている。家康はその石見守を甲府の代官とした。そして
甲州には昔からの
金坑があるから、できうるかぎりの
金塊を浜松におくれと
命じた。
でなくてさえ
強慾な石見守は、
私腹をこやすためと家康のきげんをとるために、金坑
掘夫をやとって八方へ
鉱脈をさぐらせる一方に、
甲斐の
百姓町人から、ビシビシと
苛税をしぼりあげて、じぶんは躑躅ヶ崎の館で、むかしの
信虎時代もおよばぬほどなぜいたくをきわめている。
「
畜生ッ、あばれるか!
手向かいをすると耳をきるぞ!
脛をぶッぱらうぞ! 歩けッ、歩けッ、うぬ歩かんか」
腕まくりをした
若侍が八、九人。
いま、
躑躅ヶ
崎の
石門のなかへ、ひとりの百姓をしばりつけてきた。
「おとうさんを助けてくださいませ! もし、おとうさん、あやまってください、お
武家さま、
堪忍してあげてくださいませ」
十五、六の女の子。その百姓の
娘らしい。
人目もなく
泣きながら若侍の
腕にすがりつくのを、
「えい、きさまも
片われだ!」と、大きな
掌で
頬をなぐった。
娘はワーッと声をあげて泣く。百姓は
気狂いのように
猛る。それを
仮借なくズルズルと引きずってきて、やがて、
大久保石見が
酒宴をしている
庭先へすえた。
「なんだ、そのむさくるしい人間は?」
石見守は、
近習に
酌をさせながら、トロンとした眼で見おろした。若侍は
膝をついて、
「こいつ、ただいまご
城下の
辻で、
信玄の
碑のまえへ
供物をあげながら、
徳川家のことを
悪ざまにのろっておりました」
「
斬ッてしまえ」
酒をふくみながら
石見守はかんたんにいった。
「ついでに、あの
信玄の
石碑なども、
濠のそこへ投げこんでしまうがいい。あんなものを辻にたてておくから、いつまでも
百姓や
町人めが、
旧主をわすれず新しい
領主をうらみに思うのだ」
若侍はただちに刀を
抜いた。
石見守は
盃を
重ねて見てもいなかったが、バッと音がしたので
庭先へおもてを向けてみると、もう百姓と
娘の
死骸がふたところにつッ
伏していた。
「
殿さま!」
そこへ、ひとりの
小侍が、あわただしい足音をさせて、一
封の
早打状をもたらしてきた。
大きな
黒印がすわっている。
徳川家康の
手状だ。
「おッ、なんだろう?」
かれも少し
酒の気をさまして、いそがわしく
封を切った。またその下にも
封緘がしてある。よほど大事なことだなと思った。
「これ、
伊部熊蔵をよべ、
奥の
鉱石庫にいるはずじゃ」
その手紙を
巻きおさめながら、こういった石見守の
顔色は
尋常でない。
鉱山目付の伊部熊蔵、奥のほうから
庭伝いにとんできた。
大久保石見は
酒席につっ立って、庭先にいる
中戸川弥五郎という若侍へ、
「その見ぎたない百姓と娘の死骸を、はやくどこかへ取りかたづけろ」
と
苦々しくいいつけて、
「おお熊蔵、むこうへまわれ、
浜松からの
早打状で、そちに申しつける急用ができた」
と、
離室のほうへ
顎をさして、そのなかへ
密談にすがたをかくしてしまった。そして
半刻ばかりすると、
伊部熊蔵、
躑躅ヶ
崎の
館の
外郭へ
駈けだしてきて、ピピピピと
山笛を吹いた。
鉱石庫の外や
内ではたらいていた
荒くれ男は、その山笛をきくと持っている
槌も
天秤もほうりなげて、ワラワラと熊蔵のいる
土手の下へあつまってきた。
「おい、すばらしい
鉱脈が見つかったんだ」
熊蔵はこういって、
鉱山掘夫一同の顔をジロリと見わたした。どれもこれも山男のようなたくましい
筋肉と、
獰猛な
形相をもっていて、
尻切襦袢へむすんだ三
尺帯の
腰には、一本ずつの
山刀と、一本ずつの
鉱石槌をはさんでいる。
鷲のくちばしのようにするどく
曲ってキラキラ光っている鉱山槌だ。
「ヘエ」と、みんなバカにしたような
面がまえで、熊蔵のことばを
冷笑した。
「どうして
素人にそんなものが見つかったんですえ?」
「素人? ふふん、
貴様たちみたいに、
銅脈ばかりさぐりあてる
玄人とはちがって、しかもこれは
金鉱だ」
「ごじょうだんでしょう、めッたやたらに、そんな
鉱山があってたまるもんですか」
「いやうそではない、すぐにこれから、その
鉱山へ
出立するのだ」
「まったくですか? そしていったいそりゃあだれが見つけた山なんで」
「
浜松城のご
主君、
右少将家康様だ!」
「? ……」
みんなあッけにとられてしまった。
家康公が
鉱山掘夫の
玄人だとはのみこめない……という顔だ。
熊蔵はすこしキッとなって、
山目付らしい
威厳をとった。
「で、これは家康公の
直命にひとしいのだから、鉱山へいくとちゅうで、イヤの
応のとしぶるやつは、ようしゃなく
打ッた
斬るからさよう
心得ろ」
「へい」
「
頭数は?」
「六十人ばかりで……」
「よし、向こうへいけば、まだ人数がいるはずだから、これだけでいいだろう。五
足ずつの
草鞋と三日
分の
焼米を
腰につけて、すぐに
西門のお
濠ぎわへ
集まりなおせ!」
さて。
躑躅ヶ
崎の
館をでた六十人の鉱山掘夫。
伊部熊蔵にひかれて、
甲府の
城下を西へ西へとすすみ、
龍王街道から
釜無川を
駈けわたり、やがて、
山地にさしかかった。
「どこだい、ここは」
「
御勅使川の
裾じゃねえか」
「ふーむ、まだ山はあさいな」
「どうやら、ゆくさきは
信濃か
飛騨だぜ」
ドンドンドンドン、
駈けていく。
「
沢へでたな」
「水びたしじゃ草鞋がたまらねえ」
「向こうの山は?」
「
大唐松よ」
「
峠へきたな、どこだいここは」
「べらぼうめ、
鉱山掘夫がいちいち山の名をきくやつがあるものか。トノコヤ
峠、
雨池の
下り
勾配、ヌックと向こうに立っているのが、
甲信駿の三国にまたがっている
白根ヶ
岳と
鷲の
巣山だ」
「だが、オイ」
「なんだ」
「いったいどこまでいくんだろう」
「さあ、そいつはおれにもわからねえ、さきへいくお
目付の
熊蔵さまに聞いてみねえ」
「へんだな、
妙だな、だんだん
鉱気のねえ山へはいっていくぜ。
打つかるなア、
水脈ばかりだ」
しかり、
鉱山掘夫六十人、その時、
野呂川の
流れに
沿って、
上流へ上流へと足なみをそろえていた。
森々と深まさる
檜の
沢、タッタとそろう足音が、思わず足を
軽くさせる。
と思うと、
伊部熊蔵、
「オイ、
止まれ」とうしろを向いた。
六十人の
額からポッポと
湯気がたっている。
そこは
小太郎山のふもとであった。
「止まれ」
といわれた鉱山掘夫、
汗をふきながらあたりを見て、みんなけげんな顔をしながら、伊部熊蔵のさしずをうたがった。
ばかにしてやがら! といわんばかりに、気の
荒い
山掘夫のひとりが、
「もし、
熊蔵さま!」と、
突っかかってきた。
「なんだ、
雁六」
「ここは
小太郎山じゃあねえんですか」
「そうだ、小太郎山の
東麓だが、それがどうかいたしたか」
「どうかしたかもねエもんです、じょうだんじゃアねえ、いいかげんにしておくんなさい」
と
小頭の雁六が
腹をたてて、岩に
腰をおろしてしまったので、
以下六十人の
山掘夫も、みんなブツブツ
口小言をつぶやきながら、
ふて腐れの
煙草やすみとでかけはじめた。
こんな
日傭稼ぎなどになめられて、
山目付というお役目がつとまるものかと、
伊部熊蔵、ひたいに
青筋を立ってカンカンになりながら、
「こら! 山掘夫どもッ。だれのゆるしを
得て勝手に
煙草休みをするか。
躑躅ヶ
崎をでた時からきっといいわたしてあるとおり、
拙者の
命にそむくことは
大久保石見守さまの命にそむくも同じこと、石見守さまのおいいつけにそむくことは、すなわち、
家康公のご命令をないがしろにいたすも
同様だぞッ」
そういいながら、いきなり
腰の刀をぬいて
素ぶりをくれ、
猛獣使いの
鞭のように持った。
「いいつけを
守って、すなおにはたらく者へは、
後日、じゅうぶんな
褒美をくれるし、とやこう申すやつは
斬ってすてるからさよう
心得ろ」
「ですがお
目付さま、いくら働けといったところで、こんな
鉱気のない
くそ山を、
掘り
返したところでしようがありますまい」
「イヤこの山には
金鉱の
脈がある! すなわち
家康公にとっての
金脈があるのだ! これからそれをさがしにかかるのだから、ずいぶん
骨を折るがよい。いまもいったとおり、
首尾よくいけば
莫大なご
褒美がある仕事だから」
「どうもさっぱり
腑に落ちませんが、おそらく
骨折り
損のくたびれもうけでございましょう」
「よけいなことはいわんでもよい。さ、一
服吸ったら八
方へ手を分けて、まず第一に
間道らしい
洞穴をさがしてみろ」
「ヘエ、洞穴を」
「ウム、洞穴だ! かならずどこかに
頂上へ
抜けでられる
穴口があるはずだ」
「そしてそれをどうするんで?」
「いずれ
要所要所には、
石扉を
閉てたり
岩石や
組木を
組んで、ふだんは通れぬ
仕掛けになっているだろう。それをおまえたちの
槌でいけるところまで
掘りぬいていくのだ」
「へえ? ……そうして」
「そうして
不意にとりでの
郭内にあらわれ、岩くだきの
強薬を
爆発させて、
砦にるすいをしているやつらがあわてさわぐまに、
小太郎山を乗っとってしまう! むろん、これだけの人数ではむずかしいが、
砦のなかにはまえまえから、こっちの
味方が
諜者になって
入りこんでいるし、
火薬の
爆音をあいずとして、
甲府表から、いちどきに
家中の者が
攻めかけてくる手はずとなっておるのだから、いわばわれわれは
乗っ
取りの
先陣、
願うてもない
誉れをつとめるわけなのだ」
おどろいたのは
小頭の
雁六、ほか六十人の
山掘夫たちである。
金脈だ金脈だというので、なにも知らずにきてみれば、
命がけの
合戦をやるのだ。
間道からもぐりこんで、とりでをかきまわすという
危ない役目、
鉱山の
坑へ
細曳一本で
吊りさがるよりは、まだ
危険だ。
「こんなことならついてくるんではなかった」
と、いまさら
臍をかんでも
追いつかない、
後陣には
石見守の
家中がうしろ
巻をしているといえば、
逃げだしたところで、すぐと
捕まって
血祭りになるのは知れている。
「だが、こんな
奥ぶかい
山地に、だれのとりでがあるのであろうか」
と、そこで一同、はじめて
麓から山を見あげて見たが、
峨々たる
岩脈と
雲のような
樹林の高さを
仰ぎうるばかりで、
城らしい
石垣も見えず、まして、ここに千も二千もの人数が、立てこもっているとは思われないほど、
森々として静かである。
ぜひなく
観念した
鉱山掘夫は、
伊部熊蔵の
指揮のもとに
小太郎山の東のふもと、木や草をわけて八方へ
散らかった。
なにせよ、
荒仕事と山には
馴れきった者ばかり、手に手に
鷹のくちばしのように光る
鉱石槌を持ち、木の根にひっかけ、
崖によじ、
清水と
岩脈のかたちをさっして、それらしい所をさがし
廻っているうちに、ひとりが深い
熊笹の
沢の上で、
「あった!
間道が見つかった!」
と、大声でさけんだ。
小頭の
雁六が、ピューッと
口笛を一つ
吹くと、上から、下から
伊部熊蔵をはじめすべての者のかげが、ワラワラとそこへ
駈けあつまった。
見ると、たけなす
山葦と
笹むらにかくれて、
洞然たる深い
横穴がある。
「これだ!」
と、熊蔵が、
用意の
松明を持たせて中にすすむと、清水にぬれて
海獣の
肌のようにヌルヌルした
岩壁を、
無数の
沢蟹が走りまわったのに、ハッとした。
「雁六、この
穴はどうだ?」
「
掘ったものです。しかも、まだ新しく掘った穴にちがいありません」
「ウム、それじゃてっきり、
山曲輪へ
通じる間道だろう、先を一つさぐってみてくれ」
「
合点です! オイ松明を持った
野郎はさきに立て」
あとからあとからと、山葦をわけてザワザワと中へはいった。そして、
奥へすすめば、すすむほど、
土質の
肌目があらく新しくなってくる。ところどころに、土をくりぬいた
段があった。段をのぼると
平地になり、平地をいくと段がきりこんである。
かくて、かなりの
暗黒をうねっていくと、やがてゆきどまりの
岸壁にぶつかった。あらかじめこうあることとは、
石見守からもいわれてきた
熊蔵、
「それッ」
というと、山ほりたち、
合点といっせいに
腰の
槌をひきぬいて、
金脈だ金脈だ!
家康公から
恩賞のでる金脈だとばかり、たちまちそこを
掘りぬけた。
荒鉱を掘ることを思えば、なんの
造作もないひと仕事。
抜けると、カーッと
陽が
照っていた。
小太郎山第一の
峡!
孔雀の
背なかを見るような
燦鬱として
真っさおな、
檜林の
急傾斜、それが目の下に見おろされる。
「ウム、ちょうど山の二
合目だ」
目のくらむような陽をあびて、
狼群のように、はいかがんだ人数、向こうに見える
次の
間道を目がけてゾロゾロゾロゾロはいこんだ。
さざえのなかをくぐるように、また二つめの間道をしばらくのぼると、山の五合目
虚無僧壇とよぶところ、
暗緑色の
峡を
隔てた向こうと、
丸石を
畳みあげた
砦の
石垣、
黒木をくんだ
曲輪の
建物らしいのがチラリと見える。
だが、千
仭の深さともたとうべき
峡谷には、向こうへわたる道もなく、
蔦葛の
桟橋もない。
「オ、あれに三ツ目の
間道がある」
伊部熊蔵がこういったので、みなそのあとからついていった。まさしく、こんどは間道らしい間道である。まっ
赤な
松明をふり
廻して、シトシトシトシトいそぎだした。と――こんどは
段もなく、
井戸のような深い
穴口へでた。そこに一本の
鉄棒が横たえられ、
蔓梯子がブラさがっている。
それより
他にいきようはないので、いずれまた、
段々と上へのぼることになるのであろうと、一同はそれにすがって
下りていくと、その深いことはおどろくくらい――、
下りるとまたうねうねと道々がある、まるで
富士の
胎内くぐりという
形だ。
「はてな?」
と地中の
闇を
馳けながら、
小頭の
雁六は首をかしげた。
「
妙だぞ、妙だぞ、いっこう
上りになってこない、なんだかだんだん
下る」
「いやそんなはずはない、こういううちに、しぜんと
頂上のとりでの中にでるにちがいない」
と、伊部熊蔵はがえんぜない。ますます足を早めていった。
するといきなり眼の前に、ドウーッと
真っ白なものが光った。青い光線がひえびえと流れこんできた。見るとそれは
岸をあらう
渓流である。岩をかんで
銀屑をちらす
飛沫である。
岩壁の一たんに、ふとい
鉄環が打ちこんであり、
環に一本の
麻縄か
結びつけてあった。で、その
縄の
端をながめやると、大きな
丸太筏が三そう、
水勢にもてあそばれてうかんでいる。
はてな? いよいよ、はてな? である。
熊蔵も
雁六も、すこし
道順がわからなくなってきた。まえには
渓流、うしろは
暗黒!
「ままよ。いくところまでいって見ろ。つぎには第四の
間道があるだろう」
そう
多寡をくくって、三そうの筏に飛びうつり、向こうへ
渡ろうとしたのであるが、思いのほか
水足がはやく、鉄環の縄をきるやいな――ザアッと筏は
下流のほうへ押されてしまった。
そしてやっと、水勢のゆるい
瀞へかかった時、向こう
岸へはいあがって見ると、ああなんということだ!
見るとそこは、さっき一同が
甲府から
指してきた時に、
汗をしぼって一列に
駈けた
野呂川の
右岸で、その
胎内の
間道をくぐり、その
絶頂のとりでへでようとこころみた
小太郎山そのものの
姿は、
唖然として立った六十人の眼のあなたに――。
かなり
離れた渓流の向こうに、むらさきばんだ
昼霞をたなびかせ、なにごとも知らぬさまに
聳えている山の
容こそ、小太郎山ではないか。いま、げんに、その山の
腹をくぐり
登っていたはずの山ではないか。
山掘夫、山にもてあそばる!
その時、
穴に入るまえはらんらんとかがやいていた太陽が、もう西へまわって
朱盆のように赤くくすんでいた。
その
高原の一
角に立てば、
群山をめぐる雲のうみに、いま、しずもうとしている太陽の
金環が、ほとんど自分の
視線よりは、ズッと
低目なところに見える。
で――まッ
赤な
逆光線の夕やけに
照らされている
小太郎山の上、
陣馬ヶ
原いちめんは、
不可思議な
自然美にもえあがっていた。
みやま
菫の
濃いむらさき色、白りんどうの
気高い花、
天狗の
錫杖の
松明をならべたような
群生、そうかと思うと、
弟切草や
茅がやの
穂や、
蘭科植物のくさぐさなどが、あたかも
南蛮絨毯を
敷きのべたように、すみきった
大気もみださぬほどな
微風になでられてあった。
「
竹童さアーん、竹童さアん! ……」
やがてだれかのこう
呼ぶ声がする。
咲耶子であった。
彼女はいま、
砦の二の丸から、
崖をよじてこの
高原にのぼってきた。
「
竹童さアーん!」
二つの
掌を口にかざしながら、雲とも
夕霧ともつかない白いものにボカされている
果てへ、声かぎり
呼び歩いてきた。
返辞がない。
つねに目なれている
景色ではあるが、そこのうるわしいながめにも足もとの花にも、なんの
魅力を感ぜずに
咲耶子は、ひたすら、すがたの見えない竹童をあんじていた。
きょうの
午ごろまでは、じぶんと一しょに、砦のおくの
櫓に、きのうと同じように
油断なく
小太郎山を
見張っていたのに、いつのまにか櫓を下りていったきりかえってこない。
この四、五日のあいだは、
小幡民部をはじめその
他の人たちが、とおく
三方ヶ
原まで
伊那丸の
危急を
救いにかけつけているだいじな
留守! その留守のあいだは、
味方の
武士がこめている砦とはいえ、けっして油断をしてはならないのに、あの子はまアどこへいってしまったのだろう? ……
「ほんとに、竹童さんはまだ子供だ。もう日が
暮れようとしているのに――わたしにこんな
心配をさせて」
咲耶子は不安にたえぬように
眉をひそめた。
夕餉どきに帰りを
忘れてあそんでいる
弟を、父や母が
怒らぬうちにとハラハラしてさがす
姉のような愛が、彼女の眼にこもっていた。
「竹童さアーん……」
そうして、自分の身の
危険を、一
歩一歩とわすれていった。
「もしかすると?」
露にぬれる
草履のグッショリと
重くなったのも感じないで、
例の
樺の林のほうへかけだして見た。林のあさいところの木は、一本一本
薄い
夕陽の
紅になすられているが、
奥のほうはもう
宵のような
闇がただよっている。
そこでもまた
呼んで見た。
五たび六たびも、あかずにかれの名をよんだ。
だが林の奥から、さびしい
木魂がかえってくるだけで、オーイと、あの
快活な竹童の
返辞はしてこない。
「おや?」
咲耶子は
妙な音にきき耳を立てて、林のやみへ
眸をこらした。なにか非常に大きな力が
樹木をゆすったように思える。
われをわすれ、樺の
密林へ
馳けこんだ。見ると、なかでも大きな一本の樺の木に、あの竹童の
飼っている
荒鷲がつながれてあった。その
飼主の名を呼んだので、羽ばたきをしたのであろうと、
愛しく思えたが、
「おまえをかわいがっている竹童さんはどこへいったか?」
と、
禽に聞いてみるよしもなかった。咲耶子はまたすごすごとそこをさった。
すると、
大蛇の
背なかのようなものが、
笹を分けてザワザワと
彼女についていく――それはかなりまえから先のかげをねめまわしていたのであるが、
咲耶子は知らなかった。
林の道が三ツ
股にわかれているところへくると、その
左右にも、ふたりの人間がかがんでいて、足音を聞くとともに、ムクッとうごいたよう……
「だれじゃッ?」
はげしくいって、キッと
小脇差に手をかけて立ちどまると、
甲虫のような
茶色の
具足をつけた
侍が、いきなりおどりあがって左右から二本の
槍をつき向けた。
「咲耶子! しずかにしろ」
「ヤッ、おまえたちは、
外曲輪の
番卒ではないか」
「ばかをいえ、おれたちは
大久保長安さまからたのまれて、それとなくまえから
野武士をよそおい、この
砦へさぐりに入っている
黒川八十松、
団軍次郎という者、どうだ
胆をつぶしたか」
「大久保長安? ――やや、すると、おまえたちは、
慾に
釣られて
敵の
諜者に買われたのじゃな」
「知れたことだ!
武田伊那丸は
留守、
小幡民部もでていったこの
砦は、もう
空巣同然、
入れ
代ってきょうからは、
大久保石見守さまが
下り
藤の
旗差物と立てかわり、
家康公のご
支配となる。
神妙に
縄にかかってしまえ!」
「なに、
縄にかかれと?」
「オオ、
甲府城躑躅ヶ
崎まで
曳いてこいという、
石見守さまの
厳命、悪くあがくとこの
槍に
血ぶるいをさせるぞ」
「だまれ、たとえ
伊那丸さまや一
党のお方は
留守であろうと、この
咲耶子と
竹童が
留守をあずかる
以上、おまえたちに、なんで、おめおめと
小太郎山を
渡してよいものか。
侍のくせにして、慾に目がくらんで
味方を売る
裏切りもの、多くの
部下の見せしめのため、
陣馬ヶ
原で
討ち首にしてあげる」
「なまいきなッ」
と、いわせも
果てず、ひとりが
長槍をくりだしてくるのをかわして、咲耶子は手ばやく
呼子笛を吹きかけた。
と――うしろから地をはってきた
曲者、
跳びかかってその
喉首をしめあげる。だが、彼女も
屈しはしない。
裾野にいたころは
富士の
山大名の
娘――
胡蝶陣の
神技――
猛獣のような
野武士のむれを自由
自在にうごかした咲耶子である。
手を
廻してその
腕くびをつかんだかと思うと、あざやかに、大の男を
肩越しに投げた。
「うッ、おのれ」
と二本の
槍は、風を
吸って十字の
閃光をかく。
咲耶子は口にくわえた呼子笛を、力いッぱい、ピピピピピッ……と吹きたてながら、
陣馬ヶ
原のお
花畑へ走りだした。
だが、けんめいにふいた
呼子笛は、とおき
砦にいる
味方をまねくまえに、あたりの
悪魔を集めてしまった。
甲府の
代官大久保石見守が、手をまわして
入れておいた
裏切り者はすべてで十二人、
彼女の走りだすさき、さけるさきに、
槍を取って立ちふさがる。
砦の一の
曲輪、二の曲輪には、
味方の
郎党たちが二千人
足らずはいるので、その者たちに知らせさえすれば、わずかな裏切り者ぐらいはなんのぞうさもなく
片づけてしまうのであろうが、この
陣馬の
高原とそことは、
平地にしてちょうど十町ほどの
距離があった。
咲耶子は、ともあれそこへ近づいて、
味方へこの
急変を
叫ぼうとあせった。で、
追い走ってくる槍、横から
突いてかかる槍の
穂を、
翻身、
蝶のごとくかわしながら、白りんどうの花をけった。
「かれを二の丸へ近づけては一大事!」
と、追いまくした十二人の裏切り
武士、そのなかでも
剛力をほこる
神保大吉は、九
尺柄の槍をしごいて、咲耶子のまえへ
馳けまわった。
彼女の手には
尺四、五
寸の
小太刀がひかる。
からりッと、
槍と
小太刀がからみ合った。
小太刀は槍の
柄を
断ちきれず、白い
穂先が
肩をかすめてうしろへ
抜ける。
手もとへもどして、
穂みじかに
構えなおした
神保大吉は、
咲耶子が右へよれば右へ、左へよれば左へ、ジワジワとおしていった。
そのまに、
黒川八十松、
団軍次郎、そのほかの者が、十二本の槍をそろえて、ドッ――と咲耶子の前後にかかる!
ああもういけない!
咲耶子は近よったひとりを
斬って、ふたたび、
樺の林へかけこんだ。そこでは、
密生している
木立のために、十二人がいちどきに彼女を取り
巻くことができない。
団軍次郎と神保大吉は、それと見るや
否、まっさきに林の
細道へふみこんだ。そして、咲耶子を道の
尽きるところまで
追いこんで、ここぞと、
気合いをあわせて、二
槍一
緒に彼女の
胸板へ
突いていった。
「あッ!」
一槍ははらったが――もう一槍!
大吉の
突きだした
大身の槍は、かわす
間もなく、咲耶子の
胸から白い
顎へと!
しまった――と思うと。
不意にどこからかブン――と
虻のようにうなってきたひとつの
独楽が、槍のケラ首へくるくると
巻きついた。むろん、槍は独楽の
紐にひかれて、思わぬほうへたぐられてしまった。
「やッ?」
と
神保大吉は、あたりのほの
暗さに、それを
独楽ともなんともさとらずに、力まかせに手もとへひく! と一方の独楽の
紐も、負けずおとらず
剛力をかけて引ッ張った。
すると、
槍の
柄に巻きよじれた独楽、
双方の力にガラガラッと火を吹いて
虚空にまわる――。
「おうッ!」
と目をおさえてたじろいだのは、あとからきた
裏切り
武士ども。すでに林の夜は
濃く、あいての
姿もかすかにしか見えない
闇! そこに、一
箇の
炬火が
廻っている! いな、廻っているのは独楽なのだが、あたかも、太陽のコロナのごとく、独楽はブンブン火を吹きながらまわっているのだ。
青か赤かむらさきか? なんとも
見定めのつかない火の色、
燿々とめぐる
火焔車のように、虚空に円をえがいて
馳けだしてきた!
「あッ」
と八方に
逃げながら、その
怪光をすかしてみると、独楽の持ち手はまぎれもない
鞍馬の
竹童。
「竹童だ! 竹童だ!」
だれの口からともなく
戦慄の声がもれる。
「なに竹童?
多寡の知れた
餓鬼ではないか、うぬ、おれが
槍先に
突っかけてやる」
神保大吉はこう
豪語して、ふたたび
槍を持ちなおしたが、おそかった!
びゅうと――
独楽の
紐がのびた。
「ひイッ」
と
叫んだときは
大吉の
喉に、
食いついたような独楽の
分銅、ブーンとひとつ
巻きついて、ふれるところに
火焔をまわした。そして見るまにかれは顔を
焼かれて
悶絶した。
相手がたおれると火の
魔独楽は、生きてるように竹童の手へもどった。そしてブンブンかれの片手に
廻されている、次にはどいつの
喉首へ飛ぼうかと。
「オオ、竹童がもどって見えた」
咲耶子はよみがえったような
心地で、
「
裏切り者じゃ!
徳川家の
諜者じゃ。竹童ッ! はやく
味方のものにこのことを」
「
討てッ、早くかたづけてしまえ」
のこる十一人のうちで、
黒川八十松がしきりとわめきたった。
「こんな者に
暇どって、もし
砦のやつらに感づかれた日にはこっちの
出道をふさがれてしまうだろう――はやくそのふたりを
殺してしまえ、もう生けどりにするなどといっていられる場合じゃない」
「おうッ」
「おおッ」
と
叫ぶと、
槍ぶすまはふたたび
木立のあいだにギラギラ光った。
裏切[#ルビの「うらぎ」は底本では「うちぎ」]り者と聞いて
竹童も、スワ一大事が
起ったなと思った。林のなかでは使いにくい
火独楽、めんどうとふところへ飛びこませて、
「
咲耶子さま、ここは竹童がひきうけました。あなたははやく
砦のほうへ」
「いや、おまえが早く知らせておくれ」
「おいらは
新手だ!」
聞かばこそ、竹童。
般若丸の一刀をぬいて、いきなり、むちゃに、ひとりを
斬った。
女性の咲耶子をこの
危地にのこしておいて、男たるものが、知らせに
馳けていくなんていやなこッた!
そのようすを見て、咲耶子はぜひなく、一方の槍ぶすまをつきぬいて、お
花畑へ
疾走した。そして、ひとりの男に、
後ろからあぶない
投げ
槍をくわされたが、からくもかわして、すべり落ちるように、砦のおく、二の丸のうらへ
降りた。
だが。
降りたとたんに咲耶子は、
「あッ――大へん!」
と、はじめて、まっくらになった、とおい
眼下に気がついた。
いつか、あらゆる
視界には、夜のとばりがおりていた。ただはるかな
麓のほうに、
野呂川の水の
蛇の
皮のような光と、やや東北によって、きわめてかすかな赤い空あかりをみとめることができる。そこはおそらく、
武田家の
旧領地、いまは、
徳川家の
代官支配となっている
甲府新城躑躅ヶ
崎の
城下であろう。けれど、
咲耶子をおどろかせたのは、水でもない、空でもない。
その甲府と
小太郎山の
中間あたり、すなわち
釜無川のほとり、
韮崎の
宿から
御所山の
裾あたりにかけて、半里あまりの長さにわたっている、人である、火である、
野陣の
殺気である。
「
見張りの者ッ――」
櫓をあおいで
絶叫した。
「
鐘を打て、鐘を打て!
番士、番士、
門衛の番士たち! はやく
貝をふいて
武者だまりへ
味方をおあつめッ――」
狂気のようになって、咲耶子は武者ばしりの
柵際を
呼びまわった。けれど、どうしたのか、オウ! といって
物の
具を引っかつぐ
部下もなく、かんじんな
櫓番のいるところさえ、
無人のようにシーンとしている。
それもそのはず。
かねて
今宵のことをもくろんでいる
裏切り者は、夕方の
炊事どきを見はからって、
砦の
用水――山からひく
掛樋、
泉水、
井戸、そのほかの
貯水池へ、
酔魚草、
とりかぶとなどという、
毒草や
毒薬をひそかに
流しこんでおいたのであった。
竹童はクロの
餌とするものを
狩りにいっていたため、まだ夕方の食事をしていなかったし、
咲耶子もかれをさがしにでて
難をのがれていたが、それを知らずに飲み、
毒水でたいた
飯を
食ったものは、おそらくちょうどいまが
毒薬のまわってきた時分――
時刻はそれより少し前のこと――。
かの、
小太郎山の
間道へかかって、
首尾よく
築城の
迷道をさまよい、もとのところへ
舞いもどった
伊部熊蔵と
雁六、ほか六十人の
金鉱山掘夫が、ぼんやりくたびれもうけをしていた時分なのである。
「ねエ、
親方」
と、ばかに
素でかい声をして、
「こんな歌を知ってますか、こんな歌を?」
と、
檜の
沢を伝わりながら、ぴょいぴょい歩いてきた
小僧がある。
「どんな歌を?」
と、いったのはその親方とみえるへんな顔をした人で――見ると
鼻かけ卜斎だ。
「
水晶掘りの歌ですよ、これから
甲州へいこうっていうのに、水晶掘りの歌ぐらい知らなくっちゃ
幅が
利きませんぜ、ひとつ歌ってみましょうか」
と、あいかわらずな泣き虫の
蛾次郎。
鼻の
穴を
天じょうに向け、
喉ぼとけの
奥まで夕やけの明りに見せて、声いッぱい、いい気になって、歌いだしたものである。
どうせ山の中だというふうに、
卜斎もかまわずにほうっておくもんだから――。
水晶! 水晶!
むらさき水晶は お染にやンべ
お染かんざしに 挿すよにサ
黒い水晶は 婆さまにやンべ
婆さまみがいて お寺にあげて
文殊菩薩の 入れ黒子
「なんだ、あいつは」
と、びっくりしてふりかえったのは、
別なことでぼうとしていた
金鉱山掘夫や熊蔵たち。
沢から
平坦な道へとびあがったとたんに、
大勢のあらくれ男やさむらいが、ひとところにたむろをしていたので、
蛾次郎も急に
間がわるそうな顔をして、でたらめな
水晶掘りの歌をやめてしまった。
その蛾次郎はともかくも、卜斎の
風体人相、ひとくせありげに見えたので、
伊部熊蔵は
雁六に目くばせをして、
「オイ、待てまて」と
呼びとめた。
他郷に
入って
争いすべからず、
利ある争いもかならず不利、――という
諺は、むかしの
案内記などにはかならず
記していましめてあることだ。まして、相手が悪そうだから、
卜斎も悪びれないで、
「はい」とすなおに
腰をかがめた。
「どこへいくんだ、いまごろ?」
「
甲府へまいります」
「なにをしに?」
「ちかごろ、甲府のご
新城は、
代がかわって、たいそう
暮らしよいといううわさを聞きましたので」
「じゃあ、きさまは、
武田家の時分よりは、いまの
徳川の
御代をありがたいと思ってゆくのか」
「さようでございます。
昔からのご
縁故で、わたくしは、どこでもよいから、徳川さまのご
領地に住みたいと願っております」
「ふウム……そうか……」
と
伊部熊蔵はわるい気持がしないようすだ。卜斎の目から見れば、この
山目付らしい
侍が、どこの
大名に
属している者かぐらいは、腰をかがめた時にわかりきっている。
「して、
職業はなんだ? じつは、この
街道は、今日すこしぶっそうなことがあるから、さきへいっても通してくれるかどうかわからない」
「ヘエ、それはこまりましたナ」
と
卜斎、
ぺしゃんこな鼻に
皺をよせて、
「わたくしは、もと
富士の
裾野におりました
鏃鍛冶で、
徳川さまのご
家中のお仕事をした者でございますから、なんとか、ひとつ
無事に通れるようなおはからいをしてくださいませんか」
「ウム、それはしてやってもよいが」
と
熊蔵が、
手形を書いてやろうかと考えていると、
雁六は、およしなさい、もし
下手なまわし者でもあって、
裏をかかれると大へんですぜ――というような目まぜをした。
「あ、いけないナ」
と卜斎は、その
顔色で相手の
肚を読みとおした。
で、こんどは
如才なく、はなしの
鉾先をかえて、なんでぶっそうなのか、
事情をさぐってみようと考えた。
「いいえ、なんでございます……もしごつごうが悪ければ、わたくしにいたしましても、
命が大事です。すこしあとへもどって、どこか安全な
百姓家にでも
泊めてもらいますで」
「ウム
神妙なやつだ。なろうことなら、そうしたほうがおまえたちのためだろう」
「ですからお
武家さま、
失礼なことをうかがいますが、あなたがたはいったいなんのために、こんなところで日が
暮れるのにたむろをしていらっしゃるんで? ……見れば、なにか、
当惑そうなご様子にも思われますが」
「じつは、まことに少し
当惑しておる」
「できることなら、ご相談に乗って
進ぜようじゃございませんか。見ればどなたもお若い方、およばずながらわたしの方が、年をとっているだけに、いくらかその
功がないこともございません」
「じゃ聞いてみるが、
鍛冶屋」
「ヘイ」
「すこし商売ちがいな話だが、おまえの口ぶりでは、
裾野からこのへんのことはくわしそうだ。知っていたら教えてくれ」
「エエ、なんなりとおたずねくださいまし」
「この
小太郎山だが――」
と
雁六が
指さしたので、
蛾次郎はもとより
卜斎も、思わずギョッとした感じをうけた。
このふたりが、ひとまず、
甲府へいって見ようという目的は、はじめから
定めてきたことであるけれど、じつをいうと、今日は道にまよって、どこを歩いているのか
見当がつかずにいたところである。
伊那丸の一
党が立てこもる
小太郎山の
砦が、いま、立っている
真上だとは、
夢にも知らずにいただけに、身の
毛を
寒くしてしまった。
「ヘエ、ここがあの小太郎山? なアるほど」
とそらとぼけて、
岩々と
天を
摩している山かげをあおぎながら、
「深いことは知りませんが、うわさにきけば、なんでもこの上には
武田の
残党がたてこもっている
山城がありますそうで」
「そうだ! その砦へ
抜けるために、じつは非常に
苦心しているところじゃ」
「うえに人がいる
以上は、かならずどこかに道がありましょう」
「あるにはむろんあるが、
間道から
不意に中へでたいと思う」
「おやすいことではございませんか」
「それがなかなか見つからぬのじゃ」
「
地相、
岩脈、
山骨、
樹姿、それらのものからよく
観ると、どんな
隠し道でもかならずわかるわけでございます。ことに、ここには
野呂川があり、そこへ落ちる
山瀬の水もありますことゆえ、
水理を
検討してゆきましても、それくらいなことは、さぐりあたらぬはずはございません」
「おまえ、たいそうくわしいな」
「は、は、は、は、は」
卜斎もわれながらおかしくなって
笑いだした。
柴田権六に
召使われていたころは、つねに、
攻めようとする
敵地へ先へはいって、そこの
地勢水理をきわめておくのが自分の仕事であった。日本では何人と
指を折られる
築城の
地学家、これくらいなことは、
表看板の
鏃をたたくことよりたやすいこと。
で、卜斎は
瞬間にかんがえた。
世間はひろく歩いてみるものだ、――
秀吉にはにらまれている身の上、
家康の
恩顧をうけるほかに生き道はないと考えていたら、これは、
偶然とはいえ、
願ってもないことにぶつかったものだ。
「どうですナ、お
武家さま」と、さて、じぶんから口を切って、
「それほどおこまりのものならば、ひとつ、わたくしがこの
砦のいただきへでられる道を、
案内してあげようではございませんか」
「わかるか、きさまに」
「このふもとを、十町ばかり歩いてみれば、きっとさがしあててごらんにいれます」
「こりゃ
天祐だ! そちにその
間道がわかるとならば、ぜひとも一つたずねてくれ」
「よろしゅうございます。では、しばらくそこで一
服吸ってお待ちください。そして、わかりましたところから
松明を空へ投げるといたしましょう。――これよ、
蛾次!」
「ヘイ」
「おまえ、あちらの
方の持っている松明をお
借りして、わたしのあとからついておいで」
「
親方ア」
「なんだ」
「早く
甲府へゆきましょうヨ」
「待て待て、せっかく、ご一同のお
困りだ、ひと働きしてあげよう」
「だっても……」
「なにが、だってもじゃ」
「おらア、もうお
腹がペコペコなんだもの」
「たわけめ! なにをいうか」
むこうで
人足たちが、
焼するめと
焼米を
頬ばっているのを見て
伊部熊蔵、それが
欲しい
謎だろうとさっして、
「オイ、だれか、この
鼻ッたらしに、なにか
食い
物をやってくれ」
といった。
蛾次郎はニヤニヤとなるのをかくしながら、
「親方、ここが
小太郎山とはおどろきましたネ」
と思いだしたように
小手をかざした。
扇縄の水の手――
山城の
貯水池をさして、そう
呼ぶのである。
今。
小太郎山の
砦は
毒にまわされていた。
その扇縄の区域へ、
裏切り者がひそかに
毒をしずめたので、夕方の
兵糧時に、すべての者の
腹中へ、おそるべき
酔魚草の
毒水がめぐっている。
竹童をのこして、
陣馬ヶ
原お
花畑の
危変をのがれてきた
咲耶子が、とりでの
奥郭へとびおりざま、
狂気のように、
櫓番や
武者だまりの
侍へ、声をからして、
呼んでも
叫んでも、ひとりとして、オオとへんじをする者がない。
夜は
灯を
滅しておく
習慣の
城塞は、まッくらで、
隠森として、ただひとりさけびまわる
彼女の声が
木魂するばかりだった。
「裏切り者がある。
出合え! 出合え!」
なお、こう
呼び立てながら、咲耶子はおくの
郭から二の郭の
中間、
桝形の
柵まで走ってくると、とうぜん、そこに
夜半でも
詰めていなければならないはずの
武士が、声もなく
寂寞として、
木戸の口は
開けっぱなしになっていた。
はじめて、ここにも大事が
湧いているのを知って、咲耶子は、
「あッ」と、
息をひいておどろいた。
見れば。
木戸の
番小屋の前に、七人の
部下が
槍をつかんだまま
悶々とのた打っている。
また、向こうの
柵のそばには、見まわりの三人組が三人とも、
胸に一本ずつの
短刀をうけて、
重なり合ってころげている。
「や、や、これは? ……」
と
井楼の
梯子を
登ってみると、そこにも、眼を光らしていなければならないはずの
見張役が、やぐら
柱の根もとに、
爪を立ったまま、
息が
絶えていた。
「
毒! ……」
裏切り者のおそろしい
詭計をさとって、彼女は、
慄然となる
胸をだきしめた。
と同時に
咲耶子はまた、自分と竹童の
肩にあずけられている
責任をつよく思う。
「もしも、一
党の
方々のかえらぬ
留守に、このとりでを
失うようなことがあったら――」と。
そう考えるだけでも、ふさふさした
黒髪が
夜風に
逆立ちそうだった。
「オオッ」とわれにかえると咲耶子。
「――この
山城は三
段郭、
奥の
砦のものは
毒水をのんでたおれたにしろ、まだ八
合目の
外城のものは、
無事でなにも知らずにいるかも知れない」
そう気がついて、やぐら柱にかけてあった
陣貝の
紐をはずし、
金嵌の
法螺貝にくちびるをあてて、
息のあるかぎり
吹いてみる。
バウー……バウウウウ……ッ。
序破急に
甲音三
声、
揺韻をゆるくひいて
初甲の
音にかえる、
勘助流陣貝吹き、「
変アリ
部ニツクベシ」のあいずである。
だが、さけんで
反応がなかったように、その
貝がとおく八
合目へ鳴りひびいていっても、
外城の
柵から、こたえ
吹きの合わせ
貝が鳴ってこなかった。
「外城のものまでも、
毒にまわされてしまったと見える、ああッ! ……」
絶望的な声と一しょに、思わず
陣貝をとり落とすと、
井楼やぐらの下の岩へ、貝はみじんとなってくだけた。
「
咲耶さまッ」やぐらの下へだれかかけてきた。
「お、
竹童! ――竹童さん?」
「
貝合図は
吹いてもムダです――
扇縄の水の手へ、毒を流したものがあって、
砦の者はみなごろしになってしまった。アア、ここはもう死の城だ!」
かれの声は
悲壮だった。
「そして、
陣馬ヶ
原にいたまわし者は?」
「
斬りちらして
馳けだしてきたんです――こっちのほうが
心配になるので」
「といっても……
味方はおまえとわたしふたりきりだ」
「たとえふたりきりになっても、この砦を
敵の手には
渡されない」
「よくいった! 死んでも敵へは渡せない! ……おやッ?」
「な、なんです」
と
竹童は、やぐら
柱にすがって
伸びあがっている
咲耶子のかげを下からあおいでいった。
「――
外城の方には、まだ
無事な
味方がいるらしい」
「えッ、なにか
合図がありますか」
「みだれた火の
影がチラチラとうごきだして、上へ上へと押してくる」
「おお、しめた! じゃ、咲耶さま、早く!」
と
手招きした。
ばらばらと
櫓梯子を
下りると、ふたりは
真一
文字に
奥郭の
内部へはいった。そして、
岩壁、
洞窟を
利用して
建てられてある、とりでの
本丸のなかへ走りこんだ。
具足部屋、
評定の
間、
寝所、みな広い
床張りで、そこには
毒死の
侍もなくしんとしている。
伊那丸の
留守に
錠口のさきからだれも人を入れなかったところなので――。
まッしぐらにぬけて、
軍師の
部屋の
扉を
開けた。
ここも、
小幡民部と
蔦之助と
小文治の三人が、ひそかに、
間道から
影をかくして、
三方ヶ
原へ立っていったのちに、ぜったいに部下をのぞかせずに、三人の
下山を
秘密にしていたところ。
ガラッと、
厚い
車戸を
押しあけて、そこへはいると、咲耶子と竹童は、まっくらな
床板を手さぐりでなでまわした。
例の
間道の口をたずねているらしい。
と。
指のかかるところがあった。
ここを
開ければ、八
合目の
柵、三の
砦、すべての
外城一
郭へはむろん、
麓へでもどこへでも自由に通りぬけることができる。
ふたりはまず、八
通の
間道をぬけて、いま山の
中腹にみえた
味方を
呼びいれてこようとするつもり。
であったが? ……
「ヤッ、
妙な音?」
床板をめくりかかった
竹童が、ギョッとした目を
咲耶子へ向けて、
「音がしますよ、妙な音が?」と、
息をのんだ。
ふたりははうようにかがみこんだ、間道の
蓋へ耳をあててみた。いかにも
妙な物音がする。ダッダッダッと地の底を打つような音――ゴゴゴゴゴという
騒音――それがだんだんに近づいてくる。
「
味方がくるんだ!」
竹童は信じることばに力をこめた。
「
頂上に
裏切り者がでたのを知って、
外城の者が一
挙にやってくるんです。そうにちがいない」
「じゃ、なおのこと、早くここを開いておいて、
篝火をつけておこうね」
「いや、篝火は待ってみたほうがいいでしょう。どこにどんな
裏切り者が鳴りをしずめているかも知れず、そいつらが、
他の
柵や
木戸の
出丸をやぶって、いっせいにさわぎだすと、いよいよ手におえなくなってしまいます」
とささやいていると、
不意に、
間道の下から、ドン、ドン、ドン! とはげしく
槍の
石突きでつきあげる者がある。
「
味方か?」
と竹童が
床へ口をつけて
呼ぶと、なにやらガヤガヤさわぐのがかすかに聞える。といっても、
分厚な
蓋がへだてているのでその
意味はわからないが、なにせよ、人間の声がうずまいているのは
想像される。
「
味方かッ?」
「おう!」
「
外城の者かッ?」
「おウ! 早くお
開けください」
――
野太いこえが遠くのように聞えた。
「――
砦の内部に
異端者があらわれましたので、
本城にも
変事はないかどうか、あんじて
駈けつけてまいりました。はやくお
開けください」
「よしッ、
心得た」
と、竹童、手をかけたが、
開かばこそ、石のような重さ、
咲耶子とともに力をそろえて、ウムと四、五
寸ほど持ちあげるとあとはすなおに、ギイと
蝶番がきしんで
径三
尺四
方の口がポンと
開く。
と、下からまっ
赤な火のかげが、
開いたなりに、パッと
天井へうつった。まるで四
角な
火柱のように。
すると、そのあかい
火光のなかからまッさきに、
「それ、
本丸へでたぞ!」
とおどりだしたのは、
胴服に
膝行袴をはいた
異形な男――つづいて
松明を口にくわえ、
鎖にすがって
無二
無三によじてきたのは、
味方と思いのほか、
猿のような一少年。
「あッ、
蛾次郎!」
「おう! 竹童」
と、せつな、火を
発したような
驚愕と驚愕。
異形な男は
鼻かけ卜斎であった。
八
通の
間道をさまよって、
小太郎山のふもとへぎゃくもどりをして、ウロウロしていた
伊部熊蔵と
小頭の
雁六そのほかの
鉱山掘夫をつれて、
地脈をさぐり方向をあんじて、ついにこの
城塞の
心臓を
突きとめてきたのである。
「しまッた!」
と
叫ぶまに、もう見ている
間だ!
蛾次郎のあとから
小頭の
雁六、
伊部熊蔵、そのほかあまたの
山掘夫たち、
防ぎようもなくヒラリヒラリととびあがって、たちまち
軍師の
間いッぱいになってしまった。
「おい、下にいろッ」
と、伊部熊蔵は
竹童の
肩骨をおした。
「…………」
竹童は肩をふってその手を
突っぱなした。
咲耶子もすわらずに、まわりの者をにらんでいた。
瞬間、おそろしいだまりあいのうちに、
双方の眼と眼だけがするどくからみあった。
とつぜん、ゲタゲタと
笑いだしたのは
蛾次郎で、
「おいおい竹童、あんまりびっくりしたんでぼうとしてしまったんじゃないか。いくら
民部や
蔦之助がいるように見せかけていたッて、だめだだめだ、おれも
親方も、ちゃんと
三方ヶ
原であいつらを見ているんだから。――もうあとの
空巣へは
大久保長安さまの人数が、
入れ
替りにふもとまで引っ越しにきているんだ。サ、おどきよおどきよ、どこへでも
退散しなよ、もう
小太郎山の
砦は、いまから
徳川さまの
持物になる、おまえみたいに、京都でお
菰をしてきたようなきたないやつは
飼っておけないんだ。サ、
咲耶子も一しょに山を
下りてゆけ、ぐずぐずしていると、
命がねエぞ」
城攻めの一番乗りでもしたように、
得意な色をみせてどなった。
「だまれッ」たたきつけるように竹童が
大喝した。
「だれが
砦をわたすッ、ここは
伊那丸さまの
小太郎山だ」
「
生意気な」と
熊蔵、年のいかぬ者とみくびって、
「それ、あの
舌の長い
小僧を、うしろ手に引ッちばッてしまえ」
「おうッ」
と
顎のさきから二、三人の
山掘夫、竹童の
襟がみを取ろうとして飛びかかった。
と――、咲耶子の
怜悧な目がキラと横にながれた。ひとりは彼女の
腕をもつかみにかかったが、ツイと身を横にひいて、すぐそばに、
松明を持って立っていた山掘夫のひとりを、ふいに、
部屋のすみへドンと
突いた。
「あッ――」
大の男が、もろくも
腰をくじいて、松明を持ったままうしろへたおれた。
部屋のすみには、たくさんな
火縄の
束が
釘にかかっていた。そこへ、メラメラと火がはいあがった。
ドドドドドド……ッ――と
地震のような
轟音は、その一
瞬に、あたりを
晦冥にしてしまった。
松明の火が
火縄にうつり、その真下に
積んであった
銃丸の
箱から
火薬の
威力を
発したのである。
しかし、
火薬も
鉄砲も、
当時まだ南海の
蛮船から日本へ
渡来したばかりで、
硝石の
発火力も、今のような、はげしいものではない。それに、
火縄の下にあったのも二箱か三箱なので、火に吹かれたのは
山掘夫の十二、三人、あとは
悲鳴の声のあがったのを見ても、いのちだけは助かったらしい。
咲耶子と
竹童は、
脱兎のように、
軍師の
間のそとへ飛びだしていた。そして、そのあとから
伊部熊蔵と
卜斎などが、黒けむりと一しょにはきだされて、ふたりのあとを
追いかけた。
まえの
井楼の下まできたとき、咲耶子は足をとめた。
「ちッ……」
なにかいおうとしたらしいが、いまになって
焔硝にむせんで、あとのことばがでずにしまう。
竹童も、ハッとふとい
息をついた。まッくろな
煙の
柱が、もくもくと
宙天におどりあがっているのを見る。……
「わ、わたしは、少し思うところがあるから、ここに
踏みとどまって、最後の力をつくします。竹童さん、おまえははやく
樺の林へもどり、あすこにつないである
鷲に乗って、ここを落ちておくれ、
後生です。早くここを、
逃げてください」
「に、逃げろッて?」
「ふたりとも、ここで
斬り
死してしまっては、
民部さまへ
事情を知らせる者がない」
「いやだ! いやだ、おいらは!」
生きのこった
山掘夫どもが、もう向こうからワッワッとわめいてくるようすなのに、竹童は
頑とそこをうごかないで、強くかぶりをふっていった。
「
逃げてゆくなんていやなこった、
小太郎山をとられるものなら、おいらも
砦と一しょに斬り死する! どうして、そ、そんなことをいって、
民部さまに
会われるもんか」
「アア、この場合、そんなことをいって、わたしをこまらさないでおくれ、ネ、竹童さん」
「イヤだ! 落ちてゆくなら、おまえひとりで逃げてゆきな」
「ま、なにか考えちがいをしていますね」
「なぜ」
「落ちるといってもけっして
卑怯でも
不義でもない。かえって、砦を
枕にして斬り死するより、
立派なつとめをはたすんです。ここでふたりが一しょに
最期をとげてしまったら、だれが、この事情を一
党の
方にしらせますか」
「でも……おいらは、そんな役目は
好きじゃない」
「こうしている一
刻が大事、たのむから、はやくクロを飛ばして」
「よし、おいらはすぐにまた帰ってくる」
「えッ、じゃ落ちてくれますか」
「クロを飛ばしていくなら一
羽ばたきだ。一
党の人を見つけたら、おいらはすぐに帰ってくる。
咲耶子さま」
「エ? ……」
「それまで、
樺の
奥へかくれこんで、
敵のやつに見つからないように」
「あ、
大丈夫、死にはしません」
「きっとだぜ!」
「アア」
「きっとだぜ」
「エエ」
「
短気なことをしちゃいけないぜ」
「アア、
加勢のくるのを待っています」
「おうッ、それじゃいそいでいってくる!」
竹童はヒラリと身をかえして、また
以前のお
花畑から
陣馬ヶ
原を
馳けぬけて、
愛鷲クロを
飼っておく
深林のくぼへ走りこんだ。
「クロ……」
林のくぼは
星の光もなく
真っ
暗だ。
「クロ! クロ!」
かれは
口笛をふいて
返事を待った。
鷲が返事をするわけもないが、いつも、かれがこの
林間へ足を
入れれば、
木の
葉をふむ音だけで、自分のきたことを知って、よろこばしげに、
爽快な
羽ばたきをするのがれいだ。
だのに? どうしたのだろう。
羽ばたきもなければ、ギャーッという
啼声もしない。
「
寝ているのかしら?」
鷲もいまごろは
眠るであろうと竹童はかんがえた。
だがだんだんにおぼえのある
喬木の根ッこにさぐりよって見ると、かれの
想像はまったくくつがえされて、そこには、
最前このへんにあつまった
城内の
裏切り者、
黒川八十松とほかふたりの者が、
肉を
裂かれてぶッたおれ、しかも一つの
死骸には首がない。そうしてかんじんな鷲のすがたは
影もかたちも
見当らない。
「やッ、
逃げたのかしら?
鎖だけが
残っている」
いかにも、
太い
樺の根こぶには、鷲をつないでおいた鎖だけが
残っている――そしてクロがいない――そして三人の
侍が肉を裂かれている、この
謎をなんと
解いていいか?
「わかった!」
征矢のごとく林を
馳けだした。
かれの目は
怒りにつりあがっている。
血走った
涙をたたえて空をあおいだ……
だが空にもクロは見えなかった!
裏切り者の
黒川八十松め、あれが、自分によって
飛行変現の
自在につかわれる
器だと知って、
逃がしたのだ!
鎖をきって空へはなしてしまったのだ。
人をのろわば
穴二つ、あの
猛禽の
鎖をきった三人は、立ちどころに、自分がはなした
鷲の
爪につかまれて、四
肢を
裂かれてしまったのにそういない。
思いあわすと、きょうはまだ一
回も、クロに
餌をやっていない。その餌にすべき小鳥やけだものを
狩りにいって、ちょうど、
陣馬へ帰ってきた時に、今夜の
騒動が起ったので、それなりにほうっておかれたクロは、さだめし
飢えていたであろうと思われる。
飢えた猛禽は、
折からよき
餌食と、三人の
荒武者の
肉をさき、
血をすすって、
樺の林からぬけあがった。
「やっぱり、
砦を
枕に死ねというしらせだ」
かれはいつになく、その
行方を
軽くあきらめて、ふたたび
黒煙のとりでへ
影をまぎれこませてきた。
「火をつけるな、
松明をほうるな」
そこでは
伊部熊蔵がさけんでいる。
「
焼城をとるのは
手柄が
小せえ、
生城をとるのは
大武功としてある。どうせもうこっちのものになる
城だ、向こうの火もはやく
伏せろ伏せろ」
と、
火薬から
燃えひろがりそうな
奥郭へザッザと水をかけさせている。
一方では二十人ほど、手をわけて
咲耶子のゆくえをさがし、また一方では
鼻かけ卜斎が、
腰に手をあてて
城塞のつくりを、しきりに見てまわっている。
と、れいの
扇縄の水の手に、だれかかがみこんで、ザブザブと顔を
洗いながら、ついでに、口を水面へのばして、チューッと
吸おうとしているやつがある。
見ると、泣き虫の
蛾次郎だった。
「ばかッ」
卜斎にどなられて、蛾次郎は、すいこんだ水を思わずガッと
吐きだして、
「
親方……?」
と、
叱られるのをけげんそうに、
「な、なにが、ばかなんで」
「
毒水だぞ、それは」
「げッ」
「すべて
城をのっとったさいには、そこらに
残っている
食糧や水はけっして口にすべきものじゃあない」
「ヘエ、そうでしょうか」
ペッ、ペッ、口のつばきを
吐きちらして、こんどは、
洗いかけていた
焔硝いぶりの顔のしずくを
両方の
袖で
拭きまわしている……。
とたんに、
「
卜斎ッ、うごくな!」
馳けだしてきた
竹童。
童髪かぜに立って
夜叉のようだった。
砦とともに死のうと
覚悟をしている彼。
ひゅーッと、
紫をかいて走ったのは
般若丸の
飛閃! あッと、卜斎は首をすくめ、
肩をはすにかわして、
斬りすべってきた竹童の
腕をつかんだ。
「親方ッ、手をかすぜ」
蛾次郎はうしろから
寄って、あけび
巻の
山刀、ザラザラと引っこ抜いて、スパーッと竹童の
背すじを
斬ったつもり。
腕もなまくら、刀も
赤錆、
上着一枚きれはしない。
「じゃまだ、どけッ」
つかんだ相手の腕くびをしめて、卜斎、
「ええッ!」
と
吠えたかと思うと、おそろしい
強力で、ブーンと竹童のからだをふり、
鞠でもとって投げるように、
扇縄の水の手へ、かれの小さなからだをほうりこんだ。
ドボーン……と、まっ白な
水柱があがった。まんまんとして
毒水の
波紋がよれる。ガバ、ガバ、と二つ三つ
苦しげな
息をしているうちに、波紋にまかれ、竹童のかげは、青ぐろい
池のそこへ見えなくなった。
ここは平和だ。あかるい朝。
まだ草の根には白い
霧がからんでいる。
向こう
側の
傾斜を見ると、
芝を
掃いたようなやわらかさである。しかし、その傾斜は目がまわるほど深く、きわまるところに、白い
渓流が
淙々と鳴っている。
どこからとでもなく、このあたりいちめん、
得もいわれぬ
好いかおりにつつまれている。朝の
陽が、ゆらゆらと
峡のあいだから
射してくると、つよい
気高い
香気が
水蒸気のようにのぼって、ソヨとでも風があれば、
恍惚と
酔うばかりな
芳香が
鼻をうつ。
人の知らぬ
小太郎山の峡をぬけて、
奥へ奥へと二
里ほどはいった
裏山、ちょうど、
白姫の
峰と
神仙ヶ
岳との三
山にいだかれた
谷間で、その渓流にそった
盆地の一
角を
杣や
猟師は、
緋おどし
谷とよんでいる。
緋おどし谷一
帯は、ほとんど
山百合の花でうまっている。むしろ
百合谷と
呼ぶべきところだが、その盆地に
特殊な一
部落があって、百合より名をなすゆえんとなっている。
渓流に架かっている
蔦のかけ
橋、そこを
渡ると部落の盆地、あなたに四、五
軒、
河べりに七、八軒、また
傾斜の山の
背にも八、九軒、
煙を立てている
人家があった。そして、そこに住んでいるのは、みな十五、六から七、八の
百合花そのままな
乙女たちばかりである。
修羅戦国の
春秋をよそに、
緋おどし
谷は平和である。
比叡、
根来の
霊山を
焼きはらって
惜しまぬ
荒武者のわらじにも、まだここの
百合の花だけはふみにじられず、どこの家も小ぎれいで、まどには
鳥籠、
垣には
野菊、のぞいてみれば、
壁や
床にも
胡弓や
琴。
だが、知らぬものにはふしぎな
郷だ。
林檎色の
頬をした、健康そうな少女たちばかりすんで、いったい、なにを職業とし、父や兄や
祖父などはないものかしら?
まさか、
女護ヶ
谷でもあるまいに。
それは。
みんな冬にはかえる少女だ。
雪を見れば
甲府へかえり、春になれば夏のすえまで、少女ばかりでこの谷にくらしている。
で、
目的は? やはりかせぎにくるのである。そしてその
一棟一棟で、みな職業がちがっているのもおもしろい。
河べりに近い
家では、糸や
麻をさらしていた。そのとなりでは
染物をしている。また一
軒では
鹿皮をなめし、
小桜模様、
菖蒲紋、そんな
型おきをしている
家もあった。
ここの
渓流では
砂金がとれる、砂金をうって
鎧小太刀の
金具をつくる少女があり、そうかと思うと、
皮をついで
絹糸で、
武具の
草摺りをよろっている
家も見える。とにかく、ここでは、
革、
草摺り、
旗差物、
幕の
裁縫、
鎧下着、あるいはこまかい
つづれ錦、そのほか
武人の
衣裳につく物や、
陣具の
類をつくるものばかりが
棲み、そして、それがみなかわいい少女の手に
製作されていた。
この
渓谷の水が
染物によく
適し、ここの
温度が
革づくりによいせいだというか、とにかく、
緋おどし
谷の
開闢は、
信玄以来のことである。
そこへ。
けさふとすがたを見せたのは、
峡をつたって、
小太郎山から
眠らずにきた
咲耶子である。
向こうがわには、
緋おどし谷の
部落をながめ、だれか
渓流にくるのを待っていると、やがて二、三人の少女が
染桶と糸のたばをかかえて、あかるい笑いをかわしながら、
川床へ
下りてきたようす。
咲耶子は、ゆうべのことで、
苦悶の色のかくせぬ中にも、それを見ると、ニッコとして、
帯のあいだの
横笛を
抜き、しずかに、
歌口をしめしだした。
鳴る!
ゆるい、笛の
音、高い笛の音。
「おや?」
河原のしろい顔が、みんな一しょにこっちを見た。
笛が――
咲耶子のしろい手に高くあげられて、横に
縦にうごいている。
合図であろう!
それを見ると、少女のひとりがなにかさけんだ。それにおうじて、あなたこなたの
家から、ワラワラワラ
馳けだしてくる。みんな同じ
下げがみの少女、みんな同じ年ごろの少女、みんな
凜々しい
紅頬の少女。
みるまにちょうど三、四十人、
蔦のかけ
橋を
踏みわたって、あたかも
落花の
散るように、咲耶子のいる向こうの
峡へ
馳けてくる!
笛は、早く早くと
呼んでいた。
緋おどし
谷の
胡蝶たち、胡蝶の
陣を
組むのである。
蔦のかけ橋をいっさんにわたって、咲耶子のすがたをあてに走ってきた少女の
群れは、みるまに近づいて、さしまねかれた笛の下へ、グルリと、
花輪のように
集まった。
「――まいりました、咲耶子さま」
「なにかご用でございますか」
「いつになくおわるい顔色」
「どうしました?
咲耶子さま」
「おっしゃってくださいまし、わたくしたちのする用を」
いきいきとした少女たちの
眸、みな、なつめのようにクルッとみはって――そしてまだ心配そうに、中央に立ついちばん
背丈の高い人を見あげた。
小太郎山にすむ咲耶子と、そこから近い
緋おどし
谷の者たちとは、しぜん、いつのまにかしたしくなっていた。かれらはみな、咲耶子を山の
女神のようにしたい、咲耶子はまたみなを、妹のように愛していた。
ことに、かれらはすべて、おさない時から
子守歌にも
信玄の
威徳をうたった
血をもっている
甲斐の少女だ。国はほろびても、その
景慕や愛国の
情熱は、ちいさな
胸に
燃えている。
げんに。
いま彼女たちが
緋おどし
谷でつくっている、
具足や
幕や
旗差物や、あるいは
革足袋、
太刀金具、
刺繍、
染物などの
陣用具は、すべてそれ
小太郎山のとりでへ
贈るべきうつくしい
奉仕だった。
――そのたのもしい少女は、ちょうど三、四十人ほどそこにいた。
咲耶子は
夜来の
変事をつぶさに話して、いまに、この谷へも、
大久保長安の
手勢がきて、小太郎山の
砦どうよう、ぞんぶんに
蹂躪するであろうとつげた。
「――ですからおまえたちはすこしも早く、だいじな品物や、仕事の
道具を取りまとめて、めいめいの
郷へお帰りなさい。そして
後日、ふたたび小太郎山に
武田菱の
旗印を見たならば、またその時は、
緋おどし
谷へきておくれ、そして、
仲よく
刺繍をしたり
染物をしておくれ。わたしは、それを知らせにきたのです」
意外!
かなしい別れの言葉であった。
巴旦杏のようにかがやいていた少女たちの
頬は、みているまに白くあせて、
眉はかなしみに
曇った。
袖をもって顔をおおう少女もある。
拭くのも忘れてあきらかに
涙の流るるにまかせている顔もある。
だが。
それはやがて、強い
敵愾心とかわって、
哀別をこばむ決心が、だれの
唇からともなく、
「イエ!」
「イエ!」
「イエ!」
とはげしくほとばしり、みなそろってかぶりをふった。
「わたしたちは帰りません!」
ひとりの声が
凜という。
「このまま
郷へ
逃げかえって、父や兄に
問われた時、なんと、小太郎山のことを話しましょう」
「あ……」
と
咲耶子は、その
純真な
叫びに、
魂をつかまれてゆすぶられるように感じた。
「――
砦のさいごを見とどけとうございます。咲耶子さまのおさしずについて、なろうものなら戦います。
家康の
家来大久保長安、あれはいま
甲府の民を苦しめている悪い
代官、その
手勢とたたかうことは、父や
兄妹の
仇に向かうもおなじことです」
「…………」
「ねえ、咲耶子さま!」
「…………」
「つねに
練りきたえている
胡蝶の
陣を
組みましょう。ふだん
武芸をはげむのも、こういう
場合のためにではありませぬか」
「オ……」
「ここにいる残らずの者は、みな一ツ心じゃと申しております」
「オオ……」
その言葉を待っていた咲耶予の
頬は、思わずしらず、
感激のなみだが
玉となってまろばった。
おなじ朝――
時刻はそれより一
刻半ほどまえのこと。
むろん、まだ夜は
白みかけたばかり。
砦はゆうべの
酸鼻な空気をおどませて、
輝きのない朝をむかえていた。
伊部熊蔵や
山掘夫どもや、あとからくりこんだ
大久保の
手勢は、みな、
貝殻虫のように、砦の
建物にもぐりこんで
寝ているようす。
ただ
城楼高きところ――
下り
藤大久保家の
差物と、
淡墨色にまるく
染めた
葵の
紋の
旗じるしとが目あたらしく
翩翻としている。
ピイッ! ピピピピッ。
一
羽の
翡翠。
いつもの朝のとおり、るり色の
翼をひるがえして、
扇縄の水の手へとんできた。そして、
翡翠がもつあの長いくちばしで、水に
棲むハヤというちいさな魚をねらいに
降りた。
――と思うと翡翠は、バッと水面をつばさでうっただけで、風にさらわれたようにすッとんでしまった。
名人の
矢に
狂いはあるとも、翡翠が魚をくわえそこなうなんていうことはけっしてないのに。
と見ると、その朝にかぎって、
扇形の
貯水池には小さなハヤや大きな
山女が、白い
腹を
浮かせて死んでいるのだ。あの強そうな赤い
山蟹まで、へろへろして水ぎわに弱っていた。
「こりゃあいけねえ」
それを見て、水をすかしているふたりの
士卒がいった。
大久保勢の
兵糧方、
飯や
汁を
煮炊する身分の
軽い兵である。
「ゆうべ
水門を
開けておかなかったから、まだこの水の手には
毒がよどんでいるんだ」
「それじゃ、朝の兵糧を炊くのにさっそくこまるぜ」
「――
掃除をして新しい水を
入れかえなけりゃ……」
「やっかいだな、こんなわるさをしやがって」
「城をとるやつは、兵糧方のこまることなんか
眼中にはない。
攻め取りさえすればいいんだから」
「そしてグウグウ
寝ていやがる」
「眼がさめると、おれたちがこしらえた
汁や
飯をたらふくくらって、
自慢話でいばりちらす……考えてみると、兵糧方はわりがわるい」
「オイ、ぐちをこぼしてもしかたがねえ。早く水を
代えておこうじゃねえか」
「そうだ!
陽がのぼってきた」
ふたりは水の手の水門をのぞきこんだ。そして、かんぬきをぬいた。
「オヤ」
「どうした?」
「
藻がからんでいて
開かねんだ」
「あッ……おい、藻じゃねえぞそれは。
死骸だ! オオ
土左衛門だ」
「えッ、人間か?」
と、ひとりがかんぬきの先で
突きだした。
もくり……と
毒水の
波紋がよれたかと思うと、
俯ッ
伏せになった
水死人が
水草の根をゆらゆらとはなれる。
蒼ぐろい
透明のなかにたれている手が、ギヤマンをすかしたような色に見えた。それは、夜が明けようとするまえに、
卜斎のためこの
池に投げこまれた
竹童だ――手につかんでいるのは
般若丸の刀である。
浮いている
髪のさきから、ツイと、
水馬が二、三
匹およいだ。
兵糧方の
足軽が、水面に目をみはっていた時だ。
とつぜん。
あらしのような風の音が、
宙をうなってきたかと思うと、ふたりの目の前へ、空からなにか勢いよく落ちてきた。
「あッ」
ドボーン! ……と
西瓜大のくろい物?
いちど深く
沈んでから、ボカッと、あわだった水面に
浮きあがってきたのを見ると、
若い
武士の
生首だ。
胴のない生首は、胴をかくして立ち
泳ぎをしている人間のように、グルリとまわって、
足軽のほうへ顔を向けた。
「おッ……
黒川八十松さまの首だ!」
驚くまもあらず、ごうーッと一
陣の
強風にのって、ひくく、黒雲のように、
旋舞して
降りた
大鷲があった。
とたんに、
扇縄の水の手一つからザアッと
龍巻がふきあがったかと見れば、
非ず! いきなり鷲のくちばしが、
竹童の
帯をくわえて
宙へ立ったのである。
高くつりあげられた竹童のからだから
夕立のような水しずくが
降る!
「あ、
怪物ッ」
宙をとんだふたりの
兵糧方。
早、
腰をぬかさんばかり驚いて、
具足のままあっちこっちに
寝ている
武士を
起してまわった。
「
逆襲? ……」
「
朝討ち?」
寝ぼけまなこに
得物をとった
侍や
山掘夫どもは、
稀有の大鷲が少年をくわえて
舞いあがったと聞き、
興味半分にワラワラと
貯水池のほうへ
馳けてきた。
だが――ゆうべ
陣馬ヶ
原で、おそろしい
経験をなめているものは、
「あぶないぞ、
油断するな」
と、走りながら、
周囲の者へせわしく話した。
扇縄の水の手へ、首となって落ちてきた
黒川八十松は、
城攻めの最中に、
樺の林につないであった
竹童の
鷲の
鎖を切ったのだ。そしてかえって、鷲のために
食いさかれて、
非業な死をとげたのだ!
「あぶないぞ、あぶないぞ! あの鷲は
敵と
味方をちゃんと
見分けている。だから、八十松の首をくわえていたんだ。そして、竹童をすくいに
降りてきたんだ」
「気をつけろよ、うっかりしてあのすごい
爪につかまれるな」
注意をしながら
駈けてきた。
しかし――
鷲の
雄姿は、もう貯水池のまわりには見えなかった。
「おッ、
井楼櫓の
屋根にやすんでいる」
とだれか見つけて、またいっせいにそのほうへ
駈け向かっていく。
「わアーッ」
と
諸声を合わせたので、
翼を
休めていたクロは、さらに
羽をうって
舞いあがった。けれど、さすがな
大鷲も、二、三
歳の
嬰児なら知らぬこと、竹童ほどな少年のからだをくわえてそう飛べるはずはない。
水面からそこへうつったのが
極度の力であったろう。
櫓の上を
離れると、さすがに強い
猛鷲も、むしろくわえている
重量に引かれこんでゆく
形。
みるまに、下へ――下へ――下へ――。
むこうの
峰までは
渡りきれずに、千
仭のふかさを思わす
小太郎山の
谷間へとさがっていった。
と、見えたが、また。
ついに、くちばしでもちきれなくなったのか、とちゅうで、
鷲と
竹童のかげは二つに
別れてしまった。
落ちていった小さな
黒点は、目にもとまらず
直線に
谷底へ、――そして
狂った
大鷲は、せつな!
筒をそろえて
釣瓶うちに
撃ってはなした
鉄砲組の
弾けむりにくるまれて、一
瞬、その
怪影は見えなくなった。
「あ。竹童め、
運のいいやつだ」
鉄砲組のうしろに立って、
宙を見ながら、こうつぶやいた人間がある。
蛾次郎をつれた
鼻かけ卜斎だった。
聞きとがめてヒョイとうしろを向き、
「なぜで?」
とたずねたのは
伊部熊蔵。
毒薬をながした水の手へ投げこまれ、そのうえにまた、
鷲にくわえあげられて、千
仭の
谷間へ落ちていった竹童が、どうして
運がいいんだか、こんなわからない話はない――という顔で。
ところが
卜斎、また同じ言葉をかさねて、
「まったく運の強いやつだよ」
と、少し、くやしそうな顔をした。
「なぜですな?
卜斎殿」
「あいつめ、いまに
蘇生します。運がいいじゃありませんか」
「へえ、あの竹童が」
「ゆうべは
真っくらでわからない。いずれ
毒水を
呑んだろう、朝になったら
念のために、生死をたしかめにいこうと思っていたところなので」
「なるほど、竹童を投げこんだのは、
貴公でございましたな」
「ところがいま見るに、あの鷲が宙へつりあげた。それをもって見るに竹童め、わしが水の手へ投げこんだとたんに、
杭か岩の
角で
脾腹をうち、気をうしなったにちがいない」
「ウ……ウム? ……」
「で、ついに、
毒水を
食らわなかった。水を食らえば体重は
倍の上にもなるゆえ、けっして、いくら
大鷲でもくわえて飛べたものじゃない」
「だが、あの
谷間へ落ちていっては、五体みじんとなったでしょう」
「イヤイヤ、あそこは深い
檜谷、何百年も
斧を
入れたことのない
茂りだ。落ちても
枝にかかるか深い
灌木の上にきまっている」
「そりゃいかん!」
伊部熊蔵はにわかにあわてだした。そして、それッと、
周囲の
武士を
指揮して、
「朝めしまえの一仕事に、
竹童のからだをさがしだせ」
といいつけた。
「はッ」
というと
鉄砲組の中から五、六人、
足軽十四、五人、
山掘夫四、五人――
小頭の
雁六も一しょについて、まだ
朝露のふかい
谷底へ
降りていった。
「おいおい、おいおい。そんな
方角じゃあない。もっと右の方だ、右の方の道を
降りろ。まだまだずッと
沢の方――あの
檜林がこんもり
茂っている向こうの谷だ」
熊蔵はあとにのこって
煙管をくわえ、その煙管で、しきりと上から方角をおしえている。
卜斎も
崖ッぷちに
腰をかけて、大きな
革の
莨入れを引っぱりだした。煙管もがんこなかっこうである。もっともそのころは、まだ
煙草というものが
南蛮から日本へ
渡ったばかりで、そういう
道具もすこぶる
原始的なものだった。
すると、
側にいた、
蛾次郎のやつ。
「くッ、くくくく……うふッ……うふふふふ……」
と横を向いて
笑いだした。
なにをおかしがるのかと
伊部熊蔵がふりむくと、蛾次郎は口をおさえて、横にすましている
卜斎をそッと
指さした。
卜斎はなんにも知らず、がんこな
煙管を
斜にもって、スパリ、スパリ、とふかしている。
見ると、かれの
鼻の
穴から、ゆるい
煙がでるのである。だれにしたって、
煙草を
吸えば鼻の穴から煙が出る。なんのふしぎもありはしない。
だけれど、いったん鼻かけ
卜斎先生が煙草の煙をすって
吐く
段になると、一方の鼻の穴からは
尋常に
紫煙がはしり、一方の穴からでる煙はそッぽへ向かって
噴出する。
だから二本の煙が
大股にひらいてでて、かたわの
鼻が顔中にいばっているような
壮観をあらわすのだった。
「な、なるほど。こいつはおそれいった鼻だ」
と、熊蔵も吹きだしたいのをがまんして、横を向きながら
腹の
皮をおさえた。
ゆうゆうと紫煙をふかしていた卜斎は、はなはだ、けしからん顔つきで、
(なんじら! なにを笑うか?)
と、口にはださないがギョロギョロした。
雲ゆきが悪い! 気がつかれては
大へんだぞと、そういうことには
敏感な
蛾次郎、ポイと立って
断崖のふちから谷をのぞきこみ、
「ウーム、みんな見えなくなった。いまに
竹童をかつぎあげてくるだろうな……」
と、つまらないひとりごと。
「
親方」
「なんだ!」
はたしてごきげんがわるい。
「まだ
兵糧をくばってきませんネ」
「
寝るから起きるまで、
食うことばかりいってやがる」
「いえ、わたしゃなんともないけれど、親方が、
定めしお
腹がなんだろうと思って」
「よけいな
心配をするな」
「へい」
「それよりきさまも
谷間へ
降りて、なぜご一同と一しょにはたらかないか、なまけ者めが」
「オッ、帰ってきた!」
ジッと見おろしていた
伊部熊蔵が、こう
叫んで待ちうけていると、そこへ
小頭の
雁六、どうしたのか
真ッ
青になって、
息をあえぎながら
登ってきた。
「いかがいたした、ほかの者は?」
上がりきらぬうちから
熊蔵がこう
急くと、
雁六は
額のきずで、
片目に流れこむ
血をおさえながら、
「た、
大へんです」
うなるがごとき声だった。
「谷へ
降りた者は、ひとりのこらずみな殺しにされてしまった! 熊蔵さま、わ、わっしだけ、ようよう
逃げてきたんです」
「な、なんだッて」
熊蔵は、
踏ンがけている足もとが、地すべりしていったかとばかり
驚きにうたれて――。
「ど、どういう
仔細で? まさか、
竹童が」
「その竹童のからだをさがしに、だんだんうすぐらい
檜谷へ
降りてゆくと、ピューッと、
鵯でも
啼いたような、
笛の
音がしたんです」
「ウム、そして?」
「と一しょに、頭の上から
疾風のような
手裏剣が飛んできて、バタバタと四、五人ふいに
打ッたおれたので、あッといったがもうおそい。……
檜の上や
笹むらのなかから、ひらひら、ひらひら、まるで
蝶々のようなやつ、三、四十人の女です」
「女?」
「
霧のように
消える、またワッと
蛾のように
舞い立つ、それでふしぎな
陣になっていて、こっちは
煙にまかれたようです。
逃げる、ふせぐ、
斬り合う、
火縄をつける、まごまごしているすきだってありゃしません。谷間へ落ちたり、
渓流へすべりこんだり、かよわい女の切っさきに、大の男がさんざんのていです」
「ウーム、ちくしょう、
咲耶子のしわざだなッ」
「そうだ!」
と、うしろでヌッと
卜斎が立ちあがった。
「
裾野でいちど見たことがある。――
謙信流、
楠流、
永沼流、
小早川流、
甲州流、
孔明流、
唐の
孫武陸子の兵法にもない
胡蝶の
陣! あれは
咲耶子が
野武士で
馴らした
得意ふしぎな
陣法ですよ」
木魂! 木魂!
鉄砲木魂。
つるべうちにぶっぱなした
銃火の
轟音は二
倍になってきこえた。
檜谷いちめんの
暗緑色な
木立のあいだから、白い
硝煙が
湯気のようにムクムクと
大気へのぼる。
むこうの
峡で
笛が鳴った。
と。
もんぺを
穿き、白の
髪止めをしめた一
団の少女たちが、ひとりの
童の手足をもってたすけあい、
森から
沢へ、沢から
渓流へ、
浅瀬をわたってザブザブと峡の向こうへよじのぼる。
鳴る、鳴る、鳴る! 笛はまたさらに
高音をつづけて鳴る。
バラバラと峡のがけから
細道へ
降りてくる少女が見えた、上から手をのばして
童をうけとる。その
敏捷なことおどろくばかり、
螺旋状の
細道を
奥へ奥へと見ているうちに走りだした。
と思うとその
半数は、どこかへこつぜんと見えなくなった。
「それッ」
「どこまでも
追い
撃ちをかけろ」
渓流を
越えて
追撃してきたのは、
伊部熊蔵と
雁六をせんとうにした一
隊である。
みな、谷川で
火縄を
濡らしてしまったので、
鉄砲をすてて大刀をぬく。
槍を持った者は
石突きをついてポンポンと石から石へ飛んであるく。こういう
場合は、
南蛮渡来の
新鋭な
武器もかえって
便がわるい。
道案内は
地学家の
鼻かけ卜斎、その
腰についてあるくものは天下の泣き虫
蛾次郎である。
蛾次郎はすばらしくこうふんしてしまった。
司馬仲達を
追ッかけまわす
孔明のごとき高き
気概。なんだか、自分ひとりの
威勢のために、
咲耶子の
胡蝶の
陣が
逃げくずれてゆくような気持がして――。
すると、
不意に――
峡の細道から三、四人、
芋虫のように
渓谷へころげ落ちた。あッ……と
仰ぐと、天を
摩す
楢の木のてッぺんから、
氷雨! ピラピラピラ
羽白の
細矢がとんでくる。
梢の葉がくれ、楢に花が
咲いたように、
半弓を持った少女が十二、三人ほど見えた。
タジタジとあとへひいた
熊蔵の一
隊、
槍をそろえ、
白刃をかこんで、
下りるところを待ちかまえたが一
陣、楢の梢が
暴風のようにゆすぶれたかと思うと、
落花?
胡蝶?
否、それよりも
軽快に、彼女たちのすがたは
枝から枝へとびうつり、つぎの
樹からつぎの樹へ、そしてついに思わぬところの
崖へ――
山千鳥かとばかり
散ってしまった。
大久保長安の
後詰の
手勢、百人ばかりはべつな道から
緋おどし
谷へ向かっていた。
糸染川と
神仙川の
合流するところで、熊蔵の一隊と一つになり、
聖地のごとき
百合の
香花を
踏みあらし、もうもうとした
塵をあげて、れいの
蔦のかけ
橋まで
殺到した。
「おお、こんなところに
人家がある」
「あの
女雀どもの
巣であろう」
「それッ」
「
片ッぱしから火をかけてみな殺しにしてしまえ」
「いや、
手捕りにして、とりでの
下婢に
こき使ってやるのもよいぞ」
「かかれ!」
殺気をみなぎらした百六、七十人の
軍兵が、いちどきにドッとかかったので、
蔦のかけ橋は
弓なりに
しなって左右にゆすぶれ、いまにも、ちぎれて
渓谷へ人間をブチまけてしまうかと思われた。
人家へせまるとその人数が、ワアーッと
鬨の声をあわせた。まんいち、
計りごともやある? と
武者声をたけらして、
敵の
反応をさぐるのだった。
すると――
討ってでる敵はなかったが、どこからともなく
幽玄な
妙音をまろばしてくる
八雲琴の
音があった。
「やッ……
琴の
音がするッ?」
慄然として
武者足がとまってしまった。
温熱のような
殺気は
弾琴の
音に吹きはらわれて、ただ、ぼうぜんとふしぎそうに耳をすます軍兵の眼ばかりが光り合う。
なぜ?
血を水のごとくに見る
荒武者が、やさしい琴の音などにすくまってしまったのだろうか。
中にまじっていた
卜斎は、そういぶかしく思ったが、それをあやしむ彼
自身が、すでに
妙な
錯覚にとらわれて、
疑心暗鬼を
眼底にかくしていたことを知らなかった。
ひとりこの時かまわずに、
琴の
音のする家のほうへかけだしていったのは、
蛾次郎であった。
だが、かれの行動は、だれより
勇敢といえるだろうか。それは問題としても、蛾次郎が来たままかけぬけていったのは、
錯覚などを
起すほどこまかな
神経を持ちあわせていない
証拠にはなる。
(いい
間諜が行った)
というふうに一同は
遠巻きにしてながめている。
みんなが見ている!
蛾次郎はヤヤ
得意のようすだ。
ふりかえってニヤリと
笑う。そして
小高いところへのぼった。
雅人の
住居でもありそうな
茅葺の家、
筧の水が
庭さきにせせらぐ。ここは
甲山の
奥なので、
晩春の花
盛夏の花、いちじにあたりをいろどって、
拭きこまれた竹の
縁、
塵もとめずにしずかである。
おくゆかしい
萩垣根。そこから蛾次郎、
鼻くそをほじりながら、
背のびをしてのぞきこんだ。
「あッ、人がいら……」
しかり、人がいる。
女性である。うつくしい人。
琴台の上に乗せてあるのは、二
絃焼桐の
八雲琴、心しずかに
奏でている。そして、ふと
琴の手をやめ、
蛾次郎のほうをふりかえった。
蛾次郎は自分の顔がポッと赤くなったかと思って、どぎまぎと眼をまよわせたが、また
見直すと、それどころじゃない、琴台の前にいるのは
咲耶子ではないか。
「あッ……」
首を引ッこめると、
「蛾次郎ですね」と、おちついた声。
「いいところへきてくれました。
手勢をここへ
呼んできてください」
「
あかといえ!」
蛾次郎、
垣根のそとで
逃げ
腰になりながら、
「そういくたびも、
胡蝶陣の
計略にひッかかってたまるもんかい」
「うそではない、もうどんなことをしてものがれぬところ、わたしは
覚悟をきめました。ほかの者を助けるためにね」
「じゃ、おめえひとりなのか」
「
罪のない少女たちを、
斬り
死させるのはかわいそうです。あのひとたちの
親兄弟にすみません。だから……」
「ほんとか? まったくか?」
「この通り
小袖を
着かえ、
髪をなおし、うすい
化粧までしているでしょう。これが
覚悟の
証拠です。わたしを
縄にかけて、
甲府へでも、
浜松城へでも
送ってください」
すると、とつぜんに、
「
神妙!」
と、うしろから
縄をまわした者がある。
裏口からはいってきた
卜斎であった。と――一しょに、ドカドカと
槍や刀や
鉄棒をひっさげた
武士のすがたが、庭へあふれこんできた。
「あ、待ってください」
「
未練をいうなッ」
「いえ……」
と、
咲耶子は、ねじとられた手をしずかにもぎはなした。そして
指の先の
琴爪を
抜いて、
高蒔絵のしてある
爪筥のなかへ、一つひとつていねいに入れた。
そこは
甲府の
城下にでるとちゅうであった。
虹の
松原の
針葉樹のこまかい
日蔭を、白い
街道がひと
筋にとおっている。
緋おどし
谷の
山間から、かわるがわるに
手車を
組んで
竹童を助けだしてきた少女たちは、その松原の横へはいって、しきりと彼を
看護していた。
気絶したがために、さいわいとあの
毒水を
呑まなかった
竹童は、多少の
傷や
痛みはあったが、やがて
真心の
介抱をうけて、かなりしっかりと気がついた。
「
咲耶子さんは?」
息を吹ッかえすと、第一にでた
問い。
「
小太郎山は? 咲耶子さんは?」
「咲耶子さんは……」
おうむ
返しにそういって、少女たちは急にかなしい
表情にくもった。
「エ、どうしたい?」
「竹童さんを助けたいために、わざと
緋おどし
谷にのこって、自分から
敵の
生捕りになりましたの」
「なんだって?」
ぼうぜん――なにを見るのであろう竹童の目。
いっぱいな
涙になってしまった。
「さかさまだ! さかさまだ!」
かれはみなをおどろかせて
叫びだした。
「おいらを助けるために、あのひとが
捕まってゆくなんて、そ、そんな、さかさまごとがあるもんか」
「ですけれど、竹童さん」少女のひとりがなぐさめ顔に、
「わたくしたちも泣きながら、七
里の
山路を歩いたのです。もうおよばないことですから、このうえ、
悲しいことをいわないでくださいまし」
つぎの少女が口をそえた。
「そのかわりに、あなたは
体をしっかり
癒して、
伊那丸さまや
民部さまに、
小太郎山の
砦のしまつを、くわしくお
告げしてくれとおっしゃいました」
三
番目の少女がつげた。
「そして、みなさまの
救いの手を、
敵のなかで待っていますと」
竹童はもうそういう
言伝などを、じッと、聞いていなかった。どこか、
骨節がつよく
痛むのであろう、キッと口をゆがめながら、松にすがって立ちあがった。
「あ、どこへ?」
「竹童さん、どこへ?」
「竹童さーん!」
呼べどふり向きもしなかった。
「ア、ア、あッ……」
と、不安そうに見おくる少女たちの
視界をはなれて、とちゅうから、
脱兎のごとく
駈けてしまった。
肉体の
生命が
奇蹟的に
無事だったかわりに、あの少年の
精神に
狂気が
与えられたのではないか? 少女たちは
虹の
松原からめいめいの
都へ帰った。
臥薪嘗胆の文字どおりに、
伊那丸と一
党の
士が、ここ一年
余に、生命を
賭してきずきあげた
小太郎山の
孤城。そのただ一つの物から、
再起の
旗印を引きぬかれて、それに
代る
徳川家の
指物が立ってからすでに半年。
天下は秋となった。
落寞とした
甲山の秋よ、
蕭々とした
笛吹川の秋よ。
国ほろびて
山河かわらずという。しかし、人の
転変はあまりにはなはだしい。たとえば、いま
甲府の
城下を歩いて見ても、
逢うものはみな
徳川系の
武士ばかりだ。
金鋲の
駕、
銀鞍の馬、
躑躅ヶ
崎の
館に出入りする者、
誇りはかれらの上にのみある。
隆々と東海から八方へ
覇翼をのばす
徳川家の一
門、その
勢いのすばらしさったらない。
「おなじ
武家に
仕官をするなら、
足軽でも徳川家につけ」
当時、
浪人仲間でそういったくらい。
ゴ――ン、ゴ――ン。
彼岸にちかい秋の町を、
鉦をたたいて歩く男があった。そのゴ――ンというさびしい
音は、いま、
甲府塗師屋町の四ツかどをでて、にぎやかで道のせまい
盛り
場の
軒下をたどってくる。
かれの
歩むにつれ彼の手から、
紙でつくった
桃色の
蓮華の
花片がひらひら
往来へ
散らばった。
その
蓮華のあとを
慕って、
「おじさん、紙おくれよ」
「おじさんおくれよ」
「紙をよ、紙をよ」
「紙をおくれよ、おじさん」
と、こまッかい町の子供が、
二十日ねずみのようについてあるく。
どこの国からきた、どこのお
寺の
行人であろうか、
天蓋に
瓔珞のたれたお
厨子を
背なかにせおい、
胸には
台をつって
鉦と
撞木をのせてある。そして
行乞でえた
銭は、みなその
鉦のなかにしずんでいた。
うしろへまわって、お
厨子をのぞくと、
金泥のとびらが
開けてあって、なかには一
基の
地蔵菩薩の
像がすえてある。そのまえには、秋の草花、
紅白のお
餅、
弄具や
よだれ掛やさまざまなお
供物が、いっぱいになるほどあがっている。
「ああ、そんなにまえへまわると、おじさんが歩けなくなるじゃないか」
こういって
地蔵行者は、小さい手に取りまかれながら、背なかあわせに
負っている
地蔵菩薩とそっくりのような人のよい
笑顔をつくった。
「よウ、よウ、よウ、おじさんてば」
「紙おくれよ、さっきの紙をさ」
行者はニコニコ見まわして、
「いまあげるよ、あげるから、けんかをしちゃいけない、おとなしくして……」
ふところから
刷り物の紙をだして、
仲よくひとりへ一枚ずつくばってあたえる。見ると、なるほど、子供が
欲しがりそうな美しい刷り物。
むらさき色の
地へ、
金泥で
地蔵さまのおすがたが刷ってある。そしてそのわきには、こんな
文句が書いてあるのだ。
親のない子。家のない子。まずしい子。
地蔵行者はそれをさがしてあるきます。
見つけて幸せにしてやりたいとて歩きます。
教えてください。あわれな子を。
竹生島可愛御堂の堂守
菊村宮内
「家へもって帰って、お
父さんや
姉さんや
兄さんにも見せておくれ。そして、かわいそうな子供がいたら教えておくれ。おじさんはまたあした、同じところを同じ
時刻にあるくから……。え? あさってかね、あさってはまたさきの町さ、わしは、そうして
諸国をまわる
旅人だもの」
ゴ――ン、ゴ――ン、ゴ――ン。
鉦をたたいてさきの町を流した。
地蔵経を
誦して
門へたち、
行乞の
銭や
食べ物は、知りえた
不幸の子にわけてやる。ほんとに
親も家もない子供は、自分の
宿へつれて帰って、
奉公口までたずねてやる。
戦国の
巷に
見捨てられているおさない者のために、
竹生島の
神官菊村宮内、とうとう
琵琶湖のそとへまででて、地蔵行者の愛をひろめようとした。
ちょうど、
甲府の
城下へはいってから、
二日か
三日目の
午である。宮内は、馬場はずれの
飯屋の
縄すだれを分けてはいった。
すると、そこのうすぐらい
土間のすみに、
生意気なかっこうをした少年がひとり、
樽床几にこしかけ、
頬杖をつきながら
箸を持っていた。
「おい、おやじ」
と、その
生意気が年上の
亭主にいう。
「なんだいこの
魚は? いくら山国の
甲府だって、もうちッと、気の
利いたものはないのかい」
「それは
やまめといって、みなさまがおよろこびになるお魚でございますがね」
「みんな
田舎者だからよ。おれなんか、京都であんまりぜいたくをしてきたせいか、こんな
古い物は
食えねえや、ベーッ、ベーッ、あー、まずい。なんかほかの
食べる物をだせやい」
「じゃ、
こんにゃくとお
芋はどうでございましょう」
「
芋なんて
下等なものはきらいだよ」
「へえ、
蓮根、
焼豆腐、ほかには
乾章魚の
煮ましたものぐらいで」
「ちっとも、おれの
食慾をそそらないぞ」
「さようですか」
「乾章魚をおだし、がまんして
食べてやるから」
と、
箸で皿をつッころがした。
おそろしくいばった
生意気、まるで
大名の
息子のようなことをいっている。やはり都会の少年の中には悪い
癖があるなと、
菊村宮内、なんの気なしにひょいと見ると、都会の少年ではない
裾野育ち――
竹生島ではさんざんお
粥をうまがって
食べたかの
蛾次郎だ。
「あれッ? ……」
と、蛾次郎は目をまろくして、菊村宮内の
顔を見た。そして、しゃぶッていた箸で打つようなまねをしながら、
「めずらしいなア、エ、どうしたえ、
大将!」
宮内はあきれかえって、
返辞のしようもない顔つき。
永いあいだ
薬餌をとってもらった
生命の
恩人――それは
忘れてもいいにしろ、いきなり
大人をつかまえて頭から、大将! とは。
「おや、おまえは……」
宮内はさらに眼をまろくして、
蛾次郎のまえにある一本の
徳利と、かれのドス赤い顔とをじッと見くらべた。
「
酒を飲んでいるな」
厳父のような言葉でいった。
「へへへへ」と蛾次郎は、さすがに、
間がわるそうにガリガリと頭をかいて、
「きょうはじめて、どんな
味のものだか、ためしてみたんです」
「うまいか?」
「さっぱりおいしくねえや、なんだって、
大人はこんなものを飲むんだろうな」
「酒は
狂水という、頭のよい人をさえあやまらせる。ましてや、おまえのような
低能児がしたしめば、もう一
人前の人間にはなれない。わしの見ている前ですてておしまい」
「ヘイ……」
「また、おまえはいま、たいそうぜいたくをいっていたな、もったいないことを
忘れてはいけない。この戦国、いまの
修羅の世の中には、
飢えて
食をさけんでも、ひと
握りの
粟さえ
得られぬ人がある」
「はい、わかりました。えらい人に
会っちゃった!」
「だが
蛾次郎、おまえ、近ごろはなにをしているな」
「親方の
卜斎について、
甲府城のお
長屋に
住んでます」
「オオ、卜斎どのもこの土地へきているか」
「
小太郎山で、すてきな
手柄を立てたんで。はい、それから
大久保家の
知遇を
得ました。
元木がよければ
末木まで、おかげさまで蛾次郎も、近ごろ、ぼつぼつお
小遣いをいただきます」
「けっこう、けっこう」
宮内はわがことのようによろこばしかった。
「なるべく身をつめてむだづかいをせず、お
金をだいじにもたなければいけない」
「お金を
貯めてどうするんだろう」
「あわれなものに
恵んでやるのじゃ。それほどいい気持のすることはない」
「な、なーんだ、つまらねえ」
と、
乾章魚をつまんで口の中へほうりこみ、
飯を
茶碗に
盛ろうとしていると、
門口の
縄すだれがバラッと動いた。
ぬッとはいってきた
魁偉の
男、
工匠袴をはいた
鼻かけ卜斎である。ギョロッとなかを見まわして、
「
亭主、うちの
小僧はきておらなかったかい?」
ときく。
亭主はうしろをふりむいた。見ると、
蛾次郎は、
茶碗と
しゃもじを持ったまま、
台の下へもぐりこんで、しきりにへんな目、しきりに
かぶりをふっている。
「へえ、おりませんが」
「こまったやつだ……」
と、
卜斎は
舌打ちをして、
「おれは見ないのでよく知らないが、
城内の
仲間などのうわさによると、近ごろ、蛾次郎のやつめ、この
馬場の近所で
水独楽というのをまわし、
芸人のまねをして、
銭をもらっては買い
食いをして歩き
廻っているそうだが」
「ははあ……」
と、亭主ははじめて知ったような顔をして、台の下にかがんでいる蛾次郎をちょッと見た。
たのむ、たのむ、たのむよ
後生だ。
蛾次郎は台の下で、
飯つぶだらけな手をあわせて
拝んでいる。と――その時、おりよく
宮内が横から立って、
「卜斎どの」
と、声をかけてくれた。
「おお!」びっくりして――
「
菊村どのじゃないか、あまり
姿がかわっているので、少しも気がつかなかった。どうしてこの
甲府へ?」
「でかけましょう、ご一しょに」
「おお、今夜は、わしの
宅へきてお
泊んなさい」
地蔵行者と
卜斎は、
肩をならべて、
飯屋の
軒をでていった。
蛾次郎は
台の下からはいだして、
「アア
天佑」
お
茶をかけて、じゃぶじゃぶと四、五はいの
飯をかッこみ、ころあいをはかって、ソッと
戸外へ飛びだした。
久しぶりで
甲府という都会のふんいきをかいだ蛾次郎には、さまざまな
食べ物の
慾望、みたいものや聞きたいものの
誘惑、なにを見ても買いたい物、欲しいものだらけであった。だが、やかましやの
親方卜斎、つねに
小言と
拳骨をくださることはやぶさかでないが、なかなか蛾次郎の慾をまんぞくさせる
小遣いなどをくれるはずがない。
蛾次郎の
不良性は、そこから
悪智の
芽をふいて、ひとつの
手段を思いついた。かれは
城下の
馬場はずれに立って、
皿まわしの
大道芸人の
口上をまね、れいの
竹生島で
菊村宮内からもらってきた
水独楽の
曲廻しをやりだした。ふしぎな
独楽の
乱舞を、かれの
技力かと目をみはる
往来の人や
行路の
閑人が、そこでバラバラと
銭や
拍手を投げる。――蛾次郎、それをかき
集めては、毎日、卜斎の家を
留守にして、
野天の
芝居をみたり
買い
食いに日を
暮らしている。
きょうも、夕方ぢかくなるのを待って、
柳のつじの
鳥居の下に立ち、
竹生島神伝の
魔独楽! 水を
降らす
雨乞独楽! そう
叫んで声をからし、
半時ばかり人をあつめて、いざ
小手しらべは
虹渡りの
独楽!
見物人は
傘のご用心! そんな
口上をはりあげて
蛾次郎、いよいよ
独楽まわしの
芸にとりかかろうとしていた。
と。
その
群集のなかに立って、かれの
挙動を
凝視しているふたりの
浪人――
深編笠に
眉をかくした者の
半身すがたがまじって見えた。
なにか、ささやき、なにか、
微笑し合っている。
するとまた、そのうしろにかくれていた六
部の
指が、前のさむらいの
背なかを
軽くついて、ふりかえった顔となにかひそひそ話しているようす。
にわかごしらえの
水独楽まわしの
太夫、いでや、独楽をまわそうとしてはでな口上をいったはいいが、ひょいと
人輪のなかの浪人と六
部のすがたを見て、
「あッ! ……」
そういったきり足をすくませ、水独楽にあらぬ眼の玉を、グルリとさきにまわしてしまった。
さて、いよいよ
本芸にとりかかったところで、どうしたのか
蛾次郎太夫、ふと
妙なことが気にかかっていたせいか、いつもあざやかにやる
水独楽虹渡りの
曲まわしを、その日は、三どもやりそこなって、
首尾よくドッという
嘲笑を、
大道の
見物人からあびてしまった。
通力のある
神伝の
魔独楽。
「こんなはずはないぞ。こんなはずはないぞ」
と、蛾次郎はドギマギしながら、いくども
口上をやりなおして、
独楽を空に投げあげたが、水を降らせるどころか、
廻りもしないで、石のように
曲もなくボカーンと自分の頭の上へ落ちてくるばかりだ。
だが、
首尾よくゆかないでも、
見物のほうはワイワイいってうれしがった。
木戸銭をだしていない
大道芸のせいでもあろうが、とかく人間は、かれの
成功よりもかれの
失敗をよろこぶ
傾向をたぶんにもっている。そして、それが
群衆となると、いっそう
露骨にぶえんりょに
爆発してくるのだった。
「イヨーッ、またしくじった」
「やりなおしの名人」
「
小僧、いまにベソをかくぞ」
「どうしたい!
独楽まわし」
「目がまわりそうだとさ。あんまり
騒ぐと泣きだすぜ」
「
大将、しっかりたのむよ」
とうぜん、
出ずべきはずの
弥次が、四方からワイワイと
蛾次郎をひとりぜめに飛ぶので、さすがに、
恥かしいことを知らぬ蛾次郎も、すっかりまいってしまって、三たびめの
口上は、自分でもなにをいっているのかわからないように、カーッと頭に
血があがってきた。
しかし、こうなるとかれもまた、
意地でも
見物をあッと
驚嘆させてやらなければしゃくである。第一、この
水独楽がまわらないというわけはない。
「そうだ、おれがあいつに気をとられて、びくびくしながら、まわしているから、ほんとの
精気が独楽に乗りうつらないのだ」
蛾次郎にしてはいみじくも思いついたことである。いかにもそうにちがいなかった。かれはさいぜんから
群集のうちにまじって、自分を見ているふたりの人物が気になってたまらないのである。
「よし、こんどは!」
と
腹からかまえどりをきめて
蛾次郎太夫、
邪念をはらって
独楽を持ちなおし、
恬然として四どめの
口上を
反り
身でのべたてた。
「エエ、エヘン」
見物はまたかと、クスクス
笑った。
「さて、
最初の
独楽しらべ、
小手しらべとしまして、
空まわし三たび
首尾よく相すみましたから、いよいよこれから
本まわしの
初芸に取りかかります」
「うまく
逃げ
口上をいってやがる」
「また四どめも小手しらべはごめんだぜ」
「早くやれ、
文句をいわずに」
第一
印象がわるかったので、
太夫の人気はさんざんである。けれど蛾次郎は、ここでひとつ
喝采をはくして
見物から
銭を投げてもらわなければ、ここまでの
努力も水の
泡だし、かえりに
空腹をかかえてもどらなければならないと思うと、しぜんと
勇気づいて、四
面楚歌の
弥次ごえも馬の耳に
念仏。
「あいや、お
立合のみなの
衆!」
と、いちだん声をはりあげて、
「
芸は
気合いもの、独楽は生き物。いくら
廻し手が名人でも、そうお
葬式の
饅頭に
鴉がよってきたように、ガアガアさわがれていてはやりきれない。せんこくから
見物のなかで、おれのことを
小僧小僧といっているようだが、
大人の
癖にガアガアいうほうが、よッぽどみッともないや。いまにおれの
気合いが乗って、この
水独楽がブンとうなって見ろ、
悪たれをいったその口がまがって、
面目名古屋の
乾大根、
尻尾を
巻いて
逃げだすだろう。オッといけない、
首尾よく
独楽がまわったからといって、
逃げだしたりあっけにとられたきりで、
銭を投げるのを
忘れてはいけないぜ、感心したものはえんりょなく一
文でも二文でも投げるのさ。よろこびをうけて
酬いることを知らざるは、人間にあらず馬なり、
弥次馬なり。さあさあ弥次馬はあとへ引っこんで
金持だけ前のほうへでてくださいよ。エエ、やり
直しの
魔独楽は
天津風吹上げまわし、
村雨下がりとなって
虹渡りの
曲独楽、
首尾よくまわりましたらご
喝采!」
とうとうとムダ口をしゃべって
大人の
見物をけむにまいた
蛾次郎は、そこでヤッと気合いをだして、右手の
独楽を
虚空へ高くなげた。
「ウウム、うまくいった」
と、こんどは蛾次郎もわれながらニタッとした。
風をきって一
直線に手をはなれた独楽は、ゆくところまでゆくとビューッとうなりをあげて
見物の頭の上へ
落下してきそうなようす。
「オオ?」
と、思わず、だれの目もそれに気をとられて、
宙に眼をつりあげて見ると、
夕陽にきらきらして
星がまわってくるかと思うばかりな一
箇体の
金輪の
縁から、雨か
霧か、独楽の
旋舞とともにシューッと時ならぬ
村雨のような水ばしりがして、そのこまかい
水粒と
夕陽の
錯交は、
口上どおり七、八
尺のみじかい
虹をいくつも空へのこして、
独楽はトーンと
蛾次郎の足もとへ落ちてすんでいる。
群集は
正直にドッと
賞讃の手をはやした。そしてまわっているかいないかわからないほど
澄んでいる地上の
魔独楽に目をすえて
押し合ったが、蛾次郎は
得意になって独楽の
心棒を
人差指の頭にすくいとり、ピョンと
肩へ乗せたかと思うと、左の手から右の手へ
衣紋ながしの
軽いところをやって見せる。
見物はもう手をたたくのも
忘れて、ふしぎな独楽の
魅力にすいこまれていた。独楽は生きもののように蛾次郎の自由になって、
指頭あるき、
剣の
刃ばしり、
胸坂鼻越え
背すじすべり、
手玉にあつかわれてまわっていたが、ふたたび、蛾次郎がヤッと空へ飛ばしたとき、――オオ、どうしたのかとちゅうまで
霧を
散らしてきたその
水独楽、かれの手へは
帰らずに、
忽然と、どこかへ見えなくなってしまった。
「あれッ?」
と、独楽につれていた見物の眼は、ふッと、
宙にまよってウロウロした。おどろいたのは
蛾次郎太夫で手のうちの
玉をとられたという文字どおりに
狼狽して、
「おや、コマは? コマは?」
と見まわしたが、その時、フと、気がついて見ると、見物のなかから一本の
紅い
杖がスッと
伸びて、落ちてくる独楽をその
尖端で受けとめたかと思うと、紅い
棒を
坂にしてたくみに独楽を手もとへすべらせ、ひょいとふところへしまいこんで、
小憎いほどな
早芸、向こうへすまして歩きだしてゆくふたりの人聞があった。
「オッ?」
と、
群集はあッけにとられ、
蛾次郎は目をまるくして
あんぐりと口を
開いている。
横合いから投げ
独楽をすくい
奪った
紅い
棒と見えたのは、
朱漆をといだ九
尺柄の
槍であった。
そして、
独楽をふところに入れたのは、
白衣に
戒刀を
帯びた
道者笠の六
部で、つれの
侍にかりうけた
朱柄の槍をかえし、なにかクスクス
笑いながら、あとのさわぎを知らぬ顔して、
柳の
馬場から
濠ばたのほうへスタスタと足を早めてゆく。
「ははははは」
人通りのない
濠端までくると、朱柄の槍を
杖についた、一方の侍が声をだして
笑いだした。
「
鏃鍛冶の
弟子小僧、さだめしびっくりしたことであろう」
と、蛾次郎のあの
瞬間の顔つきを思いだしては、また
笑った。
いかにも
快活な笑いごえである。
それは、
伊那丸の
幕下で一番年のわかい
巽小文治だった。つれの六部は、ニヤリとして
口数をきかないが、たしかに
木隠龍太郎であるということは、ほの暗い濠ばたの
夕闇にもわかる。
小文治はなにものかを待つように、ときどきうしろをふりかえって、
「だがどうしたのだろう、まだ
追いかけてくるようすがないが」
と、つぶやいた。
「いや、こっちの足が少し早かったから、どこかの
辻で見うしなって
狼狽しているのであろう。いまにきッと
追いかけてまいるにちがいない」
と、
龍太郎は
濠ぎわの
捨石を見つけて、ゆったりとそこへ
腰をおろした。
「けれど
蛾次郎のやつも、われわれと知るとかえっておじけづいて、
独楽よりは
命が大事と、あのまま
泣寝入りに帰ってしまいはいたすまいか」
「なに、あの
小僧は、
白痴のように見えて
小ざかしいところがあり、
悧巧に見えて
腑のぬけている
点がある。まことに
奇態な性質、バカか
賢いのか、ぼんやり者かすばしッこいのか、つかみどころのないやつじゃ。われわれを
怖れていることは事実だが、けっして、ほんとの
敵と思われていないことはよくぞんじているから、いまに
空とぼけた顔をして、
独楽を取りかえしにくるにそういあるまい」
「なるほど」
と、小文治も
槍にすがりながら、蛾次郎という
小童についてよく考えてみると、
末おそろしいといっていいか、末たのもしくないといおうか、まったく
判断に苦しむような
性格的畸形児であると思った。
「で、かれはいま、
卜斎に
召使われて、この
躑躅ヶ
崎の
長屋にすんでいる。とすれば、いずれ
内部のようすを多少ながら聞きかじっているにそういあるまいから、ここへきたところを
捕まえて、いろいろその
後のことをさぐって見ようと思う。それにはまず、この
独楽を取りあげておいて、いうかいわぬかの
責め
道具にする。あいついかに
横着者とはいえ、まだ子供は子供、きっと独楽をもどして
欲しさに、なにもかもしゃべりだすにちがいない――と考えたので、
大人げないが、
横合いからさらってきた」
「しかし、
龍太郎」
「うむ?」
「
芸人なら
種もあろうが、
貴公、どうしてあの
独楽を、
槍の
石突きですくい取ったか、あんな
離れわざは
本職の独楽まわしでもやれまいと思うが、ふしぎなかくし
芸を持っておられるな」
「なあに、あれは
人目をくらましたのだ」
「ほう……?」
「
幼少のとき、
鞍馬の
僧正谷で
果心居士から教えられた
幻術。おそらく、あのくらいのことなら、
弟弟子の
竹童にもできるであろう」
「はははは、そうだったか。ときに竹童といえば……」
「ウム、竹童……」
と龍太郎も同じようにつぶやく。
この名が一
党の者の口にでるときは、だれの
胸にもすえの弟を思うような
愛念が一
致するのもふしぎであった。
「どうしたろうなあ!
竹童は」
いまも
惆然として
小文治がいう。
「
緋おどし
谷から
里へ逃げた少女の話によると、
咲耶子はこの
躑躅ヶ
崎へ
捕われていったとのことだが、竹童のゆくえについては、だれひとりとして知るものがない」
「
拙者の考えでは、
小太郎山を
仇にうばわれたことを、じぶんひとりの
責任のように感じて、それを深く
恥じ、どこぞへ
姿をかくしたのであろうと思う」
「竹童とすればそう考えそうだな」
「ある
時機がくるまで、かれは、われわれの前にすがたを見せないかも知れぬ」
「それではなおさら
心配になるが」
「どうもぜひのないことだ」
「しかしまたことによると、この
館に
擒人となっている咲耶子を助けだそうという考えで、この
甲府に
潜伏しているようにも考える」
「ウム、それなら、どこかでわれわれと落ちあう時機もあるだろう」
「どうかそうありたいものだ、
勝敗はいくさの
常、小太郎山が
敵方の手に落ちたのもぜひないことと
伊那丸さまもあきらめておいで
遊ばす。また
事実は、竹童と咲耶子のおさない者とかよわい少女に、とりでの
留守をあずけたほうがムリだったのじゃ。
責めは竹童よりむしろ一
党の人々にある、どうかして、かれの
無事を知りたいものだが……」
と、話はいつか打ちしずんでくる。
人の力でどうにもならないのは、
皮肉な
運命で、その運命を
えて案外にくるわすものは、これまた人力の自由にならぬ時間というものである。
竹童と
咲耶子をとりでにのこして、
民部そのほかの人々が、
三方ヶ
原へ
馳けつけなかったら、あの時の
伊那丸の運命はどうなったかわからない。
その
危急を切りぬけてきたかと思うと、一行伊那丸をいれて六人、
富士の
裾野までかかってきた朝、かえるべき
小太郎山のとりでに、あの夜明けの
落城のけむりをゆく手に見たのであった。
たった、半日、もしくは半夜の時間のちがいで――。
馳けつけて見たところでもうおそい。
とりでの上には
下がり
藤の
旗さし物と、
葵の
印が
王座をしめて
戦勝をほこっている。ふもとから
野呂川の
渓谷いったいは、
大久保長安の
手勢がギッシリ
楯をうえていて、いかに
無念とおもっても、
疲れきった六人の力で、それがどうなるはずもないのであった。
しかし、伊那丸はわりあいに力をおとさなかった。自分の
落胆や
失望が、どれほど
忠節な人々の
胸に
反映するかをよく知っている。
「よし、しばらく小太郎山は大久保家へあずけておこう。そして自分たちが
次の
乾坤一
擲にのぞむ
支度のために、一
両年、
諸国を
流浪してみるのも、またよい
軍学修業ではないか」
こういって、
小太郎山をすてたのである。いや、
数年のあいだ、かりに
敵手へあずけて
別れ
去る心であった。
旅の
途中で、
煙草畑に葉をつんでいる少女に
会った。少女はついこのあいだ、
緋おどし
谷から
里へ帰ってきた
胡蝶陣のなかのひとり。
その少女のはなしで、
前後の
事情、うらぎり者の
毒水の
詭計、
咲耶子のはたらいたことまたそのために
捕らわれとなったことなど、すべて明らかに知ることができた。
ただ一つ、わからないのが
竹童のゆくえ。
これには、伊那丸もいたく心をいためたが、いまは
落人どうような
境遇の
公然と
ふれをまわしてたずねることもならず、いつか、
旅路の
蛍ぐさに
露のしとどに深くなる秋を知りながら、まだもって、その
消息の一
片も知ることができない。
こうして、
伊那丸主従は、
信濃の山を
越えて、
善光寺平をめぐり、
諏訪をこえて、また
甲州路へ足を
踏み入れた。
しかし、
甲府へはいるにさきだって、
民部の
献策によって六人は三
組に分れることにした。なぜかといえば、
小太郎山奪取ののち、
徳川家は
大久保石見に
命じて、いっそう伊那丸の
追捕を
厳命した。いたるところに、
間者や
捕手をふせているもようが見えたからである。
伊那丸は
小幡民部と。
山県蔦之助は
加賀見忍剣と。
木隠龍太郎は
巽小文治と。
こう二人ずつ三
組にわかれて、
甲府の
城下へまぎれこみ、
大久保家の
内状をさぐったうえにて、
間隙をはかって
館のうちに
捕らわれている
咲耶子をすくいだす
目的をしめし合わせた。
しかし、
躑躅ヶ
崎の
平城は、
厳重をきわめているうえに、さすがはむかし
信玄じしんが
縄張りをした
郭だけあって、あさい
外濠を
越えて、向こうの
石垣にすがるたよりもなかった。
で――一
党六人の人々、むなしく、咲耶子の身をあんじながら、手をこまぬいて弱っていると、ここに思いがけない
好時機が、近い日のうちにせまっているのを知った。
それは、なにかというと。
甲斐の
東端、
北武蔵との
山境にある、
御岳神社の
紅葉の
季節にあたって、
万樹紅焔の
広前で、毎年おこなわれる
兵学大講会に、ことしは、
大久保石見守長安が、
家康の
名代としてでかけるといううわさである。
で――
小幡民部は、
「
若君、この
機を
逸してはなりません」
と、伊那丸に一
策をさずけた。
それから
間もなく、
忍剣と
蔦之助の
組も、
伊那丸も、
甲府表からすがたを
隠して、あいかわらず、
躑躅ヶ
崎のようすをうかがっているものは、
龍太郎と
小文治の一組になっていた。
その龍太郎は、
御岳神社の
兵学大講会に
長安がでかける日をねらって、
咲耶子を
救いだすつもりであるが、なろうことなら一日も早くと気をあせって、きょうも
城下をそれとなく歩いているうちに、思いがけない
蛾次郎というものを見つけて、
おとりの
独楽を取りあげてきた。
いまに、それを
奪りかえしに
追いかけてきたら、あの蛾次郎を独楽にまわして、ひとつ、さぐりをかけてみようと手ぐすね引いて待つのであったが、うわべは、
心棒がゆるんでいるように見えて、ときどき、
大人の
鼻を
明かす
横着独楽、こっちの
腹を読んでいるのか、なかなかやってきそうもない。
水のきれいな
甲斐の国、ことに秋の水は
銘刀の
深味ある色にさえたとえられている。
ほの
暗い
宵闇のそこから、
躑躅ヶ
崎の
濠の流れは、だんだん
透明に
磨ぎだされてきた。
眸をこらしてのぞきこむと、
藻にねむる
魚のかげも、
底の
砂地へうつってみえるかと思う。
その
清冽は十五
間ほどの
幅がある。
濠の向こうはなまこ
壁の
築地、
橋のあるところに
巨大な石門がみえ
土手芝の上には
巨松がおどりわだかまっている。松をすかしてチラチラ見えるいくつもの
灯は、
館の
高楼であり
武者長屋であり
矢倉の
狭間であり、
長安歓楽の
奥殿のかがやきである。
二年前には、そこに、
武田一
族と
伊那四郎
勝頼の
座をてらす
燭があった。
十
幾年かまえには、そこに、
機山大居士信玄の
威風にまたたいている
短檠がおかれてあった。
いまはどうだ?
ながるる濠の水は
春秋かわりなく、いまも、
玲瓏秋の
宵の半月にすんでいるが、人の手にともされる
灯と、つがれる
油は、おのずから
転変している。
ものおもわしき秋の夜。
龍太郎はなにげなくそこに
眸をあげて、さっと
露をふらす濠ばたの
柳に
背すじを
寒くさせたが、その時、ふとはじめて気がついた一
個の人かげが向こうにある。
どこの
百姓の
女房であろうか、
櫛巻にしたほつれ
毛をなみだにぬらして、
両袖を
顔にあてたまま濠にむかってさめざめと
泣いているようす……
月あかりを
避けているが、やつれた
姿がかげでもわかる。年は三十五、六、
質朴らしい
木綿着物、たくさんの子供をうんだ女と見えて、大きな
乳が着物の前をふくらましている。そして、
裾のほうには女でも山国のものは
穿く、
もんぺという
盲目縞の足ごしらえ、
尻の切れた
藁草履が、いっそうこの女の人の
境遇を、いたいたしく感じさせていた。
「おや?」
と、
小文治は、
直覚的にはね返った。
すべての空気が、この女が、いまにも
濠へ身を投げそうなことを教えたからである。
案の
定――女は泣きぬれた眼で、
躑躅ヶ
館を、うらめしげににらんでいたかと思うと、また、
悲しげな声で、濠のそこへ
良人の名と、むすめの名らしい声を
呼びつづけた。
そして――あッ――と思うまに、手を合わせて、月光の水へ身をおどらせようとした。
「――待てッ」
龍太郎は
飛鳥のように
馳けて、女の体をうしろへ
抱きもどした。女は、なにか
口走りながら、そのとたんに、ワッと
柳の木の根もとへ泣きくずれてしまう。
「――見うけるところ、良人もあろうし、
幾人かの子供もあろう
人妻ではないか。なぜそんな
短気なことをいたす。
苦しい
事情があろうにもしろ、
浅慮千万……」
と、たしなめるように強くしかった。
返辞はない。
しゅく、しゅく、と泣く声ばかりが、ふたりの足もとにうったえていた。
だが――やがてやっと事情を聞きとると、この
女房の死ぬ気もちになったことを、ふたりはもっともだと思わずにいられなかった。
「ごしんせつに、ありがとうございます。わたしは、
西山梨在の
戸狩村にいた
勘蔵という
水晶掘りの
女房でお
時というもんでござります。はあ、子供も五人もございましたが、そのうち三人は
亡くなりました。ひとりの男の子はまだ
小ッけえうちに、
伊勢まいりにいった
途中でかどわかされ、たったひとりのこっていた
娘は……その娘は……」
と、女は
濠を
指さして、また
泣きじゃくった。
ちょうど、この夏、
伊部熊蔵がこの
躑躅ヶ
崎に
鉱山掘夫を
勢ぞろいして、
小太郎山へでかけようとした同じ日のこと、
信玄の
石碑へ、
香華をあげて
拝んでいるところを見つけられたひとりの
百姓が、この
館のうちへ、
若侍たちの
無情な手にひきずられてきた。それを助けてくれと、泣きながら
城内へついてきた
娘も、その百姓も、ちょうど
酒宴をしていた
長安のよい
酒の
興味になって
無慈悲な
手討ちにあって殺されたが、その
死骸を投げすてられたと聞くこの
濠へ、いま身を投げようとした女は、そのときの百姓風な
水晶掘り勘蔵の女房なのであった。
たったひとりの娘と良人を、
無慈悲な
領主に殺されたお
時は、すこし気がヘンになって、戸狩村からどこともなくさまよいだしていたが、あぶない
命をすくわれて、かの
女はまた、気もくるわしく泣くのであった。
「にくむべき長安!」
小文治は人ごとに思われなかった。
「泣くな泣くな」
背をなぜながらなぐさめて、
「泣いたところで、死んだ
良人も
娘も
返りはしない。それよりは、おまえが
伊勢まいりの時に、
道中でかどわかされたという、すえの男の子をたずねだして、その子をたよりに
暮らすがよい」
「はい……だ、だが、
旦那さま、そんなことは、とても
望まれねえことなんでございます」
「いや、
世間には十年ぶり、二十年ぶりなどで、
母子がめぐり
会ったなどということもめずらしくはない。一心にさがせばきっとわかるだろう。それに、何かその子に
目印でもあれば、なお手がかりとなって、人からも
教えてくれぬかぎりもない」
「ところが、
百姓の
悲しさで、べつに、
証拠や
印になるようなものもありませず、ただ、……そうでがす……思いだしてみると、その子は、
小ッけえ
時から
癇持ちでがしたもンで、
背骨の七ツ目の
節にはお
諏訪さまの
禁厭灸がすえてごぜえます。はあ、そりゃ
大けえ、一ツ
灸で
他国にはねえ灸ですから、
目印といえば、そんなもンぐらいでございます」
「そうか、
諏訪神社の
禁厭灸よくおぼえておいて、
拙者たちも
旅の
間には心がけておくようにいたそう」
龍太郎が
温情をこめて、
不遇な女をなぐさめてやると、
小文治もおととしの春、まだ自分が
浜名湖の
漁師小屋にいて、母の
死骸をほうむる
費用もなく、舟にそれを乗せて
湖水に
水葬したことなどを思いうかべて、まだ子をたずねる母、
尋ねらるる子は、
幸せであるように考えられた。そして、かれもともどもそんな気持をかんでふくめるように話して、女の
一途な死を思いとまらせた。
やつれた
女房は、
感謝の
涙にぬれながら、
濠端をすごすごと
去った。そして、ふたりの
慰藉にはげまされて、これからは、まだ四ツのときに、
伊勢もうでの
道中ではぐれたきりの
末の子をさがしだすのを
楽しみにします――と
誓うように首をさげていいのこした。
「さまざまだなあ、世の中は……」
うしろすがたを
見送りながら、ふたりの
勇士は、うるんだ眼を見あわせた。
すると、とつぜんうしろのほうから、わすれていた
蛾次郎の声がして、そこへ
馳けてくるが早いか、
「やい、
独楽どろぼう、独楽をかえせ」
と、飛んでもない
鼻息で、
腕まくりをしてつめよった。
ああ、やっぱりこいつは
低能だな。
小文治はそう思って
苦笑した。
盲目、
蛇に
怖じず――人もあろうに
戒刀の
名人龍太郎と、
血色塗りの
槍をとって向こうところ
敵なき小文治のまえに立って、
泥棒よばわり、
腕まくりは、にくむべき
値うちもない
滑稽ごとである。
「蛾次かッ」
と、待っていたように龍太郎がヌッと立つと、蛾次郎は
逃げ
腰を浮かしながら、
「
泥棒、泥棒、こ、こ、
独楽をかえせ。独楽をかえせ」
と、どもりながら、手をだしたり、引っこめたりした。
「――おまえは蛾次郎、この独楽がほしいというのか」
こう龍太郎がいってふところの
独楽をだしてみせると、蛾次郎は飛びつきそうな
眼色をして、
「
欲しいやイ!
返せッ」
と、打ってひびくように、泣き声でののしった。
「返してあげよう」
「か、か、返せッ!」
「そのかわりに、少しわしのたずねることに答えてもらいたい。そうしたら独楽もかえそう、おまえの
望むことにはなんなりと
応じてやろう。どうじゃ、蛾次郎」
「ふウん……」
と、そこでかれの
半信半疑が、やおら、
腕ぐみとなって、まじりまじりと
落着かない目で、
小文治と龍太郎の顔色を読み
廻して、
「じゃア……」と
相好をくずしかけたが、またにわかにするどくなって、首をふるように、
「
あかをいえ! だれが、くそ、そんなウマい
策にだまされやしねエぞ。いいや! かえさなけりゃ待っていろ、
代官陣屋へいって、てめえたちのことをみんないってやるから」
蛾次郎にしてはくやしまぎれの
不用意にでたことばであったかもしれないが、小文治はおどろいた。この
甲府附近に、自分たちが
入りこんでいることを、まんいち、
躑躅ヶ
崎支配の代官陣屋にでも
密告されては、それこそ、三方にわかれて行動している
伊那丸や
党友の一大事。
はッと思うまに蛾次郎は、身をひるがえしてもとの道へはしりかけた。やっては! と小文治もいささかあわて
気味に、地についていた
朱柄の
槍を
片手のばしにかれの
脾腹へ。
「わッ」と、蛾次郎の声であった。
腰車をつかれて横ざまに、ドウと、もんどり打って倒れている。そして
芋虫のようにころがったまま、ふたたび起きあがろうともしないようす。
しかし、かれの
肉にふれた朱柄の先は、
穂のほうではなくて
石突きであったから、
突きのばした片手の力ぐらいで、そう
苦もなく死んでしまうはずはないし、またよほど
急所でもなければ、
悶絶するのも少しおかしい。
見ると、なるほど。
乞う
休んぜよ、である。ひっくりかえった
蛾次郎は、ぽかんと眼をあいて、自分にいって聞かせている。
(
大丈夫だ、大丈夫だ。死にゃアしない、生きているぞおれは、たしかに生きている。その
証拠には
星が見える。月だってありありと見えるじゃないか。だが今は、死んだかと思った。あぶねえあぶねえ、うっかり起き上がろうものなら、こんどは光ったほうで、グサリとほんとにやられるかもしれない)
こう考えて、死んだまねをしているらしい。いや、
事実は
腰の
蝶つがいがはずれて、にわかに、起きたくも起きられないでいるのかもしれない。
「手におえない
小僧でございますな」
と、
濠ばたのほうで
小文治がささやいた声さえも、かれはハッキリと耳に入れた。その話に、自分に対してべつだん深い
殺意がないのだと
覚ると、
蛾次郎ははじめて、ホッと
多寡をくくって、
「ちぇッ、おどかすない」
と、
腰をさすって、そろそろ首をもたげだした。
迷子札のような
門鑑を
番士にしめして、その夜、
霜にあったキリギリスみたいに、ビッコをひいた
蛾次郎が、よろよろと
躑躅ヶ
崎の
郭内にあるお
長屋へ帰ってきたのは、もうだいぶな
夜更けであった。
城内の
長屋というのは、
館につめている
常備の
侍や
雑人たちの
住居で、
重臣でも、一
朝戦乱でもあって
籠城となるような
場合には、城下の
屋敷からみな
妻子眷族を引きあげてここに住まわせ、一
国一
郭のうちに大家族となって、何年でも
敵と
対峙することになる。
小太郎山からずるずるべったりに、
鼻かけ卜斎はそのお長屋の一
軒をちょうだいして、いまでは、
大久保石見守の
身内ともつかず、躑躅ヶ崎の
客分ともつかない
格で、のんきに
暮らしているのである。
「もう
寝たじぶんだろう」
とは、その卜斎をおそれる蛾次郎が、ビッコをひきながら
道々考えもし、
神に
念じるほどそうあれかしと
願ってきたところで、お長屋の
灯を見るとともに、また、
「起きていた日には
大へんだぞ」
と、
意気地なく足がすくんでしまう。
で、いきなり門へははいらないで、そッと
裏へまわってみたり、
羽目板に耳をつけてみたり、
窓の
節穴からのぞいたりしてみると、天なるかな
命なるかな、
寝ているどころか、ふだんより大きな声をだして、あのガンガンした声が
家の
内にひびいている。
「こいつはたまらないぞ」
蛾次郎はどうしようかと思った。
奥には
客がきているのだ。
昼間、
飯屋でぶつかった
地蔵行者の
菊村宮内を引っぱってきて、
久しぶりに
夜の
更けるのを
忘れて話しているあんばい。
とすると、宮内の口から、おれがあそこでお
酒というものを飲んでみたこともしゃべったにちがいない。
親方が、やってきた時、
台の下にもぐりこんでいたことも、おもしろそうに話したろうな。おまけにおやじは、近ごろ、おれが
水独楽をまわして
小遣い取りをしていることを、うすうす感づいているんだから、こんな
夜更けに帰ろうものなら、それこそ、飛んで
灯にいる夏の虫だ。親方の
げんこつがおれの頭に
富士山脈をこしらえるか、
弓の折れで百たたきの目に
会わされるか、どっちにしても
椿事出来、アア
桑原桑原、桑原桑原。
こっそり、こっそり、蛾次郎は
裏の
暗やみに
消えてしまった。
どこへいったのかと思うと
馬糧小屋だ。馬糧を
盗みにはいる
泥棒はないから、そこだけは
錠前もなく、ギイと
開くと
難なくかれを
迎えいれてくれた。そしてまたソーッと
閉めておく。
もとよりなかはまッ
暗だが、
愉快なことには、
抱擁性のあるやわらかい
麦藁が、山のごとく
積んである。どうだい! すばらしい
寝床じゃないか! と、
蛾次郎はうれしくなってしまった。
火がなくッたって
暖かい、人間の
親方はあんなに
冷たくッてとげとげしているのに、どうして
枯れた
麦藁がこんなに暖かいものだろう。
変だなア、だが、なにしろありがたい、ここはおいらの
安全地帯、いいお
住居を見つけたものだ。
蛾次郎はかってなことを考えながら、いきなり麦藁の山へふんぞりかえった。やわらかいぞやわらかいぞ、お
大名の
寝床だって、こんなに
上等じゃああるまいなあ、などと
牧をとかれた
山羊みたいに、ワザとごろごろころがってみた。
「
独楽もある」
ふところからだして、
頬ッぺたにおしつけた。
木隠龍太郎からヤッとかえしてもらった独楽である。いつか蛾次郎にもこの独楽が、
命から二番目の大事なものになっている。かれがこの
水独楽を愛すること、
竹童がかの
火独楽をつねに大事にするのと
愛念において少しもかわりはないのであった。
「独楽よ、独楽よ」
独楽の
心棒は蛾次郎が
頬ずりするあぶらをうけて、
暗やみのなかでもまわりそうになった。なんだかこの独楽には
霊があっていきてるもののように思われる。いったい、独楽というものは、手でまわるのかしら?
心が打ちこまれてまわるのかしら?
疑問はでたが、そうヒョッと、考えただけで、これは蛾次郎の
智能では
解けそうにもない。
いちじ、
濠端でひっくり
返ったかれが、この
独楽をかえしてもらって
無事に
長屋へもどってきたところを見ると、あれから
龍太郎の
詰問にあって、
小太郎山いらいのこと、
躑躅ヶ
崎の
内情など、すっかり話してしまったことは、もううたがうまでもない。
もっとも、
蛾次郎の身にとってみれば、
甲府一
城の
安危よりは、この独楽一
箇が大事かも知れない。だれか、かれを
悪童とよぶものぞ。独楽を
頬ッぺたに
押しつけたまま、
馬糧のなかにやがてグウグウ
寝入りこんでしまったかれこそは、まことに、たわいのないものではないか。
だが、眼がさめると、こいつがいけない。
すぐにユダを
発揮し、
天邪鬼をまねる。
蛾次郎よ、
永遠に
寝ていろ、馬糧のなかで。
四
更。
月も三
更までを
限りとする。四更といってはもう
夜半をすぎて
暁にちかいころ。
馬ぐさ
小屋の中の高いびきは、
定めし
心地よい
熟睡におちているだろう。お
長屋の
灯もみんな
消えて、
卜斎の家のなかも、
主のこえなく、
客の
笑いもたえて、シンとしてしまった。
月のゆくえはわからないが、空いちめんはいつまでも、月の水いろに明るく
冴えている。
啼かぬ
雁がしずかに
渡る、啼く雁よりも啼かぬ雁のなんと秋らしいものかげだろう。
と――
躑躅ヶ
崎の
館の
高楼にあたって、
万籟もねむり、死したようなこの時刻に、
嚠喨とふく
笛の
音がある。
高音ではないが、このすんだ四
更の
無音界には、それが、いつまでも
消えないほどゆるく流れまわって、すべてのものの
眠りをいっそう深くさせるようであった。
さらにまた、その
音をもとめるような一
点の
孤影が大空をめぐっていた。
雁か!
迷子のはなれ
雁か!
いや、雁にしては大きすぎる。あの
翼を見るがいい、
遠いが、おそろしい力で風を
呼んでいる。
クロだ!
鷲だ!
おお、されば
小太郎山のとりでから、この躑躅ヶ崎の高楼にとらわれてきている
咲耶子が、
悶々として眠られぬ
幽窓に、あの
影をふと見つけて、
狛笛の
歌口に、クロよ、クロよ、と
呼ぶ
音であったろうか。
それとも、彼女が気をまぎらわすために吹いた笛が、ぐうぜん、しばらく
行方の知れなかったクロの
慕うところとなって、おぼえのある
音色に、向こうからよってこようとしているのであろうか、いずれにしても、この
音、あのかげ、おそらく天地に知る者のないことだろう。
と、思ったところが……である。
ちょうどその時刻、それまでは
前後不覚であった
馬糧小屋の
蛾次郎の
寝がおの上へ、
草鞋の
裏からはがれたような一かたまりの土が、しかも
開いている口のあたりへ、グシャリと、落ちたものである。
いくら
寝坊のおん
大将にせよ、それで眼がさめないはずはなく、
「ゲッ、ペッ……」
と、
寝ぼけながら、ジャリジャリする口をこすったが、ふいと
天井をながめると、いっぱいな
星が見えたので、あッと
驚いて、さらにまた少し目をさました。
馬糧小屋にだって
屋根はある。そんなに
星が見えるという
法はない。
事実、よくよく目をあらためてみるとそれは星に
似て星の光ではなく、屋根うらの
隙間や
節穴が、あかるい空の
光線をすかして、星のように見えたのであった。
だが? ……蛾次郎はジッと
息を殺しはじめた。
星どころじゃない、
節穴どころの
沙汰じゃアない。
変なやつがいる! へんな人間が屋根うらの
梁に、取ッついている!
闇に
馴れた蛾次郎のひとみには、ようようそこの屋根うらが、
怪獣のような
黒木の
梁に
架けまわされてあるのが
薄っすらわかった。あやしげな一
個の
人間は、蛾次郎がここへ
入ったとき、上へ身を
避けていたものであろう。
今になって知れば、馬糧小屋の天井の
梁につかまって、ジッと、
身動きもしないでいる。
その足もとから落ちた土。……どうりで、ここへ
寝ころんだ時、イヤに、
麦藁の
寝床があたたかであり
過ぎた。
「だが、
誰だろう?」
すこし
気味がわるくなった。
城内の者ならば、なにも、
好んであんなところにひそんでいる
必要はあるまい。第一、なんだかその
影も
大人なみの人間にしてはすこし小さい。
「ははあ」
思い
当ったものがある。
奥庭で
殿さまが
飼っている
猿――あの
三太郎猿じゃないか、とすれば、
抱いて
寝てやろうか、あいつはおもしろい。
と、
蛾次郎がムックリと起きると、猿とみた梁の影ははなはだ猿らしくなく、きッとかまえをとって、上から蛾次郎のようすを見つめる。
しかも、
腰のあたり、屋根の
破れをもれる
光線に、チカッと光るのは
刀の
鐺ではないか。
とたんに、
「おお!」
と蛾次郎は藁を
散らして飛びあがった。
「やッ」
と、
天井の小さい人かげもりすのごとくべつな
梁へ飛びうつった。
出会ったり!
火独楽と
水独楽双方の
持ち
主、上にひそんでいたものこそ、どうして、いつどこからこの
躑躅ヶ
崎の
郭へしのびこんでいたのか、まぎれもあらぬ
鞍馬の
竹童。
その時、
鷲をよぶ
高楼の
笛はまだ、
忍びやかに
遠音であった。
奇遇といおうか、
皮肉なぐうぜんといおうか、じつに人間の
意表外にでることは、わずか十
坪か二十坪の天地にも、つねに待ちぶせているものだ。
近江竹生島の
可愛御堂でつかみあいの
喧嘩をやってから、
菊村宮内に
仲裁をされ、その
後、
小太郎山落城のまぎわに
別れたまま、おたがいにその生死
消息をうたがいあっていた
蛾次郎と竹童。
ところもあろうに、こんな
馬糧だらけな馬糧
小屋のなかで、いきなりぶつかりあおうとは、
両童子、どっちも
夢にも思わなかッたことにちがいない。
「おおッ!」
「やッ!」
とふたりのおどろき。
ピュッと
水火両性がはじきあってとんだように、はねわかれた
暗中二つのかげ。
双方しばしは
天井と
馬糧のなかとで、
息をこらし、らんらんたる
眼光を
睨めあっていたが、やがてこれこそ、
梁の上から
鞍馬の
竹童、じッと
彼なることを見さだめて、
「ウーム、おのれは、
蛾次だなッ」
と、うめくがごとく
叫んだ。
「そうよ!」
蛾次郎もすばやく
水独楽をふところの
奥にねじこみ、
代りに
あけび巻の
錆刀をもってかまえをとり、
柄に手をかけて
屋根裏の
虚空をにらみつけた。
「――
下りてこいッ!」
と声いッぱい。
あいかわらず
鼻息だけはすばらしい。
「オオ、ゆくぞ」
「ウム、こい、こんちくしょう」
とどなりかえしたが、ガサガサ……と
腰の下の馬糧のワラがくずれるとともによろついて、もう蛾次郎の
臆病風、あたまの上へいつ落ちてくるかわからない
敵のかわしかたをかんがえていた。
だが、これを
勝負の
前兆とはみられない。
蛾次郎の
争闘力は、いつも、この
腕よりは口である。
度胸よりは
舌である。三
尺の
剣よりは三
寸の
毒舌、よく身をふせぎ
敵を
翻弄し、ときには
戦わずして
勝つことがある。
「さあ、おりてこい、
野ねずみめ!」
そろそろその
舌の
鞘をはらって、蛾次郎、口ぎたなくののしった。
「うまく
罠にかかりやがッたな。どう
血まよったのかしらないが、自分から罠の
袋へはいりこんでくるうすノロがあるか。かわいそうに、はいったはいいが、
躑躅ヶ
崎のご
門内、西へも東へもぬけだす
工夫がつかないで、メソメソ
べそをかいていやがったんだろう、ざまを見やがれ! いまにおれの
親方や
大久保さまの
侍たちを
呼んできてやるから、しばらくそこで
宙乗りをして待っていろ」
「待てッ、
蛾次公!」
「大きなことをいうない」
「うごくとゆるさぬぞ」
「なにを」
「この
小屋をでてはいけない」
「
伊那丸の
間者がまよいこみましたと、おくのご
殿にどなってやるのだ。待っていろ、そこで!」
「おお、知らせるものなら知らせてみろ、この
火独楽がスッ飛んで、その頭の
鉢を
木ッ
葉みじんにくだいてやるから」
「けッ……な、
生意気な……」
とはいったが
蛾次郎、上を見るとこわかった。思わずブルブルッと足がすくんだ。
まだ
竹童のこんな
必死な顔をかれは見たことがない。
梁のうえに
身をかがめ、
片手を
横木にささえ、
右手に
火独楽をふりかぶって、うごかば、いまにも
発矢と投げつけそうな
眼光。
いかにも蛾次郎が
胴ぶるいをおぼえたはずである。気はおもてにあらわる。
今宵こそはと最後の死をけっして、
石門九ヵ
所のかためを
越え、
易水をわたる
荊軻よりはなお
悲壮な
覚悟をもって、この
躑躅ヶ
崎の
館にしのびこんだ竹童であった。
「うごいてみろ」
と、かれは
火独楽をつかんで、蛾次郎の
頭蓋骨へたたきつけるつもり。
それでいけなければ
般若丸の
晃刀、
梁の上から
抜きざまに、一
気一
刀の
下にとび
斬り。
なお
討ちそんじたら取ッ
組んで、きゃつの
喉首を
締めあげても、この
馬糧小屋のそとへかれをだしては、きょうまでの
臥薪嘗胆は水のあわではないか――と思いこんでいる
鞍馬の竹童。
自分は決死、かれを見るや
必殺。
この
躑躅ヶ
崎の
高楼にとらわれている
咲耶子をすくいださなければ、男として、鞍馬の竹童として、なんで生きてふたたび
伊那丸や一
党の人々とこの顔があわされようか。
そう考えてしのびこんだ
胸中の
大一
念、おのずから
燐のごとく
眼脈に
燃えあがっているので、
暗々たる
屋根うらの
梁に、そのものすごい
形相をあおいだ
蛾次郎が、口ほどもなく一
目見るなりブルブルと、
膝の
蝶番をはずしかけたのはもっともだった。
神伝の
火独楽がいかにおそるべき
魔力をもっているかということは、だれよりも同じ
水独楽の
持主蛾次郎はよく知っているので、あいつを、頭の
鉢へたたきつけられてたまるものじゃない――と思わずひるんだ。
ことに、じぶんは下、きゃつは上、
足場において
勝目がない。
黙然として
刻一刻。
蟇がなめくじに
魔術をほどこしたごとく、じゅうぶんかれの気をのんでしまった竹童は、やがて、一
尺二尺と梁の上をはいわたって、
蛾次郎のすぐ
脳天のところへ
片足をブランと
垂らした。
「あッ!」
と、
腰を立てたとたん、蛾次郎はその足に
肩をけられた。どすん! と
藁の山に腰をついたが、
無意識に、ウヌ、とばかり竹童の足にしがみついて
振りまわしたので、かれのからだも梁のうえから落とされて、藁のなかにころげ
落ちる。
組んだ!
まるで二
匹のりすのように、そこで取ッ組んだ
蛾次郎竹童。
つウ! えいッ! くそウ! と下になりゴミをかぶってもみあったが、
弾力性のある
麦ワラの上なので、どっちもじゅうぶんに力がはいらず、目へチリをいれたり、ほこりを
吸いこんで、むせたりしているうちに、
両童子同体にゴロゴロゴロと
馬糧のワラ山からワラをくずして九
尺ほど下へころがる。
富士の
須走りとワラ山の
雪崩に、
怪我人のあった
例しはない。むろん、ころげ
落ちた
神童と
畸童、どっちも、そこでは
健在だったが、落ちゆくまに、
竹童はかれの耳タブをギュッとつかみ、蛾次郎はあいての
口中へ
拇指、もう一本、
鼻のあなへ
人差指を
突ッこんでいた。
「ア
痛ッ」
と
叫んだのはその
拇指を、
竹童の
歯にかまれたのであろう。
胸をついて手をはなし、
あけび巻の
錆刀をザラリと
抜きかける。
抜くより投げられているほうが早かった。
みごと、ドスン! と。
「
隠密だ隠密だーッ。
伊那丸の隠密が
入りこんできた。だれかきてくれッ――」
とそこで、蛾次郎が
大声で
呼ばわったので、竹童はぎょッとして、かれの
悲鳴をふせぐべく、思わず、おどしにつかんでいた
火独楽を、
「こッ、こいつめ!」
と、かれの
横顔めがけてたたきつけた。
ひゅうッと火の
閃条!
魔力はそれをはなった
持主の
怒気をうけて、ブウーンと
独楽の
心棒に
生命力をよみがえらし、
蛾次郎の顔へうなりをあげておどってきた。
「ひゃアッ!」
と
抜いたのは
錆刀、身をかわして火の閃条を切りはらったが、なんの手ごたえもなく、ジャリン! とふたたび鳴っておどる
火焔の
車輪独楽。
まるで竹童の手から
狐火がふりだされるようだったが、いつもの
頓智に
似ず、蛾次郎がふところにある
水性のふせぎ
独楽に気がつかず、ただ、
神魔の
火焔に錆刀を
振っていたずらに
疲れたのは
愚のきわみだ。
「ええ! オオッ」
と
目ばたきする間もなく、
噛みついてくる独楽の
閃影に、蛾次郎はヘトヘトになって
逃げまわる。――そのするどい
金輪の火が一つコツンと頭にふれたらさいご、
肉も
骨も持ってゆかれるのはうけあいである。
でも、まだ、じぶんのふせぎ独楽には気がつかずに、ただ、
「こいつはたまらない」
と
無我夢中。
いきなりあたりにある
馬糧をかぶった。
土龍のように首を
突っこみ、
積んであるワラ山へ
無我夢中でもぐりこむ。
とたんに――ゴツンとなにか
尻に当ったような気がしたが、
痛くなかったのは
首尾よくワラで防いだものだろう――とは
蛾次郎が夢中の
感覚、ワラ山に
大地震を起して、むこう
側の
戸口へ
抜けだそうとしたが、すわ、大へん。
「――
南無三!」竹童も色をうしなった。
ワラが赤くなった! ワラが赤くなった!
積みあげてある
馬糧のいちめんから、
雨上がりの
火山か、
芋屋の
竈のように、むっくり……と白いけむりがゆらぎはじめた。
火独楽の
焔が
燃えついたのだ。
うつったものは
乾燥されたワラであるし、
屋根うらの高い小屋の
木組は、一
瞬にして燃えあがるべくおあつらえにできている。
ド、ド、ド、ドッと蛾次郎の
悲鳴が小屋の
内部をたたきまわった。出口をさがしているのである。しかし火を見たとたんに、
逆上している頭では、七
間四方ばかりな
羽目板に、一つの出口がなかなか見つからない。
そッちじゃない! こッちじゃない! と頭をぶつけまわっては、ワラ山にはいあがり、
煙にむせてはころげ落ちる。
かくてさわげばさわぐほど、火は
散らかって一
端から、パッと、一
団の焔がたつ。
「しまッた――」
と
竹童も、いまは
蛾次郎を相手にしているどころではなく、
焔にカッとうつって見えた出口のところへ
馳けよって、五体の力を
肩のさきに、グンとそこへ
打つけていった。
戸はガッシリとして口を
開かない。
さては
横にひく
車戸かと、
諸手をかけて
試みたが、ぎしッといっただけで一
寸も
開かばこそ。
「オオ、これは?」
裾に
燃えつきそうな
紅蓮をうしろにして、
押しつ引きつ、
満身の力をしぼったが、
戸はいぜんとして
鉄壁のようだ。
そればかりか、その時ふと耳についたのは、パチパチとはぜる内部の火の音ではなく、まさしく数十人の
人足とおぼえられる物おとが、小屋の外部を
嵐のごとくめぐっている。
ああ、いけない。
甲館躑躅ヶ
崎の
詰侍が、すでに、ここの物音を聞きしって、そとをかためてしまったにそういない。
そして、ふしぎな火のはぜる音に、その
原因をうたぐって、
焼けあがるのを待っているのだろう。
館の
側になってみれば、何千
貫といっても
多寡が
馬糧で、
焼いても
惜しいものではあるまいが、でるにでられない蛾次郎と竹童こそ
災難である。
どこへでも、一ヵ所、
風穴ができて見ろ、こんがりとした二つの
骸骨が、
番士の六
尺棒で
掻き分けてさがしだされるのはまたたく
間だ。
その
高楼を
源氏閣という。
三
層づくりのいただき、四
方屋根、千
本廂、
垂木、
勾欄の
外型、または内部八
畳の
書院、
天井、
窓などのありさま、すべて、
藤原式の源氏づくりにできているばかりでなく、
金泥のふすまに
信玄が
今川家から
招きよせた、
土佐名匠の源氏五十四
帖の
絵巻の
貼りまぜがあるので、今にいたっても、
大久保長安の
家中みな源氏閣とよんでいる。
やはり、
甲館の
濠のうちで、
躑躅ヶ
崎七
殿のうちの
桜雲台千
畳敷の
広間の東につづいて
建ってある。
さっき――といっても、わずかなまえ。
蛾次郎が
竹童のいるのを知らず、ワラ小屋で
幸福ないびきをかいていたころに、その源氏閣の上で、しのびやかに
吹く
佳人の
笛の
音がしていた。
「おお、あすこが
濠のさかい……」
咲耶子は
欄によってのびあがった。
昼ならばいうまでもなく、
甲州盆地はそこから一
眸のうちに見わたされて、
帯のごとき
笛吹川、とおい
信濃境の山、すぐ目の下には
城下の町や
辻々の人どおりまでが、
豆つぶのごとく見えるであろう。
が――いまは夜あけに近い
闇。
澄んでいるとはいえ、月もどこかに、
星明りでは、ただ
模糊としたものよりほかに
下界の
識別がつかない。
しかし、
彼女はそのうッすらとした
夜霧の
底から、やっと、この
城郭の
境をなす、
外濠の水をほのかに
見出したのである。そして、しばらくはそこへ、ジッと目をつけて、手の
横笛をやすめている。
「まだ見えない」さびしくつぶやいて、なにかふかく
思案していた。
「――
高音をだして
吹けば、
夜詰の
侍が眼をさますであろうし、いまの
音ぐらいでは、あの
濠の向こうへまではとどかぬであろうし……」
そういったが、彼女のまつ心に、それからまもなくポチと一つの
明りがうつった。
北の
石門にあたる外濠である。
霧ににじんでその
灯影が
蛍のように
明滅していたかと思うと、その
灯が横に一の字を
描く。
「オオ」
と、彼女は、
微笑をもって、それへはるかな
注意をおくっている。――すると、その灯は
消えて、つぎにはやや
青味をもった灯が、ななめに、雨のような
筋を三たびかいた。
つづいて――
青赤二
点の灯が、たがいちがいに手ばやく
闇に文字をえがくがごとくうごいたが、それは
軍学に心あるものでも、めったに
意味を
解くものは少ない、
勘助流火合図の
信号にそういない。
「……や、いまから夜明けの
間に……オオ、四十八人が……」
闇にかく
灯の
暗号を、
咲耶子は熱心な目で読んでいたが、とつぜん、風にでも
消されたように、
青い
灯、赤い灯、ふたつとも、いちじにパッと
消えてしまった。
と――同時に、彼女の耳ちかく、一
陣の強風が
虚空から横なぐりに
巻いてくるのを感じた。そして、
躑躅ヶ
崎の
建ちならぶ
殿楼長屋のいらかの
波へ、バラバラバラバラまッくろな
落葉のかげが
雹のように
降ってくる!
彼女は知らなかった。
自分が
最前、
濠のあなたへ、
忍びやかに吹いていた
笛の
音が空をゆるく、
妙に流れているあいだ、
酔えるように、しずかにこの
源氏閣の上を
舞っていた
怪鳥のことを。
「あッ――」と、はじめて知る。
颯然と目のまえへ
降りてきたのは、
大鷲のクロである。
黒いちぎれ雲のように、彼女のまえをかすめて
奥庭へ降りたかと思うと――地にはとまらないで、また、
舞いあがってきた。
しかし、それは彼女の目には見えないで、ただ、
翼の音にそう感じたのであるが、やがて、もっとはっきりした音が、バサッと、
屋根瓦を打つように聞えて、あとはシンとしずかになった。
まるで
夢のようだ。一
瞬の
疾風。
たしかに、
竹童の
愛鷲クロのようだったが――見ちがいであったかしら?
幻であったかしら? ――と
咲耶子はあとのしずかななかで
錯覚にとらわれた。
しかし、錯覚ではない。いまの
名残の
吹きあおられた
落葉が、まだ一ひら二ひら
宙に
舞っているのでもわかる。
鷲がこの
源氏閣の
附近におりたのは
事実にちがいない。
とすれば、どこへいったのかしら――と
彼女が
欄の
南側から
奥庭の
廂をのぞいていると、とつぜん、
キャッ! キッキッキ、キ、キ、キイ……
とけたたましい声をあげて、廂うらの
垂木をガリガリと
走ってきた
小猿が、咲耶子の
肩にとびついて手をやるとまた足もとへとび、おそろしくなにかに
恐怖したらしく、彼女のまわりをグルグルまわりだした。
大久保長安が下のおく
庭に
飼っておく
三太郎猿。
ときどき、源氏閣にはいあがってきて、
幽閉されている咲耶子とは、いつのまにか
仲よしになっていたが、今夜も、その
仲よしの人のいる三
層のうえの
棟木へでもきて、
腕枕で
寝ていたものとみえる。
その三太郎がおどろいてとび
降りてきたところをみると、やはり、
鷲はこの
閣の
屋根に
翼を
止めているのであろう――と
咲耶子が
欄に手をやって、屋根をふりあおぐと、
「もし、女のお
方」
意外や、
上から人のこえが
呼ぶ。
はッ……と咲耶子は
胆をちぢめたふうである。さっきの
火合図で、明け方までに
胸に一つの
計画があるので、
不意な人ごえに、思わず水をかけられたようになった。
「もし……」と、上ではふたたび呼んでいる。
「こんなところに
降りて、まことにどうにもならないでこまりました。しつれいながら、そこへ降りることをおゆるしくださらぬか」
見ると、屋根から下をのぞいているのは、色のしろい美少年。
金の
元結が
前髪にチラチラしている、
浅黄繻子の
襟に、
葡萄色の
小袖、
夜目にもきらやかな
裃すがた――そして
朱房のついた
丸紐を、
胸のところで
蝶にむすんでいるのは、
背なかへななめに持っている
状筥であるとみえる。
咲耶子はふしぎなものが、天から降りてきたように
感じたが、とにかく、自分に
異議をいう
権利はないので、かれのたのみをゆるすと、この美少年、
三太郎猿ほどのあざやかさではないが、
垂木にすがって欄の上へ、
白足袋の
爪先をたて、ヒラリと、
源氏閣の
座敷のなかへはいってきた。
「――ありがとうございました。して、これから
大久保さまのご
本殿か、お
表へまいるには、どこに
降り口がありましょうか……」
「
階段をおたずねになりますので? ……」
「さようです」
「この
源氏閣には、
降りる
階段はございませぬ」
「えッ……」美少年はびっくりして、
「では、どうしてあなたはここへあがられましたか」
これは、いかにももっともな
質問だった。
そのとうぜんな
問いをうけて、
咲耶子は
返辞に
窮した。自分は
捕らわれの身なので、この
閣のいただきにあげられ、
階段をはずされてしまっているのだが、
何者とも知れないこの少年に、うかつにそんなことを口すべらせていいか、悪いか。
「いえ、この源氏閣にも、
昼になればまた、降りる口がないことはございませんが……」
咲耶子の返辞はずいぶんあいまいであった。
「ほウ……夜は下へ
通じませんか」
「はい」
と、それでキッパリ
話をきって、
「したが、あなたはいったい、
何者でございますか、また、どうして
屋根の上などから? ……」
「ああ、そうでした。いかにも、それをさきに申しあげなければ、さだめしご
不審でございましょう」
と、
中腰でいた身がまえをなおして、
咲耶子の前にしずかにすわった。
小屏風のかげに、銀の
照らしをつけた
切燈台が、
豆ほどな
灯明りを立てていた。それで見ると少年は、まだほんの十三、四
歳、それでいて
礼儀ことばはまことに正しく、
裃にみじかい
刀を二本
差しているすがたは、
夢の国からきた
使者のようである。
両手をついて、
「申しおくれました。わたくしは
遠江浜松にご
在城の、
徳川家康さまのおん
内でお
小姓とんぼ
組のひとり、
万千代づきの
星川余一というものでござります」
「えッ、家康さまの
家来?」
「はい」
やはり
敵方の
片割れであった。うかつなことをさきに口へもらさなくてよかったと、咲耶子は心のうちで思うのだった。
「余一とやら、それはうそでありましょう。お小姓とんぼ組のひとりとはいつわりにちがいありませぬ」
「なぜでございますか。わたくしは、
万千代さまの
組の
小姓にちがいないのですのに」
小さな
余一は
躍起となって、年上の
咲耶子がたくみにかけたことばの
綾にのせられていった。
「では、そのお
小姓組のおまえが、どうしてこんな
屋根上から、おやかたのなかへはいろうとしますか」
「じつはわたくしは、
鷲の
背なかに
乗ってきたのでございます……」
「オオ、ではいま、空から
真っさかさまに
降りてきたあの
怪鳥にのって……?」
「はい、
浜松城をでてまいりましたのは
宵でしたが、とちゅう空でおそろしい
霧にまかれ、やッといまごろここに
着きましたが、ここへくると、またどこかで
狛笛の
音がしていたせいか、ご門のほうへは
降りてゆかず、とうとうこの
源氏閣の屋根の上へ、
翼をやすめてしまいました」
「そして、その鷲はどうしましたか」
「
閣上の
擬宝珠柱に
結いつけておきました」
「あの鷲は、いぜん、わたしもよそで見たことがありますが、どうしておまえのものになっているのか、わたしは、ふしぎでならない気がする」
「さればです――」
と余一は
袴の
両膝に手をあらため、小ざかしげな眼をパチッとさせて、
「あの
金瞳の
黒鷲ともうしますものは、今年の春のくれつ
方、
三方ヶ
原で
万千代さまが、にせものの
独楽まわしにとられたものでござります。で、浜松のお
城でも、万千代さまのおのぞみぞと、その
後、
諸処ほうぼうへ
足軽をかけらせ、鷲のゆくえをさがさせておりましたが、トンとすがたが見つかりません。しかるところ、さきごろ
裾野の
猟人が、この黒鷲が落ちたところを
生け
捕りましたとおとどけにおよんだので、見ると、どこでやられたのか、
股と左のつばさの
脇に、二ヵ
所の
鉄砲傷をうけております。ヤレふびん、オオ、かわいそうなやつと、万千代さまはもうすもおろか、とんぼ
組一同が、
浜松城のお
庭に
飼って、
医療手当をしながら大事がりましたので、鷲もいつかみんなになれ、いまでは、わたしのようなチビでさえ、自由に使いこなせるようになりました」
と、ここで
余一はことばをきって、オオ、じぶんはなにをきかれて、なにを答えようとしていたのかと、かわいい首をすこし
曲げた。
「ああ、それから、今夜のわけでございます……。ふいに
今夕浜松城の
大広間でなにやらみなさまのこ
評定、――と見えますると、余一余一! こう万千代さまのお
呼びです。はッと、おんまえにかしこまりますと、すなわち、このご
状筥――」
肩にまわして
胸にむすんだ、
紅い
丸紐の
房をいじりながら、
「――この
御書をとりいそいで、
甲州躑躅ヶ
崎の
大久保石見守の手もとへまでとどけよ、とのおおせにござります。これは
名誉なお
使番、クロを飼いならしていらい、
鷲にのってお
使いをするものは、とんぼ
組の
誉れとしてありますので、わたしはほんとにうれしゅうございました」
「おお、それでよくわかりました。ではおまえは、お
使番になってこの
館へ、
家康さまの手紙を持ってきたのですね」
「すこしも早く
石見守さまのお手へ、お
渡ししなければ役目がすみません。
宿直の
方をお
呼びするには、どこから声をかけたものでございましょうか」
と
小姓の
星川余一はまた
膝を立てて、あたりを見まわすようすであったが、そんなものを呼ばれては
大へん、これから夜明けまでのあいだに、彼女がなそうとする
計画はやぶれてしまう。
といって、ここへ
止めおいてもこまるし、どうしたものか、と
咲耶子がふと
考えまどっていると、――キイッ、キイッ、キイ、と、また
三太郎猿が
勾欄の上をいったりきたりしながら、
異常なあわてかたをしてさけびだした。
「あ、あれッ……」
三太郎のヘンな
啼きごえに余一も咲耶子も、その時はじめて、
夜気のふかい
館のあなた、
外郭のあたりにあたって、しずかな
変化が
起っているのに気がついた。
それはちょうど、
館の
北側につづく
馬廻り役の
長屋の近くである。そこに
建っている
屋根の高い
馬糧小屋から
蒸れた
せいろうのように白いけむりがスーとめぐっている。
はて、おかしい?
不審な目をみはると、余一はたちまち、
「な、なんだろう! あれは?」
お
使者の
格式をわすれて、お
小姓とんぼマルだしの、子供らしい口ぶりになっていた。
「
火事じゃないかしら」
「おう……ほんとに」
「火事だ、火事だ、みんな知らないのかなあ、ほら、ほら、ほら! 白い
煙がだんだんひどく
噴いてくる」
と、
三太郎猿といっしょになって
心配しだした。
一ぽう、
馬糧小屋のなかでは、
竹童と
蛾次郎。
パチ、パチ、パチ、パチ……
火はわらの
穂を
食べてゆくようにうつる。むーッとこもる
熱気は
刻一刻にたかまる。そして、むせるそばから煙は
目や
鼻にしみて
防ぎようもない。
カアーッと、あかいガラスで見るように、小屋いちめんが、まッ
赤に見えたかと思うと、
火龍は
気味わるく
舌をひそめて、
暗澹とまッ黒な
渦をまいて、二つのおどる
影も、煙のなかに見えなくなる。
斃れたかな?
と思っていると、また、パッと立つ
炎の
明りに、
両童のすがたが黒く
浮きだす。
けんめいに
戸を
破ろうとして
竹童は、そこをうごかず、
蛾次郎は、むちゅうになって、ほかの出口をさがしているのだ。
焼け死ぬか、のがれだせるか、人間最高の
努力をふりしぼる
瞬間には、かれもこれも、おそろしい
無言であった。
するとその時、竹童は自分のうしろで、とつぜん、ヒーッという
絶叫を
聞いた。
見ると、もう
血があがってしまった蛾次郎が、
「あ
熱ッ……あ
熱……あ、つつ、つッ……」
着物にもえついた火をハタきながら、まるで
気狂いのようになって、もう
逃げ
口のけんとうもつかず、
盲目的にやわらかいワラ火の山へ向かって
駈けだそうとする。
「おいッ」われを
忘れてとは、この時の竹童のこと。
「ばッ、ばかッ。そッちは火だ!」
と、蛾次郎の
襟がみをつかんで引きとめた。いや、投げとめた。
そして、かれを地べたにころがして、
袖や
裾にもえついている火を
消してやると、蛾次郎は
煙にむせながらはねおきて、こんどは竹童と一しょになって、戸をやぶるべく
必死に力をあわせはじめた。
しかし、いぜんとして出口は開かれない。
ふたりの
命も早やあきらめなければなるまい。
噴きあがった
業火はふたりの
無益な
努力をあざわらうもののごとく、ずッしりと黒く
焦げたワラ山から小屋の
羽目板をなめずりまわしている。
心頭を
滅すれば火も
涼し――と
快川和尚は
恵林寺の
楼門でさけんだ。まけおしみではない、
英僧にあらぬ
蛾次郎でも、いまは、火のあついのを
意識しなくなった。
いやふたりはまだ、より
以上ふしぎなものを
忘れていた。蛾次郎は
竹童を、竹童は蛾次郎を、あくまで
敵、あくまで
仇! と思い合っているはずなのに、その
憎念を
瞬間スッカリ忘れてしまって、
放っておけば、ひとりで火の中に飛びこんで死ぬのを
抱きとめたり、おたがいに
髪の毛や
袖に
移る火を
消しあったり、そうしては、力をあわせて、けんめいに
戸を
破りにかかっているのだ。
ああ、竹童と蛾次郎とが、一つの
目的へむかって、こんなに
仲よく
気をあわせて
必死になっているということが、きょうのいままでに、一どでもあったろうか。
なにしろ、ふたりはむちゅうだ、一
念だ、死にものぐるいだった。
一方がたおれれば戸をやぶる力が半分になる。
火に
負けるな!
この
運命を
突きやぶれ!
死んでくれるな! 死んでくれるな!
あえて
意識しない
共和と、たがいの
援護がそこに生まれた。
裾をあおる
炎の
熱風よりは、もっと、もっと、つよい愛を
渾力で投げあった。
ガラン!
縄が
焼けきれたか、すぐそばへ、火の
粉をちらして落ちてきた一本の
松丸太。
「オオ、
蛾次、これを持て」
「よしきたッ」
知恩院の
大梵鐘でも
撞くように、気をそろえて、それへ手をかけあった
両童子、
息と力をあわすやいな、
「ええッ!」
「おウッ――」
ドウン! と戸口へ
突ッかけた。
「
開いたア!」
まさにこれ
暁の声だ。
生命の
絶叫だ。
ガラガラガラッととつぜん、風と
紅蓮の
争闘がはじまった下をくぐって、
蛾次郎と
竹童、ほとんど同時に、打ちこわした
所から小屋の外へ、頭の毛の火の
粉をはらっておどりだした。
必然。
その
間髪には、ふたりの
頭脳に、助かッたぞッ――という
歓呼があがったであろうが、結果は同じことだった。ただ
業火の
地獄から八
寒地獄へ
位置を
代えたにすぎなかった。
なぜ?
と――いうも
迂遠な話で、すでに
最前から小屋の外には、おびただしい人の足音が、なにかヒソヒソ
囁きながら
嵐の
先駆のごとく、ひそかにめぐりめぐっていた。
待ちかまえてやあがったのだろう――。
不動明王に
炎陣から
蹴とばされた
こんがら、
せいたかの
両童子でもあるように、火だらけになってころげだしたふたりをそこに見るやいな、
「それッ、その者を」
「やるな!」
とばかりいっせいに
寄る
氷雨と
人影。
二どめの
仰天。あッと、起きあがろうとしたのもおそい!
すでに
霜と
植えられた
龍牙の
短刀、もしくはながき
秋水、
晃々たる
剣陣を作って、すばやくふたりの
逃げ道をかこんでしまった。
「ありがたい。
味方がそとに待っていた。
館のつよい
武士たちが
馳けつけていた」
と、よろこんだのは、せつな、
蛾次郎の生きかえった気持。
それとは
反対に、
「しまった、もう
敵の手がまわったか」
と
絶望的な
驚きにうたれたのは、とっさ、
竹童の感じたところで、いわゆる、一
難去ってまた一難、もうとてものがれる
術はないものと
覚悟をきめた。
ところが、
果然その
直覚はあべこべで、手に手に
細身の刀、
小太刀を持ち、外に待ちかまえていた者たちは、
館の
武士とも思われない黒の
覆面、黒のいでたち。
人数はおよそ三、四十人、しかもみな、
柳の
精か、
梅の
化身か、声すずしく手は白く、覆面すがたに
似合わないやさしいすがたの者ばかりで、
甲、
乙、
丙、
丁、どの
影もすべて一
体の
分身かと思われるほどみなおなじ
背かたちだ。
「それ、蛾次郎を
生け
捕れ!」
なかのひとりがこうさけぶと、
閃々たる小太刀の
陣は
霜の
歯車のように、かれのまわりをグルリとめぐって、
有無をいわさず、蛾次郎を
高手小手にしばりあげる。
「や、
燃えあがった――」
「おくれては一大事」
「
奥へ、奥へ」
すでに
馬糧小屋の火は
屋根から空へもえ
抜けて、あかあかとした
反映が
躑躅ヶ
崎一
帯の
建物を
照らした。
「
蛾次郎はどうしましょうか」
「
捨ててゆけ、この
場合じゃ」
「捨ててゆくのもせっかく、おお、むこうの
厩の
柱へ、しばりつけて――」
「なにしろ、すこしも早く
奥庭へ」
「
源氏閣へ、源氏閣へ!」
散りぢりに
呼びあい、叫びあいながら、
柳姿の
覆面三、四十人、
芒とそよぐ
刃をさげて、
長屋門の
番士を
斬り、いっきに奥へはしり
入った。
「やッ、
待って」
と
竹童も
不審のあまりその人々のあとを
追って、
「あなたがたは?」
と、
息をせいてきく。
走りながら、覆面のひとりが、
「竹童さま、お
忘れか」
次にまた一つの顔がふりかえって、
「――お忘れか、お忘れか、
虹の
松原のお
別れを」
さらに、足もやすめずまただれかが、
「わたくしたちは
緋おどし
谷にいた
乙女のむれ!」
と明らかに
名のった。
そういわれれば
覆面ながら、一つひとつにおぼえのある顔。
「いつか、
虹の
松原で、
竹童さまとお
別れしてのち、
里にかえって
散りぢりになっていましたが、かねてのやくそく、わたくしたちの心のちかい、こよい
外濠にあつまりました」
「深い話はしていられませぬ、一
刻も早くあのお
方を」
「
咲耶子さまをお
救い申しに」
「竹童さまもまいられませ」
「力をそえてくださいませ」
「
仔細はあと――」
「かなたをさきに」
群れをくずして走ってゆきながら、こんな
端的なことばを口々に投げた。
さては、
小太郎山から
手当されて、
甲府の
城下にはいるまえ、
虹の
松原で
礼もいわず
置きずてにして自分は
馳けだしてしまった、あの、
優雅にして
機敏な少女の
工匠たちであったか。
と知って。
竹童はその
意外さをよろこびもし、
驚きもしたが、なにを話すまもない馳けながらのこと。
「おっしゃるまでもないことです。もともと、咲耶子さまが
捕らわれたのは、わたしにも
罪のあること、それゆえ自分もこの
館に
忍んでいましたが、ここで
会ったのは神さまのお助け、およばずながら竹童も力を
添えます」
これだけいって、
腰の
般若丸をひき
抜いたが、その
刀身は、いきなりまっ
赤にひかって見えた。うしろの
炎はもう高い
火柱となっていた。
奥庭までは
白壁門、
多門、二ヵ
所の
難関がまだあって、そこへかかった時分には、いかに
熟睡していた
侍や
小者たちも眼をさまし、
警鼓警板をたたき立て、
十手、
刺股、
槍、
陣太刀、
半弓、
袖搦み、
鉢ワリ、
鉄棒、六
尺棒、ありとあらゆる
得物をとって、一時に、ワーッと
侵入者のゆく手を
食いとめにかかった。
血戦は開かれた。
もとより、人数のすくない少女たちのほうでは、初めからひそかに
咲耶子を
救いだす
策略で来たのであるが、とちゅう、
馬糧小屋にふしぎな
煙がもれていたため、その
疑惑にひまどって、ついに、こういう
破目になったのは、まことにぜひないことであった。
及ばぬまでも、このうえは
敵をむかえて、
緋おどし
谷で
練りきたえた、
胡蝶の
陣を
組みほぐしつ、糸を
染めるほそい指に
小太刀をにぎり、死ぬまで、戦うよりほかに道がない。
さいわいに風がない。
小屋をぬいた
炎の
柱はボウーッとまっすぐに立って、
斬りつ斬られつ、みだれあう黒い人かげの
点在を見せる
巨大な
篝火のごとく
燃えている。そして、ほかの
建物へもさいわいと火がはってゆくようすも見えない。
「
曲者だぞ、曲者だぞ」
「火事だ、
出火だ」
「
出合え! 出合え!」
詰侍の
部屋や
長屋にいる
常備の
武士を、
番士は声をからして起しまわる。たちまち、
物の
具とって
馳けあつまる
敵はかずを
増すばかり。
殷々たる
警鼓の
音、ごウーッとふとい
炎の
息、人のさけび、
剣のおめき、
館の東西南北九ヵ所の門は、もうひとりも生きてはかえすまいぞと、戦時にひとしい非常の
固めがヒシヒシと手くばりされた。
すると。
その一方の
土手むこう、
外ぼりをへだてた
城外の
柳のかげに、耳に手をかざして、館のなかの
騒音をジッと
聞いている者がある。
夜な夜なこの
外城の
隙をうかがっていた
木隠龍太郎と
巽小文治のふたりだ。
「はて、ふしぎだのう……」
「内部の者があやまって、
火災を起してうろたえているのだろう」
「いや、それだけのさわぎではないようだ」
「じゃア、
何者か、われわれの
仲間のものが、
咲耶子をすくい、また、
小太郎山の
雪辱をしに、
斬りこんでいったのだろうか」
「なにか
殺気だっているが、
伊那丸さまといい
他の者といい、ここへくれば、なんとかわれわれに手はずをなさるであろうから、どうもそうは考えられんな」
「では、なんだろう」
「
石見守長安の
家中で、うらぎり者が起ったか、でなければ、仲間
同士の
争闘か」
「そうとすればおもしろいが――オヤ……」
と
小文治は足もとをすかすように、ほの明るく
映えている
外濠の
水面をながめだす。
「――
妙な
物が
浮いている」
「なんだ?」
「
手組の
筏らしい――ヤ、そして、あの
柳の木の
根からむこうの
堤へ、一本の
綱がわたしてあるぞ」
「ウーム、するとやッぱり、これは内部の
仲間割れではないな」
「この筏は
天佑かも知れんぞ」
「ウム」
「
渡りに
舟というものだ、なにはともあれ、こいつに乗って
城内に
入りこんで見ようではないか」
「おお、よかろう!」
決然というと
龍太郎は、
柳の根へかけ
寄って、
渡し
綱にそえてあるともづなをこころみにグイと引ッぱってみた。
案のごとく、
濠のなかほどに
浮いていた
手組の
筏は、かるく、こっちの
岸へよってきた。手組の筏というのは、およそ、ゆく手に
水路のあるのをさっした
場合、おのおの、九
尺の
桐丸太を一本ずつたずさえていって、そくざに
菱形筏をあんでは渡ってゆくことで、これは、
越後流、
甲州流、
長沼流を
問わず、すべての
陣法にあるめずらしくもないことなのである。
ヒラリ――と龍太郎それへ乗る。
「
白鷺のようだな……」
小文治はかれの
姿を
形容しながら、あとから飛びのって渡し綱をたよりに、グングン濠の水をあなたの
芝土手へと横切ってゆく。
苦もなく渡っておどりあがった。
なるほど、これでは三、四十人の
覆面少女が、やすやすと
躑躅ヶ
崎へ
入りこんだわけだが、まだ龍太郎には、この手組の
菱筏が、だれに使用されたものか
想像はつかなかった。
ガバとはね起きた
石見守、
大久保長安は、
悪夢におびやかされたように、
枕刀を引ッつかむなり、
桜雲台本殿の
自身の
寝所から
廊下へとびだした。
「
桐井吾助! 桐井吾助!」
足をふみ鳴らして
宿直部屋へ
呼びたてる。
「
狩谷はおらんかッ、
狩谷軍太夫はおらぬか」
それにも
返辞はなく、
殿中、ただなんとなくものさわがしいので、いまはジッとしていることもできないで、
錠口まで足を早めながら、
「だれぞおらぬかッ。おお、
伊部熊蔵はいかがいたした」
と呼び立ててくると、
出合い
頭。
まがり廊下の横合いから、サッと見えた
真槍の
燐光、ビクリッとして飛びのくと、
「や、これは
殿」
「なんじゃ、
伊東十兵衛ではないか」
「はッ……」
ぴしゃりッ――と
槍を廊下へ
平において、
老臣の伊東十兵衛、あわててかれの前に
膝をついた。
「ものものしい
庭の手のそうどう、ありゃなにごとじゃ、
夜討ちか?」
「いや、お
案じなされますな、それほどな人数とも思われませぬ」
「
領主の
城郭へ
押しかける
盗賊もあるまい。では、
何者が
乱入したのじゃ」
「よくは
目的がわかりませぬが、ことによると、
源氏閣に
監禁しておく女を、
救いだしにきた
命知らずであるやも知れませぬ」
「
咲耶子をうばい返しに? ウム、しゃらくさいやつめら!
浜松城へ
護送するまでは大事な
擒人、かならず
ぬかりがあってはならぬぞ」
「はッ」
「
伊部熊蔵や
宿直の者はどうした」
「ご
寝所に近づけては申しわけがないと、みな、この
外側をかためております。なかにも伊部熊蔵は、
腕のすぐれた
若侍を
選り、いちはやく
白壁門へまいって
斬りふせいでおりますから、
追ッつけ四十や五十人の
浮浪人ども、みなごろしにしてもどるでございましょう」
「そうか、しかしかんじんな、
源氏閣の
方は?」
「それはすぐこのご
本殿の
階上、三
層までの
階段をみな取りはずしてございますうえに、あの
池のほうにも、
侍を
伏せておきましたゆえ、これまた、ご安心でござります」
周到な
老臣が、
臨機神速な手くばりに、
石見守が
寝ざめの
驚愕もやや
鎮まって、ほッと、そこで
胸をなでおろしたかと思うと、
何者であろうか、
大廂のそとがわからクルリと
身軽にかげをかすめて、
廊下の
切り
欄間へしのびこんだあやしき
諜者が、いきなり、
奇声をあげて
長安の
肩へとびついた。
折もおりなので、石見守――。
はッ……と
胆を
冷やして
曲者の手をつかみ、まえへもんどり打たせて投げつけようとすると、
伊東十兵衛もスワとはねあがって、つかみ取った
槍の
穂に風をすわせ、
石見守が投げつけたら、そこを立たせずに
一突きと足をひらいた。が、
曲者は、
長安の
肩をはなれない。
鈎のような手の
爪で、しっかり
襟もとへつかまっているので、十兵衛は槍をつきだしようがなく、あッと見ると、長安自身も、つかんだ
曲者の手の毛むくじゃらにあきれかえる。
「あぶないッ、
突くな」
「なんのこと――
三太郎猿でございましたか」
「人をおどろかすやつじゃ、
放せ、いたずら者め」
「や、
殿。三太郎の
襟首に、なにやら
書状が」
「なに、手紙が」
「は、りっぱな
打紐のお
状筥で」
「だれが
猿めにこんなものを
結いつけたのか? やア、こりゃいよいよもって
不審千
万、
浜松城お
使番常用の
筥、しかも
紅房の
掛紐であるところを見ると、ご
主君家康さまのお
直書でなければならぬが」
「とにかく、ご
開封を」
「ウム、
猿めを
抱いてこい」
乱入者のそうどうの
方も気にかかるが、これまた
意外な
天くだりの
状筥、とにかく一
見しようと、
長安はあたふたと
居間へはいり、
灯をかき立ててなかをひらく。
三太郎猿はおうちゃくに、
十兵衛の
膝を
拝借してもたれかかりながら、
茶色の目をショボショボさせてながめている。
「十兵衛、どこかに、
今宵お
使番の方が見えておるのか」
「いや、さようなことは、
表役人からもうけたまわりませぬが」
「へんなこともあるものじゃ――まさしゅうこれは
家康公のお手紙で、おまけに
今夕のお
日附となっている」
「いかに
早足なお
使番でも、夕方からただいままでに、ここへ着くともうすのはふしぎなしだい。そして、
御書の
内容は?」
「わしに、
御岳の
軍学大講会の
総奉行を申しつくるというご
沙汰。それと、ご
評議の
結果、
日取りその
他の
事項ご
決定に
相なったお知らせである」
「ほウ……してお日取りは、いつごろに」
「十月七日から九日までの三日のあいだ」
「昨年よりは五日おくれでござりますな」
「そうなるかな。当年、軍学兵法の
講論、
大試合に
参加する
諸家は、まずご
当家を
筆頭に、
小田原の
北条、
加賀の
前田、
出陣中の
豊臣家、
奥州の
伊達、そのほか三、四ヵ国のご
予定とある。――だが、どうしてこのご
状筥が、
猿めの首に
結いつけてあったのか。その
儀、なんとも
腑に落ちないことである……」
「もし……そのご
状筥の
紐のはしに、まだなにやら、
紙片が
結びつけてあるようにござりますが」
「ウム、これか」
と
長安は、そういわれてなにげなく
解いてみると、
懐紙をさいて
蝶結びにでもしたような
紙片。
うっかり
開けると、
破れそうにまだ
濡れている
墨色で、それは少年の
筆らしく、まことに
稚拙な走り
書。読みくだしてみると、その
文言は――。
お小姓とんぼ組の星川余一、三太郎猿にたくしてご依願申しあげそろ。
お上様のお使いとして、ただいまこの源氏閣の上に着城いたしそろところ、あやしき女人居合わせ、あなたの火を見て、乗りまいりたるクロという鷲をうばい、屋上より逃げ去らん気ぶりにてそろ。
大急ぎにてこの文したため、私もすぐあとより、屋根にのぼり組み止めるかくごながら万一不覚をしては一大事にそろゆえ、若侍衆、一刻もはやくお出合いありたく告げ申しそろ。火急火急。
はるばる、
遠江の国から
鷲にのってきたお
小姓とんぼ
組のお
使番――
星川余一が、
源氏閣のうえに
着城早々、なにかよほどな
危険に
追迫されたらしく、
機智の一
策、
三太郎猿を利用して、
石見守長安のもとへ、
火急火急と、走り
書にすくいをもとめてきた
蝶むすびの
早文。
読みおわるなり石見守は、いま、
着座したばかりの
腰をうかしかけて、
「
十兵衛!」
そばにひかえている
禿頭を
呼んで、
「だれもみな、
表のそうどうに走りだして、
侍部屋には人のおらぬようすだが、それではならぬ、源氏閣の上にも思わぬ
変事じゃ、すぐ十名なり二十名なりを
呼びかえして、
閣上のようすを見につかわせ」
老臣の伊東十兵衛も、わたされた早文の走り
書を一
見して、
仰天しながら、
「おッ、
咲耶子のやつめが?」
「余一の乗ってきた
鷲をうばって、
監禁の
閣をやぶり、こよいのそうどうにまぎれて
逃げのびようとしているらしい」
「ウーム、
油断のならぬ女め、
捨ててはおけませぬ」
「早くせいッ、早くッ」
「はッ」
と、
老臣の
伊東十兵衛、
言下に立ちかけたけれどイヤに
膝が
重い。はてな、と思って気がついて見ると、使いをしてきた
三太郎猿が
最前から
したり顔をして、じぶんの膝にもたれている。
殿さまご
寵愛のお
猿さま、
常からわがままいっぱいのくせがついているので、老臣の膝を
脇息のかわりにするぐらいなことは
平気だが、折もおり、十兵衛も気が立っているので
長安の見ている前もかまわず、
「えい、
邪魔なやつめ」
と、
襟毛つかんで、こッぴどくほうり投げてくれると、キャッ! とぎょうさんな
啼き声をあげたが三太郎猿、ちっとも
驚いたさまもなく、
廊下のあなたに
ちょこんと
両足で立っていた。
「では、ごめんを」
屈み
腰にツツとさがった老臣の伊東十兵衛は、
袴の
ひだをつまみあげ、いま、
殿のお
室にはいる時は、
脇部屋のそとにのこしておいた
手槍を持とうとして、そこを見ると、あるはずの槍がない。
ガラガラガラと
妙な音があなたへ
馳けてゆくのに、
戸まどいをした目をそらすと、
見当らないはず、
長廊下を向こうの方へ自分の
槍が引きずられてゆく。
「ちッ、いたずら者め!」
腹立たしげに、
舌打ちをして
追いかけると、それを持っていた
三太郎猿は、手をすべらして
庭先へ
槍を落としたので、
十兵衛の方をふりかえると、ケン! と人を
茶にした
奇声を
発しながら、
萩の
袖垣から
老梅の枝へと、
軽業でも見せるように
逃げてしまった。
ところへ、
白刃をさげて、
表木戸の方からここへ
馳けてきた
侍が、
「お――こりゃご
家老のお
槍ではございませぬか」
ひろいとって
庭先から手わたしてやると、
「ウム、
伊部熊蔵か。よいところへきてくれた」
と、十兵衛、手みじかに
石見守からいいつけられたことを話して、
「
表の方も気がかりになるが、
咲耶子をにがしては
浜松城のほうへいいわけが立たんことになる。なにを打ちすてても、すぐ
腕利きの
若侍をつれて、
源氏閣の上へかけつけてくれい」
熊蔵としては、
庭手白壁門のほうの
状況を
主人に
告げるつもりで、ここへきたのであったが、
出合いがしらに
老臣からそう
急かれて見ると、なにを話している
間もなく、
「すりゃ
大へんです!
心得ました」
もとへ引っかえして、
築山の一
角から、れいの
鉱山掘夫に使う
山笛というのを
吹き立てると、たちまち、
真っ黒になるくらいな人数がワラワラとかれの
周りを
囲繞してあつまった。
おまえと、おまえと、おまえと、おまえ。
なかで
腕のすぐれていそうな顔を、
伊部熊蔵、指さきで十二、三人ほどえりぬいて、
「
源氏閣へこい!」
自分がさきへバラバラと
馳けだしたが、また、ひょいとうしろの者たちをふりかえって、
「
残ったものは
殿のご
寝所のほうを
守れ、もう
木戸や
多門の
固めにはじゅうぶん人数がそろったから、よも、やぶれをとるおそれはあるまい」
いいすてて
桜雲台へ
馳けてゆく。
桜雲台は
躑躅ヶ
崎七
殿の
中核であって、源氏閣の
建物はその上にそびえている。
平常は
錠口より
奥、
平家来禁入の
場所であるが、いま老臣十兵衛がさきにまわってふれてあったので、一同
表方で
血戦してきたままの
土足抜刀の
狼藉すがたで、
螺旋状の
梯子口から二
層目へかけ上がり、それより上は
階段がはずされてあるので、
鈎縄、あるいは
数珠梯子などを投げかけ、われ一
番乗りとよじのぼっていった。
…………
閣上の
源氏の
間には、一
穂の
燈火、
切燈台の
油を
吸いつくして、ジジジと泣くように
明滅している。
あたりはさっきのままである。
ただ、
銀泥色絵の
襖のまえには、
蒔絵の
硯蓋の
筆が一本落ちてあって、そこにいるはずの
咲耶子のすがたも見えず、お
小姓星川余一のかげも
見当らなかった。
「おお、いない!」
数珠梯子から飛びあがった
伊部熊蔵と
伊東十兵衛は、
予期していたことであったが、
愕然として顔を
見合わせた。
とたんに。
頭の上でガラガラと
異様なものおとを聞いたかと思うと、四、五枚の
青銅瓦が、
廂のはしから落ちてくるなり
本殿平屋の
瓦の上で、すさまじい
金属音を立てた。
そして、まさしく
屋根の
天ッ
辺。
「お
出合いなさい! お出合いなされ!
大久保家のご
家中の
方々、あやしいものが
逃げまするぞ、早く、早く、早くここへ!」
高きところに声を
嗄らしている小姓余一の
絶叫が、一同の頭からけたたましく聞えてくる。
「あれだッ――お
使者のこえ」
「おお、
屋根、屋根の上!」
「のぼれ!」
「
咲耶子を手捕りにして
余一を助けろ」
あわてきった
十兵衛の
指図と
熊蔵の
叱咤が、
若侍たちの
先駆けをあおッた。
廂の上へぬけでるかくし
階段をさがす者、
欄間に足をかけて
釣龕燈の
鎖をつかみ、
三太郎猿のよくやる
離れわざの
亜流をこころみて、
屋根の上へはいあがろうとする者――咲耶子と余一とは、いったいどこから屋根上へのぼったのか
血気な若侍にしてもふしぎなくらい、この一
番乗りは
骨が折れたが、あとになって
心得のある者に聞くと、すべてこういう
楼閣には、
修築手入れなどの
場合の
用意に、
工匠が
上下する足がかりが
棟のコマ
詰から
角垂木の
間にかくしてあるもので、みんな上へ上へと気ばかりあせっていたので、その
工匠口にはすこしも気がつかなかった。
しかし――一せいにとはゆかないが、どうやらこうやら、ほど
経て、上に登ることは登りついた。そしてはじめて、ようすいかに――と
坂になった屋根の
端から首をだして打ちあおいで見ると、
「わアん、わアん……わ――ん……」
浜松城のお
使者番は、
満天の
星にくるまれた
閣の
尖端、
擬宝珠のそばで、
手放しに大声あげて泣いていた。
「あれッ?」
伊部熊蔵はあっけにとられた。
まさか
浜松城の
来使星川余一なるものが、十三、四の子供だとは考えていなかったので。
立っては歩かれないくらい、
勾配のきゅうな
青銅瓦の上をのしのしと
無器用にはいあがって、
「その
方はいったいだれであるか」
こう聞くと、余一は泣いている手をはなして、
「お
小姓とんぼ
組の
星川余一……」
そう答えて、また声あらためて泣くのだった。
「なに、ではそこもとが、
公書のお
使者番となってまいられた星川どのか」
「は、はい……」
「なにを泣いておられるのか、ただいま、
三太郎猿が首につけてきた知らせを見て、
殿にもことのほかなおおどろき、そっこく、ご
助勢をするためわれわれが、ここへ
馳けつけてまいったものを。おお、してしてこの
閣に
監禁しておいた
咲耶子なる女をごぞんじないか、あれをにがしては一大事だから」
「だから……だからわたしが……早くお
出合いなさいと、あれほど
呼んでおりましたのに」
しゃくりあげて、余一はまたくやしそうに、オイオイと
肩をゆすぶりながら、
「もうだめ! もうだめ! みんなの来ようがおそいから、わたしがここで一
生けんめいにおさえていた
咲耶子は、とうとう
擬宝珠につないでおいたクロをうばって、あれあれ、あれ向こうへ――」
「えッ」
「
逃げちゃった、逃げちゃった……。あのクロをなくしては、わたくしは、
浜松城にいる
万千代さまに、帰っておわびをすることばがございません」
余一はそれで泣くのだった。
逃げた! と聞いておどろいた
熊蔵や、
張合いぬけのした
若侍たちが、
半信半疑の目をさまよわせて、どこへ
逃げたのかと明け方にちかい八方の天地をながめまわすと――。
水色にすみわたった五
更の空――そこに黒くまう一
葉のかげもなく、ただ一
閃、ピカッと
惑星のそばの
星が、あおい
弧線をえがいて
巽から
源次郎岳の
肩へながれた。
また、足もとを
俯瞰すと。
竹童と
蛾次郎の
争闘から
端をはっした
馬糧小屋の
出火は、その小屋だけを
焼きつくして
焔を
沈め、うすい
白煙とまッ
赤な
余燼を、あなたの
闇のそこに、まだチラチラと見せている。
「ウーム、おそかったか!」
と、熊蔵は、余一の泣くのがおかしくなった。
「ぜひがない。このうえは
殿にありのままをおつげして、少しも早く、ほかへ
手配をつけるのがかんじんだ」
一同、手をむなしくして、
屋根から
降りかけた時だった。下に待っていた
老臣伊東十兵衛が、なにか
意味の聞きとれない
絶叫をあげたかと思うと、二
層目の
欄間から、
手槍をつかんだまま
仰向けに、
「
伊部ッ」
と
救いを
呼びながら、二層目の屋根へ、
袈裟がけになって
斬りおとされていった。
「やッ、ご
家老が」
「
咲耶子をすくいだそうとして、とうとうここまで
曲者がなだれこんできたか。それ、なんでおくれをとっていることがある。降りろ、降りろ」
降りるのは
苦もなかった。
擬宝珠に
玉縄を
結びつけ、ズル! ズルズルとつながってゆく。
一
閃。
横に
白刃の
光流がその玉縄を下からすくったかと思うと、ぶらさがっていった四、五人が、
束になってまッさかさまに下へ――。
「わアッ!」
というどよめきがあがる。人の
惨死を見ると、人間は
忘れていた
兇暴な
血がたけりだす。
こうなると、つねの
怯者も
勇士になるものだ。
伊部熊蔵はカッと
怒って、
中断された
縄のはしから千
本廂の
鎖にすがって、ダッ――と
源氏の
間へ飛びこんだ。
見るとそこには。
今夜、
躑躅ヶ
崎の
館へ
斬りこんだ
覆面の少女とはまるでちがったふたりの者のすがたがチラと見えた。一方は白い
行衣をきて手に
戒刀とおぼしき
直刃の一
刀を引っさげた男。またひとりは
朱柄九
尺の
槍をかかえて、
射るがごとき眼をもった
若者である。
「いないぞ、ここには」
「さっきまで
狛笛の
音がしていたのに」
「では、
逃げたのであろう」
「いや、いくら
咲耶子でも、この
堅固をやぶっては逃げられまい」
「それならここにいそうなものだが」
「ふしぎだなあ」
「
奥の
部屋には」
「つぎの
間はない!」
「ではどこかに
隠れ
場所でも? ……」
早口に、こんな言葉をかわしながら、
室内の物をとりのけて、しきりとだれかをさがしているようす。
むろんそれは、
手組の
筏にのって
濠をこえ、
館のそうどうに
乗じて、ここへ
潜入してきた、
木隠龍太郎と
巽小文治のふたりである。
「おのれッ」
と、そこに思わぬ
敵を見かけた
伊部熊蔵は、いきなり
小文治のうしろ
姿を目がけて、
思慮なき
刃を飛ばしていった。
「うむッ」
といってその
胸もとへ、
石火にのびてきた
朱柄の
槍の
石突きは、かれの大刀が相手の身にふれぬうちに、かれの
肋骨の下を
見舞った。
「ざんねんだが、
咲耶子のすがたが
見当らなければぜひもない。このうえは、どうせのついでに、
大久保長安の
寝所を見つけて、きゃつの首を
土産に引きあげよう」
欄のまわりに
影ばかり見せて、ただワアワアとさわいでいる
若侍たちを
睥睨しながら、
源氏閣から
桜雲台の
本殿へもどってくると、そこへあまたの
武士に追いつめられてきた
乱髪の
小童があった。
「やッ、
竹童!」
咲耶子にあわぬ
失望は、そのうれしさにおぎなわれて、
朱柄の
槍と
鍔なしの
戒刀は、なんのためらいもなくその
渦巻のなかへおどった。
うるわしい
明け
方の雲が、東を
染めてきた。
秋霜の
下りた山国のあさは、
都の冬よりはまだ
寒い。白い
息が人の
鼻さきに
凍りそうだ。
「お
早う」
地蔵行者の
菊村宮内は、お
長屋の
釣瓶井戸で、
足軽たちと一しょに口をそそいでいた。
「ゆうべは、まことにひどいそうどうでございましたな、さだめしみなさんもおつかれでございましょう」
足軽たちに話しかけても、だれもウンとも
返辞をするものがなかった。かれらの
眼色はまだ夜の明けぬまえの
異常な
緊張をもちつづけているらしい。
顔をしかめて向こう
脛の
傷をあらっている者や、水をくんでゆく者や、たわしで
洗い物をする者などで、
井戸ばたがこみ合っている。
宮内は
早々そこをはなれて、
「なにしろ、大事にならなくってしあわせだった」
お長屋の
屋根むこうに、まだ黄色く立ちのぼっている
馬糧小屋の
余煙をながめて、ひとりごとをつぶやいた。
「あッ、
神主さん――。
竹生島の神主さん」
とつぜん、かれの足を
止めた者がある。
だれかと思って横をみると、ご
殿の
修築に使用する大石のたくさんつんである
間に、元気のない
蛾次郎の
顔がチラと見えた。
「おや、おまえは?」
伸びあがってのぞくと、
「お
地蔵さま、
後生です」
「後生ですって、なにが後生なんじゃ。でておいでな、ここへ」
「それが、でられないんで、弱ってるんです」
「なんだ、しばりつけられているのか」
「ええ、ゆうべお
館へ
乱入した、あの
狼藉者のためにしばられて、とうとうここで夜を明かしてしまったんで」
「おやおや、それはえらいお
仕置を
食ったな」
宮内は人のいい
笑い方をして、
石置場にしばられているかれの
縄目を
解いてやったが、からだが自由になったとたんに、蛾次郎は、
礼の言葉なぞはとにかくというふうに、いきなり向こうの
馬糧小屋の
焼け
跡へすッ飛んでいった。
なんですッとんでいったかと思うと蛾次郎、そこでまだ、カッカと
余燼の火の色がはっている焼け跡にお
尻をあぶって、
「オオ
寒、寒、寒、寒。……ああ、あったけえ、あったけえ、あったけえ」
歯をがたがたと鳴らしながら、
凍りきった
血をあたためて、
人心地を
呼びかえすのだった。
そこへひょッこり、
親方の
鼻かけ
卜斎が、
桜雲台の方からもくもくともどってきた。
卜斎はジロリと
蛾次郎の顔を見たが、べつに声もかけないで、
菊村宮内のいる火のそばへよりながら、
「
定めしゆうべはびっくりなすったであろう」
と話しかける。
「おどろきました。火事と思うと、すぐにあの
乱入者の
剣の音でな。しかし、かくべつなこともなかったようで、まずお
館にとっては、
大難が
小難でなによりともうすものです」
「どうして、
意外な
被害なので」
「ほウ」
「いま、役人がしさいを書きあげているが、
味方の
斬りすてられた者二十四、五名、
手負いは五十名をくだるまいとのことでござった。その上、ご
老職伊東十兵衛どのが、
源氏閣の上から
袈裟斬りになって
真下へ落ち、
鉱山目付の
伊部熊蔵どのも
悶絶していたようなありさま、けれどもこれは
命に
別条なく助かりましたが」
「ほウ、そんなに? してここの
主、
大久保長安どののお身にはなにごともなくすみましたかな」
「いちじは
曲者に
追われて、あやういところであったそうだが、ご
寝所から
壁返しのかくれ
間へひそんで、やっとのがれたという話、その
間に
運よく夜が明けましたゆえ、曲者たちは
濠をこえて、いずこともなく
逃げうせたそうで」
「で、
相手方の
死骸は?」
「それがふしぎ、なかには
手負いや死んだ者もあったろうに、
逃げるときにもち
去ったか、一つもさきの死骸がのこってない」
「さりとは心がけのよい曲者、いったい、それはどこの者で」
「
黒装束はみな
緋おどし
谷にいた若い
女子、
源氏閣へ
斬りこんだ者は、
武田伊那丸の
身内、
木隠、
巽の
両人とあとでわかった。おお、それから
鞍馬の
竹童」
「えッ、竹童も」
宮内は
久しぶりであの
好きな少年を心にえがいた。
そしてその竹童も、
無事にこの
館をやぶって
逃げのびたと
卜斎に
聞いて、
敵でも
味方でもないが、なんとなくうれしくおぼえた。
虹色の
陽が高くのぼってきた。
近国へうわさがもれては
外聞にかかわるというので、
昨夜のさわぎはいっさい
秘密にするよう、
家中一
統へ
申し
渡しがあって、ほどなく、
躑躅ヶ
崎一
帯、つねの
平静に返っていた。
午後には、
重なる家臣が
桜雲台へ集まった。
けれど、それはゆうべの問題ではなく、もう
日限の
切迫してきた、
御岳の山における
兵学大講会の
奉行を
命ぜられた
長安の
下準備や
手配りの
評議。
その
公書を
浜松からもたらしてきたお
小姓とんぼ
組の
星川余一は、
万千代さまへの
申しわけに、
鷲の
行方をつき
止めるまで、しばらく
長安の
詮議をたよりに、ここへ
滞留していることになる。
鷲といえば――。
余一のほかにだれも見とどけた者はないが、
源氏閣のてッぺんからすがたを
消した
咲耶子は、いったいどこへいったのだろうか?
クロとともにかげを見えなくしたところからさっすれば、
竹童の
鷲乗りをうつしまねて、空へと、
舞って
逃げたよりほかに考えようがないが、あの
絵に見まほしき
振袖すがたで、そんなあぶないはなれわざが、
果たして
首尾よくいったろうか。
いや、
心配はあるまい。
かの
女も
裾野の女性である。
山大名の
娘である。竹童のすること、
蛾次郎でさえやること、余一すら乗りこなしてきた鷲――なんで乗れないことがあるものか。
そうあれば。
とにかく咲耶子の身には、ふたたび、うばわれた自由と
希望がかえっているわけ。
カアーン……カアーン……カアーン
きょうも
甲府の町にのどかな
鉦の
音。
菊村宮内はおなじ日に、
卜斎と
別れを
告げ、花や
供物にかざられた
笈摺と、かがやく秋の
陽を
背にして、きのうのごとく、
地蔵菩薩の
愛の
旅にたっていった。
翌日は
駒飼から
笹子峠を
越える。
甲府を一とおり
遍歴した宮内は、これから道を東にとって、
武蔵の国へはいるつもり。
これから武蔵へかかる
山境は、
姥子、
鳴滝、
大菩薩、
小仏、
御岳、四
顧、
山また山を見るばかりの道である。すきな子供のむれに取りまかれることがいたってまれだ。
阿弥陀街道のながい半日に、かなり足の
疲れをおぼえてきた宮内、
「おお、
茶店があるな」
立場がわりに
駒止めの
杭がうってある
葭簀掛の
茶屋を見かけて、
「少し
休ませてもらいます……」
と、なにげなく立ちよって、
背なかの
笈を
床几の上へ
安置すると、
土間のうちで
荒々しい人声。
「女だからって、
油断もすきもありやしねえ!」
なにかと思って見ると、
街道稼ぎの
荷物持ちか
馬方らしい
ならず者がふたり、
黒鉄に
毛をはやしたような
腕ぶしをまくりあげて、
「――飛んでもねえいいがかりを
吐かしゃあがる。だれがてめえのような
女乞食のビタ
銭を、
掏ったり
抜いたりするバカがあるものか、ものをぬすまれましたという
人体は、もう少しなりのきれいな
人柄のいうこッた、よくてめえの
姿や
商売と相談してこいッ」
おそろしいけんまくでどなりつけている。
そのふたりの
毛脛のあいだにはさまって、
土間へ手をついたまま、わなわなおののいている女は、
坂東三十三ヵ
所の
札をかけ、
膝のところへ
菅笠と
杖とを持った、三十四、五の
女房である。
「いいえ、そうわるくお取りなすってはこまりますが、たしかに、
駒飼の
宿の
辻堂で、ちょっと
帯をしめ
直しているあいだに、あなた
方おふたりが、足もとへおいたわたしの
金入れをお持ちになってかけだしたので、
悪気はない
ほんのいたずらをなされたのであろうと、ここまで
追ってまいったのでございます。どうぞ、あの
金がなくては、これからさきのながい
旅ができない身の上、かわいそうだと思って、お
返しなすってくださいまし」
「この女めッ、だまっていりゃいい気になって、まるで人を
盗っ
人のようにいやあがる」
「どういたしまして、けっしてそんな
大それたことを申すのでは」
「やかましいやいッ。てめえがおれたちに金入れを取られたといやあ、おれたちふたりは
泥棒だ。よくも人に
濡衣を
着せやがった」
「あれッ、そのふところに見えます
金入れが、たしかに、わたしの持っていた
包みでございます」
「飛んでもねえことをいうねえ。こりゃ、おれが
甲府の町でさる人からあずかってきた金入れだ。それを見やがってぶっそうないいがかり、どッちが白いか黒いか
代官所へでてやるところだが、
女巡礼を
大の男ふたりで相手にしたといわれるのも
名折れだ。さ、
命だけを助けてやるから、サッサとでていきやがれ」
馬の
草鞋にもひとしい
土足が、むざんに女の
肩をはげしくけった。
「これ、なにを
無慈悲なことをなさる」
菊村宮内はわれをわすれて、その女巡礼の身をかばいながら、
「ふびんではござらんか、かような
巡礼道の人の
持物を
巻きあげて、それがどれほどおまえたちの
幸福になるものじゃない。どうか、そんな
手荒なことをせずに返してあげておくれ」
「おやッ」
「こんちくしょうめ」
と、
胸毛をむきだして
腕まくりをしなおしたふたりの
道中稼ぎ。
「
横合いから飛びだしゃあがって、なにをてめえなんぞの知ったことか。
利いたふうな
文句をつける
以上は、この
喧嘩を買ってでるつもりか」
「はははは、飛んでもないことを。あなた方を相手にして、
腕ずくなどの
争いは、とてもわたしたちにはできないことです」
「じゃあ引ッこめ、引ッこめ!
鉦叩きのやせ
行者め」
「いや、引ッこめません」
「これでもかッ!」
いきなり一方の
鉄拳が、風をうならせて宮内の
横顔を
見舞ってきた。
「あぶない」
軽く身をかわした
菊村宮内、その腕くびをつかみ取って、
「そんなめちゃをなさらずに、どうか、ゆるしてあげてください。その
金財布が、げんざい、あなた方の
持物でない
証拠には、がらも
色合も
女物ではありませぬか」
「えい、よけいな口をたたきやがると、こうしてくれるッ」
と、
両方から、
猿臂をのばして
襟もとをつかんでくる。
宮内はうしろへ身を
押されて、あやうくそとの
葭簀につまずきかけたが、そこまで
忍んでいたかれの顔色がサッと、するどく
変ったなと思うと、
踵をこらえてひねり
腰に、
「えいッ」ひとり
矢はずに投げつけた。
「
野郎ッ」
「兄弟――ッ、
仲間のやつらを
呼んでこい」
「おうッ」
というとはねおきた一方の男は、
脱兎のごとく
茶店のそとへ飛びだして、なにか大声で向こうの
並木へ手をふった。
と――見る
間に、くるわくるわ、どれもこれも一くせありげな
道中人足、
錆刀や
息杖を持ちこんで、
「なんだなんだ」
「その
野郎か」
「
生意気な
鉦叩き
虫め! ぞうさはねえ、その女も一しょにつまみだして、二本松の枝へさかづるしにつるしてぶんなぐれ」
理も
非もあったものではない。
まっ黒になって
茶店の入口になだれこみ、あッと
宮内があきれるうちに、
床几の上にすえておいた
地蔵菩薩の
笈摺を、ひとりの男が
土足でガラガラとけおとした。
「ウーム……」
と、
宮内のまなじりが
朱をそそいで引ッ
裂けた。
いかに、とるに
足らない
あぶれ者とはいえ、一
念に自分の
信仰する
地蔵菩薩のお
像を、
馬糞だらけな土足にかけられては、もうかんべんすることができない!
見そこなったな、この
青蠅め!
いまでこそ身は
童幼の友と
親しまれ、
背には
地蔵の愛をせおい、
軒ごとの
行乞、
旅から旅をさすらい歩くながれ
人にちがいないが、
竹生島に世をすてて
可愛御堂の
堂守となる前までは、これでも、
鬼柴田権六の
旗本で、
戦塵裡に人の
生血をすすりながら働きまわったおぼえもある
菊村宮内。
「おのれ」
憤怒はついにかれの手を、
脇差の
柄にふれさせて、今にも、目にもの見せてくれんずと、ぶるぶると、身をふるわせた。
「おや、なんでえ、それは」
「べらぼうめ、
物乞いがそんな
錆刀なんぞをヒネクリまわしたところで、だれがしりごみするものか」
「さッ、でてこい、そとへ!」
「その錆刀の手うちを見てやろうじゃねえか」
宮内の
血相には多少おどろいたが、
多寡が
地蔵さまを
背負ってあるく
鉦たたき、なんの
意気地があるものかと、頭から見くびって、思うぞんぶん、
唾をとばして
罵詈するので、いまはもう、あのやさしい宮内の
形相も、
血を見ねばしずまりそうもない
殺気を見せた。
だが。
かれはふと、そこへ
蹴飛ばされてきた
地蔵菩薩のお
像に目をとめた。
蹴られても、足にかけられても、みじん、つねの
柔和なニコやかさとかわりのない愛のお顔。
「あッ……」
かれは、刀の
柄にかけた手を
縛りつけられたように、よろよろと、うしろへ身を引いた。
「
誓いをわすれた……ああ、悪かった」
そうつぶやくと、
殺気の
形相は一しゅんにさめて、かれの顔は
地蔵のとうとい
微笑に
似てきた。
「バカ
野郎め」とたんに、
「なにを
寝言をいってやがるんでッ」
ひとりの男の
拳骨が、ガン! と
頬骨のくだけるほど、
宮内の横顔をはり飛ばした。
「さッ、でろ、でろッ、そとへ」
蹴る、なぐる、
突き飛ばす。
宮内は
甘んじてぞんぶんになった。
踏みつけられる
土足の下にも、
地蔵菩薩と同じような
微笑を
失ってはならないぞと自分の心を
叱っていた。カッと、
吐きつけられた
痰つばをも、かれは、おとなしくふいていた。
かれには誓っていたことがある。
武士をすてて
竹生島にかくれた時、そして、
地蔵菩薩の愛の
旅に
島をでたとき、かならず、
終生刀を
抜くまいぞと心にちかった。
いまは
乱世だ、
血みどろの戦国である。
人は
旅にある時も、町を
歩むにも、家に
寝ている間にも刀を
肌身にはなせない世の中だ。
けれど、人に愛をおしえ、
不遇な子の友だちとなり、人に
弓矢鉄砲いがいの人生を
悟らせようと
志している自分が、その刀をたのみにしたり、その
殺生をやったりしてはならない。どんなことがあっても、
生涯刀は
抜くまい、刀は
差していても手をかけまい!
地蔵菩薩の愛の
体得をけっしてわすれまい!
固くかたく、それを
胸の
誓いとして、地蔵のみこころにむすびあわしている
菊村宮内。
「げじげじめ」
「たわけ
野郎」
「ものもらい」
「ざまを見やがれ」
「くたばるまで
蹴ころがしてやれ」
寄ってたかってなぐりつける、
息杖や
足蹴の下に、いつか
神気朦朧として空も見えなくなってしまった。
ここに六万五千人の人間が、地上に一
個の
建築をもりあげるため、
蟻のごとく
土木に
蝟集している。
これが
人間業かとおどろかれるような
巨城。
もうあらかたできあがりに近づいて、
秋晴れの空に
鮮やかな
建築線をえがきだしている。
なんとすばらしい
城だろう。その
規模の大きなこと、ローマの
古城をもしのぐであろうし、その
工芸美の
結構はバビロンの
神殿にもおとりはしない。
武将の
居城として、こんな大がかりなものは、まだ日本になかった。いや、
当時、海外から日本にきていて、この
工事を
見聞きしたクラセとか、フェローのような、
宣教師でも、みな
舌を
巻いて、その
高大をつぶさに
本国へ通信していた。
そこは――
摂州東成郡石山の
丘、すなわち、
大坂城の
造営である。
城は
本丸、二ノ丸、三ノ丸にわかれ、
中央に八
層の
天主閣が
聳えていた、二
重以下は
惣塗りごめ、五
重には
廻廊をめぐらし、
勾欄には
鳳龍の
彫琢、千
畳じきには
七宝の
柱、
間ごとに
万宝をちりばめてあおげば
棟瓦までことごとく
金箔。
大和川、
淀川の二
水をひいて
濠の長さを
合計すると三
里八町とかいうのだから、もって、いかにその
大げさな
築城かがわかるであろう。
「ほウ、またきょうも、だいぶ
大石が
集まってくるな」
と、
秀吉は、子供のようにごきげんがよい。
本丸の
庭先になる
山芝の高いところに
床几をすえこんで、
浪華の
入江をながめている。
派手な
陣羽織に、きらびやかな
具足。
服装はりっぱだがからだの小さい秀吉、床几から立っても五
尺せいぜいしかあるまい。それでいて、こんな大きな城をつくって、まだじぶんの
住居にはせまいような顔をしている。
片桐市正且元、床几のそばに
膝をついて、
「さようでござります。
今日の
入船は大和の
筒井順慶、
和泉の
中村孫兵次、
茨木の
中川藤兵衛、そのほか
姫路からも
外濠の大石が
入港ってまいりますはずで」
と、答えた。
「あの
堺のほうからくる
船列は?」
「
三好秀次からご
寄進の
檜船ではないかと思われます」
「
小田原の
北条からも、
伊豆石の寄進をいたしたいと、
奉行へ申しいであったそうだな」
「
家康どのからもご
領地の
巨木や
人夫、おびただしい
合力でございます」
「あはははは」
秀吉はたわいのない
笑い方をして、
「それではまるで、他人がこの
城を
築いてくれるようなものだ。なぜだ? なぜそんなにして秀吉の
住居をみんなして
作ってくれるのか」
と、いかにも
空とぼけた
質問をだして、そばにひかえている
片桐、
福島、
脇坂安治など、ツイせんだって
賤ヶ
岳で七
本槍の名をあげた若い人たちをかえりみたが、またすぐに
床几から
腰を立てて、
「ウウム、
壮観、壮観」
と、
港のほうへ
小手をかざした。
そこから見ると――
大坂はまだ三
郷とも、
城下というほどな町を
形成していないが、急ごしらえの
仮小屋が、まるで
焼けあとのようにできている。
そして、百
川のすえに青々とすんだ
浪華の海には、
山陰山陽五
畿東山の国々から、
寄進の
巨材大石をつみこんでくる
大名の千
石船が、おのおの
舳先に
紋所の
旗をたてならべ、
満帆に風をはらんで、
宛たる
船陣をしながら、四方の海から
整々と
入江へさして集まってくる。
なるほど
壮観だ。
秀吉の目がほそくなる。わかわかしい
希望の
権化のような顔にいッぱいな
満足がかがやく。
さきには、
北ノ
庄を
攻めて、一
挙に
柴田勝家の
領地を
攻略し、
加賀へ進出しては
尾山の
城に、
前田利家と
盟をむすんで
味方につけた。
永いあいだ、なにかにつけてじぶんの
前途をさまたげていた
勝家は
自害し、かれと
策応していた
信長の
遺子神戸信孝、
勇猛佐久間盛政、
毛受勝介、みな
討死してしまった。
伊勢の
滝川一益も、かぶとをぬいで
降ってくる。
破竹の勢いとは、いまの秀吉のことであろう。京へ
凱旋してのち、七
本槍の
連中をはじめ
諸将の下のものへまで、すべて、
論功行賞をやったかれにはまた、
朝廷から、
従四
位下参議に
補せらるという、
位官のお
沙汰がくだる。
毛利も
人質をだして
和をねがう。
丹羽、前田も、あまんじて
麾下にひざまずく。
こうなると、ひそかに
虎視眈々としていた
徳川家康も、いきおいかれのまえに
意地を
突ッぱってはいられないので、
石川数正を
戦捷の使者に立てて
贈りものをしてくる。
秀吉はそこで、
(人間てものは、まあ、そんなものサ)
というような顔をしていた。
そして、
遠く
走せていた目を、すぐ
真下の
作事場――
内濠のところにうつすと、そこには数千の
人夫や
工匠が、
朝顔のかこいのように
縦横に
組まれた
丸太足場で、エイヤエイヤと、
諸声あわせて働いているのが見られた。
「
市松」
とつぜん、かれは
床几になおって、
「また使者が見えたぞ」といった。
「おう、さようで」
と、
福島市松も
加藤孫一も、みな
主君の
指さすところへ目をやった。
見ると、なるほど、
戦場のようにこんざつしている
桜門の
方角から、ひとりの
武将がふたりの
従者をつれ、
作事奉行筒井伊賀守の
家臣の
案内にしたがって、こっちへ向かってくるすがたが小さく見える。
「いかにも見えまするなあ」
と孫一がいうと、
片桐市正が、
「お
上はお目がよくておいで
遊ばす」
と
賞めあげた。
秀吉は、そうさ! といわないばかりに
胸をそらして、
「おろかなこと、この秀吉の目には、日本のはてまで見えておる」
笑いながら
見得を切った。
かりに
本丸をかためている
作事門の
柵ぎわへ、その使者と
筒井の
家臣とがきた。
「お
開けください」
「だれだ!」
番士は
具足、
真槍、
鉄砲、すこしも戦時とかわらない。
もっとも、
作事奉行も
棟梁も
工匠目付も、四方にかけあるいている
使番もすべて
上は
鎧装陣羽織、
下は
小具足、ことに
人夫を使っているものなどは
抜刀をさげて
指揮しているありさま。
(
怠けるものは
斬る)
これが
築城場の
宣言だ。
したがってここの空気は、
賤ヶ
岳、
柳ヶ
瀬の
合戦の
緊張ぶりとすこしもかわっていないのである。
「――作事奉行、
筒井伊賀守の
家臣、
猪飼八兵衛」
と大声で答える。
「
門鑑」
「いやお
送りでござる――
徳川どののお使者」
「
徳川家の使者? して
何名」
「
永井信濃守尚政と、つきそい
両名」
「そのものは?」
「
水野源五郎」
「ウム、
徳川殿のお
旗本でござるな。もう一名は」
「
菊池半助」
「それだけでござるか」
「さよう」
「ごくろうでござッた」
案内の
猪飼八兵衛はかけもどって、
送りこまれた
徳川家の
家臣三名、
槍ぶすまの間をとおってひかえ
所に待たされた。
やがてそれを、
秀吉のところへ知らせると、かれはもう
心得ていて、
福島市松に
出迎えを
命じる。
市松はガチャッ、ガチャッと歩くたびに
陣太刀が
具足をたたく音をさせながら、
巨石でたたみあげた
石段をおりてきて、
「
遠路浜松城からおこしのお使者、ごくろうです。福島市松ご
案内申しあげる。こちらへ」
うしろへ目くばせすると、かれが
無二の
家来可児才蔵、
「いざ」
と三名のうしろについて、主人と
首尾をつつんで
秀吉のいる
本丸の
庭手へあがっていった。
(はてな?)
そのとちゅうで
可児才蔵は、自分の目のまえに立ってゆく、少しちぢれ
毛のある男の
襟もとを見つめながら、
(はて……どこかで見たことがある)
いくども首をひねって考えたが、どうも思いだすことができない。
徳川家の
使者についてきた
侍、
横顔をさしのぞくのも
無礼であるし、
疑念のあるものをやすやすと、主君の前へ近づけるのはなおのこと
不安なはなし。
で――
作事門からついてきた
番士に、ソッと耳をよせてきいてみると、
「あの
方ですか。あれはただいまたしか、
菊池半助とか名のりました」
「えッ、菊池?」
そうだ!
それで可児才蔵にも思い起すことができる。かれは徳川家の
伊賀衆隠密組の
組頭で、かつて
富士の
人穴城へ、じぶんが
主命でようすをさぐりにいったとき、はじめてその名を知った男だ。
(これはいけない!
油断のならない使者のお
供だ)
かれがそう思いあたった時には、もう、秀吉のまえにきて、一同
横列になっていた。
秀吉は、ヤアと友だちを
迎えるようにして、はなはだかんたんに、
来意をきく。
けれど、いくらかんたんにされても、なれなれしくあつかわれても、ひとりでに使者のからだは
固くなってヤアに
対して、オウというような
円滑なへんじはできないで、
「
左少将さまにはいつもながら、ますますご
健勝のていに
拝せられまして、かげながら
主人家康も
祝着にぞんじあげておりまする」
などと
形式ばると、
「いや、ありがとう」
秀吉はたいへんやさしい声で、
「
体はせわしいおかげでますます
健固、また、
諸侯ご
寄進のおちからで、どうやらわしの
寝所もこのとおりできかかっている」
使者の
永井信濃守は、
肚のうちでひそかにあきれた。
(秀吉はウソばかりいっている。なんでこんな
巨きな
城が
寝所なもんか、これはやがて、四
国九
州はおろか、
東海道浜松も
小田原も、
一呑みに
併呑しようとする
支度じゃないか)
そう考えたが、口にはだせない。
秀吉は人の考えなどにはとんじゃくしないふうで、いよいようち
解けたようすになって
床几をすすめ、
「時に、ご
来意は?」
「はッ」
信濃守は、よそごとに
散らしていた
頭脳を
醒まして、
「ほかではございませんが」
「ウム」
「くわしくは主人の
書状につくしてござりますが、
口上をもって
一通りお願い申しあげまする。それは」
「ウム」
「
余事ではございませんが、毎年、
武田家の
行事として行われてまいりましたところの、
武州御岳における
兵法大講会の
試合の
儀」
「ウム、ウム」
「
勝頼すでに
亡び、
甲斐の
領土は
主人家康の
治下とあいなっております」
「いかにも」
「そこで
旧武田家の
政弊悪政はこのさいつとめて
廃しまするが、
兵法奨励の
御岳大講会の
行事だけは、なんとか
保存いたしたいと考えて、
昨秋も
形ばかりはやりましたが、
当時諸国紛端の折から、まことに思わしゅうございませんでした」
「大きに、ああいう
尚武のふうはぜひのこしておきたい」
「で、本年は、
甲府の
代官大久保長安にその
総奉行を
命じ、
支度ばんたん、力をつくしておこないたいと考えますゆえ、ぜひご
当家よりも、当日の大講会に
何人かご
参加くださるようにと、わざわざおすすめに、イヤ、お願いにまいったようなわけでござります」
「なるほど」
張合いのないくらいかんたんにうなずいて、
「だれかつかわすであろう」
といったが、
秀吉、またちょっと考えて、
「だが待てよ……
御岳の
大講会ともうすと、なにさま天下の
評判ごと、秀吉の
家来がまけてもこまるな」
「いや、けっして」
「
当日、
兵法試合のうち、
軍学大論議のあることは、あれから
甲州流の
陣法が生まれたというくらい
有名なものだが、そのほか、
武道の
試合としては、なんとなにか?」
「あえて、それに
限りをもうけませぬ」
「うむ、そうか」
「たとえば、
武道の
表芸、
弓術、
剣法はもちろんのこと、
火術、
棒術、
十手術、
鎖、
鉄球、
手裏剣の
飛道具もよし、あるいは
築城の
縄取りくらべ、
伊賀甲賀の
忍法も試合にいれ、かの
幻術と
称する一
派の
技でも、自信のあるものは
立合いをゆるすつもりでございます」
信濃守がしゃべっていると、
丁ッ、と秀吉よこ手を打って、
「いや、なかなかおもしろそうだな」
と、話のさきを折ッぺしょった。そして、
「ほんとうは、この秀吉が若ければ、自分ででかけたいところなのだが、まさか、そうもなるまい。イヤ、お使者の
口上あいわかった。いずれ
当日までにだれか
人選して
武州へつかわすであろう。
家康どのによろしくご返事を。どれ、一ツ
外濠の
作事を見まわろうか」
陣羽織をきらめかせて立ちあがった。
信濃守も
目礼して
宿所へかえる。
ところがその
翌日、秀吉は木の
香のあたらしい
本丸の一
室へ、
福島市松をひとりだけ
呼んで、
「いかんわい」
と、おもしろくない顔をしてつぶやいた。
「なんでいけませんか」
市松にはわからない。
秀吉はときどき、
尾張の
中村で村の
餓鬼大将だった時代のような言葉づかいを、ちょいちょいつかう。
もっともそれは、
当時からの
腕白仲間の
鍛冶屋の
虎之助や
桶屋の市松などと、さしむかいでいる時にかぎってはいたが。
で――いまもその市松とふたりきりで
対坐していたので、
「いかんぞ、いかんぞ、ゆだんもスキもなりはしない。まだすっかりできあがらぬうちに、この
大坂城の
縄取り
構造を
浜松の
狸めが
盗みおった」
と、
水瓜ばたけへ
泥棒がはいったように、口をひんまげて考えこんだ。
この
摂津の
要害へ
金城鉄壁をきずかれたのは、たしかに
家康のほうにとってありがたくない目の上のこぶにはちがいない。
しかし、その家康が、いつこの大坂城の
縄取りをぬすんだというのか、
福島市松には主君のいうことがさっぱり
解せないふうで、へんな顔をしてきいていた。
「わからないと申すか、はてさて、
魯鈍な頭よな」
と、
秀吉は、説明してやった。
「
武州御岳の
兵法大講会についてわざわざ
鄭重に使いをよこしたのは、すこし
妙なと考えていたが、あれはの
市松、やっぱり家康めの
策であった」
「ほう、ではかれの
策略なので」
「というほどのことでもないが、まア
用達しのついでだな、
転んでもただは起きないのが、あの男のもちまえ、きのうの使者三名のうちに、ひとり
隠密の
達者なやつをまぜてよこした」
「
伊賀者を使者の人数にまぜてよこすは
非礼千
万、どうしてそれがおわかりになりましたか」
「昨夜
作事門をのり越えて、本丸、二ノ丸のようすをうかがっていたやつがある。しかし、この
方にもすきがなかったので、じゅうぶん
図面をうつしとることもできず、風のごとく
逃げうせたから、
定めし
遠州の使者も
宿所をはらって、けさは早朝に帰国したのであろう」
「はてな、さようでございましょうか」
「
魯鈍、魯鈍、そちはこんなにくわしく話されてもまだ感づかないのか」
「でも、あまりふしぎに思われますので」
「なにがふしぎ」
「お
上には昨夜ご
酒宴で、いたくお
酔いあそばしました」
「ウーム、よいきげんだった」
「
拙者はつぎの
宿直の
間にひかえておりましたが、
鼾声雷のごとく、夜明けまでお目ざめのようすもなかったのに、なんとしてそんなことがおわかりでございましょうや」
「ウム、一
理あるな、ではじつを申さねばなるまい、まことは昨夜その
伊賀者の
潜入を知ったのはかの
源次郎が働きじゃ」
「源次郎と申しますと?」
「お、
家臣の者ではないから、そちはまだ知らぬとみえる。かの
信州上田城から
質子としてきている
真田昌幸のせがれ源次郎がことじゃ」
「それなら、うわさにうけたまわっております」
「で――こんどの
兵学大講会だが、その真田源次郎、まだ
二十歳にならぬ
若年ものとはいえ、父昌幸、兄
信幸にもまさる
兵学者、一つあれをやろうと思うがどうだ」
「よろしかろうとぞんじます」
「それに
加えて、そちの
家来可児才蔵」
と、
秀吉はじゅんに
指を折りだして、
「
虎之助のかわいがっておる
井上大九郎、この三名をつかわそう。日もはやせっぱくしておることゆえ、すぐ
出立させるがよい」
豊臣家の
代表者として、
御岳の兵法大講会に
参加する
命がくだって、可児、井上、真田の三
士が
大坂表を
発足したのは、その
翌々日のことだった。
山崎の
合戦で
敵の
生首を
笹にとおしてかけあるくほどはたらいて、笹の才蔵といいはやされた可児。
壮漢木村又蔵とならんで、
加藤の
龍虎といわれている井上大九郎。
それについていった真田源次郎というのは、ついこのあいだ信州から質子として大坂へきたばかりの
田舎者、いたって
無口で、年も他のふたりよりは若く、ながい
道中も、ただむッつりとして
歩いているが、
秀吉の
犀眼が、はやくも見こんでいるとおり、後年
太閤が
阿弥陀峰頭の土と
化してのち、
孤立の
大坂城をひとりで
背負って、
関東の
老獪将軍大御所の
肝をしばしば
冷やした、
稀世の
大軍師真田幸村とは、まったくこの源次郎だったのである。
だが、のちの
大軍師幸村も、この時はまだ
才蔵よりも大九郎よりも
後輩であったし、
上田城の
城主昌幸の子とはいいながら、
質子としてきている
身分なので、なにかにつけて
肩身がせまい。
大九郎は
大酒家で、道中もときどき源次郎に
世話をやかせてテコずらした。
才蔵は
御岳につくまで、じゅうぶん
腕をきたえておこうというので
宿へつくと
稽古槍を
借りて、源次郎をワラ
人形のように
突きたおす。
太刀を持っては大九郎にかなわず、槍をとっては才蔵に向かえなかった。それでも源次郎は謙遜無口で、よく大九郎のめんどうをみたり、才蔵に槍の教えをうけたりしながら、
順路東海道の
旅をはかどっていた。
浜松の
城下へついた
晩、
「一つ
皮肉に、せんだって使者にまじってきた、
菊池半助をたずねて、
一晩泊めてくれと
申しこんで見ようじゃないか」
大九郎の
発意で、いたらこの
間のことを
揶揄してやろうぐらいな考え、
伊賀組の
屋敷へおしかけていってみたが、
「
運のいいやつめ」
と、
大九郎は
門前から
苦笑しながらもどってきた。
もう
菊池半助も、
家中の人々とともに、
武州御岳へ
発足していて
留守だった。
やむなく町へでて、ぶらぶら
旅籠をさがしていると、
「おや、
可児才蔵さまじゃござんせんか」
と前にかがんで、なれなれしく人の顔をのぞきこんだ
町人がある。
「だれだ、その
方は」
「お忘れですかい、わっしゃあ
裾野でお目にかかったことがあります。へい、一ばん最初は
釜無川の
河原でね」
「釜無川の河原で?」
「さようでございます。あの時あなたは、
鳥刺しの
風ていで
人穴城をご
見物にいらっしたんでがしょう。忘れやしません、わっしが河原で
竹童を取ッちめていると、そこへ飛んできて、ひどい目にあわせなすったじゃございませんか」
「おお、そうか」
「やっと思いだしましたね」
「それではきさまは、
和田呂宋兵衛の
手下、
早足の
燕作だったか」
「その燕作でございますよ、どうも
旦那、お
久しぶりで……むかしは
敵だの
味方だのといっていましたが、いまはやっと、だいぶ天下もしずまりましたし、
人穴城は
焼けっちまうし、
家康さまと
秀吉さまも、
仲よくつき合っているご
時世ですから、こちとらなどは、なんの
怨みもくそもありゃしません」
「そうだが、このさきはわからないが、とにかくいまのところでは天下
平静、
御岳の
兵学大講会も、今年は
定めしにぎわしかろう」
「お、じゃ、
旦那方もおでかけですか」
「なにも
能はないが、
見物にな」
「ごじょうだんでござんしょう」
燕作はイヤな
笑いかたをして、
「おととい、
呂宋兵衛もあちらへでかけましたよ」
「ほう、あれもまいったか」
「
家康さまのおさしずで、
当日は、
南蛮流の
幻術を
公開してみせるそうで」
「あの、
蚕婆はその
後いかがいたしたな」
「あいかわらず、
達者なもんでございますよ、ただ
裾野にいたころとすこしちがってきたのは、呂宋兵衛にかぶれて、女
修道者のくろい
着物をきているぐらいなもンでげす」
「おまえはゆかないのか」
「わっしでございますか……」
と燕作はあたまに手をのせて――。
「わっしはまだごゆるりとあとからでかけますつもりで」
「そうゆうゆうと落ちついていると、もう
試合の
当日に
間にあわなくなるぞ」
「なアに
大丈夫、これでごンす」
と、
燕作は足の
膝ぶしをピッシャリとたたいて、
「
孫悟空じゃござんせんが、
早足の燕作、一番あとからかけつけましても、こういう
筋斗雲がございますから……へへへへことによると、あとからいって、いずれあちらでわっしの方がお待ちするようなことになるかも知れませんて。……へい、じゃあごきげんよろしゅう、さようなら」
と、横町へかけこんだ。
織田と
今川のほろびた
後は、
家康の
領地ざかいは
小田原の
北条氏直ととなり合って、
碁盤の石の目をあさるように
武州甲州上州あたりの
空地をたがいに
競りあっている。
その小田原でも、
御岳のうわさはたいへんなものだ。
徳川家からでる
和田呂宋兵衛がきのう
箱根をとおった。お
小姓とんぼ
組の
連中がうつくしい
行列で
練りこんでいった。
菊池半助がいった。やれだれがとおった。なんのなにがしもくりこんでいったと、
小田原城の若ざむらいは
血をわかしていた。
なんにつけても氏直は、いま、四
隣へ
虚勢を
張っているところだ。
「
当家の
武芸のほどをしめしてやれ」
と、これは
秀吉よりも大のり気で、すでに
城内で
数度の
下試合をやらせたうえ、
家中から
選抜して
武芸者十名、
鎖帷子組となづけてめいめいにおなじよそおいをさせ、
応援として若ざむらい百二十人をそえ、
示威どうどうとして、
足柄裏街道から
甲州路をぬけて、
武州御岳へ
参加することになった。
「ほう、あれや
小田原の
北条だな」
その人数と、ちょうど
位牌ヶ
岳の
追分でぶつかった
井上大九郎、つれのふたりをかえりみて、
「
戦にはあまりつよくない
連中だから、せめて
試合に勝とうというんだろう」
大口をあいて
笑いながらいった。
「よせよせ、大九郎」
才蔵は、道ばたに
寄って、その人数をわざとやり
過ごしてから、
「大きな声をすると聞えるじゃないか」
「聞えたって、なあに、かまうもんか。なにかいったら
賤ヶ
岳で、すこし
食い
足らなかった
腰の
刀に、
生血を
馳走させてやるさ」
「すぐそんな気になってはこまる。こんどの御岳はただの
武者修行やなにかとちがう。
豊臣家のおん
名をいただいてまいったことだから、もうすこし
自重してくれよ。え、大九郎」
と、
可児才蔵が
肩をならべてゆきながら、
酒の
匂いのたえない井上大九郎に、しきりと
意見していた。
いつもおとなしいのは
真田源次郎。
ふたりの
振分まで自分の
肩に持ってやって、もくもくとあるき、もくもくとあたりの山をながめ、時には立ちどまって、地理
山川をふところ
紙にうつしている。
さすが
後年九
度山に身をかくしても、
隠然天下におもきをなした
大軍師幸村、わかい時から人の知らない心がけがあった。
ほどもなく、この人々も、
小田原の人数も、
甲州本街道を
迂回して、
岩殿山に
武田家滅亡のあとをとむらいながら、
御岳へ、御岳へ、と近づいていった。
御岳ののぼり口には、いくつもの小屋や
厩や
湯呑所などが
建っていた。いま山は
紅葉のまっさかりで、
山腹山上、ところどころに
鯨幕やむらさき
だんだら染の
陣幕が、
樹間にひらめいて見える。
「
伊達家諸士控所」
「
上杉家諸士溜場」
「
北条家休息小屋」
「
徳川家家臣寄合場」
などとその小屋にはいちいち
木札がうってあって、
各所ものものしいありさま、すでに
明日とせまってきた
大講会広前の
試合のしたくやなにかに
活気だっていたが、いま、天下
大半のあるじ、
豊臣家にはなんのしたくもなく、
見物にまじってぶらりとやってきた三名は、さしずめ、そこらの
樹のしたに
蓙でもしいて
一晩明かすよりほかにしかたがない。
麓のすこし手まえにある
御岳の
宿の
町中も、あしたから三日にわたる
山上の
盛観をみようとする
諸国近郷の人々が、おびただしく
入りこんできていて、どこの
旅籠も人であふれ、
民家の
軒に
戸板をだして、そこに
野宿をする
覚悟のものが
幾組となく見うけられた。
カアーン、カアーン
鉦をたたきながら、そこを通る
地蔵行者があった。
足でもいためているのか、
笈を
背負っているその地蔵行者は右の足でびっこをひいていた。
すこし歩いては
休み、すこしあるいては休みして、
カアーン、カアーン……と
行乞の鉦をあわれげにたたく。
「まだおからだがお
痛うございますか」
こういって、いたいたしげに行者の足をみたのは、道づれになっている女の
巡礼――
坂東三十三ヵ
所の
札を
背なかにかけた
女房である。
「いいや、もうたいしたことはございません」
菊村宮内はさびしく
笑って、
「おまえさんこそ、きょうはだいぶ歩きましたから
定めしつかれたであろうと、さっきから
休み
場所をさがしているが、どうも、たいへんなこんざつで……」
「ご
心配くださいますな、けっして、わたしはなんともありゃしませんで。ハイ、
行者さまわたしはきのうのことを思いますと世の中には、ありがたいお人もあるものと思わず
涙がこぼれてしようがありません」
「なにをいいなさる。あれしきのこと」
「わたしの
難儀の
身代りになって、あの
人足たちに、打たれるやら、
蹴られるやら、それでも、おまえさまは
手出しもせず、ジッとがまんしていなすったから、とうとう
気絶してしまいなされた」
「それでも、死ななかったのは、お
地蔵さまのお
加護です」
「わたしの眼から見ますと、あなたさまのおからだに、あの時、
後光がさしていたようでした」
「とんでもない、わたしはくだらない
凡人ですよ」
世間に
鬼はない。
いまもふたりが立ち話をしていたごとく、その男女のすがたを見かけると、とある
町家の
軒下から、
「もしもし、お
地蔵さん、ここへきてやすみなさいよ」
と、しんせつにいってくれるものがある。
「ありがとうぞんじます」
ふたりはていねいに
腰をかがめてそこへはいり、
笈をおろして
茶の
馳走になった。
ここにも、
明日の
御岳見物がどっさり話し合っていた。が、なにかの
雑談の
端から、身の上をきかれて、
女巡礼は
涙をうかべながらうつ向いてしまった。
菊村宮内は、きのうはからず
阿弥陀街道の
茶店で、この
女房がわるい
街道人足に
迫害されているのをみかけて助けたことから、ここへくるまでのみちみちに、その身の上を聞いたので、
「わたしが
代って――と申しては、まことにさしでがましいようでござるが、なるべく多くの人さまに、聞いていただいたほうが、この
方のため、ぞんじているだけをお話しいたしますが」
と、人なかでは、口のきけない巡礼の女房にかわって、
「じつはこの
女は、
甲州の
水晶掘りの女房で、お
時といいますが、わけがあって自分のひとりの
児をたずねあるいておるんです」
「へえ、子供をね……ふうむ……それやかわいそうなこった」
「どこかに、生きていれば十四、五になる男の児、おさない時に、
伊勢参りのとちゅうではぐれたままなので、なんの
証拠もなさそうですが、たッた一つ……」
「ふム、ふム」
と、一同の目は、お
時と
宮内にあつまった。
「――たッた一つある手がかりは、その
児の
背なかに、お
諏訪さまの
禁厭というてすえた、大きな虫の
灸のあとがあることだけです」
「なるほど、
背なかにお
諏訪さまの灸のあとがあれば、なんとか、いまに見つかるでしょう、あの
灸点は
甲府の
近郷でやっているほか、あまり
他の国にはあんな大きな
灸は見ないからの」
「まア、力をおとしなさんな」
「
坂東三十三ヵ
所の
功力でも、いまにきっと見つかりますよ」
と、
郷土の人たちのことばは
温かく、わずかな
金をさいて
合力したり、
握り
飯をとって
茶をついでくれたりして、なぐさめてくれているうちに、いつか話がそれて、だれも気がつかないすきまだった。
宮内にもだまって、
巡礼のお時は、そこの
軒下から走りだしていた。
そして、さきへひとごみを
追いながら、せまい
宿場の人ごみを
縫ってゆく。
「あの子じゃないかしら?」
と、お時は、さきへゆくひとりの少年をつけてゆくのだった。
いつも、それではあとでがっかりするが、ちょうど思うころの年ごろの少年を見ると、お時は、どうしても、あとを追わずにはいられない。
「あの子かしら?」
と思うと、その顔も、死んだおやじに
似ているように見えてくるし、いまにもニッコリふりかえって、
「あッ! おッ
母さん!」
と飛びついてきやしまいかと思われるのだった。
「ああ、足が早い、足が早い、まあなんて足が早い子なんだろう。ちょっと、こっちをふり向いて、わたしに
横顔でも見せてくれればいいのに」
捨ててきた
宮内が
心配していることも、いまはすっかり
忘れてしまった。
――とも知らずに、さきへゆくのは十五、六の
なりの大きな
腕白小僧。
ピキ、ピッピキ、トッピキピー
木の
葉笛をくちびるに
当てて、しきりと
奇妙きてれつなちょうしで
大人をおどかしてゆく。
どこかへ
買物にいってきたものとみえて、
片ッぽの手にふろしきをさげている。そのふろしきがほとんど手にあるのを忘れて、
ピキ、ピッピキ、トッピキピー
木の葉笛で元気がいい。
「ああ、あれが自分の子だったら、どんなだろう」
お
時も
夢中で
追いかけた。
そして、女の足では
苦しいほどいそいで、やっとうしろから追いつきかけたお
時は、横へまわるように
馳けぬけて、その少年の
横顔をのぞきこんだ。
――見ればあまりいい顔だちではない。すこしばかり青い
鼻汁をたらしかけている。けれど、お時の目には、やっぱり死んだおやじに
似ていた。
なんとかして、話しかけてみたい。
こんどはその気持につりこまれて、また見えがくれにつけていった。
「ちぇッ、ずいぶんありゃアがるな、
宿から
麓までは」
四ツ
辻でそういって、
木の
葉笛ですこし
かッたるくなった
歯ぐきを、
頬の上からもんでいるところを見ると、それは
鼻かけ卜斎のお
供でこの
御岳へきて、ゆうべから
麓の小屋に
泊まっている泣き虫
蛾次郎。
「そうだ……」
なにがそうなのか、ひとりでコックリして、
「バカバカしいや、いまから帰ったって、また蛾次郎足をもめの
腰をさすれのと、
師匠にスリコ
木みたいにこき使われちゃまいってしまう。どこかですこし、うまい道草はねえかしらなあ」
ピキピッピッキ、トッピッピである。
そこで蛾次郎は四ツ辻をうろうろまわって、なにか
見世物小屋でもないかと、
月ノ
宮神社の
境内へはいろうとした。
――と
蛾次郎、ぎょろりと目をすえて、
「いけねえ、またへんなところでぶつかってしまったぞ」
急に
尻尾を
巻いたようすで、あとへもどると、とつぜん
馳け足になってどこかへ
姿をかくしてしまった。
「おやッ、あの子は」
と、お
時は手のうちの
玉をとられたように、あッけにとられて
失望したが、その目のまえに、すぐと、また同じような少年がひとり、
月ノ
宮の
境内から
勢いよくかけだしてきて、
「――蛾次だ!」
と、石の
狛犬のそばに立って、
背のびをしながら、
逃げたもののうしろ姿を見おくっているようす。
すがたも
似ている、年かっこうもたいして
違うまい、ただ蛾次郎よりは少し
背がひくく
眼ざしや
口もとに
凜としたところがある。
それもお時にははじめてみる少年――かの
鞍馬の
竹童だった。
だが、子をたずね
迷うお時の目には、ものかげからジイッと
飽かずに見ていると、ああ
煩悩は
実にもふしぎ、この少年こそ、あるいは自分の子ではないか、あのお
諏訪さまの
灸のあとが
背なかにあるのではあるまいかと、
迷えばまようほど思われてくるのであった。
勢いよく、月ノ宮の
境内からかけだしてきた
竹童は、自分と
入れかわりに、そこをすッ飛ぶように
逃げだしていったうしろ
姿へ、
「やッ、あいつめ!」
石の
狛犬に手をかけて
伸びあがりながら――。
「
蛾次だ、蛾次
公だ」
と、
棗のような目をクルッとさせて、いつまでもそこに見おくっていた。
そして、かれの姿が、犬ころのように、
宿場のはてへ見えなくなると、竹童はもうそれを
放念したごとく、
「はてな、
伊那丸さまやほかのかたがた……もうお見えになりそうなものだが」
と、つぶやいて、べつな
方角へさまよわせた
眸を、ふと、狛犬のうしろにむけた。
と――そのかげに見なれない
巡礼すがたのおばさんがボンヤリと立っていて、自分のほうを
穴のあくほど見つめていたので、竹童はボッと顔をあかく
染め、あわてて眸をひッこめたが、お
時のほうはものいいたげな
微笑を
送りながら、
「
坊、おまえは、いくつだネ?」
と、そばへ
寄ってきた。
竹童は
きまりが悪そうに、もじもじとあとへ足を引っこめた。見たこともない
坂東巡りの
巡礼女が、いきなり年をきいたりジロジロと顔ばかり見つめてくるのが、なんとなくうす
気味のわるいようでもあった。
「いくツ? おめえは今年いくつになったえ?」
「…………」
「
家はどこ?」
「…………」
「この
御岳のまわりかい、それとも、もっと
遠い
在郷かね?」
「…………」
竹童は
小指の
爪をかんでいる。
だれにでも、打てばひびく
調子で、
鮮明率直なことばのでるかれも、そのやさしい問いには一
句も
返辞ができないで、ただふしぎな巡礼のおばさんよと、あいての身なりをながめ
入るのみだった。
子をたずねる
愛執の
闇、生みのわが子をさがしあるく
母性のまよいに、ふしぎな
錯覚を起しているお
時は、相手のはにかみにも気がつかず、ただ(もしやこの子が)と思う
一途に、
「じゃあおめえは、
両親を持っているかね。――ほんとの
父つァんを知ってるけえ? おめえを生んだおッ
母さんはどこにいる?」
絶えて忘れていた一つのさびしさが、そのだしぬけなお
時のことばに、ハッと、
竹童の
胸をうってきた。
ほろほろと
啼くやまどりの声きけば
父かとぞおもう
母かとぞおもう
竹童はだれかに聞いたこの歌一つをおぼえていて、父を思うとき、母をおもうとき、
寝床のなかや
森のかげでひとりこの歌をくり
返しくり返ししていると、いつもひとりでに
涙がでてきた。
かれは、生まれながらにして、
父母を知らない。
もの心ついたころから、
鞍馬の
奥の
僧正谷で
果心居士にそだてられ、友とするものは
猿や
鹿やむささびや
怪鳥のたぐい、
師とあおぐ人も果心居士、父とうやまう人も居士、母とあまえる人も居士であった。
「おいらは、木の
股から生まれたんだ」
ついこの
間うちまで、かれはこう信じていた。
しかし、やがて
僧正谷から
実世間のなかへもまれだしてみて、はじめて、人間には
両親のあることを知った。
父は六
臂三
面の神よりも力づよき
柱――、母は
情体愛語の
女菩薩よりもやさしい
守り――その二つのものが人間には
橋の下に生まれる子にもあるのを知った。
「だのに、なぜおいらには、それがないのかしら?」
この
疑問がすすんで、
竹童もいつのころからか、じぶんの父は
何人か、自分の母はたれなのかと、人知れずしきりに思うようになっていた。
「それにおるのは竹童ではないか。竹童、竹童!」
不意に、かれの
幻想とうつつな耳をさます声があった。
お
時に親を
問われて、
夢でもみるように、なにかボウと考えこみ、石の
狛犬とならんで
指の
爪をかんでいた竹童は、近よる足音にハッとして目をそらした。
――と、かれの顔いッぱいに、
意外なよろこびにぶつかッた
表情が
笑いかがやいて、
「オオ、
民部さま! や、
伊那丸さまも」
と、手をあげて
迎える。
森の小道でも
抜けてきたか、とつぜんそこへ
姿をみせた人々は、
民部をさきに、
伊那丸をなかに、うしろに
山県蔦之助と
加賀見忍剣のふたりをしたがえた
旅装いの一
行四名。
「竹童、よく
達者でいたな」
と、蔦之助が手をにぎる。
忍剣も
肩へ手をのせて、
「
小太郎山の
変いらい、そちの
消息がたえていたので、
若君をはじめ一
党の人たちが、どれほど、しんぱいしていたかわからぬ」
「あの、
砦の
留守番役を
仰せつかって、みなさまの帰らないうちに、あんなことになったもんですから……」
「もうそのことはいうな。おわびはわれわれからすんでおる。しかし、きさまどうしてこんなところにボンヤリと立っていたのだ」
「
明日はいよいよ
御岳の
大講会、その
前日には
月ノ
宮の森で、みなさまが落ち合うことになっているおやくそくだったそうですから、それで待ちどおしくッて、さっきからここに立っていたんです」
「ふム、きょうのやくそくをぞんじておるならば、
龍太郎、
小文治のふたりと一しょになっていたのか」
「はい、おふたりは先について、森の
垢離堂でお待ちです」
「そうか。ではすぐにそこへまいろうではないか」
と、
伊那丸が
藺笠の前をさしうつ向けてさきに立つ。
それにつづいて、
忍剣、
民部、
蔦之助の三人が
久しぶりで
邂逅した
竹童をなかに、みなが弟のごとく取りかこんで、
親しげな話をかわしながら、
月ノ
宮の
境内ふかくしずしずとあゆみ
去ってゆく。
あとには、ホウ、ホウ、と
山鳩の
啼くのがさびしげに……
そして、ひとりぼッち、あとに取りのこされた
巡礼のお
時は、
孤寂なかげをションボリたたずませて、
去る者のうしろ
姿をのびあがりながら、
「アア……あの子もちがっていたのかしら?」
とつぶやいて、どこかに聞えるあわれっぽい
鳩笛の
音に、なんとはなく
涙をさそわれて、
垢じみた
旅衣の
袖に、思わずホロホロと涙をこぼした。
「おう、そこにいましたね、お
時さん。いや、
息がきれた息がきれた。
不意に人をうっちゃってこんなところへきてしまうのはひどいじゃないか、いくらあとから
呼び
返してもふり向きもしないで」
と、そこへ
追いついてきたのは、あの
慈顔に
笑みをうかべた
地蔵行者の
菊村宮内。
「ああ、宮内さま」
「おや、
泣いていましたな」
「まだ目のさきにチラチラする。ほんとに
瓜二つじゃ、あんなよう
似た子供が、どうしてわしの子でないのかしら」
「いやいや、おさな顔はかわるもの、似たというものは
あてになりません」
「でも、なんだか、あのふたりのどッちかは、わしの子にちがいないような気がしてなんねえのでがす」
「じゃ、おまえさんの
尋ねる手がかり、あのお
諏訪さまの
禁厭灸が、その子の
背なかにあるのでも見たのですか」
「いいえ、そら、どうやら
とんと知らんけれど……」
「では――
迷いでしょう。おそらくそれは
親心の
煩悩でしょう。――迷いの
霧をへだてて見れば、
枯れ木も花と見え、
縁なき
他人さまの子供でも、自分の子かと見えてくるのが、
人情のとうぜん。――まあまあ、そう気が
短こうては、自身のからだをやつれさすばかり、それでは
永い
年月に、わが子をさがそうという
巡礼の
旅がつづきません。ただひたすら、めぐりあう日は
神仏のお
胸にまかせて、
坂東三十三ヵ
所のみ
霊に
祈りをおかけなさい。……わたしも
幸い、
地蔵愛の
遍歴者、およばぬながらも
同行になって、ともどもさがして
進ぜましょうから」
と、
宮内はお
時をなぐさめた。
そしてふたりは、月ノ宮の
御籠堂に
笈をおろしたが、
古莚につめたい
夢のむすばれぬまま、
啼くこおろぎとともに
夜もすがら
詠歌をささげて、秋の
長夜を明かしていた。
塩市と
馬市と
盆の
草市が一しょ
くたにやってきたように、夜になると、
御岳ふもとの
宿は
提灯の
鈴なり、なにがなにやら、くろい人の
雑沓とまッ
赤な
灯であった。
諸国諸道からここに
雲集した人々は、あすの日を待ちかまえて、空を気にしたり、足ごしらえの
用意をしたり、またはその日の
予想や
往年の思い出ばなしなどで、どこの
宿屋もすしづめのさわぎ。
「よウ、京都の
葵祭にも
人出はあるが、この
甲斐の
山奥へ、こんなに人間が
集まってくるたあ
豪勢なもンだなあ……」
と、その町なかの一
軒の
旗亭の二
階で、
窓から首をだして、のんきに下をながめている男が感心していた。
なるほど、
往来をみていると、
宿をとれずにかけあっている
田舎武士や、
酒気をおびている
町人や、
連れをよんでいる
百姓や、えッさえッさと
早駕で、おくればせに
遠地から
馳けつけてくる
試合の
参加者。
そうかと思うと、
鮨売りの声や
もろこし団子や
味噌田楽の
食い物屋、
悠長に
尺八をながしてあるく
虚無僧があるかと思えば、
鄙びた
楽器をかき鳴らしてゆく
旅芸人の
笠のむれ――。
なかでも一ばん売れているのは四ツ
辻の
松明売りだ。
「夜があけてから山をのぼってゆくようじゃ、とてもいい
場所で
見物はできないぞ」
というので、気のはやい
連中が十七
文の
松明をふりたて、その
晩のうちからドンドンドンドン
御岳の山へかかってゆく。
それが
麓から見ると、
狐火のように美しい。
「ウーム、どうでい、ありゃあ。まるで
大文字山の
火祭のようだな」
この男、京都にいたことがあるとみえて、
旗亭の二
階から首をだして、そのながめを大文字山の火祭に
見立てた。
だれかと思うと、
早足の
燕作だ。
と――燕作、
「おッ、連中がやってきた」
と、そこから店の
軒下をのぞいて、あわてて首を引っこめたが、
次の
部屋へヒョイときて、
「お
頭。きましたぜ、おそろいで」
「ウム」
と、うなずいたのは
和田呂宋兵衛である。
蚕婆と
丹羽昌仙のふたりを相手に、さいぜんから
酒を飲みながら、だれかのくるのを待ちあわせていたらしい。
「一同、ご
微行だろうな」
「へい、ぞろぞろと
編笠が七ツばかり、いま、
階下の
門口へはいってきました」
「じゃあ、お
迎えに」
と目くばせすると、
丹羽昌仙が立ちあがって
階下へ
降りてゆく。
間もなくそこへあがってきたのは、
隠密組の
菊池半助、おなじ
組下の
綿貫三八、それに今度の
兵学大講会に
試合目付として働いている
大久保長安の
家臣が四、五人――ただし、そのなかには
客分格の
鼻かけ卜斎がまじっていて、そのまたうしろには泣き虫の
蛾次郎、鼻をふいてひかえていた。
そこでゾロリと
車座になった。
ここに首を
寄せあつめたものは、みな
徳川家の
息がかかっている者ばかり。なにかしらないが、話はあしたの
相談とみえて、
一間をピッタリ
閉めきった。
「およそ、
明日の
試合順はきまりましたかな」
と、
呂宋兵衛がしきりに気にかけている。
かれはこんどの大講会で、
南蛮流幻術の
秘法をもって、
日本伝来の
道士がやる
法術の
幼稚拙劣なことを
公衆にしめしてやると、
浜松を立ってくるとき、
家康のまえで
豪語してきた。
首尾よくゆけば、この
機会に
大禄で家康にめしかかえられそうだし、まずくゆくと、またぞろ、
態よく
追いはらわれて、もとの
野衾に立ちかえらなければならない。
で、非常な
緊張ぶりだ。
それにつれて
芋蔓の
出世をゆめみている
丹羽昌仙も、
吹針の
蚕婆も、はれの
御岳でそれぞれ
武名をあげる
算段、今から
用意おさおさおこたりないところである。
「いや、
試合順はきまりませぬ。
御岳の
兵法大講会の
主旨は、世にかくれたる
人材をひろいだすのが
目的でもござれば」
と、
大久保家の
家臣が
釈明した。
丹羽昌仙がつぎに
小声で、
「なるほど、では
当日には、だいぶ
飛び
入りもございますな」
「ただいまのところ、
表向き
大講会奉行所まで
参加を申しだしてあるものはこれだけであるが、
当日にいたって、かくれた
麒麟、
蛟龍のたぐいが、ぞくぞくとあらわれる見こみです」
と、
席の
中央へ、多くの
兵学者や
武芸者の名をしるした
着到帳をくりひろげた。
「ふウむ……」
と、
呂宋兵衛をはじめ、
卜斎、
半助、一同の首がそれに
伸びて
順々にひろい読みしてゆくと、
自署された
有名無名のうちに、ちょッと目につくものだけでも大へんなもの。
まず
軍学部では――
氏隆流 岡本鴻雲斎(浪人)
謙信三徳流 大道寺友仙(上杉家)
早雲流相伝 沢崎主水(北条家)
楠流後学 三木道八(浪人)
孔明流 真田源次郎(豊臣家)
そのほか
異流もさまざまに
署名があったが、ひとり
甲州流を
標榜する
軍学者だけが見あたらない。
これは
武田家の
滅亡をまのあたりに見ているので、その
亜流をきらった
人気のあらわれともみられる。
つぎに、
剣道部の
着到順は、
一羽流 諸岡一羽(浪人)
愛洲陰流 疋田浮月斎(虚無僧)
吉岡流 祇園藤次(京都町人)
一刀流 慈音(鎌倉地福寺学僧)
心貫流 丸目文之進(伊達家)
などで、ちょっと
端からみてもその
階級さまざまで人数ももっとも多いけれど、
射術、
馬術の方になると、およそ
世上に
定評のある一
流の人やその
門下の名が多い。
しかし
築城家のほうはどうだろうと、
鼻かけ卜斎はそこに目をすいつけ、
呂宋兵衛は
法術部を気にし、
菊池半助がそれと同じように
忍法部の
試合相手の名をながめているのは、とうぜんな
人情だった。
その忍法部に
署名されているものは――
百地流 霧隠才蔵(浪人)
魔風流 魔風来太郎(伊賀郷士)
同流 永井源五郎(浪人)
愛洲移香流 天狗太郎(浪人)
戸沢流 猿飛佐助(浪人)
甲賀流 虎若丸(甲賀郷士)
などという人々で、その名を見るからに菊池半助のこんどの
試合はすこぶる
苦境にあるらしく、
「ウーム、猿飛もきているか……」
と、うめくようにいって
顎をおさえたままかがんでいる。
では、
築城術の
論議試合と
目されている方などは、その人がすくないかと思うと、これにも
相当きこえた人物の名が見えるのはさすがに戦国の学風によるものか、
天鼓流 村上賛之丞(越後領)
八車流 牧野雷堂(四国領)
月花流 柳川佐太夫(熊本領)
もっともこのうちには、
城の
工匠か、
地水縄取りの
専門家とかがまじっているが、
上部八風斎の
鼻かけ卜斎にしても、この人々と
築城論試合をして
勝抜きにいいやぶることは、なかなか楽とは思われない。
ただ、さすがに人のないのは、
法術師幻術家の
部で、ここにはたッたひとりの名がぽつんと
記されてあるばかりで、しかもその名が聞いたこともない。
役小角後学 烏龍道人(信州黒姫)
という人物。
こんな者は
試合にもおよばず、
南蛮流幻術の
息一つで
吹きとばしてもすむことと、
呂宋兵衛はすっかり安心してしまった。
けれど
大講会当日の
試合はこれだけではない。まだ
火術、
小具足術、
槍、
薙刀、
鎖、
手裏剣、
棒、
武技という武技、
術という
術、あらゆるものがふくまれているのだから、はたして、たった三日のあいだに、それだけの
試合ができるかどうかもうたがわしい。
晴れのあしたを前にして、なにを
密議するのか、その
晩、
徳川ばたけの者ばかりが、首を
集めておそくまで声をひそめていた。
そしてついに、その日はきたのである。
暁雲をやぶる明けがたの一番
太鼓。
御岳のいただきからとうとうとながれてきた――。
雲表をぬいて南に見えるのは
富士である。
甲斐の
連山や
秩父の
峻峰も、みなこの晴れの日を
審議するもののように御岳のまわりをめぐっていた。
頂上には
蔵王大権現のみ
社。
遠いむかし――
武神日本武尊が
東征のお帰りに、
地鎮として
鉄甲を
埋けておかれたというその
神地は、いま、
燃えんばかりな
紅葉のまッさかりだ。
それを正面のたかき
石段にあおいで、ひろい
平地の
周囲も、またそれからながめおろされる
渓谷も、四
顧の山も
沢も
万樹鮮紅に
染められて、
晩秋の
大気はすみきッている。
と――。
頂上の
神前で二ばん太鼓が鳴った。
さわやかな秋風が、一陣、まッさかさまに
吹いて、地上の
紅葉を
天空へさらってゆく。
広前にはりめぐらした
鯨幕、また
別れわかれに
陣どった
諸家の
定紋幕が
波のようにハタハタと風をうつ。
大講会第一日の朝――。
群集はこのさわやかな
試合場の
周囲に、
木の
葉のようにしずまっていた。三
番太鼓を待っていた。
そのなかに
伊那丸のすがたが見える。
そばには
帷幕の人、
小幡民部、
木隠龍太郎、
山県蔦之助、
巽小文治、
加賀見忍剣、
鞍馬の
竹童みな一ツところにならんでいた。
ただ
咲耶子のすがたが見えない。
源氏閣のうえから
大鷲の
羽風とともに
姿をかくした咲耶子はどうしたろうか?
それはきょうまでの日に、竹童、龍太郎、小文治の三人が八方くまなくそうさくしてみたけれど、その
消息が
得られなかったので、やむをえず
伊那丸とのやくそくもあるので、いちじ
断念して、
参会したのであった。
「まだ大講会は開かれませんか」
小文治が民部にはなしかける。
「三番太鼓がなるのを
合図として、あの
祭壇で
御岳の
神官とあまたの
御岳行者が
式をやる。そして、
黄母衣、
赤母衣、
白母衣の三
騎が
試合場を一
巡し、
大講会第一番の
試合番組をふれてくると
間もなく
貝あいずと同時に、あの
祭壇の下にある大講会のむしろへ
論客があがって、
築城論議をやることと思われる」
「ほウ、では、最初は
築城試合でございますかな」
「昨年はそうであったとうけたまわる」
「
陣法勝負などの
場合は、やはり、論議だけでございましょうか」
「
足軽何百人ずつを
借用して、じっさいの
陣あらそいになる場合もある」
「
壮観でござりましょうな」
と、小文治はわかわかしい目をした。
伊那丸はふたりの話を
小耳にはさんで、
「わしのおさないころは、なおさかんなものであった」
と、とおい思い出を
呼ぶ。
「さようでござりましょうとも、
信玄公ご
在世のころからくらべれば
比較にならないと、
町人たちもささやいております」
忍剣も
恵林寺にいたころ、
一年、その
盛時を見たことがあるので
追憶がふかい。
「おもえばむねんしごくな!」
とつぜん、
龍太郎がこうふんした
口調で、
「お
家の
行事もいまは
徳川に
奉行されて、
御岳の
神前に
武田菱の
幕一はり見えませぬ」
と、つよくいった。
「しかし、かりにお
家のかたちは
滅尽するとも、ここに
武田の人あることを知らせてくれたい」
と
蔦之助もそれに
応じる。
忍剣は
伊那丸の前へズッとよって、なにかうごかぬ
決意をしながら、
「
若君、昨夜もお願いいたしたとおり、
兵法大講会は
故信玄公が
甲斐の
武風をあくまで天下にしめされた
行事、われわれが
生涯の思い出ともいたしとう
存じますゆえ、なにとぞ大講会
参加の一
闘士として飛びいりおゆるしくださいますよう」
と、
熱願した。
それは一同の
希望で、ゆうべも月ノ宮の
垢離堂で、
血気の
面々がみな口をそろえていうには、自分たちも闘士として
出場し、この秋の
徳川家司宰のもとにおこなわれる大講会をして
木ッ
葉微塵にしてやろうではないか――という
意気があがった。
「
痛快だ!」
「武田家の
大行事を徳川家に
踏襲されるよりは、この秋かぎり
根絶させろ」
「それこそわれわれの願うところ、ぜひとも
試合にでる」
「
武をもって
横行するやからの
顔色をなくしてやろうぞ」
「武田は
亡びても人ほろびずと、天下に名のりをあげることにもなる」
と、やむにやまれぬ
鉄血の
士が、
膝をまげて伊那丸にすがる。
だが
伊那丸は――ゆうべもいまも、
「ゆるす!」
という
一言を、かれらの
熱望にたいしてよういにあたえないで、
「……だが、
冷静にこうしてながめているのもおもしろかろう」
と、
微笑しているばかり。
柳に風である。
君ながらお
憎い
態度! とひそかに思いうらまれる。
また、
小幡民部もあまり興味をもたない顔つきで、とりなしてくれるようすがない、それが
他の者をしていっそうジリジリさせた。
腕鳴り
肉うずく思いをのむとはこれだろう。
龍太郎しかり、
小文治しかり、
蔦之助も
忍剣も、
髀肉の
嘆をもらしながら、四本の
鎖でとめられた四
疋の
豹のような
眼光をそろえて
両肱を
張っている。
いきなり鳴った! その時である。
ドウ――、ドウーン……
耳をうつ、
天空のこえ。
これ、待ちに待った三
番太鼓と知られたから、
御岳広前の
紅葉のあいだにまッ黒にうずくまっている数万の
群集が一どきに、ワーッと声をあわせたが、さすが
霊山の
神前、ことに
厳粛きわまる
武神武人の
大行事、おのずから人の
襟をたださしめて、一しゅんののちは、まるで
山雨一
過して
万樹のいろの
改まったように、シーンと鳴りしずまったまま、その空気だけが
冴えかえってきた。
と――。
美妙な
楽奏が、ながれてくる。
あおいでみると、
神さびた
杉こだちの
御山の、
黒髪を分けたように見えるたかい
石段のうえから、
衣冠の
神官、
緑衣の
伶人、それにつづいてあまたの
御岳行人が
白衣をそろえて
粛々と
広前へ
降りてくる。
白木の
祭壇には四
方笹の葉がそよぎ、
御霊鏡が、
白日のように光っている。
伶人は
座につき、白衣の行人はしろい
列を
壇の下へひらく。
ゆるい
和笛の
音につれて、
笙、ひちりき、
和琴の
交響が水のせせらぐごとく鳴りかなでる。
のりとをあげた祭壇の神官、そのとき、バサッと
幣をきって、
直垂の
袖をたくしあげ、四方へ
弦をならす
式をおこなってから
紫白ふた
色の
細かい
紙片をつかんで、
壇の上から
試合の
広庭へ
雪のようにまきちらす。
――この
大講会に
血を見るなかれ!
――この大講会に
邪兵をうごかすなかれ!
という
意味をふくむ
神地きよめの
式である。
この式がすむと同時に、大講会三日のあいだは、ぜったいにこの
場では
平常の
敵味方をわすれ、
仇なく
怨みなく、たとえ
隣国と
交戦中でも、三日
間は
兵戈をおさめて待つというのが
武門のとうぜんとされている。
黄色いけむりが空へ走った。
狼火である。
群集の目がそれへつりあがると、また、
寂とした大地を、かつかつと
駆ける
馬蹄の音がおこっていた。
三
騎の
騎馬武者――。
これははなやかな
甲冑陣太刀のよそおいで、
黄母衣、
白母衣、
赤母衣、を
背にながし、ゆるい
虹のように
場内を一
周した。
これ、
母衣組目付の番組ぶれで、すべて
武田流の
作法どおりにおこなわれるものと見える。
さて。
いよいよ第一日の一
番試合は、
太子流の
強弓をひく
氏家十左衛門と、
大和流の
軟弓をとっての
名人長谷川監物との
射術くらべで
口火を切ることになった。
従来は
築城試合がさきであったが、
弓は
兵家の
表道具、これがほんとだという
意見がある、あまり
信玄の
遺風をまねているのは、
徳川家としても
権威にかかわるという
議論があって、
総奉行の
大久保長安もこのほうの
案をとった。
「オオ、始まったな」
「ウーム。どうも
指をくわえているのはざんねんだな」
と、
忍剣や
龍太郎は、
底光りのする眼光をいよいよ
研ぎすましている。
これを
冷静にみるという
伊那丸のことばは、
余人なら知らずこの
血の
気の多い人たちへは、
無理ないましめ。
ことに
山県蔦之助は、
弓術は自分の
畑のものであるし、じしん
得意とする
代々木流も、
久しく、
日輪巻の
弓へ
矢つがえをして、
腕のスジを思うさまのばしたことがないから、ひと一ばい熱心に
見入るのも
道理なわけ。
「ウーム……」
とうなりながら、
胸に
弦音を鳴らせ、口もきかずに
腕ばかりさすっているようすは、はたからみてもなんとも気の
毒らしかった。
太子流の
作法。
大和流の
礼射。
それにはじまって、
両派の
射術くらべが、
矢うなり
勇ましく、
試合の
口火をきった。
午すぎになって、
西京の
大家大坪道禅の
馬術、
母衣流しの見ごとな
式をはじめとし、一門の
騎士が
鐙をならして
秘をあらそい、ほかに
剣道組から数番の
手合わせが開始されたが、すでに
薄暮の時刻がせまって、その日の
御岳は
平和裡に第一日のおわりを
告げた。
兵法大講会第二日
目。
大衆はみなこの二日目に、多大な
期待をかけていた。
最初の日は、あんがい、
儀式作法の、目にきらびやかな番組ばかりが多く、
龍攘虎搏ともいうべき
予期していた火のでるような
試合がなかったので。
果然――前の日よりもすさまじい
群衆の
怒濤が、御岳の
頂上へ
矢来押しにつめかけた。
武田伊那丸や
民部をはじめ、あの一
党のひとびと、また
鞍馬の
竹童も、その熱風のようなふんいきのなかにくるまされて、きょうはジッとかたずをのみ合っている。
清浄な
砂をしきつめて
塵もとめない
試合場の
中央に、とみれば、
黒皮の
陣羽織をつけた
魁偉な男と、
菖蒲いろの陣羽織をきた一名の若者とが、西と東のたまり
場からしずしずと
歩みだしている。
ぼウーと
陣貝がなった。
とうとうたる
太鼓、三
段に打ちひびいたとき、れいの三色の
母衣武者が、
「
築城試合、築城試合」
要所の
控え
所へ
伝令する。
黒革の
陣羽織、これなん、もと
柴田家の
浪人上部八風斎こと、あだ名はれいの
鼻かけ卜斎でとおる人物。
菖蒲色の若者をたれかと見れば、
越後上杉家の
家来、
天鼓流の
築城家村上賛之丞。
ふたりは
床几についてむかいあった。
これは
腕の
試合ではない。
舌の試合である。
築城学論議である。
群集は目よりも耳をすました。
水を打ったようにしずまって、論議いかにと
咳声もしない。
鼻
かけ卜斎の上部八風斎、やおら
肩をはり、
軍扇いかめしく
膝について声たかく、
「築城に四
相あり、いかに?」
と、第一問をだした。
村上賛之丞、
莞爾として、
「
兵法に申す、
小河東にあるを
田沢といい、
流水南にあるを
青龍とよび、西に道あるを
朱雀と
名づけ、北に山あるを
玄武、林あるを
白虎と
称す」
「して、
地形をえらぶには」
「
北高南低は
城塞の
善地、水は南西にあるを
利ありと
信ず」
「三
段の
嶮と申す
儀は」
「
天嶮、
地嶮、
人嶮のこと」
「
山城の
見立ては」
「
地性水質によること、
空論にては申されぬ」
とはねつけて、こんどは
賛之丞から
卜斎にむかって
反問をあびせかけた。
「いかに? たとえばこの
御岳の山に一
城をきずく
節は?」
「むろん山城なれどいただきをきらい、
中庸の
地相に
郭をひかえ、
梅沢のすそに
出丸をきずき、
大丹波には
望楼をおき、
多摩の
長流を
濠として、
沢井、
二俣尾に
木戸をそなえれば、
武蔵野原に
満つる兵もめったに落とすことはできない」
「あいやしかし!」
と、賛之丞、いちだんこえを張りあげて、
「かりに、
甲州路より
乱入する兵ありとすれば、一
手は
必定、
天目山より
仙元の高きによって
御岳を
俯瞰するものにそういござらん、その
場合は?」
「
陰山陽向のそなえ」
「ウーム、そのくばりは」
「
全山を
城地と見なし、十七
町を
外郭とし、
龍眼の地に
本丸をきずき、
虎口に八門、
懸崖に
雁木坂、五
行の
柱は
樹林にてつつみ、
城望のやぐらは
黒渋にて
塗りかくし、天目山や
仙元峠などより一目にのぞかれるような
縄取りはせぬ」
と、
鼻かけ卜斎、
懸河の
弁をふるってとうとうと一
息にいった。
卜斎の
前身を知らずに、かれをただの
鏃鍛冶とばかり思っていた、
大久保長安の
家来たちは、少々あッけにとられている顔つき。
だが卜斎の
返答が
雄弁だけで、ところどころうまくごま
化しているのをつらにくくおもった
村上賛之丞は、やや
激して、
「さらば
問わん」と
開きなおり、
「
以上の
縄取りによれば、
多摩の
長流を
唯一のたのみとし、
武蔵野の
平地と上流の
敵にのみ
備えをおかるるお考えのようにぞんずるが、かりに、
御岳の
裏にあたる
御前山へ
奇兵をさし向け、西風に
乗じて火をはなたば、前方の
嶮は
城兵の
墓穴、とりでも
自滅のほかはあるまいと思うがいかに」
と、つッこんだ。
卜斎、カラカラとあざ
笑って、
「お
若い! お若い! およそ築城の縄取りをなすにあたって、
後方の
破れを思わぬ者やあらん」
「しからば
火攻の
防ぎは」
「
要所を
伐林するまでのこと」
「
樹木を
伐るときは、
城の
血脈たる水の手に水がれのおそれがあろう」
「
扇縄の一かくに、
雨水をたくわえておくまでのこと」
「
大夏の
旱魃に、もし
籠城となったおりは」
「
掛樋をもってうら山より
秋川の水をひくときは、
城の水の手に水がれはござるまい」
「
兵法にいわく、
天水危城を
保つべし、
工水名城も保つべからず。――
人体の
血脈ともみるべき大事な一
城の水を、掛樋でよばんなどとは
築城の
逆法」
「いや、逆法ではない」
「逆法とぞんずるッ」
「
貴殿の
尊奉なさる
越後の
天鼓流では、まだ
作事や
築工に
時勢おくれのところがあるゆえ、それを逆法と思われるかも知らぬが、自分の
信ずる
越前……」
と、いいかけて、
卜斎、グッとつまった。
――越前
北ノ
庄の城をじっさいにきずいたわが
八風流では! と、ここで卜斎、
大見得をきっていばりたかったところなのであるが、なぜか、グッ……とまっ
赤になって、
絶句した。
それをいうと、
柴田勝家の
遺臣という、自分の
前身が
暴露する。
ほろびた柴田の
残臣を、まだねらっている者もたくさんあるし、ことに
豊臣家の者のいるところで、それをいうのは
禁物だ。
賛之丞は、ここぞとばかり、
発矢と
軍扇を
握りながら、
「ご自身の
信ずるご
流名はなにか」と、
攻め立てた。
「う……」と、卜斎いよいよタジタジして、
「いや、わしは信じる」
「なにを」
「
逆法ではない、けっして。逆法とはいわさん」
と、すこぶるあいまいにゴマ
化したが、そのたいどにろうばいのようすがじゅうぶんに見えたから、一
時に静かな空気を
破って、ドッという
嘲声がわき
返り、さしも
強情な
卜斎、ついに、半分
紛失している
小鼻のわきへ、タラタラと
脂汗をながしてしまった。
「
築城論、うち切り」
奉行の声がかかったので、卜斎はからくも
引分のていで引きさがったが、
群集は
正直である。
村上賛之丞のたまり
場へむかって
歓呼を
浴びせた。
八
車流の
築城家牧野雷堂。
それと――。
月花流の
柳川左太夫。
このふたりの
論争も、
綿密な
築城法のことから
意見が
衝突し、
城の
間道埋設の
要点で、かなり
論争に火花をちらし合ったが、ついに八
車流の
敗北となって、
月花流の
熊本方では、
白扇をふって勝ちどきをあげた。
だが、
見物は少々たいくつした。
築城試合も、じっさいに
縄取りの早さでも
腕競べしてくれればありがたいが、
議論だけでは
吾人には少しむずかし
過ぎて
肩がはるぞ、という顔つき。
ところが――。
そのあとですぐに、
万雷のごとき
拍手がおこった。
相州鎌倉地福寺の
学僧、一
刀流の
剣の
妙手として聞えた
慈音という
坊さんのすがたが見えたからである。
対手は?
心貫流の
丸目文之進だろう。イヤ、
吉岡流の
祇園藤次だろう。なアに
諸岡一羽なら
慈音とちょうどいい勝負、などと
衆人の
下馬評からして、この
方は
活気が立つ。
思いきや、時にあなたなる
西側の
鯨幕をしぼって、すらりと
姿をあらわした
壮漢の手には、
遠目にもチカッと光る
真槍が持たれていた。
「
笹の
才蔵! 笹の才蔵!」
だれいうとなく
喧伝した。
山崎の
合戦で、
敵の首が
腰につけきれず、
笹にさして
実検にそなえたというので、
可児というよりも、
笹の
才蔵の名のほうが
民間には
親しみがある。
すなわち、こんど
秀吉のいいつけで、
井上大九郎、
真田源次郎と
共に、わずか三人きりで
豊臣家を
代表してきた可児才蔵だ。
才蔵の
槍は
黒樫の
宗旦みがき。
抜き身である。水が
垂れそうだ。
それを持って、すずしそうに、
歩いてくる。
白布の
汗止め、キッチリとうしろに
結び、思いきって
袴を高くひっからげた
姿――
群集のむかえる眼にも
涼しかった。
黙礼した。
地福寺の
慈音と
笹の
才蔵。
慈音はむろん
僧形である。
手には、タラリと長い
木剣。
木剣とはいいながら
枇杷二
尺八
寸の
薄刃であるから、それは、
真剣にもひとしいものだ。
ひょっと、わき見をしていた者が見なおすと、もうそこにパッと
砂が立っている。
才蔵は
槍をひくめにつけて
慈音に
迫らんとし、慈音の
両眼は中段にとった
枇杷刀のミネにすわっている。
見物はハッと
息をのんだが、そのとき、あなたの
幔幕やこなたの
鯨幕のうちで、しゅんかん、ワーッという
侍たちの声があがった。
これ、
槍術家がわの者と、
剣道方の者とが、しぜん、おのれのよるところへおもわず
発した
声援と思われたが、それも、ただ一
刻にして、パッタリとしずまる。
おお、その時だ!
才蔵の手がサッと槍をかくした。見ゆるは
指と
穂先だけである。
パン! と慈音の
肩の上でとつぜんな音がした。
槍は高くのびて、一
条の光、ななめにたたきかわされている。
才蔵のひく手の早さ。
ぶンとうなったのは二どめの
突き、まえの
槍の
寸法が
倍にのびていったように
慈音の
胸板へ走ったが、
「かッ!」
と、口をむすんだ
地福寺の慈音、それをはずしたとたんに黒い
鸞が
舞ったかのごとく、
刀をふりかざして才蔵の手もとへおどった。
だが! おそかった。
笹の才蔵はうしろへ身をはね、白い
槍の
穂先が
墨染の
袖をぬって、慈音のきき手をくるわせた。
明らかに勝負だった。
やぶれた慈音は、
衣紋をただして
溜りへさがる。
にわかにわいたのは
剣道組。
試合目付を
通じて、
笹の才蔵へもう一
勝負とある。
そして、
愛洲陰流の
疋田浮月斎が
雪辱にでたが
敗れ、
香取流のなにがしがまた敗れ、いよいよ
試合がコジれだして、なにかただならぬ
凶雲を、この
結末が
招きはしまいかとあんじられるほど、一
種の
殺気が
群集の
心理をあっして、四
番試合、五番試合をいいつのる者も、それを
ぼうかんしている
立場の者も、なんとなく
荒ッぽい気分に
熱してきた。
「すこしおもしろくなってきたな」
「ウーム、こうこなくっちゃ、
御岳の
兵法大講会らしくない」
と、ニッコリ顔を見あわせていたのは、その空気の一
角にあって、四
囲のどよめきを
愉快がっていた
忍剣と
龍太郎。
小幡民部はあいかわらずいたって
無表情にながめているし、
伊那丸も
冷静なること、すこしも
変っていなかったが、うるさいのは
竹童。
「
強いなあ、
才蔵さまはまったく強い。あれは
福島市松の
家来でおいらはあのおじさんを知っている! あのおじさんと口をきいたことがある!」
と、ひとりごとにこうふんしている。
ざんねんそうに、
腕をさすっていたのは、
朱柄の
槍をかついでいる
巽小文治で、
「ウーン、おれも
試合にでてみたい!」
「だめだ」と、
蔦之助が、それをうけて、
「どうしても、
若君からお
許しがでない」
「もういちど、お
願いして見ようじゃないか」
「じゃ、
貴公がいって見たまえ」
「蔦之助、おまえから一ツお願いしてみてくれ、たのむ、
拙者はもうがまんができない」
と、コソコソささやいているのを耳にはさんだ
忍剣、じつは、自分じしんが、だれよりもさっきから
腕をウズかせていたおりなので、
「
民部さま、
蔦之助や
小文治が、あのように申していることゆえ、なんとか
若君におすがりして、
試合に
加わることお
許しくださるよう、一つお取りなしを願いたいものでござるが……」
民部は、忍剣の心を読んでいるように
苦笑して、
「さあ、なんとおっしゃるか、おそばにおいで
遊ばすから、おのおのがたじしんでお願いしてみたらよかろう」
と、しごくアッサリしている。
「いかんわい」
と、忍剣は頭をかいて、
龍太郎の
脇の下をソッと
突ッついた。
「おい、
後生だ」
「なにが?」
「
尊公から若君へお願いしてくれ。だれにしたって、ここで一番日ごろの
鬱憤を
晴らして、
腕の
夜泣きをなぐさめてやりたいのは、
人情じゃないか」
「そりゃ、
拙者にしても、
木隠流の
戒刀をおもうぞんぶんふるってみたいのはやまやまだが」
「だから……
尊公から若君へちょっと」
「む……ウ……」
と、口のうちで
返辞をしたが、
冷々と、あらぬかたへ
眸をむけている
伊那丸の顔を見ると、どうも、いいにくそうにして、
貴公がいいたまえ、イヤおまえがいえ、とたがいになすり合っているばかり。
そんなことに、ふと目をはなしていたが、
試合場のさわぎはいよいよ
紛乱して、
母衣馬や
目付がものものしくかけまわり、なにか、
番組急変の
太鼓らしい
合図が、ふいに、ドーンと鳴ったので、
忍剣も
小文治も、ハッと、口をつぐんでそのほうへ目をやった。
――と見ると、
笹の
才蔵は、うしろ
姿をこっちに向けて、勝ちすてに
豊臣家の
幕かげへ引ッこもうとしている。
一方で
怒号がきこえた。
将棋だおしにやぶれた
剣道方。
その
溜り
場の幕が
嵐のようにゆれて、なにか、
渦になった人間がもめている。
「待てッ。――
可児才蔵まてッ」
制止する
目付役をふりもぎって、とつぜん、かれのうしろ姿を追いかけた
慓悍なる男があった。――これ
祇園藤次だった。
すわ!
遺恨試合!
「待てまてッ!
才蔵ッ、もう
一勝負」
藤次は
吉岡流小太刀の
使い
手。
右手に白みがきの
栴檀刀を引ッさげていた。
自分の
控え
場まで帰って、いま、
幕の
裾に手をかけようとしていた才蔵、
「よし!」
いうが早いか、
槍を持ちなおして、
敢然と
試合場のほうへ帰ってきたが、まだ
礼もすまないうちに
血気ばしった
祇園藤次が、
颯然とおどりかかった。
立合いの
奉行と
目付が、なにか、
制止するような声をかけたが、
騎虎、耳にも入らばこそ。
「ひきょう、
作法を知らぬか!」
と、しかりつけて、サッと槍を手もとに
吸う。
藤次はギクッとして、
胸板を
守った。
小太刀、ピッタリと
青眼の
不動体に。
だが、一
閃! かまえは
割れて祇園藤次、タジタジッとあとへさがった。それを、
食いつめてゆく才蔵の足の
拇指。
それは
真槍だ。
遺恨試合となった
以上、
突くであろう、
肉を!
脾腹を!
やわか! と
必死な藤次、うしろの
溜りでは
仲間の者は、ワーッと
熱風のような
声援を
送ったが、だめ、だめ、だめ、一
尺、二尺、三尺――すでに七、八尺、
槍に
追いつめられた
祇園藤次、
「ムムッ、おのれ!」
捨て身にでて、われからバッと、
反撥的に打ちこんだ。
そのとたんに、
突くよと見えた
才蔵の
槍が、
片手なぐりに藤次の
体をはらったが、パキン! というすさまじい音と一しょに、かれの手にあった
尺三、四寸の
白栴檀の
小太刀が、槍ではねられた
勢いをくって、クルクルクルッととんぼのぼりに
虚空へ向かってすッ飛んだ。
そして、藤次は?
才蔵は?
この
勝敗は?
いや、ところが
群集は一せつなに、
試合の
結果をその
脳裡から
押ッぽりわすれて、
「あ! あ! あ! あ! あッ!」
と、空へ目をつってしまった。
小太刀のちいさくなる空へ――。
読者よ。
次におこる
驚天動地の
争闘。
御岳山上におけるこの
篇の
大眼目を
描くために、あえて、ここに
緩慢な
数行をついやす
筆者の
作心の
支度をゆるしたまえ。
はしなくも、
遺恨試合となった
激怒のハズミに、
才蔵の
槍の
勢いで、
虚空にとばされた
白栴檀の
木太刀が、そのとき、つつがなく地上に落ちてかえってくれば、なんのことはなかったのである。
たとえ、
才蔵一身に一
部の
嫉視はのこっても、のちに
現出したような、
意外な大事にはならなかったであろう。
また、若き人たちの
血気を、ことなかれと、きょくりょくおさえ
止めていた
伊那丸や
民部も、なんのくろうなく、
大講会二
日目の
行事を
見納めしたにちがいない。
しかし、
不測な
変事は、いつも、こうして
意表外なところから顔をだす。
――この
大講会に
血を見るなかれ!
――この大講会に
邪兵をうごかすなかれ!
神官は
祭壇にこう
祈祷したが、あのハズミで飛んだ一
片の
木太刀が、まッたく
予想もせぬ
風雲を地上から
迎えにいったものになろうとは、おそらく、
御岳の神の
叡智にもわからないのがほんとうであろう。
さて。
空に高くとばされた
栴檀の
木太刀。
そのゆくえにつられて、いっせいに、空へ
上むきになった
群集のひとみは――ハッと一しゅんに、なにか
異様なものにつきあたったかのように、
「あッ、あれ――」
と、
妙な顔つきになった。
魂を
抜かれた顔。
あッ
気にとられた目。
現――
無我――
夢中――の
群集。
とたんに、
ドウーッという
空鳴りが
宇宙をひくく走った。
そして、
幕のごときまッ黒な
怪物が、
日輪の光を
雄大な
翼のかげにかくし、クルルッ――と
巻きあがっていった
栴檀刀を目がけて、どこからかまるで
魔風のように
翔けおりてきたかと見ると、
ガツン
とばかりその
嘴が、
本能的に空の
木太刀をくわえ取った。
「
鷲」
ぼうぜんたる
錯覚をドヤしつけられたしゅんかんに、
「オオうッ」
「あれよ、あれよ、あれ! ……」
どよめき立った
数万の
大衆は、その時まるでホジクリだされた虫のごとく、地上にあってまッ黒に
蠢動し、ただ
囂々、ただ
喧々、なにがなにやら、
叫ぶこえ、
喚くこえ、それともうもうたる
黄塵の
万丈。
ただ、
試合にばかり気をうばわれていた人々は、それよりほんの少しまえに、
御岳の西方、
御前山の森から
舞いあがったこの
怪物のかげが、
浅黄色にすみわたった空にゆるやかな
弧をえがきつつあったのを
万人が万人、すこしも気がつかなかったのである。
またいくども、ひろい
試合場の
砂地や、自分たちの顔に、その
偉大な
怪影が
太陽をかすめるごとに、とおり
魔のような
影を投げていたのも、まったく知らずにいた。
地上の人間が、ただ、アレヨアレヨと
あぶくのごとく
沸騰して、手の
舞い足の
踏むところを知らずにいるのにひきかえて、いま、一ぴきの虫でもくわえたように、するどい
嘴に
木太刀をさらった
大鷲は、ゆうゆうと
茶褐色の
腹毛を見せて、そこを
去らんともせず、高くも舞わず、
御岳の空を
旋回している。
時に、
光線のかげんで、そのまッ黒なつばさの
艶を
射るような
金色の
瞳までがありありと見えた。
いや、それだけならいい! それだけの
事実だったなら、まだ地上の人々も、こうまでは
胆をつぶさなかったにちがいない。
「あッ、
帯がさがっている!」
「女の帯」
「赤い
袖が見える」
「女が乗っているんだッ……女が、女が」
「ど、ど、どこに?」
「
鷲のうえに――女が、女が!」
熱病のように
叫びあった。
気ちがいのように
指を向けた。
その時。
押しつもまれつする
人波のあいだから、
泳ぐように顔をだした
鞍馬の
竹童は、
忍剣や
小文治などの、
仲間の者までむちゅうになって
押しのけながら、
「あッ……た、大へん」
「竹童ッ、あぶないッ」
だれかがとめたが、
突きとばして、
「それどころじゃない、あれ! あれは
咲耶子」
「えッ、咲耶子ッ?」
「咲耶さんです、咲耶さんです!
躑躅ヶ
崎の
源氏閣からどこかへ
逃げた咲耶子さんにちがいない」
「ウーム、そう申せば女らしい人かげがみえる」
と、
木隠や
小幡民部も、その
大鷲にはおぼえがあるが、どうして
咲耶子が、ここの空へ
舞ってきたのか、ただただふしぎな思いにうたれるのみだった。
「竹童、さわぐまい」
伊那丸は、
周囲をはばかってこういった。
だが竹童、いまは、その声も耳にはいらなかった。かれはいつのまにか
抱きとめていた
蔦之助の手をもぎはなして、
「クロ! クロ! 咲耶子さん――」
われをわすれて
雑鬧のなかを走ってゆく。
ところが、ここにまた。
かれと同じように、そのクロの名をよんで、
右往左往にみだれ立った
試合場のなかをかけめぐりつつ、手をふっている二少年がある。
ひとりは、さいぜん、
村上賛之丞と
築城問答をやってしゅびよくその
鼻をへこまされた
鼻かけ卜斎のお
供、すなわち泣き虫の
蛾次郎である。
「やアーい、やアーい」
蛾次はむちゅうだ。大さわぎだ。
クロはかれにも二
無き親友である。
どこの
溜り
場にもぐっていたのか、かれはクロを見るやいな、目の色かえて、めくら
滅法に
試合場へおどりだし、
「おれのクロだ、おれのクロだ! やアーい、ちくしょうッ、やアーいッ、クロ!」
とどかぬものに飛びあがって、ひとりであばれまわっている。
と――同じように、
「あれ、あれ、あれ。あの
鷲かえせ! あの鷲かえせ!」
と、
訴えるごとく、泣くごとく、
狂気になって
叫んでいたのは、
先つかた、
躑躅ヶ
崎の
館の、かの
源氏閣閣上において、
咲耶子のために、その鷲をうばわれた
浜松城の小さきお
使番星川余一だった。
それと見るやまた、
葵紋の
幔幕をはりめぐらした
徳川家控えどころの
帳のうちでも、
「おお、余一がさわいでいるぞ」
「余一が
失くしたクロはあれじゃ」
「あの
鷲逃がすなッ」
と、
群雀のように
叫びあってる。
「それッ」
と、そこの葵の幕を切っておとし、
巣をやぶった
蜂の
子のごとくわれ先にと飛びだしてきたのは、はるばる
浜松から
見物にきていたきれいな一
隊。
家康の
孫、
徳川万千代を
餓鬼大将といただく、お
小姓とんぼ
組の
面々である。
あなたのできごと。
ここのそうどう。
それらはすべて
大鷲出現のせつなにおける、ほんの、
目ばたきする
間の
現象でしかない。
もはや、
兵法大講会は、この
意外な
椿事のため、その
神聖と
森厳をかきみだされて、どうにも
収拾することができなくなった。
奉行を
無能というなかれ。
目付役人の
狼狽をののしるも、また
無理である。
群集の
心理が、かく落ちつかなくなったものを、にわかに
鎮撫することは、とうてい
容易なことではない。
心あるものはそれをあんじていた。
「どうなるであろうか。このさわぎが」――と、
しかるに、ここに
泉州堺の
住人、
一火流の
石火矢と
又助流の
砲術をもって、
畿内に有名な
鐘巻一火という
火術家。
一門の
門弟四、五十人をひき
具して、おなじく、
御岳山上の一
端に、
短銃打ッちがえの
定紋をつけた
幕をはりめぐらし、そのうちにひかえて、すでに
火術試合の申し
出でをしている
一組だったが、大鷲出現のこのさわぎに、いみじくも、そこだけは申し合わせたように、ヒッソリしていた。
「こういうおりがまたとあろうか。
鐘巻一火の
秘技を
衆人に知らしめるのは、この時だ」
と、
一火は
幕のうちにたって、
新渡来又助式の
鉄砲をキッとつかんだ。
「先生、
火縄!」
と、早くもその心をよんで、
門下のひとりが火縄を
吹いてわたす。
一火の眼は
宙に吸いつけられている。
いま――。
鷲はふもとの
多摩川へ、水でも
飲みに
降りるように、ななめにさがりかけたところだった。
だが、
翼をかえすと、しゅんかんに、また、
目前に近よってくる。
おそるべきその
羽風! ただ、目にながめたところでは、それはいかにもゆるやかで、
泉をおよぐ
魚のかげみたいに、あおい
太虚をしずかに
舞いめぐっているとしか見えないのだが、サア――ッと、頭上にきたかと思うと、あなたこなたの
鯨幕は一せい風をはらみ、地上の
紅葉は
逆しまに
吹きあげられて、さんさんと黒く、さんさんと
紅く、
卍をえがき、
旋風となって狂う。
「うぬッ、
奇ッ
怪な女め」
鐘巻一火の
腕に、ピタッと、
鉄砲の
筒がすわりついた。
ドーン!
御岳の
岩根をゆるがすような
轟音。
これも
全山の人には、
寝耳に水のおどろきであったろう。
ゴーッと遠い
音波をひびかせて、
峰谷々の
木魂がひびき
返ってきたあとから、ふたたび、
山海嘯にも
似た
喊声のどよめき。
見よ、
鷲は、まッさかさまに
墜ちてきた。
――うつくしい女の
帯を
尾にひいて。
鐘巻一火の
鉄砲は
狙いをあやまたなかった。
どこかにあたったにちがいない。その
証拠には、くるった
大鷲は、地上十四、五
尺のところまでおちてきた。
だが。
とつぜんそこで、クルッと
巨大なからだをまわしたと思うと、あッとあきれる人声をあとに、
鷲は
天目山の
方角へむかって、一
直線――
弩をはなれた
鉄箭のように飛んでしまった。
しかし。
人々の眼は、その
行方に気をうばわれているよりも、とつぜん
試合場の南のすみへ、
「それ」
と、なだれをうってあつまった人かげへ、なにごとかと、あたらしい
驚目をみはっている。
「お
医師! お医師
衆!」
と、そこでさわぐこえがする。
あなたの
控え
所へ
出張っていた
典医衆は、なにがなにやらわからないが、とにかく、
呼び立つこえがしきりなので、
薬籠をかかえてその人なかへかけつけた。
だが、その典医たちがくるよりも、
鐘巻一火が
門下の
壮士一
隊をしたがえてそこへ飛んできたほうが
一足ばかり早かったのである。
そして、口々に、
「ごめん」
「ごめん、ごめん」
こういいつつ、一火をはじめ
白袴の
門下たちが、あたりの役人を
押しわけて前へすすんできたかと思うと、地上に気をうしなってたおれていた
美女のからだを、てんぐるまにかつぎあげて、自分たちの
溜り
場へ
電光石火にひっかえし、
鉄砲ぶッちがえの
定紋を
張りまわしたなかに鳴りをしずめてしまった。
「おう――」
それをながめた
竹童が、
試合場の
中央で飛びあがるように手をふると、あなたにいた
木隠、
巽、
加賀見、
山県の四人、
矢来の
木戸口から一
散にそこへかけだしてきて、
「竹童。いま
鷲から落ちたのは、たしかに
咲耶子にそういないか」
と、
息をせいていう。
「たしかにそうです。咲耶さまです。――その咲耶さんが
鉄砲にうたれたから、
鷲のほうは
怪我もなく
逃げてしまったんです」
「えッ、鉄砲に
撃たれた?」
「あの
幕張りの中へかついでいった
侍の
袴が、
血にあかく
染まりましたから、それにそういないと思います。
龍太郎さま、はやく、あれへいって咲耶子さまを取りかえしてください」
「そうか!」
「おお」
というと、もう
忍剣は
例の
鉄杖を
小脇にして、
鐘巻一火の
幕前へいきおいこんで
馳けだしていた。
なにがさて、
髀肉の
嘆をもらしながら、
伊那丸のゆるしがでぬため、いままでジッと
腕をさすっていた人々、
鎖をとかれた
獅子のような
勢いだ。
竹童もあとにつづいて
馳けだしながら、口にはださないが心のうちで、
(さあこい! おいらのおじさんたちの男らしさを見てくれ!)
そんな
誇りがどこかにあった。
すると、ほとんど同時のこと。
咲耶子をてんぐるまにして引きあげてきた
鐘巻一火のあとを
追って、そこへ
殺到した人々がある。
大講会総奉行の
大久保石見守長安、その
家臣、その
目付役、その
介添役、
等、等、等。
いきなり一火の
溜り
場へドカドカと入ろうとすると、なかから
姿をあらわした鐘巻一火じしんと、
屈強な
門弟が、
帳の入口にたちはだかって、
「やあ
狼藉者、どこへゆく!」
と、
大手をひろげた。
徳川家の
重臣、
甲州躑躅ヶ
崎の
城主、大講会総奉行、それらの
肩書を
威光にきている長安は、
「どこへまいろうと
仔細はない。
身は総奉行の大久保石見守じゃ」
と
言下に
肩をそびやかしていった。
「だまれッ」
一火は
武術家気質、とどろくような
雷声で、
「ここは
鐘巻の
陣地もどうよう、
鉄砲紋を
張りまわしたこのなかへ、むだんで一歩たりと
踏みこんで見よ、
渡来の
短銃をもって
応対申すぞ」
「聞きずてにならぬ
暴言、
用があればこそ
幕内へとおる。それは
奉行の
役権じゃ。
役儀の
権をもって
通るになんのふしぎがあろう。どけどけ」
「いや、奉行であろうが、
目付衆であろうが、
試合のことならとにかく、
意味もなく、われわれの陣地を
踏ますことはならん。用があるならそこでいえ」
「ウーム、
強って
通さんとあらばぜひがない。では、ただいま
奥へにないこんだ
婦人をこれへだしてもらいたい」
一火は聞くとカラカラと
笑って、
「
総奉行たる
貴殿が、
不審なことをもうされるものかな。
大講会の空を
飛行して、
試合の心をみだす
奇怪な女を、
拙者が
一火流の
砲術をもって
撃ち落とし、かく
衆人のさわぎを取りしずめたものを、なんでその女をわたせなどと
見当ちがいなご
抗議を持ちこまれるのか。――それよりはすこしも早く、つぎの
試合の
支度でもいそがれるが、そこもとの役目ではないかとぞんずる」
「さような
指図はうけんでもよろしい!」
石見守は
額に
青筋を立てて、
「あの者は、
源氏閣の上より
逃亡して、その
後ゆくえ知れずになっていた
咲耶子という
不敵な女、ことに、
浜松城に
差し立てることになっている
罪人じゃ。わたさぬとあれば、
徳川家の
武威のほどを
示しても申しうけるがどうじゃ!」
いうことばの終るのを待たず、
「
血まような、
石見守ッ」と、
一火は
激越に、
「
汝、
総奉行という重き役目にありながら、じしんから
大講会のやくそくを
破ってもよいものか。――この
御岳三日のあいだは、兵を動かすなかれ、
血を流すなかれ、
仇国との
兵火もやめよという
掟の
下に
行われることは、ここにあつまる天下の
武門、
百姓町人もあまねく知るところ。――それを、
弓矢にかけてもと申したいまの一
言、それは
正気か! おどかしか! 見ごと取れるものなら武力をもって取ってみろ」
これは
理のとうぜん。
石見守長安は、ハッと
醒めたような顔色になった。そして自分の
過言に気がついたらしく、
「いや
鐘巻先生」
と、急にたいどをかえて、
「
不肖、
奉行の身をもって、
混乱のなかとはいえ、
過激に
似たことばを
発したのは、
重々なあやまり、どうかお気持をとりなおしていただきたい」
「そう
尋常に
仰せあるなら、なにも、このほうとて、
威猛高になる
理由はない」
「ところで、ただいまもうした
咲耶子という女は、なにか、そこもとのほうで
捕らえておく
必要がおありなのか」
「いやいや、じぶんとしては、さいぜんからの
騒擾をしずめる
手段として、やむなく
発砲したまでのこと、それゆえ、女の左の
腕をねらって、一
命にはさわりのないように、はじめから
用意しておる」
「ならば、あの
鷲のからだをねらってうったほうがよかったであろうに」
「あれほどの
大鷲が、一
発の
弾でおちてくるはずはない。さすれば、女は
谷へふりおとされ、二ツの
生命を
傷つけることになる。これも、
御岳三日の
神文の
約を
守ればこそ」
「さすがは
一火先生、それほどまでのご
用意があろうとは、
石見守も
敬服にたえませんです。いずれこのことは
大講会閉会ののちに
主君家康公にもうしあげて、なにかの
形でご
表彰いたしたいと思うが……」
と、
長安は
老獪な
弁舌で、
単純な
武芸者肌の一火を、たくみにおだてあげ、さてまた、
「そちらにご不用なあの
咲耶子、右のしだいゆえ、どうかこのほうへお
下げ渡しを願いたい」
と、ものやさしく
奥の手をだした。
するととつぜん、ことばの横から、
「イヤ、待ッた!」
ずんと
鉄杖を大地について、
加賀見忍剣がそれへでてきた。
忍剣のうしろには
木隠龍太郎、
山県蔦之助、
巽小文治、
竹童など、いずれも
非凡な
面構えをして
突ッ立っている。
長安は、まさかそれが、
小太郎山の
残党、
伊那丸幕下の者であろうとは
夢にも知らず、
「なにッ?」
と、五人のすがたへ
賤しめるような目をくれて、
「
何者だ! きさまたちは」
きッとなって、
睨めつけた。
忍剣はおちつきはらって、
「
拙僧は
西方の国より
大心衆生の
人間界に
化現した
釈迦の
弟子、
文殊菩薩という男。――またうしろにいるのは、
勢至菩薩、
弥勒菩薩、
虚空蔵菩薩、
大日菩薩の人々であるが……」
あまりでたらめなことばに、あい手があッけにとられているのを見くだしながら、忍剣はきまじめに、
「ただいま、われらとしたしい勢至菩薩が、
鷲にのって
天行しつつ、この
試合場をながめているうち、
一火殿の
鉄砲に
傷つけられたようすゆえ、一同そろって
見舞いにまいったのでござる。それを
浜松城へ
差し立てる
罪人などとは、飛んでもないあやまり、どうか、あの
婦人は
吾々のほうへお
渡しを
願いたい」
(こやつ、
気狂いにそういない)
石見守は相手にせず、
一火へ向かって、
「いざ、こうしてひまどられては、かんじんな
試合の
順序がおくれるばかり。どうか、あれなる
咲耶子は
縄つきとして自分のほうへ渡されたい」
「いやいや、いかに
人間界に
化現している身とはいえ、
勢至菩薩を
縄つきなどになされては、あとの
仏罰がおそろしかろう。あの婦人はわれわれ五人へ渡したまえ」
「ふらちな
売僧め、
文殊菩薩の勢至菩薩のと、だれがさようなたわごとを
信じようか。あいや
一火先生、ぜひ、咲耶子はこの
長安のほうへ」
「イヤ、ぜひともわれわれ五
菩薩へ」
「いいや、長安が申しうける」
「なんのだんじて
拙僧がもらいうけた!」
双方、いいつのって、
鐘巻一火のとばりのまえを一
寸たりとひく色がない。
これが、
御岳神文の
三日でなければ、とっくに、
長安も
家来に
顎をしゃくって
抜刀を
命じたであろうし、気のみじかい
忍剣の
禅杖が、ブンと石見守の
頬骨をおさきにくだいていたかもしれない。
だが、
幸か不幸か、なにしろ、
血を見るなかれの
場所であり、三日である。
その
善と
悪たるを
問わず、さきに神文の
約をやぶれば天下の
武芸者にその
信を
失わなければならない。
で、これはどこまで、
押し
根気の
懸合いだ。
弱ったのは、
鐘巻一火。
かれが
大久保長安にいったことばは、すこしもうそのないところである。かれが
一火流の手のうちを見せようとはかってした
行為の
目的はたっしている。
咲耶子のからだはかれに
用がない。
内心では、
渡してやってもいいと考えている。
しかし、長安のほうに渡すのが
至当か、五
菩薩の
仮名をつかってでてきた者にわたしたほうがいいものか、
双方のあいだにはさまって、まったくとうわくの顔色だ。
しかも、五人の
偽菩薩の顔色をジロリと見ると、もし自分が
石見守に
加担して、いな、と一
言に
突ッぱねれば、どういう
手段にもうったえかねない
底意がよめる。
そこは、一火もひとかどの
武芸者、
(ウム、これは
大難事、うかつに
軍配をあげられないぞ)
早くもさっしたから、よけいにこの
難問題の
決断がつかなかった。
一方、
群集のほうでは、
矢来越しに
遠見なので、こうした
事情が、そこに起っているとはわからない。ただいつまでも
試合場の
中央が大きな
空虚になりッぱなしとなって、人ばかり
右往左往しているので、さかんにガヤガヤもめている。
すると、鐘巻一火。
そうほうの
仲に
板挟みとなって、ややしばらく、
腕をくんでしまったが、やがて、
大久保がたの者と
忍剣たちの
両方へ
対して、
「お
望みの
咲耶子とやらのからだは、
何時にても、
苦情なくお
渡し申すことにいたそう」
等分にいって、クルリと、
幕のすそをまくりあげた。――そして、
「お渡しすることはお渡しいたすが……ただしでござる、いずれへお渡しいたすのが
正義なりや、
一火もホトホトとうわくつかまつるしだい、ついては、ざんじ
休息のうえ、
門弟たちとも
評議をかさねてあらためてご
返答をいたす考え、
失礼ながらしばらくそれにてお待ち願いたい」
ハラリと
帳をおろすと、
幕のかげへ引ッこんでしまった。
この
場合にのんきしごくな――。
と思うまもなく
鐘巻一火は、また、幕をしぼってあらわれた。
解決がついたか、まえのとうわくな
気色が
晴れている。
「
咲耶子が気がつきましたぞ」
双方へむかっていった。
「おう、では
大したけがもないか」
「
腕の
鉄砲傷は
急所がそれておるし、ただいま、
門人に
手当をさせておるゆえ、べつだんなこともないようでござる」
そういってから――さて――と言葉をあらためて、
「ただいまのこと、一同
評議の
結果、これはやはり
御岳の
神慮におまかせいたすのがとうぜんであろうという
意見に一
決したが、
双方ごいぞんはないであろうか」
「神慮にまかすという
意味は、
神籤でも引いて
決めようということであるか」
と、
長安は
不満な色をたたえた。
「いや、神籤よりは
武道試合の日のできごと、やはり、
武技をもって神慮に問うのが
自然であろう」
「なるほど!」
忍剣は、よし、というふうにうなずいて、
「では、われわれと
大久保家の
臣と、武技をたたかわせたうえに、その勝ったるほうへ、
咲耶子を
渡してくださるというのですな」
「いかにも。
石見守どの、ご
賛否はいかが」
「ウム。よろしい!」
かれも、いさぎよく
承知した。
が――すぐにあわてた
調子で、
「イヤ待った、それには、
条件がある」
「ふム、条件とは?」
「じしんが
総奉行たり、
重なる
家臣が
目付たる
役目上、大久保家では、このたびの
試合にいっさい
何人もだしておらぬ。それゆえ、
主君ご
直参、
浜松城の人々に、その
代試合をいらいするが、その
件、
異存があるならしょうちできぬ」
「なに、
徳川家直参のものに代試合をたのまれるとか、それは、願ってもないこと、
当方に異存はない」
「では
一火どの、かならず、
違約なしという、
神文血判をしてほしい」
「
誓紙の
支度は
暇どるばかり、それよりも
武門の
金打、おうたがいあるな」
「お。では
浪人ども、あちらの
空部屋へさがって
試合の
用意をせい」
長安は
奉行の
床几席へ
大股にあるいていって、あたりの
家臣と
額をあつめ、また徳川家の者がひかえている
溜りへ使いを走らせた。
見物はそういう
内情は知らない。ただ、
床几席に奉行のすがたが見えたし、
検証の
位置に
鐘巻一火がひかえたので、
「さあ……」
と、にわかに空気をかえて、つぎの試合を
期待した。
「うまくいったな」
「
思う
壺と
申していいな」
龍太郎や
小文治は、顔を見あわせ
微笑した。長安は空部屋をさがして
支度せよといったが、
見渡したところ、みなどうどうたる
大名紋の
幔幕ばかりで、そんなところはありそうもなく、五人の
勇士も、それには、ちょッと
立往生していると、
「ご
浪士、ご浪士」
と、うしろで、
呼ぶ者がある。
見ると、さいぜん、
栴檀刀をハネ飛ばした、すばらしい
槍の使い手、
可児才蔵であった。
「
支度の
場所におこまりのごようす、おいやでなくばこの
幕のうちへ」
と、五三の
桐のとばりをあげて、ニッコと五人を目でまねいた。
だれかは知らぬが、おりにふれて、
相身たがいの
武門のなさけ、ゆかしくもうれしい、人の言葉である。
飛び入りというのでもなく、
意外なことから、ここに
咲耶子の身をとるか、
渡すかの
試合となった一同が、支度の場所もなくとうわくしているところへ、五三の桐の幕のかげから、
「これへ」と、さしまねいた
親切な
武士。
忍剣、
龍太郎、
小文治、
蔦之助、
竹童の五人は、時にとって
炎暑をしのぐ一
樹の
蔭ともありがたく思いながら、
「ご
芳志にあまえて、しばらくのあいだ、
幕の一ぐうを
拝借つかまつります」
しずかにくぐってなかへ通り、
隅にのべてあるむしろの上へ、めいめいつつましくすわりこんだ。
すると、そこにまっ
赤な顔をして、ゆうゆうと
酒を飲んでいた
豪放らしい
侍がある。一同をながめると、
莞爾として
迎えながら、
「
失礼だが、お
祝いに、一
献まいろう」
と、
忍剣へ
茶碗を持たせて、酒の入っているらしい
壺を取りあげた。
「や、これはかたじけないが、じぶんは見らるるとおり
僧形の身、
幼少から酒の
味を知ったことがない、
兄貴、かわってくれ」
と、
龍太郎へ茶碗をゆずると、龍太郎もあやまって、
「
武術に
酒気のあるのは
禁物ということ、
未熟者にとってはことにだいじな
試合、もし
不覚があってはもの
笑いのたねとも
相なるから、まず、お
志だけをうけて、お
祝いはあとでちょうだいいたす」
と、
当りさわりなくいって、茶碗を返した。
「あはははは、なるほど、まだ
前祝いは少し早いな、では
後祝いにいたして、じぶんがご一同に
代り、まず
幸さきを
祝福しておく」
と、侍はらいらくに
笑って、ひとり
酌ぎ、ひとり飲んで、しきりと
愉快がっている。
冷水をたたえた
手桶に
小柄杓、それに、
汗どめの
白布をそえてはこんできた若い
武士がある。一同にその使用をすすめたのち、
「
拙者は
大坂城に
質としておる
真田源次郎という
若輩者、どうかお
見知りおきを」
と、ていねいに名のった。
「や、では
秀吉公の」
と
忍剣や
龍太郎は、はじめて、五三の
桐の
紋どころに思いあわせて、
「真田源次郎どのとおおせあると、
上田の
城主真田昌幸どののご一
子、秀吉公の手もとで
養われているとうわさにききましたが、その源次郎どのでござるか」
「お
恥かしゅうぞんじます」
と、源次郎はあくまでけんそんであった。
「やあ、さてはやはりそうであったか。これはお見それいたしました。わたしこそは、なにをかくしましょう、
故勝頼公のわすれがたみ、
武田伊那丸君の
付人、
恵林寺の
禅僧加賀見忍剣ともうしますもの」
「じぶんは、おなじく伊那丸さまの
微臣、
木隠龍太郎という者」
「
拙者は、
山県蔦之助です」
礼にたいしては礼をもって
酬う。
巽小文治や
鞍馬の
竹童も、そのことばについてじゅんじゅんに
姓名を明かしていくと、
最初に、
幕のかげから
手招きした
可児才蔵もそれへきて話しかけ、
酒をのんでいた
侍も、
井上大九郎と名のりあった。
いつか
伊那丸が京都から東へ帰るとき、
秀吉は
桑名の
陣中にしたしく
迎えて、
道中の
保護をしてくれたのみか、
御旗楯無の
家宝まで伊那丸の手へかえしてくれた。
それいらい、伊那丸も一
党の者も、
豊臣家にたいしてしぜんといい感じを持っていた。おそらく、秀吉は
武田家の
味方ではあるまいが、
悪意ある
敵ではないと
信じてきた。
おもえば、ふしぎな
縁でもある。
桑名でああいう
援護をうけて、またまた、この
御岳でも、同じ五三の
桐の
幕のかげに、
武士の
情けをうけようとは。
大九郎と
可児才蔵は、桑名の陣で、
忍剣のおもざしを見おぼえていたといった。
そういわれれば忍剣にも、思いだされることである。あのとき、秀吉に
侍していた、あまたの
武将や侍のなかに、たしかに、大九郎のすがたも見えた。可児才蔵の顔もあった。
怪傑と怪傑、
勇士と勇士、五三の桐の幕のなかには
渾然とうちとけ合って、
意気りんりんたるものがある。
――
試合場のほうは、さきほどから、きわだってしずかになっていた。
群集も鳴りをしずめて、
次の
展開を待ちかまえているのであろう。
ところへ、
駒をとばしてきた一
騎の使者、ヒラリと
降りて、そとから
桐紋の
幕をたくしあげて、はいってきた。
試合の前のうちあわせである。
徳川家からは五名の
闘士の名をあげてきた。そして、勝ち
抜きでは
勝敗に果しがないから、おのおの一番勝負として、
点数勝越しのほうのものが
咲耶子の身を引きとるというやくそくを
条件にかぞえてある。
「
承知した」
もとより、こっちにも
異議はなかった。
「では、試合にさきだって、
伝令の者が、
各所の
溜りの人々へ、
番組を
予告するのが
定例でござるゆえ、そちらの闘士をきめて、この下へご
記名願いたい」
と、使者は、徳川家でえらびだす闘士の名をしるした
奉書をそれへひろげた。
見ると、なんという
皮肉。
ふつうの
武技では、どういう
敗辱をまねこうも知れずと、
大久保長安らが、わざと相手をこまらそうとたくらんだ
卑劣な
心事があきらかに読めている。
なぜかといえば、その
人選はとにかく、
争うべき
焦点にはこちらになんの
相談もなく、こういう
無類な
部門分けをして、
勝手な
註文をつけてきたのである。
一番忍法 御方 隠密組 菊池半助
相手方 未定
二番遠矢 御方 河内流 加賀爪伝内
相手方 同
三番吹針 御方 宗門御抱老女 修道者
相手方 同
四番幻術 御方 南蛮流 和田呂宋兵衛
相手方 同
五番遠駆 御方 浜松足軽組 燕作
相手方 同
定
以上五
試合のこと。
右のうち吹針には
他の
武技をもって試合することを
得、また遠駆けには相手方、
騎乗徒歩いずれにても
随意たるべきもの
也。
大講会総奉行
大久保石見守(花押)
試合検証
鐘巻一火
正当な
武芸とはいわれぬ、
幻術や
遠駆けなどの
試合を
提示してきたのを見ると、一同は、かれらのひきょうな
心底を
観破して、一
言のもとに、それをはねつけようと思った。
しかし、考えてみると、自分たちはここで
晴れがましい
武名を
大衆に売ろうというのではない。
咲耶子の一身を救えばいいのだ。
かれをやぶってかれの
毒手に
同志のひとりを
渡さなければ、それでいい。つまりここで
徳川家の
代表者とあらそうのはその
方便でしかないわけだ。
で、
忍剣は、男らしくいった。
「このさい、なにをぐずぐずいったところでしかたがないから、さきの
註文どおり
快諾してやって、そのかわりに、
木ッ
葉みじんにしてやろうじゃないか」
「ウム、かれらの
策にのせられると思えば
不愉快だが、
得物やわざは
末葉のこと、
承知してくれよう」
と、
龍太郎もうなずいて、他の者の
同意をたしかめたうえ、けつぜんと、徳川がたの
使者にこたえた。
「ご
提示の
定書、いかにも
承知いたした」
使者は一
礼して、
「さっそくのご
承引かたじけなくぞんじます」
と、いったが、いまの書きつけをさしだして、
「では、この
試合の
部門に、なにびとがなんの
立合いにご
出場になるか、
流名とご
姓名とを、
正直にお書き入れねがいとうござる」
「あいや、われらもとより
浪々無住のともがらである。名のるほどの姓名流名を持ち合わせておらぬ者ゆえ、さいぜん申したとおり、
文殊とでも
大日菩薩とでも、いいようにお書き入れください」
「
大講会の
規として、そうはまいりませぬ。ご
本名をお
認めなきうちは、これを
諸侯の
控え
所へ
伝令することもならず、ご
奉行としても、
役儀がら試合を
命じるわけにもゆきませぬ」
「どうしよう、
忍剣」
と、
龍太郎は、また一方へ
相談を向けた。
「そうだな、われわれはどうなっても、いっこう
仔細はないが、まんいち
若君にごめいわくがかかってはならぬし……」
「しかし、大講会三日のあいだは、
血を見ることをゆるさぬ
誓いがある。かまわぬから本名を
記してやろうじゃないか。どうだろう、
蔦之助」
「すでに、
豊臣家のほうにも打ち明けたこと、
拙者も、名のって仔細はあるまいと思う」
小文治も
同意した。
そこで一同は、作戦をこらすために、かたすみへ
寄って
凝議をしたうえ、おのおの
国籍本名をあからさまに
記入してやった。
(きゃつ、あれを見ると、きっとびっくりするにちがいないぞ)
こう思っていると、
案の
定、使者は五人の
記名と
姿とを見くらべて、がくぜんと目をまるくしたまま、あとの
文句もいわず、
幕のそとへ飛びだしていった。
さらに。それからかれ
以上に
仰天したのは、使者がもたらしてきたことによって、はじめてことの
真相を知った
大久保石見守であり、
和田呂宋兵衛であり、そのほか
徳川家に
籍をおくものすべてであった。
「さては」と、だれの顔色もかわった。
「
咲耶子をわたせと、けしきばんで、あれへなだれこんできた
理由がわかった。
多寡の知れた
僧侶や
浪人者と見くびって、わざと、
家中の
侍をださず、呂宋兵衛や
吹針の
婆をあの番組のなかにいれて
翻弄してやろうと思ったのだが、そうと知ったら、もう
一工夫するのであった」
と、石見守には、
後悔のようすがあった。
けれど、すでに、
時刻はせまる、
検証の
鐘巻一火は
床几につく、
見物は鳴りをしずめて
立合いを待ちかまえている。……
悔いておよばぬ
場合である。
ただこのうえは、まんがいちにも、かれに
敗れをとらぬことだ。まかりちがって、
正当なやくそくのもとに
試合して、どうどうと、かれに
咲耶子を持ってゆかれるようなことがあった日には、それこそ
石見守の
立場がない。かれの
失態はなんとしてもまぬがれない。
で、
長安はやっきとなった。
菊池半助も、すわこそと、
呂宋兵衛にここの大事をささやいていた。
かかるまに、
支度の
陣貝がしずかに鳴りわたる。……とうとうたる
太鼓……
型のごとき
黄母衣、
赤母衣、
白母衣の
伝令三
騎が、
番外の五番
試合を
各所の
控え
所へふれて、
虹のように
試合場のまわりを一
巡する……
水をうったように、
群集のこえと
黄塵がしずまって、ふたたび、
御岳の
広前に
森厳な空気がひっそりと
下りてきた。
大雨一
過のおもむきである。
次にきたるべきものは、
嵐か、
雷か。
試合ははじまった。
浜松城の隠密組菊池半助がいつのまにか広前の
中央にすッくと立っているのが見える。
得物をもたず、たすきや
鉢巻きもしていないので、この
番外試合のいきさつを知らない一
般の
群集には、ちょっと
気抜けがさせられたようすで、ふしんそうに見とれている。
相手方は、やがて、あなたのすみにある
豊臣家の
桐紋の
幕をあげて
歩みだしてきた。
これもどうように、なんの
支度らしいよそおいもしていない。ただ、いささか
観衆の
好奇心をみたしたのは、それが
白衣に
白鞘の
太刀をさした六
部らしい
風采だけであった。
忍法試合?
かかる
白日の
下、
万人衆目のあるなかで、
忍術の
秘法をどう
争うのだろうか。争うとすればどうするのだろうか?
ことの
真相を知らない
場外の
見物人は、いろいろ
妙な顔をしているし、
事情を知っている人々は、
大鷲の
背から
捨てられた
美少女の一身が、いずれに
奪るか奪られるかと、じッとかたずをのみはじめた。
いままでの、
意地や
興味など
超越して、ある
運命とものすごい
殺気をはらみかけた
番外五
番試合は、こうしてまさにその
火蓋を切られようとしている。
伊賀流の
忍者菊池半助と、
果心居士のおしえをうけた木隠龍太郎とが、
双方、水のごとくたいしたとき、しずかな耳を
突きぬくように、一
声、
短笛の
音がつよく流れた。
と、同時に。
あなたの
葵紋の
幕のうちに、
花壇のように、
盛りあがっていたお
小姓とんぼ
組の一
隊が、とんぼ
模様そろいの
小袖をひるがえし、サッと試合場の一方に走りくずれてきて、三十六人が十二名ずつ三
行にわかれ、目にもあざやかな
隊伍をつくった。
「
鶴翼!」
と、
朱房の
鞭をふったのは、それを
指揮する
徳川万千代であった。
三
段の隊伍は、
中央からまッ二ツに
割れて、たちまち鶴翼の陣形をつくる。
「
奉行、これでよいか」
と万千代は、とくいらしく
床几の
席へむかっていう。
石見守は、一
顆のあかい
鞠をだして万千代の手にわたした。すると
検証の
鐘巻一火も、おなじように一つの白い鞠を
星川余一の手にあずける。
そこでふたたび、鞭をあげると、とんぼ
組の隊伍は、そのまましずかに進んで、ころあいなところで、
鳥雲の
陣にくずれ、また
魚鱗の
形にむすび、しきりと
厳重な
陣立を
編もうとくふうしているようすであったが、やがて八門の陣をシックリと
編んで、あたかも
将軍の
寝間をまもる
衛兵のように、三十六人が
屹然とわかれて立った。
その、陣形の
中宮に、
白球をもった星川余一と、
紅球を持った
万千代とが、ゆだんのない顔をして立つと、
菊池半助はその紅球をとって、もとの場所へかえることを、また
木隠龍太郎は一方の白球を取ることを、
試合目付から命じられた。
これは
伊賀流の
忍びをほこる半助にも、木隠にも、おそろしい
難事だろうと思われる。およそ
忍術というものも
夜陰なればこそ
鼠行の
法もおこなわれ、木あればこそ
木遁、火あればこそ
火遁の
術もやれようが、この
白昼、この
試合場のなかで、しかも三十六人のとんぼ
組の
小姓たちが八
門の
陣を
組んでまもっている
鞠を、どうして、気づかれずに自分の手へとってもとの
場所へかえるだろうか。
「いざ!」
「目をかすめて、
忍べるものなら忍んでみよ」
という
風に、お小姓とんぼの
面々は、ゆだんのない目をみはった。
両士は、サッと
左右にわかれて、八門の陣のすきをうかがう。
――といっても、そこには
木蔭があるわけではなく、身をかくす家があるのでもないから、もとよりどう手をくだす
法もないらしい。
木隠が右へまわれば右へ、半助が
左側をねらえば左側の目ばしこい小姓たちの眼が光ってうごく。
すると、
菊池半助は、とつぜんとんぼ組の
陣形のまわりを、
疾風のようにぐるぐるまわりだした。
かれらはその
迅さに目まいがしてきたように、ただアッ――と、あッけにとられている。その
姿はいよいよ
加速度に早くなって、ついには、小姓たちの目にも遠くからながめている人々の目にも、それが半助か、一
片のくろい
布がつむじ
風でめぐっているのか、ほとんど目にもとまらないほど
迅速になってきた。
それに、すべての者の
視線がうばわれているまに、いままで、一方に立っていた木隠の
姿がこつぜんと
消えている。
「や、さては」
と、
小姓の
面々がハッと身をかためていると、八
門の
陣の一方に、白いものがヒラリとおどった。
「それ」
と、心もちそのほうへ、一同のからだがズズとよりつめてゆくと、
非ず! そこへ
散ったのは数枚のふところ
紙で、みなの
視線が、それにみだされて散らかったせつな、
陣の
中宮にいた
星川余一が、風で
貼りついた一枚の
白紙を片手で取りのけながら、
「あッ、しまった」
と、とんきょうにさけんだ。
余一の声におどろいて、
万千代もひょいとろうばいした。とたんに、だれかが、かれの
肘を足もとからトンと
突いた。
「あッ」
といったが、肘をつかれたはずみに、赤い
鞠はかれの
掌をはなれて、ポンと飛びあがった。
それへ、
烏猫のような人かげが、いきなり飛びかかったかと思うと、
「えいッ!」
と、ほとんど一しょに耳をうった
二声の
気合い。
陣をくずした
小姓組の者をいつのまにかとびこえたのであろう、
木隠は
白球を手に、
菊池半助は
紅球を手にして、
最初の
位置に立っている。
忍法試合紅白鞠盗みの
試合は
瞬間だった。
この鞠ぬすみは
伊賀流と
甲賀流のものが、かつて
信長の
在世当時、
安土城で試合をしたこともあるし、それよりいぜんには、
仙洞御所のお庭さきで
月卿雲客の前で、
叡覧に
供したこともあって、のちには、
公卿たちのあいだに、これを
蹴鞠でまねした
遊戯さえのこったほどである。
さて。
余事はとにかく、いまの試合はいずれに
軍配があげられるものだろうか?
むろん、
検証役の
鐘巻一火は、
床几から立ちあがって、
「同点。
忍法試合勝負なし!」
と、
鉄扇をふるって、
奉行目付へいったことである。
衆目、それに
異議はなかった。
菊池半助は、勝負なしのものわかれに、
無念そうな
白眼を相手に投げ、そうほう、
無言のままにらみわかれた。
「わーッ……」
と
崩れたのはお
小姓とんぼである。
万千代をはじめ
余一その
他のもの、
試合がおわると、いっせいにもとの
幕うちへ、引きあげてゆく。
そして、
遠雷のような
群衆のどよめきが、あとしばらくのあいだ、空に
消えなかった。
――と思うと、すでに二
番試合の
合図が、
息もつかずとうとうと鳴りわたって、
清新な
緊張と、まえにもまさる
厳粛な空気を、そこにシーンとすみかえらせてきた。
と見れば。
片肌をおとした
凛々しいふたりの
射手は、もう
支度のできている
場所に身がまえをつくって、
弓懸をしめ、
気息をただし、左手にあたえられた
強弓を取って、合図、いまやと待ちうけている。
この
遠矢くらべ、
番えた
矢よりほかに
代矢のない、一
本試合のだいじな
競射である。
的は?
おお、その的として、
示されたものがまたおそろしく遠方だ。じッと、
眸をこらさなければ、それとはたしかに見きわめがつかないくらい。
谷をへだてた前方に、高からぬ
峰がそびえている。その
白鳥の峰の七
合目あたりに、古い
丸木の
鳥居が見える。鳥居はその
幽邃な
白鳥神社奥の
院の
印で、それまではだれにでも一目でわかるが、遠矢の的と示されたものは、その鳥居の正面にかかっている
額だった。
御岳の
中腹をくだり、
渓流をこえ、
沢をわたり、そして向こうの白鳥のみねの七合目までいくには、おそらく二十八、九
町もあろうが、この
御岳の一
端にたって
直線に
対峙すれば、そのいくぶんの一の
距離しかあるまい。
しかし、せまい山と山とのあいだには、風がないような日でも、ふだんに
寒冷な
気流があって、よほどな
射手が、よほどな
矢をおくらぬかぎり、その気流のさからいをうけずに
的へあたるということはありえないだろう。などと、
弓道にこころえのある
傍観者は、はやくも、
各藩のひかえ
所で
下馬評まちまちである。
だが、
射手にはじゅうぶんな自信があるものか、やがて、
弓作法おごそかにすますと、
徳川家方の射手
加賀爪伝内、
伊那丸方の
山県蔦之助、そうほうおもむろに足を
踏みひらいて、
矢番えガッキリとかませ、
白鳥のみねの
樹間にみえる
大鳥居の
懸額を、キッと横ににらんだ。
山県蔦之助は人もしる
代々木流の
達人。
大津のまちにその弓道の道場をひらいていたころには、
八坂の
塔の
怪人を
射るいぜんから、
今為朝とはやされていた人。またかつて
竹童が、
大鷲クロの
背をかりて
鞍馬の
僧正谷から
高尾山へつかいしたとちゅうにも、かれの
誤解をうけて、そのおそろしい
強弓の
矢に見まわれ、ほとんど立ち
往生して地上におとされたことがある。
その
代々木流の
臂力をためさぬことも、
蔦之助にとっては、
久しいものだ。
弓をひく者がながらく弓を持たずにいると病気になるとさえいう。
蔦之助も、めぐりぞ
会ったこの
晴れの
場所で、いま、
鏑籐日輪巻の
強弓にピッタリと
矢筈をかましたしゅんかん、なんともいえない
爽快な気持が
胸いっぱいにひらけてきた。
くわッとはるかな
的を見、
弦絃二つに
割って、キリッ、キリッと、しずかに
満をしぼりこんでゆく。
河内流の
加賀爪伝内、これも
徳川家ではすぐれた
射術家らしい。
りっぱだ。蔦之助のそばに立って、蔦之助のかまえに見おとりがしない。
しぼりこんだ弓と人とが、ほとんど同じかたちになって、
鏃のさきが、
弓身のそとにあますところのないまで引き強められていったしゅんかん――
声をのんでひッそりとしずまりかえった
場の内外は、
無人のごとくどよみを
沈めて、
息づまるような空気をつくっていた。
すると、ひとり、
矢来のそとの
群衆のなかで、
「
民部、こまったことになったものだの」
と、ささやいた人があった。
さいぜん、
竹童が
鷲につられて走ったのをきっかけに、とめるまもなく、一
党のひとびとが
矢来をこえてこういう
事態をひきおこしたので、その
成行きをあんじている
武田伊那丸と
小幡民部のふたりである。
民部も、あなたへ眼をはなたず、
「ただ、
天祐を
祈っているのほかございませぬ」
と、ことばすくなく答えた。
「お……いまとなっては、もう手をくだす
術もない」
「
若君」
民部は、しいて伊那丸の
憂いをはげますようにいった。
「――おあんじなされますな、たとえ、いかなる
波瀾を生みましょうとも、かれらのことでござります」
「うム……」
「かれらのことです、かれらのことでござります。けっして、
汚名をさらすような結果を
招きはいたしますまい」
そうはいったが、そういうかれじしんが、人しれず手に
汗をにぎりしめているのであった。
――と、目をみはる
間もなかった。
あまたの人の口から、あッ……と
軽いこえがいちようにもらされたかと見ると、すでに、しぼりこまれた二
弓はブンと
弓がえりを打って、ひょうッと、
弦をはなれた二すじの
矢が、風を切ってまッすぐに走っている。
「やッ?」
とたんに、
射手の
山県蔦之助は、
弦をはなした
右手をそのまま、サッと
顔色をかえてしまった。
耳を
聾せんばかりのどよめきが、
土用波のように
見物人をもみあげた。なにかののしるような声、
嘲笑するようなわめき、それらが
嵐のごとく、かれをとりまいた
心地がした。
「
遠矢一
本試合、
徳川家加賀爪伝内どのが
的をとったり!」
と、
鐘巻一火は
検証の
床几からさけんだ。
意外。
蔦之助は
敗れたらしい。
今為朝の
矢はどうしたか? あのたしかな
代々木流の矢がどうして
狂ったのであろうか。
鐘巻一火の
叫んだのは、けっして
不公平でもうそでもなかった。加賀爪伝内の切ってはなった
黒鷹の
石打羽の
矢は、まさしく、
白鳥の
峰の
大鳥居の
額ぶちに
刺さっているのに、それにひきかえて
蔦之助の
射た
妻羽白の
矢は
弓勢が
弱かったため、
谷間の
気流をうけてそれたのか、あるいは
弦切れの
微妙な指さきに、なにかのおちどがあったのだろうか、とにかく、白鳥の峰へとどかぬうち、
霧のごとく
影を
消して、どこへ落ちたかそれていったか、
肉眼では見えなくなった。
お
小姓とんぼ
組をはじめ、
徳川方の者とそれに心をあわす
溜り
場では、わッといちじに
凱歌をあげた。
無念や、
山県蔦之助は、
試合目付の
退場の
命と、その
嘲笑におくられて、
悄然とそこをひかなければならなくなった。
すると――。
それよりほんのわずかまえに、
試合の
勝敗が
心配のあまり、
桐紋の
幕のうしろから、そッと
抜けだしていた
鞍馬の
竹童は、なにげなく、
諸国の
剣士のひかえ
所の
裏をまわって、蔦之助の
姿が、もっとも近く見えるところからすきみをしていた。
ところが、竹童の
信念はくつがえされて、
弓をとっては
神技といわれている蔦之助が、どうだろう、この
不覚? このみにくい
敗れ
方!
「ちぇッ」
というと、鞍馬の竹童は、くやし
涙がにじみだして、思わずそこへすわりたくなってしまった。
あの
徳川方のものの
嘲笑が
伊那丸さまや
民部さまの耳にどんなにいたく聞えるだろう。あなたにいる
豊臣家の人々や、
忍剣や
小文治が、それをどんなにつらく見つめたろう。
竹童は
腰のささえをはずされたように、うしろへよろけた。
そして、
「ああ、ざんねんだ……」
と
太い
息をついたが、ふと気がついてみると、そこは
奉行小屋の
裏手らしく、すぐ向こうから十
数間のあいだには、ズッと
鯨幕がはりめぐらしてあって、一方の
帳には黒く
染めぬいた
葵の
紋印が大きく風をはらんでいる。
「あッ、ここは
徳川家の
陣地だな」
竹童はびっくりして、あわててそこを立ち去ろうとしたが、見ると! そこから
数歩向こうに、この人なき
陣幕のうしろにかくれて、あやしげな
黒衣の男が、じっと立ちすくんでいるのを見た。
何者だろう?
そしてなにをしているのだろうか。
おそろしく
背丈のたかい男である。
裾までスラリとくろの
帯なしの
服の
着ながし、
胸には、ペルシャ
猫の眼のごとくキラキラ光る
白金の十
字架をたらしている。そして、
祈るがごとく、口を
閉じ、眼をふさぎ、
指で
印をむすんでいる。
「やッ、
呂宋兵衛だ」
あぶなく、
喉をやぶってでそうな声を、竹童は自分の手で自分の口をおさえた。
「やつめ、あんなところで、なにをしているのだろう? ……おおあのおそろしい顔はどうだ。あの
他念のない
形相をする時は、いつも、呂宋兵衛がとくいの
南蛮流の
幻術をやるときだ」
身をひそめながら、かれの眼はらんらんとその
不解な
疑惑にむかって、
錐のごときするどさを
研ぎすましてきた。
読めた!
かれの
心臓は、ドキッとしめつけられたようなあえぎをうつ。
さては、もしや?
怪人呂宋兵衛がこの
幕のうらにしのんでいて、
石見守と
腹をあわせ、かれ一
流の
邪法をおこなって、
試合場に一
道の
悪気をおくり、
衆人の眼をげんわくさせているのではないかしら?
そして、そのために、いまのような
意外な
勝敗が、なにびとにも気づかれずに
信じられているのではないのかしら?
と――竹童はわれをわすれて、なお死人のごとく、
印をむすんで、つッ立っている怪人呂宋兵衛の黒いすそへソロ、ソロ、とはいよっていった。
なんと
久しぶりに見る
憎悪の
敵のすがただろう。
竹童の手は、
無意識に、
般若丸の
柄をかたくにぎりしめていた。
たとえ、
斃せないまでも、
不意をうって、かれの
邪法の
気念をやぶってやろう。
そう無意識の
意志がうごいていった。
そうして、
気配をしのばせながら、足もとによりついてくる者があるのも知らないで、
呂宋兵衛はいぜんとして目をとじたままだった。かれはかれじしんのむすぶ
幻術の
妖気に
酔っているもののようである。
しめた!
竹童の
胸は大きな
波にあおられた。
だが、般若丸の名刀が、
鞘を
脱しようとしたしゅんかんに、はッと気がついたのは(
血を見るなかれ)という
御岳三日の
神誓である。もしや自分の
軽はずみが、
伊那丸さまの身にめいわくとなってかかってはならないということだった。
といって、この
怨敵を!
みすみす目のまえにこうしている一
党の
仇敵、
咲耶子にとっては
敵のこの
悪魔を、なんで見のがしていいものだろうか。
柄にまよった手は、いきなりふところにすべりこんだ。かれの
指にふれたのは、
竹生島神伝の
火独楽! それであった。
それを、ふところにつかんで、いきなり、パッと立ちあがるや
否、
鞍馬の
竹童、
「うぬッ」
と、
独楽をまッこうにふりあげた。
ぶン! と、うなった
火焔独楽。
たしかに
呂宋兵衛のからだのどこかに、
焔をあげて
噛みついたにちがいない。あッと、相手の
驚愕した声が竹童の耳にも聞きとれた。
だが、とたんに――。
独楽は竹童のふところに飛んでかえって、かれ自身もまた、アッ――と
片手で顔をかくしたまま、あぶなくそこへたおれかかる。
見れば、えりもとから
鬢の
毛に、
霜柱が
植わったように、
無数の
針が
指にさわった。
それにおどろいて身をひるがえすと、
「この
餓鬼」
大きなこうもりにふさわしい
黒衣の
老女が、さッとすがって、うしろから竹童を
抱きすくめ、
「呂宋兵衛さま! 呂宋兵衛さま」
と、しわがれた声で
助勢をもとめる。
「お、そいつは、
鞍馬の
洟ッたらしだな」
「わしも、
人無村や京都で二、三ど見たことがある。竹童というて、
伊那丸の手さきになってあるく
童じゃ」
「おのれ、
野良犬のように、こんなところへなにしにウロウロしてきやがったか。この
御岳では、殺すわけにもゆかないが、うム、こうしてやる」
まえに
寄ってくると、
呂宋兵衛、
煙草色のウブ毛がいっぱい
生えている大きなてのひらで、竹童の
横顔を、みみず
腫れに腫れあがるほど、三つ四つ打ちつづけた。
それにもあきたらず、
最後に、
喉笛でもしめつけられたか、かれのからだをかかえていた
蚕婆が手をはなすと、グッタリと地上にたおれてうッ
伏せになった。
「ふん……」
と、せせら
笑いながら、
「
婆、こっちへはいっていろ」
一方の
幕をあげて、呂宋兵衛がすばやく
影をかくすと、
老女修道者となって、たえず彼についている吹針の蚕婆も、ニヤリと
歯をむきながらそのあとから
腰をかがめかけた。
と、その
弱腰へ、一本の
鉄杖の先が、
「これ」と、かるく
突いた。
かるく突いたが、
くろがねの
杖である。力を
入れないようでも
忍剣が突いたのである。
「うッ……」
というなり
蚕婆は、
甲羅をつぶされた
亀の子のように、グシャッと
幕の
裾にへたばってしまった。
その
陣幕をはらいあげて、
忍剣は、蚕婆には見むきもせず、
飛足を
跳ばしておどりこむなり、
稲妻のように
次のとばりの
間へ、チラと
逃げこんだ
黒衣の
袖を、グッとつかんだ。
「
悪伴天連呂宋兵衛、待て!」
「なにッ」
というと
銀の
鞭が、びゅッと、忍剣の
腕をつよく打ちかえしてきた。
――まさしく
和田呂宋兵衛である。
逃がしてはならない。忍剣はそう思った。
じつをいうと、かれがここへ
馳けつけてきたのは、
山県蔦之助の
遠矢の
敗北がなんとも、ふしんな負けかたであり、
解しかねる
点が
多々あるので、
徳川方の勝ちと
叫んだ
検証の
一火や
目付役の者に、
一苦情持ちこむため、いきおいこんで駈けだしてきたのだ。
もとより、ここで呂宋兵衛と
出会おうとは、
夢にも
予感をもたないのだった。
しかし、竹童が
締めたおされたのも
目撃したし、その
魁異な
妖人のすがたは、
夢寐にも
忘れていない
仇敵である。
なには
措いても、見のがせないやつ!
「おのれ」
ふりつけてきた、
銀の
細鞭をかわしながら、なお、
忍剣は
片手につかんだ
黒衣の
袖をはなさない。
呂宋兵衛はぜったい
絶命――。
「
御岳だ!」と、
叫んだ。
御岳だぞといったのは、
血を見るなかれの
神文の
誓いをふりまわして、
卑怯に相手をためらわそうとしたものである。
「だまれ、
妖賊」忍剣は耳もかさない。
引きもどそうとする力、
逃げこもうとする力、とうぜん、ベリッと
黒衣の
袖がほころびた。
ちぎれた
布の一
片は、忍剣の手につかまれたまま、よろよろと二、三
歩よろけたが、
野幕の
帳のあいだなので
鉄杖のあつかいも自由にゆかず、みすみす、
黒豹のように
逃げこんでゆくうしろすがたに、
「待て、待て」
と
叫びながら、手に
残った黒い
布をほうり
捨てると、そのはずみに
妙な
粘力を
腕に感じたので、思わず、オヤとふりかえると、その
肩さきへ、いったん地にすてた
黒衣がフワッと
勢いよく
跳びついてきた。
「やッ」と、
肩をすかした。
その
首ッ
玉をおどりこえて、目の前へ、
軽業師のようにモンドリ打ったものを見ると、どうだろう、思いがけない、まッくろな
烏猫、くびわに
銀玉の
鎖をかけ、十
字架をつけているではないか。
その銀玉の鎖と十字架をチリチリチリ……と鳴らしながら、
幕のすそをかわいらしく
馳けだしたので、
「
蛮流の
妖術師め、さては、うまく
姿をかえたな」
鉄杖を持って
追いまわすと、
猫はなおチリチリと
逃げだして、とつぜん、向こうのすみに、
萩や
桔梗や秋草のたぐいを入れ
交ぜに、
挿けこんである大きな
壺の
口へ、ポンと、飛びこんでしまった。
と見て、
忍剣は、
「
得たり!」
と、いきなり鉄杖を
槍のようにしごいて、
大瓶の横ッ
腹へガンと勢いよく
突ッかけた。
瓶はくだけ、秋草はとんだ。
みじんになった
陶物の
破片を越えて、どッ、
泉をきったような
清水があふれだしたことはむろんだが、
猫もでなければ
呂宋兵衛の
正物もあらわれなかった。
水に足をひたされて、ハッとわれにかえれば、これは
野陣の人々の
飲料水である。
反間の
敵に
毒を
混じられないようにわざと、
花壺に見せかけておいた
生命の水にちがいない。
「
逃がした……」
なにか、
忍剣のあたまは、そのとき、
霧がかかっているような
心地だった。そして、ぼうぜんとしていると、
張りまわした
幕に、ソヨソヨと
小波のような
微風がうごいて、その幕のかげあたりを、聞きなれない
南蛮歌の
調子で、
口笛をふいて通ってゆくものがある。
「あッ」
銀の
鞭の音がする。
そして、
「あははははははは……」
まぎれもない、
怪人和田呂宋兵衛の人をバカにしたような
笑いごえだ。
あざ笑う声はする。
銀の
鞭が
幕のうしろを
歩いている。
だが、
霧のようなじゃまな幕、それにさえぎられて、けんとうもつかねば、すがたも見えない。
忍剣は地だんだを
踏んで、幕の
波をさぐりかけた。しかし、
瓶の水が
表のほうへいっさんに流れだしていったため、それにおどろいた
徳川家の
諸士や、
溜り
場のむしろを水びたしにされて
跳びあがった、れいの
菊池半助、
鼻かけ卜斎、泣き虫の
蛾次郎、そのほかお
小姓とんぼの
連中までが、
総立ちになって、
裏手へまわってきそうな
気ぶり。
「これはいかん」忍剣は、早くも
執着をすてて、
「またいいおりもあろうというもの、ここで、きょうの
試合をめちゃめちゃにしては、
咲耶子を
無難に取り返すことができなくなろう」
と、
分別した。
で、ひらりともとの
場所へかえってくるなり、そこにたおれている
竹童をこわきに
抱いた。
竹童はいちじの
昏倒で、
「あッ、忍剣さま」
すぐに、目をひらいて、かれのたくましい
腕のなかに自由になった。
おのれの
居場所に
馳けもどってきてみると、一方そこでも、なにやら問題がおこっている
最中である。
総奉行の
大久保長安と、
検証の
鐘巻一火が
自身できて、なにかしきりと
高声で
弁じているのだ。
いま、いきなり飛びこんではまずいと思ったので、
忍剣がそッとようすをきいていると、
「いや、ただいまの
遠矢は、あくまで
蔦之助が勝ったものと信じます。鐘巻どのも一
流の
火術家でありながら、あの
的先にお眼が
届かぬとは心ぼそいしだいでもあり、また、
検証の
床几につかれながら、
徳川家へ勝ち名のりをあげられたのは
早計しごくかとかんがえます」
これは、
山県蔦之助自身と、
木隠と
巽とが、一しょになって
主張していることばの
要点だった。
「したが、
加賀爪伝内の遠矢が、
額ぶちにりっぱに立っているのに、
貴公の矢が
鳥居の
柱にも立っていないのはどうしたしだいか、これ、
弓勢たらずして、
矢走りのとちゅうから、
谷間へおちた
証拠ではあるまいか」
というのは、
徳川方の
強弁だった。
それにたいして、蔦之助は笑いをなげて、
「いや、自分の
弦をはなれた
矢が、谷間へ落ちたものか、
的を
射当てたものかぐらいなことは、
弓がえりのとたんに、この手もとへ感じるものでござる。たとえば、鐘巻どのの
鉄砲にしても、その
実感にお
覚えがあろうが」
「ウムなるほど……それはたしかに一
理がある」
一火はさすがに、そのことばを
反駁しなかった。
だが、
奉行の
石見守や
目付たちは、どうしてもその
説だけではがえんぜない。また、
蔦之助としても、
事実において、その
矢が
的先に見えないのであるから、それ
以上、なんと
理由づけて
力説することもできないのであった。
「では、この勝負は、ざんじ自分がおあずかり申すとしよう。そのかわりに……」
と、
鐘巻一火は中にはさまってこまりはてたあげく、
窮余の一
策を持ちだして、
「
最後の勝負、
遠駆けのおりに、あの
大鳥居をめあてとして
馳けさせ、そうほう、その矢を持ちかえってくるとしたらどうであろうか。――とすれば、同時に
遠矢の
勝敗も
歴然と
分明いたすことになる」
名案だった。
それはよかろう――というので、すくその
紛糾は
解決したが、ここにまた番組
変更のやむないことができたというのは、そこへ
徳川家の
侍がとんできて、
「
例の、
老女修道者でございますが、たッたいま、
何者かにしたたか
腰をうたれて
熱をはっし、ひどくうめいておりますので、
吹針の
試合にはでられぬようすでござります」
という
急報である。
忍剣は、かげで、それをおかしく聞いていた。
石見守の
腹では、
吹針の
試合ではしょせんあの
老女に
勝目はないと考えていたので、この
出来事はもっけのさいわいと思った。
で、その
試合を取り
消すことを申しでたので、
龍太郎や忍剣もかたすみで
相談のうえ、あらためて、こういう
返答をかれにあたえた。
「――されば、
幻術試合の相手にでる
竹童も、きょうはすこし気分のすぐれぬようすであるから、いっそ二番の勝負を取り消して、
最終の
遠駆試合一番にて、やくそくどおり
咲耶子をお
渡しあるか
否か、
乾坤一
擲の勝負を
決めるならば、それにご
同意いたしてもさしつかえはござらん」
「なるほど」石見守は考えていた。
ところが、
徳川家の者たちは、それを聞くと、むしろ
僥倖のように
気勢をあげて、
「
遠駆けの一
番試合で、
勝敗を
決めることは
当方で、
望むところ、たしかに
承知した。さらば、すぐそちらでもおしたくを」
と、石見守になにやらささやいて、わいわいと
引き
揚げていった。
かれらの
目算では、この一番こそ、
疑うまでもない
勝味のあるものと
信じているのだ。天下
歩むことにかけて、たれか、
早足の
燕作にまさる人間があるはずはない。
そう信じているからこそ、
最初にしめした、
試合掟にも、相手
方は
騎乗でも
徒歩でも
勝手しだいと
傲語したのだ。
この
嶮峻な
山路の
遠駆けに、
騎馬をえらべば
愚かである。人間の足より
難儀にきまっているのだ、そうかといって、
徒歩なればおそらくわが
早足の
燕作をうしろにする足の
持ち
人はないわけになる。
――という
腹が
徳川がたの
作戦。
(どうでるか、相手方のやつは?)
なかば、安心しているので、
興味をもって待ちかまえていると、すでに、
支度ができていたものか、遠駆けにえらばれた
巽小文治、
朱柄の
槍を
山県蔦之助の手にあずけて、
「どうッ、どうッ」
一
頭の
白馬をひいて、
試合場へあらわれた。
なんと毛なみの
美わしい馬だろうと――それにはなみいるものが、ちょッと気をうばわれたが、よく見ると、名馬のはずだ、これは
御岳神社の
御厩に
飼われてある「
草薙」とよぶ
神馬である。
しかし、
徳川家の者や、
諸藩のものは、この
嶮路の遠駆けに、馬をひきだしてきた
無智をわらった。
「どうだい」
と、
嘲笑半分に、うわさするものがある。
「これから御岳の
中腹まで
降りて、
渓谷をわたり、それから
白鳥の
峰の
大鳥居までいってかえってくるという遠駆けに、いくら名馬の
手綱をとったところで、しょせん、どうにもなりゃあしまい」
「まるで、山を舟で
越えようというのとおなじ
無謀な
沙汰だ」
「しかし、あいつ、おそろしく自信のあるような顔をしているな」
「ふうていもかわっている、
杣か、
野武士か、
百姓か、
見当のつかぬような
青二
才だ」
「なにしろ、どう
敗けるか、その敗けぶりをみてやろう」
小文治の耳にも、こんな
悪評が、チラチラ耳に入らぬでもなかった。けれど、かれは
黙笑している。うすら
笑いすると、その
頬には、ちいさな
笑くぼができて、愛らしい若者だった。
一方。
これはまた、おそろしく雲の上でも飛びそうなすがたででてきたのは、
早足の
燕作。
「やあ、ごくろうさま」
小文治のすがたを見ると、
町人らしく、
腰をまげた。
ちょっと、いままでの
試合と
目先がかわったので、
見物はよろこんだ。大きな
弥次のこえが、高い
樹の上ではりあげている。
「お役人さま、
念のために、よくうかがっておきますがね」
と、
燕作は、よくしゃべる。
「なんでござんしょうか――この
遠駆けの勝負の
眼目は、つまり、あの
白鳥の
峰の
大鳥居までいって、さっきの
遠矢を、一本ずつ持って
帰ってくりゃあよろしいンですね」
「そうじゃ」
と、
試合目付がそうほうへくわしく説明した。
「――それと、さいぜん、勝負あずけとなっている遠矢のあたりの
証拠を持ちかえってもらいたい」
「ようがす、じゃ、あっしは、あの
額の
ふちを引ッぱずして持ってくりゃいいんだ。そして、
相手方より
一足でも早く、この
試合場へ持ってきて、それを
検証の
床几のおかたに
手渡しすりゃあ勝ちというわけなんでございましょう。……なアんだぞうさもねえ、それならとちゅうで、さんざん
煙草を
吸って
帰ってこられまさ」
と、
浮ッ
調子な
町人ことばで、おそろしく
大言をはいた。
小文治は、そら耳で聞きながら、一つかみ草をとって馬に
飼いながら、ニコニコ
笑っていた。
「
旦那、
支度はまだですか」
燕作の足は、もう、やたらにピクピクしてきたふう。
「おお、よいぞ」
というと、
巽小文治、ひらりと
神馬草薙の
鞍つぼにかるく飛びのった。
「待った!」
と、
目付の人々はあわてて、そこから
合図の手をあげると、ドウーンと
三流れの
太鼓が鳴りこむ。
なお、いざ! というのはまだである。
太鼓は
三色の
母衣武者が、
試合場の左右から正面へむかってかけだす
報らせだった。そこには、
矢来と二
重に
結いまわされた
柵がある。柵の
周囲の
群集を
追いはらうと、そこのひろい
城戸が八
文字にあいて、
御岳山道の正面のみちが、試合場からズッとゆきぬけに口をあいた
形になる。
――
刻、すでに
七刻ごろの
陽脚。
満山のもみじに、しずかな午後の陽のいろが、こころもち
紅を
濃くしてきた。
おりこそあれ、
短笛の
音。
ここに、最後の
勝敗をけっする、
騎馬徒歩、
遠駆けの
試合の
矢声はかけられた。
わーッと、いう声におくられて、正面の城戸を走りだした
白馬草薙と、
天下無類の
早足の
持主、もう、御岳の
広前から
真ッさかさまに、その
姿を見えなくしてしまった。
いくら天下の
早足とじまんをする
燕作でも、
騎手は
巽小文治、馬は
逸足の
御岳の
草薙、それを相手に足くらべをしたところで、もとよりおよぶわけはなく、勝とうというのが
押しのつよい
量見。
――と
見物の者は、はじめからこの
早駆け勝負の
結果を見くびっていたが、はたして、その
予想ははずれなかった。
試合場の
城戸から、八
町参道とよぶ
広い
平坦な
坂をかけおりてゆくうちに、燕作の
小粒なからだはみるみるうちに
追い
越されて、とてもこれは、
比較にはならないと思われるほど、そうほうの
間にかくだんな
距離ができてしまった。
だがしかし――燕作の
肚にはりっぱに
勝算がたっていた。
「見ていてくれ、ほんとの勝負はこれからさ」
と、たかをくくっているのだ。
そして八町参道をまたたくまにかけ
降りると、道はふた手にさけて一方はふもと、一方は
白鳥越え
甲州裏街道の
方角にあたる。
その裏街道のほうへさきの小文治が
勢いよくまがった。
「ふふん……」と燕作は、それを見ながらあとからかけて、
「さあ、
奴さんが
泡を
吹くのはこれからだぞ。そこで燕作さまは、このへんでじゅうぶん
一息いれてゆくとしようか」
腰の
手拭をとって
風車にまわしながら、
一汗ふいて、またもやあとからかけだした。
一方、いそぎにいそいでいった
小文治は、やがて道のせばまるにつれて、
樹木や
蔓草に
駒の
足掻きをじゃまされて、しだいに
立場がわるくなってきた。
この
早駆け勝負のまえには、
奉行の方から
騎乗随意といってきたくらいであるから、とうぜん、
騎馬の
往来は自由なところと考えていたが、このあんばいだと、
前途はしょせん馬で
押しとおすことはできないかも知れない。
「はかられたな」
と小文治は早くも心のうちでさとったが、
要するに
地理不案内からきたおちど、いまさら引っかえすわけにはゆかないことは知れきっているので、
「ままよ」
と
強情に、
樹々にせばめられている
細い道へと、むりやりに馬をすすめていった。
が、そこには
我武者にかけとばしても、たちまちまた一つの
難関があった。なんの
沢というか知らないが、おそろしく
急な
傾斜で、その下には
幅のひろい
渓流がまッ白な
泡をたてて流れている。
まよった。――小文治はまよわざるを
得なかった。
手綱にそうとう
要意と
覚悟をもてば、自分とて、こんなところを
乗り落とすことができないではないが、帰る
場合にどうしよう?
ほかに
登る道があればいいが、ないとすると、この
傾斜では、馬を乗りあげることがむずかしい。それに、下に見える
渓流もはたして
騎馬で
越せるかどうか?
「ウーム、さては
大久保をはじめ
徳川家のやつばらめ、あらかじめ地の
理をしらべておいて、うまうまと
最後の勝負でこっちに一ぱい
食わせたのだ。……はてざんねんなわけ、どうしてやろうか」
と、名馬
草薙の足もそこよりは
進みえずに、
手綱をむなしくして、馬上にぼうぜんと考えこんでしまっていると、そこへ飛んできた
早足の
燕作が、
「ああ、やっと
追いついた」と、ふりかえって、
「おい
大将、
失礼だけれど、お先へごめんこうむりますぜ」
尻をたたくようなかっこうを見せて、ぴょんと、
傾斜の
崖ッぷちへかかった。
「あッ」
と、われにかえって
歯がみをする
小文治を、
「まあ、ごゆっくり」
と見かえして、そういうが早いか、燕作のからだは、
岩に
着物をきせてころがしたように、そこから
沢の下の
水辺まで一いきにザザザザザとかけおりてしまった。
もうまよっている
場合ではない。
小文治は馬をすてた。
あたりの
喬木へ
手綱をくくりつけておいて、
燕作のあとから、これも
飛鳥のように
沢へおりた。
降りてみると燕作はもう
渓流の
岩をとんで、ひらりと
対岸へあがっている。小文治が
河の向こうへ
渡りついた時には、やはり同じ
距離だけをさきへのばして、こんどはスタスタと
登りにかかった。
「お、
白鳥の山へかかってきたのだな」
かれは気が気ではなかった。
まだ一
里も二里もさきがある勝負なら、なんとかそれだけの距離を取りかえすことができようが、たしかここから十二、三
町のぼった
中腹がれいの
大鳥居だ。
「おのれ、燕作ごとき
素町人におくれをとって一
党の人々に顔向けがなろうか」
早駆けとはいい
条、ことここに立ちいたってみれば、
武芸以上の
必死だった。いや、そんな
意地よりも
名誉心よりも、まんいち自分が
敗れでもした時には、いやでも
応でも、
咲耶子の身を
徳川家の手にわたさなければならない。
いわば一党の人の
然諾と咲耶子の
運命とは二つながら、かかって自分の
双肩にあるのだ。敗れてなるものか、おくれてなるものか。
彼はややあせった。
汗は全身をぬらしてくる。
呼吸はつまる。
それにひきかえて
燕作のほうを見ると、さすがはこいつ
足馴れたもので、少しもあせるようすがなく、まるで平地を
歩むように、スラスラと十二、三
町の
登りを
踏みすすんでゆく。
すると、ほどなく彼の前に、七、八
段の
幅のひろい
石垣があらわれて、
巨人がふんばった
脚のような
大鳥居の
根もとがそこに見られたのである。
「おっ、やっと
着いたぞ」
さすがな燕作も、そこでは、ホッとしたように
息ついて、
山下へ小手をかざしてみたが、まだ
小文治の
姿は見えない。
で、安心したらしく、
「ヘン、どんなものだい」
というふうに
胸をひろげて、また
手拭を
風車にまわした。
「おっと、そうはいっても、まだまだやっと勝負はこれで半分みち。あの
額の
縁に
刺さッている
矢を
抜きとって、もとの
試合場まで帰り着かねえうちは、まだほんとに勝ったものとはいえない」
つぶやきながら、大鳥居の上を見あげた。
それへよじのぼる気か、燕作が、ペタと
蝉のように
丸木の鳥居へ取ッついたが、待てよ、とすこし考えて――。
「こいつあ
損だ、わりに合わねえ」
と
不意にべつの
矢をさがしはじめた。
上の
額縁に
刺さっている矢は、さいぜん、
徳川家の
射手加賀爪伝内がはなした
遠矢で、かれも
徳川方のひとりである
以上、とうぜんその
矢をぬいて、持ちかえるのがほんとなのだが、この
登りにくい
鳥居にかじりついてすべったり落ちたりしているよりは、どこか、そこらに落ちている
山県蔦之助の
矢をひろっていったほうが、時間においてはるかに
得策だと、あいかわらずずるい考えを
起したものなのである。
で、
鳥居をくぐって、およそな
見当のところをしきりにさがしはじめたが、さあこの
矢のほうにも一
難がある。
加賀爪の矢は
的の中心にこそあたらなかったが、その
額の
縁へ
適中したので、あのとおりあからさまに鳥居の上にとまっているが、的を
射そんじた蔦之助の矢のほうは、それをそれたわけなので、どこまですッ飛んでしまったか、その
距離と
方角にいたっては
燕作にもちょっと
想像がつかないのだ。
「おやおや、そうは
問屋でおろさねえときたね。じゃ、やっぱり
尋常に、あの上のやつを
抜いて引っかえそうか」
と、
急に考えなおした燕作。
なんの気もなく、まえの
大鳥居の
根もとのほうへふたたび足を向けかえてゆくと、その足のつまさきが、なにやら
妙なものに
蹴つまずいたと思ったので、ヒョイと見ると、
嵯峨天皇風の
字体で「
白鳥霊社」と
彫ってある四角な古い
欅板だった。
「あれッ?」
といったまま
燕作は、それと
鳥居の上とを見くらべてあいた口がふさがらない。
なぜかといえば――
その板はまさしく
大鳥居の上にかけてあるべきはずの
額なんである。だのに……と思ってよくよく
宙と大地の
品とを見くらべてみると、鳥居の上には
神額の
縁だけがのこっていて、なかの板だけがここへ落とされてあることがわかった。
ではなんで落ちたか――ということは燕作にはもう
疑問とするにたらなかった。
証拠は
歴然、そこに落ちている神額の
中板の「
白鳥霊社」の
霊という文字を見ごとに
突きさしていた一本の
矢! 見るまでもないが手にとってみると、はたしてさいぜんの
試合に、
山県蔦之助が
日輪巻の
弓から切ってはなした
白鷹の
塗矢にちがいはないのである。
「ああ、こりゃあ
大へんだ」
燕作はいままでの道を
歩き
損じたように、ガッカリしてつぶやいた。
先刻の
遠矢試合では
河内流の
加賀爪伝内が
勝点をとって、蔦之助は負けということになっていたが、いま、その遠矢の
的場であるこの大鳥居の
裾に立ってみると、これはあきらかに伝内の負けで蔦之助の勝ちだ。
伝内の矢は額の中心をはずして、わずかにその縁にとまっているにすぎないが、蔦之助の矢は神額のまッただなかを
射て、その板もろとも下へ落ちてしまったのだ。
そのために、
御岳の
試合場から見ると、だれの目にもそれたように思われたが、この
実際がわかるとなれば、
大へんな
番狂わせで、おれが
早駆けに勝ったところで、きょうの勝負は
五分五分なわけだ、と
燕作はすっかり気がくさってしまった。
と――もう下のほうから、
巽小文治が
息をあえぎつつ
登ってくるすがたが見えはじめた。
「ええ、きやがった」
燕作はさきに着いていながら、まごまごしてしまったが、にわかになにか思いついて、
「そうだ、なにも
心配することはねえ。おれがここでこの
額板を見つけたからこそ、
蔦之助のあたりがわかったようなものの、なあに、このままどこかへかくしておけば、相手のやつらも気がつくことはないのだ」
矢はぬいて自分の
腰にはさみ、
神額の
板は、人の気づかぬような
雑木帯の
崖へ目がけて力まかせにほうりすてた。
「ウム、これでよし」
いこうとすると、何者か、
「待て!
燕作」
「あッ……」
かれはなにものも見なかったであろう。
ふりむいたとたんに、天地がグルリとまわったように感じた。そしてえりがみをはなされた時には、
脾腹をうって、
鳥居の下に気をうしなっていた。
わずかの
間をおいて、そこへ、
燕作に
追いこされた
小文治が
息をきって
登ってきた。
しかし、ふしぎなことには、たったいま
何者かに投げられて、
大鳥居の下で気をうしなった燕作のからだが、どこへ
片づけられたのか、そこに見えなくなっていた。
そういう
変事があったのは知らないが、小文治はふしんにおもった。あとから登ってくるみちみちにも、くだってくる燕作に
出会うだろうと思っていたのに、ここへきても、その
姿が見えない。
「ひきょうなやつ、さては、このうえにも自分をだしぬくためにどこか近いぬけ道をまわっていったな」
いわゆる、負けた者のくそ落ちつきではないけれど、小文治もこうなるうえは、この
遠駆けの
勝敗を
天意にまかせるよりほかはないとかんねんをきめた。
全能全力を
正当につくしてみて、それでも
敗れれば、まことに
是非のないわけだ。男らしく、一
党の人の前へでて、
罪を
謝するよりほかにみちはない。
と、
覚悟をきめてしまったので、かれもぞんがい元気をたもっていた。
そこで、しずかに、持ちかえる
矢をさがすと、
蔦之助の矢は見あたらないで、大鳥居の
額縁に
刺さっている
加賀爪伝内の矢が目にとまった。
かれはハタととうわくして、
「どうしてあれを取ろうか」
と
腕をくんで考えた。
一ぽうを見ると、そこにすばらしく大きい
椋の
大木がある。その高い
梢の一
端がちょうど、
鳥居の
横木にかかっているので、
「そうだ」
駆け
寄ってそれへよじのぼろうとすると、
「
小文治、小文治」
不意に、どこかで自分を
呼ぶものがある。
――が、どこを見まわしても、人らしいかげはあたりの
鬱蒼にも見えないのである。
「耳のせいか?」
かれはそう思った。ふたたび椋の
幹に
抱きついて、
大鳥居の横木へわたろうと考えた。
「――いまわしが
降りてゆくから、くるにはおよばんよ、そこで待っているがいい」
「や? ……」
耳のせいではない。
だれだろう、
何者だろう、この
白鳥の
峰でなれなれしく話しかける人間は?
かれの目はしきりにうごいて、うしろの
樹立をすかしたり
暗緑な
境内を見まわしたりしたが、ついに、そこからなにものも見いだすことはできなかった。――たださいぜんから明らかに知っていて、べつに気にも
止めなかったのは、
鳥居の
横木にうずくまっている一
羽の
灰色の鳥だった。
ところが、かれの
鼻のさきへ、上から
額縁の
矢が
抜けて、ポーンと落ちてきたので、
眸をこめて見なおすと、その灰色のかげが鳥ではないのがはじめてわかった。
衣のような物をきている人間だ。鳥居の横木に
腰をおろし、
杖のようなものを持っているあんばい。
矢を落として、するすると横木の
端へはいだしてきた。
銀のような
髯が
頤からたれて風をうけているのが、そのときには、下からもありありと
仰がれた。
老人はやがて
椋の
梢にすがって、
蜘蛛がさがるようにスルスルと
降りてきた。
「あッ、あなたは
果心居士先生」
「
小文治、ひさしく
相見なかったの」
「どうして、あんなところに」
「まあよい、そこへすわれ」
すわって話しこむどころの
場合ではないが、ついぞここしばらくのあいだ、一
党の人に
影もすがたも見せないでいた果心居士が、こつぜんと、そこに立ったのであるから、小文治もぼうぜんとして、思わず、
腰をついてしまった。
「きょうはえらいさわぎだったな」
居士はいつもかわりのない
童顔に明るい
微笑を
波のようにたたえて、
「わしも、すこしあんじられたので、きょうは早くからあれに
腰をすえて
見物していたのじゃ」
と、
鳥居の上を
指さした。
「えッ、では、先生には、あの鳥居の上から
御岳の
試合をながめておいであそばしたので」
「よく見える。あたかも
鞍馬の上から
加茂の
競馬を見るようにな」
「して、いつこの
武州へ」
「ゆうべ、なにげなくれいの
亀卜の
易をこころみたところが、どうもはなはだおもしろくない
卦面のしらせじゃ。そこでにわかに思い立って、きょうぶらりとやってきたが、はたしてこのさわぎ……」
小文治は居士の話にいろいろな
疑念をはさんだ。亀卜の易とはなにか? また
京の鞍馬山から武州まで、きょうぶらりとやってきたというのも、自分の聞きちがいのような気がした。
けれど、かれがそんなことに頭をそらしているうちに、居士はずんずんとさきの話をいいつづけていて、
「で、なによりあんじられたのは、万が一にも、
咲耶子の身を
徳川家のほうへとられると、おそらく、ふたたび助けだすことができまいということであった。なぜといえば、
家康の心のうちには、いよいよ
邪計の
萌しがみえる。――
武田の
残党を
憎むことが、いぜんよりもはなはだしい。そして、
秀吉と
覇をあらそううえにも、つねに
背後の気がかりになる
伊那丸君やそれに
加担のものを、どんな
犠牲を
払っても、
根絶やしにしなければならぬと、ひそかに
支度をしつつあるのだから」
老骨とは思われない若々しい
居士の
語韻のうちに、
仙味といおうか、
童音といおうか、おのずからの
気禀があるので、
小文治はつつしんで聞いていたが、話がとぎれると、
遠駆け
試合の
決勝が気にかかって、じッと落ち着いてはいられない気がする。
「もし、
果心居士先生」
たまらなくなって、
腰を
浮かしかけた。
「なんじゃ」
「せっかく、お話中ではございますが、ご
承知のとおり、わたしはいま遠駆けのとちゅう、この
矢をもっていっこくも早く
試合場へもどりませぬと……」
「ウムぞんじておる」
「でも、ただいまも
仰せられたとおり、まんいち
不覚をとりますと
咲耶子の身を」
「それはわかっている。まあよい」
わかっているといいながら、小文治のワクワクしている
胸のうちもさっしなく、居士はゆうぜんと
椋の木の
根に腰をすえて、目を
半眼にとじ、
頤の
銀髯をやわらかになでている。
気が気ではないのに、
居士はまだことばを切らないで、
「わしがみるところでは、世はいよいよ
乱れるだろう、いくさは
諸国におこって
絶えないであろう、人間はますます
殺伐になり、
人情美風はすたれるだろう。なげかわしいが
天行のめぐりあわせ、まことにぜひないわけである」
と、空をあおいでそういった。
ああ
悠長な。
小文治がことばをはさもうとすると、そこをまた、
「
伊那丸君にもよく
言伝をしてくれよ。よいか、ますます
自重あそばすようにと」
「は、
心得ました」
いい
機と、小文治が立ちかけると、
「あ、待て」
またか、――そう思わずにいられないで、
「さきをいそぎますゆえ、なにとぞ、このまま
失礼ごめんくださいまし」
と、そこに落ちている
矢をひろって
右手につかむと、居士も、やっと
腰をあげて、
「小文治、その
品ばかりでは心もとない、いずれこの空がまッ
赤に
夕焼するころには、
御岳の山も
流血に
染まるだろう。――
戈をうごかすなかれ、
血をみるなかれの
神文もとうていいまの人心には
守られる気づかいがない。見ろ――」
手をあげた
居士の
指が、そこから
対山の
中腹をゆびさした。
「あれを見ろ、
小文治。みだれた
凶雲と
殺気にみなぎっている」
「では、
兵法大講会の第二日も、いよいよ
無事にはおさまりませぬか」
「おそらく、
三日目を待たず、
今夕かぎりでめちゃめちゃになるだろう。おう、おまえも早くゆくがいい、そして、まんいちの
用意に、これを
証拠に持ちかえるがよかろう」
そういって、
居士がかれにあたえたのは、さいぜん、
燕作がどこかへ投げすてた
額板だった。
蔦之助の
遠矢がけっして
敗れたのではないと聞かされて、小文治はこおどりして、
「では、ごめんを」
と、
下山の道へ走りだした。
「おお、せくなよ。
急いてあとの
不覚をとるなよ」
見送りながら、居士は
白鳥の
奥の
院のほうへ風のごとく立ち去った。
しばらくすると、草むらのなかから、
「ウーン……ア
痛、アイテテテテ」
と
腰をさすりながら起きあがった燕作が、
夢のような顔をしてのこのこでてきた。
「どうしたんだろう? おれはいったい」
あたりをみると、いつか
夕暮れらしい色が、森や草にはっていた。
梢にすいてみえる空の色も、
丹の
刷毛でたたいたように、まだらな
紅に
染まっている。
「あッ……ささささ、さア、
大へん!」
はじかれたように思いだして、
大鳥居の上を見ると、
南無三、そこに立っていた
矢はすでにぬき取られてあるではないか。
「ちぇッ、
出しぬかれたぞ、
小文治のやつに」
わくわくと自分の
腰に手をやってみる。
さいぜん、
帯へさした、
蔦之助の
矢はたしかにあった。
「ウム、
野郎め。まだあいつの足では
御岳の
試合場までは行きつきはしめえ。……なんの見ていやがれ、
早足の
燕作が一
世一
代にすッ飛んでくれるから」
足と
腰の
骨を二つ三つたたくと、
孫悟空が
急用にでかけたように、燕作のからだは鳥居のまえから見ているうちに小さくなっていった。
いや、その早いことといったらない。まるで足が地についていないようである。
またたく
間にもとの
渓流にかかってきた。
ここは
谷間のせいか、いちだんと
暮色が
濃くなって、もう
夕闇がとっぷりとこめていたから燕作は泣きだしたくなった。
「ええ、
大へん」
もしこの
遠駆けにおくれを取ったら、あの
呂宋兵衛がおれをただはおくまい。
菊池半助や
大久保長安なども、さだめしあとで
怒るだろう。いや、おこられるだけならまだいいが、勝ったら百
両といわれた
褒美もフイなら、第一、天下の
早足の名まえがすたる。
意地でも
欲でも勝たなければならない。
「ええ、
間道をゆけ、間道を」
とうとう
燕作、ここまで
試合をつづけてきて、最後にさもしい
町人根性をだした。それを
他人に知られたら、ひきょうな
立合いといわれて、
徳川家の名をけがすことになるが、いまはそんなことを
顧慮していることはできない。
ただ、なんでもかでも、早くかえり着くことにあせった燕作は、やくそくの道をふまず、
沢をひだりにまわって、八
町参道へ半分でぬけられる近道をいそぎだした。
「おう、しめた」
そこへ
抜けてでると、さきにいそいでゆく
小文治の
騎馬すがたがすぐ目のまえに見えた。
にわかに元気づいた燕作が、一
町半ばかり、
死身になって
踵をけると、こいつどこまで足が
達者に生まれた男だろう、
神馬草薙とほとんど
互角な早さで、長くのびた燕作の首と、
泡をかんだ馬の顔が、わずか一
間か二間の
差を、たがいに
抜きつ
抜かれつして、八
町ばかりの
坦道を、見るまに、二町走り三町走り、六町走り、アア、あとわずかと
試合場の
城戸まで、たッた二、三十
間――。
わッーという声の
波が、馬と人とを同時に
抱きこんだ。
燕作は、かけ
着いたというよりも、自分のからだを城戸のなかへほうりこんで、
「
遠駆け一番!」
たおれながら
腰の
矢を高くさしあげた。
それがさきか、かれが
次着か、ほとんど燕作のさけびと同時に、馬もろとも、おどりこんだ
小文治の口からも、同じように、
「一番!」
と
絶叫された。
すると、すぐに
審判の
床几にいた
鐘巻一火の口から、
「
巽小文治どの、遠駆け一番」
とあきらかな
軍配があがった。
「ちーイッ」
と口をゆがめて
歯ぎしりをしたまま、早足の燕作は、
腰を立てる
気力もなく、なにかわけのわからないことを
叫びつづけた。
小文治一番――と聞いて色めき立ったのは、かれの
朋友たちで、
「それ、このうえは、
約束のとおり一火どのから
咲耶子を申しうけよう」
と、
忍剣をはじめ
龍太郎に
蔦之助や
竹童などが、審判の床几にいる鐘巻一火のところへかけ
集まってくると、いちじ色をうしなった
徳川家のほうからも、
大久保石見守、
菊池半助、
鼻かけ
卜斎、
和田呂宋兵衛。そのほかおびただしい
人数が、ドッと流れだしてきて、
「
検証の
一火どの、
軍配がちがうぞ」
と
抗議をもちこんだ。
一火は公平なたいどで、
「なんで
拙者の検証がちがうといわれるか」
色をなして
突ッ立った。
されば石見守は一火の左の手につかんでいる
矢を
指して、
「それはだれが持ちかえった矢であるか」
「これは
小文治どの。またこちらは
燕作の持ってきた矢であるが、それがどうかしたといわれるので」
「ちがう。この
遠駆けは勝負なしじゃ」
「なぜ?」
「小文治は
蔦之助の
矢を取ってかえるべきがとうぜん、また燕作は、
伝内の
矢を持ちかえらねばならぬはずじゃ。それを
双方心得ちがいをして、かくべつべつに取りちがえてきた
以上、この
遠駆け
試合は、やりなおしか、
互角とするよりほかはありますまい」
ひきょうな
苦情である。
負けたがゆえに
理のないところへ理をつけた
難癖である。
かりにも、
武門の
塵をはいて
行われた
試合のうえに
唾棄すべききたない心がけだ。
忍剣や
龍太郎の
面上には、みるまに、青い
怒気がのぼった。
その
禅杖、その
戒刀は、いまにも
長安の
細首へ飛びかかろうとしているふうだったが、かれの
周囲にも、
菊池半助や、
呂宋兵衛が、眼をくばって
護っている。
ただ、こまったのは
鐘巻一火である。
かれは
双方の
板挟みとなって、この
場合をどう
処置していいのか、ほとんど、とうわくしてしまった。
それを
是とするか
非とするか、自分の
唇をでる、ただ一
句で、どんな
兇刃がものの
弾みで
御岳の
神前を
血の海としないかぎりもない。
「うーむ。これはどうしたものか」
両方のあいだに立って、かれがとうわくの
腕ぐみをかたくむすんだ時、
「いや、しばらく」
一
党の人々を
押しなだめて、それへでてきたのは
遠駆け
試合の
当の本人である
巽小文治。
黒々とひとくせある顔をならべた
先ぽうの者をずッと見まわして、
「――いかに
浜松城の
武士ども、たとえ、いまの遠駆けを勝敗なしとしたところで、もう
咲耶子はこっちへもらいうけたぞ。人はあざむき
得るとも神はあざむくべからず、
疑わしくば首をあつめて、とくとこれを見るがいい」
と、
例の
鳥居の
額板をかれらの目のまえにつきだした。
もう、ぜひの
議論にはおよばない。
すべては「
白鳥霊社」の額板が、
雄弁に
解決をつけていた。
それには、りっぱに、
蔦之助の
射あてた
矢あとがある。かれの
寃はそそがれた。そして、
競射に
不当な
勝点をうばっていた
徳川家は、一
敗地にまみれてしまった。
いくら、
横車を
押そうとする
徳川方の者でも、その
証拠を
小文治につきつけられては、二の
句をつぐ者もなかった。
検証役の
鐘巻一火は、
公平に、
最後の
断をくだして、蔦之助や小文治たちにいった。
「おやくそくであるから、
咲耶子のからだは、おのおのたちへお
渡しいたすことにする。いざ、こちらへきてください」
さきに立って、自分のたまり
場である
幕のほうへみちびこうとすると、いまいましげに
睨めつけていた
大久保石見守が、
「まだ
疑わしきふしがある。待て、
咲耶子を
渡すのはしばらく待て」
と、みれんらしくどなった。
蔦之助や
小文治は、ふんぜんと色をなして、
「なに、このうえにも、なにか
苦情があるというのか」
「おお、第一、あやしいのは
額板。なるほど、
白鳥霊社と
彫ってあるにはちがいないが、はたしてこの
矢あとが蔦之助の矢かどうか、それもにわかにたしかとはうけとれない。ことに、まだ
大講会第三日の
試合も
明日にのこっていることゆえ、咲耶子の身を
処決するのは、あしたにのばしてもさしつかえあるまい。そのあいだに、いま申した
疑問の
点をとうほうでもじゅうぶんに取り
調べておくから、それまで待てと申すのだ」
いかにも
無理な、
智恵のない、いいぶんだ。
一火は、取るにたらないことばと聞きながして、さっさと引きあげようとしたが、
徳川家のほうからは一
刻ましに
味方があつまって、わざとことをもつれさせるように、
石見守の
尾について、ごうごうと
苦情の
声援をあげだした。
「
不当だ」
と、一火の
肩をつく者がある。
「そっちに、やましいところがないならば、なぜ明日まで待てぬというか」
と、
雑魚のようにむらがってきて、
龍太郎や蔦之助たちの
歩行をじゃまするやからもある。
これが「
血をみるなかれ」――
刃傷禁断の
御岳の
神前でなければ、こんな
雑魚どもに、かってな
熱をふかせておくのではないが――と四人もジリジリ思ったろうし、はらはらして、そばにいた
竹童も、
歯ぎしりをかんで、ながめていた。
蛾次郎も、
卜斎のうしろから首をだしていた。
そして、一
人前に
徳川家の
肩を持って、
「なんだ、そんなばかな
法があるもンか。やれやれ、やッつけろ」
ケシかけるような
弥次をとばしたので、卜斎に、ぴしゃりとお
出額をたたかれて、だまってしまった。
なにしろ、はてしがつかないさわぎだ。
刀のぬけない
場所だけに、いたずらに声ばかり高く、
理非もめちゃくちゃにののしる声が、
一火と
龍太郎以下の者を取りまいて、身うごきもさせない。
すわ、なにかことこそはじまったぞ! とそれへ
加えて、
上杉家、
北条家、
前田家、
伊達家、そのほかの
溜り
場からも
数知れない
剣士たちがかけあつまってくる。
むろん、
鐘巻一火の
門人たちも、ただは見ていなかった。もし、
師の身にまちがいがあってはと
控え
場の
幕を
空にして、こぞって、そこへ飛んできた。
すると。
渡せ、渡さぬ、の
苦情が、そこに
人渦をまいてもめているすきに、
石見守の目くばせで、
呂宋兵衛と
菊池半助のふたりが、ぷいと、どこかへ
姿を
消したことを、だれひとり気づいた者がない。
伊賀者頭の
菊池半助、あのりすのような
挙動をして、どこへいったのかと思うと、やがてひとり、
鐘巻一火のひかえ
場のうらへきて、
鉄砲ぶッちがえの
幕のすきから、なかのようすをのぞいていた。
そとのさわぎに、
門人すべてではらって、
幕のうちには
人影もない。
ただ、
咲耶子ひとりだけが、柱にもたれて
休んでいた。
「ウム、いるな」
こううなずくと半助は、
幕をあげて、いきなりそこへ飛びこんだ。
とたんに、あッ――と
洩れた咲耶子の声が、糸を切ったように、
中途からポツンときれて、それっきり、あとはなんの音もしなかった。
竹で
網代にあんだ
駕籠である。山をとばすには
軽くってくっきょうな品物。それへ、さいぜん、
忍剣の
鉄杖で
腰骨をドンとやられた、
蚕婆が
乗っていた。
あの、こうもりのつばさのような、女
修道者の着るくろい
服をかぶって、青い顔をして乗っていた。
「
婆さん、
痛いかい?」
のぞきこんだのは
燕作である。
蚕婆は、
腰をさすって、
「ウーム、
痛い」
と、顔をしかめた。
「いまに
楽にしてやるよ、おめえだけさきに
浜松へ帰るんだ。ご
城下にかえれば、
湯もある
医者もある、なにもそんなに
心配することはねえ」
ところへ、ばたばたと足音がしてくる。
葵紋の
幕をあげて、あわただしくかけこんできたのは、
菊池半助であった。
右のこわきに、
咲耶子のからだを引っかかえていた。
不意に、
当身をうけたのであろう、
彼女は力のない四
肢をグッタリとのばしていた。
「
呂宋兵衛、呂宋兵衛」
「お」
もう一
挺の
駕籠のなかに、
和田呂宋兵衛がかくれていた。ひらりと飛びだして――。
「半助さま、ごくろうでしたな」
「む。いい
首尾だったので、なんの
苦もなくさらってきた」
「お早いのには、呂宋兵衛も
舌を
巻きましたよ。さすがは、
伊賀者頭でお
扶持をもらっているだけのお
値打ちはある」
「おだてるな。して、
支度は」
「このとおり。なん時でも」
「では、一
刻もはやいがいいぞ。おい
燕作、ちょっと手をかせ」
呂宋兵衛が身をぬいた
空駕籠のなかへ、
咲耶子のからだを
押しこんで、その、
人目につく身なりの上へ、
蚕婆と同じくろい
服をふわりとかぶせた。
「さ、これでいい」
と半助が
合図をすると、わらじをむすんでいた駕籠の者が、ばらばらと
寄って二つの駕籠をかつぎあげた。――呂宋兵衛はすぐと、
「おれと
菊池さまは、あとから見えがくれについてゆくから
燕作、てめえはなにしろ駕籠について、
御岳のうら道をグングンとかけとばし、
浜松のご
城下へいそいでゆけ」
と、手をふった。
…………
紛擾をきわめている一方では、
徳川方のそんな
奸計を、
夢にも知ろうはずがない。
どっちも
引かずに
争っていたが、
審判の
公平と、
他藩の
輿論には勝てない。で、とうとう
石見守も
我を折った。ぜひがない、
随意にするがいいと、
兜をぬいだような顔をして、
苦情の
紛争にけりをつけた。
「見たことか」
と、
小文治は小きみよく思った。
で、
鐘巻一火の
溜り
場へ、
凱歌を
奏してひきあげてきたはいいが、それほどまで
争奪の
焦点となっていた、かんじんな咲耶子その者のすがたが、いつのまにか
失われていた。
門人たちはおどろいて、
「たったいままで、ここに
手当をうけて、しずかによりかかっておられたのに」
と、
血まなこで四方をさがし歩いたが、かげも
形も見えなかった。
一火はもうしわけがないと、
龍太郎や
忍剣たちのまえに
両手をついて
謝罪した。ふかく
責めれば、
腹を切ってもわびそうな
気色なので、四人はぼうぜんと顔を見あわせたのみで、一火を
責める気にもなれない。
「
計ったのだ。
長安めの、はかりごとだ!」
と、
小文治が
唇をかみしめて
叫ぶと、
蔦之助も、
「そうだ! なんのかのと、
時刻をうつしてさわがせたのは、このすきをうかがうための
徳川方の
策だったのだ。おそらく
咲耶子の身は、きゃつらに、
奪い
去られたにそういない」
龍太郎は
黙然とうなだれていたが、
「われわれがあさはかだったのだ。かれらを
正しい
武門の人間とかんがえて、
試合や
争論に
汗をながしたのがおろかであった。これまでの力をつくしながら、咲耶子をとられたものならぜひがない、いちおう、ここを
退いて、またあとの
分別をつけるとしよう」
そういわなければ、一火の
立場があるまいとさっして、かれが他の三人に目まぜをすると、忍剣はなにもいわずに、
鉄杖をこわきにかかえて、まえの
場所へかけもどった。
その顔色をチラと見て、
龍太郎は
追いすがりながら、
「
忍剣! きさまは色をかえて、どこへゆこうとするのだ」
息ぜわしく、
袖をつかんだ。
ふりはらって、ただ一
言、
「はなせ!」
と
語気がするどい。
「いや、はなさん。おれははなさん」
「なんで、おれのすることをさまたげるのだ」
「きさまは、その引っかかえている
禅杖で、きょうの
鬱憤を
晴らそうという気だろう」
「知れたことだ。この
晴れがましい、
大講会の
広前で、かたく、
約をむすんだ
試合ながら、さまざまに
難癖をつけたあげく、その
裏をかいて、
咲耶子のすがたを
隠してしまうという
言語道断な
行いを、だまってこのまま見て引っこめるか。――龍太郎! おぬしは
退くなら、退くがいい、おれは
徳川家の
蛆虫めらを、ただ一
匹でも、この
御岳から下へおろすことはできない」
かれの
額には、
炎のような
青筋がうねっていた。かつて、忍剣の
形相が、こうまですごくさえたことを、龍太郎も見たことがないくらい。
「こらえろ! こらえてくれ、忍剣! この山の
掟を知らぬか、
兵法大講会三日の
間は、たとえどんなことがあっても
血を見るなかれという、きびしい山の
禁断を知らぬかッ」
「ええ、もうその
堪忍はしつくした。これ
以上のこらえはできない」
「だからきさまの
短慮を、
伊那丸さまも
民部どのも、へいぜいから
心配するのだ。もしものことをしでかしてみろ、きさまばかりではない。友だちのおれたちがこまる。こらえろ、こらえろ。よ!
忍剣」
「ウーム、こらえたいが、だめだッ。もうだめだッ! はなせそこを」
龍太郎を
突きのけて走りだしたかれの前には、もう、どんな力のものでも、さえぎることができそうもなかった。
石見守長安は、やぐらの者に、あわてて
貝の
音を高く
吹かせた。忘れていたが、いつか、とっぷりと日がくれていたのだ。
が、――
貝の
合図を待たずに、
群集は、あのもめごとのうちに、のこらず山をくだったらしい。
「まず、
大講会の二日も、これですんだというもの。ウーム、つかれた。これこれ
足軽、
篝火を
焚け
夜の篝火を」
こういいながら、
狩屋建の
奉行小屋へはいると、かれはすぐに
平服に
着かえて、
炉ばたへ
床几を
運ばせた。
そこへ、
菊池半助と
呂宋兵衛がチラと顔をみせた。そして、なにかささやいたが、
「ふ……そうか」
と、うなずいた
長安の
笑顔を見ると、ふたりはすぐ、
影をけした。さっきの
駕籠のあとを
追って夜道をいそいだようすである。
やがて、どッと、にぎやかな
笑いがそこらではずみだした。
奉行小屋と
棟つづきの
目付小屋でも、
詰侍のかり
屋でも
足軽の
溜りでも、また
浜松城のもののいる
幕のうちでも。
長安の
奇計が、ひそかに、耳から耳へ
伝えられて、どッと、はやしたものだろう。あっちでもこっちでも、ドカドカと
篝火をもやして、
急に、
徳川方の空気が
陽気になりだした。
が――しかし。
そう見えたのもつかの
間で、とつぜん、
奉行小屋の
柱が、すさまじい音をして折れたかと思うと、
血か、
肉か、
白木の
羽目板へまッ
赤なものが、
牡丹のように飛びちった。
「
狼藉者ッ」
という声が、そこで聞えた。
一
瞬のうちに、おそろしいこんらんの
幕があいた。
逃げる、わめく、
得物をとる。そして、
同志討ちが
随所にはじまる。
修羅だ。たちまち、あたりは
血の
瓶を
割ったようだ。
立ちふさがる
侍や
足軽を、
二振り三振り
鉄杖でたたき
伏せて、
加賀見忍剣は
夜叉のように、
奉行小屋の
奥へおどりこんでいった。
生はんかな
得物をとって、それを食い
止めようとする
業は、かえって、かれの
鉄杖に、
勢いを
加えるようなものだった。そして、そのまえに立ったものは、みんな
血ヘドを
吐くか、手足の
骨をくじいて、まんぞくに
逃げきることはできなかった。
「なに、なに? なにが起ったのだ」
石見守は、はじめ、その物音を
足軽部屋のいさかいかなにかと
心得たものらしかったが、そこへ、
「忍剣がッ。忍剣があばれこんできたッ」
血に
染まった
武士たちが、なだれを打ってころげこんできたので、そばにいた四、五人の
家臣と一しょに、
「さては」
と、にわかに
度をうしなってしまった。
だが、かれとしては、
張らざるを
得ない
虚勢をはって、
「ええ、
多寡の知れた
乞食坊主のひとりぐらいに、この
狼狽はなにごとだ、取りかこんで、からめ
捕ってしまえッ」
と、
叱咤した。
しかし――そのことばと一しょに、目のまえの
炉のなかへ、ひとりの
試合役人が
逆とんぼを打って
灰神楽をあげたのを見ると、かれはけつまずきそうになって、
狩屋建の小屋の
裏へ
逃げだしていた。
「待てッ、
長安」
放たれた
豹のごとく、その
姿を目がけて、
忍剣の
跳躯がパッとうしろを
追う。
「あッ」
と、かれがひきょうな声をうわずらしたせつな、狩屋建の
板戸や
廂が
木ッぱになって、メキメキと飛びちった。
「ウーム、
徳川家の
衆、
浜松の衆、
出合えッ、出合えッ、
狼藉者だ、狼藉だ」
見栄もなく、むちゅうでさけびながら、
幕のすそをくぐッて
浜松城の
剣士たちがいる
溜り
場へ四つンばいに
逃げこんだ。
朱槍、
黒槍、
樫みがきの槍、とたんに、
幕をはらって忍剣をつつんだ。
「
売僧ッ、
御岳三日の
掟を知らぬか」
「だまれ、
武門の
誓約さえふみにじる
非武士どもに、御岳の
神約を口にする
資格はない」
言下に
鉄杖を見まっていった。
霜とならべて、つきかかる
槍も、
乱離となって折れとんだ。
葵紋の
幔幕へ、
霧のような、
血汐を
吹ッかけて、見るまに、いくつかの
死骸が
虚空をつかむ。
いかれる
獅子のまえにはなにものの
阻害もない。忍剣はいま、さながら
羅刹だ、
夜叉だ、
奸譎な
非武士の
卑劣を
忿怒する
天魔神のすがただ。
ふだんは、
無口のほうで、
伊那丸にたいしては
柔順であり、友情にもろい男であり、
小事にこだわらず、その、
鉄杖に
殺風を
呼ぶことも
滅多にしない男であるが、いったん、そのまなじりを
紅に
裂いたときには、百
槍千
甲の
敵も
食いとめることができないし、かれの友だちでも、手がつけられない
忍剣だった。
その忍剣が、
堪忍をやぶって、鉄杖と
鉄腕のつづくかぎり、あばれまわるのであるから、ほッたて小屋どうような
狩屋建は片っぱしからぶちこわされ、
召捕ろうとする、
新手も新手も、
猛猪に
蹴ちらされる
木の
葉のように四
離し、
散滅して、
手負いの
数をふやすばかり。
このさわぎとともに、
徳川家以外の
溜り
場のものは、かれらの
横暴をひそかに
不快に思っていたので、みな見て見ぬふりして山をおりてしまった。
で、手にあました
浜松城の
武士や、
石見守から
訴えたものであろう、
御岳神社の
衛士たちが数十人、ご
神縄と
称する
注連縄を手にもって、
「ひかえろ! ひかえろ! ひかえろ!」
と
叫びながら、
松明をふって、
石段の上からさっとうした。
これを、
神縛の
討手という。
神のお
縄をあずかって、
神庭の
狼藉者を
捕縛する使いである。
理非はともあれ、
御岳の
掟「
血を見るなかれ」の
誓いをやぶった忍剣にたいして、とうぜん、そのご
神縄がくだったのである。
「ああ、しまった!」
龍太郎をはじめ、
蔦之助や
小文治や、そして
竹童たちは、
忍剣が
堪忍をやぶって力にうったえたのをむりとは思わないが、こまったことになったと、
嘆声をあげていた。
すでに、かれが
忍従の
鎖をきって走った
以上、それを
止めることもできないし、かれに
加勢することもできない。
拱手して
傍観する? それも、友情としてしのびないではないか。
「どうしたものだろう」
龍太郎は、自分の
難儀よりもとうわくした。
だが――その人たちよりも、もっと
驚いたのは、
群集の
去ったあとで、
矢来のそとにあんじてながめていた、
小幡民部である、
武田伊那丸である。
アア、ついに大事をひきおこした――。
ふたりの
面には、うれいがみちていた。
もし、こういうことでもあってはと、一
党の者が
矢来のうちへ足を
踏みいれることをかたくいましめていたのに――といまさらの
悔いも
追いつかない。
「民部、民部」
ものにさわがない
伊那丸が、とつぜん、
矢来をやぶって、かけだしながら、
「はやくこい、
捨ててはおけまいぞ」
と、
龍太郎たちのとうわくしているそばへきた。
「オオ、
若君」
「
忍剣の身の一大事じゃ」
「われわれのふつつか、おわびの
申しあげようもございませぬ」
「そんなことは、いまさら、申すにはおよばない。なにせい、忍剣の身を」
「は、はい。……しかし、
若さままでが、ここに
姿をおだしになっては、どんな
禍いがふりかかるかも知れませぬから、どうか、
民部どのは
若君のお
供をして、ここを、お
立退きくださいまし、あとの
儀は、われわれたちで、どうなりと
処置してまいります」
一同が、おそるおそるいうことばへ、伊那丸は、強くかぶりをふって、
「かれの
安危がわからぬうちに、自分ばかり
退くことはできない。オオ!」
伊那丸が、オオといった声につれて、かなたに、ワーッという
鬨の声がどよめいた。ふりかえると、その時だった。
殺到した、
御岳の
衛士数十人が、手に手に、ご
神縄と
松明をもち、
「しずまれ! しずまれ!」
「
神使であるぞ。ご
神縛の使いであるぞ」
「ひかえろッ」
「しずまれ!」
と
叫びながら、
血まみれの
人渦のなかへ、まっ白な
列を
雪のように
散らかしていった。
「あッ、あれは? ――」
「
御岳のご
神縛です――ご神縛がくだったのです」
「ぜひがないこととなった。したが、
忍剣を
他人手に
召し
捕られるのは、なんともざんねん。かれとしても
本意であるまい。
民部、民部」
「はッ」
「わしに
代って、おまえが
御神縄をうけて忍剣を、
捕りおさえてこい」
泣いて
馬謖をきる
伊那丸の心とよめたので、
「はッ、かしこまりました」
と、
小幡民部は、
涙をふるッて、かけだした。
そして、
群鷺のごとくそこへ
襲せていた
衛士たちを
割ッていって、
「あいや、
御岳の
舎人たちに申しあげる。
狼藉者は手まえの友人ゆえ、この
方にて取りおさえますから、しばらくの間、そのご神縄を
拝借いたします」
と
叫んで、ひとりの
衛士の
縄をかりて
修羅王のように
暴れている
加賀見忍剣の前へつかつかと
寄っていった。
常には、一
飯一
衣を分けあって起き
伏しする友であるが、いまは、御岳の神縄をかりて捕りおさえにきた小幡民部。
その
縄を右手につかんで、
「
忍剣」
としずかに
呼びかけた。
忍剣は、ハッとしたようすで、
「おう、
民部どのか」
と、
炎のような
息をついた。
「
伊那丸君のおいいつけを受けて、
若君の
代りとしてまいった
小幡民部だ。神の
掟をやぶった
科者、すみやかにご
神縛につけいッ」
言下に、ガランと地を
掘って、かれの足もとへ
血みどろの
鉄杖が投げだされた。
そして忍剣は、すなおに、うしろへ手をまわして、
「民部どの、ご
心配をかけました。いざ……」
と、大地へ
坐りこんだ。
注連のついた
荒縄がギリギリとかれの
腕へまわされた。民部はこのあいだに、なにか、いってやりたかったけれど、
胸がいっぱいで、かれにあたえることばを知らなかった。
忍剣のからだは縄つきのまま、民部の手から、
御岳の
神官にわたされた。
それを見ると、
逃げまわっていた
徳川家の者たちが、また
蠅のように
集まって
神官を取りまき、忍剣をわたせ、
殺傷の
罪人を徳川へわたせと
喧騒した。
神官は、だんじて、それをこばんで、
「
科人はご
神刑にかけます。ご
領地のできごとなら知らぬこと、ご
神縛の科人は
当山のならいによって
罰します」
そして、一同に
退去を
命じた。
血をながした
以上、
大講会の
中止はやむをえないことだが、徳川家の
武士や
石見守の
家来たちは、まだ
騒然とむれて、そこを
去らなかった。
神官はまた、
法によって、
伊那丸や民部や、
龍太郎やすべて、忍剣と道づれである者を六人とも、
垢離堂に
拉して、
謹慎すべきように
命じた。これも、
掟とあればいなむことができない。――およそ、戦国の
世には、神ほど
尊敬されたものはなく、神の力、神の法ほど、うごかすことのできないものと、
信じられたものはなかった。どんな
合戦も、一
枚の、
熊野権現の
誓紙で、
矛を
収めることができた。神をなかだちにして
誓えば、
大坂城の
濠さえうずめた。
町人ですら、
神文血判は、
命以上のものだった。
まして、
武門の人は、ぜったいに、神に
服し、
敬神を心としていた。
連累のものとして、伊那丸たちが、垢離堂に
監禁されたのを見ると、さすが、がやがやさわいでいた徳川家の
侍たちも、いくぶんか気がすんだと見えて、
死骸をかたづけ、
血汐に
砂をまき、
大講会につかった
屋舎をこわして、夜の明けがたに、ひとり、のこらず、
御岳の山からおりてしまった。
不首尾ながら、
翌日は、
大久保長安はふもとの町から
甲府へかえる
行列を
仕立てた。
ところが、そのとちゅうで――。
なにか、長安から
耳打ちをされた
鼻かけ卜斎が、ある
宿場で
行列がやすんだ時、
「お、ちょいとこっちへきな」
と、
蛾次郎をものかげへ
手招きした。
いつになく、たいそうやさしく手招きされたので、蛾次郎はすぐうれしくなってしまった。
「なんですか、
親方」
「まあ、こッちへおいで」
「もっと
歩くんですか」
「ウム、
殿さまの
駕籠がご
休息になっているうちに、なにか
食べたいものでも
食わせてやろうと思ってさ」
「へ、へ、へ、へ、すみませんね、親方」
「なにがいいな?」
「どんなうまいものがあるか、ずッと、この
宿場を見てあるきましょうか」
「そんなに
手間をとっちゃいられないよ。おれは、
石見守さまの駕籠がたつと、一しょに、
甲府の
躑躅ヶ
崎へ帰らなけりゃならない」
「じゃ、あそこにしましょう。あそこの
家の……」
と、
指さした。
餅や
団子や
強飯がならんでいる。
そこへはいって、
奥のひくい
板の
間へ
腰かけた。
「いくらでもおあがりよ。
腹の虫が
承知するほど」
ことわるまでもないこと、むろん、
蛾次郎もその気でパクついている。
ほどのいいところを見はからって、
卜斎が、
「時にな、蛾次公」
と、声をひそめた。
蛾次郎はグビリと
頬張っていた
あんころをのみくだして、
「へ?」
と、ほかにも
用があるのかというような顔をした。
「おまえはたしか、
石投げの名人だったな。ほかのことにかけては、ドジでも、つぶてを打たすと、すばらしく
上手だった」
「親方あ――」と、蛾次郎は、卜斎の顔をゆびさして
笑いながら、
「いまごろになって、あんなことをいってら。
裾野にいたじぶん
釜無川の下で、毎日おいらが
捕ってきて
親方に
食べさせた、あの
鮠だの
岩魚だのは、みんな、石でピューッとやって捕ったんですぜ。ねエ、親方、
河原の小石をこう持つでしょう、こう
指のあいだにはさんでネ、魚のやつが、白い
腹をチラリと見せたところをねらって、スポーンと
食らわしてやるんです。どんな
速い
魚だって
蛾次さんの石からそれたことはありませんよ。こんど親方にもその
秘伝を教えてやろうか。ところが、どうして、その石の持ち方が、あれでもなかなかむずかしいんでね、だから、だれだかいいましたよ、蛾次は石投げの
天才だってね」
「もういい、もういい」
と、
卜斎は手をふって、
「わかったよ、わかったよ。まったくおまえは石投げの天才だ」
「はい、天才だそうでございます」
「だからたぶん、
飛道具を持たせたら、きっと
巧者だろうと思うんだが……」
「なんにかけたって、
下手なものはありませんよ。ところで親方、塩ッぱいほうのお
団子を、もう
一皿もらってようございますか」
「ああいいよ。たくさんお
食べ。……じゃおまえ、こういうものを使えるかい」
「へ、なにをで」
「これさ……」
と
卜斎が、
羽織の
裏から
種子島の
短銃をだした。
「
親方、
鉄砲でしょう、それは」
「ウン、スペインわたりの
短筒だ。どうだ欲しくないか」
「だって、くれやしないでしょう」
「おまえにやらないこともないさ。まだこのほかに、
殿さまからくだされものもたくさんある」
「わたしにですか」
と、
蛾次郎は目をパチパチさせて、
急に
膝ッこの前をあわせた。
「おまえもはや十六
歳、たしか、そうだろう。もうここ二、三年で
元服をしてさ、一
人前の
鍛冶なり、一人前の
侍なりになる心がけをしなくってはいけない。それには、なにかいい
機会をつかまえて、その
機をのがさず手がらをあらわすことがかんじんだ」
「はい、あらわします」
「それも、うわの空ではだめだ、目がけたことに向かったら、
命をすててかかる気ごみでなければだめだよ」
「だって
親方、やる仕事がないんだもの」
「あるさ、おれはおまえを見こんで、その
大功をあらわす仕事をひきうけてきたんだ。おまえというものを、
石見守さまにみとめさせようと思ってな。どうだ、どうだ蛾次、
奮発して一つやってみるか。だけれど、イヤならむりとはいわないよ、ほかに、
望み手はたくさんあるし、それに、この
鉄砲で、ドンと一
発やればそれでいい仕事なんだから……」
なにをいいふくめられたか、
蛾次郎は、
卜斎から、
銀鋲[#ルビの「ぎんびょう」は底本では「ぎんぴょう」]のスペイン
短銃と一
両ほどの
金子をもらって、すっかり仕事をのみこんでしまった。
「いいか、いまもいったとおり、
石見守さまのおいいつけなのだ。
大久保家の
侍衆では、もし、見つかった時にぐあいがわるい。で、おまえなら、なあに、どこの
小僧がいたずらをしたかですむ。それに、二十一日のあいだにやりさえすればいいんだから、
立派に一つうち
止めてこい。もし、なまけぐせをだしおって、やり
損じなどした時には、それこそ、この卜斎より石見守さまがその
細首をつけてはおくまいぞ」
すこしあとの
文句がすごいな――と蛾次郎は思ったが、卜斎はそういいのこすと、かれをおきのこしてそこをかけだし、石見守の
行列へついていった。
「なんだ、ぞうさはねえや」
蛾次郎は、短銃をふところへしまいこんだ。なかで、なにかカチャリといったので、さぐってみると
肌身はなさない
秘蔵の
水独楽だ。
「じゃまだな」
と、また短銃をだして、
手拭にクルクルとくるんだ。そいつを、ボロ
鞘の刀と一しょに
腰へさして、
大小を
差したように
気取りながら、
「オイ、
亭主さん、おつりをくんな」
と、もらったばかりの
銀銭を
餅屋の
台へほうりだした。
そのつり
銭を
巾着にいれて、そとへ飛びだそうとすると
出合いがしらに、カアーンという
鉦の
音が
不意に鳴ったので、
「あ。びッくりした」
と、よこを見た。
七、八
軒さきの
横町から、
地蔵行者の
菊村宮内が、れいの
地蔵尊の
笈摺を
背負って、こっちへ向かってくるのが見える。
「こいつはいけねえや、
竹生島のおやじに
会うと、またなにか、小やかましいお
説教を聞かされるにちがいない」
こうつぶやいて、かれが、横を向きながら、ぷいと向こうへそれようとすると、おなじ
宿場の
軒をながしていた
坂東巡礼の三十七、八ぐらいな女――わが子をたずねて坂東めぐりをして
歩くお
時という
女房が、
「あッ。あの子! あの子!」
と、目をすえて、よってきた。
いつか、月ノ宮の
鳥居の下で見たこともあるが、
蛾次郎は、ただの
物貰いとしか思わないので、いまの餅屋のおつりのうちから
鐚銭を一枚なげて、
「ほれ、やるよ」
と、あとも見ずに、あなたの
小道へ、すたこらとかけだしてしまった。
いつのまにか、
竹童のすがたが見えなくなった。
伊那丸以下のひとびとは、あのそうどうのあった
晩から、
御岳の一
舎に
謹慎して、
神前をけがした
罪を
謝すために、かわるがわる
垢離堂の前で
水垢離をとった。
それまでのあいだに、竹童の
姿が
洩れている。
「どこへいったろう? もしや、
徳川家の者に、
捕らわれていったのではないか」
一同が、ひそかに
心配していると、
翌朝のこと、垢離堂の
石井戸のそばに、竹にはさんだ
紙片が立っていた。
マタ鷲ヲサガシニマイリマス。クロハワタシヲコイシガッテイマス。ワタシモクロガコイシクテナリマセン。
民部サマカラ若君ヘ申シアゲテクダサイマシ。ワガママナコトデス。
置手紙には、竹童の
文字で、こう書いてあった。
「かれのことだ。それならあんじることはない」
むしろ、一
党の人は、それで
愁眉をひらいていた。しかし、愁眉のひらかれぬ気がかりは、ご
神罰に
刑せられている
忍剣の身の上――。
轟々と空に風の鳴る夜、シトシトと
肌さむい
小雨が
杉山に
降りてくる朝、だれもがきっとかれの身を考えた。
「ああ、どうしているだろう、
忍剣は」――と。
だが、いくらどうあんじたところで、ここ二十一日間は、そのようすを見ることもできない。また、かれをすくう
方法もぜったいにない。
忍剣はいま、
神刑に
梟けられているのだ。
二十一日間のおそろしい神刑。
そこは、
御岳の
神殿から、まだ二
里半もある
深山の
絶顛に近いところ。
山は
冠ヶ
岳とよぶ。
急峻で、
大樹と
岩層が、
天工の
奇をきわめているから、
岳中自然と
瀑布や
渓流がおおい。あるところは、右にも
滝、左にも滝、そして、渓流の
瀞に
朽ちたおれている
腐木の上を、
貂や、むささびや、りすなどが、
山葡萄をあらそっているのを
昼でも見る。
御岳の
神領であるから、
斧をいれる
杣もなかった。そこに、ご神刑の千
年山毛欅とよぶ
大木があった。
おそろしく太い山毛欅だ。
幾抱えあるかわからないような
老木だ。まるで、
青羅紗の
服でもきているように、一面に
厚ぼったい
苔がついていた。
どこまで高いかとあおむいてみると、四方の
樹林をつきぬいて、
奇怪な
枝をはっている。白い
霧がきたときは、その木の
半分以上は、まさに
雲表に立っている。
「
血をみるなかれ」の
誓文をやぶった
科で、
加賀見忍剣はその
神刑の
山毛欅の高い上にしばられていた。
足はわずかに木のこぶにささえ、からだは
注連縄で
巻かれたまま、
礫のように木の
幹へしばりつけられた。目はもちろん、白い
布で、かくされていてかえってよいかも知れなかった。十
数丈の
樹上から目をひらけば、
甲斐、
秩父、
上毛の
平野、
関八
州、雲の上から見る気がして、目がくらむかもわからない。
が、忍剣である。
快川和尚の三十
棒で
鍛えあげられたかれである。目をひらけば、
絶景! と
叫ぶだろう。それくらいな
胆気はある、きっと、それくらいな
胆はすわっている。
しかし、いくら
大胆な忍剣でも、この
深岳の
霧にふかれて、二十一日間も飲まず
食わずで、そのままそうしておられるであろうか。心は
禅に
入って、
耐えるとしても、人間の
肉体がもつだろうか。
大雨がふる日もある。
暴風が
幹をゆすぶる
晩もある。
雷鳴や
雷気が山を
裂くような
場合もあるにちがいない。
ことに
寒い! まだ
麓のもみじは
浅いが、このへんの
冷気は、身にしみるほどではないか。
また、その山毛欅が枝をはっている下をのぞくと、気のちぢむような
断崖だ。
幅はせまいが、
嵐弦の
滝とよぶ百
尺ほどの水がドウッと
落下している。もし、二十一日の間に、
風雨にあって、
山毛欅の枝がおれたらどうだろう。かれのからだをささえている
縄がすり切れたらどうなるだろう。
そうだ、すべてのことが、
忍剣の
生命を、
髪の毛一すじで持たしてあるのだ。それが
神刑なのだ。
まんがいち、二十一日目に
神官がきてみて、
細い
息でもかよっていれば、神に
謝罪がかなったものとして、
罪をゆるされて
手当をする、しかしここ四、五十年のあいだに、ご
神木の山毛欅に
梟けられたもので、助かった者はないということだ。
――すると、三日、四日、五日とすぎて、ちょうど八日目のこと。
千
年山毛欅の
枝から枝を、ひらり、ひらり、ひらり、とよじのぼっていったものがある。
見るまに、十
数丈のたかい
樹上にのぼった。そして、忍剣のそばの枝に取ッついた。
おかしいことには、なにか、忍剣の耳へはなしかけているふうに見える。だが、それは一
匹の
猿なのである。猿が話しかけるのはすこしへんだ。忍剣には、あの
三太郎猿にも
知己がないはずであった。
目隠しをされているので、忍剣はそばへきた者を見ることができない。
それをからかいにきた
山猿か? 山猿のいたずらか? いやそうでもない、やはり、
猿が
忍剣にささやくのであった。
「忍剣さま、さだめし、おひもじいことでしょう。早くこようと思いましたが、この山には道がありません。一つの
小道には
神官の
見張小屋が
建っています、それでおそくなりました。なにしろ二十一日間、ものを
食べないでは夜の
寒気や雨の日に
耐えきれません。さ、これを食べてください、よくかんでのんでください、あとで水を持ってまいりますから」
忍剣の口へ、ふしぎな
味のするものを入れた――木の
実でもない、
穀物でもない、
菓子でもない、
餅でもない。
しかし、その
味のいいことは、なんともいえないほどだ。忍剣は、まだかつて、こんな味のいいものを
食べたことがなかった。
「おまえはだれだ」
「いまにわかります」
「でも」
「
不安なものではありませんから」
「いまのはなんだ」
「なんということもありません。この山に
生えている、
葡萄、
苔桃、
若老、しゃくなげの
芽、それに
栗だの
柿だの、
仙人草の
根だの、いろんなものをすこしの
焼米と
搗き
交ぜたのでございます。一日に、これ一つ
食べれば、
体も、あたたかく、けっして、
飢えるようなことはありません」
「
危険をおかして、どうしておまえは、そんなものをわしに
運んでくれるのか」
こうきいた時には、もう下へ
降りていた。
忍剣には、それが見えない。
翌日、
小雨が
降った。
なにか
木の
葉でつくった
蓑のようなものが、彼のからだに
着せられた。その時から、忍剣がなにをきいても、
猿は
返辞をしなかった。
そして、おなじ
味の
食物が、毎朝、
一片ずつ木の上へはこばれてゆくこともかわらなかった。
昨日も今日も、山は天気つづきである。
空の青さといッたらない。
樹林の
梢をすいて見える
清澄な秋の空の青さ――
うつくしい
朝陽の
光線が、ほそい梢から、木の
根の
苔から、
滝壺の
底の水の底まで少しずつゆきわたっている。
鵯、
文鳥、
駒鳥、
遊仙鳥、そんな
小禽が、
紅葉を
蹴ちらして歌いあった。朝きげんのいい
栗鼠、はしゃぎ者の
むささび、雨ぎらいの
貂、などが
尻ッ
尾を
振りながら
餌をあさりに出だした。そこらに
山葡萄は
腐るほどなっている。
栗の
実はいたるところに
割れている。プーンと
醗酵している
花梨の
実、
熟れた
柿は岩のあいだに落ちて、あまい
酒になっている。鳥も
吸え、
栗鼠ものめ、
蜂もはこべと――。
今朝のここは
楽園だ。
神木の上に
梟けられている忍剣をのぞいては、すべての
生物に、天国そのままな秋の朝だ。
ところへ――。
無心な
禽獣をおどろかす人間の
口笛が、下のほうからきこえてきた。
これも、ほがらかな秋を
謳歌する人間か、きいていても
筋肉がピクピクしてきそうな口笛だ。
健康な
両足で、
軽快な
歩調で、やってくるのがわかるような口笛だ。
「ああ、ずいぶん
登らせやがるな。まだかい! ご
神刑の
山毛欅ッていうのは」
だれもいないと思って、思うさま
太ッかい声でひとりごとをいった。――それは、泣き虫の
蛾次郎だった。
喉がかわいているとみえて、蛾次郎はそこで
一息つくと、
岩層のあいだから
滴々と落ちている
清水へ顔をさかさまにして、口をあいた。
「オオ、つめたい!」
袖で口を横にふいて、また数十
歩のぼりだした。
すると、かれのまえに、
裾野の
樹海でも見たこともないような、山毛欅の
喬木が天を
魔して立っていた。蛾次郎はそう思った。まるでばけものみたいな大きな木だなアと。
「おや?」
見ると、その千
年山毛欅の
根ッこに、
石橋山で
頼朝が身をかくしたような
洞穴がある。そのまッ
暗な洞穴のなかで、なにか、コトリと音がした。コトコトとかすかにきこえたものがあった。
「
啄木鳥かしら? それとも、
狐かな?」
足をすくめて考えた。が――音はそれっきり
止んでしまった。
しかし、そこでなにげなく、ヒョイと
樹上を見あげたせつなに、かれは目の玉をグルグルとさせて、
「ウーム、これだ、これだ! この
樹にちげエねえ」
と、うなってしまった。
数歩、うしろへとびのいて、
帯のあいだに
差しこんできた
銀鋲の
短銃を
右手につかんだ。
「はアん……おるわエ」
手をかざして樹上をあおぐと、たしかに、
神刑にかかっている
忍剣のすがたが小さく目にとまった。
そこで
蛾次郎は、
大久保長安から
卜斎につたえられた
秘命を思いだして、うなずいた。
「
親方がいったのはこいつだな、これを
撃ちとめてこいといういいつけか。なアんだ、こんなものなら
朝飯まえにただ一
発だ。それで、おいらの
出世となりゃ、ありがた山のほととぎすさ」
火縄の
支度をしはじめた。
「できたぞ」
岩のかげへ身をくっして
片足をおって、
短銃の
筒先をキッとかまえた。
じッと、ねらいをつける……
忍剣のすがたへ。
忍剣は身の
危険を知るよしもなかった。おそらくかれは、
故快川和尚の
最期のことば――
心頭を
滅却すれば火もまた
涼し――の
禅機をあじわって、二十一日の
刑をけっして長いとも思っておるまい。
ねらいは定まッた。
火縄の火がチリチリと散ったせつなに、
蛾次郎の
指さきは、すでに、
短銃の
引金を引こうとした。
とたんだった。
「わッ」
と、蛾次は
短銃をおッぽりだして、自分の顔をおさえてしまった。そして、ベッ……と顔をしかめながら
突ッ立った。
なにやら、
甘酸ッぱいものが、かれの顔じゅうにコビリついて、ふいてもふいてもしまつがつかない。
――どこから飛んできたものだろうか、
熟柿のすえたのが、顔の
真ン中で、グシャッとつぶれた。
柿の目つぶし!
「ちくしょう、
猿のいたずらだな」
と
蛾次郎は、いまいましく思ったが、まごまごしていると
火縄の火がきえる。
かれは、またあわてて
短銃を取りなおした。
そして、
「こんどこそは!」
と、立ちがまえにねらいをすまして、ズドンと火ぶたを切ってはなそうとしたが、その一せつな、
山毛欅の
洞穴から
跳びだしたひとりの
怪人が、
電火のごときすばやさで、かれの
胸板を
敢然とついてきた。
不意をくッて、
「あッ――」
と、よろめいた蛾次は、むちゅうで、相手のえりがみをつかむ。
かれの手がつかんだのは、やわらかい
獣の毛だった。怪人は
猿の
毛皮をかぶっていた。
「てめえだな、いまのしわざはッ」
かれは、短銃を
逆手にして、三つ四つ、毛皮の上からなぐりつけた。
相手はビクとも感じない。グングンと自分の
喉をしめつけてきた。蛾次は
内心、こいつは強いぞとおどろいた。
「この
野郎、うっかりしちゃあいられるもンか」
猛然と
勇を
鼓して、じゃまになる
喉の
腕をふりほどいた。
ピシャリと、
敵の
平手が、すぐに
蛾次郎の
頬ペタを
張りつけたが、蛾次もまた、足をあげてさきの
脛を
蹴とばした。
精いッぱいな
弾力を
交換して、ふたりはうしろへよろけあった。
そのはずみに、相手のかぶっていた
獣の
皮が、
勢いよく、蛾次郎の手に引きはがれたので、
「あッ、てめえかッ」
と、かれははじめて、相手の
全姿をみてぎょうてんした。
「やッ。てめえは、
竹童だな」
と、蛾次郎はひるみをもった声でさけんだ。
かれが、こうぎょうてんしたせつなに、
猿の
毛皮であたまから身をかくしていた
鞍馬の竹童は、
「オオ」
と、その
全姿をあらわすとともに、とびついて、
蛾次郎の手にある
短銃をもぎとろうとした。
いったん、よろけ合った二つのからだは、
闘鶏師にケシかけられた
猛禽のように、また、
肩と肩を
咬みあって、
組んずほぐれつの
争いをおこした。
この
間うちから、千
年山毛欅の
洞穴の中にかくれて、毎朝、
喬木の上によじあがり
神刑にかけられている
忍剣の口へ、
食餌をはこんでいた
猿と見えたのは、まったく、
竹童なのであった。一
党のうちでも
長兄のようにしたっている忍剣が、むごい
神縄にかけられて山へ送りやられた時から、この洞穴にしのびこんでいた。
そうして、忍剣と
苦をともにしながら、忍剣のいのちを
守っていたかれである。なんで、
敵方の
旨をふくんで忍剣を
殺そうとしてきた蛾次郎に、むざと
奇功をあげさせるものではない。――ぼつぜんと
怒りを
発した竹童はあい手が、
樹上の忍剣へ、
狙撃の
引金をひこうとするすきへむかって、かんぜんとおどりかかってきたのである。
しかもそれが、蛾次郎であるとわかったので、かれはもうきょうこそこの
天邪鬼を、だんじて、生かしておくことではないぞと
怒った。蛾次郎もまた、だいじな
出世のいとぐちをつかもうとする
矢さきへ、またぞろ竹童がじゃまをしにでたので、
目的をはたすまえに、かれの
息のねをとめてしまわなければならぬと、すごい
勢いで
応酬していった。
まったく人まぜをせぬ
格闘がつづいた。
上になり下にころげして、たがいに
致命的な
急所をおさえつけようとしているうちに、
蛾次郎は竹童のからだへ
足業をかけて、その
手もとをぬけるや
否、パッとかけはなれて、
「くるかッ」
と、
短銃の
筒さきを竹童にむけた。
「なにを」
竹童の目にはなにもののおそれもなかった。
蛾次郎はあわてた。かれの
狡獪なそら
脅しは
効果がなかった。
火縄はいまの
格闘でふみけされてしまったので、
筒口をむけてもにわかの役には立たないのである。
で、蛾次郎の
立場は悪くなった。
彼はひどくろうばいして、いきなり短銃を相手の
顔へ投げつけ、ばらばらと
逃げだした。
それを
肩のそとにこさして、一
躍すると、竹童の手には、
優越をしめす
般若丸のひらめきが持たれている。
彼は、逃げだした相手をおいかけて、
「ひきょうだぞ。――ひきょうだぞ、蛾次郎」
と、
叫んでとぶ。
さんざん逃げまわった蛾次郎は、ついに、とんでもない
危地に自分からかけこんでしまった。そこは、
嵐弦の
滝の
崖ッぷちで、あきらかなゆきどまりである。
彼は、目がくらんでしまった。
ただそこに大きな
楢の木があって、
断崖の空間にのぞんで
屈曲していた。バリバリというと
蛾次郎は、
幹をはってその
横枝へうつっていた。
しかし、そこもホッとする
安全地帯にはならない。すぐ
血眼になった
竹童が、おなじ
幹をよじのぼって、
般若丸の刀で楢の小枝をはらいながら、ジリジリとせまってきた。
追いつめられた
手長猿のように、蛾次郎のほうは、だんだん
危険な枝へはいうつって、いくら竹童でも、もうここまではこられまいと安心していたが、ふいに、竹童の
体重がおなじ枝へのしかかったとたんに――
生木の
股に
虫蝕折れでもしかけていたのだろうか、ボキッと、あまりにもろい音がした。
かなり大きな枝であった。それが、ふたりの
体とともに、ザーッとふかい
樹間の
空をおちていった。あッというまさえなく、すべては一しゅんのまに、思いきッた
解決をとげた。
やがて、
嵐弦の
滝の
深湍に、白い水のおどりあがったのが見えた。そして、しばらくは
消えぬ
泡沫の上へ、
落葉樹の黄色い葉や楢の
実がバラバラと
降ってやまなかった。
山はまたもとの
静寂にかえって、
坩堝をでたような
陽が、
樹林の上の秋の
自然をかがやき
照らした。
ほどなくまた――そこへふたりの
旅人が
仲よく話しながらのぼってきた。ひとりは
年配な女で、
坂東三十三ヵ
所を
巡礼して
歩くものらしく、ひとりは
天蓋のついた
笈を
背負っている。
「山の道というものは、まようたらさいげんがない。もうこうなっては急がないことだ、そのうちにはだれか
山家のものにゆきあうであろう。……だが、お
時さん、女の足ではさだめしおつかれなすッたろうな」
「いいえ、すこしも」
「
急いてはいけませんよ。
息を
平調にもっておあるきなさいよ。道にまよった時はなおのこと、山は気を落ちつけて歩くにかぎります」
地蔵行者の
菊村宮内と、坂東巡礼のお時とであった。ほんの
旅先の道づれであるが、ふたりの仲のよいことは、おなじ家にすむ
家族といえどもない美しさだった。
お時は宮内の身のまわりのこまかい
世話を見、宮内はつねにお時の心ぼそい旅をはげまして、どうかしてこの
女房のたずねている、まことの子供をさがしあててやりたいと
祈っている。
あらためていうまでもなく、ここは
御岳のお
止山で、
足踏みのならないところだのに、ふたりはその
禁制を気づかずに、どこの
山境から
迷いこんできたのであろう。
と、宮内は
腰をかがめて、なにかふしんそうな顔をしながらひろいとった。
「こんなところに、
南蛮わたりの
短銃がおちている……」
「
宮内さま、まだこのへんに、
草履だの、紙だのいろいろなものが落ちておりますよ」
「なるほど」
「だれの
持物なんだろう?」
お時は、草履の小さいのが気にかかった。
「どれ、どれ」
宮内はそこに
笈をおろして、
踏み
散らしてある
落葉のあとをたどっていった。そして、
例の
楢の
木の
断崖から深いところの水面をのぞいてみて、
「オオ、お時さん、大へんだ、大へんだ、だれか
山家の子らしい者が水に
浮いている」
「えッ、子供が」
こういう
場合にかぎらず、子供ときくと、すぐ顔色を
変えるのがお時のくせになっていた。
「あのようすでは、まだ水へはまってから、いくらも時がたっていない。わしは、ここから
藤づるにすがって、ふたりの子を助けてくるから、お時さんは、わしが帰るまで、この楢の木のそばをはなれてはなりませんぞ」
どうして、この
絶壁を
下りるかと見ていると、宮内は、さすがに
根が
武士だけに、いざとなると、おそろしいほど
胆気がすわっている。かれは、
あけびや藤の
蔓をたぐって、またたくまにすべり
降りた。
とちゅうまでさがってゆくと、なにか足がかりがあったのであろう、かれの
姿は、
忽然と、
木の葉のなかにかくれた。――と思うとまた、
滝の
水沫がたちこめている
岩層の
淵にそって、水面を
注意しながらかける
宮内の小さい
影が見いだされた。
どこか
上品で、ものごしのしずかな
旅の
侍が、
森閑としている
御岳の
社家の
玄関にたって、
取次ぎを
介してこう申し
入れた。
「
当社の
神主、
長谷川右近どのにお目にかかりたく
参じました。――じぶんは、
京都菊亭公の
雑掌、
園部一学というものです」
わかい
神官たちを相手に、
奥で
笙をふいていた長谷川右近は、
「はてな、
菊亭右大臣家から、なんのお使いであろう」
ふしんに思ったが、
倉皇と
客間へとおした。そこで、
会ってみた一学という人は、なるほど、
温雅で
京風なよそおいをした、りっぱな人物であった。
「さっそくにうかがいまするが」
「は。ご用向きは?」
主客とも、心もち
膝をよせ合った。
「ほかでもございませぬが、さきごろ、
当社の
広前で
行われました
兵法大講会のみぎり、
信玄公のお
孫、
武田伊那丸さまとそのほかの
浪人衆が、おしのびにて
見物に入りまじっていた
由を
里のうわさに聞きましたが、その
後のおゆくえをごぞんじなさいますまいか。――
信玄公のご
在世まで、
代々武田家より
社領のご
寄進もあったこの山のことゆえ、もしや、ご
承知もあろうかと、おうかがいにでましたしだいで」
そう聞くと、
神主の
長谷川右近は、
初耳のように目をみはって、
「ほ。ではあの時、信玄公のお
孫、
伊那丸さまがご
見物のなかにおられましたか」
と、あべこべに
園部一学へ
質問した。
「では、ご承知ないので?」
「いや、ただいまが初耳、それと知っておりましたら、もとのご
縁故も
浅からぬこと、ぜひおひきとめ申すのであったに」
「それでは、おゆくえもわかりますまいな」
「さらに承知いたしませぬが。……その伊那丸さまのお年ごろは」
「
天目山にて、お
父上とともにお
果てあそばした
太郎信勝さまよりお一つ下――
本年お十六
歳にわたらせられる」
「して、お
付人は?」
「いずれも、わざと
姿をかえておりますが、
小幡民部はかたがたしい
武芸者風、
巽小文治と申すはもと
浜名湖の
船夫の子とかにて目じるしには
常に
朱柄の
槍をたずさえております。また
浪人風の
山県蔦之助、六
部姿の
龍太郎、わけても
恵林寺の
弟子僧加賀見忍剣と申すものは、
武田家滅亡いらい、
寸時もおそばを
離れることなくおつきそい申しておる
忠節な男……」
話しているうちに
神主長谷川右近の顔が、
発作的な病気でもおこしたように、ワナワナと
唇をふるわせて、まったく
土気色になってしまった。――と
急に
座をたって、
「しばらくの間、
中座ごめんを」
足も
畳につかぬようすで、
奥の
座敷へかくれこんだ。
とりのこされた
一学は、なにか、
急病で
不快でも起したのかと思っていたが、それから、待てどくらせど、神主の
返辞もなければ
神官たちの
応接もない。
一方、神主の右近は、目もくらむばかりの
驚き
方であった。一学の話によれば、さきごろ、ご
神縄にかけて
山毛欅の上にしばりつけた
怪僧は
加賀見忍剣であり、同時に、それいらい、
垢離堂の
板の
間に二十一
日間の
謹慎をまもっている人々こそまさしく
信玄公のお
孫、
伊那丸君であり、おつきの人々であると気がついたからである。
御岳の人々は、それが
武田家の
御曹子とは、まったく知らずにご神縄をくだしたのであったらしい。神官たちはにわかに
凝議して、その
善後策に
沈鬱な空気をつくった。
「
夢にも知らぬご
無礼、ふかくおわびをしたら、おとがめもあるまい。このうえは、いっこくもはやく、あの垢離堂から
社家へおうつし申しあげ、また、
付人の忍剣とやらの
神縛もといて
謝罪するよりほかに
手段はなかろう」
いつまで応接のないのはそのためであった。
神官たちが垢離堂へ
迎えに立ったあとで、右近はやっと一学のまえへでてきた。そして、あからさまに
事情をのべて謝罪のとりなしをたのむのだった。
「ほ。それでは、
若君は
当社においで
遊ばしましたのか」
「
武田家からは、
世々、あつき
社領をたまわり、
亡家ののちも、けっしておろそかには思いませぬものを、なんとも
面目ない
大失態」
「いや、まったく知らずにしたことなれば、
寛大な若君、おとがめはありますまい。なんにしても、ここでお目にかかることができれば、自分もはるばるの使いとしてきてなによりの
僥倖です」
間もなく、
清掃した
社家の
客殿へ、
錦繍のしとねがおかれた。
垢離場の
板敷にワラの
円座をしいて、数日つつしんでいた人々は、いちやくあたたかい
部屋とうやうやしいもてなしに
迎えられてきた。
一
党の人々は、
神官たちが
平あやまりにあやまる事情をきいて、一
場の
滑稽事のように
笑っていった。
また
伊那丸も、それをとがめるどころではなく、自分の
手飼いの者が
神庭をけがしたのであるから、
主たる自分の
謹慎するのはとうぜんであって、まだ二十一日にみたないうちにゆるしを
賜うのは、神に対してむしろ心苦しいとさえいうのであった。
で、
御岳の神官たちは、ホッとした。
「ときに、若君をたずねて、はるばる都からまいられたお
方がござります」
右近はおそるおそる、
菊亭家の使いの
由を伊那丸にとりついだ。
「
通せ」
こういってやると、おりかえしての
返辞が、
「ひそかなご
用件とやらで、
清浄な、
神殿において、
若君とただふたりだけでお目にかかりたいと申しますが」
という
腑に落ちないことばである。
民部も
龍太郎も、一
党の人々は、見しらぬ
旅の
侍に
油断はならないとたぶんな
懐疑をもった。
伊那丸はかんがえて、
「したが、かりそめにも、
菊亭右大臣家はわしの
伯母さまのご
縁づきなされた
家がら、おうたがい申してはすまぬことだ。わしひとりで
神殿においてその者に
会いましょう」
と、ふたたび
右近を
介して、その
旨をいいやった。
冷気のこもったうすぐらい
拝殿に、二つの
円座が
設けられた。伊那丸と
園部一学がそこに
対座したとき、
杉戸のそとには、
木隠龍太郎や
蔦之助や
小文治などが、大刀をつかんで、よそながら
主君の身を
守っている
気ぶりであった。
が――伊那丸は、京都からきたという一学をみると、すぐに、かれがあやしげな者でないことを
信じた。
「
若君はもうお忘れでございましょうが、
去年、お
父上の
勝頼さまに
似た
僧侶をおしたいなされて
菊亭家へお
越しあそばしたことを」
「オオ」
「そのおり、よそながら
一学は、おすがたを
拝しておりましたが、わずか一年のうちに、見ちがえるばかりなご
成長……」
そういって
畏るおそる
伊那丸を見上げながら、
「
右大臣家において、
常に、おうわさ申しあげております」
「
菊亭晴季公にも、いつも、お
変りなくお
暮らしであるか」
「世は
戦塵濛々、
九重の
奥もなんとなくあわただしく、日ごとご
君側の
奉仕に、少しのおひまもないていにお見うけ申しまする」
「それは
祝着である。そして、とくにそちがわしを
尋ねてきた
用向きとはなんであるな」
「右大臣家へのご
托使にござります」
「托使? ……では晴季公よりのご用でもないのか」
「さればです!」
と、一学はさらにパッと
威儀をあらためて、
「お
嗽口を」
と目じらせをして立った。
ただごとではない――と伊那丸もすぐに
席を立った。
そして、
清水をくんで
手洗、嗽口をすまし、あらためて席へもどってくる。
一学もおなじようにすすぎをおえ、
神殿の
龕にみ
灯をともした。ふとみると、そこに
禁裡のみ
印のある
状筥がうやうやしく三ぼうの上にのせられてある。
「はッ」
と、
伊那丸は
衝たれたように
平伏した。
「
密勅です」
一学の声は、
低いが、おごそかである。
伊那丸は
夢かと思った。国なく、家なく、武力もない自分になんの密勅であろうか。
かれは五体のおののくようにおそれ多さを感じた。
べつに一学に
托せられてきた
菊亭晴季の
書状からさきに
黙読した。
菊亭家と
武田家とは、ふかい
血縁のある家すじである。その晴季からなんの
便りであろうかという
点も、伊那丸には、
胸おどろしく感じられる。
読みくだしてゆくうちに、伊那丸の目はいっぱいな
涙になった。
義憤と
悔恨の
血が
交互に
頬を
熱くした。
伊那丸よ――
菊亭晴季の文はこう書きだしてある。さらにその
文意をくだいてここにしるせば、こういう
愛国的な
長文であった。
伊那丸よ。
都でも近ごろはそなたのうわさをしばしば耳にする。勇ましいことである。けなげなことである。そなたは、貧しくとも、信玄公の名をはずかしめない。
わしは、かげながらよろこんでおる。
だが、そなたはも早や、元服の若者である。一人前の武士となるべきだ。いつまで小さな私怨にとらわれているばかりが真の武士でもなかろう。眼をひろい世の中にみひらいてたもれ。
この一年有半の歳月に、そなたはいまの世相をよくながめ得たであろう。どうであった戦国の浮世は。わけても百姓町人――いやそれよりもっと貧しい民たちの苦しみはどうであろう。
また、あるいはそなたも知らぬであろうが、畏れ多いことながら、いまの御所のお模様は、その貧しい人々よりもまさるものがある。いや、おんみずからのご不自由よりも、戦乱のちまたに飢えひしがれている民のうえにご宸念を休ませられたことがない。
わしは、朝暮に、御座ちかく奉仕しているので、まのあたりにそのおんなやみをみて、涙のたえぬくらいである。畏れ多いおうわさであるが、御所の御簾はほつれて秋風のふせぎもなく、供御のものにさえことかく事がめずらしくない。
それだになお、君は民草の塗炭にお心さえ休まったことがない。なんと浅ましい戦乱のすがたではないか。
なぜいまの世がこんなに悪いのか。それを、そなたにいうのは孟子に法を説くようなものだが、武家の罪である、群雄割拠して領土と領土のあばきあいの他、なにごとも忘れている兵家の罪でなければならぬ。
秀吉、家康をはじめ、加賀の前田、毛利、伊達、上杉、北条、長曾我部、みなそれぞれ名器の武将であるけれど、かれらはじぶんの功をいそぐ以外に、上も下も、なにものもかえりみているゆとりがない。天下統一の先駆けにあせって、戦って勝つという信条の下には、どんな犠牲も惜しまない。
これでは民草も枯れるわけである。お上のご宸念のたえない道理である。気をわるくするかもしれないが、そなたの祖父信玄ほどの人物も、そのひとりだといわなければならない。
伊那丸よ。そなたもその仲間にまじって、領土をあらそう武門で終りたいか。わたしは、そなたを見こんで、願いがある。よく考えてたもれ、大事な秋だ。
そなたが、うしなった甲斐の領土の甲斐源氏の家を再興したいという願望は、まさしく孝である、正義である、男子のなすべき事業である。だが、考えてたもれ、今は天下大事な秋である。
いまこそは何人でもあれ、自我の名利をすて、世のため、あわれな民衆のために、野心の群雄とならず、領土慾に割拠しない、まことの武士があらわれなければならない秋だ。まことの人がこの麻のごとく乱れた世を少しでも助けなければならない秋だ。
聡明なるそなたにこれ以上の多言は要すまいと思う。切に、そなたの反省をたのむ。そしてそなたが祖父機山より以上な武士の業をとげんことを祈る。秀吉、家康の上に出ずるところに刮眼することを祈る。
また、かくいうも、このことばは自分ひとりの言ばかりではない。ある夜、高野をひそかに下られた某とよぶ御僧のすすめもあるのである。また、折ふし訪れた白髯の高士の意見もここに加わっているのである。その高野の僧の名は明かしがたいが、高士の名はあかしてもよい。それは、鞍馬の隠士僧正谷の果心居士である。
文はこれでおわっている。
伊那丸は
狭い
暗黒から
暁天へみちびかれて、自分の
真にゆくべき道を
教えられたような
心地がした。
お
時は、
楢の木の
幹につかまりながら、ふかい
絶壁の下を、こわごわのぞいていた。
(どこの子供か知らないが、どうか、助かってくれればいい)
彼女は、じぶんの身の上にひきくらべて、そう
祈らずにはいられなかった。
下を見ると、目がまわりそうなので、あまり
崖っぷちには進みえないで、
救いにいった
宮内のようすも、
仔細に見ていることはできないが、ときどき
木の
葉のすきまから、かれの活動が
遠望された。
「オオ、水からあげたような……」
お
時の顔に、わがことのようなよろこびの
笑くぼがのぼった。すると、とつぜんに、
「これッ。――どこからこの山へはいりこんだ」
お時は、だれか力のある
腕ぷしで、そこからうしろへ引きもどされた。
「あッ……」
彼女はふるえ上がって、大地へ
平蜘蛛のように手をついた。
そこには、
御岳の
神官らしい人々が、
山支度をして立っていた。
「ここは、許しがなくてはのぼれぬ、お
止山ということを知らんか」
「ち……ちッとも、ぞんじませんで、道にまよってきてしもうたのでござります」
「見れば、
質朴そうな
坂東巡りの者、道にまよってきたものならば、深くはとがめないが、一
応吟味の上でなくては
放してやるわけにはゆかない。しばらくそこでひかえていろ」
こういうと、若い神官たちは、べつになにかいそぐ
目的があるらしく、ばらばらと千
年山毛欅の
根もとへかけあつまった。
三人ほどの者が、
袖をからげて
山毛欅の上へよじのぼっていった。そして、ご
神刑にかかっている、
忍剣のいましめを
解き、
抱くようにして
下ろしてきた。
さだめし、
疲れているだろうと思ったところが、
案に
相違して、忍剣はすこしも
衰えていなかった。それもそのはずなのであるが、
神官は
理由を知らないので、いよいよふしぎな
怪僧であると、
舌をまいておどろいた。
「まだ、二十一日には
満つまいに」
と、忍剣は、きょうの
赦免が、
夢のようであるらしい。
が、
事情をきいて、心から
欣ばしそうな色が、さすがに、その
面を
生々とさせた。
一足おくれて、
御岳の
奥の
院からここへ越えてきた人々があった。それは、
神主の
長谷川右近を
道案内として
忍剣健在なりや
否や――と一
刻をあらそって、
迎えに見えた一
党の
朋友たちである。
そのなかに、
伊那丸のすがたを
見出したので、忍剣は、思いやりの深い
主君の心がわかって、
無言のうちに
涙がうかんだ。
かれの
健在を
祝福しあうと、人々はすぐに、
「忍剣、すぐに京都へいそぐのだぞ」
と、
活気づけるようにいった。
「えッ、
都へ」
「くわしいことは、あとで
若君からお話があろうが、きょうからわれわれは、
甲州土着の
武士という心を
捨てることになったのだ」
「なぜ?」
明らかに
不平が、かれの
顔色にうごいた。
が、一
党の友の顔は、みな、いつもにも
増して
晴れやかに見えた。
「
甲州武士などというせまい気持をすてて、まことの
神州武士となるのだからいいじゃないか。われらの
愛国は
甲斐ではなくなった。
日本だ。かがやきのある
神州扶桑の国だ」
「そして?」
忍剣には、友のことばが
不意にきこえた。まだじゅうぶんに
胸に落ちないらしい。
「あおぐは一
天の
帝」
「それは、だれにしてもそうではないか。いまさらこと
改めていうことはないだろう」
「いや、戦国の
武将たちは、みんなそれを忘れている。もうひとつ忘れていることがある。それは
貧しい
下々の
民だ。われらの
味方するのはその人たちだ」
「どうしてにわかに京都へのぼることになったのか」
「
菊亭右大臣さまのおはからいで、
畏れ多くも、あるご
内意がくだったのだ」
「えッ、
若君へ」
「しかし、それはきわめて
秘密なことだ」
「では都から
密使が見えられたのか」
「とにかく、
若君は、はじめておおらかな
正義の天地を自由に
馳駆する
秋がきたと、
非常なおよろこびで、
以後は
武田残党の名をすてて、われわれ一
味の
党名も、
天馬侠党とよぶことにきまったのだ。きょうは
赦免になったきさまもくわえて、天馬侠第一声をここにあげたのだ」
熱血僧忍剣は、だんだんと聞いてゆくうちに、その
耳朶を
杏桃のように赤くしてきた。
王室の
御衰微をなげくことと、戦国の
馬塵にふみつけられてかえりみられない
貧しい者をあわれむ心はつねに、この人々の
胸に
燃えているところだった。
「じゃ、きょうすぐに、これから都へのぼるのか」
「多少の
支度もあるから、きょうというわけにはゆくまいが、いっこくも早く、
菊亭右大臣にお
会いして、なにかのことをうかがったうえ、
密詔のご
勅答を申しあげたいという若君のおことばだ」
「なるほど。だが、これだけではまだ天馬侠の
侠友がひとりもれているぞ」
「
民部どのもおられる、
龍太郎、
小文治、
蔦之助、すべての者がそろっているが……あ、
咲耶子か」
「咲耶子もそうだが、
竹童が
欠けているのではないか」
「オ。その竹童は、また
鷲をさがすといって、どこかへひとりで立ち
去った」
「いや、うそだ」
と、忍剣はやや
興奮的に首をふって、
「おれはきょうまで、こうして、少しも
疲れずにいたのは、まったく、かれが
苦心惨憺して、朝ごとに
食を口にいれてくれたおかげだ。どこかそこらにいるにちがいないからさがしてくれ」
と、大声でいった。
御岳の
神官たちはおどろいた。
けれど、
伊那丸や
党の人々たちは、その話をきいて、なんだか
涙ぐましくさえなった。しかし、いくらあたりをたずねても、かれのすがたが見えないので、
落胆しているところへ、
崖の
細道をかきわけて、
菊村宮内が、水から助けあげたふたりの少年をつれてあがってきた。
「おっ、いた!」
期せずして、かれの
周囲を、一同のものがドッと取りまいた、ただそのようすを、さびしそうにながめていたのは、
坂東巡礼のお
時であった。
あの
楢の枝から落ちて、ふしぎにふたりはかすり
傷もなかった。その
奇蹟を、
地蔵行者の菊村宮内は、
竹生島神伝の
独楽、
火独楽と
水独楽をめいめいがふところに持っていた
功力であるといって、その
由来をつぶさに話した。
本来、
蛾次郎は泣いても
吠えてもここでその首を、
侠党の
士にもらわれなければならないのであるが、
独楽の
由来の話から、いくぶんその
情を
酌量されて、
宮内の
命乞いにその首だけはやっとつながった。
そのうちに
神官のひとりが、どこからか、ふたりの
丈に合いそうな
着物をもらってきてくれた。なにしろ、
衣服がぬれていては、山を
下りるにしても、とちゅうの
寒さにたえられない。
「さあ、
着るがよい」
裾のみじかい着物と
膝行袴が、一枚ずつ
公平にわたされた。あのおしゃべりの蛾次郎も、口をきく元気もなく、ただいくつもおじぎをつづけて、ぬれた着物をそれに着かえた。
すると――そのようすを、
研ぎすましたような
眼ざしで、ジーッと見つめていた
巡礼のお
時が、とつぜん、気でも
狂ったように、
「オオ、おらの子だ! おらの子だ!」
と、おどろく蛾次郎の
首根ッこにかじりついて、人まえもなく、ワッと声をあげてうれし
泣きに泣きたおれた。
宮内も、がくぜんとそこへ飛びよって、
「お時さん、どうして? どうして?」
人ごととは思えないで
問いただした。
「
灸がある! 灸がある! これ宮内さま、この子の
背なかを見てやってください。いつかわたしが話したように、わしの村でしかすえないお
諏訪さまの
禁厭灸のあとがある。そのわしの村でも、この
背骨の
節の四ツ
目に、
癲癇の
灸をすえたのは、おらの子だけでございます」
「じゃ、この
蛾次郎が、三つの時に、
伊勢詣りのとちゅうで
迷子にしたおまえさんの子であったのか」
「それにちがいありません。ああ、
親子の
血はあらそわれない、やっぱりわしにはなんとなく、虫の知らせがありましたに……」
と、蛾次郎のからだを
抱きしめて、あまやかな
女親の
涙をとめどなく流すのだった。
蛾次郎はただキョトキョトして、お
時の手をすこしこばむように
尻ごみしていたが、
宮内からじゅんじゅんと自分の母であることを話されると、
東海道で、
鼻かけ卜斎にひろわれたという
幼な話を思いだして、
「じゃ、おめえが、ほんとのおれのおッ
母さんだったのかい」
と、はじめて、お時の顔を
真正面に見つめた。
「オオ、
坊や!」
「ワーッ……」
と、そのとたんに、蛾次郎は、一
世一
代の泣き声をあげてお時のひざにそのきたない顔を、むちゃくちゃにコスリつけていった。
お時もうれし泣きに抱きしめた。
牝牛の
乳のように
甘い
女親の
涙のなかに、
邪気も、
慾も、なにもなく、身をひたりこんだ
蛾次郎のすがたを見ていると、だれもかれに少しの
憎しみも持てなかった。
竹童ですら、
敵意をわすれて、ぼんやりとその
情景をながめていた。
だが、かれの
親はどこにいる?
竹童は、さびしかろ。
侠党七
士の人々が、
御岳のすそ、
北多摩のふもとから
青毛、
月毛、
黒鹿毛の
馬首をならべて、
銀のすすきの
波をうつ秋の
武蔵野を西へさして
去ったのは、その
翌々日のことであった。
おなじ日に、泣き虫の蛾次郎は、母親のお
時に手をひかれて、
坂東何番かのお
札所へお
礼まいりにのぼっていった。
そして、ひと
巡りの
巡礼をすましたら、ふるさとの
村へ帰るだろう。
うららかな秋の
陽の
下に立って、まぶしそうに見ていた
菊村宮内は、
消えてゆく七
騎のかげと、手をひかれてゆく母と子と、そのどッちを見おくっても、いい気持がした。
そして、かれもまた、カアーン、カアーンと、
地蔵菩薩に
鉦を
手向けながら、すすきを
分ける
旅人のひとりとなって、いずこともなく歩きだした。