神州天馬侠

吉川英治








 私は、元来、少年小説を書くのが好きである。大人おとなの世界にあるような、きゅうくつ概念がいねんにとらわれないでいいからだ。
 少年小説を書いている間は、自分もまったく、童心どうしんのむかしに返る、少年の気もちになりきッてしまう。――今のわたくしは、もう古い大人だが、この天馬侠てんまきょうを読み直し、校訂こうていの筆を入れていると、そのあいだにも、少年の日が胸によみがえッてくる。
 ああ少年の日。一生のうちの、とうとい季節だ。この小説は、わたくしが少年へ書いた長編の最初のもので、また、いちばん長いものである。諸君の楽しい季節のために、この書が諸君の退屈たいくつな雨の日や、さびしい夜の友になりうればと思い、自分も好きなまま、つい、こんなに長く書いてしまったものである。
 いまの日本は、大人の世界でも、子どもの天地でも、心に楽しむものが少ない。だが、少年の日の夢は、せさせてはいけない。少年の日の自然な空想は、いわば少年の花園はなぞのだ。昔にも、今にも、将来へも、つばさをひろげて、遊びまわるべきである。
 この書は、過去の伝奇でんきと歴史とを、わたくしの夢のまま書いたものだが、過去にも、今と比較して、考えていいところは多分たぶんにある。悪いところは反省し、よいところは知るべきだと思う。その意味で、鞍馬くらま竹童ちくどうも、泣き虫の蛾次郎がじろうも、諸君の友だち仲間へ入れておいてくれ給え。時代はちがうが、よく見てみたまえ、諸君の友だち仲間の腕白わんぱくにも、竹童もいれば、蛾次郎もいるだろう。大人おとなについても、同じことがいえる。
 以前いぜん、これが「少年倶楽部」に連載されていた当時の愛読者は、成人せいじんして、今日では政治家になったり、実業家になったり、文化人になったりして、みな社会の一線に立っている。諸君のお父さんや兄さんのうちにも、その頃の愛読者がたくさんおられることと思う。
 わたくしはよくそういう人たちから、少年時代、天馬侠てんまきょうの愛読者でした――と聞かされて、年月の流れに、おどろくことがある。もし諸君がこのしょを手にしたら、諸君の父兄ふけいやおじさんたちにも、見せて上げてもらいたい。そして、著者の言伝ことづてを、おつたえして欲しい。
 ――ご健在けんざいですか。わたくしは健在です、と。
 そして、いまの少年も、また天馬侠を読むようになりました、と。

昭和二四・春
著者
[#改丁]





武田伊那丸たけだいなまる




 そよ風のうごくたびに、むらさきの波、しろい波、――恵林寺えりんじうらのふじの花が、今をさかりな、ゆく春のひるである。
 しゅ椅子いすによって、しずかな藤波ふじなみへ、目をふさいでいた快川和尚かいせんおしょうは、ふと、風のたえまに流れてくる、法螺ほら遠音とおね陣鉦じんがねのひびきに、ふっさりしたぎん眉毛まゆげをかすかにあげた。
 その時、長廊下ながろうかをどたどたと、かけまろんできたひとりの弟子でしは、まっさおなおもてをぺたりと、そこへせて、
「おッ。おさま! た、大変たいへんなことになりました。あアおそろしい、……一大事いちだいじでござります」
 としたをわななかせてげた。
「しずかにおしなさい」
 と、快川かいせんは、たしなめた。
「――わかっています。織田おだどのの軍勢ぐんぜいが、いよいよ此寺ここへ押しよせてきたのであろう」
「そ、そうです! いそいで鐘楼しょうろうへかけのぼって見ましたら、森も野もはたけも、軍兵ぐんぴょう旗指物はたさしものでうまっていました。あア、もうあのとおり、軍馬のひづめまで聞えてまいります……」
 いいもおわらぬうちだった。
 うら山の断崖だんがいからふじだなの根もとへ、どどどどと、土けむりをあげて落ちてきた者がある。ふたりはハッとして顔をむけると、ふんぷんとゆれ散ったふじの花をあびて鎧櫃よろいびつをせおった血まみれな武士ぶしが、気息きそくもえんえんとして、にわさきにたおれているのだ。
「や、巨摩左文次こまさもんじどのじゃ。これ、はやくのものをおろして、水をあげい、水を」
「はッ」と弟子僧でしそうははだしでとびおりた。鎧櫃をとって泉水の水をふくませた。武士は、気がついて快川かいせんのすがたをあおぐと、
「お! 国師こくしさま」と、大地へ両手りょうてをついた。
「巨摩どの、さいごの便たよりをお待ちしていましたぞ。ご一門はどうなされた」
「はい……」左文次はハラハラとなみだをこぼして、
「ざんねんながら、新府しんぷのおやかたはまたたくまに落城らくじょうです。火の手をうしろに、主君の勝頼公かつよりこうをはじめ、御台みだいさま、太郎君たろうぎみさま、一門のこり少なの人数をひきいて、天目山てんもくざんのふもとまで落ちていきましたが、目にあまる織田おだ徳川とくがわの両軍におしつつまれ、みな、はなばなしく討死うちじにあそばすやら、さ、しちがえてご最期さいごあるやら……」
 と左文次さもんじのこえは涙にかすれる。
「おお、殿とのもご夫人もな……」
「まだおん年も十六の太郎信勝のぶかつさままで、一きわすぐれた目ざましいお討死うちじにでござりました」
「時とはいいながら、信玄公しんげんこうのみまで、てきに一歩も領土りょうどをふませなかったこの甲斐かいの国もほろびたか……」
 と快川かいせんは、しばらく暗然あんぜんとしていたが、
「して、勝頼公の最期のおことばは?」
「これに持ちました武田家たけだけ宝物ほうもつ御旗みはた楯無たてなし(旗と鎧)の二しなを、さきごろからこのお寺のうちへおかくまいくだされてある、伊那丸いなまるさまへわたせよとのおおせにござりました」
 そこへまた、二、三人の弟子僧でしそうが、色を失ってかけてきた。
「おさま! 信長公のぶながこうの家臣が三人ほど、ただいま、ご本堂から土足どそくでこれへかけあがってまいりますぞ」
「や、敵が?」
 と巨摩左文次こまさもんじは、すぐ、陣刀じんとうつかをにぎった。
 快川かいせんは落ちつきはらって、それを手でせいしながら、
「あいや、そこもとは、しばらくそこへ……」
 と床下ゆかしたをゆびさした。急なので、左文次も、宝物ほうもつをかかえたまま、えんの下へ身をひそめた。
 と、すぐに廊下ろうかをふみ鳴らしてきた三人の武者むしゃがある。いずれも、あざやかな陣羽織じんばおりを着、大刀だいとうりうたせていた。まなこをいからせながら、きッとこなたにむかって、
国師こくしッ!」
 と、するどくびかけた。


 天正てんしょう十年の春も早くから、木曾口きそぐち信濃口しなのぐち駿河口するがぐちの八ぽうから、甲斐かい盆地ぼんちへさかおとしに攻めこんだ織田おだ徳川とくがわ連合軍れんごうぐんは、野火のびのようないきおいで、武田勝頼たけだかつより父子、典厩信豊てんきゅうのぶとよ、その他の一族を、新府城しんぷじょうから天目山てんもくざんへ追いつめて、ひとりのこさずちとってしまえと、きびしい軍令ぐんれいのもとに、残党ざんとうりたてていた。
 その結果、信玄しんげん建立こんりゅうした恵林寺えりんじのなかに、武田たけだの客分、佐々木承禎ささきじょうてい三井寺みいでらの上福院、大和淡路守やまとあわじのかみの三人がかくれていることをつきとめたので、使者をたてて、落人おちゅうどどもをわたせと、いくたびも談判だんぱんにきた。
 しかし、長老の快川国師かいせんこくしは、故信玄こしんげんおんにかんじて、断乎だんことして、織田おだの要求をつっぱねたうえに、ひそかに三人をがしてしまった。
 織田おだ間者かんじゃは、夜となく昼となく、恵林寺えりんじの内外をうかがっていた。ところが、はからずも、勝頼かつより末子ばっし伊那丸いなまるが、まだ快川かいせんのふところにかくまわれているという事実をかぎつけて、いちはやく本陣へ急報したため、すわ、それがしてはと、二千の軍兵ぐんぴょう砂塵さじんをまいて、いま――すでにこの寺をさして押しよせてきつつあるのだ。
 快川かいせんは、それと知っていながら、ゆったりと、しゅ椅子いすから立ちもせずに、三人の武将をながめた。
「また、織田おだどのからのお使者ですかな」
 と、しずかにいった。
「知れたことだ」となかのひとりが一歩すすんで、
国師こくしッ、この寺内じない信玄しんげんの孫、伊那丸をかくまっているというたしかな訴人そにんがあった。なわをうってさしだせばよし、さもなくば、寺もろとも、きつくして、みな殺しにせよ、という厳命げんめいであるぞ。きもをすえて返辞へんじをせい」
「返辞はない。ふところにはいった窮鳥きゅうちょうをむごい猟師りょうしの手にわたすわけにはゆかぬ」
 と快川のこえはすんでいた。
「よしッ」
「おぼえておれ」と三人の武将は荒々しくひッ返した。そのうしろ姿すがたを見おくると、快川かいせんははじめて、椅子いすをはなれ、
左文次さもんじどの、おでなさい」
 と合図あいずをしたうえ、さらにおくへむかって、声をつづけた。
忍剣にんけん! 忍剣!」
 呼ぶよりはやく、おうと、そこへあらわれた骨たくましいひとりの若僧わかそうがある。若僧は、白綸子しろりんずにむらさきのはかまをつけた十四、五さい伊那丸いなまるを、そこへつれてきて、ひざまずいた。
「この寺へもいよいよ最後の時がきた。お傅役もりやくのそちは一命にかえても、若君を安らかな地へ、お落としもうしあげねばならぬ」
「はッ」
 と、忍剣にんけんおくへとってかえして、鉄の禅杖ぜんじょうをこわきにかかえてきた。背には左文次さもんじがもたらした武田家たけだけ宝物ほうもつ御旗みはた楯無たてなしひつをせおって、うら庭づたいに、扇山せんざんへとよじのぼっていった。
 ワーッというときの声は、もう山門ちかくまで聞えてきた。寺内は、本堂ほんどうといわず、廻廊かいろうといわずうろたえさわぐ人々の声でたちまち修羅しゅらとなった。白羽しらは黒羽くろはの矢は、疾風はやてのように、バラバラと、庭さきや本堂の障子襖しょうじぶすまへおちてきた。
「さわぐな、うろたえるな! 大衆だいしゅは山門におのぼりめされ。わしについて、楼門ろうもんの上へのぼるがよい」
 と快川かいせんは、伊那丸いなまるの落ちたのを見とどけてから、やおら、払子ほっすころもそでにいだきながら、恵林寺えりんじ楼門ろうもんへしずかにのぼっていった。
「それ、長老と、ご最期さいごをともにしろ――」
 つづいて、一ざん僧侶そうりょたちは、おさな侍童わらわのものまで、楼門の上にひしひしとつめのぼった。
 寄手よせての軍兵は、山門の下へどッとよせてきて、
「一ざんの者どもは、みな山門へのぼったぞ、下から焼きころして、のちの者の、見せしめとしてくれよう」
 と、うずたかくれ草をつんで、ぱッと火をはなった。みるまに、うずまく煙は楼門をつつみ、紅蓮ぐれんほのおは、百千の火龍かりゅうとなって、メラメラともえあがった。
 楼上ろうじょうの大衆は、たがいにだきあって、熱苦のさけびをあげてしまろんだ。なかにひとり、快川和尚かいせんおしょうだけは、自若じじゃくと、椅子いすにかけて、まゆの毛もうごかさず、
「なんの、心頭しんとうをしずめれば、火もおのずからすずしい――」
 と、一のことばを、微笑のもとにとなえて、その全身を、ほのおになぶらせていた。


「おお! 伊那丸いなまるさま。あれをごらんなされませ。すさまじい火の手があがりましたぞ」
 源次郎岳げんじろうだけの山道までおちのびてきた忍剣にんけんは、はるかな火の海をふりむいて、なみだをうかべた。
国師こくしさまも、あのほのおの底で、ご最期さいごになったのであろうか、忍剣よ、わしは悲しい……」
 伊那丸いなまるは、遠くへ向かってを合わせた。空をやく焔は、かれのひとみに、生涯しょうがいわすれぬものとなるまでやきついた。すると、不意だった。
 いきなり、耳をつんざく呼子よびこが、するどく、頭の上で鳴ったと思うと、かなたの岩かげ、こなたの谷間から、やり陣刀じんとうをきらめかせて、おどり立ってくる、数十人の伏勢ふせぜいがあった。それは徳川方とくがわがたの手のもので、酒井さかい黒具足組くろぐそくぐみとみえた。忍剣は、すばやく伊那丸を岩かげにかくして、じぶんは、鉄杖てつじょうをこわきにしごいて、敵を待った。
「それッ、武田の落人おちゅうどにそういない。てッ」
 と呼子をふいた黒具足の部将ぶしょうは、ひらりと、岩上からとびおりて号令ごうれいした。下からは、やりをならべた一隊がせまり、そのなかなる、まッ先のひとりは、流星のごとく忍剣の脾腹ひばらをねらって、やりをくりだした。
「おうッ」と力をふりしぼって、忍剣の手からのびた四しゃく余寸よすんの鉄杖が、パシリーッと、槍の千だんを二つにおって、天空へまきあげた。
はらえ!」と呼子をふいた部将が、またどなった。
 バラバラとみだれるすすきのやりぶすまも、忍剣にんけんが、自由自在にふりまわす鉄杖にあたるが最後だった。わら棒切ぼうきれのように飛ばされて、見るまに、七人十人と、あけをちらして岩角いわかどからすべり落ちる。ワーッという声のなだれ、かかれ、かかれと、ののしるさけび。すさまじい山つなみは、よせつかえしつ、満山を血しぶきにめる。
 一かい若僧わかそうにすぎない忍剣のこの手なみに、さすがの黒具足組くろぐそくぐみきもをひやした。――知る人は知る。忍剣はもと、今川義元いまがわよしもと幕下ばっかで、海道一のもののふといわれた、加賀見能登守かがみのとのかみその人の遺子わすれがたみであるのだ。かれの天性の怪力は、父能登守のそれ以上で、幼少から、快川和尚かいせんおしょう胆力たんりょくをつちかわれ、さらに天稟てんぴんの武勇と血と涙とを、若い五体にみなぎらせている熱血児ねっけつじである。
 あの眼のたかい快川和尚が、一ざんのなかからえりすぐって、武田伊那丸たけだいなまる御旗みはた楯無たてなし宝物ほうもつたくしたのは、よほどの人物と見ぬいたればこそであろう。
 新羅三郎しんらさぶろう以来二十六せいをへて、四りん武威ぶいをかがやかした武田たけだ領土りょうどは、いまや、織田おだ徳川とくがわの軍馬に蹂躪じゅうりんされて、焦土しょうどとなってしまった。しかも、その武田の血をうけたものは、世の中にこの伊那丸いなまるひとりきりとなったのだ。焦土のあとに、たった一粒ひとつぶのこった胚子たねである。
 この一粒の胚子に、ふたたび甲斐源氏かいげんじの花が咲くか咲かないか、忍剣の責任は大きい。また、伊那丸の宿命もよういではない。
 世は戦国である。残虐ざんぎゃくをものともしない天下の弓取りたちは、この一粒の胚子をすら、をださせまいとして前途に、あらゆる毒手をふるってくるにちがいない。
 すでに、その第一の危難は眼前にふってわいた。忍剣にんけん鉄杖てつじょう縦横じゅうおうむじんにふりまわして、やっと黒具足組くろぐそくぐみをおいちらしたが、ふと気がつくと、伊那丸いなまるをのこしてきた場所から大分はなれてきたので、いそいでもとのところへかけあがってくると、南無三なむさん呼子よびこをふいた部将が抜刀ばっとうをさげて、あっちこっちの岩穴いわあなをのぞきまわっている。
「おのれッ」と、かれは身をとばして、一げきを加えたが敵もひらりと身をかわして、
坊主ぼうずッ、徳川家とくがわけにくだって伊那丸をわたしてしまえ、さすればよいように取りなしてやる」
 と、甘言かんげんをにおわせながら、陣刀じんとうをふりかぶった。
「けがらわしい」
 忍剣は、鉄杖をしごいた。らんらんとかがやくひとみは、相手の精気をすって、一歩、でるが早いか、敵の脳骨のうこつはみじんと見えた。
 そのすきに、忍剣のうしろに身ぢかくせまって、片膝かたひざおりに、種子島たねがしま銃口じゅうこうをねらいつけた者がある。ブスブスと、その手もとから火縄ひなわがちった――さすがの忍剣も、それには気がつかなかったのである。
 かれがふりこんだ鉄杖は、相手の陣刀をはらい落としていた。二どめに、ズーンとそれが横薙よこなぎにのびたとおもうと、わッと、部将ぶしょうは血へどをはいてぶったおれた。
 刹那せつなだ。ズドンとたまけむりがあがった――
 はッとして身をしずめた忍剣にんけんが、ふりかえってみると種子島たねがしまをもったひとりの黒具足くろぐそくが、虚空こくうをつかみながら煙のなかであおむけにそりかえっている。
 はて? とひとみをさだめてみると、その脾腹ひばらへうしろ抱きに脇差わきざしをつきたてていたのは、いつのまに飛びよっていたか武田伊那丸たけだいなまるであった。
「お、若さま!」
 忍剣は、あまりなかれの大胆だいたん手練しゅれんに目をみはった。
「忍剣、そちのうしろから、鉄砲てっぽうをむけた卑怯者ひきょうものがあったによって、わしが、このとおりにしたぞ」
 伊那丸は、笑顔えがおでいった。

富士ふじ山大名やまだいみょう




 をたべたり、小鳥をってえをしのいだ。百日あまりも、釈迦しゃかたけの山中にかくれていた忍剣にんけん伊那丸いなまるは、もう甲州こうしゅう攻めの軍勢も引きあげたころであろうと駿河路するがじへ立っていった。峠々とうげとうげには、徳川家とくがわけのきびしい関所せきしょがあって、ふたりの詮議せんぎは、厳密げんみつをきわめている。
 そればかりか、織田おだ領地りょうちのほうでは、伊那丸いなまるをからめてきた者には、五百かん恩賞おんしょうをあたえるという高札こうさつがいたるところに立っているといううわさである。さすがの忍剣にんけんも、はたととほうにくれてしまった。
 きのうまでは、甲山こうざんの軍神といわれた、信玄しんげんの孫伊那丸も、いまは雨露うろによごれた小袖こそでの着がえもなかった。足はいばらにさかれて、みじめに血がにじんでいた。それでも、伊那丸は悲しい顔はしなかった。幼少からうけた快川和尚かいせんおしょう訓育くんいくと、祖父信玄しんげんの血は、この少年のどこかに流れつたわっていた。
「若さま、このうえはいたしかたがありませぬ。相模さがみ叔父おじさまのところへまいって、時節のくるまでおすがりいたすことにしましょう」
 かれは、伊那丸のいじらしい姿すがたをみると、はらわたをかきむしられる気がする。で、ついに最後の考えをいいだした。
小田原城おだわらじょう北条氏政ほうじょううじまさどのは、若さまにとっては、叔父君おじぎみにあたるかたです。北条ほうじょうどのへ身をよせれば、織田家おだけ徳川家とくがわけも手はだせませぬ」
 が、富士ふじ裾野すその迂回うかいして、相模さがみざかいへくると、無情な北条家ほうじょうけではおなじように、関所せきしょをもうけて、武田たけだ落武者おちむしゃがきたら片ッぱしから追いかえせよ、と厳命してあった。叔父おじであろうが、肉親にくしんであろうが、亡国ぼうこくの血すじのものとなれば、よせつけないのが戦国のならいだ。忍剣もうらみをのんでふたたびどこかの山奥へもどるよりすべがなかった。今はまったくふくろのねずみとなって、西へも東へもでる道はない。
 ゆうべは、裾野すそのの青すすきをふすまとして、けさはまだきりの深いころから、どこへというあてもなく、とぼとぼと歩きだした。やがてその日もまた夕暮れになってひとつの大きな湖水こすいのほとりへでた。
 このへんは、富士の五といわれて、湖水の多いところだった。みるとなぎさにちかく、白旗しらはたの宮とがくをあげた小さなほこらがあった。
「白旗の宮? ……」と忍剣にんけんは見あげて、
「オオ、甲斐かい源氏げんじ、白旗といえば、これはえんのあるほこらです。若さましばらく、ここでやすんでまいりましょうに……」
 と、縁へ腰をおろした。
「いや、わしは身軽でつかれはしない。おまえこそ、その鎧櫃よろいびつをしょっているので、ながい道には、くたびれがますであろう」
「なんの、これしきの物は、忍剣の骨にこたえはいたしませぬ。ただ、大せつなご宝物ほうもつですから、まんいちのことがあってはならぬと、その気づかいだけです」
「そうじゃ。わしは、この湖水をみて思いついた」
「なんでござりますか」
「こうして、そのひつをしょって歩くうちに、もし敵の目にかかって、うばわれたらもう取りかえしがつかぬ」
「それこそ、この忍剣としても、生きてはおられませぬ」
「だから――わしがせめて、元服げんぷくをする時節まで、その宝物を、この白旗しらはたの宮へおあずけしておこうではないか」
「とんでもないことです。それは物騒千万ぶっそうせんばんです」
「いや、あずけるというても、御堂みどうのなかへおくのではない。この湖水のそこへしずめておくのだ。ちょうどここにある宮の石櫃いしびつ、これへ入れかえて、沈めておけば安心なものではないか」
「は、なるほど」と、忍剣にんけんも、伊那丸いなまる機智きちにかんじた。
 ふたりはすぐほこらにあった石櫃へ、宝物をいれかえ一てきの水もしみこまぬようにして、岸にあった丸木のくりぬき舟にそれをのせて、忍剣がひとりで、さおをあやつりながら湖の中央へと舟をすすめていった。
 伊那丸はおかにのこって、きしから小舟を見おくっていた。あかい夕陽ゆうひは、きらきらと水面をかえして、舟はだんだんと湖心へむかって小さくなった。
「あッ――」
 とその時、伊那丸は、なにを見たか、さけんだ。
 どこから射出いだしたのか、一本の白羽しらはの矢が湖心の忍剣をねらって、ヒュッと飛んでいったのであった。――つづいて、雨か、たばしるあられのように、数十本のが、バラバラ釣瓶つるべおとしにかけられたのだ。
 さッと湖心には水けむりがあがった。その一しゅん、舟も忍剣も石櫃も、たちまち湖水の波にそのすがたを没してしまった。
「ややッ」
 おどろきのあまり、われをわすれて、伊那丸いなまるが水ぎわまでかけだしたときである。――なにものか、
「待てッ」
 とうしろから、かれのえりがみをつかんだ大きなうでがあった。


小童こわっぱ、うごくといのちがないぞ」
 ずるずると、引きもどされた伊那丸は、声もたてなかった。だが、とっさに、片膝かたひざをおとして、腰の小太刀こだちをぬき打ちに、相手の腕根うでねりあげた。
「や、こいつが」と、不意をくった男は手をはなして飛びのいた。
「だれだッ。なにをする――」
 とそのすきに、小太刀こだちをかまえて、いいはなった伊那丸には、おさないながらも、天性のがあった。
 あなたに立った大男はひとりではなかった。そろいもそろった荒くれ男ばかりが十四、五人、蔓巻つるまき大刀だいとうに、かわ胴服どうふくを着たのもあれば、小具足こぐそくや、むかばきなどをはいた者もあった。いうまでもなく、乱世らんせいうらにおどる野武士のぶし群団ぐんだんである。
「見ろ、おい」と、ひとりが伊那丸をきッとみて、
綸子りんず小袖こそでひしもんだ。武田伊那丸たけだいなまるというやつに相違そういないぜ」と、いった。
「うむ、ふんじばって織田家おだけへわたせば、莫大ばくだい恩賞おんしょうがある、うまいやつがひッかかった」
「やいッ、伊那丸。われわれは富士の人穴ひとあなとりでとしている山大名やまだいみょうの一手だ。てめえの道づれは、あのとおり、湖水のまンなかで水葬式みずそうしきにしてくれたから、もう逃げようとて、逃げるみちはない、すなおにおれたちについてこい」
「や、では忍剣にんけんに矢をたのも、そちたちか」
「忍剣かなにか知らねえが、いまごろは、山椒さんしょうの魚の餌食えじきになっているだろう」
「この土蜘蛛つちぐも……」
 伊那丸は、くやしげにくちびるをかんで、にぎりしめていた小太刀こだちの先をふるわせた。
「さッ、こなけりゃふんじばるぞ」
 と、野武士のぶしたちは、かれを少年とあなどって、不用意にすすみでたところを、伊那丸は、おどりあがって、
「おのれッ」
 といいざま、真眉間まみけんをわりつけた。野武士のぶしどもは、それッと、大刀だいとうをぬきつれて、前後からおッとりかこむ。
 武技ぶぎにかけては、躑躅つつじヶ崎のやかたにいたころから、多くの達人やつわものたちに手をとられて、ふしぎな天才児てんさいじとまで、おどろかれた伊那丸いなまるである。からだは小さいが、太刀たちは短いが、たちまちひとりふたりをってふせた早わざは飛鳥のようだった。
「このわっぱめ、あじをやるぞ、ゆだんするな」
 と、野武士のぶしたちは白刃の鉄壁てっぺきをつくってせまる。その剣光のあいだに、小太刀ひとつを身のまもりとして、りむすび、飛びかわしする伊那丸のすがたは、あたかもあらしのなかにもまれるちょうか千鳥のようであった。しかし時のたつほど疲れはでてくる。いきはきれる。――それに、多勢たぜい無勢ぶぜいだ。
「そうだ、こんな名もない土賊どぞくどもと、りむすぶのはあやまりだ。じぶんは武田家たけだけの一粒としてのこった大せつな身だ。しかもおおきな使命のあるからだ――」
 と伊那丸は、乱刀のなかに立ちながらも、ふとこう思ったので、いっぽうの血路をやぶって、いっさんににげだした。
「のがすなッ」
 と野武士たちも風をついて追いまくってくる。伊那丸はあしからかけあがって、松並木へはしった。ピュッピュッという矢のうなりが、かれの耳をかすって飛んだ。
 夕闇ゆうやみがせまってきたので、足もともほの暗くなったが松並木へでた伊那丸は、けんめいに二町ばかりかけだした。
 と、これはどうであろう、前面の道は八重十文字やえじゅうもんじに、ふじづるのなわがはってあって、かれのちいさな身でもくぐりぬけるすきもない。
「しまった」と伊那丸いなまるはすぐ横の小道へそれていったが、そこにもいばらのふさぎができていたので、さらに道をまがるとふじづるのなわがある。折れてもまがっても抜けられる道はないのだ。万事休ばんじきゅうす――伊那丸は完全に、蜘蛛手くもでかがりという野武士のぶしの術中におちてしまったのだ。身につばさでもないかぎりは、このわなからのがれることはできない。
「そうだ、野武士らの手から、織田家おだけへ売られて名をはずかしめるよりは、いさぎよく自害じがいしよう」
 と、かれは覚悟をきめたとみえて、うすぐらい林のなかにすわりこんで、脇差わきざしを右手にぬいた。
 切っさきをたもとにくるんで、あわや身につきたてようとしたときである。ブーンと、飛んできた分銅ふんどうが、カラッと刀のつばへまきついた。や? とおどろくうちに、刀は手からうばわれて、スルスルとこずえの空へまきあげられていく。
「ふしぎな」と立ちあがったとたん、伊那丸は、ドンとあおむけにたおれた。そしてそのからだはいつのまにかわななわのなかにつつみこまれて、小鳥のようにもがいていた。
 すると、いままで鳴りをしずめていた野武士が、八ぽうからすがたをあらわして、たちまち伊那丸をまりのごとくにしばりあげて、そこから富士ふじ裾野すそのへさして追いたてていった。


 幾里いくりも幾里ものあいだ、ただいちめんに青すすきの波である。その一すじの道を、まッくろな一ぐんの人間が、いそぎに、いそいでいく。それは伊那丸いなまるをまン中にかためてかえる、さっきの野武士のぶしだった。
「や、どこかでふえがするぜ……」
 そういったものがあるので、一同ぴったと足なみをとめて耳をすました。なるほど、寥々りょうりょうと、そよぐ風のとぎれに、笛のえた音がながれてきた。
「ああ、わかった。咲耶子さくやこさまが、また遊びにでているにちがいない」
「そうかしら? だがあのいろは、男のようじゃないか。どんなやつがしのんでいるともかぎらないからゆだんをするなよ」
 とたがいにいましめあって、ふたたび道をいそぎだすと、あなたの草むらから、月毛つきげ野馬のうまにのったさげがみの美少女が、ゆらりと気高けだかいすがたをあらわした。
 一同はそれをみると、
「おう、やっぱり咲耶子さまでございましたか」
 と荒くれ武士ぶしににげなく、花のような美少女のまえには、腰をおって、ていねいにあたまをさげる。
「じゃ、おまえたちにも、わたしが吹いていた笛の音が聞えたかえ?」
 とこまをとめた咲耶子は、美しいほほえみをなげて見おろしたが、ふと、伊那丸のすがたを目にとめて、三日月なりのまゆをちらりとひそめながら、
「まあ、そのおさない人を、ぎょうさんそうにからめてどうするつもりです。伝内でんない兵太ひょうたもいながら、なぜそんなことをするんです」
 と、とがめた。名をさされたふたりの野武士のぶしは、一足ひとあしでて、咲耶子さくやここまに近よった。
「まだ、ごぞんじありませぬか。これこそ、おかしらが、まえまえからねらっていた武田家たけだけ小伜こせがれ伊那丸いなまるです」
「おだまりなさい。とりこにしても身分のある敵なら、礼儀れいぎをつくすのが武門のならいです。おまえたちは、名もない雑人ぞうにんのくせにして、びすてにしたり、縄目なわめにかけるというのはなんという情けしらず、けっして、ご無礼ぶれいしてはなりませぬぞ」
「へえ」と、一同はその声にちぢみあがった。
「わたしは道になれているから、あのかたを、この馬にお乗せもうすがよい」
 と、咲耶子は、ひらりとおりて伊那丸のなわをといた。
 まもなくけわしいのぼりにかかって、ややしばらくいくと、一の洞門どうもんがあった。つづいて二の洞門をくぐると天然てんねん洞窟どうくつにすばらしい巨材きょざいをしくみ、綺羅きらをつくした山大名やまだいみょう殿堂でんどうがあった。
 この時代の野武士の勢力はあなどりがたいものだった。徳川とくがわ北条ほうじょうなどという名だたる弓とりでさえも、その勢力範囲はんいへ手をつけることができないばかりか、戦時でも、野武士の区域くいきといえば、まわり道をしたくらい。またそれを敵とした日には、とうてい天下のをあらそう大事業などは、はかどりっこないのである。
 ここの富士浅間ふじせんげん山大名やまだいみょうはなにものかというに、鎌倉かまくら時代からこの裾野すその一円にばっこしている郷士ごうしのすえで根来小角ねごろしょうかくというものである。
 つれこまれた伊那丸いなまるは、やがて、首領しゅりょうの小角の前へでた。獣蝋じゅうろうしょくが、まばゆいばかりかがやいている大広間は、あたかも、部将ぶしょうの城内へのぞんだような心地がする。
 根来小角は、野武士のぶしとはいえ、さすがにりっぱな男だった。多くの配下を左右にしたがえて、上段にかまえていたが、そこへきた姿をみると座をすべって、みずから上座にすえ、ぴったり両手をついて臣下にひとしい礼をしたのには、伊那丸もややいがいなようすであった。
「お目どおりいたすものは、根来小角ともうすものです。今日こんにち雑人ぞうにんどもが、れいをわきまえぬ無作法ぶさほうをいたしましたとやら、ひらにごかんべんをねがいまする」
 はて? 残虐ざんぎゃくと利慾よりなにも知らぬ野盗やとうかしらが、なんのつもりで、こうていちょうにするのかと、伊那丸は心ひそかにゆだんをしない。
「また、武田たけだの若君ともあるおんかたが、拙者せっしゃやかたへおいでくださったのは天のおひきあわせ。なにとぞ幾年でもご滞留たいりゅうをねがいまする。ところでこのたびは、織田おだ徳川とくがわ両将軍のために、ご一門のご最期さいご、小角ふかくおさっし申しあげます」
 なにをいっても、伊那丸は黙然もくねんと、をみださずにすわっていた。ただこころの奥底まで見とおすような、つぶらなひとみだけがはたらいていた。
「つきましては、小角は微力ですが、三万の野武士と、裾野すそのから駿遠甲相すんえんこうそう四ヵ国の山猟師やまりょうしは、わたくしの指ひとつで、いつでも目のまえに勢ぞろいさせてごらんにいれます。そのうえ若君が、御大将おんたいしょうとおなりあそばして、富士ふじおろしに武田菱たけだびしの旗あげをなされたら、たちまち諸国からこぞってお味方にせさんじてくることは火をみるよりあきらかです」
「おまちなさい」と伊那丸いなまるははじめて口をひらいた。
「ではそちはわしに名のりをあげさせて、軍勢をもよおそうという望みか」
「おさっしのとおりでござります。拙者せっしゃには武力はありますが名はありませぬ。それゆえ、今日こんにちまで髀肉ひにくたんをもっておりましたが、若君のみはたさえおかしくださるならば、織田おだ徳川とくがわ鎧袖がいしゅうの一しょくです。たちまち蹴散けちらしてごむねんをはらします所存」
「だまれ小角しょうかく。わしは年こそおさないが、信玄しんげんの血をうけた武神の孫じゃ。そちのような、野盗人のぬすびとかみにはたたぬ。下郎げろうの力をかりて旗上げはせぬ」
「なんじゃ!」と小角のこえはガラリとかわった。
 じぶんの野心を見ぬかれた腹立ちと、落人おちゅうどの一少年にピシリとはねつけられた不快さに、満面にしゅをそそいだ。
「こりゃ伊那丸、よく申したな。もうなんじの名をかせとはたのまぬわ、その代りその体を売ってやる! 織田家おだけへわたして莫大ばくだい恩賞おんしょうにしたほうが早手まわしだ。兵太ひょうたッ、この餓鬼がき、ふんじばって風穴かざあなへほうりこんでしまえ」
「へいッ」四、五人たって、たちまち伊那丸をしばりあげた。かれはもう観念かんねんの目をふさいでいた。
「歩けッ」
 と兵太ひょうた縄尻なわじりをとって、まッくらな間道かんどうを引っ立てていった。そして地獄の口のような岩穴のなかへポーンとほうりこむと、鉄柵てつさくじょうをガッキリおろしてたちさった。
 うしろ手にしばられているので、よろよろところげこんだ伊那丸いなまるは、しばらく顔もあげずに倒れていた。ザザーッと山砂をつつんだ旋風せんぷうが、たえず暗澹あんたんと吹きめぐっている風穴かざあなのなかでは、一しゅんのまも目をいていられないのだ。そればかりか、夜のけるほど風のつめたさがまして八寒地獄はっかんじごくのそこへ落ちたごとく総身そうみがちぢみあがってくる。
「あア忍剣にんけんはどうした……忍剣はもうあの湖水のくずとなってしまったのか」
 いまとなって、しみじみと思いだされてくるのであった。
「忍剣、忍剣。おまえさえいれば、こんな野武士のぶしのはずかしめを受けるのではないのに……」
 くちびるをかんで、転々と身もだえしていると、なにか、とん、とん、とん……とからだの下の地面がなってくる心地がしたので、
「はてな? ……」と身をおこすと、そのはずみに、目のまえの、二しゃく四方ばかりな一枚石が、ポンとはねあがって、だれやら、覆面ふくめんをした者の頭が、ぬッとその下からあらわれた。

黒衣こくい義人ぎじん




 山大名やまだいみょう根来小角ねごろしょうかく殿堂でんどうは、七つの洞窟どうくつからできている。その七つの洞穴ほらあなから洞穴は、たてに横に、上に下に、自由自在の間道かんどうがついているが、それは小角ひとりがもっているかぎでなければかないようになっていた。
 また、そとには、まえにもいったとおり、二つの洞門どうもんがあって、配下の野武士のぶしが五人ずつ交代こうたいで、篝火かがりびをたきながら夜どおし見はりをしている厳重げんじゅうさである。
 今宵こよいもこの洞門のまえには、赤いほのおと人影がみえて、夜ふけのたいくつしのぎに、何か高声たかごえで話していると、そのさいちゅうに、ひとりがワッとおどろいて飛びのいた。
「なんだッ」
 と一同が総立ちになったとき、洞門のなかからばらばらととびだしてきたのは七、八ひきのさるであった。
「なんださるじゃないか、臆病者おくびょうものめ」
「どうしておりからでてきたのだろう。咲耶子さくやこさまのかわいがっている飼猿かいざるだ。それ、つかまえろッ」
 と八ぽうへちってゆくさるを追いかけていったあと、留守るすになった二の洞門どうもんの入口から脱兎だっとのごとくとびだしたかげ! ひとりは黒装束くろしょうぞく覆面ふくめん、そのかげにそっていたのは、伊那丸いなまるにそういなかった。
「何者だッ」
 と一の洞門では、早くもその足音をさとって、ひとりが大手をひろげてどなると、鉄球てっきゅうのように飛んでいった伊那丸が、どんと当身あてみの一けんをついた。
「うぬ!」と風をきって鳴った山刀やまがたなのひかり。
 よろりとおよいだ影は、伊那丸のちいさな影から、あざやかに投げられて、断崖だんがいやみへのまれた。
曲者くせものだ! みんな、でろ」
 覆面の黒装束へもおそいかかった。姿すがたはほっそりとしているのに、手練しゅれんはあざやかだった。よりつく者を投げすてて、すばやく逃げだすのを、横あいからまた飛びついていったひとりがむんずと組みついて、その覆面の顔をまぢかく見て、
「ああ、あなたは」と、愕然がくぜんとさけんだ。
 顔を見られたと知った覆面は、おどろく男を突ッぱなした。よろりと身をそるところへ、黒装束の腰からさッとほとばしった氷のやいば! 男の肩からけさがけにりさげた。――ワッという絶叫ぜっきょうとともにやみにたちまよった血けむりの血なまぐささ。
「伊那丸さま」
 黒装束くろしょうぞくは、手まねきするやいなや、岩つばめのようなはやさで、たちまち、そこからかけおりていってしまった。


 下界げかいをにらみつけるような大きな月が、人ひとり、鳥一羽の影さえない、裾野すそののそらの一かくに、夜の静寂しじまをまもっている。
 そのびょうとしてひろい平野の一本杉に、一ぴきの白駒しろこまがつながれていた。馬は、さびしさも知らずに、月光をあびながら、のんきに青すすきを食べているのだ。
 いっさんにかけてきた黒装束くろしょうぞくは、白馬しろうまのそばへくるとぴッたり足をとめて、
伊那丸いなまるさま、もうここまでくれば大じょうぶです」
 と、あとからつづいてきた影へ手をあげた。
「ありがとうござりました」
 伊那丸は、ほッとして夢心地ゆめごこちをさましたとき、ふしぎな黒装束の義人ぎじんのすがたを、はじめて落ちついてながめたのであるが、その人は月の光をしょっているので、顔はよくわからなかった。
「もう大じょうぶです。これからこの野馬のうまにのって、明方までに富士川ふじがわの下までお送りしてあげますから、あれから駿府すんぷへでて、いずこへなり、身をおかくしなさいまし、ここに関所札せきしょふだもありますから……」
 と、黒装束くろしょうぞくのさしだした手形てがたをみて、伊那丸いなまるはいよいよふしぎにたえられない。
「そして、そなたはいったいたれびとでござりますぞ」
「だれであろうと、そんなことはいいではありませんか。さ、早く、これへ」
 と白駒しろこま手綱たづなをひきだしたとき、はじめて月に照らされた覆面ふくめんのまなざしを見た伊那丸は、思わずおおきなこえで、
「や! そなたはさっきの女子おなご咲耶子さくやこというのではないか」
「おわかりになりましたか……」すずしいひとみにちらとみを見せて、それへ両手をつきながら、
「おゆるしくださいませ、父の無礼ぶれいは、どうぞわたしにかえてごかんべんあそばしませ……」と、わびた。
「では、そなたは小角しょうかくの娘でしたか」
「そうです、父のしかたはまちがっております。そのおわびにかぎをそッと持ちだしておたすけもうしたのです。伊那丸さま、あなたのおうわさは私も前から聞いておりました、どうぞお身を大切にして、かがやかしい生涯しょうがいをおつくりくださいまし」
「忘れませぬ……」
 伊那丸は、神のような美少女の至情にうたれて、思わずホロリとあつい涙をそでのうちにかくした。
 と、咲耶子はいきなり立ちあがった。
「あ――いけない」と顔いろを変えてさけんだ。
「なんです?」
 と、伊那丸いなまるもそのひとみのむいたほうをみると、あいいろの月の空へ、ひとすじの細い火が、ツツツツーと走りあがってやがてえた。
「あの火は、この裾野すその一帯の、森や河原にいる野伏のぶせり力者りきしゃに、あいずをする知らせです。父は、あなたの逃げたのをもう知ったとみえます。さ、早く、この馬に。……抜けみちは私がよく知っていますから、早くさえあれば、しんぱいはありませぬ」
 とせき立てて、伊那丸の乗ったあとから、じぶんもひらりと前にのって、手ぎわよく、手綱たづなをくりだした。
 その時、すでにうしろのほうからは、百足むかでのようにつらなった松明たいまつが、山峡やまあいやみから月をいぶして、こなたにむかってくるのが見えだした。
「おお、もう近い!」
 咲耶子さくやこは、ピシリッと馬に一鞭ひとむちあてた。一声たかくいなないたこまは、征矢そやよりもはやく、すすきの波をきって、まッしぐらに、南のほうへさしてとぶ――


 それよりも前の、夕ぐれのことである。
 夕陽ゆうひのうすれかけたみずうみの波をザッザときって、おかへさして泳いでくるものがあった。湖水のぬし山椒さんしょううおかとみれば、水をきッてはいあがったのはひとりの若僧わかそう――かの忍剣にんけんなのであった。
 どっかりと、岸辺きしべへからだを落とすと、忍剣はすぐころもをさいて、ひだりのひじ矢傷やきずをギリギリ巻きしめた。そして身をはねかえすがいなや、白旗しらはたの宮へかけつけてきてみると、伊那丸いなまるのすがたはみえないで、ただじぶんの鉄杖てつじょうだけが立てかけてのこっていた。
「若さま――、伊那丸さまア――」
 二ど三ど、こえ高らかに呼んでみたが、さびしい木魂こだまがかえってくるばかりである。それらしい人の影もあたりに見えてはこない。
「さては」と忍剣は、心をくらくした。湖水のなかほどへでたとき、ふいに矢を乱射らんしゃしたやつのしわざにちがいない。小さなくりぬき舟であったため、矢をかわしたはずみに、くつがえってしまったので、石櫃いしびつはかんぜんに湖心のそこへ沈めたけれど、伊那丸の身を何者かにうばわれては、あの宝物ほうもつも、永劫えいごうにこの湖から世にだす時節もなくなるわけだ。
「ともあれ、こうしてはおられない、命にかけても、おゆくえをさがさねばならぬ」
 鉄杖をひッかかえた忍剣は、八ぽうへ血眼ちまなこをくばりながら、湖水の岸、あなたこなたの森、くまなくたずね歩いたはてに、どこへ抜けるかわからないで、とある松並木をとおってくると、いた! 二、三町ばかり先を、白い影がとぼとぼとゆく。
「オーイ」
 と手をあげながらかけだしていくと、半町ほどのところで、フイとその影を見うしなってしまった。
「はてな、ここは一すじ道だのに……」
 小首をひねって見まわしていると、なんのこと、いつかまた、三町も先にその影が歩いている。
「こりゃおかしい。伊那丸いなまるさまではないようだが、あやしいやつだ。一つつかまえてただしてくれよう」
 とちゅうをとんで追いかけていくうちに、また先の者が見えなくなる。足をとめるとまた見える。さすがの忍剣にんけんも少しくたびれて、どっかりと、道の木の根に腰かけて汗をふいた。
「どうもみょうなやつだ。人間の足ではないような早さだ。それとも、あまり伊那丸さまのすがたを血眼ちまなこになってさがしているので、気のせいかな」
 忍剣がひとりでつぶやいていると、その鼻ッ先へ、スーッと、うすむらさき色の煙がながれてきた。
「おや……」ヒョイとふりあおいでみると、すぐじぶんのうしろに、まっ白な衣服をつけた男がたばこをくゆらしながら、忍剣の顔をみてニタリと笑った。
「こいつだ」
 と見て、忍剣もグッとにらみつけた。男はおいをせおっている六部ろくぶである。ばけものではないにちがいない。にらまれても落ちついたもの、スパリスパリと、二、三ぷくすって、ポンと、立木の横で、きせるをはたくと、あいさつもせずに、またすたすたとでかけるようすだ。
「まて、六部ろくぶまて」
 あわてて立ちあがったが、もうかれの姿は、あたりにも先にも見えない。忍剣にんけんはあきれた。世のなかには、奇怪なやつがいればいるものと、ぼうぜんとしてしまった。
 疑心暗鬼ぎしんあんきとでもいおうか、場合がばあいなので、忍剣には、どうも今の六部の挙動きょどうがあやしく思えてならない。なんとなく伊那丸いなまるの身をやみにつつんだのも、きゃつの仕事ではないかと思うと、いま目のさきにいたのをがしたのがざんねんになってきた。
「あやしい六部だ。よし、どんな早足をもっていようがこの忍剣のこんきで、ひッとらえずにはおかぬぞ」
 とかれはまたも、いっさんにかけだした。

つき裾野すその




 並木なみきがとぎれたところからは、一望千里の裾野すそのが見わたされる。
 忍剣にんけんは、この方角とにらんだ道を、一ねんこめて、さがしていくと、やがて、ゆくてにあたって、一の六角堂が目についた。
「おお、あれはいつの年か、このへんでたたかいのあったとき焼けのこった文殊閣もんじゅかくにちがいない。もしかすると、六部ろくぶも、あれかもしれぬぞ……」
 といさみたって近づいていくと、はたして、くずれかけた文殊閣の石段のうえに、白衣びゃくえの六部が、月でもながめているのか、ゆうちょうな顔をして腰かけている。
「こりゃ六部、あれほどんだのになぜ待たないのだ」
 忍剣はこんどこそ逃がさぬぞという気がまえで、その前につッ立った。
「なにかご用でござるか」
 と、かれはそらうそぶいていった。
「おおさ、問うところがあればこそ呼んだのだ。年ごろ十四、五に渡らせられる若君を見失ったのだ。知っていたら教えてくれ」
「知らない、ほかで聞け」
 六部の答えは、まるで忍剣を愚弄ぐろうしている。
「だまれッ、この裾野すそのの夜ふけに、問いたずねる人間がいるか。そういうなんじの口ぶりがあやしい、正直にもうさぬと、これだぞッ」
 ぬッと、鉄杖てつじょうを鼻さきへ突きつけると、六部はかるくその先をつかんで、腰の下へしいてしまった。
「これッ、なんとするのだ」
 忍剣にんけんは、渾力こんりきをしぼって、それを引きぬこうとこころみたが、ぬけるどころか、大山たいざんにのしかかられたごとく一寸のゆるぎもしない。しかも、六部ろくぶはへいきな顔で、両膝りょうひざにほおづえをついて笑っている。
「むッ……」
 と忍剣は、総身そうみの力をふりしぼった。力にかけては、怪童といわれ、恵林寺えりんじのおおきな庭石をかるがるとさして山門の階段をのぼったじぶんである。なにをッ、なにをッと、引けどねじれど、鉄杖てつじょうのほうが、まがりそうで、六部のからだはいぜんとしている。すると、ふいに、六部が腰をうかした。
「あッ――」
 思わずうしろへよろけた忍剣は、かッとなって、その鉄杖をふりかぶるが早いか、磐石ばんじゃくみじんになれと打ちこんだが、六部の姿はひらりとかわって、くうをうった鉄杖のさきが、はっしと、石のをとばした。
「無念ッ」とかえす力で横ざまにはらい上げた鉄杖を、ふたたびくぐりぬけた六部は、つえにしこんである無反むぞりの冷刀れいとうをぬく手も見せず、ピカリと片手にひらめかせて、
若僧わかそう、雲水」とさびをふくんだ声でよんだ。
「なにッ」と持ちなおした鉄杖を、まッこうにふりかぶった忍剣は、怒気どきにもえた目をみひらいて、ジリジリと相手のすきをねらいつめる。
 六部ろくぶはといえば、片手にのばした一刀を、肩から切先きっさきまで水平にかまえて、忍剣にんけんの胸もとへと、うす気味のわるい死のかげを、ひら、ひら――とときおりひらめかせていく――。たがいの息と息は、その一しゅん、水のようにひそやかであった。しかも、総身そうみの毛穴からもえたつ熱気は、ほのおとなって、いまにも、そうほうの切先から火のをえがきそうに見える……。
 とつとして、風を切っておどった銀蛇ぎんだは、忍剣の真眉間まみけんへとんだ。
「おうッ」と、さけびかえした忍剣は、それを鉄杖てつじょうではらったが、くうをうッてのめッたとたん、背をのぞんで、六部はまたさッと斬りおろしてきた。
 そのはやさ、かわすもあらばこそ、忍剣も、ぽんとうしろへとびのくよりさくがなかった。そして、みとどまるが早いか、ふたたび鉄杖を横がまえに持つと、
「待て」と六部の声がかかった。
ひるんだかッ」たたき返すように忍剣がいった。
「いやおくれはとらぬ。しかしきさまの鉄杖はめずらしい。いったいどこの何者だか聞かしてくれ」
「あてなしの旅をつづける雲水の忍剣というものだ。ところで、なんじこそただの六部ではあるまい」
「あやしいことはさらにない。ありふれた木遁もくとん隠形おんぎょうでちょっときさまをからかってみたのだ」
「ふらちなやつだ。さてはきさまは、どこかの大名だいみょうの手先になって、諸国をうかがう、間諜いぬだな」
「ばかをいえ。しのびにけているからといって、諜者ちょうじゃとはかぎるまい。このとおり六部ろくぶを世わたりにする木隠龍太郎こがくれりゅうたろうという者だ。こう名のったところできくが、さっききさまのたずねた若君とは何者だ」
「その口にいつわりがないようすだから聞かしてやる。じつは、さる高貴なおん方のおともをしている」
「そうか。では武田たけだ御曹子おんぞうしだな……」
「や、どうして、なんじはそれを知っているのだ?」
恵林寺えりんじほのおのなかからのがれたときいて、とおくは、飛騨ひだ信濃しなのの山中から、この富士ふじ裾野すそのたいまで、足にかけてさがしぬいていたのだ。きさまの口うらで、もうおいでになるところは拙者せっしゃの目にうつってきた。このさきは、伊那丸いなまるさまはおよばずながら、この六部がお附添つきそいするから、きさまは、安心してどこへでも落ちていったがよかろう」
 忍剣にんけんはおどろいた。まったくこの六部のいうこと、なすことは、いちいちにおちない。のみならず、じぶんをしりぞけて、伊那丸をさがしだそうとする野心もあるらしい。
「たわけたことをもうせ。伊那丸さまはこの忍剣が命にかけて、おまもりいたしているのだわ」
「そのお傅役もりやくが、さらわれたのも知らずにいるとは笑止千万しょうしせんばんじゃないか。御曹子おんぞうしはまえから拙者せっしゃがさがしていたおん方だ、もうきさまに用はない」
「いわせておけば無礼ぶれいなことばを」
「それほどもうすなら、きさまはきさまでかってにさがせ。どれ、拙者せっしゃは、これから明け方までに、おゆくえをつきとめて、思うところへおともをしよう」
「このれものが」
 と、忍剣にんけんは真から腹立たしくなって、ふたたび鉄杖てつじょうをにぎりしめたとき、はるか裾野すそののあなたに、ただならぬ光を見つけた。
 六部ろくぶ木隠龍太郎こがくれりゅうたろうも見つけた。
 ふたりはじッとひとみをすえて、しばらく黙然もくねんと立ちすくんでしまった。
 それは蛇形だぎょうじんのごとく、うねうねと、裾野すそののあなたこなたからぬいめぐってくる一どう火影ほかげである。多くの松明たいまつ右往左往うおうざおうするさまにそういない。
「あれだ!」いうがはやいか龍太郎は、一そくとびに、石段から姿をおどらした。
「うぬ。なんじの手に若君をとられてたまるか」
 忍剣にんけんも、韋駄天いだてんばしり、この一足ひとあしが、必死のあらそいとはなった。


 ただ見る――白い月の裾野すそのを、銀の奔馬ほんばにむちをあげて、ひとつのくらにのった少年の貴公子きこうしと、覆面ふくめんの美少女は、地上をながるる星とも見え、玉兎ぎょくとが波をけっていくかのようにも見える。たちまち、そらの月影が、黒雲のうちにさえぎられると、裾野すそのもいちめんの如法闇夜にょほうあんや、ただ、ザワザワと鳴るすすきの風に、つめたい雨気さえふくんできた。
「あ、折りがわるい――」
 と、こまをとめて、空をあおいだ咲耶子さくやこの声は、うらめしげであった。
「おお、雲は切れめなくいちめんになってきた。咲耶どの、もうこまをはやめてはあぶない、わしはここでおりますから、あなたは岩殿いわどのへお帰りなさい」
「いいえ、まだ富士川ふじがわべりまでは、あいだがあります」
「いや、そなたが帰ってから、小角しょうかくにとがめられるであろうと思うと、わしは胸がいたくなります。さ、わしをここでおろしてください」
伊那丸いなまるさま、こんなはてしも見えぬ裾野のなかで、馬をお捨てあそばして、どうなりますものか」
 いいあらそっているすきに、十けんとは離れない窪地くぼちの下から、ぱッと目を射てきた松明たいまつのあかり。
「いたッ」
「逃がすな」と、八ぽうからの声である。
「あッ、大へん」
 と咲耶子はピシリッとこまをうった。ザザーッと道もえらまずに数十けん、一気にかけさせたのもつかのであった。たのむ馬が、窪地くぼちに落ちてあしを折ったはずみに、ふたりはいきおいよく、草むらのなかへ投げ落とされた。
「それッ、落ちた。そこだッ」
 むらがりよってきた松明たいまつの赤いほのお山刀やまがたなの光、やりさき。
 ふたりのすがたは、たちまちそのかこみのなかに照らしだされた。
「もう、これまで」
 と小太刀こだちをぬいた伊那丸いなまるは、その荒武者あらむしゃのまッただなかへ、運にまかせて、斬りこんだ。
 咲耶子さくやこも、覆面ふくめんなのを幸いに一刀をもって、伊那丸の身をまもろうとしたが、さえぎる槍や大刀にたたみかけられ、はなればなれに斬りむすぶ。
「めんどうくさい。武田たけだわっぱも、手引きしたやつも、片ッぱしから首にしてしまえ」
 大勢のなかから、こうどなった者は、咲耶子と知ってか知らぬのか、山大名やまだいみょう根来小角ねごろしょうかくであった。
 時に、そのすさまじいつるぎのうずへ、とつとして、横合いからことばもかけずに、無反むぞりの大刀をおがみに持って、飛びこんできた人影がある。六部ろくぶ木隠龍太郎こがくれりゅうたろうであった。一せんかならず一人を斬り、一気かならず一を割る、手練しゅれんの腕は、超人的ちょうじんてきなものだった。
 それとみて、愕然がくぜんとした根来小角は、みずから大刀をとって、ふるいたった。
 と同時に、一足ひとあしおくれて、かけつけた忍剣にんけん鉄杖てつじょうも、風を呼んでうなりはじめた。
 空はいよいよ暗かった。降るのはこまかい血の雨である。たばしるつるぎ稲妻いなずまにまきこまれた、可憐かれん咲耶子さくやこの身はどうなるであろう。――そして、武田伊那丸たけだいなまるの運命は、はたしてだれの手ににぎられるのか?

朱柄あかえやりおとこ




 雲の明るさをあおげば、夜はたしかに明けている。しかし、加賀見忍剣かがみにんけんの身のまわりだけは、常闇とこやみだった。かれは、とんでもない奈落ならくのそこに落ちて、土龍もぐらのようにもがいていた。
伊那丸いなまるさまはどうしたであろう。あの武士のれにとりかえされたか、あるいは、六部ろくぶ木隠こがくれというやつにさらわれてしまったか? ――そのどっちにしても大へんだ。アア、こうしちゃいられない、グズグズしている場合じゃない……」
 忍剣は、どんな危地きちに立っても、けっしてうろたえるような男ではない。ただ、伊那丸の身をあんじてあせるのだった。地の理にくらいため、乱闘のさいちゅうに、足をみすべらしたのが、かえすがえすもかれの失敗であった。
 ところが、そこは裾野すそのにおおい断層だんそうのさけ目であって、両面とも、切ってそいだかのごとき岩と岩とにはさまれている数丈すうじょうの地底なので、さすがの忍剣にんけんも、精根せいこんをつからして空の明るみをにらんでいた。
「む! 根気だ。こんなことにくじけてなるものか」
 とふたたびそでをまくりなおした。かれは鉄杖てつじょうを背なかへくくりつけて、護身ごしんの短剣をぬいた。そして、岩の面へむかって、一段いちだん一段、じぶんの足がかりを、掘りはじめたのである。
 すると、なにかやわらかなものが、忍剣のほおをなでてははなれ、なでてははなれするので、かれはうるさそうにそれを手でつかんだ時、はじめて赤いきぬ細帯ほそおびであったことを知った。
「おや? ……」
 と、あおむいて見ると、ちゅうとからふじづるかなにかで結びたしてある一筋ひとすじが、たしかに、上からじぶんを目がけてさがっている。
「ありがたい!」
 と力いっぱい引いてこころみたが、切れそうもないので、それをたよりに、するするとよじのぼっていった。
 ぽんと、大地へとびあがったときのうれしさ。
 忍剣はこおどりして見まわすと、そこに、思いがけない美少女がみをふくんで立っている。少女の足もとには、なぞのような黒装束くろしょうぞく上下うえしたがぬぎ捨てられてあった。
「や、あなたは……」
 と忍剣にんけんはいぶかしそうに目をみはった。その問いにおうじて、少女は、
「わたくしはこの裾野すその山大名やまだいみょう根来小角ねごろしょうかくの娘で、咲耶子さくやこというものでございます」
 と、はっきりしたこわでこたえた。
「そのあなたが、どうしてわたしをたすけてくださったのじゃ」
「ごそうは、伊那丸いなまるさまのおとものかたでございましょうが」
「そうです。若君のお身はどうなったか、それのみがしんぱいです。ごぞんじなら、教えていただきたい」
「伊那丸さまは、ごそうと一しょに斬りこんできた六部ろくぶのひとが、おそろしい早技はやわざでどこともなく連れていってしまいました。あの六部が、善人か悪人か、わたくしにもわからないのです。それをあなたにお知らせするために夜の明けるのを待っていたのです」
「えッ、ではやっぱりあの六部にしてやられたか。して六部めは、どっちへいったか、方角だけでも、ごぞんじありませんか」
「わたくしはそのまえに、富士川ふじがわをくだって、東海道から京へでる関所札せきしょふだをあげておきましたが、その道へ向かったかどうかわかりませぬ」
「しまった……?」
 と、忍剣は吐息といきをもらした。と、咲耶子は、にわかに色をかえてせきだした。
「あれ、父の手下どもが、わたくしをたずねてむこうからくるようです。すこしも早くここをお立ちのきあそばしませ。わたくしは山へ帰りますが、かげながら、伊那丸いなまるさまのお行く末をいのっております」
「ではお別れといたそう。拙僧せっそうとて、安閑あんかんとしておられる身ではありません」
 ふたたび鉄杖てつじょうを手にした忍剣にんけんは、別れをつげて、うらみおおき裾野すそのをあとに、いずこともなく草がくれに立ち去った。
 ――咲耶子さくやこも、しばしのあいだは、そこに立ってうしろ姿すがたを見おくっていた。


 浜松はままつの城下は、海道一の名将、徳川家康とくがわいえやすのいる都会である。その浜松は、ここ七日のあいだは、男山八幡おとこやまはちまんの祭なので、夜ごと町は、おびただしいにぎわいであった。
「どうですな、鎧屋よろいやさん、まだ売れませんか」
 その八幡はちまん玉垣たまがきの前へならんでいた夜店の燈籠売とうろううりがとなりの者へはなしかけた。
「売れませんよ。今日で六日もだしていますがだめです」
 と答えたのは、十八、九の若者で、たった一組のよろいをあき箱の上にかざり、じぶんのそばには、一本の朱柄あかえやりを立てかけて、ぼんやりとそこに腰かけている。
「おまえさんの燈籠とうろうのほうは、女子供が相手だから、さだめし毎日たくさんの売上げがありましたろう」
「どうしてどうして、あの鬼玄蕃おにげんばというご城内の悪侍わるざむらいのために、今年はからきし、あきないがありませんでした」
「ゆうべもわたしがかえったあとで、だれかが、あいつらに斬られたということですが、ほんとでしょうかね」
「そんなことは珍しいことじゃありませんよ。店をメチャメチャにふみつぶされたり、片輪かたわにされたかわいそうな人が、何人あるか知れやしません。まったく弱いものは生きていられない世の中ですね」
 といってる口のそばから、ワーッという声が向こうからあがって、いままで歓楽かんらくの世界そのままであったにぎやかな町のあかりが、バタバタ消えてきた。
 燈籠売とうろううりははねあがってあおくなった。
「大へん大へん、鎧屋よろいやさん、はやく逃げたがいいぜ、鬼玄蕃がきやがったにちがいない」
 にわか雨でもきたように、あたりの商人たちも、ともどもあわてさわいだが、かの若者だけは、腰も立てずに悠長ゆうちょうな顔をしていた。
 案のじょう、そこへ旋風つむじかぜのようにあばれまわってきた四、五人のさむらいがある。なかでも一きわすぐれた強そうな星川玄蕃ほしかわげんばは、つかつかと鎧屋のそばへよってきた。泥酔でいすいしたほかの侍たちも、こいつはいいなぶりものだという顔をして、そこを取りまく。
「やい、町人。このやりはいくらだ」
 と玄蕃げんばはいきなり若者のそばにあった朱柄あかえやりをつかんだ。
「それは売り物じゃありません」
 にべもなく、ひッたくって槍をおきかえたかれは、あいかわらず、無神経むしんけいにすましこんでいた。
「けしからんやつだ、売り物でないものを、なぜ店へさらしておく。こいつ、客をつる山師やましだな」
「槍はわしの持物です。どこへいくんだッて、この槍を手からはなさぬ性分しょうぶんなんだからしかたがない」
「ではこのよろいが売りものなのか。黒皮胴くろかわどう萌黄縅もえぎおどし、なかなかりっぱなものだが、いったいいくらで売るのだ」
「それも売りたいしなではないが、おふくろが病気なので、薬代くすりだいにこまるからやむなく手ばなすんです。ッぱらったみなさまがさわいでいると、せっかくのお客も逃げてしまいます。早くあっちへいってください」
無愛想ぶあいそうなやつだ。買うからねだんを聞いているのだ」
金子きんす五十枚、びた一もんもまかりません。はい」
「たかい、銅銭五十枚にいたせ、買ってくれる」
「いけません、まっぴらです」
「ふらちなやつだ。だれがこんなボロ鎧に、金五十枚をだすやつがあるか、バカめッ」
 玄蕃げんば土足どそくをあげてったので、よろいはガラガラとくずれて土まみれになった。こんならんぼうは、泰平たいへいの世には、めったに見られないが、あけくれ血や白刃しらはになれた戦国武士の悪い者のうちには、町人百姓を蛆虫うじむしとも思わないで、ややともすると、傲慢ごうまんな武力をもってかれらへのぞんでゆくものが多かった。
山師やましめッ」
 ほかの武士ぶしどもも、口を合わせてののしった上によろいみちらして、どッと笑いながら立ちさろうとした時、若者のまゆがピリッとあがった。――と思うまに、朱柄あかえやりは、いつか、その小脇こわきにひッかかえられていた。
「待てッ」
「なにッ」とふりかえりざま、刀のつかへ手をかけた五人の、おそろしい眼つき。
 すわと、弥次馬やじうまは、うしおのごとくたちさわいだ。――と、その群集のなかから、まじろぎもせずに、朱柄の槍先をみつめていた白衣びゃくえ六部ろくぶと、ひとりの貴公子きこうしふうの少年とがあった。
 玉垣たまがきを照らしている春日燈籠かすがどうろう灯影ほかげによく見ると、それこそ、裾野すその危地きちを斬りやぶって、行方ゆくえをくらました木隠龍太郎こがくれりゅうたろうと、武田伊那丸たけだいなまるのふたりであった。
 六部の龍太郎は、はたして、なんの目的で伊那丸をうばいとってきたかわからないが、ここに立ったふたりのようすからさっすると、いつか伊那丸もかれを了解りょうかいしているし、龍太郎も主君のごとくうやまっているようだ。しかしそれにしても武田の残党ざんとうを根だやしにするつもりである敵の本城地に、かく明からさまに姿をあらわしているのは、なんという大胆だいたんな行動であろう。今にもあれ、徳川家とくがわけ目付役めつけやくか、酒井黒具足組くろぐそくぐみの目にでもふれたらば最後、ふたりの身の一大事となりはしまいか?
 それはとにかく、いっぽう、鎧売よろいうりの若者は、はやくも、やりを、穂短ほみじかにしごいて、ジリジリと一寸にじりに五人の武士へ迫ってゆく――
「小僧ッ、気がちがったか」玄蕃げんばはののしった。
「気はちがっていない! 町人のなかにも男はいる、天にかわって、なんじらをこらしてやるのだ」
「なまいきなことをほざく下郎げろうだ、汝らがこのご城下で安穏あんのんにくらしていられるのは、みなわれわれが敵国と戦っている賜物たまものだぞ。ばちあたりめ」
「町人どもへよい見せしめ、そのほそ首をぶッ飛ばしてくれよう」
「うごくなッ」
 鬼玄蕃おにげんばをはじめ、一同の刀が、若者の手もとへ、ものすさまじく斬りこんだ。


 とたんに、朱柄あかえやりは、一本の火柱のごとく、さッと五本の乱刀を天宙てんちゅうからたたきつけた。
 わッと、あいての手もとが乱れたすきに、若者はまた一声「えいッ」とわめいて、ひとりのむなさきを田楽刺でんがくざしにつきぬくがはやいか、すばやく穂先ほさきをくり引いて、ふたたびつぎの相手をねらっている。
 その早技はやわざも、非凡ひぼんであったが、よりおどろくべきものは、かれのこい眉毛まゆげのかげから、らんらんたる底光をはなってくる二つのひとみである。それは、やりの穂先よりするどい光をもっている。
「やりおったな、小僧こぞうッ。もうゆるさん」
 玄蕃げんばは怒りにもえ、金剛力士こんごうりきしのごとく、太刀たちをふりかぶって、槍の真正面に立った。かれのがんじょうな五体は、さすが戦場のちまたできたえあげたほどだけあって、小柄こがらな若者を見おろして、ただ一げきといういきおいをしめした。それさえあるのに、あと三人の武士ぶしも、めいめいきっさきをむけて、ふくろづめに、一寸二寸と、若者のいのちに、くいよってゆくのだ。
 ああ、あぶない。
龍太郎りゅうたろう――」
 と、こなたにいた伊那丸いなまるは、息をのんでかれのそでをひいた、そしてなにかささやくと、龍太郎はうなずいて、ひそかに、例の仕込杖しこみづえ戒刀かいとうをにぎりしめた。いざといわば、一気におどりこんで、木隠こがくれりゅうえを見せんとするらしい。
 ヤッという裂声れっせいがあたりの空気をつんざいた。鬼玄蕃おにげんば星川ほしかわが斬りこんだのだ。あかやりがサッとさがる――玄蕃はふみこんで、二の太刀をかぶったが、そのとき、流星のごとくとんだやりが、ビュッと、鬼玄蕃おにげんば喉笛のどぶえから血玉をとばした。
「わッ――」と弓なりにそってたおれたと見るや、のこる三人のさむらいは、必死に若者の左右からわめきかかる、疾風しっぷうか、稲妻いなずまか、やいばか、そこはただものすごい黒旋風くろつむじとなった。
「えいッ、どもめ!」
 若者は、二、三ど、朱柄あかえやりをふりまわしたが、トンと石突きをついたはずみに、五尺の体をヒラリおどらすが早いか、やしろの玉垣を、飛鳥のごとく飛びこえたまま、あなたのやみへ消えてしまった。
 バラバラと武士もどこかへかけだした。あとは血なまぐさい風に、消えのこったともしびがまたたいているばかり。
「アア、気もちのよい男」
 と伊那丸いなまるは、思わずつぶやいた。
拙者せっしゃも、めずらしいやり玄妙げんみょうをみました」
 龍太郎りゅうたろう助太刀すけだちにでようとおもうまに、みごとに勝負をつけてしまった若者の早技はやわざに、したをまいて感嘆かんたんしていた。そして、ふたりはいつかそこを歩みだして、浜松城に近い濠端ほりばたを、しずかに歩いていたのである。
 すると、大手門の橋から、たちまち空をこがすばかりのほのおの一列が疾走しっそうしてきた。龍太郎は見るより舌うちして、伊那丸とともに、濠端のやなぎのかげに身をひそませていると、まもなく、松明たいまつを持った黒具足くろぐそくの武士が十四、五人、目の前をはしり抜けたが、さいごのひとりが、
「待て、あやしいやつがいた」とさけびだした。
「なに? いたか」
 バラバラと引きかえしてきた人数は、いやおうなく、ふたりのまわりをとり巻いてしまった。
「ちがった、こいつらではない」
 と一目見た一同は、ふり捨ててふたたびゆきすぎかけたが、そのとき、
「ややッ、伊那丸いなまる武田伊那丸たけだいなまるッ」と、だれかいった者がある。


 朱柄あかえやりをもった曲者くせものが、城内の武士ぶしをふたりまで突きころしたという知らせに、さては、敵国の間者かんじゃではないかと、すぐ討手うってにむかってきたのは、酒井黒具足組くろぐそくぐみの人々であった。
 運わるく、そのなかに、伊那丸の容貌かおかたちを見おぼえていた者があった。かれらは、おもわぬ大獲物おおえものに、武者むしゃぶるいをきんじえない。たちまちドキドキする陣刀は、伊那丸と龍太郎りゅうたろうのまわりにかきをつくって、身うごきすれば、五体ははちだぞ――といわんばかりなけんまくである。
「ちがいない。まさしくこの者は、武田伊那丸たけだいなまるだ」
「おしろちかくをうろついているとは、不敵なやつ。尋常にせねばなわをうつぞ、甲斐源氏かいげんじ御曹司おんぞうし縄目なわめを、はじとおもわば、神妙しんみょうにあるきたまえ――」
 侍頭さむらいがしら坂部十郎太さかべじゅうろうたが、おごそかにいいわたした。
 伊那丸は、ちりほどもおくしたさまは見せなかった。りんとはった目をみひらいて、周囲のものをみつめていたが、ちらと、龍太郎りゅうたろうの顔を見ると――かれもひとみをむけてきた。以心伝心いしんでんしん、ふたりの目と目は、瞬間にすべてを語りあってしまう。
「いかにも――」龍太郎はそこでしずかに答えた。
「ここにおわすおんかたは、おさっしのとおり、伊那丸君であります。天下の武将のなかでも徳川とくがわどのは仁君じんくんとうけたまわり、おん情けのそでにすがって、若君のご一身を安全にいたしたいお願いのためまいりました」
「とにかく、きびしいお尋ね人じゃ、おあるきなさい」
「したが、落人おちゅうどのお身の上でこそあれ、無礼のあるときは、この龍太郎が承知いたさぬ、そうおぼしめして、ご案内なさい」
 龍太郎は、戒刀かいとうつえに、伊那丸の身をまもり、すすきをあざむく白刃はくじんのむれは、長蛇ちょうだの列のあいだに、ふたりをはさんで、しずしずと、おにの口にもひとしい、浜松城はままつじょうの大手門のなかへのまれていった。

雷火変らいかへん




 本丸ほんまるとは、城主のすまうところである。築山つきやまの松、たきをたたえたいずみ鶺鴒せきれいがあそんでいる飛石など、いくさのない日は、平和の光がみちあふれている。そこは浜松城のみどりにつつまれていた。
 伊那丸いなまる龍太郎りゅうたろうは、あくる日になって、三の丸、二の丸をとおって、家康いえやすのいるここへ呼びだされた。
勝頼かつよりの次男、武田伊那丸たけだいなまる主従しゅじゅうとは、おん身たちか」
 高座こうざ御簾みすをあげて、こういった家康は、ときに、四十の坂をこえたばかりの男ざかり、智謀ちぼうにとんだ名将のふうはおのずからそなわっている。
「そうです。じぶんが武田伊那丸です」
 龍太郎は、かたわらに両手をついたが、伊那丸ははっきりこたえて、端然たんぜんと、家康の顔をじいとみつめた。――家康も、しかと、こっちをにらむ。
「おう……天目山てんもくざんであいはてた、父の勝頼、また兄の太郎信勝のぶかつに、さても生写いきうつしである……。あのいくさのあとで検分けんぶんした生首なまくびうり二つじゃ」
「うむ……」
 伊那丸いなまるの肩は、あやしく波をうった。かれをにらんだ二つのひとみからは、こらえきれない熱涙が、ハラハラとはふり落ちてとまらない。
 この家康いえやすめが、織田おだと力をあわせ、北条ほうじょうをそそのかして、武田たけだの家をほろぼしたのか、父母や兄や、一族たちをころしたのか――と思うと、くやし涙は、ほおをぬらして、骨にてっしてくる。まなこもらんらんともえるのだった。
「若君、若君……」
 と、龍太郎りゅうたろうはそッとひざをついて目くばせをしたが、伊那丸は、さらに心情をつつまなかった。
「おお……」と家康はうなずいて、そしてやさしそうに、
「父の領地りょうち焦土しょうどとなり、身は天涯てんがい孤児こじとなった伊那丸、さだめし口惜くやしかろう、もっともである。いずれ、家康もとくと考えおくであろうから、しばらくは、まず落ちついて、体をやすめているがよかろう」
 家康はなにか一言ひとこと近侍きんじにいいつけて、その席を立ってしまった。ふたりはやがて、酒井の家臣、坂部十郎太さかべじゅうろうたのうしろにしたがって、二の丸の塗籠造ぬりごめづくりの一室へあんないされた。伊那丸は、ふたりきりになると、ワッとたもとをかんで、泣いてしまった。
「龍太郎、わしは口惜くやしい……くやしかった」
「ごもっともです、おさっしもうしまする」
 とかれもしばらく、伊那丸いなまるの手をとって、あおむいていたが、きッと、あらたまっていった。
「さすがにいまだご若年じゃくねん、ごむりではありますが、だいじなときです。お心をしかとあそばさねば、この大望たいもうをはたすことはできません」
「そうであった、伊那丸は女々めめしいやつのう……」
 と快川和尚かいせんおしょうが、幼心おさなごころへうちこんでおいた教えの力が、そのとき、かれの胸に生々いきいきとよみがえった。にっこりと笑って、涙をふいた。
「わたくしの考えでは、家康いえやすめは、あのするどい目で、若さまのようすから心のそこまで読みぬいてしまったとぞんじます。なかなか、この龍太郎りゅうたろうが考えたにのるような愚将ぐしょうではありませぬから、必然ひつぜん、お身の上もあやういものと見なければなりません」
「わしもそう思った。それゆえに、よしや、いちじの計略はかりごとにせよ、家康などに頭をさげるのがいやであった。龍太郎、そちの教えどおりにしなかった、わしのわがままはゆるしてくれよ」
 果然かぜん、ふたりはまえから、家康の身に近よる秘策ひさくをいだいて、わざと、この城内へとらわれてきたのらしい。しかし、すでにそれを、家康が見破ってしまったからには、さめをうたんがため鮫の腹中にはいって、出られなくなったと、おなじ結果におちたものだ。
 このうえは、家康がどうでるか、敵のでようによってこの窮地きゅうちから活路かつろをひらくか、あるいは、浜松城の鬼となるか、武運の分れめを、一きょにきめるよりほかはない。


 日がくれると、膳所ぜんしょさむらいが、おびただしい料理や美酒をはこんできて、うやうやしくふたりにすすめた。
「わが君のこころざしでござります。おくつろぎあって、じゅうぶんに、おすごしくださるようにとのおことばです」
過分かぶんです。よしなに、お伝えください」
「それと、城内のおきてでござるが、ご所持のもの、ご佩刀はいとうなどは、おあずかりもうせとのことでござりますが」
「いや、それはことわります」と龍太郎りゅうたろうはきっぱり、
「若君のお刀は伝家の宝刀、ひとの手にふれさせていいしなではありませぬ。また、拙者せっしゃつえ護仏ごぶつ法杖ほうじょうおいのなかは三尊さんぞん弥陀みだです。ご不審ふしんならば、おあらためなさるがよいが、お渡しもうすことは、ちかってあいなりません」
「では……」
 と、その威厳いげんにおどろいた家臣たちは、おずおずと笈のなかをあらためたが、そのなかには、龍太郎の言明したとおり、三体のほとけのぞうがあるばかりだった。そして、つえのあやしい点には気づかずに、そこそこに、そこからさがってしまった。
「若君、けっして手をおふれなさるな、この分では、これもあやしい」
 と、膳部ぜんぶ吸物椀すいものわんをとって、なかのしるを、部屋の白壁にパッとかけてみると、すみのように、まっ黒に変化して染まった。
「毒だ! この魚にも、この飯にも、おそろしい毒薬がまぜてある。伊那丸いなまるさま、家康いえやすの心はこれではっきりわかりました。うわべはどこまでも柔和にゅうわにみせて、わたしたちを毒害どくがいしようというはらでした」
「ではここも?」
 と伊那丸は立ちあがって、塗籠ぬりごめの出口の戸をおしてみると、はたしてかない。力いっぱい、おせど引けど開かなくなっている。
「若君――」
 龍太郎りゅうたろうはあんがいおちついて、なにか伊那丸の耳にささやいた。そして、夜のふけるのを待って、足帯あしおび脇差わきざしなど、しっかりと身支度みじたくしはじめた。
 やがて龍太郎は、おいのなかから取りのけておいた一体の仏像ぶつぞうを、部屋へやのすみへおいた。そして燭台しょくだいともしびをその上へ横倒しにのせかける。
 部屋の中は、いちじ、やや暗くなったが、仏像の木に油がしみて、ふたたびプスプスと、まえにもまして、明るいほのおを立ててきた。
 龍太郎は、伊那丸の体をひしと抱きしめて、反対のすみによった。そして、できるだけ身をちぢめながら、じッとその火をみつめていた。プス……プス……ほのおは赤くなり、むらさき色になりしてゆくうちに、パッと部屋のなかが真暗になったせつな、チリチリッと、こまかい火のが、仏像からうつくしくほとばしりはじめた。
「若君、耳を耳を」と、いいながら龍太郎も、かたく眼をつぶった。
 その時――
 轟然ごうぜんたる音響おんきょうとともに、仏像のなかにしかけてあった火薬が爆発した。――浜松城の二の丸の白壁は、雷火らいかかれてくずれ落ちた。
 ガラガラと、すさまじい震動しんどうは、本丸ほんまる、三の丸までもゆるがした。すわ変事へんじと、旗本はたもとや、役人たちは、得物えものをとってきてみると、外廓そとぐるわの白壁がおちたところから、いきおいよくふきだしている怪火! すでに、矢倉やぐらへまでもえうつろうとしているありさまだ。
「火事ッ、火事ッ――」
 りかかる火のをあびて、口々にうろたえた顔をあおむかせていると、ふたたび、どッと、突きくずしてきた白壁の口から、紅蓮ぐれんをついてあらわれた者がある。無反むぞりの戒刀かいとうをふりかぶった木隠龍太郎こがくれりゅうたろう、つづいて、武田伊那丸たけだいなまるのすがた。
曲者くせものッ」
 と下では、騒然そうぜんうずをまいた。その白刃の林をめがけて、ほのおのなかから、ひらりと飛びおりた伊那丸と龍太郎――
 ああ、そのあやうさ。


 小太刀こだちをとっては、伊那丸いなまるはふしぎな天才児である。木隠龍太郎こがくれりゅうたろうも戒刀の名人、しかも隠形おんぎょうの術からえた身のかるさも、そなえている。
 けれど、伊那丸も龍太郎も、けっして、匹夫ひっぷゆうにはやる者ではない。どんな場合にも、うろたえないだけの修養はある。――だのに、なぜ、こんな無謀むぼうをあえてしたろう? 白刃林立のなかへ、肉体をなげこめば、たちまち剣のさきに、メチャメチャにされてしまうのは、あまりにも知れきった結果だのに。
 しかし、ひとたび人間が、信念に身をかためてむかう時は、刀刃とうじんも折れ、どんな悪鬼あっき羅刹らせつも、かならず退しりぞけうるという教えもある。ふたりがふりかぶった太刀は、まさに信念の一刀だ。とびおりた五尺のからだもまた、信念の鎖帷子くさりかたびらをきこんでいるのだった。
「わッ」
 とさけんだ下の武士たちは、ふいにふたりが、頭上へ飛びおりてきたいきおいにひるんで、思わず、サッとそこを開いてしまった。
 どんと、ふたりのからだが下へつくやいな、いちじに、乱刀の波がどッと斬りつけていったが、
退すされッ」
 と、龍太郎の手からふりだされた戒刀かいとうさきに、乱れたつ足もと。それを目がけて伊那丸いなまるの小太刀も、飛箭ひせんのごとく突き進んだ。たちまち火花、たちまちつるぎの音、斬りおられたやりちゅうにとび、太刀さきに当ったものは、無残なうめきをあげて、たおれた。
退けッ! だめだ」
 と城のへいにせばめられて、人数の多い城兵は、かえって自由をいた。武士たちは、ふたたび、見ぎたなく逃げ出した。龍太郎りゅうたろうと伊那丸は、血刀をふって、追いちらしたうえ、昼間ひるまのうちに、見ておいた本丸をめがけて、かけこんでいった。
 家康いえやすにちかづいて、武田たけだ一門の思いを知らそうと思ったことは破れたが、せめて一太刀でも、かれにあびせかけなければ――浜松城の奥ふかくまではいってきたかいがない。めざすは本丸!
 あいてはひとり!
 と、ほかの雑兵ぞうひょうには目もくれないで、まっしぐらに、武者走り城壁じょうへき細道ほそみちをかけぬけた。

てんいかだ




 矢倉やぐらへむかった消火隊と、武器をとって討手うってにむかった者が、あらかたである。――で、家康いえやすのまわりには、わずか七、八人の近侍きんじがいるにすぎなかった。
「火はどうじゃ、手はまわったか」
 寝所をでた家康は、そう問いながら、本丸の四阿あずまやへ足をむけていた。すると、やみのなかから、ばたばたとそこへかけよってきた黒い人影がある。
「や!」
 と侍たちが、立ちふさがって、きッと見ると、物の具で身をかためたひとりの武士ぶしが、大地へ両手をついた。
「おかみ武田たけだ主従しゅじゅうが、火薬をしかけたうえに狼藉ろうぜきにおよびました。ご身辺にまんいちがあっては、一大事です。はやくおおくへお引きかえしをねがいまする」
「おう、坂部十郎太さかべじゅうろうたか。たかが稚児ちごどうような伊那丸いなまる六部ろくぶの一人や二人が、おりをやぶったとて、なにをさほどにうろたえることがある。それよりか、城の火こそ、はやく消さねばならぬ、矢倉やぐらへむかえ!」
「はッ」と十郎太が、立ちかけると――
「家康ッ!」と、ふいに、耳もとをつんざいた声とともに、闇のうちからながれきたった一せんの光。
「無礼ものッ!」
 とさけびながら、よろりと、しりえに、身をながした家康のそでを、さッと、白いさきがかすってきた。
「何者だ!」
 とその太刀影たちかげを見て、ガバと、はねおきるより早く、斬りまぜていった十郎太じゅうろうたの陣刀。
「おかみ、お上」
 と近侍きんじのものは、そのすきに、家康いえやす屏風びょうぶがこいにして、本丸の奥へと引きかえしていった。
「無念ッ――」
 長蛇ちょうだいっした伊那丸いなまるは、なおも、四、五けんほど、追いかけてゆくのを、待てと、坂部十郎太さかべじゅうろうたの陣刀が、そのうしろからしたいよった。
 と、伊那丸はなんにつまずいたか、ア――とやみをおよいだ。ここぞと、十郎太がふりかぶった太刀に、あわれむごい血煙が、立つかと見えたせつな、魔鳥のごとく飛びかかってきた龍太郎りゅうたろうが、やッと、横ざまに戒刀かいとうをもって、ぎつけた。
「むッ……」と十郎太は、苦鳴くめいをあげて、たおれた。
「若君――」
と寄りそってきた龍太郎、
「またの時節じせつがあります。もう、すこしも、ご猶予ゆうよは危険です。さ、この城から逃げださねばなりませぬ」
「でも……龍太郎、ここまできて、家康を討ちもらしたのはざんねんだ。わしは無念だ」
「ごもっともです。しかし、伊那丸いなまるさまの大望は、ひろい天下にあるのではござりませぬか。家康いえやすひとりは小さな敵です。さ、早く」
 とせき立てたかれは、むりにかれの手をとって、築山つきやまから、城の土塀どべいによじのぼり、狭間はざまや、わずかな足がかりを力に、二じょうあまりの石垣いしがきを、すべり落ちた。
 途中に犬走りという中段がある。ふたりはそこまでおりて、ぴったりと石垣に腹をつけながら、しばらくあたりをうかがっていた。上では、城内の武士が声をからして、八ぽうへ手配てくばりをさけびつつ、縄梯子なわばしごを、石垣のそとへかけおろしてきた。南無三なむさん――とあなたを見れば、火の手を見た城下の旗本たちが、やみをついて、これまた城の大手へ刻々に殺到するけはいである。
「どうしたものだろう?」
 さすがの龍太郎りゅうたろうも、ここまできて、はたと当惑とうわくした。もうほりまでわずかに五、六尺だが、そのさきは、満々とたたえた外濠そとぼり、橋なくして、渡ることはとてもできない。ふつう、兵法で十五けん以上と定められてあるほりが、どっちへまわっても、陸と城とのさかいをへだてている。するといきなり上からヒューッと一団の火が尾をひいて、ふたりのそばに落ちてきた。闇夜の敵影をさぐる投げ松明たいまつである。ヒューッ、ヒューッ、とつづけざまにおちてくる光――
「いたッ、犬走りだ」
 と頭のうえで声がしたとたんに、光をたよりに、バラバラと、つるべうちにてきた矢のうなり、――鉄砲のひびき。
「しまった」と龍太郎りゅうたろう伊那丸いなまるの身をかばいながら、石垣にそった犬走りを先へさきへとにげのびた。しかし、どこまでいってもおかへでるはずはない。ただむなしく、城のまわりをまわっているのだ。そのうちには、敵の手配てはいはいよいよきびしく固まるであろう。
 矢と、鉄砲と、投げ松明たいまつは、どこまでも、ふたりの影をおいかけてくる。そのうちに龍太郎は、「あッ」と立ちすくんでしまった。
 ゆくての道はとぎれている。見れば目のまえはまっくらな深淵しんえんで、ごうーッという水音が、やみのそこにうずまいているようす。ここぞ、城内の水をきって落としてくる水門であったのだ。
 矢弾やだまは、ともすると、びんの毛をかすってくる。前はうずまく深淵しんえん、ふたりは、進退きわまった。
「ああ、無念――これまでか」と龍太郎は天をあおいで嘆息たんそくした。
 と、そのまえへ、ぬッと下から突きだしてきたやり
「何者?」
 と思わず引っつかむと、これは、冷たい雫にぬれたさおのさきだった。龍太郎がつかんだ力に引かれて、まっ黒な水門からいかだのような影がゆらゆらと流れよってきた。その上にたって、さおぐってくるふしぎな男はたれ? 敵か味方か、ふたりは目をみはって、やみをすかした。


「お乗りなさい、はやく、はやく」
 いかだのうえの男は、早口にいった。いまはなにをうすきもない。ふたりは、ヒラリと飛びうつった。
 ザーッとはねあがった水玉をあびて、男は、力まかせに石垣いしがきをつく。――筏は外濠そとぼりのなみを切って、意外にはやくおかへすすむ。そして、すでにほりのなかほどまできたとき、
「その方はそも何者だ。われわれをだれとおもって助けてくれたのか」
 龍太郎りゅうたろうが、ふしんな顔をしてきくと、それまで、黙々として、棹をあやつっていた男は、はじめて口を開いてこういった。
武田伊那丸たけだいなまるさまと知ってのうえです。わたくしは、この城の掃除番そうじばん森子之吉もりねのきちという者ですが、根から徳川家とくがわけの家来ではないのです」
「おう、そういえば、どこやらに、甲州こうしゅうなまりらしいところもあるようだ」
「何代もまえから、甲府こうふのご城下にすんでおりました。父は森右兵衛もりうへえといって、おやかた足軽あしがるでした。ところが、運わるく、長篠ながしのの合戦のおりに、父の右兵衛うへえがとらわれたので、わたくしも、心ならず徳川家にくだっていましたが、ささいなあやまちから、父は斬罪ざんざいになってしまったのです。わたくしにとっては、うらみこそあれ、もう奉公する気のない浜松城をすてて、一日もはやく、故郷こきょうの甲府にかえりたいと思っているまに、武田家たけだけは、織田おだ徳川とくがわのためにほろぼされ、いるも敵地、かえるも敵地というはめになってしまいました。ところへ、ゆうべ、伊那丸いなまるさまがつかまってきたという城内のうわさです。びっくりして、お家の不運をなげいていました。けれど、今宵こよいのさわぎには、てっきりお逃げあそばすであろうと、水門のかげへいかだをしのばして、お待ちもうしていたのです」
「ああ、天の助けだ。子之吉ねのきちともうす者、心からお礼をいいます」
 と、伊那丸は、この至誠な若者を、いやしい足軽あしがるの子とさげすんではみられなかった。いくどか、頭をさげてれいをくり返した。そのまに、いかだどんと岸についた。
「さ、おあがりなさいませ」と子之吉は、あしの根をしっかり持って、筏を食いよせながらいった。
「かたじけない」と、ふたりが岸へ飛びあがると、
「あ、お待ちください」とあわててとめた。
子之吉ねのきち、いつかはまたきっとめぐりあうであろう」
「いえ、それより、どっちへお逃げなさるにしても、この濠端ほりばたを、右にいってはいけません。お城固しろがための旗本屋敷はたもとやしきが多いなかへはいったらふくろのねずみです。どこまでもここから、左へ左へとすすんで、入野いりぬせきをこえさえすれば、浜名湖はまなこの岸へでられます」
「や、ではこの先にも関所せきしょがあるか」
「おあんじなさいますな、ここにみのと、わたくしの鑑札かんさつがあります。お姿をつつんで、これをお持ちになれば大じょうぶです」
 子之吉ねのきちは、下からそれを渡すと、岸をついて、ふたたび、いかだほりのなかほどへすすめていったが、にわかに、どぶんとそこから水けむりが立った。
「ややッ」と、岸のふたりはおどろいて手をあげたが、もうなんともすることもできなかった。
 子之吉は、筏をはなすと同時に、脇差わきざしをぬいて、みごとにわが喉笛のどぶえをかッ切ったまま、ほりのなかへ身を沈めてしまったのである。後日に、徳川家とくがわけの手にたおれるよりは、故主の若君のまえで、報恩の一死をいさぎよくささげたほうが、森子之吉もりねのきち本望ほんもうであったのだ。

怪船かいせん巽小文治たつみこぶんじ




 伊那丸いなまる龍太郎りゅうたろう外濠そとぼりをわたって、脱出だっしゅつしたのを、やがて知った浜松城の武士たちは、にわかに、追手おってを組織して、入野いりぬせきへはしった。
 ところが、すでに二刻ふたときもまえに、みのをきた両名のものが、このせきへかかったが、足軽鑑札あしがるかんさつを持っているので、夜中ではあったが、通したということなので、討手うってのものは、地だんだをふんだ。そして、長駆ちょうくして、さらに次の浜名湖はまなこの渡し場へさしていそいだ。
 いっぽう、伊那丸いなまる龍太郎りゅうたろうのふたりは、しゅびよく、浜名湖のきしべまで落ちのびてきたが、一なんさってまた一難、ここまできながら、一そうの船も見あたらないのでむなしくあっちこっちと、さまよっていた。
 月はないが、空いちめんにぎだされ、かがやかしい星の光と、ゆるやかに波をる水明りに、湖は、夜明けのようにほの明るかった。すると、ギイ、ギイ……とどこからか、この静寂しじまをやぶるの音がしてきた。
「お、ありゃなんの船であろう?」
 と伊那丸が指したほうを見ると、いましも、弁天島べんてんじまの岩かげをはなれた一艘の小船に、五、六人の武士が乗りこんで、こなたの岸へかじをむけてくる。
「いずれ徳川家とくがわけ武士ぶしにちがいない。伊那丸さま、しばらくここへ」
 と龍太郎はさしまねいて、ともにくさむらのなかへ身をしずめていると、まもなく船は岸について、黒装束くろしょうぞくの者がバラバラとおかへとびあがり、口々になにかざわめき立ってゆく。
「せっかく仕返しにまいったのに、かんじんなやつがいなかったのはざんねんしごくであった」
「いつかまた、きゃつのすがたを見かけしだいに、ぶッた斬ってやるさ。それに、すまいもつきとめてある」
「あの小僧こぞうも、あとで家へかえって見たら、さだめしびっくりして泣きわめくにちがいない。それだけでも、まアまア、いちじの溜飲りゅういんがさがったというものだ」
 ものかげに、人ありとも知らずにこう話しながら、浜松のほうへつれ立ってゆくのをやり過ごした龍太郎りゅうたろう伊那丸いなまるは、そこを、すばやく飛びだして、かれらが乗りすてた船へとびうつるが早いか、力のかぎりをこいだ。
「龍太郎、いったいいまのは、何者であろう」
 みよしに腰かけていた伊那丸が、ふといいだした。
「さて、この夜中に、黒装束くろしょうぞく横行おうこうするやからは、いずれ、盗賊とうぞくのたぐいであったかもしれませぬ」
「いや、わしはあのなかに、ききおぼえのある声をきいた。盗賊の群れではないと思う」
「はて……?」龍太郎は小首をかしげている。
「そうじゃ、ゆうべ、八幡前はちまんまえで、鎧売よろいうりに斬りちらされた悪侍、あのときの者が二、三人はたしか今の群れにまじっていた」
「おお、そうおっしゃれば、いかにも似通にかようていたやつもおりましたな」
 と、龍太郎はいつもながら、伊那丸のかしこさにしたをまいた。そのまに、船は弁天島べんてんじまへこぎついた。
「若君――」と船をもやってふりかえる。
「浜松から遠くもない、こんな小島に長居ながいは危険です。わたくしの考えでは、夜のあけぬまえに、渥美あつみの海へこぎだして、伊良湖崎いらこざきから志摩しまの国へわたるが一ばんご無事かとぞんじますが」
「どんな荒海、どんな嶮岨けんそをこえてもいい。ただ一ときもはやく、かねがねそちが話したおん方にお目にかかり、また忍剣にんけんをたずね、その他の勇士をりあつめて、この乱れた世を泰平たいへいにしずめるほか、伊那丸いなまるの望みはない」
「そのお心は、龍太郎りゅうたろうもおさっしいたしております。では、わたくしは弁天堂の禰宜ねぎか、どこぞの漁師りょうしをおこしてべ物の用意をいたしてまいりまするから、しばらく船のなかでお待ちくださいまし」
 と龍太郎は、ひとりで島へあがっていった。そしてあなたこなたを物色ぶっしょくしてくると、白砂をしいた、まばらな松のなかにチラチラあかりのもれている一軒の家が目についた。
「漁師の家と見える、ひとつ、おとずれてみよう」
 と龍太郎は、ツカツカと軒下へきて、開けっぱなしになっている雨戸の口からなかをのぞいてみると、うすぐらいともしびのそばに、ひとりの男が、あけにそまった老婆ろうば死骸しがいを抱きしめたまま、よよと、男泣きに泣いているのであった。


 龍太郎りゅうたろうが、そこを立ちさろうとすると、なかの男は、跫音あしおとを耳にとめたか、にわかに、はねおきて、かべに立てかけてあった得物えものをとるやいなや、ばらッと、雨戸のそとへかけおりた。
「待てッ、待て、待てッ!」
 あまりその声のするどさに、龍太郎も、ギョッとしてふりかえった。すると――そのせつな、真眉間まみけんへむかって、ぶんとうなってきたするどい光りものに――はッとおどろいて身をしずめながら、片手にそれをまきこんでそでの下へだきしめてしまった。見ればそれは朱柄あかえやりであった。
「こりゃ、なんだって、拙者せっしゃの不意をつくか」
「えい、かすな、おれのおふくろをころしたのは、おまえだろう。天にも地にも、たったひとりのおふくろさまのかたきだ。どうするかおぼえていろ!」
「勘ちがいするな、さようなおぼえはないぞ」
「だまれ、だまれッ、めったに人のこないこの島に、なんの用があって、うろついていた。今しがた、宿しゅくから帰ってみれば、おふくろさまはズタ斬り、家のなかは乱暴狼藉ろうぜき、あやしいやつは、なんじよりほかにないわッ」
 目に、いっぱいなみだをひからせている。憤怒ふんぬのまなじりをつりあげて、いッかなきかないのだ。この若者は浜松の町で、稀代きたい槍法そうほうをみせた鎧売よろいうりの男で――いまは、この島に落ちぶれているが、もとは武家生まれの、巽小文治たつみこぶんじという者であった。
「うろたえごとをもうすな、だれが、恨みもないきさまの老母などを、殺すものか」
「いや、なんといおうが、おれの目にかかったからにはのがすものか」
「うぬ! 血まよって、後悔こうかいいたすなよ」
「なにを、この朱柄あかえやりでただひと突き、おふくろさまへの手向たむけにしてくれる。覚悟かくごをしろ」
「えい! 聞きわけのないやつだ」
 と、龍太郎りゅうたろうもむッとして、やりのケラ首が折れるばかりにひッたくると、小文治こぶんじも、金剛力こんごうりきをしぼって、ひきもどそうとした。
「やッ――」とその機をねらった龍太郎が、ふいに穂先ほさきをつッ放すと、力負けした小文治は、やりをつかんだままタタタタタと、一、二けんもうしろへよろけていった。――そこを、
「おお――ッ」ととびかかった龍太郎の抜き討ちこそ、木隠流こがくれりゅうのとくいとする、戒刀かいとうのはやわざであった。
 いつか、裾野すその文殊閣もんじゅかくでおちあった加賀見忍剣かがみにんけんも、この戒刀かいとうのはげしさには膏汗あぶらあせをしぼられたものだった。ましてや、若年じゃくねん巽小文治たつみこぶんじは、必然、まッ二つか、袈裟けさがけか? どっちにしても、助かりうべき命ではない。
 と見えたが――意外である! 龍太郎りゅうたろうの刀は、サッとくうを斬って、そのとたんにやりの石突きがトンと大地をついたかと思うと、小文治こぶんじの体は、五、六尺もたかくちゅうにおどって、龍太郎の頭の上を、とびこえてしまった。
 この手練しゅれん――かれはただ平凡な槍使やりつかいではなかった。
 龍太郎は、とっさに、ひとみを抜かれたような気持がした。すぐみとまって、太刀たちを持ちなおすと、すでにかまえなおした小文治は槍を中段ににぎって、龍太郎の鳩尾みぞおちへピタリと穂先ほさきをむけてきた。
 かつて一ども、いまのようにあざやかに、敵にかわされたためしのない龍太郎は、このかまえを見るにおよんで、いよいよ要心ようじんに要心をくわえながら、下段げだん戒刀かいとうをきわめてしぜんに、頭のうえへ持っていった。
 玄妙げんみょうきわまる槍と、精妙無比せいみょうむひな太刀はここにたがいの呼吸をはかり、たがいに、のすきをねらい合って一瞬一瞬、にじりよった。
 ※(「風にょう+炎」、第4水準2-92-35)てんぴょう一陣! ものすごい殺気が、みるまにふたりのあいだにみなぎってきた。ああ龍虎りゅうこたおれるものはいずれであろうか。


 船べりに頬杖ほおづえついて、龍太郎を待っていた伊那丸いなまるは、よいからのつかれにさそわれて、いつか、銀河の空の下でうっとりと眠りの国へさまよっていた。――松かぜのかなでや、ふなばたをうつ波のつづみを、子守唄のように聞いて。
 ――すると。
 内浦鼻うちうらばなのあたりから、かなり大きな黒船のかげが瑠璃るりみずうみをすべって、いっさんにこっちへむかってくるのが見えだした。だんだんと近づいてきたその船を見ると徳川家とくがわけの用船でもなく、また漁船ぎょせんのようでもない。みよしのぐあいや、帆柱ほばしらのさまなどは、この近海に見なれない長崎型ながさきがたの怪船であった。
 ふかしぎな船は、いつか弁天島べんてんじまのうらで船脚ふなあしをとめた。そして、親船をはなれた一そう軽舸はしけが、矢よりも早くあやつられて伊那丸いなまるの夢をうつつに乗せている小船のそばまで近づいてきた。
 ポーンと鈎縄かぎなわを投げられたのを伊那丸はまったく夢にも知らずにいる。――それからも、船のすべりだしたのすら気づかずにいたが、フトむなぐるしい重みを感じて目をさました時には、すでに四、五人のあらくれ男がよりたかって、おのれの体に、荒縄あらなわをまきしめていたのだった。
「あッ、龍太郎りゅうたろう――ッ」
 かれは、おもわず絶叫ぜっきょうした。だがその口も、たちまち綿わたのようなものをつめられてしまったので、声も立てられない。ただ身をもがいて、しまろんだ。
 水なれた怪船の男どもは、毒魚のごとく、どうや軽舸の上におどり立って、なにかてんでに口ぜわしくさけびあっている。
「それッ、北岸きたぎしへ役人の松明たいまつが見えだしたぞ」
「はやく軽舸はしけをあげてしまえッ」
帆綱ほづなたかれーッ、帆綱をまけ――」
 キリキリッ、キリキリッと帆車ほぐるまのきしむおとが高鳴ると同時に、軽舸の底にもがいていた伊那丸いなまるのからだは、
「あッ」というまに鈎綱かぎづなにひっかけられて、ゆらゆらと波の上へつるしあげられた。
 龍太郎りゅうたろうはどうした? この伊那丸の身にふってわいた大変事を、まだ気づかずにいるのかしら? それとも、巽小文治たつみこぶんじ稀代きたい槍先やりさきにかかってあえなく討たれてしまったのか……?
 西北へまわった風をにうけて、あやしの船は、すでにすでに、入江を切って、白い波をかみながら、外海そとうみへでてゆくではないか。

大鷲おおわしくさり




 うわべは歌詠うたよみの法師か、きらくな雲水と見せかけてこころはゆだんもすきもなく、武田伊那丸たけだいなまるのあとをたずねて、きょうは東、あすは南と、血眼ちまなこの旅をつづけている加賀見忍剣かがみにんけん
 裾野すそのやみに乗じられて、まんまと、六部ろくぶ龍太郎りゅうたろうのために、大せつな主君を、うばいさられた、かれの無念むねんさは思いやられる。
 したが、不屈ふくつなかれ忍剣は、たとえ、きもをなめ、身をにくだくまでも、ふたたび伊那丸いなまるをさがしださずに、やむべきか――と果てなき旅をつづけていた。
 おりから、天下は大動乱だいどうらんひなも都も、そのうずにまきこまれていた。
 この年六月二日に、右大臣織田信長うだいじんおだのぶながは、反逆者はんぎゃくしゃ光秀みつひでのために、本能寺であえなき最期さいごをとげた。
 盟主めいしゅをうしなった天下の群雄は、ひとしくうろたえまよった。なかにひとり、山崎のとむらい合戦に、武名をあげたものは秀吉ひでよしであったが、北国の柴田しばた、その北条ほうじょう徳川とくがわなども、おのおのこの機をねらって、おのれこそ天下をとらんものと、野心のせきをかため、虎狼ころうやじりをといで、人の心も、世のさまも、にわかにけわしくなってきた。
 そうした世間であっただけに、忍剣の旅は、なみたいていなものではない。しかも、むくいられてきたものは、けっきょく失望――二月ふたつきあまりの旅はむなしかった。
「伊那丸さまはどこにおわすか。せめて……アアゆめにでもいいから、いどころを知りたい……」
 足をやすめるたびに嘆息たんそくした。
 その一念で、ふと忍剣のあたまに、あることがひらめいた。
「そうだ! クロはまだ生きているはずだ」
 かれはその日から、急に道をかえて、思い出おおき、甲斐かいの国へむかって、いっさんにとってかえした。
 忍剣にんけんが気のついたクロとは、そもなにものかわからないが、かれのすがたは、まもなく、変りはてた恵林寺えりんじあとへあらわれた。


 忍剣は数珠じゅずをだして、しばらくそこに合掌がっしょうしていた。すると、番小屋のなかから、とびだしてきたさむらいがふたり、うむをいわさず、かれの両腕をねじあげた。
「こらッ、そのほうはここで、なにをいたしておった」
「はい、国師こくしさまはじめ、あえなくおくなりはてた、一ざんれいをとむろうていたのでござります」
「ならぬ。甲斐かいたいも、いまでは徳川家とくがわけのご領分だぞ。それをあずかる者は、ご家臣の大須賀康隆おおすかやすたかさまじゃ。みだりにここらをうろついていることはならぬ、とッととたちされ、かえれ!」
「どうぞしばらく。……ほかに用もあるのですから」
「あやしいことをもうすやつ。この焼けあとに何用がある?」
「じつは当寺の裏山、扇山せんざんの奥に、わたしのおさななじみがおります。久しぶりで、その友だちに会いたいとおもいまして、はるばるたずねてまいったのです」
「ばかをいえ、さような者はここらにいない」
「たしかに生きているはずです。それは、友だちともうしても、ただの人ではありません。クロともうす大鷲おおわし、それをひと目見たいのでございます」
「だまれ。あの黒鷲は、当山を攻めおとした時の生捕いけどりもの、大せつにをやって、ちかく浜松城へ献上けんじょういたすことになっているのだ、なんじらの見せ物ではない。帰れというに帰りおらぬか」
 ひとりがうで、ひとりがえりがみをつかんで、ずるずるとひきもどしかけると、忍剣にんけんまゆがピリッとあがった。
「これほど、ことをわけてもうすのに、なおじゃまだてするとゆるさんぞ!」
「なにを」
 ひとりが腰縄こしなわをさぐるすきに、ふいに、忍剣の片足がどんと彼の脾腹ひばらをけとばした。アッと、うしろへたおれて、悶絶もんぜつしたのを見た、べつなさむらいは、
「おのれッ」と太刀のつかへ手をかけて、抜きかけた。
 ――それより早く、
「やッ」と、まッこうから、おがみうちに、うなりおちてきた忍剣の鉄杖てつじょうに、なにかはたまろう。あいては、かッと血へどをはいてたおれた。
 それに見むきもせず、鉄杖をこわきにかかえた忍剣はいっさんに、うら山のおくへおくへとよじのぼってゆく。――と、昼なおくらい木立のあいだから、いような、魔鳥まちょうばたきがつめたいしずくをゆりおとして聞えた。


 らんらんと光る二つの眼は、みがきぬいた琥珀こはくのようだ。その底にすむ金色こんじきひとみ、かしらの逆羽さかばね、見るからに猛々たけだけしい真黒な大鷲おおわしが、足のくさりを、ガチャリガチャリ鳴らしながら、扇山せんざん石柱いしばしらの上にたって、ものすごい絶叫ぜっきょうをあげていた。
 そのくろいつばさを、左右にひろげるときは、一じょうあまりの巨身きょしんとなり、銀のつめをさか立てて、まっ赤な口をあくときは、空とぶ小鳥もすくみ落ちるほどながある。
「おおいた! クロよ、無事でいたか」
 おそれげもなく、そばへかけよってきた忍剣にんけんの手になでられると、わしは、かれの肩にくちばしをすりつけて、あたかも、なつかしい旧友きゅうゆうにでも会ったかのような表情をして、柔和にゅうわであった。
「おなじ鳥類ちょうるいのなかでも、おまえは霊鷲れいしゅうである。さすがにわしの顔を見おぼえているようす……それならきっとこの使命をはたしてくれるであろう」
 忍剣は、かねてしたためておいた一ぺん文字もんじを、油紙あぶらがみにくるんでこよりとなし、クロの片足へ、いくえにもギリギリむすびつけた。
 このわしにもいろいろな運命があった。
 天文てんもん十五年のころ、武田信玄たけだしんげんの軍勢が、上杉憲政うえすぎのりまさを攻めて上野乱入こうずけらんにゅうにかかったとき、碓氷峠うすいとうげの陣中でとらえたのがこのわしであった。
 碓氷の合戦は甲軍こうぐんの大勝となって、敵将の憲政のりまさの首まであげたので、以来いらい信玄しんげんはそのわしやかたにもちかえり、愛育していた。信玄しんげんの死んだあとは、勝頼かつよりの手から、供養くようのためと恵林寺えりんじ寄進きしんしてあったのである。ところがある時、おりをやぶって、民家の五歳になる子を、宙天ちゅうてんへくわえあげたことなどがあったので、扇山の中腹に石柱をたて、太いくさりで、その足をいましめてしまった。
 幼少から、恵林寺にきていた伊那丸いなまるは、いつか忍剣にんけんとともに、このわしをやったり、クロよクロよと、愛撫あいぶするようになっていた。獰猛どうもうわしも、伊那丸や忍剣の手には、ねこのようであった。そして、恵林寺が大紅蓮だいぐれんにつつまれ、一ざんのこらず最期さいごをとげたなかで、わしだけは、この山奥につながれていたために、おそろしいほのおからまぬがれたのだ。
「クロ、いまこそわしが、おまえのくさりをきってやるぞ、そしてそのつばさで、大空を自由にかけまわれ、ただ、おまえをながいあいだかわいがってくだすった、伊那丸さまのお姿を地上に見たらおりてゆけよ」
 そういいながら、鎖に手をかけたが、わしの足にはめられたくろがねかんも、またふとい鎖もれればこそ。
「めんどうだ――」と、忍剣は鉄杖てつじょうをふりかぶって、石柱の角にあたる鎖をはッしと打った。
 そのとき、ふもとのほうから、ワーッという、ただならぬときこえがおこった。くさりはまだきれていないが、忍剣にんけんはその声に、小手こてをかざして見た。
 はやくも、木立のかげから、バラバラと先頭の武士がかけつけてきた。いうまでもなく、大須賀康隆おおすかやすたかの部下である。扇山へあやしの者がいりこんだと聞いて、捕手とりてをひきいてきたものだった。
売僧まいす、その霊鳥れいちょうをなんとする」
「いらざること。このわしこそ、勝頼公かつよりこうのみから当山に寄進きしんされてあるものだ! どうしようとこなたのかってだ」
「うぬ! さては武田たけだ残党ざんとうとはきまった」
「おどろいたかッ」と、いきなりブーンとふりとばした鉄杖てつじょうにあたって、二、三人ははねとばされた。
「それ! とりにがすな」
 ふもとのほうから、追々おいおいとかけあつまってきた人数をがっして、かれこれ三、四十人、やり太刀たちを押ッとって、忍剣のきょをつき、すきをねらって斬ってかかる。
「飛び道具をもった者は、こずえのうえからぶッぱなせ」
 足場がせまいので、捕手のかしらがこうさけぶと、弓、鉄砲てっぽうをひッかかえた十二、三人のものは、ましらのごとく、ちかくのすぎけやきの梢にのぼって、手早く矢をつがえ、火縄ひなわをふいてねらいつける。
 下では忍剣にんけん、近よる者を、かたッぱしからたたきふせて、怪力のかぎりをふるったが、空からくる飛び道具をふせぐべきすべもあろうはずはない。
 はやくも飛んできた一の矢! また、二の矢。
 夜叉やしゃのごとく荒れまわった忍剣は、とつとして、いっぽうの捕手とりてをかけくずし、そのわずかなすきに、ふたたびわしくさりをねらって、一念力、戛然かつぜんとうった。
 きれた! ギャーッという絶鳴ぜつめいをあげたわしは、猛然とつばさを一はたきさせて、地上をはなれたかと見るまに、一陣の山嵐をおこした翼のあおりをくって、大樹たいじゅこずえの上からバラバラとふりおとされた弓組、鉄砲組。
「ア、ア、ア!」とばかり、捕手とりて軍卒ぐんそつがおどろきさわぐうちに、一ど、雲井くもいへたかく舞いあがった魔鳥まちょうは、ふたたびすさまじい※(「風にょう+炎」、第4水準2-92-35)てんぴょうをまいてけおりるや、するどいつめをさかだてて、旋廻せんかいする。
 ふるえ立った捕手どもは、木の根、岩角いわかどにかじりついて、ただアレヨアレヨときもを消しているうちに、いつか忍剣のすがたを見うしない、同時に、偉大なる黒鷲くろわしのかげも、天空はるかに飛びさってしまった。

鞍馬くらま竹童ちくどう




 はなしはふたたびあとへかえって、ここは波明るき弁天島べんてんじま薄月夜うすづきよ――
 いっぽうは太刀たちの名人、いっぽうは錬磨れんまやり、いずれおとらぬさきに秘術のみょうをすまして突きあわせたまま、松風わたる白砂の上に立ちすくみとなっているのは、白衣びゃくえ木隠龍太郎こがくれりゅうたろう朱柄あかえの持ち主、巽小文治たつみこぶんじ
 腕が互角ごかくなのか、いずれにすきもないためか、そうほううごかず、りつけたごとくにらみあっているうちに、魔か、雲か、月をかすめて疾風はやてとともに、天空から、そこへけおりてきたすさまじいものがある。
 バタバタというばたきに、ふたりは、はッと耳をうたれた。弁天島の砂をまきあげて、ぱッと、地をすってかなたへ飛びさった時、不意をおそわれたふたりは、思わず眼をおさえて、左右にとびわかれた。
「あッ――」とおどろきのさけびをもらしたのは、龍太郎のほうであった。それは、もうはるかに飛びさった、わしおおきなのにおどろいたのではない。
 いま、かがみのような入江をすべって浜名湖から外海そとうみへとでてゆく、あやしい船の影――それをチラと見たせつなに、龍太郎のむねを不安にさわがしたのは、小船にのこした伊那丸いなまるの身の上だった。
「もしや?」とおもえば、一こく猶予ゆうよもしてはおられない。やにわに、小文治こぶんじという眼さきの敵をすてて、なぎさのほうへかけだした。
卑怯ひきょうもの!」
 追いすがった小文治こぶんじが、さッと、くりこんでいったやり穂先ほさき、ヒラリ、すばやくかわして、千段せんだんをつかみとめた龍太郎りゅうたろうは、はッたとふりかえって、
卑怯ひきょうではない。わが身ならぬ、大せつなるおかたの一大事なのだ、勝負はあとで決してやるから、しばらく待て」
「いいのがれはよせ。その手は食わぬ」
「だれがうそを。アレ見よ、こうしているまにも、あやしい船が遠のいてゆく、まんいちのことあっては、わが身に代えられぬおんかた、そのお身のうえが気づかわしい、しばらく待て、しばらく待て」
「オオあの船こそ、めったに正体を見せぬ八幡船ばはんせんだ。して、小船にのこしたというのはだれだ。そのしだいによっては、待ってもくれよう」
「いまはなにをつつもう、武田家たけだけ御曹子おんぞうし伊那丸いなまるさまにわたらせられる」
 しばらく、じッと相手をみつめていた小文治こぶんじは、にわかに、槍を投げすててひざまずいてしまった。
「さては伊那丸君いなまるぎみのお傅人もりびとでしたか。今宵こよい、町へわたったとき、さわがしいおうわさは聞いていましたが、よもやあなたがたとは知らず、さきほどからのしつれい、いくえにもごかんべんをねがいまする」
「いや、ことさえわかればいいわけはない、拙者せっしゃはこうしてはおられぬ場合だ。さらば――」
 ほとんど一そくびに、もとのところへひッ返してきた龍太郎りゅうたろうが、と見れば、小船は舫綱もやいをとかれて、湖水のあなたにただようているばかりで、伊那丸いなまるのすがたは見えない。
「チェッ、ざんねん。あの八幡船ばはんせんのしわざにそういない。おのれどうするか、覚えていろ」
 と地だんだんでにらみつけたが、へだては海――それもはや模糊もことして、遠州灘えんしゅうなだなみがくれてゆくものを、いかに、龍太郎でも、飛んでゆく秘術ひじゅつはない。


 ところへ、案じてかけてきたのは、小文治こぶんじだった。
「若君のお身は?」
「しまッたことになった。船はないか、船は」
「あの八幡船のあとを追うなら、とてもむだです」
「たとえ遠州灘のもくずとなってもよい! 追えるところまでゆく覚悟かくごだ。たのむ、早くだしてくれ」
「小船は一そうありますが、八幡船のゆく先ばかりは、いままで領主りょうしゅのご用船が、死に身になって取りまいても、きりのように消えて、つきとめることができないほどでござります」
「ええ、なんとしたことだ――」
 と、思わずどッかり腰をおとしてしまった龍太郎りゅうたろうは、われながらあまりの不覚に、くちびるをかみしめた。
 小文治こぶんじは、それを見ると、不用意なじぶんの行動が後悔されてきた。母をうしなった悲しさに、いちずに龍太郎を下手人げしゅにんとあやまったがため、このことが起ったのだ。さすれば、とうぜん、じぶんにもつみはある。
 かれは、いくたびかそれをわびた。そして、あらためて素性すじょうを名のり、永年よきしゅをさがしていたおりであるゆえ、ぜひとも、力をあわせて伊那丸いなまるさまを取りかえし、ともども天下につくしたいと、真心まごころこめて龍太郎にたのんだ。
 龍太郎も、よい味方を得たとよろこんだ。しかし、さてこれから八幡船ばはんせん根城ねじろをさがそうとなると、それはほとんど雲にかくれた時鳥ほととぎすをもとめるようなものだった。――むろん小文治こぶんじにも、いい智恵ちえは浮かばなかった。
「こうなってはしかたがない」
 龍太郎はやがてこまぬいていた腕から顔をあげた。
「おしかりをうけるかもしれぬが、一たび先生のところへ立ち帰って、この後の方針をきめるとしよう。それよりほかに思案はない」
「して、その先生とおっしゃるおかたは」
「京の西、鞍馬くらまおくにすんではいるが、ある時は、都にもいで、またある時は北国の山、南海のはてにまで姿を見せるという、稀代きたいなご老体で、拙者せっしゃ刀術とうじゅつ隠形おんぎょうの法なども、みなその老人からさずけられたものです」
 鞍馬くらまときくさえ、すぐ、天狗てんぐというような怪奇が聯想れんそうされるところへ、この話をきいた小文治こぶんじは、もっと深くその老人が知りたくなった。
龍太郎りゅうたろうどのの先生とおっしゃる――そのおかたの名はなんともうされますか」
「まことのせいはあかしませぬ。ただみずから、果心居士かしんこじ異号いごうをつけております。じつはこのたびのことも、まったくその先生のおさしずで、織田おだ徳川とくがわ甲府攻こうふぜめをもよおすと同時に、拙者せっしゃは、六部ろくぶに身を変じて、伊那丸いなまるさまをお救いにむかったのです。それがこの不首尾ふしゅびとなっては、先生にあわせる顔もないしだいだが、天下のことながらにして知る先生、またきっと好いおさしずがあろうと思う」
「では、どうかわたしもともに、おともをねがいまする」
異存いぞんはないが、さきをいそぐ、おしたくを早く」
 小文治は、家に取ってかえすと、しばらくあって、粗服そふくながら、たしなみのある旅支度たびじたくに、大小を差し、例の朱柄あかえやりをかついで、ふたたびでてきた。
「お待たせいたしました。小船は、わたしの家のうしろへ着けておきましたから……」
 という言葉に、龍太郎がそのほうへすすんで行くと、小船の上には、ひとつのかんがのせてある。
 武士ぶしにかえった門出かどでに、小文治こぶんじは、母の亡骸なきがらをしずかなうみの底へ水葬すいそうにするつもりと見える。
 と、あやしい羽音はおとが、またも空に鳴った。はッとしてふたりが船からふりあおぐと、大きなをえがいていた怪鳥けちょうのかげが、しおけむる遠州灘えんしゅうなだのあなたへ、一しゅんのまに、かけりさった。


 みんな空をむいて、同じように、眉毛まゆげの上へ片手をかざしている。
 烏帽子えぼしの老人、市女笠いちめがさの女、さむらい、百姓、町人――雑多ざったな人がたかって、なにか評議ひょうぎ最中さいちゅうである。
「さて、ふしぎなやつじゃのう」
仙人せんにんでしょうか」
「いや、天狗てんぐにちがいない」
「だって、この真昼まひるなかに」
「おや、よく見ると本を読んでいますよ」
「いよいよ魔物まものときまった」
 この人々は、そも、なにを見ているのだろう。
 ここは近江おうみの国、比叡山ひえいざんのふもと、坂本さかもとで、日吉ひよしの森からそびえ立った五重塔ごじゅうのとうのてッぺん――そこにみんなのひとみがあつまっているのだった。
 なるほどふしぎ、人だかりのするのもむりではない。太陽のまぶしさにさえぎられて、しかとは見えないが、つるのごとき老人が、五重塔ごじゅうのとうのてッぺんにたしかにいるようだ。しかも目のいい者のことばでは、あの高い、のぼりようもない上でのんきに書物を見ているという。
「なに、魔物まものだと? どけどけ、どいてみろ」
「や、今為朝いまためともがきた」
 群集はすぐまわりをひらいた。今為朝いまためともといわれたのはどんな人物かと見ると、たけたかく、色浅ぐろい二十四、五さい武士ぶしである。黒い紋服もんぷく片肌かたはだをぬぎ、手には、日輪巻にちりんまき強弓ごうきゅうと、一本の矢をさかしまににぎっていた。
「む、いかにも見えるな……」
 と、五重塔のいただきをながめた武士は、ガッキリ、その矢をつがえはじめた。
「や、あれをておしまいなさいますか」
 あたりの者はきょうにそそられて、どよみ立った。
「この霊地れいちへきて、奇怪なまねをするにっくいやつ、ことによったら、南蛮寺なんばんじにいるキリシタンのともがらかもしれぬ。いずれにせよ、ぶッぱなして諸人しょにんへの見せしめとしてくれる」
 弓の持ちかた、矢番やつがいも、なにさまおぼえのあるらしい態度だ。それもそのはず、この武士こそ、坂本さかもとの町に弓術きゅうじゅつの道場をひらいて、都にまで名のきこえている代々木流よよぎりゅう遠矢とおや達人たつじん山県蔦之助やまがたつたのすけという者であるが、町の人は名をよばずに、今為朝いまためともとあだなしていた。
「あの矢先に立ってはたまるまい……」
 人々がかたずをのんでみつめるまに、矢筈やはずつるにかけた蔦之助は、にきらめくやじりを、虚空こくうにむけて、ギリギリと満月にしぼりだした。
 とうのいただきにいる者のすがたは、下界げかいのさわぎを、どこふく風かというようすで、すましこんでいるらしい。


日吉ひよしの森へいってごらんなさい。今為朝が、五重塔ごじゅうのとうの上にでた老人の魔物まものにゆきましたぜ」
 坂本の町の葭簀よしず茶屋でも、こんなうわさがぱッとたった。
 床几しょうぎにかけて、茶をすすっていた木隠龍太郎こがくれりゅうたろうは、それを聞くと、道づれの小文治こぶんじをかえりみながら、にわかにツイと立ちあがった。
「ひょっとすると、その老人こそ、先生かもしれない。このへんでお目にかかることができればなによりだ、とにかく、いそいでまいってみよう」
「え?」
 小文治こぶんじはふしんな顔をしたが、もう龍太郎りゅうたろうがいっさんにかけだしたので、あわててあとからつづいてゆくと、うわさにたがわぬ人れだ。
 両足をふんまえて、ねらいさだめた蔦之助つたのすけは、いまや、プツンとばかり手もとを切ってはなした。
「あ――」と群集は声をのんだ、矢のゆくえにひとみをこらした。と見れば、風をきってとんでいった白羽の矢は、まさしく五重塔ごじゅうのとうの、あやしき老人を射抜いぬいたとおもったのに、ぱッと、そこから飛びたったのは、一羽の白鷺しらさぎ、ヒラヒラと、青空にまいあがったが、やがて、日吉ひよしの森へかげをかくした。
「なアんだ」と多くのものは、口をあいたまま、ぼうぜんとして、まえの老人がまぼろしか、いまの白鷺がまぼろしかと、おのれの目をうたぐって、睫毛まつげをこすっているばかりだ。
 そこへ、一足ひとあしおくれてきた龍太郎と小文治はもう人の散ってゆくのに失望して、そのまま、叡山えいざんの道をグングン登っていった。
 ふたりはこれから、比叡山ひえいざんをこえ、八瀬やせから鞍馬くらまをさして、みねづたいにいそぐのらしい。いうまでもなく果心居士かしんこじのすまいをたずねるためだ。
 音にきく源平げんぺい時代のむかし、天狗てんぐ棲家すみかといわれたほどの鞍馬の山路は、まったく話にきいた以上のけわしさ。おまけにふたりがそこへさしかかってきた時は、ちょうど、とっぷり日も暮れてしまった。
 ふもとでもらった、蛍火ほたるびほどの火縄ひなわをゆいつのたよりにふって、うわばみの歯のような、岩壁をつたい、百足腹むかでばら、鬼すべりなどという嶮路けんろをよじ登ってくる。
 おりから初秋はつあきとはいえ、山の寒さはまたかくべつ、それにいちめん朦朧もうろうとして、ふかいきりが山をつつんでいるので、いつか火縄もしめって、消えてしまった。
小文治こぶんじどの、お気をつけなされよ、よろしいか」
「大じょうぶ、ごしんぱいはいりません」
 とはいったが、小文治も、海ならどんな荒浪にも恐れぬが、山にはなれないので、れいの朱柄あかえやりつえにして足をひきずりひきずりついていった。千段曲せんだんまがりという坂道をやっとおりると、白い霧がムクムクわきあがっている底に、ゴオーッというすごい水音がする。渓流けいりゅうである。
「橋がないから、そのやりをおかしなさい。こうして、おたがいに槍の両端を握りあってゆけば、流されることはありません」
 龍太郎りゅうたろうは山なれているので、先にかるがると、岩石へとびうつった。すると、小文治のうしろにあたる断崖だんがいから、ドドドドッとまっ黒なものが、むらがっておりてきた。
「や?」と小文治は身がまえて見ると、およそ五、六十ぴきの山猿やまざるの大群である。そのなかに、十さいぐらいな少年がただひとり、鹿しかの背にのって笑っている。
「おお、そこへきたのは、竹童ちくどうではないか」
 岩の上から龍太郎が声をかけると、鹿の背からおりた少年も、なれなれしくいった。
龍太郎りゅうたろうさま、ただいまお帰りでございましたか」
「む、して先生はおいでであろうな」
「このあいだから、お客さまがご滞留たいりゅうなので、このごろは、ずっと荘園そうえんにおいでなさいます」
「そうか。じつは拙者せっしゃの道づれも、足をいためたごようすだ。おまえの鹿しかをかしてあげてくれないか」
「アアこのおかたですか、おやすいことです」
 竹童ちくどう口笛くちぶえを鳴らしながら、鹿をおきずてにして、岩燕いわつばめのごとく、渓流けいりゅうをとびこえてゆくと、さるの大群も、口笛について、ワラワラとふかい霧の中へかげを消してしまった。
 鹿の背をかりて、しばらくたどってくると、小文治こぶんじ馥郁ふくいくたるかおりに、仙境せんきょうへでもきたような心地がした。
「やっと僧正谷そうじょうがたにへまいりましたぞ」
 と龍太郎が指さすところを見ると、そこは山芝やましばの平地で、あまいにおいをただよわせている果樹園かじゅえんには、なにかのれ、大きな芭蕉ばしょうのかげには、竹を柱にしたゆかしい一軒の家が見えて、ほんのりと、あかりがもれている。
 門からのぞくと、庵室あんしつのなかには、白髪童顔はくはつどうがんおきなが、果物で酒をみながら、総髪そうはつにゆったりっぱな武士ぶしとむかいあって、なにかしきりに笑いきょうじている。
龍太郎りゅうたろう、ただいま帰りました」
 とかれが両手をついたうしろに、小文治こぶんじもひかえた。
「なんじゃ? おめおめと帰ってきおったと」
 おきな――それは別人ならぬ果心居士かしんこじだ。龍太郎の顔を見ると、ふいと、かたわらのあかざつえをにぎりとって、立ちあがるが早いか、
「ばかもの」ピシリと龍太郎の肩をうった。


 果心居士かしんこじは、なにも聞かないうちに、すべてのことを知っていた。八幡船ばはんせん伊那丸いなまるをうばわれたことも、巽小文治たつみこぶんじの身の上も。――そして、きょうのひる、日吉ひよし五重塔ごじゅうのとうのてッぺんにいたのもじぶんであるといった。
 かれは、仙人せんにんか、幻術師げんじゅつしか、キリシタンの魔法を使う者か? はじめて会った小文治は、いつまでも、奇怪ななぞをとくことに苦しんだ。
 しかし、だんだんとひざをまじえて話しているうちに、ようやくそれがわかってきた、かれは仙人せんにんでもなければ、けっして幻術使げんじゅつつかいでもない。ただおそろしい修養の力である。みな、自得じとく研鑽けんさんから通力つうりきした人間技にんげんわざであることが納得なっとくできた。
 浮体ふたいの法、飛足ひそく呼吸いき遠知えんちじゅつ木遁もくとんその他の隠形おんぎょうなど、みなかれが何十年となく、深山にくらしていたたまもので、それはだれでもこうをつめば、できないふしぎや魔力ではない。
 ところで、果心居士かしんこじがなにゆえに、武田伊那丸たけだいなまる龍太郎りゅうたろうにもとめさせたか、それはのちの説明にゆずって、さしあたり、はてなき海へうばわれたおんかたを、どうしてさがしだすかの相談になった。
竹童ちくどう、竹童――」
 居士は例の少年をよんで、小さなにしきのふくろを持ってこさせた。そのなかから、机の上へカラカラと開けたのはかめ甲羅こうらでつくった、いくつもいくつものこまであった。
 かれの精神がすみきらないで、遠知の術のできないときは、この亀卜きぼくといううらないをたてて見るのが常であった。
「む……」ひとりで占いをこころみて、ひとりうなずいた果心居士は、やがて、客人のほうへむいて、
民部みんぶどの、こんどはあなたがいったがよろしい」といった。龍太郎はびっくりして、それへ進んだ。
「しばらく、先生のおおせながら、余人よじんにそのをおいいつけになられては、手まえのたつも、面目めんぼくもござりませぬ。どうか、まえの不覚をそそぐため、拙者せっしゃにおおせつけねがいとうぞんじます」
「いや龍太郎、おまえには、さらに第二段の、大せつなる役目がある。まずこれをとくと見たがよい」
 と、かわの箱から取りだして、それへひろげたのは、いちめんの山絵図やまえずであった。
「これは?」と龍太郎りゅうたろうにおちない顔である。
「ここにおられる、小幡民部こばたみんぶどのが、苦心してうつされたもの。すなわち、自然の山を城廓じょうかくとして、七陣の兵法をしいてあるものじゃ」
「あ! ではそこにおいでになるのは、甲州流こうしゅうりゅうの軍学家、小幡景憲こばたかげのりどののご子息ですか」
「いかにも、すでにまえから、ご浪人なされていたが、武田たけだのお家のほろびたのを、よそに見るにしのびず、伊那丸いなまるさまをたずねだしてふたたびはたあげなさろうという大願望だいがんもうじゃ、おなじこころざしのものどもがめぐりおうたのも天のおひきあわせ、したが、伊那丸さまのありかが知れても、よるべき天嶮てんけんがなくてはならぬ。そこで、まずひそかに、二、三の者がさきにまいって地理の準備じゅんび、またおおくの勇士をもりもよおしておき、おんかたの知れしだいに、いつなりと、旗あげのできるようにいたしておくのじゃ」
「は、承知いたしました。して、この図面ずめんにあります場所は?」
 という龍太郎の問いに応じてこんどは、小幡民部がひざをすすめた。
武田家たけだけえんのふかき、こうしん駿すんの三ヵ国にまたがっている小太郎山こたろうざんです。また……」
 と、軍扇ぐんせんかなめをもって、民部はたなごころを指すように、ここは何山、ここは何の陣法と、こまかに、みくだいて説明した。
 肝胆かんたんあい照らした、龍太郎、小文治こぶんじ、民部の三人は、夜のふけるをわすれて、旗上げの密議をこらした。果心居士かしんこじは、それ以上は一言ひとことも口をさし入れない。かれの任務にんむは、ただここまでの、気運だけを作るにあるもののようであった。
 翌日は早天に、みな打ちそろって僧正谷そうじょうがたに出立しゅったつした。龍太郎と小文治は、例のすがたのまま、旗あげの小太郎山こたろうざんへ。
 また、小幡民部こばたみんぶひとりは、深編笠ふかあみがさをいただき、片手に鉄扇てっせん野袴のばかまといういでたちで、京都から大阪もよりへと伊那丸いなまるのゆくえをたずねもとめていく。
 その方角は、果心居士の亀卜きぼくがしめしたところであるが、このうらないがあたるかいなか。またあるいは音にひびいた軍学者小幡が、はたしてどんな奇策きさくを胸にめているか、それは余人よじんがうかがうことも、はかり知ることもできない。

智恵ちえのたたかい




 板子いたご一枚下は地獄じごく。――船の底はまッ暗だ。
 空も見えなければ、海の色も見えない。ただときおりドドーン、ドドドドドーン! とどうにぶつかってはくだける怒濤どとうが、百千のつづみを一時にならすか、いかずちのとどろきかとも思えて、人のたましいをおびやかす。
 その船ぞこに、生けるしかばねのように、うつぶしているのは、武田伊那丸たけだいなまるのいたましい姿だった。
 八幡船ばはんせん遠州灘えんしゅうなだへかかった時から、伊那丸の意識いしきはなかった。この海賊船かいぞくせんが、どこへ向かっていくかも、おのれにどんな危害がせまりつつあるのかも、かれはすべてを知らずにいる。
「や、すっかりまいっていやがる」
 さしもはげしかった、船の動揺もやんだと思うと、やがて、入口をポンとはねて、飛びおりてきた手下どもが伊那丸のからだを上へにないあげ、すぐ船暈ふなよいざましの手当にとりかかった。
「やい、そのわっぱ脇差わきざしを持ってきて見せろ」
 とみよしからだみごえをかけたのは、この船の張本ちょうほんで、龍巻たつまき九郎右衛門くろうえもんという大男だった。赤銅しゃくどうづくりの太刀たちにもたれ、南蛮織なんばんおりのきらびやかなものを着ていた。
「はて……?」と龍巻は、いま手下から受けとった脇差の目貫めぬきと、伊那丸の小袖こそでもんとを見くらべて、ふしんな顔をしていたが、にわかにつっ立って、
「えらい者が手に入った。その小童こわっぱは、どうやら武田家たけだけ御曹子おんぞうしらしい。五十や百の金で、人買いの手にわたす代物しろものじゃねえから、めったな手荒をせず、島へあげて、かいほうしろ」
 そういって、三人の腹心の手下をよび、なにかしめしあわせたうえ、その脇差を、そッともとのとおり、伊那丸いなまるの腰へもどしておいた。
 まもなく、軽舸はしけの用意ができると、病人どうような伊那丸を、それへうつして、まえの三人もともに乗りこみ、すぐ鼻先はなさきの小島へむかってこぎだした。
「やい! 親船がかえってくるまで、大せつな玉を、よく見はっていなくっちゃいけねえぞ」
 龍巻たつまきは二、三ど、両手で口をかこって、遠声をおくった。そしてこんどは、足もとから鳥が立つように、あたりの手下をせきたてた。
「それッ、帆綱ほづなをひけ! 大金おおがねもうけだ」
「お頭領かしら、また船をだして、こんどはどこです」
泉州せんしゅうさかいだ。なんでもかまわねえから、張れるッたけをはって、ぶっとおしにいそいでいけ」
 キリキリ、キリキリ、帆車ほぐるまはせわしく鳴りだした。船中の手下どもは、飛魚とびうおのごとく敏捷びんしょうに活躍しだす。みよしに腰かけている龍巻は、その悪魔的あくまてき跳躍ちょうやくをみて、ニタリと、笑みをもらしていた。


 この秋に、京は紫野むらさきの大徳寺だいとくじで、故右大臣信長こうだいじんのぶながの、さかんな葬儀そうぎがいとなまれたので、諸国の大小名だいしょうみょうは、ぞくぞくと京都にのぼっていた。
 なかで、穴山梅雪入道あなやまばいせつにゅうどうは、役目をおえたのち、主人の徳川家康とくがわいえやすにいとまをもらって、甲州北郡きたごおりへかえるところを、廻り道して、見物がてら、泉州のさかいに、半月あまりも滞在たいざいしていた。
 堺は当時の開港場かいこうじょうだったので、ものめずらしい異国いこく色彩しきさいがあふれていた。からや、呂宋ルソンや、南蛮なんばんの器物、織物などを、見たりもとめたりするのも、ぜひここでなければならなかった。
殿との、見なれぬ者がたずねてまいりましたが、通しましょうか、いかがしたものでござります」
 穴山梅雪のかりやかたでは、もうしょくをともして、侍女こしもとたちが、ことをかなでて、にぎわっているところだった。そこへひとりの家臣が、こう取りついできた。
「何者じゃ」
 梅雪入道は、もうまゆにもしものみえる老年、しかし、千軍万馬を疾駆しっくして、きたえあげた骨ぶしだけは、たしかにどこかちがっている。
肥前ひぜん郷士ごうし浪島五兵衛なみしまごへえともうすもので、二、三人の従者じゅうしゃもつれた、いやしからぬ男でござります」
「ふーむ……、してその者が、何用でにあいたいともうすのじゃ」
「その浪島ともうす郷士が、あるおりに呂宋ルソンより海南ハイナンにわたり、なおバタビヤ、ジャガタラなどの国々の珍品もたくさん持ちかえりましたので、殿のお目にいれ、お買いあげを得たいともうすので」
「それは珍しいものが数あろう」
 梅雪入道ばいせつにゅうどうは、このごろしきりに、さかいでそのようなしなをあつめていたところ、思わず心をうごかしたらしい。
「とにかく、通してみろ。ただし、ひとりであるぞ」
「はい」家臣は、さがっていく。
 入れちがって、そこへあんないされてきたのは、衣服、大小や、かっぷくもりっぱなさむらい、ただ色はあくまで黒い。目はおだやかとはいえない光である。
「取りつぎのあった、浪島なみしまとはそちか」
「ヘッ、お目通りをたまわりまして、ありがとうぞんじます」
「さっそく、バタビヤ、ジャガタラの珍品などを、に見せてもらいたいものであるな」
「じつは、他家たけ吹聴ふいちょうしたくない、秘密なしなもござりますゆえ、願わくばお人ばらいをねがいまする」
 という望みまでいれて、あとはふたりの座敷となると梅雪はさらにまたせきだした。
「して、その秘密なしなとは、いかなるものじゃ」
殿との――」
 浪島という、郷士ごうしのまなこが、そのときいような光をおびて、声の調子まで、ガラリと変った。
「買ってもらいたいのは、ジャガタラの品物じゃありません。武田菱たけだびしもんをうった、りっぱな人間です。どうです、ご相談にのりませんか」
「な、なんじゃッ?」
「シッ……大きな声をだすと、殿とのさまのおためにもなりませんぜ。徳川家とくがわけで、血眼ちまなこになっている武田伊那丸たけだいなまる、それをお売りもうそうということなんで」
「む……」入道にゅうどうはじッと郷士ごうしおもてをみつめて、しばらくその大胆だいたんりにあきれていた。
「けっして、そちらにご不用なものではありますまい。武田たけだ御曹子おんぞうしを生けどって、徳川さまへさしだせば、一万ごくや二万ごく恩賞おんしょうはあるにきまっています。先祖代々からろくをはんだ、武田家たけだけほろびるのさえみすてて、徳川家へついたほどのあなただから、よろこんで買ってくださるだろうと思って、あてにしてきた売物です」
 ほとんど、強請ゆすりにもひとしい口吻こうふんである。だのに、梅雪入道ばいせつにゅうどうは顔色をうしなって、この無礼者を手討ちにしようともしない。
 どんな身分であろうと、弱点をつかれると弱いものだ。穴山梅雪入道は、事実、かれのいうとおり、ついこのあいだまでは、武田勝頼たけだかつよりの無二の者とたのまれていた武将であった。
 それが、織田徳川連合軍おだとくがわれんごうぐんの乱入とともに、まッさきに徳川家にくだって、甲府討入こうふうちいりの手引きをしたのみか、信玄しんげんいらい、恩顧おんこのふかい武田たけだ一族の最期さいごを見すてて、じぶんだけの命と栄華えいがをとりとめた武士ぶしである。
 この利慾のふかい武士へ、伊那丸いなまるというえさをもってりにきたのは、いうまでもなく、武士にけているが、八幡船ばはんせん龍巻たつまきであった。


 都より開港場かいこうじょうのほうに、なにかの手がかりが多かろうと、目星をつけて、京都からさかいへいりこんでいたのは、鞍馬くらまを下山した小幡民部こばたみんぶである。
 人手をわけて、要所を見張らせていたあみは、意外な効果こうかをはやくもげてきた。
「たしかに、八幡船のやつらしい者が三人、さむらいにばけて、穴山梅雪あなやまばいせつの宿をたずねた――」
 この知らせをうけた民部は、たずねさきが主家しゅけを売って敵にはしった、犬梅雪いぬばいせつであるだけに、いよいよそれだと直覚した。
 いっぽう、その夜ふけて、梅雪のかりのやかたをでていった三つのかげは、なにかヒソヒソささやきながら堺の町から、くらい波止場はとばのほうへあるいていく。
「おかしら、じゃアとにかく、話はうまくついたっていうわけですね」
上首尾じょうしゅびさ。じぶんも立身のたねになるんだから、いやもおうもありゃあしない。これからすぐに島へかえって、伊那丸をつれてさえくれば、からだの目方と黄金きんの目方のとりかえッこだ」
「しッ……うしろから足音がしますぜ」
「え?」
 と三人とも、すねにきずもつ身なので、おもわずふりかえると、深編笠ふかあみがささむらいが、ピタピタあるき寄ってきて、なれなれしくことばをかけた。
「おかしら、いつもご壮健で、けっこうでござりますな」
「なんだって? おれはそんな者じゃアない」
「エヘヘヘヘ、わたしも、こんな、侍姿にばけているから、ゆだんをなさらないのはごもっともですが、さきほど町で、チラとお見うけして、まちがいがないのです」
「なんだい、おめえはいったい?」
「こう見えても、ずいぶんなみの上でかせいだ者です」
「おれたちの船じゃなかろう、こっちは知らねえもの」
「そりゃア数ある八幡船ばはんせんですから」
「しッ。でっかい声をするねえ」
「すみません。船から船へわたりまわったことですからな、ながいお世話にはなりませんでしょうが、おかしらの船でも一どはたらいたことがあるんです」
 話しながら、いつかおかはずれの、小船のおいてあるところまできてしまった。あとをついてきた侍すがたの男は、ぜひ、もう一ど船ではたらきたいからとせがんでたくみに龍巻たつまきを信じさせ、沖にすがたを隠している、八幡船ばはんせんの仲間のうちへ、まんまと乗りこむことになった。
 その男の正体しょうたいが、小幡民部こばたみんぶであることはいうまでもない。なまじ町人すがたにばけたりなどすると、かえってさきが、ゆだんをしないと見て、生地きじのままの反間苦肉はんかんくにくがみごとに当った。
 民部のこころは躍っていた。けれどもうわべはどこまでもぼんやりに見せて、たえず、船中に目をくばっていたが、どうもこの船にはそれらしい者を、かくしているようすが見えない。で、いちじはちがったかと思ったが、梅雪ばいせつをおとずれたという事実は、どうしても、民部には見のがせない。
 船は、その翌日、闇夜あんやにまぎれて、さかいの沖から、ふたたび南へむかって、満々まんまんをはった。


 伊那丸いなまるは、日ならぬうちに気分もさわやかになった。それと同時に、かれは、生まれてはじめて接した、大海原おおうなばら壮観そうかんに目をみはった。
 ここはどこの島かわからないけれど、りくのかげは、一里ばかりあなたに見える。けれど、伊那丸には、龍巻の手下が五、六人、一歩あるくにもつきまとっているので逃げることも、どうすることもできなかった。
「ああ……」忍剣にんけんを思い、咲耶子さくやこをしのび、龍太郎りゅうたろうのゆくえなどを思うたびに、波うちぎわに立っている伊那丸いなまるのひとみに涙が光った。
「なんとかしてこの島からでたい、名もしれぬ荒くれどもの手にはずかしめられるほどなら、いッそこの海の底に……」
 夜はつめたいいその岩かげに組んだ小屋にねる。だが、そのあいださえ、羅刹らせつのような手下は、交代こうたい見張みはっているのだ。
「そうだ、あの親船が返ってくれば、もう最期さいごの運命、逃げるなら、いまのうちだ」
 きッと、心をけっして、頭をもたげてみると、もう夜あけに近いころとみえて、寝ずの番も頬杖ほおづえをついていねむっている。
「む!」はね起きるよりはやく、ばらばらと、昼みておいた小船のところへ走りだした。ところがきてみると、船は毎夜、かれらの用心で、十けんおかの上へ、引きあげてあった。
「えい、これしきのもの」
 伊那丸は、金剛力こんごうりきをしぼって、波のほうへ、つなをひいてみたが、荒磯あらいそのゴロタ石がつかえて、とてもうごきそうもない。――ああこんな時に、忍剣ほどの力がじぶんに半分あればと、えきないくりごともかれの胸にはうかんだであろう。
「野郎ッ、なにをする!」
 われを忘れて、船をおしている伊那丸のうしろから、松の木のようなうでが、グッと、喉輪のどわをしめあげた。
「見つかったか」伊那丸いなまるは歯がみをした。
「こいつ。逃げる気だな」
 のどかんぬきをかけられたまま、伊那丸はタタタタタと五、六歩あとへ引きもどされた。
 もうこれまでと、脇差わきざしつかに手をやって、やッと、身をねじりながらさきをとばした。
「あッ――き、りやがったなッ」
 とたん――目をさましてきた四、五人の手下たちも、それッと、かいや太刀をふるって、わめきつ、さけびつちこんできたが、伊那丸も捨身すてみだった。小太刀の精のかぎりをつくして、斬りまわった。
 しかし何せよ、慓悍無比ひょうかんむひな命しらずである。ただでさえせいのおとろえている伊那丸は、無念むねんや、ジリジリ追われ勝ちになってきた。


 その時であった。
 空と波との水平線から、こなたの島をめがけて、征矢そやのようにけてきた一羽のくろい大鷲おおわし
 ぱッと、波をうっては水けむりをあげた。空にっては雲にかくれた。――やがて、そのすばらしい雄姿をのあたりに見せてきたと思うと、伊那丸いなまると五人の男の乱闘らんとうのなかを、さっと二、三ど、地をかすってけりまわった。
「わーッ、いけねえ!」
 のこらずの者が、その巨大なつばさにあおりたおされた。むろん、伊那丸も、四、五けんほど、飛ばされてしまった。
 嵐か、旋風つむじか、伊那丸は、なんということをも意識いしきしなかった。ただ五人の敵! それに一念であるため、立つよりはやく、そばにたおれていたひとりを、斬りふせた。
 くろい大鷲おおわしは、伊那丸の頭上をはなれず廻っている。砂礫されきをとばされ、その翼にあたって、のこる四人も散々さんざんになって、気をうしなった。――ふと、伊那丸は、その時はじめて、ふしぎな命びろいをしたことに気づいた。空をあおぐと、オオ! それこそ、恵林寺えりんじにいたころ、つねにをやって愛していたクロではないか。
「お! クロだ、クロだ」
 かれが血刀ちがたなを振って、狂喜きょうきのこえを空になげると、クロはしずかにおりてきて、小船のはしに、翼をやすめた。
「ちがいない。やはりクロだった。それにしても、どうして、あのくさりをきったのであろう」
 ふと見ると、足に油紙あぶらがみったのが巻きしめてある。伊那丸はいよいよふしぎな念に打たれながら、いそいできひらいてみると、なつかしや、忍剣にんけんの文字!

若さま、このてがみが、あなたさまの、お目にふれましたら、若さまのおてがみも、かならず私の手にとどきましょう。忍剣にんけんいのちのあらんかぎりは、ふたたびお目にかからずにはおりません。甲斐かいの山にて。

 ハラハラと、とめどないなみだを、その数行の文字にはふり落として立ちすくんでいた伊那丸いなまるは、いそいで小屋に取ってかえし、今の窮状きゅうじょうをかんたんにしたためて、かけもどってきた。
 夜はほのぼのと、八重やえ汐路しおじに明けはなれてきた。
 見れば、クロはよほどえていたらしく、五人の死骸しがいの上を飛びまわって、生々なまなましい血に、したなめずりをしていた。
 同じように、かえしぶみを、わしの片足へむすびつけて、それのおわったとき、伊那丸の目のまえに、さらにのろいの悪魔あくま悠々ゆうゆうとかげを見せてきた。
 八幡船ばはんせんの親船がかえってきたのだ。もうすぐそこ――島から数町の波間なみまのちかくへ。
「いよいよ最期さいごとなった。クロ! わしの運命はおまえのつばさに乗せてまかすぞよ」
 して死をまつもと、伊那丸は鷲の背中へ、抱きつくように身をのせた。
 思うさま、人の血をすすったクロは、両のつばさでバサと大地をうったかと思うと、伊那丸の身を軽々とのせたまま、天空高く、いあがった。

ふえふく咲耶子さくやこ




「あれ、あれ、ありゃあなんだ?」
「おお、島からとび立ったあやしい魔鳥まちょう
わしだッ。くろい大鷲おおわしだ」
 白浪はくろうをかんで、満々まんまんを張ってきた八幡船ばはんせんの上では多くの手下どもが、あけぼのの空をあおいで、しおなりのようにおどろき叫んでいた。
 さわぎを耳にして、船部屋ふなべやからあらわれた龍巻九郎右衛門たつまきくろうえもんは、ギラギラかえす朝陽あさひに小手をかざして、しばらく虚空こくう旋回せんかいしている大鷲の影をみつめていたが、
「ややッ」にわかに色をかえて、すぐ、
「あのわしおとせッ、はやくはやく。遠のかねえうちだ」
 とあらあらしく叱咤しったした。おう! 手下どもは武器倉ぶきぐらうずをまいて、ゆみ鉄砲てっぽうを取るよりはやく、ちゅうを目がけて火ぶたを切り、矢つぎばやに、征矢そやの嵐をはなしたが、わしはゆうゆうと、遠く近くとびまわって、あたかも矢弾やだまの弱さをあざけっているようだ。
民蔵たみぞう民蔵、新米しんまいの民蔵はどうしたッ」
 龍巻たつまきが足をみならして、こうさけんだ時、船底からかけあがってきたのは、民蔵たみぞうと名をかえて、さかいから手下になって乗りこんでいた、かの小幡民部こばたみんぶであった。
「おかしら、おびになりましたかい」
「どこへもぐりこんでいるんだ。てめえに、ちょうどいいうでだめしをいいつける。あの大鷲おおわしの上に、人間がきついているんだ、島から伊那丸いなまるげだしたにちげえねえ、てめえの腕でぶち落として見ろ」
「えッ、伊那丸とは、なんですか」
「そんなことをグズグズ話しちゃいられねえ、オオまた近くへきやがった、はやくてッ」
「がってんです!」
 小幡民部の民蔵は、伊那丸と聞いてギクッとしたが、龍巻に顔色を見すかされてはと、わざといさみたって、渡された種子島たねがしま銃口つつぐちをかまえ、船の真上へ鷲がちかよってくるのを待った。
 と見るまに、鷲はふたたび低くって、帆柱ほばしらのてッぺんをさッとすりぬけた。
「そこだ」龍巻はおもわずこぶしを握りしめる。
 同時に、ねらいすましていた民部みんぶの手から、ズドン! と白い爆煙ばくえんが立った。
「あたった! あたった」
 ワーッという喊声かんせいが、船をゆるがしたせつな、大鷲はまぢかに腹毛を見せたまま、ななめになってクルクルと海へ落ちてきた――と見えたのは瞬間しゅんかん。――大きなつばさで海面をたたいたかと思うまに、ギャーッと一声ひとこえ、すごい絶鳴ぜつめいをあげて、猛然もうぜんと高く飛び上がった。
 そのとたんに、大鷲おおわしの背から海中へふり落とされたものがある――いうまでもなく武田伊那丸たけだいなまるであった。龍巻たつまきは、雲井くもいへかけり去ったわしの行方などには目もくれず、すぐ手下に軽舸はしけをおろさせて、波間にただよっている伊那丸を、親船へ引きあげさせた。
民蔵たみぞうでかしたぞ。きさまの腕前にゃおそれいッた」
 と龍巻は上機嫌じょうきげんである。そしていままでは、やや心をゆるさずにいた民部みんぶを、すッかり信用してしまった。


 堺見物さかいけんぶつもおわったが、伊那丸のことがあるので、帰国をのばしていた穴山梅雪あなやまばいせつやかたへ、あるゆうべ、ひとりの男が密書みっしょを持っておとずれた。
 吉左右きっそうを待ちかねていた梅雪入道は、くっきょうな武士七、八名に、身のまわりをかためさせて、築山つきやまちんへ足をはこんできた。そこには、黒衣覆面こくいふくめんの密書の使いが、両手をついてひかえていた。
「書面は、しかと見たが、今宵こよいのあんないをするというそのほうは何者だの」
 と梅雪はゆだんのない目くばりでいった。
龍巻たつまきの腹心の者、民蔵たみぞうともうしまする」
「して、伊那丸いなまるの身は、ただいまどこへおいてあるの?」
「しばらく船中で手当を加えておりましたが、こよいこくに、かねてのお約束やくそくどおり、船からあげて阿古屋あこやの松原までかしらが連れてまいり、金子きんすと引きかえに、おやかたへお渡しいたすてはずになっておりまする」
 よどみのない使いの弁舌べんぜつに、梅雪入道ばいせつにゅうどううたがいをといたとみえ、すぐ家臣に三箱の黄金をになわせ、じぶんも頭巾ずきんおもてをかくして騎馬立きばだちとなり、剛者つわもの十数人を引きつれて、阿古屋の松原へと出向いていった。
「殿さま、しばらくお待ちねがいます」
 途中までくると、案内役の民蔵は、梅雪入道の鞍壺くらつぼのそばへよって、ふいに小腰をかがめた。
「少々おねがいのがござります。お馬をとめて、無礼者ぶれいものとお怒りもありましょうが、阿古屋の松原へついてはにあわぬこと、お聞きくださいましょうか」
「なんじゃ、とにかくもうしてみい」
「は、でもござりませぬが、今日こんにちお館のご威光いこうを見、またかくおともいたしているうちに、八幡船ばはんせんの手下となっていることが、つくづく浅ましく感じられ、むかしの武士ぶしにかえって、白日はくじつのもとに、ご奉公いたしたくなってまいりました」
悠長ゆうちょうなやつ、かような出先でさきにたって、なにを述懐じゅっかいめいたことをぬかしおるか。それがなんといたしたのだ」
「ここに一つの手柄てがらをきっと立てますゆえ、おやかたの家来のはしになりと、お加えなされてくださりませ」
「ふウ――どういう手柄てがらを立てて見せるな」
「この三箱の黄金おうごんをかれにわたさずして、まんまと、武田伊那丸たけだいなまる龍巻たつまきの手よりうばい取ってごらんに入れますが」
「ぬからぬことをもうすやつだ。して、そのさくは?」
「わが君、お耳を……」
 小幡民部こばたみんぶ民蔵たみぞうが、なにをささやいたものか、梅雪ばいせつはたちまち慾ぶかいその相好そうごうをくずして、かれのねがいを聞きとどけた。そして、えらびだした武士二、三人に、密命をふくませ、そこからいずこともなく放してやると自身はふたたび、民蔵を行列の先頭にして、闇夜あんやの街道を、しずしずと進んでいった。


 まもなく着いた、阿古屋あこやの松原。
 梅雪入道ばいせつにゅうどうくらからおりて、海神かいじんやしろ床几しょうぎをひかえた。
 と――やがて約束のこくごろ、浜辺はまべのほうから、百夜行やこう八幡船ばはんせんの黒々とした一列が、松明たいまつももたずに、シトシトと足音そろえて、ここへさしてくる。
民蔵たみぞう、民蔵」
 と鳥居まえで、合図あいずをしたのは龍巻たつまきにちがいなかった。民蔵は梅雪ばいせつのそばをすりぬけて、そこへかけていった。
「おかしらですか」
「む、いいつけた使いの首尾しゅびはどうだった」
「こちらは、殿さまごじしんで、早くからきて、あれに待っています。そして伊那丸いなまるは?」
「ふんじばってつれてきた、じゃおれは、梅雪とかけあいをつけるから、きさまが縄尻なわじりを持っていろ。なかなかわっぱのくせに強力ごうりきだから、ゆだんをしてがすなよ」
 龍巻は二、三十人の手下をつれて、梅雪のいる拝殿はいでんの前へおしていった。
 縄尻をうけた民蔵は、
「やいッ、歩かねえか」わざと声をあららげて、伊那丸の背中をつく。――その心のうちでは、手をあわせている小幡民部こばたみんぶであった。
 しばらくのあいだ、龍巻と談合だんごうしていた梅雪は、伊那丸の面体めんていを、しかと見さだめたうえで、約束の褒美ほうびをわたそうといった。龍巻も心得て、うしろへ怒鳴どなった。
「民蔵、その童をここへひいてこい」
「へい」
 民蔵は縄目なわめにかけた伊那丸を、梅雪入道の前へひきすえた。拝殿の上から、とくと、見届みとどけた梅雪は、大きくうなずいて、
「でかしおッた。武田伊那丸たけだいなまるにそういない」
 その時、むッくり首をあげた伊那丸は、穴山あなやまのすがたを、かッとにらみつけて、血をくような声でいった。
「人でなしの梅雪入道ばいせつにゅうどう!」
「な、なにッ」
「お祖父じいさま信玄しんげんの時代より、武田家たけだけろくみながら、徳川とくがわ軍へ内通したばかりか、甲府攻こうふぜめの手引きして、主家しゅけにあだなした犬侍いぬざむらい。どのつらさげて、伊那丸の前へでおった、見るもけがれだ。退さがれッ」
「ワッハッハハハハ」梅雪は内心ギクとしながら、老獪ろうかいなる嘲笑ちょうしょうにまぎらわして、
「なにをいうかと思えば、小賢こざかしい無礼呼ぶれいよばわり。なるほどその昔は、信玄公にもつかえ、勝頼かつよりにもつかえた梅雪じゃが、いまは、しゅでもなければきみでもない。武田の滅亡は、おもとの父、勝頼が暗愚あんぐでおわしたからじゃ。うらむならお許の父をうらめ、馬鹿大将の勝頼をうらむがよい」
「ムムッ……よういッたな!」
 不道の臣に面罵めんばされて、身をふるわせた伊那丸は、やにわに、ガバとはねおきるがはやいか、両手をばくされたまま、梅雪に飛びかかって、ドンと、かれを床几しょうぎからとばした。
「なにをするか」
 縄尻なわじりをひいた民蔵たみぞうの力に、伊那丸いなまるはあおむけざまにひッくり返った。ア――おいたわしい! とおもわず睫毛まつげに涙のさす顔をそむけて、
「ふ、ふざけたまねをすると承知しょうちしねえぞ。立て! こっちのすみへ寄っていろい!」
 ズルズルと引きずってきて、拝殿のはしらへ縄尻をくくりつけた。龍巻たつまきはそれをきッかけにして、
「じゃあ殿とのさま、伊那丸はたしかに渡しましたから、約束の金を、こっちへだしてもらいましょうか」
「む、いかにも褒美ほうびをつかわそう、これ、用意してきた黄金をここへ持て」
 と、家臣にになわせてきた三箱の金をそこへ積ませると、
「さすがは大名だいみょう、これだけの黄金をそくざに持ってきたのはえらいものだ」
 と、ニタリつぼにった。
「やい野郎ども、はやくこの黄金を軽舸はしけへ運んでいけ。どりゃ、用がすんだら引きあげようか」
 と手下にそれをかつがせて、龍巻も立とうとすると、
「やッ、大へんだ、おかしら、少ウしお待ちなさい」
 と民蔵がことさら大きな声で、出足をとめた。
「なんでえ、やかましい」
 龍巻たつまきは、したうちをしてふりかえった。やしろ廻廊かいろうにたって、小手こてをかざしていた民蔵たみぞうは、なおぎょうさんにとびあがって、
「一大事一大事! おかしら、沖の親船が焼ける! あれあれ、親船がえあがってる!」
 と、手をふりまわした。


「なにッ、親船が?」
 龍巻も、さすがにギョッとして、浜辺のほうをすかしてみると、まッ暗な沖合おきあいにあたって、ボウと明るんできたのは、いかにも船火事らしい。
「ややややや」龍巻の目はいようにかがやく。
 見るまに沖の明るみは一だんの火の玉となって、金粉のごとき火のを空にふきあげた。夜のうしお燦爛さんらんめられて、あたかも龍宮城が焼けおちているかのような壮観そうかんを現じた。
「ちぇッ、とんでもねえことになッた。それッ、早くぎつけて、消しとめろ」
 とぎょうてんした龍巻は、二、三十人の手下たちとともに、一どにドッと海神かいじんやしろをかけだしていくと、にわかに、鳥居わきの左右から、ワッという声つなみ!
「海賊ども、待て」
「御用、御用」
 たちまち氷雨ひさめのごとく降りかかる十手じっての雨。――かける足もとを、からみたおす刺股さすまた、逃げるをひきたおすそでがらみ。驚きうろたえるあいだに、バタバタと、ってふせ、ねじふせ、刃向はむかうものは、片っぱしから斬り立ててきた、捕手とりての人数は、七、八十人もあろうかと見えた。
 陣笠じんがさ陣羽織じんばおりのいでたちで、堺奉行所さかいぶぎょうしょ提灯ちょうちんを片手に打ちふり、部下の捕手を激励げきれいしていた佐々木伊勢守ささきいせのかみへ、荒獅子あらじしのごとく奮迅ふんじんしてきたのは、かしらの、龍巻九郎右衛門たつまきくろうえもんであった。
「おのれッ」とさえぎる捕手を斬りとばして、夜叉やしゃを思わせる太刀風たちかぜに、ワッと、ひらいて近よる者もない折から穴山梅雪あなやまばいせつ一手の剛者つわものが、捕手に力をかして、からくも龍巻をしばりあげた。
民蔵たみぞう、そのほうの奇策きさくはまんまとにあたった。こなたより奉行所ぶぎょうしょ密告みっこくしたため、アレ見よ、おきでも、この通りなさわぎをしているわい……小きみよい悪党あくとうばらの最後じゃ」
 穴山梅雪は、帰館きかんすべくふたたびまえのこまにのって、持ってきた黄金をも取りかえし、武田伊那丸たけだいなまるをも手に入れて、得々とくとくと社頭から列をくりだした。
「手はじめの御奉公、首尾しゅびよくまいって、民蔵めも面目至極めんもくしごくです。殿のご運をおよろこびもうしあげます」
「ういやつだ。こよいから近侍きんじにとり立ててくれる。伊那丸いなまるなわをとって、ついてこい」
 いっぽう、捕手とりてにかこまれて、引ッ立てられた龍巻たつまきは、このていをみると、あたりの者をはねとばして、形相ぎょうそうすごく、民蔵たみぞうのそばへかけよった。
畜生ちくしょう。う、うぬはよくも、おれを裏切うらぎりやがったな。一どは、なわにかかっても、このまま、獄門台ごくもんだいに命を落とすような龍巻じゃねえぞ。きっとまたあばれだして、きさまの首をひンねじる日があるからおぼえていろ!」
「おお、心得た。だが、拙者せっしゃは腕力は弱いから、その時には、また今夜のように、智慧ちえくらべで戦おうわい」
 久しぶりに、小幡民部こばたみんぶらしい口調でこたえた民蔵は、子供の悪たれでも聞きながすように笑って、他の武士たちと同列に、梅雪ばいせつやかたへついていった。


 ここしばらく、京都に滞在たいざいしている徳川家康とくがわいえやす陣営じんえいへにわかに目通りをねがってでたのは、梅雪入道ばいせつにゅうどうであった。
 家康は、もうとッくに、甲州こうしゅう北郡きたごおり領土りょうどへ帰国したものと思っていた穴山あなやまが、また途中から引きかえしてきたのは、なにごとかと意外におもって、そくざに、かれを引見いんけんした。
 梅雪ばいせつ御前ごぜんにでて、入道頭にゅうどうあたまをとくいそうにふり立てて、かねて厳探中の伊那丸いなまる捕縛ほばくした顛末てんまつを、さらに誇張こちょうして報告した。さしずめ、その恩賞おんしょうとして、一万ごくや二万ごくのご加増はあってしかるべしであろうといわんばかり。
「ふム……そうか」
 家康いえやすのゆがめた口のあたりに二重のしわがきざまれた。これはいつも、思わしくない感情をあらわすかれの特徴とくちょうである。
「浜松のご城内へまで潜入せんにゅうして、君のおいのちをねらった不敵な伊那丸、生かしておきましては、ながく徳川とくがわもんをおびやかしたてまつるは必定ひつじょうとぞんじまして……」
「待て、待て、わかっておる……」
 梅雪はあんがい、いや、大不服である。
 あれほど、伊那丸の首に、恩賞のぞみのままの沙汰さたをふれておきながら、この無愛想ぶあいそな口ぶりはどうだ。
 しかし家康は、梅雪がうぬぼれているほど、かれを腹心ふくしんとは信じていない。
 日本の歴史にも、中華ちゅうか史上にも少ないくらいな、武士ぶしつらよごしが、武田たけだ滅亡のさいに、二人あった。一人はこの梅雪、一人は小山田信茂おやまだのぶしげである。
 織徳しょくとく連合軍におわれた勝頼主従かつよりしゅじゅうが、そのしん、小山田信茂の岩殿山いわどのやまをたよって落ちたとき、信茂は、さくをかまえて入城をこばみ、勝頼一門が、天目山てんもくざん討死うちじにを見殺しにした。そして、それを軍功顔ぐんこうがおに、織田おだの軍門へくだっていった。
 信長のぶながの子、織田城之助おだじょうのすけは、小山田おやまだを見るよりその不忠不人情を罵倒ばとうして、褒美ほうびはこれぞと、陣刀じんとうせんのもとに首を討ちおとした。――そういう例もある。
 ましてや、梅雪入道ばいせつにゅうどうは、武田家譜代たけだけふだいしんであるのみならず、勝頼かつよりとは従弟いとこえんさえある。その破廉恥はれんちは小山田以上といわねばならぬ。
 ――けれど家康いえやすは、城之助とちがって、何者をも利用することを忘れない大将であった。
「梅雪、伊那丸いなまるとらえたともうすが、それだけか」
「は? それだけとおおせられますると」
「たわけた入道よな。武田家のまもがみともあがめておった御旗みはた楯無たてなし宝物ほうもつは、たしかに、伊那丸がかくしているはずじゃ。そのをもうすのにわからぬか」
「はッ、いかさま。それまでには気がつきませんでした。さっそく、糺明きゅうめいいたしてみます」
ほとけつくって、たましいいれぬようなことは、家康、大のきらいじゃ。伊那丸の首と、御旗みはた楯無たてなしとをそろえて、持参いたしてこそ、はじめて、まったき一つの働きをたてたともうすもの」
「願わくば、ここ二月ふたつきのご猶予ゆうよを、この入道にお与えくださりませ。きっとその宝物と、伊那丸の塩漬しおづけ首とを、ともにごらんにそなえまする」
 梅雪入道は、家康にかたくちかって、そこそこにさかいへ立ちもどった。にわかに家来一同をまとめて、領土へ帰国のむね布令ふれだした。
 その前にさきだって、小幡民部こばたみんぶ民蔵たみぞうは、いずこへか二、三通の密書みっしょをとばした。はたしてどことどことへ、その密書がいったかは、何人なんぴとといえども知るよしはないが、うち一通は、たしかに鞍馬山くらまやま僧正谷そうじょうがたににいる、果心居士かしんこじの手もとへ送られたらしい。
 さかいを出発した穴山あなやまの一族郎党ろうどうは、伊那丸いなまるをげんじゅうな鎖駕籠くさりかごにいれ、威風堂々いふうどうどうと、東海道をくだり、駿府すんぷから西にまがって、一路甲州の山関さんかんへつづく、身延みのぶの街道へさしかかった。
 ここらあたりは、見わたすかぎり果てしもない晩秋の広野である。
 ――ああそこは伊那丸にとって、思い出ふかき富士ふじ裾野すその加賀見忍剣かがみにんけんと手に手をとって、さまよいあるいた富士の裾野。
 けれど、鎖網くさりあみをかけた、駕籠かごのなかなる伊那丸の目には、なつかしい富士のすがたも見えなければ、富士川の流れも、れすすきの波も見えない。
 ただ耳にふれてくるものは、蕭々しょうしょうと鳴る秋風のおと、寥々りょうりょうとすだく虫の音があるばかり。
 すると、どこでするのか、だれのすさびか、秋にふさわしいふえがする。そのたえ音色ねいろは、ふと伊那丸の心のそこへまでみとおってきた。――かれは、まッ暗な駕籠かごのなかで、じッと耳をすました。
「お! 咲耶子さくやこ、咲耶子の笛ではないか」
 思わずつぶやいた時である。なにごとか、いきなりドンと駕籠かごがゆれかえった。


「ぶれい者、お供先ともさきに立ってはならぬ」
「あやしい女、ひッとらえろ!」数人は、バラバラと前列のほうへかけあつまった。穴山あなやま郎党ろうどうたちは、たちまち、押しかぶさって、ひとりの少女をそこへねじふせた。
「しばらくお待ちくださいまし。わたくしは、けっしてあやしい者ではありませぬ。穴山梅雪あなやまばいせつさまのご通行をさいわいに、おうったえもうしたいことがあるのです」
「だまれ、ご道中でさようなことは、聞きとどけないわ、帰れッ」
 と、家来どものののしる声を聞いて、駕籠のとびらをあけさせた梅雪は、
「しさいあり女子おなごじゃ。なんの願いか聞いて取らせる。これへ呼べ」と一同を制止した。
 うるわしいお下髪さげにむすび、おびのあいだへ笛をはさんだその少女おとめは、おずおずと、梅雪の駕籠の前へすすんで手をついた。
「訴えのおもむきをいうてみい。また、このようなさびしい広野ひろのに、ただひとりおるそちは、いったい何者の娘だ」
「野武士の娘、咲耶子さくやこともうしまする。お訴えいたすまえに、おうかがいいたしたいのは、うしろの鎖駕籠くさりかごのなかにいるおかたです。もしや武田伊那丸たけだいなまるさまではございませんでしょうか」
「それを聞いてなんとする」
 梅雪ばいせつはおそろしい目を咲耶子さくやこ挙動きょどうそそぎかけた。
 けれど彼女は、むじゃきにいた野の花のよう、なんのおそれげもわだかまりもなく、あとのことばをさわやかにつづけた。
「まことは、まえに伊那丸さまから、ご大切な宝物ほうもつとやらを、父とわたくしとで、おあずかりもうしておりましたが、そのために、親娘おやこの者が、ひとかたならぬ難儀なんぎをいたしておりますゆえ、きょう、お通りあそばしたのをさいわい、お返しもうしたいのでござります」
「ふーむ、して、その宝物ほうもつとやらはどんな物だ」
「このさきの、五の一つへしずめてありますゆえ、どんな物かはぞんじませぬが、このごろ、あっちこっちの悪者がそれをぎつけて、湖水の底をさぐり合っておりまする。なんでも石櫃いしびつとやらにはいっている、武田たけださまのお家のたからだともうすことでござります」
「む、よううったえてきた。褒美ほうびはぞんぶんにとらすからあんないせい」
 梅雪の顔は、思いがけない幸運にめぐり合ったよろこびにあふれた。――が、駕籠側かごわきにいた民蔵たみぞうは、サッと色をかえて、この不都合ふつごうな密告をしてきた少女を、人目さえなければ、ただ一太刀ひとたちってすてたいような殺気をありありと目のなかにみなぎらせた。
 行列はきゅうに方向をてんじて、五湖の一つに沈んでいる宝物をさぐりにむかった。けれども、道案内みちあんないに立った咲耶子さくやこは西も東もわからぬ広野こうやを、ただグルグルと引きずりまわすのみなので、一同は、道なき道につかれ、梅雪ばいせつもようやくふしんのまゆをひそめはじめた。
民蔵たみぞうはいないか、民蔵」と呼びつけて、
小娘こむすめ挙動きょどう、だんだんと合点がてんがいかぬ。あるいは、野かせぎの土賊どぞくばらが、手先に使っている者かも知れぬ、も一ど、ひッとらえてただしてみろ」
「かしこまりました」
 民蔵は得たりと思った。ばらばらと前列へかけ抜けてきて、いきなり、むんずと咲耶子の腕首うでくびをつかんだ。
「小娘ッ」まことは甲州流兵法こうしゅうりゅうへいほう達人たつじん小幡民部こばたみんぶが、こういってにらんだ眼光はるようだった。
「なんでござりますか」
「さきほどからみるに、わざと、道なき野末のずえへあんないしていくはあやしい。いったいどこへまいる気だ」
「知りませぬ、わたしは、ひとりで好きに歩いているのですから」
「だまれ、五湖へあんないいたすともうしたのではないか」
「だれが、穴山あなやまさまのような、けがらわしい犬侍いぬざむらいのあんないになど立ちましょうか」
「おのれ、さては野盗やとうの手引きか」
「いいえ、ちがいます」
かすなッ。さらば何者にたのまれた」
御旗みはた楯無たてなしの宝物が欲しさに、慾に目がくらんで、わたしのような少女にまんまとだまされた! オホホホホ……やッとお気がつかれましたか」
「おのれッ」
 抜く手も見せず、民蔵たみぞうがサッとりつけたさきからヒラリと、ちょうのごとくびかわした咲耶子さくやこは、バラバラと小高いおかへかけあがるよりはやく、おびの横笛をひき抜いて、片手に持ったままちゅうへ高く、ふってふってふりまわした。
 ああ! こはそもなに? なんの合図あいず
 それと同時に、ただいちめんの野と見えた、あなたこなたのすすきの根、小川のへり、窪地くぼちのかげなどから、たちまち、むくむくとうごきだした人影。
 ウワーッと喊声かんせいをあげて、あらわれたのは四、五十人の野武士のぶしである。手に手に太刀たちをふりかざして、あわてふためく穴山あなやまとうのなかへ、天魔軍てんまぐんのごとく猛然もうぜんりこんだ。
 ニッコと笑って、おかに立った咲耶子が、さッと一せん、笛をあげればかかり、二せん、さッと横にふればしりぞき、三せんすればたちまち姿をかくす――神変しんぺんふしぎな胡蝶こちょうの陣。

天翔あまがけ鞍馬くらま使者ししゃ




 きょうも棒切ぼうきれを手にもって、友だち小猿こざるを二、三十ぴきつれ、僧正谷そうじょうがたにから、百足虫腹むかでばら嶮岨けんそをつたい、鞍馬くらま大深林だいしんりんをあそびまわっているのは、果心居士かしんこじ童弟子わらべでしいがぐりあたまの竹童ちくどうであった。
「おや、こんなところへだれかやってくるぞ……このごろ人間がよくのぼってくるなア」
 竹童がつぶやいた向こうを見ると、なるほど、菅笠すげがさ脚絆きゃはんがけの男が、深林の道にまよってウロウロしている。
「オーイ、オーイ――」
 とかれが口に手をあてて呼ぶと、菅笠の男が、スタスタこっちへかけてきたが、見ればまだ十さいぐらいの男の子が、たッたひとり、多くのさるにとりかれているのでへんな顔をした。
「おじさん、どこへいくんだい、こんなところにマゴマゴしていると、うわばみに食べられちまうぜ」
「おまえこそいったい何者だい、鞍馬寺くらまでら小坊主こぼうずさんでもなし、まさか山男のせがれでもあるまい」
「何者だなんて、生意気なまいきをいうまえに、おじさんこそ、何者だかいうのが本来ほんらいだよ。おいらはこの山に住んでる者だし、おじさんはだまって、人の山へはいってきた風来人ふうらいじんじゃないか」
「おどろいたな」と旅の男はあきれ顔に――「じつは僧正谷そうじょうがたに果心居士かしんこじさまとおっしゃるおかたのところへ、さかいのあるおかたから手紙をたのまれてきたのさ」
「アア、うちのお師匠ししょうさまへ手紙を持ってきたのか、それならおいらにおだしよ。すぐとどけてやる」
「じゃおまえは果心居士さまのお弟子でしか、やれやれありがたい人に会った」
 と、男は竹童ちくどうに手紙をわたしてスタスタ下山していった。
「いそぎの手紙だといけないから、さきへこいつに持たしてやろう」
 と竹童はその手紙を、一ぴき小猿こざるにくわえさせて、むちで僧正谷の方角ほうがくをさすと、さるは心得たようにいっさんにとんでいく。そのあとで、
「さッ、こい、おいらとかけッくらだ」
 竹童は、とくいの口笛くちぶえを吹きながら、ほかのさるとごッたになって、深林のおくへおくへとかけこんでいったが、ややあって、頭の上でバタバタという異様いようなひびき。
「おや? ――」と、かれは立ちどまった。小猿たちは、なんにおびやかされたのか、かれひとりを置きてにして、ワラワラとどこかへ姿すがたをかくしてしまった。
「やア……やア……やア奇態きたいだ」
 なにもかも忘れはてたようすである。あおむいたまま、いつまでも棒立ぼうだちになっている竹童ちくどうの顔へ、上のこずえからバラバラと松の皮がこぼれ落ちてきたが、かれは、それをはらうことすらも忘れている。
 そも、竹童の目は、なんにいつけられているのかと見れば、じっさい、おどろくべき怪物かいぶつ――といってもよい大うわばみが、鞍馬山くらまやまにはめずらしい大鷲おおわしを、つばさの上から十重二十重とえはたえにグルグルきしめ、その首と首だけが、そうほうまっ赤な口から火焔かえんをふきあって、ジッとにらみあっているのだ。まさに龍攘虎搏りゅうじょうこはくよりものすごい決闘けっとう最中さいちゅう
「や……おもしろいな。おもしろいな。どっちが勝つだろう」
 竹童おどろきもせず、口アングリひらいて見ていることややしばし、たちまち、鼓膜こまくをつんざくような大鷲おおわし絶鳴ぜつめいとともに、大蛇おろちに巻きしめられていたそうつばさがバサッとひろがったせつな、あたりいちめん、嵐に吹きちる紅葉こうようのくれないを見せ、寸断すんだんされたうわばみの死骸しがいが、バラバラになって大地へ落ちてきた。
 それを見るやいなや、雲をかすみと、僧正谷そうじょうがたにへとんで帰った竹童。果心居士かしんこじ荘園そうえんへかけこむがはやいか、めずらしい今の話をげるつもりで、
「お師匠ししょうさま、お師匠さま」とびたてた。
「うるさい和子わこじゃ。あまり飛んで歩いてばかりいると、またその足がうごかぬようになるぞよ」
 芭蕉亭ばしょうてい竹縁ちくえんに腰かけていた居士こじの目が、ジロリと光る、その手に持っている手紙をみた竹童ちくどうは、ふいとさっきの用を思いだして、うわばみとわしの話ができなくなった。
「あ、お師匠ししょうさま、さきほど、お手紙がまいりましたから、さるに持たせてよこしました。もうごらんなさいましたか」と目の玉をクルリとさせる。
横着おうちゃくなやつめ。小幡民部こばたみんぶどのからの大切なご書面、もしうしのうたらどうするつもりじゃ」
「ハイ」
 竹童は頭をかいて下をむいた。居士こじは、白髯はくぜんのなかから苦笑をもらしたが、叱言こごとをやめて語調ごちょうをかえる。
「ところでこの手紙によって急用ができた、竹童、おまえちょっとわたしの使いにいってくれねばならぬ」
「お使いは大好きです。どこへでもまいります」
「ム、大いそぎで、武蔵むさしの国、高尾山たかおさん奥院おくのいんまでいってきてくれ、しさいはここに書いておいた」
「お師匠さま、あなたはごむりばかりおっしゃります」
「なにがむりじゃの」
「この鞍馬くらまの山奥から、武蔵の高尾山までは、二百もございましょう。なんでちょっといってくるなんていうわけにいくものですか、だからつねづねわたしにも、お師匠ししょうさまの飛走ひそうの術をおしえてくださいともうすのに、いっこうおしえてくださらないから、こんな時にはこまってしまいます」
「なぜ口をとがらすか、けっしてむりをいいつけるのではない。それにはちょうどいい道案内みちあんないをつけてやるから、和子わこはただ目をつぶってさえいればよい」
「へー、では、だれかわたしを連れていってくれるんですか」
「オオ、いまここへんでやるから見ておれよ」
 と果心居士かしんこじは、露芝つゆしばの上へでて、手に持ったいちめんの白扇はくせんをサッとひらき、かなめにフッと息をかけて、あなたへ投げると、おうぎはツイと風に乗って飛ぶよと見るまに、ひらりと一つるに化してのどかに空へ舞いあがった。
 ア――と竹童ちくどうは目をみはっていると、たちまち、宙天ちゅうてんからすさまじい疾風しっぷうを起してきた黒い大鷲おおわし、鶴を目がけてパッと飛びかかる。鶴は白毛を雪のごとく散らして逃げまわり、鷲のするどいつめに追いかけられて、果心居士の手もとへ逃げて下りてきたが、そのとたん、居士がひょいと手をのばすと、すでに、鶴は一本の扇となって手のうちにつかまれ、それを追ってきた大鷲は、居士のひざの前につばさをおさめて、ピッタリおとなしくうずくまっている。


竹童ちくどう竹童、そのいずみの水を少々くんでこい」
「ハイ」
 あっけにとられて見ていた竹童は、居士こじにいいつけられたまま、岩のあいだから、こんこんときいでている泉をすくってきた。
「かわいそうにこのわしは、片目を鉄砲でたれているため、だいぶ苦しがっている。はやくその霊泉れいせんで洗ってやるがよい。すぐなおる」
「ハイ」
 竹童は草の葉ひとつかみを取ってひたし、いくたびか鷲の目を洗ってやった。大鷲おおわしは心地よげに竹童のなすがままにまかせていた。
「おまえの道案内みちあんないはこの鷲だ。これに乗ってかける時は千里の旅も一日のひまじゃ、よいか」
「これに乗るんですか、お師匠ししょうさま、あぶないナ」
「たわけめが」
 かつ! としかりつけた果心居士かしんこじは、竹童がアッというまにえりくびをグッとよせて、
「エーッ」と一声、片手につかんでほうりなげた。ブーンと風を切った竹童のからだは、たまのごとく飛んで、はるかあなたの築山つきやまの上へいって、ヒョッコリ立ったが、たちまち、そこからかけもどってきてニコニコ笑いながらましている。
「お師匠さま、またいたずらをなさいましたね」
「どうだ、どこかけがでもしたか」
「いいえ、そんな竹童ちくどうではございません。わたしはお師匠ししょうさまから、まえに浮体ふたいの術をさずかっておりますもの」
「それみよ。なぜいつもその心がけでおらぬ。このわしに乗っていくのがなんであぶない、浮体ふたいいきを心得てのれば一本のわらより身のかるいものだ」
「わかりました。さっそくいってまいります」
「オオ書面にてしたためておいたが、時おくれては、武田伊那丸たけだいなまるさまのお身があぶない、いや、あるいは小幡民部こばたみんぶどののいのちにもかかわる、いそいでいくのじゃ」
「そして、だれにこの手紙をわたすのですか」
高尾たかお奥院おくのいんにかくれている、加賀見忍剣かがみにんけんどのという者にわたせばよい。その忍剣はこの鷲のすがたを毎日待ちこがれているであろう。またこの鷲も霊鷲れいしゅうであるから、かならず忍剣のすがたを見れば地におりていくにちがいない」
「かしこまりました。よくわかりました」
「かならず道草みちくさをしていてはならぬぞ」
「ハイ、心得ております」
 と竹童はしたくをした――したくといっても、例のぼう切れを刀のように腰へさして、ひえと草の団子だんごにした兵糧ひょうろうをブラさげて、ヒラリと鷲の背にとびつくが早いか、鷲は地上の木の葉をワラワラとまきあげて、青空たかく飛びあがった。
 伊那丸いなまるとちがって竹童ちくどうは、浮体ふたいの法を心得ているうえ、深山にそだって鳥獣ちょうじゅうをあつかいなれている。かれはしばらく目をつぶっていたがなれるにしたがって平気になりはるかの下界げかいを見廻しはじめた。
「オオ高い高い、もう鞍馬くらま貴船山きぶねやま半国はんごくたけも、あんな遠くへッちゃくなってしまった。やア、京都の町が右手に見える、むこうに見えるかがみのようなのは琵琶湖びわこだナ、この眼下は大津おおつの町……」
 と夢中むちゅうになっているうちに、ヒュッとなにかが、耳のそばをうなってかすりぬけた。
「や、なんだ」
 と竹童はびっくりしてふりかえった時、またもや下からとんできたのは白羽しらは征矢そや、つづいてきらきらとひかるやじりが風を切って、三の矢、四の矢とすきもなくうなってくる。
「おや、さてはだれか、このわしをねらうやつがある、こいつはゆだんができないゾ」
 と竹童は例のぼう切れを片手に持って、くる矢くる矢をパラパラと打ちはらっていたが、それに気をとられていたのが不覚ふかく、たいせつな果心居士かしんこじの手紙を、うッかり懐中ふところから取りおとしてしまった。
「アッ、アアアアア……しまった!」
 ヒラヒラと落ちいく手紙へ、思わず口走りながら身をのばしたせつな、竹童のからだまで、あやうく鷲の背中せなかからふりおとされそうになった。


 大津おおつの町の弓道家きゅうどうか山県蔦之助やまがたつたのすけは、このあいだ、日吉ひよし五重塔ごじゅうのとうであやしいものを射損いそんじたというので、かれを今為朝いまためともとまでたたえていた人々まで、にわかに口うら返して、さんざんに悪い評判ひょうばんをたてた。
 それをうるさいと思ってか、蔦之助は、以来ピッタリ道場の門をとざして、めったにそとへすがたを見せず、世間の悪口もよそに、兵書部屋へいしょべやへこもり、ひたすら武技ぶぎの研究に余念がなかった。
 その日も、しずかに兵書をひもといていた蔦之助つたのすけは、ふと町にあたって、ガヤガヤという人声がどよみだしたので、文字から目をはなして耳をそばだてた。とそこへ、下僕しもべ関市せきいちが、あわただしくかけこんできてこういう。
旦那だんなさま旦那さま。まアはやくでてごらんなさいまし、とてもすばらしい大鷲おおわしが、比叡ひえいのうしろから飛びまわってまいりました。お早く、お早く」
「鷲?」
 と蔦之助は部屋へやから庭へヒラリと、身をおどらして大空をあおぐと、なるほど、関市のぎょうさんなしらせも道理、かつて話に聞いたこともない黒鷲くろわしが、比叡のみねからまッさかさまに大津おおつの空へとかかってくるところ。
「関市! りの強い弓を! それと太矢ふとやを七、八本」
「へい」と関市せきいちが、大あわてで取りだしてきた節巻ふしまきとうくすねきのつるをかけた強弓ごうきゅう。とる手もおそしと、まき葉鏃はやじり太矢ふとやをつがえた蔦之助つたのすけは、虚空こくうへむけて、ギリギリとひきしぼるよと見るまに、はやくも一の矢プツン! と切る、すぐ関市がかわり矢を出す。それを取ってさらにる。そのはやさ、あざやかさ、目にもとまらぬくらい。
 しかしその矢は、二どめからみなちゅうにあがって二つにおれ、ハラリ、ハラリと地上に返ってくる。てっきりわしの上には何者かがいる! 蔦之助ももとよりおとすつもりではない。そのふしぎな人物をなんとかして地上へおろしてみたら、あるいは、日吉ひよしとうの上にいた、奇怪きかいな人間のなぞもとけようかと考えたのであった。
 矢数やかずはひょうひょうとにじのごとくはなたれたが、時間はほんの瞬間しゅんかん、すでに大鷲おおわしは町の空をななめによぎって、その雄姿ゆうし琵琶湖びわこのほうへかけらせたが、なにか白い物をとちゅうからヒラヒラと落としさった。それを見て、
「よしッ」
 ガラリと弓を投げすてた蔦之助は、紙片しへんの落ちたところを目ざして、息もつかさずにかけだした。
 飛ぶがごとく町はずれをでたかれは、一ねんがとどいて、ある原へいおちたものをひろった。
 手にとってひらいてみれば、芭蕉紙ばしょうしぐるみの一通の書面。

加賀見忍剣かがみにんけんどのへ知らせん このじょうを手にされし日 ただちに錫杖しゃくじょうを富士の西裾野にしすそのへむけよ たずねたもう御方おんかたあらん 同志どうしの人々にも会いたまわん
かしん居士こじ


 竹童ちくどうは弱った。しんそこからこまった。
 大切な手紙を取りおとしては、お師匠ししょうさまから、どんなおしかりをうけるか知れないと、かれはあわててわしをおろした。そこはうつくしい鳰鳥におどりの浮いている琵琶湖びわこのほとり、膳所ぜぜの松原のかげであった。
「これクロよ、おいらが手紙をさがしてくるあいだ、後生ごしょうだから待ってるんだぞ、そこでさかなでも取って待っているんだぞ、いいか、いいか」
 竹童は鷲にたいして、人間にいい聞かせるとおりのことばを残し、スタスタ松と松のあいだを走りだしてくると、反対にむこうからも息をきって、こなたへいそいできたひとりの武士があった――いうまでもなく山県蔦之助やまがたつたのすけである。
 ふたりはバッタリ細い小道でゆき会った。竹童がなにげなく蔦之助の片手をみると、まさしくおとした手紙をつかんでいる。蔦之助もまた、はだししりきり衣服に、棒切れを腰にさした、いような小僧こぞうのすがたに目をみはった。
「これ子供、子供。……つんぼか、なぜ返辞へんじをせぬ」
「おじさん、おいら子供じゃないぜ」
「なに子供じゃないと、では何歳なんさいじゃ」
「九ツだよ。だけれど大人おとなだけの働きをするから子供じゃない、アアそんなことはどうでもいい、おいらおじさんに聞きたいけれど、そっちの手につかんでいるものはなんだい? 見せておくれよ」
「ばかをもうせ。それより拙者せっしゃのほうがきくが、いましがた、大津おおつの町の上をとんでいたわしが、ここらあたりでおりた形跡けいせきはないか、どうじゃ」
しらばッくれちゃいけない。その手紙をおだしよ」
「このわっぱめッ、無礼ぶれいをもうすな」
「なにッ、返さなきゃこうだぞ」
 と、竹童ちくどうからだは小さいが身ごなしの敏捷びんしょうおどろくばかり、不意ふい蔦之助つたのすけに飛びかかったと思うと、かれの手から手紙をひッたくって、バラバラと逃げだした。
小僧こぞうッ――」と追いちにのびた蔦之助の烈剣れっけんに、あわや、竹童まッ二つになったかと見れば、さきずんのところから一やくして四、五けんも先へとびのいた。
「きゃつ、ただ者ではない」ととっさにおもった蔦之助は、いっさんに追いかけながら、ピュッと手のうちからなげた流星の手裏剣しゅりけん! それとは、さすがに用心しなかった竹童のかかとをぷッつりしとめた。
「あッ!」ドタリと前へころんだところを、すかさずかけよってねじつけた、蔦之助の強力ごうりき。それには竹童ちくどうも泣きそうになった。
「おじさん、おじさん、なんだっておいらの手紙をそんなにほしがるんだい――苦しいから堪忍かんにんしておくれよ。この手紙は大切な手紙だから」
「なんじゃ、ではこの書面はなんじが持っていた物か」
「ああ、おいらが遠方の人へとどけにいくんだ」
「ではいましがた、わしの上にのっていたのは?」
「おいらだよ、アア、のどがくるしい」
「えッ、そのほうか」
 とびっくりして、竹童をだきおこした蔦之助つたのすけは、しばらくしげしげとかれの姿をみつめていたが、やがて、松の根方ねかたへ腰をおろして、心からこのおさない者に謝罪しゃざいした。
「知らぬこととはもうせ、飛んだ粗相そそうをいたした。どうかゆるしてくれい、そこで、あらためて聞きたいが、御身おんみはその手紙にある果心居士かしんこじのお弟子でしか」
「そうだ……」竹童も岩の上にあぐらをかいて、腰のふくろから薬草の葉を取りだし、手でやわらかにもんだやつをかかとのきずへはりつけている。
「ではさきごろ、日吉ひよし五重塔ごじゅうのとうへ登っていたのも居士ではなかったか、はじをもうせば、里人さとびとの望みにまかせてたところが、一さぎとなって逃げうせた」
「おじさんはむちゃだなあ、おいらのお師匠ししょうさまへ矢をむけるのは、お月さまをるのと同じだよ」
「やっぱりそうであったか、いや面目めんもくもないことであった。ところで、さらにくどいようじゃが、そちの持っている書面にある加賀見忍剣かがみにんけんともうすかたは、ただいまどこにおいでになるのか、また、たずねるお方とはどなたを指したものか、山県蔦之助やまがたつたのすけが頭をさげてたのむ。どうか教えてもらいたい」
「いやだ」
 竹童ちくどうはきつくかぶりをふった。
「なぜ?」
「わからないおじさんだナ、なんだって人がおとした手紙のなかをだまって読んだのさ。だからいやだ」
「ウーム、それも重々じゅうじゅう拙者せっしゃが悪かった、ひらにあやまる」
「じゃあ話してやってもいいが、うかつな人にはうち明けられない、いったいおじさんは何者?」
「父はもと甲州二十七しょうの一人であったが、拙者のだいとなってからは天下の浪人ろうにん大津おおつの町で弓術きゅうじゅつ指南しなんをしている山県蔦之助ともうすものじゃ」
「えッ、じゃあおじさんも武田たけだの浪人か――ふしぎだなア……おいらのお師匠ししょうさまも、ずっと昔は武田家たけだけさむらいだったんだ」
 といいかけて竹童は、まえに居士こじから口止めされたことに気がついたか、ふッと口をつぐんでしまった。そのかわり、これから、居士こじめいをうけて武州ぶしゅう高尾たかおにいる忍剣のところへいくこと、また過日かじつ小幡民部こばたみんぶから通牒つうちょうがきて、なにごとか伊那丸いなまるの身辺に一大事が起っているらしいということ、さては、書中にある御方おんかたという人こそ信玄しんげんまご武田たけだ伊那丸であることまで、残るところなく説明した。
 聞きおわった蔦之助つたのすけは、こおどりせんばかりによろこんだ。武田滅亡たけだめつぼう末路まつろをながめて、悲憤ひふんにたえなかったかれは、伊那丸の行方ゆくえを、今日こんにちまでどれほどたずねにたずねていたか知れないのだ。
「これこそ、まことに天冥てんみょうのお引きあわせだ。拙者せっしゃもこれよりすぐに、富士ふじ裾野すそのへむけて出立しゅったついたす、竹童ちくどうとやら、またいつかの時にあうであろう」
「ではあなたも裾野へかけつけますか、わたしもいそがねば、伊那丸さまの一大事です」
「おお、ずいぶん気をつけていくがよい」
「大じょうぶ、おさらばです」
 竹童はふたたびわしの背にかくれて、舞いあがるよと見るまに、いっきに琵琶湖びわこの空をこえて、伊吹いぶきの山のあなたへ――。
 いっぽう、山県蔦之助やまがたつたのすけは、その日のうちに、武芸者姿ぶげいしゃすがたいさましく、富士ふじさして旅立った。


「まだきょうも空に見えない、ああクロはどうしたろう……?」
 毎日高尾の山巓さんてんにたって、一の鳥影も見のがさずに、わしの帰るのを待ちわびている者は、加賀見忍剣かがみにんけんその人である。
 快風かいふう一陣! かれを狂喜きょうきせしめた便たよりは天の一かくからきた。クロの足にむすびつけられた伊那丸いなまる血書けっしょの文字、竹童ちくどうがもたらしてきた果心居士かしんこじの手紙。かれははふりおつる涙をはらいつつ、二通の文字をくり返しくりかえし読んだ。
「これを手に受けたらその日に立てとある――オオ、こうしてはいられないのだ。竹童とやら、はるばる使いにきてご苦労だったが、わしはこれからすぐ、伊那丸さまのおいでになるところへいそがねばならぬ、鞍馬くらまへ帰ったら、どうかご老台ろうだいへよろしくお礼をもうしあげてくれ」
「ハイ承知しょうちしました。だけれどおぼうさん、おいらは少しこまったことができてしまった」
「なんじゃ、お使いの褒美ほうびに、たいがいのことは聞いてやる、なにか望みがあるならもうすがよい」
「ううん、褒美なんかいらないけれど、そのクロという鷲はお坊さんのものなんだネ」
「いやいや、この鷲はわたしのい鳥でもない、持主もちぬしといえば、武田家たけだけにご由緒ゆいしょのふかい鳥ゆえ、まず伊那丸君の物とでももうそうか」
「ネ、おいら、ほんとをいうと、このクロとわかれるのがいやになってしまったんだよ。きっと大切にして、いつでも用のある時には飛んでいくから、おいらにかしといてくんないか」
 天真爛漫てんしんらんまんな願いに、忍剣もおもわず微笑ほほえんでそれをゆるした。竹童ちくどうは大よろこび、あたかも友だちにだきつくようにクロの背なかへふたたび身を乗せて、忍剣にわかれをげるのも空の上から――いずこともなく飛びさってしまった。
 もなく、高尾の奥院おくのいんからくだってきた加賀見忍剣かがみにんけんは、神馬小舎しんめごやから一頭の馬をひきだし、鉄の錫杖しゃくじょうをななめににむすびつけて、法衣ころもそでも高からげに手綱たづなをとり、夜路よみち山路やまみちのきらいなく、南へ南へとこまをかけとばした。
 ほのぼの明けた次の朝、まだ野も山も森も見えぬきりのなかから、
「オーイ、オーイ」
 と忍剣の駒を追いかけてくる者がある。しかも、あとからくる者も騎馬きばと見えて、パパパパパとひびくひづめの音、はて何者かしらと、忍剣が馬首ばしゅをめぐらせて待ちうけているとたちまち、目の前へあらわれてきた者は、黒鹿毛くろかげにまたがった白衣びゃくえの男と朱柄あかえやりを小わきにかいこんだりりしい若者。
「もしやそれへおいでになるのは、加賀見忍剣どのではござらぬか」
「や! そういわれる其許そこもとたちは」
「おお、いつか裾野すその文殊閣もんじゅかくで、たがいに心のうちを知らず、伊那丸君いなまるぎみをうばいあった木隠龍太郎こがくれりゅうたろう
「またわたくしは、巽小文治たつみこぶんじともうす者」
「おお、ではおのおのがたも、ひとしく伊那丸さまのおんために力をおあわせくださる勇士たちでしたか」
「いうまでもないこと。忍剣にんけんどののおはなしは、くわしくのちにうけたまわった。じつは我々両名の者は、小太郎山こたろうざんとりでをきずく用意にかかっておりましたが、はからずも主君伊那丸さまが、穴山梅雪あなやまばいせつの手にかこまれて、きょう裾野すそのへさしかかるゆえ、出会しゅっかいせよという小幡民部こばたみんぶどのからの諜状しめしじょう、それゆえいそぐところでござる」
「思いがけないところで、同志どうしのおのおのと落ち会いましたことよ。なにをつつみましょう。まこと、わたくしもこれよりさしていくところは、富士ふじの裾野」
「忍剣どのも加わるとあれば、千兵せんぺいにまさる今日きょうの味方、穴山一族の武者どもが、たとえ、いくいくあろうとも、おそるるところはござりませぬ」
「きょうこそ、若君のおすがたをはいしうるは必定ひつじょうです」
「おお、さらば一刻もはやく!」
 くつわをならべて、同時にあてた三むち! 一声ひとこえ高くいななき渡って、霧のあなたへ、こまも勇士もたちまち影をぼっしさったが、まだ目指めざすところまでは、いくたの嶮路けんろいくすじの川、渺茫びょうぼう裾野すそのの道も幾十里かある。
 霧ははれた。そして紺碧こんぺきの空へ、雄大なる芙蓉峰ふようほう麗姿れいしが、きょうはことに壮美そうび極致きょくちにえがきだされた。
 富士は千古せんこのすがた、男の子の清いたましいのすがた、大和撫子やまとなでしこ乙女おとめのすがた。――日本を象徴しょうちょうした天地に一つのほこり。
 いまや、その裾野すそのの一角にあって、咲耶子さくやこがふったただ一本のふえの先から、震天動地しんてんどうちの雲はゆるぎだした。閃々せんせんたる稲妻いなずまはきらめきだした。
 雨を呼ぶか、いかずちが鳴るか、穴山あなやま軍勝つか、胡蝶陣こちょうじん勝つか? 武田伊那丸たけだいなまる小幡民部こばたみんぶ民蔵たみぞうは、どんな行動をとりだすだろうか? 富士はすべて見おろしている――

水火陣法すいかじんぽうくらべ




 胡蝶こちょうの陣! 胡蝶の陣!
 裾野にそよぐすすきが、みな閃々せんせんたる白刃はくじんとなり武者むしゃとなって、声をあげたのかとうたがわれるほど、ふいにおこってきた四面の伏敵ふくてき
 野末のずえのおくにさそいこまれて、このおとしあなにかかった穴山梅雪入道あなやまばいせつにゅうどうは、馬からおちんばかりにぎょうてんしたが、あやうくくらつぼにみこたえて、腰なる陣刀をひきぬき、
退くな。たかの知れた野武士のぶしどもがなにほどぞ、一押ひとおしにもみつぶせや!」
 と、うろたえさわぐ郎党ろうどうたちをはげました。
 音にひびいた穴山あなやまぞく、その旗下はたもとには勇士もけっしてすくなくない。天野刑部あまのぎょうぶ佐分利五郎次さぶりごろうじ猪子伴作いのこばんさく足助主水正あすけもんどのしょうなどは、なかでも有名な四天王てんのう、まッさきにやりをそろえておどりたち、
「おうッ」
 と、えるが早いか、胡蝶こちょうじん中堅ちゅうけんを目がけて、三につきすすんだ。それにいきおいつけられたあとの面々、
「それッ。烏合うごうのやつばら、ひとりあまさず、ってとれ」
 と、具足ぐそくの音をあられのようにさせ、やり陣刀じんとう薙刀なぎなたなど思いおもいな得物えものをふりかざし、四ほうにパッとひらいてりむすんだ。
「やや一大事! だれぞないか、伊那丸いなまる駕籠かごをかためていた者は取ってかえせ、敵の手にうばわれては取りかえしがつかぬぞッ」
 たちまちの乱軍に、梅雪入道ばいせつにゅうどうがこうさけんだのも、もっとも、大切な駕籠はほうりだされて、いつのまにか、警固けいご武士ぶしはみなそのそばをはなれていた。
「心得てござります」
 いち早くも、梅雪の前をはしりぬけて、れいの――伊那丸がおしこめられてある鎖駕籠くさりかごの屋根へ、ヒラリととびあがって八ぽうをにらみまわした者は、別人べつじんならぬ小幡民部こばたみんぶであった。
 かりにも、乗物の上へ、土足どそくひあがったつみ――ゆるしたまえ――と民部みんぶは心にねんじていたが、とは知らぬ梅雪入道ばいせつにゅうどう、ちらとこのていをながめるより、
「お、新参しんざん民蔵たみぞうであるな、いつもながら気転きてんのきいたやつ……」
 とたのもしそうにニッコリとしたが、ふとまた一ぽうをかえりみて、たちまち顔いろを変えてしまった。


 咲耶子さくやこがふった横笛よこぶえ合図あいずとともに、押しつつんできた人数はかれこれ八、九十人、それにりむかっていった穴山方あなやまがた郎党ろうどうもおよそ七、八十人、数の上からこれをみれば、まさに、そうほう互角ごかく対陣たいじんであった。
 しかし、一ぽうは勇あって訓練くんれんなき野武士のぶしのあつまり。こなたは兵法へいほうのかけ引き、実戦じっせんの経験もたしかな兵である。梅雪入道ばいせつにゅうどうならずとも、とうぜん、勝ちは穴山方にありと信じられていた。ところが形勢けいせいはガラリとかわって、なにごとぞ、四天王てんのう以下の面々は名もなき野武士のさきにかけまわされ、胡蝶こちょうじん変化自在へんげじざいの陣法にげんわくされて、浮き足みだしてくずれ立ってきた。と見るや、いかりたった入道は、
「ええ腑甲斐ふがいのない郎党ろうどうども、このうえは、梅雪みずからけちらしてくれよう!」
 両の手綱たづなを左の手にあつめ、右手に陣刀じんとうをふりかざしてあわや、乱軍のなかへ馬首ばしゅをむけてかけ入ろうとした。
 とそのとき、
「しばらくしばらく、そもわが君は、おいのちをいずこへ捨てにいかれるお心でござるか!」
 声たからかにびとめた者がある。
「なに?」ふりかえってみると、それは、伊那丸いなまる駕籠かごの上に立った小幡民部こばたみんぶ梅雪ばいせつはせきこんで、
「やあ、民蔵たみぞうなんじはなにをもって、さような不吉ふきつをもうすのじゃ」
「されば、殿の御身おんみを大切と思えばこそ」
「して、なんのしさいがあって」
「眼を大にしてごらんあれ。敵は野武士のぶしといいながら、神変しんぺんふしぎな少女の陣法によってうごくもの、これすなわち奇兵きへいでござる。あなどってそのさくにおちいるときは、殿のおいのちとてあやうきこと明らかでござりまする」
「うーむ、してかれの陣法じんぽうとは」
伏現自在ふくげんじざい胡蝶こちょうじん
「やぶる手策てだては?」
「ござりませぬ」
「ばかなッ」
「うそとおぼしすか」
「おおさ、年端としはもゆかぬ女童めわらべが指揮する野武士のぶしの百人足らず、なんで破れぬことがあろうか」
「ではしばらくここにて四ほうを観望かんぼうなさるがなにより。おお佐分利五郎次さぶりごろうじ組子くみこはやぶれた、ああ足助主水正あすけもんどのしょうもたちまちふくろのねずみ……」
「なんの、が四天王てんのうじゃ、いまにきっとり返して、あの手の野武士をみな殺しにするであろうわ」
あやういかな、危ういかな、かしこの窪地くぼちへ追いこまれた猪子伴作いのこばんさく天野刑部あまのぎょうぶ、その他十七、八名の味方の者どもこそ、すんでに敵の術中じゅっちゅうにおちいり、みな殺しとなるばかり」
「や、や、や、や、や!」
「おお! 殿とのにもご用意あれや、早くも伊那丸いなまる駕籠かごを目がけて、総勢そうぜいの力をあつめてくるような敵の奇変きへんと見えまするぞ」
「お、お、お、民蔵たみぞう民蔵、なんじになんぞさくはないか」
 梅雪ばいせつのようすは、にわかにうろたえて見えだした。
「おそれながら、しばしのあいだ、殿の采配さいはい拙者せっしゃにおかしたまわるなら、かならず、かれの奇襲きしゅうをやぶって味方の勝利となし、なお、野武士を指揮しきなすあやしき少女をもけどってごらんに入れます」
「ゆるす、すこしも早く味方の者をすくいとらせい」
 さしも強情ごうじょう穴山梅雪あなやまばいせつも、ろんより証拠しょうこ民部みんぶのことばのとおり、味方がさんざん敗北はいぼくとなってきたのを見て、もうゆうよもならなくなったのであろう。こなたへこまを寄せてきて、小幡民部こばたみんぶの手へ采配さいはいをさずけた。
「ごめん」
 受けとって押しいただいた民部みんぶは、駕籠かごの上に立ったまま、八ぽうの戦機をきッと見渡したのち、おごそかに軍師ぐんしたるの姿勢しせいをとり、さいさばきもあざやかに、
 さッ、さッ、さッ。
 虚空こくうに半円をえがいて、風をきること三度みたび
 ああなんという見事さ、それこそ、本朝ほんちょう諸葛亮しょかつりょう孫呉そんごかといわれた甲州流の軍学家ぐんがくか小幡景憲こばたかげのり軍配ぐんばいぶりとそッくりそのまま。
「や?」
 よもや、新参しんざん民蔵たみぞうが、その人の一民部みんぶであろうとは、ゆめにも知らない梅雪入道ばいせつにゅうどう、おもわず驚嘆きょうたんの声をもらしてしまった。


 月の夜にはみ、あしたは露をまろばせても、聞く人もないこの裾野すそのに、ひとり楽しんでいるふえは、咲耶子さくやこが好きで好きでたまらない横笛ではないか。
 しかし、その優雅ゆうがな横笛は、時にとって身を守るつるぎともなり、時には、猛獣もうじゅうのような野武士のぶしどもを自由自在にあやつるムチともなる。
 いましも、小高いおかの上にたって、その愛笛あいてきを頭上にたかくささげ、部下のうごきからひとみをはなたずにいた彼女のすがたは、地上におりた金星の化身けしんといおうか、富士の女神めがみとたとえようか、たけなす黒髪は風にみだれて、うるわしいともなんともいいようがない。
「アッ――」
 ふいに、彼女のくちびるれたかすかなおどろき。
 そのひとみのかがやくところをみれば、いまがいままでしどろもどろにみだれたっていた、穴山梅雪あなやまばいせつ郎党ろうどうたちはひとりの武士ぶし采配さいはいを見るや、たちまちサッと退いて中央に一列となった。
 それは民部みんぶの立てた蛇形だぎょうの陣。
 咲耶子さくやこはチラとまゆをひそめたが、にわかに右手めての笛をはげしくななめにふって落とすこと二へん、最後に左の肩へサッとあげた。――とみた野武士の猛勇もうゆうは、ワッと声つなみをあげて、蛇形陣だぎょうじん腹背ふくはいから、勝ちにのって攻めかかった。
 そのとき早く、ふたたび民部の采配が、りゅうを呼ぶごとくさっとうごいた。と見れば、蛇形の列は忽然こつねんと二つに折れ、まえとは打ってかわって一みだれず、扇形おうぎがたになってジリジリと野武士の隊伍たいごを遠巻きに抱いてきた。
「あッ、いけない。あれはおそろしい鶴翼かくよくの計略」
 咲耶子はややあわてて、笛を天から下へとふってふってふりぬいた。
 それは退軍の合図あいずであったと見えて、いままで攻勢こうせいをとっていた野武士のぶしたちは、一どにどッとうしおのごとく引きあげてきたようす。が、民部みんぶ采配さいはいは、それに息をつくもあたえず、たちまち八しゃの急陣と変え、はやきこと奔流ほんりゅうのように、えや追えやと追撃ついげきしてきた。
「オオ、なんとしたことであろう」
 あまりの口惜くやしさに、咲耶子さくやこはさらに再三再四、胡蝶こちょうじんを立てなおして、応戦おうせんをこころみたが、こなたでほのおの陣をしけば、かれは水の陣を流して防ぎ、その軍配ぐんばい孫呉そんご化身けしんか、くすのきの再来かと、あやしまれるほど、機略縦横きりゃくじゅうおうみょうをきわめ、手足のごとく、奇兵に奇兵をいでくる。
 さすがの胡蝶陣こちょうじんみょうをえた咲耶子さくやこも、いまはほどこすにすべもなくなった。精鋭無比せいえいむひの彼女の部下のやいばも、いまはしだいしだいに疲れてくるばかり。
「それッ、この機をはずすな!」
「いずこまでも追って追って追いまくれッ」
裾野すその野武士のぶし根絶ねだやしにしてくれようぞ」
 穴山あなやまの四天王てんのう猪子伴作いのこばんさく足助主水正あすけもんどのしょう、その他の郎党ろうどうは、民部が神のごとき采配ぶりにたちまち頽勢たいせいりかえし、猛然もうぜん血槍ちやりをふるって追撃ついげきしてきた。
 西へ逃げれば西に敵、南に逃げれば南に敵、まったく民部の作戦に翻弄ほんろうされつくした野武士たちは、いよいよ地にもぐるか、空にかけるのほか、逃げるみちはなくなってしまった。
 と、咲耶子さくやこのいるおかの上から、悲調ひちょうをおびた笛の一声ひとこえ高く聞えたかと思うと、いままでワラワラ逃げまどっていた野武士のぶしたちの影は、忽然こつねんとして、草むらのうちにかくれてしまった。きもをけした穴山あなやま一族の将卒しょうそつは、血眼ちまなこになって、草わけ、小川のへりをかけまわったが、もうどこにも一人の敵すら見あたらず、ただいちめんの秋草の波に、野分のわきの風がザアザアと渡るばかり。
 きつねにつままれたようなうろたえざまを、おかの上からながめた咲耶子は、帯のあいだに笛をはさみながら、ニッコリ微笑びしょうをもらして、丘のうしろへとびおりようとしたその時である。
「咲耶子とやら、もうそちの逃げ道はないぞ」
 りんとした声が、どこからかひびいてきた。
「え?」思わず目をみはった彼女の前に、ヒラリとおどりあがってきたのは、いつのまにここへきたのか、さっきまで采配さいはいをとって敵陣てきじんにすがたをみせていた小幡民部こばたみんぶであった。
「あッ」
 さすがの彼女もびっくりして、おかのあなたへ走りだすと、そのまえに、四天王てんのう佐分利五郎次さぶりごろうじが、八、九人の武士ぶしとともに、やりぶすまをつくってあらわれた。ハッと思って横へまわれば、そこからも、不意にワーッとときの声があがった。うしろへ抜けようとすればそこにも敵。
 いまはもう四めん楚歌そかだ。絶望ぜつぼうの胸をいだいて、立ちすくんでしまうよりほかなかった。とみるまに、丘の上は穴山方あなやまがた薙刀なぎなた太刀たちで、まるで剣をうえた林か、はりの山のように、いっぱいにうずまってしまった。
咲耶子さくやこ、咲耶子、もういかにもがいても、この八もん鉄壁てっぺきのなかからのがれることはできぬぞ、神妙しんみょうなわにかかッてしまえ」
 小幡民部こばたみんぶは、声をはげましてそういった。
 無念むねんそうに、くちびるをかみしめていた咲耶子は、ふたたびかくれた野武士のぶしたちをびだすつもりか、おびのあいだの横笛をひきぬいて、さッと、ふりあげようとしたが、その一しゅん
「えい、不敵な女め」
 佐分利五郎次さぶりごろうじが、飛びかかるが早いか、ガラリとその笛を打ちおとすと、とたんに、右からも、走りよった足助主水正あすけもんどのしょう早業はやわざにかけられて、あわれ、野百合のゆりのような小娘こむすめは、なさ容赦ようしゃもなくねじあげられてしまった。

天罰てんばつくだる




 たったひとりの少女を生けどるのに四天王てんのうともある者や、多くの荒武者あらむしゃが総がかりとなったのは、大人おとなげないとずべきであるのに、かれらは大将の首でもとったように、ワッと、勝鬨かちどきをあげながら、おかの上からおりていった。
 まもなく、馬前ばぜんへひッ立てられてきた咲耶子さくやこをひとめ見た梅雪入道ばいせつにゅうどうは、くらの上からはッたとにらみつけて、
「こりゃ小娘ッ、ようもなんじは、道しるべをいたすなどともうして、思うさまこのほうをなぶりおったな。いまこそ、その細首をぶち落としてくれるから待っておれ」
 おもてしゅをそそいで、くらの上からののしったのち、
民蔵たみぞう民蔵」とはげしく呼び立てた。
「はッ」と走りだした小幡民部こばたみんぶは、チラと、入道のおもてを見ながら片手をつかえた。
「なんぞご用でござりまするか」
「おお民蔵か、あっぱれなそのほうの軍配ぐんばいぶり、褒美ほうびは帰国のうえじゅうぶんにとらすであろう、ところで、不敵なこの小娘、生かしておけぬ、そちに太刀とりをもうしつくるほどに、が面前で、血祭ちまつりにせい」
「あいや、それはしばしご猶予ゆうよねがいまする」
「なに、待てともうすか」
御意ぎょいにござりまする。いまこの小娘を血祭りにするときは、ふたたびまえにもてあましたる野武士のぶしが、復讐ふくしゅうおそうてくること必定ひつじょう。もとより、千万の野武士があらわれようとて、おそるるところはござらぬが、この小娘をおとりとして、さらに殿のお役に立てようがため、せっかく生捕いけどりにいたしたもの、むざむざここで首にいたすのはいかがとぞんじます」
奇略きりゃくにとんだそのほうのことゆえ、なお上策じょうさくがあればまかせおくが、して、この小娘をおとりにしてどうする所存しょぞんであるか」
秘中ひちゅう、味方といえども、余人よじんのいるところでは、ちともうしかねます」
「もっともじゃ、ではこれへしたためて見せい」
 ヒラリと投げてきたのは一面の軍扇ぐんせん
 民部みんぶ即座そくざ矢立やたてをとりよせ、筆をとって、サラサラ八ぎょうを書き、みずから梅雪ばいせつの手もとへ返した。
「どれ」と、入道にゅうどうはそれを受けとり、馬上で扇面せんめんの文字を読みはんじて――
「む、どこまでもそちは軍師ぐんしじゃの」とひざをたたいて、感嘆かんたんした。その秘策ひさくとは、すなわち、これから馬をすすめて五湖の底にあるという武田家たけだけ宝物ほうもつ御旗みはた楯無たてなしをさぐりだし、同時に、伊那丸いなまるをもそこで首にしてしまおうというおそろしい献策けんさく
 じつは穴山梅雪あなやまばいせつも、これから甲斐かいの国へはいる時は、武田たけだ残党ざんとうもあろうゆえ、伊那丸を首にする場所にも、心をいためていたところだった。しかし、この富士の裾野すそのなら安心でもあるし、御旗みはた楯無たてなし宝物ほうもつまで、手にはいれば一挙両決いっきょりょうけつ、こんなうまいことはない。すぐまた都へ取ってかえし、家康いえやすから、多大の恩賞おんしょうをうけ、そのうえ帰国してもけっしておそくはない。
「そうだ、この小娘もそのとき首にすれば、世話なしというもの……」
 梅雪はとっさにそう思ったらしい、あくまで信じきっている民部みんぶ献策けんさくにまかせて、ふたたび郎党ろうどうを一列に立てなおし、民部と咲耶子さくやこさきにして、裾野すそのを西へ西へとうねっていった。
 そのあいだに民部は、なにごとかひくい声で、咲耶子にささやいたようであった。かしこい彼女は、黙々もくもくとして聞えぬふりで歩いていたが、そのひとみは、ときどき意外な表情をして民部にそそがれた。そんな、こまかいふたりの挙動きょどうは、はるかあとから騎馬きばでくる梅雪の目に、べつだんあやしくもうつらなかった。
 やがて、裾野の野道がつきて、長い森林にはいってきた。そこをぬけると、青いさざなみが、から見えだした。
「おお湖水こすいへでた! みずうみが見えた!」
 軍兵ぐんぴょうどもは、沙漠さばくいずみを見つけたように口々に声をもらした。そのほとりには、小さなやしろがあるのも目についた。つかつかと社の前へあゆみ寄った小幡民部こばたみんぶは、「白旗しらはたみや」とあるそこのがくを見あげながら、口のうちで、「白旗の宮? ……源家げんけにゆかりのありそうな……」とつぶやいて小首をかしげたが、ふいと向きなおって、こんどはおそろしい血相けっそうで、咲耶子さくやこをただしはじめた。
「これッ。武田家たけだけ宝物ほうもつをしずめた湖水は、ここにそういあるまい、うそいつわりをもうすと、いたいめにあわすぞ、どうじゃ!」
「は、はい……」咲耶子は、にわかに神妙しんみょうになって、そこへひざまずいた。
「もうおかくしもうしても、かなわぬところでござります。おっしゃるとおり、御旗みはた楯無たてなしの宝物は、石櫃いしびつにおさめて、このみずうみのそこに沈めてあるにそういありませぬ」
「まったくそれにちがいないか!」
「神かけていつわりはもうしませぬ」
「よし、よく白状はくじょういたした。おお殿とのさま。ただいまのことばをお聞きなされましたか」
 ちょうどそこへ、おくればせに着いた梅雪ばいせつのすがたをみて、民部が、こういいながら馬上を見上げると、かれはつぼにってうなずいた。
「聞いた。かれのもうすところたしかとすれば、すぐ湖水からひきあげる手くばりせい」
「はッ、かしこまりました」
 民部はいさみ立ったさまをみせて、郎党ろうどうたちを八ぽうへ走らせた。まもなく、地理にあかるい土着どちゃく里人さとびとが、何十人となくここへ召集されてきた。そして、りだされてきた里人や郎党ろうどうは、多くの小船に乗りわかれて、湖水の底へ鈎綱かぎづなをおろしながら、あちらこちらとぎまわった。


 おかのほうでは穴山梅雪入道あなやまばいせつにゅうどう白旗しらはたみやのまえに床几しょうぎをすえ、四天王てんのうの面々を左右にしたがえて悠然ゆうぜんと見ていた。
 と、かれの貪慾どんよく相好そうごうがニヤニヤみくずれてきた。――湖水の中心では、いましもかぎにかかった獲物えものがあったらしい。多くの小船は、たちまちそこに集まってかぎをおろし、エイヤエイヤの声をあわせて、だんだんと浅瀬あさせのほうへひきずってくるようすだ。
 伊那丸いなまる忍剣にんけん智慧ちえをしぼって世の中からかくしておいた宝物ほうもつも、こうして、苦もなく発見されてしまった。まもなく梅雪入道の床几の前へ運ばれてきたものは、真青まっさお水苔みずごけさびたその石櫃いしびつ
「殿さま、ご苦心のかいあって、いよいよご開運の秘宝ひほうもめでたく手に入りました。祝着しゅうちゃくにぞんじまする」
 里人たちに恩賞おんしょうをやって追いかえしたのち、民部みんぶはそばからいわいのことばをのべた。
「そのほうの手柄てがらは忘れはおかぬぞ。この宝物に伊那丸の首をそえてさしだせば、いかにけちな家康いえやすでも、一万ごくや二万ごく城地じょうちは、いやでも加増するであろう。そのあかつきには、そのほうもじゅうぶんに取りたてさす」
「かたじけのうぞんじます。しかし、お望みの物が手にはいったからは、いっこくもご猶予ゆうよは無用、この場で伊那丸いなまるを首にいたし、あの鎖駕籠くさりかごへは宝物のほうを入れかえにして、寸時もはやく家康公いえやすこうへおとどけあるが上分別じょうふんべつとこころえます」
「おお、きょうのような吉日きちじつはまたとない。いかにもこの場できゃつを成敗せいばいいたそう、その介錯かいしゃくもそちに命じる! ぬかるな!」
「はッ、心してつとめます」
 梅雪ばいせつの目くばせに、きッとなって立ちあがった民部みんぶはすばやく下緒さげおを取ってたすきとなし、刀のつかにしめりをくれた。そのまに、二、三人の郎党ろうどうは、小船の板子いたごを四、五枚はずしてきて、武田伊那丸たけだいなまるの死のをもうけた。
「これこれ、せんこくの小娘もことのついでじゃ。そこへならべて、民蔵たみぞうの腕だめしにさせい。旅の一きょうに見物いたすもよかろうではないか」
 みやもとにくくりつけられていた咲耶子さくやこは、罪人のように追ったてられて、板子いたごのならべてあるとなりへすえられた。彼女は、もうすっかり覚悟を決めてしまったか、ほつれ髪もおののかせず、白百合しらゆりの花そのままな顔をしずかにうつむけている。
 いっぽうでは、よろいの音をさせて、ずかずかと迫っていった四天王てんのうの面々が、例の鎖駕籠くさりかごのまわりへ集まり、乗物の上からかぶせてある鉄のあみをザラザラとはずしはじめた。
 長い道中のあいだ日のめを見ることなく、乗物のうちにゆられてきた伊那丸は、いよいよ運命の最後を宣告され、悪魔あくま断刀だんとうをうけねばならぬこととなった。四天王てんのう天野刑部あまのぎょうぶは、ガチャリ、ガチャリと荒々しくじょうの音をさせて、駕籠かごの引き手をグイとおしけ、
伊那丸いなまる、これへでませいッ」と、涙もなく、ただの罪人でも呼びだすようにどなった。
 が――駕籠かごのなかは、ひっそりとして音もない。
「やい、伊那丸、さッさとこれへでてうせぬか」
 猪子伴作いのこばんさくは、次にこうわめきながら、駕籠の扉口とぐち土足どそくではげしくけとばした。と、あしもとが、不意に軽くすくわれたので、伴作はあッといってうしろへよろめく。
 すわ!
 殺気はたちまちそこにはりつめた。天野あまの佐分利さぶり足助あすけの三人は、陣刀じんとうのつかをにぎりしめつつ、駕籠口かごぐちへ身がまえた。


「おお夜が明けたようだ……」
 つぶやく声といっしょに、伊那丸のすがたは、しずかにそこへあらわれた。じたばたすると思いのほか、落ちつきはらったようすに、四天王の者どもはやや拍子ひょうしぬけがしたらしい。
「歩けッ」
 左右からせきたてて、小船の板子いたごをしいた死の伊那丸いなまるをひかえさせた。そして床几しょうぎにかけた梅雪ばいせつ目礼もくれいをしてひきさがる。
「おッ、伊那丸さま――」
「あ! そなたは」
 席をならべて伊那丸と咲耶子さくやこは、たがいにはッとしたが、彼女は、せつなに顔をそむけ、なにげないようすをした。で伊那丸も、さまざまな疑惑ぎわくに胸をつつまれながら、ひとみをそらして、こんどはきっと、入道にゅうどうの顔をにらみつけた。――梅雪ばいせつもまけずに、
「こりゃ伊那丸、さだめし今まで窮屈きゅうくつであったろうが、いますぐらくにさせてくれる。この世の見おさめに、泣くとも笑うとも、ぞんぶんに狂って見るがいい」
 と、にくにくしい毒口どくぐちをたたいた。
「さて大人気おとなげない武者むしゃどもよ――」
 伊那丸は声もすずしくあざわらって、
「わしひとりのいのちをとるのに、なんとぎょうぎょうしいことであろう。冥土めいどにおわす祖父そふ信玄しんげんやその他の武将たちによい土産話みやげばなし甲州侍こうしゅうざむらいのなかにも、こんな卑劣者ひれつものがあったと笑うてやろう!」
「えい、口がしこいやつめ、民蔵たみぞう早々そうそうこのわっぱの息のねをとめてしまえ!」
 梅雪は、号令ごうれいした。
 声におうじて、
「はッ」と、武者むしゃぶるいして立ちあがった民部みんぶは、伊那丸いなまるのうしろへまわって、ピタリと体をきめ、見る目もさむき業刀わざものをスラリと腰からひきぬいた。
「お覚悟かくごなさい! 太刀取たちとりの民蔵たみぞうが君命によってみしるしはもうしうけた」
「…………」
 覚悟――それは伊那丸にとっていまさらのことではない。かれは一とりみだすさまもなく、観念の眼をふさいでいる。
 正面しょうめん梅雪入道ばいせつにゅうどうをはじめ、四天王てんのう以下の大衆も、かたずをのんで、民部の太刀と伊那丸のようすとを見くらべていた。
 湖水の波も心あるか、つめたい風を吹きおこして、松のこずえにかなしむかと思われ、も雲のうちにかくされて、天地は一しゅん、ひそとした。
 そのとき、民部の口からかすかな声。
八幡はちまん
 水もたまらぬ太刀をふりかぶッて、伊那丸の白いくびをねらいすました。――と、そのするどい眼気がんきが、キラと動いたと見えた一瞬、
「ええいッ!」
 武田伊那丸たけだいなまるの首が落ちたかとおもうと、なにごとぞ、梅雪のまッこうめがけて、とびかかった小幡民部こばたみんぶ
悪逆無道あくぎゃくむどう穴山入道あなやまにゅうどう天罰てんばつ明刀めいとうをくらえ!」
 耳をつんざく声だった。
 ふいをくった梅雪ばいせつは、ぎょうてんして身をさけようとしたが、ヒュッと、眉間みけんをかすめた剣光けんこうに眼もくらんで、
「わーッ」ひたいの血しおを両手でおさえたまま、床几しょうぎのうしろへもんどり打ってぶッたおれた。
曲者くせもの愕然がくぜんと、おどりあがった四天王てんのうたち。同時に、その群猛ぐんもううずをまいて、
「うぬッ、気がくるったかッ」
裏切者うらぎりものッ――退くな」
 とばかり、一どに総立そうだちになるやいなや、民部みんぶの上へ、どッとなだれを打ってきたつるぎ怒濤どとう

湖南の三騎士きし




 梅雪入道は、みだれ立つ郎党ろうどうたちの足もとを、逃げまわりながら、
「曲者は武田たけだ残党ざんとうだッ。伊那丸いなまるを逃がすなッ」
 と絶叫ぜっきょうした。
 民部みんぶはその姿をおって、
「おのれッ」
 三にりつけようとしたが、佐分利五郎次さぶりごろうじにささえられ、じゃまなッ、とばかりはねとばす。そのあいだに、天野あまの猪子いのこ足助あすけなどが、鉾先ほこさきをそろえてきたため、みすみす長蛇ちょうだいっしながら、それと戦わねばならなかった。
 いっぽう、民部にかかりあつまった雑兵ぞうひょうは、伊那丸いなまるのほうへ、バラバラと、かけ集まったが、それよりまえに、咲耶子さくやこが、腰のなわを切るがはやいか、伊那丸の手をとって、
「若君。早く早く」
 と、よりたかる武者むしゃ二、三人を斬りふせながらせきたてた。
 とたんになかから、一人の武者がかぶりついた。伊那丸は身をねじって、ドンと前へ投げつけ、かれのおとした陣刀をひろいとるがはやいか、近よる一人の足をはらって、さらに、咲耶子へやりをつけていた武者を斬ってすてた。
 すべては一しゅんあいだだった。
 伊那丸じしんですら、じぶんでどう動いたかわからない。穴山あなやまがたの郎党ろうどうも、たがいに目から火をだしての狼狽ろうばいだった。そして白熱戦の一瞬がすぎると、だれしもいのちしく、八ぽうへワッと飛びのく。――
 ひらかれた中心にあるのは、伊那丸と咲耶子とである。二人は背なかあわせに立って、血ぬられた陣刀と懐剣かいけんを二方にきっとかまえている。
 目にあまるほどの敵も、うかと近よる者もない。ただわアわアと武者声むしゃごえをあげていた。すると、あなたから加勢にきた四天王てんのう足助主水正あすけもんどのしょう
「えい、これしきの敵にひまどることがあろうか」
 大身おおみやりに行き足つけて、伊那丸いなまるの真正面へ、タタタタタッ、とばかりくりだした。
 伊那丸の身は、その槍先やりさき田楽刺でんがくざしと思われたが、さッとかわしたせつな、槍は伊那丸の胸をかすって流るること四、五尺。
「あッ」
 片足をちゅうにあげてのめりこんだ主水正、しまッたと槍をくりもどしたが、時すでに、ズンとおりた伊那丸の太刀たちに千だんを切りおとされて、無念むねん、手にのこったのはをうしなった半分のばかり。
「やッ」
 捨鉢すてばちに柄を投げつけた。そして陣刀をぬきはらったが、たびたびの血戦になれた伊那丸は、とっさに咲耶子と力をあわせ、いっぽうの雑兵ぞうひょうをきりちらして、湖畔こはんのほうへ疾風しっぷうのようにかけだした。


 そこには、白旗しらはたみやのまえから、追いつ追われつしてきた小幡民部こばたみんぶが、穴山あなやま旗本はたもと雑兵ぞうひょうを八面にうけて、今や必死ひっしりむすんでいる。
 しかし、小幡民部こばたみんぶは、こうした斬合きりあいはごく不得手ふえてであった。太刀たちをもって人にあたることは、かれのよくすることではない。
 けれど、軍配ぐんばいをもって陣頭じんとうに立てば、孫呉そんごのおもかげをみるごとくであり、帷幕いばくに計略をめぐらせば、孔明こうめいも三しゃを避ける小幡民部が、太刀打たちうちが下手へただからといっても、けっしてなんの恥ではない。かれのえらさがひくくなるものではない。民部の本領ほんりょうはどこまでも、奇策無双きさくむそうな軍学家というところにあるのだから。
 だが、それほど智恵ちえのある民部が、なんで、こんな苦しい血戦をみずからもとめ、みずから不得手な太刀を持って斬りむすぶようなことをしたのであろう。なぜ、もっといい機会をねらって、らくらくと伊那丸いなまるすくわないのか。
 民部ははじめ、こう考えた。
 穴山梅雪あなやまばいせつ領内りょうない、甲州北郡きたごおりの土地へはいってからでは、伊那丸を助けることはよういであるまい。これはなんでも途中において目的をはたしてしまうのにかぎる。――でかれは、出発にさきだって鞍馬くらま果心居士かしんこじ小太郎山こたろうざん龍太郎りゅうたろう小文治こぶんじなどの同志どうし通牒つうちょうをとばしておいた。
 ところが、裾野すそのへかかってきた第一日に、咲耶子さくやこという意外なものがあらわれた。かれは少女のふしぎな行動を見て、ははアこれは伊那丸君いなまるぎみを救おうという者だナ、と直覚したが、なにしろ、梅雪の警固けいごには、四天王てんのうをはじめ、手ごわい旗本はたもと郎党ろうどうが百人近くもついているので、あくまで入道にゅうどうをゆだんさせるため、奇計をもって咲耶子さくやこを生けどり、なお、心ひそかに、待つ者がくるひまつぶしに、この湖水までおびきよせたのだ。
 ところが、民部みんぶの心まちにしている人々は、いまもってすがたが見えない。――で、いまは最後の手段があるばかりと、途中で咲耶子にもささやいておいたとおりな、驚天動地きょうてんどうちの火ぶたを切ったのである。
 致命傷ちめいしょうにはなるまいが、怨敵おんてき梅雪ばいせつへは、たしかに一太刀ひとたち手ごたえをくれてあるから、このうえはどうかして、一ぽうの血路をひらき、伊那丸君いなまるぎみをすくいだそうと民部は心にあせった。しかし、まえにも、いったとおり、けんを持っては万夫不当ばんぷふとうのかれではないから、無念むねんや、そこへ追われてきた伊那丸と咲耶子のすがたを見ながら、四天王てんのうの天野、猪子、佐分利などにささえられて近よることもできない。
 それどころか、いまは民部のじぶんがすでにあぶないありさま。
 天野刑部あまのぎょうぶ月山流げつざんりゅう達者たっしゃとて、刃渡はわたり一しゃくすん鉈薙刀なたなぎなたをふるってりゅうりゅうとせまり、佐分利五郎次さぶりごろうじは陣刀せんせんとりつけてくる。その一人にも当りがたい民部は、はッはッと火のような息をきながら、受けつ、逃げつ、かわしつしていたが、一ぽうはみずうみ、だんだんと波のきわまで追いつめられて、もうまったくふくろのねずみだ、背水はいすいの陣にたおれるよりほかない。
「よしッ、もうこのほうはひきうけた。猪子伴作いのこばんさくは伊那丸のほうへいってくれ」
「おお承知しょうちした」
 天野刑部あまのぎょうぶの声にこたえた伴作ばんさくは、笹穂ささほやりをヒラリと返して、一ぽうへ加勢にむかった。ところへ、いっさんにかけだしてきたのは伊那丸いなまる咲耶子さくやこ、そうほうバッタリと出会いながら、ものをいわず七、八ごうやりと太刀の秘術ひじゅつをくらべて斬りむすんだが、たちまち、うしろから足助主水正あすけもんどのしょう、その他の郎党ろうどうが嵐のような勢いで殺到した。
 あなたでは民部みんぶの苦戦、ここでは伊那丸と咲耶子が、腹背ふくはいの敵にはさみ討ちとされている。二ヵ所の狂瀾きょうらんはすさまじい旋風せんぷうのごとく、たばしる血汐ちしお丁々ちょうちょうときらめくやいば、目もけられない修羅しゅらの血戦。
 三つの命は刻々こっこくとせまった。
 そのころから、秀麗しゅうれいな富士の山肌やまはだに、一まつすみがなすられてきた、――と見るまに、黒雲のおびはむくむくとはてなくひろがり、やがて風さえ生じて、みわたっていた空いちめんにさわがしい色をていしてきた。
 雲団々くもだんだんはたちまち暗く、たちまち、ぱッと明るく、明暗たちどころにかわる空の変化はいちいち下界げかいにもうつって、修羅しゅらのさけびをあげている湖畔こはんうずは、しんに凄愴せいそう極致きょくち壮絶そうぜつ、なんといいあらわすべきことばもない。
 おりしもあれ!
 はるか湖水の南岸に、ポチリと見えだした一点の人影。
 画面点景がめんてんけい寸馬豆人すんばとうじんそのまま、人も小さく馬も小さくしか見えないが、たしかに流星のごときはやさで湖畔こはんをはしってくる。それが、空の明るくなった時はくッきりと見え、がかげるとともに、暗澹あんたんたるあしのそよぎに見えなくなる。
 そも何者?
 おお、いよいよ奔馬ほんばは近づいてきた。しかもそれは一ではない。あとからつづくもう一騎がある。
 いや、さらにまた一騎。
 まさしくここへさしてくる者は三騎の勇士だ。そのはやきこと疾風しっぷう、その軽きことかける天馬てんばかとあやしまれる。


 わーッ、わーッと湖畔こはんにあがったどよみごえ。
 さては伊那丸いなまるがとらえられたか、咲耶子さくやこが斬られたか、あるいは、小幡民部こばたみんぶがたおれたのであろうか。
 いやいや、そうではなかった。――一声ひとこえたかくいなないたこまのすがたが、忽然こつねんとそこへあらわれたがため。
 まッ先におどりこんできたのは、高尾の神馬しんめ月毛つきげくらにまたがった加賀見忍剣かがみにんけん、例の禅杖ぜんじょうをふりかぶって真一文字まいちもんじに、
「やあやあ、お心づよくあそばせや伊那丸いなまるさま! 加賀見忍剣、ただいまこれへかけつけましたるぞッ。いでこのうえは穴山あなやまぞくのヘロヘロ武者むしゃども、この忍剣の降魔ごうまの禅杖をくらってくたばれ!」
 天雷てんらいくだるかの大音声だいおんじょう
 むらがるつるぎを雑草ともおもわず、押しかかるやりぶすまをれ木のごとくうちはらって、縦横無尽じゅうおうむじんとあばれまわる怪力かいりきは、さながら金剛力士こんごうりきしか、天魔神てんまじんか。
 時をおかず、またもやこの一かくへ、どッと黒鹿毛くろかげ馬首ばしゅをつッこんできたのは、これなん戒刀かいとうの名人木隠龍太郎こがくれりゅうたろう、つづいて、朱柄あかえやりをとっては玄妙無比げんみょうむひ巽小文治たつみこぶんじのふたり。
 紫白しはく手綱たづなを、左手ゆんでに引きしぼり、右手めてに使いなれた無反むぞりの一けんをひっさげた龍太郎は、声もたからかに、
「それにおいであるのは小幡民部殿こばたみんぶどのか。木隠龍太郎、小太郎山こたろうざんよりただいまご助勢じょせいにかけむかってまいったり。武者むしゃどもは、拙者せっしゃがたしかに引きうけもうしたぞ」
 黒鹿毛のひづめをあげて、三にかけちらしながら、はやくも鞍上あんじょうの高きところより、右に左に、戒刀かいとうをふるって血煙ちけむりをあげる。
「いかに穴山入道あなやまにゅうどうはいずれにある。巽小文治が見参げんざん卑劣者ひれつものよ、いずれにまいったか」
 十ぽう自在じざい妙槍みょうそうをひッかかえ、馬にあわをかませながら、乱軍のうちを血眼ちまなこになって走りまわっていたのは小文治である。
「うぬ、小ざかしい、いいぐさ」
 その姿をチラと見て、まッしぐらにかけよってきた四天王てんのう猪子伴作いのこばんさく怒喝どかつ一番、
素浪人すろうにんッ」
 さッと下から笹穂ささほやりを突きあげた。
「おうッ」と横にはらって返した朱柄あかえやり
 人交ひとまぜもせずに、一打ちとなったやりやりは、閃光せんこうするどく、上々下々、秘練ひれんを戦わせていたが、たちまち、朱柄あかえやりさきにかかって、猪子伴作いのこばんさく田楽刺でんがくざしとなって、草むらのなかへ投げとばされた。
 と、白旗しらはたみやうらから、よろばいだした法師武者ほうしむしゃがある。こなたの混乱こんらんに乗じて、そこなる馬に飛びつくやいな、死にものぐるいであなたへむかって走りだした。
 オオそれこそ、さきに一太刀うけて、さわぎのうちにどこかへもぐりこんでいた梅雪入道ばいせつにゅうどうではないか。
「やッ、きゃつめ!」
 こなたにあって、天野刑部あまのぎょうぶ大薙刀おおなぎなたと渡りあっていた木隠龍太郎こがくれりゅうたろうは、奮然ふんぜんと、刑部を一刀のもとってすて、梅雪のあとからどこまでも追いかけた。
 ピシリ、ピシリ、ピシリ! 戒刀かいとうひらむちにして追いとぶこと一ちょう、二町、三町……だんだんと近づいて、すでに敵のすがたをあいさることわずかに十七、八けん
 すると、何者が切ってはなしたのか、梅雪の馬のわき腹へグサと立った一本の矢、いななく声とともに、人もろとも馬はどうと屏風びょうぶだおれとなった。
 行く手の丘に小高いところがあった。そこの松の切株きりかぶの上に立っていたひとりの武芸者ぶげいしゃは、いななく馬の声をきくと、弓を小わきに持ってヒラリと飛びおりてきた。

悪入道あくにゅうどう末路まつろ




 征矢そやにくるった馬の上から、もんどり打っておとされた穴山梅雪あなやまばいせつは、あけにそんだ身を草むらのなかより起すがはやいか、無我夢中むがむちゅうのさまで、道もない雑木帯ぞうきたいへ逃げこんだ。
 しずかなること一しゅん、たちまち、パパパパパパパッ! と地を打ってきた蹄鉄ていてつのひびき、天馬飛空てんばひくうのような勢いをもって乗りつけてきたのは木隠龍太郎こがくれりゅうたろうである。怨敵おんてき梅雪が道なきしげみへげこんだと見るや、ヒラリと黒鹿毛くろかげを乗りすてて右手めてなる戒刀かいとうを引ッさげたまま、
卑怯ひきょうなやつ、未練なやつ、一国のあるじともあろうものがはじを知れや、かえせ梅雪! かえせ梅雪!」
 とばわりながら、身をぼっするような熊笹くまざさのなかを追いのぼっていった。
 だが、梅雪のほうはそれに耳をかすどころでなく、いのちが助かりたいの一心で、丘のいただき近くまでよじのぼってくると、不意に目の前へ、さるかむささびか雷鳥らいちょうか、上なる岩のいただきから一そくとびにぱッととびおりてきたものがある。
「あッ」
 おびえきっている梅雪の心は、ふたたびギョッとして立ちすくんだけれど、ふと驚異きょういのものを見なおすとともに、これこそ天来てんらいのすくいか、地獄じごくほとけかとこおどりした。それはたくましい重籐しげどうの弓を小わきに持った若い、そしてりんりんたる武芸者ぶげいしゃであるから。
 梅雪は本能的ほんのうてきにさけんだ。
「おおよいところで! は甲州北郡きたごおり領主りょうしゅ穴山梅雪あなやまばいせつじゃ、いまわしのあとより追いかけてくる裾野すその盗賊とうぞくどもを防いでくれ、この難儀なんぎすくうてくれたら、千ごく二千ごくの旗本にも取り立て得させよう。いいや恩賞は望みしだい!」
「さては遠くから見た目にたがわず、そのほうが穴山梅雪入道か」
「かかる姿をしているからとて疑うな、がその梅雪にちがいないのじゃ、そちが一生の出世しゅっせつるは、いまとせまったわしの危急ききゅうすくってくれることにあるぞ」
「だまれ、やかましいわいッ」わかき武芸者ぶげいしゃは、そのほおぺたをはりつけんばかりにどなりつけて、
「音にひびいた甲州の悪入道。よしやどれほどのたからささげてこようと、なんでなんじらごとき犬侍いぬざむらいのくされ扶持ぶちをうけようか、たいがいこんなことであろうと、なんじ逃足にげあしへ遠矢をたのはかくもうすそれがしなのだ」
「げッ、さてはおのれも」
 絶望、驚愕きょうがく憤怒ふんぬ
 奈落ならくへ突きのめされた梅雪は、あたかも虎穴こけつをのがれんとして、龍淵りゅうえんにおちたような破滅はめつとはなった。もうこのうえはいちかばちか、いのちはただそれ自分をたのむことにあるのみだ。
「うーム。ようもじゃま立てをいたしたな! いたりといえども穴山梅雪あなやまばいせつ、そのッ首をはねとばしてくれよう」
「ハハハハハハ、片腹かたはらいたい臆病者おくびょうものたわごとこそ、あわれあわれ、もうなんじの天命は、ここにつきているのだ、男らしく観念してしまえ」
「エエ、いわしておけば」
 死身しにみの勇をふるいおこした梅雪の手は、かッと、陣刀のつかに鳴って、あなや、皎刀こうとうさやばしッて飛びくること六、七しゃく! オオッとばかり、武芸者ぶげいしゃのまッこうのぞんで斬り下げてきた。
笑止しょうしや、蟷螂とうろうおのだ」
 ニヤリと笑った若き武芸者は、さわぐ気色けしきもなく身をかわして、左手ゆんでに持った弓のつるがヒューッと鳴るほどたたきつけた。
「あッ」と梅雪は二の太刀を狂わせ、熊笹くまざさの根につまずいてよろよろとした。
「老いぼれ」
 すかさずそのえりがみをムズとつかんだ武芸者は、その時ガサガサと丘の下からかけあがってくる木隠龍太郎こがくれりゅうたろう姿すがたをみとめた。
「あいや、それへおいであるのは、武田伊那丸君たけだいなまるぎみのお身内みうちでござらぬか」
「オオ!」
 びっくりして、高き岩頭をふりあおいだ龍太郎は、見なれぬ武芸者ぶげいしゃのことばをあやしみながら、
「いかにも、伊那丸さまのお傅人もりびと、木隠龍太郎という者でござるが、もしや、貴殿きでんは、このなかへ逃げこんだ血まみれなる法師武者ほうしむしゃのすがたをお見かけではなかったか」
「その入道なれば、わざわざこれまでお登りなさるまでもないこと」
「や! では、そこにおさえているやつが?」
「オオ、山県蔦之助やまがたつたのすけが伊那丸君へ、初見参ういげんざんのごあいさつがわりに、ただいまそれへおとどけもうすでござろう」
 いうかと思えば、若き武芸者――それはかの近江おうみの住人山県蔦之助――カラリと左手の弓を投げすてて、梅雪入道ばいせつにゅうどうの体に双手もろてをかけ、なんの苦もなくゆらッとばかり目の上にさしあげて、
「それ、お受けあれや龍太郎どの!」声と一しょに梅雪の体を、おかの下へ、投げとばしてきた。


 スポーンと紅葉こうようしげりへおちた梅雪ばいせつのからだは、※(「毬」の「求」に代えて「鞠のつくり」、第4水準2-78-13)まりのごとくころがりだして、土とともに、ゴロゴロと熊笹くまざさがけをころがってきた。龍太郎りゅうたろうは、心得たりと引ッつかんで、さらに上なる人をあおぎながら、
山県蔦之助やまがたつたのすけどのとやら、まことにかたじけのうござった。そもいかなるお人かぞんじませぬが、おことばに甘えて初見参ういげんざんのお引出ひきでもの、たしかにちょうだいつかまつった。おれい伊那丸いなまるさまのご前にまいったうえにて」
拙者せっしゃもすぐあとよりつづきますゆえ、なにぶん、君へのお引合わせを」
委細承知いさいしょうち、はや、まいられい!」
 ヘトヘトになった梅雪を小わきにかかえた龍太郎は、さっき乗りすててきたこまのところへと、いっさんにかけおりていった。
 と、同時に、上からも身軽みがるにヒラリヒラリと飛びおりてきた蔦之助。
 龍太郎は、黒鹿毛くろかげにまたがって、鞍壺くらつぼのわきへ、梅雪をひッつるし、一鞭ひとむちくれて走りだすと、山県蔦之助も、おくれじものと、つづいていく。
 一ぽう、白旗しらはたみやの前では、穴山あなやま郎党ろうどうたちは、すでにひとりとして影を見せなかった。そこには凱歌がいかをあげた忍剣にんけん小文治こぶんじ民部みんぶ咲耶子さくやこなどが、あらためて、伊那丸を宮の階段かいだんに腰かけさせ、無事をよろこんでほッと一息ついていた。人々のすがたはみな、紅葉もみじびたように、点々の血汐ちしおめていた。勇壮といわんか凄美せいびといわんか、あらわすべきことばもない。
 なかでも忍剣にんけんは、疲れたさまもなく、なお、綽々しゃくしゃくたる余裕よゆう禅杖ぜんじょうに見せながら、
武者はどうでもよいが、とうの敵たる穴山入道あなやまにゅうどうちもらしたのは、かえすがえすもざんねんであった。いったいきゃつはどこにうせたか」
「たしかにここで拙者せっしゃが一太刀くれたと思いましたが」
 と小幡民部こばたみんぶも、無念むねんなていに見えたけれど、伊那丸いなまるはあえて、もとめよともいわず、かえって、みなが気のつかぬところに注意をあたえた。
「それはとにかく龍太郎りゅうたろうのすがたが、このなかに見えぬようであるが、どこぞで、傷手いたででもうけているのではあるまいか」
「お、いかにも龍太郎どのが見えぬ」
 一同は入りみだれて、にわかにあたりをたずねだした。すると、咲耶子さくやこは耳ざとくこまひづめを聞きつけて、
「みなさまみなさま。あなたからくるおかたこそ龍太郎さまにそういござりませぬ。オオ、なにやらくらわきにひッつるして、みるみるうちにこれへまいります」
「や! ひッさげたるは、たしかに人」
穴山梅雪あなやまばいせつ?」
「オオ、梅雪をつるしてきた」
龍太郎りゅうたろうどの手柄てがらじゃ、でかしたり、さすがは木隠こがくれ
 口々にさけびながらかれのすがたを迎えさわぐなかにも、忍剣にんけんは、ほとんど児童わらべのように狂喜きょうきして、あおぐように手をふりながらおどりあがっている――と見るまに、それにもどってきた龍太郎は、どんと一同のなかへ梅雪ばいせつをほうりやって、手綱たづなさばきもあざやかにくらの上から飛びおりた。
「それッ」
 待ちかまえていた一同の腕は、せずして、梅雪のからだにのびる。いまはいやもおうもあらばこそ、みにくい姿をズルズルと伊那丸いなまるのまえへ引きだされてきた。
 民部みんぶは、そのえりがみをつかんで、
「入道ッ、おもてをあげろ」と、いった。
「むウ……ム、残念だッ」
 穴山梅雪あなやまばいせつ眉間みけん一太刀ひとたち割られているうえに、ここまでのあいだに、いくどとなく投げられたり鞍壺くらつぼにひッつるされたりしてきたので、この世の者とも見えぬ顔色になっていた。


「まて民部、手荒てあらなことをいたすまい」
 もっともうらみ多きはずの伊那丸が、意外にもこういったので、民部も忍剣も、意外な顔をした。
 伊那丸いなまるはしずかに、階段かいだんからおりて、梅雪入道ばいせつにゅうどうの手をとり、宮の板縁いたえんへ迎えあげて、礼儀ただしてこういった。
「いかに梅雪、いまこそ迷夢めいむがさめたであろう、わしのような少年ですら、甲斐源氏かいげんじおこさんものと、ひたすら心をくだいているのに、いかにとはいえ、二十四将の一人に数えられ、武田家たけだけ血統ちすじでもある其許そこもとが、あかざる慾のためにこのみにくき末路まつろはなにごと。それでも甲州武士こうしゅうぶしかと思えば情けなさに涙がこぼれる。いざ! このうえはいさぎよく自害して、せめて最期さいごを清うし、末代まつだい未練みれんの名を残さぬようにいたすがよい」
「ええうるさいッ」梅雪はもの狂わしげに首をふって、――「自害じがいせいとぬかすか、バカなことを!」
「なんと、もがこうが、すでに天運のつきたるいま、のがれることはなるまいが」
「なろうとなるまいと、なんじらの知ったことか。こりゃ伊那丸、えんからいえば汝の父勝頼かつより従弟いとこ、年からいっても長上めうえにあたるこの梅雪に、やいばを向ける気か、それこそ人倫じんりんの大罪じゃぞ」
「それゆえにこそこのとおり、礼をただして迎え、自害をすすめ、本分をとげさせんといたすものを、さりとは未練みれんなことば」
「いや、もう聞く耳もたぬ」
「では、どうあっても自害せぬか」
「いうまでもない。余はなんじらのめいによって、死ぬわけがない。死ぬるのはいやだ!」
「アア、すくいがたき卑劣者ひれつもの――」
 伊那丸いなまるは空をあおいで長嘆ちょうたんしてのち、
「このうえはぜひもない……」とつぶやくのを聞いた梅雪ばいせつは、伊那丸の命令がくだらぬうち、さきをこして、やにわによろいどおしをひき抜き、
わっぱッ! 冥途めいどの道づれにしてくれる」
 猛然もうぜんとおどりかかッて、伊那丸の胸板むないたへ突いていったが、ヒラリとかわして凛々りんりんたる一かつもと
「悪魔ッ」
 パッと足もとをはらうと見るまに、五体をうかされた梅雪は、板縁いたえんの上からをえがいて下へ落とされた。
人非人にんぴにん、斬ってしまえッ!」伊那丸の命令一下に、
「はッ」
 声におうじてくりだした巽小文治たつみこぶんじ朱柄あかえやり、梅雪の体が地にもつかぬうちにサッと突きあげ、ブーンと一ふりふってたたき落とした。そこをまた木隠龍太郎こがくれりゅうたろうの一刀に、梅雪の首は、ゴロリと前に落ちた。
「それでよし、死骸しがいは湖水の底へ」
 板縁に立って、伊那丸はしずかに目をふさいでいう。
 折から山県蔦之助やまがたつたのすけもかけつけた。あらためて伊那丸いなまるこころざしをのべ、一同にも引きあわされて、一とうのうちへ加わることになった。
 ポツリ、ポツリ、大粒おおつぶの雨がこぼれてきた。空をあおげば団々だんだんのちぎれ雲が、南へ南へとおそろしいはやさで飛び、たちまち、灰色の湖水がピカリッ、ピカリッと走ってまわる稲妻いなずまのかげ。
 濛々もうもうたる白いまくが、はるか裾野すそのの一かくから近づいてくるなと見るまに、だんだんにを消し、ながきなぎさを消し、湖水を消して、はや目の前まできた。と思う間もあらせず、ザザザザザザザアーッとぼんをくつがえすという、文字どおりな大雨おおあめ襲来しゅうらい
 めでたく穴山梅雪あなやまばいせつちとりはしたが、離散りさんして以来のつもる話もあるし、これからさきのそうだんもある折から、爽快そうかいなる大雨たいうの襲来は、ちょうどいい雨宿あまやどりであろうと、一同は、白旗しらはたみやのあれたる拝殿はいでんに入り、そして伊那丸いなまるを中心に、しばらく四方よもの物語にふけっていた。

自然城しぜんじょう小太郎山こたろうざん




 武州ぶしゅう高尾たかおみねから、京は鞍馬山くらまやま僧正谷そうじょうがたにまで、たッた半日でとんでかえったおもしろい旅のあじを、竹童ちくどうはとても忘れることができない。
 果心居士かしんこじのまえに、首尾しゅびよくすましたお使いの復命ふくめいをしたのち、その晩、寝床ねどこにはいったけれども、からだはフワフワ雲の上を飛んでいるような心地、目には、琵琶湖びわこだの伊吹山いぶきやまだの東海道の松並木まつなみきなどがグルグル廻って見えてきて、いくらようとしても寝られればこそ。
「アアおもしろかったなア、あんな気持のいい思いをしたのは生まれてはじめてだ。お師匠ししょうさまは意地悪だから、なかなか飛走のじゅつなんか教えてくれないけれど、おいらにクロという飛行自在じざいな友だちができたから、もう飛走の術なんかいらないや。それにしても今夜はクロはどうしているだろう……天狗てんぐ腰掛松こしかけまつにつないできたんだけれど、あそこでおとなしく寝ているかしら、きっとおいらの顔を見たがっていてるだろうナ。アアもう一ど、クロのなかへ乗ってどこかへ遊びにゆきたい……」
竹童ちくどう竹童」となりの部屋へやで果心居士の声がする。
「ハイ」
「ハイじゃあない、なにをこの夜中にブツブツ寝言ねごとをいっている。なぜ早く寝ないか」
「ハイ」
 竹童はそらいびきをかきだしたが、心はなかなか休まらないで、いよいよ頭脳明晰ずのうめいせきになるばかりだ。
「ハハア、竹童のやつめ、わしの背なかで旅をしたあじをしめて、なにか心にたくらみおるな。よしよし明日あすはひとつなにかでこらしておいてやろう」
 いながらにして百里の先をも見とおす果心居士かしんこじの遠知のじゅつ、となりの部屋へやに寝ている竹童ちくどうのはらを読むぐらいなことはなんでもない。
 とも知らず、夜が明けるか明けないうちに、かめのようにムックリ寝床から首をもたげだした竹童、
「しめた! お師匠ししょうさまはあのとおりないびき、いくらなんでも寝ているうちのことは気がつくまい。どれ、今のうちにおいらの羽をのばしてこようか」
 ほそっこいおびをチョコンとむすび、例の棒切ぼうきれを腰にさして、ゆうべ食べのこした団子だんごをムシャムシャほおばりながら、さるのごとく荘園そうえんをぬけだした。
 そのはやいことは、さながら風!
 空にはまだ有明けの月があった。あっちこっちの岩穴いわあなからムクムクと白いものをいている、あさきりである。竹童のあわい影が平地へいちからがけへ、がけから岩へ、岩から渓流けいりゅうへと走っていくほどに、足音におどろかされたおおかみうさぎ、山鳥などが、かれの足もとからツイツイと右往左往うおうざおうに逃げまわる。
 いつもの竹童ならば、こんな場合、すぐ狼を手捕りにする、兎を渓流のなかへほうりこむ。とてもいたずらをして道草するのだが、きょうはどうしてそれどころではない。なにしろこれからお師匠ししょうさまの朝飯となるまでに、日本国じゅうの半分もまわってこようという勢いなのだから。
「やアどうしたんだろう、いない! いない!」
 やがて、こぶみねのてッぺんにある、天狗てんぐ腰掛松こしかけまつの下にたった竹童ちくどうは、頓狂とんきょうな声をだしてキョロキョロあたりを見まわしていた。
「おかしいな、きのうかえってから、この松の木の根ッこへあんな太いなわでしばっておいたのに、どこへとんでッちゃったのだろう」
 がっかりして、しばらくあっちこっちをうろうろした竹童は、とうとう目から大粒おおつぶなみだをポロリポロリとこぼしながら、あかつきの空にむかって声いッぱい!
「クロクロクロクロ。クロクロクロクロクロ」
 それでも影を見せてこないので、かれはグンニャリとなり、天狗の腰掛松へよりかかってしまったが、ふとこのあいだ居士こじ扇子せんすをなげてわしを呼びよせた幻術げんじゅつをおもいだし、
「よし、おいらもあの術をまねしてみよう」
 竹童はもう目の色かえて一心である。呪文じゅもんはわからないが、腰の棒切れをぬき、一念こめて、エエイッと気合きあいを入れて虚空こくうへ投げる。
 棒はツツツと空へ直線をえがいてあがった。
「やア、奇妙きみょう奇妙」竹童はうれしさのあまり、手をたたき、踊りをおどって狂喜した。
 と見る、谷をへだてたあなたから、とんでくるのはクロではないか、あいたにを、わずか二つ三つの羽ばたきでさっとくるなり、投げあげられた棒切れを、パクリとくわえて、かれのそばまで降りてきた。竹童ちくどう有頂天うちょうてんとなったのもむりではない。


 まもなく、かれはゆうべの夢を実行して、京から大阪おおさか、大阪から奈良ならの空へと遊びまわっている。町も村も橋も河も、まるで箱庭はこにわのような下界げかいの地面がみるみるながれめぐってゆく。そのあげくに、ふと思いついたのは、おととい忍剣にんけんのいったことばである。
「オオそうだ、なんでもきょうあたりは、富士ふじ裾野すそのに大そうどうがあるはずだ。おいらはまだ生まれてからたたかいというものをみたことがない。これから一つ裾野までとんでいって、勇ましいところを空から見物してやろう」
 つねづね、果心居士かしんこじからよくお叱言こごとばかりいただいているくせに、竹童はもう鞍馬山くらまやまへ帰るのもわすれて、こんな大望たいもうをおこした。思いたっては、たてもたまらないかれだった。すぐその足で、富士の姿すがたを目あてにわしをとばした。いかなる名馬で地を飛ぶよりも、こうして空中を自由に飛行する快味は、まるでじぶんがじぶんでなく、生きながら、神か仙人せんにんになったような愉快ゆかいさである。――だが、ここまできたときとちがって、鷲はそれから先一向いっこう竹童の自由にならない。富士の裾野とは方角ほうがくちがいな、北へ北へと向かって、勝手に雲をぬってとぶ。
「やい、クロ。そんなほうへいくんじゃない、こらッ、こらッ、こらッ!」
 竹童はあわてて、いくどもいくども、方向をかえようとしたが、さらにききめがなく、地上へもどらんとしても、いつものようにスラスラとりてもくれない。ああいったいこれはどうしたことだ。
「チェーッ、畜生ちくしょう、畜生、畜生」
 かれはクロの上でかんしゃくをおこし、じれだし、最後にベソをかきだした。
 そもそも今日きょう竹童ちくどうにとっていかなる悪日あくびか、ベソをかくことばかり突発する日だ。しかし、そう気がついてももうおそい、いくら泣いてもわめいても、わしに一身をたくして雲井の高きにある以上、クロのつばさがつかれて、しぜんに大地へ降りるのをまつよりほかはない。それはまだよかったが、泣きつらはち、つづいておそるべき第二の大難が起ってきた。
 すでに今朝から陰険いんけんそうをあらわしていた空は、この時になって、いっそうわるい気流となり、雷鳴らいめいとともに密雲のそうはだんだんとあつくなって、呼吸いきづまるような水粒すいりゅう疾風しっぷうが、たえず、さっさっとぶっつかってきた。
 そして、わしが雲より低くいくときは、滝のごとき雨が竹童の頭からザッザとあたり、上層じょうそうの雲にはいるときは白濛々はくもうもう夢幻界むげんかいにまよい、かみの毛もつめの先も、氷となって折れるような冷寒れいかんをかんじる。しかも、クロはこの難行苦行なんぎょうくぎょうにもくっする色なく、なおとぶことは稲妻いなずまよりもはやい。
 すると漠々ばくばくたる雲の海から、黒い山脈の背骨せぼねもっこりと見えだした。竹童はどうにかして、ここから降りようと苦策くさくを案じ、いきなり手をのばしてわしの両眼をふさいでしまった。
 人間でも目をふさいでは歩けないから、こうしてやったらきっとまるだろうという、竹童ちくどう必死ひっし名案めいあん、はたせるかなわしもおどろいたさまで、糸目のくるったたこのようにクルクルッとめぐりまわりだした。かれの計略けいりゃくにあたって急に元気よく、
「もうこっちのものだぞ、しめた、しめた」
 とよろこんだが、あわれそれもつか
 たちまち鳴りはためいたいかずちが、かれの耳もとをつんざいた一せつな、下界げかいにあっては、ほとんどそうぞうもつかないような朱電しゅでんが、ピカッピカッと、まつげのさきを交錯こうさくしたかと思うまもあらばこそ。
「あッ」
 といった竹童のからだは、おそるべき稲妻いなずま震力しんりょくにあって、鷲の背なかからひッちぎられた、そしてまッさかさまとなって、いずことも知れぬ下へ一直線におちていくなと見るに――追いすがった鷲のくちばしは、いきなりパクリと竹童のおびをくわえ、わら小魚こうおでもさらっていくように、そのまま、模糊もことした深岳しんがくの一かくへ、ななめさがりにかけりだした。


「アいた、アイタタタッ……」
 びっこをひきながら、草むらよりころげだしたのは竹童ちくどうである。地上二、三十しゃくのところまできて、ふいにわしくちばしからはなされたのだ。
 これが尋常じんじょうの者なら、悩乱悶絶のうらんもんぜつはむろんのこと、地に着かぬうちに死んでいるべきだが、山気さんきをうけた一種の奇童きどう三歳児みつごのときから果心居士かしんこじにそだてられて、初歩の幻術げんじゅつ浮体ふたい秘法ひほうぐらいは、多少心得ている竹童なればこそ、五体の骨をくだかなかった。
「オオいたい。クロの野郎やろうめ、おいらがあんなにかあいがってやるのに、よくも恩人をこんな目にあわせやがッたな、アアいたいたいた畜生ちくしょう畜生、どうするか覚えていろ!」
 腰骨をさすりながら、ふと後ろをふりかえって見ると、なんとにくいやつ、すぐじぶんのそばに、すました顔で、つばさをやすめているではないか。
「けッ、しゃくにさわる!」
 竹童はいきなりおび棒切ぼうきれをひッこき、クロをねらってピュッと打ってかかる。と、鷲も猛鳥の本性ほんしょうをあらわして、ギャッとばかり、竹童の頭から一つかみとつめをさかだってきた。
「こいつめッ、生意気なまいきにおいらにむかってくる気だな」
 とかんしゃくすじを立てた勢いで、ブーンと棒を横なぐりにはらいとばすと、こはいかに、鷲の片足が、ムンズとのびて竹童の胸をつかみ、
「これ竹童、なにが生意気なのじゃ」とにらみつけた。
「あッ、あなたはお師匠ししょうさま?」
 さらぬだに目玉の大きい竹童ちくどうが、ひとみをみはってあきれ返った。なんと、わしとおもって打っていたのは、鞍馬くらまにおるはずのお師匠ししょうさま、果心居士かしんこじではないか。
 ふしぎ、ふしぎ。かれは天空から落ちたときよりぎょうてんして、からだを石のようにこわくさせ、口もきけず、逃げもできず、ややしばらくというもの、そこにモジモジとしていたが、ガラリと棒切ぼうきれをすてて、地べたへひたいをすりつけてしまった。
「お師匠さま。わたしがわるうござりました。どうぞごかんべんあそばしくださいまし」
「びっくりしたか、どうじゃ悪いことはできないものであろう」
 居士は、ニヤリと笑って、足もとの岩へ腰をおろした。
「まったくこんなきもをつぶしたことはございません。これからけっしてお師匠さまにむだんで遠くへまいりませんから、どうかおゆるしくださいまし」
「よしよし、仕置しおきはさんざんすんでいるのじゃから、もうこのうえのこごとはいうまい」
「エ、じゃアとんでくるうちに、あんな目にあわしたのもお師匠さまでしたか。エ、お師匠さま。どうして人間が鷲になんかになってとべるのでしょう?」
「ソレ、ゆるすといえばすぐにまた甘えてくる。さようなことはどうでもよい、おまえにはまた一ついいつけることがある。ほかでもないが、これから富士ふじ人穴ひとあなへいって、そこに住みおる和田呂宋兵衛わだるそんべえというぞくのかしらに会うのじゃ。しかし容易よういなことでは、かれにうたがわれるから、あくまでおまえは子供らしく、いざとなったらかくかくのことをもうしのべろ……」
 と居士こじはあかざのつえをもって、なにかこまごまと書いて示したりささやいたりしてむねをふくませたのち、
「よいか、そこで呂宋兵衛るそんべえが、うまうまとこちらのことばに乗ったとみたら、そくざに、五湖の白旗しらはたみやにおわす、武田伊那丸君たけだいなまるぎみそののかたがたにおしらせするのじゃ、なかなか大役であるからばかにしないでつとめなければなりませんぞ」
「かしこまりました。ですけれどお師匠ししょうさま」
わしがいないというのであろう。いまほんもののクロを呼んでやるから、しばらくそのへんにひかえていなさい」
「ハイ」
 竹童ちくどうはそこでやっと落着いて、あたりの景色けしきを見直した。ところでここはいったいどこの何山だろう?
 いま、さしもの豪雨ごううもやんで、空は瑠璃るりいろにんできたが、眼下ははてしもない雲の海だ。それからおしてもここはかなりの高地にちがいないが、この山そのものがあたかも天然てんねんの一城廓じょうかくをなして、どこかに人工のあとがある。
 すると、コーン、コーン、コーンと深いところで石でも切るような音。と思えば、ザザザザーッと谷をけずるようなひびきもしてきた。竹童はこの深山にみょうだなと思いながら、なにごころなくながめまわしてくると、天斧てんぷ石門せきもん蜿々えんえんとながきさく、谷には桟橋さんばし駕籠渡かごわたし、話にきいたしょく桟道さんどうそのままなところなど、すべてはこれ、稀代きたい築城法ちくじょうほう人工じんこうを加味した天嶮無双てんけんむそう自然城しぜんじょうだ。
「これはすてきもないところだナ、いったいなんのためにこんなとりでがあるのだろう」
 竹童ちくどうはふしぎな顔をして、もとのところへ帰ってきてみると、いつのまにか、ほんもののクロが居士こじのそばにちゃんとひかえている。
「竹童、早々そうそうしたくをしていかねばならぬ。用意はできているか」
「ハイいつでもかまいません。けれどお師匠ししょうさま、でがけにひとつうかがいたいことがございます」
「そんなことをいってるまに時刻がたつ」
「いいえ、たった一言ひとこと、いったいここはどこの何山で、だれのもっているとりででございましょうネ」
「おまえなどは知らないでもいいことだが、お使いをする褒美ほうびとして聞かしてやろう。ここは甲斐かい信濃しなの駿河するがさかい、山の名は小太郎山こたろうざん
「え、小太郎山」
「砦にこもる御方おんかたはすなわち武田伊那丸たけだいなまるさまだ」
「えッ、ここがあの小太郎山で、伊那丸さまの立てこもる根城ねじろとなるのでございますか」
 ふかいわけはわからないが、竹童ちくどうはそう聞いて、なんとなく胸おどり血わいて、じぶんも、甲斐源氏かいげんじの旗上げにくみする一人であるようにいさみたった。

奇童きどう怪賊問答かいぞくもんどう




 富士ふじ裾野すそのに、数千人の野武士のぶしをやしなっていた山大名やまだいみょう根来小角ねごろしょうかくほろびてしまった。しかし、野盗やとうである人穴ひとあな殿堂でんどうはいぜんとして、小角の滅亡後めつぼうごにも、かわっている者があった。すなわち、和田呂宋兵衛わだるそんべえという怪人かいじんである。
 あれほどしたたかな小角が、どうしてほろぼされたかといえば、じぶんの腹心とたのんでいた呂宋兵衛にうらぎられたがため、――つまりいぬに手をかまれたのと同じことだ。
 呂宋兵衛というのは、仲間なかま異名いみょうである。
 かれは、和田門兵衛わだもんべえという、長崎からこの土地へ流れてきた南蛮なんばん混血児あいのこであった。右の腕には十、左の腕には呂宋文字るそんもじのいれずみをしているところから、野武士のぶし仲間なかまでは門兵衛を呂宋兵衛とよびならわしていた。また碧瞳紅毛へきどうこうもう金蜘蛛きんぐものようなこの魁偉かいい容貌ようぼうにも、呂宋兵衛の名のほうがふさわしかった。
 呂宋兵衛は富士の人穴ひとあなへきてから、たちまち小角しょうかく無二むにの者となった。かれの父が、南蛮人なんばんじんのキリシタンであったから、呂宋兵衛もはやくから修道者イルマンとなり、いわゆる、切支丹流キリシタンりゅう幻術げんじゅつをきわめていた。小角はそこを見こんで重用した。
 しかし邪悪じゃあくな呂宋兵衛は、たちまちそれにつけあがって陰謀いんぼうをたくらみ、さくをもって、小角を殺し、配下はいか野武士のぶしを手なずけ、人穴の殿堂でんどうを完全に乗っ取ってしまった。
 小角のひとり娘の咲耶子さくやこは、あやうく父とともに、かれの毒手どくしゅにかかるところだったが、せつえぬ七、八十人の野武士もあって、ともに裾野すそのへかくれた。そしていかなる苦しみをなめても、呂宋兵衛をうちとり、小角のれいをなぐさめなければならぬと、毎日広野こうやへでて、武技ぶぎをねり、陣法の工夫くふう他念たねんがなかった。
 ――その健気けなげ乙女おとめごころを天もあわれんだものか、彼女はゆくりなくも、きょう伊那丸いなまると一とうの人々に落ちあうことができた。
 かつて、伊那丸が人穴の殿堂にとらわれたときに、咲耶子のやさしい手にすくわれたことがある。いや、そんなことがなくっても、思いやりのふかい伊那丸と、侠勇勃々きょうゆうぼつぼつたる一党の勇士たちは、かならずや、咲耶子の味方となることをせぬであろう。
 一ぽう、山大名の呂宋兵衛は裾野すそのへかくれた咲耶子の行動にゆだんせず、毎日十数人の諜者ちょうじゃをはなっている。
 きょうも、途中雷雨にあって、ズブぬれとなりながら野馬のうまをとばして人穴へかえってきた三人の諜者ちょうじゃは、すぐ呂宋兵衛るそんべえのまえへでて、五湖のあたりにおこった急変を注進ちゅうしんした。
「おかしら、一大事でございます」
「なに、一大事だ」
 身はぜいたくをしているが、心にはたえず不安のある呂宋兵衛は、琥珀こはくさかずきを手からおとし、さらに、諜者ちょうじゃのさぐってきたちくいち――伊那丸いなまる咲耶子さくやこのうごきを聞くにおよんで、その顔色はいちだんと恐怖的きょうふてきになった。
「むウ、ではなにか、武田伊那丸のやつらが、穴山梅雪あなやまばいせつちとり、また湖水の底から宝物ほうもつ石櫃いしびつを取りだしたというのか。あのなかの御旗みはた楯無たてなしは、とッくにこっちで入れかえて、売りとばしてしまったからいいようなものの、それと知ったら、伊那丸のやつも咲耶子も、一しょになってここへ押しよせてくることは必定ひつじょうだ。こいつは大敵、ゆだんがならねえ、すぐ手配てくばりして、要所ようしょ要所を厳重げんじゅうにかためろ」
 立ちあがって、わめくようにいいつけた時、石門から取次ぎを受けた野武士のぶしのひとりが、ばらばらと進んできて口ぜわしく、
「おかしらへ申しあげます。ただいま、一の門へ、穴山梅雪の残党ざんとうが二、三十人まいって、ぜひお願いがあるといってきましたが、どうしたものでございましょうか」
「穴山の残党なら、湖畔こはんで伊那丸のために討ちもらされた落武者おちむしゃだろう。こんなときには、少しのやつも味方のはしだ。そのなかからおもだった者だけ二、三人とおしてみろ」
承知しょうちしました」
 とひッ返した手下の者は、やがて、殿堂でんどうの広間へ、ふたりの武士をあんないしてきた。呂宋兵衛るそんべえは上段の席から鷹揚おうようにながめて、
富士浅間ふじせんげん山大名やまだいみょう和田門兵衛わだもんべえは身どもでござるが、おたずねなされたご用のおもむきは?」
「さっそくのご会見、かたじけのうぞんじます。じつは拙者せっしゃは、穴山あなやまの四天王てんのう足助主水正あすけもんどのしょうともうしまする者」
「またそれがしは、佐分利さぶり五郎次でござる、すでにごぞんじであろうが、ざんねんながら、伊那丸与党いなまるよとう奸計かんけいにかかり、主君の梅雪ばいせつたれ、われわれ四天王てんのうのうちたる天野あまの猪子いのこの両名まであえなき最期さいごをとげました」
「そのはいま、手下の者からもくわしくうけたまわった」
「主君のほろびたうえは、甲斐かいへかえるも都へかえるもせんなきこと、追腹おいばらきって相果てようかと思いましたが、それも犬死いぬじに、ことによるべなき残り二、三十人の郎党ろうどうどもがふびんゆえ、それらの者を集めておとずれまいったしだい、どうぞ、われわれ両名をはじめ一同を、この山寨さんさいにおとめおきくださるまいか」
「オオ、それはそれはご心中おさっしもうす、武士は相身あいみたがい、かならずお力になりもうそう」
 呂宋兵衛は、ひそかによろこんだ。
 折もおり、いまのこの場合、二勇士が、場なれた郎党ろうどうを二、三十人も連れて、味方についてくるとはなんたる僥倖ぎょうこう、かれは足助あすけ佐分利さぶりに客分の資格しかくをあたえ、下へもおかずもてなししたうえ、にわかに気強くなって、軍議の開催かいさいをふれだした。
 妖韻よういんのこもったかねがゴーンと鳴りわたると、よろいを着た者、雑服ぞうふくの者、陸続りくぞくとして軍議室にはいってくる。
 そこは四面三十七けん、百二十じょうとうむしろをしき、黒く太やかな円柱えんちゅう左右に十本ずつの大殿堂。一ぽうの中庭からほのかな日光ははいるが、座中陰惨いんさんとしてうす暗く、昼から短檠たんけいをともした赤い光に、ぼうと照らしだされた者は、みなこれ、呂宋兵衛るそんべえの腹心の強者つわものぞろい。
「わらうべし、わらうべし、ちちくさい伊那丸いなまる咲耶子さくやこなどが、烏合うごうの小勢でよせまいろうとて、なにをぎょうぎょうしい軍議などにおよぼうか。拙者せっしゃに二、三百の者をおあずけくださるならば、ただひと押しにけちらしてみせようわ」
 破鐘われがねのような声でいう者がある。
 見れば山寨さんさい第一の膂力りょりょく、熊のごときひげをたくわえている轟又八とどろきまたはちだった。すると一ぽうから、軍謀ぐんぼう第一のきこえある丹羽昌仙にわしょうせんがしかつめらしく、
「おひかえなさいとどろき、敵をあなどることはすでに亡兆ぼうちょうでござるぞ。伊那丸は有名なる信玄しんげんの孫、兵法に精通せいつう、つきしたがう傅人もりびともみな稀代きたいの勇士ときく。すべからくこの天嶮てんけんって、かれのきたるところをさくによって討つが上乗じょうじょう
「やアまた、昌仙しょうせん臆病おくびょう意見、富士の山大名やまだいみょうともある者が、あれしきの者に恐れをなしたといわれては、四りんの国へもの笑い。これよりすぐに、五湖へまいって、からめるこそ、上策じょうさく
「いや小勢とはいいながら、かれはありじんあり勇ある者ども。平野のいくさはあやうし、あやうし」
「くどい、拙者せっしゃはどこまでもってでる」
「だまれとどろき、まだ衆議しゅうぎも決せぬうちに、僭越千万せんえつせんばんな」
 両名の争論につづいて、一とうの意見も二派ふたはにわかれ、座中なんとなく騒然としてきたころ――
 これまた何たる皮肉ひにく! 空から中庭のまん中へ、ズシーンとばかり飛び降りてきた、雷獣らいじゅうのような一個の奇童きどうがある。


「や!」
「あッ」
「なにやつ?」
 あまりのことに一同は、しばらくいた口もふさがらず、ヒョッコリ庭先にたった、面妖めんような子供をみつめるのみ。子供とはいうまでもない竹童ちくどうで、人見知りもせず、ニヤリと白い歯を見せた。
「やア、この人穴ひとあなには、ずいぶんおさむらいが大勢いるんだなあ。おじさんたちは、いったいそこでなにをしているんだい」
「バカッ」
 いきなり革足袋かわたびのままとびおりた轟又八とどろきまたはち竹童ちくどうえりがみをおさえて、
「こらッ、きさまは、どこの炭焼すみやきの餓鬼がきだ、またどこのすきまからこんなところへしのびこんでまいった」
「しのびこんでなんかきやしないよ、アア苦しいや、苦しいよ、おじさん……」
「ふざけたことをぬかせ、しのびこまずにこらるべきところではない」
「だっておいらは空からおりてきたんだもの、空はいきぬけだから、ツイきてしまったんだよ」
「なに、空から? ――」
 人々は思わず、物騒ぶっそうらしい顔を空にむけた。
 そして、再び奇怪なる少年の姿を見なおし、こいつ天狗てんぐ化身けしんではあるまいかと、したをまいた。はるかにながめた、呂宋兵衛るそんべえは、
「これこれ又八またはち、とにかくふしぎなわっぱ、おれが素性すじょうをただしてみるから、これへ引きずってこい」
「はッ」と、又八は、かるがると竹童をひッつるして席へあがり、呂宋兵衛のまえへかれをほうりだした。
 なみいる人々は、鬼のごとき武骨者ぶこつものばかりで、あたりは大伽藍だいがらんのような暗殿あんでんである。大人おとなにせよ、この場合、生きたる心地はなかるべきだが、竹童ちくどうはケロリとして、
「ヤ、呂宋兵衛るそんべえ混血児あいのこだ。京都の南蛮寺なんばんじにいるバテレンとそっくり……」
 口にはださないがめずらしそうに目をみはったので、呂宋兵衛は、
小僧こぞうッ」とにらんで、一かつあびせた。
「なんだい、おいらにゃ、竹童っていう名があるんだよ」
「だまれ、さっするところそのほうは、伊那丸いなまるからはなされた隠密おんみつにちがいない、思うに、屋根の上にいて、ただいまの評定ひょうじょうをぬすみ聞きしたのであろう」
「知らない知らない。おいらそんなことを知ってるもんか」
「いいや、なんじの眼光、樵夫きこり炭焼すみやきの小僧でないことはあきらかだ。いったい何者にたのまれてここへまいった。首の飛ばないうちにいってしまえ!」
「おいらが隠密なら、おじさんたちに、すがたなど見せるものか、おいらは、天道てんとうさまのまえだろうが、どこだろうが、ちっともうしろ暗いところがないから、平気さ」
「うーム、まったくそれにそういないか」
「アア。そこになるとおじさんたちはかわいそうだね、もぐらみたいに明るいところをいばって歩けない商売だから、おいらみたいな、ちびが一ぴきとびこんでも、その通りびくびくする」
 不敵な竹童ちくどうつらがまえを、じッとみつめていた呂宋兵衛るそんべえは、ことばの糺問きゅうもん無益むえきと知って、口をつぐみ、黙然もくねんと右手の人さし指をむけ、天井てんじょうから竹童の頭の上へ線をかいた。
「おや」
 と竹童が、なにやらさわるものに手をやると、上より一すじ絹糸きぬいとのようなものがたれ、えりくびから手にはいまわってきたのは一ぴきの金蜘蛛きんぐもだった。
 キャッというかと思えば、竹童はニッコリ笑っていきなり、蜘蛛をわしづかみにし、あんぐり口のなかへほおばって、ムシャムシャみつぶしてしまったようす。
「む、む……」と、呂宋兵衛はいよいよゆだんのない目で、かれの一きょ一動をみまもっていると、竹童はくちびるをつぼめて、みためていたなかのものを、
「プッ――」と呂宋兵衛の顔を目がけて吹きつけた。
 ――その口からとびだしたのは、きたないかみつぶしではなくて、美しい一毒蝶どくちょう、ヒラヒラと毒粉どくふんを散らした。
「エイッ」
 呂宋兵衛がおうぎをもって打ちおとせば、ちょう死骸しがいはまえからそこにあった一ぺんの白紙に返っている。
「わかった、きさまは鞍馬山くらまやま果心居士かしんこじ弟子でしだな」
「だから、竹童という名があるといったじゃないか」
「さてこそ、ものにおどろかぬはず、しかし有名なる果心居士かしんこじ弟子でしが、富士ふじ殿堂でんどうと知らずに、くるわけがない、なんのご用か、あらためて聞こうではないか」
「ムム、そう尋常じんじょうにおっしゃるなら、わたくしもお師匠ししょうさまから受けたお使いのしだいをすなおに話しましょう」
「では、果心先生から、この呂宋兵衛るそんべえへのお使いでござるか」
「そうです。さて、お師匠さまのお伝えというのは、きょうなにげなく鞍馬くらまから富士のあたりをみましたところ、いちまつの殺気さっきが立ちのぼって、ただならぬ戦雲のきざしが歴々れきれきとござりました。あらふしぎ、いま天下信長公のぶながこうきのちは、西に秀吉ひでよし、東に徳川とくがわ北条ほうじょう北国ほっこく柴田しばた滝川たきがわ佐々さっさ、前田のともがらあって、たがいに、中原ちゅうげんねらうといえども、いずれもまんしてはなたぬ今日こんにち、そも何者がうごくのであろうかと、ご承知しょうちでもござりましょうが、先生、ご秘蔵ひぞう亀卜きぼくをカラリと投げてうらなわれました」
「オオ」
 呂宋兵衛はもとより、なみいる猛者もさどもも、この奇童きどうのよどみなきべんによわされてしわぶきすらたてず、ひろき殿堂は、人なきようにシーンと静まりかえってしまった。


 竹童ちくどうは、ここでいささか得意気とくいげに、ちいさな体をちょこなんとかしこまらせ、両肱りょうひじをはって、ことばをつぐ。
「お師匠ししょうさまがつらつら亀卜きぼく卦面かめんを案じまするに、すなわち、――富岳フガク鳳雛ホウスウマレ、五狂風キョウフウショウジ、喬木キョウボクアクツミイダイテライカル――とござりましたそうです」
「なになに? 喬木きょうぼくらいかるとえきにでたか」
 呂宋兵衛るそんべえの顔色土のごとく変るのを見て、竹童ちくどうは手をふりながら、
「おどろいてはいけません、それは穴山梅雪あなやまばいせつの身の上でした。ところで、うらをかえして見ますると、つまり裏の参伍綜錯さんごそうさくして六十四変化へんかをあらわします。これによって結果を考えましたところ、今夕こんせきとり下刻げこくからの刻のあいだに、昼よりましたおそろしい大血戦が裾野すそののどこかで起るということがわかりました」
「むウ、それはあたっていた。して、勝負の結果は」
「さればでござります。にわかにわたくしがわしにのってまいったのもそのため、残念ながらあなたのいのちは、こよいいぬいの星がおつるとともに、きかずに入り、腹心のかたがたもなかば以上は、あえない最期さいごをとげることとなるそうでござります。これを、層雲そううんくずれの凶兆きょうちょうともうしまして、暦数れきすうの運命、ぜひないことだと、お師匠さまも吐息といきをおもらしなさいました」
「えッ、なんといった。しからば呂宋兵衛のいのちは、こよいかぎり腹心のものも大半はほろぶとな?」
「そうおっしゃったことはおっしゃいましたが、ここに一つ、たすかる秘法ひほうがあるのです。お師匠ししょうさまは、わたくしにその秘法ひほうをさずけ、あなたに会って、あることと交換こうかんにして教えてこい、だが、呂宋兵衛るそんべえはずるいやつゆえ、もしも、こっちできくことをちゃんと答えなかったら、なんにもいわずに逃げてこい――といいつかってまいりました」
「待てまて、たずねることがあらば、なんでも答えるほどに、その層雲そううんくずれの凶兆きょうちょうふうじる秘法をおしえてくれ」
「ですから、まずわたくしのほうのたずねることからお答えくださいまし」
「よし、なんでも問うてみるがいい」
「ではおききもうします」
 と、竹童ちくどうはやおらひとひざのりだし、
「湖水のそこに沈めてありました石櫃いしびつをあげて、なかにあった御旗みはた楯無たてなし宝物ほうもつをすりかえたのはたしかにあなた――これはお師匠さまも遠知のじゅつでわかっております。されどその宝物を、あなたはだれにわたしましたか、または、この山寨さんさいのうちにあるのですか。ききたいのはつまりそのこと一つです」
 呂宋兵衛は、心中すくなからずおどろいた。果心居士かしんこじといえば、京で有名な奇道士きどうしだが、まさか、これまでに自分のしたことを知っていようとは思わなかった。それほどの道士なれば、竹童のことばもほんとうにそういないだろうし、ひそかに湖水からすりかえてうばった宝物は、いまでは手もとにないのだから打ち明けたところで、こっちに損得そんとくはない――と思った。
「そんなことならたやすいこと、いかにもあきらかに答えてやろう。だが……」
 と呂宋兵衛るそんべえ武士さむらいだまりの者へ、チラとめくばせをすると、バラバラと立ちあがったふたりのあらくれ武士が、いきなりムンズと竹童ちくどうの左右から両腕りょううでをねじ押さえた。
「ア、おじさんたちはおいらをどうするんだい!」
「いやおこるな、竹童。こっちのいうことだけ聞いて逃げられぬ用心。そうしていても耳はきこえようからよく聞けよ。御旗みはた楯無たてなし宝物ほうもつは、ここにいるとどろき又八に京へ持たせて、いまはぶりも金まわりもよい羽柴秀吉はしばひでよし金子きんすがんで売りとばした。それゆえ、いまの持主もちぬし秀吉ひでよし、この山寨さんさいには置いてない。さ、このうえは果心かしん先生からおさずけの秘法ひほうをうけたまわろう」
「たしかにわかりました。では先生の秘法ひほうをおさずけもうします。そもそも層雲そううんくずれの大難だいなんは、どんな名将でものがれることのできぬものでござりますが、その難をさけるには、まず夜のとりからのあいだに、四里四方けがれのない平野へでて、ふだんのまもり神をおがみ、だんをきずいて霊峰れいほうの水をささげます。――次に、おのれの生年月日をしたためて、人形にんぎょうの紙をみ神光あかしで焼くこと七たび、かくして、十ぽう満天まんてんの星をいのりますれば、兇難きょうなんたちどころに吉兆きっちょうをあらわして、どんな大敵にいましょうとも、けっしておくれをとるということがありません」
 呂宋兵衛は、怪力かいりきもあり幻術げんじゅつにもちょうじているが、異邦人いほうじんの血のまじっている証拠しょうこには、戦いというものに対して、すこぶる考えがちがう。それに修道者イルマンでもあっただけに、迷信めいしんにとらわれやすかった。
 つまりかれがもっているいちばんの弱点に、うまうまとじょうじられた呂宋兵衛るそんべえは、まったく竹童ちくどうげん惑酔わくすいして穴山あなやま残党ざんとうがなんといおうと、とどろき昌仙しょうせんのやからがうたがわしげに反省をもとめても、がんとしてきかず、秘法の星まつりを行うべく、手下の野武士のぶし厳命げんめいした。
 ために、軍議はしぜんと、夜に入って四里四方けがれなき平野に、その式をすましたうえ、出陣ときまってしまった。
 その用意のものものしいさわぎのなかで、有卦うけっていたのは竹童ちくどうだ。別間べつまでたくさんな馳走ちそうをされ、鞍馬くらまでは食べつけない珍味の数々を、はしあごのつづくかぎりたらふくつめこみ、さて、例の棒切ぼうきれ一本さげて、飄然ひょうぜんとここをしてかえる。
 さしも、はげしかった昼の雷雨に、乱雲のかげは、落日とともにみぬいていた。西の甲武こうぶ連山はあかねにそまり、東相豆そうずの海は無限の紺碧こんぺきをなして、天地はくれないこんと、光明とうすやみの二色に分けられ、そのさかいに巍然ぎぜんとそびえているのは、富士ふじ白妙しろたえ
 ――すると、この夕方を、人穴ひとあなから上へ上へとはいあがっていく豆つぶ大の人影が見えた。それはどうも竹童らしい。見るまに、二ごうの下あたりからわしにのって、おともなく五のほうへとび去った。

銀河ぎんがづくり




 富士の二ごうをはなれ、いっきに、五湖の水明かりをのぞんで飛行していた竹童ちくどうは、夜の空から小手こてをかざして、しきりに、下界げかいにある伊那丸主従いなまるしゅじゅうのいどころをさがしている。
「オオ暗い、暗い、暗い。天もまッ暗、地もまッ暗。これじゃいったいどこへりていいんだか、お月さまでもでてくれなきゃア、けんとうがつきあしない」
 大空で迷子星まいごぼしになった竹童は、例の、寝るまもはなさぬ棒切ぼうきれを右手めてにもち、左の手を目のはたへかざして、わしの上から、
「オオーイ、オオーイ」と、とうとう声をはりあげて呼びだした。
 しかし、竹童の声ぐらいは、竹童じしんが乗っている鷲の羽風はかぜしとばされてしまった。そのかわり、人ではないが、はるかな地上にあたって、馬のいななくのが高く聞えた。
「おや、馬のやつが返辞へんじをしたぞ」
 と、つぶやいたが、その竹童のかんがえはちがっている。動物は動物にたいして敏感であるから、いま、下のほうでいなないた馬は、ここにさしかかってきた闇夜あんや飛行の怪物の影に、おどろいたものにそういない。
 けれど竹童ちくどうは、馬が答えたものと信じて、いきなり、棒切れをピューッと下へふった。と、クロはたちまち身をさかしまにして、ツツツツ――とおとしにりていく。
「あ、ここはどこかのお宮の庭だな……」
 わしからおりて、しばらくそのあたりをあるいていた竹童は、やがて、拝殿はいでんからもれるほのあかりをみとめ、そッとしのびよってみると、たしかに六、七人のささやき声がする。
「いた!」かれは思わず叫んで、
「おじさん! おじさんたち」
 呼ぶ声と一しょに、拝殿のなかにいた者は、どやどやと、それへでてきて、七つの人影をあらわした。
「何者じゃッ」と竹童をねめつけた。
「おいらだよ、鞍馬山くらまやまの竹童だよ」
「おお、竹童か」
 ほとんど、そのなかの半分以上の者が、口をあわしてこういった。木隠龍太郎こがくれりゅうたろうも、忍剣にんけんも、民部みんぶ蔦之助つたのすけ小文治こぶんじも竹童にとればみな友だちだ。
 ただ、床几しょうぎにかけて、かれを見おろしていた伊那丸いなまるだけが、すこしせないようすである。
龍太郎りゅうたろう。そちたちはこのわらべをよう知っているようじゃが、いったいどこのものであるの」
「さきほどお話しもうしあげました、果心居士かしんこじ童弟子わらべでしでござります」
「おおあれか」
 伊那丸はニッコリして竹童ちくどうを見なおした。竹童もニヤリと笑って、ともするとなれなれしく、じぶんの友だちにしてしまいそうだ。
「これ竹童、伊那丸君いなまるぎみのおんまえ、つッ立っていてはならぬ、すわれすわれ」
「いや、そうしからぬがよい、鞍馬くらまおくでそだった者じゃ、その天真爛漫てんしんらんまんがかえって美しい。したが、おまえはここへ、何用があってきたのか」
「はい」竹童はかしこまって、
「お師匠ししょうさまのおいいつけでござります」
「なに、果心かしん先生からここへお使いに?」
「さようでござります。みなさまは、きょう穴山梅雪あなやまばいせつをおちになって、さだめしホッとなされたでござりましょうが、勝ってかぶとをしめよ、ここでごゆだんをなされては大へんでござります」
「む、伊那丸はけっしてゆだんはしておらぬぞよ」
「では、湖水の底から引きあげた石櫃いしびつふたをとって、なかをあらためてごらんになりましたか」
「いや、ほかのところへかくしたものとちがって、湖底へ沈めておいた石櫃、あらためるまでもない」
「ところが、お師匠ししょうさまの遠知の術では、どうも、石櫃のなかの宝物ほうもつにうたがいがあるとおっしゃいました。それゆえ、にわかにお師匠さまにいいふくめられて、この竹童ちくどうが、わしつばさのつづくかぎり、とびまわったのでござります。どうぞみなさま、いっこくもはやく、石櫃をおあらためくださいまし」
「さては、それが伊那丸いなまるのゆだんであったかもしれぬ。忍剣にんけん、忍剣、ともあれ石櫃をここへ。また、小文治こぶんじと龍太郎は、あるかぎりのかがり火をあたりにたき立ててください」
「はッ」
 席を立った者たちが三つあしのかがり火を、左右五、六ヵ所へ炎々えんえんと燃したてるまに、忍剣は、さきに梅雪ばいせつ郎党ろうどうたちが、湖底から引きあげておいた石櫃をかかえてきて、やおら、伊那丸のまえにすえた。
「こう見たところでは、ふた合口あいくち異状いじょうはないが」
青苔あおごけがいちめんについているさまともうし、一ども人の手にふれたらしい点はみえませぬ」
「とにかく、ふたをはらってみい」
心得こころえました」
 と忍剣にんけんは立ちあがって、グイと法衣ころもそでをたくしあげ厳重な石のふたをポンとはねのけてみた。


「や、やッ」まず忍剣がきもをつぶした。
「どういたした。なんぞ変りがあったか」
 伊那丸いなまるもおもわず床几しょうぎから腰をうかした。
「ちぇっ。これごらんなさりませ」
 と、くやしそうに忍剣が石櫃を引っくりかえすと、なかからごろごろところがりだしたのは、御旗みはた楯無たてなし宝物ほうもつに、ても似つかぬただの石ころ。
「むウ……」
 伊那丸は顔いろをうしなった。それはむりではない、武田家重代たけだけじゅうだいの軍宝――ことに父の勝頼かつよりが、天目山てんもくざん最期さいごの場所から、かれの手に送りつたえてきたほど大せつなしな
 それがない!
 ないですもうか。
 御旗楯無の宝物は、武田家の三種の神器じんぎだ。これを失っては、甲斐源氏かいげんじ家系かけいはなんの権威けんいもなくなってしまう。伊那丸いなまるをはじめ他の六人まで、ひとしくここに、色をうしなったも当然である。
「アア、やっぱり、おいらの先生はえらい――」
 そのとき、たんずるようにいったのは竹童ちくどうだった。
「ああ、どこまで武田家は衰亡すいぼうするのであろうか……」
 とたんじあわして、伊那丸もつぶやく。
「大じょうぶだよ」竹童は棒切ぼうきれをつえにしてふいにつっ立ち、気の毒そうに伊那丸のおもてを見あげた。
「大じょうぶだ大じょうぶだ。そのなかの物がなくなっても、ぬすんだやつはわかってるから……おいらがちゃんとかぎつけてきてあるから――」
「なに! ではおまえがその者を知っているか」
「ああ知っている。そいつは、人穴ひとあなの殿堂にいる和田呂宋兵衛わだるそんべえという悪いやつだよ。そして、ぬすんだ宝物ほうもつは、手下を京都へやって、羽柴秀吉はしばひでよしに売ってしまったんだ――これはきょうおいらが呂宋兵衛と問答して、かまをかけてきいてきたんだからまちがいのないことなんだ」
「えッ、では御旗みはた楯無たてなしをぬすんだやつも、あの人穴ひとあなの呂宋兵衛か……」
 と、伊那丸が意外そうなひとみ咲耶子さくやこに向けると、彼女も、思いがけぬことのように、
「わたしにとれば父をころした悪人。伊那丸さまにはおいえぞく、八つざきにしてもあきたりない悪党あくとうでござります」
 と、やさしいまゆにもうらみが立った。
 伊那丸いなまる床几しょうぎをはなれ、そしてうごかぬ決意を語気にしめしていった。
「みなのもの、わしはこれからすぐ人穴ひとあなの殿堂へけいり、呂宋兵衛るそんべえの首を剣頭にかけて、祖先におわびをいたすつもりだ。一つには、恩義のある咲耶子さくやこへの助太刀すけだち、われと思わんものはつづけ、御旗みはた楯無たてなしをうしなって、武田たけだの家なく、武田の家なくして、この伊那丸はないぞ!」
「お勇ましいおことば、われわれとて、どこまでもきみのおともいたさずにはおりませぬ」
 山県蔦之助やまがたつたのすけ忍剣にんけん龍太郎りゅうたろう小文治こぶんじなどの、たのもしげな勇士たちは、声をそろえてそういった。
「おう、わたしを入れてここに七の勇士がある。咲耶子も心づよく思うがよい、きっとこよいのうちに、きゃつの首を、このつるぎッ先にさしてみせよう。忍剣、馬を馬を!」
「はッ」
 バラバラと樹立こだちへはいった忍剣は、梅雪ばいせつとうが乗りすてたこまのなかから、逸物いちもつをよって、チャリン、チャリン、チャリン、と轡金具くつわかなぐの音をひびかせて、伊那丸のまえまで手綱たづなをとってくると、いままで黙然もくねんとしていた小幡民部こばたみんぶが、
「しばらく――」と、駒をおさえてをさげた。


「なんじゃ、民部みんぶ
「おいかりにかられて、これより人穴ひとあなの殿堂へかけ入ろうというおぼしは、ごもっともではござりますが、民部はたってお引きとめもうさねばなりませぬ」
「なぜ?」伊那丸いなまるはめずらしくにがい色をあらわした。
「けっして、かれをおそれるわけではありませぬが、音にきこえた天嶮てんけん野武士城のぶしじょう、いかに七の勇があっても攻めて落ちるはずのものとは思われませぬ」
「だまれ、わしも信玄しんげんまごじゃ! 勝頼かつよりの次男じゃ! 野武士のよる山城ぐらいが、なにものぞ」
 かれにしては、これは稀有けうなほど、激越げきえつなことばであった。民部には、またじゅうぶんな敗数のが見えているか、
「いいや、おことばともおもえませぬ」
 と、つよく首をふって、
「いかに信玄公しんげんこうのお孫であろうと、兵法をやぶって勝つというはありませぬ。なにごとも時節がだいじです。しばらくこの裾野すそのにかくれて呂宋兵衛るそんべえが山をでる日を、おまちあそばすが上策じょうさくとこころえまする」
「そうだ」
 その時、横からふいにことばをはさんだのは竹童ちくどうで、さらに頓狂とんきょうな声をあげてこうさけんだ。
「そうだ! おいらもうっかりしていたが、そいつは今夜きっと山をでるよ、うそじゃない、きっと山をでる! 山をでる!」
「竹童、それはほんとうか」
 民部みんぶは、目をかれにうつした。
「うそなんかおいら大きらいだ、まったくの話をするとお師匠ししょうさまが呂宋兵衛るそんべえに、おまえのいのちはこよいのうちにあぶないぞっておどかしたんだよ。おいらはその使いになって、今夜こく(十一時から一時)のころに、裾野すその四里四方人気ひとけのないところへでて、層雲そううんくずれの祈祷きとうをすれば助かると、いいかげんなことを教えてきてあるんだけれど、それも、いま考えあわせてみると、みんなお師匠さまがさきのさきまでを見ぬいた計略けいりゃくで、わざとおいらにそういわせたにちがいない」
 おどろくべき果心居士かしんこじ神機妙算しんきみょうさん、さすがの民部もそれまでにことが運んでいようとは気がつかなかった。
 こくてんまでには、まだだいぶあいだがある。伊那丸いなまるは一同にむかい、それまではここにあって、じゅうぶんに体をやすめ、英気をやしなっておくように厳命した。
 竹童は勇躍ゆうやくして、
「それでは夜中になると、まためざましい戦いがはじまるな。おいらもいまからしっかり英気をやしなっておくことだ……」
 と、クロをだいて、お堂のはしへゴロリと寝てしまった。
 と、かれは横になるかならないうちに、
「おや、ふえが鳴ったぞ」
 と頭をもたげてキョロキョロあたりを見まわした。見ると、咲耶子さくやこがただひとり、社前しゃぜん大楠おおくすのき切株きりかぶにつっ立ち、例の横笛を口にあてて、もさわやかに吹いているのだった。
 竹童は初めのうち、なんのためにするのかとうたがっていたらしいが、まもなく、笛の裾野すそのやみへひろがっていくと、あなたこなたから、ムクムクと姿をあらわしてきた野武士のぶしのかげ。それがたちまち、七十人あまりにもなって、咲耶子のまえに整列したのにはびっくりしてしまった。
 咲耶子は、あつまった野武士たちに、なにかいいわたした。そしてしずかに伊那丸いなまるの前へきて、
「この者たちは、いずれも父の小角しょうかくにつかえていた野武士でござりますが、きょうまで、わたくしとともにこの裾野へかくれ、折があれば呂宋兵衛るそんべえをうってあだをむくいようとしていた忠義者ちゅうぎものでござります。どうかこよいからは、わたくしともどもに、お味方にくわえてくださりますよう」
 伊那丸はまんぞくそうにうなずいた。
 時にとって、ここに七十人の兵があるとないとでは、小幡民部こばたみんぶ軍配ぐんばいのうえにおいても、たいへんなちがいであった。
 ましてや、いまここに集められたほどの者は、みなへいぜいから、咲耶子さくやこ胡蝶こちょうの陣に、りにねり、きたえにきたえられた精鋭せいえいぞろい。
 かくて一同は、敵の目をふさぐ用意に、ばたばたとかがり火を消し、太刀のをひそませ、づくり、やいばのしらべはいうまでもなく、馬に草をもって、時刻のいたるをまちわびている。
 待つほどにくるほどに、夜はやがて三こう玲瓏れいろうとさえかえった空には、微小星びしょうせいの一粒までのこりなくぎすまされ、ただ見る、三千じょう銀河ぎんがが、ななめに夜の富士ふじを越えて見える。
「グウー、グウ、グウーグウ……」
 そのなかで、竹童ちくどうばかりが、わしつばさをはねぶとんにして、さもいい気もちそうに、いびきをかいて寝こんでいた。

魔人隠形まじんおんぎょういん




 まさに、夜はこくの一てん
 人穴ひとあな殿堂でんどうをまもる、三つの洞門どうもんが、ギギーイとあいた。
 と、そのなかから、焔々えんえんと燃えつつながれだしてきたのは、半町はんちょうもつづくまっ赤なほのおの行列。無数の松明たいまつ。その影にうごめく、野武士のぶし、馬、やり、十、旗、すべて血のようにまって見えた。
 なかでも、一じょうあまりな白木しらきの十字架は、八人の手下にゆらゆらとささえられ、すぐそばに呂宋兵衛るそんべえが、南蛮錦なんばんにしき陣羽織じんばおりに身をつつみ、白馬はくばにまたがり、十二鉄騎てっきにまもられながら、妖々ようようと、裾野すそのつゆをはらっていく。
 すすむこと二、三、ひろい平野のまン中へでた。呂宋兵衛は馬からひらりとり、二、三百人の野武士を指揮しきして、見るまにそこへだんをきずかせ、十字架を立て、かがり火をいて、いのりのしたくをととのえさせた。
念珠コンタツ念珠コンタツを、これへ――」
 呂宋兵衛は、まえにもいったとおり、南蛮なんばん混血児あいのこでキリシタンの妖法ようほうしゅうする者であるから、層雲そううんくずれの祈祷きとうも、じぶんが信じる異邦いほうの式でゆくつもりらしい。
 手下の者から、念珠コンタツをうけとったかれは、それをくびへかけ、胸へ、白金はっきんの十字架をたらして、しずしずとだんの前へすすんだ。
 護衛ごえいする野武士たちは、しわぶきもせず、いっせいにやりさきを立てならべた。なかにはきょう味方についた穴山あなやま残党ざんとう足助主水正あすけもんどのしょう佐分利さぶり五郎次、その他の者もここにまじっている。
 だんにむかって、七つの赤蝋せきろうをともし、金明水きんめいすい銀明水ぎんめいすい浄水じょうすいをささげて、そこにぬかずいた呂宋兵衛るそんべえは、なにかわけのわからぬいのりのことばをつぶやきながら、いっしんに空の星をいのりだした。
 すると、どこからともなく、ザッ、ザッ、ザッ、ザッと草をなでてくるような風音かざおと。つづいて、地を打ってくる馬蹄ばていのひびき。
「や!」かれはぎょっと、頭をあげて、
「あの物音は? あのひびきは? おお馬だッ、人声だ。ゆだんするな!」
 さけぶまもなく、ピュッ、ピュッと、風をきってくるあられのような征矢そや。――早くも、四面のやみからワワーッという喊声かんせいが聞えだした。
「さては武田伊那丸たけだいなまるがきたか」
「いやいや咲耶子さくやこが仕返しにまいったのだろう」
「うろたえていずとかがり火を消せ、はやく松明たいまつをすててしまえ、敵方の目じるしになるぞ」
 あたりはたちまち暗瞑あんめい地獄じごく
 ただ、燃えいぶった煙と、ののしる声と、太刀ややりの音ばかりが、ものすごくましていった。
 もう、どこかでりあいがはじまったらしい。
 星明かりをすかしてみると、敵か味方か入りみだれてよくわからないが、白馬はくば黒鹿毛くろかげをかけまわしている七人の影は、たしかにせてきた七勇士。それに斬りまわされて、呂宋兵衛の手下どもは、
「だめだ、足を斬られた」
「敵はあんがいてごわいぞ。もう大変な手負ておいがでた」
「殿堂へ逃げろ!」
人穴ひとあなへ引きあげろ!」
 と声をなだれあわせて、思いおもいな草の細径ほそみち蜘蛛くもの子のちるように逃げくずれた。
 それらの、雑兵ぞうひょうや手下には目もくれず、さきほどから馬上りんりんとかけまわっていた伊那丸いなまるは、
咲耶子さくやこはいずれにある。咲耶子、咲耶子」
 と、しきりに呼びつづけていた。
「おお伊那丸さま、わたくしはここでござります」
 近よってきた白鹿毛しろかげの上には、かいがいしい装束いでたちをした彼女のすがたが、細身の薙刀なぎなた小脇こわきに持って、にっことしていた。
「咲耶子、呂宋兵衛めは、いずれへ姿をかくしたのであろう。忍剣にんけん龍太郎りゅうたろうも、いまだにったと声をあげぬが」
「わたくしも、余の者には目もくれず、八ぽうさがしてまわりましたが、影も形も見あたりませぬ。ざんねんながら、どうやら取り逃がしたらしゅうござります」
「いや、民部みんぶがしいた八門の陣、その逃げ口には、伏兵ふくへいがふせてあるゆえ、かならず討ちもらす気づかいはない」
 とふたりが、馬上で語り合っているすぐうしろで、ふいに、悪魔あくま嘲笑ちょうしょうが高くした。
「わ、はッはわはッは……このバカもの!」
「や!」
 ふりかえってみると、人影はなく、星の空にそびえている一の十
「いまの声は、たしかに呂宋兵衛るそんべえ
かいな笑い声、咲耶子さくやこ、心をゆるすまいぞ」
 きッと、十字架をにらんで、ふたりが息を殺したせつなである、一陣の怪風! とたんに、星祭ほしまつりだんに燃えのこっていた赤蝋せきろうが、メラメラと青いほのおに音をさせてあたりを照らした。
 明滅めいめつの一しゅん、十字架のうしろにかくれていたおぼろげなかげは、たしかに怪人、和田呂宋兵衛わだるそんべえ
「おのれッ!」
怨敵おんてき
 敵将のすがたをのあたりに見て、なんのひるみを持とう。伊那丸いなまるは太刀をふりかぶり、咲耶子さくやこ薙刀なぎなたをしごいて八まん! 十の根もとをねらって斬りつけた。
 と――ほとんど同時である。
 伊那丸がたの軍師ぐんし小幡民部こばたみんぶは、無二無三にこまをここへ飛ばしてきながら、
「やあ、待ちたまえ若君わかぎみ。かならずそれへ近よりたもうな。あ、あ、あッ、あぶないッ!」
 と、かれは狂気ばしって絶叫ぜっきょうした。
 が――その注意はすでに間に合わなかった。
 ふたりのえものは、もう、ザクッと十字架のかげを目がけてふりこんでしまった。と見るまに、ああ、そもなんの詭計きけいぞ、足もとから轟然ごうぜんたる怪火の炸裂さくれつ
 ぽかッと、うずをふいた白煙はくえんとともに、宙天ちゅうてんけのぼった火の柱、同時に、バラバラッとあたりへ落ちてきたいちめんの火の雨――それも火か土か肉か血か、ほとんど目をけて見ることもできない。


 すさまじい雷火のほのおが、パッと立ったせつな、ゲラゲラゲラと十字架のかげで大きく笑う声がした。
 怪人呂宋兵衛るそんべえの目である。口である。
 悪魔あくまめん! それがあざわらった。
「あッ――」
 伊那丸いなまるの馬は、ひづめって横飛びにぶったおれた。咲耶子さくやこは、竿立さおだちとなったこまのたてがみにしがみついて、ほのおのまえに悶絶もんぜつした。
 倒れたのは、馬ばかりか、人ばかりか、二しゃくかく白木しらきの十まで、上からッ二つにさけ、余煙よえんのなかへゆら、――と横になりかかってきた。
 雷火らいか炸裂さくれつは、詭計きけいでもなんでもない。怪人かいじん呂宋兵衛るそんべえが、ふところにめておいた一かい強薬ごうやくを、祭壇さいだんに燃えのこっていたろうそくへ投げつけたのだ。
 長崎やさかいあたりで、南蛮人なんばんじんが日本人と争闘そうとうすると、常習じょうしゅうにやるかれらの手口てぐちである。民部みんぶはそれを知っていたので、あわてて駒を飛ばしてきたが、一足ひとあしおそかった、けた十字架が、いましもドスーンと大地へ音をひびかせた時である。
人穴ひとあなぞく。そこうごくなッ!」
 民部は、乗りつけてきた馬のくらから飛びおりるより早く、だんの上につっ立っているかれを目がけて斬りつけた。
「しゃらくさいわッ」
 呂宋兵衛は、民部の第一刀をひッぱずして、いきなり鬼のような手で彼の右手めてをねじあげた。
 もうふところに強薬は持っていないので、まえのような危険はないが、腕と腕、剣と剣の打ちあいでも、民部は呂宋兵衛るそんべえの敵ではない。
「うーむ、この小僧こぞうッ子め」
 酒呑童子しゅてんどうじもかくやの形相ぎょうそうで、大きなくちびるやい歯をかませた呂宋兵衛は、いきなり民部の利腕ききうでをひとふりふって、やッと一せいだんの上から大地へ投げつけた。
「無念」
 一代の軍師ぐんし小幡民部こばたみんぶも、腕の勝負ではいかんともすることができない。はねおきようとすると、はやくも、呂宋兵衛の山のような体がのしかかってきて、グイとのどわをしめつけ、
「おウ、てめえが伊那丸いなまるの腰について、穴山梅雪あなやまばいせつったという小ざかしい小幡民部というやつだな。こりゃいい首にめぐり会った。山荘さんそうへのみやげにしてやる。覚悟かくごをしろ」
 鎧通よろいどおしをひきぬき、逆手さかてにもって、グイと民部の首根くびねにせまった。民部は、そうはさせまいと、下から短剣たんけんをぬき、足をもがき、ここ一ぱつのあらそいとなって、たがいに必死。
 伊那丸いなまる咲耶子さくやこも、みすみすかたわらにありながら、いまの雷火らいかにふかれて、ふたりとも気を失ってしまっている。
「うーむッ」
 もみ合っているふたりのあいだから、おそろしい苦鳴くめいがあがった。さては、民部が首をかき落とされたか、呂宋兵衛るそんべえ脾腹ひばらをえぐられたか、どッちか一つ。


 さきにはね起きたのは、呂宋兵衛であった。
 かれの左の足に、一本の流れ矢がつき刺さっていた。つづいて民部みんぶも飛びおきた。またすさまじい短剣と短剣の斬りあいになる。
「やッ、呂宋兵衛、ここにおったか」
 そのとき、ゆくりなくもきあわせた巽小文治たつみこぶんじが、朱柄あかえやりをしごいて、横から突っこんだ。
「じゃまするなッ」
 ガラリとはらう。さらに突く。
 さらにはらう。またも突きだす。
 この妙槍みょうそうにかかっては、さすがの呂宋兵衛も、弱腰になった。それさえ、大敵と思うところへ、加賀見忍剣かがみにんけん木隠龍太郎こがくれりゅうたろう山県蔦之助やまがたつたのすけの三人が、ここのあやしき物音を知って、いっせいにひづめをあわせて、三方から、野嵐のあらしのごとく馬を飛ばしてくるようす。
「呂宋兵衛、呂宋兵衛、なんじ、いかにもうなりとも、ふくろのなかのねずみどうようだ、時うつればうつるほど、ここは鉄刀てっとう鉄壁てっぺきにかこまれ、そとは八門暗剣の伏兵ふくへいにみちて、のがれる道はなくなるのじゃ、神妙しんみょう観念かんねんしてしまえ」
 小幡民部こばたみんぶがののしると、呂宋兵衛るそんべえはかッとまなこをいからせて、わざとせせら笑った。
「だまれッ。なんじらのようなとうすみとんぼ、百ぴきこようと千びきあつまろうと、この呂宋兵衛の目から見れば子供のいたずらだわ」
舌長したながなやつ、そのいきのねをとめてやるッ」
「なにを」
 と呂宋兵衛は立ちなおって、剣を、鼻ばしらの前へまッすぐ持ち、あたかも、不死身ふじみいんをむすんでいるような形。
 ふしぎや、小文治こぶんじやりも民部の太刀も、その奇妙きみょうかまえを、どうしても破ることができない。ところへ、同時にかけあつまったまえの三人。
 このていを見るより、めいめい、ひらりひらりとくらからおりて、かけよりざま、
「おうッ、巽小文治たつみこぶんじどの、龍太郎りゅうたろう助太刀すけだちもうすぞ」
加賀見忍剣かがみにんけんこれにあり、いで! 目にものみせてくれよう」
 とばかり、呂宋兵衛の前後からおッつつんだ。
 さすがのかれも、ついにあわてだした。そして、一太刀も合わせず、ふいに忍剣のわきをくぐって疾風しっぷうのように逃げだした。
「待てッ」
 すばやくとびかかった龍太郎が、戒刀かいとうッ先するどくぎつけると、呂宋兵衛はふりかえって、右手の鎧通よろいどおしを手裏剣しゅりけんがわりに、
「えいーッ」
 気合きあいとともに投げつけた。
 龍太郎りゅうたろうは身をしずめながら、刀のみねで、ガラリとそれをはらい落とした。
 と、なにごとだろう?
 ピラピラと、魚鱗ぎょりんのような閃光せんこうをえがいて飛んできた鎧通よろいどおしが、龍太郎の太刀たちにあたると同時に、銀粉ぎんぷんのふくろが切れたように、粉々こなごなとくだけ散って、あたりはにわかに、月光ときりにつつまれたかのようになった。
「や、や。あやしい妖気ようき
「きゃつはキリシタンの幻術師げんじゅつし、かたがたもゆだんするな」
「この忍剣にんけんにならって、破邪はじゃのかたちをおとり召されい」
 と、まッさきに忍剣が、大地にからだをピッタリせ、地から上をすかしてみると、いましも、黒い影がするするとあなたへ足をはやめている。
「おのれッ」
 とびついていった忍剣の禅杖ぜんじょうが、力いッぱい、ブーンとうなった。とたんに、一じんの怪風――そして、わッ、と、さけんだのはまぎれもない呂宋兵衛るそんべえである。
 たしかに手ごたえはあったらしいが、かれもさるもの、すばやく隠形おんぎょういんをむすび、縮地飛走しゅくちひそうじゅをとなえるかと見れば、たちまち雷獣らいじゅうのごとく身をおどらせ、おどろく人々の眼界から、一気に二、三町も遠くとびさってしまった。
「あ、あ、あ、あ、あ!」とさすがの忍剣も、龍太郎りゅうたろうもそのゆくえを、ただ見まもるばかり。
 ばたきするまに、二、三町もとんだ呂宋兵衛るそんべえのあとには、うすいにじか、あわいきりのようなものが一すじ尾をひいてのこった。


 いつまで見送って、たがいに歯がみしていたところで及ばぬことと、忍剣にんけんは一同をはげました。そして、そこにたおれている、伊那丸いなまる咲耶子さくやことに、手当てあてを加えた。
 さいわいに、ふたりはさしたる重傷ふかでを受けていたのではなかった。けれど、やがて気がついてから、賊将ぞくしょう、呂宋兵衛をとり逃がしたと知って、無念がったことは、ほかの者より強かった。ことに、伊那丸は父ににて勝気かちきなたち。
「かれらのさくにおちて、おくれをとったときこえては、のちの世まで武門の名おれ。わしはどこまでも、呂宋兵衛のいくところまで追いつめて、かれの首を見ずにはおかぬ。民部みんぶめるなッ」
 いいすてるが早いか、馬のくらつぼをたたいて、まっしぐらに走りだした。と咲耶子も、
「お待ちあそばせや、伊那丸さま。人穴ひとあなの殿堂は、この咲耶子がそらんじている道、踏みやぶる間道かんどうをごあんないいたしましょうぞ」
 手綱たづなをあざやかに、ひらりとこまにおどった武装ぶそうの少女は一鞭ひとむちあてるよと見るまに、これも、伊那丸にかけつづいた。
 ことここにいたっては、思慮しりょぶかい小幡民部こばたみんぶも、もうこれまでである、いちかばちかと、決心して、
加賀見忍剣かがみにんけんどの。木隠龍太郎こがくれりゅうたろうどの」
 と声高らかに呼ばわった。
「おお」
「おおう」
「そこもとたちふたりは、若君の右翼うよく左翼さよくとなり、おのおの二十名ずつの兵をして、おそばをはなれず、ご先途せんどを見とどけられよ、早く早く」
「かしこまッた」
 軍師ぐんしに礼をほどこして、ふたりは馬にむちをくれる。
「つぎに山県蔦之助やまがたつたのすけどの。巽小文治たつみこぶんじどの」
「おう」
「おう」
「ご両所たちは搦手からめての先陣。まず小文治どのは槍組やりぐみ十五名の猛者もさをつれて、人穴ひとあなの殿堂よりながれ落ちている水門口をやぶり、まッ先に洞門どうもんのなかへ斬りこまれよ」
心得こころえた」
 小文治こぶんじ朱柄あかえやりをひッかかえて、十五名の力者りきしゃをひきつれ、人穴をさして、たちまち草がくれていく。
「さて蔦之助つたのすけどの、そこもとは残る十七名の兵をもって、一隊の弓組ゆみぐみをつくり、殿堂をかこい嶮所けんしょに登ってくるわのなかへ矢をこみ、ときにおうじ、変にのぞんで、奇兵きへいとなって討ちこまれい!」
承知しょうちいたしました」
拙者せっしゃは、のこりの者とともに後詰ごづめをなし、若君の旗本、ならびに、総攻めのをうかがって、その時ごとに、おのおのへ合図あいずをもうそう。さらばでござる」
 軍配ぐんばいのてはずを、残りなくいいわたした民部みんぶは、ひとりそこにみとどまり、人穴攻ひとあなぜめの作戦を胸にえがきながら、無月むげつの秋の空をあおいで、
「敗るるも勝つも、小幡民部こばたみんぶの名は、おしくもなき一かい軍配ぐんばいとりじゃ。しかし……しかし伊那丸いなまるさまは大せつな甲斐源氏かいげんじ一粒種ひとつぶだね、あわれ八まん、あわれいくさの神々、力わかき民部の采配さいはいに、無辺むへんのお力をかしたまえ」
 正義の声は、いつにあっても、だれの口からほとばしっても、ほがらかなものである。


 英気をやしなうため、よいのくちに、ほんのちょっと寝ておくつもりだった竹童ちくどうは、いつかはなから提灯ちょうちんをだしてわれにもなく、大いびき。
 このぶんでほっておいたら、かならずや、夜が明けるのも知らずに寝ているにちがいない。
 ところが、好事こうじおおし、せっかくの白河夜船しらかわよふねを、何者とも知れず、ポカーンとっぺたをはりつけて、かれの夢をおどろかさせた者がある。
「あいたッ、アた、た、た、た!」
 ねぼけまなこではねおきた竹童ちくどうは、むちゃくちゃに腹が立ったと見えて、いつにないおこりようだ。
「おいッ、おいらをぶんなぐったのは、いったいどこのどン畜生ちくしょうだ、さアかんべんできない、ここへでろ、おいらの前へでてうせろッ」
 あまり太くもないうでをまくりあげて、そこへしゃちこ張ったのはいいが、竹童、まだなにを寝ぼけているのか、そこにいた人の顔を見ると、急にすくんで、ひざッ子のまえをかきあわせ、ペコペコお辞儀じぎをしはじめたものだ。
「竹童、おまえは大そう強そうにおこるな」
「はい……」
「どうした。おいらの前へでてうせろといばっておったではないか。なぐったわしはここにいる」
「はい、いいえ……」
不埒者ふらちものめがッ」
 なんのこと、あべこべにまたしかられた。
 もっとも、それはべつだんふしぎなことではない。いつのまにか、ここにきていた人間は、竹童ちくどう小太郎山こたろうざんにいることとばかり思っていた、果心居士かしんこじその人だったのだ。
 しかし、いくら飛走の達人たつじんでも、どうして、いつのまにこんなところへきたんだろうと、竹童はじぶんのゆだんをつねって、目ばかりパチパチさせている。
 けれど、なんとしても、このお師匠ししょうさまは人間じゃあない。ほとんど神さま、このおかたに会ってはかなわないから、三どめの大目玉をいただかないうちに、なんでもかでも、こっちからあやまってしまうほうが先手せんてだと、そこは竹童もなかなかずるい。
「お師匠さま。お師匠さま。どうもすみませんでございました。お使い先で、グウグウ寝てしまったのは、まったくこの竹童、悪いやつでございました。どうぞごかんべんなされてくださいまし」
横着おうちゃく和子わこではある。わしのいう叱言こごとを、みんなさきにじぶんからいってしまう」
「いいえ、お師匠さまの叱言よけではございませんが、ひとりでに、じぶんが悪かったと、ピンピン頭へこたえてくるのでございます」
「しかたのないやつ」
 果心居士も竹童の叱言には、いつも途中から苦笑くしょうしてしまった。
「けれど、叱言ではないが――そちも大せつな使者に立った者ではないか。なぜ、伊那丸いなまるさまのご先途せんどまで見とどけてくるか、あるいは、ひとたび小太郎山まで立ち帰ってきて、ようすはこれこれとわしに返辞へんじを聞かせぬのじゃ」
「はい。ですからわたしは、しばらくここに寝こんでいて、夜中にみなさまがここをでる時、ご一しょについていって見ようと思っていたのでござります」
「たわけ者め。そのご一同がどこにいる?」
「えッ」
 竹童ちくどうは始めてあたりを見まわし、
「おや? もうこくが過ぎたのかしら、伊那丸いなまるさまもお見えにならず、忍剣にんけんさまも、……蔦之助つたのすけさまもおかしいなあ、だれもいないや。お師匠ししょうさま、みなさまはもういくさにでておしまいなされたのでしょうか?」
「もう子の刻もとッくにすぎ、裾野すそのいくさも一段落だんらくとなっているわ」
「アアしまった! しまった! すッかり寝こんでなにも知らなかった。お師匠さま、竹童はどうしてこういつまでおろかなのでござりましょう」
「どうじゃ。わしに打たれたのがむりと思うか」
「けっしてごむりとは思いません。これからこんなゆだんをいたしませんように、もっとたくさんおぶちなされてくださいまし」
「よいよい。それほどに気がつけば、本心にこたえたのじゃろう。ところで竹童、また大役があるぞ」
「もうたくさん寝ましたから、どんなむずかしいご用でも、きッとなまけずに勤めまする」
「む、ほかではないが、こよいの計略けいりゃく呂宋兵衛るそんべえ妖術ようじゅつにやぶられ、いままた、伊那丸いなまるさまはじめ、その他の旗本はたもとたちは人穴ひとあなの殿堂さして攻めのぼっていった。しかし、かれには二千の野武士のぶしがあり、幾百の猛者もさ、幾十人の智者ちしゃ軍師ぐんしもいることじゃ。なかなか七十人や八十人の小勢こぜいでおしよせたところで、たやすく嶮所けんしょくるわは落ちまいと思う」
「わたくしもあのなかを見てきましたが、どうしてどうして、おそろしい厳重げんじゅう山荘さんそうでございました」
「それゆえ、力で押さず、智でおとす。しかし、智にたよって勇をうしなってもならぬゆえ、わざと伊那丸さまにはお知らせいたさず、そちにだけ第二の密計みっけいをさずけるのじゃ。竹童ちくどう、耳を……」
「はい」
 とすりよると、果心居士かしんこじ白髯はくぜんにつつまれたくちびるからひそやかに、二言三言ふたことみこと秘策ひさくをささやいた。
 それが、いかにおどろくべきことであったかは、すぐ聞いている竹童の目の玉にあらわれて、あるいは驚嘆きょうたん、あるいは壮感そうかん、あるいは危惧きぐの色となり、せわしなく、ひとみをクルクル廻転させた。
「よいか、竹童!」
 はなれながら、果心居士かしんこじはさいごにいった。
「一心になって、おおせの通りやりまする」
「そのかわり、この大役を首尾しゅびよくすましたら、伊那丸いなまるさまにおねがいして、そちも武士ぶしのひとりに取り立ててさすであろう」
「ありがとうござります。お師匠ししょうさま、さむらいになれば、わたくしでも、刀がさせるのでござりましょうね」
「差せるさ」
「差したい! きッと差してみせるぞ」
 竹童は、その興奮こうふんで立ちあがった。
 しかし、かれのひきうけた大役とはいったいなんだろう。もとより鞍馬山霊くらまさんれいの気をうけたような怪童子かいどうじ、あやぶむことはあるまいが、居士こじ口吻こうふんからさっしても、ことなかなか容易よういではないらしい。

早足はやあし燕作えんさく




 夜もすがら、百八ヵ所できあかしているかがり火のため、人穴城ひとあなじょう殿堂でんどうは、さながら、地獄じごくの祭のように赤い。
 和田呂宋兵衛わだるそんべえたちが、おおきな十をささげて、層雲そううんくずれの祈祷きとうにでていったあとは、腹心の轟又八とどろきまたはち軍奉行いくさぶぎょうかくになって、伊那丸いなまる咲耶子さくやこをうつべき、明日あすの作戦に忙殺ぼうさつされていた。
「東の空がしらみだしたら一番がいせいぞろいの用意とおもえ。富士川が見えだしたら、二番貝で部署ぶしょにつき、三番貝はおれがふく。同時に、八方から裾野すそのへくだって、時刻時刻の合図あいずとともに、遠巻とおまきのをちぢめて、ひとりあまさず討ってとる計略けいりゃく。かならずこの手はずをわすれるなよ」
 一同へ軍令をおわった轟又八は、やや得意ないろで広場にたち、あすの天候を観測かんそくするらしいていで、暗天を見あげていたが、ふと、なにがしゃくにさわったのか、
「ふふん、このやみの晩に、なにが見えるんだ。バカ軍師ぐんしめ、人のせわしさも知らずに、まだあんなところでのんきづらをかまえていやがる」
 上のほうへはきだすようにつぶやき、そのまま、殿堂のもの部屋べやへ隠れてしまった。
 又八をして、ぷんぷんと怒らせたものとは、いったいなんであろうか――と空をあおいで見ると、炎々えんえんとのぼるかがりの煙にいぶされて、高いやぐらがそびえていた。そのてッぺんに、さっきから、ひとりの影が立っている。
 山寨さんさいの軍師、丹羽昌仙にわしょうせんであった。
 とどろき又八がバカ軍師とののしったわけである。昼間ひるまから、攻守両意見にわかれて、反対していたのだ。そこで昌仙しょうせんせんなきこととあきらめたか、呂宋兵衛るそんべえ裾野すそのをでるとすぐ、軍備にはさらにたずさわらず、継子ままこのように、ひとり望楼ぼうろうのいただきへあがって、寂然じゃくねんとたちすくみ、四暗々あんあんたる裾野をにらみつめている。
 かれは、さっさつたる高きところの風に吹かれながら、そも、なにをみつめているのだろうか。
 星こそあれ、無月荒涼むげつこうりょうのやみよ。――おお、はるかにほのおの列が蜿々えんえんとうごいていく。呂宋兵衛らの祈祷きとうの群れだ、火の行動は人の行動。ちりぢりになる時も、かたまる時も、しずかな時も、さわぐ時も、なるほど、ここにあれば手にとるごとくわかる。
 と、なににおどろいたものか、昌仙の顔いろが、サッと変って、ふいに、
「あああ」
 と望楼の柱につかまりながら身をのばした。見れば、はるかかなたの火が、風に吹き散らされたほたるのごとく、さんをみだしてきはじめたのだ。
「むウ」
 思わず重くるしいうめき声。
「しまった! あの竹童ちくどうという小僧こぞう奇策きさくにはかられた。もうおそい――」
 と、かれがもらした痛嘆つうたんのおわるかおわらぬうち、遠きやみにあたって、ズーンと立った一道の火柱ひばしら、それが消えると、一点の微光びこうもあまさず、すべてを暗黒がつつんでしまった。
「それ見ろ! このほうがいったとおりだッ」
 昌仙しょうせんは手をのばして、いきなり天井てんじょうへ飛びつき、そこにたれていたなわはしをグイと引いた。と、――人穴城ひとあなじょうの八方にしかけてある自鳴鉦じめいしょうがいっせいに、ジジジジジジジジッ……とけたたましく鳴り渡る。
 これ、大手おおて一のもん二の門三の門、人穴門ひとあなもん、水門、間道門かんどうもんの四つの口、すべて一時にまもるための手配てはい。いうまでもなく出門しゅつもんは厳禁。無断むだん持場もちばをうごくべからず――の軍師合図ぐんしあいず
 さらに、櫓番やぐらばんへ声をかけて、部下の一人で、もと道中かせぎの町人であった、燕作えんさくという者をよびあげ、かねて用意しておいたらしい一通の密書みっしょをさずけた。
 そして口ぜわしく、
「これを一こくもはやく羽柴秀吉はしばひでよしどのにわたしてこい。ぐずぐずいたしておると、この山寨さんさいから一歩もでられなくなる。すぐいけよ、なんのしたくもしていてはならんぞ」
 と、いいつけた。
 燕作は、野武士のぶしの仲間から、韋駄天いだてんといわれているほど足早あしばやな男。をさげて、昌仙からうけた密書をふところへ深くねじおさめ、
「へい、承知しょうちいたしました。ですが、その秀吉さまは、山崎の合戦かっせんののち、いったいどこのお城におすまいでござりましょうか」
近江おうみ安土あづちか、長浜の城か、あるいは京都にご滞在たいざいか、まずこの三つを目指めざしていけ」
合点がってんです。では――」
 と立って、クルリとむきなおるが早いか、韋駄天いだてんの名にそむかず、飛鳥ひちょうのように望楼ぼうろうをかけおりていった。


 ふいに自鳴鉦じめいしょうを聞いたとどろき又八は、青筋あおすじをかんかんに立てて立腹した。
「こっちで攻めだす用意をしているのに、どこまでもおれにたてをつくふつごうな丹羽昌仙にわしょうせん軍師ぐんしといえどもゆるしておいてはくせになる」
 恐ろしい血相けっそうで、望楼の登り口へかけよってくると、出合であいがしらに、上からゆうゆうと昌仙がおりてきた。
「おお、轟、籠城ろうじょうの用意は手ぬかりなかろうな」
「だまれ。いつ頭領かしらから籠城の用意をしろとおふれがでた。しかも、夜が明けしだいに、裾野すそのへ討ってでるしたくのさいちゅうだわ」
「ならぬ! 呂宋兵衛るそんべえさまから軍配ぐんばいを預っている、この昌仙がさようなことはゆるさぬ。七つの門は一寸たりともあけることまかりならんぞ」
「めくら軍師ッ。かしらの呂宋兵衛さまも帰らぬうち、洞門どうもんめてしまってどうする気だ」
「いまにみよ、祈祷きとうにでたものはちりぢりばらばら、呂宋兵衛るそんべえさまも手傷てきずをうけていのちからがら立ちかえってくるであろうわ」
「ばかばかしい! そんなことがあってたまるものか」
 と又八が大口おおぐちをあいてあざわらっていると、折もおりだ。祈祷の列に加わっていった足助主水正あすけもんどのしょう佐分利さぶり五郎次などが、さんばら髪に、血汐ちしおをあびて逃げかえってきた。
「やア、その姿は――?」
 今もいまとて、強情ごうじょうをはっていた轟又八、目をみはってこうさけぶと、裾野すそのから逃げかえってきた者どもは声をあわせて、
「一大事、一大事。まんまと敵の計略におちいって、頭領かしらのご生死もわからぬような総くずれ――」
 つづいて逃げてきた手下の口から、
伊那丸いなまるじしんが先手せんてとなり、小幡民部こばたみんぶ軍師ぐんしとなって、もうすぐここへ攻めよせてくるけはい」
 と報告された。さらにあいだも待たず、
「あやしいやつが二、三十人ばかり、嶮岨けんそをよじ登って、人穴ひとあなうらへまわったようす」
「前面のあまたけにも、軍兵ぐんぴょうの声がきこえてきた。水門口のそとでも、ときの声があがった――」
 一刻一刻と、矢のような注進。
 そのごうごうたるさわぎのなかへ、風に乗ってきたごとく、こつぜんと走りかえってきた和田呂宋兵衛わだるそんべえは、一同にすがたを見せるよりはやく、
「なにをうろたえまわっているかッ、洞門どうもんをまもれ、水門へ人数をくばれ、バカッ、バカッ、バカッ」
 八ぽうへ狂気のごとくどなりつけた。そのくせ、かれじしんからしてころもはさかれ目は血ばしり、おもては青味あおみをおびて、よほど度を失っているのだからおかしい。
 昌仙しょうせんは、それ見ろ、といわんばかり、
「おさわぎなさるな、頭領かしら大方おおかたこんなこととぞんじて、すでに手配てはいはいたしておきました」
「おお軍師ぐんし。こののちはかならず御身おんみのことばにそむくまい。どうか寄手よせてのやつらを防ぎやぶってくれ」
「ご安堵あんどあれ、北条流ほうじょうりゅう蘊奥うんおうをきわめた丹羽昌仙にわしょうせんが、ここにあるからは、なんの、伊那丸いなまるごときにこの人穴ひとあなを一歩もませることではござらぬ」
 とどろき又八は、いつのまにか、こそこそと雑兵ぞうひょうのなかへ姿をかくしてしまった。


 はやくも、一の洞門にときの声があがる。
 まッ先に攻めつけてきたのは武田伊那丸たけだいなまるであった。要所のあんないは咲耶子さくやこ。すぐあとから、加賀見忍剣かがみにんけん木隠龍太郎こがくれりゅうたろうのふたりが、右翼うよく左翼の力をあわせて、おのおの二十人ほどひきつれ、えいや、えいや、洞門どうもんの前へおしよせてきた。
 いっぽう――人穴ひとあなから、どッと流れおちている水門口へかかった巽小文治たつみこぶんじは、やりぞろい十五名の部下をつれて、水門をぶちこわそうとしたが、頭の上へガラガラと岩や大木を投げつけてくるのになやまされた。のみならず、水門には、頑丈がんじょう鉄柵てつさくが二重になっているうえ、足場あしばのわるい狭隘きょうあい谿谷けいこくである。おまけに、全身水しぶきをあびての苦戦は一通ひととおりでない。
 うら山のけんにのぼって、殿堂へ矢をこもうとした山県蔦之助やまがたつたのすけ以下の弓組も、とちゅう、おもわぬ道ふさぎのさくにはばめられたり、八ぽうわかれの謎道なぞみちにまよわされたりして、やっとたどりついたが、はやくもそれと知った丹羽昌仙にわしょうせんが、望楼ぼうろうのうえから南蛮銃なんばんじゅう筒口つつぐちをそろえて、はげしく火蓋ひぶたを切ってきた。
 丹羽昌仙の北条流ほうじょうりゅう軍配ぐんばいと、二千の野武士のぶしと、この天嶮無双てんけんむそうとりでによった人穴ひとあな賊徒ぞくとらは、こうしてビクともしなかった。
 ついにむなしくその夜は明けた。――二日目もすぎた。三日目にも落とすことができなかった。ああなにせよ小勢こぜい、いかに伊那丸があせっても、しょせん、百人足らずの小勢では洞門ひとつ突き破ることもむずかしそうである。
民部みんぶ、わしはこんどはじめて、いくさの苦しさを知った。あさはかな勇にはやったのがはずかしい。しかし武夫もののふ、このまま退くのは残念じゃ」
 前面の高地、雨ヶ岳を本陣として、ひとまず寄手よせてをひきあげた伊那丸いなまるが、軍師ぐんし小幡民部こばたみんぶとむかい合って、こういったのがちょうど九日目。
「ごもっともでござります」民部も軍扇ぐんせんひざについて、おなじ無念にうつむきながら思わず、
「ああ、ここにもう二、三百の兵さえあれば、さくをかえて、一つの戦略をめぐらすことができるのだが」
 とつぶやくと、伊那丸も同じように、たんをもらして、
「そのむかし、武田菱たけだびしの旗のもとには、百万二百万の軍兵ぐんぴょうまねかずしてあつまったものを」
「また、わが君のおうえにも、かならず輝きの日がまいりましょう。いや、不肖ふしょう民部の身命しんめいしましても、かならずそういたさねば相なりませぬ」
「うれしいぞ民部。けれど、みすみす敵を目のまえにしながら、わずか七、八十人の味方とともにこのありさまでいるようでは……」
 と無念の涙をたたえていると、いままで、うしろに黙然もくねんとしていた木隠龍太郎こがくれりゅうたろうが、なに思ったか、
「伊那丸さま――」
 とすすみだして、
「どうぞそれがしに四日のおいとまをくださいますよう」
 といいだした。
「なに四日の暇をくれともうすか」
「されば、ただいま民部どのが、しいとおっしゃっただけの兵を、かならずその日限にちげんのうちに、若君のおんまえまでしあつめてごらんにいれまする」
「おお龍太郎どの――」
 と民部は、うれしそうな声と顔をひとつにあげて、
「民部、畢生ひっせい軍配ぐんばいのふりどき、ぜひともごはいりょをおねがいもうすぞ」
「しかし、いまの戦国多端たたんのときに、二、三百の兵を四日にあつめてくるのは容易よういでないこと。龍太郎、それはまちがいないことか……」
 伊那丸いなまるは気づかわしそうな顔をした。
 が龍太郎はもう立ちあがって、敢然かんぜんれいをしながら、
「ちと心算しんさんもござりますゆえ、なにごとも拙者せっしゃの胸におまかせをねがいます。ではわが君、民部どの、きょうから四日のちに、三百人の軍兵ぐんぴょうとともにお目にかかるでござりましょう」
 仮屋かりやまくをしぼって、陣をでた木隠龍太郎は、みずから「項羽こうう」と名づけた黒鹿毛くろかげ駿馬しゅんめにまたがり、雨ヶ岳の山麓さんろくから文字もんじに北へむかった。
 すると、かれのすがたを見かけた者であろうか、
「おおうい。おおうい木隠こがくれどの――」
 とびかけてくる者がある。こまをとめてふとふりかえると、本栖湖もとすこのほうから槍組やりぐみ二隊をひきつれてそこへきた巽小文治たつみこぶんじが、せんとうに朱柄あかえの槍をかついで立ち、
「おそろしい勢いで、どこへおいでなさるのじゃ」
 とふしぎそうにかれを見あげた。
「おお小文治こぶんじどのか、拙者せっしゃはにわかに大役をおびて、これから小太郎山こたろうざんへ立ちかえるところだ」
「ふーむ、ではいよいよ人穴攻ひとあなぜめは断念だんねんでござるか」
「どうしてどうして。ほんとうの合戦かっせんはこれから四日目だ。なにしろいそぎの出先でさき、ごめん――」
「おお待ってくれ。いったいなんの用で小太郎山へお帰りさるのじゃ」
 と小文治こぶんじがききかえすまに、駿馬しゅんめ項羽こううのかげは木隠をのせて、疾風しっぷうのごとく遠ざかってしまった。
 難攻不落なんこうふらくの人穴攻めは、こうしてあと四日ののちを待つことになった。しかし、伊那丸いなまるや、忍剣にんけん民部みんぶなどの七将星のほかに、果心居士かしんこじ秘命ひめいをうけている竹童ちくどうは、そもそもこの大事なときを、どこでなにをまごまごしているのだろう。
 いくらのんきな竹童でも、まさか、お師匠ししょうさまの叱言こごとをわすれて、裾野すそのの野うさぎなんかと、すすきのなかでグウグウ昼寝もしていまいが、もういいかげんに、なにかやりだしてもよいじぶん。
 ぐずぐずしていれば、丹羽昌仙にわしょうせん密使みっしが、秀吉ひでよしのところへついて、いかなる番狂ばんくるわせが起ろうも知れず、四日とたてば、木隠こがくれ龍太郎の吉左右きっそうもわかってくる。どっちにしても、ここ二、三日のうちに果心居士かしんこじめいをはたさなければ、こんどこそ竹童、鞍馬山くらまやまからンだされるにきまっている。


 安土あづちの山は焼け山だ。
 安土の城も半分は焼けくずれている。
 岩はあかくかわき、石垣はいぶり、樹木の葉は、みなカラカラ坊主ぼうずになって黒いみきばかりが立っていた。
 その石段を、ぴょい、ぴょい、ぴょい。まるでりすのようなはやさでかけのぼっていったのは、たけがさ道中合羽どうちゅうがっぱをきて旅商人たびあきんどにばけた丹羽昌仙の密使、早足はやあし燕作えんさくだ。
 中途ちゅうとでちょっと小手をかざし、四方をながめまわして、
「ああ変るものだなあ。戦国の世の中ほど、有為転変ういてんぺんのはやいものはない。どうだい、ついこの夏までは、右大臣織田信長うだいじんおだのぶなが居城きょじょうで、この山のみどりのなかには、すばらしい金殿玉楼きんでんぎょくろうが見えてよ、金のしゃちや七じゅうのお天主てんしゅが、日本中をおさえてるようにそびえていた安土城あづちじょうだ。それが、たった一日でこのありさま。おもえば明智光秀あけちみつひでという野郎やろうも、えらい魔火まびをだしやあがったものだなア……」
 燕作えんさくでなくても、ひとたびここに立って、一ちょう幻滅げんめつをはかなみ、本能寺変ほんのうじへんいらいの、天下の狂乱をながめる者は、だれか、惟任日向守これとうひゅうがのかみ大逆たいぎゃくをにくまずにいられようか。
 けれど、その光秀みつひでじしん、悪因悪果あくいんあっか土冠どこう竹槍たけやりにあえない最期さいごをとげてしまった。で、いまではこの安土城あづちじょうのあとへ、信長のぶなが嫡孫ちゃくそん、三法師ぼうしまる清洲きよすからうつされてきて、焼けのこりの本丸ほんまるを修理し、故右大臣家こうだいじんけ跡目あとめをうけついでいる。
 だが、三法師君は、まだきわめて幼少であったため、もっぱら信長の遺業いぎょうを左右し、後見人こうけんにんとなっている者はすなわち、ここ、にわかに大鵬たいほうのかたちをあらわしてきた左少将羽柴秀吉さしょうしょうはしばひでよし。――つまり、早足はやあし燕作えんさくが、はるばる尋ねてきたその人である。
「おっと、見物は帰りみちのこと、なにしろ役目を果さないうちは気が気じゃない……」
 と燕作は、ふたたびかさふちをおさえながら、一さんに石段から石段をかけのぼっていくと、
「こらッ」
 といきなり合羽かっぱえりをつかまれた。
「へ、へい」
 とびっくりしてふりかえると、具足ぐそくをつけたさむらい――いかにも強そうな侍だ。
 やり石突いしづきをトンとついて、
「どこへいく? きさまのような町人がくるところじゃない。もどれッ」
 とにらみつけた。
 すると、くずれの土塀どべいのかげからさらに、りっぱな武将が四、五人の足軽あしがるをつれて見廻りにきたが、このていを見ると、つかつかとよってきて、
才蔵さいぞう、それは何者じゃ」
 とあごでしゃくった。
「ただいま、取り調べているところでござります」
「うむ、お城のご普請中ふしんちゅうをつけこんで、雑多ざったなやつがまぎれこむようすじゃ。びしびしとめつけて白状はくじょうさせい」
 燕作えんさくはおどろいた。
 そのびしびしのこないうちにと、あわてて密書みっしょを取りだし、
「もしもし、わたくしはけっしてあやしい人間じゃあございません。この通り秀吉ひでよしさまへ大事なご書面を持ってまいりましたもの、どうぞよろしくお取次とりつぎをねがいます。へい、これでございます」
「どれ」
 武将は受けとって、と見、こう見、やがて、うなずいてふところに入れてしまった。
「よろしい。帰っても大事ない」
「へい……」
 燕作えんさくはもじもじして、
「ですが、しつれいでございますが、あなたさまはいったい、どなたでござりましょうか、お名まえだけでもうかがっておきませんと、その……」
「それがしは秀吉公ひでよしこうの家臣、福島市松ふくしまいちまつだわ」
「あ、正則まさのりさま」
 と、燕作はとびあがって、
「それなら大安心、これでわたくしのりたというわけ。ではみなさんごめんなさいまし、さようなら」
 いま、ツイそこでおじぎをしていたかと思うまに、もう燕作のすがたは、松のがくれに小さくなって、琵琶湖びわこのほうへスタコラと歩いていた。
「おそろしい足早あしばやな男もあるもの――」
 福島正則は、家来の可児才蔵かにさいぞうと顔をあわせて、しばし、あきれたように竹ノ子がさを見送っていた。

吹針ふきばり蚕婆かいこばばあ




 うえの羽織はおりは、紺地錦こんじにしきへはなやかな桐散きりぢらし、太刀たち黄金こがねづくり、草色のかわたびをはき、茶筌髷ちゃせんまげはむらさきの糸でむすぶ。すべてはでずきな秀吉ひでよしが、いま、その姿すがたを、本丸ほんまるの一室にあらわした。
 そこでかれは、腰へ手をまわし、少しなかを丸くして、しきりにかべをにらんでいる。達磨大師だるまだいしのごとく、いつまでもあきないようすで、一心に壁とむかいあっている。
 めしをかむまもせわしがっているほどの秀吉が、にらみつめている以上、壁もただの壁ではない。たて六尺あまりよこげんのいちめんにわたって、日本全土、群雄割拠ぐんゆうかっきょのありさまを、青、赤、白、黄などで、一もく瞭然りょうぜんにしめした大地図の壁絵。――さきごろ、絵所えどころ工匠こうしょうそうがかりでうつさせたものだ。
「あるある。安土あづちなどよりはぐんとよい地形がある。まず秀吉が住むとなれば、この摂津せっつ大坂おおさかだな……」
 この地図を見ていると、秀吉はいつもむちゅうだ。青も赤も黄色も眼中にない、かれの目にはもう一色ひといろになっているのだ。
「関東には一ヵ所よい場所があるな。しかし、西国さいごく猛者もさどもをおさえるにはちと遠いぞ。――お、これが富士ふじ神州しんしゅうのまン中にくらいしているが、裾野すそのたいから、甲信越こうしんえつさかいにかけて、無人むじんの平野、山地の広さはどうだ。うむ……なかなかぶっそうな場所が多いわ」
 ひとりごとをもらしながら、若いのかじじいなのか、わからぬような顔をちょっとしかめていると、
秀吉ひでよしどの――」
 かるくなかをたたいた人がある。
「おお」
 われに返ってふりむくと、いつのまにきていたのか、それは右少将徳川家康うしょうしょうとくがわいえやすであった。
「だいぶ、ご熱心なていに見うけられまするのう」
「はッはッはははは。いやほんのたいくつまぎれ。それより家康どのには、近ごろめずらしいご登城とじょう
「ひさしく三法師ぼうしぎみにもご拝顔いたしませぬので、ただいまごきげんうかがいをすまして、おいとまをいただいてまいりました。時に、話はちがいまするが、さきごろ、秀吉どのには世にもめずらしいしなをお手にれたそうな」
「はて? なにか茶道具のるいのお話でもござりますかな」
「いやいや。武田家たけだけにつたわる天下の名宝、御旗みはた楯無たてなし二品ふたしなをお手にれたということではござりませぬか」
「あああれでござるか、いや例のこのみのくせで、求めたことは求めましたが、さて、なんに使うということもできないしなで、とんだ背負物しょいものでござる。あはははははは」
 と、秀吉ひでよしは、こともなく笑ってのけたが、家康いえやすにはいたい皮肉ひにくである。穴山梅雪あなやまばいせつに命じて、じぶんの手におさめようとしたしなを、いわば不意に、横からさらわれたような形。
 しかし、秀吉はそんな小さな皮肉のために、黄金おうごん千枚をんで買いもとめたわけでもなく、また決して、御旗みはた楯無たてなし所有慾しょゆうよくにそそられたものでもない。要は和田呂宋兵衛るそんべえという野武士のぶし潜勢力せんせいりょくを買ったのだ。
 清濁せいだくあわせむ、という筆法で、蜂須賀小六はちすかころくの一族をも、そのでんで利用した秀吉が、呂宋兵衛に目をつけたのもとうぜんである。
 かれを手なずけておいて、甲駿三遠こうすんさんえん四ヵ国の大敵、げんに目のまえにいる徳川家康を、絶えずおびやかし、時によれば、背後をつかせ、つねに間諜かんちょうの役目をさせておこう、――というのが秀吉のどん底にある計画だ。
 と、折からそこへ、
右少将うしょうしょうさまにもうしあげます。ただいま、ご家臣の本多ほんださまがお国もとからおこしあそばしました」
 と、ひとりの小侍こざむらいが取りついできた。すると、入れかわりにまたすぐと、べつな侍が両手をつき、
左少将さしょうしょうさま。福島正則ふくしままさのりさまが、ちとご別室で御意ぎょい得たいと先刻せんこくからおまちかねでござります」
 ふたりは、大地図だいちずのまえをはなれて、目礼もくれいをかわした。
「ではまた、後刻ごこくあらためてお目にかかりましょう」
 端厳たんげん麒麟きりんのごとき左少将秀吉さしょうしょうひでよし。風格、鳳凰ほうおうのような右少将家康うしょうしょういえやす。どっちも胸に大野心だいやしんをいだいて、威風いふうあたりをはらい、安土城本丸あづちじょうほんまる大廓おおくるわを右と左とにわかれていった。


野武士のぶしのうちにも人物があるぞ」
 別室にうつって、福島正則ふくしままさのりの手から密書みっしょをうけ取った秀吉ひでよしは、一読して、すぐグルグルとむぞうさにきながら、
丹羽昌仙にわしょうせんというやつ、ちょっと使えるやつじゃ。したがこの手紙の要求などをいれることはまかりならん。ほっとけ、ほっとけ」
信玄しんげんの孫、伊那丸いなまるとやらが、ふたたび、甲斐源氏かいげんじ旗揚はたあげをいたすきざしが見えると、せっかく、かれからもうしてまいったのに、そのままにいたしておいても、大事はござりますまいか」
市松いちまつ、そこが昌仙のぬからぬところじゃ。われからことに援兵えんぺいをださせて、北条ほうじょう徳川とくがわなどの領地りょうちをさわがせ、そのに乗じておのれの野心をとげんとする。――秀吉ひでよしにそんなひまはない、ちちくさい伊那丸ごとき者にほろぼされる者ならほろんでしまえ」
「では、だれか一、二名をつかわして、呂宋兵衛るそんべえのようす、また、武田伊那丸たけだいなまるの形勢などを、さぐらせて見てはいかがでござりましょうか」
「む、それはよいな。――だが、待てよ、家康いえやすの領内をこえていかにゃならぬ。腹心の者はみな顔を知られているし、そうかともうして、凡々ぼんぼん小者こものではなんの役にも立つまいのう」
「それには、屈強くっきょう新参者しんざんものがひとりござります」
「それやだれだ」
可児才蔵かにさいぞうという豪傑ごうけつでござる。わたくしじまんの家来、ちかごろのほりだし者と、ひそかに鼻を高くしておるほどの者でござりまする」
「む、山崎の合戦かっせんこのかた、そちの幕下ばっかとなった評判ひょうばんの才蔵か、おお、あれならよろしかろう」
 正則まさのりは、秀吉ひでよしのまえをさがって、やがて、このむねを可児才蔵にふくませた。
 才蔵は新参者しんざんものの身にすぎた光栄と、いさんでその夜、こっそりと鳥刺とりさ稼業かぎょうの男に変装へんそうした。そしてもち竿ざお一本肩にかけ安土あづちの城をあかつきに抜けて、富岳ふがくの国へ道をいそぐ――
 ずっと後年こうねん――関ヶ原のえきに、剣頭にあげた首のかずを知らず、斬ってはささの枝にさし、斬っては笹にしたところから、「ささ才蔵さいぞう」と一世に武名をうたわれた評判男は、いよいよこれから、武田伊那丸の身辺に近づこうとする変装へんそうの鳥刺し、この可児才蔵であった。
 剣道は卜伝ぼくでんの父塚原土佐守つかはらとさのかみ直弟子じきでし相弟子あいでしの小太郎と同格といわれた腕、やり天性てんせい得意とする可児才蔵かにさいぞうが、それとはもつかぬもち竿ざおをかついで頭巾ずきんそでなしの鳥刺とりさし姿。
「ピピピピッ、……ピョロッ、ピョロ、ピョロ……」
 時々は、吹きたくない鳥呼笛とりよびぶえをふき、たまには、すずめあとをおっかけたりして、東海道の関所せきしょから、関所を、たくみに切りぬけてくるうちに、これはどうだろう、かほどたくみに変装へんそうしたかれを、もうひとりの男が、見えつかくれつ、あとをつけて、したっていく。
 ところが、世の中はゆだんがならない、その男はとちゅうからつけだしたのではなく、じつは、安土あづちの城からくっついてきているのだ。
 同じ日に、浜松から安土あづちへきた家康いえやすの家臣、徳川四天王てんのうのひとり本多忠勝ほんだただかつが、こッそりその男をつけさせた。――というのは、竹ノ子がさ燕作えんさくが、正則まさのり密書みっしょをわたしたようすを、休息所のまどから、とっくりにらんでいたのである。
「はてな?」小首をかしげた忠勝ただかつは、主人家康と面談をすましてから、とものなかにいる菊池半助きくちはんすけという者をひそかによんだ。そしてなにかささやくと、半助はまたどこかへか立ち去った。
 この菊池半助も、前身は伊賀いが野武士のぶしであったが、わけあって徳川家とくがわけに見いだされ、いまでは忍術組にんじゅつぐみ組頭くみがしらをつとめている。いわゆる、徳川時代の名物、伊賀者いがもの元祖がんそは、この菊池半助きくちはんすけと、柘植半之丞つげはんのじょう服部小源太はっとりこげんたの三がらす。そのひとりである半助が、忍術にんじゅつけているのはあたりまえ、あらためてここにいう要がない。したがって偽鳥刺にせとりさしの可児才蔵かにさいぞうの後をつけ、落ちつく先の行動を見とどけるくらいな芸当は、まったく朝飯前あさめしまえの仕事だった。


ピキ ピッピキ トッピキピ
おなかがへッて北山きたやま
いもでもほッてうべえか
芋泥棒いもどろぼうにゃなりたくない
とんびッてうべえか
ヒョロヒョロ泣かれちゃべかねる
そんなら雪でもッておけ
富士の山でもかじりてえ
ピキ ピッピキ トッピキピ
 だれだろう? そも何者だろう? こんなでたらめなまずい歌を、おくめんもなく、大声でどなってくるものは。
 この村には、家はならんでいるが、ほとんど人間はいなくなっているはず。五湖、裾野すその人穴ひとあな、いたる所ではげしい斬り合があったり、流れ矢が飛んできたりしたため、善良な村の人たちは、すわ、また大戦の前駆ぜんくかと、例によって、甲州の奥ふかく逃げこんだ。
 それゆえ、秋の日和ひよりだというのに、にわとりも鳴かず、きねおともせず、あわれにも閑寂かんじゃくをきわめている。いま聞こえたへたくそな歌も、一つはこのせいで、いっそう、頓狂とんきょうにもひびいてきこえる。
「やア、こいつア、こいつアこいつアうまいものがあらあ――」
 こんどは地声じごえで、人なき村のある軒先のきさきに立ち――こういったのは竹童ちくどうである。
 かれが、目の玉をクルクルさせ、よだれをたらして見あげたのは、大きなかきの木であった。上には枝もたわわに、まだ青いのや、赤ずんできた猿柿さるがきが、七にブラさがっている。
「こッちのはしにある赤いやつはうまそうだなあ。取っちゃあ悪いかしら? かまわないかしら……?」
 いつまでも立って考えている。この姿を、果心居士かしんこじが見たら、なんとあきれるだろう。
 口に葉ッぱをくわえているところを見ると、いま、ぶえを吹きながら、へんなでまかせを歌ったのもこの竹童にそういない。いったいこの子は、お師匠ししょうさまからいいつけられている計略けいりゃくなんか、とっくにドコかへ忘れてしまっているのではないかしら、第一きょうはかんじんな、かの昇天雲しょうてんうんであるわしにも乗っていない。
「いいや、いいや。一ツや二ツくらいとってかまうもんか。かきなんか、ひとりでに、地べたからえてるものなんだ。これを取ったッて、泥棒どろぼうなんかになりゃしない」
 勝手かってなりくつをかんがえて、ぴょいと、木へ飛びつくと、これはまたあざやかなもの。なにしろ、本場ほんば鞍馬くらまの山できたえた木のぼり。するッと上がって、一番赤いかきのなっている枝先へ、鳥のようにとまッてしまった。
「べッ、しぶいや」
 びしゃッと下へたたきすてる。
「ありがたい――」
 次のは甘かったと見える。もう口なんかきいていない。さるのようにカリカリ音をさせてほおばり、たねだけを下へはきだしている。
「甘いなあ、これで一しもかかればなお甘いんだ。おいらばかりべているのはもったいない、お師匠ししょうさまにも一つべさせてあげたいな……」
 うに専念せんねん、ことばはブツブツみつぶれた寝言ねごとのようだ。このぶんなら、まだ十や十五はえそうだという顔でいると、どうしたのか竹童ちくどう、時々、チクリ、チクリと、変に顔をしかめだした。
「アいた!」とねばった手でっぺたをおさえた。
 が、またすぐう。
 木を降りるのもおしいようす。と、一口かじりかけると、またチクリ。
「ちぇッ」としたうちしてえりくびをなでた。こんどは大へん、なでた手がチクリと刺された。
「なんだろう、さっきから――」
 そッとさぐってみると、こいつはふしぎ、針だ、キラキラする二すんばかりの女の縫針ぬいばり
「あッ!」
 そのとたんに、竹童はおもわずひじをまげて顔をよけた。まえの萱葺屋根かやぶきやねの家から、るようなするどい目がキラッとこちらへ光った。
りろ、小僧こぞう!」
 見ると、百姓家ひゃくしょうやのやぶれびさしの下から、白い煙がスーッとはいあがっている。そこには、ひとりのおばあさん、あさのようなかみをうしろにたれ、なべや、糸かけを前に、腰をかけて、まゆながら、湯のなかの白い糸をほぐしだしている。


 かきの木から飛びおりた竹童ちくどうは、はじめてそこに人あるのを知って、軒先のきさきに近より、家の中をのぞいてみると、おくには雑多ざった蚕道具かいこどうぐがちらかっており、土間どまのすみのべっついのまえには、ひとりの男がうしろ向きにしゃがんで、スパリ、スパリ、煙草たばこをつけながら火を見ている。
「ごめんよ、あれ、おばあさんとこのかきの木だったのかい?」
 竹童ちくどうまゆなべをのぞきながら、たッた一つおじぎをした。
 ばあさんは、ぎょろッとした目をあげて、
「人みしりをしねえ餓鬼がきだ。なんだって、人んとこの柿をだまってぬすみさらすのじゃい」
「だからあやまってるじゃないか。ああそうそう、おいらも用があってこの村へきたんだっけ。お婆さん、どこかこのへんに、物をあきなっているうちはないかしらなあ」
「でまかせをこけ。この村には、ここともう一けん鍛冶屋かじやよりほかに人はいやしない。そんなことは承知しょうちのうえで、柿泥棒かきどろぼうにきやがったくせにして」
「ほんとだ、おいらまったく買いたい物があってきたんだ。お婆さんとこにあったらゆずってくんないか」
「なんだい」
松明たいまつさ」
「松明?」
「アア、二十本ばかりほしいんだがなあ」
「餓鬼のくせに、松明なんかなんにするだ」
「ちょッといることがあるんだよ。おばあさんのうちに持ちあわせはないかね」
「ねえッ、そんなものは!」
 といった婆さんの顔を見て、竹童は「あッ」と叫んでしまった。お婆さんの口の中で光った物があったのだ。三、四本の乱杭歯らんぐいばの間を、でたりはいったりしているのは、たしかに四、五十本の縫針ぬいばりだ。
 これだ!
 さっき柿の木の上まで飛んできてっぺたをした針は――竹童はむッとした。
「たぬきばばあ。もう、松明たいまつなんかたのまない!」
「なんだと、この小僧こぞう
「よくも、おいらをさんざんなやめやがったなッ」
 いきなり腰の棒切ぼうきれを抜いてふりかぶり、蚕婆かいこばばあの肩をピシリと打っていったせつな、あら奇怪、身をかわしたばばあの口から、ピラピラピラピラピラピラピラ糸のような細い光線となって、竹童のめんへ吹きつけてきたふくばり
 これこそ、剣、やり薙刀なぎなたの武術のほかのかくしわざ吹針ふきばりじゅつということを、竹童も、話には聞いていたが、であったのは、きょうがはじめてである。
「その時に、目に気をつけろ、敵の目をとるのが吹針の極意ごくい」と、かねて聞いていたので、竹童はハッとして、とっさに顔をそむけて飛びのいた。


 その時だった。
 竹童ちくどう蚕婆かいこばばあ問答もんどうをよそにべっついの火にむかって煙草たばこをくゆらしていた脚絆きゃはんわらじの男が、ふいに戸外おもてへ飛びだしてきた。
 男は、やにわに、竹童の首ッ玉へ、うしろから太腕を引っかけて、かんぬきしばりに、しばりあげた。
鞍馬山くらまやま小僧こぞう、いいところであった!」
「くッ、くッ……」
 竹童はのどをひッかけられて声がでない。顔ばかりをまッにし、喉首のどくびの手を、むちゃくちゃにひッかいた。
「ちッ、畜生ちくしょう。きょうばかりはのがしゃしねえ」
「だれだいッ、くッくくくくるしい」
「ざまあみやがれ。っぽけなぶんざいをしやがって、よくも武田伊那丸たけだいなまる諜者ちょうじゃになって、人穴ひとあなへ飛びこみ、おかしらはじめ、多くの者をたぶらかしやがったな。その返報へんぽうだ、こうしてやる! こうしてやる」
 と、なぐりつけた。
「くそウ! おいらだって、こうなりゃ鞍馬山の竹童だ」
 と、ぼつぜんと、竹童ちくどうもはんぱつした。
 なりこそちいさいが、必死の力をだすと、大人おとなもおよばぬくらい、ねじつけられているからだをもがいて、男の鼻とくちびるへ指をつッこみ、わしのようにつめを立てた。
「あッ」
 これにはさすがの男も、ややたじたじとしたらしい。ゆだんを見すまし、竹童は腕のゆるみをふりほどくが早いか一もくさん――
「おまえみたいなしたに、からかってなんかいられるもんかい!」
 すてぜりふをいって、あとをも見ずに逃げだした。
「バカ野郎やろう
 男は割合わりあいに落ちついて見送っている。
「そうだそうだ。もッと十町でも二十町でも先に逃げてゆけ、はばかりながら、てめえなんかに追いつくにゃ、この燕作えんさくさまにはひと飛びなんだ」
 この男こそ、燕作だった。さてこそ、竹童を伊那丸いなまるの手先と見て、組みついたはず。
 かれは、首尾しゅびよく、丹羽昌仙にわしょうせんの密書をとどけて、ここまで帰ってきたものの、人穴ひとあな城の洞門どうもんはかたくめられ、そこここには伊那丸の一とうが見張っているので、山寨さんさいへも帰るに帰られず、蚕婆かいこばばあうちにかくれていたものらしい。
「あの竹童のやつをひっらえていったら、さだめし呂宋兵衛るそんべえさまもお喜びになるだろうし、おれにとってもいい出世しゅっせ仕事だ。どれ、一つ追いついて、ふんづかまえてくれようか」
 いうかと思うまに、もう燕作えんさくは、つぶてのとんでいくように走っていた。それを見るとなるほど稀代きたい早足はやあしで、日ごろかれが、胸にかさをあててければ、笠を落とすことはないと自慢しているとおり、ほとんど、かかとが地についているとは見えない。
 竹童ちくどうも、逃げに逃げた。折角村おりかどむらからひるたけすそって街道にそって、足のかぎり、こんかぎり、ドンドンドンドンかけだして、さて、
「もうたいがい大じょうぶだろう――」と立ちどまり、ひょいとあとをふりかえってみると、とんでもないこと、もうすぐうしろへ追いついてきている。
「あッ」またかける。燕作もいちだんと足を早めながら、
「やあい、竹童。いくら逃げてもおれのまえをかけるのはむだなこッたぞ」
「おどろいた早足だな、早いな、早いな、早いな」
 さすがの竹童も敵ながら感心しているうちに、とうとう、ふたたび燕作のふと腕が、竹童のえりがみをつかんで、ドスンとあおむけざまに引っくりかえした。
 そこは、釜無川かまなしがわしも富士川ふじがわかみ蘆山あしやま河原かわらに近いところである。燕作は、思いのほかすばしッこい竹童をもてあまして、手捕てどりにすることをだんねんした。そのかわり、かれはにわかにすごい殺気を眉間みけんにみなぎらせ、
「めんどうくせえ、いッそ首にして呂宋兵衛るそんべえさまへおそなえするから覚悟かくごをしろ」とわめいた。
 ひきぬいたのは、二尺四寸の道中差どうちゅうざし、竹童はぎょッとしてはね返った。とすぐに、するどい太刀風たちかぜがかれのみみたぶから鼻ばしらのへんをブーンとかすった。
 哀れ竹童、組打ちならまだしも、くらべならまだしものこと――真剣しんけん白刃交しらはまぜをするには、悲しいかな、まだそれだけの骨組もできていず、剣をとってのわざもなし、第一、腰に差してる刀というのが、頼みすくないかし棒切ぼうきれだ。

石投いしなげの名人めいじん




 秋の水がつめたくなって、はや山魚やまめもいなくなったいまじぶん、なにをる気か、ひとりの少年が、蘆川あしかわとろにむかって、いとをたれていた。
 少年、年のころは十五、六。
 すこし低能ていのうな顔だちだが、目だけはずるく光っている。とりみたいな髪の毛をわらでむすび、まッ黒によごれた山袴やまばかまをはいて、腰にはさやのこわれを、あけびつるでまいた山刀一本さしていた。
「ちぇッ、釣れねえつれねえ、もうやめた!」
 とうとう、かんしゃくを起したとみえて、いきなり竿さおをビシビシと折って、蘆川あしかわのながれへ投げすてた。
「あ、とろの岩にせきれいが遊んでいやがる。そうだ、これからは鳥うちだ、ひとつ小手しらべにけいこしてやろうか」
 と、足もとの小石を三つ四つ拾いとったかと思うと、はるか、流れの中ほどをねらって、おそろしく熟練じゅくれんしたつぶてを投げはじめた。
「やッ――」と、小石に気合いがかかって飛んでいく。
 と見るまに、二のせきれいのうち、一羽がとろの水に落ちて、うつくしい波紋はもんをクルクルとえがきながら早瀬はやせのほうへおぼれていった。
「どんなもんだい。蛾次郎がじろうさまの腕まえは――」
 かれはひとりで鼻うごめかしたが、もうねらうべきものが見あたらないので、こんどは、たくみな水切りの芸をはじめた。一つの小石が、かれの手からはなれるとともに、なめらかな水面を、ツイッ、ツイッ、ツイッと水を切ってはび、切ってはぶ、まるで、小石が千鳥ちどりとなって波をっていくよう。
「七つ切れた! こんどは十!」
 調子ちょうしにのって、蛾次郎がわれをわすれているときだ。
 そこから二、三町はなれたところの河原かわらで、ただならぬさけび声がおこった。かれはふいに耳をたって、四、五けんばかりかけだしてながめると、いましも、ひとりの兇漢きょうかんが、皎々こうこうたる白刃はくじんをふりかぶって、ッぽけな小僧こぞうをまッ二つと斬りかけている。
 それは、燕作えんさくと、竹童ちくどうだった。
 竹童はいまや必死のところ、かし棒切ぼうきれを風車かざぐるまのようにふって、燕作の真剣しんけんと火を飛ばしてたたかっているのだ。しかし、大の男のするどい太刀たちかぜは、かれに目瞬まばたきするすきも与えず、斬り立ててきた。あわや、竹童は血煙とともにそこへ命を落としたかと見えたが、
「あッ――」
 ふいに燕作が、くちびるをおさえながら、タジタジとよろけた。どこからか、風を切って飛んできた小石に打たれたのである。
「しめた!」と、竹童は小さなからだをおどらせて、ピシリッと、燕作のみみたぶをぶんなぐった。
野郎やろうッ!」
 怒髪どはつをさかだてて、ふたたび太刀を持ちなおすと、またブーンとかれの小手へあたった第二のつぶて
「アいたッ」
 ガラリと道中差どうちゅうざしをとり落としたが、さすがの燕作も、それを拾いとって、ふたたび立ち直る勇気もないらしい。笑止しょうしや、四尺にたらぬ竹童にうしろを見せて、例の早足はやあし。雲をかすみと逃げだした。
「待て。意気地いくじなしめ!」
 竹童ちくどうは、急に気がつよくなって、こんどはまえと反対に、かれを追ってドンドン走りだすと、ちょうど、あなたからも河原づたいに、黒鹿毛くろかげこま疾風しっぷうのごとく飛ばしてくるひとりの勇士があった。――見るとそれは秘命をおびて、伊那丸いなまるの本陣あまたけをでた奔馬ほんば項羽こうう」。――上なる人はいうまでもなく、白衣びゃくえ木隠龍太郎こがくれりゅうたろうだ。
「や、や、あいつは伊那丸いなまるがたの武将らしいぞ」
 と、戸まどいした燕作えんさくが、その行く先でうろうろしているうちに、たちまちかけよった龍太郎りゅうたろう
「これッ」
 と、すれちがいざま、右手をのばして燕作の首すじをひっつかみ、やッと馬上へつるし上げたかとおもうと、
往来おうらいのじゃまだ!」
 手玉てだまにとってくさむらのなかへほうりこみ、そのまま走りだすと、こんどはバッタリ竹童にいき会った。
「おお、それへおいでなされたのは龍太郎さま――」
「やあ、竹童ではないか」ピタリと「項羽」の足をとめて、
「なんでこんなところでうろついているのだ。呂宋兵衛るそんべえの手下どもに見つけられたら、いのちがないぞ、はやく鞍馬山くらまやまへ立ち帰れ」
「ありがとうございますが、まだこの竹童には、お師匠ししょうさまからいいつけられている大役があるんです。ところで龍太郎さまは、これからいずれへおいそぎですか」
「されば小太郎山こたろうざんへまいって、三百人の兵をかりあつめ、ここ四日ののちに、人穴城ひとあなじょうを攻めおとす計略けいりゃく
「わたくしがやる仕事も四日目です。どうも、お師匠ししょうさまのおさしずは、ふしぎにピタリピタリと伊那丸いなまるさまの計略と一致するのがみょうでございます」
「ふーむ……してその密計とはどんなことだ?」
天機てんきもらすべからず。――しゃべるとお師匠ししょうさまからお目玉をいます。それよりあなたこそ、どうして三百人という兵がわずか四日で集められますか、まさかわら人形でもありますまいに」
「それも、軍機ぐんきは語るべからずじゃ」
「あ、しっぺ返しでございますか」
「オオ、そんなのんきな問答をいたしている場合ではない、竹童ちくどうさらば!」
 と、ふいにむちをあげて、行く手をいそぎだそうとすると何者か、
「ばかだな、ばかだなあ! あの人はいったいどこへいくつもりなんだい!」とあざわらう声がする。
 木隠龍太郎こがくれりゅうたろうも竹童も、そのことばにびっくりしてふりかえると、石投げをしていた蛾次郎がじろうがいつかのっそりそこに立っていた。

隠密落おんみつおとし




拙者せっしゃをバカともうしたのはきさまだな」
 龍太郎りゅうたろうがにらみつけると、蛾次郎がじろうはいっこうにこたえのないふうで、ゲタゲタと笑いながら、
「ああおれだよ」
「ふらちなやつ、なんでさようなことをぬかした」
「だっておさむらいさんは、小太郎山こたろうざんへいくんだっていうのに、とんでもないほうへ馬の首をむけていそぎだしたから笑ったんだ」
「ふーむ、ではこっちへむかっていってはわるいか」
「悪いことはないけれど、この蘆川あしかわを大まわりして、甲州街道かいどうをグルリとまわった日には、半日もよけいな道を歩かなけりゃならない。それより、この川を乗っきって駿州路すんしゅうじを左にぬけ、野之瀬ののせ、丸山、わしとでて、野呂川のろがわを見さえすれば、すぐそこが、小太郎山じゃないか」
 と、すこし抜けている蛾次郎も、住みなれた土地の地理だけに、くわしくべんじた。
「なるほど、これは拙者せっしゃがこのへんに暗いため、無益むえき遠路とおみちにつかれていたかも知れぬ。しかし、この激流を、馬で乗っきる場所があろうか」
「あるとも、水馬すいばさえ達者たっしゃなら、らくらくとこせるとろがある。ここだよ、おさむらいさん――」
 と蛾次郎がじろうはまえに水切りをやっていたところを教えた。
「む。なるほど、ここは深そうだ、川幅かわはばも四、五十けん、これくらいなところなら乗っ切れぬこともあるまい」
 と龍太郎はよろこんで、浅瀬あさせから項羽こううを乗りいれ、ザブザブ、ザブ……と水を切っていくうちに紺碧こんぺきとろをあざやかに乗りきって、たちまち向こう岸へ泳ぎ着いてしまった。
「ありがとう」
 と、それを見送るとほッとしたさまで、竹童ちくどうが礼をいうと、蛾次郎がじろうはクスンと笑って、
「なにがありがてえんだ、おめえに教えてやったわけじゃあない」といった。
 竹童はじぶんより三歳か四歳上らしい蛾次郎を見上げて、へんなやつだとおもった。
「そのことじゃないよ、さっきおいらが悪いやつに、あやうく殺されそうになったところを、石を投げてがしてくれたから、そのれいをいったのさ」
「あんなことはお茶の子だ、こう見えてもおれは石投げ蛾次郎といわれるくらい、つぶてを打つのは名人なんだぜ」
 と、ボロざやの刀をひねくッて、竹童ちくどうに見せびらかした。
蛾次郎がじろうさんのうちはどこだい?」
「おれか、おれは裾野すその折角村おりかどむらだ、だがいまあの村には、桑畑くわばたけ蚕婆かいこばばあと、おれの親方だけしか住んでいないから人無村ひとなしむらというほうがほんとうだ」
「親方っていう人は、あの村でなにをしているんだい」
「知らねえのかおめえは、おれの親方は、鼻かけ卜斎ぼくさいっていう有名な鏃鍛冶やじりかじだよ。おれの親方のった矢の根は、南蛮鉄なんばんてつでも射抜いぬいてしまうってんで、ほうぼうの大名だいみょうから何万ていう仕事がきているんだ。おれはそこの秘蔵ひぞう弟子だ」
えらいなあ――」竹童ちくどうはわざと仰山ぎょうさんに感心して、
「じゃ、蛾次郎さんとこには、松明たいまつなんかくさるほどあるだろうな」
「あるとも、あんなものならまきにするほどあらあ」
「おいらに二十本ばかりそっとくれないか」
「やってもいいけれど、そのかわりおれになにをくれる」
 と蛾次郎はずるい目を光らした。
 竹童はとうわくした。お金もない。刀もない。なんにもない。持っているのは相変らずの棒切れ一本だ。そこで、
「おれいには、わしに乗せて遊ばしてやら。ね、わしにのって天をけるんだぜ。こんなおもしろいことはない」
 といった。
「ほんとうかい、おい!」蛾次郎がじろうは、目の玉をグルグルさせた。
「うそなんかいうものか、松明たいまつさえ持ってきてくれれば乗せてやる。そのかわり夜でなくッちゃいけない」
「おれも夜の方がつごうがいい。そしておまえはどこに待っている?」
白旗しらはたみやの森で待ってら、まちがいなくくるかい」
「いくとも! じゃ今夜、松明たいまつを二十本持っていったら、きっとわしに乗せてくれるだろうな、うそをいうと承知しょうちしないぜ、おい! おれは切れる刀を差しているんだからな」
 と、またあけびまき山刀やまがたな自慢じまんした。


 木隠龍太郎こがくれりゅうたろうのために、河原かわらへ投げつけられた燕作えんさくは、気をうしなってたおれていたが、ふとだれかに介抱かいほうされて正気しょうきづくと、鳥刺とりさ姿すがたの男が、
「どうだ、気がついたか」
 とそばの岩に腰かけている。見れば、つい四、五日前に安土城あづちじょうで、じぶんの手から密書みっしょをわたした福島正則ふくしままさのりの家来可児才蔵かにさいぞうである。
 燕作はあっけにとられて、
「あ、いつのまにこんなところへ」と、思わず目をみはった。
「しッ、大きな声をいたすな、じつは、秀吉公ひでよしこう密命みつめいをうけて、武田伊那丸たけだいなまるとのいくさのもようを見にまいったのだ、ところで、さっそく丹羽昌仙にわしょうせんに会いたいが、そのほう、これより人穴城ひとあなじょうのなかへあんないいたせ」
「とてもむずかしゅうございます。敵は小人数こにんずながら、小幡民部こばたみんぶという軍配ぐんばいのきくやつがいて、ありものがさぬほど厳重げんじゅうに見張っているところですから」
「どこの城にも、秘密の間道かんどうはかならず一ヵ所はあるべきはず、そちは、それを知らぬのであろう」
「さあ、間道かんどうといえば、ことによると蚕婆かいこばばあが、知っているかもしれません。あいつは呂宋兵衛るそんべえさまの手先になって、それとなくそとのようすを城内へ通じている、裾野すその目付婆めつけばばあ、とにかくそこへいってききただして見ることにいたしましょう」
 と燕作えんさくは、可児才蔵かにさいぞうのあんないにたって、人無村ひとなしむらの蚕婆の家までもどってきた。
「おばあさん、けてくれないか、燕作えんさくだよ。燕作が帰ってきたんだから、ちょっとけておくれ」
 もう日が暮れている。
 とざした門をホトホトとたたくと、なかから婆さんがガラリとあけて、灯影ほかげに立った可児才蔵のすがたをいぶかしそうににらめすました。
「だれだい燕作さん、この人は村ではいっこう見たことがないかたじゃないか」
「このおかたは、姿こそ、変えておいでなさるが、福島正則ふくしままさのりさまのご家臣で可児才蔵かにさいぞうというお人、昌仙しょうせんさまの密書で、わざわざ安土城あづちじょうからおいでくだすったのだ」
 と説明すると、蚕婆かいこばばあはにわかに態度を変えて、下へもおかぬもてなしよう。茶をたり酒をだしたりしてすすめた。


「それはようおいでなされました。さだめし、昌仙さまのお手紙で、多くの軍兵ぐんぴょう秀吉ひでよしさまからおかしくださることになるのでございましょうね」
「いや、とにかく軍師ぐんしと会って、そうだんをしてみたうえじゃ。ところがこれなる燕作えんさくのもうすには、しょせん人穴城ひとあなじょうへは入れぬとのこと、せっかくここまでまいりながら、呂宋兵衛るそんべえどのにも軍師ぐんしにも、会わずにもどるとは残念千万せんばん
「いえいえ。そういう大事なお使者なら、たった一つ人穴城へぬけるかくしみちへ、ごあんないいたしましょう。これ燕作さん、おめえちょっと、裏表うらおもてにあやしいやつがいないかどうかあらためておくれ」
「がってんだ」と燕作が家のあたりを見まわしてきて、
「だれもあやしいような者はいない。ないているのは鹿しかぐらいなもの――」
 というと、蚕婆は、はじめて安心して、じぶんのすわっている下のむしろを、グルグルと巻きはじめた。
 おやと、燕作がびっくりしているに、さらに、二じょうじきほどな床板ゆかいたをはねあげると、えんの下は四角な井戸のように掘り下げられてあった。顔をだすと、つめたい風がふきあげてくる。
「ここをおりると、あとは人穴城ひとあなじょう地下洞門ちかどうもんのなかまで三十三町一本道でいけますのじゃ、さ、人目にかからないうちに、すこしもはやく、おこしなさるがよい」
 と蚕婆かいこばばあがせきたてると、才蔵さいぞうは、間道かんどうの口をのぞいてから、ふいと顔をあげて、
ばばあつえにして飛びこむから、長押なげしにかかっているその錆槍さびやりを、かしてくれい」
 と指さした。婆は彼のいう通り、石突いしづきをたよりに、下へりるのであろうと、なんの気なしに取って渡すと才蔵さいぞうは、
「かたじけない」
 と受けとって、ポンと、やりの石突きを下へろすかと見るまに、意外や、電光石火でんこうせっか
「やッ――」
 と一声、錆槍さびやり穂先ほさきで、いきなり真上の天井板てんじょういたを突いた。とたんに、屋根裏をけものがかけまわるような、すさまじい音が、ドタドタドタひびきまわった。
「やッ、なんだ――」
 と蚕婆と燕作が、飛びあがっておどろくうちに、才蔵は、すばやく間道かんどうのなかへ姿をかくして、下からあおむいて笑っている。
「おどろくことはない、天井うらにしのんでいたやつは、徳川家とくがわけ菊池半助きくちはんすけだ、これで隠密落おんみつおとしの禁厭まじないがすんだから、もう安心。燕作えんさく、はやくこい!」
「じゃあばあさん、あとはたのむよ」
 と燕作もつづいてなかへ姿をけした。その足音が地の下へとおざかるのを聞きながら、蚕婆かいこばばあはすぐもとのとおり床板ゆかいたむしろきつめ、壁にかかっている獣捕けものとりの投げなわをつかむが早いか、いきなりおもてへ飛びだした。
「いやがった!」
 かがりのような目をぎすまして、あなたこなたを見まわした蚕婆は、ふと、七、八けんさきのやみのなかで、なにやらうごめいている人影を見つけて、じっとねらった。
 と――それはまぎれもなく、天井裏てんじょううらひざを突かれた曲者くせものが、小川の水で傷手いたでを洗っているのだ。頭から足のさきまで、からすのように黒装束くろしょうぞくをした隠密おんみつの男、すなわち徳川家とくがわけからまわされた菊池半助きくちはんすけ
「おうッ!」
 ふいにえるような蚕婆の声とともに、さすがは半助、足の痛手いたでを忘れて、ポーンと小川をびこえたが、よりはやく、やみのなかを飛んできた投げなわの輪が無残、五体にからんでザブーンと、水のなかへりおとされてしまった。

はなかけ卜斎ぼくさいむし蛾次郎がじろう




 さすが伊賀衆いがしゅう三羽烏さんばがらす菊池半助きくちはんすけも、可児才蔵かにさいぞうにみやぶられて、錆槍さびやり穂先ほさきひざにうけ、そのうえ、投げなわにかかって五体の自由をうばわれては、どうすることもできない。
「ざまをみさらせ! いのち知らずが」
 蚕婆かいこばばあが毒づきながら、縄のまま半助をひきずってきて、いえの前のかきの木へグルグルきにしばってしまった。
「夜明けまでに、手間てまいらずの法で殺してやる。うぬばかりでなく、この村へ隠密おんみつにはいる者はみんなこうだ」
 蚕婆は、やがてれ木を集めてきて、半助はんすけの身辺にみあげ、端のほうから火をつけてメラメラと燃えあがったのを見ると、そのままうちへはいって寝てしまった。
 ほのおがたっても、はじめのうちは覆面ふくめんや衣類がぬれていたので、しばらくさまでは思わなかったが、やがて衣類がかわき、れ木の火焔かえんが、パチパチと夜風にあおり立てられてくるにつれて、菊池半助は焦熱地獄しょうねつじごくの苦しみ。
「アッ、アッ、アアアアア」
 おもわず悲鳴をあげて、必死に縄を切ろうともだえていた。――すると、その火の手を見て、いっさんにかけてきたのは、鏃鍛冶やじりかじ卜斎ぼくさいの弟子蛾次郎がじろうであった。
「おうそこへまいったもの、はやく拙者せっしゃ脇差わきざしをぬいてこの縄を切ってくれ、早く、早く!」
「やあどうしたんだおさむらいさんは? 死んじまうぞ。死んじまうぞ」
「はやくしてくれ、早く助けてくれい」
「助けてやったら、なにをくれる?」
 石投げの天才のほか、仕事も下手へた、ものおぼえも悪く、すこし足らない蛾次郎がじろうだが、よくにかけては、ぬけめがない、半助はんすけは一ときの熱苦もたまらず、うめきながら、
「なんでもつかわすからはやく、アッ、あッツツツ」
「よし、きっとだぜ」
 念を押しながら飛びこんで、蛾次郎がじろうれ木の火をちらし、山刀やまがたなをぬいて半助の縄目なわめをぶっつり切った。火のなかからびだした半助は、ほッとして大地へたおれたが、やにわにまた足の痛手いたでを忘れておどりたった。
「わるいところへ、またあなたからあやしい人の足音がしてまいった。おい、おれに肩をかせ、そして、しばらく休息するところまで連れてゆけ。褒美ほうびはのぞみしだいにやろう」
「じゃ、おれの親方のうちでもいいかい」
「頼む、あれ、あれ、もう軍馬のひづめがまぢかにせまる」
「たいへんだ! ことによるとあまたけに陣どっている者たちがくだってきたのかも知れないぞ」
 蛾次郎がじろうもにわかにあわてだして、半助のからだを背負せおって、一目散いちもくさんにそこを立ちさった。すると、たった一足ひとあしちがいに、あらしのように殺到した一だんの軍馬があった。
「それ、常からあやしい蚕婆かいこばばあいえをあらためろ!」
「戸をやぶってなかへ、ンごめッ」
 馬上から十四、五人の武士に、はげしく下知げちをしたふたりの武士、これなん、伊那丸いなまる幕下ばっかでも、荒武者あらむしゃ双龍そうりゅうといわれている加賀見忍剣かがみにんけん巽小文治たつみこぶんじのふたり。
「おう!」
 と部下は武者声むしゃごえをあげるやいなや、蚕婆の家の裏表うらおもてから、メリメリッ、バリバリッと戸をみやぶっておどりこんだ。が、なかは暗澹あんたん、どこをさがしても、人かげらしい者は、見あたらなかった。
 と、聞いた忍剣は、
「いや、そんなはずはない。たしかにあやしい男と老婆ろうばとが、密談みつだんいたしていたのを、間諜かんちょうの者が見とどけたとある。この上は自身であらためてくれる」
 と禅杖ぜんじょうをひっかかえひらりと馬を飛びおり、巽小文治とともに、家の中へはいっていって八方家探やさがししたが、部下のことばのとおり、何者もひそんでいなかった。
「ふしぎだ――」
 小文治は、そこにもぬけのからとなっている寝床ねどこへ手を入れてみて、
「このとおり、まだ人のぬくみがある。さすれば、いよいよ逃げた者こそ、あやしい曲者くせものにそういない」
「む、では寝床のわきの床板ゆかいたをはねあげてみよう」
 と、忍剣にんけんが先にたって、むしろを巻き、板をはいでみるとたちまち、一けん四方の間道かんどうの口が、奈落ならくの門のごとく一同の目にうつった。
「おお、これこそ人穴城ひとあなじょうへ通じる間道かんどうにそういない」
「しめた! その方どもはこの口もとをまもっていて、あやしい者が逃げまいったら、かならずりにがさぬように見張っておれ」
 と、いいのこして、忍剣は禅杖ぜんじょうをひっかかえ、小文治こぶんじやりの石突きをトンと下ろして、ともにまッ暗な間道のなかへとびこんでいった。
 あとにのこった部下の者は、ひとしく間道口かんどうぐちに目と耳をぎすまして、いまに、なにかかわった物音がつたわってくるか、あやしいやつが飛びだしてくるかと、夜もすがら、ゆだんもなかった。


 菊池半助きくちはんすけを肩にかけて、まっ暗な人無村ひとなしむらをかけていった蛾次郎がじろうは、やがて、おおきな荒屋敷あれやしきの門へはいった。
 見ると、そこが卜斎ぼくさい細工小屋さいくごやか、東のすみにぽッと明るいほのおがみえて、トンカン、トンカン、つち鉄敷かなしきのひびきがしている。そしてときどき、小屋のなかから白い煙とともに、シューッとふいごの火のがふきだしていた。
「親方、お客さまをつれてきた、旅のお侍さんで、けがをして難渋なんじゅうしているんだから、今夜とめてやっておくんなさい」
 蛾次郎がじろうがおどおどしながら、細工場さいくばのとなりの雨戸をあけて、ひろい土間へはいると、手燭てしょくをもって奥からつかつかとでてきたのは、主人の卜斎ぼくさいであろう。陣羽織じんばおりのようなかわそでなしに、鮫柄さめづかの小刀を一本さし、年は四十がらみ、両眼するどく、おまけに、仕事場で火傷やけどでもしたけがか、片鼻かたはなが、そげたようにけている。
 人呼んで、鼻かけ卜斎ぼくさい綽名あだなしている名人の鏃師やじりし。なにさま、ひとくせありそうな人物である。
蛾次公がじこう、昼間からどこをうろつきまわっているのだ。このバカ野郎やろうめ!」
 卜斎ぼくさいは、つれてきた半助などには目もくれず、頭からこのなまけ者の抜け作などとどなりつけて、さんざん油をしぼったあげく、
「それに、あとで聞けば、てめえは、夕方、物置小屋から二、三十本の松明たいまつをぬすみだしていったそうだが、いったい、そんな物をどこへ持ちだして、なんのために使ったのだ。うそをいうとこれだぞ!」
 いきなり弓の折れを持って、羽目板はめいたをピシリッとうった。その音のはげしいこと、蛾次郎のふるえあがったのはむろん、菊池半助きくちはんすけさえ度胆どぎもを抜かれた。
 卜斎はその時はじめて、半助のほうへ気をかねて、
「まあよいわ、お客人がいるから、てめえの詮議せんぎはあとにしよう。ときに旅のお武家さま、なにしろ今夜はけておりますから、この上の中二階へあがって、ごゆるりとお休みなさるがいい。そこに夜具やぐもある、火のもある、ものもある、男世帯おとこじょたいの屋敷ですから、きにしてお泊りなさい」
「かたじけない、ではお言葉にあまえて夜明けまで……」
 と、半助はそこにいるのも気まずいので、びっこを引きながら、おしえられた中二階の梯子はしごを、ギシリ、ギシリと踏んでいった。
「はてな……」と、梯子をあがりながら一つの疑念――「どこかで見たことのある男だが? ……ただの鏃師やじりしではない、たしかにどこかで? ……」と、しきりに思いなやんだが、とうとう、中二階へあがるまで考えだせなかった。
 卜斎ぼくさいにいわれたまま、押入れから蒲団ふとんをだして、そのうえに身を横たえながら、ひざ槍傷やりきずぬのでまきつけていると、また、すぐ下の土間どまであらあらしい声が起りはじめた。
野郎やろう、どうあってもいわぬな! いわなければ、こうだッ」
 弓の折れがヒュッと鳴ると、蛾次郎がじろうがオイオイと声をあげて泣きだした。まるで七つか八つの子供が泣くような声で泣いている。
「いいます、親方、いいますからかんべんしてください」
「では、何者にたのまれて、松明たいまつを盗みだした。さ、ぬかせ」
白旗しらはたの森にいる、竹童ちくどうというわたしより五歳いつつばかり下のわっぱにたのまれたんです。その者にやりました」
「あきれかえったバカ者だ。じぶんより年下の餓鬼がきに、手先に使われるとは情けないやつ、しかし、てめえもなにかもらったろう。ただで松明たいまつをやるはずがない」
「いいえ、なんにももらいなんかしやしません」
「まだいいぬけをしやがるか!」
 またピシリッと弓の折れがうなる、蛾次郎がじろうがヒイヒイと泣く、すぐその上にいる菊池半助は、これではとても今夜は寝られないと思った。
 それに気をいらいらさせられたか、かれは寝床からはいだして、ふたたび梯子口はしごぐちからコマねずみのようにそッと顔をだした。そのとき、半助ははじめて、卜斎ぼくさい姿容すがたかたちを、よく見ることができて、思わず、
「あッ」と、すべりでそうな声をかみころした。
「どこかで見たと思ったはず――あれは、越前えちぜんきたしょうあるじ柴田権六勝家しばたごんろくかついえの腹心だ――おお、鏃師やじりしの鼻かけ卜斎ぼくさいとは、よくもたくみにけたりな、まことは、鬼柴田おにしばたつめといわれた上部八風斎かんべはっぷうさいという軍師ぐんし築城ちくじょう大家たいか。いつも柴田権六が、攻略の軍をだすときに、そのまえから敵の領土へ住みこんで、とりでのかまえ、水利、地の理、残るくまなくさぐって、一挙に掌握しょうあくするという、おそろしい人物だ。――その八風斎がこの裾野すそのを作ったところをみると、さては、野心のふかい柴田勝家、はやくも天下をこころざす足がかりに、この一たいへ目をつけたものだろう。武田伊那丸たけだいなまるといい呂宋兵衛るそんべえといい、また秀吉ひでよしの手の者が入りこんだことといい、いちいち徳川家とくがわけ大凶兆だいきょうちょう。こりゃ、裾野すそのたいいよいよゆだんのならぬものばかりだ……」
 半助は、耳をたたみにこすりつけて、さらに、階下かいかの声を一語も聞きもらすまいと息をのんでいた。と、下ではまた卜斎ぼくさいの声で、
「なに? ではその竹童ちくどうというわっぱに、二十本の松明たいまつをくれて、そのかわりにわしにのせてもらったというのか。やい! 泣きじゃくってばかりいたのではわからぬわい。はっきりと口をきけ」
「そ、そうなんです……」
 ベソをかきながら答えてるのは蛾次郎がじろうの声だ。
「松明を持っていったら、そのおれいに大きな鷲の背なかへ乗せてくれましたから、白旗しらはたの森の上から空へあがって、五湖や裾野すそのの上をグルグルとまわってまいりました」
「そうか、それでしさいがわかった」
 と卜斎はうなずいて、なお、竹童のようすや、鷲のことなどをつぶさにただしたから、蛾次郎はゆるされるのかと思っていると、荒縄あらなわで両手をしばりあげたまま、松明をぬすみだした物置小屋のなかへ三日間の監禁かんきんをいいわたされてほうりこまれてしまった。
 そのあとは、卜斎も寝入り、細工さいく小屋の槌音つちおともやんでシーンと真夜中の静けさにかえったが、半助だけは、うすい蒲団ふとんをかぶって横になりながらも、まだ寝もやらず目をパチパチとさせていた。
わし、鷲! 竹童というやつが、自由自在につかう飛行の大鷲! おお、そいつを一つ巻きあげて、こんどの手柄てがらとしてかえろう……」
 とかれは、ふと思いついた胸中の奇策きさくに、ニタリとえつをもらしたが、そのとき、なんの気なしに天井てんじょうを見あげるやいな、かれは、全身の血を氷のごとくつめたくして、
「や、や、やッ」と、目をむいて、ふるえあがった。


 菊池半助きくちはんすけが、身をすくませたのも道理、中二階の天井てんじょうには、いちめんの鉄板てっぱんが張ってあって、それに、氷柱つららのような、無数のやじりが植えてあるのだ。
 剣のッ先よりするどい鏃は、ちょうど、あおむけになっている半助の真上に、ドギドギとぶきみな光をならべている。おお、もしその鉄板が、いちどおちてこようものなら、いかに隠身おんしん自由、怪力無双かいりきむそうなものでも、五体ははちとなって圧死あっししてしまうであろう。
天井てんじょう――」
 半助は、とっさに壁ぎわへ、身をすりよせた。
 このおそろしい部屋へじぶんをあんないしたからには鼻かけ卜斎ぼくさい八風斎はっぷうさいは、すでに徳川家の伊賀衆いがしゅう菊池半助ということを見破ったにそういない――と半助は、こころみに梯子口はしごぐちをのぞいてみると、はたしていつのまにか梯子はとりはずされて、下には、あやしい陥穽おとしあなせてあるようす、ほかに出口はむろんない。
 半助は絶体絶命ぜったいぜつめいとなった。
 けれど五本の指と二本の足が、ままになる以上、こんなことで、おめおめいのちをおとすような菊池半助ではない。
 かれは脇差わきざしをぬいて、いきなり、あっちこっちの壁をズブズブとつき刺した。そしてそとへ通じるところをさぐりあて、たちまち二尺四方ぐらいのあなを切りぬいたかとおもうと、ほとんど、ねこ障子しょうじの穴をすりぬけるようにするりと身をはいだして、一じょう四、五しゃくの上から大地へポンとびおりた。そして、
「ここだな……」と、すすり泣きのもれている物置小屋の戸をねじあけて、なかにいる蛾次郎がじろうを助けだした。
「あッ、お武家さん――」
 蛾次郎が頓狂とんきょうな声をだす口をおさえて、
「しずかにせい。さっきそのほうがおれをたすけてくれた返礼に、こんどはきさまを救ってやる。徳川家へまいれば伊賀衆いがしゅう組頭くみがしら、いくらでも取り立ててやるから一しょについてくるがいい」
「あ、ありがとう。おれもこんなやかましい親方にくッついているのはいやでいやでたまらないんだ」
「む、卜斎ぼくさい気取けどられぬうち、そッと馬小屋から足のはやいのを一ぴきひっぱりだしてこい」
「いいとも、馬ぐらい盗みだすのは、ぞうさもないよ」
 蛾次郎がじろうやみのなかへ飛んでいくと、そのとたんに半助はんすけのあたまの上で、ドドドドスン! というすさまじい家鳴やな震動しんどう。ふりあおいでみると、いまかれがのがれだした壁の穴から、濛々もうもうたる土煙がきだしている。
「おれがここへ抜けだしているのに、卜斎めが天井てんじょうつなを切ったんだろう。そんなつぼにおちるような者は、伊賀衆いがしゅうの中には一ぴきもいるもんか」
 せせら笑っていると、ふいに、いえのなかから轟然ごうぜんたる爆音とともに、火蓋ひぶたを切った種子島たねがしまのねらいち。
「あッ、気がついたな、こいつはぶっそうだ」
 バラバラとかけだしていくと、暗闇くらやみから牛をひきだしたということわざどおり蛾次郎のうろたえよう。
「おさむらいさん、――お侍さんじゃないのかい」
「おれだおれだ、馬は? 馬はどこにいる?」
「ここだよ、馬を盗みだしてきたところだ」
「どこだ、アア、まっ暗。どこにいるのじゃ」
「ここだよ、ここだよ」
 と蛾次郎がじろうが手をたたくと、そのおとをたよりにねらった鉄砲てっぽうたまが、またも、つづけざまに、二、三発、ズドンズドン! と火のしまを走らせた。
「わあッ、だめだ、あぶねえ!」
 ふいに、蛾次郎がきもをつぶして腰を抜かしたらしい弱音よわね
「えい、泣くなッ」
 としかりつけた菊池半助きくちはんすけ。いったい、この厄介者やっかいものをなんに利用しようとするのか、むんずと横脇よこわきにひっかかえて馬の鞍壺くらつぼにとびあがり、つるべうちの鉄砲を聞きながして、人無村ひとなしむらからやみ裾野すそのへ、まッしぐらに、逃げおちてしまった。

 いっぽう、蚕婆かいこばばあの家の床下ゆかしたから、人穴城ひとあなじょう間道かんどうをすすんでいった加賀見忍剣かがみにんけん巽小文治たつみこぶんじ
 ひとみはいつか闇になれたが、道は暗々あんあんとして行く手もしれない。冥府めいふへかよう奈落ならくの道をいくような気味わるさ。ポトリ、ポトリとえりもとに落ちてくるしずくのつめたいこと。たえず、冷々ひえびえおもてをかすめてくる陰森いんしんたる風、ものいえば、ガアンと間道中かんどうじゅうの悪魔がこぞって答えるようにひびく。
 ――と、つねに沈着な巽小文治が、ふいに、「あッ」とさけんで一歩とびのき、片手で顔をおさえてしまった。
「どうした、小文治どの」
「なにか風のようなものに、さっとめんをふかれたその痛さ。忍剣にんけんどのもかならずごゆだんなさるまいぞ」
「そんなバカなことがあろうか、あれは年へた蝙蝠こうもりのたぐいじゃ」
 と入れかわって、忍剣が、さきに立って二、三歩すすむと、かれも同じように奇怪ないたさにおもてされて、たちまち片目を押さえてしまった。そして、ふところもの上に、しものように立つものを手でさぐってみて、
「こりゃ! はりだッ」
 とさけんだ。
「えッ、針?」
 その時、はじめてふたりとも身がまえ直して、じッとやみをすかして見ると、白髪しらがをさかだてたひとりの老婆ろうば蜘蛛くものように岩肌いわはだに身をりつけて、プップップッとたえまなく、ふたりのおもてへ吹きつけてくる針の息……
 おお、それこそ竹童ちくどうがなやまされた蚕婆かいこばばあ秘術ひじゅつ吹針ふきばりの目つぶしだった。

深夜しんや珍客ちんきゃく




 早足はやあし燕作えんさく可児才蔵かにさいぞうは、蚕婆かいこばばあより一足ひとあし先に抜けあなへはいったので、すぐあとにおこった異変もなにも知らず、ただひた走りに、地下三十三町の間道かんどう人穴城ひとあなじょうへいそいでいく。
 目というものがあっても、ここでは、目がなんの役にも立たない暗黒界、けれど、足もとは坦々たんたんとたいらであるし、両側は岩壁いわかべの横道なし。――いくらめくらめっぽうに進んでも、けっして、まよう気づかいはないと、燕作はいつもの早足ぐせで、才蔵よりまえにタッタとかけていったが、やがてのこと、
「ホイ! しまったり!」
 目から火でもだしたような声で、勢いよくよつンばいにつんのめった。あとからきた才蔵も、あやうくその上へ折りかさなるところをみとどまって、
「どうした燕作」と声をかける。
「オオ、いてえ! 才蔵さま、どうやらここは行止まりのようです」
「どんづまりにはちと早い、あわてずによくさぐってみい……おおこりゃ石段ではないか」
「え、石段?」
人穴城ひとあなじょうは、裾野すそのより高地となるから、この間道が、しぜんのぼりになるのは、はや近づいた証拠しょうこといえる」
 才蔵がのぼっていく尾について、燕作も石段の数をふんでいく……と道はふたたび平地ひらちの坂となり、それをあくまで進みきると、こんどこそほんとうのゆきづまり、手探てさぐりにも知れるくろがねとびらが、ゆく手の先をふさいでいた。
燕作えんさく燕作、殿堂の間道門かんどうもんは、すなわちこれであろう。なんとかして、なかの者にあいずをするくふうはないか」
「とにかく、どなってみましょう」
 と燕作は鉄門の前に立って、器量きりょういっぱいな大声。
「やアやア搦手からめてがたの兄弟、丹羽昌仙にわしょうせんさまの密書をもって、安土城あづちじょうへ使いした早足はやあし燕作えんさくが、ただいま立ちかえったのだ。開門! 開門」
 鉄壁てっぺきをたたいて呼ばわッたとたん、頭の上からパッとさしてきた龕燈がんどうのひかり、と見れば、高いのぞきまどから首を集めて、がやがや見おろしている七、八人の手下どもの顔がある。
「おお、いかにも、燕作にちがいないらしいが、あとのひとりは人穴城ひとあなじょうで見たこともないやつ、軍師ぐんしさまの厳命げんめいゆえ、さような者は、ここ一すんも、とおすことまかりならん。開門ならん」
「ヤイヤイ、しつれいをもうしあげるな」
 と、燕作はまばゆい光をあおむいて、
鳥刺とりさし姿に身をやつしておいでなさるが、このお方こそ、秀吉公ひでよしこう帷幕いばくの人、福島ふくしまさまのご家臣で、音にきこえた可児才蔵かにさいぞうとおっしゃる勇士だ。うたがわしく思うなら、とッとと軍師ぐんしさまのお耳に入れてくるがいい」
「なんだ、福島正則ふくしままさのりさまのご家来だと?」
 おどろいた手下どもは、すぐことのよしを、丹羽昌仙にわしょうせんげにいった。昌仙は、燕作えんさく吉報きっぽうをまちかねていたところなので、すぐさま、大将呂宋兵衛るそんべえとともに、間道門かんどうもんのてまえまで、秀吉ひでよしの使者を出むこうべくあらわれた。
 しばらくすると、鉄のかんぬきをはずす音がして、明暗の境をなすおもいとびらが、ギ、ギ、ギイ……と一、二寸ずつひらいてきたので、暗黒のなかに立っていた才蔵と燕作のすがたへ、一どうの光線が水のごとくそそぎ流れた。
「はるばるお越しくだされた可児才蔵かにさいぞうさま、いざお入りくだされい」
 内よりおごそかな声があって、門扉もんぴは八文字もんじにひらかれた。――と、ほとんど同時である。またも間道かんどうのあなたから、疾風しっぷうのように走ってきた人間がある! すでに才蔵と燕作がなかへはいって、ふたたびギーッと門がまろうとするところへ、あわただしくきて、
「大へんだ! わたしをれて、はやくあとをめておくれよ」
 ころぶようにたおれこんだ蚕婆かいこばばあ、いつものぶとさに似ず、いきた色もしていない。
「おお裾野すその見付婆みつけばばあ、大へんとはなんだなんだ」
 一せいに色めきたつ人々を見まわして、蚕婆は歯をむきだして、がなッた。
「なんだもかんだも、あるもんか、はやくはやく、さきに門をめなきゃ大へんだ、いまわたしのあとから忍剣にんけん小文治こぶんじというやつが追っかけてくる!」
「えッ、伊那丸いなまる旗本はたもとがおいかけてくるッて? それは、ここへか、こっちへか?」
「くどいことはいっておられないよ、あれ、あの足音がそうだ! あの足音だ!」
「それッ、かたがた、はやく門をとじて厳重げんじゅうにかためてしまえ」
「やア、もうそこへ姿がみえた」
かんぬきはどうした!」
「くさりをかせ! くさりを!」
「わーッ、わーッ」
 ――ととつぜん、暴風にそなえるように、うろたえた手下どもは、とびらへ手をかけて、ドーンというひびきとともに、間道門かんどうもんめてしまった。
「むねんッ」
 と、その下にふたりの声。ああ、たった一足ひとあしちがい――
 蚕婆かいこばばあを追いつめて、人穴城ひとあなじょうのかくし道をきわめてきた忍剣と小文治は、いでや、このまま城内へ斬ってろうと勢いこんできたところを、内からかたくめられてじだんだんだ。
卑怯ひきょうなやつら、臆病おくびょうぞろいよ! わずかふたりの敵をむかえることができぬのか、和田呂宋兵衛わだるそんべえの下ッぱには男らしいやつは一ぴきもいないのか、くやしければ、けろ、開けろッ!」
 さんざんにいいののしったが、こッちでののしれば、内でもののしり返すばかり、果てしがないので、
「えい、めんどうだッ」
 手馴てなれの禅杖ぜんじょうを、ふりかまえた加賀見忍剣かがみにんけん、どうじに巽小文治たつみこぶんじも、
「よし、拙者せっしゃは、あれからとびこんでゆく」
 と、やりを立てかけて、足がかりとなし、十数尺上ののぞき口へ、無二無三にとびつこうとこころみた。
 グワーン!
 たちまち、雷火をしかけたように、鉄門をとどろかした忍剣にんけんの第一撃! この鉄のとびらが破れるか、この禅杖ぜんじょうが折れるかとばかり。
 つづいて、第二、第三撃!
 間道門かんどうもんのなかでは、呂宋兵衛るそんべえをはじめ丹羽昌仙にわしょうせんとどろき又八、そのほか燕作えんさく蚕婆かいこばばあもおおくの手下どもも、思わずきもをひやして、ただ、あれよあれよとおどろき見ているまに、さしもの鉄壁も、あめのようにゆがんでくる。
 すわこそ、人穴城ひとあなじょうの一大事となった。
 呂宋兵衛はまッさおになった。
 手下どもも、見えぬ敵の恐怖きょうふにおそわれた。こんな猛者もさに、ふたりもおどりこまれた日には、よしや、城内に二千の野武士のぶしはあるとも、どれほど死人手負ておいの山をきずかれるか、さいげんの知れたものではないと思った。
「なにを気をまれているか! 意気地いくじなしめ!」
 ふいに、そのなかで、思いだしたようにどなったのはとどろき又八。
「すこしもはやく、水道門のせきをきって、間道かんどうのなかへ濁水だくすいをそそぎこめ、さすれば、いかなる天魔てんま鬼神きじんであろうと、なかのふたりがおぼれ死ぬのはとうぜん、しかも、味方にひとりの怪我人けがにんもなくてすむわ」
 あっぱれ名案と、ほこりがましく命令すると、手下どもが、おうと答えるよりはやく、
「いや、そりゃ断じていかん」
 はげしく異議いぎを申したてた者は、軍師ぐんし丹羽昌仙にわしょうせんであった。かれとは、つねに犬とさるの仲みたいな轟又八、すぐまゆをピリッとさせて、
「こういうときの用意のため、いつでも水道門の堰さえきれば、間道はおろか裾野すその一円、満々と出水でみずになるようしかけておいた計略ではないか。軍師ぐんしには、なんでおめなさる」
「おろかなことをお問いめさるな、それ、溺兵できへいの計りごとは、一城の危急存亡にかかわるさいごの手段、わずかふたりの敵をころすために、なんでそれほどのついえをなそうや」
「心得ぬ軍師ぐんしのいいじょう、では、みすみす間道門かんどうもんをやぶられて、ここにおおくの手負ておいをだすとも、大事ないといいはらるるか」
「なんで昌仙しょうせんが、それまで手をつかねて見ていようぞ、拙者せっしゃにはべつな一計があること、又八どのは、それにてゆるりとご見物あるがよい。やあ者ども、この鉄門の前へ焼草やきくさをつみあげい」
 たちまち、山と積まれた枯草かれくさたば。はこばれてくる獣油じゅうゆかめ、かつぎだされた数百本の松明たいまつ
 洞門どうもんのなかでは、それとも知らず、必死にあえぐ忍剣にんけん小文治こぶんじのかげ。と――いきなり、バラバラバラ、バラバラッ! と上ののぞき口から投げこんできた枯草のたば! つづいてほのおのついた松明たいまつ獣油じゅうゆの雨、火はたちまちパッと枯草についた。いや、ふたりのそですそにもついた。
 火は消しもする、はらいもする、が、もうもうと間道かんどうのなかへこもりだした煙はおえぬ。しかも異臭いしゅうをふくんだ獣油の黒煙が、でどころがなく、うずをまいてふたりをつつんだ。
 目からはしぶい涙がでる。鼻腔びこうはつきさされるよう、のどはかわいて声さえでぬ。……そこにしばらくもがいていれば煙にまかれて窒息ちっそくはとうぜんだ。ふたりは歯ぎしりをしながら、煙におしだされて、しだいしだいにあともどりした――といっても、充満じゅうまんしている煙の底をはいながら……
 間道の半ば過ぎまで引っかえしてきたころ、ふたりは、やっとどうやらうす目をあいて、たがいにことばをかわせるようになった。
「や、小文治こぶんじどの、どうやらここは、先刻せんこくすすんでいった間道かんどうとはちがうようではないか」
拙者せっしゃもすこし変に思ってはいるが、たしかいきがけには、ほかに横穴はないように心得ていた」
「しかし、このように両側のせまい穴ではなかったはず……はてな? こりゃちとおかしい……」
忍剣にんけんどの、また煙のうずがながれてきた。とにかく、もどるところまでもどってみよう」
「せっかく、人穴城ひとあなじょうの根もとまで押しよせたに、煙攻めのさくにかかって引ッ返すとは無念千ばん……ああまたまっ黒に包んできおった」
「ちぇッ、いまいましいが、もうここにもぐずぐずしておれぬわ」
 さすがの勇士も、煙の魔軍には勝つすべがなかった。息づまる苦しさと、目にしむなみだをこらえながら、いっさんにそのあなを走りもどった。
 からくも、前にはいった床下ゆかしたへきた。まさしく、蚕婆かいこばばあの家の下にちがいない。とちゅうの道がちがっているように思えたのも、さすれば、煙のための錯覚さっかくであったかもしれない。
「こりゃ部下の者、この板を退けて、つなをおろせ、早く早く!」
 と小文治こぶんじが、やり石突いしづきを上へむけて、ふたの板を下からポンポンと突きあげた。
 すると、入口に待ちかねていた部下の者であろう、板をはがして、二本のつなを無言のまま下へたれてきた。それを力に、忍剣にんけん小文治こぶんじは、ひらりと上へとびあがる!
 ――あがったところはまッ暗であった。
 だれかが、カチカチ……と火打石ひうちいしっている。部下は二十人ばかり、ここへ置いていったのに、イヤにあたりが静かである。
 カチッ、カチッ、カチッ……火打石はなかなかにつかない……
「たわけ者め!」
 忍剣は、部下の不用意をしかりつけた。じぶんたちがいないに、あるいは、軍律を破って、夜半よわの眠りをむさぼっていたのではないかとさえうたぐった。
「なぜ、かがり火をいておらぬ、この暗さで、いざことある場合になんといたす。不埒者ふらちものめが、はやくをつけい!」
「はい、ただいますぐに明るくいたします」
 と答える者があったが、すこし声音こわねがへんである。調子がおかしい。
 小文治は、部下の者のなかにこんなしわがれた声はなかったはずと思って、きッとなりながら、
「何者だッ、そこにいるのは!」
 と、声あらく、どなりつけてみた。
 にもかかわらず、相手は平気で、まだカチカチとやみのなかで、火打石を磨っている。
「名を申さんと突きころすぞッ、敵か、味方か!」
 ピラリッ――朱柄あかえやり穂先ほさきがうごいて、やみのなかにねらいすまされた。と、その槍先から、ポーッとうす明るいがともった。
「わしは敵でもなければ味方でもない。そうもうすおまえがたこそ、深夜に床下ゆかしたからしのびこんできて、ひとの家へなにしにきた!」
「やや、ここは蚕婆かいこばばあの家ではなかったのか――」
 忍剣にんけん小文治こぶんじも、あまりのことにぼうぜんとしながら、そこに立ったひとりの人物を、そも何者かと、みつめなおした。
 いまともした行燈あんどんを前にだして、しずかに席についたその男は、するどい両眼に片鼻かたはなのそげた顔をもち、くまの毛皮の胴服どうふくに、きざざや小太刀こだち前挟まえばさみとなし、どこかにすごみのあるすがたで、
「あははははは、床下ゆかしたから戸まどいしてござったのは、さてこそ、伊那丸いなまる幕下ばっかのおかたでござるな。なんにせよ、深夜の珍客どの、お話もござりますゆえ、まずそれへおすわりください」
 いう声がら容貌ようぼうも、それは、まぎれもあらぬ鏃鍛冶やじりかじの鼻かけ卜斎ぼくさい


 意外なおもいにうたれた忍剣と小文治の目は、つぎに部屋へやのなかをながめまわした。
 ここは卜斎ぼくさい書斎しょさいとみえて、兵書、武器、種々なやじり型図面かたずめんなどがざったにちらかっており、なかにも一ちょう種子島たねがしまが、いま使ったばかりのように、火縄ひなわをそえて、かれのそばにおいてあった。
「いかにもご推察すいさつのとおり、われわれはいまあまたけを本陣としている、武田伊那丸たけだいなまるさまの旗本はたもとでござるが、してそこもとは何人なんぴと? またここはいったいいずこでござりますか?」
 ややあって、忍剣にんけんが、こう問いただした。
「ここは、やはり裾野すそのの村、おふたりが間道かんどうへはいられた蚕婆かいこばばあの家から、さよう、ざっと五、六町はなれた鏃鍛冶やじりかじの小屋でござる。すなわち、手まえはあるじの卜斎ともうす者」
「ではそちも、鏃鍛冶やじりかじとは世をあざむく稼業かぎょうで、まことは蚕婆とおなじように、人穴城ひとあなじょう見付みつけをいたしているのであろうが!」
 小文治こぶんじが、グッと急所を押すと、卜斎は、ひややかに嘲笑あざわらって、
「とんでもないこと、けっしてさような者ではございません」
「だまれ、呂宋兵衛るそんべえ隠密おんみつでない者が、なんで床下ゆかしたから間道かんどうへ通じるようにしかけてあるのだ」
「なるほど、それはごもっともなおうたがいじゃ。いかにもこの卜斎鏃鍛冶とはほんの一時の表稼業おもてかぎょうで、まことはおさっしのとおり隠密おんみつにそういない」
「さてこそ、間者かんじゃ!」
 小文治こぶんじ忍剣にんけんは、腰の大刀をグイとにぎって、あわやおどりかからんずる気勢をしめした。
 片手をななめにさし向けて、きッと、体をかまえなおした卜斎ぼくさい
「じゃが、おさわぎあるなご両所、隠密おんみつは隠密でも、呂宋兵衛るそんべえのごとき曲者くせものの手先となって、働くような卜斎ではございません――」
 と、左右のふたりへ、するどい眼をそそぎながら、
「――まことかくもうす卜斎こそは、北国ほっこく一のゆう柴田権六勝家しばたごんろくかついえが間者、本名上部八風斎かんべはっぷうさいという者、人穴ひとあな築城ちくじょうをさぐろうがため、ここに鏃師やじりしとなって、家の床下ゆかしたから八ぽうへかくし道をつくり、ここ二星霜せいそうのあいだ、苦心していたのでござる」
「おう……」うめくがようにふたりは顔を見あわせて、
「音にきこえた鬼柴田おにしばたふところ刀、上部八風斎とはそこもとでござったか。してその御人ごじんが、なんのご用ばしあって、われわれをおめなされた」
「されば、それがしの主君勝家より密命があって、ご不運なる武田家たけだけ御曹司おんぞうしへ、ひとつのおくり物をいたそうがため」
「はて、柴田家しばたけより伊那丸君いなまるぎみへ、そもなんの贈り物を?」
「すなわちこのしな――」
 と、八風斎がしめしたのは、かれが学力の蘊蓄うんちくをかたむけて、くまなくさぐりうつした人穴ひとあなの攻城図、獣皮じゅうひにつつんで大せつに密封みっぷうしてあるものだった。
「――かねてから主君勝家かついえは、若年じゃくねんにおわし、しかも、孤立無援こりつむえんに立ちたもう伊那丸いなまるさまへ、よそながらご同情いたしておりました。折から、このたびのご苦戦、ままになるなら、北国勇猛ゆうもうの軍馬をご加勢に送りたいは山々なれど、四りんの国のきこえもいかが、せめては武家の相身あいみたがい、弓取り同士のよしみのしるしまでにもと、この攻城図を、ご本陣へさしあげたいというおいいつけ」
「なんといわるる、ではそこもとが、苦心に苦心をかさねてうつされたこの秘図を、おしげもなく、伊那丸さまへおゆずりなさろうとおっしゃるか」
「いかにも、これさえあれば、人穴城ひとあなじょう要害ようがいは、たなごころをさすごとく、大手おおてからめ手の攻め口、まった殿堂、やぐらにいたるまで、わが家のごとく知れまする。すなわちこの一枚の図面は、千人の援兵えんぺいにもまさること万々ばんばんゆえ、一刻もはやく、ご本陣へまいらせたいこのほうのこころざし、なにとぞ、伊那丸さまへ、よしなにお取次ぎを」
「ああ、世は澆季すえでなかった」
 と、忍剣にんけん小文治こぶんじも、胸をうたれずにおられなかった。
 越前えちぜんきたしょう鬼柴田おにしばたといえば、弱肉強食の乱世らんせいのなかでも、とくに恐ろしがられている梟雄きょうゆうだのに、こんな美しい、情けの持主もちぬしであろうとは、きょうまでゆめにも知らなかった。――なんとゆかしい弓取りのよしみであろう。
 そして、むろんこれはこばむことではないと思った。
 さだめし、伊那丸いなまるさまをはじめ同志の人々がよろこぶことと信じて、そくざに、八風斎はっぷうさいの願いをゆるし、あまたけの本陣へあんないすることを快諾かいだくした。
 八風斎も欣然きんぜんとして、衣服大小をりっぱにあらため、獣皮じゅうひにつつんだ図面を懐中ふところにいれ、ふたりのあとについて屋敷をでた。
 いっぽう、蚕婆かいこばばあの家で、たむろをしていた部下の者たちは、床下ゆかしたの穴から濛々もうもうたる煙がふきだしてきたので、すわこそ、忍剣と小文治の身のうえに、変事があったにちがいないと、すくなからずさわぎあっていた。そこへ意外な方角から、ふたりが無事でかえってきたので、一同あッけにとられてしまった。
 やがて、勢ぞろいをして、人無村ひとなしむらをでてゆく一列の軍馬を見れば、まッさきに馬上の加賀見忍剣かがみにんけん、おなじく騎馬きばたちの上部八風斎かんべはっぷうさい巽小文治たつみこぶんじ、それにしたがう二十余人の兵。――この一列が整々せいせいとしてあまたけの本陣へかえってくるまに、富士ふじの山は、銀のかんむりにうすむらさきのよそおいをして、あかつきの空に君臨くんりんし、流るるきりのたえまに、裾野すそのの朝がところどころ明けかけてくる。
 人無村のかきの木には、今朝けさからすがむれていた。

死地しちにおちたあまたけ




 富士ふじ川の名物、筏舟いかだぶねさおさして、鰍沢かじかざわからくだる筏乗いかだのりのふうをよそおい、矢のように東海へさして逃げたふたりのあやしい男がある。
 海口うみぐちへ着くやいな、しぶきにぬれた蓑笠みのかさとともに、筏をすて、浜べづたいに、蒲原かんばらの町へはいったすがたをみると、これぞまえの夜、鼻かけ卜斎ぼくさいの屋敷から遁走とんそうした菊池半助きくちはんすけ。つれているのは、そのときゆきがけの駄賃だちんに、かどわかしてきたむし蛾次郎がじろうだ。
 十五、六にもなりながら、人にかどわかされるくらいな蛾次郎だから、むろん、じぶんではかどわかされたとは思っていない。バカにしんせつで、じぶんを出世しゅっせさしてくれるいいおじさんにめぐりあったと心得ている。
「蛾次郎、もうここまでくれば、どんなことがあっても安心だから、かならずしんぱいしないで元気をだすがいい」
 半助がふりかえっていうと、あとから宿しゅくのにぎやかさに、キョロつきながら、のこのこと歩いてきた蛾次郎、すこし口をとンがらせながら、
「元気をだせったッて、元気なんかでやしねえや、おさむらいさんはよく腹がすかないねえ」
「ははア、どうもさっきからきげんがわるいと思ったら、空腹くうふくのために、ふくれているんだな」
「だってゆうべッから、一ッ粒もごはんを食べないんだもの、それで今朝けさになっても、まだ歩いてばかりいちゃあ、いくらおれだってたまらねえや」
「まて、もうすこしのしんぼうじゃ。向田むこうだしろへまいれば、なんでも腹いッぱいわせてやる」
「もうだめだ、アア、もう歩けない、なにかべなくッちゃ目がまわりそうだ……」
 なれるにしたがってそろそろ尻尾しっぽをだしてきた蛾次郎がじろうは、宿場人足しゅくばにんそくがよりたかって、うまそうに立ちいしている餅屋もちやの前へくると、ぎょうさんに、腹をかかえてしゃがんでしまった。
 半助はにが笑いして、いくらかの小銭こぜにをだしてやった。それをもらうと、蛾次郎は人ごみをかきわけてふところいッぱい焼餅やきもちを買いもとめ、ムシャムシャほおばりながら歩きだした。
 もなく、ふたりのまえに見えた向田ノ城。
 ここのとりでには、富士、庵原いはら、二ぐんをまもる徳川家とくがわけ松平周防守康重まつだいらすおうのかみやすしげがいる。菊池半助きくちはんすけは、その人に会って、じぶんが探知たんちした裾野すその形勢けいせいをしさいに書面へしたため、それを浜松の本城へ、早打ちで送りとどけてもらうようにたのんだ。
 書状しょじょうの内容は、徳川家とくがわけの領内である富士の人穴ひとあなを中心に、裾野すその一帯の無人むじん広野こうやに、いまや、呂宋兵衛るそんべえだの、伊那丸いなまるだの、あるいは秀吉ひでよし隠密おんみつ柴田勝家しばたかついえ間者かんじゃなどが、跳梁ちょうりょうして、風雲すこぶる険悪けんあくである。はやく、いまのうちに味方の兵をだして、それらの者を、掃滅そうめつしなければ一大事で。――という意味のものであった。
 その密談のあいだに、
「ちぇッ、ばかにしてやがら」
 城内の一室で、プンプンしていたのは蛾次郎がじろうである。もう焼餅やきもちべつくし、腹はいっぱいになったが、まさか寝ることもできず、半助はいつまでも顔を見せないし、遊ぶところはなし、文句もんくのやり場のないところから、ひとりでブツブツこぼしている。
「いやンなっちゃうな。どうしたんだい、あの人は、向田むこうだしろへいったら、なんでも好きなものはやるの、うまいものは食いほうだいだのッて、いっておいてよ、ちぇッくそ! ばかにしてやがら、うそつき! 菊池半助きくちはんすけの大うそつき!」
 腹いせにわめいていると、ふいに、そこへ半助がはいってきたので、さすがの蛾次郎も、これにはすこしが悪かったとみえて作り笑いをした。
「蛾次郎、さだめしたいくつであったろう」
「ううん、そんなでもなかったよ、だけれど、菊池さんはいままでいったいどこへいってたのさ」
「そのほうをりっぱなさむらいに取り立ててやりたいと、城主じょうしゅ周防守すおうのかみさまとそうだんしてまいったのだ。どうだ蛾次郎がじろう、きさまもはやくりっぱな侍になり、堂々と馬にのったり、多くの家来をかかえて、こんなお城に住んでみたくはないか」
「うふふふふふ、おれをその侍にしてくれるのかい」
 蛾次郎は、目をほそくしてうれしがった。
「きっとしてやる。が、それには、ぜひなにか一つの手柄てがらをあらわさなければならん」
「手柄をあらわすには、どんなことをすりゃいいんだろう」
「その方法は拙者せっしゃがおしえてやる。しかも蛾次郎でなければできぬことがあるのだ。これ、耳をかせ……」
 と半助はんすけは、なにやらひそひそささやくと、蛾次郎は目をまるくして、あたりもかまわず、
「えッ、じゃあの竹童ちくどうの使っている大鷲おおわしを、おれがぬすんでくるのかい!」
「シッ、大きな声をいたすな。――そちはたしか、あの大鷲に乗せてもらった経験があるだろう」
「ある、ある。竹童が松明たいまつをくれッていったから、それを持っていって、一晩じゅう、鷲に乗せてもらったよ」
「さすれば、あの小僧こぞうが鷲をつないでおくところも、鷲の背に乗ることも、そちはじゅうぶんに心得ているはず――じつは近いうちに、あの辺で大きないくさがおきるのだ、そのさわぎに乗じて、竹童のわしを徳川家の陣中へ乗りにげしてくれればそれでよいのだ。なんと、やさしいことではないか」
「だけれど、……もしかやりそこなうと大へんだな、竹童ッてやつ、ちびでもなかなか強いからな」
蛾次がじッ」
 半助がこわい目をしたので、かれは、ギョッとして飛びのいた。
「いやといえばこれだぞ――」
 ギラリと脇差わきざしをぬいて、蛾次郎がじろうの鼻ッ先へつきつけた菊池半助は、また、左の手で、たもとからザラザラと小判こばんをつかみだして、刀と金をならべてみせた。
「おうといえば褒美ほうびにこれ。イヤといえば刀で首。さアどっちでもよいほうをのぞめ」


 菊池半助きくちはんすけの書面が、家康いえやす本城ほんじょう浜松へつくと同じ日にいくさになれた三河武士みかわぶしの用意もはやく、旗指物はたさしものをおしならべて、東海道を北へさして出陣した三千の軍兵ぐんぴょう
 精悍無比せいかんむひときこえた亀井武蔵守かめいむさしのかみの兵七百、内藤清成ないとうきよなり手勢てぜい五百、加賀爪甲斐守かがづめかいのかみの一隊六百余人、高力与左衛門こうりきよざえもんの三百五十人、水野勝成みずのかつなり後詰ごづめの人数九百あまり、軍奉行いくさぶぎょう天野三郎兵衛康景あまのさぶろべえやすかげ
 法螺ほら陣鐘じんがねの音に砂けむりをあげつつ、堂々と街道かいどうをおしくだり、蒲原かんばら宿しゅく向田むこうだノ城にはいって、松平周防守まつだいらすおうのかみのむかえをうけた。
 ここで、裾野陣すそのじんの大評議をした各将は、待ちもうけていた菊池半助を、地理の案内役として先陣にくわえ、全軍犬巻峠いぬまきとうげけんをこえて、富士河原ふじがわらを乗りわたし、天子てんしたけのふもとから南裾野みなみすそのへかけて、長蛇ちょうだの陣をはるもよう。
 西をのぞめば、あまたけのいただきを陣地とする武田伊那丸たけだいなまるの一とう、北をみれば、人穴城ひとあなじょうにたてこもる呂宋兵衛るそんべえの一族、また南の平野には、あおい旗指物はたさしものをふきなびかせて、威風いふうりんりんとそなえた三千の三河武士みかわぶしがある。
 ここ、いずれも、敵味方三方わかれの形である。
 こうを攻めればおつきたらん、乙を討たんとせばへいかんという三かく対峙たいじ。はたしてどんな駈引かけひきのもとに、目まぐるしい三つどもえの戦法がおこなわれるか、風雲の急なるほど、裾野のなりゆきは、いよいよ予測よそくすべからざるものとなった。
 けれど、それは人と人とのこと、弓取りと弓取りのこと。晩秋の千草ちぐさを庭としてあそぶ、うずら百舌もずや野うさぎの世界は、うらやましいほど、平和そのものである。
 ちょうどそれとおなじように、のんきのしゃアな顔をして、またぞろ、裾野へいもどってきた泣き虫の蛾次郎がじろうはばかにいい身分になったような顔をして、あっちこっちを、のこのこと歩いていた。


木隠こがくれ出立しゅったつしてから、きょうで、はや四日目。――かれのことだ。よも、裏切うらぎりもすまいが、なんの沙汰さたもないのは、どうしたのか。おいとしや、若君のご武運もいまは神も見はなし給うか」
 床几しょうぎによって、まなこをとじながら、こうつぶやいた小幡民部こばたみんぶ
 ここは、陣屋というもわびしい、武田伊那丸たけだいなまるのいるあまたけ仮屋かりやである。軍師ぐんし民部は、きのうからまくのそとに床几をだして、ジッと裾野すそのをみつめたまま、龍太郎りゅうたろうのかえりを、いまかいまかと待ちかねていた。
 が――龍太郎のすがたはきょうもまだ見えない。四日のあいだには、かならず兵三百をりあつめて、帰陣するとちかってでた木隠龍太郎。ああ、かれの影はまだどこからも見えてこない。
 いよいよ、絶望とすれば、ふたたび、人穴城ひとあなじょうを攻めこころみて、散るか咲くかの、さいごの一戦! それよりほかはみちがない。すでにへいみ、兵糧ひょうろうもとぼしく、もとより譜代ふだいの臣でもない野武士のぶしの部下は、日のたつほどひとり去りふたりにげ、この陣地をすて去るにちがいない。
軍師ぐんし、軍師、小幡民部どの!」
 ふいに、耳もとでこうよぶ声。
 あれやこれ、思いしずんでいた民部が、ふと、見あげると、巽小文治たつみこぶんじ加賀見忍剣かがみにんけんが連れ立ってそこにある。
「オ。これはご両所りょうしょ、なんぞご用で」
一昨日おとといからかなたにあって、待ちわびている者が、もういちどこれを最後として、若君へお取次ぎを願って見てくれいと申して、いッかなきかぬ。――軍師ぐんしから伊那丸いなまるさまへ、もういちどおことばぞえねがわれまいか」
「おお、上部八風斎かんべはっぷうさいのことですか、そのは、拙者せっしゃからも再三若君のお耳へいれたが、だんじて会わんという御意ぎょいのほか、一こうお取上げにならぬしまつ。事情をいうて追いかえされたがよろしかろう」
「は」
 といったが、ふたりのおもてはとうわくの色にくもった。
 じぶんたちが独断で、八風斎を本陣へつれてきたのがわるかったか。伊那丸は対面無用といったまま、耳もかさないのである。また、八風斎のほうでも、あくまで、会わぬうちは、このあまたけをくだらぬといい張って、うごく気色けしきもなかった。
 忍剣と小文治は、なかに立って板ばさみとなった。八風斎はだだをこねるし、伊那丸はきげんがわるい。これでは立つ瀬がないと、いまも民部に、苦しい立場をうちあけていると、ふいに、とばりのかげから伊那丸の声で、
「民部、民部やある」
 としきりに呼ぶ。
「はッ」
 とりいそいで、まくのなかへ姿をいれた小幡民部こばたみんぶは、ふたたびそこへ立ちもどってきて、
「よろこばれよご両所りょうしょ、にわかに若君が、八風斎に会ってやろうとおおせだされた。御意ぎょいのかわらぬうち、いそいで、かれをここへ」
 といった。
 もなく、上部八風斎かんべはっぷうさいはあなたの仮屋かりやから、忍剣にんけん小文治こぶんじにともなわれてそこへきた。迎えにたった民部は、そも、どんな人物かとかれを見るに、はなかけ卜斎ぼくさいの名にそむかず、容貌ようぼうこそ、いたってみにくいが、さすが北越ほくえつ梟雄きょうゆう鬼柴田おにしばたの腹心であり、かつ攻城学こうじょうがく泰斗たいとという貫禄かんろくが、どこかに光っている。
「八風斎どの、それへおひかえなさい」
 制止せいしの声とどうじに、バラバラと陣屋のかげからあらわれた槍組やりぐみのさむらい、左右二列にわかれて立ちならぶ。
 と――武田菱たけだびしもんを打ったまえの陣幕じんまくが、キリリと、上へしぼりあげられた。
 見れば、正面しょうめん床几しょうぎに、だかさと、美しい威容いようをもった伊那丸いなまる、左右には、山県蔦之助やまがたつたのすけ咲耶子さくやこが、やや頭をさげてひかえている。
「これは……」
 と、やりぶすまにひるまぬ八風斎も、うたれたように平伏へいふくした。


 初対面しょたいめんのあいさつや、陣中の見舞みまいなどをのべおわってのち、八風斎はっぷうさいは、れいの秘図ひずをとりだし、主人勝家かついえからのおくり物として、うやうやしく、伊那丸いなまる膝下しっかにささげた。
 が、なぜか、伊那丸は、よろこぶ色はおろか、さらに見向きもしないで、にべなくそれをつッかえした。
「ご好意はかたじけないが、さようなものはじぶんにとってしゅうもない。持ちかえって、柴田しばたどのへお土産みやげとなさるがましです」
「は、心得ぬおおせをうけたまわります。主人勝家かついえこそははるかに御曹司おんぞうしのおうえをあんじている、無二のお味方、人穴城ひとあなじょうをお手にいれたあかつきは、およばずながらよしみをつうじて、ご若年じゃくねんのおすえを、うしろだてしたいとまでもうしております。……なにとぞ、おうたがいなくご受納じゅのうのほどを」
「だまれ、八風斎!」
 はッたとにらんだ伊那丸は、にわかにりんとなって、かれの胸をすくませた。
「いかに、なんじが、懸河けんがべんをふるうとも、なんでそんな甘手あまてにのろうぞ。この伊那丸に恩義を売りつけ、柴田が配下に立たせようはかりごとか、または、後日ごじつに、人穴城をうばおうという汝らの奸策かんさく、この伊那丸は若年じゃくねんでも、そのくらいなことは、あきらかに読めている」
「うーむ……」
 うめきだした八風斎はっぷうさいの顔は、見るまにまッさおになって、じッと、伊那丸いなまるをにらみかえして、もあやしく血走ってくる。
えきないことにひまとらずに、なんじ早々そうそう北越ほくえつへひきあげい。そして、勝家かついえとともに大軍をひきい、この裾野すそのへでなおしてきたおりには、またあらためて見参げんざんするであろう。そちの大事がる図面とやらも、そのとき使うように取っておいたがよい」
 深くたくらんだ胸のうちも、完全に見やぶられた八風斎は、本性ほんしょうをあらわして、ごうぜんとそりかえった。
「なるほど、さすが信玄しんげんまごだけあって、その眼力がんりきはたしかだ。しかしわずか七十人や八十人の小勢こぜいをもって、人穴城ひとあなじょうがなんで落ちよう。敵はまだそればかりか、呂宋兵衛るそんべえにもましておそろしい大敵が、すぐ背後うしろにもせまっているぞ。悪いことはすすめぬから、いまのうちに柴田家しばたけ旗下きかについて、後詰ごづめ援兵えんぺいをあおぐが、よいしあんと申すものじゃ」
「だまれ。よしや伊那丸ひとりになっても、なんで、柴田ずれの下風かふうにつこうや、とくかえれ、八風斎!」
「ではどうあっても、柴田家にはつかぬと申しはるか、あわれや、信玄の孫どのも、いまに、裾野にかばねをさらすであろうわ、笑止しょうし笑止」
 毒口どくぐちたたいて、秘図ひずをふところにしまいかえした八風斎、やおら、伊那丸のまえをさがろうとすると、面目めんもくなげにうつむいていた忍剣にんけん小文治こぶんじが、左右から立って、
「若君にむかってふらちな悪口あっこう、よくもわれわれ両人をだましおったな!」
 と、猿臂えんぴをのばして、八風斎のえりがみをつかもうとしたとき、
方々かたがた! 方々! 敵の大軍が見えましたぞッ」
 にわかに起ったさけび声、陣のあなたこなたにただならぬどよみ声、伊那丸いなまる咲耶子さくやこも、民部みんぶ蔦之助つたのすけも、思わずきッと突っ立った。
「それ見たことか、はやくも地獄じごくの迎えがきたわッ!」
 さわぎのすきに、すてぜりふの嘲笑ちょうしょうをなげながら、疾風しっぷうのように逃げだした上部八風斎かんべはっぷうさい
 忍剣と小文治が、なおも追わんとするのを伊那丸はかたくめて、かれのすがたを見送りもせず、
「小さき敵に目をくるるな、心もとない大軍の出動とやら、だれぞ、はようもの見せい!」
「はい、かしこまりました」
 こたえた声音こわねは意外にやさしい、だれかとみれば、伊那丸のそばから、ちょうのように走りだしたひとりの美少女、いうまでもなく咲耶子である。
 見るまに、物見ものみの松の高きところによじのぼって、こずえにすがりながら、片手をかざし、
「オオ、見えまする! 見えまする!」
「して、その敵のありどころは」
 松の根方ねかたから上をあおいで、一同がこたえを待つ。
 上では、緑の黒髪を吹かれながら、咲耶子さくやこの声いっぱい。
天子てんしたけのふもとから、南すそのへかけて、まんまんと陣取ったるが本陣と思われまする。オオ、しかも、その旗印はたじるしは、徳川方とくがわがた譜代ふだい天野あまの内藤ないとう加賀爪かがづめ亀井かめい高力こうりきなどの面々」
「やや、では呂宋兵衛るそんべえ人穴城ひとあなじょうをでたのではなかったか。してして軍兵ぐんぴょうのかずは?」
「富士川もよりには、和田わだ樋之上ひのかみの七、八百大島峠おおしまとうげにも三、四百余の旗指物はたさしもの、そのほか、津々美つつみ白糸しらいと門野もんののあたりにある兵をあわせておよそ三千あまり」
「その軍兵は、こなたへ向かって、すすんでくるか?」
「いえいえ、まんしてうごかぬようす、敵の気ごみはすさまじゅう見うけられます」
 咲耶子の報告がおわると、物見ものみの松のしたでは、伊那丸いなまる軍師ぐんしを中心にして、悲壮な軍議がひらかれた。まえには、人穴城の強敵あり、うしろには徳川家とくがわけの大軍あり、あまたけは、いまやまったく孤立無援こりつむえんの死地におちた。
 おそらくは、主従しゅじゅうの軍議もこれが最後のものであろう。軍議というも、守るも死、攻むるも死、ただ、その死に方の評定ひょうじょうである。
 時は、たそがれどきか、あるいは、よいか夜中か明け方か、いずれにせよ、闇でも花とちるにはかわりがない。
 こい! 徳川勢とくがわぜい――。
 伊那丸方いなまるがた面々めんめんは、馬には飼糧かいば、身には腹巻をひきしめて、あまたけの陣々に鳴りをしずめた。
 そのころ、人穴城ひとあなじょう望楼ぼうろうのうえにも、三つの人影があらわれた。大将呂宋兵衛るそんべえに、軍師ぐんし丹羽昌仙にわしょうせん、もうひとりは客分の可児才蔵かにさいぞう。三人は、いつまでも暮れゆく陣地をながめわたして、なにやら密議に余念がない。心なしか、こよいはことにとりでのうえに、いちまつの殺気がみち満ちていた。

 富士ふじはくれゆく、裾野すそのはくれる。
 きょうで四日目のは、まさに沈もうとしているのに小太郎山こたろうざんへむかって、駿馬しゅんめ項羽こううをとばせた木隠龍太郎こがくれりゅうたろうはそも、どこになにしているのだろう。
 かれは、よもやあまたけにのこした伊那丸の身や、同志の人々を忘れはてるようなものではけっしてあるまい。いや、断じてないはずの人間だ。それだのに、晩秋のもやひくくとぶ鳥はみえても、駿馬項羽にまたがったかれのすがたが、いつまでも見えてこないのはどうしたわけだ?
 人無村ひとなしむらで、とんだいのちびろいをしたッきり、白旗しらはたもりのおくへもぐりこんでしまった竹童ちくどうも、ほんとに、頭脳あたまがいいならば、いまこそどこかで、
「きょうだぞ、きょうだぞ、さアきょうだぞ」
 とさけんでいなければならないはず。
 お師匠ししょうさまの果心居士かしんこじから、こんどこそ、やりそこなったら大へんだという秘命ひめいを、とっくのまえからさずけられている竹童ちくどうが、その、一生いちどの大使命をやる日はまさにきょうのはずだ。
 ところが、きのうあたりから、あの蛾次郎がじろうが、団子だんご焼餅やきもちなどをたずさえて、チョクチョク白旗の森にすがたを見せ、竹童のごきげんとりをやりだしたのも奇妙きみょうである。

密林みつりん出来事できごと




 雨のような落葉おちばが、よこざまに、ばらばらとる。
 くろい葉、きいろい葉、まっかな葉、入りまじってさんらんと果てしなくとぶ。
 さしもひろいみずうみの水も、ながい道も、このあたりは見るかぎり落葉おちばの色にかくされて、足のふみ場もわからないほどである。
 と――どこかで、
「ぐう、ぐう、ぐう……」
 不敵ふてきないびきの声がする。
 つかれた旅人でも寝ているのであろう、白旗しらはたみやの、蜘蛛くもだらけな狐格子きつねごうしのなかから、そのいびきはもれているのだ。
 旅人なら、夕陽ゆうひの光がまだ、雲間くもまにあるいまのうちに早くどこか、人里ひとざとまでたどりいておしまいなさい――と願わずにいられない。
 この地方は、冬にならぬころから、口のひっけた、れいのおおかみというのが、よく出現して、たびの人を、ほねだけにしてしまう。
 するとあんのじょう、森のかげから、ガサガサという異様な音がちかづいてきた。みると、それはさいわいにして狼ではなかったが、針金頭巾はりがねずきん小具足こぐそくで、甲虫かぶとむしみたいに身をかためたふたりの兵。手には短槍たんそうを引っさげている。
 服装の目印めじるし、どうやら徳川家とくがわけ斥候ものみらしいが、きょう、天子てんしたけに着陣したばかりなのに、はやくもこのへんまで斥候の手がまわってきたとはさすが、海道一の三河勢みかわぜい、ぬけ目のないすばやさである。
 斥候の甲虫は、一歩一歩、あたりに気をくばって、落葉おちばをふむ足音もしのびやかにきたが、
「しッ……」
 と、さきのひとりが、白旗の宮のそばで、うしろの者へ手あいずする。
「なんだ……」
 おなじく、ひくい声でききかえした。
「あやしい声がする」
「えッ」
「しずかに」
 ぴたりと、ふたりはやりとともに落葉のなかへ身をふせてしまった。そして、ややしばらく、耳と目をぎすましていたが、それっきり、いまのいびきも聞えなくなったので、甲虫かぶとむしはふたたび身をおこして、いずこともなく立ちさった。
 あとは、またものさびしい落葉おちばい。
 暮れんとして暮れなやむ晩秋の哀寂あいじゃく
 ぎい……とふいに、白旗しらはたみや狐格子きつねごうしがなかからあいた。そして、むっくり姿をあらわしたのは、なんのこと、鞍馬山くらまやま竹童ちくどうであった。
「あぶない、あぶない。もうこんなほうまで、徳川家の陣笠じんがさがうろついてきたぞ。ところで、おいらは、いよいよ、今夜お師匠ししょうさまのおいいつけをやるのだが、それにしては、もうそろそろどこかで、ときこえがあがってきそうなもの……どれ、ひとつ高見たかみから陣のようすをながめてやろうか」
 ひらりと、宮のえんから飛びおりるがはやいか、湖畔こはんにそびえているもみ大樹たいじゅへ、するするすると、りすの木のぼり、これは、竹童ならではできない芸当げいとう
 数丈すうじょううえのてっぺんに、からすのようにとまった竹童、したり顔して、あたりの形勢けいせいをとくと見とどけてのち、ふたたびりてくると、こんどは、白旗しらはたみやの拝殿にかくしておいた一たばの松明たいまつをかつぎだしてきた。
 この松明こそは、竹童が苦心さんたんして、蛾次郎がじろうから手にいれたものである。かれは、この松明、二十本をなんに使うつもりか、腰に皮の火打石袋ひうちいしぶくろをぶらさげ、いっさんに、白旗の森のおくへ走りこんでいった。


 そこは密林みつりんのおくであったが、地盤じばんの岩石が露出ろしゅつしているため、一町四ほうほど樹木じゅもくがなく、平地はすずりのような黒石、け目くぼみは、いくすじにもわかれた、水が潺湲せんかんとしてながれていた。
 ギャアギャアギャア
 ――ふしぎな怪物のごえがする。そして、すさまじいばたきがそこで聞えた。見ると、ひとつの岩頭がんとう金瞳黒毛きんどうこくもう大鷲おおわしが、威風いふうあたりをはらい、八方を睥睨へいげいしてとまっている。
 いうまでもない、クロである。
 むろん、足はなにかで岩のっこへしばりつけてあるらしかった。
「やい、もひとつけ、もひとつ啼いてみろ」
 七尺ばかりはなれて、わしとあいむきに、腰かけていた者はれいの蛾次郎、竹の先ッぽに、うさぎの肉をつきして、しきりにクロをらそうとしていた。
「おい、蛾次公がじこう、なにをしてるんだい」
「え」
 ふいに肩をたたかれて、蛾次郎がひょいと、うしろを見ると、竹童ちくどうが、松明たいまつまきのようにしょって立っている。
「なにもしてやしないさ、えさをやっているんだ」
「よけいなことをしてくれなくってもいい、さっきも、おいらが鹿しかももを二つやったんだから」
「ああ、竹童さんにも、おれが土産みやげを持ってきたぜ、きょうは焼栗やきぐりだ、ふたりで仲よく食べようじゃないか」
「いやにこのごろは、おいらにおべっかを使うな、そんなにおせじをつかってきたって、もう、そうはちょいちょいわしに乗せてやるわけにはゆかないぜ」
「そんなことをいわないで、おれを弟子でしにしてくれよ、な、たのまあ、そのかわりに、おまえのためなら、おれはどんなことだって、いやといわないからよ」
「きっとか」
「きっとだ!」
「じゃ。さっそく一つ用をたのもうかな」
「たのんでくれよ、さ、なんだい」
「大役だぜ」
「いいとも」
「他人の用ばかりしていると、おまえの主人の鼻かけ卜斎ぼくさいに、しかられやしないか」
「大じょうぶだってことさ、おらあもうあすこのうちをとびだして、いまでは徳川家とくがわけの……」
 と、いいかけて、さすがの低能児ていのうじも、気がついたらしく、口をにごらしながら、
「いまじゃ、天下の浪人ろうにんもおんなじからだなんだ」
「ふうむ……じゃね、これからおいらのために、ちょっとそこまで斥候ものみにいってくれないか」
斥候ものみに?」
 蛾次郎がじろうぎょっと、目を白くした。
 竹童ちくどうは、ことさらに、なんでもないような顔をして、
「このあいだから、あまたけに陣取っている、武田伊那丸たけだいなまるさまの軍勢が、人穴城ひとあなじょうへむかってうごきだしたら、すぐここまで知らしてくれりゃいいのだ」
「そしたら、いったい、どうする気なんだい?」
「どうもしないさ、このわしにのって、大空から戦見物いくさけんぶつにでかけるのさ」
「おもしろいなあ、おれもいっしょに乗せてくれるか」
「やるとも」
「よしきた、いってくら!」
 よく人のだしにつかわれる生まれつきだ。年下の者のおちょうしにのって、もう、一もくさんにかけていく。
 そのあとで竹童ちくどうは、わしの足をといてやった。クロは自由のになっても、竹童のそばを離れることなく、流れる水をすっていると、かれはまた火打石ひうちいしを取りだして、そこらの枯葉かれはに火をうつし、煙の立ちのぼる夕空をあおぎながら、
「おそいなあ。あのぐずの斥候ものみを待っているより、またじぶんでそこいらの木へ登ってみようかしら」
 と、ひとりつぶやいたとこである。
 すると、いつのにか、かれの身辺をねらって、じりじりとはいよってきたふたりの武士ぶし――それはまえの甲虫かぶとむしだ、いきなり飛びついて、
「こらッ、あやしい小僧こぞう!」
「うごくなッ」
 とばかり、竹童の両腕とってねじふせた。竹童はまったくの不意打ち、なにを叫ぶもなく、ねかえそうとしたが、はやくも、甲虫の短刀が、ギラリと目先めさきへきて、
「うごくといのちがないぞ、しずかにせい、しずかにせい」
「な、な、なにをするんだい!」
「なにもくそもあるものか、きさまこそ、餓鬼がきのぶんざいで、この松明たいまつをなんにつかう気だ、文句もんくはあとで聞いてやるから、とにかく天子てんしたけのふもとまでこい」
「や、ではきさまたちは徳川方とくがわがた斥候ものみだな」
「おお、亀井武蔵守かめいむさしのかみの手の者だ」
「ちぇッ、そう聞きゃおいらにも覚悟がある」
生意気なまいきなッ」
 たちまち、大人おとなふたりと、竹童との、乱闘らんとうがはじまった。
 こいつ、からだはちいさいが、一すじなわではいかないぞ――とみた甲虫かぶとむしは、やにわに短槍たんそうをおっ取って、閃々せんせんと突いて突いて、突きまくってくる。
 あわや、竹童あやうし――と見えたせつなである。にわかに、大地をめくり返すような一陣の突風とっぷう! と同時に、パッとつばさをひろげた金瞳きんどう黒鷲くろわしは、ひとりをかたつばさではねとばし、あなよというまに、あとのひとりの肩先へとび乗って、銀のつめをいかり立ッて、かれの顔を、ばりッとかいて宙天ちゅうてんへつるしあげた。
「わッ!」
 と、大地へおちてきたのを見れば、目も鼻も口もわからない。満顔まんがんただからくれないの一コのくび

信玄しんげん再来さいらい




 さても伊那丸いなまるは、小袖こそでのうえに、黒皮くろかわ胴丸どうまる具足ぐそくをつけ、そまつな籠手こて脛当すねあて、黒の陣笠じんがさをまぶかにかぶって、いま、馬上しずかに、あまたけをくだってくる。
 世にめぐまれたときのきみなれば、くわがたのかぶとに、八幡座はちまんざの星をかざし、おどしのよろい黄金こがねの太刀はなやかにかざるおであるものを……と、つきしたがう、民部みんぶをはじめ、忍剣にんけん小文治こぶんじ蔦之助つたのすけも、また咲耶子さくやこも、ともに、馬をすすめながら、思わず、ほろりと小袖こそでをぬらす。
 兵は、わずかに七十人。
 みな、生きてかえるいくさとは思わないので、張りつめた面色めんしょくである。決死のひとみ、ものいわぬ口を、かたくむすんで、粛々しゅくしゅくをそろえた。
 まもなく、梵天台ぼんてんだいたいらへくる。よるとばりはふかくおりて徳川方とくがわがたの陣地はすでに見えなくなったが、すぐ前面の人穴城ひとあなじょうには、魔獣まじゅうの目のような、狭間はざまが、チラチラ見わたされた。その時、やおら、俎岩まないたいわの上につっ立った軍師ぐんし民部みんぶは、人穴城をゆびさして、
「こよいの敵は呂宋兵衛るそんべえ、うしろに、徳川勢とくがわぜいがあるとてひるむな――」
 高らかに、全軍の気をひきしめて、さてまた、
「味方は小勢こぜいなれども、正義の戦い。弓矢八幡ゆみやはちまんのご加勢があるぞ。われと思わんものは、人穴城ひとあなじょうの一番乗りをせよや」
 同時に、きッと、馬首ばしゅを陣頭にたてた伊那丸は、かれのことばをすぐうけついで、
「やよ、面々めんめん、戦いの勝ちは電光石火でんこうせっかじゃ、いまこそ、この武田伊那丸たけだいなまるに、そちたちのいのちをくれよ」
 凛々りんりんたる勇姿ゆうし、あたりをはらった。さしも、烏合うごう野武士のぶしたちも、このけなげさに、一てきなみだを、具足ぐそくにぬらさぬものはない。
「おう、このきみのためならば、いのちをすててもおしくはない」
 と、ほねり、肉おどらせて、勇気は、日ごろに十倍する。
 たちまち、進軍の合図あいず
 さッと、民部みんぶの手から二ぎょうにきれた采配さいはいの鳴りとともに、陣は五段にわかれ、雁行がんこうの形となって、やみ裾野すそのから、人穴城ひとあなじょうのまんまえへ、わき目もふらず攻めかけた。
「わーッ。わーッ……」
 にわかにあがるときこえ
「かかれかかれ、いのちをすてい」
 いまぞ花の散りどころと、伊那丸は、あぶみを踏んばり、くらつぼをたたいて叫びながら、じぶんも、まっさきに陣刀をぬいて、城門まぢかく、奔馬ほんばを飛ばしてゆく。
 と見て、帷幕いばく旗本はたもとは、
「それ、若君わかぎみに一番乗りをとられるな」
「おん大将に死におくれたと聞えては、弓矢の恥辱ちじょく、天下の笑われもの」
「死ねやいまこそ、死ねやわが友」
「おお、死のうぞ方々かたがた
 たがいに、いただく死のかんむり
 えいや、えいや、かけつづく面々めんめんには、忍剣にんけん民部みんぶ蔦之助つたのすけ、そして、女ながらも、咲耶子さくやこまでが、筋金入すじがねいりの鉢巻はちまきに、鎖襦袢くさりじゅばんはだにきて、手ごろの薙刀なぎなたをこわきにかいこみ、父、根来小角ねごろしょうかくのあだを、一太刀ひとたちなりとうらもうものと、猛者もさのあいだに入りまじっていく姿は、勇ましくもあり、また、涙ぐましい。
 ただ、こよいのいくさに、一点のうらみは、ここに、かんじんかなめな、木隠龍太郎こがくれりゅうたろうのすがたを見ないことである。
 かみは大将伊那丸いなまるから、した雑兵ぞうひょうにいたるまで、死の冠をいただいてのこの戦いに、大事なかれのいあわせないのは、かえすがえすも遺憾いかんである。ああ龍太郎、かれはついに、伊那丸の前途ぜんとに見きりをつけ、しゅをすて、友をすて去ったであろうか。――とすれば、龍太郎もまた、武士ぶし風上かざかみにおけない人物といわねばならぬ。


「いよいよ攻めてまいりましたぞ」
「なに、大したことはない。主従がっしても、せいぜい八十人か九十人の小勢こぜいです」
「小勢ながら、正陣せいじんの法をとって、大手へかかってきたようすは、いよいよ決死の意気、うっかりすると、手を焼きますぞ」
「おう、そういえば、天をつくようなときこえ
伊那丸いなまるは、たしかに、いのちをすてて、かかってきた……」
 まっ暗な、空の上での話し声だ。
 そこは、人穴城ひとあなじょう望楼ぼうろうであった。つくねんと、高きところのやみに立っているのは、呂宋兵衛るそんべえ可児才蔵かにさいぞうである。
 呂宋兵衛は、いましがた、軍師ぐんし昌仙しょうせん物頭ものがしらとどろき又八が、すべての手くばりをしたようすなので、ゆうゆう、安心しきっているていだった。
 が、可児才蔵はかんがえた。
「待てよ、こいつは見くびったものじゃない……」と。
 そして日没にちぼつから、伊那丸の陣地を見わたしていると、小勢こぜいながら、守ること林のごとく、攻むること疾風しっぷうのようだ。
 かれは、心のうちで、ひそかにしたをまいた。
「いま、天下の者は豊臣とよとみ徳川とくがわ北条ほうじょう柴田しばたのともがらあるを知って、武田菱たけだびしはたじるしを、とうの昔にわすれているが――いやじぶんもそうだったが――こいつは大きな見当けんとうちがい、あの麒麟児きりんじが、一ちょうの風雲に乗じて、つばさを得ようものなら、それこそ信玄しんげん再来さいらいだろう。天下はどうなるかわからない、下手へたをすると、主人の秀吉公ひでよしこうのご未来に、おそろしいつまずきを、きたそうものでもない――これは、ぐずぐずしている場合ではない。すこしもはやく安土城あづちじょうへ帰って、このよしを復命するのがじぶんの役目、もとより秀吉公は、呂宋兵衛るそんべえには、あまり重きをおいていられないのだ、そうだ、その勝敗を見とどけたら、すぐにも安土へ立ちかえろう」
 ほぞをきめたが、色にはかくして、大手の形勢けいせい観望かんぼうしている。
 そこには、たちまち矢叫やさけび、吶喊とっかんこえ大木たいぼく大石たいせきを投げおとす音などが、ものすさまじく震撼しんかんしだした。もう――と、煙硝えんしょうくさいたまけむりが、釣瓶つるべうちにはなす鉄砲の音ごとに、やぐらの上までまきあがってくる。
 おりから、望楼ぼうろうの上へ、かけあがってきたのは、とどろき又八であった。黒皮胴くろかわどう具足ぐそく大太刀おおだちを横たえ、いかにも、ものものしいいでたちだ。
「お頭領かしらに申しあげます」
「どうした、戦いのもようは?」
「城兵は、一のもん二の門とも、かたく守って、破れる気づかいはありませぬ。だがかれもまた、伊那丸をせんとうに、一歩もひかず、小幡民部こばたみんぶのかけ引き自在じざいに、勝負ははてしないところです。これは、丹羽昌仙にわしょうせんのれいの蓑虫根性みのむしこんじょうから起ること、なにとぞ、とくにお頭領よりこの又八に、城外へ打ってでることを、おゆるし願わしゅうぞんじます」
「む、ではなんじは城門をおっぴらいて、いっきに、寄手よせてちらそうというのか」
「たかのしれた小人数、かならずこの又八が、一ぴきのこらずひっからげて、呂宋兵衛るそんべえさまのおんまえにならべてごらんにいれます」
昌仙しょうせんの手がたい一点ばかりも悪くないが、なるほど、それでははてしがあるまい。ゆるす、又八、打ってでろ」
「はッ、ごめん」
 と会釈えしゃくをして、バラバラと望楼ぼうろうをかけおりていった。
 可児才蔵かにさいぞうはそれを見て、
「ああ、いけない」とひそかに思う。
 軍師ぐんし威命いめいおこなわれず、命令が二からでて、たがいにこうをいそぐこと、兵法の大禁物だいきんもつである。
 大手おおてへかけもどった又八は、すぐ、城兵のなかでも一粒ひとつぶよりの猛者もさ久能見くのみ藤次とうじ岩田郷祐範いわたごうゆうはん浪切右源太なみきりうげんた鬼面突骨斎おにめんとっこつさい荒木田五兵衛あらきだごへえ、そのほか穴山あなやま残党ざんとう足助主水正あすけもんどのしょう佐分利さぶり五郎次などを先手さきてとし、四、五百人を勢ぞろいしておしだした。
 軍師の昌仙がそれを見て、おどろき、おこるもかまわず、呂宋兵衛るそんべえのことばをかさに、
「それッ」
 と、城門を八文字もんじひらいた。
「わーッ」
 と、たちまち、寄手よせての兵と、ま正面しょうめんにぶつかって、人間の怒濤どとうと怒濤があがった。たがいに、退かず、かえさず、もみあい、おめきあっての太刀まぜである。それが、およそ半刻はんときあまりもつづいた。
 しかし、やがて時たつほど、むらがり立って、新手あらて新手と入りかわる城兵におしくずされ、伊那丸いなまるがたは、どっと二、三町ばかり退けいろになる。
「それ、このをはずすな」
 とみずから、八かくの鉄棒をりゅうりゅうと持って、まッ先に立った又八、
「追いつぶせ、追いつぶせ、どこまでも追って、伊那丸一をみなごろしにしてしまえ」
 と、千鳥ちどりを追いたつ大浪おおなみのように、逃げるに乗って、とうとう、裾野すそのたいらまでくりだした。


 時分はよしと、にわかにみとどまった小幡民部こばたみんぶ
 とつぜん、采配さいはいをちぎれるばかりにふって、
まれッ!」
 と、いった。
 さんをみだして、逃げてきた足なみは、ぴたりときびすをかえして、いなむらにおりたすずめのように、ばたばたとやりもろともにをふせる。
「かかれッ、とどろき又八をのがすな」
「おうッ」
 たちまちおこる胡蝶こちょうの陣。かけくる敵の足もとをはらって、乱離らんり、四めんぎたおす。
 なかにも目ざましいのは、山県蔦之助やまがたつたのすけ巽小文治たつみこぶんじのはたらき。見るまに、鬼面突骨斎おにめんとっこつさい浪切右源太なみきりうげんたを乱軍のなかにたおし、縦横無尽じゅうおうむじんとあばれまわった。
「さては、またぞろ民部みんぶさくにのせられたか」
 と、又八は色をうしなって、にわかに道をひき返してくると、こはいかに、すでに逃げみちを断って、ふいに目の前にあらわれた一手ひとての人数。
 そのなかから、ひときわ高い声があって、
武田伊那丸たけだいなまるこれにあり、又八に見参げんざん!」
「めずらしやとどろき小角しょうかくの娘、咲耶子さくやこなるぞ」
「われこそは加賀見忍剣かがみにんけん、いで、くびを申しうけた」
 と、耳をつんざいた。
 轟又八は、思わず、ぶるぶると身の毛をよだてた。腹心の剛力ごうりき荒木田五兵衛あらきだごへえは、忍剣にびかかって、ただ一討ひとうちとなる。
 手下てした野武士のぶしは、敵の三倍四倍もあるけれど、こう浮足うきあしだってしまっては、どうするすべもなかった。かれはやけ半分のをいからして、
「おう、山寨さんさい第一の強者つわものとどろき又八の鉄棒をくらっておけ」
 と、忍剣にんけん禅杖ぜんじょうにわたりあった。
 りゅううそぶきとらえるありさま、ややしばらく、人まぜもせず、石火せっかの秘術をつくし合ったが、すきをみて、走りよった伊那丸いなまるが、陣刀一せん、又八の片腕サッと斬りおとす。
「うーむ」
 よろめくところを、咲耶子さくやこ薙刀なぎなた、みごとに、足をはらって、どうと、ぎたおした。
 又八が討たれたと見て、もう、だれひとり踏みとどまる敵はない、道もえらばず、やみのなかをわれがちに、人穴城ひとあなじょうへ、逃げもどってゆく。
 その時、はるか南裾野みなみすそのにあたって、ぼう――ぼう――と鳴りひびいてきた法螺ほら遠音とおね、また陣鐘じんがね
 みわたせば、いつのまにやら、徳川とくがわ三千の軍兵ぐんぴょうは、裾野すその半円を遠巻とおまきにして、焔々えんえんたる松明たいまつをつらね、本格の陣法くずさず、一そく鶴翼かくよくそなえをじりじりと、ここにつめているようす。
 また、人穴城では、いまの敗北をいかった呂宋兵衛るそんべえがこんどはみずから望楼ぼうろうをくだり、さらに精鋭せいえい野武士のぶし千人をすぐってあらしのごとく殺到さっとうした。
 ひゅッ! ひゅッ!
 と早くも、やみをうなってきた矢走やばしりから見ても、徳川勢とくがわぜい先手さきて亀井武蔵守かめいむさしのかみ内藤清成ないとうきよなり加賀爪甲斐守かがづめかいのかみ軍兵ぐんぴょうはほど遠からぬところまで押しよせてきたものとおもわれる、その証拠には、伊那丸いなまるの陣した、あまたけのうえから噴火山ふんかざんのような火の手があがった。
 三河勢みかわぜいが火をかけたのである。
 その火明かりで、梵天台ぼんてんだいにみちている兵も見えた。まぢかの川を乗りわたしてくる軍馬も見えはじめた。裾野すそのは夕焼けのように赤くなった。
「若君、いよいよご最期さいごとおぼしめせ」
 小幡民部こばたみんぶが、天をあおいでこういった。
「覚悟はいたしておる。わしはうれしい、わしはうれしい!」
「おお、おうれしいとおっしゃいまするか」
野武士のぶしずれの呂宋兵衛るそんべえをあいてに討死するより、ただ一太刀でも、甲斐源氏かいげんじ怨敵おんてき徳川家とくがわけの旗じるしのなかにきりいって死ぬこそ本望ほんもう、うれしゅうなくてなんとするぞ」
「けなげなご一ごん、われらも、斬って斬って斬りまくろう」
 と、忍剣にんけんもいさみたったが、かえりみれば、前後に、この強敵をうけながら、伊那丸のまわりにのこった人数は、わずかに四十五、六人。

幽霊軍隊ゆうれいぐんたい




 竹童ちくどうにたのまれて、人穴城ひとあなじょう附近の斥候ものみにでかけた蛾次郎がじろうは、どうやら戦いがはじまりだしたようすなので、草むらをざわざわかきわけてもどってくると、とある小道で、向こうからくるひとりの男のかげを見つけた。
「ア、あいつはあまたけのほうからきたらしい、あいつに聞けば、伊那丸いなまるがたの、くわしいようすがわかるだろう……」
 道ばたに腰かけて、さきからくるのを待っている。
 ビタ、ビタ、ビタ……足音はちかづいてきたが、星明かりぐらいでは、それが百姓だか侍だかはんじがつかないけれど、蛾次郎は、ひょいとまえへ立ちあらわれて、
「もし、ちょっと、うかがいます」
 と、頭をさげた。
 おおかたびっくりしたのだろう、あいてはしばらくだまって、蛾次郎のかげを見すかしている。
「もしやあなたは、雨ヶ岳のほうから、やってきたのではございませんか」
「ああ、そうだよ」
「あすこに陣どっている、武田伊那丸たけだいなまるの兵は、もう山を下りましたろうか、戦いは、まだおッぱじまりませんでしょうかしら」
「知らないよ。そんなことは、おまえはいったいなにものだ」
「おれかい、おれはさ、もと鼻かけ卜斎ぼくさいという鏃鍛冶やじりかじのとこにいた、人無村ひとなしむら蛾次郎がじろうという者だが、どうも卜斎という師匠ししょうが、やかまし屋で気にくわないから、そこを飛びだして、いまではあるところの大大名だいだいみょうのおかかえさまだ」
「バカッ」
「アいたッ。こんちくしょう、な、な、なんでおれをなぐりやがる」
「蛾次郎、いつきさまにひまをくれた」
「えーッ」
「いつ、この卜斎が、ひまをやると申したか」
「あ、いけねえ!」
 蛾次郎が、くるくるいをして逃げだしたのも道理、それは、あまたけからおりてきたとうの卜斎、すなわち上部八風斎かんべはっぷうさいであった。
野郎やろう!」
 ばらばらッと追いかけて、蛾次郎のえりがみをひっつかみ、足をはやめて、人無村の細工さいく小屋へかえってきた。
「親方、ごめんなさい、ごめんなさい」
「えい、やかましいわい」
「アいてえ、もう、もうけっして、飛びだしません、親方ア、これから、気をつけます。か、かんにんしておくんなさい……」
 わんわんと手ばなしで泣きだした。もっとも、蛾次郎がじろうの泣き虫なること、いまにはじまったことではないから、その泣き声も、たいして改心の意味をなさない。
「バカ野郎、てめえに叱言こごとなどをいっていられるものか。こんどだけは、かんべんしてやるから、これをしょって、早くあるけ」
 と、今夜は八風斎はっぷうさいの鼻かけ卜斎ぼくさいも、家にかえって落ちつくようすもなく、書斎しょさいをかきまわして、だいじな書類だけを、一包ひとつつみにからげ、それを蛾次郎にしょわせて、夜逃げのように、立ちのいてしまった。
 門をでると、いま泣いたからす蛾次がじ、もうけろりとして、
「親方、親方、こんな物をしょって、これからいったいどこへでかけるんですえ」
 とききだした。
いくさばかりで、この人無村ひとなしむらでは仕事ができないから、越前えちぜんきたしょうへ立ちかえるのだ」
「え、越前へ」
 蛾次郎はおどろいた。
「いやだなア」
 と、口にはださないが、はらのなかでは、渋々しぶしぶした。せっかく、菊池半助きくちはんすけが、ああやって、徳川家とくがわけ出世しゅっせつるをさがしてくれたのに、越前なンて雪国へなんかいくなんて、なんとつまらないことだと、また泣きだしたくなった。
 ちょうど、夜逃げのふたりが、人無村ひとなしむらのはずれまできた時、――八風斎はっぷうさいがふいにピタリと足をとめて、
「はてな? ……」
 と、耳をそばだてた。
「な、なんです親方」
「だまっていろ……」
 しばらく立ちすくんでいると、たちまち、ゆくての闇のなかから、とう、とう、とう――と地をひびかせてくる軍馬のひづめ、おびただしい人の足音、行軍こうぐんの貝の音、あッと思うまに、三、四百人の蛇形陣だぎょうじんが、あらしのごとくまっしぐらに、こなたへさしてくるのが見えだした。
 八風斎はっぷうさいは、ぎょっとして、さけんだ。
蛾次郎がじろう、蛾次郎、すがたをかくせ、早くかくれろ」
「え、え、え、なんです。親方親方」
「バカ! ぐず――見つかっては一大事だ、はやくそこらへ姿をけせ」
「ど、どこへ消えるんで? ……」
 と、不意のできごとに、蛾次郎がじろうは、をうしない、まだうろうろしているので、八風斎はっぷうさいは、「えいめんどう」とばかり、かれをものかげに突きとばし、じぶんはすばやく、かたわらの松の木へ、するするとよじ登ってしまった。
 ふたりが、からくも、すがたを隠したかかくさないうちである、八風斎の目のしたへ、うしおの流れるごとき勢いで、さしかかってきた蛇形だぎょう行軍こうぐん、その人数はまさに四百余人。みな、一ようの陣笠じんがさ小具足こぐそく手槍てやり抜刀ぬきみをひっさげて、すでに戦塵せんじんびてるようなものものしさ。
 なかに、目立つはひとりの将、漆黒しっこくの馬にまたがって身にはよろいをまとわず、頭にかぶとをかぶらず、白の小袖こそでに、白鞘しらさやの一刀をびたまま、むち裾野すそのにさして、いそぎにいそぐ。
「あ、あの人は見たことがあるぜ」
 ものかげにいた蛾次郎は、目をみはって、その馬上を見おくったが、ふと気がついて、
「そうだ、そうだ」とばかり、あとからつづく人数のなかにまぎれこみ、まんまと、八風斎の目をくらまして越前落えちぜんおちのとちゅうから、もとの裾野すそのへ逃げてもどってしまった。
「おお、あの矢さけび、火の手もみえる、流れ矢もとんでくるわ、この一時ひとときこそ一の大事、息もつかずに、いそげいそげ!」
 人無村ひとなしむらをかけぬけて、渺漠びょうばくたる裾野すそのの原にはいると、黒馬こくばしょうは、くらのうえから声をからして、はげました。あまたけの火はまだ赤々ともえている。
「敵!」
「敵だッ!」
て!」
 と、俄然がぜん、前方の者から声があがった。四、五けんばかりの小石こいし河原、そこではしなくも、徳川家とくがわけ先鋒せんぽう内藤清成ないとうきよなりの別隊、四、五十人と衝突しょうとつしたのである。
 暗憺あんたんたる闇いくさ、ただものすごい太刀音と、やりの折れる音や人のうめきがあったのみで、敵味方の見定みさだめもつかなかったが、勝負は瞬間に決したと見えて、前の蛇形陣だぎょうじんは、ふたたび一みだれず、しかも足なみいよいよはやく、人穴城ひとあなじょう山下さんかへむかった。
「おうーい、おうーい」
 かけつつ馬上の将は何者をか呼びもとめた。それにつづいて、陣笠じんがさの兵たちも、かわるがわる、声をからして、おーい、おーいとつなみのようにときの声を張りあげた。


 地からいたように、忽然こつねんと、人無村をつきぬけて、ここへかけつけてきた軍勢は、そもいずれの国、いずれの大名だいみょうぞくすものか、あきらかな旗指物はたさしものはないし、それと知らるる騎馬きば大将もなかには見えない。ふしぎといえばふしぎな軍勢。
 海に船幽霊ふなゆうれいのあるように、広野こうやの古戦場にも、また時として、武者幽霊むしゃゆうれいのまぼろしが、野末のずえを夜もすがらかけめぐって、草木もれいあるもののごとく、鬼哭啾々きこくしゅうしゅうのそよぎをなし、陣馬の音をよみがえらせて、里人さとびとの夢をおどろかすことが、ままあるという古記も見える。
 それではないか?
 この軍勢も、その武者幽霊の影ではないか、いかにも、まぼろしの魔軍まぐんのごとく、※(「風にょう+炎」、第4水準2-92-35)てんぴょうのごとく、迅速じんそくな足なみだ。
「おうーい、おうーい」
 魔軍はまた、うしおのように呼んでいる。
 時しもあれ――
 ほど遠からぬところにあって、亀井武蔵守かめいむさしのかみの、精悍せいかんなる三河武士みかわぶし二、三百人に取りまかれていた武田伊那丸たけだいなまるの矢さけびを聞くや、魔軍は忽然こつねんと、三段にそなえをわかって、わッとばかり斬りこんだ。
 ときに、矢来やらいの声があって、伊那丸をはじめ苦境の味方を、夢かとばかり思わせた。
「やあ、やあ、若君はご無事でおわすか、その余のかたがたも聞かれよ、すぐる日、小太郎山こたろうざんへむかった木隠龍太郎こがくれりゅうたろう、ただいまこれへ立ち帰ったり! 龍太郎これへ立ちかえったり!」
「わーッ」
 と、地軸ちじくをゆるがす歓喜かんきの声。
「わーッ」
 と、ふたたびあがる乱軍のなかの熱狂。しばしは、鳴りもやまず、三河勢みかわぜいはその勢いと、新手あらて精鋭せいえいのために、さんざんになって敗走した。
 木隠龍太郎は、やはり愛すべき武士であった。かれはついに、主君の危急ききゅうに間にあった。
 それにしても、かれはどうして、小太郎山から、四百の兵をらっしてきたのであろう。それは、かれについてきた兵士たちのいでたちを見ればわかる。
 陣笠じんがさ具足ぐそくも、昼のあかりで見れば、それは一づくりの紙ごしらえであろう、兵はみな、小太郎山の、とりでの工事にはたらいていた石切りや、鍛冶かじや、大工だいくや、山くずしの土工どこうなのである。武器だけは、とりでをつくるまえに、ひそかに、たくわえてあったので不足がなかった。
 この成算せいさんがあったので、龍太郎は四日のあいだに、四百の兵を引きうけた。そして、その機智きちが、意外に大きなこうをそうした。
 しかし、一同は、ほッとするもなかった。ひとたび、兵をひいた亀井武蔵守かめいむさしのかみは、ふたたび、内藤清成ないとうきよなりの兵とがっして、堂々と、再戦をいどんできた。
 のみならず、人穴城ひとあなじょうを発した呂宋兵衛るそんべえも、すぐ六、七町さきまで野武士勢のぶしぜいをくりだして、四、五百ちょうの鉄砲組をならべ、いざといえば、千鳥落ちどりおとしにぶっぱなすぞとかまえている。


 鼻かけ卜斎ぼくさい越前落えちぜんおちに、とちゅうまでひっぱられていった蛾次郎がじろうが、木隠龍太郎こがくれりゅうたろう行軍こうぐんのなかにまぎれこんで、うまうま逃げてしまったのは、けだし、蛾次郎近来の大出来おおできだった。
 かれはまた、その列のなかから、いいかげんなところで、ぬけだして、すたこらと、白旗しらはたもりのおくへかけつけてきた。
 見ると、そこに焚火たきびがしてあり、わしもはなたれているが、竹童ちくどうのすがたは見えない。
 蛾次郎は、しめた! と思った。今だ今だ、菊池半助きくちはんすけにたのまれているこの鷲をぬすんで、徳川家とくがわけの陣中へ、にげだすのは今だ、と手をたたいた。
「これが天の与えというもんだ、あんなに資本もとをつかって、おまけに、竹童みたいなチビ助に、おべっかをしたり、使いをしたりしてやったんだもの、これくらいなことがなくっちゃ、まらないや、さ、クロ、おまえはきょうからおれのものだぞ」
 ひとりで有頂天うちょうてんになって、するりと、やわらかい鷲の背なかへまたがった。
 蛾次郎は、このあいだ、竹童とともにこれへ乗って、空へまいあがった経験もあるし、また、この数日、腹にいちもつがあるので、せいぜいうさぎの肉や小鳥をあたえているので、かなり鷲にもれている。
 竹童ちくどうのする通り、かるくつばさをたたいて、あわや、乗りにげしようとしたとたん、頭の上から、
「やいッ」
 するすると木から下りてきた竹童、
「なにをするんだッ」
 いきなりわしの上の蛾次郎がじろうを、二、三げんさきへ突きとばした。不意をくって、しりもちついた蛾次郎は、いたい顔をまがわるそうにしかめて、
「なにをおこったのさ、ちょっとくらい、おれにだってかしてくれてもいいだろう。いのちがけで、いくさのもようをさぐってきてやったんだぜ、そんな根性こんじょうの悪いことをするなら、おれだって、なんにも話してやらねえよ」
「いいとも、もうおまえになんか教えてもらうことはない。おいらが木の上から、およそ見当けんとうをつけてしまった」
「かってにしやがれ、いくさなんか、あるもんかい」
「ああ、蛾次公なんかに、かまっちゃいられない、こっちは、今夜が一生一度の大事なときだ」
 竹童は、二十本の松明たいまつを、ふじづるでせなかへかけ、一本の松明には焚火たきびほのおをうつして、ヒラリとわしのせへ乗った。
「やい、おれも一しょにのせてくれ、乗せなきゃ、松明をかえせ、おれのやった松明をかえしてくれえ」
「ええ、うるさいよ!」
「なんだと、こんちくしょう」
 と、胸をつつかれた蛾次郎がじろうは、おのれを知らぬ、ぼろざやの刀をぬいて、いきなり竹童に斬りつけてきた。
「なにをッ」
 竹童は、ほのおのついた松明たいまつで、蛾次郎の鈍刀なまくらをたたきはらい、とっさに、わしをばたばたと舞いあげた。蛾次郎はそのするどいつばさにはたかれて、
「あッ」
 と、四、五けんさきの流れへはねとばされたが、むちゅうになって、飛びあがり、およびもない両手をふって、
「やーい、竹童、竹童」
 と、泣き声まじりに呼びかけた。
 けれど、それに見向きもしない大鷲おおわしは、しずかに、ちゅういあがって、しばらく旋回せんかいしていたが、やがて、ただ見る、一じょうの流星か、ほのおをくわえた火食鳥ひくいどりのごとく、松明たいまつの光をのせて、暗夜あんやの空を一文字もんじにかけり、いまや三かくせんまっ最中さいちゅうである人穴城ひとあなじょうの真上まで飛んできた。

虎穴こけつ鞍馬くらま竹童ちくどう




 軍令ぐんれいをやぶってけがけしたとどろき又八が、伊那丸いなまるがたのはかりごとにおちて、ついに首をあげられてしまったと聞き、人穴城ひとあなじょうのものは、すッかり意気を沮喪そそうさせて、また城門をかためなおした。
 敗走の手下から、その注進をうけた丹羽昌仙にわしょうせんは、
「ええいわぬことではないのに……」とにがりきりながら、望楼ぼうろうの段をみのぼっていった。
 そこには、よいのうちから、呂宋兵衛るそんべえと、可児才蔵かにさいぞう床几しょうぎをならべて、始終しじゅうのようすを俯瞰ふかんしている。
「呂宋兵衛さま」
「おお、軍師ぐんし
「又八は城外へでて討死うちじにいたしました」
「ウム……」
 と、呂宋兵衛は、じぶんにもがあるので、まりわるげに沈んでいたが、
「おお、それはともかく――」
 と、話をそらして、
伊那丸いなまる徳川勢とくがわぜいとの勝敗しょうはいはどうなったな。かすかに、矢さけびは聞えてくるが、この闇夜やみよゆえさらにいくさのもようが知れぬ」
「いまはちょうど、双方必死そうほうひっし最中さいちゅうかと心得ます」
「そうか、いくら伊那丸でも、三千からの三河武士みかわぶしにとりかこまれては、一たまりもあるまい」
「ところが、斥候ものみの者のしらせによると、にわかに四、五百のかくし部隊があらわれて、亀井武蔵守かめいむさしのかみをはじめ、徳川勢をさんざんになやめているとのことでござる」
「ふむ……とすると、勝ち目はどっちに多いであろうか」
「むろん、さいごは、徳川勢が凱歌がいかをあげるでござりましょうが」
「さすれば、こっちは高見たかみの見物、伊那丸の首は、三河勢みかわぜい槍玉やりだまにあげてくれるわけだな」
「が、ゆだんはなりませぬ。なるほど、伊那丸がたは、徳川の手でほろぼされましょうが、次には、勝ちにのった三河の精鋭せいえいどもが、この人穴城ひとあなじょうを乗っとりに、押しよせるは必定ひつじょうです」
「一なんさってまた一難か。こりゃ昌仙しょうせん、こんどこそは、かならずそちの采配さいはいにまかす。なんとか、妙策みょうさくをあんじてくれ」
 と、とうとうかぶとをぬいでしまった。
おおせまでもなく、に応じ、変にのぞんで、昌仙しょうせん軍配ぐんばいみょうをごらんにいれますゆえ、かならずごしんぱいにはおよびませぬ」
「それを聞いて安堵あんどいたした。オオ、また裾野すそのにあたって武者声むしゃごえきあがった。しかしとうぶん、人穴城ひとあなじょう日和見ひよりみでいるがいい、さいわいに、可児才蔵かにさいぞうどのも、これにあることだから、伊那丸がたがみじんになるまで、一こんむといたそう」
 手下にいいつけて、望楼ぼうろうの上へ酒をとりよせた呂宋兵衛るそんべえは、昌仙しょうせん才蔵さいぞうをあいてに、ゆうゆうと酒宴さかもりをしながら、ここしばらく、裾野すそのいくさを、むこう河岸がしの火事とみて、をふかしていた。
 するとにわかに、星なき暗天にあたって、ヒューッという怪音がはしった。その音は遠く近く、人穴城の真上をめぐって鳴りだした。
「風であろう、すこし空が荒れてきたようだ」
 さかずきを持ちながら、三人がひとしく空をふりあおぐと、こはなに? 狐火きつねびのような一怪焔かいえんが、ボーッとうなりを立てつつ、頭の上へ落ちてくるではないか。


 可児才蔵も呂宋兵衛も、また、丹羽昌仙も、おもわず床几しょうぎを立って、
「あッ」
 と、やぐらの三方へ身をさけた。
 とたんに、空からってきた怪火のかたまりが、音をたててそこにくだけたのである。
 たおれたつぼの酒が、望楼ぼうろうの上からザッとこぼれ、花火のような火のがまい散った。
「ふしぎ――どこから落ちてきたのであろう」
昌仙しょうせん昌仙、早くふみ消さぬと望楼ぼうろうへ燃えうつる」
「お、こりゃ松明たいまつじゃ」
「え、松明?」
 三人は唖然あぜんとした。
 いくら天変地異てんぺんちいでも、空から火のついた松明が降ってくるはずはない、あろう道理はないのである。もし、あるとすれば世のなかにこれほどぶっそうな話はない。
 しかし、事実はどこまでも事実で、瞬間しゅんかんののち、またもや同じような怪焔かいえんが、こんどは籾蔵もみぐらへおち、つづいて外廓そとぐるわ獣油じゅうゆ小屋など、よりによって危険なところへばかり落ちてくる。
「火が降る、火が降る」
「それ、あすこへついた」
「そこのをふみ消せ、ふしぎだ、ふしぎだ」
 城中のさわぎはかなえのわくようである。ある者は屋根にのぼり、ある者は水をはこんでいる。
 なかでも、気転きてんのきいたものがあって、闇使やみづかいの龕燈がんどうをあつめ、十四、五人が一ところによって、明かりを空へむけてみた結果、はじめて、そこに、おどろくべき敵のあることを知った。
 かれらの目には、なんというはんだんもつかなかったが、地上から明かりをむけたせつな、かつて、話にきいたこともない怪鳥けちょうが、虚空こくうに風をよんでったのが、チラと見えた。
 それはわしの背をかりて、白旗しらはたもりをとびだした竹童ちくどうなることは、いうまでもない。
 鞍馬くらまそだちの竹童も、こよいは一だいのはなれわざだ。果心居士かしんこじうつしの浮体ふたいの法で、ピタリと、クロのつばさの根へへばりつき、両端りょうはしへ火をつけた松明たいまつをバラバラおとす。火先はさんらんと縞目しまめすじをえがいて、人穴城ひとあなじょうへそそぎ、三千の野武士のぶしの巣を、たちまち大こんらんにおとし入れてしまった。
「ああ、いけねえ」
 と、その時、ふと、つぶやいた竹童。
 空はくらいが、地上は明るい。人穴城のなかで、右往左往うおうさおうしているさまを見おろしながら、
「こっちで投げる松明を、そうがかりで、消されてしまっちゃ、なんにもならない。オヤ、もうあと四、五本しかないぞ」
 なに思ったか、クロの襟頸えりくびをかるくたたいて、スーと下へ舞いおりてきた。いくら大胆だいたん竹童ちくどうでも、まさか人穴城ひとあなじょうのなかへはいるまいと思っていると、あんのじょう、れいの望楼ぼうろう張出はりだし――さっき呂宋兵衛るそんべえたちのいたところから、また一段たかい太鼓櫓たいこやぐらの屋根へかるくとまった。
 クロをそこへとまらせておいて、竹童は、残りの松明たいまつ背負せおって、スルスルと望楼台へ下りてきた。もうそこにはだれもいない、呂宋兵衛も昌仙しょうせん才蔵さいぞうも、下のさわぎにおどろいてりていったものと見える。
「しめた」
 竹童は、五つ六つある階段を、むちゅうでかけおりた。
 そこは、七門のとびらにかためられている人穴城ひとあなじょうのなかだ。あっちこっちの小火ぼやをけすそうどうにまぎれて、さしもきびしい城内ではあるが、ここに、天からふったひとりの怪童かいどうありとは、夢にも気のつく者はなかった。


 果心居士かしんこじめいをおびて、いつかここに使いしたことのある竹童は、そのとき、だいぶ、ようすをさぐっておいたので、城内のかっても、心得ぬいている。
 おそろしい、はしッこさで、かれがねらってきたのは鉄砲火薬てっぽうかやくをつめこんである一棟ひとむねだった。見ると、戦時なので、煙硝箱えんしょうばこも、つみだしてあるし、くらの戸も、観音かんのんびらきにいている。しかも願ったりかなったり、いまのさわぎで、武器番の手下も、あたりにいなかった。
 ちょこちょこと、くらのなかへはいった竹童は、れいの松明たいまつに、火をつけて、まン中におき、藁縄わらなわ綱火つなびが火をさそうとともに、このなかの煙硝箱えんしょうばこが、いちじに爆発するようにしかけた。そして、ポンと、そとのめるがはやいか、もときた望楼ぼうろうへ、息もつかずにかけあがってくる。
「ありがたい、ありがたい。これで人穴城ひとあなじょう蛆虫うじむしどもは、もなくいっぺんに寂滅じゃくめつだ。伊那丸いなまるさまも、およろこびなら、お師匠ししょうさまからも、たくさんめていただかれるだろう」
 望楼に立って、手をふった竹童、待たせてあるクロが飛び去っては一大事と、大いそぎで、欄間らんまから棟木むなぎへ手をかけ、棟木から屋根の上へ、よじ登ろうとすると、
小僧こぞう、待て!」
 ふいに、下からグングンと、足をひッぱる者があった。
「あ! あぶない」
りろ、神妙しんみょうにおりてこないと、きさまのからだは、この望楼からころがり落ちていくぞ」
「あ、しまった」
 竹童はおどろいた。
 平地とちがって、からだは七階のやぐらのすてッぺんにあった。棟木むなぎへかけている五本の指が、いのちをつっているようなもの、ひとつ力まかせに下からひっぱられたひには、たまったものではない。
りろともうすに、降りてこないか」
「いま降りるよ、降りるから、手をはなしてくれ、でなくッちゃ、からだが自由にならないもの」
「ばかを申せ、はなせば、上へあがるんだろう」
 足をつかんでいる者はゆだんがない。
 竹童ちくどう観念かんねんしてしまった。
 ままよ、どうにでもなれ、お師匠ししょうさまからいいつけられた使命は、もう十のものなら九つまでしとげたのもどうよう、呂宋兵衛るそんべえの手下につかまって、首をはねられても残りおしいことはないと思った。
「じゃ、どうしろっていうんだい」
 おのずから、声もことばも、大胆だいたんになる。
「その手をはなしてしまえ」
「手をはなせば、ここから下まで、まッさかさまだ」
「いや、おれがこう持ってやる」
 下の者は背をのばして、竹童の腰帯こしおびをグイとつかんだ。もうどうしたってのがれッこはない、竹童は、運を天にまかせて、棟木むなぎかどへかけていた手を、ヒョイとはなした。
「えいッ」
 はッと思うと、竹童のからだは、望楼台ぼうろうだいの上へまりのように投げつけられていた。覚悟はしていても、こうなると最後までにげたいのが人情、かれは、むちゅうになってはね起きたが、すかさず、いまの男が、上からグンと乗しかかって、
「まだもがくか!」
 と手足の急所をしめて、磐石ばんじゃくの重みをくわえた。それをだれかと見れば、さっき、呂宋兵衛るそんべえ昌仙しょうせんとともに、ここにいた可児才蔵かにさいぞうである。
 安土あづちから選ばれてきた可児才蔵とわかってみれば、なるほど、竹童が、つかまれた足を離せなかったのもむりではない。
「いたい、いたい。苦しい」
 竹童も、呂宋兵衛の手下にしては、どうもすこし、手強てごわいやつにつかまったとうめきをあげた。
「痛いのはあたりまえだ、うごけばうごくほど、急所がしまる」
「殺してくれ、もう死んでもいいんだ」
「いや、殺さない」
「首を斬れ」
「首も斬らぬ。いったいきさまは、どこの何者だ」
「聞くまでもないではないか、おいらはいつか、果心居士かしんこじさまのお使いとなって、この城へきたことのある鞍馬山くらまやま竹童ちくどうだ。首の斬り方をしらないなら、さッさと、呂宋兵衛るそんべえの前へひいていけ」
「ウーム、鞍馬山の竹童というか」
 可児才蔵かにさいぞうも、心中したをまいておどろいた。
 安土あづちの城には、じぶんの主人福島市松ふくしまいちまつをはじめ、幼名ようめい虎之助とらのすけ加藤清正かとうきよまさ、そのほか豪勇ごうゆうな少年のあったことも聞いているが、まだこの竹童のごとく、軽捷けいしょうで、しかも大胆だいたんな口をきく小僧こぞうというものを見たことがない。


 竹童はまた竹童で、才蔵に組みふせられていながら、はらのなかで、ふとこんなことを思った。
「こいつはおもしろい、いましかけてきたあの綱火つなびが、松明たいまつの火からだんだん燃えうつって、もうじきドーンとくるじぶんだ。そうすれば煙硝庫えんしょうぐら人穴城ひとあなじょう野武士のぶしも、この望楼ぼうろうもおいらもこいつも、いっぺんにけし飛んでしまうんだ」
 と、かれはいきなり下から、ぎゅッと才蔵の帯をにぎりしめた。
「あはははは、およばぬ腕だて」
 と、才蔵は力をゆるめて笑いだした。
「笑っていろ、笑っていろ、そして、いまに見ているがいい、この下の煙硝庫えんしょうぐら破裂はれつして、やぐらもきさまもおいらも、一しょくたに、みじんに吹ッ飛ばされるから」
「えッ、煙硝庫が?」
「おお、あのなかへ松明たいまつを、ほうりこんできたんだ。ああいい気味きみ、その火を見ながら死ぬのは竹童ちくどう本望ほんもうだ、おいらは本望だ」
「いよいよ、よういならん小僧こぞうだ」
 さすがの才蔵さいぞうも、これにはすこしとうわくした。がいまの一ごんを聞いて、
「では、もしやなんじは、伊那丸いなまるのために働いている者ではないか」
 と、問いただした。
「あたりまえさ、伊那丸さまをおいて、だれのためにこんなあぶない真似まねをするものか、おいらもお師匠ししょうさまも、みんなあのおかたを世にだしたいために働いているんだ」
「おお、さてはそうか」
 と才蔵は飛びのいて、にわかに態度をあらためた。竹童は、手をひかれて起きあがったが、少しあっけにとられていた。
「そうとわかれば、汝を手いたい目にあわすのではなかった。なにをかくそう、拙者せっしゃはわけがあって、秀吉公ひでよしこうめいをうけ、この裾野すそののようすを探索たんさくにきた、可児才蔵かにさいぞうという者だ」
「おじさん、おじさん、そんなことをいってると、ほんとうに鉄砲薬てっぽうぐすりの山が、ドカーンとくるぜ、おいらのいったのは、うそじゃないからね」
「では竹童、すこしも早く逃げるがいい」
「えッ、おいらを逃がしてくれるというの」
「おお秀吉公ひでよしこうは、伊那丸いなまるどのに悪意をもたぬ。あのおんかたに、会ったらつたえてくれい、可児才蔵かにさいぞうと申す者が、いずれあらためて、お目にかかり申しますと」
「はい、しょうちしました」
 ないとあきらめたいのちを、思いがけなく拾った竹童は、さすがにうれしいとみえて、こおどりしながら、まえの欄間らんまへ足をかけた。
「あぶないぞ、落ちるなよ」
 まえには足をひっ張った才蔵が、こんどは下から助けてくれる。竹童は棟木むなぎの上へ飛びつきながら、
「ありがとう、ありがとう。だが、おじさん――じゃあない可児さま。あなたも早くここをりて、どこかへ逃げださないと、もうそろそろ煙硝えんしょうの山が爆発ばくはつしますよ」
「心得た、では竹童、いまの言伝ことづてを忘れてくれるな」
 といいすてて、可児才蔵はバラバラと望楼ぼうろうをおりていったようす、いっぽうの竹童も、やっと屋根がわらの上へはいのぼってみると、うれしや、畜生ちくしょうながら霊鷲れいしゅうクロにも心あるか、巨人のようにつばさをやすめてかれのもどるのを待っていた。
「さあ、もう天下はこっちのものだ」
 わしの翼にかくれた竹童ちくどうのからだは、みるまに、望楼ぼうろうの屋根をはなれて、磨墨するすみのような暗天たかく舞いあがった。
 ――と思うと同時に、とつぜん、天地をひっくばかりな轟音ごうおん
 ここに、時ならぬ噴火口ふんかこうができて、富士の形が一に変るのかと思われるような火の柱が、人穴城ひとあなじょうから、宙天ちゅうてんをついた。
 ドドドドドドウン!
 二どめの爆音ばくおんとともに、ふたつにけた望楼台ぼうろうだいは、そのとき、まっ黒な濛煙もうえんと、阿鼻叫喚あびきょうかんをつつんで、大紅蓮だいぐれんきだした殿堂のうえへぶっ倒れた。
 そして、八万八千の魔形まぎょうが、火となり煙となって、舞いおどるほのおのそこに、どんな地獄じごくが現じられたであろうか。

果心居士かしんこじ壁叱言かべこごと




「また富士山ふじさんが、火をふきだしたのであろうか」
「おお、まだ今朝けさもあんなに、黒煙くろけむりが、あがっている」
「なあに、お山はあのとおり、いつもと変ったところはない、きっと猟師りょうしが、野火のびでもだしたんだろうよ」
「いやいや、野火ばかりで、あんな音がするものか、いくさのためだ、戦があったにきまっている」
「え、戦? 戦とすればたいへんだ、このへんもぶっそうなことになるのじゃないかしら」
 ここは、裾野すその人無村ひとなしむらからも、ずッとはなれている甲斐国かいのくに法師野ほうしのという山間さんかんの部落。
 人穴城ひとあなじょうがやけた轟音ごうおんは、このへんまで、ひびいたとみえて、うちに落着けないさとの人があっちに一群ひとむれ、こっちにひとかたまり、はるかにのぼる煙へ小手をかざしながら、今朝けさもガヤガヤあんじあっていた。
「おい、与五松よごまつ
 そのうちのひとりがいった。
「おめえのうちで、ゆうべ宿をかした旅の客があったな。なんだかこわらしい顔をしていたが、物しりらしいところもある、一つあの客人にきいて見ようじゃないか」
「なるほど、矢作やさくがいいところへ気がついた、どこにいくさがあるのか、あの人なら知っているかもしれねえ、はやくおびもうしてこいやい」
「あ、その人は、おれがでてくるときに、先をいそぐとやらで支度じたくをしていたから、ことによるともうでかけてしまったかもしれねえが、おいでになったらすぐ連れてこよう」
 与五松という若者は、すぐじぶんのうちへかけだしていった。ちょうど、立ちかけているところへに合ったものか、しばらくすると、かれはひとりの旅人をつれて一同のほうへ取ってかえしてきた。
「あれかい、与五松のうちへとまった、お客というのは」
 里の者たちは、そでひき合って、クスクス笑いあった。なぜかといえば、片鼻かたはなそげている顔が、いかにも怪異かいいに見えたのである。
 旅の男というのは、鼻かけ卜斎ぼくさい八風斎はっぷうさいであった。越後路えちごじへむかっていくかれは、蛾次郎がじろうを見うしなって、ひとりとなり、昨夜ゆうべはこの部落で、一夜をあかした。
「わざわざ恐れいりまする」
 と、年かさな矢作やさくが、卜斎のまえへ、小腰をかがめながら、ていねいにききだした。
「あなたさまは、裾野すそのからおいでになった鏃師やじりしとやらだそうでござりますが、あのとおりな黒煙くろけむりが、二日二晩もつづいて立ちのぼっているのは、いったいなんなのでござりましょう」
「あれかい」卜斎はくだらぬことに、呼びとめられたといわんばかりに、
「あれはたぶん、人穴ひとあな殿堂でんどうが焼けたのでしょう」
「へえ、人穴の殿堂と申しますると」
野武士のぶしの立てこもっていた山城やまじろ――和田呂宋兵衛わだるそんべえ丹羽昌仙にわしょうせんなどというやつらが、ひさしくをつくっていたところだ。それもとうとう時節がきて、あのとおり、焼きはらわれたものだろう」
「ああ野武士ですか、野武士の城なら、いい気味だ」
「お富士ふじさまのばちだ」
 と、里人さとびとはにわかにほッと安心したばかりか、日ごろの欝憤うっぷんをはらしたようにどよみ立った。
 するとまた二、三の者が、
「あ、だれかきた」と叫びだした。
 見ると鳥刺とりさし姿の可児才蔵かにさいぞうが、山路やまじをこえてこの部落にはいってきたのだ。ここは街道衝要しょうようなところなので、甲府こうふへいくにも南信濃みなみしなのへはいるにも、どうしても、通らねばならぬ地点になっている。
「おお鳥刺しだ」
 と、部落の者たちは、また才蔵を取りまいて、裾野すそののようすをくどく聞きたがった。けれど才蔵は、これから安土あづちへ昼夜兼行けんこうでかえろうとしているからだ、裾野におけるちくいちの仔細しさいは、まず第一に、秀吉ひでよしへ復命すべきところなので、多くを語るはずがない。
「さあ、ふかいようすは知りませんが、なにしろ、裾野はいま、人穴城ひとあなじょうの火が、枯野かれのへ燃えひろがって、いちめんの火ですよ、そのために、徳川勢とくがわぜい武田方たけだがた合戦かっせんは、両陣ひき分けになったかと聞きましたが、人穴城から焼けだされた野武士のぶしは、駿河するがのほうへは逃げられないのでたぶん、こっちへ押しなだれてきましょう」
「えッ、野武士の焼けだされが、こっちへ逃げてきますって?」
「ほかに逃げ道もなし、食糧しょくりょうのあるところもありませんから、きっとここへやってくるにそういありません。ところでみなさん、わたしがここを通ったことは、その仲間なかまがきても、けっしていわないでくださいまし、ではさきをいそぎますから――」
 と、可児才蔵はほどよくいって、いっさんに、部落をかけだした。
 そして、甲信両国こうしんりょうごく追分おいわけに立ったとき、右手の道を、いそいでいく男のかげがさきに見えた。
「ははあ、きゃつは、柴田しばたまわし者上部八風斎かんべはっぷうさいだな、これからきたしょうへかえるのだろうが、とても、勝家かついえの腕ではここまで手がびない。やれやれごくろうさまな……」
 苦笑を送ってつぶやいたが、じぶんは、それとは反対な、信濃堺しなのざかいの道へむかって、足をはやめた。


 法師野ほうしのの部落は、それから一刻ひとときともたたないうちに、昼ながら、しんとしてしまった。たださえ兇暴きょうぼう野武士のぶしが焼けだされてきた日には、どんな残虐ざんぎゃくをほしいままにするかも知れないと、家をざして村中恐怖きょうふにおののいている。
 はたして、その日の午後になると、この部落へ、いような落武者おちむしゃの一隊がぞろぞろとはいってきた。各戸かっこの防ぎを蹴破けやぶって、
「ありったけのものをだせ」
「女老人としよりは森へあつまれ、そしてめしをたくんだ」
「村から逃げだすやつは、たたッ斬るぞ」
うちはしばらくのあいだ、われわれの陣屋とする」
 き勝手なことをいって、財宝をうばい、衣類食い物を取りあげ、部落の男どもを一人のこらずしばりあげて、その家々いえいえへ、えたおおかみのごとき野武士が、わがもの顔して、なだれこんだ。
 焼けだされた狼は、わずか三、四十人の隊伍たいごであったが、なにせよ、武器をもっている命知いのちしらずだからたまらない。なかには、呂宋兵衛るそんべえをはじめ、丹羽昌仙にわしょうせん早足はやあし燕作えんさく吹針ふきばり蚕婆かいこばばあまでがまじっていた。
 あの夜、殿堂へ、煙硝爆破えんしょうばくは紅蓮ぐれんがかぶさったときには、さすがの昌仙も、手のつけようがなく、わずかに、呂宋兵衛その他のものとともに、例の間道かんどうから人無村ひとなしむらへ逃げ、からくも危急をだっしたのであるが、多くの手下は城内で焼け死んだり、のがれた者も、大半は、徳川勢とくがわぜい伊那丸いなまるの手におちて、とらわれてしまった。
 城をうしない、裾野すそのの勢力をうしなった呂宋兵衛は、たちまち、野盗やとう本性ほんしょうにかえって、落ちてきながら、通りがけの部落をかたっぱしから荒らしてきた。そしてこれから、秀吉ひでよし居城きょじょう安土あづちへのぼって、助けを借りようという虫のよい考え。――ところが、一しょにおちてきた可児才蔵かにさいぞうは、こんな狼連おおかみれんにつきまとわれては大へんと、いちはやく、とちゅうから姿をかくし、一足ひとあしさきに上方かみがたへ立っていったのである。


 ここに、一だい大手柄おおてがらをやったのは鞍馬くらま竹童ちくどう
 その得意や、思うべしである。
 飛行自在のクロあるにまかせて、かれは、燃えさかる人穴城ひとあなじょうをあとに、ひさしぶりで、京都の鞍馬山くらまやまのおくへ飛んでかえり、お師匠ししょうさまの果心居士かしんこじにあって、得意のちくいちを物語ろうと思ったところが、荘園そうえんいおりがらんどうで、ただ壁に、一枚の紙片かみきれってあり、まさしく居士の筆で、いわく、

竹童よ。ほこるなよ。なまけるなよ。ゆだんするなよ。お前の使命はまだのこっているはず。
ふたたび、われとあう日まで、心のひもをゆるめるなかれ。
果心居士

「おや、こんなものを書きのこして、お師匠さまはいったい、どこへかくれてしまったんだろう」
 竹童は、がっかりしたり、不審ふしんにおもったりして、しばらく庵にぼんやりしていた。
「おまえの使命はまだ残っている――おかしいなあ、お師匠さまの計略は、いいつけられたとおりまんまとしたのに……ああそうか、徳川軍とくがわぐんにかこまれた伊那丸いなまるさまが、勝ったか負けたか、生きたか死んだか、その先途せんどとどけないのがいけないというのかしら、そういえば、可児才蔵かにさいぞうという人からたのまれている伝言ことづてもあったっけ」
 と、にわかに気がついた竹童は、数日らい不眠不休ふみんふきゅうの活動に、ともすると眠くなる目をこすりながら、ふたたび、クロに乗って富士の裾野すそのへ舞いもどった。
 やがて、白砂青松はくしゃせいしょうの東海道の空にかかったとき、竹童がふと見おろすと、たしかに徳川勢とくがわぜい亀井かめい内藤ないとう高力こうりきなんどの武者らしい軍兵ぐんぴょう三千あまり、旗幟堂々きしどうどう、一そく陣足じんそくふんで浜松城へ凱旋がいせんしてきたようす。
「おや、あのあんばいでは、裾野すその合戦かっせん伊那丸いなまるさまの敗亡はいぼうとなったかしら?」
 竹童、いまさら気が気でなくなったから、いやがうえにも、クロをいそがせて、裾野の空へきて見ると、人穴ひとあなから燃えひろがった野火のびは、とどまるところを知らず、ほうにわたって、濛々もうもうと煙をたてているので、下界げかいのようすはさらに見えない。

遠術えんじゅつ日月じつげつあらそ




 七日七夜なぬかななよ、燃えにもえた野火の煙は、裾野一円にたちこめて、昼も日食にっしょくのように暗い。
 富士の白妙しろたえ銀細工ぎんざいくのものなら、とッくに見るかげもなく、くすぶッてしまったところだ。見よ、さしも人穴ひとあな殿堂でんどうすべて灰燼かいじんし、まるでおに黒焼くろやき巌々がんがんたる岩ばかりがまっ黒にのこっている。
 すると、さっきから、そのあとを見まわっていた三のかげが、廃城はいじょうの門をまっしぐらにけだした。そして濛々もうもうたる野火の煙をくぐりながら、金明泉きんめいせんのちかくまできたとき、さきにきた山県蔦之助やまがたつたのすけが、ふいに、ピタッとこまをとめて、
「や? ご両所りょうしょ、しばらく待ってくれ」
 と、あとからきた二――巽小文治たつみこぶんじ木隠龍太郎こがくれりゅうたろうへ、手をふって押しとどめた。
「おお、蔦之助、呂宋兵衛るそんべえ残党ざんとうでもおったか」
「いや、よくはわからぬが、あのいずみのほとりに、なにやらあやしいやつがいる。いま、拙者せっしゃ遠矢とおやをかけて追いたてるから、あとは斬るとも生けどるとも、おのおの鑑定かんていしだいにしてくれ」
「ウム、心得た」
 といったへんじよりは、龍太郎と小文治、金明泉へむかって馬を飛ばしていたほうがはやかった。
 蔦之助は、たかの石打ちの矢を一本とって、弓弦ゆづるにつがえ、馬上、横がまえにキラキラと引きしぼる。
 ――ちょうは、駿馬しゅんめ項羽こううで一そくとび、
「やッ、しまった!」
 と、そこまできて龍太郎はびっくりした。なぜといえば、いましも金明泉のほとりから、笹叢ささむらをガサガサ分けてでてきたのは、呂宋兵衛るそんべえ残党ざんとうどころか、大せつな大せつな鞍馬くらま竹童ちくどう
 竹童はなんにも知らない。金明泉きんめいせんの水でも飲んできたか、そでで口をふきながら、ヒョイと、岩角いわかどへとび乗ってわざわざ蔦之助つたのすけのまとに立ってしまった。
 龍太郎はあわてて、うしろのほうへ馬首ばしゅをめぐらし、
「待てッ、味方だ!」
「竹童だ、うつな!」
 小文治こぶんじ絶叫ぜっきょうした。
 が、にあわなかった。プツン! とたかい弦鳴つるなりがもうかなたでしてしまった。
 射手いては名人、矢はたかの石打ち、ヒューッと風をふくんで飛んだかと思うと、ねらいはあやまたずかれの胸板むないたへ――
 あっけらかんと口をふいていた竹童、睫毛まつげの先にキラリッとやじりの光を感じたせつなに、ヒョイ――と首をすくめて右手すばやく稲妻いなずまつかみに、名人の矢をにぎりめてしまった。
「竹童、みごと」
 矢にもおどろいたし、ごえにもおどろいた竹童、龍太郎と小文治のすがたを見つけて、
木隠こがくれさま。大人おとなのくせに、よくないいたずらをなさいますね」
 と、ニッコリ笑った。
「いや竹童、いまのは木隠こがくれどののわるさではない。むこうにいる山県氏やまがたうじの見そこないだから、まあかんにんしてやるがよい」
 小文治こぶんじがいいわけしていると、蔦之助つたのすけも遠くから、このようすを見てかけてきた。そして、今為朝いまためともともいわれたじぶんの矢を、つかみとるとは、すえおそろしい子だという。
 けれどとうの竹童には、末おそろしくもなんにもない。こんな鍛練たんれんは、果心居士かしんこじのそばにおれば、のべつまくなしにためされている「いろは」のいの字だ。
「ときに龍太郎さま、なによりまっ先に、うかがいたいのは、伊那丸いなまるさまのお身の上、どうか、そののようすをくわしく聞かしてくださいまし」
「ウム、当夜若君の孤軍こぐんは、いちどは重囲じゅういにおちいられたが、折もよし、人穴城ひとあなじょうの殿堂から、にわかに猛火を発したので、さすがの呂宋兵衛るそんべえも、間道かんどうから逃げおちて、のこるものは阿鼻叫喚あびきょうかんの落城となった。どうじに三河勢みかわぜいも浜松より急命がくだって総退軍。そのため、味方の勝利と一変したのだ」
「そして、ただいま、ご本陣のあるところは」
「五湖をまえにして、白旗しらはたもりたい、総軍一千あまりの兵が、物の具をつくろうて、休戦しておる」
「呂宋兵衛の部下が軍門にくだって、それで急に、味方がふえたわけなんですね」
「そうだ。して竹童、おまえはきょうまで、どこにいたのか」
「ちょっと鞍馬くらまへかえって見ましたところが、お師匠ししょうさまの叱言こごとが壁にはってあったので、あわててまたいもどってきたんです」
「フーム、では果心かしん先生には、鞍馬くらま庵室あんしつにも、おすがたが見えなかったか」
「いっこうお行方ゆくえしれずです。またお気がむいて、日本くまなく行脚あんぎゃしておいでになるのかも知れませんが、こまるのはこの竹童ちくどう、先生のおいいつけは、やりとげましたが、こんどはなにをやっていいのか見当けんとうがつきません。龍太郎りゅうたろうさま、あそんでいると眠くなりますから、なにか一つ中役ちゅうやくぐらいなところを、いいつけておくんなさい」
 龍太郎も、じぶんの手柄話てがらばなしらしいことを、おくびにもださなかったが、竹童もまた、あれほどの大軍功だいぐんこうを成しとげていながら、鼻にもかけずちりほどのほこりもみせていない。
 そしてなお、なにか一役いいつけてくれという。よいかな竹童、さすがは果心居士かしんこじが、あかざつえで、ピシピシしこんだ秘蔵弟子ひぞうでしだ。


 武田伊那丸たけだいなまる小幡民部こばたみんぶ、そのほか帷幕いばくのものが、いまなお白旗しらはたに陣をしいて、しきりにあせっているわけは、和田呂宋兵衛わだるそんべえの所在が、かいもく知れないためであった。
 人穴城ひとあなじょうという外廓がいかくは焼けおちたが、中身なかみ魔人まじんどもはのこらず逃亡してしまった。丹羽昌仙にわしょうせん吹針ふきばり蚕婆かいこばばあ穴山残党あなやまざんとう佐分利さぶり足助あすけともがらにいたるまで、みな間道かんどうから抜けだした形跡けいせき。しかも、落ちていったさきが不明とあっては、まことに、この一戦の痛恨事つうこんじである。
「そこできょうも、咲耶子さくやこさまをはじめ忍剣にんけんもわれわれ三名も、八ぽうに馬をとばし、木の根、草の根をわけてさがしているところだ」
 ――と龍太郎からはなされた竹童は、聞くとともに、こともなげにのみこんで、
「では龍太郎さま、この竹童が、ちょっと、一鞭ひとむちあてて見てまいりましょう」
「ウム、なにかおまえに、成算せいさんがあるか」
「あてはございませんが、そのくらいのことなら、なんのぞうさもないこッてす」
「いや、あいかわらず小気味こきみのいいやつ、ではわかりしだいにその場所から、この狼煙のろしを三どうちあげてくれ、こちらでも、その用意をして待つことにいたしているから」
「ハイ。きっとお合図あいずもうします。じゃ蔦之助つたのすけさま、小文治こぶんじさま、これでごめんこうむりますよ」
 竹童、龍太郎から受けとった狼煙筒のろしづつを、ふところにおさめると、またまえにでてきた笹叢ささむらのなかへ、ガサガサとくまの子のように姿をかくしてしまった。
 おや? あんな大言たいげんいておいて、どこへもぐりこんでゆくのかと、こなたに三人がながめていると、折こそあれ、金明泉きんめいせんのほとりから、一陣の旋風せんぷうをおこして、天空たかく舞いあがった大鷲おおわしのすがた――
 地上にあっても小粒の竹童、空へのぼると、わしの一もうにもたらず、かれの姿は、つばさのかげにありとも見え、なしとも思われつつ、鷲そのものも、たちまちはとのごとく小さくなり、すずめほどにうすらぎ、やがて、一点の黒影こくえいとなって、眼界がんかいから消えてゆく。
 雲井にきえたわし竹童ちくどう甲駿こうすん二国のさかいを、じゃまわりに、ゆうゆうと見てまわって、とうとう、この法師野ほうしのの部落に、和田呂宋兵衛わだるそんべえ一族の焼けだされどもが、よわい村民そんみんをしいたげているようすをとくと見さだめた。
 このあたり、野火のびの煙がないので、竹童が鷲の背から小手をかざしてみると、法師野の山村、手にとるごとしだ。部落の家には、みな人穴城ひとあなじょう残党ざんとうがおしこみ、衣食をうばわれた善良な村人むらびとは、老幼男女ろうようなんにょ、のこらず裸体はだかにされて、森のなかに押しこめられている。まことにこれ、白昼の大公盗だいこうとう、目もあてられぬ惨状さんじょうだ。
「ちくしょうめ、人穴城でやけ死んだかと思ったら、またこんなところで悪事をはたらいていやがるな……ウヌいまに一あわふかせてやるからおぼえていろ」
 空にあって、竹童は、おもわず歯がみをしたことである。そして、一刻もはやく、この状況じょうきょうを、伊那丸いなまるの本陣へ知らせようと、大空ななめにけおりる――
 するとそのまえから、法師野の大庄屋おおしょうや狛家こまけの屋敷を横奪おうだつして、わがもの顔にすんでいた和田呂宋兵衛は、腹心の蚕婆かいこばばあ昌仙しょうせんをつれて、庭どなりの施無畏寺せむいじへでかけて、三重の多宝塔たほうとうへのぼり、なにか金目かねめ宝物ほうもつでもないかと、しきりにあっちこっちを荒らしていた。
 吹針ふきばりの蚕婆は、ちょうどその時、三重の塔のいただきへのぼって、しゅ欄干らんかんから向こうをみると、今しも、竹童ののった大鷲おおわしが、しきりにこの部落の上をめぐってあなたへ飛びさらんとしているとき――
「あッ、たいへん」
 顔色をかえて、蚕婆かいこばばあがぎょうさんにさわぎだしたので、塔のなかの宝物をかきまわしていた呂宋兵衛るそんべえ昌仙しょうせんなにごとかとあわてふためいて、細廻廊ほそかいろうの欄干へ立ちあらわれた。
 見ると空の黒鷲くろわし、そのつばさにひそんでいるのは、呂宋兵衛がうらみ骨髄こつずいにてっしている鞍馬くらま小童こわっぱ丹羽昌仙にわしょうせんはきッと見て、
「ウーム、きゃつめ、伊那丸方いなまるがた斥候ものみにきおったな」
 とこぶしをにぎったが、かれの軍学も空へはおよばず、蚕婆かいこばばあ吹針ふきばりも、ここからはとどかず、ただくちびるをかんでいるまに、鷲はいっさんに裾野すそのをさしてななめに遠のく。
「呂宋兵衛さま、もうこうはしておられませぬ」
 さすがの昌仙が、ややろうばいして腰をうかすと、いつも臆病おくびょうな呂宋兵衛が、イヤに落着きはらって、
「なアに、大丈夫」
 とにがっぽく嘲笑あざわらい、じッと、鷲のかげを見つめていたが、やがて、右手に持っていた金無垢肉彫きんむくにくぼりのたか黄金板おうごんばん――それはいまの塔内とうないから引ッぺがしてきた厨子ずし金物かなもの
「はッ……、はッ……」
 と三たびほど息をかけて、術眼じゅつがんをとじた呂宋兵衛、その黄金の板へ、やッと、力をこめて碧空あおぞらへ投げあげたかと思うと、ブーンとうなりを生じて、とんでいった。
「あッ」
「オオ」
 と丹羽昌仙にわしょうせん蚕婆かいこばばあも、おもわず金光こんこうにじに眼をくらまされて、まぶしげに空をあおいだが、こはいかに、その時すでに、黄金板おうごんばんのゆくえは知れず、ただ見る金毛燦然きんもうさんぜんたる一たかが、太陽の飛ぶがごとく、びゅッ――と竹童のわしを追ッかけた。
 これは、前身悪伴天連あくバテレン和田呂宋兵衛わだるそんべえが、蛮流幻術ばんりゅうげんじゅつ奇蹟きせきをおこなって、竹童ちくどうを、鳥縛ちょうばくの術におとさんとするものらしい。――知らず鞍馬くらま怪童子かいどうじ、はたして、どんな対策たいさくがあるだろうか?


「あら、あら、あら! コンちくしょうめ」
 竹童は、にわかに空でめんくらった。
 いや、乗ってる鷲がくるいだしたのだ。――で、いやおうなく、かれが、大声あげて、叱咤しったしたのもむりではない。
「こらッ、クロ、そっちじゃねえ、そっちへ飛ぶんじゃないよ!」
 いつも背なかで調子をとれば、以心伝心いしんでんしん、思うままの方向へ自由になるクロが、にわかに、風をくらったたこのように、一つところを、くるくるまわってばかりいる。
 はるか、多宝塔たほうとうの上で、呂宋兵衛が、放遠の術気じゅっきをかけているとは知らない竹童、ふしぎ、ふしぎとあやしんでいると、怪光をおびた一大鷹おおたかが、かッとくちばしをあいて、じぶんの目玉をねらってきた。
「あッ」
 竹童ちくどうはぎょッとして、わしの背なかへうっぷした。――とクロは猛然と巨瞳きょどうをいからし、たかをめがけて絶叫を浴びせかける。らんらんたる太陽のもと、双鳥そうちょうたちまち血みどろになってつかみあった。飛毛ふんぷんとって、そこはさながら、日月じつげつあらそって万星ばんせいうずを巻くありさまである。
「えいッ」
 そのとき竹童、腰なる名刀がわりの棒切ぼうきれ、ぬく手もみせず、怪光のたかをたたきつけた。とたんに、その鋭い気合いが、術気じゅっきをやぶったものか、たかは、かーんと黄金板おうごんばんをだして、一直線に地上へ落ちていった。
「ウーム、しまった!」
 多宝塔たほうとうの上で、遠術のいんをむすんでいた呂宋兵衛るそんべえ、あおじろいひたいから、タラタラと脂汗あぶらあせをながしたが、すぐ蛮語ばんご呪文じゅもんをとなえ、満口まんこう妖気ようきをふくみ入れて、フーと吹くと、はるかな、竹童と鷲の身辺だけが、薄墨うすずみをかけたように、まるくぼかされてしまった。
 はじめは、そのうす黒い妖気が、雲のように見えたがやがて、チラチラ銀光にくずれだしたのを見ると……数万すうまん数億すうおくの白い毒蝶どくちょう。――打てども、はらえども、銀雲のように舞って、さすがの竹童も、これには弱りぬいた。同時に、さては何者か、妖気を放術してさまたげているにそういないと知ったから、かねて果心居士かしんこじにおしえられてあった破術遁明はじゅつとんめいの急法をおこない、蝶群ちょうぐんの一かくをやぶって、三に、わしを飛ばそうとすると、クロは白蝶群はくちょうぐん毒粉どくふん眩暈よって、つばさを弱められ、クルクルとの葉おとしに舞いおりた。
 多宝塔たほうとうの上から、それをながめた呂宋兵衛るそんべえ、してやったりとほくそんで、塔のなかへ姿をかくしたが、まもなく金銀珠玉きんぎんしゅぎょくの寺宝をぬすみだして、庄屋しょうや狛家こまけへはこびこみ、野武士のぶし残党ざんとうどもに、酒蔵さかぐらをやぶらせて、つらにくい大酒宴おおさかもり
 寺には、僧侶そうりょが斬りころされ、森には裸体はだか老幼ろうようがいましめられて、えと恐怖におののいている。戦国の悲しさには、この暴悪なともがらの暴行に、けつけてくる代官所だいかんしょもなく、取りしまる政府もない。
 こうして呂宋兵衛たちは、この村をいつくしたら、次の部落へ、つぎの部落を蹂躪じゅうりんしきったらその次へ、ぐんをなして桑田そうでんらす害虫のように渡りあるく下心したごころでいるのだ。それは、この一族ばかりでなかったとみえて、戦国時代のよわい民のあいだには「おおかみ野武士のぶしがいなけりゃ山家やまが極楽ごくらく」と、いうことわざさえあった。
 さて、いっぽうの竹童は、どこへりたろう。
 りたところで、ふと見るとそこは、つごうよく、五湖方面から法師野ほうしの地方へかよう街道のとちゅう。小広い平地があって、竹林ちくりんのしげったすみに、一けん茅葺屋根かやぶきやねがみえ、裏手うらてをながるる水勢のしぶきのうちに、ゴットン、ゴットン……水車みずぐるま悠長ゆうちょう諧調かいちょうがきこえる。
 さっきは、呂宋兵衛るそんべえの遠術になやまされて、クロがだいぶつかれているようすなので、竹童は、水車すいしゃのかけてある流れによって、わしにも水を飲ませじぶんも一口すって、さて、一こくもはやく合図あいず狼煙のろしをあげてしらせたいがと、あっちこっちを見まわしたのち、クロをそこへ置きすてて、いっさんにうらの小山へ登りだした。
 ところが、その水車小屋すいしゃごやには、一昨日おとといからひとりの男がりこんでいた。
 呂宋兵衛から、張り番をいいつけられていた早足はやあし燕作えんさく。毎日たいくつなので、きょうは通りかかった泣き虫の蛾次郎がじろうを、小屋のなかへ引っぱりこみ、このいい天気なのに小屋の戸をめきったまま、ふたりでなにかにむちゅうになっていた。

鷲盗わしぬす




 入口もまども閉めきってあるので、水車小屋のなかはまっ暗だ。ただ、蝋燭ろうそくが一本たっている。
 そこで、早足の燕作が、泣き虫の蛾次郎に、よからぬ秘密ひみつを、伝授でんじゅしている。
 なにかと思えば、かけごとである。するものに事をかいて、かけごとの方法をつたえるとは、教授する先生も先生なら、また、教えをうける弟子でしも弟子、どっちも、められた人物でない。
「おい蛾次公がじこう、まだふところに金があるんだろう、勝負ごとは、しみッたれるほど負けるもんだ、なんでも、気まえよくザラザラだしてしまいねえ」
「だって燕作えんさくさん、いまそこへだした小判こばんは?」
「わからねえ男だな、いまのはおまえが負けたからおれにとられてしまったんだよ。それを取りかえそうと思ったら、いっぺんに持ってるだけかけて見ろ」
「だって負けると、つまらねえや」
「そこが男の度胸どきょうじゃねえか、鏃師やじりしの蛾次郎ともあるおまえが、それぐらいな度胸がなくって、将来天下に名をあげることができるもんか、ええ蛾次ちゃん、しッかりしろやい」
 と燕作は、ここ苦心さんたんで、蛾次郎の持ち金のこらず巻きあげようとつとめている。
 蛾次郎が、身にすぎた小判こばんを、ザラザラ持っていたのは、向田むこうだノ城の一室で、菊池半助きくちはんすけからもらった金だった。――かれは、本来その報酬ほうしゅうとして竹童ちくどうわしをぬすんで、裾野戦すそのせんのおこるまえに、菊池半助の陣中へかけつけなければならなかったはずだが、密林みつりんのおくで、鷲をぬすみそこねて、竹童のため、したたか痛められていらい、もうこりごり、のこりの金で買食かいぐいでもしようかと、甲府こうふをさしてきたとちゅう、ここでり番役をしていた燕作えんさくの目にとまり、ひっぱりこまれたものである。
 そしてさっきから、うまうまとふところの小判こばんを、あらかた巻きあげられ、もう三枚しか手になかった。燕作は、その三枚の小判こばんをふんだくってしまったら、おとといおいでと、小屋からつまみだしてしまうつもりだ。
「おい、蛾次公がじこう先生、いつまで考えこんでいるんだい」
「だけれど、こわいなあ、この三枚をだして負けになると、おれは、からッぽになってしまうんだろう」
「そのかわり、おめえが勝てば、六枚になるじゃねえか、六枚はって、また勝てば十二枚、その十二枚をまたはれば、二十四枚、二十四枚は二十四両、どうでえ、それだけの金をふところに入れて、甲府へいってみろ、買えねえ物は、ありゃしねえぞ」
「よし! はった」
「えらい、さすがは男だ、よしかね、勝負をするぜ」
「ウム、燕作さん、ごまかしちゃいけねえよ」
「ばかをいやがれ、いいかい、ほれ……」
 と、燕作がつぼへ手をかける、蛾次郎は目をとぎすます――と、その時だ……
 ドドーンと、裏山うらやまの上で、不意にとどろいた一発の狼煙のろし
 燕作は見張り番の性根しょうねを呼びさまして、「あッ!」とばかりはねかえり、窓の戸をガラッとあけて空をみると、いましも、打ちあげられた狼煙のろしのうすけむり、水に一てき墨汁すみじるをたらしたように、ボーッと碧空あおぞらににじんで合図あいずをしている。
「やッ、なにか伊那丸いなまるの陣のほうへ、合図をしやがったやつがあるな。ウム、もうこうしちゃいられねえ」
 あわただしく取ってかえすやいなけてあった小判こばんをのこらずかきあつめて、ザラザラとふところにねじ込む。
 蛾次郎がじろうはぎょうてんして、そのたもとにしがみついた。
「ずるいやずるいや、燕作えんさくさん、おれの金まで持っていっちゃいけないよ、かえしてくれ、かえしてくれ」
「ええい、この阿呆あほうめ、もう、てめえなんぞに、からかっているひまはねえんだ」
 ポンと蛾次郎をはなして、脇差わきざしをぶちこむがはやいか、ガラリッと土間どまの戸をけっぱなして、狼煙のあがった裏の小山へ、いちもくさんにかけあがった。
 あとで起きあがった蛾次郎、親の死目しにめに会わなかったより悲しいのか、両手を顔にあてて、
「わアん……わアん……わアん……」
 と、手ばなしで泣きだした。
 しかし天性てんせいの泣き虫にかぎって、泣きだすのもはやいが泣きやむのもむぞうさに、ケロリと天気がはれあがる。
 しばらくのあいだ、おもうぞんぶん泣きぬいた蛾次郎は、それで気がさっぱりしたか、プーとつらをふくらましてそとへでてきた。と思うと、なにかんがえたか、さい河原かわら亡者もうじゃのように、そこらの小石をふところいっぱいひろいこんだ。
燕作えんさくめ! 見ていやがれ」
 おそろしい怖ろしい、低能児ていのうじでも復讐心ふくしゅうしんはあるもの。蛾次郎が、小石をつめこんだのは、れいの石投げのわざで、小判こばんかたきをとるつもりらしい。
 燕作がかえってくるのを待伏まちぶせる計略か、蛾次郎はギョロッとすごい目をして水車小屋すいしゃごやの裏へかくれこんだ。
 と、どこまで運のわるいやつ、わッと、そこでまたまた腰をぬかしそこねた。
「やあ、おめえは、クロじゃねえか」
 一どはびっくりしたが、そこにいた怪物は、おなじみの竹童ちくどうのクロだったので、蛾次郎は思わず、人間にむかっていうようなあいさつをしてしまった。
 そして、いまのきッつらを、グニャグニャと笑いくずして、
「しめ、しめ! 竹童がいないまに、このわしをかっぱらッてしまえ。鷲にのって菊池半助きくちはんすけさまのところへいけばお金はくれる、さむらいにはなれる、ときどきクロにのって諸国の見物はしたいほうだい。アアありがてえ、こんな冥利みょうりを取りにがしちゃあ、天道てんとうさまから、苦情がくら」
 竹の小枝を折って棒切ぼうきれとなし、竹童うつしにクロの背なかへのった泣き虫の蛾次郎。ここ一番の勇気をふるいおこして、わしぬすみのはなれわざ、小屋の前からさッと一陣の風をくらって、宙天ちゅうてんへ乗り逃げしてしまった。


 血相けっそうかえて、小山の素天すてッぺんへけあがってきた早足はやあし燕作えんさく、きッと、あたりを見まわすと、はたして、そこの粘土ねんどの地中に狼煙のろしつつがいけてあった。
 スポンとひき抜いて、その筒銘つつめいをあらためていると、すきをねらってものかげから、バラバラと逃げだしたひとりの少年。
「うぬ、間諜まわしもの!」
 ぱッと飛びついて組みかぶさった燕作、肩ごしに対手あいてあごへ手をひっかけて、タタタタタと五、六けんひきずりもどしたが、きッと目をむいて、
「やッ、てめえは鞍馬くらま竹童ちくどうだな」
「オオ竹童だが、どうした」
「狼煙をあげて、伊那丸方いなまるがた合図あいずをするなんて、なりにもにあわぬふてえやつ。きょうこそ呂宋兵衛るそんべえさまのところへ引っつるすからかくごをしろ」
「だれがくそ!」
「ちぇッ。この餓鬼がきめ」
「なにをッ、この大人おとなめ」
 組んずほぐれつ、たちまち大小二つのからだが、もみ合った。――赤土がとぶ、草が飛ぶ。それが火花のように見える。
 さきに、釜無川原かまなしがわらでぶつかった時、燕作えんさくの早足と腕まえを知った竹童は、もう逃げては、やぼとおもったか、いきなりかれの手首へかじりついた。
「あいてッ! ちくしょうッ」
 燕作はこぶしをかためて、イヤというほど、竹童のびんたをなぐる。しかし竹童も、必死にいさがって、はなれればこそ。
「ウム」とくちびるから血をたらして同体に組みたおれた。そしてややしばらく芋虫いもむしのように転々てんてんとして上になり、下になりしていたが、ついにンまたいでねじふせた燕作が、右の拇指おやゆびで、グイと対手あいてのどをついたので、あわれや竹童ちくどうのど三寸のいきのをたたれて、
「ウーム……」
 と、四をぶるるとふるわせたまま、ついに、ぐったりしてしまった。
「ざまア見やがれ! がらちいせえわりに、ぞんがいほねを折らせやがった」
 燕作は、すぐ竹童をひっかかえて、法師野ほうしのにいる呂宋兵衛るそんべえのところへかけつけようとしたが、ふと気がつくと、いまの格闘かくとうで、さっき蛾次郎がじろうからせしめた小判こばんが、あたりに山吹やまぶき落花らっかとなっているので、
「ほい、こいつをすてちゃあゆかれねえ」
 あっちの三枚、こっちの五枚、ザラザラひろいあつめていると、とつ! どこからか風をきって飛んできた石礫いしつぶてが、コツンと、燕作えんさくの肩骨にはねかえった。
「おや」
 とふりむいたが、竹童ちくどう気絶きぜつして横たわっているし、ほかにあやしい人影も見あたらない。どうもへんだとは思ったが、なにしろたいせつな小判こばんをと、ふたたびかき集めていると、こんどはバラバラ小石の雨が、つづけざまにってきた。
「あ、あ、あいたッ!」
 両手で頭をかかえながら、ふとあおむいた燕作の目に、そのとたん! さッと舞いおりた大鷲おおわし赤銅色しゃくどういろの腹が見えた。
 首尾しゅびよく、わしぬすみをやった泣き虫の蛾次郎がじろう、その上にあって、細竹ほそだけつえを口にくわえ、右手に飛礫つぶてをつかんで、
「やい燕作、やアい、燕作のバカ野郎やろう。さっきはよくも蛾次郎さまの金を、いかさまごとで、巻きあげやがったな。その返報には、こうしてやる、こうしてやる!」
 天性てんせい、石なげのみょうをえた蛾次郎が、邪魔物じゃまもののない頭の上からねらいうちするのだからたまらない、さすがの燕作も手むかいのしようがなく、あわてまわって、竹童のからだを横わきに引っかかえるやいな、小山のぐちへむかって、一そくとびに逃げだした。
 が――一せつな、蛾次郎がさいごの力をこめた飛礫つぶてがピュッと、燕作のこめかみにあたったので、かれは、急所の一げきに、くらくらと目をまわして、竹童のからだを横にかかえたまま、粘土ねんど急坂きゅうはんみすべって、竹林ちくりんのなかへころがり落ちていった。
「やあ、いい気味だ、いい気味だ! ひっヒヒヒヒヒ」
 白い歯をむきだして、虚空こくう凱歌がいかをあげた蛾次郎がじろうは、口にくわえていた細竹ほそだけつえを持ちなおし、ここ、竹童そッくりの大得意だいとくい
「さ、クロ、あっちへ飛べ」
 南――遠江とおとうみの国は浜松の城、徳川家康とくがわいえやす隠密組おんみつぐみ菊池半助きくちはんすけのところを指して、いっきにわしをかけらせた。
 幸か不幸か、いま竹童は息のえてそれを知らない。めてのち、かれが天下なにものよりも愛着してやまないクロが、蛾次郎のため盗みさられたと知ったら、その腹立ちはどんなだろう。


 ゴットン、ゴットン、ゴットン……
 水車の諧調かいちょうに、あたりはいつか、たそがれてきた。
 竹林ちくりんのやみに、夜の風がサワサワゆれはじめると、昼はさまでに思えなかった水音みずおとが、いちだんとすごみをびてくる。――ことに今夜は、小屋のをともす者もなかった。
 星あかりで見ると、その燕作えんさくは、水車場すいしゃばのすぐ上のがけに、竹童ちくどうをかかえたまま、だらりと木の根に引っかかっている。
 ――ふたりとも、死せずきず、気絶きぜつしているのだ。
 すると上の竹の葉が、サラサラ……とひそやかにそよぎだしたかと思うと、ささしずくがそそぎこぼれて、燕作えんさくの顔をぬらした。で、かれはハッと正気しょうきをとりもどし、むくむくと起きて、やみのなかにつっ立った、――立ったとたんに、笹の枝からヌルリとしたものが、燕作の首に巻きついた。
「あッ――」と、つかんですてると、それは小さな白蛇しろへびである。こんどはたおれている竹童の胸へのって、かれのふところへ鎌首かまくびを入れ、スルスルと襟首えりくびへ、銀環ぎんかんのように巻きついた。
 夜はいよいよ森々しんしんとしている。燕作は、なんだかゾッとして手がだせないでいた。そして、顔のしずくをなでまわした。
 と、それはあまりに遠くない地点から、ぼウ――ぼウ――と鳴りわたってきた法螺ほら、また陣鐘じんがね。耳をすませば、ごくかすかに甲鎧こうがいのひびきも聞える。兵馬漸進へいばぜんしんの足なみかと思われる音までが、ひたひたとうしおのように近づいてくる。
「オオ!」
 燕作はいきなり、そばの木へのぼって、枝づたいに、水車小屋の屋根の上へポンととびうつった。そして、暗憺あんたんたる裾野すそのの方角へ小手をかざしてみると、こはなにごと!
 急は目前もくぜん、味方の一大事、すでに十数町の近くまでせまってきていた。
 竹童ちくどうがあいずの狼煙のろしをみて、この地方に敵ありと知った武田伊那丸たけだいなまるは、白旗しらはたもり軍旅ぐんりょをととのえ、裾野陣すそのじん降兵こうへいをくわえた約千余の人数を、せいりゅうはくげんの五段にわかち、木隠こがくれたつみ山県やまがた加賀見かがみ咲耶子さくやこの五人を五隊五将の配置とした。
 采配さいはい、陣立て、すべてはむろん、軍師ぐんし小幡民部こばたみんぶこれを指揮しきするところ。
 陣の中央はこれ天象てんしょうの太陽、すなわち、武田伊那丸の大将座、陰陽いんよう脇備わきぞなえ、畳備たたみぞなえ、旗本はたもと随臣ずいしんたちたての如くまんまんとこれをかこみ、伝令でんれい旗持はたもちはその左右に、槍組やりぐみ白刃組はくじんぐみ、弓組をせんとうに、小荷駄こにだ後備うしろぞなえはもっともしんがりに、いましも、三軍ほしをいただき、法師野ほうしのさしていそいできた。
 ひる、それを見れば、孫子そんし四軍の法を整々せいせいとふんだ小幡民部が軍配ぐんばいぶり、さだめしみごとであろうが、いまは荒涼こうりょうたる星あかり、小屋の屋根から小手をかざしてみた燕作えんさくにも、ただその殺気しか感じられなかった。
「ウーム……」
 と、燕作はおもわずうなって、
「いよいよ伊那丸のやつばらが、呂宋兵衛るそんべえさまのあとをかぎつけてきやがったな。オオ、すこしも早くこのことを、法師野ほうしのへ知らせなくっちゃならねえ」
 ひらりと、屋根をとびおりた燕作、この大事に驚愕きょうがくして、いまはひとりの竹童をかえり見ているひまもなく、得意の早足はやあし一もくさん、いずこともなくすッ飛んでった。

白樺しらかばふえ少女おとめ




 けもかけたり早足はやあし燕作えんさく
 水車小屋から法師野ほうしのまで、二八、九ちょうはたっぷりな道、暗夜悪路をものともせず、ひととび、五、六しゃくずつきびすをけって、たちまち大庄屋おおしょうや狛家こまけ土塀門どべいもんのうちへ、息もつかずに走りこんだ。
 きて見ると、こなたは意外、いやのんきしごくなていたらく。
 呂宋兵衛るそんべえ以下、野獣やじゅうのごとき残党輩ざんとうばら竹童ちくどうのあげた狼煙のろしも、伊那丸軍いなまるぐんの出動も知らず、みなゆだんしきッた酒宴さかもり歓楽最中かんらくさいちゅう。なかにはすでにいつぶれて、正体しょうたいのない野武士のぶしさえある。
 息はずませて、門からおくをのぞきこんだ燕作、
「ケッ、ばかにしていやがら」
 と、むッとして、
「おれひとりを、番小屋に張りこませておきゃあがって、てんでに、すきかってなまねをしていやがる。ウム、くせになるから、いちばんきもッ玉のでんぐり返るほど、おどかしてやれ」
 じぶんも蛾次郎がじろうあいてに、かけごとをしていたことなどはたなへあげて、不平づらをとンがらかした燕作えんさく、いきなり庭先のやみへバラッとおどり立ち、声と両手をめちゃくちゃにふりあげて、
「一大事、一大事! 酒宴さかもりどころじゃない、一大事がおこったぞ」
 取次ぎもなく、ふいにどなられたので、呂宋兵衛るそんべえは、さかずきをおとして顔色をかえた。かれのみか、丹羽昌仙にわしょうせん蚕婆かいこばばあ穴山あなやま残党ざんとう足助あすけ佐分利さぶりの二名、そのほかなみいる野武士のぶしたちまで、みな総立そうだちとなり、あさましや、歓楽かんらくの席は、ただ一声ひとこえで乱脈となった。
「おお、そちは番小屋の燕作、さてはなんぞ、伊那丸がたの間諜かんちょうでも、立ちまわってきたと申すか」
「あ、昌仙さまでございましたか、間諜どころか、武田伊那丸たけだいなまるじしんが、一千あまりの軍勢をりたて、この法師野ほうしのへおそってくるようすです」
「ウーム、さすがは伊那丸、もうこのかくざとをさぐりつけてまいったか。よもやまだ四、五日は大丈夫と、たかをくくっていたのが、この昌仙のあやまり、ああ、こりゃどうしたものか……」
 丹羽昌仙は、ためいきついて、つぶやいたが、急に、ヒラリと庭さきへでて、じッと、十方の天界てんかいをみつめだした。
 そらは無月むげつ紺紙こんしはくをふきちらしたかのごとき星月夜ほしづきよ、――五遊星ゆうせい北極星ほっきょくせい北斗星ほくとせい、二十八宿星しゅくせい、その光芒こうぼうによって北条流ほうじょうりゅう軍学の星占ほしうらないをたてているらしい昌仙しょうせんは、しばらくあってのち、なにかひとりうなずいて、もとの席へもどり、呂宋兵衛るそんべえにむかって、離散逃亡りさんとうぼう急策きゅうさくをさずけた。
「ではなんとしても、おれもひとりとなり、そちもひとりとなり、他の者どももみなばらばらとなって、退散せねばあぶないというのか」
 蛮流幻術ばんりゅうげんじゅつにたけて、きたいな神変しんぺんをみせる呂宋兵衛も、臆病おくびょうな生まれつきはあらそえず、語韻ごいんはふるえをおびて昌仙の顔をみまもっていた。
「ざんねんながら、富岳ふがくの一天に凶兆きょうちょうれきれき、もはや、死か離散かの、二よりないようにぞんぜられまする」
伊那丸いなまるずれにほろぼされて、ここに終るのも、無念至極むねんしごく。ウム……では、ひとまずめいめいかってに落ちのびて、またの時節をうかがい、京都へあつまって、人穴城ひとあなじょう栄華えいがにまさる出世のさくを立てるとしよう」
「なるほど、京都へまいれば秀吉公ひでよしこうのお力にすがることもでき、公卿こうけい百官の邸宅ていたく諸侯しょこうの門などいらかをならべておりますから、またなんぞうまい手蔓てづるにぶつからぬかぎりもござりますまい。では、呂宋兵衛さま、すこしもはやく、ここ退散のおしたくを……」
「おう、じゃ、昌仙もほかの者も、のちに京都で落ちあうことはたしかにしょうちしたろうな」
「がってんです、きっとまた頭領とうりょうのところへけあつまります」
 一同が、異口同音いくどうおんに答えるのを聞いて、呂宋兵衛るそんべえは、有り金をあたまわりに分配して、武器、服装、足ごしらえ用意周到よういしゅうとうの逃げじたくをはじめる。
 もあらせず、とうとうたる金鼓きんこや攻め貝もろとも、法師野ほうしのさとへひた押しに寄せてきた伊那丸勢いなまるぜい怒濤どとうのごとく、大庄屋おおしょうや狛家こまけのまわりをグルッととりかこんだ。
 その時おそし、呂宋兵衛一残党ざんとうごとごとの燈火ともしびをふき消して、やくそくどおりの自由行動、はちを突いたように、八方からやみにまぎれて、戸外おもてへ逃げだした。
 へいおどり越そうとする者――木の枝にぶらさがる者、屋根にのぼってすきを見る者、衆を組んで破れかぶれに斬りだす者――いちじにワーッと喊声かんせいをあげると、寄手よせてのほうも木霊こだまがえしに、武者声むしゃごえを合わせて、弓組いっせいにつるを切り、白刃組はくじんぐみしのぎをけずり、ここかしこにたちおこる修羅しゅらちまた
 時に、鉄鋲てっぴょうった鉢兜はちかぶと小具足こぐそくをつけ、背に伝令旗でんれいばたし立てた一、伊那丸のめいをうけて、五陣のあいだをかけめぐりながら、
「――民家へ火をつけるな。――罪なきたみきずつけるな。――こうう者は斬るな。――和田呂宋兵衛わだるそんべえはかならず手捕てどりにせられよ。以上、おん大将ならびに軍師ぐんし厳命げんめいでござるぞ。違背いはいあるにおいては、味方たりといえども斬罪ざんざい
 と、声をからして伝令しった。


「もうだめだ、表のほうは、ありのはいでるすきもねえ。昌仙しょうせんさま、昌仙さま、うまいところが見つかったから、はやく頭領とうりょうをつれてこっちへ逃げておいでなさい」
 まっ暗な裏手うらてに飛びだして、あわただしく手をふったのは早足はやあし燕作えんさく。ひゅうッ、ひゅうッ、とうなりを立てて飛んでくる矢は、そのあたりの戸袋とぶくろ、井戸がわ、ひさし、立木のみき、ところきらわず突きさって、さながら横なぐりに吹雪ふぶきがきたよう。
 と、暗憺あんたんたる家のなかで、丹羽昌仙のひくい声。
「呂宋兵衛さま、裏手のほうが手うすとみえて、燕作がしきりにわめいております。さ、少しもはやくここをお落ちなさいませ」
「ウム」
 となにかささやきながら、おくからゾロゾロとでてきたのは、丹羽昌仙、蚕婆かいこばばあ足助主水正あすけもんどのしょう佐分利さぶり五郎次、そしてそのなかに取りかこまれた黒布蛮衣こくふばんいの大男が、まぎれもない和田呂宋兵衛わだるそんべえか――と思うと、またあとからおなじ黒衣こくいをつけ、おなじ銀の十を胸にたれ、おなじ背かっこうの男がふたりもでてきた。
 しめて、七人。
 そのなかに呂宋兵衛が三人もいる。ふたりはむろん昌仙がとっさの妙策みょうさくでつくった影武者かげむしゃだが、どれが本物の呂宋兵衛か、どれが影武者か、夜目よめではまッたくけんとうがつかない。
燕作えんさく、燕作」
 昌仙しょうせんは用心ぶかく、裏口へ首だけだしてどなってみた。矢はしきりに飛んでくるが、さいわい、まだ伊那丸いなまる手勢てぜいはここまでみこんでいなかった。
「燕作、逃げ口をあんないしろ! 燕作はどこにいるんだ」
「あ、昌仙さまでございますか」
「そうだ、呂宋兵衛るそんべえさまをお落としもうさにゃならぬ、うまい逃げ口が見つかったとは、どこだ」
「ここです――ここです」
「どこだ、そちはどこにいるんだ」
「ここですよ。昌仙さま、呂宋兵衛さま、はやくここへおいでなさいまし」
「はてな?」
 流れ矢があぶないので、七人とも首だけだして、裏手の闇をズーと見わたしたが、ふしぎ、すぐそこで、大きくひびく燕作の声はあるが、どこをどう見つめても、かれのすがたが見あたらない。
 とたんに、表のほうへ、伊那丸の手勢が乱入してきたのか、すさまじい物音。逃げだした部下もあらかたけどられたり斬りたおされたはいである。
「それッ、ぐずぐずしてはいられぬ」
 七人のかげが流れ矢をくぐってそとへとびだし、いっぽうの血路けつろを斬りひらく覚悟で、うらの土塀どべいによじ登ろうとすると、
「あぶない! そっちはあぶない!」
 とまた燕作の声がする。
「どこだ、そのほうはいずれにいるのだ」
「ここだよ、こっちだよ」
「こっちとはどこだ」
 七人は行き場にまよってウロウロした。
 矢は見るまに、めいめいのそですそにも二、三本ずつさってきた。
「ええ、じれッてえな、ここだってば!」
「や、あの声は?」
「早く早く! 早くりておいでなせえ」
「燕作」
「おい」
「どこじゃ」
「ちぇッ、血のめぐりがどうかしているぜ」
 という声が、どうやら地底でしたと思うと、かたわらの車井戸くるまいどにかけてあった釣瓶つるべが、癇癪かんしゃくを起したように、カラカラカラとゆすぶれた。
「や、この井戸底いどそこにいるのか」
「そうです、ここより逃げ場はありませんぜ」
「バカなやつめ」
 影武者かげむしゃのひとりか、ただしは本人の呂宋兵衛るそんべえか、井戸がわに立ってあざ笑いながら、
「こんななかへとびこむのは、じぶんではかへはいるもどうぜんだ」
「おッと、そいつは大安心おおあんしん、ここは空井戸からいどで一てきの水もないばかりか、横へぬけ道ができているからたしかに間道かんどうです」
「なに抜け道になっているとか、そりゃもっけのさいわい」
 と、にわかに元気づいた七人、かわるがわる釣瓶づたいに空井戸の底へキリキリとさがってゆく。
 そして、すでに七人のうち五人までがすがたを隠し、しんがりに残った影武者のひとりと佐分利さぶり五郎次とが、つづいて釣瓶縄つるべなわにすがって片足かけたとき、早くもなだれ入った伊那丸勢いなまるぜいのまっさきに立って、疾風しっぷうのごとく飛んできたひとりの敵。
「おのれッ」
 と、けよりざま、雷喝らいかつせい、闇からうなりをよんだ一じょう鉄杖てつじょうが、ブーンと釣瓶もろとも、影武者のひとりをただ一げきにはね飛ばした。
 そのおそろしい剛力ごうりきに、空井戸の車はわれて、すさまじく飛び、ふとい棕梠縄しゅろなわ大蛇おろちのごとくうねって血へどいた影武者のからだにからみついた。
「あッ――」
 と、あやうく鉄杖てつじょうの二つどうにされそこなった佐分利さぶり五郎次、井戸がわから五、六尺とびのいてきッと見れば、鎧武者よろいむしゃにはあらず、黒の染衣せんえかろやかに、ねずみの手甲てっこう脚絆きゃはんをつけた骨たくましい若僧わかそう、いま、ちぬられた鉄杖をしごきなおして、ふたたび、らんらんとしたまなこをこなたへ射向いむけてくるようす。
「さてはこいつが、伊那丸いなまる幕下ばっかでも、怪力かいりき第一といわれた加賀見忍剣かがみにんけんだな……」
 五郎次はブルッと身ぶるいしたが、すでに空井戸からいどの逃げみちはたれ、四面楚歌しめんそかにかこまれてしまった上は、とうてい助かるすべはないとかんねんして、やにわに陣刀をギラリと抜き、
「おお、そこへきたのは加賀見忍剣とみたがひがめか、もと穴山梅雪あなやまばいせつ四天王してんのうのひとり佐分利五郎次、きさまの法師首ほうしくび剣先けんさきにかけて、亡主ぼうしゅ梅雪の回向えこうにしてくれる、一うちの作法さほうどおり人まじえをせずに、勝負をしろ」
 窮鼠きゅうそねこをかむとはこれだ、すてばちの怒号どごうものものしくも名のりをあげた。
 忍剣は、それを聞くとかえって鉄杖の力をゆるめ、声ほがらかに笑って、
「はははは、さてはなんじは、悪入道あくにゅうどう遺臣いしんであったか、主人梅雪がすでに醜骸しゅうがい裾野すそのにさらして、相果あいはてたるに、いまだいのちほしさに、呂宋兵衛るそんべえの手下にしたがっているとは臆面おくめんなき恥知らず、いで、まことの武門をかがやかしたもう伊那丸いなまるさまの御内人みうちびと加賀見忍剣が、天にかわって誅罰ちゅうばつしてくりょう」
「ほざくな痩法師やせほうし、鬼神といわれたこの五郎次の陣刀を受けられるものなら受けてみろ」
豎子じゅし! まだ忍剣にんけん鉄杖てつじょうのあじを知らぬな」
「うぬ、そのしたを!」
 ――とさけびながら佐分利さぶり五郎次、三日月みかづきのごとき大刀をまっこうにかざして、加賀見忍剣かがみにんけん脳天のうてんへ斬りさげてくる。
「おお」
 ゆうゆう、右にかわして、さッと鉄杖にすんのびをくれて横になぐ。あな――とおもえば佐分利さぶりも一かどの強者つわもの、ぽんとんで空間くうかんをすくわせ、
「ウム、えイッ」
 と陣刀に火をふらして斬ってかかる。パキン! パキン! と二ど三ど、忍剣の鉄杖が舞ってうけたかと思うと、佐分利の大刀は、こおりのかけらが飛んだように三つに折れてつばだけが手にのこった。
 仕損しそんじたり――とおもったか佐分利五郎次、おれた刀をブンと忍剣の面上めんじょう目がけて投げるがはやいか、きびすをめぐらして、いっさんに逃げだしていく。
 時こそあれ、
「えーイッ」とひびいた屋上おくじょうの気合い。
 屋根廂やねびさしからななめさがりに、ぴゅッと一本の朱槍しゅやりが走って、逃げだしていく佐分利の背から胸板をつらぬいて、あわれや笑止しょうし、かれを串刺くしざしにしたまま、けやきみきいつけてしまった。


「何者?」
 鉄杖てつじょうをおさめて、忍剣にんけんひさしの上をふりあおぐと、声におうじて、ひとりの壮漢そうかんが、
巽小文治たつみこぶんじ
 と名のりながら、ひらりと上からとび下りてきた。
「なんだ小文治どのか、よけいなことする男じゃ」
「でも、あやうく逃げるようすだったから」
「だれがこんな弱武者よわむしゃ一ぴき、鉄杖のさきからのがすものか」
「はやまって、失礼もうした」
「いや、なにもあやまることはござらぬよ」
 と忍剣は苦笑して、さきに打ちたおした黒衣こくいの影武者をのぞいたが、呂宋兵衛るそんべえ偽者にせものと知って舌打したうちする。小文治は敵を串刺くしざしにして、大樹たいじゅの幹につき立ったやりをひき抜き、穂先ほさきこぼれをちょっとあらためてみた。
「して、小文治どの、木隠こがくれ山県やまがたなどはどうしたであろう」
龍太郎りゅうたろうどのは表口から奥のへはいって、呂宋兵衛のゆくえをたずね、蔦之助つたのすけどのは、弓組を四町四ほうにせて、かれらの逃げみちをふさいでおります」
「ウム、それまで手配てはいがとどいておれば、いかに神変自在な呂宋兵衛でも、もうふくろのねずみどうよう、ここよりのがれることはできまい。だが……この井戸はどうやら空井戸からいどらしい、念のためにこうしてやろう」
 法衣ころもそでをまくりあげた忍剣にんけん一抱ひとかかえもある庭石をさしあげて、ドーンと、井戸底いどそこへほうりこむ。それを合図あいずに、あとから駈けあつまってきた部下の兵も、めいめい石をおこして投げこんだので、見るまに井戸は完全な石埋いしうめとなってしまった。
 ところへ木隠龍太郎こがくれりゅうたろうが、うちのなかから姿をあらわして、
「オオ、ご両所りょうしょ、ここにいたか」
「やあ、龍太郎どの、呂宋兵衛るそんべえ在所ありかは」
「ふしぎや、いっこう行方ゆくえが知れもうさぬ。どうやらすでに風をくらって、逃げ失せたのではないかと思われる」
「といって、この家の四ほうは、二じゅうじゅうに取りかこんであるから、かれらのしのびだすすきもないが」
「どこかに間道かんどうらしい穴口あなぐちでもないかしら」
「それもわしが手をわけて尋ねさせたが、ここに一つの空井戸があったばかり」
「なに空井戸?」
 と龍太郎がとびりてきて、
「ウム、こりゃあやしい、どこかへ通じる間道かんどうにそういない、なかへはいってあらためて見よう」
「いや、念のために、ただいまわしが石埋いしうめにしてしまった」
 と、忍剣にんけんしたり顔だが、龍太郎はじだんだふんで口惜くやしがった。呂宋兵衛るそんべえや敵のおもなるものが、この口から逃走したとすれば、この空井戸からいどをふさいで、どこからかれらを追跡するか、どこへ兵を廻しておくか、まったくこれでは、みずから手がかりの道を遮断しゃだんしてしまったことに帰結する――と憤慨ふんがいした。そのの当然に、忍剣もすっかり後悔して、しばらくもくしあっていた。
 すると、はるか北方の森にあたって、とぎれとぎれなふえが高鳴った。
 ――おお、それは、げんじんをしいて鳴りをしずめていた咲耶子さくやこが、かねて手はずをあわせてある合図あいずの笛。
「それ、咲耶子どのの笛がよぶ――」
 よみがえったように、加賀見忍剣かがみにんけん巽小文治たつみこぶんじ木隠龍太郎こがくれりゅうたろうの三名、をしたって走り出すと、その余の手勢てぜいも波にすわるるのごとく、声なくおとなく、うずの中心に駈けあつまる――

 城やとりで間道かんどうとちがって、豪農ごうのうの家にある空井戸からいどの横穴は、戦時財宝のかくし場とするか、あるいは、家族の逃避所とする用意に過ぎないので、もとより、二里も三里もとおい先へぬけているはずがない。
 呂宋兵衛るそんべえたち五人のものがわずか二、三ちょう暗闇くらやみをはいぬけて、ガサガサと星影の下に姿をあらわしたのは、黒百合谷くろゆりだにの中腹で、上はれいの多宝塔たほうとうのある施無畏寺せむいじ境内けいだい、下は神代川じんだいがわとよぶ渓流けいりゅうがドーッとつよい水音をとどろかしている。
「道は水にしたがえ」とは山あるきの極意ごくい
 五人は無言のうちに、道どりのこころ一致いっちして、蔓草つるくさ深山笹みやまざさをわけながら、だらだら谷の断崖だんがいりてゆく。
 ――と、その時だ。
 にょッきと、星の空にそびえた一本の白樺しらかば、その高き枝にみどりの黒髪くろかみ風に吹かして、腰かけていたひとりの美少女、心なくしてふと見れば、黒百合谷くろゆりだに百合ゆりの精か星月夜ほしづきよのこぼれ星かとうたがうだろう――ほどにだかい美少女が、手にしていた横笛を、山千鳥のくかとばかり強く吹いた。
「や、や? ……」
 五人の者が、うたがいに、進みもやらずもどりもせず深山笹のしげみに、うろうろしていると、白樺のこずえの少女は、虚空こくうにたかく笛をふって、さっ、さっ、さっと三せん合図あいず知らせをしたようす。
 と思うと、神代川の渓流がさかまきだしたように、ウワーッとあなたこなたの岩石がんせきのかげから、いちじに姿をあらわした伏兵ふくへい
 これなん、咲耶子さくやこの一伏現ふくげんする裾野馴すそのならしの胡蝶こちょうの陣。
「しまった!」
 丹羽昌仙にわしょうせん絶叫ぜっきょうした。
 とたんにがけのうえから木隠龍太郎こがくれりゅうたろうが、
賊徒ぞくと、うごくな」
 と戒刀かいとうさやをはらって、銀蛇ぎんだ頭上にりかぶってとびおりる。発矢はっし、昌仙が、一太刀うけているすきに、呂宋兵衛るそんべえとその影武者、蚕婆かいこばばあ早足はやあし燕作えんさく、四人四ほうへバラバラと逃げわかれた。
 と、ゆくてにまたあらわれた巽小文治たつみこぶんじ朱柄あかえやりをしごいて、燕作を見るやいな、えいッと逆落さかおとしに突っかける。もとより武道の心得のない燕作、受ける気もなくかわす気もなく、ただ助かりたい一念で、神代川じんだいがわの水音めがけて飛びこんだ。が、小文治はそれに目もくれず、ひたすら呂宋兵衛の姿をめざしてけだした。
 一ぽうでは丹羽昌仙、龍太郎のさきをさけるとたんに断崖だんがいをすべり落ちて、伏兵ふくへいの手にくくりあげられそうになったが、必死に四、五人を斬りたおして、その陣笠じんがさ小具足こぐそくをすばやく身にまとい、同じ伏兵ふくへいのような挙動きょどうをして、まんまと伊那丸方いなまるがたの部下にばけ、逃げだす機会をねらっている。
 もっとも足のよわい蚕婆は、れいの針を口にふくんで、まえの抜けあなに舞いもどり、見つけられたら吹き針のおくの手をだそうと、まなこをとぎすましていたけれど、悪運まだつきず、穴の前を加賀見忍剣かがみにんけんと龍太郎が駈け過ぎたにもかかわらず、とうとう見つけられずに、なおも息を殺していた。
どもはどうでもよい、呂宋兵衛るそんべえはどうした」
「かくまで手をつくしながら、とうの呂宋兵衛を取り逃がしたとあっては、若君に対しても面目めんぼくない、者ども、余人よじんには目をくれず、呂宋兵衛を取りおさえろ」
 忍剣と龍太郎が、ほとんど狂気のように※(「口+它」、第3水準1-14-88)しったしてまわったが、なにせよ、身をぼっすばかりな深山笹みやまざさ、杉の若木、蔦葛つたかずらなどがいしげっているので、うごきも自由ならずさがしだすのもよういでなかった。すると、かなたにあって、
「やあやあ、巽小文治たつみこぶんじが和田呂宋兵衛を生けどったり! 和田呂宋兵衛を生けどったり!」
 声、満山まんざん鳴りわたった。
「ワーッ――」
「ワーッ」
 と、手柄てがら名のりにおうずる味方の歓呼かんこ、谷間へ遠く山彦やまびこする。
 さしも、強悪無比きょうあくむひな呂宋兵衛、いよいよここに天運つきたか。

多宝塔たほうとう




 山県蔦之助やまがたつたのすけも、さっきの笛合図ふえあいずと、小文治こぶんじ手柄名てがらなのりをきいて、弓組のなかからいっさんにそこへけつけてきた。
 でかした小文治――と、党友とうゆうこうをよろこびつつ、忍剣にんけん龍太郎りゅうたろうも、声のするほうへとんでいってみると、いましも小文治は、黒衣こくいの大男を組みふせて、あたりの藤蔓ふじづるでギリギリとしばりあげているところだ。
「おお、みごとやったな」
 蔦之助と龍太郎があおぐようにほめそやす。忍剣はちょっとざんねんがって、
「どうもきょうは、よく小文治どのに先陣をしてやられる日だわい……」
 と、うれしいなかにまだ腕をさすっている。
 すると、白樺しらかばのこずえの上にあって、始終をながめていた咲耶子さくやこが、にわかにやさしい声をはって、
「あれあれ、蔦之助さま、忍剣さま! うえの手うすに乗じて、和田呂宋兵衛わだるそんべえが逃げのぼりましたぞ、はやくお手配てはいなされませ!」
「な、なんといわるる!」
 四人は、愕然がくぜんとして空を見あげた。
咲耶子さくやこどの、その呂宋兵衛るそんべえは、ただいま小文治こぶんじどのがこれにて生けどりました。それはなにかの人ちがいであろう」
「いえいえ、たしかにあれへ登ってゆくのこそ、呂宋兵衛にそういありませぬ。オオ、施無畏寺せむいじ境内けいだいへかくれようとしてようすをうかがっておりまする、もう、わたしもこうしてはおられませぬ」
 咲耶子は、ふえおびにたばさんで、スルスルと白樺しらかばこずえからりてしまった。
「や、ことによるときゃつも? ……」
 忍剣にんけんは、さっき空井戸からいどで打ちころした影武者を思いおこして、黒衣こくいえりがみをグイとつかんだ。と同時に、その顔をのぞきこんで龍太郎も、おもわず声をはずませて、
「はてな、呂宋兵衛は蛮人ばんじんの血をまぜた、紅毛碧瞳こうもうへきどうの男であるはずだが、こりゃ、似ても似つかぬただの野武士のぶしだ、ウーム、さてはおのれ、影武者であったな」
「ええ、ざんねんッ」
 怒気心頭どきしんとうにもえた巽小文治たつみこぶんじ朱柄あかえやりをとって、一せんに突きころし、いまあげた手柄てがら名のりの手まえにも、とうの本人を引っとらえずになるものかと、無二無三に崖上がけうえへのぼりかえした。
 一足ひとあしさきに、白樺をりて追いすがった咲耶子は、いましも施無畏寺の境内けいだいへ、ツウとかくれこんでいった黒衣こくいのかげをつけて、
呂宋兵衛るそんべえ、呂宋兵衛」
 と二声ふたこえよんだ。
 意外なところに、やさしい女の声音こわねがひびいたので、
「なに?」
 おもわず足をみとどめて、ギョロッと両眼をふり向けたのは、蛮衣ばんいに十字の念珠ねんじゅくびにかけた怪人かいじん、まさしく、これぞ、正真正銘しょうしんしょうめい和田呂宋兵衛わだるそんべえその者だ。
「や、なんじ根来小角ねごろしょうかくの娘だな」
「おお、かたきたるそちとはともに天をいただかぬ咲耶子さくやこじゃ。伊那丸いなまるさまや、その余のかたがたのお加勢で、ここになんじをとりかこみ得たうれしさ、悪人! もう八ぽうのがれるみちはないぞえ」
「わはははは、おのれや伊那丸ずれの女子供に、この呂宋兵衛が自由になってたまるものか。斬るも突くも不死身ふじみのおれだ。五尺とそばへ近よって見ろ、汝の黒髪は火となって焼きただれるぞ」
「やわか、邪法じゃほう幻術げんじゅつなどにまどわされようぞ」
「ふふウ……その幻術にこりてみたいか」
笑止しょうしやその広言こうげん、咲耶子には、胡蝶こちょうじんの守りがある」
「胡蝶陣? あのいたずらごとがなんになる」
「オオ、そういうじぶんが、すでに胡蝶陣のわなちているのも知らずに……ホホホホ、かれ者の小唄こうたは聞きにくいもの――」
女郎めろう! おぼえていろ」
 かッと、両眼をいからして、呂宋兵衛るそんべえはふいに咲耶子さくやこ咽首のどくびをしめつけてきた。じゅうぶん彼女にも用意があったところなので、ツイと、ふりもぎって、おびふえを抜くよりはやく、れいの合図あいず、さッと打ちふろうとすると呂宋兵衛が強力ごうりきをかけてうばいとり、いきなりじぶんの力で縦横じゅうおうにふってふってふりぬいた。
 するとピューッ、ピューッというぶきみな笛鳴りは、たちまちおそろしい暴風となって、満地まんち満天まんてんに木々の落葉おちばをふき巻くりあれよと見るまに、咲耶子は砂塵さじんをかおに吹きつけられて、あ――とまなこをつぶされてしまう。
「おのれ!」
 きらめく懐剣かいけん、ぴかッと呂宋兵衛の脇腹わきばらをかすめる。――カラリ、と笛をなげすてた呂宋兵衛は、肩にとまった一枚の紅葉もみじくちにくわえて、プーッと彼女の顔に吹きつけるやいなや、ひらりと舞った紅葉の葉は、とんで一ぺんほのおとなり、吹きぬく風にあおりをえて、あやし、咲耶子の黒髪にボウとばかり燃えついた。
 あッとおどろいたのは、一瞬の幻覚げんかくである。どこからか飛んできた一本の矢が、あやうく呂宋兵衛の耳をかすりぬけたせつな、かれの術気じゅっきは、ぱたッとやんだ風とともに破れて、ばらばらとかなたをさして逃げだした。
 それは、忽然こつねんとかけあがってきた四勇士の影をそこに見たがためであろう。――のがさじと、おいすがる咲耶子さくやこにつづいて、忍剣にんけん鉄杖てつじょうをひっさげ、龍太郎りゅうたろう戒刀かいとうをひらめかし、蔦之助つたのすけは弓に矢をつがえ、小文治こぶんじ朱柄あかえやりをしごいて、八もん必殺ひっさつのふくろづめに、呂宋兵衛るそんべえを、多宝塔たほうとうのねもとまでタタタタと追いまくした。


 さきに、伝令でんれいが陣ぶれをしたことばには、かならず、呂宋兵衛を手捕りにせよとのたっしであった。けれど、もうこうなっては、騎虎きこの勢いというもの、戒刀を引っさげた龍太郎は、まッさきに背後はいごからとびかかって、
奸賊かんぞく和田呂宋兵衛わだるそんべえ伊那丸方いなまるがたにさる者ありと知られたる木隠こがくれッ首もらった」
 さッと一陣の太刀風たちかぜをなげた。
「あッ」
 呂宋兵衛はきもをひやして、ッ先三寸のさきからツウと左へ逃げかわす。
 そこには加賀見忍剣かがみにんけん、鉄杖をまっこうにっとって、かれのゆくてに立ちあらわれ、
「おのれ、極悪ごくあく山大名やまだいみょう!」
 みじんになれとふりつける。
 右へよければ巽小文治たつみこぶんじ、大音とともに、
「呂宋兵衛、はや天命はつきたるぞッ」
 とばかり朱電しゅでんやりをくり出して、まつげをくばかりな槍影閃々そうえいせんせん
「えい、なんのおのればらに!」
 絶体絶命ぜったいぜつめいとなった呂宋兵衛るそんべえ。そのとき、とんとみとまって腰の大刀を横なぎに抜きはらったかとおもうと、剣は、火をふいて夜光のたまを散らすかと思われるような閃光せんこうを投げつけた。
「おお!」
 おもわず目をふさいだ四勇士。
 はッときょをうたれて飛びのいたが、これ、火遁幻惑かとんげんわく逃術とうじゅつであって、まことの剣を抜いたのではなかった。そのすきに、呂宋兵衛はしめたとばかり、多宝塔たほうとうの階段へ向かってトントントンとかけのぼった。
 そこへプツン! と山県蔦之助やまがたつたのすけがねらいはなしてきた二の矢を、みごとにそででからみおとした呂宋兵衛は、すばやく多宝塔のとびらへ手をかけた。
 この鉄壁てっぺきとうへかくれて、なかからとびらをもってふせぐさんだん。
 咲耶子さくやこも四勇士も、あッ、しまった! と階段へ追いすがってきたが、呂宋兵衛はそれを尻目しりめにかけて、早くも塔の扉をひらき、そのなかへ風のごとく姿をすいこませてしまった。
 けれど、かれのからだがそこへかくれるやいな、うるしのような塔内とうないやみから、とつじょ、
奸賊かんぞくすさりおろう!」
 声のひびきに呂宋兵衛るそんべえの五体、はじき返しに、階段の下までゴロゴロとけおとされてきた。
 忍剣にんけんをはじめ小文治こぶんじ龍太郎りゅうたろうは、得たりとばかり、得物えものをすてて呂宋兵衛に折りかさなり、歯がみをしてもがきまわる奸賊を高手小手たかてこてにからめあげた。――が、いま頭上でひびいた声のぬしは、そも何者であろうか、味方にしては意外なと、思ってふと見あげた人々は、
「や、わがきみ
 と、階段の下へひれふしてしまった。
「オオ、心地よいこと!」
 そのとき、多宝塔たほうとうとびらをはいして、悠然ゆうぜん壇上だんじょう床几しょうぎをすえ、ふくみわらいをして、こう見下ろしたのは、伊那丸いなまるであった。白綸子しろりんずの着込みに、むらさきおどしの具足ぐそく太刀たちのきらめきもはなばなしい。
 そのわきに、片膝かたひざって、手をついたのは、すなわち軍師ぐんし小幡民部こばたみんぶである。紺地無紋こんじむもん陣羽織じんばおりをつけ、ひだりの籠手こて采配さいはいをもち、銀作しろがねづくりの太刀をうしろへ長くそらしていた。
 兵は味方よりはかるというが、あまり意外なことなので龍太郎は、呂宋兵衛の縄尻なわじりをとりながら、民部に向かってたずねてみた。
「こよいは法師野ほうしの平陣ひらじんをしかれて、あれにおいであることとばかり思っておりましたに、いつのまに、このとうのうちへお越しなされてでござります」
「おん大将の陣は、ありと見ゆるところになく、なしと見ゆるところにあるのが常、べつにふしぎはござりませぬ」
 と、民部みんぶはことばすくなく答えたのみ。
「いつもながら軍師ぐんし妙策みょうさく、敬服のほかはござりませぬ。ところでこやつはいかがいたしましょうか」
「わがきみ御意ぎょいは!」
「そうじゃの……」
 伊那丸いなまるはじッと考えて、
「厳重にひっくくって、ひとまず、この三じゅうとうのいただきへからげつけておくのはどうじゃ」
「ともすると、幻術げんじゅつをもって人をまどわす妖賊ようぞく、なにさま、陣ぞろいのまもありますゆえ、それが上策じょうさくかも知れませぬ」
「ウム、軍馬をそろえて、小太郎山こたろうざんとりでへひきあげたうえは、御旗みはた楯無たてなしの宝物のありかも、とくとただしてみねばならぬゆえ、そのあとで咲耶子さくやこに討たせてやるもおそくはあるまい」
「おおせ、ごもっともです。では方々かたがた呂宋兵衛るそんべえをこの三じゅうへひっ立てて、かならず妖術ようじゅつなどで逃げせぬように厳重なご用意あるよう」
「はッ、しょうちいたした」
「立てッ!」
 と、呂宋兵衛るそんべえを引ったてた四勇士は、多宝塔たほうとうじゅうのいただきまで追いあげて、その一室の丸柱にくさりをもって厳重にしばりつけ、二階三階の梯子はしごまではずした上、とびらの口々はそとから鉄錠てつじょうをおろしてしまった。

あのここな慾張よくば小僧こぞう




 水車すいしゃは、もすがらふだんの諧音かいおんをたてて、いつか、孟宗藪もうそうやぶの葉もれに、さえた紺色こんいろがあけていた。
 燕作えんさく拇指おやゆびで、息のをとめられた鞍馬くらま竹童ちくどうは、いぜんとして、水車小屋のうらがけに、ダラリとなったまま木の根にからんであおむけざまに倒れている――
 とはいえ、まだ幽明ゆうめいさかいにあって、まったく死んでしまったわけではないので、いくぶん、ぬくみがあるが、ささの小枝からはいうつった小さな白蛇しろへびは、かれの体温たいおんへこころよげにそって、腕からのどへ、ぎんの輪となって巻きついたきり、去りもやらず、害をくわえるようすもない。
 おりから、法師野ほうしのの空にあって、三りゅう陣鐘じんがねが鳴りわたるを合図あいずに、天地にとどろくばかりな勝鬨かちどきの声があがった。
 それは、人穴ひとあな残党ざんとうを一きょ蹴散けちらして、主将呂宋兵衛るそんべえを生けどり、多宝塔たほうとうの三じゅうふうじこめた伊那丸いなまる軍兵ぐんぴょうが、あかつきの陣ぞろいに富岳ふがく紅雲こううんをのぞんで、三軍おもわず声をあわせてあげた凱歌がいかであろう。
 とおい動揺どよみが、失神の耳にも通じたものか、そのとき竹童ちくどうは、ピクリと鳩尾みぞおちをうごかして、すこし顔を横にふった。そのくちびるへ、白蛇しろへびは銀の鎌首かまくびをむけて、緋撫子ひなでしこのようなしたをペロリとく。
 すると、幾十の麗人れいじんが、しょうをあわせて吹くごとき竹林ちくりんの風――ザザザザザッ……とそよぎ渡ったかと思うと、竹童ははッきりと意識いしきを呼びかえされて、パッチリこの世の目をひらいた。
 ――気がつくと、じぶんはだれかにかれている。
 白衣はくい白髯はくぜん老道士ろうどうし、片手を彼の首にまき、片手を胸にまわして、わがひざきながら、なにやら、かんばしい仙丹せんたんみつぶして、竹童の口へくちうつしにのませてくれる。
「こりゃ、竹童、竹童……」
「あ?」
「気がついたか」
「オオ、あなたはお師匠ししょうさま!」
「ウム」
 とうなずいたとたんに、老道士ろうどうし竹童ちくどうを手からおろして、すばやく七、八けんばかり離れてしまった。
 その人は、竹童がぎょうてんしてんだごとく、かれの恩師おんし果心居士かしんこじであった。みずから仙丹せんたんをかんでくちうつしにのませてくれるほどやさしい居士も、竹童が正気しょうきにかえるとともに、いつもの気むずかしい厳格げんかくなすがたにもどっている。
不覚者ふかくものめが、このもあること、敵にあったらかならずわしの教えをおもいだすのじゃぞ」
「はい、面目めんぼくしだいもございません。燕作えんさくというやつにつかまって、とうとうおくれをとりましたが、こんど会ったら、きっと負けはいたしません」
「よし、早うゆけ」
「ですが、お師匠さま――」
 竹童はなつかしそうに近寄って、居士のおもてを見上げながら、
「いつか、人穴城ひとあなじょうへなげ松明たいまつをせよと、お師匠さまから密策みっさくをさずけられました時に、お別れしたきり、そのさらにお姿が見えませんでしたが、一たい今日こんにちまで、どこにおいでなされたのでござります」
「おお、わしのいたところか、じつは、そちだけにいってきかすが、わしはゆえあって、常陸ひたち鹿島かしまの宮、下総しもうさ香取かとりりょう神社に、七日ずつの祈願きがんをこめて参籠さんろうしておったのじゃ」
「そして、お師匠ししょうさまのご祈願というのは?」
伊那丸いなまるさまのご武運をうらなうに、どうも亀卜きぼくの示すところがよくないので、前途のおため神願しんがんをたてた」
「では、お師匠さまのえきによると、伊那丸さまには、甲斐源氏かいげんじのみ旗をもって、天下をおにぎりあそばすほどな、ご運がないとおっしゃいますか」
「いやいやそうともいえぬ、しかしそのことばかりは、ただ天これを知るのほか、凡夫ぼんぷ居士こじには予察よさつができぬ」
 と、果心居士かしんこじはふかくもいわず口をにごして話頭わとうてん
「それはとにかく、法師野ほうしのに陣ぞろいいたしている伊那丸君や龍太郎りゅうたろうなどは、さだめし、そちの見えぬのをあんじているであろう」
「ここで狼煙のろしをあげたッきりですから、ほんとうにしんぱいしていられるかもしれません」
「ウム、少しもはやく、ご幕下ばっかへはせくわわって、このうえとも、伊那丸さまのおんために働けよ」
「はい」
「わしも、もういちど鞍馬くらまのおくにこもって、星座をかんじ、天下の風雲をうかがい、おりあらばあらわれ、変あらば退いて、伊那丸いなまるさまの善後のさくを立てるかんがえ。――では竹童ちくどう、またしばらくそちにも会わぬぞ」
「あッ、お師匠ししょうさま――」
 竹童が声をあげて呼ぶうちに居士こじのすがたは、風のごとく竹林ちくりんをぬって、見えなくなった。
 ふたたび法師野ほうしのにあたって聞ゆる法螺ほら――。すでにはまったく明けはなれて、紫金紅流しきんこうりゅうの朝雲が、裾野すそのの空を縦横じゅうおうにいろどっていた。


 多宝塔たほうとうを中心として、施無畏寺せむいじの庭に陣ぞろいした武田たけだ軍勢ぐんぜいは、手負てお討死うちじに点呼てんこをしたのち、伊那丸いなまるの命令一下に、またも一部の軍卒ぐんそつが、法師野の部落を八方にかけわかれる。
 まだ戦いがあるのか――と思うとそうではない。
 武田の士卒しそつは、呂宋兵衛るそんべえらのために森にいましめられていた善良の民を第一に解放し、きぬなき者にはきぬをあたえ、財は家々いえいえへかえしてやり、宝物は寺にはこび返し、老人には慰安いあんを、わかき者には活動を、女には希望を、子供には元気をつけてやる。
「オオ、あの旗じるしを見ろ、多宝塔たほうとうの下にいるおん大将をおがめ、あれこそ、この土地のむかしのご領主、信玄しんげんさまのおんまご武田伊那丸たけだいなまるさま――」
 と、部落の民は、わかれた慈父じふにめぐり会ったごとく大地にぬかずくもの、おどって狂喜するもの、うれし涙にくれる者などさまざまで、さながらそこは、修羅暗憺しゅらあんたん地獄じごくから、天華てんげふる極楽ごくらく寂光土じゃっこうどへ一変したような光景である。
 一たび、めいめい、家へかえった百姓ひゃくしょうたちは、取ってかえしに、名主なぬし狛家こまけ一族をせんとうとして、
「これを、どうぞおん曹子ぞうしさまにさしあげてくださいませ」
「八しゃの米と十あわは、ご陣屋の兵糧ひょうろうとしてご使用くださいますよう」
「わたくしたち若いものは、なんなりと軍役ぐんえきをつとめますから、おおせつけねがいとうぞんじます」
 と、兵糧軍用品を、車につんでひきこむかと思えば、家畜かちく野菜やさいをもたらしてくる者、あるいは労力の奉仕を申しこむ若者もあり、なかにはしおらしくも、まずしい一家がよろこびのもちをついて献納けんのうするなど、人情の真美と歓喜かんきのこえは、陣屋じんやの内外にあふれて、まことこれこそ極楽ごくらく景色けしきかと、見るからにただ涙ぐましい。
 かくて、民の平和をながめたうえで、伊那丸をはじめ幕下ばっかの人々、一千の軍兵ぐんぴょう、おもいおもいにたむろをかまえ、はじめて朝の兵糧をとった。
 勝戦かちいくさのあとの兵糧――その味はまたかくべつ。
 そしてきょう一日は、夜来やらいすいもせぬ兵馬のため、陣やすみという太鼓だいこがなる。
 ところへ、ションボリした顔で、陣屋のうちへ、力なくかえってきた鞍馬くらま竹童ちくどう
 こんな元気のないことは、竹童として稀有けうなことだ。
「オオ、どうした竹童!」
「竹童が見えた、竹童がもどってまいった」
 さっきから、士卒しそつを八方にやって、その行方ゆくえをたずねさせていた龍太郎りゅうたろう忍剣にんけんらは、栄光えいこうの勇士を迎えるように手をとって、狼煙のろしのてがらをめたたえた。
 ことに伊那丸いなまるは、竹童かえるの声をきくと、みずから幔幕まんまくをしぼってそれへ立ちいで、人穴城ひとあなじょういらいのこう称揚しょうようして、手ずから般若丸長光はんにゃまるながみつ脇差わきざし褒美ほうびとして、かれにあたえた。
 主君から刀をさずけられたのは、武士の資格しかくをゆるされたもどうよう、竹童もきょうからは幕下ばっかのひとりである。なりこそ小さいが、押しもおされもせぬ伊那丸の旗本はたもと。しかも拝領はいりょうしたその刀は、武田家伝来たけだけでんらいの名刀般若丸はんにゃまる尺七、八寸の丁字ちょうじみだれ、抜くにも手ごろ、斬るにも自在な按配あんばい、かの泣き虫蛾次郎がじろうがじまんする、あけびづるをまいた山刀などとは、たちがちがう。
 これからは竹童も、鞍馬くらまいらいの棒切ぼうきれをすてて、一人前の大人おとなのように、玉ちるやいばで敵にむかうことができる。
 もう、早足はやあし燕作えんさくごときは、一刀のもとに斬ッても捨てられるんだ。
 長いあいだの希望がかなって、さだめしこおどりしたろうと思うと、スゴスゴとごぜんをさがった竹童ちくどう般若丸はんにゃまる太刀たちをいだいて、ひとけなき陣屋じんやのすみで、ひとりシクシクと泣きはじめた。


「はてな? ……」
 龍太郎りゅうたろうまゆをひそめて、そッと、竹童のあとについていった――見るとそのありさま。
「ウーム。こりゃふしぎだ。鞍馬くらまの奥にいたころから、泣いたことのない竹童だが……」
 すきまからのぞき見をしていた龍太郎、こうつぶやきながら、しばらく考えていたが、やがて、
「こりゃ、竹童、なんでこんなところに泣いているのだ」
 まくをはらって、やさしくかれの背なかをたたいた。
 竹童はふいに声をかけられて、ずかしそうに、泣き顔をかくしながら、
「いいえ、なにも泣いてなんかいやしません」
「うそをつけ、まぶたはまッ赤だし、拝領はいりょうのおん刀は、このとおりおまえの涙にぬれているではないか、いったいどういうわけか、おまえと拙者せっしゃとは果心居士かしんこじ先生の兄弟弟子でし、うち明けられぬということはあるまい」
「はい、……じつは龍太郎りゅうたろうさま……」
「ウム、どうした」
「あの、クロがどこかへ逃げてしまいました」
「オオ、そちが何者よりかわいがっていた、あの大鷲おおわしがにげせたと申すか」
「きのう、狼煙のろしをうちあげる時、水車小屋のうしろへおいといたのに、今朝けさみると、影も形もみえないんです、……ああとうとう、クロはわたしを見すててどこかの山へかくれてしまいました」
「あれほどなついていたし、そちもかわいがっていたわしだから、さだめしさびしく思うだろうが、いくら霊鷲れいしゅうでもやはり畜生ちくしょうせんないこととあきらめるよりほかないであろう」
「いいえ、おいらはあきらめきれません……」
 竹童ちくどう駄々だだッ子のように頭をふって、
「おいらは悲しい、クロがいなくッちゃ一日もさびしくって生きていられない」
「はははは」
 龍太郎は、思わず笑ってしまいながら、
「さてさて、おまえも鞍馬くらまの竹童というと、いかにも稀代きたいな神童だが、こんなところは、やッぱり年だけのわからず屋だな、これ竹童、そちはクロを失ったかわりに、若君から般若丸長光はんにゃまるながみつの名刀を拝領はいりょうしたではないか、さ、元気をだして、きょうからそれをりょうとするがいい」
「だから、おいらはよけいにかなしいんだ……。人穴城ひとあなじょうへなげ松明たいまつをした手柄てがらも、きのうのほまれをあげたこともみんな、おいらの力よりはクロの手柄。……クロがあってこそこの竹童も、人並以上の働きができたのに、おいらばかりこんなに褒美ほうびをもらっても、ちっともうれしくありゃしない……」
 いうところは天真爛漫てんしんらんまん、竹童はいよいよクロの別れをかなしみ、いよいよ声をだして泣くばかり――さすがの龍太郎も、これには弱りぬいて、ことばをつくしてなぐさめたうえ、きょう一日は陣休みだから、とにかく久しぶりに、じゅうぶん心もからだも養っておくようにと、まくのあなたへでていった。
「はい、もう泣くのはやめます……」
 竹童は龍太郎の立ちぎわにそういったが、ひとりになるとまたさびしさにえぬもののごとく、ションボリと陣屋の空を見あげていた。そして、つまらなそうに、馬糧まぐさのなかにゴロリと身をよこたえたが、やがて連日の疲労ひろうがいちじにでて、むじゃきないびきが、スヤスヤそこからもれはじめた。

 ここに、得意とくいなやつは、泣き虫の蛾次郎がじろう
 首尾しゅびよく、わしぬすみのはなれわざをやりとげて、飛行天行ひこうてんこうかいをほしいままに、たちまちきたのは家康いえやす采地さいち浜松の城下。
 竹童ちくどう故智こちにならって、乗りすてたわしを、とある森のなかにかくし、じぶんはれいの、あけびまきの山刀をひねくりまわして、意気ようようと城下隠密組おんみつぐみ黒屋敷くろやしき菊池半助きくちはんすけ住居すまいをたずねあててきた。
「おねがい申します」
 りかえって立ちはだかった玄関口げんかんぐち
 猪口才ちょこざいにも、もっともらしい顔をして、取次ぎの小侍こざむらいに申しいれることには、
「まかりでました者は、富士の裾野すそのの住人はなかけ卜斎ぼくさいの弟子鏃師やじりし蛾次郎がじろうと申す者、ご主人半助さまに、至急お目にかかりとうぞんじます」
 取ってかえしに、奥からでてきたのは、菊池家きくちけの家来とみえて、いかさまがんじょうな三河武士みかわぶし横柄おうへいに頭の上から見くだして、
「フーム、おまえか、泣き虫の蛾次公がじこうというのは?」
「はて心得ぬ」
 蛾次郎、口をとンがらかして、すこぶる威厳いげんを傷つけられたように、憤然ふんぜんと、
鍛冶かじにかけては鏃鍛やじりうちの名人、石をなげては百発百中の早技はやわざをもつわたくし。しかも、半助さまのおたのみにより、いのちがけで稀代きたい大鷲おおわしを連れてまいりましたのに、近ごろ無礼なごあいさつ。よけいなことをいわないで、さッさとご主人にお取次ぎあれ」
 胸に慢心まんしんのいっぱいな蛾次郎、天狗てんぐの面をかぶったように、鼻たかだかと大見得おおみえをきった。
「やかましいッ」
 さむらいの一かつに、蛾次郎がじろうはひやりと首をすくめる。
「ご主人半助はんすけさまには、きさまのような小僧こぞうになんのご用もないとおっしゃった。ペラペラむだ口をたたきおらずと退散たいさんせい」
「へえ、……こりゃみょうだ。あれほど蛾次郎がじろうに、わしをぬすんでくれとたのんだ半助さまが、きょうになって、用がないとはずいぶんひどい。それはなにかのおまちがいでしょう」
「だまれ、へらず口の達者たっしゃなやつだ。いつまでお玄関げんかんに立ちはだかっていると、つまみだすからそのつもりでおれ」
「ちぇッ、ばかにしやがら」
「こいつめ、まだでてせぬかッ」
「いまいましい! けッ、よくも人にカスをわせやがったな、おぼえていろ、いまに鷲に乗って、この屋敷の上から小便をひっかけてやるから」
 得意と、えがいてきた慾望よくぼうを、めちゃめちゃに裏切うらぎられた蛾次郎は、腹立たしさのあまり、出放題でほうだいなにくまれ口をたたいて、黒屋敷くろやしきの門をでようとすると、横からふいに、
「これッ、待て!」
 と、ふとい腕が、むんずとかれのえりがみをつかみもどした。
「あッ、――あなたは菊池きくちさま」
「ただいまなんと申した」
「くッ、くるしい。……べつになんにもいいはしません」
「いやいった! 不埒ふらちなやつめ」
「だって、だってそいつはむりでしょう。あなたさまこそ、竹童ちくどうわしをぬすんでくれば、徳川家とくがわけの武士に取りたててやる。褒美ほうびはなんでも望みしだいと、向田むこうだしろでおっしゃったじゃありませんか」
「ばかッ。いやはやあきれかえった低能児ていのうじだ。なんじのようなうすのろを、いくさの用に立てようとしたのが半助の大失策だいしっさく、ご当家とうけの軍勢が裾野陣すそのじんへくりだすときににあってこそ、鷲もご用に立つとおもって申したのだ。それをなんだ、すでにいくさもすみ、軍勢もひいてしまった今日こんにちのめのめといまごろ鷲をぬすんできたとてなんになるかッ。あのここな慾張よくば小僧こぞうめッ」
 ピシリッ、とほおげたを一つくらわしたうえ、足をもって門外へけとばすと、さっきの小侍や仲間などが下水の水をくんで、蛾次郎がじろうの頭からぶっかけ、門をしめて笑いあった。
 半死半生はんしはんしょうどろねずみとなって、泣くにも泣けぬ蛾次郎先生、いのちからがら浜松の城下を、鷲にのって逃げだしたはいいが、夜に入るにしたがって、空天くうてん寒冷かんれい骨身ほねみにてっし、腹はへるし、寝る場所のあてはなし、青息吐息あおいきといき盲飛行めくらひこう、わるくすると先生、雲のなかへ迷子まいごとなってしまいそうだ。
 されば、村正むらまさの斬れあじも、もつ人の腕しだいであるし、千こまも乗り手による。――自体じたい蛾次郎がじろうの腕なり頭なりではの勝ちすぎたこの大鷲おおわしが、はたしてかれの自由になるかどうか、ここ、おもしろい見ものである。

りんをめぐる怪傑かいけつ怪人かいじん




 法師野ほうしのの空には平和の星がかがやいている。
 今夜ばかりは、部落の人も、はじめて楽しい夢路ゆめじにはいっているのだ。
 老人はご陣屋のほうへ足をむけずに寝ているだろう。嬰児おさなごは母の乳房ちぶさにすがって、スヤスヤと寝ついているだろう。――そして施無畏寺せむいじの庭に陣した千人の軍兵ぐんぴょうも、くらものまくらにしてつかのまの眠りにつき、馬もいななかず、かがりもきえ、陣のとばりにしめっぽい夜がふける。
 すると、多宝塔たほうとうのまわりを、ぴた……ぴた……と、しずかに歩いてくる人影。
 また、廻廊かいろうのかげからも、ふたりの武士が、足音ひそやかに、階段をおりてきた。
「オオ、山県やまがたどのに小文治こぶんじどのか……」
「これは忍剣にんけんどの、おたがいに、こよいの寝ずの番、ごくろう」
「どこにも異状はありませぬか」
「かくべつ」
「では後刻ごこくに……」
 黙礼もくれいして左右にわかれる。
 カーン、カーン、――水にひびくようなさびしい音。時刻番じこくばん丑時うしどき(午前二時から三時の間)らせ。
 本陣、おん大将の寝所幕しんじょまくのあたりにも、夜詰よづめのさむらい警固けいごするやりが、ときおり、ピカリ、ピカリとうごいてまわる。
 そのころ――、まさにそのころ。
 多宝塔たほうとうじゅう頂上いただきにある暗室へ、ゆうべからほうりこまれていた和田呂宋兵衛わだるそんべえは、らんらんたるまなこをとぎすまして、しばられている鉄のくさりを、時おり、ガチャリ、ガチャリと鳴らしていた。
「ウーム、いまいましい」
 音を立てないようにはしているが、しきりに身もだえして、あらんかぎりの力を鎖にこころみているようす。しかし、しょせんそれはむだな努力。
 だれかに、腕でも斬ってもらわないかぎり、鎖の寸断されるはずもなし、とう太柱ふとばしらくだけるはずもないのだ。
「ああ、ざんねんッ……ウーム、つつつッ……」
 もがきにもがくうち、呂宋兵衛るそんべえくちびるをかみわって、タラタラと血潮ちしおをたらした。
 とたんに、バサッと天井てんじょうを打ったまっ黒な怪物かいぶつがある。見ると、楼閣ろうかく欄間らんまから飛びこんでいた一尺ばかりの蝙蝠こうもり、すでに秋のあつさもすぎているこのごろなので、つばさに力もなく、厨子ずしの板壁をズルズルとすべってきた。
「オ! しめた」
 呂宋兵衛るそんべえはジリジリと身をにじらせた。蝙蝠をみたとっさに思いうかんだのは、獣遁じゅうとんの一ぽう南蛮流なんばんりゅう妖術ようじゅつでは化獣縮身けじゅうしゅくしんの術という。が、それを行うには、ちょっとでもよいから蝙蝠のからだにふれなければやれない。いや、蝙蝠にかぎることはない、なんでも動物霊気れいき感応かんのうを必要とするのだから、ねずみでもねこでもいいが、いまこの塔中とうちゅうには蝙蝠よりいないのだから、ぜひそれへ指でもふれたいのである。
 しかし、なかなか蝙蝠のほうでちかづいてくれない。
 たまに、頭の上へはってきたなとおもって、体をよせていくと柱にしばりつけてあるくさりがガチャッと鳴るので蝙蝠はびっくりして天井てんじょうへはねあがる――が、六角形の密室なので、そとへはでずにまたバサバサと板壁にすべりをしてきた。
 こんど近くへきたらのがすまいと、呂宋兵衛は息をころした。けんめいになるとおそろしいもの、かれのひたいは魚の油をったように汗ばんでいる。
 けれど、蝙蝠の敏覚びんかくに、七たび八たびおなじことをくりかえしても、呂宋兵衛の努力はむなしかった。はやくもさとでは一番どりがなく、かれは気が気でなくなった。
 そこで、呂宋兵衛るそんべえはまた考えなおした。
 かれは坐禅ざぜんを組むようにすわった。そして、さいごにもういちど蝙蝠こうもりが壁をすべってくるのを待ちかまえこんどは、口にじゅをとなえて、つーッと一本のほそい絹糸のような線をきだした。
 と思うと――一ぴきの小さな金蜘蛛きんぐもが、呂宋兵衛の口からスススススと、その細い糸をつたわりだした。
 これはかつて、人穴城ひとあなじょう竹童ちくどうと初対面のときに、問答もんどうちゅうにかれがやってみせたことのある、呂宋兵衛得意の口術こうじゅつ、いま、いて糸をわたらせた金蜘蛛は、壁にはりついている大蝙蝠おおこうもりのそばへはいよったが、それを見ると蝙蝠は、バサリと一すべりして、いきなり蜘蛛くもいにかかった。
 と、蜘蛛はつーッ、と二尺ばかり糸をもどってとまる。蝙蝠はまたソロリと寄ってえさをうかがう――その機微きびなころあいをはかって、呂宋兵衛はスッと、吸う息とともに、蜘蛛を口のなかに引きいれてしまうと、蝙蝠はを追ってパッとかれの顔へぶつかってきた。
「えいッ!」
 とたんに、かれの五体からおそろしい気合いが発した。そして、忽然こつねんゆかに鳴ったくさりの上へ、大蝙蝠のくろい妖影ようえいが、クルクルと舞いおちた。


「やッ」
 愕然がくぜんと、多宝塔たほうとうの下で立ちすくんだのは、寝ずの番の加賀見忍剣かがみにんけん
 左に鉄杖てつじょうをつき、右手をまゆにあてて、暁闇ぎょうあんの空をじッとみつめていたが、やがて、
「おお! 山県やまがたたつみ!」
 と同僚どうりょうの名を呼びたてた。
「なんじゃ」
「異変かッ」
 バラバラと、すぐそこへ飛んできた小文治こぶんじ蔦之助つたのすけ、――忍剣は、
「しッ」
 と手でせいして、
愚僧ぐそうの気のせいかも知れぬが、あの塔の三じゅうにあたる欄干らんかんに、何者か立っておらぬだろうか」
「どれ……」
 すこし身を横にかがませて、暁天ぎょうてんやみをすかしたふたりは、なるほど、よくよくひとみをこらして見ると、忍剣のいうとおり楼閣ろうかくの三階目に、うす黒い影が立っているような気がした。
「しかし、あれに人のいるはずはなし、ことによったら棟木むなぎ瓔珞ようらくではないか」
「いや、瓔珞がアア大きく見えるはずはない」
「といって、厳重にいましめておいた呂宋兵衛るそんべえではなおさらあるまい。ウーム、おや……、影がうごいた!」
「なに影がうごいた? オオ、いよいよあやしい」
「ちぇッ、やっぱり呂宋兵衛だ、どうして自由になりおったか、あれあれ、棟木の瓔珞に身をのばして、とうの屋根によじ登ろうとしておるのだ」
「一大事! それのがすなッ」
「オオ」
 三人は疾風しっぷうのごとく階段をあがって、とびらひらき、塔のなかへおどりこんだが、南無なむ三、二階三階へあがる梯子はしごは、呂宋兵衛を頂上にほうりこんだ時、まんいちをおもんぱかって、みんな取りはずしたまま施無畏寺せむいじへはこんでしまった。
 うっかり、それを忘れて飛びこんだ三人は、じだんだをふんで、
「しまった!」
 とふたたびそとへかけだしてきた。
「なんじゃ、なにごとが起ったのだ」
 ところへ、木隠龍太郎こがくれりゅうたろうがくる。小幡民部こばたみんぶがはせつける。たちまちにして、陣々の大そうどう、大将伊那丸いなまるとばりをはらってそれへきたが、閣上かくじょうの呂宋兵衛は、いちはやく屋根の上へとびうつり、九りんもとに身をかがめてしまったので、遠矢とおやかけるすべもない。
「あれあれ、呂宋兵衛るそんべえ幻術げんじゅつけた曲者くせもの、どう逃げようもしれませぬ、みなさま、はやくお手配てはいをしてくださりませ」
 と、うろたえまわる軍兵ぐんぴょうのなかにまじって、しきりにさけんでいるのは咲耶子さくやこの声らしい。十数人の軍兵は同時に、施無畏寺せむいじとう梯子はしごを取りに走りだした。
 それを待つのももどかしいと思ったか、れいによっておくれをとらぬ木隠龍太郎こがくれりゅうたろう、ばらばらと多宝塔たほうとうすそにかけよったかと見るまに、一階の欄干らんかんにひらりと立って、えいッとさけんだ気合いもろとも、千ぼんびさし瓔珞ようらくにとびついた。
「オオ、やったり、木隠こがくれ!」
 と、こなたの一同は、その機智きち感嘆かんたんの声をあげたが瓔珞のかざ座金ざがねがくさっていたとみえて、龍太郎の体がつりさがるとともに、金鈴青銅きんれいせいどう金物かなものといっしょにかれの五体は、ドーンと大地におちてしまった。
「ウーム、無念」
 ふたたび立ってよじのぼるくふうをしていると、朱柄あかえやりをひっさげた小文治こぶんじ。すっくとそこに立って、やりの石突きを勢いよくトンと大地につくやいなや、
「やッ――」
 と叫んで、みごとに一階の屋根廂やねびさしへ飛びあがった。そしてすぐ槍を引こうとすると、
「待ったッ」
 と九尺のなかごろに、龍太郎りゅうたろうがすがりつく。
「おうッ」
 と、上から小文治こぶんじが力をこめると、龍太郎も息をあわせて、やりとともにポンとねあがった。
 たちまち、槍をたよりに二階へあがり、三階目の欄干らんかんまでよじのぼって、呂宋兵衛るそんべえ監禁かんきんの六かくしつを見ると、一ぴきの蝙蝠こうもりが死んでいるほか、そこには何者のかげもない。
「あ! いよいよ逃げたは、きゃつときまった」
「それッ、この上だ」
 とふたりは、東のすみの欄干に足をかけたが、そこから九りんのたっているとうのてっぺんへのぼるには、どうしても、千本びさしにつってある瓔珞ようらくに身をのばして、ブラさがるより道がない。
 ところが、それをたよりにすることは、一階のときの失敗があるので、さすがの小文治こぶんじも二の足をふんだが、龍太郎はなんのおそれげもなく、やッと、欄干から瓔珞の根にとびついた。
 下にながめていた伊那丸いなまるをはじめ、あまたの勇士も、思わず、きもをひやしたが、こんどは瓔珞も落ちず、龍太郎も完全に棟木むなぎへ片手をかけてしまった。これ、さっきは、瓔珞の頑丈がんじょうをたよって不覚をとったが、こんどは、果心居士かしんこじ相伝そうでん浮体ふたいの法をじゅうぶんにおこなっているためだ。
 そのかわり、龍太郎りゅうたろう、最後の頂上へのぼるにはだいぶ手間てまがとれている。片足を瓔珞ようらく鈴環れいかんにかけ、そろそろと手をのばして、屋根の青銅瓦せいどうがわら半身はんしんほど乗りだしたところで、小文治こぶんじのさしだしたやりをつかんでやる。
 巽小文治たつみこぶんじは、もとより果心居士かしんこじの門下でないから、浮体ふたいの息を知らない。したがってただ度胸どきょうのはやわざやりの一たんとう角金具かどかなぐにひっかけ、いっぽうを龍太郎につかんでいてもらって、スッと瓔珞の鈴環へ足をかけると、ともに、ふたりの重みがかかってはあぶないので、龍太郎はすばやく上へはいあがった。
 とたんに、雨とも見えぬ空合そらあいなのに、塔の先端せんたんりんの根もとから、ザーッとたきのような水がながれてきて、塔の四面はさながら、水晶すいしょう簾珠れんじゅをかけつらねたごとく、龍太郎の身も小文治のからだも、水の勢いでおし流されそうにおぼえた。
呂宋兵衛るそんべえ妖術ようじゅつだ、まことの水ではない、小文治どのひるむなッ」
 龍太郎は果心居士の手もとにいただけに、幻術げんじゅつしのびのわざなどには多少の心得がある。いま、九輪の根もとから吹いてきた水勢もてっきり、呂宋兵衛の水龍隠すいりゅうがくれの術とみたから、こう注意して、無二無三に青銅瓦の大屋根へ踏みあがった。
 そして、気は宙天ちゅうてんへ、声は、大地にひびくばかりに、
「やあ、奸賊かんぞく和田呂宋兵衛わだるそんべえ、このになってはのがれぬところ、神妙しんみょう木隠こがくれ龍太郎の縄目なわめをうけろ」
「だまれ、青二さいなんじらごとき者の手にかかる呂宋兵衛ではない。うかと、わが身にちかよると、このいただきから蹴落けおとして、微塵みじんにしてくれるぞ」
 水術のいんくとひとしく、あきらかに姿をみせた和田呂宋兵衛わだるそんべえ、九りん銅柱どうちゅうをしっかといて、夜叉やしゃのごとく突ッ立っていた。
「おのれッ――」
 と片膝かたひざおりに、戒刀かいとうさやを横にはらった龍太郎、銅の九りんも斬れろとばかり、呂宋兵衛の足もと目がけてぎつけた。
 同時に、波のごときかわらのうえへ、ヒラリと飛びあがった巽小文治たつみこぶんじは、いま龍太郎が斬りつけたとたんに、朱柄あかえやりをさッとしごいて、呂宋兵衛がかわさば突かんと身がまえた。

紅帆呉服船こうはんごふくぶね




 下では、あッと、手に汗をにぎる諸軍しょぐんこえ
 伊那丸いなまるをはじめ、幕下ばっかの面々、また竹童ちくどう咲耶子さくやこも、とうの一点にひとみをあつめ、ハラハラしながら鳴りをしずめた。
 時こそあれ、――たいへん。
 三じゅう屋根瓦やねがわらからとうの九りんのまっ先へ、雷獣らいじゅうのごとくスルスルとはいあがった和田呂宋兵衛わだるそんべえ
「おうッ……」
 なにやら叫んだかと思うと、片手をブンとふりまわした。
 と――またこそ、かれの幻術げんじゅつか、ふいに、さッと落ちてきた一陣の風鳴かぜなり。
 すると明方あけがた天空てんくうから、思いがけない人声がきこえた。
「いけねえいけねえ、おいクロ! こんなところへおりちゃアいけねえ」
 いうまもなく、ななめにけりきたった、まっ黒な怪物があった。
 まさしくわし! 竹童ちくどうの盗まれたクロ。
 乗っているのは――わめいているのは、菊池半助きくちはんすけにドヤされて、遠江とおとうみの国をすッ飛んできた、泣き虫の蛾次郎がじろうであった。
 鷲は見るまに九りんをかすった。
 一大事!
 巽小文治たつみこぶんじはふたたびやりをとりなおして、あおむけざまに、ヤッと突きあげたが、鷲の羽風はかぜにふき倒され、さらにいっぽうの龍太郎りゅうたろうが、九輪の根もとからはらいあげた戒刀かいとうッ先も敵のからだにまでとどかなかった。
 その時、それと同時に、呂宋兵衛るそんべえはとんできた鷲の背なかへ乗りうつっていた――ほとんど、電光でんこう――ばたきするだ。
 塔上とうじょうの二勇士、塔下とうかの三軍が、あれよと、おどろきさけんだ時には、万事休ばんじきゅうす、蛾次郎がじろう呂宋兵衛るそんべえ、ふたりを乗せた大鷲おおわしの影はまっしぐらに、三国山脈みくにさんみゃく雲井くもいはるかに消えていく。
「しまった!」
 伊那丸いなまる以下の者、でる声は、ただこのたんそくばかりであった。
 なかにひとり竹童のみは、陣屋をかけだして、
「おお、クロだクロだ、おいらのクロだ」
 空にむかって叫びながら、追えどもおよばぬ大鷲おおわし行方ゆくえ無我夢中むがむちゅうで走りだした。


 さて、おどろいたのは、蛾次郎がじろうである。
 多宝塔たほうとうのてッぺんを通りすぎたとたんに、ヘンなやつがじぶんの腰へとびついたと思ったが、なにしろ、わしの走っているあいだはふり向くこともできず、話しかけることもできない。
 目の下に、クルクルまわる山やとうげや町や村をいくつも見て、およそ小半日こはんにちも飛んだころ、やっと青々とした海辺うみべにおりた。
「アア、おなかがペコペコだ。これでいのちも無事だったし、なにかべ物にもありつけるだろう……」
 すぐにキョロキョロ見まわして、漁師りょうししておいた小魚こざかなを見つけ、それを火にあぶりもせず、引ッいてべはじめた。
 食べながら波打ちぎわを見ると、黒の蛮衣ばんいをきた大男が、小手をかざして、しきりに地理をあんじている。
「あッ、あの男だナ、おれの腰に取っついてきたはえのようなやつは」
 蛾次郎がじろう干魚ほしかをムシャムシャみながら、そばへ寄ってみると、裾野すそので見かけたことのある呂宋兵衛るそんべえなので、二どびっくりという顔で、
「お、あなたは人穴ひとあなの……」
「ウム、呂宋兵衛るそんべえじゃ、ああ、おまえは、鏃師やじりしかけ卜斎ぼくさい弟子でしだったな」
「ええ、よくごぞんじでございますね。おおせのとおり蛾次郎という者。……ところで呂宋兵衛さま」
「なんじゃ」
「ここはいったい、東海道のどのへんにあたりましょう」
「まるで方角ちがい――北陸道の糸魚川いといがわと申すところだ」
「すると向こうに見えるみさき伊豆いずの国とはちがいますか」
「あたりまえだ、北日本の海に伊豆いずはない。すなわちあれが能登のとの半島、また、うしろに見える山々は、白馬はくば戸隠とがくし妙高みょうこう赤倉あかくら、そして、武田家たけだけしのぎをけずった謙信けんしんの居城春日山かすがやまも、ここよりほど遠からぬ北にあたっておる」
「へえ……そしてあなたは、ここからどこへ行こうってえつもりなんです?」
「京へのぼるのじゃ」
「いいなあ。わたくしも一つおともにつれてッてくれませんか」
「おまえにはたのみがある。蚕婆かいこばばあ早足はやあし燕作えんさく、それに丹羽昌仙にわしょうせん、この三名にあったら、わしが京都へのぼっておるゆえ、あとからかならずくるようにと、言伝ことづてをしてもらいたい」
「燕作は大きらいだけれど、あとのふたりは引きうけますよ。……オヤ、アッ、大へん……」
 なにを見たか、にわかぎょうてんしてうろたえだした蛾次郎がじろう、さようならともいわず、クロにとび乗って、ツーと空へ逃げてしまった。
 と、もなく、スタスタここへきた旅人。
「や、それにまいったのは、人無村ひとなしむら卜斎ぼくさいではないか」
「これはこれは、呂宋兵衛るそんべえさま、意外なところで……」
 と双方そうほう磯岩いそいわに腰かけて、裾野落すそのおち以来のことを話しあったが――卜斎の上部八風斎かんべはっぷうさい伊那丸いなまる人穴城ひとあなじょう絵図面えずめんを持ちこんだことや、自分が柴田勝家しばたかついえ家中かちゅうであることなどは、もとよりおくびにもださずにいる。
「しかし、卜斎。おまえは裾野に住みついている鏃鍛冶やじりかじ、なにもこんどのことで、逃げる必要もなかろうではないか。いったいこれからどこへまいろうとするのだ」
裾野すそのもよろしゅうございますが、ああしばしばいくさがあった日には、とても、のんびり金敷かなしきをたたいてはおられません。そこで、越前えちぜんきたしょうをかえようと申すわけで」
「なるほど。じつはわしもこれからみやこへでて、安土あづち秀吉公ひでよしこうへすがり、なんとかいとぐちをつけようと考えているが、うまくとちゅうまでの便船びんせんでもあるまいか」
「さあ、わたくしも、北ノ庄まででる船はないかと、ずいぶんたずねてみましたが、どうも折り悪く、出船でふねのついでがないそうで」
 と、ふたりが話すのを聞いていたものか、波打ちぎわにあげてあった空船からぶねのなかから、ムックリ起きあがったひとりの船頭せんどう
「おい」
 と、いけぞんざいに呼びかけて、
「おめえたち、上方かみがたのほうへいきてえなら船をだしてやろうか。越前えちぜんへでも若狭わかさへでも着けてやるぜ」
「それはかたじけない。しかし、そこにあげてあるような小舟こぶねではどうにもならぬ」
「いや、長崎から越後港えちごみなとへ、南蛮呉服なんばんごふくをつんできた親船おやぶねが、このおきにとまってるんでさ。どうせ南へ帰る便船びんせんだ、えんりょなく乗っていくがいい」
 船頭せんどうは空船のともをおして、砂地から海のなかへ突きだした。そして呂宋兵衛るそんべえ卜斎ぼくさいのふたりを乗せるやいな、勢いよく櫓柄ろづかをとって、沖の親船へぎだした。
 まもなく、海潮うみしおけむるかなたの沖に長崎がた呉服船ごふくぶね紅帆船こうはんせんの影らしいのが、だんだん近く見えはじめる。


 べにがら色のに、まんまんたる風をはらんだ呉服船はいま、能登のと輪島わじまと七つじまあいだをピュウピュウ走っている――
 カーン カーン カーン……
 船楼せんろうかね
 もう真夜中まよなかであろう、風はないほうだがかなり高波たかなみ。パッと、みよしにくだけるうしおの花にもうもうたるきりが立ってゆく。
 その霧のなかに、ブランブランと、人魂ひとだまのようにゆれている魚油ぎょゆのあかり。ギリギリ、ギリギリと帆綱ほづなのきしむ気味の悪さ……
「やい、起きろッ」
 ふいに木枕きまくらとばされて、はねおきたのは便乗びんじょうしてきた卜斎ぼくさい呂宋兵衛るそんべえ。フト見ると、どうのグルリに、閃々せんせんと光るものが立ちならんでいる。
「なにをするんだおまえたちは?」
 卜斎ぼくさいは、前差しの短刀をつかんで、きッとなった。
「まぬけめ、なにをする者か聞かなくッちゃわからねえのか。こいつを見たら少しゃ目がさめるだろう」
 わざと、ふりうごかして見せた光は、まさしくやり、刀、やじり薙刀なぎなた――どれ一つを食ってもいのちのないものばかり。
「ウーム、さてはなんじらは海賊だな」
 呂宋兵衛るそんべえは、その時のっそり突っ立って、魚油ぎょゆのあかりに照らしだされている二十四、五人の荒くれ男をめまわした。
「知れたことだッ」
 槍のは、いっせいに横になって、車の歯のごとく中心へ向いた。
「おとなしくぱだかになッちまえ、体だけは、ここから輪島わじまいそへながれ着くようにほうりこんでくれる」
「待てッ。望みどおりになってもやるが、汝らの頭領かしらはいったいなんという者だ」
「そいつを聞くといのちがないおきてだぞ。それでも聞きたけりゃ聞かしてやる」
「ウム、しょうちのうえでも聞きたいものじゃ」
「よし、冥途めいど土産みやげに知っておけ。この船の頭領は、龍巻たつまき九郎右衛門くろうえもん。もと東海の龍王りゅうおうといわれた八幡船ばはんせん十八そうのお頭領さまだ。サ、こう聞かしたからにゃいのちぐるみもらったからかくごしろ」
「ばかをぬかせ」
「なんだとッ」
「まごまごいたすとこっちでこそ、なんじらの持ち物はおろか船ぐるみ巻きあげてしまうから用心しろ」
「や、こいつが! てめえいったい何者だ」
富士ふじ人穴ひとあなにいた山賊さんぞくだ」
「なに山賊……」
「おお、海賊かいぞくの腕が強いか、山賊の智恵ちえがたしかか、ここでいちばん腕くらべをしてもいい。それともすなおに頭領かしら龍巻たつまきをよんできてびをするか」
「なまいきなッ!」
 勃然ぼつぜんと海賊の武器がうごいた。
 が――無益むえきな問答をしているあいだに、呂宋兵衛るそんべえは、じゅうぶんに幻術げんじゅつのしたくをしていた。
「ふッ……」
 と、前後の対手あいて二息ふたいきかけると、たちまち、かれのすがたは一じょう水気すいきとなって、あるがごとくなきがごとく乱打の武器もむなしく風を斬るばかり。
「うぬッ」
 ひとりがすさまじい気合いで、おぼろの影をやりで突く。すると、ピチリと一ぴきのさかながはねた。
 目の下、二尺もあるぼらだ。
 ザアッと、ふなばたから二どめのなみがしらがきて、ぼらを海中に巻きかえそうとしたが、海賊の手下どもはこれこそ蛮流幻術ばんりゅうげんじゅつをやる山賊の変身と、よってたかって、手づかみにしようときそったが、ピチピチはねまわる死力のうおは、むしろ人間一ぴきつかまえるのよりしまつがわるい。
「ちくしょッ――」
 バラリとあみをなげた者がある。
 なまり重味おもみにしばられて、とうとう鯔はそのなかにくるまってしまったが、同時に頭の上で、
「わッはッはははは、あはははは。やい、野郎やろうども、いいかげんにしねえか」
 と、ふたりして、笑う声がする。
 ひょいと仰向あおむいてみると、船楼せんろうやぐらに腰かけている頭領かしら龍巻たつまきと、いま下にいた呂宋兵衛るそんべえ
 どッちもたく頬杖ほおづえをつきながら、下のありさまを見物して、仲よく酒を飲んでいる。
「じょうだんじゃねえ。お頭領、こいつア、いったいどうしたわけなんで……」
 手下どもは、わいわいそこへ寄ってきて、ただふしんにたえぬというおももち。
「しんぱいするな、こりゃ和田呂宋兵衛わだるそんべえといって、おれが長崎にゴロついていた時代の兄弟分だ」
「へえ? ……」
「見ろ」
 と、龍巻たつまきは、じぶんの二の腕と、呂宋兵衛るそんべえの二の腕をまくりあげて、手下どもに見くらべさせながら、
「このとおり、ふたりとも蜘蛛くも文身ほりものりあって、おれは海で一旗ひとはたあげるし、呂宋兵衛は山に立てこもって、おたがいに天下をねらおうとちかって別れた仲なのだ」
「なるほど、そういう兄弟分があるということは、いつかお頭領かしらの話にも聞いていました」
「そのふたりが、思いがけなくめぐりあった心祝こころいわいに、てめえたちにも飲ませるから、いまのさかなを料理して、もっと酒をはこんでこい」
「しょうちしました。だが、そうとするといまのぼらはいったいどうしたってんだろう?」
「あれは呂宋兵衛が、水気魚陰すいきぎょいんの法をかけて、てめえたちみてえな半間はんまなやつの目をくらましたのだ。しかし、魚はちょうど船へねこんだほんものだそうだから、安心して料理するがいい」
 手下どもを追いはらって、ふたりとなった船櫓ふなやぐらに、龍巻と呂宋兵衛、久しぶりの酒をみかわして、話はつきないもよう。
 名はおそろしい海賊かいぞく山賊さんぞくだが、久濶きゅうかつの人情には、かわりのないものとみえる。
「なあ、龍巻。てめえとおれとは、その昔、天下を二分するような元気で別れたんだが、おたがいに、いつまでケチなぞく頭領かしらじゃしようがないなあ」
「しかし呂宋兵衛るそんべえ
「なんだ」
「おめえは富士の山大名やまだいみょうとか、野武士のぶし総締そうじめとかいわれて、豪勢ごうせいなはぶりだってことをうわさに聞いていたが」
「さ、それが残念千万ざんねんせんばんな話で、いちじは富士の殿堂に、一国一城のあるじを気どっていたが、武田伊那丸たけだいなまるという小童こわっぱのために、とうとう人穴城ひとあなじょうを焼けだされて落武者おちむしゃとなってしまったのだ」
「なに、武田伊那丸だッて」
「ウム、てめえもうわさに聞いていたろう」
 いま、船は加賀かがの北浦に沿って、紅帆こうはん黒風こくふうのはためき高く、いよいよ水脚みずあしをはやめている。


 龍巻たつまき九郎右衛門くろうえもんは、さかずき南蛮酒なんばんしゅをゴクリとし、呂宋兵衛へもついでやりながら、
「ふウむ、そいつはふしぎないんねんだ……」
 とうめくようにいったものである。
「じつは兄貴あにき、うわさどころかこの龍巻たつまきも、あの伊那丸のやつと、家来の小幡民部こばたみんぶという野郎やろうには、ひどい目にあわされたことがあるんだ」
 と、紅帆船こうはんせん以前のことを、無念そうに語りだす。
 それは、かれが東海をさかんに荒していたころ――といっても古い話ではない、伊那丸いなまる忍剣にんけんにわかれて、弁天島べんてんじまから八幡船ばはんせんとりこになった時のこと――
 穴山梅雪あなやまばいせつの手をへて、伊那丸のからだを徳川家とくがわけへ売りこもうとした晩、小幡民部こばたみんぶに計略の裏をかかれて、沖の八幡船は焼打ちされ、かれじしんは、堺町奉行さかいまちぶぎょうの手に召しとらえられてしまった。
 その後、龍巻たつまきは、堺町奉行のろうをやぶって逃亡したが警戒がきびしいため、こんどは、べにがら色のをあげて北日本の海へまわり、長崎から往復する呉服船ごふくぶねと見せかけて、海上の諸船や、諸港しょこうの旅人をなやましている。
「こういうわけで、おれはいまでも、そのうらみを忘れやしねえ。この龍巻の息のねのあるうちは、きっと、あの伊那丸と小幡民部の野郎を、取ッちめずにはおかねえつもりだ」
「そうか……」
 と、呂宋兵衛るそんべえは、聞きおわって、
「してみれば、伊那丸一族は、この呂宋兵衛にも、龍巻にとっても、遺恨いこんのつもりかさなるやつ。おれもこれから京へのぼって、秀吉公ひでよしこうの力を借り、武田たけだ一族をりつくすさんだんをするから、てめえもおりさえあったら、この仕返しをすることを忘れるなよ」
「いわれるまでもないことだ。……オオそりゃいいが、さっき、兄貴がつれていた男はどうしたろう」
「ウム、すっかり忘れていた。あの槍襖やりぶすまにおどろいて、どうのすみで、気を失っているかもしれねえ。……なにしろ裾野すその鏃鍛冶やじりかじで、おそろしい修羅場しゅらばは知らねえやつだから」
 すると、そこへばらばらと、やぐらへ駈けあがってきた手下のひとりが、
「お頭領かしら、さっきのどさくさまぎれに、もうひとりの男が、とも小舟こぶねを切りおとして、逃げッちまったようですぜ」
「なに、卜斎ぼくさいが逃げてしまったと?」
 それと聞いて、呂宋兵衛るそんべえは、はじめてかれに疑いをいだき、櫓のらんに駈けよって、うるしのような海面を見わたしたが、もとより一ぺんの小舟が、ひろいやみから見いだされるはずもない。
 いっぽう、あやしげな親船おやぶねを逃げだした鼻かけ卜斎ぼくさい八風斎はっぷうさい。たちまち加賀かが美川みかわヶ浜に上陸して、陸路越前えちぜんきたしょうへ帰りつき、主人勝家かついえに、裾野陣すそのじんのありさまを残りなく復命した。
 そして勝家は、ちかごろひんぴんと領海をあらす海賊かいぞく討手うってを向けたが、すでに、紅帆呉服船こうはんごふくぶね行方ゆくえはまったく知れなかった。

変現へんげん千畳返せんじょうがえ




「あ、あ、あア――」
 と、煙草たばこくさいあくびを一つ。
「だいぶ遊んでしまったな、もうおかへあがって四十日目か。おやおや都入みやこいりのとちゅうで、おもわぬ道草をってしまったわい……」
 ひとりごちながら寝台ねだいをおり、二階の窓ぎわへ、唐風からふう朱椅子あかいすをかつぎだして、そこへ頬杖ほおづえをついたのは、こういう異人屋敷いじんやしきにふさわしい和田呂宋兵衛わだるそんべえ
 そとは海――それもさばの背のような、あお黒い冬の海。
 昼のざしも、こたえがなく、北日本特有の寒風が、やりのごとく波面なみづらをかすッて、港どまりの諸船もろぶねばしら、ゆッさゆッさとゆさぶれあうさま、まるでたらいのなかの玩具おもちゃを見るよう。
 その港を、どこかといえば、しずたけを南にせおい、北陸無双むそう要害ようがいではあり商業の繁昌地はんじょうち。――おかには南蛮なんばん屋敷があり、唐人館とうじんかんむねがならび、わんには福州船ふくしゅうぶねやスペイン船などの影がたえない角鹿つるが(いまは敦賀つるがと書く)の町である。
「さてと、ことしは天正てんしょう十年、もう十二月だな……」
 この海を見、この異国情調じょうちょうをながめても、呂宋兵衛るそんべえには、詩をつくる頭もないと見え、みょうなことをつぶやいている。
「天正十年、――へんな年だッたな、ばかに天下をかきまわした年だ。まずちょっとおもいだしたところでも、春早々そうそう甲斐かい武田たけだほろぼされ、六月には、信長のぶなが本能寺ほんのうじ焼打やきうちにあった。うまくやったのは猿面さるめん秀吉ひでよし、山崎の一戦から柴田しばた佐々さっさ滝川たきがわも眼中になく、メキメキ羽振はぶりをあげたが、ずるいやつは徳川家康とくがわいえやすだ。どさくさまぎれに、甲州こうしゅうから信濃しなのの国をわが物にして、こっそり領分りょうぶんをふくらませてしまった。――だが、まずゆくゆくの天下取りは、どうしても秀吉だろうな。きたしょう柴田勝家しばたかついえ、こいつもなかなか指をくわえてはいまい。いまに秀吉と、のるかそるかの大勝負だ。……ウム、のるかそるかはおれのこと、手ぶらで都入みやこいりも気がきかない。手近なところでなにか一つ、秀吉のやつに取りいるお土産みやげを、かんがえようか……」
 その時、コツコツをたたく者があった。
「オイ、兄貴あにき、いねえのか、寝ているのか!」
「だれだ」
龍巻たつまきだ、あけてくれ」
「いや、こいつはすまなかった」
 窓をはなれて、重いをギーとひらく。と、待つおそしの勢いで、飛びこんできた九郎右衛門くろうえもん、片目をおさえたまま、呂宋兵衛るそんべえ寝台ねだいの上へ、ゴロリとあおむけに寝てしまった。
「どうしたんだ、耳のほうへ血がたれてくるではないか」
「すまねえが兄貴あにき、この左の目へささッている物を、そッとやわらかに抜きとってくれないか」
「いいとも、だが、とげでもさしたのか」
「針だ、針がささッてるんだ」
「針?」
「ウン、ゆうべ沖の客船から、四、五人の旅人をさらってきて、この下の穴蔵あなぐらへほうりこんでおいたのだ。そこでいま手下どもと、ひとりひとりの持ち物や身の皮をはいでいると、そのなかにふんじばられていたばばあめが、いきなりおれの顔へ針をふきつけやがったんだ。ア、痛、……なにしろ早く抜いてくれなきゃ話もできねえ」
「うごいてはいけないぞ、いま洗い薬を、こしらえているから」
「たのむからはやく……」
「よし、じッとしていろよ」
 と、多少蛮法ばんぽうの医術にも心得があるらしい呂宋兵衛、口をもって龍巻たつまきひとみにふかく突きささっている針をくわえとり、すぐ洗い薬をあたえておちつかせた。
 すると、四、五人の手下が、扉口とぐちから首をだして、
「おかしら」
 と、どなった。
「いよいよあの船へ、角鹿町つるがまち和唐屋わとうやから一まんりょうの銀を送りこみましたぜ。船積みするところまでたしかに見届みとどけてきました」
「そうか!」龍巻たつまきは、苦痛もわすれ、
「して、厦門船アモイせんは、いつともづなを巻きそうだ」
「いつどころじゃねえ、もう出船でふねのしたくをしているようすなんで、風のあんばいじゃ夕方にも、港をズリだすかも知れませんぜ」
「じゃ、こうしちゃいられねえ。てめえたちは、穴蔵あなぐらにいる子分を呼びあげて、すぐおきの鼻へ、船をまわして見張っていろ。おれはあとから、早船はやぶねで追いつくから」
「がってんです。じゃ、お頭領かしらもすぐにきておくんなさい」
 ドカドカと階段をりていった。
「大そうな仕事じゃあないか」
 呂宋兵衛るそんべえは、いまの話であらかたのもようをさっしていた。
「この角鹿へ煙草たばこを売りこんだ厦門船が、一万両の売り代を積んでかえるやつを、玄海灘げんかいなだあたりで物にしようというたくらみさ。そこでこんどはしばらくこの仲間なかま屋敷へも帰らねえから、兄貴あにきはここで冬を越すとも、まためて京都へ立つなりときにしてくれ」
「ちょうどいい。じつはおれも、いつまでここにいい心持になってもいられないから、一つゆきがけの駄賃だちんきたしょうのようすをさぐり、それを土産みやげ都入みやこいりして、うまうまと秀吉ひでよしのふところへ飛びこむつもりで考えていたところだ。すぐおれもここを立つとしよう」
「するととうぶんお別れだが、秀吉公ひでよしこうへ取りいったら、おれもお船手の侍大将さむらいだいしょうかなにかになれるように、うまく手蔓てづるをしてもらいてえものだな」
野武士のぶしだろうが海賊かいぞくだろうが、人見知りをせず味方にする秀吉だから、おれが上手じょうずに売りこんで、龍巻壱岐守たつまきいきのかみぐらいにはしてやるよ。まあそれを楽しみにしているがいい」
「あ――厦門船アモイせんがでやがった」
 窓口から港をながめて、龍巻はにわかに立った。そしてせわしい別れをつげ、部屋へやからかげを消したかと思うと、やがて、海賊のである異人屋敷の裏手から、一そうはしけを矢のごとくがせていった。
「ははあ、紅帆船こうはんせんは、むこうのみさきのかげにかくれているんだな」
 それを見つつ、呂宋兵衛るそんべえ伴天連バテレン黒服くろふくをつけ、首に十をかけて、ふところには短刀をのんだ。さて、すっかり身支度みじたくがおわると、バタバタ窓をしめて、かれもこの家を立ちかけたが、門口かどぐちでフイと一つの忘れ物を思いだした。
はり……針……針がいたッけ……」
 呪文じゅもんのようにつぶやくと、クルッときびすをかえして、うす暗い石段をスルスルと地の底へ――


 陰湿いんしつ穴蔵部屋あなぐらべや、手さぐりで近寄ちかよると、鉄格子てつごうしさびがザラザラ落ちた。すると、ウーム……とうめきだしたかすかな人声。海賊かいぞくたちにつれこまれた旅人らしい、ムクムクと身をおこして、人のけはいにおびえている。
「おい、おい」呂宋兵衛るそんべえは、鉄格子からのぞきこんで、
「もしやおまえは、富士の裾野すそのにいた蚕婆かいこばばあではないか」
「えッ!」
 と、びっくりしたが、しばられているので、そばへは寄ってこられぬらしい。
「わ、わたしを知っているのは、いったい、だ、だれだい……」
人穴ひとあなの呂宋兵衛よ」
「ひえッ、呂宋兵衛さま? ああありがたい、助かった。海賊の龍巻がこないうち、はやくここからだしてやっておくんなさい」
「どうしておまえはまた、こんなところへつれこまれたのだ」
「どうしてだって、このくろうをするのも、みんなおまえさんに味方をしたためじゃないか。人穴城ひとあなじょうから法師野ほうしのへ逃げて、落ちつくまもなく、伊那丸いなまるの夜討ちにあい、やッと北陸道まで逃げのびたと思うと、こんどは海賊につかまってこのありさまさ」
「やッぱり、おれの想像そうぞうがあたっていた」
「くやしいから龍巻たつまきの目の玉へ、針を一本吹いてやったら、いまになぶり殺しにしてやるからおぼえていろと、おそろしい血相けっそうで、二階へかけあがっていったが……」
「その龍巻や手下どもは、にわかに船をだすことになって、おまえをここへおきりにしていった」
「すると、わたしを餓死うえじにさせる気だったんだね。呂宋兵衛るそんべえさま、とにかく早くだしてくださいまし」
「よし、そのかわりにこれからさきは、おれのために、火の中へでも水の中へでも飛びこむだろうな」
「ごめん、ごめん。わたしはもう大きなよくのない身だから、また裾野すそので、かいこの糸でものんきに引きたいよ」
「ふん、それじゃ、いッそ、死ぬまでこの穴蔵あなぐら隠居いんきょをしていろ。たぶんもう二、三年は、この屋敷の戸をけにくる人間はないはずだから」
 呂宋兵衛が、もどりかけると、蚕婆かいこばばあは悲鳴をあげた。いやおうなく、いろいろなちかいを立てさせられて、そこから助けだしてもらうと、ばばあは、頭にくろい頭巾ずきん、身に黒布こくふをまとわせられて、あたかも女修道士おんなイルマンのような姿となり、呂宋兵衛のあとからあてもなくついていった。
 それから数日ののち――
 角鹿つるがの浦から十六、七里、足羽御厨あすわみくりやきたしょう(今の福井市ふくいしの城下に、ふたりの偽伴天連にせバテレンがあらわれて、さかんに奇蹟きせきや説教をふりまわしていた。
 と、ある日である。濠端ほりばたにたって、なにやら祈祷いのりをささげている伴天連をみかけて、美しい夫人が鋲乗物びょうのりものめさせた。
「もし、伴天連さま」
 きれいな侍女こしもとたちが三、四人、駕籠かごをはなれて腰をかがめた。伴天連――呂宋兵衛るそんべえと蚕婆は、もったいらしく、祈祷のひざをおこして、
「はい、なんぞご用でござりますかな」
「あの駕籠かごのうちにおいでなされますのは、ご城主さまの奥方小谷おだにかたさまでいらっしゃいます」
「ああそれはそれは、右大臣信長公うだいじんのぶながこうのお妹ぎみで小谷の方さま、おうわさにもうけたまわっておりました」
「奥方さまは、そのむかし、安土あづちにおいでのころから、マリヤさまをふかいご信仰しんこうでいらっしゃいます。ついては、なにかお祈祷のお願いがあるとのこと、ごめいわくでも城内までお越しあそばしてくださいませぬか」
「おやすいこと、すぐにもおとももうしましょう」
 と、呂宋兵衛は、人知れず蚕婆に目くばせして、聖僧気せいそうきどりのうやうやしく、小谷の方の乗物について大手の橋を渡りこえた。
 すると多門たもん塀際へいぎわですれちがった、りっぱな武士がある。
「おや?」
 と伴天連バテレンのすがたを見送って、
「こりゃふしぎだ、いま奥方のともに加わっていったやつは、たしかに、いつぞや海賊船かいぞくせんで別れた和田呂宋兵衛わだるそんべえ、ひとりは裾野すその蚕婆かいこばばあによく似たやつだ……はて、みょうだわい」
 と、下城げじょうのとちゅうで腕ぐみをしてしまった。
「ウーム、あの呂宋兵衛がこの城内へ……伴天連になりすまして……蚕婆をつれて……こりゃ時節がらゆだんがならん!」
 従者だけをそこから下城させて、スタスタとふたたび曲輪くるわへ帰りだしたのは、もと裾野では鏃師やじりしの鼻かけ卜斎ぼくさい――いまではこの城のいしずえとたのまれる上部八風斎かんべはっぷうさいだった。


 足羽九十九橋あすわつくもばし脚下きゃっかにして、そびえたつきたしょうの城は北国一の荒大名あらだいみょう鬼柴田勝家おにしばたかついえがいるとりでである。塁濠るいごう宏大こうだい、天主や楼閣ろうかくのけっこうさ、さすがに、秀吉ひでよしを成りあがりものと見くだして、大徳寺では、筑前守ちくぜんのかみに足をもませたと、うそにも、いわれるほどなものはある。
っくい猿面さるめん、ウーム、一あわふかしてくれねばならぬ」
 と、本丸の上段、毛皮のしとねに、どッかりかまえた修理亮勝家しゅりのすけかついえは、その年、五十三の老将である。こよいも、岐阜ぎふ侍従じじゅう信孝のぶたかからの飛状ひじょうを読みおわって、憤怒ふんぬおもてにみなぎらしていた。
 評定ひょうじょうのあかりは、晃々こうこうと照って、席には一族の権六勝敏ごんろくかつとし、おなじく勝豊かつとよ徳山則秀とくやまのりひで不破光治ふわみつはる、小島若狭守わかさのかみ毛受勝介めんじゅかつすけ佐久間玄蕃允さくまげんばのじょうなど、万夫不当ばんぷふとうの北国衆が、評定の座へズラリといならんでいる。
「この勝家かついえが冬ごもりのまを、おにのいぬまと思うて、猿面さるめん秀吉ひでよしがすき勝手なふるまい。この書状しょじょうのようすでは、佐和山さわやまをおとしいれ、長浜の城まで手をだしてまいったらしい。ウム、もう隠忍いんにんしている場合ではない。若狭わかさ! 若狭守!」
「はッ」
「そちはすぐ天守てんしゅへあがって、陣触じんぶれの貝をふけ」
「はッ」
勝敏かつとし勝豊かつとよ! また玄蕃允げんばのじょう! そのほうどもは先陣に立ってまッしぐらに、近江おうみへむかえ、すぐにじゃぞ……」
きみ! しばらく待たせられい」
「なんじゃ、毛受勝介めんじゅかつすけ、そちも一陣のさきがけをのぞむか」
「いや、もってのほかな――」
 とニジリだした勝介かつすけ、やや色をあらためて、きッと、
「さきほど、軍師ぐんし八風斎はっぷうさいどのが、列席のおりには、秀吉ひでよし退治たいじのご出陣は、来春の雪解ゆきどけと、同時に遊ばすことに決したではござりませぬか」
「ひかえろ、それはまだ信孝公のぶたかこう御書ごしょがつかぬまえじゃ。秀吉の独断かくまでと思わぬからじゃ」
「ご立腹はさりながら、時はいま十二月の真冬、北国街道かいどうの雪たかく、軍馬の進路、おもいもよりませぬ」
「だまれ、勝介かつすけ、おりから今年ことしは雪がすくない。このくらいな天候ならば、やな越えもなんのその、一きょに、長浜を取りかえして、さるめに、一あわふかすぐらいなんのぞうさがある」
おおせながら、ひとたび軍旅を遠くはせて、とうげしずたけ険路けんろを、吹雪ふぶきにとじこめられるときは、それこそ腹背ふくはい難儀なんぎ、軍馬はこごえ、兵糧ひょうろうはつづかず、ふたたびこのきたしょうへご凱旋がいせんはなりますまい」
「ウーム……」
 勝家かついえ愚将ぐしょうではない、ましてや分別もじゅうぶんな年ごろ。のとうぜんに、やり場のない怒気どきが、うめきとなって口からもれる。
「いちおうの理がある、しかし……」
 とやや落ちついて、
「来春を待つとして、ほかになんぞ、よいさくがあるか」
 とめつけた。
「ござります――それは裾野すそのよりご帰参の上部かんべどのが、一月ひとつきあまりお屋敷にこもって、苦心のすえ作戦された、秀吉ひでよし袋攻ふくろぜめの奇陣きじん、必勝の布陣ふじん、軍旅の用意にいたるまで、お書付かきつけとしてご家老かろう徳山とくやまどのへお渡しになっております」
「そんなものがあったか。伊那丸いなまるを味方につけ、甲駿こうすんへ根を張らんとしてながらくでていた八風斎はっぷうさい、それが不首尾ふしゅびで、帰参後も、めッたに顔をみせぬと思うていたら、すでに、秀吉袋攻めの奇陣をさくしておったのか、どれ、一けんいたそう」
 と、勝家かついえはことごとくきげんをなおして、徳山則秀とくやまのりひでの取りだした書類や図面に目をとおし、また時折にはなにか小声でヒソヒソと密謀みつぼうをささやいていた。
 するとこの夜陰やいん、おくの曲輪くるわにあたって、にわかにジャラン! ……と妖異よういかねのひびきがゆすりわたった。
「なんじゃ」
 折もおりなので、一同おもわず、ガバと顔をはねあげる。
 勝家かついえも聞きとがめて、
南蛮寺なんばんじで聞くような、いまわしい鐘の音色ねいろ、奥のつぼねでするらしいが、やかましいゆえ、めてまいれ」
「はッ――」
 と気転きてんよくたった小姓こしょう藤巻石弥ふじまきいしや、ふと廊下ろうかへでるとこは何者? 評定ひょうじょう袖部屋そでべやへじッとしゃがみこんでいる黒衣こくいの人間。
間諜かんちょうッ!」
 大声に叫んで、ダッ! と組みついた。奮然ふんぜんと、むこうからもむかってくるかと思ったがあんがい、グズグズとくじけてしまったので石弥いしやもあっ気にとられた。
「なに、諜者ちょうじゃが入りこんでいたと?」
 勝家かついえをはじめ、玄蕃允げんばのじょう若狭守わかさのかみなど、めいめいしょくをかざしてそれへでてきた。
「なんじゃ、そちは伴天連バテレン……しかも老婆ろうばではないか」
「はい、はい、……どうぞおゆるしくださりませ」
 黒いかげは、竿さおでハタキ落とされた蝙蝠こうもりのようにおののいていた。毛受勝介めんじゅかつすけはッたとにらんで、
「きさま、ただいまの密議を、ここで聞きおッたな!」
「めっそうもないこと、わたくしは神さまに仕える修道士イルマンでございます……いくさのご評議などを立ちぎきしてなんになりましょう」
「その修道士が、なんでかような場所へりこんだか。ばばあ! うそをもうすと八ツきだぞ」
「奥方さまのおたのみで、お祈祷いのりにあがりました……ハイ、三人の姫君さまが、そろいもそろうてご風気ふうき大熱たいねつ……そのご平癒へいゆを神さまにおいのりしてくれとのごじょうをうけてまいりました」
「ほ、なるほど……」
 勝家かついえおもてがすこしやわらいだ。
「おさないひめたちが、このあいだから風邪かぜなやんでいる。奥もきょうはそれで祈祷いのりにまいった。アレは昔からその宗門しゅうもんでもあった」
「まったく、ご錠口じょうぐちをまちがえまして……」
石弥いしや、この修道士イルマンばばあを、おくのつぼねへつれていってやれ、間諜かんちょうでもないらしい」
「かしこまりました」
 と、石弥いしやが立ち、一同がちりかけると、そのとき、四十九けん長廊下ながろうかを、かけみだれてくる人々! 小谷おだにかたをまっ先に、つぼね侍女こしもとなど奥の者ばかり、めいめいさやをはらった薙刀なぎなたをかかえ、雪洞ぼんぼり花のごとくふりてらしてきた。
「奥ではないか、なにごとじゃ」
「オオ殿さま、ごゆだんあそばしますな」
 と小谷の方は、薙刀をふせて、
「今がいままで、一のうちに祈祷いのりの鐘をならしていた伴天連バテレンがみょうなそぶりで、ご城内の要害ようがいをさぐり歩いているという小者の知らせでござります」
 と息をあえいだ。
「うかつな者をめしいれるから悪い。む! さすればただいまの老婆ろうばもその片われじゃな」
「オオ、そこにいる修道士イルマン、引っくくってごせんぎなされませ」
 といわせもはてず、小谷おだにかたのうるわしいほおへピラピラッと四、五本の針がふきさった。
「あッ!」と藤巻石弥ふじまきいしやも、同時にひとみをおさえて飛びしさる、とたんにすきをねらった老婆ろうばは、黒布こくふをひるがえしてドドドドドッと大廊下おおろうかから庭先へ飛びおりた。
「それッ」
 と近侍きんじをはじめ侍女こしもと薙刀なぎなた、八めんをつつんでワッと追いかぶさったが、雪ともつかぬひょうともつかぬふしぎなものが、近よる者のひとみに刺さって、見るまに怪異かいいな老婆のかげは、外曲輪そとぐるわの闇へ、飛鳥ひちょうと消える。
 ふいのそうどうに、ガランとしていた評定ひょうじょう
 一がピラピラと飛んでいる。……
 これはあやしい。妖異よういだ。夏なら知らず十二月、蛾が生きているはずがない――と思うと灯取ひとり虫、一つ一つのしょくをはたきまわって、殿中でんちゅうにわかにボーッと暗くなってきた。
 スウーッとそのが吸いこまれてしまった。
 いつのにかふすまのかげに立っていた呂宋兵衛るそんべえの口のなかへ――滅光めっこう口術こうじゅつ? ニヤリと笑って、評定の間へスルスルとはいってきた。


 暗闇くらやみのなかで、呂宋兵衛るそんべえ、ムズとつかんだ。一同が評議にかけていた秀吉ひでよし袋攻ふくろぜめの秘帖ひちょう、それだ! それをつかんだ。――片手につかんでがまのように評定ひょうじょうをはいだした。
 大廊下おおろうかには人がいる、ワイワイとさわいでいる。そッちへは逃げられない、次のへ、スーと抜けてくると、障子しょうじやりをもってる人影がうつっている。
「こいつはあぶない……」
 と、あとずさりをした壁ぎわで息をのむ。と、うしろからだれか、指のさきで、チョイと背中をついた者がある。
 二寸ばかり納戸襖なんどぶすまがあいていた。そのなかから手がでて呂宋兵衛の指へやわらかにさわった。
蚕婆かいこばばあだな……」
 と、すぐはらのうちで、うなずいた。
 そして、手につかんでいた秘帖を、スルリと引っぱられたが、ばばあがあずかるつもりだろう――と思ってわたしてしまった。
 とたんに、ズドン! と短銃たんづつたまがまつげをかすった。白いけむりが評定の間でムクッとあがった。いけねえ! と思ったので呂宋兵衛、いきなり障子しょうじけるやいな、バラッと飛びだすと、待ちかまえていた長身ながみ槍先やりさきが、
「えいッ」
 と、するどい光をつッかけてきた。
「おッ!」
 と、すばやくつかみとめた槍の千だん、顔を見るとおどろいた、やみでも知れる鼻――あの鼻のもちぬし、上部八風斎かんべはっぷうさいである。
 こいつは苦手にがてだ、ばらばらともとの部屋へ逃げこむ、と同時に、佐久間玄蕃允さくまげんばのじょうの声で、
曲者くせものッ!」
 組んできた。ドンとつぎの千畳敷せんじょうじきへ投げつけられた。起きあがると、またふたたび、毛受勝介めんじゅかつすけ大喝だいかつせい
「おのれ、間諜かんちょう!」
 グンとえりがみを引ッつかまれた。が、こんどは呂宋兵衛るそんべえにれいの奥の手をだすよゆうがあった。ポンとその手をはらうやいなびあがって広間の壁へ、守宮やもりのようにペタリと背なかをりつけてしまった。
 上部八風斎、すばやく見つけて、槍の素扱すごきをくれながらブーンと壁の下からつき上げた。――もんどり打って呂宋兵衛のからだがたたみの上へおちたかと思うと、をめくるように一枚の畳がヒラリと起きて槍へかぶった。
「おおッ」
 と、毛受、佐久間が飛びつくまに、かれのすがたはたたみの下へもぐって消える。
方々かたがた、方々、曲者くせものはこの部屋へやでござる。千じょうじきを取りまきめされい!」
 毛受勝介めんじゅかつすけが城中へ鳴りわたるばかりにどなった。
 と――あら奇怪、畳から次の畳へ、ムクムクムクと波のごとくうごいていった。そして、向こうのはしの一枚がポンとめくれる――たちまち飛びだした呂宋兵衛るそんべえ脱兎だっとのごとく大廊下おおろうかから武者走むしゃばしりににげだした。
幻術師げんじゅつし! のがすなッ」
 とひしめきあって、あらん限りの武者がそれへ殺到してしまった。そのようすを見すまして、はじめて、納戸襖なんどぶすまをソロリとあけた黒装束くろしょうぞく、押入れからとびだして、呂宋兵衛からわたされた攻軍こうぐん秘図ひずをふところにおさめ、別なほうから築山つきやまづたいで、北庄城ほくしょうじょう石垣いしがきをすべり落ちていった。

秀吉ひでよしをめぐる惑星わくせい




 とちとうげ大吹雪おおふぶき――
 軍飛脚いくさびきゃくおおかみか雪女よりほかはとおるまい。
 ところがひとりのおばあさん、元気なものだ。歓喜天かんぎてんさまのお宮の絵馬えまを引ッぺがして、ドンドン焚火たきびをしてあたっている。
 黒い頭巾ずきんをかぶって、姿はだかい修道士イルマンだが、中身なかみ裾野すその蚕婆かいこばばあだ。たきびで焼いたうさぎの肉をひとりでムシャムシャべている。
「ここで落ちあうやくそくだのに、どうしたんだろう……にげそこなってやられたのかしら」
 同じことを、口のうちでなんどいったか知らない。そのうちふもとのほうから、雪をおかしてくる人かげ。
「おお、呂宋兵衛るそんべえさま」
ばばあ、待っていたか」
 かぶってきたござをすてて焚火たきびのそばへふるえついたのは、おなじ姿の呂宋兵衛だった。
「待っていたかもないもんだ、半日もおさきだったあね」
「気の毒だった、捕手とりてに逃げ口をふさがれて、足羽川あすわがわかみを遠まわりしてきたため、ばかに手間てまをとってしまった。それはいいが、城中でわたしたアレは落とさずもってきたろうな」
「城中で? おやなにを……」
「この呂宋兵衛るそんべえが、命がけでとった柴田方しばたがた攻軍こうぐん秘帖ひちょう秀吉公ひでよしこうへの土産みやげにするのだ」
「いいえ、わしはなんにも知りませんよ」
「城中のくらがりで、たしかになんじの手へわたしたはず」
「ごじょうだんを……このばばあはおまえさんがはたらくまえに、逃げだしたんじゃないか」
「はてな? するとあの手はだれだろう」
 早打はやうちの男か、またサクサクとここへ雪の峠越とうげごえをしてきたものがある。ほおかむりの上に藁帽子わらぼうし、まるで、顔はわからないがみのの下から大小のこじりがみえた。
 ふたりの前をとおりかかって、
吹雪ふぶきがくる――、追手おってもくるぞ」
 ヘンなことをいって通りすぎた。
「なるほど、また北から黒い雲がまいてきた。日の暮れないうちふもと宿しゅくへたどりつこう」
 呂宋兵衛と蚕婆は、また伴天連バテレンになりすます約束でサクリ、サクリと歩きはじめた。
 あんじょう、ドーッと、陣太鼓じんだいこをぶつけるような吹雪がきた。燃えのこった焚火たきびが雪にまじって、虚空こくうに舞い、歓喜天かんぎてんの堂のとびらもさらってゆかれそう。このぶんで一晩ふったら、お宮ももって山の木がみんな二、三じゃくになるかも知れない。
「オオ寒ッ!」
 いたたまれないで、お堂のなかから飛びだしたはひとりの少年。寒いはずだ、膝行袴たっつけばかま筒袖つつそで布子ぬのこ一枚、しかし、腰の刀は身なりにも年にも似あわぬ名刀のしろがねづくり。
「こんな雪が降ってるうちは、クロも空をとべないだろう。アア、いつおいらとめぐりあえるのかしら」
 吹雪ふぶきの空を見あげて、くろい大鷲おおわし幻影げんえいをえがいたのは、法師野ほうしのいらい、その行方ゆくえをたずね歩いている鞍馬くらま竹童ちくどうである。
 信濃しなのをこえて、飛騨ひだを越えて、クロを尋ねつ冬にはいって、この大雪にゆきくれた竹童、腰に名刀般若丸はんにゃまるのほこりはあるも、お師匠ししょうさまはたっといもの、クロはおいらのかわいいものとしている、あのわしにあえざる心はさびしかろう。


 あければ、天正てんしょうの十一年。
 本能寺ほんのうじの焼けあとにも、やなぎがあおいをふいた。
 都の春のにぎやかさ。ことに、羽柴はしばじゅ参議秀吉さんぎひでよし入洛じゅらくちゅうのにぎやかさ。――金の千瓢せんなり、あかい陣羽織じんばおり、もえおどし小桜こざくらおどし、ピカピカひかる鉄砲てっぽう、あたらしい弓組、こんな行列が大路おおじ小路こうじに絶えまがない。
 いくさがあっても貧相でなく、新鋳しんちゅう小判こばんがザラザラ町にあらわれ、はでで、厳粛げんしゅくで、陽気で、活動する人気にんきは秀吉の気質きしつどおりだ。京ばかりではない、姫路ひめじ下向げこうすれば姫路の町が秀吉になり、安土あづちへゆけば安土の町がそッくり秀吉の気性きしょうをうつす。
「ごぜん
 馬廻うままわりの福島正則ふくしままさのり、ニヤニヤ笑いながら、秀吉の前へひざまずいた。京都の仮陣営かりじんえい、ここに天下の覇握はあくをもくろんでいるかれ、めしむまもないせわしさ。いまも、祐筆ゆうひつになにか書かせながら、じぶんは花判かきはん黒印こくいんをペタペタしている。
 ちかく出師すいしせんとする柴田しばたがたの滝川征伐せいばつ、その兵を糾合きゅうごうする諸大名しょだいみょうへの檄文げきぶんであるらしい。
「なんじゃ」
 むぞうさにこたえて、次のへ、ペタリと一つ捺した。
「とうとうやってまいりました」
「だれが」
裾野すその和田呂宋兵衛わだるそんべえ。おそるおそるご拝謁はいえつを願いに、陣前へまかりこしております」
「富士の人穴ひとあなで、二千の軍兵ぐんぴょうをかかえながら、勝頼かつより遺子いし武田伊那丸たけだいなまるに追いまくられて、こんどはわしへとりいる気だな」
「むろん、ご賢察けんさつのごとくでござりましょう」
「まアいい、ここへ持ってこい」
 と、まるで品物を見るようにいった。
可児才蔵かにさいぞうはあるか!」
 おおきな声でどなった。
 はなやかな小具足こぐそくをつけた可児才蔵かにさいぞうまくをはらって階下にをさげる。
「しばらくそこにおれ」
 といったまま、また祐筆ゆうひつにむかってなにか文言ぶんげんをさずけている。と、福島正則ふくしままさのり和田呂宋兵衛わだるそんべえ蚕婆かいこばばあ修道士イルマンを連れてはるかに平伏へいふくさせた。
 呂宋兵衛は、ここぞ出世の緒口いとぐちと、あらんかぎりの巧舌こうぜつ甘言かんげんで、お目見得めみえした。まず、将来天下人てんかびと兆瑞ちょうずいがお見えあそばすということ、君のおんためには死も一もうより軽しということ、それから、こんどは手まえ味噌みそで天下の野武士のぶしはわが指一本にうごくというじまん、幻術げんじゅつは天下無双むそう、兵法智略には、丹羽昌仙にわしょうせんという腹心の者があること、――かぎりもなくならべたてる。
 秀吉ひでよしは、フン、フン、フン、で、聞くことだけは聞いている。
 さてと呂宋兵衛、まだなにかいうつもりだ。
「さてこのたびのご拝謁はいえつに、なにがなよき土産みやげともぞんじまして、上洛じょうらくのとちゅう、いのちがけでさぐりえましたのは柴田勝家しばたかついえ攻略こうりゃく、まった北庄城ほくしょうじょうなわばり本丸ほんまる外廓そとぐるわほりのふかさにいたるまでのこと、それを密々みつみつ言上ごんじょういたしますれば、ちかきご合戦かっせんはご勝利うたがいもなきこととぞんじまする」
 と、蚕婆かいこばばあにさぐらせた評定ひょうじょうのもよう、じぶんがしらべたとりでの秘密など、得々然とくとくぜんとかたり出した。
 いま、勝家かついえ秀吉ひでよしの仲、日ごとに険悪けんあくとなりつつあることは天下の周知しゅうち。さだめし、秀吉が目をほそくしてよろこぶだろうと思うと、呂宋兵衛るそんべえがしゃべっているまに、
「うッははははは」
 と腹をおさえて笑いだした。
「呂宋兵衛、柴田しばた内幕話うちまくばなしならもうやめい」
「はッ」とかれは目をぱちくり。
おおせにはござりますが、勝家かついえ一族が、ご当家を袋攻ふくろぜめにせん奇陣をくふうし、雪解ゆきどけとどうじに出陣の密策みっさくをさぐってまいりましたゆえ」
「わかった、わかった。そちの申すのはこれであろう」
 座右ざうの文庫から、むぞうさにとりあげて、呂宋兵衛のほうへみせた書類! ヒョイとあおぐと、いつぞや、北庄城ほくしょうじょうの一室で、納戸襖なんどぶすまから合図あいずされて手へわたした、あの攻軍の秘帖ひちょうだ! あの手が秀吉ひでよしだったのか? あの手が? 呂宋兵衛はぼうぜんとして二のがでない。
「こりゃ、そちは幻術げんじゅつをやるだろうが、諜者ちょうじゃはから下手べたじゃの。さぐりにかけては、まだそこにいる男のほうがはるかにうまい」
 と、可児才蔵かにさいぞうあごでさした。
「才蔵、びっくりしておるわ、たねをあかしてやれ」
「はッ、呂宋兵衛どの」
 と、こんどは才蔵があとをうけた。
「先日はまことに失礼つかまつった」
「や! ではあの時、うしろから手をだされたのは?」
貴公きこうよりまえに、北庄城ほくしょうじょうへさぐりにはいっていた拙者せっしゃでござる。また、とちとうげでごあいさつして通ったのもすなわち拙者で」
「ははあ……」といったまま、呂宋兵衛るそんべえ蚕婆かいこばばあも、すっかり毒気どっけをぬかれたていで、いままで喋々ちょうちょうとならべたてた吹聴ふいちょうが、いっそう器量きりょうを悪くした。


 と、そのとき、羽柴はしば荒旗本あらはたもと脇坂甚内わきざかじんない平野ひらの三十郎、加藤虎之助かとうとらのすけの三人、バラバラと幕屋まくやすそにあらわれて一大事を報告した。
 しかも、ふしぎな事件である。
 いま、ふいにこの陣屋へ徳川家とくがわけ武士ぶし五人がおとずれてきた、というのである。五人のかしらは、徳川家のうちでも、音にきこえた菊池半助きくちはんすけ
 その半助のいうには、武田勝頼たけだかつより、ほかふたりの従者がすみぞめのころも網代笠あじろがさぶかにかぶり、ひそかに、東海道からこの京都へはいったので追跡ついせきしてきたが、ついに、この洛中らくちゅうで見うしなったゆえ、羽柴どののご手勢でからめてもらいたいとの口上こうじょうである。
 こんな奇怪きかいな話はない。
 武田四郎勝頼たけだしろうかつより――、すなわち、伊那丸いなまるの父なる大将は去年天正十年三月、織田おだ徳川とくがわの連合軍にほろぼされて、天目山てんもくざんふもとではなばなしい討死うちじにをとげていること、天下の有名、だれあって知らぬものはない。
 だのに、その勝頼が、すみぞめのころもをきて、京都にはいったとは、なんとしても面妖めんようである。
「おまちがいないか」
 と、虎之助とらのすけが念をおした時、
「断じてそういはござらん」
 と、菊池半助きくちはんすけをつよめていった。
 しかし、京都は徳川家とくがわけ勢力圏内せいりょくけんないではない。ぜひお手配てはいをわずらわしたい、との懇願こんがん。事件、人物がまた容易よういならぬ人、なんとへんじをしましょうかと、三人の旗本はたもとがこもごも申したてた。
「ふウむ……勝頼がな」
 と秀吉ひでよしも、これを聞くとしばらく沈思瞑目ちんしめいもくしていたがやがて重く、
「ほかならぬ徳川どののおたのみ、聞いてあげずばなるまい。しょうちいたしましたとごへんじをいたせ」
「はッ、おつたえ申しまする」
 と平野ひらの三十郎ひとりだけが立ってゆく。と、脇坂甚内わきざかじんないすぐに小膝こひざをゆるがして、
「ご承引しょういんのうえは、それがしと虎之助とらのすけどのとにて、四郎勝頼かつよりのありかをたしかめ引っとらえてまいりましょうか」
「待てまて……」
 秀吉ひでよしは、まだ瞑目めいもくをつづけていたが、はじめて、いつもの調子でいいのける。
「やがてこの筑前守ちくぜんのかみ伊勢いせ滝川たきがわ攻めじゃ、この用意のなか、死んだ勝頼をさがしているひまな郎党ろうどうはもたぬ」
「はッ」
 甚内じんないは五体をしびらせておそれいった。
「じゃが、ひきうけたことほうってもおけまい、この役目は和田呂宋兵衛わだるそんべえに申しつける。よいか」
「しょうちいたしました、すぐ洛中らくちゅうをくまなくただしてごぜんへその者をしつれます」
「やってみろ、そちには手ごろな尋ねものじゃ」
 人使いの名人、顔を見たとたんに、もう呂宋兵衛をあそばせておかなかった。が、ふしぎな大役たいやく、いいつけられた、呂宋兵衛のほうでも、なんだかムズムズ油がのる。秀吉公ひでよしこうへの目見得めみえ初役はつやく、ぜひ引っからめて見せねばならぬとひそかにちかった。
 ましてや、武田たけだ四郎勝頼、伊那丸いなまるの父である。事実、天目山てんもくざん討死うちじにしていなかったとすれば、天下の風雲、さらに逆睹ぎゃくとすべからざることになる。

般若丸はんにゃまるなぞそう




 里の二月は紅梅こうばいのほころぶころだが、ここは小太郎山こたろうざんの中腹、西をみても東をながめても、駒城こまぎの峰や白間しらまだけなど、白皚々はくがいがいたるそでをつらねているいちめんの銀世界で、およそ雪でないものは、伊那いなをながるる三峰川みぶがわか、甲斐かいへそそぐ笛吹川ふえふきがわのあおいうねりがあるばかり。
「北国すじへ間者かんじゃにいった、巽小文治たつみこぶんじはどうしたであろう」
「そういえば、東海道へいった山県蔦之助やまがたつたのすけも、もうもどってこなければならないじぶんだが? ……」
 小太郎山の山ふところ、石垣いしがきをきずき洞窟どうくつをうがち、巨材きょざい巨石でたたみあげたとりでのなかは、そこに立てこもっている人と火気で、むろのようにあたたかい。
 いま、砦の一ヵ所に炎々えんえんかがりをたいて、床几しょうぎにかけながらこう話しているのは、忍剣にんけん龍太郎りゅうたろうであった。
「ふたりとも、あまりに日数がかかりすぎる。悪くするとこの雪に道でもふみちがえてこごえたのではあるまいか」
「いや、とちゅうには番卒ばんそつ小屋もあり、部落部落には味方もいるから、けっしてそんなはずはない」
「では深入りして徳川家とくがわけのやつに、生けどられたかな」
蔦之助つたのすけ小文治こぶんじも、おめおめ敵の縄目なわめにかかる男でもなし……きっとなにか大事なことでもさぐっているのだろう。それよりあんじられるのは竹童ちくどうじゃ」
 と、龍太郎はまゆをくもらせた。
「オオ、竹童といえば、いったいどこへいってしまったのか、とんとしりのおちつかぬやつだ」
「しかしあいつのことだから、かならずクロをさがしだして、元気な顔でもどってくるだろうが、この雪や氷の冬のうちを、どこで送っているかと思うと、ふびんでもありしんぱいでならぬ……」
 さすがに木隠龍太郎こがくれりゅうたろうは、兄弟弟子でしの竹童を、明けくれ忘れていないのである。
 去年の晩秋――人穴城ひとあなじょうをおとし法師野ほうしのの里に凱歌がいかをあげた武田伊那丸たけだいなまるは、折から冬にかかってきたので、幕下ばっか旗本はたもとをはじめ二千の軍兵ぐんぴょうをひきいて、ひとまずこの小太郎山へ引きあげたのだ。
 しばらくは、この山城で冬ごもりだ。
 陣具じんぐをつくり武器をとぎ、英気をやしなわせて、春の雪解ゆきどけをまっている。
 で、おん大将をはじめ軍師ぐんし民部みんぶも、咲耶子さくやこも、みな一のごとく団欒だんらんして、この冬をこし、初春はつはるをむかえたのであるが、ただひとり、人気者の竹童がいないのは、なにかにつけて、だれもがさびしく感じていた。
 竹童よ、竹童よ。おまえはいったいどこにいるか?
 ああ、クロの行方ゆくえがわからないように、竹童のたよりもいっこうわからない――と、いまも龍太郎が灰色の空をあおいで長嘆ちょうたんしていると、バラバラと、とりでさくの方から、ひとりの番卒ばんそつがかけてきた。
木隠こがくれさま! 加賀見かがみさま!」
「なんじゃ」
 煙のかげからふたりの声が一しょにおうじた。
「ただいま、巽小文治たつみこぶんじさまと山県やまがたさまが、ふもとのほうからこちらへのぼっておいでになります」
「オオ、かえってきたか!」
 ふたりはすぐにかがりをはなれて立ち、バラバラと砦の一の柵まで迎えにかけだした。


 ここは大将の陣座とみえて、綺羅きらではないが巨材きょざいをくんだ本丸づくり、おくには武田菱たけだびしまくがはりまわされ、そのなかにあって、とう武田伊那丸たけだいなまるは、いましも、軍師ぐんし小幡民部こばたみんぶから、呉子ごし兵法図国編へいほうとこくへん講義こうぎをうけているところであった。
 そばには、咲耶子さくやこもいて、氷のような板敷いたじきにかしこまり両手をひざにおいて、つつしんで聞いている。
 と――、幕をはらって加賀見忍剣かがみにんけん
「わが君」
 と声をかけた。
「おお忍剣、なんであるな」
「ご講義ちゅうでござりますか」
「いや、兵学のつとめも、ちょうどおわったところじゃ」
「では、せんこく帰陣しました山県やまがたたつみのふたり、すぐこれへ召入めしいれましてもよろしゅうござりましょうか」
「オオ、北国と徳川領とくがわりょうへさぐりにいったふたりのもの、日ごとに帰りを待っていた。すぐここへ呼んでよかろう」
「はッ」
 幕をおとして忍剣のすがたが消えると、やがてふたたびその幕がはねあげられ、山県蔦之助やまがたつたのすけ巽小文治たつみこぶんじ、それに龍太郎りゅうたろうと忍剣もつづいて、伊那丸いなまるの前へひざまずいた。
「雪中の細作さいさく、さだめし難儀なんぎにあったであろう」
 と伊那丸は、まずふたりの使いをねぎらって、
「順序として、北国すじの動静をさきに聞きたい、小文治そちのさぐりはどうであった」
「はッ」
 威儀いぎをただして、小文治が復命する。
多宝塔たほうとうのいただきから、たくみにわしをつかって逃げうせました呂宋兵衛るそんべえは、どうやら、越前えちぜんきたしょうを経て、京都へ入りこみましたような形跡けいせきにござります」
「ウーム、京都へ!」
 小幡民部こばたみんぶがうなずいた。
「おりから、裾野すそのにいた鏃鍛冶やじりかじ卜斎ぼくさいも、柴田しばたの家中へひきあげて、北庄城ほくしょうじょうでは雪解ゆきどけとともに、筑前守秀吉ちくぜんのかみひでよしと一戦をなす用意おさおさおこたりなく、国境のせきはきびしい固めでござります」
「それでおよそのようすはわかった……」
 と伊那丸いなまるはつぎに山県蔦之助やまがたつたのすけへことばをむける。
「して、東海道のほうにはなんぞかわりはないかの」
「若君――」
 すぐ受けて蔦之助、
容易よういならぬうわさをきいてござります」
 といった。
「なに、容易ならぬうわさとな?」
「また徳川とくがわ痩武者やせむしゃどもが、このとりでめよせてくるとでもいうことか」
 忍剣にんけん気早きばやな肩をそびやかした。
「それとはちがって、世にもふしぎなうわさでござる」
 と、蔦之助つたのすけ伊那丸いなまるの顔をあおぎ見ながら、
「――若君、おおどろき遊ばしますな、そのうわさともうすのは、おいえ滅亡めつぼうのみぎり、あえなく討死うちじにあそばしたと人も信じ、またわれわれどもまでが、うたがって見ませぬ四郎勝頼かつよりさま」
「オオ、父上――その父上がなんとあるのじゃ」
「じつはお討死うちじにとは表向おもてむきで、まことは、天目山てんもくざんみねつづき、裂石山れっせきざん雲峰寺うんぽうじへいちじお落ちなされて、世間のしずまるころをお待ちなされたうえ、このほど身をいぶせき旅僧たびそうにかえられ、ひそかに、京都へお入りあそばしたよしにござります」
「えッ!」
 はたして伊那丸のおどろきは一通りではなかった。
 勝頼――と父の名をきいただけでも、はやそのひとみはうるみ、胸は恋しさにわななくものを、まだ存命ぞんめいときいては、そぞろ恩愛のじょうあらたにひたひたと胸をうって、歓喜かんき驚愕きょうがくと、またそれを、怪しみうたがう心の雲がりみだれる。
「ではなんといやる、父上にはなおご武運つきず、旅の僧となって、都へおちゆかれたと申すのか――蔦之助もっとくわしゅう話してくれ」
「されば、まだことの虚実きょじつは明確に申しあげられませぬが、東海道――ことに徳川家とくがわけ家中かちゅうにおいてはもっぱら評判ひょうばんいたしております。それゆえ、なお浜松の城下までりこみまして、ふかく実否じっぴをさぐりましたところ、その旅僧たびそう勝頼かつよりなりといって、隠密組おんみつぐみ菊池半助きくちはんすけ、京都へ追跡ついせきいたしました」
「ウーム、さてはまことにちがいない」
 心そぞろに、伊那丸いなまるのひとみはえる。
「意外なこともあるものじゃ。真実しんじつ勝頼公かつよりこうが世におわすとすれば、武田たけだのご武運もつきませぬところ、若君のよろこびはいうもおろか、われわれにとっても、かようなうれしいことはないが……」
 つぶやきながら軍扇ぐんせんをついて、ふかく考えているのは小幡民部こばたみんぶである。しかし、加賀見忍剣かがみにんけん龍太郎りゅうたろうやまた咲耶子さくやこにいたるまで、みなこの報告を天来の福音ふくいんときいて武田再興たけださいこう喜悦きえつにみなぎり、春風陣屋じんやにみちてきた。
「京都へまいろう! そうじゃ、すぐ京都へまいってお父上にめぐりあおう!」
 なかにも伊那丸は、おさなくして別れた父、なき人とばかり思っていた父――その父の存命ぞんめいを知っては、いても立ってもいられなかった。
「民部、わしはこれよりすぐに京都へまいるぞ、そしてお父上を小太郎山こたろうざんへおむかえ申さねばならぬ」
 一こくのゆうよもならずと立ちあがった。
「しばらくお待ちあそばしませ」
 いつも思慮しりょぶかい小幡民部こばたみんぶ、しずかに、伊那丸いなまるすそへよって両手をついた。
「民部、そちはわしの孝心をとめるのか」
「なんとしておめ申しましょう。若君のお心、そうなくてはならぬところでござります。しかしようお考えあそばせ、元来、徳川家とくがわけには策士さくし伝言でんごん多く、虚言浮説きょげんふせつは戦国の常、にわかにそれをお信じなされるもいかがかとぞんじます」
「いいや、徳川家の菊池半助きくちはんすけが、それとみた旅のそうを、京都まで追いつめていったとあれば、こんどのうわさはうそではあるまい。まんいち、時をあやまって、お父上が、家康いえやすの手にでもとらわれたのちには、もうほどこすすべはないぞ、この伊那丸が生涯しょうがいの大不孝となろうぞ」
「おお、ぜひもござりませぬ……」
 さすがの民部みんぶにもそれをはばむことはできない。かれはとちゅうの変をあんじ、伊那丸じしんがとおく旅する危険を予感よかんしているが、孝の一ごん! それをさえぎる文字もじは、兵法にもなかった。
 にわかに、旅のしたくがふれだされた。
 旅から旅をつぐ道筋みちすじは、みな敵の領土りょうどだ。むろんしのびの旅である――ともは加賀見忍剣かがみにんけん木隠龍太郎こがくれりゅうたろうのふたりにきまった。
 雪をふんだ一列の人馬が、ありのように小さくくろく小太郎山こたろうざんとりでをくだった。ふもとの野呂川のろがわは富士川へ水つづき、いかだにうつった伊那丸と忍剣、龍太郎の三人は、そこで送りの兵をかえし、雪と水しぶきの銀屑ぎんせつを突ッきって、まっしぐらに、東へ東へとくだっていった。
 父にめぐりいたさの一しん伊那丸いなまるは敵地をぬけ、せきをかすめて旅する苦しさやおそろしさを思わなかった。
 東海道のうら道をぬけて、主従三人が京都へたどりついたのは二月のすえ。おりから伊勢路いせじ一円は、いよいよ秀吉ひでよしが三万の強軍をりもよおして、桑名くわな滝川一益たきがわかずますを攻めたてていたので、多羅安楽たらあんらくの山からむこうは濛々もうもうたる戦塵せんじんがまきあがっていた。


 伊勢はいくさといううわさだが、京都の空はのどかなものだ。公卿くげ屋敷の築地ついじには、白梅しらうめがたかく、加茂川かもがわつつみには、若草がもえている。
 そのやわらかい草のうえに、グタリと足をのばしている少年。ときどき、水をみてはさびしい顔――空をあおいではポロポロと、なみだをこぼしている。
「クロ! クロ! こんなにおまえをさがしているおいらをすててどこへかくれてしまったんだい、クロ、もう一どおまえのすがたを見せておくれ。おいらはおまえがいないので、こんなにさびしがっているんだぜ! さがしてさがしぬいて、こんなにつかれているんだぜ!」
 鞍馬くらま竹童ちくどうは空へむかってこう叫んだ。
 しかし、そのうったえに答えてくれるものもなければ、クロの幻影げんえいさえも見えてこない。かれはまたぼんやりと加茂の流れをみつめていた。
 すると、往来からこっちへ歩みよってきた男が、
「おい、おまえは竹童ちくどうじゃねえか」
 ふいに背なかをたたいていった。
「え?」
 と、すこしおどろいた顔をして、その男をふりあおいだ竹童は、へんじをするまえにパッと立ちあがって、般若丸はんにゃまるつかへ手をかけた。
「おいおい、やぼなことをするなよ」
 と、男は手をかまえて、飛びのきながら、
「人のつらをみると、すぐ喧嘩面けんかづらだからッかなくってしようがねえなあ。竹童、おめえとおれとは、なにも仇同志かたきどうしじゃあるめえし、そういつまでを持つことはねえじゃねえか」
 としきりとなだめている男は、裾野落すそのおちのひとりである早足はやあし燕作えんさく。なぜか、きょうにかぎってばかに下手したでだ。
「なあ竹童――じゃあない、竹童さん。そういつまでもおこってるのはやぼだぜ。呂宋兵衛るそんべえ没落ぼつらくするし、人穴城ひとあなじょう住人じゅうにんでもなくなってみれば、おまえとおれはなんの仇でもありゃしねえ。久しぶりで仲よく話でもしようじゃねえか」
 竹童ちくどうじゅんなものだ。そういわれてまで、かれを敵視てきしする気にもなれないので、意気いきごんだ力抜ちからぬけに、またもとの堤草どてぐさへ腰をおろした。
「みょうなところでったなア」
 と燕作えんさくもそばへってきて、
「どうしておまえひとりで、こんなところにぼんやりしているのよ。え? ばかに元気のねえ顔つきじゃねえか」
「クロがいなくなったので、それでがっかりしているんだよ」
「クロ? ……なんだい、クロってえのは」
「おいらのかわいがっていた大鷲おおわし
「ああなるほど――」
 と燕作は手をうって、
「あれならなにもしんぱいすることはねえぜ。泣き虫の蛾次公がじこうが、おまえのすきをねらって、乗りにげしたッていう話だから」
「ところが行方ゆくえが知れないんだもの――しんぱいしずにいられないよ」
「なアに、蛾次公のことだもの、いまにあっちこっちを飛びまわったあげくに、この京都へもやってくるにきまってら。な、そこをギュッと取っつかまえてしまいねえ」
「ああ、おいらもそう思って、北国街道ほっこくかいどうから、雪のふるとちとうげをこえて、この京都へきたけれど……まだ鷲のかげさえも見あたらない」
「そう短気たんきなことをいったってむりだ。ものはなんでもしんぼうがかんじんだからな……おや、そりゃそうと、竹童ちくどうさん、おまえはたいそうすばらしい刀をさしているじゃねえか」
 と、燕作えんさくはソロソロ狡獪こうかい本性ほんしょうをあらわして、なれなれしく竹童のびている般若丸はんにゃまるつば目貫めぬきをなでまわしながら、
「こりゃたいしたものだ。目貫の獅子しし本金ほんきんで、つば後藤祐乗ごとうゆうじょうの作らしい。ウーム……どうだい竹童さん、ものはひとつそうだんだが、その刀をおれに四、五日してくれないか」
「えッ」
 竹童は図々ずうずうしい相手のことばにびっくりして、
「とんでもないこと! この刀は貸すどころか、ちょっとでも肌身はだみをはなすことのできないだいじな品物しなものだよ」
「そんな意地いじの悪いことをいうなよ。じつは裾野すそのを落ちていらい、のみ着のままで、路銀ろぎんもなし資本もとでもなし、なにをすることもできずにこまっているところだ。後生ごしょうだから、その刀を貸してくんねえ。二、三百両にゃ売れるだろうから、そうしたらおまえにも、小判こばんの十枚や二十枚は分けてやるぜ」
「ばかなことをいうとしょうちしないぞ」
「オヤ、こんちくしょう」
 と燕作えんさくはグッとうでをまくりあげて立ちあがって、竹童の胸ぐらをつかんだ。
「さっきから下手したでにでていればツケあがって、素直すなおにわたさねえとまたいたい目に会わすからそう思え」
「おのれ、さてはやさしくいいよって、はじめからこの刀をとろうとしていたんだな」
「知れたことよ。だれが、てめえみてえな山猿やまざるに、ただペコペコするやつがあるものか!」
「ちぇッ、そう聞けばなおのこと、いのちにかけても般若丸はんにゃまるをわたすものか!」
「命知らずめ、後悔こうかいするなよッ」
 もろ手でのどをしめつけながら、足がらみをかけて、ドンとねじたおすと、たおれたとたんに竹童が、さっと下から般若丸の冷光れいこうをよこざまにはらった。
「おッとあぶねえ!」
 一そくとびにさきをかわして、おのれも脇差わきざしをぬきはらった燕作、にかがやく大刀をふりかざして、ふたたびタタッ――と斬りこんでくる。
 竹童はすばやくねかえって、チャリン! とそれを引ッぱずした。が、それはけんの法ではなく、いつも使いなれているぼう呼吸いきだ。
 鞍馬くらまのおくをりてから、きょうまでいくたびも生死のさかいをえてきたが、ほんものの刀をとって、てき刃交はまぜするのは竹童きょうがはじめての経験けいけんである。なんともいえぬおそろしさだが、またなんともいえぬ壮快そうかいな気分と、必死ひっしの力が五にもやいばにもみなぎってくる――


「この山猿やまざるめ、あじなまねをしやがるな」
 燕作えんさくは見くびりぬいて上段じょうだんにかまえ、すきをねらって竹童の手もとへ、パッと斬りつける。
 鞍馬くらまの竹童、剣道けんどうは知らぬが、たんのごとしだ。
「なにをッ」
 とさけぶがはやいか、名刀般若丸はんにゃまるぼうとおなじに心得こころえて燕作の刀へわが刀をガチャッとたたきつけていった。
 なんでたまろう、二じょう白虹はっこう、パッと火花をちらしたかと思うと、燕作の鈍刀なまくらがパキンと折れて、こおりのごとき鋩子きっさき破片はへん、クルッ――と虚空こくうへまいあがった。
「しまった!」
 と燕作、悲鳴ひめいをあげてげだすところを、やっといすがった竹童が、ただ一息ひといきに、りさげようとすると、サヤサヤと葉をそよがせた楊柳かわやなぎのこずえから、雨でもない、つゆでもない、ただの光でもない、音のない銀の風!
 オオ、無数むすうはり
 光線こうせんをそそぐがごとくピラピラピラピラ! と吹きつけてきて竹童の目、竹童の耳、竹童の毛穴けあな、ところきらわずつきさッた。
「ウーム?」
 といきぐるしい悶絶もんぜつ一声ひとこえ
 さすが気丈きじょう怪童子かいどうじも、その一しゅんに、にわかにあたりがくらくなった心地ここちがして、名刀般若丸はんにゃまるをふりかぶったまま、五弓形ゆみなりくっして、ドーンとうしろへたおれてしまった。
「ざまをみやがれ、すなおにわたしてしまえばいいに、おあつらえどおりに、くるしい目を見やがった」
 セセラ笑って、ひっ返した早足はやあし燕作えんさくがみをする竹童の胸板むないたに足をふんがけて、つかんでいる般若丸はんにゃまるを力まかせに引ったくった。
 そして、ニヤリと刃渡はわたりをながめていると、ふいにだれか、えりくびをムズとつかんだ。
「あッ、なにをするんだ」
 いうまもなかった。
 フワリと足が大地をはなれたとたんに、かれのからだはちゅうをかすって、どての若草を二、三げんさきへズデンともんどり打っている。
「アいたッ」
 とねおきて見ると、いつのにそこへきたか、網代あじろかさ眉深まぶかにかぶったひとりの旅僧たびそう、ひだりに鉄鉢てっぱちをもち、みぎにこぶしをふりあげて、
「こりゃ、かような少年をとらえてなんとするのじゃ」
 はッたとめて、よらばふたたび投げつけそうなかまえである。
「おや、この乞食坊主こじきぼうずめ、よくも生意気なまいきな手だしをしやがったな!」
 うばい取った般若丸はんにゃまるを持ちなおして、いきなり燕作えんさくってかかると、旅僧はやすやすと体をかわして、手もとへよろけてきた小手をピシリと打った。――燕作はしたたかに手首てくびをうたれて、ホロリと刀を落としたので、それをひろい取ろうとすると、ふたたびヤッ! というするどい気合い、こんどはどての下へつき落とされた。
 ズルズルとすべり落ちたが、まだしょうこりもなく起きあがって、いまの仕返しかえしをする気でいると、ひとりとおもった旅僧のほかに、まだ同じすがたの行脚僧あんぎゃそうがふたり、すぐそこにたたずんでいたので、
「あッ、いけねえ!」
 とばかり一もくさん、堤のしたをってげだしてしまった。
 そのうしろすがたのおかしさに、ふたりのそうは見おくりながら、
「ははははは」
 とほがらかに笑い合う。
 と、堤の上から先のひとりの僧がりてきて、燕作のすてていった般若丸はんにゃまるをたずさえてきて、
「この太刀たちを見おぼえはござりませぬか……」
 ひざをおって、せいのたかいそうのひとりへさしだした。
 網代笠あじろがさにかくされて、そうのおもざしはうかがいようもないが、まるぐけひもをむすんだ口もとの色白く、どこか凛々りりしいその行脚僧あんぎゃそうは、ころものそででをよけながら、ジイッとやいばをみつめていたが、やがてきわめてひくい声で、
「さてさてめずらしい刀をみることじゃ」
 感慨無量かんがいむりょう語調ごちょうをこめて、ひとみもはなたずつぶやいた。
「見るもなつかしいことである。これはまぎれもなき伊那丸いなまるまもがたな……」
「わたしも、しかとさように心得こころえますが」
「つきぬ奇縁きえんじゃ……おもえばふしぎな刀とわが身のめぐりあわせのう」
御意ぎょいにござります、あれにたおれている少年を介抱かいほうして、ひとつしさいをただしてみましょうか」
「いや、世をしのぶ身じゃ。それはソッと少年のさやにもどしておいたほうがよい」
「しかしなにやら、くるしんでおりますものを、このまま見捨みすててまいるのもつれないようにぞんじますが」
「オオ、では、河原かわらの水でもすくってきてやれい。じゃが、ゆめにも刀のことはきかぬがよいぞ。けばこなたの素性すじょうも人にどられるわけになる」
「しょうちいたしました……」
 と、ひとりが河原かわらりていくと、ひとりは竹童ちくどうきおこしてかつをいれ、口に水をあたえただけで、ことばはかけずにスタスタといきぎてしまった。
「ア……どなたですか……ありがとうございました。ありがとうございました……」
 竹童は遠退とおの跫音あしおとへいくどもれいをいったが、両手りょうてで顔をおさえているので、それがどんなふうの人であったか、見送ることができなかった。
 顔をおさえている指のあいだから、タラタラと赤い血のすじ……
「あッ……」
 と片手かたてさぐりに河原の水音をたどっていった竹童、岩と岩との間から首をのばして、ザアッと流れる水の血汐ちしおをあらい、顔をひやし、そして目やかみの毛のあいだにさッたはりを一本ずつ抜いてはまた目を洗っていた。
 そのあいだに――以前いぜんの場所の楊柳かわやなぎのこずえから、ヒラリと飛びおりたひとりの女がある。
 女といってもおばあさんだ。修道士イルマンふくをかぶった蚕婆かいこばばあ――。
 くろい頭巾ずきんの中から、ふくろのような目をギョロリとさせて、やなぎがくれに遠去とおざかる三つの網代笠あじろがさを見おくっていたが、やがてウムとひとりでうなずいた。
 いつか河原はれている――
 青いぶきみな妖星ようせいが、四じょうの水にうつりだした。
 伊勢路いせじいくさのあるせいか、日がしずんだのちまでも東の空だけはほの赤い。
「あいつだ! たしかにあいつにちがいない!」
 こうさけんだ蚕婆かいこばばあ妖霊星ようれいせいをグッとにらんで、しばらく首をかしげていたが、まもなく、黒い蝶々ちょうちょうが飛ぶように、そこからヒラヒラと走りだした。

南蛮寺なんばんじ百鬼夜行ひゃっきやこう




 空にはうつくしい金剛雲こんごうぐも朱雀すざくのはらには、観世水かんぜみず小流ささながれが、ゆるい波紋はもんをながしている。
 月はあるが、月食げっしょくのような春のよい――たちこめている夜霞よがすみに、家もともしびも野も水も、おぼろおぼろとした夜であった。いつともなく菊亭右大臣家きくていうだいじんけばしにたたずんだ三人づれの旅僧たびそうは、人目ひとめをはばかりがちに、ホトホトと裏門のをおとずれていた。
「はて、まだいらえがござりませぬが、どうしたものでござりましょう」
 やがて、当惑とうわくそうにつぶやく声がきこえた。
「まえもって、密書みっしょをさしあげてあることゆえ、やかたにはとくよりごぞんじのあるはずだが……」
「あまりあたりをはばかりますゆえ、まだざむらいが気がつかぬのでござりましょう。どれ……」
 となかのひとりが、こころみにまた、かんぬきをガタガタゆすっていると、こんどは、その合図あいずがとどいたとみえて奥にもれていた小鼓こつづみはたとやみ、同時に人の跫音あしおとがこなたへ近づいてくるらしい。
 ギイ……とうちから裏門うらもんがあかった。
 ななめに、紙燭ししょくの黄色い明かりがながれた。その明かりに、いた僧形そうぎょうのかげを見ると、顔をだした公卿侍くげざむらいは、
「や! これは?」
 とおどろいたさまで、すぐに、ふッとかざしてきた紙燭を吹きけしてしまった。
「意外にお早いおき、おやかたさまもお待ちかねでござります。いざ……」
 あたかも、貴人きじん微行びこうでもむかえるように、いんぎんをきわめて、のすそにひざまずいた。網代笠あじろがさをかぶった三人の僧形は、黙々もくもくとして、そのれいをうけ、やがてあんないにしたがって、菊亭殿きくていどのの奥へ、スーッと姿すがたをかくしてしまった。
 ふたたびめきられた裏門うらもんは、秘密ひみつをのんでものいわぬ口のようにかたくふうじられた。夜はふけてくるほど、草にも花にもあまれて、あとはただばし紅梅こうばいが、築地ついじをめぐる水の上へ、ヒラ、ヒラと花びらくろく散りこぼれているばかり。
 すると、そのほりぎわの木のかげから、ツイとはなれた人影ひとかげがあった。黒布こくふをかぶった妖婆ようばである。いうまでもなく、それは加茂かもどてから、三人のそうをつけてきた蚕婆かいこばばあ――
 修道士イルマンすがたの黒いかたちが、朧月おぼろづきの大地へほそながくかげをひいた。ばばあはヒラヒラとばしのそばまできて、かたくじた裏門うらもんを見まわしていたが、やがて得意とくいそうに「ひひひひひひひひ」と、ひとりで笑いをもらした。
「あれだあれだ、やっぱりわしの目にまちがいはなかったぞよ。あの三人の僧侶そうりょのうちのひとりがたしかに武田勝頼たけだかつより、あとのふたりは家来けらいであろう。うまく姿すがたをかえて天目山てんもくざんからのがれてはきたが、もうこのばばあの目にとまったからには、うんのつき……すこしも早く、呂宋兵衛るそんべえさまへ、このことを知らさなければならぬが、めったにここをはなれて、またけだされたら虻蜂あぶはちとらずじゃ、ええ、あの半間はんま燕作えんさくのやつ、いったいどこへいってしまったのだろう」
 ブツブツ口小言くちこごとをいいながら、ほりのまわりをいきつもどりつしていると、向こうから足をはやめてきた男が、ひょいと木をたてにとって、
「だれだ! そこにいるなあ?」
 と、ゆだんのない目を光らした。
「おや、おまえは燕作じゃないか」
「なアんだ、ばあさん、おめえだったのか」
 と、声に安心して、早足はやあしの燕作、木のそばをはなれて蚕婆かいこばばあのほうへのそのそとってきた。
「どうしたんだい、半間にもほどがあるじゃないか」
 とばばあ燕作えんさく息子むすこのようにしかりつけて、
竹童ちくどうみたいな小僧こぞうにはりまくられ、旅僧たびそうににらまれればすぐげだすなんて、いくら町人ちょうにんにしても、あまり度胸どきょうがなさすぎるね」
ばあさん婆さん、そうガミガミといいなさんな。あれでも燕作にしてみりゃ、せいいっぱいにやったつもりなんだが、なにしろ竹童のやつが必死ひっしってかかってきたので、すこし面食めんくらったというものさ。だがおまえが木の上にかくれていて、れいのはりをふいてくれたので大助かりだッたぜ」
「そうでもなければ、おまえさんは、あんな小さな者のために、般若丸はんにゃまるのためし斬りにされていたろうよ」
「まったく! あいつは鷲乗わしのりの名人だとは思ったが、剣道けんどうまで、アア上手じょうずだとはゆめにも気がつかなかった」
「なアに竹童は剣術けんじゅつなんて、ちっとも知っていやしないのだけれど、おまえのほうが弱過よわすぎるのさ。だがまア、そんなことはもうどうでもいいや、燕作さんや、一大事だいじが起ったよ」
「え? またいそがしくなるのかい」
「用をたのみもしないうちから、いやな顔をおしでないよ。おたがいにこれが首尾しゅびよくいけば、呂宋兵衛るそんべえさまも一こくじょうあるじとなり、わたしや、おまえも秀吉ひでよしさまからウンとご褒美ほうびにありつけるんじゃないか、しっかりしなくッちゃいけないよ」
合点がってん合点。ところでなんだい、その一大事とは」
「それはね……」
 ばばあはギョロリとやかたのほうへ目をくばってから、燕作えんさくのそばへすりよって、その耳へ口をつけてなにやらひそひそとささやきだした。
 しばらく、目を白黒させて聞いていた燕作。
「えッ、じゃさっきの旅僧たびそうが、天目山てんもくざんからのがれてきた勝頼かつよりだったのか」
「しッ……」
 その素頓狂すとんきょうな声をおさえつけて、
「わたしはここに見張みはっているから、はやくこのことを呂宋兵衛るそんべえさまに知らせてきておくれ。こんな役目やくめはおまえさんにかぎるのだから」
「よしきた! おれのあしなら一そくとびだ」
「そして、すぐに手配てはいをまわすようにね」
「おッと心得こころえた!」
 いうが早いか燕作は、朱雀すざくの原をななめにきッて、お手のものの韋駄天いだてんばしり、どこへけたか、たちまち、すがたはおぼろすえにかくれてしまう。
 あとにのこった蚕婆かいこばばあは、黒いそでを頭からかぶって、ばしのかげにピッタリとをひそめている。そして菊亭殿きくていどのおくのようすをジッと聞きすましているらしかったが、ひろい大殿作おおとのづくりの内からは、あれきりつづみも人声ももれてはこず、ただ花橘はなたちばなや梅のに、ぬるい夜風がゆらめくのを知った。


 けるほどにいくほどに、早足はやあし燕作えんさくは、さっさつたる松風まつかぜの声が、しだいに耳ちかくなるのを知った。臥龍がりゅうに似たる洛外天らくがいてんおかのすがたは、もう目のまえにおぼろの空をおおっている。
「アア、いきがきれた……」
 よほどいそいだものと見えて、さすがの燕作も、そこでホッと一息ひといきやすめた。
 おかはさして高くはないが、奇岩きがん乱石らんせき急勾配きゅうこうばい、いちめんにいしげっている落葉松からまつの中を、わずかに、石をたたんだ細道ほそみち稲妻形いなずまがたについている。
「どりゃ、もう一息――」
 というと燕作は、うさぎのようにその道をピョイピョイとのぼりだした。やや中ごろまでのぼってくると、道は二股ふたまたに分れて右をあおぐと、石壁いしかべどう鉄骨てっこつ鐘楼しょうろうがみえ、左をあおぐと、松のあいだにあか楼門ろうもんがそびえていた。燕作はひだりの朱門あかもんへさしてけのぼった。
 これこそ、有名な洛外天ヶ丘の朱門。
 なんで有名かといえば、その門作もんづくりがかわっているためでもなく、風光明媚ふうこうめいびなためでもない。ここのいただきの平地に、織田信長おだのぶなが建立こんりゅうした異国風いこくふう南蛮寺なんばんじがあるからである。
 まだ信長の世に時めいていたころは、長崎ながさき平戸ひらどさかいなどから京都へあつまってきた、伴天連バテレン修道士イルマンたちは、みなこの南蛮寺なんばんじに住んでいた。そして仏教ぶっきょう叡山えいざんにおけるがごとく、ここに教会堂きょうかいどうを建て、十聖壇せいだんをまつり、マリヤの讃歌さんかをたたえて、朝夕、南蛮寺のかわったかねが、京都きょうとの町へもひびいていた。
 しかし、本能寺ほんのうじへんとどうじに、異国いこく宣教師せんきょうしたちは信長というただひとりの庇護者ひごしゃをうしなって、この南蛮寺も荒廃こうはいしてしまった。そして無住むじゅうどうようになっていたので、秀吉ひでよし呂宋兵衛るそんべえに、てんおか居住きょじゅうすることをゆるした。だが、南蛮寺をおまえにやるぞとはいわない。しばらくのあいだ、あれに住めといったばかり、要するに呂宋兵衛は、荒廃こうはいした南蛮寺の番人ばんにんにおかれたわけである。
 だが、よくのふかい呂宋兵衛は、もう南蛮寺を拝領はいりょうしたようなつもりで、すっかりここに根をやし、またボツボツと浪人者ろうにんもの山内さんないへあつめて、あわよくば、一こくじょうあるじをゆめみている。
 だから、むろん、祭壇さいだんはあれほうだいだし、もとの教会堂きょうかいどうには、やり鉄砲てっぽうをたくわえこみ、うわべこそ伴天連バテレン黒布こくふをまとっているが、心は、人穴ひとあな時代からかわりのない残忍ざんにんなるかれであった。
「よくいうことわざに、天道てんとうさまと米のめしはつきものだというが、まッたく世のなかはしんぱいしたものじゃない。人穴城ひとあなじょうがなくなったと思えば、こんないい棲家すみかがたちまちめっかる。わはははは、富士の裾野すそのだの大江山おおえやまだのにこもっているより、いくらしだか知れやしねえ。しかもこんどは、羽柴秀吉はしばひでよしからおおやけにゆるされているのだからなおさら安心、しかし、だれもかれも、悪事をやるなら上手じょうずにやれよ、裾野すそのとちがってみやこのなか、あの秀吉ににらまれると、おれもすこしこまるからな」
 広間ひろまには、えるような絨氈じゅうたんをしきつめてあった。そこは南蛮寺なんばんじの一室。四ほうに大きな絵蝋燭えろうそくをたて、呂宋兵衛るそんべえは、中央に毛皮けがわのしとねをしき、大あぐらをかいて、美酒びしゅをついだ琥珀こはくのさかずきをあげながら、いかにも傲慢ごうまんらしい口調くちょうでいった。
「なあ昌仙しょうせん、そんなものじゃないか」
おおせのとおり、こうなるのも、頭領かしらのご武運のつよい証拠しょうこでござる」
 そばにいて、相槌あいづちを打ちながら、頭をさげた武士の容形なりかたち、どこやら、見たようなと思うと、それもそのはず、人穴落城ひとあならくじょうのときに、法師野ほうしのまでともに落ちてきて別れわかれになった軍師ぐんし丹羽昌仙にわしょうせんだ。
 せきには、昌仙以外にも、人穴城から落ちのびてきた野武士のぶしもあり、あらたに加わったやくざ浪人ろうにんもいならんでその数四、五十人、呂宋兵衛るそんべえのおながれをいただきながらどれもこれも、軽薄けいはくなお追従ついしょうをのべたてている。


 ところへ、朱門あかもんをぬけて、本堂ほんどう階段かいだんからバラバラとけあがってきたのは早足はやあし燕作えんさく
「おかしら、とうとうっけてまいりました」
 と、廻廊かいろうのそとへ、ひざをついて大汗おおあせをふいた。
「おう、燕作えんさくか」
 と、呂宋兵衛るそんべえは、大広間おおひろまからかれのすがたを見て、
「目っけてきたとは吉報きっぽうらしい。ではなにか、勝頼かつよりが、知れたというのか」
「へい……それなんで」と燕作は、つばのどをうるおしながら、
「じつあ、きょうも、それを探索たんさくするために、蚕婆かいこばばあとふたりで、加茂川かもがわの岸をブラブラ歩いていると、ごしょうちでがしょう、あの鞍馬くらま竹童ちくどうのやつがボンヤリどてに腰かけていたんです。見ると、すがたに似合にあわぬ名刀をさしているので、こいつ一番セシめてやろうと、蚕婆はやなぎの木の上にかくれ、わっしはそしらぬ顔で、なれなれしく話しかけたものです」
「やいやい、燕作!」
 ふいに呂宋兵衛がのような口を開いてさえぎった。
「バカ野郎やろうめ。目っけたというのはその竹童のことをいうのか。ふざけやがッて! だれがあんな小僧こぞうをさがせといいつけたのだ」
「ま、ま、待っておくんなさい」と燕作はちぢみあがってどもりながら、
「その竹童のことは、話の順序じゅんじょなんで……じゃ、てッとりばや本筋ほんすじをもうしあげます。そこへ通りかかった三人の旅僧たびそう挙動きょどうがあやしいので蚕婆かいこばばあがつけていくと、朱雀すざくの原の……ええと……なんといッたっけ……おおそれそれ菊亭右大臣きくていうだいじんという公卿屋敷くげやしき裏門うらもんから、こッそり姿をかくしました。そのうちのひとりは、たしかに、武田勝頼たけだかつよりにそういないから、すぐこのことを、呂宋兵衛るそんべえさまにお知らせもうせという蚕婆からの言伝ことづてなんで」
「ウーム、そうか……」
 と、呂宋兵衛はやっとまんぞくそうにうなずいたが、まだうたがい深い顔をして、
「どうだろう、昌仙しょうせん、そいつアたしかに勝頼かしら?」
「さよう……」
 と丹羽昌仙にわしょうせん、じッとうつむいてかんがえていたが、なにか思いあたったらしく、ちょうひざをうって、
「たしかにそういござるまい!」
 と断言だんげんした。
「どうしてそれがわかるのだ」
「そのわけは、菊亭家きくていけと、武田たけだ祖先そせんとは、縁戚えんせきのあいだがら。のみならず、勝頼の祖父信虎のぶとらとは、ことに親密しんみつであったよしを、耳にいたしました。さすれば、いま天下に身のおきどころのない、落人おちゅうどが、そこをたよってくるのは、まことに自然しぜんだとかんがえます」
「なるほど、ウム……さてはそうか!」
 と呂宋兵衛るそんべえは、昌仙しょうせんせつをきいて、それこそ、落人おちゅうど勝頼かつより化身けしんにちがいなかろうと、大きく一つうなずいた。
 で、すぐに、それをしとる方法をしはじめたが、昌仙にも名案めいあんがなくなかなかそうだんがまとまらない。なぜかといえば、菊亭右大臣きくていうだいじんともある堂上どうじょうやかたへ、うかつに手を入れれば、後日ごじつ朝廷ちょうていから、どんなおとがめがあるかもしれないから――これは秀吉ひでよしじしんの手をもってしても、めったなことはできないのであろう。
 といっても、あのやかましい秀吉から、その捕縛ほばくをいいつけられている呂宋兵衛は、なんとしても、勝頼を秀吉の面前へ拉致らっちしていかなければ、たちまち、かれの信用が失墜しっついすることになる。
 ――さくはないか! 策はないか! なにかいい名策めいさくはないか! と呂宋兵衛はややしばらく、ひたいさえて考えこんでいたが、やがてのこと、
「うむ、どうしても、こよいをはずしてはなおまずい。昌仙、耳を……」
 決断けつだんがついたか、あの大きな碧瞳へきどうをギョロリと光らし丹羽昌仙の耳もとへなにかの計略はかりごとをささやいて、ことばのおわりに、
「よいか!」
 ときつくねんをおした。
「ご名案めいあん心得こころえました」
「ではさきにでかけるぞ、燕作えんさく、その菊亭きくていやかたへあんないをしろ」
 呂宋兵衛るそんべえは、くろい蛮衣ばんいをふわりとかぶって立ちあがり、早足はやあしの燕作をさきにたたせて、風のごとく、てんおかからけだした。
 満山まんざんを鳴らして、ゴーッという一じんの松風が、朧月おぼろづきすみをなすッてすぎさった。と、呂宋兵衛が、立ちさったのち、――南蛮寺なんばんじ絵蝋燭えろうそくは一つ一つふき消されて、かなたこなたからりだされた四、五十人の浪人ろうにんが、いずれも覆面黒装束ふくめんくろしょうぞくになって、荒廃こうはいした石壁いしかべ会堂かいどうへあつまってくる。
 ガチャン! という錠前じょうまえをはずす音。ガラガラとおもい鉄のけるひびき――。そしておおかみい物へとびつくかのように、覆面の者どもが一せいにそのなかへゾロゾロはいると、たちまち鉄砲てっぽう鉄弓てっきゅうやり捕縄とりなわなど、おもいおもいな得物えものをえらび、丹羽昌仙にわしょうせん指揮しきにみちびかれて、百鬼夜行ひゃっきやこう! 天ヶ丘からシトシトと京の町へさしてまぎれだした。

ぶえ竹童ちくどう嘲歌ちょうか




 風もないのに、紅梅こうばい白梅はくばいの花びらが、ばしの水に点々てんてんとちって、そのにおいがあやしいまでやみにゆらぐ。――と、けわたった菊亭家きくていけ裏門うらもんのあたりから、築土ついじをこえて、ヒラリと屋敷やしきのなかへしのびこんだ三つの人かげがある。
 つき景趣けいしゅをちぢめたような庭作り、おかありはしあり流れあり、ところどころには、がまのような石、みやびた春日燈籠かすがどうろうが、かすかにまたたいていた。
 そのやかた奥庭おくにわを、もののかげからかげへ、くらがりから暗がりへ、ソロ……ソロ……といきをころしてしのんでいった三つのかげは、やがてひろい泉水せんすいふちへでて、たがいになにかうなずき合いながら、ひとりは右へ、ひとりは左へ、別れわかれに姿すがたをかくして、そこにうッすらと立ちのこったのは、和田呂宋兵衛わだるそんべえだけになった。
 呂宋兵衛はじッとたたずんで、泉水のなかほどをみつめていた。そこには泉殿いずみどのとよぶ一棟ひとむね水亭すいていがある。いずみてい障子しょうじにはあわい明かりがもれていた。その燈影とうえいは水にうつって、ものしずかな小波さざなみれている。
「…………」
 呂宋兵衛はくちびるだけをうごかして、印咒いんじゅのまなこをじだした。と思うと、そッと足もとの小石をとって、池のなかへ、ポーンと投げる。
「あ!」
 とおどろいたような声が、泉の亭のなかからもれ、池に面したぼね障子しょうじがスッといた。
 その部屋へやから、なかば身をさしだして、音のした池のをながめたのは、やかた菊亭右大臣晴季公きくていうだいじんはるすえこうで、そのまえには、さっきのそうのひとりが対坐たいざし、ふたりの僧は、すえのほうにひかえているらしかった。
「なんじゃ……」
 晴季はるすえ微笑びしょうをふくんで、波紋はもんのなかにしずんでいくうおのかげを見ながら、
緋鯉ひごいであったそうな……ごあんじなさるまい」
 こういって、またピシャリと障子しょうじをしめてしまった。
 ところが――そのわずかもわずか、ほんのばたきするあいだに、いずみふちに立っていた呂宋兵衛るそんべえのすがたが忽然こつぜんえてしまった。いや、消えてしまったのではない。水遁すいとん秘法ひほうをもちいて、泉殿いずみどのはしをわたり、いつのまにか、晴季やそうたちのいるへやのどこかにしのびこんでいたのだ。
 とも知らず――晴季は、障子しょうじめてほッとしたもののように、また小声で、目のまえにいる僧形そうぎょう貴人きじんへ話しかけていたことばをつづける。
「いや、なにごとも時世時節ときよじせつ……こうおあきらめがかんじんじゃ。あのような水音にさえ、はッと心をおくお身の上、さだめしおつらかろうとおさっし申すが、またいつか天運のおめぐみもあろうでな。まずそれまではご一しんこそなによりの大事、かならず早まったことをなさらぬがようござる」
「おなさけ、かたじけのう思います」
 正面にすわった僧形の貴人は、ことばすくなに沈んでいた。これ、はたして武田勝頼たけだかつよりその人であるかいなかは、あまりに、主客の対話たいわがかすかで、にわかにはんじがたいのである。しかし短檠たんけいの光に照らされたその風貌ふうぼうをみるに、色こそ雨露うろにさらされて下人げにんのごとく日にやけているが、双眸そうぼうらんとして人をるの光があり、眉色びしょくうるしのごとくく、頬麗きょうれい丹脣たんしんにしてのあるようす、どうみても、尋常人じんじょうじんでないことだけはたしかである。
「とにかく、いちじこうなされてはどうであろう……」
 晴季はるすえは、さらにいちだんと声をひくめて、
嵯峨さが仁和寺にんなじに、麿まろ親身しんみ阿闍梨あじゃりがわたらせられるほどに、ひとまずそれへおされて、しばらくは天下の風雲ふううんをよそに、世のなりゆきを見ておわせ。そしてご武運ぶうんだにあらば、おりを待ってまたの大事をおはかりなさるのがなによりの万全ばんぜんじゃ。……晴季はそう思うが、御意ぎょいのほどはどうおわすの?」
「しごくなおはからい……いまの身になんのかってな我意がいを申しましょうぞ。よろずとも、よろしきようにおねがいするばかりじゃ」
「では、い立てるようではあるが、ここのやかた召使めしつかいどもも多いことゆえ、夜明けをまって一こくもはやく嵯峨へお身を落ちつけあそばしたほうがよい、麿から阿闍梨どのへ、しさいにたのじょうを書いておきますでの……」
 こういって晴季はるすえは、千鳥棚ちどりだな硯筥すずりばこ懐紙かいしを取りよせ、さらさらと文言もんごんをしたためだした。ところがいつになくふでがにぶって、書いているまに頭脳あたまがボーと重くなり、さながらムシムシとした黒いきりに身をつつまれているようなだるさをおぼえてきた。
 はッとして、こころをまそうとした。そしてなにげなく見まわすと、まえの人は端然たんぜんとしているが、ふたりの従僧じゅうそうしながら、われをわすれていねむっている。
奇怪きかいな!」
 晴季はるすえはクルクルと手紙をまいてゆだんのない目をみはった。とたんに、三人のそうたちも、なにかいいしれぬ魔魅まみにおそわれているのを知って、無言むごんのまま、ジロジロと部屋へやのすみずみをみつめ合った。
 しかし、短檠たんけいのかげ、たなのかげ、調度ちょうどのもののかげのほか、あやしいというもののかげは見あたらない。
「では……」
 と晴季は、したためた手紙を僧の手にわたした。――とはるかに、ガラガラと戸をあける音や、人声のザワめきや、また牛車ぎゅうしゃわだちとりの声など、夜明けを知らせる雑音ざつおんが、りまじって、かすかに聞えだしてきた。
「はてな? まだ夜明けにしては、あまり早すぎるが」
 ふと、池の障子しょうじをひらいてみると、いつかあかつきの光が、ほのぼのと水にういて、あなたこなたの庭木の花さえ、しらじらと明けはなれている。
「オオ、不覚ふかく不覚、あまり話に身がいって、時刻じこくのたつのを忘れていたとみえる」
「ではおやかた、人目にたたぬうちおいとまをいたす」
「おつかれでもあろうが、昼のおでましは、かなわぬおからだ、すぐにお立ちがよろしかろう」
 にわかに取りいそいで、三人のそうはそこから、網代笠あじろがさをかぶり、菊亭晴季きくていはるすえに見おくられて、泉殿いずみどのからいけはしをわたってきた。
 すると、四人が橋を渡りおえるとともに、いまがいままで、さえざえと夜明けの光をたたえていたあたりは、また、どんよりとしたおぼろ月夜づきよとなり、人声や車の雑音ざつおんもバッタリ聞えなくなった。
「や、や? ……」
 立ちどまっていると、ものかげから、ひとりの男、すがたは見せずに、
「おやかたさま」と、声をかけた。
「だれじゃ」
ばんの者でござります」
「ウム、門まわりの小者こものか。して、なにか変ったことはないか」
しのびのものりこみました」
「なに、忍びの者?」
「はい、徳川家とくがわけ菊池半助きくちはんすけというしのびの名人が」
「なんという! すりゃ一大事じゃ」
「世をしのぶあぶないおかた、はやくお落としなさいませ。早く、早く、早く……」
「ウム、そちが裏門うらもんをあけてご案内あんないしてさしあげい。かならずそそうのないように」
心得こころえました。さ、こちらへ……」
 ガサガサとをわけて、男がさきに立ったので、三つの網代笠あじろがさ晴季はるすえ目礼もくれいをしてついていった。
 が晴季は、そのあとで、ふと不安な疑念ぎねんにおそわれたか、小走りにそうたちのあとを追おうとした。するとそのとたんに、かれは背なかから、何者かに、ペタリときつかれて、蝙蝠こうもりつばさのようなものに、さえぎられてしまった。
「だれじゃ、麿まろめるものは」
 ふりはなそうとしたが、その力はねばり強く抱きすくめていた。さては! と感じたので、晴季は前差まえざしの小太刀をぬいて、ピュッと一に、
曲者くせもの!」
 力まかせに後ろにはらった。
「ひッ……」
 とさけんで四尺ばかり、まッ黒なかげが、身をはなれた。みると、黒衣こくい妖婆ようば。――晴季のッ先をびのくが早いか、乱杭歯らんぐいばの口を、カッと開いて、ピラピラピラピラ! と目にもとまらぬはりをふいた。


 妖婆ようばの吹き針に目をつぶされて、なにかたまろう、菊亭晴季きくていはるすえはウームとそこへ気をうしなってしまった。
 と、すぐにまたそこへ一つの人かげ、ヒラ――とこなたへかけてきて、
ばばあ、いそげ!」
 と、あとには目もくれずに、屋敷やしきのそとへ走りだした。いうまでもなく、呂宋兵衛るそんべえ蚕婆かいこばばあで、さきに、屋敷の小者こもののふりをして、貴人きじんそうをさそいだしていったのは、早足はやあし燕作えんさくであった。
 その燕作は、いましも、三人の僧を早く早くとかしながら、朱雀すざく馬場ばばを右にそって、しだいに道をてんおかの方角へとってけている。
「待てまて、小者まて!」
 従僧じゅうそうのひとりが、ふいに足をとめて、
「こうまいっては、嵯峨さがの方向とはまるで反対はんたいではないか。仁和寺にんなじへまいるのであるぞ」
心得こころえております」
「心得ておりながら、なんでかようなところへ、あんないするのじゃ」
「まアだまって、わっしについておいでなさい。どうせあなたがたは、甲州こうしゅう田舎者いなかもの、都のみちは、ごあんないじゃありますめえが」
「まだ、いうか」
 飛びかかッた従僧じゅうそうのひとり、燕作えんさくえりがみをつかんでグッとうしろへ引きたおした。
無礼ぶれいなやつめ、甲州こうしゅう田舎者いなかものとはなにをいうのじゃ、おそれ多くもこれにわたらせらるるは……」
 いかりのあまり、口をすべらしかけると、別のひとりがハッとしたようすでそでをひいた。
「ええ、なにをするんだッ」
 燕作は、よろけながらヤケになって大声にわめいた。
「そのことばが、甲州こうしゅうなまりだから、甲州の田舎者といったのがどうした、甲州も甲州、二十七代もつづいた武田たけだ落人おちゅうど、四郎勝頼かつよりはてめえだろう!」
「あッ、こやつ――」
 声と一しょに従僧の手から、かくしの一刀が、サッとのびて燕作のかたをかすった。
「おッとあぶねえ」
 燕作は、バッと五、六けんほど、およぐようにつんのめっていきながら、ピピピピピ……と合図あいず呼子よびこをふいてげた。――と思うと八方から、おどりたった覆面ふくめん浪人ろうにんどもが、
「落人待った!」
「武田勝頼! ご用!」
天命てんめいはつきたぞ」
 口々にばわりながら、ドッと三人の僧侶そうりょをとりかこんだ。
「ちぇッ、さては早くも……」
 ぎしりをんだふたりの従僧じゅうそう網代笠あじろがさをかなぐりて、大刀をふりかぶって、主僧しゅそうの身をまもり、きたるをうけてやりや刀をうけはらった。
 いつか白刃しらははみだれ合って、あけになったふたりの従僧は、別れわかれのうずきこまれてしまった。そして、すきをねらった一本の飛縄ひじょうが、松のこずえからピューッと風をきってきたかと思うと、かれらのしゅと守るそうは、あッ――と大地へからめたおされたようす。
「これ、用意の駕籠かごを」
 やみにあたって、丹羽昌仙にわしょうせんの声がひびいた。
「おうッ」
 というと覆面ふくめんのむれ、ガチャガチャと一ちょう鎖駕籠くさりかごきこんできて、七にしばりあげた貴人きじんの僧をそのなかにしこみ、それッとかつぎあげるやいな、まッ黒にもんで、てんおか南蛮寺なんばんじへいそぎだした。
「ええ、しまった!」
「わが君ッ――」
 悲痛ひつうな声が、血煙ちけむりのなかに残った。満身まんしん太刀傷たちきずにさいなまれたふたりの従僧、斬ッつ、いつ、小半町こはんちょうほど鎖駕籠を追いかけたが、刀おれ力もつきて、とうとう馬場ばばのはずれの若草の上で、たがいにのどと喉とをしちがえたまま、無念むねんおにとなってしまった。


 東山ひがしやまに、金色こんじきくもがゆるぎだした。
 京の大宮人おおみやびとが歌よむ春のあけぼのは、加茂かもの水、清水きよみずの花あかりから、ほのぼのと明けようとしている。
 だれもいない南蛮寺なんばんじ緑青ろくしょうのふいた銅瓦どうがわらの上へ、あけぼのの空から、サッ――といおりてきた怪物かいぶつがある。みると、ひさしく裾野すそのからその影をたっていた、竹童ちくどう愛鷲あいしゅう、――いやいや、いまでは泣き虫の蛾次郎がじろうが、わがもの顔に乗りまわしている大鷲おおわしだ。
「やあ、いよいよここが都だな、ゆうべは伊吹山いぶきやまでさびしい思いをしたが、きょうはひとつ、クロにもらくをさせて、京都の町でブラブラ遊んでやろう」
 あれからのち――どこをどうんで歩きまわっていたか、あいかわらず、のんきのしゃアな顔をして、泣き虫の蛾次郎。南蛮寺の屋根の上から、小手こてをかざしてひとりごと……
「いいなア、いいなア、さすがに天子てんしさまの都だけあるなあ。オーむこうに見えるのが御所ごしょの屋根だな。かすみをひいてのとおりだ。二じょう、三条、四条、五条。こうしているあいだにだんだんみえてくる……おッとこんなところで感心していたところでつまらない、はやく一つはらごしらえして金閣寺きんかくじだの祇園ぎおんだの、ゆっくり一つ見物けんぶつしてこよう」
 ふわりとわしを地へわせて、南蛮寺なんばんじ朱門あかもんへおりた蛾次郎がじろう。あッちこッちを見まわしていたが、やがて、てんおかの松林をおくふかくはいってしまった。
 そして、とある松の大木たいぼくへ、用意のくさりで、わしの足をしばりつけてから、
「おいおい、クロこう
 と、人間へいうように、いいきかせる。
「おれはな、ちょッと久しぶりだ、きょうはほうぼうあるいてくるから、おれのるすに、どこへもいっちゃいけねえぜ。いいかい、帰りにゃうさぎの肉をウンと買ってきてやるからな、たのむぜ、クロこう
 これで安心したらしい。
 そこでさて泣き虫蛾次郎、すこし気どって、れいのボロざやの刀をしなおし、松の小道をとって、ふもとの方へ歩きだしながら、みちみち、山椿やまつばきの葉を一枚もいでくちにくわえ、ぶえで調子をとりつつ、へんな歌をさけびだした。

ピキ、ピッピキ   トッピッピ
竹童ちくどうちッぽけ    ちッぱッぱ
わしられて    ちッぱッぱ
とられる半間はんまに   利口りこう
からすがないても    おら知らねえ
竹童ちくどうちッぽけ    ちッぱッぱ
ピキ、ピッピキ   トッピッピ

「わアおもしれえおもしれえ。竹童のやつがきいたら口惜くやしがるだろうな。フフンだ、もうだめだッてことよ。クロは死んでも蛾次がじちゃんのそばをはなれるのはいやだとさ……あはははははだ。うふふふふふだ。やアい――竹童ッぽけちッぱッぱ」
 ひとりで、はしゃぎ立て、ひとりでおどり足をふりながら、てんおかをなかほどまでくだってきたが、そこで、なにを見つけたか蛾次郎がじろうは急に、
「おやッ?」
 と目玉をデングリかえした。
「オヤオヤオヤ、なんだなんだありゃ、まッ黒に顔をつつんで、目ばかり光らしたさむらい大勢おおぜいここへのぼってくるぞ」
 がけの上へはいあがって、を頭から引っかぶり、なおも目をみはってつぶやいた。
「ずいぶんくるなあ、四、五十人もくるぞ。オオ鎖駕籠くさりかごもやってくる。だれがいるんだろうあのなかに。罪人ざいにんかしら? えらい人かしら? アレアレ見たようなやつが、おさきに立ってくるぞ……いけねえ! 呂宋兵衛るそんべえ蚕婆かいこばばあだッ」
 というと蛾次郎がじろうは、その覆面ふくめんれが、目の下へくるよりはやく、鉄砲玉てっぽうだまれたうさぎのように、横ッとびの一もくさん――がけから崖をころげていってしまった。

むしケラざむらい




 ――きょうは、西陣にしじん今宮祭いまみやまつり
 紫野むらさきのから加茂かもさとあたりまで、なんとすばらしいにぎわいではないか。
 太鼓たいこに、道の紅梅こうばいは散りしき、ふえにふくらみだすさくらのつぼみ。かねチャンギリもきうきとして、風流小袖ふうりゅうこそで老幼男女ろうようなんにょが、くることくること、帰ること帰ること、今宮神社いまみやじんじゃの八神殿しんでんから、斎院さいいん絵馬堂えまどう矢大臣門やだいじんもん、ほとんどりなすばかりな人出ひとでである。
 これで、世が戦国だ、乱世らんせいだとはまったく、ふしぎなくらいのもの。
 ときしも、羽柴筑前守秀吉はしばちくぜんのかみひでよしは、北国ほっこく柴田権六しばたごんろくをうつ小手しらべに、南海なんかいゆう滝川一益たきがわかずます桑名くわなしろを、エイヤ、エイヤ、血けむり石火矢いしびやで、めぬいているまッさいちゅうなのである。
 留守るすの都で、ピイヒャラドンドンの今宮祭は、やや悠長ゆうちょうすぎるようだが、日本はもともとまつりの国だ。かりそめの戦雲せんうん日月じつげつをおおうても、かみのまつりはえないがいい。また、じしんはとおく戦陣せんじんたびにあるとも、留守るす町人ちょうにん百姓ひゃくしょうや女子供には、こうして、春は春らしく、平和にのんきに景気けいきよく、今宮祭いまみやまつりができるようにしておくのも、つまり、筑前守秀吉ちくぜんのかみひでよしが、やがてだいをなすゆえんであるかも知れない。
 なにしろきょうは、けっこうな日である。
 いくさをしている秀吉にはここへくるひまもないだろうが、百姓には百姓のわざ、商人あきんどには商人のわざがある。大いにお祭をし、大いにはたらけ、それが秀吉さまもおすきだぞ! とばかり、いまも本殿ほんでん御榊みさかきをひっかついで、ワーッと矢大臣門やだいじんもんへなだれてきたのは、やすらいおどりのひとかたまり。
 紅衣こうい楽人がくじんたちがふえをはやし、白丁狩衣はくちょうかりぎぬの男たちがほこや榊をふって、歌いに歌う。そしてになった女子供が花棒はなぼうふりふりおどって歩く。
 するとこの踊りのうずまきが境内けいだい神馬小屋しんめごやのまえまできたとき、
 だれか! どこかで?
「キャーッ!」
 と悲鳴ひめいをあげたのである。
 だが――うかれ、ねっしている踊りのむれ。それにも気がつかずに、なおも足なみをってゆくと、こんどは、
「わーッ」
 といって、白丁はくちょう衛士えじがふいにぶッたおれた。
 白丁だから目についた。たおれた姿すがたまみれである。
おどりをやめろ! 踊りをやめろ!」
「踊るやつは、ぶッたるぞッ」
 おどろくべき乱暴者らんぼうものが、いつのまにやら、この極楽ごくらくへまぎれこんでいたのだ。
 ふいに、がねごえでこう叫んだのを見ると、雲つくような大男が三人、大小ッこみ、侍すがた、へべれけって熟柿じゅくしのようないきをはき、晃々こうこうたる大刀をぬきはらい、花や女子おなごの踊りにまじって、ブンブンふりまわしているのだからたまらぬ。
「アレーッ」
 と泣いて逃げるもの。神馬小屋しんめごやびこんで、馬のおしりにかくれるもの、さては韋駄天いだてんげちる者など――いまが今までの散華舞踊さんげぶようは、一しゅんのまにこの我武者がむしゃのろうぜきで荒涼こうりょうたるありさまとしてしまった。
 それにもかず、この三人の浪人者ろうにんもの
 またぞろ八神殿しんでん参詣道さんけいみちに、ヒョロヒョロとあらわれて、あッちへ当り、こッちへ当りちらし、かたで風をきってくる。
「こらッ、物売ものうりどもは、店をかたづけい」
見世物みせもの小屋はたたんでしまえ」
ものをはやすことはまかりならんぞ。いまは、そんな時世じせいではないのだッ、このバカどもめ!」
秀吉ひでよしさまは、合戦かっせんのまッただ中、町人ちょうにんのくせに、まつりなどとはもってのほか、さッ、店や小屋こやはドシドシとたたんでしまえ!」
 手には刀をふりまわし、足はそこらの物売ものうりのかたぱしからちらしてゆく。――烏帽子えぼしを売っていたおじいさん、はとの豆を売っているおばあさん、げそこなってかわいそうに、燈籠とうろうの下でこしをぬかしてしまう。
 さらにあわれをとどめたのは――大勢おおぜいの客を呼びあつめ足駄あしだばきで三ぼうにのっていた歯磨はみがき売りの若い男、居合いあいの刀を持っていたところから、一も二もなく目がけられて、ひょうのごとくびついてきた酒乱しゅらん浪人者ろうにんものに、血まつりのにえとされた。
「あぶないぞウ!」
 と、なだれる群集ぐんしゅう
「よるなようッ」
アちゃあん――」
 悲鳴ひめい! 叫喚きょうかん! 子をかばい、親をだいて、砂けむりをあげる人情地獄にんじょうじごく。それはおもても向けられない砂ほこりであった。
「ざまをみろ、蛆虫うじむしめら」
「祭がやりたかッたら、なぜてんおかへ付けとどけをしておかねえのだ」
あきないがしたいと思うなら、ここから近い南蛮寺なんばんじへ、さきに礼物れいもつを持ってこい」
 かってなことをえた上に、カラカラッとあざわらった三名の酒乱しゅらん
「おおッ、こんどは今宮いまみややしろへかけあいをつけろ!」
「うむ、いいところへ気がついたぞ。すぐ目のまえの南蛮寺なんばんじへ、なんの貢物みつぎもせずにまつりをするとは太い神主かんぬしだ。グズグズぬかしたら拝殿はいでんをけちらかして、あの賽銭箱さいせんばこを引ッかついでゆけ!」
 神慮しんりょをおそれぬばちあたり、土足どそく、はだかの皎刀こうとうを引っさげたまま、酒気しゅきにまかせてバラバラッと八神殿しんでん階段かいだんをのぼりかけた。


 なだれを打ってげかけた群集ぐんしゅうも、このさまをみて、どうなることかと、こわいもの見たさの好奇心こうきしんに、遠くからアレヨアレヨとながめている。
 すると。
 八神殿の朱柱しゅばしらのかげから、ヒラリとあらわれたふたりの男があった。
 右の丸柱まるばしらからけよってきたのは、白衣びゃくえ白鞘しらさやの刀をさしたひとりの六部ろくぶ、左からぬッと立ったのはすみ法衣ほういをまとって、色しろく、クリクリとした若僧わかそうである。
 そのふたり。
 手をつなぐように、階段の上へ大手をひろげて、
「待て! いどれッ」
「ここを通すことはまかりならぬ!」
 どッちの声も、威力いりょくがある。
「な、なんだとッ」
 頭をおさえられたおおかみは、ふんぜんと、きばをむいてってかかった。
「見うけるところ、二ひきとも、乞食こじきにちかい六部ろくぶ雲水うんすい下手へたなところへでしゃばると、足腰あしこしたたぬ片端者かたわものにしてくれるぞ」
いをませ、この白痴者しれもの! ここをいずこと心得こころえておるのだ」
「オオ、ここは紫野むらさきの今宮神社いまみやじんじゃ、八神殿しんでん心得こころえておる。それが一たいどうしたのだ」
「ははは。生酔なまよ本性ほんしょうにたがわずだ。このバカさむらいどもよく聞けよ。それ、もと武士ぶしたるものは、弱きをあわれみ、力なき者を愛し、神仏しんぶつをうやまい、心やさしくみだりにたけきをあらわさず、をもって、まことむねとするのが、しんの武士というもの――」
 色白な若僧わかそうが、右手の禅杖ぜんじょうゆかへついてから、さとしたが、そんなことに、耳をかすかれらではない。
「エエ、口がしこいことを申すな。われわれをただの浪人者ろうにんものと思いおるか。おそれ多くも、羽柴はしばどのよりお声がかりで、てんおかたいの取りしまりをなす、南蛮寺なんばんじ番士ばんしだぞ」
「だまれッ、番士であろうと秀吉ひでよしじしんであろうと、たみをしいたげ、神をけがするなど、天、人ともにゆるさぬところじゃ」
「ゆるすゆるさぬはこっちのことだ。南蛮寺へことわりなしに、ぎょうぎょうしいまつりおどりをなすゆえに、この神主かんぬしへかけあいにまいったのが悪いか。やい、じゃまだッ、そこをどかぬと、うぬらも血まつりにするぞ」
「きさまたちのいいぶんにおちぬ。秀吉ほどな人物がさような沙汰さたをするはずがない。アアわかった、しゅもなしのうもなしに、かようなことをして、良民りょうみんをくるしめ歩く野武士のぶしだなッ」
「野武士とは無礼ぶれいなことを申すやつ。耳をかッぽじって聞いておけ、いま、てんおか南蛮寺なんばんじを支配する、和田呂宋兵衛わだるそんべえさまの身内人みうちびと斧大九郎おのだいくろうとは拙者せっしゃのことだ」
「やッ、呂宋兵衛? ……」
 と、六部ろくぶ若僧わかそうと目ばやくうなずき合って、
「うむ、呂宋兵衛の手下てしたときけばなおのこと!」
「なおのことどうしたッ」
 いきり立ってけあがってきたやつを、グイと右手でねこづかみにつるしあげた若僧、
間答無用もんどうむよう! こうしてやる」
 すこし力を入れたかと、思うと、ふわりとちゅうへおよがせて冠桜かんむりざくら根瘤ねこぶのあたりへ、エエッ、ずでーんと気味きみよくたたきつけた。
「うぬッ」
 と、また飛びついてきたやつは、待ちかまえていた六部が、気合いをかけた当身あてみのこぶしで、あごをねらってひときに、突きとばす。
 なにかたまろう、ウームというと蝦反えびぞりになって、階段の中途からデンとおちる。それも、冠桜かんむりざくらの根ッこのやつも、神罰覿面しんばつてきめん、血へどいてたおれたままとなってしまった。
「わーッ、わあッ――」
 と、かなたでよろこぶ群集ぐんしゅうの声々、八百万やおよろず神々かみがみ神楽かぐらばやしのように、きょうたもうやと思われるばかりに聞える。
 じぶんたちから、南蛮寺なんばんじにある呂宋兵衛るそんべえの部下と名のったおの大九郎、それを見ると、かッと逆上ぎゃくじょうしたていである。ひっさげていた大刀の下からはらいあげて、ふたりの足を、諸薙もろなぎにせんず勢いで、またかかってきた。
猪口才ちょこざいなやつめ」
 手もとへよせて、怪力かいりき若僧わかそうが、また、虫でもつまむように引っとらえた時である。いつか、六部ろくぶのうしろまで進んできたひんよき公達きんだちが、
忍剣にんけん、そやつを投げころしてはあいならぬぞ」
 あわや――という手をさえぎった。


 思いがけない悪魔あくまがでて、のろわれた今宮祭いまみやまつりおどりのむれも、また思いがけない侠人きょうじんの力で、ひるすぎからは、午前におとらぬ歓楽かんらくちまたにかえってにぎわった。
「いったいあのわかいぼうさまと六部ろくぶはなんであろう?」
天狗てんぐのような力と早わざ、よも、尋常人ただびとではございますまいよ」
「それに、もうひとりうしろにいて、だまってみていた公達きんだちがいたではありませんか」
「そうそう、藺笠いがさをかぶっておりましたが、年は十五、六、スラリとして、観音かんのんさまがお武家ぶけになってきたようなおすがた」
「それそれ、あの人たちは、神か菩薩ぼさつかの化身けしんでしょうよ。まったく、悪いことはできないもので」
 うわさはどこもかしこもであるが、その焦点しょうてんの人々はあれからどこへいったろう?
 紫野むらさきの芝原しばはらには、野天小屋のでんこやがけの見世物みせもの散在さんざいしていた。おおくの人が、たいがいそれへ目をうばわれているのをさいわいに、れいの若僧わかそうが、おの大九郎を小脇こわきにひっかかえ、飛ぶがごとくけぬける――とあとから大股おおまたに、藺笠いがさ公達きんだち六部ろくぶのすがたが、つづいていった。
「ここらでよかろう」
 立ちどまったのは、舟岡山ふなおかやまのすそ。
 高からぬこの山にのぼるとすれば、西に愛宕あたごや、衣笠きぬがさみねかげ、東はとおく、加茂かもの松原ごしに、比叡ひえいをのぞんでいる。さらに北をあおぐと、竹童ちくどう故郷ふるさと鞍馬山くらまやま翠巒すいらんが、よべば答えんばかりに近い。
「若君ここへおかけなさりませ」
 たかだかとそびえた杉林の下――。
 一つの切株きりかぶちりをはらって、六部ろくぶはわきへ片膝かたひざをついた。
「…………」
 目でうなずいて、藺笠いがさの美少年は、それへこしをおろした。この公達きんだちこそ、甲州こうしゅう小太郎山こたろうざんの雪のとりでから、はるばる、父勝頼かつより消息しょうそくを都へたずねにきた武田伊那丸たけだいなまるであった。
 そのわきに、頭を下げたのは木隠龍太郎こがくれりゅうたろうで、加賀見忍剣かがみにんけんは、ひッかかえてきたおの大九郎をそこへほうりだして、
「若君、いざ、おしらべなさいませ」
 と、少しさがったところで、れいの鉄杖てつじょうを、持ちなおしている。
下郎げろう、おもてを見せい」
 伊那丸はいった。これはまた、忍剣の鉄杖より、龍太郎のはやわざより、一しゅべつな気稟きひんというもの、下郎大九郎は、すでに面色めんしょくもなく、ふるえあがって両手をついた。
「ま、まったく持ちまして、さいぜんのことは泥酔でいすいのあまりでござる。どうぞ、ひらにひらに、おゆるしのほどを……」
 これがつい、いましがた、今宮いまみや境内けいだい修羅しゅらにしてあばれまわった男とは、思えぬような、弱音よわねである。
 いうのをおさえつけて、伊那丸は、ハッタとにらんだ。
卑怯ひきょうなやつではある。むだ口を申さずと、ただこのほうがたずねることに答えればよいのじゃ」
「は……はい、いのちさえ、おたすけくださるぶんには、おの大九郎、なんなりとぞんじよりを申しあげます」
「その口をわすれまいぞ」
 きッと、半身はんしんをつきだした伊那丸いなまる針葉樹しんようじゅ木洩こもを、藺笠いがさとしろい面貌おもざしへうつくしくうけて、
「なんじはさいぜん、和田呂宋兵衛わだるそんべえ家来けらいじゃというていばっていたの?」
「あ……あれは」
「いや申した! たしかに聞いた」
「いいましたにそういございませんが、じつは、こ、心にもないでたらめごと」
 いいかけるとあとから、忍剣にんけん鉄杖てつじょうのさきが背なかへあながあくかとばかりドンとついて、
「このうそつきめが。呂宋兵衛の部下なるがゆえに、ことわりなしにまつりをもよおした神主かんぬしをこらしめるとか、かけ合うとか、ほざいていたではないか。若君わかぎみのおしらべにたいして、寸言すんげんたりともあいまいなことを申すと、いちいちこれだぞ」
 も一つ、ドンとわせる。
「ウーム、フフフ、いとうござる、痛うござる」
「痛かったら申しあげろ」
「も、もうしあげます。まったく和田呂宋兵衛わだるそんべえの手のものにそういございません」
「よくいった」
 伊那丸いなまるは、うなずいて、
「して、その呂宋兵衛は、ただいま、どこにをかまえそしてなにをいたしておるな」
秀吉ひでよしさまのお気に入り者となりまして、てんおか寺領じりょうと、南蛮寺なんばんじ拝領はいりょういたし、裾野すそのいらいの一丹羽昌仙にわしょうせん蚕婆かいこばばあ燕作えんさくなど、みなそこに住居すまいをいたしております」
「オオ、さだめしそれらのものは、一味同類いちみどうるいとなって、武田勝頼たけだかつより行方ゆくえをたずねておるであろうな」
「えッ、どうしてごぞんじでござりますか」
「知らないでか!」
 と伊那丸のかけたかまを、たくみに引きうけた龍太郎りゅうたろう。わざと少しわらいすまして、
「これにおいで遊ばすは、徳川家とくがわけのさる御公達ごきんだち。まったそれがしやこの若僧わかそうは、みな、浜松城はままつじょう隠密組おんみつぐみだ」
「あッ、さては貴殿きでんたちも、菊池半助きくちはんすけどのたちと一しょに、あの僧形そうぎょうを京都へつけてこられたおかたで?」
「さよう――」
 と龍太郎は、おかしく思いながら、まじめにおうじて、
「ところで、その僧形そうぎょうであるが、なんと変った消息しょうそくはないか。すなおに話してくれれば、てきでも味方みかたでもないおぬしとわれわれ、そこらで仲なおりの酒でももうし、また、ここにおわす徳川家とくがわけ御公達ごきんだちに、出世しゅっせの口を取りもってやらぬものでもないが……」
「へへッ」
 というと大九郎、よくにつりこまれて、草芝くさしばの上へあらたまり、おとといの真夜中まよなか呂宋兵衛るそんべえ手策てだてをつくして従僧じゅうそうふたりをあやめ、ひとりの主僧しゅそうをいけどってきて、てんおか古会堂ふるかいどうへ打ちこんであるということまでベラベラしゃべってしまった。
 すぐお追従ついしょうをいう軽薄けいはくなかれのしたは、それでもまだいいたらずに、つけ加えて、また話すことには、
「ところで、その勝頼公かつよりこう。たしかにけどってきた僧形の貴人きじんにそういないとはにらんでおりますが、なんせい、野武士のぶし浪人ろうにんどもばかりの天ヶ丘、真実しんじつの勝頼公の面態めんていを見知るものがないのでござった」
「して、そのなぞそうは、いまもって、南蛮寺なんばんじの古会堂に押しこめてあるのか――」
 と、龍太郎も忍剣にんけんいきをころして聞いている。
「されば、ただいまも申したとおり、まだまことの勝頼公なるや、いなや一てんのうたがいがござりますゆえ、いッそのこと、桑名くわなにご在陣ざいじん秀吉公ひでよしこうのところへ、かれをしたて送ろうという、昨夜の評定ひょうじょうで」
「なんと申す! 滝川攻たきがわぜめのため、近ごろ桑名にいると聞く秀吉の陣へそれを送りこむという手はずになっているのか。してそれは何日、時刻じこく何時なんどきじゃ」
明日あすの朝まだきに、東山ひがしやまからがのぼるを出立しゅったつの時刻として、てんおかから桑名城くわなじょうへ。そのために、きょう一日は、われわれもほねやすみのひまをもらい、かようなところをブラついておりましたわけ、さきほどの無礼ぶれいだんはひらにお目こぼしねがいまする」
 一伍一什いちぶしじゅうのはなし。
 聞くからに伊那丸いなまるは、われをわすれて、りょうのこぶしをひざの上ににぎりしめつつ、
「ウーム! さてはお父上には、早くも毒手どくしゅちたもうて、桑名へさしたてられるご武運ぶうんすえとはおなり遊ばしたか、……ああ、おそかった……」
 と、まなじりに血をにじませ、藺笠いがさのうちに鬢髪びんぱつをブルブルとふるわせた。
 父上、という一をきいて、おの大九郎、ハッとあっけにとられながら、じりじりとしりごみする。
 伊那丸がハラハラと落涙らくるいするようすを見て、
若君わかぎみ、かならずお力おとしはご無用でござります」
 と、忍剣にんけん龍太郎りゅうたろうのふたりが、口を合わせてなだめるのだった。
「すでにおいのちのないものなら、まことにご武運のすえ、また人力じんりょくのおよぶところではござりませぬが、ただいま、大九郎の話によれば、まだご尊体そんたいにはなんのご異状いじょうなく、明朝、天ヶ丘から桑名のじんへうつされてまいるとのこと、折こそよし、これ天の与えたもう好機会こうきかいではござりませぬか」
「おお! かならずお父上を、お救い申しあげねばならぬ」
 立ちあがった時である。
「ややッ! さては武田たけだの?」
 ぎょうてんした大九郎、ねあがって逃げだすと、伊那丸いなまるの一かつ
「龍太郎、そやつをて!」
「はッ」
 と答えるまでもなく、立ちあがった木隠こがくれが、やらじと猿臂えんぴをのばしたので、きもをとばしたおの大九郎、にげみちをうしなって無我夢中むがむちゅうに松のこずえへ飛びついた。
「ええ――ッ」
 つんざいた木隠の気殺きさつ
 とたんに、きはなたれた無反むぞりの戒刀かいとう、横にないでただ一せんの光が、松の枝にブラさがった大九郎のどうを通りぬけてしまった。
 バサリと血のなかにおちたのは、どうから下、上半身じょうはんしんは枝をつかんだまま、虚空こくうにみにくくとまっていた。
 そのとき、あなた――今宮いまみや舞楽殿ぶがくでんでは、ふえ太鼓たいこ、そしてすずがゆるぎだした。やすらいおどりのどよめきにあわせて、神楽囃子かぐらばやしがはじまったのであろう。――悪魔あくまたいじの御神楽歌みかぐらうた

明暗めいあん両童子りょうどうじ




ピイヒャラ ドンすけ ひゃらりこドン!
わしをとられて オッぺけぺ!
竹童ちくどうドン助 ひゃらりこ ドン!

 これは、あちらの神楽歌かぐらうたではない。
 暮れなんとする杉林から芝生しばふのへんを、しきりに浮かれまわっている少年の放歌ほうかである。
 はるかに聞える神楽かぐらにあわせて、

ピイヒャラ ドンすけ ひゃらりこドン!

 すっかりゆかいになっている。
 右手に一本もっているのは、くしへさしたおいも田楽でんがく、左につかんでいるのは黒いあめぼう、ひゃらりこドンとおどりながら、いもをたべてはあめをなめ、あめをなめてはいもをくい、かわりばんこにしたを楽しませて、

竹童ちくどうドンすけ ひゃらりこドン!

 いよいよ無上の大歓楽だいかんらく、歌もおどりもやむことを知らず、が暮れようとするのも知らず、いましも林をぬけてきた。
 このお天気な少年は、いうまでもなく蛾次郎がじろうである。
 きのうから遊びつづけて、きょうは、今宮祭いまみやまつり見物けんぶつとしゃれているのか。
 むねや口のまわりには、田楽でんがく味噌みそだの、黄粉きなこだの、あまくさい蜜糖みつねばりだのがこびりついていて、いかに、かれの胃袋いぶくろが、きょう一日をまんぞくにおくっていたかを物語っている。
 のみならず蛾次郎は、目のかたきにしている竹童にたいして、いま、大なる優越感ゆうえつかんをもっている。
「竹童のやつめ、さぞいまごろは、クロをられて、メソメソしているだろうな。まっ黒な富士の裾野すそので、まぬけなつらをしているだろうな。
 このおれさまはどうだ! 日本中クロを乗りまわしてきて、いまは、天子てんしさまと同じみやこの土をふんでいるんだ。九重ここのえの都をよ!
 どうだい、蛾次郎がじろうさまの光栄こうえいは!
 べたいものをウンと食べたぜ。見たいものもウンと見たぜ。だからおいらはおどるのさ、踊らずにはいられないや。ワーーイだ、ワーーイ! ワイ竹童、ざまをみやがれ!」
 こんな気分が、かれ蛾次郎の歌となり、舞躍ぶやくとなるのであった。
 ところで、有頂天うちょうてんの蛾次郎が、いま、なんの気なしに林の中をおどってくると、なんだか、ぬらりとしたものがはなの頭をなでたのである。
「おやッ?」
 と思ってさわってみた。
 どうも人間らしいのである。しかし、今晩こんばんは、とはいわなかった。
「おかしいなア、この人は……」
 と、上から下へ、ソーとなでてみると、へんだ! へんだ! へんな人間! こしから下がなにもない。
「わッ、ものッ」
 蛾次郎はいもくしをほうりだして、げるわ逃げるわ、むちゅうでにげた――一心不乱いっしんふらんに、あかるいほうへかけだした。
 夜になっても、今宮いまみや境内けいだいはにぎやかであった。そこで蛾次郎は、はじめてホッと人心地ひとごこちにかえった。けるにしたがって、おどりのもちり、参詣さんけいの人もたえ、いつか、あなたこなたの燈籠とうろうさえ、一つ一つ消えかかってくる。


「こんやの宿屋やどやはどこにしようか」
 額堂がくどうは吹きさらしだし、拝殿はいでん廊下ろうかへねては神主かんぬしおこるだろうし、と、しきりに寝床ねどこ物色ぶっしょくしてきた蛾次郎がじろう
「ウム、ここがいい。かみさまのあしもとなら、ものもでないだろう」
 と、四つンばいになって、のこのこはいこんだのは、八神殿しんでん床下ゆかした藁蓙わらござを一枚かかえこんで、だんだんおくのほうへいざってきた。
 むろん、えんの下はまっ暗で、鼻をつままれてもわからないくらいだが、蛾次郎がはいすすんでいったすこしさきに、なにやら、ゴソ……という音がした。
「ははあ、お仲間なかまがいるな」
 そう思って、地べたへあごをつけながら、じッとやみをみつめていると、しだいにひとみがなれてきて、おぼろげながら、人かげがみとめられた。
 姿すがたかたちは、だれともわからぬけれど、やはり蛾次郎と同じように、土台柱どだいばしらのしたへ一枚のむしろをしき、そこへじッと身をかがめたまま、しきりに、うつわの水へぬのをひたして、目をあらっているらしい。
 しばらくするとそのかげは、小布こぎれで目をおさえたまま、蛾次郎のいるのは知らぬようすで、
「ああ、こまったなア……」
 ひとり惆然ちゅうぜんとして、つぶやくのである。
「もう春にもなったし、目さえ見えれば、山のおくへでも海の果てまでも、たずねてさがしだすのだけれども……急にこの目が見えなくなってしまった、蚕婆かいこばばあはりにふかれて! あの吹きばりに目をいられて――おいらはとうとうめくらになってしまったんだ……」
 見えぬのは目ばかりでなく、心もうれいの雲にとじられているのであろう。なんともいえぬ、悲哀ひあいのこもったつぶやきである。
「神さまッ……」
 ガバとして、その影が合掌がっしょうした。
「八神殿しんでん神々かみがみさま! このおやしろにまつられてある神々さま。おいらはそれがなんという名の神さまだか知りませんが、どうぞこの目をなおしてください。神さまのお力で、はりにふかれたこの目のいたみをとってください……」
 こっちにいた蛾次郎がじろうは、オヤオヤ、というこしつきで、じッと聞き耳をたてている。
「なんだいあいつは? 気ちがいじゃねえのかな、みょうに、ふるえた声をだしやがって……アレ見や、むちゅうになって手を合わせている、ア、泣いていやがら……ばかだなあ、泣くなよ兄弟」
 と、うっかり声をすべらしかけたが、待て、もうすこし、見ていてやろうといきをころした。
 めくらのすがたは一心不乱ふらんに、たなごころをあわせ、八神殿しんでん神々かみがみねんじていた。
 信仰しんこうねっしてくると、おのずから手がふるえ、声もわれ知らず高くなって、
「この目のいたみをおなおしくださいませ! 八神殿の八つの神さま、おいらにはどうしても、さがしたいものがあるのです。クロというわしをたずねだしたいのです。そして、伊那丸いなまるさまのおんために、もっともっと、大きな手柄てがらを立てなければなりません。こんなところにもぐっていると、お師匠ししょうさまにしかられます。盲のすがたを見られたら、一の人たちにも恥ずかしゅうございます。なおしてください。八神殿の神々さま、その大望たいもうをとげましたら、わたしのこしにさしている般若丸はんにゃまるを、きッと奉納ほうのういたします」
 血汐ちしおかんばかりである。
 一念の声、一念のいのり! いのらなくても、人のまことは天地をうごかすという……。だが、床下ゆかしたのやみは、しいんとしていた。


 おどろいたのは蛾次郎がじろうだった。
 ふくろのように目をまるくして、ソーッと、また一、二けんちかづいて、よくよくそのかげを見さだめていると、あんにたがわず、それは鞍馬くらま竹童ちくどうである。
 いつぞや、加茂かもつつみ蚕婆かいこばばあばりにふかれてその目をつぶされ、いまは黒白あやめもわかたぬ不自由な身となった。
 町をあるけば人につまずき、森をあるけば木のにたおされるしまつ。クロの行方ゆくえを知るよしもないので、瀬戸物せともののかけらに御洗水みたらし清水しみずをすくってきて、この床下ゆかしたへ身をひそめ、ただ一ねんにいのり、一念に目を洗っているのだった。
「ふウん……やっぱり、竹童ちくどうにちがいない」
 蛾次郎がじろうは犬つくばいにようすをながめて、
「へんなところで、でッくわしたな。目がわるいようすだから、一つ、からかッてやろうかしら」
 手にさわった土塊つちくれをつかんで、竹童のかげへ、バラッと投げつけた。
「だれだッ」
 さなきだに、めくらになってからは、神経しんけいのとがり立っている鞍馬くらまの竹童、こういって、からだをねじむけてきたのである。
 蛾次郎は、おもわずズルズルとあとへさがった。
 だが、目がわるい、ここまではきやしまいと、たかをくくってまた、
「どうだい大将たいしょう――」
 と、あざわらった。
「なんだと」
「おもらいがたくさんあるかい。え、おこもさん」
「…………」
「はははは、さすがはえらいもんだ、果心居士かしんこじのお弟子でしさんはな。鞍馬くらまの竹童はえらいよ偉いよ、とうとう花のみやこへでて、天下のお乞食こじきになったんだからな」
「だれだ、だれだッ、おいらの名を知っているのは?」
「おめえ、めくらのくせにかんがわるいな。アアにわか盲だから、声まで見えなくなったのか。じゃアいって聞かしてやろう。びっくりして気絶きぜつするなよ。こう申す者こそはすなわち、おめえのクロを頂戴ちょうだいして、天下に名をあげている蛾次郎がじろうさまだア」
「なにッ! 蛾次郎だとッ」
 さけぶやいな、鞍馬の竹童、般若丸はんにゃまるの名刀をピュッと抜きはなって、声のするほうを、さッとりはらった。
 まさか鞍馬の竹童が、こんな名刀を持っていようとは夢にも知らなかった蛾次郎、アッといって床下ゆかしたからころげだし、すぐむこうにあった小屋こやのなかへ、四つンばいにかくれこんだ。
 が、そこはれいの神馬小屋しんめごやであったので、注連飾しめかざりをつけた白馬しろうまが、ふいの闖入者ちんにゅうしゃにおどろいて、ヒーンと一こえいなないたかと思うと、飛びこんできた蛾次郎の脾腹ひばらひづめでパッと蹴りかえした。
「ウーム……」
 と、ったおれた泣き虫の蛾次郎は、脾腹をおさえてフンぞったとたんに、昼間のうち胃袋いぶくろを楽しませたご馳走ちそうをのこらず口からきだして、うまやのまえにへたばってしまった。
 馬は、見むきもせず、われかんせずえんと、かッたるそうに目の皮をふさいでいる。
 ――けてくると、まつりの夜もせきとしてものさびしい。
 一じん山嵐さんらんが、鞍馬山くらまやまの肩あたりから、サーッと冷気れいきをふり落としてきたかと思うと、八神殿しんでん冠桜かんむりざくらの下あたりに――竹童ちくどうのお師匠ししょうさま果心居士かしんこじのすがたが、めずらしくもほのかに見えたのである。そして、もくもくとして裏宮うらみやのほうへつえをひいていった。

果心居士かしんこじ愛弟子まなでし




 右手めてに、名刀般若丸はんにゃまるを、ひだりの手では、地や蜘蛛くもをなでまわしながら、ソロリと、八神殿の床下ゆかしたをはいだしてきた者がある。
 それはさっき、泣き虫の蛾次郎がじろうに、さんざんな悪口わるくち揶揄やゆをなげられていためくらの少年――鞍馬の竹童。
 あたりをさぐって、そとにでれば、夜は四こうやみながら、空には、女菩薩にょぼさつたちの御瞳みひとみにもる、うるわしい春の星が、またたいている。
 鳥ののようなかれの頭、土にまみれたかたひじ、そして、血のにじんだかれの素足すあし――。それらのあわれな物のかげをつづった竹童のすがたは、星影ほしかげの下にあおくくまどられて見えたが、かれの目には、ただ一粒ひとつぶの春の星さえ、うつらぬのである。
 見えぬがために、見ようとする、心の異常いじょうなはたらきが、心眼しんがんともいうべき感覚かんかくを全身にするどくいで、右手めてにつかんだ般若丸はんにゃまるを、おのれの背なかにかくしながら、
蛾次郎がじろう……蛾次郎はどこへいった!」
 八神殿しんでん石段いしだんにそって、裏宮うらみやの方へしのびやかに歩いてくる。おお、そのかげのいたましくもおそろしい。
 かれは、心のうちでこうさけぶのだ。
 返せクロを! 返せクロを!
 おいらの手から横奪よこどりした、あのわしをかえせ、おいらの手にタッタいまかえせ!
 竹童の目は見えないはずでありながら、その一ねんに、あたかも、なにものかを、的確てっかくに見ているように、いうのであった。歩きだすのであった。
 でてこい蛾次郎! 泣き虫のこしぬけ。
 でてこい蛾次郎、どこへいった!
 よくもよくもクロをうばったな。また、よくもさっきは、この竹童をめくらとあなどって、土塊つちくれをぶつけたり、お師匠ししょうさまの悪口わるくちをたたいたり、そして、鞍馬くらまの竹童のことを、天下のお乞食こじきさまとののしり恥ずかしめたな。
 おまえはさっきたいそうなじまんをいった。いかにも得意とくいらしいことをいった。だが泣き虫蛾次郎がじろうよ、ひとの愛しているわしをうばって乗りまわしたり、ひとのダシに使われてもらったお金で買いぐいをしたり、またえきもなく都の町をかれあるいたりして、それがなんの自慢じまんになる! それがなんで男のほこりだ!
 あの秀麗しゅうれいなる神州美しんしゅうび象徴しょうちょう富士ふじ裾野すそのに生まれながら、どうしておまえはそんなきたない下司根性げすこんじょうをもっているんだろう。なさけないやつ、意気地いくじのないやつ、なまけもの、こしぬけ腑抜ふぬけ、お天気な少年!
 それはみんな、蛾次郎よ! おまえの名だ。
 おいらは鞍馬くらまの山育ちだ。
 だが、蛾次郎よ。
 おいらはおまえのような下卑げびたやつとは心のみがきかたがちがっている。また、おいらがこんな乞食のような姿すがたになっていたり、めくらになってしまったのも、みんな自分のよくではない。甲斐源氏かいげんじ御曹子おんぞうし武田伊那丸たけだいなまるさまへ忠義ちゅうぎをつくすため、また、お師匠ししょうのおいいつけをまもらんがためしていることだぞ。
 おいらはじない。
 乞食になっても、盲になっても、この竹童ちくどうの心は八神殿しんでん神々かみがみさまや、弓矢八幡ゆみやはちまんがご照覧しょうらんある。
 ののしるものなら罵ってみろ。わしを返さぬというならば、男らしくどうどうと竹童ちくどうの前へたっていいきってみろ! オオこの般若丸はんにゃまるの名刀でおのれただ一刀にりすててくれるから……
 いきどおろしい、竹童の心はのごとくたぎりたって、こうさけびながら方角ほうがくもさだめず、裏宮うらみやのおどうめぐり、いましも、斎院さいいんの前まであるいてきた。
 ――すると、かれより六、七まえを、だれやら、しずかに、ピタピタと足をはこんでいく者がある。
 夜はすでにけしずんで、さまよう者とてあるはずのないこの境内けいだい、さては蛾次郎がじろうめが、またわれをめくらとあなどってからかうつもりだな!
 竹童はかッとなって、こう思った。
 しかし、かなしいかな目がみえぬ。すぐそこをピタピタといく跫音あしおとを聞くのであるが、ただ一討ひとうちにとびかかってはいかれない。
「おのれ目がみえぬとて、たかのしれた蛾次郎ぐらい、斬っててられないでどうするものか」
 竹童は、とっさに、地べたへ身をかがませた。
 そして、般若丸の太刀たちを背中にかくし、左の手とひざではい歩くように、まえなるものの跫音をスルスルとつけてゆく……
 一――二
 さきの者の草履ぞうりのかかとが、かれの顔へ土をはねかえしてくる近さまでりついたので、いまこそとむねおどらした鞍馬くらまの竹童。
 猛然もうぜんと、たつが早いか、ふりかぶった般若丸はんにゃまるに風をきらせて、
おぼえたかッ」
 とばかり、てつも切るような一刀、一念のめくらとなってから、それは一そうすさまじいするどさをもって、まえなる人のあり場をねらって、りおろした。


 けんは、くうをきって、七、八しゃくはしった。
 あたかもやみなる彗星ほうきぼしが、地界ちかいへ吸われていったように。
 燦然さんぜんたるほたるいろの太刀たち! かかとをあげて、ダッ――とりすべっていった竹童の手にそれが持たれている。
「ウウム、無念むねん!」
 とさけんだ悲痛ひつうな声。
 竹童のくちから、血のようにもれて、かれはあやうくンのめりそうになった足取りをみしめた。
 そして、さらに、まえよりはすごい血相けっそうで、般若丸のッ先を向けなおし、剣を目とし、見えぬ目に、ジリジリと闇をさぐってくる。
 はりがふれてもピリッと感じるであろう柄手つかで神経しんけいに、なにか、ソロリとさわったものがあったので竹童は、まさしく相手の得物えものと直覚し、
「エ――エイッ」
 身をおどらしてりかかった。
 飛躍ひやくは、竹童の得意とくいである。
 かつて、かれがまだ鞍馬くらま山奥やまおくにいたころは、朝ごとまきをとりに僧正谷そうじょうがたにをでて、森林のこずえをながめては、丈余じょうよの大木へとびかかって、れたる枝をはらい落とした――その練習れんしゅうによるのである。
 だが、いままではけんをもつと剣をつかおうとする気に支配しはいされ、ぼうをもつと棒をつかう心にくらまされて、この呼吸こきゅうというものが、いつかまったく忘れていた。
 いま、かれは無我無心むがむしんに、相手の脳天のうてんをねらってとんだ。
 ――それは剣法けんぽうでいう梢斬こずえぎりともいうべきあざやかなものである。たれかよく、宙天ちゅうてんから斬りさげてくるこの殺剣さっけんをのがれ得よう。
 ところが――相手はもなくかわした。
 風のごとく身をひるがえし、さらに持ったるなんらかの得物で、パーンと竹童の般若丸はんにゃまるをはらいつけたのである。
 と、竹童、思わず両手のしびれにつかをゆるめたので、般若丸は彼の手をはなれて地上におちた。無手無眼むてむがんとなった竹童は、もう打ってかかるものは、五体そのものよりほかはない。
「おのれッ!」
 というと、はやぶさのように、相手のむなもとへとびかかって、ムズとえりをつかんだのである。
 だが、そのとたんに竹童ちくどうは、
「あッ――人ちがい!」
 といったまま、のけるばかりなおどろきにうたれた。いまが今まで、蛾次郎がじろうとばかり思ってりつけていたとうの人は、枯巌枯骨こがんここつそのもののような老人であったのだ。
「オオ、ちがった、人ちがいであった。――どなたかぞんじませぬが飛んでもない無礼ぶれいをしました。どうぞかんにんしてくださいまし」
 こういうとその老人、れ木のような手をのばして、竹童のかたをやさしくかかえこんだ。
「竹童よ」
「えッ……」
 見えぬ目をしばたたきつつ、かれは、じぶんの名をあきらかにんだ者を、だれかしらとあやしむように、両手でその人の衣服いふくをなでまわした。
「あやまることはない、あやまることはない。ほかの者ならあぶなかったが、わしであったからまアよかった……」
「オオ!」
 竹童ちくどうは、こごえていた嬰児あかごが、母のあたたかな乳房ちぶさへすがりついた時のように、ひしと、ひしと、その人のむねにかじりついて、
「あなたは鞍馬くらまのお師匠ししょうさま! オオ、お師匠さまではございませんか」
 と、声もからだもふるわせた。
「わかったか竹童、いかにもわしは果心居士かしんこじじゃ。ずいぶん久しく見えなかったのう」
「では、やっぱりお師匠さまでございましたか、ああ、おすがたを見たいにも、竹童めは、なんのばちでか、このようなめくらとなってしまいました」
「竹童、目がつぶれたことを、おまえはそんなに不自由とおもうか」
「はい、伊那丸いなまるさまのおんために働くことはおろか、だいじなわしをとり返すことさえできませぬ」
「そして、それをかなしいと思うか」
「お師匠さま。これがなんで悲しまずにおられましょう」
「まだまだおまえは修行しゅぎょうが足りない。なぜめしいとなったなら、心眼しんがんをひらくくふうをせぬ。ものは目ばかりでみるものではない。心の目をひらけば宇宙うちゅうの果てまで見えてくるよ。……しかし、おまえはまだとしも歳じゃ、このりくつは、ちっとむずかしかろう」
「はい、わたしにはよくわかりませぬ」
「よしよし、おまえの目は、もともと生まれつきの眼病がんびょうではない。吹針の蚕婆かいこばばあ、あれの毒針どくばりに目をふかれたためじゃ。わしが一つなおしてやろう」
「えッ、お、お師匠ししょうさまッ。ではこの目を見えるようにしてくださいますか」
「ウム! 竹童ちくどう。まずその太刀たちさやにおさめて、わしの腕にしっかりとつかまっているがよい」
 いわれるまま竹童は、地べたをさぐって般若丸はんにゃまるをひろい、果心居士かしんこじ右腕みぎうでにからみつくと、居士はわらでも持つようにフワリと竹童のからだを小脇こわきにかかえ、やがて、八神殿しんでん裏宮うらみやから境内けいだいをぬけ、森々しんしんたる木立こだちのおくへ、疾風しっぷうのようにけこんでいった。
 竹童はおよぐように引っかかえられていた。
 さっさつと――風があたる。
 バラバラと雨のごとき夜露がぶつかる。
 居士は愛弟子まなでし竹童をかかえて、いったいどこへつれていく気か? やがて森林をぬけて、紫野むらさきののはて、舟岡山ふなおかやまの道を一さんにのぼりだした。
 ゴウ――ッという水のおと。
 それはほどなく近づいた雷神らいじんたきのひびきである。暗々あんあんたるこずえから梢を、バラバラッと飛びかうものは、夜のゆめをやぶられたむささびか怪鳥けちょうであろう。
 鞍馬くらま道士どうし果心居士、竹童をひっかかえて岩頭がんとうにたち、※(「革+堂」、第3水準1-93-80)とうとうたる雷神らいじんの滝を眼下がんかにみた。
「竹童!」
 居士こじの、こう呼ぶ声をきいたが、かれは小脇こわきに引っかかえられていて、こたえる声さえでなかったのである。
 と――居士は両手をさしばして、あわやという竹童ちくどうのからだを、目よりも高くさし上げた。
 そして、もいちど呼んだのである。
「竹童!」
「はい……」
 かれは、虚空こくうにおよぎながら、かすかに、しかし、はっきりと答えた。
「おまえはその目がひらきたいか」
「ハイ、開きとうございます」
「なんのために」
「…………」
「なんのために?」
「りっぱな人間となりますために」
「ウム」
「そして正義せいぎ武士ぶしとなりますために」
「ウム。ではそのためには、どんな艱難辛苦かんなんしんくもいとうまいな」
「いといませぬ。たとえこの身がどうなりますとも」
 敢然かんぜんたる声でいった。
「オオ、それでこそ、師たるわしもはりあいがある。雷神らいじんたき宙天ちゅうてんちかいをたてたことばを終身しゅうしんまもりとするなら、おまえはおそらく天下の何人なんぴとにも、おくれをとらぬ武士ぶしとなるであろう。オオ、苦しめ苦しめ! 苦しまぬ者はみがかれぬ。八神殿しんでん八柱やはしらの神々、あわれ竹童を、このうえとも苦しめたまえッ」
 いのるがごとく、えるがごとく、雷神の滝の岩頭がんとうに、果心居士かしんこじの声がこうひびいた時である。
「あッ――」
 と、いうと鞍馬くらまの竹童。
 ドウッ――と鳴る滝津瀬たきつせの音を、さかしまに聞いて、居士の手からやみのそこへまッさかさまに投げこまれた。

白鳥はくちょう予言よげん




 れ木をあつめていたえのこりの火が、パチパチとわずかな火の粉をちらし、一すじのうすじろいけむりは、森のこずえをぬけて、まっすぐに立ちのぼっていた。
 その火のまわりを取りまいて、夜の明けるのを待ちさびしげに語りあっている三人の武士ぶし
 あかき光を正面しょうめんにうけて、薪束まきたばのうえにこしをかけているかげこそ、まさしく伊那丸いなまるであり、その両側りょうがわにそっているのは、木隠龍太郎こがくれりゅうたろう加賀見忍剣かがみにんけん、いつも、すきなき身がまえである。
若君わかぎみ。待つというものは久しいもの、まだなかなか夜が明けそうもござりませぬな」
「そちたちは、火にぬくもったところで、少しここでやすんではどうじゃ」
「いや、なかなかられるどころではございませぬ」
 こういったのは忍剣である。
「夜明けと同時に、てんおかをくだる呂宋兵衛るそんべえれつを待ちうけ、勝頼公かつよりこうのお乗物のりものを、首尾しゅびよくとるかいなかのさかい。――それを思うても眠られぬし、また、日陰ひかげてきのいましめをうけておわす、大殿おおとののご心中しんちゅうを思うても、なかなか安閑あんかんとねている場合ではございませぬ」
「おっしゃる通りじゃ」
 木隠もうなずいて、
「たくみに大殿をワナにおとしれ、桑名くわなにいる秀吉ひでよし陣屋じんやまで、送りとどけんとする呂宋兵衛、さだめし明日あすはぎょうさんな人数にんずをもってくりだすことでしょう。ここぞ、若君にとって、武運のわかれめ、忍剣どのもおぬかりあるなよ」
「いうまでもない。たとえなにほどの敵だろうとも、降魔ごうま禅杖ぜんじょうは、にぶりはしませぬ」
「いつもながらふたりの者のたのもしさ、わしはよい味方を持ってしあわせに思う」
 と、伊那丸いなまるは心から、よろこばしげに、
「その意気いきをもってするからには、たとえ敵陣てきじんのかこみのうちに、無念むねんおにとなろうとも、わしは心残こころのこりではない」
「心よわいことをおおせ遊ばすな。呂宋兵衛るそんべえこそ、多少蛮流ばんりゅう幻術げんじゅつ心得こころえておりますが、他の有象無象うぞうむぞうは、みなたかの知れた野武士のぶし浮浪人ふろうにんりあつまり、きっとけちらしてごらんに入れましょうから、お心やすくおぼしめせ」
「そうとも、死をいとうのではないが、こんど、木隠こがくれとこの忍剣にんけんがおともをしてきて、首尾しゅびよう大殿おおとののご安否あんぴをつきとめねば、小太郎山こたろうざんにのこっている、小幡民部こばたみんぶ咲耶子さくやこ小文治こぶんじなどにも笑われ草……」
 と、つとめて、伊那丸の勇気ゆうき鼓舞こぶするため、ふたりが快活かいかつに話していると、あなたの林をへだてたやみにあたって、ドボーン! とすさまじい水音がたった。
「や、あれは……?」
雷神らいじんたきのあたり、まさしくその滝壺たきつぼになにかあやしいもの音がいたしたようす」
「それ、あらためてみよう」
 というと、木隠龍太郎こがくれりゅうたろうは、手ばやく、用意ようい松明たいまつ焚火たきびっこんでえうつし、それをふりかざしてまっさきに走りだした。
 木々のあいだをっていく、松明たいまつのあかい光について伊那丸いなまる忍剣にんけん滝壺たきつぼのほとりへ向かってをはやめる。
 たちまち見る、眼前がんぜん銀河ぎんが、ドウッ――と噴霧ふんむを白くたてて、宙天ちゅうてんやみから滝壺へそそいでいる。
「龍太郎、龍太郎!」
 伊那丸は雑木ぞうきをわけて、まっ暗なふちをのぞきながら指さした。
「そこへ松明をふってみい」
「はッ」
「あぶない! 岩苔いわごけにすべるなよ」
「おあんじなさいますな」
 と龍太郎、松明を左手にもって、ヒラリ、ヒラリ、と岩から岩へとびうつっていった。


 うるしうずまくを見るようなものすごい闇の滝壺である。そこに、百千の水龍すいりゅうが、あわをかみきりをのぞんでおどっている。
「おお、人がおぼれているぞ」
 さけんだのは、加賀見忍剣かがみにんけん
「なに、人がおぼれていると?」
「やッ――また沈んでいった、木隠こがくれ木隠、早くこっちへ松明たいまつをかざしてみてくれ」
「待て、ただいままいるから」
 と龍太郎りゅうたろうは、また二つ三つの岩をとんで、忍剣のそばへ寄っていった。
 ほのおを高くささげながら、じッと、あわだつ水面をかしてみていると、やがて真白まっしろあわがブクブクときあがって、そのなかから、よもぎのような、人間の黒髪がういてみえた。
「しめた!」
 と忍剣は、岩につかまって鉄杖てつじょうのさきをのばした。おぼれている者は、まだ多少の意識いしきがあるとみえて、目のまえにだされた鉄杖へシッカリと、両手をかけた。
「オオ、はなすなよ――」
 と声をかけながら、ズーと岩の根へひき寄せると、滝壺たきつぼのなかのものはプーッと水を吹きながら、けんめいにはいがろうともがくのである。
拙者せっしゃの手にすがるがよい」
 龍太郎が片手をだした。
 こおりのようにこごえた手が、ビッショリとしずくをたらしてそこへすがってきた。――と同時に、滝壺のなかからはいあがってきた少年をみたふたりは、おもわず声をあげて、
「やッ、そちは竹童ちくどうではないか!」
 見まもると、上にいた伊那丸いなまるも、
「なに、竹童じゃ……」
 とうたがうようにさけんだ。そして、森のなかへすくいあげてから、たしかに鞍馬くらまの竹童だとわかると、伊那丸をはじめ、あまりの意外いがいさにぼうぜんとしたほどだった。場所もあろうに、深夜しんや滝壺たきつぼから、法師野ほうしのいらい、久しく姿すがたを見うしなっていた竹童をすくいだそうとは、なんたる奇蹟きせき! あまりのことにあきれるばかりであった。
 しかし、その人々のおどろきよりは、竹童のおどろきのほうが、どんなに強いものだったか知れない。
 かれは、忍剣にんけんに、森のなかへかかえこまれてきた時にありありとそこにえている赤い火をみた。
 その火に照らされている、伊那丸のすがた、龍太郎の顔、忍剣の禅杖ぜんじょうも、あきらかに、かれのひとみに見えたではないか。
 かれの目がえた。竹童の目があいた。
 ※(「革+堂」、第3水準1-93-80)とうとうたるたきの水にうたれてどくが洗われたためか――あるいは、竹童の精神を修養しゅうようさせる果心居士かしんこじの心で、居士が、神力をもって癒やしたものか、とにかく、竹童はおのれの目の見えるのをうたがい、と同時に、えてひさしき人々を、ここに見たのを夢のように、ふしぎがった。
 竹童ちくどうの話をさきに聞いてから、龍太郎りゅうたろう忍剣にんけんは、かわるがわるに、こんどの、都入みやこいりの大事をはなして聞かせた。
 竹童は四方よもの話をしているあいだに、ぬれた衣服いふく焚火たきびにほして身にまとった。その火のぬくみに全身ぜんしんの血が活々いきいきとよみがえってくるのをおぼえて、かれは、この新しい力を、どこへそそごうかといさみたった。
 話をきけば、夜明けとともに、若君わかぎみ伊那丸いなまるは、ふたりを力に、てんおかからりてくる和田呂宋兵衛わだるそんべえの一ぞくをむかえ、桑名くわなに送られる父勝頼君かつよりぎみをうばいとらねばならぬとのことである。
 いい機会きかいにめぐりあった竹童は、その壮挙そうきょに加わりたいとねがって、すぐ伊那丸のゆるしを得た。
「では、龍太郎さま、忍剣さま」
 かれは、気早きばやに立ちあがって、
「まだ夜は明けておりませぬが、わたしは一足ひとあしさきに、天ヶ丘へのぼって、呂宋兵衛のようすをさぐり、やがてほどよいところから、みなさまに合図あいずをいたすことにいたしまする」
「ウム、いつも間諜かんちょうやくは竹童の得意とくい、おまかしなされてはどうでござりましょう」
 忍剣が伊那丸の顔をあおぐと、伊那丸も小気味こきみよいやつとうなずいて、竹童のすがたを見ながらこういった。
「では、われわれ三人は、てんおかから十四、五ちょう手まえ寒松院かんしょういん並木なみきにかくれて待つであろう。そちは身なりの目立たぬのをさいわい、出立しゅったつのようす、人数にんず道順みちじゅん、落ちなくさぐって知らせてくれい」
「はい。かならずくまなく見とどけてまいります。ではまだ雷神らいじんたきの上に、お師匠ししょうさまがおいでになるかも知れませぬゆえ、ひとことお礼を申しあげて、すぐその足で天ヶ丘へむかいまする」
「なんという。では、果心居士かしんこじ先生が、この近くにおいであるのか。オオ、ちょうどよいおり、ぜひお目にかかっておこう」
 と伊那丸いなまるはにわかに立ちあがった。
 龍太郎や忍剣も、居士のすがたをはいさぬこと久しいので、先の松明たいまつをふりかざし、竹童をあんないにして、雷神の滝の断崖だんがいをよじのぼっていくと、やがて竹童。
「みなさま、ごらんなさいませ。あのいちばん高い岩の上に、お師匠さまが立っておられます。そしてこちらの松明たいまつが、近づいていくのを待っておいでなされます」
 指さすかたをみると、なるほど、滝の水明かりと、ほのかな星影ほしかげの光をあびて、孤岩こがんの上に立っている白い道士どうしころもがみえる。
「おお、老先生――」
 龍太郎は、はるかに見てさえ、なつかしさにたえぬように、声をあげた。
 熊笹くまざさにせばめられた道、凹凸おうとつのはげしい坂、いきをあえぎあえぎ、そのいわもとまでいそいできた四人は、そこへくると同時に、岩の上をふりあおぎ、声もひとつによびかけた。
果心かしん先生! 果心先生!」
 すると――おおという声はなく、ふいに、孤岩こがんの上の道士どうしのすがたが、ふわりとちゅういあがったので、四人のひとみも、あッ――と空へつられていった。
 その時――
 夜はまだ明けぬが有明ありあけのつき、かすかに雲のまくをやぶって黒い鞍馬くらまの山のにかかっていた。
 白きころもをつけた居士こじのすがたとみえたのは、はからざりき一丹頂たんちょう! まっ白なつばさをハタハタとひろげて、四人の上にをえがいていめぐり、あれよと見るまに有明けの月のかげをかすめて、いずこともなく飛んでしまった。
 しかし、四人はまだ、なお岩の上に、果心居士かしんこじがいるような心地ここちがして、その上まで登ってみた。そこにはだれもいなかった。
 ただ残っていたのは一本の刀。
 滝壺たきつぼのなかに落としたとばかり思っていた、竹童ちくどうの愛刀般若丸はんにゃまるは、水にもぬれずにおいてある。
「や、まだなにやらここに……?」
 と、伊那丸いなまるたいまつの光をよんで足もとをみつめた。
 見ると、岩をけずって、数行すうぎょうの文字が小柄こづかりのこされてある。それは、うたがう余地よちもなく、果心居士かしんこじらしい枯淡こたんひっせきで、

父子ふし邂逅かいこうはむなしく
小太郎山こたろうざんとりではあやうし

 とただ二ぎょうの文字であった。
 しかし、この二行にすぎぬ文字の予言よげんは、武田伊那丸たけだいなまるにとって、いな、その帷幕いばくの人すべてにとって、なんと絶望的ぜつぼうてきな、そして戦慄せんりつすべき予言よげんではあるまいか。

饅頭まんじゅう




 予言よげんは、よき未来みらい暗示あんじであり、いましめのなぞである。かならずしも、文字のおもてにあらわれている意味ばかりがまことなのではない。そのうらの意味もふかく味読みどくしてみねばならぬ。

父子ふし邂逅かいこうはむなしく
小太郎山こたろうざんとりではあやうし

 孤岩こがんの上に――こうりのこした果心居士かしんこじの心は、どういたらいいであろうか?
 伊那丸いなまるをはじめ、忍剣にんけん龍太郎りゅうたろうも、また竹童ちくどうも、ひとしく松明たいまつえつきるのを忘れて、岩上がんじょうの文字をみつめ予言よげん意味いみをときなやんでしまった。
 これを、読んで文字のごとく考えれば、
(伊那丸よ――おまえのいまのぞんでいることは無益むえきであるぞ、徒労とろうであるぞ、幻滅げんめつをもとめているにすぎないぞよ、そして、そんなことをしているまに、留守るす小太郎山こたろうざんとりでは、徳川家康とくがわいえやすにおそわれて、あの裾野すそのじん終局しゅうきょくをむすばれてしまうぞよ――)
 思うてみるさえ、おそろしい声がきこえる。
 だが、まさかそんなことはあるまい!
 伊那丸は心のそこで、否定ひていした。
 これは老先生の激励げきれいであろう。いまが大事なときであるぞと、凡夫ぼんぷのわれわれを鼓舞こぶしてくださる垂訓すいくんなのであろう。すなわち、予言のうらにふくむ真意しんいをくめば、
 ――ここに最善さいぜんのつとめをなさねばなんじちち勝頼かつよりとの、父子ふしのめぐり会うのぞみはついにむなしいぞ。
 ――ここにゆうゆうといたずらな日をすごすときは、小太郎山の砦もあるいはあやうからん。
 というおことばなのにそういない!
 忍剣にんけんもそういた。
 龍太郎りゅうたろうも、それにちがいないといった。
 で、武田伊那丸たけだいなまるは、いやがうえにも、希望きぼうをもった。武者むしゃぶるいとでもいうような、全霊ぜんれいの血とにくとのおどりたつのがじぶんでもわかった。
「おのれ和田呂宋兵衛わだるそんべえ、きょうこそは、かならずなんじの手から父君ちちぎみをとり返してみせるぞ」
 かたくかたく、こうちかった。
 そして、予言よげんの文字にいつけられていたひとみをあげてふと有明ありあけの空をふりあおぐと、おお希望の象徴しょうちょう! 熱血ねっけつのかがやき! らんらんたる日輪にちりん半身はんしんが、白馬金鞍はくばきんあん若武者わかむしゃのように、東の雲をやぶってあらわれた。
 ゆめからさめたようにあたりをみると、舟岡山ふなおかやまは水いろにあけている。春のあけぼの! 春のあけぼの! 小鳥はそういって歌っていた。森をこえて紫野むらさきのさとに、うす桃色ももいろの花の雲をひいて、今宮神社いまみやじんじゃ大屋根おおやねが青さびて見える。
「夜が明けた!」
 竹童ちくどうが、とびあがるような声でいった。
「おお!」
 と龍太郎と忍剣、きッとなって、伊那丸いなまるの顔をみながら、
若君わかぎみ時刻じこくをうつしては一大事です。ともあれ竹童を先にやって、てんおかのようすを、しかと見とどけさせましょう」
「ウム、そしてわれわれは、寒松院かんしょういん松並木まつなみきに待ちせているか」
「それが、上策じょうさくとかんがえまする」
「竹童」
「はい」
心得こころえたか」
「たしかにうけたまわりました」
「では、これを――」
 と龍太郎が、狼煙筒のろしづつを、竹童の手へわたして、
呂宋兵衛るそんべえをはじめ天ヶ丘の者どもが、山をくだって、寒松院の並木へかかるころを見はからい、この狼煙をうちあげてくれい。時ならぬ狼煙の音におびやかされて、きゃつらは、かならずうろたえるにちがいない」
「そのきょにつけ入って、呂宋兵衛の一族をけちらし、勝頼公かつよりこうのお駕籠かごをうばいとる、ご計略けいりゃくでございますか」
「そうじゃ。をあやまらぬようにいたせ」
「かしこまりました。ではみなさま――」
 般若丸はんにゃまるをさしなおして、伊那丸いなまるに一礼すると、もうヒラリと岩の上から飛びおりていた。そして、バラバラと舟岡山ふなおかやまをかけおりていく彼のすがたを見送っていると、たちまち、がけをこえ、雷神らいじんたきの流れをとび、やがて森から紫野むらさきののはてへかすんでしまった。
 そのはやいことはやいこと、まるで鹿しかのようである。もっとも、あのけわしい鞍馬くらまの谷や細道になれきッている竹童ちくどうだ。ここらの山や森などは、ほとんど、坦々たんたんたる芝生しばふの庭をかけるようなものだろう。
「あれ、ごらんあそばせ」
 龍太郎りゅうたろうが、そのうしろ姿を指さしていう。
「竹童め、今朝けさはすッかりわすれております」
「なにを?」
 と、伊那丸がきく。
「きのうまではめくらであったが、老先生のお力で、にわかにアアなったことをまるで忘れているらしゅうございます」
「お、……それが童子どうじらしいところである」
 微笑びしょうをもってながめていた伊那丸は、愛らしいやつ、――たのもしいやつ――そう思ってうなずいた。
 やがて、その三人も、雷神らいじんたき岩頭がんとうをおりた。そして、裏道うらみちをめぐって、敵のまわしものにさとられぬように、ひそかに寒松院かんしょういん並木なみきにかくれ、うでをさすッて、合図あいず狼煙のろしを、待ちうけていた。


「オオ、さむい」
 正気しょうきにかえって、ポカンとあたりを見まわしたのは、ゆうべ、今宮神社いまみやじんじゃ境内けいだいで、馬にけられてヘドをいて、あのまま気絶きぜつしていた泣き虫の蛾次郎がじろう
「オオ寒、寒、寒……」
 ブルブルガタガタふるえている。
 ひょいと見ると、目のまえには、じぶんのいたご馳走ちそうやら、馬のふんやら紙屑かみくずやらで、きれいな物は一つもない。
 この汚穢おわいだらけな地面の上に、気をうしなって寝ていたかと思うと、いくらしゃアつくな蛾次郎でも、さすがにすこしあさましくなって、今朝けさ寝起ねおきは、あまりいい気持でなかった。
「アア、おなかがペコペコだ……」
 起きるとすぐにうしんぱい。
 ゆうべスッカリ吐きだして、今朝けさ胃袋いぶくろが、カラッポになっているとみえて、食慾しょくよくばかりになった目つきで、しきりに、そこらをキョトキョトと見まわしながら、
「なにかないかナ、なにかないかナ……」
 どろだらけな着物もハタかず、ふらふらと立ちあがった。
 その姿や寝ぼけづらが、おかしいとみえて、すぐそばの神馬小屋しんめごやで、白と黒と二ひきの馬が、ヒーンと鼻で吹きだした。すると頭の上のモチの木でも、からすがカーッとき合わせた。
 虫のいどころが悪かった。
「ばかア! てめえのことじゃねえやい」
 と、蛾次郎がじろう、鴉をどなりつけて、スタスタと向こうへ歩きだした。
 すると、あった! あった!
 ひとつの御堂みどう神前しんぜんに、蛾次郎の見のがしならぬものがあった。
 蕎麦そばまんじゅうのお供物くもつである。
 きのうのおまつりに、氏子うじこがあげた物であろう。三方さんぽうの上に、うずたかく、大げさにいえば、富士ふじの山ほどんであった。
 犬もあるけばぼうにあたる!
 これなるかな、これなるかなと、蛾次郎はそこで、よだれをたらして見とれてしまった。
「ちぇッ、ありがたし、かたじけなし」
 と泣き虫の蛾次郎、じぶんのおでこをピシャリとたたいて、神さまに感謝かんしゃしたのである。が、さてと口につばをわかせてみると、いけないことには、厳重げんじゅうさくをめぐらしてあって、いくら長い手をのばしてみても、とても、そこまではとどかない。
「ウーム、いまいましいなア」
 宝の山にりながら、この蕎麦そばまんじゅうに手がとどかないとは、なんたる無念むねんしごくだろうというふうに、胃液いえきをわかせながら蛾次郎がじろうの目がすわってしまった。だが、こういう事業にたいしては、人一ばいの熱をもつ蛾次郎である。たちまち一さくをあんじだして、蕎麦まんじゅうの曲取きょくどりをやりはじめた。
 そこらで見つけてきた一本の細竹ほそだけ、先をそいでとがらせ、さくのそとから手をのばして、三ぽうの上のまんじゅうを上から一ずついては取り、突いてはべ、口の中へ五つばかり、ふところの中へ八つばかり、まんまと、せしめてしまったのである。
「エヘン。どんなものだい、蛾次郎さまのお手なみは」
 これで兵糧ひょうろうもでき、目もさめた。
「さア、これからきょうはどうしよう、どうしておもしろくあそぼうか」
 富士の裾野すそのをでていらい、わしに乗って北国ほっこくも見たし、東海道とうかいどう見物けんぶつしたし、奈良なら堂塔どうとう大和やまとの平野、京都の今宮祭いまみやまつりまで見たから、こんどはひとつ思いきって、四国へ飛ぼうか、九州へいこうか?
 なにしろ――前途ぜんと洋々ようようたるものだ。
 ひとまず、きょうはてんおかへかえって、ゆッくりと考えたうえにしよう。
 おお、天ヶ丘といえば、おればかりご馳走ちそうべあるいて、クロのことをすッかり忘れていた。あのおかおくの松の木へ、くさりでしばりつけておいたから、げる気づかいはちっともないが、きッと腹をへらしているだろう。
 こう気がついたので蛾次郎がじろうも、にわかに足をはやめて今宮神社いまみやじんじゃうちから、てんおかのほうへ歩きだした。
 すると、ちょうどそのふもと
 南蛮寺なんばんじののぼりにかかろうとする参道さんどう並木なみきを、しのびやかにゆく人かげがある。
 まだ朝霞あさがすみがたちこめているので、おおかた薪拾まきひろいの小僧こぞうか、物売ものうりだろうくらいに思っていた蛾次郎は、だんだん近づいて見てびっくりした。どうも、それは鞍馬くらま竹童ちくどうらしい。
「おやッ」
 蛾次郎は、もういっそうちかくよってみた。まちがいなく竹童である。
「だが、へんだなあ。……あいつ目が見えないくせにして、いやにまっすぐに向いて歩いていやがる。ははアめた……よくめくらというやつは、見えるふりをして歩くというが、竹童もそれであんなにすましているんだな。うふッ、……また一つからかって見てやろうか」
 と、ひとり合点がてんをして泣き虫の蛾次郎、せばよいのに性懲しょうこりもなく、また悪戯心いたずらごころをおこして、竹童の後からピタピタとついていった。


 かすみにぼかされた松の丘に、南蛮寺なんばんじ朱門あかもんは、まだ、かたくとざされてあった。
 稲妻形いなずまがたについている石段いしだんの道を見まわしても、きれいな朝露あさつゆがたたえられて、人の土足どそくにふみにじられているようすはない。
 きょうの朝まだきに、桑名くわな在陣ざいじんする秀吉ひでよしのところへ向けて、和田呂宋兵衛わだるそんべえ護送ごそうしていこうとする勝頼かつより駕籠かごは、まだあの朱門あかもんをでて山をくだっていないようだ。……竹童ちくどうはまずよかったと、そこでいっそう身をかがませながら、はうようにして、石段を一一歩とのぼっていく……
 それを見ると、蛾次郎がじろうは、
「あはははは。やっぱりめくらだ、石段を四つンばいになってのぼっていきゃアがる」
 と、嘲笑あざわらいながら、心をゆるめてしまった。そこで、ふところの蕎麦そばまんじゅうを半分たべて、のこりの半分を、ポンと竹童の背なかへ投げつけながら、
「おい、鞍馬くらまの竹童――どこへいくンだい」
 と呼びかけた。竹童は、ハッとして石段へ身をねかせた。そしてジロリと、ふりかえって見ると、ゆうべ八神殿しんでん床下ゆかしたでにがした蛾次郎だ。
「ああ、またきたな」
 と思ったが、はやる心をおさえて、なお盲のふりをしながら、しずかにてんおかへのぼりだすと、蛾次郎がじろうは、それとも知らずに、
「オイオイ、つんぼかい?」
 いよいよにのって、らずぐちをたたきだした。
「ゆうべはつんぼじゃなかったはずだ。めくらの上にツンてきときたひにゃ、それこそ、でくのぼうよりなッちゃあいねえからな。ええオイ竹童……おッと、こいつはおれがまちがった。おまえは八神殿しんでん床下ゆかしたをお屋敷やしきとしている、天下のお乞食こじきだッたんだっけ。それじゃ返事をしないはずだよ。ではあらためて呼びなおすことにしよう……」
 蛾次郎、ますますお調子ちょうしづいて、いまや、その身が竹童の般若丸はんにゃまるッ先に、まねきせられているとは知らずに、ノコノコとすぐうしろへまで近よっていった。
 そして、黄色きいろをムキだして、ゲタゲタと笑いながら、竹童の顔を、かたごしにのぞくようにしながら、
「――もし、天下のお乞食さま。おめえ、これからどこへいくのよ。南蛮寺なんばんじ台所だいどころか、それにゃ、まずすこし時刻じこくが早かろうぜ。おあまりは朝飯あさめしすぎにいかなけりゃくれやしないよ。うふふふふ……おこってるのか。ますなよ。はずかしいのか、蛾次郎さまにすがたを見られて……。まアいいじゃアねえか、なアおい竹童、おれとおめえとは、いまじゃ身分がちがってしまったが、もとは裾野すその人無村ひとなしむらで、おなじかきの木の柿をかじりあった仲だ。――おれはおめえに同情どうじょうしているんだぜ。だからよ、ゆうべだッて、おれから声をかけたんじゃねえか。うまいあめぼうでもしゃぶらしてやろうと思って、ひとが親切しんせつにいったものを、コケおどしの刃物はものなんぞふりまわして、よせやい、おれだって、はばかりながら、刀ぐらいはしているんだからな」
 竹童ちくどうは、おしのようにだまっていた。
 しかし、全身の血は、たぎりたち、毛もよだつほどおこっていた。だが、――いまは、どこまでめくらていをみせて蛾次郎がじろうにゆだんをさせ、そのくびをひンねじってやろうと、心のおくにためきって、かれの悪口雑言あっこうぞうごんを、いうがままにこらえている。
「エエ、オイ、なんとかいえよ、なんとか」
 蛾次郎は、竹童のからだからとげの立っているのに気づかず、いきなり蕎麦そばまんじゅうをムシャムシャべて、
「やい乞食こじき、これでもらえ」
 と、そのいかけを、竹童の口もとへ持っていった。
 待っていたぞ――と、いわぬばかりに。
「逃げるな、蛾次!」
 と、いうがはやいか、鞍馬くらまの竹童、顔まできた蛾次郎の右の手を、いきなりつかんでひきよせた。
「あッ! こ、こいつ」
「よくやってきた。思いしれ」
 と竹童は、そのうでをねじあげて、石段の中途ちゅうとへ、したおした。
「おう! て、てめえ目が見えるのか」
 としふせられながら蛾次郎がじろうは、きもをつぶして、ふるえあがった。竹童ちくどうはその上へのって、ひざがしらで、相手の腕をおしつけ、両手でのどと腕首をしめつけて、ビクとも動きをとらせずに、
「やい蛾次公がじこう! よくもおのれは、この竹童を、さんざんにずかしめたな。うぬッ、どうするかおぼえていろ」
「あッ――か、か、かんにんしてくれ」
「えい、いまになって、卑怯ひきょうなことをいうな」
「あやまる、あやまる、あやまる! あやまりますから! かんべんしてくれッ!」
「だめだ! だめだ! だめだッ。もうなんといッたってゆるすもんか、ここでおいらの手につかまったのが百年目だ、般若丸はんにゃまるれあじをためしてやるから、そう思え」
 と、刀のつかへ手をやった。
「アア待ってくれ、竹童、竹童さまーッ」
 と、蛾次郎はついに本性ほんしょうをだして、ベソをかきながら悲鳴ひめいをあげた。
「待ってくれよ、おめえに返すものがある。おれを殺してしまうと、それがわからなくなるぜ」
「なに? 返すものが……オオわしをか」
「そうだ。クロを返すから、いのちだけを助けてくれ」
「きっとだな!」
「きっと!」
「よし、クロを返すというならばいのちだけは助けてやる。だが、それはいったいどこにあるのだ」
「す、す、……すこうし手をゆるめてくれなくちゃ、のどがくるしくって、声が……」
「さッ、はやくいえ!」
 と少しからだを浮かしてやると、そのとたんに、泣き虫の蛾次郎がじろう、ドンと足をあげて竹童のあごとばした。あッ、と竹童もふいをったが、むなぐらをつかんでいた手をはなさなかったので、足をみはずした勢いで、蛾次郎もろともに、ゴロゴロゴロと、二つのからだが、たわらのように、石段の中ほどから下までころげ落ちていった。

地を雷火らいか




 ごろんと石段の下にとどまると、蛾次郎はいきなり、竹童のくちへ、つめをひっかけた。
「なまいきなッ」
 と竹童、その手をはらって、えりがみをつかみ、こしをあてて、車投くるまなげに、――ぶんと、大地へなげつける。が、蛾次郎もここ一生のいのちがけ、投げつけられて立つやいな、バラバラッと横ッとびにげだした。
「待てッ――」
 なんで竹童の足にかなうものか! すぐいつかれそうになる、これはとおどろいて、蛾次郎、高くそびえ立った一本のかしの木へましらのようにツツッ――とよじのぼった。
 木登きのぼりは、また竹童の得意とくいとするところ。
 かれがさるなら、竹童はむささびのごとく敏捷びんしょうだ。ピョンと枝へびつくと、もう蛾次郎のかかとをつかまえた。
「わッ!」と蛾次郎。
 あぶなくすべり落ちそうになったところを、はなして、ザワザワと横枝へはいだした。人の重味でかしの枝がゆみなりになってがけへさがる――すぐあとからまた、竹童が猿臂えんぴをのばしてきた。南無なむ三! 蛾次郎はポンと枝からがけへ飛びうつっていちもくさんにてんおかへかけのぼった。
 わしだ、鷲だ!
 こんな時には手のとどかない、地面をはなれてしまうのが一番安全あんぜん
 こう思って蛾次郎は、いつぞや、クロをつないでおいた松の木の下まで、無我夢中むがむちゅうにかけのぼってきてみると鷲は、人の跫音あしおとを聞きつけて、ばたきの音を高々とさせている。
「おお、いたな! ありがてえ」
 息をはずませてかけよった。
 そしてあせくまもなく、クロの足をしばりつけてあるくさりをガチャガチャきはじめた。だが、――意地いじわるく、急げばいそぐほど、鎖はささ枯草かれくさにひっからんで、容易よういにむすびこぶしがけない。
 とこうするまに、鞍馬くらま竹童ちくどう、ヒョイと見うしなった蛾次郎がじろうのすがたを血眼ちまなこで、さがしながら、もうすぐそこまで、のぼってきた。
「オオ、クロがいた! おれのクロだ!」
 かれは思わずこうさけんだ。あたかも、暗夜あんやに見うしなった肉親の姿でも見つけたように――
 と、ちょうどその時である。
 南蛮寺なんばんじおくのほうから、ジャン、ジャン、ジャン! 妖韻よういんのこもったかね――そして一種の凄味すごみをおびたかいがひびいてきた。ハッと思ってふり向くとたんに、おかのいただきにある南面の朱門あかもんが、魔王まおうの口を開いたように、ギーイと八文字にしひらかれた。
 同時に――
 その朱門の中からワラワラとあふれだしたおびただしい浪人武者ろうにんむしゃ! 黒装束くろしょうぞく小具足こぐそくをつけたるもの、鎖襦袢くさりじゅばんをガッシリとこんだもの、わらじ野袴のばかま朱鞘しゅざやのもの、異風いふうさまざまないでたちで、その数五十人あまり。
 百鬼夜行ひゃっきやこうということはあるが、これは爛々らんらんたる朝のをあびて、その装束しょうぞくが同じからぬごとく、その武器ぶきやり太刀たち、かけや、薙刀なぎなた鉄弓てっきゅう鎖鎌くさりがま、見れば見るほど十人十色。
「それッ、れつをみだすな、駕籠わきへつけ、駕籠わきへ」
 なかに、ひとりこういって、手をふりあげた者がある。これぞたしかに、紅毛黒衣こうもうこくい怪人かいじん和田呂宋兵衛わだるそんべえにまぎれもない。
 黄金おうごんくさりむねにたらした銀色ぎんいろの十、それが、朝陽あさひをうけて、ギラギラ光っている。
「おう!」
 と答えて、ひとつの駕籠のまわりへ、警固けいごについた者たちを見ると、おなじ黒布こくふをかぶり黒衣こくいをつけた吹針ふきばり蚕婆かいこばばあをはじめ、呂宋兵衛のふところ刀、丹羽昌仙にわしょうせん早足はやあし燕作えんさく、このほか、うでぶしの強そうな者ばかり、ひしひしと足なみをそろえた。
 そして、あたかも、深岳しんがくおおかみが、れをなしてさとへでるごとく、れつをつくって、てんおか石段いしだんくだりはじめる。中にはさんでいく一ちょう鎖駕籠くさりかごは――まさしく、桑名くわな羽柴秀吉はしばひでよしへおくらんとする貴人きじん僧形そうぎょう武田勝頼たけだかつより幽囚ゆうしゅうされているものと見られる。
「やッ! 呂宋兵衛がいく、勝頼さまのお駕籠かごがいく」
 それを見るや竹童ちくどうは思った。寒松院かんしょういん並木なみきに待ちぶせている伊那丸いなまるやそのほかの人々に、すこしも早く、このことを合図あいずしてやらねばならぬと。――
 といって――
 狼煙のろしのしたくをしているまには、おお、すぐそこにいる蛾次郎がじろうめが、クロの背をかりて、宙天ちゅうてんへ逃げ失せてしまうであろう。
 蛾次郎を見のがすぐらいは、虫ケラと思えばなんでもないが、いまここで、せっかくその姿を見たクロとふたたび別れてしまうのは、なんとしてもしのびない。いつまた、それが蛾次郎の手から、じぶんの手へ返ってくる時節じせつがあるかわからない。
 さればといって――それにグズグズ手間てまどっているまに、呂宋兵衛るそんべえぞくてんおかから道をかえて、勝頼公かつよりこうをとおく護送ごそうしてしまったら、それこそ伊那丸いなまるさまへたいしてぬぐわれざる不忠不義ふちゅうふぎ! 腹を切っておわびしても、その大罪だいざいをつぐなうにはあたいしない。
「ああ、こまった」
 竹童は、かみをつかんで、まよいにまよった。合図あいずか? わしか? 合図か? 鷲か?
 どっちへこの身をむけていいか。
「おお、クロを?」かれはとつぜん蛾次郎のいるほうへ征矢そやのごとく飛んでッた。
 クロこそは、人間のもつなにものも、匹敵ひってきするあたわざる飛行の武器ぶきだ、生ける武器だ。クロさえ蛾次郎の手からとり返せば、のろしをあげるまでもなく、あの偉大いだいなつばさで一はたきで、寒松院かんしょういん並木なみきにいる味方みかたへ、このようすをお知らせにも飛んでいける。
 そのうえ、たとえ呂宋兵衛るそんべえが、どこをどうげまわっても、空からそれを見てとることもできるというもの。――こう竹童ちくどうはかんがえた。
 しかし、その時すでに、蛾次郎がじろうは、くさりをといてわしの背へ、フワリと乗っていたのである。
「あッ、待て!」
 びついていった竹童と、地上をはなれた大鷲おおわしとはそのとき、ほとんど同時であった。
「くそうッ」と蛾次郎、鷲の上から竹をふるって、竹童のかたをピシーッとなぐった。
「ちイッ……」と、こらえながら、竹童は、必死ひっしにつかんだ蛾次郎の足をはなさず、大鷲のつばさが、さッと大地を打ってまいあがるのと一しょに、かれも蛾次郎とともに、三に、鷲のなかへかじりついてしまった……


 かくて巨大きょだい黒鷲くろわしの背には、いまやたがいに、てきたりあだたるふたりの童子どうじが、ところもあろうに、飛行する大空において、ひとつつばさの上に乗りあってしまった。
 だが、しかし――鷲そのものは、蛾次郎がじろうを敵ともおもわず、また竹童をかたきとも思うようすもない。軽々かるがると、二少年を背にのせて、そのゆうゆうたるすがたを、南蛮寺なんばんじの空にまいあがらせた。
 おお、みるまに下界げかいは遠くなる――遠くなる――
 南蛮寺なんばんじ屋根やねてんおかたい、さらに四方の山川まで、たちまち箱庭はこにわを見るように、すぐ目の下へ展開てんかいされて、それが、ゆるい渦巻うずまきのように巻いてながれる……
 おとされては大へんと、泣き虫の蛾次郎がじろうは、いしばって、わし頸毛えりげにしがみついた。
 と――同じように、地上とちがって、大空の風をきってゆく鷲の背なかにいては、さすがの竹童も、手がはなせないので、みすみすそばに乗りあっている蛾次郎をどうすることもできないのである。
 それはいいが、ここに、なおなお困ったことは、ひとりならば自由な方角ほうがくをさしてばすこともできるが、こうして蛾次郎と相乗あいのりになってしまったために、クロはただクロ自身の意志いしで、勝手なほうへさっさつとして飛んでいく。それでは、伊那丸いなまるたちへ、合図あいずをするたよりがないので、かかるまも、竹童の腹のなかは、引っくり返るような心配しんぱいである。
 ピューッ、ピューッと顔をかすっていく風のえまにはるかに下をみてあれば、もう和田呂宋兵衛わだるそんべえぞくの列はありのように小さく見えながら、天ヶ丘の石段をりきっている。
「かならず――合図あいずをまちがえてくれるなよ――」
 くれぐれもことわられた龍太郎りゅうたろうのことばが、空の上なる竹童の耳に、いまもありありと聞える心地がする。
 ――とそのせつなである。竹童は、すぐ真下ましたの地上に一点の火のかたまりを見いだした。
 枯草かれくさをやく百姓ひゃくしょう野火のびか、あるいは、きこりのたいた焚火たきびであろうか、とある原のなかほどに、チラチラと赤くもえているほのおがあった。
「しめた」
 竹童は、やっと片手をふところへ入れて、龍太郎からわたされてきた、狼煙筒のろしづつをかたくつかんだ。そして、わしの腹がちょうどその火の上へいめぐってきたとたんに、ポーンと下へ投げおとした。
 ツーと斜線しゃせんをえがいて落ちていく、小さい物体ぶったい行方ゆくえに、竹童はいのりを送った。
 しめた! 狼煙のつつは、うまく、地上に見えるその焔のくるわのなかへ落ちた。
 と、思うまもあらず、轟然ごうぜんたる青天せいてん霹靂へきれき
 筒の中の火薬かやく破裂はれつして、ドーン! とすさまじい火とはい炸裂さくれつした物体ぶったい破片はへんいあげた。
 合図あいずの狼煙! それは一ばいものすごいひびきをもって、寒松院かんしょういん並木なみきにいる、伊那丸いなまる忍剣にんけん、龍太郎の耳へまでつんざいていったことは必定ひつじょうである。だが――? そのとたんに、ビックリした大鷲おおわしは、雷気らいきにあって天空をそれたようにパッ! ――と一じんの風をついて、竹童と蛾次郎をのせたまま、いずこともなく飛びさってしまった。

呂宋兵衛るそんべえおく




 さて――。
 寒松院かんしょういん松並木まつなみき――ここもまだ、朝がすみがこめていた。四じょうじょうへ花売りにでる大原女おはらめが、散りこぼしていったのであろう、道のところどころに、連翹れんぎょうの花や、白桃しろもも小枝こえだが、牛車ぎゅうしゃのわだちにもひかれずに、おちている。
 並木のこずえには、高々とうたう春の百鳥ももどり、大地はシットリとつゆをふくんで、なんともいわれないすがすがしさ。
 かかるところへ、かすみのなかから、ポカリときだした一列の人かげがある。寂光浄土じゃっこうじょうど極楽ごくらくへ、地獄じごく獄卒ごくそつどもがってきたように、それは殺風景さっぷうけいなものであった。
 きょう、桑名くわなじんをさして、てんおかをくだってきた、和田呂宋兵衛わだるそんべえの一こうである。れいの鎖駕籠くさりかごをいと厳重げんじゅう警固けいごして、随行ずいこうには軍師ぐんし昌仙しょうせん早足はやあし燕作えんさく、吹針の蚕婆かいこばばあ、そのほか五十余名の浪人ろうにんが、鳴り物こそ使わないが、いわゆる一そくの陣あゆみで、ピタッ、ピタッ、ピタッ、ピタッ……と、足なみをそろえてくる。
 せんとうに立ったのは三人の野武士のぶしである。さえぎるものあらばと、刀のつかに手をかけたまま歩いてくる。次には、黒柄くろえ九尺のやりを横にもち、するどい穂先ほさきをならべてくる者が七人。――そのつぎに、和田呂宋兵衛わだるそんべえ黒衣こくい蛮刀ばんとうき、いかにも意気ようようとしていた。
 追分おいわけへでたら、左だぞ、左だぞ。すこしは道がまわりになっても、なるべく裏街道うらかいどうをえらんでいけよ。――途中とちゅう、ほかの大名だいみょうにあったらば、同格どうかく会釈えしゃくをして、かまわないから、羽柴筑前守はしばちくぜんのかみのみうちと名のれ――関所せきしょへかかったときは、武器ぶきせろよ! いいか、関所で武器をふせるのを忘れるなよ! そのほか、桑名くわなのごじんにつくまでは、みちみち話をかわすことはならぬ。
 列の前後へむかって、こう号令ごうれいしたが、令をくだす自分だけは軍律ぐんりつもなにもなく、黒布こくふのかくしぶくろから陶器製すえものせいのパイプを出し、それへ、葉煙草はたばこをつめたかと思うと、歩きながら、スパスパとむらさき色の煙をくゆらしはじめた。
 しばらくゆくと、またんだ。
昌仙しょうせん、昌仙」
「はッ」
 と、うしろのほうでこたえる。丹羽昌仙にわしょうせん早足はやあし燕作えんさくとは、鎖駕籠くさりかごの両わきに、つきそっていた。
「京の大津口おおつぐちから桑名まで、およそ何里なんりほどあるだろう」
「さよう? ……」
 と昌仙しょうせんは歩きながら懐中絵図かいちゅうえずをひろげて見て、
「二十九余町よちょう――まア、ざっと三十里でございまする。すると桑名くわなのごじんへつきますまでには、約三日ののちとあいなります」
「三日はすこしかかりすぎるな。どこか間道かんどうをとおって、二日ぐらいでまいれる工夫くふうはなかろうか」
「なにしろ途中には、大津おおつ関所せきしょ、松本の渡舟わたし鈴鹿山すずかやま難路なんろなどがございますので……」
 と、しきりに懐中絵図の説明をしていたが、そのうちに列のまっさきにあたって、あッ、という声がした。さきの野武士のぶし三人の手から、ふいに、にじのような陣刀じんとうがひらめいたのだ。
 と思うと、その三名は、電光でんこうしゅんのまにたおれ、すさまじい一じんの風をついて、何者かが、向かってくる。
「おお!」
 と、五十余名の大衆たいしゅうが、シタシタと足をひいて、まえをみると、かすみのふかい松並木まつなみきのかげから、忽然こつぜんとおどりだした年わかい怪僧かいそうがあった。染衣せんえそであやにしてうしろにからげ、手には、禅杖ぜんじょうをふりまわして、曠野こうやをはしる獅子ししのごとくおどりこんできた。
「おのれッ!」
 さけぶやいな、第二段の浪人組ろうにんぐみ七人が、黒柄くろえしゃくやりさきを、サッと若僧わかそうの一しんにあつめ、リラッ、リラッ、リラッ、としごきをくれて八面をっとりかこんだ。


「や、や?」
 と、呂宋兵衛るそんべえは、陶器すえものパイプを口からおとして、
「おう! ありゃ、武田方たけだがた加賀見忍剣かがみにんけんだ。さては、勝頼かつよりをうばいかえすために、伊那丸いなまるをはじめ、そのほかのやつらも、このちかくに身をふせているとおぼえたぞ。昌仙しょうせん、昌仙! 燕作えんさくもゆだんするなッ」
 いうもおそし、その伊那丸は、いきなり横あいの草むらから、バラバラとおどりだして、木隠龍太郎こがくれりゅうたろうとともに刀のこじりをはねあげ、呂宋兵衛の前へぬッくと立った。
野武士のぶしども待て、しばらく待て、むりにおし通らんとすれば、いのちがないぞ」
「おッ――おのれは武田伊那丸に龍太郎だな。秀吉公ひでよしこう威勢いせいをもおそれず、都へりこんでくるとは、不敵ふてきなやつ。この呂宋兵衛の手並てなみにもこりず、わざわざ富士ふじ裾野すそのから討たれにきたか」
 内心、きもをつぶしながらも、ひるみを見せまいとする呂宋兵衛は、蛮音ばんおんをはりあげて、刀へ手をかけた。
「やかましいッ!」と、木隠龍太郎。
「はるばる、若君わかぎみがここへ、お越しあそばしたのは、お父上ちちうえ勝頼公かつよりこうをお迎えにまいったのだ。その鎖駕籠くさりかごのうちに、お身をひそめたもうおんかたこそ、まぎれもなき勝頼公かつよりこうと見た。呂宋兵衛るそんべえ神妙しんみょうに渡してしまえ」
「なにを、ばかな。いかにも鎖駕籠のうちには、これから桑名くわなのご陣屋じんや護送ごそうするひとりの落武者おちむしゃれてある! だがよくきけよ! おれも人穴城ひとあなじょうにいた野武士のぶしとちがって、いまでは、南蛮寺なんばんじ守護しゅごする羽柴家はしばけの呂宋兵衛だぞ。なんで勝頼をうぬらの手にわたすものか」
「渡さぬとあらば、なおおもしろい。木隠龍太郎こがくれりゅうたろう忍剣にんけんが力をあわせて、なんじらを、この松並木まつなみきごえにしてくれる」
「わはははは、片腹かたはらいたいいいぐさをいちゃいられねえ。オオ! めんどうだが、桑名へのいきがけの駄賃だちんにうぬらの生首なまくびやりのとッさきにさしていくのも一きょうだろう。それッ、この虫けらをみつぶしてしまえッ」
 けんをはらって、うしろの狼軍ろうぐんをケシかけようとすると伊那丸いなまるの声が、またひびいた。
「ひかえろッ、雑人ぞうにんども!」
 機山大居士きざんだいこじ武田信玄たけだしんげんまご天性てんせいそなわる威容いようには、おのずから人をうつものがあるか、こういうと呂宋兵衛にしたがう山犬武士ども、おもわず耳のまくをつンかれたように、たじたじとして、われ一番にとりつける者もない。
「えいッ、相手はわずか二人か三人、なにを猶予ゆうよしているのだ、ふくろづつみにして、そッ首をあげちまえッ」
 呂宋兵衛るそんべえ怒号どごうしたとたんに、ズドンッ! と一発、つづいてまた一発のたま! シュッと、硝煙しょうえんをあげて伊那丸いなまるの耳をかする。
「おッ、若君わかぎみ飛道具とびどうぐのそなえがありますぞ」
「なんの!」
 と、武田伊那丸たけだいなまる小太刀こだちをぬいて、身をおどらせ、目ざす呂宋兵衛の手もとへとびかかった。
「それッ、頭領おかしらをうたすな」
 と、なだれてくるのをおさえて、木隠龍太郎こがくれりゅうたろうはかれが得意とくい戒刀かいとうをぬいた。――たちまち、前後の四、五人を斬りふせつつ、かの鎖駕籠くさりかごのてまえまで走りよった。
 と――駕籠かごの屋根にはさっきから、一人の老野武士ろうのぶしが立っていた。その上から、銀象嵌ぎんぞうがん短銃たんづつをとってかまえ、いましも、三度目の筒口つつぐちに、伊那丸の姿をねらっていたが、龍太郎が近づいたのをみると、オオ! とそのつつ先を向けかえた。
「おのれッ!」
 とたんに、ごうぜんと、また一発のけむりが立った。老野武士は短銃を持ったまま、駕籠の屋根から向こうがわへぶったおれ、龍太郎のすがたは、太刀たちを走らせたまま煙の下へよろめいた。
 短銃をつかんでいた者こそ、すなわち人穴ひとあな以来、呂宋兵衛の軍師格ぐんしかくとなっている丹羽にわ昌仙――ああ好漢、木隠龍太郎、とうとうかかる無名の野軍師のぐんしと、あいちになってしまったか?


 龍太郎りゅうたろう伊那丸いなまるが、呂宋兵衛るそんべえ側面そくめんをつくよりまえに、ただひとり、列のまっ正面から禅杖ぜんじょうをふっておどりこんだ勇僧ゆうそうは、いうまでもなく加賀見忍剣かがみにんけんだ。
 七、八人の野武士のぶしどもが、九しゃく槍尖やりさきをそろえて、ズラリと円陣えんじんをつくり、かれをまんなかに押しつつんでしまったが、笑止しょうしや、忍剣の眼から見れば、こんなうすッぺらな殺陣さつじんは、紙のふすまをやぶるよりもたやすいことであろう。――見よ、錬鉄れんてつの禅杖が、かれの頭上ずじょうにふりかぶられて、いまにも疾風しっぷうをよぼうとしているのを!
 かッと、目を見ひらいて、加賀見忍剣、
いのちのおしいやつはどけッ!」と大喝たいかつした。
 と思えば――虚空こくうからさッとおちた禅杖が、右なる槍を二、三本たたきせる! それッと、ひだりがわから間髪かんはつをいれずにくりこんだ槍は、ビューッと禅杖がをえがいてかえったとたんに、乱離微塵らんりみじん! 三だんだんにおれとんで、その持主もちぬしは血の下になった。
「わッ」
 と円陣の一かくがくずれると、もうかれらは、こらえもなくきあしをみだした。忍剣はといえば、その瞬隙しゅんげきに、おりをでた猛虎もうこのごとく、伊那丸のそばへかけだしている。
 伊那丸はどこまでも、呂宋兵衛をのがさじといつめて、いまや、火をふらして血戦けっせんをいどんでいた。そこへ忍剣にんけんがかけつけて、あたりの浪人ろうにんを八面にたたきせ、
若君わかぎみ、お助太刀すけだち
 いきなり、呂宋兵衛るそんべえの横から打ってかかった。
「おう!」
 ともののようにえた呂宋兵衛は、すでに、味方みかたなかばはきずつき、半ばはどこかへ逃げうせたのを見て、いよいよ狼狽ろうばいしたようす。伊那丸いなまるのするどいッさきと、忍剣の禅杖ぜんじょうをうけかねて、息をあえぎ、脂汗あぶらあせをしぼりながら、一追いつめられたが、そのうちに、ドンとうしろへつまずいた。
 ほうりだされた鎖駕籠くさりかご――それへつかって、呂宋兵衛がヨロリと駕籠かごぼうへささえられた。
「しめたッ!」
 と、いう声がそのうしろでした。――だれかとおもうと、さいぜん、弾煙たまけむりのなかにたおれた木隠龍太郎こがくれりゅうたろうである。
 いかなる戒刀かいとう達人たつじんも、飛道具とびどうぐのまえに立っては危険きけんなので、わざと身をうっせたものだった。
 しかし龍太郎は、たおれたまま仮死かしをよそおっていただけではない。かれは、丹羽昌仙にわしょうせんが、じぶんのッさきからとんで逃げ、あたりの者も見えないしおに、たりとばかり鎖駕籠のそばへはいより、そのじょうまえをねじ切っていたところである――そこへ、呂宋兵衛がヨロケこんできたから、龍太郎りゅうたろうはなんの苦もなく、
「しめた!」
 と、その片足をつかんでしまった。
 まえには忍剣にんけん、横には伊那丸いなまるの太刀、足をつかまれて立ちすくみになった呂宋兵衛るそんべえは、いよいよいまが最後とみえたが、いつもこうした破滅はめつには、かならず南蛮流幻術なんばんりゅうげんじゅつ姿すがたを消すのが、かれのおくの手だ。
 いまもいまとて、伊那丸と忍剣が、一気にかれをちとろうとしたせつな、どこからともなく、ビラビラビラビラビラッと吹きつけてきたはりの風! それは呂宋兵衛の幻術げんじゅつではない、すぐかたわらの松の木のうえに、蝙蝠こうもりのごとくげあがっていた蚕婆かいこばばあが、呂宋兵衛あやうしと見て、例の妖異よういくちびるから、ふくみばりを吹いたのだ。
 こずえはたかく、下へはかなりの間隔かんかくがあった。無数の針は音なき風となって、ピラピラと飛んできてもはだにつき立つほどではないが、あたかも毒蛾どくがこなのように身をしたので、ふたりはあッ――とおもてをそむけた。その一しゅんだ!
「ええッ!」
 と、するどく龍太郎の手をはらった呂宋兵衛は、いきなり駕籠かごにかぶせてあるくさりあみをつかんで、パッと大地へ投網とあみのように投げた。
「あッ、また妖術ようじゅつを――」
 とさけぶまに、龍太郎のからだがその鎖網くさりあみのなかへつつみこまれたので、おどろいた忍剣にんけん禅杖ぜんじょうに風をきらせて五体みじんになれとふりつけると、おお奇怪きかい! 一じんの黒風がサッと流れて、いままでほがらかだった春暁しゅんぎょうの光はどこへやら、あたりは見るまに墨色すみいろにぬりつぶされ、ザアッ――というのそよぎとともに、雨かきりかしぶきか、なんともいえないしめッぽい水粒すいりゅうがもうもうと立ってきた。
 とたんに、呂宋兵衛るそんべえのからだは、邪法じゃほう秘密ひみついんをむすびながら、ヒラリと駕籠かご屋根やねびうつっていた。あれよ! と眼をみはるまに、まッ暗になった両側の松並木まつなみきの根もとから、サラサラサラサラ……という水音がしてたちまち滾々こんこんとあふれてくる清冽せいれつが、その駕籠をうごかして、呂宋兵衛を乗せたままツウ――と舟のように流れだした。
魔人まじんめ。また邪術じゃじゅつをほどこしたな」
若君わかぎみ若君。これは呂宋兵衛の幻惑げんわくですぞ、かならず、その手に乗って、おひるみあそばすな」
 投げかけられたくさりをはらって、龍太郎と忍剣が、流るる駕籠をジャブジャブといかける、その時もうこの街道かいどうは、まんまんたる濁水だくすいの川となって、やりの折れや、血あぶらや、死骸しがいがうきだし、ともすると伊那丸いなまるまで足をながされておぼれそうだ。
「ちぇッ、ざんねんだ!」
 なにしろ水の勢いが、とうとうと足の運びをはばめるので、さすがの伊那丸も二勇士も、目前もくぜんあだを見、目前に父の駕籠を目撃もくげきしながら、どうしても追いつくことができない。そのまに、いかだのように水に浮いた駕籠がグングンとゆれつつ押しながれ、その上には和田呂宋兵衛わだるそんべえ、ざまを見ろといわんばかりに、白いをむいてあざわらっている。
「ウーム、おのれ邪法じゃほう外道げどうめ、見ておれよ!」
 水勢に巻かれて、むなしく往生おうじょうしてしまった主従しゅじゅう三人は、もう胸の上まで濁水だくすいにひたって、の枝につかまりながら、敵のゆくえをにらんでいたが、そのとき、加賀見忍剣かがみにんけんは、はじめて破術はじゅつの法を思いだして、散魔文さんまもん秘句ひくをとなえ、手の禅杖ぜんじょうをふりあげ、エイッ! と水流を切断せつだんするように打ちおろした。
 水面をうった法密ほうみつの禅杖に、サッと水がふたつに分れたと思うと、散魔文の破術にあって狼狽ろうばいした呂宋兵衛は徒歩とほになってまッしぐらにかなたへ逃げだし、まんまんと波流はりゅうをえがいていた濁水は、みるみるうちに、一まつ水蒸気すいじょうきとなって上昇じょうしょうしてゆく……そして松並木まつなみき街道かいどうは、ふたたびもとののどかな朝にかえっていた。
 まるで、悪夢あくむからめたよう……ふとみると春のはさんさんと木の間からもれて若草にもえ、鳥はほがらかにってうたっている。それのみか、呂宋兵衛が水に浮かして乗りさったと思えた鎖駕籠くさりかごは、一すんの場所もかえずに、もとのところにすえられてある。


 呂宋兵衛が得意とする水術に眩惑げんわくされて、かれをとり逃がしたのは遺憾いかんだが、勝頼かつよりの駕籠をうばったのは、せめて伊那丸いなまるの心をなぐさめるにるものであった。
「待て待て、忍剣にんけん龍太郎りゅうたろうも待て!」
 伊那丸は、なおもッくきぞくを追おうとするふたりをめて、
「このたびみやこへまいったのは、まず何よりもお父上の危急ききゅうをおすくい申すにあった。いまここに、その駕籠かごを迎えまいらせた以上、呂宋兵衛るそんべえを討つのは、いまにかぎったことではない。それ、一こくもはやく、お駕籠のうちからお救い申しあげて、小太郎山こたろうざんのとりでへもどろうぞ」
「おっしゃるごとく、それこそ、大願たいがん目標もくひょうでした」
「忍剣! 手をかせ」
「はッ」
 と、主従しゅじゅう三人、バラバラと駕籠のそばへ寄っていったが、ああ、去年こぞの春、織徳連合軍しょくとくれんごうぐんおそうところとなって、天目山てんもくざんつゆしたまうと聞えて以来、ここにはやくも一めぐりの春。――いまこそ、き君とのみ思うていた、武田四郎勝頼たけだしろうかつよりその人のかわれる姿すがたはいすことができるのかと、龍太郎も忍剣も、思わずむねをわななかせて、大地にひざまずき、伊那丸もまだその姿すがたはいさぬうちから、睫毛まつげになみだのつゆをたたえている。
 一同、駕籠かごのまえに、ピタと両手をついて、
「あいや、それにおわす貴人きじんのごそうに申しあげまする。われわれは武田家恩顧たけだけおんこのともがら、ここにいますは、おいえのご次男伊那丸さまにおわします。ひそかにおうわさのあとをしたって、遠き小太郎山のとりでより、ここまでお迎えにさんじましてござります。このうえはなにとぞ、もとの甲山こうざんにお帰りあそばして、あわれ、甲斐源氏再興かいげんじさいこうのために、臥薪嘗胆がしんしょうたんいたしている若君わかぎみをはじめ、われわれどもの盟主めいしゅとおなりくださいますよう。またそれをごしょうちくださいますとあらば、なにとぞ、ここにて久しぶりに、若君へご対顔たいがんおおせつけ願いとうぞんじます」
 誠意せいいをこめて、ふたりがいうと、
「うむ……」と駕籠かごのうちで、かすかにうなずく声がした。
「さてはおゆるし? ……」
 と龍太郎、忍剣にんけんと目くばせしながら、おそるおそる寄って駕籠の塗戸ぬりどへ手をかけ、
「若君、ご対面たいめんなされませ」
 スーとけると、なかには、まぎれもなきひとりの僧形そうぎょう網代笠あじろがさをまぶかにかぶって、うつむきかげんに乗っていた。
「おお、お父上でござりましたか。おなつかしゅうぞんじまする。わたくしは伊那丸いなまるでござります――天目山てんもくざんのご合戦かっせんにもい合わさず、むなしく生きながらえておりました。お父上! お父上!」
 ほとばしる激情げきじょう! われをわすれて駕籠の戸にすがりつき、僧形の人の手をとると、僧も黙然もくねんとして手をとられ、ゆらりと駕籠のそとに立った。
「お父上! またもや敵の手がまわらぬうちに、一こくもはやく、ここを去っておしくださいませ、いざ伊那丸がごあんないいたしまする」
「どこへ? ……わしを連れていくというのじゃ」
甲信駿こうしんすん三ヵ国のさかい、小太郎山こたろうざんのとりでのおくへ。――オオ父上、そここそ山また山、自然の嶮城けんじょう難攻不落なんこうふらくの地にござります。お父上のご武運つたなく、ひとたびは織田おだ徳川とくがわのためにほろびこそすれ、まだその深岳しんがくのいただきには、甲斐源氏かいげんじはたりゅうときをのぞんでひるがえっておりまする」
「ああ、そのときはすでに去りました――、天の運行うんこうは去ってかえらず、かえるは百年ののちか千年の後か――」
「えッ、なんとおっしゃいます……父上!」
 染衣せんえそでにすがりついて、ふと、網代笠あじろがさの下からあおいだ伊那丸いなまるは、あッといって、ぼうぜん――ただぼうぜん、その手をはなしてこういった。
「父上とのみ思うていたが、そちは、鞍馬くらま果心居士かしんこじではないか」
 聞くより龍太郎りゅうたろうもびっくりして、
「やッ、老先生でござりますと? ――」
 あまりのことにあきれはてて、忍剣にんけんとともに、ただ顔を見あわせているばかり。しばらくのあいだは、口もきけないほどであった。
「定めしおおどろきでござろう。……しかし、わしが雷神らいじんたき孤岩こがんの上に、書きのこしておいた通り、これもみな、まえからわかっていることなのでござる。おう、ご不審ふしんの晴れるように、いまその次第しだいをお話しいたそう。若君わかぎみも、まず、そのあたりへ御座ござをかまえられい」
 居士こじはゆうゆうと、ちかくの石へ腰をおろした。そして、伊那丸いなまるへ、
「おん曹子ぞうし――」と重々おもおもしく呼びかけた。
「はい」と伊那丸は、老師のまえへ、神妙しんみょうに首をたれてこたえる。
「あなたは、甲斐源氏かいげんじの一つぶだね――世にもとうといでありながら、危地きちをおかしてお父上を求めにまいられた。孝道こうどう赤心せきしん、涙ぐましいほどでござる。が、しかし――その勝頼公かつよりこうが世に生きているということは、はたして真実でござりますか? あなたはその証拠しょうこをにぎっておいでなさりますか?」
「わしは知らぬが、つたうところによれば、父君は天目山てんもくざんにて討死うちじにしたと見せかけて、じつは裂石山れっせきざん古寺ふるでらにのがれて姿をかえ、京都へ落ちられたといううわさ……」
「さ。それが真実か虚伝きょでんかは、まだまだ深いなぞでござるぞ。いかにも、この果心居士かしんこじが知るところでも、呂宋兵衛るそんべえの手にとらえられた僧形そうぎょう貴人きじんは、勝頼公かつよりこうによう似ておった」
「おお、してその僧侶そうりょはどうしました。また、居士はなんで、かような姿をして、この鎖駕籠くさりかごのなかにはいっておいでになりましたか」
「されば、じつをいうと、その貴人の僧は、南蛮寺なんばんじ武器倉ぶきぐらに押しこめられているあいだに、わしがソッと逃がしてやりました。そして――その人のかさころもをそのまま着て、わしがこの鎖駕籠に乗っていたのじゃ」
「お! では老先生、やはりその僧こそ、父の勝頼かつよりではございませぬか」
「さあ? ……その人が勝頼であるかないか、それはだれにもはっきりは申されぬ」
「な、なぜでござります」
武門ぶもんをすて、世をすて、あらゆる恩愛おんあい争闘そうとう修羅界しゅらかいを、すてられた人の身の上でござるもの。話すべきにあらず、また話して返らぬことでもある」
「や、や、や! ではこの伊那丸いなまるが、かくまで心をくだいて、武田家たけだけ再興さいこうはかっているのに、お父上には、もう現世げんせの争闘をおみあそばして、まったく、心からの世捨人よすてびととおなりなされたのですか」
「もし、おん曹子ぞうし――まえにもいったとおり、まだその僧が、勝頼公かいなか、はっきり分っておらぬのに、そうご悲嘆ひたんなされてはこまる。どれ、わしもそろそろ鞍馬くらまの奥へ立ちかえろう」
「老先生、しばらくお待ちくださいませ。……もう一言ひとことうかがいますが、居士こじ身代みがわりとなって逃がしたとおっしゃるその僧は、いったいどこへいったのでござりましょうか」
「おそらく、浮世うきよちまたではありますまい」
「と、すると」
浄悪じょうあくすべてをつつむ八よう蓮華れんげの秘密のみね――高野こうやの奥には、数多あまたの武人が弓矢を捨てていると聞く」
 と、なぞのような言葉をのこして、果心居士かしんこじ飄然ひょうぜんと松のあいだへ姿をかくした。
 幻滅げんめつの悲しみをいだいて、ぼうぜんと気ぬけのした伊那丸いなまるは、ややあってわれにかえった。そして、なおいたいことのいくつかを思いだし、あわただしくあとを追って、老師ろうし! 老師! ――といくたびも声のかぎり呼んで見たけれど、もう春影しゅんえい林間りんかんにそのうしろ姿はなく、ほろほろとなく山鳥の声に、なにかの花がまッ白にっていた。
 ああわからない、わからない。どう考えても伊那丸にはわからない。
 果心居士の話しぶりでは、居士はすでに貴人の僧に会っているのだ。そして、自身がその身代みがわりになり、桑名くわな護送ごそうされるまえに、どこかへ落としてしまったとおっしゃる。だのに、居士はそれが父の勝頼かつよりであるとは決していいきらない。その一点だけをどうしても打ち明けてくれない。
 なぜだろう? ――ああさてはお父上には、居士が口をもらしたとおり、まったく弓矢の道をすてて、高野こうやの道場にこもるおつもりなのか? ……そして浮世うきよ未練みれんをもたぬため、いさぎよく、わざとじぶんにも会わず、父とも名のらず、愛情のきずなをって三みつの雲ふかきみ山にかくれてゆかれたのであろう?
 そう伊那丸はかんがえた。
 お父上よ! お父上よ! ではぜひないことでござります。敗軍はいぐんしょうは兵をかたらずと申します。ひとたび天目山てんもくざん惨敗ざんぱいをとられた父上が、弓矢をなげうつのご決心は、よくわかっておりまする。
 甲山こうざん鎮守ちんじゅして二十七せい名家めいか武田菱たけだびし名聞みょうもんをなくし、あまたの一ぞく郎党ろうどうを討死させた責任をご一しんにおい、沙門遁世しゃもんとんせいのご発心ほっしん! アア、それはよくわかっておりまする! お父上のご心中、戦国春秋せんごくしゅんじゅうの常とはいえ、ご推察すいさつするだに、熱いなみだがわきます。
 さあれ、伊那丸いなまるはまだ若年じゃくねんです。
 伝家でんか宝什ほうじゅう御旗みはた楯無たてなしの心をまもり、大祖父だいそふ信玄しんげん衣鉢いはつをつぎ、一ぺん白旗しらはた小太郎山こたろうざん孤塁こるいにたてます。
 われに越王勾践えつおうこうせん忍苦にんくあり、帷幕いばく民部みんぶ咲耶子さくやこ蔦之助つたのすけあり、忍剣にんけん龍太郎りゅうたろう驍勇ぎょうゆうあり、不倶戴天ふぐたいてんのあだ徳川家とくがわけを討ち、やがて武田再興たけださいこうの熱願、いな、天下掌握しょうあく壮図そうと、やわか、やむべくもありませぬ。
 伊那丸は心のそこで、高く高く、こう思い、こうちかい、こうさけんだ。
 そして彼は、まもなく忍剣と龍太郎とをつれて、寒松院かんしょういん松並木まつなみきをたち去った。
 かかるうえは一こくもはやく、小太郎山のとりでへ帰って、一とう面々めんめんにこのしまつをつげ、いよいよ兵をねり陣をならし、一たんの風雲に乗じるの備えをなすこそ急務きゅうむである――と思ったのである。
 伊那丸はほんぜんとさとった。大悟だいごすれば、居士こじなぞめいた言葉も、おのずからけたような心地がする。
 会わねど、見ねど、さらば父上よ高野こうやの道場にいませ。
 ――かれの心はすがすがしかった。

両童子りょうどうじそらたたか




 いそぎにいそいで京都をでた伊那丸主従いなまるしゅじゅうが、大津おおつ越えせきとうげにさしかかったのは、すでに、その日の薄暮はくぼであった。
 ここは木曾街道きそかいどう、東海道、北国街道ほっこくかいどう、三道のわかれ道で、いずれを取るもその人の心まかせ。伊那丸は三井寺山みいでらやまのふもとに立ち、魚鱗ぎょりん小波さざなみをたたえている琵琶びわのみずうみをながめながらかんがえた。
忍剣にんけん龍太郎りゅうたろう。そちたちは、これから小太郎山こたろうざんへもどる道を、いずれにえらぶがよいと思うか」
「されば」と、龍太郎はすぐこたえた。
北国路ほっこくじには、上部八風斎かんべはっぷうさいのつかえる柴田権六勝家しばたごんろくかついえが、厳重にさくをかまえていて、めッたな旅人は通しますまい、また、東海道はなおのこと、徳川家康とくがわいえやすの城下あり、井伊いい本多ほんだ榊原さかきばらなどの、陣屋陣屋もござりますゆえ、ここを破ってまいるのもひとかたならぬご難儀なんぎかとぞんじまする」
「とわれらのとる道は、まず木曾路きそじが一番安全であるという意見じゃの」
「さようにござります」
 というと、忍剣にんけんが、異論をとなえて、木曾路ゆきに反対した。
「イヤ龍太郎どののお言葉は、もっとものようであるが、木曾路もけっして安心な道中ではない。なんとなれば、木曾の木曾義昌きそよしまさ、きゃつも昔は武田家たけだけの忠族であったが、いまでは徳川家とくがわけ走狗そうくとなっている、かならず若君に弓をひくやつであろう。ことに木曾路はゆくところみな難所なんしょ折所せっしょ、いざという場合にはいちだんと危険が多いように考えられる」
「では、忍剣どのには、北国路がよいとおおせられるか」
「北国路とて同じこと、柴田権六しばたごんろく、ちかくしずたけまで軍兵ぐんぴょうをだして、とうげには厳重げんじゅうさくをかまえているように聞きますゆえ、ここを通るも難中なんちゅうの難でござる。で、おなじ難儀をみるものなら、むしろどうどうと徳川家の領土りょうどをぬけ、あわよくば浜松城のやつばらに、一あわふかせて引きあげたほうがおもしろいとぞんじます」
 ちょっと聞くと忍剣の説は、暴論ぼうろんのように聞えるが、ふかく考えれば北国も木曾も東海も、その危険さは一つである。ましてやいま、天下に一国の領土もなく、一城の知己ちきもない伊那丸いなまるに、安全な通路というものがあろうはずはない。
 おなじ敵地をふむものなら、忍剣のいうとおり、徳川家の蟠踞ばんきょする東海道こそもっとも小太郎山こたろうざんに近く、もっとも地理平明である。では――と相談そうだんがまとまって伊那丸は藺笠いがさをしめ、忍剣にんけん禅杖ぜんじょうをもち直し、やおら、そこを立ちかけたせつなである。
 頭のいただきから、山嵐さんらんをゆする三井寺みいでら大梵鐘だいぼんしょうが、ゴウーン……と余韻よいんを長くひいて湖水のはてへうなりこんでいった。と、一しょに――これはそもなに? 逢坂山おうさかやまの森をかすめて、ピューッとたこのうなるがごとき音をさせつつ、ななめにひくく、直線にたかく、そしてゆるく、またはやく旋回せんかいしてきたあやしいものがある。――オ、舞いめぐる空の怪物かいぶつ! それは丈余じょうよ大鷲おおわしだ。
 そのとき、暮れなんとする春の夕空は、ひがし一面を紺碧こんぺきめ、西半面の空は夕やけに赤く、琵琶びわの湖水を境にして染めわけられたころあいである。空にかかった大鷲の影も、遠き夕照ゆうでりをうけて金羽きんうさんらんとして見えるかと思えば、またたちまち藍色あいいろの空にとけて、ただものすごき一点の妖影ようえいと化している。
「おお、ありゃクロだ! 竹童ちくどうがたずねている大鷲だ」
 禅杖をあげて忍剣が高くさけぶと、龍太郎りゅうたろう伊那丸いなまるも目をみはって、
「うむ! まさしくクロにそういない。寒松院かんしょういん並木なみきへのろしの音はきこえてきたが、竹童はあのまま帰らぬ。もしや鷲に乗って、追いついてきたのではあるまいか」
「そういえばだれか乗っているようす、――や、竹童だ!」
「なに竹童が乗っている。オオ、竹童――竹童ッ――」
 とふたりが、声をあげて大空に呼んだが、鷲はひくく樹木のさきへふれるばかりにおりてきて、また、ツーッとあらぬ方角へそれてしまう。と、龍太郎が、なにを見いだしたかおどろきの声をはずませて、
「や、ふしぎな! あのわしには、竹童ばかりでなく、ほかの童子どうじも乗っている。たしかにふたりの人間が乗っている」
「龍太郎どのの目にもそう見えたか、わしもそう思ってふしぎに感じていたのだ。アレアレ、こんどは湖水のほうへいっさんにかけりだした――」
 ひとみをこらして見ていれば、さっさつたる怪影かいえいは、せきやまから竹生島ちくぶしまのあたりへかけて、ゆうゆうとつばさをのばしてうのであった。その鷲の背にありとみえた両童子りょうどうじこそ、まぎれもあらず、南蛮寺なんばんじの丘からムシャブリついて飛びあがった、鞍馬くらまの竹童――泣き虫の蛾次郎がじろう


 天空てんくうのふたりは、朝から今まで、たがいに、飲まずわずである。
 竹童は、蛾次郎を鷲の背からおとさんとし、蛾次郎は、竹童をふりおとして、じぶんひとりで翼を占有せんゆうしようとしている。
 しかもそれは、寸分すんぶんの休みもなく走っている鷲の背なかで、天空の上で――行われつつある争闘そうとうだ。一しゅんのゆだん、一のすきでもあれば、鷲じしんにふりおとされるか、そのいずれかが見舞ってくる。朝から飲まず食わずでも、またこれからいくにち、一てきの水を口にしないまでも、そんなことは念頭ねんとうにない。まさに真剣以上の真剣だ。それに早くまいったほうが惨敗者ざんぱいしゃだ。
「やい、蛾次郎がじろう!」
 かけりゆくわしの上で、こういう声は鞍馬くらま竹童ちくどう
「なんだ、竹童」
 蛾次郎は、ただそれ下界げかいおとされまい一念で、鷲の頸毛えりげにダニのようにたかっていた。
「いいかげんに降参こうさんしてしまえ。そしてこの鷲をおいらに返してしまえ。そしたらいのちだけは助けてやる」
「いやなこッた。てめえこそ、低いところへりたときに、飛び降りてしまやがれ。そしたら命だけたすけてやる」
「こいつめ、人の口まねをするな。おのれ、今にどこかで突きおとしてくれるから見ていろよ」
「手をはなせば、人を落とすまえに、じぶんのからだがお陀仏だぶつだぞ。ざま見やがれ、唐変木とうへんぼく、突きとばせるものならやッて見ろ」
「おのれきっとか」
「くそうッ!」
 と、ののしり合った空のけんか。
 両手をはなして組みあえば、蛾次郎のいう通り、鷲の上からふりすてられてしまうので、片手と片手のつかみ合い。
 蛾次郎がじろうねこのごとくつめをたって、竹童のッぺたをひっかいたが、指にかみつかれたので、びっくりして手を引っこめ、こんどはいきなり対手あいてかみの毛を引っつかんだ。
「うむ! こんちくしょうッ」
 竹童は拳骨げんこつをかためて、かれのわきのしたからあごをねらった。そして、二つばかり顔を突いたが、蛾次郎もいのちがけだ。くちびるをみしめて、なおも必死にこらえている。
「ちぇッ――強情ごうじょうなやつだ、降参こうさんしろ、降参しろ! まいったといわないうちは、こうしてくれる!」
 竹童の鉄拳てっけんが、目といわず鼻といわず、ポンポン突いてくるので、さすがの蛾次郎も、だんだん色をうしなって顔色まっ青にかわってきた。これがいつもならば泣き虫の蛾次郎、本領ほんりょう発揮はっきしてワアワア泣き声をあげているはずだが、かれも生死の境にたった以上、ふだんよりは相当そうとうにつよい。タラタラと鼻血をながして、くちびるの色まで変えたが、まだまいったとはいわないで、
「ちッ、ちッ、畜生ちくしょうッ!」
 というがはやいか、竹童のこしに差されてあった般若丸はんにゃまるの刀に目をつけ、あっというに、それを抜いてふりかぶった。
 雲井くもいにあらそう両童子りょうどうじを乗せて、わしはいましも満々まんまんたる琵琶びわの湖水をめぐっている。

よる海月くらげ百足むかで




 はてしもなく大鷲おおわしなかに、はてしもなき両童子りょうどうじ争闘そうとう! 蛾次郎がじろうは、敵のけんを抜きとッてふりかぶり、竹童ちくどうはそのうでくびを引ッつかんで、やわか! とばかり般若丸はんにゃまるつかをもぎ取ろうとする。
 黒毛こくもうふんぷん、大地の上なら、まさにンずほぐれつである。
 蛾次郎勝つか? 竹童勝つか。
 雲井くもいしたいのちと命! かれも必死ひっし、これも必死だ。
 だが、大鷲の神経しんけいは、かかる火花をちらす活闘かっとうが、おのれの背におこなわれているのも、知らぬかのように、ゆうゆうとしてつばさをまわし、いま、比叡ひえいみね四明しめいたけの影をかすめたかとみれば、たちまち湖面の波を白くかすって、伊吹いぶきの上をめぐり、彦根ひこねの岸から打出うちではまへともどってくる。――
 さッきから三井寺みいでらおかのふもとに立って、かたずをのんで見つめていた伊那丸いなまると、忍剣にんけん龍太郎りゅうたろうの三人は、その巨影きょえいがありありと目前へ近づいたせつなに、
「あッ――竹童!」
 と、異口同音いくどうおんにさけんだが、いかにかれの危難きなんを知っても、それへ力をしてやることもならず、わしはまた、バッと山かげに突きあたって飛翼ひよくをかえし、広い琵琶湖びわこの上を高くひくく舞いはじめた。
 と思うと――一しゅんのまに、鷲はいようなばたきをして、糸目いとめのからんだたこのように、クルクルッとくるいはじめた。
 両童子りょうどうじが背なかの上で、たがいに、斬らんとし、うばわんとしていた般若丸はんにゃまるッさきが、あやまッて鷲のどこかを傷つけたのにそういない。あッ――というまもなく、虚空こくうの上から引ッからんだ二つのからだが、フーッと真ッさかさまに落ちたなと思うと、琵琶湖のまン中に、龍巻たつまきでも起ったような水煙が、ザブーンと高くはねあがった。
 しぶきの散ッたあとは、雪かとばかり白いあわがいちめんにみなぎっていた。そしてその泡沫ほうまつが消えゆくにつれて、夕ぐれの青黒い波が、モクリ、モクリと、大きな波紋はもんをえがいていたが、ジッと波の中をすかして見ると、電魚でんぎょのような光がして、たッたいままで天空てんくうにあった竹童ちくどう蛾次郎がじろう、こんどは湖水の底で、なおもはげしくあらそっている。
 時おり、黒い波を切ッて、ピカリピカリとひらめくのは、般若丸の光であった。やがて、竹童の力がまさったか、その刀をもぎ取ってブクリッ……と水面に浮かびだしてくると、そのこしにからんで蛾次郎も、
「ア、ぷッ……」
 とさめのように水をふいた。
「えい、じゃまなッ」
 と鞍馬くらま竹童ちくどうは、般若丸はんにゃまるを口にくわえるやいなや、蛾次郎がじろうをけって……サッと抜き手をきったが、かれはまた一方の足をかたくつかんで、死んでもはなすまいとした。
 ふたたび三たび、浮いてはしずみ、浮いては沈みするうちに、さすがの竹童もきょくどに心身しんしんをつからして、蛾次郎に足を引かれたまま、ブクブクと深みへ重くしずんでしまった。
 そしてついに、湖面こめんへ浮かんでこなかったが、ややしばらくたつと、そこからズッとはなれた竹生島ちくぶしま西浦にしうらあたりに、名刀般若丸はんにゃまるの血流しをくわえたまま失神している竹童と、その右足にからんでグンニャリした泣き虫の蛾次郎とが、くらげのごとく、フワリ、フワリ……と夜の湖水の波をよりつつただよっていた。


「これッ、だれかおらぬか、この渡場わたしばのものはおらぬか!」
 もうトップリ日がくれた松本まつもと渡船場とせんばへきてあわただしく、そこの船小屋ふなごやの戸をたたいていたのは、加賀見忍剣かがみにんけんであった。
「湖水に落ちておぼれたものがある、それを救ってやるいそぎの船をりたい。これ、だれかおらぬか、船頭せんどうは!」
 と、破れんばかり戸をたたいたが、なかにもれる灯影ほかげがあるのに、いっこうこたえがないので、加賀見忍剣かがみにんけん禅杖ぜんじょうをかかえて附近の波うちぎわを見まわしていると、三井寺みいでらのふもとから、おくればせにけてきた伊那丸いなまる龍太郎りゅうたろうも、はるかに見た竹童ちくどうの危急をあんじて、
「忍剣、船はあったか」と、そこへくるなり声をいそがした。
「ふしぎなこと、……この渡船場とせんばに、一そうもそれが見あたりませぬ」
「まだよいなのに、矢走やばせ(矢橋または八馳)へかよう船がないはずはない。そのへんの小屋に、船頭せんどうがいるであろう」
「さ、それをただいま、呼んでいるところでございますが」
「船頭もおらぬのか。――さては、さきに逃げた呂宋兵衛るそんべえやその手下どもが、このあたりの船をり集めて、琵琶湖びわこを渡ったものとみえる。アーふびんなことをいたした。いかに竹童でも、あの高い空から落ちて、はや日も暮れてしまったことゆえ、さだめし水におぼれたであろう……なんとか、助けてやる工夫くふうはないものか」
 主従三人、愁然しゅうぜんと手をつかねて湖水のやみを見つめていると、瀬田川せたがわの川上、――はるか彼方あなた唐橋からはしの上から、炬火きょかをつらねた一列の人数が、まッしぐらにそこへいそいできた。
 危難は竹童の身ばかりではない。
 敵地に身をおいて、草木の音にも気をくばっている伊那丸主従は、それを見ると、ハッとして、和田呂宋兵衛わだるそんべえがさかよせをしてきたか、膳所ぜぜの城にある徳川方とくがわがたの武士がきたかと、身がまえをしていると、やがて、炬火きょか先駆せんくとなって、こまをとばしてきた一の武者。
「やあ、それにおいであるのは、武田伊那丸たけだいなまるさまではございませぬか」
 音声おんじょうたからかに呼んで近づいてきた。
「おお、いかにもこれに渡らせらるるは、伊那丸君でおわすが、して、そこもとたちは何者でござる」
 まえにたって龍太郎りゅうたろう忍剣にんけん、きびしくこういって油断ゆだんをしずにいると、
「さては!」
 とその騎馬武者きばむしゃ三人、ヒラリ、ヒラリ、とくらから飛びおりて、具足ぐそく陣太刀じんだちの音をひびかせながら面前に立った。
「それがしは、福島市松ふくしまいちまつの家来、可児才蔵かにさいぞう
 こうのると、つぎの武者が――
拙者せっしゃは、加藤虎之助とらのすけの家臣、井上大九郎と申す」
「おなじく、木村又蔵またぞうでござる」
 と、いずれもりっぱな態度たいど会釈えしゃくをした。
 そしてふたたび、なかの可児才蔵が、一すすんで、
不意ふいにかような戦場のすがたで、人数をひきいてまいりましては、さだめしお驚きとぞんじますが、じつはこれおむかえの軍卒ぐんそつ、さっそく、あれへ用意いたしてまいった馬におしをねがいます」
「なんといわれる。伊那丸いなまるさまをお迎えにまいられたとか?」
 意外な口上こうじょうをきいて、忍剣にんけん龍太郎りゅうたろうが顔を見あわせていると、井上大九郎が語をついで、
「それは、桑名くわなのご陣にある、秀吉公ひでよしこうからの、直命ちょくめいでござる。殿のおおせには、このたび伊那丸さまのご上洛じょうらくこそよきおりなれば、ぜひ一どお目にかかったうえ、ながらくおあずかりいたしているしなを、手ずからお返し申したいとの御意ぎょい、なにとぞ、ご同道のほどくださいますように」
「はて、不審ふしんなおおせではある? ……」
 伊那丸は優美なまゆをひそめて、
「べつにこのほうより、秀吉ひでよしどのへおあずけいたしたしなもないが……」
「イヤ、たしかに、大事な品をおあずかりしているとおおせられました。そのために、桑名攻くわなぜめの陣中から、われわれどもが、騎馬きばをとばしてお迎えにまいったわけ」
 というと、加賀見忍剣かがみにんけん、もしや巧言こうげんをもって、若君をけどろうとする秀吉のさくではないかと、わざと、鉄杖てつじょうをズシーンと大地へつき鳴らして、
「ではおうかがいいたすが、桑名攻めの戦場にあられたかたがたが、どうして、ここへ伊那丸さまがお通りあることを、かように早く承知しょうちめされたのじゃ」
「その不審ふしんはごもっともであるが、じつはきょうのうまこくまえに、南蛮寺なんばんじ番人ばんにん和田呂宋兵衛わだるそんべえをはじめその他の者が、ちりぢりばらばらとなって、桑名くわなのご陣へかけつけてまいりました」
「ウム。勝頼公かつよりこうしたてよとは、アレも、秀吉ひでよしどのの指図さしずであろうが」
「都に風聞ふうぶんの立ったとき、その在所ありかをしらべよとはおいいつけになりましたが、罪人ざいにんあつかいにして、桑名に護送ごそうすることなどは、まッたく、秀吉公のごぞんじないこと。――しかるに呂宋兵衛、桑名のご陣へまいって、いろいろと差出さしでがましいことを申しあげたため、かえって秀吉公のおいかりをうけて、そくざに、ご陣屋を追いはらわれ、南蛮寺なんばんじ番衛役ばんえいやくしあげられ、この後は、京都へ立ち入ることはならぬと、手下のものまで追放ついほうになりました」
 まことはおもてにあふれるもの。
 使者三名の口上こうじょうには、その真実味しんじつみがこもっていた。
 では、筑前守秀吉ちくぜんのかみひでよしは、かならずしも、悪意があって勝頼のゆくえをたずねさせたのではなかろう……と伊那丸いなまるも心がとけ、忍剣にんけん龍太郎りゅうたろうも、さらばと、そのしたがうことになった。
 いつか、一同のまわりには、松明たいまつをあかあかと照らした軍兵ぐんぴょうが五、六十人、ズラリと輪形わがたになって陣列を組んでいた。
「それ、用意のみくらをさしあげい」
 と、木村又蔵またぞう合図あいずをすると、おッといって馬廻うままわりの武士、月毛つきげ黒鹿毛くろかげの馬三頭のくつわをならべ、馬具ばぐ金属音きんぞくおんをりんりんとひびかせて、三人の前へひいてきた。と――伊那丸いなまるが、
「ごめん――」
 と、目礼もくれいをして、まッ先に、白駒しろこま金鞍きんあんにヒラリと乗る。つづいて忍剣にんけん龍太郎りゅうたろう、波に月兎げっとくらをおいた黒鹿毛くろかげの背へヒラリとまたがって、キッと手綱たづなをしぼり、たがいにあいかえりみながら、
裾野すその以来、こうして馬上になるのは、久しぶりだなあ……」というふうに微笑しあった。
 やがて、まッくらな瀬田せた唐橋からはし小橋こばし三十六けん、大橋九十六けんを、粛々しゅくしゅくとわたってゆく一こう松明たいまつが、あたかも火の百足むかでがはってゆくかのごとくにみえた。

蜘蛛くもの子と餓鬼がき




 夜もひるも、伊勢いせの空は、もうもうと戦塵せんじんにくもっていた。
 七万の兵をひきいて、滝川たきがわ攻めにかかった秀吉ひでよしは、あの無類むるい根気こんきと、熱と、智謀ちぼうをめぐらして、またたくうちに、亀山城かめやまじょうをおとし、国府こうの城をぬき、さらに敵の野陣や海べの軍船をきたてて、一益かずますの本城、桑名くわなのとりでへ肉迫にくはくしてゆく。
 それが、天正てんしょう十一年、三月上じゅんのことである。
 春となれば、焼蛤やきはまぐりしおのかおりに、龍宮城りゅうぐうじょう蜃気楼しんきろうがたつといわれる那古なこうらも、今年は、焼けしずんだ兵船の船板ふないたや、軍兵ぐんぴょうのかばねや、あまたの矢やたてが、洪水こうずいのあとのように浮いて、ドンヨリした赤銅色しゃくどういろの太陽が、その水面へ反映はんえいもなく照っていた。
 おかをみれば、とまり八幡やわた白子しらこ在所ざいしょ在所、いずれをみても荒涼こうりょうたるはらと化して、あわれ、並木なみきのおちこちには、にげる途中でなげすてた在家ざいかの人の家財荷物かざいにもつが、うらめしげに散乱して、ここにも、ッつ斬られつした血汐ちしおやりの折れや、なまなましい片腕かたうでなどがゆくところに目をそむけさせる。
 すると、この酸鼻さんびな戦場の地獄じごくへ、血をなめずる山犬のように、のそのそとウロついてくる人影がある。
「お、こいつの差している刀はすばらしい」
「しめた、ふところからかねがでたぞ」
「やあ、この陣羽織じんばおりは血にもよごれていねえ。ドレ、こっちへ召上めしあげてやろうか」
 ざわざわと、こんなことをささやきながら、あなたこなたにたおれている武士のものや持ち物をぎまわっているのだ。
 ああ戦国の餓鬼がき! 戦場のあとに白昼はくちゅう公盗こうとうをはたらく野武士のぶしの餓鬼! その一ぐんであった。
「おい! もう大がいにしておけ。あまりかせぎすぎると、こんどは道中のやッかいになって、かまをかぶって歩くようなことになるぞ」
 すると、この野盗やとうかしらとみえて、ふとい声が土手どての上からひびいた。ヒョイとそこをふりあおぐと、臥龍がりゅうにはった松の木のねッこに、手下のかせぐのをニヤニヤとながめている者がある。
「もうたくさんだ、たくさんだ。そう一ぺんによくばらねえでも、ちかごろは、ゆくさきざきにいくさのある世の中だ。まごまごしているまに、秀吉ひでよし陣見じんみまわりでもきた日には大へんだ」
 また、こういって、そこにスパスパ煙草たばこっていたのは、すなわち、和田呂宋兵衛わだるそんべえ、ほかの二人は蚕婆かいこばばあ丹羽昌仙にわしょうせんだ。
 これで事情はおよそわかった。
 秀吉の御感ぎょかんにいって、出世しゅっせの階段をとびあがるつもりでいた勝頼かつより探索たんさくの結果が、あの通りマズイはめとなったうえに、命令以上なでしゃばりをやッたので、ついに、軍律ぐんりつをもって陣屋追放をうけたというから、そこで呂宋兵衛は、もちまえの盗賊化とうぞくかして、これから他国へ逐電ちくてんするゆきがけの駄賃だちんとでかけているところであろう。
 いくらばちになったにしろ、よくこんな、残忍ざんにんな盗みができることと思うが、を考えると、富士の人穴ひとあなをかまえていた時から、和田呂宋兵衛、このほうが本業なのだ。
頭領かしら、思いがけなく、金目かねめなものがありましたぜ」
 と、二、三十人ほどの手下が、そこへ、ぎとった太刀や陣羽織じんばおりや金をつんでみせると、呂宋兵衛るそんべえ土手どての上からニタリと横目にながめて、
「そうだろう。このへんに討死うちじにしているやつらは、おおかた滝川一益たきがわかずますの家来で、ツイきのうまでは、桑名城くわなじょうでぜいたく三昧ざんまいなくらしをしていた者ばかりだからな。……う、そりゃアとにかく、もう南蛮寺なんばんじ秀吉ひでよしのやつにとりあげられてしまったから、京都へもどることはできねえ。いッたいこれからどこへして落ちのびたものだろう?」
 と、昌仙しょうせん蚕婆かいこばばあのほうに相談そうだんをもちかけた。
「また、富士ふじ人穴ひとあなへかえろうじゃないか」
 と、蚕婆は常に思っていることを、このさいにもちだして、あの曠野こうやみよいことや、安心なことを数えたてた。
「そうよ、もうほとぼりもさめたから、久しぶりで、富士のすがたもおがみてえな」
「だが――それはまだよろしゅうござるまい」
 といったのは丹羽昌仙にわしょうせん野武士のぶしのなかにいても、軍師格ぐんしかくなだけに、この者はすこしいかめしくかまえこんでいる。
「なぜだい?」
「なぜと申しても、小太郎山こたろうざんとりでには、伊那丸いなまる幕下ばっか小幡民部こばたみんぶ、また、頭領かしらを親のかたきとねらっている咲耶子さくやこなどが、きびしく裾野すそのを見張っております」
「ウームなるほど。すると、おれがまた人穴城ひとあなじょうはいりこむと、さっそく、小太郎山からやつらがドッと攻めかけてくるわけだな」
「火をみるよりも明らかな話でござる。まず、もうしばらく、こッちの力がじゅうぶんにととのうまで、裾野すそのへはいるのは、見合わせたほうがいいようにぞんじます」
「じゃアひとつ、北国路へでもいって、あの敦賀津つるがつの海にべんがらをおッ立てている、龍巻たつまき九郎右衛門くろうえもん合体がったいして、こんどは海べのほうでも荒してやるか」
「イヤイヤ、それもダメなことで」
 と、昌仙しょうせんはいう下からかぶりをふって――
「もうそろそろ北国街道かいどうの雪もけてまいったはず、春となれば、秀吉ひでよしと、弔合戦とむらいがっせんをやるべく意気ごんでいた柴田勝家しばたかついえが、きたしょうから近江路おうみじへかけて、ミッシリ軍勢ぐんぜいをそなえているでございましょう」
「じゃ、そッちへもいけねえとしたら、いったいどこへ落ちのびたらいいのだ」
「まず、いまのところしずかなのは、東海道でございますな」
「フーン。すると徳川家とくがわけ領分りょうぶんだな」
「さよう。近ごろ家康いえやすと秀吉とは、たがいに、たまをあらそう龍虎りゅうこのかたち。その仲の悪いところをつけこんで、こんどは家康のふところへいいる算段さんだんが、第一かと考えます」
「そううまくこっちの註文ちゅうもんにハマるかな」
「いくら狡獪こうかい家康いえやすでも、さくをもってせれば、乗らぬものでもございますまい、じつはその用意のために、早足はやあし燕作えんさく物見ものみにやッてありますゆえ、やがてそろそろここへ帰るじぶん……」
 と、話ついでに、のびあがって向こうを見ていると、オオその燕作であろう、たけがさ紺無地こんむじ合羽かっぱ片袖かたそでをはねて手拭てぬぐいきふき、得意な足をタッタと飛ばして、みるまにここへけついた。


「やあ、ごくろう、ごくろう」
 と丹羽昌仙にわしょうせん土手どての上から飛びおりて、
「して、どうだッた。伊那丸いなまるのようすは?」
「やッぱり、東海道から裾野すそのへはいって、それから小太郎山こたろうざんへかえる道順みちじゅんをとるらしゅうございます」
 と、さすがに早足はやあし、あれほど韋駄天いだてんと走ってきながら息もきらさずこう答えた。
「そうか、やッぱりこっちの想像そうぞうどおり、思うつぼにハマったわい」
「ところが昌仙さま、あまり思うつぼでもありませんぜ。というなあ、秀吉ひでよし指図さしずで、瀬田せたまで迎えにでやがった軍勢があるんで」
「ほ……秀吉が? フーン猿面さるめんめ、じょさいないことをやりおって、うまく伊那丸をきこもうという腹だな。だがよいわ、まさかに家康いえやす領分りょうぶんまで、その軍兵ぐんぴょうがクッついてもいけないだろう」
昌仙しょうせん――」
 と呂宋兵衛るそんべえもズルズルと下へおりてきて、
徳川家とくがわけへ取りいる算段さんだんとは、やッぱりなにか、その伊那丸をおとりにして? ……」
「こいつを利用しないのはでござる。武田伊那丸たけだいなまるを心のそこからにくみぬいて、あくまでもかれを殺害してしまいたいと願っているのは、秀吉ひでよしよりは家康でございますからな。また伊那丸にとっても、かれは、父の勝頼かつよりをほろぼしたあだ。どッち道、このふたりのあいだは生涯しょうがい敵同志かたきどうしでおわるでしょう。――ところが、こんど伊那丸が小太郎山こたろうざんへかえるには、どうしても、その家康の城下を通らねばなりますまい。さア、おもしろいのはここの細工さいくで、そのさきにわれわれが浜松城へまいって、なにかのことを教えてやったら、あのずるい家康も、眼をほそめて、うれしがるにきまッております」
名策めいさく! 名策!」
 呂宋兵衛、手を打ってよろこんだ。
「そいつアいい考えだ。ではさっそく、浜松へ乗りこもう! だがなんでも慾得よくとくずくだ、無条件むじょうけんじゃいけねえぜ」
「むろん、伊那丸をったあかつきには、こうしてくれという条件じょうけんもつけてのうえに」
富士ふじ裾野すそのは徳川領だから、あのへん一帯から人穴ひとあなを、おれの領分としてくれりゃありがたいが」
家康いえやすゆめにまでみておそれている、伊那丸いなまるがないものとなれば、それくらいなことは承知しょうちしましょう」
「天下はひろい! もう草履ぞうりとりあがりの猿面さるめんなんざア、くそでもらえだ。ワハハハハハ」
 にわかに前途を明るくみて、小心な呂宋兵衛るそんべえが、こう元気づいていると、しきりに向こうを見はっていた早足はやあし燕作えんさくが、
「あッ、いけねえ! もうきやがッた」
 と、いかにも狼狽ろうばいしたらしくさわぎだした。
「な、な、なんだ、なにがきたンだ」
「ゆうべ瀬田せたから伊那丸をむかえてきた、木村又蔵またぞう可児才蔵かにさいぞう、井上大九郎なんていうやつの軍兵ぐんぴょうで」
「そいつア大へんだ、ヤイ、てめえたち、はやく獲物えものを引ッかついで浜べのほうへ姿をかくせ! オオ蚕婆かいこばばあ、おまえがさッき目をつけておいた船があッたな、船で逃げろよ船で――。燕作燕作、向こうだ向こうだ、蚕婆と一しょにいって、はやく船のしたくをしていろい」
 まるで、突風とっぷうに見まわれた紙屑かみくずか、白日はくじつに照らされた蜘蛛くもの子のように、クルクル舞いをして呂宋兵衛とその手下ども、スルスルと土手草どてくさへとびついて、雑木林ぞうきばやしの深みへもぐりこんだかと思うと、木の葉ばかりをザワザワとそよがせて、首もみせずに海べのほうへ逃げぬける。

野風呂のぶろ秀吉ひでよし




 二里さきには桑名くわなの城が見える。
 亀山かめやま出城でじろせき国府こうの手足まで、むごたらしくもぎとられた滝川一益たきがわかずます、そこに、死にもの狂いの籠城ろうじょうをする気で、狭間はざまからはブスブスと硝煙しょうえんをあげ、矢倉やぐらには血さけびの武者をあげて、合図あいずおこたりないさま、いかにも悲壮ひそうな空気をみなぎらしている。
 その城とは、三里じゃく距離きょりをおいて、水屋みずやはらにかりの野陣をしいているのは、すなわち秀吉方ひでよしがた軍勢ぐんぜいで、紅紫白黄こうしびゃくおうの旗さしもの、まんまんとして春風しゅんぷうに吹きなびいていた。
 きょう――あかつきの半刻はんときばかりの間に、バタバタとここへ集団した野陣であるから、板小屋一ツありはしない。
 ところどころに鉄柱てっちゅうを打ちこみ、桐紋きりもん幔幕まんまくをザッとかけたのが本陣であろう。今――このかげから四、五人の軍卒ぐんそつ鎖具足くさりぐそくに血のにじんだ鉢巻はちまきをして、手に手にくわすきをひッさげ、バラバラと陣屋へけだしてきた。
 れんげがいっぱいいている。
 やわらかい若草が、二、三ずんほどなをそろえている野原を、血汐ちしおだらけな武者むしゃわらじがズカズカと踏ンづけてひとところへかたまったかと思うと、すきを持ったものが、サク、サク、サク、と四角い仕切しきりをつけてゆく。と、ただちにそのあとから、くわをふりかぶッたほういくさをするような力で、線のうちがわを、パッ、パッ、パッと土をかきだして、みるまにあなってしまった。
 と――こんどは、その穴へあつい桐油紙とうゆがみを一面にしき、五すんかすがいでふちをめて、ドウッと水を入れはじめる。
 そのまにほかのものが、まッに焼けたかねぼうを持ッてきては、ジュウッ、ジュウッ……とその中へ突っこむうちに、いつか、中の水は湯にかわって、モクリと白い湯気ゆげを立てた。
「できた――」
 といって、軍兵ぐんぴょうたちは、むこうの陣場へかくれてしまった。
 何ができたのだろう?
 すると、ややあってから、一方のまくをサッとはらって、羽柴筑前守秀吉はしばちくぜんのかみひでよし、ズカズカと大股おおまたにあるいてきた。
「殿、――しばらく、ただいまお支度したくもうけます」
 あわてながら追っかけてきたのは、秀吉ひでよし脇小姓わきこしょう朝野弥平次あさのやへいじ加藤孫一かとうまごいち
 かかえてきたたてを、バタバタと四、五枚そこへ敷きならべて、なおも、あとから運んできたのを、まわりへ立てようとすると、秀吉手をふって、
「うっとうしい」と、うしろ向きになった。
「はッ……では」
 と陣礼儀じんれいぎをして、ふたりがそこをさがると、秀吉は鎧草摺よろいくさずりをガチャリと楯の上へ投げすてて、まッぱだかになった。
 そして、一ぺんぬのをもって、前に軍兵ぐんぴょうがつくっていった、野陣の野風呂のぶろへドブリと首までつかりこんだ。
「ウーム……ウウム……」
 と、秀吉、湯のなかに首まではいって、さも心地よげにうなっていたが、ザブリと一つ顔をあらって、
「ああ、よい湯かげん――」
 と、湯穴ゆあなのフチにしいてある楯の上に腰かけ、りょうの足だけを、ダラリとなかへブラさげていた。そしてときどき無意識むいしきにジャブリジャブリとさせながら、
智恵ちえじまんな一益かずますも、ゆうべは定めしおどろいたろう……」
 苦笑くしょうをうかべて、桑名城くわなじょう観望かんぼうしている。
 そうだ。昨夜は滝川一益たきがわかずますが、ここから五、六里離れたところの白子しらこの陣へ夜討ようちをかけた。秀吉ひでよしは、きゃつめかならずこうくるな――と手を読んでいたから、四ほう平地へいちや森の人家のかげに、堀尾茂助ほりおもすけ黒田官兵衛くろだかんべえ福島市松ふくしまいちまつ伊藤掃部いとうかもん加藤虎之助かとうとらのすけ小川土佐守おがわとさのかみなど配置よろしくしいておいて、左近将監一益さこんしょうげんかずますばいをふくんで寄せてきたところを、ぎゃくに、ワ――ッとときの声をあげさせて、敵が森へ逃げんとすれば森の中から、海辺へはしれば海の中から、金鼓きんこを鳴らして追いまわし追いまわし、とうとう桑名城くわなじょうまでふくろづめに追いこんだ。
 これは兵法へいほうでいう八もん遁甲とんこう諸葛孔明しょかつこうめい司馬仲達しばちゅうたつをおとし入れたじゅつでもある。秀吉、それをこころみて、滝川一益たきがわかずますをなぶったのだ。
「まずこれで伊勢いせは片づけた、――つぎには柴田権六しばたごんろくか、きゃつも、ソロソロくまのように、雪国のあなから首をだしかけておろう……」
 敵城を前にして、すッかり野風呂のぶろであたたまった秀吉は、こうつぶやきつつ、まッになった下ッ腹へ、ウン、と、一つ力をいれて、いかにも愛撫あいぶするごとくへそのまわりをなではじめた。
 なでると黒いあかがボロボロ落ちた。
 それもそのはず、この二月十日に七万の大軍を三道にわけて、都を発してきて以来の入浴にゅうよくで、寝ぬ日もきょうで三日つづく。しかし、垢はでるがいねむりはでない。かれは精力の権化ごんげであった。
「どれ……上がろうか」
 湯の中に立って、手ばやく上半身をきはじめると、オオ、その時だ! れんげの花へピタリとからだをせて、へびのようにスルリ、スルリ……とはってきた異形いぎょうの武士が、寝たまま片腕かたうでをズーッとばして、種子島たねがしま筒先つつさきを、秀吉ひでよし背骨せぼねへピタリとねらいつけた。
 火縄ひなわをプッと吹いたようす――、ドーンとたまけむりがあがるかと思うと、せつなに、パッとはねかえった異形の武士は、くしにさされたかえるのように、九尺やり胸板むないたをつきぬかれ、しかもその槍尖やりさきはグザと大地につき立っていた。
孫一まごいち、やりおったの」
 それをニヤニヤ笑ってながめながら、秀吉、足をいてたての上にあがった。加藤孫一まごいち、すがたは見せないが、向こうの楯のかげで、
「は、一益かずますのまわし者と見ましたので」と答えた。
「イヤちがう。ありゃおそらく、徳川家とくがわけ隠密組おんみつぐみであろう。家康いえやすもなかなか人が悪いからの。あとでよく死骸しがいのふところをあらためてみい」
 ところへ、バタバタと早運はやはこびの足音がひびいてきた。フト見ると、加藤虎之助とらのすけ、はるかにはなれて具足ぐそくひざを地につかえる。
「おかみ
「ウム、虎之助とらのすけ
近江路おうみじへやりました井上大九郎、その他の者、ただいま武田伊那丸たけだいなまるをご陣屋まで召しつれましたが」
「や、帰ってきたか。ウム、伊那丸いなまるも同道して。――そうか。では表陣屋西幕おもてじんやにしまくのうちに床几しょうぎをあたえて、鄭重ていちょうにおとりなし申して置くがよい」
 これだけの言葉をはくうちに、秀吉ひでよしは、肌着はだぎ小手こて脛当すねあてをピチンとけて、皆朱碁石かいしゅごいしおどしのよろいをザクリと着こみ、唐織銀文地からおりぎんもんじ日月じつげつを織りうかした具足羽織ぐそくばおりまで着てしまった。
 そして鎧のアイビキひも草摺くさずりのクリシメひも、陣太刀のと、はしからキチキチむすんでゆく指の早さといったらない。まるで神技かみわざと思わるるくらいだ。もっとも秀吉ばかりでなく、およそ戦国の世に男とうまれ武士の子と生まれたほどの者は、みな、陣太鼓じんだいこが三ツ鳴るあいだに、具足着ぐそくきこみのできるくらいの修養しゅうようを、ふだんのうちにつんでいた。
孫一まごいち
 武将いでたちとなると、秀吉の威風いふう、あたりをはらって、日輪にちりんのごとき赫々かっかくさがある。
「はッ、御意ぎょいは?」
右陣うじんにいる福島市松ふくしまいちまつのところへ伝令せい! ただ今、武田伊那丸たけだいなまるが見えたによって、あずけておいた一品ひとしな、そっこくここへ持参いたせと」
「は、かしこまりました」
 ヒラリとたまりへかえった加藤孫一、使番目印つかいばんめじるし黄幌きほろに赤の差旗さしものにつッたて、馬をあおって、右陣うじん福島市松ふくしまいちまつのところへけとばした。
 伊那丸いなまるから秀吉ひでよしがあずかったというしな、――それは果たしてなんであろうか?


 伊那丸は与えられた床几しょうぎによって、秀吉ひでよしのくるのを待っていた。右には忍剣にんけん、左には龍太郎りゅうたろうけいとした眼をひからせている。
 張りめぐらした幔幕まんまくのそとには、やりさきがチカチカとしものごとくうごいていた。やがて、加藤虎之助とらのすけがあらわれて、いんぎんに礼をして、秀吉ひでよしの大将座をもうけ、そのわきにひかえていると、順をおって堀休太郎ほりきゅうたろう蜂須賀小六はちすかころく仙石権兵衛せんごくごんべえ一柳市介ひとつやなぎいちすけなどの、旗本はたもとがいならび、やがて幕をはらって、秀吉の碁石縅ごいしおどしの姿がそこへあらわれた。
「おお、伊那丸どのな――」
 こういいながら秀吉は、ズカリと前へよってきた。その満顔まんがんみをみると伊那丸も旧知きゅうちのような気がして、笑みをもって迎えずにはいられなかった。
「まずもって、あっぱれなご成人ぶりを祝福いたす。つねにうわさはきいておるが、イヤ、さすがは機山大居士きざんだいこじ御孫おんまごすえたのもしい御曹子おんぞうしじゃ……」
 みじんのわだかまりもなく、胸をひらいて手をつかんだ。そして、その手をふって明るく笑った。あたかも肉親の邂逅かいこうのように。
「さて、眼前がんぜんにまだ一攻ひとせめいたす桑名城くわなじょうもござるゆえ、ゆるりとお話もいたしかねるが、お迎えもうしお返しせねばならぬ一品ひとしな。おじゃまではあろうなれど、小太郎山こたろうざんのとりでへ、土産みやげとしてお持ちかえり願いたい」
 床几しょうぎになおって、羽柴秀吉はしばひでよし、こういうと手の軍扇ぐんせんひざにとってかまえながら、
市松いちまつ! 市松!」とおごそかにばわった。
「はッ」
 というまくかげの答え。主命しゅめいによって、いまそこへ、ひかえたばかりの福島市松ふくしまいちまつ、一鎧櫃よろいびつをもって、秀吉と伊那丸いなまるの中央にすえた。
「伊那丸どの、お返し申すしなはこのなかにある。すなわち、それは武田家たけだけのご再興さいこうになくてかなわぬ什宝じゅうほう御旗みはた楯無たてなし名器めいきでござりますぞ」
「や、ではこの中に、御旗楯無の宝物ほうもつが?」
「秀吉の手にあるわけは、あの和田呂宋兵衛わだるそんべえめが、人穴城ひとあなじょうにおったころ、京へ売りつけにきた物をもとめておいたからでござる。もとより、もとめる時からこの秀吉には用のないしな、いつかそこもとの手へ返してあげたいと念じていたのじゃ、どうぞ、あらためて貴手きしゅへお受け取り願いたい」
 武田家たけだけ無二むにの什宝――御旗楯無。それこそは、伊那丸にとってなによりなものである。裾野すそのの湖水へしずめて隠しておいた後、それが何者かに盗みさられて、呂宋兵衛の手で京都にはこばれ秀吉の手からふたたび伊那丸へ返ってきたのは、これ武田家再興の大願がなる吉兆きっちょうか――と、かれはなつかしくそれをながめ、また、秀吉ひでよしの好意をしゃさずにもいられない。
 二言三言ふたことみこと、その礼をのべている時だった。なにごとか、にわかに、陣々に脈々みゃくみゃくたる兵気がみなぎってきたかと思うと、本陣へ京都からの早馬の急使がきて、秀吉に、時ならぬ急報をつげた。
 いわく、
 北国きたしょう柴田勝家しばたかついえ盟友めいゆう一益かずます桑名くわなしろあやうしと聞いて、なお残雪のあるとうげけんをこえ、佐久間盛政さくまもりまさ先鋒せんぽうに、上部八風斎かんべはっぷうさい軍師ぐんしにして近江おうみへ乱入し、民家を焼き要害ようがいのとりでをきずいて、作戦おさおさおこたりない――と。
 その飛状ひじょうを手にした秀吉は、あわてもせず、莞爾かんじとして、
「では残りおしいが、伊那丸いなまるどの、また会う機会もあるであろう。その宝物の御旗みはた、その楯無たてなしよろいが、かがやく日をお待ちするぞ」
「ご芳志ほうし、ありがたくおうけいたします」
「おお、それより小太郎山こたろうざんへお帰りあるは、途中さだめし多難であろう。秀吉の部下五、六十おかし申そう」
「イヤ、徳川領とくがわりょうを通るのがおそろしゅうて、秀吉どののさむらいを借りてきたと申されては……」
「ウウム、名折なおれといわるか」
「多難は旅の道ばかりではございませぬ」
「そうじゃ。天下は暗澹あんたん――いずれ、光明のかんむりをいただく天下人てんかびとはあろうが、その道程どうてい刀林地獄とうりんじごく血汐ちしお修羅しゅらじゃ。この秀吉ひでよしのまえにも多難な嶮山けんざん累々るいるいとそびえている」
「ましてやおさない伊那丸いなまるが、わずかな旅路を苦にしてどうなりましょうか」
「愉快なおことば、秀吉もその意気ごみで、ドレ北国の荒熊あらぐまどもを、一煽ひとあおりにちらしてまいろうよ」
 さらば――と別れて、秀吉はたって作戦の用意にかかり、伊那丸は、はからずも手にもどった御旗みはた楯無たてなし具足櫃ぐそくびつ忍剣にんけんの背に背おわせて、陣のうらかられんげ草のさく野道へ走りだした。
 ワーーッという武者押しの声をきいた。
 小手をかざして桑名くわなほうをみると、はやくも秀吉の先陣は、ふたたび戦雲をあげて孤城奪取こじょうだっしゅの総攻めにかかり、後陣は鳥雲ちょううんのかたちになって、長駆ちょうく柴田しばたとの迎戦げいせんに引ッかえしてゆく様子――。
 その戦雲をくぐり、敵味方の乱軍をぬけて、伊那丸主従は、やがて名古屋から岡崎へとすすんでいった。――ああ、いよいよあと十数里で、徳川家康とくがわいえやすの本城、浜松の地へ入ることになる。
 さきに、奸策かんさくをえがいていた呂宋兵衛るそんべえが、こんどは、狡智深謀こうちしんぼうな家康と、どう手を組んでくるだろうか。
 伊那丸いなまるのまえには、いまや、おそるべき死の坑穴こうけつが何者かの手で掘られている。

 死といえば、夜の湖水にただよっていた、鞍馬くらま竹童ちくどうと泣き虫の蛾次郎がじろう。あのふたりの死はどうなっただろう。
 死はどうなるものでもない。
 死は絶対ぜったいであり永遠である。

仲直なかなお




 琵琶湖びわこのなかにひとつの島がある。本朝ほんちょう奇景きけいのうちに数えられている竹生島ちくぶしま
 島の西がわ、天狗てんぐつめとよぶ岩の上に、さっきからひとりの神官しんかん、手にしょうの笛をもち、大口おおぐちはかまをはき、水色のひたたれを風にふかせて立っている。
 そこから小手をかざしてみると、うッすらとした昼霞ひるがすみのあなたに、若狭わかさ三国山みくにやま敦賀つるが乗鞍のりくら北近江きたおうみの山々などがまゆにせっしてそびえている。そして、はるかやなのおくから、この琵琶湖へ一れつの銀流をそそいでくる高時川たかときがわのとちゅうに、のッと空に肩をそびやかしているのは、しずたけ巨影きょえいで、そのうしろに光っているいちめんの明鏡めいきょう余呉よごの湖水と思われる。
 と、――その神官しんかんの眼が、そこにピタリといついて時ひさしくたたずんでいるうちに、賤ヶ岳からやなにわたる方角に、モクリと黄色いけむりがあがった。
 見るまに、それを一手として、つぎには、大岩山おおいわやま木之本附近きのもとふきん岩崎山いわさきやまのとりでとおぼしきところから山火事のような黒煙こくえんがうずをまいて、日輪にちりんの光をかくした。と思うと、余呉の湖水や琵琶びわ大湖たいこも、銀のつやをかき消されて、なまりのような鈍色にぶいろにかわってくる。
「ああ、敗れた!」
 神官は手にもてるしょうのような声でさけんだ。
「賤ヶ岳のとりでも落ちた――柳ヶ瀬の陣も総くずれだ――柴田勢しばたぜいはとうとう秀吉ひでよしのためにほろぼされる運命ときまった……」
 いかにも悲痛ひつうな色をうかべた。
 神官のひとみには、かすかな涙の光さえみえる。
 そして、亡国ぼうこくの余煙をとむらわんとするのか、おがむように笙を持って、しずかに、その歌口うたぐちへくちびるをあてた。
 そう音色ねいろ悲愁ひしゅうな叫び、または※(「口+曹」、第3水準1-15-16)そうそうとしてさわやかに転変する笙の余韻よいんが、志賀しがのさざ波へたえによれていった――
宮内くないさま、――菊村きくむらさまア!」
 すると、そのしょうをたよりにして、岩々がんがんたる島の根をぎまわってくる小船があった。
 呼ぶこえ、おと。船のなかにはひとりの若い漁師りょうしが、櫓柄ろづかをにぎって、屏風びょうぶのような絶壁ぜっぺきをふりあおいでくる。
「おう、源五げんごか」
 天狗てんぐつめからのびあがって、こう答えた神官は、すなわち菊村宮内きくむらくないである。松の枝に手をささえて、波うちぎわを見おろした。
「宮内さま、おたのみをうけまして、すっかりおかのようすをみてまいりました」
「ごくろうごくろう、さきほどから、その返辞へんじを待ちかねていたところ、どうであったいくさの結果は」
伊勢いせの陣から引っかえした秀吉勢ひでよしぜいは、おそろしい勢いで、無二無三むにむさんに北国街道かいどうをすすみ、堂木山どうきざんに本陣をおいて、柴田勢しばたぜいを追いちらし、きたしょうまでけすすんでゆくというありさまです」
「ウーム、そうか、北国一の荒武者あらむしゃといわれた、佐久間盛政さくまもりまさもそれをいとめることができなかったか……」
佐久間勢さくまぜいも、一どは秀吉方ひでよしがた中川清兵衛なかがわせいべえを破ったそうですが、丹羽長秀にわながひでが不意の加勢についたため、勝軍かちいくさぎゃくになって、北国勢ほっこくぜいは何千という死骸しがいを山や谷へすてたまま、越前えちぜんへなだれて退いたといううわさです。このあんばいでは、やがてきたしょう柴田勝家しばたかついえも、近いうちには秀吉ひでよし軍門ぐんもんにくだるか、でなければなまくびをしおづけにされて凱旋がいせん土産みやげになってしまうだろうと、もっぱら風聞ふうぶんしております」
「おうわかった――北国勢の敗軍であろうとは、ここからながめても、およそ見当がついていた。源五げんご、ごくろうだった。また用があったらしょうを吹くから……」
 力なくこういうと、神官しんかん菊村宮内きくむらくないは、天狗てんぐつめからすべりおちるように、よろよろと島のなかへすがたをかくしてしまった。
 島にはつつじ、山吹やまぶき連翹れんぎょう糸桜いとざくら、春の万花まんげらんまんと咲いて、一面なる矮生わいせい植物と落葉松からまつのあいだを色どっている。宮内のすがたは、そのうるわしい自然に目もくれないで、しおしおと細道をたどっていった。
 かれの直垂ひたたれそでをかすめて、まッ黄色な金糸雀カナリアがツウ――と飛んだ。
 と、その向こうには、神さびた弁天堂べんてんどうの建物が見えた。なお、あたりには、宇賀うが御社みやしろ観音堂かんのんどう多聞堂たもんどう月天堂げってんどうなどの屋根が樹の葉のなかにいている。
「宮内さま、もうおひるでございます」
 社の内から走りだしてきた巫女みこの少女が、かれの姿をみるとこうげた。だが、宮内はゆううつな顔をうつむけたまま、
「う、おひるか。やめよう、今日はなんだかべたくない」
 とかぶりをふった。ちいさい巫女はそれを追って、
「ですけれど、あの、可愛御堂かわいみどうのなかにいるおかたへは、いつものように、おかゆを作っておけとおっしゃったので、もうできておりますが」
「お、忘れていた。じぶんの心がみだされたので、ツイそのことを忘れていた。さだめしおなかがすいていよう」
「じゃ、いつもの通り、あそこへ運んでまいりましょうか」
「あ、両方りょうほうへ同じようにな」
 宮内くないは急にいそぎ足になって、境内けいだいのかたすみにある六かくどうへ向かっていった。一けん木連格子きつれごうしが、六面の入口にはまっていた。
 その一方のじょうをあけて、宮内はやさしい声をかけた。うすぐらい御堂の中には、蒲団ふとんをかぶって寝ている少年のすがたがある。――ふと見ると、それは泣き虫の蛾次郎がじろうだった。


「どうだな、蛾次郎さん」
 と宮内はそこへしゃがみこんで、からだの、容体ようたいをききはじめた。そのようすをみると、かれはしばらく病人となって、この可愛御堂にじこもっていたものとみえる。
 だが、蛾次郎は、蒲団のなかにねてこそいるが、もうあらかたご全快ぜんかいのていとみえて、宮内の顔をみるやいな、ムックリとそこへ起きあがった。そして、
「おじさん、ひどいじゃねえか! どうしたンだいッ」
 とどなりつけた。
 病人にどなりつけられたので、宮内くないも少しびっくりしたが、二十あまりもこの蛾次郎がじろうの世話をやいて、いまではすッかりその性質をのみこんでいるから、かくべつおこりもしなかった。
「たいそうな元気じゃの。けっこうけっこう、それくらいな勢いなら、もうじきに元のからだになるだろう」
「なにをいッてやがるンだい」
 蛾次郎は不平の口をとンがらして、
「もうとッくの昔に、このとおりまえの体になっているんじゃないか。それを、いつまでこんな中へほうりこんでおいて、だしてくれないッて法があるかい。え、おじさん――どこの国へいったって、そんなばかな法はないぜ」
「そうかな、それは悪かったよ」
 と、宮内は、どこまでも好人物こうじんぶつらしく笑っている。
「おまけに、しょうばかり吹いていて、まだおひるめしも持ってきてくれやしねえ。ちぇッ、おらア腹がへってしまった」
「いまじきに持ってきてあげるから、おとなしくしておいでなさい」
 宮内はこうなだめておいて、そこのとびらをピンとめたかと思うと、こんどは、つぎから二ツ目の木連格子きつれごうしじょうをあけた。と、みょうなことに、この中にも蛾次郎がじろうのところと同じように、一組の夜具やぐが敷きのべてあって、その蒲団ふとんの上にも、やはりひとりの少年がいる。
 だが、これは向こうの蛾次郎のごとく不作法ぶさほうではなくいかにもものしずかに、いるかいないかわからぬようにしてすわっていたが、木連格子がギーッとひらいたので、顔をさし入れた菊村宮内きくむらくないと目を見あわせ、だまって、頭をさげた。
「うっかりして、昼の食物ものをおそくいたした。さだめし空腹になったであろう」
「どういたしまして、それどころではございません」
 こういった者こそ、かの鞍馬くらま竹童ちくどうなのである。
 その日からおよそ二十ほどまえ、海月くらげのようにただよって、湖水におぼれていた竹童と蛾次郎が、いまなお、この竹生島ちくぶしま可愛御堂かわいみどうという建物のなかにせいをたもっているところをみると、あの夜か翌朝、島の西浦にしうらで、弁天堂べんてんどうの神官菊村宮内の手で救いあげられたにそういない。そして、柔和にゅうわで子供ずきな宮内の手当てあてあつかったために、こうしてふたりとも、もとのからだに近いまでに、健康をとりもどしてきたのだろう。
「ありがとうぞんじます。もうからだもよほどよくなりましたから、けっして、ごしんぱいくださいますな。そして、わがままのようですが、どうぞわたくしのからだを、この島からおはなしなすッてくださいまし」
 竹童が、こういったものごしを見るにつけても、宮内は、向こうにいる蛾次郎とこの少年とは、なんという性格の違い方だろうと思った。
 だが、かれは、どッちも憎いと思わなかった。竹童ちくどうが好きなら、蛾次郎がじろうも好きだった。イヤ、菊村宮内きくむらくないという人物は、すべての子供――どんな鼻垂はなたれでもオビンズルでもきたない子でも、子供と名のつく者ならみんな好きだった。
 それがために、かれは武士の身分をすてて、この竹生島ちくぶしまへ、可愛御堂かわいみどうという六角屋根の建物をたてた。
 今日は東の国、あすは西の国と、つぎからつぎへたたかいがあってやまない世の中。――その兵火のたびごとに、武士も死ねば女も死ぬ百姓も死ぬ、まして、たくさんな子供のたましいも犠牲いけにえになる。
 菊村宮内は、もと柴田勝家しばたかついえ家中かちゅうでも、重きをなしていた武将であったが、そういう世のありさまをながめると、まことに心がかなしくなった。で、主君の勝家からいとまをもらって、いくたの戦場をたずね、やがて竹生島の弁天べんてんやしろにそって、この可愛御堂を建立こんりゅうした。
弁財天べんざいてんは母である。そしてわしは不運なおおくの子供たちの慈父じふになりたい」
 こういう願いをもっている。
 ところが、さきごろから、琵琶湖びわこの附近にも、いくさ黄塵こうじんがまきあがった。すなわち、伊勢いせ滝川一益たきがわかずますをうった秀吉ひでよしが、さらにその余勢よせいをもって、北国の柴田軍しばたぐんと、天下てんか迎戦げいせんをこころみたのである。
 不幸な子供のたましいをとむらいながら、可愛御堂かわいみどう堂守どうもり生涯しょうがいをおわろうと思っていた菊村宮内きくむらくないも、むかしの主人であり、ふるさとの兵である北国勢ほっこくぜいが、すぐむこぎし木之本きのもとでやぶれ、しずたけから潰走かいそうするありさまを見ると、なんとなく心がいたんで、いっそのこと、島をでてふたたび主君の馬前に立とうかとさえ――ツイさっきも迷ったのである。
 しかし、それもそれだが、まったくみじめな、乱世らんせいの子供たちの慈父じふとなる生涯も、けっして悪い目的ではない。ことに、いま、この島には、じぶんが心をそそいで救いかけている竹童ちくどうという少年、蛾次郎がじろうという少年がいる。
 もう、からだはなおったが、からだだけなおしてやっただけでは、まんぞくとはいえない。ふたりの境遇きょうぐうや、心までも、幸福に健全けんぜんにして、そして、この竹生島ちくぶしまをだしてやりたいと、かれは願った。


 でいまここに、蛾次郎の顔をみ、竹童のすがたを見ると同時に、宮内くないは、みずうみをへだてたかなたのいくさのことも、きれいに心頭しんとうから忘れさって、まことに慈父じふのような温顔おんがんになっていた。
「この島からだしてくれといわれるか?」
「はい」竹童はキチンとすわって、そしてすなおに、
「わたくしには、一ときも忘れてはならない主君がありますし、それに、だいじなわしのゆくえもさがさなければなりませんから……」
「おお、おまえは主人持ちか。してそのお人という者の名は?」
「ここでは、お話し申されません。ですが、お師匠ししょうさまの名まえなら、打ちあけてもかまわないでしょう。わたくしは鞍馬山くらまやま僧正谷そうじょうがたににいる果心居士かしんこじ先生の弟子でしのひとりでございます」
「ウム、有名な、果心居士のお弟子であったか。なるほど、それならものの聞きわけもよいはずだ。……ではおまえに一つのたのみがあるが」
「はい、いのちをたすけられたご恩人」
「なんでも聞いてくれるというのか」
「できることならきっとききます」
「ほかではないが、おまえと一しょに、湖水におぼれていた蛾次郎がじろうな」
「ああ、あの蛾次郎がどうかしましたか」
「どうも、ひどくなかが悪そうだが、なんとかわしの顔にめんじて、これからさき、仲をよくしてくれないか」
「…………」
 竹童ちくどうはだまって下を向いてしまった。
「でないと、ふたりをこの御堂みどうからだしてやることができない。せっかくわしが助けてあげても、このとうをでるとたんに、おりをでた犬とさるのように、また血まみれになったり、取ッ組んだりされては、わしの親切がかえってあだになってしまう。それがゆえに、つみのようだが、ふたりを別々な口へいれて、じょうまでおろしているのだよ、これもひとつの情けのかぎだ。悪く思ってくれてはこまる」
 宮内くないのあたたかい真心が、じゅんじゅんと胸にひたってくるので、竹童も思わず涙ぐましくさえなった。
 だが、そればかりは、竹童にも、ハイとすなおに快諾かいだくされなかった。かれはだまって、いつまでも下をむいていた。
「いけないと見えるな……ウーム、これだけはさすがのわしもこまったな」
 そこへ、巫女みこの少女がかゆをはこんできたので、宮内はそれを竹童にあたえ、蛾次郎がじろうの分はじぶんが持って、また以前のところへもどってきた。
 お粥のけむりを見ると、空腹すきばらで、のどから手がでそうなくせにして、蛾次郎はプンプンとおこった。
「けッ、またおかゆかい、おじさん」
「うごかずにいるあいだは、まアまアこれでがまんをしなければ」
「じょうだんじゃねえや、おれなんか、裾野すそのにいたじぶんから、ズッと奈良ならや京都のほうを見物して歩いてる時なんかも、こんなまずいものを一どだってったことはありゃしねえ」
「ほウ、おまえはそんなぜいたくだったのか」
「そうさ、おいらはこう見えても、徳川家とくがわけへゆけばはぶりがきくんだからな。浜松にいる菊池半助きくちはんすけという人を知っているかい。おじさんなんか知るめえ。隠密組おんみつぐみで第一ッていう人よ。おれはその人にずいぶん小判こばんをもらったぜ、つかいきれないほどあった――アアつまらねえつまらねえ、また浜松へいって、少しお金をせびッてこよう」
 ひとりでペラペラしゃべりながら、まずいといったかゆを一つぶのこらずなめてしまった。
 そして、すぐにゴロリと横になって、手枕てまくらをかいながら、生意気なまいきそうな鼻のあな宮内くないのほうにむけ、
「おじさん、いまおめえは、この向こうにはいっている竹童ちくどうのところで、なにかコソコソ耳こすりをやっていたろう」
 といった。
「ウム。おまえとなかをよくせぬかと、そのそうだんをしていたのじゃ」
「くそウくらえ――だれがあんなやつと仲をよくするもんか。おいらは徳川びいきだし、あの竹童ッてやつは、山乞食やまこじき伊那丸いなまるって餓鬼がきや、イヤな坊主ぼうずに味方をしているんだ」
「ではどうもしかたがないな。……ふたりの気がおれて、仲をよくするというまで、このとうにはいっていてもらうよりほかに方法はあるまい」
 宮内くない竹童ちくどうのたべた土鍋どなべのからと、蛾次郎がじろうべたからを両手にもって、社家しゃけのほうへもどってしまった。
 格子こうしのすきまから、そのうしろ姿をみて、蛾次郎は声のあるッたけあくたれをついた。
「やい、早くここをだしてくれよ。いッてしまっちゃいけないよ! やい神主かんぬし! つんぼかおしでくぼうか! オイきこえないふりをしてゆくない。オーイ、バカ神主め、おいらをいつまで竹生島ちくぶしまへおいておくんだい。かえせ、帰せ、かえしてくれ! 帰さねえと、いまに弁天べんてんさまへ火をつけるぞッ!」
 あおむけにながら、足で床板ゆかいたをふみ鳴らし、口から出放題でほうだいにあたりちらしていると、その仕切境しきりざかいの板のむこうがわで、
「やかましいッ」と、小気味こきみのいい一かつがツンざいた。
「オヤ、なんだと!」
 ムクムクと身をおこした蛾次郎。
「なにがやかましいッ!」と負けずにどなりかえした。
 だが、じぶんの声が、ガーンとくらいとうの内部へひびいただけで、もう向こうにいる竹童は、それきり、かれの相手になってこなかった。

火独楽ひごま水独楽みずごま




 強がりンぼで横着おうちゃくで、すぐツケあがる泣き虫の蛾次郎がじろう。いざとなれば声をだしてわめくくせに向こうでだまりこむと、その足もとをつけこんで「やい、竹童ちくどうッ」と、こっちからけんかを吹ッかける。
 これだから菊村宮内きくむらくないも、このしょうのあわないふたりを、一つのじぶんの手にすくって、難儀なんぎをしているところなのだ。で、どうかして、仲をよくしてやりたいと考えてはいるが、なにしろ蛾次郎は、からだを養生ようじょうするうちに菊村宮内のやさしさにれ、すっかり増長ぞうちょうしている気味きみだから、とても竹童と手をにぎって、心から打ちとけるべくもない。
「やいなんとかいえよ!」
 ごうをにやして蛾次郎は、さかいの板をドンドンとたたいた。すると、向こうにいて、ジッと我慢がまんをしているらしい竹童も、ついに、堪忍袋かんにんぶくろをきって、
「だまれッ、狂人きちがい!」としかりつけた。
「なに、狂人だと! おれのこと、狂人だとぬかしたな。なまいきなア! いまに野郎やろうおぼえておれよ。フーンだ――いまにこの島をでてみやがれ、あの大鷲おおわしをまたおいらの手に取りかえして、きさまたちに目にもの見せてくれるから」
の中のかわず――おまえなんかに天下のことがわかるものか、この島をでたら、分相応ぶんそうおうに、人の荷物にもつでもかついで、その駄賃だちん焼餅やきもちでもほおばッておれよ」
「よけいなおせッかいをやくな。てめえこそこの島からだされると、また八神殿しんでん床下ゆかしたで、お乞食こじきさまのまねをするより道がねえので、それで、おとなしくしていやがるンだろう。武田伊那丸たけだいなまるだッて、忍剣にんけんとかいうやつだって、龍太郎りゅうたろうという唐変木とうへんぼくだって、てめえの味方は、みんなロクでもねえ山乞食やまこじきばかりだ」
「うぬッ、伊那丸さまのことをよくもあしざまにいったな」
「オイオイ、どッちもでられないと思って、強そうなことをいうなよ、なぐれるものならなぐってごらんだ。お手々てていたくなるばかりだ」
「バカ! こんなほそい木連格子きつれごうしぐらい、破ろうと思えば破れるが、それでは、ごおんになった菊村きくむらさまにすまないから、おゆるしのあるまで、ジッとしんぼうしてはいっているのだ」
「ちぇッ! おつなことをおっしゃったよ。おなかの虫がチャンチャラおどりをしたいとサ」
「きッとか! 蛾次郎がじろう!」
「おどかすねえ、琵琶湖びわこの水をのんで、助かったばかりのところを」
「だからだまっていろというのだ」
「そういわれりゃなおさわぐぞ」
「勝手にしろい」
「ざまを見やがれ、へッこみやがって!」
「こいつ!」
 と竹童ちくどうがわれをわすれて立ったとたんに、ヒョイと手をかけると格子こうしのとびらが、観音かんのんびらきにサッといた。
「あッ――」
 はずみをって、とうの口からころがりだしたせつなに、蛾次郎がじろう仰天ぎょうてんしてをおした。すると、意外や、そこも容易よういにパッとひらいて、かごの鳥が舞うようにかれも表へとんででる。――
 そうだ、菊村宮内きくむらくないは、さッき社家しゃけのほうへもどる時、いつものように、そとからじょうをおろしてゆかないようであった。なにか考えごとをしていて、ウッカリそれを忘れていたのだ。
 それはいいが、さてまたここに一大事。
 パッと両方の口からとびだした蛾次郎と竹童とは、王庭おうてい血戦けっせんをいどむ闘鶏とうけいのように、ジリジリとよりあって、いまにもつかみ合いそうなかたちをとった。
 裾野すその以来――また、京都の八神殿しんでん以来――かれとこれとは、いよいようらみのふかい仇敵きゅうてきとなるばかりであった。ことに蛾次郎は、一ど徳川家とくがわけからあまいしるをすわされているので、そのほうに肩をもち、竹童はそれを伊那丸いなまるとともに敵としている。また、いまはいずこの空へ飛んでいるかわからないが、あの大鷲おおわしをたがいにわが手におさめんとするきそも蛾次郎は竹童をめざし、竹童は蛾次郎の息のねをとめてしまわなければやまない。
 ところが、蛾次郎も、近ごろはせんのうちより、だいぶ強くなってきた。もともと彼は石投げの天才であって、智能ちのうの点はともかくも、糞度胸くそどきょうがつくとなると、どうして、容易よういにあなどりがたい。
 ましてやいまは、竹童も般若丸はんにゃまる宮内くないの手にあずけてあるし、蛾次郎もあけびまき一腰ひとこしを取りあげられているから、この勝負こそ、まったく無手むてと無手。
「ウーム、よくもいまは広言こうげんをはいたな」
 と、につばきをくれながら、竹童がジーッとせまると、蛾次郎もまたうでをまくりあげて、
「こん畜生ちくしょう、もう一ど琵琶湖びわこの水をくらいたいのか」
 いきなりこぶしをかためて、電火のごとき力まかせに、グワンと相手の頬骨ほおぼねをなぐりつけていったが、なにをッ! と引っぱらって鞍馬くらまの竹童、パッと身をかわしたので、ふたりはすれちがいに位置を取りかえ、またそこで血ばしった眼をにらみ合った。
 と――思うと蛾次郎は、ふいに五、六けんほどとびさがって、足もとから小石をひろった。卑怯ひきょう! 飛礫つぶてをつかんだな! と見たので竹童も、おなじように大地のものを右手につかんだ。
 だが、竹童のつかんだのは、石でもない、土でもない。
 あたり一面に、雪かとばかり白く散っていた、糸桜いとざくらの花びらである。
 花びらの武器ぶき? なんになるのか蛾次郎がじろうにはわからない。畜生ちくしょう、すこし血があがっていやがるなと見くびってひろいとった石飛礫いしつぶて、ピューッと敵の眉間みけんへ打ってはなすと、竹童すばやく身をしずめて指の先から一ぺんの花をもみだしてくちびるへあて、息をくれて、プーッと吹いたかと思うと、それは飛んで一ぴきの縞蜘蛛しまぐもとなり、つぎの飛礫をねらいかけていた蛾次郎の鼻へコビリついた。
 これはかつて竹童が、人穴城ひとあなじょうへ使者としていったとき、呂宋兵衛るそんべえの前でやって見せたことのある初歩の幻術げんじゅつ、きわめて幼稚ようちなものであるが、蛾次郎ははじめてなのでおどろいた。
「わッ」
 といって、おもわず顔へ手をやった。すでにたいはみだれたのだ。たりと竹童、そこをねらってけよりざま、さらにつかんでいた無数の花びらを、エエッと、力いッぱい蛾次郎の頭からたたきつけた。オオ落花らっかみじん、相手はふんぷんたる白点につつまれたであろうと見ると、それとはちがって、竹童の手からパッと生まれて飛んだのは、まッくろな羽に赤いうずのある鎌倉蝶々かまくらちょうちょう、――蛾次郎の目へ粉をはたいてすぐにどこかへ消えてしまった。
 いよいようろたえた泣き虫の蛾次郎、たわいもなく竹童の足がらみにけたおされて、ギュッと喉笛のどぶえをしめつけられ、さらにうらみかさなるこぶしの雨が、ところきらわずに乱打らんだしてきそうなので、いまは強がりンぼの鼻柱はなばしらがくじけたらしく、
「たッ、たすけてーッ、神主かんぬしさま、神主さま」
 最前、ここをだしてくれなければ、火をつけるぞとあくたれいていた、その弁天べんてんさまのほうへ、声をしぼって救いをよんだ。


 その晩である。
 こぶだらけになった蛾次郎と、みみずばれをこしらえた竹童とが、菊村宮内きくむらくない住居すまいのほうで、かた苦しくすわらされていた。
 昼間、もう少し蛾次郎がやせがまんをしていたら、竹童のためにしめ殺されていたかもしれない。あのとき、すぐに宮内がけつけて引き分けてくれたからこそ、かれの頭が多少のでこぼこをていしただけですんでいる。
「なんとしても、ふたりは死ぬまで、敵となりかたきとなり、仲よくしてはくれないというのか。アア……どうもこまった因縁いんねんだの」
 宮内は双方そうほうの顔を見くらべて、つくづくとこう嘆息たんそくした。
 およそどんな者にでも、真心から熱い慈愛じあいをそそぎこめば、まがれる竹もまっすぐになり、ねじけた心もめなおせると信じているかれだったが、竹童はとにかく、蛾次郎の横着おうちゃく奸智かんち強情ごうじょうには、すっかり手を焼いてしまった。
 こういう性質たちの不良なものでは、日本に天邪鬼あまのじゃくという名があり、西洋にはキリストの弟子のうちに、ユダという男がいた。ユダの悪魔あくまぶりにはキリストも持てあましたし、十二使徒しとの人々も顰蹙ひんしゅくして、あいつはとても、真人間まにんげんにはなりませんといったくらいだ――という話を、宮内くないはいつか伴天連バテレン説教せっきょうにきいたことがあるので、蛾次郎もそれに近い人間かなと考えた。
「では、なんともいたしかたがない。いつまでおまえたちを、この竹生島ちくぶしまくさりでつないでおくわけにもゆかぬから、明日あしたはふたりをむこうのおかにおくってあげよう」
 とうとう宮内もあきらめてこういいわたした。
「まことに、永いあいだ、手あついお世話になりました」
 竹童は尋常じんじょうれいをいったが、蛾次郎は、ヘン、おかゆばかりわせておきやがって、大きな顔をしていやがる――といわんばかり、つらこぶをふくらましてそッぽを向いたままである。
「だが? ……」と宮内はまたなにか考えて、
明日あしたまでにはまだだいぶがある。たがいに顔を見ているとツイつかみ合いをやりたくなるから、向こうへゆくまでのあいだ、これをかぶって双方そうほう口をきかぬことにしているがよい」
 と、おくへいって持ってきたのは、ふるい二つの仮面めんである。あおい烏天狗からすてんぐ仮面めん蛾次郎がじろうにわたし、白いみこと仮面めんを竹童にわたした。
 それをかぶらせておいてから、宮内はも一つのほうの箱を開けてふたりの前にみょうなものをならべてみせた。
 なにかと思って目をみはった蛾次郎が、
「オヤ、独楽こまだ!」と、すぐに手をだしそうになるのを、
「まあ、お待ち」
 と宮内がそれをおさえて、じぶんの両手に一ずつ持ち、さて、ふたりの者へ、たのむようにいうには、
「この古代独楽ごまは、竹生島ちくぶしまの宮にあった火独楽ひごま水独楽みずごまというめずらしいものだ。この火独楽を地に打ってまわせば、火焔かえんのもえてくるうかとばかりに見え、この水独楽をくうにはなせば、サンサンとして雨のような玉露たまつゆがふる……」
「おもしろいな!」
 説明をきいているうちに、蛾次郎、もうこぶのいたさを忘れてぬすんでもほしそうな様子をする。
「これこれ、そうおもしろいことばかり聞いてくれては、わしが話をする意味がなくなる。まだこの独楽にはふしぎな力がたくさんあって、たとえば、じぶんのまようことをわんとし、または指すべき方角をこころみる時に、この独楽をまわせば自然にそのほうへまわってゆく――、などということもあるが、あまり話すと、また蛾次郎がじろうかんちがいをいたすから、もうそのほうのことはいうまい」
「おじさん、――じゃアなかった。神主かんぬしさま、もう蛾次郎も、けっして勘ちがいなんかしないことにいたします」
「わかったわかった、ところで竹童ちくどう
「はい」
「このあか火独楽ひごまはそなたに進上する」
「えッ!」
 といったのは、もらった竹童ではなくって、それをながめた蛾次郎である。
「そ、それを竹童に? ……もったいないなあ。じゃおれにもこっちをくれるんだろう」
「やらないとはいわない。この青い水独楽みずごまは、すなわちおまえにあげようと思って、とうから考えていたくらいなのだ」
「ちぇッ、かたじけねえ」
 独楽こまを押しいただいた蛾次郎は、そのままうしろへ引っくりかえって、鯱鉾しゃちほこだちでもやりたかったが、またしかられて取りあげられては大へんと、かたくにぎっておどりだしたいのをこらえていた。
「そこでな、ふたりの者」
 きッとあらたまった宮内くないは、まず少年の心理をつかんでおいてから、その本道ほんどうこうとする。
「こんどはわしのいうことをきいてくれる番だぞ。よいかな。明日あすこの島をでて、向こうのおかへあがってから、もうわしがそばにいないからよいと思って、その仮面めんをとるが早いか、喧嘩けんかや斬りあいをするのでは、今日きょうまでの宮内のこころはになってしまう」
「ごもっともでございます」
 と蛾次郎がじろう、みょうなところでばかていねいな返辞へんじをした。笑いもしないで竹童ちくどうはまじめに、
「それで、宮内さまのおたのみというのは、いったいなんでございますか」
 とかたずをのむ。
「ほかではないが、ふたりの遺恨いこんを、きょうからこの独楽こまにあずけてしまって、たがいに、討つか討たれるか、いのちのやり取りをしようという時には、この独楽で勝負をしてもらいたい。そうすれば、独楽はくだけても、そなたたちのからだに怪我けがはできないから」
「わかりました」
「その、きっと承知しょうちしてくれるだろうな」
「じゃア、なんですか?」とまた蛾次郎が反問はんもんした。
「たとえば、わたしたちの争っている大鷲おおわしを、どっちのものにするかという時にも、つまり、この独楽こまのまわしッくらで、きめるんですか」
「そうだ、そればかりでなく、今日のような場合ばあいでも、腹がたったら独楽で勝った者のいいぶんを通すなり、または、あやまるということにしたら、なにもつかみあって湖水におぼれるまでの必要もなくなるであろう」
 しいものは与えられ、愉快ゆかいな方法はおしえられて、なんで少年の心がおどり立たずにいよう。竹童ちくどうはむろんそれに異存いぞんもなし、蛾次郎がじろうも一ごんの不平なく、きっとその約束を守りますといって宮内くないにちかった。
 でふたりは、いいつけられた仮面めんをかぶり、あたえられた独楽こまをかたくいて、おく部屋へやに、今夜だけはなかよく寝こんでしまった。

れたお仮面めん




 死人しにんの顔のように青い月があった。
 にらんでいるかと思うほどえている。月もる夜はおそろしいものだ。
 昼は蓬莱山ほうらいさんの絵ともみえた竹生島ちくぶしまが、いまは湖水から半身はんしんだしている巨魔きょまのごとく、松ふく風は、その息かと思われてものすごい。
 まさに夜半やはんをすぎている。
 ザブーン! と西浦にしうらの岩になにか当った。パッと散ったのは波光はこうである。百千の夜光珠やこうじゅとみえた飛沫しぶきである。だが、そこに、怪魚かいぎょのごとき影がおどっていた。舟だ、人だ。
「やッ」
 とさけんだのは舟中しゅうちゅうの男だろう。ほかに人はだれもいない。またつづいて、やッ! という声がかかった、声というよりは気合いである。
 ピューッと舟から空に走ったのは、かぎのついた一本のなわ。ガリッというと手にもどって、上からザラザラと岩のかけらが落ちてくる。
 エイッ、ガリッ! というこの物音、なんどくり返されたかわからない。そのうちに、
「しめた!」
 という声。うまく投げた鈎のさきが岩松の根に引っからんだとみえる。
 力をこめて手応てごたえをためし、よしと思うとその男のかげ、度胸どきょうよく乗ってきた小舟をながし、スルスルと一本づなへよじのぼりだした。
 きもも太いが手ぎわもいい、たちまち三じょうあまりの絶壁ぜっぺきの上へみごとにぐりついて、竹生島ちくぶしまの樹木の中へヒラリと姿をひそませてしまった。
 と。それからすぐに――。
 弁天堂べんてんどうのわきにある菊村宮内きくむらくないの家の戸を、トントントンとこんよくたたき起していたのはその男で、やがて手燭てしょくを持ってでてきた宮内くないと、たがいに顔を見合わせると、
「や」
「おお」
 といったまま、中にはいって厳重げんじゅうに戸じまりをかい、おくの一室に席をしめて、声ひそやかに話しはじめた。
「どうなすった。こんどの合戦かっせんに、北国勢ほっこくぜい軍師ぐんしであるそこもとが、かかる真夜中に落ちてくるようでは、いよいよきたしょうの城もあぶないとみえますな」
「おさっしのとおりまことにみじめな負けいくさ。ここへきて貴殿きでんに顔をあわすのも面目めんぼくないが、じつは、しずたけの一戦に、このほう佐久間盛政さくまもりまさとの意見が衝突しょうとついたし、そのためにいろいろな手ちがいを生んだので、いまさら越前えちぜんへももどれず……」
 深夜の客は暗然あんぜんとして、話すに、その顔すらもあげなかった。宮内くないも、いまは浪人ろうにんの身であり、まったく弓矢をすてた心ではあるが、北庄城ほくしょうじょうにいたころの友が、かく負軍まけいくさで逃げこんできた姿をみたり、または旧主きゅうしゅほろびる消息しょうそくをつたえられては、さすがに一きくの涙がまなぞこにわきたってくる。
「オオ……ではあののつよい佐久間どのと意見がちがって……なるほど、て、一国の亡びる時には、そういうふうに人心へヒビの入りやすいもので」
「のみならず、かれは賤ヶ岳をすてて、先に北ノ庄へ逃げかえり、このほうの軍配ぐんばいすべて乱脈らんみゃくをきわめたりと、勝家公かついえこうへざんげんいたしたとやら」
「ウ、それはまたあまりなこと」
「でなくてさえ、味方の敗軍はいぐんに、いらだっている主君には、手もなくそれを信じて、どもを軍罰ぐんばつにかけよという命令をくだしました」
「や、では」
きたしょうへかえれば、軍罰に照らされて首を打たれるは必定ひつじょう。といって戦場にとどまれば、秀吉ひでよしの手におさえられて、生恥いきはじをかかねばならぬ窮地きゅうちに落ちたのでござる。で、ぜひなく、羽柴勢はしばぜいの目をくぐって、ここまで落ちのびて、まいったわけじゃ、ごめいわくでも、二、三日この島にかくまっておいてくださるまいか」
 深沈しんちんとふけゆく座敷ざしきのうちに、こう湿しめッぽい密々話ひそひそばなし。ハテナ? ハテナ? なんだかどこかで、聞いたことのある声だぞと、かめの子のように、のこのこと蒲団ふとんの中から首をもたげだしたのは、独楽こまをもらったうれしさに昂奮こうふんして、つい寝つかれずにいた泣き虫の蛾次郎がじろう
 こういうことにくわすと、がんらい、ジッとしていられない性分しょうぶん。よせばいいのに、ソロリ、ソロリと四ツンいにはいだして、つぎの部屋へやの向こうがわの、線香せんこうのようにスーと明かりの立っているところを目あてに、
「だれだろう? そばできくと、よけいに聞きおぼえのある声だが……」
 と、細目ほそめにすかして、烏天狗からすてんぐ仮面めんをつけたまま息を殺してさしのぞいた。


 見てびっくりするくらいなら、のぞかなければいいものを、ふすまのすきへ仮面めんをつけたとたんに、
「あッ! こいツアいけねえ」
 と仰天ぎょうてんして、蛾次郎がじろうみずから、そこにじぶんのいることを、となりの武士に知らしてしまった。
 草木くさきのそよぎにも心をおくという、落武者おちむしゃ境遇きょうぐうにある者が、なんでそれを気づかずにいよう。
 イヤ、とうの蛾次郎よりははるかにきもをひやしたかもしれない。
「ヤ、だれか、となりへ!」
 太刀をつかんでパッと立った。おそろしくのたかい武士。筋骨きんこつも太く、容貌ようぼうがまたなくすごいようにみえたが――オオなるほどこれには蛾次郎が仰天したのも無理むりではない。だれあろう、この落人おちゅうどこそ、柴田方しばたがたでは一ぽう軍師ぐんしとあおがれていた上部八風斎かんべはっぷうさい――すなわち、富士の裾野すそのにいた当時は、綽名あだなされて鏃師やじりしはなかけ卜斎ぼくさいといわれていた人物。
 蛾次郎はそのころかれの弟子であった。じつはまだはっきりとおひまもいただいてないのだから、ここでったのはまずいというより運のつきだ。
南無なむ三。とんでもねえやつが舞いこんできやがった。こいつアどうもたまらねえ」
 と、バタバタと奥のほうへ逃げこんだので、八風斎はっぷうさいの鼻かけ卜斎ぼくさいは、さてこそ、秀吉ひでよしのまわし者でもあろうかと邪推じゃすいをまわして、そこの唐紙からかみたおすばかりな勢い――間髪かんはつをいれずにあとを追いかけていった。
 一そくとびに二けんほどけぬけてくると、卜斎はなにかにドンとつまずいた。
「あッ」
 といって、蒲団ふとんのなかから躍りだしたのは、みこと仮面めんをつけて寝ていた竹童ちくどうである。
 だが卜斎は、そのかっこうのているところから、これこそ、奥へ逃げこんだ小童こわっぱであろうと、こぶしをかためてなぐりつけた。
 ごみの不意をくったので、さすがの竹童もかわすひまなく、グワンと血管けっかんの破れるような激痛げきつうをかんじてぶッたおれたが、とっさにまくらもとへおいて寝た、般若丸はんにゃまるを抜きはらって、かれの足もとをさッとぎつける。
「うむ」
 と卜斎一流の妖気ようきみなぎるふくみ気合いが、それをはねこえて壁ぎわへ身をりつけると、
「オオ、なんじは鞍馬くらまの竹童だな」
 らんらんとしてひとみて、こなたのかげをすかしたものだ。ハッと思って、竹童は自分の顔に気がついた。
 卜斎ぼくさい鉄拳てっけんをくったせつなに、仮面めんは二つにられてしまった。そして二つに割られた仮面が、たたみの上に片目をあけて嘲笑あざわらっている。
「なんでおいらの寝ているところをぶンなぐった。裾野すそのにいた鏃鍛冶やじりかじ、顔は知っているが、うらみをうけるおぼえはない」
「ではなにか、今このほう宮内くないと話をしていたのを、ぬすみ聞きしていたのは、きさまではなかったか」
「それは向こうに寝ていた泣き虫の蛾次郎がじろうだろう」
「や? ――蛾次郎もここにおったか。ちッ、ちくしょうめ」
 と、そのほうへ走りだそうとしたが、卜斎、なにをフト思いなおしたかにわかに大刀のつかをつかんでジリジリと竹童のほうへよってきながら、
「いやいや、たとえ怨みがあろうとなかろうと、ここへおれが潜伏せんぷくしているということを知られた以上は、もうきさまも助けておけない」
「なにッ」竹童も身がまえをなおした。
秀吉ひでよしの陣へ内通されれば、八風斎はっぷうさい運命うんめいにかかわる。気の毒だが生命いのちはもらうぞ――だめだだめだ! 鞍馬くらまの竹童ジリジリ二すんや三寸ずつ後退あとずさりしても、八風斎の殺剣さつけんがのがすものか、立って逃げればうしろ袈裟げさへひとびせまいるぞ、――ジッとしていろ、運が悪いとあきらめて、そのままそこに、ジッとしていろ」
 スラリと青光あおびかりの業物わざものを抜いた。
 戦国時代の猛者もさが好んでさした、胴田貫どうたぬき厚重あつがさねという刀である。竹童ぐらいな細い首なら、三つや四つならべておいてもゆうに斬れるだろうと思われるほどな。――
 そいつをいて、鼻かけ卜斎ぼくさい、ダラリと右手みぎてにさげたのである。そして、
「ジッとしていろ!」
 とおそろしい威迫いはくを感じる声で、ズカリとくるなり足をあげて、般若丸はんにゃまるかまえていた竹童の小手を横にった。しかも、その足力あしぢからがまたすばらしい、あッというと、般若丸はかれの手をもろくはなれて、ガラリと向こうへ飛ばされてしまった。
「これでおれの力量りきりょうはわかったろう、じたばたするなよ、とてもむだだ。――ジッとしていろ! ジッとしていろ! いたくないように斬ってやる」
 こういいながら胴田貫、おもむろにッさきを持ちあげて、ヌッと竹童のひとみへ直線にきたと思うと、パッと風を切って卜斎の頭上ずじょうにふりかぶられた。
 なんで、これがジッとしていられよう。そのすきに鞍馬くらまの竹童、グッとうしろへ身をらしたが、落とした刀へは手がとどかず、立って逃げれば、われから卜斎の殺剣さつけんへはずみを加えてゆくようなものだし? ……
 絶体絶命ぜったいぜつめい
 いまは、のがれんとするもそのすべはなく、この五体、ついに鮮麗せんれいな血をあびるのかと、おもわず胸をだきしめる、とその手のいったふところに、さっきの火独楽ひごまが指にさわった。

小姓こしょうとんぼぐみ




 しずたけそうくずれから、敵営てきえい秀吉方ひでよしがたの目をかすめて、やっと世をはなれた竹生島ちくぶしまに、旧知きゅうち菊村宮内きくむらくないをたよってきた――柴田しばた落武者おちむしゃ上部八風斎かんべはっぷうさいの鼻かけ卜斎ぼくさい
 草木くさきのそよぎにも、恟々きょうきょうと、心をおどろかす敗軍の落伍者らくごしゃが、身をかくまってもらおうと、弁天堂べんてんどう神主かんぬし、宮内の社家しゃけにヒソヒソと密話みつわをかわしていると、せばよいのに、でしゃばりずきな泣き虫の蛾次郎がじろうが、ワザワザ寝床ねどこからはいだして、それを、ぬすみぎきしていたのを、卜斎、気取けどるやいなや、おそろしい形相ぎょうそうで、かれを奥へ追いまくした。
 南無なむ三――もとの主人卜斎だったかと、仰天ぎょうてんした蛾次郎は、すばやく風をらって逃げだした。けれど、そのわざわいは、なにも知らずに寝こんでいた、鞍馬くらま竹童ちくどうの身にふりかかって、すでに、自身のあるところを知られては、秀吉のほうへ、密告みっこくされるおそれがある、きさまも生かしてはおけぬ、目をつぶって、覚悟かくごをしろ、逃げようとしても、それは無駄むだだぞ――と、おそろしい威迫いはくの目をもって、胴田貫どうたぬきの大刀を面前にふりかぶった。
「――ジッとしていろ! ジッとしていろ。いたくないように斬ってやる!」
 卜斎ぼくさいの足の拇指おやゆびが、まむしのように、ジリジリとたたみをかんでつめよってくるのに、なんで、鞍馬くらま竹童ちくどう、ジッと、その死剣しけんを待っていられるものか。そんな無意義むいぎ殺刀さっとうにあまんじる理由があろうか。
 といって、身をまもる唯一ゆいつの愛刀、般若丸はんにゃまるはそのまえに、卜斎の足蹴あしげにはねとばされて、ひろいとって立つはない。しかも、寸秒すんびょう危機きき目前もくぜん、おもわず、ひたいわきの下から、つめたい脂汗あぶらあせをしぼって、ハッと、ときめきの息を一ついたが――その絶体絶命ぜったいぜつめいのとっさ、ふと、指さきにれたのは、さっき、菊村宮内からもらって、ふところに入れていた、希代きたい火独楽ひごま! その火独楽だ。


 よいに、神官しんかんの菊村宮内が竹童と蛾次郎がじろうをならべておいて、蛾次郎には青い水独楽みずごまをあたえ、竹童にはあかい火独楽をくれて――その時ふたりにいったことには、これは、竹生島ちくぶしま弁天べんてんに、歳久としひさしく伝わっている奇蹟きせき独楽こまだといった。
 宮内は、この独楽をもって、仲のわるい二童子どうじの手をむすぼうとしたのである。だから、その奇蹟についてはあまり、多くを語らなかったが、火独楽ひごま水独楽、どっちも、なにかの不可思議力ふかしぎりょくを持つものにちがいない。
 だが、――竹童の今は、しんに、かんぱつをおくもない危機ききである。もとより、かれが、卜斎ぼくさいが大刀をふりかぶったとたんに、ふところの独楽こまをつかんだとはいえ、ふかい、冷静な、思慮しりょののちにそうしたのではない。寸鉄すんてつもおびていない自衛意志じえいいしが、おのずから独楽をつかませたのだ。
 それが、たとえば一個の石にすぎなくとも、この場合ばあい竹童ちくどうの手は、その石へふれていたにちがいない。
「なんできさまたちのやいばにたおれるものか!」
 口にはださないが、竹童の顔筋肉がんきんにくはそういうふうに引きしまっていた。
 そして、独楽をかたくにぎった。
 遊戯ゆうぎに、まわすべき独楽なら、ひものこともかんがえるが、いまの場合ばあいそうでない。武器ぶきとして、目つぶしとして、敵が大刀へ風を切らせてくるとたんに、卜斎の眼玉へ、それをたたきつけようと気がまえているのだ。
 卜斎も、竹童のたいどをみて、うかつにはそれをふりおろしてこない。ジリ、ジリ、と一すんにじりりながら息をはかり、気合いをかけたが最後、ただ一刀に、いきをとめてしまおうとするらしい。
「まいるぞッ!」
 と、いきなり魔獣まじゅうのような気合いがかかった。
 はッ――として、竹童の五体も、おもわずそのすさまじさにすくんでしまおうとしたせつな――
「ええッ」
 とわめいた卜斎ぼくさいの大剣が、電火でんかのごとく竹童ちくどうの頭上におちてきた。あッ――といったのは刀下とうかせんのさけび、どッと、血けむりを立てるかと思うと、必死の寸隙すんげきをねらって、竹童の右手めてがふところをでるやいなや、
「なにをッ」
 と一声、待ちかまえていた独楽のつぶてを、パッと卜斎の眉間みけんへ投げつけた。
 すると、まっ赤な火独楽ひごまは、文字どおり、一じょう火箭かせんをえがいて、しかも、ピュッとおそろしいうなりを立て、鼻かけ卜斎の顔へいつくように飛んでいった。
「おお、これはッ?」
 と、おどろいた卜斎、斬りすべった厚重あつがさねの太刀たちを持ちなおすもなく、火の玉のようにちゅうまわりをしてきた火焔独楽かえんごまをガッキと刀のつばでうけたが、そのとたんに、独楽こま金輪かなわつばのあいだから、まるで蛍籠ほたるかごでもブチくだいたような、青白い火花が、鏘然そうぜんとして八ぽうへ散った。
「うつッ……」
 と、卜斎が、片手で眼をふさいだ間髪かんはつに、竹童はいちはやく、般若丸はんにゃまるの刀をひろって、バラバラッと廊下ろうかへでたが、それと一しょに、奇蹟きせきの火焔独楽、ポーンとはね返って、竹童のもとへ舞いもどってきた。
 いかにもふしぎな魔独楽まごまの力よ!
 とあやしまれたがのちによく見れば、独楽こま金輪かなわの一たんに、ほそい金環きんかんがついていて、その金環から数丈すうじょうひも心棒しんぼうにまいてあるのだ。はねもどったのは、独楽こまそれ自身の魔力まりょくではなく、竹童ちくどうおびに結んであったひも弾撥だんぱつ。手もとへおどり返ってきたのは、とうぜんなのであった。


 竹童をとりがして卜斎ぼくさいは、不意の燦光さんこうに目をいられて、一時は、あたりがボーッとなってしまったが、廊下ろうかを走ってゆく足音を聞きとめると同時に、
「うぬッ」
 憤然ふんぜんとして、そのくら部屋へやからかけだした。
 そして、いきなり廊下から、庭先にわさきりようとして、やみのなかにそれと見えた、沓脱石くつぬぎいしへ足をかけると、こはいかに、それは庭の踏石ふみいしではなくて、ふわりとしたものが、足のうらにやわらかくグラついたかと思うと、
「ぎゃッ」と、かえるのようにつぶれてしまった。
 それは、竹童より先ににげた泣き虫の蛾次郎がじろうで、いま、床下ゆかしたへもぐりこもうとしているところへ、卜斎の足音がしてきたので、そのまま、えんの下へ首をつっこんだなりに、石の真似まねをしていたものらしい。
 あのいきおいで、大兵だいひょうな、卜斎にみつけられたのだから、蛾次郎もギャッといって、ぴしゃんこにつぶれたのはもっともだが。
 おどろいたのは、むしろそれへ足を乗せた卜斎ぼくさいのほうで、まさか、やわらかい石だとは、ゆめにも思わなかったはずみから、よろよろとツンのめって、あやうく、向こうのうめ老木ろうぼくに頭をぶつけ、ふたたび、目から火のでるつらい思いをするところだった。
「やッ……おのれは蛾次郎がじろうだな」
 気がつくと卜斎は、いきなり蛾次郎のえりがみをつかんで、ウンと、そとへ引きずりだそうとした。
 蛾次郎は、半分もぐりこんだままえんの下の土台どだいにかじりついて、
「ごめんなさい! 親方おやかた、親方!」
 と土龍もぐらのように、でようとしない。
 なにしろ蛾次郎は、この卜斎ほどおっかないものはないと心得こころえている。裾野すそのにいた時分から、気にいらないことがあると、すぐにやじりをきたえる金槌かなづちで、頭をコーンとくるくらいはまだやさしいほう、ふいご拳骨げんこつったり、弓のおれでビシビシとどやされたおそろしさが、頭のしんにしみこんでいる。
 しかもまだその当時とうじの、弟子でし師匠ししょうの関係をっているわけではなく、卜斎がきたしょうへかえるとちゅう、目をくらましてげだしていたところだから、見つけられたがさいご、こんどこそ、どんな目にわされるかと、いきた空もないのである。
「たわけめ。でろ、ここへ!」
 とどなりながら、卜斎ぼくさいはすこし苦笑くしょうをもらしてしまった。
 いまでも、裾野当時すそのとうじの気持で、じぶんへあやまるのに、親方おやかた親方とんだところが、いくぶんか正直しょうじきらしいと、おかしくなって、この蛾次郎には、竹童へ向かったような、ああいう本気にはなれなかった。
「かんべんしてください、親方、後生ごしょうです」
「でろともうすに!」
「あッ、くるしい……いまでます、いま……」
「このバカッ」
 力まかせに引ッりだして、イヤというほどたたきつけようとすると、蛾次郎、ッぺたをおさえて退きながら、
親方おやかた、どうも、おひさしぶりでした」
 ピョコンと、おじぎをして、たくみに、あとの拳骨げんこつ予防よぼうした。
「蛾次郎!」
「へいッ」
「きさまはだれにゆるされて、方々ほうぼうかってにとびまわっているんだ」
「もうしわけございません」
「まだ、きさまにひまをだしてはいないぞ」
承知しょうちしています。これから、けっして気ままにあそんで歩きません。はい、親方のこしについております」
「また、なんのために、この竹生島ちくぶしまへなどきているのだ」
琵琶湖びわこ土左衛門どざえもんになるところを、ここの神主かんぬしのやつが助けやがったんで……わたしがきたいと思ってきたところじゃありません」
竹童ちくどうもか」
「そうです」
武田伊那丸たけだいなまるやあの一とうの者は、その、どうしているか、なにか、うわさを聞いているだろう」
「あのなかの、小幡民部こばたみんぶ咲耶子さくやこ山県蔦之助やまがたつたのすけなどは、小太郎山こたろうざんのとりでに、留守番るすばんをしているそうです」
「そして、伊那丸は?」
加賀見忍剣かがみにんけん木隠龍太郎こがくれりゅうたろうをつれて、しばらく京都におりましたが、そのうちに、なんでも秀吉ひでよしじんをとおって桑名くわなから東海道とうかいどうのほうへ帰っていったという話です。……けれども、それは、わたしが見たわけじゃありませんから、親方、ちがっていても、かんにんしてください」
 と蛾次郎がじろうは、卜斎ぼくさい顔色かおいろが、だんだんやわらいでくるのを見ると、あまッたれたような調子ちょうしでしゃべりだしてくる。
「ウーム。秀吉は伊那丸に好意こういをよせて、あんに、かれを庇護ひごしているものとみえる。だが……」
 というと、卜斎ぼくさいは、なにか自分の前途ぜんとについて、だいじな方針ほうしんをかんがえかけてきたとみえ、げたる竹童ちくどうのことはともかく、どっかりと、庭石へこしをおろしてうでぐみをしてしまった。
「――だが、家康いえやす伊那丸いなまるをにくんでいる。たしかに、かれをき者にせねば、ある不安からはなれられまい。伊那丸も家康を武田家たけだけかたきとねらっているのは知れきったこと……」
「そ、その通りですよ、親方」
 と、蛾次郎がじろうは、そばから、おちょぼ口をつぼめて、
「これからまた、富士山のまわりで、すさまじいいくさがあるとすりゃ、伊那丸と家康の喧嘩けんかでしょうよ。家康も東海道とうかいどうの名将だが、伊那丸のほうにいる忍剣にんけん龍太郎りゅうたろうというやつも強いからな。それに、小太郎山こたろうざんにのこっている小幡民部こばたみんぶというやつが、たいへんな軍師ぐんしだそうで」
 いいかけたところで、また、卜斎の顔色をみて、
「だが、親方には、かなわねえやきっと――」
 と前言ぜんげんをあいまいにした。
「おれも柴田家しばたけから爪弾つまはじきをされてみれば、なんとか、ここですえの方針を立てなければならない場合ばあいだが」
「はい、そうです」
 と深いわけもわからぬくせに、卜斎ぼくさいわずがたりにつぶやくのへ、蛾次郎がじろう、いちいちあいづちをうって、じぶんもうでぐみのまねをしている。
「ウム」
 それには相手にならないで、卜斎はなにかひとりでこううなずき、上に着ていた陣羽織じんばおりぎすてて、
「しばらくのあいだ、またもとの鏃鍛冶やじりかじにばけて、世間せけんのなりゆきを見ているとしよう。そのうちには、なんとかいいうんがひらけてくるだろう」
「じゃ親方おやかた、また裾野すその人無村ひとなしむらへかえって、テンカンテンカンやるんですか」
「どこにむかわからないが、てめえもこれからは、無断むだんでほうぼうとんであるくと承知しょうちしないぞ」
「へ、へい」
「どこまでもおれについていろ。そして一にんまえ鏃師やじりしになったらひまをくれてやる。お、そんなことはとにかく、おれがここへきたことを、竹童ちくどうに知られてしまったから、もう永居ながいをしているのはぶっそうだ。鏃師卜斎にすがたをかえて、の明けないうちに、竹生島ちくぶしまをでるとしよう」
 卜斎は陣羽織をすててつぎに、手ばやく籠手こて具足ぐそくをとり、脛当すねあてくさり脚絆きゃはんにかえて、旅の鏃師らしいすがたにかわった。そして蛾次郎に、
菊村宮内きくむらくないどのへ、ちょっとおいとまをつげてまいるから、おまえも、そのあいだに支度したくをして、ここにっているんだぞ」
 と、いいのこして、そこを立とうとすると、なんだろう? 周囲しゅういやみ――樹木じゅもくささ燈籠とうろうのかげに、チカチカとうごく数多あまた閃光せんこう
 やりだ――槍の穂先ほさきだ。
 いつのまにか、卜斎ぼくさい蛾次郎がじろうのまわりには、十数槍すうそう抜身ぬきみ穂尖ほさき、音もせずに、ただ光だけをギラギラさせて、すすきのようにえならんでいた。
「さては、秀吉ひでよしじんから、もう追手おってがまわってきたな」
 卜斎ははやくも観念かんねんして、かざりをとった陣刀じんとう脇差わきざしにぶっこみ、りゅうッ――とくがはやいか、その槍襖やりぶすまの一かくへ、われから血路けつろをひらきに走った。


親方おやかた――ッ」
 と泣きごえをだした蛾次郎は、そのとたんにいきなり、っかけてきた槍のにむこうずねをたたかれ、ワッといって、ッたおれた。
 あとはおそらく、蛾次郎じしんにも、むちゅうであったにちがいない。とにかく、ひとりや半分の敵ではなく十数人――あるいは二、三十人もあったろうと思われる甲冑かっちゅう武士ぶしが、なにも知らずにいるところへ、なにもいわずに、ズラリと槍の尖をそろえてきたのだから、きも天外てんがいに吹ッとんでいる。
 一どたおれた蛾次郎がじろう本能的ほんのうてきにはねかえって、起きるが早いか、そばの大樹たいじゅへ、無我夢中むがむちゅうによじのぼった。
 ましらのようにこずえへのぼるとちゅうでも、秀吉方ひでよしがた甲冑武者かっちゅうむしゃに、やりでピシリッとたたかれたが、それさえ、必死ひっしであったので、いたいともなんともしょうにこたえなかった。
 そして、運よく大樹の枝先が、弁天堂べんてんどうの上へおおいかぶさっていたのをさいわいに、かれはヒラリと身をおどらして、枝から屋根へ飛びうつり、てんてんとかげをおどらせて、やっと竹生島ちくぶしまいそへかけりてきた。
 するといっぽうの急坂きゅうはんからも、血路けつろをひらいた卜斎ぼくさいが、血刀ちがたなを引っさげてこの磯へ目ざしてきたので、ふたりは前後ぜんごになって磯の岩石がんせきから岩石を飛びつたい、やがて、一そうの小舟を見つけだすとともに、それへ飛び乗ってをおっとり、粘墨ねんぼくのように黒い志賀しがうらなみを切って、いずこともなくげのびてしまった。
 それよりまえに、あやうく卜斎の殺刃さつじんをのがれて、どううら姿すがたをかくしていた鞍馬くらま竹童ちくどうは、ほどてあたりをうかがいながら、そっと、ようすをながめにでた。見ると、弁天堂のまえへ、大勢おおぜいの武士をつれて篝火かがりびかせている者は、かのしずたけ勇名ゆうめいをはせた、加藤虎之助かとうとらのすけしん、井上大九郎であることがわかった。
 思いがけないところで、大九郎にあった竹童は、かれの口から、その伊那丸いなまる消息しょうそくをくわしく知ることができた。
 すなわち、武田伊那丸と従臣じゅうしんのふたりは、大九郎が桑名くわなじんを引きはらうと同時に、秀吉ひでよしにわかれて小太郎山こたろうざんへかえるべく、徳川家とくがわけ城地じょうち危険きけんをおかして進んでいったという話。――
 それを聞くと、竹童ちくどうは、すぐにあとをしたって、三人にいつき、ひとまず小太郎山のとりでへ帰ろうと決心けっしんした。そののちに、琵琶湖びわこの上で乗り落ちたまま行方ゆくえをうしなったクロをさがす方針ほうしんもかんがえ、また、一とうの人々にも、ひさしぶりでいたいと願った。あの、温厚おんこうにして深略しんりゃくのある小幡民部こばたみんぶ、あのやさしくて凛々りりしい咲耶子さくやこ、あの絶倫ぜつりん槍術家そうじゅつかと弓の名人である、蔦之助つたのすけ巽小文治たつみこぶんじにもずいぶんながく会わなかった。あの人たちは、みなじぶんを心のそこからいとしんでくれる、骨肉こつにくのようなやさしさと、温味あたたかみをもっている。
 その人たちにひさしぶりで会おう。
 小太郎山は、乱世らんせいの中にあってゆるがず、みだされずにある、義血ぎけつの兄弟たちのうちだ。そのうちへ帰ろう。こう思うとたてもなく、竹童は、神官しんかん菊村宮内きくむらくないに、きょうまでうけた親切しんせつれいをのべ、井上大九郎の舟に送られて、ほのぼのとしらみかけた竹生島ちくぶしまへ別れをつげた――。
 もとより、辛苦しんくになれている竹童には、野に樹下じゅかにねむることも、なんのいとうところではなく、また鞍馬くらまたにらした足には、近江街道おうみかいどう折所せっしょ東海道とうかいどう山路やまじなども、もののかずにはならないので、なみの旅人たびびとのはかどるよりは数日もはやく里数りすうをとって、もなく、家康いえやす領地りょうち遠江とおとうみの国へ近づいてきた。
 しかしそこまでいって、ハタと竹童ちくどうがとうわくした、というのは、いたるところの国境くにざかいに、徳川家とくがわけ関所せきしょがきびしく往来おうらいをかためていて、めったな者は通さないという風評ふうひょうであった。
 で、やむなく、街道かいどうとおくはなれて、人もとおらぬ山河さんがえ、ようよう遠江の国へはいったが、こんな厳重げんじゅうさでは、さきに桑名くわなを立った伊那丸いなまるたちも、やすやす、無事ぶじにここを通れたとは思われない。なにかの危険きけんにであっているにちがいない。
「ああ、だれかに、ご安否あんぴをたずねてみたいが、めったなものに、そんなことをきけば、みずから人のうたがいをまねくようなものだし……」
 こう思いながら、鞍馬くらまの竹童は、野末にうすづく夕陽ゆうひをあびて、見わたすかぎり渺茫びょうぼうとした曠野こうやの夕ぐれをトボトボと歩いていた。
 ここは、どこの野辺のべともわからないが、いまわたってきた川のには、都田川みやこだがわというくいが立っていた。
 なお、はるかにあなたののはてには、一まつかすみのように白い河原かわらがみえる。あとは、西をあおいでも、北を見ても、うっすらした山脈さんみゃくのうねりが黙思もくししているのみだ。
 微風びふうもない晩春ばんしゅんの夕ぐれ、――ありやなしの霞をすかして、夕陽ゆうひの光が金色こんじきにかがやいている。いちめんの草にも、霞にも、竹童のかたにも――。
 するとやがて、耀々ようようとした夕がすみのなかから、あまたの青竹と杉丸太すぎまるたをつんだ車が、ガラガラと竹童ちくどうのそばを通りぬけた。そのあとについて、八、九人の足軽あしがると十数名の人夫にんぷたちが、おのや、まさかりや、木槌きづちなどをかついで、なにかザワザワと話しながら歩いてゆく。
 すれちがった時に、なんの気もなく竹童がふりかえると、一ばんさいごについてゆく足軽が、一本の立てふだをかついでいる。
 なまあたらしいその高札こうさつ片面かためんに、なにか墨色すみいろもまざまざと書いてあったが、その文字のうちに、ふと、武田たけだと読めた一ぎょうがあったので、竹童はハッとむねをさわがしたが、
「あ、もし」
 と、びとめておいて、つとめて冷静れいせいをよそおいながら、
「浜松のご城下じょうかへゆくには、これをまっすぐにゆけばいいんですか……」
 と道にまよっているふりをして、そのあいだに、足軽がかたにかけている高札の文字を読もうとしたが、意地いじわるく、文字面もじめんうらを向けていて、よく読むことができなかった。
「うむ、ご城下へは一本道だが、まだだいぶ道のりがあるぜ」
「じゃ、日がれてしまいましょうね」
「いそいでゆきねえ。ぶっそうだから」
 曠野こうやにさまよう子供と見て、その足軽は、さきへ青竹をつんでいった車やつれの人数からひとりおくれて、こまごまと、十方角ほうがく里数りすうをおしえてくれている。
「どうもありがとうございました」
 竹童はその道しるべより、かたにかついでいる高札こうさつのことを、なんとかして聞きほじりたいがと苦慮くりょしたが、いきなりたずねだすのもさきのうたがいを買うであろうと、わざとそらとぼけて、
「それでよく道はわかりました。ですけれど、おじさん、この広い原ッぱは、いったいなんという所なんでしょうね」
「おまえは、それも知らずに歩いているのか。子供ってえものはたわいのねえものだ。ここはおまえ、甲斐かい信玄しんげん家康いえやすさまとが、しのぎをけずった有名な戦場せんじょうで、――ほれ、三方みかたはらというところだ」
「あ、ここが、三方ヶ原でございますか。――なるほど、広いもんだなあ。そして、おじさんたちは、やっぱり徳川とくがわさまのご家来けらいですか」
「そうよ、おれたちは、浜松城はままつじょう足軽組あしがるぐみだ」
「いまごろから、あんな青竹や松明たいまつをたくさん車につんで、いったい、どこへおいでになりますので?」
「おれたちか……」足軽は、ちょッといやな顔をして、
「これから都田川みやこだがわの手まえまでいって、夜明よあかしで、人の死に場所ばしょをこしらえにかかるんだよ」
「へえ、人の死に場所を」
「うむ。つまり、刑場けいじょうのしたくにゆくんだ」
「ああ、それで、矢来やらいにする竹や丸太まるたや、獄門台ごくもんだいをつくる道具どうぐをかついで、みんながさっき向こうへいったんだな」
「そうだ、おまえも、こんなこわい話を聞いてしまうと、たださえさびしい三方みかたはらが、よけいにさびしくなって歩けなくなるぜ。だがまだいまのうちなら、夕陽ゆうひがキラキラしているからいい、はやく、いそいでゆくことにしねえ」
 クルリとふり向くと、さきの者とは、だいぶ距離きょりができたのにびっくりして、足軽あしがるの男は、急にいそぎ足にわかれかけた。
「あ、おじさん。もしもし」
 竹童ちくどうは、あわててそれを呼びかえしたが、べつに、どういう口実こうじつもないので、とっさの機智きちを口からでまかせに、
こし手拭てぬぐいが落ちますよ」といった。
「ありがとう」
 と、さきの男が、うっかりりこまれているあいだに、かれは、すかさず、つぎばやにさぐりをいれた。
「あの、いまおじさんがいった刑場で、いったいだれがいつられることになるんです」
「よくいろんなことをききたがるな。子供のおまえにそんなことを話してもしかたがねえが、男は一どは見ておくものだそうだから、あさっての夕方、都田川みやこだがわ竹矢来たけやらいのそとへ見にきねえ。この高札こうさつに書いてある通り、こんど徳川とくがわさまの手でつかまった、武田伊那丸たけだいなまるとそのほか二人の者がバッサリとやられるのだから」
 もう、うるさいと思ったか、こんどはそっけなくいいはなした。かたの高札を持ちかえると、ふり向きもせずにタッタとさきの人数をいかけていった。


 ゆき別れた足軽あしがるのすがたが半町はんちょうばかり遠ざかると、ける色もなく、そこに取りのこされた竹童は、
「ウウム……」
 かみの毛をつかんだまま、よろよろと、草のなかへこしをついて、
「た、たいへんだ」
 身をゆすぶッて、もだえだした。
「伊那丸さまが――あとのふたりも? ――」
 くわっと、眼をひらいて、宇宙うちゅうひとみをさまよわせたが、
「こうしてはおられない!」
 また、ものぐるわしくそこを立った。
 いても立ってもいられない焦燥しょうそうである。
 その驚愕きょうがくとうろたえのさまは、鞍馬くらま竹童ちくどうとして、いつにない取りみだしようだ。はね起きたが、その足を向けようとする方角ほうがくにも、まよいともだえがからんでみえる。
「アア、どうしたらいいだろう」
 三方みかたはらびょうとして、そこには、ただようようにうすれてゆく夕陽ゆうひの色があるばかりだ。
「はやく、小太郎山こたろうざんにのこっている、一とうの人たちへ、この大事を知らせるのが、一ばんいい工夫くふうだけれど、そんなことに、四も五日もかかっていてはに合いはしない。エエ、どうしたらいいだろうッ……」
 を食いしばったまま、きたつむねを、両手りょうてでギュッとだきしめた。
「どうして、伊那丸いなまるさまが……おまけに龍太郎りゅうたろうさまや忍剣にんけんさままでついていて、やみやみと、徳川家とくがわけの手へつかまっておしまいなされたのであろう。アア、だけれど、いまはそんなことを考えているなどない。おいらの頭の上へりかかってきた使命しめいは――どうして、はやくこのことを、小太郎山へ知らせてあげるか、どうしたら伊那丸さまをお助けすることができるか、この二つだ! この二つが目のまえの大事だ」
 ひとりい、ひとり答えて、はては当面とうめん大難だいなんにあたまも惑乱わくらんして、ぼうぜんと、そこに、うでぐみのまま立ちすくんでしまったのである。
 すると、野原のどこからか、ワ――ッと、元気のいい声が、うしおのように近づいてきたかと思うと、やがて青々あおあおとした草のなみから、おなじ年頃としごろの少年ばかりが二十人ほど、まっ黒になって、竹童ちくどうのほうへなだれてくる。
「や、なんだろう?」
 ぼうぜんとしていた竹童は、その気配けはいに顔をあげたが、ようすがわからないので、いち早く、草のなかに身をふせてしまった。
 姿すがたをかくして、ひとみだけをジッとそれへ向けていると、あまたの少年たちは、いずれも、前髪まえがみだちで、とんぼ模様もようのついたそろいの小袖こそで、おなじ色のはかまをうがち、なにか、大きな動物につなをつけて、その動物の力にワイワイと引きずられてくる。
 見ると、それはクロだ。
 竹童の愛鷲あいしゅう――あの大きなわしだ。
 とんぼのついたそろいの小袖をているところでは、これこそ、浜松城はままつじょうで有名な、お小姓こしょうとんぼの少年たちにちがいはない。そして、このとんぼぐみ餓鬼大将がきだいしょうとかげ口をいわれているものは、結城秀康ゆうきひでやすの子で家康いえやすにはまごにあたる、徳川万千代とくがわまんちよである。
 万千代は、いまもこのとんぼ組の小姓たちの先達せんだつとなって、しきりに大鷲おおわしなかへ乗ろうとしては落ち、乗ろうとしては、つばさにハタかれて、ぶッたおれた。
 足に結びつけた、つなにすがりついている多くの小姓も万千代も、手や足にすりきずをこしらえてだらけになっているが、さすがに、戦国の少年、三河武士みかわぶしたまごたちである。あくまで鷲と力をあらそって、自由にせずにはおかないふうだ。
 竹童は、われを忘れて草の中から立っていた。

独楽こまだまし




 草のあらしにうすづく夕日。
 日のれるのも忘れてしまって、三方みかたはらおくへ奥へ、わしにひきずられてゆくとんぼぐみのお小姓こしょうたち。
 鷲をオモチャにしているのか、鷲にオモチャにされているのか、ともすると、あべこべに、そらへつるしあげられそうになるのを、からくも、一ぽんすぎッこへ、その手綱たづなきつけていとめたとたんに、
「あア、くたびれた」
 と、ヘトヘトにつかれたこえを合わせながら、
やすもう」
「休もう」
「休んでからまた飛ぼう!」
 と、これでも鷲のつばさと一しょに、飛んできた気でいるのだからたわいない。
 見ればみな、なつめのような眼をもった、十二、三から十五ぐらいまでの前髪まえがみ少年。浜松城はままつじょうのお小姓こしょうであれば、しかるべき家柄いえがら息子むすこたちにはちがいないが、城下じょうかからこんなところまで、わしと取っくんできたのだからたまらない、とんぼぢらしのおそろいの小袖こそでも、カギきやらどろだらけ。
 なかには、手やッぺたをすりむいて、ざくろみたいになっている者、鼻血をだしておさえている者、まげくさがとれないでこまっているもの、脇差わきざしさやだけさしてすましているもの。――どれもこれもていたりがたくけいたりがたき腕白顔わんぱくがおだ。さだめし、屋敷やしきへかえったのちには、母者人ははじゃびとからお小言こごとであろう。
 お山の大将たいしょうおれひとり――というかくで、中にまじっている徳川万千代とくがわまんちよは、みんなと一しょに、つなぎめた大鷲おおわしを取りまきながら、
「やあ、金光きんぴかりの眼で、ギョロギョロとにらんでいるわ。おこるなおこるな、いまにえさをやるからな。余一よいち、余一、さっきのえさを持ってこい」
 と、むちをあげてさしまねいた。
「はい」
 というと、とんぼぐみの中でも一番チビなお小姓余一、にわとりの死んだのを、竹のさきにかけて、万千代の手へわたした。
「おお、鷲のごちそう」
 と一同にみせて、わらわせながら、万千代はそれを猛禽もうきんはなッ先へ持っていった。そして、くちばしのそばへぶらぶらさせたが鷲は横をむいて、そのにおいすらかごうとしない。
 ごうやした万千代まんちよは、意地いじになって、
「こりゃえ、食え。くれたものを、なぜ食わんか」
 と、よけいにきつけると、うるさいとでも感じたか、金瞳黒羽きんどうこくう大鷲おおわしあらしに吹かれたようにムラムラと満身まんしん逆羽さかばねをたててきた。
 と思うと――たたみまいほどはゆうにあるりょうつばさが、ウワーッと上へひろがって、白い腋毛わきげが見えたから、びっくりしたお小姓こしょうとんぼ。
「そら――ッ」
 とまわりを飛びはなれたが、偉大いだいなる猛禽もうきんのつばさが、たッたひと打ち、風をあおるとともに、笑止しょうし笑止しょうし、まるで豆人形まめにんぎょうでもフリまいたように、そこらの草へころがった。
「アーいたい」
「オーひどい」
 やがてめいめい、こしをさすって起きあがってみると、わしすぎもとにケロリとして、とんぼぐみ諸君しょくん、なにをおどっているんです、といわないばかりの様子である。
 だが、えらいやつがいた。
 たッたひとり、いまの羽風はかぜにもたおされずに、鷲のそばにっ立ったまま、ジッとうでぐみをしている少年。
 お小姓こしょうとんぼのなかにも、あんな強胆ごうたんな者がいたかしら? とみんなが眼をみはって見ると、ちがッてるちがッてる、かたつぎのある筒袖つつそでに、よごれきった膝行袴たっつけ穿き、なりにふさわぬ太刀たちして、わしにも負けない眼の持ちぬし
 浜松城はままつじょう小姓組こしょうぐみには、こんなきたない小僧こぞうはいない。
「だれだ、あいつは?」
「いつのまに、どこからってきおったのじゃ」
 ぞろぞろとあつまった。
 そして、こんどはわしよりも、この小僧に好奇こうきの目をそそいだ。けれど、そこに黙然もくねんと立った鞍馬くらま竹童ちくどうは、じぶんをとりいてジロジロと見る、小姓たちのあることなどは忘れはてて、
「オオ、おまえはクロじゃあないか」
 と、心のそこから、いっぱいななつかしさを、無言むごんびかけているのである。――
 ああ、ずいぶんひさしぶりだったねえ――
 そう思うと、竹童は、なんだかボッと顔が赤くなる気がした。かれの愛着あいちゃくとあこがれは、不意ふいにめぐりったクロを見て、やさしく動悸どうきを打っていた。
 そこに動物と人との、なんのへだたりもなく、
「おまえを蛾次郎がじろうにぬすまれてから、おいらはどんなに諸国しょこくをさがし歩いていたろう。なみのあらい北の海、吹雪ふぶきのすさぶとちとうげ、それから盲目めしいになってまで、京都の空へ向かっても、おいらは、クロよ、クロよとんでいた。そのかいがあって、やっと、てんおか蛾次郎がじろうとうばい合いをしたかと思うと、おまえはまた、ふたりを琵琶湖びわこへふりおとしたまま、どこかへ姿すがたしてしまった――さあ、それからも竹生島ちくぶしまにいるあいだ、おいらは、朝となく夜となく、どれほど空を気にしていたか知れやしない……だがよかったなア、いいところでめぐりったなア。わかるかい、おぼえているかい? この鞍馬くらまの竹童の顔を……」
 と、口にはださないが、あつ思慕しぼをこめて、ジイッとみつめているうちに、思いもうけぬ邂逅かいこうじょうが、ついには、滂沱ぼうだなみだとなって目にあふれてくる。
 そして、なにげなく愛撫あいぶの手が、クロの襟毛えりげびようとすると、
「これッ」むちをかまえながら、徳川万千代とくがわまんちよ
「わしの大事などりへ、なんで手をふれるのじゃ」
「あ」
 竹童はその声に、はじめてわれにかえったように、万千代のすがたと、あたりにれているとんぼぐみの少年たちを見まわした。
 そして、だまって、頭をさげた。
「なんだ、おまえはッ。どこの子だ」
「わたくしは」
「あやしい小僧こぞうじゃ、敵国てきこく間者かんじゃであろう。おじいさまのおしろへつれて、役人の手へわたしてくれる」
「アアもし、けっして、そんな者ではございません。わたくしは、たびたび東海道とうかいどうへもきております、伊吹村いぶきむら独楽こままわしです」
「なに独楽まわしじゃ?」と、みんなどよめきだして、
「独楽まわしならまわしてみろ! うそをついたら承知しょうちせんぞ」
 と、うでまくりをして見せた。
「ハイ。独楽のご用ならおやすいこと、商売しょうばいですから、おのぞみにまかせてまわします。ですが、わたくしが首尾しゅびよくげいをごらんにいれましたら、そのご褒美ほうびには、なにがいただけるでございましょう」
鳥目ちょうもくを投げてやる」
「いえ、お鳥目はいりません。そのかわりに、ひとつのお願いがございますから」
「では、扇子せんすがほしいか、きれいな巾着きんちゃくがのぞみなのか」
「いえいえ、わたくしのお願いと申すのは、このわしに乗らしていただきたいのです。はい、上まであがりましたら、すぐにまたりてまいりますから」
「これへ乗るッて」
 万千代まんちよは目をまるくして、
「そんなことができるのか」
「できますとも。伊吹の山にいたころは、毎日、鷲やたかをあい手にあそんでいたわたくしです」
 たわいのないお小姓こしょうとんぼは、きょうにそそられて、一も二もなくかれのことばをしんじてしまった。そして竹童ちくどうにむかって、はやく独楽こまをまわせ、独楽をまわしたらわしをかしてやる、とせがんだ。
「じゃ、まわしますから、ズッとそこをひらいてください」
 かれはどこかの町で見かけた旅芸人たびげいにん所作しょさを思いうかべて、わざと、きょうをそえながら、つえでクルリと円形えんけいせんをえがいて、
「――そもそも独楽にもいろいろござります、古くは狛江こまえ高句麗こくりゴマ、しまからわたった貝独楽べいごまも、五しきにまわる天竺独楽てんじくごまも、みんな渡来とらいでございます。そこで日本独楽にほんごまのはじまりは、行成大納言ゆきなりだいなごん小松こまつつぶり村濃むらごの糸をそえまして、御所ごしょでまわしたのがヤンヤとはやりだしましたはじめ。さあそれからできましたこと、できましたこと、竹筒たけづつ半鐘独楽はんしょうごまをはじめとしまして、独楽鍛冶ごまかじもたくさんできました。陀羅だらゴマぜにゴマ真鍮しんちゅうゴマ、ぶんぶん鳴るのが神鳴かみなりゴマ、おどけておどるが道化どうけゴマ、せいのたかいは但馬たじまゴマ、名人独楽めいじんごま金造きんぞうづくり、豆ゴマ、かけゴマ、坊主ぼうずゴマ、みやこではやっておりまする。そこで手まえのあつかいますのは、近江おうみ琵琶湖びわこ竹生島ちくぶしまに、千年あまりつたわりました、希代きたいふしぎな火焔独楽かえんごま――はい、火焔独楽!」
 と、ここに竹童ちくどうが、にわか芸人げいにん口上こうじょうをうつして、べんにまかせてのべ立てると、万千代まんちよはじめ、とんぼぐみ、パチパチと手をたたいて無性むしょうにうれしがってしまった。
 だが、竹童は、真剣しんけんである。
 口に道化どうけてもはらのそこでは、たえず、伊那丸いなまる危急ききゅうをあんじているのだ。
 さきに、都田川みやこだがわ刑場けいじょうへ、したくにいそいでいったあの足軽あしがるのはなしが事実じじつならば――
 武田伊那丸たけだいなまる忍剣にんけん龍太郎りゅうたろうとが、むなしく徳川家とくがわけの手にばくされて、あさっての夕ぐれ、河原かわらの刑場にられるという、あの高札こうさつが事実ならば――
 じつに、武田一とう致命的ちめいてき危難きなんは、目睫もくしょうにせまっているのだ。
 竹童ちくどうむねがなんで安かろうはずはない。かれは、一こくもはやく、この大へんを、小太郎山こたろうざんのとりでへしらせたいともだえている。どうしても、四、五日かかる道のりのある小太郎山へ、今夜のうちに、かけつけたいと苦念くねんしている。
 とうてい、人の力でおよばぬことをなさんがために、竹童は心にもない大道芸人だいどうげいにんのまねをするのだ。見ているお小姓こしょうとんぼはおもしろかろうが、ああ、かれにはなみだげいであった。


「さあ、それから、それから――」
 と、になっている前髪まえがみたちは、待ちきれないで、あとをせがんだ。
 きわどいところで、竹童はたくみにおッとりして、
「さ、火焔独楽かえんごまきょくまわし、いよいよかかりますがそのまえに、ちょっと、おうかがいしたいことがございます。どうか、話してくださいまし」
「なんじゃ? 独楽こままわし」
「あの、近ごろ浜松はままつのご城下じょうかで、武田伊那丸たけだいなまるというかた徳川とくがわさまの手でつかまったそうですが、それは、ほんとでございますか」
つかまったのはまことじゃ、家来けらいのやつふたりも一しょに」
「ああ、では……」
 思わず、あおざめたかと思う顔を、むりに微笑びしょうさせて、
「やっぱり、うわさはまことでございましたか。それで、さだめし家康いえやすさまもご安心でございましょう。けれど伊那丸や家来のふたりも、なかなか智勇ちゆうのある者とききましたが、どうしてそんなに、たやすく捕まってしまったのでしょう?」
「いいではないか、そんなこと。早くそれより独楽をまわして見せい」
「はい、いままわします。ですけれど、じつはこのさきの都田川みやこだがわで、そんな高札こうさつを見ました時に、仲間なかまの者とかけをしたのでございます」
「じゃ、話してやるから、それがすんだら、すぐに火焔独楽かえんごまをまわすのじゃぞ」
「ええ、まわしますとも、まわしますとも」
「その武田伊那丸は、まえからほうぼうへ手配てはいをしていたが、なかなか捕まえることができなかった。するとこんど、桑名くわなのほうから、和田呂宋兵衛わだるそんべえという者が密訴みっそをしてきた。その者のことばで、伊那丸のとおる道がわかったから、関所せきしょに兵をせておいて、もなくしばりあげたのじゃ。だから、あさっての太刀取たちとりは呂宋兵衛るそんべえやくをおおせつかって、都田川みやこだがわ刑場けいじょうで、その三人の首をることになっている」
「ああ、そうですか。いや、それでよくわかりました」
 と、さりなく聞いていたものの、竹童ちくどうむね早鐘はやがねをついている。
「そして、この大鷲おおわしは、どうしてまた、あなたがたのお手に入りましたか。浜松にも、めったにこんな大鷲は飛ばないでしょうに」
「このわしか。――これもその呂宋兵衛が、桑名くわなから浜松へくるとちゅうでつかまえたのを、菊池半助きくちはんすけのところへ土産みやげに持ってきたのじゃ。それを万千代まんちよさまが、おねだりして、こうしてとんぼぐみっているのじゃ。だから、めッたな者にはかさないが、おまえが上手じょうず独楽こまをまわせば、万千代さまもかしてやろうとおっしゃる。サ、はやくまわしてみせい、はやく火焔独楽かえんごまきょくまわしをやってみせい」
 もうすっかり、竹童を旅の独楽まわしと思っているので小姓こしょうたちは、城内じょうないで聞きかじっていたことを、みんなベラベラしゃべってしまった。
 事実じじつだ。伊那丸いなまる遭難そうなんはまことであった。ああ、大事はついにきた。
「ウウム、もうこうしてはおられない!」
 と竹童の眼はわれ知らずかッとえた。
 その真剣しんけんぶりに、万千代や小姓たちが、少しあとへさがったのをしおとして、かれはまた、ふたたびげいにとりかかるような身構みがまえをキッと取り、
「では! 竹生島神伝ちくぶしましんでん魔独楽まごま!」
 と、こえたからかにさけんで――
「――小手こてしらべはつるぎ刃渡はわたりッー」
 片手かたて独楽こま――まわすと見せて、一方の手に、般若丸はんにゃまる脇差わきざしきはなったかと思うと、すぎの根もとにつながれている、クロのつなをさッとった。
 紫電しでんのおどろきに、わしは地をうってユラリ――と、空に足をちぢめた。
 ふたたび帰らぬ高き上に。
「あ、あ、あッー」
 と、不意ふいをくったとんぼぐみ小姓こしょうたちは、旋風つむじにまかれたの葉のように、睥睨へいげいする大鷲おおわしはらの下で、こけつ、まろびつ、悲鳴ひめいをあげて、
がすな」
「いまの独楽まわしーッ」
「あッちへいった!」
「鷲もげた!」
「それ」
「そらッ」
ッかけろ!」とはしりだした。
 見れば竹童もまッ先にけてゆく。
 竹童はわしを追い、万千代まんちよは竹童を追い、小姓こしょうとんぼは万千代のあとからあとから――


 いつかあかねいろの曠野こうやは、海のような青い黄昏たそがれとかわっていた。草をけって、いつ追われつする者たちには、十ぽうなにものの障壁しょうへきもない。
 すると不意ふいに、
 さきへ走った竹童が、するどい気合きあいをあげて、なにやら、虚空こくうぼうのようなものを投げあげた。
 クルクルと螺旋らせんって、それが、空のあいへとけったかと思うと、高いところで、かッ、という音がひびいた。そして、前の棒切ぼうきれが反落はんらくしてくるのと一しょに、クロの巨影きょえいもそれにつれて文字もんじに地へりてきた。
 そしてやがて。
独楽こままわしのにせ者め」
「鷲をかえせ、鷲をかえせ」
 声をそろえて、そこへ万千代まんちよたちのなだれてきたころには、すでに、地上に竹童のすがたもなく、大鷲おおわしかげもなかった。
 ただ、あッにとられていた眼へ、ふとうつったものはちょうどそのとき野末のずえをはなれた、大きな宵月よいづきの光に、なにやら知れぬものの影が、草の上をフワフワとさまよった――それだけであった。
 おお、お小姓こしょうとんぼのッちゃんたち!
 三方みかたはらをあとにしながら下に月光の山川さんせんを見、あたりに銀鱗ぎんりんの雲を見ながら、鞍馬くらま竹童ちくどうわしの上からさけぶのである。
 これはもともとおいらのわしだ。
 おいらのものはおいらにかえる。なんのふしぎもないはなしだ。蛾次郎がじろうみたいに、ぬすんでげるのとはわけがちがう。
 独楽こまでだましたのは悪かったけれど、おとなしくクロをわたしてくれといっても、かせといってたのんでも、浜松城はままつじょう腕白わんぱくッちゃん、けっして、すなおには承知しょうちしないでしょう。だから、あんな詐術さじゅつをやりました。
 それも武田たけだとうのため。ああ、しかも伊那丸いなまるさまの危難きなんを知った日に、この鷲が、ふたたびじぶんの手にかえるとは、天がこの竹童ちくどうをあわれんでか、果心居士かしんこじさまのおまもりであろうか。
 なにしろ、おいらは、これからいそがなくってはならない身だ。久しぶりでこのクロを、じぶんひとりで、ほしいままにのってかけるのだが、いまは、そのつばさの力さえなんだかおそい心地ここちがする。
 クロよ、ひとはたきにとんでくれ。
 小太郎山こたろうざんへ、小太郎山へ。


 右少将徳川家康うしょうしょうとくがわいえやす、いつになく、ほころんだ顔をしている。ごきげんがよいのである。
 つねに、かれが気にしている秀吉ひでよしが、近ごろメキメキとはぶりをよくして、一きょ桑名くわな滝川たきがわおとし、軍をかえして北国ほっこくをつき、猛将もうしょう勝家かついえ本城ほんじょうきたしょうにせまって、くべからざる勢力をきずき、北陸ほくりく豪族ごうぞく前田利家まえだとしいえなかをよくしたという間諜かんちょうもあった。
 で、はなはだ、かれの気色きしょくがうるわしくない。
 どこかで秀吉がつまずけかし、といのっているのに、その反対はんたいなうわさばかりが飛んできて、ここしばらくのあいだ、かれの心を楽しませぬのであった。
 しかし、きょうはいたってやわらかい眉目びもくである。
 がんらい、家康という人、心のうちの喜怒哀楽きどあいらくを色にださないたちである。いつも、むッつりと武者むしゃずわりをして、少し猫背ねこぜになりながら、寡言多聞かげんたぶんを心がけている。ひじょうに狡猾こうかつで気むずかしく、はらぐろい人相にんそうのようでもあり、ばかに柔和にゅうわであたたかい相好そうごうのようにも見える。だから、その顔をくものは深くしたしみ、みきらうものはまたひどくきらう。
 めずらしく、酒宴しゅえんをのべていた。
 多くの近侍きんじ旗本はたもとをあいてに、ほがらかな座談ざだん。それがむと、つづみの名人大倉六蔵おおくらろくぞうに、つづみをうたせて聞きとれる。
 そこへ、おそく酒宴しゅえんにまねかれた、菊池半助きくちはんすけ末席まっせきにすわった。隠密おんみつのものは、ろくは高いが士格しかくとしては下輩げはいなので、めったに、こういう席にしょうじられることはない。
 半助のすがたをチラリと見ると、
つづみをやめい」
 とさかずきを取って、
「かれへ」
 と、近侍きんじへ取りつがせた。
 破格はかくな盃をいただいた半助へ、人々は羨望せんぼうの目を送った。そして、半助、なにかよほど手柄てがらをやったな、とささやいていた。
 そういう様子をながめながら、家康いえやすはまた、ちこう、とかれをまぢかくんで、
数日来すうじつらいのはたらき、まことに、過分かぶんである」
 とめことばをあたえた。めったに、人を賞めない家康、これもあまりないことである。
「は」
 とのみいって、半助は平伏へいふくしていた。
 伊賀衆いがしゅうのなかでも、隠密の上手じょうずとは聞いたが、なんという光栄こうえいをもった男だろうと、人々の目は、いよいよかれと主君しゅくんとにそそがれていた。
「して、こんどのことに、偉功いこうを立てた、和田呂宋兵衛わだるそんべえは、いかがいたした」
「せっかく、ご酒宴しゅえんのおまねきをうけましたが、まだ身分のさだまらぬ浪人境界ろうにんきょうがいで、出席はおそれおおいと辞退じたいしましたので、手まえの屋敷やしきにのこしてまいりました」
「そうか、野武士のぶしでも、なかなか作法さほう心得こころえている。そちのうち食客しょっかくしているあいだ、じゅうぶんにいたわってとらせろ。そのうちに、なにか、適宜てきぎ処置しょちをとってつかわす」
「かれが聞きましたなら、さだめし、ごおん感泣かんきゅういたしましょう」
「ながらくらえなかった武田伊那丸たけだいなまる、またふたりの者まで、一もう召捕めしとり得たのは、いつにかれのうったえと、そちの手柄てがらじゃ」
「は、ご過賞かしょう、身にあまるしだいでござります」
「当日、都田川みやこだがわ刑場けいじょうで、伊那丸を太刀たちとりやく、それも呂宋兵衛とそちとに申しつけてあるが、用意万端よういばんたん、手ぬかりはあるまいな」
「じゅうぶん、ご奉行ぶぎょうとともに、お打ち合せをいたしますつもり」
矢来やらい高札こうさつ、送りかご、また警固けいご人数にんずなど、そのほうは?」
「いちいち、手配てはいずみでございます」
「またその日はうわさを聞きおよんで、あまたの領民りょうみんがあつまるにちがいない。甲賀組こうがぐみ伊賀組いがぐみの者、残りなくりだして、あやしい者の見張みはりにはなちおくように」
変装組へんそうぐみ百人ばかり、もう今日のうちに、ご領内りょうないらしておきました」
「ウム、ではもう牢内ろうないの、武田伊那丸、加賀見忍剣かがみにんけん木隠龍太郎こがくれりゅうたろう、その三人を都田川にひきだして首をあらってるばかりか」
御意ぎょい。もはや、裾野すそのの雲は晴れました」
甲斐かいざかいの憂惧うれいがされば、これで心をやすらかにして、はた中原ちゅうげんにこころざすことができるというもの。家康いえやすにとって、伊那丸はおそろしいがんであった。幼少ながら、かれのすえ浜松城はままつじょうのろいであった。それをらえたのは近ごろの快事かいじ、いずれも斬刑ざんけいのすみしだいに、恩賞おんしょうにおよぶであろうが、その日のくるまでは、かならず油断ゆだんせまいぞ。よいか、半助はんすけ
 さては、家康のごきげんなわけは、伊那丸がらえられたことであるか。と一同はうなずいて、徳川家とくがわけのため、暗雲あんうんの晴れた心地ここちがした。そして、城を退さがったものは、このうわさを城下じょうかにつたえて、その日のくるのを、心待こころまちにしていた。そして、かつて軍神いくさがみ信玄しんげんが、甲山こうざんの兵をあげて、梟雄きょうゆう家康いえやすへ、乾坤けんこんてき血戦けっせんをいどんだ三方みかたはら
 そのいわれのある古戦場こせんじょうで、その信玄のまごが、わずかふたりの従者じゅうしゃとともに、錆刀さびがたなで首を落とされるとは、なんと、あわれにもまた皮肉ひにく因縁いんねんよ!
 と、気のどくがるささやきもあれば、心地ここちよげにあざ三河武士みかわぶしもある。
 とにかく、春もくれかかる東海道とうかいどうつじには、そのうわさが、なにかしら、人に無情むじょうを思わせた。

おのれのくびげるひと




 すんだふえながれてくる。
 かんとか天彦あまひことかいう名笛めいてきのようだ。なんともいえない諧調かいちょう余韻よいんがある。ことに、笛の音は、きりのない月明げつめいの夜ほどがとおるものだ。ちょうど今夜もそんなばん――。
 そこは、白樺しらかばの林であった。
 さらぬだに白いのあるかばの木に、一本一本、あおじろい月光が横からしている。
 笛がとぎれた時の、シーンとした静寂しじま冷気れいきとは、まるで深海のそこのようだ。けれど、事実じじつはおそろしい高地こうちなのだ。
 小太郎山こたろうざん中腹ちゅうふく陣馬じんばはら高原こうげんつづき。
 かの、伊那丸いなまる留守るすをあずかる帷幕いばくの人々、民部みんぶ蔦之助つたのすけ小文治こぶんじなどが、天嶮てんけんようしてたてこもるとりでの山。
 笛は喨々りょうりょうとうむことなく、樺の林をさまよっている。やがて、そこに人かげがうごいた。見ればひとりの美少女である。長くたれた黒髪くろかみに、らんの花をさしていた。
 その人かげのあとから、幾年いくねんくちつんだ落葉おちばをふんで、ガサ、ガサと、歩いてくる者があった。小具足こぐそくをまとった武士ぶしである。
 七、八本のやりが、月光をくだいてギラギラとした。
「だれだッ!」
 びかけると、ひとりの手から、黄色い閃光せんこうが三かくけい放射ほうしゃされた。
 龕燈がんどうのあかりのなかにきたった少女のすがたをみると、
「おお、咲耶子さくやこさま――」
 と、目礼もくれいして、武士たちは、かばの林をぬけてしまった。とりでを見張みは番士ばんしたちである。
 そのうしろ姿すがたを、咲耶子はたのもしい思いで見おくった。ああして、ずに、夜なか、あかつきもこの要害ようがいを見まわっている人々の忠実さに感謝かんしゃした。そして、まだこのとりでにゆきのあるころ、山をくだって京都へ向かった伊那丸の上にも、どうぞ、この山のように無事ぶじがあるように――といのった。
 咲耶子は裾野すそのにいたころから、月のふえをすさびながら歩くのがきであった。この小太郎山こたろうざんにきてからは、ことに白樺しらかばの林に、ほのかならんのながれる道を、しずかに歩むのがこのましく、今夜も陣馬じんば搦手からめてから、月にさそわれて、思わずのふけるのを忘れてしまった。
「おお、ひえびえとしてきた。二子山ふたごやまに見えた月が、もうあんなに遠い谷間たにまにある。……あまりおそうなっては、さだめし、民部みんぶさまや小文治こぶんじさまがおあんじなされているかもしれぬ……」
 そう思いながら、それでもまだ、かえる道をむなしく歩いていくことはおしそうに、狛笛こまぶえをとって、その歌口うたぐち湿しめしはじめる。
 するとどこかで、びゅうッ――という風のような音がした。だが、かばこずえはゆれてもいなかった。野呂川のろがわのひびきにしては一しゅんである。いや、それは天地をゆく音ではなく、高いところをかすめた音響おんきょうにちがいなかった。
「なにかしら? ――」
 咲耶子さくやこはいそいで林をかけぬけた。
 陣馬じんば高原こうげんには、さまざまな植物の花が、つゆをふくんで黒々くろぐろねむっていた。ここに立てば、ひるは東の真正面まっしょうめん富士ふじ銀影ぎんえい裾野すその樹海じゅかいがひと目にながめられ、西には信濃しなのの山々、北には甲斐かい盆地ぼんち笛吹川ふえふきがわのうねり、村、町、城下じょうか地点ちてんまでかぞえられる。
「耳のせいであったか、それとも、やはりただの風か? ……」
 見まわした空には、なにもののかげも見あたらなかった。ただ、しずかにもくしている、月はある、星はある。
 ふたたび、狛笛こまぶえが高くすんだ。そして咲耶子が、われとわが吹く音色ねいろにじぶんをすら忘れかけたころ、さらにすさまじい一じん疾風しっぷうが、月のふところをでて、小太郎山こたろうざん真上まうえをびゅうッ――と旋回せんかいしはじめた。
「オオ!」
 咲耶子さくやこは、ふえくちからはなして、高く高くうちふった。
「――竹童ちくどうではないか! 鷲! 鷲! 竹童の鷲よ――」
 おどり立つばかりにさけんだが、すぐにまた、笛を持ちなおして、いきいッぱいに、空へ向かって高らかに吹く。
 とりでは、夜はまったくかくされてあるので、このあたりの重畳ちょうじょうたる山の起伏きふくに、どれが目ざす小太郎山こたろうざんか、ちゅうまよいめぐっていた鞍馬くらまの竹童も、やっと、そのを聞きあてた。
 こころみに鷲の上から、下界げかいへ向かって、声いっぱいに、
「咲耶子さまーッ」とんでみる。
 小手こてをかざしてみれば、いちめんの高原植物こうげんしょくぶつ、月光とつゆ繚乱りょうらんたるなかに、ぽちりと、ひとりの少女のすがたが、ありありと立って見えた。
 少女は笛で呼んでいる。
 竹童もまた声をはって、
「咲耶子さまア。咲耶子さまアー」
 巨大きょだいなる波紋はもん宇宙うちゅうにえがきながら、だんだんに陣馬じんばの地上へくだってきた。
 ただならぬ怪影かいえいを見つけたとりで番士ばんしは、なにかとおどろいて、へん小幡民部こばたみんぶにつげた、その夜、自然城しぜんじょう山曲輪やまぐるわには、巽小文治たつみこぶんじ山県蔦之助やまがたつたのすけも、虫の知らせか、しきりに伊那丸いなまる安否あんぴや、随従ずいじゅうしていった忍剣にんけん龍太郎りゅうたろうから、なんの消息しょうそくもないことなどをうわさし合っているところであった。


 三方みかたはらをとんで、夜の空をいそいだ鞍馬くらま竹童ちくどうは、そうして、小太郎山こたろうざん同志どうしへ、伊那丸の急変きゅうへんをもたらした。
 かれは、かれの使命しめいをとげた。一ねんたっした。
 けれど、寝耳ねみみに水の変を聞いた、一とうのもののおどろきはどんなであったか。なかにも、小幡民部こばたみんぶはその急報きゅうほうをうけるとともに、
「ううむ……」
 と、深くうめいたまま、しばらく、いうべき言葉もなかったくらい。
 山曲輪やまぐるわの一かく評定場ひょうじょうばとびらはかたくとざされた。
 ひそやかに、そこへあつまった人々は、むろん、帷幕いばくの者ばかりで、民部を中心に、山県蔦之助やまがたつたのすけ巽小文治たつみこぶんじ。そして、竹童はそのまえにつかれたからだをすえ、咲耶子はうちしおれて、紫蘭しらんのかおる黒髪くろかみを、あかい獣蝋じゅうろうのそばにうつむけていた。
「竹童」
 やがて、民部はおもおもしいかおをあげて、
「そちがさぐってきた、若君わかぎみのご異変いへん、また都田川みやこだがわ刑場けいじょうでおこなわれる時日じじつ、かならずまちがいのないことであろうな」
「たしかに、そういないこととぞんじます。その刑場けいじょうをつくる足軽あしがるのはなしや、またお小姓こしょうのいったこともみなピッタリと、合っております」
「すると、今宵こよいもやがて夜明けに近いから、のこる日は明日あすだけじゃ……」
 さすが、甲州流こうしゅうりゅう軍学家ぐんがっか智謀ちぼうのたけた民部みんぶといえども、この急迫きゅうはく処置しょちには、ほとんど困惑こんわくしたらしく、憂悶ゆうもんの色がそのおもてをくらくしている。
若君わかぎみのご運命うんめいがそうなっては、もう、われわれもこのとりでをまもる意義いぎがない」
 巽小文治たつみこぶんじは、悲痛ひつうなこえでいった。
「そうだ!」と蔦之助つたのすけ嘆声たんせいをあわせて、
「このうえは、とりでにのこる兵をあげて、小勢こぜいながら裾野すそのへくだり、怨敵おんてき家康いえやす城地じょうちへ、さいごの一戦を」
 みなまでいわせず、民部は首をよこにふった。
「そのとむらい合戦がっせんなら、すこしも、いそぐことはありますまい。いつでもできることじゃ」
「といって、むなしく、手をつかねておられましょうか」
「むろん、どうにか工夫くふうをせねばならぬ。しかし、人数をくりだして、とおく浜松はままつくころには、若君のおいのちが、すでにないものと思わねばならぬ」
「おお、それもごもっとも」
 と、蔦之助つたのすけはまた悶々もんもんとだまって、いまはただ、この民部の頭脳ずのうに、神のような明智めいちがひらめけかし、とジッといのるよりほかはなかった。
「ともあれ、若君わかぎみのご一めいや忍剣や龍太郎りゅうたろうを、いかにせばすくいうるか、それが目睫もくしょうの大問題であると思う。いたずらに最後の決戦をいそいで、千や二千の小勢こぜいをもって、東海道とうかいどうめのぼったとて、とちゅうの出城でじろ関所せきしょでむなしく討死うちじにするのほかはない。それでは、きょうまでの臥薪甞胆がしんしょうたん伊那丸君いなまるぎみのおこころざし、すべては水泡すいほうとなり、またの笑われぐさにすぎぬものとなる」
 やはり民部のせつ常識じょうしきであった。
 あくまで伊那丸を中心とする一とうが、その盟主めいしゅをうしなって、なんの最後の一戦がはなばなしかろう。どうしても、いかなる手段しゅだんをもって、石にみついても! 伊那丸をたすけなければ意義いぎがない! 武士道ぶしどうがない。
 はなやかならぬ、またゆうにのみはやれぬ、軍師ぐんしのつらい立場たちばはそこにあるのだ。
「ああさくは一つしかない」やがて、かれは決然けつぜんといった。
蔦之助つたのすけどの、小文治こぶんじどの、すぐに、たびのおしたくを!」
「や、われわれのみで? その味方みかたは?」
「むしろ秘密ひみつに――」
 と、民部はせきをたって、太刀たちをはき、身ごしらえにかかった。
 熟考じゅっこうの長さにひきかえて、けっするとすぐであった。蔦之助と小文治も、膝行袴たっつけひもをしめ、脇差わきざしをさし、手馴てなれのゆみと、朱柄あかえやりをそばへ取りよせた。
民部みんぶさま……」
 咲耶子さくやこ竹童ちくどうは、じぶんたちに指図さしずのないのを、やや不満ふまんに思って、おなじように身じたくをしようとしながら、
「わたしも」
「わたくしも」
 一しょに立つと、民部はそれをせいして、
「ふたりは、どうかとりでのるすをまもっていてくれい。なお、われわれがおらぬも、われわれがいるように見せかけて、こよい、三人が小太郎山こたろうざんをぬけだしたことは、かならず、てきにも味方みかたにも秘密ひみつにしておくように」
 そういって、評定場ひょうじょうばゆかを上げた。
 まっくらな空洞うつろが口をあけた。
 峡谷きょうこくの一方へひくくくだっていく間道かんどうである。
「では」と、そこへ足をれながら、民部はもういちど咲耶子と竹童をふりかえった。
「いまのたのみ、くれぐれも心得こころえてくれよ、なにごとも若君わかぎみのおためじゃ」
 いなむこともならず、ふたりはさびしい目で見おくった。小文治こぶんじ蔦之助つたのすけは、目と目で別れをつげながら、民部につづいて、もくもくと間道の下へすがたをれる。
 ドーンと、下から入口をふさいでしまわれると、山曲輪やまぐるわの一しつにはもう、竹童と咲耶子、たッたふたりきりになってしまった。
 それから二刻ふたときか、一刻いっときばかりののち――。
 味方の目をしのんで、一さんに、ふもとへ走っていった小幡民部こばたみんぶとほかふたりは、やがて、夜のしらしら明けに、ふもと馬舎うまやから三とう駿馬しゅんめをよりだして、ヒラリと、それへまたがった。
 あいたいと、たなびく雲の高御座たかみくらに、富士ふじのすがたがゆうぜんとあおがれる。民部は、むちをさして、
「ご両所りょうしょ!」とんだ。
「竹童のしらせによると、若君が刑場けいじょうへひかれるのは、明日あすの夕方ということじゃ。きょう一日で、裾野すそのから東海道とうかいどうのなかばまではかどれば、その時刻じこくにようように合おうかと思う。いや、たとえ、こまとともにくまでも、それまでに三方みかたはらへかけつけねばならぬ」
「おお、もとよりそれぐらいなこと、この場合ばあいになんのことでもござりませぬ。して、その時には?」
「なんの手段しゅだんをめぐらす時間もない。ただ、群集ぐんしゅうのなかにまぎれて、せつなに、矢来やらいのなかへりこみ、若君わかぎみをはじめふたりの盟友めいゆうすくいだすばかり」
心得こころえました」
 小文治こぶんじうでをうならせて、朱柄あかえやりをからぶりさせた。
 さっさつたる朝の風が、こまのたてがみをこころよくらす。
 ひゅうッ、と一鞭ひとむちあてると、三はそのまま馬首ばしゅをそろえて、東へひがしへ疾走しっそうしていった。
 やがて、やがて、渺茫びょうぼうとした裾野すそのと、はてなき碧落へきらくが目の前にめぐりまわってくる。
 海のようだ。五月の裾野すその、五月の大気。
 目のとどくかぎり、十何里なんり、ただ一しょくの青ずすきが、うねうねと風のままに波にたる、波を立てている。
 そのなかを、いとも小さな三がはしっていく。
 風にかくれ、風に見え、風をついて疾走する。
 ああまだ東海道とうかいどうへはへだてがある。なお浜松はままつ三方みかたはらにはがある。覚悟かくごのとおり、あの三騎は、とちゅうでいてしまいはせぬだろうか。
 かかる場合ばあいは、千をとぶ逸足いっそくももどかしく、一日の陽脚ひあしもまたたくひまである。すでにその日は、天龍川てんりゅうがわのほとりにれた三騎のひとびと、はたして、翌日よくじつの午後までに、刑場けいじょう矢来やらいぎわまで、けつけることができるのであろうか?


 ついに、その日、その時刻じこくはきた。
 都田川みやこだがわ右岸うがんには、青竹あおだけをくんだ矢来やらいの先が、はりの山のように見えている。そのまわりに、うわさを聞きつたえてあつまった群集が、ヒシヒシとしていた。
 夕ぐれの風が、矢来やらいの竹にカラカラとものさびしい音を鳴らすほか、むらがった大衆たいしゅうも、シーンとして、水のようにひそまっていた。
 さっき、浜松はままつ城下じょうかから、三方みかたはらをとおっていった裸馬はだかうまには、まだおさない公達きんだちと、僧形そうぎょうの者と六のすがたがくくりつけられて、この刑場けいじょうへ運ばれてきたから、もうほどなく、首斬くびきりの役人が、太刀たちに水をそそぐであろうと、予想よそうするだけでも、みんなのいきがつまってくる。
 と――丁字形ていじけいまくをはった矢来のすみのたまり場から、くろい服をまとった男が、のっそりと刑場のまン中にでてきて、ジロジロと矢来の周囲しゅういを見たり、天をあおいでなにかつぶやいているようす。
「おや、伴天連バテレンがきています」と、みんな、耳や口をよせあっていた。
 すると、ややおくれて、矢来の死門しもんから三人のなわつきがひかれてきた。菊池半助きくちはんすけがその縄取なわとりのうしろから、おごそかに口をむすんでくる。
「ごくろうでした」
「そこもとにも」
 と、伴天連と半助は、こう会釈えしゃくをして、すぐに刑吏けいりへさしずして、死座しざをつくらせ、だまりのあなをほらせ、水柄杓みずびしゃくをはこばせる。
 あなたには奉行ぶぎょう検視けんしの役人などが、床几しょうぎをすえて、いそがしくはたらく下人げにんたちのようすをながめ、ときどき、なにか下役したやくへ注意をあたえている。
 かけやを持ったひとりの男は、やがて、三ツの死のむしろのそばへ、三本のくいをコーン、コーンと打ちこんだ。
「それッ」と、菊池半助きくちはんすけが、時刻じこくをはかって目くばせする。
武田伊那丸たけだいなまるッ、立て!」
 まっ先の杭へ、あらあらしく引きずってきて、ギリギリきにいましめのはしをからめつけた。
 むしろの上にすえられた姿すがたは、悄然しょうぜんと、うつ向いていた。さすがな家康いえやすも、その身分みぶんを思ってか、衣服いふくけたままの白綸子しろりんず、あきらかに、武田菱たけだびしもんがみえて、前髪まえがみだちのすがたとともに、心なき群集ぐんしゅうの眼にも、あわれに、いたいたしいなみだをもよおさせる。
 さらに、ひどかったのは、つぎの、法師ほうしすがたのものと、白衣びゃくえの人をあつかった刑吏けいり待遇たいぐうである。打つ、る、あげくのてに、伊那丸と同じように引きすえて、何か、口あらくののしりちらした。そのふたりも、ついにはこらえかねて、刑吏にするどい言葉をかえしていた。
 だが、目はぬのをもってふさがれ、両手りょうては杭にしばりつけられている二人の怒声どせいは、むざんな役人たちの心に、ありふれた、世迷よまごととしかひびかなかった。なお、矢来やらいのそとの群集には、そのありさまを見るだけで、ことばの意味いみは聞きとれない。
罪人ざいにんどもの泣きほえるのを、いちいち取りあげていてはてしがない。それッ、時刻じこくぎぬうちに支度したくをせい」
 こう、奉行役人ぶぎょうやくにんが、大きな声でどなったのは、だれの耳にもわかった。
太刀取たちとりのおかた――」
 と、目くばせすると、それまで、小気味こきみよげに三人をにらんでいた伴天連風バテレンふう怪人かいじんは、
半助はんすけどのに、代理だいりをお願いいたしたい。この呂宋兵衛は、さきごろ桑名くわなで少し右腕みぎうでをいためておりますので……」
 と、辞退じたいした。
 その妖異よういなすがたをした者こそ、伊那丸いなまる通過つうか密告みっこくして、またうまうまと徳川家とくがわけのふところにろうとして、ねこをかぶっている和田呂宋兵衛わだるそんべえである。
 呂宋兵衛の辞退をきくと、半助は、だれも刑場けいじょうへでると、一しゅ鬼気ききにおそわれる、その臆病風おくびょうかぜ見舞みまわれたなと、苦笑くしょうするさまで、
「さようか。では、不肖ふしょうですが、半助代刀だいとうをつかまつります」
 と、奉行にもいって、刑吏けいりの手から、無作むづくりの大刀をうけとり、すぐに、さやをはらった。
 小柄杓こびしゃくの水を、サラサラとやいばにながして、そのしずくのしたたるッさきを、まず、右のはしにいた者の目の前につきつけて、
忍剣にんけんッ!」
 と、声をかけた。
 白布はくふで、目をふさがれている法師ほうしすがたは、その時、顔をあげ、かたをゆすぶッて、なにやら、無念むねんそうにさけぼうとしたが、
徳川家とくがわけあだなすやつ、やがて、あとからいく伊那丸いなまる先駆さきがけをしろッ」
 という、半助のののしりにされ、それと同時に、戛然かつぜんけんがひらめいた。
 バサッ――としぶきが立った。
 とたんに、せとなった死骸しがいり口から、百千の蚯蚓みみずが走りだすように血がながれた。矢来やらいのそとにいきをのんでいた群集ぐんしゅうも、さすがに、目をそむけて、手につめたいあせをにぎりしめた。
木隠龍太郎こがくれりゅうたろうッ――」
 つづいて、こうさけぶ声がしたので、こわいもの見たさの眼をソッと向けてみると、はかますそに、かえり血をつけた半助はんすけのすがたが、すさまじくれた大刀へ、ふたたび手桶ておけの水をそそぎなおして、つぎの者へズカリとっていったかと思うと、
「龍太郎ッ! 覚悟かくごは? ――」と、光流こうりゅうをふりかぶった。
覚悟かくご? そんなものはないッ」
 と、どなることばもおわらぬまに、風をきるやいばがはすかいにりて、白衣びゃくえの全身がまッになった。
 あとは伊那丸ひとりだ。
 菊池半助きくちはんすけはゆうゆうとして、三人目の成敗せいばいにかかろうとしている。
 点々てんてんたるかえり血は、夜叉やしゃのように、かれのうでそでをいろどった。
 哀寂あいじゃくな夕雲は、矢来やらいの上におもくたれて、一しゅん、そこを吹く風もハタとんだ。
 ああ、ついにに合わなかった。
 小幡民部こばたみんぶ
 山県蔦之助やまがたつたのすけ
 巽小文治たつみこぶんじ
 かれらはなにをしているのか!
 いそぎにいそいで、小太郎山こたろうざんから疾駆しっくしてくるとちゅうで、馬もろとも、血をいてぶったおれたのか。あるいは、もう、そのへんまで――三方みかたはらの北のへんまでは、きているのか!
 それにしても、ああ、もう大事はぎてしまった。
 一とうになくてはならない盟友めいゆう加賀見忍剣かがみにんけんはたおれている。木隠龍太郎こがくれりゅうたろうも血の中にしてしまっている。
 と――思うまに菊池半助の無情むじょうやいばは、颯然さつぜんと、伊那丸いなまるえりもとへおちた。


 目をおおうべし。
 菊池半助が気をこめた刑刀けいとうは、一せん、ひゅッと虹光にじびかりをえがいて、伊那丸いなまるのすがたを血けむりにさせた。
「アーアー」
 群集ぐんしゅうはただ、こう口からもらしただけであった。正視せいしするにしのびないで、なかには、矢来やらいにつかまったままあおざめた者すらある。
 八そう截鉄せってつ落剣らっけん! 異様いようなる血の音を立って、武田伊那丸たけだいなまるの首はバスッとまえにおちた。
 どうはそのとたんに死座しざから前向きにガクッとつっぷしてしまう。あの小袖こそでにつけた武田菱たけだびしもんも、しゅまって、もうビクリともしなかった。
 完全な死だ、完全な断刀だんとうだ! 家康いえやすもまたりによってれる刀を、刑吏けいりさずけたものとみえる。
 忍剣を斬り、龍太郎の首をうち、いままた伊那丸をけいした半助は、さすがに斬りつかれがしたとみえて、滴々てきてきと、血流ちながしから赤いしずくのたるるやいばをさげて、ぽうッとしばらく立っていた。そのあたりの草いッぱい、曼珠沙華まんじゅしゃげという地獄花じごくばないたように、三ツの死骸しがいかえ斑々はんはんとあかくえている。
 斬刑ざんけいがすんで、浜松城はままつじょうからきている奉行ぶぎょう検死けんし役人などは、みな床几しょうぎを立ちはじめた。りみだれて立ちはたらく下人げにんたちのあいだに、血なまぐさい陰風いんぷうく。
 ひとつぼし、ふたつ星。……空は凄愴せいそう暮色ぼしょくをもってきた。だが、矢来やらいのそとの群集ぐんしゅう容易よういにそこをさろうとしない。
「ああ、いやな気持になった! はじめのうちはおもしろかったが、なんだかいまになって毛穴けあながゾーッとしてきやがった。へんなもんだなあ、人のられるッていうものは」
 矢来やらいにたかっている数多あまたの中で、こういった、ひとりの見物人けんぶつにんがある。
親方おやかた! 親方はなんともないような顔をしていますね」
 つれの男は太い口をむすんで、黙然もくねんと、刑場けいじょうのなかを見つめていた。革胴服かわどうふくにもんぺを穿き、脇差わきざしをさした工匠風こうしょうふう、だれかと思うと、秀吉ひでよし追捕ついぶをのがれて、竹生島ちくぶしまから落ちてきた上部八風斎かんべはっぷうさい、いまではもとにかえって鏃鍛冶やじりかじはなかけ卜斎ぼくさい
 しゃべっているのは蛾次郎がじろうだった。
「だけれど、考えてみると、伊那丸いなまるもかわいそうだな。ちょっと、旗上はたあげのまねをしたばかりで、もう首をられちまった。忍剣にんけん龍太郎りゅうたろうもとうとう冥土めいどのお相伴しょうばん。アアいやだいやだ死ぬなんて。ねえ親方、こういうところを見ると、やっぱり富士ふじ裾野すそのあたりで、テンカンテンカンとやじりをたたいているのが一ばん安泰あんたいですね」
 卜斎はそばのおしゃべりへ、耳もかさずに腕組うでぐみをしていた。
 だが蛾次郎は、卜斎が返辞へんじをするとしないとにかかわらず、ひとり所感しょかんをのべている。
「これで、木から落ちたさるみたいに、ベソをかくのは竹童ちくどうだろう。この見物けんぶつのなかにあいつがいたら、いまの景色けしきをどんな顔して見ているだろうな……オヤ、もうおしまいかしら、役人がみんなまくのかげへはいってしまった――つまらねえな。ア! 非人ひにんがきたぞ非人が、三ツの死骸しがいをかたづけるんだな。やあいけねえ、伊那丸いなまるの首を河原かわらほうへ持っていってしまやがった。ホウ、あんなところのだいへ首をのせてどうするんだろう、龍太郎りゅうたろうの首も、忍剣にんけんの首も――アア、獄門ごくもんというのはあれかしら? 親方親方、あれですか、獄門にかけるッていうことは?」
 指差ゆびさしをして卜斎ぼくさいの顔を見あげたが、その卜斎は、蛾次郎がじろうとは、まるで見当けんとうちがいなほうに目をすえているのであった。
 さっきから、なにを見ているんだい親方は?
 と――蛾次郎も卜斎の視線しせんにならってその方角ほうがくへ目をやってみると、竹矢来たけやらいの一かく、そこはいまあらかたの弥次馬やじうま獄門台ごくもんだい掲示けいじ高札こうさつを見になだれさったあとで、ほのあかるい夕闇ゆうやみに、点々てんてんと、かぞえるほどの人しかのこっていなかった。
 卜斎は最前さいぜんから、そこばかりをじっとにらんでいた。横目づかいの白眼しろめで――
 蛾次郎の注意もはじめて同じ焦点しょうてんへ向いた。
 とたんに、
 かれ蛾次郎の目のたまが、デングリかえるようにグルグルとうごいた。そしてその睫毛まつげがせわしなくパチパチとばたきをし、まゆに八のをこしらえた。なにかさけぼうとしたくちびる上下じょうげにゆがんだが、いう言葉さえ知らぬように、はなあなをひろげたまま、アングリと口をあいて茫然自失ぼうぜんじしつのていたらく……。
 あたかも磁力じりょくにすいつけられてしまったよう。そも、泣き虫の蛾次郎がじろうおよび親方おやかた卜斎ぼくさいまでが、なにを見てそんなにぼうぜんとしているのかと思えば――それも道理どうり、ふしぎ! イヤふしぎなどというなまやさしい形容けいようをこえた、あるべからざる事実じじつが、そこに、顕然けんぜんとあったのである。
 見れば北側きたがわ矢来やらいそと、人かげまばらなあとにのこって、なにかヒソヒソとささやき合ってる旅人たびびとがある。よくよく凝視ぎょうしするとおどろいたことには、それが、たったいま、刑場けいじょうのなかで首をおとされたはずの忍剣にんけん龍太郎りゅうたろう伊那丸いなまる主従しゅじゅう三人。
 あやしいといってもこれほど怪異かいいなことはない。菊池半助きくちはんすけが、大衆環視たいしゅうかんしのなかでたしかにった三人――しかもその血汐ちしおは、なおまざまざと刑場けいじょうの草をそめており、その首は都田川みやこだがわ獄門台ごくもんだいにのせられているのに!
 その人間がここにいる。
 話している。
 わらっている。
 ときどき、じぶんの首がのせられた獄門台のほうを見ている。
 そして微笑びしょうする。
 くすぐったいように――不審ふしんなように――ささやき、うなずき合っている。


 卜斎ぼくさいが眼をはなさなかったのもあたりまえ。
 蛾次郎がじろうはなからいきったままぼうとあッけにとられてしまったのももっともだ。
 人ちがいじゃないか?
 とも思って、眼をこすって見なおしたが、やはり記憶きおくはいつわらない。どう見てもあの三人、菊池半助きくちはんすけにバサとられた三ツの首のぬしにまぎれはない。
 すなわち武田伊那丸たけだいなまるは、眉目びもくをあさく藺笠いがさにかくし、浮織琥珀うきおりこはく膝行袴たっつけに、肩からななめへ武者結むしゃむすびのつつみをかけ、木隠龍太郎こがくれりゅうたろう白衣白鞘びゃくえしらさやのいつもの風姿なり、また加賀見忍剣かがみにんけんもありのままな雲水うんすいすがた、手にはれい禅杖ぜんじょうをつっ立てている。
「ウーム……親方おやかた……」
 蛾次郎はうなるように卜斎を見あげた。
「……はアて……」と卜斎もまたしきりに首をひねっていたが、
「どうもわからぬことがあるものだ。弥次馬やじうまにはなにもわかるまいが、わかる者から見ていると、世の中の裏表うらおもては、じつに奇妙きみょうだ。いや裏が表だか、表が裏だか、こう見ているとおれにさえわからなくなってくる」
「まったくです!」と蛾次郎も相槌あいづちをうって、
られた首がほんものの伊那丸か、見ている首が本ものか、なにがなんだか、さっぱりワケがわからなくなっちまった」
「そりゃもちろん、あっちのやつがにせ者だろう」
「テ、どっちがです?」
矢来やらいのそとに立っているやつらよ」
「すると、生きてるほうの伊那丸いなまるですか」
「ウム、方々ほうぼう落武者おちむしゃ浪人ろうにんで、めしえないさむらいなどは、よく名のある者のすがたと偽名ぎめいをつかって、無智むち在所ざいしょの者をたぶらかして歩く手輩てあいがずいぶんある。おおかたそんな者たちだろう」
「だって親方おやかた、それにしちゃ、あんまり似過にすぎているじゃありませんか。ちょっとそばへいって、わたしが目利めききをつけてきましょう」
「これッ、よけいなとこへっ走るな」
「へい!」
「ばかめ、すぐに調子ちょうしに乗りおって!」
「でも……」
 と蛾次郎がじろう河豚ふぐのようにプーッとふくれた。――なにもそう頭からこんなことをガンとしからなくッたってよかりそうなもんだと。
 と思ったが、卜斎ぼくさいそでをひっぱられたので、気がついた。うしろに、いやな目つきをした町人ちょうにんが立っている。
 うさんくさい目つきをして、じぶんたちの挙動きょどう注意ちゅういしているらしい。蛾次郎がじろうは口をむすんで、あわてて夕星ゆうぼしへ顔をそらしながら、
親方おやかた、そろそろばんになりましたネ」
 とそらとぼけた。
「もどろうかな、ご城下じょうかへ」
「帰りましょうよ。はやく、宿屋のごはんべたい」
 空の星がふえるのと反比例はんぴれいに、地上の人影ひとかげはぼつぼつへっていた。ふたりは矢来やらいのきわをはなれながら、それとなく気をつけたが、いつのまにか疑問ぎもんの三名は忽然こつねんとかげをして、あたりのどこにも見えなかった。まるでたったいま、ありありと見えたあの姿すがたが、まぼろしか? 人間の蜃気楼しんきろうでもあったかのように。
 妖麗ようれい夜霞よがすみをふいて、三方みかたはら野末のずえから卵黄色らんこうしょく夕月ゆうづきがのっとあがった。都田川みやこだがわのながれは刻々こっこくに水の色をぎかえてくる、――あい、黒、金、銀波ぎんぱ
 そして河原かわらはシーンとしてしまった。秋のようだ。虫でもきそうだ。獄門台ごくもんだいくぎされた三ツの首は、その月光に向かっても、睫毛まつげをふかくふさいでいた。
 そばには生々なまなましい新木あらき高札こうさつが立ってある。
 いつぞやこの原の細道ほそみちで、足軽あしがるがになっていくのを竹童ちくどうがチラと見かけた、あの高札こうさつが打ってあるのだ。――といつのにか、その立札たてふだ獄門ごくもんの前へ、三ツの人影ひとかげが近づいている。
「わしの首級しゅきゅうがさらしてある」
 こういったのは、伊那丸いなまるの首のまえに立った伊那丸である。
「これが拙者せっしゃの首でございますな」と龍太郎りゅうたろうも、おのれの首をながめてわらった。
「じぶんの首と対面たいめんして話をすることはおもしろい。これ忍剣にんけんの首! よくそちの面体めんていをわしに見せろ」
 加賀見忍剣かがみにんけん禅杖ぜんじょうを持ちかえ、いきなり、獄門台ごくもんだいの首のもとどりをつかんで月光に高くさし上げ、
「は、は、は、は。うんのわるい弱虫の忍剣め、つぎの世には拙僧せっそうのような不死身ふじみを持って生まれかわってこい。かつ! 南無阿弥陀仏なむあみだぶつッ――」
 ドボーンと都田川みやこだがわながれへ首をほうりこんだ。
 その水音があがったとたん。
 獄門番ごくもんばんむしろ小屋ごやから、ぎんむちをたずさえた黒衣こくい伴天連バテレンひょうのごとくおどりだして、
計略けいりゃくッ、にあたった!」と絶叫ぜっきょうした。
 だれかと思えば、それこそ、和田呂宋兵衛わだるそんべえなのであった。
「ウウむ、あみにかかった!」
 と、呂宋兵衛のさけびにこたえてどなったのは、隠密頭おんみつがしら菊池半助きくちはんすけ、いつのまにか、三人の背後はいご姿すがたをあらわして、
「しめた! 伊那丸主従いなまるしゅじゅうのやつら、そこをらすな」
 と四方へ叱咤しったする。
 同時に、ピピピピピ……と二人がをあわせていた高呼笛たかよびこにつれて、河原かわらのかげや草むらの中からいなごのように、わらわらとおどり立った百人の町人ちょうにん。これ、その日見物けんぶつのなかにまぎれこませておいた菊池半助配下はいか伊賀衆いがしゅう小具足こぐそく十手じってうでぞろい、変装へんそう百人ぐみの者たちであった。
 さらに見れば、川向こうから三方みかたはらのおちこちには、いつか、秋霜しゅうそうのごときやりと刀と人影ひとかげをもって、完全な人縄ひとなわり、遠巻とおまきに二じゅうのにげ道をふさいでいる。

鉱山掘夫かなやまほりの知らぬ山




 そのおなじ日の落ちゆく陽脚ひあしをいそいで、まだ逆川さかさがわ夕照ゆうでりのあかあかと反映はんえいしていたころ、小夜さよ中山なかやま日坂にっさかきゅうをさか落としに、松並木まつなみきのつづく掛川かけがわから袋井ふくろい宿しゅくへと、あたかも鉄球てっきゅうがとぶように、砂塵さじんをついて疾走しっそうしていく悍馬かんばがあった。
 くろく点々てんてんと、そのかずとう
 いうまでもなく小太郎山こたろうざんから、伊那丸いなまる急変きゅうへんむちをはげましてきた小幡民部こばたみんぶ山県蔦之助やまがたつたのすけ巽小文治たつみこぶんじの三勇士ゆうしである。
 天龍てんりゅうを乗っきって、しゃ笠井かさいさとへあがったのも夢心地ゆめごこち、ふと気がつくと、その時はもう西遠江にしとおとうみ連峰れんぽうの背に、ゆうよのないがふかくしずんで、こく一刻、一ちょうそくごとに、馬前ばぜん暮色ぼしょくくなっていた。
れたぞ! 暮れたぞ!」
 蔦之助つたのすけむちも折れろとばかり、ぴゅうッと馬背ばはいを打ってさけんだ。馬もはやいがより以上いじょうに、こころは三方みかたはらにいっている。
刑場けいじょうはもう近い! 落胆らくたんするな、気をくじくな!」
 と、民部みんぶはいよいよ手綱たづなせいをつけて、そればかりはげましてきた。
 しかし、ああしかし、その三方ヶ原の北端ほくたんをのぞんだ時には、もう夕刻ゆうこくとはいいがたい、すでに夜である。草とたいらにうっすらとした月光さえ流れてきた。
 すると原の道をちりぢりにくる人かげが見えだした。みな浜松はままつ城下じょうかへかえっていく見物人けんぶつにんである。それを見ると巽小文治たつみこぶんじは、
「ウウム、ざんねんッ――に合わなかった! もはや刑場けいじょうのことがすんだとみえて、みなあの通りにもどってくる」
 と、がみをして、われとわがひざを、かかえているやりでなぐりつけた。
 民部のようすもさすがに平色へいしょくではなかった。それを見ても、なお気をくじくなとははげましきれなかった。かれは、道々すれちがった町人ちょうにんに、都田川みやこだがわのもようをたずねたがそれは、みな伊那丸以下いなまるいかのものが、菊池半助きくちはんすけ斬刀ざんとういのちをたたれて、その首級しゅきゅう河原かわら獄門ごくもんにさらしものとなった、というこたえに一していた。
 絶望ぜつぼう! 三人は馬から落ちるように草原へおりて、よろよろとこしをついてしまった。
 民部みんぶはものをいわなかった。小文治も黙然もくねんとふかいいきをつくのみだった。蔦之助もまた暗然あんぜんと言葉をわすれて、無情むじょうほしのまたたきになみだぐむばかり……
「ぜひがない! おれは一足ひとあしさきにごめんこうむる!」
 小文治こぶんじはいきなり脇差わきざしをぬいて自分のはらへつき立てようとした。と一しょに蔦之助つたのすけも、
「おお、このになってなんの生き甲斐がいがあろう。小文治、拙者せっしゃもともに若君わかぎみのおともをするぞッ」
 と、同じく自害じがいやいばを取りかける。
「これッ――」と、民部はしかりつけるような語気ごきで、左右さゆうにふたりのうでくびをつかみながら、
「なにをするのかッ!」
「おたずねはむしろ意外いがいにぞんじます」
「死のうという考えならしばらくお待ちなさい」
「すでに伊那丸君いなまるぎみがごさいごとわかった以上いじょうは、いさぎよくおともをして、臣下しんか本分ほんぶんをまっとういたしとうござります」
「ご心情しんじょうはさもあること。しかしまだそのまえに、しんとしての役目がいくらものこされてある。都田川みやこだがわにかけられた御首級みしるしをうばって、浄地じょうちへおかくし申すこと。また刑刀けいとうをとった菊池半助きくちはんすけって、いささか龍太郎りゅうたろう忍剣にんけんれいをなぐさめることも友情の一ツ。さらに、しばらくこらえて小太郎山こたろうざん味方みかたをすぐり、怨敵おんてき家康いえやすに一をむくいたのちに死ぬとも、けっして若君わかぎみのおともにおくれはいたしますまい」
 民部のかんがえかたは、どういう絶望ぜつぼうへきつかっても、けっしてくるうことがなかった。情熱じょうねつの一方に走りがちな蔦之助つたのすけ小文治こぶんじは、それに、反省はんせいされはげまされて、ふたたび馬のにとび乗った。
 そしてふと。
 夜色やしょくをこめた草原のはてを鞍上あんじょうから見ると――はるかに白々しらじらとみえる都田川みやこだがわのほとり、そこに、なんであろうか、一みゃく殺気さっき、形なくうごく陣気じんきが民部に感じられた。
「はてな? ……」
 ひとみをこらしてみつめていると、ときおり、おもてをなでてくる微風びふうにまじってかすかな叫喚きょうかん……矢唸やうなり……呼子笛よびこぶえ……激闘げきとう剣声けんせい


計策けいさくにあたったぞ!」
 と呂宋兵衛るそんべえがさけび、しめたと菊池半助きくちはんすけがいったところからみると、きょう都田川みやこだがわでおこなわれた刑罪けいざいは、家康いえやすが呂宋兵衛と半助にふかくたくらませてやった、一つのはかりごとであったことはうたがいもない。
 すなわち家康は、さきに伊那丸いなまる主従しゅじゅうが、桑名くわなからこの浜松はままつへはいってくるという呂宋兵衛の密告みっこくはきいたが、容易よういにそのすがたを見出みいだすことができないので、奉行所ぶぎょうしょ牢内ろうないにいる罪人ざいにんのうちから、同じ年ごろの僧侶そうりょと少年と六とをよりだし、服装ふくそうまでそれらしくかよわせて、わざとことごとしくらせたのだ。
 つまり、きょをつたえてじつをさそう、ひとつの陥穽かんせいを作らせたのだ。そしてかならず、その日の見物けんぶつのうちには、まことの伊那丸いなまる龍太郎りゅうたろうりまじってくるにちがいないといった。で、群集ぐんしゅうのなかには、百人の伊賀衆いがしゅう変装へんそうさせてまきちらし、かたっぱしからその顔をあらためていたのである。
 はたして、伊那丸の主従しゅじゅうは、らえられもせぬじぶんたちが、きょう刑場けいじょうられるといううわさを聞いて、奇異きいな感じに誘惑ゆうわくされた。
 にせ首を斬らせて、まことの首をようとはかったもくろみは、かれらにとって筋書すじがきどおりにいったのである。
 もとより龍太郎も忍剣も、この奇怪きかい事実じじつが、意味いみもないものだとは思わなかったが、そうまでの落としあなとは気がつかなかった。
「あッ!」
 と獄門台ごくもんだいのそばをはなれたときには、すでに、敵影てきえいめんちている。
 呂宋兵衛るそんべえは、今夜こそ伊那丸をとらえて、家康にひとつのこうを立てようものと、銀鞭ぎんべんをふるってじぶんたちの一丹羽昌仙にわしょうせん早足はやあし燕作えんさくや、二、三十人あまりの野武士のぶしたちを、獣使けものつかいのようにケシかけた。
 菊池半助きくちはんすけはその側面そくめんにかかって、部下ぶか変装組へんそうぐみに、激励げきれいの声をからした。軽捷けいしょうむひな伊賀者いがものばかりが、百人も小具足術こぐそくじゅつの十をとって、雨か、小石かのように、入れかわり立ちかわり、三人の手足にまといついてくるには、野武士のぶしの大刀などよりも、むしろ防ぎなやむものだった。
 龍太郎の戒刀かいとうは、四かくめんって斬って、つかまで血汐ちしおになっていた。
 一かぜをよび、一颯血さっけつを立てるものは、加賀見忍剣かがみにんけん禅杖ぜんじょうでなくてはならない。さきに身代みがわりの自分の首に引導いんどうわたして、都田川みやこだがわ水葬礼すいそうれいをおこなった快侠僧かいきょうそう、なんとその猛闘もうとうぶりの男々おおしさよ! 生命力せいめいりょく絶倫ぜつりんなことよ!
 見るまに、かれと龍太郎の犠牲にえとなる者のかずが知れなかった。そのふたりにまもられながら伊那丸いなまる小太刀こだちをぬいて幾人いくにんった。だが、かれはてきをかけまわしてびせかけることはしない。身を守って、よりつく者を斬りたおすばかりであった。
 それは、平時に民部みんぶの教えるところであった。民部は伊那丸を勇士ゆうし猛夫もうふ部類ぶるいには育てたくなかった。うつわの大きな、とくのゆたかな、品位ひんい天禀てんぴんのまろく融合ゆうごうした名将めいしょうにみがきあげたいとねんじている。
 伊那丸はそうして最後を見ていた。
 しずかに、覚悟かくご機会きかいを待っていた。
 いくら、っても斬りふせても、三方みかたはらからわいてでる敵の人数は、少しもへっていくとは見えない。
 そして、都田川を背水はいすいにしいて、やや、半刻はんときあまりの苦戦をつづけていると、フイに、思いがけぬ方角ほうがくから、ワーッという乱声らんせいがあがった。
「それッ、獄門ごくもん御首級みしるしをうばえ」
「うぬ、伊那丸いなまるさまのかたきのかたわれ!」
 と、馬首ばしゅをあげておどってきたかげ! 黒々くろぐろとそこに見えた。
 そのまッ先に乗りつけてきたのは、朱柄あかえやりをもった巽小文治たつみこぶんじである。
退けどけどけ、邪魔じゃまするやつはこのやりますぞ」
 とばかり、まっしぐらに獄門台の前まできたが、
「やッ、み首級がない!」
「なに、み首級がないと? さてはげたやつらが素早すばやくどこかへかくしたのだろう。それ、向こうの河原かわらけたやつを引きとらえてみろ!」
 蔦之助つたのすけは馬上からそこの高札こうさつを引きぬいてふりかざし、どっと、十四、五けんほどかけだしたが、あッ――と思うまに蔦之助、くぼの草かげからひらめいた銀鞭ぎんべんにはらわれて、馬もろとも、ドーンともんどり打ってたおれてしまった。
「やッ、どうした?」
 と、小文治が乗りつけてみると、ひとりの怪人かいじん、蔦之助をみふせて鋭利えいりな短刀をその胸板むないたきとおそうとしている。
「おのれ!」
 くりだした槍。
 黒衣こくいかげは、そのケラ首をつかんでふりかえった。
「あッ、呂宋兵衛るそんべえ
 とおどろいたせつなに、小文治こぶんじの馬も屏風びょうぶだおれにぶったおれた。朱柄あかえ槍先やりさきをつかんでいた呂宋兵衛も、それにつれてからだをかした。
たり!」
 とはね起きた蔦之助つたのすけ、持ったる高札こうさつで黒衣のかげに一げきをくらわせた。すごい声をあげたのは呂宋兵衛、したたかにかたを打たれたのだ。そして疾風しっぷうのごとくげだした。
 おうとすると横合よこあいから、小文治の馬腹ばふくをついた菊池半助きくちはんすけが、槍をしごいてさまたげた。
「よし、ひきうけた」
 と朱柄の槍がからみあう。
 黒樫くろがしの槍と朱柄の槍、せんせんと光を合わしてたたかっている。
 それは小文治にまかせて、蔦之助は逃げる呂宋兵衛を追っていく、へんぺんと風をくぐって同じ色のやみにまぎれていく黒衣のはやさ、たちまち見うしなって河原かわらへくだると、不意ふいに、引っさげていた高札こうさつが、屋根板やねいたのようにくだけて手から飛んだ。
何奴なにやつ?」と大刀をぬく。
 相手に眼をつけるまもあらばこそ、ぶーんッとうなってくるてつ禅杖ぜんじょう
 発矢はっし火花ひばな
「待てッ!」と、うしろで伊那丸いなまるがさけんだ。
蔦之助つたのすけではないか! 忍剣にんけん、待て!」
「オオ加賀見かがみ――ヤヤ、そちらにおいであそばすのは若君わかぎみ? ……」
 とあっけにとられて立ちすくんでいると、そこへ奇遇きぐうにおどろきながら、小幡民部こばたみんぶ龍太郎りゅうたろうがうちつれてけつけてくる。
 小文治こぶんじも相手の半助をいっして、かなたこなたをさまよったのち、やがて、ここの人かげを見つけて走ってきた。
 はしなく落ちあった主従しゅじゅうは、かたく手をとって喜びあった。
 どうしてここへ?
 どうして生きて?
 同じ問いが双方そうほうの口をついてかわされた。


 あらしのような声つなみがいくたびかくりかえされて、月は三方みかたはらの東から西へまわった。
 渋面じゅうめんをつくった呂宋兵衛るそんべえと、にがりきった菊池半助きくちはんすけとが、片輪かたわ死骸しがいになった味方みかたのなかに立ってぼんやりと朝の光を見ていた。
 てきはどうした! 敵は?
 が高くあがったが、その行方ゆくえはついにわからなかった。
 家康いえやす不首尾ふしゅびな顔が思いやられる……
「どうするんだ、この復命ふくめいを?」
「どうするったッて、ありのままに申しあげて、おわびを願うよりほかにない」
計略けいりゃくはうまくあたったんだが……」
「あんな助太刀すけだちがうしろをいてこようとは思わなかったからなあ」
 気をくさらして、つかれたからだをグッタリと草の上に投げあった。その顔へ、ブーンとあぶがなぶってくる。
「ちイッ……」
 と半助はした打ちをした。
 そのころ武田伊那丸たけだいなまるは、ゆらゆらとこまにゆられて、大井川おおいがわの上流、地蔵峠じぞうとうげにかかっていた。
 五人の屈強くっきょうなるものが、その前後ぜんごにつきしたがっている。
 この裏道うらみちをくるのにも、とちゅう、一、二ヵしょ山関やまぜきがあったが、小人数こにんずう関守せきもりや、徳川家とくがわけの名もない小役人などは、この一こうのまえには、鎧袖がいしゅうしょくあたいすらもない。
 山路やまじけわしさはあるが、道は坦々たんたん無人むじんきょうをすすむごとしだ。
 武田たけだとうのまえには、洋々ようようとしたひろい光明こうみょうが待っているかと感ぜられる。見よ! もう大根沢おおねざわ渓谷けいこくのあいだから、莞爾かんじとした富士ふじのかおが、伊那丸の無事ぶじをむかえているではないか。
 立って地蔵峠じぞうとうげいただきからふりかえると、もう三方みかたはらとおくボカされて、ゆうべのこともゆめのようだ。
 あおい駿河するがの海岸線の一たんには、家康いえやす居城きょじょうが、松葉でつつんだ一菓子かしのごとく小さくのぞまれる。
「さだめしいまごろは、あのむずかしい顔を一そうむずかしくしているだろう」
 と思う想像そうぞうが、みんなの顔に、きんじえないほほえみをのぼせた。
 なにか、今日ばかりは、はればれしいたびごこちがした。伊那丸いなまる民部みんぶも、そして、龍太郎りゅうたろうやそのほかの者も。
 そう思うこころのさきへ、とうげ間道かんどうを、のんきなうたがとおっていった。がけの下へきた時に、小文治こぶんじがのぞいてみると、裾野すそので見おぼえのあるはなかけ卜斎ぼくさいうたは、おともの蛾次郎がじろうが、大きな口を天へむかって開いているのだ。
「オヤ」
 と、向こうで気がついて、すぐわき道へかげをかくしたので、一こうの者もあえてわず、そのままさきをいそいでゆく。
 そしてようよう、駿遠すんえん山境さんきょう踏破とうはしてきた。もとより旅人たびびともあまり通らぬ道、里数りすうはあまりはかどらない。服織はとりという二、三十山村さんそん、みな素朴そぼく山家者やまがものらしいので、その一けん伊勢いせ郷士ごうしといつわって宿やどをかりた。
 はいった家は、その村のおさやしきらしい。
 土着どちゃく旧家きゅうからしい土塀どべい樹木じゅもくが、母屋おもやを深くつつんでいた。
 渓流けいりゅうへいってからだをあらい、宿のあるじにひかれて、おくの一しつへ落ちつくと、とこに一ぷくじくがかかっていた。それはその部屋へやへはいったとたんに、だれにもすぐ目についた。
 伊那丸いなまるはサッと色をかえて、
亭主ていしゅ」と案内あんないしてきた村長むらおさを見おろした。
「はい、なにかお気にさからいましたか」
「この石摺いしずりの軸はどうしてそちが手にれた」
「ああ、それは石摺りと申しますか。じつはわたしにもよく読めませず、へんなものだと思いましたが、このあいだ、村へまよってまいりましたみょうな老人が、宿やどをかりたれいにといって、自分でかけてまいりましたので、そのままほッておいたのでござります」
忍剣にんけん龍太郎りゅうたろう。これを見い!」
 と伊那丸はさらにとこにちかづいて指さした。それまではほかの者も、なにか、得体えたいの知れない、ただいわはだすみをつけてそれを転写てんしゃした碑文ひぶんかなにかと思っていた。が、そういわれてよく見ると、まっ黒な黒と白いすじのあいだに二ぎょうの文字がりだされてある。
「あッ!」龍太郎はぎょッとした。忍剣もふしぎにたえない面持おももちであった。

父子ふし邂逅かいこうはむなしく
小太郎山こたろうざんとりではあやうし

 いつか、京都の舟岡山ふなおかやま雷神らいじんたき岩頭がんとうに、果心居士かしんこじりのこしていった二ぎょう予言よげん
 それが岩のしわ目と文字のあとをほの白く、そッくりそのまま、石摺いしずりにうつってここにあるのではないか。
 勝頼かつより伊那丸いなまるのことを、未然みぜん暗示あんじした一ぎょうの文字はいま思えばあたっていた。戦慄せんりつすべきもう一ぎょう予言よげん! 小太郎山こたろうざんとりでがあやういとはどういうわけか? それは伊那丸にも民部みんぶにも、どうしてもわからなかった。
 村長むらおさの話をきけば、数日前に、このうちへとまって飄然ひょうぜんったというみょうな老人というのこそ、どうやら果心居士であるような気がする。


 躑躅つつじさきたちというのは、甲府こうふの町に南面なんめんした平城ひらじろである。
 平城というのは、天嶮てんけんによらず平地へいちにきずいた城塞じょうさいのことで、要害ようがいといっては、高さ一じょうばかりの芝土手しばどてと、清冽せいれつな水をあさく流したほりがあるだけだ。
 土手は南北百六けん、三ツのくるわにわかれ、八もん石築いしづき出入でいりをまもられている。
 青銅瓦せいどうがわらのご殿てん屋根やね樹林じゅりんからすいてみえる高楼たかどのづくりのしゅ勾欄こうらんしば土手どてにのびのびと枝ぶりをわせている松のすがたなど城というよりは、まことに、たちとよぶほうがふさわしい。
 甲斐かいの土は一も敵にふませぬ。
 終生しゅうせいこのことばをもって通した信玄しんげんには、ものものしい要害ようがい無用むようであった。けれど、勝頼かつよりやぶれたのちは、その躑躅つつじさきたちも、織田おだ代官だいかん居邸きょていとなり、さらにそののち火事泥的かじどろてき甲府こうふへ兵をだしてかすめとった小田原おだわら北条氏直ほうじょううじなお持主もちぬしにかわった。
 氏直が甲府を手にいれたと知ると、家康いえやすまゆをひそめた。
「もし小太郎山こたろうざんと甲府とがむすびついたら? どうだろう?」
 想像そうぞうするだけでもおそろしいことだと思った。
 で、かれ一りゅう反間苦肉はんかんくにくさくをほどこし、奇兵きへいをだして、躑躅ヶ崎の館をうばった。それは、伊那丸いなまるが京都へいっているあいだのできごとであった。
 大久保石見守長安おおくぼいわみのかみながやすは、家康の腹心ふくしんで、能役者のうやくしゃの子から金座奉行きんざぶぎょう立身りっしんした男、ひじょうに才智さいちにたけ算盤そろばんにたっしている。家康はその石見守を甲府の代官とした。そして甲州こうしゅうには昔からの金坑きんこうがあるから、できうるかぎりの金塊きんかいを浜松におくれとめいじた。
 でなくてさえ強慾ごうよくな石見守は、私腹しふくをこやすためと家康のきげんをとるために、金坑掘夫ほりをやとって八方へ鉱脈こうみゃくをさぐらせる一方に、甲斐かい百姓ひゃくしょう町人ちょうにんから、ビシビシと苛税かぜいをしぼりあげて、じぶんは躑躅ヶ崎の館で、むかしの信虎のぶとら時代もおよばぬほどなぜいたくをきわめている。
畜生ちくしょうッ、あばれるか! 手向てむかいをすると耳をきるぞ! すねをぶッぱらうぞ! 歩けッ、歩けッ、うぬ歩かんか」
 うでまくりをした若侍わかざむらいが八、九人。
 いま、躑躅つつじさき石門いしもんのなかへ、ひとりの百姓をしばりつけてきた。
「おとうさんを助けてくださいませ! もし、おとうさん、あやまってください、お武家ぶけさま、堪忍かんにんしてあげてくださいませ」
 十五、六の女の子。その百姓のむすめらしい。人目ひとめもなくきながら若侍のうでにすがりつくのを、
「えい、きさまもかたわれだ!」と、大きなてのひらほおをなぐった。
 娘はワーッと声をあげて泣く。百姓は気狂きちがいのようにたける。それを仮借かしゃくなくズルズルと引きずってきて、やがて、大久保石見おおくぼいわみ酒宴しゅえんをしている庭先にわさきへすえた。
「なんだ、そのむさくるしい人間は?」
 石見守は、近習きんじゅうしゃくをさせながら、トロンとした眼で見おろした。若侍はひざをついて、
「こいつ、ただいまご城下じょうかつじで、信玄しんげんのまえへ供物くもつをあげながら、徳川家とくがわけのことをあしざまにのろっておりました」
ッてしまえ」
 酒をふくみながら石見守いわみのかみはかんたんにいった。
「ついでに、あの信玄しんげん石碑せきひなども、ほりのそこへ投げこんでしまうがいい。あんなものを辻にたてておくから、いつまでも百姓ひゃくしょう町人ちょうにんめが、旧主きゅうしゅをわすれず新しい領主りょうしゅをうらみに思うのだ」
 若侍わかざむらいはただちに刀をいた。
 石見守はさかずきかさねて見てもいなかったが、バッと音がしたので庭先にわさきへおもてを向けてみると、もう百姓とむすめ死骸しがいがふたところにつッしていた。
殿とのさま!」
 そこへ、ひとりの小侍こざむらいが、あわただしい足音をさせて、一ぷう早打状はやうちをもたらしてきた。
 大きな黒印こくいんがすわっている。徳川家康とくがわいえやす手状しゅじょうだ。
「おッ、なんだろう?」
 かれも少しさけの気をさまして、いそがわしくふうを切った。またその下にも封緘ふうかんがしてある。よほど大事なことだなと思った。
「これ、伊部熊蔵いのべくまぞうをよべ、おく鉱石庫かなぐらにいるはずじゃ」
 その手紙をきおさめながら、こういった石見守の顔色かおいろ尋常じんじょうでない。
 鉱山目付かなやまめつけの伊部熊蔵、奥のほうから庭伝にわづたいにとんできた。大久保石見おおくぼいわみ酒席しゅせきにつっ立って、庭先にいる中戸川弥五郎なかどがわやごろうという若侍へ、
「その見ぎたない百姓と娘の死骸を、はやくどこかへ取りかたづけろ」
 と苦々にがにがしくいいつけて、
「おお熊蔵、むこうへまわれ、浜松はままつからの早打状はやうちで、そちに申しつける急用ができた」
 と、離室はなれのほうへあごをさして、そのなかへ密談みつだんにすがたをかくしてしまった。そして半刻はんときばかりすると、伊部熊蔵いのべくまぞう躑躅つつじさきたち外郭そとぐるわけだしてきて、ピピピピと山笛やまぶえを吹いた。
 鉱石庫かなぐらの外やうちではたらいていたあらくれ男は、その山笛をきくと持っているつち天秤てんびんもほうりなげて、ワラワラと熊蔵のいる土手どての下へあつまってきた。
「おい、すばらしい鉱脈こうみゃくが見つかったんだ」
 熊蔵はこういって、鉱山掘夫かなやまほり一同の顔をジロリと見わたした。どれもこれも山男のようなたくましい筋肉きんにくと、獰猛どうもう形相ぎょうそうをもっていて、尻切襦袢しりきりじゅばんへむすんだ三じゃくおびこしには、一本ずつの山刀やまがたなと、一本ずつの鉱石槌かなづちをはさんでいる。わしのくちばしのようにするどくまがってキラキラ光っている鉱山槌だ。
「ヘエ」と、みんなバカにしたようなつらがまえで、熊蔵のことばを冷笑れいしょうした。
「どうして素人しろうとにそんなものが見つかったんですえ?」
「素人? ふふん、貴様きさまたちみたいに、銅脈どうみゃくばかりさぐりあてる玄人くろうととはちがって、しかもこれは金鉱きんこうだ」
「ごじょうだんでしょう、めッたやたらに、そんな鉱山やまがあってたまるもんですか」
「いやうそではない、すぐにこれから、その鉱山やま出立しゅったつするのだ」
「まったくですか? そしていったいそりゃあだれが見つけた山なんで」
浜松城はままつじょうのご主君しゅくん右少将家康様うしょうしょういえやすさまだ!」
「? ……」
 みんなあッけにとられてしまった。家康公いえやすこう鉱山掘夫かなやまほり玄人くろうとだとはのみこめない……という顔だ。
 熊蔵くまぞうはすこしキッとなって、山目付やまめつけらしい威厳いげんをとった。
「で、これは家康公の直命じきめいにひとしいのだから、鉱山へいくとちゅうで、イヤのおうのとしぶるやつは、ようしゃなくッたるからさよう心得こころえろ」
「へい」
頭数あたまかずは?」
「六十人ばかりで……」
「よし、向こうへいけば、まだ人数がいるはずだから、これだけでいいだろう。五そくずつの草鞋わらじと三日ぶん焼米やきごめこしにつけて、すぐに西門にしもんのおほりぎわへあつまりなおせ!」

 さて。
 躑躅つつじさきたちをでた六十人の鉱山掘夫。
 伊部熊蔵いのべくまぞうにひかれて、甲府こうふ城下じょうかを西へ西へとすすみ、龍王街道りゅうおうかいどうから釜無川かまなしがわけわたり、やがて、山地さんちにさしかかった。
「どこだい、ここは」
御勅使川みてしがわすそじゃねえか」
「ふーむ、まだ山はあさいな」
「どうやら、ゆくさきは信濃しなの飛騨ひだだぜ」
 ドンドンドンドン、けていく。
さわへでたな」
「水びたしじゃ草鞋がたまらねえ」
「向こうの山は?」
大唐松おおからまつよ」
とうげへきたな、どこだいここは」
「べらぼうめ、鉱山掘夫かなやまほりがいちいち山の名をきくやつがあるものか。トノコヤとうげ雨池あまいけくだ勾配こうばい、ヌックと向こうに立っているのが、甲信駿こうしんすんの三国にまたがっている白根しらねたけわしやまだ」
「だが、オイ」
「なんだ」
「いったいどこまでいくんだろう」
「さあ、そいつはおれにもわからねえ、さきへいくお目付めつけ熊蔵くまぞうさまに聞いてみねえ」
「へんだな、みょうだな、だんだん鉱気かなけのねえ山へはいっていくぜ。つかるなア、水脈みずみゃくばかりだ」
 しかり、鉱山掘夫かなやまほり六十人、その時、野呂川のろがわながれに沿って、上流かみへ上流へと足なみをそろえていた。
 森々しんしんと深まさるひのきさわ、タッタとそろう足音が、思わず足をかるくさせる。
 と思うと、伊部熊蔵いのべくまぞう
「オイ、まれ」とうしろを向いた。
 六十人のひたいからポッポと湯気ゆげがたっている。
 そこは小太郎山こたろうざんのふもとであった。

山掘夫やまほりやまにからかわれる




「止まれ」
 といわれた鉱山掘夫、あせをふきながらあたりを見て、みんなけげんな顔をしながら、伊部熊蔵のさしずをうたがった。
 ばかにしてやがら! といわんばかりに、気のあら山掘夫やまほりのひとりが、
「もし、熊蔵くまぞうさま!」と、っかかってきた。
「なんだ、雁六がんろく
「ここは小太郎山こたろうざんじゃあねえんですか」
「そうだ、小太郎山の東麓とうろくだが、それがどうかいたしたか」
「どうかしたかもねエもんです、じょうだんじゃアねえ、いいかげんにしておくんなさい」
 と小頭こがしらの雁六がはらをたてて、岩にこしをおろしてしまったので、以下いか六十人の山掘夫やまほりも、みんなブツブツ口小言くちこごとをつぶやきながら、ふてくされの煙草たばこやすみとでかけはじめた。
 こんな日傭稼ひようかせぎなどになめられて、山目付やまめつけというお役目がつとまるものかと、伊部熊蔵いのべくまぞう、ひたいに青筋あおすじを立ってカンカンになりながら、
「こら! 山掘夫どもッ。だれのゆるしをて勝手に煙草休たばこやすみをするか。躑躅つつじさきをでた時からきっといいわたしてあるとおり、拙者せっしゃめいにそむくことは大久保石見守おおくぼいわみのかみさまの命にそむくも同じこと、石見守さまのおいいつけにそむくことは、すなわち、家康公いえやすこうのご命令をないがしろにいたすも同様どうようだぞッ」
 そういいながら、いきなりこしの刀をぬいてぶりをくれ、猛獣使もうじゅうつかいのむちのように持った。
「いいつけをまもって、すなおにはたらく者へは、後日ごじつ、じゅうぶんな褒美ほうびをくれるし、とやこう申すやつはってすてるからさよう心得こころえろ」
「ですがお目付めつけさま、いくら働けといったところで、こんな鉱気かなけのないくそ山を、かえしたところでしようがありますまい」
「イヤこの山には金鉱きんこうみゃくがある! すなわち家康公いえやすこうにとっての金脈きんみゃくがあるのだ! これからそれをさがしにかかるのだから、ずいぶんほねを折るがよい。いまもいったとおり、首尾しゅびよくいけば莫大ばくだいなご褒美ほうびがある仕事だから」
「どうもさっぱりに落ちませんが、おそらく骨折ほねおぞんのくたびれもうけでございましょう」
「よけいなことはいわんでもよい。さ、一ぷくったら八ぽうへ手を分けて、まず第一に間道かんどうらしい洞穴ほらあなをさがしてみろ」
「ヘエ、洞穴を」
「ウム、洞穴だ! かならずどこかに頂上ちょうじょうけでられる穴口あなぐちがあるはずだ」
「そしてそれをどうするんで?」
「いずれ要所ようしょ要所には、石扉せきひてたり岩石がんせき組木くみきんで、ふだんは通れぬ仕掛しかけになっているだろう。それをおまえたちのつちでいけるところまでりぬいていくのだ」
「へえ? ……そうして」
「そうして不意ふいにとりでの郭内くるわないにあらわれ、岩くだきの強薬ごうやく爆発ばくはつさせて、とりでにるすいをしているやつらがあわてさわぐまに、小太郎山こたろうざんを乗っとってしまう! むろん、これだけの人数ではむずかしいが、とりでのなかにはまえまえから、こっちの味方みかた諜者まわしものになってりこんでいるし、火薬かやく爆音ばくおんをあいずとして、甲府表こうふおもてから、いちどきに家中かちゅうの者がめかけてくる手はずとなっておるのだから、いわばわれわれはりの先陣せんじんねごうてもないほまれをつとめるわけなのだ」
 おどろいたのは小頭こがしら雁六がんろく、ほか六十人の山掘夫やまほりたちである。
 金脈きんみゃくだ金脈だというので、なにも知らずにきてみれば、いのちがけの合戦かっせんをやるのだ。間道かんどうからもぐりこんで、とりでをかきまわすというあぶない役目、鉱山かなやまあな細曳ほそびき一本でりさがるよりは、まだ危険きけんだ。
「こんなことならついてくるんではなかった」
 と、いまさらほぞをかんでもいつかない、後陣ごじんには石見守いわみのかみ家中かちゅうがうしろまきをしているといえば、げだしたところで、すぐとつかまって血祭ちまつりになるのは知れている。
「だが、こんなおくぶかい山地さんちに、だれのとりでがあるのであろうか」
 と、そこで一同、はじめてふもとから山を見あげて見たが、峨々ががたる岩脈がんみゃくくものような樹林じゅりんの高さをあおぎうるばかりで、しろらしい石垣いしがきも見えず、まして、ここに千も二千もの人数が、立てこもっているとは思われないほど、森々しんしんとして静かである。


 ぜひなく観念かんねんした鉱山掘夫かなやまほりは、伊部熊蔵いのべくまぞう指揮しきのもとに小太郎山こたろうざんの東のふもと、木や草をわけて八方へらかった。
 なにせよ、荒仕事あらしごとと山にはれきった者ばかり、手に手にたかのくちばしのように光る鉱石槌かなづちを持ち、木の根にひっかけ、がけによじ、清水しみず岩脈がんみゃくのかたちをさっして、それらしい所をさがしまわっているうちに、ひとりが深い熊笹くまざささわの上で、
「あった! 間道かんどうが見つかった!」
 と、大声でさけんだ。
 小頭こがしら雁六がんろくが、ピューッと口笛くちぶえを一つくと、上から、下から伊部熊蔵いのべくまぞうをはじめすべての者のかげが、ワラワラとそこへけあつまった。
 見ると、たけなす山葦やまあしささむらにかくれて、洞然どうぜんたる深い横穴よこあながある。
「これだ!」
 と、熊蔵が、用意ようい松明たいまつを持たせて中にすすむと、清水にぬれて海獣かいじゅうはだのようにヌルヌルした岩壁がんぺきを、無数むすう沢蟹さわがにが走りまわったのに、ハッとした。
「雁六、このあなはどうだ?」
ったものです。しかも、まだ新しく掘った穴にちがいありません」
「ウム、それじゃてっきり、山曲輪やまぐるわつうじる間道だろう、先を一つさぐってみてくれ」
合点がってんです! オイ松明を持った野郎やろうはさきに立て」
 あとからあとからと、山葦をわけてザワザワと中へはいった。そして、おくへすすめば、すすむほど、土質どしつ肌目きめがあらく新しくなってくる。ところどころに、土をくりぬいただんがあった。段をのぼると平地ひらちになり、平地をいくと段がきりこんである。
 かくて、かなりの暗黒あんこくをうねっていくと、やがてゆきどまりの岸壁がんぺきにぶつかった。あらかじめこうあることとは、石見守いわみのかみからもいわれてきた熊蔵くまぞう
「それッ」
 というと、山ほりたち、合点がってんといっせいにこしつちをひきぬいて、金脈きんみゃくだ金脈だ! 家康公いえやすこうから恩賞おんしょうのでる金脈だとばかり、たちまちそこをりぬけた。
 荒鉱あらがねを掘ることを思えば、なんの造作ぞうさもないひと仕事。
 けると、カーッとっていた。
 小太郎山こたろうざん第一のかい
 孔雀くじゃくなかを見るような燦鬱さんうつとしてっさおな、檜林ひのきばやし急傾斜きゅうけいしゃ、それが目の下に見おろされる。
「ウム、ちょうど山の二ごうだ」
 目のくらむような陽をあびて、狼群ろうぐんのように、はいかがんだ人数、向こうに見えるつぎ間道かんどうを目がけてゾロゾロゾロゾロはいこんだ。
 さざえのなかをくぐるように、また二つめの間道をしばらくのぼると、山の五合目虚無僧壇こむそうだんとよぶところ、暗緑色あんりょくしょくかいへだてた向こうと、丸石まるいしたたみあげたとりで石垣いしがき黒木くろきをくんだ曲輪くるわ建物たてものらしいのがチラリと見える。
 だが、千じんの深さともたとうべき峡谷きょうこくには、向こうへわたる道もなく、蔦葛つたかずら桟橋かけはしもない。
「オ、あれに三ツ目の間道かんどうがある」
 伊部熊蔵いのべくまぞうがこういったので、みなそのあとからついていった。まさしく、こんどは間道らしい間道である。まっ松明たいまつをふりまわして、シトシトシトシトいそぎだした。と――こんどはだんもなく、井戸いどのような深い穴口あなぐちへでた。そこに一本の鉄棒てつぼうが横たえられ、蔓梯子つるばしごがブラさがっている。
 それよりほかにいきようはないので、いずれまた、段々だんだんと上へのぼることになるのであろうと、一同はそれにすがってりていくと、その深いことはおどろくくらい――、りるとまたうねうねと道々がある、まるで富士ふじ胎内たいないくぐりというかたちだ。
「はてな?」
 と地中のやみけながら、小頭こがしら雁六がんろくは首をかしげた。
みょうだぞ、妙だぞ、いっこうのぼりになってこない、なんだかだんだんくだる」
「いやそんなはずはない、こういううちに、しぜんと頂上ちょうじょうのとりでの中にでるにちがいない」
 と、伊部熊蔵はがえんぜない。ますます足を早めていった。
 するといきなり眼の前に、ドウーッとっ白なものが光った。青い光線がひえびえと流れこんできた。見るとそれはきしをあらう渓流けいりゅうである。岩をかんで銀屑ぎんせつをちらす飛沫しぶきである。
 岩壁がんぺきの一たんに、ふとい鉄環てっかんが打ちこんであり、かんに一本の麻縄あさなわむすびつけてあった。で、そのなわはしをながめやると、大きな丸太筏まるたいかだが三そう、水勢すいせいにもてあそばれてうかんでいる。
 はてな? いよいよ、はてな? である。
 熊蔵くまぞう雁六がんろくも、すこし道順みちじゅんがわからなくなってきた。まえには渓流けいりゅう、うしろは暗黒あんこく
「ままよ。いくところまでいって見ろ。つぎには第四の間道かんどうがあるだろう」
 そう多寡たかをくくって、三そうの筏に飛びうつり、向こうへわたろうとしたのであるが、思いのほか水足みずあしがはやく、鉄環の縄をきるやいな――ザアッと筏は下流かりゅうのほうへ押されてしまった。
 そしてやっと、水勢のゆるいとろへかかった時、向こうぎしへはいあがって見ると、ああなんということだ!
 見るとそこは、さっき一同が甲府こうふからしてきた時に、あせをしぼって一列にけた野呂川のろがわ右岸うがんで、その胎内たいない間道かんどうをくぐり、その絶頂ぜっちょうのとりでへでようとこころみた小太郎山こたろうざんそのものの姿すがたは、唖然あぜんとして立った六十人の眼のあなたに――。
 かなりはなれた渓流の向こうに、むらさきばんだ昼霞ひるがすみをたなびかせ、なにごとも知らぬさまにそびえている山のかたちこそ、小太郎山ではないか。いま、げんに、その山のはらをくぐりのぼっていたはずの山ではないか。
 山掘夫やまほり、山にもてあそばる!
 その時、あなに入るまえはらんらんとかがやいていた太陽が、もう西へまわって朱盆しゅぼんのように赤くくすんでいた。

毒水どくすいとりで




 その高原こうげんの一かくに立てば、群山ぐんざんをめぐる雲のうみに、いま、しずもうとしている太陽の金環きんかんが、ほとんど自分の視線しせんよりは、ズッと低目ひくめなところに見える。
 で――まッ逆光線ぎゃっこうせんの夕やけにらされている小太郎山こたろうざんの上、陣馬じんばはらいちめんは、不可思議ふかしぎ自然美しぜんびにもえあがっていた。
 みやますみれいむらさき色、白りんどうの気高けだかい花、天狗てんぐ錫杖しゃくじょう松明たいまつをならべたような群生ぐんせい、そうかと思うと、弟切草おとぎりそうがやのや、蘭科植物らんかしょくぶつのくさぐさなどが、あたかも南蛮絨毯なんばんじゅうたんきのべたように、すみきった大気たいきもみださぬほどな微風びふうになでられてあった。
竹童ちくどうさアーん、竹童さアん! ……」
 やがてだれかのこうぶ声がする。
 咲耶子さくやこであった。
 彼女かのじょはいま、とりでの二の丸から、がけをよじてこの高原こうげんにのぼってきた。
竹童ちくどうさアーん!」
 二つのを口にかざしながら、雲とも夕霧ゆうぎりともつかない白いものにボカされているてへ、声かぎりび歩いてきた。返辞へんじがない。
 つねに目なれている景色けしきではあるが、そこのうるわしいながめにも足もとの花にも、なんの魅力みりょくを感ぜずに咲耶子さくやこは、ひたすら、すがたの見えない竹童をあんじていた。
 きょうのひるごろまでは、じぶんと一しょに、砦のおくのやぐらに、きのうと同じように油断ゆだんなく小太郎山こたろうざん見張みはっていたのに、いつのまにか櫓を下りていったきりかえってこない。
 この四、五日のあいだは、小幡民部こばたみんぶをはじめそのほかの人たちが、とおく三方みかたはらまで伊那丸いなまる危急ききゅうすくいにかけつけているだいじな留守るす! その留守のあいだは、味方みかた武士ぶしがこめている砦とはいえ、けっして油断をしてはならないのに、あの子はまアどこへいってしまったのだろう? ……
「ほんとに、竹童さんはまだ子供だ。もう日がれようとしているのに――わたしにこんな心配しんぱいをさせて」
 咲耶子は不安にたえぬようにまゆをひそめた。
 夕餉ゆうげどきに帰りをわすれてあそんでいるおとうとを、父や母がおこらぬうちにとハラハラしてさがすあねのような愛が、彼女の眼にこもっていた。
「竹童さアーん……」
 そうして、自分の身の危険きけんを、一一歩とわすれていった。
「もしかすると?」
 つゆにぬれる草履ぞうりのグッショリとおもくなったのも感じないで、れいかばの林のほうへかけだして見た。林のあさいところの木は、一本一本うす夕陽ゆうひべにになすられているが、おくのほうはもうよいのようなやみがただよっている。
 そこでもまたんで見た。
 五たび六たびも、あかずにかれの名をよんだ。
 だが林の奥から、さびしい木魂こだまがかえってくるだけで、オーイと、あの快活かいかつな竹童の返辞へんじはしてこない。
「おや?」
 咲耶子さくやこみょうな音にきき耳を立てて、林のやみへひとみをこらした。なにか非常に大きな力が樹木じゅもくをゆすったように思える。
 われをわすれ、樺の密林みつりんけこんだ。見ると、なかでも大きな一本の樺の木に、あの竹童のっている荒鷲あらわしがつながれてあった。その飼主かいぬしの名を呼んだので、羽ばたきをしたのであろうと、いとしく思えたが、
「おまえをかわいがっている竹童さんはどこへいったか?」
 と、とりに聞いてみるよしもなかった。咲耶子はまたすごすごとそこをさった。
 すると、大蛇おろちなかのようなものが、ささを分けてザワザワと彼女かのじょについていく――それはかなりまえから先のかげをねめまわしていたのであるが、咲耶子さくやこは知らなかった。
 林の道が三ツまたにわかれているところへくると、その左右さゆうにも、ふたりの人間がかがんでいて、足音を聞くとともに、ムクッとうごいたよう……
「だれじゃッ?」
 はげしくいって、キッと小脇差こわきざしに手をかけて立ちどまると、甲虫かぶとむしのような茶色ちゃいろ具足ぐそくをつけたさむらいが、いきなりおどりあがって左右から二本のやりをつき向けた。
「咲耶子! しずかにしろ」
「ヤッ、おまえたちは、外曲輪そとぐるわ番卒ばんそつではないか」
「ばかをいえ、おれたちは大久保長安おおくぼながやすさまからたのまれて、それとなくまえから野武士のぶしをよそおい、このとりでへさぐりに入っている黒川八十松くろかわやそまつ団軍次郎だんぐんじろうという者、どうだきもをつぶしたか」
「大久保長安? ――やや、すると、おまえたちは、よくられててき諜者まわしものに買われたのじゃな」
「知れたことだ! 武田伊那丸たけだいなまる留守るす小幡民部こばたみんぶもでていったこのとりでは、もう空巣同然あきすどうぜんかわってきょうからは、大久保石見守おおくぼいわみのかみさまがさがふじ旗差物はたさしものと立てかわり、家康公いえやすこうのご支配しはいとなる。神妙しんみょうなわにかかってしまえ!」
「なに、なわにかかれと?」
「オオ、甲府城こうふじょう躑躅つつじさきまでいてこいという、石見守いわみのかみさまの厳命げんめい、悪くあがくとこのやりぶるいをさせるぞ」
「だまれ、たとえ伊那丸いなまるさまや一とうのお方は留守るすであろうと、この咲耶子さくやこ竹童ちくどう留守るすをあずかる以上いじょう、おまえたちに、なんで、おめおめと小太郎山こたろうざんわたしてよいものか。さむらいのくせにして、慾に目がくらんで味方みかたを売る裏切うらぎりもの、多くの部下ぶかの見せしめのため、陣馬じんばはらち首にしてあげる」
「なまいきなッ」
 と、いわせもてず、ひとりが長槍ちょうそうをくりだしてくるのをかわして、咲耶子は手ばやく呼子笛よびこを吹きかけた。
 と――うしろから地をはってきた曲者くせものびかかってその喉首のどくびをしめあげる。だが、彼女もくっしはしない。裾野すそのにいたころは富士ふじ山大名やまだいみょうむすめ――胡蝶陣こちょうじん神技しんぎ――猛獣もうじゅうのような野武士のぶしのむれを自由自在じざいにうごかした咲耶子である。
 手をまわしてそのうでくびをつかんだかと思うと、あざやかに、大の男を肩越かたごしに投げた。
「うッ、おのれ」
 と二本のやりは、風をって十字の閃光せんこうをかく。
 咲耶子は口にくわえた呼子笛を、力いッぱい、ピピピピピッ……と吹きたてながら、陣馬じんばはらのお花畑はなばたけへ走りだした。


 だが、けんめいにふいた呼子笛よびこは、とおきとりでにいる味方みかたをまねくまえに、あたりの悪魔あくまを集めてしまった。
 甲府こうふ代官だいかん大久保石見守おおくぼいわみのかみが、手をまわしてれておいた裏切うらぎり者はすべてで十二人、彼女かのじょの走りだすさき、さけるさきに、やりを取って立ちふさがる。
 とりでの一の曲輪くるわ、二の曲輪には、味方みかた郎党ろうどうたちが二千人らずはいるので、その者たちに知らせさえすれば、わずかな裏切り者ぐらいはなんのぞうさもなくかたづけてしまうのであろうが、この陣馬じんば高原こうげんとそことは、平地へいちにしてちょうど十町ほどの距離きょりがあった。
 咲耶子さくやこは、ともあれそこへ近づいて、味方みかたへこの急変きゅうへんさけぼうとあせった。で、い走ってくる槍、横からいてかかる槍のを、翻身ほんしんちょうのごとくかわしながら、白りんどうの花をけった。
「かれを二の丸へ近づけては一大事!」
 と、追いまくした十二人の裏切り武士ぶし、そのなかでも剛力ごうりきをほこる神保大吉じんぼうだいきちは、九しゃくの槍をしごいて、咲耶子のまえへけまわった。
 彼女の手にはしゃく四、五すん小太刀こだちがひかる。
 からりッと、やり小太刀こだちがからみ合った。
 小太刀は槍のちきれず、白い穂先ほさきかたをかすめてうしろへける。
 もとへもどして、みじかにかまえなおした神保大吉じんぼうだいきちは、咲耶子さくやこが右へよれば右へ、左へよれば左へ、ジワジワとおしていった。
 そのまに、黒川八十松くろかわやそまつ団軍次郎だんぐんじろう、そのほかの者が、十二本の槍をそろえて、ドッ――と咲耶子の前後にかかる!
 ああもういけない!
 咲耶子は近よったひとりをって、ふたたび、かばの林へかけこんだ。そこでは、密生みっせいしている木立こだちのために、十二人がいちどきに彼女を取りくことができない。
 団軍次郎と神保大吉は、それと見るやいな、まっさきに林の細道ほそみちへふみこんだ。そして、咲耶子を道のきるところまでいこんで、ここぞと、気合きあいをあわせて、二そうしょに彼女の胸板むないたいていった。
「あッ!」
 一槍ははらったが――もう一槍!
 大吉のきだした大身おおみの槍は、かわすもなく、咲耶子のむねから白いあごへと!
 しまった――と思うと。
 不意ふいにどこからかブン――とあぶのようにうなってきたひとつの独楽こまが、槍のケラ首へくるくるときついた。むろん、槍は独楽のひもにひかれて、思わぬほうへたぐられてしまった。
「やッ?」
 と神保大吉じんぼうだいきちは、あたりのほのぐらさに、それを独楽こまともなんともさとらずに、力まかせに手もとへひく! と一方の独楽のひもも、負けずおとらず剛力ごうりきをかけて引ッ張った。
 すると、やりに巻きよじれた独楽、双方そうほうの力にガラガラッと火を吹いて虚空こくうにまわる――。
「おうッ!」
 と目をおさえてたじろいだのは、あとからきた裏切うらぎ武士ぶしども。すでに林の夜はく、あいての姿すがたもかすかにしか見えないやみ! そこに、一炬火きょかまわっている! いな、廻っているのは独楽なのだが、あたかも、太陽のコロナのごとく、独楽はブンブン火を吹きながらまわっているのだ。
 青か赤かむらさきか? なんとも見定みさだめのつかない火の色、燿々ようようとめぐる火焔車かえんぐるまのように、虚空に円をえがいてけだしてきた!
「あッ」
 と八方にげながら、その怪光かいこうをすかしてみると、独楽の持ち手はまぎれもない鞍馬くらま竹童ちくどう
「竹童だ! 竹童だ!」
 だれの口からともなく戦慄せんりつの声がもれる。
「なに竹童? 多寡たかの知れた餓鬼がきではないか、うぬ、おれが槍先やりさきっかけてやる」
 神保大吉じんぼうだいきちはこう豪語ごうごして、ふたたびやりを持ちなおしたが、おそかった!
 びゅうと――独楽こまひもがのびた。
「ひイッ」
 とさけんだときは大吉だいきちのどに、いついたような独楽の分銅ふんどう、ブーンとひとつきついて、ふれるところに火焔かえんをまわした。そして見るまにかれは顔をかれて悶絶もんぜつした。
 相手がたおれると火の魔独楽まごまは、生きてるように竹童の手へもどった。そしてブンブンかれの片手にまわされている、次にはどいつの喉首のどくびへ飛ぼうかと。
「オオ、竹童がもどって見えた」
 咲耶子さくやこはよみがえったような心地ここちで、
裏切うらぎり者じゃ! 徳川家とくがわけ諜者まわしものじゃ。竹童ッ! はやく味方みかたのものにこのことを」
てッ、早くかたづけてしまえ」
 のこる十一人のうちで、黒川八十松くろかわやそまつがしきりとわめきたった。
「こんな者にひまどって、もしとりでのやつらに感づかれた日にはこっちの出道でみちをふさがれてしまうだろう――はやくそのふたりをばらしてしまえ、もう生けどりにするなどといっていられる場合じゃない」
「おうッ」
「おおッ」
 とさけぶと、やりぶすまはふたたび木立こだちのあいだにギラギラ光った。
 裏切うらぎ[#ルビの「うらぎ」は底本では「うちぎ」]り者と聞いて竹童ちくどうも、スワ一大事がおこったなと思った。林のなかでは使いにくい火独楽ひごま、めんどうとふところへ飛びこませて、
咲耶子さくやこさま、ここは竹童がひきうけました。あなたははやくとりでのほうへ」
「いや、おまえが早く知らせておくれ」
「おいらは新手あらてだ!」
 聞かばこそ、竹童。
 般若丸はんにゃまるの一刀をぬいて、いきなり、むちゃに、ひとりをった。
 女性おんなの咲耶子をこの危地きちにのこしておいて、男たるものが、知らせにけていくなんていやなこッた!
 そのようすを見て、咲耶子はぜひなく、一方の槍ぶすまをつきぬいて、お花畑はなばたけ疾走しっそうした。そして、ひとりの男に、うしろからあぶないやりをくわされたが、からくもかわして、すべり落ちるように、砦のおく、二の丸のうらへりた。
 だが。
 降りたとたんに咲耶子は、
「あッ――大へん!」
 と、はじめて、まっくらになった、とおい眼下がんかに気がついた。
 いつか、あらゆる視界しかいには、夜のとばりがおりていた。ただはるかなふもとのほうに、野呂川のろがわの水のへびかわのような光と、やや東北によって、きわめてかすかな赤い空あかりをみとめることができる。そこはおそらく、武田家たけだけ旧領地きゅうりょうち、いまは、徳川家とくがわけ代官支配だいかんしはいとなっている甲府新城こうふしんじょう躑躅つつじさき城下じょうかであろう。けれど、咲耶子さくやこをおどろかせたのは、水でもない、空でもない。
 その甲府と小太郎山こたろうざん中間ちゅうかんあたり、すなわち釜無川かまなしがわのほとり、韮崎にらさき宿しゅくから御所山ごしょやますそあたりにかけて、半里あまりの長さにわたっている、人である、火である、野陣やじん殺気さっきである。
見張みはりの者ッ――」
 やぐらをあおいで絶叫ぜっきょうした。
かねを打て、鐘を打て! 番士ばんし、番士、門衛もんえいの番士たち! はやくかいをふいて武者むしゃだまりへ味方みかたをおあつめッ――」
 狂気きょうきのようになって、咲耶子は武者ばしりの柵際さくぎわびまわった。けれど、どうしたのか、オウ! といってものを引っかつぐ部下ぶかもなく、かんじんな櫓番やぐらばんのいるところさえ、無人むじんのようにシーンとしている。
 それもそのはず。
 かねて今宵こよいのことをもくろんでいる裏切うらぎり者は、夕方の炊事かしぎどきを見はからって、とりで用水ようすい――山からひく掛樋かけひ泉水せんすい井戸いど、そのほかの貯水池ちょすいちへ、酔魚草すいぎょそうとりかぶとなどという、毒草どくそう毒薬どくやくをひそかにながしこんでおいたのであった。
 竹童ちくどうはクロのえさとするものをりにいっていたため、まだ夕方の食事をしていなかったし、咲耶子さくやこもかれをさがしにでてなんをのがれていたが、それを知らずに飲み、毒水どくすいでたいためしったものは、おそらくちょうどいまが毒薬どくやくのまわってきた時分――


 時刻じこくはそれより少し前のこと――。
 かの、小太郎山こたろうざん間道かんどうへかかって、首尾しゅびよく築城ちくじょう迷道めいどうをさまよい、もとのところへいもどった伊部熊蔵いのべくまぞう雁六がんろく、ほか六十人の金鉱山掘夫かなやまほりが、ぼんやりくたびれもうけをしていた時分なのである。
「ねエ、親方おやかた
 と、ばかにでかい声をして、
「こんな歌を知ってますか、こんな歌を?」
 と、ひのきさわを伝わりながら、ぴょいぴょい歩いてきた小僧こぞうがある。
「どんな歌を?」
 と、いったのはその親方とみえるへんな顔をした人で――見るとはなかけ卜斎ぼくさいだ。
水晶掘すいしょうほりの歌ですよ、これから甲州こうしゅうへいこうっていうのに、水晶掘りの歌ぐらい知らなくっちゃはばきませんぜ、ひとつ歌ってみましょうか」
 と、あいかわらずな泣き虫の蛾次郎がじろう
 はなあなてんじょうに向け、のどぼとけのおくまで夕やけの明りに見せて、声いッぱい、いい気になって、歌いだしたものである。
 どうせ山の中だというふうに、卜斎ぼくさいもかまわずにほうっておくもんだから――。

水晶すいしょう!     水晶!
むらさき水晶ずいしょうは  おそめにやンべ
そめかんざしに  すよにサ
黒い水晶は    さまにやンべ
さまみがいて  おてらにあげて
文殊菩薩もんじゅぼさつの    入れ黒子ぼくろ

「なんだ、あいつは」
 と、びっくりしてふりかえったのは、べつなことでぼうとしていた金鉱山掘夫かなやまほりや熊蔵たち。
 さわから平坦へいたんな道へとびあがったとたんに、大勢おおぜいのあらくれ男やさむらいが、ひとところにたむろをしていたので、蛾次郎がじろうも急にがわるそうな顔をして、でたらめな水晶掘すいしょうほりの歌をやめてしまった。
 その蛾次郎はともかくも、卜斎の風体ふうてい人相にんそう、ひとくせありげに見えたので、伊部熊蔵いのべくまぞう雁六がんろくに目くばせをして、
「オイ、待てまて」とびとめた。
 他郷たきょうっていさかいすべからず、ある争いもかならず不利、――ということわざは、むかしの案内記あんないきなどにはかならずしるしていましめてあることだ。まして、相手が悪そうだから、卜斎ぼくさいも悪びれないで、
「はい」とすなおにこしをかがめた。
「どこへいくんだ、いまごろ?」
甲府こうふへまいります」
「なにをしに?」
「ちかごろ、甲府のご新城しんじょうは、だいがかわって、たいそうらしよいといううわさを聞きましたので」
「じゃあ、きさまは、武田家たけだけの時分よりは、いまの徳川とくがわ御代みよをありがたいと思ってゆくのか」
「さようでございます。むかしからのご縁故えんこで、わたくしは、どこでもよいから、徳川さまのご領地りょうちに住みたいと願っております」
「ふウム……そうか……」
 と伊部熊蔵いのべくまぞうはわるい気持がしないようすだ。卜斎の目から見れば、この山目付やまめつけらしいさむらいが、どこの大名だいみょうぞくしている者かぐらいは、腰をかがめた時にわかりきっている。
「して、職業しょくぎょうはなんだ? じつは、この街道かいどうは、今日すこしぶっそうなことがあるから、さきへいっても通してくれるかどうかわからない」
「ヘエ、それはこまりましたナ」
 と卜斎ぼくさいぺしゃんこな鼻にしわをよせて、
「わたくしは、もと富士ふじ裾野すそのにおりました鏃鍛冶やじりかじで、徳川とくがわさまのご家中かちゅうのお仕事をした者でございますから、なんとか、ひとつ無事ぶじに通れるようなおはからいをしてくださいませんか」
「ウム、それはしてやってもよいが」
 と熊蔵くまぞうが、手形てがたを書いてやろうかと考えていると、雁六がんろくは、およしなさい、もし下手へたなまわし者でもあって、うらをかかれると大へんですぜ――というような目まぜをした。
「あ、いけないナ」
 と卜斎は、その顔色かおいろで相手のはらを読みとおした。
 で、こんどは如才じょさいなく、はなしの鉾先ほこさきをかえて、なんでぶっそうなのか、事情じじょうをさぐってみようと考えた。
「いいえ、なんでございます……もしごつごうが悪ければ、わたくしにいたしましても、いのちが大事です。すこしあとへもどって、どこか安全な百姓家ひゃくしょうやにでもめてもらいますで」
「ウム神妙しんみょうなやつだ。なろうことなら、そうしたほうがおまえたちのためだろう」
「ですからお武家ぶけさま、失礼しつれいなことをうかがいますが、あなたがたはいったいなんのために、こんなところで日がれるのにたむろをしていらっしゃるんで? ……見れば、なにか、当惑とうわくそうなご様子にも思われますが」
「じつは、まことに少し当惑とうわくしておる」
「できることなら、ご相談に乗ってしんぜようじゃございませんか。見ればどなたもお若い方、およばずながらわたしの方が、年をとっているだけに、いくらかそのこうがないこともございません」
「じゃ聞いてみるが、鍛冶屋かじや
「ヘイ」
「すこし商売ちがいな話だが、おまえの口ぶりでは、裾野すそのからこのへんのことはくわしそうだ。知っていたら教えてくれ」
「エエ、なんなりとおたずねくださいまし」
「この小太郎山こたろうざんだが――」
 と雁六がんろくゆびさしたので、蛾次郎がじろうはもとより卜斎ぼくさいも、思わずギョッとした感じをうけた。
 このふたりが、ひとまず、甲府こうふへいって見ようという目的は、はじめからめてきたことであるけれど、じつをいうと、今日は道にまよって、どこを歩いているのか見当けんとうがつかずにいたところである。
 伊那丸いなまるの一とうが立てこもる小太郎山こたろうざんとりでが、いま、立っている真上まうえだとは、ゆめにも知らずにいただけに、身のさむくしてしまった。
「ヘエ、ここがあの小太郎山? なアるほど」
 とそらとぼけて、岩々がんがんそらしている山かげをあおぎながら、
「深いことは知りませんが、うわさにきけば、なんでもこの上には武田たけだ残党ざんとうがたてこもっている山城やまじろがありますそうで」
「そうだ! その砦へけるために、じつは非常に苦心くしんしているところじゃ」
「うえに人がいる以上いじょうは、かならずどこかに道がありましょう」
「あるにはむろんあるが、間道かんどうから不意ふいに中へでたいと思う」
「おやすいことではございませんか」
「それがなかなか見つからぬのじゃ」
地相ちそう岩脈がんみゃく山骨さんこつ樹姿じゅし、それらのものからよくると、どんなかくし道でもかならずわかるわけでございます。ことに、ここには野呂川のろがわがあり、そこへ落ちる山瀬やませの水もありますことゆえ、水理すいり検討けんとうしてゆきましても、それくらいなことは、さぐりあたらぬはずはございません」
「おまえ、たいそうくわしいな」
「は、は、は、は、は」
 卜斎ぼくさいもわれながらおかしくなってわらいだした。
 柴田権六しばたごんろく召使めしつかわれていたころは、つねに、めようとする敵地てきちへ先へはいって、そこの地勢ちせい水理すいりをきわめておくのが自分の仕事であった。日本では何人とゆびを折られる築城ちくじょう地学家ちがっか、これくらいなことは、表看板おもてかんばんやじりをたたくことよりたやすいこと。
 で、卜斎は瞬間しゅんかんにかんがえた。
 世間せけんはひろく歩いてみるものだ、――秀吉ひでよしにはにらまれている身の上、家康いえやす恩顧おんこをうけるほかに生き道はないと考えていたら、これは、偶然ぐうぜんとはいえ、ねがってもないことにぶつかったものだ。
「どうですナ、お武家ぶけさま」と、さて、じぶんから口を切って、
「それほどおこまりのものならば、ひとつ、わたくしがこのとりでのいただきへでられる道を、案内あんないしてあげようではございませんか」
「わかるか、きさまに」
「このふもとを、十町ばかり歩いてみれば、きっとさがしあててごらんにいれます」
「こりゃ天祐てんゆうだ! そちにその間道かんどうがわかるとならば、ぜひとも一つたずねてくれ」
「よろしゅうございます。では、しばらくそこで一ぷくってお待ちください。そして、わかりましたところから松明たいまつを空へ投げるといたしましょう。――これよ、蛾次がじ!」
「ヘイ」
「おまえ、あちらのかたの持っている松明をおりして、わたしのあとからついておいで」
親方おやかたア」
「なんだ」
「早く甲府こうふへゆきましょうヨ」
「待て待て、せっかく、ご一同のおこまりだ、ひと働きしてあげよう」
「だっても……」
「なにが、だってもじゃ」
「おらア、もうおなかがペコペコなんだもの」
「たわけめ! なにをいうか」
 むこうで人足にんそくたちが、やきするめ焼米やきごめほおばっているのを見て伊部熊蔵いのべくまぞう、それがしいなぞだろうとさっして、
「オイ、だれか、このはなッたらしに、なにかものをやってくれ」
 といった。
 蛾次郎がじろうはニヤニヤとなるのをかくしながら、
「親方、ここが小太郎山こたろうざんとはおどろきましたネ」
 と思いだしたように小手こてをかざした。

おどしだに少女しょうじょたち




 扇縄おうぎなわの水の手――山城やまじろ貯水池ちょすいちをさして、そうぶのである。
 今。
 小太郎山こたろうざんとりでどくにまわされていた。
 その扇縄の区域へ、裏切うらぎり者がひそかにどくをしずめたので、夕方の兵糧時ひょうろうどきに、すべての者の腹中ふくちゅうへ、おそるべき酔魚草すいぎょそう毒水どくすいがめぐっている。
 竹童ちくどうをのこして、陣馬じんばはら花畑はなばたけ危変きへんをのがれてきた咲耶子さくやこが、とりでの奥郭おくぐるわへとびおりざま、狂気きょうきのように、櫓番やぐらばん武者むしゃだまりのさむらいへ、声をからして、んでもさけんでも、ひとりとして、オオとへんじをする者がない。
 夜はめっしておく習慣しゅうかん城塞じょうさいは、まッくらで、隠森いんしんとして、ただひとりさけびまわる彼女かのじょの声が木魂こだまするばかりだった。
「裏切り者がある。出合であえ! 出合え!」
 なお、こうび立てながら、咲耶子はおくのくるわから二の郭の中間ちゅうかん桝形ますがたさくまで走ってくると、とうぜん、そこに夜半よなかでもめていなければならないはずの武士ぶしが、声もなく寂寞せきばくとして、木戸きどの口はけっぱなしになっていた。
 はじめて、ここにも大事がいているのを知って、咲耶子は、
「あッ」と、いきをひいておどろいた。
 見れば。
 木戸きど番小屋ばんごやの前に、七人の部下ぶかやりをつかんだまま悶々もんもんとのた打っている。
 また、向こうのさくのそばには、見まわりの三人組が三人とも、むねに一本ずつの短刀たんとうをうけて、かさなり合ってころげている。
「や、や、これは? ……」
 と井楼せいろう梯子はしごのぼってみると、そこにも、眼を光らしていなければならないはずの見張役みはりやくが、やぐらばしらの根もとに、つめを立ったまま、いきえていた。
どく! ……」
 裏切うらぎり者のおそろしい詭計きけいをさとって、彼女は、慄然りつぜんとなるむねをだきしめた。
 と同時に咲耶子さくやこはまた、自分と竹童のかたにあずけられている責任せきにんをつよく思う。
「もしも、一とう方々かたがたのかえらぬ留守るすに、このとりでをうしなうようなことがあったら――」と。
 そう考えるだけでも、ふさふさした黒髪くろかみ夜風よかぜ逆立さかだちそうだった。
「オオッ」とわれにかえると咲耶子。
「――この山城やまじろは三だんぐるわおくとりでのものは毒水どくみずをのんでたおれたにしろ、まだ八ごう外城そとじろのものは、無事ぶじでなにも知らずにいるかも知れない」
 そう気がついて、やぐら柱にかけてあった陣貝じんがいひもをはずし、金嵌きんかん法螺貝ほらがいにくちびるをあてて、いきのあるかぎりいてみる。
 バウー……バウウウウ……ッ。
 序破急じょはきゅう甲音かんおんせい揺韻よういんをゆるくひいて初甲しょかんにかえる、勘助流かんすけりゅう陣貝吹じんがいふき、「ヘンアリニツクベシ」のあいずである。
 だが、さけんで反応はんのうがなかったように、そのかいがとおく八ごうへ鳴りひびいていっても、外城そとじろさくから、こたえきの合わせがいが鳴ってこなかった。
「外城のものまでも、どくにまわされてしまったと見える、ああッ! ……」
 絶望的ぜつぼうてきな声と一しょに、思わず陣貝じんがいをとり落とすと、井楼せいろうやぐらの下の岩へ、貝はみじんとなってくだけた。
咲耶さくやさまッ」やぐらの下へだれかかけてきた。
「お、竹童ちくどう! ――竹童さん?」
貝合図かいあいずいてもムダです――扇縄おうぎなわの水の手へ、毒を流したものがあって、とりでの者はみなごろしになってしまった。アア、ここはもう死の城だ!」
 かれの声は悲壮ひそうだった。
「そして、陣馬じんばはらにいたまわし者は?」
りちらしてけだしてきたんです――こっちのほうが心配しんぱいになるので」
「といっても……味方みかたはおまえとわたしふたりきりだ」
「たとえふたりきりになっても、この砦をてきの手にはわたされない」
「よくいった! 死んでも敵へは渡せない! ……おやッ?」
「な、なんです」
 と竹童ちくどうは、やぐらばしらにすがってびあがっている咲耶子さくやこのかげを下からあおいでいった。
「――外城そとじろの方には、まだ無事ぶじ味方みかたがいるらしい」
「えッ、なにか合図あいずがありますか」
「みだれた火のかげがチラチラとうごきだして、上へ上へと押してくる」
「おお、しめた! じゃ、咲耶さま、早く!」
 と手招てまねきした。
 ばらばらと櫓梯子やぐらばしごりると、ふたりは文字もんじ奥郭おくぐるわ内部ないぶへはいった。そして、岩壁がんぺき洞窟どうくつ利用りようしててられてある、とりでの本丸ほんまるのなかへ走りこんだ。
 具足部屋ぐそくべや評定ひょうじょう寝所しんじょ、みな広い床張ゆかばりで、そこには毒死どくしさむらいもなくしんとしている。伊那丸いなまる留守るす錠口じょうぐちのさきからだれも人を入れなかったところなので――。
 まッしぐらにぬけて、軍師ぐんし部屋へやとびらけた。
 ここも、小幡民部こばたみんぶ蔦之助つたのすけ小文治こぶんじの三人が、ひそかに、間道かんどうからかげをかくして、三方みかたはらへ立っていったのちに、ぜったいに部下をのぞかせずに、三人の下山げざん秘密ひみつにしていたところ。
 ガラッと、あつ車戸くるまどしあけて、そこへはいると、咲耶子と竹童は、まっくらな床板ゆかいたを手さぐりでなでまわした。


 れい間道かんどうの口をたずねているらしい。
 と。
 ゆびのかかるところがあった。
 ここをければ、八ごうさく、三のとりで、すべての外城そとじろかくへはむろん、ふもとへでもどこへでも自由に通りぬけることができる。
 ふたりはまず、八つう間道かんどうをぬけて、いま山の中腹ちゅうふくにみえた味方みかたびいれてこようとするつもり。
 であったが? ……
「ヤッ、みょうな音?」
 床板ゆかいたをめくりかかった竹童ちくどうが、ギョッとした目を咲耶子さくやこへ向けて、
「音がしますよ、妙な音が?」と、いきをのんだ。
 ふたりははうようにかがみこんだ、間道のふたへ耳をあててみた。いかにもみょうな物音がする。ダッダッダッと地の底を打つような音――ゴゴゴゴゴという騒音そうおん――それがだんだんに近づいてくる。
味方みかたがくるんだ!」
 竹童は信じることばに力をこめた。
頂上ちょうじょう裏切うらぎり者がでたのを知って、外城そとじろの者が一きょにやってくるんです。そうにちがいない」
「じゃ、なおのこと、早くここを開いておいて、篝火かがりをつけておこうね」
「いや、篝火は待ってみたほうがいいでしょう。どこにどんな裏切うらぎり者が鳴りをしずめているかも知れず、そいつらが、ほかさく木戸きど出丸でまるをやぶって、いっせいにさわぎだすと、いよいよ手におえなくなってしまいます」
 とささやいていると、不意ふいに、間道かんどうの下から、ドン、ドン、ドン! とはげしくやり石突いしづきでつきあげる者がある。
味方みかたか?」
 と竹童がゆかへ口をつけてぶと、なにやらガヤガヤさわぐのがかすかに聞える。といっても、分厚ぶあつふたがへだてているのでその意味いみはわからないが、なにせよ、人間の声がうずまいているのは想像そうぞうされる。
味方みかたかッ?」
「おう!」
外城そとじろの者かッ?」
「おウ! 早くおけください」
 ――野太のぶといこえが遠くのように聞えた。
「――とりでの内部に異端者いたんしゃがあらわれましたので、本城ほんじょうにも変事へんじはないかどうか、あんじてけつけてまいりました。はやくおけください」
「よしッ、心得こころえた」
 と、竹童、手をかけたが、かばこそ、石のような重さ、咲耶子さくやことともに力をそろえて、ウムと四、五すんほど持ちあげるとあとはすなおに、ギイと蝶番ちょうつがいがきしんでけいじゃくほうの口がポンとく。
 と、下からまっな火のかげが、ひらいたなりに、パッと天井てんじょうへうつった。まるで四かく火柱ひばしらのように。
 すると、そのあかい火光かこうのなかからまッさきに、
「それ、本丸ほんまるへでたぞ!」
 とおどりだしたのは、胴服どうふく膝行袴たっつけをはいた異形いぎょうな男――つづいて松明たいまつを口にくわえ、くさりにすがって三によじてきたのは、味方みかたと思いのほか、さるのような一少年。
「あッ、蛾次郎がじろう!」
「おう! 竹童」
 と、せつな、火をはっしたような驚愕きょうがくと驚愕。
 異形な男ははなかけ卜斎ぼくさいであった。
 八つう間道かんどうをさまよって、小太郎山こたろうざんのふもとへぎゃくもどりをして、ウロウロしていた伊部熊蔵いのべくまぞう小頭こがしら雁六がんろくそのほかの鉱山掘夫かなやまほりをつれて、地脈ちみゃくをさぐり方向をあんじて、ついにこの城塞じょうさい心臓しんぞうきとめてきたのである。
「しまッた!」
 とさけぶまに、もう見ているだ! 蛾次郎がじろうのあとから小頭こがしら雁六がんろく伊部熊蔵いのべくまぞう、そのほかあまたの山掘夫やまほりたち、ふせぎようもなくヒラリヒラリととびあがって、たちまち軍師ぐんしいッぱいになってしまった。


「おい、下にいろッ」
 と、伊部熊蔵は竹童ちくどう肩骨かたぼねをおした。
「…………」
 竹童は肩をふってその手をっぱなした。咲耶子さくやこもすわらずに、まわりの者をにらんでいた。
 瞬間しゅんかん、おそろしいだまりあいのうちに、双方そうほうの眼と眼だけがするどくからみあった。
 とつぜん、ゲタゲタとわらいだしたのは蛾次郎がじろうで、
「おいおい竹童、あんまりびっくりしたんでぼうとしてしまったんじゃないか。いくら民部みんぶ蔦之助つたのすけがいるように見せかけていたッて、だめだだめだ、おれも親方おやかたも、ちゃんと三方みかたはらであいつらを見ているんだから。――もうあとの空巣あきすへは大久保長安おおくぼながやすさまの人数が、かわりにふもとまで引っ越しにきているんだ。サ、おどきよおどきよ、どこへでも退散たいさんしなよ、もう小太郎山こたろうざんとりでは、いまから徳川とくがわさまの持物もちものになる、おまえみたいに、京都でおこもをしてきたようなきたないやつはっておけないんだ。サ、咲耶子さくやこも一しょに山をりてゆけ、ぐずぐずしていると、いのちがねエぞ」
 城攻しろぜめの一番乗りでもしたように、得意とくいな色をみせてどなった。
「だまれッ」たたきつけるように竹童が大喝だいかつした。
「だれがとりでをわたすッ、ここは伊那丸いなまるさまの小太郎山こたろうざんだ」
生意気なまいきな」と熊蔵くまぞう、年のいかぬ者とみくびって、
「それ、あのしたの長い小僧こぞうを、うしろ手に引ッちばッてしまえ」
「おうッ」
 とあごのさきから二、三人の山掘夫やまほり、竹童のえりがみを取ろうとして飛びかかった。
 と――、咲耶子の怜悧れいりな目がキラと横にながれた。ひとりは彼女のうでをもつかみにかかったが、ツイと身を横にひいて、すぐそばに、松明たいまつを持って立っていた山掘夫のひとりを、ふいに、部屋へやのすみへドンといた。
「あッ――」
 だいの男が、もろくもこしをくじいて、松明を持ったままうしろへたおれた。
 部屋へやのすみには、たくさんな火縄ひなわたばくぎにかかっていた。そこへ、メラメラと火がはいあがった。
 ドドドドドド……ッ――と地震ないのような轟音ごうおんは、その一しゅんに、あたりを晦冥かいめいにしてしまった。
 松明たいまつの火が火縄ひなわにうつり、その真下にんであった銃丸じゅうがんはこから火薬かやく威力いりょくはっしたのである。
 しかし、火薬かやく鉄砲てっぽうも、当時とうじまだ南海の蛮船ばんせんから日本へ渡来とらいしたばかりで、硝石しょうせき発火力はっかりょくも、今のような、はげしいものではない。それに、火縄ひなわの下にあったのも二箱か三箱なので、火に吹かれたのは山掘夫やまほりの十二、三人、あとは悲鳴ひめいの声のあがったのを見ても、いのちだけは助かったらしい。
 咲耶子さくやこ竹童ちくどうは、脱兎だっとのように、軍師ぐんしのそとへ飛びだしていた。そして、そのあとから伊部熊蔵いのべくまぞう卜斎ぼくさいなどが、黒けむりと一しょにはきだされて、ふたりのあとをいかけた。
 まえの井楼せいろうの下まできたとき、咲耶子は足をとめた。
「ちッ……」
 なにかいおうとしたらしいが、いまになって焔硝えんしょうにむせんで、あとのことばがでずにしまう。
 竹童も、ハッとふといいきをついた。まッくろなけむりはしらが、もくもくと宙天ちゅうてんにおどりあがっているのを見る。……
「わ、わたしは、少し思うところがあるから、ここにみとどまって、最後の力をつくします。竹童さん、おまえははやくかばの林へもどり、あすこにつないであるわしに乗って、ここを落ちておくれ、後生ごしょうです。早くここを、げてください」
「に、逃げろッて?」
「ふたりとも、ここでじにしてしまっては、民部みんぶさまへ事情じじょうを知らせる者がない」
「いやだ! いやだ、おいらは!」
 生きのこった山掘夫やまほりどもが、もう向こうからワッワッとわめいてくるようすなのに、竹童はがんとそこをうごかないで、強くかぶりをふっていった。
げてゆくなんていやなこった、小太郎山こたろうざんをとられるものなら、おいらもとりでと一しょに斬り死する! どうして、そ、そんなことをいって、民部みんぶさまにわれるもんか」
「アア、この場合、そんなことをいって、わたしをこまらさないでおくれ、ネ、竹童さん」
「イヤだ! 落ちてゆくなら、おまえひとりで逃げてゆきな」
「ま、なにか考えちがいをしていますね」
「なぜ」
「落ちるといってもけっして卑怯ひきょうでも不義ふぎでもない。かえって、砦をまくらにして斬り死するより、立派りっぱなつとめをはたすんです。ここでふたりが一しょに最期さいごをとげてしまったら、だれが、この事情を一とうかたにしらせますか」
「でも……おいらは、そんな役目はきじゃない」
「こうしている一こくが大事、たのむから、はやくクロを飛ばして」
「よし、おいらはすぐにまた帰ってくる」
「えッ、じゃ落ちてくれますか」
「クロを飛ばしていくなら一ばたきだ。一とうの人を見つけたら、おいらはすぐに帰ってくる。咲耶子さくやこさま」
「エ? ……」
「それまで、かばおくへかくれこんで、てきのやつに見つからないように」
「あ、大丈夫だいじょうぶ、死にはしません」
「きっとだぜ!」
「アア」
「きっとだぜ」
「エエ」
短気たんきなことをしちゃいけないぜ」
「アア、加勢かせいのくるのを待っています」
「おうッ、それじゃいそいでいってくる!」
 竹童ちくどうはヒラリと身をかえして、また以前いぜんのお花畑はなばたけから陣馬じんばはらけぬけて、愛鷲あいしゅうクロをっておく深林しんりんのくぼへ走りこんだ。


「クロ……」
 林のくぼはほしの光もなくくらだ。
「クロ! クロ!」
 かれは口笛くちぶえをふいて返事へんじを待った。
 わしが返事をするわけもないが、いつも、かれがこの林間りんかんへ足をれれば、をふむ音だけで、自分のきたことを知って、よろこばしげに、爽快そうかいばたきをするのがれいだ。
 だのに? どうしたのだろう。
 羽ばたきもなければ、ギャーッという啼声なきごえもしない。
ているのかしら?」
 鷲もいまごろはねむるであろうと竹童はかんがえた。
 だがだんだんにおぼえのある喬木きょうぼくの根ッこにさぐりよって見ると、かれの想像そうぞうはまったくくつがえされて、そこには、最前さいぜんこのへんにあつまった城内じょうない裏切うらぎり者、黒川八十松くろかわやそまつとほかふたりの者が、にくかれてぶッたおれ、しかも一つの死骸しがいには首がない。そうしてかんじんな鷲のすがたはかげもかたちも見当みあたらない。
「やッ、げたのかしら? くさりだけがのこっている」
 いかにも、ふとかばの根こぶには、鷲をつないでおいた鎖だけがのこっている――そしてクロがいない――そして三人のさむらいが肉を裂かれている、このなぞをなんといていいか?
「わかった!」
 征矢そやのごとく林をけだした。
 かれの目はいかりにつりあがっている。
 血走ちばしったなみだをたたえて空をあおいだ……
 だが空にもクロは見えなかった! 裏切うらぎり者の黒川八十松くろかわやそまつめ、あれが、自分によって飛行変現ひこうへんげん自在じざいにつかわれるうつわだと知って、がしたのだ! くさりをきって空へはなしてしまったのだ。
 人をのろわばあな二つ、あの猛禽もうきんくさりをきった三人は、立ちどころに、自分がはなしたわしつめにつかまれて、四かれてしまったのにそういない。
 思いあわすと、きょうはまだ一かいも、クロにえさをやっていない。その餌にすべき小鳥やけだものをりにいって、ちょうど、陣馬じんばへ帰ってきた時に、今夜の騒動そうどうが起ったので、それなりにほうっておかれたクロは、さだめしえていたであろうと思われる。
 飢えた猛禽は、おりからよき餌食えじきと、三人の荒武者あらむしゃにくをさき、をすすって、かばの林からぬけあがった。
「やっぱり、とりでまくらに死ねというしらせだ」
 かれはいつになく、その行方ゆくえかるくあきらめて、ふたたび黒煙こくえんのとりでへかげをまぎれこませてきた。
「火をつけるな、松明たいまつをほうるな」
 そこでは伊部熊蔵いのべくまぞうがさけんでいる。
焼城やけじろをとるのは手柄てがらちいせえ、生城いけじろをとるのは大武功だいぶこうとしてある。どうせもうこっちのものになるしろだ、向こうの火もはやくせろ伏せろ」
 と、火薬かやくからえひろがりそうな奥郭おくぐるわへザッザと水をかけさせている。
 一方では二十人ほど、手をわけて咲耶子さくやこのゆくえをさがし、また一方でははなかけ卜斎ぼくさいが、こしに手をあてて城塞じょうさいのつくりを、しきりに見てまわっている。
 と、れいの扇縄おうぎなわの水の手に、だれかかがみこんで、ザブザブと顔をあらいながら、ついでに、口を水面へのばして、チューッとおうとしているやつがある。
 見ると、泣き虫の蛾次郎がじろうだった。
「ばかッ」
 卜斎にどなられて、蛾次郎は、すいこんだ水を思わずガッときだして、
親方おやかた……?」
 と、しかられるのをけげんそうに、
「な、なにが、ばかなんで」
毒水どくみずだぞ、それは」
「げッ」
「すべてしろをのっとったさいには、そこらにのこっている食糧しょくりょうや水はけっして口にすべきものじゃあない」
「ヘエ、そうでしょうか」
 ペッ、ペッ、口のつばきをきちらして、こんどは、あらいかけていた焔硝えんしょういぶりの顔のしずくを両方りょうほうそできまわしている……。
 とたんに、
卜斎ぼくさいッ、うごくな!」
 けだしてきた竹童ちくどう
 童髪どうはつかぜに立って夜叉やしゃのようだった。とりでとともに死のうと覚悟かくごをしている彼。
 ひゅーッと、むらさきをかいて走ったのは般若丸はんにゃまる飛閃ひせん! あッと、卜斎は首をすくめ、かたをはすにかわして、りすべってきた竹童のうでをつかんだ。
「親方ッ、手をかすぜ」
 蛾次郎がじろうはうしろからって、あけびまき山刀やまがたな、ザラザラと引っこ抜いて、スパーッと竹童のすじをったつもり。
 うでもなまくら、刀も赤錆あかさび上着うわぎ一枚きれはしない。
「じゃまだ、どけッ」
 つかんだ相手の腕くびをしめて、卜斎、
「ええッ!」
 とえたかと思うと、おそろしい強力ごうりきで、ブーンと竹童のからだをふり、まりでもとって投げるように、扇縄おうぎなわの水の手へ、かれの小さなからだをほうりこんだ。
 ドボーン……と、まっ白な水柱みずばしらがあがった。まんまんとして毒水どくすい波紋はもんがよれる。ガバ、ガバ、と二つ三つくるしげないきをしているうちに、波紋にまかれ、竹童のかげは、青ぐろいいけのそこへ見えなくなった。


 ここは平和だ。あかるい朝。
 まだ草の根には白いきりがからんでいる。
 向こうがわ傾斜けいしゃを見ると、しばいたようなやわらかさである。しかし、その傾斜は目がまわるほど深く、きわまるところに、白い渓流けいりゅう淙々そうそうと鳴っている。
 どこからとでもなく、このあたりいちめん、もいわれぬいかおりにつつまれている。朝のが、ゆらゆらとかいのあいだからしてくると、つよい気高けだか香気こうき水蒸気すいじょうきのようにのぼって、ソヨとでも風があれば、恍惚こうこつうばかりな芳香ほうこうはなをうつ。
 人の知らぬ小太郎山こたろうざんの峡をぬけて、おくへ奥へと二ほどはいった裏山うらやま、ちょうど、白姫しらひめみね神仙しんせんたけとの三ざんにいだかれた谷間たにまで、その渓流にそった盆地ぼんちの一かくそま猟師りょうしは、おどしだにとよんでいる。
 緋おどし谷一たいは、ほとんど山百合やまゆりの花でうまっている。むしろ百合谷ゆりだにぶべきところだが、その盆地に特殊とくしゅな一部落ぶらくがあって、百合より名をなすゆえんとなっている。
 渓流に架かっているつたのかけはし、そこをわたると部落の盆地、あなたに四、五けんかわべりに七、八軒、また傾斜けいしゃの山のにも八、九軒、けむりを立てている人家じんかがあった。そして、そこに住んでいるのは、みな十五、六から七、八の百合花ゆりそのままな乙女おとめたちばかりである。
 修羅戦国しゅらせんごく春秋しゅんじゅうをよそに、おどしだには平和である。比叡ひえい根来ねごろ霊山れいざんきはらってしまぬ荒武者あらむしゃのわらじにも、まだここの百合ゆりの花だけはふみにじられず、どこの家も小ぎれいで、まどには鳥籠とりかごかきには野菊のぎく、のぞいてみれば、かべゆかにも胡弓こきゅうこと
 だが、知らぬものにはふしぎなさとだ。
 林檎色りんごいろほおをした、健康そうな少女たちばかりすんで、いったい、なにを職業とし、父や兄や祖父そふなどはないものかしら?
 まさか、女護にょごだにでもあるまいに。
 それは。
 みんな冬にはかえる少女だ。ゆきを見れば甲府こうふへかえり、春になれば夏のすえまで、少女ばかりでこの谷にくらしている。
 で、目的もくてきは? やはりかせぎにくるのである。そしてその一棟ひとむね一棟ひとむねで、みな職業がちがっているのもおもしろい。
 河べりに近いうちでは、糸やあさをさらしていた。そのとなりでは染物そめものをしている。また一けんでは鹿皮しかがわをなめし、小桜模様こざくらもよう菖蒲紋しょうぶもん、そんなかたおきをしているうちもあった。
 ここの渓流けいりゅうでは砂金さきんがとれる、砂金をうってよろい小太刀こだち金具かなぐをつくる少女があり、そうかと思うと、かわをついで絹糸きぬいとで、武具ぶぐ草摺くさずりをよろっているうちも見える。とにかく、ここでは、かわ草摺くさずり、旗差物はたさしものまく裁縫さいほう鎧下着よろいしたぎ、あるいはこまかいつづれにしき、そのほか武人ぶじん衣裳いしょうにつく物や、陣具じんぐるいをつくるものばかりがみ、そして、それがみなかわいい少女の手に製作せいさくされていた。
 この渓谷けいこくの水が染物そめものによくてきし、ここの温度おんどかわづくりによいせいだというか、とにかく、おどしだに開闢かいびゃくは、信玄以来しんげんいらいのことである。
 そこへ。
 けさふとすがたを見せたのは、かいをつたって、小太郎山こたろうざんからねむらずにきた咲耶子さくやこである。
 向こうがわには、おどし谷の部落ぶらくをながめ、だれか渓流けいりゅうにくるのを待っていると、やがて二、三人の少女が染桶そめおけと糸のたばをかかえて、あかるい笑いをかわしながら、川床かわどこりてきたようす。
 咲耶子は、ゆうべのことで、苦悶くもんの色のかくせぬ中にも、それを見ると、ニッコとして、おびのあいだの横笛よこぶえき、しずかに、歌口うたぐちをしめしだした。
 鳴る!
 ゆるい、笛の、高い笛の音。
「おや?」
 河原かわらのしろい顔が、みんな一しょにこっちを見た。
 笛が――咲耶子さくやこのしろい手に高くあげられて、横にたてにうごいている。
 合図あいずであろう!
 それを見ると、少女のひとりがなにかさけんだ。それにおうじて、あなたこなたのうちから、ワラワラワラけだしてくる。みんな同じげがみの少女、みんな同じ年ごろの少女、みんな凜々りりしい紅頬こうきょうの少女。
 みるまにちょうど三、四十人、つたのかけはしみわたって、あたかも落花らっかるように、咲耶子のいる向こうのかいけてくる!
 笛は、早く早くとんでいた。
 おどしだに胡蝶こちょうたち、胡蝶のじんむのである。

なんじら! なにをわらうか?




 蔦のかけ橋をいっさんにわたって、咲耶子のすがたをあてに走ってきた少女のれは、みるまに近づいて、さしまねかれた笛の下へ、グルリと、花輪はなわのようにあつまった。
「――まいりました、咲耶子さま」
「なにかご用でございますか」
「いつになくおわるい顔色」
「どうしました? 咲耶子さくやこさま」
「おっしゃってくださいまし、わたくしたちのする用を」
 いきいきとした少女たちのひとみ、みな、なつめのようにクルッとみはって――そしてまだ心配そうに、中央に立ついちばん背丈せいの高い人を見あげた。
 小太郎山こたろうざんにすむ咲耶子と、そこから近いおどしだにの者たちとは、しぜん、いつのまにかしたしくなっていた。かれらはみな、咲耶子を山の女神めがみのようにしたい、咲耶子はまたみなを、妹のように愛していた。
 ことに、かれらはすべて、おさない時から子守歌こもりうたにも信玄しんげん威徳いとくをうたったをもっている甲斐かいの少女だ。国はほろびても、その景慕けいぼや愛国の情熱じょうねつは、ちいさなむねえている。
 げんに。
 いま彼女たちがおどしだにでつくっている、具足ぐそくまく旗差物はたさしものや、あるいは革足袋かわたび太刀金具たちかなぐ刺繍ししゅう染物そめものなどの陣用具じんようぐは、すべてそれ小太郎山こたろうざんのとりでへおくるべきうつくしい奉仕ほうしだった。
 ――そのたのもしい少女は、ちょうど三、四十人ほどそこにいた。
 咲耶子は夜来やらい変事へんじをつぶさに話して、いまに、この谷へも、大久保長安おおくぼながやす手勢てぜいがきて、小太郎山のとりでどうよう、ぞんぶんに蹂躪じゅうりんするであろうとつげた。
「――ですからおまえたちはすこしも早く、だいじな品物や、仕事の道具どうぐを取りまとめて、めいめいのさとへお帰りなさい。そして後日ごじつ、ふたたび小太郎山に武田菱たけだびし旗印はたじるしを見たならば、またその時は、おどしだにへきておくれ、そして、なかよく刺繍ししゅうをしたり染物そめものをしておくれ。わたしは、それを知らせにきたのです」
 意外いがい
 かなしい別れの言葉であった。
 巴旦杏はたんきょうのようにかがやいていた少女たちのほおは、みているまに白くあせて、まゆはかなしみにくもった。
 そでをもって顔をおおう少女もある。
 くのも忘れてあきらかになみだの流るるにまかせている顔もある。
 だが。
 それはやがて、強い敵愾心てきがいしんとかわって、哀別あいべつをこばむ決心が、だれのくちからともなく、
「イエ!」
「イエ!」
「イエ!」
 とはげしくほとばしり、みなそろってかぶりをふった。
「わたしたちは帰りません!」
 ひとりの声がりんという。
「このままさとげかえって、父や兄にわれた時、なんと、小太郎山のことを話しましょう」
「あ……」
 と咲耶子さくやこは、その純真じゅんしんさけびに、たましいをつかまれてゆすぶられるように感じた。
「――とりでのさいごを見とどけとうございます。咲耶子さまのおさしずについて、なろうものなら戦います。家康いえやす家来けらい大久保長安おおくぼながやす、あれはいま甲府こうふの民を苦しめている悪い代官だいかん、その手勢てぜいとたたかうことは、父や兄妹きょうだいあだに向かうもおなじことです」
「…………」
「ねえ、咲耶子さま!」
「…………」
「つねにりきたえている胡蝶こちょうじんみましょう。ふだん武芸ぶげいをはげむのも、こういう場合ばあいのためにではありませぬか」
「オ……」
「ここにいる残らずの者は、みな一ツ心じゃと申しております」
「オオ……」
 その言葉を待っていた咲耶予のほおは、思わずしらず、感激かんげきのなみだがたまとなってまろばった。

 おなじ朝――時刻じこくはそれより一ときはんほどまえのこと。
 むろん、まだ夜はしらみかけたばかり。
 とりではゆうべの酸鼻さんびな空気をおどませて、かがやきのない朝をむかえていた。
 伊部熊蔵いのべくまぞう山掘夫やまほりどもや、あとからくりこんだ大久保おおくぼ手勢てぜいは、みな、貝殻虫かいがらむしのように、砦の建物たてものにもぐりこんでているようす。
 ただ城楼じょうろう高きところ――さがふじ大久保家おおくぼけ差物さしものと、淡墨色うすずみいろにまるくめたあおいもんはたじるしとが目あたらしく翩翻へんぽんとしている。
 ピイッ! ピピピピッ。
 一翡翠かわせみ
 いつもの朝のとおり、るり色のつばさをひるがえして、扇縄おうぎなわの水の手へとんできた。そして、翡翠かわせみがもつあの長いくちばしで、水にむハヤというちいさな魚をねらいにりた。
 ――と思うと翡翠は、バッと水面をつばさでうっただけで、風にさらわれたようにすッとんでしまった。
 名人のくるいはあるとも、翡翠が魚をくわえそこなうなんていうことはけっしてないのに。
 と見ると、その朝にかぎって、扇形おうぎなり貯水池ちょすいちには小さなハヤや大きな山女やまめが、白いはらかせて死んでいるのだ。あの強そうな赤い山蟹やまがにまで、へろへろして水ぎわに弱っていた。
「こりゃあいけねえ」
 それを見て、水をすかしているふたりの士卒しそつがいった。大久保勢おおくぼぜい兵糧方ひょうろうがためししる煮炊にたきする身分のかるい兵である。
「ゆうべ水門すいもんけておかなかったから、まだこの水の手にはどくがよどんでいるんだ」
「それじゃ、朝の兵糧を炊くのにさっそくこまるぜ」
「――掃除そうじをして新しい水をれかえなけりゃ……」
「やっかいだな、こんなわるさをしやがって」
「城をとるやつは、兵糧方のこまることなんか眼中がんちゅうにはない。め取りさえすればいいんだから」
「そしてグウグウていやがる」
「眼がさめると、おれたちがこしらえたしるめしをたらふくくらって、自慢話じまんばなしでいばりちらす……考えてみると、兵糧方はわりがわるい」
「オイ、ぐちをこぼしてもしかたがねえ。早く水をえておこうじゃねえか」
「そうだ! がのぼってきた」
 ふたりは水の手の水門をのぞきこんだ。そして、かんぬきをぬいた。
「オヤ」
「どうした?」
がからんでいてかねんだ」
「あッ……おい、藻じゃねえぞそれは。死骸しがいだ! オオ土左衛門どざえもんだ」
「えッ、人間か?」
 と、ひとりがかんぬきの先できだした。
 もくり……と毒水どくすい波紋はもんがよれたかと思うと、せになった水死人すいしにん水草みずぐさの根をゆらゆらとはなれる。
 あおぐろい透明とうめいのなかにたれている手が、ギヤマンをすかしたような色に見えた。それは、夜が明けようとするまえに、卜斎ぼくさいのためこのいけに投げこまれた竹童ちくどうだ――手につかんでいるのは般若丸はんにゃまるの刀である。
 いているかみのさきから、ツイと、水馬みずすましが二、三びきおよいだ。


 兵糧方ひょうろうがた足軽あしがるが、水面に目をみはっていた時だ。
 とつぜん。
 あらしのような風の音が、ちゅうをうなってきたかと思うと、ふたりの目の前へ、空からなにか勢いよく落ちてきた。
「あッ」
 ドボーン! ……と西瓜大すいかだいのくろい物?
 いちど深くしずんでから、ボカッと、あわだった水面にきあがってきたのを見ると、わか武士ぶし生首なまくびだ。
 どうのない生首は、胴をかくして立ちおよぎをしている人間のように、グルリとまわって、足軽あしがるのほうへ顔を向けた。
「おッ……黒川八十松くろかわやそまつさまの首だ!」
 おどろくまもあらず、ごうーッと一じん強風きょうふうにのって、ひくく、黒雲のように、旋舞せんぶしてりた大鷲おおわしがあった。
 とたんに、扇縄おうぎなわの水の手一つからザアッと龍巻たつまきがふきあがったかと見れば、あらず! いきなり鷲のくちばしが、竹童ちくどうおびをくわえてちゅうへ立ったのである。
 高くつりあげられた竹童のからだから夕立ゆうだちのような水しずくがる!
「あ、怪物かいぶつッ」
 宙をとんだふたりの兵糧方ひょうろうがた
 早、こしをぬかさんばかり驚いて、具足ぐそくのままあっちこっちにている武士ぶしおこしてまわった。
逆襲ぎゃくしゅう? ……」
朝討あさうち?」
 ぼけまなこに得物えものをとったさむらい山掘夫やまほりどもは、稀有けうの大鷲が少年をくわえていあがったと聞き、興味半分きょうみはんぶんにワラワラと貯水池ちょすいちのほうへけてきた。
 だが――ゆうべ陣馬じんばはらで、おそろしい経験けいけんをなめているものは、
「あぶないぞ、油断ゆだんするな」
 と、走りながら、周囲しゅういの者へせわしく話した。
 扇縄おうぎなわの水の手へ、首となって落ちてきた黒川八十松くろかわやそまつは、城攻しろぜめの最中に、かばの林につないであった竹童ちくどうわしくさりを切ったのだ。そしてかえって、鷲のためにいさかれて、非業ひごうな死をとげたのだ!
「あぶないぞ、あぶないぞ! あの鷲はてき味方みかたをちゃんと見分みわけている。だから、八十松の首をくわえていたんだ。そして、竹童をすくいにりてきたんだ」
「気をつけろよ、うっかりしてあのすごいつめにつかまれるな」
 注意をしながらけてきた。
 しかし――わし雄姿ゆうしは、もう貯水池のまわりには見えなかった。
「おッ、井楼櫓せいろうやぐら屋根やねにやすんでいる」
 とだれか見つけて、またいっせいにそのほうへけ向かっていく。
「わアーッ」
 と諸声もろごえを合わせたので、つばさやすめていたクロは、さらにはねをうっていあがった。けれど、さすがな大鷲おおわしも、二、三さい嬰児あかごなら知らぬこと、竹童ほどな少年のからだをくわえてそう飛べるはずはない。
 水面からそこへうつったのが極度きょくどの力であったろう。やぐらの上をはなれると、さすがに強い猛鷲もうしゅうも、むしろくわえている重量じゅうりょうに引かれこんでゆくかたち
 みるまに、下へ――下へ――下へ――。
 むこうのみねまではわたりきれずに、千じんのふかさを思わす小太郎山こたろうざん谷間たにまへとさがっていった。
 と、見えたが、また。
 ついに、くちばしでもちきれなくなったのか、とちゅうで、わし竹童ちくどうのかげは二つにわかれてしまった。
 落ちていった小さな黒点こくてんは、目にもとまらず直線ちょくせん谷底たにそこへ、――そしてくるった大鷲おおわしは、せつな! つつをそろえて釣瓶つるべうちにってはなした鉄砲組てっぽうぐみたまけむりにくるまれて、一しゅん、その怪影かいえいは見えなくなった。


「あ。竹童め、うんのいいやつだ」
 鉄砲組のうしろに立って、ちゅうを見ながら、こうつぶやいた人間がある。
 蛾次郎がじろうをつれたはなかけ卜斎ぼくさいだった。
 聞きとがめてヒョイとうしろを向き、
「なぜで?」
 とたずねたのは伊部熊蔵いのべくまぞう
 毒薬どくやくをながした水の手へ投げこまれ、そのうえにまた、わしにくわえあげられて、千じん谷間たにまへ落ちていった竹童が、どうしてうんがいいんだか、こんなわからない話はない――という顔で。
 ところが卜斎ぼくさい、また同じ言葉をかさねて、
「まったく運の強いやつだよ」
 と、少し、くやしそうな顔をした。
「なぜですな? 卜斎殿ぼくさいどの
「あいつめ、いまに蘇生そせいします。運がいいじゃありませんか」
「へえ、あの竹童が」
「ゆうべはっくらでわからない。いずれ毒水どくみずんだろう、朝になったらねんのために、生死をたしかめにいこうと思っていたところなので」
「なるほど、竹童を投げこんだのは、貴公きこうでございましたな」
「ところがいま見るに、あの鷲が宙へつりあげた。それをもって見るに竹童め、わしが水の手へ投げこんだとたんに、くいか岩のかど脾腹ひばらをうち、気をうしなったにちがいない」
「ウ……ウム? ……」
「で、ついに、毒水どくみずらわなかった。水を食らえば体重はばいの上にもなるゆえ、けっして、いくら大鷲おおわしでもくわえて飛べたものじゃない」
「だが、あの谷間たにまへ落ちていっては、五体みじんとなったでしょう」
「イヤイヤ、あそこは深い檜谷ひのきだに、何百年もおのれたことのないしげりだ。落ちてもえだにかかるか深い灌木かんぼくの上にきまっている」
「そりゃいかん!」
 伊部熊蔵いのべくまぞうはにわかにあわてだした。そして、それッと、周囲まわり武士ぶし指揮しきして、
「朝めしまえの一仕事に、竹童ちくどうのからだをさがしだせ」
 といいつけた。
「はッ」
 というと鉄砲組てっぽうぐみの中から五、六人、足軽あしがる十四、五人、山掘夫やまほり四、五人――小頭こがしら雁六がんろくも一しょについて、まだ朝露あさつゆのふかい谷底たにそこりていった。
「おいおい、おいおい。そんな方角ほうがくじゃあない。もっと右の方だ、右の方の道をりろ。まだまだずッとさわの方――あの檜林ひのきばやしがこんもりしげっている向こうの谷だ」
 熊蔵はあとにのこって煙管きせるをくわえ、その煙管で、しきりと上から方角をおしえている。
 卜斎ぼくさいがけッぷちにこしをかけて、大きなかわ莨入たばこいれを引っぱりだした。煙管もがんこなかっこうである。もっともそのころは、まだ煙草たばこというものが南蛮なんばんから日本へわたったばかりで、そういう道具どうぐもすこぶる原始的げんしてきなものだった。
 すると、そばにいた、蛾次郎がじろうのやつ。
「くッ、くくくく……うふッ……うふふふふ……」
 と横を向いてわらいだした。
 なにをおかしがるのかと伊部熊蔵いのべくまぞうがふりむくと、蛾次郎は口をおさえて、横にすましている卜斎ぼくさいをそッとゆびさした。
 卜斎はなんにも知らず、がんこな煙管きせるしゃにもって、スパリ、スパリ、とふかしている。
 見ると、かれのはなあなから、ゆるいけむりがでるのである。だれにしたって、煙草たばこえば鼻の穴から煙が出る。なんのふしぎもありはしない。
 だけれど、いったん鼻かけ卜斎先生ぼくさいせんせいが煙草の煙をすってだんになると、一方の鼻の穴からは尋常じんじょう紫煙しえんがはしり、一方の穴からでる煙はそッぽへ向かって噴出ふんしゅつする。
 だから二本の煙が大股おおまたにひらいてでて、かたわのはなが顔中にいばっているような壮観そうかんをあらわすのだった。
「な、なるほど。こいつはおそれいった鼻だ」
 と、熊蔵も吹きだしたいのをがまんして、横を向きながらはらかわをおさえた。
 ゆうゆうと紫煙をふかしていた卜斎は、はなはだ、けしからん顔つきで、
(なんじら! なにを笑うか?)
 と、口にはださないがギョロギョロした。
 雲ゆきが悪い! 気がつかれてはたいへんだぞと、そういうことには敏感びんかん蛾次郎がじろう、ポイと立って断崖だんがいのふちから谷をのぞきこみ、
「ウーム、みんな見えなくなった。いまに竹童ちくどうをかつぎあげてくるだろうな……」
 と、つまらないひとりごと。
親方おやかた
「なんだ!」
 はたしてごきげんがわるい。
「まだ兵糧ひょうろうをくばってきませんネ」
るから起きるまで、うことばかりいってやがる」
「いえ、わたしゃなんともないけれど、親方が、さだめしおなかがなんだろうと思って」
「よけいな心配しんぱいをするな」
「へい」
「それよりきさまも谷間たにまりて、なぜご一同と一しょにはたらかないか、なまけ者めが」
「オッ、帰ってきた!」
 ジッと見おろしていた伊部熊蔵いのべくまぞうが、こうさけんで待ちうけていると、そこへ小頭こがしら雁六がんろく、どうしたのかさおになって、いきをあえぎながらのぼってきた。
「いかがいたした、ほかの者は?」
 上がりきらぬうちから熊蔵くまぞうがこうくと、雁六がんろくひたいのきずで、片目かために流れこむをおさえながら、
「た、たいへんです」
 うなるがごとき声だった。
「谷へりた者は、ひとりのこらずみな殺しにされてしまった! 熊蔵さま、わ、わっしだけ、ようようげてきたんです」
「な、なんだッて」
 熊蔵は、ンがけている足もとが、地すべりしていったかとばかりおどろきにうたれて――。
「ど、どういう仔細しさいで? まさか、竹童ちくどうが」
「その竹童のからだをさがしに、だんだんうすぐらい檜谷ひのきだにりてゆくと、ピューッと、ひよどりでもいたような、ふえがしたんです」
「ウム、そして?」
「と一しょに、頭の上から疾風はやてのような手裏剣しゅりけんが飛んできて、バタバタと四、五人ふいにッたおれたので、あッといったがもうおそい。……ひのきの上やささむらのなかから、ひらひら、ひらひら、まるで蝶々ちょうちょうのようなやつ、三、四十人の女です」
「女?」
きりのようにえる、またワッとのようにい立つ、それでふしぎなじんになっていて、こっちはけむにまかれたようです。げる、ふせぐ、り合う、火縄ひなわをつける、まごまごしているすきだってありゃしません。谷間へ落ちたり、渓流けいりゅうへすべりこんだり、かよわい女の切っさきに、大の男がさんざんのていです」
「ウーム、ちくしょう、咲耶子さくやこのしわざだなッ」
「そうだ!」
 と、うしろでヌッと卜斎ぼくさいが立ちあがった。
裾野すそのでいちど見たことがある。――謙信流けんしんりゅう楠流くすのきりゅう永沼流ながぬまりゅう小早川流こばやかわりゅう甲州流こうしゅうりゅう孔明流こうめいりゅうから孫武陸子そんぶりくしの兵法にもない胡蝶こちょうじん! あれは咲耶子さくやこ野武士のぶしらした得意とくいふしぎな陣法じんぽうですよ」

地蔵行者じぞうぎょうじゃかわったたび




 木魂こだま! 木魂! 鉄砲てっぽう木魂。
 つるべうちにぶっぱなした銃火じゅうか轟音ごうおんは二ばいになってきこえた。
 檜谷ひのきだにいちめんの暗緑色あんりょくしょく木立こだちのあいだから、白い硝煙しょうえん湯気ゆげのようにムクムクと大気たいきへのぼる。
 むこうのかいふえが鳴った。
 と。
 もんぺ穿き、白の髪止かみどめをしめた一だんの少女たちが、ひとりのわらべの手足をもってたすけあい、もりからさわへ、沢から渓流けいりゅうへ、浅瀬あさせをわたってザブザブと峡の向こうへよじのぼる。
 鳴る、鳴る、鳴る! 笛はまたさらに高音たかねをつづけて鳴る。
 バラバラと峡のがけから細道ほそみちりてくる少女が見えた、上から手をのばしてわらべをうけとる。その敏捷びんしょうなことおどろくばかり、螺旋状らせんじょう細道ほそみちおくへ奥へと見ているうちに走りだした。
 と思うとその半数はんすうは、どこかへこつぜんと見えなくなった。
「それッ」
「どこまでもちをかけろ」
 渓流をえて追撃ついげきしてきたのは、伊部熊蔵いのべくまぞう雁六がんろくをせんとうにした一たいである。
 みな、谷川で火縄ひなわらしてしまったので、鉄砲てっぽうをすてて大刀をぬく。やりを持った者は石突いしづきをついてポンポンと石から石へ飛んであるく。こういう場合ばあいは、南蛮渡来なんばんとらい新鋭しんえい武器ぶきもかえって便べんがわるい。
 道案内みちあんない地学家ちがっかはなかけ卜斎ぼくさい、そのこしについてあるくものは天下の泣き虫蛾次郎がじろうである。
 蛾次郎はすばらしくこうふんしてしまった。司馬仲達しばちゅうたつッかけまわす孔明こうめいのごとき高き気概きがい。なんだか、自分ひとりの威勢いせいのために、咲耶子さくやこ胡蝶こちょうじんげくずれてゆくような気持がして――。
 すると、不意ふいに――
 かいの細道から三、四人、芋虫いもむしのように渓谷けいこくへころげ落ちた。あッ……とあおぐと、天をならの木のてッぺんから、氷雨ひさめ! ピラピラピラ羽白はじろ細矢ほそやがとんでくる。
 梢の葉がくれ、楢に花がいたように、半弓はんきゅうを持った少女が十二、三人ほど見えた。
 タジタジとあとへひいた熊蔵くまぞうの一たいやりをそろえ、白刃はくじんをかこんで、りるところを待ちかまえたが一じん、楢の梢が暴風ぼうふうのようにゆすぶれたかと思うと、落花らっか? 胡蝶こちょう? いな、それよりも軽快けいかいに、彼女たちのすがたはえだから枝へとびうつり、つぎのからつぎの樹へ、そしてついに思わぬところのがけへ――山千鳥やまちどりかとばかりってしまった。
 大久保長安おおくぼながやす後詰ごづめ手勢てぜい、百人ばかりはべつな道からおどしだにへ向かっていた。
 糸染川いとぞめがわ神仙川しんせんがわ合流ごうりゅうするところで、熊蔵の一隊と一つになり、聖地せいちのごとき百合ゆり香花こうかみあらし、もうもうとしたちりをあげて、れいのつたのかけはしまで殺到さっとうした。
「おお、こんなところに人家じんかがある」
「あの女雀めすずめどものであろう」
「それッ」
かたッぱしから火をかけてみな殺しにしてしまえ」
「いや、手捕てどりにして、とりでの下婢はしためこき使ってやるのもよいぞ」
「かかれ!」
 殺気さっきをみなぎらした百六、七十人の軍兵ぐんぴょうが、いちどきにドッとかかったので、つたのかけ橋はゆみなりにしなって左右にゆすぶれ、いまにも、ちぎれて渓谷けいこくへ人間をブチまけてしまうかと思われた。
 人家へせまるとその人数が、ワアーッとときの声をあわせた。まんいち、はかりごともやある? と武者声むしゃごえをたけらして、てき反応はんのうをさぐるのだった。
 すると――
 ってでる敵はなかったが、どこからともなく幽玄ゆうげん妙音みょうおんをまろばしてくる八雲琴やくもごとがあった。


「やッ……ことがするッ?」
 慄然りつぜんとして武者足むしゃあしがとまってしまった。
 温熱おんねつのような殺気さっき弾琴だんきんに吹きはらわれて、ただ、ぼうぜんとふしぎそうに耳をすます軍兵の眼ばかりが光り合う。
 なぜ? を水のごとくに見る荒武者あらむしゃが、やさしい琴の音などにすくまってしまったのだろうか。
 中にまじっていた卜斎ぼくさいは、そういぶかしく思ったが、それをあやしむ彼自身じしんが、すでにみょう錯覚さっかくにとらわれて、疑心暗鬼ぎしんあんき眼底がんていにかくしていたことを知らなかった。
 ひとりこの時かまわずに、ことのする家のほうへかけだしていったのは、蛾次郎がじろうであった。
 だが、かれの行動は、だれより勇敢ゆうかんといえるだろうか。それは問題としても、蛾次郎が来たままかけぬけていったのは、錯覚さっかくなどをおこすほどこまかな神経しんけいを持ちあわせていない証拠しょうこにはなる。
(いい間諜かんちょうが行った)
 というふうに一同は遠巻とおまきにしてながめている。
 みんなが見ている!
 蛾次郎はヤヤ得意とくいのようすだ。
 ふりかえってニヤリとわらう。そして小高こだかいところへのぼった。
 雅人がじん住居すまいでもありそうな茅葺かやぶきの家、かけひの水がにわさきにせせらぐ。ここは甲山こうざんおくなので、晩春ばんしゅんの花盛夏せいかの花、いちじにあたりをいろどって、きこまれた竹のえんちりもとめずにしずかである。
 おくゆかしい萩垣根はぎがきね。そこから蛾次郎、はなくそをほじりながら、のびをしてのぞきこんだ。
「あッ、人がいら……」
 しかり、人がいる。
 女性にょしょうである。うつくしい人。
 琴台きんだいの上に乗せてあるのは、二げん焼桐やきぎり八雲琴やくもごと、心しずかにかなでている。そして、ふとことの手をやめ、蛾次郎がじろうのほうをふりかえった。
 蛾次郎は自分の顔がポッと赤くなったかと思って、どぎまぎと眼をまよわせたが、また見直みなおすと、それどころじゃない、琴台の前にいるのは咲耶子さくやこではないか。
「あッ……」
 首を引ッこめると、
「蛾次郎ですね」と、おちついた声。
「いいところへきてくれました。手勢てぜいをここへんできてください」
あかといえ!」
 蛾次郎、垣根かきねのそとでごしになりながら、
「そういくたびも、胡蝶陣こちょうじん計略けいりゃくにひッかかってたまるもんかい」
「うそではない、もうどんなことをしてものがれぬところ、わたしは覚悟かくごをきめました。ほかの者を助けるためにね」
「じゃ、おめえひとりなのか」
つみのない少女たちを、じにさせるのはかわいそうです。あのひとたちの親兄弟おやきょうだいにすみません。だから……」
「ほんとか? まったくか?」
「この通り小袖こそでかえ、かみをなおし、うすい化粧けしょうまでしているでしょう。これが覚悟かくご証拠しょうこです。わたしをなわにかけて、甲府こうふへでも、浜松城はままつじょうへでもおくってください」
 すると、とつぜんに、
神妙しんみょう!」
 と、うしろからなわをまわした者がある。
 裏口うらぐちからはいってきた卜斎ぼくさいであった。と――一しょに、ドカドカとやりや刀や鉄棒てつぼうをひっさげた武士ぶしのすがたが、庭へあふれこんできた。
「あ、待ってください」
未練みれんをいうなッ」
「いえ……」
 と、咲耶子さくやこは、ねじとられた手をしずかにもぎはなした。そしてゆびの先の琴爪ことづめいて、高蒔絵たかまきえのしてある爪筥つめばこのなかへ、一つひとつていねいに入れた。


 そこは甲府こうふ城下じょうかにでるとちゅうであった。
 にじ松原まつばら針葉樹しんようじゅのこまかい日蔭ひかげを、白い街道かいどうがひとすじにとおっている。
 おどしだに山間さんかんから、かわるがわるに手車てぐるまんで竹童ちくどうを助けだしてきた少女たちは、その松原の横へはいって、しきりと彼を看護かんごしていた。
 気絶きぜつしたがために、さいわいとあの毒水どくみずまなかった竹童ちくどうは、多少のきずいたみはあったが、やがて真心まごころ介抱かいほうをうけて、かなりしっかりと気がついた。
咲耶子さくやこさんは?」
 いきを吹ッかえすと、第一にでたい。
小太郎山こたろうざんは? 咲耶子さんは?」
「咲耶子さんは……」
 おうむがえしにそういって、少女たちは急にかなしい表情ひょうじょうにくもった。
「エ、どうしたい?」
「竹童さんを助けたいために、わざとおどしだににのこって、自分からてき生捕いけどりになりましたの」
「なんだって?」
 ぼうぜん――なにを見るのであろう竹童の目。
 いっぱいななみだになってしまった。
「さかさまだ! さかさまだ!」
 かれはみなをおどろかせてさけびだした。
「おいらを助けるために、あのひとがつかまってゆくなんて、そ、そんな、さかさまごとがあるもんか」
「ですけれど、竹童さん」少女のひとりがなぐさめ顔に、
「わたくしたちも泣きながら、七山路やまじを歩いたのです。もうおよばないことですから、このうえ、かなしいことをいわないでくださいまし」
 つぎの少女が口をそえた。
「そのかわりに、あなたはからだをしっかりなおして、伊那丸いなまるさまや民部みんぶさまに、小太郎山こたろうざんとりでのしまつを、くわしくおげしてくれとおっしゃいました」
 三ばんの少女がつげた。
「そして、みなさまのすいいの手を、てきのなかで待っていますと」
 竹童はもうそういう言伝ことづてなどを、じッと、聞いていなかった。どこか、骨節ほねぶしがつよくいたむのであろう、キッと口をゆがめながら、松にすがって立ちあがった。
「あ、どこへ?」
「竹童さん、どこへ?」
「竹童さーん!」
 べどふり向きもしなかった。
「ア、ア、あッ……」
 と、不安そうに見おくる少女たちの視界しかいをはなれて、とちゅうから、脱兎だっとのごとくけてしまった。
 肉体の生命せいめい奇蹟的きせきてき無事ぶじだったかわりに、あの少年の精神せいしん狂気きょうきあたえられたのではないか? 少女たちはにじ松原まつばらからめいめいのみやこへ帰った。

 臥薪嘗胆がしんしょうたんの文字どおりに、伊那丸いなまると一とうが、ここ一年に、生命をしてきずきあげた小太郎山こたろうざん孤城こじょう。そのただ一つの物から、再起さいき旗印はたじるしを引きぬかれて、それにかわ徳川家とくがわけ指物さしものが立ってからすでに半年。
 天下は秋となった。
 落寞らくばくとした甲山こうざんの秋よ、蕭々しょうしょうとした笛吹川ふえふきがわの秋よ。
 国ほろびて山河さんがかわらずという。しかし、人の転変てんぺんはあまりにはなはだしい。たとえば、いま甲府こうふ城下じょうかを歩いて見ても、うものはみな徳川系とくがわけい武士ぶしばかりだ。
 金鋲きんぴょうかご銀鞍ぎんあんの馬、躑躅つつじさきたちに出入りする者、ほこりはかれらの上にのみある。隆々りゅうりゅうと東海から八方へ覇翼はよくをのばす徳川家とくがわけの一もん、そのいきおいのすばらしさったらない。
「おなじ武家ぶけ仕官しかんをするなら、足軽あしがるでも徳川家につけ」
 当時とうじ浪人仲間ろうにんなかまでそういったくらい。
 ゴ――ン、ゴ――ン。
 彼岸ひがんにちかい秋の町を、かねをたたいて歩く男があった。そのゴ――ンというさびしいは、いま、甲府塗師屋町こうふぬしやまちの四ツかどをでて、にぎやかで道のせまいさか軒下のきしたをたどってくる。
 かれのあゆむにつれ彼の手から、かみでつくった桃色ももいろ蓮華れんげ花片はなびらがひらひら往来おうらいらばった。
 その蓮華れんげのあとをしたって、
「おじさん、紙おくれよ」
「おじさんおくれよ」
「紙をよ、紙をよ」
「紙をおくれよ、おじさん」
 と、こまッかい町の子供が、二十日はつかねずみのようについてあるく。
 どこの国からきた、どこのおてら行人ぎょうにんであろうか、天蓋てんがい瓔珞ようらくのたれたお厨子ずしなかにせおい、むねにはだいをつってかね撞木しゅもくをのせてある。そして行乞ぎょうこつでえたぜには、みなそのかねのなかにしずんでいた。
 うしろへまわって、お厨子ずしをのぞくと、金泥きんでいのとびらがけてあって、なかには一地蔵菩薩じぞうぼさつぞうがすえてある。そのまえには、秋の草花、紅白こうはくのおもち弄具おもちゃよだれかけやさまざまなお供物くもつが、いっぱいになるほどあがっている。
「ああ、そんなにまえへまわると、おじさんが歩けなくなるじゃないか」
 こういって地蔵行者じぞうぎょうじゃは、小さい手に取りまかれながら、背なかあわせにおぶっている地蔵菩薩じぞうぼさつとそっくりのような人のよい笑顔えがおをつくった。
「よウ、よウ、よウ、おじさんてば」
「紙おくれよ、さっきの紙をさ」
 行者ぎょうじゃはニコニコ見まわして、
「いまあげるよ、あげるから、けんかをしちゃいけない、おとなしくして……」
 ふところからり物の紙をだして、なかよくひとりへ一枚ずつくばってあたえる。見ると、なるほど、子供がしがりそうな美しい刷り物。
 むらさき色のへ、金泥きんでい地蔵じぞうさまのおすがたが刷ってある。そしてそのわきには、こんな文句もんくが書いてあるのだ。
おやのない子。家のない子。まずしい子。
地蔵行者じぞうぎょうじゃはそれをさがしてあるきます。
見つけてしあわせにしてやりたいとて歩きます。
おしえてください。あわれな子を。
竹生島ちくぶしま可愛御堂かわいみどう堂守どうもり
菊村宮内きくむらくない
「家へもって帰って、おとうさんやねえさんやにいさんにも見せておくれ。そして、かわいそうな子供がいたら教えておくれ。おじさんはまたあした、同じところを同じ時刻じこくにあるくから……。え? あさってかね、あさってはまたさきの町さ、わしは、そうして諸国しょこくをまわる旅人たびびとだもの」
 ゴ――ン、ゴ――ン、ゴ――ン。
 かねをたたいてさきの町を流した。
 地蔵経じぞうきょうしてかどへたち、行乞ぎょうこつぜにべ物は、知りえた不幸ふこうの子にわけてやる。ほんとにおやも家もない子供は、自分の宿やどへつれて帰って、奉公口ほうこうぐちまでたずねてやる。
 戦国のちまた見捨みすてられているおさない者のために、竹生島ちくぶしま神官しんかん菊村宮内きくむらくない、とうとう琵琶湖びわこのそとへまででて、地蔵行者の愛をひろめようとした。
 ちょうど、甲府こうふ城下じょうかへはいってから、二日ふつか三日目みっかめひるである。宮内は、馬場はずれの飯屋めしやなわすだれを分けてはいった。
 すると、そこのうすぐらい土間どまのすみに、生意気なまいきなかっこうをした少年がひとり、樽床几たるしょうぎにこしかけ、頬杖ほおづえをつきながらはしを持っていた。
「おい、おやじ」
 と、その生意気なまいきが年上の亭主ていしゅにいう。
「なんだいこのさかなは? いくら山国の甲府こうふだって、もうちッと、気のいたものはないのかい」
「それはやまめといって、みなさまがおよろこびになるお魚でございますがね」
「みんな田舎者いなかものだからよ。おれなんか、京都であんまりぜいたくをしてきたせいか、こんなふるい物はえねえや、ベーッ、ベーッ、あー、まずい。なんかほかのべる物をだせやい」
「じゃ、こんにゃくとおいもはどうでございましょう」
いもなんて下等かとうなものはきらいだよ」
「へえ、蓮根れんこん焼豆腐やきどうふ、ほかには乾章魚ほしだこましたものぐらいで」
「ちっとも、おれの食慾しょくよくをそそらないぞ」
「さようですか」
「乾章魚をおだし、がまんしてべてやるから」
 と、はしで皿をつッころがした。
 おそろしくいばった生意気なまいき、まるで大名だいみょう息子むすこのようなことをいっている。やはり都会の少年の中には悪いくせがあるなと、菊村宮内きくむらくない、なんの気なしにひょいと見ると、都会の少年ではない裾野育すそのそだち――竹生島ちくぶしまではさんざんおかゆをうまがってべたかの蛾次郎がじろうだ。
「あれッ? ……」
 と、蛾次郎は目をまろくして、菊村宮内のかおを見た。そして、しゃぶッていた箸で打つようなまねをしながら、
「めずらしいなア、エ、どうしたえ、大将たいしょう!」
 宮内はあきれかえって、返辞へんじのしようもない顔つき。
 ながいあいだ薬餌やくじをとってもらった生命いのち恩人おんじん――それはわすれてもいいにしろ、いきなり大人おとなをつかまえて頭から、大将! とは。


「おや、おまえは……」
 宮内くないはさらに眼をまろくして、蛾次郎がじろうのまえにある一本の徳利とっくりと、かれのドス赤い顔とをじッと見くらべた。
さけを飲んでいるな」
 厳父げんぷのような言葉でいった。
「へへへへ」と蛾次郎は、さすがに、がわるそうにガリガリと頭をかいて、
「きょうはじめて、どんなあじのものだか、ためしてみたんです」
「うまいか?」
「さっぱりおいしくねえや、なんだって、大人おとなはこんなものを飲むんだろうな」
「酒は狂水きょうすいという、頭のよい人をさえあやまらせる。ましてや、おまえのような低能児ていのうじがしたしめば、もう一にんまえの人間にはなれない。わしの見ている前ですてておしまい」
「ヘイ……」
「また、おまえはいま、たいそうぜいたくをいっていたな、もったいないことをわすれてはいけない。この戦国、いまの修羅しゅらの世の中には、えてしょくをさけんでも、ひとにぎりのあわさえられぬ人がある」
「はい、わかりました。えらい人にっちゃった!」
「だが蛾次郎がじろう、おまえ、近ごろはなにをしているな」
「親方の卜斎ぼくさいについて、甲府城こうふじょうのお長屋ながやんでます」
「オオ、卜斎どのもこの土地へきているか」
小太郎山こたろうざんで、すてきな手柄てがらを立てたんで。はい、それから大久保家おおくぼけ知遇ちぐうました。元木もときがよければ末木うらきまで、おかげさまで蛾次郎も、近ごろ、ぼつぼつお小遣こづかいをいただきます」
「けっこう、けっこう」
 宮内くないはわがことのようによろこばしかった。
「なるべく身をつめてむだづかいをせず、おかねをだいじにもたなければいけない」
「お金をめてどうするんだろう」
「あわれなものにめぐんでやるのじゃ。それほどいい気持のすることはない」
「な、なーんだ、つまらねえ」
 と、乾章魚ほしだこをつまんで口の中へほうりこみ、めし茶碗ちゃわんろうとしていると、門口かどぐちなわすだれがバラッと動いた。
 ぬッとはいってきた魁偉かいいおとこ工匠袴こうしょうばかまをはいたはなかけ卜斎である。ギョロッとなかを見まわして、
亭主ていしゅ、うちの小僧こぞうはきておらなかったかい?」
 ときく。
 亭主ていしゅはうしろをふりむいた。見ると、蛾次郎がじろうは、茶碗ちゃわんしゃもじを持ったまま、だいの下へもぐりこんで、しきりにへんな目、しきりにかぶりをふっている。
「へえ、おりませんが」
「こまったやつだ……」
 と、卜斎ぼくさい舌打したうちをして、
「おれは見ないのでよく知らないが、城内じょうない仲間ちゅうげんなどのうわさによると、近ごろ、蛾次郎のやつめ、この馬場ばばの近所で水独楽みずごまというのをまわし、芸人げいにんのまねをして、ぜにをもらっては買いいをして歩きまわっているそうだが」
「ははあ……」
 と、亭主ははじめて知ったような顔をして、台の下にかがんでいる蛾次郎をちょッと見た。
 たのむ、たのむ、たのむよ後生ごしょうだ。
 蛾次郎は台の下で、めしつぶだらけな手をあわせておがんでいる。と――その時、おりよく宮内くないが横から立って、
「卜斎どの」
 と、声をかけてくれた。
「おお!」びっくりして――
菊村きくむらどのじゃないか、あまり姿すがたがかわっているので、少しも気がつかなかった。どうしてこの甲府こうふへ?」
「でかけましょう、ご一しょに」
「おお、今夜は、わしのたくへきておとまんなさい」
 地蔵行者じぞうぎょうじゃ卜斎ぼくさいは、かたをならべて、飯屋めしやのきをでていった。
 蛾次郎がじろうだいの下からはいだして、
「アア天佑てんゆう
 おちゃをかけて、じゃぶじゃぶと四、五はいのめしをかッこみ、ころあいをはかって、ソッと戸外おもてへ飛びだした。
 ひさしぶりで甲府こうふという都会のふんいきをかいだ蛾次郎には、さまざまなべ物の慾望よくぼう、みたいものや聞きたいものの誘惑ゆうわく、なにを見ても買いたい物、欲しいものだらけであった。だが、やかましやの親方おやかた卜斎ぼくさい、つねに小言こごと拳骨げんこつをくださることはやぶさかでないが、なかなか蛾次郎の慾をまんぞくさせる小遣こづかいなどをくれるはずがない。
 蛾次郎の不良性ふりょうせいは、そこから悪智あくちをふいて、ひとつの手段しゅだんを思いついた。かれは城下じょうか馬場ばばはずれに立って、さらまわしの大道芸人だいどうげいにん口上こうじょうをまね、れいの竹生島ちくぶしま菊村宮内きくむらくないからもらってきた水独楽みずごま曲廻きょくまわしをやりだした。ふしぎな独楽こま乱舞らんぶを、かれの技力ぎりょくかと目をみはる往来おうらいの人や行路こうろ閑人ひまじんが、そこでバラバラとぜに拍手はくしゅを投げる。――蛾次郎、それをかきあつめては、毎日、卜斎の家を留守るすにして、野天のてん芝居しばいをみたりいに日をらしている。
 きょうも、夕方ぢかくなるのを待って、やなぎのつじの鳥居とりいの下に立ち、竹生島神伝ちくぶしましんでん魔独楽まごま! 水をらす雨乞独楽あまごいごま! そうさけんで声をからし、半時はんときばかり人をあつめて、いざ小手こてしらべは虹渡にじわたりの独楽こま! 見物人けんぶつにんかさのご用心! そんな口上こうじょうをはりあげて蛾次郎がじろう、いよいよ独楽こままわしのげいにとりかかろうとしていた。
 と。
 その群集ぐんしゅうのなかに立って、かれの挙動きょどう凝視ぎょうししているふたりの浪人ろうにん――深編笠ふかあみがさまゆをかくした者の半身はんしんすがたがまじって見えた。
 なにか、ささやき、なにか、微笑びしょうし合っている。
 するとまた、そのうしろにかくれていた六ゆびが、前のさむらいのなかをかるくついて、ふりかえった顔となにかひそひそ話しているようす。
 にわかごしらえの水独楽みずごままわしの太夫たゆう、いでや、独楽をまわそうとしてはでな口上をいったはいいが、ひょいと人輪ひとわのなかの浪人と六のすがたを見て、
「あッ! ……」
 そういったきり足をすくませ、水独楽にあらぬ眼の玉を、グルリとさきにまわしてしまった。

諏訪神すわがみさまの禁厭灸まじないきゅう




 さて、いよいよ本芸ほんげいにとりかかったところで、どうしたのか蛾次郎太夫がじろうだゆう、ふとみょうなことが気にかかっていたせいか、いつもあざやかにやる水独楽みずごま虹渡にじわたりのきょくまわしを、その日は、三どもやりそこなって、首尾しゅびよくドッという嘲笑ちょうしょうを、大道だいどう見物人けんぶつにんからあびてしまった。
 通力つうりきのある神伝しんでん魔独楽まごま
「こんなはずはないぞ。こんなはずはないぞ」
 と、蛾次郎はドギマギしながら、いくども口上こうじょうをやりなおして、独楽こまを空に投げあげたが、水を降らせるどころか、まわりもしないで、石のようにきょくもなくボカーンと自分の頭の上へ落ちてくるばかりだ。
 だが、首尾しゅびよくゆかないでも、見物けんぶつのほうはワイワイいってうれしがった。
 木戸銭きどせんをだしていない大道芸だいどうげいのせいでもあろうが、とかく人間は、かれの成功せいこうよりもかれの失敗しっぱいをよろこぶ傾向けいこうをたぶんにもっている。そして、それが群衆ぐんしゅうとなると、いっそう露骨ろこつにぶえんりょに爆発ばくはつしてくるのだった。
「イヨーッ、またしくじった」
「やりなおしの名人」
小僧こぞう、いまにベソをかくぞ」
「どうしたい! 独楽こままわし」
「目がまわりそうだとさ。あんまりさわぐと泣きだすぜ」
大将たいしょう、しっかりたのむよ」
 とうぜん、ずべきはずの弥次やじが、四方からワイワイと蛾次郎がじろうをひとりぜめに飛ぶので、さすがに、はずかしいことを知らぬ蛾次郎も、すっかりまいってしまって、三たびめの口上こうじょうは、自分でもなにをいっているのかわからないように、カーッと頭にがあがってきた。
 しかし、こうなるとかれもまた、意地いじでも見物けんぶつをあッと驚嘆きょうたんさせてやらなければしゃくである。第一、この水独楽みずごまがまわらないというわけはない。
「そうだ、おれがあいつに気をとられて、びくびくしながら、まわしているから、ほんとの精気せいきが独楽に乗りうつらないのだ」
 蛾次郎にしてはいみじくも思いついたことである。いかにもそうにちがいなかった。かれはさいぜんから群集ぐんしゅうのうちにまじって、自分を見ているふたりの人物が気になってたまらないのである。
「よし、こんどは!」
 とはらからかまえどりをきめて蛾次郎太夫がじろうだゆう邪念じゃねんをはらって独楽こまを持ちなおし、恬然てんぜんとして四どめの口上こうじょうでのべたてた。
「エエ、エヘン」
 見物けんぶつはまたかと、クスクスわらった。
「さて、最初さいしょ独楽こましらべ、小手こてしらべとしまして、からまわし三たび首尾しゅびよく相すみましたから、いよいよこれからほんまわしの初芸はつげいに取りかかります」
「うまく口上こうじょうをいってやがる」
「また四どめも小手しらべはごめんだぜ」
「早くやれ、文句もんくをいわずに」
 第一印象いんしょうがわるかったので、太夫たゆうの人気はさんざんである。けれど蛾次郎は、ここでひとつ喝采かっさいをはくして見物けんぶつからぜにを投げてもらわなければ、ここまでの努力どりょくも水のあわだし、かえりに空腹すきばらをかかえてもどらなければならないと思うと、しぜんと勇気ゆうきづいて、四めん楚歌そか弥次やじごえも馬の耳に念仏ねんぶつ
「あいや、お立合たちあいのみなのしゅう!」
 と、いちだん声をはりあげて、
げい気合きあいもの、独楽は生き物。いくらまわし手が名人でも、そうお葬式そうしき饅頭まんじゅうからすがよってきたように、ガアガアさわがれていてはやりきれない。せんこくから見物けんぶつのなかで、おれのことを小僧こぞう小僧こぞうといっているようだが、大人おとなくせにガアガアいうほうが、よッぽどみッともないや。いまにおれの気合きあいが乗って、この水独楽みずごまがブンとうなって見ろ、あくたれをいったその口がまがって、面目めんぼく名古屋なごや乾大根ほしだいこん尻尾しっぽいてげだすだろう。オッといけない、首尾しゅびよく独楽こまがまわったからといって、げだしたりあっけにとられたきりで、ぜにを投げるのをわすれてはいけないぜ、感心したものはえんりょなく一もんでも二文でも投げるのさ。よろこびをうけてむくいることを知らざるは、人間にあらず馬なり、弥次馬やじうまなり。さあさあ弥次馬はあとへ引っこんで金持かねもちだけ前のほうへでてくださいよ。エエ、やりなおしの魔独楽まごま天津風あまつかぜ吹上ふきあげまわし、村雨下むらさめさがりとなって虹渡にじわたりの曲独楽きょくごま首尾しゅびよくまわりましたらご喝采かっさい!」
 とうとうとムダ口をしゃべって大人おとな見物けんぶつをけむにまいた蛾次郎がじろうは、そこでヤッと気合いをだして、右手の独楽こま虚空こくうへ高くなげた。
「ウウム、うまくいった」
 と、こんどは蛾次郎もわれながらニタッとした。
 風をきって一直線ちょくせんに手をはなれた独楽は、ゆくところまでゆくとビューッとうなりをあげて見物けんぶつの頭の上へ落下らっかしてきそうなようす。
「オオ?」
 と、思わず、だれの目もそれに気をとられて、ちゅうに眼をつりあげて見ると、夕陽ゆうひにきらきらしてほしがまわってくるかと思うばかりな一箇体こたい金輪かなわふちから、雨かきりか、独楽の旋舞せんぶとともにシューッと時ならぬ村雨むらさめのような水ばしりがして、そのこまかい水粒すいりゅう夕陽ゆうひ錯交さっこうは、口上こうじょうどおり七、八しゃくのみじかいにじをいくつも空へのこして、独楽こまはトーンと蛾次郎がじろうの足もとへ落ちてすんでいる。
 群集ぐんしゅう正直しょうじきにドッと賞讃しょうさんの手をはやした。そしてまわっているかいないかわからないほどんでいる地上の魔独楽まごまに目をすえてし合ったが、蛾次郎は得意とくいになって独楽の心棒しんぼう人差指ひとさしゆびの頭にすくいとり、ピョンとかたへ乗せたかと思うと、左の手から右の手へ衣紋えもんながしのかるいところをやって見せる。
 見物けんぶつはもう手をたたくのもわすれて、ふしぎな独楽の魅力みりょくにすいこまれていた。独楽は生きもののように蛾次郎の自由になって、指頭しとうあるき、つるぎばしり、胸坂鼻越むなさかはなごすじすべり、手玉てだまにあつかわれてまわっていたが、ふたたび、蛾次郎がヤッと空へ飛ばしたとき、――オオ、どうしたのかとちゅうまできりらしてきたその水独楽みずごま、かれの手へはかえらずに、忽然こつぜんと、どこかへ見えなくなってしまった。
「あれッ?」
 と、独楽につれていた見物の眼は、ふッと、ちゅうにまよってウロウロした。おどろいたのは蛾次郎太夫がじろうだゆうで手のうちのたまをとられたという文字どおりに狼狽ろうばいして、
「おや、コマは? コマは?」
 と見まわしたが、その時、フと、気がついて見ると、見物のなかから一本のあかつえがスッとびて、落ちてくる独楽をその尖端せんたんで受けとめたかと思うと、紅いぼうさかにしてたくみに独楽を手もとへすべらせ、ひょいとふところへしまいこんで、小憎こにくいほどな早芸はやげい、向こうへすまして歩きだしてゆくふたりの人聞があった。
「オッ?」
 と、群集ぐんしゅうはあッけにとられ、蛾次郎がじろうは目をまるくしてあんぐりと口をいている。
 横合よこあいから投げ独楽ごまをすくいったあかぼうと見えたのは、朱漆しゅうるしをといだ九しゃくやりであった。
 そして、独楽こまをふところに入れたのは、白衣びゃくえ戒刀かいとうびた道者笠どうじゃがさの六で、つれのさむらいにかりうけた朱柄あかえの槍をかえし、なにかクスクスわらいながら、あとのさわぎを知らぬ顔して、やなぎ馬場ばばからほりばたのほうへスタスタと足を早めてゆく。


「ははははは」
 人通りのない濠端ほりばたまでくると、朱柄の槍をつえについた、一方の侍が声をだしてわらいだした。
鏃鍛冶やじりかじ弟子小僧でしこぞう、さだめしびっくりしたことであろう」
 と、蛾次郎のあの瞬間しゅんかんの顔つきを思いだしては、またわらった。
 いかにも快活かいかつな笑いごえである。
 それは、伊那丸いなまる幕下ばっかで一番年のわかい巽小文治たつみこぶんじだった。つれの六部は、ニヤリとして口数くちかずをきかないが、たしかに木隠龍太郎こがくれりゅうたろうであるということは、ほの暗い濠ばたの夕闇ゆうやみにもわかる。
 小文治こぶんじはなにものかを待つように、ときどきうしろをふりかえって、
「だがどうしたのだろう、まだいかけてくるようすがないが」
 と、つぶやいた。
「いや、こっちの足が少し早かったから、どこかのつじで見うしなって狼狽ろうばいしているのであろう。いまにきッといかけてまいるにちがいない」
 と、龍太郎りゅうたろうほりぎわの捨石すていしを見つけて、ゆったりとそこへこしをおろした。
「けれど蛾次郎がじろうのやつも、われわれと知るとかえっておじけづいて、独楽こまよりはいのちが大事と、あのまま泣寝入なきねいりに帰ってしまいはいたすまいか」
「なに、あの小僧こぞうは、白痴はくちのように見えてざかしいところがあり、悧巧りこうに見えてのぬけているてんがある。まことに奇態きたいな性質、バカかかしこいのか、ぼんやり者かすばしッこいのか、つかみどころのないやつじゃ。われわれをおそれていることは事実だが、けっして、ほんとのてきと思われていないことはよくぞんじているから、いまにそらとぼけた顔をして、独楽こまを取りかえしにくるにそういあるまい」
「なるほど」
 と、小文治もやりにすがりながら、蛾次郎という小童しょうどうについてよく考えてみると、すえおそろしいといっていいか、末たのもしくないといおうか、まったく判断はんだんに苦しむような性格的畸形児せいかくてききけいじであると思った。
「で、かれはいま、卜斎ぼくさい召使めしつかわれて、この躑躅つつじさき長屋ながやにすんでいる。とすれば、いずれ内部ないぶのようすを多少ながら聞きかじっているにそういあるまいから、ここへきたところをつかまえて、いろいろそののことをさぐって見ようと思う。それにはまず、この独楽こまを取りあげておいて、いうかいわぬかの道具どうぐにする。あいついかに横着者おうちゃくものとはいえ、まだ子供は子供、きっと独楽をもどしてしさに、なにもかもしゃべりだすにちがいない――と考えたので、大人おとなげないが、横合よこあいからさらってきた」
「しかし、龍太郎りゅうたろう
「うむ?」
芸人げいにんならたねもあろうが、貴公きこう、どうしてあの独楽こまを、やり石突いしづきですくい取ったか、あんなはなれわざは本職ほんしょくの独楽まわしでもやれまいと思うが、ふしぎなかくしげいを持っておられるな」
「なあに、あれは人目ひとめをくらましたのだ」
「ほう……?」
幼少ようしょうのとき、鞍馬くらま僧正谷そうじょうがたに果心居士かしんこじから教えられた幻術げんじゅつ。おそらく、あのくらいのことなら、弟弟子おとうとでし竹童ちくどうにもできるであろう」
「はははは、そうだったか。ときに竹童といえば……」
「ウム、竹童……」
 と龍太郎も同じようにつぶやく。
 この名が一とうの者の口にでるときは、だれのむねにもすえの弟を思うような愛念あいねんが一するのもふしぎであった。
「どうしたろうなあ! 竹童ちくどうは」
 いまも惆然ちゅうぜんとして小文治こぶんじがいう。
おどしだにからさとへ逃げた少女の話によると、咲耶子さくやこはこの躑躅つつじさきとらわれていったとのことだが、竹童のゆくえについては、だれひとりとして知るものがない」
拙者せっしゃの考えでは、小太郎山こたろうざんかたきにうばわれたことを、じぶんひとりの責任せきにんのように感じて、それを深くじ、どこぞへ姿すがたをかくしたのであろうと思う」
「竹童とすればそう考えそうだな」
「ある時機じきがくるまで、かれは、われわれの前にすがたを見せないかも知れぬ」
「それではなおさら心配しんぱいになるが」
「どうもぜひのないことだ」
「しかしまたことによると、このたち擒人とりことなっている咲耶子を助けだそうという考えで、この甲府こうふ潜伏せんぷくしているようにも考える」
「ウム、それなら、どこかでわれわれと落ちあう時機もあるだろう」
「どうかそうありたいものだ、勝敗しょうはいはいくさのつね、小太郎山が敵方てきがたの手に落ちたのもぜひないことと伊那丸いなまるさまもあきらめておいであそばす。また事実じじつは、竹童と咲耶子のおさない者とかよわい少女に、とりでの留守るすをあずけたほうがムリだったのじゃ。めは竹童よりむしろ一とうの人々にある、どうかして、かれの無事ぶじを知りたいものだが……」
 と、話はいつか打ちしずんでくる。
 人の力でどうにもならないのは、皮肉ひにく運命うんめいで、その運命をえて案外あんがいにくるわすものは、これまた人力の自由にならぬ時間というものである。竹童ちくどう咲耶子さくやこをとりでにのこして、民部みんぶそのほかの人々が、三方みかたはらけつけなかったら、あの時の伊那丸いなまるの運命はどうなったかわからない。
 その危急ききゅうを切りぬけてきたかと思うと、一行伊那丸をいれて六人、富士ふじ裾野すそのまでかかってきた朝、かえるべき小太郎山こたろうざんのとりでに、あの夜明けの落城らくじょうのけむりをゆく手に見たのであった。
 たった、半日、もしくは半夜の時間のちがいで――。
 けつけて見たところでもうおそい。
 とりでの上にはがりふじはたさし物と、あおいしるし王座おうざをしめて戦勝せんしょうをほこっている。ふもとから野呂川のろがわ渓谷けいこくいったいは、大久保長安おおくぼながやす手勢てぜいがギッシリたてをうえていて、いかに無念むねんとおもっても、つかれきった六人の力で、それがどうなるはずもないのであった。
 しかし、伊那丸はわりあいに力をおとさなかった。自分の落胆らくたん失望しつぼうが、どれほど忠節ちゅうせつな人々のむね反映はんえいするかをよく知っている。
「よし、しばらく小太郎山は大久保家へあずけておこう。そして自分たちがつぎ乾坤けんこんてきにのぞむ支度したくのために、一両年りょうねん諸国しょこく流浪るろうしてみるのも、またよい軍学修業ぐんがくしゅぎょうではないか」
 こういって、小太郎山こたろうざんをすてたのである。いや、数年すうねんのあいだ、かりに敵手てきしゅへあずけてわかる心であった。
 たび途中とちゅうで、煙草畑たばこばたけに葉をつんでいる少女にった。少女はついこのあいだ、おどしだにからさとへ帰ってきた胡蝶陣こちょうじんのなかのひとり。
 その少女のはなしで、前後ぜんご事情じじょう、うらぎり者の毒水どくすい詭計きけい咲耶子さくやこのはたらいたことまたそのためにらわれとなったことなど、すべて明らかに知ることができた。
 ただ一つ、わからないのが竹童ちくどうのゆくえ。
 これには、伊那丸もいたく心をいためたが、いまは落人おちゅうどどうような境遇きょうぐう公然こうぜんふれをまわしてたずねることもならず、いつか、旅路たびじほたるぐさにつゆのしとどに深くなる秋を知りながら、まだもって、その消息しょうそくの一ぺんも知ることができない。
 こうして、伊那丸主従いなまるしゅじゅうは、信濃しなのの山をえて、善光寺平ぜんこうじだいらをめぐり、諏訪すわをこえて、また甲州路こうしゅうじへ足をみ入れた。
 しかし、甲府こうふへはいるにさきだって、民部みんぶ献策けんさくによって六人は三くみに分れることにした。なぜかといえば、小太郎山奪取こたろうざんだっしゅののち、徳川家とくがわけ大久保石見おおくぼいわみめいじて、いっそう伊那丸の追捕ついぶ厳命げんめいした。いたるところに、間者かんじゃ捕手とりてをふせているもようが見えたからである。
 伊那丸いなまる小幡民部こばたみんぶと。
 山県蔦之助やまがたつたのすけ加賀見忍剣かがみにんけんと。
 木隠龍太郎こがくれりゅうたろう巽小文治たつみこぶんじと。
 こう二人ずつ三くみにわかれて、甲府こうふ城下じょうかへまぎれこみ、大久保家おおくぼけ内状ないじょうをさぐったうえにて、間隙かんげきをはかってたちのうちにらわれている咲耶子さくやこをすくいだす目的もくてきをしめし合わせた。
 しかし、躑躅つつじさき平城ひらじろは、厳重げんじゅうをきわめているうえに、さすがはむかし信玄しんげんじしんが縄張なわばりをしたくるわだけあって、あさい外濠そとぼりえて、向こうの石垣いしがきにすがるたよりもなかった。
 で――一とう六人の人々、むなしく、咲耶子の身をあんじながら、手をこまぬいて弱っていると、ここに思いがけない好時機こうじきが、近い日のうちにせまっているのを知った。
 それは、なにかというと。
 甲斐かい東端とうたん北武蔵きたむさしとの山境やまざかいにある、御岳神社みたけじんじゃ紅葉こうよう季節きせつにあたって、万樹紅焔まんじゅこうえん広前ひろまえで、毎年おこなわれる兵学大講会へいがくだいこうえに、ことしは、大久保石見守長安おおくぼいわみのかみながやすが、家康いえやす名代みょうだいとしてでかけるといううわさである。
 で――小幡民部こばたみんぶは、
若君わかぎみ、このいっしてはなりません」
 と、伊那丸に一さくをさずけた。
 それからもなく、忍剣にんけん蔦之助つたのすけくみも、伊那丸いなまるも、甲府表こうふおもてからすがたをかくして、あいかわらず、躑躅つつじさきのようすをうかがっているものは、龍太郎りゅうたろう小文治こぶんじの一組になっていた。
 その龍太郎は、御岳みたけ神社の兵学大講会へいがくだいこうえ長安ながやすがでかける日をねらって、咲耶子さくやこすくいだすつもりであるが、なろうことなら一日も早くと気をあせって、きょうも城下じょうかをそれとなく歩いているうちに、思いがけない蛾次郎がじろうというものを見つけて、おとり独楽こまを取りあげてきた。
 いまに、それをりかえしにいかけてきたら、あの蛾次郎を独楽にまわして、ひとつ、さぐりをかけてみようと手ぐすね引いて待つのであったが、うわべは、心棒しんぼうがゆるんでいるように見えて、ときどき、大人おとなはなかす横着独楽おうちゃくごま、こっちのはらを読んでいるのか、なかなかやってきそうもない。


 水のきれいな甲斐かいの国、ことに秋の水は銘刀めいとう深味ふかみある色にさえたとえられている。
 ほのぐら宵闇よいやみのそこから、躑躅つつじさきほりの流れは、だんだん透明とうめいぎだされてきた。ひとみをこらしてのぞきこむと、にねむるうおのかげも、そこ砂地すなじへうつってみえるかと思う。
 その清冽せいれつは十五けんほどのはばがある。
 ほりの向こうはなまこかべ築地ついじはしのあるところに巨大きょだいな石門がみえ土手芝どてしばの上には巨松きょしょうがおどりわだかまっている。松をすかしてチラチラ見えるいくつものは、たち高楼こうろうであり武者長屋むしゃながやであり矢倉やぐら狭間はざまであり、長安歓楽ながやすかんらく奥殿おくでんのかがやきである。
 二年前には、そこに、武田たけだぞく伊那いな四郎勝頼かつよりをてらすしょくがあった。
 十幾年いくねんかまえには、そこに、機山大居士信玄きざんだいこじしんげん威風いふうにまたたいている短檠たんけいがおかれてあった。
 いまはどうだ?
 ながるる濠の水は春秋しゅんじゅうかわりなく、いまも、玲瓏れいろう秋のよいの半月にすんでいるが、人の手にともされると、つがれるあぶらは、おのずから転変てんぺんしている。
 ものおもわしき秋の夜。
 龍太郎りゅうたろうはなにげなくそこにひとみをあげて、さっとつゆをふらす濠ばたのやなぎすじをさむくさせたが、その時、ふとはじめて気がついた一の人かげが向こうにある。
 どこの百姓ひゃくしょう女房にょうぼうであろうか、櫛巻くしまきにしたほつれをなみだにぬらして、両袖りょうそでかおにあてたまま濠にむかってさめざめといているようす……
 月あかりをけているが、やつれた姿すがたがかげでもわかる。年は三十五、六、質朴しつぼくらしい木綿着物もめんぎもの、たくさんの子供をうんだ女と見えて、大きなちちが着物の前をふくらましている。そして、すそのほうには女でも山国のものは穿く、もんぺという盲目縞めくらじまの足ごしらえ、しりの切れた藁草履わらぞうりが、いっそうこの女の人の境遇きょうぐうを、いたいたしく感じさせていた。
「おや?」
 と、小文治こぶんじは、直覚的ちょっかくてきにはね返った。
 すべての空気が、この女が、いまにもほりへ身を投げそうなことを教えたからである。
 あんじょう――女は泣きぬれた眼で、躑躅つつじたちを、うらめしげににらんでいたかと思うと、また、かなしげな声で、濠のそこへ良人おっとの名と、むすめの名らしい声をびつづけた。
 そして――あッ――と思うまに、手を合わせて、月光の水へ身をおどらせようとした。
「――待てッ」龍太郎りゅうたろう飛鳥ひちょうのようにけて、女の体をうしろへきもどした。女は、なにか口走くちばしりながら、そのとたんに、ワッとやなぎの木の根もとへ泣きくずれてしまう。
「――見うけるところ、良人もあろうし、幾人いくにんかの子供もあろう人妻ひとづまではないか。なぜそんな短気たんきなことをいたす。くるしい事情じじょうがあろうにもしろ、浅慮千万せんりょせんばん……」
 と、たしなめるように強くしかった。
 返辞へんじはない。
 しゅく、しゅく、と泣く声ばかりが、ふたりの足もとにうったえていた。
 だが――やがてやっと事情を聞きとると、この女房にょうぼうの死ぬ気もちになったことを、ふたりはもっともだと思わずにいられなかった。
「ごしんせつに、ありがとうございます。わたしは、西山梨在にしやまなしざい戸狩村とかりむらにいた勘蔵かんぞうという水晶掘すいしょうほりの女房にょうぼうでおときというもんでござります。はあ、子供も五人もございましたが、そのうち三人はくなりました。ひとりの男の子はまだッけえうちに、伊勢いせまいりにいった途中とちゅうでかどわかされ、たったひとりのこっていたむすめは……その娘は……」
 と、女はほりゆびさして、またきじゃくった。
 ちょうど、この夏、伊部熊蔵いのべくまぞうがこの躑躅つつじさき鉱山掘夫やまほりせいぞろいして、小太郎山こたろうざんへでかけようとした同じ日のこと、信玄しんげん石碑せきひへ、香華こうげをあげておがんでいるところを見つけられたひとりの百姓ひゃくしょうが、このたちのうちへ、若侍わかざむらいたちの無情むじょうな手にひきずられてきた。それを助けてくれと、泣きながら城内じょうないへついてきたむすめも、その百姓も、ちょうど酒宴しゅえんをしていた長安ながやすのよいさけ興味きょうみになって無慈悲むじひ手討てうちにあって殺されたが、その死骸しがいを投げすてられたと聞くこのほりへ、いま身を投げようとした女は、そのときの百姓風な水晶掘すいしょうほり勘蔵の女房なのであった。
 たったひとりの娘と良人を、無慈悲むじひ領主りょうしゅに殺されたおときは、すこし気がヘンになって、戸狩村からどこともなくさまよいだしていたが、あぶないいのちをすくわれて、かのじょはまた、気もくるわしく泣くのであった。
「にくむべき長安!」
 小文治こぶんじは人ごとに思われなかった。
「泣くな泣くな」をなぜながらなぐさめて、
「泣いたところで、死んだ良人おっとむすめかえりはしない。それよりは、おまえが伊勢いせまいりの時に、道中どうちゅうでかどわかされたという、すえの男の子をたずねだして、その子をたよりにらすがよい」
「はい……だ、だが、旦那だんなさま、そんなことは、とてものぞまれねえことなんでございます」
「いや、世間せけんには十年ぶり、二十年ぶりなどで、母子おやこがめぐりったなどということもめずらしくはない。一心にさがせばきっとわかるだろう。それに、何かその子に目印めじるしでもあれば、なお手がかりとなって、人からもおしえてくれぬかぎりもない」
「ところが、百姓ひゃくしょうかなしさで、べつに、証拠しょうこしるしになるようなものもありませず、ただ、……そうでがす……思いだしてみると、その子は、ッけえときから癇持かんもちでがしたもンで、背骨せぼねの七ツ目のふしにはお諏訪すわさまの禁厭灸まじないきゅうがすえてごぜえます。はあ、そりゃけえ、一ツきゅう他国たこくにはねえ灸ですから、目印めじるしといえば、そんなもンぐらいでございます」
「そうか、諏訪神社すわじんじゃ禁厭灸まじないきゅうよくおぼえておいて、拙者せっしゃたちもたびあいだには心がけておくようにいたそう」
 龍太郎りゅうたろう温情おんじょうをこめて、不遇ふぐうな女をなぐさめてやると、小文治こぶんじもおととしの春、まだ自分が浜名湖はまなこ漁師小屋りょうしごやにいて、母の死骸しがいをほうむる費用ひようもなく、舟にそれを乗せて湖水こすい水葬すいそうしたことなどを思いうかべて、まだ子をたずねる母、たずねらるる子は、しあわせであるように考えられた。そして、かれもともどもそんな気持をかんでふくめるように話して、女の一途いちずな死を思いとまらせた。
 やつれた女房にょうぼうは、感謝かんしゃなみだにぬれながら、濠端ほりばたをすごすごとった。そして、ふたりの慰藉いしゃにはげまされて、これからは、まだ四ツのときに、伊勢いせもうでの道中どうちゅうではぐれたきりのすえの子をさがしだすのをたのしみにします――とちかうように首をさげていいのこした。
「さまざまだなあ、世の中は……」
 うしろすがたを見送みおくりながら、ふたりの勇士ゆうしは、うるんだ眼を見あわせた。
 すると、とつぜんうしろのほうから、わすれていた蛾次郎がじろうの声がして、そこへけてくるが早いか、
「やい、独楽こまどろぼう、独楽をかえせ」
 と、飛んでもない鼻息はないきで、うでまくりをしてつめよった。
 ああ、やっぱりこいつは低能ていのうだな。
 小文治こぶんじはそう思って苦笑くしょうした。
 盲目めくらへびじず――人もあろうに戒刀かいとう名人めいじん龍太郎りゅうたろうと、血色塗ちいろぬりのやりをとって向こうところてきなき小文治のまえに立って、泥棒どろぼうよばわり、うでまくりは、にくむべきうちもない滑稽こっけいごとである。
「蛾次かッ」
 と、待っていたように龍太郎がヌッと立つと、蛾次郎はごしを浮かしながら、
泥棒どろぼう、泥棒、こ、こ、独楽こまをかえせ。独楽をかえせ」
 と、どもりながら、手をだしたり、引っこめたりした。

馬糧小屋まぐさごや奇遇きぐう




「――おまえは蛾次郎、この独楽がほしいというのか」
 こう龍太郎がいってふところの独楽こまをだしてみせると、蛾次郎は飛びつきそうな眼色めいろをして、
しいやイ! かえせッ」
 と、打ってひびくように、泣き声でののしった。
「返してあげよう」
「か、か、返せッ!」
「そのかわりに、少しわしのたずねることに答えてもらいたい。そうしたら独楽もかえそう、おまえののぞむことにはなんなりとおうじてやろう。どうじゃ、蛾次郎」
「ふウん……」
 と、そこでかれの半信半疑はんしんはんぎが、やおら、うでぐみとなって、まじりまじりと落着おちつかない目で、小文治こぶんじと龍太郎の顔色を読みまわして、
「じゃア……」と相好そうごうをくずしかけたが、またにわかにするどくなって、首をふるように、
あかをいえ! だれが、くそ、そんなウマいにだまされやしねエぞ。いいや! かえさなけりゃ待っていろ、代官陣屋だいかんじんやへいって、てめえたちのことをみんないってやるから」
 蛾次郎がじろうにしてはくやしまぎれの不用意ふよういにでたことばであったかもしれないが、小文治はおどろいた。この甲府附近こうふふきんに、自分たちがりこんでいることを、まんいち、躑躅つつじさき支配しはいの代官陣屋にでも密告みっこくされては、それこそ、三方にわかれて行動している伊那丸いなまる党友とうゆうの一大事。
 はッと思うまに蛾次郎は、身をひるがえしてもとの道へはしりかけた。やっては! と小文治もいささかあわて気味ぎみに、地についていた朱柄あかえやり片手かたてのばしにかれの脾腹ひばらへ。
「わッ」と、蛾次郎の声であった。
 腰車こしぐるまをつかれて横ざまに、ドウと、もんどり打って倒れている。そして芋虫いもむしのようにころがったまま、ふたたび起きあがろうともしないようす。
 しかし、かれのにくにふれた朱柄の先は、のほうではなくて石突いしづきであったから、きのばした片手の力ぐらいで、そうもなく死んでしまうはずはないし、またよほど急所きゅうしょでもなければ、悶絶もんぜつするのも少しおかしい。
 見ると、なるほど。
 やすんぜよ、である。ひっくりかえった蛾次郎がじろうは、ぽかんと眼をあいて、自分にいって聞かせている。
大丈夫だいじょうぶだ、大丈夫だ。死にゃアしない、生きているぞおれは、たしかに生きている。その証拠しょうこにはほしが見える。月だってありありと見えるじゃないか。だが今は、死んだかと思った。あぶねえあぶねえ、うっかり起き上がろうものなら、こんどは光ったほうで、グサリとほんとにやられるかもしれない)
 こう考えて、死んだまねをしているらしい。いや、事実じじつこしちょうつがいがはずれて、にわかに、起きたくも起きられないでいるのかもしれない。
「手におえない小僧こぞうでございますな」
 と、ほりばたのほうで小文治こぶんじがささやいた声さえも、かれはハッキリと耳に入れた。その話に、自分に対してべつだん深い殺意さついがないのだとさとると、蛾次郎がじろうははじめて、ホッと多寡たかをくくって、
「ちぇッ、おどかすない」
 と、こしをさすって、そろそろ首をもたげだした。


 迷子札まいごふだのような門鑑もんかん番士ばんしにしめして、その夜、しもにあったキリギリスみたいに、ビッコをひいた蛾次郎がじろうが、よろよろと躑躅つつじさき郭内くるわないにあるお長屋ながやへ帰ってきたのは、もうだいぶな夜更よふけであった。
 城内じょうない長屋ながやというのは、たちにつめている常備じょうびさむらい雑人ぞうにんたちの住居すまいで、重臣じゅうしんでも、一ちょう戦乱せんらんでもあって籠城ろうじょうとなるような場合ばあいには、城下の屋敷やしきからみな妻子眷族さいしけんぞくを引きあげてここに住まわせ、一こくかくのうちに大家族となって、何年でもてき対峙たいじすることになる。
 小太郎山こたろうざんからずるずるべったりに、はなかけ卜斎ぼくさいはそのお長屋の一けんをちょうだいして、いまでは、大久保石見守おおくぼいわみのかみ身内みうちともつかず、躑躅ヶ崎の客分きゃくぶんともつかないかくで、のんきにらしているのである。
「もうたじぶんだろう」
 とは、その卜斎をおそれる蛾次郎が、ビッコをひきながら道々みちみち考えもし、かみねんじるほどそうあれかしとねがってきたところで、お長屋のを見るとともに、また、
「起きていた日にはたいへんだぞ」
 と、意気地いくじなく足がすくんでしまう。
 で、いきなり門へははいらないで、そッとうらへまわってみたり、羽目板はめいたに耳をつけてみたり、まど節穴ふしあなからのぞいたりしてみると、天なるかなめいなるかな、ているどころか、ふだんより大きな声をだして、あのガンガンした声がうちにひびいている。
「こいつはたまらないぞ」
 蛾次郎がじろうはどうしようかと思った。
 おくにはきゃくがきているのだ。昼間ひるま飯屋めしやでぶつかった地蔵行者じぞうぎょうじゃ菊村宮内きくむらくないを引っぱってきて、ひさしぶりにけるのをわすれて話しているあんばい。
 とすると、宮内の口から、おれがあそこでおさけというものを飲んでみたこともしゃべったにちがいない。親方おやかたが、やってきた時、だいの下にもぐりこんでいたことも、おもしろそうに話したろうな。おまけにおやじは、近ごろ、おれが水独楽みずごまをまわして小遣こづかい取りをしていることを、うすうす感づいているんだから、こんな夜更よふけに帰ろうものなら、それこそ、飛んでにいる夏の虫だ。親方のげんこつがおれの頭に富士山脈ふじさんみゃくをこしらえるか、ゆみの折れで百たたきの目にわされるか、どっちにしても椿事出来ちんじしゅったい、アア桑原くわばら桑原、桑原桑原。
 こっそり、こっそり、蛾次郎はうらくらやみにえてしまった。
 どこへいったのかと思うと馬糧小屋まぐさごやだ。馬糧をぬすみにはいる泥棒どろぼうはないから、そこだけは錠前じょうまえもなく、ギイとくとなんなくかれをむかえいれてくれた。そしてまたソーッとめておく。
 もとよりなかはまッくらだが、愉快ゆかいなことには、抱擁性ほうようせいのあるやわらかい麦藁むぎわらが、山のごとくんである。どうだい! すばらしい寝床ねどこじゃないか! と、蛾次郎がじろうはうれしくなってしまった。
 火がなくッたってあたたかい、人間の親方おやかたはあんなにつめたくッてとげとげしているのに、どうしてれた麦藁むぎわらがこんなに暖かいものだろう。へんだなア、だが、なにしろありがたい、ここはおいらの安全地帯あんぜんちたい、いいお住居すまいを見つけたものだ。
 蛾次郎はかってなことを考えながら、いきなり麦藁の山へふんぞりかえった。やわらかいぞやわらかいぞ、お大名だいみょう寝床ねどこだって、こんなに上等じょうとうじゃああるまいなあ、などとまきをとかれた山羊やぎみたいに、ワザとごろごろころがってみた。
独楽こまもある」
 ふところからだして、ッぺたにおしつけた。
 木隠龍太郎こがくれりゅうたろうからヤッとかえしてもらった独楽である。いつか蛾次郎にもこの独楽が、いのちから二番目の大事なものになっている。かれがこの水独楽みずごまを愛すること、竹童ちくどうがかの火独楽ひごまをつねに大事にするのと愛念あいねんにおいて少しもかわりはないのであった。
「独楽よ、独楽よ」
 独楽の心棒しんぼうは蛾次郎がほおずりするあぶらをうけて、くらやみのなかでもまわりそうになった。なんだかこの独楽にはれいがあっていきてるもののように思われる。いったい、独楽というものは、手でまわるのかしら? こころが打ちこまれてまわるのかしら?
 疑問ぎもんはでたが、そうヒョッと、考えただけで、これは蛾次郎の智能ちのうではけそうにもない。
 いちじ、濠端ほりばたでひっくりかえったかれが、この独楽こまをかえしてもらって無事ぶじ長屋ながやへもどってきたところを見ると、あれから龍太郎りゅうたろう詰問きつもんにあって、小太郎山こたろうざんいらいのこと、躑躅つつじさき内情ないじょうなど、すっかり話してしまったことは、もううたがうまでもない。
 もっとも、蛾次郎がじろうの身にとってみれば、甲府こうふじょう安危あんきよりは、この独楽一が大事かも知れない。だれか、かれを悪童あくどうとよぶものぞ。独楽をッぺたにしつけたまま、馬糧まぐさのなかにやがてグウグウ寝入ねいりこんでしまったかれこそは、まことに、たわいのないものではないか。
 だが、眼がさめると、こいつがいけない。
 すぐにユダを発揮はっきし、天邪鬼あまのじゃくをまねる。
 蛾次郎よ、永遠えいえんていろ、馬糧のなかで。


 四こう
 月も三こうまでをかぎりとする。四更といってはもう夜半やはんをすぎてあかつきにちかいころ。
 ぐさ小屋ごやの中の高いびきは、さだめし心地ここちよい熟睡うまいにおちているだろう。お長屋ながやもみんなえて、卜斎ぼくさいの家のなかも、あるじのこえなく、きゃくわらいもたえて、シンとしてしまった。
 月のゆくえはわからないが、空いちめんはいつまでも、月の水いろに明るくえている。かぬかりがしずかにわたる、啼く雁よりも啼かぬ雁のなんと秋らしいものかげだろう。
 と――躑躅つつじさきたち高楼こうろうにあたって、万籟ばんらいもねむり、死したようなこの時刻に、嚠喨りゅうりょうとふくふえがある。
 高音たかねではないが、このすんだ四こう無音界むおんかいには、それが、いつまでもえないほどゆるく流れまわって、すべてのもののねむりをいっそう深くさせるようであった。
 さらにまた、そのをもとめるような一てん孤影こえいが大空をめぐっていた。
 雁か! 迷子まいごのはなれがりか!
 いや、雁にしては大きすぎる。あのつばさを見るがいい、とおいが、おそろしい力で風をんでいる。
 クロだ! わしだ!
 おお、されば小太郎山こたろうざんのとりでから、この躑躅ヶ崎の高楼にとらわれてきている咲耶子さくやこが、悶々もんもんとして眠られぬ幽窓ゆうそうに、あのかげをふと見つけて、狛笛こまぶえ歌口うたぐちに、クロよ、クロよ、とであったろうか。
 それとも、彼女が気をまぎらわすために吹いた笛が、ぐうぜん、しばらく行方ゆくえの知れなかったクロのしたうところとなって、おぼえのある音色ねいろに、向こうからよってこようとしているのであろうか、いずれにしても、この、あのかげ、おそらく天地に知る者のないことだろう。
 と、思ったところが……である。
 ちょうどその時刻、それまでは前後不覚ぜんごふかくであった馬糧小屋まぐさごや蛾次郎がじろうがおの上へ、草鞋わらじうらからはがれたような一かたまりの土が、しかもいている口のあたりへ、グシャリと、落ちたものである。
 いくら寝坊ねぼうのおん大将たいしょうにせよ、それで眼がさめないはずはなく、
「ゲッ、ペッ……」
 と、ぼけながら、ジャリジャリする口をこすったが、ふいと天井てんじょうをながめると、いっぱいなほしが見えたので、あッとおどろいて、さらにまた少し目をさました。
 馬糧小屋にだって屋根やねはある。そんなにほしが見えるというほうはない。事実じじつ、よくよく目をあらためてみるとそれは星にて星の光ではなく、屋根うらの隙間すきま節穴ふしあなが、あかるい空の光線こうせんをすかして、星のように見えたのであった。
 だが? ……蛾次郎はジッといきを殺しはじめた。
 星どころじゃない、節穴ふしあなどころの沙汰さたじゃアない。へんなやつがいる! へんな人間が屋根うらのはりに、取ッついている!
 やみれた蛾次郎のひとみには、ようようそこの屋根うらが、怪獣かいじゅうのような黒木くろきはりけまわされてあるのがっすらわかった。あやしげな一人間にんげんは、蛾次郎がここへはいったとき、上へ身をけていたものであろう。いまになって知れば、馬糧小屋の天井のはりにつかまって、ジッと、身動みうごきもしないでいる。
 その足もとから落ちた土。……どうりで、ここへころんだ時、イヤに、麦藁むぎわら寝床ねどこがあたたかでありぎた。
「だが、だれだろう?」
 すこし気味きみがわるくなった。
 城内じょうないの者ならば、なにも、このんであんなところにひそんでいる必要ひつようはあるまい。第一、なんだかそのかげ大人おとななみの人間にしてはすこし小さい。
「ははあ」
 思いあたったものがある。
 奥庭おくにわ殿とのさまがっているさる――あの三太郎猿さんたろうざるじゃないか、とすれば、いててやろうか、あいつはおもしろい。
 と、蛾次郎がじろうがムックリと起きると、猿とみた梁の影ははなはだ猿らしくなく、きッとかまえをとって、上から蛾次郎のようすを見つめる。
 しかも、こしのあたり、屋根のやぶれをもれる光線こうせんに、チカッと光るのはかたなこじりではないか。
 とたんに、
「おお!」
 と蛾次郎は藁をらして飛びあがった。
「やッ」
 と、天井てんじょうの小さい人かげもりすのごとくべつなはりへ飛びうつった。
 出会であったり! 火独楽ひごま水独楽みずごま双方そうほうぬし、上にひそんでいたものこそ、どうして、いつどこからこの躑躅つつじさきくるわへしのびこんでいたのか、まぎれもあらぬ鞍馬くらま竹童ちくどう
 その時、わしをよぶ高楼こうろうふえはまだ、しのびやかに遠音とおねであった。

勘助流かんすけりゅう火合図ひあいず




 奇遇きぐうといおうか、皮肉ひにくなぐうぜんといおうか、じつに人間の意表外いひょうがいにでることは、わずか十つぼか二十坪の天地にも、つねに待ちぶせているものだ。
 近江おうみ竹生島ちくぶしま可愛御堂かわいみどうでつかみあいの喧嘩けんかをやってから、菊村宮内きくむらくない仲裁ちゅうさいをされ、その小太郎山落城こたろうざんらくじょうのまぎわにわかれたまま、おたがいにその生死消息しょうそくをうたがいあっていた蛾次郎がじろうと竹童。
 ところもあろうに、こんな馬糧まぐさだらけな馬糧小屋ごやのなかで、いきなりぶつかりあおうとは、両童子りょうどうじ、どっちもゆめにも思わなかッたことにちがいない。
「おおッ!」
「やッ!」
 とふたりのおどろき。
 ピュッと水火両性すいかりょうせいがはじきあってとんだように、はねわかれた暗中あんちゅう二つのかげ。
 双方そうほうしばしは天井てんじょう馬糧まぐさのなかとで、いきをこらし、らんらんたる眼光がんこうめあっていたが、やがてこれこそ、はりの上から鞍馬くらま竹童ちくどう、じッとかれなることを見さだめて、
「ウーム、おのれは、蛾次がじだなッ」
 と、うめくがごとくさけんだ。
「そうよ!」
 蛾次郎がじろうもすばやく水独楽みずごまをふところのおくにねじこみ、かわりにあけびまき錆刀さびがたなをもってかまえをとり、つかに手をかけて屋根裏やねうら虚空こくうをにらみつけた。
「――りてこいッ!」
 と声いッぱい。
 あいかわらず鼻息はないきだけはすばらしい。
「オオ、ゆくぞ」
「ウム、こい、こんちくしょう」
 とどなりかえしたが、ガサガサ……とこしの下の馬糧のワラがくずれるとともによろついて、もう蛾次郎の臆病風おくびょうかぜ、あたまの上へいつ落ちてくるかわからないてきのかわしかたをかんがえていた。
 だが、これを勝負しょうぶ前兆ぜんちょうとはみられない。
 蛾次郎がじろう争闘力そうとうりょくは、いつも、このうでよりは口である。度胸どきょうよりはしたである。三じゃくつるぎよりは三ずん毒舌どくぜつ、よく身をふせぎてき翻弄ほんろうし、ときにはたたかわずしてつことがある。
「さあ、おりてこい、ねずみめ!」
 そろそろそのしたさやをはらって、蛾次郎、口ぎたなくののしった。
「うまくわなにかかりやがッたな。どうまよったのかしらないが、自分から罠のふくろへはいりこんでくるうすノロがあるか。かわいそうに、はいったはいいが、躑躅つつじさきのご門内もんない、西へも東へもぬけだす工夫くふうがつかないで、メソメソべそをかいていやがったんだろう、ざまを見やがれ! いまにおれの親方おやかた大久保おおくぼさまのさむらいたちをんできてやるから、しばらくそこで宙乗ちゅうのりをして待っていろ」
「待てッ、蛾次公がじこう!」
「大きなことをいうない」
「うごくとゆるさぬぞ」
「なにを」
「この小屋こやをでてはいけない」
伊那丸いなまる間者かんじゃがまよいこみましたと、おくのご殿てんにどなってやるのだ。待っていろ、そこで!」
「おお、知らせるものなら知らせてみろ、この火独楽ひごまがスッ飛んで、その頭のはちみじんにくだいてやるから」
「けッ……な、生意気なまいきな……」
 とはいったが蛾次郎がじろう、上を見るとこわかった。思わずブルブルッと足がすくんだ。
 まだ竹童ちくどうのこんな必死ひっしな顔をかれは見たことがない。はりのうえにをかがめ、片手かたて横木よこぎにささえ、右手めて火独楽ひごまをふりかぶって、うごかば、いまにも発矢はっしと投げつけそうな眼光がんこう


 いかにも蛾次郎がどうぶるいをおぼえたはずである。気はおもてにあらわる。今宵こよいこそはと最後の死をけっして、石門せきもん九ヵしょのかためをえ、易水えきすいをわたる荊軻けいかよりはなお悲壮ひそう覚悟かくごをもって、この躑躅つつじさきたちにしのびこんだ竹童であった。
「うごいてみろ」
 と、かれは火独楽ひごまをつかんで、蛾次郎の頭蓋骨ずがいこつへたたきつけるつもり。
 それでいけなければ般若丸はんにゃまる晃刀こうとうはりの上からきざまに、一とうもとにとびり。
 なおちそんじたら取ッんで、きゃつの喉首のどくびめあげても、この馬糧小屋まぐさごやのそとへかれをだしては、きょうまでの臥薪嘗胆がしんしょうたんは水のあわではないか――と思いこんでいる鞍馬くらまの竹童。
 自分は決死、かれを見るや必殺ひっさつ
 この躑躅つつじさき高楼こうろうにとらわれている咲耶子さくやこをすくいださなければ、男として、鞍馬の竹童として、なんで生きてふたたび伊那丸いなまるや一とうの人々とこの顔があわされようか。
 そう考えてしのびこんだ胸中きょうちゅうだいねん、おのずからりんのごとく眼脈がんみゃくえあがっているので、暗々あんあんたる屋根やねうらのはりに、そのものすごい形相ぎょうそうをあおいだ蛾次郎がじろうが、口ほどもなく一るなりブルブルと、ひざ蝶番ちょうつがいをはずしかけたのはもっともだった。
 神伝しんでん火独楽ひごまがいかにおそるべき魔力まりょくをもっているかということは、だれよりも同じ水独楽みずごま持主もちぬし蛾次郎はよく知っているので、あいつを、頭のはちへたたきつけられてたまるものじゃない――と思わずひるんだ。
 ことに、じぶんは下、きゃつは上、足場あしばにおいて勝目かちめがない。
 黙然もくねんとして刻一刻こくいっこく
 がまがなめくじに魔術まじゅつをほどこしたごとく、じゅうぶんかれの気をのんでしまった竹童は、やがて、一しゃく二尺と梁の上をはいわたって、蛾次郎がじろうのすぐ脳天のうてんのところへ片足かたあしをブランとらした。
「あッ!」
 と、こしを立てたとたん、蛾次郎はその足にかたをけられた。どすん! とわらの山に腰をついたが、無意識むいしきに、ウヌ、とばかり竹童の足にしがみついてりまわしたので、かれのからだも梁のうえから落とされて、藁のなかにころげちる。
 んだ!
 まるで二ひきのりすのように、そこで取ッ組んだ蛾次郎がじろう竹童ちくどう
 つウ! えいッ! くそウ! と下になりゴミをかぶってもみあったが、弾力性だんりょくせいのあるむぎワラの上なので、どっちもじゅうぶんに力がはいらず、目へチリをいれたり、ほこりをいこんで、むせたりしているうちに、両童子りょうどうじ同体どうたいにゴロゴロゴロと馬糧まぐさのワラ山からワラをくずして九しゃくほど下へころがる。
 富士ふじ須走すばしりとワラ山の雪崩なだれに、怪我人けがにんのあったためしはない。むろん、ころげちた神童しんどう畸童きどう、どっちも、そこでは健在けんざいだったが、落ちゆくまに、竹童ちくどうはかれの耳タブをギュッとつかみ、蛾次郎はあいての口中こうちゅう拇指おやゆび、もう一本、はなのあなへ人差指ひとさしゆびッこんでいた。
「アいたッ」
 とさけんだのはその拇指おやゆびを、竹童ちくどうにかまれたのであろう。むねをついて手をはなし、あけびまき錆刀さびがたなをザラリときかける。
 抜くより投げられているほうが早かった。
 みごと、ドスン! と。
隠密おんみつだ隠密だーッ。伊那丸いなまるの隠密がりこんできた。だれかきてくれッ――」
 とそこで、蛾次郎が大声おおごえばわったので、竹童はぎょッとして、かれの悲鳴ひめいをふせぐべく、思わず、おどしにつかんでいた火独楽ひごまを、
「こッ、こいつめ!」
 と、かれの横顔よこがおめがけてたたきつけた。
 ひゅうッと火の閃条せんじょう
 魔力まりょくはそれをはなった持主もちぬし怒気どきをうけて、ブウーンと独楽こま心棒しんぼう生命力せいめいりょくをよみがえらし、蛾次郎がじろうの顔へうなりをあげておどってきた。
「ひゃアッ!」
 といたのは錆刀さびがたな、身をかわして火の閃条を切りはらったが、なんの手ごたえもなく、ジャリン! とふたたび鳴っておどる火焔かえん車輪独楽しゃりんごま
 まるで竹童の手から狐火きつねびがふりだされるようだったが、いつもの頓智とんちず、蛾次郎がふところにある水性すいせいのふせぎ独楽ごまに気がつかず、ただ、神魔しんま火焔かえんに錆刀をっていたずらにつかれたのはのきわみだ。
「ええ! オオッ」
 とばたきする間もなく、みついてくる独楽の閃影せんえいに、蛾次郎はヘトヘトになってげまわる。――そのするどい金輪かなわの火が一つコツンと頭にふれたらさいご、にくほねも持ってゆかれるのはうけあいである。
 でも、まだ、じぶんのふせぎ独楽には気がつかずに、ただ、
「こいつはたまらない」
 と無我夢中むがむちゅう
 いきなりあたりにある馬糧まぐさをかぶった。
 土龍もぐらのように首をっこみ、んであるワラ山へ無我夢中むがむちゅうでもぐりこむ。
 とたんに――ゴツンとなにかしりに当ったような気がしたが、いたくなかったのは首尾しゅびよくワラで防いだものだろう――とは蛾次郎がじろうが夢中の感覚かんかく、ワラ山に大地震おおじしんを起して、むこうがわ戸口とぐちけだそうとしたが、すわ、大へん。
「――南無なむ三!」竹童も色をうしなった。
 ワラが赤くなった! ワラが赤くなった! みあげてある馬糧まぐさのいちめんから、雨上あめあがりの火山かざんか、芋屋いもやかまのように、むっくり……と白いけむりがゆらぎはじめた。
 火独楽ひごまほのおえついたのだ。
 うつったものは乾燥かんそうされたワラであるし、屋根やねうらの高い小屋の木組きぐみは、一しゅんにして燃えあがるべくおあつらえにできている。
 ド、ド、ド、ドッと蛾次郎の悲鳴ひめいが小屋の内部ないぶをたたきまわった。出口をさがしているのである。しかし火を見たとたんに、逆上ぎゃくじょうしている頭では、七けん四方ばかりな羽目板はめいたに、一つの出口がなかなか見つからない。
 そッちじゃない! こッちじゃない! と頭をぶつけまわっては、ワラ山にはいあがり、けむりにむせてはころげ落ちる。
 かくてさわげばさわぐほど、火はらかって一たんから、パッと、一だんの焔がたつ。
「しまッた――」
 と竹童ちくどうも、いまは蛾次郎がじろうを相手にしているどころではなく、ほのおにカッとうつって見えた出口のところへけよって、五体の力をかたのさきに、グンとそこへつけていった。
 はガッシリとして口をかない。
 さてはよこにひく車戸くるまどかと、諸手もろてをかけてこころみたが、ぎしッといっただけで一すんひらかばこそ。
「オオ、これは?」
 すそえつきそうな紅蓮ぐれんをうしろにして、しつ引きつ、満身まんしんの力をしぼったが、はいぜんとして鉄壁てっぺきのようだ。
 そればかりか、その時ふと耳についたのは、パチパチとはぜる内部の火の音ではなく、まさしく数十人の人足にんそくとおぼえられる物おとが、小屋の外部をあらしのごとくめぐっている。
 ああ、いけない。
 甲館こうかん躑躅つつじさき詰侍つめざむらいが、すでに、ここの物音を聞きしって、そとをかためてしまったにそういない。
 そして、ふしぎな火のはぜる音に、その原因げんいんをうたぐって、けあがるのを待っているのだろう。
 やかたがわになってみれば、何千がんといっても多寡たか馬糧まぐさで、いてもしいものではあるまいが、でるにでられない蛾次郎と竹童こそ災難さいなんである。
 どこへでも、一ヵ所、風穴かざあなができて見ろ、こんがりとした二つの骸骨しゃりこうべが、番士ばんしの六しゃくぼうき分けてさがしだされるのはまたたくだ。


 その高楼こうろう源氏閣げんじかくという。
 三そうづくりのいただき、四ほう屋根やね、千ぼんびさし垂木たるき勾欄こうらん外型そとがたち、または内部八じょう書院しょいん天井てんじょうまどなどのありさま、すべて、藤原式ふじわらしきの源氏づくりにできているばかりでなく、金泥きんでいのふすまに信玄しんげん今川家いまがわけからまねきよせた、土佐名匠とさめいしょうの源氏五十四じょう絵巻えまきりまぜがあるので、今にいたっても、大久保長安おおくぼながやす家中かちゅうみな源氏閣とよんでいる。
 やはり、甲館こうかんほりのうちで、躑躅つつじさき殿でんのうちの桜雲台おううんだいじょうじき広間ひろまの東につづいてってある。
 さっき――といっても、わずかなまえ。
 蛾次郎がじろう竹童ちくどうのいるのを知らず、ワラ小屋で幸福こうふくないびきをかいていたころに、その源氏閣の上で、しのびやかに佳人かじんふえがしていた。
「おお、あすこがほりのさかい……」
 咲耶子さくやこらんによってのびあがった。ひるならばいうまでもなく、甲州盆地こうしゅうぼんちはそこから一ぼうのうちに見わたされて、おびのごとき笛吹川ふえふきがわ、とおい信濃境しなのざかいの山、すぐ目の下には城下じょうかの町や辻々つじつじの人どおりまでが、まめつぶのごとく見えるであろう。
 が――いまは夜あけに近いやみ
 んでいるとはいえ、月もどこかに、星明ほしあかりでは、ただ模糊もことしたものよりほかに下界げかい識別しきべつがつかない。
 しかし、彼女かのじょはそのうッすらとした夜霧よぎりそこから、やっと、この城郭じょうかくさかいをなす、外濠そとぼりの水をほのかに見出みいだしたのである。そして、しばらくはそこへ、ジッと目をつけて、手の横笛よこぶえをやすめている。
「まだ見えない」さびしくつぶやいて、なにかふかく思案しあんしていた。
「――高音たかねをだしてけば、夜詰よづめさむらいが眼をさますであろうし、いまのぐらいでは、あのほりの向こうへまではとどかぬであろうし……」
 そういったが、彼女のまつ心に、それからまもなくポチと一つのあかりがうつった。
 北の石門せきもんにあたる外濠である。
 きりににじんでその灯影ほかげほたるのように明滅めいめつしていたかと思うと、そのが横に一の字をく。
「オオ」
 と、彼女は、微笑びしょうをもって、それへはるかな注意ちゅういをおくっている。――すると、その灯はえて、つぎにはやや青味あおみをもった灯が、ななめに、雨のようなすじを三たびかいた。
 つづいて――青赤あおあかてんの灯が、たがいちがいに手ばやくやみに文字をえがくがごとくうごいたが、それは軍学ぐんがくに心あるものでも、めったに意味いみくものは少ない、勘助流かんすけりゅう火合図ひあいず信号しんごうにそういない。
「……や、いまから夜明けのに……オオ、四十八人が……」
 やみにかく暗号あんごうを、咲耶子さくやこは熱心な目で読んでいたが、とつぜん、風にでもされたように、あお、赤い灯、ふたつとも、いちじにパッとえてしまった。
 と――同時に、彼女の耳ちかく、一じんの強風が虚空こくうから横なぐりにいてくるのを感じた。そして、躑躅つつじさきちならぶ殿楼長屋でんろうながやのいらかのなみへ、バラバラバラバラまッくろな落葉おちばのかげがひょうのようにってくる!
 彼女は知らなかった。
 自分が最前さいぜんほりのあなたへ、しのびやかに吹いていたふえが空をゆるく、たえに流れているあいだ、えるように、しずかにこの源氏閣げんじかくの上をっていた怪鳥けちょうのことを。
「あッ――」と、はじめて知る。
 颯然さつぜんと目のまえへりてきたのは、大鷲おおわしのクロである。
 黒いちぎれ雲のように、彼女のまえをかすめて奥庭おくにわへ降りたかと思うと――地にはとまらないで、また、いあがってきた。
 しかし、それは彼女の目には見えないで、ただ、つばさの音にそう感じたのであるが、やがて、もっとはっきりした音が、バサッと、屋根瓦やねがわらを打つように聞えて、あとはシンとしずかになった。

こんがら・せいたか




 まるでゆめのようだ。一しゅん疾風はやて
 たしかに、竹童ちくどう愛鷲あいしゅうクロのようだったが――見ちがいであったかしら? まぼろしであったかしら? ――と咲耶子さくやこはあとのしずかななかで錯覚さっかくにとらわれた。
 しかし、錯覚ではない。いまの名残なごりきあおられた落葉おちばが、まだ一ひら二ひらちゅうっているのでもわかる。わしがこの源氏閣げんじかく附近ふきんにおりたのは事実じじつにちがいない。
 とすれば、どこへいったのかしら――と彼女かのじょらん南側みなみがわから奥庭おくにわひさしをのぞいていると、とつぜん、
 キャッ! キッキッキ、キ、キ、キイ……
 とけたたましい声をあげて、廂うらの垂木たるきをガリガリとはしってきた小猿こざるが、咲耶子のかたにとびついて手をやるとまた足もとへとび、おそろしくなにかに恐怖きょうふしたらしく、彼女のまわりをグルグルまわりだした。
 大久保長安おおくぼながやすが下のおくにわっておく三太郎猿さんたろうざる
 ときどき、源氏閣にはいあがってきて、幽閉ゆうへいされている咲耶子とは、いつのまにかなかよしになっていたが、今夜も、そのなかよしの人のいる三そうのうえの棟木むなぎへでもきて、腕枕うでまくらていたものとみえる。
 その三太郎がおどろいてとびりてきたところをみると、やはり、わしはこのかく屋根やねつばさめているのであろう――と咲耶子さくやこらんに手をやって、屋根をふりあおぐと、
「もし、女のおかた
 意外いがいや、うえから人のこえがぶ。
 はッ……と咲耶子はきもをちぢめたふうである。さっきの火合図ひあいずで、明け方までにむねに一つの計画けいかくがあるので、不意ふいな人ごえに、思わず水をかけられたようになった。
「もし……」と、上ではふたたび呼んでいる。
「こんなところにりて、まことにどうにもならないでこまりました。しつれいながら、そこへ降りることをおゆるしくださらぬか」
 見ると、屋根から下をのぞいているのは、色のしろい美少年。
 きん元結もとゆい前髪まえがみにチラチラしている、浅黄繻子あさぎじゅすえりに、葡萄色ぶどういろ小袖こそで夜目よめにもきらやかなかみしもすがた――そして朱房しゅぶさのついた丸紐まるひもを、むねのところでちょうにむすんでいるのは、なかへななめに持っている状筥じょうばこであるとみえる。
 咲耶子はふしぎなものが、天から降りてきたようにかんじたが、とにかく、自分に異議いぎをいう権利けんりはないので、かれのたのみをゆるすと、この美少年、三太郎猿さんたろうざるほどのあざやかさではないが、垂木たるきにすがって欄の上へ、白足袋しろたび爪先つまさきをたて、ヒラリと、源氏閣げんじかく座敷ざしきのなかへはいってきた。
「――ありがとうございました。して、これから大久保おおくぼさまのご本殿ほんでんか、おおもてへまいるには、どこにり口がありましょうか……」
階段かいだんをおたずねになりますので? ……」
「さようです」
「この源氏閣げんじかくには、りる階段かいだんはございませぬ」
「えッ……」美少年はびっくりして、
「では、どうしてあなたはここへあがられましたか」
 これは、いかにももっともな質問しつもんだった。
 そのとうぜんないをうけて、咲耶子さくやこ返辞へんじきゅうした。自分はらわれの身なので、このかくのいただきにあげられ、階段かいだんをはずされてしまっているのだが、何者なにものとも知れないこの少年に、うかつにそんなことを口すべらせていいか、悪いか。


「いえ、この源氏閣にも、ひるになればまた、降りる口がないことはございませんが……」
 咲耶子の返辞はずいぶんあいまいであった。
「ほウ……夜は下へつうじませんか」
「はい」
 と、それでキッパリはなしをきって、
「したが、あなたはいったい、何者なにものでございますか、また、どうして屋根やねの上などから? ……」
「ああ、そうでした。いかにも、それをさきに申しあげなければ、さだめしご不審ふしんでございましょう」
 と、中腰ちゅうごしでいた身がまえをなおして、咲耶子さくやこの前にしずかにすわった。
 小屏風こびょうぶのかげに、銀のらしをつけた切燈台きりとうだいが、まめほどな灯明ほあかりを立てていた。それで見ると少年は、まだほんの十三、四さい、それでいて礼儀れいぎことばはまことに正しく、かみしもにみじかいかたなを二本しているすがたは、ゆめの国からきた使者ししゃのようである。
 両手りょうてをついて、
「申しおくれました。わたくしは遠江とおとうみ浜松はままつにご在城ざいじょうの、徳川家康とくがわいえやすさまのおんうちでお小姓こしょうとんぼぐみのひとり、万千代まんちよづきの星川余一ほしかわよいちというものでござります」
「えッ、家康さまの家来けらい?」
「はい」
 やはり敵方てきがた片割かたわれであった。うかつなことをさきに口へもらさなくてよかったと、咲耶子は心のうちで思うのだった。
「余一とやら、それはうそでありましょう。お小姓とんぼ組のひとりとはいつわりにちがいありませぬ」
「なぜでございますか。わたくしは、万千代まんちよさまのくみ小姓こしょうにちがいないのですのに」
 小さな余一よいち躍起やっきとなって、年上の咲耶子さくやこがたくみにかけたことばのあやにのせられていった。
「では、そのお小姓組こしょうぐみのおまえが、どうしてこんな屋根上やねうえから、おやかたのなかへはいろうとしますか」
「じつはわたくしは、わしなかにってきたのでございます……」
「オオ、ではいま、空からっさかさまにりてきたあの怪鳥けちょうにのって……?」
「はい、浜松城はままつじょうをでてまいりましたのはよいでしたが、とちゅう空でおそろしいきりにまかれ、やッといまごろここにきましたが、ここへくると、またどこかで狛笛こまぶえがしていたせいか、ご門のほうへはりてゆかず、とうとうこの源氏閣げんじかくの屋根の上へ、つばさをやすめてしまいました」
「そして、その鷲はどうしましたか」
閣上かくじょう擬宝珠柱ぎぼうしゅばしらいつけておきました」
「あの鷲は、いぜん、わたしもよそで見たことがありますが、どうしておまえのものになっているのか、わたしは、ふしぎでならない気がする」
「さればです――」
 と余一ははかま両膝りょうひざに手をあらため、小ざかしげな眼をパチッとさせて、
「あの金瞳きんどう黒鷲くろわしともうしますものは、今年の春のくれつかた三方みかたはら万千代まんちよさまが、にせものの独楽こままわしにとられたものでござります。で、浜松のおしろでも、万千代さまのおのぞみぞと、その諸処しょしょほうぼうへ足軽あしがるをかけらせ、鷲のゆくえをさがさせておりましたが、トンとすがたが見つかりません。しかるところ、さきごろ裾野すその猟人かりゅうどが、この黒鷲が落ちたところをりましたとおとどけにおよんだので、見ると、どこでやられたのか、ももと左のつばさのわきに、二ヵしょ鉄砲傷てっぽうきずをうけております。ヤレふびん、オオ、かわいそうなやつと、万千代さまはもうすもおろか、とんぼぐみ一同が、浜松城はままつじょうのおにわって、医療手当いりょうてあてをしながら大事がりましたので、鷲もいつかみんなになれ、いまでは、わたしのようなチビでさえ、自由に使いこなせるようになりました」
 と、ここで余一よいちはことばをきって、オオ、じぶんはなにをきかれて、なにを答えようとしていたのかと、かわいい首をすこしげた。
「ああ、それから、今夜のわけでございます……。ふいに今夕こんゆう浜松城の大広間おおひろまでなにやらみなさまのこ評定ひょうじょう、――と見えますると、余一余一! こう万千代さまのおびです。はッと、おんまえにかしこまりますと、すなわち、このご状筥じょうばこ――」
 かたにまわしてむねにむすんだ、あか丸紐まるひもふさをいじりながら、
「――この御書ごしょをとりいそいで、甲州こうしゅう躑躅つつじさき大久保石見守おおくぼいわみのかみの手もとへまでとどけよ、とのおおせにござります。これは名誉めいよなお使番つかいばん、クロを飼いならしていらい、わしにのってお使つかいをするものは、とんぼぐみほまれとしてありますので、わたしはほんとにうれしゅうございました」
「おお、それでよくわかりました。ではおまえは、お使番つかいばんになってこのたちへ、家康いえやすさまの手紙を持ってきたのですね」
「すこしも早く石見守いわみのかみさまのお手へ、おわたししなければ役目がすみません。宿直とのいかたをおびするには、どこから声をかけたものでございましょうか」
 と小姓こしょう星川余一ほしかわよいちはまたひざを立てて、あたりを見まわすようすであったが、そんなものを呼ばれてはたいへん、これから夜明けまでのあいだに、彼女がなそうとする計画けいかくはやぶれてしまう。
 といって、ここへめおいてもこまるし、どうしたものか、と咲耶子さくやこがふとかんがえまどっていると、――キイッ、キイッ、キイ、と、また三太郎猿さんたろうざる勾欄こうらんの上をいったりきたりしながら、異常いじょうなあわてかたをしてさけびだした。
「あ、あれッ……」
 三太郎のヘンなきごえに余一も咲耶子も、その時はじめて、夜気やきのふかいたちのあなた、外郭そとぐるわのあたりにあたって、しずかな変化へんかおこっているのに気がついた。
 それはちょうど、たち北側きたがわにつづく馬廻うままわり役の長屋ながやの近くである。そこにっている屋根やねの高い馬糧小屋まぐさごやかられたせいろうのように白いけむりがスーとめぐっている。
 はて、おかしい?
 不審ふしんな目をみはると、余一はたちまち、
「な、なんだろう! あれは?」
 お使者ししゃ格式かくしきをわすれて、お小姓こしょうとんぼマルだしの、子供らしい口ぶりになっていた。
火事かじじゃないかしら」
「おう……ほんとに」
「火事だ、火事だ、みんな知らないのかなあ、ほら、ほら、ほら! 白いけむりがだんだんひどくいてくる」
 と、三太郎猿さんたろうざるといっしょになって心配しんぱいしだした。


 一ぽう、馬糧小屋まぐさごやのなかでは、竹童ちくどう蛾次郎がじろう
 パチ、パチ、パチ、パチ……
 火はわらのべてゆくようにうつる。むーッとこもる熱気ねっき刻一刻こくいっこくにたかまる。そして、むせるそばから煙ははなにしみてふせぎようもない。
 カアーッと、あかいガラスで見るように、小屋いちめんが、まッに見えたかと思うと、火龍かりゅう気味きみわるくしたをひそめて、暗澹あんたんとまッ黒なうずをまいて、二つのおどるかげも、煙のなかに見えなくなる。
 たおれたかな?
 と思っていると、また、パッと立つほのおあかりに、両童りょうどうのすがたが黒くきだす。
 けんめいにやぶろうとして竹童ちくどうは、そこをうごかず、蛾次郎がじろうは、むちゅうになって、ほかの出口をさがしているのだ。け死ぬか、のがれだせるか、人間最高の努力どりょくをふりしぼる瞬間しゅんかんには、かれもこれも、おそろしい無言むごんであった。
 するとその時、竹童は自分のうしろで、とつぜん、ヒーッという絶叫ぜっきょういた。
 見ると、もうがあがってしまった蛾次郎が、
「あッ……あ……あ、つつ、つッ……」
 着物きものにもえついた火をハタきながら、まるで気狂きちがいのようになって、もうぐちのけんとうもつかず、盲目的もうもくてきにやわらかいワラ火の山へ向かってけだそうとする。
「おいッ」われをわすれてとは、この時の竹童のこと。
「ばッ、ばかッ。そッちは火だ!」
 と、蛾次郎のえりがみをつかんで引きとめた。いや、投げとめた。
 そして、かれを地べたにころがして、そですそにもえついている火をしてやると、蛾次郎はけむりにむせながらはねおきて、こんどは竹童と一しょになって、戸をやぶるべく必死ひっしに力をあわせはじめた。
 しかし、いぜんとして出口は開かれない。
 ふたりのいのちも早やあきらめなければなるまい。きあがった業火ごうかはふたりの無益むえき努力どりょくをあざわらうもののごとく、ずッしりと黒くげたワラ山から小屋の羽目板はめいたをなめずりまわしている。
 心頭しんとうめっすれば火もすずし――と快川和尚かいせんおしょう恵林寺えりんじ楼門ろうもんでさけんだ。まけおしみではない、英僧えいそうにあらぬ蛾次郎がじろうでも、いまは、火のあついのを意識いしきしなくなった。
 いやふたりはまだ、より以上いじょうふしぎなものをわすれていた。蛾次郎は竹童ちくどうを、竹童は蛾次郎を、あくまでてき、あくまでかたき! と思い合っているはずなのに、その憎念ぞうねん瞬間しゅんかんスッカリ忘れてしまって、っておけば、ひとりで火の中に飛びこんで死ぬのをきとめたり、おたがいにかみの毛やそでうつる火をしあったり、そうしては、力をあわせて、けんめいにやぶりにかかっているのだ。
 ああ、竹童と蛾次郎とが、一つの目的もくてきへむかって、こんなになかよくをあわせて必死ひっしになっているということが、きょうのいままでに、一どでもあったろうか。
 なにしろ、ふたりはむちゅうだ、一ねんだ、死にものぐるいだった。
 一方がたおれれば戸をやぶる力が半分になる。
 火にけるな!
 この運命うんめいきやぶれ!
 死んでくれるな! 死んでくれるな!
 あえて意識いしきしない共和きょうわと、たがいの援護えんごがそこに生まれた。すそをあおるほのお熱風ねっぷうよりは、もっと、もっと、つよい愛を渾力こんりきで投げあった。
 ガラン!
 なわけきれたか、すぐそばへ、火のをちらして落ちてきた一本の松丸太まつまるた
「オオ、蛾次がじ、これを持て」
「よしきたッ」
 知恩院ちおんいん大梵鐘だいぼんしょうでもくように、気をそろえて、それへ手をかけあった両童子りょうどうじいきと力をあわすやいな、
「ええッ!」
「おウッ――」
 ドウン! と戸口へッかけた。
いたア!」
 まさにこれあかつきの声だ。
 生命せいめい絶叫ぜっきょうだ。
 ガラガラガラッととつぜん、風と紅蓮ぐれん争闘そうとうがはじまった下をくぐって、蛾次郎がじろう竹童ちくどう、ほとんど同時に、打ちこわしたところから小屋の外へ、頭の毛の火のをはらっておどりだした。
 必然ひつぜん
 その間髪かんはつには、ふたりの頭脳あたまに、助かッたぞッ――という歓呼かんこがあがったであろうが、結果は同じことだった。ただ業火ごうか地獄じごくから八かん地獄じごく位置いちえたにすぎなかった。
 なぜ?
 と――いうも迂遠うえんな話で、すでに最前さいぜんから小屋の外には、おびただしい人の足音が、なにかヒソヒソささやきながらあらし先駆せんくのごとく、ひそかにめぐりめぐっていた。
 待ちかまえてやあがったのだろう――。
 不動明王ふどうみょうおう炎陣えんじんからとばされたこんがらせいたか両童子りょうどうじでもあるように、火だらけになってころげだしたふたりをそこに見るやいな、
「それッ、その者を」
「やるな!」
 とばかりいっせいに氷雨ひさめ人影ひとかげ
 二どめの仰天ぎょうてん。あッと、起きあがろうとしたのもおそい!
 すでにしもえられた龍牙りゅうが短刀たんとう、もしくはながき秋水しゅうすい晃々こうこうたる剣陣けんじんを作って、すばやくふたりのげ道をかこんでしまった。

三太郎猿さんたろうざる早飛脚はやびきゃく




「ありがたい。味方みかたがそとに待っていた。やかたのつよい武士ぶしたちがけつけていた」
 と、よろこんだのは、せつな、蛾次郎がじろうの生きかえった気持。
 それとは反対はんたいに、
「しまった、もうてきの手がまわったか」
 と絶望的ぜつぼうてきおどろきにうたれたのは、とっさ、竹童ちくどうの感じたところで、いわゆる、一なんってまた一難、もうとてものがれるすべはないものと覚悟かくごをきめた。
 ところが、果然かぜんその直覚ちょっかくはあべこべで、手に手に細身ほそみの刀、小太刀こだちを持ち、外に待ちかまえていた者たちは、やかた武士ぶしとも思われない黒の覆面ふくめん、黒のいでたち。
 人数はおよそ三、四十人、しかもみな、やなぎせいか、うめ化身けしんか、声すずしく手は白く、覆面すがたに似合にあわないやさしいすがたの者ばかりで、こうおつへいてい、どのかげもすべて一たい分身ぶんしんかと思われるほどみなおなじかたちだ。
「それ、蛾次郎をれ!」
 なかのひとりがこうさけぶと、閃々せんせんたる小太刀のじんしも歯車はぐるまのように、かれのまわりをグルリとめぐって、有無うむをいわさず、蛾次郎を高手小手たかてこてにしばりあげる。
「や、えあがった――」
「おくれては一大事」
おくへ、奥へ」
 すでに馬糧小屋まぐさごやの火は屋根やねから空へもえけて、あかあかとした反映はんえい躑躅つつじさきたい建物たてものらした。
蛾次郎がじろうはどうしましょうか」
ててゆけ、この場合ばあいじゃ」
「捨ててゆくのもせっかく、おお、むこうのうまやはしらへ、しばりつけて――」
「なにしろ、すこしも早く奥庭おくにわへ」
源氏閣げんじかくへ、源氏閣へ!」
 散りぢりにびあい、叫びあいながら、柳姿りゅうし覆面ふくめん三、四十人、すすきとそよぐやいばをさげて、長屋門ながやもん番士ばんしり、いっきに奥へはしりった。
「やッ、って」
 と竹童ちくどう不審ふしんのあまりその人々のあとをって、
「あなたがたは?」
 と、いきをせいてきく。
 走りながら、覆面のひとりが、
「竹童さま、おわすれか」
 つぎにまた一つの顔がふりかえって、
「――お忘れか、お忘れか、にじ松原まつばらのおわかれを」
 さらに、足もやすめずまただれかが、
「わたくしたちはおどしだににいた乙女おとめのむれ!」
 と明らかにのった。
 そういわれれば覆面ふくめんながら、一つひとつにおぼえのある顔。
「いつか、にじ松原まつばらで、竹童ちくどうさまとおわかれしてのち、さとにかえってりぢりになっていましたが、かねてのやくそく、わたくしたちの心のちかい、こよい外濠そとぼりにあつまりました」
「深い話はしていられませぬ、一こくも早くあのおかたを」
咲耶子さくやこさまをおすくい申しに」
「竹童さまもまいられませ」
「力をそえてくださいませ」
仔細しさいはあと――」
「かなたをさきに」
 れをくずして走ってゆきながら、こんな端的たんてきなことばを口々に投げた。
 さては、小太郎山こたろうざんから手当てあてされて、甲府こうふ城下じょうかにはいるまえ、にじ松原まつばられいもいわずきずてにして自分はけだしてしまった、あの、優雅ゆうがにして機敏きびんな少女の工匠たくみたちであったか。
 と知って。
 竹童はその意外いがいさをよろこびもし、おどろきもしたが、なにを話すまもない馳けながらのこと。
「おっしゃるまでもないことです。もともと、咲耶子さまがらわれたのは、わたしにもつみのあること、それゆえ自分もこのたちしのんでいましたが、ここでったのは神さまのお助け、およばずながら竹童も力をえます」
 これだけいって、こし般若丸はんにゃまるをひきいたが、その刀身とうしんは、いきなりまっにひかって見えた。うしろのほのおはもう高い火柱ひばしらとなっていた。


 奥庭おくにわまでは白壁門しらかべもん多門たもん、二ヵしょ難関なんかんがまだあって、そこへかかった時分には、いかに熟睡じゅくすいしていたさむらい小者こものたちも眼をさまし、警鼓けいこ警板けいばんをたたき立て、十手じって刺股さすまたやり陣太刀じんだち半弓はんきゅう袖搦そでがらみ、はちワリ、鉄棒てつぼう、六しゃくぼう、ありとあらゆる得物えものをとって、一時に、ワーッと侵入者しんにゅうしゃのゆく手をいとめにかかった。
 血戦けっせんは開かれた。
 もとより、人数のすくない少女たちのほうでは、初めからひそかに咲耶子さくやこすくいだす策略さくりゃくで来たのであるが、とちゅう、馬糧小屋まぐさごやにふしぎなけむりがもれていたため、その疑惑ぎわくにひまどって、ついに、こういう破目はめになったのは、まことにぜひないことであった。
 およばぬまでも、このうえはてきをむかえて、おどしだにりきたえた、胡蝶こちょうじんみほぐしつ、糸をめるほそい指に小太刀こだちをにぎり、死ぬまで、戦うよりほかに道がない。
 さいわいに風がない。
 小屋をぬいたほのおはしらはボウーッとまっすぐに立って、りつ斬られつ、みだれあう黒い人かげの点在てんざいを見せる巨大きょだい篝火かがりびのごとくえている。そして、ほかの建物たてものへもさいわいと火がはってゆくようすも見えない。
曲者くせものだぞ、曲者だぞ」
「火事だ、出火しゅっかだ」
出合であえ! 出合え!」
 詰侍つめざむらい部屋へや長屋ながやにいる常備じょうび武士ぶしを、番士ばんしは声をからして起しまわる。たちまち、ものとってけあつまるてきはかずをすばかり。
 殷々いんいんたる警鼓けいこおと、ごウーッとふといほのおいき、人のさけび、つるぎのおめき、たちの東西南北九ヵ所の門は、もうひとりも生きてはかえすまいぞと、戦時にひとしい非常のかためがヒシヒシと手くばりされた。
 すると。
 その一方の土手どてむこう、そとぼりをへだてた城外じょうがいやなぎのかげに、耳に手をかざして、館のなかの騒音そうおんをジッといている者がある。
 な夜なこの外城そとじろすきをうかがっていた木隠龍太郎こがくれりゅうたろう巽小文治たつみこぶんじのふたりだ。
「はて、ふしぎだのう……」
「内部の者があやまって、火災かさいを起してうろたえているのだろう」
「いや、それだけのさわぎではないようだ」
「じゃア、何者なにものか、われわれの仲間なかまのものが、咲耶子さくやこをすくい、また、小太郎山こたろうざん雪辱せつじょくをしに、りこんでいったのだろうか」
「なにか殺気さっきだっているが、伊那丸いなまるさまといいほかの者といい、ここへくれば、なんとかわれわれに手はずをなさるであろうから、どうもそうは考えられんな」
「では、なんだろう」
石見守長安いわみのかみながやす家中かちゅうで、うらぎり者が起ったか、でなければ、仲間同士どうし争闘そうとうか」
「そうとすればおもしろいが――オヤ……」
 と小文治こぶんじは足もとをすかすように、ほの明るくえている外濠そとぼり水面すいめんをながめだす。
「――みょうものいている」
「なんだ?」
手組てぐみいかだらしい――ヤ、そして、あのやなぎの木のからむこうのどてへ、一本のつながわたしてあるぞ」
「ウーム、するとやッぱり、これは内部の仲間割なかまわれではないな」
「この筏は天佑てんゆうかも知れんぞ」
「ウム」
わたりにふねというものだ、なにはともあれ、こいつに乗って城内じょうないりこんで見ようではないか」
「おお、よかろう!」
 決然けつぜんというと龍太郎りゅうたろうは、やなぎの根へかけって、わたづなにそえてあるともづなをこころみにグイと引ッぱってみた。
 あんのごとく、ほりのなかほどにいていた手組てぐみいかだは、かるく、こっちのきしへよってきた。手組の筏というのは、およそ、ゆく手に水路すいろのあるのをさっした場合ばあい、おのおの、九しゃく桐丸太きりまるたを一本ずつたずさえていって、そくざに菱形筏ひしがたいかだをあんでは渡ってゆくことで、これは、越後流えちごりゅう甲州流こうしゅうりゅう長沼流ながぬまりゅうわず、すべての陣法じんぽうにあるめずらしくもないことなのである。
 ヒラリ――と龍太郎それへ乗る。
白鷺しらさぎのようだな……」
 小文治こぶんじはかれの姿すがた形容けいようしながら、あとから飛びのって渡し綱をたよりに、グングン濠の水をあなたの芝土手しばどてへと横切ってゆく。
 もなく渡っておどりあがった。
 なるほど、これでは三、四十人の覆面ふくめん少女が、やすやすと躑躅つつじさきりこんだわけだが、まだ龍太郎には、この手組の菱筏ひしいかだが、だれに使用されたものか想像そうぞうはつかなかった。


 ガバとはね起きた石見守いわみのかみ大久保長安おおくぼながやすは、悪夢あくむにおびやかされたように、枕刀まくらがたなを引ッつかむなり、桜雲台本殿おううんだいほんでん自身じしん寝所しんじょから廊下ろうかへとびだした。
桐井吾助きりいごすけ! 桐井吾助!」
 足をふみ鳴らして宿直部屋とのいべやびたてる。
狩谷かりやはおらんかッ、狩谷軍太夫かりやぐんだゆうはおらぬか」
 それにも返辞へんじはなく、殿中でんちゅう、ただなんとなくものさわがしいので、いまはジッとしていることもできないで、錠口じょうぐちまで足を早めながら、
「だれぞおらぬかッ。おお、伊部熊蔵いのべくまぞうはいかがいたした」
 と呼び立ててくると、出合であがしら
 まがり廊下の横合いから、サッと見えた真槍しんそう燐光りんこう、ビクリッとして飛びのくと、
「や、これは殿との
「なんじゃ、伊東十兵衛いとうじゅうべえではないか」
「はッ……」
 ぴしゃりッ――とやりを廊下へひらにおいて、老臣ろうしんの伊東十兵衛、あわててかれの前にひざをついた。
「ものものしいにわの手のそうどう、ありゃなにごとじゃ、夜討ようちか?」
「いや、おあんじなされますな、それほどな人数とも思われませぬ」
領主りょうしゅ城郭じょうかくしかける盗賊とうぞくもあるまい。では、何者なにもの乱入らんにゅうしたのじゃ」
「よくは目的もくてきがわかりませぬが、ことによると、源氏閣げんじかく監禁かんきんしておく女を、すくいだしにきたいのち知らずであるやも知れませぬ」
咲耶子さくやこをうばい返しに? ウム、しゃらくさいやつめら! 浜松城はままつじょう護送ごそうするまでは大事な擒人とりこ、かならずぬかりがあってはならぬぞ」
「はッ」
伊部熊蔵いのべくまぞう宿直とのいの者はどうした」
「ご寝所しんじょに近づけては申しわけがないと、みな、この外側そとがわをかためております。なかにも伊部熊蔵は、うでのすぐれた若侍わかざむらいり、いちはやく白壁門しらかべもんへまいってりふせいでおりますから、ッつけ四十や五十人の浮浪人ふろうにんども、みなごろしにしてもどるでございましょう」
「そうか、しかしかんじんな、源氏閣げんじかくほうは?」
「それはすぐこのご本殿ほんでん階上うえ、三そうまでの階段かいだんをみな取りはずしてございますうえに、あのいけのほうにも、さむらいせておきましたゆえ、これまた、ご安心でござります」
 周到しゅうとう老臣ろうしんが、臨機神速りんきしんそくな手くばりに、石見守いわみのかみざめの驚愕きょうがくもややしずまって、ほッと、そこでむねをなでおろしたかと思うと、何者なにものであろうか、大廂おおびさしのそとがわからクルリと身軽みがるにかげをかすめて、廊下ろうか欄間らんまへしのびこんだあやしき諜者ちょうじゃが、いきなり、奇声きせいをあげて長安ながやすかたへとびついた。
 折もおりなので、石見守――。
 はッ……ときもやして曲者くせものの手をつかみ、まえへもんどり打たせて投げつけようとすると、伊東十兵衛いとうじゅうべえもスワとはねあがって、つかみ取ったやりに風をすわせ、石見守いわみのかみが投げつけたら、そこを立たせずに一突ひとつきと足をひらいた。が、曲者くせものは、長安ながやすかたをはなれない。
 かぎのような手のつめで、しっかりえりもとへつかまっているので、十兵衛は槍をつきだしようがなく、あッと見ると、長安自身も、つかんだ曲者くせものの手の毛むくじゃらにあきれかえる。
「あぶないッ、くな」
「なんのこと――三太郎猿さんたろうざるでございましたか」
「人をおどろかすやつじゃ、はなせ、いたずら者め」
「や、殿との。三太郎の襟首えりくびに、なにやら書状しょじょうが」
「なに、手紙が」
「は、りっぱな打紐うちひものお状筥じょうばこで」
「だれがさるめにこんなものをゆわいつけたのか? やア、こりゃいよいよもって不審ふしんばん浜松城はままつじょう使番つかいばん常用じょうようはこ、しかも紅房べにふさ掛紐かけひもであるところを見ると、ご主君しゅくん家康いえやすさまのお直書じきしょでなければならぬが」
「とにかく、ご開封かいふうを」
「ウム、さるめをいてこい」
 乱入者らんにゅうしゃのそうどうのほうも気にかかるが、これまた意外いがいあまくだりの状筥じょうばこ、とにかく一けんしようと、長安ながやすはあたふたと居間いまへはいり、ともしびをかき立ててなかをひらく。
 三太郎猿さんたろうざるはおうちゃくに、十兵衛じゅうべえひざ拝借はいしゃくしてもたれかかりながら、茶色ちゃいろの目をショボショボさせてながめている。
「十兵衛、どこかに、今宵こよい使番つかいばんの方が見えておるのか」
「いや、さようなことは、おもて役人からもうけたまわりませぬが」
「へんなこともあるものじゃ――まさしゅうこれは家康公いえやすこうのお手紙で、おまけに今夕こんゆうのお日附ひづけとなっている」
「いかに早足はやあしなお使番つかいばんでも、夕方からただいままでに、ここへ着くともうすのはふしぎなしだい。そして、御書ごしょ内容ないようは?」
「わしに、御岳みたけ軍学大講会ぐんがくだいこうえ総奉行そうぶぎょうを申しつくるというご沙汰さた。それと、ご評議ひょうぎ結果けっか日取ひどりその事項じこう決定けっていあいなったお知らせである」
「ほウ……してお日取りは、いつごろに」
「十月七日から九日までの三日のあいだ」
「昨年よりは五日おくれでござりますな」
「そうなるかな。当年、軍学兵法の講論こうろん大試合だいしあい参加さんかする諸家しょけは、まずご当家とうけ筆頭ひっとうに、小田原おだわら北条ほうじょう加賀かが前田まえだ出陣中しゅつじんちゅう豊臣家とよとみけ奥州おうしゅう伊達だて、そのほか三、四ヵ国のご予定よていとある。――だが、どうしてこのご状筥じょうばこが、さるめの首にゆわいつけてあったのか。その、なんともに落ちないことである……」
「もし……そのご状筥じょうばこひものはしに、まだなにやら、紙片かみきれむすびつけてあるようにござりますが」
「ウム、これか」
 と長安ながやすは、そういわれてなにげなくいてみると、懐紙かいしをさいて蝶結ちょうむすびにでもしたような紙片しへん
 うっかりけると、やぶれそうにまだれている墨色すみいろで、それは少年のふでらしく、まことに稚拙ちせつな走りがき。読みくだしてみると、その文言もんごんは――。

小姓こしょうとんぼぐみ星川余一ほしかわよいち三太郎猿さんたろうざるにたくしてご依願いがんもうしあげそろ。
上様かみさまのお使いとして、ただいまこの源氏閣げんじかくの上に着城ちゃくじょういたしそろところ、あやしき女人にょにん居合いあわせ、あなたの火を見て、乗りまいりたるクロというわしをうばい、屋上おくじょうよりらんぶりにてそろ。
大急ぎにてこのふみしたため、私もすぐあとより、屋根やねにのぼりめるかくごながらまん不覚ふかくをしては一大事にそろゆえ、若侍衆わかざむらいしゅう、一こくもはやくお出合であいありたくもうしそろ。火急かきゅう火急。

ほし使者ししゃ




 はるばる、遠江とおとうみの国からわしにのってきたお小姓こしょうとんぼぐみのお使番つかいばん――星川余一ほしかわよいちが、源氏閣げんじかくのうえに着城早々ちゃくじょうそうそう、なにかよほどな危険きけん追迫ついはくされたらしく、機智きちの一さく三太郎猿さんたろうざるを利用して、石見守長安いわみのかみながやすのもとへ、火急かきゅう火急と、走りがきにすくいをもとめてきたちょうむすびの早文はやぶみ
 読みおわるなり石見守は、いま、着座ちゃくざしたばかりのこしをうかしかけて、
十兵衛じゅうべえ!」
 そばにひかえている禿頭とくとうんで、
「だれもみな、おもてのそうどうに走りだして、侍部屋さむらいべやには人のおらぬようすだが、それではならぬ、源氏閣の上にも思わぬ変事へんじじゃ、すぐ十名なり二十名なりをびかえして、閣上かくじょうのようすを見につかわせ」
 老臣ろうしんの伊東十兵衛も、わたされた早文の走りがきを一けんして、仰天ぎょうてんしながら、
「おッ、咲耶子さくやこのやつめが?」
「余一の乗ってきたわしをうばって、監禁かんきんかくをやぶり、こよいのそうどうにまぎれてげのびようとしているらしい」
「ウーム、油断ゆだんのならぬ女め、ててはおけませぬ」
「早くせいッ、早くッ」
「はッ」
 と、老臣ろうしん伊東十兵衛いとうじゅうべえ言下げんかに立ちかけたけれどイヤにひざおもい。はてな、と思って気がついて見ると、使いをしてきた三太郎猿さんたろうざる最前さいぜんからしたり顔をして、じぶんの膝にもたれている。
 殿とのさまご寵愛ちょうあいのおさるさま、つねからわがままいっぱいのくせがついているので、老臣の膝を脇息きょうそくのかわりにするぐらいなことは平気へいきだが、折もおり、十兵衛も気が立っているので長安ながやすの見ている前もかまわず、
「えい、邪魔じゃまなやつめ」
 と、襟毛えりげつかんで、こッぴどくほうり投げてくれると、キャッ! とぎょうさんなき声をあげたが三太郎猿、ちっともおどろいたさまもなく、廊下ろうかのあなたにちょこん両足りょうあしで立っていた。
「では、ごめんを」
 かがごしにツツとさがった老臣の伊東十兵衛は、はかまひだをつまみあげ、いま、殿とののおへやにはいる時は、脇部屋わきべやのそとにのこしておいた手槍てやりを持とうとして、そこを見ると、あるはずの槍がない。
 ガラガラガラとみょうな音があなたへけてゆくのに、まどいをした目をそらすと、見当みあたらないはず、長廊下ながろうかを向こうの方へ自分のやりが引きずられてゆく。
「ちッ、いたずら者め!」
 腹立はらだたしげに、舌打したうちをしていかけると、それを持っていた三太郎猿さんたろうざるは、手をすべらして庭先にわさきやりを落としたので、十兵衛じゅうべえの方をふりかえると、ケン! と人をちゃにした奇声きせいはっしながら、はぎ袖垣そでがきから老梅ろうばいの枝へと、軽業かるわざでも見せるようにげてしまった。
 ところへ、白刃はくじんをさげて、表木戸おもてきどの方からここへけてきたさむらいが、
「お――こりゃご家老かろうのおやりではございませぬか」
 ひろいとって庭先にわさきから手わたしてやると、
「ウム、伊部熊蔵いのべくまぞうか。よいところへきてくれた」
 と、十兵衛、手みじかに石見守いわみのかみからいいつけられたことを話して、
おもての方も気がかりになるが、咲耶子さくやこをにがしては浜松城はままつじょうのほうへいいわけが立たんことになる。なにを打ちすてても、すぐ腕利うでききの若侍わかざむらいをつれて、源氏閣げんじかくの上へかけつけてくれい」
 熊蔵としては、庭手にわて白壁門しらかべもんのほうの状況じょうきょう主人しゅじんげるつもりで、ここへきたのであったが、出合であいがしらに老臣ろうしんからそうかれて見ると、なにを話しているもなく、
「すりゃたいへんです! 心得こころえました」
 もとへ引っかえして、築山つきやまの一かくから、れいの鉱山掘夫かなやまほりに使う山笛やまぶえというのをき立てると、たちまち、っ黒になるくらいな人数がワラワラとかれのまわりを囲繞いにょうしてあつまった。
 おまえと、おまえと、おまえと、おまえ。
 なかでうでのすぐれていそうな顔を、伊部熊蔵いのべくまぞう、指さきで十二、三人ほどえりぬいて、
源氏閣げんじかくへこい!」
 自分がさきへバラバラとけだしたが、また、ひょいとうしろの者たちをふりかえって、
のこったものは殿とののご寝所しんじょのほうをまもれ、もう木戸きど多門たもんかためにはじゅうぶん人数がそろったから、よも、やぶれをとるおそれはあるまい」
 いいすてて桜雲台おううんだいけてゆく。
 桜雲台は躑躅つつじさき殿でん中核ちゅうかくであって、源氏閣の建物たてものはその上にそびえている。
 平常へいじょう錠口じょうぐちよりおく平家来禁入ひらげらいきんにゅう場所ばしょであるが、いま老臣十兵衛がさきにまわってふれてあったので、一同表方おもてがた血戦けっせんしてきたままの土足どそく抜刀ぬきみ狼藉ろうぜきすがたで、螺旋状らせんじょう梯子口はしごぐちから二そうへかけ上がり、それより上は階段かいだんがはずされてあるので、鈎縄かぎなわ、あるいは数珠梯子じゅずばしごなどを投げかけ、われ一ばんりとよじのぼっていった。
 …………
 閣上かくじょう源氏げんじには、一すい燈火ともしび切燈台きりとうだいあぶらいつくして、ジジジと泣くように明滅めいめつしている。
 あたりはさっきのままである。
 ただ、銀泥色絵ぎんでいいろえふすまのまえには、蒔絵まきえ硯蓋すずりぶたふでが一本落ちてあって、そこにいるはずの咲耶子さくやこのすがたも見えず、お小姓こしょう星川余一ほしかわよいちのかげも見当みあたらなかった。
「おお、いない!」
 数珠梯子から飛びあがった伊部熊蔵いのべくまぞう伊東十兵衛いとうじゅうべえは、予期よきしていたことであったが、愕然がくぜんとして顔を見合みあわせた。
 とたんに。
 頭の上でガラガラと異様いようなものおとを聞いたかと思うと、四、五枚の青銅瓦せいどうがわらが、ひさしのはしから落ちてくるなり本殿ほんでん平屋ひらやかわらの上で、すさまじい金属音きんぞくおんを立てた。
 そして、まさしく屋根やねぺん
「お出合であいなさい! お出合いなされ! 大久保家おおくぼけのご家中かちゅう方々かたがた、あやしいものがげまするぞ、早く、早く、早くここへ!」
 高きところに声をらしている小姓余一の絶叫ぜっきょうが、一同の頭からけたたましく聞えてくる。


「あれだッ――お使者ししゃのこえ」
「おお、屋根やね、屋根の上!」
「のぼれ!」
咲耶子さくやこを手捕りにして余一よいちを助けろ」
 あわてきった十兵衛じゅうべえ指図さしず熊蔵くまぞう叱咤しったが、若侍わかざむらいたちの先駆さきがけをあおッた。
 ひさしの上へぬけでるかくし階段かいだんをさがす者、欄間らんまに足をかけて釣龕燈つりがんどうくさりをつかみ、三太郎猿さんたろうざるのよくやるはなれわざの亜流ありゅうをこころみて、屋根やねの上へはいあがろうとする者――咲耶子と余一とは、いったいどこから屋根上へのぼったのか血気けっきな若侍にしてもふしぎなくらい、この一ばんりはほねが折れたが、あとになって心得こころえのある者に聞くと、すべてこういう楼閣ろうかくには、修築しゅうちく手入ていれなどの場合ばあい用意よういに、工匠こうしょう上下じょうげする足がかりがむねのコマづめから角垂木かどたるきあいだにかくしてあるもので、みんな上へ上へと気ばかりあせっていたので、その工匠口こうしょうぐちにはすこしも気がつかなかった。
 しかし――一せいにとはゆかないが、どうやらこうやら、ほどて、上に登ることは登りついた。そしてはじめて、ようすいかに――とさかになった屋根のはしから首をだして打ちあおいで見ると、
「わアん、わアん……わ――ん……」
 浜松城はままつじょうのお使者番ししゃばんは、満天まんてんほしにくるまれたかく尖端せんたん擬宝珠ぎぼうしゅのそばで、手放てばなしに大声あげて泣いていた。
「あれッ?」
 伊部熊蔵いのべくまぞうはあっけにとられた。
 まさか浜松城はままつじょう来使らいし星川余一ほしかわよいちなるものが、十三、四の子供だとは考えていなかったので。
 立っては歩かれないくらい、勾配こうばいのきゅうな青銅瓦せいどうがわらの上をのしのしと無器用ぶきようにはいあがって、
「そのほうはいったいだれであるか」
 こう聞くと、余一は泣いている手をはなして、
「お小姓こしょうとんぼぐみ星川余一ほしかわよいち……」
 そう答えて、また声あらためて泣くのだった。
「なに、ではそこもとが、公書こうしょのお使者番ししゃばんとなってまいられた星川どのか」
「は、はい……」
「なにを泣いておられるのか、ただいま、三太郎猿さんたろうざるが首につけてきた知らせを見て、殿とのにもことのほかなおおどろき、そっこく、ご助勢じょせいをするためわれわれが、ここへけつけてまいったものを。おお、してしてこのかく監禁かんきんしておいた咲耶子さくやこなる女をごぞんじないか、あれをにがしては一大事だから」
「だから……だからわたしが……早くお出合であいなさいと、あれほどんでおりましたのに」
 しゃくりあげて、余一はまたくやしそうに、オイオイとかたをゆすぶりながら、
「もうだめ! もうだめ! みんなの来ようがおそいから、わたしがここで一しょうけんめいにおさえていた咲耶子さくやこは、とうとう擬宝珠ぎぼうしゅにつないでおいたクロをうばって、あれあれ、あれ向こうへ――」
「えッ」
げちゃった、逃げちゃった……。あのクロをなくしては、わたくしは、浜松城はままつじょうにいる万千代まんちよさまに、帰っておわびをすることばがございません」
 余一よいちはそれで泣くのだった。
 げた! と聞いておどろいた熊蔵くまぞうや、張合はりあいぬけのした若侍わかざむらいたちが、半信半疑はんしんはんぎの目をさまよわせて、どこへげたのかと明け方にちかい八方の天地をながめまわすと――。
 水色みずいろにすみわたった五こうの空――そこに黒くまう一ようのかげもなく、ただ一せん、ピカッと※(「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1-87-61)惑星けいわくせいのそばのほしが、あおい弧線こせんをえがいてたつみから源次郎岳げんじろうだけかたへながれた。
 また、足もとを俯瞰みおろすと。
 竹童ちくどう蛾次郎がじろう争闘そうとうからたんをはっした馬糧小屋まぐさごや出火しゅっかは、その小屋だけをきつくしてほのおしずめ、うすい白煙はくえんとまッ余燼よじんを、あなたのやみのそこに、まだチラチラと見せている。
「ウーム、おそかったか!」
 と、熊蔵は、余一の泣くのがおかしくなった。
「ぜひがない。このうえは殿とのにありのままをおつげして、少しも早く、ほかへ手配てはいをつけるのがかんじんだ」
 一同、手をむなしくして、屋根やねからりかけた時だった。下に待っていた老臣ろうしん伊東十兵衛いとうじゅうべえが、なにか意味いみの聞きとれない絶叫ぜっきょうをあげたかと思うと、二そう欄間らんまから、手槍てやりをつかんだまま仰向あおむけに、
伊部いのべッ」
 とすくいをびながら、二層目の屋根へ、袈裟けさがけになってりおとされていった。
「やッ、ご家老かろうが」
咲耶子さくやこをすくいだそうとして、とうとうここまで曲者くせものがなだれこんできたか。それ、なんでおくれをとっていることがある。降りろ、降りろ」
 降りるのはもなかった。
 擬宝珠ぎぼうしゅ玉縄たまなわむすびつけ、ズル! ズルズルとつながってゆく。
 一せん
 横に白刃はくじん光流こうりゅうがその玉縄を下からすくったかと思うと、ぶらさがっていった四、五人が、たばになってまッさかさまに下へ――。
「わアッ!」
 というどよめきがあがる。人の惨死ざんしを見ると、人間はわすれていた兇暴きょうぼうがたけりだす。
 こうなると、つねの怯者きょうしゃ勇士ゆうしになるものだ。伊部熊蔵いのべくまぞうはカッといかって、中断ちゅうだんされたなわのはしから千ぼんびさしくさりにすがって、ダッ――と源氏げんじへ飛びこんだ。
 見るとそこには。
 今夜、躑躅つつじさきたちりこんだ覆面ふくめんの少女とはまるでちがったふたりの者のすがたがチラと見えた。一方は白い行衣ぎょうえをきて手に戒刀かいとうとおぼしき直刃すぐはの一とうを引っさげた男。またひとりは朱柄あかえしゃくやりをかかえて、るがごとき眼をもった若者わかものである。
「いないぞ、ここには」
「さっきまで狛笛こまぶえがしていたのに」
「では、げたのであろう」
「いや、いくら咲耶子さくやこでも、この堅固けんごをやぶっては逃げられまい」
「それならここにいそうなものだが」
「ふしぎだなあ」
おく部屋へやには」
「つぎのはない!」
「ではどこかにかく場所ばしょでも? ……」
 早口に、こんな言葉をかわしながら、室内しつないの物をとりのけて、しきりとだれかをさがしているようす。
 むろんそれは、手組てぐみいかだにのってほりをこえ、たちのそうどうにじょうじて、ここへ潜入せんにゅうしてきた、木隠龍太郎こがくれりゅうたろう巽小文治たつみこぶんじのふたりである。
「おのれッ」
 と、そこに思わぬてきを見かけた伊部熊蔵いのべくまぞうは、いきなり小文治こぶんじのうしろ姿すがたを目がけて、思慮しりょなきやいばを飛ばしていった。
「うむッ」
 といってそのむなもとへ、石火せっかにのびてきた朱柄あかえやり石突いしづきは、かれの大刀が相手の身にふれぬうちに、かれの肋骨あばらの下を見舞みまった。
「ざんねんだが、咲耶子さくやこのすがたが見当みあたらなければぜひもない。このうえは、どうせのついでに、大久保長安おおくぼながやす寝所しんじょを見つけて、きゃつの首を土産みやげに引きあげよう」
 らんのまわりにかげばかり見せて、ただワアワアとさわいでいる若侍わかざむらいたちを睥睨へいげいしながら、源氏閣げんじかくから桜雲台おううんだい本殿ほんでんへもどってくると、そこへあまたの武士ぶしに追いつめられてきた乱髪らんぱつ小童しょうどうがあった。
「やッ、竹童ちくどう!」
 咲耶子さくやこにあわぬ失望しつぼうは、そのうれしさにおぎなわれて、朱柄あかえやりつばなしの戒刀かいとうは、なんのためらいもなくその渦巻うずまきのなかへおどった。

あい旅人たびびと




 うるわしいがたの雲が、東をめてきた。
 秋霜あきしもりた山国のあさは、みやこの冬よりはまださむい。白いいきが人のはなさきにこおりそうだ。
「おはよう」
 地蔵行者じぞうぎょうじゃ菊村宮内きくむらくないは、お長屋ながや釣瓶井戸つるべいどで、足軽あしがるたちと一しょに口をそそいでいた。
「ゆうべは、まことにひどいそうどうでございましたな、さだめしみなさんもおつかれでございましょう」
 足軽たちに話しかけても、だれもウンとも返辞へんじをするものがなかった。かれらの眼色めいろはまだ夜の明けぬまえの異常いじょう緊張きんちょうをもちつづけているらしい。
 顔をしかめて向こうずねきずをあらっている者や、水をくんでゆく者や、たわしであらい物をする者などで、井戸いどばたがこみ合っている。
 宮内は早々そうそうそこをはなれて、
「なにしろ、大事にならなくってしあわせだった」
 お長屋の屋根やねむこうに、まだ黄色く立ちのぼっている馬糧小屋まぐさごや余煙よえんをながめて、ひとりごとをつぶやいた。
「あッ、神主かんぬしさん――。竹生島ちくぶしまの神主さん」
 とつぜん、かれの足をめた者がある。
 だれかと思って横をみると、ご殿てん修築しゅうちくに使用する大石のたくさんつんであるあいだに、元気のない蛾次郎がじろうかおがチラと見えた。
「おや、おまえは?」びあがってのぞくと、
「お地蔵じぞうさま、後生ごしょうです」
「後生ですって、なにが後生なんじゃ。でておいでな、ここへ」
「それが、でられないんで、弱ってるんです」
「なんだ、しばりつけられているのか」
「ええ、ゆうべおやかた乱入らんにゅうした、あの狼藉者ろうぜきもののためにしばられて、とうとうここで夜を明かしてしまったんで」
「おやおや、それはえらいお仕置しおきったな」
 宮内くないは人のいいわらい方をして、石置場いしおきばにしばられているかれの縄目なわめいてやったが、からだが自由になったとたんに、蛾次郎は、れいの言葉なぞはとにかくというふうに、いきなり向こうの馬糧小屋まぐさごやあとへすッ飛んでいった。
 なんですッとんでいったかと思うと蛾次郎、そこでまだ、カッカと余燼よじんの火の色がはっている焼け跡におしりをあぶって、
「オオさむ、寒、寒、寒。……ああ、あったけえ、あったけえ、あったけえ」
 をがたがたと鳴らしながら、こおりきったをあたためて、人心地ひとごこちびかえすのだった。
 そこへひょッこり、親方おやかたはなかけ卜斎ぼくさいが、桜雲台おううんだいの方からもくもくともどってきた。
 卜斎はジロリと蛾次郎がじろうの顔を見たが、べつに声もかけないで、菊村宮内きくむらくないのいる火のそばへよりながら、
さだめしゆうべはびっくりなすったであろう」
 と話しかける。
「おどろきました。火事と思うと、すぐにあの乱入者らんにゅうものつるぎの音でな。しかし、かくべつなこともなかったようで、まずおやかたにとっては、大難だいなん小難しょうなんでなによりともうすものです」
「どうして、意外いがい被害ひがいなので」
「ほウ」
「いま、役人がしさいを書きあげているが、味方みかたりすてられた者二十四、五名、手負ておいは五十名をくだるまいとのことでござった。その上、ご老職ろうしょく伊東十兵衛いとうじゅうべえどのが、源氏閣げんじかくの上から袈裟斬けさぎりになって真下ましたへ落ち、鉱山目付かなやまめつけ伊部熊蔵いのべくまぞうどのも悶絶もんぜつしていたようなありさま、けれどもこれはいのち別条べつじょうなく助かりましたが」
「ほウ、そんなに? してここのあるじ大久保長安おおくぼながやすどののお身にはなにごともなくすみましたかな」
「いちじは曲者くせものわれて、あやういところであったそうだが、ご寝所しんじょから壁返かべがえしのかくれへひそんで、やっとのがれたという話、そのうんよく夜が明けましたゆえ、曲者たちはほりをこえて、いずこともなくげうせたそうで」
「で、相手方あいてがた死骸しがいは?」
「それがふしぎ、なかには手負ておいや死んだ者もあったろうに、げるときにもちったか、一つもさきの死骸がのこってない」
「さりとは心がけのよい曲者、いったい、それはどこの者で」
黒装束くろしょうぞくはみなおどしだににいた若い女子おなご源氏閣げんじかくりこんだ者は、武田伊那丸たけだいなまる身内みうち木隠こがくれたつみ両人りょうにんとあとでわかった。おお、それから鞍馬くらま竹童ちくどう
「えッ、竹童も」
 宮内くないひさしぶりであのきな少年を心にえがいた。
 そしてその竹童も、無事ぶじにこのたちをやぶってげのびたと卜斎ぼくさいいて、てきでも味方みかたでもないが、なんとなくうれしくおぼえた。
 虹色にじいろが高くのぼってきた。
 近国きんごくへうわさがもれては外聞がいぶんにかかわるというので、昨夜ゆうべのさわぎはいっさい秘密ひみつにするよう、家中かちゅうとうもうわたしがあって、ほどなく、躑躅つつじさきたい、つねの平静へいせいに返っていた。
 午後には、おもなる家臣が桜雲台おううんだいへ集まった。
 けれど、それはゆうべの問題ではなく、もう日限にちげん切迫せっぱくしてきた、御岳みたけの山における兵学大講会へいがくだいこうえ奉行ぶぎょうめいぜられた長安ながやす下準備したじゅんび手配てくばりの評議ひょうぎ
 その公書こうしょ浜松はままつからもたらしてきたお小姓こしょうとんぼぐみ星川余一ほしかわよいちは、万千代まんちよさまへのもうしわけに、わし行方ゆくえをつきめるまで、しばらく長安ながやす詮議せんぎをたよりに、ここへ滞留たいりゅうしていることになる。
 鷲といえば――。
 余一のほかにだれも見とどけた者はないが、源氏閣げんじかくのてッぺんからすがたをした咲耶子さくやこは、いったいどこへいったのだろうか?
 クロとともにかげを見えなくしたところからさっすれば、竹童ちくどう鷲乗わしのりをうつしまねて、空へと、ってげたよりほかに考えようがないが、あのに見まほしき振袖ふりそですがたで、そんなあぶないはなれわざが、たして首尾しゅびよくいったろうか。
 いや、心配しんぱいはあるまい。
 かのじょ裾野すそのの女性である。山大名やまだいみょうむすめである。竹童のすること、蛾次郎がじろうでさえやること、余一すら乗りこなしてきた鷲――なんで乗れないことがあるものか。
 そうあれば。
 とにかく咲耶子の身には、ふたたび、うばわれた自由と希望きぼうがかえっているわけ。

 カアーン……カアーン……カアーン
 きょうも甲府こうふの町にのどかなかね
 菊村宮内きくむらくないはおなじ日に、卜斎ぼくさいわかれをげ、花や供物くもつにかざられた笈摺おいずると、かがやく秋のにして、きのうのごとく、地蔵菩薩じぞうぼさつあいたびにたっていった。


 翌日よくじつ駒飼こまかいから笹子峠ささごとうげえる。
 甲府こうふを一とおり遍歴へんれきした宮内は、これから道を東にとって、武蔵むさしの国へはいるつもり。
 これから武蔵へかかる山境やまざかいは、姥子うばこ鳴滝なるたき大菩薩だいぼさつ小仏こぼとけ御岳みたけ、四やままた山を見るばかりの道である。すきな子供のむれに取りまかれることがいたってまれだ。
 阿弥陀街道あみだかいどうのながい半日に、かなり足のつかれをおぼえてきた宮内、
「おお、茶店ちゃみせがあるな」
 立場たてばがわりに駒止こまどめのくいがうってある葭簀掛よしずがけ茶屋ちゃやを見かけて、
「少しやすませてもらいます……」
 と、なにげなく立ちよって、なかのおい床几しょうぎの上へ安置あんちすると、土間どまのうちで荒々あらあらしい人声。
「女だからって、油断ゆだんもすきもありやしねえ!」
 なにかと思って見ると、街道稼かいどうかせぎの荷物持にもつもちか馬方うまかたらしいならず者がふたり、黒鉄くろがねをはやしたようなうでぶしをまくりあげて、
「――飛んでもねえいいがかりをかしゃあがる。だれがてめえのような女乞食おんなこじきのビタせんを、ったりいたりするバカがあるものか、ものをぬすまれましたという人体にんていは、もう少しなりのきれいな人柄ひとがらのいうこッた、よくてめえの姿すがた商売しょうばいと相談してこいッ」
 おそろしいけんまくでどなりつけている。
 そのふたりの毛脛けずねのあいだにはさまって、土間どまへ手をついたまま、わなわなおののいている女は、坂東ばんどう三十三ヵしょふだをかけ、ひざのところへ菅笠すげがさつえとを持った、三十四、五の女房にょうぼうである。
「いいえ、そうわるくお取りなすってはこまりますが、たしかに、駒飼こまかい宿しゅく辻堂つじどうで、ちょっとおびをしめなおしているあいだに、あなたがたおふたりが、足もとへおいたわたしの金入かねいれをお持ちになってかけだしたので、悪気わるぎはないほんのいたずらをなされたのであろうと、ここまでってまいったのでございます。どうぞ、あのかねがなくては、これからさきのながいたびができない身の上、かわいそうだと思って、おかえしなすってくださいまし」
「この女めッ、だまっていりゃいい気になって、まるで人をぬすのようにいやあがる」
「どういたしまして、けっしてそんなだいそれたことを申すのでは」
「やかましいやいッ。てめえがおれたちに金入れを取られたといやあ、おれたちふたりは泥棒どろぼうだ。よくも人に濡衣ぬれぎぬせやがった」
「あれッ、そのふところに見えます金入かねいれが、たしかに、わたしの持っていたつつみでございます」
「飛んでもねえことをいうねえ。こりゃ、おれが甲府こうふの町でさる人からあずかってきた金入れだ。それを見やがってぶっそうないいがかり、どッちが白いか黒いか代官所だいかんしょへでてやるところだが、女巡礼おんなじゅんれいだいの男ふたりで相手にしたといわれるのも名折なおれだ。さ、いのちだけを助けてやるから、サッサとでていきやがれ」
 馬の草鞋わらじにもひとしい土足どそくが、むざんに女のかたをはげしくけった。
「これ、なにを無慈悲むじひなことをなさる」
 菊村宮内きくむらくないはわれをわすれて、その女巡礼の身をかばいながら、
「ふびんではござらんか、かような巡礼道じゅんれいどうの人の持物もちものきあげて、それがどれほどおまえたちの幸福こうふくになるものじゃない。どうか、そんな手荒てあらなことをせずに返してあげておくれ」
「おやッ」
「こんちくしょうめ」
 と、胸毛むなげをむきだしてうでまくりをしなおしたふたりの道中稼どうちゅうかせぎ。
横合よこあいから飛びだしゃあがって、なにをてめえなんぞの知ったことか。いたふうな文句もんくをつける以上いじょうは、この喧嘩けんかを買ってでるつもりか」
「はははは、飛んでもないことを。あなた方を相手にして、うでずくなどのあらそいは、とてもわたしたちにはできないことです」
「じゃあ引ッこめ、引ッこめ! 鉦叩かねたたきのやせ行者ぎょうじゃめ」
「いや、引ッこめません」
「これでもかッ!」
 いきなり一方の鉄拳てっけんが、風をうならせて宮内の横顔よこがお見舞みまってきた。
「あぶない」
 軽く身をかわした菊村宮内きくむらくない、その腕くびをつかみ取って、
「そんなめちゃをなさらずに、どうか、ゆるしてあげてください。その金財布かねざいふが、げんざい、あなた方の持物もちものでない証拠しょうこには、がらも色合いろあい女物おんなものではありませぬか」
「えい、よけいな口をたたきやがると、こうしてくれるッ」
 と、両方りょうほうから、猿臂えんぴをのばしてえりもとをつかんでくる。
 宮内はうしろへ身をされて、あやうくそとの葭簀よしずにつまずきかけたが、そこまでしのんでいたかれの顔色がサッと、するどくかわったなと思うと、かかとをこらえてひねりごしに、
「えいッ」ひとりはずに投げつけた。
野郎やろうッ」
「兄弟――ッ、仲間なかまのやつらをんでこい」
「おうッ」
 というとはねおきた一方の男は、脱兎だっとのごとく茶店ちゃみせのそとへ飛びだして、なにか大声で向こうの並木なみきへ手をふった。
 と――見るに、くるわくるわ、どれもこれも一くせありげな道中人足どうちゅうにんそく錆刀さびがたな息杖いきづえを持ちこんで、
「なんだなんだ」
「その野郎やろうか」
生意気なまいき鉦叩かねたたむしめ! ぞうさはねえ、その女も一しょにつまみだして、二本松の枝へさかづるしにつるしてぶんなぐれ」
 もあったものではない。
 まっ黒になって茶店ちゃみせの入口になだれこみ、あッと宮内くないがあきれるうちに、床几しょうぎの上にすえておいた地蔵菩薩じぞうぼさつ笈摺おいずるを、ひとりの男が土足どそくでガラガラとけおとした。
「ウーム……」
 と、宮内くないのまなじりがしゅをそそいで引ッけた。
 いかに、とるにらないあぶれ者とはいえ、一ねんに自分の信仰しんこうする地蔵菩薩じぞうぼさつのおすがたを、馬糞まぐそだらけな土足にかけられては、もうかんべんすることができない!
 見そこなったな、この青蠅あおばえめ!
 いまでこそ身は童幼どうようの友としたしまれ、には地蔵じぞうの愛をせおい、のきごとの行乞ぎょうこつたびから旅をさすらい歩くながれびとにちがいないが、竹生島ちくぶしまに世をすてて可愛御堂かわいみどう堂守どうもりとなる前までは、これでも、鬼柴田権六おにしばたごんろく旗本はたもとで、戦塵裡せんじんりに人の生血いきちをすすりながら働きまわったおぼえもある菊村宮内きくむらくない
「おのれ」
 憤怒ふんぬはついにかれの手を、脇差わきざしつかにふれさせて、今にも、目にもの見せてくれんずと、ぶるぶると、身をふるわせた。
「おや、なんでえ、それは」
「べらぼうめ、物乞ものごいがそんな錆刀さびがたななんぞをヒネクリまわしたところで、だれがしりごみするものか」
「さッ、でてこい、そとへ!」
「その錆刀の手うちを見てやろうじゃねえか」
 宮内くない血相けっそうには多少おどろいたが、多寡たか地蔵じぞうさまを背負せおってあるくかねたたき、なんの意気地いくじがあるものかと、頭から見くびって、思うぞんぶん、つばをとばして罵詈ばりするので、いまはもう、あのやさしい宮内の形相ぎょうそうも、を見ねばしずまりそうもない殺気さっきを見せた。
 だが。
 かれはふと、そこへ蹴飛けとばされてきた地蔵菩薩じぞうぼさつのおすがたに目をとめた。られても、足にかけられても、みじん、つねの柔和にゅうわなニコやかさとかわりのない愛のお顔。
「あッ……」
 かれは、刀のつかにかけた手をしばりつけられたように、よろよろと、うしろへ身を引いた。
ちかいをわすれた……ああ、悪かった」
 そうつぶやくと、殺気さっき形相ぎょうそうは一しゅんにさめて、かれの顔は地蔵じぞうのとうとい微笑びしょうてきた。
「バカ野郎やろうめ」とたんに、
「なにを寝言ねごとをいってやがるんでッ」
 ひとりの男の拳骨げんこつが、ガン! と頬骨ほおぼねのくだけるほど、宮内くないの横顔をはり飛ばした。
「さッ、でろ、でろッ、そとへ」
 る、なぐる、き飛ばす。
 宮内はあまんじてぞんぶんになった。
 みつけられる土足どそくの下にも、地蔵菩薩じぞうぼさつと同じような微笑びしょううしなってはならないぞと自分の心をしかっていた。カッと、きつけられたたんつばをも、かれは、おとなしくふいていた。
 かれには誓っていたことがある。
 武士ぶしをすてて竹生島ちくぶしまにかくれた時、そして、地蔵菩薩じぞうぼさつの愛のたびしまをでたとき、かならず、終生しゅうせいかたなくまいぞと心にちかった。
 いまは乱世らんせだ、みどろの戦国である。
 人はたびにある時も、町をあゆむにも、家にている間にも刀を肌身はだみにはなせない世の中だ。
 けれど、人に愛をおしえ、不遇ふぐうな子の友だちとなり、人に弓矢ゆみや鉄砲てっぽういがいの人生をさとらせようとこころざしている自分が、その刀をたのみにしたり、その殺生せっしょうをやったりしてはならない。どんなことがあっても、生涯しょうがい刀はくまい、刀はしていても手をかけまい! 地蔵菩薩じぞうぼさつの愛の体得たいとくをけっしてわすれまい!
 かたくかたく、それをむねちかいとして、地蔵のみこころにむすびあわしている菊村宮内きくむらくない
「げじげじめ」
「たわけ野郎やろう
「ものもらい」
「ざまを見やがれ」
「くたばるまでころがしてやれ」
 ってたかってなぐりつける、息杖いきづえ足蹴あしげの下に、いつか神気朦朧しんきもうろうとして空も見えなくなってしまった。

築城ちくじょう縄取なわどぬす




 ここに六万五千人の人間が、地上に一建築けんちくをもりあげるため、ありのごとく土木どぼく蝟集いしゅうしている。
 これが人間業にんげんわざかとおどろかれるような巨城きょじょう
 もうあらかたできあがりに近づいて、秋晴あきばれの空にあざやかな建築線けんちくせんをえがきだしている。
 なんとすばらしいしろだろう。その規模きぼの大きなこと、ローマの古城こじょうをもしのぐであろうし、その工芸美こうげいび結構けっこうはバビロンの神殿しんでんにもおとりはしない。
 武将ぶしょう居城きょじょうとして、こんな大がかりなものは、まだ日本になかった。いや、当時とうじ、海外から日本にきていて、この工事こうじ見聞みききしたクラセとか、フェローのような、宣教師せんきょうしでも、みなしたいて、その高大こうだいをつぶさに本国ほんごくへ通信していた。
 そこは――摂州せっしゅう東成郡ひがしなりごおり石山いしやまおか、すなわち、大坂城おおさかじょう造営ぞうえいである。
 城は本丸ほんまる、二ノ丸、三ノ丸にわかれ、中央ちゅうおうに八そう天主閣てんしゅかくそびえていた、二じゅう以下いか惣塗そうぬりごめ、五じゅうには廻廊かいろうをめぐらし、勾欄こうらんには鳳龍ほうりゅう彫琢ちょうたく、千じょうじきには七宝しっぽうはしらごとに万宝ばんぽうをちりばめてあおげば棟瓦むねがわらまでことごとく金箔きんぱく
 大和川やまとがわ淀川よどがわの二すいをひいてほりの長さを合計ごうけいすると三八町とかいうのだから、もって、いかにそのおおげさな築城ちくじょうかがわかるであろう。
「ほウ、またきょうも、だいぶ大石たいせきあつまってくるな」
 と、秀吉ひでよしは、子供のようにごきげんがよい。
 本丸ほんまる庭先にわさきになる山芝やましばの高いところに床几しょうぎをすえこんで、浪華なにわ入江いりえをながめている。
 派手はで陣羽織じんばおりに、きらびやかな具足ぐそく
 服装ふくそうはりっぱだがからだの小さい秀吉、床几から立っても五しゃくせいぜいしかあるまい。それでいて、こんな大きな城をつくって、まだじぶんの住居すまいにはせまいような顔をしている。
 片桐市正且元かたぎりいちのかみかつもと、床几のそばにひざをついて、
「さようでござります。今日こんにち入船にゅうせんは大和の筒井順慶つついじゅんけい和泉いずみ中村孫兵次なかむらまごへいじ茨木いばらき中川藤兵衛なかがわとうべえ、そのほか姫路ひめじからも外濠そとぼりの大石が入港はいってまいりますはずで」
 と、答えた。
「あのさかいのほうからくる船列せんれつは?」
三好秀次みよしひでつぐからご寄進きしん檜船ひのきぶねではないかと思われます」
小田原おだわら北条ほうじょうからも、伊豆石いずいしの寄進をいたしたいと、奉行ぶぎょうへ申しいであったそうだな」
家康いえやすどのからもご領地りょうち巨木きょぼく人夫にんぷ、おびただしい合力ごうりきでございます」
「あはははは」
 秀吉ひでよしはたわいのないわらい方をして、
「それではまるで、他人がこのしろきずいてくれるようなものだ。なぜだ? なぜそんなにして秀吉の住居すまいをみんなしてつくってくれるのか」
 と、いかにもそらとぼけた質問しつもんをだして、そばにひかえている片桐かたぎり福島ふくしま脇坂安治わきざかやすはるなど、ツイせんだってしずたけで七ほんやりの名をあげた若い人たちをかえりみたが、またすぐに床几しょうぎからこしを立てて、
「ウウム、壮観そうかん、壮観」
 と、みなとのほうへ小手こてをかざした。
 そこから見ると――
 大坂おおさかはまだ三ごうとも、城下じょうかというほどな町を形成けいせいしていないが、急ごしらえの仮小屋かりごやが、まるでけあとのようにできている。
 そして、百せんのすえに青々とすんだ浪華なにわの海には、山陰さんいん山陽さんよう東山とうさんの国々から、寄進きしん巨材きょざい大石たいせきをつみこんでくる大名だいみょうの千ごくぶねが、おのおの舳先へさき紋所もんどころはたをたてならべ、満帆まんぱんに風をはらんで、えんたる船陣せんじんをしながら、四方の海から整々せいせい入江いりえへさして集まってくる。
 なるほど壮観そうかんだ。
 秀吉ひでよしの目がほそくなる。わかわかしい希望きぼう権化ごんげのような顔にいッぱいな満足まんぞくがかがやく。
 さきには、きたしょうめて、一きょ柴田勝家しばたかついえ領地りょうち攻略こうりゃくし、加賀かがへ進出しては尾山おやましろに、前田利家まえだとしいえめいをむすんで味方みかたにつけた。
 ながいあいだ、なにかにつけてじぶんの前途ぜんとをさまたげていた勝家かついえ自害じがいし、かれと策応さくおうしていた信長のぶなが遺子いし神戸信孝かんべのぶたか勇猛ゆうもう佐久間盛政さくまもりまさ毛受勝介めんじゅかつすけ、みな討死うちじにしてしまった。
 伊勢いせ滝川一益たきがわかずますも、かぶとをぬいでくだってくる。
 破竹はちくの勢いとは、いまの秀吉のことであろう。京へ凱旋がいせんしてのち、七ほんやり連中れんちゅうをはじめ諸将しょしょうの下のものへまで、すべて、論功行賞ろんこうこうしょうをやったかれにはまた、朝廷ちょうていから、じゅ参議さんぎせらるという、位官いかんのお沙汰さたがくだる。
 毛利もうり人質ひとじちをだしてをねがう。
 丹羽にわ、前田も、あまんじて麾下きかにひざまずく。
 こうなると、ひそかに虎視眈々こしたんたんとしていた徳川家康とくがわいえやすも、いきおいかれのまえに意地いじッぱってはいられないので、石川数正いしかわかずまさ戦捷せんしょうの使者に立てておくりものをしてくる。
 秀吉はそこで、
(人間てものは、まあ、そんなものサ)
 というような顔をしていた。
 そして、とおせていた目を、すぐ真下ました作事場さくじば――内濠うちぼりのところにうつすと、そこには数千の人夫にんぷ工匠こうしょうが、朝顔あさがおのかこいのように縦横たてよこまれた丸太足場まるたあしばで、エイヤエイヤと、諸声もろごえあわせて働いているのが見られた。
市松いちまつ
 とつぜん、かれは床几しょうぎになおって、
「また使者が見えたぞ」といった。
「おう、さようで」
 と、福島市松ふくしまいちまつ加藤孫一かとうまごいちも、みな主君しゅくんゆびさすところへ目をやった。
 見ると、なるほど、戦場せんじょうのようにこんざつしている桜門さくらもん方角ほうがくから、ひとりの武将ぶしょうがふたりの従者じゅうしゃをつれ、作事奉行さくじぶぎょう筒井伊賀守つついいがのかみ家臣かしん案内あんないにしたがって、こっちへ向かってくるすがたが小さく見える。
「いかにも見えまするなあ」
 と孫一がいうと、片桐市正かたぎりいちのかみが、
「おかみはお目がよくておいであそばす」
 とめあげた。
 秀吉ひでよしは、そうさ! といわないばかりにむねをそらして、
「おろかなこと、この秀吉の目には、日本のはてまで見えておる」
 わらいながら見得みえを切った。


 かりに本丸ほんまるをかためている作事門さくじもんさくぎわへ、その使者と筒井つつい家臣かしんとがきた。
「おけください」
「だれだ!」
 番士ばんし具足ぐそく真槍しんそう鉄砲てっぽう、すこしも戦時とかわらない。
 もっとも、作事奉行さくじぶぎょう棟梁とうりょう工匠目付こうしょうめつけも、四方にかけあるいている使番つかいばんもすべてかみ鎧装がいそう陣羽織じんばおりしも小具足こぐそく、ことに人夫にんぷを使っているものなどは抜刀ばっとうをさげて指揮しきしているありさま。
なまけるものはる)
 これが築城場ちくじょうば宣言せんげんだ。
 したがってここの空気は、しずたけやな合戦かっせん緊張きんちょうぶりとすこしもかわっていないのである。
「――作事奉行、筒井伊賀守つついいがのかみ家臣かしん猪飼八兵衛いがいはちべえ
 と大声で答える。
門鑑もんかん
「いやおおくりでござる――徳川とくがわどののお使者」
徳川家とくがわけの使者? して何名なんめい
永井信濃守尚政ながいしなののかみなおまさと、つきそい両名りょうめい
「そのものは?」
水野源五郎みずのげんごろう
「ウム、徳川殿とくがわどののお旗本はたもとでござるな。もう一名は」
菊池半助きくちはんすけ
「それだけでござるか」
「さよう」
「ごくろうでござッた」
 案内あんない猪飼八兵衛いがいはちべえはかけもどって、おくりこまれた徳川家とくがわけ家臣かしん三名、やりぶすまの間をとおってひかえじょに待たされた。
 やがてそれを、秀吉ひでよしのところへ知らせると、かれはもう心得こころえていて、福島市松ふくしまいちまつ出迎でむかえをめいじる。
 市松はガチャッ、ガチャッと歩くたびに陣太刀じんだち具足ぐそくをたたく音をさせながら、巨石きょせきでたたみあげた石段いしだんをおりてきて、
遠路えんろ浜松城はままつじょうからおこしのお使者、ごくろうです。福島市松ご案内あんないもうしあげる。こちらへ」
 うしろへ目くばせすると、かれが二の家来けらい可児才蔵かにさいぞう
「いざ」
 と三名のうしろについて、主人と首尾しゅびをつつんで秀吉ひでよしのいる本丸ほんまる庭手にわてへあがっていった。
(はてな?)
 そのとちゅうで可児才蔵かにさいぞうは、自分の目のまえに立ってゆく、少しちぢれのある男のえりもとを見つめながら、
(はて……どこかで見たことがある)
 いくども首をひねって考えたが、どうも思いだすことができない。
 徳川家とくがわけ使者ししゃについてきたさむらい横顔よこがおをさしのぞくのも無礼ぶれいであるし、疑念ぎねんのあるものをやすやすと、主君の前へ近づけるのはなおのこと不安ふあんなはなし。
 で――作事門さくじもんからついてきた番士ばんしに、ソッと耳をよせてきいてみると、
「あのかたですか。あれはただいまたしか、菊池半助きくちはんすけとか名のりました」
「えッ、菊池?」
 そうだ!
 それで可児才蔵にも思い起すことができる。かれは徳川家の伊賀衆隠密組いがしゅうおんみつぐみ組頭くみがしらで、かつて富士ふじ人穴城ひとあなじょうへ、じぶんが主命しゅめいでようすをさぐりにいったとき、はじめてその名を知った男だ。
(これはいけない! 油断ゆだんのならない使者のおともだ)
 かれがそう思いあたった時には、もう、秀吉のまえにきて、一同横列おうれつになっていた。
 秀吉ひでよしは、ヤアと友だちをむかえるようにして、はなはだかんたんに、来意らいいをきく。
 けれど、いくらかんたんにされても、なれなれしくあつかわれても、ひとりでに使者のからだはかたくなってヤアにたいして、オウというような円滑えんかつなへんじはできないで、
左少将さしょうしょうさまにはいつもながら、ますますご健勝けんしょうのていにはいせられまして、かげながら主人しゅじん家康いえやす祝着しゅうちゃくにぞんじあげておりまする」
 などと形式けいしきばると、
「いや、ありがとう」
 秀吉はたいへんやさしい声で、
からだはせわしいおかげでますます健固けんご、また、諸侯しょこう寄進きしんのおちからで、どうやらわしの寝所ねどこもこのとおりできかかっている」
 使者の永井信濃守ながいしなののかみは、はらのうちでひそかにあきれた。
(秀吉はウソばかりいっている。なんでこんなおおきなしろ寝所ねどこなもんか、これはやがて、四こくしゅうはおろか、東海道とうかいどう浜松はままつ小田原おだわらも、一呑ひとのみに併呑へいどんしようとする支度したくじゃないか)
 そう考えたが、口にはだせない。
 秀吉は人の考えなどにはとんじゃくしないふうで、いよいようちけたようすになって床几しょうぎをすすめ、
「時に、ご来意らいいは?」
「はッ」
 信濃守しなののかみは、よそごとにらしていた頭脳あたままして、
「ほかではございませんが」
「ウム」
「くわしくは主人の書状しょじょうにつくしてござりますが、口上こうじょうをもって一通ひととおりお願い申しあげまする。それは」
「ウム」
余事よじではございませんが、毎年、武田家たけだけ行事ぎょうじとして行われてまいりましたところの、武州ぶしゅう御岳みたけにおける兵法大講会へいほうだいこうえ試合しあい
「ウム、ウム」
勝頼かつよりすでにほろび、甲斐かい領土りょうど主人しゅじん家康いえやす治下ちかとあいなっております」
「いかにも」
「そこで旧武田家きゅうたけだけ政弊悪政せいへいあくせいはこのさいつとめてはいしまするが、兵法奨励へいほうしょうれい御岳大講会みたけだいこうえ行事ぎょうじだけは、なんとか保存ほぞんいたしたいと考えて、昨秋さくしゅうかたちばかりはやりましたが、当時とうじ諸国紛端しょこくふんたんの折から、まことに思わしゅうございませんでした」
「大きに、ああいう尚武しょうぶのふうはぜひのこしておきたい」
「で、本年は、甲府こうふ代官だいかん大久保長安おおくぼながやすにその総奉行そうぶぎょうめいじ、支度したくばんたん、力をつくしておこないたいと考えますゆえ、ぜひご当家とうけよりも、当日の大講会に何人なんぴとかご参加さんかくださるようにと、わざわざおすすめに、イヤ、お願いにまいったようなわけでござります」
「なるほど」
 張合はりあいのないくらいかんたんにうなずいて、
「だれかつかわすであろう」
 といったが、秀吉ひでよし、またちょっと考えて、
「だが待てよ……御岳みたけ大講会だいこうえともうすと、なにさま天下の評判ひょうばんごと、秀吉の家来けらいがまけてもこまるな」
「いや、けっして」
当日とうじつ兵法試合へいほうじあいのうち、軍学大論議ぐんがくだいろんぎのあることは、あれから甲州流こうしゅうりゅう陣法じんぽうが生まれたというくらい有名ゆうめいなものだが、そのほか、武道ぶどう試合しあいとしては、なんとなにか?」
「あえて、それにかぎりをもうけませぬ」
「うむ、そうか」
「たとえば、武道ぶどう表芸おもてげい弓術きゅうじゅつ剣法けんぽうはもちろんのこと、火術かじゅつ棒術ぼうじゅつ十手術じってじゅつくさり鉄球てっきゅう手裏剣しゅりけん飛道具とびどうぐもよし、あるいは築城ちくじょう縄取なわどりくらべ、伊賀いが甲賀こうが忍法しのびほうも試合にいれ、かの幻術げんじゅつしょうする一わざでも、自信のあるものは立合たちあいをゆるすつもりでございます」
 信濃守しなののかみがしゃべっていると、ちょうッ、と秀吉よこ手を打って、
「いや、なかなかおもしろそうだな」
 と、話のさきを折ッぺしょった。そして、
「ほんとうは、この秀吉が若ければ、自分ででかけたいところなのだが、まさか、そうもなるまい。イヤ、お使者の口上こうじょうあいわかった。いずれ当日とうじつまでにだれか人選じんせんして武州ぶしゅうへつかわすであろう。家康いえやすどのによろしくご返事を。どれ、一ツ外濠そとぼり作事さくじを見まわろうか」
 陣羽織じんばおりをきらめかせて立ちあがった。
 信濃守しなののかみ目礼もくれいして宿所しゅくしょへかえる。
 ところがその翌日よくじつ、秀吉は木ののあたらしい本丸ほんまるの一しつへ、福島市松ふくしまいちまつをひとりだけんで、
「いかんわい」
 と、おもしろくない顔をしてつぶやいた。
「なんでいけませんか」
 市松にはわからない。
 秀吉はときどき、尾張おわり中村なかむらで村の餓鬼大将がきだいしょうだった時代のような言葉づかいを、ちょいちょいつかう。
 もっともそれは、当時とうじからの腕白仲間わんぱくなかま鍛冶屋かじや虎之助とらのすけ桶屋おけやの市松などと、さしむかいでいる時にかぎってはいたが。
 で――いまもその市松とふたりきりで対坐たいざしていたので、
「いかんぞ、いかんぞ、ゆだんもスキもなりはしない。まだすっかりできあがらぬうちに、この大坂城おおさかじょう縄取なわど構造こうぞう浜松はままつたぬきめがぬすみおった」
 と、水瓜すいかばたけへ泥棒どろぼうがはいったように、口をひんまげて考えこんだ。

ひとりさがす子・ふたりの子




 この摂津せっつ要害ようがい金城鉄壁きんじょうてっぺきをきずかれたのは、たしかに家康いえやすのほうにとってありがたくない目の上のこぶにはちがいない。
 しかし、その家康が、いつこの大坂城の縄取なわどりをぬすんだというのか、福島市松ふくしまいちまつには主君のいうことがさっぱりせないふうで、へんな顔をしてきいていた。
「わからないと申すか、はてさて、魯鈍ろどんな頭よな」
 と、秀吉ひでよしは、説明してやった。
武州ぶしゅう御岳みたけ兵法大講会へいほうだいこうえについてわざわざ鄭重ていちょうに使いをよこしたのは、すこしみょうなと考えていたが、あれはの市松いちまつ、やっぱり家康めのさくであった」
「ほう、ではかれの策略さくりゃくなので」
「というほどのことでもないが、まア用達ようたしのついでだな、ころんでもただは起きないのが、あの男のもちまえ、きのうの使者三名のうちに、ひとり隠密おんみつ達者たっしゃなやつをまぜてよこした」
伊賀者いがものを使者の人数にまぜてよこすは非礼ひれいばん、どうしてそれがおわかりになりましたか」
「昨夜作事門さくじもんをのり越えて、本丸、二ノ丸のようすをうかがっていたやつがある。しかし、このほうにもすきがなかったので、じゅうぶん図面ずめんをうつしとることもできず、風のごとくげうせたから、さだめし遠州えんしゅうの使者も宿所しゅくしょをはらって、けさは早朝に帰国したのであろう」
「はてな、さようでございましょうか」
魯鈍ろどん、魯鈍、そちはこんなにくわしく話されてもまだ感づかないのか」
「でも、あまりふしぎに思われますので」
「なにがふしぎ」
「おかみには昨夜ご酒宴しゅえんで、いたくおいあそばしました」
「ウーム、よいきげんだった」
拙者せっしゃはつぎの宿直とのいにひかえておりましたが、鼾声かんせいらいのごとく、夜明けまでお目ざめのようすもなかったのに、なんとしてそんなことがおわかりでございましょうや」
「ウム、一あるな、ではじつを申さねばなるまい、まことは昨夜その伊賀者いがもの潜入せんにゅうを知ったのはかの源次郎げんじろうが働きじゃ」
「源次郎と申しますと?」
「お、家臣かしんの者ではないから、そちはまだ知らぬとみえる。かの信州しんしゅう上田城うえだじょうから質子ちしとしてきている真田昌幸さなだまさゆきのせがれ源次郎がことじゃ」
「それなら、うわさにうけたまわっております」
「で――こんどの兵学大講会へいがくだいこうえだが、その真田源次郎、まだ二十歳はたちにならぬ若年じゃくねんものとはいえ、父昌幸、兄信幸のぶゆきにもまさる兵学者へいがくしゃ、一つあれをやろうと思うがどうだ」
「よろしかろうとぞんじます」
「それにくわえて、そちの家来けらい可児才蔵かにさいぞう
 と、秀吉ひでよしはじゅんにゆびを折りだして、
虎之助とらのすけのかわいがっておる井上大九郎いのうえだいくろう、この三名をつかわそう。日もはやせっぱくしておることゆえ、すぐ出立しゅったつさせるがよい」
 豊臣家とよとみけ代表者だいひょうしゃとして、御岳みたけの兵法大講会に参加さんかするめいがくだって、可児、井上、真田の三大坂表おおさかおもて発足ほっそくしたのは、その翌々日よくよくじつのことだった。
 山崎やまざき合戦かっせんてき生首なまくびささにとおしてかけあるくほどはたらいて、笹の才蔵といいはやされた可児。
 壮漢そうかん木村又蔵きむらまたぞうとならんで、加藤かとう龍虎りゅうこといわれている井上大九郎。
 それについていった真田源次郎というのは、ついこのあいだ信州から質子として大坂へきたばかりの田舎者いなかもの、いたって無口むくちで、年も他のふたりよりは若く、ながい道中どうちゅうも、ただむッつりとしてあるいているが、秀吉ひでよし犀眼さいがんが、はやくも見こんでいるとおり、後年太閤たいこう阿弥陀峰頭あみだほうとうの土としてのち、孤立こりつ大坂城おおさかじょうをひとりで背負せおって、関東かんとう老獪将軍ろうかいしょうぐん大御所おおごしょきもをしばしばやした、稀世きせい大軍師だいぐんし真田幸村さなだゆきむらとは、まったくこの源次郎だったのである。
 だが、のちの大軍師だいぐんし幸村ゆきむらも、この時はまだ才蔵さいぞうよりも大九郎よりも後輩こうはいであったし、上田城うえだじょう城主じょうしゅ昌幸まさゆきの子とはいいながら、質子ちしとしてきている身分みぶんなので、なにかにつけて肩身かたみがせまい。
 大九郎は大酒家たいしゅかで、道中もときどき源次郎に世話せわをやかせてテコずらした。
 才蔵は御岳みたけにつくまで、じゅうぶんうでをきたえておこうというので宿やどへつくと稽古槍けいこやりりて、源次郎をワラ人形にんぎょうのようにきたおす。
 太刀たちを持っては大九郎にかなわず、槍をとっては才蔵に向かえなかった。それでも源次郎は謙遜無口で、よく大九郎のめんどうをみたり、才蔵に槍の教えをうけたりしながら、順路じゅんろ東海道とうかいどうたびをはかどっていた。
 浜松はままつ城下じょうかへついたばん
「一つ皮肉ひにくに、せんだって使者にまじってきた、菊池半助きくちはんすけをたずねて、一晩ひとばんめてくれともうしこんで見ようじゃないか」
 大九郎の発意ほついで、いたらこのあいだのことを揶揄やゆしてやろうぐらいな考え、伊賀組いがぐみ屋敷やしきへおしかけていってみたが、
うんのいいやつめ」
 と、大九郎だいくろう門前もんぜんから苦笑くしょうしながらもどってきた。
 もう菊池半助きくちはんすけも、家中かちゅうの人々とともに、武州ぶしゅう御岳みたけ発足ほっそくしていて留守るすだった。
 やむなく町へでて、ぶらぶら旅籠はたごをさがしていると、
「おや、可児才蔵かにさいぞうさまじゃござんせんか」
 と前にかがんで、なれなれしく人の顔をのぞきこんだ町人ちょうにんがある。
「だれだ、そのほうは」
「お忘れですかい、わっしゃあ裾野すそのでお目にかかったことがあります。へい、一ばん最初は釜無川かまなしがわ河原かわらでね」
「釜無川の河原で?」
「さようでございます。あの時あなたは、鳥刺とりさしのふうていで人穴城ひとあなじょうをご見物けんぶつにいらっしたんでがしょう。忘れやしません、わっしが河原で竹童ちくどうを取ッちめていると、そこへ飛んできて、ひどい目にあわせなすったじゃございませんか」
「おお、そうか」
「やっと思いだしましたね」
「それではきさまは、和田呂宋兵衛わだるそんべえ手下てした早足はやあし燕作えんさくだったか」
「その燕作でございますよ、どうも旦那だんな、おひさしぶりで……むかしはてきだの味方みかただのといっていましたが、いまはやっと、だいぶ天下もしずまりましたし、人穴城ひとあなじょうけっちまうし、家康いえやすさまと秀吉ひでよしさまも、なかよくつき合っているご時世じせいですから、こちとらなどは、なんのうらみもくそもありゃしません」
「そうだが、このさきはわからないが、とにかくいまのところでは天下平静へいせい御岳みたけ兵学大講会へいがくだいこうえも、今年はさだめしにぎわしかろう」
「お、じゃ、旦那方だんながたもおでかけですか」
「なにものうはないが、見物けんぶつにな」
「ごじょうだんでござんしょう」
 燕作えんさくはイヤなわらいかたをして、
「おととい、呂宋兵衛るそんべえもあちらへでかけましたよ」
「ほう、あれもまいったか」
家康いえやすさまのおさしずで、当日とうじつは、南蛮流なんばんりゅう幻術げんじゅつ公開こうかいしてみせるそうで」
「あの、蚕婆かいこばばあはそのいかがいたしたな」
「あいかわらず、達者たっしゃなもんでございますよ、ただ裾野すそのにいたころとすこしちがってきたのは、呂宋兵衛にかぶれて、女修道者イルマンのくろい着物きものをきているぐらいなもンでげす」
「おまえはゆかないのか」
「わっしでございますか……」
 と燕作はあたまに手をのせて――。
「わっしはまだごゆるりとあとからでかけますつもりで」
「そうゆうゆうと落ちついていると、もう試合しあい当日とうじつにあわなくなるぞ」
「なアに大丈夫だいじょうぶ、これでごンす」
 と、燕作えんさくは足のひざぶしをピッシャリとたたいて、
孫悟空そんごくうじゃござんせんが、早足はやあしの燕作、一番あとからかけつけましても、こういう筋斗雲きんとうんがございますから……へへへへことによると、あとからいって、いずれあちらでわっしの方がお待ちするようなことになるかも知れませんて。……へい、じゃあごきげんよろしゅう、さようなら」
 と、横町へかけこんだ。


 織田おだ今川いまがわのほろびたのちは、家康いえやす領地りょうちざかいは小田原おだわら北条氏直ほうじょううじなおととなり合って、碁盤ごばんの石の目をあさるように武州ぶしゅう甲州こうしゅう上州じょうしゅうあたりの空地あきちをたがいにりあっている。
 その小田原でも、御岳みたけのうわさはたいへんなものだ。
 徳川家とくがわけからでる和田呂宋兵衛わだるそんべえがきのう箱根はこねをとおった。お小姓こしょうとんぼぐみ連中れんじゅうがうつくしい行列ぎょうれつりこんでいった。菊池半助きくちはんすけがいった。やれだれがとおった。なんのなにがしもくりこんでいったと、小田原城おだわらじょうの若ざむらいはをわかしていた。
 なんにつけても氏直は、いま、四りん虚勢きょせいっているところだ。
当家とうけ武芸ぶげいのほどをしめしてやれ」
 と、これは秀吉ひでよしよりも大のり気で、すでに城内じょうない数度すうど下試合したじあいをやらせたうえ、家中かちゅうから選抜せんばつして武芸者ぶげいしゃ十名、鎖帷子組くさりかたびらぐみとなづけてめいめいにおなじよそおいをさせ、応援おうえんとして若ざむらい百二十人をそえ、示威じいどうどうとして、足柄裏街道あしがらうらかいどうから甲州路こうしゅうじをぬけて、武州ぶしゅう御岳みたけ参加さんかすることになった。
「ほう、あれや小田原おだわら北条ほうじょうだな」
 その人数と、ちょうど位牌いはいたけ追分おいわけでぶつかった井上大九郎いのうえだいくろう、つれのふたりをかえりみて、
いくさにはあまりつよくない連中れんじゅうだから、せめて試合しあいに勝とうというんだろう」
 大口おおぐちをあいてわらいながらいった。
「よせよせ、大九郎」
 才蔵さいぞうは、道ばたにって、その人数をわざとやりごしてから、
「大きな声をすると聞えるじゃないか」
「聞えたって、なあに、かまうもんか。なにかいったらしずたけで、すこしらなかったこしものに、生血いきち馳走ちそうさせてやるさ」
「すぐそんな気になってはこまる。こんどの御岳はただの武者修行むしゃしゅぎょうやなにかとちがう。豊臣家とよとみけのおんをいただいてまいったことだから、もうすこし自重じちょうしてくれよ。え、大九郎」
 と、可児才蔵かにさいぞうかたをならべてゆきながら、さけにおいのたえない井上大九郎に、しきりと意見いけんしていた。
 いつもおとなしいのは真田源次郎さなだげんじろう
 ふたりの振分ふりわけまで自分のかたに持ってやって、もくもくとあるき、もくもくとあたりの山をながめ、時には立ちどまって、地理山川さんせんをふところがみにうつしている。
 さすが後年こうねんやまに身をかくしても、隠然いんぜん天下におもきをなした大軍師だいぐんし幸村ゆきむら、わかい時から人の知らない心がけがあった。
 ほどもなく、この人々も、小田原おだわらの人数も、甲州本街道こうしゅうほんかいどう迂回うかいして、岩殿山いわどのやま武田家滅亡たけだけめつぼうのあとをとむらいながら、御岳みたけへ、御岳へ、と近づいていった。
 御岳ののぼり口には、いくつもの小屋やうまや湯呑所ゆのみじょなどがっていた。いま山は紅葉もみじのまっさかりで、山腹さんぷく山上さんじょう、ところどころに鯨幕くじらまくやむらさきだんだらぞめ陣幕じんまくが、樹間じゅかんにひらめいて見える。
伊達家諸士だてけしょし控所ひかえじょ
上杉家諸士うえすぎけしょし溜場たまりば
北条家ほうじょうけ休息小屋きゅうそくごや
徳川家家臣とくがわけかしん寄合場よりあいば
 などとその小屋にはいちいち木札きふだがうってあって、各所かくしょものものしいありさま、すでに明日あすとせまってきた大講会広前だいこうえひろまえ試合しあいのしたくやなにかに活気かっきだっていたが、いま、天下大半たいはんのあるじ、豊臣家とよとみけにはなんのしたくもなく、見物けんぶつにまじってぶらりとやってきた三名は、さしずめ、そこらののしたにござでもしいて一晩ひとばん明かすよりほかにしかたがない。


 ふもとのすこし手まえにある御岳みたけ宿しゅく町中まちなかも、あしたから三日にわたる山上さんじょう盛観せいかんをみようとする諸国しょこく近郷きんごうの人々が、おびただしくりこんできていて、どこの旅籠はたごも人であふれ、民家みんかのき戸板といたをだして、そこに野宿のじゅくをする覚悟かくごのものが幾組いくくみとなく見うけられた。
 カアーン、カアーン
 かねをたたきながら、そこを通る地蔵行者じぞうぎょうじゃがあった。
 足でもいためているのか、おい背負せおっているその地蔵行者は右の足でびっこをひいていた。
 すこし歩いてはやすみ、すこしあるいては休みして、
 カアーン、カアーン……と行乞ぎょうこつの鉦をあわれげにたたく。
「まだおからだがおいとうございますか」
 こういって、いたいたしげに行者の足をみたのは、道づれになっている女の巡礼じゅんれい――坂東ばんどう三十三ヵしょふだなかにかけた女房にょうぼうである。
「いいや、もうたいしたことはございません」
 菊村宮内きくむらくないはさびしくわらって、
「おまえさんこそ、きょうはだいぶ歩きましたからさだめしつかれたであろうと、さっきからやす場所ばしょをさがしているが、どうも、たいへんなこんざつで……」
「ご心配しんぱいくださいますな、けっして、わたしはなんともありゃしませんで。ハイ、行者ぎょうじゃさまわたしはきのうのことを思いますと世の中には、ありがたいお人もあるものと思わずなみだがこぼれてしようがありません」
「なにをいいなさる。あれしきのこと」
「わたしの難儀なんぎ身代みがわりになって、あの人足にんそくたちに、打たれるやら、られるやら、それでも、おまえさまは手出てだしもせず、ジッとがまんしていなすったから、とうとう気絶きぜつしてしまいなされた」
「それでも、死ななかったのは、お地蔵じぞうさまのお加護かごです」
「わたしの眼から見ますと、あなたさまのおからだに、あの時、後光ごこうがさしていたようでした」
「とんでもない、わたしはくだらない凡人ぼんじんですよ」
 世間せけんおにはない。
 いまもふたりが立ち話をしていたごとく、その男女のすがたを見かけると、とある町家まちや軒下のきしたから、
「もしもし、お地蔵じぞうさん、ここへきてやすみなさいよ」
 と、しんせつにいってくれるものがある。
「ありがとうぞんじます」
 ふたりはていねいにこしをかがめてそこへはいり、おいをおろしてちゃ馳走ちそうになった。
 ここにも、明日あす御岳見物みたけけんぶつがどっさり話し合っていた。が、なにかの雑談ざつだんはしから、身の上をきかれて、女巡礼おんなじゅんれいなみだをうかべながらうつ向いてしまった。
 菊村宮内きくむらくないは、きのうはからず阿弥陀街道あみだかいどう茶店ちゃみせで、この女房にょうぼうがわるい街道人足かいどうにんそく迫害はくがいされているのをみかけて助けたことから、ここへくるまでのみちみちに、その身の上を聞いたので、
「わたしがかわって――と申しては、まことにさしでがましいようでござるが、なるべく多くの人さまに、聞いていただいたほうが、このかたのため、ぞんじているだけをお話しいたしますが」
 と、人なかでは、口のきけない巡礼の女房にかわって、
「じつはこのひとは、甲州こうしゅう水晶掘すいしょうほりの女房で、おときといいますが、わけがあって自分のひとりのをたずねあるいておるんです」
「へえ、子供をね……ふうむ……それやかわいそうなこった」
「どこかに、生きていれば十四、五になる男の児、おさない時に、伊勢参いせまいりのとちゅうではぐれたままなので、なんの証拠しょうこもなさそうですが、たッた一つ……」
「ふム、ふム」
 と、一同の目は、おとき宮内くないにあつまった。
「――たッた一つある手がかりは、そのなかに、お諏訪すわさまの禁厭まじないというてすえた、大きな虫のきゅうのあとがあることだけです」
「なるほど、なかにお諏訪すわさまの灸のあとがあれば、なんとか、いまに見つかるでしょう、あの灸点きゅうてん甲府こうふ近郷きんごうでやっているほか、あまりほかの国にはあんな大きなきゅうは見ないからの」
「まア、力をおとしなさんな」
坂東ばんどう三十三ヵしょ功力くりきでも、いまにきっと見つかりますよ」
 と、郷土ごうどの人たちのことばはあたたかく、わずかなかねをさいて合力ごうりきしたり、にぎめしをとってちゃをついでくれたりして、なぐさめてくれているうちに、いつか話がそれて、だれも気がつかないすきまだった。
 宮内くないにもだまって、巡礼じゅんれいのお時は、そこの軒下のきしたから走りだしていた。
 そして、さきへひとごみをいながら、せまい宿場しゅくばの人ごみをってゆく。
「あの子じゃないかしら?」
 と、お時は、さきへゆくひとりの少年をつけてゆくのだった。
 いつも、それではあとでがっかりするが、ちょうど思うころの年ごろの少年を見ると、お時は、どうしても、あとを追わずにはいられない。
「あの子かしら?」
 と思うと、その顔も、死んだおやじにているように見えてくるし、いまにもニッコリふりかえって、
「あッ! おッさん!」
 と飛びついてきやしまいかと思われるのだった。
「ああ、足が早い、足が早い、まあなんて足が早い子なんだろう。ちょっと、こっちをふり向いて、わたしに横顔よこがおでも見せてくれればいいのに」
 ててきた宮内くない心配しんぱいしていることも、いまはすっかりわすれてしまった。
 ――とも知らずに、さきへゆくのは十五、六のなりの大きな腕白小僧わんぱくこぞう
 ピキ、ピッピキ、トッピキピー
 ぶえをくちびるにてて、しきりと奇妙きみょうきてれつなちょうしで大人おとなをおどかしてゆく。
 どこかへ買物かいものにいってきたものとみえて、かたッぽの手にふろしきをさげている。そのふろしきがほとんど手にあるのを忘れて、
 ピキ、ピッピキ、トッピキピー
 木の葉笛で元気がいい。
「ああ、あれが自分の子だったら、どんなだろう」
 おとき夢中むちゅういかけた。
 そして、女の足ではくるしいほどいそいで、やっとうしろから追いつきかけたおときは、横へまわるようにけぬけて、その少年の横顔よこがおをのぞきこんだ。
 ――見ればあまりいい顔だちではない。すこしばかり青い鼻汁はなじるをたらしかけている。けれど、お時の目には、やっぱり死んだおやじにていた。
 なんとかして、話しかけてみたい。
 こんどはその気持につりこまれて、また見えがくれにつけていった。
「ちぇッ、ずいぶんありゃアがるな、宿しゅくからふもとまでは」
 四ツつじでそういって、ぶえですこしかッたるくなったぐきを、ほおの上からもんでいるところを見ると、それははなかけ卜斎ぼくさいのおともでこの御岳みたけへきて、ゆうべからふもとの小屋にまっている泣き虫蛾次郎がじろう
「そうだ……」
 なにがそうなのか、ひとりでコックリして、
「バカバカしいや、いまから帰ったって、また蛾次郎足をもめのこしをさすれのと、師匠ししょうにスリコみたいにこき使われちゃまいってしまう。どこかですこし、うまい道草はねえかしらなあ」
 ピキピッピッキ、トッピッピである。
 そこで蛾次郎は四ツ辻をうろうろまわって、なにか見世物小屋みせものごやでもないかと、つきみや神社じんじゃ境内けいだいへはいろうとした。
 ――と蛾次郎がじろう、ぎょろりと目をすえて、
「いけねえ、またへんなところでぶつかってしまったぞ」
 きゅう尻尾しっぽいたようすで、あとへもどると、とつぜんけ足になってどこかへ姿すがたをかくしてしまった。
「おやッ、あの子は」
 と、おときは手のうちのたまをとられたように、あッけにとられて失望しつぼうしたが、その目のまえに、すぐと、また同じような少年がひとり、つきみや境内けいだいからいきおいよくかけだしてきて、
「――蛾次だ!」
 と、石の狛犬こまいぬのそばに立って、のびをしながら、げたもののうしろ姿を見おくっているようす。
 すがたもている、年かっこうもたいしてちがうまい、ただ蛾次郎よりは少しがひくくまなざしやくちもとにりんとしたところがある。
 それもお時にははじめてみる少年――かの鞍馬くらま竹童ちくどうだった。
 だが、子をたずねまようお時の目には、ものかげからジイッとかずに見ていると、ああ煩悩ぼんのうにもふしぎ、この少年こそ、あるいは自分の子ではないか、あのお諏訪すわさまのきゅうのあとがなかにあるのではあるまいかと、まよえばまようほど思われてくるのであった。

兵法大講会へいほうだいこうえ




 いきおいよく、月ノ宮の境内けいだいからかけだしてきた竹童ちくどうは、自分とれかわりに、そこをすッ飛ぶようにげだしていったうしろ姿すがたへ、
「やッ、あいつめ!」
 石の狛犬こまいぬに手をかけてびあがりながら――。
蛾次がじだ、蛾次こうだ」
 と、なつめのような目をクルッとさせて、いつまでもそこに見おくっていた。
 そして、かれの姿が、犬ころのように、宿場しゅくばのはてへ見えなくなると、竹童はもうそれを放念ほうねんしたごとく、
「はてな、伊那丸いなまるさまやほかのかたがた……もうお見えになりそうなものだが」
 と、つぶやいて、べつな方角ほうがくへさまよわせたひとみを、ふと、狛犬のうしろにむけた。
 と――そのかげに見なれない巡礼じゅんれいすがたのおばさんがボンヤリと立っていて、自分のほうをあなのあくほど見つめていたので、竹童はボッと顔をあかくめ、あわてて眸をひッこめたが、おときのほうはものいいたげな微笑びしょうおくりながら、
ぼう、おまえは、いくつだネ?」
 と、そばへってきた。
 竹童はきまりが悪そうに、もじもじとあとへ足を引っこめた。見たこともない坂東ばんどうめぐ巡りの巡礼女じゅんれいおんなが、いきなり年をきいたりジロジロと顔ばかり見つめてくるのが、なんとなくうす気味きみのわるいようでもあった。
「いくツ? おめえは今年いくつになったえ?」
「…………」
うちはどこ?」
「…………」
「この御岳みたけのまわりかい、それとも、もっととお在郷ざいごうかね?」
「…………」
 竹童は小指こゆびつめをかんでいる。
 だれにでも、打てばひびく調子ちょうしで、鮮明率直せんめいそっちょくなことばのでるかれも、そのやさしい問いには一返辞へんじができないで、ただふしぎな巡礼のおばさんよと、あいての身なりをながめるのみだった。
 子をたずねる愛執あいしゅうやみ、生みのわが子をさがしあるく母性ぼせいのまよいに、ふしぎな錯覚さっかくを起しているおときは、相手のはにかみにも気がつかず、ただ(もしやこの子が)と思う一途いちずに、
「じゃあおめえは、両親ふたおやを持っているかね。――ほんとのとっつァんを知ってるけえ? おめえを生んだおッさんはどこにいる?」
 えて忘れていた一つのさびしさが、そのだしぬけなおときのことばに、ハッと、竹童ちくどうむねをうってきた。

ほろほろと
くやまどりの声きけば
父かとぞおもう
母かとぞおもう

 竹童はだれかに聞いたこの歌一つをおぼえていて、父を思うとき、母をおもうとき、寝床ねどこのなかやもりのかげでひとりこの歌をくりかえしくり返ししていると、いつもひとりでになみだがでてきた。
 かれは、生まれながらにして、父母ちちははを知らない。
 もの心ついたころから、鞍馬くらまおく僧正谷そうじょうがたに果心居士かしんこじにそだてられ、友とするものはさる鹿しかやむささびや怪鳥けちょうのたぐい、とあおぐ人も果心居士、父とうやまう人も居士、母とあまえる人も居士であった。
「おいらは、木のまたから生まれたんだ」
 ついこのあいだうちまで、かれはこう信じていた。
 しかし、やがて僧正谷そうじょうがたにから実世間じつせけんのなかへもまれだしてみて、はじめて、人間には両親ふたおやのあることを知った。
 父は六めんの神よりも力づよきはしら――、母は情体愛語じょうたいあいご女菩薩にょぼさつよりもやさしいまもり――その二つのものが人間にははしの下に生まれる子にもあるのを知った。
「だのに、なぜおいらには、それがないのかしら?」
 この疑問ぎもんがすすんで、竹童ちくどうもいつのころからか、じぶんの父は何人なんぴとか、自分の母はたれなのかと、人知れずしきりに思うようになっていた。


「それにおるのは竹童ではないか。竹童、竹童!」
 不意ふいに、かれの幻想げんそうとうつつな耳をさます声があった。
 おときに親をわれて、ゆめでもみるように、なにかボウと考えこみ、石の狛犬こまいぬとならんでゆびつめをかんでいた竹童は、近よる足音にハッとして目をそらした。
 ――と、かれの顔いッぱいに、意外いがいなよろこびにぶつかッた表情ひょうじょうわらいかがやいて、
「オオ、民部みんぶさま! や、伊那丸いなまるさまも」
 と、手をあげてむかえる。
 森の小道でもけてきたか、とつぜんそこへ姿すがたをみせた人々は、民部みんぶをさきに、伊那丸いなまるをなかに、うしろに山県蔦之助やまがたつたのすけ加賀見忍剣かがみにんけんのふたりをしたがえた旅装たびよそおいの一こう四名。
「竹童、よく達者たっしゃでいたな」
 と、蔦之助が手をにぎる。
 忍剣もかたへ手をのせて、
小太郎山こたろうざんへんいらい、そちの消息しょうそくがたえていたので、若君わかぎみをはじめ一とうの人たちが、どれほど、しんぱいしていたかわからぬ」
「あの、とりで留守番役るすばんやくおおせつかって、みなさまの帰らないうちに、あんなことになったもんですから……」
「もうそのことはいうな。おわびはわれわれからすんでおる。しかし、きさまどうしてこんなところにボンヤリと立っていたのだ」
明日あしたはいよいよ御岳みたけ大講会だいこうえ、その前日ぜんじつにはつきみやの森で、みなさまが落ち合うことになっているおやくそくだったそうですから、それで待ちどおしくッて、さっきからここに立っていたんです」
「ふム、きょうのやくそくをぞんじておるならば、龍太郎りゅうたろう小文治こぶんじのふたりと一しょになっていたのか」
「はい、おふたりは先について、森の垢離堂こりどうでお待ちです」
「そうか。ではすぐにそこへまいろうではないか」
 と、伊那丸いなまる藺笠いがさの前をさしうつ向けてさきに立つ。
 それにつづいて、忍剣にんけん民部みんぶ蔦之助つたのすけの三人がひさしぶりで邂逅かいこうした竹童ちくどうをなかに、みなが弟のごとく取りかこんで、したしげな話をかわしながら、つきみや境内けいだいふかくしずしずとあゆみってゆく。
 あとには、ホウ、ホウ、と山鳩やまばとくのがさびしげに……
 そして、ひとりぼッち、あとに取りのこされた巡礼じゅんれいのおときは、孤寂こじゃくなかげをションボリたたずませて、る者のうしろ姿すがたをのびあがりながら、
「アア……あの子もちがっていたのかしら?」
 とつぶやいて、どこかに聞えるあわれっぽい鳩笛はとぶえに、なんとはなくなみだをさそわれて、あかじみた旅衣たびごろもそでに、思わずホロホロと涙をこぼした。
「おう、そこにいましたね、おときさん。いや、いきがきれた息がきれた。不意ふいに人をうっちゃってこんなところへきてしまうのはひどいじゃないか、いくらあとからかえしてもふり向きもしないで」
 と、そこへいついてきたのは、あの慈顔じがんみをうかべた地蔵行者じぞうぎょうじゃ菊村宮内きくむらくない
「ああ、宮内さま」
「おや、いていましたな」
「まだ目のさきにチラチラする。ほんとにうり二つじゃ、あんなようた子供が、どうしてわしの子でないのかしら」
「いやいや、おさな顔はかわるもの、似たというものはあてになりません」
「でも、なんだか、あのふたりのどッちかは、わしの子にちがいないような気がしてなんねえのでがす」
「じゃ、おまえさんのたずねる手がかり、あのお諏訪すわさまの禁厭灸まじないきゅうが、その子のなかにあるのでも見たのですか」
「いいえ、そら、どうやらとんと知らんけれど……」
「では――まよいでしょう。おそらくそれは親心おやごころ煩悩ぼんのうでしょう。――迷いのきりをへだてて見れば、れ木も花と見え、えんなき他人ひとさまの子供でも、自分の子かと見えてくるのが、人情にんじょうのとうぜん。――まあまあ、そう気がみじこうては、自身のからだをやつれさすばかり、それではなが年月としつきに、わが子をさがそうという巡礼じゅんれいたびがつづきません。ただひたすら、めぐりあう日は神仏しんぶつのおむねにまかせて、坂東ばんどう三十三ヵしょのみたまいのりをおかけなさい。……わたしもさいわい、地蔵愛じぞうあい遍歴者へんれきしゃ、およばぬながらも同行どうぎょうになって、ともどもさがしてしんぜましょうから」
 と、宮内くないはおときをなぐさめた。
 そしてふたりは、月ノ宮の御籠堂おこもりどうおいをおろしたが、古莚ふるむしろにつめたいゆめのむすばれぬまま、くこおろぎとともにもすがら詠歌えいかをささげて、秋の長夜ながよを明かしていた。


 塩市しおいち馬市うまいちぼん草市くさいちが一しょくたにやってきたように、夜になると、御岳みたけふもとの宿しゅく提灯ちょうちんすずなり、なにがなにやら、くろい人の雑沓ざっとうとまッであった。
 諸国しょこく諸道しょどうからここに雲集うんしゅうした人々は、あすの日を待ちかまえて、空を気にしたり、足ごしらえの用意よういをしたり、またはその日の予想よそう往年おうねんの思い出ばなしなどで、どこの宿屋やどやもすしづめのさわぎ。
「よウ、京都の葵祭あおいまつりにも人出ひとではあるが、この甲斐かい山奥やまおくへ、こんなに人間があつまってくるたあ豪勢ごうせいなもンだなあ……」
 と、その町なかの一けん旗亭きていの二かいで、まどから首をだして、のんきに下をながめている男が感心していた。
 なるほど、往来おうらいをみていると、宿やどをとれずにかけあっている田舎武士いなかざむらいや、酒気しゅきをおびている町人ちょうにんや、れをよんでいる百姓ひゃくしょうや、えッさえッさと早駕はやかごで、おくればせに遠地えんちからけつけてくる試合しあい参加者さんかしゃ
 そうかと思うと、鮨売すしうりの声やもろこし団子だんご味噌田楽みそでんがくい物屋、悠長ゆうちょう尺八しゃくはちをながしてあるく虚無僧こむそうがあるかと思えば、ひなびた楽器がっきをかき鳴らしてゆく旅芸人たびげいにんかさのむれ――。
 なかでも一ばん売れているのは四ツつじ松明売たいまつうりだ。
「夜があけてから山をのぼってゆくようじゃ、とてもいい場所ばしょ見物けんぶつはできないぞ」
 というので、気のはやい連中れんじゅうが十七もん松明たいまつをふりたて、そのばんのうちからドンドンドンドン御岳みたけの山へかかってゆく。
 それがふもとから見ると、狐火きつねびのように美しい。
「ウーム、どうでい、ありゃあ。まるで大文字山だいもんじやま火祭ひまつりのようだな」
 この男、京都にいたことがあるとみえて、旗亭きていの二かいから首をだして、そのながめを大文字山の火祭に見立みたてた。
 だれかと思うと、早足はやあし燕作えんさくだ。
 と――燕作、
「おッ、連中がやってきた」
 と、そこから店の軒下のきしたをのぞいて、あわてて首を引っこめたが、つぎ部屋へやへヒョイときて、
「おかしら。きましたぜ、おそろいで」
「ウム」
 と、うなずいたのは和田呂宋兵衛わだるそんべえである。
 蚕婆かいこばばあ丹羽昌仙にわしょうせんのふたりを相手に、さいぜんからさけを飲みながら、だれかのくるのを待ちあわせていたらしい。
「一同、ご微行びこうだろうな」
「へい、ぞろぞろと編笠あみがさが七ツばかり、いま、階下した門口かどぐちへはいってきました」
「じゃあ、おむかえに」
 と目くばせすると、丹羽昌仙にわしょうせんが立ちあがって階下したりてゆく。
 もなくそこへあがってきたのは、隠密組おんみつぐみ菊池半助きくちはんすけ、おなじ組下くみした綿貫三八わたぬきさんぱち、それに今度の兵学大講会へいがくだいこうえ試合目付しあいめつけとして働いている大久保長安おおくぼながやす家臣かしんが四、五人――ただし、そのなかには客分格きゃくぶんかくはなかけ卜斎ぼくさいがまじっていて、そのまたうしろには泣き虫の蛾次郎がじろう、鼻をふいてひかえていた。
 そこでゾロリと車座くるまざになった。
 ここに首をせあつめたものは、みな徳川家とくがわけいきがかかっている者ばかり。なにかしらないが、話はあしたの相談そうだんとみえて、一間ひとまをピッタリめきった。
「およそ、明日あす試合順しあいじゅんはきまりましたかな」
 と、呂宋兵衛るそんべえがしきりに気にかけている。
 かれはこんどの大講会で、南蛮流幻術なんばんりゅうげんじゅつ秘法ひほうをもって、日本伝来にほんでんらい道士どうしがやる法術ほうじゅつ幼稚拙劣ようちせつれつなことを公衆こうしゅうにしめしてやると、浜松はままつを立ってくるとき、家康いえやすのまえで豪語ごうごしてきた。
 首尾しゅびよくゆけば、この機会きかい大禄たいろくで家康にめしかかえられそうだし、まずくゆくと、またぞろ、ていよくいはらわれて、もとの野衾のぶすまに立ちかえらなければならない。
 で、非常な緊張きんちょうぶりだ。
 それにつれて芋蔓いもづる出世しゅっせをゆめみている丹羽昌仙にわしょうせんも、吹針ふきばり蚕婆かいこばばあも、はれの御岳みたけでそれぞれ武名ぶめいをあげる算段さんだん、今から用意よういおさおさおこたりないところである。
「いや、試合順しあいじゅんはきまりませぬ。御岳みたけ兵法大講会へいほうだいこうえ主旨しゅしは、世にかくれたる人材じんざいをひろいだすのが目的もくてきでもござれば」
 と、大久保家おおくぼけ家臣かしん釈明しゃくめいした。
 丹羽昌仙がつぎに小声こごえで、
「なるほど、では当日とうじつには、だいぶりもございますな」
「ただいまのところ、表向おもてむ大講会奉行所だいこうえぶぎょうしょまで参加さんかを申しだしてあるものはこれだけであるが、当日とうじつにいたって、かくれた麒麟きりん蛟龍こうりゅうのたぐいが、ぞくぞくとあらわれる見こみです」
 と、せき中央ちゅうおうへ、多くの兵学者へいがくしゃ武芸者ぶげいしゃの名をしるした着到帳ちゃくとうちょうをくりひろげた。
「ふウむ……」
 と、呂宋兵衛るそんべえをはじめ、卜斎ぼくさい半助はんすけ、一同の首がそれにびて順々じゅんじゅんにひろい読みしてゆくと、自署じしょされた有名ゆうめい無名むめいのうちに、ちょッと目につくものだけでも大へんなもの。
 まず軍学部ぐんがくぶでは――

氏隆流うじたかりゅう  岡本鴻雲斎おかもとこううんさい浪人ろうにん
謙信けんしんとくりゅう  大道寺友仙だいどうじゆうせん上杉家うえすぎけ
早雲流相伝そううんりゅうそうでん  沢崎主水さわざきもんど北条家ほうじょうけ
楠流後学くすのきりゅうこうがく  三木道八みきどうはち浪人ろうにん
孔明流こうめいりゅう  真田源次郎さなだげんじろう豊臣家とよとみけ

 そのほか異流いりゅうもさまざまに署名しょめいがあったが、ひとり甲州流こうしゅうりゅう標榜ひょうぼうする軍学者ぐんがくしゃだけが見あたらない。
 これは武田家たけだけ滅亡めつぼうをまのあたりに見ているので、その亜流ありゅうをきらった人気にんきのあらわれともみられる。
 つぎに、剣道部けんどうぶ着到順ちゃくとうじゅんは、

りゅう  諸岡一羽もろおかいちう浪人ろうにん
愛洲陰流あいずかげりゅう  疋田浮月斎ひきだふげつさい虚無僧こむそう
吉岡流よしおかりゅう  祇園藤次ぎおんとうじ京都町人きょうとちょうにん
とうりゅう  慈音じおん鎌倉地福寺学僧かまくらじふくじがくそう
心貫流しんかんりゅう  丸目文之進まるめぶんのしん伊達家だてけ

 などで、ちょっとはしからみてもその階級かいきゅうさまざまで人数ももっとも多いけれど、射術しゃじゅつ馬術ばじゅつの方になると、およそ世上せじょう定評ていひょうのある一りゅうの人やその門下もんかの名が多い。
 しかし築城家ちくじょうかのほうはどうだろうと、はなかけ卜斎ぼくさいはそこに目をすいつけ、呂宋兵衛るそんべえ法術部ほうじゅつぶを気にし、菊池半助きくちはんすけがそれと同じように忍法部にんぽうぶ試合相手しあいあいての名をながめているのは、とうぜんな人情にんじょうだった。
 その忍法部に署名しょめいされているものは――

百地流ももちりゅう  霧隠才蔵きりがくれさいぞう浪人ろうにん
魔風流まかぜりゅう  魔風来太郎まかぜらいたろう伊賀郷士いがごうし
同流どうりゅう  永井源五郎ながいげんごろう(浪人)
愛洲移香流あいずいこうりゅう  天狗太郎てんぐたろう(浪人)
戸沢流とざわりゅう  猿飛佐助さるとびさすけ(浪人)
甲賀流こうがりゅう  虎若丸とらわかまる甲賀郷士こうがごうし

 などという人々で、その名を見るからに菊池半助のこんどの試合しあいはすこぶる苦境くきょうにあるらしく、
「ウーム、猿飛もきているか……」
 と、うめくようにいってあごをおさえたままかがんでいる。
 では、築城術ちくじょうじゅつ論議試合ろんぎじあいもくされている方などは、その人がすくないかと思うと、これにも相当そうとうきこえた人物の名が見えるのはさすがに戦国の学風によるものか、

天鼓流てんこりゅう  村上賛之丞むらかみさんのじょう越後領えちごりょう
しゃりゅう  牧野雷堂まきのらいどう(四こくりょう
月花流げっかりゅう  柳川佐太夫やながわさだゆう熊本領くまもとりょう

 もっともこのうちには、しろ工匠こうしょうか、地水縄取ちすいなわどりの専門家せんもんかとかがまじっているが、上部八風斎かんべはっぷうさいはなかけ卜斎ぼくさいにしても、この人々と築城論試合ちくじょうろんじあいをして勝抜かちぬきにいいやぶることは、なかなか楽とは思われない。
 ただ、さすがに人のないのは、法術師ほうじゅつし幻術家げんじゅつかで、ここにはたッたひとりの名がぽつんとしるされてあるばかりで、しかもその名が聞いたこともない。

役小角後学えんのしょうかくこうがく  烏龍道人うりゅうどうにん信州しんしゅう黒姫くろひめ

 という人物。
 こんな者は試合しあいにもおよばず、南蛮流幻術なんばんりゅうげんじゅついき一つできとばしてもすむことと、呂宋兵衛るそんべえはすっかり安心してしまった。
 けれど大講会当日だいこうえとうじつ試合しあいはこれだけではない。まだ火術かじゅつ小具足術こぐそくじゅつやり薙刀なぎなたくさり手裏剣しゅりけんぼう武技ぶぎという武技、じゅつというじゅつ、あらゆるものがふくまれているのだから、はたして、たった三日のあいだに、それだけの試合しあいができるかどうかもうたがわしい。
 れのあしたを前にして、なにを密議みつぎするのか、そのばん徳川とくがわばたけの者ばかりが、首をあつめておそくまで声をひそめていた。
 そしてついに、その日はきたのである。
 暁雲ぎょううんをやぶる明けがたの一番太鼓だいこ
 御岳みたけのいただきからとうとうとながれてきた――。


 雲表うんぴょうをぬいて南に見えるのは富士ふじである。
 甲斐かい連山れんざん秩父ちちぶ峻峰しゅんぽうも、みなこの晴れの日を審議しんぎするもののように御岳のまわりをめぐっていた。
 頂上ちょうじょうには蔵王大権現ざおうだいごんげんのみやしろ
 遠いむかし――武神ぶしん日本武尊やまとたけるのみこと東征とうせいのお帰りに、地鎮じちんとして鉄甲てっこうけておかれたというその神地しんちは、いま、えんばかりな紅葉もみじのまッさかりだ。
 それを正面のたかき石段いしだんにあおいで、ひろい平地へいち周囲しゅういも、またそれからながめおろされる渓谷けいこくも、四の山もさわ万樹ばんじゅ鮮紅せんこうめられて、晩秋ばんしゅう大気たいきはすみきッている。
 と――。
 頂上の神前しんぜんで二ばん太鼓が鳴った。
 さわやかな秋風が、一陣、まッさかさまにいて、地上の紅葉もみじ天空てんくうへさらってゆく。
 広前ひろまえにはりめぐらした鯨幕くじらまく、またわかれわかれにじんどった諸家しょけ定紋幕じょうもんまくなみのようにハタハタと風をうつ。
 大講会だいこうえ第一日の朝――。
 群集ぐんしゅうはこのさわやかな試合場しあいじょう周囲しゅういに、のようにしずまっていた。三ばん太鼓だいこを待っていた。
 そのなかに伊那丸いなまるのすがたが見える。
 そばには帷幕いばくの人、小幡民部こばたみんぶ木隠龍太郎こがくれりゅうたろう山県蔦之助やまがたつたのすけ巽小文治たつみこぶんじ加賀見忍剣かがみにんけん鞍馬くらま竹童ちくどうみな一ツところにならんでいた。
 ただ咲耶子さくやこのすがたが見えない。
 源氏閣げんじかくのうえから大鷲おおわし羽風はかぜとともに姿すがたをかくした咲耶子はどうしたろうか?
 それはきょうまでの日に、竹童、龍太郎、小文治の三人が八方くまなくそうさくしてみたけれど、その消息しょうそくられなかったので、やむをえず伊那丸いなまるとのやくそくもあるので、いちじ断念だんねんして、参会さんかいしたのであった。
「まだ大講会は開かれませんか」
 小文治が民部にはなしかける。
「三番太鼓がなるのを合図あいずとして、あの祭壇さいだん御岳みたけ神官しんかんとあまたの御岳行者みたけぎょうじゃしきをやる。そして、黄母衣きほろ赤母衣あかほろ白母衣しろほろの三試合場しあいじょうを一じゅんし、大講会だいこうえ第一番の試合番組しあいばんぐみをふれてくるともなくかいあいずと同時に、あの祭壇さいだんの下にある大講会のむしろへ論客ろんかくがあがって、築城論議ちくじょうろんぎをやることと思われる」
「ほウ、では、最初は築城試合ちくじょうじあいでございますかな」
「昨年はそうであったとうけたまわる」
陣法じんぽう勝負などの場合ばあいは、やはり、論議だけでございましょうか」
足軽あしがる何百人ずつを借用しゃくようして、じっさいのじんあらそいになる場合もある」
壮観そうかんでござりましょうな」
 と、小文治はわかわかしい目をした。
 伊那丸いなまるはふたりの話を小耳こみみにはさんで、
「わしのおさないころは、なおさかんなものであった」
 と、とおい思い出をぶ。
「さようでござりましょうとも、信玄公しんげんこう在世ざいせいのころからくらべれば比較ひかくにならないと、町人ちょうにんたちもささやいております」
 忍剣にんけん恵林寺えりんじにいたころ、一年ひととせ、その盛時せいじを見たことがあるので追憶ついおくがふかい。
「おもえばむねんしごくな!」
 とつぜん、龍太郎りゅうたろうがこうふんした口調くちょうで、
「おいえ行事ぎょうじもいまは徳川とくがわ奉行ぶぎょうされて、御岳みたけ神前しんぜん武田菱たけだびしまく一はり見えませぬ」
 と、つよくいった。
「しかし、かりにおいえのかたちは滅尽めつじんするとも、ここに武田たけだの人あることを知らせてくれたい」
 と蔦之助つたのすけもそれにおうじる。
 忍剣にんけん伊那丸いなまるの前へズッとよって、なにかうごかぬ決意けついをしながら、
若君わかぎみ、昨夜もお願いいたしたとおり、兵法大講会へいほうだいこうえ故信玄公こしんげんこう甲斐かい武風ぶふうをあくまで天下にしめされた行事ぎょうじ、われわれが生涯しょうがいの思い出ともいたしとうぞんじますゆえ、なにとぞ大講会参加さんかの一闘士とうしとして飛びいりおゆるしくださいますよう」
 と、熱願ねつがんした。
 それは一同の希望きぼうで、ゆうべも月ノ宮の垢離堂こりどうで、血気けっき面々めんめんがみな口をそろえていうには、自分たちも闘士として出場しゅつじょうし、この秋の徳川家司宰とくがわけしさいのもとにおこなわれる大講会をして微塵みじんにしてやろうではないか――という意気いきがあがった。
痛快つうかいだ!」
「武田家の大行事だいぎょうじを徳川家に踏襲とうしゅうされるよりは、この秋かぎり根絶こんぜつさせろ」
「それこそわれわれの願うところ、ぜひとも試合しあいにでる」
をもって横行おうこうするやからの顔色がんしょくをなくしてやろうぞ」
「武田はほろびても人ほろびずと、天下に名のりをあげることにもなる」
 と、やむにやまれぬ鉄血てっけつが、ひざをまげて伊那丸にすがる。
 だが伊那丸いなまるは――ゆうべもいまも、
「ゆるす!」
 という一言ひとことを、かれらの熱望ねつぼうにたいしてよういにあたえないで、
「……だが、冷静れいせいにこうしてながめているのもおもしろかろう」
 と、微笑びしょうしているばかり。
 やなぎに風である。
 きみながらおにく態度たいど! とひそかに思いうらまれる。
 また、小幡民部こばたみんぶもあまり興味をもたない顔つきで、とりなしてくれるようすがない、それがほかの者をしていっそうジリジリさせた。
 うでにくうずく思いをのむとはこれだろう。
 龍太郎りゅうたろうしかり、小文治こぶんじしかり、蔦之助つたのすけ忍剣にんけんも、髀肉ひにくたんをもらしながら、四本のくさりでとめられた四ひきひょうのような眼光がんこうをそろえて両肱りょうひじっている。
 いきなり鳴った! その時である。
 ドウ――、ドウーン……
 耳をうつ、天空てんくうのこえ。
 これ、待ちに待った三ばん太鼓だいこと知られたから、御岳広前みたけひろまえ紅葉こうようのあいだにまッ黒にうずくまっている数万の群集ぐんしゅうが一どきに、ワーッと声をあわせたが、さすが霊山れいざん神前しんぜん、ことに厳粛げんしゅくきわまる武神ぶしん武人ぶじん大行事だいぎょうじ、おのずから人のえりをたださしめて、一しゅんののちは、まるで山雨さんうして万樹ばんじゅのいろのあらたまったように、シーンと鳴りしずまったまま、その空気だけがえかえってきた。
 と――。
 美妙びみょう楽奏がくそうが、ながれてくる。
 あおいでみると、かんさびたすぎこだちの御山みやまの、黒髪くろかみを分けたように見えるたかい石段いしだんのうえから、衣冠いかん神官しんかん緑衣りょくい伶人れいじん、それにつづいてあまたの御岳行人みたけぎょうにん白衣びゃくえをそろえて粛々しゅくしゅく広前ひろまえりてくる。
 白木しらき祭壇さいだんには四ほうざさの葉がそよぎ、御霊鏡みたまかがみが、白日はくじつのように光っている。
 伶人はにつき、白衣の行人はしろいれつだんの下へひらく。
 ゆるい和笛わてきにつれて、しょう、ひちりき、和琴わごん交響こうきょうが水のせせらぐごとく鳴りかなでる。
 のりとをあげた祭壇の神官、そのとき、バサッとへいをきって、直垂ひたたれそでをたくしあげ、四方へつるをならすしきをおこなってから紫白しはくふたいろこまかい紙片しへんをつかんで、だんの上から試合しあい広庭ひろにわゆきのようにまきちらす。
 ――この大講会だいこうえを見るなかれ!
 ――この大講会に邪兵じゃへいをうごかすなかれ!
 という意味いみをふくむ神地しんちきよめのしきである。
 この式がすむと同時に、大講会三日のあいだは、ぜったいにこのでは平常へいじょう敵味方てきみかたをわすれ、あだなくうらみなく、たとえ隣国りんごく交戦中こうせんちゅうでも、三日かん兵戈へいかをおさめて待つというのが武門ぶもんのとうぜんとされている。
 黄色いけむりが空へ走った。
 狼火のろしである。
 群集ぐんしゅうの目がそれへつりあがると、また、せきとした大地を、かつかつとける馬蹄ばていの音がおこっていた。
 三騎馬武者きばむしゃ――。
 これははなやかな甲冑かっちゅう陣太刀じんだちのよそおいで、黄母衣きほろ白母衣しろほろ赤母衣あかほろ、をにながし、ゆるいにじのように場内じょうないを一しゅうした。
 これ、母衣組目付ほろぐみめつけの番組ぶれで、すべて武田流たけだりゅう作法さほうどおりにおこなわれるものと見える。
 さて。
 いよいよ第一日の一ばん試合しあいは、太子流たいしりゅう強弓ごうきゅうをひく氏家十左衛門うじいえじゅうざえもんと、大和流やまとりゅう軟弓なんきゅうをとっての名人めいじん長谷川監物はせがわけんもつとの射術しゃじゅつくらべで口火くちびを切ることになった。
 従来じゅうらい築城試合ちくじょうじあいがさきであったが、ゆみ兵家へいか表道具おもてどうぐ、これがほんとだという意見いけんがある、あまり信玄しんげん遺風いふうをまねているのは、徳川家とくがわけとしても権威けんいにかかわるという議論ぎろんがあって、総奉行そうぶぎょう大久保長安おおくぼながやすもこのほうのあんをとった。
「オオ、始まったな」
「ウーム。どうもゆびをくわえているのはざんねんだな」
 と、忍剣にんけん龍太郎りゅうたろうは、底光そこびかりのする眼光をいよいよぎすましている。
 これを冷静れいせいにみるという伊那丸いなまるのことばは、余人よじんなら知らずこのの多い人たちへは、無理むりないましめ。
 ことに山県蔦之助やまがたつたのすけは、弓術きゅうじゅつは自分のはたけのものであるし、じしん得意とくいとする代々木流よよぎりゅうも、ひさしく、日輪巻にちりんまきゆみつがえをして、うでのスジを思うさまのばしたことがないから、ひと一ばい熱心に見入みいるのも道理どうりなわけ。
「ウーム……」
 とうなりながら、むね弦音つるおとを鳴らせ、口もきかずにうでばかりさすっているようすは、はたからみてもなんとも気のどくらしかった。

虚空こくうんだ栴檀刀せんだんとう




 太子流たいしりゅう作法さほう
 大和流やまとりゅう礼射れいしゃ
 それにはじまって、両派りょうは射術しゃじゅつくらべが、うなりいさましく、試合しあい口火くちびをきった。
 ひるすぎになって、西京さいきょう大家たいか大坪道禅おおつぼどうぜん馬術ばじゅつ母衣流ほろながしの見ごとなしきをはじめとし、一門の騎士きしあぶみをならしてをあらそい、ほかに剣道組けんどうぐみから数番の手合てあわせが開始されたが、すでに薄暮はくぼの時刻がせまって、その日の御岳みたけ平和裡へいわりに第一日のおわりをげた。
 兵法大講会へいほうだいこうえだい二日
 大衆たいしゅうはみなこの二日目に、多大な期待きたいをかけていた。
 最初の日は、あんがい、儀式作法ぎしきさほうの、目にきらびやかな番組ばかりが多く、龍攘虎搏りゅうじょうこはくともいうべき予期よきしていた火のでるような試合しあいがなかったので。
 果然かぜん――前の日よりもすさまじい群衆ぐんしゅう怒濤どとうが、御岳の頂上ちょうじょう矢来押やらいおしにつめかけた。
 武田伊那丸たけだいなまる民部みんぶをはじめ、あの一とうのひとびと、また鞍馬くらま竹童ちくどうも、その熱風のようなふんいきのなかにくるまされて、きょうはジッとかたずをのみ合っている。
 清浄せいじょうすなをしきつめてちりもとめない試合場しあいじょう中央ちゅうおうに、とみれば、黒皮くろかわ陣羽織じんばおりをつけた魁偉かいいな男と、菖蒲しょうぶいろの陣羽織をきた一名の若者とが、西と東のたまりからしずしずとあゆみだしている。
 ぼウーと陣貝じんがいがなった。
 とうとうたる太鼓たいこ、三だんに打ちひびいたとき、れいの三色の母衣武者ほろむしゃが、
築城試合ちくじょうじあい、築城試合」
 要所ようしょひかじょ伝令でんれいする。
 黒革くろかわ陣羽織じんばおり、これなん、もと柴田家しばたけ浪人ろうにん上部八風斎かんべはっぷうさいこと、あだ名はれいのはなかけ卜斎ぼくさいでとおる人物。
 菖蒲色しょうぶいろの若者をたれかと見れば、越後えちご上杉家うえすぎけ家来けらい天鼓流てんこりゅう築城家ちくじょうか村上賛之丞むらかみさんのじょう
 ふたりは床几しょうぎについてむかいあった。
 これはうで試合しあいではない。
 したの試合である。築城学論議ちくじょうがくろんぎである。
 群集ぐんしゅうは目よりも耳をすました。
 水を打ったようにしずまって、論議いかにと咳声しわぶきもしない。
 鼻かけ卜斎の上部八風斎、やおらかたをはり、軍扇ぐんせんいかめしくひざについて声たかく、
「築城に四そうあり、いかに?」
 と、第一問をだした。
 村上賛之丞、莞爾かんじとして、
兵法へいほうに申す、小河しょうがひがしにあるを田沢でんたくといい、流水りゅうすいみなみにあるを青龍せいりゅうとよび、西に道あるを朱雀すじゃくづけ、北に山あるを玄武げんぶ、林あるを白虎びゃっこしょうす」
「して、地形ちけいをえらぶには」
北高南低ほっこうなんてい城塞じょうさい善地ぜんち、水は南西にあるをありとしんず」
「三だんけんと申すは」
天嶮てんけん地嶮ちけん人嶮じんけんのこと」
山城やまじろ見立みたては」
地性ちせい水質すいしつによること、空論くうろんにては申されぬ」
 とはねつけて、こんどは賛之丞さんのじょうから卜斎ぼくさいにむかって反問はんもんをあびせかけた。
「いかに? たとえばこの御岳みたけの山に一じょうをきずくせつは?」
「むろん山城なれどいただきをきらい、中庸ちゅうよう地相ちそうくるわをひかえ、梅沢うめざわのすそに出丸でまるをきずき、大丹波おおたんばには望楼ぼうろうをおき、多摩たま長流ちょうりゅうほりとして、沢井さわい二俣尾ふたまたお木戸きどをそなえれば、武蔵野原むさしのはらつる兵もめったに落とすことはできない」
「あいやしかし!」
 と、賛之丞、いちだんこえを張りあげて、
「かりに、甲州路こうしゅうじより乱入らんにゅうする兵ありとすれば、一必定ひつじょう天目山てんもくざんより仙元せんげんの高きによって御岳みたけ俯瞰ふかんするものにそういござらん、その場合ばあいは?」
陰山陽向いんさんようこうのそなえ」
「ウーム、そのくばりは」
全山ぜんざん城地じょうちと見なし、十七ちょう外郭そとぐるわとし、龍眼りゅうがんの地に本丸ほんまるをきずき、虎口ここうに八門、懸崖けんがい雁木坂がんぎざか、五ぎょうはしら樹林じゅりんにてつつみ、城望じょうぼうのやぐらは黒渋くろしぶにてりかくし、天目山や仙元峠せんげんとうげなどより一目にのぞかれるような縄取なわどりはせぬ」
 と、はなかけ卜斎ぼくさい懸河けんがべんをふるってとうとうと一いきにいった。
 卜斎ぼくさい前身ぜんしんを知らずに、かれをただの鏃鍛冶やじりかじとばかり思っていた、大久保長安おおくぼながやす家来けらいたちは、少々あッけにとられている顔つき。
 だが卜斎の返答へんとう雄弁ゆうべんだけで、ところどころうまくごましているのをつらにくくおもった村上賛之丞むらかみさんのじょうは、ややげきして、
「さらばわん」とひらきなおり、
以上いじょう縄取なわどりによれば、多摩たま長流ちょうりゅう唯一ゆいつのたのみとし、武蔵野むさしの平地へいちと上流のてきにのみそなえをおかるるお考えのようにぞんずるが、かりに、御岳みたけうらにあたる御前山おんまえさん奇兵きへいをさし向け、西風にじょうじて火をはなたば、前方のけん城兵じょうへい墓穴はかあな、とりでも自滅じめつのほかはあるまいと思うがいかに」
 と、つッこんだ。
 卜斎、カラカラとあざわらって、
「おわかい! お若い! およそ築城の縄取りをなすにあたって、後方こうほうやぶれを思わぬ者やあらん」
「しからば火攻かこうふせぎは」
要所ようしょ伐林ばつりんするまでのこと」
樹木じゅもくるときは、しろ血脈けつみゃくたる水の手に水がれのおそれがあろう」
扇縄おうぎなわの一かくに、雨水うすいをたくわえておくまでのこと」
大夏たいか旱魃かんばつに、もし籠城ろうじょうとなったおりは」
掛樋かけひをもってうら山より秋川あきがわの水をひくときは、しろの水の手に水がれはござるまい」
兵法へいほうにいわく、天水てんすい危城きじょうたもつべし、工水こうすい名城めいじょうも保つべからず。――人体じんたい血脈けつみゃくともみるべき大事な一じょうの水を、掛樋でよばんなどとは築城ちくじょう逆法ぎゃくほう
「いや、逆法ではない」
「逆法とぞんずるッ」
貴殿きでん尊奉そんぽうなさる越後えちご天鼓流てんこりゅうでは、まだ作事さくじ築工ちっこう時勢じせいおくれのところがあるゆえ、それを逆法と思われるかも知らぬが、自分のしんずる越前えちぜん……」
 と、いいかけて、卜斎ぼくさい、グッとつまった。
 ――越前きたしょうの城をじっさいにきずいたわが八風流はっぷうりゅうでは! と、ここで卜斎、大見得おおみえをきっていばりたかったところなのであるが、なぜか、グッ……とまっになって、絶句ぜっくした。
 それをいうと、柴田勝家しばたかついえ遺臣いしんという、自分の前身ぜんしん暴露ばくろする。
 ほろびた柴田の残臣ざんしんを、まだねらっている者もたくさんあるし、ことに豊臣家とよとみけの者のいるところで、それをいうのは禁物きんもつだ。
 賛之丞さんのじょうは、ここぞとばかり、発矢はっし軍扇ぐんせんにぎりながら、
「ご自身のしんずるご流名りゅうめいはなにか」と、め立てた。
「う……」と、卜斎いよいよタジタジして、
「いや、わしは信じる」
「なにを」
逆法ぎゃくほうではない、けっして。逆法とはいわさん」
 と、すこぶるあいまいにゴマしたが、そのたいどにろうばいのようすがじゅうぶんに見えたから、一に静かな空気をやぶって、ドッという嘲声ちょうせいがわきかえり、さしも強情ごうじょう卜斎ぼくさい、ついに、半分紛失ふんしつしている小鼻こばなのわきへ、タラタラと脂汗あぶらあせをながしてしまった。


築城論ちくじょうろん、うち切り」
 奉行ぶぎょうの声がかかったので、卜斎はからくも引分ひきわけのていで引きさがったが、群集ぐんしゅう正直しょうじきである。村上賛之丞むらかみさんのじょうのたまりへむかって歓呼かんこびせた。
 八しゃりゅう築城家ちくじょうか牧野雷堂まきのらいどう
 それと――。
 月花流げっかりゅう柳川左太夫やながわさだゆう
 このふたりの論争ろんそうも、綿密めんみつ築城法ちくじょうほうのことから意見いけん衝突しょうとつし、しろ間道埋設かんどうまいせつ要点ようてんで、かなり論争ろんそうに火花をちらし合ったが、ついに八しゃりゅう敗北はいぼくとなって、月花流げっかりゅう熊本方くまもとがたでは、白扇はくせんをふって勝ちどきをあげた。
 だが、見物けんぶつは少々たいくつした。
 築城試合ちくじょうじあいも、じっさいに縄取なわどりの早さでも腕競うでくらべしてくれればありがたいが、議論ぎろんだけでは吾人ごじんには少しむずかしぎてかたがはるぞ、という顔つき。
 ところが――。
 そのあとですぐに、万雷ばんらいのごとき拍手はくしゅがおこった。
 相州そうしゅう鎌倉地福寺かまくらじふくじ学僧がくそう、一とうりゅうけん妙手みょうしゅとして聞えた慈音じおんというぼうさんのすがたが見えたからである。
 対手あいては?
 心貫流しんかんりゅう丸目文之進まるめぶんのしんだろう。イヤ、吉岡流よしおかりゅう祇園藤次ぎおんとうじだろう。なアに諸岡一羽もろおかいちうなら慈音じおんとちょうどいい勝負、などと衆人しゅうじん下馬評げばひょうからして、このほう活気かっきが立つ。
 思いきや、時にあなたなる西側にしがわ鯨幕くじらまくをしぼって、すらりと姿すがたをあらわした壮漢そうかんの手には、遠目とおめにもチカッと光る真槍しんそうが持たれていた。
ささ才蔵さいぞう! 笹の才蔵!」
 だれいうとなく喧伝けんでんした。
 山崎やまざき合戦かっせんで、てきの首がこしにつけきれず、ささにさして実検じっけんにそなえたというので、可児かにというよりも、ささ才蔵さいぞうの名のほうが民間みんかんにはしたしみがある。
 すなわち、こんど秀吉ひでよしのいいつけで、井上大九郎いのうえだいくろう真田源次郎さなだげんじろうともに、わずか三人きりで豊臣家とよとみけ代表だいひょうしてきた可児才蔵だ。
 才蔵のやり黒樫くろがし宗旦そうたんみがき。き身である。水がれそうだ。
 それを持って、すずしそうに、あるいてくる。
 白布しらぬの汗止あせどめ、キッチリとうしろにむすび、思いきってはかまを高くひっからげた姿すがた――群集ぐんしゅうのむかえる眼にもすずしかった。
 黙礼もくれいした。
 地福寺じふくじ慈音じおんささ才蔵さいぞう
 慈音はむろん僧形そうぎょうである。
 手には、タラリと長い木剣ぼっけん
 木剣とはいいながら枇杷びわしゃくすん薄刃うすばであるから、それは、真剣しんけんにもひとしいものだ。
 ひょっと、わき見をしていた者が見なおすと、もうそこにパッとすなが立っている。
 才蔵はやりをひくめにつけて慈音じおんせまらんとし、慈音の両眼りょうがんは中段にとった枇杷刀びわとうのミネにすわっている。
 見物けんぶつはハッといきをのんだが、そのとき、あなたの幔幕まんまくやこなたの鯨幕くじらまくのうちで、しゅんかん、ワーッというさむらいたちの声があがった。
 これ、槍術家そうじゅつかがわの者と、剣道方けんどうがたの者とが、しぜん、おのれのよるところへおもわずはっした声援せいえんと思われたが、それも、ただ一こくにして、パッタリとしずまる。
 おお、その時だ!
 才蔵の手がサッと槍をかくした。見ゆるはゆび穂先ほさきだけである。
 パン! と慈音のかたの上でとつぜんな音がした。


 やりは高くのびて、一じょうの光、ななめにたたきかわされている。
 才蔵さいぞうのひく手の早さ。
 ぶンとうなったのは二どめのき、まえのやり寸法すんぽうばいにのびていったように慈音じおん胸板むないたへ走ったが、
「かッ!」
 と、口をむすんだ地福寺じふくじの慈音、それをはずしたとたんに黒いらんったかのごとく、とうをふりかざして才蔵の手もとへおどった。
 だが! おそかった。
 ささの才蔵はうしろへ身をはね、白いやり穂先ほさき墨染すみぞめそでをぬって、慈音のきき手をくるわせた。
 明らかに勝負だった。
 やぶれた慈音は、衣紋えもんをただしてたまりへさがる。
 にわかにわいたのは剣道組けんどうぐみ
 試合目付しあいめつけつうじて、ささの才蔵へもう一勝負しょうぶとある。
 そして、愛洲陰流あいずかげりゅう疋田浮月斎ひきだふげつさい雪辱せつじょくにでたがやぶれ、香取流かとりりゅうのなにがしがまた敗れ、いよいよ試合しあいがコジれだして、なにかただならぬ凶雲きょううんを、この結末けつまつまねきはしまいかとあんじられるほど、一しゅ殺気さっき群集ぐんしゅう心理しんりをあっして、四ばん試合じあい、五番試合をいいつのる者も、それをぼうかんしている立場たちばの者も、なんとなくあらッぽい気分にねっしてきた。
「すこしおもしろくなってきたな」
「ウーム、こうこなくっちゃ、御岳みたけ兵法大講会へいほうだいこうえらしくない」
 と、ニッコリ顔を見あわせていたのは、その空気の一かくにあって、四のどよめきを愉快ゆかいがっていた忍剣にんけん龍太郎りゅうたろう
 小幡民部こばたみんぶはあいかわらずいたって無表情むひょうじょうにながめているし、伊那丸いなまる冷静れいせいなること、すこしもかわっていなかったが、うるさいのは竹童ちくどう
つよいなあ、才蔵さいぞうさまはまったく強い。あれは福島市松ふくしまいちまつ家来けらいでおいらはあのおじさんを知っている! あのおじさんと口をきいたことがある!」
 と、ひとりごとにこうふんしている。
 ざんねんそうに、うでをさすっていたのは、朱柄あかえやりをかついでいる巽小文治たつみこぶんじで、
「ウーン、おれも試合しあいにでてみたい!」
「だめだ」と、蔦之助つたのすけが、それをうけて、
「どうしても、若君わかぎみからおゆるしがでない」
「もういちど、おねがいして見ようじゃないか」
「じゃ、貴公きこうがいって見たまえ」
「蔦之助、おまえから一ツお願いしてみてくれ、たのむ、拙者せっしゃはもうがまんができない」
 と、コソコソささやいているのを耳にはさんだ忍剣にんけん、じつは、自分じしんが、だれよりもさっきからうでをウズかせていたおりなので、
民部みんぶさま、蔦之助つたのすけ小文治こぶんじが、あのように申していることゆえ、なんとか若君わかぎみにおすがりして、試合しあいくわわることおゆるしくださるよう、一つお取りなしを願いたいものでござるが……」
 民部は、忍剣の心を読んでいるように苦笑くしょうして、
「さあ、なんとおっしゃるか、おそばにおいであそばすから、おのおのがたじしんでお願いしてみたらよかろう」
 と、しごくアッサリしている。
「いかんわい」
 と、忍剣は頭をかいて、龍太郎りゅうたろうわきの下をソッとッついた。
「おい、後生ごしょうだ」
「なにが?」
尊公そんこうから若君へお願いしてくれ。だれにしたって、ここで一番日ごろの鬱憤うっぷんらして、うで夜泣よなきをなぐさめてやりたいのは、人情にんじょうじゃないか」
「そりゃ、拙者せっしゃにしても、木隠流こがくれりゅう戒刀かいとうをおもうぞんぶんふるってみたいのはやまやまだが」
「だから……尊公そんこうから若君へちょっと」
「む……ウ……」
 と、口のうちで返辞へんじをしたが、冷々れいれいと、あらぬかたへひとみをむけている伊那丸いなまるの顔を見ると、どうも、いいにくそうにして、貴公きこうがいいたまえ、イヤおまえがいえ、とたがいになすり合っているばかり。
 そんなことに、ふと目をはなしていたが、試合場しあいじょうのさわぎはいよいよ紛乱ふんらんして、母衣馬ほろうま目付めつけがものものしくかけまわり、なにか、番組急変ばんぐみきゅうへん太鼓たいこらしい合図あいずが、ふいに、ドーンと鳴ったので、忍剣にんけん小文治こぶんじも、ハッと、口をつぐんでそのほうへ目をやった。
 ――と見ると、ささ才蔵さいぞうは、うしろ姿すがたをこっちに向けて、勝ちすてに豊臣家とよとみけまくかげへ引ッこもうとしている。
 一方で怒号どごうがきこえた。
 将棋しょうぎだおしにやぶれた剣道方けんどうがた
 そのたまの幕があらしのようにゆれて、なにか、うずになった人間がもめている。
「待てッ。――可児才蔵かにさいぞうまてッ」
 制止せいしする目付役めつけやくをふりもぎって、とつぜん、かれのうしろ姿を追いかけた慓悍ひょうかんなる男があった。――これ祇園藤次ぎおんとうじだった。
 すわ!
 遺恨試合いこんじあい
「待てまてッ! 才蔵さいぞうッ、もう一勝負ひとしょうぶ
 藤次とうじ吉岡流小太刀よしおかりゅうこだち使つか
 右手めてに白みがきの栴檀刀せんだんとうを引ッさげていた。
 自分のひかまで帰って、いま、まくすそに手をかけようとしていた才蔵、
「よし!」
 いうが早いか、やりを持ちなおして、敢然かんぜん試合場しあいじょうのほうへ帰ってきたが、まだれいもすまないうちに血気けっきばしった祇園藤次ぎおんとうじが、颯然さつぜんとおどりかかった。
 立合たちあいの奉行ぶぎょう目付めつけが、なにか、制止せいしするような声をかけたが、騎虎きこ、耳にも入らばこそ。
「ひきょう、作法さほうを知らぬか!」
 と、しかりつけて、サッと槍を手もとにう。
 藤次はギクッとして、胸板むないたまもった。
 小太刀、ピッタリと青眼せいがん不動体ふどうたいに。
 だが、一せん! かまえはれて祇園藤次、タジタジッとあとへさがった。それを、いつめてゆく才蔵の足の拇指おやゆび
 それは真槍しんそうだ。
 遺恨試合いこんじあいとなった以上いじょうくであろう、にくを! 脾腹ひばらを!
 やわか! と必死ひっしな藤次、うしろのたまりでは仲間なかまの者は、ワーッと熱風ねっぷうのような声援せいえんおくったが、だめ、だめ、だめ、一しゃく、二尺、三尺――すでに七、八尺、やりいつめられた祇園藤次ぎおんとうじ
「ムムッ、おのれ!」
 て身にでて、われからバッと、反撥的はんぱつてきに打ちこんだ。
 そのとたんに、
 くよと見えた才蔵さいぞうやりが、片手かたてなぐりに藤次のたいをはらったが、パキン! というすさまじい音と一しょに、かれの手にあったしゃく三、四寸の白栴檀しろせんだん小太刀こだちが、槍ではねられたいきおいをくって、クルクルクルッととんぼのぼりに虚空こくうへ向かってすッ飛んだ。
 そして、藤次は?
 才蔵は?
 この勝敗しょうはいは?
 いや、ところが群集ぐんしゅうは一せつなに、試合しあい結果けっかをその脳裡のうりからッぽりわすれて、
「あ! あ! あ! あ! あッ!」
 と、空へ目をつってしまった。
 小太刀のちいさくなる空へ――。
 読者どくしゃよ。
 つぎにおこる驚天動地きょうてんどうち争闘そうとう御岳山上みたけさんじょうにおけるこのへん大眼目だいがんもくえがくために、あえて、ここに緩慢かんまん数行すうぎょうをついやす筆者ひっしゃ作心さくしん支度したくをゆるしたまえ。
 はしなくも、遺恨試合いこんじあいとなった激怒げきどのハズミに、才蔵さいぞうやりいきおいで、虚空こくうにとばされた白栴檀しろせんだん木太刀きだちが、そのとき、つつがなく地上に落ちてかえってくれば、なんのことはなかったのである。
 たとえ、才蔵さいぞう一身いっしんに一嫉視しっしはのこっても、のちに現出げんしゅつしたような、意外いがいな大事にはならなかったであろう。
 また、若き人たちの血気けっきを、ことなかれと、きょくりょくおさえめていた伊那丸いなまる民部みんぶも、なんのくろうなく、大講会だいこうえ行事ぎょうじ見納みおさめしたにちがいない。
 しかし、不測ふそく変事へんじは、いつも、こうして意表外いひょうがいなところから顔をだす。
 ――この大講会だいこうえを見るなかれ!
 ――この大講会に邪兵じゃへいをうごかすなかれ!
 神官しんかん祭壇さいだんにこう祈祷きとうしたが、あのハズミで飛んだ一ぺん木太刀きだちが、まッたく予想よそうもせぬ風雲ふううんを地上からむかえにいったものになろうとは、おそらく、御岳みたけの神の叡智えいちにもわからないのがほんとうであろう。

美女びじょてんあそ




 さて。
 空に高くとばされた栴檀せんだん木太刀きだち
 そのゆくえにつられて、いっせいに、空へうわむきになった群集ぐんしゅうのひとみは――ハッと一しゅんに、なにか異様いようなものにつきあたったかのように、
「あッ、あれ――」
 と、みょうな顔つきになった。
 たましいかれた顔。
 あッにとられた目。
 うつつ――無我むが――夢中むちゅう――の群集ぐんしゅう
 とたんに、
 ドウーッという空鳴そらなりが宇宙うちゅうをひくく走った。
 そして、まくのごときまッ黒な怪物かいぶつが、日輪にちりんの光を雄大ゆうだいつばさのかげにかくし、クルルッ――ときあがっていった栴檀刀せんだんとうを目がけて、どこからかまるで魔風まかぜのようにけおりてきたかと見ると、
 ガツン
 とばかりそのくちばしが、本能的ほんのうてきに空の木太刀きだちをくわえ取った。
わし
 ぼうぜんたる錯覚さっかくをドヤしつけられたしゅんかんに、
「オオうッ」
「あれよ、あれよ、あれ! ……」
 どよめき立った数万すうまん大衆たいしゅうは、その時まるでホジクリだされた虫のごとく、地上にあってまッ黒に蠢動しゅんどうし、ただ囂々ごうごう、ただ喧々けんけん、なにがなにやら、さけぶこえ、わめくこえ、それともうもうたる黄塵こうじん万丈ばんじょう
 ただ、試合しあいにばかり気をうばわれていた人々は、それよりほんの少しまえに、御岳みたけの西方、御前山おんまえさんの森からいあがったこの怪物かいぶつのかげが、浅黄色あさぎいろにすみわたった空にゆるやかなをえがきつつあったのを万人ばんにんが万人、すこしも気がつかなかったのである。
 またいくども、ひろい試合場しあいじょう砂地すなじや、自分たちの顔に、その偉大いだい怪影かいえい太陽たいようをかすめるごとに、とおりのようなかげを投げていたのも、まったく知らずにいた。
 地上の人間が、ただ、アレヨアレヨとあぶくのごとく沸騰ふっとうして、手のい足のむところを知らずにいるのにひきかえて、いま、一ぴきの虫でもくわえたように、するどいくちばし木太刀きだちをさらった大鷲おおわしは、ゆうゆうと茶褐色ちゃかっしょく腹毛はらげを見せて、そこをらんともせず、高くも舞わず、御岳みたけの空を旋回せんかいしている。
 時に、光線こうせんのかげんで、そのまッ黒なつばさのつやるような金色きんいろひとみまでがありありと見えた。
 いや、それだけならいい! それだけの事実じじつだったなら、まだ地上の人々も、こうまではきもをつぶさなかったにちがいない。
「あッ、おびがさがっている!」
「女の帯」
「赤いそでが見える」
「女が乗っているんだッ……女が、女が」
「ど、ど、どこに?」
わしのうえに――女が、女が!」
 熱病ねつびょうのようにさけびあった。
 気ちがいのようにゆびを向けた。
 その時。
 しつもまれつする人波ひとなみのあいだから、およぐように顔をだした鞍馬くらま竹童ちくどうは、忍剣にんけん小文治こぶんじなどの、仲間なかまの者までむちゅうになってしのけながら、
「あッ……た、大へん」
「竹童ッ、あぶないッ」
 だれかがとめたが、きとばして、
「それどころじゃない、あれ! あれは咲耶子さくやこ
「えッ、咲耶子ッ?」
「咲耶さんです、咲耶さんです! 躑躅つつじさき源氏閣げんじかくからどこかへげた咲耶子さんにちがいない」
「ウーム、そう申せば女らしい人かげがみえる」
 と、木隠こがくれ小幡民部こばたみんぶも、その大鷲おおわしにはおぼえがあるが、どうして咲耶子さくやこが、ここの空へってきたのか、ただただふしぎな思いにうたれるのみだった。
「竹童、さわぐまい」
 伊那丸いなまるは、周囲しゅういをはばかってこういった。
 だが竹童、いまは、その声も耳にはいらなかった。かれはいつのまにかきとめていた蔦之助つたのすけの手をもぎはなして、
「クロ! クロ! 咲耶子さん――」
 われをわすれて雑鬧ざっとうのなかを走ってゆく。
 ところが、ここにまた。
 かれと同じように、そのクロの名をよんで、右往左往うおうさおうにみだれ立った試合場しあいじょうのなかをかけめぐりつつ、手をふっている二少年がある。
 ひとりは、さいぜん、村上賛之丞むらかみさんのじょう築城問答ちくじょうもんどうをやってしゅびよくそのはなをへこまされたはなかけ卜斎ぼくさいのおとも、すなわち泣き虫の蛾次郎がじろうである。
「やアーい、やアーい」
 蛾次はむちゅうだ。大さわぎだ。
 クロはかれにも二き親友である。
 どこのたまにもぐっていたのか、かれはクロを見るやいな、目の色かえて、めくら滅法めっぽう試合場しあいじょうへおどりだし、
「おれのクロだ、おれのクロだ! やアーい、ちくしょうッ、やアーいッ、クロ!」
 とどかぬものに飛びあがって、ひとりであばれまわっている。
 と――同じように、
「あれ、あれ、あれ。あのわしかえせ! あの鷲かえせ!」
 と、うったえるごとく、泣くごとく、狂気きょうきになってさけんでいたのは、さきつかた、躑躅つつじさきたちの、かの源氏閣閣上げんじかくかくじょうにおいて、咲耶子さくやこのために、その鷲をうばわれた浜松城はままつじょうの小さきお使番つかいばん星川余一ほしかわよいちだった。
 それと見るやまた、葵紋あおいもん幔幕まんまくをはりめぐらした徳川家とくがわけひかえどころのとばりのうちでも、
「おお、余一がさわいでいるぞ」
「余一がくしたクロはあれじゃ」
「あのわしがすなッ」
 と、群雀ぐんじゃくのようにさけびあってる。
「それッ」
 と、そこの葵の幕を切っておとし、をやぶったはちのごとくわれ先にと飛びだしてきたのは、はるばる浜松はままつから見物けんぶつにきていたきれいな一たい
 家康いえやすまご徳川万千代とくがわまんちよ餓鬼大将がきだいしょうといただく、お小姓こしょうとんぼぐみ面々めんめんである。


 あなたのできごと。
 ここのそうどう。
 それらはすべて大鷲出現おおわししゅつげんのせつなにおける、ほんの、ばたきする現象げんしょうでしかない。
 もはや、兵法大講会へいほうだいこうえは、この意外いがい椿事ちんじのため、その神聖しんせい森厳しんげんをかきみだされて、どうにも収拾しゅうしゅうすることができなくなった。
 奉行ぶぎょう無能むのうというなかれ。目付役人めつけやくにん狼狽ろうばいをののしるも、また無理むりである。
 群集ぐんしゅう心理しんりが、かく落ちつかなくなったものを、にわかに鎮撫ちんぶすることは、とうてい容易よういなことではない。
 心あるものはそれをあんじていた。
「どうなるであろうか。このさわぎが」――と、
 しかるに、ここに泉州せんしゅうさかい住人じゅうにん一火流いっかりゅう石火矢いしびや又助流またすけりゅう砲術ほうじゅつをもって、畿内きないに有名な鐘巻一火かねまきいっかという火術家かじゅつか
 一門の門弟もんてい四、五十人をひきして、おなじく、御岳山上みたけさんじょうの一たんに、短銃たんじゅうッちがえの定紋じょうもんをつけたまくをはりめぐらし、そのうちにひかえて、すでに火術試合かじゅつじあいの申しでをしている一組ひとくみだったが、大鷲出現のこのさわぎに、いみじくも、そこだけは申し合わせたように、ヒッソリしていた。
「こういうおりがまたとあろうか。鐘巻一火かねまきいっか秘技ひぎ衆人しゅうじんに知らしめるのは、この時だ」
 と、一火いっかまくのうちにたって、新渡来しんとらい又助式またすけしき鉄砲てっぽうをキッとつかんだ。
「先生、火縄ひなわ!」
 と、早くもその心をよんで、門下もんかのひとりが火縄をいてわたす。
 一火の眼はちゅうに吸いつけられている。
 いま――。
 わしはふもとの多摩川たまがわへ、水でもみにりるように、ななめにさがりかけたところだった。
 だが、つばさをかえすと、しゅんかんに、また、目前もくぜんに近よってくる。
 おそるべきその羽風はかぜ! ただ、目にながめたところでは、それはいかにもゆるやかで、いずみをおよぐうおのかげみたいに、あおい太虚たいきょをしずかにいめぐっているとしか見えないのだが、サア――ッと、頭上にきたかと思うと、あなたこなたの鯨幕くじらまくは一せい風をはらみ、地上の紅葉こうようさかしまにきあげられて、さんさんと黒く、さんさんとあかく、まんじをえがき、旋風つむじとなって狂う。
「うぬッ、かいな女め」
 鐘巻一火のうでに、ピタッと、鉄砲てっぽうつつがすわりついた。
 ドーン!
 御岳みたけ岩根いわねをゆるがすような轟音ごうおん
 これも全山ぜんざんの人には、寝耳ねみみに水のおどろきであったろう。
 ゴーッと遠い音波おんぱをひびかせて、みね谷々たにだに木魂こだまがひびきかえってきたあとから、ふたたび、山海嘯やまつなみにも喊声かんせいのどよめき。
 見よ、
 わしは、まッさかさまにちてきた。
 ――うつくしい女のおびにひいて。

文殊菩薩もんじゅぼさつとほか四菩薩ぼさつ




 鐘巻一火かねまきいっか鉄砲てっぽうねらいをあやまたなかった。
 どこかにあたったにちがいない。その証拠しょうこには、くるった大鷲おおわしは、地上十四、五しゃくのところまでおちてきた。
 だが。
 とつぜんそこで、クルッと巨大きょだいなからだをまわしたと思うと、あッとあきれる人声をあとに、わし天目山てんもくざん方角ほうがくへむかって、一直線ちょくせん――をはなれた鉄箭てっせんのように飛んでしまった。
 しかし。
 人々の眼は、その行方ゆくえに気をうばわれているよりも、とつぜん試合場しあいじょうの南のすみへ、
「それ」
 と、なだれをうってあつまった人かげへ、なにごとかと、あたらしい驚目きょうもくをみはっている。
「お医師いし! お医師しゅう!」
 と、そこでさわぐこえがする。
 あなたのひかじょ出張でばっていた典医衆てんいしゅうは、なにがなにやらわからないが、とにかく、び立つこえがしきりなので、薬籠やくろうをかかえてその人なかへかけつけた。
 だが、その典医たちがくるよりも、鐘巻一火かねまきいっか門下もんか壮士そうしたいをしたがえてそこへ飛んできたほうが一足ひとあしばかり早かったのである。
 そして、口々に、
「ごめん」
「ごめん、ごめん」
 こういいつつ、一火をはじめ白袴しろばかま門下もんかたちが、あたりの役人をしわけて前へすすんできたかと思うと、地上に気をうしなってたおれていた美女びじょのからだを、てんぐるまにかつぎあげて、自分たちのたま電光石火でんこうせっかにひっかえし、鉄砲てっぽうぶッちがえの定紋じょうもんりまわしたなかに鳴りをしずめてしまった。
「おう――」
 それをながめた竹童ちくどうが、試合場しあいじょう中央ちゅうおうで飛びあがるように手をふると、あなたにいた木隠こがくれたつみ加賀見かがみ山県やまがたの四人、矢来やらい木戸口きどぐちから一さんにそこへかけだしてきて、
「竹童。いまわしから落ちたのは、たしかに咲耶子さくやこにそういないか」
 と、いきをせいていう。
「たしかにそうです。咲耶さまです。――その咲耶さんが鉄砲てっぽうにうたれたから、わしのほうは怪我けがもなくげてしまったんです」
「えッ、鉄砲にたれた?」
「あの幕張まくばりの中へかついでいったさむらいはかまが、にあかくまりましたから、それにそういないと思います。龍太郎りゅうたろうさま、はやく、あれへいって咲耶子さまを取りかえしてください」
「そうか!」
「おお」
 というと、もう忍剣にんけんれい鉄杖てつじょう小脇こわきにして、鐘巻一火かねまきいっか幕前まくまえへいきおいこんでけだしていた。
 なにがさて、髀肉ひにくたんをもらしながら、伊那丸いなまるのゆるしがでぬため、いままでジッとうでをさすっていた人々、くさりをとかれた獅子ししのようないきおいだ。
 竹童もあとにつづいてけだしながら、口にはださないが心のうちで、
(さあこい! おいらのおじさんたちの男らしさを見てくれ!)
 そんなほこりがどこかにあった。
 すると、ほとんど同時のこと。
 咲耶子さくやこをてんぐるまにして引きあげてきた鐘巻一火かねまきいっかのあとをって、そこへ殺到さっとうした人々がある。
 大講会総奉行だいこうえそうぶぎょう大久保石見守長安おおくぼいわみのかみながやす、その家臣かしん、その目付役めつけやく、その介添役かいぞえやくとう、等、等。
 いきなり一火のたまへドカドカと入ろうとすると、なかから姿すがたをあらわした鐘巻一火じしんと、屈強くっきょう門弟もんていが、とばりの入口にたちはだかって、
「やあ狼藉者ろうぜきもの、どこへゆく!」
 と、大手おおでをひろげた。
 徳川家とくがわけ重臣じゅうしん甲州こうしゅう躑躅つつじさき城主じょうしゅ、大講会総奉行、それらの肩書かたがき威光いこうにきている長安は、
「どこへまいろうと仔細しさいはない。は総奉行の大久保石見守じゃ」
 と言下げんかかたをそびやかしていった。
「だまれッ」
 一火いっか武術家気質ぶじゅつかかたぎ、とどろくような雷声らいせいで、
「ここは鐘巻かねまき陣地じんちもどうよう、鉄砲紋てっぽうもんりまわしたこのなかへ、むだんで一歩たりとみこんで見よ、渡来とらい短銃たんじゅうをもって応対おうたい申すぞ」
「聞きずてにならぬ暴言ぼうげんようがあればこそ幕内まくうちへとおる。それは奉行ぶぎょう役権やっけんじゃ。役儀やくぎけんをもってとおるになんのふしぎがあろう。どけどけ」
「いや、奉行であろうが、目付衆めつけしゅうであろうが、試合しあいのことならとにかく、意味いみもなく、われわれの陣地をますことはならん。用があるならそこでいえ」
「ウーム、ってとおさんとあらばぜひがない。では、ただいまおくへにないこんだ婦人ふじんをこれへだしてもらいたい」
 一火は聞くとカラカラとわらって、
総奉行そうぶぎょうたる貴殿きでんが、不審ふしんなことをもうされるものかな。大講会だいこうえの空を飛行ひこうして、試合しあいの心をみだす奇怪きかいな女を、拙者せっしゃ一火流いっかりゅう砲術ほうじゅつをもってち落とし、かく衆人しゅうじんのさわぎを取りしずめたものを、なんでその女をわたせなどと見当けんとうちがいなご抗議こうぎを持ちこまれるのか。――それよりはすこしも早く、つぎの試合しあい支度したくでもいそがれるが、そこもとの役目ではないかとぞんずる」
「さような指図さしずはうけんでもよろしい!」
 石見守いわみのかみひたい青筋あおすじを立てて、
「あの者は、源氏閣げんじかくの上より逃亡とうぼうして、そのゆくえ知れずになっていた咲耶子さくやこという不敵ふてきな女、ことに、浜松城はままつじょうし立てることになっている罪人ざいにんじゃ。わたさぬとあれば、徳川家とくがわけ武威ぶいのほどをしめしても申しうけるがどうじゃ!」
 いうことばの終るのを待たず、
まような、石見守いわみのかみッ」と、一火いっか激越げきえつに、
なんじ総奉行そうぶぎょうという重き役目にありながら、じしんから大講会だいこうえのやくそくをやぶってもよいものか。――この御岳みたけ三日みっかのあいだは、兵を動かすなかれ、を流すなかれ、仇国きゅうこくとの兵火へいかもやめよというおきてもとおこなわれることは、ここにあつまる天下の武門ぶもん百姓ひゃくしょう町人ちょうにんもあまねく知るところ。――それを、弓矢ゆみやにかけてもと申したいまの一ごん、それは正気しょうきか! おどかしか! 見ごと取れるものなら武力をもって取ってみろ」
 これはのとうぜん。
 石見守長安いわみのかみながやすは、ハッとめたような顔色になった。そして自分の過言かごんに気がついたらしく、
「いや鐘巻かねまき先生」
 と、急にたいどをかえて、
不肖ふしょう奉行ぶぎょうの身をもって、混乱こんらんのなかとはいえ、過激かげきたことばをはっしたのは、重々じゅうじゅうなあやまり、どうかお気持をとりなおしていただきたい」
「そう尋常じんじょうおおせあるなら、なにも、このほうとて、威猛高いたけだかになる理由りゆうはない」
「ところで、ただいまもうした咲耶子さくやこという女は、なにか、そこもとのほうでらえておく必要ひつようがおありなのか」
「いやいや、じぶんとしては、さいぜんからの騒擾そうじょうをしずめる手段しゅだんとして、やむなく発砲はっぽうしたまでのこと、それゆえ、女の左のうでをねらって、一めいにはさわりのないように、はじめから用意よういしておる」
「ならば、あのわしのからだをねらってうったほうがよかったであろうに」
「あれほどの大鷲おおわしが、一ぱつたまでおちてくるはずはない。さすれば、女はたにへふりおとされ、二ツの生命いのちきずつけることになる。これも、御岳みたけ三日みっか神文しんもんやくまもればこそ」
「さすがは一火いっか先生、それほどまでのご用意よういがあろうとは、石見守いわみのかみ敬服けいふくにたえませんです。いずれこのことは大講会閉会だいこうえへいかいののちに主君しゅくん家康公いえやすこうにもうしあげて、なにかのかたちでご表彰ひょうしょういたしたいと思うが……」
 と、長安ながやす老獪ろうかい弁舌べんぜつで、単純たんじゅん武芸者肌ぶげいしゃはだの一火を、たくみにおだてあげ、さてまた、
「そちらにご不用なあの咲耶子さくやこ、右のしだいゆえ、どうかこのほうへおげ渡しを願いたい」
 と、ものやさしくおくの手をだした。
 するととつぜん、ことばの横から、
「イヤ、待ッた!」
 ずんと鉄杖てつじょうを大地について、加賀見忍剣かがみにんけんがそれへでてきた。


 忍剣にんけんのうしろには木隠龍太郎こがくれりゅうたろう山県蔦之助やまがたつたのすけ巽小文治たつみこぶんじ竹童ちくどうなど、いずれも非凡ひぼん面構つらがまえをしてッ立っている。
 長安ながやすは、まさかそれが、小太郎山こたろうざん残党ざんとう伊那丸幕下いなまるばっかの者であろうとはゆめにも知らず、
「なにッ?」
 と、五人のすがたへいやしめるような目をくれて、
何者なにものだ! きさまたちは」
 きッとなって、めつけた。
 忍剣はおちつきはらって、
拙僧せっそう西方さいほうの国より大心衆生たいしんしゅじょう人間界にんげんかい化現けげんした釈迦しゃか弟子でし文殊菩薩もんじゅぼさつという男。――またうしろにいるのは、勢至菩薩せいしぼさつ弥勒菩薩みろくぼさつ虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつ大日菩薩だいにちぼさつの人々であるが……」
 あまりでたらめなことばに、あい手があッけにとられているのを見くだしながら、忍剣はきまじめに、
「ただいま、われらとしたしい勢至菩薩が、わしにのって天行てんこうしつつ、この試合場しあいじょうをながめているうち、一火殿いっかどの鉄砲てっぽうきずつけられたようすゆえ、一同そろって見舞みまいにまいったのでござる。それを浜松城はままつじょうし立てる罪人ざいにんなどとは、飛んでもないあやまり、どうか、あの婦人ふじん吾々われわれのほうへおわたしをねがいたい」
(こやつ、気狂きちがいにそういない)
 石見守いわみのかみは相手にせず、一火いっかへ向かって、
「いざ、こうしてひまどられては、かんじんな試合しあい順序じゅんじょがおくれるばかり。どうか、あれなる咲耶子さくやこなわつきとして自分のほうへ渡されたい」
「いやいや、いかに人間界にんげんかい化現けげんしている身とはいえ、勢至菩薩せいしぼさつなわつきなどになされては、あとの仏罰ぶつばつがおそろしかろう。あの婦人はわれわれ五人へ渡したまえ」
「ふらちな売僧まいすめ、文殊菩薩もんじゅぼさつの勢至菩薩のと、だれがさようなたわごとをしんじようか。あいや一火先生いっかせんせい、ぜひ、咲耶子はこの長安ながやすのほうへ」
「イヤ、ぜひともわれわれ五菩薩ぼさつへ」
「いいや、長安が申しうける」
「なんのだんじて拙僧せっそうがもらいうけた!」
 双方そうほう、いいつのって、鐘巻一火かねまきいっかのとばりのまえを一すんたりとひく色がない。
 これが、御岳神文みたけしんもん三日みっかでなければ、とっくに、長安ながやす家来けらいあごをしゃくって抜刀ばっとうめいじたであろうし、気のみじかい忍剣にんけん禅杖ぜんじょうが、ブンと石見守の頬骨ほおぼねをおさきにくだいていたかもしれない。
 だが、こうか不幸か、なにしろ、を見るなかれの場所ばしょであり、三日である。
 そのぜんあくたるをわず、さきに神文のやくをやぶれば天下の武芸者ぶげいしゃにそのしんうしなわなければならない。
 で、これはどこまで、根気こんき懸合かけあいだ。
 よわったのは、鐘巻一火かねまきいっか
 かれが大久保長安おおくぼながやすにいったことばは、すこしもうそのないところである。かれが一火流いっかりゅうの手のうちを見せようとはかってした行為こうい目的もくてきはたっしている。
 咲耶子さくやこのからだはかれにようがない。内心ないしんでは、わたしてやってもいいと考えている。
 しかし、長安のほうに渡すのが至当しとうか、五菩薩ぼさつ仮名けみょうをつかってでてきた者にわたしたほうがいいものか、双方そうほうのあいだにはさまって、まったくとうわくの顔色だ。
 しかも、五人の偽菩薩にせぼさつの顔色をジロリと見ると、もし自分が石見守いわみのかみ加担かたんして、いな、と一ごんッぱねれば、どういう手段しゅだんにもうったえかねない底意そこいがよめる。
 そこは、一火もひとかどの武芸者ぶげいしゃ
(ウム、これは大難事だいなんじ、うかつに軍配ぐんばいをあげられないぞ)
 早くもさっしたから、よけいにこの難問題なんもんだい決断けつだんがつかなかった。
 一方、群集ぐんしゅうのほうでは、矢来越やらいごしに遠見とおみなので、こうした事情じじょうが、そこに起っているとはわからない。ただいつまでも試合場しあいじょう中央ちゅうおうが大きな空虚くうきょになりッぱなしとなって、人ばかり右往左往うおうさおうしているので、さかんにガヤガヤもめている。
 すると、鐘巻一火。
 そうほうのなか板挟いたばさみとなって、ややしばらく、うでをくんでしまったが、やがて、大久保おおくぼがたの者と忍剣にんけんたちの両方りょうほうたいして、
「おのぞみの咲耶子さくやことやらのからだは、何時なんどきにても、苦情くじょうなくおわたし申すことにいたそう」
 等分とうぶんにいって、クルリと、まくのすそをまくりあげた。――そして、
「お渡しすることはお渡しいたすが……ただしでござる、いずれへお渡しいたすのが正義せいぎなりや、一火いっかもホトホトとうわくつかまつるしだい、ついては、ざんじ休息きゅうそくのうえ、門弟もんていたちとも評議ひょうぎをかさねてあらためてご返答へんとうをいたす考え、失礼しつれいながらしばらくそれにてお待ち願いたい」
 ハラリととばりをおろすと、まくのかげへ引ッこんでしまった。


 この場合ばあいにのんきしごくな――。
 と思うまもなく鐘巻一火かねまきいっかは、また、幕をしぼってあらわれた。
 解決かいけつがついたか、まえのとうわくな気色けしきれている。
咲耶子さくやこが気がつきましたぞ」
 双方そうほうへむかっていった。
「おう、ではたいしたけがもないか」
うで鉄砲傷てっぽうきず急所きゅうしょがそれておるし、ただいま、門人もんじん手当てあてをさせておるゆえ、べつだんなこともないようでござる」
 そういってから――さて――と言葉をあらためて、
「ただいまのこと、一同評議ひょうぎ結果けっか、これはやはり御岳みたけ神慮しんりょにおまかせいたすのがとうぜんであろうという意見いけんに一けつしたが、双方そうほうごいぞんはないであろうか」
「神慮にまかすという意味いみは、神籤みくじでも引いてめようということであるか」
 と、長安ながやす不満ふまんな色をたたえた。
「いや、神籤よりは武道試合ぶどうしあいの日のできごと、やはり、武技ぶぎをもって神慮に問うのが自然しぜんであろう」
「なるほど!」
 忍剣にんけんは、よし、というふうにうなずいて、
「では、われわれと大久保家おおくぼけしんと、武技をたたかわせたうえに、その勝ったるほうへ、咲耶子さくやこわたしてくださるというのですな」
「いかにも。石見守いわみのかみどの、ご賛否さんぴはいかが」
「ウム。よろしい!」
 かれも、いさぎよく承知しょうちした。
 が――すぐにあわてた調子ちょうしで、
「イヤ待った、それには、条件じょうけんがある」
「ふム、条件とは?」
「じしんが総奉行そうぶぎょうたり、おもなる家臣かしん目付めつけたる役目上やくめじょう、大久保家では、このたびの試合しあいにいっさい何人なんぴともだしておらぬ。それゆえ、主君しゅくん直参じきさん浜松城はままつじょうの人々に、その代試合だいじあいをいらいするが、そのけん異存いぞんがあるならしょうちできぬ」
「なに、徳川家直参とくがわけじきさんのものに代試合をたのまれるとか、それは、願ってもないこと、当方とうほうに異存はない」
「では一火いっかどの、かならず、違約いやくなしという、神文血判しんもんけっぱんをしてほしい」
誓紙せいし支度したくひまどるばかり、それよりも武門ぶもん金打きんちょう、おうたがいあるな」
「お。では浪人ろうにんども、あちらの空部屋あきべやへさがって試合しあい用意よういをせい」
 長安ながやす奉行ぶぎょう床几席しょうぎせき大股おおまたにあるいていって、あたりの家臣かしんひたいをあつめ、また徳川家の者がひかえているたまりへ使いを走らせた。
 見物けんぶつはそういう内情ないじょうは知らない。ただ、床几席しょうぎせきに奉行のすがたが見えたし、検証けんしょう位置いち鐘巻一火かねまきいっかがひかえたので、
「さあ……」
 と、にわかに空気をかえて、つぎの試合を期待きたいした。
「うまくいったな」
おもつぼもうしていいな」
 龍太郎りゅうたろう小文治こぶんじは、顔を見あわせ微笑びしょうした。長安は空部屋をさがして支度したくせよといったが、見渡みわたしたところ、みなどうどうたる大名紋だいみょうもん幔幕まんまくばかりで、そんなところはありそうもなく、五人の勇士ゆうしも、それには、ちょッと立往生たちおうじょうしていると、
「ご浪士ろうし、ご浪士」
 と、うしろで、ぶ者がある。
 見ると、さいぜん、栴檀刀せんだんとうをハネ飛ばした、すばらしいやりの使い手、可児才蔵かにさいぞうであった。
支度したく場所ばしょにおこまりのごようす、おいやでなくばこのまくのうちへ」
 と、五三のきりのとばりをあげて、ニッコと五人を目でまねいた。

紅白こうはく鞠盗まりぬす




 だれかは知らぬが、おりにふれて、相身あいみたがいの武門ぶもんのなさけ、ゆかしくもうれしい、人の言葉である。
 飛び入りというのでもなく、意外いがいなことから、ここに咲耶子さくやこの身をとるか、わたすかの試合しあいとなった一同が、支度の場所もなくとうわくしているところへ、五三の桐の幕のかげから、
「これへ」と、さしまねいた親切しんせつ武士ぶし
 忍剣にんけん龍太郎りゅうたろう小文治こぶんじ蔦之助つたのすけ竹童ちくどうの五人は、時にとって炎暑えんしょをしのぐ一じゅかげともありがたく思いながら、
「ご芳志ほうしにあまえて、しばらくのあいだ、まくの一ぐうを拝借はいしゃくつかまつります」
 しずかにくぐってなかへ通り、すみにのべてあるむしろの上へ、めいめいつつましくすわりこんだ。
 すると、そこにまっな顔をして、ゆうゆうとさけを飲んでいた豪放ごうほうらしいさむらいがある。一同をながめると、莞爾かんじとしてむかえながら、
失礼しつれいだが、おいわいに、一こんまいろう」
 と、忍剣にんけん茶碗ちゃわんを持たせて、酒の入っているらしいつぼを取りあげた。
「や、これはかたじけないが、じぶんは見らるるとおり僧形そうぎょうの身、幼少ようしょうから酒のあじを知ったことがない、兄貴あにき、かわってくれ」
 と、龍太郎りゅうたろうへ茶碗をゆずると、龍太郎もあやまって、
武術ぶじゅつ酒気しゅきのあるのは禁物きんもつということ、未熟者みじゅくものにとってはことにだいじな試合しあい、もし不覚ふかくがあってはものわらいのたねともあいなるから、まず、おこころざしだけをうけて、おいわいはあとでちょうだいいたす」
 と、あたりさわりなくいって、茶碗を返した。
「あはははは、なるほど、まだ前祝まえいわいは少し早いな、では後祝あといわいにいたして、じぶんがご一同にかわり、まずさいさきを祝福しゅくふくしておく」
 と、侍はらいらくにわらって、ひとりぎ、ひとり飲んで、しきりと愉快ゆかいがっている。
 冷水れいすいをたたえた手桶ておけ小柄杓こびしゃく、それに、あせどめの白布はくふをそえてはこんできた若い武士ぶしがある。一同にその使用をすすめたのち、
拙者せっしゃ大坂城おおさかじょうとしておる真田源次郎さなだげんじろうという若輩者じゃくはいもの、どうかお見知みしりおきを」
 と、ていねいに名のった。
「や、では秀吉公ひでよしこうの」
 と忍剣にんけん龍太郎りゅうたろうは、はじめて、五三のきりもんどころに思いあわせて、
「真田源次郎どのとおおせあると、上田うえだ城主じょうしゅ真田昌幸さなだまさゆきどののご一、秀吉公の手もとでやしなわれているとうわさにききましたが、その源次郎どのでござるか」
「おはずかしゅうぞんじます」
 と、源次郎はあくまでけんそんであった。
「やあ、さてはやはりそうであったか。これはお見それいたしました。わたしこそは、なにをかくしましょう、故勝頼公こかつよりこうのわすれがたみ、武田伊那丸君たけだいなまるぎみ付人つきびと恵林寺えりんじ禅僧ぜんそう加賀見忍剣かがみにんけんともうしますもの」
「じぶんは、おなじく伊那丸さまの微臣びしん木隠龍太郎こがくれりゅうたろうという者」
拙者せっしゃは、山県蔦之助やまがたつたのすけです」
 れいにたいしては礼をもってむくう。
 巽小文治たつみこぶんじ鞍馬くらま竹童ちくどうも、そのことばについてじゅんじゅんに姓名せいめいを明かしていくと、最初さいしょに、まくのかげから手招てまねきした可児才蔵かにさいぞうもそれへきて話しかけ、さけをのんでいたさむらいも、井上大九郎いのうえだいくろうと名のりあった。
 いつか伊那丸いなまるが京都から東へ帰るとき、秀吉ひでよし桑名くわな陣中じんちゅうにしたしくむかえて、道中どうちゅう保護ほごをしてくれたのみか、御旗みはた楯無たてなし家宝かほうまで伊那丸の手へかえしてくれた。
 それいらい、伊那丸も一とうの者も、豊臣家とよとみけにたいしてしぜんといい感じを持っていた。おそらく、秀吉は武田家たけだけ味方みかたではあるまいが、悪意あくいあるてきではないとしんじてきた。
 おもえば、ふしぎなえんでもある。
 桑名でああいう援護えんごをうけて、またまた、この御岳みたけでも、同じ五三のきりまくのかげに、武士ぶしなさけをうけようとは。


 大九郎と可児才蔵かにさいぞうは、桑名の陣で、忍剣にんけんのおもざしを見おぼえていたといった。
 そういわれれば忍剣にも、思いだされることである。あのとき、秀吉にしていた、あまたの武将ぶしょうや侍のなかに、たしかに、大九郎のすがたも見えた。可児才蔵の顔もあった。
 怪傑かいけつと怪傑、勇士ゆうしと勇士、五三の桐の幕のなかには渾然こんぜんとうちとけ合って、意気いきりんりんたるものがある。
 ――試合場しあいじょうのほうは、さきほどから、きわだってしずかになっていた。群集ぐんしゅうも鳴りをしずめて、つぎ展開てんかいを待ちかまえているのであろう。
 ところへ、こまをとばしてきた一の使者、ヒラリとりて、そとから桐紋きりもんまくをたくしあげて、はいってきた。
 試合しあいの前のうちあわせである。
 徳川家とくがわけからは五名の闘士とうしの名をあげてきた。そして、勝ちきでは勝敗しょうはいに果しがないから、おのおの一番勝負として、点数てんすう勝越かちこしのほうのものが咲耶子さくやこの身を引きとるというやくそくを条件じょうけんにかぞえてある。
承知しょうちした」
 もとより、こっちにも異議いぎはなかった。
「では、試合にさきだって、伝令でんれいの者が、各所かくしょたまりの人々へ、番組ばんぐみ予告よこくするのが定例じょうれいでござるゆえ、そちらの闘士をきめて、この下へご記名きめいねがいたい」
 と、使者は、徳川家でえらびだす闘士の名をしるした奉書ほうしょをそれへひろげた。
 見ると、なんという皮肉ひにく
 ふつうの武技ぶぎでは、どういう敗辱はいじょくをまねこうも知れずと、大久保長安おおくぼながやすらが、わざと相手をこまらそうとたくらんだ卑劣ひれつ心事しんじがあきらかに読めている。
 なぜかといえば、その人選じんせんはとにかく、あらそうべき焦点しょうてんにはこちらになんの相談そうだんもなく、こういう無類むるい部門分ぶもんわけをして、勝手かって註文ちゅうもんをつけてきたのである。

一番忍法にんぽう  御方みかた 隠密組おんみつぐみ 菊池半助きくちはんすけ
      相手方あいてがた     未定みてい
二番遠矢とおや  御方 河内流かわちりゅう 加賀爪伝内かがづめでんない
      相手方        同
三番吹針ふきばり  御方 宗門御抱老女しゅうもんおかかえろうじょ 修道者イルマン
      相手方        同
四番幻術げんじゅつ  御方 南蛮流なんばんりゅう 和田呂宋兵衛わだるそんべえ
      相手方        同
五番遠駆とおがけ  御方 浜松足軽組はままつあしがるぐみ 燕作えんさく
      相手方        同
さだめ
 以上いじょう試合しあいのこと。
 右のうち吹針には武技ぶぎをもって試合することを、また遠駆けには相手方、騎乗きじょう徒歩かちいずれにても随意ずいいたるべきものなり
大講会総奉行だいこうえそうぶぎょう
大久保石見守おおくぼいわみのかみ花押かきはん
試合検証しあいけんしょう
鐘巻一火かねまきいっか


 正当せいとう武芸ぶげいとはいわれぬ、幻術げんじゅつ遠駆とおがけなどの試合しあい提示ていじしてきたのを見ると、一同は、かれらのひきょうな心底しんてい観破かんぱして、一ごんのもとに、それをはねつけようと思った。
 しかし、考えてみると、自分たちはここでれがましい武名ぶめい大衆たいしゅうに売ろうというのではない。
 咲耶子さくやこの一身を救えばいいのだ。
 かれをやぶってかれの毒手どくしゅ同志どうしのひとりをわたさなければ、それでいい。つまりここで徳川家とくがわけ代表者だいひょうしゃとあらそうのはその方便ほうべんでしかないわけだ。
 で、忍剣にんけんは、男らしくいった。
「このさい、なにをぐずぐずいったところでしかたがないから、さきの註文ちゅうもんどおり快諾かいだくしてやって、そのかわりに、みじんにしてやろうじゃないか」
「ウム、かれらのさくにのせられると思えば不愉快ふゆかいだが、得物えものやわざは末葉まつようのこと、承知しょうちしてくれよう」
 と、龍太郎りゅうたろうもうなずいて、他の者の同意どういをたしかめたうえ、けつぜんと、徳川がたの使者ししゃにこたえた。
「ご提示ていじ定書さだめがき、いかにも承知しょうちいたした」
 使者ししゃは一れいして、
「さっそくのご承引しょういんかたじけなくぞんじます」
 と、いったが、いまの書きつけをさしだして、
「では、この試合しあい部門ぶもんに、なにびとがなんの立合たちあいにご出場しゅつじょうになるか、流名りゅうめいとご姓名せいめいとを、正直しょうじきにお書き入れねがいとうござる」
「あいや、われらもとより浪々無住ろうろうむじゅうのともがらである。名のるほどの姓名流名を持ち合わせておらぬ者ゆえ、さいぜん申したとおり、文殊もんじゅとでも大日菩薩だいにちぼさつとでも、いいようにお書き入れください」
大講会だいこうえおきてとして、そうはまいりませぬ。ご本名ほんみょうをおしたためなきうちは、これを諸侯しょこうひかじょ伝令でんれいすることもならず、ご奉行ぶぎょうとしても、役儀やくぎがら試合をめいじるわけにもゆきませぬ」
「どうしよう、忍剣にんけん
 と、龍太郎りゅうたろうは、また一方へ相談そうだんを向けた。
「そうだな、われわれはどうなっても、いっこう仔細しさいはないが、まんいち若君わかぎみにごめいわくがかかってはならぬし……」
「しかし、大講会三日のあいだは、を見ることをゆるさぬちかいがある。かまわぬから本名をしるしてやろうじゃないか。どうだろう、蔦之助つたのすけ
「すでに、豊臣家とよとみけのほうにも打ち明けたこと、拙者せっしゃも、名のって仔細はあるまいと思う」
 小文治こぶんじ同意どういした。
 そこで一同は、作戦をこらすために、かたすみへって凝議ぎょうぎをしたうえ、おのおの国籍こくせき本名ほんみょうをあからさまに記入きにゅうしてやった。
(きゃつ、あれを見ると、きっとびっくりするにちがいないぞ)
 こう思っていると、あんじょう、使者は五人の記名きめい姿すがたとを見くらべて、がくぜんと目をまるくしたまま、あとの文句もんくもいわず、まくのそとへ飛びだしていった。
 さらに。それからかれ以上いじょう仰天ぎょうてんしたのは、使者がもたらしてきたことによって、はじめてことの真相しんそうを知った大久保石見守おおくぼいわみのかみであり、和田呂宋兵衛わだるそんべえであり、そのほか徳川家とくがわけせきをおくものすべてであった。
「さては」と、だれの顔色もかわった。
咲耶子さくやこをわたせと、けしきばんで、あれへなだれこんできた理由りゆうがわかった。多寡たかの知れた僧侶そうりょ浪人者ろうにんものと見くびって、わざと、家中かちゅうさむらいをださず、呂宋兵衛や吹針ふきばりばばあをあの番組のなかにいれて翻弄ほんろうしてやろうと思ったのだが、そうと知ったら、もう一工夫ひとくふうするのであった」
 と、石見守には、後悔こうかいのようすがあった。
 けれど、すでに、時刻じこくはせまる、検証けんしょう鐘巻一火かねまきいっか床几しょうぎにつく、見物けんぶつは鳴りをしずめて立合たちあいを待ちかまえている。……いておよばぬ場合ばあいである。
 ただこのうえは、まんがいちにも、かれにやぶれをとらぬことだ。まかりちがって、正当せいとうなやくそくのもとに試合しあいして、どうどうと、かれに咲耶子さくやこを持ってゆかれるようなことがあった日には、それこそ石見守いわみのかみ立場たちばがない。かれの失態しったいはなんとしてもまぬがれない。
 で、長安ながやすはやっきとなった。
 菊池半助きくちはんすけも、すわこそと、呂宋兵衛るそんべえにここの大事をささやいていた。
 かかるまに、支度したく陣貝じんがいがしずかに鳴りわたる。……とうとうたる太鼓たいこ……かたのごとき黄母衣きほろ赤母衣あかほろ白母衣しろほろ伝令でんれいが、番外ばんがいの五番試合じあい各所かくしょひかじょへふれて、にじのように試合場しあいじょうのまわりを一じゅんする……
 水をうったように、群集ぐんしゅうのこえと黄塵こうじんがしずまって、ふたたび、御岳みたけ広前ひろまえ森厳しんげんな空気がひっそりとりてきた。
 大雨たいうのおもむきである。
 つぎにきたるべきものは、あらしか、いかずちか。
 試合ははじまった。
 浜松城の隠密組菊池半助がいつのまにか広前の中央ちゅうおうにすッくと立っているのが見える。得物えものをもたず、たすきや鉢巻はちまきもしていないので、この番外試合ばんがいじあいのいきさつを知らない一ぱん群集ぐんしゅうには、ちょっと気抜きぬけがさせられたようすで、ふしんそうに見とれている。
 相手方あいてがたは、やがて、あなたのすみにある豊臣家とよとみけ桐紋きりもんまくをあげてあゆみだしてきた。
 これもどうように、なんの支度したくらしいよそおいもしていない。ただ、いささか観衆かんしゅう好奇心こうきしんをみたしたのは、それが白衣びゃくえ白鞘しろさや太刀たちをさした六らしい風采ふうさいだけであった。
 忍法試合にんぽうじあい
 かかる白日はくじつもと万人衆目ばんにんしゅうもくのあるなかで、忍術にんじゅつ秘法ひほうをどうあらそうのだろうか。争うとすればどうするのだろうか?
 ことの真相しんそうを知らない場外じょうがい見物人けんぶつにんは、いろいろみょうな顔をしているし、事情じじょうを知っている人々は、大鷲おおわしからてられた美少女びしょうじょの一身が、いずれにるか奪られるかと、じッとかたずをのみはじめた。
 いままでの、意地いじ興味きょうみなど超越ちょうえつして、ある運命うんめいとものすごい殺気さっきをはらみかけた番外ばんがいばん試合じあいは、こうしてまさにその火蓋ひぶたを切られようとしている。


 伊賀流いがりゅう忍者にんじゃ菊池半助きくちはんすけと、果心居士かしんこじのおしえをうけた木隠龍太郎とが、双方そうほう、水のごとくたいしたとき、しずかな耳をきぬくように、一せい短笛たんてきがつよく流れた。
 と、同時に。
 あなたの葵紋あおいもんまくのうちに、花壇かだんのように、りあがっていたお小姓こしょうとんぼぐみの一たいが、とんぼ模様もようそろいの小袖こそでをひるがえし、サッと試合場の一方に走りくずれてきて、三十六人が十二名ずつ三ぎょうにわかれ、目にもあざやかな隊伍たいごをつくった。
鶴翼かくよく!」
 と、朱房しゅぶさむちをふったのは、それを指揮しきする徳川万千代とくがわまんちよであった。
 三だんの隊伍は、中央ちゅうおうからまッ二ツにれて、たちまち鶴翼の陣形をつくる。
奉行ぶぎょう、これでよいか」
 と万千代は、とくいらしく床几しょうぎせきへむかっていう。
 石見守いわみのかみは、一のあかいまりをだして万千代の手にわたした。すると検証けんしょう鐘巻一火かねまきいっかも、おなじように一つの白い鞠を星川余一ほしかわよいちの手にあずける。
 そこでふたたび、鞭をあげると、とんぼぐみの隊伍は、そのまましずかに進んで、ころあいなところで、鳥雲ちょううんじんにくずれ、また魚鱗ぎょりんかたちにむすび、しきりと厳重げんじゅう陣立じんだてもうとくふうしているようすであったが、やがて八門の陣をシックリとんで、あたかも将軍しょうぐん寝間ねまをまもる衛兵えいへいのように、三十六人が屹然きつぜんとわかれて立った。
 その、陣形の中宮ちゅうぐうに、白球はっきゅうをもった星川余一と、紅球こうきゅうを持った万千代まんちよとが、ゆだんのない顔をして立つと、菊池半助きくちはんすけはその紅球をとって、もとの場所へかえることを、また木隠龍太郎こがくれりゅうたろうは一方の白球を取ることを、試合目付しあいめつけから命じられた。
 これは伊賀流いがりゅうしのびをほこる半助にも、木隠にも、おそろしい難事なんじだろうと思われる。およそ忍術にんじゅつというものも夜陰やいんなればこそ鼠行そぎょうほうもおこなわれ、木あればこそ木遁もくとん、火あればこそ火遁かとんじゅつもやれようが、この白昼はくちゅう、この試合場しあいじょうのなかで、しかも三十六人のとんぼぐみ小姓こしょうたちが八もんじんんでまもっているまりを、どうして、気づかれずに自分の手へとってもとの場所ばしょへかえるだろうか。
「いざ!」
「目をかすめて、しのべるものなら忍んでみよ」
 というふうに、お小姓とんぼの面々めんめんは、ゆだんのない目をみはった。
 両士りょうしは、サッと左右さゆうにわかれて、八門の陣のすきをうかがう。
 ――といっても、そこには木蔭こかげがあるわけではなく、身をかくす家があるのでもないから、もとよりどう手をくだすほうもないらしい。
 木隠こがくれが右へまわれば右へ、半助が左側さそくをねらえば左側の目ばしこい小姓たちの眼が光ってうごく。
 すると、菊池半助きくちはんすけは、とつぜんとんぼ組の陣形じんけいのまわりを、疾風しっぷうのようにぐるぐるまわりだした。
 かれらはそのはやさに目まいがしてきたように、ただアッ――と、あッけにとられている。その姿すがたはいよいよ加速度かそくどに早くなって、ついには、小姓たちの目にも遠くからながめている人々の目にも、それが半助か、一ぺんのくろいぬのがつむじかぜでめぐっているのか、ほとんど目にもとまらないほど迅速じんそくになってきた。
 それに、すべての者の視線しせんがうばわれているまに、いままで、一方に立っていた木隠の姿すがたがこつぜんとえている。
「や、さては」
 と、小姓こしょう面々めんめんがハッと身をかためていると、八もんじんの一方に、白いものがヒラリとおどった。
「それ」
 と、心もちそのほうへ、一同のからだがズズとよりつめてゆくと、あらず! そこへったのは数枚のふところがみで、みなの視線しせんが、それにみだされて散らかったせつな、じん中宮ちゅうぐうにいた星川余一ほしかわよいちが、風でりついた一枚の白紙はくしを片手で取りのけながら、
「あッ、しまった」
 と、とんきょうにさけんだ。


 余一の声におどろいて、万千代まんちよもひょいとろうばいした。とたんに、だれかが、かれのひじを足もとからトンといた。
「あッ」
 といったが、肘をつかれたはずみに、赤いまりはかれのをはなれて、ポンと飛びあがった。
 それへ、烏猫からすねこのような人かげが、いきなり飛びかかったかと思うと、
「えいッ!」
 と、ほとんど一しょに耳をうった二声ふたこえ気合きあい。
 じんをくずした小姓組こしょうぐみの者をいつのまにかとびこえたのであろう、木隠こがくれ白球はっきゅうを手に、菊池半助きくちはんすけ紅球こうきゅうを手にして、最初さいしょ位置いちに立っている。
 忍法試合にんぽうじあい紅白こうはく鞠盗まりぬすみの試合しあい瞬間しゅんかんだった。
 この鞠ぬすみは伊賀流いがりゅう甲賀流こうがりゅうのものが、かつて信長のぶなが在世ざいせい当時、安土城あづちじょうで試合をしたこともあるし、それよりいぜんには、仙洞御所せんとうごしょのお庭さきで月卿雲客げっけいうんかくの前で、叡覧えいらんきょうしたこともあって、のちには、公卿くげたちのあいだに、これを蹴鞠けまりでまねした遊戯ゆうぎさえのこったほどである。
 さて。
 余事よじはとにかく、いまの試合はいずれに軍配ぐんばいがあげられるものだろうか?
 むろん、検証役けんしょうやく鐘巻一火かねまきいっかは、床几しょうぎから立ちあがって、
「同点。忍法試合にんぽうじあい勝負なし!」
 と、鉄扇てっせんをふるって、奉行目付ぶぎょうめつけへいったことである。
 衆目しゅうもく、それに異議いぎはなかった。
 菊池半助は、勝負なしのものわかれに、無念むねんそうな白眼はくがんを相手に投げ、そうほう、無言むごんのままにらみわかれた。
「わーッ……」
 とくずれたのはお小姓こしょうとんぼである。万千代まんちよをはじめ余一よいちそののもの、試合しあいがおわると、いっせいにもとのまくうちへ、引きあげてゆく。
 そして、遠雷えんらいのような群衆ぐんしゅうのどよめきが、あとしばらくのあいだ、空にえなかった。
 ――と思うと、すでに二ばん試合じあい合図あいずが、いきもつかずとうとうと鳴りわたって、清新せいしん緊張きんちょうと、まえにもまさる厳粛げんしゅくな空気を、そこにシーンとすみかえらせてきた。
 と見れば。
 片肌かたはだをおとした凛々りりしいふたりの射手いては、もう支度したくのできている場所ばしょに身がまえをつくって、弓懸ゆがけをしめ、気息きそくをただし、左手にあたえられた強弓ごうきゅうを取って、合図、いまやと待ちうけている。
 この遠矢とおやくらべ、つがえたよりほかに代矢かえやのない、一ぽん試合じあいのだいじな競射きょうしゃである。
 まとは?
 おお、その的として、しめされたものがまたおそろしく遠方だ。じッと、ひとみをこらさなければ、それとはたしかに見きわめがつかないくらい。
 たにをへだてた前方に、高からぬみねがそびえている。その白鳥しらとりの峰の七ごうあたりに、古い丸木まるき鳥居とりいが見える。鳥居はその幽邃ゆうすい白鳥神社しらとりじんじゃおくいんしるしで、それまではだれにでも一目でわかるが、遠矢の的と示されたものは、その鳥居の正面にかかっているがくだった。
 御岳みたけ中腹ちゅうふくをくだり、渓流けいりゅうをこえ、さわをわたり、そして向こうの白鳥のみねの七合目までいくには、おそらく二十八、九ちょうもあろうが、この御岳みたけの一たんにたって直線ちょくせん対峙たいじすれば、そのいくぶんの一の距離きょりしかあるまい。
 しかし、せまい山と山とのあいだには、風がないような日でも、ふだんに寒冷かんれい気流きりゅうがあって、よほどな射手いてが、よほどなをおくらぬかぎり、その気流のさからいをうけずにまとへあたるということはありえないだろう。などと、弓道きゅうどうにこころえのある傍観者ぼうかんしゃは、はやくも、各藩かくはんのひかえじょ下馬評げばひょうまちまちである。
 だが、
 射手いてにはじゅうぶんな自信があるものか、やがて、弓作法ゆみさほうおごそかにすますと、徳川家方とくがわけがたの射手加賀爪伝内かがづめでんない伊那丸方いなまるがた山県蔦之助やまがたつたのすけ、そうほうおもむろに足をみひらいて、矢番やつがえガッキリとかませ、白鳥しらとりのみねの樹間じゅかんにみえる大鳥居おおとりい懸額かけがくを、キッと横ににらんだ。

幕裏まくうらにひそむ妖術師ようじゅつし




 山県蔦之助は人もしる代々木流よよぎりゅう達人たつじん
 大津おおつのまちにその弓道の道場をひらいていたころには、八坂やさかとう怪人かいじんるいぜんから、今為朝いまためともとはやされていた人。またかつて竹童ちくどうが、大鷲おおわしクロのをかりて鞍馬くらま僧正谷そうじょうがたにから高尾山たかおさんへつかいしたとちゅうにも、かれの誤解ごかいをうけて、そのおそろしい強弓ごうきゅうに見まわれ、ほとんど立ち往生おうじょうして地上におとされたことがある。
 その代々木流よよぎりゅう臂力ひりょくをためさぬことも、蔦之助つたのすけにとっては、ひさしいものだ。
 ゆみをひく者がながらく弓を持たずにいると病気になるとさえいう。
 蔦之助も、めぐりぞったこのれの場所ばしょで、いま、鏑籐日輪巻かぶらとうにちりんまき強弓ごうきゅうにピッタリと矢筈やはずをかましたしゅんかん、なんともいえない爽快そうかいな気持がむねいっぱいにひらけてきた。
 くわッとはるかなまとを見、弦絃げんげん二つにって、キリッ、キリッと、しずかにまんをしぼりこんでゆく。
 河内流かわちりゅう加賀爪伝内かがづめでんない、これも徳川家とくがわけではすぐれた射術家しゃじゅつからしい。
 りっぱだ。蔦之助のそばに立って、蔦之助のかまえに見おとりがしない。
 しぼりこんだ弓と人とが、ほとんど同じかたちになって、やじりのさきが、弓身きゅうしんのそとにあますところのないまで引き強められていったしゅんかん――
 声をのんでひッそりとしずまりかえったじょうの内外は、無人むじんのごとくどよみをしずめて、いきづまるような空気をつくっていた。
 すると、ひとり、矢来やらいのそとの群衆ぐんしゅうのなかで、
民部みんぶ、こまったことになったものだの」
 と、ささやいた人があった。
 さいぜん、竹童ちくどうわしにつられて走ったのをきっかけに、とめるまもなく、一とうのひとびとが矢来やらいをこえてこういう事態じたいをひきおこしたので、その成行なりゆきをあんじている武田伊那丸たけだいなまる小幡民部こばたみんぶのふたりである。
 民部も、あなたへ眼をはなたず、
「ただ、天祐てんゆういのっているのほかございませぬ」
 と、ことばすくなく答えた。
「お……いまとなっては、もう手をくだすすべもない」
若君わかぎみ
 民部は、しいて伊那丸のうれいをはげますようにいった。
「――おあんじなされますな、たとえ、いかなる波瀾はらんを生みましょうとも、かれらのことでござります」
「うム……」
「かれらのことです、かれらのことでござります。けっして、汚名おめいをさらすような結果をまねきはいたしますまい」
 そうはいったが、そういうかれじしんが、人しれず手にあせをにぎりしめているのであった。
 ――と、目をみはるもなかった。
 あまたの人の口から、あッ……とかるいこえがいちようにもらされたかと見ると、すでに、しぼりこまれた二きゅうはブンとがえりを打って、ひょうッと、つるをはなれた二すじのが、風を切ってまッすぐに走っている。
「やッ?」
 とたんに、射手いて山県蔦之助やまがたつたのすけは、つるをはなした右手めてをそのまま、サッと顔色かおいろをかえてしまった。
 耳をろうせんばかりのどよめきが、土用波どようなみのように見物人けんぶつにんをもみあげた。なにかののしるような声、嘲笑ちょうしょうするようなわめき、それらがあらしのごとく、かれをとりまいた心地ここちがした。
遠矢とおやぽん試合じあい徳川家加賀爪伝内とくがわけかがづめでんないどのがまとをとったり!」
 と、鐘巻一火かねまきいっか検証けんしょう床几しょうぎからさけんだ。
 意外いがい
 蔦之助はやぶれたらしい。
 今為朝いまためともはどうしたか? あのたしかな代々木流よよぎりゅうの矢がどうしてくるったのであろうか。


 鐘巻一火のさけんだのは、けっして不公平ふこうへいでもうそでもなかった。加賀爪伝内の切ってはなった黒鷹くろたか石打羽いしうちは、まさしく、白鳥しらとりみね大鳥居おおとりいがくぶちにさっているのに、それにひきかえて蔦之助つたのすけ妻羽白つまはじろ弓勢ゆんぜいよわかったため、谷間たにま気流きりゅうをうけてそれたのか、あるいは弦切つるぎれの微妙びみょうな指さきに、なにかのおちどがあったのだろうか、とにかく、白鳥の峰へとどかぬうち、きりのごとくかげして、どこへ落ちたかそれていったか、肉眼にくがんでは見えなくなった。
 お小姓こしょうとんぼぐみをはじめ、徳川方とくがわがたの者とそれに心をあわすたまでは、わッといちじに凱歌がいかをあげた。
 無念むねんや、山県蔦之助やまがたつたのすけは、試合目付しあいめつけ退場たいじょうめいと、その嘲笑ちょうしょうにおくられて、悄然しょうぜんとそこをひかなければならなくなった。
 すると――。
 それよりほんのわずかまえに、試合しあい勝敗しょうはい心配しんぱいのあまり、桐紋きりもんまくのうしろから、そッとけだしていた鞍馬くらま竹童ちくどうは、なにげなく、諸国しょこく剣士けんしのひかえじょうらをまわって、蔦之助の姿すがたが、もっとも近く見えるところからすきみをしていた。
 ところが、竹童の信念しんねんはくつがえされて、ゆみをとっては神技かみわざといわれている蔦之助が、どうだろう、この不覚ふかく? このみにくいやぶかた
「ちぇッ」
 というと、鞍馬の竹童は、くやしなみだがにじみだして、思わずそこへすわりたくなってしまった。
 あの徳川方とくがわがたのものの嘲笑ちょうしょう伊那丸いなまるさまや民部みんぶさまの耳にどんなにいたく聞えるだろう。あなたにいる豊臣家とよとみけの人々や、忍剣にんけん小文治こぶんじが、それをどんなにつらく見つめたろう。
 竹童ちくどうこしのささえをはずされたように、うしろへよろけた。
 そして、
「ああ、ざんねんだ……」
 とふといきをついたが、ふと気がついてみると、そこは奉行ぶぎょう小屋の裏手うらてらしく、すぐ向こうから十数間すうけんのあいだには、ズッと鯨幕くじらまくがはりめぐらしてあって、一方のとばりには黒くめぬいたあおい紋印もんじるしが大きく風をはらんでいる。
「あッ、ここは徳川家とくがわけ陣地じんちだな」
 竹童はびっくりして、あわててそこを立ち去ろうとしたが、見ると! そこから数歩すうほ向こうに、この人なき陣幕じんまくのうしろにかくれて、あやしげな黒衣こくいの男が、じっと立ちすくんでいるのを見た。
 何者なにものだろう?
 そしてなにをしているのだろうか。
 おそろしく背丈せいのたかい男である。すそまでスラリとくろのおびなしのふくながし、むねには、ペルシャねこの眼のごとくキラキラ光る白金はっきんの十をたらしている。そして、いのるがごとく、口をじ、眼をふさぎ、ゆびいんをむすんでいる。
「やッ、呂宋兵衛るそんべえだ」
 あぶなく、のどをやぶってでそうな声を、竹童は自分の手で自分の口をおさえた。
「やつめ、あんなところで、なにをしているのだろう? ……おおあのおそろしい顔はどうだ。あの他念たねんのない形相ぎょうそうをする時は、いつも、呂宋兵衛がとくいの南蛮流なんばんりゅう幻術げんじゅつをやるときだ」
 身をひそめながら、かれの眼はらんらんとその不解ふかい疑惑ぎわくにむかって、きりのごときするどさをぎすましてきた。
 読めた!
 かれの心臓しんぞうは、ドキッとしめつけられたようなあえぎをうつ。
 さては、もしや?
 怪人かいじん呂宋兵衛がこのまくのうらにしのんでいて、石見守いわみのかみはらをあわせ、かれ一りゅう邪法じゃほうをおこなって、試合場しあいじょうに一どう悪気あっきをおくり、衆人しゅうじんの眼をげんわくさせているのではないかしら?
 そして、そのために、いまのような意外いがい勝敗しょうはいが、なにびとにも気づかれずにしんじられているのではないのかしら?
 と――竹童はわれをわすれて、なお死人のごとく、いんをむすんで、つッ立っている怪人呂宋兵衛の黒いすそへソロ、ソロ、とはいよっていった。


 なんとひさしぶりに見る憎悪ぞうおてきのすがただろう。
 竹童の手は、無意識むいしきに、般若丸はんにゃまるつかをかたくにぎりしめていた。
 たとえ、たおせないまでも、不意ふいをうって、かれの邪法じゃほう気念きねんをやぶってやろう。
 そう無意識の意志いしがうごいていった。
 そうして、気配けはいをしのばせながら、足もとによりついてくる者があるのも知らないで、呂宋兵衛るそんべえはいぜんとして目をとじたままだった。かれはかれじしんのむすぶ幻術げんじゅつ妖気ようきっているもののようである。
 しめた!
 竹童のむねは大きななみにあおられた。
 だが、般若丸の名刀が、さやだっしようとしたしゅんかんに、はッと気がついたのは(を見るなかれ)という御岳みたけ三日みっか神誓ちかいである。もしや自分のかるはずみが、伊那丸いなまるさまの身にめいわくとなってかかってはならないということだった。
 といって、この怨敵おんてきを!
 みすみす目のまえにこうしている一とう仇敵きゅうてき咲耶子さくやこにとってはかたきのこの悪魔あくまを、なんで見のがしていいものだろうか。
 つかにまよった手は、いきなりふところにすべりこんだ。かれのゆびにふれたのは、竹生島神伝ちくぶしましんでん火独楽ひごま! それであった。
 それを、ふところにつかんで、いきなり、パッと立ちあがるやいな鞍馬くらま竹童ちくどう
「うぬッ」
 と、独楽こまをまッこうにふりあげた。
 ぶン! と、うなった火焔独楽かえんごま
 たしかに呂宋兵衛るそんべえのからだのどこかに、ほのおをあげてみついたにちがいない。あッと、相手の驚愕きょうがくした声が竹童の耳にも聞きとれた。
 だが、とたんに――。
 独楽は竹童のふところに飛んでかえって、かれ自身もまた、アッ――と片手かたてで顔をかくしたまま、あぶなくそこへたおれかかる。
 見れば、えりもとからびんに、霜柱しもばしらわったように、無数むすうはりゆびにさわった。
 それにおどろいて身をひるがえすと、
「この餓鬼がき
 大きなこうもりにふさわしい黒衣こくい老女ろうじょが、さッとすがって、うしろから竹童をきすくめ、
「呂宋兵衛さま! 呂宋兵衛さま」
 と、しわがれた声で助勢じょせいをもとめる。
「お、そいつは、鞍馬くらまはなッたらしだな」
「わしも、人無村ひとなしむらや京都で二、三ど見たことがある。竹童というて、伊那丸いなまるの手さきになってあるくわっぱじゃ」
「おのれ、野良犬のらいぬのように、こんなところへなにしにウロウロしてきやがったか。この御岳みたけでは、殺すわけにもゆかないが、うム、こうしてやる」
 まえにってくると、呂宋兵衛るそんべえ煙草たばこ色のウブ毛がいっぱいえている大きなてのひらで、竹童の横顔よこがおを、みみずれに腫れあがるほど、三つ四つ打ちつづけた。
 それにもあきたらず、最後さいごに、喉笛のどぶえでもしめつけられたか、かれのからだをかかえていた蚕婆かいこばばあが手をはなすと、グッタリと地上にたおれてうッせになった。
「ふん……」
 と、せせらわらいながら、
ばばあ、こっちへはいっていろ」
 一方のまくをあげて、呂宋兵衛がすばやくかげをかくすと、老女修道者ろうじょイルマンとなって、たえず彼についている吹針の蚕婆も、ニヤリとをむきながらそのあとからこしをかがめかけた。
 と、その弱腰よわごしへ、一本の鉄杖てつじょうの先が、
「これ」と、かるくいた。
 かるく突いたが、くろがねつえである。力をれないようでも忍剣にんけんが突いたのである。
「うッ……」
 というなり蚕婆かいこばばあは、甲羅こうらをつぶされたかめの子のように、グシャッとまくすそにへたばってしまった。
 その陣幕じんまくをはらいあげて、忍剣にんけんは、蚕婆には見むきもせず、飛足ひそくばしておどりこむなり、稲妻いなずまのようにつぎのとばりのへ、チラとげこんだ黒衣こくいそでを、グッとつかんだ。
悪伴天連あくバテレン呂宋兵衛るそんべえ、待て!」


「なにッ」
 というとぎんむちが、びゅッと、忍剣のうでをつよく打ちかえしてきた。
 ――まさしく和田呂宋兵衛わだるそんべえである。がしてはならない。忍剣はそう思った。
 じつをいうと、かれがここへけつけてきたのは、山県蔦之助やまがたつたのすけ遠矢とおや敗北はいぼくがなんとも、ふしんな負けかたであり、しかねるてん多々たたあるので、徳川方とくがわがたの勝ちとさけんだ検証けんしょう一火いっか目付役めつけやくの者に、一苦情ひとくじょう持ちこむため、いきおいこんで駈けだしてきたのだ。
 もとより、ここで呂宋兵衛と出会であおうとは、ゆめにも予感よかんをもたないのだった。
 しかし、竹童がめたおされたのも目撃もくげきしたし、その魁異かいい妖人ようじんのすがたは、夢寐むびにもわすれていない仇敵きゅうてきである。
 なにはいても、見のがせないやつ!
「おのれ」
 ふりつけてきた、ぎん細鞭ほそむちをかわしながら、なお、忍剣にんけん片手かたてにつかんだ黒衣こくいそでをはなさない。
 呂宋兵衛るそんべえはぜったい絶命ぜつめい――。
御岳みたけだ!」と、さけんだ。
 御岳だぞといったのは、を見るなかれの神文しんもんちかいをふりまわして、卑怯ひきょうに相手をためらわそうとしたものである。
「だまれ、妖賊ようぞく」忍剣は耳もかさない。
 引きもどそうとする力、げこもうとする力、とうぜん、ベリッと黒衣こくいそでがほころびた。
 ちぎれたぬのの一ぺんは、忍剣の手につかまれたまま、よろよろと二、三よろけたが、野幕のまくとばりのあいだなので鉄杖てつじょうのあつかいも自由にゆかず、みすみす、黒豹くろひょうのようにげこんでゆくうしろすがたに、
「待て、待て」
 とさけびながら、手にのこった黒いぬのをほうりてると、そのはずみにみょう粘力ねんりょくうでに感じたので、思わず、オヤとふりかえると、そのかたさきへ、いったん地にすてた黒衣くろぬのがフワッといきおいよくびついてきた。
「やッ」と、かたをすかした。
 そのくびたまをおどりこえて、目の前へ、軽業師かるわざしのようにモンドリ打ったものを見ると、どうだろう、思いがけない、まッくろな烏猫からすねこ、くびわに銀玉ぎんぎょくくさりをかけ、十をつけているではないか。
 その銀玉の鎖と十字架をチリチリチリ……と鳴らしながら、まくのすそをかわいらしくけだしたので、
蛮流ばんりゅう妖術師ようじゅつしめ、さては、うまく姿すがたをかえたな」
 鉄杖てつじょうを持っていまわすと、ねこはなおチリチリとげだして、とつぜん、向こうのすみに、はぎ桔梗ききょうや秋草のたぐいを入れぜに、けこんである大きなつぼくちへ、ポンと、飛びこんでしまった。
 と見て、忍剣にんけんは、
たり!」
 と、いきなり鉄杖をやりのようにしごいて、大瓶おおがめの横ッぱらへガンと勢いよくッかけた。
 かめはくだけ、秋草はとんだ。
 みじんになった陶物すえもの破片はへんを越えて、どッ、いずみをきったような清水しみずがあふれだしたことはむろんだが、ねこもでなければ呂宋兵衛るそんべえ正物しょうぶつもあらわれなかった。
 水に足をひたされて、ハッとわれにかえれば、これは野陣のじんの人々の飲料水いんりょうすいである。反間はんかんてきどくこんじられないようにわざと、花壺はなつぼに見せかけておいた生命いのちの水にちがいない。
がした……」
 なにか、忍剣にんけんのあたまは、そのとき、きりがかかっているような心地ここちだった。そして、ぼうぜんとしていると、りまわしたまくに、ソヨソヨと小波さざなみのような微風びふうがうごいて、その幕のかげあたりを、聞きなれない南蛮歌なんばんか調子ちょうしで、口笛くちぶえをふいて通ってゆくものがある。
「あッ」
 ぎんむちの音がする。
 そして、
「あははははははは……」
 まぎれもない、怪人かいじん和田呂宋兵衛わだるそんべえの人をバカにしたようなわらいごえだ。

神馬しんめ草薙くさなぎ早足はやあしの男




 あざ笑う声はする。
 ぎんむちまくのうしろをあるいている。
 だが、きりのようなじゃまな幕、それにさえぎられて、けんとうもつかねば、すがたも見えない。
 忍剣にんけんは地だんだをんで、幕のなみをさぐりかけた。しかし、かめの水がおもてのほうへいっさんに流れだしていったため、それにおどろいた徳川家とくがわけ諸士しょしや、たまのむしろを水びたしにされてびあがった、れいの菊池半助きくちはんすけはなかけ卜斎ぼくさい、泣き虫の蛾次郎がじろう、そのほかお小姓こしょうとんぼの連中れんじゅうまでが、総立そうだちになって、裏手うらてへまわってきそうなぶり。
「これはいかん」忍剣は、早くも執着しゅうじゃくをすてて、
「またいいおりもあろうというもの、ここで、きょうの試合しあいをめちゃめちゃにしては、咲耶子さくやこ無難ぶなんに取り返すことができなくなろう」
 と、分別ふんべつした。
 で、ひらりともとの場所ばしょへかえってくるなり、そこにたおれている竹童ちくどうをこわきにいた。
 竹童はいちじの昏倒こんとうで、
「あッ、忍剣さま」
 すぐに、目をひらいて、かれのたくましいうでのなかに自由になった。
 おのれの居場所いばしょけもどってきてみると、一方そこでも、なにやら問題がおこっている最中さいちゅうである。
 総奉行そうぶぎょう大久保長安おおくぼながやすと、検証けんしょう鐘巻一火かねまきいっか自身じしんできて、なにかしきりと高声こうせいべんじているのだ。
 いま、いきなり飛びこんではまずいと思ったので、忍剣にんけんがそッとようすをきいていると、
「いや、ただいまの遠矢とおやは、あくまで蔦之助つたのすけが勝ったものと信じます。鐘巻どのも一りゅう火術家かじゅつかでありながら、あの的先まとさきにお眼がとどかぬとは心ぼそいしだいでもあり、また、検証けんしょう床几しょうぎにつかれながら、徳川家とくがわけへ勝ち名のりをあげられたのは早計そうけいしごくかとかんがえます」
 これは、山県蔦之助自身やまがたつたのすけじしんと、木隠こがくれたつみとが、一しょになって主張しゅちょうしていることばの要点ようてんだった。
「したが、加賀爪伝内かがづめでんないの遠矢が、がくぶちにりっぱに立っているのに、貴公きこうの矢が鳥居とおいはしらにも立っていないのはどうしたしだいか、これ、弓勢ゆんぜいたらずして、矢走やばしりのとちゅうから、谷間たにまへおちた証拠しょうこではあるまいか」
 というのは、徳川方とくがわがた強弁きょうべんだった。
 それにたいして、蔦之助は笑いをなげて、
「いや、自分のつるをはなれたが、谷間へ落ちたものか、まと射当いあてたものかぐらいなことは、がえりのとたんに、この手もとへ感じるものでござる。たとえば、鐘巻どのの鉄砲てっぽうにしても、その実感じっかんにおおぼえがあろうが」
「ウムなるほど……それはたしかに一がある」
 一火はさすがに、そのことばを反駁はんばくしなかった。
 だが、奉行ぶぎょう石見守いわみのかみ目付めつけたちは、どうしてもそのせつだけではがえんぜない。また、蔦之助つたのすけとしても、事実じじつにおいて、その的先まとさきに見えないのであるから、それ以上いじょう、なんと理由りゆうづけて力説りきせつすることもできないのであった。
「では、この勝負は、ざんじ自分がおあずかり申すとしよう。そのかわりに……」
 と、鐘巻一火かねまきいっかは中にはさまってこまりはてたあげく、窮余きゅうよの一さくを持ちだして、
最後さいごの勝負、遠駆とおがけのおりに、あの大鳥居おおとりいをめあてとしてけさせ、そうほう、その矢を持ちかえってくるとしたらどうであろうか。――とすれば、同時に遠矢とおや勝敗しょうはい歴然れきぜん分明ぶんみょういたすことになる」


 名案めいあんだった。
 それはよかろう――というので、すくその紛糾ふんきゅう解決かいけつしたが、ここにまた番組変更へんこうのやむないことができたというのは、そこへ徳川家とくがわけさむらいがとんできて、
れいの、老女修道者ろうじょイルマンでございますが、たッたいま、何者なにものかにしたたかこしをうたれてねつをはっし、ひどくうめいておりますので、吹針ふきばり試合しあいにはでられぬようすでござります」
 という急報きゅうほうである。
 忍剣にんけんは、かげで、それをおかしく聞いていた。
 石見守いわみのかみはらでは、吹針ふきばり試合しあいではしょせんあの老女ろうじょ勝目かちめはないと考えていたので、この出来事できごとはもっけのさいわいと思った。
 で、その試合しあいを取りすことを申しでたので、龍太郎りゅうたろうや忍剣もかたすみで相談そうだんのうえ、あらためて、こういう返答へんとうをかれにあたえた。
「――されば、幻術試合げんじゅつしあいの相手にでる竹童ちくどうも、きょうはすこし気分のすぐれぬようすであるから、いっそ二番の勝負を取り消して、最終さいしゅう遠駆試合とおがけじあい一番にて、やくそくどおり咲耶子さくやこをおわたしあるかいなか、乾坤けんこんてきの勝負をめるならば、それにご同意どういいたしてもさしつかえはござらん」
「なるほど」石見守は考えていた。
 ところが、徳川家とくがわけの者たちは、それを聞くと、むしろ僥倖ぎょうこうのように気勢きせいをあげて、
遠駆とおがけの一ばん試合じあいで、勝敗しょうはいめることは当方とうほうで、のぞむところ、たしかに承知しょうちした。さらば、すぐそちらでもおしたくを」
 と、石見守になにやらささやいて、わいわいとげていった。
 かれらの目算もくさんでは、この一番こそ、うたがうまでもない勝味かちみのあるものとしんじているのだ。天下あゆむことにかけて、たれか、早足はやあし燕作えんさくにまさる人間があるはずはない。
 そう信じているからこそ、最初さいしょにしめした、試合掟しあいおきてにも、相手がた騎乗きじょうでも徒歩かちでも勝手かってしだいと傲語ごうごしたのだ。
 この嶮峻けんしゅん山路やまじ遠駆とおがけに、騎馬きばをえらべばおろかである。人間の足より難儀なんぎにきまっているのだ、そうかといって、徒歩かちなればおそらくわが早足はやあし燕作えんさくをうしろにする足のはないわけになる。
 ――というはら徳川とくがわがたの作戦さくせん
(どうでるか、相手方のやつは?)
 なかば、安心しているので、興味きょうみをもって待ちかまえていると、すでに、支度したくができていたものか、遠駆けにえらばれた巽小文治たつみこぶんじ朱柄あかえやり山県蔦之助やまがたつたのすけの手にあずけて、
「どうッ、どうッ」
 一とう白馬はくばをひいて、試合場しあいじょうへあらわれた。
 なんと毛なみのうるわしい馬だろうと――それにはなみいるものが、ちょッと気をうばわれたが、よく見ると、名馬のはずだ、これは御岳みたけ神社の御厩みうまやわれてある「草薙くさなぎ」とよぶ神馬しんめである。
 しかし、徳川家とくがわけの者や、諸藩しょはんのものは、この嶮路けんろの遠駆けに、馬をひきだしてきた無智むちをわらった。
「どうだい」
 と、嘲笑ちょうしょう半分に、うわさするものがある。
「これから御岳の中腹ちゅうふくまでりて、渓谷けいこくをわたり、それから白鳥しらとりみね大鳥居おおとりいまでいってかえってくるという遠駆けに、いくら名馬の手綱たづなをとったところで、しょせん、どうにもなりゃあしまい」
「まるで、山を舟でえようというのとおなじ無謀むぼう沙汰さただ」
「しかし、あいつ、おそろしく自信のあるような顔をしているな」
「ふうていもかわっている、そまか、野武士のぶしか、百姓ひゃくしょうか、見当けんとうのつかぬようなあおさいだ」
「なにしろ、どうけるか、その敗けぶりをみてやろう」
 小文治こぶんじの耳にも、こんな悪評あくひょうが、チラチラ耳に入らぬでもなかった。けれど、かれは黙笑もくしょうしている。うすらわらいすると、そのほおには、ちいさなくぼができて、愛らしい若者だった。


 一方。
 これはまた、おそろしく雲の上でも飛びそうなすがたででてきたのは、早足はやあし燕作えんさく
「やあ、ごくろうさま」
 小文治のすがたを見ると、町人ちょうにんらしく、こしをまげた。
 ちょっと、いままでの試合しあい目先めさきがかわったので、見物けんぶつはよろこんだ。大きな弥次やじのこえが、高いの上ではりあげている。
「お役人さま、ねんのために、よくうかがっておきますがね」
 と、燕作えんさくは、よくしゃべる。
「なんでござんしょうか――この遠駆とおがけの勝負の眼目がんもくは、つまり、あの白鳥しらとりみね大鳥居おおとりいまでいって、さっきの遠矢とおやを、一本ずつ持ってけえってくりゃあよろしいンですね」
「そうじゃ」
 と、試合目付しあいめつけがそうほうへくわしく説明した。
「――それと、さいぜん、勝負あずけとなっている遠矢のあたりの証拠しょうこを持ちかえってもらいたい」
「ようがす、じゃ、あっしは、あのがくふちを引ッぱずして持ってくりゃいいんだ。そして、相手方あいてがたより一足ひとあしでも早く、この試合場しあいじょうへ持ってきて、それを検証けんしょう床几しょうぎのおかたに手渡てわたしすりゃあ勝ちというわけなんでございましょう。……なアんだぞうさもねえ、それならとちゅうで、さんざん煙草たばこってけえってこられまさ」
 と、うわ調子ちょうし町人ちょうにんことばで、おそろしく大言たいげんをはいた。
 小文治こぶんじは、そら耳で聞きながら、一つかみ草をとって馬にいながら、ニコニコわらっていた。
旦那だんな支度したくはまだですか」
 燕作の足は、もう、やたらにピクピクしてきたふう。
「おお、よいぞ」
 というと、巽小文治たつみこぶんじ、ひらりと神馬しんめ草薙くさなぎくらつぼにかるく飛びのった。
「待った!」
 と、目付めつけの人々はあわてて、そこから合図あいずの手をあげると、ドウーンと三流みながれの太鼓たいこが鳴りこむ。
 なお、いざ! というのはまだである。
 太鼓は三色みいろ母衣武者ほろむしゃが、試合場しあいじょうの左右から正面へむかってかけだすらせだった。そこには、矢来やらいと二じゅういまわされたさくがある。柵の周囲しゅうい群集ぐんしゅういはらうと、そこのひろい城戸きどが八文字もんじにあいて、御岳山道みたけさんどうの正面のみちが、試合場からズッとゆきぬけに口をあいたかたちになる。
 ――とき、すでに七刻ななつごろの陽脚ひあし
 満山まんざんのもみじに、しずかな午後の陽のいろが、こころもちくれないくしてきた。
 おりこそあれ、短笛たんてき
 ここに、最後の勝敗しょうはいをけっする、騎馬きば徒歩かち遠駆とおがけの試合しあい矢声やごえはかけられた。
 わーッと、いう声におくられて、正面の城戸を走りだした白馬はくば草薙くさなぎと、天下無類てんかむるい早足はやあし持主もちぬし、もう、御岳の広前ひろまえからッさかさまに、その姿すがたを見えなくしてしまった。

かみあざむくべからず




 いくら天下の早足はやあしとじまんをする燕作えんさくでも、騎手のりて巽小文治たつみこぶんじ、馬は逸足いっそく御岳みたけ草薙くさなぎ、それを相手に足くらべをしたところで、もとよりおよぶわけはなく、勝とうというのがしのつよい量見りょうけん
 ――と見物けんぶつの者は、はじめからこの早駆はやがけ勝負の結果けっかを見くびっていたが、はたして、その予想よそうははずれなかった。
 試合場しあいじょう城戸きどから、八ちょう参道さんどうとよぶひろ平坦へいたんさかをかけおりてゆくうちに、燕作の小粒こつぶなからだはみるみるうちにされて、とてもこれは、比較ひかくにはならないと思われるほど、そうほうのあいだにかくだんな距離きょりができてしまった。
 だがしかし――燕作のはらにはりっぱに勝算しょうさんがたっていた。
「見ていてくれ、ほんとの勝負はこれからさ」
 と、たかをくくっているのだ。
 そして八町参道をまたたくまにかけりると、道はふた手にさけて一方はふもと、一方は白鳥越しらとりご甲州裏街道こうしゅううらかいどう方角ほうがくにあたる。
 その裏街道のほうへさきの小文治がいきおいよくまがった。
「ふふん……」と燕作は、それを見ながらあとからかけて、
「さあ、やっこさんがあわくのはこれからだぞ。そこで燕作さまは、このへんでじゅうぶん一息ひといきいれてゆくとしようか」
 こし手拭てぬぐいをとって風車かざぐるまにまわしながら、一汗ひとあせふいて、またもやあとからかけだした。
 一方、いそぎにいそいでいった小文治こぶんじは、やがて道のせばまるにつれて、樹木じゅもく蔓草つるくさこま足掻あがきをじゃまされて、しだいに立場たちばがわるくなってきた。
 この早駆はやがけ勝負のまえには、奉行ぶぎょうの方から騎乗随意きじょうずいいといってきたくらいであるから、とうぜん、騎馬きば往来おうらいは自由なところと考えていたが、このあんばいだと、前途ぜんとはしょせん馬でしとおすことはできないかも知れない。
「はかられたな」
 と小文治は早くも心のうちでさとったが、ようするに地理不案内ちりふあんないからきたおちど、いまさら引っかえすわけにはゆかないことは知れきっているので、
「ままよ」
 と強情ごうじょうに、樹々きぎにせばめられているほそい道へと、むりやりに馬をすすめていった。
 が、そこには我武者がむしゃにかけとばしても、たちまちまた一つの難関なんかんがあった。なんのさわというか知らないが、おそろしくきゅう傾斜けいしゃで、その下にははばのひろい渓流けいりゅうがまッ白なあわをたてて流れている。
 まよった。――小文治はまよわざるをなかった。
 手綱たづなにそうとう要意ようい覚悟かくごをもてば、自分とて、こんなところをり落とすことができないではないが、帰る場合ばあいにどうしよう?
 ほかにのぼる道があればいいが、ないとすると、この傾斜けいしゃでは、馬を乗りあげることがむずかしい。それに、下に見える渓流けいりゅうもはたして騎馬きばせるかどうか?
「ウーム、さては大久保おおくぼをはじめ徳川家とくがわけのやつばらめ、あらかじめ地のをしらべておいて、うまうまと最後さいごの勝負でこっちに一ぱいわせたのだ。……はてざんねんなわけ、どうしてやろうか」
 と、名馬草薙くさなぎの足もそこよりはすすみえずに、手綱たづなをむなしくして、馬上にぼうぜんと考えこんでしまっていると、そこへ飛んできた早足はやあし燕作えんさくが、
「ああ、やっといついた」と、ふりかえって、
「おい大将たいしょう失礼しつれいだけれど、お先へごめんこうむりますぜ」
 しりをたたくようなかっこうを見せて、ぴょんと、傾斜けいしゃがけッぷちへかかった。
「あッ」
 と、われにかえってがみをする小文治こぶんじを、
「まあ、ごゆっくり」
 と見かえして、そういうが早いか、燕作のからだは、いわ着物きものをきせてころがしたように、そこからさわの下の水辺みずべまで一いきにザザザザザとかけおりてしまった。


 もうまよっている場合ばあいではない。
 小文治こぶんじは馬をすてた。
 あたりの喬木きょうぼく手綱たづなをくくりつけておいて、燕作えんさくのあとから、これも飛鳥ひちょうのようにさわへおりた。
 りてみると燕作はもう渓流けいりゅういわをとんで、ひらりと対岸たいがんへあがっている。小文治がかわの向こうへわたりついた時には、やはり同じ距離きょりだけをさきへのばして、こんどはスタスタとのぼりにかかった。
「お、白鳥しらとりの山へかかってきたのだな」
 かれは気が気ではなかった。
 まだ一も二里もさきがある勝負なら、なんとかそれだけの距離を取りかえすことができようが、たしかここから十二、三ちょうのぼった中腹ちゅうふくがれいの大鳥居おおとりいだ。
「おのれ、燕作ごとき素町人すちょうにんにおくれをとって一とうの人々に顔向けがなろうか」
 早駆はやがけとはいいじょう、ことここに立ちいたってみれば、武芸以上ぶげいいじょう必死ひっしだった。いや、そんな意地いじよりも名誉心めいよしんよりも、まんいち自分がやぶれでもした時には、いやでもおうでも、咲耶子さくやこの身を徳川家とくがわけの手にわたさなければならない。
 いわば一党の人の然諾ぜんだくと咲耶子の運命うんめいとは二つながら、かかって自分の双肩そうけんにあるのだ。敗れてなるものか、おくれてなるものか。
 彼はややあせった。
 あせは全身をぬらしてくる。呼吸こきゅうはつまる。
 それにひきかえて燕作えんさくのほうを見ると、さすがはこいつ足馴あしなれたもので、少しもあせるようすがなく、まるで平地をあゆむように、スラスラと十二、三ちょうのぼりをみすすんでゆく。
 すると、ほどなく彼の前に、七、八だんはばのひろい石垣いしがきがあらわれて、巨人きょじんがふんばったあしのような大鳥居おおとりいもとがそこに見られたのである。
「おっ、やっといたぞ」
 さすがな燕作も、そこでは、ホッとしたようにいきついて、山下さんかへ小手をかざしてみたが、まだ小文治こぶんじ姿すがたは見えない。
 で、安心したらしく、
「ヘン、どんなものだい」
 というふうにむねをひろげて、また手拭てぬぐい風車かざぐるまにまわした。
「おっと、そうはいっても、まだまだやっと勝負はこれで半分みち。あのがくふちさッているきとって、もとの試合場しあいじょうまで帰り着かねえうちは、まだほんとに勝ったものとはいえない」
 つぶやきながら、大鳥居の上を見あげた。
 それへよじのぼる気か、燕作が、ペタとせみのように丸木まるきの鳥居へ取ッついたが、待てよ、とすこし考えて――。
「こいつあそんだ、わりに合わねえ」
 と不意ふいにべつのをさがしはじめた。
 上の額縁がくぶちさっている矢は、さいぜん、徳川家とくがわけ射手いて加賀爪伝内かがづめでんないがはなした遠矢とおやで、かれも徳川方とくがわがたのひとりである以上いじょう、とうぜんそのをぬいて、持ちかえるのがほんとなのだが、こののぼりにくい鳥居とりいにかじりついてすべったり落ちたりしているよりは、どこか、そこらに落ちている山県蔦之助やまがたつたのすけをひろっていったほうが、時間においてはるかに得策とくさくだと、あいかわらずずるい考えをおこしたものなのである。
 で、鳥居とりいをくぐって、およそな見当けんとうのところをしきりにさがしはじめたが、さあこののほうにも一なんがある。
 加賀爪の矢はまとの中心にこそあたらなかったが、そのがくふち適中てきちゅうしたので、あのとおりあからさまに鳥居の上にとまっているが、的をそんじた蔦之助の矢のほうは、それをそれたわけなので、どこまですッ飛んでしまったか、その距離きょり方角ほうがくにいたっては燕作えんさくにもちょっと想像そうぞうがつかないのだ。
「おやおや、そうは問屋とんやでおろさねえときたね。じゃ、やっぱり尋常じんじょうに、あの上のやつをいて引っかえそうか」
 と、きゅうに考えなおした燕作。
 なんの気もなく、まえの大鳥居おおとりいもとのほうへふたたび足を向けかえてゆくと、その足のつまさきが、なにやらみょうなものにつまずいたと思ったので、ヒョイと見ると、嵯峨天皇風さがてんのうふう字体じたいで「白鳥霊社しらとりれいしゃ」とってある四角な古い欅板けやきいただった。
「あれッ?」
 といったまま燕作えんさくは、それと鳥居とりいの上とを見くらべてあいた口がふさがらない。
 なぜかといえば――
 その板はまさしく大鳥居おおとりいの上にかけてあるべきはずのがくなんである。だのに……と思ってよくよくちゅうと大地のしなとを見くらべてみると、鳥居の上には神額しんがくふちだけがのこっていて、なかの板だけがここへ落とされてあることがわかった。
 ではなんで落ちたか――ということは燕作にはもう疑問ぎもんとするにたらなかった。証拠しょうこ歴然れきぜん、そこに落ちている神額の中板なかいたの「白鳥霊社しらとりれいしゃ」のれいという文字を見ごとにきさしていた一本の! 見るまでもないが手にとってみると、はたしてさいぜんの試合しあいに、山県蔦之助やまがたつたのすけ日輪巻にちりんまきゆみから切ってはなした白鷹しらたか塗矢ぬりやにちがいはないのである。
「ああ、こりゃあたいへんだ」
 燕作はいままでの道をあるそんじたように、ガッカリしてつぶやいた。
 先刻さっき遠矢試合とおやじあいでは河内流かわちりゅう加賀爪伝内かがづめでんない勝点しょうてんをとって、蔦之助は負けということになっていたが、いま、その遠矢の的場まとばであるこの大鳥居のすそに立ってみると、これはあきらかに伝内の負けで蔦之助の勝ちだ。
 伝内の矢は額の中心をはずして、わずかにその縁にとまっているにすぎないが、蔦之助の矢は神額のまッただなかをて、その板もろとも下へ落ちてしまったのだ。
 そのために、御岳みたけ試合場しあいじょうから見ると、だれの目にもそれたように思われたが、この実際じっさいがわかるとなれば、たいへんな番狂ばんくるわせで、おれが早駆はやがけに勝ったところで、きょうの勝負は五分五分ごぶごぶなわけだ、と燕作えんさくはすっかり気がくさってしまった。
 と――もう下のほうから、巽小文治たつみこぶんじいきをあえぎつつのぼってくるすがたが見えはじめた。
「ええ、きやがった」
 燕作はさきに着いていながら、まごまごしてしまったが、にわかになにか思いついて、
「そうだ、なにも心配しんぱいすることはねえ。おれがここでこの額板がくいたを見つけたからこそ、蔦之助つたのすけのあたりがわかったようなものの、なあに、このままどこかへかくしておけば、相手のやつらも気がつくことはないのだ」
 はぬいて自分のこしにはさみ、神額しんがくいたは、人の気づかぬような雑木帯ぞうきたいがけへ目がけて力まかせにほうりすてた。
「ウム、これでよし」
 いこうとすると、何者か、
「待て! 燕作えんさく
「あッ……」
 かれはなにものも見なかったであろう。
 ふりむいたとたんに、天地がグルリとまわったように感じた。そしてえりがみをはなされた時には、脾腹ひばらをうって、鳥居とりいの下に気をうしなっていた。


 わずかのをおいて、そこへ、燕作えんさくいこされた小文治こぶんじいきをきってのぼってきた。
 しかし、ふしぎなことには、たったいま何者なにものかに投げられて、大鳥居おおとりいの下で気をうしなった燕作のからだが、どこへかたづけられたのか、そこに見えなくなっていた。
 そういう変事へんじがあったのは知らないが、小文治はふしんにおもった。あとから登ってくるみちみちにも、くだってくる燕作に出会であうだろうと思っていたのに、ここへきても、その姿すがたが見えない。
「ひきょうなやつ、さては、このうえにも自分をだしぬくためにどこか近いぬけ道をまわっていったな」
 いわゆる、負けた者のくそ落ちつきではないけれど、小文治もこうなるうえは、この遠駆とおがけの勝敗しょうはい天意てんいにまかせるよりほかはないとかんねんをきめた。
 全能ぜんのう全力ぜんりょく正当せいとうにつくしてみて、それでもやぶれれば、まことに是非ぜひのないわけだ。男らしく、一とうの人の前へでて、つみしゃするよりほかにみちはない。
 と、覚悟かくごをきめてしまったので、かれもぞんがい元気をたもっていた。
 そこで、しずかに、持ちかえるをさがすと、蔦之助つたのすけの矢は見あたらないで、大鳥居の額縁がくぶちさっている加賀爪伝内かがづめでんないの矢が目にとまった。
 かれはハタととうわくして、
「どうしてあれを取ろうか」
 とうでをくんで考えた。
 一ぽうを見ると、そこにすばらしく大きいむく大木たいぼくがある。その高いこずえの一たんがちょうど、鳥居とりい横木よこぎにかかっているので、
「そうだ」
 ってそれへよじのぼろうとすると、
小文治こぶんじ、小文治」
 不意ふいに、どこかで自分をぶものがある。
 ――が、どこを見まわしても、人らしいかげはあたりの鬱蒼うっそうにも見えないのである。
「耳のせいか?」
 かれはそう思った。ふたたび椋のみききついて、大鳥居おおとりいの横木へわたろうと考えた。
「――いまわしがりてゆくから、くるにはおよばんよ、そこで待っているがいい」
「や? ……」
 耳のせいではない。
 だれだろう、何者なにものだろう、この白鳥しらとりみねでなれなれしく話しかける人間は?
 かれの目はしきりにうごいて、うしろの樹立こだちをすかしたり暗緑あんりょく境内けいだいを見まわしたりしたが、ついに、そこからなにものも見いだすことはできなかった。――たださいぜんから明らかに知っていて、べつに気にもめなかったのは、鳥居とりい横木よこぎにうずくまっている一灰色はいいろの鳥だった。
 ところが、かれのはなのさきへ、上から額縁がくぶちけて、ポーンと落ちてきたので、ひとみをこめて見なおすと、その灰色のかげが鳥ではないのがはじめてわかった。
 ころものような物をきている人間だ。鳥居の横木にこしをおろし、つえのようなものを持っているあんばい。
 を落として、するすると横木のはしへはいだしてきた。
 ぎんのようなひげあごからたれて風をうけているのが、そのときには、下からもありありとあおがれた。老人ろうじんはやがてむくこずえにすがって、蜘蛛くもがさがるようにスルスルとりてきた。
「あッ、あなたは果心居士かしんこじ先生」
小文治こぶんじ、ひさしく相見あいみなかったの」
「どうして、あんなところに」
「まあよい、そこへすわれ」
 すわって話しこむどころの場合ばあいではないが、ついぞここしばらくのあいだ、一とうの人にかげもすがたも見せないでいた果心居士が、こつぜんと、そこに立ったのであるから、小文治もぼうぜんとして、思わず、こしをついてしまった。
「きょうはえらいさわぎだったな」
 居士こじはいつもかわりのない童顔どうがんに明るい微笑びしょうなみのようにたたえて、
「わしも、すこしあんじられたので、きょうは早くからあれにこしをすえて見物けんぶつしていたのじゃ」
 と、鳥居とりいの上をゆびさした。
「えッ、では、先生には、あの鳥居の上から御岳みたけ試合しあいをながめておいであそばしたので」
「よく見える。あたかも鞍馬くらまの上から加茂かも競馬けいばを見るようにな」
「して、いつこの武州ぶしゅうへ」
「ゆうべ、なにげなくれいの亀卜きぼくえきをこころみたところが、どうもはなはだおもしろくない卦面けめんのしらせじゃ。そこでにわかに思い立って、きょうぶらりとやってきたが、はたしてこのさわぎ……」
 小文治は居士の話にいろいろな疑念ぎねんをはさんだ。亀卜の易とはなにか? またきょうの鞍馬山から武州まで、きょうぶらりとやってきたというのも、自分の聞きちがいのような気がした。
 けれど、かれがそんなことに頭をそらしているうちに、居士はずんずんとさきの話をいいつづけていて、
「で、なによりあんじられたのは、万が一にも、咲耶子さくやこの身を徳川家とくがわけのほうへとられると、おそらく、ふたたび助けだすことができまいということであった。なぜといえば、家康いえやすの心のうちには、いよいよ邪計じゃけいきざしがみえる。――武田たけだ残党ざんとうにくむことが、いぜんよりもはなはだしい。そして、秀吉ひでよしをあらそううえにも、つねに背後はいごの気がかりになる伊那丸君いなまるぎみやそれに加担かたんのものを、どんな犠牲ぎせいはらっても、根絶ねだやしにしなければならぬと、ひそかに支度したくをしつつあるのだから」
 老骨ろうこつとは思われない若々しい居士こじ語韻ごいんのうちに、仙味せんみといおうか、童音どうおんといおうか、おのずからの気禀きひんがあるので、小文治こぶんじはつつしんで聞いていたが、話がとぎれると、遠駆とおが試合じあい決勝けっしょうが気にかかって、じッと落ち着いてはいられない気がする。
「もし、果心居士かしんこじ先生」
 たまらなくなって、こしかしかけた。
「なんじゃ」
「せっかく、お話中ではございますが、ご承知しょうちのとおり、わたしはいま遠駆けのとちゅう、このをもっていっこくも早く試合場しあいじょうへもどりませぬと……」
「ウムぞんじておる」
「でも、ただいまもおおせられたとおり、まんいち不覚ふかくをとりますと咲耶子さくやこの身を」
「それはわかっている。まあよい」
 わかっているといいながら、小文治のワクワクしているむねのうちもさっしなく、居士はゆうぜんとむくの木のに腰をすえて、目を半眼はんがんにとじ、あご銀髯ぎんぜんをやわらかになでている。


 気が気ではないのに、居士こじはまだことばを切らないで、
「わしがみるところでは、世はいよいよみだれるだろう、いくさは諸国しょこくにおこってえないであろう、人間はますます殺伐さつばつになり、人情にんじょう美風びふうはすたれるだろう。なげかわしいが天行てんこうのめぐりあわせ、まことにぜひないわけである」
 と、空をあおいでそういった。
 ああ悠長ゆうちょうな。
 小文治こぶんじがことばをはさもうとすると、そこをまた、
伊那丸君いなまるぎみにもよく言伝ことづてをしてくれよ。よいか、ますます自重じちょうあそばすようにと」
「は、心得こころえました」
 いいしおと、小文治が立ちかけると、
「あ、待て」
 またか、――そう思わずにいられないで、
「さきをいそぎますゆえ、なにとぞ、このまま失礼しつれいごめんくださいまし」
 と、そこに落ちているをひろって右手めてにつかむと、居士も、やっとこしをあげて、
「小文治、そのしなばかりでは心もとない、いずれこの空がまッ夕焼ゆうやけするころには、御岳みたけの山も流血りゅうけつまるだろう。――ほこをうごかすなかれ、をみるなかれの神文しんもんもとうていいまの人心にはまもられる気づかいがない。見ろ――」
 手をあげた居士こじゆびが、そこから対山たいざん中腹ちゅうふくをゆびさした。
「あれを見ろ、小文治こぶんじ。みだれた凶雲きょううん殺気さっきにみなぎっている」
「では、兵法大講会へいほうだいこうえの第二日も、いよいよ無事ぶじにはおさまりませぬか」
「おそらく、三日目みっかめを待たず、今夕こんせきかぎりでめちゃめちゃになるだろう。おう、おまえも早くゆくがいい、そして、まんいちの用意よういに、これを証拠しょうこに持ちかえるがよかろう」
 そういって、居士こじがかれにあたえたのは、さいぜん、燕作えんさくがどこかへ投げすてた額板がくいただった。
 蔦之助つたのすけ遠矢とおやがけっしてやぶれたのではないと聞かされて、小文治はこおどりして、
「では、ごめんを」
 と、下山げざんの道へ走りだした。
「おお、せくなよ。いてあとの不覚ふかくをとるなよ」
 見送みおくりながら、居士は白鳥しらとりおくいんのほうへ風のごとく立ち去った。
 しばらくすると、草むらのなかから、
「ウーン……アいて、アイテテテテ」
 とこしをさすりながら起きあがった燕作が、ゆめのような顔をしてのこのこでてきた。
「どうしたんだろう? おれはいったい」
 あたりをみると、いつか夕暮ゆうぐれらしい色が、森や草にはっていた。こずえにすいてみえる空の色も、たん刷毛はけでたたいたように、まだらなべにまっている。
「あッ……ささささ、さア、たいへん!」
 はじかれたように思いだして、大鳥居おおとりいの上を見ると、南無なむ三、そこに立っていたはすでにぬき取られてあるではないか。
「ちぇッ、しぬかれたぞ、小文治こぶんじのやつに」
 わくわくと自分のこしに手をやってみる。
 さいぜん、おびへさした、蔦之助つたのすけはたしかにあった。
「ウム、野郎やろうめ。まだあいつの足では御岳みたけ試合場しあいじょうまでは行きつきはしめえ。……なんの見ていやがれ、早足はやあし燕作えんさくが一だいにすッ飛んでくれるから」
 足とこしほねを二つ三つたたくと、孫悟空そんごくう急用きゅうようにでかけたように、燕作のからだは鳥居のまえから見ているうちに小さくなっていった。
 いや、その早いことといったらない。まるで足が地についていないようである。
 またたくにもとの渓流けいりゅうにかかってきた。
 ここは谷間たにあいのせいか、いちだんと暮色ぼしょくくなって、もう夕闇ゆうやみがとっぷりとこめていたから燕作は泣きだしたくなった。
「ええ、たいへん」
 もしこの遠駆とおがけにおくれを取ったら、あの呂宋兵衛るそんべえがおれをただはおくまい。菊池半助きくちはんすけ大久保長安おおくぼながやすなども、さだめしあとでおこるだろう。いや、おこられるだけならまだいいが、勝ったら百りょうといわれた褒美ほうびもフイなら、第一、天下の早足はやあしの名まえがすたる。
 意地いじでもよくでも勝たなければならない。
「ええ、間道かんどうをゆけ、間道を」
 とうとう燕作えんさく、ここまで試合しあいをつづけてきて、最後にさもしい町人根性ちょうにんこんじょうをだした。それを他人たにんに知られたら、ひきょうな立合たちあいといわれて、徳川家とくがわけの名をけがすことになるが、いまはそんなことを顧慮こりょしていることはできない。
 ただ、なんでもかでも、早くかえり着くことにあせった燕作は、やくそくの道をふまず、さわをひだりにまわって、八ちょう参道さんどうへ半分でぬけられる近道をいそぎだした。
「おう、しめた」


 そこへけてでると、さきにいそいでゆく小文治こぶんじ騎馬きばすがたがすぐ目のまえに見えた。
 にわかに元気づいた燕作が、一ちょうはんばかり、死身しにみになってかかとをけると、こいつどこまで足が達者たっしゃに生まれた男だろう、神馬しんめ草薙くさなぎとほとんど互角ごかくな早さで、長くのびた燕作の首と、あわをかんだ馬の顔が、わずか一けんか二間のを、たがいにきつかれつして、八ちょうばかりの坦道たんどうを、見るまに、二町走り三町走り、六町走り、アア、あとわずかと試合場しあいじょう城戸きどまで、たッた二、三十けん――。
 わッーという声のなみが、馬と人とを同時にきこんだ。
 燕作えんさくは、かけいたというよりも、自分のからだを城戸のなかへほうりこんで、
遠駆とおがけ一番!」
 たおれながらこしを高くさしあげた。
 それがさきか、かれが次着じちゃくか、ほとんど燕作のさけびと同時に、馬もろとも、おどりこんだ小文治こぶんじの口からも、同じように、
「一番!」
 と絶叫ぜっきょうされた。
 すると、すぐに審判しんぱん床几しょうぎにいた鐘巻一火かねまきいっかの口から、
巽小文治たつみこぶんじどの、遠駆け一番」
 とあきらかな軍配ぐんばいがあがった。
「ちーイッ」
 と口をゆがめてぎしりをしたまま、早足の燕作は、こしを立てる気力きりょくもなく、なにかわけのわからないことをさけびつづけた。
 小文治一番――と聞いて色めき立ったのは、かれの朋友ほうゆうたちで、
「それ、このうえは、約束やくそくのとおり一火どのから咲耶子さくやこを申しうけよう」
 と、忍剣にんけんをはじめ龍太郎りゅうたろう蔦之助つたのすけ竹童ちくどうなどが、審判の床几にいる鐘巻一火のところへかけあつまってくると、いちじ色をうしなった徳川家とくがわけのほうからも、大久保石見守おおくぼいわみのかみ菊池半助きくちはんすけはなかけ卜斎ぼくさい和田呂宋兵衛わだるそんべえ。そのほかおびただしい人数ひとかずが、ドッと流れだしてきて、
検証けんしょう一火いっかどの、軍配ぐんばいがちがうぞ」
 と抗議こうぎをもちこんだ。
 一火は公平なたいどで、
「なんで拙者せっしゃの検証がちがうといわれるか」
 色をなしてッ立った。
 されば石見守は一火の左の手につかんでいるして、
「それはだれが持ちかえった矢であるか」
「これは小文治こぶんじどの。またこちらは燕作えんさくの持ってきた矢であるが、それがどうかしたといわれるので」
「ちがう。この遠駆とおがけは勝負なしじゃ」
「なぜ?」
「小文治は蔦之助つたのすけを取ってかえるべきがとうぜん、また燕作は、伝内でんないを持ちかえらねばならぬはずじゃ。それを双方そうほう心得こころえちがいをして、かくべつべつに取りちがえてきた以上いじょう、この遠駆とおが試合じあいは、やりなおしか、互角ごかくとするよりほかはありますまい」
 ひきょうな苦情くじょうである。
 負けたがゆえにのないところへ理をつけた難癖なんくせである。
 かりにも、武門ぶもんちりをはいておこなわれた試合しあいのうえに唾棄だきすべききたない心がけだ。
 忍剣にんけん龍太郎りゅうたろう面上めんじょうには、みるまに、青い怒気どきがのぼった。
 その禅杖ぜんじょう、その戒刀かいとうは、いまにも長安ながやす細首ほそくびへ飛びかかろうとしているふうだったが、かれの周囲しゅういにも、菊池半助きくちはんすけや、呂宋兵衛るそんべえが、眼をくばってまもっている。
 ただ、こまったのは鐘巻一火かねまきいっかである。
 かれは双方そうほう板挟いたばさみとなって、この場合ばあいをどう処置しょちしていいのか、ほとんど、とうわくしてしまった。
 それをとするかとするか、自分のくちびるをでる、ただ一で、どんな兇刃きょうじんがもののはずみで御岳みたけ神前しんぜんの海としないかぎりもない。
「うーむ。これはどうしたものか」
 両方りょうほうのあいだに立って、かれがとうわくのうでぐみをかたくむすんだ時、
「いや、しばらく」
 一とうの人々をしなだめて、それへでてきたのは遠駆とおが試合じあいとうの本人である巽小文治たつみこぶんじ
 黒々とひとくせある顔をならべたせんぽうの者をずッと見まわして、
「――いかに浜松城はままつじょう武士ぶしども、たとえ、いまの遠駆けを勝敗なしとしたところで、もう咲耶子さくやこはこっちへもらいうけたぞ。人はあざむきるとも神はあざむくべからず、うたがわしくば首をあつめて、とくとこれを見るがいい」
 と、れい鳥居とりい額板がくいたをかれらの目のまえにつきだした。

刑罰けいばつの千ねん山毛欅ぶな




 もう、ぜひの議論ぎろんにはおよばない。
 すべては「白鳥霊社しらとりれいしゃ」の額板が、雄弁ゆうべん解決かいけつをつけていた。
 それには、りっぱに、蔦之助つたのすけあてたあとがある。かれのえんはそそがれた。そして、競射きょうしゃ不当ふとう勝点しょうてんをうばっていた徳川家とくがわけは、一ぱい地にまみれてしまった。
 いくら、横車よこぐるまそうとする徳川方とくがわがたの者でも、その証拠しょうこ小文治こぶんじにつきつけられては、二のをつぐ者もなかった。
 検証役けんしょうやく鐘巻一火かねまきいっかは、公平こうへいに、最後さいごだんをくだして、蔦之助や小文治たちにいった。
「おやくそくであるから、咲耶子さくやこのからだは、おのおのたちへおわたしいたすことにする。いざ、こちらへきてください」
 さきに立って、自分のたまりであるまくのほうへみちびこうとすると、いまいましげにめつけていた大久保石見守おおくぼいわみのかみが、
「まだうたがわしきふしがある。待て、咲耶子さくやこわたすのはしばらく待て」
 と、みれんらしくどなった。
 蔦之助つたのすけ小文治こぶんじは、ふんぜんと色をなして、
「なに、このうえにも、なにか苦情くじょうがあるというのか」
「おお、第一、あやしいのは額板がくいた。なるほど、白鳥霊社しらとりれいしゃってあるにはちがいないが、はたしてこのあとが蔦之助の矢かどうか、それもにわかにたしかとはうけとれない。ことに、まだ大講会だいこうえ第三日の試合しあい明日あすにのこっていることゆえ、咲耶子の身を処決しょけつするのは、あしたにのばしてもさしつかえあるまい。そのあいだに、いま申した疑問ぎもんてんをとうほうでもじゅうぶんに取り調しらべておくから、それまで待てと申すのだ」
 いかにも無理むりな、智恵ちえのない、いいぶんだ。
 一火いっかは、取るにたらないことばと聞きながして、さっさと引きあげようとしたが、徳川家とくがわけのほうからは一こくましに味方みかたがあつまって、わざとことをもつれさせるように、石見守いわみのかみについて、ごうごうと苦情くじょう声援せいえんをあげだした。
不当ふとうだ」
 と、一火のかたをつく者がある。
「そっちに、やましいところがないならば、なぜ明日まで待てぬというか」
 と、雑魚ざこのようにむらがってきて、龍太郎りゅうたろうや蔦之助たちの歩行ほこうをじゃまするやからもある。
 これが「をみるなかれ」――刃傷禁断にんじょうきんだん御岳みたけ神前しんぜんでなければ、こんな雑魚ざこどもに、かってなねつをふかせておくのではないが――と四人もジリジリ思ったろうし、はらはらして、そばにいた竹童ちくどうも、ぎしりをかんで、ながめていた。
 蛾次郎がじろうも、卜斎ぼくさいのうしろから首をだしていた。
 そして、一にんまえ徳川家とくがわけかたを持って、
「なんだ、そんなばかなほうがあるもンか。やれやれ、やッつけろ」
 ケシかけるような弥次やじをとばしたので、卜斎に、ぴしゃりとお出額でこをたたかれて、だまってしまった。
 なにしろ、はてしがつかないさわぎだ。
 刀のぬけない場所ばしょだけに、いたずらに声ばかり高く、理非りひもめちゃくちゃにののしる声が、一火いっか龍太郎以下りゅうたろういかの者を取りまいて、身うごきもさせない。
 すわ、なにかことこそはじまったぞ! とそれへくわえて、上杉家うえすぎけ北条家ほうじょうけ前田家まえだけ伊達家だてけ、そのほかのたまからも数知かずしれない剣士けんしたちがかけあつまってくる。
 むろん、鐘巻一火かねまきいっか門人もんじんたちも、ただは見ていなかった。もし、の身にまちがいがあってはとひかまくからにして、こぞって、そこへ飛んできた。
 すると。
 わたせ、渡さぬ、の苦情くじょうが、そこに人渦ひとうずをまいてもめているすきに、石見守いわみのかみの目くばせで、呂宋兵衛るそんべえ菊池半助きくちはんすけのふたりが、ぷいと、どこかへ姿すがたしたことを、だれひとり気づいた者がない。
 伊賀者頭いがものがしら菊池半助きくちはんすけ、あのりすのような挙動きょどうをして、どこへいったのかと思うと、やがてひとり、鐘巻一火かねまきいっかのひかえのうらへきて、鉄砲てっぽうぶッちがえのまくのすきから、なかのようすをのぞいていた。
 そとのさわぎに、門人もんじんすべてではらって、まくのうちには人影ひとかげもない。
 ただ、咲耶子さくやこひとりだけが、柱にもたれてやすんでいた。
「ウム、いるな」
 こううなずくと半助は、まくをあげて、いきなりそこへ飛びこんだ。
 とたんに、あッ――とれた咲耶子の声が、糸を切ったように、中途ちゅうとからポツンときれて、それっきり、あとはなんの音もしなかった。


 たけ網代あじろにあんだ駕籠かごである。山をとばすにはかるくってくっきょうな品物。それへ、さいぜん、忍剣にんけん鉄杖てつじょう腰骨こしぼねをドンとやられた、蚕婆かいこばばあっていた。
 あの、こうもりのつばさのような、女修道者イルマンの着るくろいふくをかぶって、青い顔をして乗っていた。
ばあさん、いたいかい?」
 のぞきこんだのは燕作えんさくである。
 蚕婆は、こしをさすって、
「ウーム、いたい」
 と、顔をしかめた。
「いまにらくにしてやるよ、おめえだけさきに浜松はままつへ帰るんだ。ご城下じょうかにかえれば、もある医者いしゃもある、なにもそんなに心配しんぱいすることはねえ」
 ところへ、ばたばたと足音がしてくる。
 葵紋あおいもんまくをあげて、あわただしくかけこんできたのは、菊池半助きくちはんすけであった。
 右のこわきに、咲耶子さくやこのからだを引っかかえていた。不意ふいに、当身あてみをうけたのであろう、彼女かのじょは力のない四をグッタリとのばしていた。
呂宋兵衛るそんべえ、呂宋兵衛」
「お」
 もう一ちょう駕籠かごのなかに、和田呂宋兵衛わだるそんべえがかくれていた。ひらりと飛びだして――。
「半助さま、ごくろうでしたな」
「む。いい首尾しゅびだったので、なんのもなくさらってきた」
「お早いのには、呂宋兵衛もしたきましたよ。さすがは、伊賀者頭いがものがしらでお扶持ふちをもらっているだけのお値打ねうちはある」
「おだてるな。して、支度したくは」
「このとおり。なん時でも」
「では、一こくもはやいがいいぞ。おい燕作えんさく、ちょっと手をかせ」
 呂宋兵衛るそんべえが身をぬいた空駕籠からかごのなかへ、咲耶子さくやこのからだをしこんで、その、人目ひとめにつく身なりの上へ、蚕婆かいこばばあと同じくろいふくをふわりとかぶせた。
「さ、これでいい」
 と半助が合図あいずをすると、わらじをむすんでいた駕籠の者が、ばらばらとって二つの駕籠をかつぎあげた。――呂宋兵衛はすぐと、
「おれと菊池きくちさまは、あとから見えがくれについてゆくから燕作えんさく、てめえはなにしろ駕籠について、御岳みたけのうら道をグングンとかけとばし、浜松はままつのご城下じょうかへいそいでゆけ」
 と、手をふった。
 …………
 紛擾ふんじょうをきわめている一方では、徳川方とくがわがたのそんな奸計かんけいを、ゆめにも知ろうはずがない。
 どっちもかずにあらそっていたが、審判しんぱん公平こうへいと、他藩たはん輿論よろんには勝てない。で、とうとう石見守いわみのかみを折った。ぜひがない、随意ずいいにするがいいと、かぶとをぬいだような顔をして、苦情くじょう紛争ふんそうにけりをつけた。
「見たことか」
 と、小文治こぶんじは小きみよく思った。
 で、鐘巻一火かねまきいっかたまへ、凱歌がいかそうしてひきあげてきたはいいが、それほどまで争奪そうだつ焦点しょうてんとなっていた、かんじんな咲耶子その者のすがたが、いつのまにかうしなわれていた。
 門人もんじんたちはおどろいて、
「たったいままで、ここに手当てあてをうけて、しずかによりかかっておられたのに」
 と、まなこで四方をさがし歩いたが、かげもかたちも見えなかった。
 一火いっかはもうしわけがないと、龍太郎りゅうたろう忍剣にんけんたちのまえに両手りょうてをついて謝罪しゃざいした。ふかくめれば、はらを切ってもわびそうな気色けしきなので、四人はぼうぜんと顔を見あわせたのみで、一火をめる気にもなれない。
はかったのだ。長安ながやすめの、はかりごとだ!」
 と、小文治こぶんじくちびるをかみしめてさけぶと、蔦之助つたのすけも、
「そうだ! なんのかのと、時刻ときをうつしてさわがせたのは、このすきをうかがうための徳川方とくがわがたさくだったのだ。おそらく咲耶子さくやこの身は、きゃつらに、うばられたにそういない」
 龍太郎は黙然もくねんとうなだれていたが、
「われわれがあさはかだったのだ。かれらをただしい武門ぶもんの人間とかんがえて、試合しあい争論そうろんあせをながしたのがおろかであった。これまでの力をつくしながら、咲耶子をとられたものならぜひがない、いちおう、ここを退いて、またあとの分別ふんべつをつけるとしよう」
 そういわなければ、一火の立場たちばがあるまいとさっして、かれが他の三人に目まぜをすると、忍剣はなにもいわずに、鉄杖てつじょうをこわきにかかえて、まえの場所ばしょへかけもどった。
 その顔色をチラと見て、龍太郎りゅうたろういすがりながら、
忍剣にんけん! きさまは色をかえて、どこへゆこうとするのだ」
 いきぜわしく、そでをつかんだ。
 ふりはらって、ただ一ごん
「はなせ!」
 と語気ごきがするどい。
「いや、はなさん。おれははなさん」
「なんで、おれのすることをさまたげるのだ」
「きさまは、その引っかかえている禅杖ぜんじょうで、きょうの鬱憤うっぷんらそうという気だろう」
「知れたことだ。このれがましい、大講会だいこうえ広前ひろまえで、かたく、やくをむすんだ試合しあいながら、さまざまに難癖なんくせをつけたあげく、そのうらをかいて、咲耶子さくやこのすがたをかくしてしまうという言語道断ごんごどうだんおこないを、だまってこのまま見て引っこめるか。――龍太郎! おぬしは退くなら、退くがいい、おれは徳川家とくがわけ蛆虫うじむしめらを、ただ一ぴきでも、この御岳みたけから下へおろすことはできない」
 かれのひたいには、ほのおのような青筋あおすじがうねっていた。かつて、忍剣の形相ぎょうそうが、こうまですごくさえたことを、龍太郎も見たことがないくらい。
「こらえろ! こらえてくれ、忍剣! この山のおきてを知らぬか、兵法大講会へいほうだいこうえ三日のあいだは、たとえどんなことがあってもを見るなかれという、きびしい山の禁断きんだんを知らぬかッ」
「ええ、もうその堪忍かんにんはしつくした。これ以上いじょうのこらえはできない」
「だからきさまの短慮たんりょを、伊那丸いなまるさまも民部みんぶどのも、へいぜいから心配しんぱいするのだ。もしものことをしでかしてみろ、きさまばかりではない。友だちのおれたちがこまる。こらえろ、こらえろ。よ! 忍剣にんけん
「ウーム、こらえたいが、だめだッ。もうだめだッ! はなせそこを」
 龍太郎をきのけて走りだしたかれの前には、もう、どんな力のものでも、さえぎることができそうもなかった。


 石見守長安いわみのかみながやすは、やぐらの者に、あわててかいを高くかせた。忘れていたが、いつか、とっぷりと日がくれていたのだ。
 が、――かい合図あいずを待たずに、群集ぐんしゅうは、あのもめごとのうちに、のこらず山をくだったらしい。
「まず、大講会だいこうえの二日も、これですんだというもの。ウーム、つかれた。これこれ足軽あしがる篝火かがりよるの篝火を」
 こういいながら、狩屋建かりやだて奉行小屋ぶぎょうごやへはいると、かれはすぐに平服へいふくかえて、ばたへ床几しょうぎはこばせた。
 そこへ、菊池半助きくちはんすけ呂宋兵衛るそんべえがチラと顔をみせた。そして、なにかささやいたが、
「ふ……そうか」
 と、うなずいた長安ながやす笑顔えがおを見ると、ふたりはすぐ、かげをけした。さっきの駕籠かごのあとをって夜道をいそいだようすである。
 やがて、どッと、にぎやかなわらいがそこらではずみだした。奉行小屋ぶぎょうごやむねつづきの目付小屋めつけごやでも、詰侍つめざむらいのかりでも足軽あしがるたまりでも、また浜松城はままつじょうのもののいるまくのうちでも。
 長安の奇計きけいが、ひそかに、耳から耳へつたえられて、どッと、はやしたものだろう。あっちでもこっちでも、ドカドカと篝火かがりをもやして、きゅうに、徳川方とくがわがたの空気が陽気ようきになりだした。
 が――しかし。
 そう見えたのもつかので、とつぜん、奉行小屋ぶぎょうごやはしらが、すさまじい音をして折れたかと思うと、か、にくか、白木しらき羽目板はめいたへまッなものが、牡丹ぼたんのように飛びちった。
狼藉者ろうぜきものッ」
 という声が、そこで聞えた。
 一しゅんのうちに、おそろしいこんらんのまくがあいた。げる、わめく、得物えものをとる。そして、同志討どうしうちが随所ずいしょにはじまる。
 修羅しゅらだ。たちまち、あたりはかめったようだ。
 立ちふさがるさむらい足軽あしがるを、二振ふたふり三振り鉄杖てつじょうでたたきせて、加賀見忍剣かがみにんけん夜叉やしゃのように、奉行小屋ぶぎょうごやおくへおどりこんでいった。
 なまはんかな得物えものをとって、それを食いめようとするわざは、かえって、かれの鉄杖てつじょうに、いきおいをくわえるようなものだった。そして、そのまえに立ったものは、みんなヘドをくか、手足のほねをくじいて、まんぞくにげきることはできなかった。
「なに、なに? なにが起ったのだ」
 石見守いわみのかみは、はじめ、その物音を足軽部屋あしがるべやのいさかいかなにかと心得こころえたものらしかったが、そこへ、
「忍剣がッ。忍剣があばれこんできたッ」
 まった武士ぶしたちが、なだれを打ってころげこんできたので、そばにいた四、五人の家臣かしんと一しょに、
「さては」
 と、にわかにをうしなってしまった。
 だが、かれとしては、らざるをない虚勢きょせいをはって、
「ええ、多寡たかの知れた乞食坊主こじきぼうずのひとりぐらいに、この狼狽ろうばいはなにごとだ、取りかこんで、からめってしまえッ」
 と、叱咤しったした。
 しかし――そのことばと一しょに、目のまえののなかへ、ひとりの試合役人しあいやくにんさかとんぼを打って灰神楽はいかぐらをあげたのを見ると、かれはけつまずきそうになって、狩屋建かりやだての小屋のうらげだしていた。
「待てッ、長安ながやす
 はなたれたひょうのごとく、その姿すがたを目がけて、忍剣にんけん跳躯ちょうくがパッとうしろをう。
「あッ」
 と、かれがひきょうな声をうわずらしたせつな、狩屋建の板戸いたどひさしッぱになって、メキメキと飛びちった。
「ウーム、徳川家とくがわけしゅう浜松はままつの衆、出合であえッ、出合えッ、狼藉者ろうぜきものだ、狼藉だ」
 見栄みえもなく、むちゅうでさけびながら、まくのすそをくぐッて浜松城はままつじょう剣士けんしたちがいるたまへ四つンばいにげこんだ。
 朱槍しゅやり黒槍くろやりかしみがきの槍、とたんに、まくをはらって忍剣をつつんだ。
売僧まいすッ、御岳みたけ三日のおきてを知らぬか」
「だまれ、武門ぶもん誓約せいやくさえふみにじる非武士ひぶしどもに、御岳の神約しんやくを口にする資格しかくはない」
 言下げんか鉄杖てつじょうを見まっていった。
 しもとならべて、つきかかるやりも、乱離らんりとなって折れとんだ。葵紋あおいもん幔幕まんまくへ、きりのような、血汐ちしおッかけて、見るまに、いくつかの死骸しがい虚空こくうをつかむ。
 いかれる獅子ししのまえにはなにものの阻害そがいもない。忍剣はいま、さながら羅刹らせつだ、夜叉やしゃだ、奸譎かんけつ非武士ひぶし卑劣ひれつ忿怒ふんぬする天魔神てんましんのすがただ。
 ふだんは、無口むくちのほうで、伊那丸いなまるにたいしては柔順じゅうじゅんであり、友情にもろい男であり、小事しょうじにこだわらず、その、鉄杖てつじょう殺風さっぷうぶことも滅多めったにしない男であるが、いったん、そのまなじりをべにいたときには、百そうこうてきいとめることができないし、かれの友だちでも、手がつけられない忍剣にんけんだった。
 その忍剣が、堪忍かんにんをやぶって、鉄杖と鉄腕てつわんのつづくかぎり、あばれまわるのであるから、ほッたて小屋どうような狩屋建かりやだては片っぱしからぶちこわされ、召捕めしとろうとする、新手あらても新手も、猛猪もうちょちらされるのように四し、散滅さんめつして、手負ておいのかずをふやすばかり。
 このさわぎとともに、徳川家以外とくがわけいがいたまのものは、かれらの横暴おうぼうをひそかに不快ふかいに思っていたので、みな見て見ぬふりして山をおりてしまった。
 で、手にあました浜松城はままつじょう武士ぶしや、石見守いわみのかみからうったえたものであろう、御岳神社みたけじんじゃ衛士えじたちが数十人、ご神縄しんじょうしょうする注連縄しめなわを手にもって、
「ひかえろ! ひかえろ! ひかえろ!」
 とさけびながら、松明たいまつをふって、石段いしだんの上からさっとうした。
 これを、神縛しんばく討手うってという。
 神のおなわをあずかって、神庭しんてい狼藉者ろうぜきもの捕縛ほばくする使いである。理非りひはともあれ、御岳みたけおきてを見るなかれ」のちかいをやぶった忍剣にたいして、とうぜん、そのご神縄しんじょうがくだったのである。


「ああ、しまった!」
 龍太郎りゅうたろうをはじめ、蔦之助つたのすけ小文治こぶんじや、そして竹童ちくどうたちは、忍剣にんけん堪忍かんにんをやぶって力にうったえたのをむりとは思わないが、こまったことになったと、嘆声たんせいをあげていた。
 すでに、かれが忍従にんじゅうくさりをきって走った以上いじょう、それをめることもできないし、かれに加勢かせいすることもできない。
 拱手きょうしゅして傍観ぼうかんする? それも、友情としてしのびないではないか。
「どうしたものだろう」
 龍太郎は、自分の難儀なんぎよりもとうわくした。
 だが――その人たちよりも、もっとおどろいたのは、群集ぐんしゅうったあとで、矢来やらいのそとにあんじてながめていた、小幡民部こばたみんぶである、武田伊那丸たけだいなまるである。
 アア、ついに大事をひきおこした――。
 ふたりのおもてには、うれいがみちていた。
 もし、こういうことでもあってはと、一とうの者が矢来やらいのうちへ足をみいれることをかたくいましめていたのに――といまさらのいもいつかない。
「民部、民部」
 ものにさわがない伊那丸いなまるが、とつぜん、矢来やらいをやぶって、かけだしながら、
「はやくこい、ててはおけまいぞ」
 と、龍太郎りゅうたろうたちのとうわくしているそばへきた。
「オオ、若君わかぎみ
忍剣にんけんの身の一大事じゃ」
「われわれのふつつか、おわびのもうしあげようもございませぬ」
「そんなことは、いまさら、申すにはおよばない。なにせい、忍剣の身を」
「は、はい。……しかし、わかさままでが、ここに姿すがたをおだしになっては、どんなわざわいがふりかかるかも知れませぬから、どうか、民部みんぶどのは若君わかぎみのおともをして、ここを、お立退たちのきくださいまし、あとのは、われわれたちで、どうなりと処置しょちしてまいります」
 一同が、おそるおそるいうことばへ、伊那丸は、強くかぶりをふって、
「かれの安危あんきがわからぬうちに、自分ばかり退くことはできない。オオ!」
 伊那丸が、オオといった声につれて、かなたに、ワーッというときの声がどよめいた。ふりかえると、その時だった。
 殺到さっとうした、御岳みたけ衛士えじ数十人が、手に手に、ご神縄しんじょう松明たいまつをもち、
「しずまれ! しずまれ!」
神使しんしであるぞ。ご神縛しんばくの使いであるぞ」
「ひかえろッ」
「しずまれ!」
 とさけびながら、まみれの人渦ひとうずのなかへ、まっ白なれつゆきのようにらかしていった。
「あッ、あれは? ――」
御岳みたけのご神縛しんばくです――ご神縛がくだったのです」
「ぜひがないこととなった。したが、忍剣にんけん他人手ひとでられるのは、なんともざんねん。かれとしても本意ほんいであるまい。民部みんぶ、民部」
「はッ」
「わしにかわって、おまえが御神縄ごしんじょうをうけて忍剣を、りおさえてこい」
 泣いて馬謖ばしょくをきる伊那丸いなまるの心とよめたので、
「はッ、かしこまりました」
 と、小幡民部こばたみんぶは、なみだをふるッて、かけだした。
 そして、群鷺ぐんろのごとくそこへせていた衛士えじたちをッていって、
「あいや、御岳みたけ舎人とねりたちに申しあげる。狼藉者ろうぜきものは手まえの友人ゆえ、このほうにて取りおさえますから、しばらくの間、そのご神縄を拝借はいしゃくいたします」
 とさけんで、ひとりの衛士えじなわをかりて修羅王しゅらおうのようにあばれている加賀見忍剣かがみにんけんの前へつかつかとっていった。
 つねには、一ぱんを分けあって起きしする友であるが、いまは、御岳の神縄をかりて捕りおさえにきた小幡民部。
 そのなわを右手につかんで、
忍剣にんけん
 としずかにびかけた。


 忍剣は、ハッとしたようすで、
「おう、民部みんぶどのか」
 と、ほのおのようないきをついた。
伊那丸君いなまるぎみのおいいつけを受けて、若君わかぎみかわりとしてまいった小幡民部こばたみんぶだ。神のおきてをやぶった科者とがもの、すみやかにご神縛しんばくにつけいッ」
 言下げんかに、ガランと地をって、かれの足もとへみどろの鉄杖てつじょうが投げだされた。
 そして忍剣は、すなおに、うしろへ手をまわして、
「民部どの、ご心配しんぱいをかけました。いざ……」
 と、大地へすわりこんだ。
 注連しめのついた荒縄あらなわがギリギリとかれのうでへまわされた。民部はこのあいだに、なにか、いってやりたかったけれど、むねがいっぱいで、かれにあたえることばを知らなかった。
 忍剣のからだは縄つきのまま、民部の手から、御岳みたけ神官しんかんにわたされた。
 それを見ると、げまわっていた徳川家とくがわけの者たちが、またはえのようにあつまって神官しんかんを取りまき、忍剣をわたせ、殺傷さっしょう罪人ざいにんを徳川へわたせと喧騒けんそうした。
 神官は、だんじて、それをこばんで、
科人とがにんはご神刑しんけいにかけます。ご領地りょうちのできごとなら知らぬこと、ご神縛しんばくの科人は当山とうざんのならいによってばっします」
 そして、一同に退去たいきょめいじた。
 をながした以上いじょう大講会だいこうえ中止ちゅうしはやむをえないことだが、徳川家の武士ぶし石見守いわみのかみ家来けらいたちは、まだ騒然そうぜんとむれて、そこをらなかった。
 神官はまた、ほうによって、伊那丸いなまるや民部や、龍太郎りゅうたろうやすべて、忍剣と道づれである者を六人とも、垢離堂こりどうらっして、謹慎きんしんすべきようにめいじた。これも、おきてとあればいなむことができない。――およそ、戦国のには、神ほど尊敬そんけいされたものはなく、神の力、神の法ほど、うごかすことのできないものと、しんじられたものはなかった。どんな合戦かっせんも、一まいの、熊野権現くまのごんげん誓紙せいしで、ほこおさめることができた。神をなかだちにしてちかえば、大坂城おおさかじょうほりさえうずめた。
 町人ちょうにんですら、神文血判しんもんけっぱんは、命以上いのちいじょうのものだった。
 まして、武門ぶもんの人は、ぜったいに、神にふくし、敬神けいしんを心としていた。
 連累れんるいのものとして、伊那丸たちが、垢離堂に監禁かんきんされたのを見ると、さすが、がやがやさわいでいた徳川家のさむらいたちも、いくぶんか気がすんだと見えて、死骸しがいをかたづけ、血汐ちしおすなをまき、大講会だいこうえにつかった屋舎おくしゃをこわして、夜の明けがたに、ひとり、のこらず、御岳みたけの山からおりてしまった。
 不首尾ふしゅびながら、翌日よくじつは、大久保長安おおくぼながやすはふもとの町から甲府こうふへかえる行列ぎょうれつ仕立したてた。
 ところが、そのとちゅうで――。
 なにか、長安から耳打みみうちをされたはなかけ卜斎ぼくさいが、ある宿場しゅくば行列ぎょうれつがやすんだ時、
「お、ちょいとこっちへきな」
 と、蛾次郎がじろうをものかげへ手招てまねきした。
 いつになく、たいそうやさしく手招きされたので、蛾次郎はすぐうれしくなってしまった。
「なんですか、親方おやかた
「まあ、こッちへおいで」
「もっとあるくんですか」
「ウム、殿とのさまの駕籠かごがご休息きゅうそくになっているうちに、なにかべたいものでもわせてやろうと思ってさ」
「へ、へ、へ、へ、すみませんね、親方」
「なにがいいな?」
「どんなうまいものがあるか、ずッと、この宿場しゅくばを見てあるきましょうか」
「そんなに手間てまをとっちゃいられないよ。おれは、石見守いわみのかみさまの駕籠がたつと、一しょに、甲府こうふ躑躅つつじさきへ帰らなけりゃならない」
「じゃ、あそこにしましょう。あそこのうちの……」
 と、ゆびさした。
 もち団子だんご強飯こわめしがならんでいる。
 そこへはいって、おくのひくいいたこしかけた。
「いくらでもおあがりよ。はらの虫が承知しょうちするほど」
 ことわるまでもないこと、むろん、蛾次郎がじろうもその気でパクついている。


 ほどのいいところを見はからって、卜斎ぼくさいが、
「時にな、蛾次公」
 と、声をひそめた。
 蛾次郎はグビリと頬張ほおばっていたあんころをのみくだして、
「へ?」
 と、ほかにもようがあるのかというような顔をした。
「おまえはたしか、石投いしなげの名人だったな。ほかのことにかけては、ドジでも、つぶてを打たすと、すばらしく上手じょうずだった」
「親方あ――」と、蛾次郎は、卜斎の顔をゆびさしてわらいながら、
「いまごろになって、あんなことをいってら。裾野すそのにいたじぶん釜無川かまなしがわの下で、毎日おいらがってきて親方おやかたべさせた、あのはやだの岩魚いわなだのは、みんな、石でピューッとやって捕ったんですぜ。ねエ、親方、河原かわらの小石をこう持つでしょう、こうゆびのあいだにはさんでネ、魚のやつが、白いはらをチラリと見せたところをねらって、スポーンとらわしてやるんです。どんなはやさかなだって蛾次がじさんの石からそれたことはありませんよ。こんど親方にもその秘伝ひでんを教えてやろうか。ところが、どうして、その石の持ち方が、あれでもなかなかむずかしいんでね、だから、だれだかいいましたよ、蛾次は石投げの天才てんさいだってね」
「もういい、もういい」
 と、卜斎ぼくさいは手をふって、
「わかったよ、わかったよ。まったくおまえは石投げの天才だ」
「はい、天才だそうでございます」
「だからたぶん、飛道具とびどうぐを持たせたら、きっと巧者こうしゃだろうと思うんだが……」
「なんにかけたって、下手へたなものはありませんよ。ところで親方、塩ッぱいほうのお団子だんごを、もう一皿ひとさらもらってようございますか」
「ああいいよ。たくさんおべ。……じゃおまえ、こういうものを使えるかい」
「へ、なにをで」
「これさ……」
 と卜斎ぼくさいが、羽織はおりうらから種子島たねがしま短銃たんじゅうをだした。
親方おやかた鉄砲てっぽうでしょう、それは」
「ウン、スペインわたりの短筒たんづつだ。どうだ欲しくないか」
「だって、くれやしないでしょう」
「おまえにやらないこともないさ。まだこのほかに、殿とのさまからくだされものもたくさんある」
「わたしにですか」
 と、蛾次郎がじろうは目をパチパチさせて、きゅうひざッこの前をあわせた。
「おまえもはや十六さい、たしか、そうだろう。もうここ二、三年で元服げんぷくをしてさ、一にんまえ鍛冶かじなり、一人前のさむらいなりになる心がけをしなくってはいけない。それには、なにかいい機会きかいをつかまえて、そのをのがさず手がらをあらわすことがかんじんだ」
「はい、あらわします」
「それも、うわの空ではだめだ、目がけたことに向かったら、いのちをすててかかる気ごみでなければだめだよ」
「だって親方おやかた、やる仕事がないんだもの」
「あるさ、おれはおまえを見こんで、その大功たいこうをあらわす仕事をひきうけてきたんだ。おまえというものを、石見守いわみのかみさまにみとめさせようと思ってな。どうだ、どうだ蛾次、奮発ふんぱつして一つやってみるか。だけれど、イヤならむりとはいわないよ、ほかに、のぞみ手はたくさんあるし、それに、この鉄砲てっぽうで、ドンと一ぱつやればそれでいい仕事なんだから……」
 なにをいいふくめられたか、蛾次郎がじろうは、卜斎ぼくさいから、銀鋲ぎんびょう[#ルビの「ぎんびょう」は底本では「ぎんぴょう」]のスペイン短銃たんじゅうと一りょうほどの金子きんすをもらって、すっかり仕事をのみこんでしまった。
「いいか、いまもいったとおり、石見守いわみのかみさまのおいいつけなのだ。大久保家おおくぼけ侍衆さむらいしゅうでは、もし、見つかった時にぐあいがわるい。で、おまえなら、なあに、どこの小僧こぞうがいたずらをしたかですむ。それに、二十一日のあいだにやりさえすればいいんだから、立派りっぱに一つうちめてこい。もし、なまけぐせをだしおって、やりそんじなどした時には、それこそ、この卜斎より石見守さまがその細首ほそくびをつけてはおくまいぞ」
 すこしあとの文句もんくがすごいな――と蛾次郎は思ったが、卜斎はそういいのこすと、かれをおきのこしてそこをかけだし、石見守の行列ぎょうれつへついていった。
「なんだ、ぞうさはねえや」
 蛾次郎は、短銃をふところへしまいこんだ。なかで、なにかカチャリといったので、さぐってみると肌身はだみはなさない秘蔵ひぞう水独楽みずごまだ。
「じゃまだな」
 と、また短銃をだして、手拭てぬぐいにクルクルとくるんだ。そいつを、ボロざやの刀と一しょにこしへさして、大小だいしょうしたように気取きどりながら、
「オイ、亭主おやじさん、おつりをくんな」
 と、もらったばかりの銀銭ぎんせん餅屋もちやだいへほうりだした。
 そのつりせん巾着きんちゃくにいれて、そとへ飛びだそうとすると出合であいがしらに、カアーンというかね不意ふいに鳴ったので、
「あ。びッくりした」
 と、よこを見た。
 七、八けんさきの横町よこちょうから、地蔵行者じぞうぎょうじゃ菊村宮内きくむらくないが、れいの地蔵尊じぞうそん笈摺おいずる背負せおって、こっちへ向かってくるのが見える。
「こいつはいけねえや、竹生島ちくぶしまのおやじにうと、またなにか、小やかましいお説教せっきょうを聞かされるにちがいない」
 こうつぶやいて、かれが、横を向きながら、ぷいと向こうへそれようとすると、おなじ宿場しゅくばのきをながしていた坂東巡礼ばんどうじゅんれいの三十七、八ぐらいな女――わが子をたずねて坂東めぐりをしてあるくおときという女房にょうぼうが、
「あッ。あの子! あの子!」
 と、目をすえて、よってきた。
 いつか、月ノ宮の鳥居とりいの下で見たこともあるが、蛾次郎がじろうは、ただの物貰ものもらいとしか思わないので、いまの餅屋のおつりのうちから鐚銭びたせんを一枚なげて、
「ほれ、やるよ」
 と、あとも見ずに、あなたの小道こみちへ、すたこらとかけだしてしまった。


 いつのまにか、竹童ちくどうのすがたが見えなくなった。
 伊那丸以下いなまるいかのひとびとは、あのそうどうのあったばんから、御岳みたけの一しゃ謹慎きんしんして、神前しんぜんをけがしたつみしゃすために、かわるがわる垢離堂こりどうの前で水垢離みずごりをとった。
 それまでのあいだに、竹童の姿すがたれている。
「どこへいったろう? もしや、徳川家とくがわけの者に、らわれていったのではないか」
 一同が、ひそかに心配しんぱいしていると、翌朝よくあさのこと、垢離堂の石井戸いしいどのそばに、竹にはさんだ紙片かみきれが立っていた。

マタワシヲサガシニマイリマス。クロハワタシヲコイシガッテイマス。ワタシモクロガコイシクテナリマセン。
民部ミンブサマカラ若君ワカギミヘ申シアゲテクダサイマシ。ワガママナコトデス。

 置手紙おきてがみには、竹童の文字もじで、こう書いてあった。
「かれのことだ。それならあんじることはない」
 むしろ、一とうの人は、それで愁眉しゅうびをひらいていた。しかし、愁眉のひらかれぬ気がかりは、ご神罰しんばつけいせられている忍剣にんけんの身の上――。
 轟々ごうごうと空に風の鳴る夜、シトシトとはださむい小雨こさめ杉山すぎやまりてくる朝、だれもがきっとかれの身を考えた。
「ああ、どうしているだろう、忍剣にんけんは」――と。
 だが、いくらどうあんじたところで、ここ二十一日間は、そのようすを見ることもできない。また、かれをすくう方法ほうほうもぜったいにない。
 忍剣はいま、神刑しんけいけられているのだ。
 二十一日間のおそろしい神刑。
 そこは、御岳みたけ神殿しんでんから、まだ二はんもある深山みやま絶顛ぜってんに近いところ。
 山はかむりたけとよぶ。
 急峻きゅうしゅんで、大樹たいじゅ岩層がんそうが、天工てんこうをきわめているから、岳中がくちゅう自然しぜん瀑布ばくふ渓流けいりゅうがおおい。あるところは、右にもたき、左にも滝、そして、渓流のとろちたおれている腐木ふぼくの上を、てんや、むささびや、りすなどが、山葡萄やまぶどうをあらそっているのをひるでも見る。
 御岳の神領しんりょうであるから、おのをいれるそまもなかった。そこに、ご神刑の千ねん山毛欅ぶなとよぶ大木たいぼくがあった。
 おそろしく太い山毛欅だ。幾抱いくかかえあるかわからないような老木ろうぼくだ。まるで、青羅紗あおラシャふくでもきているように、一面にあつぼったいこけがついていた。
 どこまで高いかとあおむいてみると、四方の樹林じゅりんをつきぬいて、奇怪きかいえだをはっている。白いきりがきたときは、その木の半分以上はんぶんいじょうは、まさに雲表うんぴょうに立っている。
をみるなかれ」の誓文せいもんをやぶったとがで、加賀見忍剣かがみにんけんはその神刑しんけい山毛欅ぶなの高い上にしばられていた。
 足はわずかに木のこぶにささえ、からだは注連縄しめなわかれたまま、はりつけのように木のみきへしばりつけられた。目はもちろん、白いぬので、かくされていてかえってよいかも知れなかった。十数丈すうじょう樹上じゅじょうから目をひらけば、甲斐かい秩父ちちぶ上毛じょうもう平野へいやかんしゅう、雲の上から見る気がして、目がくらむかもわからない。
 が、忍剣である。快川和尚かいせんおしょうの三十ぼうきたえあげられたかれである。目をひらけば、絶景ぜっけい! とさけぶだろう。それくらいな胆気たんきはある、きっと、それくらいなきもはすわっている。
 しかし、いくら大胆だいたんな忍剣でも、この深岳しんがくきりにふかれて、二十一日間も飲まずわずで、そのままそうしておられるであろうか。心はぜんって、えるとしても、人間の肉体にくたいがもつだろうか。
 大雨おおあめがふる日もある。暴風ぼうふうみきをゆすぶるばんもある。雷鳴らいめい雷気らいきが山をくような場合ばあいもあるにちがいない。
 ことにさむい! まだふもとのもみじはあさいが、このへんの冷気れいきは、身にしみるほどではないか。
 また、その山毛欅が枝をはっている下をのぞくと、気のちぢむような断崖だんがいだ。はばはせまいが、嵐弦らんげんたきとよぶ百しゃくほどの水がドウッと落下らっかしている。もし、二十一日の間に、風雨ふううにあって、山毛欅ぶなの枝がおれたらどうだろう。かれのからだをささえているなわがすり切れたらどうなるだろう。
 そうだ、すべてのことが、忍剣にんけん生命せいめいを、かみの毛一すじで持たしてあるのだ。それが神刑しんけいなのだ。
 まんがいち、二十一日目に神官しんかんがきてみて、ほそいきでもかよっていれば、神に謝罪しゃざいがかなったものとして、つみをゆるされて手当てあてをする、しかしここ四、五十年のあいだに、ご神木しんぼくの山毛欅にけられたもので、助かった者はないということだ。
 ――すると、三日、四日、五日とすぎて、ちょうど八日目のこと。
 千ねん山毛欅ぶなえだから枝を、ひらり、ひらり、ひらり、とよじのぼっていったものがある。
 見るまに、十数丈すうじょうのたかい樹上じゅじょうにのぼった。そして、忍剣のそばの枝に取ッついた。
 おかしいことには、なにか、忍剣の耳へはなしかけているふうに見える。だが、それは一ぴきさるなのである。猿が話しかけるのはすこしへんだ。忍剣には、あの三太郎猿さんたろうざるにも知己ちきがないはずであった。


 目隠めかくしをされているので、忍剣はそばへきた者を見ることができない。
 それをからかいにきた山猿やまざるか? 山猿のいたずらか? いやそうでもない、やはり、さる忍剣にんけんにささやくのであった。
「忍剣さま、さだめし、おひもじいことでしょう。早くこようと思いましたが、この山には道がありません。一つの小道こみちには神官しんかん見張小屋みはりごやっています、それでおそくなりました。なにしろ二十一日間、ものをべないでは夜の寒気かんきや雨の日にえきれません。さ、これを食べてください、よくかんでのんでください、あとで水を持ってまいりますから」
 忍剣の口へ、ふしぎなあじのするものを入れた――木のでもない、穀物こくもつでもない、菓子かしでもない、もちでもない。
 しかし、そのあじのいいことは、なんともいえないほどだ。忍剣は、まだかつて、こんな味のいいものをべたことがなかった。
「おまえはだれだ」
「いまにわかります」
「でも」
不安ふあんなものではありませんから」
「いまのはなんだ」
「なんということもありません。この山にえている、葡萄ぶどう苔桃こけもも若老わかおい、しゃくなげの、それにくりだのかきだの、仙人草せんにんそうだの、いろんなものをすこしの焼米やきごめぜたのでございます。一日に、これ一つべれば、からだも、あたたかく、けっして、えるようなことはありません」
危険きけんをおかして、どうしておまえは、そんなものをわしにはこんでくれるのか」
 こうきいた時には、もう下へりていた。忍剣にんけんには、それが見えない。
 翌日よくじつ小雨こさめった。
 なにかでつくったみののようなものが、彼のからだにせられた。その時から、忍剣がなにをきいても、さる返辞へんじをしなかった。
 そして、おなじあじ食物たべものが、毎朝、一片ひときれずつ木の上へはこばれてゆくこともかわらなかった。
 昨日きのうも今日も、山は天気つづきである。
 空の青さといッたらない。樹林じゅりんこずえをすいて見える清澄せいちょうな秋の空の青さ――
 うつくしい朝陽あさひ光線こうせんが、ほそい梢から、木のこけから、滝壺たきつぼそこの水の底まで少しずつゆきわたっている。ひよ文鳥ぶんちょう駒鳥こまどり遊仙鳥ゆうせんちょう、そんな小禽ことりが、紅葉もみじちらして歌いあった。朝きげんのいい栗鼠りす、はしゃぎ者のむささび、雨ぎらいのてん、などがりながらえさをあさりに出だした。そこらに山葡萄やまぶどうくさるほどなっている。くりはいたるところにれている。プーンと醗酵はっこうしている花梨かりんれたかきは岩のあいだに落ちて、あまいさけになっている。鳥もえ、栗鼠りすものめ、はちもはこべと――。
 今朝けさのここは楽園らくえんだ。
 神木しんぼくの上にけられている忍剣をのぞいては、すべての生物いきものに、天国そのままな秋の朝だ。
 ところへ――。
 無心むしん禽獣きんじゅうをおどろかす人間の口笛くちぶえが、下のほうからきこえてきた。
 これも、ほがらかな秋を謳歌おうかする人間か、きいていても筋肉きんにくがピクピクしてきそうな口笛だ。健康けんこう両足りょうあしで、軽快けいかい歩調ほちょうで、やってくるのがわかるような口笛だ。
「ああ、ずいぶんのぼらせやがるな。まだかい! ご神刑しんけい山毛欅ぶなッていうのは」
 だれもいないと思って、思うさまッかい声でひとりごとをいった。――それは、泣き虫の蛾次郎がじろうだった。


 のどがかわいているとみえて、蛾次郎はそこで一息ひといきつくと、岩層がんそうのあいだから滴々てきてきと落ちている清水しみずへ顔をさかさまにして、口をあいた。
「オオ、つめたい!」
 そでで口を横にふいて、また数十のぼりだした。
 すると、かれのまえに、裾野すその樹海じゅかいでも見たこともないような、山毛欅の喬木きょうぼくが天をして立っていた。蛾次郎はそう思った。まるでばけものみたいな大きな木だなアと。
「おや?」
 見ると、その千ねん山毛欅ぶなッこに、石橋山いしばしやま頼朝よりともが身をかくしたような洞穴うつろがある。そのまッくらな洞穴のなかで、なにか、コトリと音がした。コトコトとかすかにきこえたものがあった。
啄木鳥きつつきかしら? それとも、きつねかな?」
 足をすくめて考えた。が――音はそれっきりんでしまった。
 しかし、そこでなにげなく、ヒョイと樹上じゅじょうを見あげたせつなに、かれは目の玉をグルグルとさせて、
「ウーム、これだ、これだ! このにちげエねえ」
 と、うなってしまった。
 数歩すうほ、うしろへとびのいて、おびのあいだにしこんできた銀鋲ぎんびょう短銃たんじゅう右手めてにつかんだ。
「はアん……おるわエ」
 手をかざして樹上をあおぐと、たしかに、神刑しんけいにかかっている忍剣にんけんのすがたが小さく目にとまった。
 そこで蛾次郎がじろうは、大久保長安おおくぼながやすから卜斎ぼくさいにつたえられた秘命ひめいを思いだして、うなずいた。
親方おやかたがいったのはこいつだな、これをちとめてこいといういいつけか。なアんだ、こんなものなら朝飯あさめしまえにただ一ぱつだ。それで、おいらの出世しゅっせとなりゃ、ありがた山のほととぎすさ」
 火縄ひなわ支度したくをしはじめた。
「できたぞ」
 岩のかげへ身をくっして片足かたあしをおって、短銃たんじゅう筒先つつさきをキッとかまえた。
 じッと、ねらいをつける……忍剣にんけんのすがたへ。
 忍剣は身の危険きけんを知るよしもなかった。おそらくかれは、故快川和尚こかいせんおしょう最期さいごのことば――心頭しんとう滅却めっきゃくすれば火もまたすずし――の禅機ぜんきをあじわって、二十一日のけいをけっして長いとも思っておるまい。
 ねらいは定まッた。
 火縄ひなわの火がチリチリと散ったせつなに、蛾次郎がじろうゆびさきは、すでに、短銃たんじゅう引金ひきがねを引こうとした。
 とたんだった。
「わッ」
 と、蛾次は短銃たんじゅうをおッぽりだして、自分の顔をおさえてしまった。そして、ベッ……と顔をしかめながらッ立った。
 なにやら、甘酸あまずッぱいものが、かれの顔じゅうにコビリついて、ふいてもふいてもしまつがつかない。
 ――どこから飛んできたものだろうか、熟柿じゅくしのすえたのが、顔のン中で、グシャッとつぶれた。
 かきの目つぶし!
「ちくしょう、さるのいたずらだな」
 と蛾次郎がじろうは、いまいましく思ったが、まごまごしていると火縄ひなわの火がきえる。
 かれは、またあわてて短銃たんじゅうを取りなおした。
 そして、
「こんどこそは!」
 と、立ちがまえにねらいをすまして、ズドンと火ぶたを切ってはなそうとしたが、その一せつな、山毛欅ぶな洞穴うつろからびだしたひとりの怪人かいじんが、電火でんかのごときすばやさで、かれの胸板むないた敢然かんぜんとついてきた。
 不意ふいをくッて、
「あッ――」
 と、よろめいた蛾次は、むちゅうで、相手のえりがみをつかむ。
 かれの手がつかんだのは、やわらかいけものの毛だった。怪人はさる毛皮けがわをかぶっていた。
「てめえだな、いまのしわざはッ」
 かれは、短銃を逆手さかてにして、三つ四つ、毛皮の上からなぐりつけた。
 相手はビクとも感じない。グングンと自分ののどをしめつけてきた。蛾次は内心ないしん、こいつは強いぞとおどろいた。
「この野郎やろう、うっかりしちゃあいられるもンか」
 猛然もうぜんゆうして、じゃまになるのどうでをふりほどいた。
 ピシャリと、てき平手ひらてが、すぐに蛾次郎がじろうほっペタをりつけたが、蛾次もまた、足をあげてさきのすねとばした。
 せいいッぱいな弾力だんりょく交換こうかんして、ふたりはうしろへよろけあった。
 そのはずみに、相手のかぶっていたけものかわが、いきおいよく、蛾次郎の手に引きはがれたので、
「あッ、てめえかッ」
 と、かれははじめて、相手の全姿ぜんしをみてぎょうてんした。

菊亭家きくていけ密使みっし




「やッ。てめえは、竹童ちくどうだな」
 と、蛾次郎はひるみをもった声でさけんだ。
 かれが、こうぎょうてんしたせつなに、さる毛皮けがわであたまから身をかくしていた鞍馬くらまの竹童は、
「オオ」
 と、その全姿ぜんしをあらわすとともに、とびついて、蛾次郎がじろうの手にある短銃たんじゅうをもぎとろうとした。
 いったん、よろけ合った二つのからだは、闘鶏師とうけいしにケシかけられた猛禽もうきんのように、また、かたと肩をみあって、んずほぐれつのあらそいをおこした。
 このあいだうちから、千ねん山毛欅ぶな洞穴うつろの中にかくれて、毎朝、喬木きょうぼくの上によじあがり神刑しんけいにかけられている忍剣にんけんの口へ、食餌しょくじをはこんでいたさると見えたのは、まったく、竹童ちくどうなのであった。一とうのうちでも長兄ちょうけいのようにしたっている忍剣が、むごい神縄しんじょうにかけられて山へ送りやられた時から、この洞穴にしのびこんでいた。
 そうして、忍剣とをともにしながら、忍剣のいのちをまもっていたかれである。なんで、敵方てきがたむねをふくんで忍剣をころそうとしてきた蛾次郎に、むざと奇功きこうをあげさせるものではない。――ぼつぜんといかりをはっした竹童はあい手が、樹上じゅじょうの忍剣へ、狙撃そげき引金ひきがねをひこうとするすきへむかって、かんぜんとおどりかかってきたのである。
 しかもそれが、蛾次郎であるとわかったので、かれはもうきょうこそこの天邪鬼あまのじゃくを、だんじて、生かしておくことではないぞといかった。蛾次郎もまた、だいじな出世しゅっせのいとぐちをつかもうとするさきへ、またぞろ竹童がじゃまをしにでたので、目的もくてきをはたすまえに、かれのいきのねをとめてしまわなければならぬと、すごいいきおいで応酬おうしゅうしていった。
 まったく人まぜをせぬ格闘かくとうがつづいた。
 上になり下にころげして、たがいに致命的ちめいてき急所きゅうしょをおさえつけようとしているうちに、蛾次郎がじろうは竹童のからだへ足業あしわざをかけて、そのもとをぬけるやいな、パッとかけはなれて、
「くるかッ」
 と、短銃たんじゅうつつさきを竹童にむけた。
「なにを」
 竹童の目にはなにもののおそれもなかった。
 蛾次郎はあわてた。かれの狡獪こうかいなそらおどしは効果こうかがなかった。火縄ひなわはいまの格闘かくとうでふみけされてしまったので、筒口つつぐちをむけてもにわかの役には立たないのである。
 で、蛾次郎の立場たちばは悪くなった。
 彼はひどくろうばいして、いきなり短銃を相手のかおへ投げつけ、ばらばらとげだした。
 それをかたのそとにこさして、一やくすると、竹童の手には、優越ゆうえつをしめす般若丸はんにゃまるのひらめきが持たれている。
 彼は、逃げだした相手をおいかけて、
「ひきょうだぞ。――ひきょうだぞ、蛾次郎」
 と、さけんでとぶ。
 さんざん逃げまわった蛾次郎は、ついに、とんでもない危地きちに自分からかけこんでしまった。そこは、嵐弦らんげんたきがけッぷちで、あきらかなゆきどまりである。
 彼は、目がくらんでしまった。
 ただそこに大きなならの木があって、断崖だんがいの空間にのぞんで屈曲くっきょくしていた。バリバリというと蛾次郎がじろうは、みきをはってその横枝よこえだへうつっていた。
 しかし、そこもホッとする安全地帯あんぜんちたいにはならない。すぐ血眼ちまなこになった竹童ちくどうが、おなじみきをよじのぼって、般若丸はんにゃまるの刀で楢の小枝をはらいながら、ジリジリとせまってきた。
 いつめられた手長猿てながざるのように、蛾次郎のほうは、だんだん危険きけんな枝へはいうつって、いくら竹童でも、もうここまではこられまいと安心していたが、ふいに、竹童の体重たいじゅうがおなじ枝へのしかかったとたんに――生木なまきまた虫蝕折むしおれでもしかけていたのだろうか、ボキッと、あまりにもろい音がした。
 かなり大きな枝であった。それが、ふたりのからだとともに、ザーッとふかい樹間じゅかんくうをおちていった。あッというまさえなく、すべては一しゅんのまに、思いきッた解決かいけつをとげた。
 やがて、嵐弦らんげんたき深湍しんたんに、白い水のおどりあがったのが見えた。そして、しばらくはえぬ泡沫ほうまつの上へ、落葉樹らくようじゅの黄色い葉や楢のがバラバラとってやまなかった。


 山はまたもとの静寂しじまにかえって、坩堝るつぼをでたようなが、樹林じゅりんの上の秋の自然しぜんをかがやきらした。
 ほどなくまた――そこへふたりの旅人たびびとなかよく話しながらのぼってきた。ひとりは年配ねんぱいな女で、坂東ばんどう三十三ヵしょ巡礼じゅんれいしてあるくものらしく、ひとりは天蓋てんがいのついたおい背負せおっている。
「山の道というものは、まようたらさいげんがない。もうこうなっては急がないことだ、そのうちにはだれか山家やまがのものにゆきあうであろう。……だが、おときさん、女の足ではさだめしおつかれなすッたろうな」
「いいえ、すこしも」
いてはいけませんよ。いき平調たいらにもっておあるきなさいよ。道にまよった時はなおのこと、山は気を落ちつけて歩くにかぎります」
 地蔵行者じぞうぎょうじゃ菊村宮内きくむらくないと、坂東巡礼のお時とであった。ほんの旅先たびさきの道づれであるが、ふたりの仲のよいことは、おなじ家にすむ家族かぞくといえどもない美しさだった。
 お時は宮内の身のまわりのこまかい世話せわを見、宮内はつねにお時の心ぼそい旅をはげまして、どうかしてこの女房にょうぼうのたずねている、まことの子供をさがしあててやりたいといのっている。
 あらためていうまでもなく、ここは御岳みたけのお止山とめやまで、足踏あしぶみのならないところだのに、ふたりはその禁制きんせいを気づかずに、どこの山境やまざかいからまよいこんできたのであろう。
 と、宮内はこしをかがめて、なにかふしんそうな顔をしながらひろいとった。
「こんなところに、南蛮なんばんわたりの短銃たんじゅうがおちている……」
宮内くないさま、まだこのへんに、草履ぞうりだの、紙だのいろいろなものが落ちておりますよ」
「なるほど」
「だれの持物もちものなんだろう?」
 お時は、草履の小さいのが気にかかった。
「どれ、どれ」
 宮内はそこにおいをおろして、らしてある落葉おちばのあとをたどっていった。そして、れいなら断崖だんがいから深いところの水面をのぞいてみて、
「オオ、お時さん、大へんだ、大へんだ、だれか山家やまがの子らしい者が水にいている」
「えッ、子供が」
 こういう場合ばあいにかぎらず、子供ときくと、すぐ顔色をえるのがお時のくせになっていた。
「あのようすでは、まだ水へはまってから、いくらも時がたっていない。わしは、ここからふじづるにすがって、ふたりの子を助けてくるから、お時さんは、わしが帰るまで、この楢の木のそばをはなれてはなりませんぞ」
 どうして、この絶壁ぜっぺきりるかと見ていると、宮内は、さすがに武士ぶしだけに、いざとなると、おそろしいほど胆気たんきがすわっている。かれは、あけびや藤のつるをたぐって、またたくまにすべりりた。
 とちゅうまでさがってゆくと、なにか足がかりがあったのであろう、かれの姿すがたは、忽然こつぜんと、の葉のなかにかくれた。――と思うとまた、たき水沫すいまつがたちこめている岩層がんそうふちにそって、水面を注意ちゅういしながらかける宮内くないの小さいかげが見いだされた。


 どこか上品じょうひんで、ものごしのしずかなたびさむらいが、森閑しんかんとしている御岳みたけ社家しゃけ玄関げんかんにたって、取次とりつぎをかいしてこう申しれた。
当社とうしゃ神主かんぬし長谷川右近はせがわうこんどのにお目にかかりたくさんじました。――じぶんは、京都きょうと菊亭公きくていこう雑掌ざっしょう園部一学そのべいちがくというものです」
 わかい神官しんかんたちを相手に、おくしょうをふいていた長谷川右近は、
「はてな、菊亭右大臣家きくていうだいじんけから、なんのお使いであろう」
 ふしんに思ったが、倉皇そうこう客間きゃくまへとおした。そこで、ってみた一学という人は、なるほど、温雅おんが京風きょうふうなよそおいをした、りっぱな人物であった。
「さっそくにうかがいまするが」
「は。ご用向きは?」
 主客しゅかくとも、心もちひざをよせ合った。
「ほかでもございませぬが、さきごろ、当社とうしゃ広前ひろまえおこなわれました兵法大講会へいほうだいこうえのみぎり、信玄公しんげんこうのおまご武田伊那丸たけだいなまるさまとそのほかの浪人衆ろうにんしゅうが、おしのびにて見物けんぶつに入りまじっていたよしさとのうわさに聞きましたが、そののおゆくえをごぞんじなさいますまいか。――信玄公しんげんこうのご在世ざいせいまで、代々だいだい武田家たけだけより社領しゃりょうのご寄進きしんもあったこの山のことゆえ、もしや、ご承知しょうちもあろうかと、おうかがいにでましたしだいで」
 そう聞くと、神主かんぬし長谷川右近はせがわうこんは、初耳はつみみのように目をみはって、
「ほ。ではあの時、信玄公のおまご伊那丸いなまるさまがご見物けんぶつのなかにおられましたか」
 と、あべこべに園部一学そのべいちがく質問しつもんした。
「では、ご承知ないので?」
「いや、ただいまが初耳、それと知っておりましたら、もとのご縁故えんこあさからぬこと、ぜひおひきとめ申すのであったに」
「それでは、おゆくえもわかりますまいな」
「さらに承知いたしませぬが。……その伊那丸さまのお年ごろは」
天目山てんもくざんにて、お父上ちちうえとともにおてあそばした太郎信勝たろうのぶかつさまよりお一つ下――本年ほんねんお十六さいにわたらせられる」
「して、お付人つきびとは?」
「いずれも、わざと姿すがたをかえておりますが、小幡民部こばたみんぶはかたがたしい武芸者風ぶげいしゃふう巽小文治たつみこぶんじと申すはもと浜名湖はまなこ船夫せんぷの子とかにて目じるしにはつね朱柄あかえやりをたずさえております。また浪人風ろうにんふう山県蔦之助やまがたつたのすけ、六姿すがた龍太郎りゅうたろう、わけても恵林寺えりんじ弟子僧でしそう加賀見忍剣かがみにんけんと申すものは、武田家滅亡たけだけめつぼういらい、寸時すんじもおそばをはなれることなくおつきそい申しておる忠節ちゅうせつな男……」
 話しているうちに神主かんぬし長谷川右近はせがわうこんの顔が、発作的ほっさてきな病気でもおこしたように、ワナワナとくちびるをふるわせて、まったく土気色つちけいろになってしまった。――ときゅうをたって、
「しばらくの間、中座ちゅうざごめんを」
 足もたたみにつかぬようすで、おく座敷ざしきへかくれこんだ。
 とりのこされた一学いちがくは、なにか、急病きゅうびょう不快ふかいでも起したのかと思っていたが、それから、待てどくらせど、神主の返辞へんじもなければ神官しんかんたちの応接おうせつもない。
 一方、神主の右近は、目もくらむばかりのおどろかたであった。一学の話によれば、さきごろ、ご神縄しんじょうにかけて山毛欅ぶなの上にしばりつけた怪僧かいそう加賀見忍剣かがみにんけんであり、同時に、それいらい、垢離堂こりどういたに二十一にちかん謹慎きんしんをまもっている人々こそまさしく信玄公しんげんこうのおまご伊那丸君いなまるぎみであり、おつきの人々であると気がついたからである。御岳みたけの人々は、それが武田家たけだけ御曹子おんぞうしとは、まったく知らずにご神縄をくだしたのであったらしい。神官たちはにわかに凝議ぎょうぎして、その善後策ぜんごさく沈鬱ちんうつな空気をつくった。
ゆめにも知らぬご無礼ぶれい、ふかくおわびをしたら、おとがめもあるまい。このうえは、いっこくもはやく、あの垢離堂から社家しゃけへおうつし申しあげ、また、付人つきびとの忍剣とやらの神縛しんばくもといて謝罪しゃざいするよりほかに手段しゅだんはなかろう」
 いつまで応接のないのはそのためであった。
 神官たちが垢離堂へむかえに立ったあとで、右近はやっと一学のまえへでてきた。そして、あからさまに事情じじょうをのべて謝罪のとりなしをたのむのだった。
「ほ。それでは、若君わかぎみ当社とうしゃにおいであそばしましたのか」
武田家たけだけからは、世々よよ、あつき社領しゃりょうをたまわり、亡家ぼうかののちも、けっしておろそかには思いませぬものを、なんとも面目めんぼくない大失態だいしったい
「いや、まったく知らずにしたことなれば、寛大かんだいな若君、おとがめはありますまい。なんにしても、ここでお目にかかることができれば、自分もはるばるの使いとしてきてなによりの僥倖ぎょうこうです」
 もなく、清掃せいそうした社家しゃけ客殿きゃくでんへ、錦繍きんしゅうのしとねがおかれた。
 垢離場こりば板敷いたじきにワラの円座えんざをしいて、数日つつしんでいた人々は、いちやくあたたかい部屋へやとうやうやしいもてなしにむかえられてきた。
 一とうの人々は、神官しんかんたちがひらあやまりにあやまる事情をきいて、一じょう滑稽事こっけいじのようにわらっていった。
 また伊那丸いなまるも、それをとがめるどころではなく、自分の手飼てがいの者が神庭しんていをけがしたのであるから、しゅたる自分の謹慎きんしんするのはとうぜんであって、まだ二十一日にみたないうちにゆるしをたもうのは、神に対してむしろ心苦しいとさえいうのであった。
 で、御岳みたけの神官たちは、ホッとした。
「ときに、若君をたずねて、はるばる都からまいられたおかたがござります」
 右近うこんはおそるおそる、菊亭家きくていけの使いのよしを伊那丸にとりついだ。
とおせ」
 こういってやると、おりかえしての返辞へんじが、
「ひそかなご用件ようけんとやらで、清浄せいじょうな、神殿しんでんにおいて、若君わかぎみとただふたりだけでお目にかかりたいと申しますが」
 というに落ちないことばである。
 民部みんぶ龍太郎りゅうたろうも、一とうの人々は、見しらぬたびさむらい油断ゆだんはならないとたぶんな懐疑かいぎをもった。
 伊那丸いなまるはかんがえて、
「したが、かりそめにも、菊亭右大臣家きくていうだいじんけはわしの伯母おばさまのごえんづきなされたいえがら、おうたがい申してはすまぬことだ。わしひとりで神殿しんでんにおいてその者にいましょう」
 と、ふたたび右近うこんかいして、そのむねをいいやった。
 冷気れいきのこもったうすぐらい拝殿はいでんに、二つの円座えんざもうけられた。伊那丸と園部一学そのべいちがくがそこに対座たいざしたとき、杉戸すぎとのそとには、木隠龍太郎こがくれりゅうたろう蔦之助つたのすけ小文治こぶんじなどが、大刀をつかんで、よそながら主君しゅくんの身をまもっているぶりであった。
 が――伊那丸は、京都からきたという一学をみると、すぐに、かれがあやしげな者でないことをしんじた。
若君わかぎみはもうお忘れでございましょうが、去年きょねん、お父上ちちうえ勝頼かつよりさまに僧侶そうりょをおしたいなされて菊亭家きくていけへおしあそばしたことを」
「オオ」
「そのおり、よそながら一学いちがくは、おすがたをはいしておりましたが、わずか一年のうちに、見ちがえるばかりなご成長せいちょう……」
 そういっておそるおそる伊那丸いなまるを見上げながら、
右大臣家うだいじんけにおいて、つねに、おうわさ申しあげております」
菊亭晴季公きくていはるすえこうにも、いつも、おかわりなくおらしであるか」
「世は戦塵濛々せんじんもうもう九重ここのえおくもなんとなくあわただしく、日ごとご君側くんそく奉仕ほうしに、少しのおひまもないていにお見うけ申しまする」
「それは祝着しゅうちゃくである。そして、とくにそちがわしをたずねてきた用向ようむきとはなんであるな」
「右大臣家へのご托使たくしにござります」
「托使? ……では晴季公よりのご用でもないのか」
「さればです!」
 と、一学はさらにパッと威儀いぎをあらためて、
「お嗽口すすぎを」
 と目じらせをして立った。
 ただごとではない――と伊那丸もすぐにせきを立った。
 そして、清水せいすいをくんで手洗ちょうず、嗽口をすまし、あらためて席へもどってくる。
 一学いちがくもおなじようにすすぎをおえ、神殿しんでんがんにみあかしをともした。ふとみると、そこに禁裡きんりのみしるしのある状筥じょうばこがうやうやしく三ぼうの上にのせられてある。
「はッ」
 と、伊那丸いなまるたれたように平伏へいふくした。
密勅みっちょくです」
 一学いちがくの声は、ひくいが、おごそかである。
 伊那丸はゆめかと思った。国なく、家なく、武力もない自分になんの密勅であろうか。
 かれは五体のおののくようにおそれ多さを感じた。
 べつに一学にたくせられてきた菊亭晴季きくていはるすえ書状しょじょうからさきに黙読もくどくした。
 菊亭家きくていけ武田家たけだけとは、ふかい血縁けつえんのある家すじである。その晴季からなんの便たよりであろうかというてんも、伊那丸には、むねおどろしく感じられる。
 読みくだしてゆくうちに、伊那丸の目はいっぱいななみだになった。義憤ぎふん悔恨かいこん交互こうごほおあつくした。
 伊那丸よ――
 菊亭晴季の文はこう書きだしてある。さらにその文意ぶんいをくだいてここにしるせば、こういう愛国的あいこくてき長文ちょうぶんであった。

伊那丸よ。
 みやこでも近ごろはそなたのうわさをしばしば耳にする。いさましいことである。けなげなことである。そなたは、まずしくとも、信玄公しんげんこうの名をはずかしめない。
 わしは、かげながらよろこんでおる。
 だが、そなたはも早や、元服げんぷくの若者である。一にんまえ武士もののふとなるべきだ。いつまで小さな私怨しえんにとらわれているばかりがまこと武士もののふでもなかろう。まなこをひろい世の中にみひらいてたもれ。
 この一年有半ゆうはん歳月さいげつに、そなたはいまの世相せそうをよくながめたであろう。どうであった戦国の浮世うきよは。わけても百姓ひゃくしょう町人ちょうにん――いやそれよりもっと貧しいたみたちのくるしみはどうであろう。
 また、あるいはそなたも知らぬであろうが、おそれ多いことながら、いまの御所ごしょのお模様もようは、その貧しい人々よりもまさるものがある。いや、おんみずからのご不自由ふじゆうよりも、戦乱せんらんのちまたにえひしがれている民のうえにご宸念しんねんやすませられたことがない。
 わしは、朝暮ちょうぼに、御座みざちかく奉仕ほうししているので、まのあたりにそのおんなやみをみて、なみだのたえぬくらいである。畏れ多いおうわさであるが、御所ごしょ御簾みすはほつれて秋風のふせぎもなく、供御くごのものにさえことかくことがめずらしくない。
 それだになお、きみ民草たみくさ塗炭とたんにお心さえやすまったことがない。なんとあさましい戦乱のすがたではないか。
 なぜいまのがこんなに悪いのか。それを、そなたにいうのは孟子もうしほうくようなものだが、武家ぶけつみである、群雄割拠ぐんゆうかっきょして領土りょうどと領土のあばきあいのほか、なにごとも忘れている兵家へいかの罪でなければならぬ。
 秀吉ひでよし家康いえやすをはじめ、加賀かが前田まえだ毛利もうり伊達だて上杉うえすぎ北条ほうじょう長曾我部ちょうそかべ、みなそれぞれ名器めいき武将ぶしょうであるけれど、かれらはじぶんのこうをいそぐ以外いがいに、かみしもも、なにものもかえりみているゆとりがない。天下とう一の先駆さきがけにあせって、たたかって勝つという信条しんじょうもとには、どんな犠牲ぎせいしまない。
 これでは民草たみくされるわけである。おかみのご宸念しんねんのたえない道理どうりである。気をわるくするかもしれないが、そなたの祖父そふ信玄しんげんほどの人物も、そのひとりだといわなければならない。
 伊那丸よ。そなたもその仲間なかまにまじって、領土をあらそう武門ぶもんおわりたいか。わたしは、そなたを見こんで、ねがいがある。よく考えてたもれ、大事なときだ。
 そなたが、うしなった甲斐かいの領土の甲斐源氏かいげんじいえ再興さいこうしたいという願望がんぼうは、まさしくこうである、正義せいぎである、男子のなすべき事業じぎょうである。だが、考えてたもれ、今は天下大事てんかだいじときである。
 いまこそは何人なんぴとでもあれ、自我じが名利みょうりをすて、のため、あわれな民衆みんしゅうのために、野心やしんの群雄とならず、領土慾りょうどよくに割拠しない、まことの武士もののふがあらわれなければならないときだ。まことの人がこのあさのごとくみだれた世を少しでも助けなければならないときだ。
 聡明そうめいなるそなたにこれ以上いじょう多言たごんようすまいと思う。せつに、そなたの反省はんせいをたのむ。そしてそなたが祖父そふ機山きざんより以上いじょう武士もののふぎょうをとげんことをいのる。秀吉ひでよし家康いえやすの上にずるところに刮眼かつがんすることを祈る。
 また、かくいうも、このことばは自分ひとりのげんばかりではない。ある夜、高野こうやをひそかにくだられたそれがしとよぶ御僧みそうのすすめもあるのである。また、おりふしおとずれた白髯はくぜん高士こうし意見いけんもここにくわわっているのである。その高野の僧の名は明かしがたいが、高士の名はあかしてもよい。それは、鞍馬くらま隠士いんし僧正谷そうじょうがたに果心居士かしんこじである。

 ぶんはこれでおわっている。
 伊那丸いなまるせま暗黒あんこくから暁天ぎょうてんへみちびかれて、自分のしんにゆくべき道をおしえられたような心地ここちがした。

故郷ふるさとへ、西にしみやこ




 おときは、ならの木のみきにつかまりながら、ふかい絶壁ぜっぺきの下を、こわごわのぞいていた。
(どこの子供か知らないが、どうか、助かってくれればいい)
 彼女かのじょは、じぶんの身の上にひきくらべて、そういのらずにはいられなかった。
 下を見ると、目がまわりそうなので、あまりがけっぷちには進みえないで、すくいにいった宮内くないのようすも、仔細しさいに見ていることはできないが、ときどきのすきまから、かれの活動が遠望えんぼうされた。
「オオ、水からあげたような……」
 おときの顔に、わがことのようなよろこびのくぼがのぼった。すると、とつぜんに、
「これッ。――どこからこの山へはいりこんだ」
 お時は、だれか力のあるうでぷしで、そこからうしろへ引きもどされた。
「あッ……」
 彼女はふるえ上がって、大地へ平蜘蛛ひらぐものように手をついた。
 そこには、御岳みたけ神官しんかんらしい人々が、山支度やまじたくをして立っていた。
「ここは、許しがなくてはのぼれぬ、お止山とめやまということを知らんか」
「ち……ちッとも、ぞんじませんで、道にまよってきてしもうたのでござります」
「見れば、質朴しつぼくそうな坂東巡ばんどうめぐりの者、道にまよってきたものならば、深くはとがめないが、一おう吟味ぎんみの上でなくてははなしてやるわけにはゆかない。しばらくそこでひかえていろ」
 こういうと、若い神官たちは、べつになにかいそぐ目的もくてきがあるらしく、ばらばらと千ねん山毛欅ぶなもとへかけあつまった。
 三人ほどの者が、そでをからげて山毛欅ぶなの上へよじのぼっていった。そして、ご神刑しんけいにかかっている、忍剣にんけんのいましめをき、くようにしてろしてきた。
 さだめし、つかれているだろうと思ったところが、あん相違そういして、忍剣はすこしもおとろえていなかった。それもそのはずなのであるが、神官しんかん理由りゆうを知らないので、いよいよふしぎな怪僧かいそうであると、したをまいておどろいた。
「まだ、二十一日にはつまいに」
 と、忍剣は、きょうの赦免しゃめんが、ゆめのようであるらしい。
 が、事情じじょうをきいて、心からよろこばしそうな色が、さすがに、そのおもて生々いきいきとさせた。
 一足ひとあしおくれて、御岳みたけおくいんからここへ越えてきた人々があった。それは、神主かんぬし長谷川右近はせがわうこん道案内みちあんないとして忍剣にんけん健在けんざいなりやいなや――と一こくをあらそって、むかえに見えた一とう朋友ほうゆうたちである。
 そのなかに、伊那丸いなまるのすがたを見出みいだしたので、忍剣は、思いやりの深い主君しゅくんの心がわかって、無言むごんのうちになみだがうかんだ。
 かれの健在けんざい祝福しゅくふくしあうと、人々はすぐに、
「忍剣、すぐに京都へいそぐのだぞ」
 と、活気かっきづけるようにいった。
「えッ、みやこへ」
「くわしいことは、あとで若君わかぎみからお話があろうが、きょうからわれわれは、甲州土着こうしゅうどちゃく武士ぶしという心をてることになったのだ」
「なぜ?」
 明らかに不平ふへいが、かれの顔色かおいろにうごいた。
 が、一とうの友の顔は、みな、いつもにもしてれやかに見えた。
甲州武士こうしゅうぶしなどというせまい気持をすてて、まことの神州武士しんしゅうぶしとなるのだからいいじゃないか。われらの愛国あいこく甲斐かいではなくなった。日本にほんだ。かがやきのある神州しんしゅう扶桑ふそうの国だ」
「そして?」
 忍剣にんけんには、友のことばが不意ふいにきこえた。まだじゅうぶんにむねに落ちないらしい。
「あおぐは一てんみかど
「それは、だれにしてもそうではないか。いまさらことあらためていうことはないだろう」
「いや、戦国の武将ぶしょうたちは、みんなそれを忘れている。もうひとつ忘れていることがある。それはまずしい下々しもじもたみだ。われらの味方みかたするのはその人たちだ」
「どうしてにわかに京都へのぼることになったのか」
菊亭右大臣きくていうだいじんさまのおはからいで、おそれ多くも、あるご内意ないいがくだったのだ」
「えッ、若君わかぎみへ」
「しかし、それはきわめて秘密ひみつなことだ」
「では都から密使みっしが見えられたのか」
「とにかく、若君わかぎみは、はじめておおらかな正義せいぎの天地を自由に馳駆ちくするときがきたと、非常ひじょうなおよろこびで、以後いご武田残党たけだざんとうの名をすてて、われわれ一党名とうめいも、天馬侠党てんまきょうとうとよぶことにきまったのだ。きょうは赦免しゃめんになったきさまもくわえて、天馬侠第一声をここにあげたのだ」
 熱血僧ねっけつそう忍剣にんけんは、だんだんと聞いてゆくうちに、その耳朶じだ杏桃すもものように赤くしてきた。王室おうしつ御衰微ごすいびをなげくことと、戦国の馬塵ばじんにふみつけられてかえりみられないまずしい者をあわれむ心はつねに、この人々のむねえているところだった。
「じゃ、きょうすぐに、これから都へのぼるのか」
「多少の支度したくもあるから、きょうというわけにはゆくまいが、いっこくも早く、菊亭右大臣きくていうだいじんにおいして、なにかのことをうかがったうえ、密詔みっしょうのご勅答ちょくとうを申しあげたいという若君のおことばだ」
「なるほど。だが、これだけではまだ天馬侠の侠友きょうゆうがひとりもれているぞ」
民部みんぶどのもおられる、龍太郎りゅうたろう小文治こぶんじ蔦之助つたのすけ、すべての者がそろっているが……あ、咲耶子さくやこか」
「咲耶子もそうだが、竹童ちくどうけているのではないか」
「オ。その竹童は、またわしをさがすといって、どこかへひとりで立ちった」
「いや、うそだ」
 と、忍剣はやや興奮的こうふんてきに首をふって、
「おれはきょうまで、こうして、少しもつかれずにいたのは、まったく、かれが苦心惨憺くしんさんたんして、朝ごとにしょくを口にいれてくれたおかげだ。どこかそこらにいるにちがいないからさがしてくれ」
 と、大声でいった。
 御岳みたけ神官しんかんたちはおどろいた。
 けれど、伊那丸いなまるとうの人々たちは、その話をきいて、なんだかなみだぐましくさえなった。しかし、いくらあたりをたずねても、かれのすがたが見えないので、落胆らくたんしているところへ、がけ細道ほそみちをかきわけて、菊村宮内きくむらくないが、水から助けあげたふたりの少年をつれてあがってきた。
「おっ、いた!」
 せずして、かれの周囲しゅういを、一同のものがドッと取りまいた、ただそのようすを、さびしそうにながめていたのは、坂東巡礼ばんどうじゅんれいのおときであった。


 あのならの枝から落ちて、ふしぎにふたりはかすりきずもなかった。その奇蹟きせきを、地蔵行者じぞうぎょうじゃの菊村宮内は、竹生島神伝ちくぶしましんでん独楽こま火独楽ひごま水独楽みずごまをめいめいがふところに持っていた功力くりきであるといって、その由来ゆらいをつぶさに話した。
 本来ほんらい蛾次郎がじろうは泣いてもえてもここでその首を、侠党きょうとうにもらわれなければならないのであるが、独楽こま由来ゆらいの話から、いくぶんそのじょう酌量しゃくりょうされて、宮内くない命乞いのちごいにその首だけはやっとつながった。
 そのうちに神官しんかんのひとりが、どこからか、ふたりのたけに合いそうな着物きものをもらってきてくれた。なにしろ、衣服いふくがぬれていては、山をりるにしても、とちゅうのさむさにたえられない。
「さあ、るがよい」
 すそのみじかい着物と膝行袴たっつけが、一枚ずつ公平こうへいにわたされた。あのおしゃべりの蛾次郎も、口をきく元気もなく、ただいくつもおじぎをつづけて、ぬれた着物をそれに着かえた。
 すると――そのようすを、ぎすましたようなまなざしで、ジーッと見つめていた巡礼じゅんれいのおときが、とつぜん、気でもくるったように、
「オオ、おらの子だ! おらの子だ!」
 と、おどろく蛾次郎の首根くびねッこにかじりついて、人まえもなく、ワッと声をあげてうれしきに泣きたおれた。
 宮内も、がくぜんとそこへ飛びよって、
「お時さん、どうして? どうして?」
 人ごととは思えないでいただした。
きゅうがある! 灸がある! これ宮内さま、この子のなかを見てやってください。いつかわたしが話したように、わしの村でしかすえないお諏訪すわさまの禁厭灸まじないきゅうのあとがある。そのわしの村でも、この背骨せぼねふしの四ツに、癲癇てんかんきゅうをすえたのは、おらの子だけでございます」
「じゃ、この蛾次郎がじろうが、三つの時に、伊勢詣いせまいりのとちゅうで迷子まいごにしたおまえさんの子であったのか」
「それにちがいありません。ああ、親子おやこはあらそわれない、やっぱりわしにはなんとなく、虫の知らせがありましたに……」
 と、蛾次郎のからだをきしめて、あまやかな女親おんなおやなみだをとめどなく流すのだった。
 蛾次郎はただキョトキョトして、おときの手をすこしこばむようにしりごみしていたが、宮内くないからじゅんじゅんと自分の母であることを話されると、東海道とうかいどうで、はなかけ卜斎ぼくさいにひろわれたというおさな話を思いだして、
「じゃ、おめえが、ほんとのおれのおッさんだったのかい」
 と、はじめて、お時の顔を真正面まっしょうめんに見つめた。
「オオ、ぼうや!」
「ワーッ……」
 と、そのとたんに、蛾次郎は、一だいの泣き声をあげてお時のひざにそのきたない顔を、むちゃくちゃにコスリつけていった。
 お時もうれし泣きに抱きしめた。
 牝牛めうしちちのようにあま女親おんなおやなみだのなかに、邪気じゃきも、よくも、なにもなく、身をひたりこんだ蛾次郎がじろうのすがたを見ていると、だれもかれに少しのにくしみも持てなかった。
 竹童ちくどうですら、敵意てきいをわすれて、ぼんやりとその情景じょうけいをながめていた。
 だが、かれのおやはどこにいる?
 竹童は、さびしかろ。

 侠党きょうとうの人々が、御岳みたけのすそ、北多摩きたたまのふもとから青毛あおげ月毛つきげ黒鹿毛くろかげ馬首ばしゅをならべて、ぎんのすすきのなみをうつ秋の武蔵野むさしのを西へさしてったのは、その翌々日よくよくじつのことであった。
 おなじ日に、泣き虫の蛾次郎は、母親のおときに手をひかれて、坂東何番ばんどうなんばんかのお札所ふだしょへおれいまいりにのぼっていった。
 そして、ひとめぐりの巡礼じゅんれいをすましたら、ふるさとのむらへ帰るだろう。
 うららかな秋のもとに立って、まぶしそうに見ていた菊村宮内きくむらくないは、えてゆく七のかげと、手をひかれてゆく母と子と、そのどッちを見おくっても、いい気持がした。
 そして、かれもまた、カアーン、カアーンと、地蔵菩薩じぞうぼさつかね手向たむけながら、すすきをける旅人たびびとのひとりとなって、いずこともなく歩きだした。





底本:「神州天馬侠(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年12月11日第1刷発行
   2012(平成24)年1月10日第16刷発行
   「神州天馬侠(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年12月11日第1刷発行
   2012(平成24)年6月1日第15刷発行
   「神州天馬侠(三)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年1月11日第1刷発行
   2011(平成23)年5月6日第16刷発行
初出:「少年倶楽部」
   1925(大正14)年5月号〜1928(昭和3)年12月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ーー」は2倍の大きさで作られた長音記号です。「ーー」と「――」の混在は、底本通りです。
※「卦面」に対するルビの「かめん」と「けめん」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2017年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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