私は、元来、少年小説を書くのが好きである。
大人の世界にあるような、
きゅうくつな
概念にとらわれないでいいからだ。
少年小説を書いている間は、自分もまったく、
童心のむかしに返る、少年の気もちになりきッてしまう。――今のわたくしは、もう古い大人だが、この
天馬侠を読み直し、
校訂の筆を入れていると、そのあいだにも、少年の日が胸によみがえッてくる。
ああ少年の日。一生のうちの、
尊い季節だ。この小説は、わたくしが少年へ書いた長編の最初のもので、また、いちばん長いものである。諸君の楽しい季節のために、この書が諸君の
退屈な雨の日や、
淋しい夜の友になりうればと思い、自分も好きなまま、つい、こんなに長く書いてしまったものである。
いまの日本は、大人の世界でも、子どもの天地でも、心に楽しむものが少ない。だが、少年の日の夢は、
痩せさせてはいけない。少年の日の自然な空想は、いわば少年の
花園だ。昔にも、今にも、将来へも、つばさをひろげて、遊びまわるべきである。
この書は、過去の
伝奇と歴史とを、わたくしの夢のまま書いたものだが、過去にも、今と比較して、考えていいところは
多分にある。悪いところは反省し、よいところは知るべきだと思う。その意味で、
鞍馬の
竹童も、泣き虫の
蛾次郎も、諸君の友だち仲間へ入れておいてくれ給え。時代はちがうが、よく見てみたまえ、諸君の友だち仲間の
腕白にも、竹童もいれば、蛾次郎もいるだろう。
大人についても、同じことがいえる。
以前、これが「少年倶楽部」に連載されていた当時の愛読者は、
成人して、今日では政治家になったり、実業家になったり、文化人になったりして、みな社会の一線に立っている。諸君のお父さんや兄さんのうちにも、その頃の愛読者がたくさんおられることと思う。
わたくしはよくそういう人たちから、少年時代、
天馬侠の愛読者でした――と聞かされて、年月の流れに、おどろくことがある。もし諸君がこの
書を手にしたら、諸君の
父兄やおじさんたちにも、見せて上げてもらいたい。そして、著者の
言伝てを、おつたえして欲しい。
――ご
健在ですか。わたくしは健在です、と。
そして、いまの少年も、また天馬侠を読むようになりました、と。
昭和二四・春
著者
[#改丁]
そよ風のうごくたびに、むらさきの波、しろい波、――
恵林寺うらの
藤の花が、今をさかりな、ゆく春のひるである。
朱の
椅子によって、しずかな
藤波へ、目をふさいでいた
快川和尚は、ふと、風のたえまに流れてくる、
法螺の
遠音や
陣鉦のひびきに、ふっさりした
銀の
眉毛をかすかにあげた。
その時、
長廊下をどたどたと、かけまろんできたひとりの
弟子は、まっさおな
面をぺたりと、そこへ
伏せて、
「おッ。お
師さま! た、
大変なことになりました。あアおそろしい、……
一大事でござります」
と
舌をわななかせて
告げた。
「しずかにおしなさい」
と、
快川は、たしなめた。
「――わかっています。
織田どのの
軍勢が、いよいよ
此寺へ押しよせてきたのであろう」
「そ、そうです! いそいで
鐘楼へかけのぼって見ましたら、森も野も
畠も、
軍兵の
旗指物でうまっていました。あア、もうあのとおり、軍馬の
蹄まで聞えてまいります……」
いいもおわらぬうちだった。
うら山の
断崖から
藤だなの根もとへ、どどどどと、土けむりをあげて落ちてきた者がある。ふたりはハッとして顔をむけると、ふんぷんとゆれ散った
藤の花をあびて
鎧櫃をせおった血まみれな
武士が、
気息もえんえんとして、
庭さきに
倒れているのだ。
「や、
巨摩左文次どのじゃ。これ、はやく
背のものをおろして、水をあげい、水を」
「はッ」と
弟子僧ははだしでとびおりた。鎧櫃をとって泉水の水をふくませた。武士は、気がついて
快川のすがたをあおぐと、
「お!
国師さま」と、大地へ
両手をついた。
「巨摩どの、さいごの
便りをお待ちしていましたぞ。ご一門はどうなされた」
「はい……」左文次はハラハラと
涙をこぼして、
「ざんねんながら、
新府のお
館はまたたくまに
落城です。火の手をうしろに、主君の
勝頼公をはじめ、
御台さま、
太郎君さま、一門のこり少なの人数をひきいて、
天目山のふもとまで落ちていきましたが、目にあまる
織田徳川の両軍におしつつまれ、みな、はなばなしく
討死あそばすやら、さ、
刺しちがえてご
最期あるやら……」
と
左文次のこえは涙にかすれる。
「おお、
殿もご夫人もな……」
「まだおん年も十六の太郎
信勝さままで、一きわすぐれた目ざましいお
討死でござりました」
「時とはいいながら、
信玄公のみ
代まで、
敵に一歩も
領土をふませなかったこの
甲斐の国もほろびたか……」
と
快川は、しばらく
暗然としていたが、
「して、勝頼公の最期のおことばは?」
「これに持ちました
武田家の
宝物、
御旗楯無(旗と鎧)の二
品を、さきごろからこのお寺のうちへおかくまいくだされてある、
伊那丸さまへわたせよとのおおせにござりました」
そこへまた、二、三人の
弟子僧が、色を失ってかけてきた。
「お
師さま!
信長公の家臣が三人ほど、ただいま、ご本堂から
土足でこれへかけあがってまいりますぞ」
「や、敵が?」
と
巨摩左文次は、すぐ、
陣刀の
柄をにぎった。
快川は落ちつきはらって、それを手でせいしながら、
「あいや、そこもとは、しばらくそこへ……」
と
床下をゆびさした。急なので、左文次も、
宝物をかかえたまま、
縁の下へ身をひそめた。
と、すぐに
廊下をふみ鳴らしてきた三人の
武者がある。いずれも、あざやかな
陣羽織を着、
大刀の
反りうたせていた。
眼をいからせながら、きッとこなたにむかって、
「
国師ッ!」
と、するどく
呼びかけた。
天正十年の春も早くから、
木曾口、
信濃口、
駿河口の八ぽうから、
甲斐の
盆地へさかおとしに攻めこんだ
織田徳川の
連合軍は、
野火のようないきおいで、
武田勝頼父子、
典厩信豊、その他の一族を、
新府城から
天目山へ追いつめて、ひとりのこさず
討ちとってしまえと、きびしい
軍令のもとに、
残党を
狩りたてていた。
その結果、
信玄が
建立した
恵林寺のなかに、
武田の客分、
佐々木承禎、
三井寺の上福院、
大和淡路守の三人がかくれていることをつきとめたので、使者をたてて、
落人どもをわたせと、いくたびも
談判にきた。
しかし、長老の
快川国師は、
故信玄の
恩にかんじて、
断乎として、
織田の要求をつっぱねたうえに、ひそかに三人を
逃がしてしまった。
織田の
間者は、夜となく昼となく、
恵林寺の内外をうかがっていた。ところが、はからずも、
勝頼の
末子伊那丸が、まだ
快川のふところにかくまわれているという事実をかぎつけて、いちはやく本陣へ急報したため、すわ、それ
逃がしてはと、二千の
軍兵は
砂塵をまいて、いま――すでにこの寺をさして押しよせてきつつあるのだ。
快川は、それと知っていながら、ゆったりと、
朱の
椅子から立ちもせずに、三人の武将をながめた。
「また、
織田どのからのお使者ですかな」
と、しずかにいった。
「知れたことだ」となかのひとりが一歩すすんで、
「
国師ッ、この
寺内に
信玄の孫、伊那丸をかくまっているというたしかな
訴人があった。
縄をうってさしだせばよし、さもなくば、寺もろとも、
焼きつくして、みな殺しにせよ、という
厳命であるぞ。
胆をすえて
返辞をせい」
「返辞はない。ふところにはいった
窮鳥をむごい
猟師の手にわたすわけにはゆかぬ」
と快川のこえはすんでいた。
「よしッ」
「おぼえておれ」と三人の武将は荒々しくひッ返した。そのうしろ
姿を見おくると、
快川ははじめて、
椅子をはなれ、
「
左文次どの、おでなさい」
と
合図をしたうえ、さらに
奥へむかって、声をつづけた。
「
忍剣! 忍剣!」
呼ぶよりはやく、おうと、そこへあらわれた骨たくましいひとりの
若僧がある。若僧は、
白綸子にむらさきの
袴をつけた十四、五
歳の
伊那丸を、そこへつれてきて、ひざまずいた。
「この寺へもいよいよ最後の時がきた。お
傅役のそちは一命にかえても、若君を安らかな地へ、お落としもうしあげねばならぬ」
「はッ」
と、
忍剣は
奥へとってかえして、鉄の
禅杖をこわきにかかえてきた。背には
左文次がもたらした
武田家の
宝物、
御旗楯無の
櫃をせおって、うら庭づたいに、
扇山へとよじのぼっていった。
ワーッという
鬨の声は、もう山門ちかくまで聞えてきた。寺内は、
本堂といわず、
廻廊といわずうろたえさわぐ人々の声でたちまち
修羅となった。
白羽黒羽の矢は、
疾風のように、バラバラと、庭さきや本堂の
障子襖へおちてきた。
「さわぐな、うろたえるな!
大衆は山門におのぼりめされ。わしについて、
楼門の上へのぼるがよい」
と
快川は、
伊那丸の落ちたのを見とどけてから、やおら、
払子を
衣の
袖にいだきながら、
恵林寺の
楼門へしずかにのぼっていった。
「それ、長老と、ご
最期をともにしろ――」
つづいて、一
山の
僧侶たちは、
幼い
侍童のものまで、楼門の上にひしひしとつめのぼった。
寄手の軍兵は、山門の下へどッとよせてきて、
「一
山の者どもは、みな山門へのぼったぞ、下から焼きころして、のちの者の、見せしめとしてくれよう」
と、うずたかく
枯れ草をつんで、ぱッと火をはなった。みるまに、
渦まく煙は楼門をつつみ、
紅蓮の
炎は、百千の
火龍となって、メラメラともえあがった。
楼上の大衆は、たがいにだきあって、熱苦のさけびをあげて
伏しまろんだ。なかにひとり、
快川和尚だけは、
自若と、
椅子にかけて、
眉の毛もうごかさず、
「なんの、
心頭をしずめれば、火もおのずから
涼しい――」
と、一
句のことばを、微笑のもとにとなえて、その全身を、
焔になぶらせていた。
「おお!
伊那丸さま。あれをごらんなされませ。すさまじい火の手があがりましたぞ」
源次郎岳の山道までおちのびてきた
忍剣は、はるかな火の海をふりむいて、
涙をうかべた。
「
国師さまも、あの
焔の底で、ご
最期になったのであろうか、忍剣よ、わしは悲しい……」
伊那丸は、遠くへ向かって
掌を合わせた。空をやく焔は、かれのひとみに、
生涯わすれぬものとなるまでやきついた。すると、不意だった。
いきなり、耳をつんざく
呼子の
音が、するどく、頭の上で鳴ったと思うと、かなたの岩かげ、こなたの谷間から、
槍や
陣刀をきらめかせて、おどり立ってくる、数十人の
伏勢があった。それは
徳川方の手のもので、
酒井の
黒具足組とみえた。忍剣は、すばやく伊那丸を岩かげにかくして、じぶんは、
鉄杖をこわきにしごいて、敵を待った。
「それッ、武田の
落人にそういない。
討てッ」
と呼子をふいた黒具足の
部将は、ひらりと、岩上からとびおりて
号令した。下からは、
槍をならべた一隊がせまり、そのなかなる、まッ先のひとりは、流星のごとく忍剣の
脾腹をねらって、
槍をくりだした。
「おうッ」と力をふりしぼって、忍剣の手からのびた四
尺余寸の鉄杖が、パシリーッと、槍の千
段を二つにおって、天空へまきあげた。
「
払え!」と呼子をふいた部将が、またどなった。
バラバラとみだれる
穂すすきの
槍ぶすまも、
忍剣が、自由自在にふりまわす鉄杖にあたるが最後だった。
藁か
棒切れのように飛ばされて、見るまに、七人十人と、
朱をちらして
岩角からすべり落ちる。ワーッという声のなだれ、かかれ、かかれと、ののしる
叫び。すさまじい山つなみは、よせつかえしつ、満山を血しぶきに
染める。
一
介の
若僧にすぎない忍剣のこの手なみに、さすがの
黒具足組も
胆をひやした。――知る人は知る。忍剣はもと、
今川義元の
幕下で、海道一のもののふといわれた、
加賀見能登守その人の
遺子であるのだ。かれの天性の怪力は、父能登守のそれ以上で、幼少から、
快川和尚に
胆力をつちかわれ、さらに
天稟の武勇と血と涙とを、若い五体にみなぎらせている
熱血児である。
あの眼のたかい快川和尚が、一
山のなかからえりすぐって、
武田伊那丸と
御旗楯無の
宝物を
托したのは、よほどの人物と見ぬいたればこそであろう。
新羅三郎以来二十六
世をへて、四
隣に
武威をかがやかした
武田の
領土は、いまや、
織田と
徳川の軍馬に
蹂躪されて、
焦土となってしまった。しかも、その武田の血をうけたものは、世の中にこの
伊那丸ひとりきりとなったのだ。焦土のあとに、たった
一粒のこった
胚子である。
この一粒の胚子に、ふたたび
甲斐源氏の花が咲くか咲かないか、忍剣の責任は大きい。また、伊那丸の宿命もよういではない。
世は戦国である。
残虐をものともしない天下の弓取りたちは、この一粒の胚子をすら、
芽をださせまいとして前途に、あらゆる毒手をふるってくるにちがいない。
すでに、その第一の危難は眼前にふってわいた。
忍剣は
鉄杖を
縦横むじんにふりまわして、やっと
黒具足組をおいちらしたが、ふと気がつくと、
伊那丸をのこしてきた場所から大分はなれてきたので、いそいでもとのところへかけあがってくると、
南無三、
呼子をふいた部将が
抜刀をさげて、あっちこっちの
岩穴をのぞきまわっている。
「おのれッ」と、かれは身をとばして、一
撃を加えたが敵もひらりと身をかわして、
「
坊主ッ、
徳川家にくだって伊那丸をわたしてしまえ、さすればよいように取りなしてやる」
と、
甘言の
餌をにおわせながら、
陣刀をふりかぶった。
「けがらわしい」
忍剣は、鉄杖をしごいた。らんらんとかがやく
眸は、相手の精気をすって、一歩、でるが早いか、敵の
脳骨はみじんと見えた。
そのすきに、忍剣のうしろに身ぢかくせまって、
片膝おりに、
種子島の
銃口をねらいつけた者がある。ブスブスと、その手もとから
火縄がちった――さすがの忍剣も、それには気がつかなかったのである。
かれがふりこんだ鉄杖は、相手の陣刀をはらい落としていた。二どめに、ズーンとそれが
横薙ぎにのびたとおもうと、わッと、
部将は血へどをはいてぶったおれた。
刹那だ。ズドンと
弾けむりがあがった――
はッとして身をしずめた
忍剣が、ふりかえってみると
種子島をもったひとりの
黒具足が、
虚空をつかみながら煙のなかであおむけにそりかえっている。
はて? と
眸をさだめてみると、その
脾腹へうしろ抱きに
脇差をつきたてていたのは、いつのまに飛びよっていたか
武田伊那丸であった。
「お、若さま!」
忍剣は、あまりなかれの
大胆と
手練に目をみはった。
「忍剣、そちのうしろから、
鉄砲をむけた
卑怯者があったによって、わしが、このとおりにしたぞ」
伊那丸は、
笑顔でいった。
木の
実をたべたり、小鳥を
捕って
飢えをしのいだ。百日あまりも、
釈迦ヶ
岳の山中にかくれていた
忍剣と
伊那丸は、もう
甲州攻めの軍勢も引きあげたころであろうと
駿河路へ立っていった。
峠々には、
徳川家のきびしい
関所があって、ふたりの
詮議は、
厳密をきわめている。
そればかりか、
織田の
領地のほうでは、
伊那丸をからめてきた者には、五百
貫の
恩賞をあたえるという
高札がいたるところに立っているといううわさである。さすがの
忍剣も、はたととほうにくれてしまった。
きのうまでは、
甲山の軍神といわれた、
信玄の孫伊那丸も、いまは
雨露によごれた
小袖の着がえもなかった。足は
茨にさかれて、みじめに血がにじんでいた。それでも、伊那丸は悲しい顔はしなかった。幼少からうけた
快川和尚の
訓育と、祖父
信玄の血は、この少年のどこかに流れつたわっていた。
「若さま、このうえはいたしかたがありませぬ。
相模の
叔父さまのところへまいって、時節のくるまでおすがりいたすことにしましょう」
かれは、伊那丸のいじらしい
姿をみると、はらわたをかきむしられる気がする。で、ついに最後の考えをいいだした。
「
小田原城の
北条氏政どのは、若さまにとっては、
叔父君にあたるかたです。
北条どのへ身をよせれば、
織田家も
徳川家も手はだせませぬ」
が、
富士の
裾野を
迂回して、
相模ざかいへくると、無情な
北条家ではおなじように、
関所をもうけて、
武田の
落武者がきたら片ッぱしから追いかえせよ、と厳命してあった。
叔父であろうが、
肉親であろうが、
亡国の血すじのものとなれば、よせつけないのが戦国のならいだ。忍剣もうらみをのんでふたたびどこかの山奥へもどるより
術がなかった。今はまったく
袋のねずみとなって、西へも東へもでる道はない。
ゆうべは、
裾野の青すすきを
ふすまとして
寝、けさはまだ
霧の深いころから、どこへというあてもなく、とぼとぼと歩きだした。やがてその日もまた夕暮れになってひとつの大きな
湖水のほとりへでた。
このへんは、富士の五
湖といわれて、湖水の多いところだった。みると
汀にちかく、
白旗の宮と
額をあげた小さな
祠があった。
「白旗の宮? ……」と
忍剣は見あげて、
「オオ、
甲斐も
源氏、白旗といえば、これは
縁のある
祠です。若さましばらく、ここでやすんでまいりましょうに……」
と、縁へ腰をおろした。
「いや、わしは身軽でつかれはしない。おまえこそ、その
鎧櫃をしょっているので、ながい道には、くたびれがますであろう」
「なんの、これしきの物は、忍剣の骨にこたえはいたしませぬ。ただ、大せつなご
宝物ですから、まんいちのことがあってはならぬと、その気づかいだけです」
「そうじゃ。わしは、この湖水をみて思いついた」
「なんでござりますか」
「こうして、その
櫃をしょって歩くうちに、もし敵の目にかかって、
奪われたらもう取りかえしがつかぬ」
「それこそ、この忍剣としても、生きてはおられませぬ」
「だから――わしがせめて、
元服をする時節まで、その宝物を、この
白旗の宮へおあずけしておこうではないか」
「とんでもないことです。それは
物騒千万です」
「いや、あずけるというても、
御堂のなかへおくのではない。この湖水のそこへ
沈めておくのだ。ちょうどここにある宮の
石櫃、これへ入れかえて、沈めておけば安心なものではないか」
「は、なるほど」と、
忍剣も、
伊那丸の
機智にかんじた。
ふたりはすぐ
祠にあった石櫃へ、宝物をいれかえ一
滴の水もしみこまぬようにして、岸にあった丸木のくりぬき舟にそれをのせて、忍剣がひとりで、
棹をあやつりながら湖の中央へと舟をすすめていった。
伊那丸は
陸にのこって、
岸から小舟を見おくっていた。あかい
夕陽は、きらきらと水面を
射かえして、舟はだんだんと湖心へむかって小さくなった。
「あッ――」
とその時、伊那丸は、なにを見たか、さけんだ。
どこから
射出したのか、一本の
白羽の矢が湖心の忍剣をねらって、ヒュッと飛んでいったのであった。――つづいて、雨か、たばしる
霰のように、数十本の
矢が、バラバラ
釣瓶おとしに
射かけられたのだ。
さッと湖心には水けむりがあがった。その一しゅん、舟も忍剣も石櫃も、たちまち湖水の波にそのすがたを没してしまった。
「ややッ」
おどろきのあまり、われを
忘れて、
伊那丸が水ぎわまでかけだしたときである。――なにものか、
「待てッ」
とうしろから、かれの
襟がみをつかんだ大きな
腕があった。
「
小童、うごくと
命がないぞ」
ずるずると、引きもどされた伊那丸は、声もたて
得なかった。だが、とっさに、
片膝をおとして、腰の
小太刀をぬき打ちに、相手の
腕根を
斬りあげた。
「や、こいつが」と、不意をくった男は手をはなして飛びのいた。
「だれだッ。なにをする――」
とそのすきに、
小太刀をかまえて、いいはなった伊那丸には、おさないながらも、天性の
威があった。
あなたに立った大男はひとりではなかった。そろいもそろった荒くれ男ばかりが十四、五人、
蔓巻の
大刀に、
革の
胴服を着たのもあれば、
小具足や、むかばきなどをはいた者もあった。いうまでもなく、
乱世の
裏におどる
野武士の
群団である。
「見ろ、おい」と、ひとりが伊那丸をきッとみて、
「
綸子の
小袖に
菱の
紋だ。
武田伊那丸というやつに
相違ないぜ」と、いった。
「うむ、ふんじばって
織田家へわたせば、
莫大な
恩賞がある、うまいやつがひッかかった」
「やいッ、伊那丸。われわれは富士の
人穴を
砦としている
山大名の一手だ。てめえの道づれは、あのとおり、湖水のまンなかで
水葬式にしてくれたから、もう逃げようとて、逃げるみちはない、すなおにおれたちについてこい」
「や、では
忍剣に矢を
射たのも、そちたちか」
「忍剣かなにか知らねえが、いまごろは、
山椒の魚の
餌食になっているだろう」
「この
土蜘蛛……」
伊那丸は、くやしげに
唇をかんで、にぎりしめていた
小太刀の先をふるわせた。
「さッ、こなけりゃふんじばるぞ」
と、
野武士たちは、かれを少年とあなどって、不用意にすすみでたところを、伊那丸は、おどりあがって、
「おのれッ」
といいざま、
真眉間をわりつけた。
野武士どもは、それッと、
大刀をぬきつれて、前後からおッとりかこむ。
武技にかけては、
躑躅ヶ崎の
館にいたころから、多くの達人やつわものたちに手をとられて、ふしぎな
天才児とまで、おどろかれた
伊那丸である。からだは小さいが、
太刀は短いが、たちまちひとりふたりを
斬ってふせた早わざは飛鳥のようだった。
「この
童め、
味をやるぞ、ゆだんするな」
と、
野武士たちは白刃の
鉄壁をつくってせまる。その剣光のあいだに、小太刀ひとつを身のまもりとして、
斬りむすび、飛びかわしする伊那丸のすがたは、あたかも
嵐のなかにもまれる
蝶か千鳥のようであった。しかし時のたつほど疲れはでてくる。
息はきれる。――それに、
多勢に
無勢だ。
「そうだ、こんな名もない
土賊どもと、
斬りむすぶのはあやまりだ。じぶんは
武田家の一粒としてのこった大せつな身だ。しかもおおきな使命のあるからだ――」
と伊那丸は、乱刀のなかに立ちながらも、ふとこう思ったので、いっぽうの血路をやぶって、いっさんににげだした。
「のがすなッ」
と野武士たちも風をついて追いまくってくる。伊那丸は
芦の
洲からかけあがって、松並木へはしった。ピュッピュッという矢のうなりが、かれの耳をかすって飛んだ。
夕闇がせまってきたので、足もともほの暗くなったが松並木へでた伊那丸は、けんめいに二町ばかりかけだした。
と、これはどうであろう、前面の道は
八重十文字に、
藤づるの
縄がはってあって、かれのちいさな身でもくぐりぬけるすきもない。
「しまった」と
伊那丸はすぐ横の小道へそれていったが、そこにも
茨のふさぎができていたので、さらに道をまがると
藤づるの
縄がある。折れてもまがっても抜けられる道はないのだ。
万事休す――伊那丸は完全に、
蜘蛛手かがりという
野武士の術中におちてしまったのだ。身に
翼でもないかぎりは、この
罠からのがれることはできない。
「そうだ、野武士らの手から、
織田家へ売られて名をはずかしめるよりは、いさぎよく
自害しよう」
と、かれは覚悟をきめたとみえて、うすぐらい林のなかにすわりこんで、
脇差を右手にぬいた。
切っさきを
袂にくるんで、あわや身につきたてようとしたときである。ブーンと、飛んできた
分銅が、カラッと刀の
鍔へまきついた。や? とおどろくうちに、刀は手からうばわれて、スルスルと
梢の空へまきあげられていく。
「ふしぎな」と立ちあがったとたん、伊那丸は、ドンとあおむけにたおれた。そしてそのからだはいつのまにか
罠なわのなかにつつみこまれて、小鳥のようにもがいていた。
すると、いままで鳴りをしずめていた野武士が、八ぽうからすがたをあらわして、たちまち伊那丸をまりのごとくにしばりあげて、そこから
富士の
裾野へさして追いたてていった。
幾里も幾里ものあいだ、ただいちめんに青すすきの波である。その一すじの道を、まッくろな一
群の人間が、いそぎに、いそいでいく。それは
伊那丸をまン中にかためてかえる、さっきの
野武士だった。
「や、どこかで
笛の
音がするぜ……」
そういったものがあるので、一同ぴったと足なみをとめて耳をすました。なるほど、
寥々と、そよぐ風のとぎれに、笛の
冴えた音がながれてきた。
「ああ、わかった。
咲耶子さまが、また遊びにでているにちがいない」
「そうかしら? だがあの
音いろは、男のようじゃないか。どんなやつが
忍んでいるともかぎらないからゆだんをするなよ」
とたがいにいましめあって、ふたたび道をいそぎだすと、あなたの草むらから、
月毛の
野馬にのったさげ
髪の美少女が、ゆらりと
気高いすがたをあらわした。
一同はそれをみると、
「おう、やっぱり咲耶子さまでございましたか」
と荒くれ
武士ににげなく、花のような美少女のまえには、腰をおって、ていねいにあたまをさげる。
「じゃ、おまえたちにも、わたしが吹いていた笛の音が聞えたかえ?」
と
駒をとめた咲耶子は、美しいほほえみをなげて見おろしたが、ふと、伊那丸のすがたを目にとめて、三日月なりの
眉をちらりとひそめながら、
「まあ、そのおさない人を、ぎょうさんそうにからめてどうするつもりです。
伝内や
兵太もいながら、なぜそんなことをするんです」
と、とがめた。名をさされたふたりの
野武士は、
一足でて、
咲耶子の
駒に近よった。
「まだ、ごぞんじありませぬか。これこそ、お
頭が、まえまえからねらっていた
武田家の
小伜、
伊那丸です」
「おだまりなさい。とりこにしても身分のある敵なら、
礼儀をつくすのが武門のならいです。おまえたちは、名もない
雑人のくせにして、
呼びすてにしたり、
縄目にかけるというのはなんという情けしらず、けっして、ご
無礼してはなりませぬぞ」
「へえ」と、一同はその声にちぢみあがった。
「わたしは道になれているから、あのかたを、この馬にお乗せもうすがよい」
と、咲耶子は、ひらりとおりて伊那丸の
縄をといた。
まもなくけわしいのぼりにかかって、ややしばらくいくと、一の
洞門があった。つづいて二の洞門をくぐると
天然の
洞窟にすばらしい
巨材をしくみ、
綺羅をつくした
山大名の
殿堂があった。
この時代の野武士の勢力はあなどりがたいものだった。
徳川北条などという名だたる弓とりでさえも、その勢力
範囲へ手をつけることができないばかりか、戦時でも、野武士の
区域といえば、まわり道をしたくらい。またそれを敵とした日には、とうてい天下の
覇をあらそう大事業などは、はかどりっこないのである。
ここの
富士浅間の
山大名はなにものかというに、
鎌倉時代からこの
裾野一円に
ばっこしている
郷士のすえで
根来小角というものである。
つれこまれた
伊那丸は、やがて、
首領の小角の前へでた。
獣蝋の
燭が、まばゆいばかりかがやいている大広間は、あたかも、
部将の城内へのぞんだような心地がする。
根来小角は、
野武士とはいえ、さすがにりっぱな男だった。多くの配下を左右にしたがえて、上段にかまえていたが、そこへきた姿をみると座をすべって、みずから上座にすえ、ぴったり両手をついて臣下にひとしい礼をしたのには、伊那丸もややいがいなようすであった。
「お目どおりいたすものは、根来小角ともうすものです。
今日は
雑人どもが、
礼をわきまえぬ
無作法をいたしましたとやら、ひらにごかんべんをねがいまする」
はて?
残虐と利慾よりなにも知らぬ
野盗の
頭が、なんのつもりで、こうていちょうにするのかと、伊那丸は心ひそかにゆだんをしない。
「また、
武田の若君ともあるおんかたが、
拙者の
館へおいでくださったのは天のおひきあわせ。なにとぞ幾年でもご
滞留をねがいまする。ところでこのたびは、
織田徳川両将軍のために、ご一門のご
最期、小角ふかくおさっし申しあげます」
なにをいっても、伊那丸は
黙然と、
威をみださずにすわっていた。ただこころの奥底まで見とおすような、つぶらな
瞳だけがはたらいていた。
「つきましては、小角は微力ですが、三万の野武士と、
裾野から
駿遠甲相四ヵ国の
山猟師は、わたくしの指ひとつで、いつでも目のまえに勢ぞろいさせてごらんにいれます。そのうえ若君が、
御大将とおなりあそばして、
富士ヶ
根おろしに
武田菱の旗あげをなされたら、たちまち諸国からこぞってお味方に
馳せさんじてくることは火をみるよりあきらかです」
「おまちなさい」と
伊那丸ははじめて口をひらいた。
「ではそちはわしに名のりをあげさせて、軍勢をもよおそうという望みか」
「おさっしのとおりでござります。
拙者には武力はありますが名はありませぬ。それゆえ、
今日まで
髀肉の
歎をもっておりましたが、若君のみ
旗さえおかしくださるならば、
織田や
徳川は
鎧袖の一
触です。たちまち
蹴散らしてごむねんをはらします所存」
「だまれ
小角。わしは年こそおさないが、
信玄の血をうけた武神の孫じゃ。そちのような、
野盗人の
上にはたたぬ。
下郎の力をかりて旗上げはせぬ」
「なんじゃ!」と小角のこえはガラリとかわった。
じぶんの野心を見ぬかれた腹立ちと、
落人の一少年にピシリとはねつけられた不快さに、満面に
朱をそそいだ。
「こりゃ伊那丸、よく申したな。もう
汝の名をかせとはたのまぬわ、その代りその体を売ってやる!
織田家へわたして
莫大な
恩賞にしたほうが早手まわしだ。
兵太ッ、この
餓鬼、ふんじばって
風穴へほうりこんでしまえ」
「へいッ」四、五人たって、たちまち伊那丸をしばりあげた。かれはもう
観念の目をふさいでいた。
「歩けッ」
と
兵太は
縄尻をとって、まッくらな
間道を引っ立てていった。そして地獄の口のような岩穴のなかへポーンとほうりこむと、
鉄柵の
錠をガッキリおろしてたちさった。
うしろ手にしばられているので、よろよろところげこんだ
伊那丸は、しばらく顔もあげずに倒れていた。ザザーッと山砂をつつんだ
旋風が、たえず
暗澹と吹きめぐっている
風穴のなかでは、一しゅんのまも目を
開いていられないのだ。そればかりか、夜の
更けるほど風のつめたさがまして
八寒地獄のそこへ落ちたごとく
総身がちぢみあがってくる。
「あア
忍剣はどうした……忍剣はもうあの湖水の
藻くずとなってしまったのか」
いまとなって、しみじみと思いだされてくるのであった。
「忍剣、忍剣。おまえさえいれば、こんな
野武士のはずかしめを受けるのではないのに……」
唇をかんで、転々と身もだえしていると、なにか、とん、とん、とん……とからだの下の地面がなってくる心地がしたので、
「はてな? ……」と身をおこすと、そのはずみに、目のまえの、二
尺四方ばかりな一枚石が、ポンとはねあがって、だれやら、
覆面をした者の頭が、ぬッとその下からあらわれた。
山大名の
根来小角の
殿堂は、七つの
洞窟からできている。その七つの
洞穴から洞穴は、
縦に横に、上に下に、自由自在の
間道がついているが、それは小角ひとりがもっている
鍵でなければ
開かないようになっていた。
また、そとには、まえにもいったとおり、二つの
洞門があって、配下の
野武士が五人ずつ
交代で、
篝火をたきながら夜どおし見はりをしている
厳重さである。
今宵もこの洞門のまえには、赤い
焔と人影がみえて、夜ふけのたいくつしのぎに、何か
高声で話していると、そのさいちゅうに、ひとりがワッとおどろいて飛びのいた。
「なんだッ」
と一同が総立ちになったとき、洞門のなかからばらばらととびだしてきたのは七、八ひきの
猿であった。
「なんだ
猿じゃないか、
臆病者め」
「どうして
檻からでてきたのだろう。
咲耶子さまのかわいがっている
飼猿だ。それ、つかまえろッ」
と八ぽうへちってゆく
猿を追いかけていったあと、
留守になった二の
洞門の入口から
脱兎のごとくとびだした
影! ひとりは
黒装束の
覆面、そのかげにそっていたのは、
伊那丸にそういなかった。
「何者だッ」
と一の洞門では、早くもその足音をさとって、ひとりが大手をひろげてどなると、
鉄球のように飛んでいった伊那丸が、どんと
当身の一
拳をついた。
「うぬ!」と風をきって鳴った
山刀のひかり。
よろりと
泳いだ影は、伊那丸のちいさな影から、あざやかに投げられて、
断崖の
闇へのまれた。
「
曲者だ! みんな、でろ」
覆面の黒装束へも
襲いかかった。
姿はほっそりとしているのに、
手練はあざやかだった。よりつく者を投げすてて、すばやく逃げだすのを、横あいからまた飛びついていったひとりがむんずと組みついて、その覆面の顔をまぢかく見て、
「ああ、あなたは」と、
愕然とさけんだ。
顔を見られたと知った覆面は、おどろく男を突ッぱなした。よろりと身をそるところへ、黒装束の腰からさッとほとばしった氷の
刃! 男の肩からけさがけに
斬りさげた。――ワッという
絶叫とともに
闇にたちまよった血けむりの血なまぐささ。
「伊那丸さま」
黒装束は、手まねきするやいなや、岩
つばめのようなはやさで、たちまち、そこからかけおりていってしまった。
下界をにらみつけるような大きな月が、人ひとり、鳥一羽の影さえない、
裾野のそらの一
角に、夜の
静寂をまもっている。
その
渺としてひろい平野の一本杉に、一ぴきの
白駒がつながれていた。馬は、さびしさも知らずに、月光をあびながら、のんきに青すすきを食べているのだ。
いっさんにかけてきた
黒装束は、
白馬のそばへくるとぴッたり足をとめて、
「
伊那丸さま、もうここまでくれば大じょうぶです」
と、あとからつづいてきた影へ手をあげた。
「ありがとうござりました」
伊那丸は、ほッとして
夢心地をさましたとき、ふしぎな黒装束の
義人のすがたを、はじめて落ちついてながめたのであるが、その人は月の光をしょっているので、顔はよくわからなかった。
「もう大じょうぶです。これからこの
野馬にのって、明方までに
富士川の下までお送りしてあげますから、あれから
駿府へでて、いずこへなり、身をおかくしなさいまし、ここに
関所札もありますから……」
と、
黒装束のさしだした
手形をみて、
伊那丸はいよいよふしぎにたえられない。
「そして、そなたはいったいたれびとでござりますぞ」
「だれであろうと、そんなことはいいではありませんか。さ、早く、これへ」
と
白駒の
手綱をひきだしたとき、はじめて月に照らされた
覆面のまなざしを見た伊那丸は、思わずおおきなこえで、
「や! そなたはさっきの
女子、
咲耶子というのではないか」
「おわかりになりましたか……」
涼しい
眸にちらと
笑みを見せて、それへ両手をつきながら、
「おゆるしくださいませ、父の
無礼は、どうぞわたしにかえてごかんべんあそばしませ……」と、わびた。
「では、そなたは
小角の娘でしたか」
「そうです、父のしかたはまちがっております。そのおわびに
鍵をそッと持ちだしておたすけもうしたのです。伊那丸さま、あなたのおうわさは私も前から聞いておりました、どうぞお身を大切にして、かがやかしい
生涯をおつくりくださいまし」
「忘れませぬ……」
伊那丸は、神のような美少女の至情にうたれて、思わずホロリとあつい涙を
袖のうちにかくした。
と、咲耶子はいきなり立ちあがった。
「あ――いけない」と顔いろを変えてさけんだ。
「なんです?」
と、
伊那丸もその
眸のむいたほうをみると、
藍いろの月の空へ、ひとすじの細い火が、ツツツツーと走りあがってやがて
消えた。
「あの火は、この
裾野一帯の、森や河原にいる
野伏の
力者に、あいずをする知らせです。父は、あなたの逃げたのをもう知ったとみえます。さ、早く、この馬に。……抜けみちは私がよく知っていますから、早くさえあれば、しんぱいはありませぬ」
とせき立てて、伊那丸の乗ったあとから、じぶんもひらりと前にのって、手ぎわよく、
手綱をくりだした。
その時、すでにうしろのほうからは、
百足のようにつらなった
松明が、
山峡の
闇から月をいぶして、こなたにむかってくるのが見えだした。
「おお、もう近い!」
咲耶子は、ピシリッと馬に
一鞭あてた。一声たかくいなないた
駒は、
征矢よりもはやく、すすきの波をきって、まッしぐらに、南のほうへさしてとぶ――
それよりも前の、夕ぐれのことである。
夕陽のうすれかけた
湖の波をザッザときって、
陸へさして泳いでくるものがあった。湖水の
主の
山椒の
魚かとみれば、水をきッてはいあがったのはひとりの
若僧――かの
忍剣なのであった。
どっかりと、
岸辺へからだを落とすと、忍剣はすぐ
衣をさいて、ひだりの
肘の
矢傷をギリギリ巻きしめた。そして身をはねかえすが
否や、
白旗の宮へかけつけてきてみると、
伊那丸のすがたはみえないで、ただじぶんの
鉄杖だけが立てかけてのこっていた。
「若さま――、伊那丸さまア――」
二ど三ど、こえ高らかに呼んでみたが、さびしい
木魂がかえってくるばかりである。それらしい人の影もあたりに見えてはこない。
「さては」と忍剣は、心をくらくした。湖水のなかほどへでたとき、ふいに矢を
乱射したやつのしわざにちがいない。小さな
くりぬき舟であったため、矢をかわしたはずみに、くつがえってしまったので、
石櫃はかんぜんに湖心のそこへ沈めたけれど、伊那丸の身を何者かにうばわれては、あの
宝物も、
永劫にこの湖から世にだす時節もなくなるわけだ。
「ともあれ、こうしてはおられない、命にかけても、おゆくえをさがさねばならぬ」
鉄杖をひッかかえた忍剣は、八ぽうへ
血眼をくばりながら、湖水の岸、あなたこなたの森、くまなくたずね歩いたはてに、どこへ抜けるかわからないで、とある松並木をとおってくると、いた! 二、三町ばかり先を、白い影がとぼとぼとゆく。
「オーイ」
と手をあげながらかけだしていくと、半町ほどのところで、フイとその影を見うしなってしまった。
「はてな、ここは一すじ道だのに……」
小首をひねって見まわしていると、なんのこと、いつかまた、三町も先にその影が歩いている。
「こりゃおかしい。
伊那丸さまではないようだが、あやしいやつだ。一つつかまえてただしてくれよう」
と
宙をとんで追いかけていくうちに、また先の者が見えなくなる。足をとめるとまた見える。さすがの
忍剣も少しくたびれて、どっかりと、道の木の根に腰かけて汗をふいた。
「どうもみょうなやつだ。人間の足ではないような早さだ。それとも、あまり伊那丸さまのすがたを
血眼になってさがしているので、気のせいかな」
忍剣がひとりでつぶやいていると、その鼻ッ先へ、スーッと、うすむらさき色の煙がながれてきた。
「おや……」ヒョイとふりあおいでみると、すぐじぶんのうしろに、まっ白な衣服をつけた男がたばこをくゆらしながら、忍剣の顔をみてニタリと笑った。
「こいつだ」
と見て、忍剣もグッとにらみつけた。男は
背に
笈をせおっている
六部である。ばけものではないにちがいない。にらまれても落ちついたもの、スパリスパリと、二、三ぷくすって、ポンと、立木の横で、きせるをはたくと、あいさつもせずに、またすたすたとでかけるようすだ。
「まて、
六部まて」
あわてて立ちあがったが、もうかれの姿は、あたりにも先にも見えない。
忍剣はあきれた。世のなかには、奇怪なやつがいればいるものと、ぼうぜんとしてしまった。
疑心暗鬼とでもいおうか、場合がばあいなので、忍剣には、どうも今の六部の
挙動があやしく思えてならない。なんとなく
伊那丸の身を
闇につつんだのも、きゃつの仕事ではないかと思うと、いま目のさきにいたのを
逃がしたのがざんねんになってきた。
「あやしい六部だ。よし、どんな早足をもっていようがこの忍剣のこんきで、ひッとらえずにはおかぬぞ」
とかれはまたも、いっさんにかけだした。
並木がとぎれたところからは、一望千里の
裾野が見わたされる。
忍剣は、この方角とにらんだ道を、一
念こめて、さがしていくと、やがて、ゆくてにあたって、一
宇の六角堂が目についた。
「おお、あれはいつの年か、このへんで
戦いのあったとき焼けのこった
文殊閣にちがいない。もしかすると、
六部の
巣も、あれかもしれぬぞ……」
と
勇みたって近づいていくと、はたして、くずれかけた文殊閣の石段のうえに、
白衣の六部が、月でもながめているのか、
ゆうちょうな顔をして腰かけている。
「こりゃ六部、あれほど
呼んだのになぜ待たないのだ」
忍剣はこんどこそ逃がさぬぞという気がまえで、その前につッ立った。
「なにかご用でござるか」
と、かれはそらうそぶいていった。
「おおさ、問うところがあればこそ呼んだのだ。年ごろ十四、五に渡らせられる若君を見失ったのだ。知っていたら教えてくれ」
「知らない、ほかで聞け」
六部の答えは、まるで忍剣を
愚弄している。
「だまれッ、この
裾野の夜ふけに、問いたずねる人間がいるか。そういう
汝の口ぶりがあやしい、正直にもうさぬと、これだぞッ」
ぬッと、
鉄杖を鼻さきへ突きつけると、六部はかるくその先をつかんで、腰の下へしいてしまった。
「これッ、なんとするのだ」
忍剣は、
渾力をしぼって、それを引きぬこうとこころみたが、ぬけるどころか、
大山にのしかかられたごとく一寸のゆるぎもしない。しかも、
六部はへいきな顔で、
両膝にほおづえをついて笑っている。
「むッ……」
と忍剣は、
総身の力をふりしぼった。力にかけては、怪童といわれ、
恵林寺のおおきな庭石をかるがるとさして山門の階段をのぼったじぶんである。なにをッ、なにをッと、引けどねじれど、
鉄杖のほうが、まがりそうで、六部のからだはいぜんとしている。すると、ふいに、六部が腰をうかした。
「あッ――」
思わずうしろへよろけた忍剣は、かッとなって、その鉄杖をふりかぶるが早いか、
磐石も
みじんになれと打ちこんだが、六部の姿はひらりとかわって、
空をうった鉄杖のさきが、
はっしと、石の
粉をとばした。
「無念ッ」とかえす力で横ざまにはらい上げた鉄杖を、ふたたびくぐりぬけた六部は、
杖にしこんである
無反りの
冷刀をぬく手も見せず、ピカリと片手にひらめかせて、
「
若僧、雲水」と
錆をふくんだ声でよんだ。
「なにッ」と持ちなおした鉄杖を、まッこうにふりかぶった忍剣は、
怒気にもえた目をみひらいて、ジリジリと相手のすきをねらいつめる。
六部はといえば、片手にのばした一刀を、肩から
切先まで水平にかまえて、
忍剣の胸もとへと、うす気味のわるい死のかげを、ひら、ひら――とときおりひらめかせていく――。たがいの息と息は、その一しゅん、水のようにひそやかであった。しかも、
総身の毛穴からもえたつ熱気は、
焔となって、いまにも、そうほうの切先から火の
輪をえがきそうに見える……。
突として、風を切っておどった
銀蛇は、忍剣の
真眉間へとんだ。
「おうッ」と、さけびかえした忍剣は、それを
鉄杖ではらったが、
空をうッてのめッたとたん、背をのぞんで、六部はまたさッと斬りおろしてきた。
そのはやさ、かわす
間もあらばこそ、忍剣も、ぽんとうしろへとびのくより
策がなかった。そして、
踏みとどまるが早いか、ふたたび鉄杖を横がまえに持つと、
「待て」と六部の声がかかった。
「
怯んだかッ」たたき返すように忍剣がいった。
「いやおくれはとらぬ。しかしきさまの鉄杖はめずらしい。いったいどこの何者だか聞かしてくれ」
「あてなしの旅をつづける雲水の忍剣というものだ。ところで、なんじこそただの六部ではあるまい」
「あやしいことはさらにない。ありふれた
木遁の
隠形でちょっときさまをからかってみたのだ」
「ふらちなやつだ。さてはきさまは、どこかの
大名の手先になって、諸国をうかがう、
間諜だな」
「ばかをいえ。しのびに
長けているからといって、
諜者とはかぎるまい。このとおり
六部を世わたりにする
木隠龍太郎という者だ。こう名のったところできくが、さっききさまのたずねた若君とは何者だ」
「その口にいつわりがないようすだから聞かしてやる。じつは、さる高貴なおん方のお
供をしている」
「そうか。では
武田の
御曹子だな……」
「や、どうして、
汝はそれを知っているのだ?」
「
恵林寺の
焔のなかからのがれたときいて、とおくは、
飛騨信濃の山中から、この
富士の
裾野一
帯まで、足にかけてさがしぬいていたのだ。きさまの口うらで、もうおいでになるところは
拙者の目にうつってきた。このさきは、
伊那丸さまはおよばずながら、この六部がお
附添いするから、きさまは、安心してどこへでも落ちていったがよかろう」
忍剣はおどろいた。まったくこの六部のいうこと、なすことは、いちいち
ふにおちない。のみならず、じぶんをしりぞけて、伊那丸をさがしだそうとする野心もあるらしい。
「たわけたことをもうせ。伊那丸さまはこの忍剣が命にかけて、お
護りいたしているのだわ」
「そのお
傅役が、さらわれたのも知らずにいるとは
笑止千万じゃないか。
御曹子はまえから
拙者がさがしていたおん方だ、もうきさまに用はない」
「いわせておけば
無礼なことばを」
「それほどもうすなら、きさまはきさまでかってにさがせ。どれ、
拙者は、これから明け方までに、おゆくえをつきとめて、思うところへお
供をしよう」
「この
痴れものが」
と、
忍剣は真から腹立たしくなって、ふたたび
鉄杖をにぎりしめたとき、はるか
裾野のあなたに、ただならぬ光を見つけた。
六部の
木隠龍太郎も見つけた。
ふたりはじッとひとみをすえて、しばらく
黙然と立ちすくんでしまった。
それは
蛇形の
陣のごとく、うねうねと、
裾野のあなたこなたからぬいめぐってくる一
道の
火影である。多くの
松明が
右往左往するさまにそういない。
「あれだ!」いうがはやいか龍太郎は、一
足とびに、石段から姿をおどらした。
「うぬ。
汝の手に若君をとられてたまるか」
忍剣も、
韋駄天ばしり、この
一足が、必死のあらそいとはなった。
ただ見る――白い月の
裾野を、銀の
奔馬にむちをあげて、ひとつの
鞍にのった少年の
貴公子と、
覆面の美少女は、地上をながるる星とも見え、
玉兎が波をけっていくかのようにも見える。たちまち、そらの月影が、黒雲のうちにさえぎられると、
裾野もいちめんの
如法闇夜、ただ、ザワザワと鳴るすすきの風に、つめたい雨気さえふくんできた。
「あ、折りがわるい――」
と、
駒をとめて、空をあおいだ
咲耶子の声は、うらめしげであった。
「おお、雲は切れめなくいちめんになってきた。咲耶どの、もう
駒をはやめてはあぶない、わしはここでおりますから、あなたは
岩殿へお帰りなさい」
「いいえ、まだ
富士川べりまでは、あいだがあります」
「いや、そなたが帰ってから、
小角にとがめられるであろうと思うと、わしは胸がいたくなります。さ、わしをここでおろしてください」
「
伊那丸さま、こんなはてしも見えぬ裾野のなかで、馬をお捨てあそばして、どうなりますものか」
いい
争っているすきに、十
間とは離れない
窪地の下から、ぱッと目を射てきた
松明のあかり。
「いたッ」
「逃がすな」と、八ぽうからの声である。
「あッ、大へん」
と咲耶子はピシリッと
駒をうった。ザザーッと道もえらまずに数十
間、一気にかけさせたのもつかの
間であった。たのむ馬が、
窪地に落ちて
脚を折ったはずみに、ふたりはいきおいよく、草むらのなかへ投げ落とされた。
「それッ、落ちた。そこだッ」
むらがりよってきた
松明の赤い
焔、
山刀の光、
槍の
穂さき。
ふたりのすがたは、たちまちそのかこみのなかに照らしだされた。
「もう、これまで」
と
小太刀をぬいた
伊那丸は、その
荒武者のまッただなかへ、運にまかせて、斬りこんだ。
咲耶子も、
覆面なのを幸いに一刀をもって、伊那丸の身をまもろうとしたが、さえぎる槍や大刀に
畳みかけられ、はなればなれに斬りむすぶ。
「めんどうくさい。
武田の
童も、手引きしたやつも、片ッぱしから首にしてしまえ」
大勢のなかから、こうどなった者は、咲耶子と知ってか知らぬのか、
山大名の
根来小角であった。
時に、そのすさまじいつるぎの
渦へ、
突として、横合いからことばもかけずに、
無反りの大刀をおがみに持って、飛びこんできた人影がある。
六部の
木隠龍太郎であった。一
閃かならず一人を斬り、一気かならず一
夫を割る、
手練の腕は、
超人的なものだった。
それとみて、
愕然とした根来小角は、みずから大刀をとって、
奮いたった。
と同時に、
一足おくれて、かけつけた
忍剣の
鉄杖も、風を呼んでうなりはじめた。
空はいよいよ暗かった。降るのはこまかい血の雨である。たばしる
剣の
稲妻にまきこまれた、
可憐な
咲耶子の身はどうなるであろう。――そして、
武田伊那丸の運命は、はたしてだれの手ににぎられるのか?
雲の明るさをあおげば、夜はたしかに明けている。しかし、
加賀見忍剣の身のまわりだけは、
常闇だった。かれは、とんでもない
奈落のそこに落ちて、
土龍のようにもがいていた。
「
伊那丸さまはどうしたであろう。あの武士の
群れにとりかえされたか、あるいは、
六部の
木隠というやつにさらわれてしまったか? ――そのどっちにしても大へんだ。アア、こうしちゃいられない、グズグズしている場合じゃない……」
忍剣は、どんな
危地に立っても、けっしてうろたえるような男ではない。ただ、伊那丸の身をあんじてあせるのだった。地の理にくらいため、乱闘のさいちゅうに、足を
踏みすべらしたのが、かえすがえすもかれの失敗であった。
ところが、そこは
裾野におおい
断層のさけ目であって、両面とも、切ってそいだかのごとき岩と岩とにはさまれている
数丈の地底なので、さすがの
忍剣も、
精根をつからして空の明るみをにらんでいた。
「む! 根気だ。こんなことにくじけてなるものか」
とふたたび
袖をまくりなおした。かれは
鉄杖を背なかへくくりつけて、
護身の短剣をぬいた。そして、岩の面へむかって、
一段一段、じぶんの足がかりを、掘りはじめたのである。
すると、なにかやわらかなものが、忍剣の
頬をなでてははなれ、なでてははなれするので、かれはうるさそうにそれを手でつかんだ時、はじめて赤い
絹の
細帯であったことを知った。
「おや? ……」
と、あおむいて見ると、ちゅうとから
藤づるかなにかで結びたしてある
一筋が、たしかに、上からじぶんを目がけてさがっている。
「ありがたい!」
と力いっぱい引いてこころみたが、切れそうもないので、それをたよりに、するするとよじのぼっていった。
ぽんと、大地へとびあがったときのうれしさ。
忍剣はこおどりして見まわすと、そこに、思いがけない美少女が
笑みをふくんで立っている。少女の足もとには、
謎のような
黒装束の
上下がぬぎ捨てられてあった。
「や、あなたは……」
と
忍剣はいぶかしそうに目をみはった。その問いにおうじて、少女は、
「わたくしはこの
裾野の
山大名、
根来小角の娘で、
咲耶子というものでございます」
と、はっきりしたこわ
音でこたえた。
「そのあなたが、どうしてわたしをたすけてくださったのじゃ」
「ご
僧は、
伊那丸さまのお
供のかたでございましょうが」
「そうです。若君のお身はどうなったか、それのみがしんぱいです。ごぞんじなら、教えていただきたい」
「伊那丸さまは、ご
僧と一しょに斬りこんできた
六部のひとが、おそろしい
早技でどこともなく連れていってしまいました。あの六部が、善人か悪人か、わたくしにもわからないのです。それをあなたにお知らせするために夜の明けるのを待っていたのです」
「えッ、ではやっぱりあの六部にしてやられたか。して六部めは、どっちへいったか、方角だけでも、ごぞんじありませんか」
「わたくしはそのまえに、
富士川をくだって、東海道から京へでる
関所札をあげておきましたが、その道へ向かったかどうかわかりませぬ」
「しまった……?」
と、忍剣は
吐息をもらした。と、咲耶子は、にわかに色をかえてせきだした。
「あれ、父の手下どもが、わたくしをたずねてむこうからくるようです。すこしも早くここをお立ちのきあそばしませ。わたくしは山へ帰りますが、かげながら、
伊那丸さまのお行く末をいのっております」
「ではお別れといたそう。
拙僧とて、
安閑としておられる身ではありません」
ふたたび
鉄杖を手にした
忍剣は、別れをつげて、
恨みおおき
裾野をあとに、いずこともなく草がくれに立ち去った。
――
咲耶子も、しばしのあいだは、そこに立ってうしろ
姿を見おくっていた。
浜松の城下は、海道一の名将、
徳川家康のいる都会である。その浜松は、ここ七日のあいだは、
男山八幡の祭なので、夜ごと町は、おびただしいにぎわいであった。
「どうですな、
鎧屋さん、まだ売れませんか」
その
八幡の
玉垣の前へならんでいた夜店の
燈籠売りがとなりの者へはなしかけた。
「売れませんよ。今日で六日もだしていますがだめです」
と答えたのは、十八、九の若者で、たった一組の
鎧をあき箱の上にかざり、じぶんのそばには、一本の
朱柄の
槍を立てかけて、ぼんやりとそこに腰かけている。
「おまえさんの
燈籠のほうは、女子供が相手だから、さだめし毎日たくさんの売上げがありましたろう」
「どうしてどうして、あの
鬼玄蕃というご城内の
悪侍のために、今年はからきし、
商いがありませんでした」
「ゆうべもわたしがかえったあとで、だれかが、あいつらに斬られたということですが、ほんとでしょうかね」
「そんなことは珍しいことじゃありませんよ。店をメチャメチャにふみつぶされたり、
片輪にされたかわいそうな人が、何人あるか知れやしません。まったく弱いものは生きていられない世の中ですね」
といってる口のそばから、ワーッという声が向こうからあがって、いままで
歓楽の世界そのままであったにぎやかな町の
灯りが、バタバタ消えてきた。
燈籠売りははねあがってあおくなった。
「大へん大へん、
鎧屋さん、はやく逃げたがいいぜ、鬼玄蕃がきやがったにちがいない」
にわか雨でもきたように、あたりの商人たちも、ともどもあわてさわいだが、かの若者だけは、腰も立てずに
悠長な顔をしていた。
案のじょう、そこへ
旋風のようにあばれまわってきた四、五人の
侍がある。なかでも一きわすぐれた強そうな
星川玄蕃は、つかつかと鎧屋のそばへよってきた。
泥酔したほかの侍たちも、こいつはいいなぶりものだという顔をして、そこを取りまく。
「やい、町人。この
槍はいくらだ」
と
玄蕃はいきなり若者のそばにあった
朱柄の
槍をつかんだ。
「それは売り物じゃありません」
にべもなく、ひッたくって槍をおきかえたかれは、あいかわらず、
無神経にすましこんでいた。
「けしからんやつだ、売り物でないものを、なぜ店へさらしておく。こいつ、客をつる
山師だな」
「槍はわしの持物です。どこへいくんだッて、この槍を手からはなさぬ
性分なんだからしかたがない」
「ではこの
鎧が売りものなのか。
黒皮胴、
萌黄縅、なかなかりっぱなものだが、いったいいくらで売るのだ」
「それも売りたい
品ではないが、お
母が病気なので、
薬代にこまるからやむなく手ばなすんです。
酔ッぱらったみなさまがさわいでいると、せっかくのお客も逃げてしまいます。早くあっちへいってください」
「
無愛想なやつだ。買うからねだんを聞いているのだ」
「
金子五十枚、びた一
文もまかりません。はい」
「たかい、銅銭五十枚にいたせ、買ってくれる」
「いけません、まっぴらです」
「ふらちなやつだ。だれがこんなボロ鎧に、金五十枚をだすやつがあるか、バカめッ」
玄蕃が
土足をあげて
蹴ったので、
鎧はガラガラとくずれて土まみれになった。こんならんぼうは、
泰平の世には、めったに見られないが、あけくれ血や
白刃になれた戦国武士の悪い者のうちには、町人百姓を
蛆虫とも思わないで、ややともすると、
傲慢な武力をもってかれらへのぞんでゆくものが多かった。
「
山師めッ」
ほかの
武士どもも、口を合わせてののしった上に
鎧を
踏みちらして、どッと笑いながら立ちさろうとした時、若者の
眉がピリッとあがった。――と思うまに、
朱柄の
槍は、いつか、その
小脇にひッかかえられていた。
「待てッ」
「なにッ」とふりかえりざま、刀の
柄へ手をかけた五人の、おそろしい眼つき。
すわと、
弥次馬は、
潮のごとくたちさわいだ。――と、その群集のなかから、まじろぎもせずに、朱柄の槍先をみつめていた
白衣の
六部と、ひとりの
貴公子ふうの少年とがあった。
玉垣を照らしている
春日燈籠の
灯影によく見ると、それこそ、
裾野の
危地を斬りやぶって、
行方をくらました
木隠龍太郎と、
武田伊那丸のふたりであった。
六部の龍太郎は、はたして、なんの目的で伊那丸をうばいとってきたかわからないが、ここに立ったふたりのようすから
察すると、いつか伊那丸もかれを
了解しているし、龍太郎も主君のごとく
敬っているようだ。しかしそれにしても武田の
残党を根だやしにするつもりである敵の本城地に、かく明からさまに姿をあらわしているのは、なんという
大胆な行動であろう。今にもあれ、
徳川家の
目付役か、酒井
黒具足組の目にでもふれたらば最後、ふたりの身の一大事となりはしまいか?
それはとにかく、いっぽう、
鎧売りの若者は、はやくも、
槍を、
穂短にしごいて、ジリジリと一寸にじりに五人の武士へ迫ってゆく――
「小僧ッ、気がちがったか」
玄蕃はののしった。
「気は
狂っていない! 町人のなかにも男はいる、天にかわって、
汝らをこらしてやるのだ」
「なまいきなことをほざく
下郎だ、汝らがこのご城下で
安穏にくらしていられるのは、みなわれわれが敵国と戦っている
賜物だぞ。
罰あたりめ」
「町人どもへよい見せしめ、そのほそ首をぶッ飛ばしてくれよう」
「うごくなッ」
鬼玄蕃をはじめ、一同の刀が、若者の手もとへ、ものすさまじく斬りこんだ。
とたんに、
朱柄の
槍は、一本の火柱のごとく、さッと五本の乱刀を
天宙からたたきつけた。
わッと、あいての手もとが乱れたすきに、若者はまた一声「えいッ」とわめいて、ひとりのむなさきを
田楽刺しにつきぬくがはやいか、すばやく
穂先をくり引いて、ふたたびつぎの相手をねらっている。
その
早技も、
非凡であったが、よりおどろくべきものは、かれのこい
眉毛のかげから、らんらんたる底光をはなってくる二つの
眸である。それは、
槍の穂先よりするどい光をもっている。
「やりおったな、
小僧ッ。もうゆるさん」
玄蕃は怒りにもえ、
金剛力士のごとく、
太刀をふりかぶって、槍の真正面に立った。かれのがんじょうな五体は、さすが戦場のちまたで
鍛えあげたほどだけあって、
小柄な若者を見おろして、ただ一
撃といういきおいをしめした。それさえあるのに、あと三人の
武士も、めいめいきっさきをむけて、ふくろづめに、一寸二寸と、若者の
命に、くいよってゆくのだ。
ああ、あぶない。
「
龍太郎――」
と、こなたにいた
伊那丸は、息をのんでかれの
袖をひいた、そしてなにかささやくと、龍太郎はうなずいて、ひそかに、例の
仕込杖の
戒刀をにぎりしめた。いざといわば、一気におどりこんで、
木隠一
流の
冴えを見せんとするらしい。
ヤッという
裂声があたりの空気をつんざいた。
鬼玄蕃星川が斬りこんだのだ。
朱い
槍がサッとさがる――玄蕃はふみこんで、二の太刀をかぶったが、そのとき、流星のごとくとんだ
槍の
穂が、ビュッと、
鬼玄蕃の
喉笛から血玉をとばした。
「わッ――」と弓なりにそってたおれたと見るや、のこる三人の
侍は、必死に若者の左右からわめきかかる、
疾風か、
稲妻か、
刃か、そこはただものすごい
黒旋風となった。
「えいッ、
木ッ
葉どもめ!」
若者は、二、三ど、
朱柄の
槍をふりまわしたが、トンと石突きをついたはずみに、五尺の体をヒラリおどらすが早いか、
社の玉垣を、飛鳥のごとく飛びこえたまま、あなたの
闇へ消えてしまった。
バラバラと武士もどこかへかけだした。あとは血なまぐさい風に、消えのこった
灯がまたたいているばかり。
「アア、気もちのよい男」
と
伊那丸は、思わずつぶやいた。
「
拙者も、めずらしい
槍の
玄妙をみました」
龍太郎は
助太刀にでようとおもうまに、みごとに勝負をつけてしまった若者の
早技に、
舌をまいて
感嘆していた。そして、ふたりはいつかそこを歩みだして、浜松城に近い
濠端を、しずかに歩いていたのである。
すると、大手門の橋から、たちまち空をこがすばかりの
焔の一列が
疾走してきた。龍太郎は見るより舌うちして、伊那丸とともに、濠端の
柳のかげに身をひそませていると、まもなく、
松明を持った
黒具足の武士が十四、五人、目の前をはしり抜けたが、さいごのひとりが、
「待て、あやしいやつがいた」とさけびだした。
「なに? いたか」
バラバラと引きかえしてきた人数は、いやおうなく、ふたりのまわりをとり巻いてしまった。
「ちがった、こいつらではない」
と一目見た一同は、ふり捨ててふたたびゆきすぎかけたが、そのとき、
「ややッ、
伊那丸、
武田伊那丸ッ」と、だれかいった者がある。
朱柄の
槍をもった
曲者が、城内の
武士をふたりまで突きころしたという知らせに、さては、敵国の
間者ではないかと、すぐ
討手にむかってきたのは、酒井
黒具足組の人々であった。
運わるく、そのなかに、伊那丸の
容貌を見おぼえていた者があった。かれらは、おもわぬ
大獲物に、
武者ぶるいを
禁じえない。たちまちドキドキする陣刀は、伊那丸と
龍太郎のまわりに
垣をつくって、身うごきすれば、五体は
蜂の
巣だぞ――といわんばかりなけんまくである。
「ちがいない。まさしくこの者は、
武田伊那丸だ」
「お
城ちかくをうろついているとは、不敵なやつ。尋常にせねば
縄をうつぞ、
甲斐源氏の
御曹司、
縄目を、
恥とおもわば、
神妙にあるきたまえ――」
侍頭の
坂部十郎太が、おごそかにいいわたした。
伊那丸は、ちりほども
臆したさまは見せなかった。
りんとはった目をみひらいて、周囲のものをみつめていたが、ちらと、
龍太郎の顔を見ると――かれも
眸をむけてきた。
以心伝心、ふたりの目と目は、瞬間にすべてを語りあってしまう。
「いかにも――」龍太郎はそこでしずかに答えた。
「ここにおわすおん
方は、おさっしのとおり、伊那丸君であります。天下の武将のなかでも
徳川どのは
仁君とうけたまわり、おん情けの
袖にすがって、若君のご一身を安全にいたしたいお願いのためまいりました」
「とにかく、きびしいお尋ね人じゃ、おあるきなさい」
「したが、
落人のお身の上でこそあれ、無礼のあるときは、この龍太郎が承知いたさぬ、そう
思しめして、ご案内なさい」
龍太郎は、
戒刀の
杖に、伊那丸の身をまもり、すすきをあざむく
白刃のむれは、
長蛇の列のあいだに、ふたりをはさんで、しずしずと、
鬼の口にもひとしい、
浜松城の大手門のなかへのまれていった。
本丸とは、城主のすまうところである。
築山の松、
滝をたたえた
泉、
鶺鴒があそんでいる飛石など、
戦のない日は、平和の光がみちあふれている。そこは浜松城のみどりにつつまれていた。
伊那丸と
龍太郎は、あくる日になって、三の丸、二の丸をとおって、
家康のいるここへ呼びだされた。
「
勝頼の次男、
武田伊那丸の
主従とは、おん身たちか」
高座の
御簾をあげて、こういった家康は、ときに、四十の坂をこえたばかりの男ざかり、
智謀にとんだ名将の
ふうはおのずからそなわっている。
「そうです。じぶんが武田伊那丸です」
龍太郎は、かたわらに両手をついたが、伊那丸ははっきりこたえて、
端然と、家康の顔をじいとみつめた。――家康も、しかと、こっちをにらむ。
「おう……
天目山であいはてた、父の勝頼、また兄の太郎
信勝に、さても
生写しである……。あの
戦のあとで
検分した
生首に
瓜二つじゃ」
「うむ……」
伊那丸の肩は、あやしく波をうった。かれをにらんだ二つの
眸からは、こらえきれない熱涙が、ハラハラとはふり落ちてとまらない。
この
家康めが、
織田と力をあわせ、
北条をそそのかして、
武田の家をほろぼしたのか、父母や兄や、一族たちをころしたのか――と思うと、くやし涙は、
頬をぬらして、骨に
徹してくる。
眼もらんらんともえるのだった。
「若君、若君……」
と、
龍太郎はそッと
膝をついて目くばせをしたが、伊那丸は、さらに心情をつつまなかった。
「おお……」と家康はうなずいて、そしてやさしそうに、
「父の
領地は
焦土となり、身は
天涯の
孤児となった伊那丸、さだめし
口惜しかろう、もっともである。いずれ、家康もとくと考えおくであろうから、しばらくは、まず落ちついて、体をやすめているがよかろう」
家康はなにか
一言、
近侍にいいつけて、その席を立ってしまった。ふたりはやがて、酒井の家臣、
坂部十郎太のうしろにしたがって、二の丸の
塗籠造りの一室へあんないされた。伊那丸は、ふたりきりになると、ワッと
袂をかんで、泣いてしまった。
「龍太郎、わしは
口惜しい……くやしかった」
「ごもっともです、おさっしもうしまする」
とかれもしばらく、
伊那丸の手をとって、あおむいていたが、きッと、あらたまっていった。
「さすがにいまだご
若年、ごむりではありますが、だいじなときです。お心をしかとあそばさねば、この
大望をはたすことはできません」
「そうであった、伊那丸は
女々しいやつのう……」
と
快川和尚が、
幼心へうちこんでおいた教えの力が、そのとき、かれの胸に
生々とよみがえった。にっこりと笑って、涙をふいた。
「わたくしの考えでは、
家康めは、あのするどい目で、若さまのようすから心のそこまで読みぬいてしまったとぞんじます。なかなか、この
龍太郎が考えた
策にのるような
愚将ではありませぬから、
必然、お身の上もあやういものと見なければなりません」
「わしもそう思った。それゆえに、よしや、いちじの
計略にせよ、家康などに頭をさげるのがいやであった。龍太郎、そちの教えどおりにしなかった、わしのわがままはゆるしてくれよ」
果然、ふたりはまえから、家康の身に近よる
秘策をいだいて、わざと、この城内へとらわれてきたのらしい。しかし、すでにそれを、家康が見破ってしまったからには、
鮫をうたんがため鮫の腹中にはいって、出られなくなったと、おなじ結果におちたものだ。
このうえは、家康がどうでるか、敵のでようによってこの
窮地から
活路をひらくか、あるいは、浜松城の鬼となるか、武運の分れめを、一
挙にきめるよりほかはない。
日がくれると、
膳所の
侍が、おびただしい料理や美酒をはこんできて、うやうやしくふたりにすすめた。
「わが君の
志でござります。おくつろぎあって、じゅうぶんに、おすごしくださるようにとのおことばです」
「
過分です。よしなに、お伝えください」
「それと、城内の
掟でござるが、ご所持のもの、ご
佩刀などは、おあずかりもうせとのことでござりますが」
「いや、それはことわります」と
龍太郎はきっぱり、
「若君のお刀は伝家の宝刀、ひとの手にふれさせていい
品ではありませぬ。また、
拙者の
杖は
護仏の
法杖、
笈のなかは
三尊の
弥陀です。ご
不審ならば、おあらためなさるがよいが、お渡しもうすことは、
誓ってあいなりません」
「では……」
と、その
威厳におどろいた家臣たちは、おずおずと笈のなかをあらためたが、そのなかには、龍太郎の言明したとおり、三体のほとけの
像があるばかりだった。そして、
杖のあやしい点には気づかずに、そこそこに、そこからさがってしまった。
「若君、けっして手をおふれなさるな、この分では、これもあやしい」
と、
膳部の
吸物椀をとって、なかの
汁を、部屋の白壁にパッとかけてみると、
墨のように、まっ黒に変化して染まった。
「毒だ! この魚にも、この飯にも、おそろしい毒薬がまぜてある。
伊那丸さま、
家康の心はこれではっきりわかりました。うわべはどこまでも
柔和にみせて、わたしたちを
毒害しようという
肚でした」
「ではここも?」
と伊那丸は立ちあがって、
塗籠の出口の戸をおしてみると、はたして
開かない。力いっぱい、おせど引けど開かなくなっている。
「若君――」
龍太郎はあんがいおちついて、なにか伊那丸の耳にささやいた。そして、夜のふけるのを待って、
足帯、
脇差など、しっかりと
身支度しはじめた。
やがて龍太郎は、
笈のなかから取りのけておいた一体の
仏像を、
部屋のすみへおいた。そして
燭台の
灯をその上へ横倒しにのせかける。
部屋の中は、いちじ、やや暗くなったが、仏像の木に油がしみて、ふたたびプスプスと、まえにもまして、明るい
焔を立ててきた。
龍太郎は、伊那丸の体をひしと抱きしめて、反対のすみによった。そして、できるだけ身をちぢめながら、じッとその火をみつめていた。プス……プス……
焔は赤くなり、むらさき色になりしてゆくうちに、パッと部屋のなかが真暗になったせつな、チリチリッと、こまかい火の
粉が、仏像からうつくしくほとばしりはじめた。
「若君、耳を耳を」と、いいながら龍太郎も、かたく眼をつぶった。
その時――
轟然たる
音響とともに、仏像のなかにしかけてあった火薬が爆発した。――浜松城の二の丸の白壁は、
雷火に
裂かれてくずれ落ちた。
ガラガラと、すさまじい
震動は、
本丸、三の丸までもゆるがした。すわ
変事と、
旗本や、役人たちは、
得物をとってきてみると、
外廓の白壁がおちたところから、いきおいよくふきだしている怪火! すでに、
矢倉へまでもえうつろうとしているありさまだ。
「火事ッ、火事ッ――」
降りかかる火の
粉をあびて、口々にうろたえた顔をあおむかせていると、ふたたび、どッと、突きくずしてきた白壁の口から、
紅蓮をついてあらわれた者がある。
無反りの
戒刀をふりかぶった
木隠龍太郎、つづいて、
武田伊那丸のすがた。
「
曲者ッ」
と下では、
騒然と
渦をまいた。その白刃の林をめがけて、
焔のなかから、ひらりと飛びおりた伊那丸と龍太郎――
ああ、その
危うさ。
小太刀をとっては、
伊那丸はふしぎな天才児である。
木隠龍太郎も戒刀の名人、しかも
隠形の術からえた身のかるさも、そなえている。
けれど、伊那丸も龍太郎も、けっして、
匹夫の
勇にはやる者ではない。どんな場合にも、うろたえないだけの修養はある。――だのに、なぜ、こんな
無謀をあえてしたろう? 白刃林立のなかへ、肉体をなげこめば、たちまち剣のさきに、メチャメチャに
刺されてしまうのは、あまりにも知れきった結果だのに。
しかし、ひとたび人間が、信念に身をかためてむかう時は、
刀刃も折れ、どんな
悪鬼も
羅刹も、かならず
退けうるという教えもある。ふたりがふりかぶった太刀は、まさに信念の一刀だ。とびおりた五尺の
体もまた、信念の
鎖帷子をきこんでいるのだった。
「わッ」
とさけんだ下の武士たちは、ふいにふたりが、頭上へ飛びおりてきたいきおいにひるんで、思わず、サッとそこを開いてしまった。
どんと、ふたりのからだが下へつくやいな、いちじに、乱刀の波がどッと斬りつけていったが、
「
退れッ」
と、龍太郎の手からふりだされた
戒刀の
切ッ
先に、乱れたつ足もと。それを目がけて
伊那丸の小太刀も、
飛箭のごとく突き進んだ。たちまち火花、たちまち
剣の音、斬りおられた
槍は
宙にとび、太刀さきに当ったものは、無残なうめきをあげて、たおれた。
「
退けッ! だめだ」
と城の
塀にせばめられて、人数の多い城兵は、かえって自由を
欠いた。武士たちは、ふたたび、見ぎたなく逃げ出した。
龍太郎と伊那丸は、血刀をふって、追いちらしたうえ、
昼間のうちに、見ておいた本丸をめがけて、かけこんでいった。
家康にちかづいて、
武田一門の思いを知らそうと思ったことは破れたが、せめて一太刀でも、かれにあびせかけなければ――浜松城の奥ふかくまではいってきたかいがない。めざすは本丸!
あいてはひとり!
と、ほかの
雑兵には目もくれないで、まっしぐらに、武者走り
(城壁の細道)をかけぬけた。
矢倉へむかった消火隊と、武器をとって
討手にむかった者が、あらかたである。――で、
家康のまわりには、わずか七、八人の
近侍がいるにすぎなかった。
「火はどうじゃ、手はまわったか」
寝所をでた家康は、そう問いながら、本丸の
四阿へ足をむけていた。すると、
闇のなかから、ばたばたとそこへかけよってきた黒い人影がある。
「や!」
と侍たちが、立ちふさがって、きッと見ると、物の具で身をかためたひとりの
武士が、大地へ両手をついた。
「お
上、
武田の
主従が、火薬をしかけたうえに
狼藉におよびました。ご身辺にまんいちがあっては、一大事です。はやくお
奥へお引きかえしをねがいまする」
「おう、
坂部十郎太か。たかが
稚児どうような
伊那丸と
六部の一人や二人が、
檻をやぶったとて、なにをさほどにうろたえることがある。それよりか、城の火こそ、はやく消さねばならぬ、
矢倉へむかえ!」
「はッ」と十郎太が、立ちかけると――
「家康ッ!」と、ふいに、耳もとをつんざいた声とともに、闇のうちからながれきたった一
閃の光。
「無礼ものッ!」
とさけびながら、よろりと、しりえに、身をながした家康の
袖を、さッと、白い
切ッ
先がかすってきた。
「何者だ!」
とその
太刀影を見て、ガバと、はねおきるより早く、斬りまぜていった
十郎太の陣刀。
「お
上、お上」
と
近侍のものは、そのすきに、
家康を
屏風がこいにして、本丸の奥へと引きかえしていった。
「無念ッ――」
長蛇を
逸した
伊那丸は、なおも、四、五
間ほど、追いかけてゆくのを、待てと、
坂部十郎太の陣刀が、そのうしろから
慕いよった。
と、伊那丸はなんにつまずいたか、ア――と
闇をおよいだ。ここぞと、十郎太がふりかぶった太刀に、あわれむごい血煙が、立つかと見えたせつな、魔鳥のごとく飛びかかってきた
龍太郎が、やッと、横ざまに
戒刀をもって、
薙ぎつけた。
「むッ……」と十郎太は、
苦鳴をあげて、たおれた。
「若君――」
と寄りそってきた龍太郎、
「またの
時節があります。もう、すこしも、ご
猶予は危険です。さ、この城から逃げださねばなりませぬ」
「でも……龍太郎、ここまできて、家康を討ちもらしたのはざんねんだ。わしは無念だ」
「ごもっともです。しかし、
伊那丸さまの大望は、ひろい天下にあるのではござりませぬか。
家康ひとりは小さな敵です。さ、早く」
とせき立てたかれは、むりにかれの手をとって、
築山から、城の
土塀によじのぼり、
狭間や、わずかな足がかりを力に、二
丈あまりの
石垣を、すべり落ちた。
途中に犬走りという中段がある。ふたりはそこまでおりて、ぴったりと石垣に腹をつけながら、しばらくあたりをうかがっていた。上では、城内の武士が声をからして、八ぽうへ
手配りをさけびつつ、
縄梯子を、石垣のそとへかけおろしてきた。
南無三――とあなたを見れば、火の手を見た城下の旗本たちが、
闇をついて、これまた城の大手へ刻々に殺到するけはいである。
「どうしたものだろう?」
さすがの
龍太郎も、ここまできて、はたと
当惑した。もう
濠までわずかに五、六尺だが、そのさきは、満々とたたえた
外濠、橋なくして、渡ることはとてもできない。ふつう、兵法で十五
間以上と定められてある
濠が、どっちへまわっても、陸と城との
境をへだてている。するといきなり上からヒューッと一団の火が尾をひいて、ふたりのそばに落ちてきた。闇夜の敵影をさぐる投げ
松明である。ヒューッ、ヒューッ、とつづけざまにおちてくる光――
「いたッ、犬走りだ」
と頭のうえで声がしたとたんに、光をたよりに、バラバラと、つるべうちに
射てきた矢のうなり、――鉄砲のひびき。
「しまった」と
龍太郎は
伊那丸の身をかばいながら、石垣にそった犬走りを先へさきへとにげのびた。しかし、どこまでいっても
陸へでるはずはない。ただむなしく、城のまわりをまわっているのだ。そのうちには、敵の
手配はいよいよきびしく固まるであろう。
矢と、鉄砲と、投げ
松明は、どこまでも、ふたりの影をおいかけてくる。そのうちに龍太郎は、「あッ」と立ちすくんでしまった。
ゆくての道はとぎれている。見れば目のまえはまっくらな
深淵で、ごうーッという水音が、
闇のそこに
渦まいているようす。ここぞ、城内の水をきって落としてくる水門であったのだ。
矢弾は、ともすると、
鬢の毛をかすってくる。前はうずまく
深淵、ふたりは、進退きわまった。
「ああ、無念――これまでか」と龍太郎は天をあおいで
嘆息した。
と、そのまえへ、ぬッと下から突きだしてきた
槍の
穂?
「何者?」
と思わず引っつかむと、これは、冷たい雫にぬれた
棹のさきだった。龍太郎がつかんだ力に引かれて、まっ黒な水門から
筏のような影がゆらゆらと流れよってきた。その上にたって、
棹を
手ぐってくるふしぎな男はたれ? 敵か味方か、ふたりは目をみはって、
闇をすかした。
「お乗りなさい、はやく、はやく」
筏のうえの男は、早口にいった。いまはなにを
問うすきもない。ふたりは、ヒラリと飛びうつった。
ザーッとはねあがった水玉をあびて、男は、力まかせに
石垣をつく。――筏は
外濠のなみを切って、意外にはやく
陸へすすむ。そして、すでに
濠のなかほどまできたとき、
「その方はそも何者だ。われわれをだれとおもって助けてくれたのか」
龍太郎が、ふしんな顔をしてきくと、それまで、黙々として、棹をあやつっていた男は、はじめて口を開いてこういった。
「
武田伊那丸さまと知ってのうえです。わたくしは、この城の
掃除番、
森子之吉という者ですが、根から
徳川家の家来ではないのです」
「おう、そういえば、どこやらに、
甲州なまりらしいところもあるようだ」
「何代もまえから、
甲府のご城下にすんでおりました。父は
森右兵衛といって、お
館の
足軽でした。ところが、運わるく、
長篠の合戦のおりに、父の
右兵衛がとらわれたので、わたくしも、心ならず徳川家に
降っていましたが、ささいなあやまちから、父は
斬罪になってしまったのです。わたくしにとっては、
怨みこそあれ、もう奉公する気のない浜松城をすてて、一日もはやく、
故郷の甲府にかえりたいと思っているまに、
武田家は、
織田徳川のためにほろぼされ、いるも敵地、かえるも敵地という
はめになってしまいました。ところへ、ゆうべ、
伊那丸さまがつかまってきたという城内のうわさです。びっくりして、お家の不運をなげいていました。けれど、
今宵のさわぎには、てっきりお逃げあそばすであろうと、水門のかげへ
筏をしのばして、お待ちもうしていたのです」
「ああ、天の助けだ。
子之吉ともうす者、心からお礼をいいます」
と、伊那丸は、この至誠な若者を、いやしい
足軽の子とさげすんではみられなかった。いくどか、頭をさげて
礼をくり返した。そのまに、
筏は
どんと岸についた。
「さ、おあがりなさいませ」と子之吉は、
葦の根をしっかり持って、筏を食いよせながらいった。
「かたじけない」と、ふたりが岸へ飛びあがると、
「あ、お待ちください」とあわててとめた。
「
子之吉、いつかはまたきっとめぐりあうであろう」
「いえ、それより、どっちへお逃げなさるにしても、この
濠端を、右にいってはいけません。お
城固めの
旗本屋敷が多いなかへはいったら
袋のねずみです。どこまでもここから、左へ左へとすすんで、
入野の
関をこえさえすれば、
浜名湖の岸へでられます」
「や、ではこの先にも
関所があるか」
「おあんじなさいますな、ここに
蓑と、わたくしの
鑑札があります。お姿をつつんで、これをお持ちになれば大じょうぶです」
子之吉は、下からそれを渡すと、岸をついて、ふたたび、
筏を
濠のなかほどへすすめていったが、にわかに、
どぶんとそこから水けむりが立った。
「ややッ」と、岸のふたりはおどろいて手をあげたが、もうなんともすることもできなかった。
子之吉は、筏をはなすと同時に、
脇差をぬいて、みごとにわが
喉笛をかッ切ったまま、
濠のなかへ身を沈めてしまったのである。後日に、
徳川家の手にたおれるよりは、故主の若君のまえで、報恩の一死をいさぎよくささげたほうが、
森子之吉の
本望であったのだ。
伊那丸と
龍太郎が
外濠をわたって、
脱出したのを、やがて知った浜松城の武士たちは、にわかに、
追手を組織して、
入野の
関へはしった。
ところが、すでに
二刻もまえに、
蓑をきた両名のものが、この
関へかかったが、
足軽鑑札を持っているので、夜中ではあったが、通したということなので、
討手のものは、地だんだをふんだ。そして、
長駆して、さらに次の
浜名湖の渡し場へさしていそいだ。
いっぽう、
伊那丸、
龍太郎のふたりは、しゅびよく、浜名湖のきしべまで落ちのびてきたが、一
難さってまた一難、ここまできながら、一
艘の船も見あたらないのでむなしくあっちこっちと、さまよっていた。
月はないが、空いちめんに
磨ぎだされ、かがやかしい星の光と、ゆるやかに波を
縒る水明りに、湖は、夜明けのようにほの明るかった。すると、ギイ、ギイ……とどこからか、この
静寂をやぶる
櫓の音がしてきた。
「お、ありゃなんの船であろう?」
と伊那丸が指したほうを見ると、いましも、
弁天島の岩かげをはなれた一艘の小船に、五、六人の武士が乗りこんで、こなたの岸へ
舵をむけてくる。
「いずれ
徳川家の
武士にちがいない。伊那丸さま、しばらくここへ」
と龍太郎はさしまねいて、ともにくさむらのなかへ身をしずめていると、まもなく船は岸について、
黒装束の者がバラバラと
陸へとびあがり、口々になにかざわめき立ってゆく。
「せっかく仕返しにまいったのに、かんじんなやつがいなかったのはざんねんしごくであった」
「いつかまた、きゃつのすがたを見かけしだいに、ぶッた斬ってやるさ。それに、すまいもつきとめてある」
「あの
小僧も、あとで家へかえって見たら、さだめしびっくりして泣きわめくにちがいない。それだけでも、まアまア、いちじの
溜飲がさがったというものだ」
ものかげに、人ありとも知らずにこう話しながら、浜松のほうへつれ立ってゆくのをやり過ごした
龍太郎と
伊那丸は、そこを、すばやく飛びだして、かれらが乗りすてた船へとびうつるが早いか、力のかぎり
櫓をこいだ。
「龍太郎、いったいいまのは、何者であろう」
舳に腰かけていた伊那丸が、ふといいだした。
「さて、この夜中に、
黒装束で
横行するやからは、いずれ、
盗賊のたぐいであったかもしれませぬ」
「いや、わしはあのなかに、ききおぼえのある声をきいた。盗賊の群れではないと思う」
「はて……?」龍太郎は小首をかしげている。
「そうじゃ、ゆうべ、
八幡前で、
鎧売りに斬りちらされた悪侍、あのときの者が二、三人はたしか今の群れにまじっていた」
「おお、そうおっしゃれば、いかにも
似通うていたやつもおりましたな」
と、龍太郎はいつもながら、伊那丸のかしこさに
舌をまいた。そのまに、船は
弁天島へこぎついた。
「若君――」と船をもやってふりかえる。
「浜松から遠くもない、こんな小島に
長居は危険です。わたくしの考えでは、夜のあけぬまえに、
渥美の海へこぎだして、
伊良湖崎から
志摩の国へわたるが一ばんご無事かとぞんじますが」
「どんな荒海、どんな
嶮岨をこえてもいい。ただ一ときもはやく、かねがねそちが話したおん方にお目にかかり、また
忍剣をたずね、その他の勇士を
狩りあつめて、この乱れた世を
泰平にしずめるほか、
伊那丸の望みはない」
「そのお心は、
龍太郎もおさっしいたしております。では、わたくしは弁天堂の
禰宜か、どこぞの
漁師をおこして
食べ物の用意をいたしてまいりまするから、しばらく船のなかでお待ちくださいまし」
と龍太郎は、ひとりで島へあがっていった。そしてあなたこなたを
物色してくると、白砂をしいた、まばらな松のなかにチラチラ
灯りのもれている一軒の家が目についた。
「漁師の家と見える、ひとつ、
訪れてみよう」
と龍太郎は、ツカツカと軒下へきて、開けっぱなしになっている雨戸の口からなかをのぞいてみると、うすぐらい
灯のそばに、ひとりの男が、
朱にそまった
老婆の
死骸を抱きしめたまま、よよと、男泣きに泣いているのであった。
龍太郎が、そこを立ちさろうとすると、なかの男は、
跫音を耳にとめたか、にわかに、はねおきて、
壁に立てかけてあった
得物をとるやいなや、ばらッと、雨戸のそとへかけおりた。
「待てッ、待て、待てッ!」
あまりその声のするどさに、龍太郎も、ギョッとしてふりかえった。すると――そのせつな、
真眉間へむかって、ぶんとうなってきたするどい光りものに――はッとおどろいて身をしずめながら、片手にそれをまきこんで
袖の下へだきしめてしまった。見ればそれは
朱柄の
槍であった。
「こりゃ、なんだって、
拙者の不意をつくか」
「えい、
吐かすな、おれのお
母をころしたのは、おまえだろう。天にも地にも、たったひとりのお
母さまのかたきだ。どうするかおぼえていろ!」
「勘ちがいするな、さようなおぼえはないぞ」
「だまれ、だまれッ、めったに人のこないこの島に、なんの用があって、うろついていた。今しがた、
宿から帰ってみれば、お
母さまはズタ斬り、家のなかは乱暴
狼藉、あやしいやつは、
汝よりほかにないわッ」
目に、いっぱい
溜め
涙をひからせている。
憤怒のまなじりをつりあげて、
いッかなきかないのだ。この若者は浜松の町で、
稀代な
槍法をみせた
鎧売りの男で――いまは、この島に落ちぶれているが、もとは武家生まれの、
巽小文治という者であった。
「うろたえ
言をもうすな、だれが、恨みもないきさまの老母などを、殺すものか」
「いや、なんといおうが、おれの目にかかったからにはのがすものか」
「うぬ! 血まよって、
後悔いたすなよ」
「なにを、この
朱柄の
槍でただひと突き、おふくろさまへの
手向けにしてくれる。
覚悟をしろ」
「えい! 聞きわけのないやつだ」
と、
龍太郎もむッとして、
槍のケラ首が折れるばかりにひッたくると、
小文治も、
金剛力をしぼって、ひきもどそうとした。
「やッ――」とその機をねらった龍太郎が、ふいに
穂先をつッ放すと、力負けした小文治は、
槍をつかんだままタタタタタと、一、二
間もうしろへよろけていった。――そこを、
「おお――ッ」ととびかかった龍太郎の抜き討ちこそ、
木隠流のとくいとする、
戒刀のはやわざであった。
いつか、
裾野の
文殊閣でおちあった
加賀見忍剣も、この
戒刀のはげしさには
膏汗をしぼられたものだった。ましてや、
若年な
巽小文治は、必然、まッ二つか、
袈裟がけか? どっちにしても、助かりうべき命ではない。
と見えたが――意外である!
龍太郎の刀は、サッと
空を斬って、そのとたんに
槍の石突きがトンと大地をついたかと思うと、
小文治の体は、五、六尺もたかく
宙におどって、龍太郎の頭の上を、とびこえてしまった。
この
手練――かれはただ平凡な
槍使いではなかった。
龍太郎は、とっさに、
眸を抜かれたような気持がした。すぐ
踏みとまって、
太刀を持ちなおすと、すでにかまえなおした小文治は槍を中段ににぎって、龍太郎の
鳩尾へピタリと
穂先をむけてきた。
かつて一ども、いまのようにあざやかに、敵にかわされたためしのない龍太郎は、このかまえを見るにおよんで、いよいよ
要心に要心をくわえながら、
下段の
戒刀をきわめてしぜんに、頭のうえへ持っていった。
玄妙きわまる槍と、
精妙無比な太刀はここにたがいの呼吸をはかり、たがいに、
兎の
毛のすきをねらい合って一瞬一瞬、にじりよった。
天
一陣! ものすごい殺気が、みるまにふたりのあいだにみなぎってきた。ああ
龍虎たおれるものはいずれであろうか。
船べりに
頬杖ついて、龍太郎を待っていた
伊那丸は、
宵からのつかれにさそわれて、いつか、銀河の空の下でうっとりと眠りの国へさまよっていた。――松かぜの
奏でや、
舷をうつ波の
鼓を、子守唄のように聞いて。
――すると。
内浦鼻のあたりから、かなり大きな黒船のかげが
瑠璃の
湖をすべって、いっさんにこっちへむかってくるのが見えだした。だんだんと近づいてきたその船を見ると
徳川家の用船でもなく、また
漁船のようでもない。
舳のぐあいや、
帆柱のさまなどは、この近海に見なれない
長崎型の怪船であった。
ふかしぎな船は、いつか
弁天島のうらで
船脚をとめた。そして、親船をはなれた一
艘の
軽舸が、矢よりも早くあやつられて
伊那丸の夢をうつつに乗せている小船のそばまで近づいてきた。
ポーンと
鈎縄を投げられたのを伊那丸はまったく夢にも知らずにいる。――それからも、船のすべりだしたのすら気づかずにいたが、フト
胸ぐるしい重みを感じて目をさました時には、すでに四、五人のあらくれ男がよりたかって、おのれの体に、
荒縄をまきしめていたのだった。
「あッ、
龍太郎――ッ」
かれは、おもわず
絶叫した。だがその口も、たちまち
綿のようなものをつめられてしまったので、声も立てられない。ただ身をもがいて、
伏しまろんだ。
水なれた怪船の男どもは、毒魚のごとく、
胴の
間や軽舸の上におどり立って、なにかてんでに口ぜわしくさけびあっている。
「それッ、
北岸へ役人の
松明が見えだしたぞ」
「はやく
軽舸をあげてしまえッ」
「
帆綱に
集れーッ、帆綱をまけ――」
キリキリッ、キリキリッと
帆車のきしむおとが高鳴ると同時に、軽舸の底にもがいていた
伊那丸のからだは、
「あッ」というまに
鈎綱にひっかけられて、ゆらゆらと波の上へつるしあげられた。
龍太郎はどうした? この伊那丸の身にふってわいた大変事を、まだ気づかずにいるのかしら? それとも、
巽小文治の
稀代な
槍先にかかってあえなく討たれてしまったのか……?
西北へまわった風を
帆にうけて、あやしの船は、すでにすでに、入江を切って、白い波をかみながら、
外海へでてゆくではないか。
うわべは
歌詠みの法師か、きらくな雲水と見せかけてこころはゆだんもすきもなく、
武田伊那丸のあとをたずねて、きょうは東、あすは南と、
血眼の旅をつづけている
加賀見忍剣。
裾野の
闇に乗じられて、
まんまと、
六部の
龍太郎のために、大せつな主君を、うばいさられた、かれの
無念さは思いやられる。
したが、
不屈なかれ忍剣は、たとえ、
胆をなめ、身を
粉にくだくまでも、ふたたび
伊那丸をさがしださずに、やむべきか――と果てなき旅をつづけていた。
おりから、天下は
大動乱、
鄙も都も、その
渦にまきこまれていた。
この年六月二日に、
右大臣織田信長は、
反逆者光秀のために、本能寺であえなき
最期をとげた。
盟主をうしなった天下の群雄は、ひとしくうろたえまよった。なかにひとり、山崎の
弔い合戦に、武名をあげたものは
秀吉であったが、北国の
柴田、その
他、
北条徳川なども、おのおのこの機をねらって、おのれこそ天下をとらんものと、野心の
関をかため、
虎狼の
鏃をといで、人の心も、世のさまも、にわかに
険しくなってきた。
そうした世間であっただけに、忍剣の旅は、なみたいていなものではない。しかも、
酬いられてきたものは、けっきょく失望――
二月あまりの旅はむなしかった。
「伊那丸さまはどこにおわすか。せめて……アア
夢にでもいいから、いどころを知りたい……」
足をやすめるたびに
嘆息した。
その一念で、ふと忍剣のあたまに、あることがひらめいた。
「そうだ! クロはまだ生きているはずだ」
かれはその日から、急に道をかえて、思い出おおき、
甲斐の国へむかって、いっさんにとってかえした。
忍剣が気のついたクロとは、そもなにものかわからないが、かれのすがたは、まもなく、変りはてた
恵林寺の
焼け
跡へあらわれた。
忍剣は
数珠をだして、しばらくそこに
合掌していた。すると、番小屋のなかから、とびだしてきた
侍がふたり、うむをいわさず、かれの両腕をねじあげた。
「こらッ、そのほうはここで、なにをいたしておった」
「はい、
国師さまはじめ、あえなくお
亡くなりはてた、一
山の
霊をとむろうていたのでござります」
「ならぬ。
甲斐一
帯も、いまでは
徳川家のご領分だぞ。それをあずかる者は、ご家臣の
大須賀康隆さまじゃ。みだりにここらをうろついていることはならぬ、とッととたちされ、かえれ!」
「どうぞしばらく。……ほかに用もあるのですから」
「あやしいことをもうすやつ。この焼けあとに何用がある?」
「じつは当寺の裏山、
扇山の奥に、わたしの
幼なじみがおります。久しぶりで、その友だちに会いたいとおもいまして、はるばる
尋ねてまいったのです」
「ばかをいえ、さような者はここらにいない」
「たしかに生きているはずです。それは、友だちともうしても、ただの人ではありません。クロともうす
大鷲、それをひと目見たいのでございます」
「だまれ。あの黒鷲は、当山を攻めおとした時の
生捕りもの、大せつに
餌をやって、ちかく浜松城へ
献上いたすことになっているのだ、
汝らの見せ物ではない。帰れというに帰りおらぬか」
ひとりが
腕、ひとりが
襟がみをつかんで、ずるずるとひきもどしかけると、
忍剣の
眉がピリッとあがった。
「これほど、ことをわけてもうすのに、なおじゃまだてするとゆるさんぞ!」
「なにを」
ひとりが
腰縄をさぐるすきに、ふいに、忍剣の片足が
どんと彼の
脾腹をけとばした。アッと、うしろへたおれて、
悶絶したのを見た、べつな
侍は、
「おのれッ」と太刀の
柄へ手をかけて、抜きかけた。
――それより早く、
「やッ」と、まッこうから、おがみうちに、うなりおちてきた忍剣の
鉄杖に、なにかはたまろう。あいては、
かッと血へどをはいてたおれた。
それに見むきもせず、鉄杖をこわきにかかえた忍剣はいっさんに、うら山の
奥へおくへとよじのぼってゆく。――と、昼なおくらい木立のあいだから、いような、
魔鳥の
羽ばたきがつめたい
雫をゆりおとして聞えた。
らんらんと光る二つの眼は、みがきぬいた
琥珀のようだ。その底にすむ
金色の
瞳、かしらの
逆羽、見るからに
猛々しい真黒な
大鷲が、足の
鎖を、ガチャリガチャリ鳴らしながら、
扇山の
石柱の上にたって、ものすごい
絶叫をあげていた。
そのくろい
翼を、左右にひろげるときは、一
丈あまりの
巨身となり、銀の
爪をさか立てて、まっ赤な口をあくときは、空とぶ小鳥もすくみ落ちるほどな
威がある。
「おおいた! クロよ、無事でいたか」
おそれげもなく、そばへかけよってきた
忍剣の手になでられると、
鷲は、かれの肩に
嘴をすりつけて、あたかも、なつかしい
旧友にでも会ったかのような表情をして、
柔和であった。
「おなじ
鳥類のなかでも、おまえは
霊鷲である。さすがにわしの顔を見おぼえているようす……それならきっとこの使命をはたしてくれるであろう」
忍剣は、かねてしたためておいた一
片の
文字を、
油紙にくるんでこよりとなし、クロの片足へ、いくえにもギリギリむすびつけた。
この
鷲にもいろいろな運命があった。
天文十五年のころ、
武田信玄の軍勢が、
上杉憲政を攻めて
上野乱入にかかったとき、
碓氷峠の陣中でとらえたのがこの
鷲であった。
碓氷の合戦は
甲軍の大勝となって、敵将の
憲政の首まであげたので、
以来、
信玄はその
鷲を
館にもちかえり、愛育していた。
信玄の死んだあとは、
勝頼の手から、
供養のためと
恵林寺に
寄進してあったのである。ところがある時、
檻をやぶって、民家の五歳になる子を、
宙天へくわえあげたことなどがあったので、扇山の中腹に石柱をたて、太い
鎖で、その足をいましめてしまった。
幼少から、恵林寺にきていた
伊那丸は、いつか
忍剣とともに、この
鷲に
餌をやったり、クロよクロよと、
愛撫するようになっていた。
獰猛な
鷲も、伊那丸や忍剣の手には、
猫のようであった。そして、恵林寺が
大紅蓮につつまれ、一
山のこらず
最期をとげたなかで、
鷲だけは、この山奥につながれていたために、おそろしい
焔からまぬがれたのだ。
「クロ、いまこそわしが、おまえの
鎖をきってやるぞ、そしてその
翼で、大空を自由にかけまわれ、ただ、おまえをながいあいだかわいがってくだすった、伊那丸さまのお姿を地上に見たらおりてゆけよ」
そういいながら、鎖に手をかけたが、
鷲の足にはめられた
鉄の
環も、またふとい鎖も
断れればこそ。
「めんどうだ――」と、忍剣は
鉄杖をふりかぶって、石柱の角にあたる鎖を
はッしと打った。
そのとき、ふもとのほうから、ワーッという、ただならぬ
鬨の
声がおこった。
鎖はまだきれていないが、
忍剣はその声に、
小手をかざして見た。
はやくも、木立のかげから、バラバラと先頭の武士がかけつけてきた。いうまでもなく、
大須賀康隆の部下である。扇山へあやしの者がいりこんだと聞いて、
捕手をひきいてきたものだった。
「
売僧、その
霊鳥をなんとする」
「いらざること。この
鷲こそ、
勝頼公のみ
代から当山に
寄進されてあるものだ! どうしようとこなたのかってだ」
「うぬ! さては
武田の
残党とはきまった」
「おどろいたかッ」と、いきなりブーンとふりとばした
鉄杖にあたって、二、三人ははねとばされた。
「それ! とりにがすな」
ふもとのほうから、
追々とかけあつまってきた人数を
合して、かれこれ三、四十人、
槍や
太刀を押ッとって、忍剣の
虚をつき、すきをねらって斬ってかかる。
「飛び道具をもった者は、
梢のうえからぶッぱなせ」
足場がせまいので、捕手の
頭がこうさけぶと、弓、
鉄砲をひッかかえた十二、三人のものは、
猿のごとく、ちかくの
杉や
欅の梢にのぼって、手早く矢をつがえ、
火縄をふいてねらいつける。
下では
忍剣、近よる者を、かたッぱしからたたきふせて、怪力のかぎりをふるったが、空からくる飛び道具をふせぐべき
術もあろうはずはない。
はやくも飛んできた一の矢! また、二の矢。
夜叉のごとく荒れまわった忍剣は、
突として、いっぽうの
捕手をかけくずし、そのわずかなすきに、ふたたび
鷲の
鎖をねらって、一念力、
戛然とうった。
きれた! ギャーッという
絶鳴をあげた
鷲は、猛然と
翼を一はたきさせて、地上をはなれたかと見るまに、一陣の山嵐をおこした翼のあおりをくって、
大樹の
梢の上からバラバラとふりおとされた弓組、鉄砲組。
「ア、ア、ア!」とばかり、
捕手の
軍卒がおどろきさわぐうちに、一ど、
雲井へたかく舞いあがった
魔鳥は、ふたたびすさまじい
天
をまいて
翔けおりるや、するどい
爪をさかだてて、
旋廻する。
ふるえ立った捕手どもは、木の根、
岩角にかじりついて、ただアレヨアレヨと
胆を消しているうちに、いつか忍剣のすがたを見うしない、同時に、偉大なる
黒鷲のかげも、天空はるかに飛びさってしまった。
はなしはふたたびあとへかえって、ここは波明るき
弁天島の
薄月夜――
いっぽうは
太刀の名人、いっぽうは
錬磨の
槍、いずれ
劣らぬ
切ッ
先に秘術の
妙をすまして突きあわせたまま、松風わたる白砂の上に立ちすくみとなっているのは、
白衣の
木隠龍太郎と
朱柄の持ち主、
巽小文治。
腕が
互角なのか、いずれに
隙もないためか、そうほううごかず、
彫りつけたごとくにらみあっているうちに、魔か、雲か、月をかすめて
疾風とともに、天空から、そこへ
翔けおりてきたすさまじいものがある。
バタバタという
羽ばたきに、ふたりは、はッと耳をうたれた。弁天島の砂をまきあげて、ぱッと、地をすってかなたへ飛びさった時、不意をおそわれたふたりは、思わず眼をおさえて、左右にとびわかれた。
「あッ――」とおどろきの
叫びをもらしたのは、龍太郎のほうであった。それは、もうはるかに飛びさった、
鷲の
巨きなのにおどろいたのではない。
いま、
鏡のような入江をすべって浜名湖から
外海へとでてゆく、あやしい船の影――それをチラと見たせつなに、龍太郎のむねを不安にさわがしたのは、小船にのこした
伊那丸の身の上だった。
「もしや?」とおもえば、一
刻の
猶予もしてはおられない。やにわに、
小文治という眼さきの敵をすてて、なぎさのほうへかけだした。
「
卑怯もの!」
追いすがった
小文治が、さッと、くりこんでいった
槍の
穂先、ヒラリ、すばやくかわして、
千段をつかみとめた
龍太郎は、はッたとふりかえって、
「
卑怯ではない。わが身ならぬ、大せつなるおかたの一大事なのだ、勝負はあとで決してやるから、しばらく待て」
「いいのがれはよせ。その手は食わぬ」
「だれがうそを。アレ見よ、こうしているまにも、あやしい船が遠のいてゆく、まんいちのことあっては、わが身に代えられぬおんかた、そのお身のうえが気づかわしい、しばらく待て、しばらく待て」
「オオあの船こそ、めったに正体を見せぬ
八幡船だ。して、小船にのこしたというのはだれだ。そのしだいによっては、待ってもくれよう」
「いまはなにをつつもう、
武田家の
御曹子、
伊那丸さまにわたらせられる」
しばらく、じッと相手をみつめていた
小文治は、にわかに、槍を投げすててひざまずいてしまった。
「さては
伊那丸君のお
傅人でしたか。
今宵、町へわたったとき、さわがしいおうわさは聞いていましたが、よもやあなたがたとは知らず、さきほどからのしつれい、いくえにもごかんべんをねがいまする」
「いや、ことさえわかればいいわけはない、
拙者はこうしてはおられぬ場合だ。さらば――」
ほとんど一
足跳びに、もとのところへひッ返してきた
龍太郎が、と見れば、小船は
舫綱をとかれて、湖水のあなたにただようているばかりで、
伊那丸のすがたは見えない。
「チェッ、ざんねん。あの
八幡船のしわざにそういない。おのれどうするか、覚えていろ」
と地
だんだ踏んでにらみつけたが、へだては海――それもはや
模糊として、
遠州灘へ
浪がくれてゆくものを、いかに、龍太郎でも、飛んでゆく
秘術はない。
ところへ、案じてかけてきたのは、
小文治だった。
「若君のお身は?」
「しまッたことになった。船はないか、船は」
「あの八幡船のあとを追うなら、とてもむだです」
「たとえ遠州灘のもくずとなってもよい! 追えるところまでゆく
覚悟だ。たのむ、早くだしてくれ」
「小船は一
艘ありますが、八幡船のゆく先ばかりは、いままで
領主のご用船が、死に身になって取りまいても、
霧のように消えて、つきとめることができないほどでござります」
「ええ、なんとしたことだ――」
と、思わずどッかり腰をおとしてしまった
龍太郎は、われながらあまりの不覚に、
唇をかみしめた。
小文治は、それを見ると、不用意なじぶんの行動が後悔されてきた。母をうしなった悲しさに、いちずに龍太郎を
下手人とあやまったがため、このことが起ったのだ。さすれば、とうぜん、じぶんにも
罪はある。
かれは、いくたびかそれをわびた。そして、あらためて
素性を名のり、永年よき
主をさがしていたおりであるゆえ、ぜひとも、力をあわせて
伊那丸さまを取りかえし、ともども天下につくしたいと、
真心こめて龍太郎にたのんだ。
龍太郎も、よい味方を得たとよろこんだ。しかし、さてこれから
八幡船の
根城をさがそうとなると、それはほとんど雲にかくれた
時鳥をもとめるようなものだった。――むろん
小文治にも、いい
智恵は浮かばなかった。
「こうなってはしかたがない」
龍太郎はやがてこまぬいていた腕から顔をあげた。
「お
叱りをうけるかもしれぬが、一たび先生のところへ立ち帰って、この後の方針をきめるとしよう。それよりほかに思案はない」
「して、その先生とおっしゃるおかたは」
「京の西、
鞍馬の
奥にすんではいるが、ある時は、都にもいで、またある時は北国の山、南海のはてにまで姿を見せるという、
稀代なご老体で、
拙者の
刀術、
隠形の法なども、みなその老人からさずけられたものです」
鞍馬ときくさえ、すぐ、
天狗というような怪奇が
聯想されるところへ、この話をきいた
小文治は、もっと深くその老人が知りたくなった。
「
龍太郎どのの先生とおっしゃる――そのおかたの名はなんともうされますか」
「まことの
姓はあかしませぬ。ただみずから、
果心居士と
異号をつけております。じつはこのたびのことも、まったくその先生のおさしずで、
織田徳川が
甲府攻めをもよおすと同時に、
拙者は、
六部に身を変じて、
伊那丸さまをお救いにむかったのです。それがこの
不首尾となっては、先生にあわせる顔もないしだいだが、天下のこと
居ながらにして知る先生、またきっと好いおさしずがあろうと思う」
「では、どうかわたしもともに、お
供をねがいまする」
「
異存はないが、さきをいそぐ、おしたくを早く」
小文治は、家に取ってかえすと、しばらくあって、
粗服ながら、たしなみのある
旅支度に、大小を差し、例の
朱柄の
槍をかついで、ふたたびでてきた。
「お待たせいたしました。小船は、わたしの家のうしろへ着けておきましたから……」
という言葉に、龍太郎がそのほうへすすんで行くと、小船の上には、ひとつの
棺がのせてある。
武士にかえった
門出に、
小文治は、母の
亡骸をしずかな
湖の底へ
水葬にするつもりと見える。
と、あやしい
羽音が、またも空に鳴った。はッとしてふたりが船からふりあおぐと、大きな
輪をえがいていた
怪鳥のかげが、
潮けむる
遠州灘のあなたへ、一しゅんのまに、かけりさった。
みんな空をむいて、同じように、
眉毛の上へ片手をかざしている。
烏帽子の老人、
市女笠の女、
侍、百姓、町人――
雑多な人がたかって、なにか
評議の
最中である。
「さて、ふしぎなやつじゃのう」
「
仙人でしょうか」
「いや、
天狗にちがいない」
「だって、この
真昼なかに」
「おや、よく見ると本を読んでいますよ」
「いよいよ
魔物ときまった」
この人々は、そも、なにを見ているのだろう。
ここは
近江の国、
比叡山のふもと、
坂本で、
日吉の森からそびえ立った
五重塔のてッぺん――そこにみんなの
瞳があつまっているのだった。
なるほどふしぎ、人だかりのするのもむりではない。太陽のまぶしさにさえぎられて、しかとは見えないが、
鶴のごとき老人が、
五重塔のてッぺんにたしかにいるようだ。しかも目のいい者のことばでは、あの高い、
登りようもない上でのんきに書物を見ているという。
「なに、
魔物だと? どけどけ、どいてみろ」
「や、
今為朝がきた」
群集はすぐまわりをひらいた。
今為朝といわれたのはどんな人物かと見ると、
丈たかく、色浅ぐろい二十四、五
歳の
武士である。黒い
紋服の
片肌をぬぎ、手には、
日輪巻の
強弓と、一本の矢をさかしまに
握っていた。
「む、いかにも見えるな……」
と、五重塔のいただきをながめた武士は、ガッキリ、その矢をつがえはじめた。
「や、あれを
射ておしまいなさいますか」
あたりの者は
興にそそられて、どよみ立った。
「この
霊地へきて、奇怪なまねをするにっくいやつ、ことによったら、
南蛮寺にいるキリシタンのともがらかもしれぬ。いずれにせよ、ぶッぱなして
諸人への見せしめとしてくれる」
弓の持ちかた、
矢番も、なにさまおぼえのあるらしい態度だ。それもそのはず、この武士こそ、
坂本の町に
弓術の道場をひらいて、都にまで名のきこえている
代々木流の
遠矢の
達人、
山県蔦之助という者であるが、町の人は名をよばずに、
今為朝とあだなしていた。
「あの矢先に立ってはたまるまい……」
人々がかたずをのんでみつめるまに、
矢筈を
弦にかけた蔦之助は、
陽にきらめく
鏃を、
虚空にむけて、ギリギリと満月にしぼりだした。
塔のいただきにいる者のすがたは、
下界のさわぎを、どこふく風かというようすで、すましこんでいるらしい。
「
日吉の森へいってごらんなさい。今為朝が、
五重塔の上にでた老人の
魔物を
射にゆきましたぜ」
坂本の町の
葭簀茶屋でも、こんなうわさがぱッとたった。
床几にかけて、茶をすすっていた
木隠龍太郎は、それを聞くと、道づれの
小文治をかえりみながら、にわかにツイと立ちあがった。
「ひょっとすると、その老人こそ、先生かもしれない。このへんでお目にかかることができればなによりだ、とにかく、いそいでまいってみよう」
「え?」
小文治はふしんな顔をしたが、もう
龍太郎がいっさんにかけだしたので、あわててあとからつづいてゆくと、うわさにたがわぬ人
群れだ。
両足をふんまえて、
狙いさだめた
蔦之助は、いまや、プツンとばかり手もとを切ってはなした。
「あ――」と群集は声をのんだ、矢のゆくえにひとみをこらした。と見れば、風をきってとんでいった白羽の矢は、まさしく
五重塔の、あやしき老人を
射抜いたとおもったのに、ぱッと、そこから飛びたったのは、一羽の
白鷺、ヒラヒラと、青空にまいあがったが、やがて、
日吉の森へ
影をかくした。
「なアんだ」と多くのものは、口をあいたまま、ぼうぜんとして、まえの老人がまぼろしか、いまの白鷺がまぼろしかと、おのれの目をうたぐって、
睫毛をこすっているばかりだ。
そこへ、
一足おくれてきた龍太郎と小文治はもう人の散ってゆくのに失望して、そのまま、
叡山の道をグングン登っていった。
ふたりはこれから、
比叡山をこえ、
八瀬から
鞍馬をさして、
峰づたいにいそぐのらしい。いうまでもなく
果心居士のすまいをたずねるためだ。
音にきく
源平時代のむかし、
天狗の
棲家といわれたほどの鞍馬の山路は、まったく話にきいた以上のけわしさ。おまけにふたりがそこへさしかかってきた時は、ちょうど、とっぷり日も暮れてしまった。
ふもとでもらった、
蛍火ほどの
火縄をゆいつのたよりにふって、うわばみの歯のような、岩壁をつたい、
百足腹、鬼すべりなどという
嶮路をよじ登ってくる。
おりから
初秋とはいえ、山の寒さはまたかくべつ、それにいちめん
朦朧として、ふかい
霧が山をつつんでいるので、いつか火縄もしめって、消えてしまった。
「
小文治どの、お気をつけなされよ、よろしいか」
「大じょうぶ、ごしんぱいはいりません」
とはいったが、小文治も、海ならどんな荒浪にも恐れぬが、山にはなれないので、れいの
朱柄の
槍を
杖にして足をひきずりひきずりついていった。
千段曲りという坂道をやっとおりると、白い霧がムクムクわきあがっている底に、ゴオーッというすごい水音がする。
渓流である。
「橋がないから、その
槍をおかしなさい。こうして、おたがいに槍の両端を握りあってゆけば、流されることはありません」
龍太郎は山なれているので、先にかるがると、岩石へとびうつった。すると、小文治のうしろにあたる
断崖から、ドドドドッとまっ黒なものが、むらがっておりてきた。
「や?」と小文治は身がまえて見ると、およそ五、六十ぴきの
山猿の大群である。そのなかに、十
歳ぐらいな少年がただひとり、
鹿の背にのって笑っている。
「おお、そこへきたのは、
竹童ではないか」
岩の上から龍太郎が声をかけると、鹿の背からおりた少年も、なれなれしくいった。
「
龍太郎さま、ただいまお帰りでございましたか」
「む、して先生はおいでであろうな」
「このあいだから、お客さまがご
滞留なので、このごろは、ずっと
荘園においでなさいます」
「そうか。じつは
拙者の道づれも、足をいためたごようすだ。おまえの
鹿をかしてあげてくれないか」
「アアこのおかたですか、おやすいことです」
竹童は
口笛を鳴らしながら、鹿をおきずてにして、
岩燕のごとく、
渓流をとびこえてゆくと、
猿の大群も、口笛について、ワラワラとふかい霧の中へかげを消してしまった。
鹿の背をかりて、しばらくたどってくると、
小文治は
馥郁たる
香りに、
仙境へでもきたような心地がした。
「やっと
僧正谷へまいりましたぞ」
と龍太郎が指さすところを見ると、そこは
山芝の平地で、
甘いにおいをただよわせている
果樹園には、なにかの
実が
熟れ、大きな
芭蕉のかげには、竹を柱にしたゆかしい一軒の家が見えて、ほんのりと、
灯りがもれている。
門からのぞくと、
庵室のなかには、
白髪童顔の
翁が、果物で酒を
酌みながら、
総髪にゆったりっぱな
武士とむかいあって、なにかしきりに笑い
興じている。
「
龍太郎、ただいま帰りました」
とかれが両手をついたうしろに、
小文治もひかえた。
「なんじゃ? おめおめと帰ってきおったと」
翁――それは別人ならぬ
果心居士だ。龍太郎の顔を見ると、
ふいと、かたわらの
藜の
杖をにぎりとって、立ちあがるが早いか、
「ばかもの」ピシリと龍太郎の肩をうった。
果心居士は、なにも聞かないうちに、すべてのことを知っていた。
八幡船に
伊那丸をうばわれたことも、
巽小文治の身の上も。――そして、きょうのひる、
日吉の
五重塔のてッぺんにいたのもじぶんであるといった。
かれは、
仙人か、
幻術師か、キリシタンの魔法を使う者か? はじめて会った小文治は、いつまでも、奇怪な
謎をとくことに苦しんだ。
しかし、だんだんと
膝をまじえて話しているうちに、ようやくそれがわかってきた、かれは
仙人でもなければ、けっして
幻術使でもない。ただおそろしい修養の力である。みな、
自得の
研鑽から
通力した
人間技であることが
納得できた。
浮体の法、
飛足の
呼吸、
遠知の
術、
木遁その他の
隠形など、みなかれが何十年となく、深山にくらしていたたまもので、それはだれでも
劫をつめば、できないふしぎや魔力ではない。
ところで、
果心居士がなにゆえに、
武田伊那丸を
龍太郎にもとめさせたか、それはのちの説明にゆずって、さしあたり、はてなき海へうばわれたおんかたを、どうしてさがしだすかの相談になった。
「
竹童、竹童――」
居士は例の少年をよんで、小さな
錦のふくろを持ってこさせた。そのなかから、机の上へカラカラと開けたのは
亀の
甲羅でつくった、いくつもいくつもの
駒であった。
かれの精神がすみきらないで、遠知の術のできないときは、この
亀卜という
占いをたてて見るのが常であった。
「む……」ひとりで占いをこころみて、ひとりうなずいた果心居士は、やがて、客人のほうへむいて、
「
民部どの、こんどはあなたがいったがよろしい」といった。龍太郎はびっくりして、それへ進んだ。
「しばらく、先生のおおせながら、
余人にその
儀をおいいつけになられては、手まえのたつ
瀬も、
面目もござりませぬ。どうか、まえの不覚をそそぐため、
拙者におおせつけねがいとうぞんじます」
「いや龍太郎、おまえには、さらに第二段の、大せつなる役目がある。まずこれをとくと見たがよい」
と、
革の箱から取りだして、それへひろげたのは、いちめんの
山絵図であった。
「これは?」と
龍太郎は
腑におちない顔である。
「ここにおられる、
小幡民部どのが、苦心してうつされたもの。すなわち、自然の山を
城廓として、七陣の兵法をしいてあるものじゃ」
「あ! ではそこにおいでになるのは、
甲州流の軍学家、
小幡景憲どののご子息ですか」
「いかにも、すでにまえから、ご浪人なされていたが、
武田のお家のほろびたのを、よそに見るにしのびず、
伊那丸さまをたずねだしてふたたび
旗あげなさろうという
大願望じゃ、おなじ
志のものどもがめぐりおうたのも天のおひきあわせ、したが、伊那丸さまのありかが知れても、よるべき
天嶮がなくてはならぬ。そこで、まずひそかに、二、三の者がさきにまいって地理の
準備、またおおくの勇士をも
狩りもよおしておき、おんかたの知れしだいに、いつなりと、旗あげのできるようにいたしておくのじゃ」
「は、承知いたしました。して、この
図面にあります場所は?」
という龍太郎の問いに応じてこんどは、小幡民部が
膝をすすめた。
「
武田家に
縁のふかき、
甲、
信、
駿の三ヵ国にまたがっている
小太郎山です。また……」
と、
軍扇の
要をもって、民部は
掌を指すように、ここは何山、ここは何の陣法と、こまかに、
噛みくだいて説明した。
肝胆あい照らした、龍太郎、
小文治、民部の三人は、夜のふけるをわすれて、旗上げの密議をこらした。
果心居士は、それ以上は
一言も口をさし入れない。かれの
任務は、ただここまでの、気運だけを作るにあるもののようであった。
翌日は早天に、みな打ちそろって
僧正谷を
出立した。龍太郎と小文治は、例のすがたのまま、旗あげの
小太郎山へ。
また、
小幡民部ひとりは、
深編笠をいただき、片手に
鉄扇、
野袴といういでたちで、京都から大阪
もよりへと
伊那丸のゆくえをたずねもとめていく。
その方角は、果心居士の
亀卜がしめしたところであるが、この
占いがあたるか
否か。またあるいは音にひびいた軍学者小幡が、はたしてどんな
奇策を胸に
秘めているか、それは
余人がうかがうことも、はかり知ることもできない。
板子一枚下は
地獄。――船の底はまッ暗だ。
空も見えなければ、海の色も見えない。ただときおりドドーン、ドドドドドーン! と
胴の
間にぶつかってはくだける
怒濤が、百千の
鼓を一時にならすか、
雷のとどろきかとも思えて、人の
魂をおびやかす。
その船ぞこに、生ける
屍のように、うつぶしているのは、
武田伊那丸のいたましい姿だった。
八幡船が
遠州灘へかかった時から、伊那丸の
意識はなかった。この
海賊船が、どこへ向かっていくかも、おのれにどんな危害が
迫りつつあるのかも、かれはすべてを知らずにいる。
「や、すっかりまいっていやがる」
さしもはげしかった、船の動揺もやんだと思うと、やがて、入口をポンとはねて、飛びおりてきた手下どもが伊那丸のからだを上へにないあげ、すぐ
船暈ざましの手当にとりかかった。
「やい、その
童の
脇差を持ってきて見せろ」
と
舳からだみごえをかけたのは、この船の
張本で、
龍巻の
九郎右衛門という大男だった。
赤銅づくりの
太刀にもたれ、
南蛮織のきらびやかなものを着ていた。
「はて……?」と龍巻は、いま手下から受けとった脇差の
目貫と、伊那丸の
小袖の
紋とを見くらべて、ふしんな顔をしていたが、にわかにつっ立って、
「えらい者が手に入った。その
小童は、どうやら
武田家の
御曹子らしい。五十や百の金で、人買いの手にわたす
代物じゃねえから、めったな手荒をせず、島へあげて、かいほうしろ」
そういって、三人の腹心の手下をよび、なにかしめしあわせたうえ、その脇差を、そッともとのとおり、
伊那丸の腰へもどしておいた。
まもなく、
軽舸の用意ができると、病人どうような伊那丸を、それへうつして、まえの三人もともに乗りこみ、すぐ
鼻先の小島へむかってこぎだした。
「やい! 親船がかえってくるまで、大せつな玉を、よく見はっていなくっちゃいけねえぞ」
龍巻は二、三ど、両手で口をかこって、遠声をおくった。そしてこんどは、足もとから鳥が立つように、あたりの手下をせきたてた。
「それッ、
帆綱をひけ!
大金もうけだ」
「お
頭領、また船をだして、こんどはどこです」
「
泉州の
堺だ。なんでもかまわねえから、張れるッたけ
帆をはって、ぶっとおしにいそいでいけ」
キリキリ、キリキリ、
帆車はせわしく鳴りだした。船中の手下どもは、
飛魚のごとく
敏捷に活躍しだす。
舳に腰かけている龍巻は、その
悪魔的な
跳躍をみて、ニタリと、笑みをもらしていた。
この秋に、京は
紫野の
大徳寺で、
故右大臣信長の、さかんな
葬儀がいとなまれたので、諸国の
大小名は、ぞくぞくと京都にのぼっていた。
なかで、
穴山梅雪入道は、役目をおえたのち、主人の
徳川家康にいとまをもらって、甲州
北郡へかえるところを、廻り道して、見物がてら、泉州の
堺に、半月あまりも
滞在していた。
堺は当時の
開港場だったので、ものめずらしい
異国の
色彩があふれていた。
唐や、
呂宋や、
南蛮の器物、織物などを、見たりもとめたりするのも、ぜひここでなければならなかった。
「
殿、見なれぬ者がたずねてまいりましたが、通しましょうか、いかがしたものでござります」
穴山梅雪の
仮の
館では、もう
燭をともして、
侍女たちが、
琴をかなでて、にぎわっているところだった。そこへひとりの家臣が、こう取りついできた。
「何者じゃ」
梅雪入道は、もう
眉にも
霜のみえる老年、しかし、千軍万馬を
疾駆して、
鍛えあげた骨
ぶしだけは、たしかにどこかちがっている。
「
肥前の
郷士、
浪島五兵衛ともうすもので、二、三人の
従者もつれた、いやしからぬ男でござります」
「ふーむ……、してその者が、何用で
余にあいたいともうすのじゃ」
「その浪島ともうす郷士が、あるおりに
呂宋より
海南にわたり、なおバタビヤ、ジャガタラなどの国々の珍品もたくさん持ちかえりましたので、殿のお目にいれ、お買いあげを得たいともうすので」
「それは珍しいものが数あろう」
梅雪入道は、このごろしきりに、
堺でそのような
品をあつめていたところ、思わず心をうごかしたらしい。
「とにかく、通してみろ。ただし、ひとりであるぞ」
「はい」家臣は、さがっていく。
入れちがって、そこへあんないされてきたのは、衣服、大小や、かっぷくもりっぱな
侍、ただ色はあくまで黒い。目はおだやかとはいえない光である。
「取りつぎのあった、
浪島とはそちか」
「ヘッ、お目通りをたまわりまして、ありがとうぞんじます」
「さっそく、バタビヤ、ジャガタラの珍品などを、
余に見せてもらいたいものであるな」
「じつは、
他家へ
吹聴したくない、秘密な
品もござりますゆえ、願わくばお人
払いをねがいまする」
という望みまでいれて、あとはふたりの座敷となると梅雪はさらにまたせきだした。
「して、その秘密な
品とは、いかなるものじゃ」
「
殿――」
浪島という、
郷士のまなこが、そのときいような光をおびて、声の調子まで、ガラリと変った。
「買ってもらいたいのは、ジャガタラの品物じゃありません。
武田菱の
紋をうった、りっぱな人間です。どうです、ご相談にのりませんか」
「な、なんじゃッ?」
「シッ……大きな声をだすと、
殿さまのおためにもなりませんぜ。
徳川家で、
血眼になっている
武田伊那丸、それをお売りもうそうということなんで」
「む……」
入道はじッと
郷士の
面をみつめて、しばらくその
大胆な
押し
売りにあきれていた。
「けっして、そちらにご不用なものではありますまい。
武田の
御曹子を生けどって、徳川さまへさしだせば、一万
石や二万
石の
恩賞はあるにきまっています。先祖代々から
禄をはんだ、
武田家の
亡びるのさえみすてて、徳川家へついたほどのあなただから、よろこんで買ってくださるだろうと思って、あてにしてきた売物です」
ほとんど、
強請にもひとしい
口吻である。だのに、
梅雪入道は顔色をうしなって、この無礼者を手討ちにしようともしない。
どんな身分であろうと、弱点をつかれると弱いものだ。穴山梅雪入道は、事実、かれのいうとおり、ついこのあいだまでは、
武田勝頼の無二の者とたのまれていた武将であった。
それが、
織田徳川連合軍の乱入とともに、まッさきに徳川家にくだって、
甲府討入りの手引きをしたのみか、
信玄いらい、
恩顧のふかい
武田一族の
最期を見すてて、じぶんだけの命と
栄華をとりとめた
武士である。
この利慾のふかい武士へ、
伊那丸という
餌をもって
釣りにきたのは、いうまでもなく、武士に
化けているが、
八幡船の
龍巻であった。
都より
開港場のほうに、なにかの手がかりが多かろうと、目星をつけて、京都から
堺へいりこんでいたのは、
鞍馬を下山した
小幡民部である。
人手をわけて、要所を見張らせていた
網は、意外な
効果をはやくも
告げてきた。
「たしかに、八幡船のやつらしい者が三人、
侍にばけて、
穴山梅雪の宿をたずねた――」
この知らせをうけた民部は、たずねさきが
主家を売って敵にはしった、
犬梅雪であるだけに、いよいよそれだと直覚した。
いっぽう、その夜ふけて、梅雪のかりの
館をでていった三つのかげは、なにかヒソヒソささやきながら堺の町から、くらい
波止場のほうへあるいていく。
「おかしら、じゃアとにかく、話はうまくついたっていうわけですね」
「
上首尾さ。じぶんも立身の
種になるんだから、いやもおうもありゃあしない。これからすぐに島へかえって、伊那丸をつれてさえくれば、からだの目方と
黄金の目方のとりかえッこだ」
「しッ……うしろから足音がしますぜ」
「え?」
と三人とも、
脛にきずもつ身なので、おもわずふりかえると、
深編笠の
侍が、ピタピタあるき寄ってきて、なれなれしくことばをかけた。
「おかしら、いつもご壮健で、けっこうでござりますな」
「なんだって? おれはそんな者じゃアない」
「エヘヘヘヘ、わたしも、こんな、侍姿にばけているから、ゆだんをなさらないのはごもっともですが、さきほど町で、チラとお見うけして、まちがいがないのです」
「なんだい、おめえはいったい?」
「こう見えても、ずいぶん
浪の上でかせいだ者です」
「おれたちの船じゃなかろう、こっちは知らねえもの」
「そりゃア数ある
八幡船ですから」
「しッ。でっかい声をするねえ」
「すみません。船から船へわたりまわったことですからな、ながいお世話にはなりませんでしょうが、おかしらの船でも一どはたらいたことがあるんです」
話しながら、いつか
陸はずれの、小船のおいてあるところまできてしまった。あとをついてきた侍すがたの男は、ぜひ、もう一ど船ではたらきたいからとせがんでたくみに
龍巻を信じさせ、沖にすがたを隠している、
八幡船の仲間のうちへ、まんまと乗りこむことになった。
その男の
正体が、
小幡民部であることはいうまでもない。なまじ町人すがたにばけたりなどすると、かえってさきが、ゆだんをしないと見て、
生地のままの
反間苦肉がみごとに当った。
民部のこころは躍っていた。けれどもうわべはどこまでもぼんやりに見せて、たえず、船中に目をくばっていたが、どうもこの船にはそれらしい者を、かくしているようすが見えない。で、いちじはちがったかと思ったが、
梅雪をおとずれたという事実は、どうしても、民部には見のがせない。
船は、その翌日、
闇夜にまぎれて、
堺の沖から、ふたたび南へむかって、
満々と
帆をはった。
伊那丸は、日ならぬうちに気分もさわやかになった。それと同時に、かれは、生まれてはじめて接した、
大海原の
壮観に目をみはった。
ここはどこの島かわからないけれど、
陸のかげは、一里ばかりあなたに見える。けれど、伊那丸には、龍巻の手下が五、六人、一歩あるくにもつきまとっているので逃げることも、どうすることもできなかった。
「ああ……」
忍剣を思い、
咲耶子をしのび、
龍太郎のゆくえなどを思うたびに、波うちぎわに立っている
伊那丸のひとみに涙が光った。
「なんとかしてこの島からでたい、名もしれぬ荒くれどもの手にはずかしめられるほどなら、いッそこの海の底に……」
夜はつめたい
磯の岩かげに組んだ小屋にねる。だが、そのあいださえ、
羅刹のような手下は、
交代で
見張っているのだ。
「そうだ、あの親船が返ってくれば、もう
最期の運命、逃げるなら、いまのうちだ」
きッと、心をけっして、頭をもたげてみると、もう夜あけに近いころとみえて、寝ずの番も
頬杖をついていねむっている。
「む!」はね起きるよりはやく、ばらばらと、昼みておいた小船のところへ走りだした。ところがきてみると、船は毎夜、かれらの用心で、十
間も
陸の上へ、引きあげてあった。
「えい、これしきのもの」
伊那丸は、
金剛力をしぼって、波のほうへ、
綱をひいてみたが、
荒磯のゴロタ石がつかえて、とてもうごきそうもない。――ああこんな時に、忍剣ほどの力がじぶんに半分あればと、
益ないくり
言もかれの胸にはうかんだであろう。
「野郎ッ、なにをする!」
われを忘れて、船をおしている伊那丸のうしろから、松の木のような
腕が、グッと、
喉輪をしめあげた。
「見つかったか」
伊那丸は歯がみをした。
「こいつ。逃げる気だな」
喉に
閂をかけられたまま、伊那丸はタタタタタと五、六歩あとへ引きもどされた。
もうこれまでと、
脇差の
柄に手をやって、やッと、身をねじりながら
切ッ
先をとばした。
「あッ――き、
斬りやがったなッ」
とたん――目をさましてきた四、五人の手下たちも、それッと、
櫂や太刀をふるって、わめきつ、さけびつ
撃ちこんできたが、伊那丸も
捨身だった。小太刀の精のかぎりをつくして、斬りまわった。
しかし何せよ、
慓悍無比な命しらずである。ただでさえ
精のおとろえている伊那丸は、
無念や、ジリジリ追われ勝ちになってきた。
その時であった。
空と波との水平線から、こなたの島をめがけて、
征矢のように
翔けてきた一羽のくろい
大鷲。
ぱッと、波をうっては水けむりをあげた。空に
舞っては雲にかくれた。――やがて、そのすばらしい雄姿を
目のあたりに見せてきたと思うと、
伊那丸と五人の男の
乱闘のなかを、さっと二、三ど、地をかすって
翔けりまわった。
「わーッ、いけねえ!」
のこらずの者が、その巨大な
翼にあおりたおされた。むろん、伊那丸も、四、五
間ほど、飛ばされてしまった。
嵐か、
旋風か、伊那丸は、なんということをも
意識しなかった。ただ五人の敵! それに一念であるため、立つよりはやく、そばにたおれていたひとりを、斬りふせた。
くろい
大鷲は、伊那丸の頭上をはなれず廻っている。
砂礫をとばされ、その翼にあたって、のこる四人も
散々になって、気を
失った。――ふと、伊那丸は、その時はじめて、ふしぎな命びろいをしたことに気づいた。空をあおぐと、オオ! それこそ、
恵林寺にいたころ、つねに
餌をやって愛していたクロではないか。
「お! クロだ、クロだ」
かれが
血刀を振って、
狂喜のこえを空になげると、クロはしずかにおりてきて、小船のはしに、翼をやすめた。
「ちがいない。やはりクロだった。それにしても、どうして、あの
鎖をきったのであろう」
ふと見ると、足に
油紙の
縒ったのが巻きしめてある。伊那丸はいよいよふしぎな念に打たれながら、いそいで
解きひらいてみると、なつかしや、
忍剣の文字!
若さま、このてがみが、あなたさまの、お目にふれましたら、若さまのおてがみも、かならず私の手にとどきましょう。忍剣いのちのあらんかぎりは、ふたたびお目にかからずにはおりません。甲斐の山にて。
ハラハラと、とめどない
涙を、その数行の文字にはふり落として立ちすくんでいた
伊那丸は、いそいで小屋に取ってかえし、今の
窮状をかんたんに
認めて、かけもどってきた。
夜はほのぼのと、
八重の
汐路に明けはなれてきた。
見れば、クロはよほど
飢えていたらしく、五人の
死骸の上を飛びまわって、
生々しい血に、
舌なめずりをしていた。
同じように、かえし
文を、
鷲の片足へむすびつけて、それのおわったとき、伊那丸の目のまえに、さらに
呪いの
悪魔が
悠々とかげを見せてきた。
八幡船の親船がかえってきたのだ。もうすぐそこ――島から数町の
波間のちかくへ。
「いよいよ
最期となった。クロ! わしの運命はおまえのつばさに乗せてまかすぞよ」
坐して死をまつも
愚と、伊那丸は鷲の背中へ、抱きつくように身をのせた。
思うさま、人の血をすすったクロは、両の
翼でバサと大地をうったかと思うと、伊那丸の身を軽々とのせたまま、天空高く、
舞いあがった。
「あれ、あれ、ありゃあなんだ?」
「おお、島からとび立ったあやしい
魔鳥」
「
鷲だッ。くろい
大鷲だ」
白浪をかんで、
満々と
帆を張ってきた
八幡船の上では多くの手下どもが、あけぼのの空をあおいで、
潮なりのようにおどろき叫んでいた。
さわぎを耳にして、
船部屋からあらわれた
龍巻九郎右衛門は、ギラギラ
射かえす
朝陽に小手をかざして、しばらく
虚空に
旋回している大鷲の影をみつめていたが、
「ややッ」にわかに色をかえて、すぐ、
「あの
鷲を
射おとせッ、はやくはやく。遠のかねえうちだ」
とあらあらしく
叱咤した。おう! 手下どもは
武器倉へ
渦をまいて、
弓鉄砲を取るよりはやく、
宙を目がけて火ぶたを切り、矢つぎばやに、
征矢の嵐をはなしたが、
鷲はゆうゆうと、遠く近くとびまわって、あたかも
矢弾の弱さをあざけっているようだ。
「
民蔵民蔵、
新米の民蔵はどうしたッ」
龍巻が足を
踏みならして、こうさけんだ時、船底からかけあがってきたのは、
民蔵と名をかえて、
堺から手下になって乗りこんでいた、かの
小幡民部であった。
「おかしら、お
呼びになりましたかい」
「どこへもぐりこんでいるんだ。てめえに、ちょうどいい
腕だめしをいいつける。あの
大鷲の上に、人間が
抱きついているんだ、島から
伊那丸が
逃げだしたにちげえねえ、てめえの腕でぶち落として見ろ」
「えッ、伊那丸とは、なんですか」
「そんなことをグズグズ話しちゃいられねえ、オオまた近くへきやがった、はやく
撃てッ」
「がってんです!」
小幡民部の民蔵は、伊那丸と聞いてギクッとしたが、龍巻に顔色を見すかされてはと、わざと
勇みたって、渡された
種子島の
銃口をかまえ、船の真上へ鷲がちかよってくるのを待った。
と見るまに、鷲はふたたび低く
舞って、
帆柱のてッぺんをさッとすりぬけた。
「そこだ」龍巻はおもわず
拳を握りしめる。
同時に、
狙いすましていた
民部の手から、ズドン! と白い
爆煙が立った。
「あたった! あたった」
ワーッという
喊声が、船をゆるがしたせつな、大鷲はまぢかに腹毛を見せたまま、ななめになってクルクルと海へ落ちてきた――と見えたのは
瞬間。――大きなつばさで海面をたたいたかと思うまに、ギャーッと
一声、すごい
絶鳴をあげて、
猛然と高く飛び上がった。
そのとたんに、
大鷲の背から海中へふり落とされたものがある――いうまでもなく
武田伊那丸であった。
龍巻は、
雲井へかけり去った
鷲の行方などには目もくれず、すぐ手下に
軽舸をおろさせて、波間にただよっている伊那丸を、親船へ引きあげさせた。
「
民蔵でかしたぞ。きさまの腕前にゃおそれいッた」
と龍巻は
上機嫌である。そしていままでは、やや心をゆるさずにいた
民部を、すッかり信用してしまった。
堺見物もおわったが、伊那丸のことがあるので、帰国をのばしていた
穴山梅雪の
館へ、ある
夕べ、ひとりの男が
密書を持っておとずれた。
吉左右を待ちかねていた梅雪入道は、くっきょうな武士七、八名に、身のまわりをかためさせて、
築山の
亭へ足をはこんできた。そこには、
黒衣覆面の密書の使いが、両手をついてひかえていた。
「書面は、しかと見たが、
今宵のあんないをするというそのほうは何者だの」
と梅雪はゆだんのない目くばりでいった。
「
龍巻の腹心の者、
民蔵ともうしまする」
「して、
伊那丸の身は、ただいまどこへおいてあるの?」
「しばらく船中で手当を加えておりましたが、こよい
亥の
刻に、かねてのお
約束どおり、船からあげて
阿古屋の松原まで
頭が連れてまいり、
金子と引きかえに、お
館へお渡しいたすてはずになっておりまする」
よどみのない使いの
弁舌に、
梅雪入道も
疑いをといたとみえ、すぐ家臣に三箱の黄金をになわせ、じぶんも
頭巾に
面をかくして
騎馬立ちとなり、
剛者十数人を引きつれて、阿古屋の松原へと出向いていった。
「殿さま、しばらくお待ちねがいます」
途中までくると、案内役の民蔵は、梅雪入道の
鞍壺のそばへよって、ふいに小腰をかがめた。
「少々おねがいの
儀がござります。お馬をとめて、
無礼者とお怒りもありましょうが、阿古屋の松原へついては
間にあわぬこと、お聞きくださいましょうか」
「なんじゃ、とにかくもうしてみい」
「は、
余の
儀でもござりませぬが、
今日お館のご
威光を見、またかくお
供いたしているうちに、
八幡船の手下となっていることが、つくづく浅ましく感じられ、むかしの
武士にかえって、
白日のもとに、ご奉公いたしたくなってまいりました」
「
悠長なやつ、かような
出先にたって、なにを
述懐めいたことをぬかしおるか。それがなんといたしたのだ」
「ここに一つの
手柄をきっと立てますゆえ、お
館の家来の
端になりと、お加えなされてくださりませ」
「ふウ――どういう
手柄を立てて見せるな」
「この三箱の
黄金をかれにわたさずして、まんまと、
武田伊那丸を
龍巻の手よりうばい取ってごらんに入れますが」
「ぬからぬことをもうすやつだ。して、その
策は?」
「わが君、お耳を……」
小幡民部の
民蔵が、なにをささやいたものか、
梅雪はたちまち慾ぶかいその
相好をくずして、かれのねがいを聞きとどけた。そして、えらびだした武士二、三人に、密命をふくませ、そこからいずこともなく放してやると自身はふたたび、民蔵を行列の先頭にして、
闇夜の街道を、しずしずと進んでいった。
まもなく着いた、
阿古屋の松原。
梅雪入道は
鞍からおりて、
海神の
社に
床几をひかえた。
と――やがて約束の
亥の
刻ごろ、
浜辺のほうから、百
鬼夜行、
八幡船の黒々とした一列が、
松明ももたずに、シトシトと足音そろえて、ここへさしてくる。
「
民蔵、民蔵」
と鳥居まえで、
合図をしたのは
龍巻にちがいなかった。民蔵は
梅雪のそばをすりぬけて、そこへかけていった。
「お
頭ですか」
「む、いいつけた使いの
首尾はどうだった」
「こちらは、殿さまごじしんで、早くからきて、あれに待っています。そして
伊那丸は?」
「ふんじばってつれてきた、じゃおれは、梅雪とかけあいをつけるから、きさまが
縄尻を持っていろ。なかなか
童のくせに
強力だから、ゆだんをして
逃がすなよ」
龍巻は二、三十人の手下をつれて、梅雪のいる
拝殿の前へおしていった。
縄尻をうけた民蔵は、
「やいッ、歩かねえか」わざと声をあららげて、伊那丸の背中をつく。――その心のうちでは、手をあわせている
小幡民部であった。
しばらくのあいだ、龍巻と
談合していた梅雪は、伊那丸の
面体を、しかと見さだめたうえで、約束の
褒美をわたそうといった。龍巻も心得て、うしろへ
怒鳴った。
「民蔵、その童をここへひいてこい」
「へい」
民蔵は
縄目にかけた伊那丸を、梅雪入道の前へひきすえた。拝殿の上から、とくと、
見届けた梅雪は、大きくうなずいて、
「でかしおッた。
武田伊那丸にそういない」
その時、むッくり首をあげた伊那丸は、
穴山のすがたを、
かッとにらみつけて、血を
吐くような声でいった。
「人でなしの
梅雪入道!」
「な、なにッ」
「お
祖父さま
(信玄)の時代より、
武田家の
禄を
食みながら、
徳川軍へ内通したばかりか、
甲府攻めの手引きして、
主家にあだなした
犬侍。どの
面さげて、伊那丸の前へでおった、見るもけがれだ。
退れッ」
「ワッハッハハハハ」梅雪は内心ギクとしながら、
老獪なる
嘲笑にまぎらわして、
「なにをいうかと思えば、
小賢しい
無礼呼ばわり。なるほどその昔は、信玄公にも
仕え、
勝頼にも
仕えた梅雪じゃが、いまは、
主でもなければ
君でもない。武田の滅亡は、お
許の父、勝頼が
暗愚でおわしたからじゃ。うらむならお許の父をうらめ、馬鹿大将の勝頼をうらむがよい」
「ムムッ……よういッたな!」
不道の臣に
面罵されて、身をふるわせた伊那丸は、やにわに、ガバとはねおきるがはやいか、両手を
縛されたまま、梅雪に飛びかかって、ドンと、かれを
床几から
蹴とばした。
「なにをするか」
縄尻をひいた
民蔵の力に、
伊那丸はあおむけざまにひッくり返った。ア――おいたわしい! とおもわず
睫毛に涙のさす顔をそむけて、
「ふ、ふざけたまねをすると
承知しねえぞ。立て! こっちの
隅へ寄っていろい!」
ズルズルと引きずってきて、拝殿の
柱へ縄尻をくくりつけた。
龍巻はそれをきッかけにして、
「じゃあ
殿さま、伊那丸はたしかに渡しましたから、約束の金を、こっちへだしてもらいましょうか」
「む、いかにも
褒美をつかわそう、これ、用意してきた黄金をここへ持て」
と、家臣にになわせてきた三箱の金をそこへ積ませると、
「さすがは
大名、これだけの黄金をそくざに持ってきたのはえらいものだ」
と、ニタリ
笑つぼに
入った。
「やい野郎ども、はやくこの黄金を
軽舸へ運んでいけ。どりゃ、用がすんだら引きあげようか」
と手下にそれをかつがせて、龍巻も立とうとすると、
「やッ、大へんだ、おかしら、少ウしお待ちなさい」
と民蔵がことさら大きな声で、出足をとめた。
「なんでえ、やかましい」
龍巻は、
舌うちをしてふりかえった。
社の
廻廊にたって、
小手をかざしていた
民蔵は、なおぎょうさんにとびあがって、
「一大事一大事! おかしら、沖の親船が焼ける! あれあれ、親船が
燃えあがってる!」
と、手をふりまわした。
「なにッ、親船が?」
龍巻も、さすがにギョッとして、浜辺のほうをすかしてみると、まッ暗な
沖合にあたって、ボウと明るんできたのは、いかにも船火事らしい。
「ややややや」龍巻の目はいようにかがやく。
見るまに沖の明るみは一
団の火の玉となって、金粉のごとき火の
粉を空にふきあげた。夜の
潮は
燦爛と
染められて、あたかも龍宮城が焼けおちているかのような
壮観を現じた。
「ちぇッ、とんでもねえことになッた。それッ、早く
漕ぎつけて、消しとめろ」
とぎょうてんした龍巻は、二、三十人の手下たちとともに、一どにドッと
海神の
社をかけだしていくと、にわかに、鳥居わきの左右から、ワッという声つなみ!
「海賊ども、待て」
「御用、御用」
たちまち
氷雨のごとく降りかかる
十手の雨。――かける足もとを、からみたおす
刺股、逃げるをひきたおす
袖がらみ。驚きうろたえるあいだに、バタバタと、
捕ってふせ、ねじふせ、
刃向かうものは、片っぱしから斬り立ててきた、
捕手の人数は、七、八十人もあろうかと見えた。
陣笠、
陣羽織のいでたちで、
堺奉行所の
提灯を片手に打ちふり、部下の捕手を
激励していた
佐々木伊勢守へ、
荒獅子のごとく
奮迅してきたのは、
頭の、
龍巻九郎右衛門であった。
「おのれッ」とさえぎる捕手を斬りとばして、
夜叉を思わせる
太刀風に、ワッと、
開いて近よる者もない折から
穴山梅雪一手の
剛者が、捕手に力をかして、からくも龍巻をしばりあげた。
「
民蔵、そのほうの
奇策はまんまと
図にあたった。こなたより
奉行所へ
密告したため、アレ見よ、
沖でも、この通りなさわぎをしているわい……小きみよい
悪党ばらの最後じゃ」
穴山梅雪は、
帰館すべくふたたびまえの
駒にのって、持ってきた黄金をも取りかえし、
武田伊那丸をも手に入れて、
得々と社頭から列をくりだした。
「手はじめの御奉公、
首尾よくまいって、民蔵めも
面目至極です。殿のご運をおよろこびもうしあげます」
「ういやつだ。こよいから
余の
近侍にとり立ててくれる。
伊那丸の
縄をとって、ついてこい」
いっぽう、
捕手にかこまれて、引ッ立てられた
龍巻は、この
態をみると、あたりの者をはねとばして、
形相すごく、
民蔵のそばへかけよった。
「
畜生。う、うぬはよくも、おれを
裏切りやがったな。一どは、
縄にかかっても、このまま、
獄門台に命を落とすような龍巻じゃねえぞ。きっとまたあばれだして、きさまの首をひンねじる日があるからおぼえていろ!」
「おお、心得た。だが、
拙者は腕力は弱いから、その時には、また今夜のように、
智慧くらべで戦おうわい」
久しぶりに、
小幡民部らしい口調でこたえた民蔵は、子供の悪たれでも聞きながすように笑って、他の武士たちと同列に、
梅雪の
館へついていった。
ここしばらく、京都に
滞在している
徳川家康の
陣営へにわかに目通りをねがってでたのは、
梅雪入道であった。
家康は、もうとッくに、
甲州北郡の
領土へ帰国したものと思っていた
穴山が、また途中から引きかえしてきたのは、なにごとかと意外におもって、そくざに、かれを
引見した。
梅雪は
御前にでて、
入道頭をとくいそうにふり立てて、かねて厳探中の
伊那丸を
捕縛した
顛末を、さらに
誇張して報告した。さしずめ、その
恩賞として、一万
石や二万
石のご加増はあってしかるべしであろうといわんばかり。
「ふム……そうか」
家康のゆがめた口のあたりに二重の
皺がきざまれた。これはいつも、思わしくない感情をあらわすかれの
特徴である。
「浜松のご城内へまで
潜入して、君のお
命をねらった不敵な伊那丸、生かしておきましては、ながく
徳川御一
門をおびやかし
奉るは
必定とぞんじまして……」
「待て、待て、わかっておる……」
梅雪はあんがい、いや、大不服である。
あれほど、伊那丸の首に、恩賞のぞみのままの
沙汰をふれておきながら、この
無愛想な口ぶりはどうだ。
しかし家康は、梅雪がうぬぼれているほど、かれを
腹心とは信じていない。
日本の歴史にも、
中華史上にも少ないくらいな、
武士の
面よごしが、
武田滅亡のさいに、二人あった。一人はこの梅雪、一人は
小山田信茂である。
織徳連合軍におわれた
勝頼主従が、その
臣、小山田信茂の
岩殿山をたよって落ちたとき、信茂は、
柵をかまえて入城をこばみ、勝頼一門が、
天目山の
討死を見殺しにした。そして、それを
軍功顔に、
織田の軍門へ
降っていった。
信長の子、
織田城之助は、
小山田を見るよりその不忠不人情を
罵倒して、
褒美はこれぞと、
陣刀一
閃のもとに首を討ちおとした。――そういう例もある。
ましてや、
梅雪入道は、
武田家譜代の
臣であるのみならず、
勝頼とは
従弟の
縁さえある。その
破廉恥は小山田以上といわねばならぬ。
――けれど
家康は、城之助とちがって、何者をも利用することを忘れない大将であった。
「梅雪、
伊那丸を
捕えたともうすが、それだけか」
「は? それだけとおおせられますると」
「たわけた入道よな。武田家の
護り
神とも
崇めておった
御旗楯無の
宝物は、たしかに、伊那丸がかくしているはずじゃ。その
儀をもうすのにわからぬか」
「はッ、いかさま。それまでには気がつきませんでした。さっそく、
糺明いたしてみます」
「
仏つくって、
魂いれぬようなことは、家康、大のきらいじゃ。伊那丸の首と、
御旗楯無とをそろえて、持参いたしてこそ、はじめて、まったき一つの働きをたてたともうすもの」
「願わくば、ここ
二月のご
猶予を、この入道にお与えくださりませ。きっとその宝物と、伊那丸の
塩漬け首とを、ともにごらんに
供えまする」
梅雪入道は、家康にかたく
誓って、そこそこに
堺へ立ちもどった。にわかに家来一同をまとめて、領土へ帰国の
旨を
布令だした。
その前にさきだって、
小幡民部の
民蔵は、いずこへか二、三通の
密書をとばした。はたしてどことどことへ、その密書がいったかは、
何人といえども知るよしはないが、うち一通は、たしかに
鞍馬山の
僧正谷にいる、
果心居士の手もとへ送られたらしい。
堺を出発した
穴山の一族
郎党は、
伊那丸をげんじゅうな
鎖駕籠にいれ、
威風堂々と、東海道をくだり、
駿府から西にまがって、一路甲州の
山関へつづく、
身延の街道へさしかかった。
ここらあたりは、見わたすかぎり果てしもない晩秋の広野である。
――ああそこは伊那丸にとって、思い出ふかき
富士の
裾野。
加賀見忍剣と手に手をとって、さまよいあるいた富士の裾野。
けれど、
鎖網をかけた、
駕籠のなかなる伊那丸の目には、なつかしい富士のすがたも見えなければ、富士川の流れも、
枯れすすきの波も見えない。
ただ耳にふれてくるものは、
蕭々と鳴る秋風のおと、
寥々とすだく虫の音があるばかり。
すると、どこでするのか、だれのすさびか、秋にふさわしい
笛の
音がする。その
妙な
音色は、
ふと伊那丸の心のそこへまで
沁みとおってきた。――かれは、まッ暗な
駕籠のなかで、じッと耳をすました。
「お!
咲耶子、咲耶子の笛ではないか」
思わずつぶやいた時である。なにごとか、いきなりドンと
駕籠がゆれかえった。
「ぶれい者、お
供先に立ってはならぬ」
「あやしい女、ひッ
捕えろ!」数人は、バラバラと前列のほうへかけあつまった。
穴山の
郎党たちは、たちまち、押しかぶさって、ひとりの少女をそこへねじふせた。
「しばらくお待ちくださいまし。わたくしは、けっしてあやしい者ではありませぬ。
穴山梅雪さまのご通行を
幸いに、お
訴えもうしたいことがあるのです」
「だまれ、ご道中でさようなことは、聞きとどけないわ、帰れッ」
と、家来どものののしる声を聞いて、駕籠の
扉をあけさせた梅雪は、
「しさいあり
気な
女子じゃ。なんの願いか聞いて取らせる。これへ呼べ」と一同を制止した。
うるわしいお
下髪にむすび、
帯のあいだへ笛をはさんだその
少女は、おずおずと、梅雪の駕籠の前へすすんで手をついた。
「訴えのおもむきをいうてみい。また、このようなさびしい
広野に、ただひとりおるそちは、いったい何者の娘だ」
「野武士の娘、
咲耶子ともうしまする。お訴えいたすまえに、おうかがいいたしたいのは、うしろの
鎖駕籠のなかにいるおかたです。もしや
武田伊那丸さまではございませんでしょうか」
「それを聞いてなんとする」
梅雪はおそろしい目を
咲耶子の
挙動に
注ぎかけた。
けれど彼女は、むじゃきに
咲いた野の花のよう、なんのおそれげもわだかまりもなく、あとのことばをさわやかにつづけた。
「まことは、まえに伊那丸さまから、ご大切な
宝物とやらを、父とわたくしとで、お
預かりもうしておりましたが、そのために、
親娘の者が、ひとかたならぬ
難儀をいたしておりますゆえ、きょう、お通りあそばしたのを
幸い、お返しもうしたいのでござります」
「ふーむ、して、その
宝物とやらはどんな物だ」
「このさきの、五
湖の一つへ
沈めてありますゆえ、どんな物かはぞんじませぬが、このごろ、あっちこっちの悪者がそれを
嗅ぎつけて、湖水の底をさぐり合っておりまする。なんでも
石櫃とやらにはいっている、
武田さまのお家の
宝だともうすことでござります」
「む、よう
訴えてきた。
褒美はぞんぶんにとらすからあんないせい」
梅雪の顔は、思いがけない幸運にめぐり合ったよろこびにあふれた。――が、
駕籠側にいた
民蔵は、サッと色をかえて、この
不都合な密告をしてきた少女を、人目さえなければ、ただ
一太刀に
斬ってすてたいような殺気をありありと目のなかにみなぎらせた。
行列はきゅうに方向を
転じて、五湖の一つに沈んでいる宝物をさぐりにむかった。けれども、
道案内に立った
咲耶子は西も東もわからぬ
広野を、ただグルグルと引きずりまわすのみなので、一同は、道なき道につかれ、
梅雪もようやくふしんの
眉をひそめはじめた。
「
民蔵はいないか、民蔵」と呼びつけて、
「
小娘の
挙動、だんだんと
合点がいかぬ。あるいは、野かせぎの
土賊ばらが、手先に使っている者かも知れぬ、も一ど、ひッ
捕えてただしてみろ」
「かしこまりました」
民蔵は得たりと思った。ばらばらと前列へかけ抜けてきて、いきなり、
むんずと咲耶子の
腕首をつかんだ。
「小娘ッ」まことは
甲州流兵法の
達人小幡民部が、こういってにらんだ眼光は
射るようだった。
「なんでござりますか」
「さきほどからみるに、わざと、道なき
野末へあんないしていくはあやしい。いったいどこへまいる気だ」
「知りませぬ、わたしは、ひとりで好きに歩いているのですから」
「だまれ、五湖へあんないいたすともうしたのではないか」
「だれが、
穴山さまのような、けがらわしい
犬侍のあんないになど立ちましょうか」
「おのれ、さては
野盗の手引きか」
「いいえ、ちがいます」
「
吐かすなッ。さらば何者にたのまれた」
「
御旗楯無の宝物が欲しさに、慾に目がくらんで、わたしのような少女にまんまとだまされた! オホホホホ……やッとお気がつかれましたか」
「おのれッ」
抜く手も見せず、
民蔵がサッと
斬りつけた
切ッ
先からヒラリと、
蝶のごとく
跳びかわした
咲耶子は、バラバラと小高い
丘へかけあがるよりはやく、
帯の横笛をひき抜いて、片手に持ったまま
宙へ高く、ふってふってふりまわした。
ああ! こはそもなに? なんの
合図。
それと同時に、ただいちめんの野と見えた、あなたこなたのすすきの根、小川のへり、
窪地のかげなどから、たちまち、むくむくとうごきだした人影。
ウワーッと
喊声をあげて、あらわれたのは四、五十人の
野武士である。手に手に
太刀をふりかざして、あわてふためく
穴山一
党のなかへ、
天魔軍のごとく
猛然と
斬りこんだ。
ニッコと笑って、
丘に立った咲耶子が、さッと一
閃、笛をあげればかかり、二
閃、さッと横にふればしりぞき、三
閃すればたちまち姿をかくす――
神変ふしぎな
胡蝶の陣。
きょうも
棒切れを手にもって、友だち
小猿を二、三十
匹つれ、
僧正谷から、
百足虫腹の
嶮岨をつたい、
鞍馬の
大深林をあそびまわっているのは、
果心居士の
童弟子、
いが栗あたまの
竹童であった。
「おや、こんなところへだれかやってくるぞ……このごろ人間がよくのぼってくるなア」
竹童がつぶやいた向こうを見ると、なるほど、
菅笠に
脚絆がけの男が、深林の道にまよってウロウロしている。
「オーイ、オーイ――」
とかれが口に手をあてて呼ぶと、菅笠の男が、スタスタこっちへかけてきたが、見ればまだ十
歳ぐらいの男の子が、たッたひとり、多くの
猿にとり
巻かれているのでへんな顔をした。
「おじさん、どこへいくんだい、こんなところにマゴマゴしていると、うわばみに食べられちまうぜ」
「おまえこそいったい何者だい、
鞍馬寺の
小坊主さんでもなし、まさか山男の
伜でもあるまい」
「何者だなんて、
生意気をいうまえに、おじさんこそ、何者だかいうのが
本来だよ。おいらはこの山に住んでる者だし、おじさんはだまって、人の山へはいってきた
風来人じゃないか」
「おどろいたな」と旅の男はあきれ顔に――「じつは
僧正谷の
果心居士さまとおっしゃるおかたのところへ、
堺のあるおかたから手紙をたのまれてきたのさ」
「アア、うちのお
師匠さまへ手紙を持ってきたのか、それならおいらにおだしよ。すぐとどけてやる」
「じゃおまえは果心居士さまのお
弟子か、やれやれありがたい人に会った」
と、男は
竹童に手紙をわたしてスタスタ下山していった。
「いそぎの手紙だといけないから、さきへこいつに持たしてやろう」
と竹童はその手紙を、一
匹の
小猿にくわえさせて、
鞭で僧正谷の
方角をさすと、
猿は心得たようにいっさんにとんでいく。そのあとで、
「さッ、こい、おいらとかけッくらだ」
竹童は、とくいの
口笛を吹きながら、ほかの
猿とごッたになって、深林の
奥へおくへとかけこんでいったが、ややあって、頭の上でバタバタという
異様なひびき。
「おや? ――」と、かれは立ちどまった。小猿たちは、なんにおびやかされたのか、かれひとりを置き
捨てにして、ワラワラとどこかへ
姿をかくしてしまった。
「やア……やア……やア
奇態だ」
なにもかも忘れはてたようすである。あおむいたまま、いつまでも
棒立ちになっている
竹童の顔へ、上の
梢からバラバラと松の皮がこぼれ落ちてきたが、かれは、それをはらうことすらも忘れている。
そも、竹童の目は、なんに
吸いつけられているのかと見れば、じっさい、おどろくべき
怪物――といってもよい大うわばみが、
鞍馬山にはめずらしい
大鷲を、
翼の上から
十重二十重にグルグル
巻きしめ、その首と首だけが、そうほうまっ赤な口から
火焔をふきあって、ジッとにらみあっているのだ。まさに
龍攘虎搏よりものすごい
決闘の
最中。
「や……おもしろいな。おもしろいな。どっちが勝つだろう」
竹童おどろきもせず、口アングリ
開いて見ていることややしばし、たちまち、
鼓膜をつんざくような
大鷲の
絶鳴とともに、
大蛇に巻きしめられていた
双の
翼がバサッとひろがったせつな、あたりいちめん、嵐に吹きちる
紅葉のくれないを見せ、
寸断されたうわばみの
死骸が、バラバラになって大地へ落ちてきた。
それを見るや
否や、雲を
霞と、
僧正谷へとんで帰った竹童。
果心居士の
荘園へかけこむがはやいか、めずらしい今の話を
告げるつもりで、
「お
師匠さま、お師匠さま」と
呼びたてた。
「うるさい
和子じゃ。あまり飛んで歩いてばかりいると、またその足がうごかぬようになるぞよ」
芭蕉亭の
竹縁に腰かけていた
居士の目が、ジロリと光る、その手に持っている手紙をみた
竹童は、ふいとさっきの用を思いだして、うわばみと
鷲の話ができなくなった。
「あ、お
師匠さま、さきほど、お手紙がまいりましたから、
猿に持たせてよこしました。もうごらんなさいましたか」と目の玉をクルリとさせる。
「
横着なやつめ。
小幡民部どのからの大切なご書面、もし
失のうたらどうするつもりじゃ」
「ハイ」
竹童は頭をかいて下をむいた。
居士は、
白髯のなかから苦笑をもらしたが、
叱言をやめて
語調をかえる。
「ところでこの手紙によって急用ができた、竹童、おまえちょっとわたしの使いにいってくれねばならぬ」
「お使いは大好きです。どこへでもまいります」
「ム、大いそぎで、
武蔵の国、
高尾山の
奥院までいってきてくれ、しさいはここに書いておいた」
「お師匠さま、あなたはごむりばかりおっしゃります」
「なにがむりじゃの」
「この
鞍馬の山奥から、武蔵の高尾山までは、二百
里もございましょう。なんでちょっといってくるなんていうわけにいくものですか、だからつねづねわたしにも、お
師匠さまの
飛走の術をおしえてくださいともうすのに、いっこうおしえてくださらないから、こんな時にはこまってしまいます」
「なぜ口をとがらすか、けっしてむりをいいつけるのではない。それにはちょうどいい
道案内をつけてやるから、
和子はただ目をつぶってさえいればよい」
「へー、では、だれかわたしを連れていってくれるんですか」
「オオ、いまここへ
呼んでやるから見ておれよ」
と
果心居士は、
露芝の上へでて、手に持ったいちめんの
白扇をサッとひらき、
要にフッと息をかけて、あなたへ投げると、
扇はツイと風に乗って飛ぶよと見るまに、ひらりと一
羽の
鶴に化してのどかに空へ舞いあがった。
ア――と
竹童は目をみはっていると、たちまち、
宙天からすさまじい
疾風を起してきた黒い
大鷲、鶴を目がけてパッと飛びかかる。鶴は白毛を雪のごとく散らして逃げまわり、鷲のするどい
爪に追いかけられて、果心居士の手もとへ逃げて下りてきたが、そのとたん、居士がひょいと手をのばすと、すでに、鶴は一本の扇となって手のうちにつかまれ、それを追ってきた大鷲は、居士の
膝の前に
翼をおさめて、ピッタリおとなしくうずくまっている。
「
竹童竹童、その
泉の水を少々くんでこい」
「ハイ」
あっけにとられて見ていた竹童は、
居士にいいつけられたまま、岩のあいだから、こんこんと
湧きいでている泉をすくってきた。
「かわいそうにこの
鷲は、片目を鉄砲で
撃たれているため、だいぶ苦しがっている。はやくその
霊泉で洗ってやるがよい。すぐなおる」
「ハイ」
竹童は草の葉ひとつかみを取ってひたし、いくたびか鷲の目を洗ってやった。
大鷲は心地よげに竹童のなすがままにまかせていた。
「おまえの
道案内はこの鷲だ。これに乗ってかける時は千里の旅も一日の
暇じゃ、よいか」
「これに乗るんですか、お
師匠さま、あぶないナ」
「たわけめが」
喝! と
叱りつけた
果心居士は、竹童がアッというまに
襟くびをグッとよせて、
「エーッ」と一声、片手につかんでほうりなげた。ブーンと風を切った竹童のからだは、
珠のごとく飛んで、はるかあなたの
築山の上へいって、ヒョッコリ立ったが、たちまち、そこからかけもどってきてニコニコ笑いながら
澄ましている。
「お師匠さま、またいたずらをなさいましたね」
「どうだ、どこかけがでもしたか」
「いいえ、そんな
竹童ではございません。わたしはお
師匠さまから、まえに
浮体の術を
授かっておりますもの」
「それみよ。なぜいつもその心がけでおらぬ。この
鷲に乗っていくのがなんであぶない、
浮体の
息を心得てのれば一本の
藁より身のかるいものだ」
「わかりました。さっそくいってまいります」
「オオ書面にて
認めておいたが、時おくれては、
武田伊那丸さまのお身があぶない、いや、あるいは
小幡民部どのの
命にもかかわる、いそいでいくのじゃ」
「そして、だれにこの手紙をわたすのですか」
「
高尾の
奥院にかくれている、
加賀見忍剣どのという者にわたせばよい。その忍剣はこの鷲のすがたを毎日待ちこがれているであろう。またこの鷲も
霊鷲であるから、かならず忍剣のすがたを見れば地におりていくにちがいない」
「かしこまりました。よくわかりました」
「かならず
道草をしていてはならぬぞ」
「ハイ、心得ております」
と竹童はしたくをした――したくといっても、例の
棒切れを刀のように腰へさして、
稗と草の
芽を
団子にした
兵糧をブラさげて、ヒラリと鷲の背にとびつくが早いか、鷲は地上の木の葉をワラワラとまきあげて、青空たかく飛びあがった。
伊那丸とちがって
竹童は、
浮体の法を心得ているうえ、深山にそだって
鳥獣をあつかいなれている。かれはしばらく目をつぶっていたがなれるにしたがって平気になりはるかの
下界を見廻しはじめた。
「オオ高い高い、もう
鞍馬も
貴船山も
半国ヶ
岳も、あんな遠くへ
小ッちゃくなってしまった。やア、京都の町が右手に見える、むこうに見える
鏡のようなのは
琵琶湖だナ、この眼下は
大津の町……」
と
夢中になっているうちに、ヒュッとなにかが、耳のそばをうなってかすりぬけた。
「や、なんだ」
と竹童はびっくりしてふりかえった時、またもや下からとんできたのは
白羽の
征矢、つづいてきらきらとひかる
鏃が風を切って、三の矢、四の矢と
隙もなくうなってくる。
「おや、さてはだれか、この
鷲をねらうやつがある、こいつはゆだんができないゾ」
と竹童は例の
棒切れを片手に持って、くる矢くる矢をパラパラと打ちはらっていたが、それに気をとられていたのが
不覚、たいせつな
果心居士の手紙を、うッかり
懐中から取りおとしてしまった。
「アッ、アアアアア……しまった!」
ヒラヒラと落ちいく手紙へ、思わず口走りながら身をのばしたせつな、竹童のからだまで、あやうく鷲の
背中からふりおとされそうになった。
大津の町の
弓道家、
山県蔦之助は、このあいだ、
日吉の
五重塔であやしいものを
射損じたというので、かれを
今為朝とまでたたえていた人々まで、にわかに口うら返して、さんざんに悪い
評判をたてた。
それをうるさいと思ってか、蔦之助は、以来ピッタリ道場の門をとざして、めったにそとへすがたを見せず、世間の悪口もよそに、
兵書部屋へこもり、ひたすら
武技の研究に余念がなかった。
その日も、しずかに兵書をひもといていた
蔦之助は、ふと町にあたって、ガヤガヤという人声がどよみだしたので、文字から目をはなして耳をそばだてた。とそこへ、
下僕の
関市が、あわただしくかけこんできてこういう。
「
旦那さま旦那さま。まアはやくでてごらんなさいまし、とてもすばらしい
大鷲が、
比叡のうしろから飛びまわってまいりました。お早く、お早く」
「鷲?」
と蔦之助は
部屋から庭へヒラリと、身をおどらして大空をあおぐと、なるほど、関市のぎょうさんなしらせも道理、かつて話に聞いたこともない
黒鷲が、比叡の
峰の
背からまッさかさまに
大津の空へとかかってくるところ。
「関市!
張りの強い弓を! それと
太矢を七、八本」
「へい」と
関市が、大あわてで取りだしてきた
節巻の
籐に
くすね引きの
弦をかけた
強弓。とる手もおそしと、
槙の
葉鏃の
太矢をつがえた
蔦之助は、
虚空へむけて、ギリギリとひきしぼるよと見るまに、はやくも一の矢プツン! と切る、すぐ関市が
代り矢を出す。それを取ってさらに
射る。その
迅さ、あざやかさ、目にもとまらぬくらい。
しかしその矢は、二どめからみな
宙にあがって二つにおれ、ハラリ、ハラリと地上に返ってくる。てっきり
鷲の上には何者かがいる! 蔦之助ももとより
射おとすつもりではない。そのふしぎな人物をなんとかして地上へおろしてみたら、あるいは、
日吉の
塔の上にいた、
奇怪な人間のなぞもとけようかと考えたのであった。
矢数はひょうひょうと
虹のごとく
放たれたが、時間はほんの
瞬間、すでに
大鷲は町の空を
斜めによぎって、その
雄姿を
琵琶湖のほうへかけらせたが、なにか白い物をとちゅうからヒラヒラと落としさった。それを見て、
「よしッ」
ガラリと弓を投げすてた蔦之助は、
紙片の落ちたところを目ざして、息もつかさずにかけだした。
飛ぶがごとく町はずれをでたかれは、一
念がとどいて、ある原へ
舞いおちたものをひろった。
手にとって
開いてみれば、
芭蕉紙ぐるみの一通の書面。
加賀見忍剣どのへ知らせん この状を手にされし日 ただちに錫杖を富士の西裾野へむけよ たずねたもう御方あらん 同志の人々にも会い給わん
かしん居士
竹童は弱った。
しんそこからこまった。
大切な手紙を取りおとしては、お
師匠さまから、どんなお
叱りをうけるか知れないと、かれはあわてて
鷲をおろした。そこはうつくしい
鳰鳥の浮いている
琵琶湖のほとり、
膳所の松原のかげであった。
「これクロよ、おいらが手紙をさがしてくるあいだ、
後生だから待ってるんだぞ、そこで
魚でも取って待っているんだぞ、いいか、いいか」
竹童は鷲にたいして、人間にいい聞かせるとおりのことばを残し、スタスタ松と松のあいだを走りだしてくると、反対にむこうからも息をきって、こなたへいそいできたひとりの武士があった――いうまでもなく
山県蔦之助である。
ふたりはバッタリ細い小道でゆき会った。竹童がなにげなく蔦之助の片手をみると、まさしくおとした手紙をつかんでいる。蔦之助もまた、
素はだし
尻きり衣服に、棒切れを腰にさした、いような
小僧のすがたに目をみはった。
「これ子供、子供。……つんぼか、なぜ
返辞をせぬ」
「おじさん、おいら子供じゃないぜ」
「なに子供じゃないと、では
何歳じゃ」
「九ツだよ。だけれど
大人だけの働きをするから子供じゃない、アアそんなことはどうでもいい、おいらおじさんに聞きたいけれど、そっちの手につかんでいるものはなんだい? 見せておくれよ」
「ばかをもうせ。それより
拙者のほうがきくが、いましがた、
大津の町の上をとんでいた
鷲が、ここらあたりでおりた
形跡はないか、どうじゃ」
「
白ばッくれちゃいけない。その手紙をおだしよ」
「この
童めッ、
無礼をもうすな」
「なにッ、返さなきゃこうだぞ」
と、
竹童からだは小さいが身ごなしの
敏捷おどろくばかり、
不意に
蔦之助に飛びかかったと思うと、かれの手から手紙をひッたくって、バラバラと逃げだした。
「
小僧ッ――」と追い
討ちにのびた蔦之助の
烈剣に、あわや、竹童まッ二つになったかと見れば、
切ッ
先三
寸のところから一
躍して四、五
間も先へとびのいた。
「きゃつ、ただ者ではない」ととっさにおもった蔦之助は、いっさんに追いかけながら、ピュッと手のうちからなげた流星の
手裏剣! それとは、さすがに用心しなかった竹童の
踵をぷッつり
刺しとめた。
「あッ!」ドタリと前へころんだところを、すかさずかけよってねじつけた、蔦之助の
強力。それには
竹童も泣きそうになった。
「おじさん、おじさん、なんだっておいらの手紙をそんなにほしがるんだい――苦しいから
堪忍しておくれよ。この手紙は大切な手紙だから」
「なんじゃ、ではこの書面は
汝が持っていた物か」
「ああ、おいらが遠方の人へとどけにいくんだ」
「ではいましがた、
鷲の上にのっていたのは?」
「おいらだよ、アア、
喉がくるしい」
「えッ、そのほうか」
とびっくりして、竹童をだきおこした
蔦之助は、しばらくしげしげとかれの姿をみつめていたが、やがて、松の
根方へ腰をおろして、心からこのおさない者に
謝罪した。
「知らぬこととはもうせ、飛んだ
粗相をいたした。どうかゆるしてくれい、そこで、あらためて聞きたいが、
御身はその手紙にある
果心居士のお
弟子か」
「そうだ……」竹童も岩の上にあぐらをかいて、腰のふくろから薬草の葉を取りだし、手でやわらかにもんだやつを
踵のきずへはりつけている。
「ではさきごろ、
日吉の
五重塔へ登っていたのも居士ではなかったか、
恥をもうせば、
里人の望みにまかせて
射たところが、一
羽の
鷺となって逃げうせた」
「おじさんはむちゃだなあ、おいらのお
師匠さまへ矢をむけるのは、お月さまを
射るのと同じだよ」
「やっぱりそうであったか、いや
面目もないことであった。ところで、さらにくどいようじゃが、そちの持っている書面にある
加賀見忍剣ともうすかたは、ただいまどこにおいでになるのか、また、たずねるお方とはどなたを指したものか、
山県蔦之助が頭をさげてたのむ。どうか教えてもらいたい」
「いやだ」
竹童はきつくかぶりをふった。
「なぜ?」
「わからないおじさんだナ、なんだって人がおとした手紙のなかをだまって読んだのさ。だからいやだ」
「ウーム、それも
重々拙者が悪かった、ひらにあやまる」
「じゃあ話してやってもいいが、うかつな人にはうち明けられない、いったいおじさんは何者?」
「父はもと甲州二十七
将の一人であったが、拙者の
代となってからは天下の
浪人、
大津の町で
弓術の
指南をしている山県蔦之助ともうすものじゃ」
「えッ、じゃあおじさんも
武田の浪人か――ふしぎだなア……おいらのお
師匠さまも、ずっと昔は
武田家の
侍だったんだ」
といいかけて竹童は、まえに
居士から口止めされたことに気がついたか、ふッと口をつぐんでしまった。そのかわり、これから、
居士の
命をうけて
武州高尾にいる忍剣のところへいくこと、また
過日、
小幡民部から
通牒がきて、なにごとか
伊那丸の身辺に一大事が起っているらしいということ、さては、書中にある
御方という人こそ
信玄の
孫武田伊那丸であることまで、残るところなく説明した。
聞きおわった
蔦之助は、こおどりせんばかりによろこんだ。
武田滅亡の
末路をながめて、
悲憤にたえなかったかれは、伊那丸の
行方を、
今日までどれほどたずねにたずねていたか知れないのだ。
「これこそ、まことに
天冥のお引きあわせだ。
拙者もこれよりすぐに、
富士の
裾野へむけて
出立いたす、
竹童とやら、またいつかの時にあうであろう」
「ではあなたも裾野へかけつけますか、わたしもいそがねば、伊那丸さまの一大事です」
「おお、ずいぶん気をつけていくがよい」
「大じょうぶ、おさらばです」
竹童はふたたび
鷲の背にかくれて、舞いあがるよと見るまに、いっきに
琵琶湖の空をこえて、
伊吹の山のあなたへ――。
いっぽう、
山県蔦之助は、その日のうちに、
武芸者姿いさましく、
富士ヶ
根さして旅立った。
「まだきょうも空に見えない、ああクロはどうしたろう……?」
毎日高尾の
山巓にたって、一
羽の鳥影も見のがさずに、
鷲の帰るのを待ちわびている者は、
加賀見忍剣その人である。
快風一陣! かれを
狂喜せしめた
便りは天の一
角からきた。クロの足にむすびつけられた
伊那丸の
血書の文字、
竹童がもたらしてきた
果心居士の手紙。かれははふりおつる涙をはらいつつ、二通の文字をくり返しくりかえし読んだ。
「これを手に受けたらその日に立てとある――オオ、こうしてはいられないのだ。竹童とやら、はるばる使いにきてご苦労だったが、わしはこれからすぐ、伊那丸さまのおいでになるところへいそがねばならぬ、
鞍馬へ帰ったら、どうかご
老台へよろしくお礼をもうしあげてくれ」
「ハイ
承知しました。だけれどお
坊さん、おいらは少しこまったことができてしまった」
「なんじゃ、お使いの
褒美に、たいがいのことは聞いてやる、なにか望みがあるならもうすがよい」
「ううん、褒美なんかいらないけれど、そのクロという鷲はお坊さんのものなんだネ」
「いやいや、この鷲はわたしの
飼い鳥でもない、
持主といえば、
武田家にご
由緒のふかい鳥ゆえ、まず伊那丸君の物とでももうそうか」
「ネ、おいら、ほんとをいうと、このクロと
別れるのがいやになってしまったんだよ。きっと大切にして、いつでも用のある時には飛んでいくから、おいらにかしといてくんないか」
天真爛漫な願いに、忍剣もおもわず
微笑んでそれをゆるした。
竹童は大よろこび、あたかも友だちにだきつくようにクロの背なかへふたたび身を乗せて、忍剣に
別れを
告げるのも空の上から――いずこともなく飛びさってしまった。
間もなく、高尾の
奥院からくだってきた
加賀見忍剣は、
神馬小舎から一頭の馬をひきだし、鉄の
錫杖をななめに
背にむすびつけて、
法衣の
袖も高からげに
手綱をとり、
夜路山路のきらいなく、南へ南へと
駒をかけとばした。
ほのぼの明けた次の朝、まだ野も山も森も見えぬ
霧のなかから、
「オーイ、オーイ」
と忍剣の駒を追いかけてくる者がある。しかも、あとからくる者も
騎馬と見えて、パパパパパとひびく
蹄の音、はて何者かしらと、忍剣が
馬首をめぐらせて待ちうけているとたちまち、目の前へあらわれてきた者は、
黒鹿毛にまたがった
白衣の男と
朱柄の
槍を小わきにかいこんだりりしい若者。
「もしやそれへおいでになるのは、加賀見忍剣どのではござらぬか」
「や! そういわれる
其許たちは」
「おお、いつか
裾野の
文殊閣で、たがいに心のうちを知らず、
伊那丸君をうばいあった
木隠龍太郎」
「またわたくしは、
巽小文治ともうす者」
「おお、ではおのおのがたも、ひとしく伊那丸さまのおんために力をおあわせくださる勇士たちでしたか」
「いうまでもないこと。
忍剣どののおはなしは、くわしくのちにうけたまわった。じつは我々両名の者は、
小太郎山に
砦をきずく用意にかかっておりましたが、はからずも主君伊那丸さまが、
穴山梅雪の手にかこまれて、きょう
裾野へさしかかるゆえ、
出会せよという
小幡民部どのからの
諜状、それゆえいそぐところでござる」
「思いがけないところで、
同志のおのおのと落ち会いましたことよ。なにをつつみましょう。まこと、わたくしもこれよりさしていくところは、
富士の裾野」
「忍剣どのも加わるとあれば、
千兵にまさる
今日の味方、穴山一族の
木ッ
葉武者どもが、たとえ、
幾百
幾千
騎あろうとも、おそるるところはござりませぬ」
「きょうこそ、若君のおすがたを
拝しうるは
必定です」
「おお、さらば一刻もはやく!」
轡をならべて、同時にあてた三
騎の
鞭!
一声高くいななき渡って、霧のあなたへ、
駒も勇士もたちまち影を
没しさったが、まだ
目指すところまでは、いくたの
嶮路いくすじの川、
渺茫裾野の道も幾十里かある。
霧ははれた。そして
紺碧の空へ、雄大なる
芙蓉峰の
麗姿が、きょうはことに
壮美の
極致にえがきだされた。
富士は
千古のすがた、男の子の清い
魂のすがた、
大和撫子の
乙女のすがた。――日本を
象徴した天地に一つの
誇り。
いまや、その
裾野の一角にあって、
咲耶子がふったただ一本の
笛の先から、
震天動地の雲はゆるぎだした。
閃々たる
稲妻はきらめきだした。
雨を呼ぶか、
雷が鳴るか、
穴山軍勝つか、
胡蝶陣勝つか?
武田伊那丸と
小幡民部の
民蔵は、どんな行動をとりだすだろうか? 富士はすべて見おろしている――
胡蝶の陣! 胡蝶の陣!
裾野にそよぐ
穂すすきが、みな
閃々たる
白刃となり
武者となって、声をあげたのかと
疑われるほど、ふいにおこってきた四面の
伏敵。
野末のおくにさそいこまれて、このおとしあなにかかった
穴山梅雪入道は、馬からおちんばかりにぎょうてんしたが、あやうく
鞍つぼに
踏みこたえて、腰なる陣刀をひきぬき、
「
退くな。たかの知れた
野武士どもがなにほどぞ、
一押しにもみつぶせや!」
と、うろたえさわぐ
郎党たちをはげました。
音にひびいた
穴山一
族、その
旗下には勇士もけっしてすくなくない。
天野刑部、
佐分利五郎次、
猪子伴作、
足助主水正などは、なかでも有名な四
天王、まッさきに
槍の
穂をそろえておどりたち、
「おうッ」
と、
吠えるが早いか、
胡蝶の
陣の
中堅を目がけて、
無二
無三につきすすんだ。それにいきおいつけられたあとの面々、
「それッ。
烏合のやつばら、ひとりあまさず、
討ってとれ」
と、
具足の音を
霰のようにさせ、
槍、
陣刀、
薙刀など思いおもいな
得物をふりかざし、四ほうにパッとひらいて
斬りむすんだ。
「やや一大事! だれぞないか、
伊那丸の
駕籠をかためていた者は取ってかえせ、敵の手にうばわれては取りかえしがつかぬぞッ」
たちまちの乱軍に、
梅雪入道がこうさけんだのも、もっとも、大切な駕籠はほうりだされて、いつのまにか、
警固の
武士はみなそのそばをはなれていた。
「心得てござります」
いち早くも、梅雪の前をはしりぬけて、れいの――伊那丸がおしこめられてある
鎖駕籠の屋根へ、ヒラリととびあがって八ぽうをにらみまわした者は、
別人ならぬ
小幡民部であった。
かりにも、乗物の上へ、
土足で
跳ひあがった
罪――ゆるし
給え――と
民部は心に
念じていたが、とは知らぬ
梅雪入道、ちらとこの
態をながめるより、
「お、
新参の
民蔵であるな、いつもながら
気転のきいたやつ……」
とたのもしそうにニッコリとしたが、ふとまた一ぽうをかえりみて、たちまち顔いろを変えてしまった。
咲耶子がふった
横笛の
合図とともに、押しつつんできた人数はかれこれ八、九十人、それに
斬りむかっていった
穴山方の
郎党もおよそ七、八十人、数の上からこれをみれば、まさに、そうほう
互角の
対陣であった。
しかし、一ぽうは勇あって
訓練なき
野武士のあつまり。こなたは
兵法のかけ引き、
実戦の経験もたしかな兵である。
梅雪入道ならずとも、とうぜん、勝ちは穴山方にありと信じられていた。ところが
形勢はガラリとかわって、なにごとぞ、四
天王以下の面々は名もなき野武士の
切ッ
先にかけまわされ、
胡蝶の
陣の
変化自在の陣法にげんわくされて、浮き足みだしてくずれ立ってきた。と見るや、
怒りたった入道は、
「ええ
腑甲斐のない
郎党ども、このうえは、梅雪みずからけちらしてくれよう!」
両の
手綱を左の手にあつめ、右手に
陣刀をふりかざしてあわや、乱軍のなかへ
馬首をむけてかけ入ろうとした。
とそのとき、
「しばらくしばらく、そもわが君は、お
命をいずこへ捨てにいかれるお心でござるか!」
声たからかに
呼びとめた者がある。
「なに?」ふりかえってみると、それは、
伊那丸の
駕籠の上に立った
小幡民部。
梅雪はせきこんで、
「やあ、
民蔵、
汝はなにをもって、さような
不吉をもうすのじゃ」
「されば、殿の
御身を大切と思えばこそ」
「して、なんのしさいがあって」
「眼を大にしてごらんあれ。敵は
野武士といいながら、
神変ふしぎな少女の陣法によってうごくもの、これすなわち
奇兵でござる。あなどってその
策におちいるときは、殿のお
命とてあやうきこと明らかでござりまする」
「うーむ、してかれの
陣法とは」
「
伏現自在の
胡蝶の
陣」
「やぶる
手策は?」
「ござりませぬ」
「ばかなッ」
「うそとおぼし
召すか」
「おおさ、
年端もゆかぬ
女童が指揮する
野武士の百人足らず、なんで破れぬことがあろうか」
「ではしばらくここにて四ほうを
観望なさるがなにより。おお
佐分利五郎次の
組子はやぶれた、ああ
足助主水正もたちまち
袋のねずみ……」
「なんの、
余が四
天王じゃ、いまにきっと
盛り返して、あの手の野武士をみな殺しにするであろうわ」
「
危ういかな、危ういかな、かしこの
窪地へ追いこまれた
猪子伴作、
天野刑部、その他十七、八名の味方の者どもこそ、すんでに敵の
術中におちいり、みな殺しとなるばかり」
「や、や、や、や、や!」
「おお!
殿にもご用意あれや、早くも
伊那丸の
駕籠を目がけて、
総勢の力をあつめてくるような敵の
奇変と見えまするぞ」
「お、お、お、
民蔵民蔵、
汝になんぞ
策はないか」
梅雪のようすは、にわかにうろたえて見えだした。
「おそれながら、しばしのあいだ、殿の
采配を
拙者におかしたまわるなら、かならず、かれの
奇襲をやぶって味方の勝利となし、なお、野武士を
指揮なすあやしき少女をも
生けどってごらんに入れます」
「ゆるす、すこしも早く味方の者を
救いとらせい」
さしも
強情な
穴山梅雪も、
論より
証拠、
民部のことばのとおり、味方がさんざん
敗北となってきたのを見て、もう
ゆうよもならなくなったのであろう。こなたへ
駒を寄せてきて、
小幡民部の手へ
采配をさずけた。
「ごめん」
受けとって押しいただいた
民部は、
駕籠の上に立ったまま、八ぽうの戦機をきッと見渡したのち、おごそかに
軍師たるの
姿勢をとり、
采の
さばきもあざやかに、
さッ、さッ、さッ。
虚空に半円をえがいて、風をきること
三度。
ああなんという見事さ、それこそ、
本朝の
諸葛亮か
孫呉かといわれた甲州流の
軍学家、
小幡景憲の
軍配ぶりとそッくりそのまま。
「や?」
よもや、
新参の
民蔵が、その人の一
子、
民部であろうとは、
夢にも知らない
梅雪入道、おもわず
驚嘆の声をもらしてしまった。
月の夜には
澄み、
朝は露をまろばせても、聞く人もないこの
裾野に、ひとり楽しんでいる
笛は、
咲耶子が好きで好きでたまらない横笛ではないか。
しかし、その
優雅な横笛は、時にとって身を守る
剣ともなり、時には、
猛獣のような
野武士どもを自由自在にあやつるムチともなる。
いましも、小高い
丘の上にたって、その
愛笛を頭上にたかくささげ、部下のうごきから
瞳をはなたずにいた彼女のすがたは、地上におりた金星の
化身といおうか、富士の
女神とたとえようか、
丈なす黒髪は風にみだれて、
麗しいともなんともいいようがない。
「アッ――」
ふいに、彼女の
唇を
洩れたかすかなおどろき。
その
眸のかがやくところをみれば、いまがいままでしどろもどろにみだれたっていた、
穴山梅雪の
郎党たちはひとりの
武士の
采配を見るや、たちまちサッと
退いて中央に一列となった。
それは
民部の立てた
蛇形の陣。
咲耶子はチラと
眉をひそめたが、にわかに
右手の笛をはげしく
斜めにふって落とすこと二へん、最後に左の肩へサッとあげた。――とみた野武士の
猛勇は、ワッと声つなみをあげて、
蛇形陣の
腹背から、勝ちにのって攻めかかった。
そのとき早く、ふたたび民部の采配が、
龍を呼ぶごとくさっとうごいた。と見れば、蛇形の列は
忽然と二つに折れ、まえとは打ってかわって一
糸みだれず、
扇形になってジリジリと野武士の
隊伍を遠巻きに抱いてきた。
「あッ、いけない。あれはおそろしい
鶴翼の計略」
咲耶子はややあわてて、笛を天から下へとふってふってふりぬいた。
それは退軍の
合図であったと見えて、いままで
攻勢をとっていた
野武士たちは、一どにどッと
潮のごとく引きあげてきたようす。が、
民部の
采配は、それに息をつく
間もあたえず、たちまち八
射の急陣と変え、はやきこと
奔流のように、
追えや追えやと
追撃してきた。
「オオ、なんとしたことであろう」
あまりの
口惜しさに、
咲耶子はさらに再三再四、
胡蝶の
陣を立てなおして、
応戦をこころみたが、こなたで
焔の陣をしけば、かれは水の陣を流して防ぎ、その
軍配は
孫呉の
化身か、
楠の再来かと、あやしまれるほど、
機略縦横の
妙をきわめ、手足のごとく、奇兵に奇兵を
次いでくる。
さすがの
胡蝶陣に
妙をえた
咲耶子も、いまはほどこすに
術もなくなった。
精鋭無比の彼女の部下の
刃も、いまはしだいしだいに疲れてくるばかり。
「それッ、この機をはずすな!」
「いずこまでも追って追って追いまくれッ」
「
裾野の
野武士を
根絶やしにしてくれようぞ」
穴山の四
天王猪子伴作、
足助主水正、その他の
郎党は、民部が神のごとき采配ぶりにたちまち
頽勢を
盛りかえし、
猛然と
血槍をふるって
追撃してきた。
西へ逃げれば西に敵、南に逃げれば南に敵、まったく民部の作戦に
翻弄されつくした野武士たちは、いよいよ地にもぐるか、空にかけるのほか、逃げる
路はなくなってしまった。
と、
咲耶子のいる
丘の上から、
悲調をおびた笛の
音が
一声高く聞えたかと思うと、いままでワラワラ逃げまどっていた
野武士たちの影は、
忽然として、草むらのうちにかくれてしまった。
胆をけした
穴山一族の
将卒は、
血眼になって、草わけ、小川の
縁をかけまわったが、もうどこにも一人の敵すら見あたらず、ただいちめんの秋草の波に、
野分の風がザアザアと渡るばかり。
狐につままれたようなうろたえざまを、
丘の上からながめた咲耶子は、帯のあいだに笛をはさみながら、ニッコリ
微笑をもらして、丘のうしろへとびおりようとしたその時である。
「咲耶子とやら、もうそちの逃げ道はないぞ」
りんとした声が、どこからか
響いてきた。
「え?」思わず目をみはった彼女の前に、ヒラリとおどりあがってきたのは、いつのまにここへきたのか、さっきまで
采配をとって
敵陣にすがたをみせていた
小幡民部であった。
「あッ」
さすがの彼女もびっくりして、
丘のあなたへ走りだすと、そのまえに、四
天王の
佐分利五郎次が、八、九人の
武士とともに、
槍ぶすまをつくってあらわれた。ハッと思って横へまわれば、そこからも、不意にワーッと
鬨の声があがった。うしろへ抜けようとすればそこにも敵。
いまはもう四
面楚歌だ。
絶望の胸をいだいて、立ちすくんでしまうよりほかなかった。とみるまに、丘の上は
穴山方の
薙刀や
太刀で、まるで剣をうえた林か、
針の山のように、いっぱいにうずまってしまった。
「
咲耶子、咲耶子、もういかにもがいても、この八
門鉄壁のなかからのがれることはできぬぞ、
神妙に
縄にかかッてしまえ」
小幡民部は、声をはげましてそういった。
無念そうに、
唇をかみしめていた咲耶子は、ふたたびかくれた
野武士たちを
呼びだすつもりか、
帯のあいだの横笛をひきぬいて、さッと、ふりあげようとしたが、その一
瞬、
「えい、不敵な女め」
佐分利五郎次が、飛びかかるが早いか、ガラリとその笛を打ちおとすと、とたんに、右からも、走りよった
足助主水正が
早業にかけられて、あわれ、
野百合のような
小娘は、
情け
容赦もなくねじあげられてしまった。
たったひとりの少女を生けどるのに四
天王ともある者や、多くの
荒武者が総がかりとなったのは、
大人げないと
恥ずべきであるのに、かれらは大将の首でもとったように、ワッと、
勝鬨をあげながら、
丘の上からおりていった。
まもなく、
馬前へひッ立てられてきた
咲耶子をひとめ見た
梅雪入道は、
鞍の上から
はッたとにらみつけて、
「こりゃ小娘ッ、ようも
汝は、道しるべをいたすなどともうして、思うさまこの
方をなぶりおったな。いまこそ、その細首をぶち落としてくれるから待っておれ」
面に
朱をそそいで、
鞍の上からののしったのち、
「
民蔵民蔵」とはげしく呼び立てた。
「はッ」と走りだした
小幡民部は、チラと、入道のおもてを見ながら片手をつかえた。
「なんぞご用でござりまするか」
「おお民蔵か、あっぱれなそのほうの
軍配ぶり、
褒美は帰国のうえじゅうぶんにとらすであろう、ところで、不敵なこの小娘、生かしておけぬ、そちに太刀とりをもうしつくるほどに、
余が面前で、
血祭りにせい」
「あいや、それはしばしご
猶予ねがいまする」
「なに、待てともうすか」
「
御意にござりまする。いまこの小娘を血祭りにするときは、ふたたびまえにもてあましたる
野武士が、
復讐に
襲うてくること
必定。もとより、千万の野武士があらわれようとて、おそるるところはござらぬが、この小娘を
おとりとして、さらに殿のお役に立てようがため、せっかく
生捕りにいたしたもの、むざむざここで首にいたすのはいかがとぞんじます」
「
奇略にとんだその
方のことゆえ、なお
上策があればまかせおくが、して、この小娘をおとりにしてどうする
所存であるか」
「
秘中の
秘、味方といえども、
余人のいるところでは、ちともうしかねます」
「もっともじゃ、ではこれへしたためて見せい」
ヒラリと投げてきたのは一面の
軍扇。
民部は
即座に
矢立をとりよせ、筆をとって、サラサラ八
行の
詩を書き、みずから
梅雪の手もとへ返した。
「どれ」と、
入道はそれを受けとり、馬上で
扇面の文字を読み
判じて――
「む、どこまでもそちは
軍師じゃの」と
膝をたたいて、
感嘆した。その
秘策とは、すなわち、これから馬をすすめて五湖の底にあるという
武田家の
宝物御旗楯無をさぐりだし、同時に、
伊那丸をもそこで首にしてしまおうというおそろしい
献策。
じつは
穴山梅雪も、これから
甲斐の国へはいる時は、
武田の
残党もあろうゆえ、伊那丸を首にする場所にも、心をいためていたところだった。しかし、この富士の
裾野なら安心でもあるし、
御旗楯無の
宝物まで、手にはいれば
一挙両決、こんなうまいことはない。すぐまた都へ取ってかえし、
家康から、多大の
恩賞をうけ、そのうえ帰国してもけっしておそくはない。
「そうだ、この小娘もそのとき首にすれば、世話なしというもの……」
梅雪はとっさにそう思ったらしい、あくまで信じきっている
民部の
献策にまかせて、ふたたび
郎党を一列に立てなおし、民部と
咲耶子を
先にして、
裾野を西へ西へとうねっていった。
そのあいだに民部は、なにごとかひくい声で、咲耶子にささやいたようであった。かしこい彼女は、
黙々として聞えぬふりで歩いていたが、その
瞳は、ときどき意外な表情をして民部にそそがれた。そんな、こまかいふたりの
挙動は、はるかあとから
騎馬でくる梅雪の目に、べつだんあやしくもうつらなかった。
やがて、裾野の野道がつきて、長い森林にはいってきた。そこをぬけると、青いさざなみが、
木の
間から見えだした。
「おお
湖水へでた!
湖が見えた!」
軍兵どもは、
沙漠に
泉を見つけたように口々に声をもらした。そのほとりには、小さな
社があるのも目についた。つかつかと社の前へあゆみ寄った
小幡民部は、「
白旗の
宮」とあるそこの
額を見あげながら、口のうちで、「白旗の宮? ……
源家にゆかりのありそうな……」とつぶやいて小首をかしげたが、ふいと向きなおって、こんどはおそろしい
血相で、
咲耶子をただしはじめた。
「これッ。
武田家の
宝物をしずめた湖水は、ここにそういあるまい、うそいつわりをもうすと、
痛いめにあわすぞ、どうじゃ!」
「は、はい……」咲耶子は、にわかに
神妙になって、そこへひざまずいた。
「もうお
隠しもうしても、かなわぬところでござります。おっしゃるとおり、
御旗楯無の宝物は、
石櫃におさめて、この
湖のそこに沈めてあるにそういありませぬ」
「まったくそれにちがいないか!」
「神かけていつわりはもうしませぬ」
「よし、よく
白状いたした。おお
殿さま。ただいまのことばをお聞きなされましたか」
ちょうどそこへ、おくればせに着いた
梅雪のすがたをみて、民部が、こういいながら馬上を見上げると、かれは
笑つぼに
入ってうなずいた。
「聞いた。かれのもうすところたしかとすれば、すぐ湖水からひきあげる手くばりせい」
「はッ、かしこまりました」
民部はいさみ立ったさまをみせて、
郎党たちを八ぽうへ走らせた。まもなく、地理にあかるい
土着の
里人が、何十人となくここへ召集されてきた。そして、
狩りだされてきた里人や
郎党は、多くの小船に乗りわかれて、湖水の底へ
鈎綱をおろしながら、あちらこちらと
漕ぎまわった。
陸のほうでは
穴山梅雪入道が
白旗の
宮のまえに
床几をすえ、四
天王の面々を左右にしたがえて
悠然と見ていた。
と、かれの
貪慾な
相好がニヤニヤ
笑みくずれてきた。――湖水の中心では、いましも
鈎にかかった
獲物があったらしい。多くの小船は、たちまちそこに集まって
鈎をおろし、エイヤエイヤの声をあわせて、だんだんと
浅瀬のほうへひきずってくるようすだ。
伊那丸と
忍剣が
智慧をしぼって世の中からかくしておいた
宝物も、こうして、苦もなく発見されてしまった。まもなく梅雪入道の床几の前へ運ばれてきたものは、
真青に
水苔さびたその
石櫃。
「殿さま、ご苦心のかいあって、いよいよご開運の
秘宝もめでたく手に入りました。
祝着にぞんじまする」
里人たちに
恩賞をやって追いかえしたのち、
民部はそばから
祝いのことばをのべた。
「そのほうの
手柄は忘れはおかぬぞ。この宝物に伊那丸の首をそえてさしだせば、いかにけちな
家康でも、一万
石や二万
石の
城地は、いやでも加増するであろう。そのあかつきには、そのほうもじゅうぶんに取りたて
得さす」
「かたじけのうぞんじます。しかし、お望みの物が手にはいったからは、いっこくもご
猶予は無用、この場で
伊那丸を首にいたし、あの
鎖駕籠へは宝物のほうを入れかえにして、寸時もはやく
家康公へおとどけあるが
上分別とこころえます」
「おお、きょうのような
吉日はまたとない。いかにもこの場できゃつを
成敗いたそう、その
介錯もそちに命じる! ぬかるな!」
「はッ、心してつとめます」
梅雪の目くばせに、きッとなって立ちあがった
民部はすばやく
下緒を取って
襷となし、刀のつかにしめりをくれた。そのまに、二、三人の
郎党は、小船の
板子を四、五枚はずしてきて、
武田伊那丸の死の
座をもうけた。
「これこれ、せんこくの小娘もことのついでじゃ。そこへならべて、
民蔵の腕だめしにさせい。旅の一
興に見物いたすもよかろうではないか」
宮の
根もとにくくりつけられていた
咲耶子は、罪人のように追ったてられて、
板子のならべてあるとなりへすえられた。彼女は、もうすっかり覚悟を決めてしまったか、ほつれ髪もおののかせず、
白百合の花そのままな顔をしずかにうつむけている。
いっぽうでは、
鎧の音をさせて、ずかずかと迫っていった四
天王の面々が、例の
鎖駕籠のまわりへ集まり、乗物の上からかぶせてある鉄の
網をザラザラとはずしはじめた。
長い道中のあいだ日のめを見ることなく、乗物のうちにゆられてきた伊那丸は、いよいよ運命の最後を宣告され、
悪魔の
断刀をうけねばならぬこととなった。四
天王の
天野刑部は、ガチャリ、ガチャリと荒々しく
錠の音をさせて、
駕籠の引き手をグイとおし
開け、
「
伊那丸、これへでませいッ」と、涙もなく、ただの罪人でも呼びだすようにどなった。
が――
駕籠のなかは、ひっそりとして音もない。
「やい、伊那丸、さッさとこれへでてうせぬか」
猪子伴作は、次にこうわめきながら、駕籠の
扉口を
土足ではげしくけとばした。と、
足もとが、不意に軽くすくわれたので、伴作はあッといってうしろへよろめく。
すわ!
殺気はたちまちそこにはりつめた。
天野、
佐分利、
足助の三人は、
陣刀のつかを
握りしめつつ、
駕籠口へ身がまえた。
「おお夜が明けたようだ……」
つぶやく声といっしょに、伊那丸のすがたは、しずかにそこへあらわれた。じたばたすると思いのほか、落ちつきはらったようすに、四天王の者どもはやや
拍子ぬけがしたらしい。
「歩けッ」
左右からせきたてて、小船の
板子をしいた死の
座へ
伊那丸をひかえさせた。そして
床几にかけた
梅雪に
目礼をしてひきさがる。
「おッ、伊那丸さま――」
「あ! そなたは」
席をならべて伊那丸と
咲耶子は、たがいにはッとしたが、彼女は、せつなに顔をそむけ、なにげないようすをした。で伊那丸も、さまざまな
疑惑に胸をつつまれながら、
眸をそらして、こんどはきっと、
入道の顔をにらみつけた。――
梅雪もまけずに、
「こりゃ伊那丸、さだめし今まで
窮屈であったろうが、いますぐ
楽にさせてくれる。この世の見おさめに、泣くとも笑うとも、ぞんぶんに狂って見るがいい」
と、にくにくしい
毒口をたたいた。
「さて
大人気ない
武者どもよ――」
伊那丸は声もすずしくあざわらって、
「わしひとりの
命をとるのに、なんとぎょうぎょうしいことであろう。
冥土におわす
祖父信玄やその他の武将たちによい
土産話、
甲州侍のなかにも、こんな
卑劣者があったと笑うてやろう!」
「えい、口がしこいやつめ、
民蔵、
早々この
童の息のねをとめてしまえ!」
梅雪は、
号令した。
声におうじて、
「はッ」と、
武者ぶるいして立ちあがった
民部は、
伊那丸のうしろへまわって、ピタリと体をきめ、見る目もさむき
業刀をスラリと腰からひきぬいた。
「お
覚悟なさい!
太刀取りの
民蔵が君命によってみ
首はもうしうけた」
「…………」
覚悟――それは伊那丸にとっていまさらのことではない。かれは一
糸とりみだすさまもなく、観念の眼をふさいでいる。
正面の
梅雪入道をはじめ、四
天王以下の大衆も、かたずをのんで、民部の太刀と伊那丸のようすとを見くらべていた。
湖水の波も心あるか、
冷たい風を吹きおこして、松の
梢にかなしむかと思われ、
陽も雲のうちにかくされて、天地は一
瞬、ひそとした。
そのとき、民部の口からかすかな声。
「
八幡」
水もたまらぬ太刀をふりかぶッて、伊那丸の白い
頸をねらいすました。――と、そのするどい
眼気が、キラと動いたと見えた一瞬、
「ええいッ!」
武田伊那丸の首が落ちたかとおもうと、なにごとぞ、梅雪のまッこうめがけて、とびかかった
小幡民部、
「
悪逆無道の
穴山入道、
天罰の
明刀をくらえ!」
耳をつんざく声だった。
ふいをくった
梅雪は、ぎょうてんして身をさけようとしたが、ヒュッと、
眉間をかすめた
剣光に眼もくらんで、
「わーッ」
額の血しおを両手でおさえたまま、
床几のうしろへもんどり打ってぶッたおれた。
「
曲者」
愕然と、おどりあがった四
天王たち。同時に、その
余の
群猛も
渦をまいて、
「うぬッ、気が
狂ったかッ」
「
裏切者ッ――
退くな」
とばかり、一どに
総立ちになるやいなや、
民部の上へ、どッとなだれを打ってきた
剣の
怒濤。
梅雪入道は、みだれ立つ
郎党たちの足もとを、逃げまわりながら、
「曲者は
武田の
残党だッ。
伊那丸を逃がすなッ」
と
絶叫した。
民部はその姿をおって、
「おのれッ」
無二
無三に
斬りつけようとしたが、
佐分利五郎次にささえられ、じゃまなッ、とばかりはねとばす。そのあいだに、
天野、
猪子、
足助などが、
鉾先をそろえてきたため、みすみす
長蛇を
逸しながら、それと戦わねばならなかった。
いっぽう、民部にかかりあつまった
雑兵は、
伊那丸のほうへ、バラバラと、かけ集まったが、それよりまえに、
咲耶子が、腰の
縄を切るがはやいか、伊那丸の手をとって、
「若君。早く早く」
と、よりたかる
武者二、三人を斬りふせながらせきたてた。
とたんに
背なかから、一人の武者がかぶりついた。伊那丸は身をねじって、ドンと前へ投げつけ、かれのおとした陣刀をひろいとるがはやいか、近よる一人の足をはらって、さらに、咲耶子へ
槍をつけていた武者を斬ってすてた。
すべては一
瞬の
間だった。
伊那丸じしんですら、じぶんでどう動いたかわからない。
穴山がたの
郎党も、たがいに目から火をだしての
狼狽だった。そして白熱戦の一瞬がすぎると、だれしも
命は
惜しく、八ぽうへワッと飛びのく。――
ひらかれた中心にあるのは、伊那丸と咲耶子とである。二人は背なかあわせに立って、血ぬられた陣刀と
懐剣を二方にきっとかまえている。
目にあまるほどの敵も、
うかと近よる者もない。ただわアわアと
武者声をあげていた。すると、あなたから加勢にきた四
天王の
足助主水正。
「えい、これしきの敵にひまどることがあろうか」
大身の
槍に行き足つけて、
伊那丸の真正面へ、タタタタタッ、とばかりくりだした。
伊那丸の身は、その
槍先に
田楽刺しと思われたが、さッとかわしたせつな、槍は伊那丸の胸をかすって流るること四、五尺。
「あッ」
片足を
宙にあげてのめりこんだ主水正、しまッたと槍をくりもどしたが、時すでに、ズンとおりた伊那丸の
太刀に千
段を切りおとされて、
無念、手にのこったのは
穂をうしなった半分の
柄ばかり。
「やッ」
捨鉢に柄を投げつけた。そして陣刀をぬきはらったが、たびたびの血戦になれた伊那丸は、とっさに咲耶子と力をあわせ、いっぽうの
雑兵をきりちらして、
湖畔のほうへ
疾風のようにかけだした。
そこには、
白旗の
宮のまえから、追いつ追われつしてきた
小幡民部が、
穴山の
旗本雑兵を八面にうけて、今や
必死に
斬りむすんでいる。
しかし、
小幡民部は、こうした
斬合はごく
不得手であった。
太刀をもって人にあたることは、かれのよくすることではない。
けれど、
軍配をもって
陣頭に立てば、
孫呉のおもかげをみるごとくであり、
帷幕に計略をめぐらせば、
孔明も三
舎を避ける小幡民部が、
太刀打ちが
下手だからといっても、けっしてなんの恥ではない。かれの
偉さがひくくなるものではない。民部の
本領はどこまでも、
奇策無双な軍学家というところにあるのだから。
だが、それほど
智恵のある民部が、なんで、こんな苦しい血戦をみずからもとめ、みずから不得手な太刀を持って斬りむすぶようなことをしたのであろう。なぜ、もっといい機会をねらって、らくらくと
伊那丸を
救わないのか。
民部ははじめ、こう考えた。
穴山梅雪の
領内、甲州
北郡の土地へはいってからでは、伊那丸を助けることはよういであるまい。これはなんでも途中において目的をはたしてしまうのにかぎる。――でかれは、出発にさきだって
鞍馬の
果心居士、
小太郎山の
龍太郎、
小文治などの
同志へ
通牒をとばしておいた。
ところが、
裾野へかかってきた第一日に、
咲耶子という意外なものがあらわれた。かれは少女のふしぎな行動を見て、ははアこれは
伊那丸君を救おうという者だナ、と直覚したが、なにしろ、梅雪の
警固には、四
天王をはじめ、手ごわい
旗本や
郎党が百人近くもついているので、あくまで
入道をゆだんさせるため、奇計をもって
咲耶子を生けどり、なお、心ひそかに、待つ者がくるひまつぶしに、この湖水までおびきよせたのだ。
ところが、
民部の心まちにしている人々は、いまもってすがたが見えない。――で、いまは最後の手段があるばかりと、途中で咲耶子にもささやいておいたとおりな、
驚天動地の火ぶたを切ったのである。
致命傷にはなるまいが、
怨敵梅雪へは、たしかに
一太刀手ごたえをくれてあるから、このうえはどうかして、一ぽうの血路をひらき、
伊那丸君をすくいだそうと民部は心にあせった。しかし、まえにも、いったとおり、
剣を持っては
万夫不当のかれではないから、
無念や、そこへ追われてきた伊那丸と咲耶子のすがたを見ながら、四
天王の天野、猪子、佐分利などにささえられて近よることもできない。
それどころか、いまは民部のじぶんがすでにあぶないありさま。
天野刑部は
月山流の
達者とて、
刃渡り一
尺四
寸の
鉈薙刀をふるって
りゅうりゅうとせまり、
佐分利五郎次は陣刀せんせんと
斬りつけてくる。その一人にも当りがたい民部は、はッはッと火のような息を
吐きながら、受けつ、逃げつ、かわしつしていたが、一ぽうは
湖、だんだんと波のきわまで追いつめられて、もうまったく
袋のねずみだ、
背水の陣にたおれるよりほかない。
「よしッ、もうこのほうはひきうけた。
猪子伴作は伊那丸のほうへいってくれ」
「おお
承知した」
天野刑部の声にこたえた
伴作は、
笹穂の
槍をヒラリと返して、一ぽうへ加勢にむかった。ところへ、いっさんにかけだしてきたのは
伊那丸と
咲耶子、そうほうバッタリと出会いながら、ものをいわず七、八
合槍と太刀の
秘術をくらべて斬りむすんだが、たちまち、うしろから
足助主水正、その他の
郎党が嵐のような勢いで殺到した。
あなたでは
民部の苦戦、ここでは伊那丸と咲耶子が、
腹背の敵にはさみ討ちとされている。二ヵ所の
狂瀾はすさまじい
旋風のごとく、たばしる
血汐、
丁々ときらめく
刃、目も
開けられない
修羅の血戦。
三つの命は
刻々とせまった。
そのころから、
秀麗な富士の
山肌に、一
抹の
墨がなすられてきた、――と見るまに、黒雲の
帯はむくむくとはてなくひろがり、やがて風さえ生じて、
澄みわたっていた空いちめんにさわがしい色を
呈してきた。
雲団々、
陽はたちまち暗く、たちまち、ぱッと明るく、明暗たちどころにかわる空の変化はいちいち
下界にもうつって、
修羅のさけびをあげている
湖畔の
渦は、しんに
凄愴、
極致の
壮絶、なんといいあらわすべきことばもない。
おりしもあれ!
はるか湖水の南岸に、ポチリと見えだした一点の人影。
画面点景の
寸馬豆人そのまま、人も小さく馬も小さくしか見えないが、たしかに流星のごときはやさで
湖畔をはしってくる。それが、空の明るくなった時はくッきりと見え、
陽がかげるとともに、
暗澹たる
蘆のそよぎに見えなくなる。
そも何者?
おお、いよいよ
奔馬は近づいてきた。しかもそれは一
騎ではない。あとからつづくもう一騎がある。
いや、さらにまた一騎。
まさしくここへさしてくる者は三騎の勇士だ。そのはやきこと
疾風、その軽きことかける
天馬かとあやしまれる。
わーッ、わーッと
湖畔にあがったどよみごえ。
さては
伊那丸がとらえられたか、
咲耶子が斬られたか、あるいは、
小幡民部がたおれたのであろうか。
いやいや、そうではなかった。――
一声たかくいなないた
駒のすがたが、
忽然とそこへあらわれたがため。
まッ先におどりこんできたのは、高尾の
神馬、
月毛の
鞍にまたがった
加賀見忍剣、例の
禅杖をふりかぶって
真一文字に、
「やあやあ、お心づよくあそばせや
伊那丸さま! 加賀見忍剣、ただいまこれへかけつけましたるぞッ。いでこのうえは
穴山一
族のヘロヘロ
武者ども、この忍剣の
降魔の禅杖をくらってくたばれ!」
天雷くだるかの
大音声。
むらがる
剣を雑草ともおもわず、押しかかる
槍ぶすまを
枯れ木のごとくうちはらって、
縦横無尽とあばれまわる
怪力は、さながら
金剛力士か、
天魔神か。
時をおかず、またもやこの一
角へ、どッと
黒鹿毛の
馬首をつッこんできたのは、これなん
戒刀の名人
木隠龍太郎、つづいて、
朱柄の
槍をとっては
玄妙無比な
巽小文治のふたり。
紫白の
手綱を、
左手に引きしぼり、
右手に使いなれた
無反りの一
剣をひっさげた龍太郎は、声もたからかに、
「それにおいであるのは
小幡民部殿か。木隠龍太郎、
小太郎山よりただいまご
助勢にかけむかってまいったり。
木ッ
葉武者どもは、
拙者がたしかに引きうけもうしたぞ」
黒鹿毛の
蹄をあげて、
無二
無三にかけちらしながら、はやくも
鞍上の高きところより、右に左に、
戒刀をふるって
血煙をあげる。
「いかに
穴山入道はいずれにある。巽小文治が
見参、
卑劣者よ、いずれにまいったか」
十
方自在の
妙槍をひッ
抱え、馬に
泡をかませながら、乱軍のうちを
血眼になって走りまわっていたのは小文治である。
「うぬ、小ざかしい、いいぐさ」
その姿をチラと見て、まッしぐらにかけよってきた四
天王の
猪子伴作は
怒喝一番、
「
素浪人ッ」
さッと下から
笹穂の
槍を突きあげた。
「おうッ」と横にはらって返した
朱柄の
槍。
人交ぜもせずに、一
騎打ちとなった
槍と
槍は、
閃光するどく、上々下々、
秘練を戦わせていたが、たちまち、
朱柄の
槍さきにかかって、
猪子伴作は
田楽刺しとなって、草むらのなかへ投げとばされた。
と、
白旗の
宮の
裏から、よろばいだした
法師武者がある。こなたの
混乱に乗じて、そこなる馬に飛びつくや
否、死にものぐるいであなたへむかって走りだした。
オオそれこそ、さきに一太刀うけて、さわぎのうちにどこかへもぐりこんでいた
梅雪入道ではないか。
「やッ、きゃつめ!」
こなたにあって、
天野刑部の
大薙刀と渡りあっていた
木隠龍太郎は、
奮然と、刑部を一刀の
下に
斬ってすて、梅雪の
跡からどこまでも追いかけた。
ピシリ、ピシリ、ピシリ!
戒刀の
平を
鞭にして追いとぶこと一
町、二町、三町……だんだんと近づいて、すでに敵のすがたをあいさることわずかに十七、八
間。
すると、何者が切ってはなしたのか、梅雪の馬のわき腹へグサと立った一本の矢、いななく声とともに、人もろとも馬はどうと
屏風だおれとなった。
行く手の丘に小高いところがあった。そこの松の
切株の上に立っていたひとりの
武芸者は、いななく馬の声をきくと、弓を小わきに持ってヒラリと飛びおりてきた。
征矢にくるった馬の上から、もんどり打っておとされた
穴山梅雪は、
朱にそんだ身を草むらのなかより起すがはやいか、
無我夢中のさまで、道もない
雑木帯へ逃げこんだ。
しずかなること一
瞬、たちまち、パパパパパパパッ! と地を打ってきた
蹄鉄のひびき、
天馬飛空のような勢いをもって乗りつけてきたのは
木隠龍太郎である。
怨敵梅雪が道なきしげみへ
逃げこんだと見るや、ヒラリと
黒鹿毛を乗りすてて
右手なる
戒刀を引ッさげたまま、
「
卑怯なやつ、未練なやつ、一国の
主ともあろうものが
恥を知れや、かえせ梅雪! かえせ梅雪!」
と
呼ばわりながら、身を
没するような
熊笹のなかを追いのぼっていった。
だが、梅雪のほうはそれに耳をかすどころでなく、
命が助かりたいの一心で、丘のいただき近くまでよじのぼってくると、不意に目の前へ、
猿かむささびか
雷鳥か、上なる岩のいただきから一
足とびにぱッととびおりてきたものがある。
「あッ」
おびえきっている梅雪の心は、ふたたびギョッとして立ちすくんだけれど、ふと
驚異のものを見なおすとともに、これこそ
天来のすくいか、
地獄に
仏かとこおどりした。それはたくましい
重籐の弓を小わきに持った若い、そしてりんりんたる
武芸者であるから。
梅雪は
本能的にさけんだ。
「おおよいところで!
余は甲州
北郡の
領主穴山梅雪じゃ、いまわしのあとより追いかけてくる
裾野の
盗賊どもを防いでくれ、この
難儀を
救うてくれたら、千
石二千
石の旗本にも取り立て得させよう。いいや恩賞は望みしだい!」
「さては遠くから見た目にたがわず、そのほうが穴山梅雪入道か」
「かかる姿をしているからとて疑うな、
余がその梅雪にちがいないのじゃ、そちが一生の
出世の
蔓は、いまとせまったわしの
危急を
救ってくれることにあるぞ」
「だまれ、やかましいわいッ」わかき
武芸者は、その
頬ぺたをはりつけんばかりにどなりつけて、
「音にひびいた甲州の悪入道。よしやどれほどの
宝を
捧げてこようと、なんで
汝らごとき
犬侍のくされ
扶持をうけようか、たいがいこんなことであろうと、
汝の
逃足へ遠矢を
射たのはかくもうすそれがしなのだ」
「げッ、さてはおのれも」
絶望、
驚愕、
憤怒!
奈落へ突きのめされた梅雪は、あたかも
虎穴をのがれんとして、
龍淵におちたような
破滅とはなった。もうこのうえはいちかばちか、
命はただそれ自分をたのむことにあるのみだ。
「うーム。ようもじゃま立てをいたしたな!
老いたりといえども
穴山梅雪、その
素ッ首をはねとばしてくれよう」
「ハハハハハハ、
片腹いたい
臆病者の
たわ言こそ、あわれあわれ、もう
汝の天命は、ここにつきているのだ、男らしく観念してしまえ」
「エエ、いわしておけば」
死身の勇を
奮いおこした梅雪の手は、かッと、陣刀の
柄に鳴って、あなや、
皎刀の
鞘ばしッて飛びくること六、七
尺! オオッとばかり、
武芸者のまッこうのぞんで斬り下げてきた。
「
笑止や、
蟷螂の
斧だ」
ニヤリと笑った若き武芸者は、さわぐ
気色もなく身をかわして、
左手に持った弓の
弦がヒューッと鳴るほどたたきつけた。
「あッ」と梅雪は二の太刀を狂わせ、
熊笹の根につまずいてよろよろとした。
「老いぼれ」
すかさずその
襟がみをムズとつかんだ武芸者は、その時ガサガサと丘の下からかけあがってくる
木隠龍太郎の
姿をみとめた。
「あいや、それへおいであるのは、
武田伊那丸君のお
身内でござらぬか」
「オオ!」
びっくりして、高き岩頭をふりあおいだ龍太郎は、見なれぬ
武芸者のことばをあやしみながら、
「いかにも、伊那丸さまのお
傅人、木隠龍太郎という者でござるが、もしや、
貴殿は、このなかへ逃げこんだ血まみれなる
法師武者のすがたをお見かけではなかったか」
「その入道なれば、わざわざこれまでお登りなさるまでもないこと」
「や! では、そこにおさえているやつが?」
「オオ、
山県蔦之助が伊那丸君へ、
初見参のごあいさつがわりに、ただいまそれへおとどけもうすでござろう」
いうかと思えば、若き武芸者――それはかの
近江の住人山県蔦之助――カラリと左手の弓を投げすてて、
梅雪入道の体に
双手をかけ、なんの苦もなくゆらッとばかり目の上にさしあげて、
「それ、お受けあれや龍太郎どの!」声と一しょに梅雪の体を、
丘の下へ、投げとばしてきた。
スポーンと
紅葉の
茂りへおちた
梅雪のからだは、

のごとくころがりだして、土とともに、ゴロゴロと
熊笹の
崖をころがってきた。
龍太郎は、心得たりと引ッつかんで、さらに上なる人をあおぎながら、
「
山県蔦之助どのとやら、まことにかたじけのうござった。そもいかなるお人かぞんじませぬが、おことばに甘えて
初見参のお
引出もの、たしかにちょうだいつかまつった。お
礼は
伊那丸さまのご前にまいったうえにて」
「
拙者もすぐあとよりつづきますゆえ、なにぶん、君へのお引合わせを」
「
委細承知、はや、まいられい!」
ヘトヘトになった梅雪を小わきにかかえた龍太郎は、さっき乗りすててきた
駒のところへと、いっさんにかけおりていった。
と、同時に、上からも
身軽にヒラリヒラリと飛びおりてきた蔦之助。
龍太郎は、
黒鹿毛にまたがって、
鞍壺のわきへ、梅雪をひッつるし、
一鞭くれて走りだすと、山県蔦之助も、
遅れじものと、つづいていく。
一ぽう、
白旗の
宮の前では、
穴山の
郎党たちは、すでにひとりとして影を見せなかった。そこには
凱歌をあげた
忍剣、
小文治、
民部、
咲耶子などが、あらためて、伊那丸を宮の
階段に腰かけさせ、無事をよろこんでほッと一息ついていた。人々のすがたはみな、
紅葉を
浴びたように、点々の
血汐を
染めていた。勇壮といわんか
凄美といわんか、あらわすべきことばもない。
なかでも
忍剣は、疲れたさまもなく、なお、
綽々たる
余裕を
禅杖に見せながら、
「
木ッ
葉武者はどうでもよいが、
当の敵たる
穴山入道を
討ちもらしたのは、かえすがえすもざんねんであった。いったいきゃつはどこにうせたか」
「たしかにここで
拙者が一太刀くれたと思いましたが」
と
小幡民部も、
無念なていに見えたけれど、
伊那丸はあえて、もとめよともいわず、かえって、みなが気のつかぬところに注意をあたえた。
「それはとにかく
龍太郎のすがたが、このなかに見えぬようであるが、どこぞで、
傷手でもうけているのではあるまいか」
「お、いかにも龍太郎どのが見えぬ」
一同は入りみだれて、にわかにあたりをたずねだした。すると、
咲耶子は耳ざとく
駒の
蹄を聞きつけて、
「みなさまみなさま。あなたからくるおかたこそ龍太郎さまにそういござりませぬ。オオ、なにやら
鞍わきにひッつるして、みるみるうちにこれへまいります」
「や! ひッさげたるは、たしかに人」
「
穴山梅雪?」
「オオ、梅雪をつるしてきた」
「
龍太郎どの
手柄じゃ、でかしたり、さすがは
木隠」
口々にさけびながらかれのすがたを迎えさわぐなかにも、
忍剣は、ほとんど
児童のように
狂喜して、あおぐように手をふりながらおどりあがっている――と見るまに、それにもどってきた龍太郎は、どんと一同のなかへ
梅雪をほうりやって、
手綱さばきもあざやかに
鞍の上から飛びおりた。
「それッ」
待ちかまえていた一同の腕は、
期せずして、梅雪のからだにのびる。いまはいやも
応もあらばこそ、みにくい姿をズルズルと
伊那丸のまえへ引きだされてきた。
民部は、その
襟がみをつかんで、
「入道ッ、
面をあげろ」と、いった。
「むウ……ム、残念だッ」
穴山梅雪は
眉間を
一太刀割られているうえに、ここまでのあいだに、いくどとなく投げられたり
鞍壺にひッつるされたりしてきたので、この世の者とも見えぬ顔色になっていた。
「まて民部、
手荒なことをいたすまい」
もっともうらみ多きはずの伊那丸が、意外にもこういったので、民部も忍剣も、意外な顔をした。
伊那丸はしずかに、
階段からおりて、
梅雪入道の手をとり、宮の
板縁へ迎えあげて、礼儀ただしてこういった。
「いかに梅雪、いまこそ
迷夢がさめたであろう、わしのような少年ですら、
甲斐源氏を
興さんものと、ひたすら心をくだいているのに、いかにとはいえ、二十四将の一人に数えられ、
武田家の
血統でもある
其許が、あかざる慾のためにこのみにくき
末路はなにごと。それでも
甲州武士かと思えば情けなさに涙がこぼれる。いざ! このうえはいさぎよく自害して、せめて
最期を清うし、
末代未練の名を残さぬようにいたすがよい」
「ええうるさいッ」梅雪はもの狂わしげに首をふって、――「
余に
自害せいとぬかすか、バカなことを!」
「なんと、もがこうが、すでに天運のつきたるいま、のがれることはなるまいが」
「なろうとなるまいと、
汝らの知ったことか。こりゃ伊那丸、
縁からいえば汝の父
勝頼の
従弟、年からいっても
長上にあたるこの梅雪に、
刃を向ける気か、それこそ
人倫の大罪じゃぞ」
「それゆえにこそこのとおり、礼をただして迎え、自害をすすめ、本分をとげさせんといたすものを、さりとは
未練なことば」
「いや、もう聞く耳もたぬ」
「では、どうあっても自害せぬか」
「いうまでもない。余は
汝らの
命によって、死ぬわけがない。死ぬるのはいやだ!」
「アア、
救いがたき
卑劣者――」
伊那丸は空をあおいで
長嘆してのち、
「このうえはぜひもない……」とつぶやくのを聞いた
梅雪は、伊那丸の命令がくだらぬうち、
先をこして、やにわに
鎧どおしをひき抜き、
「
童ッ!
冥途の道づれにしてくれる」
猛然とおどりかかッて、伊那丸の
胸板へ突いていったが、ヒラリとかわして
凛々たる一
喝の
下。
「悪魔ッ」
パッと足もとをはらうと見るまに、五体をうかされた梅雪は、
板縁の上から
輪をえがいて下へ落とされた。
「
人非人、斬ってしまえッ!」伊那丸の命令一下に、
「はッ」
声におうじてくりだした
巽小文治の
朱柄の
槍、梅雪の体が地にもつかぬうちにサッと突きあげ、ブーンと一ふりふってたたき落とした。そこをまた
木隠龍太郎の一刀に、梅雪の首は、ゴロリと前に落ちた。
「それでよし、
死骸は湖水の底へ」
板縁に立って、伊那丸はしずかに目をふさいでいう。
折から
山県蔦之助もかけつけた。あらためて
伊那丸に
志をのべ、一同にも引きあわされて、一
党のうちへ加わることになった。
ポツリ、ポツリ、
大粒の雨がこぼれてきた。空をあおげば
団々のちぎれ雲が、南へ南へとおそろしいはやさで飛び、たちまち、灰色の湖水がピカリッ、ピカリッと走ってまわる
稲妻のかげ。
濛々たる白い
幕が、はるか
裾野の一
角から近づいてくるなと見るまに、だんだんに
野を消し、ながき
渚を消し、湖水を消して、はや目の前まできた。と思う間もあらせず、ザザザザザザザアーッと
盆をくつがえすという、文字どおりな
大雨の
襲来。
めでたく
穴山梅雪を
討ちとりはしたが、
離散して以来のつもる話もあるし、これからさきのそうだんもある折から、
爽快なる
大雨の襲来は、ちょうどいい
雨宿りであろうと、一同は、
白旗の
宮のあれたる
拝殿に入り、そして
伊那丸を中心に、しばらく
四方の物語にふけっていた。
武州高尾の
峰から、京は
鞍馬山の
僧正谷まで、たッた半日でとんでかえったおもしろい旅の
味を、
竹童はとても忘れることができない。
果心居士のまえに、
首尾よくすましたお使いの
復命をしたのち、その晩、
寝床にはいったけれども、からだはフワフワ雲の上を飛んでいるような心地、目には、
琵琶湖だの
伊吹山だの東海道の
松並木などがグルグル廻って見えてきて、いくら
寝ようとしても寝られればこそ。
「アアおもしろかったなア、あんな気持のいい思いをしたのは生まれてはじめてだ。お
師匠さまは意地悪だから、なかなか飛走の
術なんか教えてくれないけれど、おいらにクロという飛行
自在な友だちができたから、もう飛走の術なんかいらないや。それにしても今夜はクロはどうしているだろう……
天狗の
腰掛松につないできたんだけれど、あそこでおとなしく寝ているかしら、きっとおいらの顔を見たがって
啼いてるだろうナ。アアもう一ど、クロの
背なかへ乗ってどこかへ遊びにゆきたい……」
「
竹童竹童」となりの
部屋で果心居士の声がする。
「ハイ」
「ハイじゃあない、なにをこの夜中にブツブツ
寝言をいっている。なぜ早く寝ないか」
「ハイ」
竹童はそら
鼾をかきだしたが、心はなかなか休まらないで、いよいよ
頭脳明晰になるばかりだ。
「ハハア、竹童のやつめ、
鷲の背なかで旅をした
味をしめて、なにか心にたくらみおるな。よしよし
明日はひとつなにかでこらしておいてやろう」
いながらにして百里の先をも見とおす
果心居士の遠知の
術、となりの
部屋に寝ている
竹童のはらを読むぐらいなことはなんでもない。
とも知らず、夜が明けるか明けないうちに、
亀の
子のようにムックリ寝床から首をもたげだした竹童、
「しめた! お
師匠さまはあのとおりな
鼾、いくらなんでも寝ているうちのことは気がつくまい。どれ、今のうちにおいらの羽をのばしてこようか」
ほそっこい
帯をチョコンとむすび、例の
棒切れを腰にさして、ゆうべ食べのこした
木の
芽団子をムシャムシャほおばりながら、
猿のごとく
荘園をぬけだした。
そのはやいことは、さながら風!
空にはまだ有明けの月があった。あっちこっちの
岩穴からムクムクと白いものを
噴いている、
朝の
霧である。竹童のあわい影が
平地から
崖へ、
崖から岩へ、岩から
渓流へと走っていくほどに、足音におどろかされた
狼や
兎、山鳥などが、かれの足もとからツイツイと
右往左往に逃げまわる。
いつもの竹童ならば、こんな場合、すぐ狼を手捕りにする、兎を渓流のなかへほうりこむ。とてもいたずらをして道草するのだが、きょうはどうしてそれどころではない。なにしろこれからお
師匠さまの朝飯となるまでに、日本国じゅうの半分もまわってこようという勢いなのだから。
「やアどうしたんだろう、いない! いない!」
やがて、
瘤ヶ
峰のてッぺんにある、
天狗の
腰掛松の下にたった
竹童は、
素ッ
頓狂な声をだしてキョロキョロあたりを見まわしていた。
「おかしいな、きのうかえってから、この松の木の根ッこへあんな太い
縄でしばっておいたのに、どこへとんでッちゃったのだろう」
がっかりして、しばらくあっちこっちをうろうろした竹童は、とうとう目から
大粒の
涙をポロリポロリとこぼしながら、あかつきの空にむかって声いッぱい!
「クロクロクロクロ。クロクロクロクロクロ」
それでも影を見せてこないので、かれはグンニャリとなり、天狗の腰掛松へよりかかってしまったが、ふとこのあいだ
居士が
扇子をなげて
鷲を呼びよせた
幻術をおもいだし、
「よし、おいらもあの術をまねしてみよう」
竹童はもう目の色かえて一心である。
呪文はわからないが、腰の棒切れをぬき、一念こめて、エエイッと
気合を入れて
虚空へ投げる。
棒はツツツと空へ直線をえがいてあがった。
「やア、
奇妙奇妙」竹童は
嬉しさのあまり、手をたたき、踊りをおどって狂喜した。
と見る、谷をへだてたあなたから、とんでくるのはクロではないか、
間の
谷を、わずか二つ三つの羽ばたきでさっとくるなり、投げあげられた棒切れを、パクリとくわえて、かれのそばまで降りてきた。
竹童が
有頂天となったのもむりではない。
まもなく、かれはゆうべの夢を実行して、京から
大阪、大阪から
奈良の空へと遊びまわっている。町も村も橋も河も、まるで
箱庭のような
下界の地面がみるみるながれめぐってゆく。そのあげくに、ふと思いついたのは、おととい
忍剣のいったことばである。
「オオそうだ、なんでもきょうあたりは、
富士の
裾野に大そうどうがあるはずだ。おいらはまだ生まれてから
戦いというものをみたことがない。これから一つ裾野までとんでいって、勇ましいところを空から見物してやろう」
つねづね、
果心居士からよくお
叱言ばかりいただいているくせに、竹童はもう
鞍馬山へ帰るのもわすれて、こんな
大望をおこした。思いたっては、
矢も
楯もたまらないかれだった。すぐその足で、富士の
姿を目あてに
鷲をとばした。いかなる名馬で地を飛ぶよりも、こうして空中を自由に飛行する快味は、まるでじぶんがじぶんでなく、生きながら、神か
仙人になったような
愉快さである。――だが、ここまできたときとちがって、鷲はそれから先
一向竹童の自由にならない。富士の裾野とは
方角ちがいな、北へ北へと向かって、勝手に雲をぬってとぶ。
「やい、クロ。そんなほうへいくんじゃない、こらッ、こらッ、こらッ!」
竹童はあわてて、いくどもいくども、方向をかえようとしたが、さらにききめがなく、地上へもどらんとしても、いつものようにスラスラと
降りてもくれない。ああいったいこれはどうしたことだ。
「チェーッ、
畜生、畜生、畜生」
かれはクロの上でかんしゃくをおこし、じれだし、最後にベソをかきだした。
そもそも
今日は
竹童にとっていかなる
悪日か、ベソをかくことばかり突発する日だ。しかし、そう気がついてももうおそい、いくら泣いてもわめいても、
鷲に一身をたくして雲井の高きにある以上、クロの
翼がつかれて、しぜんに大地へ降りるのをまつよりほかはない。それはまだよかったが、泣き
面に
蜂、つづいておそるべき第二の大難が起ってきた。
すでに今朝から
陰険な
相をあらわしていた空は、この時になって、いっそうわるい気流となり、
雷鳴とともに密雲の
層はだんだんとあつくなって、
呼吸づまるような
水粒の
疾風が、たえず、さっさっとぶっつかってきた。
そして、
鷲が雲より低くいくときは、滝のごとき雨が竹童の頭からザッザとあたり、
上層の雲にはいるときは
白濛々の
夢幻界にまよい、
髪の毛も
爪の先も、氷となって折れるような
冷寒をかんじる。しかも、クロはこの
難行苦行にも
屈する色なく、なおとぶことは
稲妻よりもはやい。
すると
漠々たる雲の海から、黒い山脈の
背骨が
もっこりと見えだした。竹童はどうにかして、ここから降りようと
苦策を案じ、いきなり手をのばして
鷲の両眼をふさいでしまった。
人間でも目をふさいでは歩けないから、こうしてやったらきっと
止まるだろうという、
竹童が
必死の
名案、はたせるかな
鷲もおどろいたさまで、糸目のくるった
凧のようにクルクルッとめぐりまわりだした。かれの
計略が
図にあたって急に元気よく、
「もうこっちのものだぞ、しめた、しめた」
とよろこんだが、あわれそれも
束の
間。
たちまち鳴りはためいた
雷が、かれの耳もとをつんざいた一せつな、
下界にあっては、ほとんどそうぞうもつかないような
朱電が、ピカッピカッと、まつげのさきを
交錯したかと思うまもあらばこそ。
「あッ」
といった竹童のからだは、おそるべき
稲妻の
震力にあって、鷲の背なかからひッちぎられた、そしてまッさかさまとなって、いずことも知れぬ下へ一直線におちていくなと見る
間に――追いすがった鷲の
嘴は、いきなりパクリと竹童の
帯をくわえ、
わらか
小魚でもさらっていくように、そのまま、
模糊とした
深岳の一
角へ、ななめさがりにかけりだした。
「ア
痛、アイタタタッ……」
跛をひきながら、草むらよりころげだしたのは
竹童である。地上二、三十
尺のところまできて、ふいに
鷲の
嘴からはなされたのだ。
これが
尋常の者なら、
悩乱悶絶はむろんのこと、地に着かぬうちに死んでいるべきだが、
山気をうけた一種の
奇童、
三歳児のときから
果心居士にそだてられて、初歩の
幻術や
浮体の
秘法ぐらいは、多少心得ている竹童なればこそ、五体の骨をくだかなかった。
「オオ
痛い。クロの
野郎め、おいらがあんなにかあいがってやるのに、よくも恩人をこんな目にあわせやがッたな、アア
痛、
痛、
痛、
畜生畜生、どうするか覚えていろ!」
腰骨をさすりながら、ふと後ろをふりかえって見ると、なんとにくいやつ、すぐじぶんのそばに、すました顔で、
翼をやすめているではないか。
「けッ、
癪にさわる!」
竹童はいきなり
帯の
棒切れをひッこ
抜き、クロをねらってピュッと打ってかかる。と、鷲も猛鳥の
本性をあらわして、ギャッとばかり、竹童の頭から一つかみと
爪をさかだってきた。
「こいつめッ、
生意気においらにむかってくる気だな」
とかんしゃくすじを立てた勢いで、ブーンと棒を横なぐりにはらいとばすと、こはいかに、鷲の片足が、ムンズとのびて竹童の胸をつかみ、
「これ竹童、なにが生意気なのじゃ」とにらみつけた。
「あッ、あなたはお
師匠さま?」
さらぬだに目玉の大きい
竹童が、
瞳をみはってあきれ返った。なんと、
鷲とおもって打っていたのは、
鞍馬におるはずのお
師匠さま、
果心居士ではないか。
ふしぎ、ふしぎ。かれは天空から落ちたときよりぎょうてんして、からだを石のようにこわくさせ、口もきけず、逃げもできず、ややしばらくというもの、そこにモジモジとしていたが、ガラリと
棒切れをすてて、地べたへ
額をすりつけてしまった。
「お師匠さま。わたしがわるうござりました。どうぞごかんべんあそばしくださいまし」
「びっくりしたか、どうじゃ悪いことはできないものであろう」
居士は、ニヤリと笑って、足もとの岩へ腰をおろした。
「まったくこんな
胆をつぶしたことはございません。これからけっしてお師匠さまにむだんで遠くへまいりませんから、どうかおゆるしくださいまし」
「よしよし、
仕置はさんざんすんでいるのじゃから、もうこのうえのこごとはいうまい」
「エ、じゃアとんでくるうちに、あんな目にあわしたのもお師匠さまでしたか。エ、お師匠さま。どうして人間が鷲になんかになってとべるのでしょう?」
「ソレ、ゆるすといえばすぐにまた甘えてくる。さようなことはどうでもよい、おまえにはまた一ついいつけることがある。ほかでもないが、これから
富士の
人穴へいって、そこに住みおる
和田呂宋兵衛という
賊のかしらに会うのじゃ。しかし
容易なことでは、かれにうたがわれるから、あくまでおまえは子供らしく、いざとなったらかくかくのことをもうしのべろ……」
と
居士はあかざの
杖をもって、なにかこまごまと書いて示したりささやいたりして
旨をふくませたのち、
「よいか、そこで
呂宋兵衛が、うまうまとこちらのことばに乗ったとみたら、そくざに、五湖の
白旗の
宮におわす、
武田伊那丸君その
余のかたがたにおしらせするのじゃ、なかなか大役であるからばかにしないでつとめなければなりませんぞ」
「かしこまりました。ですけれどお
師匠さま」
「
鷲がいないというのであろう。いまほんもののクロを呼んでやるから、しばらくそのへんにひかえていなさい」
「ハイ」
竹童はそこでやっと落着いて、あたりの
景色を見直した。ところでここはいったいどこの何山だろう?
いま、さしもの
豪雨もやんで、空は
瑠璃いろに
澄んできたが、眼下ははてしもない雲の海だ。それからおしてもここはかなりの高地にちがいないが、この山そのものがあたかも
天然の一
城廓をなして、どこかに人工のあとがある。
すると、コーン、コーン、コーンと深いところで石でも切るような音。と思えば、ザザザザーッと谷をけずるような
響きもしてきた。竹童はこの深山に
妙だなと思いながら、なにごころなくながめまわしてくると、
天斧の
石門、
蜿々とながき
柵、谷には
桟橋、
駕籠渡し、話にきいた
蜀の
桟道そのままなところなど、すべてはこれ、
稀代な
築城法の
人工を加味した
天嶮無双な
自然城だ。
「これはすてきもないところだナ、いったいなんのためにこんな
砦があるのだろう」
竹童はふしぎな顔をして、もとのところへ帰ってきてみると、いつのまにか、ほんもののクロが
居士のそばにちゃんとひかえている。
「竹童、
早々したくをしていかねばならぬ。用意はできているか」
「ハイいつでもかまいません。けれどお
師匠さま、でがけにひとつうかがいたいことがございます」
「そんなことをいってるまに時刻がたつ」
「いいえ、たった
一言、いったいここはどこの何山で、だれのもっている
砦でございましょうネ」
「おまえなどは知らないでもいいことだが、お使いをする
褒美として聞かしてやろう。ここは
甲斐と
信濃と
駿河の
堺、山の名は
小太郎山」
「え、小太郎山」
「砦にこもる
御方はすなわち
武田伊那丸さまだ」
「えッ、ここがあの小太郎山で、伊那丸さまの立てこもる
根城となるのでございますか」
ふかいわけはわからないが、
竹童はそう聞いて、なんとなく胸おどり血わいて、じぶんも、
甲斐源氏の旗上げにくみする一人であるように
勇みたった。
富士の
裾野に、数千人の
野武士をやしなっていた
山大名の
根来小角は
亡びてしまった。しかし、
野盗の
巣である
人穴の
殿堂はいぜんとして、小角の
滅亡後にも、かわっている者があった。すなわち、
和田呂宋兵衛という
怪人である。
あれほどしたたかな小角が、どうして
亡されたかといえば、じぶんの腹心とたのんでいた呂宋兵衛にうらぎられたがため、――つまり
飼い
犬に手をかまれたのと同じことだ。
呂宋兵衛というのは、
仲間の
異名である。
かれは、
和田門兵衛という、長崎からこの土地へ流れてきた
南蛮の
混血児であった。右の腕には十
字架、左の腕には
呂宋文字のいれずみをしているところから、
野武士の
仲間では門兵衛を呂宋兵衛とよびならわしていた。また
碧瞳紅毛、
金蜘蛛のようなこの
魁偉な
容貌にも、呂宋兵衛の名のほうがふさわしかった。
呂宋兵衛は富士の
人穴へきてから、たちまち
小角の
無二の者となった。かれの父が、
南蛮人のキリシタンであったから、呂宋兵衛もはやくから
修道者となり、いわゆる、
切支丹流の
幻術をきわめていた。小角はそこを見こんで重用した。
しかし
根が
邪悪な呂宋兵衛は、たちまちそれにつけあがって
陰謀をたくらみ、
策をもって、小角を殺し、
配下の
野武士を手なずけ、人穴の
殿堂を完全に乗っ取ってしまった。
小角のひとり娘の
咲耶子は、あやうく父とともに、かれの
毒手にかかるところだったが、
節を
変えぬ七、八十人の野武士もあって、ともに
裾野へかくれた。そしていかなる苦しみをなめても、呂宋兵衛をうちとり、小角の
霊をなぐさめなければならぬと、毎日
広野へでて、
武技をねり、陣法の
工夫に
他念がなかった。
――その
健気な
乙女ごころを天もあわれんだものか、彼女はゆくりなくも、きょう
伊那丸と一
党の人々に落ちあうことができた。
かつて、伊那丸が人穴の殿堂にとらわれたときに、咲耶子のやさしい手にすくわれたことがある。いや、そんなことがなくっても、思いやりのふかい伊那丸と、
侠勇勃々たる一党の勇士たちは、かならずや、咲耶子の味方となることを
辞せぬであろう。
一ぽう、山大名の呂宋兵衛は
裾野へかくれた咲耶子の行動にゆだんせず、毎日十数人の
諜者をはなっている。
きょうも、途中雷雨にあって、ズブぬれとなりながら
野馬をとばして人穴へかえってきた三人の
諜者は、すぐ
呂宋兵衛のまえへでて、五湖のあたりにおこった急変を
注進した。
「おかしら、一大事でございます」
「なに、一大事だ」
身はぜいたくをしているが、心にはたえず不安のある呂宋兵衛は、
琥珀の
盃を手からおとし、さらに、
諜者のさぐってきたちくいち――
伊那丸と
咲耶子のうごきを聞くにおよんで、その顔色はいちだんと
恐怖的になった。
「むウ、ではなにか、武田伊那丸のやつらが、
穴山梅雪を
討ちとり、また湖水の底から
宝物の
石櫃を取りだしたというのか。あのなかの
御旗楯無は、とッくにこっちで入れかえて、売りとばしてしまったからいいようなものの、それと知ったら、伊那丸のやつも咲耶子も、一しょになってここへ押しよせてくることは
必定だ。こいつは大敵、ゆだんがならねえ、すぐ
手配りして、
要所要所を
厳重にかためろ」
立ちあがって、わめくようにいいつけた時、石門から取次ぎを受けた
野武士のひとりが、ばらばらと進んできて口ぜわしく、
「おかしらへ申しあげます。ただいま、一の門へ、穴山梅雪の
残党が二、三十人まいって、ぜひお願いがあるといってきましたが、どうしたものでございましょうか」
「穴山の残党なら、
湖畔で伊那丸のために討ちもらされた
落武者だろう。こんなときには、少しのやつも味方の
端だ。そのなかからおもだった者だけ二、三人とおしてみろ」
「
承知しました」
とひッ返した手下の者は、やがて、
殿堂の広間へ、ふたりの武士をあんないしてきた。
呂宋兵衛は上段の席から
鷹揚にながめて、
「
富士浅間の
山大名和田門兵衛は身どもでござるが、おたずねなされたご用のおもむきは?」
「さっそくのご会見、かたじけのうぞんじます。じつは
拙者は、
穴山の四
天王足助主水正ともうしまする者」
「また
某は、
佐分利五郎次でござる、すでにごぞんじであろうが、ざんねんながら、
伊那丸与党の
奸計にかかり、主君の
梅雪は
討たれ、われわれ四
天王のうちたる
天野、
猪子の両名まであえなき
最期をとげました」
「その
儀はいま、手下の者からもくわしくうけたまわった」
「主君のほろびたうえは、
甲斐へかえるも都へかえるも
詮なきこと、
追腹きって相果てようかと思いましたが、それも
犬死、ことによるべなき残り二、三十人の
郎党どもがふびんゆえ、それらの者を集めておとずれまいったしだい、どうぞ、われわれ両名をはじめ一同を、この
山寨におとめおきくださるまいか」
「オオ、それはそれはご心中おさっしもうす、武士は
相身たがい、かならずお力になりもうそう」
呂宋兵衛は、ひそかによろこんだ。
折もおり、いまのこの場合、二勇士が、場なれた
郎党を二、三十人も連れて、味方についてくるとはなんたる
僥倖、かれは
足助と
佐分利に客分の
資格をあたえ、下へもおかずもてなししたうえ、にわかに気強くなって、軍議の
開催をふれだした。
妖韻のこもった
鐘がゴーンと鳴りわたると、
鎧を着た者、
雑服の者、
陸続として軍議室にはいってくる。
そこは四面三十七
間、百二十
畳の
籐の
筵をしき、黒く太やかな
円柱左右に十本ずつの大殿堂。一ぽうの中庭からほのかな日光ははいるが、座中
陰惨としてうす暗く、昼から
短檠をともした赤い光に、ぼうと照らしだされた者は、みなこれ、
呂宋兵衛の腹心の
強者ぞろい。
「わらうべし、わらうべし、
乳くさい
伊那丸や
咲耶子などが、
烏合の小勢でよせまいろうとて、なにをぎょうぎょうしい軍議などにおよぼうか。
拙者に二、三百の者をおあずけくださるならば、ただひと押しにけちらしてみせようわ」
破鐘のような声でいう者がある。
見れば
山寨第一の
膂力、熊のごとき
髯をたくわえている
轟又八だった。すると一ぽうから、
軍謀第一のきこえある
丹羽昌仙がしかつめらしく、
「おひかえなさい
轟、敵をあなどることはすでに
亡兆でござるぞ。伊那丸は有名なる
信玄の孫、兵法に
精通、つきしたがう
傅人もみな
稀代の勇士ときく。すべからくこの
天嶮に
拠って、かれのきたるところを
策によって討つが
上乗」
「やアまた、
昌仙の
臆病意見、富士の
山大名ともある者が、あれしきの者に恐れをなしたといわれては、四
隣の国へもの笑い。これよりすぐに、五湖へまいって、からめ
捕るこそ、
上策」
「いや小勢とはいいながら、かれは
智あり
仁あり勇ある者ども。平野の
戦はあやうし、あやうし」
「くどい、
拙者はどこまでも
討ってでる」
「だまれ
轟、まだ
衆議も決せぬうちに、
僭越千万な」
両名の争論につづいて、一
統の意見も
二派にわかれ、座中なんとなく騒然としてきたころ――
これまた何たる
皮肉! 空から中庭のまん中へ、ズシーンとばかり飛び降りてきた、
雷獣のような一個の
奇童がある。
「や!」
「あッ」
「なにやつ?」
あまりのことに一同は、しばらく
開いた口もふさがらず、ヒョッコリ庭先にたった、
面妖な子供をみつめるのみ。子供とはいうまでもない
竹童で、人見知りもせず、ニヤリと白い歯を見せた。
「やア、この
人穴には、ずいぶんお
侍が大勢いるんだなあ。おじさんたちは、いったいそこでなにをしているんだい」
「バカッ」
いきなり
革足袋のままとびおりた
轟又八、
竹童の
襟がみをおさえて、
「こらッ、きさまは、どこの
炭焼きの
餓鬼だ、またどこのすきまからこんなところへしのびこんでまいった」
「しのびこんでなんかきやしないよ、アア苦しいや、苦しいよ、おじさん……」
「ふざけたことをぬかせ、しのびこまずにこらるべきところではない」
「だっておいらは空からおりてきたんだもの、空はいきぬけだから、ツイきてしまったんだよ」
「なに、空から? ――」
人々は思わず、
物騒らしい顔を空にむけた。
そして、再び奇怪なる少年の姿を見なおし、こいつ
天狗の
化身ではあるまいかと、
舌をまいた。はるかにながめた、
呂宋兵衛は、
「これこれ
又八、とにかくふしぎな
童、おれが
素性をただしてみるから、これへ引きずってこい」
「はッ」と、又八は、かるがると竹童をひッつるして席へあがり、呂宋兵衛のまえへかれをほうりだした。
なみいる人々は、鬼のごとき
武骨者ばかりで、あたりは
大伽藍のような
暗殿である。
大人にせよ、この場合、生きたる心地はなかるべきだが、
竹童はケロリとして、
「ヤ、
呂宋兵衛は
混血児だ。京都の
南蛮寺にいるバテレンとそっくり……」
口にはださないがめずらしそうに目をみはったので、呂宋兵衛は、
「
小僧ッ」とにらんで、一
喝あびせた。
「なんだい、おいらにゃ、竹童っていう名があるんだよ」
「だまれ、さっするところそのほうは、
伊那丸からはなされた
隠密にちがいない、思うに、屋根の上にいて、ただいまの
評定をぬすみ聞きしたのであろう」
「知らない知らない。おいらそんなことを知ってるもんか」
「いいや、
汝の眼光、
樵夫や
炭焼きの小僧でないことはあきらかだ。いったい何者にたのまれてここへまいった。首の飛ばないうちにいってしまえ!」
「おいらが隠密なら、おじさんたちに、すがたなど見せるものか、おいらは、
天道さまのまえだろうが、どこだろうが、ちっともうしろ暗いところがないから、平気さ」
「うーム、まったくそれにそういないか」
「アア。そこになるとおじさんたちはかわいそうだね、もぐらみたいに明るいところをいばって歩けない商売だから、おいらみたいな、
ちびが一ぴきとびこんでも、その通りびくびくする」
不敵な
竹童の
面がまえを、じッとみつめていた
呂宋兵衛は、ことばの
糺問は
無益と知って、口をつぐみ、
黙然と右手の人さし指をむけ、
天井から竹童の頭の上へ線をかいた。
「おや」
と竹童が、なにやらさわるものに手をやると、上より一すじ
絹糸のようなものがたれ、
襟くびから手にはいまわってきたのは一ぴきの
金蜘蛛だった。
キャッというかと思えば、竹童はニッコリ笑っていきなり、蜘蛛を
鷲づかみにし、あんぐり口のなかへほおばって、ムシャムシャ
噛みつぶしてしまったようす。
「む、む……」と、呂宋兵衛はいよいよゆだんのない目で、かれの一
挙一動をみまもっていると、竹童は
唇をつぼめて、
噛みためていたなかのものを、
「プッ――」と呂宋兵衛の顔を目がけて吹きつけた。
――その口からとびだしたのは、きたないかみつぶしではなくて、美しい一
羽の
毒蝶、ヒラヒラと
毒粉を散らした。
「エイッ」
呂宋兵衛が
扇をもって打ちおとせば、
蝶の
死骸はまえからそこにあった一
片の白紙に返っている。
「わかった、きさまは
鞍馬山の
果心居士の
弟子だな」
「だから、竹童という名があるといったじゃないか」
「さてこそ、ものにおどろかぬはず、しかし有名なる
果心居士の
弟子が、
富士の
殿堂と知らずに、くるわけがない、なんのご用か、あらためて聞こうではないか」
「ムム、そう
尋常におっしゃるなら、わたくしもお
師匠さまから受けたお使いのしだいをすなおに話しましょう」
「では、果心先生から、この
呂宋兵衛へのお使いでござるか」
「そうです。さて、お師匠さまのお伝えというのは、きょうなにげなく
鞍馬から富士のあたりをみましたところ、いちまつの
殺気が立ちのぼって、ただならぬ戦雲のきざしが
歴々とござりました。あらふしぎ、いま天下
信長公の
亡きのちは、西に
秀吉、東に
徳川、
北条、
北国に
柴田、
滝川、
佐々、前田のともがらあって、たがいに、
中原を
狙うといえども、いずれも
満を
持してはなたぬ
今日、そも何者がうごくのであろうかと、ご
承知でもござりましょうが、先生、ご
秘蔵の
亀卜をカラリと投げて
占われました」
「オオ」
呂宋兵衛はもとより、なみいる
猛者どもも、この
奇童のよどみなき
弁によわされてしわぶきすらたてず、ひろき殿堂は、人なきようにシーンと静まりかえってしまった。
竹童は、ここでいささか
得意気に、ちいさな体をちょこなんとかしこまらせ、
両肱をはって、ことばをつぐ。
「お
師匠さまがつらつら
亀卜の
卦面を案じまするに、すなわち、――
富岳ニ
鳳雛生マレ、五
湖ニ
狂風生ジ、
喬木十
悪ノ
罪ヲ
抱イテ
雷ニ
裂カル――とござりましたそうです」
「なになに?
喬木、
雷に
裂かると
易にでたか」
呂宋兵衛の顔色土のごとく変るのを見て、
竹童は手をふりながら、
「おどろいてはいけません、それは
穴山梅雪の身の上でした。ところで、
裏をかえして見ますると、つまり裏の
卦、
参伍綜錯して六十四
卦の
変化をあらわします。これによって結果を考えましたところ、
今夕酉の
下刻から
亥の刻のあいだに、昼よりましたおそろしい大血戦が
裾野のどこかで起るということがわかりました」
「むウ、それはあたっていた。して、勝負の結果は」
「さればでござります。にわかにわたくしが
鷲にのってまいったのもそのため、残念ながらあなたの
命は、こよい
乾の星がおつるとともに、
亡きかずに入り、腹心のかたがたもなかば以上は、あえない
最期をとげることとなるそうでござります。これを、
層雲くずれの
凶兆ともうしまして、
暦数の運命、ぜひないことだと、お師匠さまも
吐息をおもらしなさいました」
「えッ、なんといった。しからば呂宋兵衛のいのちは、こよいかぎり腹心のものも大半はほろぶとな?」
「そうおっしゃったことはおっしゃいましたが、ここに一つ、たすかる
秘法があるのです。お
師匠さまは、わたくしにその
秘法をさずけ、あなたに会って、あることと
交換にして教えてこい、だが、
呂宋兵衛はずるいやつゆえ、もしも、こっちできくことをちゃんと答えなかったら、なんにもいわずに逃げてこい――といいつかってまいりました」
「待てまて、たずねることがあらば、なんでも答えるほどに、その
層雲くずれの
凶兆を
封じる秘法をおしえてくれ」
「ですから、まずわたくしのほうのたずねることからお答えくださいまし」
「よし、なんでも問うてみるがいい」
「ではおききもうします」
と、
竹童はやおらひと
膝のりだし、
「湖水のそこに沈めてありました
石櫃をあげて、なかにあった
御旗楯無の
宝物をすりかえたのはたしかにあなた――これはお師匠さまも遠知の
術でわかっております。されどその宝物を、あなたはだれにわたしましたか、または、この
山寨のうちにあるのですか。ききたいのはつまりそのこと一つです」
呂宋兵衛は、心中すくなからずおどろいた。
果心居士といえば、京で有名な
奇道士だが、まさか、これまでに自分のしたことを知っていようとは思わなかった。それほどの道士なれば、竹童のことばもほんとうにそういないだろうし、ひそかに湖水からすりかえてうばった宝物は、いまでは手もとにないのだから打ち明けたところで、こっちに
損得はない――と思った。
「そんなことならたやすいこと、いかにもあきらかに答えてやろう。だが……」
と
呂宋兵衛が
武士だまりの者へ、チラとめくばせをすると、バラバラと立ちあがったふたりの
荒くれ武士が、いきなりムンズと
竹童の左右から
両腕をねじ押さえた。
「ア、おじさんたちはおいらをどうするんだい!」
「いやおこるな、竹童。こっちのいうことだけ聞いて逃げられぬ用心。そうしていても耳はきこえようからよく聞けよ。
御旗楯無の
宝物は、ここにいる
轟又八に京へ持たせて、いまはぶりも金まわりもよい
羽柴秀吉に
金子千
貫で売りとばした。それゆえ、いまの
持主は
秀吉、この
山寨には置いてない。さ、このうえは
果心先生からおさずけの
秘法をうけたまわろう」
「たしかにわかりました。では先生の
秘法をおさずけもうします。そもそも
層雲くずれの
大難は、どんな名将でものがれることのできぬものでござりますが、その難をさけるには、まず夜の
酉から
亥のあいだに、四里四方けがれのない平野へでて、ふだんの
護り神をおがみ、
壇をきずいて
霊峰の水をささげます。――次に、おのれの生年月日をしたためて、
人形の紙をみ
神光で焼くこと七たび、かくして、十
方満天の星をいのりますれば、
兇難たちどころに
吉兆をあらわして、どんな大敵に
遭いましょうとも、けっしておくれをとるということがありません」
呂宋兵衛は、
怪力もあり
幻術にも
長じているが、
異邦人の血のまじっている
証拠には、戦いというものに対して、すこぶる考えがちがう。それに
修道者でもあっただけに、
迷信にとらわれやすかった。
つまりかれがもっているいちばんの弱点に、うまうまと
乗じられた
呂宋兵衛は、まったく
竹童の
言に
惑酔して
穴山の
残党がなんといおうと、
轟や
昌仙のやからが
疑わしげに反省をもとめても、
頑としてきかず、秘法の星まつりを行うべく、手下の
野武士に
厳命した。
ために、軍議はしぜんと、夜に入って四里四方けがれなき平野に、その式をすましたうえ、出陣ときまってしまった。
その用意のものものしいさわぎのなかで、
有卦に
入っていたのは
竹童だ。
別間でたくさんな
馳走をされ、
鞍馬では食べつけない珍味の数々を、
箸と
頤のつづくかぎりたらふくつめこみ、さて、例の
棒切れ一本さげて、
飄然とここを
辞してかえる。
さしも、はげしかった昼の雷雨に、乱雲のかげは、落日とともに
澄みぬいていた。西の
甲武連山は
茜にそまり、東
相豆の海は無限の
紺碧をなして、天地は
紅と
紺と、光明とうす
闇の二色に分けられ、そのさかいに
巍然とそびえているのは、
富士の
白妙。
――すると、この夕方を、
人穴から上へ上へとはいあがっていく豆つぶ大の人影が見えた。それはどうも竹童らしい。見るまに、二
合目の下あたりから
鷲にのって、おともなく五
湖のほうへとび去った。
富士の二
合目をはなれ、いっきに、五湖の水明かりをのぞんで飛行していた
竹童は、夜の空から
小手をかざして、しきりに、
下界にある
伊那丸主従のいどころをさがしている。
「オオ暗い、暗い、暗い。天もまッ暗、地もまッ暗。これじゃいったいどこへ
降りていいんだか、お月さまでもでてくれなきゃア、けんとうがつきあしない」
大空で
迷子星になった竹童は、例の、寝るまもはなさぬ
棒切れを
右手にもち、左の手を目のはたへかざして、
鷲の上から、
「オオーイ、オオーイ」と、とうとう声をはりあげて呼びだした。
しかし、竹童の声ぐらいは、竹童じしんが乗っている鷲の
羽風に
消しとばされてしまった。そのかわり、人ではないが、はるかな地上にあたって、馬のいななくのが高く聞えた。
「おや、馬のやつが
返辞をしたぞ」
と、つぶやいたが、その竹童のかんがえはちがっている。動物は動物にたいして敏感であるから、いま、下のほうでいなないた馬は、ここにさしかかってきた
闇夜飛行の怪物の影に、おどろいたものにそういない。
けれど
竹童は、馬が答えたものと信じて、いきなり、棒切れをピューッと下へふった。と、クロはたちまち身をさかしまにして、ツツツツ――と
木の
葉おとしに
降りていく。
「あ、ここはどこかのお宮の庭だな……」
鷲からおりて、しばらくそのあたりをあるいていた竹童は、やがて、
拝殿からもれるほのあかりをみとめ、そッと
忍びよってみると、たしかに六、七人のささやき声がする。
「いた!」かれは思わず叫んで、
「おじさん! おじさんたち」
呼ぶ声と一しょに、拝殿のなかにいた者は、どやどやと、それへでてきて、七つの人影をあらわした。
「何者じゃッ」と竹童をねめつけた。
「おいらだよ、
鞍馬山の竹童だよ」
「おお、竹童か」
ほとんど、そのなかの半分以上の者が、口をあわしてこういった。
木隠龍太郎も、
忍剣も、
民部も
蔦之助も
小文治も竹童にとればみな友だちだ。
ただ、
床几にかけて、かれを見おろしていた
伊那丸だけが、すこし
解せないようすである。
「
龍太郎。そちたちはこの
童をよう知っているようじゃが、いったいどこのものであるの」
「さきほどお話しもうしあげました、
果心居士の
童弟子でござります」
「おおあれか」
伊那丸はニッコリして
竹童を見なおした。竹童もニヤリと笑って、ともするとなれなれしく、じぶんの友だちにしてしまいそうだ。
「これ竹童、
伊那丸君のおんまえ、つッ立っていてはならぬ、すわれすわれ」
「いや、そう
叱らぬがよい、
鞍馬の
奥でそだった者じゃ、その
天真爛漫がかえって美しい。したが、おまえはここへ、何用があってきたのか」
「はい」竹童はかしこまって、
「お
師匠さまのおいいつけでござります」
「なに、
果心先生からここへお使いに?」
「さようでござります。みなさまは、きょう
穴山梅雪をお
討ちになって、さだめしホッとなされたでござりましょうが、勝って
兜の
緒をしめよ、ここでごゆだんをなされては大へんでござります」
「む、伊那丸はけっしてゆだんはしておらぬぞよ」
「では、湖水の底から引きあげた
石櫃の
蓋をとって、なかをあらためてごらんになりましたか」
「いや、ほかのところへかくしたものとちがって、湖底へ沈めておいた石櫃、あらためるまでもない」
「ところが、お
師匠さまの遠知の術では、どうも、石櫃のなかの
宝物にうたがいがあるとおっしゃいました。それゆえ、にわかにお師匠さまにいいふくめられて、この
竹童が、
鷲の
翼のつづくかぎり、とびまわったのでござります。どうぞみなさま、いっこくもはやく、石櫃をおあらためくださいまし」
「さては、それが
伊那丸のゆだんであったかもしれぬ。
忍剣、忍剣、ともあれ石櫃をここへ。また、
小文治と龍太郎は、あるかぎりのかがり火をあたりにたき立ててください」
「はッ」
席を立った者たちが三つ
脚のかがり火を、左右五、六ヵ所へ
炎々と燃したてるまに、忍剣は、さきに
梅雪の
郎党たちが、湖底から引きあげておいた石櫃をかかえてきて、やおら、伊那丸のまえにすえた。
「こう見たところでは、
蓋の
合口に
異状はないが」
「
青苔がいちめんについているさまともうし、一ども人の手にふれたらしい点はみえませぬ」
「とにかく、
蓋をはらってみい」
「
心得ました」
と
忍剣は立ちあがって、グイと
法衣の
袖をたくしあげ厳重な石の
蓋をポンとはねのけてみた。
「や、やッ」まず忍剣がきもをつぶした。
「どういたした。なんぞ変りがあったか」
伊那丸もおもわず
床几から腰をうかした。
「ちぇっ。これごらんなさりませ」
と、くやしそうに忍剣が石櫃を引っくりかえすと、なかからごろごろところがりだしたのは、
御旗楯無の
宝物に、
似ても似つかぬただの石ころ。
「むウ……」
伊那丸は顔いろをうしなった。それはむりではない、
武田家重代の軍宝――ことに父の
勝頼が、
天目山の
最期の場所から、かれの手に送りつたえてきたほど大せつな
品。
それがない!
ないですもうか。
御旗楯無の宝物は、武田家の三種の
神器だ。これを失っては、
甲斐源氏の
家系はなんの
権威もなくなってしまう。
伊那丸をはじめ他の六人まで、ひとしくここに、色をうしなったも当然である。
「アア、やっぱり、おいらの先生はえらい――」
そのとき、
嘆ずるようにいったのは
竹童だった。
「ああ、どこまで武田家は
衰亡するのであろうか……」
と
嘆じあわして、伊那丸もつぶやく。
「大じょうぶだよ」竹童は
棒切れを
杖にしてふいにつっ立ち、気の毒そうに伊那丸の
面を見あげた。
「大じょうぶだ大じょうぶだ。そのなかの物がなくなっても、ぬすんだやつはわかってるから……おいらがちゃんとかぎつけてきてあるから――」
「なに! ではおまえがその者を知っているか」
「ああ知っている。そいつは、
人穴の殿堂にいる
和田呂宋兵衛という悪いやつだよ。そして、
盗んだ
宝物は、手下を京都へやって、
羽柴秀吉に売ってしまったんだ――これはきょうおいらが呂宋兵衛と問答して、
鎌をかけてきいてきたんだからまちがいのないことなんだ」
「えッ、では
御旗楯無をぬすんだやつも、あの
人穴の呂宋兵衛か……」
と、伊那丸が意外そうな
瞳を
咲耶子に向けると、彼女も、思いがけぬことのように、
「わたしにとれば父をころした悪人。伊那丸さまにはお
家の
賊、八つざきにしてもあきたりない
悪党でござります」
と、やさしい
眉にもうらみが立った。
伊那丸は
床几をはなれ、そしてうごかぬ決意を語気にしめしていった。
「みなのもの、わしはこれからすぐ
人穴の殿堂へ
駈けいり、
呂宋兵衛の首を剣頭にかけて、祖先におわびをいたすつもりだ。一つには、恩義のある
咲耶子への
助太刀、われと思わんものはつづけ、
御旗楯無をうしなって、
武田の家なく、武田の家なくして、この伊那丸はないぞ!」
「お勇ましいおことば、われわれとて、どこまでも
君のお
供いたさずにはおりませぬ」
山県蔦之助、
忍剣、
龍太郎、
小文治などの、たのもしげな勇士たちは、声をそろえてそういった。
「おう、わたしを入れてここに七
騎の勇士がある。咲耶子も心づよく思うがよい、きっとこよいのうちに、きゃつの首を、この
剣の
切ッ先にさしてみせよう。忍剣、馬を馬を!」
「はッ」
バラバラと
樹立ちへはいった忍剣は、
梅雪一
党が乗りすてた
駒のなかから、
逸物をよって、チャリン、チャリン、チャリン、と
轡金具の音をひびかせて、伊那丸のまえまで
手綱をとってくると、いままで
黙然としていた
小幡民部が、
「しばらく――」と、駒をおさえて
頭をさげた。
「なんじゃ、
民部」
「お
怒りにかられて、これより
人穴の殿堂へかけ入ろうという
思し
召しは、ごもっともではござりますが、民部はたってお引きとめもうさねばなりませぬ」
「なぜ?」
伊那丸はめずらしく
苦い色をあらわした。
「けっして、かれをおそれるわけではありませぬが、音にきこえた
天嶮の
野武士城、いかに七
騎の勇があっても攻めて落ちるはずのものとは思われませぬ」
「だまれ、わしも
信玄の
孫じゃ!
勝頼の次男じゃ! 野武士のよる山城ぐらいが、なにものぞ」
かれにしては、これは
稀有なほど、
激越なことばであった。民部には、またじゅうぶんな敗数の
理が見えているか、
「いいや、おことばともおもえませぬ」
と、つよく首をふって、
「いかに
信玄公のお孫であろうと、兵法をやぶって勝つという
理はありませぬ。なにごとも時節がだいじです。しばらくこの
裾野にかくれて
呂宋兵衛が山をでる日を、おまちあそばすが
上策とこころえまする」
「そうだ」
その時、横からふいにことばをはさんだのは
竹童で、さらに
頓狂な声をあげてこうさけんだ。
「そうだ! おいらもうっかりしていたが、そいつは今夜きっと山をでるよ、うそじゃない、きっと山をでる! 山をでる!」
「竹童、それはほんとうか」
民部は、目をかれにうつした。
「うそなんかおいら大きらいだ、まったくの話をするとお
師匠さまが
呂宋兵衛に、おまえの
命はこよいのうちにあぶないぞっておどかしたんだよ。おいらはその使いになって、今夜
子の
刻(十一時から一時)のころに、
裾野四里四方
人気のないところへでて、
層雲くずれの
祈祷をすれば助かると、いいかげんなことを教えてきてあるんだけれど、それも、いま考えあわせてみると、みんなお師匠さまがさきのさきまでを見ぬいた
計略で、わざとおいらにそういわせたにちがいない」
おどろくべき
果心居士の
神機妙算、さすがの民部もそれまでにことが運んでいようとは気がつかなかった。
子の
刻一
天までには、まだだいぶあいだがある。
伊那丸は一同にむかい、それまではここにあって、じゅうぶんに体をやすめ、英気をやしなっておくように厳命した。
竹童は
勇躍して、
「それでは夜中になると、まためざましい戦いがはじまるな。おいらもいまからしっかり英気をやしなっておくことだ……」
と、クロをだいて、お堂の
端へゴロリと寝てしまった。
と、かれは横になるかならないうちに、
「おや、
笛が鳴ったぞ」
と頭をもたげてキョロキョロあたりを見まわした。見ると、
咲耶子がただひとり、
社前の
大楠の
切株につっ立ち、例の横笛を口にあてて、
音もさわやかに吹いているのだった。
竹童は初めのうち、なんのためにするのかとうたがっていたらしいが、まもなく、笛の
音が
裾野の
闇へひろがっていくと、あなたこなたから、ムクムクと姿をあらわしてきた
野武士のかげ。それがたちまち、七十人あまりにもなって、咲耶子のまえに整列したのにはびっくりしてしまった。
咲耶子は、あつまった野武士たちに、なにかいいわたした。そしてしずかに
伊那丸の前へきて、
「この者たちは、いずれも父の
小角につかえていた野武士でござりますが、きょうまで、わたくしとともにこの裾野へかくれ、折があれば
呂宋兵衛をうって
仇をむくいようとしていた
忠義者でござります。どうかこよいからは、わたくしともどもに、お味方にくわえてくださりますよう」
伊那丸はまんぞくそうにうなずいた。
時にとって、ここに七十人の兵があるとないとでは、
小幡民部が
軍配のうえにおいても、たいへんなちがいであった。
ましてや、いまここに集められたほどの者は、みなへいぜいから、
咲耶子の
胡蝶の陣に、
練りにねり、
鍛えにきたえられた
精鋭ぞろい。
かくて一同は、敵の目をふさぐ用意に、ばたばたとかがり火を消し、太刀の
音をひそませ、
箭づくり、
刃のしらべはいうまでもなく、馬に草をも
飼って、時刻のいたるをまちわびている。
待つほどに
更くるほどに、夜はやがて三
更、
玲瓏とさえかえった空には、
微小星の一粒までのこりなく
研ぎすまされ、ただ見る、三千
丈の
銀河が、ななめに夜の
富士を越えて見える。
「グウー、グウ、グウーグウ……」
そのなかで、
竹童ばかりが、
鷲の
翼をはねぶとんにして、さもいい気もちそうに、いびきをかいて寝こんでいた。
まさに、夜は
子の
刻の一
天。
人穴の
殿堂をまもる、三つの
洞門が、ギギーイとあいた。
と、そのなかから、
焔々と燃えつつながれだしてきたのは、
半町もつづくまっ赤な
焔の行列。無数の
松明。その影にうごめく、
野武士、馬、
槍、十
字架、旗、すべて血のように
染まって見えた。
なかでも、一
丈あまりな
白木の十字架は、八人の手下にゆらゆらとささえられ、すぐそばに
呂宋兵衛が、
南蛮錦の
陣羽織に身をつつみ、
白馬にまたがり、十二
鉄騎にまもられながら、
妖々と、
裾野の
露をはらっていく。
すすむこと二、三
里、ひろい平野のまン中へでた。呂宋兵衛は馬からひらりと
降り、二、三百人の野武士を
指揮して、見るまにそこへ
壇をきずかせ、十字架を立て、かがり火を
焚いて、いのりのしたくをととのえさせた。
「
念珠を
念珠を、これへ――」
呂宋兵衛は、まえにもいったとおり、
南蛮の
混血児でキリシタンの
妖法を
修する者であるから、
層雲くずれの
祈祷も、じぶんが信じる
異邦の式でゆくつもりらしい。
手下の者から、
念珠をうけとったかれは、それを
頸へかけ、胸へ、
白金の十字架をたらして、しずしずと
壇の前へすすんだ。
護衛する野武士たちは、しわぶきもせず、いっせいに
槍の
穂さきを立てならべた。なかにはきょう味方についた
穴山の
残党、
足助主水正、
佐分利五郎次、その他の者もここにまじっている。
壇にむかって、七つの
赤蝋をともし、
金明水、
銀明水の
浄水をささげて、そこにぬかずいた
呂宋兵衛は、なにかわけのわからぬいのりのことばをつぶやきながら、いっしんに空の星を
祈りだした。
すると、どこからともなく、ザッ、ザッ、ザッ、ザッと草をなでてくるような
風音。つづいて、地を打ってくる
馬蹄のひびき。
「や!」かれはぎょっと、頭をあげて、
「あの物音は? あのひびきは? おお馬だッ、人声だ。ゆだんするな!」
叫ぶまもなく、ピュッ、ピュッと、風をきってくる
霰のような
征矢。――早くも、四面の
闇からワワーッという
喊声が聞えだした。
「さては
武田伊那丸がきたか」
「いやいや
咲耶子が仕返しにまいったのだろう」
「うろたえていずとかがり火を消せ、はやく
松明をすててしまえ、敵方の目じるしになるぞ」
あたりはたちまち
暗瞑の
地獄。
ただ、燃えいぶった煙と、ののしる声と、太刀や
槍の音ばかりが、ものすごくましていった。
もう、どこかで
斬りあいがはじまったらしい。
星明かりをすかしてみると、敵か味方か入りみだれてよくわからないが、
白馬黒鹿毛をかけまわしている七人の影は、たしかに
襲せてきた七勇士。それに斬りまわされて、呂宋兵衛の手下どもは、
「だめだ、足を斬られた」
「敵はあんがいてごわいぞ。もう大変な
手負いがでた」
「殿堂へ逃げろ!」
「
人穴へ引きあげろ!」
と声をなだれあわせて、思いおもいな草の
細径へ
蜘蛛の子のちるように逃げくずれた。
それらの、
雑兵や手下には目もくれず、さきほどから馬上りんりんとかけまわっていた
伊那丸は、
「
咲耶子はいずれにある。咲耶子、咲耶子」
と、しきりに呼びつづけていた。
「おお伊那丸さま、わたくしはここでござります」
近よってきた
白鹿毛の上には、かいがいしい
装束をした彼女のすがたが、細身の
薙刀を
小脇に持って、にっことしていた。
「咲耶子、呂宋兵衛めは、いずれへ姿をかくしたのであろう。
忍剣も
龍太郎も、いまだに
討ったと声をあげぬが」
「わたくしも、余の者には目もくれず、八ぽうさがしてまわりましたが、影も形も見あたりませぬ。ざんねんながら、どうやら取り逃がしたらしゅうござります」
「いや、
民部がしいた八門の陣、その逃げ口には、
伏兵がふせてあるゆえ、かならず討ちもらす気づかいはない」
とふたりが、馬上で語り合っているすぐうしろで、ふいに、
悪魔の
嘲笑が高くした。
「わ、はッはわはッは……このバカもの!」
「や!」
ふりかえってみると、人影はなく、星の空にそびえている一
基の十
字架。
「いまの声は、たしかに
呂宋兵衛」
「
奇ッ
怪な笑い声、
咲耶子、心をゆるすまいぞ」
きッと、十字架をにらんで、ふたりが息を殺したせつなである、一陣の怪風! とたんに、
星祭の
壇に燃えのこっていた
赤蝋が、メラメラと青い
焔に音をさせてあたりを照らした。
明滅の一
瞬、十字架のうしろにかくれていたおぼろげなかげは、たしかに怪人、
和田呂宋兵衛。
「おのれッ!」
「
怨敵」
敵将のすがたを
目のあたりに見て、なんのひるみを持とう。
伊那丸は太刀をふりかぶり、
咲耶子は
薙刀の
柄をしごいて八
幡! 十
字架の根もとをねらって斬りつけた。
と――ほとんど同時である。
伊那丸がたの
軍師、
小幡民部は、無二無三に
駒をここへ飛ばしてきながら、
「やあ、待ちたまえ
若君。かならずそれへ近よりたもうな。あ、あ、あッ、
危ないッ!」
と、かれは狂気ばしって
絶叫した。
が――その注意はすでに間に合わなかった。
ふたりのえものは、もう、ザクッと十字架のかげを目がけてふりこんでしまった。と見るまに、ああ、そもなんの
詭計ぞ、足もとから
轟然たる怪火の
炸裂。
ぽかッと、
渦をふいた
白煙とともに、
宙天へ
裂けのぼった火の柱、同時に、バラバラッとあたりへ落ちてきたいちめんの火の雨――それも火か土か肉か血か、ほとんど目を
開けて見ることもできない。
すさまじい雷火の
焔が、パッと立ったせつな、ゲラゲラゲラと十字架のかげで大きく笑う声がした。
怪人
呂宋兵衛の目である。口である。
悪魔の
面! それがあざわらった。
「あッ――」
伊那丸の馬は、
蹄を
蹴って横飛びにぶったおれた。
咲耶子は、
竿立ちとなった
駒のたてがみにしがみついて、
焔のまえに
悶絶した。
倒れたのは、馬ばかりか、人ばかりか、二
尺角の
白木の十
字架まで、上から
真ッ二つにさけ、
余煙のなかへゆら、――と横になりかかってきた。
雷火の
炸裂は、
詭計でもなんでもない。
怪人呂宋兵衛が、ふところに
秘めておいた一
塊の
強薬を、
祭壇に燃えのこっていたろうそく
火へ投げつけたのだ。
長崎や
堺あたりで、
南蛮人が日本人と
争闘すると、
常習にやるかれらの
手口である。
民部はそれを知っていたので、あわてて駒を飛ばしてきたが、
一足おそかった、
裂けた十字架が、いましもドスーンと大地へ音をひびかせた時である。
「
人穴の
賊。そこうごくなッ!」
民部は、乗りつけてきた馬の
鞍から飛びおりるより早く、
壇の上につっ立っているかれを目がけて斬りつけた。
「しゃらくさいわッ」
呂宋兵衛は、民部の第一刀をひッぱずして、いきなり鬼のような手で彼の
右手をねじあげた。
もうふところに強薬は持っていないので、まえのような危険はないが、腕と腕、剣と剣の打ちあいでも、民部は
呂宋兵衛の敵ではない。
「うーむ、この
小僧ッ子め」
酒呑童子もかくやの
形相で、大きな
唇へ
やい歯をかませた呂宋兵衛は、いきなり民部の
利腕をひとふりふって、やッと一
声、
壇の上から大地へ投げつけた。
「無念」
一代の
軍師、
小幡民部も、腕の勝負ではいかんともすることができない。はねおきようとすると、はやくも、呂宋兵衛の山のような体がのしかかってきて、グイとのどわをしめつけ、
「おウ、てめえが
伊那丸の腰について、
穴山梅雪を
討ったという小ざかしい小幡民部というやつだな。こりゃいい首にめぐり会った。
山荘へのみやげにしてやる。
覚悟をしろ」
鎧通しをひきぬき、
逆手にもって、グイと民部の
首根にせまった。民部は、そうはさせまいと、下から
短剣をぬき、足をもがき、ここ一
髪のあらそいとなって、たがいに必死。
伊那丸も
咲耶子も、みすみすかたわらにありながら、いまの
雷火にふかれて、ふたりとも気を失ってしまっている。
「うーむッ」
もみ合っているふたりのあいだから、おそろしい
苦鳴があがった。さては、民部が首をかき落とされたか、
呂宋兵衛が
脾腹をえぐられたか、どッちか一つ。
さきにはね起きたのは、呂宋兵衛であった。
かれの左の足に、一本の流れ矢がつき刺さっていた。つづいて
民部も飛びおきた。またすさまじい短剣と短剣の斬りあいになる。
「やッ、呂宋兵衛、ここにおったか」
そのとき、ゆくりなくもきあわせた
巽小文治が、
朱柄の
槍をしごいて、横から突っこんだ。
「じゃまするなッ」
ガラリとはらう。さらに突く。
さらにはらう。またも突きだす。
この
妙槍にかかっては、さすがの呂宋兵衛も、弱腰になった。それさえ、大敵と思うところへ、
加賀見忍剣、
木隠龍太郎、
山県蔦之助の三人が、ここのあやしき物音を知って、いっせいに
蹄をあわせて、三方から、
野嵐のごとく馬を飛ばしてくるようす。
「呂宋兵衛、呂宋兵衛、
汝、いかに
猛なりとも、ふくろのなかのねずみどうようだ、時うつればうつるほど、ここは
鉄刀鉄壁にかこまれ、そとは八門暗剣の
伏兵にみちて、のがれる道はなくなるのじゃ、
神妙に
観念してしまえ」
小幡民部がののしると、
呂宋兵衛はかッと
眼をいからせて、わざとせせら笑った。
「だまれッ。
汝らのような
とうすみとんぼ、百ぴきこようと千びきあつまろうと、この呂宋兵衛の目から見れば子供のいたずらだわ」
「
舌長なやつ、その
息のねをとめてやるッ」
「なにを」
と呂宋兵衛は立ちなおって、剣を、鼻ばしらの前へまッすぐ持ち、あたかも、
不死身の
印をむすんでいるような形。
ふしぎや、
小文治の
槍も民部の太刀も、その
奇妙な
構えを、どうしても破ることができない。ところへ、同時にかけあつまったまえの三人。
この
態を見るより、めいめい、ひらりひらりと
鞍からおりて、かけよりざま、
「おうッ、
巽小文治どの、
龍太郎が
助太刀もうすぞ」
「
加賀見忍剣これにあり、いで! 目にものみせてくれよう」
とばかり、呂宋兵衛の前後からおッつつんだ。
さすがのかれも、ついにあわてだした。そして、一太刀も合わせず、ふいに忍剣の
側をくぐって
疾風のように逃げだした。
「待てッ」
すばやくとびかかった龍太郎が、
戒刀の
切ッ先するどく
薙ぎつけると、呂宋兵衛はふりかえって、右手の
鎧通しを
手裏剣がわりに、
「えいーッ」
気合いとともに投げつけた。
龍太郎は身をしずめながら、刀のみねで、ガラリとそれをはらい落とした。
と、なにごとだろう?
ピラピラと、
魚鱗のような
閃光をえがいて飛んできた
鎧通しが、龍太郎の
太刀にあたると同時に、
銀粉のふくろが切れたように、
粉々とくだけ散って、あたりはにわかに、月光と
霧につつまれたかのようになった。
「や、や。あやしい
妖気」
「きゃつはキリシタンの
幻術師、かたがたもゆだんするな」
「この
忍剣にならって、
破邪のかたちをおとり召されい」
と、まッさきに忍剣が、大地にからだをピッタリ
伏せ、地から上をすかしてみると、いましも、黒い影がするするとあなたへ足をはやめている。
「おのれッ」
とびついていった忍剣の
禅杖が、力いッぱい、ブーンとうなった。とたんに、一
陣の怪風――そして、わッ、と、さけんだのはまぎれもない
呂宋兵衛である。
たしかに手ごたえはあったらしいが、かれもさるもの、すばやく
隠形の
印をむすび、
縮地飛走の
呪をとなえるかと見れば、たちまち
雷獣のごとく身をおどらせ、おどろく人々の眼界から、一気に二、三町も遠くとびさってしまった。
「あ、あ、あ、あ、あ!」とさすがの忍剣も、
龍太郎もそのゆくえを、ただ見まもるばかり。
目ばたきするまに、二、三町もとんだ
呂宋兵衛のあとには、うすい
虹か、あわい
霧のようなものが一すじ尾をひいてのこった。
いつまで見送って、たがいに歯がみしていたところで及ばぬことと、
忍剣は一同をはげました。そして、そこにたおれている、
伊那丸と
咲耶子とに、
手当を加えた。
さいわいに、ふたりはさしたる
重傷を受けていたのではなかった。けれど、やがて気がついてから、
賊将、呂宋兵衛をとり逃がしたと知って、無念がったことは、ほかの者より強かった。ことに、伊那丸は父ににて
勝気なたち。
「かれらの
策におちて、おくれをとったときこえては、のちの世まで武門の名おれ。わしはどこまでも、呂宋兵衛のいくところまで追いつめて、かれの首を見ずにはおかぬ。
民部、
止めるなッ」
いいすてるが早いか、馬の
鞍つぼをたたいて、まっしぐらに走りだした。と咲耶子も、
「お待ちあそばせや、伊那丸さま。
人穴の殿堂は、この咲耶子が
空んじている道、踏みやぶる
間道をごあんないいたしましょうぞ」
手綱をあざやかに、ひらりと
駒におどった
武装の少女は
一鞭あてるよと見るまに、これも、伊那丸にかけつづいた。
ことここにいたっては、
思慮ぶかい
小幡民部も、もうこれまでである、いちかばちかと、決心して、
「
加賀見忍剣どの。
木隠龍太郎どの」
と声高らかに呼ばわった。
「おお」
「おおう」
「そこもとたちふたりは、若君の
右翼左翼となり、おのおの二十名ずつの兵を
具して、おそばをはなれず、ご
先途を見とどけられよ、早く早く」
「かしこまッた」
軍師に礼をほどこして、ふたりは馬に
鞭をくれる。
「つぎに
山県蔦之助どの。
巽小文治どの」
「おう」
「おう」
「ご両所たちは
搦手の先陣。まず小文治どのは
槍組十五名の
猛者をつれて、
人穴の殿堂よりながれ落ちている水門口をやぶり、まッ先に
洞門のなかへ斬りこまれよ」
「
心得た」
小文治は
朱柄の
槍をひッかかえて、十五名の
力者をひきつれ、人穴をさして、たちまち草がくれていく。
「さて
蔦之助どの、そこもとは残る十七名の兵をもって、一隊の
弓組をつくり、殿堂をかこい
嶮所に登って
廓のなかへ矢を
射こみ、ときに
応じ、変にのぞんで、
奇兵となって討ちこまれい!」
「
承知いたしました」
「
拙者は、のこりの者とともに
後詰をなし、若君の旗本、ならびに、総攻めの
機をうかがって、その時ごとに、おのおのへ
合図をもうそう。さらばでござる」
軍配のてはずを、残りなくいいわたした
民部は、ひとりそこに
踏みとどまり、
人穴攻めの作戦
図を胸にえがきながら、
無月の秋の空をあおいで、
「敗るるも勝つも、
小幡民部の名は、おしくもなき一
介の
軍配とりじゃ。しかし……しかし
伊那丸さまは大せつな
甲斐源氏の
一粒種、あわれ八
幡、あわれ
軍の神々、力わかき民部の
采配に、
無辺のお力をかしたまえ」
正義の声は、いつにあっても、だれの口からほとばしっても、ほがらかなものである。
英気をやしなうため、
宵のくちに、ほんのちょっと寝ておくつもりだった
竹童は、いつか
鼻から
提灯をだしてわれにもなく、大いびき。
このぶんでほっておいたら、かならずや、夜が明けるのも知らずに寝ているにちがいない。
ところが、
好事魔おおし、せっかくの
白河夜船を、何者とも知れず、ポカーンと
頬っぺたをはりつけて、かれの夢をおどろかさせた者がある。
「あ
痛ッ、アた、た、た、た!」
ねぼけ
眼ではねおきた
竹童は、むちゃくちゃに腹が立ったと見えて、いつにない
怒りようだ。
「おいッ、おいらをぶんなぐったのは、いったいどこのどン
畜生だ、さアかんべんできない、ここへでろ、おいらの前へでてうせろッ」
あまり太くもない
腕をまくりあげて、そこへ
しゃちこ張ったのはいいが、竹童、まだなにを寝ぼけているのか、そこにいた人の顔を見ると、急にすくんで、
膝ッ子のまえをかきあわせ、ペコペコお
辞儀をしはじめたものだ。
「竹童、おまえは大そう強そうに
怒るな」
「はい……」
「どうした。おいらの前へでてうせろといばっておったではないか。なぐったわしはここにいる」
「はい、いいえ……」
「
不埒者めがッ」
なんのこと、あべこべにまた
叱られた。
もっとも、それはべつだんふしぎなことではない。いつのまにか、ここにきていた人間は、
竹童が
小太郎山にいることとばかり思っていた、
果心居士その人だったのだ。
しかし、いくら飛走の
達人でも、どうして、いつのまにこんなところへきたんだろうと、竹童はじぶんのゆだんをつねって、目ばかりパチパチさせている。
けれど、なんとしても、このお
師匠さまは人間じゃあない。ほとんど神さま、このおかたに会ってはかなわないから、三どめの大目玉をいただかないうちに、なんでもかでも、こっちからあやまってしまうほうが
先手だと、そこは竹童もなかなかずるい。
「お師匠さま。お師匠さま。どうもすみませんでございました。お使い先で、グウグウ寝てしまったのは、まったくこの竹童、悪いやつでございました。どうぞごかんべんなされてくださいまし」
「
横着な
和子ではある。わしのいう
叱言を、みんなさきにじぶんからいってしまう」
「いいえ、お師匠さまの叱言よけではございませんが、ひとりでに、じぶんが悪かったと、ピンピン頭へこたえてくるのでございます」
「しかたのないやつ」
果心居士も竹童の叱言には、いつも途中から
苦笑してしまった。
「けれど、叱言ではないが――そちも大せつな使者に立った者ではないか。なぜ、
伊那丸さまのご
先途まで見とどけてくるか、あるいは、ひとたび小太郎山まで立ち帰ってきて、ようすはこれこれとわしに
返辞を聞かせぬのじゃ」
「はい。ですからわたしは、しばらくここに寝こんでいて、夜中にみなさまがここをでる時、ご一しょについていって見ようと思っていたのでござります」
「たわけ者め。そのご一同がどこにいる?」
「えッ」
竹童は始めてあたりを見まわし、
「おや? もう
子の
刻が過ぎたのかしら、
伊那丸さまもお見えにならず、
忍剣さまも、……
蔦之助さまもおかしいなあ、だれもいないや。お
師匠さま、みなさまはもう
戦にでておしまいなされたのでしょうか?」
「もう子の刻もとッくにすぎ、
裾野の
戦も一
段落となっているわ」
「アアしまった! しまった! すッかり寝こんでなにも知らなかった。お師匠さま、竹童はどうしてこういつまでおろかなのでござりましょう」
「どうじゃ。わしに打たれたのがむりと思うか」
「けっしてごむりとは思いません。これからこんなゆだんをいたしませんように、もっとたくさんおぶちなされてくださいまし」
「よいよい。それほどに気がつけば、本心にこたえたのじゃろう。ところで竹童、また大役があるぞ」
「もうたくさん寝ましたから、どんなむずかしいご用でも、きッとなまけずに勤めまする」
「む、ほかではないが、こよいの
計略は
呂宋兵衛の
妖術にやぶられ、いままた、
伊那丸さまはじめ、その他の
旗本たちは
人穴の殿堂さして攻めのぼっていった。しかし、かれには二千の
野武士があり、幾百の
猛者、幾十人の
智者軍師もいることじゃ。なかなか七十人や八十人の
小勢でおしよせたところで、たやすく
嶮所の
廓は落ちまいと思う」
「わたくしもあのなかを見てきましたが、どうしてどうして、おそろしい
厳重な
山荘でございました」
「それゆえ、力で押さず、智でおとす。しかし、智にたよって勇をうしなってもならぬゆえ、わざと伊那丸さまにはお知らせいたさず、そちにだけ第二の
密計をさずけるのじゃ。
竹童、耳を……」
「はい」
とすりよると、
果心居士は
白髯につつまれた
唇からひそやかに、
二言三言の
秘策をささやいた。
それが、いかにおどろくべきことであったかは、すぐ聞いている竹童の目の玉にあらわれて、あるいは
驚嘆、あるいは
壮感、あるいは
危惧の色となり、せわしなく、
瞳をクルクル廻転させた。
「よいか、竹童!」
はなれながら、
果心居士はさいごにいった。
「一心になって、おおせの通りやりまする」
「そのかわり、この大役を
首尾よくすましたら、
伊那丸さまにおねがいして、そちも
武士のひとりに取り立てて
得さすであろう」
「ありがとうござります。お
師匠さま、
侍になれば、わたくしでも、刀がさせるのでござりましょうね」
「差せるさ」
「差したい! きッと差してみせるぞ」
竹童は、その
興奮で立ちあがった。
しかし、かれのひきうけた大役とはいったいなんだろう。もとより
鞍馬山霊の気をうけたような
怪童子、あやぶむことはあるまいが、
居士の
口吻からさっしても、ことなかなか
容易ではないらしい。
夜もすがら、百八ヵ所で
焚きあかしているかがり火のため、
人穴城の
殿堂は、さながら、
地獄の祭のように赤い。
和田呂宋兵衛たちが、おおきな十
字架をささげて、
層雲くずれの
祈祷にでていったあとは、腹心の
轟又八が
軍奉行の
格になって、
伊那丸と
咲耶子をうつべき、
明日の作戦に
忙殺されていた。
「東の空がしらみだしたら一番
貝、
勢ぞろいの用意とおもえ。富士川が見えだしたら、二番貝で
部署につき、三番貝はおれがふく。同時に、八方から
裾野へくだって、時刻時刻の
合図とともに、
遠巻きの
輪をちぢめて、ひとりあまさず討ってとる
計略。かならずこの手はずをわすれるなよ」
一同へ軍令をおわった轟又八は、やや得意ないろで広場にたち、あすの天候を
観測するらしいていで、暗天を見あげていたが、ふと、なにがしゃくにさわったのか、
「ふふん、この
闇の晩に、なにが見えるんだ。バカ
軍師め、人のせわしさも知らずに、まだあんなところでのんき
面をかまえていやがる」
上のほうへはきだすようにつぶやき、そのまま、殿堂の
物の
具部屋へ隠れてしまった。
又八をして、ぷんぷんと怒らせたものとは、いったいなんであろうか――と空をあおいで見ると、
炎々とのぼるかがりの煙にいぶされて、高い
櫓がそびえていた。そのてッぺんに、さっきから、ひとりの影が立っている。
山寨の軍師、
丹羽昌仙であった。
轟又八がバカ軍師とののしったわけである。
昼間から、攻守両意見にわかれて、反対していたのだ。そこで
昌仙は
詮なきこととあきらめたか、
呂宋兵衛が
裾野をでるとすぐ、軍備にはさらにたずさわらず、
継子のように、ひとり
望楼のいただきへあがって、
寂然とたちすくみ、四
顧暗々たる裾野をにらみつめている。
かれは、さっさつたる高きところの風に吹かれながら、そも、なにをみつめているのだろうか。
星こそあれ、
無月荒涼のやみよ。――おお、はるかに
焔の列が
蜿々とうごいていく。呂宋兵衛らの
祈祷の群れだ、火の行動は人の行動。ちりぢりになる時も、かたまる時も、しずかな時も、さわぐ時も、なるほど、ここにあれば手にとるごとくわかる。
と、なににおどろいたものか、昌仙の顔いろが、サッと変って、ふいに、
「あああ」
と望楼の柱につかまりながら身をのばした。見れば、はるかかなたの火が、風に吹き散らされた
蛍のごとく、
算をみだしてきはじめたのだ。
「むウ」
思わず重くるしいうめき声。
「しまった! あの
竹童という
小僧の
奇策にはかられた。もうおそい――」
と、かれがもらした
痛嘆のおわるかおわらぬうち、遠き
闇にあたって、ズーンと立った一道の
火柱、それが消えると、一点の
微光もあまさず、すべてを暗黒がつつんでしまった。
「それ見ろ! このほうがいったとおりだッ」
昌仙は手をのばして、いきなり
天井へ飛びつき、そこにたれていた
縄の
端をグイと引いた。と、――
人穴城の八方にしかけてある
自鳴鉦がいっせいに、ジジジジジジジジッ……とけたたましく鳴り渡る。
これ、
大手一の
門二の門三の門、
人穴門、水門、
間道門の四つの口、すべて一時に
護るための
手配。いうまでもなく
出門は厳禁。
無断持場をうごくべからず――の
軍師合図。
さらに、
櫓番へ声をかけて、部下の一人で、もと道中かせぎの町人であった、
燕作という者をよびあげ、かねて用意しておいたらしい一通の
密書をさずけた。
そして口ぜわしく、
「これを一
刻もはやく
羽柴秀吉どのにわたしてこい。ぐずぐずいたしておると、この
山寨から一歩もでられなくなる。すぐいけよ、なんのしたくもしていてはならんぞ」
と、いいつけた。
燕作は、
野武士の仲間から、
韋駄天といわれているほど
足早な男。
頭をさげて、昌仙からうけた密書をふところへ深くねじおさめ、
「へい、
承知いたしました。ですが、その秀吉さまは、山崎の
合戦ののち、いったいどこのお城にお
住いでござりましょうか」
「
近江の
安土か、長浜の城か、あるいは京都にご
滞在か、まずこの三つを
目指していけ」
「
合点です。では――」
と立って、クルリとむきなおるが早いか、
韋駄天の名にそむかず、
飛鳥のように
望楼をかけおりていった。
ふいに
自鳴鉦を聞いた
轟又八は、
青筋をかんかんに立てて立腹した。
「こっちで攻めだす用意をしているのに、どこまでもおれに
楯をつくふつごうな
丹羽昌仙。
軍師といえどもゆるしておいてはくせになる」
恐ろしい
血相で、望楼の登り口へかけよってくると、
出合いがしらに、上からゆうゆうと昌仙がおりてきた。
「おお、轟、
籠城の用意は手ぬかりなかろうな」
「だまれ。いつ
頭領から籠城の用意をしろとおふれがでた。しかも、夜が明けしだいに、
裾野へ討ってでるしたくのさいちゅうだわ」
「ならぬ!
呂宋兵衛さまから
軍配を預っている、この昌仙がさようなことはゆるさぬ。七つの門は一寸たりともあけることまかりならんぞ」
「めくら軍師ッ。かしらの呂宋兵衛さまも帰らぬうち、
洞門を
閉めてしまってどうする気だ」
「いまにみよ、
祈祷にでたものはちりぢりばらばら、
呂宋兵衛さまも
手傷をうけて
命からがら立ちかえってくるであろうわ」
「ばかばかしい! そんなことがあってたまるものか」
と又八が
大口をあいてあざわらっていると、折もおりだ。祈祷の列に加わっていった
足助主水正と
佐分利五郎次などが、さんばら髪に、
血汐をあびて逃げかえってきた。
「やア、その姿は――?」
今もいまとて、
強情をはっていた轟又八、目をみはってこうさけぶと、
裾野から逃げかえってきた者どもは声をあわせて、
「一大事、一大事。まんまと敵の計略におちいって、
頭領のご生死もわからぬような総くずれ――」
つづいて逃げてきた手下の口から、
「
伊那丸じしんが
先手となり、
小幡民部が
軍師となって、もうすぐここへ攻めよせてくるけはい」
と報告された。さらにあいだも待たず、
「あやしいやつが二、三十人ばかり、
嶮岨をよじ登って、
人穴の
裏へまわったようす」
「前面の
雨ヶ
岳にも、
軍兵の声がきこえてきた。水門口のそとでも、
鬨の声があがった――」
一刻一刻と、矢のような注進。
そのごうごうたるさわぎのなかへ、風に乗ってきたごとく、こつぜんと走りかえってきた
和田呂宋兵衛は、一同にすがたを見せるよりはやく、
「なにをうろたえまわっているかッ、
洞門をまもれ、水門へ人数をくばれ、バカッ、バカッ、バカッ」
八
方へ狂気のごとくどなりつけた。そのくせ、かれじしんからして
衣はさかれ目は血ばしり、おもては
青味をおびて、よほど度を失っているのだからおかしい。
昌仙は、それ見ろ、といわんばかり、
「おさわぎなさるな、
頭領。
大方こんなこととぞんじて、すでに
手配はいたしておきました」
「おお
軍師。こののちはかならず
御身のことばにそむくまい。どうか
寄手のやつらを防ぎやぶってくれ」
「ご
安堵あれ、
北条流の
蘊奥をきわめた
丹羽昌仙が、ここにあるからは、なんの、
伊那丸ごときにこの
人穴を一歩も
踏ませることではござらぬ」
轟又八は、いつのまにか、こそこそと
雑兵のなかへ姿をかくしてしまった。
はやくも、一の洞門に
鬨の声があがる。
まッ先に攻めつけてきたのは
武田伊那丸であった。要所のあんないは
咲耶子。すぐあとから、
加賀見忍剣と
木隠龍太郎のふたりが、
右翼左翼の力をあわせて、おのおの二十人ほどひきつれ、えいや、えいや、
洞門の前へおしよせてきた。
いっぽう――
人穴から、どッと流れおちている水門口へかかった
巽小文治は、
槍ぞろい十五名の部下をつれて、水門をぶちこわそうとしたが、頭の上へガラガラと岩や大木を投げつけてくるのに
悩まされた。のみならず、水門には、
頑丈な
鉄柵が二重になっているうえ、
足場のわるい
狭隘な
谿谷である。おまけに、全身水しぶきをあびての苦戦は
一通りでない。
うら山の
嶮にのぼって、殿堂へ矢を
射こもうとした
山県蔦之助以下の弓組も、とちゅう、おもわぬ道ふさぎの
柵にはばめられたり、八
方わかれの
謎道にまよわされたりして、やっとたどりついたが、はやくもそれと知った
丹羽昌仙が、
望楼のうえから
南蛮銃の
筒口をそろえて、はげしく
火蓋を切ってきた。
丹羽昌仙の
北条流の
軍配と、二千の
野武士と、この
天嶮無双な
砦によった
人穴の
賊徒らは、こうしてビクともしなかった。
ついにむなしくその夜は明けた。――二日目もすぎた。三日目にも落とすことができなかった。ああなにせよ
小勢、いかに伊那丸があせっても、しょせん、百人足らずの小勢では洞門ひとつ突き破ることもむずかしそうである。
「
民部、わしはこんどはじめて、
戦の苦しさを知った。あさはかな勇にはやったのが
恥かしい。しかし
武夫、このまま
退くのは残念じゃ」
前面の高地、雨ヶ岳を本陣として、ひとまず
寄手をひきあげた
伊那丸が、
軍師小幡民部とむかい合って、こういったのがちょうど九日目。
「ごもっともでござります」民部も
軍扇を
膝について、おなじ無念にうつむきながら思わず、
「ああ、ここにもう二、三百の兵さえあれば、
策をかえて、一つの戦略をめぐらすことができるのだが」
とつぶやくと、伊那丸も同じように、
嘆をもらして、
「そのむかし、
武田菱の旗の
下には、百万二百万の
軍兵が
招かずしてあつまったものを」
「また、わが君のおうえにも、かならず輝きの日がまいりましょう。いや、
不肖民部の
身命を
賭しましても、かならずそういたさねば相なりませぬ」
「うれしいぞ民部。けれど、みすみす敵を目のまえにしながら、わずか七、八十人の味方とともにこのありさまでいるようでは……」
と無念の涙をたたえていると、いままで、うしろに
黙然としていた
木隠龍太郎が、なに思ったか、
「伊那丸さま――」
とすすみだして、
「どうぞ
某に四日のお
暇をくださいますよう」
といいだした。
「なに四日の暇をくれともうすか」
「されば、ただいま民部どのが、
欲しいとおっしゃっただけの兵を、かならずその
日限のうちに、若君のおんまえまで
召しあつめてごらんにいれまする」
「おお龍太郎どの――」
と民部は、うれしそうな声と顔をひとつにあげて、
「民部、
畢生の
軍配のふりどき、ぜひともごはいりょをおねがいもうすぞ」
「しかし、いまの戦国
多端のときに、二、三百の兵を四日にあつめてくるのは
容易でないこと。龍太郎、それはまちがいないことか……」
伊那丸は気づかわしそうな顔をした。
が龍太郎はもう立ちあがって、
敢然と
礼をしながら、
「ちと
心算もござりますゆえ、なにごとも
拙者の胸におまかせをねがいます。ではわが君、民部どの、きょうから四日のちに、三百人の
軍兵とともにお目にかかるでござりましょう」
仮屋の
幕をしぼって、陣をでた木隠龍太郎は、みずから「
項羽」と名づけた
黒鹿毛の
駿馬にまたがり、雨ヶ岳の
山麓から
真一
文字に北へむかった。
すると、かれのすがたを見かけた者であろうか、
「おおうい。おおうい
木隠どの――」
と
呼びかけてくる者がある。
駒をとめてふとふりかえると、
本栖湖のほうから
槍組二隊をひきつれてそこへきた
巽小文治が、せんとうに
朱柄の槍をかついで立ち、
「おそろしい勢いで、どこへおいでなさるのじゃ」
とふしぎそうにかれを見あげた。
「おお
小文治どのか、
拙者はにわかに大役をおびて、これから
小太郎山へ立ちかえるところだ」
「ふーむ、ではいよいよ
人穴攻めは
断念でござるか」
「どうしてどうして。ほんとうの
合戦はこれから四日目だ。なにしろいそぎの
出先、ごめん――」
「おお待ってくれ。いったいなんの用で小太郎山へお帰り
召さるのじゃ」
と
小文治がききかえすまに、
駿馬項羽のかげは木隠をのせて、
疾風のごとく遠ざかってしまった。
難攻不落の人穴攻めは、こうしてあと四日ののちを待つことになった。しかし、
伊那丸や、
忍剣や
民部などの七将星のほかに、
果心居士の
秘命をうけている
竹童は、そもそもこの大事なときを、どこでなにをまごまごしているのだろう。
いくらのんきな竹童でも、まさか、お
師匠さまの
叱言をわすれて、
裾野の野うさぎなんかと、すすきのなかでグウグウ昼寝もしていまいが、もういいかげんに、なにかやりだしてもよいじぶん。
ぐずぐずしていれば、
丹羽昌仙の
密使が、
秀吉のところへついて、いかなる
番狂わせが起ろうも知れず、四日とたてば、
木隠龍太郎の
吉左右もわかってくる。どっちにしても、ここ二、三日のうちに
果心居士の
命をはたさなければ、こんどこそ竹童、
鞍馬山から
追ンだされるにきまっている。
安土の山は焼け山だ。
安土の城も半分は焼けくずれている。
岩は
赭くかわき、石垣はいぶり、樹木の葉は、みなカラカラ
坊主になって黒い
幹ばかりが立っていた。
その石段を、ぴょい、ぴょい、ぴょい。まるでりすのようなはやさでかけのぼっていったのは、
竹ノ
子笠に
道中合羽をきて
旅商人にばけた丹羽昌仙の密使、
早足の
燕作だ。
中途でちょっと小手をかざし、四方をながめまわして、
「ああ変るものだなあ。戦国の世の中ほど、
有為転変のはやいものはない。どうだい、ついこの夏までは、
右大臣織田信長の
居城で、この山の
緑のなかには、すばらしい
金殿玉楼が見えてよ、金の
鯱や七
重のお
天主が、日本中をおさえてるようにそびえていた
安土城だ。それが、たった一日でこのありさま。おもえば
明智光秀という
野郎も、えらい
魔火をだしやあがったものだなア……」
燕作でなくても、ひとたびここに立って、一
朝の
幻滅をはかなみ、
本能寺変いらいの、天下の狂乱をながめる者は、だれか、
惟任日向守の
大逆をにくまずにいられようか。
けれど、その
光秀じしん、
悪因悪果、
土冠の
竹槍にあえない
最期をとげてしまった。で、いまではこの
安土城のあとへ、
信長の
嫡孫、三
法師丸が
清洲からうつされてきて、焼けのこりの
本丸を修理し、
故右大臣家の
跡目をうけついでいる。
だが、三法師君は、まだきわめて幼少であったため、もっぱら信長の
遺業を左右し、
後見人となっている者はすなわち、ここ、にわかに
大鵬のかたちをあらわしてきた
左少将羽柴秀吉。――つまり、
早足の
燕作が、はるばる尋ねてきたその人である。
「おっと、見物は帰りみちのこと、なにしろ役目を果さないうちは気が気じゃない……」
と燕作は、ふたたび
笠の
ふちをおさえながら、一
散に石段から石段をかけのぼっていくと、
「こらッ」
といきなり
合羽の
襟をつかまれた。
「へ、へい」
とびっくりしてふりかえると、
具足をつけた
侍――いかにも強そうな侍だ。
槍の
石突きをトンとついて、
「どこへいく? きさまのような町人がくるところじゃない。もどれッ」
とにらみつけた。
すると、
焼け
崩れの
土塀のかげからさらに、りっぱな武将が四、五人の
足軽をつれて見廻りにきたが、この
ていを見ると、つかつかとよってきて、
「
才蔵、それは何者じゃ」
とあごでしゃくった。
「ただいま、取り調べているところでござります」
「うむ、お城のご
普請中をつけこんで、
雑多なやつがまぎれこむようすじゃ。びしびしと
締めつけて
白状させい」
燕作はおどろいた。
そのびしびしのこないうちにと、あわてて
密書を取りだし、
「もしもし、わたくしはけっしてあやしい人間じゃあございません。この通り
秀吉さまへ大事なご書面を持ってまいりましたもの、どうぞよろしくお
取次ぎをねがいます。へい、これでございます」
「どれ」
武将は受けとって、と見、こう見、やがて、うなずいてふところに入れてしまった。
「よろしい。帰っても大事ない」
「へい……」
燕作はもじもじして、
「ですが、しつれいでございますが、あなたさまはいったい、どなたでござりましょうか、お名まえだけでもうかがっておきませんと、その……」
「それがしは
秀吉公の家臣、
福島市松だわ」
「あ、
正則さま」
と、燕作はとびあがって、
「それなら大安心、これでわたくしの
荷も
降りたというわけ。ではみなさんごめんなさいまし、さようなら」
いま、ツイそこでおじぎをしていたかと思うまに、もう燕作のすがたは、松の
樹がくれに小さくなって、
琵琶湖のほうへスタコラと歩いていた。
「おそろしい
足早な男もあるもの――」
福島正則は、家来の
可児才蔵と顔をあわせて、しばし、あきれたように竹ノ子
笠を見送っていた。
うえの
羽織は、
紺地錦へはなやかな
桐散し、
太刀は
黄金づくり、草色の
革たびをはき、
茶筌髷はむらさきの糸でむすぶ。すべてはでずきな
秀吉が、いま、その
姿を、
本丸の一室にあらわした。
そこでかれは、腰へ手をまわし、少し
背なかを丸くして、しきりに
壁をにらんでいる。
達磨大師のごとく、いつまでもあきないようすで、一心に壁とむかいあっている。
飯をかむまもせわしがっているほどの秀吉が、にらみつめている以上、壁もただの壁ではない。
縦六尺あまり
横三
間余のいちめんにわたって、日本全土、
群雄割拠のありさまを、青、赤、白、黄などで、一
目瞭然にしめした大地図の壁絵。――さきごろ、
絵所の
工匠を
総がかりで
写させたものだ。
「あるある。
安土などよりはぐんとよい地形がある。まず秀吉が住むとなれば、この
摂津の
大坂だな……」
この地図を見ていると、秀吉はいつもむちゅうだ。青も赤も黄色も眼中にない、かれの目にはもう
一色になっているのだ。
「関東には一ヵ所よい場所があるな。しかし、
西国の
猛者どもをおさえるにはちと遠いぞ。――お、これが
富士、
神州のまン中に
位しているが、
裾野一
帯から、
甲信越の
堺にかけて、
無人の平野、山地の広さはどうだ。うむ……なかなかぶっそうな場所が多いわ」
ひとり
語をもらしながら、若いのか
爺いなのか、わからぬような顔をちょっとしかめていると、
「
秀吉どの――」
かるく
背なかをたたいた人がある。
「おお」
われに返ってふりむくと、いつのまにきていたのか、それは
右少将徳川家康であった。
「だいぶ、ご熱心なていに見うけられまするのう」
「はッはッはははは。いや
ほんのたいくつまぎれ。それより家康どのには、近ごろめずらしいご
登城」
「ひさしく三
法師君にもご拝顔いたしませぬので、ただいまごきげんうかがいをすまして、お
暇をいただいてまいりました。時に、話はちがいまするが、さきごろ、秀吉どのには世にもめずらしい
品をお手に
入れたそうな」
「はて? なにか茶道具の
類のお話でもござりますかな」
「いやいや。
武田家につたわる天下の名宝、
御旗楯無の
二品をお手に
入れたということではござりませぬか」
「あああれでござるか、いや例の
好みのくせで、求めたことは求めましたが、さて、なんに使うということもできない
品で、とんだ
背負物でござる。あはははははは」
と、
秀吉は、こともなく笑ってのけたが、
家康にはいたい
皮肉である。
穴山梅雪に命じて、じぶんの手におさめようとした
品を、いわば不意に、横からさらわれたような形。
しかし、秀吉はそんな小さな皮肉のために、
黄金千枚を
積んで買いもとめたわけでもなく、また決して、
御旗楯無の
所有慾にそそられたものでもない。要は和田
呂宋兵衛という
野武士の
潜勢力を買ったのだ。
清濁あわせ
呑む、という筆法で、
蜂須賀小六の一族をも、その
伝で利用した秀吉が、呂宋兵衛に目をつけたのもとうぜんである。
かれを手なずけておいて、
甲駿三遠四ヵ国の大敵、げんに目のまえにいる徳川家康を、絶えずおびやかし、時によれば、背後をつかせ、つねに
間諜の役目をさせておこう、――というのが秀吉のどん底にある計画だ。
と、折からそこへ、
「
右少将さまにもうしあげます。ただいま、ご家臣の
本多さまがお国もとからおこしあそばしました」
と、ひとりの
小侍が取りついできた。すると、入れかわりにまたすぐと、べつな侍が両手をつき、
「
左少将さま。
福島正則さまが、ちとご別室で
御意得たいと
先刻からおまちかねでござります」
ふたりは、
大地図のまえをはなれて、
目礼をかわした。
「ではまた、
後刻あらためてお目にかかりましょう」
端厳、
麒麟のごとき
左少将秀吉。風格、
鳳凰のような
右少将家康。どっちも胸に
大野心をいだいて、
威風あたりをはらい、
安土城本丸の
大廓を右と左とにわかれていった。
「
野武士のうちにも人物があるぞ」
別室にうつって、
福島正則の手から
密書をうけ取った
秀吉は、一読して、すぐグルグルとむぞうさに
巻きながら、
「
丹羽昌仙というやつ、ちょっと使えるやつじゃ。したがこの手紙の要求などをいれることはまかりならん。ほっとけ、ほっとけ」
「
信玄の孫、
伊那丸とやらが、ふたたび、
甲斐源氏の
旗揚げをいたす
兆しが見えると、せっかく、かれからもうしてまいったのに、そのままにいたしておいても、大事はござりますまいか」
「
市松、そこが昌仙のぬからぬところじゃ。われからことに
援兵をださせて、
北条、
徳川などの
領地をさわがせ、その
機に乗じておのれの野心をとげんとする。――
秀吉にそんな
暇はない、
乳くさい伊那丸ごとき者にほろぼされる者なら
滅んでしまえ」
「では、だれか一、二名をつかわして、
呂宋兵衛のようす、また、
武田伊那丸の形勢などを、さぐらせて見てはいかがでござりましょうか」
「む、それはよいな。――だが、待てよ、
家康の領内をこえていかにゃならぬ。腹心の者はみな顔を知られているし、そうかともうして、
凡々な
小者ではなんの役にも立つまいのう」
「それには、
屈強な
新参者がひとりござります」
「それやだれだ」
「
可児才蔵という
豪傑でござる。わたくしじまんの家来、ちかごろのほりだし者と、ひそかに鼻を高くしておるほどの者でござりまする」
「む、山崎の
合戦このかた、そちの
幕下となった
評判の才蔵か、おお、あれならよろしかろう」
正則は、
秀吉のまえをさがって、やがて、この
旨を可児才蔵にふくませた。
才蔵は
新参者の身にすぎた光栄と、いさんでその夜、こっそりと
鳥刺し
稼業の男に
変装した。そして
もち竿一本肩にかけ
安土の城をあかつきに抜けて、
富岳の国へ道をいそぐ――
ずっと
後年――関ヶ原の
役に、剣頭にあげた首のかずを知らず、斬っては
笹の枝にさし、斬っては笹に
刺したところから、「
笹の
才蔵」と一世に武名をうたわれた評判男は、いよいよこれから、武田伊那丸の身辺に近づこうとする
変装の鳥刺し、この可児才蔵であった。
剣道は
卜伝の父
塚原土佐守の
直弟子。
相弟子の小太郎と同格といわれた腕、
槍は
天性得意とする
可児才蔵が、それとは
似もつかぬもち
竿をかついで
頭巾に
袖なしの
鳥刺し姿。
「ピピピピッ、……ピョロッ、ピョロ、ピョロ……」
時々は、吹きたくない
鳥呼笛をふき、たまには、
雀の
後をおっかけたりして、東海道の
関所から、関所を、たくみに切りぬけてくるうちに、これはどうだろう、かほどたくみに
変装したかれを、もうひとりの男が、見えつかくれつ、あとをつけて、
慕っていく。
ところが、世の中はゆだんがならない、その男はとちゅうからつけだしたのではなく、じつは、
安土の城からくっついてきているのだ。
同じ日に、浜松から
安土へきた
家康の家臣、徳川四
天王のひとり
本多忠勝が、こッそりその男をつけさせた。――というのは、竹ノ子
笠の
燕作が、
正則に
密書をわたしたようすを、休息所の
窓から、とっくりにらんでいたのである。
「はてな?」小首をかしげた
忠勝は、主人家康と面談をすましてから、とものなかにいる
菊池半助という者をひそかによんだ。そしてなにかささやくと、半助はまたどこかへか立ち去った。
この菊池半助も、前身は
伊賀の
野武士であったが、わけあって
徳川家に見いだされ、いまでは
忍術組の
組頭をつとめている。いわゆる、徳川時代の名物、
伊賀者の
元祖は、この
菊池半助と、
柘植半之丞、
服部小源太の三
羽烏。そのひとりである半助が、
忍術に
長けているのはあたりまえ、あらためてここにいう要がない。したがって
偽鳥刺しの
可児才蔵の後をつけ、落ちつく先の行動を見とどけるくらいな芸当は、まったく
朝飯前の仕事だった。
ピキ ピッピキ トッピキピ
おなかがへッて北山だ
芋でもほッて食うべえか
芋泥棒にゃなりたくない
鳶を捕ッて食うべえか
ヒョロヒョロ泣かれちゃ喰べかねる
そんなら雪でも食ッておけ
富士の山でもかじりてえ
ピキ ピッピキ トッピキピ
だれだろう? そも何者だろう? こんなでたらめなまずい歌を、おくめんもなく、大声でどなってくるものは。
この村には、家はならんでいるが、ほとんど人間はいなくなっているはず。五湖、
裾野、
人穴、いたる所ではげしい斬り合があったり、流れ矢が飛んできたりしたため、善良な村の人たちは、すわ、また大戦の
前駆かと、例によって、甲州の奥ふかく逃げこんだ。
それゆえ、秋の
日和だというのに、にわとりも鳴かず、
杵の
音もせず、あわれにも
閑寂をきわめている。いま聞こえたへたくそな歌も、一つはこのせいで、いっそう、
素ッ
頓狂にもひびいてきこえる。
「やア、こいつア、こいつアこいつア
うまいものがあらあ――」
こんどは
地声で、人なき村のある
軒先に立ち――こういったのは
竹童である。
かれが、目の玉をクルクルさせ、よだれをたらして見あげたのは、大きな
柿の木であった。上には枝もたわわに、まだ青いのや、赤ずんできた
猿柿が、七
分三
分にブラさがっている。
「こッちの
端にある赤いやつはうまそうだなあ。取っちゃあ悪いかしら? かまわないかしら……?」
いつまでも立って考えている。この姿を、
果心居士が見たら、なんとあきれるだろう。
口に葉ッぱをくわえているところを見ると、いま、
木の
葉笛を吹きながら、へんなでまかせを歌ったのもこの竹童にそういない。いったいこの子は、お
師匠さまからいいつけられている
計略なんか、とっくにドコかへ忘れてしまっているのではないかしら、第一きょうはかんじんな、かの
昇天雲である
鷲にも乗っていない。
「いいや、いいや。一ツや二ツくらいとってかまうもんか。
柿なんか、ひとりでに、地
べたから
生えてるものなんだ。これを取ったッて、
泥棒なんかになりゃしない」
勝手なりくつをかんがえて、ぴょいと、木へ飛びつくと、これはまたあざやかなもの。なにしろ、
本場鞍馬の山で
鍛えた木のぼり。するッと上がって、一番赤い
柿のなっている枝先へ、鳥のようにとまッてしまった。
「べッ、しぶいや」
びしゃッと下へたたきすてる。
「ありがたい――」
次のは甘かったと見える。もう口なんかきいていない。
猿のようにカリカリ音をさせて
頬ばり、たねだけを下へはきだしている。
「甘いなあ、これで一
霜かかればなお甘いんだ。おいらばかり
食べているのはもったいない、お
師匠さまにも一つ
食べさせてあげたいな……」
食うに
専念、ことばはブツブツ
噛みつぶれた
寝言のようだ。このぶんなら、まだ十や十五は
食えそうだという顔でいると、どうしたのか
竹童、時々、チクリ、チクリと、変に顔をしかめだした。
「ア
痛!」と
粘った手で
頬っぺたをおさえた。
が、またすぐ
食う。
木を降りるのもおしいようす。と、一口かじりかけると、またチクリ。
「ちぇッ」と
舌うちして
襟くびをなでた。こんどは大へん、なでた手がチクリと刺された。
「なんだろう、さっきから――」
そッとさぐってみると、こいつはふしぎ、針だ、キラキラする二
寸ばかりの女の
縫針。
「あッ!」
そのとたんに、竹童はおもわず
肱をまげて顔をよけた。まえの
萱葺屋根の家から、
射るようなするどい目がキラッとこちらへ光った。
「
降りろ、
小僧!」
見ると、
百姓家のやぶれ
廂の下から、白い煙がスーッとはいあがっている。そこには、ひとりのお
婆さん、
麻のような
髪をうしろにたれ、
鍋や、糸かけを前に、腰をかけて、
繭を
煮ながら、湯のなかの白い糸をほぐしだしている。
柿の木から飛びおりた
竹童は、はじめてそこに人あるのを知って、
軒先に近より、家の中をのぞいてみると、
奥には
雑多な
蚕道具がちらかっており、
土間のすみの
土べっついのまえには、ひとりの男がうしろ向きにしゃがんで、スパリ、スパリ、
煙草をつけながら火を見ている。
「ごめんよ、あれ、お
婆さんとこの
柿の木だったのかい?」
竹童は
繭の
鍋をのぞきながら、たッた一つおじぎをした。
婆さんは、ぎょろッとした目をあげて、
「人みしりをしねえ
餓鬼だ。なんだって、人んとこの柿をだまってぬすみさらすのじゃい」
「だからあやまってるじゃないか。ああそうそう、おいらも用があってこの村へきたんだっけ。お婆さん、どこかこのへんに、物をあきなっている
家はないかしらなあ」
「でまかせをこけ。この村には、ここともう一
軒鍛冶屋よりほかに人はいやしない。そんなことは
承知のうえで、
柿泥棒にきやがったくせにして」
「ほんとだ、おいらまったく買いたい物があってきたんだ。お婆さんとこにあったらゆずってくんないか」
「なんだい」
「
松明さ」
「松明?」
「アア、二十本ばかりほしいんだがなあ」
「餓鬼のくせに、松明なんかなんにするだ」
「ちょッといることがあるんだよ。お
婆さんの
家に持ちあわせはないかね」
「ねえッ、そんなものは!」
といった婆さんの顔を見て、竹童は「あッ」と叫んでしまった。お婆さんの口の中で光った物があったのだ。三、四本の
乱杭歯の間を、でたり
入ったりしているのは、たしかに四、五十本の
縫針だ。
これだ!
さっき柿の木の上まで飛んできて
頬っぺたを
刺した針は――竹童はむッとした。
「たぬき
婆。もう、
松明なんかたのまない!」
「なんだと、この
小僧」
「よくも、
おいらをさんざん
悩めやがったなッ」
いきなり腰の
棒切れを抜いてふりかぶり、
蚕婆の肩をピシリと打っていったせつな、あら奇怪、身をかわした
婆の口から、ピラピラピラピラピラピラピラ糸のような細い光線となって、竹童の
面へ吹きつけてきた
含み
針!
これこそ、剣、
槍、
薙刀の武術のほかのかくし
技、
吹針の
術ということを、竹童も、話には聞いていたが、であったのは、きょうがはじめてである。
「その時に、目に気をつけろ、敵の目をとるのが吹針の
極意」と、かねて聞いていたので、竹童はハッとして、とっさに顔をそむけて飛びのいた。
その時だった。
竹童と
蚕婆の
問答をよそに
土べっついの火にむかって
煙草をくゆらしていた
脚絆わらじの男が、ふいに
戸外へ飛びだしてきた。
男は、やにわに、竹童の首ッ玉へ、うしろから太腕を引っかけて、かんぬきしばりに、しばりあげた。
「
鞍馬山の
小僧、いいところであった!」
「くッ、くッ……」
竹童はのどをひッかけられて声がでない。顔ばかりをまッ
赤にし、
喉首の手を、むちゃくちゃにひッかいた。
「ちッ、
畜生。きょうばかりはのがしゃしねえ」
「だれだいッ、くッくくくくるしい」
「ざまあみやがれ。
小っぽけなぶんざいをしやがって、よくも
武田伊那丸の
諜者になって、
人穴へ飛びこみ、おかしらはじめ、多くの者をたぶらかしやがったな。その
返報だ、こうしてやる! こうしてやる」
と、なぐりつけた。
「くそウ!
おいらだって、こうなりゃ鞍馬山の竹童だ」
と、ぼつぜんと、
竹童もはんぱつした。
なりこそちいさいが、必死の力をだすと、
大人もおよばぬくらい、ねじつけられている
体をもがいて、男の鼻と
唇へ指をつッこみ、
鷲のように
爪を立てた。
「あッ」
これにはさすがの男も、やや
たじたじとしたらしい。ゆだんを見すまし、竹童は腕のゆるみをふりほどくが早いか一
目散――
「おまえみたいな
下っ
端に、からかってなんかいられるもんかい!」
すてぜりふをいって、あとをも見ずに逃げだした。
「バカ
野郎」
男は
割合に落ちついて見送っている。
「そうだそうだ。もッと十町でも二十町でも先に逃げてゆけ、はばかりながら、てめえなんかに追いつくにゃ、この
燕作さまにはひと飛びなんだ」
この男こそ、燕作だった。さてこそ、竹童を
伊那丸の手先と見て、組みついたはず。
かれは、
首尾よく、
丹羽昌仙の密書をとどけて、ここまで帰ってきたものの、
人穴城の
洞門はかたく
閉められ、そこここには伊那丸の一
党が見張っているので、
山寨へも帰るに帰られず、
蚕婆の
家にかくれていたものらしい。
「あの竹童のやつをひっ
捕らえていったら、さだめし
呂宋兵衛さまもお喜びになるだろうし、おれにとってもいい
出世仕事だ。どれ、一つ追いついて、ふんづかまえてくれようか」
いうかと思うまに、もう
燕作は、
礫のとんでいくように走っていた。それを見るとなるほど
稀代な
早足で、日ごろかれが、胸に
笠をあてて
馳ければ、笠を落とすことはないと自慢しているとおり、ほとんど、
踵が地についているとは見えない。
竹童も、逃げに逃げた。
折角村から
蛭ヶ
岳の
裾を
縫って街道にそって、足のかぎり、
根かぎり、ドンドンドンドンかけだして、さて、
「もうたいがい大じょうぶだろう――」と立ちどまり、ひょいとあとをふりかえってみると、とんでもないこと、もうすぐうしろへ追いついてきている。
「あッ」またかける。燕作もいちだんと足を早めながら、
「やあい、竹童。いくら逃げてもおれのまえをかけるのはむだなこッたぞ」
「おどろいた早足だな、早いな、早いな、早いな」
さすがの竹童も敵ながら感心しているうちに、とうとう、ふたたび燕作のふと腕が、竹童の
襟がみをつかんで、ドスンとあおむけざまに引っくりかえした。
そこは、
釜無川の
下、
富士川の
上、
蘆山の
河原に近いところである。燕作は、思いのほかすばしッこい竹童をもてあまして、
手捕りにすることをだんねんした。そのかわり、かれはにわかにすごい殺気を
眉間にみなぎらせ、
「めんどうくせえ、いッそ首にして
呂宋兵衛さまへお
供えするから
覚悟をしろ」とわめいた。
ひきぬいたのは、二尺四寸の
道中差、竹童はぎょッとしてはね返った。とすぐに、するどい
太刀風がかれの
耳たぶから鼻ばしらのへんをブーンとかすった。
哀れ竹童、組打ちならまだしも、
駈け
競べならまだしものこと――
真剣の
白刃交ぜをするには、悲しいかな、まだそれだけの骨組もできていず、剣をとっての
技もなし、第一、腰に差してる刀というのが、頼みすくない
樫の
棒切れだ。
秋の水がつめたくなって、
鮠も
山魚もいなくなったいまじぶん、なにを
釣る気か、ひとりの少年が、
蘆川の
瀞にむかって、
釣り
糸をたれていた。
少年、年のころは十五、六。
すこし
低能な顔だちだが、目だけはずるく光っている。
鳥の
巣みたいな髪の毛をわらでむすび、まッ黒によごれた
山袴をはいて、腰には
鞘のこわれを、
あけびの
蔓でまいた山刀一本さしていた。
「ちぇッ、釣れねえつれねえ、もうやめた!」
とうとう、かんしゃくを起したとみえて、いきなり
竿をビシビシと折って、
蘆川のながれへ投げすてた。
「あ、
瀞の岩にせきれいが遊んでいやがる。そうだ、これからは鳥うちだ、ひとつ小手しらべにけいこしてやろうか」
と、足もとの小石を三つ四つ拾いとったかと思うと、はるか、流れの中ほどをねらって、おそろしく
熟練した
礫を投げはじめた。
「やッ――」と、小石に気合いがかかって飛んでいく。
と見るまに、二
羽のせきれいのうち、一羽が
瀞の水に落ちて、うつくしい
波紋をクルクルと
描きながら
早瀬のほうへおぼれていった。
「どんなもんだい。
蛾次郎さまの腕まえは――」
かれはひとりで鼻うごめかしたが、もうねらうべきものが見あたらないので、こんどは、たくみな水切りの芸をはじめた。一つの小石が、かれの手からはなれるとともに、なめらかな水面を、ツイッ、ツイッ、ツイッと水を切っては
跳び、切っては
跳ぶ、まるで、小石が
千鳥となって波を
蹴っていくよう。
「七つ切れた! こんどは十!」
調子にのって、蛾次郎がわれをわすれているときだ。
そこから二、三町はなれたところの
河原で、ただならぬさけび声がおこった。かれはふいに耳をたって、四、五
間ばかりかけだしてながめると、いましも、ひとりの
兇漢が、
皎々たる
白刃をふりかぶって、
小ッぽけな
小僧をまッ二つと斬りかけている。
それは、
燕作と、
竹童だった。
竹童はいまや必死のところ、
樫の
棒切れを
風車のようにふって、燕作の
真剣と火を飛ばしてたたかっているのだ。しかし、大の男のするどい
太刀かぜは、かれに
目瞬するすきも与えず、斬り立ててきた。あわや、竹童は血煙とともにそこへ命を落としたかと見えたが、
「あッ――」
ふいに燕作が、
唇をおさえながら、タジタジとよろけた。どこからか、風を切って飛んできた小石に打たれたのである。
「しめた!」と、竹童は小さな
体をおどらせて、ピシリッと、燕作の
耳たぶをぶんなぐった。
「
野郎ッ!」
怒髪をさかだてて、ふたたび太刀を持ちなおすと、またブーンとかれの小手へあたった第二の
礫。
「ア
痛ッ」
ガラリと
道中差をとり落としたが、さすがの燕作も、それを拾いとって、ふたたび立ち直る勇気もないらしい。
笑止や、四尺にたらぬ竹童にうしろを見せて、例の
早足。雲を
霞と逃げだした。
「待て。
意気地なしめ!」
竹童は、急に気がつよくなって、こんどはまえと反対に、かれを追ってドンドン走りだすと、ちょうど、あなたからも河原づたいに、
黒鹿毛の
駒を
疾風のごとく飛ばしてくるひとりの勇士があった。――見るとそれは秘命をおびて、
伊那丸の本陣
雨ヶ
岳をでた
奔馬「
項羽」。――上なる人はいうまでもなく、
白衣の
木隠龍太郎だ。
「や、や、あいつは
伊那丸がたの武将らしいぞ」
と、戸まどいした
燕作が、その行く先でうろうろしているうちに、たちまちかけよった
龍太郎、
「これッ」
と、すれちがいざま、右手をのばして燕作の首すじをひっつかみ、やッと馬上へつるし上げたかとおもうと、
「
往来のじゃまだ!」
手玉にとってくさむらのなかへほうりこみ、そのまま走りだすと、こんどはバッタリ竹童にいき会った。
「おお、それへおいでなされたのは龍太郎さま――」
「やあ、竹童ではないか」ピタリと「項羽」の足をとめて、
「なんでこんなところでうろついているのだ。
呂宋兵衛の手下どもに見つけられたら、
命がないぞ、はやく
鞍馬山へ立ち帰れ」
「ありがとうございますが、まだこの竹童には、お
師匠さまからいいつけられている大役があるんです。ところで龍太郎さまは、これからいずれへおいそぎですか」
「されば
小太郎山へまいって、三百人の兵をかりあつめ、ここ四日ののちに、
人穴城を攻めおとす
計略」
「わたくしがやる仕事も四日目です。どうも、お
師匠さまのおさしずは、ふしぎにピタリピタリと
伊那丸さまの計略と一致するのが
妙でございます」
「ふーむ……してその密計とはどんなことだ?」
「
天機もらすべからず。――しゃべるとお
師匠さまからお目玉を
食います。それよりあなたこそ、どうして三百人という兵がわずか四日で集められますか、まさかわら人形でもありますまいに」
「それも、
軍機は語るべからずじゃ」
「あ、しっぺ返しでございますか」
「オオ、そんなのんきな問答をいたしている場合ではない、
竹童さらば!」
と、ふいに
鞭をあげて、行く手をいそぎだそうとすると何者か、
「ばかだな、ばかだなあ! あの人はいったいどこへいくつもりなんだい!」とあざわらう声がする。
木隠龍太郎も竹童も、そのことばにびっくりしてふりかえると、石投げをしていた
蛾次郎がいつかのっそりそこに立っていた。
「
拙者をバカともうしたのはきさまだな」
龍太郎がにらみつけると、
蛾次郎はいっこうにこたえのないふうで、ゲタゲタと笑いながら、
「ああおれだよ」
「ふらちなやつ、なんでさようなことをぬかした」
「だってお
侍さんは、
小太郎山へいくんだっていうのに、とんでもないほうへ馬の首をむけていそぎだしたから笑ったんだ」
「ふーむ、ではこっちへむかっていってはわるいか」
「悪いことはないけれど、この
蘆川を大まわりして、甲州
街道をグルリとまわった日には、半日もよけいな道を歩かなけりゃならない。それより、この川を乗っきって
駿州路を左にぬけ、
野之瀬、丸山、
鷲の
巣とでて、
野呂川を見さえすれば、すぐそこが、小太郎山じゃないか」
と、すこし抜けている蛾次郎も、住みなれた土地の地理だけに、くわしく
弁じた。
「なるほど、これは
拙者がこのへんに暗いため、
無益の
遠路につかれていたかも知れぬ。しかし、この激流を、馬で乗っきる場所があろうか」
「あるとも、
水馬さえ
達者なら、らくらくとこせる
瀞がある。ここだよ、お
侍さん――」
と
蛾次郎はまえに水切りをやっていたところを教えた。
「む。なるほど、ここは深そうだ、
川幅も四、五十
間、これくらいなところなら乗っ切れぬこともあるまい」
と龍太郎はよろこんで、
浅瀬から
項羽を乗りいれ、ザブザブ、ザブ……と水を切っていくうちに
紺碧の
瀞をあざやかに乗りきって、たちまち向こう岸へ泳ぎ着いてしまった。
「ありがとう」
と、それを見送るとほッとしたさまで、
竹童が礼をいうと、
蛾次郎はクスンと笑って、
「なにがありがてえんだ、おめえに教えてやったわけじゃあない」といった。
竹童はじぶんより三歳か四歳上らしい蛾次郎を見上げて、へんなやつだとおもった。
「そのことじゃないよ、さっきおいらが悪いやつに、あやうく殺されそうになったところを、石を投げて
逃がしてくれたから、その
礼をいったのさ」
「あんなことはお茶の子だ、こう見えてもおれは石投げ蛾次郎といわれるくらい、
礫を打つのは名人なんだぜ」
と、ボロ
鞘の刀をひねくッて、
竹童に見せびらかした。
「
蛾次郎さんの
家はどこだい?」
「おれか、おれは
裾野の
折角村だ、だがいまあの村には、
桑畑の
蚕婆と、おれの親方だけしか住んでいないから
人無村というほうがほんとうだ」
「親方っていう人は、あの村でなにをしているんだい」
「知らねえのかおめえは、おれの親方は、鼻かけ
卜斎っていう有名な
鏃鍛冶だよ。おれの親方の
鍛った矢の根は、
南蛮鉄でも
射抜いてしまうってんで、ほうぼうの
大名から何万ていう仕事がきているんだ。おれはそこの
秘蔵弟子だ」
「
偉いなあ――」
竹童はわざと
仰山に感心して、
「じゃ、蛾次郎さんとこには、
松明なんかくさるほどあるだろうな」
「あるとも、あんなものなら
薪にするほどあらあ」
「おいらに二十本ばかりそっとくれないか」
「やってもいいけれど、そのかわりおれになにをくれる」
と蛾次郎はずるい目を光らした。
竹童はとうわくした。お金もない。刀もない。なんにもない。持っているのは相変らずの棒切れ一本だ。そこで、
「お
礼には、
鷲に乗せて遊ばしてやら。ね、
鷲にのって天を
翔けるんだぜ。こんなおもしろいことはない」
といった。
「ほんとうかい、おい!」
蛾次郎は、目の玉をグルグルさせた。
「うそなんかいうものか、
松明さえ持ってきてくれれば乗せてやる。そのかわり夜でなくッちゃいけない」
「おれも夜の方がつごうがいい。そしておまえはどこに待っている?」
「
白旗の
宮の森で待ってら、まちがいなくくるかい」
「いくとも! じゃ今夜、
松明を二十本持っていったら、きっと
鷲に乗せてくれるだろうな、うそをいうと
承知しないぜ、おい! おれは切れる刀を差しているんだからな」
と、また
あけび巻の
山刀を
自慢した。
木隠龍太郎のために、
河原へ投げつけられた
燕作は、気をうしなってたおれていたが、ふとだれかに
介抱されて
正気づくと、
鳥刺し
姿の男が、
「どうだ、気がついたか」
とそばの岩に腰かけている。見れば、つい四、五日前に
安土城で、じぶんの手から
密書をわたした
福島正則の家来
可児才蔵である。
燕作はあっけにとられて、
「あ、いつのまにこんなところへ」と、思わず目をみはった。
「しッ、大きな声をいたすな、じつは、
秀吉公の
密命をうけて、
武田伊那丸との
戦のもようを見にまいったのだ、ところで、さっそく
丹羽昌仙に会いたいが、そのほう、これより
人穴城のなかへあんないいたせ」
「とてもむずかしゅうございます。敵は
小人数ながら、
小幡民部という
軍配のきくやつがいて、
蟻ものがさぬほど
厳重に見張っているところですから」
「どこの城にも、秘密の
間道はかならず一ヵ所はあるべきはず、そちは、それを知らぬのであろう」
「さあ、
間道といえば、ことによると
蚕婆が、知っているかもしれません。あいつは
呂宋兵衛さまの手先になって、それとなくそとのようすを城内へ通じている、
裾野の
目付婆、とにかくそこへいってききただして見ることにいたしましょう」
と
燕作は、
可児才蔵のあんないにたって、
人無村の蚕婆の家までもどってきた。
「お
婆さん、
開けてくれないか、
燕作だよ。燕作が帰ってきたんだから、ちょっと
開けておくれ」
もう日が暮れている。
とざした門をホトホトとたたくと、なかから婆さんがガラリとあけて、
灯影に立った可児才蔵のすがたをいぶかしそうに
睨めすました。
「だれだい燕作さん、この人は村ではいっこう見たことがないかたじゃないか」
「このおかたは、姿こそ、変えておいでなさるが、
福島正則さまのご家臣で
可児才蔵というお人、
昌仙さまの密書で、わざわざ
安土城からおいでくだすったのだ」
と説明すると、
蚕婆はにわかに態度を変えて、下へもおかぬもてなしよう。茶を
煮たり酒をだしたりしてすすめた。
「それはようおいでなされました。さだめし、昌仙さまのお手紙で、多くの
軍兵を
秀吉さまからおかしくださることになるのでございましょうね」
「いや、とにかく
軍師と会って、そうだんをしてみたうえじゃ。ところがこれなる
燕作のもうすには、しょせん
人穴城へは入れぬとのこと、せっかくここまでまいりながら、
呂宋兵衛どのにも
軍師にも、会わずにもどるとは残念
千万」
「いえいえ。そういう大事なお使者なら、たった一つ人穴城へぬける
秘しみちへ、ごあんないいたしましょう。これ燕作さん、おめえちょっと、
裏表にあやしいやつがいないかどうか
検めておくれ」
「がってんだ」と燕作が家のあたりを見まわしてきて、
「だれもあやしいような者はいない。ないているのは
鹿ぐらいなもの――」
というと、蚕婆は、はじめて安心して、じぶんのすわっている下の
蓆を、グルグルと巻きはじめた。
おやと、燕作がびっくりしている
間に、さらに、二
畳敷ほどな
床板をはねあげると、
縁の下は四角な井戸のように掘り下げられてあった。顔をだすと、つめたい風がふきあげてくる。
「ここをおりると、あとは
人穴城の
地下洞門のなかまで三十三町一本道でいけますのじゃ、さ、人目にかからないうちに、すこしもはやく、おこしなさるがよい」
と
蚕婆がせきたてると、
才蔵は、
間道の口をのぞいてから、ふいと顔をあげて、
「
婆、
杖にして飛びこむから、
長押にかかっているその
錆槍を、かしてくれい」
と指さした。婆は彼のいう通り、
石突きをたよりに、下へ
降りるのであろうと、なんの気なしに取って渡すと
才蔵は、
「かたじけない」
と受けとって、ポンと、
槍の石突きを下へ
降ろすかと見るまに、意外や、
電光石火、
「やッ――」
と一声、
錆槍の
穂先で、いきなり真上の
天井板を突いた。とたんに、屋根裏を
獣がかけまわるような、すさまじい音が、ドタドタドタ
響きまわった。
「やッ、なんだ――」
と蚕婆と燕作が、飛びあがっておどろくうちに、才蔵は、すばやく
間道のなかへ姿をかくして、下からあおむいて笑っている。
「おどろくことはない、天井うらに
忍んでいたやつは、
徳川家の
菊池半助だ、これで
隠密落としの
禁厭がすんだから、もう安心。
燕作、はやくこい!」
「じゃあ
婆さん、あとはたのむよ」
と燕作もつづいてなかへ姿をけした。その足音が地の下へとおざかるのを聞きながら、
蚕婆はすぐもとのとおり
床板や
蓆を
敷きつめ、壁にかかっている
獣捕りの投げ
縄をつかむが早いか、いきなりおもてへ飛びだした。
「いやがった!」
かがりのような目を
磨ぎすまして、あなたこなたを見まわした蚕婆は、ふと、七、八
間さきの
闇のなかで、なにやらうごめいている人影を見つけて、じっとねらった。
と――それはまぎれもなく、
天井裏で
膝を突かれた
曲者が、小川の水で
傷手を洗っているのだ。頭から足のさきまで、
烏のように
黒装束をした
隠密の男、すなわち
徳川家からまわされた
菊池半助。
「おうッ!」
ふいに
吠えるような蚕婆の声とともに、さすがは半助、足の
痛手を忘れて、ポーンと小川を
跳びこえたが、よりはやく、
闇のなかを飛んできた投げ
縄の輪が無残、五体にからんでザブーンと、水のなかへ
捕りおとされてしまった。
さすが
伊賀衆の
三羽烏、
菊池半助も、
可児才蔵にみやぶられて、
錆槍の
穂先を
膝にうけ、そのうえ、投げ
縄にかかって五体の自由を
奪われては、どうすることもできない。
「ざまをみさらせ!
命知らずが」
蚕婆が毒づきながら、縄のまま半助をひきずってきて、
家の前の
柿の木へグルグル
巻きにしばってしまった。
「夜明けまでに、
手間いらずの法で殺してやる。うぬばかりでなく、この村へ
隠密にはいる者はみんなこうだ」
蚕婆は、やがて
枯れ木を集めてきて、
半助の身辺に
積みあげ、端のほうから火をつけてメラメラと燃えあがったのを見ると、そのまま
家へはいって寝てしまった。
焔がたっても、はじめのうちは
覆面や衣類がぬれていたので、しばらくさまでは思わなかったが、やがて衣類がかわき、
枯れ木の
火焔が、パチパチと夜風にあおり立てられてくるにつれて、菊池半助は
焦熱地獄の苦しみ。
「ア
熱ッ、ア
熱ッ、アアアアア」
おもわず悲鳴をあげて、必死に縄を切ろうともだえていた。――すると、その火の手を見て、いっさんにかけてきたのは、
鏃鍛冶卜斎の弟子
蛾次郎であった。
「おうそこへまいったもの、はやく
拙者の
脇差をぬいてこの縄を切ってくれ、早く、早く!」
「やあどうしたんだお
侍さんは? 死んじまうぞ。死んじまうぞ」
「はやくしてくれ、早く助けてくれい」
「助けてやったら、なにをくれる?」
石投げの天才のほか、仕事も
下手、もの
覚えも悪く、すこし足らない
蛾次郎だが、
慾にかけては、ぬけめがない、
半助は一ときの熱苦もたまらず、うめきながら、
「なんでもつかわすからはやく、ア
熱ッ、あッツツツ」
「よし、きっとだぜ」
念を押しながら飛びこんで、
蛾次郎は
枯れ木の火を
蹴ちらし、
山刀をぬいて半助の
縄目をぶっつり切った。火のなかから
跳びだした半助は、ほッとして大地へたおれたが、やにわにまた足の
痛手を忘れておどりたった。
「わるいところへ、またあなたからあやしい人の足音がしてまいった。おい、おれに肩をかせ、そして、しばらく休息するところまで連れてゆけ。
褒美はのぞみしだいにやろう」
「じゃ、おれの親方の
家でもいいかい」
「頼む、あれ、あれ、もう軍馬の
蹄がまぢかにせまる」
「たいへんだ! ことによると
雨ヶ
岳に陣どっている者たちがくだってきたのかも知れないぞ」
蛾次郎もにわかにあわてだして、半助のからだを
背負って、
一目散にそこを立ちさった。すると、たった
一足ちがいに、
嵐のように殺到した一
団の軍馬があった。
「それ、常からあやしい
蚕婆の
家をあらためろ!」
「戸を
蹴やぶってなかへ、
踏ンごめッ」
馬上から十四、五人の武士に、はげしく
下知をしたふたりの武士、これなん、
伊那丸の
幕下でも、
荒武者の
双龍といわれている
加賀見忍剣と
巽小文治のふたり。
「おう!」
と部下は
武者声をあげるやいなや、蚕婆の家の
裏表から、メリメリッ、バリバリッと戸を
踏みやぶっておどりこんだ。が、なかは
暗澹、どこをさがしても、人かげらしい者は、見あたらなかった。
と、聞いた忍剣は、
「いや、そんなはずはない。たしかにあやしい男と
老婆とが、
密談いたしていたのを、
間諜の者が見とどけたとある。この上は自身であらためてくれる」
と
禅杖をひっかかえひらりと馬を飛びおり、巽小文治とともに、家の中へはいっていって八方
家探ししたが、部下のことばのとおり、何者もひそんでいなかった。
「ふしぎだ――」
小文治は、そこにもぬけの
殻となっている
寝床へ手を入れてみて、
「このとおり、まだ人のぬくみがある。さすれば、いよいよ逃げた者こそ、あやしい
曲者にそういない」
「む、では寝床のわきの
床板をはねあげてみよう」
と、
忍剣が先にたって、
蓆を巻き、板をはいでみるとたちまち、一
間四方の
間道の口が、
奈落の門のごとく一同の目にうつった。
「おお、これこそ
人穴城へ通じる
間道にそういない」
「しめた! その方どもはこの口もとを
護っていて、あやしい者が逃げまいったら、かならず
捕りにがさぬように見張っておれ」
と、いいのこして、忍剣は
禅杖をひっ
抱え、
小文治は
槍の石突きをトンと下ろして、ともにまッ暗な間道のなかへとびこんでいった。
あとにのこった部下の者は、ひとしく
間道口に目と耳を
磨ぎすまして、いまに、なにかかわった物音がつたわってくるか、あやしいやつが飛びだしてくるかと、夜もすがら、ゆだんもなかった。
菊池半助を肩にかけて、まっ暗な
人無村をかけていった
蛾次郎は、やがて、おおきな
荒屋敷の門へはいった。
見ると、そこが
卜斎の
細工小屋か、東のすみにぽッと明るい
焔がみえて、トンカン、トンカン、
槌と
鉄敷のひびきがしている。そしてときどき、小屋のなかから白い煙とともに、シューッとふいごの火の
粉がふきだしていた。
「親方、お客さまをつれてきた、旅のお侍さんで、けがをして
難渋しているんだから、今夜とめてやっておくんなさい」
蛾次郎がおどおどしながら、
細工場のとなりの雨戸をあけて、ひろい土間へはいると、
手燭をもって奥からつかつかとでてきたのは、主人の
卜斎であろう。
陣羽織のような
革の
袖なしに、
鮫柄の小刀を一本さし、年は四十がらみ、両眼するどく、おまけに、仕事場で
火傷でもしたけがか、
片鼻が、そげたように
欠けている。
人呼んで、鼻かけ
卜斎と
綽名している名人の
鏃師。なにさま、ひとくせありそうな人物である。
「
蛾次公、昼間からどこをうろつきまわっているのだ。このバカ
野郎め!」
卜斎は、つれてきた半助などには目もくれず、頭からこの
怠け者の抜け作などとどなりつけて、さんざん油をしぼったあげく、
「それに、あとで聞けば、てめえは、夕方、物置小屋から二、三十本の
松明をぬすみだしていったそうだが、いったい、そんな物をどこへ持ちだして、なんのために使ったのだ。うそをいうとこれだぞ!」
いきなり弓の折れを持って、
羽目板をピシリッとうった。その音のはげしいこと、蛾次郎のふるえあがったのはむろん、
菊池半助さえ
度胆を抜かれた。
卜斎はその時はじめて、半助のほうへ気をかねて、
「まあよいわ、お客人がいるから、てめえの
詮議はあとにしよう。ときに旅のお武家さま、なにしろ今夜は
更けておりますから、この上の中二階へあがって、ごゆるりとお休みなさるがいい。そこに
夜具もある、火の
気もある、
食い
物もある、
男世帯の屋敷ですから、
好きにしてお泊りなさい」
「かたじけない、ではお言葉にあまえて夜明けまで……」
と、半助はそこにいるのも気まずいので、びっこを引きながら、おしえられた中二階の
梯子を、ギシリ、ギシリと踏んでいった。
「はてな……」と、梯子をあがりながら一つの疑念――「どこかで見たことのある男だが? ……ただの
鏃師ではない、たしかにどこかで? ……」と、しきりに思いなやんだが、とうとう、中二階へあがるまで考えだせなかった。
卜斎にいわれたまま、押入れから
蒲団をだして、そのうえに身を横たえながら、
膝の
槍傷を
布でまきつけていると、また、すぐ下の
土間であらあらしい声が起りはじめた。
「
野郎、どうあってもいわぬな! いわなければ、こうだッ」
弓の折れがヒュッと鳴ると、
蛾次郎がオイオイと声をあげて泣きだした。まるで七つか八つの子供が泣くような声で泣いている。
「いいます、親方、いいますからかんべんしてください」
「では、何者にたのまれて、
松明を盗みだした。さ、ぬかせ」
「
白旗の森にいる、
竹童というわたしより
五歳ばかり下の
童にたのまれたんです。その者にやりました」
「あきれかえったバカ者だ。じぶんより年下の
餓鬼に、手先に使われるとは情けないやつ、しかし、てめえもなにかもらったろう。ただで
松明をやるはずがない」
「いいえ、なんにももらいなんかしやしません」
「まだいいぬけをしやがるか!」
またピシリッと弓の折れがうなる、
蛾次郎がヒイヒイと泣く、すぐその上にいる菊池半助は、これではとても今夜は寝られないと思った。
それに気をいらいらさせられたか、かれは寝床からはいだして、ふたたび
梯子口からコマねずみのようにそッと顔をだした。そのとき、半助ははじめて、
卜斎の
姿容を、よく見ることができて、思わず、
「あッ」と、すべりでそうな声をかみころした。
「どこかで見たと思ったはず――あれは、
越前北ノ
庄の
主、
柴田権六勝家の腹心だ――おお、
鏃師の鼻かけ
卜斎とは、よくも
巧みに
化けたりな、まことは、
鬼柴田の
爪といわれた
上部八風斎という
軍師築城の
大家。いつも柴田権六が、攻略の軍をだすときに、そのまえから敵の領土へ住みこんで、
砦のかまえ、水利、地の理、残るくまなくさぐって、一挙に
掌握するという、おそろしい人物だ。――その八風斎がこの
裾野へ
巣を作ったところをみると、さては、野心のふかい柴田勝家、はやくも天下をこころざす足がかりに、この一
帯へ目をつけたものだろう。
武田伊那丸といい
呂宋兵衛といい、また
秀吉の手の者が入りこんだことといい、いちいち
徳川家の
大凶兆。こりゃ、
裾野一
帯いよいよゆだんのならぬものばかりだ……」
半助は、耳を
畳にこすりつけて、さらに、
階下の声を一語も聞きもらすまいと息をのんでいた。と、下ではまた
卜斎の声で、
「なに? ではその
竹童という
童に、二十本の
松明をくれて、そのかわりに
鷲にのせてもらったというのか。やい! 泣きじゃくってばかりいたのではわからぬわい。はっきりと口をきけ」
「そ、そうなんです……」
ベソをかきながら答えてるのは
蛾次郎の声だ。
「松明を持っていったら、そのお
礼に大きな鷲の背なかへ乗せてくれましたから、
白旗の森の上から空へあがって、五湖や
裾野の上をグルグルとまわってまいりました」
「そうか、それでしさいがわかった」
と卜斎はうなずいて、なお、竹童のようすや、鷲のことなどをつぶさにただしたから、蛾次郎はゆるされるのかと思っていると、
荒縄で両手をしばりあげたまま、松明をぬすみだした物置小屋のなかへ三日間の
監禁をいいわたされてほうりこまれてしまった。
そのあとは、卜斎も寝入り、
細工小屋の
槌音もやんでシーンと真夜中の静けさにかえったが、半助だけは、うすい
蒲団をかぶって横になりながらも、まだ寝もやらず目をパチパチとさせていた。
「
鷲、鷲! 竹童というやつが、自由自在につかう飛行の大鷲! おお、そいつを一つ巻きあげて、こんどの
手柄としてかえろう……」
とかれは、ふと思いついた胸中の
奇策に、ニタリと
悦をもらしたが、そのとき、なんの気なしに
天井を見あげるや
否、かれは、全身の血を氷のごとく
冷たくして、
「や、や、やッ」と、目をむいて、ふるえあがった。
菊池半助が、身をすくませたのも道理、中二階の
天井には、いちめんの
鉄板が張ってあって、それに、
氷柱のような、無数の
鏃が植えてあるのだ。
剣の
切ッ先よりするどい鏃は、ちょうど、あおむけになっている半助の真上に、ドギドギとぶきみな光をならべている。おお、もしその鉄板が、いちどおちてこようものなら、いかに
隠身自由、
怪力無双なものでも、五体は
蜂の
巣となって
圧死してしまうであろう。
「
釣り
天井――」
半助は、とっさに壁ぎわへ、身をすりよせた。
このおそろしい部屋へじぶんをあんないしたからには鼻かけ
卜斎の
八風斎は、すでに徳川家の
伊賀衆菊池半助ということを見破ったにそういない――と半助は、こころみに
梯子口をのぞいてみると、はたしていつのまにか梯子はとりはずされて、下には、あやしい
陥穽が
伏せてあるようす、ほかに出口はむろんない。
半助は
絶体絶命となった。
けれど五本の指と二本の足が、ままになる以上、こんなことで、おめおめ
命をおとすような菊池半助ではない。
かれは
脇差をぬいて、いきなり、あっちこっちの壁をズブズブとつき刺した。そしてそとへ通じるところをさぐりあて、たちまち二尺四方ぐらいの
穴を切りぬいたかとおもうと、ほとんど、
猫が
障子の穴をすりぬけるようにするりと身をはいだして、一
丈四、五
尺の上から大地へポンと
跳びおりた。そして、
「ここだな……」と、すすり泣きのもれている物置小屋の戸をねじあけて、なかにいる
蛾次郎を助けだした。
「あッ、お武家さん――」
蛾次郎が
素ッ
頓狂な声をだす口をおさえて、
「しずかにせい。さっきそのほうがおれをたすけてくれた返礼に、こんどはきさまを救ってやる。徳川家へまいれば
伊賀衆の
組頭、いくらでも取り立ててやるから一しょについてくるがいい」
「あ、ありがとう。おれもこんなやかましい親方にくッついているのはいやでいやでたまらないんだ」
「む、
卜斎に
気取られぬうち、そッと馬小屋から足のはやいのを一ぴきひっぱりだしてこい」
「いいとも、馬ぐらい盗みだすのは、ぞうさもないよ」
蛾次郎が
闇のなかへ飛んでいくと、そのとたんに
半助のあたまの上で、ドドドドスン! というすさまじい
家鳴り
震動。ふり
仰いでみると、いまかれがのがれだした壁の穴から、
濛々たる土煙が
噴きだしている。
「おれがここへ抜けだしているのに、卜斎めが
釣り
天井の
綱を切ったんだろう。そんな
壺におちるような者は、
伊賀衆の中には一ぴきもいるもんか」
せせら笑っていると、ふいに、
家のなかから
轟然たる爆音とともに、
火蓋を切った
種子島のねらい
撃ち。
「あッ、気がついたな、こいつはぶっそうだ」
バラバラとかけだしていくと、
暗闇から牛をひきだしたという
諺どおり蛾次郎のうろたえよう。
「お
侍さん、――お侍さんじゃないのかい」
「おれだおれだ、馬は? 馬はどこにいる?」
「ここだよ、馬を盗みだしてきたところだ」
「どこだ、アア、まっ暗。どこにいるのじゃ」
「ここだよ、ここだよ」
と
蛾次郎が手をたたくと、その
音をたよりにねらった
鉄砲の
弾が、またも、つづけざまに、二、三発、ズドンズドン! と火の
縞を走らせた。
「わあッ、だめだ、あぶねえ!」
ふいに、蛾次郎が
胆をつぶして腰を抜かしたらしい
弱音。
「えい、泣くなッ」
と
叱りつけた
菊池半助。いったい、この
厄介者をなんに利用しようとするのか、むんずと
横脇にひっかかえて馬の
鞍壺にとびあがり、つるべうちの鉄砲を聞きながして、
人無村から
闇の
裾野へ、まッしぐらに、逃げおちてしまった。
いっぽう、
蚕婆の家の
床下から、
人穴城の
間道をすすんでいった
加賀見忍剣と
巽小文治。
瞳はいつか闇になれたが、道は
暗々として行く手もしれない。
冥府へかよう
奈落の道をいくような気味わるさ。ポトリ、ポトリと
襟もとに落ちてくる
雫のつめたいこと。たえず、
冷々と
面をかすめてくる
陰森たる風、ものいえば、ガアンと
間道中の悪魔がこぞって答えるようにひびく。
――と、つねに沈着な巽小文治が、ふいに、「あッ」とさけんで一歩とびのき、片手で顔をおさえてしまった。
「どうした、小文治どの」
「なにか風のようなものに、さっと
面をふかれたその痛さ。
忍剣どのもかならずごゆだんなさるまいぞ」
「そんなバカなことがあろうか、あれは年へた
蝙蝠のたぐいじゃ」
と入れかわって、忍剣が、さきに立って二、三歩すすむと、かれも同じように奇怪ないたさに
面を
刺されて、たちまち片目を押さえてしまった。そして、ふと
衣の上に、
霜のように立つものを手でさぐってみて、
「こりゃ!
針だッ」
と
叫んだ。
「えッ、針?」
その時、はじめてふたりとも身がまえ直して、じッとやみをすかして見ると、
白髪をさかだてたひとりの
老婆が
蜘蛛のように
岩肌に身を
貼りつけて、プップップッとたえまなく、ふたりの
面へ吹きつけてくる針の息……
おお、それこそ
竹童がなやまされた
蚕婆の
秘術吹針の目つぶしだった。
早足の
燕作と
可児才蔵は、
蚕婆より
一足先に抜け
穴へはいったので、すぐあとにおこった異変もなにも知らず、ただひた走りに、地下三十三町の
間道を
人穴城へいそいでいく。
目というものがあっても、ここでは、目がなんの役にも立たない暗黒界、けれど、足もとは
坦々とたいらであるし、両側は
岩壁の横道なし。――いくら
盲めっぽうに進んでも、けっして、
迷う気づかいはないと、燕作はいつもの早足ぐせで、才蔵よりまえにタッタとかけていったが、やがてのこと、
「ホイ! しまったり!」
目から火でもだしたような声で、勢いよく
四ンばいにつんのめった。あとからきた才蔵も、あやうくその上へ折りかさなるところを
踏みとどまって、
「どうした燕作」と声をかける。
「オオ、
痛え! 才蔵さま、どうやらここは行止まりのようです」
「どんづまりにはちと早い、あわてずによくさぐってみい……おおこりゃ石段ではないか」
「え、石段?」
「
人穴城は、
裾野より高地となるから、この間道が、しぜんのぼりになるのは、はや近づいた
証拠といえる」
才蔵がのぼっていく尾について、燕作も石段の数をふんでいく……と道はふたたび
平地の坂となり、それをあくまで進みきると、こんどこそほんとうのゆきづまり、
手探りにも知れる
鉄の
扉が、ゆく手の先をふさいでいた。
「
燕作燕作、殿堂の
間道門は、すなわちこれであろう。なんとかして、なかの者にあいずをするくふうはないか」
「とにかく、どなってみましょう」
と燕作は鉄門の前に立って、
器量いっぱいな大声。
「やアやア
搦手がたの兄弟、
丹羽昌仙さまの密書をもって、
安土城へ使いした
早足の
燕作が、ただいま立ちかえったのだ。開門! 開門」
鉄壁をたたいて呼ばわッたとたん、頭の上からパッとさしてきた
龕燈のひかり、と見れば、高いのぞき
窓から首を集めて、がやがや見おろしている七、八人の手下どもの顔がある。
「おお、いかにも、燕作にちがいないらしいが、あとのひとりは
人穴城で見たこともないやつ、
軍師さまの
厳命ゆえ、さような者は、ここ一
寸も、とおすことまかりならん。開門ならん」
「ヤイヤイ、しつれいをもうしあげるな」
と、燕作はまばゆい光をあおむいて、
「
鳥刺し姿に身を
やつしておいでなさるが、このお方こそ、
秀吉公の
帷幕の人、
福島さまのご家臣で、音にきこえた
可児才蔵とおっしゃる勇士だ。うたがわしく思うなら、とッとと
軍師さまのお耳に入れてくるがいい」
「なんだ、
福島正則さまのご家来だと?」
おどろいた手下どもは、すぐことの
由を、
丹羽昌仙へ
告げにいった。昌仙は、
燕作の
吉報をまちかねていたところなので、すぐさま、大将
呂宋兵衛とともに、
間道門のてまえまで、
秀吉の使者を出むこうべくあらわれた。
しばらくすると、鉄の
閂をはずす音がして、明暗の境をなすおもい
扉が、ギ、ギ、ギイ……と一、二寸ずつ
開いてきたので、暗黒のなかに立っていた才蔵と燕作のすがたへ、一
道の光線が水のごとくそそぎ流れた。
「はるばるお越しくだされた
可児才蔵さま、いざお入りくだされい」
内よりおごそかな声があって、
門扉は八
文字にひらかれた。――と、ほとんど同時である。またも
間道のあなたから、
疾風のように走ってきた人間がある! すでに才蔵と燕作がなかへはいって、ふたたびギーッと門が
閉まろうとするところへ、あわただしくきて、
「大へんだ! わたしを
入れて、はやくあとを
閉めておくれよ」
ころぶようにたおれこんだ
蚕婆、いつもの
し太さに似ず、いきた色もしていない。
「おお
裾野の
見付婆、大へんとはなんだなんだ」
一せいに色めきたつ人々を見まわして、蚕婆は歯をむきだして、がなッた。
「なんだもかんだも、あるもんか、はやくはやく、さきに門を
閉めなきゃ大へんだ、いまわたしのあとから
忍剣と
小文治というやつが追っかけてくる!」
「えッ、
伊那丸の
旗本がおいかけてくるッて? それは、ここへか、こっちへか?」
「くどいことはいっておられないよ、あれ、あの足音がそうだ! あの足音だ!」
「それッ、かたがた、はやく門をとじて
厳重にかためてしまえ」
「やア、もうそこへ姿がみえた」
「
閂はどうした!」
「くさりをかせ!
鎖を!」
「わーッ、わーッ」
――ととつぜん、暴風にそなえるように、うろたえた手下どもは、
扉へ手をかけて、ドーンという
響きとともに、
間道門を
閉めてしまった。
「むねんッ」
と、その下にふたりの声。ああ、たった
一足ちがい――
蚕婆を追いつめて、
人穴城のかくし道をきわめてきた忍剣と小文治は、いでや、このまま城内へ斬って
入ろうと勢いこんできたところを、内からかたく
閉められてじだんだ
踏んだ。
「
卑怯なやつら、
臆病ぞろいよ! わずかふたりの敵をむかえることができぬのか、
和田呂宋兵衛の下ッぱには男らしいやつは一ぴきもいないのか、くやしければ、
開けろ、開けろッ!」
さんざんにいいののしったが、こッちでののしれば、内でもののしり返すばかり、果てしがないので、
「えい、めんどうだッ」
手馴れの
禅杖を、ふりかまえた
加賀見忍剣、どうじに
巽小文治も、
「よし、
拙者は、あれからとびこんでゆく」
と、
槍を立てかけて、足がかりとなし、十数尺上ののぞき口へ、無二無三にとびつこうとこころみた。
グワーン!
たちまち、雷火をしかけたように、鉄門をとどろかした
忍剣の第一撃! この鉄の
扉が破れるか、この
禅杖が折れるかとばかり。
つづいて、第二、第三撃!
間道門のなかでは、
呂宋兵衛をはじめ
丹羽昌仙、
轟又八、そのほか
燕作も
蚕婆もおおくの手下どもも、思わず
胆をひやして、ただ、あれよあれよとおどろき見ているまに、さしもの鉄壁も、
飴のようにゆがんでくる。
すわこそ、
人穴城の一大事となった。
呂宋兵衛はまッさおになった。
手下どもも、見えぬ敵の
恐怖におそわれた。こんな
猛者に、ふたりもおどりこまれた日には、よしや、城内に二千の
野武士はあるとも、どれほど死人
手負いの山をきずかれるか、さいげんの知れたものではないと思った。
「なにを気を
呑まれているか!
意気地なしめ!」
ふいに、そのなかで、思いだしたようにどなったのは
轟又八。
「すこしもはやく、水道門の
堰をきって、
間道のなかへ
濁水をそそぎこめ、さすれば、いかなる
天魔鬼神であろうと、なかのふたりが
溺れ死ぬのはとうぜん、しかも、味方にひとりの
怪我人もなくてすむわ」
あっぱれ名案と、
誇りがましく命令すると、手下どもが、おうと答えるよりはやく、
「いや、そりゃ断じていかん」
はげしく
異議を申したてた者は、
軍師丹羽昌仙であった。かれとは、つねに犬と
猿の仲みたいな轟又八、すぐ
眉をピリッとさせて、
「こういうときの用意のため、いつでも水道門の堰さえきれば、間道はおろか
裾野一円、満々と
出水になるようしかけておいた計略ではないか。
軍師には、なんでお
止めなさる」
「おろかなことをお問いめさるな、それ、
溺兵の計りごとは、一城の危急存亡にかかわるさいごの手段、わずかふたりの敵をころすために、なんでそれほどの
費えをなそうや」
「心得ぬ
軍師のいい
条、では、みすみす
間道門をやぶられて、ここにおおくの
手負いをだすとも、大事ないといいはらるるか」
「なんで
昌仙が、それまで手をつかねて見ていようぞ、
拙者にはべつな一計があること、又八どのは、それにてゆるりとご見物あるがよい。やあ者ども、この鉄門の前へ
焼草をつみあげい」
たちまち、山と積まれた
枯草の
束。はこばれてくる
獣油の
瓶、かつぎだされた数百本の
松明。
洞門のなかでは、それとも知らず、必死にあえぐ
忍剣と
小文治のかげ。と――いきなり、バラバラバラ、バラバラッ! と上ののぞき口から投げこんできた枯草のたば! つづいて
焔のついた
松明、
獣油の雨、火はたちまちパッと枯草についた。いや、ふたりの
袖や
裾にもついた。
火は消しもする、はらいもする、が、もうもうと
間道のなかへこもりだした煙はおえぬ。しかも
異臭をふくんだ獣油の黒煙が、でどころがなく、
渦をまいてふたりをつつんだ。
目からはしぶい涙がでる。
鼻腔はつきさされるよう、
咽はかわいて声さえでぬ。……そこにしばらくもがいていれば煙にまかれて
窒息はとうぜんだ。ふたりは歯ぎしりをしながら、煙におしだされて、しだいしだいにあともどりした――といっても、
充満している煙の底をはいながら……
間道の半ば過ぎまで引っかえしてきたころ、ふたりは、やっとどうやらうす目をあいて、たがいにことばをかわせるようになった。
「や、
小文治どの、どうやらここは、
先刻すすんでいった
間道とはちがうようではないか」
「
拙者もすこし変に思ってはいるが、たしかいきがけには、ほかに横穴はないように心得ていた」
「しかし、このように両側のせまい穴ではなかったはず……はてな? こりゃちとおかしい……」
「
忍剣どの、また煙の
渦がながれてきた。とにかく、もどるところまでもどってみよう」
「せっかく、
人穴城の根もとまで押しよせたに、煙攻めの
策にかかって引ッ返すとは無念千
万……ああまたまっ黒に包んできおった」
「ちぇッ、いまいましいが、もうここにもぐずぐずしておれぬわ」
さすがの勇士も、煙の魔軍には勝つ
術がなかった。息づまる苦しさと、目にしむ
涙をこらえながら、いっさんにその
穴を走りもどった。
からくも、前にはいった
床下へきた。まさしく、
蚕婆の家の下にちがいない。とちゅうの道がちがっているように思えたのも、さすれば、煙のための
錯覚であったかもしれない。
「こりゃ部下の者、この板を
退けて、
綱をおろせ、早く早く!」
と
小文治が、
槍の
石突きを上へむけて、
蓋の板を下からポンポンと突きあげた。
すると、入口に待ちかねていた部下の者であろう、板をはがして、二本の
綱を無言のまま下へたれてきた。それを力に、
忍剣と
小文治は、ひらりと上へとびあがる!
――あがったところはまッ暗であった。
だれかが、カチカチ……と
火打石を
磨っている。部下は二十人ばかり、ここへ置いていったのに、イヤにあたりが静かである。
カチッ、カチッ、カチッ……火打石はなかなかにつかない……
「たわけ者め!」
忍剣は、部下の不用意を
叱りつけた。じぶんたちがいない
間に、あるいは、軍律を破って、
夜半の眠りをむさぼっていたのではないかとさえうたぐった。
「なぜ、かがり火を
焚いておらぬ、この暗さで、いざことある場合になんといたす。
不埒者めが、はやく
灯をつけい!」
「はい、ただいますぐに明るくいたします」
と答える者があったが、すこし
声音がへんである。調子がおかしい。
小文治は、部下の者のなかにこんなしわがれた声はなかったはずと思って、きッとなりながら、
「何者だッ、そこにいるのは!」
と、声あらく、どなりつけてみた。
にもかかわらず、相手は平気で、まだカチカチと
闇のなかで、火打石を磨っている。
「名を申さんと突きころすぞッ、敵か、味方か!」
ピラリッ――
朱柄の
槍の
穂先がうごいて、
闇のなかにねらいすまされた。と、その槍先から、ポーッとうす明るい
灯がともった。
「わしは敵でもなければ味方でもない。そうもうすおまえがたこそ、深夜に
床下から
忍びこんできて、ひとの家へなにしにきた!」
「やや、ここは
蚕婆の家ではなかったのか――」
忍剣も
小文治も、あまりのことにぼうぜんとしながら、そこに立ったひとりの人物を、そも何者かと、みつめなおした。
いまともした
行燈を前にだして、しずかに席についたその男は、するどい両眼に
片鼻のそげた顔をもち、
熊の毛皮の
胴服に、
刻み
鞘の
小太刀を
前挟みとなし、どこかにすごみのあるすがたで、
「あははははは、
床下から戸まどいしてござったのは、さてこそ、
伊那丸が
幕下のおかたでござるな。なんにせよ、深夜の珍客どの、お話もござりますゆえ、まずそれへおすわりください」
いう声
がら、
容貌も、それは、まぎれもあらぬ
鏃鍛冶の鼻
かけ卜斎。
意外なおもいにうたれた忍剣と小文治の目は、つぎに
部屋のなかをながめまわした。
ここは
卜斎の
書斎とみえて、兵書、武器、種々な
鏃の
型図面などがざったにちらかっており、なかにも一
挺の
種子島が、いま使ったばかりのように、
火縄をそえて、かれのそばにおいてあった。
「いかにもご
推察のとおり、われわれはいま
雨ヶ
岳を本陣としている、
武田伊那丸さまの
旗本でござるが、してそこもとは
何人? またここはいったいいずこでござりますか?」
ややあって、
忍剣が、こう問いただした。
「ここは、やはり
裾野の村、おふたりが
間道へはいられた
蚕婆の家から、さよう、ざっと五、六町はなれた
鏃鍛冶の小屋でござる。すなわち、手まえは
主の卜斎ともうす者」
「ではそちも、
鏃鍛冶とは世をあざむく
稼業で、まことは蚕婆とおなじように、
人穴城の
見付をいたしているのであろうが!」
小文治が、グッと急所を押すと、卜斎は、ひややかに
嘲笑って、
「とんでもないこと、けっしてさような者ではございません」
「だまれ、
呂宋兵衛の
隠密でない者が、なんで
床下から
間道へ通じるようにしかけてあるのだ」
「なるほど、それはごもっともなおうたがいじゃ。いかにもこの卜斎鏃鍛冶とはほんの一時の
表稼業で、まことはおさっしのとおり
隠密にそういない」
「さてこそ、
間者!」
小文治と
忍剣は、腰の大刀をグイとにぎって、あわやおどりかからんずる気勢をしめした。
片手を
斜めにさし向けて、きッと、体をかまえなおした
卜斎、
「じゃが、おさわぎあるなご両所、
隠密は隠密でも、
呂宋兵衛のごとき
曲者の手先となって、働くような卜斎ではございません――」
と、左右のふたりへ、するどい眼をそそぎながら、
「――まことかくもうす卜斎こそは、
北国一の
雄、
柴田権六勝家が間者、本名
上部八風斎という者、
人穴の
築城をさぐろうがため、ここに
鏃師となって、家の
床下から八ぽうへかくし道をつくり、ここ二
星霜のあいだ、苦心していたのでござる」
「おう……」うめくがようにふたりは顔を見あわせて、
「音にきこえた
鬼柴田の
ふところ刀、上部八風斎とはそこもとでござったか。してその
御人が、なんのご用ばしあって、われわれをお
止めなされた」
「されば、それがしの主君勝家より密命があって、ご不運なる
武田家の
御曹司へ、ひとつの
贈り物をいたそうがため」
「はて、
柴田家より
伊那丸君へ、そもなんの贈り物を?」
「すなわちこの
品――」
と、八風斎がしめしたのは、かれが学力の
蘊蓄をかたむけて、くまなくさぐりうつした
人穴の攻城図、
獣皮につつんで大せつに
密封してあるものだった。
「――かねてから主君
勝家は、
若年におわし、しかも、
孤立無援に立ちたもう
伊那丸さまへ、よそながらご同情いたしておりました。折から、このたびのご苦戦、ままになるなら、北国
勇猛の軍馬をご加勢に送りたいは山々なれど、四
隣の国のきこえもいかが、せめては武家の
相身たがい、弓取り同士のよしみの
印までにもと、この攻城図を、ご本陣へさしあげたいというおいいつけ」
「なんといわるる、ではそこもとが、苦心に苦心をかさねて
写されたこの秘図を、おしげもなく、伊那丸さまへおゆずりなさろうとおっしゃるか」
「いかにも、これさえあれば、
人穴城の
要害は、
掌をさすごとく、
大手搦め手の攻め口、まった殿堂、
櫓にいたるまで、わが家のごとく知れまする。すなわちこの一枚の図面は、千人の
援兵にもまさること
万々ゆえ、一刻もはやく、ご本陣へまいらせたいこのほうの
志、なにとぞ、伊那丸さまへ、よしなにお取次ぎを」
「ああ、世は
澆季でなかった」
と、
忍剣も
小文治も、胸をうたれずにおられなかった。
越前北ノ
庄の
鬼柴田といえば、弱肉強食の
乱世のなかでも、とくに恐ろしがられている
梟雄だのに、こんな美しい、情けの
持主であろうとは、きょうまで
夢にも知らなかった。――なんとゆかしい弓取りのよしみであろう。
そして、むろんこれはこばむことではないと思った。
さだめし、
伊那丸さまをはじめ同志の人々がよろこぶことと信じて、そくざに、
八風斎の願いをゆるし、
雨ヶ
岳の本陣へあんないすることを
快諾した。
八風斎も
欣然として、衣服大小をりっぱにあらため、
獣皮につつんだ図面を
懐中にいれ、ふたりのあとについて屋敷をでた。
いっぽう、
蚕婆の家で、たむろをしていた部下の者たちは、
床下の穴から
濛々たる煙がふきだしてきたので、すわこそ、忍剣と小文治の身のうえに、変事があったにちがいないと、すくなからずさわぎあっていた。そこへ意外な方角から、ふたりが無事でかえってきたので、一同あッけにとられてしまった。
やがて、勢ぞろいをして、
人無村をでてゆく一列の軍馬を見れば、まッさきに馬上の
加賀見忍剣、おなじく
騎馬たちの
上部八風斎、
巽小文治、それにしたがう二十余人の兵。――この一列が
整々として
雨ヶ
岳の本陣へかえってくるまに、
富士の山は、銀の
冠にうす
紫のよそおいをして、あかつきの空に
君臨し、流るる
霧のたえまに、
裾野の朝がところどころ明けかけてくる。
人無村の
柿の木には、
今朝も
烏がむれていた。
富士川の名物、
筏舟に
棹さして、
鰍沢からくだる
筏乗りのふうをよそおい、矢のように東海へさして逃げたふたりのあやしい男がある。
海口へ着くやいな、しぶきにぬれた
蓑笠とともに、筏をすて、浜べづたいに、
蒲原の町へはいったすがたをみると、これぞまえの夜、鼻かけ
卜斎の屋敷から
遁走した
菊池半助。つれているのは、そのときゆきがけの
駄賃に、かどわかしてきた
泣き
虫の
蛾次郎だ。
十五、六にもなりながら、人にかどわかされるくらいな蛾次郎だから、むろん、じぶんではかどわかされたとは思っていない。バカにしんせつで、じぶんを
出世さしてくれるいいおじさんにめぐりあったと心得ている。
「蛾次郎、もうここまでくれば、どんなことがあっても安心だから、かならずしんぱいしないで元気をだすがいい」
半助がふりかえっていうと、あとから
宿のにぎやかさに、キョロつきながら、のこのこと歩いてきた蛾次郎、すこし口をとンがらせながら、
「元気をだせったッて、元気なんかでやしねえや、お
侍さんはよく腹がすかないねえ」
「ははア、どうもさっきからきげんがわるいと思ったら、
空腹のために、ふくれているんだな」
「だってゆうべッから、一ッ粒もごはんを食べないんだもの、それで
今朝になっても、まだ歩いてばかりいちゃあ、いくらおれだってたまらねえや」
「まて、もうすこしのしんぼうじゃ。
向田ノ
城へまいれば、なんでも腹いッぱい
食わせてやる」
「もうだめだ、アア、もう歩けない、なにか
食べなくッちゃ目がまわりそうだ……」
なれるにしたがってそろそろ
尻尾をだしてきた
蛾次郎は、
宿場人足がよりたかって、うまそうに立ち
食いしている
餅屋の前へくると、ぎょうさんに、腹をかかえてしゃがんでしまった。
半助はにが笑いして、いくらかの
小銭をだしてやった。それをもらうと、蛾次郎は人ごみをかきわけてふところいッぱい
焼餅を買いもとめ、ムシャムシャほおばりながら歩きだした。
間もなく、ふたりのまえに見えた向田ノ城。
ここの
砦には、富士、
庵原、二
郡をまもる
徳川家の
松平周防守康重がいる。
菊池半助は、その人に会って、じぶんが
探知した
裾野の
形勢をしさいに書面へしたため、それを浜松の本城へ、早打ちで送りとどけてもらうようにたのんだ。
書状の内容は、
徳川家の領内である富士の
人穴を中心に、
裾野一帯の
無人の
広野に、いまや、
呂宋兵衛だの、
伊那丸だの、あるいは
秀吉の
隠密、
柴田勝家の
間者などが、
跳梁して、風雲すこぶる
険悪である。はやく、いまのうちに味方の兵をだして、それらの者を、
掃滅しなければ一大事で。――という意味のものであった。
その密談のあいだに、
「ちぇッ、ばかにしてやがら」
城内の一室で、プンプンしていたのは
蛾次郎である。もう
焼餅を
食べつくし、腹はいっぱいになったが、まさか寝ることもできず、半助はいつまでも顔を見せないし、遊ぶところはなし、
文句のやり場のないところから、ひとりでブツブツこぼしている。
「いやンなっちゃうな。どうしたんだい、あの人は、
向田ノ
城へいったら、なんでも好きなものはやるの、うまいものは食いほうだいだのッて、いっておいてよ、ちぇッくそ! ばかにしてやがら、うそつき!
菊池半助の大うそつき!」
腹いせにわめいていると、ふいに、そこへ半助がはいってきたので、さすがの蛾次郎も、これにはすこし
間が悪かったとみえて作り笑いをした。
「蛾次郎、さだめしたいくつであったろう」
「ううん、そんなでもなかったよ、だけれど、菊池さんはいままでいったいどこへいってたのさ」
「その
方をりっぱな
侍に取り立ててやりたいと、
城主周防守さまとそうだんしてまいったのだ。どうだ
蛾次郎、きさまもはやくりっぱな侍になり、堂々と馬にのったり、多くの家来をかかえて、こんなお城に住んでみたくはないか」
「うふふふふふ、おれをその侍にしてくれるのかい」
蛾次郎は、目をほそくしてうれしがった。
「きっとしてやる。が、それには、ぜひなにか一つの
手柄をあらわさなければならん」
「手柄をあらわすには、どんなことをすりゃいいんだろう」
「その方法は
拙者がおしえてやる。しかも蛾次郎でなければできぬことがあるのだ。これ、耳をかせ……」
と
半助は、なにやらひそひそささやくと、蛾次郎は目をまるくして、あたりもかまわず、
「えッ、じゃあの
竹童の使っている
大鷲を、おれがぬすんでくるのかい!」
「シッ、大きな声をいたすな。――そちはたしか、あの大鷲に乗せてもらった経験があるだろう」
「ある、ある。竹童が
松明をくれッていったから、それを持っていって、一晩じゅう、鷲に乗せてもらったよ」
「さすれば、あの
小僧が鷲をつないでおくところも、鷲の背に乗ることも、そちはじゅうぶんに心得ているはず――じつは近いうちに、あの辺で大きな
戦がおきるのだ、そのさわぎに乗じて、竹童の
鷲を徳川家の陣中へ乗りにげしてくれればそれでよいのだ。なんと、やさしいことではないか」
「だけれど、……もしかやりそこなうと大へんだな、竹童ッてやつ、ちびでもなかなか強いからな」
「
蛾次ッ」
半助がこわい目をしたので、かれは、ギョッとして飛びのいた。
「いやといえばこれだぞ――」
ギラリと
脇差をぬいて、
蛾次郎の鼻ッ先へつきつけた菊池半助は、また、左の手で、
袂からザラザラと
小判をつかみだして、刀と金をならべてみせた。
「おうといえば
褒美にこれ。イヤといえば刀で首。さアどっちでもよい
方をのぞめ」
菊池半助の書面が、
家康の
本城浜松へつくと同じ日にいくさになれた
三河武士の用意もはやく、
旗指物をおしならべて、東海道を北へさして出陣した三千の
軍兵。
精悍無比ときこえた
亀井武蔵守の兵七百、
内藤清成の
手勢五百、
加賀爪甲斐守の一隊六百余人、
高力与左衛門の三百五十人、
水野勝成が
後詰の人数九百あまり、
軍奉行は
天野三郎兵衛康景。
法螺、
陣鐘の音に砂けむりをあげつつ、堂々と
街道をおしくだり、
蒲原の
宿、
向田ノ城にはいって、
松平周防守のむかえをうけた。
ここで、
裾野陣の大評議をした各将は、待ちもうけていた菊池半助を、地理の案内役として先陣にくわえ、全軍
犬巻峠の
嶮をこえて、
富士河原を乗りわたし、
天子ヶ
岳のふもとから
南裾野へかけて、
長蛇の陣をはるもよう。
西をのぞめば、
雨ヶ
岳のいただきを陣地とする
武田伊那丸の一
党、北をみれば、
人穴城にたてこもる
呂宋兵衛の一族、また南の平野には、
葵の
旗指物をふきなびかせて、
威風りんりんとそなえた三千の
三河武士がある。
ここ、いずれも、敵味方三方わかれの形である。
甲を攻めれば
乙きたらん、乙を討たんとせば
丙突かんという三
角対峙。はたしてどんな
駈引きのもとに、目まぐるしい三つ
巴の戦法がおこなわれるか、風雲の急なるほど、裾野のなりゆきは、いよいよ
予測すべからざるものとなった。
けれど、それは人と人とのこと、弓取りと弓取りのこと。晩秋の
千草を庭としてあそぶ、
鶉や
百舌や野うさぎの世界は、うらやましいほど、平和そのものである。
ちょうどそれとおなじように、のんきの
洒アな顔をして、またぞろ、裾野へ
舞いもどってきた泣き虫の
蛾次郎はばかにいい身分になったような顔をして、あっちこっちを、のこのこと歩いていた。
「
木隠が
出立してから、きょうで、はや四日目。――かれのことだ。よも、
裏切りもすまいが、なんの
沙汰もないのは、どうしたのか。おいとしや、若君のご武運もいまは神も見はなし給うか」
床几によって、まなこをとじながら、こうつぶやいた
小幡民部。
ここは、陣屋というもわびしい、
武田伊那丸のいる
雨ヶ
岳の
仮屋である。
軍師民部は、きのうから
幕のそとに床几をだして、ジッと
裾野をみつめたまま、
龍太郎のかえりを、いまかいまかと待ちかねていた。
が――龍太郎のすがたはきょうもまだ見えない。四日のあいだには、かならず兵三百を
狩りあつめて、帰陣すると
誓ってでた木隠龍太郎。ああ、かれの影はまだどこからも見えてこない。
いよいよ、絶望とすれば、ふたたび、
人穴城を攻めこころみて、散るか咲くかの、さいごの一戦! それよりほかはみちがない。すでに
兵倦み、
兵糧もとぼしく、もとより
譜代の臣でもない
野武士の部下は、日のたつほどひとり去りふたりにげ、この陣地をすて去るにちがいない。
「
軍師、軍師、小幡民部どの!」
ふいに、耳もとでこうよぶ声。
あれやこれ、思いしずんでいた民部が、ふと、見あげると、
巽小文治と
加賀見忍剣が連れ立ってそこにある。
「オ。これはご
両所、なんぞご用で」
「
一昨日からかなたにあって、待ちわびている者が、もういちどこれを最後として、若君へお取次ぎを願って見てくれいと申して、いッかなきかぬ。――
軍師から
伊那丸さまへ、もういちどおことばぞえねがわれまいか」
「おお、
上部八風斎のことですか、その
儀は、
拙者からも再三若君のお耳へいれたが、
断じて会わんという
御意のほか、一こうお取上げにならぬしまつ。事情をいうて追いかえされたがよろしかろう」
「は」
といったが、ふたりの
面はとうわくの色にくもった。
じぶんたちが独断で、八風斎を本陣へつれてきたのがわるかったか。伊那丸は対面無用といったまま、耳もかさないのである。また、八風斎のほうでも、あくまで、会わぬうちは、この
雨ヶ
岳をくだらぬといい張って、うごく
気色もなかった。
忍剣と小文治は、なかに立って板ばさみとなった。八風斎はだだをこねるし、伊那丸はきげんがわるい。これでは立つ瀬がないと、いまも民部に、苦しい立場をうちあけていると、ふいに、
帳のかげから伊那丸の声で、
「民部、民部やある」
としきりに呼ぶ。
「はッ」
とりいそいで、
幕のなかへ姿をいれた
小幡民部は、ふたたびそこへ立ちもどってきて、
「よろこばれよご
両所、にわかに若君が、八風斎に会ってやろうとおおせだされた。
御意のかわらぬうち、いそいで、かれをここへ」
といった。
間もなく、
上部八風斎はあなたの
仮屋から、
忍剣と
小文治にともなわれてそこへきた。迎えにたった民部は、そも、どんな人物かとかれを見るに、
鼻かけ
卜斎の名にそむかず、
容貌こそ、いたってみにくいが、さすが
北越の
梟雄鬼柴田の腹心であり、かつ
攻城学の
泰斗という
貫禄が、どこかに光っている。
「八風斎どの、それへおひかえなさい」
制止の声とどうじに、バラバラと陣屋のかげからあらわれた
槍組のさむらい、左右二列にわかれて立ちならぶ。
と――
武田菱の
紋を打ったまえの
陣幕が、キリリと、上へしぼりあげられた。
見れば、
正面の
床几に、
気だかさと、美しい
威容をもった
伊那丸、左右には、
山県蔦之助と
咲耶子が、やや頭をさげてひかえている。
「これは……」
と、
槍ぶすまにひるまぬ八風斎も、うたれたように
平伏した。
初対面のあいさつや、陣中の
見舞いなどをのべおわってのち、
八風斎は、れいの
秘図をとりだし、主人
勝家からの
贈り物として、うやうやしく、
伊那丸の
膝下にささげた。
が、なぜか、伊那丸は、よろこぶ色はおろか、さらに見向きもしないで、
にべなくそれをつッかえした。
「ご好意はかたじけないが、さようなものはじぶんにとって
欲しゅうもない。持ちかえって、
柴田どのへお
土産となさるがましです」
「は、心得ぬ
仰せをうけたまわります。主人
勝家こそははるかに
御曹司のお
身の
上をあんじている、無二のお味方、
人穴城をお手にいれたあかつきは、およばずながらよしみをつうじて、ご
若年のお
行く
末を、うしろだてしたいとまでもうしております。……なにとぞ、おうたがいなくご
受納のほどを」
「だまれ、八風斎!」
はッたとにらんだ伊那丸は、にわかにりんとなって、かれの胸をすくませた。
「いかに、
汝が、
懸河の
弁をふるうとも、なんでそんな
甘手にのろうぞ。この伊那丸に恩義を売りつけ、柴田が配下に立たせよう
計りごとか、または、
後日に、人穴城をうばおうという汝らの
奸策、この伊那丸は
若年でも、そのくらいなことは、あきらかに読めている」
「うーむ……」
うめきだした
八風斎の顔は、見るまにまッさおになって、じッと、
伊那丸をにらみかえして、
眼もあやしく血走ってくる。
「
益ないことに
暇とらずに、
汝も
早々、
北越へひきあげい。そして、
勝家とともに大軍をひきい、この
裾野へでなおしてきたおりには、またあらためて
見参するであろう。そちの大事がる図面とやらも、そのとき使うように取っておいたがよい」
深くたくらんだ胸のうちも、完全に見やぶられた八風斎は、
本性をあらわして、ごうぜんとそりかえった。
「なるほど、さすが
信玄の
孫だけあって、その
眼力はたしかだ。しかしわずか七十人や八十人の
小勢をもって、
人穴城がなんで落ちよう。敵はまだそればかりか、
呂宋兵衛にもましておそろしい大敵が、すぐ
背後にもせまっているぞ。悪いことはすすめぬから、いまのうちに
柴田家の
旗下について、
後詰の
援兵をあおぐが、よいしあんと申すものじゃ」
「だまれ。よしや伊那丸ひとりになっても、なんで、柴田ずれの
下風につこうや、とくかえれ、八風斎!」
「ではどうあっても、柴田家にはつかぬと申しはるか、あわれや、信玄の孫どのも、いまに、裾野に
屍をさらすであろうわ、
笑止笑止」
毒口たたいて、
秘図をふところにしまいかえした八風斎、やおら、伊那丸のまえをさがろうとすると、
面目なげにうつむいていた
忍剣と
小文治が、左右から立って、
「若君にむかってふらちな
悪口、よくもわれわれ両人をだましおったな!」
と、
猿臂をのばして、八風斎のえりがみをつかもうとしたとき、
「
方々! 方々! 敵の大軍が見えましたぞッ」
にわかに起ったさけび声、陣のあなたこなたにただならぬどよみ声、
伊那丸も
咲耶子も、
民部も
蔦之助も、思わずきッと突っ立った。
「それ見たことか、はやくも
地獄の迎えがきたわッ!」
さわぎのすきに、すてぜりふの
嘲笑をなげながら、
疾風のように逃げだした
上部八風斎。
忍剣と小文治が、なおも追わんとするのを伊那丸はかたく
止めて、かれのすがたを見送りもせず、
「小さき敵に目をくるるな、心もとない大軍の出動とやら、だれぞ、はようもの見せい!」
「はい、かしこまりました」
こたえた
声音は意外にやさしい、だれかとみれば、伊那丸のそばから、
蝶のように走りだしたひとりの美少女、いうまでもなく咲耶子である。
見るまに、
物見の松の高きところによじのぼって、
梢にすがりながら、片手をかざし、
「オオ、見えまする! 見えまする!」
「して、その敵のありどころは」
松の
根方から上をあおいで、一同がこたえを待つ。
上では、緑の黒髪を吹かれながら、
咲耶子の声いっぱい。
「
天子ヶ
岳のふもとから、南すそのへかけて、まんまんと陣取ったるが本陣と思われまする。オオ、しかも、その
旗印は、
徳川方の
譜代、
天野、
内藤、
加賀爪、
亀井、
高力などの面々」
「やや、では
呂宋兵衛が
人穴城をでたのではなかったか。してして
軍兵のかずは?」
「富士川もよりには、
和田、
樋之上の七、八百
騎、
大島峠にも三、四百余の
旗指物、そのほか、
津々美、
白糸、
門野のあたりにある兵をあわせておよそ三千あまり」
「その軍兵は、こなたへ向かって、すすんでくるか?」
「いえいえ、
満を
持してうごかぬようす、敵の気ごみはすさまじゅう見うけられます」
咲耶子の報告がおわると、
物見の松のしたでは、
伊那丸と
軍師を中心にして、悲壮な軍議がひらかれた。まえには、人穴城の強敵あり、うしろには
徳川家の大軍あり、
雨ヶ
岳は、いまやまったく
孤立無援の死地におちた。
おそらくは、
主従の軍議もこれが最後のものであろう。軍議というも、守るも死、攻むるも死、ただ、その死に方の
評定である。
時は、たそがれ
刻か、あるいは、
宵か夜中か明け方か、いずれにせよ、闇でも花とちる
身にはかわりがない。
こい!
徳川勢――。
伊那丸方の
面々は、馬には
飼糧、身には腹巻をひきしめて、
雨ヶ
岳の陣々に鳴りをしずめた。
そのころ、
人穴城の
望楼のうえにも、三つの人影があらわれた。大将
呂宋兵衛に、
軍師丹羽昌仙、もうひとりは客分の
可児才蔵。三人は、いつまでも暮れゆく陣地をながめわたして、なにやら密議に余念がない。心なしか、こよいはことに
砦のうえに、いちまつの殺気がみち満ちていた。
富士はくれゆく、
裾野はくれる。
きょうで四日目の
陽は、まさに沈もうとしているのに
小太郎山へむかって、
駿馬項羽をとばせた
木隠龍太郎はそも、どこになにしているのだろう。
かれは、よもや
雨ヶ
岳にのこした伊那丸の身や、同志の人々を忘れはてるようなものではけっしてあるまい。いや、断じてないはずの人間だ。それだのに、晩秋の
靄ひくくとぶ鳥はみえても、駿馬項羽にまたがったかれのすがたが、いつまでも見えてこないのはどうしたわけだ?
人無村で、とんだ
命びろいをしたッきり、
白旗の
森のおくへもぐりこんでしまった
竹童も、ほんとに、
頭脳がいいならば、いまこそどこかで、
「きょうだぞ、きょうだぞ、さアきょうだぞ」
と
叫んでいなければならないはず。
お
師匠さまの
果心居士から、こんどこそ、やりそこなったら大へんだという
秘命を、とっくのまえからさずけられている
竹童が、その、一生いちどの大使命をやる日はまさにきょうのはずだ。
ところが、きのうあたりから、あの
蛾次郎が、
団子や
焼餅などをたずさえて、チョクチョク白旗の森にすがたを見せ、竹童のごきげんとりをやりだしたのも
奇妙である。
雨のような
落葉が、よこざまに、ばらばらと
降る。
くろい葉、きいろい葉、まっかな葉、入りまじってさんらんと果てしなくとぶ。
さしもひろい
湖の水も、ながい道も、このあたりは見るかぎり
落葉の色にかくされて、足のふみ場もわからないほどである。
と――どこかで、
「ぐう、ぐう、ぐう……」
不敵ないびきの声がする。
つかれた旅人でも寝ているのであろう、
白旗の
宮の、
蜘蛛の
巣だらけな
狐格子のなかから、そのいびきはもれているのだ。
旅人なら、
夕陽の光がまだ、
雲間にあるいまのうちに早くどこか、
人里までたどり
着いておしまいなさい――と願わずにいられない。
この地方は、冬にならぬころから、口のひっ
裂けた、れいの
狼というのが、よく出現して、たびの人を、
骨だけにしてしまう。
するとあんのじょう、森のかげから、ガサガサという異様な音がちかづいてきた。みると、それは
幸いにして狼ではなかったが、
針金頭巾や
小具足で、
甲虫みたいに身をかためたふたりの兵。手には
短槍を引っさげている。
服装の
目印、どうやら
徳川家の
斥候らしいが、きょう、
天子ヶ
岳に着陣したばかりなのに、はやくもこのへんまで斥候の手がまわってきたとはさすが、海道一の
三河勢、ぬけ目のないすばやさである。
斥候の甲虫は、一歩一歩、あたりに気をくばって、
落葉をふむ足音もしのびやかにきたが、
「しッ……」
と、さきのひとりが、白旗の宮のそばで、うしろの者へ手あいずする。
「なんだ……」
おなじく、ひくい声でききかえした。
「あやしい声がする」
「えッ」
「しずかに」
ぴたりと、ふたりは
槍とともに落葉のなかへ身をふせてしまった。そして、ややしばらく、耳と目を
研ぎすましていたが、それっきり、いまのいびきも聞えなくなったので、
甲虫はふたたび身をおこして、いずこともなく立ちさった。
あとは、またものさびしい
落葉の
舞い。
暮れんとして暮れなやむ晩秋の
哀寂。
ぎい……とふいに、
白旗の
宮の
狐格子がなかからあいた。そして、むっくり姿をあらわしたのは、なんのこと、
鞍馬山の
竹童であった。
「あぶない、あぶない。もうこんなほうまで、徳川家の
陣笠がうろついてきたぞ。ところで、おいらは、いよいよ、今夜お
師匠さまのおいいつけをやるのだが、それにしては、もうそろそろどこかで、
鬨の
声があがってきそうなもの……どれ、ひとつ
高見から陣のようすをながめてやろうか」
ひらりと、宮の
縁から飛びおりるがはやいか、
湖畔にそびえている
樅の
大樹へ、するするすると、りすの木のぼり、これは、竹童ならではできない
芸当。
数丈うえのてっぺんに、
烏のようにとまった竹童、したり顔して、あたりの
形勢をとくと見とどけてのち、ふたたび
降りてくると、こんどは、
白旗の
宮の拝殿にかくしておいた一たばの
松明をかつぎだしてきた。
この松明こそは、竹童が苦心さんたんして、
蛾次郎から手にいれたものである。かれは、この松明、二十本をなんに使うつもりか、腰に皮の
火打石袋をぶらさげ、いっさんに、白旗の森のおくへ走りこんでいった。
そこは
密林のおくであったが、
地盤の岩石が
露出しているため、一町四
方ほど
樹木がなく、平地は
硯のような黒石、
裂け目くぼみは、いくすじにもわかれた、水が
潺湲としてながれていた。
ギャアギャアギャア
――ふしぎな怪物の
啼き
声がする。そして、すさまじい
羽ばたきがそこで聞えた。見ると、ひとつの
岩頭に
金瞳黒毛の
大鷲が、
威風あたりをはらい、八方を
睥睨してとまっている。
いうまでもない、クロである。
むろん、足はなにかで岩の
根っこへしばりつけてあるらしかった。
「やい、もひとつ
啼け、もひとつ啼いてみろ」
七尺ばかりはなれて、
鷲とあいむきに、腰かけていた者はれいの蛾次郎、竹の先ッぽに、
兎の肉をつき
刺して、しきりにクロを
馴らそうとしていた。
「おい、
蛾次公、なにをしてるんだい」
「え」
ふいに肩をたたかれて、蛾次郎がひょいと、うしろを見ると、
竹童が、
松明を
薪のようにしょって立っている。
「なにもしてやしないさ、
餌をやっているんだ」
「よけいなことをしてくれなくってもいい、さっきも、おいらが
鹿の
股を二つやったんだから」
「ああ、竹童さんにも、おれが
土産を持ってきたぜ、きょうは
焼栗だ、ふたりで仲よく食べようじゃないか」
「いやにこのごろは、おいらにおべっかを使うな、そんなにおせじをつかってきたって、もう、そうはちょいちょい
鷲に乗せてやるわけにはゆかないぜ」
「そんなことをいわないで、おれを
弟子にしてくれよ、な、たのまあ、そのかわりに、おまえのためなら、おれはどんなことだって、いやといわないからよ」
「きっとか」
「きっとだ!」
「じゃ。さっそく一つ用をたのもうかな」
「たのんでくれよ、さ、なんだい」
「大役だぜ」
「いいとも」
「他人の用ばかりしていると、おまえの主人の鼻かけ
卜斎に、
叱られやしないか」
「大じょうぶだってことさ、おらあもうあすこの
家をとびだして、いまでは
徳川家の……」
と、いいかけて、さすがの
低能児も、気がついたらしく、口をにごらしながら、
「いまじゃ、天下の
浪人もおんなじ
体なんだ」
「ふうむ……じゃね、これからおいらのために、ちょっとそこまで
斥候にいってくれないか」
「
斥候に?」
蛾次郎ぎょっと、目を白くした。
竹童は、ことさらに、なんでもないような顔をして、
「このあいだから、
雨ヶ
岳に陣取っている、
武田伊那丸さまの軍勢が、
人穴城へむかってうごきだしたら、すぐここまで知らしてくれりゃいいのだ」
「そしたら、いったい、どうする気なんだい?」
「どうもしないさ、この
鷲にのって、大空から
戦見物にでかけるのさ」
「おもしろいなあ、おれもいっしょに乗せてくれるか」
「やるとも」
「よしきた、いってくら!」
よく人のだしにつかわれる生まれつきだ。年下の者のおちょうしにのって、もう、一もくさんにかけていく。
そのあとで
竹童は、
鷲の足をといてやった。クロは自由の
身になっても、竹童のそばを離れることなく、流れる水をすっていると、かれはまた
火打石を取りだして、そこらの
枯葉に火をうつし、煙の立ちのぼる夕空をあおぎながら、
「おそいなあ。あのぐずの
斥候を待っているより、またじぶんでそこいらの木へ登ってみようかしら」
と、ひとりつぶやいたとこである。
すると、いつの
間にか、かれの身辺をねらって、じりじりとはいよってきたふたりの
武士――それはまえの
甲虫だ、いきなり飛びついて、
「こらッ、あやしい
小僧!」
「うごくなッ」
とばかり、竹童の両腕とってねじふせた。竹童はまったくの不意打ち、なにを叫ぶ
間もなく、
跳ねかえそうとしたが、はやくも、甲虫の短刀が、ギラリと
目先へきて、
「うごくと
命がないぞ、しずかにせい、しずかにせい」
「な、な、なにをするんだい!」
「なにもくそもあるものか、きさまこそ、
餓鬼のぶんざいで、この
松明をなんにつかう気だ、
文句はあとで聞いてやるから、とにかく
天子ヶ
岳のふもとまでこい」
「や、ではきさまたちは
徳川方の
斥候だな」
「おお、
亀井武蔵守の手の者だ」
「ちぇッ、そう聞きゃおいらにも覚悟がある」
「
生意気なッ」
たちまち、
大人ふたりと、竹童との、
乱闘がはじまった。
こいつ、
体はちいさいが、一すじなわではいかないぞ――とみた
甲虫は、やにわに
短槍をおっ取って、
閃々と突いて突いて、突きまくってくる。
あわや、竹童あやうし――と見えたせつなである。にわかに、大地をめくり返すような一陣の
突風! と同時に、パッと
翼をひろげた
金瞳の
黒鷲は、ひとりを
片つばさではねとばし、あなよというまに、あとのひとりの肩先へとび乗って、銀の
爪をいかり立ッて、かれの顔を、ばりッとかいて
宙天へつるしあげた。
「わッ!」
と、大地へおちてきたのを見れば、目も鼻も口もわからない。
満顔ただからくれないの一コの
首。
さても
伊那丸は、
小袖のうえに、
黒皮の
胴丸具足をつけ、そまつな
籠手脛当、黒の
陣笠をまぶかにかぶって、いま、馬上しずかに、
雨ヶ
岳をくだってくる。
世にめぐまれたときの
君なれば、
鍬がたの
兜に、
八幡座の星をかざし、
緋おどしの
鎧、
黄金の太刀はなやかにかざるお
身であるものを……と、つきしたがう、
民部をはじめ、
忍剣も
小文治も
蔦之助も、また
咲耶子も、ともに、馬をすすめながら、思わず、ほろりと
小袖をぬらす。
兵は、わずかに七十人。
みな、生きてかえる
戦とは思わないので、張りつめた
面色である。決死のひとみ、ものいわぬ口を、かたくむすんで、
粛々、
歩をそろえた。
まもなく、
梵天台の
平へくる。
夜の
帳はふかくおりて
徳川方の陣地はすでに見えなくなったが、すぐ前面の
人穴城には、
魔獣の目のような、
狭間の
灯が、チラチラ見わたされた。その時、やおら、
俎岩の上につっ立った
軍師民部は、人穴城をゆびさして、
「こよいの敵は
呂宋兵衛、うしろに、
徳川勢があるとてひるむな――」
高らかに、全軍の気をひきしめて、さてまた、
「味方は
小勢なれども、正義の戦い。
弓矢八幡のご加勢があるぞ。われと思わんものは、
人穴城の一番乗りをせよや」
同時に、きッと、
馬首を陣頭にたてた伊那丸は、かれのことばをすぐうけついで、
「やよ、
面々、戦いの勝ちは
電光石火じゃ、いまこそ、この
武田伊那丸に、そちたちの
命をくれよ」
凛々たる
勇姿、あたりをはらった。さしも、
烏合の
野武士たちも、このけなげさに、一
滴の
涙を、
具足にぬらさぬものはない。
「おう、この
君のためならば、
命をすててもおしくはない」
と、
骨鳴り、肉おどらせて、勇気は、日ごろに十倍する。
たちまち、進軍の
合図。
さッと、
民部の手から二
行にきれた
采配の鳴りとともに、陣は五段にわかれ、
雁行の形となって、
闇の
裾野から、
人穴城のまんまえへ、わき目もふらず攻めかけた。
「わーッ。わーッ……」
にわかにあがる
鬨の
声。
「かかれかかれ、
命をすてい」
いまぞ花の散りどころと、伊那丸は、あぶみを踏んばり、
鞍つぼをたたいて叫びながら、じぶんも、まっさきに陣刀をぬいて、城門まぢかく、
奔馬を飛ばしてゆく。
と見て、
帷幕の
旗本は、
「それ、
若君に一番乗りをとられるな」
「おん大将に死におくれたと聞えては、弓矢の
恥辱、天下の笑われもの」
「死ねやいまこそ、死ねやわが友」
「おお、死のうぞ
方々」
たがいに、いただく死の
冠。
えいや、えいや、かけつづく
面々には、
忍剣、
民部、
蔦之助、そして、女ながらも、
咲耶子までが、
筋金入りの
鉢巻に、
鎖襦袢を
肌にきて、手ごろの
薙刀をこわきにかいこみ、父、
根来小角のあだを、
一太刀なりと
恨もうものと、
猛者のあいだに入りまじっていく姿は、勇ましくもあり、また、涙ぐましい。
ただ、こよいのいくさに、一点のうらみは、ここに、かんじんかなめな、
木隠龍太郎のすがたを見ないことである。
上は大将
伊那丸から、
下は
雑兵にいたるまで、死の冠をいただいてのこの戦いに、大事なかれのいあわせないのは、かえすがえすも
遺憾である。ああ龍太郎、かれはついに、伊那丸の
前途に見きりをつけ、
主をすて、友をすて去ったであろうか。――とすれば、龍太郎もまた、
武士の
風上におけない人物といわねばならぬ。
「いよいよ攻めてまいりましたぞ」
「なに、大したことはない。主従
合しても、せいぜい八十人か九十人の
小勢です」
「小勢ながら、
正陣の法をとって、大手へかかってきたようすは、いよいよ決死の意気、うっかりすると、手を焼きますぞ」
「おう、そういえば、天をつくような
鬨の
声」
「
伊那丸は、たしかに、
命をすてて、かかってきた……」
まっ暗な、空の上での話し声だ。
そこは、
人穴城の
望楼であった。つくねんと、高きところの
闇に立っているのは、
呂宋兵衛と
可児才蔵である。
呂宋兵衛は、いましがた、
軍師昌仙と
物頭の
轟又八が、すべての手くばりをしたようすなので、ゆうゆう、安心しきっているていだった。
が、可児才蔵はかんがえた。
「待てよ、こいつは見くびったものじゃない……」と。
そして
日没から、伊那丸の陣地を見わたしていると、
小勢ながら、守ること林のごとく、攻むること
疾風のようだ。
かれは、心のうちで、ひそかに
舌をまいた。
「いま、天下の者は
豊臣、
徳川、
北条、
柴田のともがらあるを知って、
武田菱の
旗じるしを、とうの昔にわすれているが――いやじぶんもそうだったが――こいつは大きな
見当ちがい、あの
麒麟児が、一
朝の風雲に乗じて、つばさを得ようものなら、それこそ
信玄の
再来だろう。天下はどうなるかわからない、
下手をすると、主人の
秀吉公のご未来に、おそろしいつまずきを、きたそうものでもない――これは、ぐずぐずしている場合ではない。すこしもはやく
安土城へ帰って、この
由を復命するのがじぶんの役目、もとより秀吉公は、
呂宋兵衛には、あまり重きをおいていられないのだ、そうだ、その勝敗を見とどけたら、すぐにも安土へ立ちかえろう」
臍をきめたが、色にはかくして、大手の
形勢を
観望している。
そこには、たちまち
矢叫び、
吶喊の
声、
大木大石を投げおとす音などが、ものすさまじく
震撼しだした。
濛――と、
煙硝くさい
弾けむりが、
釣瓶うちにはなす鉄砲の音ごとに、
櫓の上までまきあがってくる。
おりから、
望楼の上へ、かけあがってきたのは、
轟又八であった。
黒皮胴の
具足に
大太刀を横たえ、いかにも、ものものしいいでたちだ。
「お
頭領に申しあげます」
「どうした、戦いのもようは?」
「城兵は、一の
門二の門とも、かたく守って、破れる気づかいはありませぬ。だがかれもまた、伊那丸をせんとうに、一歩もひかず、
小幡民部のかけ引き
自在に、勝負ははてしないところです。これは、
丹羽昌仙のれいの
蓑虫根性から起ること、なにとぞ、とくにお頭領よりこの又八に、城外へ打ってでることを、お
許し願わしゅうぞんじます」
「む、では
汝は城門をおっ
開いて、いっきに、
寄手を
蹴ちらそうというのか」
「たかのしれた小人数、かならずこの又八が、一ぴきのこらずひっからげて、
呂宋兵衛さまのおんまえにならべてごらんにいれます」
「
昌仙の手がたい一点ばかりも悪くないが、なるほど、それでは
果しがあるまい。ゆるす、又八、打ってでろ」
「はッ、ごめん」
と
会釈をして、バラバラと
望楼をかけおりていった。
可児才蔵はそれを見て、
「ああ、いけない」とひそかに思う。
軍師の
威命おこなわれず、命令が二
途からでて、たがいに
功をいそぐこと、兵法の
大禁物である。
大手へかけもどった又八は、すぐ、城兵のなかでも
一粒よりの
猛者、
久能見の
藤次、
岩田郷祐範、
浪切右源太、
鬼面突骨斎、
荒木田五兵衛、そのほか
穴山の
残党、
足助主水正、
佐分利五郎次などを
先手とし、四、五百人を勢ぞろいしておしだした。
軍師の昌仙がそれを見て、おどろき、
怒るもかまわず、
呂宋兵衛のことばをかさに、
「それッ」
と、城門を八
文字に
開いた。
「わーッ」
と、たちまち、
寄手の兵と、ま
正面にぶつかって、人間の
怒濤と怒濤があがった。たがいに、
退かず、かえさず、もみあい、おめきあっての太刀まぜである。それが、およそ
半刻あまりもつづいた。
しかし、やがて時たつほど、むらがり立って、
新手新手と入りかわる城兵におしくずされ、
伊那丸がたは、どっと二、三町ばかり
退けいろになる。
「それ、この
機をはずすな」
とみずから、八
角の鉄棒を
りゅうりゅうと持って、まッ先に立った又八、
「追いつぶせ、追いつぶせ、どこまでも追って、伊那丸一
味をみなごろしにしてしまえ」
と、
千鳥を追いたつ
大浪のように、逃げるに乗って、とうとう、
裾野の
平までくりだした。
時分はよしと、にわかに
踏みとどまった
小幡民部。
とつぜん、
采配をちぎれるばかりにふって、
「
止まれッ!」
と、いった。
算をみだして、逃げてきた足なみは、ぴたりと
踵をかえして、
稲むらにおりた
雀のように、ばたばたと
槍もろともに
身をふせる。
「かかれッ、
轟又八をのがすな」
「おうッ」
たちまちおこる
胡蝶の陣。かけくる敵の足もとをはらって、
乱離、四
面に
薙ぎたおす。
なかにも目ざましいのは、
山県蔦之助と
巽小文治のはたらき。見るまに、
鬼面突骨斎、
浪切右源太を乱軍のなかにたおし、
縦横無尽とあばれまわった。
「さては、またぞろ
民部の
策にのせられたか」
と、又八は色をうしなって、にわかに道をひき返してくると、こはいかに、すでに逃げみちを断って、ふいに目の前にあらわれた
一手の人数。
そのなかから、ひときわ高い声があって、
「
武田伊那丸これにあり、又八に
見参!」
「めずらしや
轟、
小角の娘、
咲耶子なるぞ」
「われこそは
加賀見忍剣、いで、
素ッ
首を申しうけた」
と、耳をつんざいた。
轟又八は、思わず、ぶるぶると身の毛をよだてた。腹心の
剛力、
荒木田五兵衛は、忍剣に
跳びかかって、ただ
一討ちとなる。
手下の
野武士は、敵の三倍四倍もあるけれど、こう
浮足だってしまっては、どうするすべもなかった。かれはやけ半分の
眼をいからして、
「おう、
山寨第一の
強者、
轟又八の鉄棒をくらっておけ」
と、
忍剣の
禅杖にわたりあった。
龍うそぶき
虎哮えるありさま、ややしばらく、人まぜもせず、
石火の秘術をつくし合ったが、
隙をみて、走りよった
伊那丸が、陣刀一
閃、又八の片腕サッと斬りおとす。
「うーむ」
よろめくところを、
咲耶子の
薙刀、みごとに、足をはらって、どうと、
薙ぎたおした。
又八が討たれたと見て、もう、だれひとり踏みとどまる敵はない、道もえらばず、
闇のなかをわれがちに、
人穴城へ、逃げもどってゆく。
その時、はるか
南裾野にあたって、ぼう――ぼう――と鳴りひびいてきた
法螺の
遠音、また
陣鐘。
みわたせば、いつのまにやら、
徳川三千の
軍兵は、
裾野半円を
遠巻きにして、
焔々たる
松明をつらね、本格の陣法くずさず、一
鼓六
足、
鶴翼の
備えをじりじりと、ここにつめているようす。
また、人穴城では、いまの敗北をいかった
呂宋兵衛がこんどはみずから
望楼をくだり、さらに
精鋭の
野武士千人をすぐって
嵐のごとく
殺到した。
ひゅッ! ひゅッ!
と早くも、
闇をうなってきた
矢走りから見ても、
徳川勢の
先手、
亀井武蔵守、
内藤清成、
加賀爪甲斐守の
軍兵はほど遠からぬところまで押しよせてきたものとおもわれる、その証拠には、
伊那丸の陣した、
雨ヶ
岳のうえから
噴火山のような火の手があがった。
三河勢が火をかけたのである。
その火明かりで、
梵天台にみちている兵も見えた。まぢかの川を乗りわたしてくる軍馬も見えはじめた。
裾野は夕焼けのように赤くなった。
「若君、いよいよご
最期とおぼしめせ」
小幡民部が、天をあおいでこういった。
「覚悟はいたしておる。わしはうれしい、わしはうれしい!」
「おお、おうれしいとおっしゃいまするか」
「
野武士ずれの
呂宋兵衛をあいてに討死するより、ただ一太刀でも、
甲斐源氏の
怨敵、
徳川家の旗じるしのなかにきりいって死ぬこそ
本望、うれしゅうなくてなんとするぞ」
「けなげなご一
言、われらも、斬って斬って斬りまくろう」
と、
忍剣もいさみたったが、かえりみれば、前後に、この強敵をうけながら、伊那丸のまわりにのこった人数は、わずかに四十五、六人。
竹童にたのまれて、
人穴城附近の
斥候にでかけた
蛾次郎は、どうやら戦いがはじまりだしたようすなので、草むらをざわざわかきわけてもどってくると、とある小道で、向こうからくるひとりの男のかげを見つけた。
「ア、あいつは
雨ヶ
岳のほうからきたらしい、あいつに聞けば、
伊那丸がたの、くわしいようすがわかるだろう……」
道ばたに腰かけて、さきからくるのを待っている。
ビタ、ビタ、ビタ……足音はちかづいてきたが、星明かりぐらいでは、それが百姓だか侍だか
判じがつかないけれど、蛾次郎は、ひょいとまえへ立ちあらわれて、
「もし、ちょっと、うかがいます」
と、頭をさげた。
おおかたびっくりしたのだろう、あいてはしばらくだまって、蛾次郎のかげを見すかしている。
「もしやあなたは、雨ヶ岳のほうから、やってきたのではございませんか」
「ああ、そうだよ」
「あすこに陣どっている、
武田伊那丸の兵は、もう山を下りましたろうか、戦いは、まだおッぱじまりませんでしょうかしら」
「知らないよ。そんなことは、おまえはいったいなにものだ」
「おれかい、おれはさ、もと鼻かけ
卜斎という
鏃鍛冶のとこにいた、
人無村の
蛾次郎という者だが、どうも卜斎という
師匠が、やかまし屋で気にくわないから、そこを飛びだして、いまではあるところの
大大名のお
抱えさまだ」
「バカッ」
「ア
痛ッ。こんちくしょう、な、な、なんでおれをなぐりやがる」
「蛾次郎、いつきさまにひまをくれた」
「えーッ」
「いつ、この卜斎が、
暇をやると申したか」
「あ、いけねえ!」
蛾次郎が、くるくる
舞いをして逃げだしたのも道理、それは、
雨ヶ
岳からおりてきた
当の卜斎、すなわち
上部八風斎であった。
「
野郎!」
ばらばらッと追いかけて、蛾次郎の
襟がみをひっつかみ、足をはやめて、人無村の
細工小屋へかえってきた。
「親方、ごめんなさい、ごめんなさい」
「えい、やかましいわい」
「ア
痛え、もう、もうけっして、飛びだしません、親方ア、これから、気をつけます。か、かんにんしておくんなさい……」
わんわんと手ばなしで泣きだした。もっとも、
蛾次郎の泣き虫なること、いまにはじまったことではないから、その泣き声も、たいして改心の意味をなさない。
「バカ野郎、てめえに
叱言などをいっていられるものか。こんどだけは、かんべんしてやるから、これをしょって、早くあるけ」
と、今夜は
八風斎の鼻かけ
卜斎も、家にかえって落ちつくようすもなく、
書斎をかきまわして、だいじな書類だけを、
一包みにからげ、それを蛾次郎にしょわせて、夜逃げのように、立ちのいてしまった。
門をでると、いま泣いた
烏の
蛾次、もうけろりとして、
「親方、親方、こんな物をしょって、これからいったいどこへでかけるんですえ」
とききだした。
「
戦ばかりで、この
人無村では仕事ができないから、
越前北ノ
庄へ立ちかえるのだ」
「え、越前へ」
蛾次郎はおどろいた。
「いやだなア」
と、口にはださないが、
肚のなかでは、
渋々した。せっかく、
菊池半助が、ああやって、
徳川家で
出世の
蔓をさがしてくれたのに、越前なンて雪国へなんかいくなんて、なんとつまらないことだと、また泣きだしたくなった。
ちょうど、夜逃げのふたりが、
人無村のはずれまできた時、――
八風斎がふいにピタリと足をとめて、
「はてな? ……」
と、耳をそばだてた。
「な、なんです親方」
「だまっていろ……」
しばらく立ちすくんでいると、たちまち、ゆくての闇のなかから、とう、とう、とう――と地をひびかせてくる軍馬の
蹄、おびただしい人の足音、
行軍の貝の音、あッと思うまに、三、四百人の
蛇形陣が、
嵐のごとくまっしぐらに、こなたへさしてくるのが見えだした。
八風斎は、ぎょっとして、さけんだ。
「
蛾次郎、蛾次郎、すがたをかくせ、早くかくれろ」
「え、え、え、なんです。親方親方」
「バカ! ぐず――見つかっては一大事だ、はやくそこらへ姿をけせ」
「ど、どこへ消えるんで? ……」
と、不意のできごとに、
蛾次郎は、
度をうしない、まだうろうろしているので、
八風斎は、「えいめんどう」とばかり、かれをものかげに突きとばし、じぶんはすばやく、かたわらの松の木へ、するするとよじ登ってしまった。
ふたりが、からくも、すがたを隠したかかくさないうちである、八風斎の目のしたへ、
潮の流れるごとき勢いで、さしかかってきた
蛇形の
行軍、その人数はまさに四百余人。みな、一ようの
陣笠小具足、
手槍抜刀をひっさげて、すでに
戦塵を
浴びてるようなものものしさ。
なかに、目立つはひとりの将、
漆黒の馬にまたがって身には
鎧をまとわず、頭に
兜をかぶらず、白の
小袖に、
白鞘の一刀を
帯びたまま、
鞭を
裾野にさして、いそぎにいそぐ。
「あ、あの人は見たことがあるぜ」
ものかげにいた蛾次郎は、目をみはって、その馬上を見おくったが、ふと気がついて、
「そうだ、そうだ」とばかり、あとからつづく人数のなかにまぎれこみ、まんまと、八風斎の目をくらまして
越前落ちのとちゅうから、もとの
裾野へ逃げてもどってしまった。
「おお、あの矢さけび、火の手もみえる、流れ矢もとんでくるわ、この
一時こそ一
期の大事、息もつかずに、いそげいそげ!」
人無村をかけぬけて、
渺漠たる
裾野の原にはいると、
黒馬の
将は、
鞍のうえから声をからして、はげました。
雨ヶ
岳の火はまだ赤々ともえている。
「敵!」
「敵だッ!」
「
討て!」
と、
俄然、前方の者から声があがった。四、五
間ばかりの
小石河原、そこではしなくも、
徳川家の
先鋒、
内藤清成の別隊、四、五十人と
衝突したのである。
暗憺たる闇いくさ、ただものすごい太刀音と、
槍の折れる音や人のうめきがあったのみで、敵味方の
見定めもつかなかったが、勝負は瞬間に決したと見えて、前の
蛇形陣は、ふたたび一
糸みだれず、しかも足なみいよいよはやく、
人穴城の
山下へむかった。
「おうーい、おうーい」
かけつつ馬上の将は何者をか呼びもとめた。それにつづいて、
陣笠の兵たちも、かわるがわる、声をからして、おーい、おーいとつなみのように
鬨の声を張りあげた。
地から
湧いたように、
忽然と、人無村をつきぬけて、ここへかけつけてきた軍勢は、そもいずれの国、いずれの
大名に
属すものか、あきらかな
旗指物はないし、それと知らるる
騎馬大将もなかには見えない。ふしぎといえばふしぎな軍勢。
海に
船幽霊のあるように、
広野の古戦場にも、また時として、
武者幽霊のまぼろしが、
野末を夜もすがらかけめぐって、草木も
霊あるもののごとく、
鬼哭啾々のそよぎをなし、陣馬の音をよみがえらせて、
里人の夢をおどろかすことが、ままあるという古記も見える。
それではないか?
この軍勢も、その武者幽霊の影ではないか、いかにも、まぼろしの
魔軍のごとく、
天
のごとく、
迅速な足なみだ。
「おうーい、おうーい」
魔軍はまた、
潮のように呼んでいる。
時しもあれ――
ほど遠からぬところにあって、
亀井武蔵守の、
精悍なる
三河武士二、三百人に取りまかれていた
武田伊那丸の矢さけびを聞くや、魔軍は
忽然と、三段に
備えをわかって、わッとばかり斬りこんだ。
ときに、
矢来の声があって、伊那丸をはじめ苦境の味方を、夢かとばかり思わせた。
「やあ、やあ、若君はご無事でおわすか、その余のかたがたも聞かれよ、すぐる日、
小太郎山へむかった
木隠龍太郎、ただいまこれへ立ち帰ったり! 龍太郎これへ立ちかえったり!」
「わーッ」
と、
地軸をゆるがす
歓喜の声。
「わーッ」
と、ふたたびあがる乱軍のなかの熱狂。しばしは、鳴りもやまず、
三河勢はその勢いと、
新手の
精鋭のために、さんざんになって敗走した。
木隠龍太郎は、やはり愛すべき武士であった。かれはついに、主君の
危急に間にあった。
それにしても、かれはどうして、小太郎山から、四百の兵を
拉してきたのであろう。それは、かれについてきた兵士たちのいでたちを見ればわかる。
陣笠も
具足も、昼のあかりで見れば、それは一
夜づくりの紙ごしらえであろう、兵はみな、小太郎山の、とりでの工事にはたらいていた石切りや、
鍛冶や、
大工や、山
崩しの
土工なのである。武器だけは、
砦をつくるまえに、ひそかに、
蓄えてあったので不足がなかった。
この
成算があったので、龍太郎は四日のあいだに、四百の兵を引きうけた。そして、その
機智が、意外に大きな
功をそうした。
しかし、一同は、ほッとする
間もなかった。ひとたび、兵をひいた
亀井武蔵守は、ふたたび、
内藤清成の兵と
合して、堂々と、再戦をいどんできた。
のみならず、
人穴城を発した
呂宋兵衛も、すぐ六、七町さきまで
野武士勢をくりだして、四、五百
挺の鉄砲組をならべ、いざといえば、
千鳥落としにぶっぱなすぞとかまえている。
鼻かけ
卜斎の
越前落ちに、とちゅうまでひっぱられていった
蛾次郎が、
木隠龍太郎の
行軍のなかにまぎれこんで、うまうま逃げてしまったのは、けだし、蛾次郎近来の
大出来だった。
かれはまた、その列のなかから、いいかげんなところで、ぬけだして、すたこらと、
白旗の
森のおくへかけつけてきた。
見ると、そこに
焚火がしてあり、
鷲もはなたれているが、
竹童のすがたは見えない。
蛾次郎は、しめた! と思った。今だ今だ、
菊池半助にたのまれているこの鷲をぬすんで、
徳川家の陣中へ、にげだすのは今だ、と手をたたいた。
「これが天の与えというもんだ、あんなに
資本をつかって、おまけに、竹童みたいなチビ助に、おべっかをしたり、使いをしたりしてやったんだもの、これくらいなことがなくっちゃ、
埋まらないや、さ、クロ、おまえはきょうからおれのものだぞ」
ひとりで
有頂天になって、するりと、やわらかい鷲の背なかへまたがった。
蛾次郎は、このあいだ、竹童とともにこれへ乗って、空へまいあがった経験もあるし、また、この数日、腹にいちもつがあるので、せいぜい
兎の肉や小鳥をあたえているので、かなり鷲にも
馴れている。
竹童のする通り、かるく
翼をたたいて、あわや、乗りにげしようとしたとたん、頭の上から、
「やいッ」
するすると木から下りてきた竹童、
「なにをするんだッ」
いきなり
鷲の上の
蛾次郎を、二、三
間さきへ突きとばした。不意をくって、
尻もちついた蛾次郎は、いたい顔をまがわるそうにしかめて、
「なにを
怒ったのさ、ちょっとくらい、おれにだってかしてくれてもいいだろう。
命がけで、いくさのもようをさぐってきてやったんだぜ、そんな
根性の悪いことをするなら、おれだって、なんにも話してやらねえよ」
「いいとも、もうおまえになんか教えてもらうことはない。おいらが木の上から、およそ
見当をつけてしまった」
「かってにしやがれ、
戦なんか、あるもんかい」
「ああ、蛾次公なんかに、かまっちゃいられない、こっちは、今夜が一生一度の大事なときだ」
竹童は、二十本の
松明を、
藤づるでせなかへかけ、一本の松明には
焚火の
焔をうつして、ヒラリと
鷲のせへ乗った。
「やい、おれも一しょにのせてくれ、乗せなきゃ、松明をかえせ、おれのやった松明をかえしてくれえ」
「ええ、うるさいよ!」
「なんだと、こんちくしょう」
と、胸をつつかれた
蛾次郎は、おのれを知らぬ、
ぼろ鞘の刀をぬいて、いきなり竹童に斬りつけてきた。
「なにをッ」
竹童は、
焔のついた
松明で、蛾次郎の
鈍刀をたたきはらい、とっさに、
鷲をばたばたと舞いあげた。蛾次郎はそのするどい
翼にはたかれて、
「あッ」
と、四、五
間さきの流れへはねとばされたが、むちゅうになって、飛びあがり、およびもない両手をふって、
「やーい、竹童、竹童」
と、泣き声まじりに呼びかけた。
けれど、それに見向きもしない
大鷲は、しずかに、
宙へ
舞いあがって、しばらく
旋回していたが、やがて、ただ見る、一
条の流星か、
焔をくわえた
火食鳥のごとく、
松明の光をのせて、
暗夜の空を一
文字にかけり、いまや三
角戦の
まっ最中である
人穴城の真上まで飛んできた。
軍令をやぶって
抜けがけした
轟又八が、
伊那丸がたのはかりごとにおちて、ついに首をあげられてしまったと聞き、
人穴城のものは、すッかり意気を
沮喪させて、また城門を
固めなおした。
敗走の手下から、その注進をうけた
丹羽昌仙は、
「ええいわぬことではないのに……」と
苦りきりながら、
望楼の段を
踏みのぼっていった。
そこには、
宵のうちから、
呂宋兵衛と、
可児才蔵が
床几をならべて、
始終のようすを
俯瞰している。
「呂宋兵衛さま」
「おお、
軍師」
「又八は城外へでて
討死いたしました」
「ウム……」
と、呂宋兵衛は、じぶんにも
非があるので、
決まりわるげに沈んでいたが、
「おお、それはともかく――」
と、話をそらして、
「
伊那丸と
徳川勢との
勝敗はどうなったな。かすかに、矢さけびは聞えてくるが、この
闇夜ゆえさらにいくさのもようが知れぬ」
「いまはちょうど、
双方必死の
最中かと心得ます」
「そうか、いくら伊那丸でも、三千からの
三河武士にとりかこまれては、一たまりもあるまい」
「ところが、
斥候の者のしらせによると、にわかに四、五百のかくし部隊があらわれて、
亀井武蔵守をはじめ、徳川勢をさんざんに
悩めているとのことでござる」
「ふむ……とすると、勝ち目はどっちに多いであろうか」
「むろん、さいごは、徳川勢が
凱歌をあげるでござりましょうが」
「さすれば、こっちは
高見の見物、伊那丸の首は、
三河勢が
槍玉にあげてくれるわけだな」
「が、ゆだんはなりませぬ。なるほど、伊那丸がたは、徳川の手でほろぼされましょうが、次には、勝ちにのった三河の
精鋭どもが、この
人穴城を乗っとりに、押しよせるは
必定です」
「一
難さってまた一難か。こりゃ
昌仙、こんどこそは、かならずそちの
采配にまかす。なんとか、
妙策をあんじてくれ」
と、とうとう
兜をぬいでしまった。
「
仰せまでもなく、
機に応じ、変にのぞんで、
昌仙が
軍配の
妙をごらんにいれますゆえ、かならずごしんぱいにはおよびませぬ」
「それを聞いて
安堵いたした。オオ、また
裾野にあたって
武者声が
湧きあがった。しかしとうぶん、
人穴城は
日和見でいるがいい、
幸いに、
可児才蔵どのも、これにあることだから、伊那丸がたがみじんになるまで、一
献酌むといたそう」
手下にいいつけて、
望楼の上へ酒をとりよせた
呂宋兵衛は、
昌仙と
才蔵をあいてに、ゆうゆうと
酒宴をしながら、ここしばらく、
裾野の
戦を、むこう
河岸の火事とみて、
夜をふかしていた。
するとにわかに、星なき暗天にあたって、ヒューッという怪音がはしった。その音は遠く近く、人穴城の真上をめぐって鳴りだした。
「風であろう、すこし空が荒れてきたようだ」
杯を持ちながら、三人がひとしく空をふりあおぐと、こはなに?
狐火のような一
朶の
怪焔が、ボーッとうなりを立てつつ、頭の上へ落ちてくるではないか。
可児才蔵も呂宋兵衛も、また、丹羽昌仙も、おもわず
床几を立って、
「あッ」
と、
櫓の三方へ身をさけた。
とたんに、空から
降ってきた怪火のかたまりが、音をたててそこにくだけたのである。
たおれた
壺の酒が、
望楼の上からザッとこぼれ、花火のような火の
粉がまい散った。
「ふしぎ――どこから落ちてきたのであろう」
「
昌仙昌仙、早くふみ消さぬと
望楼へ燃えうつる」
「お、こりゃ
松明じゃ」
「え、松明?」
三人は
唖然とした。
いくら
天変地異でも、空から火のついた松明が降ってくるはずはない、あろう道理はないのである。もし、あるとすれば世のなかにこれほどぶっそうな話はない。
しかし、事実はどこまでも事実で、
瞬間ののち、またもや同じような
怪焔が、こんどは
籾蔵へおち、つづいて
外廓、
獣油小屋など、よりによって危険なところへばかり落ちてくる。
「火が降る、火が降る」
「それ、あすこへついた」
「そこのをふみ消せ、ふしぎだ、ふしぎだ」
城中のさわぎは
鼎のわくようである。ある者は屋根にのぼり、ある者は水をはこんでいる。
なかでも、
気転のきいたものがあって、
闇使いの
龕燈をあつめ、十四、五人が一ところによって、明かりを空へむけてみた結果、はじめて、そこに、おどろくべき敵のあることを知った。
かれらの目には、なんというはんだんもつかなかったが、地上から明かりをむけたせつな、かつて、話にきいたこともない
怪鳥が、
虚空に風をよんで
舞ったのが、チラと見えた。
それは
鷲の背をかりて、
白旗の
森をとびだした
竹童なることは、いうまでもない。
鞍馬そだちの竹童も、こよいは一
世一
代のはなれわざだ。
果心居士うつしの
浮体の法で、ピタリと、クロの
翼の根へへばりつき、
両端へ火をつけた
松明をバラバラおとす。火先はさんらんと
縞目の
筋をえがいて、
人穴城へそそぎ、三千の
野武士の巣を、たちまち大こんらんにおとし入れてしまった。
「ああ、いけねえ」
と、その時、ふと、つぶやいた竹童。
空はくらいが、地上は明るい。人穴城のなかで、
右往左往している
態を見おろしながら、
「こっちで投げる松明を、そうがかりで、消されてしまっちゃ、なんにもならない。オヤ、もうあと四、五本しかないぞ」
なに思ったか、クロの
襟頸をかるくたたいて、スーと下へ舞いおりてきた。いくら
大胆な
竹童でも、まさか
人穴城のなかへはいるまいと思っていると、あんのじょう、れいの
望楼の
張出し――さっき
呂宋兵衛たちのいたところから、また一段たかい
太鼓櫓の屋根へかるくとまった。
クロをそこへ
止らせておいて、竹童は、残りの
松明を
背負って、スルスルと望楼台へ下りてきた。もうそこにはだれもいない、呂宋兵衛も
昌仙も
才蔵も、下のさわぎにおどろいて
降りていったものと見える。
「しめた」
竹童は、五つ六つある階段を、むちゅうでかけおりた。
そこは、七門の
扉にかためられている
人穴城のなかだ。あっちこっちの
小火をけすそうどうにまぎれて、さしもきびしい城内ではあるが、ここに、天からふったひとりの
怪童ありとは、夢にも気のつく者はなかった。
果心居士の
命をおびて、いつかここに使いしたことのある竹童は、そのとき、だいぶ、ようすをさぐっておいたので、城内のかっても、心得ぬいている。
おそろしい、はしッこさで、かれがねらってきたのは
鉄砲火薬をつめこんである
一棟だった。見ると、戦時なので、
煙硝箱も、つみだしてあるし、
庫の戸も、
観音びらきに
開いている。しかも願ったりかなったり、いまのさわぎで、武器番の手下も、あたりにいなかった。
ちょこちょこと、
庫のなかへはいった竹童は、れいの
松明に、火をつけて、まン中におき、
藁縄の
綱火が火をさそうとともに、このなかの
煙硝箱が、いちじに爆発するようにしかけた。そして、ポンと、そとの
扉を
閉めるがはやいか、もときた
望楼へ、息もつかずにかけあがってくる。
「ありがたい、ありがたい。これで
人穴城の
蛆虫どもは、
間もなくいっぺんに
寂滅だ。
伊那丸さまも、およろこびなら、お
師匠さまからも、たくさん
褒めていただかれるだろう」
望楼に立って、手をふった竹童、待たせてあるクロが飛び去っては一大事と、大いそぎで、
欄間から
棟木へ手をかけ、棟木から屋根の上へ、よじ登ろうとすると、
「
小僧、待て!」
ふいに、下からグングンと、足をひッぱる者があった。
「あ! あぶない」
「
降りろ、
神妙におりてこないと、きさまのからだは、この望楼からころがり落ちていくぞ」
「あ、しまった」
竹童はおどろいた。
平地とちがって、からだは七階の
櫓のすてッぺんにあった。
棟木へかけている五本の指が、
命をつっているようなもの、ひとつ力まかせに下からひっぱられたひには、たまったものではない。
「
降りろともうすに、降りてこないか」
「いま降りるよ、降りるから、手をはなしてくれ、でなくッちゃ、からだが自由にならないもの」
「ばかを申せ、はなせば、上へあがるんだろう」
足をつかんでいる者はゆだんがない。
竹童は
観念してしまった。
ままよ、どうにでもなれ、お
師匠さまからいいつけられた使命は、もう十のものなら九つまでしとげたのもどうよう、
呂宋兵衛の手下につかまって、首をはねられても残りおしいことはないと思った。
「じゃ、どうしろっていうんだい」
おのずから、声もことばも、
大胆になる。
「その手をはなしてしまえ」
「手をはなせば、ここから下まで、まッさかさまだ」
「いや、おれがこう持ってやる」
下の者は背をのばして、竹童の
腰帯をグイとつかんだ。もうどうしたってのがれッこはない、竹童は、運を天にまかせて、
棟木の
角へかけていた手を、ヒョイとはなした。
「えいッ」
はッと思うと、竹童のからだは、
望楼台の上へ
鞠のように投げつけられていた。覚悟はしていても、こうなると最後までにげたいのが人情、かれは、むちゅうになってはね起きたが、すかさず、いまの男が、上からグンと乗しかかって、
「まだもがくか!」
と手足の急所をしめて、
磐石の重みをくわえた。それをだれかと見れば、さっき、
呂宋兵衛や
昌仙とともに、ここにいた
可児才蔵である。
安土から選ばれてきた可児才蔵とわかってみれば、なるほど、竹童が、つかまれた足を離せなかったのもむりではない。
「いたい、いたい。苦しい」
竹童も、呂宋兵衛の手下にしては、どうもすこし、
手強いやつに
捕まったとうめきをあげた。
「痛いのはあたりまえだ、うごけばうごくほど、急所がしまる」
「殺してくれ、もう死んでもいいんだ」
「いや、殺さない」
「首を斬れ」
「首も斬らぬ。いったいきさまは、どこの何者だ」
「聞くまでもないではないか、おいらはいつか、
果心居士さまのお使いとなって、この城へきたことのある
鞍馬山の
竹童だ。首の斬り方をしらないなら、さッさと、
呂宋兵衛の前へひいていけ」
「ウーム、鞍馬山の竹童というか」
可児才蔵も、心中
舌をまいておどろいた。
安土の城には、じぶんの主人
福島市松をはじめ、
幼名虎之助の
加藤清正、そのほか
豪勇な少年のあったことも聞いているが、まだこの竹童のごとく、
軽捷で、しかも
大胆な口をきく
小僧というものを見たことがない。
竹童はまた竹童で、才蔵に組みふせられていながら、
肚のなかで、ふとこんなことを思った。
「こいつはおもしろい、いましかけてきたあの
綱火が、
松明の火からだんだん燃えうつって、もうじきドーンとくるじぶんだ。そうすれば
煙硝庫も
人穴城の
野武士も、この
望楼もおいらもこいつも、いっぺんに
けし飛んでしまうんだ」
と、かれはいきなり下から、ぎゅッと才蔵の帯をにぎりしめた。
「あはははは、およばぬ腕だて」
と、才蔵は力をゆるめて笑いだした。
「笑っていろ、笑っていろ、そして、いまに見ているがいい、この下の
煙硝庫が
破裂して、やぐらもきさまもおいらも、一しょくたに、
木ッ
葉みじんに吹ッ飛ばされるから」
「えッ、煙硝庫が?」
「おお、あのなかへ
松明を、ほうりこんできたんだ。ああいい
気味、その火を見ながら死ぬのは
竹童の
本望だ、おいらは本望だ」
「いよいよ、よういならん
小僧だ」
さすがの
才蔵も、これにはすこしとうわくした。がいまの一
言を聞いて、
「では、もしや
汝は、
伊那丸のために働いている者ではないか」
と、問いただした。
「あたりまえさ、伊那丸さまをおいて、だれのためにこんなあぶない
真似をするものか、おいらもお
師匠さまも、みんなあのお
方を世にだしたいために働いているんだ」
「おお、さてはそうか」
と才蔵は飛びのいて、にわかに態度をあらためた。竹童は、手をひかれて起きあがったが、少しあっけにとられていた。
「そうとわかれば、汝を手いたい目にあわすのではなかった。なにをかくそう、
拙者はわけがあって、
秀吉公の
命をうけ、この
裾野のようすを
探索にきた、
可児才蔵という者だ」
「おじさん、おじさん、そんなことをいってると、ほんとうに
鉄砲薬の山が、ドカーンとくるぜ、おいらのいったのは、うそじゃないからね」
「では竹童、すこしも早く逃げるがいい」
「えッ、おいらを逃がしてくれるというの」
「おお
秀吉公は、
伊那丸どのに悪意をもたぬ。あのおん
方に、会ったらつたえてくれい、
可児才蔵と申す者が、いずれあらためて、お目にかかり申しますと」
「はい、しょうちしました」
ないとあきらめた
命を、思いがけなく拾った竹童は、さすがにうれしいとみえて、こおどりしながら、まえの
欄間へ足をかけた。
「あぶないぞ、落ちるなよ」
まえには足をひっ張った才蔵が、こんどは下から助けてくれる。竹童は
棟木の上へ飛びつきながら、
「ありがとう、ありがとう。だが、おじさん――じゃあない可児さま。あなたも早くここを
降りて、どこかへ逃げださないと、もうそろそろ
煙硝の山が
爆発しますよ」
「心得た、では竹童、いまの
言伝を忘れてくれるな」
といいすてて、可児才蔵はバラバラと
望楼をおりていったようす、いっぽうの竹童も、やっと屋根
瓦の上へはいのぼってみると、うれしや、
畜生ながら
霊鷲クロにも心あるか、巨人のように
翼をやすめてかれのもどるのを待っていた。
「さあ、もう天下はこっちのものだ」
鷲の翼にかくれた
竹童のからだは、みるまに、
望楼の屋根をはなれて、
磨墨のような暗天たかく舞いあがった。
――と思うと同時に、とつぜん、天地をひっ
裂くばかりな
轟音。
ここに、時ならぬ
噴火口ができて、富士の形が一
夜に変るのかと思われるような火の柱が、
人穴城から、
宙天をついた。
ドドドドドドウン!
二どめの
爆音とともに、ふたつに
裂けた
望楼台は、そのとき、まっ黒な
濛煙と、
阿鼻叫喚をつつんで、
大紅蓮を
噴きだした殿堂のうえへぶっ倒れた。
そして、八万八千の
魔形が、火となり煙となって、舞いおどる
焔のそこに、どんな
地獄が現じられたであろうか。
「また
富士山が、火をふきだしたのであろうか」
「おお、まだ
今朝もあんなに、
黒煙が、あがっている」
「なあに、お山はあのとおり、いつもと変ったところはない、きっと
猟師が、
野火でもだしたんだろうよ」
「いやいや、野火ばかりで、あんな音がするものか、
戦のためだ、戦があったにきまっている」
「え、戦? 戦とすればたいへんだ、このへんもぶっそうなことになるのじゃないかしら」
ここは、
裾野や
人無村からも、ずッとはなれている
甲斐国の
法師野という
山間の部落。
人穴城がやけた
轟音は、このへんまで、ひびいたとみえて、
家に落着けない
里の人があっちに
一群れ、こっちにひとかたまり、はるかにのぼる煙へ小手をかざしながら、
今朝もガヤガヤあんじあっていた。
「おい、
与五松」
そのうちのひとりがいった。
「おめえの
家で、ゆうべ宿をかした旅の客があったな。なんだかこわらしい顔をしていたが、物しりらしいところもある、一つあの客人にきいて見ようじゃないか」
「なるほど、
矢作がいいところへ気がついた、どこに
戦があるのか、あの人なら知っているかもしれねえ、はやくお
呼びもうしてこいやい」
「あ、その人は、おれがでてくるときに、先をいそぐとやらで
立ち
支度をしていたから、ことによるともうでかけてしまったかもしれねえが、おいでになったらすぐ連れてこよう」
与五松という若者は、すぐじぶんの
家へかけだしていった。ちょうど、立ちかけているところへ
間に合ったものか、しばらくすると、かれはひとりの旅人をつれて一同のほうへ取ってかえしてきた。
「あれかい、与五松の
家へとまった、お客というのは」
里の者たちは、
袖ひき合って、クスクス笑いあった。なぜかといえば、
片鼻そげている顔が、いかにも
怪異に見えたのである。
旅の男というのは、鼻かけ
卜斎の
八風斎であった。
越後路へむかっていくかれは、
蛾次郎を見うしなって、ひとりとなり、
昨夜はこの部落で、一夜をあかした。
「わざわざ恐れいりまする」
と、年かさな
矢作が、卜斎のまえへ、小腰をかがめながら、ていねいにききだした。
「あなたさまは、
裾野からおいでになった
鏃師とやらだそうでござりますが、あのとおりな
黒煙が、二日二晩もつづいて立ちのぼっているのは、いったいなんなのでござりましょう」
「あれかい」卜斎はくだらぬことに、呼びとめられたといわんばかりに、
「あれはたぶん、
人穴の
殿堂が焼けたのでしょう」
「へえ、人穴の殿堂と申しますると」
「
野武士の立てこもっていた
山城――
和田呂宋兵衛、
丹羽昌仙などというやつらが、ひさしく
巣をつくっていたところだ。それもとうとう時節がきて、あのとおり、焼きはらわれたものだろう」
「ああ野武士ですか、野武士の城なら、いい気味だ」
「お
富士さまの
罰だ」
と、
里人はにわかにほッと安心したばかりか、日ごろの
欝憤をはらしたようにどよみ立った。
するとまた二、三の者が、
「あ、だれかきた」と叫びだした。
見ると
鳥刺し姿の
可児才蔵が、
山路をこえてこの部落にはいってきたのだ。ここは街道
衝要なところなので、
甲府へいくにも
南信濃へはいるにも、どうしても、通らねばならぬ地点になっている。
「おお鳥刺しだ」
と、部落の者たちは、また才蔵を取りまいて、
裾野のようすをくどく聞きたがった。けれど才蔵は、これから
安土へ昼夜
兼行でかえろうとしている
体、裾野におけるちくいちの
仔細は、まず第一に、
秀吉へ復命すべきところなので、多くを語るはずがない。
「さあ、ふかいようすは知りませんが、なにしろ、裾野はいま、
人穴城の火が、
枯野へ燃えひろがって、いちめんの火ですよ、そのために、
徳川勢と
武田方の
合戦は、両陣ひき分けになったかと聞きましたが、人穴城から焼けだされた
野武士は、
駿河のほうへは逃げられないのでたぶん、こっちへ押しなだれてきましょう」
「えッ、野武士の焼けだされが、こっちへ逃げてきますって?」
「ほかに逃げ道もなし、
食糧のあるところもありませんから、きっとここへやってくるにそういありません。ところでみなさん、わたしがここを通ったことは、その
仲間がきても、けっしていわないでくださいまし、ではさきをいそぎますから――」
と、可児才蔵はほどよくいって、いっさんに、部落をかけだした。
そして、
甲信両国の
追分に立ったとき、右手の道を、いそいでいく男のかげがさきに見えた。
「ははあ、きゃつは、
柴田の
廻し者
上部八風斎だな、これから
北ノ
庄へかえるのだろうが、とても、
勝家の腕ではここまで手が
伸びない。やれやれごくろうさまな……」
苦笑を送ってつぶやいたが、じぶんは、それとは反対な、
信濃堺の道へむかって、足をはやめた。
法師野の部落は、それから
一刻ともたたないうちに、昼ながら、
森としてしまった。たださえ
兇暴な
野武士が焼けだされてきた日には、どんな
残虐をほしいままにするかも知れないと、家を
閉ざして村中
恐怖におののいている。
はたして、その日の午後になると、この部落へ、いような
落武者の一隊がぞろぞろとはいってきた。
各戸の防ぎを
蹴破って、
「ありったけの
食べ
物をだせ」
「女
老人は森へあつまれ、そして
飯をたくんだ」
「村から逃げだすやつは、たたッ斬るぞ」
「
家はしばらくのあいだ、われわれの陣屋とする」
好き勝手なことをいって、財宝をうばい、衣類食い物を取りあげ、部落の男どもを一人のこらずしばりあげて、その
家々へ、
飢えた
狼のごとき野武士が、わがもの顔して、なだれこんだ。
焼けだされた狼は、わずか三、四十人の
隊伍であったが、なにせよ、武器をもっている
命知らずだからたまらない。なかには、
呂宋兵衛をはじめ、
丹羽昌仙、
早足の
燕作、
吹針の
蚕婆までがまじっていた。
あの夜、殿堂へ、
煙硝爆破の
紅蓮がかぶさったときには、さすがの昌仙も、手のつけようがなく、わずかに、呂宋兵衛その他のものとともに、例の
間道から
人無村へ逃げ、からくも危急を
脱したのであるが、多くの手下は城内で焼け死んだり、のがれた者も、大半は、
徳川勢や
伊那丸の手におちて、
捕われてしまった。
城をうしない、
裾野の勢力をうしなった呂宋兵衛は、たちまち、
野盗の
本性にかえって、落ちてきながら、通りがけの部落をかたっぱしから荒らしてきた。そしてこれから、
秀吉の
居城安土へのぼって、助けを借りようという虫のよい考え。――ところが、一しょにおちてきた
可児才蔵は、こんな
狼連につきまとわれては大へんと、いちはやく、とちゅうから姿をかくし、
一足さきに
上方へ立っていったのである。
ここに、一
世一
代の
大手柄をやったのは
鞍馬の
竹童。
その得意や、思うべしである。
飛行自在のクロあるにまかせて、かれは、燃えさかる
人穴城をあとに、ひさしぶりで、京都の
鞍馬山のおくへ飛んでかえり、お
師匠さまの
果心居士にあって、得意のちくいちを物語ろうと思ったところが、
荘園の
庵は
がらん洞で、ただ壁に、一枚の
紙片が
貼ってあり、まさしく居士の筆で、いわく、
竹童よ。誇るなよ。なまけるなよ。ゆだんするなよ。お前の使命はまだ残っているはず。
ふたたび、われとあう日まで、心の紐をゆるめるなかれ。
果心居士
「おや、こんなものを書きのこして、お師匠さまはいったい、どこへ
隠れてしまったんだろう」
竹童は、がっかりしたり、
不審におもったりして、しばらく庵にぼんやりしていた。
「おまえの使命はまだ残っている――おかしいなあ、お師匠さまの計略は、いいつけられたとおり
まんまとしたのに……ああそうか、
徳川軍にかこまれた
伊那丸さまが、勝ったか負けたか、生きたか死んだか、その
先途も
見とどけないのがいけないというのかしら、そういえば、
可児才蔵という人からたのまれている
伝言もあったっけ」
と、にわかに気がついた竹童は、数日
来、
不眠不休の活動に、ともすると眠くなる目をこすりながら、ふたたび、クロに乗って富士の
裾野へ舞いもどった。
やがて、
白砂青松の東海道の空にかかったとき、竹童がふと見おろすと、たしかに
徳川勢の
亀井、
内藤、
高力なんどの武者らしい
軍兵三千あまり、
旗幟堂々、一
鼓六
足の
陣足ふんで浜松城へ
凱旋してきたようす。
「おや、あのあんばいでは、
裾野の
合戦は
伊那丸さまの
敗亡となったかしら?」
竹童、いまさら気が気でなくなったから、いやがうえにも、クロをいそがせて、裾野の空へきて見ると、
人穴から燃えひろがった
野火は、
止まるところを知らず、
方三
里にわたって、
濛々と煙をたてているので、
下界のようすはさらに見えない。
七日七夜、燃えにもえた野火の煙は、裾野一円にたちこめて、昼も
日食のように暗い。
富士の
白妙が
銀細工のものなら、とッくに見るかげもなく、くすぶッてしまったところだ。見よ、さしも
人穴の
殿堂すべて
灰燼に
帰し、まるで
鬼の
黒焼、
巌々たる岩ばかりがまっ黒にのこっている。
すると、さっきから、その
焼け
跡を見まわっていた三
騎のかげが、
廃城の門をまっしぐらに
駈けだした。そして
濛々たる野火の煙をくぐりながら、
金明泉のちかくまできたとき、さきにきた
山県蔦之助が、ふいに、ピタッと
駒をとめて、
「や? ご
両所、しばらく待ってくれ」
と、あとからきた二
騎――
巽小文治と
木隠龍太郎へ、手をふって押しとどめた。
「おお、蔦之助、
呂宋兵衛の
残党でもおったか」
「いや、よくはわからぬが、あの
泉のほとりに、なにやらあやしいやつがいる。いま、
拙者が
遠矢をかけて追いたてるから、あとは斬るとも生けどるとも、おのおの
鑑定しだいにしてくれ」
「ウム、心得た」
といったへんじよりは、龍太郎と小文治、金明泉へむかって馬を飛ばしていたほうがはやかった。
蔦之助は、
鷹の石打ちの矢を一本とって、
弓弦につがえ、馬上、横がまえにキラキラと引きしぼる。
――
小一
町は、
駿馬項羽で一
足とび、
「やッ、しまった!」
と、そこまできて龍太郎はびっくりした。なぜといえば、いましも金明泉のほとりから、
笹叢をガサガサ分けてでてきたのは、
呂宋兵衛の
残党どころか、大せつな大せつな
鞍馬の
竹童。
竹童はなんにも知らない。
金明泉の水でも飲んできたか、
袖で口をふきながら、ヒョイと、
岩角へとび乗ってわざわざ
蔦之助のまとに立ってしまった。
龍太郎はあわてて、うしろのほうへ
馬首をめぐらし、
「待てッ、味方だ!」
「竹童だ、うつな!」
小文治も
絶叫した。
が、
間にあわなかった。プツン! とたかい
弦鳴りがもうかなたでしてしまった。
射手は名人、矢は
鷹の石打ち、ヒューッと風をふくんで飛んだかと思うと、
狙いはあやまたずかれの
胸板へ――
あっけらかんと口をふいていた竹童、
睫毛の先にキラリッと
鏃の光を感じたせつなに、ヒョイ――と首をすくめて右手すばやく
稲妻つかみに、名人の矢をにぎり
止めてしまった。
「竹童、みごと」
矢にもおどろいたし、
褒め
声にもおどろいた竹童、龍太郎と小文治のすがたを見つけて、
「
木隠さま。
大人のくせに、よくないいたずらをなさいますね」
と、ニッコリ笑った。
「いや竹童、いまのは
木隠どののわるさではない。むこうにいる
山県氏の見そこないだから、まあかんにんしてやるがよい」
小文治がいいわけしていると、
蔦之助も遠くから、このようすを見てかけてきた。そして、
今為朝ともいわれたじぶんの矢を、つかみとるとは、
末おそろしい子だという。
けれど
当の竹童には、末おそろしくもなんにもない。こんな
鍛練は、
果心居士のそばにおれば、のべつ
幕なしにためされている「いろは」のいの字だ。
「ときに龍太郎さま、なによりまっ先に、うかがいたいのは、
伊那丸さまのお身の上、どうか、その
後のようすをくわしく聞かしてくださいまし」
「ウム、当夜若君の
孤軍は、いちどは
重囲におちいられたが、折もよし、
人穴城の殿堂から、にわかに猛火を発したので、さすがの
呂宋兵衛も、
間道から逃げおちて、のこるものは
阿鼻叫喚の落城となった。どうじに
三河勢も浜松より急命がくだって総退軍。そのため、味方の勝利と一変したのだ」
「そして、ただいま、ご本陣のあるところは」
「五湖をまえにして、
白旗の
森一
帯、総軍一千あまりの兵が、物の具をつくろうて、休戦しておる」
「呂宋兵衛の部下が軍門にくだって、それで急に、味方がふえたわけなんですね」
「そうだ。して竹童、おまえはきょうまで、どこにいたのか」
「ちょっと
鞍馬へかえって見ましたところが、お
師匠さまの
叱言が壁にはってあったので、あわててまた
舞いもどってきたんです」
「フーム、では
果心先生には、
鞍馬の
庵室にも、おすがたが見えなかったか」
「いっこうお
行方しれずです。またお気がむいて、日本くまなく
行脚しておいでになるのかも知れませんが、
困るのはこの
竹童、先生のおいいつけは、やりとげましたが、こんどはなにをやっていいのか
見当がつきません。
龍太郎さま、あそんでいると眠くなりますから、なにか一つ
中役ぐらいなところを、いいつけておくんなさい」
龍太郎も、じぶんの
手柄話らしいことを、おくびにもださなかったが、竹童もまた、あれほどの
大軍功を成しとげていながら、鼻にもかけず
塵ほどの
誇りもみせていない。
そしてなお、なにか一役いいつけてくれという。よいかな竹童、さすがは
果心居士が、
藜の
杖で、ピシピシしこんだ
秘蔵弟子だ。
武田伊那丸、
小幡民部、そのほか
帷幕のものが、いまなお
白旗に陣をしいて、しきりにあせっているわけは、
和田呂宋兵衛の所在が、かいもく知れないためであった。
人穴城という
外廓は焼けおちたが、
中身の
魔人どもはのこらず逃亡してしまった。
丹羽昌仙、
吹針の
蚕婆、
穴山残党の
佐分利、
足助の
輩にいたるまで、みな
間道から抜けだした
形跡。しかも、落ちていったさきが不明とあっては、
真に、この一戦の
痛恨事である。
「そこできょうも、
咲耶子さまをはじめ
忍剣もわれわれ三名も、八ぽうに馬をとばし、木の根、草の根をわけてさがしているところだ」
――と龍太郎からはなされた竹童は、聞くとともに、こともなげにのみこんで、
「では龍太郎さま、この竹童が、ちょっと、
一鞭あてて見てまいりましょう」
「ウム、なにかおまえに、
成算があるか」
「あてはございませんが、そのくらいのことなら、なんのぞうさもないこッてす」
「いや、あいかわらず
小気味のいいやつ、ではわかりしだいにその場所から、この
狼煙を三どうちあげてくれ、こちらでも、その用意をして待つことにいたしているから」
「ハイ。きっとお
合図もうします。じゃ
蔦之助さま、
小文治さま、これでごめんこうむりますよ」
竹童、龍太郎から受けとった
狼煙筒を、ふところに
納めると、またまえにでてきた
笹叢のなかへ、ガサガサと
熊の子のように姿をかくしてしまった。
おや? あんな
大言を
吐いておいて、どこへもぐりこんでゆくのかと、こなたに三人がながめていると、折こそあれ、
金明泉のほとりから、一陣の
旋風をおこして、天空たかく舞いあがった
大鷲のすがた――
地上にあっても小粒の竹童、空へのぼると、
鷲の一
毛にもたらず、かれの姿は、
翼のかげにありとも見え、なしとも思われつつ、鷲そのものも、たちまち
鳩のごとく小さくなり、
雀ほどにうすらぎ、やがて、一点の
黒影となって、
眼界から消えてゆく。
雲井にきえた
鷲と
竹童。
甲駿二国のさかいを、
蛇の
目まわりに、ゆうゆうと見てまわって、とうとう、この
法師野の部落に、
和田呂宋兵衛一族の焼けだされどもが、よわい
村民をしいたげているようすを
とくと見さだめた。
このあたり、
野火の煙がないので、竹童が鷲の背から小手をかざしてみると、法師野の山村、手にとるごとしだ。部落の家には、みな
人穴城の
残党がおしこみ、衣食をうばわれた善良な
村人は、
老幼男女、のこらず
裸体にされて、森のなかに押しこめられている。
真にこれ、白昼の
大公盗、目もあてられぬ
惨状だ。
「ちくしょうめ、人穴城でやけ死んだかと思ったら、またこんなところで悪事をはたらいていやがるな……ウヌいまに一あわふかせてやるからおぼえていろ」
空にあって、竹童は、おもわず歯がみをしたことである。そして、一刻もはやく、この
状況を、
伊那丸の本陣へ知らせようと、大空ななめに
翔けおりる――
するとそのまえから、法師野の
大庄屋狛家の屋敷を
横奪して、わがもの顔にすんでいた和田呂宋兵衛は、腹心の
蚕婆や
昌仙をつれて、庭どなりの
施無畏寺へでかけて、三重の
多宝塔へのぼり、なにか
金目な
宝物でもないかと、しきりにあっちこっちを荒らしていた。
吹針の蚕婆は、ちょうどその時、三重の塔のいただきへのぼって、
朱の
欄干から向こうをみると、今しも、竹童ののった
大鷲が、しきりにこの部落の上をめぐってあなたへ飛びさらんとしているとき――
「あッ、たいへん」
顔色をかえて、
蚕婆がぎょうさんにさわぎだしたので、塔のなかの宝物をかきまわしていた
呂宋兵衛と
昌仙なにごとかとあわてふためいて、
細廻廊の欄干へ立ちあらわれた。
見ると空の
黒鷲、その
翼にひそんでいるのは、呂宋兵衛がうらみ
骨髄にてっしている
鞍馬の
小童。
丹羽昌仙はきッと見て、
「ウーム、きゃつめ、
伊那丸方の
斥候にきおったな」
と
拳をにぎったが、かれの軍学も空へはおよばず、
蚕婆の
吹針も、ここからはとどかず、ただ
唇をかんでいるまに、鷲はいっさんに
裾野をさしてななめに遠のく。
「呂宋兵衛さま、もうこうはしておられませぬ」
さすがの昌仙が、ややろうばいして腰をうかすと、いつも
臆病な呂宋兵衛が、イヤに落着きはらって、
「なアに、大丈夫」
と
苦っぽく
嘲笑い、じッと、鷲のかげを見つめていたが、やがて、右手に持っていた
金無垢肉彫りの
鷹の
黄金板――それはいまの
塔内から引ッぺがしてきた
厨子の
金物。
「はッ……、はッ……」
と三たびほど息をかけて、
術眼をとじた呂宋兵衛、その黄金の板へ、やッと、力をこめて
碧空へ投げあげたかと思うと、ブーンとうなりを生じて、とんでいった。
「あッ」
「オオ」
と
丹羽昌仙も
蚕婆も、おもわず
金光の
虹に眼をくらまされて、まぶしげに空をあおいだが、こはいかに、その時すでに、
黄金板のゆくえは知れず、ただ見る
金毛燦然たる一
羽の
鷹が、太陽の飛ぶがごとく、びゅッ――と竹童の
鷲を追ッかけた。
これは、前身
悪伴天連の
和田呂宋兵衛が、
蛮流幻術の
奇蹟をおこなって、
竹童を、
鳥縛の術におとさんとするものらしい。――知らず
鞍馬の
怪童子、はたして、どんな
対策があるだろうか?
「あら、あら、あら! コンちくしょうめ」
竹童は、にわかに空でめんくらった。
いや、乗ってる鷲がくるいだしたのだ。――で、いやおうなく、かれが、大声あげて、
叱咤したのもむりではない。
「こらッ、クロ、そっちじゃねえ、そっちへ飛ぶんじゃないよ!」
いつも背なかで調子をとれば、
以心伝心、思うままの方向へ自由になるクロが、にわかに、風をくらった
凧のように、一つところを、くるくるまわってばかりいる。
はるか、
多宝塔の上で、呂宋兵衛が、放遠の
術気をかけているとは知らない竹童、ふしぎ、ふしぎとあやしんでいると、怪光をおびた一
羽の
大鷹が、かッと
嘴をあいて、じぶんの目玉をねらってきた。
「あッ」
竹童はぎょッとして、
鷲の背なかへうっぷした。――とクロは猛然と
巨瞳をいからし、
鷹をめがけて絶叫を浴びせかける。らんらんたる太陽のもと、
双鳥たちまち血みどろになってつかみあった。飛毛ふんぷんと
降って、そこはさながら、
日月あらそって
万星うずを巻くありさまである。
「えいッ」
そのとき竹童、腰なる名刀がわりの
棒切れ、ぬく手もみせず、怪光の
鷹をたたきつけた。とたんに、その鋭い気合いが、
術気をやぶったものか、
鷹は、かーんと
黄金板の
音をだして、一直線に地上へ落ちていった。
「ウーム、しまった!」
多宝塔の上で、遠術の
印をむすんでいた
呂宋兵衛、あおじろい
額から、タラタラと
脂汗をながしたが、すぐ
蛮語の
呪文をとなえ、
満口に
妖気をふくみ入れて、フーと吹くと、はるかな、竹童と鷲の身辺だけが、
薄墨をかけたように、
円くぼかされてしまった。
はじめは、そのうす黒い妖気が、雲のように見えたがやがて、チラチラ銀光にくずれだしたのを見ると……
数万数億の白い
毒蝶。――打てども、はらえども、銀雲のように舞って、さすがの竹童も、これには弱りぬいた。同時に、さては何者か、妖気を放術してさまたげているにそういないと知ったから、かねて
果心居士におしえられてあった
破術遁明の急法をおこない、
蝶群の一
角をやぶって、
無二
無三に、
鷲を飛ばそうとすると、クロは
白蝶群の
毒粉に
眩暈て、
翼を弱められ、クルクルと
木の葉おとしに舞いおりた。
多宝塔の上から、それをながめた
呂宋兵衛、してやったりと
ほくそ笑んで、塔のなかへ姿をかくしたが、まもなく
金銀珠玉の寺宝をぬすみだして、
庄屋の
狛家へはこびこみ、
野武士の
残党どもに、
酒蔵をやぶらせて、
面にくい
大酒宴。
寺には、
僧侶が斬りころされ、森には
裸体の
老幼がいましめられて、
飢えと恐怖におののいている。戦国の悲しさには、この暴悪なともがらの暴行に、
駈けつけてくる
代官所もなく、取りしまる政府もない。
こうして呂宋兵衛たちは、この村を
食いつくしたら、次の部落へ、つぎの部落を
蹂躪しきったらその次へ、
群をなして
桑田を
枯らす害虫のように渡りあるく
下心でいるのだ。それは、この一族ばかりでなかったとみえて、戦国時代のよわい民のあいだには「
狼と
野武士がいなけりゃ
山家は
極楽」と、いう
諺さえあった。
さて、いっぽうの竹童は、どこへ
降りたろう。
降りたところで、ふと見るとそこは、つごうよく、五湖方面から
法師野地方へかよう街道のとちゅう。小広い平地があって、
竹林のしげった
隅に、一
軒の
茅葺屋根がみえ、
裏手をながるる水勢のしぶきのうちに、ゴットン、ゴットン……
水車の
悠長な
諧調がきこえる。
さっきは、
呂宋兵衛の遠術になやまされて、クロがだいぶつかれているようすなので、竹童は、
水車のかけてある流れによって、
鷲にも水を飲ませじぶんも一口すって、さて、一
刻もはやく
合図の
狼煙をあげてしらせたいがと、あっちこっちを見まわした
後、クロをそこへ置きすてて、いっさんにうらの小山へ登りだした。
ところが、その
水車小屋には、
一昨日からひとりの男が
張りこんでいた。
呂宋兵衛から、張り番をいいつけられていた
早足の
燕作。毎日たいくつなので、きょうは通りかかった泣き虫の
蛾次郎を、小屋のなかへ引っぱりこみ、このいい天気なのに小屋の戸を
閉めきったまま、ふたりでなにかにむちゅうになっていた。
入口も
窓も閉めきってあるので、水車小屋のなかはまっ暗だ。ただ、
蝋燭が一本たっている。
そこで、早足の燕作が、泣き虫の蛾次郎に、よからぬ
秘密を、
伝授している。
なにかと思えば、かけごとである。するものに事をかいて、かけごとの方法をつたえるとは、教授する先生も先生なら、また、教えをうける
弟子も弟子、どっちも、
褒められた人物でない。
「おい
蛾次公、まだふところに金があるんだろう、勝負ごとは、しみッたれるほど負けるもんだ、なんでも、気まえよくザラザラだしてしまいねえ」
「だって
燕作さん、いまそこへだした
小判は?」
「わからねえ男だな、いまのはおまえが負けたからおれにとられてしまったんだよ。それを取りかえそうと思ったら、いっぺんに持ってるだけかけて見ろ」
「だって負けると、つまらねえや」
「そこが男の
度胸じゃねえか、
鏃師の蛾次郎ともあるおまえが、それぐらいな度胸がなくって、将来天下に名をあげることができるもんか、ええ蛾次ちゃん、しッかりしろやい」
と燕作は、ここ苦心
さんたんで、蛾次郎の持ち金のこらず巻きあげようとつとめている。
蛾次郎が、身にすぎた
小判を、ザラザラ持っていたのは、
向田ノ城の一室で、
菊池半助からもらった金だった。――かれは、本来その
報酬として
竹童の
鷲をぬすんで、
裾野戦のおこるまえに、菊池半助の陣中へかけつけなければならなかったはずだが、
密林のおくで、鷲をぬすみそこねて、竹童のため、したたか痛められていらい、もうこりごり、のこりの金で
買食いでもしようかと、
甲府をさしてきたとちゅう、ここで
張り番役をしていた
燕作の目にとまり、ひっぱりこまれたものである。
そしてさっきから、うまうまとふところの
小判を、あらかた巻きあげられ、もう三枚しか手になかった。燕作は、その三枚の
小判をふんだくってしまったら、おとといおいでと、小屋からつまみだしてしまうつもりだ。
「おい、
蛾次公先生、いつまで考えこんでいるんだい」
「だけれど、こわいなあ、この三枚をだして負けになると、おれは、
空ッぽになってしまうんだろう」
「そのかわり、おめえが勝てば、六枚になるじゃねえか、六枚はって、また勝てば十二枚、その十二枚をまたはれば、二十四枚、二十四枚は二十四両、どうでえ、それだけの金をふところに入れて、甲府へいってみろ、買えねえ物は、ありゃしねえぞ」
「よし! はった」
「えらい、さすがは男だ、よしかね、勝負をするぜ」
「ウム、燕作さん、ごまかしちゃいけねえよ」
「ばかをいやがれ、いいかい、ほれ……」
と、燕作が
壺へ手をかける、蛾次郎は目をとぎすます――と、その時だ……
ドドーンと、
裏山の上で、不意にとどろいた一発の
狼煙。
燕作は見張り番の
性根を呼びさまして、「あッ!」とばかりはねかえり、窓の戸をガラッとあけて空をみると、いましも、打ちあげられた
狼煙のうすけむり、水に一
滴の
墨汁をたらしたように、ボーッと
碧空ににじんで
合図をしている。
「やッ、なにか
伊那丸の陣のほうへ、合図をしやがったやつがあるな。ウム、もうこうしちゃいられねえ」
あわただしく取ってかえすや
否、
賭けてあった
小判をのこらずかきあつめて、ザラザラとふところにねじ込む。
蛾次郎はぎょうてんして、その
袂にしがみついた。
「ずるいやずるいや、
燕作さん、おれの金まで持っていっちゃいけないよ、かえしてくれ、かえしてくれ」
「ええい、この
阿呆め、もう、てめえなんぞに、からかっているひまはねえんだ」
ポンと蛾次郎を
蹴はなして、
脇差をぶちこむがはやいか、ガラリッと
土間の戸を
開けっぱなして、狼煙のあがった裏の小山へ、いちもくさんにかけあがった。
あとで起きあがった蛾次郎、親の
死目に会わなかったより悲しいのか、両手を顔にあてて、
「わアん……わアん……わアん……」
と、手ばなしで泣きだした。
しかし
天性の泣き虫にかぎって、泣きだすのもはやいが泣きやむのもむぞうさに、ケロリと天気がはれあがる。
しばらくのあいだ、おもうぞんぶん泣きぬいた蛾次郎は、それで気がさっぱりしたか、プーと
面をふくらましてそとへでてきた。と思うと、なにかんがえたか、
賽の
河原の
亡者のように、そこらの小石をふところいっぱいひろいこんだ。
「
燕作め! 見ていやがれ」
怖ろしい怖ろしい、
低能児でも
復讐心はあるもの。蛾次郎が、小石をつめこんだのは、れいの石投げの
技で、
小判の
仇をとるつもりらしい。
燕作がかえってくるのを
待伏せる計略か、蛾次郎はギョロッとすごい目をして
水車小屋の裏へかくれこんだ。
と、どこまで運のわるいやつ、わッと、そこでまたまた腰をぬかしそこねた。
「やあ、おめえは、クロじゃねえか」
一どはびっくりしたが、そこにいた怪物は、おなじみの
竹童のクロだったので、蛾次郎は思わず、人間にむかっていうようなあいさつをしてしまった。
そして、いまの
泣きッ
面を、グニャグニャと笑いくずして、
「しめ、しめ! 竹童がいないまに、この
鷲をかっぱらッてしまえ。鷲にのって
菊池半助さまのところへいけばお金はくれる、
侍にはなれる、ときどきクロにのって諸国の見物はしたいほうだい。アアありがてえ、こんな
冥利を取りにがしちゃあ、
天道さまから、苦情がくら」
竹の小枝を折って
棒切れとなし、竹童うつしにクロの背なかへのった泣き虫の蛾次郎。ここ一番の勇気をふるいおこして、
鷲ぬすみのはなれわざ、小屋の前からさッと一陣の風をくらって、
宙天へ乗り逃げしてしまった。
血相かえて、小山の
素天ッぺんへ
駈けあがってきた
早足の
燕作、きッと、あたりを見まわすと、はたして、そこの
粘土の地中に
狼煙の
筒がいけてあった。
スポンとひき抜いて、その
筒銘をあらためていると、すきをねらってものかげから、バラバラと逃げだしたひとりの少年。
「うぬ、
間諜!」
ぱッと飛びついて組みかぶさった燕作、肩ごしに
対手の
頤へ手をひっかけて、タタタタタと五、六
間ひきずりもどしたが、きッと目をむいて、
「やッ、てめえは
鞍馬の
竹童だな」
「オオ竹童だが、どうした」
「狼煙をあげて、
伊那丸方へ
合図をするなんて、
なりにもにあわぬふてえやつ。きょうこそ
呂宋兵衛さまのところへ引っつるすからかくごをしろ」
「だれがくそ!」
「ちぇッ。この
餓鬼め」
「なにをッ、この
大人め」
組んずほぐれつ、たちまち大小二つの
体が、もみ合った。――赤土がとぶ、草が飛ぶ。それが火花のように見える。
さきに、
釜無川原でぶつかった時、
燕作の早足と腕まえを知った竹童は、もう逃げては、やぼとおもったか、いきなりかれの手首へかじりついた。
「あ
痛ッ! ちくしょうッ」
燕作は
拳をかためて、イヤというほど、竹童の
びんたをなぐる。しかし竹童も、必死に
食いさがって、はなれればこそ。
「ウム」と
唇から血をたらして同体に組みたおれた。そしてややしばらく
芋虫のように
転々として上になり、下になりしていたが、ついに
踏ンまたいでねじふせた燕作が、右の
拇指で、グイと
対手の
喉をついたので、あわれや
竹童、
喉三寸のいきの
根をたたれて、
「ウーム……」
と、四
肢をぶるるとふるわせたまま、ついに、ぐったりしてしまった。
「ざまア見やがれ!
がらの
小せえわりに、ぞんがいほねを折らせやがった」
燕作は、すぐ竹童をひっかかえて、
法師野にいる
呂宋兵衛のところへかけつけようとしたが、ふと気がつくと、いまの
格闘で、さっき
蛾次郎からせしめた
小判が、あたりに
山吹の
落花となっているので、
「ほい、こいつをすてちゃあゆかれねえ」
あっちの三枚、こっちの五枚、ザラザラひろいあつめていると、
突! どこからか風をきって飛んできた
石礫が、コツンと、
燕作の肩骨にはねかえった。
「おや」
とふりむいたが、
竹童は
気絶して横たわっているし、ほかにあやしい人影も見あたらない。どうもへんだとは思ったが、なにしろ
大せつな
小判をと、ふたたびかき集めていると、こんどはバラバラ小石の雨が、つづけざまに
降ってきた。
「あ、あ、あいたッ!」
両手で頭をかかえながら、ふとあおむいた燕作の目に、そのとたん! さッと舞いおりた
大鷲の
赤銅色の腹が見えた。
首尾よく、
鷲ぬすみをやった泣き虫の
蛾次郎、その上にあって、
細竹の
杖を口にくわえ、右手に
飛礫をつかんで、
「やい燕作、やアい、燕作のバカ
野郎。さっきはよくも蛾次郎さまの金を、いかさまごとで、巻きあげやがったな。その返報には、こうしてやる、こうしてやる!」
天性、石なげの
妙をえた蛾次郎が、
邪魔物のない頭の上からねらいうちするのだからたまらない、さすがの燕作も手むかいのしようがなく、あわてまわって、竹童のからだを横わきに引っかかえるや
否、小山の
降り
口へむかって、一
足とびに逃げだした。
が――一せつな、蛾次郎がさいごの力をこめた
飛礫がピュッと、燕作のこめかみにあたったので、かれは、急所の一
撃に、くらくらと目をまわして、竹童のからだを横にかかえたまま、
粘土の
急坂を
踏みすべって、
竹林のなかへころがり落ちていった。
「やあ、いい気味だ、いい気味だ! ひっヒヒヒヒヒ」
白い歯をむきだして、
虚空に
凱歌をあげた
蛾次郎は、口にくわえていた
細竹の
杖を持ちなおし、ここ、竹童そッくりの
大得意。
「さ、クロ、あっちへ飛べ」
南――
遠江の国は浜松の城、
徳川家康の
隠密組菊池半助のところを指して、いっきに
鷲をかけらせた。
幸か不幸か、いま竹童は息の
根絶えてそれを知らない。
醒めてのち、かれが天下なにものよりも愛着してやまないクロが、蛾次郎のため盗みさられたと知ったら、その腹立ちはどんなだろう。
ゴットン、ゴットン、ゴットン……
水車の
諧調に、あたりはいつか、たそがれてきた。
竹林のやみに、夜の風がサワサワゆれはじめると、昼はさまでに思えなかった
水音が、いちだんとすごみを
帯びてくる。――ことに今夜は、小屋の
灯をともす者もなかった。
星あかりで見ると、その
燕作は、
水車場のすぐ上の
崖に、
竹童をかかえたまま、だらりと木の根に引っかかっている。
――ふたりとも、死せず
活きず、
気絶しているのだ。
すると上の竹の葉が、サラサラ……とひそやかにそよぎだしたかと思うと、
笹の
雫がそそぎこぼれて、
燕作の顔をぬらした。で、かれはハッと
正気をとりもどし、むくむくと起きて、
闇のなかにつっ立った、――立ったとたんに、笹の枝からヌルリとしたものが、燕作の首に巻きついた。
「あッ――」と、つかんですてると、それは小さな
白蛇である。こんどはたおれている竹童の胸へのって、かれのふところへ
鎌首を入れ、スルスルと
襟首へ、
銀環のように巻きついた。
夜はいよいよ
森々としている。燕作は、なんだかゾッとして手がだせないでいた。そして、顔のしずくをなでまわした。
と、それはあまりに遠くない地点から、ぼウ――ぼウ――と鳴りわたってきた
法螺の
音、また
陣鐘。耳をすませば、ごくかすかに
甲鎧のひびきも聞える。
兵馬漸進の足なみかと思われる音までが、ひたひたと
潮のように近づいてくる。
「オオ!」
燕作はいきなり、そばの木へのぼって、枝づたいに、水車小屋の屋根の上へポンととびうつった。そして、
暗憺たる
裾野の方角へ小手をかざしてみると、こはなにごと!
急は
目前、味方の一大事、すでに十数町の近くまでせまってきていた。
竹童があいずの
狼煙をみて、この地方に敵ありと知った
武田伊那丸は、
白旗の
森に
軍旅をととのえ、
裾野陣の
降兵をくわえた約千余の人数を、
星、
流、
騎、
白、
幻の五段にわかち、
木隠、
巽、
山県、
加賀見、
咲耶子の五人を五隊五将の配置とした。
采配、陣立て、すべてはむろん、
軍師小幡民部これを
指揮するところ。
陣の中央はこれ
天象の太陽
座、すなわち、武田伊那丸の大将座、
陰陽脇備え、
畳備え、
旗本随臣たち
楯の如くまんまんとこれをかこみ、
伝令旗持ちはその左右に、
槍組、
白刃組、弓組をせんとうに、
小荷駄、
後備えはもっともしんがりに、いましも、三軍
星をいただき、
法師野さしていそいできた。
ひる、それを見れば、
孫子四軍の法を
整々とふんだ小幡民部が
軍配ぶり、さだめしみごとであろうが、いまは
荒涼たる星あかり、小屋の屋根から小手をかざしてみた
燕作にも、ただその殺気しか感じられなかった。
「ウーム……」
と、燕作はおもわずうなって、
「いよいよ伊那丸のやつばらが、
呂宋兵衛さまのあとをかぎつけてきやがったな。オオ、すこしも早くこのことを、
法師野へ知らせなくっちゃならねえ」
ひらりと、屋根をとびおりた燕作、この大事に
驚愕して、いまはひとりの竹童をかえり見ている
暇もなく、得意の
早足一もくさん、いずこともなくすッ飛んでった。
駈けもかけたり
早足の
燕作。
水車小屋から
法師野まで、二
里八、九
丁はたっぷりな道、暗夜悪路をものともせず、ひととび、五、六
尺ずつ
踵をけって、たちまち
大庄屋狛家の
土塀門のうちへ、息もつかずに走りこんだ。
きて見ると、こなたは意外、いやのんきしごくなていたらく。
呂宋兵衛以下、
野獣のごとき
残党輩。
竹童のあげた
狼煙も、
伊那丸軍の出動も知らず、みなゆだんしきッた
酒宴の
歓楽最中。なかにはすでに
酔いつぶれて、
正体のない
野武士さえある。
息はずませて、門から
奥をのぞきこんだ燕作、
「ケッ、ばかにしていやがら」
と、むッとして、
「おれひとりを、番小屋に張りこませておきゃあがって、てんでに、すきかってなまねをしていやがる。ウム、くせになるから、いちばん
胆ッ玉のでんぐり返るほど、おどかしてやれ」
じぶんも
蛾次郎あいてに、かけごとをしていたことなどは
棚へあげて、不平づらをとンがらかした
燕作、いきなり庭先のやみへバラッとおどり立ち、声と両手をめちゃくちゃにふりあげて、
「一大事、一大事!
酒宴どころじゃない、一大事がおこったぞ」
取次ぎもなく、ふいにどなられたので、
呂宋兵衛は、
杯をおとして顔色をかえた。かれのみか、
丹羽昌仙、
蚕婆、
穴山の
残党足助、
佐分利の二名、そのほかなみいる
野武士たちまで、みな
総立ちとなり、あさましや、
歓楽の席は、ただ
一声で乱脈となった。
「おお、そちは番小屋の燕作、さてはなんぞ、伊那丸がたの
間諜でも、立ちまわってきたと申すか」
「あ、昌仙さまでございましたか、間諜どころか、
武田伊那丸じしんが、一千あまりの軍勢を
狩りたて、この
法師野へおそってくるようすです」
「ウーム、さすがは伊那丸、もうこの
隠れ
里をさぐりつけてまいったか。よもやまだ四、五日は大丈夫と、たかをくくっていたのが、この昌仙のあやまり、ああ、こりゃどうしたものか……」
丹羽昌仙は、ためいきついて、つぶやいたが、急に、ヒラリと庭さきへでて、じッと、十方の
天界をみつめだした。
そらは
無月、
紺紙に
箔をふきちらしたかのごとき
星月夜、――五
遊星、
北極星、
北斗星、二十八
宿星、その
光芒によって
北条流軍学の
星占いをたてているらしい
昌仙は、しばらくあってのち、なにかひとりうなずいて、もとの席へもどり、
呂宋兵衛にむかって、
離散逃亡の
急策をさずけた。
「ではなんとしても、おれもひとりとなり、そちもひとりとなり、他の者どももみなばらばらとなって、退散せねば
危ないというのか」
蛮流幻術にたけて、きたいな
神変をみせる呂宋兵衛も、
臆病な生まれつきは
争えず、
語韻はふるえをおびて昌仙の顔をみまもっていた。
「ざんねんながら、
富岳の一天に
凶兆れきれき、もはや、死か離散かの、二
途よりないようにぞんぜられまする」
「
伊那丸ずれに
亡ぼされて、ここに終るのも、
無念至極。ウム……では、ひとまずめいめいかってに落ちのびて、またの時節をうかがい、京都へあつまって、
人穴城の
栄華にまさる出世の
策を立てるとしよう」
「なるほど、京都へまいれば
秀吉公のお力にすがることもでき、
公卿百官の
邸宅や
諸侯の門など
甍をならべておりますから、またなんぞうまい
手蔓にぶつからぬかぎりもござりますまい。では、呂宋兵衛さま、すこしもはやく、ここ退散のおしたくを……」
「おう、じゃ、昌仙もほかの者も、のちに京都で落ちあうことはたしかにしょうちしたろうな」
「がってんです、きっとまた
頭領のところへ
駈けあつまります」
一同が、
異口同音に答えるのを聞いて、
呂宋兵衛は、有り金をあたまわりに分配して、武器、服装、足ごしらえ
用意周到の逃げじたくをはじめる。
間もあらせず、とうとうたる
金鼓や攻め貝もろとも、
法師野の
里へひた押しに寄せてきた
伊那丸勢、
怒濤のごとく、
大庄屋狛家のまわりをグルッととりかこんだ。
その時おそし、呂宋兵衛一
味の
残党、
間ごと
間ごとの
燈火をふき消して、やくそくどおりの自由行動、
蜂の
巣を突いたように、八方から
闇にまぎれて、
戸外へ逃げだした。
塀を
躍り越そうとする者――木の枝にぶらさがる者、屋根にのぼってすきを見る者、衆を組んで破れかぶれに斬りだす者――いちじにワーッと
喊声をあげると、
寄手のほうも
木霊がえしに、
武者声を合わせて、弓組いっせいに
弦を切り、
白刃組は
鎬をけずり、ここかしこにたちおこる
修羅の
巷。
時に、
鉄鋲打った
鉢兜に
小具足をつけ、背に
伝令旗を
差し立てた一
騎、伊那丸の
命をうけて、五陣のあいだをかけめぐりながら、
「――民家へ火をつけるな。――罪なき
民を
傷つけるな。――
降を
乞う者は斬るな。――
和田呂宋兵衛はかならず
手捕りにせられよ。以上、おん大将ならびに
軍師の
厳命でござるぞ。
違背あるにおいては、味方たりといえども
斬罪」
と、声をからして伝令し
去った。
「もうだめだ、表のほうは、
蟻のはいでるすきもねえ。
昌仙さま、昌仙さま、うまいところが見つかったから、はやく
頭領をつれてこっちへ逃げておいでなさい」
まっ暗な
裏手に飛びだして、あわただしく手をふったのは
早足の
燕作。ひゅうッ、ひゅうッ、とうなりを立てて飛んでくる矢は、そのあたりの
戸袋、井戸がわ、
廂、立木の
幹、ところきらわず突き
刺さって、さながら横なぐりに
吹雪がきたよう。
と、
暗憺たる家のなかで、丹羽昌仙のひくい声。
「呂宋兵衛さま、裏手のほうが手うすとみえて、燕作がしきりにわめいております。さ、少しもはやくここをお落ちなさいませ」
「ウム」
となにかささやきながら、
奥からゾロゾロとでてきたのは、丹羽昌仙、
蚕婆、
足助主水正、
佐分利五郎次、そしてそのなかに取りかこまれた
黒布蛮衣の大男が、まぎれもない
和田呂宋兵衛か――と思うと、またあとからおなじ
黒衣をつけ、おなじ銀の十
字架を胸にたれ、おなじ背かっこうの男がふたりもでてきた。
しめて、七人。
そのなかに呂宋兵衛が三人もいる。ふたりはむろん昌仙がとっさの
妙策でつくった
影武者だが、どれが本物の呂宋兵衛か、どれが影武者か、
夜目ではまッたくけんとうがつかない。
「
燕作、燕作」
昌仙は用心ぶかく、裏口へ首だけだしてどなってみた。矢はしきりに飛んでくるが、さいわい、まだ
伊那丸の
手勢はここまで
踏みこんでいなかった。
「燕作、逃げ口をあんないしろ! 燕作はどこにいるんだ」
「あ、昌仙さまでございますか」
「そうだ、
呂宋兵衛さまをお落としもうさにゃならぬ、うまい逃げ口が見つかったとは、どこだ」
「ここです――ここです」
「どこだ、そちはどこにいるんだ」
「ここですよ。昌仙さま、呂宋兵衛さま、はやくここへおいでなさいまし」
「はてな?」
流れ矢があぶないので、七人とも首だけだして、裏手の闇をズーと見わたしたが、ふしぎ、すぐそこで、大きくひびく燕作の声はあるが、どこをどう見つめても、かれのすがたが見あたらない。
とたんに、表のほうへ、伊那丸の手勢が乱入してきたのか、すさまじい物音。逃げだした部下もあらかた
生けどられたり斬りたおされた
気はいである。
「それッ、ぐずぐずしてはいられぬ」
七人のかげが流れ矢をくぐってそとへとびだし、いっぽうの
血路を斬りひらく覚悟で、うらの
土塀によじ登ろうとすると、
「あぶない! そっちは
危ない!」
とまた燕作の声がする。
「どこだ、そのほうはいずれにいるのだ」
「ここだよ、こっちだよ」
「こっちとはどこだ」
七人は行き場にまよってウロウロした。
矢は見るまに、めいめいの
袖や
裾にも二、三本ずつ
刺さってきた。
「ええ、じれッてえな、ここだってば!」
「や、あの声は?」
「早く早く! 早く
降りておいでなせえ」
「燕作」
「おい」
「どこじゃ」
「ちぇッ、血のめぐりがどうかしているぜ」
という声が、どうやら地底でしたと思うと、かたわらの
車井戸にかけてあった
釣瓶が、
癇癪を起したように、カラカラカラとゆすぶれた。
「や、この
井戸底にいるのか」
「そうです、ここより逃げ場はありませんぜ」
「バカなやつめ」
影武者のひとりか、ただしは本人の
呂宋兵衛か、井戸がわに立ってあざ笑いながら、
「こんななかへとびこむのは、じぶんで
墓へはいるもどうぜんだ」
「おッと、そいつは
大安心、ここは
空井戸で一
滴の水もないばかりか、横へぬけ道ができているからたしかに
間道です」
「なに抜け道になっているとか、そりゃもっけの
幸い」
と、にわかに元気づいた七人、かわるがわる釣瓶づたいに空井戸の底へキリキリとさがってゆく。
そして、すでに七人のうち五人までがすがたを隠し、しんがりに残った影武者のひとりと
佐分利五郎次とが、つづいて
釣瓶縄にすがって片足かけたとき、早くもなだれ入った
伊那丸勢のまっさきに立って、
疾風のごとく飛んできたひとりの敵。
「おのれッ」
と、
駈けよりざま、
雷喝一
声、闇からうなりをよんだ一
条の
鉄杖が、ブーンと釣瓶もろとも、影武者のひとりをただ一
撃にはね飛ばした。
そのおそろしい
剛力に、空井戸の車はわれて、すさまじく飛び、ふとい
棕梠縄は
大蛇のごとく
蜿って血
へどを
吐いた影武者のからだにからみついた。
「あッ――」
と、あやうく
鉄杖の二つ
胴にされそこなった
佐分利五郎次、井戸がわから五、六尺とびのいてきッと見れば、
鎧武者にはあらず、黒の
染衣かろやかに、ねずみの
手甲脚絆をつけた骨たくましい
若僧、いま、ちぬられた鉄杖をしごきなおして、ふたたび、らんらんとした
眼をこなたへ
射向けてくるようす。
「さてはこいつが、
伊那丸の
幕下でも、
怪力第一といわれた
加賀見忍剣だな……」
五郎次はブルッと身ぶるいしたが、すでに
空井戸の逃げみちは
断たれ、
四面楚歌にかこまれてしまった上は、とうてい助かる
術はないとかんねんして、やにわに陣刀をギラリと抜き、
「おお、そこへきたのは加賀見忍剣とみたがひがめか、もと
穴山梅雪が
四天王のひとり佐分利五郎次、きさまの
法師首を
剣先にかけて、
亡主梅雪の
回向にしてくれる、一
騎うちの
作法どおり人まじえをせずに、勝負をしろ」
窮鼠猫をかむとはこれだ、すてばちの
怒号ものものしくも名のりをあげた。
忍剣は、それを聞くとかえって鉄杖の力をゆるめ、声ほがらかに笑って、
「はははは、さては
汝は、
悪入道の
遺臣であったか、主人梅雪がすでに
醜骸を
裾野にさらして、
相果てたるに、いまだ
命ほしさに、
呂宋兵衛の手下にしたがっているとは
臆面なき恥知らず、いで、まことの武門をかがやかしたもう
伊那丸さまの
御内人加賀見忍剣が、天にかわって
誅罰してくりょう」
「ほざくな
痩法師、鬼神といわれたこの五郎次の陣刀を受けられるものなら受けてみろ」
「
豎子! まだ
忍剣の
鉄杖のあじを知らぬな」
「うぬ、その
舌の
根を!」
――とさけびながら
佐分利五郎次、
三日月のごとき大刀をまっ
向にかざして、
加賀見忍剣の
脳天へ斬りさげてくる。
「おお」
ゆうゆう、右にかわして、さッと鉄杖に
寸のびをくれて横になぐ。あな――とおもえば
佐分利も一かどの
強者、ぽんと
跳んで
空間をすくわせ、
「ウム、えイッ」
と陣刀に火をふらして斬ってかかる。パキン! パキン! と二ど三ど、忍剣の鉄杖が舞ってうけたかと思うと、佐分利の大刀は、
氷のかけらが飛んだように三つに折れて
鍔だけが手にのこった。
仕損じたり――とおもったか佐分利五郎次、おれた刀をブンと忍剣の
面上目がけて投げるがはやいか、
踵をめぐらして、いっさんに逃げだしていく。
時こそあれ、
「えーイッ」とひびいた
屋上の気合い。
屋根廂からななめさがりに、ぴゅッと一本の
朱槍が走って、逃げだしていく佐分利の背から胸板をつらぬいて、あわれや
笑止、かれを
串刺しにしたまま、
欅の
幹に
縫いつけてしまった。
「何者?」
鉄杖をおさめて、
忍剣が
廂の上をふりあおぐと、声におうじて、ひとりの
壮漢が、
「
巽小文治」
と名のりながら、ひらりと上からとび下りてきた。
「なんだ小文治どのか、よけいなことする男じゃ」
「でも、あやうく逃げるようすだったから」
「だれがこんな
弱武者一ぴき、鉄杖のさきからのがすものか」
「はやまって、失礼もうした」
「いや、なにもあやまることはござらぬよ」
と忍剣は苦笑して、さきに打ちたおした
黒衣の影武者をのぞいたが、
呂宋兵衛の
偽者と知って
舌打ちする。小文治は敵を
串刺しにして、
大樹の幹につき立った
槍をひき抜き、
穂先の
刃こぼれをちょっとあらためてみた。
「して、小文治どの、
木隠や
山県などはどうしたであろう」
「
龍太郎どのは表口から奥の
間へはいって、呂宋兵衛のゆくえをたずね、
蔦之助どのは、弓組を四町四ほうに
伏せて、かれらの逃げみちをふさいでおります」
「ウム、それまで
手配がとどいておれば、いかに神変自在な呂宋兵衛でも、もう
袋のねずみどうよう、ここよりのがれることはできまい。だが……この井戸はどうやら
空井戸らしい、念のためにこうしてやろう」
法衣の
袖をまくりあげた
忍剣、
一抱えもある庭石をさしあげて、ドーンと、
井戸底へほうりこむ。それを
合図に、あとから駈けあつまってきた部下の兵も、めいめい石をおこして投げこんだので、見るまに井戸は完全な
石埋めとなってしまった。
ところへ
木隠龍太郎が、うちのなかから姿をあらわして、
「オオ、ご
両所、ここにいたか」
「やあ、龍太郎どの、
呂宋兵衛の
在所は」
「ふしぎや、いっこう
行方が知れもうさぬ。どうやらすでに風をくらって、逃げ失せたのではないかと思われる」
「といって、この家の四ほうは、二
重三
重に取りかこんであるから、かれらのしのびだすすきもないが」
「どこかに
間道らしい
穴口でもないかしら」
「それもわしが手をわけて尋ねさせたが、ここに一つの空井戸があったばかり」
「なに空井戸?」
と龍太郎がとび
降りてきて、
「ウム、こりゃあやしい、どこかへ通じる
間道にそういない、なかへはいってあらためて見よう」
「いや、念のために、ただいまわしが
石埋めにしてしまった」
と、
忍剣は
したり顔だが、龍太郎は
じだんだふんで
口惜しがった。
呂宋兵衛や敵の
主なるものが、この口から逃走したとすれば、この
空井戸をふさいで、どこからかれらを追跡するか、どこへ兵を廻しておくか、まったくこれでは、みずから手がかりの道を
遮断してしまったことに帰結する――と
憤慨した。その
理の当然に、忍剣もすっかり後悔して、しばらく
黙しあっていた。
すると、はるか北方の森にあたって、とぎれとぎれな
笛の
音が高鳴った。
――おお、それは、
幻の
陣をしいて鳴りをしずめていた
咲耶子が、かねて手はずをあわせてある
合図の笛。
「それ、咲耶子どのの笛がよぶ――」
よみがえったように、
加賀見忍剣、
巽小文治、
木隠龍太郎の三名、
音をしたって走り出すと、その余の
手勢も波にすわるる
木の
葉のごとく、声なく
音なく、
渦の中心に駈けあつまる――
城や
とりでの
間道とちがって、
豪農の家にある
空井戸の横穴は、戦時財宝のかくし場とするか、あるいは、家族の逃避所とする用意に過ぎないので、もとより、二里も三里もとおい先へぬけているはずがない。
呂宋兵衛たち五人のものがわずか二、三
丁の
暗闇をはいぬけて、ガサガサと星影の下に姿をあらわしたのは、
黒百合谷の中腹で、上はれいの
多宝塔のある
施無畏寺の
境内、下は
神代川とよぶ
渓流がドーッとつよい水音をとどろかしている。
「道は水にしたがえ」とは山あるきの
極意。
五人は無言のうちに、道どりの
心一致して、
蔓草、
深山笹をわけながら、だらだら谷の
断崖を
降りてゆく。
――と、その時だ。
にょッきと、星の空にそびえた一本の
白樺、その高き枝にみどりの
黒髪風に吹かして、腰かけていたひとりの美少女、心なくしてふと見れば、
黒百合谷の
百合の精か
星月夜のこぼれ星かとうたがうだろう――ほどに
気だかい美少女が、手にしていた横笛を、山千鳥の
啼くかとばかり強く吹いた。
「や、や? ……」
五人の者が、うたがいに、進みもやらずもどりもせず深山笹のしげみに、うろうろしていると、白樺のこずえの少女は、
虚空にたかく笛をふって、さっ、さっ、さっと三
閃の
合図知らせをしたようす。
と思うと、神代川の渓流がさかまきだしたように、ウワーッとあなたこなたの
岩石のかげから、いちじに姿をあらわした
伏兵。
これなん、
咲耶子の一
指一
揮に
伏現する
裾野馴らしの
胡蝶の陣。
「しまった!」
丹羽昌仙が
絶叫した。
とたんに
崖のうえから
木隠龍太郎が、
「
賊徒、うごくな」
と
戒刀の
鞘をはらって、
銀蛇頭上に
揮りかぶってとびおりる。
発矢、昌仙が、一太刀うけているすきに、
呂宋兵衛とその影武者、
蚕婆と
早足の
燕作、四人四ほうへバラバラと逃げわかれた。
と、ゆくてにまたあらわれた
巽小文治、
朱柄の
槍をしごいて、燕作を見るやいな、えいッと
逆落としに突っかける。もとより武道の心得のない燕作、受ける気もなくかわす気もなく、ただ助かりたい一念で、
神代川の水音めがけて飛びこんだ。が、小文治はそれに目もくれず、ひたすら呂宋兵衛の姿をめざして
駈けだした。
一ぽうでは丹羽昌仙、龍太郎の
切ッ
先をさけるとたんに
断崖をすべり落ちて、
伏兵の手にくくりあげられそうになったが、必死に四、五人を斬りたおして、その
陣笠と
小具足をすばやく身にまとい、同じ
伏兵のような
挙動をして、まんまと
伊那丸方の部下にばけ、逃げだす機会をねらっている。
もっとも足のよわい蚕婆は、れいの針を口にふくんで、まえの抜け
穴に舞いもどり、見つけられたら吹き針のおくの手をだそうと、
眼をとぎすましていたけれど、悪運まだつきず、穴の前を
加賀見忍剣と龍太郎が駈け過ぎたにもかかわらず、とうとう見つけられずに、なおも息を殺していた。
「
木ッ
葉どもはどうでもよい、
呂宋兵衛はどうした」
「かくまで手をつくしながら、
当の呂宋兵衛を取り逃がしたとあっては、若君に対しても
面目ない、者ども、
余人には目をくれず、呂宋兵衛を取りおさえろ」
忍剣と龍太郎が、ほとんど狂気のように
叱
してまわったが、なにせよ、身を
没すばかりな
深山笹、杉の若木、
蔦葛などが
生いしげっているので、うごきも自由ならずさがしだすのもよういでなかった。すると、かなたにあって、
「やあやあ、
巽小文治が和田呂宋兵衛を生けどったり! 和田呂宋兵衛を生けどったり!」
声、
満山鳴りわたった。
「ワーッ――」
「ワーッ」
と、
手柄名のりにおうずる味方の
歓呼、谷間へ遠く
山彦する。
さしも、
強悪無比な呂宋兵衛、いよいよここに天運つきたか。
山県蔦之助も、さっきの
笛合図と、
小文治の
手柄名のりをきいて、弓組のなかからいっさんにそこへ
駈けつけてきた。
でかした小文治――と、
党友の
功をよろこびつつ、
忍剣も
龍太郎も、声のするほうへとんでいってみると、いましも小文治は、
黒衣の大男を組みふせて、あたりの
藤蔓でギリギリとしばりあげているところだ。
「おお、みごとやったな」
蔦之助と龍太郎があおぐようにほめそやす。忍剣はちょっとざんねんがって、
「どうもきょうは、よく小文治どのに先陣をしてやられる日だわい……」
と、うれしいなかにまだ腕をさすっている。
すると、
白樺のこずえの上にあって、始終をながめていた
咲耶子が、にわかに
優しい声をはって、
「あれあれ、蔦之助さま、忍剣さま!
上の手うすに乗じて、
和田呂宋兵衛が逃げのぼりましたぞ、はやくお
手配なされませ!」
「な、なんといわるる!」
四人は、
愕然として空を見あげた。
「
咲耶子どの、その
呂宋兵衛は、ただいま
小文治どのがこれにて生けどりました。それはなにかの人ちがいであろう」
「いえいえ、たしかにあれへ登ってゆくのこそ、呂宋兵衛にそういありませぬ。オオ、
施無畏寺の
境内へかくれようとしてようすをうかがっておりまする、もう、わたしもこうしてはおられませぬ」
咲耶子は、
笛を
帯にたばさんで、スルスルと
白樺の
梢から
下りてしまった。
「や、ことによるときゃつも? ……」
忍剣は、さっき
空井戸で打ちころした影武者を思いおこして、
黒衣の
襟がみをグイとつかんだ。と同時に、その顔をのぞきこんで龍太郎も、おもわず声をはずませて、
「はてな、呂宋兵衛は
蛮人の血をまぜた、
紅毛碧瞳の男であるはずだが、こりゃ、似ても似つかぬただの
野武士だ、ウーム、さてはおのれ、影武者であったな」
「ええ、ざんねんッ」
怒気心頭にもえた
巽小文治、
朱柄の
槍をとって、一
閃に突きころし、いまあげた
手柄名のりの手まえにも、
当の本人を引っとらえずになるものかと、無二無三に
崖上へのぼりかえした。
一足さきに、白樺を
下りて追いすがった咲耶子は、いましも施無畏寺の
境内へ、ツウとかくれこんでいった
黒衣のかげをつけて、
「
呂宋兵衛、呂宋兵衛」
と
二声よんだ。
意外なところに、やさしい女の
声音がひびいたので、
「なに?」
おもわず足を
踏みとどめて、ギョロッと両眼をふり向けたのは、
蛮衣に十字の
念珠を
頸にかけた
怪人、まさしく、これぞ、
正真正銘の
和田呂宋兵衛その者だ。
「や、
汝は
根来小角の娘だな」
「おお、
仇たるそちとはともに天をいただかぬ
咲耶子じゃ。
伊那丸さまや、その余のかたがたのお加勢で、ここに
汝をとりかこみ得たうれしさ、悪人! もう八ぽうのがれるみちはないぞえ」
「わはははは、おのれや伊那丸ずれの女子供に、この呂宋兵衛が自由になってたまるものか。斬るも突くも
不死身のおれだ。五尺とそばへ近よって見ろ、汝の黒髪は火となって焼きただれるぞ」
「やわか、
邪法の
幻術などにまどわされようぞ」
「ふふウ……その幻術にこりてみたいか」
「
笑止やその
広言、咲耶子には、
胡蝶の
陣の守りがある」
「胡蝶陣? あのいたずらごとがなんになる」
「オオ、そういうじぶんが、すでに胡蝶陣の
罠に
墜ちているのも知らずに……ホホホホ、
曳かれ者の
小唄は聞きにくいもの――」
「
女郎! おぼえていろ」
かッと、両眼をいからして、
呂宋兵衛はふいに
咲耶子の
咽首をしめつけてきた。じゅうぶん彼女にも用意があったところなので、ツイと、ふりもぎって、
帯の
笛を抜くよりはやく、れいの
合図、さッと打ちふろうとすると呂宋兵衛が
強力をかけて
奪いとり、いきなりじぶんの