新・水滸伝

吉川英治




序曲、百八の星、人間界にんげんかいに宿命すること


 頃は、今から九百年前。――中華の黄土大陸は大宋国だいそうこくといって、首都を河南かなん省の開封かいほう東京とうけいにさだめ、宋朝歴代の王業は、四代の仁宗じんそう皇帝につがれていた。
 その嘉祐かゆう三年の三月三日のことである。
 天子は、紫宸殿ししいでん出御しゅつぎょして、この日、公卿百官の朝賀をよみせられた。そしてはや、楽府がくふの仙楽と満庭の万歳のうちに式を終って、今しも袞龍こんりょう錦衣きんいのお人影が、侍座じざ玉簪ぎょくさんや、侍従の花冠はなかんむりと共にたま椅子いすをお立ちあらんと見えたときであった。
「あ、陛下。しばしのほど」
 列を離れて出た宰相さいしょう趙哲ちょうてつ、参議の文彦博ぶんげんぱくのふたりが、帝座に伏して奏上した。
「お願いにござりまする。――いにしえから、今日の上巳じょうしノ祝節(節句)には、桃花の流れにみそぎして、官民のわかちなく、和楽を共に、大いにたのしみ遊ぶ日とされております。ねがわくば、このき日にあたって、下々しもじもへも、ご仁政のじつをおしめしたまわらば、宋朝の栄えは、万代だろうとおもわれますが」
 仁宗皇帝は、ふと、ふしんなお顔をされた。
「なに。こんなよい日和ひよりなのに、人民は、何も愉しめずにいるというのか」
「さればで――」と、両名はさらに九拝して。「ここ数年、五こくのみのりも思わしくありません。加うるに、この春は、天下に悪疫あくえきが流行し、江南江北も、東西二京も、病臭びょうしゅうに埋まっております。家々はえにみち、病屍かばねは道に捨てられてかえりみられず、夜は群盗のおののきに明かすという有様でございますから」
「ふうん。そんなにひどいのか」
「そこで、検非違使けびいし包待制ほうたいせいのごときは、施薬院せやくいん医吏いりをはげまし、また、自分の俸給まで投げだして、必死な救済にあたっておりますが、いかんせん、疫痢えきり猖獗しょうけつにはかてません。このぶんでは、地上の人間の半分は、死ぬだろうと恐れられておりまする」
「それは、ゆゆしい事ではないか。さっそく、天下の諸寺院に令して大祈祷だいきとうをさせねばならん」
 国土のわずらいでも、一身のらんでも、なにか大事にたちいたると、すぐ、加持祈祷かじきとうへ頼むところは、わがちょうの藤原時代の権門とも、まったく同じ風習だった。いや、それが文明社会に近づきつつまだ文明にほど遠かった当時の人智だったというしかない。

 江西こうせいへの旅は遥かだった。しかし、旅にはよい仲春ちゅうしゅんの季節でもある。禁門の大将軍洪信こうしんは、おびただしい部下の車騎しゃきをしたがえて、都門ともん東京とうけいを立ち、日をかさねて、江西信州の県城へ行きついた。
「勅使のおくだりだぞ。粗略あるな」
 と、州の長官以下、大小の諸役人から土軍はもちろん、土地ところの男女僧俗まで、みな道に堵列とれつして、こう大将を出迎えた。
 その夜のさかんな饗宴きょうえんはいうまでもなかった。地方のが中央の大賓たいひんびることは、今も昔もかわりがない。わけて、丹紙たんし詔書しょうしょを奉じて来た勅使であるから、県をあげて、庁の役人は、そのもてなしに心をくだいた。
 が、洪信は、さすが軍人である。豪放で、らいらくだ。かつ、朝廷の賜餐しさんには馴れ、街の銀盤ぎんばん玉杯ぎょくはいにも飽いているから、どんな歓待とて、彼の舌や眼を驚かすには足らない。
「まあ、まあ。さかずきは下におけ。そう酒ばかりすすめんでもよい。このたびの下向げこうにとっても、重大なちょくの勤め。さきに飛脚しておいたくだ令状ぶみも見たであろうが」
「しかと、拝見しております」と、州の長官は、急に、かしこみを見せて、――「聖旨のおもむきは、さっそく、この地の奥、龍虎山りょうこざん上清宮じょうせいぐうにつたえおきましたから、万端をととのえご参籠をお待ち申しあげておるはずで」
「そうか。では今夜は、不浄をつつしみ、明朝は沐浴もくよくして、上清宮へ登って行くとしよう。貴様たちも、はやく退がれ」
 つぎの日、洪は暁天に旅館を立ち、州門から八十支里(六町=一里)もある西南の大岳たいがくを望んで行った。案内の州役人らの次に、彼は山輿やまごしにゆられ、部下百騎は勅使旗をささげていた。

 龍虎山りょうこざん一帯は、古来、全国の信仰をあつめてきた道教どうきょうの大本山だ。
 唐代このかた、歴朝の帰依きえふかく、その勅額は、あけ楼閣ろうかくにも仰がれる。渓谷けいこくの空には、こけさびた石橋しゃっきょうが望まれ、山また山の重なる奥までも、十三層塔そうとうかすんで見えた。また、道士どうしたちの住む墻院しょういん、仙館は、峰谷々にわたり、松柏しょうはくをつづる黄や白い花はましらや鶴の遊ぶにわといってもよいであろうか。
 ところで、この仙境は、その日とつぜん、眼をさましたように、一山の鐘台しょうだいから鐘の音をゆり起した。木々は香露こうろをふりこぼし、園の仙鶴は羽バタき、全山の禽獣きんじゅうも、一せいに驚き啼いた。――見れば、三清宮から大石橋だいしゃっきょうへかけて、院主いんずの大師以下、道士、稚児ちご、力士(寺侍)などの群列が、彩霞さいかのごとく、香を煙らし、金鈴きんれい小鼓しょうこを鳴らしながら今し勅使のこう将軍を仙院へ迎える礼をとっているものだった。
「大儀である」
 洪は、大きく目礼をほどこしながら、仙館へ入った。
 えならぬ仙味の献茶けんちゃ一ぷくを、すずやかにみ終ると、彼はただちに、勅の主旨を、院主いんずにつたえた。
「――過ぐる日の上巳じょうしの祝節。わが仁宗皇帝におかれては、打ちつづく世の悪疫あくえきを聞こしめされ、いたく宸襟しんきんをなやませ給うた。そこで即日、大赦たいしゃれいを発せられ、施薬せやく施粥せがゆの小屋を辻々におき、なおまた、かくは、臣洪信こうしんを遠くにおつかわしあって、当山の虚靖天師きょせいてんしに、病魔調伏ちょうぶくの祈りを、おん頼みあった次第である。その儀は、すでに心得おろうがな」
「うけたまわっておりまする」
「勅願の詔書しょうしょは、すなわち、これなる錦のふくろに入れ、臣洪信こうしんの胸にかけて奉じてまいった。――さっそく、龍虎山の大仙たいせん、虚靖天師にお会いして、おわたし申しあげねばならんが、天師はいずこにおらるるか」
「大仙は、ここにはおいでございませぬ。ここの俗塵ぞくじんすら嫌って、これよりさらに山ふかく、龍虎山のいただきも尽きるところに、一宇の草院を結び、つねに仙道ご修行のほか、他念もなくおわせられます」
「では、そこまで登らねば、天師にお会いできぬのか」
「それも、お使者ご一名のみ。……斎戒沐浴さいかいもくよくをとげた上ならでは」
「はて、不便なことだなあ。勅命なのに」
「いかに、ご勅使たりと、霊山れいざんの法規はまげられませぬ。まこと、仁宗皇帝が、万民の苦患くげんを救わんため、万民に代って、大仙のご祈祷きとうをおたのみまいらすなれば、ご代参の殿が、それしきの精進しょうじんをつとめるなどは、何ほどのことでもありますまい」
「いうな、たれが億劫おっくうだといった。ただ不便と感じただけのこと。よしよし、あす一日潔斎けっさいして、われ一人、天師の仙家へまかるであろう」
 彼の意気たるやさかんであった。その朝は、星の下に、水垢離みずごりをとり、白木綿しろもめん浄衣じょうえを着て、黄布きぎぬのつつみを背中へはすにかけて結んだ。内に宸筆しんぴつの勅願をおさめたのだ。そして、銀の柄香炉えこうろを片手に、折々、こういては、「六こん清浄しょうじょう」を口にとなえ、身に寸鉄を帯びるでもなく、白木の山杖一ツを力に、あまたの道士に見送られて、上清宮じょうせいぐうを出立した。
 ――が、禁門軍のゆうこう大将ほどな男も、そこから奥の山ではまったくへばッた。第一夜は、樹海じゅかいの底の谷川を枕としてね、第二夜は、おののような天空の峰で身を横たえた。しかも、ゆくての千峰は、まだまだけわしい。
 やがて、降ればまた深い渓音けいおん水声、昼か夜かも、わからなくなっていた。猿になぶられ、狼にかかとがれ、ただつたかずらの中の道標をさがしては、それをたよって行くしかない。やっと、太古の森林を出たと思うと、あ――と仰がれる絶壁だし、めぐれば、瀑布のしぶきに吹きとばされ、じれば、磊々らいらいの奇岩巨石にのぞき下ろされる。
 それのみか、彼は、牝雄めすおす二疋の大きな虎に出会って、あやうく、虎の餌食えじきにされかけたり、この世にはありえぬような大蛇の鱗光りんこうに胆を消したりして、そのつど、無我夢中で逃げまろんだ。いつか、杖も柄香炉えこうろも、手になかった。生命いのち一つを大事に、よろい歩くのが、やっとであった。
「……おや、鉄笛てってきがする?」
 幾日目かの、途中である。
 彼は、はじめて、人間の香に吹かれた。

「おじさん、どこへ行くんだね」
 童子どうじの方から、声をかけた。
 童子は、牛の背へ、横乗りに乗っている。手には、さっきから聞えていた鉄笛が持たれていた。
「や、小僧、おまえこそ、どこから来た」
「この先の、中院ちゅういんからさ」
「中院」
「おじさんの泊った三清宮が麓院ろくいん、この峰が中院、もッともッと天上にあるのが奥院だよ。……だけど、おじさん、そんなに苦労して登って行っても、ムダだろうぜ」
「どうして」
「天師さまは、お留守だもの」
「えっ、いない? ……。そ、そんなはずはあるまいが」
「いないよ。うそじゃないよ。十日も前に、鶴に乗って、都へお出ましになってしまったんだ。なんでも、天下に悪い病が大ばやりなので、皇帝から、道教大本山の老大仙へ、ご加持のお頼みがあったんだとさ。きっと、面倒だから、天師さまの方から、鶴に乗って、ちょっくら、開封かいほう東京とうけいの空へ、飛んで行かれたんだろう」
「はて。どうして、きさまは、そんなことを知っておるのか」
「知ってるさ。こう見えても、人里の草刈り小僧とはわけが違う。老大仙に仕えている侍童じどうだもの」
「さてはそうか。では、そこへ案内してくれい。たのむ、たのむ」
「疑いぶかいなあ。いないっていってるのに。――ぼやぼやしてると、虎か大蛇おろち餌食えじきにされちまうぜ。はやくお帰りよ、おじさん」
 童子は、あわれむような一笑をくれて、あとも見ずに行ってしまった。
 こうは、半信半疑の思いで、なお行くと、なるほど、ここはまだ龍虎山りょうこざんの七、八合目あたりだったのか、巍然ぎぜんとして、古塔のそびえを中心に、一郭の堂廟伽藍どうびょうがらんが、望まれだした。
 足をひきずって、辿たどりつくと、
こう大将でおわすか」
 と、羅漢らかんのごとき道衆どうしゅうと、仙骨そのもののような老真人ろうしんじん(道士の師)が、門に出迎え、礼をあつく、いたわってくれた。
 それはよいが、彼の蘇生そせいの思いも、すぐ打ち消された。ここの老真人もいうのであった。
「まことに、あいにくでしたの。われらも、今知ったのでござりますわ。――山上の虚靖きょせい天師がはやお留守ということを」
「そりゃ、まったくか」
「嘘か、ほんとかよりも、おん大将ご自身、なにか途中で、お気づきになりませんでしたかの」
「牛に乗った童子に出会ったが」
「やや。それは惜しいことをされましたな」
「え。可惜あたらとは、また何で?」
「その童子こそ、天師のご化身けしんだったにちがいありません」
「げっ、あれがか」
「お勅使にムダぼね折らせても、おきのどくと思われ、一瞬に、都からけ来たッて、はや立ち帰れと、おさとしなされたものでしょう」
「ああ……。そうとは、知らなかった」
「が、まあ。ご安心なさるがよい。そういう示顕じげんのあるからには、おん大将がご帰京ある頃には、もう天師の神妙力にて、かならず、ご勅願はかなえられているに相違ございません」
 なぐさめられて、その晩は、霧深い一古殿こでん昏々こんこんと眠った。
「この上は、ぜひもない、勅願のしょうを、上清宮じょうせいぐうの本殿に納め奉って、一日もはやく、都へ帰ろう」
 ほぞを決めて、こう告げると、真人しんじんは、十人の道衆どうしゅうに命じて、
「お勅使を、元の上清宮まで、お送りしてあげよ」
 と、いった。
 こうは、十道士にかこまれて、石門を出た。歩むことやや半日。だが、これはどうしたことだ。あんなにも、幾昼夜の難所、虎や毒蛇にも襲われて登って来たものが、くだりとはいえ、坦々たんたんと平地を歩むような愉しさである。そして、またたくまに、宝塔仙館のいらかが霞む、以前の三清宮へついてしまった。
 あくる日、しょうは、上清宮の神扉しんぴ深きところの、宸翰しんかん箱にまつり封ぜられ、式を終って、夜は一山の大饗宴だいきょうえんに移った。精進しょうじん料理ばかりのお山振舞ぶるまいである。――これで、つつがなく下山となれば、まずは無難だったのだが、軍官僚のつねで、酒がはいると、もちまえの肌が出はじめた。何か、このまま下山しては、こけんにかかわる気でもしたのだろうか。いやに威儀ぶッていたが、ふと、まわりの雑談に、小耳をはさみ、
「なに、なに。いま申した魔耶殿まやでんとは、いったい、どこのかくか」
「は。お耳にさわりましたか。やはり三清宮の深殿しんでんの一でございまする」
「ふウむ。霊域れいいきの広さは、なかなか一ぼうには出来んのだな。またと、かかる山へ参ることもあるまい。ひとつ明朝は、ここの全堂閣を、遊覧させてもらおうぞ」
「かしこまりました。ぜひ、ご巡拝のほどを」
 宮司ぐうじ真人しんじんたちは、あくる日、彼の先導に立った。そして、上清観じょうせいかんの唐代、五代、宋代にわたる名刹めいさつの建造物を見せてまわり、さいごに九天殿、紫微殿しびでん北極殿ほっきょくでんの奥ふかい社廊をすすみ、
「右が、太乙殿たいいつでん、左が、昨夜申した魔耶殿まやでんにござります」
 と、たたずんだ。
 幽寂なかげりも淡い四辺あたりには、どこやらこだまする小鳥の声があるだけで、何かぞくと、薄ら寒く肌に刺してくるものがある。
「ははあ、ここはもう、上清観中じょうせいかんちゅう奥処おうしょだな」
「さようで。いちばん奥の古刹こさつでございまする」
「あれなる石壁に、鉄鎖てつぐさりをもって、物々しい錠前じょうまえをかけてある門が見えるが、あれは何だ?」
かずのほこらと申しつたえております」
「開かずの門か」と、こうはずかずか歩き出した。なにか、抵抗を感じたらしく見える。仰げば大絶壁。そこのすそをくりぬいた石窟せっくつなのだ。近づいてみると、かたわらの石柱いしばしらには、
伏魔之殿ふくまのでん
 と、四文字が彫られてある。
「おうっ、宮司。――開けて見せてくれい、この内を」
 洪は、伏魔と読み、また、不開あかずの門と聞いて、たちまちその傲上慢ごうじょうまんを、むらむらと、胸にあおりたてられたらしい。
「め、滅相めっそうもない仰せを」
 宮司や道衆は、青くなった。
 彼らが、口をそろえていうには、
「――そもそも、ここにまつられて、咒封じゅふうとなっている魔ものは、ことごとく、世界の妖霊まがつみどものみで、ございまする。仔細しさいを申せば、大唐だいとうの開山洞玄とうげん国師このかた、代々の老祖大仙たいせんが、魔ものを捕りおさえては、この石窟せっくつへ封じ込めおかれたもので、みだりに開くことはなりません」
「はははは。ばかなことを」
「いやいや、お笑い沙汰ではございませぬ。もし、あやまちにせよここを開けば、窟中くっちゅうの魔王は、時をえたりと、人界へ躍りでて、世路せろのみだれは申すもおろか、人間の智恵、内臓のうちにまでひそんで、長く取り返しもつくまいぞ、といわれておりまする。……されば、道法九代の間、また私も、住山三十年にもなりますが、かつてただの一度も、ここの鉄錠てつじょうに手をかけたためしなど、見たことはありません」
「だからこそだ。そう聞けば、なお内部へ入ってみたい」
「そ、それは、余りにも、ご無態むたいと申すもので」
「なにが、無態だ。なんじらの馬鹿げた迷妄を、の勇をもって、ましてくるるのがなんで無態か。鍛冶かじを呼んで、くさりを切らせろ」
「どうか、その儀だけは、おゆるしを」
「ならん。いなやをいうなら、朝廷に奏聞そうもんして、魔霊まりょうまつるものと、おおやけにするぞ。なんじら、数珠じゅずつなぎとなって、上饒江じょうじょうこうの河原に、さらし首を、ならべたいのか」
 言い出しては、決して、言をひるがえすこう大将ではない。都城の衛府えふで、部下を鳴ッている通りな彼になっている。
 恐れわなないた宮司や道衆は、ぜひなくおろおろと、やがて秘門の扉へ、むらがり寄った。鉄槌てっついから火バナが散り、石斧いしおのからは、異様な響きとにおいが立った。不気味なこだま、キ、キ、キ……とはらわたをしぼるような何かのきしみ。――じっと、見ていた洪は、そこが開くやいな、洞然どうぜんたる暗やみの中へ、まっ先に躍り入って、
「どうだ、それ見ろ、何事もないではないか。なにが厳秘の門か、なにが咒封じゅふうか。わははは、みんな入れ」
 と、両の手を、天井てんじょうへ突ッぱり、愉快きわまるものの如くであった。
 ――が、余りの暗さだ、歩いてみても何も見えない。彼は、また大声で、奥でどなった。その声は、空洞にひびき、ひとつ言葉が、二つに聞えた。
「おういっ。松明たいまつをとぼせ。一同、松明を持って、のあとから進んで来いっ」
 あなは、仏体の胎内たいないにでもかたどってあるのか、口はせまく、行くほどに広くなり、四壁には、諸仏、菩薩ぼさつ、十二神将などの像が、りつけられてある。
「や。あぶない」
 こうは、一石碑に、つまずいた。
 松明を呼んでよく見ると、ここばかりが円い広場となっている。冥々昏々めいめいこんこん、幾百年もの間、太陽の寸光も知らない冷土なのだ。それに六尺ほどな板碑ばんぴが、にょっきと建ち、台石となっている石彫りの大亀おおがめは、碑を背に載せて、千古、眠りよりめず、といったふうである。
「こりゃ読めん。石碑いしぶみの表に、何やら細々と彫ってあるが、全文、神代文字らしい。なに、裏には、ただの楷書かいしょがあると。どれどれ」
 彼は、赤い火にいぶされながら、なにげなく、の裏へ廻って、顔を寄せた。
 四つの大きな文字。それは、
遇洪而開こうにあってひらく
 と、読まれた。
「や。コウッテ開クだと? ……。はてな、洪とはおれ、おれに遇って開くとは」
 なに思ったか、彼は、全身にこぶをこさえて、大きくうなった。そして、碑をたおせ、石亀をのぞいて、その下を掘り起せと、狂気じみた声を発した。
 もちろん、人々は極力、その暴をいさめぬいた。哀号泣訴あいごうきゅうそ
「恐ろしや、恐ろしや。そのような、大それた儀は、ど、どうぞ、お見あわせ下さいませ」
 と、地へ、へばッたまま、ちもしない。
「だまれっ」と、こう大喝だいかつした。「――なにが空恐ろしいのだ。見ろ、碑の文字を。……コウッテ開ク、とあるではないか。すでにいにしえの神仙は、今日、がこれへ参るのを、予言いたしておったのだ。いやだと申す者は、素首すこうべをぶった斬るぞ」
 剣把けんぱをたたくと、人々は、もうふるえあがって、唯々諾々いいだくだくと、彼の命のままうごくしかなかった。
 大勢の力で、碑はたおされ、石亀は数百年の眠りから揺り起された。そして、一転二転、腹を見せた石亀のまろぶ地響きと同時に、人々の足の裏から、ごうッと、大釜の湯でもたぎるような音が聞えた。
「わッ、こりゃ深いっ」
 亀を除いたあとに、大穴があいた。穴は深さ万丈、奈落ならくへ通じるかと思われた。いやいや、伏してのぞいてもいられない。とたんに、地軸の底で、ぐわらぐわら、百雷に似た物音なのだ。こう大将も、人々も、
「あ――」と、耳をふさいで、のけぞッた。そも、なんであろう。すべて一瞬のことである。醒々冷々せいせいれいれいたるすみのごとき濛気もうきが、ぶっ仆れた面々の上をかすめた。
 無色無臭、濛気は見えない。が、穴の底から、噴き出しているのはたしかだ。魔の跫音あしおと、魔の笑い声、魔のどよめき、そういっても、まちがいではない。ごうごうの地鳴りは鳴りやまず、一しんへきを裂き、また、山をふるッて、このため、龍虎山の全峰はえ、信江しんこう上饒じょうじょうの水は、あふれ捲いて、ふもとを呑むかと思われるほどだった。
「……ああ、これはまた、ど、どうしたことだ」
 洪は、無我夢中で、石窟の外へ、逃げだしていた。いや、なにかにねとばされて、魔耶殿まやでん橋廊きょうろうの下までほうり出されたといった方が真実に近い。
 とにかく、やや気がついたときでも、なお石窟は揺れ鳴っている。そして一とすじの尾を曳いた黒雲が、中天に昇ってゆくのを仰いでいると、一せん赫光かっこうまなこを射、とたんに、無数の妖星と砕け散って、世間の空へ八方飛んでわかれてゆくのが見えた。
 こうは、ただ、唖々ああ唖々ああと、腑抜ふぬけみたいに、手を振って、よろめき歩いた。一山の騒動はいうまでもない。だが、下手人が勅使では、罰することもならず、三清宮の院主いんずは、いとも嘆かわしげに、うつろな洪大将の顔へ、こう言いわたした。
「はやはや、ご下山くださいましょう。ぜひもなし、あとは虚靖きょせい天師のお帰りを待つのみです。したが、あのほこらあなには、三十六員の※(「罘」の「不」に代えて「正」、第4水準2-84-76)てんこうせい、七十二性の※(「((危−厄)/(帚−冖−巾)+攵)/れんが」、第4水準2-79-86)ちさつせい、あわせて百八の魔が封じられていたものを、あなたさまはまあ、恐ろしいことをなされたものでございましたな。物好きにも、護符ごふの禁を破って、人の世の地上へ、百八の魔をばらいたからには、行く末、どんな世態を見ることやら、いまから身も縮む思いがされます。――せめて、以後は生涯、ご信心にでも身をお捧げなされませい」

 道教では、この宇宙を、魔界と仙界の二元からなるものとて、北斗ほくと太極たいきょく、二十八宿などの星座をあがめ、それは人の世の治乱吉凶禍福の運行とも、密接なつながりがあるものとしている。
 だから、天体中の徳星は、これをあがめ、邪星妖星は、仙術のじゅをもって、封じこめておく。――古来、龍虎山上清宮じょうせいぐうの道祖代々が、そうして、せっかく人界平和のために、道行を積んできたのに、ついに今日、百八の魔星を歓呼させて、もとの世間へかえしてしまった。
「これが恐れられずにいられましょうか」
 こう大将が、すごすごと下山する日も、院主いんずは、未来を予言して、くり返しくり返し、哀嘆してやまなかった。
「――百八の悪星とは、つまり※(「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1-87-61)惑星けいわくせいのことです。この宇宙幾万年、太陽のまわりには、億兆の星が、行儀よくめぐっていて、かりそめにもその法則をみだすことはありません。――が、※(「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1-87-61)惑星けいわくせいという奴は、例外です。常軌を行かず、申しわけに、太陽のまわりに、隠現明滅しているにすぎない。世間、人界の仕組みも、まったくその通りなのです。――それを、あなたさまには、好んで、もとの無軌道へ追ッ返しておしまいなすッた。なんとまあ、人間のごうとは、尽きない宿命のものなのか……。思うてもごらんなされ。五代の戦乱にりて、あんなにも、世は平和平和と渇望していたのに、その平和も、宋朝数十年、少し長つづきしてくると、もう平和に飽いているような昨今の世相ではおざらぬか。救いがたい人間性と申すべきか、平和の退屈さから、百八の魔星をよみがえらせて、ふたたび際限ない乱麻らんまの地上を眼に見たくでもなったものやらと思われますわい。……ああ。やんぬるかな、いくら嘆じてみても、もう追いつきませぬ」
 それを聞くと、洪もさすが、戦慄を禁じえず、いくたびも耳をふさぎたくなった。勅使旗を巻いて逃ぐるがごとく帰路につき、やがて、首都開封かいほう※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)梁城べんりょうじょうへもどって、仁宗帝のおん前に拝伏した。
 帝は、彼をねぎらわれていった。
洪信こうしんか。長途、大変であったろう。しかし、龍虎山の虚靖大仙きょせいたいせんは、勅をかしこみ、すぐ鶴に乗って都に見えた。そして、七日七夜の祈祷きとうを行うてくれたため、民間の疫病えきびょうは、たちまちみ、都府の市色も明るくなった。げに、天師の功力くりきのあらたかなこと、汝が帰るよりも早かったぞ。洪よ、安心せい」
 思いきや、この御諚ごじょうである。
 洪は、ひや汗をかいたが、龍顔のうるわしさ、嘘とも思えない。もとより山で魔封を破った過ちなどは、おくびにも復命せず、自邸に退がった後は、ひとりひそかに恟々きょうきょうと、身を慎んで、余生を終った。
 幸いに、彼が存生ぞんじょう中には、たいした事件もなく、世間はいよいよ泰平と無事にれ、この間に、宋朝のびょうも、仁宗から、英宗、神宗、哲宗てつそう御代ぎょだい四たびの世代りを見た。嘉祐かゆう三年以来、いつか三十余年を経たことになる。
 …………。
 ――ここに、百八の※(「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1-87-61)惑星けいわくせいが、封を破って地上に宿命し、やがてその一星一星が人間として、かの梁山泊りょうざんぱくを形成し、ついに宋朝の天下を危うくするという大陸的構想の中国水滸伝すいこでんは、以上の話を発端として、じつに、この年代から物語られてゆくのである。
 それを、日本の史に照らすと、わがちょうでは、鳥羽、崇徳すとく天皇の下に、不遇な武者どもを代表していた平忠盛ただもりや清盛などが、やがての平家時代を招きおこそうとしていた時代のあしたにあたっている。
 東洋の風土、東洋の文物、東洋の人種、すでに遣唐使けんとうしこのかたは、東洋一環の交流もあって、いわば一帯水たいすいの、遠からぬ大陸であったものの、時運の暗合は、なにか偶然でないものを覚えしめるではないか。

 哲宗てつそう皇帝の寿隆じゅりゅう五年であった。
 朝廟ちょうびょうのうちには、このところ、不穏なうごきが見えぬでもない。権臣の陰謀だの、皇后を廃して追うなど、咲きれた花のえが、そろそろ、自然の凋落ちょうらくを急ぐかに思われた。そんな爛熟らんじゅく末期の相は、※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)べんりょう東京とうけいの満都の子女の風俗にさえ目にあまっていた。
 だが、庶民は依然、太平楽だった。何がかもされていようと、宮廷の内事などは、隣家の夫婦喧嘩ほどな興味でもない。――それよりは、その日、彼らがきびすを次いで馳け出して行った先の方が、よほど大変な事件らしかった。
「なんだ、なんだ? 百たたきか」
「そうらしい。むちを食ッて、所払いにされる悪党が、いま、役人にかれて行った」
 街城がいじょうの門は、人だかりで、まっ黒だった。
 見ると二十五、六歳の遊び人ていの男が、刑吏に引きすえられ、イ……と数を読む青竹の下に、ビシビシなぐりつけられている。
「やあ、あれは高毬こうきゅうじゃないか」
「おお、ちげえねえ、高毬だ。かわいそうに、こうも、とうとう年貢ねんぐの納めどきに会いやがったぜ」
 まだうら若い追放者だが、彼を知らぬ者はないらしい。
 無職である。だが、この東京とうけいには、親代々からいた旧商家の息子で、姓をこう、名を二郎という道楽者。――親に似て、家産は失っても、糸竹いとたけの道に長じ、歌えば美声だし、書道、槍術、棒、騎馬、雑芸、何でも器用だった。わけて“蹴毬けまり”は名人といわれている。
 表向き、狭斜きょうしゃちまたで、幇間ほうかん(たいこもち)めかした業をやっていたが、喧嘩出入りが好きで、一面、男だて肌な風もある。もちろん、悪事の数々もやって来たろう。その積悪がバレた末、ついに今日のお仕置きの破目となったにちがいない。
 ――で、さっきから、青竹を振ッて、
「八十っ、八十一っ。……九十っ、百ッ」
 と、こうの背なかへ、一打ちごとに、数を叫んでいた獄卒が、百をさいごに、ほっと身を退きかけると、
「こらっ、待て。まだ百は打ッていないぞ。なぜサバを読むか。さては、なんじら皆、追放人のこうから、賄賂わいろをもらっておるな」
 と、あたりで黙認している刑吏までを、こう叱咤しったした人がある。それは、禁軍の兵に、棒術の師範をしている王昇おうしょうという武士で、立会いのためこれへ臨んでいたものだった。
 収賄しゅうわいは、刑吏のつねで、その方こそ正しい実収入みいりだとして、悪徳とは考えもせぬ彼らだが、こんな人なかで、白昼、めんといわれては、いくら彼らでも立つ瀬はない。そこで、いくらかの抗弁はこころみたものの、相手は、役職も上だし、禁門のおう師範とあっては、役人づら権柄けんぺいも歯が立たなかった。
「じゃあ、王師範が、よしというまで、叩きましょう。お数えください」
 結局、また四十幾つまで、青竹でこうの五体を、打ちすえた。
「よしっ、追ッ放せ」
 王昇がいうと、初めて、高の縄が解かれた。高毬こうきゅうは、よろめき起った。
 街城がいじょうの門から追われると、四県を所払いされ、再び都の土は踏めない。高は、あちこちミミズれになった肌を撫でながら、いまいましげに、王昇の姿を振りむいた。
「……覚えてろ。棒使いのでくの棒め。てめえの前身だって、まんざら知らねえ高さんじゃねえんだぞ」
 かくて彼は、身ひとつ、淮西わいせいの商市臨淮りんわい安徽あんき省)へ流れてゆき、土地の顔役の柳世権りゅうせいけんの部屋で、およそ三、四年ほど、ごろついていた。
 そのうちに、天下大赦たいしゃの令があった。
 元々、軽罪なので、高毬も恩典に浴したが、そうなると、矢もたてもなく、東京へ帰りたくなった。が、帰っても、さっそくの職はなし、さて、どうしたものと、りゅうに相談すると、
「じゃあ、おれの親戚のとうへ手紙を書いてやろう。それを持って帰んなさい」
 と、いってくれた。
 四年ぶりで、高は古巣へ舞い戻った。――さっそく、手紙を持って、城内金梁橋きんりょうきょうの近くという宛名あてなの人をさがし歩いた。

「ははあ、この店だな、董将士とうしょうしの家は」
 構えも立派な薬種くすり問屋である。
 あるじとうに会って、柳の手紙をしめすと、董は彼の前身も問わず、ふたつ返事で、のみ込んだ。
「そうですかい。四年も臨淮りんわいにおいでなすっては、生れ故郷の王城でもご不案内におなんなすったはむりもない。てまえどもは、商売がら、諸方の官家へもお出入りしておりますから、そのうち、なんぞお勤め口でも心がけましょう。ま、ごゆっくりなすって下さい」
 こうは、好意を謝して、半月ほど逗留とうりゅうしていた。その間に、彼の多芸や才気煥発かんぱつな質を見たものか、ある日、とうが紹介状を書いて、
「どうです。いつまで、遊んでるのももったいないでしょう。ひとつ、これを持って、てまえの極くお親しくしている学士さまの所へ行ってみませんか」
「いやありがとう。職につけるものなら、ぜいたくは申しませんよ」
 高は、小蘇しょうそ学士の門をたたいた。
 だが、この学究は、ちょっと、眉をひそめた。学者暮らしは楽でない。わけて、話しこんでみると、自分とは肌合いの違う人間でもある。――といって、義理のある董の依頼では、断りもならず、といった顔つきで、
「むむ。まあ今夜は、やしきへお泊んなさい。そして何だな、明日、わしが紹介して進ぜるから、王晋卿おうしんけいさまのおやかたへでも一つ伺ってみるんだな。先ごろ、ご近習きんじゅの気のきいたのが一人欲しいようなことを仰っしゃっていたから、御辺ごへんの運がよければ、多分、採用になると思うがね」
 すこぶる頼りない口吻こうふんだが、ともかく、次の日、高はその王晋卿を訪ねてみた。だが、その華麗な館門の前に立つと、さしも横着者の彼も、二の足をふんでしまった。
 ここは宮家みやけである。現天子の婿君むこぎみで「王大将ノ宮」と、世間でいっているのが、すなわち当の晋卿らしい。
「はて、どうしよう。小蘇しょうそ学士め、ていよく俺を追っ払うため、寄りつけもしないこんな王家へなど、紹介したのかもしれねえぞ。……ええ、ままよ。物事は当って砕けろだ」
 持ち前の度胸をすえて、高は、ずかずかと門内へ進み、わざととがめられるのを待った。そして番士に捕えられ、やがて出て来た公卿侍くげざむらいへ、蘇学士の書状を手渡して、ことばすずやかに、こう告げた。
「決して、怪しい者ではありません。職を求めに伺った者で、職能には自信があります。ご採否にかかわりなく、なにとぞご試験をたまわりますよう、よろしくお取次ぎを仰ぎます」
 折ふし、大将ノ宮は、奥まった閣の内で、この春の日をしょざいもなく、生欠伸なまあくびをもよおしていらっしゃるときだった。これや、高毬こうきゅうの開運の目であったのである。取次の言を聞き、また、小蘇学士が、心にもなくしたためた一書を見ると、
「ふウん。そりゃ面白そうな書生じゃないか。なに、書生とも見えぬと。……ま、どちらでもよろしい。退屈しのぎじゃ、ひとつ会って、試験してやろう。まろ自身、その人物を見てくれる。これへれてこい」
 と、横たわっていた美しいとう(細長い床几しょうぎから身を起して、かんむりえい(ひも)を、ちょっと正した。

毬使まりつかいの幸運は九てんに昇り、風流皇帝の徽宗きそうに会うこと


 世の才子肌にも、とかく鼻につく小才子風と、ことば少ない誠実型との、ふたつがある。
 高毬こうきゅうほどな男とて、そのへんの挙止きょしはさだめし心得ていたことだろう。王大将ノ宮から直々の試問をうけても、彼は、自己の才をすぐ喋々ちょうちょうひけらかすようなまねはしなかった。あくまで初心うぶで謹直な好青年のごとく、初対面の貴人へ印象づけた。
「なるほど、小蘇しょうそ学士の吹挙すいきょだけあって、この書生なら、当家の近習きんじゅに加えても恥しくはないな」
 王大将ノ宮は、こうを一見されるや、すっかり気に入ってしまったらしい。侍臣の列をかえりみては、
「どうだな。おまえたちはどう思う。この男、なかなかよい人相をしているではないか」
 などと品評したりして、即座に、お召抱えと、事はきまった。
 こうして、市井の一放浪児にすぎない高毬は、はしなくも現天子の※(「馬+付」、第4水準2-92-84)ふば(天子の婿むこたる人の官名)王晋卿おうしんけいやかたに仕える身とはなった。
 まことに“犬も歩けば棒にあたる”みたいな幸運というほかはない。しかし、幸運に会しても、よくその幸運を生涯にかしえない者はいくらもある。その点、彼は以後、水をえた魚のようなものだった。つつんでいた才気は徐々じょじょ鋭鋒えいほうをあらわし、その多芸な技能は、やがて王大将のおそばには、なくてならない寵臣ちょうしんの一名となっていた。
 そしてこの頃から、名も、※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅうとあらためた。きゅう毛偏けへんをとって、※(「にんべん」、第4水準2-1-21)にんべん※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)きゅうに代えたのである。
 そのうち、ある年のこと。――当主、※(「馬+付」、第4水準2-92-84)おうふばの誕生祝いとあって、ここの亭館には、華麗な車駕しゃがが門に市をなした。花の楼台ろうだいには、楽手がくしゅや歌姫がならび、玻璃はり銀盤ぎんばんの卓には、珍味が盛り飾られて、朝野の貴紳があらゆる盛装を競ッていた。中でも、一きわ目につく貴公子は、どういう身分のお人なのか、
「九ノ宮、九ノ宮」
 と、宴の上座にあがめられた。そして王大将の家族や来賓らいひんの男女から、下へもおかぬかしずきをうけつつ、琥珀こはくのさかずきに紫府しふの名酒がそそがれるたび、しきりに、酔をすすめられている様子だった。
 その上、この君の眉目のうるわしさは、金瓶きんぺいの花も、玉盤ぎょくばんの仙桃の匂いも、色を失うほどであった。だから、やがてのこと。教坊府きょうぼうふ妓女おんなたちが、演舞の余興をすまし終ると、たちまち、彼女らの紅裙翠袖こうくんすいしゅうは、この貴公子のまわりへ争って寄りたかり、
「ま、端王たんおうさま。いつになく、お澄ましでいらっしゃいますこと」
「今日はご主客でしょうが、なにもそんなにまで、よそ行き顔をなさらないでも、およろしいでしょう。もすこし、お過ごしあそばしませな」
 などと、牡丹ぼたんをめぐる蝶のように、たわむれかかった。
「ははは。そうかね。そんなに澄まして見えるかなあ」
 九ノ宮の端王たんおうは、上品な苦笑のうちに、ほどよく群蝶の攻勢をあしらッておいでになる。だが、日頃の行状には、ずいぶん弱味がおありとみえて、彼女らの口封じには、ひと骨折られたご容子ようすだった。それをまた、陪席ばいせきの来賓はみな、おかしげに眺め合って、しばしば、楽堂がくどう胡弓こきゅうふえの音も、耳に忘れるばかりな歓声だった。

 誕生祝賀の日から、まもない後のことである。
※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅう。――この贈り物をたずさえて、九ノ宮の御所へ、ちょっとお伺いしてまいれ」
 王大将のいいつけで、彼はその日、端王の御所へ、使者として向けられた。
 もとより、高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)は、何もかも、わきまえている。
 過日の誕生祝いの折、端王が休息された書院で、ふとお目にとまった文房具がある。ぎょく龍刻りゅうこく筆筒ふでたてと、獅子の文鎮ぶんちんとであった。
「――そんなにお気に召したのなら、後日、お届けさせましょう」と、王大将がそのさい端王へお約束していたのを、高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)は側で聞いていたのである。
 贈り物とは、その二た品に違いない。高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)は、この日の使いに、何か、会いがたき機会にめぐまれた思いと、晴れがましさを抱いて行った。
 なにしろ、端王と申しあげる君は、先帝の第十一皇子で、今上きんじょう哲宗皇帝の弟君にあたられ、東宮とうぐう(皇太子)のご待遇をも受けておられるお方なのだ。いや、高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)が内々、この君へ傾倒していたわけは、教坊の妓女おんなたちが、あんなに騒いだのを見てもわかる通り、たいへんすいな貴公子だと、かねがね聞いていたからでもあった。
 琴棋書画きんきしょがみやびは、もちろん、管絃の遊び、蹴鞠けまり、舞踊、さては儒仏じゅぶつの学問も、つまびらかなうえ、市井しせいの人情にもつうじている風流子ふうりゅうしであるとは、この開封かいほう東京とうけいの都で、たれ知らぬ者もない評判なので、彼は、
「なんとか、いちど、とっくりお話をしてみたいものだ。その道にかけての極道ごくどうぱんを、この高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)から聞こえあげたら、かならずまたなき者と、お目をかけてくださるに違いないが」
 と、こころひそかに、久しいこと、野望していたものだった。
 東宮御所は、※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)べんりょう城の一郭。つつしんで府門へさしかかると、衛兵が、
「いずれから?」
 と、威厳もなかなかよそとはちがう。
「王大将のお使いとして、九ノ宮へ奉るおん贈り物をたずさえてまいった者です」
 と聞いて、衛兵はすぐ門をひらいてくれた。で、彼は悠々と内へ進んでいったが、さらに中門ちゅうもん侍郎じろうへむかって、訪れを再びした。
 中門の役人は、ていちょうに、
「それはご苦労でした。したが唯今ただいま、殿下には、おん鞠場まりばへ出て、公卿輩くげばらを相手に、蹴まりに興じておられますゆえ、しばらく、その辺でお待ちくださらぬか」
 と、いう。
「あ。鞠場でいらせられますか」
 鞠とあっては、彼の特技、聞き捨てにならない。
 こうはつい、つばを呑むような顔して言った。
蹴鞠しゅうきくは、それがしも、好む道でございますが、よそながらでも、御所のおん鞠場の景を、拝見できぬものでしょうか」
「おやすいこと。ならば、ご案内いたしましょう」
 林苑りんえんを縫って行き、やがて、明るい広場へ出ると、はや快い鞠の音が耳につく。
 いずれも鞠好きな、上流の貴紳や姫君や公達きんだちばらに相違ない。広やかな鞠のつぼをかこんで、ある一組は、とう椅子いすに寄り、ある一群れは芝生に脚を伸ばしたりして、競技を観ているところであった。
 高も、そっと、それらの薫袖くんしゅうのなかに立ちまじって、よそながら見物していた。
 すると今、一と競技終ったらしく、次のどよめきの後から、端王の姿が“かかりノ木”の下に立つのが見えた。――見るからに軽快な鞠装束まりしょうぞくである。薄紗うすしゃ唐巾とうきんで髪をとどめ、ほう(上着)は白地きんらんに紫のぬい華文けもんたもと飛龍ひりゅうをえがかせ、鳳凰靴ほうおうか(くつ)を足にはいておられる。そして、相手方の備えを見て、
「よいか」
 と、いったと思うと、いま、かかりの中央へ、侍者じしゃえた鞠へむかって、つかつかと進み出られた。
 位階に従って、まず高貴な人から、第一を蹴り、以下順々に、二座三座四座と、八本の“かかりノ木”に備えている敵手へ蹴渡してゆくのである。さすが、端王の技は、皇族らしくきれいで、しかも、受けにも渡しにもそつがなかった。
 ところが、どうしたあやまちか、一人の靴先かられた鞠が、いきなり見物の方へ飛んできた。
「ア。あぶない」
 頭上に見舞われた人々は、群れを割って、こけまろんだ。しかし、ちょうど近くにいた※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅうは、得たりとばかり跳び寄って、ぽーんと、その鞠をはるか端王の方へ、蹴わたした。
「おっ、見事」
 彼方かなたこだまのように声がした。
 つづいて、おなじ声のぬしが、高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)の姿に、すぐ目をつけたとみえて、こう呼んでいた。
「いまの鞠を蹴った者。これへまいれ」
「はい」――と、高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)は進み出た。
「なんじか」
「おゆるし下さいませ。日頃、好めるわざとて、つい場所がらのわきまえも失って」
「いやいや。とがめるのではない。そちが蹴ったいまの手は、毬法きゅうほう※(「足へん+易」、第4水準2-89-38)てきの秘術のうちでも、もっとも難かしい鴛鴦拐えんおうかいの一ト手と見たが」
「さすが、お目が高くていらせられます」
「いったい、そちはどこの何者か」
※(「馬+付」、第4水準2-92-84)おうふばさまの近習、※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅうにござりまする。じつは、主人の御命ぎょめいにて」
 と、さっそく、はこの二品を、そこへ供えて、使いのおもむきを申しのべた。――が、端王は、贈り物のそれよりは、むしろ高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)まりの妙技に魅せられてしまった様子で、
「よしよし、委細は、後で聞こう。それよりは、そちのわざを、もう一ト渡りここで見せい」
 と、たって望んだ。
 求められるまでもない。高は、千載一遇のときと、思わず頬にのぼる紅を制しきれなかった。けれど、どこまでも謙譲けんじょうよそおって、再々辞退したが、端王のおゆるしがないので、
「では、ほんの素人技しろうとわざたしなみに過ぎませぬが」
 と、中央へすすみ出て、まり十法、ひと通りの型を演じてみせた。
 肩技かたわざ、背技、膝技から、尖飛せんぴ搭舞とうぶノ法などと呼ぶ五体十部の基本の上に、八十八法の細かい型があって、飛燕ひえん花車かしゃ※(「髟/兵」、第3水準1-94-27)りゅうびん搏浪はくろう呑吐星どんとせい、などさまざまな秘術もある。――もとより高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)は、その道の達人であるばかりでなく、市井の間漢かんかん(定職のない遊び人)だったころは、のべつまりき身をやつして、こう二郎と人は呼ばず、高毬こうきゅうというあだ名で通って来たほどな男なのだ。いわゆる堂上遊びの、甘い芸とは、きたえがちがう。
 端王初め、人々が、
「あな、みごと。神技よ、神技よ」
 と、ただただ嘆声のほかなかったのは、当然すぎる当然なことだった。

 まりの庭もいつか黄昏たそがれた。やがて、閣廊かくろうの灯おぼろなころである。高は、あらためて、端王の御前に召されていた。
 奉呈の文房具に、端王が、よろこびを見せたのはいうまでもない。だが、言葉はすぐ、べつなほうへ移ってゆく。
 またしても、毬の話なのだった。そして、とつぜん、こうも仰せられた。
※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅう。これからは朝夕に、まろの師となって、そちの妙技を教えてくれい」
「おそれいりまする。貴尊のお方に、師などと仰がれる身ではございませぬが」
「そして、今日以後は、この東宮とうぐうにいるがよい。もう※(「馬+付」、第4水準2-92-84)おうふばの館へは帰るに及ばん」
「や、それは困ります。私にとっては、大事なご主君。二君には仕えたくございません」
「いや、すでに先刻、※(「馬+付」、第4水準2-92-84)おうふばのおん許へ使いをつかわし、高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)をわが家の臣にゆずッてたまえと、ご諒解を願うてある。※(「馬+付」、第4水準2-92-84)馬はまろが義兄、いわば一門と申すもの。そちの義心は尊いが、決して、義が欠けるわけではない」
「では、それほどに」
 高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)は、感泣にふるえるがごとき姿をした。
 かくて彼は、東宮付きの一員となりおわせ、日がたつほど、端王の重用ちょうよういよいよ深かった。
 元来、俗才に富み、諸芸百般通ぜざるなし、という道楽者上がりの※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅうが、風流公子とはいえ、世間知らずのお若い東宮にかしずいたのであるから、これはいってみれば、彼が得意とするまりの上に乗せたようなものだった。
 ところが。
 この幸運の毬は、まだまだ、どこまで彼のにそのさちをもたらしてくることか。
 ――それから僅か半年後。現皇帝の哲宗が崩御みまかられた。しかるに、じつの皇太子がおわさぬまま、文武百官の廟議びょうぎ紛々ふんぷんをかさねたすえ、ついに端王を冊立さくりつして、天子と仰ぐことにきまった。
 じつに人の運はわからぬもの。これぞ、玉清教主ぎょくせいきょうしゅ微妙道君みみょうどうくん、宋朝八代の徽宗きそう皇帝とも世の申し奉った君だった。
 徽宗は、東宮時代から、すでに風流公子たるの素行が見えていたように、帝位にいてからも政治には関心が薄かった。
 しかし、絵画、音楽、建築、服飾など一面の文化は、このとき一倍の絢爛けんらんを咲かせた。徽宗自身も、絵筆をもてば、一流の画家であり、宮中の宣和せんな画院には、当代の名匠が集められた。
 また、印刷の術が進み、書籍の版行も普及され、街には、まだ雑劇の揺籃期ようらんきだが、演劇も現われ、すべて宋朝の特長とする文治政治はこの前後に或る頂点を示したといってよい。
 けれど、文治のなかには、王安石おうあんせき一派の急進的な改革論をもつ者と、保守旧法にたてこもる朝臣とが、たえずびょうに争っていたので、徽宗の代には、もうその内面に分裂と自解の、ただならぬ危機をはらんでいたのである。――にもかかわらず、徽宗は依然、風流皇帝であった。
 道教どうきょうをもって、国教とし、自分も教主となって、保護につとめた。全国から木石禽獣きんじゅうの珍奇をあつめ、宮殿の工には、民の塗炭とたんもかえりみもしない。当然、苛税かぜい、悪役人の横行、そして貧富の差は、いよいよひどく、苦民の怨嗟えんさは、四方にみちてくる。――時運は徐々におだやかでなく、りょうを亡ぼしたきん(満州族)は、やがて太原たいげん燕京えんけい席捲せっけんして、ついに開封かいほう※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)べんじょうの都にせまり、徽宗きそう皇帝からきさきや太子や皇族までを捕虜として北満の荒野にらっし去った。そして、徽宗はそこで、囚人同様な農耕をいられ、ついに帝王生活の悲惨な生涯を終えるにいたるのである。
徹夜ノ西風ハ破扉ハヒユルガ
蕭条ショウジョウタル孤屋コオク、一トウカス
家山、コウベメグラセバ三千里
月ハ天南ヲチテ、カリノ飛ブ無シ
 これは、北満の配所で、徽宗自身が、皇帝たる自身の末路をえいじた一詩だ。
 いや、おもわず、これは余りに、先の先をちと語りすぎた。
 徽宗の終り、北宋ほくそう崩壊ほうかいなどは、ここでは、まだまだ二十五年も後のことである。水滸伝は一名を北宋水滸伝ともいわれるように、徽宗皇帝治下のそうした庶民世間の胎動たいどうをえがいた物語なので、前提として、時勢の大河がどんな時点を流れていたか、それだけを知ればよい。
 さて。話を元へ返すとしよう。
 ――新皇帝の即位とともに、※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅうもまた、ちょうに入って、帝の侍座じざとなったのはいうまでもない。まりはついに九天にまで昇ったわけだ。
 そして、帝の重用ちょうようはいよいよ厚く、彼の上には栄進が待つばかりで、やがて幾年ともたたないうちに、殿帥府でんすいふ大尉だいい(近衛の大将)とまでなりすましてしまった。
 ときに、その叙任じょにんを見てから早々のことだった。
 ※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅうは、禁門八十万軍の軍簿ぐんぼを検して、部班ぶはんの諸大将から、旗幟きしや騎歩兵を点呼するため、これを※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)べんじょうの大練兵場にあつめたが、その日、彼は、
「はてな」
 と、巡閲中じゅんえつちゅうの駒をふと止めて、鉄甲てっこう燦然さんぜんと整列している諸将の面々を見つつ、何かいぶかしげな顔をした。
「軍書記」
「はっ」
「おかしいな。もういちど、その花簿かぼ(職階の名簿)を読みあげてみい」
「はっ」
 随身ずいじんの一名が、軍奉行から簿を取って、列将の姓氏をふたたび点呼してゆくと、簿名ぼめいにはありながら、ここには見えない一将があった。
「それみい、一名欠けておるではないか。今日の閲軍えつぐんに、あるまじき不届きな沙汰」
「何とも恐れいりまする」
「かかる軍紀のゆるみが見ゆればこそ、皇帝も特にこの高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)へ重任を命ぜられたものではある。しかるに、出頭しゅっとう簿へ名をのぼせながら、今日の馬揃うまぞろえに、姿を見せぬやつがおるとは奇ッ怪千万。そも何者だ、そやつは」
「禁林軍の教頭きょうとう王進おうしんにござりまする」
「兵の師範たる職とあっては、なおゆるし難い。ただちにその者を召捕ってこい」
「いや、王師範は、日頃とて、決して懶惰らんだではございません。数日前から、何か病中にあるよしで」
「だまれっ。武将たる身が、いささかの病などに、大事な一日を欠くことがあろうか。もしこれが、まことの出陣だったらどうする。察するに、この高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)の就任をよろこばぬものか、あるいは軍命をかろんじておるものに相違ない。――すぐ行けっ。折りもよし、軍紀振粛しんしゅくの要もある」
 高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)は、こう激語して、馬蹄ばていを蹴らせた。そしてすぐ副官や随身将校の騎馬をしたがえて、次の巡閲に移っていた。

教頭の王進、追捕ついぶをのがれ、母と千里の旅に落ちゆく事


 棒鎗術ぼうそうじゅつの名人として、王進おうしんの名は遠近に高い。
 父王昇おうしょうの代から都軍とぐんに仕官し、兵へ武芸を教え、家は城下の一隅にあって、ただ一人の母とともに、何事もなく暮していた。
 が、その日、やまいで寝ていた彼の室へ、
「即座に出頭せよ」
 という※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅうの厳命が、つたえられた。
 迎えに来た兵は、みな日頃の弟子である。いなめば、彼らの立場がなかろう。王進おうしんは、病床を出て身じたくした。
「母上、ご心配くださいますな。こう起きてしまえば、さほどでもありません。新任の近衛このえ将軍のお怒りはごもっとも。よくおわびいたして戻りますれば」
 兵に囲まれて出て行く子を、彼の老母は、憂れわしげに、門の外へ出て見送っていた。
 近衛府では、閲軍式えつぐんしきも終わって、そのあと、こう新将軍の就任祝いの酒が下賜され、営門や幕舎はいていた。
「申しわけがございませぬ」
 王進は、高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)の前に伏して、こうびた。
「ほかならぬ日、病躯びょうくを押しても出仕をと存じましたが、何ぶん一人の母が余りにも案じますので、つい親心にほだされて、参列を怠りました。どうぞいかようにもご処分のほどを」
「いうまでもない。この高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)が禁門軍の上に臨むからは、さくのごとき、軍の弛緩しかんは断じてゆるさん。まずもって、汝のような軍をみだ似而非えせ武士からただすのだ」
「あいや、似而非武士とは、ご過言でしょう。また、軍をみだせりとは、何をもって」
「だまれっ。呼び出せば、こうして、歩いてもこられる体ではないか。それが仮病けびょうの証拠でなくてなんだ。また、かかる軍廷において、親の母のと、すぐ泣き落しの口実を構えおるが、そもそも、汝の父親が、前身何者かぐらいなこと、百も承知せぬ高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)ではないのだぞ」
似而非えせ武士とは、それ故のご放言ですか」
「おおさ。汝の父王昇は、後には、棒術をもって、禁門兵の師範へお取り立てにあずかったが、それ以前は、都の路傍に立って、棒振りわざを見物に見せながら薬を売っていた者ではないか。その頃の汝は、薬売りの父のそばで、貧しいぜにをかぞえていた小せがれだったわ。……こらっ、王進っ、つらを上げろ。いつのまにか、ふるきを忘れて、近頃、思い上がっておったな」
「…………」
「はははは。二言とないざまは笑止千万だ。やよ、幕僚たち、諸人の見せしめに、こやつをすぐしばり首にしてしまえ」
 たける高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)の前に、人々は王進をかばって、こもごもに、なだめたり、詫びたりした。
「まあ、お待ちください。せっかくのおよろこびに、しばり首を見るのも、不吉ではございませぬか」
「罰は罰として、後日、きびしいお沙汰あればよいでしょう。ひとまず、今日のところは、ご猶予ねがわしゅう存じます。満庭の兵も、あのように、みな酔歌すいかして、ご就任をけいしておる時でもありますれば」
「うむ。それも一理はある……」
 高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)は、ちょっと、うめいた。自分の慶事である。その就任日に、やはり不吉は見たくなかったらしい。

 王進は、一時解かれて、帰ることをゆるされた。
 もちろん、家の出入りには、番兵がつき、邸は「沙汰ある日まで」の囹圄れいごだった。
 すみのような夜気やきの真夜半。――王進はそっと室を這い出して、母の枕をゆり起した。
「……母上、ちょっと、お眼をおさまし下さい」
「オオせがれ。そなたも、夜ごと眠れないとみえますね」
「なんの、王進は元来の暢気者のんきものですよ。決して、これしきのことに腐りはしませぬ。けれど、母上のお悩みが察しられますので」
「わたしはいい。わたしのことよりは、どうかおまえ一身の助かる道を考えておくれ」
「ところが、どうもいけません。どう考えても、こんどは※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅうに命を召し上げられそうです」
「そなたが死んだら、わたしも生きてはいません。けれど、たくさんな門人衆が、助命の嘆願をして下さるでしょうし、それに何も、死にあたいするほどな大罪でもないんだから」
「いやいや。ふつうなら、そういえもしましょう。ところが、絶体絶命。この胸へ、どきんと来たことが一つあるのです」
「お、おまえは、まさか、反軍の陰謀などをたくらんでいたんじゃないだろうね」
「とんでもない。そんな仔細ではございません。じつは、新しい近衛ノ大将軍高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)とは、どんな人物かと思っていましたら、なんと、彼の口から、私の父王昇のことが言いだされたのです。……はて、堂上人どうじょうびとのくせに、父王昇がちまた零落れいらくしていた時代の姿を知っているのはいぶかしいと……拙者もじっと彼の面体めんていを見てやりました」
「えっ、おまえのお父さんの前身を知っていたのかえ」
「知ってるはずですよ。拙者はまだ子供の頃でしたが、この開封の都で、名うてな道楽者がおりました。そいつは蹴毬けまりの達人で、名も高毬こうきゅうといわれていた野幇間のだいこの遊び人。……どうでしょう母上、それが今日の禁林八十万軍の新大将※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅうだったのです」
「まあ。そんな、ならず者がかえ」
「……しまったと、拙者はそのとき観念しました。というのは、当時のならず者高毬が、四県追放となって、街門がいもんの人中で百叩きになった折、父の王昇は、もう仕官の身でありましたから、刑吏について、立ち会っておりました。すると、街の噂では、そのときの父の処置に、高毬がたいそう父へ怨みをふくみ、いつかはこの仕返しをするぞと、捨て科白ぜりふを吐いていったとか。もう……十何年も昔のことですが、その記憶がハッと戸胸とむねへきましたので、ああこれはいけないと、即座に、自分の死が見える気がしたのです」
「せがれよ、どうしようぞ。わたしも亡き良人つまから、むかし聞いていた覚えはあるが」
「あいや、うろたえ遊ばすな。幸い、一時家に帰されて、母上のお顔を見たので、拙者も、死んでたまるかと、心を持ち直して、一策を案じました。さ、さ……すぐお身支度にかかって下さい。父上からの思い出多い家ですが、やしきを捨てて、遠くへ落ちのびましょう」
「だ、だっておまえ、やしきの前後には、番兵もいるし、天下のお尋ね者になったら」
「番兵のかしらちょうの二人は、拙者の日頃の門下です。罪の軽くすむように、母上と共に、郊外の御岳みたけやしろへ、祈願をこめに行って、夜明けぬうちに戻るからと頼めば、彼らもきっと、見ぬふりをしてくれるにちがいありません」
 老母の分別としても、今は、いちばちかをすしかない。目立つ物は何一つ身につけず、息子の背に負われて、裏門から忍びでた。
 番兵がしらと張は、知らぬ顔して、見のがしてくれた。――王進は、深夜の底を走って、西華門へかかった。ここにも彼の弟子がいる。わけをいつわって、通してもらい、そのうえ一頭の馬を借りて母を乗せて、自分もその鞍尻くらじりまたがった。
「ああうまくいった。母上、もう大丈夫です。まだ、追手も見えません」
「けれど、おまえ、これから何処をさして?」
延安えんあんノ府陝西せんせい省)へまいりましょう」
「え、陝西の延安へ」
「そうです。あそこの府境の城に、経略けいりゃく(城代の官名)として国防の任に当っているお人は、※(「禾+中」、第4水準2-82-82)ろうちゅうと申されますが、その部下には、都で拙者が棒鎗ぼうそうを教えた者がたくさんおります。それに※(「禾+中」、第4水準2-82-82)ちゅうその人とも、よく文通などもしている仲ですから」
「さぞ、遠くであろうの。延安の空は」
「黄河の西、長安ちょうあんの古都の北、なにせい、旅はやさしくはありません。ご辛抱くださいませ」
「おお、どんな難儀とて、わが子と二人なら、忍べぬことはない」
「この王進も、母上を抱いているのが、百人力のここちです」
 逃亡の旅は、風に追わるる如く、野に伏し山に伏して、かさねられてゆく。
 まだ、駅路うまやじも都から遠くないうちは、その後、※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅうの激怒が、官布となって、諸道国々の守護へたいし、罪人王進の逮捕たいほとくすこと頻りであるとも聞えていた。しかし、やがて大陸の渺々びょうびょうたる野路のじ山路は、いつか、旅の母子に、後ろの不安も、思い出せぬほどな遠くにしていた。
「……さて、日も暮れたが、ここは何という村か」
 王進は、トボトボと疲れを見せてきた馬をあやして、あちこち、宿をさがし求めた。
「どうも、旅籠はたごはないようですな、母上。あそこの柳圃やなぎばたけの奥に、四方築土ついじの門が見えますが、ひとつ、あそこへでも宿をたのんでみましょうか」
「村の大庄屋さまらしいが」
「かまいませんよ。私におまかせ下さい」
 柳の一樹に、母の駒をあずけ、王進は門へ入って、一夜の宿をたのんだ。
「お。……えらい荘院そういん(御大家)だな」
 よほど、由緒よしある旧家とみえる。
 背後の岡には、草堂風な一が見え、道は楊柳を縫うて隠れ、渓水たにみずは落ちて、荘院の庭に一ぺきの鏡をたたえている。
 水に臨んでは、母屋おもやの亭館が建ちならび、山にっては、あるじの書楼が、窓を放って、いましがた、灯をかかげたらしく、新鮮なまたたきを見せていた。
 ――取次のわらべは、奥へ入ったまま、なかなか出てこない。遠くに、たくさんな牛の鳴き声がするし、釜屋や下男の長屋には、かしぎの煙がさかんで、何百人もの傭人やといにんが、がやがやいっているようでもある。いわゆる、負傭鶏犬ふようけいけんしょくに飽き、富戸ふこは子孫にり、書庫には万巻の書を蔵す、といったようなおもむきがあった。
「……旅のお人。お待たせしました。さあ、どうぞ」
 出てきた小僕の姿に。
「や。お泊め下さるとか」
「はい。おあるじへ、老母をつれて行き暮れた旅人ですと、申しあげたら、それはさぞかしお困りであろうと」
「かたじけない。では、ご好意にあまえて」
 王進は、外へ馳け出して、すぐ母の手をひいてきた。小僕は、親切に、
「馬は、そのままにしておかっしゃれ。おらが、飼糧かいばをやっておくから」
 家の者、みな、その小僕のように、あたたかであった。
 湯浴ゆあみ、食事なども、終ってから、王進は、荘主あるじ太公たいこうに会った。頭巾ずきんをかぶり、白髯はくぜんは膝にたれ、道服に似たものを着、柔かそうな革靴かわぐつをはいている。
「延安へ行かっしゃるお商人あきゅうどと聞いたが、ご老母づれではたいへんじゃな」
「いや、都ではすっかり資本もとでを失いましたので」
「ははは。宿賃やどちんがないというご心配じゃろ。それくらいなら泊めはせん」
「あつかましゅうございますが、どうも年よりを連れては、野宿のじゅくもなりかねまして」
「遠慮はない。家も広い。こよいはご老母にも、ゆっくり手足を伸ばさせてあげるがよい」
 しばらく、さりげない話に過ごした。しかし、やがて退きさがってゆく王進の物腰を、あるじの太公は、雪の眉から、何やらじっと、見送っていた。
 翌朝。――太公は好きな茶を煮て、王進を待っていた。が、いつまでも、起き出てこないので、自身、へやへ行ってみると、王進の母が、ゆうべ夜半よなかから持病をおこして、今朝もまだ、子の介抱にうめきをこらえている様子だった。
「なんじゃ、はやく告げて来ればよいに」
 太公は、すぐ薬嚢やくのうをとりよせて、自身、煎薬せんやく調ちょうじてくれた。のみならず、幾日でもここで養生するように――ともいってくれる。
「ご恩は、忘れませぬ」
 七日ほどたった。持病もおさまり、母の顔いろもよくなった。で、今朝は早くここを立とうと、王進は、自分の馬を、うまやのほうへ見に行った。
 すると、まだ早暁のもや、みどりの露、肺の中まで青々と染まりそうな柳ばやしのうちで、えいッ、おうッと、誰やらさかんな気合いを発している者がある。
 王進は、ふと耳を打たれて、振り向いた。そして肉づきのよい真白な壮者の肉体らしい影を、青い靄の中に見た。

 年ごろはまだ十八、九か。とにかく、筋骨きんこつ隆々たる美丈夫である。
 もろ肌をぬぎ、顔から半裸身まで、流れる汗にうるおされ、その汗までが美しい。
 さらに、王進が眼をみはったのは、その真白な半裸にえがかれている刺青いれずみだった。九ツの龍が汗に光って肌から浮くばかりに見える。そして、その若者の手には、長やかなかしの棒が持たれていた。棒はぶんぶん鳴って、彼自体の前後を、まるで車のように旋回せんかいして舞う。
「……ははあ、棒術をやっておるな」
 わが道なので、王進は、しおらしさよと、思わずこなたで微笑していた。
 すると、気がついたとみえ、ふと棒の手をやめた若者は、
「おい、人の芸を見て、なにを笑うんだ」
「いや、あざけりはしない。なかなかやるものだと、感心して眺めていたばかり……」
「なに。なかなかやるもンだって。きいた風な口をきくじゃねえか」
「ま、怒ンなさるな。お若いからむりもない。もすこし見物しようじゃありませんか」
「ふざけるな。おれの棒術は見せ物じゃない。おつなことをいうからには、てめえも多少の心得はあるんだろう。さ、叩きのめすから、受けてみろ。受け損じたら、命はねえぞ」
「これは迷惑。お気にさわったのなら、ひらに平に」
「いけねえ、いけねえ。そのゲタか肋骨あばらの二、三本も、ぶち砕かねえうちは、おれの虫がおさまるものか」
 ところへ、あるじの太公たいこうの声がした。
「これっ、史進ししんっ。お客人に何をする」
「あ。親父おやじさまか」
「ひかえろ」と、太公は息子を叱って――「客人まろうど。……どうもせがれめが、とんだご無礼をいたしましたが、このとおりな田舎いなか育ちじゃ、ま、堪忍してやってくだされい」
「いやご主人、こちらも悪かったのですよ。若いお人が一心不乱に、気をいでいるものを、思わずニヤニヤしたりしたものですから」
「これも、何かのご縁というものじゃろう。ひとつ、この伜への置き土産みやげに、棒術の一手なと、お教えして下さらんかの」
「めっそうもない。てまえは、しがない落魄おちぶ商人あきゅうど、棒術などは」
「いやいや、わしにはあなたの五体のうちに、何かご一芸があるものと見える」
「よしなよ、とっさん。買いかぶるのは」
 史進ししんとよばれた若者は、父の前から、いきなり王進の胸をつき飛ばしてののしった。
「おやじは今、おかしなことをいったが、おれは、てめえみたいな旅烏にご教授をねがうの、ご一芸がおありでなんてことは、おくびにもいわねえぞ。さ、そんな土性骨どしょうぼねか、食わせ者か、試してやるから受けてみろ」
 跳び退いたのは、構えを作るためだった。いきなり彼の棒は、右手と一本のものとなって、ぶんっと、王進の首のつけ根へ落ちてきた。
 どう取ったのか、王進は彼の棒の一端を、左のわきの下にしっかと挟み込んで、
「おあるじ。よろしいですか」
 と、太公の顔を見て笑った。
「よろしいとも。うんと、こらしてくだされい。鳥なき里の蝙蝠こうもりとかで、自分以上な者はないと、何ともかとも、手のつけられん小伜こせがれじゃ。ひとつその増上慢ぞうじょうまんの鼻を、折ッぴしょッてくだされば、いっそ、当人にはしあわせというもんじゃろ」
「承知しました。親御のお頼みとあれば」
 聞くと、史進は、
「なにをっ」
 と、全身九ツの龍に、ぱっと血を与えたような色を、みなぎらせた。
 が、もとより田舎いなか仕込みの武技だ。たとえこの若者の肉体と血気に、どんな精根があろうと、王進の眼には、児戯にひとしいものだったのは、いうまでもない。
 一しんぱつ、また、眼もとまらぬ一げきとつ、すべて見事な肉体のから演舞だった。史進は、声をらして、そののどから臓腑ぞうふを吐かんとするほどに身も疲れてしまった。それでも、まいったとはいわなかったが、あ――と感じるまに、大空が自分の脚の上に見えた。でんと、投げとばされていたのである。
「ち、ちくしょうッ」
 とうとするや、また投げとばされ、すでに手裡しゅりになかった棒は、王進の手に移っていた。そして、その棒の先に、九ツの龍の肌は、まるで竹箒たけぼうきもてあそばれる蜘蛛くものように、離されては伏せられ、逃げかけては絡みつけられ、果ては、死に絶えたかのごとく、へたばってしまった。
「どなたか、ご子息へ、水を持って来てあげてください」
 言いながら、王進は、史進のそばへ寄って、その体を膝に抱えた。そして親の太公を振り仰ぎながら、気のどくそうな顔をした。
「……どうも、ちと図にのッて、おらしが過ぎましたなあ。しかし、どこもお怪我けがはしておりませんから、ご安心を」
「いやなんの。せがれめには、よい薬でしたわい」
 そうはいうものの、やはり親心か。太公は、われ知らず、ひたいにじませていた冷たい汗を、道服の袖でそっと拭いた。そして、
「お客人まろうど。あらためて、とくとお話し申したいことがおざる。茶なと煮て、わしのへやでお待ちしておりますぞ。おそれいるが、伜めを連れて、あとよりお越しくださらぬか」
 と、杖を曳いて、画中の人のように、彼方かなたの書楼へ向って立ち去った。

緑林りょくりんの涙を見て、史進ししん、彼らを再びへ放つこと


 ここの山村は華陰県かいんけんの県ざかいで史家村しかそんとよばれている。戸数三、四百軒すべてが“”といううじだった。
 荘院そういん(庄屋)の太公は、先祖代々、村のたばね役をしていたが、しかし自分もすでに老齢である。一日も早く息子の史進に跡目をゆずッて、隠居したいものと考えている。
 そこで、彼はその日、客の教頭王進へ、こんな希望をうちあけた。――かりそめの旅人に過ぎない王進母子おやこへだが、ひとつせがれ史進ししんのために、末長く師となって、村に永住してもらえまいかという相談なのだ。
「さあ? ご好意はまことにかたじけないが」
 王進は、答えに窮して。
「今は正直に申しますが、じつは拙者は、ただの旅商人あきゅうどなどではありません。つい先頃まで、禁軍八十万の師範役をしていたものですが、新任大将軍※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅうと折合いのつかぬことがあって、無断で都門ともんを逃亡し、いわば天下のお尋ね者の身の上です。……せっかくですが、ここにとどまれば、お世話になったご当家へどんな禍いがかからぬ限りもない。それゆえ仰せなれど、その儀は、何ともおひきうけいたしかねる」
「なんのお客人。この年までたくさんな人間を見てきた老人の眼じゃ。はて凡人ただびとではないぐらいなことは、とく感づいておりましたよ。今さら驚きはいたしません。ただただあなた様の人物に傾倒してのお願いなのじゃ。どうぞおきき届けくだされい」
 老父のいにつれて、そばにいた息子の史進も、いまはまったく自分の独りよがりな棒術の未熟さをさとったものか、ともども、すがるようなまなざしで引きとめた。
「いや、それほどまでの仰せなれば」
 と、ついに王進も、父子の懇請こんせいれて、その日の出立を見合せ、あらためて、師弟の約を、ここに結んだ。
「この上は不肖ふしょうですが、武芸十八ぱん、知るかぎりのわざは、ご子息にお授けいたそう。ご子息の名は、史進といわるるか」
「はい。背に九ツの龍の刺青いれずみをしているので、人は綽名あだなして、九紋龍くもんりゅう史進と私をよんでおります」
「棒術は誰からお習いかの」
「少年の頃、うちの食客(居候)打虎将だこしょう李忠りちゅうという浪人者がおりました。面白半分な稽古がみつきで、以後、村を通る旅の武芸者や浪人と見れば、片っぱしから当って試合してきましたが、ただの一度だって負けたことなどありゃしません。それが、どうも今日ばかりは」
「はははは、ちと勝手が違ったか。まあよいわさ、まだ十九か二十歳はたちのお身で倖せ、初心に返れば、どうにでもめ直しはきく」
 かくて教頭王進の母子おやこは、そのまま史家村に居着いてしまった。そして史家しけ嫡男ちゃくなん九紋龍一人のために、かつての禁軍八十万の師範王進が、日々手をとって武芸十八般にわたる秘技を指南した。
 武技十八というのは。
 一に弓、二につよゆみ、三にやり、四に刀、五に剣、六に鍵矛かぎほこ、七にたて、八におの、九にまさかり、十にげき、十一に鉄鞭てつべん、十二に陣簡じんのたて、十三に棒、十四に分銅鎌ふんどうがま、十五に熊手くまで、十六に刺叉さすまた、十七に捕縄とりなわ、十八に白打くみうち
 ――それからというもの、史家の裏手の柳圃やなぎばたけでは、必死に教えをうける龍児と師範との「えいっ」「おうっ」のおめきが聞えない日はなかった。雨の日は、荘院の広床ひろゆかで行われ、夜は夜で、燈火ともしびをはさんで兵書を講じる声がする。
 若き史進は、めきめき上達をしめし、また何よりは王師範の人柄にも感化された。いや師範の都ばなしだの雑談の端にすら、ただならぬ興味をもって、元来、山家育ちのもうは、ようやく、自分の居るところの程度の低さを知ってきた。そして広い大きな世上へと、自然、その若さはうずきをもたげだしていた。

 いつか、一年余の歳月はここに流れた。
 王進は、この頃になって、つらつら思う。
「……これはいかん。九紋龍は稀に見る天才児で、わしの武芸十八般の秘奥までよく会得えとくしてきたが、しかし親の太公たいこうの望みは、史進ししん名主なぬし役の跡目をつがせて、早く老後の安心をえたいとするにあろう。生半可なまはんか、彼が世上慾に目をひらいて、先祖代々からの庄屋づとめや百姓仕事を嫌いだしたら、かえって、わしの仕込んだ道も、史家しけにとってはあだになる」
 そう思いついたので、ある日のこと。
「長々お世話に相成ったが」――と、彼は急に、身の都合を言いたてて、あるじの太公へ、暇乞いを告げた。
「母が申すには、脚腰あしこしの達者なうち、どうしても先にこころざした延安府えんあんふへ行って暮したいと望んでやみません。ご子息へはもう不肖ふしょうの武芸はのこりなくご教授申しあげた。……どうぞご一家にはこの先ともごきげんよく」
 ふいの別れを述べられて、太公はおどろき、子の史進も悲しんだ。けれど、いかに引きとめても無駄だと知ると、さて惜別の宴には、銀子ぎんす餞別せんべつの品々を盛って、王進母子おやこに捧げ、かつ出立の日となると、馬や供人をも添えて、関西路かんせいじへ向う隣県まで、ねんごろに送らせた。
 ――だが、そのあと。
 残された史進は、ぽかんと虚脱に落ちてしまった。たまらない寂寥せきりょうが彼をして毎日酒にひたらせて行った。いや、さらに大きな空虚は重ねて彼の一身を襲った。その秋、父の太公が、とつぜん病死したのである。
 これも手つだってか、彼の放縦ほうじゅうは自暴の相を帯びだした。元々、百姓はしょうに合わないといっている彼なのだ。家事はいよいよかえりみもしない。その荘院には、つねに百姓らしからぬ無頼ぶらいのみを寄せ集め、ただ武勇を誇っては、遠近に喧嘩の相手と機会を求めてばかりいた。されば史家村の九紋龍史進といえば、この頃、泣く子も黙る名となっていた。

 山波の影は遠く望まれるが、人里からはどの辺かよく見当もつかない彼方かなただ。ここに、華陰県かいんけんの山また山の奥、少華山しょうかざんとよぶ一峰がある。
 天地は人間のもの、その人間は生きものだ。おれたちがここに山寨さんさいをむすんで、こう生きているのに、何の不思議があるか、と誇りでもしているように近づけば、その少華山の山腹にも、さかんな人煙人語があるのであった。
「おい楊春ようしゅん。どうもこの頃は、さっぱりじゃねえか。……陳達ちんたつはまだ岩窟いわやの中で寝こけているのか」
「そうらしいて。なんでも奴あ三日ほど前から、蒲城県ほじょうけんの方へ降りていって、何かうまい仕事はねえかと、おおかみのようにぎ歩いたっていうんだが、ゆうべおそく手ぶらで帰ってきやがった。よくよく下界も飢饉年ききんどしらしい」
「そうじゃあるめえ。おれたち山寨さんさいの六、七百人もが、ついこの春までは、下界のみつぎで悠々と王者みてえに食ッてられた世間じゃねえか。それが昨日今日、急に酒や肉にもあがるてえなあ、ふしぎだよ」
陳達ちんたつぼやいていたが、どう考えても、こいつあ、やっぱり華陰県の県城で、布令ふれを廻しゃあがったせいだろうぜ。なんでも、おれたち三人の頭目とうもくの首に、ぜに三千貫の賞を懸けて、諸所の街道に高札こうさつを立て、旅人の夜歩きを禁じたり、土民の自警隊をすすめたりしているそうだから」
「ばかにしてやがら。そんな金が役署やくしょにあるならその金をこっちへそのままよこすがいい。半年ぐらいは山を出ずに、大人おとなしくしてやるものをよ。はははは」
 夏ながら山は不断の霧が冷たい。巨大なとりで柵門さくもんの内には、怪異な男どものたむろやら焚火たきびが諸所にけむっている。中にも岩戸のきざはし、岩穴の一大殿堂をうしろに、酒をみあっている一トかたまりがあった。それぞ少華山しょうかざんの山賊七百人の頭目とうもく神機軍師しんきぐんし朱武しゅぶ白花蛇はっかだ楊春ようしゅんらの車座だった。
 するとなお、岩窟いわやの口から、また一人、
「なんの評議かとおもえば、また芸もなく飲んでいるのか」
 大きな伸びをしつつ、のっそりと石階を降りて来た者がある。たった今、二人が噂していた跳澗虎ちょうかんこ陳達ちんたつだ。これも三頭目の一人なのはいうまでもない。
「おう陳達か。――芸もなくといわれちゃあ面目ねえなあ。したが、三日も山寨さんさいを留守にしたおめえにしろ、やはりなんの土産もなかったじゃねえか」
「ちげえねえ。だが、ちょっと耳よりな土産はあるんだ」
「なんだい、耳よりたあ」
「帰る途中で、兎捕りの李吉りきちっていう猟人かりゅうどッつかまえて聞いたことだが」
「はははは、かあいそうに、兎の皮はぎをつかまえて、そいつの皮をまたはいだのか」
「ばかいえ。この陳達が、そんなしがねえ猟人かりゅうどや百姓いじめをするものか。お互い三人が義の盃を交わしたとき、第一に誓ったのは、盗賊はしても弱い者泣かせはしまいぞということだった。李吉の手引きで、おれが目ボシをつけたのは、そんなケチな相手じゃねえ」
「ふウむ。猟師の李吉に手引きさせて、どこへ押込みに入ろうというのか」
「史家村の大荘院おおじょうやよ。あの旧家は見かけ以上な物持ちだそうだ」
「兄弟。そいつアよしねえ。史家村ときちゃあ鬼門だろうぜ」
「どうして」
「そこの名主なぬしといやあ、九紋龍の家だろう。とんでもねえ話だ。あいつに当って行けるものか。しかも県城の役署からおれたちの首に三千貫の賞金が懸っていることも承知だろうし、手具脛てぐすねひいているものと覚悟もせざアなるめえが」
「ところが、李吉のいうにゃあ、なるほど九紋龍の腕前は、四県無敵ッてえ評判だが、なんたって、旧家のお坊ッちゃんだ。誰でも負けてやりさえすれば客にして、幾日でも泊めておき、酒を飲ませたり餞別せんべつをくれたりだから、つまりは浪人者のいい食いもの。おそらく、ほんとうのとこは旦那芸ぐらいな腕だろうというんだが」
「あてにはなるめえ。李吉が試してみたわけじゃあるめえし」
「うんにゃ、そんなことアべつにしても[#「べつにしても」は底本では「ベつにしても」]、この陳達ちんたつには自信がある。生れ故郷の※(「業+おおざと」、第3水準1-92-83)ぎょうじょうでは、長鎗ながやり跳澗虎ちょうかんこといわれたおれだ。二十歳はたちそこそこの青二才に、おれたち少華山の三頭目が、恐れをなしているといわれるのも我慢がならねえ。まして金持ちの荘院しょうやじゃねえか。なんで指をくわえていられるものか」
 陳達は豪語してやまなかった。朱武しゅぶ楊春ようしゅんが、止めれば止めるほど、意地にもなって、
「よし、それじゃあ、おれ一人でもやってみせる。おめえたち兄弟は、酒でもくらっているがいいや」
 とばかり、即刻、二百ほどの手下に、出触でぶれを廻し、自分も戦陣へでも臨むような身支度にとりかかった。
 そのいでたちを見るに、緋房ひぶさのついた鉢兜はちかぶと鋳物綴いものつづりの鍍金ときんよろい、下には古物ながら蜀江しょっこうの袖をちらつかせ、半月形はんげつなりかわ靴をはいた。そして、組糸の腰帯に、刃幅ははばの広い大剣を横たえ、山路に馴れた白馬のくらにりゅうとして乗りそびえた姿は、さすが少華山の賊将、われから豪語したほどなものはある。
 手にかいこんだ長鎗ちょうそうを、一振り横に振って、西のふもと先で指し、
「さあ、山を降りるまに、日が暮れよう。男と思う奴らは、おれにつづけ」
 二百ぢかい手下が、銅鑼どらや太鼓を鳴らし、柵門さくもんで一度、わあっと気勢をあげた。そしてたちまち、一列の黒蛇こくだとなって麓の方へ沈んでいった。

「あぶねえもンだな。どうも近頃、陳達ちんたつは少しあせり気味だぜ」
「三人の中では一番の年上だ。自分でも頭目とうもくちゅうの頭目と任じているんで、ここンところの山寨さんさいのさびれを見ちゃあ、じっとしていられねえような気なんだろうよ」
「そうだとしたら、イヤなんとも、足も心も進まねえ相手だが、おれたち二人も、こうしちゃいられまいぜ」
 朱武しゅぶは元、定遠州ていえんしゅうの生れ、戦う場合は、よく両刀を使うが、得意はむしろ兵法と謀略にあるとは、彼自身がいうところだった。
 また白花蛇楊春ようしゅんは、蒲州ほしゅう解良かいりょうの人、大桿刀おおなぎなたの達人だった。腰は細く、ひじは長く、綽名あだなのごとき妖蛇の感じのする白面青気の男である。
 さきの陳達といいこの二者といい、いずれも元は江湖の処士しょしや良民だった者だろう。しかし宋朝そうちょうの治、徽宗きそう帝のおごり、ようやくそのみだれやら腐敗を世路せろの辻々にまでただらしてきたので、いずれも正業に生きる馬鹿らしさを思って、野性の自由をほしいままに、この少華山などへ緑林りょくりん(盗賊)の巣を構えたものにちがいない。
 一ときおいて、この二頭目もまた、大勢の手下をつれて、史家村へ降って行った。行くほどに夜は更けてゆき、やがて黒い夜霧の底に、ぼやっと赤い火光が見えだした。史家村の方角に間違いない。楊春は馬をとめ、後ろの朱武の影へよびかけた。
「やってるぞ。あの火を見ろ。陳達ちんたつはもう九紋龍の家へ乗りつけている。兄貴の難を見捨ててはおけまい。急ごうぜ」
 ところが、まだふもとへも出ないうちに、陳達の小頭こがしらや手下どもが、さんざんなていで逃げ走ってきた。
「――どうした?」と訊けば、村には備えがあり、警板けいばん銅鑼どらを合図に、たちまち、九紋龍の家には小作人や荘戸しょうこ(村人)の若者ばらが、まるでよく訓練された兵隊のように集まってきて、たちまち守りを固めてしまったという。
 しかし陳達の指揮下にある賊も、「なんの百姓ばらが」と、門へ向って馬群をおめかせ、またおどしの早鉦はやがねだの銅鑼どらを打ち鳴らした。ところが、どうして相手は手強てごわい。矢かぜや投げ火の下で、やがて大乱戦となっていった。そのうち九紋龍自身も打ッて出てきた。そして味方の陳達と一騎打ちになったので、互いに火を降らすことかと思っていると、呆ッ気なく、陳達は長鎗を叩き落され、苦もなく九紋龍のために手捕りにされてしまったというのである。
「ふウむ。強さのほどは察していたが、そんなにも強い九紋龍なのか」
「てんで、おはなしにも何もなりません」
 と、手下どもはまったく闘志を失っていう。
 けれど、朱武と楊春は、まさかここから逃げ戻れもしない。それこそ山寨さんさい七百人の手下の信望は地にちてしまう。といって、最初から九紋龍史進ししんに立ち向えるうぬ惚れもなかったのだ。楊春はその白面を一そう蒼白にして。
「どうする。兄貴」
「こうなっては、どうもこうもない。おれにまかせろ」
 朱武が得意とする智略が、何かひらめいたものだろうか。朱武は、たちどころに、手下のすべてに足止めを命じ、自分と楊春の二人だけで、史家村の内へ近づいていった。
 すぐ見つけた荘戸しょうこ土兵どへいは、二人を取り囲んで門内へしょッいた。――見ると、邸内の広い柳園りゅうえんでは、諸所にかがりき、まん中の一樹に生け捕ッた陳達を縛りつけて、今しも、それをさかなに大ざかもりの最中だった。
「なに、朱武と楊春の二頭目が自分から縄目なわめを望んでこれへ来たと。はてなあ。そいつはどうも眉ツバものだが」
 史進は、とう酒樽さかだるに腰かけていた。
 鱗革うろこがわ朱紅あけうるしやら金箔はくをかけたよろいを着、青錦せいきん戦襖じんばおりに黄色の深靴をはいていた。そして側には一りの弓を立て、腰には両刃りょうばせんの八環刀かんとういて、久しぶりな闘争の発汗に会ったためか酒の色か、いかにもこころよげな眉宇びうに見える。
「よし。とにかく二人を曳ッ張ってこい。たぶん偽者にせものだろうが、どんな嘘をいうか、聞いてみるのも一興だ。もっと篝火かがりびを明るくして、おれの前に引きすえろ」
 朱武、楊春の二名をまだ見ぬうちから、彼は充分に疑っていた。もし本ものだったら、これ幸い、三頭目を一トつかねに首斬って、さらにもう一杯の酒のさかなにするつもりだった。
 しかるに彼は、やがて朱武と楊春がこもごも述べたてるのを聞くうち、次第に酒のおもてをさまし、果ては、涙すらこぼすのだった。――朱武はひとしお言葉にあわれをこめて。
「どうぞ、われわれ両名も、兄貴の陳達とともに縄目として、県城の役署へつき出してください。聞くならく三名の首には、三千貫の賞がある由。その金をば近郷の窮民へおわかちくださればなおのこと本望です。……もともと、ちんよう、朱のわれら三名は、賊となるとも義賊たらんと誓い、死ぬ時も一つにと、血をすすって義兄弟の約束をした仲でした。いま兄貴の陳達が捕われた以上は、あとの両名も生きてはいられませぬ。またお手むかいをしてみたところでかなわぬあなた。いざ、どうなりとご処分を」
 史進の純情はすっかりそれに打たれたらしい。山賊にもこんな義心があるかと思い、彼らが貧民の味方だというのも、大いに気に入った。かつは太ッ腹な史進なので、その寛度を大勢の荘戸の者の前で示すことも愉快でないことはなかったろう。
「おい、陳達の縄を解いてやれ。そしてこの三人へも杯をやるがいい」
 史進は瞬間、声も出ずにいる三人へ、大容おおようにまたいった。
ぬすにも三分の理、仲間同士では義理固いとも聞いたが、そこまで義に厚いのは感心だ。安心しろ。おれは腐れ役人の手先になんぞなるのは生れつき大嫌いだ。賞金なぞは手にもしたくない。さあ一杯飲んで、足もとの明るいうちに少華山へでも何処どこへでも、とっとと消え失せろ。その代り、この近郷三県で百姓いじめをすると聞いたら、いつなんどき九紋龍が行って、その首をお貰い申すかしれねえぞ」
 三人は地に這って、九紋龍を百拝した。あげくに酒と涙を一しょに呑んだ。たとえば恩を知る動物いきものが人の手から放たれでもしたようである。やがて振り返り振り返り、あかつきまだき史家村から元の少華山へ立ち去った。

史進、家郷をすてて渭水いすいはしり、魯提轄ろていかつと街に会うこと


 彼らの仲間うちでも“虎は平伏した餌食えじきは食わぬ”ということわざを知っている。「――九紋龍の度量はそれなんだ」と、楊春ようしゅん陳達ちんたつも、朱武しゅぶも以来すっかり史進に心服してしまった。
 史進の方では、そんなことなど、いつか忘れてしまっている。すると或る夜のよいの口、一の贈り物をかついだ山賊の手下が、こっそり、史進の屋敷へやってきて、
「ご恩返しというほどな物でもござんせんが、てまえどもの志だけを、どうかお納めなすっておくんなさい。いや申し忘れましたが、山の三頭目からも、くれぐれよろしく申しました」
 と置き捨てるように、おいて帰った。
 あとで開けてみると、獣皮やら山の物の種々くさぐさ、それに三十両ほどな金ののべ棒も入っている。
 史進は笑った。
「なんだか、余り貰い心地がよくねえな。だが、奴らにすれば、精いッぱいな善意だろう。まあいいや。金はまた何かいい折につかってやろう。取ッておけ取ッておけ」
 ところがその後も何くれとなく、ちょいちょい山から贈り物が届けられる。時には見事な宝石などもよこした。
 史進もまた、こう貰ってばかりいてはと思って、家に伝わる紅錦織こうきんおりを三りょううわぎに仕立てさせ、あぶらののッた美味うまい羊の焼肉を大きなふたものへいれて、日頃の礼にと、山寨さんさいへ届けさせた。
 史家の奉公人がしらに王四という男がいる。使者にはこの男に作男一人をつけてやった。二人がふもとまで行くと、山賊の見張りに捕まった。しかし、
「九紋龍さまのお使いで」
 と聞くや、彼らが先に立って、山寨へ案内した。なおまた、朱武たち三頭目も、王四の労をねぎらって、下へもおかない。酒や馳走を出して、
「一日も史進どののご恩は忘れていない」
 といったりした。そして、使いの二人へ、帰りがけには十両の銀子ぎんすをくれた。
 史進は、王四の復命をきいて、
「そんなによろこんだか。また、そんなにも、おれのことをいってたのか」
 と、これも悪い気はしなかった。
 こうして、彼らとのつきあいが深まるにつれ、史進は相手が山賊であるなどという念もなくなっていた。ただ男と男のまじわりとしていた。
 そのうちに、秋もなかばの頃、史進は月見の宴を思い立った。ひとつ仲秋の名月に酒壺しゅこを開いて、あの朱武、楊春、陳達らの三人と、思うさま飲んだり話してみたいものだと考えた。そこでまた、いつもの王四に、招待状を持たせて少華山へやった。
 朱武たちが歓んだのはいうまでもない。
「――必ずまいる」
 と返書をしたため、それに四、五両の使い賃をのせて、王四へ渡した。そのうえ十わんあまりも酒を飲ませて帰したので、王四もすっかりごきげんになってしまった。
 ひょろり、ひょろり、山路を千鳥足で降りてくると、日頃、顔見知りの山賊の手下に出会った。
「……よウ、大将」と王四が抱えこむと、その男も酔っていて、
「やあ、王サマか」と、ヒゲ面をこすってきた。そして漁樵ぎょしょう問答ならぬベロンベロン問答の果てである。頭と頭とをからみ合った四本の脚が、またぞろ、ふもとの居酒屋へよろけ込んだ。
 ――だいぶ飲んだに違いない。
 その晩、相手の男と別れてから、王四は途中の芒原すすきはらで寝てしまった。事これだけなら、その一すいは無上天国そのものだった。ところが折ふし通りかかった猟人かりゅうどがある。これなん兎捕りの李吉りきちで、さきに陳達を手引きして史進を襲わせたのもこの男だ。そのことでは思うつぼはずれてしまい、以来、村人からは白眼視されていたが、もともときつねたぬき以上なずるさを持つ李吉だった。今も今とて、蹴つまずいたとたんに、
「おやおや、こいつあ、史進の家の王四だぞ。はてな?」
 酒臭い正体なしの体へ寄って、親切ごかしに胴巻をで探っていた。すると銀子ぎんすと手紙が手に触れたらしい。李吉は狐のような眼をくばった。
 ――翌朝。李吉がその手紙を持って、県城の役署へ密訴にけこんでいたころ、一方の王四は、ひどくえない顔つきで、主人史進の前で、復命していた。
「行ってまいりました。――ご芳志にあまえて、ぜひ参上いたします、という三頭目のご返辞でございました」
「いま帰ったのか王四。たいそう遅かったじゃないか」
「どうもその、つい山寨さんさいでご馳走になっちまいましたので」
「酒を出されると目がねえンだろう。まあいいや、それよりも早く調理場へ行って、あしたの料理の支度やら倉の中の器物うつわものなどを出させておけ」
 次の日は仲秋節ちゅうしゅうせつ。――史家しけの小作や奉公人は、昼から莚席えんせきの支度に忙しかった。羊をほふあひるや鶏をつぶすこと、何十羽かわからない。前日からきこめた百珍の料理は銀盤に盛られ、酒も家蔵の吟醸ぎんじょう幾壺いくつぼとなく持ち出して、客の前において封を切るばかりに用意していた。
 ――ほどなく、朱武、陳達、楊春の三人は、かねて史進から贈られた紅錦こうきんほうを具足の下に着て、時刻たがえずやってきた。
 接待は土地の壮者わかもの村娘そんじょうたちである。史進は、上座に三名をすえて、
「おお、よくぞお越しくだすった。昔から好漢おとこは好漢を知るという。月もよし、かつらの花影、ひとつ今夜は、心ゆくまで語ろうじゃありませんか。さあどうぞ、おくつろぎなすッて」
 と、さかずきをあげ合った。けるほどに、月は冴えを増し、露はたまかつらにちりばめ、主客の歓は尽きるところがない。談笑また談笑のくごとに、一の酒はからになるやと思われた。
 そのうちに、ふと、史進も客の三頭目も、何かへギョッとしたらしく口をつぐんだ。広い土塀の外を囲んで、うしおのような人馬の気配がひしひしとする。耳をすますと、こう聞えた。
「やあ史進、門を開けろ。開けねば蹴破るぞ。この荘院内やしきうちに、こよい少華山の賊どもが会合しておると、訴人そにんあって明白なのだ。四りんぐうのがれんとて、遁るる道はない。賊を渡すか、踏み込もうか。いかにいかに」

「さては、訴人があって、県城の捕手が、せてきやがったか、花にあらし月に雲だが、こいつアちっと早過ぎる」
 史進は、舌打ちして。
「お客人。なにもあわてることはない。しばらく、そのまま飲んでおいでなさい」
 彼は酒席から走り出していった。
 梯子はしごをかけ、梯子の上から、門外の人馬へ何かどなった。おびただしい松明たいまつのいぶりである。十文字鎗、五ツまたほこ袖搦そでがらみなどの捕物道具、見るからにものものしい。
「おうっ、あるじの史進か。このほうは県城の県尉けんいであるぞ。汝の手で、賊をからめて突き出せばよし、さもなければ」
「まあまあ、お静かに願おう。せっかく、賊の三頭目を招いて、うまく酔いつぶさせようとしているところへ」
「では、賊と汝とは、同腹ではないと申すか」
「笑わしちゃあいけません。大口を叩くようだが史家村一の旧家、親代々からの大名主おおなぬしだ。山賊ばらとぐるになって、なんの徳があろう。それよりは、三千貫の賞金は下さるでしょうな」
「もとよりそれは公布にあること。ただし即座にここで突き出せばだが」
「だからよ、少しりをひそめて、ここを遠巻きにして待っていておくんなさい。酒を飲ませて奴らを数珠じゅずつなぎに引ッくくり、そのうえで、ここの門を開けますから」
 史進ししんは、もとの宴へ帰ってくると、家人若者に命じて、にわかに、家蔵いえくらにある金銀財宝の目ぼしい物をまとめさせ、女子供からそれらの荷物までを、数十人の屈強にになわせた。そして屋後おくごわらぶき小屋へ、火をかけろといいつけた。
 驚いた三頭目は、
「な、なんでこのお屋敷を焼き払うので? ……まさか、われらをかばうためではございますまいな」
「いや、身の潔白をしめすためだ。こよいの出来事は、まるで貴公たちをわなにかけたようなものだから」
「ご冗談ではない。何が起ろうと、九紋龍どのがわなおとしたなどと思うわれらではありません。おうっ、待ってください、火をかけるのは」
 一方へは絶叫しながら、彼らはみずから後ろへ両手を廻し、覚悟のほどを見せて言った。
「かばかりいさぎよいあなたに、山賊渡世とせいのわれらが、おつきあいを願って、こんなご迷惑をかけたかと思えば、手前どもこそ申しわけがない。さあ、年貢ねんぐの納めどき、われわれに縄打って、県城の役人へ突き出しておくんなさい」
「ばかをいえ。そんなことをしたら、史進ししん一生の男がすたる。おれにそんな真似をしろというのは、おれに乞食をしろというのもおなじだ。……おお火の手はあがった。ともかく、ここは斬りひらいて、一時、おめえたちの山寨さんさいへ落ちのびようぜ」
 邸内の火を見て、門外の喊声かんせいもまたあがった。すでに、史進が鎗を小脇に門のかんぬきはずして躍り出したので、朱武、楊春、陳達らもともに斬ッて出ざるをえなかった。
 黒けむりはたちまち疾風雲はやてぐもけるに似、名月は血の色そのまま、剣光の雨と叫喚きょうかんを下に見ていた。――まもなくかるる風葉ふうようのごとく、県尉けんいの馬や捕手の群れは逃げ散ッた。
 また一方。少華山へさしてヒタ走りに走った人影の列もある。そして、すべてが去った史家村のせきたるあかつきを、なおまだ、旧家百年の大棟木だの土倉だの四隣の木々は、ひとりバチバチと火をハゼつつさかんな炎を狂わせていた。

 おもえばおれも愚かしい。――と史進は自嘲してつぶやいた。――先祖はさだめし嘆くだろう。だが持って生れた性分ではしかたもない。あのとき、あの身代よりも、三人の賊に対する一片の義の方が重い気がしたのだから、こんな子を生んだ罪はやっぱり先祖にあるんだ、と。
「……だが、この山寨さんさいに、いつまで、なすこともなくいたところで始まらない。そうだ、今は家蔵いえくらもない身まま気ままの体、先年お別れした王ご師範を尋ねて、延安府へ行ってみよう」
 少華山へ隠れてから約一ト月ほど後のこと。
 九紋龍史進は、思い立った胸を三頭目に打ち明けて、
「すまないが、ここへ避難した奉公人や若者は、時をみて正業に返してくれ。持ってきた金銀は、その折り、皆で分けるがいい。おれは、師匠の王進先生を尋ねてこれから関西かんせいの旅につく」
 もちろん、朱武、陳達らの賊頭も、村の人々も彼との離別を悲しんで、極力とめた。けれど、この流離りゅうりたるや、そもそも史進その人が、生れながらにして百八せい中の一星たる宿命だったことによるものだろう。――やがては、芦花ろか散る江頭こうとうの船べりに霜のほこをならべ、よしの葉かげに戦艇せんていをしのばすなどの水滸すいこさいに、かの※(「罘」の「不」に代えて「正」、第4水準2-84-76)※(「((危−厄)/(帚−冖−巾)+攵)/れんが」、第4水準2-79-86)てんこうちさつの諸星を会するにいたる先駆の第一星こそ、まさにこの人だったのである。
 ――さて、少華山を去って。
 ひょうとしてここに旅へ吹かれ出た史進の姿は、いかにも宋朝時代の若人わこうど好みないきづくりだった。
 白羊羅紗はくようらしゃの角を折った范陽帽子はんようぼうしには、薔薇ばら色のふさをひらめかせ、髪締めとしている紺の兜巾ときんにも卵黄らんこうの帯飾りをつけている。
 あくどい原色は嫌いなのだろう、服地も白麻のすそみじかな戦袍せんぽうで、紅梅織こうばいおり打紐うちひもを腰帯とし、美しい長剣をつるし、青と白との縞の脚絆きゃはんという軽快さ。もちろん足拵あしごしらえは長旅に耐えうる麻沓あさぐつだった。
 だが、身なりは粋に好んでみても、旅の宿とか食い物は選べもしない。野に伏し山にねだった。それも二十日余りの旅路。ほどなく渭州いしゅうという一市街についた。
「ははあ、ここにも経略府けいりゃくふ(外夷の防寨関)の一城があるのだな。ひょっとしたら、王ご師範の消息がわかるかもしれぬ」
 歩いてみると、城内も六がいといった賑やかさだ。雑閙ざっとうかどに、茶舗ちゃほが出ている。ずっと入って、床几しょうぎから、
「おい、おやじ。泡茶ほうちゃでも一杯くれ」
「はい、はい。……お客さまは、旅の衆でいらっしゃいますか」
「そうだ。おやじは知らんか。もと開封かいほう東京とうけいのお方で、王進師範と仰っしゃる人を尋ねてきたのだが」
「さあ、ここの経略府にも、王氏と名のるお方は幾人もおいでなのでなあ。どの王さんやら、それだけでは、どうも」
 すると外から大股に、ぬっと入ってきた壮漢がある。かたぶとりな肉塊ししむら濃緑こみどり緞子どんす戦袍せんぽうでくるみ、かしらには黒紗くろしゃ卍頭巾まんじずきん、それには金色の徽章きしょうがピカと光っている。
 さらにまなこの光もただならず、丸ッこいあから顔を、もじゃもじゃしたひげが取り巻いている。また腰なるは、太原風たいげんふうの帯ヒモとそして金環きんかんの飾りある剣。――問うまでもなくこれは軍装である。しかも身長みのたけ仰ぐばかりであり、腰まわりも普通人の倍にちかい。
「おおこれは、提轄ていかつ(憲兵)さまで。……ちょうどよい折へ。そこなお客さま。お尋ねのお人とやらのことは、こちらのお方へ訊いてごらんなされませ」
 史進は、床几しょうぎを立って、ていねいに、
「ぶしつけですが、ものをおたずねいたしますが」
「なんだ。なにかわがはいに用か」
「いえ。私は華州華陰県かいんけんの者で、史進と申しますが、もしや当地に、もと東京とうけいにおられた禁軍の師範王進というお方がおいでではございますまいか。或いはまた、なんぞそのお方のお噂でもご承知はありませんか」
「うんにゃ……」と、提轄ていかつはヒゲづらを横に振ったが、ぎょろっと見つめて、
「王師範は当所にはおられんが、しかし、あんたは、もしや史家村の史進じゃないのか」
「えっ、どうしてご存知なんで」
「なるほど、聞きしにまさる者だ。貴公のことは、もうかねがね聞いておる。また、お訊ねの王師範も知らんではない」
「失礼ながらご尊名は」
「経略府に勤務する提轄で、姓は、名はたつ
魯提轄ろていかつと仰っしゃるか。いや初対面とも思われない。こりゃどうも」
「そうだ、こんな縁を、かりそめごとにしてはすまん。どうだ、茶ではつまらん。どこぞで一こんあげたいと思うが」
「ありがとうございます。しかし王師範は、いったいどこにおいでなので」
「この渭州いしゅうの守護は、延安府の経略使※(「禾+中」、第4水準2-82-82)閣下ちゅうかっかのご子息が当っておられる。貴公が会いたがっている王師範は、たしか、※(「禾+中」、第4水準2-82-82)ちゅう閣下をたずねていったお方だろう。たぶん今でも延安に居るよ」
「そう伺って、ひと安心した。では、おことばに甘えて、お供いたしましょう」
「おやじ」と、魯提轄は、憲兵らしい顔をきかせて「――茶銭ちゃだいはおれにつけておけ」
 二人は肩を並べて往来へ出た。
 魯達ろたつ恰幅かっぷくも、史進の姿も、行きかういちの群集の中では群を抜いてみえる。
 行くこと数百歩、ちょっと歯の抜けたような町中の空地に、何やら真っ黒に見物人がたかっていた。
 気まぐれに、二人が人の肩ごしにのぞきこんで見ると、どうやら香具師やし口上こうじょうを述べたてているものらしい。
 香具師もいろいろだが、ここの空地でシャれ声を振りしぼッていたのは、三十がらみのせ浪人といった風な男。あかびかりした黒いほうに幅広な平帯の房を横に垂れ、りの強い象牙柄ぞうげづかの刀をいて、半月靴はんげつかの足の先をやたらに右や左と交互にね上げ、そしてしゃべる間に水洟みずばなをすすッたり、時にはチンと手洟てばなを放って、その雄弁をふるっている。
 しきりに、飛躍させているのは、足ばかりではない。左手にも右手にも一本ずつの杖を持ち、げんに応じ、気合いにこたえ、二本の杖を、二本の傘のごとくまわして見せた。
 ――それから、めッたに大道では公開しない秘術のかずかずを今日はごらんに入れよう――といっているような口上振れの最中だった。
「や、や。こいつあ奇遇だ」
 とつぜん、史進が人中でつぶやいたので、魯提轄ろていかつはその大きな眼を連れの顔へもどして。
「え、奇遇。あの香具師を、貴公はどこかで知っているのか」
「知ってるどころじゃありません。少年の頃、村で棒の手ほどきをうけた打虎将だこしょう李忠りちゅうです」
 そのとき、香具師やしの李忠の方でも、気がついていた。
「やあ、坊っちゃんじゃありませんか」
「やっぱり師匠だったね。何とこれは珍らしいところで」
「師匠なんて呼ばれちゃあ赤面します。おたくさまには長い間、居候していた厄介者の李忠に過ぎない」
 魯達ろたつが、横から口をはさんだ。
「そんなことあ、どうだっていいや。これから飲みに行く途中だ。貴様もこいよ」
「待ってください。いま見物へ膏薬こうやくを配ったところだ。そのぜにを集めてから、お供をする」
「なんだい、じれッたいな。きもせぬ膏薬などを売りつけやがって。早くしろよ」
「まあ待ってくださいよ、こっちは商売、先はお客、そう手ッとり早くはいきません。なンなら、先へ行って下さい。坊っちゃんも、提轄ていかつさんも」
「こらっ、見物人ども」と、魯達は、たちどころに憲兵づらを作って。「――横着顔して、すッとぼけるな。はやく香具師へ銭を投げてやらんと、ぶんなぐるぞ」
 毛の生えている魯達の拳骨こぶしを見ては、もうおしまいだ。銭などはビタ一文も降らず、見物の男女は、クモの子みたいに一ぺんに逃げ散ってしまった。

あしたうた女翠蓮めすいれんを送って、晩霞ばんか憲兵も逐電ちくてんすること


 渭州いしゅうでも街なかの州橋しゅうきょう橋畔きょうはんに、潘飯店はんはんてんという酒楼のみやがある。まず魯達ろたつから先に入った。
「こら。空いてるか、二階のたくは」
「オオこれは提轄ていかつ(憲兵)さまで。よくいらっしゃいました。さ、どうぞ階上うえへ」
 どこへいっても、魯提轄の職権と風貌とではこわもてときまっている。帳場のあいそもソラ耳に、彼は史進ししん李忠りちゅうのふたりをともなって二階へあがり、そこの一卓をめぐって、三人かなえのごとき大腰をおろし合った。
「おい。酒を早く出せよ。それから前菜ぜんさいはいうまでもないが、なんでも、美味うま料理ものをどしどし持ってこい」
 卓の賑わう間を、お互いに頬杖などして、四壁あたりを見ると、金箔板はくいたれん(柱懸け)しゅを沈めた文字で、
風ハトドコオ柳陰リュウイン太平ノ酒旗シュキ
酒ハホドク佳人ノムネノモツ
杏花キョウカアマクシテココロザシイマダシ
シバラク高歌コウカシテ酔郷ニ入ラム
 などとある対句ついくが読まれる。
 世事の慷慨こうがい、他愛もない談笑、三人はすっかりいい機嫌になりいい仲になった。酒も四角よんかく(四合入りの酒瓶しゅへいを何度卓へ呼んだことやらわからない。――だが時折、魯提轄の神経を針で突ッつくような興醒きょうざめが洩れてきた。さっきから、どこかでシクシクいっている女のすすり泣きである。彼はついに持ち前の癇癪かんしゃくを起し、片足でゆかをどんどんと踏み鳴らしながら呶鳴どなった。
「やいこらっ。給仕人」
「へい。四角よんかくのお代りですか」
「ばか野郎、いくら飲んだって、そばからすぐめてしまうわ。なんだいとなり部屋の雨だれみたいなベソベソは」
「どうもその……。あいすみません。お耳ざわりになりましたか」
「あたりまえだ。貴様にだって神経も耳もあるだろうによ。お連れしたわがはいのお客にだって相すまん。女だろ、あの泣き声は」
酒楼さかばあるきの歌唄いの親娘おやこなんでございますがね」
「ふウん。では貴様が弱い者いじめして泣かせやがったな」
「ご、ご冗談を。……それどころじゃなく、まだ夕方の灯にも間があるしと、隣の部屋で点心(菓子)などをやっていたわっておいたんですよ。すぐ追ッ払ってまいりますから」
「待て待て。貴様でさえ可哀そうだと思ってるものを、追ッ払わせて、それでわが輩の酒が美味うまくなるもんか。連れてこいっ、ここへ」
「かまいませんか。親父付きの娘でございますぜ」
「たわけめ。色気などじゃない」
 ――油じみた境のとばりを割って、やがて連れられてきた歌唄いの父娘おやこを見ると、もちろん夜の町でよく見る貧しげな流シの芸人。おやじは四ツ竹を持ち、娘は胡弓こきゅうを抱えている。
 うす寒げな白の袗衣うわぎに、紅羅あか裙子はかまを曳き、白粉おしろい痩せは、その頬に見えるだけでなく、肩にも弱々しげなかげがある。だが、髪にとめた安翡翠ひすいかんざし一つが、さして美人でもないこの娘の可憐さを、いとど秋の蝶のように眺めさせた。
「……やりきれんなあ、またここでも泣かれちゃあ。頼むから、泣くのだけはよせ。それよりは、何を悲しむのか、その理由わけをひとつかせないか」
「はい……」と、娘はやっと、嗚咽おえつからたもとを離した。そして、さっきからただ、詫び入るばかりだった老人とともに、
「わたくしたちは、もと開封かいほう東京とうけいの者でございますが、重い税にくるしめられて、商売もなりたたず、この渭州いしゅう流離さすろうてまいりました。ところが、心あての身寄りも今はいず、旅宿住居はたごずまいのうえに、母も長い病患わずらいで亡くなる始末で、もう売る物とて何一つございません。……で、つい人様の口に乗り、さるお方の世話になったのが、そもそもこんな苛責かしゃくと因果にしばられる間違いだったのでございました」
 と、“街のダニ”ともいうべき悪辣あくらつな男のわなにかかった始末を、ようやく恟々おどおどと打ちあけだした。

 よくある手で。――途方に暮れていた宿屋住居ずまいのこの父娘おやこにも、まるで地獄に仏のような親切者があらわれた。
 世の中にはこんな親切なお方もあるものか、と拝むばかりに信じさせておいたところで、男は宿屋の亭主をつかって、めかけになれと、半ば脅迫じみた話をもちかけた。ぜひなく身をまかせると、次には、家に入れて家具衣装も揃えてやろうが、それにはお前という者の体に大きな資本もとでをかけることだ。身代金みのしろきん三千貫の証文を書けという。
 ところが、身は引取ってくれたものの、本妻というのは老虎のような強い女で、三月みつきともたたないうちに、その家からいびり出されてしまった。それのみか、衣服一枚くれるでなし、もちろん、先に書かされた証文の金など、びた一文もくれはしない。
 あまっさえ、その後となると、こんどは男が空証文そらしょうもんをたてにとって「――先に渡した身代金を返せ」という強談判こわだんぱんだ。宿の亭主も事が嘘なのは、百も承知のくせにして、ぐるになってか、高利の日金貸ひがねかしみたいに日々、父娘おやこを責めたてる。しかも父娘はこうして夜な夜な渭州いしゅうの紅燈街に、はかない四ツ竹と胡弓こきゅう合奏あわせて、露命もほそぼそしのいでいるありさまなのに、ねぐらに帰れば、かせぎの七分は、まず鬼の手に搾取さくしゅされてしまう始末。「……もう死ぬよりほかには」と、つい狭い心につきつめられておりました、と語るのであった。
「……ふウム。ひでえやつがあるものだな。して、おやじさん、おまえの名は。また娘御はお幾ツだえ」
 魯提轄ろていかつは涙もろい。ぼつ然たるいきどおりの半面では、時々、まぶたをぱちぱちさせていた。
「はい、てまえの苗字みょうじは、きんと申し、娘は翠蓮すいれんといって、十九になりまする」
「泊っていなさる宿屋ってえのは」
「東門内の魯家ろけという安旅籠やすはたごでございますが」
「む。あの魯家か。いや、かんじんなのは、そいつよりも、親切ごかしに人の娘をもてあそんで、その上にもなお、おめえたちのしがねえ夜稼よかせぎの小銭こぜにまでしぼろうとしている悪どい野郎のほうだった。いったい、そン畜生は、どこのどいつだ?」
「そんなことをしゃべると、あとでまた、どんな恐ろしい目に会わされるかしれません」
「ばかアいえ。わが輩は州の提轄ていかつ(憲兵)で人も知る魯達だ。こわがらんでもいい。わが輩がついている」
「じつは、そのお方というのは、ていの大旦那さまでございます」
「鄭の大旦那?」
「はい、状元橋じょうげんきょうの西詰めで、大きな肉舗にくみせを構えていらっしゃる関西かんせいきッてのお顔ききの……」
「えっ、あの鄭か」と魯提轄は、ベッとつばでもするように唇を鳴らして「――鄭の大旦那なんてご丁寧にいうから、どいつのことかと思ったら、あの豚殺しのデブ野郎だったのか。ようし、わが輩の耳に入った以上、ただではおかん」
 魯達は、連れの史進ししん李忠りちゅうへ向って。
「お二人とも、ここで飲んでいてくださらんか。一ト走り飛んでいって、その悪党めを一ツうんとらしてまいるから」
 史進は、彼の短気なのに、あきれ顔だった。
「まあ、明日のことにでもなすったらどうです。せっかく今日は三人邂逅かいこうの愉快な鼎座ていざ。酒も話もまだこれからなのに」
「なるほど。それもそうか――」魯達はやっと、思い直した態で。「……じゃあ、ここでわが輩が持ち合せの五両を出す。すまないが貴公たちも、この不愍ふびん酒楼さかば芸人のために、一せきの歌でも唄わせたと思って、餞別せんべつをやってくれんか。……それを路銀に故郷へ帰してやりたいと思うが」
「おお、よいところへお気がついた」
 史進はすぐ十両出した。だが、膏薬こうやく売りの李忠には、ちょッと辛い。しぶしぶ二両ほど卓の上へおくのを見て、魯達は爪の先で、それをぽんとはじき返した。
「何だ、しみッたれやがッて、二両ばかしとは。――まアいいや、とっさん、十五両もありゃあ、宿屋払いをして、あとを路銀に国へ帰れようが。……あれまた、シュクシュク始めやがったぜ。よせやい、湿っぽいのはわが輩、大の禁物だと断っているじゃないか。さあさあ、これを持って今夜は流シも休み、早く宿へ帰って身始末の算段でもしておきねえ。なアに宿の亭主が何とかそうと、そんな心配は一切するな。わが輩がまた明朝、宿屋の魯家ろけのぞいてやるからな」
 これで、さっぱりしたのだろう。金翠蓮すいれん父娘おやこが何度も伏し拝んで立ち去った後も、三人は灯ともる頃まで、快飲していた。そして蹌踉そうろうと夜の街へ歩き出ると、やがて四ツ辻で、
「――ではまた、いつか会おうぜ」
 と史進、李忠、魯提轄ろていかつ、各※(二の字点、1-2-22)帰る先へたもとを別った。
 翌朝のことである。――魯達はもう例の憲兵服をまとった偉躯いくを場末町にあらわして、安旅籠やすはたごの魯家の入口に立っていた。
 見ると、軒下の手押し車に、小さい荷梱にごりや食器かごやボロを包んだ一世帯が、積んである。「さては翠蓮父娘おやこが旅立ちの荷物だな」と、何か安心されたのもつかの間で、奥の方から亭主のわめき声につづいて、翠蓮父娘のび声やら悲鳴などがガタガタ聞え出した。
「おいっ、きん父娘おやこ、なにしとるか。早く出かけろ、出かけろ」
 魯達の声を外に聞くと、宿屋の亭主が飛びだしてきて、こんどは彼に食ッてかかった。「翠蓮には貸金の証文がある。その取立てをてい旦那から依頼されているのに、このまま旅立たれてたまるものか。それともお前さんが代ッて三千貫をここできれいに払うとでもいうンですかい」と、血相もえらいすご文句である。
「ふざけるなッ、きさまも吸血鬼の一匹だな。このヤブ野郎」
 靴を高く上げて、彼の胸いたを蹴るや、軽くやったつもりだったが、亭主の体はまりになって三ツ四ツ転がった。
「……ち、畜生っ」と起きあがってくるのを、二度目の靴先が、さらに一しゅうを与えると、亭主の影の見失われたどぶから黒い泥飛沫どろしぶきがたかくあがった。
「この提轄ていかつめ、よくもうちの旦那を溝に叩ッ込みゃあがったな」
 ここに飼われている若い者の一人とみえる。けなげにもまきを持って撲りかかってきた。魯達は身もかわさず、その男のどこかをつかんだ。あッという声が宙をかすめたと思うと、男の体はひさしの上にほうり上げられ、廂を破って、どたんと大地へかえってきた。
「さあ、翠蓮もとっさんも、早く手車を押してここを立て。何をぶるぶるふるえているのか。わが輩がここで見送ってやる。かまわんかまわん、旅へ急げ」
 ――あと振り返り振り返り、朝霧の中を、渭州いしゅうの場末から立ち退いていく父娘おやこの姿へ、魯達ろたつもちょっと大きな手を振って見せた。そして彼自身はまた、やがて場末の辻から繁華な大通りのほうへ鈍々どんどんとして歩きだしていた。

「おうっ、大将。いつも繁昌だな。肉の上等なとこを、十きんさいの目に切ってくれんか」
 状元橋じょうげんきょうの橋だもと。精肉おろし売小売と見える大きな店のうちへ、ずっと入っていった魯達は、そこの椅子いすの一つへ、でんと腰をおろした。そして十人からの店員が立ち働いている肉切り台だの、その後ろにってある沢山な丸裸の豚だの、またそれとよく似ている主人のていが何か筆を持ってかがみこんでいた帳場の辺までを、ジロと大きな眼でめまわした。
「ようっ、これは提轄ていかつさまで」と、鄭は彼と見たので如才なく帳場を離れ――「おめずらしいじゃござんせんか。直々の御用なんてえのは」
「ベチャクチャいってくれんでもいい。今日はわが輩の主君、※(「禾+中」、第4水準2-82-82)経略使ちゅうけいりゃくし※(「禾+中」、第4水準2-82-82)は名、経略は外夷防寨の城主)の若殿のおやしきでご招待があるんだ。脂身あぶらみなどはちッともじらんとこを切れよ」
「かしこまりました。ヘイ、さいの目にね。おいよ店の衆、十きんがとこ、極く上々じょうじょうを急いで」
「おっと待て。きさまあ肉屋の主人じゃないか。関西五路かんせいごろの顔役とか何とかいわれて、こんな羽振りと繁昌を見ているのも、当地のご守護※(「禾+中」、第4水準2-82-82)ちゅう若殿のおひきたてによるものとは思わんか。自分で切れ」
「こいつアおそれ入りました。まったく、こんな時こそ、ひとつせいぜい……」と、鄭はさっそく、自身、肉切り台の前に立った。そして、さすが手練てなれた大きな肉切り包丁を鮮やかに使って見せ、肉も吟味に吟味して、やっとのこと、
「どうも、お待たせ申しあげました」
 と、大きなはすの葉にくるんで差しだした。魯達は、うなずいて。
「そこへ置け。次には脂身あぶらみばかりのとこを、もう十斤」
「へえ。脂身ばかしなんて、何になさるんで」
「よけいな詮索せんさくするな。それもさいの目だぞ」
「むずかしいなあ。が、ようがす」
 また小半刻こはんときもかかって、鄭がこれをも、包んで出すと、今度は豚の軟骨ばかりを十斤、同様に切れと魯達が命じた。
 これには鄭も、むっとした顔つきだったが、笑いにまぎらして。
「旦那あ、人が悪いや。おなぶンなすっちゃいけやせんぜ」
洒落しゃれたことをぬかすな。自体、きさまのつらなぶりものにできとるじゃないか」
「何をっ」と、ていのこめかみに、太い青筋がムラッと燃えあがった。「――おい、もう一ぺんいってみな。州の提轄だと思えばこそ、さっきから虫をこらえていたんだぞ」
「そうか。わが輩もきさまが本性をむきだすのを待っていたんだ。もう一皮むいてみせろ」
 いうやいな魯達は、はすの葉包みの二た包みの肉を、ばっと鄭の顔へ投げつけた。肉の雨を浴びたとたんに、ていも鋭利な骨削ほねけずり包丁を持って、肉切り台を躍りこえ、
「うぬ。やりゃあがったな」
 一せん、ずんぐり丸い巨体を低めて、魯達のふところへ体当りしてきた。
 ぴしゃッと、大きな響きがしたのは、魯達の平手が瞬前に彼の横顔をはたきつけたものらしい。よろっと、泳ぎかけるその弱腰へ、もひとつ、
「今日の相手は、ちと違うぞ。この豚めが」
 蹴足をくれて、店先から街上へ吹ッ飛ばした。
 鄭は火の玉になって起き上がる。だが、立つやいな魯達の鉄拳てっけんに眼じりを一つ見舞われて「げふっ」と奇妙な叫びをもらした。――ところは状元橋じょうげんきょうの目抜き通り、たちまちまっ黒な見物人の弥次やじ声がまわりをつつむ。関西五路かんせいごろの顔役としては、いまさら、逃げもできなかろう。執念ぶかく魯達の大腰にしがみついて離れない。
「ええい街のダニめ。よくもあわれな歌唱いの父娘おやこを、骨のずいまでしゃぶりやがったな。この味はその利息だ」
 振りほどいて突き上げた鉄拳は、鄭のあごを砕いたとみえ、仰向けにぶったおれた顔は血を噴いて、完全に伸びてしまったようすである。
「ざまア見さらせ」と、魯達はなおも彼の胸いたを踏ンづけて見得みえを切ったが、鄭の反抗はそれきりだった。ひょいと見ると、片眼は眼窩がんかから流れ出し、歯は舌を噛んでいる。「……しまった、こいつはいけねえ、死んじまった」
 魯達は、ちょっと後悔の色を見せた。そしてすぐ見物の群れを割って去りかけたが、一するや、わざと後ろへこんな捨て言葉をなげうった。
「ち。口ほどもねえ空つかいめ。くたばった振りなどしやがって」
 ――状元橋を渡るやいな、彼の歩速はだんだん早くなっていた。「つい、大変なことをしてしまった。人民の安寧あんねいを守る提轄ていかつが、人民を撲り殺した。こいつは、ただですむはずはない」と、心中の自責に追ッかけられている風だ。
 彼は、自分の下宿へ帰るやいな、そそくさと持ち物や小費銀こづかいがねをふところにし、その月の下宿代だけを部屋に残して、ぷいとどこへやら飛びだした。手には一しんの棒をかいこみ、斉天大聖せいてんたいせい孫悟空そんごくうが、雲をけるにさながらのていだった。
 時もあらせず同日の午後には、州の王観察おうかんさつなる役人が、同心捕手あまたを連れてここの下宿屋へ殺到したが、すでに魯提轄ろていかつは風を食らってしまったあと。
 さはいえ五路ごろの顔役、鄭の遺族や乾分こぶんには財力もある暴力もある。また旅籠はたごの魯家からも、同時に大げさな訴えが州役署へ出されていた。当然、府尹ふいんもこれは捨ておけなかった。――逃亡した提轄ていかつ魯達にたいしては、天下の随所ずいしょ、いついかなる土地なりと、見つけ次第に逮捕たいほ処分構いなし、の令が出された。わけて特徴いちじるしい彼の風貌背丈せたけなどの詳細な人相書がともに諸県へわたって配付されたのはいうまでもない。

蘭花らんかまぶたは恩人に会ってなんだし、
五台山の剃刀かみそりを坊主とすること


 食うはしには腕力の要がない。豪傑も案外、職を失うと世間に弱い。逐電ちくてんの後の魯達ろたつは、野に伏し山にね、今は、空き腹も馴れッ子のような姿だった。
 漂泊さすらうことも幾月か。彼の姿はほどなくここ代州たいしゅう雁門県がんもんけん(山西省北部)の街中に見出される。街はしゅう支里しりの城壁にめぐらされ、雁門山がんもんさんる雁門かんは、つねに、北狄ほくてきの侵略にそなえていた。しかも古来たびたび、匈奴きょうどの南下に侵された歴史の古い痍跡きずあとは、今とて、どこかここの繁華に哀しい陰翳いんえいを消していない。
「おや、ここでもまた、掲示に人だかりがしてやがる。この辺まで落ちてくれば、もう、よもやと思っていたのになあ」
 辻の人混みにまじって、魯達は暢気のんきそうに、逮捕たいほ告示と、自分の人相書を眺めていた。
――代州雁門ガンモン県署、コレヲ告示ス。
渭州イシュウニオケル殺人犯ノ軍籍者、提轄テイカツ魯達ナル凶徒、コノ地方ニ立廻ラバ即刻、官ヘ[#「官ヘ」は底本では「官へ」]速報スベシ。庇護ヒゴ行為ノ者ハ同罪タルベシ。モシ又、上告ノ善ヲスアラバ、即チ、賞一千貫モンクダサルル者也
 魯達のすぐ耳のそばで、声を出して読んでいる男や、杖の上に白髯はくぜんあごを乗せている老翁や、心おぼえに筆写している書生風なのや、女や労働者や物売りやら、なんとも雑多な陽溜ひだまりのにおいがれ立っている。
 それを他人ひと事みたいな顔で眺めていた魯達は、
「……お、おい。なにをするんだ、なにを」
 しきりに、自分のたもとを引ッ張る後ろの老爺ろうやを振り向いて、眼にかどを立てたが、
「おや、おぬしは翠蓮すいれんの」
「しっ。……ま、こちらへ」
 老爺はしゃ二、彼を人なき所まで引っ張っていった。そしてさて、大きな吐息を一つあらためてほっとついた。
「さっきから、よう似たお方と見ていたら、やはり恩人の魯達さまでございましたな。てもまあ、なんたる大胆な……」
「おやきんとっさんだったのか。こいつあ意外だ。故郷くにへ帰ったものとばかり思ってたら」
「じつはあれからの旅路で、この地方のちょうと仰っしゃる分限者ぶげんしゃに行き会い、その方のお情けに囲われて、今では娘の翠蓮も、この土地で一戸を持っておりますので」
「オイオイ。また口のうまい豚野郎に、ころりといかれているんじゃないか」
「いえもう恩人さま。その人はていなどと違って真面目まじめなお方。翠蓮もあなたのお蔭だと朝夕口癖のように申しております。何よりは今の暮しを見ていただくのが一番。さ、どうぞおいでくださいまし」
「ど、どこへ連れていくんだわが輩を。……なに妾宅。そいつア苦手だナ」
「ま、そう仰っしゃらずに」と、金老爺きんろうやは無理に娘の家へともなって帰った。それと聞いて、奥から走りでた金翠蓮すいれんが、
「まあ。……魯達ろたつさま」
 と、蘭花らんかまぶたにすぐ涙をうかべ、この零落れいらくの恩人をぐうするに、細やかな心かぎりを見せたのはいうまでもない。
「ともあれ、お湯浴ゆあみでも」
 と風呂をすすめ、その間に、下男女中をとくして、鮮魚、若鶏わかどりの物などの手早い料理、さて杯やら銀の酒瓶ちろりやら、盆果ぼんか点心てんしん(菓子)なども取揃えて、席も卓の上席にあがめ。
「さ、どうぞお一杯ひとつ。そして心からおくつろぎくださいまして」
「眼がくらみそうなご馳走だな。どうも近頃のわが輩には、もったいない」
「恩人さまに、こんな流浪のお苦しみをかけたのも、思えば全く私ども父娘おやこのためで」
「よしてもらいたいな、いちいち恩人さま恩人さまといわれちゃあ、なんだか酒も美味うまくなくなるじゃないか」
「はいはい。もう申しませんが、もひとつだけ、いわせていただきます。あれ以来は、紅紙べにがみのおふだにお名前をしるし、朝夕お線香を上げて娘と拝んでおりました。ですから今日のご縁も、神仏の巡り合わせと思わずにおられません。のう翠蓮、おまえもこんなうれしいことはあるまい」
「なんといっていいんでしょう。私はもう、何だか、泣けて泣けて……」
「こりゃあいかん。お志は万々うれしいが、翠蓮のシュクシュクだけは、わが輩、ご馳走にいただきかねる」
「ま、ごめんなさい。ほんに涙はお嫌いでございましたのにね。もううれし泣きもいたしませんから、陽気にお過ごしあそばして」
 ところが、やがて黄昏たそがれ近い頃、戸外そとでがやがや人騒ぎが聞えだした。風の音にも心をおく身、魯達が窓から下をさしのぞくと、手に手に棍棒などを持った若者二、三十人をひき連れて、馬に乗った長者ちょうじゃ風の一人物が、しきりと妾宅の内外うちそとうかがっている。
「来たな」と、でも直覚したのか、魯達が裏屋根へ躍りでようとしたので、金老爺ろうやはあわててその腰帯をつかまえた。
「魯達さま、お待ちください。外へ来たのは、翠蓮がお世話になっている趙家ちょうけのおあるじでございます。ちょうの長者も、かねがね娘の話を聞いて、いたくあなたさまの義侠に感じておいでだったのに、なにか勘違いでもなすったに違いございません。ま、ちょっとこの老爺ろうやがわけをお告げしてまいりますから」
 あたふたと、きんは階下へ馳け下りていった。ほどなく、事は氷解したものとみえ、若者たちは追い返され、趙の長者一名だけが、老爺にともなわれて上がってきた。
「はははは。どうも変な気を廻して、とんだご無礼におよぶところでした。わしが翠蓮を世話しておる趙という者ですが、そこもとがかねて聞きおよぶ魯達どのか」
「いや、お互い危ないところだった。いかにもわが輩が提轄ていかつくずれの魯達です。どうもお留守ちゅうにうかがって」
「なんのなんの。事、さように分ったらこれも一つの奇縁。翠蓮、こよいはお前の恩人を交じえて大いに楽しく飲もう。酒肴さけさかなもすっかり新たにかえるがいい」
 長者のふうというか、ちょうは五十年配だが頗る大容おおような人柄に見える。あるいは義心の人に報ゆるに義心をもって接しようと努めているのかもわからない。灯はけて酒興もたけなわに入ると、
「どうです、魯達どの。こんな街中では気もゆるせません。ひとつ私の田舎へきて、ゆっくりご逗留とうりゅうなさいませぬか」
「かたじけない。して田舎のお屋敷というのは」
「わずか十里の郊外、七ほうそんと申す静かなところですが」
「なんらのあてもない身空みそら。甘えるようだが、そいつは一つご厄介をねがおうか」
 この話には、翠蓮父娘おやこもわがことのようによろこんだ。かくて趙の長者と馬を並べて、魯達が山紫水明な七宝村へ入ったのは次の日のことだった。
 長者の邸は富にかせたものである。魯達には窮屈なほど下へもおかない。彼の恐縮を、趙は笑って、
「なにもそうお固くなるにはおよびませんよ。四海みな兄弟という言葉がある」
 げにもそうだが、世間はそうではない。余り長居も――と十日目ごろには暇乞いとまごいをと思っていると、その晩の酒宴で、趙がこんな相談の口をきりだした。
「へんなおすすめだが、これも宿世すくせの約束ごとやらも知れぬ。……とお考えなすって、ひとつ僧籍にお入りになってみるお気持はありませんか」
「えっ坊主に。……これは驚いた、わが輩に坊主になれと勧めたのは、ご主人、貴公が初めてだな。元来、みじんの仏性もないわが輩に」
「無理にともおすすめできませんが、じつは先日、あなたを怪しんで、街の若者をかたらい、翠蓮の家の前へ押しかけさせたため、あれが噂のもとになって、その後ちらちら油断のならぬ風説をちまたで耳にいたします。万一があってはと、私もひそかに自責を覚えておるものですから」
「いや、この上ご迷惑をかけては、魯達こそ申しわけない。すぐにも退散するとしよう」
「いやいや。その前に、いま申した僧侶に転化てんかする生き方もあるということを、ここでご一考なすってみては、どんなものかな。……もしお気があるなら万端の手続き費用、また五度牒どちょう(官印のある僧籍免許状)などもさっそく調ととのえるが」
「いったい、寺入りするといえば、どこの寺へなので」
「ここより三十里彼方かなたに、五だいさんという名山がある。一山の大道場は文殊院もんじゅいんといって、結構けっこう壮麗、七堂の伽藍がらん多宝塔たほうとうの美は翠色にえ、七百の出家たちの上にある碩学せきがく智真ちしん長老といって、私とは兄弟分ともいえる仲でして」
「ほ。なんだか悪くない気もしてくるな」
「しかも、父祖代々からの大檀越おおだんおつでもあり、寺の造立ぞうりゅうや行事には、寄進はもちろん、なにごとにも座主ざすの相談にあずかっておる次第。ただひとつ、願望として欠けているのは、わが家から有縁うえんの一僧も寺籍に加わっていないことだけです。どうでしょうな、魯達どの」
「やってみるか、ひとつ」
「はははは。やってみるでは困りますがね」
「いや、発心ほっしんしよう。この辺で魯達ろたつも大人しく人なみに返れという亡母亡父のおさとしかも知れん。お願い申すといたしましょう」
 彼にとっては一大転機にちがいない。ちょっと淋しげな顔もしたが、話はきまった。
 なにかの準備に、数日は要した。さて入寺にゅうじ登山の日となれば、二ちょう山轎やまかごの荷持ちの男どもが五台山へさしていった。すでに一山の長老や僧衆とも、得度とくどの式、贈物ぞうもつ施入せにゅう、あとの祝いなど、諸事しめし合せはついている。
 かごは山僧大列の中を通って、方丈の前で降り、まず、喫茶きっさわんを拝し裏の井泉せいせん垢穢くえを洗う。……ほどなく梵鐘ぼんしょういんいんと鳴る中を導師どうしに引かれて、長い廊をうねり曲がり、三尊の灯華ちょうかおごそかな本堂へ進む。
 見ると、一つの禅椅ぜんい(寺椅子いすいていたので、魯達は澄ましこんでそれに腰かけた。するとちょうの長者は、大いにまごついて、坐りかけた身を起し、禅椅にっている魯達のそばへきて、彼の耳へ口をよせてささやいた。
「あなたは、ここへきて出家を願う身、一山の長老と差し向って腰かけたりしてはなりませんよ」
「あ。なるほど」
 魯達は後へ退がって、長者の趙とともに、新入生のように立った。
 正面には長老、首座しゅそ、以下順に東西二列となって、紫金紅金しきんこうきん袈裟けさ光りもまばゆく立ち流れて見えたのは、維那いの侍者じしゃ監寺かんす都寺つうす知客しか、書記らの役僧たちか。――いずれも大きく口を結び、眸を澄まし、見るがごとく、見ぬがごとく、新入りの魯達をひそかに凝視のていだったが、どの顔つきにも「……はてな?」と、いいたげな怪訝いぶかりが甲乙なくただよっていた。
 そうした心のうちで、誰も彼もが密かに思うらく。「……どう眺めても、いかにもぶっそうな人相だな」「あれで出家発心ほっしんとは?」「……趙檀越ちょうだんおつのご推薦だが、あの気味わるい居ずまいの不遜ふそんさといったらない」「……だが、長老もおひきうけとあれば」などと、声なきものも、自然、並いる姿の目鼻には妙な微風となって現われずにいなかった。だが、どこ風吹くかの魯達は、この森厳しんげんさと山冷えに、くさめでも覚えてきたか、しきりと鼻にしわをよせて、鼻をもぐもぐさせていた。

 なにを感じ入ってしまったのか、まるで棒を呑んだように魯達は直立のままでいる。趙の長者はふと気づいて、また隣のたもとをそッと引っ張って注意をあたえた。
合掌がっしょうです……合掌作礼さらいしなければいけませんよ。あなたのために、いよいよ上人しょうにんさまが、お剃刀かみそりの式をとるのですから」
「あ、そうなんで?」
 魯達もあわててを合せる。――見れば長老の上人は、払子ほっすを払って、やおら禅椅ぜんいかかった様子。大香炉こうろ薫々くんくんたる龍煙りゅうえんを吐き、この日長者が供えたお香料こうりょう銀子ぎんす、織物、その他の目録にまずうやうやしく敬礼きょうらいをほどこす。そこでがいせい、魯達が発心ほっしんによる出家得度とくどの願文を高々と読む。
 ……終ると、香煙の渦の中にある上人しょうにんの顔は、そのままいつのまにやらじょうに入ったすがただった。膝にいんを結び、趺坐瞑目ふざめいもくすることしばらく、やがてのこと、何かがり移ったようにこういった。
「――善哉よいかな、善哉。このおとこはこれ、天の一せいにつらなる宿性しゅくせい。元の心は剛にして直なり。粗暴乱行はしばし軌道を得ざるがためのみ。ゆくゆくは悟りにって、非凡の往生、必ずや待つあらん。……ッ」
 とたんに、法鼓ほうこがとどろき、再びの梵鐘ぼんしょうが鳴ると、二人の稚子僧ちごそうが進んできて、魯達のかぶっている帽子をとらせ、彼の手をとって上人の法座の下へ、ひざまずかせた。
 役僧の維那いのが、お剃刀かみそりを持って立つ。侍者じしゃ耳盥みみだらいを捧げ、都寺つうすくしをとって、魯達の髪の毛を九すじいてつかね分ける。……剃刀はジャリジャリと、彼の横びんから頂天の方へお月さまでも描くようにり上げてゆく。
「……?」
 魯達はへんな気持ちである。自分の容貌がどんな珍しいものに変ったろうかと気味わるかった。が、頭が急に寒々と剃り終って、その剃刀がひげのところへくると、彼は慌てた。
「あ。待ってくれい。ここらは、ちッとぐらい残しといておくんなさいよ」
 衆僧は、どっと笑う。――それをしずめるように、法座の智真ちしん上人が、大喝だいかつをとなえた。
「――寸草スンソウトドメズ、六コン清浄ショウジョウナリ。汝ノタメ剃ッテ除キ、争競ソウキョウマヌガレセシム。……ツ、ミナ剃リ落セ」
 魯達はもうベソもかけない。ここで首座しゅそは、長者に代って九花の度牒どちょうを法座にささげ、新発意しんぼち魯達のために、願わくば“法名”を与えたまえとう。
 上人は、おごそかにまた、次の一をくだして、度牒を書記にわたし、書記は筆を取って「法名」をそれに書きこむ。にいわく。
霊光れいこう一点    価値かちきん
仏法広大    賜名智深ちしんとなをたもう
 すなわち、新発意の僧名は“智深ちしん”と名づけられたのだ。――書記からその度牒を手渡されると、これで彼も形だけは出家なみの一人となったわけである。それから、長老は、彼の青いテラテラな頭上へ手をのせて“かい”を授けた。
「一に仏法に帰依きえ、二に正法しょうぼう帰奉きほう、三に師友に帰敬。これを三という。……次の五戒とは、殺生、偸盗ぬすみ、邪淫、貪酒どんしゅ、妄語のことじゃ。守るか」
「はい。守ります」
 魯智深ろちしんが答えると、なぜかまわりでまた笑った。禅の宗門では、ただ「おう」とか「否」とか一語で答えるのが作法だからで、智深はことごとに顔を赤くするばかりだった。
 晩には雲堂うんどう大饗たいきょうときの馳走)が行われた。趙の長者から祝いの品々や心づけが端から端まで配られた。――こうして長者は、翌日、下山にさいして、魯智深を一人、選仏場せんぶつじょうの木蔭へ呼んで、しんみりと言い残した。
「馴れぬ生活で、初めのほどはお辛いでしょうが、どうかみッしり修行して下さいよ。長老にも、くれぐれお願いしてありますから」
「どうも、えらい厄介やっかいになりましたな。が、ご安心してください。もうこの頭では、生れ変って大人しくなるしかありません」
 と、彼は青い頭を叩いてみせた。
 だが、趙の山轎やまかごを見送って、叢林そうりんの一房に帰ってくると、彼はもう長者の言も忘れ顔に、ごろりと仰向けに寝ころんでいた。
 すると、禅床ぜんしょうで修行中の二、三名がのぞきにきて。
「おい、新発意しんぼち。なぜ坐禅でもしないのか」
 むくむくと身をもたげると、魯智深ろちしんの方こそ、なんとも不審そうに、両手で頬杖したままいう。
「三のうちにも、五戒の中にも、寝ころんじゃいけないという“かい”はなかったぜ」
 修行僧は呆れて、首座しゅそに訴えたが、首座も手がつけられないとみたか。
「いや、あの方外人ほうがいじんは、長老にいわせると、なんでも天の一星の宿性をうけた者とかであるそうな。当分はまあッといてみるしかあるまい」
 智深の起居は、まるでところを得た猛獣のようなものである。誰も干渉の仕手がないのをいい気にして、眠れば雷のごときいびき、むれば、仏殿の裏、浄林じょうりんの蔭、ところ嫌わず放尿ほうにょうもするといったていたらく。
 ――かくて早くも五台山の夏から秋の四、五ヵ月も過ぎ、ときは紅葉の燃ゆる晩秋の頃となった。
 なんとなく里恋しく、魯智深は墨染すみぞめの衣に紺の腰帯ようたいをむすび、僧鞋くつを新たにして、ぶらと文殊院もんじゅいんから麓道ふもとのほうへ降りていった。
「……はてな。こいつはたまらぬぞ。ぷウんと、久しく忘れていた香が、どこからともなく風にのってくるが?」
 それは秋草の花の香ならぬ酒の匂いだった。
 数歩のうちに、下のほうから一の酒桶をかついで登ってくる男が見えた。魯智深は、はからずも巡り会った恋人にでも引かれるように、
「おい、ちょっと待った」
 と、男のにない棒へ手をかけて押しとどめた。

百花の刺青いれずみくれないの肌に燃え、
和尚の大酔に一山いっさんもゆるぐ事


 荷担棒にないぼうの酒桶は、男の肩の両端でブランと揺れた。もちろんフタの隙からこぼれ出た少しの酒が男の膝や地へ沁みこんで芳醇な香をふんだんに放ったのはいうまでもない。
「あっ。も、もったいねえ」
 おさえていた棒先の片手をそのままに、魯智深ろちしんがこぼれた酒を鼻で追っていくような恰好を見せたので、酒屋男はなおぎょっとして怪しんだ。
「な、なんでござんすか、お坊さま。いったいなんの御用でてまえをお留めなすッたんで?」
「酒だろう桶の中は。どうも、たいした酒だな。どこへ持っていくんだ」
「山上の仁王門にご修理がございますので、そこに泊りこみで働いている塗師ぬし瓦師かわらし仏師ぶっしなどの職人方へ売りにいきますんで」
「ふウむ……」と、智深は絶えず鼻うごめかせながら「畜生。うまくやってやがるなあ」
 ――そこで彼はもう一言ひとこと、おれにもそれを売ってくれい、とのどの辺までは出しかけたが、ぐっとつばをのむ音をさせて。
「どうも坊主はまことに不便だな。が、まあ……出家の身だ、死んだと思ってあきらめようかい。……やい酒屋」
「へい」
「こぼさずにかついでいけよ。石コロ坂に飲ませたって、坂道がいい色になって嬉しがりはせんぜ」
「どうもご親切さまに」
「ふざけるな、わが輩は泣きてえんだ。いまいましい奴に出ッくわしたわえ。早く行ッちまえ」
 眼をつむって、そこは大股に馳け去った。そしてやがてのこと。ふもと明媚めいびな風光がひらかれてきたと思うと、また下のほうから、いとものどかな鼻唄調子が聞えてきた。
 この辺は、かん高祖こうその大軍をやぶった古戦場である。またかの有名な項羽こうう虞美人ぐびじんが最期の悲涙を濡らして相ようした烏江うこう夜陣やじんのあとも近い。だから附近の牧童や里人さとびとも今にそれを俚謡りようとして歌う。
九里さんの草木は知ってるとサ、戦場のあとだとサ
おらも拾ったよ、サビ刀、土になった槍
烏江うこうの水は風に捲かれて、アレ見せる
虞姫ぐき項羽こううの、別れともない身もだえを
「おや、また何か担いできやがったぞ。ほほう。やってくるのはまたぞろ酒屋男だわえ。どうも今日はよくよく運の悪い日とみえるな」
 おそらく、うさん臭い大坊主と先に恐れたのだろう、酒屋男は鼻唄をぷつんとやめた。そっとスレ違おうとしたのである。だが、あいにくな山坂である。ばしゃッと桶のうちから少し揺りこぼしたからたまらない。魯智深はぐらっと目眩めまいにくるまれて。
「おッと、と、と、と。……こら待て酒屋、どうも貴様は不量見なやつだな。なぜこぼす」
「ど、どうかご勘弁のほどを。……お法衣ころもでもけがしましたか」
「うんにゃ、さに非ず。穢されたいのだ。その桶の酒をわが輩に売れい」
「めッそうもない。沙門しゃもんのお方に酒を売るのは御本山の法度はっとなんで、そんなことしたら、てまえはこの土地に住めなくなります」
「かまわん。もう我慢ならぬ」
「かまわんたって、こっちには妻子もおりまする。お売りするわけにゆきません」
「えい、七面倒な」
「あ痛ッ」
 軽くやったつもりだが、酒屋男は天秤棒てんびんぼうから肩をはずして、もんどり打ッた。
 一は倒れ、一荷は無事だった。――智深はあわてて倒れた桶から先に救いあげ、また一方も持って、軽いのと重い桶とを、両手に引ッ提げたまま彼方かなたの見晴し台のちんへ走りこんだ。
「ほうれ、あたいはとらすぞ」
 何を投げたのか、腰をさすッている酒屋男のほうへ、物代ものしろをほうるが早いか、彼はもう桶のフタをとっていた。そしてかわいた巨獣が流れに鼻を沈めるような姿で、がぼ……がぼ……がぼ……。
 ぷるん、と時折、首を上げて舌なめずりをし、顔を横にあごしずくを振って切る。
「う、うっ。たまらぬ」
 重いほうの桶は、まず片づけた。さすがに少し骨が折れるらしい。
「てへへへ。まだ底に残っておるな。ようしっ」
 墨染すみぞめ法衣ころもねて、諸肌もろはだぬげば、ぱッと酒気にくれないを染めた智深が七尺のりゅうりゅうたる筋肉の背には、渭水いすい刺青師ほりものしが百日かけて彫ったという百花鳥のいれずみが、春らんまんを、ここに集めたかのように燃えていた。
「……ううい。ああ、なんとよい眺めだ、絶景絶景。腹の虫も雀踊こおどりしおるわ。……待て待て、まだまいるぞ」
 軽いほうの桶の耳を両手でつかんだ。毛の生えている丹田たんでん(下腹)がぐうっとそッくり返ったと思うと、桶の中から滝を呑むように飲みだした。もちろん、その何分の一かは、あだかも岩肌を伝う小さい渓水たにみずみたいに彼の胸毛や法衣ころもをビシャビシャにして地に吸われている。
「むむ、これで、まずご満足、ご満足――」と、智深はたちまち混沌たる愉快にくるまれてきたらしい。天地万物、すべて我れのためにあるかのような心地とみえる。ふと、ころがッている足もとの酒桶を、つくづくと見すえて、
「……はてさて、貴さまも空ッぽになってみるとつまらんやつだな。智深和尚の引導いんどうを、せめてこの世の冥加みょうがと思えや。ッ」
 と、麓へ向って二つとも蹴放った。一個は空天に躍って森へ沈み、一個はすぐ下にいた牛の群れの中に落ちた。びっくりした牛が跳び別れて、やがて後から、のろまな啼き声が長く聞えた。智深は手をたたいてうち笑い、蹌々踉々そうそうろうろう、どろんこになって、ほどなく五台山へもどってきた。

「ちイ、このなめくじ野郎め、な、な、なんでこの魯智深ろちしんを、通さんとぬかすのか」
「とんでもない仏弟子ぶつでしだ。こら智深、ここは山門だぞ、山門だぞよ」
「なアるほど、文殊院五台山の山門らしい」
葷酒クンシュ山門ニ入ルヲ許サズ。とそこにそんな大きな制札も立ってある。もし破戒飲酒の僧あらば、青竹で四十ッ叩いて寺域追放のおきてだぞ」
「おもしれえ。ちょうど按摩あんま代りになる。おい番僧、いっちょうやってくれい」
 ところへ、騒ぎを聞きつけて、監寺かんす提点ていてん蔵主ぞうす浴主よくすなどの役僧などから、工事場の諸職まで、まっ黒になって様子を見にきた。たちまち門の番僧らと一つになって、
「やあ言語道断。破戒堕落の外道げどうなど、一歩も不浄者を入れることはならんぞ、水でも浴びせろ」
 とばかり智深をこばんで、その大きなたいを突きもどし、さらに山門前の石段へ突きころがした。
 さあたまらない。「――やったな」と智深は四つン這いになって上をめあげた。一段一段、大象だいぞうのようにゆっくり登ってくる。恐ろしさに役僧どもも職人もタジタジと後退あとずさりした。智深はいよいよおもしろくなった。まるで彼の遊戯のお相手のために大勢そこへ出揃ってきたようなものだった。
「そうれっ。片っ端からつまンで捨てるぞ」
 躍り立つやいな、事実、彼の左右の腕、両の足から、さながら塵芥ちりあくたみたいに人間がね飛んだ。――わあっと逃げるを追って、彼はなお、伽藍がらん、堂院、いたるところで地震のような音響と悲鳴をまき起し、あげくのはて蔵殿ぞうでんの一室へ入ると、大の字なりに寝てしまった。そのいびきたるやまた山谷さんこくを揺するがごときものであった。
 それに呆れているどころか、後の始末やら物議こそまた一とめだった。番僧たちは、監寺かんす提点ていてんなどを先に立てて、智真長老の座下へ迫った。
「かかるためしは、わが文殊院五台山の開山以来ありますまい。霊域に魔獣を飼えとは釈尊しゃくそんのりにも聞きおぼえぬところ。よろしく即時ご追放あッてしかるびょう存じまする」
「まあ、まあ。そういわんで、こんどだけは慈悲の眼で見てやれんかのう」と、智真長老は慰撫一方のていで努めていう。
「――大檀家だんか趙大人ちょうたいじんのお顔もあることじゃし、明日ともなれば、わしから智深にきびしく諭戒ゆかいを加えて、以後きっと、慎ませようで」
 囂々ごうごうたる不平はたいへんなものだったが、長老の鶴の一と声。ぶつぶつ引き退がるしかなかった。
 翌朝。――智深はむっくり起きに、蔵堂ぞうどう裏の竹林へ出て、こころよげに放尿していた。そこへ上人のお召しときたので、彼は大慌おおあわてに後へついていき、おそる畏るその座下にうずくまった。
「これっ智深。おまえはどうも困ったやつ。察するに病持やまいもちだな」
「いいえ、体はこの通り人一倍丈夫ですが」
「何をいうぞ忘れッぽいという一病があると申すのじゃ。得度とくどのさい授けた五つのかいと、三を忘れたの」
「あ。やまいとはそのことで」
「さればじゃ。昨夜の大酒乱行はそも何事ぞ。山門の清規せいきを破って、あのざまは」
「もう、しません」
「きっとか。以後忘れないか」
「つつしみまする。はい。きっと、つつしみまする」
 しおしおと、智深は禅床ぜんしょうへ引き退がった。もう人の耳こすりや潮笑にも、めったには怒らないぞと、顔に錠前じょうまえをかけたような無口に変った。
 だが、その年も暮れて、待つに長い山上の春がやっと訪れ初めた翌年の三月初めの頃、智深はぽかんとふもとの空を眺めやっていたが、そのうちにふと、トンカン、トンカン、鍛冶屋かじや鎚音つちおとが風にのって聞えてきた。――と、なに思ったか、ありあう銀子ぎんすをふところにねじこんで、ぷいと僧堂をとびだし、今日は少し道をかえて“五大福地”とがくにみえる大鳥居をくぐり、東の参道坂をどんどん降りていった。
「おや、こりゃあ何とも賑やかだわえ。こんな聚落じゅらくがあったとは今日までまったく気もつかなかったぞ。あほう、どうしてわが輩はいままで五台山下に門前町があるべきことを思わなかったのか。だがまアいいや、遅いにしても帰命頂礼きみょうちょうらい――」
 彼は、にわかにうきうきとあるいた。眼もキョトキョトとせわしなかった。肉屋がある、酒屋がある、女の嬌声きょうせい、赤ン坊の泣き声、さてはなつかしい大道芸人の音楽だの、古着屋、八百屋、旅人宿、うどん屋の婆アさんまで、かつての日の渭水いすいの場末も思い出されて、どれもこれも悪くない。
「ああやっぱり人間界はいいなあ」
 その人間臭い街のなま温いものに久々でくるまれながら、ぼんやり通り過ぎかけて、
「おっと。ここだっけ」
 と、一軒の鍛冶屋かじや土場どばへのっそりと入った。
 山上にまで、テンカン、テンカン、こだましてきたのはここの鎚音つちおと鉄台かなしきの響きにちがいない。手を休めた三人の鍛冶工は、鼻の穴から目ヤニまですみにした真っ黒けな顔を揃えて、智深の姿を見まもった。いや見上げたというほうが当っている。
「やあ親方、こんちわ。……どうだね、極く質のいいはがねはあるかい」
「へえ、お坊さまに、はがねの御用がございますかね」
「ばかにするな。坊主とはがねと、無縁という法もあるまい。錫杖しゃくじょうを一本きたえてもらいたいんだ。ちょっと、手ごろのな」
「なるほど。ですがお坊ンさん、あつらえちゃあお高くつきますぜ。出来合いじゃいかがです」
「ところがわが輩の手に合う出来合い物なんて見たことないので持たなかったのだ。ひとつ急いでこさえてくない。重サ百きんほどなのを」
「冗談じゃない。百斤なんて錫杖は人間の持ち物にゃありませんぜ。三国時代の豪傑関羽かんうさまの偃月刀えんげつとうだって八十一斤でさ」
「では、関羽公と同格の八十一斤としておこうか」
「へへへへ。無理するこたアありませんぜ。なにもお坊ンさんは、三国の劉備りゅうび玄徳の忠臣でも親類でもねえんでしょ。およしなさいよ不恰好だから。それより飛びきり上等のはがねがございますから、水磨すいま仕立てで六十二斤ぐらいなところはどうです」
「むむ、その辺で折り合ってやるか。相談はなしはついた。おいいっしょにこんか、親方」
「へ。どちらへでござんす」
※(「韋+備のつくり」、第3水準1-93-84)ふいご祝いに、一杯飲ませてやる。どこか馴じみの家へ案内しなよ」
「ま、どうかお気楽にお一人で。――それよりはお坊ンさん。錫杖しゃくじょうは五両かかります。どうかお手付の銀でも、ひとつ」
「け。ケチなことをいうな」
 なにがしかの小粒銀を投げ与えて、智深はゆらりと鍛冶の軒を煙といっしょに外へでてくる。そして街をぎょろぎょろ見廻した。
 酒屋の軒をのぞき廻ること二、三軒。どこでも例外なくお断りを食った。そこでついに街はずれまででてしまい、ふと見ると破れびさしから、酒と書いた旗をだしている一軒がまたあった。立ち寄れば、牛のくそまじりの土墻どべいに、誰のいたずらか“李白りはく泥酔ノ図”といったような釘描くぎがきの落書がしてある。
「……いや、おもしろい絵だな。いや、おれも一つ、あれくらい酔ってみたい」と、智深は独りごとをもらしながら、内へ入った。
「こら亭主。わが輩は五台山の坊主ではないぞ。だから心配はいらん。酒を一ぱい飲ませてくれ」
「へいへい。どちらからお越しで」
「廻国行脚あんぎゃの途次で通りかけた者。といって乞食坊主でもない。ほうら銀子ぎんすもある。それ、そこの大碗おおわんで早くよこせ」
 むさぼるごとくがぶがぶ飲んで、たちまち碗を代えること十数杯。こんどは自分から立っていって薄暗い厨房ちゅうぼうの調理台にあった兎のももみたいなあぶり肉を右手に一本つかみ、それを横へくわえかけた。
「あっ、雲水うんすいさん。そいつあだめです。坊さま向きじゃございませんよ」
「亭主。なぜ止めるのか」
「犬の肉でございますよ。なんぼなんでも」
「なに犬肉だと。いや、よろしい。犬だからとていやしむことはない。わが輩の腹中はすなわち弥勒みろくだ、猿であろうが鹿であろうが一視平等。あに、差別すべけんやだ、けっこう。いけるじゃないか、おやじ」
 にんにく味噌みそを付けてたちまち骨だけを足もとへ投げ捨て、さらに次の一本を持って、
さかなばかりじゃしようがないな。おい、そこのかめぐるみ持ってきてここへおけ。そいつあ黄米酒あわざけだろう。むむ、珍重珍重ちんちょうちんちょう
 ――やがて。陽もすでに黄昏たそがれごろ、智深は、天雲を降りて天雲へ帰るがごとく飄々ひょうひょうとひょろけつつ五台山へもどっていく。途中でぶつかりかける男女を見ると、彼らの逃げまどう姿へ、哄笑こうしょうきちらして。
「わはははは。さあ、智深さまのお通りだぞお通りだぞ。酔いどれには天子さまも道を避けるということわざがあるのを知らんか。さあ、退いたり退いたり」

 翌朝のことである。――といっても、五台山五ほうの西にはまだ影淡き残月が見え、地には颯々さっさつの松原がやっと辺りを明るみかけさせて来た頃だった。
「うう寒い。……おや、おやおや。わが輩はどうしてこんなところに眠っていたのか」
 智深はわれを疑って、むっくりと起きた。寒いはず、石だたみの上で寝ていたらしい。しかも自分が抱いて眠っていたのは、自分の二倍もあるおおきな仁王像だった。山門の仁王様に相違ない。
 ふと仰ぐと、日ごろ見なれたそこの仁王門は颱風たいふうの跡みたいに、見るも無残に破壊されており、もう一体の仁王像も、常に居るところには見えなかった。だんだんそこらが白んでくるにつれて、仁王の手やら首やらまたかわらだの玉垣の破片などが、さんとして、智深をつつんでいることがわかった。
 すると、そこへ、番僧の一人がきて叫んだ。
「おう智深。やっと眼がさめたか。長老以下が待っておられる。すぐ大講堂の廊までまいれ」
 彼はまだ頭がはっきりしないらしい。ふらふらと歩いていった。見ると智真上人しょうにん以下、大講堂の廊には、常ならぬ威儀で役僧全部で並んでいた。彼を見るやいな、まず都寺つうす起坐きざして、
「こら智深、よくうけたまわれ。なんじ、昨夜は、またもやふもとにでて飲酒の戒を破って大酔のまま帰山せしのみならず、山門において、例のごとく暴勇をふるい、番僧雑人ぞうにん十数名を殺傷し、あまっさえわが文殊院の至宝たる仁王像を引きずり下ろして微塵みじんとなし、それに尿ぬいを放って、快を叫ぶなど、沙汰の限りな狼藉の果て、今暁までその場に眠りおったとのこと。――すべて言語道断な次第じゃ。じゃによって、一山大衆だいしゅの名をもって、上人しょうにんの裁可を仰ぎ、即刻、わが浄域じょういきより追放を申しつくるものである」
 と、怒りをふくんで申し渡した。
 智深は、半分ぐらいまで、他人事ひとごとみたいに聞いていたが、自分が当人かと、やっと気づいて、
「えっ。そんなことをしましたか。この智深が」
 すると監寺かんす、書記、首座しゅそ提点ていてんらの役僧も一せいに口を揃えてののしった。
「ぬけぬけと、ようそんな顔ができたものだ。彼方かなたの僧房を覗いてみよ、汝のために手足をくじかれた怪我けが人が、枕を並べてうめいておるわ」
「それのみか、門前町から山上の途中でも、見晴らしのちんを打ちこわし、附近の娘どもを見れば、狼がにわとりでも追うように、追っかけ廻して歩いてきたとか」
「いちいち挙げればきりがない。さほどな痴態ちたい悪業におよびながら、いまさらなんぞ、その白々しらじらしさは」
 智深は二の句も出なかった。やがて悄々しおしおとその場を退がると、智真長老から再度よばれて、
「さても是非ない仕儀。このうえ、当山にとどめおかば、そちの恩人たるちょうの長者にもいっそうご迷惑をかけることになろう。そこ思って神妙に退散せよ」
 あい脚絆きゃはん手甲てっこう、一重の僧衣、それにくつ一足、銀子ぎんす十両ほどの恩施おんせが、前におかれていた。
 智深は、ぽろりと涙をこぼした。そして、猫のように。
「どうも、なんともかとも、申しわけございません。われながら今はわが身を持てあましまする。といって首をくくる気にもなりませんが、いったい、この魯智深はどう生きていったらいいんでしょうか。ね、お上人さま」
 智真長老は、胸のうちで、心易しんえきでも立てているのか瞑目めいもく久しゅうして、一をつぶやいた。
「……林ニウテ起リ、山ニウテ富ミ、水ニウテオコリ、コウウテトドマラム。……四グウノ変転ハ身ニ持テル宿星ノゴウナリ。魯智深、まずは生きるままに生き、行くがままに行け」
「はい。じゃあ、そういたしましょう」
「さし当って、身の落ちつく先もなくては困ろう。わしの弟弟子おととでしは昨今、開封かいほう東京とうけい大相国寺だいそうこくじにあって、智清禅師ちせいぜんじと衆人にあがめられておる。この添書てんしょをたずさえて、大相国寺へまいり、よう禅師にすがってみるがよい」
「どうも何からなにまで、ありがとうぞんじます。……ではお名残り惜しゅうございますが」
 と、彼が神妙に頭をさげると、侍座じざの役僧たちはみな笑った。「……なにがお名残り惜しいものか」と、彼の退散に、胸撫で下ろしていたからだろう。
 さて。――その日。智深は悄然しょうぜん麓町ふもとへ降りていった。そして、鍛冶屋の隣の旅人宿へ泊りこんだ。さきに鍛冶屋へあつらえておいた錫杖しゃくじょうが出来上るのを待ったのだ。そしてやがて半月ほど後に、その出来えが見られた。重さ六十二斤水磨すいま作りの錫杖は上々なものだった。
「ようし、この一じょうさえあれば、天下の山川草木さんせんそうもくは、みなわが従者」
 彼はたちまち、ここ数日のうつを眉に払って、大満悦なていとなり、すぐさま開封かいほう東京とうけいへさして出立した。

花嫁のへそに毛のある桃花とうかさとを立ち、
枯林こりん瓦罐寺がかんじ九紋龍くもんりゅうと出会いのこと


 奇異なる旅の子魯智深ろちしんは、幾度も山にし、野に枕したが、野獣猛禽もうきんも恐れをなしてか、彼の寝姿と鼾声かんせいのあるところは、自然一夜の楽園と化し、なんの禍いも起らなかった。
 もっとも智深は身に一トかたきの食糧を持つではなし、金銀は元より帯ぶるところにあらずだから、これを襲ってみたところで、得るものは何もありはしない。――その夕べも、腹をぺこぺこにして、やっと山中の一村に辿たどりついた彼だった。
「おうこの辺は、たいそう桃の多いところだな。今や桃の花ざかり。そうだ、今夜は一つそこらの桃林に寝て、武陵桃源ぶりょうとうげんの夢とでも洒落しゃれようか」
 ――すると、鶴のごとき一人の老人。彼が立ち入りかけた桃林の傍らから出てきて。
「もしもし、お旅僧。こよいは当家にちと取り混み事がございますし、それに不慮のお怪我けがでもなさるといけませんから、ほかへ行ってお休みくださらんか」
「おぬしは誰だ」
「この桃花村とうかそんの旧家で、劉家りゅうけのあるじでございますが」
「……どうしたのだ、いくら老人にせよ、まるで粘土ねんどのような顔いろをして、いまにも泣きだしそうなその容子ようすは」
 問われると劉老人は、もうさめざめと本当に泣き出していた。「……じつは」と打ち明けるのを聞いてみると、今夜は愛娘まなむすめの婚礼の晩だという。
「なに、一人娘の婚礼だと?」
 いよいよ、おかしい。好奇心も手つだって、なお仔細しさいを聞きほじってみた。
 そこで老翁が語り出すのを聞けば、この地方の青州せいしゅうの県軍でも手を焼いている匪賊ひぞくの一団がこれから奥の桃花山に住んでいる。
 愛娘のむこというのは、その賊将の弟分と称する周通しゅうつうという者で、もとよりこっちから、るといったわけではない。
「桃の花が咲いたら、聟入りにいくぜ。前もって、山から使いを出しておくが、聟入りの夜には、花嫁を磨いて、酒肴さけさかなの支度はいうまでもなく、万端、華やかにしておきねえ」
 と、すでに周通の前ぶれを受けていたものだとある。そしてもし、それに逆らえば、桃花村は一夜に焼き払われるか、みなごろしの目に遭うであろうとわななくのだった。
「あはははは、いまどき、古手なやつもあるもんだ。よろしい。じゃあ真夜半に、その桃花山の賊が押しかけ聟に来るんだな。りゅうじいさん、心配するな」
「……と、仰っしゃってくだすっても」
「じつは、わが輩はもと渭水いすい提轄ていかつ(憲兵)をしておったという者だ。そういう裁きには手馴れている。わが輩を娘御むすめごの部屋へ案内するがいい」
「娘は昨日から泣き沈んでいて、人さまにお会いするどころではございません」
「会わんでもいいよ。娘御は早くどこかへ隠してしまえ。そしてわが輩が花嫁になり代って、寝台のとばりを垂れて寝ておるから、賊の周通がきたら、盛大な祝宴と見せて、たっぷり酒を飲まして連れてこい。……いや、それまでの間、わが輩も独りでねやに待つのは退屈で堪らん。花嫁の部屋にも酒を忘れるなよ」
 劉老人は、ためらうより恐れ気味だった。しかし、一族大勢がやってきて、だんだんに智深の説得を聞き、盲亀もうき浮木ふぼくで、ついに彼の策にすがった。
 そこで智深は、よいのまに、花嫁の部屋に隠れこみ、そこのちょうを垂れて、寝台に横たわった。もちろん彼にも饗膳きょうぜんと酒が供されたので、鱈腹たらふくたべて、寝こんでいる……。
 が、ときどき眼がさめた。もう何刻なんどきごろか。表の方では、花聟の列でも着いたのか、銅鑼どらや太鼓の音。そして“聟迎えの俚歌さとうた”などが賑やかに聞えだしている。
「……ははあ、そろそろ祝宴が始まったな」
 その辺までは知っていたが、またいつかぐっすり寝入ってしまったらしい。夜は森沈しんちんと更け沈み、赤い蝋燭ろうそくの灯にみちびかれて、魔王のごとき影がゆらゆら室の外まできたらしいのも、彼は全然知らなかった。
 劉老人らしいのが、そこで声をひそめて、
「……では花聟さま。てまえは、ここで失礼を」
 やがてコトコト戻っていった。遠ざかるその跫音あしおとをたしかめてから、賊の周通は、すうっと部屋へ入ってきた。
「おや、真っ暗じゃねえか。……ははあん、さてははずかしがっているのか」
 独りごとをもらしながら、周通は手さぐりで花嫁の寝台へ近づいてきた。そしてまた、おや? とでも思ったのか。
「ひどく酒くせえなあ。むむそうか。花嫁の部屋でも、身内のよい酒盛りとかやるのがならいだからそのせいだな。……これよ、娘、いや嫁御。なにもそうはずかしがるにはおよばぬよ」
 じつは、周通のほうこそ少してれ気味である。がらにもなく、そろっと、ちょうの内へもぐり込んで、花嫁の衣裳の下へ手を入れた。すると、ヘンなものが彼の手にジャリッとした。どうもへそらしいが毛が生えていた。
「あっ。代え玉を食わせやがったな」
 どたんと、彼が寝台からころび落ちたので、智深は初めて眼をさました。ばっとね起きざま、花嫁衣裳をかずいたまま、
「待てっ、聟どの。逃げるとは薄情な」と裏手の桃林へと追ッかけた。
 周通は柳の木につないであった馬を解くやいな、柳の枝をムチにして一散に逃げだした。智深もまた、手下の馬の一頭にび乗って追ッかけていく。――それはいいが、さあ、劉家の後の騒動といったらない。
 残された手下どもは、変だと知って、劉老人を縛りあげ、これを曳いて、翌朝、桃花山の匪賊ひぞくの木戸へ帰ってきた。
 ところが、なんぞはからん、そこでは、賊の頭目と魯智深とが、仲よく笑いながら酒みかわしている。そしてまた、昨夜の押しかけ聟――すなわち頭目の弟分の周通は、しおれ返って、そのそばで首うなだれている始末ではないか。
「やあ、劉じいさん、可哀そうに、捕まってきたのかい。おい花聟、早く縄を解いてあげろ」
 魯智深はげらげら笑って、仔細を話した。
 昨夜、相手を追いつめて、この木戸まできてみると。弟分の助太刀に出てきた頭目というやつは、なんと、渭水いすいの街の膏薬こうやく売り――あの打虎将だこしょう李忠りちゅうであった。
「……ばかなやつらだ、こんなところでケチな山賊などしてやがって。まだ、膏薬売りのほうが、どれほどましな商売か知れめえに」
 と、今も、意見していたところだとある。
 だが、打虎将李忠も、その弟分の周通と名のる男も、これが天性彼らには性にあっている生態なのかも知れなかった。表面は神妙に服して。「……いやもう、以後は決して、劉の娘になぞ手出しはしません」
 と、誓っていたが、どうも本気とは思われない。
 智深が少し白い歯を見せると、李忠は図にのッて言った。
「おれが渭水いすいの土地を売って旅へでたのも、智深、ほんとは、おぬしのせいだぞ。おぬしが関西五路かんせいごろの顔役ていをなぐり殺したため、おれたちにまで、役人の手が伸びて、片っぱしから牢へぶちこみ始めやがった。そのため、おればかりでなく史進も渭水を捨てて、どこへともなく姿を消してしまったじゃねえか」
「そうか。いわれてみれば、わが輩にも責任があったことか。だがもう古手な素人しろうと脅しの生娘漁きむすめあさりやケチな悪事はよしたがいいぜ。やるなら男らしい大望を持ったがいいよ。でっかい夢をよ」
 とはいえ、智深も長居は無用と見たのであろう。ふたたび劉家や桃花村にはあだをしないという誓いを二人に立てさせ、二人が矢を折ッて、悪党仁義の金打きんちょうをしたのを見ると、りゅう老人を里へ帰し、自分もまた、ひょうとしてここを立ち去ってしまった。
 そしてふたたび、東京とうけいさしての旅また旅をかさねてゆくうち、はからずも、ここ瓦罐寺がかんじと呼ぶ奇峭きしょう怪峰かいほうの荒れ寺に、一夜の雨露うろしのがんと立ち寄って、彼は、世にあるまじき人間のすがたを見た。

「はあて……。これが建立こんりゅうされた時代は、天子の勅使、一山の僧衆、香煙、金襴きんらん、さぞ目ざましいものだったろうに。よくもこうまで、荒れ果てたものだ」
 瓦罐寺がかんじの地内へ、一歩入った智深は、その荒涼たる景に、さしもの彼も、唖然あぜんとした。
 鐘楼しょうろうや堂宇は崩れ放題、本堂のうちも雀羅じゃくらの巣らしい。のぞいてみれば、観音像はツル草にからまれ、屋根には大穴があいている。そこらの足痕あしあとは、狐のか狸のか、鳥糞獣糞ちょうふんじゅうふん、すべて異界のものだった。
「おういっ。人間はいねえのか。だれか住んでる奴はいないのか」
 すると奥のほうから骨と皮ばかりな老僧が、ひょろりと立ち現われて、
「おお……お旅僧か。ここには人をお泊めするかてもないぞよ。早う行かっしゃれ、行かっしゃれ」
「なに、かてもないと。あの庫裡くりいている煙はなんだ。どうせ貴様たちの食物も里で貰ってきたお布施ふせだろう。おれも腹がっている。おときにあずかりたいものだ」
「めっそうもない。わしたちですら、露命をつなぎかねているのじゃ。そんな大声だしているとご僧の身の皮もがれちまうぞよ。さ、早く立ち退きなされ」
「ていよく追っ払おうというのか。それとも誰かに気がねしてそういうのか」
「ここには、崔道成さいどうせいという悪僧と、きゅうしょう一という行者ぎょうじゃの悪いのが、わがもの顔に住んでおる。……わしらはその二人に寺を奪われて、やっと粟粥あわがゆをすすって生きているばかりなのじゃ」
「ふウむ。さいきゅう。そんなものが恐ろしいのか。とにかく、もうすこし話をきかせてくれ。その代りあっちで粟粥を一杯ご馳走になるぜ」
 庫裡くりへ廻ってみると、まるで隠亡窯おんぼうがまみたいな赤い火を薄暗い中に囲んで、ここにも骸骨がいこつみたいな痩せ法師が、がつがつかゆを喰べあっているところだった。
 智深がなべへ手を出したので、彼らは隅へすくんでしまった。そして智深が二、三杯もすすりかけると、恨めしそうに、ぽろぽろ涙をこぼしては見つめている。いかな智深も、これではのどに通らない。腹はっていたが、いまいましげに、中途で欠けわんをほうりだした。
 ――と、外の方で、田舎唄いなかうただが、いきな声がふと聞えた。見ると、行者ていの若い男が、天秤てんびんで一の荷をかついで通った。その竹籠の中には、はすの葉にのせた桃色の牛肉や酒や野菜などをのせている。智深は眼を光らせた。
「あいつか。この寺に巣を作って、おまえらには物も食わせないというやつは」
「そうです、あれが飛天夜叉ひてんやしゃとアダ名のあるきゅうしょう一で」
「ほかにもう一匹、崔道成さいどうせいとかいう化道げどうがいるわけだな。ようし、いま見た牛肉はわが輩が食ってやるぞ」
「およしなさい。そ、そんな真似をなすったら、すぐご一命はありませぬ。のみならず、私たちまでどんな目にあうか知れません」
「わはははは。なにをガタガタふるえるのだ。まア見ておれ。おまえらにも、今夜は肉の一片ずつをお布施ふせしてやるから」
 ひょうのごとく、智深は跳びだして行った。手にはきたえてまだ日の浅い錫杖しゃくじょうが、はがねの匂いも立つばかり光っていた。
 とも知らず行者の丘小一は、むかし方丈の庭でもあったらしいところまでくると、荷を下ろして、待っていた二人の者と、なにか笑って話している。――見れば、大きなえんじゅの下に、一たくをすえ、さい坊主は、一人の若い女をようして腰かけていた。
 女を中に挟んで、すぐ酒もりにでもかかるつもりか。とうの器、杯などを、卓の上へ並べだした。ところへ、のっそり魯智深が近づいてきたので。
「やっ。雲水じゃねえか、てめえは。誰に断わってここへ来た」
「来てはいけないのか。あっ待った。そこの女子おなご。いずれおまえは、里からさらわれてきた人妻か娘だろう。あぶないよ、退いていな」
「なに、あぶねえと」
 そこは悪と悪。がんを読むのははやかった。
 さいったと見えたとたんに、その手から水の走るような一刀が智深の胸先三寸の辺を横に通った。かわすまでのことはない。智深の錫杖は傍らの丘小一へ向って一つぶんとまわる。丘は退がって、これも腰の一刀を見事に抜いた。気合い、眼光、いずれも智深に劣る者とは見えない。
 だが、恐いもの知らずの智深である。また、かつて一度でも不覚をとったためしはない。「おううっ」と彼の満身が吠えたのも久しぶりだ。――ござんなれという構え。
 じりじり、その彼をはさんで、二刀の切ッ先は寸地を詰めつつ迫ってくる。まるで刀の先に眼がついているかのごとく、智深の毛ほどな動きも見のがさない。「……はてな?」智深は少し汗を吹きはじめた。「腹のへッているせいか?」いや、そうでもなかった。剣気というのか、一種の精気が呪縛じゅばくをかけてくるのだった。智深はやっと自重しだした。
南無三なむさん、こいつは、いけねえ。めずらしく手強てごわいらしいぞ」
 破陣の勢いで錫杖を一しんすれば、[#「すれば、」は底本では「すれば、、」]丘小一の影は宙へ躍って新月のやいばをかざし、崔道成は低く泳いで颯地さっちけんを横に払う。一上一下、叫喚きょうかん数十ごう、まだ相互とも一滴の血を見るなく、ただ真っ黒な旋風をえがいては、またたちまちもとの三すくみめ合いとなった。
 やがて疲れたのは、魯智深のほうである。事実、腹もへっていたが、しかし、かつて出会ったことのない強敵にも違いなかった。たじたじと押されつつある。そのうちさすがの彼も、今は自己の限界を知ったとみえる。やにわに後ろを見せて逃げだした。その図ウ体が大きいだけに、その逃げざまこそおかしかった。
 まるで転がりやまぬ火達磨ひだるまみたいに、山門を跳びだし、道を走り、石橋しゃっきょうを渡って、ほっと大息ついて振り向くと、そこを関門としてか、追って来たさいきゅうの二人は、石橋の欄干らんかんに腰をかけて、
「さあ雲水。ひと息いれたら、もいちどおいで」
 と、いわぬばかりに涼しい顔で休んでいる。
 智深は物蔭からそれを眺めて、
「さて世の中は広いもんだな。あんな化け物もいるからには、わが輩もちと反省せねばなるまいて。残念だがここはまア負けておけ。戻ってゆけば犬死にだ。……だが、待てよ。これはしまった」
 わが姿に気づいてみると、大事な頭陀袋ずだぶくろを掛けていない。落したかとあわてたが、よくよく考えてみると、さっきの庫裡くりで、粟粥あわがゆをふうふう吹いて食ううちに、粥をこぼしたので、脱いでおいた覚えがある。
「こいつは困った。あの中には大相国寺だいそうこくじ智清ちせい禅師へ宛てた智真ちしん長老のお手紙が入っている。取りに帰れば、石橋しゃっきょうでふんづかまるし。……といって、あれ持たずには東京とうけいへ行く意味もない」
 彼は石橋を渡らずに戻れる道はないかとうろつきだした。すると渓谷けいこくへ降りる道があった。そこを沈んで彼方かなたへ登ると、瓦罐寺がかんじの北へ出た。あたりは赤松林である。行けども行けども赤松ばかりと思われた。ところがやがて忽然こつぜんと、こんどは死の林みたいなところへ出た。おそらく一院の古い焼け跡でもあろうか。見みかぎり一点の緑もない枯れ木林だ。しかも今、彼の跫音あしおとに、ふとその辺の岩蔭から、すっと起って、こっちを振り向いた白衣びゃくえの人影があった。人馴ひとなつっこく智深のほうへ近づいてでもくるのかと思うと、白い人影は、彼を見て、
「ちっ。くそ坊主か」
 つばでもするような舌打ちして、後も見ずに、枯れ木の間を縫い去ってゆく。智深は彼の「……べっ」とつばを吐いた唇鳴くちならしが気にくわなかった。一跳足ちょうそくに追いすがって、錫杖しゃくじょうを横構えに。
「やいっ、待て。なんでいま、きさまアおれをあざ笑ったか」
「笑いはしない、くそ坊主かといったまでだ」
「ここには、ほかに人間はいない。おれのことをいったと思う」
「思うように思っておけ。たぶん当っているだろう。ほんとの坊主なんてものは、近ごろ世間に見たこともないからなあ」
 言語はさわやかだし、姿もすっきりした男である。白衣は行者姿のもの。或いは、丘小一の仲間かもしれない。
 陽は沈みかけている。男は彼方かなたの廃院へでも急ぐのか、ふンとまた、鼻で笑いすてて歩き出した。そのきょや狙うべしと思ったか、智深は突嗟とっさに、
「かッ」
 たんのごとき口を開いた。振り込んだ錫杖の下、白衣はあけと思いこんだ。ところが男は、ついと、横に移っていた。静かに腰の戒刀かいとうへ手をかけて、
「坊主、見違えるな。おれはなにも死神じゃねえぜ。命をもらっても仕方がない」
「な、なにを、生意気な」
 相手も次の錫杖しゃくじょうは待たなかった。抜く手も見せぬはやさである。振りかけた錫杖がもし斜めに魯智深の眉間みけんを防がずにいたら、彼はきれいに割られたうりみたいになっていたかもしれない。智深は跳び退いて、錫杖を持ち直した。
 すると、夕闇をかしていた眼と、キラとも動かない戒刀かいとうのみねから、落ちついた声が通ってきた。
「おいっ、待った。ちょっと待て」
ひるんだか行者」
「いや、さっきから少し考えていたことがある。もしやあんたは魯提轄ろていかつじゃあるまいか」
「えっ。わが輩の前身を知っているおぬしは誰だ」
「やれ、あぶないところ……」
 行者はすぐ戒刀をさやにして、つかつかとその顔を近づけてきた。
史進ししんですよ。渭水いすいでお別れした九紋龍くもんりゅう史進ししんでさ。てまえもこんな風態だが、いや、あんたの変りようではぶつかっても分りッこはない。提轄から坊主とは、どうもえらい化けかたですな」

菜園番さいえんばんは愛す、同類の虫ケラを。
柳蔭の酒莚しゅえんは呼ぶ禁軍の通り客


「やあ、これは奇遇だった。さても人間てやつ、どこで別れ、どこで会うやら知れぬものだな」
 魯智深ろちしんはいった。――九紋龍くもんりゅう史進ししんもまたこの奇遇を尽きない縁ときょうじてやまない。そして相携あいたずさえつつ、もとの瓦罐寺がかんじのほうへ歩きだした。
 ――途々みちみち、智深は、にわか出家の花和尚かおしょうとなった身のいきさつを友に語り、九紋龍は渭水いすいを去ってのち、延安えんあん北京ほっけいをさまよい、いまだに尋ねる師の王進おうしん先生にも巡り会えず、こうして枯林こりんの廃寺に一時雨露うろしのいでいたわけだ、と話す。
「そうか。お互いどッちも、風のに、浪の間に間に、まア似たり寄ッたりの身の上だな。しかしわが輩はこれから、東京とうけい大相国寺だいそうこくじへ行くんだが、史進、あんたはどうする?」
「こんなところで行者めかしていたのも、いわば一時の身過ぎ世過ぎ、当座のあてもないから、少華山しょうかざんにいると聞く、朱武しゅぶのところでも訪ねていこうかと考えていたところだが」
「それもいいかもしれぬ。どっちみち、今のような腐爛ふらんした末期の世では、もともと、旋毛つむじまがりにできているお互いは、真面目にもなれず、いよいよ住みにくくなるばかりだろうし……。や、や、ちょっと待ってくれ。まだいやがる」
「なんだ花和尚かおしょう
「あれ、あの石橋しゃっきょうの欄干に腰かけて、さっき散々さんざん、わが輩を苦しめやがったさい坊主と行者のきゅうしょう一が、まだ執念ぶかく見張っている」
「はははは。瓦罐寺に住むあの悪党か。和尚、こんどは何もひるむことはあるまい。ここに九紋龍という助太刀がいるからには」
 いううちにも、すでに彼方の石橋の上では、きゅう行者とさい坊主が、こなたの二人を見つけたか、遠目にも巨眼※(「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1-87-61)けいけい、いまにも斬ッてかかってきそうな構えを示していた。
 しかしこんどは、さきに智深一人が相手だった場合とはわけが違う。あわれ浅慮あさはかにも、やがて、われからいどみかかッて来た彼らは、たちまち逆に、九紋龍の戒刀かいとうと、智深の錫杖の下に、お粗末な命の落し方を遂げてしまった。
「さあ、こいつらを片づけたら、さっそく、庫裡くりにおき忘れた大事な頭陀袋ずだぶくろを取りにいかねばならん。史進、ここで待っていてくれるか」
「いや、おれも一しょにいく」
 ――戻ってみると、幸いに頭陀袋はそのままあった。けれど、ここに細々露命をつないでいた老僧らも、身の上の分らぬ一人の女も、みなはりに首をくくって死んでいた。おそらく先刻、智深が崔と丘に追われて、いちど負けて逃げたのを知り、次には自分たちが、どんな目にわされるやらと、恐怖の余り、また今のような世を生きるにも絶望して、死をえらんだものかと思われる。
「ああ揃いも揃って。……こいつは何とも不愍ふびんなことをした。だが仏さんたち、迷うなよ、これはわが輩のせいでないぞ」
 めずらしく智深は奇特きとくな合掌をして、うろ覚えなおきょうをとなえた。それを見て、九紋龍もそばからいう。「――寺院が寺院の役を果しえず、悪党ばらの巣に恰好かっこうな魔所となっているからこんなことにもなる。いッそのこと、焼いてしまったほうが後々のためであろう」と。
「そうだ、一切を荼毘だびして、亡者もうじゃの霊をなぐさめ、おれたちは、ここを下山としよう」
 つい先刻、亡者どもがあばき合っていた粥鍋かゆなべかまどには、まだ鬼火のようなトロトロ火が残っていた。智深はそのまきの火を持って、庫裡くりに火を放った。――そして両人、宵の山路を、どんどんふもとへ降りていった。
「おお花和尚。あの山上の紅蓮ぐれんを見ないか」
 二人は振り向いた。――満天は美しいほのおの傘から火の星を降らせている。宋朝そうちょう初期のころには、紫雲しうん薫香くんこう精舎しょうじゃの鐘、とまれまだ人界の礼拝らいはいの上にかがやいていた名刹めいさつ瓦罐寺がかんじも、雨露うろ百余年、いまは政廟せいびょうのみだれとともに法灯ほうとうもまた到るところほろびんとするものか、惜しげもない末期の光芒こうぼうを世の闇に染めだしていた。
 智深と九紋龍は、それから二日ほどの旅をともにし、やがて華州と開封路かいほうじの追分けにかかるや、再会をちぎって、たもとわかった。
 ――さて。一方は日ならずして、時の花の都、開封かいほう東京とうけいにたどり着き、さっそく大相国寺だいそうこくじ智清大禅師ちせいだいぜんじをその山門におとのうて、
「拙僧は智深と申す五台山の一弟子ですが、当山の禅師がおんもとにて修行を積めいと、師よりお添状そえじょうをいただいてまいった者。よろしくお取次のほどを」
 と、頭陀袋から智真ちしん長老の手紙を取出して、役僧に渡し、一堂に座してその沙汰を待った。
「はて。五台山の智真ちしん長老も、えらい者を、当山へさし向けてきたもんじゃな」
 大相国寺の智清ちせいは、手紙の中にある智深の経歴を読んで、ちょっと、うんざり顔だったが、また禅家ぜんけ特有なとでもいうか、へんな興味も覚えぬではなかった。
 坊主の前身には、ずいぶん変ったのもあるが、智深のごときはまず珍らしい。――渭州いしゅう経略府けいりゃくふの憲兵あがり。侠気はあるが、喧嘩好き、酒好き。しかも人殺しの前科のため、剃髪ていはつした男だとある。
「おそらくは、五台山でも持て余した者だろうが、智真はわしの昔からの道友、置けぬといったら、気が小さい禅家よと、わらうであろうし。……さて、どうしたものか」
 全役僧を集めて、衆議にかけると。
「来訪の一行脚あんぎゃは、どう見ても出家とは受けとれません。なんとも魁偉かいいな人物です」
「第一人相もよろしくない。どことなく凄味すごみがある。また、知客しかが迎えたとき、禅家の作法もよくわきまえぬものか、たずさえている香具こうぐ座具ざぐ袈裟けさなどの使い方にも、まごまごしおった」
「ていよく、お断りあったほうが、当山のためかと存じますが」
 衆口紛々ふんぷんである。一人も歓迎はしていない。智清禅師は、ほとほと困った。――すると、都寺つうす(僧職)が、うまい一案を提出した。
「馬鹿とはさみはなんとやら、そのような人物も、当山附属の野菜畑の管理所へやっておくには、案外、適任ではおざるまいかの」
「なるほど、なるほど。野菜畑の目付めつけならいいかもしれぬ」
「なにせい、あの酸棗門さんそうもん外の菜園ときては恐ろしく広い。のみならず、附近の兵営からは兵隊どもが荒らしに入るし、もっと厄介なのは、門外にある無頼漢街ごろつきまちじゃ。年中、かきを破ッて、瓜や菜根は大びらに盗んでゆくし、農耕の馬や牛も、いつのまにか食ってしまう。……といって、番人も山僧どもも、なにもいえん。なにしろ奴らは凶悪なので」
「それや妙案。いかがでしょう禅師。風来の魯智深ろちしんとやらには、試みにまず、その菜園目付役でもやらせて御覧ごろうじあっては」
「むむ、衆意同案とあれば」
 一山のだんにより、さっそく首座しゅそ(僧職)がその旨を、智深にいいわたす。智深は、ふくれつらだった。たとえ、化主けす浴主よくすの末僧でも、なにか僧職の端にはと期待していたらしい。
「まあまあ、やがてはだんだんに、茶頭ちゃとう殿主でんす蔵主ぞうす監寺かんすなどの上職にも、修行次第でと申すもの。が、当座はひとまず菜園のほうで」
 おだてられて不承不承、智深は酸棗門さんそうもん外の畑へ移されていった。管理所だの菜園目付のといえば聞えはいいが、来てみればただの大きな畑番の番小屋。「……ふざけやがって。ようし、わが輩をこんな所の案山子かがしに使おうというなら、おれの起居にも干渉はさせんぞ。そんなら、いッそ気楽でいいが」と、ここに花和尚魯智深は、ここの大地主にでもなったような気で持ち前の“野性の自適”をきめこみだした。
 日ならずして、近所のごろつき街の空気には異変が起っていた。いつもの調子で畑荒らしに入った奴が、巣へ帰って言いふらしたのだ。
「おいおい、行ってみや。番人が代ったぜ。こんどの奴ア八頭芋やつがしらみてえな面をした凄え坊主だ。おまけに、墻門かきもんに何やらむつかしい掲示けいじなんぞ貼りだしやがる」
「なに代ったって。どれどれ、どんな野郎か、つらを見ようぜ。それに掲示たあ何だい?」
 与太よたもンどもはつながって、掲示のくいを取り巻いた。文にいわく。
――爾今ジコン、当山ノ僧人魯智深ロチシンヲシテ菜園ヲ管理セシム。耕夫コウフノ令、厨入チュウニュウノ百サイ、スベテ右ノ者ニ任ズ。
 猶又ナオマタ、無用ノ者、入ルベカラザル事。オカサバ、コラシメニ会ワン。ユルナカレ。
大相国寺宗務所
「なンでえ、きまり文句じゃねえか。ひとつその、魯智深て野郎のほうへ、見参げんざんにおよぼうじゃねえか。……いるかい、番屋の中に」
「いるいる。なにしてやがるんだろう、へそを出して、ぼやっと、うそぶいているつらつきだぜ」
「ふ、ふ、ふ。野郎、こわいンだよ俺たちがね。こうして、ぞろぞろ、いやに静かに近づいていくもんだから、わざと知らん顔しているに違えねえ」
「だが、一度はお土砂どしゃをかけておかねえと、俺ッちを甘く見損なうッてこともあらあ。どうだい、番人の代るたびにやる、あの手を野郎にも食わせておいちゃあ」
「むむ肥溜こえだめ行水ぎょうずいか。あの手を一ぺんご馳走申しておきゃあ、どんな奴も毒ッ気を抜かれてしまうからな。よし、やろう。みんなぬかるな」
 ごろつきたちが、胸に一もつミ手腰で、うようよ近づいてきたのを、知るか知らぬか、智深は大欠伸おおあくびをして、ゆかの高い番所の梯子段はしごだんを降りたと思うと、のっそり畑のほうへ歩いてきた。

「あっ、もしもし。こんどお代りになったご番僧さんじゃござんせんか」
 青草蛇あおだいしょう李四りしと、迂路鼠うろねずみ張三ちょうさんは、二、三十人の仲間を後ろに控えさせて、智深の前に小腰をかがめた。そして凄味をきかすため、相手かまわぬ博奕ばくち渡世の仁義をきって。
「ええ、てまえどもは皆、ついご近所に住む気のいい野郎どもでございますが、ご掲示を拝見するッてえと、番所の和尚さんがお代ンなすったとのことで、お顔つなぎに伺いました。どうか、ひとつ、よろしくご懇意に」
「なんだい、まア」と、智深は眼をまろくして。
「おれはまた、どこか裏店うらだな葬式とむらいが、道を間違えて入ってきたのかと思ったよ」
「へッ、へへへ。おもしろいことを仰っしゃるなあ。おいみんな。こんどのご番僧さんは話せそうだぜ。さ、こっちへ出て、ご挨拶をしろ、ご挨拶をよ」
「いらん、いらん。そう安ッぽいお辞儀などはいらん。が、顔つなぎなら、酒でもげてきたろうな」
「こいつア恐れいりやした。渡りをつけるってえご定例じょうれいは、ほんとのとこは、そちらから、こちらへしていただくのが作法でござんすがね。野暮をいうなあ止しやしょう。――おいっ、」と、ちょうは仲間の一人へどなって。「――どうでえ、いきな和尚さんじゃねえか。さっそく一しょに飲んでくださるってんだ。一ッ走り飛んでいって、街の酒屋と肉屋へ、御用を仰せつけてこねえか」
「あいよ」と、すぐ二、三人は飛んでいった。
 それを合図に、眼くばせわしたごろつき連は、智深をとり囲んで、なんのかんのと、次第に彼を大きな肥溜こえだめのあるあぜのはずれへ誘いだした。――智深は、これが彼らの計略だとも、また、自分の立ったすぐ後ろが糞の池とも気づかなかった。また、ちょっと見たのではための表皮一面、はえの上に蠅がたかって、まるで黒大豆でも厚く敷いたような密度だから糞色ふんしょくも見えずこえの匂いもしないのである。で智深はただ、彼らの愛相あいそうや馬鹿ばなしに退屈を忘れ、他愛もなく一しょに興じあっていた。
 すると、与太よたもンの一人が、すッ頓狂な声を発して、
「あッ、和尚さんのくろぶしに、大きなあぶが」
 と、いきなり彼の脚元へ身を這わせ、虻を打つと見せて、片脚をすくいかけた。すくわれたら後ろのためもんどりは知れたこと。智深は無意識に体をねじッた。そして、そいつをぽんと蹴放し、また、とたんに、も一つの脚へからんできたチンピラの横びんたへ向っては、
「ちょめ!」
 と、わっぱの頬でもるような平手の一てきを食らわせた。なんでたまろう、二つの体は仲よく躍ッてたまりの中へ飛んでいった。刹那。うわあん……鐘の鳴るようなうなりが起って、満天満地に蠅が舞い立ち、ために、一天の陽もなおくらいほどだった。
「それっ、たたんじまえッ」
 とは声ばかり。智深の体にたかッたと見えたものは、みなそれ、一さつに目をまわす蠅の旋舞せんぶといささかの違いもない。――智深は早くも番所小屋の高床たかゆかに戻って、
「あははは、わはははは」
 と、独りで腹を抱えている。
 ために沈没した仲間のチンピラを、どうやって救いあげて帰ったろうか。想像してみるだけでも智深にはおかしい。どうもこの畑番、至極退屈な役と思っていたが、とんだよい景物が近所に見つかった。たのしいかな、世の生きものども。ちょいちょい野菜泥棒にも這い込むがいい。時により、智深にも仏心なきにあらずだぞ――と、彼はそれからというもの毎日、むしろ彼らの現われるのが、心待ちに待たれた。
 だが、ごろつき街の連中にすれば、それどころかは、ひたいを集めての、薄暗い密議まちまち。
「さあ、みんな、しッかりしろやい。こんどの番所坊主は、いままでの瓜頭うりあたまとは瓜の恰好も違うと思ったら、ちょっと中身も違うらしいぜ。なんとか一度、ぶッ砕いてやる思案はねえか」
 十数日の後である。練りに練った一計を秘したものか、蛇李だり鼠張そちょうの二人が、番所の小屋に謝罪あやまりにやってきた。「……先日は乾分こぶんどもの悪戯わるさ。なんとも、お見それ申しやして」と、いとも神妙に、三拝九拝して、一こん差し上げたいという申しいでなのである。
 下地したじはよし、折ふしの炎暑に、智深もうだッていたところであるから、一も二もなく、誘いにまかせた。そして彼らについて出て見ると、園の蓄水池ちくすいちほとり、涼しげな楊柳ようりゅうの木蔭に、むしろをのべ、酒壺さかつぼを備え、かごには肉の料理やら果物くだものを盛って、例の与太もン二、三十が恐れかしこんで待っている。彼らはを揃えて、
「へえい。以後は決して、こちら一同、畑荒らしはいたしませんし、ご菜園の御用とならば、どんなことでもいたしますから、どうかひとつ、今後はお手下の耕夫こうふ同様におぼしめして」
「えらく今日は行儀がいいなあ。なあに、寺でも食いきれない菜園だ。適度には持ってゆけ、持ってゆけ。その代りちょいちょい、わが輩へのお年貢ねんぐを忘れるなよ」
 智深は遠慮なく飲み大いに食らった。ちんぴらどもは彼の酒量に驚き呆れ、三度も酒屋へ馳けつけた。
「……おや、なんだこれは?」
 彼はやっと気がついた。彼の肩や頭へ何か時々、楊柳ようりゅうの上からポトと落ちてくるものがあった。手でで廻したのは不覚である。さぎやらからすやら、とにかく鳥のふんにはちがいない。
「ちイっ……。対手あいてにならぬやつほど恐い対手はないぞ」
 智深はつぶやいて少し座の位置をかえた。歌う者、手拍子てびょうしを叩く者、与太もンどもは、浮かれ騒ぐ。するとまた、頭上の柳の葉隠れでも、烏がガアガアき騒いだ。のみならず、智深のえりくびから杯の手に、またぞろ、ワラ屑みたいなものがこぼれた。
 智深は癇癪かんしゃくをおこして、突っ立った。
「ええい、やかましいっ。この化けもの柳には、烏の巣があるとみえるな」
「相すみません。和尚さん、いま梯子はしごを持ってきて、巣を落しますから、お待ちなすって」
「そんな手間暇てまひまがいるもんか。ここの烏も畑荒らしの一族だ。こうしてやる」
 あっと、ごろつきどもは思わず嘆声をあげた。智深が法衣ころも諸肌もろはだを脱いだからだ。そしてその酒身しゅしんいっぱいに繚乱りょうらんと見られた百花の刺青いれずみへ、思わず惚々ほれぼれした眼を吸いつけられたことであろう。
 いや、驚倒したのは、それだけではない。智深が大きな柳の幹を抱くようにして、半身をやや逆さにしたと思うと、むくりと根廻りの土が揺るぎだした。ううむっ、と智深の半裸から陽炎かげろうが立ち、大樹の親根が見え、毛根もうこんが地上にあらわれ、どうっと、大樹は根コギになって仆れた。
「……どうだ、拙僧の余興は」
 智深は洒落しゃれのつもりらしい。だが彼はがっかりした。気がついてみると、あたりのチンピラは、烏の群れよりはやく、逃げ散っていた。舌を巻いたどころの驚きでなく、恐怖に駆られ、その日の計略はかりごとも忘れて街へ逃げ去ってしまったものらしい。
 さすが、それからは仕返しも断念し、腹の底から慴伏しょうふくしたものに相違ない。以後はコソコソ影を見せても、花和尚かおしょうさまだの、花羅漢からかんさまのと、遠くから平蜘蛛ひらぐもになって、めったに側へ近づこうともしなかった。
「こりゃ、淋しい」と、彼はかこった。
「それに、やつらの馳走になりっ放しなのも心苦しい。よし、こんどはこっちで招いてやろう」
 或る日、彼は酒肉を調ととのえて、逆に彼らを園の一えんに招いた。大よろこびで、彼らはやってきた。こうなると、日ごろのゲジゲジも迂路鼠うろねずみ青草蛇あおだいしょうも、案外、天真爛漫らんまんなもので、飲む、踊る、唄うなど、百芸のかんを尽して飽くるを知らない。
「ところで、花羅漢からかんさま。今日は一つ、一同におねだりがござんすが、お聞き届けくださいましょうか」
「なんだ貧乏人の拙僧に」
「たいそうお見事な錫杖しゃくじょうをお持ちでござんすが、いかがなもンで、ひとつその、花和尚さんのお腕前を一度拝見したいって、みんなが申しておりますが」
「なに。おれの武芸をみせろというのか。そんなことなら無料ただですむ。おやすい頼みだ」
 さらぬだに、久しく振ってみなかったかの鋼鍛はがねぎたえ重さ六十二斤の鉄の愛杖あいじょう。それを取るや、酒のえんを離れていった。まず片手振りを試み、また八そう青眼せいがん刺戟しげきの構えを見せ、さらに露砕ろさい旋風破せんぷうは搏浪はくろう直天ちょくてん直地ちょくちの秘術など、果ては、そこに人なく、一じょうなく、ただ風車ふうしゃの如きうなりと、円をなす光芒こうぼうがぶんぶん聞えるだけだった。
 すると何者か。近くの破れ土塀の崩れの辺で、
「ああ、見事。……すばらしい!」
 とわれを忘れて、つい発したような声がした。
 その声に、智深はつい気合いをはずしてしまい、しんとしていた与太よたもンたちの群れへ。
「誰だい? あんなところからのぞいて、いま妙な気合いをかけおったのは」
「お。……ありゃあ花羅漢さま。武芸のほうじゃあ、たいしたお方でござんすよ。※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)べんじょう八十万の禁軍ご指南役の一人、林冲りんちゅうと仰っしゃるお武家で」
「なに、りん師範だって。そいつあ、えらいもンに見物されたな。ごあいさつせずばなるまい。おい、誰か行って、丁重ていちょうにお呼びしてこい」

鴛鴦えんおうの巣は風騒ふうそうにやぶられ、
濁世じょくせの波にも仏心ぶっしん良吏りょうりはある事


 林冲りんちゅうには、通り名がある。豹子頭ひょうしとうといい、あわせて豹子頭林冲とよぶ。
 生れつきなるひょうのごとき狭いひたい琥珀こはくいろのひとみ、またあごの鋭さは燕のようなので、そんな綽名あだながつけられたものか。
 見るからに都の武人風。装いは洒落しゃれていた。緑紗りょくしゃの武者羽織は花団模様はなまるもようの散らし、銀帯ぎんたいには見事な太刀。また、靴も宮廷ごのみないきなのをいていた。年ごろは三十四、五か。……やがて、こなたへ歩いてくる背丈せたけもまた抜群といっていい。
 智深ちしんは、その人をむしろに迎え、名乗りあってから、一さんけんじた。おとこおとこを知り、道は道に通ずとか。二人はたちどころに、肝胆かんたん相照あいてらして、
花和尚かおしょう、以後はあんたを義の兄とうやまおう。武芸からも、年齢の順からいっても、あんたが上だ」
 と林冲りんちゅうがいえば、智深もまた、
「この魯智深には、ちともったいない弟だが、そういってくれるなら、ここで義兄弟の杯を」
 といったわけで、時のたつのも忘れ顔に、緑蔭の清風せいふうは、この二人のためにそよめくかとばかり爽やかだった。
 するとどこかで「――旦那さま、旦那さま」と、しきりに林冲を探すらしい女の声がする。彼はすぐむしろをつっ立ち、そしてさっきの崩れ土塀の辺に、チラと見えた小間使い風の女の姿へ、
「おうい、錦児きんじ。拙者はここだここだ。なにか急用でも起ったのか」
「……あっ、だ、だんなさま、たいへんでございますよ、奥さまが」
 侍女の錦児は、心も空な口走りをつづけ、馳け寄りざま何ごとかを、泣き泣き主人に告げだした。――聞くうちにも、林冲はその豹額ひょうびたいにするどい敵意と不安を掻き曇らせていたが。
「……ま、泣くな。よしっ」と錦児をなだめてから、酒もりのむしろのほうへ。
「妻の身にちと心配が起ったので、今日はこれで失礼する。花和尚、いずれまた会おう」
「やあ豹子頭ひょうしとう。俄に酒もさめた顔いろじゃあないか。御夫人がどうかしたのか」
「いや、侍女の錦児をつれて、この先の東岳廟とうがくびょうへ参詣にいった帰り途、なにか殿帥府でんすいふの若い武士どもにからまれて悪戯わるさに困っているとのこと。捨ててはおけぬ。――ご免!」
 いうやいな林冲の姿は、もう彼方の崩れ土塀を跳び越えていた。なにさま、豹身ひょうしんが風をきって跳ぶかの如く、それは見えた。
 無理はない。林冲にとっては、多年の恋が結ばれて、つい先ごろ、家庭を持ったばかりの新妻なのだ。――来てみれば、東岳廟とうがくびょうと並ぶ五岳楼がくろうの廻廊の欄干に、それらしき武家風の若者十人ばかりが、腰かけている。手に手に吹矢のつつ弾弓はじきゆみ、鳥笛などをもてあそび、べつの一組は、きざはしの口を立ちふさいで、通せンぼをしているとしか思われない群れである。
「や、や。あれや※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅうの養子、高御曹司こうおんぞうし近侍きんじたちだな」
 よもやと思ったが、やはりそれだった。廻廊の下には、日ごろ見覚えのある白馬に見事な金鞍きんあんがすえてある。――そもそも、現宋朝そうちょう徽宗きそう皇帝のもとに、いまや禁門※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)べんじょうにおける勢威第一の寵臣は誰なりやといえば、馬寮ばりょうの走卒でもすぐ「――それは殿帥府でんすいふ大尉だいい(近衛大将)※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)さまだ」と答えるであろう。――高ノ御曹司おんぞうしとは、つまりその人の養子なのだ。もとは高家の叔父、高三郎の子であるが、貰われて、時めく近衛大将軍家の公達きんだちとはなったのである。
 ところが、この御曹司、養父の権力をかさにきて、ろくなことはして遊んでいない。取巻きの近侍たちも皆、上流子弟の愚連隊といったような連中で、街の人々もこの悪貴公子の群れを“花花猟人おんなかりゅうど”などと称していた。また中には「……血筋はあらそえないもの……」と、いう蔭口もなくはない。
 都民のうちには、現朝廷の寵臣高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)も、むかしは、無頼な一遊民にすぎず、喧嘩、賭けごと、書画、遊芸、何にでも通達していて、いつか権門に取入り、蹴毬けまりの妙技から、ついに、徽宗きそう帝に知られ、うなぎのぼりの出世をとげた法外な成上がり者なることを今でも覚えている者が少なくなかった。――だから養子のこう御曹司が、よその娘、人の女房にもすぐ眼をつけての女狩りなどと、高家のお家芸よと、怪しみもしないわけかと思われる。
 が、それはさておき。
 林冲りんちゅうの新妻はいま、五岳楼がくろう御堂扉みどうとびらにしがみついて、執拗しつような高御曹司と、争っていた。
「いやですっ。私は人妻です。見ず知らずのあなた方に誘われて、そんな御堂内みどうないなどへはいかれません。お放しくださいませ。放してッ」
「まあ、いいじゃないですか。あなたは見ず知らずというが、麿まろはもう夢に見るまであなたを前々から恋していた。ここでお会いしたのは、東岳廟とうがくびょうのおひきあわせだ。ああ、そのおくち、そのおん眼」
「ええ、けがらわしい。何をなさるンですかっ」
「女はみんな、初めは柳眉りゅうびを逆だてて、そういうが、ひとたび、ほかの男を知ってごらんなさい。わが身のうちにひそんでいた泉の甘美に驚きますから」
「ばかっ。色きちがい」
「あ痛ッ。よろしい。あなたはその美しい繊手せんしゅで、麿まろの頬を打った。麿も暴力をもって報いますよ。火のごとき愛情の暴力で」
「あれッ。……たれか、助けてっ」
 そのとききざはしの口に通せんぼしていたこうの近侍たちをねとばして、馳け上がってきた林冲が、
悪戯いたずら者。人の妻へ、なんの真似まねだ」
 と、いきなり高御曹司を突き飛ばした。そして、彼らがっ気にとられた刹那に、妻の体を引っ抱えて、さっと廻廊の角まで身を避け、次に彼らがどんな陣容じんようを盛り返してかかってくるかと、身構えをとって睨んでいた。
 しかし、相手の群れは、事の不意に度胆どぎもを抜かれてしまッたか、ただちに復讐に出てきそうもない。
「……や。林師範だぞ」「豹子頭ひょうしとうか」と、小声をかわしていたと思うと、たちまち、どどどっと階段を降りて、高御曹司を、白馬はくば金鞍きんあんの上にほうじ、まるで落花を捲いたほこりのように逃げ去った。

 新家庭の林家りんけには、あれからというもの、何か気味のよくない暗影に忍び入られて、あわれ鴛鴦えんおうの夢も、しばしば姿の見えぬ魔手におびやかされ通していた。
 それみな、こう御曹司の陰険な迫害と、執拗な横恋慕とはわかっている。が、わかっているだけになお恐ろしい。相手は殿帥府でんすいふの最高官の部屋住み。こちらは軍の一師範。どうにもならぬ。
「女房。気をつけてくれよ、わしの留守にも、外出にも」
「いいえ、この頃はもう、買物にも錦児きんじばかりやって、私は外へも出たことはありません」
 林冲りんちゅうとその若き妻は、家にあっても声をひそませ、垣の物音にも、すぐ心をぐような習性にまでなっていた。というのも、しばしば妻の身が襲われかけたり、林冲りんちゅうが友人の家で酔っている間に、不慮な事件が留守中に起ったり、何度となく、なぞのごときかいのろわれていたからだった。
「……狙われているのは、私の身だけではございませぬ。私を愛してくださるなら、あなたもご自身に気をつけてくださいませ。禁軍へご出仕の行き帰りにも」
 彼の妻は、林冲が門を出てゆくたびに、うるんだ眼で、良人に言った。男は出ないわけにはゆかない。林冲は笑ってみせる。
「案じるな、おれは大丈夫だよ。こう見えても、武術では豹子頭ひょうしとうの前に立ちうるほどな敵はない」
 ――が、或る日、閲武坊えつぶぼうの辻で、ひょっこり魯智深ろちしんと行き会った。彼とは、あれからも数回飲みあって、いよいよ交友みつなるものがあったが、
「どうしたんだ豹子頭、会うたび顔いろがよくないぜ。そろそろ秋風に枯葉こようは舞うし、拙僧もなんだか淋しい。ひとつそこらでろうじゃないか」
 と、その日も誘わるるまま、居酒屋の軒をくぐった。
 花和尚かおしょうと語っていると、彼は何もかも忘れえた。しかし、妻のことなどは、話もしないし、相手も訊こうとはしない。
 二人は、夕明りのころ、閲武坊えつぶぼうの酒屋を出て、ぶらぶら街を歩いた。――すると誰やら後ろのほうから、妙な売り声で、呼ばわるともなく、つぶやくともなく、ぼそぼそ言いながら、くッついてくる男があった。
「――ああ狭い狭い、世間は狭い。この都に人間は多いが、眼のある人間は一匹もおらんじゃないか。……こんなすばらしい銘刀めいとうを見てくれる者もないとは情けなや」
 先に行く智深と林冲は、ちょっと、耳うるさげに振り向いたが、すぐ話に夢中な様子だった。
 するとまた、後ろで。
「大道商人の刀売りとは、わけが違う。仔細あってぜひなく手放す物。買い逃がしたら二度とかかる宝刀には、生涯出会うことはあるまいに」
 ――そのとき、先の二人は、いつもの四つ角でたもとをわかっていた。「……また会おう。近いうちに」といって去る魯智深の後ろ姿を見送って、林冲はふとつぶやきをもらしていた。
「いいもんだなあ。しんの友達というものは」
 そしてふとまた、歩きかけると、藍木綿あいもめんの浪人服に、角頭巾つのずきんをかぶった四十がらみの男が、手に見事な宝刀を捧げ、それに“売り物”とわかる草標示くさじるしげ、つと、林冲のそばへきて。
「どうです、安いもんでしょう。三千貫とは」
「刀か。刀は腰にもある、家にもある。いらないよ」
「そうか。お武家もおめくらさんか」
「なに」
「そんな、ざらにある駄刀だとうとはちと違う。眼があるなら、抜いて見さッせ」
「なるほど、こしらえは良さそうだな」
「ちっ。素人しろうとくさい。柄拵つかごしらえやさや作りを売るんじゃねえぜ。いらんか」
「まア、待て」――つい好きなので手をのばし、刀の鯉口下こいぐちした三寸の辺をぐっと握ってみた。男は手を放す。林冲りんちゅうは思わず、むむと心で唸った。
 持ち味、たまらない触感と重みである。さやを払ってみれば、夕星ゆうずつの下、柄手つかでに露もこぼるるばかり。
 ためつ……すがめつ……彼のひとみ稀代きたい銘刀めいとうの精に吸いつけられ、次第に放しともない誘惑に駆られていた。
「浪人、どうしてこんな神品しんぴんを手放す気になったのか」
「どうしてって。……この襤褸ぼろ姿を見てくれればわかるだろう。えた妻子が待っている。それ以上、訊くのは罪だ」
「訊くまい。いくらだ」
「昨日今日、三千貫とわめいてみたが、売れない。御辺ごへんを眼のあるお人と見て、半分に負けてやる」
「欲しい。だが少々、金が足らん」
「一千貫。あとはビタ一文も引けない。それでよければ」
「よし、わが家のかどまできてくれい」
 ついに林冲は手に入れた。妻もよろこんだ。
 ――単に家宝を得ただけでなく、銘刀は魑魅魍魎ちみもうりょうも払うという。そんな心づよさも抱いたのである。
 ――と。三日ほどたって。
 殿帥府でんすいふの副官陸謙りっけんから使者が来た。その書面をひらいてみると、
 聞説キクナラク。貴下ハ先頃、稀代キタイナ宝刀ヲ入手セラレシ由。武人ノ御心ガケ神妙ナリト、高大尉コウダイイ閣下ニオカセラレテモ、御感ギョカンナナメナラズ、マコトニ御同慶ニ堪エナイ。
 という祝辞の次に、こう結んである。
……ツイテハ、高家コウケ御秘蔵ノ宝刀ト、貴下ノ愛刀トヲ、一セキクラベ合ッテ鑑賞ヲ共ニシタシトノ高閣下ノ御希望デアル。依ッテ、明日改メテ迎エノ使者ヲ出ス故、御携来ゴケイライネガウ。
虞候陸グコウリク 百拝
「……はアて。誰が、いつのまに刀のことなど知って、しゃべったのか。もっとも大道で買った物。誰も見ていなかったとは限らないが」
 林冲も、ちょっと怪しみ、妻もなにか動悸ときめきを感じたが、しかし、殿帥府副官の名では、公式な召しも同様で応じぬわけにもゆかない。もしまた、文面の通りなら光栄とも考えられる。何が待つか、ともかくもとその翌日、林冲は正装して宝刀をたずさえ、迎えの者とともに、大尉だいいの公邸に出向いた。

 衛兵の見える公邸の門を入ると、林冲を伴った迎えの者は、
「あれなる中門を通って、東の殿廊でんろうを進んでいかれい。そこのきざはしに、召次めしつぎの者か副官がお越しを待っておいでになろう」
 教えられるまま、彼は奥へ進んだ。けれどそこには誰も立ち迎えていない。
「はてな?」
 振り返ると、彼方で見知らぬ衛兵が、黙って、北廊ほくろうを指さしている。さては教え違いか聞き違いかと、北へ進むとまた一門があった。すでに禁苑きんえんの一かくとおぼしく、美々しい軍装の近衛このえ兵がげきを持って佇立ちょりつしていたが、林冲りんちゅうを見ると、おしのごとく黙礼した。禁軍師範の林冲も、まだかつて、こんなところまでは来たこともない。
 だが弱った。いったいどこをうたらよいのか。壮麗なる一閣のきざはしを上って、内をうかがうと、さらに中庭が見え、彼方に緑欄りょくらんをめぐらした一堂があるのみだった。
「……あれかな? なにやら人の気配もするが」
 橋廊きょうろうを渡って、一房の珠簾すだれ内をそっとのぞいてみた。すると、正面の欄間らんまがくに、墨のも濃く読まれたのは、
白虎節堂びゃっこせつどう
 とある四大字。林冲はぎょッと、立ちすくんで、
「や。これはいかん。節堂は軍の機密を議するところで、枢機すうきさんずる高官のほか立入りならぬところと聞いておる。えらいところへ迷い込んだもの」
 あわてて後へ戻ろうとしたのである。が、時すでに遅かった。靴音たかく、さっと一方の扉をはいして現われた将軍がある。これなん、かつての毬使まりつか高毬こうきゅう、いまでは殿帥府でんすいふ大尉だいいにして徽宗きそうの朝廷に飛ぶ鳥落す勢いの※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅうであった。
「こらっ、なにやつだ。節堂せつどううかが曲者くせものは」
「あ。こう閣下ですか。お召しによって伺うた師範林冲にござりますが」
「なに、お召しによってだと。いつ汝を呼んだか。そんな覚えはないッ。怪しい言い抜けを」
「いや、いや。確かにりく副官のお使いをうけ申して」
陸謙りっけん、居るかっ。この者を召捕れっ。わしを暗殺せんと近づいた者があるぞ」
「あっ! なんで拙者が」
 すでに彼の四方は鉄桶てっとうのごとき兵士で取り囲まれていた。その中には、顔もよく知っている副官陸謙の姿も見える。林冲は、それへ向って、
「使いをよこしたのは、貴公じゃあないか。家にある貴公の手紙が何よりの証拠だ。なんで拙者をこんな目に会わすのか。おいっ、笑いごとじゃあない。返事をしたまえ」
 怒りをこめて叫んだものの、陸謙はてんで受けつけない。
「はははは。ばかな血迷いごとを。……なんで一師範の汝を、高閣下がお召しになろうぞ。敵国のため、軍の機密を盗みに忍び込んだか、または、高閣下に怨みをふくんで、お命をうかがいおったか。いずれかに相違あるまい。――それっ、あの手に持っている宝剣を用いさせるな」
 兵士らは、どっとおめきかかり、林冲の体をッ伏せ、高手小手に縛り上げて、その日のうち獄へ下げてしまった。
 獄は、開封かいほう奉行所の構内にある。時めく高家から下げられた罪人だし、罪状云々しかじかとあっては、ただ、首斬れといわぬばかりな囚人だ。しかし府尹ふいんの職として、そうもならない。奉行はこれの調べを、与力役のそんに命じた。そして、一応の証拠がためをなすまでの時日をした。
 これは、林冲にとって、受難中にも一つの幸いだったといえよう。はたまた、彼がこの世に果すべき人間ごうのいまだつきざるところだったか。
 与力の孫は、名をていといい、囚人からも世間からも、慈悲心のある良吏として、慕われていた。綽名あだなといえば良いほうにはつけないものだが“仏孫子ほとけのそんさん”といえば知らぬものはない。
 孫は、日ごろから林冲りんちゅうの人となりを知っているし、また、節堂事件が、高家のッち上げくさいことは、すぐ感づいたので、われから進んで、いきさつを洗ってみた。
 その結果、こう御曹司の横恋慕がかびあがった。そして彼をめぐる取巻き連の陸謙りっけん富安ふあんなどという阿諛佞奸あゆねいかんやからが、巧みに林冲を陥穽かんせいに落したものとわかってきた。――またそれは林冲が奉行白洲しらすで訴えた寃罪むじつのさけびとも合致していた。
「これまでの謎も、すべて私には解けています。この林冲をなきものとし、私の妻を奪わんとする高御曹司の執拗しつよう呪咀じゅそが、さまざまな形となって、わが妻と家庭を悩ましおびやかし通してきたものに違いありませぬ」
 ――それは主席の奉行も認めた。けれど、奉行にしろ高家の睨みは恐い。たとえ寃罪むじつの証拠証人をならべ得ても、無罪にするわけにゆかず、死罪以外の処刑もどうかと、ためらわれた。
「じゃあ、お奉行に伺いますが……」
 と、そん与力は、処刑判決のさい、日ごろの仏の孫さんにも似ず、色をなして詰めよった。
「この奉行所は、朝廷と民とのためにあるのでなく、こう大将家のためにあるものでしょうか」
孫定そんてい、なにを申すか。それはちと過言だろうが」
「でも、お奉行のごときはばかりをもてば、あだかも、高家の私設奉行所のごとき観を、庶民に与えるのではございませんか。……さなきだに、高家の専横と、高御曹司の非行などは、口には出さねど、開封かいほうの都民はみな見て知っておりますからな」
「では、林冲の処刑は、どう裁いたらいいと申すのか」
「とにかく、死刑はいけません。死罪だけは、断じていけない。といって、軽罪では、高家の父子もおさまりますまい。死一等を減じて、辺疆へんきょうの地へ流刑るけいにされてはいかがでしょう」
「さ。どうだろう、そんな処分では」
「大丈夫です。高家のがわにも、手ぬかりがありました。副官陸謙りっけんの手紙が林家にあったのを、てまえが握っています。あれを陽なたに出せば、奸策かんさく歴然ですから、いかに高家たりとも文句はおくびにも出せないはずと、てまえは固く信じまする」
 末期宋朝そうちょう濁世じょくせにも、なおこの一良吏があったのである。即日、流刑と決まり、林冲は白洲しらすで宣告をうけた。
 当時の慣わし、半裸にして、二十ぺんの棒打ちを背に食らわせ、その顔に刺青いれずみする。また、護送となっては、鉄貼かねばりの板のかせが首にはめられ、その錠前じょうまえに封印がほどこされた。
 流刑先は、滄州そうしゅう(河北省)牢城ろうじょうだった。――牢城とはつまり諸州から集まる罪囚の大苦役場くえきばの名。
 また、その聴許ちょうきょを要請された殿帥府でんすいふの高家でも、司法法廷の裁判にはあらがいかねたものだろう。だまって、その公文書に裁可の官印をして下げてきた。
 さて。いよいよ罪人押送おうそうの日となって、開封かいほう奉行所の門を一歩出てきた林冲の姿は、もうこの一と月ほどで肉落ち頬骨あらわれて、足もとすらもなよなよしていた。その日、往来に群れなしていた街の男女や縁故の見送り人たちも。「……これが昨日までの林師範か」と、涙を催さずにいられなかった。
 人目を浴びつつ、やがて州橋を越え、都関とかんも出ると、また一群れの人々が待っていた。すると中から林冲りんちゅうの妻と、妻の父が走り出てきて、
「おおむこどの。……待っていた。しばしの別れを、あすこの酒店で」
 と、馬子茶屋みたいな店の奥へみちびいた。もちろん、これにはお定まりの賄賂わいろが充分とどいていること。で。そこでの限られた寸時の別れをお互いに泣いて惜しみあう機会はえたが、しかし、妻は身も世もなく、林冲の胸に涙の顔を埋めて離れない。すでに「――時刻、時刻」と、戸外おもての護送役人がわめき立てても、離れようともしなかった。
 林冲は、まなじりをふさぎ、ここに観念のほぞをきめて、わざとむごくいった。
「いつまで、嘆きあっていても、別れはつきない。また、深く考えてみれば、恋々れんれんと泣き濡れているだけが愛情でもない。おそらく、この林冲がいなくなれば、こう御曹司が、そなたの身や、おしゅうとの上に、またあらゆる毒手を加えてくるだろう。……早くどこかへ身を隠せ。そして、そなたはまだ若い身そら、良縁があったら他家へ縁づいて、わしのことは忘れて幸福に暮しなさい」
 彼は即座に、酒店の老爺ろうやから、筆とすずりを借りうけ、離縁状を書いて、岳父がくふにあずけた。
「お情けないっ。……あなたは私を、そんな女と思っていらっしゃるんですか。いやですっ。……死んでもそんなことは」
 妻は悶絶もんぜつせんばかり、なお良人おっとの膝にしがみついて慟哭どうこくする。その間にも、護送の役人は、軒を叩いて、
「早くしろ、早く」
 とく。ついに舅は泣き狂うむすめを無理にもぎ離し、ともにようして泣き死んだように丸まってしまった。それを見捨てて、林冲の姿を腰鎖こしぐさりは、遠い流刑地の仮借かしゃくなく彼を追いたてていった。
 押送おうそう役の刑吏は、端公たんこう(端役人のこと)董超とうちょう薛覇せっぱという男だった。当時、そう代の習慣では、囚人をつれた端公の泊りには、道中の旅籠屋はたごやでも部屋代無料の定めだった。だから彼ら小役人は、旅籠へつくなり自身で火をおこし、あわき、出張費かせぎの小金を浮かせるのを役得やくとくとしていたから、囚人の食物などは、ただ露命を保たせておけばいいとしているに過ぎない。
 東京とうけい城の関外へ出てから二日目、小さな宿場町へ黄昏たそがれ頃つくと、とある田舎酒館いなかぢゃやの前に馬をめて、彼らを待っていた男がある。黒紗くろしゃほうを着て、卍頭巾まんじずきん黄革きがわ膝行袴たっつけばきに、馬乗り靴という扮装いでたち。そしてむちを逆手に、
「おお端公たち、いまついたか、ご苦労ご苦労」
 と、何かすでに、ここでの会合を東京でしめし合せておいたことらしく、眼くばせくれると、端公らは、ただちに附近の旅籠はたごへいって、林冲の腰鎖を部屋の柱に縛りつけ、そして早速、以前の田舎酒館いなかぢゃやへ引っ返してきた。
 まんじ頭巾の男はもう、卓に酒肴さけさかなを並べさせて待っていた。そして、銀子ぎんす二十両ずつ、二た山にして、彼らの卓の鼻先においてある。
「さあ、遠慮なく飲まんか。これから滄州そうしゅうまで何百里の道のりだが、途中にはもうろくな酒肴には出会わんぞ」
「へい。どうも恐れいります。……が、なんともはや、殿帥府でんすいふ副官ってえお偉い方の前じゃ、ついその、かたくなっちまいやしてね」
「なにもおおやけではなし、そう恐れいらんでもいい。こちらも人目をはばかることだからな。そこで開封かいほう奉行所を立つ前日、そのほうどもの私宅へ、そっと使いをやっといた例の件だが、心得たろうな」
「……そ、それがですよ旦那。弱りやしたな。こう二人で、首つき合せて相談してみたんですが、なにしろ奉行所のほうじゃ、必ず囚人の生命だけは無事流刑地まで押送おうそうせよ、万一あらば端公たんこうもまた、罰せらるべし……とございますんでね」
「そんなことはわかっとる。わかっとるからこそ貴様たちに密々こうして高家よりお頼みとしてお吩咐いいつけがくだったのじゃないか。それができんとあっては、この副官陸謙りっけんもただでは帰れん。いやか」
「と、とんでもない。てまえどもみたいな役人に、ご大官さまから内々のお頼みときちゃあ、是も非もなく、お引受けはいなめませんが、なにしろ、日ごろは薄給な身分ですし、家には女房子年寄まで、うようよ腹をかしているような暮しなのでもし職にでも離れますと、その、その日から」
「だから申しておるじゃないか。……そのほうたちの手で、滄州そうしゅうまでの途中において、あの林冲をうまく殺しおおせたら、褒美ほうびの金はもちろん、生涯、高家の庭番にでも何にでも使って面倒はみてやる、食うには困らせはせんと……」
「へい。そこはまことに、ありがたいお話で、一生仕事だぜと、こいつにも言ったんですが」
「どうも煮えきらんやつらだな。何をまだ、そんなに思案投げ首をしているのか」
「ただの囚人なら、一も二もござんせんがね、なにしろ豹子頭ひょうしとう林冲りんちゅうといっちゃ、禁軍のご師範、やり損なったら」
「たわけめ。なんのための首カセや腰グサリだ。人なき山中で一棒をくれてもよし、谷添い道で突き落し、あとから息のとめてもいいではないか。……ただしだぞ、林冲を殺したという証拠には、彼の顔から金印きんいん(いれずみ)の皮膚をはがし、それを証拠に持ち帰れよ。よろしいか。さあ合点がついたら、元気をだして大いに飲め。――そしてそれなる銀子ぎんす二十両は、当座の手付け金として渡しておくから収めておくがいい」
 賄賂わいろは彼ら役人の端公には、日ごろも収入みいりに数えている常習のものだが、こんどのことは相手も違うし、ケタも違う。一生涯の運のつかみどころかとも思われた。
 そこで、陸謙と別れた翌朝、彼ら端公二人は、またも片手に水火棍すいかこん(三尺の警棒)をひッ提げ、林冲の背をしッぱだき、しッぱだき、峨々ががたる山影の遠き滄州そうしゅうの長途へ、いよいよ腹をきめて立っていった。

世路は似たり、人生の起伏と。
流刑るけいの道にも侠大尽きょうだいじんの門もある事


 俗に、滄州そうしゅうまでの道は二千里(一里ヲ六町ノ支那里)といわれている。
 道々は難所折所せっしょ。護送役の端公たんこう(獄役人)二人は、毎日林冲りんちゅうの縄ジリをとって追いたてながら、
「さて、どこでこいつをばらしたもんだろう。ただの囚人なら雑作ぞうさもねえが、なにしろ禁軍八十万の師範だ。いくら首枷くびかせがはめてあるからって、もしやり損なったらこっちの首がすぐくなる」
 ついつい、十数日はいつか歩いてしまった。殺意もこう念入りでは、機会もなかなかつかめない。
「オイ、せつ」と、端公の一人が、もう一人のとうへささやいた。
「毎日毎日、これじゃあ容易にラチはあかねえぜ。なんとか、そろそろ手を下さねえと」
「わかったよ。いちどに息の根をとめようとするから難しいんだ。あしたからは、林冲の足をあの世へ向けて、冥途めいどの旅の一里塚を一ツ一ツ踏ませてくれる。そのあげく、ばッさりやりゃあ、なんの仕損じることがあるもんか」
 その晩。――山の旅籠はたごにつくと、端公のせつは、いち早く、裏口へ廻って湯玉のたぎるような熱湯をたたえた洗足だらいを抱えてきた。
「おい、林師範りんしはん、これで足を洗うがいいぜ。疲れた足は、よく湯にひたすに限るんだ。夜もよく眠れるからな」
「や。これはどうも」
「なんだい。ははあ、首カセが邪魔になって、うまく体がかがめねえんだな。よしよし、おれが草鞋わらじを解いてやる」
「とんでもない。お役人が囚人の足の世話なんぞを」
「いいってことさ。まア出せよ足を。……都じゃそうもいかねえが、長途の道づれ、なんの遠慮がいるもんかね」
 親切ごかしについ乗って、林冲は、それが熱湯とも知らず、うッかりたらいのなかに足を突っこんだ。あッ――と退くまもおそし、足くびはやけただれ、彼は足くびを抱えて、悶絶もんぜつせんばかり転がった。
「てへッ、なんでえ、大げさな」
 端公二人は、見向きもしない。彼らは、木賃きちんの定例どおり、例の自炊じすいにとりかかり、寝酒を飲んではしゃぎ合った。もちろん林冲へも馬の飼料かいばでもくれるように木鉢に盛った黄粱飯こうりょうめしが、首カセの前に置かれはしたが……。
 けれど火傷やけどのくるしさ、食欲も出ず、夜すがら彼は眠れもしなかった。あげくに、翌朝は新しい草鞋わらじ穿かせられたので、数里も行くと、草鞋のは血にまみれ、乾いた血と土とが、終日、足の皮膚を破った。
「おいおい林師範。どうしたんだい。そんな足つきじゃ滄州までは半年もかかっちまうぜ。早く歩けよ、早くよ」
「むむ、どうにも歩けぬ。これでもあぶら汗なのだ」
「なに、歩けねえと」
 薛が、水火棍すいかこん(獄卒棒)を振り上げるのを、とうは止めて、
「まあまあ、そう短気を起すなよ。そのうち足もなおるだろう。さあ、歩いたり歩いたり」
 棒の先で、軽く林冲の背や腰を小突いてゆく。撲られるより、このほうがはるか辛い。
 それから三日目。有名な野猪林やちょりんという原始林へかかった。夜ごとの睡眠不足と疲労に、さしもの林冲りんちゅうも、折々、立ち居眠りをもよおすらしく、混沌こんとんとよろめいていた。眼顔を見合せた端公たんこうの二人は。
「ああ、くたびれたな。どうだい、ちょっと一と昼寝していこうじゃないか」
「よかろう。だが、縄ジリをどうする? おれたちがとろりとしている間に、もしや林師範に逃げられちゃあ大変だが」
 林冲も休みたかったので、つい言った。
「どうか、ご心配のないように、拙者の体を、木の根へ、厳重に縛って下さい」
「いいかい。じゃあ、すまねえが、ちょんの、そうしてもらおうか」
 林冲は、彼らのなすままに委せていた。彼らは、その手くび足頸まで、がんじがらみにして、林冲を大樹の幹にくくし終ると、やにわに、
「よしっ。もう、こッちのもんだ」
 と、躍り上がった。その打って変った形相に、
「あっ。なにをなさる」と、林冲は叫んだものの、もう遅い。彼らは左右から水火棍を振り上げて、
「やい林冲、おれたちを恨むなよ。おめえにとっては、ここまでがこの世の定命じょうみょう。また、おれたちには出世の門だ。――林冲を殺して面皮めんぴ金印きんいん(刺青)をはぎ取って帰れば、生涯安楽にしてやるとはこう大将軍家のおさしがね。あの陸謙りっけんっていう副官の命令さ。恨むなら、そっちを恨め」
 いうやいな、林冲の頭蓋骨もくだけろとばかり、二つの棒が風を呼んだ。ところが、一棒はカンと異様な響きを発して宙天に飛び、一棒は腕ぐるみじ曲げられて、とたんに端公二人は大地へ叩きつけられていた。

 ここに現われた者は、林冲の難を聞いて、都門ともん開封かいほうから後を追ってきた花和尚かおしょう魯智深ろちしんだった。
「さあ、わが輩が追っついたからには、もう、てめえたち邏卒らそつは、召使いも同然だぞ」
 智深はそこらの立ち木へ向って、禅杖ぜんじょうを振るい、一撃二撃してみせた。およそ、どんな生木も巨象にヘシ折られたように肌を裂いて砕けた。端公二人は、慄えあがって声も出ない。
「師範。情けないお姿になられたなあ」
 花和尚は涙もろい。こういたわりつつ、林冲を木の根から解いて、さて。
「……どうする豹子頭ひょうしとう(林冲)。おぬしはここで逃げたいか。それとも滄州そうしゅうの流刑地までかれてゆく気か」
「おお花和尚……」と、林冲は再会のよろこびにむせびながら「拙者も男だ。おのれ一人助かってはいられない。逃げれば、東京とうけいに在るいとしい妻やしゅうとなどに、この大難の身代りをさせるような結果になろう。やはり拙者は刑地にいって、苦役に服すよ」
「そうか。……ぜひもないなあ。ならばせめて、滄州の近くまで、わが輩が送っていこう。さあ、この和尚の背に、おンぶするがいい」
「冗談じゃない。囚人めしゅうどの身が」
「なんの遠慮だ。大相国寺の菜園で、おたがいは義の杯を交わした仲じゃないか。きさまはわが輩の弟分だぞ。さあ兄貴のいうことをきけ」
 こうして、数日の旅は、花和尚が彼を背に負って歩き、端公らは、荷持ち、走り使い。また旅籠はたご旅籠では、下男のごとく、追い使われた。
 おかげで林冲りんちゅうの足はすっかりえ、毎日の食養も充分にとられたから、以前にもます健康に復してきた。しかも道づれは刎頸ふんけいの友、端公は従者のかたち。――行くてに待つ運命も長途の苦も忘れて、思わず数十日は愉しく歩いた。
「兄弟。名残りは尽きないが、明日はもう滄州そうしゅうでまえの近県に入るそうだ。今夜はひとつ、別れの思いをみ合おう」
 花和尚は、その夜の木賃宿で、ひなびた別宴を設けさせた。お互い心ゆくまでと、しつ酌されつはしていたが、さて離愁のはらわた、酔いもえず、
「……豹子頭ひょうしとう。おぬしの心がかりは、おそらく都にある愛妻やしゅうとの身の上だろうが、智深はまだ当分、大相国寺の菜園にいるつもりだ。よそながら見ているから案じなさんなよ。それとここに持ち合せの銀子ぎんすがある。地獄の沙汰もなんとやら、これを持って」と、二十両ほど、彼に渡し、また傍らの端公たちにも、小粒の銀子を投げ与えて、
「やい、牛頭ごず馬頭めず
「へい」
「あしたから、この花和尚がいねえからって、またぞろ師範にむごいまねをしやがると、きかねえぞ。どうせてめえたちも、お役がすめばすぐ開封かいほう東京とうけいへ帰るンだろう。よくわが輩の顔を覚えておけよ」
「わ、わかり過ぎるほど、わかっておりまする」
 翌朝、木賃の軒を出ると、智深はかさねて、林冲に別れをのべ、風のごとく、開封東京とうけいの空へ引っ返していった。
 その日、一行は滄州の県内に入った。
 次の日である。はや何となく、部落も郊外のさまを思わせ、道に見る村娘そんじょうの姿やらわらべの群れも、人里くさい賑わいが濃くなっていたが、やがて、村の用水川らしい石橋の附近まで来ると、
「おお、おお。柴家さいけの大旦那が、狩猟かりからお帰りとみえる」と、そこらの河畔で川魚をとっていた男女も、畑の物を手車に積んでいた百姓も、みな道の端によって、なにやら地頭じとうの行列でも迎えるようなさまだった。
 端公の一人が、土地ところの者に訊いていた。
「そこの石橋の彼方に、豪勢な長者屋敷の門が見えるが、あれが柴家というのかね」
「へえ。おまえさん、柴進さいしんさまを知らないのかい。滄州通いの囚人めしゅうど送りの役人がよ」
「つい、聞いていないが、この界隈かいわいで、そんな有名なお人なのかね」
「この界隈だけじゃないよ、柴進はお名だが、通り名は小旋風しょうせんぷう、貧乏人にはお慈悲ぶかく、浪人無宿者なども、何十人となく、いつも食客いそうろうとして置いているほどでさ。たとえば、お前さんたちみたいな流刑者でも、ご門前へ寄れば、きっと施し物をくださるか、一晩泊めて、いたわってやるとか、とにかく、たいそうな侠客大尽きょうかくだいじんさまなのさ」
「ああ、思い出した。それじゃあ、なんでも滄州の近郊には、そう太祖たいそ武徳皇帝のお墨付すみつきを伝来の家宝に持っているどえらい名家があると聞いたが」
「それさ。それが今いった、小旋風しょうせんぷう柴進さいしんさまというこの土地の侠客お大尽。……あっ、もうおいでなすった。あのお馬の上のお方がそうだよ」
 ――見ればなるほど、一団の人馬が、上流の川添い道から下ってくる。
 狩猟の帰りとは、ひと目でわかった。大勢の従者のうちには獲物えものしし、鹿、尾長鳥などを担っている小者もある。さらに柴進その人は、巻毛の白馬に覆輪ふくりんの鞍をすえてまたがり、かしらにはしゃ簇花巾ぞっかきんほう(上着)はむらさき地に花の丸紋、宝石入りのたい、みどりじま短袴たんこ朱革しゅがわの馬上靴といういでたち。
 年ごろは三十四、五か。龍眉りゅうび鳳目ほうもく、唇あかく、いかにも洒々しゃしゃたる侠骨の美丈夫。背には一の狩矢、手に籐巻とうまきの弓をかいこんでいた。
「やっ。……ちょっと待て」
 すでに行き過ぎんとしたせつな、柴進さいしんは急に振り向いて、従者の一人に、こういった。
「――あの道端に見える滄州行きの首枷くびかせ人を、護送の端公に断って、ちょっとこれへ呼んでみい。……どうも、ただ人とも思われぬ骨柄こつがらだ。日々、滄州送りの囚人を見ぬ日はないが、あれなる男のような人態にんていは見たことがない」
 従者はすぐ走って、林冲と端公を、彼の前に連れてきた。
 この一機縁が、やがて豹子頭ひょうしとう林冲りんちゅうの運命を大きく変えたものとは、後にこそ知られる。――しかしその場では、名乗り合ったすえ、
「さては、わが目にたがわず、あなたは先ごろまで、禁軍ご師範役として、武林に名の高い林冲どのでおざったか。――わしのもとにいる食客いそうろうや若い者でも、都にありし日、あなたの教導を受けたという話はかねがね何度も聞いている。……ともあれ、ぜひ今夜は、てまえの屋敷に一泊していただきたい」
 と、ともなわれて、柴家さいけの門を、何気なくくぐったまでのことにすぎない。
 いや、その夜の歓待の宴でも、一挿話はある。
 大勢の家人食客の中で、皆から「こう先生、洪先生」と呼ばれていた傲岸ごうがんな一武芸者があった。
 彼もしきりに、飲んではいたが、柴進がひたすら礼をつくして、林冲をうやまい、その骨柄こつがらを賞め、あまっさえ洪より上席にすえているので、洪先生たるもの、内心甚だよろこばない風なのである。
 とも気づかず、柴進は上機嫌で、
「これこれ、二人の端公にも、杯をやれ。そして銀子ぎんす反物たんものなど、なんでも欲しい物を与えるがいい。その代り、こよい一夜は、柴進の責任において林冲どのの身はあずかる」
 などといっている。もちろん、それらの賄賂わいろは、首枷くびかせらせる鍵代かぎだいなのだ。端公にしても、恐い眼にあうよりは、ふところに実入みいりのあるほうがいいのはいうまでもない。
 だからこの夜ばかりは、林冲りんちゅうも首枷なく、心から馳走になった。ところが、それも、こう先生にはおもしろくない。「……林冲の武芸とて何ほどのことやあろう。しかも流刑の囚人ではないか」と、さげすみきッているまなざしだ。
「……ははあ。洪先生、ひがんでいるな」
 宴もたけなわとなるにつれ、柴進さいしんもやっと気づいた。折ふし庭上には、冬の月が鏡のごとく冴えていた。彼はそこに壮烈な一図を描きだしてみたい思いにそそられだしたらしい。
「――どうです洪先生。日ごろは宅の若いもんや田舎剣者いなかけんじゃばかりがお相手で、せっかくの神技も振う折はありますまい。ここに禁軍の前師範林冲どのが見えられたこそ、もっけのしあわせ、一手の試合をおためしあってはいかがです」
「むむ。それは面白そうな」
 待ってましたと言いたいところらしいが、洪先生は重々しく構えこんで、じろと林冲のほうを見た。
「異存はござらんが、なにぶん、それがしの剣たるや、仮借かしゃくの相成らぬ強剣だ。それご承知の上なれば」
「林冲どの。洪先生はああいうが、あなたの方は」
「さ。拙者の棒術は、お見せするほどの妙技ではありませんが」
「では、庭上に出て、願おうか」
 ここで、よろこんだのは、二人の端公だった。洪先生が大剣を払って、月下の庭に立ったのを見たからである。もしその大剣の一さつの下に林冲が敗れ去れば、手濡らさずで自分たちの目的も達しられる。――そう考えて、満場の人々の興味とはべつな固唾かたずをのんでいるていだった。
 ところが、月下の試合は、一瞬にして、林冲の勝利に帰してしまった。
 彼は、棒をとって、立ち向ったのだが、戛然かつぜん、白刃と棒が相ッたと思うやいな、どこをどうして打ち込んでいたのか、誰の眼にもとまらなかった。明白なのは、腕を折られた洪先生が、地にヘタっていた姿だけである。
「いや、さすがさすが。聞きしにまさる見事さではある。かかる技をお持ちしていながら、牢城の苦役につかれねばならぬとは、さても何たる運命のいたずらか」
 柴進はひとしお同情を深めたらしい。――次の日、彼が立つ折には、日ごろ親しくつきあっている滄州の長官、牢城の管営かんえい(獄営奉行)、また差撥さはつ(牢番頭)などへ宛てて、それぞれ添書てんしょを書いた上、大銀たいぎん二十五両二ふうをも、あわせ贈って、
「まあ、おからだを大事に勤めてください。いずれ冬着も届けさせましょう」
 と、力づけた。さらに、また、二人の若者を付けて、牢城門外まで送らせるという親切気のかぎりであった。

氷雪ひょうせつ苦役くえきも九死に一生を
獄関ごっかん梁山泊りょうざんぱくへ通じること


「……ああ、ここが以前からよく、この世の外のように聞いていた滄州そうしゅう牢城の大苦役地だいくえきちか」
 死者のはだを思わすてきッた大陸の線。飛んでゆくこうの影も、それの生きていることが、不思議に見える。
「こんなところで、苦役につこうとは」
 林冲りんちゅうは、いくたびも憮然ぶぜんとした。
 それにしても、柴進さいしん添書てんしょかねが、ここでは、どんなにものをいったかしれない。就役者はまず、百ぺんの殺威棒さついぼうで打ちのめされ、いちどは気絶して“地獄への生れ代り”をやらせられるのがおきてだったが、それものがれた。
 また、管営かんえいの面前で裸体にされ、四つン這いにされ、肛門こうもんを金棒でほじられ、やれ舌を出せの、前の物の毛をれのと、あらゆる非人間的な侮辱ぶじょく翻弄ほんろうに会うものが通例なのだが、それもまずお目こぼしにあずかった。
 そして、登簿とうぼ、金印調べまで、すっかり終って、これで労役につく仕事場がきまれば、まず地獄人口じんこうの一員に数えられて、果て知れぬ苦役生活が始まるわけだ。
「おい新入り、こっちへきな。――てめえの仕事は、獄神堂ごくじんどうの番人ときまった。おなさけだぞ。ありがたいと思いねえ」
 差撥さはつは彼をらっして、途方もなく広い刑務区域をぐんぐん歩いていき、やがて閻魔えんま大王のまつってある古い一堂を指さした。
「ここはな、おい。天王堂ともいうが、おきてに服さねえ獄囚は、片ッぱしから、しょッいてきて、この前で土埋め、のこぎり引き、耳削みみそぎ鼻削ぎ、いろんな重刑に処す流刑地の内の死刑場だ。だがよ、おめえは朝晩、線香を上げ、掃除などして、番人役を勤めていればいいわけだ」
「それは、何ともしあわせでした。他の服役者にくらべれば」
「そうよ。よっぽど恩にきなくては罰が当るぜ」
「その上にもですが、なんとか、お計らいをもって、首枷くびかせをおゆるし願われませぬかなあ」
ってくれというのか。ふふん、そりゃあ、だいぶ物費ものいりになるがね」
銀子ぎんすなら、なおこれに所持する限りのものは、いといませんが」
「そうかい。もっとも、おめえのところには、まだ柴家さいけからの差入れもあるだろうしな。むむ、まかしておきな」
 差撥さはつは、銀をうけとって戻ったが、やがてその夕きて、首枷をはずしてくれた。
 冬は深まる。
 大陸の氷地ひょうちはかんかんにてきても、数万の服役者には一日の休みもない。ボロきれあか水洟みずばなと眼ヤニにまみれた骨ばかりの人々が、朝は暁天からありのごとくゾロゾロ出てゆき、夕には疲れた煙のように、どんよりとむらがり戻ってきて、やがて眠る。
 苦役場は三十里四方もあろうか。農耕、土木、鍛冶かじ、木工、染色、皮革ひかくなめし、車輛しゃりょう作り、牧畜、酪農らくのう機織はたおりなど、その生産は、あらゆる部門にわたっている。だが、ここでの消費物資ではない。ほとんどが都へ輸送され、宋朝のぜいと権門のおごりと、軍事面に費やされる。
 が、林冲は、柴進さいしんのおかげで、苦役だけはめずにすんだ。柴進からの差入れ物はすべて、獄吏たちに分け与えていたから、彼だけには、別扱いの自由が黙許されていたわけだった。
 時折、買物などしに、街へも出かける。
 すると、ある日である。後ろのほうから「……もし、もし」としきりに呼ぶ声がする。そして、ひょいと振り返った彼の前へ、
「おっ、やっぱりそうだった。りん師範さま、李小二りしょうじでございますよ。……いったいまあ、どうしたわけで、こんなところへ」
 飛びつくように寄ってきた町人姿の男があった。
「やあ、これは恥かしい。そちは以前、開封かいほうの家の近所にいた酒屋の手代ではないか」
「どうも、あのせつは、まことにご恩にあずかりました。今もって、女房ともよくお噂などして、忘れてはおりません」
「はて。なにか世話でもしたことがあったかなあ」
若気わかげとは申しながら、とんだつかいこみをやりまして、あぶなく主人から役所へ突き出されるところを、お助けいただいたことがございます。そのせつお立て替えくだすったお金すらまだお返ししてもおりませんで」
「なんだい、ずいぶん古い話じゃないか」
「まあ、それはともあれ、ちょっと手前どもまでお越しくださいませんか。その後、面目なさに、主家を離れ、流れ流れて、この滄州そうしゅうくんだりまで来てやっと落ちつき、いまでは、小さい飲み屋をやっておりますんで。へい、きっと女房も、びっくりするに相違ございません」
 これが縁で、その日を皮きりに、彼は街へ出るごとに、李小二の店へもよく立ち寄った。
 裏街の小料理屋で、女房と小僕しょうぼくを使って、李小二は厨房いたまえも自分でやっている。牢役所の獄吏にも馴じみが多いので、役所へきたついでには、天王堂へもきて、林冲りんちゅうの洗濯物や縫物ぬいものを見てくれたり、肉饅頭にくまんじゅうをおいていったり、とにかく気心のいい夫婦なので、林冲もとんだいい知人をえたと、よろこんでいた。
 すると、その年も越えて、或る日のこと。
「た、たいへんですぜ、林冲さま」
「なんじゃ李小二。顔色を変えて」
 ほうきを手に、そこらを掃いていた林冲は、彼があたふたと求めるまま、急いで、堂内に入り、そこの一房の扉を、内からぴったりと閉めた。

 李小二が店をすてて告げにきたのを聞けば、なるほどこれは、林冲の身にとって、容易ならぬ凶変を思わす予報にちがいなかった。
 今日のひる下がり頃だという。
 ぶらりと、彼の店へ入ってきた二人づれの横柄おうへいな来客があった。
 一人は、色の生ッ白い小づくりなにやけ男。もう一人は軍人らしい体つきの赤っつら。ともに、年は三十がらみだ。何気なく「いらっしゃいまし……」といったとたんに、李小二はぎょっとした。どうも都で見た顔だと思ったら、その赤っ面のほうは、たしかにこう大将軍家の副官陸謙りっけん
 はて、こいつア何か? ――と直感したので、女房を客のおあいそに出し、酒、料理などの註文を聞いたり、それとない雑談を、厨房窓いたまえまどからきき耳たててうかがっていると、やっぱり開封弁かいほうべんだし、またしきりに高将軍だの、高家だのというささやきが飛びだしてくる。
 それはまだいい。ところが、そのうちにだ、
「――おい、店のおやじ、途中から使いは出してあるが、やがてほどなく、牢城営の管営かんえい(奉行)差撥さはつ(牢番長)がこれへ見えるんだ。そしたら、後の客は、入れてはならんぞ。店は買切りにしてやるからな」というご託宣たくせん
 果して、まもなく、管営と差撥がやってきた。
 料理を増し、酒を加え、しばらくは、さり気なく飲んでいる様子だったが、そのうち笑い声もやみ、急に、ひっそりしてしまった。
 小二は、女房の尻を突ッついて、耳打ちした。彼女は眼でうなずいて、そっと、料理場と店の境にたたずんで、聞き耳を澄ました。奥では李小二が、眼をらしている。そのうちに、女房の腰から足の辺がわなわなふるえだしてきた……。なにかよほど恐ろしいことでも聞いたに違いない。
 たくに首をよせあっていた四つの顔は、胸を上げて笑い合っていた。陸謙の手から、管営と差撥の両名へ、莫大な銀が手渡された。
 ――そしてまた、酒飯しゅはんに移り、やがて帰り去ったのは、ついさっきで、まだ街の屋根を夕陽が赤く染めていたころだった――とある。
 ここまでの話を聞いて、林冲りんちゅうも驚いた。
「では、陸謙りっけんと一しょのにやけ男は、富安ふあんという野幇間のだいこだろう。やつは、高家の御曹司の腰巾着こしぎんちゃくといわれている佞物ねいぶつ。だがその二人が遥々はるばる、なにしにこの滄州そうしゅうへやってきたのか」
「あなたを殺しにきたんですよ。……と聞いたんで、女房のやつは、ぞうッと、背すじが寒くなって、すくンじまったわけなんで」
かねと権力で、ここの管営と差撥を、買収しにきたわけなんだな」
「そうでしょう。なにしろ、大変なことになりましたぜ。なんとか、ご要心をなさらなくっちゃあ」
「まあいいよ。どっちみち凶状きょうじょう持ちとなった身だ。李小二、女房にもいってくれ、心配するなと」
 しかし、さすがに、李小二が帰った後は、なんとなく安からぬものがある。その夜の夢見もよくはなかった。
「ようし。それほどまで、執念ぶかく、この林冲の一命を狙うとあるならば、いっそ、それもおもしろい。この命、こっちもただではくれてやれん」
 かねて何ぞの場合にはと、ひそかに買い求めて閻王像えんおうぞう壇下だんかに隠しておいた朱房しゅぶさのついた短槍たんそうと短剣。その短剣だけをふところに呑むと、彼は用事をよそおって、ぷいと街へ出ていった。
 そして、広くもない滄州の街、やつらの姿を見かけたらただ一突きにと、逆に刺客を狙って、その影を探し求めていた。
 数日は、何事もない。相手の危害が見えないのと同時に、彼らの姿にも出会えなかった。
 妙なもので、自然、げていた気もゆるむ。しばらく李小二の店へも寄らなかったが、十日目ごろの午後、ちょっとのぞいて、
「変だなあ、あれきりだが?」
 とささやくと、夫婦とも、ほっとした顔で、
「それはまあ、なによりでございますよ。このままで何事もなければ……。ま、ひと口、召しあがっていらっしゃいませな」
「そうしようか」
 と、久しぶり、一しゃくして、夕刻前に、営へ帰っていった。
 ――すると、点視庁てんしちょうからの呼び出しで、
「明日から、刑務場十五里先の東門外にある馬糧廠ばりょうしょうへ転務を命ずる。起居は中央の飼糧まぐさ小屋の一つにとること」
 という職場がえの命令である。
 そこも割りのいい役らしい。飼料かいばの出し入れには袖の下も多いとかで、囚人仲間では、羨望せんぼうの職場だ。
「承知しました。さっそくに移ります」
 多くもない荷物を持ち、彼はその夜のうちに、東門外へ引っ越した。折から※(「風にょう+炎」、第4水準2-92-35)ひょうひょうたる朔風さくふうの唸りが厳冬の闇をけ、空には白いものが魔の息吹いぶきみたいにちらつきだしていた。
 ――見れば、荒れ崩れた長い黄土の土塀、曲がりかけた観音開きの木戸。入って、まん中の一番大きなまぐさ小屋が、番人の住む台所付きの建物らしい。
 黄ばんだ寒灯かんとうの洩れてくるところから、先任の老番人が、彼の跫音あしおとに首を出した。
「ほう、おまえかね、こんどのまぐさ番は。昼、わしのほうへも、天王堂の者と入れ代れというお差紙がきていたが」
「やあ、遅く来て申しわけない。食器や雑器など、天王堂へ置き残してきたがらくたもあるが、よかったら使ってください」
「そうかい。ここにも、おらの使っていた酒瓢箪さけふくべやら、鍋や欠け茶碗なぞもころがってるよ。よかったら使うがいいぜ。それとな、夜具はこの隅に。もっと奥には、あんなに炭俵が山と積んである。なにしろ寒いから、冬中はに火は絶やされねえでの」
「買物はどこへ出ますか」
「そうそう、西の藪道やぶみちを二、三里行くとな、ちょっとした酒屋や肉屋の用は足りる。ただ、馬糧廠ばりょうしょうは、まぐさ盗ッ人がよく狙うところだから、それだけは用心しなよ」
 小屋の家主は、かんたんに入れ代った。
 天王堂とちがって、板屋葺いたやぶきの古い建物。寒いことおびただしい。なるほど、大きな炉やら炭俵の山があるわけだとうなずかれる。
 馴れぬせいか、最初の一夜は、寒さでガクガクと熟睡もできなかった。
 明けてみると、外は大雪。しかも終日降りやむ気色もない。
 林冲りんちゅうは退屈をおぼえた。
 すると夕方。差撥さはつの部下らしい巡邏じゅんらが、小屋の隙間から内を覗いていった。その跫音も、吹雪の吠えにすぐ掻き消え、小屋の灯はまたすぐもとの寂寞せきばくに返ってゆく。
「ああこんなとき、酒の買い置きでもあれば少しは愉しめるんだが」
 味気ない炉に、しきりと、小二の店が恋しくなる。だが街は遠すぎるし……と、ふと壁を見ると、風流な恰好をした酒瓢箪さけびょうたんがかかっている。
「そうだ、西の藪道やぶみちを二、三里行けば酒屋もあるとかいっていたな。どれ、一と走り行ってくるか」
 その瓢箪ひょうたんを、朱房しゅぶさのついた短槍の先にくくりつけ、羅紗らしゃ張りの笠に、みのを着込み、がらと吹雪の戸をあけて外へ出た。
 ――が、気にかかったらしく、また内へ戻っての火へ厚く灰をかぶせ、灯を消し、洞然どうぜんたる屋根裏まで見通して、
「まず、こうしておけば、間違いなかろう?」
 つぶやきながら、小屋のじょうをおろして出ていった。

 大陸特有な魔の白夜びゃくや
 積雪はくつをうずめ、朔風さくふうは横なぐりに地を掃いて、咫尺しせきもわからない。息はつまるし、睫毛まつげには雪片が氷りつく。
「おや、何の古廟こびょうだろう?」
 半里ほどきて、ふと息を休めた道の傍ら。道祖神やら何のびょうやら知れないが、林冲りんちゅうの心に、ふと仏心でもうごいたのだろうか。ひたと、雪中にぬかずいて、
「そも前世の宿業しゅくごうにや、林冲、罪のおぼえもなきに、この獄地に流され、かくのごとき、生ける醜骸しゅうがいとなっております。あわれ、なにとぞご加護あらしめたまえ。遠き都にあるわが妻をも護らせたまえ」
 と、口のうちで祈念して、やがてまた、歩きだした。
 やっと辿たどりついた小部落の酒屋で一ぱいひっかけ、さらに瓢箪ひょうたんには酒、ふところには焼肉の包みを抱き、やがて帰り道についたころは夜もけていた。雪はいよいよ烈しく、風は足にさからい、満身これ飛雪の姿で、笠のつばを抑えつつ、もとの馬糧廠ばりょうしょうまで馳けもどってきた。
 そして何気なく、例の観音開きの木戸口を蹴開き、内へ入ってみると、こはいかに、他のまぐさ小屋は無事なのに、自分の寝小屋の一棟は、雪の重さにつぶされたのか、見事、ぺしゃんこになっている。
「はアて。これは弱った。……これじゃあ、飯もけねば、寝場所もない」
 途方に暮れたとはこのことか。
「こうしていては、この身まで、雪の中に埋められてしまう。そうだ、今夜はさっきの古廟こびょうに寝て、夜が明けてからの思案としよう」
 板屋根の一部をめくッて、心覚えのところから蒲団ふとんだけを引っ張り出し、それをかついで、村道の古廟まで返ってきた。
 廟の中は案外広い。ひょいと見ると、金色こんじき鎧甲よろいかぶとをつけた恐ろしい武神像と、二匹の小鬼がまつってある。また壇には、供物くもつだの蝋燭ろうそくの燃え残りだのたくさんな色紙などが散らばっていた。彼は、その前に夜具をのべて、
「やれ、一寸先はわからぬもの。妙なところで夜を明かすことになったもんだな。だがまあ、瓢箪に酒のあるのが何よりの倖せ」
 さっそく焼肉の包みを解いてさかなとし、ひょうの口から冷や酒を仰飲あおっていた。
「ああ、いいあんばいに酔ってきた。これでぐッすりできれば」
 ごろと、身を横ざまに、手枕となったが、やはりいけない。着ている白木綿の服や肌着をとおして雪水がジミジミとみてくる。――のみならず、どこか遠くで、バチバチと妙な響きが、雪風にまじって聞えてくる。それがまた耳について、寝つかれなかった。
「や、や。変に明るいぞ」
 ぎょっとして、彼は飛び起きた。びょうの破れ壁の隙間から、赤い夜空が見えたのだ。
「しまった! まぐさ小屋の方角だ」
 彼のあたまには、すぐ小屋のの火がその原因と考えられていた。まぐさ小屋は一棟ではない。たちまち馬糧廠ばりょうしょう一面の火の海となるやもわからない。
「すわ、こうしては居られぬわえ」
 枕もとに立てかけておいた朱房の槍を持ち、すぐその消火のために馳け向おうとしたときである。彼はギクと足を立ちすくめた。
 廟のすぐ前で、なにやら人声がしているのだ。聞くともなく、耳をすましていると。
「うまくいったなあ、管営かんえい。……やあ、差撥さはつもご苦労だった。これで林冲りんちゅうも、こんがりと、黒こげになったろう」
 ――声には都で覚えがある。こう大将家の副官、陸謙りっけんにちがいない。
 それに答えているのは、これもまぎれない管営と差撥だ。もう一人いるのは、陸謙の連れの富安ふあんだろう、かなたの猛火を眺めあいながら、しきりにげらげら笑っている。
「まったく、管営さんや差撥さんの大手柄でしたな。この大雪を幸いに、部下に命じて、林冲の寝込みを計り、小屋の腐れ柱を一気にらせたというんだから堪りませんや。大雪の重さはあるし、やつは、屋根裏のはりされて、寝たまんまのお陀仏だぶつとなったに相違ありません。林冲にとれば、まあいい往生でさあね」
「いやいや、それだけではまだ、完全とは思われんので、われわれ両名が、ここへ来がけに、あのつぶれた屋根へ、さらに松明たいまつ十本ばかり投げ捨ててきたのでござる。これならばもう万に一つも彼奴きゃつの生きのびるおそれはない」
「さすが管営。ご念の入ったことだ」
 ほめそやしている陸謙の声はつづいて。
「――これで、身どもも主家の使命を見事仕遂げ、面目をもって都へ帰ることができる。いずれ帰府のうえは、高家より足下そっかたちへご褒美ほうびの沙汰もあろうが、では、これで」
「はや、お立ち帰りで」
「むむ、人目については、相互のためによくないからな。旅舎へ戻って、早暁に出立しよう。富安、まいろうか」
 別れ去ろうとする刹那。――林冲は、内から廟の扉を蹴開いて、
「待てっ、下種げすども!」
 いきなりまず、手近にあった差撥を短槍の先に引ッかけて、びゅっと、黒い血しぶきとともにね飛ばした。
「や、や、や。なんじは?」
「腰が抜けたか。林冲りんちゅうはここにいる」
「ぎゃっ。た、たすけろ。助けてくれ」
「卑怯者っ。なにをほざくか」
 すでに、林冲の豹眉ひょうびは、彼本来のものに返っている。豹身ひょうしん低く、短槍の一せんまた一閃、富安を突き刺し、あっというまに管営の大きな図う体も串刺くしざしにしてしまい、つづいて雪の中を逃げまろぶ陸謙りっけんの影へ向って、
佞物ねいぶつ。どこへ行く気か」
 びゅんと、手の槍を征矢そやのように投げつけた。槍は彼方の背に立ち、異様な絶叫をツンざいて、夜目にもあざらかな血の色がぱッと四方を大きく染めた。
「ああ、ついにおれは四人の軍官吏を殺した。宋朝そうちょうのもとでは、いまは身をるるところもない犯人となった」――林冲はみずから慄然りつぜんとしたが、身をひるがえしてびょうの前にぬかずき、武神の像に礼拝して独り何度もいっていた。
「思うに、もう宵のうち、まぐさ小屋が仆れていなかったら、この林冲は彼らの悪計どおり、はりの下に圧し殺され、さらにあぶり殺されていたかもしれません。それが助かったのは、廟の神意と存ぜられる。まさに、天のお助けだ。この先とも、林冲を護らせたまえ」
 そして、朱房しゅぶさの短槍を持ち直すやいな、夜の明けぬまにと、雪を蹴立てて、その場から姿をくらました。

 馬糧廠ばりょうしょうの火の手も、この積雪で、まもなく下火にはなったらしい。しかし一時は、警板けいばんや警鐘の乱打に、刑務場から附近の村々でも、みな起き騒いで、非常の夜警についていた。
 そのため、林冲はまったく逃げ道を封じられ、あっちこっちを、袋のねずみのように走り廻ったが、ままよとばかり、ついに街道口の大焚火たきびを見て、その仲間へ割りこんでいった。
「うう寒い。すみませんが、すこしあたらせておくんなさい。皆さんも、ご苦労さまで」
「さあさあ、ぬくもるがいい」と、四、五十人の村民たちは、何気なく譲ってくれたが「――おや、おめえは村の者じゃあないな。つら刺青いれずみがあるじゃねえか?」
「へい、牢城営の使いのもんでございますよ」
「牢営のお使いだって、おいおい、いやだぜ、そう側へ寄ッてくれるなよ。おめえの着物は血だらけじゃないか」
「あ、この血ですか。なあにこれは牛を屠殺とさつしたときの汚れでさあ。じつあ昨晩、管営かんえいさまと差撥さはつさんの官邸でお客のご招待があったんで、牛やら羊やらの屠殺をいいつけられたものでございますから」
「そうかね。それにしちゃあ、いやに生々なまなましいが」
 大勢の村民たちはみな、不気味な顔をしあったものの、流刑囚の兇悪さは日ごろ見ているので、それ以上は何も問わない……。また林冲も、ひそかにこれはまずいと警戒しだしたが、ふと見ると、大焚火たきびのそばには、村民たちが寒さしのぎに飲んでいた酒瓶さかがめが幾つも開けてある。それを見てはもう矢もたてもなかった。
「すみませんが、そいつを一杯、振舞ってくれませんか」
 ――しかし、誰も黙っている。うんともいわず、すんともいわない。
 林冲りんちゅうは「えい、面倒な」と勝手にそこらの器を取って二、三杯飲んでいた。
 ところが、その間に、古廟こびょうの方から走ってきた者が、後ろの方で、なにやらコソコソ耳打ちし合っていたのだった。やがて林冲のそばへ来て、
「おまえさん、よっぽど酒にかつえていなさるんだろう。さあ、こんなときだ、飲むさ。存分、飲んでいくがいいや」
 と、こんどは頻りにすすめだした。
 もうこの辺でと、酒の碗をおきかけていたが、つい林冲はまた手に取った。そしてたちまち半壺はんこを飲みほし、さて、礼を言いながら起ちかけようとしたときである。向う側にいた一人の男が、ぱっと林冲の頭から投網とあみをかぶせた。
「それっったぞ」
 とたんに、彼の上へ、棍棒こんぼう鈎棒かぎぼう鳶口とびぐち刺叉さすまた、あらゆる得物えものの乱打が降った。そして、しし亡骸むくろでもかつぐように、部落の内の籾干場もみほしばへかつぎ入れ、
「こいつはおそらくただものじゃねえぞ。夜明け次第、管営さまのお役所へ届け出ろ。ひょっとしたら、ご褒美ものかもしれねえぞ」
 と、わいわい、どよめき合っていた。
 するとほどなく、村長むらおさが飛んできて、
「たいへんだぞ皆の衆、たったいま、柴進さいしんさまのお屋敷の壮丁わかものが飛んできて、つかまえた男は、手荒にするな、侠客大尽きょうかくだいじんの柴進さまが、以前、世話をなすった男だというこった。――いますぐこれへ、柴家さいけの衆が引き取りにくるそうだ」
「えっ、柴の大旦那の知り人だって。そ、そいつは飛んでもないことをしてしまったわい」
「いや、何もお叱りはねえよ。だが決してこのことは口外するな、もし口外したやつは、村にはおかぬぞというお達しだぞ。村長むらおさのわしの立場もなくなる。みなの衆、頼んだぞ。牢城営へはいっさいおしになっててくれよ」
 ――さて。この夜の騒ぎも七日、十日と過ぎていつか噂も下火となっていたころ。
 村の名望家、例の小旋風しょうせんぷう柴進のやしきの奥まった一室で、あるじの柴進の前に、その懇情にたいし、心からな礼と、別れの辞をのべていたのは、余人ならぬ豹子頭ひょうしとう林冲であった。
 あの夜。この柴家の内へ、助けられてきて、さまざまな手当をうけたことも、そのときは全く覚えもなく、翌日、聞かされたことだった。
 ここには、数十人の屈強な壮丁わかものや食客もたくさんにいる。だから馬糧廠ばりょうしょうの火災と同時に、古廟の前の兇変も、たちどころに柴進の耳へ聞えてきたし、柴進もそれを知るやいな、
「さては、りん師範へ何か危害がかかったところを、逆に師範のため、都の刺客も管営かんえい差撥さはつも刺し殺されたにちがいない。日ごろから悪評しきりな管営や差撥だった。命を落したのもいわば天罰……。ただ、林師範こそお気のどくな身の上だ。あの人を見殺しにしてはならぬ」
 と、たちどころに手分けを命じて、その結果、瞬時に、邸内へ助け入れたものだった。

 ――その柴進さいしんは今、すっかり体も恢復した林冲りんちゅうを見て、いとも満足そうに、また、名残り惜しげにこう告げていた。
「できることなら、長くわが家にいていただきたいが、いまはそうもなりません。といって、あれ以来牢城役所では四どうの街道口に関所を結び、ありも通さぬ検問あらためのきびしさとか。しかしまあ私にまかせて、ひとまず山東さんとうのほうへ落ちのびてください。計略はかりごとはこの柴進の胸にありますから」
「まこと親身もおよばぬお情け、生涯忘れはいたしません。すでになかったはずのあと半生、いかようとも、おさしずに任せまする」
「では、これに紹介状をしたためておきましたから、山東さんとう梁山泊りょうざんぱくへ行って、よい時節をお待ちなされるがいい」
「ほ。……梁山泊とは」
「まだご存知ないか。――山東は済州さいしゅうこうに臨んだ水郷すいごうで、まわり八百里の芦荻ろてきのなかにとりでをむすぶ三人の男がいます。――頭目かしら王倫おうりんといい、その下には宋万そうまん杜選とせんと申して、いずれも傑物。部下、七、八百をもち世に容れられぬやからばかり。また伝え聞いて、宋朝そうちょう治下の世に、身のおき場のないような者どもも、次第にそこへ難を避けていくというありさまで、いわば自然にできた日蔭者の別天地でもある。……その首領三名とは、てまえもよく知っている間柄。あなたがお越しあれば、粗略にはいたしますまい」
「それは、願ってもない場所。ぜひ行ってみたいが、しかしどうして、滄州そうしゅうの街道口をうまく脱出できましょうか」
「ご心配あるな。今日はもうその手筈てはずもできていますから、途中までこの柴進もお送り申しあげる。いざ、お身支度を」
 うながされて彼は柴家から贈られた衣服に着かえ、また餞別せんべつ銀子ぎんす、旅の用具なども、肌身に持った。
 柴進みずからは、華奢かしゃ狩猟扮装かりいでたちを、この日は一ばい派手やかに、馬上となって、門前に出る。そこには、すでに従者食客など数十人が、旗をささげ、たかをすえ、また狩犬をつれ、手には槍、勢子せこ棒などを持って勢揃いしていた。
 林冲の身は、巧みにこの中の同勢の一人に偽装されたのだった。――かくて堂々と、滄州の街道はずれを行けば、路傍の土壁には、林冲の人相書が貼ってあるのが、しばしば見えたし、辻には“林獄囚逮捕令”の立て札が、いたるところで眼についた。
「見ましたか?」
 柴進が馬の上から、後ろの林冲を見て笑えば、林冲もまた、無言のままニヤリと笑う。
 まもなく、東街道口の新関しんぜき柵門さくもんと番所小屋が見えてきた。たたたたと、同勢小早こばやめに足なみをはやめて、そこの前にさしかかると、
「待て、待てっ」わらわらと躍り出してきた関守の番将、番卒たちが、
「おう、これは柴家の大旦那でしたか。今日もまた、狩猟かりへおでましで」
 と、俄に態度をかえて、お愛相を言いはやした。
 柴進さいしんも、うららかな顔をして。
「やあ、牢城の兵隊さんたちか。先頃からどうもご苦労なこったなあ。まだ捕まらんかね、人相書の野郎は」
「かいもく手懸りがねえんですよ。災難なのはわれわれで、夜も日も番屋に常詰じょうづめで、ここんとこ街の灯も見ておりませんやね」
「そうだろう。だが夕方の帰りがけには、しこたまししの肉や鳥を土産に置いてくからな。酒も届けさせておこうよ」
「そいつは愉しみだ。お願いしますよ旦那」
「心得た。だが役目は役目だ。一応、供の連中を一人一人調べてくれ」
御法度ごはっとの明るい旦那のこと。そんな必要はありませんや。さあお通ンなすって」
「でも、万一お供の中に、お尋ね者の人間がまぎれこんでいたらどうする」
「わはははは。ご冗談を」
「はははは。じゃあ、ご免っ――」
 同勢三十余人。まんまと、こうして馳け通ってしまったのだった。
 やがて十里も行ったところで、林冲りんちゅう一人が、その中からみちをかえて別れ去ったのはいうまでもない。以後、彼の旅路は二十日あまりの山野をいそぎ、やがて朔風さくふう肌を切るような雪もよいの或る日、見わたす限り蕭条しょうじょうとしてよしや枯れ芦の江岸こうがんにたどり着いていた。
 渡船場とせんばらしい水際に、酒屋の旗をかかげた茶店が見える。そこで、一杯ひっかけているうちに、一と癖ありげな茶店のおやじが、じろと林冲を眼で撫でまわして。
「旅人。あんたアこれから、山東さんとうのどこへ行こうって、おつもりだね」
「そいつアこっちから聞きたいところさ。亭主、ここの渡舟わたしはどこへ行くのか」
「ここは渡し場じゃねえわさ。たまに魚をりに出る舟が着くだけでね」
「では、梁山泊りょうざんぱくへ渡してもらうわけにもゆかんか。はて、弱ったな」
梁山泊りょうざんぱくへおいでのつもりかい」
「そうだ」
「ふうん……?」と、おやじはいよいようさんな眼をして。
「どこで聞いたか知らねえが、梁山泊へというからにゃあ、おめえはおかみ目明めあかしか、それとも何かべつな目あてでもあってのことか。あそこへ渡ったがさいご、ただごとじゃあ帰られねえぜ」
「そこは合点だ。じつはな亭主。その梁山泊の頭領あてに、こんな添え状をもらってきた者なんだが……」と、柴進の手紙を示すと、おやじはそのがきと彼の姿をじっと見くらべ、急に物腰をあらためてこう言いだした。
「いや、お見それ申しやした。滄州のさい旦那のご手蹟に間違いはねえ。どうもとんだご無礼を。……ようがす、いますぐ迎えの舟を呼びますから、もう一杯、そこで寒さしのぎをっていておくんなさい」
 茶店の亭主とは、そも何者ぞ。これもまた山東梁山泊の耳目じもくとして、ここに仮の生業なりわいをしている手下てかの一員には相違あるまい。
 小屋の奥へ隠れたと思うと、彼は一張りの弓を持って現われ、大きな鏑矢かぶらやをつがえて、はるか水面遠き芦荻ろてきの彼方へ向って、びゅっんと、つるをきった。矢うなりは水に響いて長い尾を曳き、その行方に、一群のこうがバッと舞い立ったと思うと、やがて一そうの早舟が、芦荻の波間をきって、こなたへぎすすんでくるのが見えた。

無法者のとりで梁山泊りょうざんぱくの事。なら
びに吹毛剣すいもうけんちまたに売る浪人のこと


 梁山泊りょうざんぱくは正確にまわり何百里とも見きれず、号して当時八百里(支那里)といわれている。風浪の日はおそろしいが、晴れた日は、山をめぐる白雲、太古の密林、そして、目路めじのかぎりな芦のからよしなぎさとつづいて、まるで唐画の“芦荻山水ろてきさんすい”でも見るような風光だった。
 ところが、ここには、宋朝そうちょうの世にれられぬ反骨の、不平のやからなどいつか何百人群れよって山寨さんさいをきずき、公然、時の政府に抗して義盗ととなえ、舟行しゅうこうや陸の旅人などをなやましていた。従来しばしば取潰とりつぶしにかかった官軍といえど、生きて還ったためしがない――と、までいわれている巨大な“無法者地帯の浮巣うきす”だったのだ。
「――なるほど、これでは」
 その日、朱貴しゅき(茶亭の亭主、実は山寨の一員)が呼んだ早舟に乗せられて、対岸の金沙灘きんさたんで舟を下りた林冲りんちゅうは、行く行く、その要害には舌を巻いた。
 芦荻ろてきと芦荻の間は舟の迷路をなし、陸の道は迷宮を行くにひとしい。さいの河原にも似て、蕭条しょうじょうたる水辺、幾ツもの洞門、谷道、また密林の中など、忽ち帰る方角もわからなくなる。
 かくて、山腹の断金亭だんきんていまでたどりつくと、そこで彼は、首領の王倫おうりんに会った。
 王倫はもと、都でまじめに学問を志し、進士しんしの試験勉強に励んでいたが、官府の腐敗を見たり、世間の裏表を知ると、勉学が馬鹿らしくなった結果、試験にも落第してしまったので、ついに自暴やけッぱちの放浪をつづけたあげく、この梁山泊へ来て宋万そうまん杜選とせん朱貴しゅきなどの仲間を得、いつか七、八百人の頭目にまつりあげられていた者だった。
「おう、滄州そうしゅうから柴進さいしんどのの添え状を持ってきたという豹子頭ひょうしとう林冲りんちゅうとは、あんたのことか。まあ、おかけなさい」
「これは王倫どのですか。それがしは、もと禁軍の師範、林冲という者、天地、身のれるところなき人間です。ここに置いてはくださるまいか」
「ご事情は、柴進どのの添え状にも、つぶさに見える。あの方には、以前、恩義をうけているので、お身柄は万々ひきうけた――と申しあげたいところだが、実はだナ」
 王倫は、ちょっと、左右にいる宋万や杜選の顔をはばかりつつ、
「……正直にいうと、この梁山泊りょうざんぱくには、現在でも、七、八百人もいるので、いつも食糧が不足がちなのだ。申し難いが、銀子ぎんす十両を、草鞋銭わらじせんにさしあげる。身の振り方は、ほかへ行って考えてくれないか」
 林冲りんちゅうは、憤然として、断わった。
「せっかくだが、物乞いに来たわけではない。ではさい旦那の手紙を返してくれ。引き退がろう」
 すると、宋万と杜選とせんの両名は、あわてて彼を引き止め、また一方の王倫おうりんを説き始めた。
「頭目。その扱いは、ちとどうかと思うぞ。第一には、柴の大旦那の顔をつぶすし、第二には、梁山泊の人間は、義を知らぬ忘恩の徒だといわれるだろう。おれたちの仲間は、恩と義でもっている世界だ。それでいいのか」
「でも、山寨さんさいの仲間には、めったな者は加盟かめいさせられない。万一というおそれもある」
「それは口実こうじつにすぎまい。疑わしく思うなら、仲間の誓約を立てさせればよかろう」
「誓約。ふウむ……じゃあ、やらせてみようか。おい林冲とやら、誓文せいもんなんざ、書けとはいわんよ。その代りに、この王倫の命じることを、三日のうちに、きっとやってみせられるか」
「ここへ置いてくださるなら、いかなることでも」
「よし。じゃあ、もいちど梁山泊を出て、対岸の山東さんとう街道にひそみ、三日以内に、人間の首を一つ取ってきて、これへ見せてもらおうか。――それも百姓漁夫の首ではいけない。役人なりしかるべき武士の首だぜ」
「心得た」
 夜は山寨の宛子城えんしじょうで、彼は客としての歓宴に囲まれた。けれどその酒宴中でも、王倫の態度はどこかよそよそしい。林冲も彼の人物をて「……ははあ、この人は嫉妬しっとぶかくて、狭量らしい。自分のごとき前歴の人間をここに置いて、将来、首領のお株をられでもしてはと、おそれているに相違ない。そんな小人しょうじんの下にはいたくもないが、さて、天下ほかに身のおくところもない身だし……」と、独りたのしまぬ色をつつんで、三日以内の約束を、観念していた。
 次の日、彼は身仕度して、長巻ながまきの野太刀を一本ひッげ、道案内の雑兵に舟をがせて、山東済州さんとうさいしゅう街道に渡った。
 第一日は、人にも会わなかった。
 二日目は雪晴れの好晴で、「――今日こそは」と、路傍にひそんだり、林の中をカソコソと彷徨さまよっていたが、見かけたのは、黄昏たそがれごろ、家路へ帰ってゆく貧しげな漁夫と、子供づれの百姓夫婦だけだった。
「限られた日は、あと一日きりだが」
 疲労と焦躁しょうそうに、林冲の眼は、すっかりけものじみていた。すると昼少し過ぎ、その眼にとまった一個の旅人がある。――やや勾配こうばいの急な雑木山の道を、大きな旅梱たびごりかついで、こなたに降りてくる人影なのだ。「しめたッ」とばかり、よくも見さだめず、走り寄って、その眼の前へ、
「待てっ、旅の者」
 長巻の石ヅキを、とんと地に突いて見せた。すると、相手の男は、仰天して、荷物もそこへうッちゃッたまま、
「ひっ、人殺しっ」
 と、めくら滅法、谷そこ目がけて逃げ転げていった。その悲鳴といい逃げる恰好も、役人でもなし、武士でもない。林冲りんちゅうはがっかりして、
「ちいっ。もう三日目は暮れそうだし。……はアて、よくよく運のない俺だとみえる」
 そして、何気なく、道に捨てられてある荷物へ眼を落していると、どこからともなく、一陣の殺気が、さっと彼のその横顔を吹いてきた。

 はっと、振り向くと、
「盗賊っ。その荷を拾って、生命いのちは落してもいいつもりか」
 怒気と嘲笑をまぜて、言葉そのものが、すでにやいばのような声だった。
 見れば、先に逃げた荷持ちの男のあるじだろうか。
 まだ三十がらみの壮者だが、顔いちめんの青痣あおあざへもってきて赤いまだらひげ無性ぶしょうに生やし、ふさ付きの范陽はんよう笠を背にかけて、地色もわからぬ旅袍たびごろも。それへ白と青との縞短袴しまばかまをはき、牛皮の毛靴けぐつを深々と穿うがって、腰には、業刀わざものらしい見事な一振りを横たえてもいる。
「あははは」と、男は林冲りんちゅうが、硬直したのを見て笑った――
生命いのちは惜しいし、荷は欲ししか。やい盗賊、荷物の男に代ってその荷をかつぎ、町のあるところまで、身どものお供をして行くなら、そこは人情、酒の一杯ぐらい、飲ませてやらぬ限りもないぞ。ばかめ、どっちをえらぶのだ」
「むむ、見受けるところ、貴様はただの素町人すちょうにんではないな。武士だな」
「おおさ、いまでこそ浪々の身だが、昨日までは、五こうの一人楊令公ようれいこう末裔まつえいとして、徽宗きそう現皇帝の旗本にも列せられた武士中の武士だ。もしそれだったら、どうだというのか」
「よしっ、その首、もらった」
「なにッ。ふざけるな」
 ほとんど同時。白光はっこうを噴いた双龍そうりゅうにも似る二人のあいだに、鏘々しょうしょうとして、火花が散った。しかし彼の長剣も、林冲の長巻も、幾十ごうとなくその秘術を尽しあったが、どっちも、相手の一髪すら斬ってはいない。果てはつばゼリとなり、相互ともに息あらく、ただ※(「髟/兵」、第3水準1-94-27)びんの毛を汗にするばかりだった。
 すると小高い所から、突然、声がかかった。
「やあ、待ち給え。林冲の三日の約はそれでいい。旅のお武家にも、どうぞ刃をお引きください」
 誰かと見れば、日限切ッての約束した林冲の様子いかにと、それとなく見にきた白衣秀士びゃくえしゅうし王倫おうりん杜選とせん宋万そうまん、そのほか梁山泊の手下てか数十人の群れだった。
「豪傑、ぜひ今夕は、われわれのとりでまで来てくださらんか。仔細はその上でおびするし、また、お身の上も伺いたい」
 たって、梁山泊のさい聚議庁しゅうぎちょうまでつれてきて、その夜、盛大な宴を設けた。
 王倫の考えでは、林冲一人を置くのでは、自分の地位もおそれられるが、彼に対して、もう一名の互角な人物を配下におけば、自然、相互が牽制けんせいし合う形になり、ぎょすには御しやすいし、わが将来も安泰なものと、すぐ胸算用してのことだった。
 で、しきりに、酒をすすめ、礼を低くして、
「どうです、浪々のお身の上と伺いましたが、ひとつここに足を留めて、存分、男の一生を愉しんでみる気はありませんか」
 それとなく、水を向けてみた。
「いや、お志はかたじけないが、じつはまだ開封かいほうの都には、屋敷もあり、身寄り一族も残してあるんで、どうしても一度は立ち帰らねばなりません。――その身が、何故、かかる浪々にあるかといえば、じつは面目ない次第だが」
 彼は、ぐっと杯を干して、自嘲をうかべた。その青痣あおあざのような顔面は、酔うほど一そう青く見える。
「――わが家は代々、宋朝そうちょうの旗本なので、殿司制使でんすせいしの役にあり、かねてまた、こう大将軍閣下直属の親衛軍の一将校でもあった。……ところが昨年のこと、徽宗きそう皇帝が、万歳山ばんざいさんの離宮にお庭作りを営まれるに当って、制使十名を、西湖せいこへご派遣になり、西湖の名石めいせきをたくさん、都へ運ばせることになった」
「なるほど……」
「拙者も制使の一人だった。そこで西湖の花木竹石かぼくちくせきちんを大船に積み、黄河こうがを下ってきたところが、運悪く、途中でひどい暴風しけい、ついに役目も果し得ず、面目なさに、そのまま田舎に身を隠しておるうち、やっとこのたび赦免しゃめんの令が出たというわけでな……」
「いや分った。それで都へ帰る途中でしたか」
「いかにも、都へ帰って、もいちど以前の官職につき、家名を復さなければ先祖にすまん……と思って、要路の大官どもに贈る賄賂わいろの品々を荷物となし、これまで来ると、いきなりそれに居る林冲りんちゅうとやらに斬りつけられ、二つとない首を、あぶなく進上してしまうところであった。はははは」
 聞いて、林冲も初めて、口を開いた。
「申しおくれたが、自分も以前は、近衛ノ将軍※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅうの下にいて、禁軍師範の職にあった豹子頭ひょうしとう林冲と申す者。……だんだん伺ってみれば、貴公とは、以前の同僚のようなものだが、もしや御辺ごへんは、あだ名を“青面獣せいめんじゅう”と呼ばれていた楊志ようし殿ではないのか」
「おお、いかにも手前はその、青面獣楊志だが、林師範ともいわれたお方が、どうしてかかるところに居られるのか」
「ま。この刺青いれずみを見てください……」と、林冲は、わがひたいの刺青を指して、苦々と笑いながら、ちく一、都から滄州の流刑地に追われた仔細や、またその大苦役場くえきばからのがれて、ここへ落ちて来たまでのいきさつを語って――
「悪いことは申さぬ。この林冲の例を見てもわかること。しょせん、※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅう将軍はあてにならぬ佞奸ねいかんなお人だし、またそれをめぐる軍人、役人、徽宗きそう朝廷のすべても、腐敗堕落している現状では、たとえ貴公が都へ帰ったところで、とても長く安穏あんのんに暮すことはできますまい。……それよりは、頭領王倫おうりんのおすすめにまかせ、われらとともに、この別天地で、男と男の義を生きがいに、存分生きてみる気はありませんか」
「どうも何やら心もかれるが、先にも言ったような次第で」
「いや、それまでに仰っしゃるなら、無理にお引き止めもいたすまい」
 王倫もあきらめたが、
「……では今夜は、かんを尽して、青面獣せいめんじゅう楊志ようしの前途を祝うとしよう。ただ、他日でもよい。梁山泊の一天地には、かかる男どもが集まって、宋朝の腐敗に抗し、こんな生き方をしているということは記憶にとどめておいてください。そして何かの時は、お力になっていただければしあわせというもの」
「一の流れ、一じゅえん。それはいうまでもありません」
 あくる朝も、楊志は山寨から餞別せんべつを貰うやら、また、王倫以下の盛大な見送りを受けなどして、一しゅうの上から手を振りつつ、梁山泊を離れて行った。
 ――さて、ここで物語は、長身青面せいめんの壮士、楊志の旅とともに、開封かいほう東京とうけいの都へ移って行くことになる。

 都へ移った楊志ようしは、さっそく持ち帰った荷をいて、地方であつめた珠玉しゅぎょく名硯めいけん、金銀の細工物など、とにかく金目な物を惜しみなく、大官たちへの賄賂わいろに使った。そしてようやく、復職のめどもつき、あとは殿帥府でんすいふ最高の大官、こう大将の一いんが書類にされれば……というところまでぎつけて、
「まずは、これでつつがなく、家名を持ち直すことができたわ」
 と、希望のその日を待ちぬいていた。
 やがて数日の後、殿帥府から「――出頭せよ」との達しが届いた。晴れの日なので、殊に身ぎれいに慎み、府の一閣に控えていると、やがてちょうを払って現われた近衛このえノ大将軍※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅうが、椅子いするやいな、傲然ごうぜんとこういった。
「楊志とは、そのほうか」
「はっ、さきの制使十名の一人楊志にござりまする」
「どのつらさげて、これへ来たか。履歴、上申じょうしんの書などを一べんするに、汝は元来、宋家そうけ代々の重恩をうけたる家柄の身でありながら、昨年、帝の御命ぎょめいにて、西湖石せいこいしの運搬にあたった折には、途中、船を難破させたのみか、そのまま行方をくらまして、自首もせず、今日まで隠れおッた不届き者ではないか」
「あいや、事情は、上申書にもちく一したためた通りでござりまする。かつはまた、ご赦免しゃめんの沙汰も聞えましたので、出府いたした次第、なにとぞご寛大をもちまして」
「ばか者、黙れっ。――赦免の令は、汝のために出したものではない。十名の制使中、あらましは任務をまっとうしているが、なお二、三西湖に戻って、罪を待つ者もあるゆえ、それへ赦免を申しつかわしたまでだ。汝のごときは、その場から逐電ちくてんして今日こんにちにいたった不届き者、復職などはまかりならん。もってのほかな願い。とッとと退がりおろう」
 楊志は暗憺あんたんとなった。絶望に打ちのめされて、以来、怏々おうおうもだえを独り抱きつづけた。
「……いまにして、林冲りんちゅうのことばも思い当ってくる。先祖からの家名、父母の形見といえるこの体、それらをけがすに忍びぬまま、王倫おうりんが引き止めるのも断って、なお夢を都につないで帰ってきたが……、ああ、やはり※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅうが権を振うこの都府とふは、俺のような人間の住めるところではない」
 今はなすこともなし、ほかに職を探す意志も出ない。すでに復職の運動や賄賂わいろのため、売る物は売りつくしていたし、明日の食にも困る窮状に追われてきた。
「そうだ、ここに祖先から伝わる一腰の名刀だけが残っている。これを売って、身寄りの老幼にけ与え、あとを路銀として、どこか遠い他県へ行って、身の振り方でもつけようか」
 その日。――彼は一剣を持ち出して、それに売り物の“草標児くさじるし”をさげ、馬行街ばこうがいの四ツ辻に立っていた。
 しかし、なかなか値段を訊いてくれる者さえない。そこで楊志は、ひる過ぎから天漢州橋てんかんしゅうきょうのにぎやかな橋たもとに河岸を変え、
「名刀の売り物だ。この稀代な宝刀。たれか眼のある人に譲りたいが」
 と、道行く人々に、呼びかけていた。
 すると、胸毛もあらわな大男が、ずかずかと彼の前へ近づいてきた。ぷウんと、酒気と油を交ぜたような体臭が鼻をく。――それを見るや往来の者はすぐ、
「そら、無毛虎むもうこが何か刀売りへ突っかかっていったぞ」
「毛無シ虎の牛二ぎゅうじが、またなにか、因縁を付けるんじゃねえか」
 と、ささやき合って、もう辺りは人立ちの様子だった。
 案のじょう。――無毛虎の牛二といわれる街のわるは、のッけから、楊志を見くびッて、からみ始めた。
「なに。こんな古刀ふるがたなが三千貫だと。……やいやい人をめくらにするのもいい加減にしろよ、いい加減に」
「はははは。酔っているな。おぬしに買ってくれとはいわぬ。退いてくれ。さあ、通ってくれ」
「大きなお世話だ。おれには買う力がねえとでもぬかすのか」
「弱るなア、どうも。刀はわが家の宝刀なので、子供に別れるような気持ちなのだ。お前さん方の持ち物にはさせたくない」
「よしっ、買ッた。そう見くびられちゃあ、こッちも意地だ。買わずにゃおかねえ。だがよ、おい。まさか鈍刀なまくらじゃアあるめえな」
「しつこいなア。お前さんには売らないと申すのに」
「ふざけるな、売り物の“草標児くさじるし”を下げてるじゃねえか。さあ、買ってやるから、切れ味を見せろ。それとも、尻込みする気かよ、ええおいっ。……さては、うぬかたりだな」
「この人なかで、騙りとは聞きずてならん」
「そうよ、三十文の刀だって、豆腐や蓮根ぐらいは切れらア。三千貫の宝刀なら、いったい何が斬れるというのだ」
「聞くがいい。銅や鉄を斬っても刃こぼれ一つしない」
「ふん。それだけか」
「髪の毛を吹きかければ、毛も斬れる。――名づけて吹毛すいもうノ剣という」
「洒落たことを言やアがる。それで生きた人間は斬れねえときては、なンにもなるめえ」
「斬ッても、やいばの肌に血のあとをとどめぬというのが、この宝刀の鍛えだ。さあ、それだけの説明で充分だろう。退いてくれい」
「いや、おもしれえ。そんならこれを斬ッてみろ」
 牛二ぎゅうじは、一トつかみの銅貨を、州橋の欄干らんかんの上に、塔みたいに積み重ねて。
「さあ、そこのかたり野郎。ここへきて、このぜにを見事斬ッてみろ。斬ッたら、三千貫くれてやるが、斬れなかったら、ただではおかねえぞ」
 群集はわッと輪をひらいた。名うてな街のゲジゲジと、刀売りの大言壮語。どうなるやらと、往来はいよいよ山をなすばかりである。

「……よしッ、見せてやる」
 楊志ようしはついに欄干の前へ寄っていった。じっと、ぜにの一点を見ていることしばし、抜く手を見せずとは、その間髪のことか。――二つに斬れた銭の数枚が、やいばの両側へバッと飛び、しかも欄干には傷痕きずあとも残さなかった。
「やあ、斬れたっ。ほんとに、斬れたわ」
 どよめく見物人の喝采かっさいを尻目に、毛無シ虎は、なお躍起だった。いきなり自分の※(「髟/兵」、第3水準1-94-27)びんの毛を一とつかみほど、※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしり抜いて、
「おッと、待ちねえ浪人。そんな手品は、大道芸人もやるこッた。さア、これをいう通りに斬ってみろ」
 いよいよ、かさにかかってえかかった。
「おおさ。性根をすえて見るがいい」
 楊志は左の手に、それを受けた。そして晃々こうこうたる宝刀のやいばに向って、の髪の毛を、ふッと静かな息で吹き起すと、
「あら、見事……」
 見物たちは一瞬に、うつつを抜かした。――見れば楊志の息にかかった髪の毛は、あたかも宝刀の精に吸いついてゆくように、彼のを離れるや飛毛ひもうの舞を描きながら、ハラリ、ハラリ、みな二つに斬れて落ちるのだった。
 眼をすえていた毛無シ虎は、
「うるせえや、見物人めら。まだまだ、おれの負けじゃアねえ。第三には、人を斬っても、刃の肌に血の痕を残さねえと、ざいたはずだ。さあ浪人、証拠を見せろ」
「見せてやる。犬を曳いてこい」
「犬をどうするッてんだ?」
「いわれなく、人は斬れぬ」
「たいがい、そういうだろうと思った。かたり者の逃げ口上はきまっていらア。出来ねえなら出来ねえと、ご見物に向って謝罪あやまれ」
「おぬしに刀は売らぬのだ。まアこのくらいで勘弁せい」
「いや、ならぬ」と毛無シ虎は、楊志の手頸てくびをムズとつかんで、
「――この刀は、おれが買う。買主との約束どおり、人間を斬っても血の曇りを残さぬといったあかしを立てろ」
「それほどいうならば、金を出せ」
「金はいまねえが、後金あとがねということもあるんだ。とにかく生きた人間を斬ッて、この通りだという値打ちを先に見せるがいいや。それとも、四つン這いに手をついて謝罪あやまるか」
 ほとほと持て余した楊志は、ここにいたって、ついに堪忍の緒を破ったらしい。しかしその青い面色に一まつ凄気せいきは見せたものの、依然、言葉はしずかに。
「……さて、お立会い」
 と見物人へ向って言った。
「ごらんの通り、この無頼者ならずものめが、先刻より私にさまざまな難癖をつけ、なんとなだめてもおさまりがつきません。その上にも、生きた人間を斬って見せろと申してきき入れませんが、いったい、どうしたものでございましょうか」
 すると、見物の群れから、弥次馬が、
「斬ッちまえ! 斬ッちまえ。――そういう毛無シ虎に、斬れ味を見せてやるがいい」
「その野郎がいなくなれば、第一、街が明るくならあ。よろこぶ者はあっても、悲しむ奴はたれもねえよ」
「ご浪人、頼むから、やッてくれい」
 わいわいと、四方から声のつぶてだった。
 こう聞いては堪らない。毛無シ虎は、その本性をなおき出しにいきまいた。いきなり楊志ようしの胸いたを、どんと一ト突きして、その手にある宝刀をつかみとろうとかかったらしい。――が、彼の上半身は、ひょろと、空を泳いでいた。と見えたのも一瞬である。見物人の眼には、一の血の霧が、バッと、大輪の花みたいにそこで開いたかのように映った。
「わああっ……。やった!」
 まさかと思っていたのだ。うめきに似た群集の声には戦慄がこもッていた。すでに見る楊志の足もとには、真二つとなった毛無シ虎の巨体がピクともせずぶっ仆れている。そして彼が垂直にして持ち捧げていた長剣には、なるほど、血脂ちあぶらの曇りもとどめていなかった。
「街のみなさん」
 彼はそのままな姿勢で群集へ向って告げた。
「――おしずまりください。あなた方にご迷惑はおかけしません。見られたような仔細で、てまえはついに白昼、この天漢州橋の大道で人をあやめました。法罰、のがれ得るところでない。あなた方が生き証人だ。これから奉行所へ自首して出ます。そこを開いてお通しください」
 彼の態度は立派だった。群集はそれにも感動をうけたらしい。聞き伝えて、彼が入った奉行所の門前には、庶民が群れをなして、
「毛無シ虎が悪いんだ。牛二ぎゅうじはふだんから街の者を泣かせ、なに一つろくな真似まねはしていない。刀売りを助けてください」
 と、口々に叫んだ。――以来、毎日のように、嘆願書やら差入れ物やら、楊志のためにはと、義金までつのッて、あらゆる助命運動が、街の有志によってつづけられた。
 六十日間の留置期間に、彼の処分もほぼきまった。官辺でも、折紙付きの毛無シ虎には、手を焼いていたところだし、吟味役人から牢番にいたるまでが、ことごとく楊志の同情者であったことも、情状の酌量しゃくりょうを容易にしたらしく、
「――北京ホッケイノ地へ流罪ルザイトナシ、大名府ダイミョウフ留守司ルスシノ軍卒ニオトスモノ也」
 これが、罪の判決であった。同時にまた、
「所持ノ宝刀ハ、是ヲ官ニ没取ス」
 とも、言い渡された。
 定法どおりに、ひたい金印きんいん(刺青)を打たれたのはやむをえない。だが、追ッ払いの背打ちの棒もかろく、やがて護送使の手で、はるか北京ほっけいの空へ差し立てられていった。

青面獣の楊志ようし、知己にこたえて神技の武を現すこと


 北京ほっけいは、当時、大名府だいみょうふともいい、五代各国の首府としても名高い。
河北カホク、治レバ天下治リ。河北、乱ルレバ天下乱ル”
 とうの世代から、すでにそんな言葉があるとおり、西に太行たいこう山脈、東に遠く渤海ぼっかいをひかえ、北方に負う万里ノ長城は、北夷ほくいの襲攻にそなえ、不落の名がある。
 しかし、近年では、満州の女真じょしん(金)りょうの侵攻も油断がならぬため、徽宗きそうそう朝廷でも、ここを重視して、その留守司るすし(北京軍司令官、兼、守護職)には、特に大物の人物を配していた。
 世傑せいけつ梁中書りょうちゅうしょは、その人である。
 彼は、都の太師だいし(太政大臣)蔡京さいけい閣下の女婿にょせいであり、この北京ほっけいでは、軍権、民政、その一手にゆだねられている留守司の重職なので、その羽振りのよさは、言をまたない。
「おや、東京とうけい楊志ようしが、ひら軍卒におとされてきたのか」
 或る日、梁中書は、護送者から届け出ていた書類の一片を見て、こうつぶやいた。
 楊志ももとは名家の出なので、その人柄も薄々は知っていた。――で、護送使の者に、身柄受取りの官印をあたえて帰すと、さっそく、自邸に楊志を呼んで、
「そちはいったい、どんな罪を犯して、ひらの軍卒などにおとされてきたのか」
 と、事情を問いただした。そして、彼の口から委細を聞くと、
「なあんだ、そんなわけだったのか。よろしい、折を待ちたまえ。君ほどな人物、いつまで、一兵卒にはしておかん」
 大いに慰めて、当座は梁中書の邸内の兵卒に飼われていた。
 だが、いかに彼の権威でも、理由なく楊志を取り立てるわけにはゆかない。そこで、城外の大練武場で、一日、北京総軍の大演習が行われるときを待って、楊志の武技を試し、もし彼に抜群の業があったら、それをたたえて、大いに登用してやろうと考えた。
 頃は、春めき始めた二月の頃。
 大演武場は、北京三軍の旗と兵馬で埋まった。時刻となれば、貝が鳴り、鉦鼓しょうこがとどろき、軍楽隊の演奏とともに、梁中書は副官その他、大勢の軍兵をしたがえて、式場へ臨んだ。
 厳かな閲兵えっぺいの後、李天王りてんのう李成りせい聞大刀もんだいとう聞達ぶんたつ、二将の号令のもとに、全軍、中書台ちゅうしょだいに向って、最敬礼をささげ、また、三たびの諸声もろごえを、天地にとどろかせた。
 たちまち、全軍は二陣にわかれ、紅旗、白旗が打ち振られる。つづみを合図に、両軍それぞれの大兵が、鶴翼かくよく鳥雲ちょううん水流すいりゅう車輪しゃりん陰陽いんよう三十六変の陣形さまざまに描いてみせ、最後にはわあああっ……と双方起って乱軍となり、そこかしこで、凄まじい一騎討の競武が展開された。
 中でも、紅軍の副牌ふくはい(部将)周謹しゅうきんの働きは目ざましく、彼の槍の前に立ちうる者はなかった。
「周謹。日ごろの猛練習も思われて、今日の働き、見事だったぞ」
 梁中書りょうちゅうしょは、かがやくばかりな銀色の椅子いすから、彼をめて、また言った。
「ところで、もと東京とうけい殿司でんす制使楊志ようしが、流されて一兵卒に落され、今日も余の供としてしりえに来ておる。彼は近衛このえの一将として、武芸十八般にひいでた男。――彼とここにて、槍術を競べてみせい」
「おそれながら……」と、周謹は口をとがらせた。
「流され者の一兵卒と、試合せよとは、余りにも」
「なにをいうか」梁中書は、わざと、声を高めて一喝した。
「いまや諸国に盗賊はびこり、国境には、遼族りょうぞく女真じょしんの賊のうかがうもあって、今日ほど国家が人材を求めているときはない。まこと神技の武術を身に持つ者なら、一兵卒たりとも、これを用いぬは、国家への不忠である。それを周謹は不服だというのか」
「いや、決して、さような意味では」
「なればこれへ、楊志を呼べ」
 召し出された楊志は、かねがね梁中書の好意のあるところをさとっている。もとより異存のあろうはずもない。
 両人は、黒ずくめの戦袍せんぽう(よろい)と黒駒を与えられた。使用の武器は、たんぽ槍(穂先を羅紗でくるんで玉とした物)で、それにたっぷり石灰がふくませてある。
「いざ」
 と、将台を前にして、両人、馬上の槍を戦わせた。
 真槍でないから、ちょっと、勝負の判定は難しいようだが、しかし、腕前の差は歴々とあらわれた。馳け合うことしばし、周謹の体や黒馬の肌には、白いあと斑々はんぱんと描き出されたのにひきかえ、楊志の五体や駒には一点の痕もついていない。
 勝負あった! の銅鑼どらが鳴る。
 すると、兵馬都監とかん李成りせいが進み出て、将台へ訴えた。
「周謹は無念そうです。彼の得意は、弓にあるので、弓を持たせて、もう一度の勝負をご覧願わしゅう存じまする」
「楊志。よろしいか」
「心得ました」
 ふたたび、指揮台で青旗が打ち振られ、金鼓きんこ一声、馬は馬を追ッて、演武場の南の方へ、パッと馳け出た。
 逃げていくのは、楊志だった。
 周謹は、三を放って、三矢とも、見事、楊志の片手のたてで払われてしまった。
 こんどは、楊志が追う番に廻った。――楊志は、弓を引きしぼって周謹の背に迫ったが、わざと急所を射はずして、その肩を射た。しかし、たとえ肩でも何かはたまろう。あっと、相手は馬上からころげ落ちた。
「さすが楊志の武技は中央の武技の一流だった。――周謹はしょせん敵でない。しばらく周謹の現職を楊志にゆずらせ、今日以後は、楊志をもって副牌ふくはい(部の将校)に取り立て得さす。――管軍かんぐん書記、さっそく辞令を彼に授けろ」
 梁中書りょうちゅうしょが、かく命じると、突如、軍列の一端から躍り出ていう偉丈夫があった。
「今のおことばは、この索超さくちょうには、大不服です。周謹しゅうきんが拙者の弟子だからとて申すのではありませんが、楊志の武技は中央一流との御意ぎょいは、聞きようでは、北京ほっけい総軍には、人もなきかの如く聞ゆる。それほどなご賞辞ならば、この索超を打ち負かしたうえにて、彼へおさずけ願いたい」
「はははは。誰かと思えば、急先鋒とアダ名もある正牌軍せいはいぐん(一軍の大将)の索超か。よからん、よからん! 望みとあれば勝負してみよ」
 いよいよ、事は物々しくなった。両者にはあらためて、本格的な武装を命じ、試合場所も、将台のらんまぢかに移されたので、梁中書は白銀の椅子を欄前にまで進め、折から北京七門の楼門上には、大きな日輪が夕雲に落ちかけてきたので、縁飾ふちかざり美しい蓋傘おいがさは、彼の冠の上に瑶々ようようとしてかざされていた。

 開始の軍楽ぐんがく。――それがやむと、両側のさく内で、金鼓きんこが鳴り、楼の上では用意! の黄旗が早や振られている。
 どかんと、はるか馬場の末のほうで、烽火のろし用の爆音が、夕空にこだました。見れば、西の門旗もんきの下からは、急先鋒索超さくちょう、東門からは、青面獣楊志ようし。各※(二の字点、1-2-22)さんぜんたるよろいかぶとのいでたち。さながら戦陣そのままな猛気を飾って、静々、こなたへ相寄って来るのが見える。
「おうっ……」
 たちまち、二騎の姿は、魚紋を描いて、もつれめぐった。
 索超は、雪白せっぱくの馬上に、金色こんじきほのおを彫った大斧おおおのをひッさげ、楊志はするどい神槍しんそうを深くしごいて、とうとうと馳け巡りながらきょをさぐる。
 この戦いは、見事だった。両者の威風といい、その技といい、見ているにさえ息づまった。――大斧だいふ閃々せんせん槍尖そうせんの電光、おめき合うことも幾十合か。馬も汗するばかりなのに、どうしても、勝敗はつかない。満場は声なく、巨大な落日の紅炎は、西の空へ、刻々に沈んでゆく。しかもまだ、相互ともに意気さかんなのだった。まさに不死身の人間の戦いかとも怪しまれている。
「ああ。みごと」
 梁中書は、いつか夢中で、その銀椅子いすから立っていた。彼は満足した。大名府に両雄を得たり、といってよろこんだ。
 彼のそばから伝令が走った。引分けの銅鑼どらが鳴る。索超の部下は、万雷のような勝鬨かちどきをあげたが、楊志の方には、歓呼もない。
 しかし二名は、台下に並んで、ともに、同等な賞を拝領した。そして夜は演武庁の楼上で、盛大な祝賀の宴にほまれをうたわれ、その席上ではまた、
「以後、索超、楊志ともに、相並んで、軍の提轄使ていかつし(憲兵の長)たるべし」
 と、任命された。
 何が不幸か幸か、げにも人の運命はわからない。これからというもの、楊志は、梁中書に気に入られ、楊志もまた、恩に感じて、心からその人に仕えていた。
 いつか夏も近づいて、五月の声を聞くと、その日は、端午たんご節句せっくだった。
 佳節かせつの客もみな帰って、梁中書はさい夫人と二人きりで、やっと私室にくつろいだ。そして夫人の杯に、菖蒲酒しょうぶざけいでやりながら、
「どうも、こう忙しい重職になると、めったに、そなたの笑顔を見ることもできんなあ」
 と、わざと妻のよろこびそうなことをいった。
 蔡夫人はえん姿態しなのうちに、つんと、いつものお実家さと自慢を匂わせて、
「でも、こんな栄誉と福貴は、万人のうらやむものではございませんか。勿体ない」
「とんでもない。愚痴をこぼしたわけではないよ。それどころか、そなたの父、さい大臣のお引立ては、夢寐むびの間にも、忘れてはおらん」
「そういえば、あなた、やがてもう、父君の誕生日も間近でございますよ。お忘れですの」
「なんの、忘れてなろうか。岳父おしゅうとのお誕生日、七月十五日。ことしこそは、去年のような失敗をせぬようにと、内々心をくだいておる」
「去年はまあ、とんでもない抜かりでしたわね。お父君のお祝にと、あんなにまで、おびただしい金銀珠玉を東京とうけいへ送らせてやったのに、その途中で群盗のため、すべて強奪されてしまったことではございませんか」
 まるで良人の落度でも責めるように、蔡夫人のひとみが、耳輪の瑠璃るりより細い鋭い光で、梁中書の横顔を射ていた。それには彼も二の句がなく、今年もまた、早くから頭を悩ませている風だった。
「ねえ。どうなさるおつもりですの。……今度は」
「だからさ、今年もすでに、心がけて、すでに十万貫に価する珍器重宝ちょうほうは、この北京ほっけいの古都を探って、ひそかに庫にあつめてあるわさ」
「いいえ。それよりも、その高価な宝を、どうして無事に、東京とうけいのお父さまのもとまで届けさすことができるか。そのご要意のほうが、かんじんではございませぬか」
「それには、人だな。なんといっても、よほど信用のおける人物でのうてはかなわぬし、さらには、いかなる賊と出会っても、断じて負けをとらぬ勇者でもなければならぬ」
「この北京何十万の軍には、それにかなう一人の人物もいないのですか」
「いや、そんなことはない……」と、あわてて彼は言い消した。
「――勇者はいる。武術の達人も少なくはない。だが考えてみい。十万貫の重宝といったらたいへんな富だ。いかにわしのたくわえと俸給でも、そんな多額な金目の物を、一私人としては、都の岳父おしゅうとに贈りうるはずのものではないからな。……腕ぶしばかり強くても、腹ぐろい人間には、このことは打明けられぬし、使いにも差向けられんというわけだ。それでこの人選には、わしも全く慎重にならざるを得んのじゃよ……」
「ほんに、そう伺うと、人はないものかも知れませんね。けれど今年こそは、お父君にぬかよろこびをおさせしては、あなたとしても、申しわけがないでしょう」
「……まあ待て。まだ幾十日の間もあること。全然、心当りの人間がないわけでもない。充分、信用がおける人間かどうか。ま、もう少しみていよう」
 いま、梁中書の腹にあるただ一人の人物――その候補者とは、いうまでもなく、かの青面獣せいめんじゅうの楊志以外な者ではなかった。

風来の一怪児、東渓村とうけいそん宿命星しゅくめいせいの宿業をもたらすこと


 近ごろ。山東は済州さいしゅう※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)城県うんじょうけんに、あたらしく赴任して来た県知事がある。
 姓は“”名は“文彬ぶんぴん”。県民の評判はたいへんよかった。現下世は腐敗の極といわれているものの、なお多くの中には良吏もいたのである。非理曲直ひりきょくちょくすこぶる公明で、私のいとまにはらんを愛しきんかなしょもよく読むといったような文彬だった。
「――自分がこの地へ着任いらい、まだ何も見るべき行政はしていないが、まず県下の治安を第一に確立したい」
 彼は或る日、県(県は日本の郡単位)庁堂ちょうどうの壁に、民治の主旨をかかげて、その日、公庭に集まった全吏員にこう告げていた。
「これまでどこに赴任してみても、およそとして、民を安んじ民と和楽をともにするということはじつに難かしい仕事だと痛感しておるが、わけてこの県は難治な地方と思われる。なぜなれば、大盗の巣窟そうくつ梁山泊りょうざんぱくなどの水郷すいごうもあって、旅途はさびれ、土民の気風も荒く、そのうえ日々聞ゆる兇悪な犯行にさえ、従来、官の実績は何もあがらず、官は無力なものと、民からも悪党からも見くびられておる」
 全員はしいんとしていた。みな面目ないふうである。が、列の中ではそれが不服らしく満面をムズムズ燃やし、耳を押ッ立てて聞いていた巨漢二人の顔があった。
 いずれも、ちょう与力よりき、つまり捕手頭とりてがしらである。
 その一人は、騎兵捕手の与力で、名を朱同しゅどうといい、あだかも関羽かんうのようなひげをもっているので“美髯公びぜんこう”という綽名あだながあった。
 また、もう一名の歩兵与力は、これも身のたけ七尺をこえ、人なみはずれな腕力に加えて、およそどんな土塀もちょっとした小川も一跳躍にとびこえる特技のあるところから、県中、この人を“挿翅虎そうしこ”ともアダ名している雷横らいおうという者だった。
 こう二人は、新知事の訓令にもどこか反撥的な面構つらがまえをみせていたので、文彬ぶんぴんはその眼気を感知し、微笑を見せながらすぐ次へ移っていた。
「――だが、過ぎたことはぜひもない。ただ、今後はお互いの協力で県下の治安に尽していこう。そこで捕手頭の雷横と朱同に命じるが」
 二名は列の中で、ちょっとその直立をただした。
「ご苦労だがさっそく部下をひきいて、一方は西門道から村々を巡邏じゅんらしてゆき、また一方は、東門街道を出て県下を巡り、途々みちみち賊あらば捕え、民の難あらば助け、そして二た手の巡警隊は、東渓村とうけいそんの山上で落ち合い、相互の情報を交わし合うがよい」
「心得ました。では、すぐさま」
「いや待て。――東渓村の山上には、天下の奇樹きじゅといわれる有名な大紅葉おおもみじがある。あの葉は他に類のないものだ。おのおのは、相違なく巡邏したしるしとして、そのもみじ葉を持って帰れ。よろしいな、怠れば罪に問うぞ」
 文彬ぶんぴん新知事。抑えるところは抑え、厳しいところは、なかなか厳しい。
 その夕、朱同しゅどうは西門を立ったが、彼の方はしばらくき、まず雷横らいおうの行く手を見よう。
 捕手二十余人をつれた雷横は、べつに東門街道を出て、村々を巡邏し、翌日も県下を歩いてから、約束の東渓山へのぼっていき、例の大紅葉の下に立った。そしてさて、待つま程なく、一方の朱同組もやって来たので、ここで情報交換しあった後、二人は思わず哄笑こうしょうした。
「いやどうもご苦労さまだ。こんな時にかぎって、小泥棒一ぴき見当りはしねえ。なんのことはねえ紅葉狩もみじがりにきたようなものさ――」
 帰路は夜にかかった。お互い逆に道をえて、松明たいまつを振りつつ山を降ッたのである。
 すると、その雷横組のほうが、ふもとぢかい霊官廟れいかんびょうのほとりまで来たときだった。ひょいと見ると、びょうの扉が、魔の口みたいに開けッ放しになっている。
「おや、廟守びょうもりもいねえのに、おかしいぜ」
 雷横はふと立ち止まった。多年の直感が何か異臭いしゅうをそこにぎつけたものらしい。

「やいやい。念のためだ。松明たいまつを持って、踏み込んでみろ」
 雷横の一と声に、部下の捕手たちは、どやどやと廟のうちへ躍りこんだ。
 するとそこには蜘蛛くもの巣だらけな暗闇を天国として、一人の大男が、お供え物のつくえの上に、まっ裸な体を載せ、丸めた着物を枕に、高いびきで熟睡していた。
「ほう、凄げえつらして寝ていやがる……。眼も覚まさねえぜ」
 と、捕手もあきれた。
 毛脛けずね、胸毛、まっ黒な肌。裸足はだしに馴れた足は象の皮みたいだし、顔は赤痣あかあざだらけで、眉毛などあるかないかである。おまけに厚い唇からよだれをたらして、正体もない寝ざまなのだ。
「……ははあ、兇状持ちの股旅者またたびもンだな。叩けば何か出るだろう。なにしろ、紅葉の葉ッじゃ土産みやげにもならねえからな」
 つぶやくやいな、雷横は、そこのつくえを蹴って、男のからだもろとも、引っくりかえし、
「縄をかけろ。四の五をいわすなッ」
 と、不意にその男をかららせた。
 もちろん、赤痣あかあざの若者も、吠えたり暴れたり、抵抗はしたが、二十余人の捕手に会ってはどうしようもない。手負いじしのように東渓山の麓へと曳きずられていった。
 そもそも、この山すそには、一すじの渓川たにがわを境として、西渓村せいけいそん東渓村とうけいそんとの、二聚落じゅらくがある。
 かつて、その西渓村のほうでは、白昼でも妖怪が出るという噂がたち、事実、そこのふちで理由なく村の男女が溺れたり、牛馬が引き込まれたり、怪異な変が多かった。
 すると或る年。一人の旅僧が、
「わしが鬼魂きこんしずめて、供養してあげる」
 と、大きな青盤石せいばんせききょうきざませ、妖怪退散の法要を行なって去った。
 それからというもの、西渓村には無事がつづいた。――西渓村の幽鬼はみな、東渓村へ逃げていったのだ――と言いはやされた。
 怒ったのは、東渓村の名主なぬし晁蓋ちょうがいである。
「化けものなんざ、いくらでもこいだが、おれが名主でいる以上、そんなケチをつけられちゃあ黙ってはいられねえ。西渓村の奴らめ、明日の朝になって、腰を抜かすな」
 晁蓋は、深夜、ひとりで渓川たにがわを渡って行き、西岸の供養塔をかついで帰った。そして東渓村の見晴らしのいいところへ、それをでんと据えこんで、澄ましていた。
 以来、この庄屋さんに、あだ名がついた。
 ――托塔天王たくとうてんのう
 その名のほうが、有名になった。
「おいっ、誰か起きてみねえのか。さっきから表門を、どんどん叩いている奴がいるじゃあねえか。どいつもこいつも寝坊だな」
 晁蓋はさっきからどなっていたが、ついには自身寝室を出て、表門へ出ていった。
 その朝。いや、夜はまだ明けてもいなかった頃である。
「うるせえな。だれだい、今頃」
 開けてみると、黒々とたいへんな人影だ。松明たいまつの火光の中には、大の男の縄付なわつきが見えるし、顔見知りの雷横もいる。
「やあ、どなたかと思ったら、県の与力さまじゃあございませんか。いったい、どうなすったんで」
「おう晁蓋。こんな大勢して甚だすまんが、部下の者に朝飯をとらせたい。暫時、屋敷のすみを貸してくれんか」
「おやすいこッてすが、何か大きな捕物でも」
「なあに、そんな仰山ぎょうさん獲物えものでもねえが、霊官廟れいかんびょうの内に、うさんな野郎が寝込んでいたので、引ッくくってきた帰り途だ。あそこも村の内、おぬしに声をかけないのも悪いからな」
「それは、どうも……ま、ずっとお通ンなすってください。いま雇人どもを起して、さっそく朝飯の支度でもさせますから」
 まもなく荘院しゃうやの内は、大賑おおにぎわいになった。県のお役人衆とあって、下へもおかず、酒飯しゅはんはもちろん、風呂までかす騒ぎだった。
 そのすきまに晁蓋は、門長屋の暗い一戸を覗いてみた。庄屋として、縄付の男を一見しておく義務を感じたからであろう。

 見ると、とび色の体に無数な傷を負った若者が、両手をはりに吊り上げられたまま、爪先だちに立っていた。大火傷おおやけどでもしたあとか、赤痣あかあざいちめんな顔をゆがめ、苦痛を歯がみで耐えている。
「はて。村じゃ見たことのねえ男だな。おい、どこのもンだ、おめえは」
「遠方から来た者です、へい、この地方に、お訪ねしたいお人があったのに。……そ、それを理不尽りふじんにも、いきなり縄目にかけやがッて。……あて、アててて」
「なんだい。いい若いもンがよ。して、訪ねるお人ってえのは?」
「東渓村の托塔天王たくとうてんのうだ」
「えっ、なんの用で」
「そいつア言えねえ。だが晁蓋ちょうがいさんは、村名主だとか。……旦那、この村は何村ですえ」
「東渓村だよ。そしてこういう俺が、その晁蓋だ」
「あっ、だ、旦那がですかい。……じゃあ、聞いておくんなさい。あっしゃあ、※(「さんずい+路」、第3水準1-87-11)とうろしゅうの生れで」
「あ、たれか来た。早く用向きだけ、ひと口にいえ」
「じつア、ひょんな早耳から、ど、どえらいもうけぐちを知ったんで、それをおらせに来たんでさ。旦那なら相談になると思って」
「よしっ、後で聞こう」
「後でッたって、この縄目じゃあ」
「助けてやる。――俺のおいになれ、甥によ。五ツ六ツの年に村を離れていたが、風の便りを聞いて尋ねてきたという風にな。……いいか、うまくばつを合わせろよ。場面は俺が仕組んでおく」
 なに食わぬていで、晁蓋はその足で、離亭はなれに休んでいる雷横らいおうの席へ顔を出した。
「おや、もうご出立のお仕度で」
「やあちょう旦那。時ならぬ時刻に、えらい厄介をかけて、すまなかったな。夜も白んできたから、ぼつぼつ出かけようと思う」
「ご苦労でございますなあ。またどうぞ、近くへお越しのせつには」
 門のほうでは、はや部下たちが、槍、棒、刺叉さすまたなどの捕具ほぐを持って勢揃いし始めている。雷横もまた、颯爽さっそうと出ていった。
 見送りにかこつけて、晁蓋はその後についていき、そして、門長屋から曳きズリ出された縄付なわつきを見て、
「ほ、ほう……。凄い大男ですな」
 と、わざと目をみはって呟いた。
 ――この時、と合点したらしく、縄付の男は、不意に大声で呼びたてた。
「あっ、おじさんだッ。おじさん、助けてください」
「な、なんだって?」
 晁蓋は、わざと怪訝けげんな顔してから、ややしばらく、じっと相手を見すまして。
「や、や。おまえは王小三おうしょうさんじゃないのか」
「そ、そうですよ、叔父さん。……ああ、叔父さんは、それでも、この小三を、覚えていてくれたんですね」
 びっくりしたのは捕手たちである。わけて、雷横は、ぎょッとした。
「えっ、甥御おいごですか、この男は……。はアて、こんな股旅者またたびものが」
「なんともはや、面目もありません。恥をいやあ、てまえの姉夫婦の子です。これがまだ六ツ七ツのはなタレごろに、夫婦とも南京なんけいへ夜逃げしたきり音沙汰なし。その後、この小三しょうさんの奴ア、いたずらして頭に大火傷おおやけどをこさえ、それが十四、五のころで、親とともに一時は村へ舞い戻っていましたが、都の風に染んだ怠け者、またすぐ出ていってしまいました。……以来、姉夫婦も不運つづきで、赤痣あかあざの小せがれは、やくざに誘われて、家にも居つかず、親不孝を売り歩いているたア薄々聞いていましたが、まさか、雷横さまのお縄を頂戴しようとは」
「ふうむ……意外なこともあるもンだな」
 晁蓋ちょうがいは、はッたと、にせおいをにらんで。
「やいっ小三。なぜ、故郷の村へまで来て、悪事をしやがったか」
「ちがいます、叔父さん、あっしゃあただ、腹はへるし、ねぐらもないので、霊官廟れいかんびょうで寝ていただけです」
「悪事もせぬのに、なんで召捕られたんだ」
「わかりません。夢みたいなもンで、あっと気がついたら縛られていたんで」
「嘘をつけッ」
 激怒を作って、晁蓋は捕手の棒をひッたくり、いきなり男の肩を二ツ三ツなぐりつけた。
「野郎、ほんとをいえ、ほんとを」
「だって叔父さん、ほかに言いようはありませんよ。……仰っしゃる通り、身を持ちくずし、親不孝をかさねましたから、ひとつ叔父さんにこの悪い性根を叩き直してもらおうと、き腹を抱えて尋ねて来たんです。だからこそ、盗みもせずに、夜が明けたら、叔父さんとこへ辿たどりつけると思っていたのに」
「こいつが、ひとを泣き落しにかけようと思やがって。そんな手に、俺がのるかっ」
 また振り上げる棒を、こんどは、雷横があわてて止めた。小三に同情したわけではないが、元々、不審の程度で捕えたに過ぎないのだから、となだめに廻って、
「当家の甥御おいごとわかれば、仔細はない、はやく、その縄目を解いてやれ」
 と、部下へも命じた。
「ちぇッ、運のいい奴だ。小三、このご恩をわすれるな」と、晁蓋は彼をシリ目にいて――
「どうもせっかくのお役儀を、なんだかこう、ムダ骨折らせたような恰好になって、申しわけございません。ひとつ、もいちど奥で、お口直しをしてからお引揚げくださいませんか」
 って、雷横をねぎらい直し、またそっと、銀子ぎんす何枚かを心づけた。部下へもまた、それぞれの物を与え、どうやら彼の画策は上々で、まもなく雷横一行は、そこの門を立っていった。
 あとの荘院しょうやの奥では、それからのことだった。
 真新しい衣服頭巾をめぐまれ、朝飯もたべて、すっかり元気を取り戻したかの股旅者は、晁蓋を前にしてその素姓すじょうを明らかに語っていた。
「もとより手前はやくざ、生れ故郷は※(「さんずい+路」、第3水準1-87-11)とうろ州でござんす。苗字みょうじりゅう、名はとう、と申しましても、それは顔も知らないうちに死に別れた親のくれた名。人さんからは、この赤面あかづらのため、赤馬だの赤髪鬼せきはつきなどとアダ名されております。どうか今後とも、お見知りおきのほどを」
 と、型どおりな、初対面の仁義をきって。
「――ご高名は、とうに伺っておりますんで、いちどはご縁をえたいと存じておりましたところ、つい先ごろ、山東さんとう河北かほく密貿易ぬけがい仲間の者から、耳よりなもうけぐちをチラと聞きこみ、こんな大ヤマを張れる相談相手は、托塔天王たくとうてんのう、いやちょう旦那よりほかに、誰があろうと、お見込み申して、やってまいったような次第で」
「いやよくわかった。だがその、大ヤマを張る儲け仕事たあ、いったいなんだね」
「ようござんすか、ここで申しあげても」
「あ。ちょっと待ちな」と、晁蓋ちょうがいも念を押されて立たざるを得なかった。かぎをかけ、窓のとばりも垂れて――「さ。安心して、話すがいい」
「じつあ、近いうちに、北京ほっけい大名府だいみょうふ梁中書りょうちゅうしょが、十万貫てえ金銀珠玉骨董こっとうを、開封かいほう東京とうけいへ、密々に送り出すはずですが、よも、ご存知でござんすまい」
「知らぬ。それはまた、なんのために」
「梁中書の女房の親父、いま宋皇帝の朝廷では最高の地位にあるさい大臣への、誕生日祝いに贈るッてえわけなんです」
「まあ、閥族ばつぞく同士の公然な大贈賄ぞうわいというわけだな」
「そうですよ、それにきまってまさアね。いわばみんな、庶民の汗やあぶらや、よからぬからくりで作った不義の財。そいつをこちとらが、狙ッてぶんどったところで、天道てんとう様も、よもやこちだけを悪いたア仰っしゃるめえて考えますがね」
「去年は、途中で賊のために、られたとかいう噂だったが」
「ですからさ、旦那。他人ひとにやらせちゃもったいねえじゃござんせんか。――世間の噂にゃ、托塔たくとう旦那は、男伊達だてだ、槍や棒も旦那芸じゃねえ。しかも、不義には強いお方だと聞いております」
「よしてくれ。俺あ、おだてには乗らねえよ」
「ご免なすッて。そんな気もちで申したわけじゃございません。ただ、なんぼ北京軍ほっけいぐんの総帥でも、この干乾ひからびたご時勢に、年々十万貫もの財宝を、女房の実家さとみついでるってえなあ、たいした大泥棒でございますぜ。ようし、それならこっちも上わ手をいって、横奪よこどりしてやろうというわけ。……どうですえ、旦那、ご分別は」
「先にゃあ、去年の失敗しくじりがある。よもや今年は、のめのめ掠奪かすめられるようなぼんくらを警固としては出かけまい」
「なんの、この劉唐りゅうとうだって、腕には覚えがあるつもりだ。まして托塔たくとう天王様に、うんといって、一つ乗り出していただければだ」
「なるほど、話はすばらしいや。ちょっと、食指が動くな」
「だからさ、お譲り申しますよ。この儲け口を」
「ま。……よく考えようぜ。おぬしも、客間で一杯やって、ゆっくり休んでいなさるがいい。やるかやらぬか、おれも思案の腹をきめ、その上での相談としようじゃないか」
 ぜひなく、赤髪鬼の劉唐りゅうとうは、一応、客間へ引きさがり、あてがわれた酒の膳について、独りがぶがぶ飲んでいた。
 ――だが、どうにも彼は、おもしろくない。晁蓋の生返辞なまへんじが気にくわないのだ。「ははアん。俺をただの与太よたもンと見て、相棒には不足と考えたに違いねえ」そう思うと、酒が業腹ごうはらきつけて、我慢がならなくなってきた。
 ふと窓外を睨むと、一頭の裸馬が、裏門につないである。なに思ったか、劉唐は「……ようし」と独り呟いた。そして壁の槍掛やりかけから一本の野太刀をつかみ取って、
「与力の雷横らいおうもまだ遠くへはいっていまい。――そもそも、あいつのために、縄目にあい、ぶざま弱音よわねを吹いたので、晁蓋までが、この俺を、だらしのねえやつと、見くびッたのだ。雷横に追ッついて、野郎のび証文か片腕でもってきて見せたら、晁蓋もおれを見直すだろう」
 どんな自信があるのか、赤髪鬼はヒラとそこを跳び出すやいな、荘院しょうやの裏門から県の街道を馬で矢のごとくすッ飛んでいった。――時に、陽はゆらゆらと牧場まきばの朝露を離れて高く、木々には百鳥のさえずり、遠山には丹霞たんかのたなびきが美しい。これで地に人間の争いがなく、宋朝そうちょうまつり腐爛ふらんさえなければ、この世はそっくり天国なのだが。

寺小屋先生「今日休学」の壁書かべがきをして去る事


 どうせ、急ぐ道でもない県下巡邏じゅんらの捕手たちだった。
 すき腹に朝酒の振舞いをうけ、雷横以下、なおさらブラブラ歩きにもなっていた。そして彼方の石橋しゃっきょう一つ渡れば、次の隣村という村境でのことである。
「おおうい、待てえっ。雷横、待てっ」
 突然な後ろからの声に、ぎょっとして振り向くと、なんと例の赤痣あかあざが、ひらと飛び降りた裸馬を楊柳につないで、野太刀にりを打たせて向ってくる。
「やっ、きさまは、さいぜん縄目を解いてやった、荘院しょうやおいだな。なにしに、この雷横を追ってきたのか」
「詫び証文を貰いにきた。さあ書け。――昨夜はなんのとがもない人間に、理不尽りふじんな縄目をかけ、まことに相すまぬ落度であった――と、詫び状一札書いて渡せ」
「ふざけるな。こちらの慈悲も忘れやがって」
「慈悲が聞いてあきれらあ。叔父御からは、銀子ぎんす何枚かを、袖の下に貰っていたろう。ええ、面倒くせえっ。詫びの一枚をよこさねえなら、その片腕をぶった斬って、貰って帰るぞ」
「こいつがッ……」と、雷横はいきどおッて「――晁蓋ちょうがいの甥というので、ゆるしておけば、よくも、いい気になりゃあがッて」
「おおさ! 俺をなんだと思ってやがる。霊官びょうじゃあ、寝込みで是非もなかったが、いまはちッと俺さまが違うぞ。いわれもねえ縄目の返礼だ、雷横、覚悟っ」
 振りかぶってきた野太刀のはやさ――。雷横はかわすひまもなく、腰の官綬刀かんじゅとうを抜いてバシッと受けた。そのまま打々発止ちょうちょうはっしと火花のかんに斬りむせび合うこと数十合――。
 わっと騒ぎ廻る捕手たちが、横から手を出す一瞬のすきもない。
「こんな小僧っ子」――雷横は闘いつつ、まわりの部下へ、豪語した。「――おれ一人でたくさんだ。手を出すな。遠巻きに見物していろ」
 しかし、結果は、彼の大言の通りにゆくかどうか、なんともいえぬ形勢に見える。
 雷横の刀術に、おおとりがいがあれば、赤髪鬼の野太刀にも、羽をつ鷹の響きがあった。赤髪の影が旋風つむじに沈めば、迅雷じんらいの姿が、彼の上を躍ッて跳ぶ。――いずれにも、流儀があり、技があり、法にかなった秘と秘の術競べとはなったので、この勝負、いつ果てるともみえなかった。
 だが、雷横の部下たるもの、もう見ては、いられない。
「――あっ、おかしらがあぶないッ」
 誰かが叫ぶ。
 同時に、どっと助太刀にうごきかけた。
 ところが、すでにその寸前、街道わきの緑蔭静かな一の垣の網代戸あじろどから、さッと走り出てきた田鶴たづるのごとき人品のひとがある。
「まあ、待たっしゃれ」
 と、その者は、手に持っている分銅ふんどう付キの細鎖ほそぐさりで、双互の間を分けへだて、
「お二人とも、刀をお引きください。どうした仔細か、わしに任せてくださらんか。わしの家の前で、こんな芸をやられては、まさかただ、見物しとるわけにもいかんじゃないか」
 事に迫らず、からからと笑っての扱い。雷横と劉唐りゅうとうも、思わず太刀を収めて、その人を見た。これなん、この片田舎には過ぎた童塾どうじゅく(寺小屋)の先生、智多星ちたせい呉用ごようで、道号加亮かりょう、あざ名が学究。略して、呉学人ごがくじんとも、呉用先生とも、よばれている者だった。
 黒縁くろべりの麻ごろもに、学者頭巾をかぶり、ひげ長やかだが、さりとて、腰の曲がった老人ではない。白皙はくせきにして、なお紅唇こうしんの精気若々しく、まなこすずやかな底に、知識人の何かがある。
 学人がくじんは、代々土着の家柄の人で、世評に聞けば、書は万巻に通じ、胸に六韜三略りくとうさんりゃくをきわめ、智は諸葛孔明しょかつこうめいに迫り、才は陳平ちんぺいにも比肩ひけんし得よう、とある。そのうえ済州さいしゅうの地方、この人あって、童歌の清きを失わず、またく、読書ふみよむの声を野に保つ……とまでめそやされているほどだった。
退いてくれい、寺小屋先生。怪我けがをするぞ」
 劉唐は、なお息まき。雷横もいうまではなく、官の与力、估券こけんにかかわる。
「学人。ほうッといてください。用捨はならん」
「盗賊ですか。この男は」
「いや、荘院しょうやの甥ッ子とかだが」
 劉唐が、横から吠えた。
ぬすでもねえ俺を、盗ッ人と間違えて、縄をかけやがッたぼんくら与力だ、そいつは」
「まだざくか」
「いうとも、詫び状よこせ」
「うぬっ。もいちど、縄目を見たいのか」
 ばッと、両人のかかとが、砂を蹴って、またもや、と見えた一刹那、どこかで、
「ばか者っ、なにをしている!」
 と晁蓋の声がした。
 息せき切って、あとからここへ馳けつけてきた彼は、馬の背から飛び降りるやいな、二人を割って、まず雷横にあやまった。
「どうも、はや、とんでもねえ奴です。お腹立ちでもございましょうが、どうかご勘弁なすって下さい」
 そしてまた、劉唐の肩を、一つ突き飛ばして、
「この酒らい野郎め、ちょっとの間に、もう酒をくらった揚句、なにを考えて、飛び出したかと思えば」
 いきなり、彼の手から、野太刀をひッたくって、刀背打みねうちに撲りかけた。驚いて、その手もとを抑え、
「あっ。そうまあ、ご立腹なさらずとも」
 と、止めたのは呉学人である。
「いま、聞いてみれば、他愛もない間違いの意趣返しだとか。それに酒気があるなら、なおさらのことだ。雷横どのも、お役儀の途上、ゆるせまいが、ここは晁蓋さんと、わしに免じて、ひとつ堪忍してあげてくださらんか」
 ふたりの詫びでは、雷横もしぶれない。それをしおに、雷横は部下をまとめて去り、劉唐は、晁蓋から「先に屋敷へ帰っていろ」といわれて、これもまた、裸馬にまたがり、ニヤニヤしながら戻っていく。
 あとは、呉用と晁蓋の、二人だけだ。
「いや今日は、えらいものを見せられたよ。――あなたが来たからよかったが、さもなければ、野太刀と官刀の勝負、さあ、どっちとも分らなかったな。雷横は有名な刀術の使い手だが、どうして、あの赤痣あかあざもなかなか強い。ひょっとしたら、達人雷横も、やられたかもしれん」
「へえ? ……そんなでしたか、あの赤馬が」
「ハハハハ、赤馬はよかったな。まさに後漢ごかん呂布りょふの愛馬赤兎せきとを思わす風がある。甥御さんと伺ったが」
「いやいや、先生、それには深いわけあいがあること。いかがでしょう、折入ってご相談申しあげたい儀があるのですが」
「折入ってとは、よくよくのことか?」
「まったくの、よくよくごとで、どうにも、自分の思案には余りましたので」
「待たっしゃい。あいにく、授業の日だが、壁書を残しておくから」
 呉用は、一たん家の内へ入った。婆やに何かいいつけ、また、筆を取って、サラサラと書いた一紙を、学童の眼にふれやすそうな教室の壁にりつけておいて、
「これでよし。これでよし。さあ、晁蓋どの、同道しようか」
 と、外へ出てきた。
 晁蓋が、ふと、立ちよどんだのは、呉用が壁に残した貼り紙の文句に、気をとられていたからだった。子供にも読みやすいように、それにはこう書かれてあった。
先生ハ今日
急用デ、オ留守
素読ソドクハ オ休ミスル
オ習字ハ 家デヤルコト
遊ブ者ハ
蛙ト遊ベ
河ヘ落チルナ

 相談事も、事によりけり、というものだ。
 北京の梁中書りょうちゅうしょから、都のさい大臣へ、誕生日祝いに送る時価十万貫のものを、「奪うべきか。見のがすべきか?」また。「――奪うとしたら先生には、どんな奇策がありましょうか?」とは、いかに、今孔明いまこうめいの称ある智多星ちたせい呉用先生でも、おいそれと、返辞ができたものではあるまい。
 人を遠ざけたちょう家の書楼しょろうの一室。
「……じつは」
 と、声をひそめて、あるじ晁蓋ちょうがいから、今暁の事の次第、劉唐りゅうとうの本体、またその劉唐が持ちこんだところの情報などを、つまびらかに打ち明けられて、さすがに呉学人も黙考、久しいていだった。
 それへ答える前に、彼がひそかに思うには。
 これはみな、宋朝そうちょう腐爛ふらんの悪世相が、下天げてんに描きだしつつある必然な外道げどうの図絵だ――。これを人心のすさびと嘆くも、おろかであろう。
 単に、悪を悪と見なすなら、悪の密雲は、上層ほど濃い。上層ほど、大きい。しかも、政治にかくれ、権力にものをいわせ、公然と合理づけた悪を行って、恥ずるを知らない。
 それに反して、民土の悪は、おおむねが小悪だ。生きるために。また、いささか生命いのちを愉しむために。共通の人間欲のために。あるいは、反逆のために。
 わけて今は、反逆の徒が多い。虫のわくごとく地にこれをわかせたものは、宋朝自体の腐土ふどではないか。“この世をば我が世”と思い上がっている貴紳きしん大官ではないか。
 梁中書、蔡夫人。蔡大臣。それらも、驕慢星きょうまんせいの二タ粒三粒だ。
 それにたいし、地にはいつか、上層の驕慢星に闘わんとする反逆星が、宿命したのはぜひもない。
 この※(「((危−厄)/(帚−冖−巾)+攵)/れんが」、第4水準2-79-86)ちさつせい(まがつぼし)はもとより庶民のりて住み、悪行いたらざるなき悪戯星いたずらぼしの性は持つが、しかし、いささかの道義は知り、相憐れむの仁を抱き、弱きはこれをしいたげず、時に、おとこおとことが、ほんとに泣き合うことも知っている。
 単純むしろ愛すべく、野性、あわれむべきであるが、なお人間らしき人間たる、真性だけは失っているものではない。
 これを捨てず、これを刑せず、もし愛情と同鬱どううつの友となって、よく用い、また善導しつつ、いまの糜爛びらん社会に何らかの用途と生きがいをも与えて、ともに、世を楽しむ工夫はないものか。……あれば、宋朝治下の塗炭とたんの民土に、一さつの清風と、一望の緑野りょくやてんじるものと、望みをかけ得られないこともないのだ。
「……晁蓋ちょうがいどの」
 やっとその沈思からおもてをあげた呉学人は、
「おやんなさい。智恵も貸しましょう」
 ぼつんとだが、一語は明晰めいせきに、まただんの力がこもっていた。
「えっ。ではお智恵も貸してくださいますか。じつは昨夜、妙な夢を見ましてね」
「どんな夢を」
「北斗七星が、てまえの屋敷の棟へちてきた夢です。変な、と思っていたら今暁の出来事……吉か凶か、判断に迷っていましたが、先生のおことばで、力をえました」
「だが、わしがやめろといっても、怖らく思い止まるまい」
「ご明察どおりです。この晁蓋にすれば、なにも危ない橋は渡らずとも、家代々の荘院しょうや、食うにも着るにも困る身じゃございません。けれど、いまの世を見渡して、どうにも、腹から愉しめぬものが、日ごろ、もやもやしていたもンです。そこへ持ってきてのこの話でさ。正直申せば、欲と義憤の二タ道かもしれませんがね」
「しかし、梁中書も、今年は去年のてつはふむまい。難かしいぞ」
「覚悟の前です。……が、先生のご意見としては」
「どうしても、粒ヨリな人間七、八人の結束はる。お宅の雇人や壮丁わかいしゅなど、何十人いても、役には立たん」
「ゆうべ見た夢は、北斗七星。……まず先生と、てまえと、赤馬のりゅうと、ここにゃあ三人しかいませんが、うまく星の数だけ揃いませんかね」
「さアて」と、呉学人は、ふたたび何か眉を沈めていたが、
「いや、ないこともない、はからずも思い出した者がある」
「えっ。先生がそんなにまで、力をこめて、頼もしそうにいう人物というのは」
「三人兄弟。しかも三人とも、義に厚く、武技に秀で、事に当ったら、水火も辞せぬ男たち」
「はて、今時どこに、そんな勿体ない男が、どこに埋もれていたでしょうか」
 と、晁蓋は、思わず膝を前へすすめた。

 呉学人ごがくじんは、一気に言った。
「その三兄弟とは、阮小二げんしょうじげん小五、阮小七といって、血をわけた真の同胞はらから。――済州さいしゅう梁山泊りょうざんぱくのほとり石碣村せっかそんに住んで、日ごろは、江の浦々で漁師すなどりしているが、水の上の密貿易ぬけがいも、彼ら仲間では、常習とされている。……もとより、文字はない男たちだが、その義心と武には、わしも見込んでいた者だ。会わぬこともう両三年になるが、よも、わしのことは忘れてはおるまい」
「ああ、阮の三兄弟でしたら、薄々、噂には聞いていました。石碣村といやあ、わずか二日道、使いをやって、ひとつこれへ呼んでみましょうか」
「来るものか、あの兄弟たちが。この呉用が出向いて、相談をもちかけても、よほど三寸不爛ふらんのこの舌で口説くどかぬことには」
「なるほど。それほどな男とあれば、なお頼もしい。先生、お出かけくださいますか」
「行ってもよい。……が、学童こどもらの授業休みのり紙に、もいちど、日延べを書いて来ねばならぬ」
「今夜立っても、明後日あさってひるには着きます。その前に、赤馬も加えて、一杯さしあげたいし、その上でのご出立でも」
「おおそうしよう。さてさて、人生の朝暮ちょうぼ、なにが起るか知れんものだな」
 彼は一度、童塾へ帰って行き、夕方からまた見えた。そのときは、赤馬の劉唐りゅうとうも同席し、詳しい話は、もうあるじの晁蓋ちょうがいから聞いている容子ようすだった。
 三人は、二こうの頃まで、飲んでいた。――時々、声がひそまるのは、密議らしい。北京ほっけいから東京への道すじを、例の時価十万貫の生辰綱しょうしんこう(誕生祝いの荷梱にごりが行くとすれば、その通路は、どの辺に当るか? 去年と道すじを変えるか否か?
 これらはまだ未知数というしかない。今は、五月初め。誕生祝いは七月十五日とか。――なお七、八十日の間は、たっぷりある。
「準備に日はかぬ。だが、三兄弟の誘いこみは、早いに限る」
 呉用は、酒もほどほどに、さっそく旅支度にかかりだす。外は、ぬるい夜靄よもやの夜だし、陽気にはまず申し分もない。

「じゃあ、わざとお見送りもしませんが」
「むむ、人目は避けよう。劉唐りゅうとうさんも、わしの帰るまでは、おとなしく客間にこもっていてもらいたいな」
「もうご心配はかけません。吉左右きっそうをお待ちしております」
 かどを立って行く呉学人の影は、すぐ模糊もこたる夜靄よもやのうちにうすれ去った。
 一日おいて。翌々日のひるじぶん。
 早くも彼の姿は、水郷すいごう石碣村せっかそんのほとりに見られた。
 かつて、何度も遊んだ土地だ。阮小二げんしょうじの家も、探すまでのことはない。芦汀ろていに臨み、山にり、数隻の小舟をもやった棒杭から、茅屋あばらやの垣にかけて、一張りの破れ網が干してあった。
「おいでですか、どなたか」
 ひさしを、のぞくと、昼寝でもしていたか。
「だれだね」
 むっくり出てきた若者がある。
 これが阮小二だった。腰切りの漁衣ぎょい、はだけた胸。その大胸毛は珍しくないが、石盤のような一枚肋骨あばらは、四せんの絶壁を思わすに充分である。
「やあ、……これは」
 濃い眉毛も、大きな口も、一時に、あどけなく相好そうごうをくずして、
「お珍しいなア、先生じゃございませんか。いったい、どうした風の吹き廻しで」
「急な頼みごとができたのでな」
「へえ、どんな御用で」
「さる知人の富家ふかで、お祝いごとがある。それで、めかた十四、五斤の金鯉きんごいを、どうしても十匹ほど入用と、折入っての、頼まれごとさ。弱ったな」
「まア、お上がンなすって。いや、いっそ、の向う浦へ行きましょうや。ちょッとおつ旗亭のみやがありますぜ」
 裸足はだしで飛び出したげん小二は、すぐくいの小舟を解き放して、呉用の体をすくいとり、櫂をあやつッてぎだした。
 江を行くこと、さながら自分の足で颯々さっさつと歩くにひとしい。
 まもなく、江のまん中を、斜めにぎるうち、あしの茂みをいて、チラとべつな一隻が見えた。すると、こっちから阮小二が呼んだ。
「おうい、小七。……小五はどうしたい、小五はよ」
 水谺みずこだまして、向うからも答えてくる。
「オウ、小二あにいか。……小五あにいに、なにか用かね」
「大ありだ、呉先生が、おいでなすったぜ」
「なんだア? 呉用先生だって。うそいえ」
「ほんとだ、てめえも来いよ。先生を誘って、これから一杯りに行くところだわ」
「こいつはいけねえ、与太をとばして、そいつアとんだ失礼をしちまった」
 芦むらを漕ぎ分けて、さっそく近づいてきたのを見ると、これなん、村では活閻羅かつえんらともアダ名のある末弟のげん小七。
 釣でもしていたか、竹ノ子笠に、碁盤縞ごばんじまのツツ袖水着みずぎ、笠のかげながら、大きな出目でめは、らんとかがやき、筋骨はさながらくろがねといえば言い尽きる。ひたと、ふなべりそろえつつ。
「ごめんなさい、先生。あんまりお久しぶりなもんで」
「行くかね、いっしょに」
「ぜひ、お供を。……ちょっくら、おふくろの家へ寄って、小五あにいも誘いましょうや」
 近くの岸へ寄る。ここにも、水をめぐらした小部落があった。その一軒へ、舟の上から。
「おふくろ。小五あにいは、いますかい」
「いないよ」と、にべもない返辞。
「――漁師の親のくせにして、あたしゃあ、ここ幾日も、魚の顔を見たことがないよ。あの子ときたら、毎日、ばくちばくちの追い目でさ。あきれたよ。たった今も、あたしのかんざしを引ッたくって、消えて行ったばかりだよ」
 小二は、頭を掻いて、逃げるように、また漕ぎだした。
「どうも先生、いやなことを、ついお聞かせしちゃって、どうぞお気を悪くなさらないように」
「はははは。そんな内輪ごと、なにも、初めて知ったわしではないよ」
「でもネ、折がまずいや。……小五あにいも、目が出ねえらしいが、どうも早や、あっしら兄弟は、みんな、ばくち好きの、ばくち下手ってやつでしてね」
「近ごろ、いけませんかな」
「近ごろなら、先生、まだいいんですがね、もう一年以上も、取られっ放しの、素寒貧すかんぴんつづきですよ。魚をとったぐらいじゃ、いくらとったって、間にあわねえ」
「小二あにい、およしよ」と、小七が横からいった。「つまらねえことを、お耳に入れたって、頭を掻いたくせに、自分からまた、シケたぼやきをお聞かせするたあ、どんなわけだい」
「ちげえねえ。先生、笑ってください」
「はははは」と、呉学人は、彼らの註文どおり大いに笑って、「――いつも、おまえ方は、明るくていいな。運は時のものだ。時が来れば、あっち向きの花も、こっち向きに咲き変る朝もある」
 言いながらも、じつは心のうちで、これは脈がある、わが計なれりと、ほくそ笑んだ。
 ぎゆくほどに、村の漁師町が望まれてきた。旗亭のみやの旗も見える。橋畔の家々の洗濯物ほしものも見える。みよしはずんずん岸へ寄せていた。
「ああ先生。いい都合だった。ちょうど、小五がいましたよ」
「ほう、どこに」
「ほれ、あんなところに」
 小七が指さすところを見ると、なるほど、いま橋袂はしたもとから降りてきた一人の男が、舟のもやいを解きかけている。
 手頸てくびげたのは、どうも、縄を通した二タ差しの銅銭らしい。
 どこか殺気のただよう眉間みけんは、ばくちやつれのせいだけでなく、異名いみょうも、短命二郎といわれているほどだから、独自な人相というものだろう。喧嘩に俊敏なのは、そのとがり肩やすねの長さでも察しられ、ボロの漁着りょうぎの胸もとからは、青ずんだひょう刺青いれずみが見え、その凄味を消すよりは、むしろ増すかのように、頭上斜めにかぶった刺子頭巾さしこずきん横鬢よこびんに、一枝の柘榴ざくろの花をしていた。
 相見ながら、漕ぎ近づくと、
「よう小五さん」――呉学人から、声をかけた。
「どうです、いい目が吹いてきそうかね」
「誰かと思ったら……」と、小五はやっと、怪訝顔けげんがおを解いて笑い出した。
「――先生たあ、思わなかった。さっきから、あの橋の上で、見てたんだがね。どこへ行くんだ、小二あにい」
「この先の旗亭うちよ。来ねえかい」
橋際はしぎわにもあるぜ。おんなもいるし」
「いや先生の馳走には、おんなよりは風景だろ。これから夕陽が沈む頃あいまで、あしと水と、帰る帆と、それからあの梁山泊の山々が、紅い瑠璃るり色からだんだん紫色になっていったり、おれたちでも、恍惚うっとりするほどな景色に変る。あれがご馳走だ。もう一トぎして、水っぱた旗亭うちまで行こうや」
「よかろう、三艘、みよしを揃えてりこむか」
 小五の柘榴ざくろ頭巾も、自分の小舟へ、ひらと跳び下り、たちまち、櫂音かいおとたかく追いついてきた。

呉用先生の智網ちもう金鱗きんりんの鯉をって元の村へ帰ること


「ああ酒も美味うまいが、空気までがまた美味い。お互いこんな日に会うのも、生きてこそだな。おまえ方、三人兄弟と一しょに、こうして杯を持つのもまことに久々だし」
「先生、よほどここの旗亭うちがお気に召しましたね」
「ム。貧しい漁村の一杯飲屋ぢゃやも、時によれば岳陽楼がくようろう玉杯ぎょくはいにまさるというもんじゃ。……ほとりには柳やえんじゅのみどりが煙るようだし、亭の脚下きゃっかをのぞけば、蓮池はすいけはちすの花が、さながら袖を舞わす後宮こうきゅうの美人三千といった風情ふぜい
「はははは、先生のこんな上機嫌は初めて見たぜ。なあ弟」
 兄の小二しょうじがいうと、弟の小五、小七も口を揃えて、
「よかったなあ、せっかく、ご案内してきても、どうかと思ってたンだが。……ところで兄哥あにき
 と、ここで小五が、口をはさみ、
「おれだけまだ聞いていないが、呉用先生がとつぜん村へ現われたッてえのは、いったい、どういう御用向きなんだね」
「それがサ」と、長兄の阮小二は、ちょっと自分の頭を叩いて――「目方めかた十四、五斤の金鯉きんごいを十ぴきほど揃えてくれと仰ッしゃるんだが……近ごろの漁場じゃ、おいそれとは、とれそうもねえや。……でも、先生の知人しりびとのお大尽が、婚礼に使うんだから是非にと、先生も頼まれちゃったというんだよ。弱ッたもんだな」
「ふウむ、そいつはご難題だぞ。……が、まアいいや、先生、もひとつ、いかがです」
「もうだいぶ酩酊めいていぎみだよ。日も靉靆あいたいと暮れかかるし、心気しんき朦朧もうろうだ」
「先生、とにかく今夜は、むさい小屋じゃございますが、てまえどもの家へお泊りくださいませんか。ここの一杯屋も、晩まではやっておりませんので」
「おう、ご厄介だが、世話になるよ。とにかく十ぴき金鯉きんごいを持たなければ、友人のてまえ帰れんからのう」
 これは口実、呉学人ごがくじんの思う金鯉とは、もとより金色こんじきうろこをもった魚なのではない。兄弟三人を網中もうちゅう獲物えものとして、首尾よく、晁蓋ちょうがい一味の大仕事の味方にひき入れて帰ることだったが――しかし、その真実を言いだすのは、場所もまずい、と考えて、
「じゃあ、ぼつぼつ立とうか。おいよ。旗亭ここの亭主、勘定をしてくれい」
「とんでもない、先生に金をつかわせるなンて……。ここの払いは、手前ども兄弟にまかせておくんなさい」
「よかろう。では、わしは手土産てみやげでもげるとしよう。亭主、大がめに酒を詰め、牛肉二十斤、鶏一トつがい、あの小舟のうちへ積んどいておくれ」
 呉用ごよう銀子ぎんす一両を亭主に渡して頼んでいる。
 げんの三兄弟も、それぞれ小舟にもどり、やがて呉用をのせて、夕波のぎ渡って、家路についた。
「さアお上がンなすって」
 案内してきたのは、昼、行きがけにちょっと寄った阮小二の家である。兄弟三人中、女房持ちは長兄の彼一人らしい。さっそく持って帰った肉や鶏を、女房と漁場の餌採えとり小僧にいいつけて、料理にかからせ、
「先生、ここなら夜ッぴて飲み明かしたっていいんですから、どうぞ今夜は帯紐おびひも解いたおつもりで召上がっておくんなさい」
 と、水に臨んだ裏部屋の破れすだれを捲いて、し入る月の光を囲んだ。
 料理もできる。杯もまわりはじめる。
 江上こうじょうでいちどめた酔いがぱっと出て、話はすぐはずみだした。
「なア兄弟がた。またしても、気がかりを言いだすようだが、十ぴきの金鯉を揃えるぐらいなことが、どうしてそんなにむずかしいのか」
「それやあ先生が、学問や兵法には通じていても、世事にはおくらいからでございますよ」
「ふウむ……こいつは一本参ッたかな。しかし、どういう仔細か、そこを聞こうじゃないか」
「入江や海なら、どんなところにも、どんな魚でもいると思うのが、そもそも世間知らずでサ。――打ち明けて申しますと」
「なんだか、ひどく物々しいのう」
「まったく、物々しいお話ですがね、あっしどもの漁場としているこの石碣湖せっかこなンてえのは、猫のひたえみたいなもンで、一ぴき十斤もする大鯉を揚げるにゃあ、どうしても向うに見える梁山泊りょうざんぱくの辺まで漕ぎださなくちゃれません」
「それ、そこがおかしいじゃないか。梁山泊なら水つづき、しかも彼方に見えている。どうして、そこでってこられんのか」
鬼門きもんですよ。梁山泊ときては」
「鬼門。いよいよ変だな。どういうわけで」
「イヤ、お話にも何もなりゃあしません」
「まさか、殺生せっしょう禁制の禁漁区でもなかろうに」
「殺生禁断どころか、ヘタに近よれば、こちとら、人間さまのお命があぶねえんですよ。――ずっと以前は、梁山泊の沖こそ、あっしども兄弟のかせぎ場でしたのに、イヤひでえことになったもんで、お蔭ですっかり貧乏つづきのこの落ち目、忌々いまいましいが、どうにも仕方がありやしません。なあ弟」
 と、兄弟顔見あわせての嘆息ためいきだった。
 呉用は心ひそかに、しめたと思う。どうやらこの辺に、兄弟の本心を引き出すかぎがありそうである。――と見たので、杯も下において、
「ほ。……それが落ち目の原因もととは一生の大事ではないか。あんた方三名、人なみ以上な五体と若さを持ちながら、なんでそんな運命に負けて指をくわえていなさるやら。……はて、わからんな、もすこし打明けたところを聞かせてくださらんか」

 せまくても石碣村せっかそん浦人うらびと仲間では、男名おとこなを売っている兄弟三人が、「――なんでそんな運命に負けて指をくわえているのか」といわれたのだから、少々口惜しかったにちがいない。――そこで兄弟こもごも、憤然とじつを訴え始めたが、それこそは、加亮かりょう先生呉用ごようの思うツボであったであろう。
「……なにしろ、先生。その梁山泊ッていうのは、群盗の根城ねじろなんです。いってみればまア天下にこわい者なしの無法者の巣ですからね、かなやあしません」
「それは初耳だな。いったい、どんな人間どもが寄っているのか」
白衣秀士びゃくえしゅうし王倫おうりんていうのが大将株でしょうか。こいつはなんでも、東京とうけいの役人試験に落第した書生くずれだそうで、以下、摸着天もちゃくてん杜選とせんとか、雲裏金剛うんりこんごう宋万そうまんとか、旱地忽律かんちこつりつ朱貴しゅきなんてえ手輩てあいがおもだッたところで、手下六、七百人もいるんですから、いくら歯がみをしてみたって、こちとら兄弟じゃ手も出せませんや」
「むむ……それじゃあムリもない。そんな豪勢な賊寨ぞくさいか」
「おまけに、近ごろその仲間へ落ちていった、もと宋朝そうちょうの禁軍の師範、豹子頭ひょうしとう林冲りんちゅうというのがまた、めッぽう腕のえた男とかで、いよいよ梁山泊と聞いたら泣く子も黙るくらいなもんです」
「が。妙だナ、それも」
「先生、なにを首をかしげなさるんで」
「だって、いかに今は、濁世じょくせのどん底とはいえ、かみには宋朝そうちょうの政府があり、地方には各省の守護、管領。田舎には郡司ぐんじ県吏けんりもいるものを、そんな大それた群盗が、天もおそれず、山東の一角をめておるなど、信じられんことではないか」
「さ、それがですよ先生。このごろの役人ときたら、賄賂わいろには弱く、人民には強く、検地や事件で村へ来ようもンなら、豚、羊、鶏、家鴨あひるまで食らいつぶしたあげく、晩には娘をとぎに出せの、帰りには土産を馬に着けろなンてかしゃあがって、そのくせ、ちょっと手強てごわい山賊や無頼漢ならずものにでもぶつかると、逃げまわるのが関の山で、たとえ、盗難や乱暴者があって、訴え出たって、間に合う頃に来たためしなどありやしません」
「ひどいな。本当かな、それは」
「嘘だと思ったら、先生もちと、この辺へ住んでごらんなさいよ」
「そりゃ見てはおれまい。幸い、わしの住んでいる土地には、晁蓋ちょうがいというなかなかかない荘院しょうやがおる。そのせいか、それほどでもないが」
「だから奴らには、金力か腕か、どッちかでなけりゃあ応対もできません。弱い土地の、素直な土民と見るほど、権柄けんぺいを振り廻すのが、いまの役人ですからね」
貧土ひんどこそわが世の春といったような振舞だな。これや何とかせずばなるまいて」
「そうですよ、先生。なにもさもしい根性で、役人暮らしの垣の内をのぞくわけじゃあねえが、大ゲサに言やあ、金銀ははかりで分け取り、衣裳は好み放題、食い物は贅沢ぜいたくざんまい。それがみンな、人を泣かせてせしめているものだから、業腹ごうはらでたまりません。こちとらなど、働いても働いても、どうしてあいつらの真似まねもできねえのかしらと、たまにゃあ、情けない気もしてきますぜ」
「なんだ、おとこたるものが!」――と呉用ごよう智多星ちたせいは、ここぞと、語気を入れて、叱るように、兄弟の顔を、らんとめ廻した。
「あんた方は今、いう口もけがれるように、腐れ役人をわらったじゃないか。その口ですぐ、役人暮らしの真似もできぬとは、なんたる意気地のない愚痴か、みッともないぞ、いいおとこが」
「先生、ごめんなさい、つい、つまらねえ愚痴をこぼし、面目次第もございません」
「いや、あやまるには及ばんさ。だが、わしはおまえ方の、兄弟贔屓びいきで言いおるんじゃ。どうして、これほど立派なおとこびきが、食うや食わずでいなければならぬかと……」
「ありがとうございます。そう仰っしゃってくださるなあ先生だけだ。もし先生みてえなお方があって、こんなおとこどもでも、腕と根性ッ骨を、気前よくたばで買っておくんなさる人でもあれやあだが……まずねえなア、今の世じゃあ」
「いやある」
「ありますかえ、先生」
「なきにしもあらずだ。――いッそ、梁山泊へ行ってみたらどうだ」
「だめ、だめ」
 兄弟三名、三人ともに、鼻っ先で笑いながら、手を振った。
「そんな智恵なら、なにも先生に教えられねえでも、朝夕に眺めている梁山泊、とうに、そッちへ転げ込んでいますが、あそこには、白衣秀士びゃくえしゅうし王倫おうりんていう気に食わねえ野郎が首領かしらに坐っているでしょう。気のッけい、侠気も義もねえ男だと聞いています。いくらひもじいッからって、そんな泥臭どろくせえ野郎の下にゃあ付きたくありませんからね」
「よく言った。その背骨を失ったらもうおとこはない。では何か、もしここに、腹から心服できる者があって、かりにおまえ方のおとこを見込んだうえ、買うといったら、どうなさる?」
「あははは。ありッこねえや。そんな人は」
「いやさ、もしあったらば」
「それや、いわずと知れている。おとこおとことゆるしあうことでしょ」
「そうだ」
「そんなら、水火も辞しません」
「ならば改めて、君たち三兄弟に、ひきあわせたい人がここにある。どうだ会ってみないか」
「だれです、それは」
「ここからわずか数十里、東渓村とうけいそん名主なぬしをしている晁蓋ちょうがいだが、これは山東河北かほくきッての人物とわしは平常、ておるが」
「あ。托塔天王たくとうてんのうとアダ名のある荘院しょうやさんですか」
「知っているのか」
「いや、聞いているだけです。――義に厚く、侠につよく、たいそう金ばなれもきれいな人とは伺っておりますが」
「なにを隠そう、じつは今度のわしの用向きというのは、その晁蓋から頼まれて、或る一用を帯びて参ったわけじゃが」
「では、なんですかい。金鯉十ぴきご入用とかって仰っしゃったのは、嘘なんですか」
「方便じゃよ。方便はゆるしてくれい。なんとなれば、君たち兄弟の腹の底を見とどけぬうちは、めッたに口を割れぬ秘密なのだ。しかし、いまはもう寸分、君たち三名の義を疑ってはいない」
「どういうご相談事なので」
「くわしくは、その晁蓋と君たちが、義の杯を結んだうえで打合せるが、かいつまンでいえば、一世の大金儲けと、悪政府の大官を膺懲ようちょうしようという快事だ。つまり、その二つを、一挙にあわせてやろうという目企もくろみだが、ぜひ君ら三兄弟にも、その仕事にのッてもらいたいという晁蓋ちょうがいの切なる望み。……で、かくいう呉用が誘いだしに参った次第だ」
「ほんとですか、先生」
 兄弟は、眼をかがやかした。短命二郎の阮小五げんしょうごなどは、感激のあまり、自身の首すじを平手で叩いて、
「待ってました。この首は、このおとこの値打を知って買ってくれる人のためにあるようなもンでした。なああにき」
「そうだとも。このおとこ一匹、もし先生が買うと仰っしゃるなら、いつでもと思っていたのに、そのうえ、晁蓋さんまでが、あっしどもを見込んで、力を借りたいというのなら、一も二もありやしません。早速ここで誓いましょう。どんな秘密でも打明けておくんなさい。こう見えても、裏切るような下種げすどもじゃござんせん」
「じつは、こうだ。――この七月十五日、朝廷最高の顕官けんかんさい大臣のもとへ、その人の誕生祝いとして、あたい十万貫におよぶ金銀珠宝しゅほう北京ほっけいからひそかに送りだされる。――贈りぬしは北京の大名府だいみょうふに君臨する梁中書夫妻。――もとよりその財貨宝玉は、すべて悪政の機関からくりからしぼりとった民の膏血こうけつにほかならぬ。……これを奪うのは天の誅罰ちゅうばつといえなくもあるまい。途中、その輸送を襲うて、これをせしめる手だてなどは、晁蓋やほかの同志と同席のうえでなお仔細に密議せねばならんが、要はそういう目的だ。すぐわしとともに東渓村まで行ってくれぬか」
「いきますとも」
 小二、小五も二つ返辞で、
「おい小七。いつもおめえが、夢みたいにいってたことがよ、なんと、夢ではなくて、ほんまに来たぜ」
 と、三兄弟、手の舞い足の踏むところも知らず、といった風なよろこびだった。
 ――明ければ、早朝から、兄弟いそいそと二日三日の旅立ち支度。呉学人を先にして、東渓村へさして行った。
 月はまだ五月初旬の爽涼そうりょう、若者の心そのままな薫風くんぷうたもとを打つ。
 東渓村へ入ったのは翌々日のひるさがり。さすが荘院しょうやの示しがよいせいか、石碣村せっかそんなどとはくらべものにならない村道のきれいさ、村の土倉どそうや、屋根もどことなく落ちついて見える。――と、彼方の一ト構えの土塀門の外、えんじゅの下の木蔭に「今日もや着く?」と待ちうけていた晁蓋その人と、食客の赤髪鬼劉唐りゅうとうのすがたが、はやそこに見いだされてきた。
 双方、すでに遥かより相見ながら、
「やあ」「やあ」
 と、手を振り上げつつ相寄って行った。

六星、だんに誓う門外に、またおとずれる一星のこと


 その夜の酒宴のさまなどは、くどくどしい。
 呉学人ごがくじんは、兄弟三人のつれ出しに、苦心はしたが、わが功は多くをいわず、
「これが、わしのすすめたげん兄弟だ。まず見てくれ」と、いったあんばい。
 晁蓋ちょうがいは、一見すっかり気に入った。また三人の兄弟のほうでも、晁蓋の重厚で、そしてさっぱりした人柄のうちにも、情義の厚そうなところを見て、
「こういう人とのつきあいなら、かねて望んでいたおとこづきあい。一生けても、悔いはない」
 と、はやくも惚れこんでしまった様子である。
 赤馬赤馬と呼ばれている赤髪鬼劉唐りゅうとうは、呉先生や晁蓋のあいだにあっては、見劣りすることぜひもないが、これも精悍せいかんにして邪悪ではない。短命二郎小五とは、よい組合せだ。
 飲み明かし、語りあかして、さて一睡もつかのまの、翌早朝。
 同志六名は、うが手水ちょうずの身清めしたうえ、晁家ちょうけの奥の間にある祭壇に向って立ちならんだ。――壇の道教神どうきょうじんのまえには、紅蝋燭べにろうそく赤々と燃え、金紙のぜに、色紙の馬、お花、線香、羊の丸煮まるになどの供え物が、種々くさぐさ、かざり立てられてある。
 誓いの儀式だ。土器かわらけを取って、羊の生血をそそいだ神酒みきをすすりあい、やがて呉学人が案文した起誓文きしょうもんを受けて、晁蓋が壇にむかって読みあげた。

――聞説キクナラク
宋朝ソウチョウ管領カンリョウ梁中書リョウチュウショ北京ホッケイニアリテ、民ヲ毒シ、ケンヲ用イマツリホシイママニシテ富財ヲワタクシスルコト多年。シカノミナラズ、夫人蔡氏サイシノ岳父、蔡大臣ノ都ノ邸ヘ向ッテ、連年、生辰綱ショウシンコウ(誕生祝いの金品)ヲ贈ルコト実ニ巨額ニノボル。
 ココニ、今年七月十五日ノ生辰ショウシンヲ期シ、又モ十万貫ノ不義ノ財貨ヲヒソカニ都門東京トウケイヘ輸送セントス。天冥テンミョウアニコノ不義ヲ許スベケンヤ。
 即チ、ワレ等六名、天ニ代ッテ、懲罰チョウバツヲ下シ、以テ侫吏ネイリ肝胆カンタンニ一サツ腥風セイフウヲ与エントスル者ナリ。モシメイヲ破リ、異端ヲ抱ク者アラバ、ソレ天ノ冥罰ミョウバツヲ受クルモ恨ミナキコトヲ天地ニ誓ウ。――神明、照覧アラセ給エ。

「……いざ、ご順に」
 おのおの、紙のぜにき、代る代る礼拝する。
「さあ、これで誓いはすんだ」
 お供え物を下げて、一同また、客間で飲み直していた。
 すると何となく、物騒がしい声が門外の方で聞え出した。はてと、晁蓋が耳をすましていると、そこへ家人のひとりが来て、さも持て余し気味に訴えた。
「旦那、旦那。ご酒宴中、なんとも相すみませんが、ちょっと、おいでなすって」
「うるせえな、お客さまの席へ。いったい、なにをがやがや騒いでいるんだ」
「それがその……なんとも手のつけられねえ強情ッ張りな山伏やまぶしなんでして」
「山伏だと。よくねえなあ、この頃の行者って奴あ、なり恰好だけは、もっともらしくこしらえて歩きゃあがって、作法も経文もろくそッぽ知らねえようなのが、ただ食い稼ぎに村へも時々入って来やがる。うるせえから、あわの一升もやって追っ払え」
「ところが、てんでそんなものア眼もくれねえんです。へい」
「じゃあ、なにを施せと、ねだっているんだ」
「旦那に会わせろって、ごねるんですよ」
「ふざけるな。そんな物乞いに、いちいち会っている暇はねえ。それよりは、てめえたち若いもンが大勢ガン首を揃えてやがって、そんな者一人を持て余してるたあ、なんてえざまだ」
「そう仰ッしゃいますが、ま、ちょっと来てごらんなすってください。――自分は一清道人と申す者――とか何とかざいて、ちょっと触ろうものなら、すぐ人を手玉にとって、ぽんぽん投げつけてしまやあがるし」
「なに、手むかいするのか」
「そいつア向うでいってる文句でさ。手出しをすると用捨はせぬぞ。晁蓋ちょうがいに会わせぬ以上はここは動かん……なんて啖呵たんかを切りゃあがって、四人や五人タバでかかっても、あっさり片づけられちまう始末なんで。なんともはや、私たちじゃあ手におえません」
 晁蓋はやっと、腰を上げた。
「先生、お客人にも、失礼ですが、ちょっと中座させていただきます」
 彼が門前へ出ていってみると、なるほど、荘丁いえのこ大勢、ただ遠巻きにだけして、恐れおののいている様子だ。中には、手脚をいためられて凄愴せいそうつらをしている連中も少なくない。
「どこにいるんだ、そいつは」
「ほれ、そこのえんじゅの木の下に、悠々と、にくていな笑い顔して、腰かけておりますよ」
「あ、あれか」
 晁蓋は、つかつかと、彼の前へ歩いていった。
 彼のほうでも、晁蓋を見るや、すっくと同時に起ち上がっている。
 山行者やまぎょうじゃの着るすそみじかな白衣びゃくえに、あかじみた丸グケの帯。おいは負わず、笈の代りに古銅づくりの一剣を負っている。麻鞋あさぐつは、これも約束の行者穿きのもの。さてまた、年ごろはといえば四十を出まい。黍色きびいろの容貌に、あごだけの羊髯ひつじひげをバサとそよがせ、口大きく、眉は少し八の字、どこか愛嬌さえある顔だが、身のたけときたら一かんの松のごとく、すッくと見え、さらに憎ていなのは、手に鼈甲紙べっこうがみ団扇うちわなどを持って、ふところに風を入れていたことだった。
道士どうし、えらいごけんまくだな」
「騒いでいるのは、こッちではない。勝手にここの雇人どもが、自分でこぶをこしらえておるまでのこと」
布施ふせは何がお望みなのか」
「またいうか。物乞いじゃおざらん」
「では、なんでお動きなさらぬ」
「あるじの晁氏ちょうしに会いたいのみ」
「その晁蓋は、じぶんだが」
「や。あなたか」
「用を聞こう。手ッとり早く」
「ここでは申せぬ。折入ッての儀だ。どこぞ二人だけで話したい」
「じゃあ、こっちへおいでなさい。一じゅの縁だ、茶でも上げよう」
 軽い気もちで、門内へ入れたのである。といっても、奥の客間ではない。間に合せの小部屋だったのはもちろんだ。

 通されて椅子いすによると、さすが礼儀はただしく道士はすぐみずから名のった。
「お騒がせして申しわけないが、拙者は公孫勝こうそんしょう道号どうごう一清いっせいと呼ばるる者。生れは薊州けいしゅうの産です。申してはお笑いぐさかもしれんが、幼少より武芸が好きで、あちこちの道場歩きなどで多少名を鳴らしたため、公孫勝こうそんしょうノ太郎とか、入雲龍にゅううんりゅうノ太郎などと少しは恐れられたものです。――かつまた、いささか方術ほうじゅつ(道教の法術)に通じ、自在に風雨を呼び、隠遁いんとん飛雲の法も行うが、それも決して広言ではありませぬ。――ところで」
 と、公孫勝の一清は、その羊ヒゲをのひらで何度も逆さにでつついう。にんまりと人を射てくるまなざしには、なるほど方術師らしい底冷たい眼光があった。「――当村の名主晁氏ちょうしのお名は、久しく耳にするのみで、御見ぎょけんは今が初めてだが、初対面の手みやげに、じつは軽少なれど、金銀十万貫に値する儲け仕事を持参いたした。なんとお受けとりたまわるまいか」
 聞くと、晁蓋はつい笑いだした。
「そいつあ、北方から都へ行く生辰綱しょうしんこう(誕生祝いの荷)じゃございませんか」
「あっ――?」
 愕然がくぜんと、一清道人いっせいどうじんは、相手の顔を、穴のあくほど見まもって、
「ふしぎだ。誰知るはずもないものを、どうして晁どのには、ご存知なのか」
「はははは。なにをいわっしゃる、こっちがびっくりしましたわい」
「それはまた、どうしてです」
「だって、当てずッぽうに、出たらめをいってみたまでですよ」
「いや、それこそ神感と申すもの。あなたは受けなくてはいけません。取るべきを取らずんば何とやら、しかも、密送の生辰綱しょうしんこうは、不義の財だ、なんで、奪うにはばかりがありましょうや」
 こう、説き伏せんとして、一清道人がその弁をふるいかけたときだ。突如、はいして顔を現わした者が、いきなり彼の頭へ大喝だいかつをくらわせた。
「不敵な密談、みな聞いたぞっ」
「やっ?」
 せつな、一清道人は、さッと椅子いすを跳び離れたが、とたんに、晁蓋とそこへ入ってきた呉用学人とが、声を合せて、哄笑していた。
「いやいや、公孫こうそん先生、おあわてなさるな。――ご紹介いたしましょう。このお方は」
 言いかけるのを引き取って、呉用は、自分から加亮かりょう智多星ちたせいと名のりを告げ、そして、
「こんなところで、ふとお会いできようとは、じつに意外。一清道人、公孫勝のお名は、つと江湖こうこ(世間)で伺っていました」
「さては、貴殿が呉学究加亮かりょう先生でございましたか。さても、広いようで世間はせまい。しかし、さすが晁家ちょうけのお知り合いは違ったもんですな」
「奥にはまだ、今日しも、心をゆるしあった幾人かが寄っていますが。……ご主人、ひとつ公孫勝氏も、その座へおひきあわせしようではないか」
「先生のおゆるしとあれば」
 晁蓋は先に立って、奥なる客間へあらためて、また新しい一人を加え、げんの三兄弟と、食客の劉唐りゅうとうを交じえ、ここに一堂に会する者七名となった。
「思えば、不思議な」
 晁蓋はやがて言った。
「先頃てまえは、わがむねに、北斗七星が落ちると夢見て、眼をさましました。ここに偶然、七人の顔が揃ったのも、夢の知らせ、事成就じょうじゅの吉兆でもありましょうか」
「げにも」
 と、呉学人は、うなずいた。
「これこそ晁氏の積善の報いだろう。かえすがえす幸先さいさきはよい。さっそくにも、りゅう君は、北京府ほっけいふへ潜行して、生辰綱しょうしんこうの輸送路を、どの道にとるか、護送の人員はどれほどか、またその宰領さいりょうは何者なるかなど、密々探って、その都度つど知らせてもらいたいものだが」
「いやいや、その儀ならば――」と、公孫勝が口をさしはさんだ。「わざわざ、ヘタな密偵などは止めたがよい。それらのことは、すでに拙者があらかじめ調べ取ってある」
「えっ。おわかりか」
「間道をとらず、わざと今年は、黄泥岡こうでいこうの本街道を行くらしい」
「ならば、それももっけの倖せ。黄泥岡の東一里の辺に、白日鼠はくじつそとアダ名のある知り人がある。足溜あしだまりには、もってこいだし」
 そこで、晁蓋の意見も出た。
「決行には、手強てごわにやりますか。すんなりと、おとなしくやりますか」
「臨機応変――」と、呉用がいう。「相手が腕ずくなら腕でゆく。先が智恵で来るなら智恵で挑む。……細かなことは、その場でないと、決め手には出られませんな。さきも、さる者。裏の裏でも掻かれたらたまらない」
「仰っしゃる通りだ」と、晁蓋も公孫勝も、異口同音に、
「妙計と信じたことも、敵の応変によっては、みずからの死地ともなる。余りけいって、策士策に溺るなどのことがないように、おのおの、自在身を持って神出鬼没といきましょうや」
 ここでほとんど手打ちはできた。夜に入るまで、飲み興じ、あくる早暁には、すでにげんの三兄弟は、もとの石碣村せっかそんへ、ひょうとして立ち帰るべく、朝飯をいそいでいた。
「時が来たら、そッと急報する。そのさいには、抜からぬように」
「ご安心なすって」
 三兄弟はニコと笑ってくつ穿いた。路銀だといって銀三十両を晁蓋が贈ったが、どうしても受けとらない。呉先生は、その物固さを笑って、
「痩せ我慢しなさんな。銀子ぎんすのちょっとやそっと、受けても辞しても、晁家としては、おなじこった。まず、それは貰って、旗亭のみやの借金でも返しておくほうが上策というもんじゃよ」
 かくて。――三兄弟は別れ去り、公孫勝と劉唐りゅうとうとは、晁蓋ちょうがい名主なぬし屋敷に、食客としてとどまった。さらに呉用のほうは、つい近所の住居のこと。家塾かじゅくに帰って、あいかわらず村童相手の寺小屋先生になりすまし、折を見ては、ちょくちょく荘院しょうやの奥を訪ねて、茶ばなしの間に、世間たれも知らぬ密事の打合せをすましては、また何くわぬ顔で、塾の学童の中へもどっていた。

仮装かそうの隊商十一こり青面獣せいめんじゅうかしらとして、北京ほっけいを出立する事


 ここは北京ほっけい大名府の梁中書りょうちゅうしょの官邸だ。
 後房の園には、黄薔薇きばらの香がれ匂い、苑廊えんろうらんには、ペルシャ猫が腹這はらばっていた。猫は眠った振りして、中央アジア産の白いちんがいまはちを捕えてなぶっているさまを薄目で見ている。すべてこれらは、有閑なさい夫人の物ずきがあつめた愛玩あいがんの誇りらしい。
「あら、また水がない! 誰です! 私がいつもいつもやかましくいっているのに、また鸚哥いんこ餌水えみずが切れてるじゃないの」
 いま、鸚哥いんこかごの下に立った蔡夫人は、鸚哥に負けぬカン高い声をして、後房の侍女をよびつけていた。すると、
「うるさいなあ、ちと静かにしてくれんか」
 と、書院窓のとばりをあげて、良人のりょうの顔が、舌打ち鳴らした。
「おや、そこにおいでだったんですか。なにをなすってらッしゃるの」
「なにをって、調べものさ。書類調べだよ」
「お手すきなら、ちょっと、この苑廊えんろうとう(長椅子)までお出ましくださいませんか」
「やれやれ、根気がつきるなあ。茶でも運ばせてもらおうか」
「ま、そこへおかけ遊ばせな。ちと内々のおはなしですから、侍女は遠ざけました。すんでからお茶にいたしましょう」
「なんだね、急に事ありげに」
「だってあなた、今日はもう幾日だとお思いなさいますの。空をごらんなさいませ、もう夏雲ではございませんか」
「そういえば、初蝉はつぜみが聞えだしたな」
「なにをいってらッしゃるの。蝉なんか、二十日も前からいていますわ。いったい、東京とうけいへ送り出す父の誕生祝いの品々は、荷拵にごしらえばかりなすっておいて、どうなさるおつもり?」
「もちろん、万全を期して、七月十五日までに着くよう、輸送せねばならん。……だがね、誰を輸送使としてつかわすか、その宰領の人選に、頭を悩ましておるんじゃよ」
「それには、お心あたりがあるなんて、いつか仰っしゃっていたではございませんか。そのお胸の人間ではいけないんですか」
「いけないか、適任か、使ってみなければわからんさ」
「使ってみての上なら、誰にだってわかることじゃありませんか。ばかばかしい」
「おいおい、そう頭ごなしに、大声でいうなよ。中門の外には、衛兵が立っておるんじゃ。聞えたらこの梁中書りょうちゅうしょ、まるで赤面ものじゃないか」
「そうそう。兵隊で思い出しましたわ。兵隊上がりの提轄ていかつ青面獣せいめんじゅう楊志ようしとやらでは、いかがなんですの」
「その楊志なら、武芸十八般、腕なら北京軍ほっけいぐん十万の中でも、屈指の者だが、いかんせん、ここへ来てからの日も浅い、第一心情いかんという点が、まだ充分には信用しかねる。……それで大いに迷っておるのさ」
「そんなことをいったら、どんな人間でも疑えばりがありませんわ。それにもう日がないじゃございませんか。楊志を召して、お命じになったら、どうですの」
「そなたさえ承知なら、楊志でよかろう。いや、いくら熟考しても、結局は楊志だな。あの青面獣せいめんじゅうのほかにはあるまい」
「じゃあ、すぐそれをお鳴らししてください」と、さい夫人は、廊廂ろうびさしに吊ってある喚鐘かんしょうを指して、良人へ命じた。
 りょうは、この妻の父さい大臣のお蔭で立身した者であるから、平常も夫人にはとんと頭が上がらない。唯々いいとして、立って喚鐘かんしょうを打ち鳴らした。と――すぐ中門外の衛兵が、姿をあらわして庭上に敬礼した。
「青面獣楊志に、すぐ参れと申せ」
「はっ」
 衛兵が退がる。まもなく入れ代って、きざはしの前に来てぬかずいたのは、これぞかの北京城ほっけいじょうの大演武場で十万のつわものの眼をそばだたしめた青面獣その人だった。
「楊志。――そのほうを見こんで、このたび、重大な使命をさずくるが、身命をして、やってくれるかどうか」
「ご恩のあるお方の仰せ、いやとは申しません。けれどこの楊志にできることか否か、その辺も伺ってみぬことには」
「わが夫人つま蔡氏の父蔡大臣の誕生祝いの品を護って、東京とうけいまでつつがなく送り届けてほしいのじゃ。もちろん、軍兵ぐんぴょうは望み次第に付けてやる」
「出発はいつでしょうか」
「ここ三日のうちとする」
「して、お荷物は」
「角な荷梱にごり十箇。それには、大名府の役署に命じて、十りょう太平車うしぐるまを出させる。また軍兵のほか、軍部から力者十人を選ばせて、一輛一人ずつを配して付ける。……さらに車輛一台ごとに立てる黄旗の文字には――献賀蔡大臣生辰綱さいだいじんのたんじょういわいのにもつ――と書く。まずもって、威風堂々と、山野の魔気を払うて行くがいいとおもう」
「どうも、せっかくですが」
「いやだと申すのか」
「なにとぞ、ほかの者に、お命じ給わりとう存じます。なんとなれば、去年は十万貫に値する高貴な品々を、ことごとく、途中賊難のため、掠奪りゃくだつされたと伺っておりますので」
「だからこそ今年は、なんじを見込んで命じたのではないか。それもだ……」
 と、りょうはいささか昂奮して、唇を乾かし、眼に赤い濁りを見せて、説得にこれ努めた。
「余は汝を愛しておる。故にだ、どうかして、そちを出世してやりたく思う。それがわからんか」
「かたじけなくは存じますが」
「煮えきらんやつだな。――さい大臣宛ての献上目録にさしそえて、べつにわしの直書じきしょ一封のうちに、そちの立身の途をも推薦しておく考えなのだ。――途中つつがなく、生辰綱しょうしんこうをお送りすれば、それでもう汝の栄達のみちも開けるのではないか。なにを迷うか」
「しかし、長途の道中には、紫金山、二龍山、桃花山、傘蓋山さんがいざん黄泥岡こうでいこう白沙塢はくさう野雲渡やうんとなどという有名な野盗の巣やら賊の出没する難所があります。楊志も犬死にはいたしたくございませんので」
「まだ、のみ込めんのか。軍兵はいくらでも召しつれて行けばいいのだぞ」
「いやいや、たとえ何百の兵でも、一朝、それ賊が現われたぞと聞けば、あらまし木ノ葉の如く逃げ散ッてしまいましょう」
「なにを申す。ではまるで、生辰綱しょうしんこうを送るなと、余にいさめているようなものではないか」
「はい。まったくは、せつにご諫止かんし申しあげたいところです。しかし今さら、お取り止めもなりますまい。……どうも是非なき次第、楊志ようしも観念して参ることにいたしましょう」
「や。ほぞを固めて、行くと申すか」
「けれど条件がございます。――物々しき官用の太平車うしぐるまや旗などは廃し、お贈り物は、すべて人の担げるほどな行嚢つつみにあらため、護衛兵の力者もみなただの強力ごうりきに仕立てなければいけません」
「まるで山東の行商隊だな」
「それです。それがしも一個の隊商のおさに化け、なるべく野盗の眼を避けて、お引きうけした以上は、東京とうけいさい大臣がご門前まで、無事、おとどけ申したい存念にございますれば」
「まかせる。ただちに出立の準備をせい」

 ――準備期間の二日はった。
 するとまた、こんどは楊志のほうから、梁中書りょうちゅうしょ拝謁はいえつを願い出た。そしていうには、
「いけません。どうも拙者には、不向きな役です。東京行とうけいこうはご辞退申しあげまする」
「なぜまた、そんなことをごねり出すか」
「でもお約束が違うようです。――洩れ聞けば、ご予定の行嚢にもつのほか、またぞろ、夫人おくがたさまから先の大臣邸の女家族のかたがたへ、種々くさぐさな贈り物がふえ、そのため執事のしゃという人物とその他の家来二、三が付いてゆくことになったとか伺いますので」
「ははあ、足手まといだと申すのだな」
「のみならず、夫人おくがた直々の執事とか、家来などですと、途々みちみち、それがしの命令に服さぬおそれが多分にあります。賊の出没に加え、難行千里、あらゆる難苦を覚悟せねば相成りませぬ」
「それはそうだ。もちろん、難行苦行だろう」
「一行の者に対しては、あえてムチを振るッて克己こっきさせ、時には夜立ちあかつき立ち。また折には草に伏し、熱砂を這い、もし服さぬ者は、これを斬るぐらいなけんは持っていませんと、到底、列を曳きずッてはいけません。しかるに、夫人おくがたの執事や家来とあっては」
「いや、その者どもも、他の力者りきしゃ同様に、一切その命に絶対服従いたすように申しつける。もし、汝の命に服さず、たてをついたら、斬りすててもよろしい。……夫人おくにも、その由はよく申しておこうわい」
「ならば、行ってまいります。願わくは、ただ今のおことばの旨を、お墨付として、一さつ賜わりおきとう存じまする」
「よろしい。汝もまた、余に対して、重宝十一の預り状をしたためて差出せ」
「心得ました。この上は、明早朝に北京ほっけい西門を出立つかまつりますれば……左様おふくみのほどを」
 翌朝の中書ちゅうしょ官邸は、暁天もまだ暗いうちからざわめいていた。
 強力ごうりきに化けた軍の護衛兵は、いずれも屈強な猛者もさぞろいだ。それらがおのおの、一個ずつの重い行嚢こうのうをかついで勢揃いしたさまはいかにも物々しくまたたのもしい。――梁中書もさい夫人も、ろう階欄かいらんに立ち出てこれを見送っている。
 夫妻は、念のためと、執事のしゃを呼びつけて、くれぐれ、楊志の命に服すように、喧嘩せぬように、途中病まぬようになど、かさねがさね言いふくめた。
「ご案じくだされますな。てまえは一行中の最年長者。あんばいよく仲を取ってゆきまする。楊志どの。どうぞよろしく」
 夫妻の階前で、両名は手を握って、出立した。
 同勢すべてで十七名だった。多くは一様な強力ごうりき姿だが、楊志と謝は隊商のおさといったよそおい。山東笠さんとうがさを日除けにかぶり、青紗あおしゃの袖無し、麻衣あさごろも脚絆きゃはん麻鞋あさぐつの足ごしらえも軽快に、ただ腰なる一腰ひとこしのみは、刀身なかみのほども思わるる業刀わざものと見えた。
 はやくも朝霧の街へ出て、西の城門街の出口へかかる。楊志一人は、手にとうのムチをたずさえていたが、それを小脇に、山東笠のひさしへ手をかけて、城門の鼓楼ころうを仰ぎ、
「梁中書の御使みつかいの者ども、都をさして、ただいま、ご城門を通ります」
 と、呼ばわると、上の鼓楼で「おおいっ」といういらえが響く。と同時に、門側の番卒隊が不時の開門なので、とくに総勢でそこに立ち現れ、
「お通ンなさい!」
 と、巨大な鉄扉てっぴをギイと左右へ押し開いた。
 時は五月も過ぎて早や大陸の砂はけていた。夏雲はぎらぎらとひとみを射るばかり地平線を踏まえて高く、地熱はくつの底をとおして、足の裏を火照ほてらしてくる。
 行嚢こうのうを負うありのごとき列は、早くもポタポタと汗のしずくを地に見つつあえぎあるいた。日頃ひと口に、開封かいほう東京とうけいとやさしく呼び馴れてはいたが、いざ一歩一歩を踏み出してみた千里の輸送路となれば容易ではない。――いやいや、それらの炎日灼土えんじつしゃくどの苦熱は、まだしも克服できようというものか。
 やがての行くてにそびえる雲の峰の彼方、手につばして待つ稀代きたいな七斗星のまたたきがあろうなどとは、青面獣も知らず、あえぎ喘ぎな強力ごうりきたちも、ゆめにも思ってはいなかった。

七人の棗商人なつめあきんど黄泥岡こうでいこうの一りんに何やら笑いさざめく事


 強力すがたの兵十五、六人。それが日々、大陸の熱砂を這うごとく行く影は、炎日の労働蟻ろうどうあり蜿蜒えんえんと、物を運んで行く作業にも似て、あわれにもまた遅々ちちとして見えた。
 おのおのが負う十一箇の行嚢こうのうは、そのどれ一つといえ、軽そうなのはない。――すべてさい大臣の誕生祝いに送られるあたい十万貫もする貴金属やら珠玉でたされている荷物なのだ。――彼らの流す毎日の汗も、その中の珠の一粒にすら値するものではなかった。
「なんだ、意気地のないやつらめ。行くてはまだ千里の彼方。今頃からヘタばってどうするか。歩け歩け。しぶるやつは尻をらすぞ」
 宰領さいりょう青面獣せいめんじゅう楊志ようしの手には、とうのムチが握られていた。腰の業刀わざものだてではない。――梁中書りゅうちゅうしょから絶対の権を附与され、途中、もし命にそむく者あらば斬りすててもかまわん、といわれてきたのだ。もう一名の付添い人、執事のしゃといえど、こんどの旅では楊志にむかって一切不満も愚痴も言いだせるものではなかった。
 とまれ、北京ほっけいの城門を出てから、はや十数日。この間、雨を見たのは、たった二回だけで、それも物凄い雷雨をともなった一瞬の大夕立だけでしかない。あとは来る日も来る日も、炎天の道中だった。
 楊志はその晩、旅籠はたごに着くと、兵の強力ごうりきと、執事の謝、あわせて十六人へ、言い渡した。
「さあ、旅はこれからが本旅だ。――北京は遥か後になり、行くての都はまだまだ遠い。――風流にいえば千山万水だが、いよいよ彼方には二龍山、桃花山、傘蓋山さんがいざん黄泥岡こうでいこう白沙塢はくさう野雲渡やうんとなどという難所なんしょ切所せっしょやら野盗の名所が、行く先々にひかえている。……そこで、こちらも腹をすえなくてはならん。ただの荷運びだけがのうではないぞ」
 不気味な警告を、こう浴びせて、
「だから、明日からは、寝坊してよろしい。朝は朝寝して、ゆっくり立つ。その心得で休養をとれ」
 と、つけ加えた。
 だが、兵たちは、うれしそうな顔でもなかった。その日旅の寝小屋で枕につくと、耳こすりでざわめき始めた。
「おい、用心しろよ。青痣あおあざがまた、ヘンなことを言いだしたぜ。小便する間もオチオチしていられねえほど、歩け歩けとかついている奴がよ」
「変だな。七月十五日、七月十五日と、都へ着く日を、呪文じゅもんみたいにいってるかと思うと、急に、朝寝の遅立おそだちとは」
「なんでもいいや。寝ている間だけがこちの極楽だ。なんとか生命いのちだけって、開封かいほう東京とうけいに着きさえすれば、まさか帰りはこんなこともあるめえ。もうもう来世は金輪際こんりんざい、兵隊にはなるめえぜ」
 翌日からは、朝は遅く、夕は早着き。日盛りの旅だけが、以後十数日もつづいた。
 これだけなら、彼らのぼやきっていただろうが、楊志の思案は、野盗山賊の出現を避けるにあり、七月十五日までの期日に、余裕が出来たわけでもないから、日中の間に、それだけの足稼あしかせぎを生みだすべく、前にもまして、苛烈かれつなムチをふるったのはいうまでもない。
「なに、水が呑みたいと。我慢しろ、我慢しろ。水は汗を多くするばかりだ。口に梅のんでいると想え」
「そいつア無理だ。いくら梅の実を想ったッて、つばは出ねえ」
「これでも出ないか」
 楊志は、とうのムチで、風を切って見せた。
「きさまらは、毎夜、寝飽きるほど寝かしてあるじゃないか。贅沢ぜいたくをいうな」
「だって、こう休みなしじゃあ、息もつづきません。どこか木陰で、一ト息つかせておくんなさい。焦死やけしにます」
「だまれ、どんな夏の旅だろうと、人間の乾物ひものができたためしはない」
「うへッ。もう眼がまわる。よう輸送使」
「なんだ」
「どうか、弁当でも解かせておくんなさい。もう足が前へ出ません。ふらふらして」
「ちッ。きさまらは、木陰を見るたび、きまッて何か弱音を訴え出しゃあがる。今日はもう幾日だと思う」
「ほら、始まった。わかってますよ」
「わかっていたら、弁当などは、歩き歩き食え、七月十五日が一日遅れても、さい大臣のお誕生祝いには間に合わなくなる。千日のかやも一日で焼くというもんだ」
「もう欲もとくもなくなりました」
「じゃあ、死にたいか」
「情けないことを。これでも、女房子がありゃこそ、塩気のない汗までポタポタ垂らしているんですぜ」
「ならば、四の五をいわずに歩け歩け。やがて都へ着いたら、たらふく、飲んで食って、逆立ちでも何でもやるがいいや」
「……ああ、雨でも降ってくれ!」
 ところが、あいにくな旱天かんてんつづき。大夏の太陽は火龍かりょうというもおろかである。満天すべて熱玻璃ねつはりのごとく、今日も一片の雲さえ見あたらない。
 道は、その日の午後、やっと一つの山の小道へかかったが、木々の葉はえて、風は死し、谷はあるが、水はれ、岩は干割ひわれして、したたる清水の一トしずくもない。
「おお、ここらはもう、太行たいこう山脈の一れいだな」
 空身からみの楊志にしてさえ、息がきれた。
 峨々ががたる山容は、登るほどけわしくなり、雨の日に洗い流された道は、河底をなしている。万樹はあだかも刀槍とうそうを植えたようで、虎豹こひょううそぶきを思わせる。
 なにげなく足をとめて、ここまでの旅、またこれからの道のりなどを考えていた楊志が、ふと気づくと、しゃ執事以下、十一こり強力ごうりきやほかの兵も一つの峰の背へ取ッつくやいな、
「もう、だめだ。勝手にしろ」
「八ツ裂きにされても、うごけねえぞ」
「さあ、どうなとしてくれ」
 とばかり、おのおのの荷を背から下ろして、ぐたと伸びるやら、仰向けに寝てしまうやら、ここへきてはもう自暴やけやん八をきめこンでテコでも動かぬていだった。

「あ。げて者めら」
 楊志ようしは振返って、彼らのやけくそな態度に気づくやいな、そこへ飛んでいって、例のごとくムチを鳴らした。
「だれの許しを得て休むのだ。こいつら、一寸ちょっとの間も、眼が離せぬ」
「まあまあ」と、なだめ役に立ったのは、梁家りょうけの執事のしゃであった。
「なんぼなンでも、この酷熱こくねつに、昼休みも与えぬのは、余りにむごい。楊志どの。そうカンカンにお怒りなさるな」
「執事。貴公が休めとゆるしたのか」
「許すも許さぬもない、これへ登りつくなり、自然にヘバッてしもうたのじゃ。わしにせよ、これ以上の我慢は、口から臓腑ぞうふを吐くような苦しさだ。まあ、半刻はんときぐらいここで休んだところで、まさかお誕生日に間に合わぬこともあるまいが」
「分別者のあんたからして、そう仰っしゃるなら、なんでこの楊志のみ、一同の怨嗟えんさをうけつつ無理な道中を好もうか。……したが、ここはどこかご存知か」
「されば、はや太行たいこう山脈の一れいにかかってきておる。ここさえ越えれば」
「なにを、暢気のんきな」
「違うか」
「いやさ、あんたのいう通りだから、馬鹿馬鹿しくなるんだ。さっきから、あたりの地勢を見るに、こここそ、黄泥岡こうでいこうといって、世間に不気味がられている盗賊の出没場所。……こんなところで気をゆるしたら、魔の砂塵の一ト吹きと見舞われぬとも限るまいぞ」
 すると、もう度胸をすえて、太々ふてぶてしくなっていた強力ごうりきの兵たちが、
「あはははは。またよう輸送使のおかぶが始まったぜ。毎日毎日ああいっちゃあおどかされてきたもンだ。この真ッ昼間に、そんな幽霊が出るもんなら、おもしれえ。なにも経験だ、お目にかかってみようじゃねえか」
「馬鹿野郎っ」
 楊志は、怒りの一歩を、そっちへ移して呶鳴りつけた。
「きさまらは、泣き言まじりの口癖にさえ、こんな苦役も、女房子のためだとざいているではないか。もし厄難やくなんに出あったらどうするか。褒美はおろか一命もおぼつかないぞ。――このほうは宰領さいりょうとして、万が一にも、そのような不覚を踏ませてはと、しいて心を鬼にしておるのだ。わからんか。慈悲のムチが」
「へへん。……わかりませんねえ、慈悲のムチなんてえ文句は」
「こやつ!」
 楊志ようしが本来の形相を現わして、腰なる山刀を抜きかけると、執事のしゃは仰天して、あわてて彼の前をはばめた。
「待った! 楊君もいいが、どうもお若い。そのご短気は、みずから事を破るものだ」
「いや、お放しなさい。こいつらは、拙者がほんとに怒ッたら、どんなものか知らんのだ。見せしめのため、どいつか一匹、素ッ首をぶち落して見せてくれる」
「そしたらその先、一人分の行嚢こうのうは、いったい誰が、背負って歩くのか。わしは真ッ平ごめんじゃが」
「一箇の荷ぐらいは、どうにでもなる。それよりは全体の士気をげんに保って行くほうが肝腎かんじんだ。老人は、黙ッていなさい」
「いや、見ていられん。血気いちずで、十五人もの心のたばねがなるものか。和もなくてはならぬ。いかんせん、楊君はご苦労知らずじゃ」
「ばかをいえ。拙者にはいささか流浪の経験もある。四川しせん広西かんしい広東かんとんの旅もした」
「ただの旅なら、誰もするわ」
「なんの、世は今や、いずこも暗黒同様な末世だ。その穏やかならざる乱麻の世間に、流浪の艱苦かんくもなめたつもりだ」
「おい、よう輸送使」
「なんです?」
「人なき山中だからいいようなものの、余りな放言は慎むがよい。梁中書様のご恩になり、北京府ほっけいふろくみながら、いまが末世とは何事だ。泰平の世でないとは、なんたる言か。その舌を抜かれるなよ」
 これには楊志もハッと答えに詰った。
 日ごろ、胸にあるものは、何かのはずみには、我れともなく、つい口に出るものではある。――と、悔いられたが、もう追いつかない。せっかく、さい大臣の生辰綱しょうしんこう輸送の大役を果たしえても、後日、しゃの口からそんな讒訴ざんそ堂上どうじょうの耳に入れられたらすべては水の泡だろう。――しまった、とほぞを噛んだ容子ようすが、突嗟とっさだったが、楊志のおもてをやや弱いものにした。
 ――すると。
 彼の眼惑めまどいに、ふと鳥影のようなものが、遠くをぎッた。すぐ先の、松林の蔭にである。
「あっ? うさんな男が」
 楊志は不意に、そこへ向って、こう叫んだ。
 しゃとの問答で、後味わるくきめつけられた破目も、一切のその場の感情も、この一ト声で、消し飛んだ形だった。――楊志にとっては、いいしおであったのかもわからない。何を見たのか、途端に、彼の姿はぱッと迅い足を見せて、彼方の松林のうちへ隠れこんだ一個の男の影を追ッかけていた。

 松と松とのを、野兎やとのごとく逃げ走ッていった男の影は見失ったが、その代りに、楊志は、思いがけない一トかたまりの旅商人たびあきんどの仲間に出会った。
 彼らは、松林の涼やかな平地に陣どッて、おけを載せた七りょう江州車こうしゅうぐるま(手押し車)をあちこちに停め、老若七人、胡坐あぐらやら、寝転ねまろびやら、また木の根や車のかじに腰かけている者など、思い思いな恰好だった。そして何かぐちおもしろ気に、この日盛りの汗を拭きあっているものらしい。
「やッ?」
 彼らは一せいに跳ね起きた。楊志ようしの姿に、びッくりしたもののようである。
「何者だっ、きさまらは?」
 馳け寄りざま、楊志が問うと、
「だれだい? お前さんこそ」
 と、先も鸚鵡おうむ返しにいう。
「いやさ、きさまらは、どこのどいつかと訊いておるんだ」
「ふん。こちらも、お前さんはどこの馬の骨かと訊いてるんだよ。ははん……黄泥岡こうでいこうによく出ると聞いたがその悪者か」
「ふざけるな。きさまらこそ、それではないのか」
「えらいンに買いかぶられたなあ。あいにくこっちは、若いのや老いぼれやらの、しがない小商人こあきんどだ。ところで、お前さんの方は?」
「わしもじつは開封かいほうの商人だ。胡北こほくで仕入れた毛皮などの商品を、強力ごうりきになわせて、都へ行く途中だが、この附近は物騒と聞いて来た折も折、いま松林の蔭から、へんな男が、うさんな眼つきで、わし達をうかがっていたので、さてはと、追ッかけて来たわけだが」
「はははは」
「アハハハハ」
 七人は、どよめき笑って、
「そいつア、とんだいたちごッこだ。こっちも、ここで涼ンでると北の方のふもとから物凄い野郎ばかりが十六、七人も、何か担いでやってくるというわけさ。さあ大変だ、黄泥岡こうでいこうの名物がおいでなすッたぜと、きもを冷やして、仲間の一人が、まず様子を探りにいったわけだ。……ところがよ、どうも、悪者でもなさそうだというんで、なアンだとばかり、涼み直していたわけさ」
「ふウむ」と、楊志もつい釣り込まれて、ニヤつきながら、
「じゃあ、お互いは、商人同士だったわけだな。まアまアそいつは倖せだった。して、おぬしたちは、何商売か」
「この桶をごらんなせい」
「あ。棗漬なつめづけだね。棗商人なつめあきんどかい」
田舎いなかじゃあ、珍しくもねえが、都へ持ち出すとつうがッた呑み助が、酒のおつまみには、これに限るなんていうものでね、仲間七人、申し合せて、濠州から出てきたんだが、イヤこの暑さじゃ、桶のなつめうだりそうだ。おたがい金儲けは楽じゃあないね」
「まったくだ。金がかたきの何とかさ」
「どうです旦那、お好きなら、ちょぴり棗をあげやしょうか」
「いや、いらん。せっかくだが」
 楊志はニガ笑いを見せながら、もとの自分たち仲間のたむろのほうへ戻ってきた。
 しゃ執事は、彼の姿を見ると、すぐ皮肉った。
よう輸送使。――ご自慢の刀の斬れ味はどうでしたな」
「いや、賊かと思ったら、なんのこッた、つまらん小商人の仲間だった」
「へえ。あんたの口癖からすと、この界隈かいわいには真人間まにんげんは現われないはずなんだが」
「そうチクチクいじめッこはなしにしましょう。老人は執念ぶかいなあ」
「何さ何さ。それでこそ、われわれも先ず祝着しゅうちゃくと申すもの。どうじゃな。わしはつい食べ残しの弁当をいてしまった。あんたも、どうせのことに、一ト涼みなさらんか」
「ままよ、きょうは雨に逢ったとしてしまえ。おうい、一同も休め、休んでよろしい」
 これは少々楊志ようしとしてはまずかった。てれ隠しの気味がある。すでに兵どもはしゃ執事とのれ合いで勝手休みをきめこんでいたのだから、楊志のムチもついに衆の結束と横着には、負けの恰好というしかなかった。
 さらにまた、折も折だったといってよい。どこからか、田舎唄いなかうたが聞えてきた。男の声である。ひょイ、ひょイ、ひょイ……と唄の節には、にない腰の足拍子が巧くのっていた。兵たちは皆、後ろの坂道を振り向いた。一人の男が、桶をかついで来るのが見える。……ぷうんと、焼酎しょうちゅうの匂いが彼らの鼻をついた。
「おッと、待ちなよ」
 つい出てしまった言葉である。
 男は、荷を下ろした。
「へい、なにか御用ですかい」
焼酎しょうちゅうらしいなあ、そいつは」
「お察しどおりで」
「どこへ持っていくんだい」
「山向うの村へね、あさっては、そこの夏祭でさ」
「売れないのか」
「売り物なりゃこそかついでいくんで。へい。値段によっちゃあ差上げますよ」
「いくらだ、一桶ひとおけ
「五貫とお負けしておきましょう。ここはまだ半道だから、足賃なしに」
 兵たちはコソコソ首を集めあった。鼻のさきにを置かれた餓鬼がきの眼つきといった形である。のどが鳴る。鼻がピクつく。とうとう小銭こぜにの音をさせ始めた。懐中ふところを合せて、買おうという相談になったらしい。
 さっきから、じろと睨んでいた楊志は、いきなり山刀をさやぐるみ腰から抜いて、ずかずかと立っていき、刀のこじりで、桶を叩いた。
「こら、きさまらは、これを買う気か。――買って呑む気か」
ぜにはわしたちのものですぜ」
「金はともかく、誰のゆるしを得たというのだ。ツケあがるな、こいつら」
「ツケあがるわけじゃありませんが、旦那も人間なら、お察しなすっておくんなさい。もう意地にも我慢にも……。これを見て飲まねえじゃあ、妄念もうねんが残って、腰も上がりませんや」
「ふざけるな、がつがつと、哀れな餓鬼声がきごえを出しゃがって、よく耳の穴をほじッて聞けよ。道中売りの酒なぞは、ただの旅でも、滅多に意地汚ねえよだれなど垂らすものではないわ。そんな浅ましい欲心のために、まんまと、しびれ薬で根こそぎ懐中ふところを抜かれたなどの例が、どれほど多いか、知らぬのか。心得のない奴らだ」
 すると、叱られた兵よりは、酒売りの男の方が、きッと、眼にカドを立てた容子ようすだった。ふン……と鼻先で冷笑を見せたと思うと、すぐ担荷にない天秤てんびんへその肩を入れかけていた。
「おい、邪魔だよ、桶のそばを退いてくんなよ。くそおもしろくもねえ! この炎天に、しびれ薬を売りにいく粋狂すいきょうがどこにあるッてんだ、ばかばかしい」

生辰綱しょうしんこう智恵取ちえどり”のこと。
並びに、楊志、死の谷をのぞく事


 酒売りの捨て科白ぜりふは、もとより楊志ようしへのつらアテだったが、兵たちの妄念もうねんを、一そうあおり立てたふうでもあった。
「待てよ。おい。せっかくぜにを集めたのに」
「いやだ、いやだ。もう売らねえよ。あばよ」
「ま、そう怒らねえでもいいじゃねえか。ああ言っても、おれたちの宰領さいりょうは、とんだ話のわかる人で、人情もろいところもあるのさ」
「勝手にしやがれ。人の売り物にケチをつけやがって、話のわかるお人かい。これがいちや村でのことなら、ただはおかねえところだぞ」
 よほど腹が立ったらしい。次第に威猛高いたけだかとなっていた。――と、彼方の松林の蔭から、さっきの棗商人なつめあきんどの連中が、どやどやと馳けよってきた。そして口々に、
「なんだ、なんだ?」
 と、いう弥次声やじごえ。事こそあれと、どの眼も、好奇心みたいなものにかがやいている。
「おッと、あぶねえ。なにを怒ったんだよ酒屋さん。まア桶を下へおきねえな」
「おう、ゆうべふもとでお泊ンなすった商人衆あきんどしゅうでございますね。まあ、聞いておくんなさい。しゃくにさわるのなんのって」
「ほう。この衆たちとの口喧嘩かい、おれたちはまたあっちで聞いて、そら、今度こそ、ほんものの泥棒が出やがッたかと思ってさ、びっくりして飛んできたんだ。……が、口喧嘩ぐらいなら、よかったよ。よしねえ、よしねえ、喧嘩なんざあ」
「仰っしゃるまでもありませんや。誰もいさかいなぞしたかねえが、あんまり人をめたことを言やがるんで、つい業腹ごうはらわめいたんですよ。……人の売り物に、しびれ薬が入れてあるなんてかしゃあがるんで」
「誰がよ、誰がそんな、べら棒な因縁をつけたのさ」
「そこにシャチこ張っている、青唐辛子あおとうがらしみてえな人相の旦那ですよ。親代々の正直酒屋で通っているあっしだが、こんなに気の腐ッた日はないね」
「いいじゃねえか、もう止せよ。そうムキにならなくっても、相手は黙ってしまったんだから、多分、言い過ぎだったと、腹じゃあ後悔していなさるに違えねえよ。……それよりは、ちょうど俺たちも、のどがひッついていたところだ、みんなに一杯ずつ飲ましてくれ」
「お断りだよ、まッぴらだ」
「なぜさ。おめえもまた、因業いんごうだな。無料ただで飲ませろッていうんじゃねえぜ」
「そんなことアわかッてら。でも元々、こんなところであきないはしなくても、親からのお花客とくいに、事は欠かねえ酒売りだよ。ばかにしてやがる」
「冗談いうなよ。なにも俺たちがケチをつけたわけじゃねえぜ。おめえもよほど、おかしな男だ。さ、機嫌直しに売ってくれ。酒売りなんてえ商売は、気合いものだろうじゃねえか」
「お前さん方から、機嫌を直せなんていわれると、おらはまた、馬鹿者だから、つい差上げたくもなってくるがね。だが、あいにく、うつわがないや」
「よしきた。うつわなら、あっちにある」
 なつめ商人の仲間の二人が、車のほうへ馳けていった。持ってきたのは、二ツの椰子やしの実のわんであった。一人は両ののひらに、お手のものの棗漬なつめづけをいっぱい盛ってきた。
 それを、桶のふたの上へ開けて、
「ほい、さかなはここだよ」
 七人は、酒桶を取り囲んだ。かわるがわるに椰子椀やしわん焼酎しょうちゅうを汲みあげ、さも美味うまそうに飲みはじめる。そしてはなつめをポリポリつまむ。たちまち、一ト桶の焼酎は底になってしまった。
「ああ、こたえられねえ。こんな山路で思いがけなくぶつかッたせいか、甘露とも何とも言いようがねえな。暑さもすッかり忘れたぜ」
「やいやい。機嫌ばかりよくしやがって、焼酎の値段もまだ訊いていねえじゃねえか。酒屋さん、一ト桶したよ、いくらだい」
「一十貫さ。片桶だから五貫だよ」
「よしきた。そら五貫文」
 一人がぜにを渡していると、べつの一人が、
「――もう一トわん、負けときな」
 と、片荷の桶のふたを取って、すばやく中へ椀を突っ込み、一ト口がぶと飲みかけた。ひょいと、振り向いた酒売りは、
「あっ、いけねえッたら!」
 まだ半分残っている椀の酒を、いきなり、引ッたくろうとする。ところが、椀を持った小商人は、くるッと、巧く身をはずし、そのまま松林のうちへ逃げこんで行った。それをまた、酒売り男も、片意地らしく、
「畜生ッ」
 とばかり、追っかけていったものである。すると、後に残っていた連中はまた、その隙をいいことにして、これまた、も一つの椰子椀やしわんで、き巣の桶にたかりだした。ふと、振り向いた酒売りは、さらに仰天した姿で、
「泥棒っ」
 馳け戻るやいな、しゃ二に、椀をりあげた。そして、逃げる彼らの背へ向って、
阿呆あほう。親切ごかしの、ッたくれ商人あきんどめ。野たれ死にでもしてしまえ」
 と悪たいいた。
 さっきから見物していた兵たちは、笑いも出ずに、ただ生唾なまつばをのんでいた。食い物の恨みは元々深刻なもの。いわんや、くがごとき暑熱にかわいている鼻先で、舌つづみを打たれたのでは堪るまい。――しいんと、陰気な沈黙におちて、彼方に腰かけている楊志ようしの背を、いとも恨めしげに見ていたが、ついにもう我慢ならじと、声をそろえて、しゃ執事に訴えてきた。
「執事さん。ご恩にきますぜ。ひとつ、よう輸送使へおすがりなすっておくんなさいな。――これからもまだ、山坂ですし、峠まで行ったところで、飲み水などありッこはねえ。どうか、あの残りの片桶をわれわれどもが買って飲むことを、ゆるすと、いわせてくださいませんか。もう腹の虫がグウグウ鳴って、おさまりがつきません」
 執事のしゃも、内心、意欲はおなじものだった。しかし、おいそれとは、同調顔どうちょうがおもできないので、いかにも、彼らの哀訴を持て余したかのごとく、を楊志の前へ移してきた。そして、彼らの代弁にこれ努めた。いやなら、見て見ぬ振りしていてくれと、いわぬばかりな口吻くちぶりである。
「ちイ。なんてえ土根性どこんじょうだろう」
 楊志は、にがりきったが、しかし、この老執事にも、兵どもにも、さっきの自分の失言を、行く先の都へ着いてから、尾ヒレを付けて吹聴ふいちょうされたりなどしたら始末がわるい。かたがた、これ以上の遺恨を含まれるのも、あとの道中に良策でないとは考えられる。
 それもあったし、また、さいぜんから眺めていたところでは、二た桶の焼酎しょうちゅうにも、怪しまれる点はなかった。で、不承ふしょう不承な面色だったが、
「……仕方がない。あんたまでが、そういうなら、今日かぎりのこととして、眼をつぶっていよう。その代り、かついやしたら、元気よく、ここを出発するように」
「や。ご承知くだされたか。さぞ兵どもも、躍りすることでしょう。一同よろこべ。おゆるしがあったぞ、おゆるしが」
 なんのことはない、老執事のしゃ自身が、雀躍りのていだった。兵と酒桶のあるところへ、舞い戻るなり、歓声を揚げていた。

「いやだ、いやだ。おめえらには、売りたくねえよ」
 兵は歓声をわかしたが、酒売りはまた、ごねだした。
「こんな、おもしろくもねえ道草を食ってるよりは、村へ行って、祭りの衆に、よろこんでもらったほうが、よっぽど増しだ。さあさあ退いてくんな、退いてくんな。きょうはろくな日じゃねえようだ」
「まだ怒ッてるのかい。もう勘弁しなよ、あやまるからさ」
「うるさいよ。お前さん方に謝ってもらう筋はないんだ」
依怙地えこじだな、ひどく」
「ああ依怙地だよ。悪かったね」
「あれだ。……こんなに、ぜにを集めて、拝むように頼んでるのに、罪だぜ、このまま置いてきぼりは」
「離さねえのか。困ったな。ええい、もう、そんなに飲みたけれやあ、勝手にさらせ」
「そうはいかないよ、ぜに五貫、それ、ここへおくぜ」
「五貫じゃないよ」
「えっ、値上げか」
「ばかにするない。残りの桶は、さっきの棗商人なつめあきんどが、幾わんか手込めにして、飲んだらしいから、った分だけ、値引きするしかしようがないじゃないか。四貫でいいよ。一貫文だけ銭を引ッ込めなよ」
「なるほど、正直もンだな、おめえさんは。いや見上げたよ」
 近くに転がッていた椰子椀やしわんを拾って、兵たちはさあ順番だと、桶のぐるりに真剣な顔を集めた。
 ――舌つづみが鳴る。のどがキュッという。礼讃、嘆声、随喜ずいきのよだれ。まさに亡者もうじゃに囲まれた天泉の図であった。
「やい、やい。先のやつは、もういい加減にしろ。執事さまをおあとに廻しておくやつがあるもんか」
「ほい、こいつは、どうも……さあ、執事さまも一杯おやんなすって」
「いかさま、これはよい焼酎しょうちゅうだな。むむ美味うまい。よう輸送使にも、一椀すすめてみよう」
 しかし、楊志はいッかな飲もうとはしなかった。もともと、彼はそう飲み手ではない。だが、喉のかわきは、彼とて同じだった。そこでつい、もう桶もからとなりかけたころとなって、
「ひと口、るか」
 と、わずか半杯ほど飲んだ。
「ありがとう。……おかげで今日は、もとのふもとへ舞い戻りとござアい。はははは。じゃあ、皆さん、ごきげんよう」
 酒売りの男は、愛想をいうと、空桶からおけになって、もと来た坂道の方へ、すたすたと、足早に立去ってしまった。
 このとき、やや離れた松林の一端には、さきの棗商人なつめあきんど七名の顔が、まさにじろぎもせぬ七体の石像みたいに、じっと、こっちを見すましていたのである。
 ――と、遥か坂下の方で、もう姿の見えぬ酒売りの男の田舎唄いなかうたが聞えていた。それが合図だったのだろう。とつぜん、七人は爆笑の声もひとつに手を打ち叩いた。
「どんなもんです! この首尾のよさ」
「さすが今孔明いまこうめい智多星ちたせい呉用先生だ、先生が書いた筋書どおりよ」
「ざまアみろ、悪官府の召使いどもめ」
「くたばれ、くたばれ。心おきなく」
「どりゃ、さっそく、お仕込みに、とりかかろうぜ」
 たちまちに見る七名の影は、松林の下蔭したかげから、それぞれが江州車こうしゅうぐるま(手押し車)の七輛を押し出し、なんのはばかりもなく、楊志ようし、執事以下、十七名の者が、現にいるところへ、どやどやと寄ってきた。
 そしてすばやく、車の上の棗漬なつめづけをみな谷底へぶちけだした。そして、それへ代るに、さきに強力ごうりきの兵が、地へ下ろして並べておいた十一箇の行嚢こうのうを、一台に二箇、或いは三箇と積んでしまい、すっぽりと布覆おおいをかぶせるやいな、
「さあ、すんだ。あとは野となれ」
「あとは烏と野獣のお供えもの」
「おさらば、おさらば!」
 まるで凱歌の調子である。そのはず、梁中書りょうちゅうしょ夫妻からさい大臣へ贈らるべき金銀珠玉は、ここに道をかえてしまったのだ。それにしても、江州車七輛の布覆おおいの下、十万貫の宝財は、そもどこへ運び去られていくのだろうか。
「あ? ……あ……。ああ」
 楊志ようしは、みすみすそれを、眼に見ていた。しかも、どうにもならないのである。どぼんと、頭はからッぽの音がする。眼にはそれを知っても、視覚神経は、脳髄のうずいまでも届いてゆかない。爪は、草の根をつかんでいたが、その手の甲へ、ダラダラよだれが垂れるだけだった。腰は鉛の如く重く、満身に悪寒さむけだけが、走り抜ける。口がゆがむ、声は声のみで言葉となって出てこない。
「執事は? 兵どもは?」
 かすかに頭の泡ツブが思考する。
 いちど、せたひたいをあげて、どろんとした眼で見廻した。
 どれもこれも、干潟ひがたのた打つ死魚の恰好だ。一人として、満足なざまはない。「ああ! ああ!」と、ときどき、おしのような奇声と奇異な身うごきが四辺あたりを埋めているきりだった。
「む、むねん……」
 くうをつかんで、楊志はったが、とたんに、どたと仆れてしまった。昏々こんこんとして、それ以後は意識のけらも彼になかった。――かくて一刻ひとときやらときやら、ふたたび、ふと我れにかえったときは、太行山脈の一角に、七月二日の月が、魔のきばとも見えるえをいでいた。

 かの七人の棗商人なつめあきんどは、そも何者の化身けしんだったのか。もう、ここで説くまでもあるまいが、一応いっておくなれば、それなん別人に非ずである。――東渓村の晁蓋ちょうがい居候いそうろうの赤髪鬼劉唐りゅうとう、同村の呉用先生および、その呉先生が一味に引き入れた石碣村せっかそんの江の漁夫、げんの三兄弟とかの公孫勝こうそんしょう一清いっせい、以上あわせての七人にほかならない。
 いや、もう一人、番外の加盟者があった。
 これがなかなかの役者だった。すなわち、酒売り男にふんして好演技を見せた男で、この黄泥岡こうでいこうの近村に住む白日鼠はくじつそ白勝はくしょうという遊び人なのである。日頃、晁蓋ちょうがいに目をかけられていた縁から、一味の足溜あしだまりとして、白日鼠の家が選ばれ、彼も一ト役買ってでたというわけ。
 そこで、次には。――麻痺薬しびれぐすりの使われた手順だが、これがまた、すこぶる手のこんだ筋書だった。
 事の初め、まず七人が、一つの桶を、空にした。そして、銭を払った。
 その隙に、べつの、も一ツの桶のフタを開け、無断でわんに半分飲んだのが、赤髪鬼の劉唐りゅうとうだ。
 劉唐が逃げる、酒売りの役の白日鼠が追ッかける。
 その留守に、
 残る組が、また無断で、あとの桶の分を、争ッて飲みかける。或いは、飲んでみせる。
 酒屋の白日鼠、仰天して戻るやいな、からみ合いの争いと見せ、それをくぐって、呉用先生が、すばやく、麻痺薬しびれぐすりを椀に入れ、その手で、桶の酒を汲もうとする。――この瞬間、手品のごとく、毒はすでに桶じゅうの酒に、掻き廻されていたものだった。
 あとは、同勢わッと逃げる。奪った椀を、酒屋が投げつけてののしり散らす。これで計略の筋は終っていたもので、後世、名づけてこの一じょうの劇を“生辰綱しょうしんこう智恵取ちえどり”といったものだった。
      ×         ×
「おや? ……。おれは?」
 ふと我れに返り、自分の姿を見廻した青面獣楊志ようしは、二日月の影を、凄い空に仰いで、
「そうだった。はかられたのだ。計られじ、計られじ、と思いつつ、ついに俺も、不覚なわなに」
 慚愧ざんきにたえぬもののように、両の手は、髪の根をつかんでいた。潸然さんぜんとして、無念の涙が頬をくだる。
「なんで生きて北京ほっけいへ帰れよう。さらばとて、都にはなおれられぬ身、そうだ、断崖から谷へ身を投げ、黄泥岡こうでいこうの鬼となって、世々の旅人に、こんな馬鹿者があったと、語り草になるのが、せめてもの身の始末。それしか、とるべき道はない」
 蹌踉そうろうと、彼は、鬼影きえいを曳いて歩きだした。
 ほか十六名の影は、せきとして、まだ地に伏したままである。彼が、いちはやく、気を取りもどし得たのは、あの毒酒を、彼のみは、わんの半分ほどしか飲んでいなかったためだろう。――が、それも今や、死の岩頭に立った身には、何の僥倖ぎょうこうと思われるはずもない。
「生れて、三十余年。これで死ぬのか。いったい何しに、生れてきたのか」
 死の谷を見おろした刹那、楊志の胸には、過去三十年の自身の絵巻が、いなずまの如く振返られた。
 父母の面影が映る。弟妹ていまいの声が聞える。武芸の師、読書の師、およそ、この身をはぐくんでくれた天地間のもの、ありとあらゆる生命の補助者が、ひしと、彼のたもとをつかまえて、「なぜ、死ぬのか」「死はやすいが、生は再びないぞ」と、引き留めているような気がした。
「ああ、こわい。意味のない死は、こんなに恐いものか。やはり俺は死にたくないのだ。意味を見つけたいのだ、死の意味か、生の意味かを」
 彼は急に、岩頭から後ろへ跳んだ。死神の口からのがれたように、以前のところへ戻ってみると、そこには醜い十六個の影が、まだ眼を白黒させたり口ばたに泡を吹いている。
「ばッ、ばか野郎っ」
 満身の声が、ひとりでにいて出た。すると急に、気がからッとしてきて、
「ようし、おれは死なんぞ。こんなやつらと心中してたまるものかい。そんな安ッぽい一命じゃなかったはずだ。後日、今日の匪賊ひぞくどもを捕えるのも一使命だし、あとの命は、どう使うか。そいつも、生きてからの先の勝負だ」
 ふと気づけば、あたまにくなっていた自分の一剣が地におちていた。拾い上げて、腰に横たえ、空を仰ぐと、夜鳥よどりの一群が、斜めに落ちていくのが見える。その方向を天意が示すうらないと見て、楊志は、何処いずこの地へ出る道とも知らず、やがてよろよろふもとの方へ降りていった。

 その夜も、かなりけてから、
 黄泥岡こうでいこうの一端では、ようやく、執事だの強力ごうりきの兵どもも、夜露の冷気によみがえって、ごそごそ這い起き、
「さあ、どうしよう?」
 と、今さらな不覚をかこちあっていた。
ようは、逃げたな」
 執事のしゃは、身の不始末を棚に上げ、何よりそれをののしった。
「いま思うと、あいつは薄々、毒酒を感づいていたのかも知れんぞ。いやいや、なんでもかでも、この場のことは、そういうことにしてしまおう。よいか者ども」
「こちの落度にゃなりませんかね」
「有ていにいったら、みんな首だ。だからせんを越して、夜明け次第に、まずこの地方の役署へ訴えを出しておく。よろしいか」
「へい、どんなふうに」
「なにもかも、楊志ようしの仕業と、彼奴きゃつにおっかぶせてしまうのだ。黄泥岡こうでいこう匪賊ひぞくと気脈を通じ、ことば巧みに、われわれどもへ毒酒を飲ませ、あげくの果て生辰綱しょうしんこうの宝はみな、横奪よこどりして、消え失せましてござりますと。わかったろうな。どこで調べられても、口を合せて、押し通すのだぞ」
「わかりました。野郎には、遺恨骨髄こつずい、どうでも、そういうことにいたしましょう」
「お前らは、生き証人、場合によっては、当地の役署に残されるかもしれん。しかし、わしは夜を日についで、北京府ほっけいふに立ち帰り、かよう云々しかじかと、梁中書りょうちゅうしょ閣下にお告げする。当然、烈火のおいかりは知れたこと。ただちに、閣下から都のさい大臣へ、お飛脚は飛ぶし、また済州さいしゅう奉行所へも、賊徒逮捕たいほの厳令が下ッてくるに相違ない」
 ――ところで、一方の楊志はどうしたか。彼は自分の去った後において、こんな腹黒い相談が成っていたとは、夢にも知らない。
 半ばまだ、ぼうとして、その夜は、どこをどう歩いたやら――。しかし、夜が明けてみれば、彼は黄泥岡こうでいこうを南へ降り、さらに道を南へと、あてどもなく歩いていた。
「さアて。しまった」
 いったんは死ぬ気であったため、官の路銀、関手形せきてがた、送り状、それらの一ト包みも、なげうったまま、身には一銭も持っていなかった。
「生きていれば、腹がるものと、いま気がつくなんざ、滑稽だな。ま、どうにかなるだろう。乞食まではしなくても」
 部落へかかった。いよいよ腹の虫が泣きせびる。で、盲目的に、
「ごめんよ」
 とばかり、つい入ってしまったのだった。よくある田舎の飲屋である。愛相あいそのいい女が出て来て註文を訊く。
 肉をかせ、飯をあつらえた。小酒屋へ入って、飲まないのも悪いと考えてか、その間に、
「酒も少し……」
 と、飲めるような顔でいった。女は世話女房ふうの女だがしゃくの仕方は馴れている。
 飲めぬ口なので、青面獣せいめんじゅう炎面獣えんめんじゅうのような火照ほてりになりだした。肉を食い、飯をつめこみ、やおら野太刀を持ち直して腰をあげた。いささか、夜来の自失を取りもどし、足どり、眼づかい、ようやく本来の彼に立ち返っていた。
「あら、お客さん。お忘れじゃあ、困りますよ」
「なに。なにがよ」
「お勘定を、どうぞ」
「なるほど。そうだったな」
「ご冗談を」
「じつは、もん無しだ。だが、おれも男だ、きっといつか来て払うよ」
「とんでもない、旅の人なぞに」
 楊志ようしは、耳もかさない。女は叫ぶ。そして、しつこく、どこまでもと、追いすがって来る姿を、
「うるさい」
 と、一ト睨みに、ねめすえて、また、
「はははは」と、大声で独り笑った。
「おばさん、おばさん。この男一匹を、そうみじめに追い詰めるなよ。これでも、もとはしかるべき家柄に生まれ、ちょっぴり肩書などもあった者だよ。いまにきっと返しにくるから、今日のとこは、貸しておきなよ」
 すると、女の背後から、
「ふざけるな。うぬは、食い逃げの常習だろう。おおいっ、みんな来て、この浮浪人を、叩きのめせ」
 と、若い男の声がした。
 これが女の亭主かもしれない。刺叉さすまたを持って、火事場へでも出てきたような威勢である。彼の声に応じて、近隣の朋輩だの百姓だの、いずれも得物えものを持ったのが、たちまち、楊志の前後をおっとり囲んで、口ぎたない罵声ばせいを浴びせかけた。
「おやおや。たいそう集まったぞ」
 楊志の酔眼は、辺りを見て、事の大げさな展開に、われながら、あきれ顔だった。
「一杯の朝飯が、えらい騒ぎになったもんだな。これもまた、生きていく勘定のうちに、つい入れ忘れていたようだ。どれ、こうなったら仕方がない。体で勘定をつけてもらおうか」

きょう、二りゅう山下さんかに出会い、その後の花和尚かおしょう魯智深ろちしんがこと


「あっ、待て待て。――みんな後ろへ退いていろ」
 女の亭主らしい男は、なに思ったか、急に大勢の村人むらびとをこう制して、相手の風態ふうていを、足の先からっぺんまで見直して言った。
「おい、食い逃げの大将。――どこかでおめえは見たことがある気がするな」
「おう、名のってもいいが」
「聞こうじゃねえか」
「名はかたったことのねえ人間だ。あからさまにいうから聞け。青面獣せいめんじゅう楊志ようしという者だ」
「えっ、青面獣だって」
「おおさ、なんで急に変なつらをするのか」
「……と、仰っしゃるなら、もしや以前は、開封かいほう東京とうけい殿帥府でんすいふにお勤めの」
「そうよ。その楊制使ようせいしのなれの果てさ」
「やっ、こ、これはどうも……」と、男は手の刺叉さすまたほうり出して「知らぬことじゃあございましたが、なんとも、とんだご無礼をいたしました」
「おや、おや。変な風向きになったな」
 と、楊志も古い以前の身素姓みすじょうまでいわれては、ちょっと赤面を覚えたのだろう。自然その真面目しんめんもくを見せずにいられなかった。
「して、そういうお前さんは?」
「てまえも、じつあ開封かいほうの町家の生まれで、親代々の肉問屋のせがれ、曹正そうせいという者でございます」
「そうかい。道理で田舎者いなかものにしちゃあ、歯切れのいい啖呵たんかをきりなさるがと思ったよ」
「いやお恥かしゅう存じます。都にいたころは、近衛軍このえぐんのご師範、林冲りんちゅう先生に弟子入りしてちょっぴり棒術の真似まねごとなどして、人さまから“操刀鬼そうとうき曹正そうせい”なんて綽名あだなされ、いい気になっておりましたンでね。……その後、おやじに代って山東へ商用に下り、資本もとでをつかいはたして、つい極道ごくどうへすべりこみ、今じゃあこんな百姓居酒屋の亭主。今あなたへ食ってかかったのが、つまりてまえの女房なんで」
「おや、そうだったのか。そいつアなんとも悪かったな」
「ともかく、手前どもまでお引っ返しくださいませんか。このままじゃ女房にしても、後味が悪くっていけませんや」
 曹正とその妻とが、楊志を誘って、わが家の居酒屋へ入ってしまったので、騒ぎに集まった近隣の者も、やがて何処いずこともなくひそんでしまった。
 はからずも、楊志は、曹正そうせい夫婦の世話になって、つい数日を、村酒屋の一間ひとまで過ごした。で、その間に、彼が黄泥岡こうでいこうった一代の大難をも、そして今は世に身のおき場もない窮地にあることなども、一切打ち明けていたのもいうまではあるまい。
「……ああ、そうでしたか。いや、値十万貫もする“生辰綱たんじょういわい”なんてものを、このガツガツと飢えている世に、北京ほっけいから都まで、無事に送ろうなどという目企もくろみからして、自体無理なはなしでござんすよ。まア、ご心配なさいますな、どんなことをしても、夫婦でおかくまい申しますから、当分はまあ、ここでご養生でもなすっておいでなさいまし」
「ありがとう。だが、賊に奪われた落度は落度だし、北京ほっけい梁中書りょうちゅうしょも、都のさい大臣も、或いは、この楊志に、もっと悪い嫌疑をかけているかもしれん。なにしろ、天下のお尋ね者だ。――そのお尋ね者をかくまッたといわれて、お宅へ禍いをかけては申しわけがない」
「ま。そんなご遠慮はなさらないで」
「いやいや、恩をアダで返したら、男が立たぬ。明日にでも、お別れしよう」
「といって、どこか行くあてがおありですか」
「こんな時にゃあ、あの梁山泊りょうざんぱくが思い出されるがなあ」
「あそこなら、林冲りんちゅう先生もおいでになるとか」
「ところが、イヤな奴が一匹いる。王倫おうりんという頭領とうりょうだ。小心者で邪推ぶかくて、ちとばかりな学識などをひけらかす野郎でな。どうも、そいつが気に食わんのだ」
「じゃあ、梁山泊をっちゃくしたようなもんですが、二龍山の宝珠寺ほうじゅじへ行ってみませんか」
「ふウむ、そんな恰好な隠れがあるのか」
「そこにも、三、四百人は立てこもっておりましょう。山は青州せいしゅうの南です。かしらの名を、金眼虎きんがんこ※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)とうりゅうといいますがね」
 楊志ようしは、よろこんだ。――すでに黄泥岡こうでいこうで仮死状態にまでちた毒も体から一掃されていた容子ようすである。次の日、夫婦が情けの旅装たびよそおいに、少々の路銀までもらって、青州へさして立っていった。
 かくて、旅路の彼は、ほどなく一座の群を抜いた山を、青州の空の一角に仰いだ。「……これが、音に聞く二龍山だナ」と、さらにふもとへ迫り、その夕べ、どこか一夜の寝場所はないかと、吹き渡る松風の中を、あちこち歩き廻っていた。
 すると、とある松の根がたから、突然、
「気をつけろッ。めくらか、きさまは」
 と、彼の背へ、どなりつけた者がある。

「おや、人間でもいたのか」
 と、楊志は振り向いた。
 見ると、むっくり起き上がった酒臭い大坊主が、いま楊志の足が、ふとつまずいたらしい錫杖しゃくじょうを拾い上げて大地にそれを突っ立てていた。
「やい、きりぎりす。なんとかいえ」
「なにっ」
「えらそうに、野太刀なぞ横たえやがって、なんで、いい気持でわがはいが寝ているところを、この大事な禅杖ぜんじょう足蹴あしげにしながら澄ましていくか」
「枯れ木でも踏んだのかと思ったら、坊主の禅杖だったのか。天下の大道に、寝ている馬鹿もねえもんだ」
「ふざけるな。ここは二龍山の木戸の下、めッたな人間が通る場所じゃない。あやまれ」
「あいにく、頭を下げるのは、大ッ嫌いな性分だ。ははん、この乞食坊主、難クセつけて、はしがねでもセビろうっていうんだな」
「ほざいたな。乞食坊主かどうか、この錫杖しゃくじょうを食らってみろ」
 とたんに、一さつの風が楊志のいるところをびゅっと通り抜けた。――もし寸前に身を跳び開いていなかったら、楊志の形はもうなかったにちがいない。
「――あッ」
 と、楊志ようしも腰の野太刀を噴射するように抜き払っていた。そしてすぐもう一度、
「……あっ?」と、驚きをあらたにしていた。
 相手の大坊主が、せつなに、法衣ころも諸肌もろはだを脱ぎ、その肌一面の花の如き刺青いれずみが、ばっと眼に映ったからだった。
「やあ、花和尚かおしょう。鉄杖を引け」
ひるんだか、腰抜け」
「そう毒づくなよ。まんざら、縁のない仲でもなかった」
「巧く言やがる。どこのどいつだ」
「おれもおぬしも、ともに開封かいほう東京とうけいにいた者同士よ。まずこのつら金印きんいん(額の刺青)を見てくれ。※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅう一味の悪官僚のため、むじつの罪におとされて、北京ほっけいそつに追いやられた楊志という者」
「じゃあなにか。都の天漢州橋てんかんしゅうきょうへ、伝家の名刀を売りに立ち、あの雑閙ざっとう中でからんできた無頼漢ならずもの牛二ぎゅうじを、一刀両断にやッてのけた、当時評判だった、青面獣せいめんじゅうの楊志というのは」
「お。かくいう拙者だ。――そのころ、おぬしは郊外の大相国寺だいそうこくじで、野菜畑の番人を勤めていた花和尚魯智深ろちしんであろうがの」
「や、や。こいつア思いがけない出会いだ。どうして、わが輩をご存知か」
「その刺青ほりものは、都の名物と、三ツ児でさえも花和尚の名とともに知っていたもの。……その花和尚がどうしてまた、こんなところに」
「いや話せば長いことになる。……どうだ、そこまで歩いてくれないか。あれに見える馬頭観音かんのんほこらに酒がおいてある。一つ聞いてももらおうし、そっちの身の上も聞きたいし……」
 魯智深は先に歩きだした。折もよし、楊志も今夜のねぐらをさがしていたところ。夜もすがら、二人はほこらの濡れ縁で語りあかした。
 ――以後の魯智深の境遇に、大変動がおこっていたのは、当然なはなし。
 まず、彼から、そのいきさつを、こう語った。
 さきに、兄弟の義を結んだ林冲りんちゅうが、あえなく滄州そうしゅうの大流刑地るけいちへ流されていったさい、彼が途中までついていって、護送の端公たんこう(獄卒)を、逆に召使いのごとくこき使い、ついに彼らが林冲を途中で殺そうとした目的を遂げさせなかった始末は、やがて都へ帰った端公の口から、輪に輪をかけて、こう大臣へ讒訴ざんそされていた。
 で、たちどころに、「――花和尚かおしょう召捕れ」の令がくだり、大相国寺の菜園は、数百の捕手で囲まれた。
 この晩の騒動たるや大変だった。一箇の魯智深を逮捕たいほするのに、開封東京とうけいの王城下は震駭しんがいして、都民も寝られなかったほどである。しかも当の智深は、菜園小屋を焼き払い、大相国寺の大屋根を踏み渡り、街中へ隠れ、また暁のころ、城門の警戒線に現われて、あまたの兵隊を手玉にとり、あッというまに鼓楼ころういらかから城壁を跳び渡って、それきりどこかへ姿を没してしまった。
「――それからはまた、流浪の旅さ。より以前には、延安府えんあんふ提轄ていかつ(憲兵)をつとめていたころ、ふと持ち前の腕力をふるッたのがもとで、五台山へ登って頭をまろめ、以後心を入れ代えますと、仏さまにも亡母にも誓ったけれど、どうもいけない。何がわが輩をこうさせるのか、元来、わが輩の持つ業悪ごうあくなのか。おとなしく飲んで眠って、太平楽に構えていようと思うのだが、何かが来ては、それを突ッつき起してしまうらしい」
 魯智深ろちしんの述懐のあとで、楊志はいった。
「せっかく、まともに立ち返ろうとしている者を、突ッつき起す奴は、世の悪役人だ。いや、拙者の場合は、やや事情も違うが」
 彼もまた、ここに至るまでの、逐一ちくいちを打明けて、二龍山を目あてに落ちてきたわけを話した。
「そいつは、偶然な一致だったな」
 と、智深は手を打って、
「じつはわが輩も、二龍山の宝珠寺ほうじゅじこそ、世を忍ぶにはもってこいな場所と考え、山寨さんさいの頭、※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)とうりゅうに会わんものと、訪ねていった」
「じゃあもう、山寨にお住居すまいなので」
「ところが、※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)とうりゅうのやつ、どうしても顔を見せん。ただ、ふもとで試合をしたうえ、おれに勝ったら、客分とうやまって、山寨さんさいへ迎えようと、手下に伝言させてきた。そこで、そいつを信じて降りて来たところが、卑怯にも、すぐ三つの砦門とりでもんくさり戸閉とざしてしまい、うんともすんともいってこない。……ぜひなく村から酒を買ってきて、ここで待つこと今日で四日目というわけだ。しかしどうやらこの勝負は、まんまと、こっちが一ぱいたばかられたらしい」
「和尚は人がいい。口惜しくはないのか」
「なんとも業腹ごうはらさ。そこでだ、三つの砦門とりでもんを踏みつぶしてくれようかと、考えてみるが、こいつがまた、なんとも頑丈で、いくらわが輩にせよ、あんな関門とは取ッ組めん。また、取ッ組んでも馬鹿らしい」
「ならば、智をもって、乗っ取るしかありますまい。“生辰綱しょうしんこう智恵取ちえどり”を食った拙者が、そんなことをいうのはおかしいが」
「思案があるなら聞かして欲しいな。このままじゃ、この麓から引き退がれん」
「いや、ここは一度引き退がって、いま拙者が話した居酒屋の曹正そうせいの家まで戻ろう。二龍山を教えたのも曹正だから、彼にはかれば何かいい智恵が出るかもしれない」
 花和尚を連れて、楊志は数日の後、また村の居酒屋曹正の店へ帰ってきた。
「三人寄れば文殊もんじゅの智恵」
 その晩、鼎座ていざの小酒盛りの果てに、どういう妙計が成り立ったか、三名は声を合せて笑っていた。

目明めあかじん、五里霧中のこと。
次いで、刑事頭けいじがしら何濤かとうの妻と弟の事


 かつての名刹めいさつ、二龍山の宝珠寺ほうじゅじも、いまは賊の殿堂と化して、千僧の諷誦ふうしょう梵鐘ぼんしょうの声もなく、代りに、ひょうの皮をしいたとうの上に、赤鬼のごとき大男が昼寝していた。
「おや、なんだ! 遠くの人声は。――もしや砦門とりでもんのほうじゃねえか。やいっ、誰か見てこい」
 眼をさまして、伽藍がらんの奥から階段の上へ出てきた※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)とうりゅうは、虎のような口を開いて、そこらにいる手下の者へ、一ト声えた。
「おうっ」
 と五、六人が起ちかけると、下の道から賊の小頭こがしらと数名が登ってきて、
「おかしら、近郷の百姓どもが、こないだの大坊主をふン縛ッてまいりましたが、どうしたもんでございましょう」
 と、階の下に並んで告げた。
「なんだと」――※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)とうりゅうは、意外な顔して「――おかしいじゃねえか、いつぞやの大坊主といえば、五台山を騒がせ、大相国寺の菜園を荒らし、おまけに開封東京とうけいから姿をくらましたお尋ね者の花和尚かおしょう魯智深ろちしんだろう。……だからていよくここも追ッ払ったが、しかし百姓なんぞの手に捕まるはずはねえ。よく眉につばをつけて取次いでくるがいいや」
「ところがおかしら、百姓どもにただしてみると、まんざら嘘でもねえんです」
「どういう仔細だ、嘘でもねえとは」
「野郎、ここを追い返されて、食うに困ったものとみえ、村の曹正そうせいっていう男のやっている居酒屋へ、あれからのべつごねりに行っていたらしいんで」
「それがどうしたてンだ」
「酔っ払っちゃあどこの家へも這入はいりこんで、宿を貸せの、小費こづかいを出せの、文句をいえば、暴れ廻るし、いやもう手古てこずり抜いたものとみえまさ。――そればかりか、梁山泊りょうざんぱくへ渡りをつけて、二龍山の※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)龍などは、いまにおれの手下に付けてみせる。なんておどし文句を触れ歩いていたというから笑わせるじゃありませんか」
「野郎、そんな寝言をほざき廻ッていやがったのか」
「で、居酒屋の曹正と村名主が首を寄せて、一ト晩、あの大坊主を上座にすえ、ご機嫌をとると見せて、酒の中へ麻痺薬しびれぐすりをいれて飲ませたというんでさ。こいつア大出来じゃあござんせんか」
「ふウむ。そいつアでかした。ふン縛ってきたのか」
「がんじがらめに荒縄をかけたうえ、麻痺薬しびれぐすりめたところを、また寄ッてたかッて蹴るやら撲るやらしたもんでしょう。坊主頭も見られたざまじゃありません。そいつをまた、猟師りょうしいのししでもしょッ曳くように、大勢して、わいわい山まで持ってきたわけでござんす。自分たちの手で、息の根を止めるのは不気味だとみえ、おかしら※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)龍さまに、ご処分を願いますッて、口を揃えての嘆願なんで」
「そうか。いまの騒ぎはそれだったのか。よしっ、料理してやろう。これへ連れてこい。……が、待て待て、縄付きにしても厳重に取り囲んでこいよ」
 やがてのこと。
 石弩いしゆみ、針縄、逆茂木さかもぎなどで守られた柵門さくもんを三つも通って、一群の百姓と縄付きの大坊主が、大勢の賊に前後をかこまれて登って来た。――そして来るやいな、魯智深ろちしんは、いきなり背を小突かれて、階の下に膝をついた。百姓たちも揃って、※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)とうりゅうの姿を仰いでぬかずいた。
「おかしらでございますか。この大坊主のためにゃ、わしら村の者は、どんなに泣かされたか知れません。どうかご存分に、八ツ裂きにでもしてやっておくんなさいまし」
「むむ。よくやった。きさまが居酒屋の曹正か」
「うんにゃ、ちげえますだ」と、その百姓は、クスンと鼻皺はなじわを寄せて、隣に控えていた、もひとりの百姓の顔を見た。これなん、百姓姿に化けた青面獣の楊志であったとは夢にも知らず、※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)龍はジロとその巨眼を、曹正のほうへ移して。
「こらっ、なんだ、きさまの横に置いてある物は」
「はい、はい。これはこの坊主からり上げた禅杖ぜんじょうと戒刀でございまする」
「坊主の得物えものか。これへ持ってこい」
「へい、ただいま」
 やっと持ち上げるような重さを見せながら、曹正はその二品を、階段の真下においた。いやそれはちょうど魯智深の鼻の先へ供えたようなものだった。
「たわけめ!」と、※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)龍はどなった。「――持って上がれと申すのだ。なんでそんなところにおくか」
 すると、それまで首を垂れていた魯智深が、
「いや、そこでいい」
 といったから、※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)龍は跳び上がって驚いた。
「なんだと、この曳かれ者が」
※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)龍。おまえの首は、もう横を向く間もないぜ」
 いったと思うと、魯智深は後ろに廻していた縄目をばらッといて、禅杖へ手を伸ばすやいな、猛吼もうくせい、階を躍り上がって、のけ※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)龍の真眉間まみけんを打ちくだいていた。
 縄目はにせ結びにしてあったのだ。智深の行動とともに、楊志や曹正なども、あわてふためく賊の手下どもへ立ち向っていたのはいうまでもなく、また、彼らが手もなく慴伏しょうふくしてしまったのは勿論だった。
 ここに、宝珠寺の賊寨ぞくさいは、たちまちそのあるじを代えてしまった。――花和尚、青面獣の二人を新たな頭目とうもくとして仰ぎ、四百の配下は、義をちかって、その晩、庫裡くりの酒をみな持ち出して、大盛宴を張った。
 曹正は、ほかの百姓をつれて、あくる日、村へ帰っていき、二龍山一帯は、そのみどりの色も里景色も、なんとなくあらたまった。弱者いじめな極悪非道は仲間おきてとしていましめ、賊は賊でも、時の宋朝そうちょう治下のみだれと闘う反骨と涙に生きるおとこ同士であろうと約したものである。

 さて。――楊志ようしの落ちつき先は、ひとまず二龍山宝珠寺と、ここに先途せんどを見とどけることはできたが、なおまだ、黄泥岡こうでいこう事件の後始末は、なにも目鼻はついていない。
 いや。この怪事件の詮議せんぎは、まだ五里霧中の序の口だ。――江州車こうしゅうぐるまりょうにのせて、風のごとく奪い去った重宝十万貫はどこへいったか。その犯人は何者か。天下騒然と、噂はみだれ飛んでいる。
「いまさら、なんとおびも、面目もございませんが、ッくき下郎げろうは、お手飼いの青面獣せいめんじゅう楊志ようし。――彼奴かやつのためにはかられて、途中、輸送に従っていた十六名の者、みな毒酒を呑まされて……かくのごとき始末にござりまする」
 黄泥岡こうでいこうから、夜昼なしに、都へ舞い戻ったりょう家の執事のしゃは、下手人は、楊志とれ合いで、道に待ち伏せしていた七人の匪賊ひぞくであると、主君の前に讒訴ざんそした。
 仰天したのは梁中書りょうちゅうしょである。
 老いの涙を垂らしていうしゃ執事の言に、嘘があろうとは思えない。怒髪どはつ天をく、とはまさにこれを耳にしたときの彼の形相といってよい。
「なに、なに。楊志が途中で賊とれ合い、きさまらに毒酒をのませて、あの重宝を持ち逃げしたとな。……むむ忘恩の犬畜生め、よくもわしを裏切りおったな。きっと逮捕たいほして、切りきざまずにおくべきや」
 また、一方。
 開封かいほう東京とうけいの大臣邸では、さい大臣の誕生日となっても、梁家りょうけから祝賀品は、ついにその日になっても届かない。
「さあ、どうしたのか?」と、気が気でなく、朝野の賓客ひんきゃくを集めた招宴も一こうえず、さい大臣の不機嫌はなはだしいうちに終っていたが、やがてその夜も深更のこと。北京ほっけいからの早飛脚だった。
「あっ※(感嘆符疑問符、1-8-78) また今年もか」
 梁中書りょうちゅうしょの詫び状と、また事態の顛末てんまつを報じてきた一状をもあわせ読んで、さい大臣は、身をつき抜ける憤怒とともに、自己の誕生日が、二年もつづいて、賊にのろわれた不吉感ふきつかんに、身の毛をよだてた。
 夜明けも待たず、彼は腹心の心ききたる家臣を呼んで、
黄泥岡こうでいこうは、済州さいしゅう管下だな。すぐ済州奉行所へくだっていけ。そして下手人どもを召捕えるまでは、余の目付めつけとして、奉行所にとどまり、与力どもを督励しておれ」
 と、厳命した。
 目付役をうけたまわった家臣は、即夜、馬にムチを打って済州さいしゅうへ急いだ。
 来てみれば、土地ところの奉行所は、いまやごッた返している。
 それもそのはず、北京ほっけい大名府からは、管領職かんりょうしょくの名をもって、矢つぎ早の犯人逮捕令たいほれい、公文書、叱咤しったの伝令、また早馬と、夜も日もなく責め立てられていた折である。ところへ、またもや、
「ただいま、さい大臣閣下の御命により、直々のお目付役がお着きです」
 と、報ぜられたので、奉行は、目を廻すどころではない。寝不足のうえにも畏怖いふを加えて、対座の間も、まったく錯乱さくらんのていだった。
「はるばるのご下向げこう、なんとも恐れ入りまする。偵察局、刑事部、目明しどもまで、全能力をあげて、はや事件の追求にかかり、必死を誓って、もし勤務に怠慢の者あらば、罷免ひめん減俸げんぽうなどの罰則まで立てて事に当っておりますれば、日ならずして、目鼻もつくやと存じおりまする次第。……何とぞ、ここしばらくのご猶予をば」
「あいや、お奉行」と、目付は、きびしい顔をして言った。
「――日ならずして、などというなまぬるさでは心もとない。さい大臣が、この身を目付役として、差し向けられた一事でもおわかりだろう。黄泥岡こうでいこうに出没したと聞く七人の棗商人なつめあきゅうど、一人の酒売り、また梁家りょうけの裏切り者、青面獣楊志ようし。それらの悪徒を、一人のこらず、十日以内に、からって、東京とうけい押送おうそうせいとの厳達でおざるぞ」
「えっ。十日のご期限ですと」
「万が一にも、十日を過ぎるときは、お気のどくだが、お奉行自体に、沙門島しゃもんとう(流刑の孤島)までお出かけ願う仕儀と相成るかもしれん。もとより此方もまた、のんべんくらりと、手ぶらで都へ帰るつらもない。どの道、あなたと生死はともにする気でまいったから、左様ご承知おきありたい」
 奉行は青くなった。
 それ以前とて、やってはいたが、さあこうなると、一こくが気が気でない。
「刑事部屋の室長、何濤かとうを呼べ」
 即刻、役室へ移って、彼は自分にかかった重いものを、部下の精鋭に押しつけた。
何濤かとう。何をしておるんだ、毎日なにを」
「お奉行。お奉行には手前どもの働きが、まだにぶいとでも仰っしゃるんですか」
「口ごたえいたすな。そのほう自身とて、寸刻たりとも、刑事部屋で悠長そうな顔していられる場合ではあるまいが」
「冗談いっちゃあ困ります。配下の目明し何百人を、夜昼なく、蜘蛛手くもでに分けて、犯人のホシをぎ歩かせているんですぜ。そのうえ刑事がしらの自分がただ眼いろを変えて、ほッつき歩いても始まりますまい。こう腕ぐみに顔を埋めて、苦心しているのが、おわかりないのか」
「だまれ。それくらいな経験は、わが輩もめておる。進士しんしの試験を通って、一郡の奉行となるまでには、あらゆる難に当り、なまやさしいことではなかった。どうでも、十日以内に、犯人全部を挙げてみせろ」
「そいつあご無理だ。神わざじゃアあるめえし」
「いや是が非でも、さい大臣のご厳命だ。お目付も来ておられる。もし、そのほうが十日以内に、犯人を検挙しえぬなら、わしの奉行職もくびだが、きさまもただはかんぞ。まず遠島だ」
「べら棒な。いくら大臣のお目付が督励にきたからって」
「そう申すのは、なおまだ、必死の捜査が足らん証拠だ。よしっ、この上命が、ただならんものであることを、その肉体に刻んで、寝る間も、忘れることのないようにしてつかわす。書記! 刺青いれずみ職人をこれへ呼べい」
 奉行もいささか逆上気味だ。――左右に命じて、やにわに、何濤かとうの両腕をとらえさせ、そのひたいに“○州へ流罪”と、一字空けの流人彫るにんぼりれさせたのだ。まるで、値段未定の半罪人の札を貼りつけたようなものである。

「オオ痛え。永年、甘い汁を吸っていた報いか知らねえが、こうなると、奉行所勤めも辛いもンだな」
 ひたいの血を抑えながら、何濤かとうは刑事がしらの一室へ下がってきた。ふと見ると、黄昏たそがれかけた向う側の目明しだまりでは、連日の奔走で、草臥くたびれてはいるのだろうが、わいわいと馬鹿話に笑いどよめいている。何濤は、むかっとして、そこの扉口とぐちから呶鳴りつけた。
「やい、てめえたちはみんな本職をめて隠居の身分にでもなったのか」
「オヤ、室長。お顔をどうなすったんですえ?」
「見やがれ、おれの面体めんていを」
「あっ、たいへんだ」
他人ひと事みていにいうない。いいか、十日以内に、黄泥岡こうでいこうの一件のかたをつけなけりゃあ、おれは遠島と言い渡されたんだ。なんでえ、てめえたちの暢気のんきさは」
「へい、申しわけございません。といったって、こちも、足を棒にして、そこらじゅうを、クルクルぎ歩いちゃいるんですが」
「それでゲラゲラ笑っていられるのか。べら棒め、真剣真味しんみに苦労してるなら、草の根を分けても、野の末、山の隅々まで、狩り立ててみろ、常日ごろにゃ、やれ飲ませてくれの、うちに病人があるから助けてくれのと、そんな時ばかり、人に男泣きを見せやがってよ」
「おいおいみんな。ひと休みしたら、また手分けして出かけようぜ。室長のひたいを見たら、ぐッとこたえてしまったよ。今夜は一つ夜どおしだ。仕方がねえや、蟋蟀こおろぎになった気で、当分、草の根を分けて歩くんだな」
 ――そんな声を背に聞き流して、何濤かとうは気分が冴えないまま、その晩は、家へ帰ってしまった。
 彼の妻は、晩酌の膳にも浮かない良人おっとを見て、
「どうしたのよ、あなた。……そのお顔の刺青いれずみはさ」
「例の一件さ。刑事がしらの女房が、そんなこと、クドクド訊かねえでもわからねえのか」
「と、察してはいますけれどさ。なんぼなんでも」
「是が非でも、十日以内に挙げろッてんだ。しかもまだ、下手人どものホシは五里霧中、なあ女房、わが家の灯を、こうして見るのも、あと十日限りかも知れねえぜ」
「よしておくれよ、心ぼそい」
「だって仕方があるめえじゃねえか。お奉行だけの一量見でもなし、こんどのことあ、さい大臣直々じきじきのご厳達ときていやがる。あやまったなア、俺も一生の道を」
「……おや、誰か玄関へ。お客かしら?」
「なアに何清かせいだろ。……弟の何清が、また博奕ばくちって、不景気なつらを見せにきたにちげえねえ。今夜は、俺は会いたくねえな」
「よござんす。わたしが、お酒でも飲ませて、上手に帰しておきますから」
 廊を馳け出していった先で、彼女の愛相あいそがいつもよりはずんで聞えた。何濤かとうの弟何清かせいは訪ねてきた兄が風邪かぜ気味だと聞かされて、ぜひなく、あによめひとりを相手に、美味うまくもなさそうに、出された杯を渋々手に取りはじめた。
「姉さん。いやに今夜あ、陰気じゃねえか。どうも姉さんの顔まで湿しめッぽいや」
「だってせいさん。おまえだって、ご存知のはずだろうに」
「なにがよ」
「うちの良人ひとの心配事さ。あれ、あんな顔してるわ。兄弟いのないおひとね」
「だって、知らねえもの。なに不自由なしの刑事がしらでよ、しょっちゅう、裏口からは甘い収入みいりがあるし、世間さまにはこわ持てされ、そのうえ姉さんみてえな水もしたたる美人を女房に持ち、いったい何の心配事があるのか、おれには不思議さ」
「おふざけでないよ。ちゃんと、ほんとは知ってるくせに。黄泥岡こうでいこうの一件を、せいさんが耳にしていないはずないわ」
「あ。あれかあ」
「それごらんな」
「はははは」
「いやな笑い方をするわねえ。いい気味だとでも思っていなさるのかえ」
邪慳じゃけんなことを言いなさんな。おれだって、兄貴あっての弟だ。だがネ、兄貴も悪い弟を持ったもんで、ときどき、風邪も引きたくなるだろうな」
「まあ、へんだよ今夜のせいさんは。なんでそんな嫌味をいうのさ」
「イヤしみじみと、時にゃア懺悔ざんげがしたくなるのさ。こうして、姉さんの、心ならずものおしゃくなんかしていただくと、なおさらのことだ」
「もう、してやらないからいい! 変にからんでばかりきてさ。――今日もお役署には、さい大臣のお目付とかが来て、十日以内に挙げなければ、お奉行もくび、うちの良人ひとも遠島だなんて、顔に金印きんいん(いれずみ)まで打たれて帰ってきたんだよ。お酒はいいが、悪ふざけは、やめてくださいよ」
「へえ、そいつあ初耳だな。そんなことなら、もちッと早く来れやよかったが、またやくざな弟めが、いつものでんで、ぜにでもセビリにきやがったかと思われるのも辛いと思って、ついしきいを高くしていたが」
「ちょっと待ってよ。清さん、いまいったのは、何のこと?」
「なあに。こんなやくざな弟野郎でも、ひょんなことから、ひょんな役にも立つもんだということさ」
「じれッたいねえ、清さんてば。……もしやおまえ、黄泥岡こうでいこうの一件のことで、なにか、心当りでも持ってるんじゃないの」
「まアねえ。どうせ兄貴があてにしているなあ、日ごろよく小費こづかせんいている組下の目明しだろうから」
「だから、話せないとお言いなのかえ」
「でもないがね。兄貴が、よくよくのッぴきならぬ破目とでもなりゃあ、そりゃ俺だって、見ちゃいないさ。……だが、兄貴は腕ッこきの目明しがしらだ。てめえなぞ、出る幕じゃねえよと、鼻ッ先であしらわれるかも知れねえからな。……いや姉さん、どうもご馳走さまになりましたね、またそのうちに」
「あっ、待ってよ。そう、せかせか帰らなくってもいいじゃないの。いま、うちの良人ひとも呼んでくるからさ」
「だって、お風邪なんでしょう。へへへへ」
「あなた。あなた!」
 妻に呼び立てられるまでもなく、何濤かとうはさっきから、部屋境へやざかいの廊で、耳をすましていたのである。それへ顔を見せるやいな、何清かせいの手を握りしめて言った。
「悪かった。まあ、気を悪くしないで、もう一杯ひとつ飲み直してくれ」
「おう、兄さんか。酒はたくさんだよ。なるほど、ひどい顔になんなすったな」
「日ごろはつい、おめえの身持ちを案じるあまり、つれない顔も見せたろうが、この兄が一生の頼みだ。知っているなら打明けてくれ」
「ふン。黄泥岡こうでいこうの小泥棒のことですかい」
「小泥棒! おめえ勘ちがいしちゃあいけねえぜ」
「だってさ、兄さん。あんな者あ、知れきっていらあ」
「げッ。ほんとか」
 何濤かとうは、奥へ馳けこんで、手文庫の内から、銀子ぎんす十両を持ってきて、弟の膳のそばへ、ぽんと置いた。
「少ないが、当座の褒美だ」
「兄さん、すまねえが、おれはツムジ曲がりだ。こう横を向くぜ」
「どうしてだ、弟。不足なのか」
「よしてくれ、鼻薬なんぞがされると、なお言いにくいや。やくざな弟、ろくでなしな弟。そいつが、たんだ一ぺん。こう兄貴に向って、ちょっぴり威張った顔がしていられるんだ。こいつあ、銭金ぜにかねに代えられねえ」
「じゃあ、どうしたら、うんというんだ」
「ああいい気分だ。兄貴、あによめ、二人を並べて、こうッくり返っている味は」
「じらすなよ、金はおかみが出すご褒美。それでも不足というんなら、そうだ、頭を下げる。せい、この兄貴が、頭をさげて、こう頼む」
「むむ! 教えてもいい」
「ありがたい。どこだ? 賊の巣は」
「ここだよ」
 何清かせいは、自分のふところを、ぽんと叩いた。
「ぬすッとどもは、みんな一トたばに、おれの鼻紙ばさみに収まっている。逃げッこはねえ、安心しなよ、兄さん」
「えっ、おめえの鼻紙挟みだと」
「手品師じゃねえが、まずご一覧に入れやしょう、たねも仕掛けもございませんとね。……証拠はこれさ」
 両手を深くふところに差し入れて、何清は、鼻紙挟みを取り出した。薄べッたいかわ財布とともに、一冊の手帖が折畳んである。その手帖だけを、掌の上に残して。
「さて、これにはちょっと、いわく来歴の説明がなくッちゃおわかりになりますまいて。姉さん、そこの窓も後ろの扉も、みんな閉めておくんなさいな。壁にも耳、灯取り虫にも油断はならねえ。……よござんすかい、じつアねえ兄さん、こういうわけだ」

「……もう二た月ほど前。あれやあ六月の半頃なかごろですがね」
 何清かせいは、声を沈めて語り出した。
「ごぞんじの安楽村に、おうっていう安宿やすやどがありまさ。宿屋掟やどやおきてのご定法じょうほうで、毎晩の泊り客には、行く先、職業、住所、年齢をちゃんと書かせる。――戸をおろして寝る時刻にゃ、そいつを帳場が書き写し、七日目ごとに、村名主に届けに行く。名主はまた、そいつをまとめて、月に一回、お役署へ届け出る。……ま、兄さんにゃ、こんな話は余計ごとだが、そういった手順でござんしょう」
「む、む」
「ところが、宿屋の王のおやじは、夏の初めごろから、病気で寝こんでしまッたし、若い雇人たちも、字盲じめくらばかりときていやがる。……そんなとこへ、ちょうど安楽村の賭場とばで、すっからかんになったあっしが、ぜに無しだったが、ままよと思って、泊りこんだものだ。……よござんすか。さア立つ日となったが、払いはできねえや。そこでふてぶてしく腹を割って、またの日に来て払うぜ、てえと、機嫌よく二つ返事さ。おかみが出てきて、その代りに、半月ばかり帳場の帳付けをしてくださいませんか。そのうちには、亭主も起きられましょうからという相談。物好きたア思ったが、面白半分、つい二十日ほど、安宿の手代になって、泊り客の送り迎えをやっていたんでございますよ」
「へえ、おめえがねえ」
「するッてえと、忘れもしねえ、あれは七月に入ったばかりのこと」
「え。七月三日?」
「そうです。七人の棗売なつめうりが七輛の江州車(手押し車)を揃えて、ぞろぞろと、夕方の店さきに草鞋わらじを脱いだじゃございませんか」
「…………」
 何濤かとうのどの肉が、ごくと鳴った。
「――あっと、あっしゃあ、とたんにその中の一人に眼をみはった。いや、眼のやりばをらして、いっそう旅籠はたごの手代らしく、気をつけましたよ。というなア、七人のうちでも、どうやらかしらだった無口な男に、見覚えがあったんでさ。ちょっと思い出せなかったが、寝てからよくよく考えてみると、もう数年も前に、やくざ仲間の者に連れられて、頼って行った先がある。――なんと、その時ちらと見た、そこの主人にちげえねえ。※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)城県うんじょうけん東渓村とうけいそん大名主おおなぬし、たしか晁蓋ちょうがいという男でさあね」
「ふウむ、そして」
「はてな。夕方、なんと宿帳につけたかしらと、翌朝、念入りに調べてみると、七人みんなが、どれも李姓りせいだ。李春、李長、李達、李周といったあんばいに。……それで国もとも濠州の同村、行く先は東京とうけい、商売は棗売り。つまり東京へ売りさばきに行くとある。……おかしいなあ、名主がじって、とは思ったが、その朝はまア、ご機嫌ようと見送ったのさ。そして一日たった次の日だ、やくざの仲間が誘いにきて、行かねえかッてんで、ふところは淋しいが、村のばくち場を覗きにいき、夜になったら、取られたやつと二人で、ぼんやり帰ってくると、村のまたみちを、妙な野郎が、二つの空桶からおけかついで素っ飛んできやがった」
「なるほど」
「連れの男が、オヤ今のは白日鼠はくじつそ白勝はくしょうらしい。おういっ白兄哥はくあにいって、呼んだけれど、返事もしなけりゃあ、振返りもせず消えちまった。なんのこッた、人違いだぜと、こっちも笑って、そこでは連れの男と何気なく別れて帰って来たが、さてその次の日、黄泥岡こうでいこうのあの一件が、安楽村へも、ばっと聞えてきたじゃあございませんか。――七人の棗売なつめうりと、一人の酒売りが、うまく狂言をかいて、あの道へさしかかった十七名の生辰綱しょうしんこう輸送の兵に毒酒を食らわせて、十万貫の重宝を、一瞬にさらっていってしまったという騒ぎ。いやもう、村じゅう寄るとさわると、四、五日はその話で夢中でさ。……ははアんと、こっちはその間に、宿帳の名前をズラと自分の手控えに書き写しておいたという次第でございますよ。さ、兄さん、証拠のこれは進上する。どうか手柄にしてください」
「おお、かたじけない。貰っておくぜ」
 何濤かとうは、狂喜した。すぐ何清かせいを連れて、奉行所へ馳けつけていく。ただちに一室を閉じて、奉行との密談しばらく、二人はまたすぐ腕ききの捕手十名ほどをりすぐッて、安楽村へ急行した。
 村へついたのは、すでに夜半過ぎだ。遊び人白日鼠はくじつその家は、岡ッ引きには、日ごろからもう眼の中のものだった。トントントントンと叩いてみる。寝巻き姿の女房が顔を出す。あっと、逃げ込むのを追い込んで、
白日鼠はくじつそええもんだな。もう黄泥岡から、お迎えときたぜ」
 何濤かとうが、一かつくれると、白日鼠はくじつそは、夜具の中から転がりだして、
「だ、だん。なにをとんでもねえこと仰っしゃって。あっしゃあ、ごらんの通り、この夏の暑気しょきあたりで、うんうん、高い熱で唸って寝ている始末じゃござんせんか」
「そうかい。病人ならなおのこと。悪足掻わるあがきはしねえがいいぞ。お手当をしてやるから、素直にお縄をいただいて見物していろ」
 たちまち、女房と二人を、後ろ手にくくしあげ、天井裏、床下と、手分けして家探しにかかる。贓品ぞうひんは彼の寝台の下、地下数尺の下から掘り出された。一つかみほどな、金銀宝石の入った麻袋あさぶくろだ。
 がたがた骨慄ほねぶるいしている女房と、満面蒼白な白日鼠に目隠しをさせ、馬の背に乗せて引っ返した。奉行所の門に入って、白洲しらすにひきすえると、夜は明けていた。――しかし二人とも、頑強に口は開かない。
 一応、休息に入って、本格的な白洲開きになる。拷問ごうもんは、半日もつづいた。女房のほうは耐えきれない。で、良人の白日鼠も、ついに口を割って、白状におよんだ。
「もう、こうなっちゃ意地も約束もございません。申しあげます。へい……一件の主謀者は、東渓村の名主、晁蓋ちょうがいに相違ございません。てまえは、むかしお世話になった縁故から、酒売りの一ト役を頼まれて、筋書どおりに、働いたまででございます。ほかのことも、ほかの六人の衆も、いったい誰と誰なのやら、いっこうに存じませんので」
「よしっ、それだけで充分だ、あとの六人なざ、芋蔓いもづるでしょッける」
 何濤かとうは、奉行の手から一札の公文を授けられた。管轄かんかつちがいの他県へ出るので、役署と役署の交渉がる。
 といって、そんな手つづきに手間どって、こっちの手配が漏れたら取り返しはつかぬ。――このかん、何濤の苦心たるや容易ではなかろう。それに、なお、犯人の面通めんどお(容貌の鑑定)のためには、さきに生辰綱しょうしんこう輸送の行に加わり、その後、証人として奉行所に居残っていた強力ごうりきの兵三名を現地へ同伴して行くなどの用意もあった。
「まずは、おれ一人で、※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)城県うんじょうけんへ急ぎ、県の役署と万端を打合せておく。大勢の捕手組その他は、面通めんどおしの者を帯同して、後からこい」
 何濤かとうは、部下にこう言い残して、その夜半にはもう単身で、馬を県外に飛ばしていた。

耳のかざりは義とじんたま宋江そうこう
友の危機に馬を東渓村とうけいそんへとばす事


 どこの役署前も似たような風景だが、ここの※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)城県うんじょうけん城の大通りにも、代書屋、弁当屋、腰かけ茶屋などが、町に軒先を並べていた。
「おいおい、さいなどは何でもいいが、大急ぎで朝飯を食わせてくれないか。……なに、もうひる近いッて。ははあ、おれには朝飯だが、人には午飯だったのか」
 夜どおし隣県から馬をとばしてきた刑事がしら何濤かとうは、とにかくと、役署前の一軒へ入って、腹ごしらえにかかっていた。
「へい。どうもお待ち遠さまで」
「ああ腹がったよ。ところで、亭主」
「へい」
「さっきから、こう役署の正門を見ているんだが、べつだん休日でもねえのに、妙に今日は、ひッそりかんとしているじゃあねえか。なにかい、県の知事さんは、午過ぎでもねえと、役署へは出ないのか」
「いいえ旦那。お役署の混雑は、午まえに一ト片づきして、訴訟人や役人方も、今はみんな昼休みってえとこでございますがな」
「ははは、ちげえねえ。こっちの頭が、時間をとッ違えて見ていたわけか。……じゃあ、ちょっと訊くが、この県の押司おうし(県城の書記長)は、なンてえお人だね?」
「旦那旦那。……ほら、ちょうどいま、そこへおいでなすったお方が、県の押司おうしさんでございますよ」
「え。どこに」
 床几しょうぎを立って、何濤は、亭主の指さす方へ眼をやった。
 ――見ると、なるほど、押司の制服を着た一名の県吏が、今し役署の広庭をよこぎッて正門から出てくるところだった。
 その人は、均整のとれた体つきで、背も余り高くなく、年のころは三十がらみか。色は黒いが、眉目すずやかで、両の耳に珠をかけ、歩々ほほふうにもおのずからな人品が見られ、どことなく、ゆかしい人柄だった。
「あっ、もしっ……」
 何濤かとうは、さっそく往来へ飛び出していって、こう頭を下げていた。
「押司。恐れ入りますが、ちょっと、そこの茶店までお顔をかしてくださいませんか」
「や……」押司は、いかにも不意を食ったような様子で――
「貴公は、どこの者か?」
「てまえは隣県済州さいしゅうの刑事がしらで、何濤かとうと申しますが、折りいってのおはなしは……お茶でも差し上げながらと存じまして」
 何濤は、しいて彼を、茶店の内へ誘ってきた。そしてまず、挨拶の初めに訊ねた。
「失礼ですが、押司のご尊名は?」
「これはつい申しおくれた。私は姓をそう、名をこうといって、近くの宋家村そうかそんから日々この県役署に通勤しておる一押司です」
「えっ、じゃああの有名な、及時雨きゅうじう宋江そうこうと世間でいわれているお人は、あなたさまで」
「はははは。そんな大それた者ではありません。まあお手をお上げなすってください」
「いやいや。どうぞ、上座のほうへ」
「とんでもない。それよりあなたこそ、遠来のお客だ。いったい、隣県の刑事がしらが、いかなる御用で、これへご出張なされましたか」
「じつは、その……」と、何濤は刑事特有な鋭い眼をあたりに配ッて、声を低めた。
「ご配下の当県内に、ぜひ召捕らねばならぬ数名の犯人がおりますんで」
「ははあ。では、その手続きのために」
「さようです。――済州さいしゅう奉行所からの公文を持参いたしました。ひとつ、お計らい願いとう存じますが」
「承知しました。……しかし一応、どんな事件か、内容を伺ってみねば、この宋江そうこうの係か、ほかの者の係となるか、わかりませんが」
「すでにもう、世間の噂で、ご承知とはぞんじますが、例の黄泥岡こうでいこうの一件なので」
「あ。北京ほっけいの大名府から、さい大臣へ輸送したあたい十万貫の生辰綱しょうしんこう(誕生祝いの金銀殊玉)が、途中、賊難にったと聞き及んでいるが、その大事件に、なんぞ手がかりでもあったのですか」
「そうなんです。……従犯の白日鼠はくじつそ夫婦は、すぐ召捕りました。ところがなんと、ほかの正犯七人は、※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)城県うんじょうけんの者だと、自白におよんだのです。……で、昨夜、捕手のせいを揃えて手順にかかり、まずてまえがその先駆として、ご当所の諒解を得にまいったような次第。……すみやかに、ひとつ、ご内許のお運びのほどを」
「わかりました。して、その犯人七名とは、何者でしょう?」
「共犯全部の名は、まだわかっておりません。が、張本人は知れています。その主謀者は、ご当地の東渓村とうけいそん名主なぬし晁蓋ちょうがいという人物。……もしや、ご存知はございませんか」
 このとき宋江そうこうの眉に、一瞬の驚きがサッとかすめたのを、何濤はつい気がつかなかった。また、気づきもさせぬほど、宋江そうこうその人の姿は静かだった。
「……さあ、ちょうという村名主は、いるかも知れぬが、つい覚えていませんなあ。自分は常に、役署内の事務ばかりみていて、近郷の名主などとは、とんと交際つきあい一つしておらぬ。しかしそこまで突きとめているとあれば、かめの内の泥亀すっぽんを捕るようなもの。なんの造作ぞうさもありますまい」
「ご面倒でも一つこの公文は、さっそくあなたから知事のお手許へ」
「いや、それは困る。公文書の封は、知事ご自身でないと、開封はできんし、手続き上、私からでは、工合が悪い。……いまはちょうど昼休みで、知事閣下は官邸でご休息中だから、後刻、あなたの手から直接、お差出しなされたがいい」
「では、恐れ入りますが、後ほどご同道願えましょうか」
「それならおやすいこと。ご案内いたそう」
「なんとも、お手数をかけますが、くれぐれも、よろしくどうぞ」
「当然な勤めです。さように恐縮なさるにはおよびません。……が、知事閣下には、たった今、ご休息に入ったばかり、私もこれからちょっと、自宅へ忘れ物を取りに帰るので、暫時ざんじの間、あなたもここで休みながら、お待ちうけくださらんか」
「結構です。どうぞ、そちらの御用ずみの上で」
「では、後刻また」
 宋江は、そう約束して、往来へ出ていった。
 ところが、近くの辻を曲がると、彼は役署の裏門へ行って、小使を呼び出していた。そして、
「やがて、知事閣下が官邸から役署へお戻りだろうが、そしたらお前はすぐ、正門前の茶店へ行って、済州さいしゅう奉行所の何濤かとうという者に会い、宋押司そうおうしが見えるまでは、そこを動かず待つようにと、よく言伝ことづてしておいてくれい。よろしいか」
 と、念を押して立ち去った。
 いや、それのみではない。宋江は、官のうまやから一頭の馬をき出してび乗るやいなや、いずこともなく、馬にむちを打ッて急いでいた。怪しむべし、その姿は、またたくまに、名主なぬし晁蓋ちょうがいの住む東渓村とうけいそんの村道へ向って近づきつつあるではないか。

 ここで宋江そうこうその人の、人となりを、もすこし詳しくいっておく必要があろう。
 彼の家は代々、※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)城県うんじょうけん宋家村そうかそんの医者で、宋江は三人兄弟の二番目だった。親には孝行で、人には義が厚いところから、村の衆は、彼を呼ぶに、孝義のくろ二郎などといった。
 色が黒いところからきた別名で、またの名を“黒宋江こくそうこう”とも呼ばれたが、ほかになお“及時雨きゅうじう宋江そうこう”という異名もある。
 綽名あだなには愛称あいしょう嘲称ちょうしょう蔑称べっしょうなどはあっても、敬称は稀れなものだが、宋江の場合は、すべてに衆人の畏敬がふくまれていた。
 及時雨きゅうじう――というのは、雨が欲しいときに雨を降らせてくれるようなありがたい人――という意味である。これだけでも、日ごろの彼が、いかに人々から慕われているかが知れよう。貧しきをいたわり、弱きを助け、また世の好漢おとこどもとのまじわりも厚く、かねて剣技に達し、棒をよく使うが、そんな武力沙汰は、まだ一度も表にひけらして人に示したことはない。押司おうしとしては、役署向けの評判もよく、この人に限っては、吏員りいんにありがちな汚職めいた蔭口も聞かれなかった。
 ――その宋江そうこうは今、東渓村とうけいそんに馳け入るやいな、荘院しょうやの門前のえんじゅノ木に、乗り捨てた馬をつないで、
晁君ちょうくんはおいでか」
 と、息も忙しげに、訪れていた。
 荘丁いえのこの取次に、すぐ顔を現わした名主の晁蓋ちょうがいは、彼の姿を迎えるなり、日ごろのように、
「やあ、どなたかと思えば、宋押司そうおうしさまでしたか。さあ、どうぞ」
「いや今日は、客間へなど通ってはいられない。晁君、どこか人なき小部屋でちょっと話したいのだが」
「えらくお急ぎですな。……さ、ここなら誰もまいりません。して、お急ぎの件とは」
「晁蓋どの!」
 宋江はじっとひとみを澄まして、彼を見つめた。思いなしか、その眼底には涙があった。晁蓋も、胸をつかれて、思わず、
「はいっ」
 と、あらたまった。
「あなたは、えらいことをしてくれたなあ」
「えっ?」
「常々、私はあなたを、親身の兄のように思っていた。あなたもまた、よく人のお世話をし、村の公益を計り、東渓村とうけいそんの旧家としても荘院しょうやとしても、恥かしくないお人として、諸人の信頼をうけておられたのじゃないか。……どうして今、私があなたを、見殺しにできようぞ」
「ど、どういうことです。仰っしゃる意味は」
「たった今、済州さいしゅう奉行所からの出張命令で、刑事がしら何濤かとうなる者が、晁蓋以下六名の共犯者を召捕る手続きを県役署へ内申ないしんに来ておるのだ」
「あッ。では、ばれましたか」
黄泥岡こうでいこうの一件は、白日鼠はくじつその自白により、済州奉行所では、悉皆しっかい証拠固しょうこがためもつかんだと申しておる。……晁君ちょうくん
 宋江そうこうは、突然、彼の手をかたく握って、
「――なに不自由もないあなたが、どうしてそんな大胆な兇行を敢てやったのか、私にも、その心事が、まんざらわからぬことはない。がしかし、いまは何をいってるいとまもありません。さい大臣の厳命から北京ほっけい大名府の手配まで、蜘蛛手くもでに行き渡っているといいます。なんとて、のがれえましょうや」
押司おうしっ。……覚悟しました。ほかならぬ御仁ごじんの手にかかれば本望だ。さ、お縄をいただきましょう」
「なにを仰っしゃるのだ。あなたを縄目にしていいほどなら、宋江はここへは来ません。私は役人としてでなく、一個の庶民宋江として、日ごろのよしみを捨てがたく、ちゅうを飛んでまいったのです。いざ、一刻も早く、お逃げなさい」
「げっ。で、ではこの晁蓋をそれほどまでに」
「おう、私の親から縁者まで、年来、あなたのご温情には一方ならぬお世話になってきた。かつは私もまた、兄弟同様なまじわりをしてきた仲です。なんでその義を捨てられようか。……というまにも、済州さいしゅう奉行所の捕手もはや当地に入り込んでいるはず。それと茶店に待たせてある何濤が、直々じきじき知事に面接して、公文手交しゅこうの手続きをとれば、もう万事は休すです。……即刻、ここはお立ち退きあるがいい」
「かたじけない」
 晁蓋は、友の手をかたく握りしめて、男泣きの涙をホロリと頬に流した。
「このご恩は忘れますまい。……生涯にかけて、このご恩は」
「さ、さ。そんなことは、どうでもいい。私もすぐ立ち帰らねばなりません。くれぐれ、ご猶予なさるなよ」
 こう言うやいな、宋江はもう帰りかける。そのたもとを惜しむかのように、晁蓋もともに裏庭の廊を渡ってきながら、離亭はなれへ向って、三名の者の名を呼んだ。
 声を聞いて、そこから庭面にわもへ出て来たのは、呉用学人ごようがくじん公孫勝こうそんしょう劉唐りゅうとうの三名だった。――晁蓋は彼らを指さして、
押司おうしに対しては、何事もつつみ隠しはできません。あれが一味の者です。ほかにげんの三兄弟も加わっておりましたが、その者たちはすでに、十万貫の内の分け前を受取って、石碣村せっかそんのわが家へ帰ってゆきました。……おいっ、みんな、県の宋江さまだ、ごあいさつして、おのおのの名を名のれ」
 それに対して、宋江もまた、廊からちょっと会釈を返した。そして身をかえすと、門外へ走り出て、ふたたびその馬上姿を、県城の町のほうへ、つばめのごとく小さくしていった。
 後ろ姿を見送ってから、その足で裏庭へ廻ってきた晁蓋は、心のうちで、
「しまった。おれはいいが」
 と、慚愧ざんきの舌打ちを洩らしていた。
「あの人は、県の押司おうしだ。かりそめにもその役人が、天下の賊を逃がしたと後で知れたら、身の破滅は知れたこと。……ああ、おれはうッかり自分のことだけに気をとられて、それを問わずにしまったが」
 腕拱うでこまねいていると、寄ってきた劉唐、公孫勝、呉用の三名が、こもごもに、
「いま帰ったのは、誰ですか」
「何ぞ、にわかなことでも起ったので?」
 とたずね合った。
 晁蓋は、委細を語って、
「――もし宋江がらせにきてくれなかったら、おれたちは一もう打尽だじんになるところだった。さっそく何とか考えずばなるまい」
「じゃあ、早くも、こと露見ろけんってえわけですね。白日鼠はくじつそもろいやつだナ。拷問ごうもんぐらいに口を割るとは」
「呉用先生。どうしたもンでしょう」
「三十六計、逃げる以外に手はありますまい。……が、さっきの宋江というのは」
「県の押司おうしで、じつはこの晁蓋とは、義兄弟といってよいほど、日ごろ、心腹しんぷくよしみを結んでいた人です」
「では、あの評判な及時雨きゅうじうノ宋江でしたか。ならば、身を犠牲にえとする覚悟で焦眉しょうびの危急を、あなたへ告げてきたのも道理だ。……すぐ落ちのびねばなりませんな。また、それがその人の本望でもありましょう」
「といって、どこへ」
「ともあれ、石碣村せっかそんまで走って、一時、げんノ三兄弟の家へでも」
「先生、彼らは三人とも、漁師りょうしですぜ。この人数で、どうして狭い漁師小屋などに」
「いやいや。そこは一時の足溜あしだまり。石碣村せっかそんの浦から水を隔てた彼方かなたには、いかなる所があるかを思い出してごらんなさい」
 すると、公孫勝や劉唐りゅうとうも、異口同音につぶやいた。
梁山泊りょうざんぱく。……江の彼方は梁山泊だ」
「そこだ!」と、呉用学人は、老いに似合わぬひとみをかっとさせて――「かくなるうえは、そこへ渡って、梁山泊一味へ仲間入りを申し入れようではないか」
「だが先生。はたして彼らの仲間が、快くれるかどうか?」
「心配は無用。われわれの手には金銀がある。引出物としてその一部を献じてやれば」
「なるほど」
 たちどころに、四人の腹は一致した。……かねて“黄泥岡こうでいこう智恵ちえ取り”で奪いた金銀珠玉を五、六個の荷物にまとめ、手飼てがい壮丁わかもの十人ばかりにこれを護らせ、呉用と劉唐の二人が付いて、すぐ石碣村へ向って先発して行く。
 あとに残った晁蓋と公孫勝は、大勢の家族雇人やといにんを一堂に呼び集めて、それとなく別辞を告げ、家財道具をことごとく分け与えて、これも一ト足あとから石碣村へ急ごうとしていたが、さて別れを惜しむ中には、多年愛していた女もあり老幼もあり、ついるるたもとに引かれて手間どっていた。

 さてまた。――一方の宋江そうこうは、馬をとばして、町へ帰っていたが、役署のうまやへ、馬をつなぐやいな、すぐ往来を廻って、以前の茶店の前へやってきた。
 見ると。
 何濤かとうはもう待ちあぐねたような顔つきで、そこの軒先にたたずんでいる。
「やあ、お待たせいたした。……折悪しく、ちょうど宅に来客がありましてな」
「ああやっとお見えか。どうなされたかと思っていました」
「すまん、すまん。さっそく、知事閣下の室へご案内いたしましょう。どうぞ、こちらへ」
 折ふし、ちょうの知事室では、知事の時文彬じぶんぴんが他念なく時務の書類に目を通していた。――宋江は、静かに扉を訪れて、
「これへ連れてまいったのは、済州さいしゅうの刑事がしらで何濤と申す者です。重大な事件で、隣県の公文を帯びて、急派されてまいりました由。――一応、公文をお披閲ひえつねがいとう存じまする」
「どれ……」
 と、文彬ぶんぴん花梨かりんの大机から向き直って、正式に、何濤の手から公文を受領し、即座にそれをひらいてみた。
「むむ。……何濤とやら、これはたいへんなお役目、ご苦労だな」
「よろしく、お力添えのほどを」
「もちろんだ。書中によれば、さい大臣からの目付めつけまで下向げこうして、済州奉行所に泊りこみ、十日以内に、犯人のこらずからめ捕れとの厳達とか。お互い吏務にたずさわる者として、こんな苛烈な上命には思いやらるるよ。……よろしい。当県の手勢もあげて、すみやかに、一味をからるようにしてやろう。宋江、すぐ計らいを取りはこべ」
「承知いたしました。……が、事洩こともれては仕損じます。黄昏たそがれを待って、疾風のごとく襲いましょう。名主のちょうさえ召捕れば、あとの六名に、さして手間暇てまひまはいりません」
「そこは任せる。だが、どうもせんな」
「何がですか」
東渓村とうけいそんの名主といえば、世評もよく、役署向きにも、従来何らの悪名は聞えていない。……それがこんな強盗事件の張本人とは」
「人間はわからぬものです。だれが、どんなことを、腹の中では考えているやら」
「はははは。皮相だけの観察では、偵察長など一日も勤まるまいな。……そうだ、さっそく偵察長や捕手がしらを、別室へ呼んでくれい。わしからも督励しよう」
 知事の文彬ぶんぴんは、文字どおりな選良だった。一同の顔が揃うと、べつな公堂へ出向いて、事件の重大性を説明し、また一場の訓示を垂れて励ました。
 それから一ときほど後には、早くも庁の広場に、偵察長以下、捕手陣の勢揃いがひそやかに行われていた。
 捕手頭の与力よりきは二人だ。ひとりは美髯公びぜんこう朱同しゅどうといい、もう一人は、挿翅虎そうしことあだ名のある例の雷横らいおう
 おのおの、太刀、弓矢、鉄槍てっそうなどを帯びて、物々しく身をよろい、
「さあ、行こうぜ」
 と、気負いを見せた。――時しも、すでに夕空、雲の流れも旗のようだ。
「いや、待った」
 朱同がいう。
「東渓村へ入ったらグズグズしてはいられぬぞ。手筈はどうなんだ。それが肝腎かんじんではあるまいか」
「それよ、そのことだ」
 雷横も、また和して、
「偵察長、作戦は?」
「むむ。ちょうの屋敷は、前が村道。裏にもべつな街道が一つあったな」
「そうですよ。一方攻めじゃ、追い落すようなものだ。ふた手に分れて踏み込みますかい」
「おうっ、一手は裏門へ伏せておれ。合図は口笛だ。――口笛とともに、べつな一手が表門を破ってなだれ込むとしよう」
「ですがね」
 と、朱同がまた、その美髯びぜんしごいて言った。
「晁蓋の屋敷には、もうひとつ、逃げ道がありましたぜ。これは誰も知るまいが」
「えっ。すると三つも道があるわけか」
「日ごろに“捨て眼”はつかっておくもんだ。おれはちゃんと睨んでいる」
 偵察長は、ぎょっとして、
「そいつア危険だ。よくいう“隠し道”というものだろう。朱同、その道こそ、抜かッたら水がれるぞ。――おぬしに捕兵の半分をやる。ぬかりなく、隠し道をふさぐこったな」
「いや、細道だから、そんな大勢はいらねえ。三十名もあれば沢山さ。じゃあ、おれから先発するぜ」
 つづいて、偵察長も雷横も、騎馬となって、人数の先頭に立ち、宵闇まだきに、はや東渓村へ殺到した。
「や、や。火事だ」
「まさしく、あの方角は、荘院しょうやの屋敷」
「すわ。やつらの方でも、気づいている」
 怒濤どとうの声は、たちまちそこの表門をぶち破った。バチバチ燃えひらめく火光のうちを「――御用っ、御用っ」と叫ぶ刺叉さすまた、野太刀、棒、槍などを持った捕兵の影が、煙をくぐって躍り入る。
「火の手は、何ヵ所からも出ているぞ。――やいやい、深入りばかりがのうではねえ、こっちも見ろ。つい、そこらの物陰にも気をくばれよ」
 雷横の大音だいおんが、しきりに声をらしていた。
 とはいえ、彼の腹には、晁蓋ちょうがいの旧情が思い出され、じつは何とかして、晁蓋を逃がしたいものと考えていたのである。――で、わざと声や物音ばかり荒々と立て、指揮者みずから、指揮をみだしていたものだった。
 いや、彼のみならず、裏手へ廻った朱同の腹も、また然りであった。
 朱同が、道は三つあるといったのは、じつは嘘なのだ。一手の人数を裂いて自分の手に持ち、なるべく、晁蓋の退路を都合よくしてやろうという考えで、わざと一所にとどまらず、ただ、右往左往を見せていたまでである。
 ところで、当の晁蓋はといえば、この時まだ奥の一房を出ていず、下男や壮丁わかものに命じて、わが家の諸所に火を放ち、
「これでいい! さ、公孫勝こうそんしょう、運を天にまかせて出かけようぜ」
 と、内から横窓を破って躍り出し、土塀を越えて、外を望んだ。
 ふと、裏門の方からその影をみとめた朱同は、
「やっ、西側の土塀が怪しいぞ。そっちへ廻れ」
 と、逆な方角へ同勢を向け変え、そこへ来るとまた、わざと仰山な地だんだ踏んで、
「さては、表門の方か。それっ、表の村道へ出ろっ」
 と、命令した。
 だが、こういう場合の願いと、出る目とは、とかく皮肉なさいコロの裏目が出る。東側の路次から脱兎のごとく馳けてきた晁蓋と公孫勝の影を、はからず朱同も見たし、朱同の手勢も、ばッたり、行き会ってしまったのだった。
「いたぞっ。逃がすな」
 もとより部下の捕手は何も知らない。追われる晁蓋もまた、知ろうはずはない。ぜひなく野太刀を抜き払って、
「死にたいのか。死にたけれや、かかって来いっ」
 公孫勝も道士の持つ無反むぞり戒刀かいとうをかざして構えた。
「邪魔するやつは一さつだぞ」
 それにひるんで、わっと退く隙に、
「孫勝! むだな殺生はなるべくよそうぜ。逃げろ、逃げろ」
 二人とも、闇へ向って、鹿のように走りだした。
 ところへ、馬上の偵察長が、早くも馬を躍らしてきた。そして異様な昂奮を、その姿に見せて、
「朱同、賊を見たのか」
「オオ偵察長、遅かった。その馬をかしておくんなさい」
「ど、どうするんだ」
「馬さえあれや逃がすこッちゃなかったのに、惜しくも見失ったところですよ。さ、早く早く」
 かれるまま、偵察長はつい、自分の馬を朱同に貸した。朱同は前後の捕手を見まわして、
「ええい、役に立たねえ薄のろめら、おれの馬につづいてこい」
 とののしられても、いきなり一トむちあてた馬のはやさに、徒歩かちでは追いつけるはずもない。
 朱同はまんまと、部下をいて、たちまち先へ走って行く二つの影に追いついた。――念のためと、振り向いて、ほかに人もなしと見るや、その後ろから呼びかけた。
「おおい、名主なぬしどの。横道へ入れ、横道へ入れ。彼方の林の道を行けよ」
 振り返った晁蓋は、変に思って、
「そういうのは、朱同じゃねえのか」
「御用ッとは、言いませんよ。もッともッと、はやく逃げておくんなさい」
「どうしてだ、追手のおぬしが」
「どうだっていいや、そんなことあ。ただ、村の者も悲しむだろう。あっしの縄にはなおさら掛けられねえ名主さんだ。いっそ、梁山泊へ落ちて行くまでも、とにかく生きていておくんなさいよ」
「ありがとう! 忘れねえぜ、いまの言葉は」
「あっ、いけねえ、森道を狙って、向うの部落から雷横の手勢が出てきやがった。名主さん、かまわねえから、そこらの黍畑きびばたけを突ッ走って、とにかく南へ南へと急ぎなせえ」
 言い残して、朱同はわざと、雷横が出てきた方へ馳けていった。

 雷横は、朱同が馬で飛んできたのを見ると、すぐ声をかけた。
「朱同じゃねえか。賊はどうした?」
「こっちこそ、訊きてえところだ。部落の内には、不審はねえのか」
「はてね。偵察長は、朱同がすぐにも召捕りそうな懸け声をかけていたが」
「うんにゃ、こっちは空追からおいを食っちまった。すると、そこの森道かな?」
「ならば、ほかに道はねえ。それっ、森の中を狩り立てて行け」
 これはまさに、二人の腹の探り合いだった。しかも、本心はいずれも、晁蓋ちょうがいの逃走を無事なれ、と祈っていたのだから、しょせん捕まるはずもない。
 半夜を過ぎると、腹はるしで、捕手も誰もクタクタになってしまった。雷横と朱同は、期せずして、あたりへ聞えよがしに、こう嘆じた。
「なンてえ素迅すばしッこい奴らだろう。神出鬼没たあ、奴らのことか」
「しかも、今夜にかぎって、漆壺うるしつぼのような闇夜ときている。あきらめようじゃねえか。人為じんいは尽したぜ」
 この報告には、偵察長も落胆した。もっとげッそりしたのは何濤かとうである。済州さいしゅうから着いたばかりの手下てかを連れて、手配は万全としていたのだが、なにしろ地の理は不案内だし、雷横や朱同の組と一つになるわけにもゆかず、つまり二ノ陣の恰好でいたのである。
「ちぇッ。なんてえ不手際なざまだろう。それよりもこの何濤、どのつら下げて、済州さいしゅう奉行所へ帰れようか」
 さらにはまた、その夜、県城の知事室でも、公務に熱心な知事文彬ぶんぴんが、服もひもとくなく、一夜中その報告のいたるのを待っていた。
「ぜひもない!」
 痛嘆はしたが、しかし知事文彬は、法を疑わず、法の下の部下を疑ってみることなどもない。
「惜しくも、晁蓋ちょうがいは逃がしたとあるが、荘院しょうやの食客、壮丁わかもの、雇人は多いはず。それらは一応、引きつれて帰ったか」
「近隣の者二名、食客二名、雇人三名ほどを、証人として、からめて来ました」
「すぐ白洲しらすを開いて取りただせ」
 この吟味だけでも、次の日一日は、むなしく過ぎた。が、それだけの効がなくもない。居候いそうろうの一人が、ついに口を割って、知る限りを喋舌しゃべってしまったものである。――火中から逃げたのは晁蓋と公孫勝。それより前に、寺小屋先生の呉用と赤髪鬼、劉唐りゅうとうが先発して、石碣村せっかそんげんノ三兄弟の家で落ち合い、梁山泊りょうざんぱくへ入ろうという相談でした――ということまで、すっかり口書に取られてしまった。
 その口書と、知事の返牒へんちょうだけを持って、ついに何濤かとうは、不面目な恥を忍んで済州へ帰ってきた。――そして、待ちかねていた奉行にちく一を語ると、奉行は、
「よしっ、それでは、もいちど獄中の白日鼠はくじつそを白洲に出して、げんノ三兄弟なる者をたしかめろ」
 と、絶望はせず、なおその手がかりに一の断末的な意力を燃やして厳命した。
 白日鼠はくじつそはもう意気地なく、すべての泥を吐いた。それをつかんで、密室の協議も数時間の後、何濤は疲れた顔にもぼっと赤い血色をたたえて、
「いよいよ、この捕物陣は、えらい大ごとになッちまったよ」
 と、ひと口、がぶと茶を飲みながら、手下てかの目明しどもに、委細をはなした。
「そいつア大変だ。石碣村せっかそんといやあ、梁山泊のこっち岸」
 目明したちは、口々にみな言った。
「あの辺は、山東さんとうきッての難場なんばだと、漁師りょうしですら言っていらあ。見渡すかぎりな浦曲うらわよしあしの茂りほうだい。その間には、江とも沼ともつかぬ大きな水面が、どれほどあるかわかるめえ。それに川までが入り組んでいて、いわば人間のに向かない所さ」
「そんなところへもぐり込んだ賊を捕まえるなんざ、まるで手ぶらで野鳥を追ッかけにいくようなもの。しかも相手が相手ですぜ」
「よほどな兵備で、馬や舟をも使い、捕手なンて、ケチな人数でなく、堂々と官軍仕立ての大部隊でくり込みでもしねえ限りには、行っても無駄だ」
 何濤にしても、正直なところ、自信はない。これ幸いと、彼の手下てかの言をそのまま奉行に告げて、捕手陣編成の再考をうながした。
「いかにも、道理ではある」
 奉行は、重大決意を見せて、
「よろしい。ではもう一名、べつにしかるべき与力よりきを差し添えてやろう。そして人数も五百名に増し、装備には武器庫の二番庫も開いて使え。かつまた、これは北京大名府ほっけいだいみょうふの命であり、さい大臣のご厳達にもよること。まぎれもない官軍といってよい。――つね日ごろの捕物とはわけが違う。堂々官軍の威をかざして行けい」
 まさにこれは、済州さいしゅう奉行所始まって以来の椿事ちんじ。こんな大捕物陣が繰り出された例は近来ない。
 かかる数日の間に。
 石碣村せっかそん葭芦よしあししげき一漁家のうちでも、怪しい動きが、夜を日についで行なわれていた。
 あだ名、立地太歳りっちたいさいげん小二、短命二郎ノ阮小五、活閻羅かつえんらノ阮小七などの兄弟三名は、とつぜんこの水郷のせまい漁小屋に、晁蓋ちょうがい、呉用、劉唐りゅうとう、公孫勝らの四名を迎えたので、即日、
「ここでは」
 と、世帯道具のがらくた物を一ト舟に乗せ、またお手のものの櫓櫂ろかいをもって、さっそく家を、そこからさらに遠い湖上のの一軒家へ移してしまった。
「さあ、皆さん」と、阮小五が、その晩、酒の支度をすると、小二、小七も手料理にかかって、
「今夜あ一つ、引っ越し酒といきましょうや。小二のかかとおふくろは、金を持たせて、これも遠くへ隠してしまいましたから、こちはもう、足手まといも何もありません」
「それにね、先生」と、小七は呉学人へ向って「――いくら躍起やっきな捕方でも、ここの湖上までは、おいそれとはやってこられませんからね。先は先とし、どうか今夜はぞんぶんに、手足を伸ばしておくんなさい」
「小七。その先の相談だがね、梁山泊へ渡るには、いずれ水路のほかはないが、どう行ったらいいのかな」
「そいつがですよ」
 酒、さかなの卓を囲んでから、小七が言った。
「――なにしろ、寄り着きにくい、難攻不落ッてえところでしょうがね。漁師仲間でも、舟着きのいい場所を知ってる奴アありゃしません。……ですからね、いちど山東街道へ上陸あがッて、李家りけの四ツ辻にある茶店へ行き、そこで許しを得るんでさ」
 晁蓋ちょうがいが、杯の間に、口をはさんだ。
「なんだい。その茶店ってえのは。まさか茶店のおやじが梁山泊の仲間というわけでもあるまいに」
「そ、そうなんですよ。いま晁蓋さんが仰っしゃった通りなんで」
「へえ、茶店のおやじが梁山泊の仲間で……そして?」
「仲間入りを望む者は、その茶店で始終見張っている朱貴しゅきっていう男まで申し入れる。そして朱貴がうなずけば、物凄いうなりのする鏑矢かぶらやつがえて、対岸の梁山泊へ向って射るんです。するッてえと、それを合図に、芦の間から、迎えの舟がこっちへくるっていう寸法でさ。……それ以外に、渡る方法はありませんよ」
「はははは」みんな笑った。「――なるほど、聞きしにまさるッてえなあ、このことだろうな。そう聞いちゃあ、追手に追われる身でなくても、一度は渡ってみたくなりそうだ」
 湖上の宵、どこにはばかる灯一つもない。ようやく酒もまわり、歓語かんごいてきたころである。日ごろ、三兄弟が眼をかけていた一人の漁師が、早舟でここへ告げてきた。
「えらいこッてすぜ、皆さん。五、六百人の官軍が、もう村ぢかくまで来たッていうんで、村じゃあ大変な騒ぎですよ」
「そうかい」――兄弟はすまして言った。
「よく知らせてくれたな。まア一杯飲んでゆきなよ」
 呆れたように、男はすぐ消えてしまった。一瞬の沈黙はあったが、七人の世間話はすぐ元通りに返っていた。
「案外、早くおいでなすッたな。官軍というからには、ちったあ支度して来たろうに」
「小二兄哥あにい。来たからにゃあ、弱音は吹くめえぜ」
「あたりまえだ。おかとは違う。こっちは河童かっぱだ。どいつもこいつも抱き込んで、水の底を、たっぷり見物させてやるさ」
「残ったやつらは、この小七、小五が、もりのさきで串刺くしざしか」
 すると、公孫勝が、からかい半分、杯片手にわざと取澄まして言った。
「いや兄弟衆、意気はおさかんだが、五百人の数ですぞ。そんな芸では、いせえ、小いせえ。まあ、この公孫勝の手なみのほどを見物してからにしてください」
 晁蓋はさっきから黙っていたが、このとき呉用へ向って、初めてこう口を開いた。
「先生はご老体だ。それに筆とほんよりほか、修羅場しゅらばの中はご存知もありますまい。恐れいりますが、大事な荷物だけを小舟につみ、さっき小七の言った李家りけの四ツ辻とかの茶店附近へぎよせて、てまえどもが、後から行くのを待っていておくんなさい。そうだ、劉唐りゅうとうを付けてやります。おい赤馬、先生について、夜明け前にここを落ちろ。あとの心配はいらねえから、頼んだぞ」

秋を歌う湖島ことう河童かっぱに、百舟ことごとく火計かけいつこと


 風は身がまるほど冷たい。水も空もまっ青にえ切った秋の大湖だ。
 湖は海のごとく、山東さんとう河川かせんを無数に吸いれ、そしてまた山東の外洋へと、そのみなぎりはどこかで吐き出されているらしい。
「アアあれだな。――いち早く石碣村せっかそんを立退いて、奴ら七人が、隠れたと聞く浮巣うきすのような島というのは」
 真ッ先をゆく一艘のみよしに立って、刑事がしら何濤かとうは小手をかざしている。そのあとからは大小数十隻の捕盗船ほとうせんが、舳に官旗をひるがえし、捕兵の弓やほこ刺叉さすまたを満載して、白波を揚げながら迫ッて行く。
 すると、どこかで粋な漁歌ふなうたが聞えた。見れば芦間あしま隠れのの蔭から、ただ一人の漁夫が、こっちへ小舟をあやつッて来る。
 ぎょっとしたように、捕手の内のひとりが叫んだ。
「あっ、阮小五げんしょうごだ」
「なに、あいつがか?」
 捕盗隊は舟、かい舟、さおさし舟、狩り集めなので船種もじつに雑多である。それが一令のもとに扇開せんかいして、小舟一ツを遠巻きにかかった。
 阮小五は、櫓柄ろづかを片手に、けらけら笑った。
「ようっ、おいでなすったね役人衆。捕手といなごは、あたま数でおどかすものときまってるのか。意気地なしめ」
 何濤かとうはみずから接近しつつ、
「うぬ、不敵な奴。……それっ、弓で射て取れ、弓で」
「おい、笑わしちゃいけねえよ。人民いじめの大官の手先め。てめえらこそ、ぬす役人というもンだ。覚悟をしろ、逆に召捕ってくれるから」
 とたんに、彼の姿と小舟をつつんで、一せいに矢かぜがうなった。けれど同時にザンブとばかり水ばしらをちゅうに残して、阮小五の影はもう青い水中に透いて見え、怪魚のごとく泳ぎ廻っていたのだった。
「しまった。――逃がすな」
 水へ向って射込んでも、矢は用をなさず、刺叉さすまたで掻き廻しても、投げやりほうりこんでも、笑うが如き泡沫あわが一面ぶつぶつ明滅するのみである。
 ぜひなく、さらに芦間あしまを漕ぎすすむと、やがてのこと、またもや人を小馬鹿にするような鼻唄が聞えた。きッと見れば、こんどは二人を乗せた小舟の影が、さながら水馬みずすましのような速さで、同勢のすぐ鼻先を横ぎッた。
「や、やっ。阮小七と阮小二だぞ」
「引ッ捕えろ。何をしている」
 何濤が、叱咤しったすると、彼方のみよしでは、
「何濤、この江には、間抜けに釣られる魚はいねえぜ。それとも蜻蛉とんぼ捕りか」
 竹の皮笠に、半蓑はんみのを着、手に管鎗くだやりを持った男が、白い歯を見せてからかった。
 怒りにまかせて、何濤は手の鎗をぶんと投げたが、むなしく水面に落ちてしまう。そのほか群舟の一せいな攻撃も、先の小舟は尻目にかけて、彼方の水路へさして一散に逃げ込んで行く。そのまた舟脚ふなあしの速さといったらない。
「しめたぞッ」と、何濤は一同を鼓舞こぶした。「――両岸はもう浮巣の島だ。この水路にはきっと、どん詰りがある。いまの二人を追いつめろ」
 ところが、予想はちがった。まるで逆だ。進めば進むほど水路はせばまり、そこへ沢山な捕盗船ほとうせんが無二無三につづいて来たため、みよしともかいなどがからみあって、果ては味方同士、にッちもさッちも動けなくなってしまった。

「ええい、程にしやがれ、まごつくのも」
 何濤は部下をののしッた。
「てめえたちは、日ごろおかの上だと、目から鼻へ抜けるような奉行付きの人間どもじゃねえか。いくら水の上だって、このざまア何だ。――少し退がって、横の沼へ出ろ、沼の方へ」
 それからすぐ、十人二十人ずつを、手分けして、
「広くもねえ浮巣の島だ。よしの根を分けても程が知れている。奴らの隠れ家を見つけて来い。いや見つけたらすぐ合図をしろ」
 と、おかへ放った。
 ところが、その幾組もが、いつまで待っても一ト組とて帰って来ない。やがて陽は傾き、蕭条しょうじょうたる水もあしあかねいろに染まっていた。
「やい、この小舟に、五、六人乗り込んで俺について来い。おれ自身、廻ってよう」
 赤い沼のおもてを、彼の早舟は影黒く、岸から岸を二、三十町ほどもぎ巡っていた。――とすきをかついだ百姓の影が岸にみえた。何濤はそれへ呼びかけて、
「ここは何処だい。お百姓」
「旦那は何だね」
「見た通りだ。官のお役人よ」
「こんなところに、なんの御用かえ、ここは断頭溝だんとうこうッてえ、沼の袋小路でがすぜ」
げんの兄弟の漁小屋があるだろうが」
「あ。そんなら、すぐそこの林の蔭ですわえ」
「や、ありがてえ」
 何濤かとうつより早く、手下てかの捕手三人が先へおかへとび上がった。――それが土を踏むやいな、ぎゃッといったので、何濤は仰天した。待ちかまえていたらしい百姓のすきが一気に三名をもう打仆うちたおしている。
「うぬっ」
 舟べりから躍って、何濤ともう二人の部下が、なぎさへ跳ぶと、さながら河童かっぱのようなものが、いきなり水中から半身を出して、何濤の足をつかみ、あッというまに、ぶくぶくぶく……と沼底へ深く消え込んでしまった。
「……おおい、小七しょうしち小七、いい加減に浮いて来いよ」
 やがてのこと。
 兄の阮小二が、水のおもてを見て呼んでいる。すると、少し離れたところの岸で、げらげら笑っている者があった。いつのまにか、そこで満身の水を切っていた弟の小七である。そばには、何濤の体が、雑巾ぞうきんみたいに、草むらへほうり出してあった。
「なアんだ、そんなところか。広言どおり、まんまと捕手の総頭そうがしらを召捕ッたぜ。さあ、料理はこれからだ。……何濤かとう、つらを見せろ」
「ゆるしてくれ、兄哥あにき、このとおりだ」
「わははは。兄哥だなんて言やあがらあ。やいやい日ごろはさんざッ腹、おかみろくを食らって、贅沢三昧ぜいたくざんまい、あげくに下々しもじもの中を、肩で風を切って歩く奴がよ、俺たちの前に両手をついて、兄哥なんていっていいのかい。……それでおめえ、すむのかい」
「家には、八十にもなる老母がいるんです。どうか一命だけはひとつこらえておくんなさい」
「おやおや、泣キの手と来たぜ。どうしよう、弟」
簀巻すまきにして、舟底へほうりこんでおこうじゃねえか。息の根をとめるなら、いつでもだ」
「よし来た。……じゃあ呼ぶぜ」
 小二の吹く指笛が、水にこだましてもの凄い。忽ち薄暮を破って数名の漁夫がむらがって来た。その者たちへ、蓆巻むしろまきにした何濤の身を預け、小二小七のふたりは、二そうの小舟に乗り分れて、また何処へともなく漕ぎ去った。

「どうかしてるぜ、今日っていう日は」
「おん大将の何濤まで行ッたきり雀で帰って来ねえや。一体どうしたんだろうな」
「あれ、いやな雲だぜ。こいつはいけねえ。空模様まで、ヘンてこになってきやがった」
 星屑ほしくず降るような宵だったが、忽ちあしのざわめき、波を捲く※(「風にょう+炎」、第4水準2-92-35)ひょうふうだった。そしてそれとともに、ごうっと冷たいまばら雨をまじえた怪風が、とつぜん、真ッ黒な舟溜ふなだまりの群れを、山のように揺り上げ揺り下ろした。
「あっ。南無三なむさん
「舟と舟が、いもを洗うようだ。あぶねえ、あぶねえ。舟がぶちこわれるぞ」
 まさに、危険はそれだ。舟べりがメリメリいう、がくだける、梶が裂ける。――夕方からここに舟屯ふなだむろして、何濤や仲間の合図を待っていた大小数十そうは、滝つぼの中の木ノ葉みたいにまれ始めていた。
 しかも、それだけではない。沼のはるか風上から、団々たる二つの火が、闇の水面みずもすべるように飛んで来る――あッと、立ち騒ぐまもなく、それは眼前に来ていた。二そうの小舟に枯れしばを山と積んだ大紅蓮ぐれんなのである。
 はやくも、炎の柴は、こっちの舟団にぶつかって、凄まじい火を所きらわずきちらした。防ぐ手段は何もない。舟から舟へ、火は燃え移り、狂い廻るばかりなのだ。居所を失った人間は、蛙に似ていた。水中よりほかに逃げ場はなく、浮き沈みしつつ火の粉をかぶッた。
 なお、あわれをとどめたのは、岸へ逃げ上がったやからである。そこには、
「ござんなれ」
 と、待ちかまえていた戒刀かいとうの持ち主があった。腕の冴えは、まさに彼の異名、入雲龍にゅううんりゅうの名を思わせるもので、これぞ道士どうし公孫勝こうそんしょうその人だった。
 さらには、管鎗くだやりを持ったげん小七だの、野太刀やかいを振りかぶる小二、小五などの三兄弟のほか、この浮巣島の漁民十数人も加わって、
「――一匹も生かして帰すな」
 と、うろたえ廻る官兵を追っかけ廻したものである。そのうえ彼らの逃げまどう先々もまた、いたるところ、野火の焔と化している。
 暁もまたず、大小の捕盗船はことごとく覆没ふくぼつし、あわれむべし、この夜助かった捕兵といったら、そも、幾人あったろう。――やがて夜は白み、水のおもての狭霧さぎりには、まだ黄いろい余煙が低く這い、異様な鳥声が、今朝はつんざくようにき響く。
「どうだ何濤かとう。ちったありたか」
「さあ、こんどは、てめえの番だぞ」
「首の座となってから、泥亀すっぽんみてえに手を合せたって追いつくもんか。きれいに往生しやあがれ」
 げんの三兄弟は、ゆうべの小舟の舟底から、簀巻すまきの何濤を引っぱり出して、岸の上にひきすえていた。
 やや離れたところに腰かけて、ニヤニヤ笑って見ているのは、公孫勝と晁蓋ちょうがいだった。――晁蓋はほとんど蔭の指揮だけをして、ゆうべの修羅場には腰の一刀も抜いてはいない。
「おい、三兄弟――」と、その晁蓋は、頃あいをみて言いだした。
「やっちまう気か。よせよせ。そんな奴、斬ッたところで、何になるものか。それよりは、押ッ放してやれよ」
「えっ、助けてやれと仰っしゃるんですか。そんなお慈悲は、済州さいしゅうの百姓町人にとっちゃ、かえって恨まれもんですぜ」
「なアに、これほどな目をみせて帰しゃあ、もう人民いじめの元気も出めえ。それに事の次第を、そいつの口から、済州奉行所やら都のさい大臣へも、つぶさに報告させたほうがいい。おれたちはコソ泥じゃあねえ。当代宋朝そうちょうの腐れ大官や悪役人どもと対決しているんだ。帰してやれよ、そんな三下さんしたは」
「ちぇっ、命冥加みょうがなやつだ。おい小七、晁蓋さまのおことばじゃ仕方がねえ。ご苦労だが、こいつを石碣村せっかそんの街道口まで持って行って、押ッ放してこいや」
「よしきた、ちょっくら、行ってくるぜ」
 早舟を漕がせて去った小七は、やがて、二時間ほどもすると、帰って来た。そして四人にこう復命した。
「ただ帰しても、どんな法螺ほらを吹くかしれず、また人民の中で威張りさらすかも知れねえから、匕首あいくちで奴の両耳をぎ落してくれましたよ。すると野郎、火の玉みたいな顔をかかえて、赤蜻蛉あかとんぼみてえに、素ッ飛んで行ってしまった」
「ま、それくらいはいいだろう」
 晁蓋も苦笑し、ほかの三人も笑いあった。
 そしてさっそく、その日の午後、こうを渡って、さきに呉用と劉唐りゅうとうが行って待っている梁山泊りょうざんぱく渡口とこう――李家りけの四ツ辻にある――偽茶店にせちゃみせの亭主朱貴しゅきのところで七名全部、落ち合った。

林冲りんちゅう王倫おうりん面罵めんばして午餐会ひるめしかいに刺し殺すこと


 ここに一軒のにせ茶店を構えて、多年、梁山泊の渡口とこうを見張っている旱地忽律かんちこつりつ朱貴しゅきだったが、まだかつて今日までには、こんな堂々たるお客様を、お迎え申したことはない。
 しかも、七人連れ、いずれも一トかど。
 ずいぶん人間という人間はめつけている朱貴だが、この一行には、多少おそれを抱いたようだ。七名中の最年長者、智多星呉用の口から、これへ落ちて来たいきさつの一ぶ一什しじゅうと、各自の年齢、異名、苗字みょうじ姓名までをすっかり聞き取り、それを書状にするやいな、すぐ手下の一人に命じて、対岸の山寨さんさいへ持たしてやった。
「何もございませんが、頭領とうりょうからおゆるしが参るまで」
 と、その晩は、羊をほふり、酒甕さけがめを開いて、一同をもてなした。
 山寨の返牒へんちょうは、夜半に来ていた。夜明け早々、かなりな大船が廻されてきた。案内として朱貴も乗り込む。
 この朝の彩雲さいうんはすばらしい。いちめんなあしは、紫金青銀しこんせいぎんの花を持つかと疑われ、水は色なくして無限色をたたえる瑠璃るりに似ていた。漕ぎすすむことややしばらく、近づく一口の江の蔭から、たちまち銅鑼どら鼓笛こてきの音がわき起った。見れば、一陣の物見舟である。賓客ひんきゃくの礼をとって、歓迎のがくを奏したものか。
 さらに、二つの江の口を過ぎると、やがて金沙灘きんさたんの岸には、幾旒いくりゅうもの旗と人列が見えた。頭領の王倫おうりん以下、寨中さいちゅうの群星が、かんを出て、立ち迎えていたものだった。
 七名、船を出て、しゅくとした沙上さじょうへ進む。
 晁蓋ちょうがいの礼をうけて、王倫が大容おおように言った。
「あなたが、世間で名高い托塔たくとう天王の晁蓋どのか。ほかの方々の尊名も、昨夜書中でみな伺った。いずれも名だたるお人々、いや山寨さんさいにとってもこんな光栄なことはない」
「どう仕りまして。そう仰っしゃられてはかえって身が縮む。てまえは名主あがりの無学者。ほか一同も、今は天下に身のおき場なきちまた落人おちゅうど。ただただご仁義の下におすがり申すばかりです」
「ま、ここではご挨拶も。……ともあれ、山の本郭ほんぐるわまでお越しなすッて」
 と、王倫は先に立った。
 かくに閣を重ねた梁山泊のいわば本丸。そこを“聚議庁しゅうぎちょう”とよんでいる。
 庁堂の一段たかいところに、王倫以下のものは左列をして居流れ、晁蓋たちは右側に並んだ。さい中の小頭目こがしらたちは、ことごとく階下だった。
 ここで順次、正式ののりがおこなわれ、鼓楽こがく、歓迎の祝辞などあって、
「お疲れでしょう。あらためて、いずれ後刻」
 と、客側は、朱貴にみちびかれて、一応、客廊を渡って客舎のむねへひきしりぞく。
 さて、午後からは大宴だった。二匹の牛、十匹の羊、五匹の豚が、あらゆる物に調理され、酒は山東さんとう生粋きっすい秋果しゅうかはこの山のみのりだし、隠れたる芸能の粋士もまた寨中さいちゅうに少なくない。歌絃かげん管笛かんてきは水に響き、雲も答えるばかりだった。
「……ああ、つい酔った。久しぶりだ。こんな愉快な日はない」
 よほどうれしかったとみえ、晁蓋ちょうがいは、客舎の自房へ帰って来てからも言っていた。そして側にいる呉用へ向って、
「先生、まったく渡る世間に何とやらですな。寄るべない一同を、こんな温情のもとに迎えてくれた王倫おうりんの心のあたたかさ。なんと感謝していいかわからない。きっと恩義には報いねばならん」
「あはははは。ハハハハ」
「や、先生としたことが、なにを冷笑なさいますか」
「余りにお人がいいからじゃよ」
「晁蓋がお人よしですッて」
「そうだ。さいぜんも酒宴の席で、あんたは王倫と杯をわしながら、何度もそれを言っておられた。また、賊にはなっても不義無情の徒にはなるまいとか、世相の不平、悪政への怒り、胸を開いて、さまざま訴えておいでたろうが」
「それが、なぜいけないので」
「いや、そのことではない。――さらに話がすすんで、断頭溝だんとうこうの奇策やら、何濤かとうを押ッ放してやったこと、公孫勝や三兄弟の豪傑ぶりなどを披露におよぶと、王倫の顔は、さっぱり冴えなくなってしまった。のみならず、眼は狐疑こぎをあらわし、あんにあんたやわれわれを、み恐れる風もみえた」
「はてな。そいつア、気がつかなかったが」
「彼の幕僚、杜選とせん宋万そうまんの二名は平凡、ひとり豹子頭ひょうしとう林冲りんちゅうなるものこそ英俊えいしゅんと見えた。――林冲はいぜん京師で、近衛軍このえぐんの兵法師範を勤めていた者とか。おそらく彼は心から王倫に服している者ではないとおもう」
「王倫の小人物であることは、かねがね聞いてはいましたが、しかし、ここへ来て、こう厄介になる以上は」
「いや、どっちみち、このままではおさまらんよ。わしに一計がある。とりでの内輪に同士討ちを起させ、一ト波瀾はらんはみようが、その上でここの不満不平を一掃させ、そして規律と序列を正そう」
 翌朝のことである。――前夜、噂をしていた林冲が、朝のあいさつに見えた。
 呉用が、皆に代って、昨夜の礼をのべると、林冲は、薄ッすら笑って、
「いや、ほんとのご歓待なんてものは、形や物ではありません。その点、御気色みけしきにさわるふしもありましょうが、それがしは寨中の末端者だし、何かとつい行き届きません。どうかおゆるしのほどを」
「おことばで充分だ」呉用は、親しみを示して、なお話しかけた。「――ごへんのお名まえは、つとに都の東京とうけいでも名高い。さるを何で、※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)こうきゅう(宋朝の権力者)うとまれ、滄州そうしゅうの流刑地などへ追いやられた末、かかる所にまで身を落されておいでたのか」
「高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)
 きっと、林冲りんちゅうくちを噛んで、
「――高※(「にんべん+求」、第4水準2-1-50)と聞くだけでも、この髪の毛がさかだちます。流刑地のくるしみも、涙なくしては語れません。……が、恩人柴進さいしんどのの添え状に依り、ここへ仲間入りできたものです」
「と、仰っしゃるのは、あの小旋風しょうせんぷう柴進と世に響いている大旦那ですか」
「されば、古いしゅう皇帝のご子孫だとも伺っている、あのお方です」
「ほ。そんなお人の推薦すすめもあり、しかもまた、ご辺ほどな履歴と腕のある人物を、なぜ王倫おうりんは、とりでの主座にすえないのでしょう」
「はははは。拙者などは、彼の下風かふうでも、あまんじましょう。しかし、あなた方には、必ず非礼のおそれが生じる。それがちと不安です。せっかく加盟のお心で臨まれ、寨上さいじょうに花を添えた心地ですが、さあその点が……」
「王倫が本心では、よろこばないので?」
嫉妬しっとがあの人のきずです。人をれる度量がなく、疑い深い。もうここまで申し上げたのだから申しましょう。じつはここの客舎も、関外の低舎ていしゃです、まあ、ざっとした通り一ぺんの旅人を泊らせる雑房にひとしい粗末。じつはその失礼も、おわびせねばなりません」
「いや、ご辺のおさしずではない。なんのなんの。……しかし王倫がそこまで吾々を気厭けうとくきらッているのだったら、一同は山寨さんさいの和を破らぬため、即座に退散してもよろしいが」
「お待ちください。かえってそれは、頭領と拙者どもの間に、異な感情をわきおこしましょう。王倫主座としては、あきらかに、あなた方を、ていよく追っ払うつもりでいますが、せっかくな天与てんよ邂逅かいこう、なんとも、拙者にはお別れしにくい。いや皆さんと、このまま、むなしくたもとを別ってよいものか。……ま、それがしにお任せあって、お胸をなでていて下さい」
 林冲は耳をほの紅くして去った。そしてひるごろ、南山の水寨すいさいから、その日再び、午餐ひるめしの招待があった。

 会場へ行くべく、みな身ぎれいに、支度しだした。その間に、晁蓋ちょうがいが小声で、呉用の耳へささやいた。
「どうでしょう、この午餐会ひるめしかいは」
「何事か、起らずにいまいな。……おそらくは林冲りんちゅうが、くち火を切るに違いない」
「そしたら、黙って見ていますか」
「やれば、やらせておく。もし王倫おうりんと林冲の二人の舌火ぜっかが、あやふやな妥協にでも終りかけたら、この呉用が横ヤリを入れ、三寸不爛ふらんの舌さきで、二人の舌戦ぜっせんあおり立てる。見てござらッしゃい」
「それやおもしろい」
 晁蓋もいまはすっかりその気になった。そこで呉用は、他の面々へも、言いふくめた。
「……いよいよの土壇場どたんばいざとなったら、この呉用が、左の手で、こうひげをひねる。……と見たら、おのおのは一せいに、隠し持った短剣でな。……よろしいか、髯が合図でおざるぞ」
 客舎を出ると、宋万そうまんが騎馬で迎えに来るのに会った。七台の山輿やまごしかついだ山寨さんさい手下てかが、七名の客を乗せて、山ぞいをうねり、峰道を越え、やがて南山の一亭へと運んで来た。
 閣は水に臨み、らんは外洋の眺めまでを入れ、風光なんとも絶佳である。
 主客の列は、左右に椅子いすを並べて分れた。捲きかかげた珠簾しゅれんの下から、後亭の池園ちえんを見れば、蓮葉はちすばのゆらぎ、芙蓉ふようの色香、ここも山寨の内かと怪しまれるほどである。やがて酒もめぐり、談笑にわき、午餐会ひるめしかいもようやくたけなわと見えてきた。
 しかし、誰の口からでも、ふと話題が、七名の仲間入りのことになると、王倫おうりんはすぐ話をほかへそらしてしまった。そのたびに、白々しい空虚ができる。そして、木に竹をついだような話が宋万や、杜選とせんの口から、無理に出された。
 午餐なので、杯盤はいばんはまもなく退げられ、甘い酒と、果盆かぼんが代って出た。いや、さらに美々しい一盆には、五箇の銀塊が乗っていた。
「――ところで、豪傑がたに、心ばかりなお餞別はなむけを仕りたいが」
 王倫は、突如として、その銀塊の盆を、晁蓋ちょうがいのいる卓の方へさし向けた。
「思わざるご来訪、王倫、身にとってこんなうれしいことはござらん。しかし、ごらんの通りな波濤はとうに囲まれた一山寨さんさい、いわば雨水のたまり桶を分けて暮らしているようなもの。龍宮住居ずまいというわけのものでもない。……で些少さしょうなれどこの銀子ぎんすをお持ちあって、諸州を見くらべ、他の大きなとりでに身を寄せ、おのおののご雄志を充分に、よそで伸ばしていただきたい」
 晁蓋ちょうがいは、来たナと思ってか、くすんと微苦笑を、鼻で鳴らした。
「いやこれは、とんだご会釈えしゃくです。一同浪々の身なので、どいつもこいつも寒々しくお目に見えたかもしれませんが、じつは小遣銭こづかいせんならあり余っているのです。せっかくですが、ご斟酌しんしゃくなく」
「なぜ取ッて下さらんのかな。ご遠慮は抜きにしましょうや」
「お心の底は見えた。しからば、これで私どもはおいとまいたしますよ」
「ま、そういわんでもよかろう。何も無下むげに仲間入りをお断りするわけじゃない。じっさい、冬にでもなると、この大家内、かてや酒は足らなくなるし、住居も不足でな」
 ここまで、黙って聞いた林冲りんちゅうは、ついにその双眉そうびをきっと青白い炎にして、末席の椅子から大喝だいかつを発した。
「嘘を申せっ、王倫っ」
「な、なんだと。きさまは林冲、頭領のこのほうに、何をいうか」
「聞いてはおれん。そもそも、拙者が初めてこの山寨を頼って来たときも、いまいったのと同じ口上こうじょうだったではないか。しかも、穀倉にはたくわえも山と積みながら」
「だまれ、この忘恩の徒め。――柴進さいしん旦那の紹介と思えばこそ、能もないのに、むだ飯食わせて飼いおけば、いい気になって」
「能なし?」
「山寨へ来てから、どれほどな功をたてたか」
「まさに何のかせぎもしていない。しかし、汝もまた、無能の飾り物ではないか。官途を望んだ落第書生が、流浪の果てについこんな巣を見つけて、やくざを集めたというだけのはなしだ」
「いったな林冲りんちゅう、後刻、眼にもの見せてやるぞ」
「おお、いま見せて貰おうか」
ッ。うごくな」
 せつな、呉用が大手をひろげて、両者の間に立ちはだかった。
「ま。お待ちなさい。……要するに、これはわしたちがこれへ来たことがいけなかったのだ。晁蓋さん」
「おう、先生。なんですか」
「見た通り、わしたちのため、とんだ不和を山寨に招いてしもうた。きれいに、おいとまして、ここは退散しようじゃないか」
 眼くばせすると、ほかの五名も、いちどに、どやどやと椅子いすを離れて、
「さあ、行こうぜ」
 とばかり、一トかたまりになって、亭の階段を降りかけた。
 王倫も、これにはちょっと、いやな気持ちを覚えたらしい。あわてて、追っかけるように、
「やあ待ち給え。そいつはちと気が早い。もう一さん、機嫌直しをって、こころよく乾杯した上、お別れしよう」
 とたんに、末席の椅子が、横に仆れた。卓の果盆も引ッくりかえる。ずかずかと、林冲の大きな背丈せたけが、王倫の方へ真ッ直に向って来かけたのである。
 と見るや、呉用は、
「えへん!」
 と、せき払いしながら、左の手で、長いあごひげを一つ横へしごいた。それを合図に、
「あっ、同士討ちはおよしなさい」
 と階段の中途から、皆、どたどたと引っ返して来た。戻るが早いか、げん小二は杜選とせんに抱きつき、小七は朱貴を、小五は宋万を抱きとめた。
 そして、晁蓋と劉唐りゅうとうとは、ぴたと、王倫の両わきへ寄り添い、
「まあ、そうお腹を立てないで」
 と、たもとの下から、環帯かんたいの腰の辺を、ぎゅっとつかんで離さない。
「なんたるつらだ。王倫っ。それが頭領の態度か。恥を知れ、この落第書生め、仁義の皮をかぶッた偽者にせものめ」
 一方の林冲は、なおののしりつづけている。その林冲の胸先をかろく制して、呉用の位置は、彼をさえぎるような恰好を見せてはいたが、まなこは王倫の姿を焦点にかがやいていた。
「女の腐ッたような奴だ。それで梁山泊りょうざんぱくの頭目などとは片腹いたい。いやこの梁山泊は、きさま一個のものじゃあない。人をそねむ賊の頭目など、舌を噛んで死んじまえ。さもなくば、きさま自身、どこへでも立ち去るがいい」
 林冲はののしりつづける。その面罵めんばに、王倫はぶるぶる五体をふるわせ、地だんだを踏み鳴らしたが、足掻あがきも、前へは踏み出せない。
 しかもまた、杜選とせん、朱貴、宋万といった手輩てあいも抱きとめられてはいるし、辺りの空気もただならないので、みずから行動には出なかったが、
ッ。き、きさまたち……この王倫が、こんなに侮辱されているのを見ているのか。やあ。わしの味方はどこにいるんだ。ほかの手下てかども、林冲りんちゅうを捕り抑えろ、ぶッた斬ってくれねばならん」
 と、吠えたけった。すると彼のその鼻さきへ、
「おおもッともだ。さあ、斬っておやんなさい」
 と、呉用が手を退いて、林冲のからだを、突き放してやったのだった。
 王倫は、佩剣はいけんへ手をかけた。しかし抜けない。いやそれよりもはやく、豹子頭ひょうしとうのその青額あおびたいが、低くどんと、彼の心窩みずおちの辺へぶつかって来た。同時に、その脾腹ひばらへ深く刺しこんでいた彼の手の短刀が、しずかに王倫の立ち往生のままな苦悶をえぐっていた。……ポト。ポト。ポトと音せわしく糸をひいて垂れた鮮血は、絨毯じゅうたん模様のような緋牡丹ひぼたんゆかの足もとに大きく描いた。
「…………」
 どたんと、林冲は、王倫の大きな図ウ体を、手から離した。晁蓋ちょうがい以下も、みな片手に白刃を隠し持っていたのである。呉用は、大音声だいおんじょうで言った。
「言い分のある者はここへ出て来い。――今からは豹子頭ひょうしとう林冲をわしたちの頭領として、山寨さんさいの主座にいただこうぞ。文句はないか」
 朱貴、杜選、宋万らは、ゆかにへたばッて、ただ叩頭こうとうするのみである。堂外の手下てかや小頭目もみな、わっと、どよめきを揚げただけで、その後の声もない。
 だが、林冲のみは、仰天してこう叫んだ。
「滅相もない宣言だ。先生のおことばとも思われん。それではこの身の立つ瀬がない。頭領を殺して自分がその位置を奪ったことになってしまう。そんな事ア出来ない。義に生きる仲間同志のいい笑い草だ。無理にと押しつけるならぜひもない。林冲はどこかへ姿を隠すしかございませんぜ。……それよりもどうか、この林冲の意見を、皆してお聞きねがいたいんです。さ、それを聞いてくれますか、くれませんか」
「聞きましょう!」と、異口同音にみな答えた。
「――ほかならぬ、あなたのご意見とあるならば。これや静粛に、伺わずばなりますまい」

人の仏心は二の慾をよろこばせ、
横丁の妾宅は柳に花を咲かせる事


 さて。林冲りんちゅうの提言とは、こうであった。
「人には天性おのずからうつわというものが備わっている。林冲は器にあらず。晁蓋ちょうがいどのこそ人の上に立つべきお人だ。ちょう君を以て今日より山寨の首長に仰ぎたいと思います。ご一同にも、ぜひご賛成ねがいたい」
「いけません、いけません」
 晁蓋は手を振って固辞した。――そんながらではないと、再三再四断ッたが、すでに満堂一せいの拍手だったから、林冲はすばやく、
「では、諸兄にもご異存はありませんな。晁頭目ちょうとうもく、衆議の決ですぞ」
 とばかり、彼の手を取って、正座の一番椅子いすに据え、その前に香炉台こうろだいを置き、王倫の兜巾ときんはずして、晁蓋ちょうがいいただきかぶせた。
「いざ呉用先生。先生は軍師として、第二席にお着きください」
「とんでもない。わしは根ッからの寺小屋師匠、孫呉そんごの智識など思いもつかん」
「ご遠慮は無用、先生がそう仰っしゃると、あとが困ります。――第三は、道士どうし公孫勝どの、先生の帷幕いばくを助くる副将として、ご着位のほどを」
「それやいかん。林冲どの、あなたこそ、その位置に」
 これは一同ですすめたのだが、林冲はなお譲ッて四番目の座を取った。
 五位には劉唐りゅうとう、六位にげん小二、七位に小五、八位に小七。――それから杜選とせんは九位にすわり、宋万は十位、朱貴が十一位と順位はきまって、ここに新選梁山泊りょうざんぱくの主脳改組かいそもできあがった。
 あくる日、これを全山に布告して、聚議庁しゅうぎちょうは清掃された。星をまつる祭壇には牛馬の生血を供え、天地神明に誓いをなした。
「さあ、飲む時は飲め。三日間は遊び飽きろ」
 祝いは毎日つづいた。島は祭り気分である。穀倉も酒倉も押ッ開かれた。しかし胃のには限度があった。七、八百の手下てかどもはまったく堪能したかたちだった。
 しかしその後は、刀、弓、げきほこなどを寨門さいもんに植え並べ、陸上の陣稽古げいこ、水上における舟いくさの教練など、いや朝夕の規律まで、前よりもはるかに厳しい。
 けれど、晁蓋の大人たいじんふう、呉用の学識、公孫勝や林冲の英気などが、自然、下風かふうに映るものか、不平などは見たくも見られない。それどころか、一種の和楽がかもし出され、それが一だん男仲間の結束と侠をみがき合った。
 まもなく、灰色の外洋に冬が来る。
 霜白き芦荻ろてきには、舟がこおりつき、鴻雁こうがんの声も、しきりだった。
「都に残した妻はどうしているだろう?」
 ふと、かりの渡るを見ても、林冲は独りはらわたをかきむしられた。或るとき、その想いを呉用や晁蓋に語ると、もっともだと同情して、さっそく人を派して山寨に迎え取らせることにした。ここの山蔭の一端には、先に呼びよせたげん兄弟の老母や妻子を初め、子供だけの一部落もあったらしい。
 ところが、二た月ほどついやして、やがて帰ってきた使いの話によると、林冲の妻は、その後も、こう大臣父子の迫害やら、無態むたいな縁組みに迫られて、ついに自害して果て、彼女の父親も、首をくくって死んだという報告だった。
「……そうか。さぞ口惜しかったろう。しかも良人おっとのわしにそれほどまで、貞操みさおをたてていてくれたのか」
 林冲はポロリと涙をこぼした。かかる男でも、泣くことがあるのかと思い、晁蓋や呉用までみなまぶたを熱くした。
 ――春の訪れと共に、梁山泊りょうざんぱくに一しゅう注進ちゅうしんが聞えた。――再編成された官軍の捕盗船隊三、四百艘が、石碣村せっかそんの入江から沖を埋めて、機をうかがっているという報である。
 しかもこんどの総指揮官は、済州さいしゅう奉行所付きの黄安おうあんという者で、手勢二千人、戦備も前よりは格段な物々しさであるという。
「さア、いらっしゃい。氷も解けたし、雑魚ざこはすの根から泳き出す陽気だ。――こちにとっても、長い冬籠りの退屈ましにはちょうどいい折、いでや眼にもの見せてやろうぜ」
 山寨さんさい驍勇ぎょうゆうどもは、手につばして待ちかまえた。――かくて、金沙灘沖きんさたんおきの水戦は展開され、※(「風にょう+炎」、第4水準2-92-35)ひょうとうたる白浪はくろうは天をち、鼓噪こそう芦荻ろてきを叫ばしめ、二日二た夜にわたる矢風と剣戟けんげきと、そして雲にこだまする喊声かんせいのうちに、さしもの官船数百隻を、枯葉こようのごとく粉砕し去った。
 げにも皮肉だ。この一戦こそは、求めもしないのに、官から賊寨ぞくさいへ、わざわざみつぎの贈り物を運んできたようなものだった。分捕ぶんどり品だけでもたいへんな量である。馬匹数十頭、兵舟百余艘、弩弓どきゅう、よろいかぶと石火矢砲いしびやほう帆布はんぷ、糧食など、すべて梁庫りょうこに入れられた。
「冬じゅうの居食いで、山寨の倉も少々お寒くなっていたら、この到来物とうらいものときたぜ。なんとこんな疾風はやてなら、ときどきせて来てもらってもいいな」
 凱歌のつの笛は、春を高々と吹き鳴らされ、梁山泊の意気、ここに全くあらたまるがいがあった。
 それにひきかえ。
 船も装備もみな失い、あげくに、指揮者黄安も賊に生け捕られ、散々なていで済州さいしゅうへ逃げ帰った官兵は、ただ事の顛末てんまつを奉行所の門へ哀号あいごうし合うだけだった。
 折ふしまた、庁内の接官亭には、さい大臣の使者と、大臣府の辞令を帯びた新任官が、都から到着していた。――それにより、旧奉行は官職を解かれ、旅装して、ただちに開封かいほう東京とうけいの問罪所へ出頭すべし、との厳令なのだ。
「さては、責任を問われるのか」
 と、旧奉行は青くなってしおれたが、新任の奉行もまた、門前の哀号あいごうを耳にして、
「なんと。お取立てと思ってよろこんで下向げこうして来たら、あにはからんや、こんな土地の、こんな群盗退治が、これからの仕事なのか」
 と着任早々、ぼやいている。
 とまれ両三日のまに、事務引継ぎもすまされ、旧奉行は都へ召還されて行ったが、やがてこの奉行交代の通知とともに、梁山泊にたいする協同警戒の布告が、隣県※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)うんじょうの県役署へも廻送されて来たのだった。

 ※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)城県うんじょうけんの知事時文彬じぶんぴんはいま、庁の書記長の宋押司そうおうしに、一書類を示して、
「どうも気の毒なことになったな。済州さいしゅうの奉行は失脚して、次の新奉行と代ったらしい。これは先の七人組の大盗だいとうの逃亡始末と、梁山泊一帯の地理やら内容を報じてきたものだが……。ひとつ、これを書記はんで複写させて、至急、県下一帯の郷村に配布させてくれんか」
 といった。
「承知しました。大変ですなア、どうも」
 宋江そうこうはすぐさま、書記室へ行って、その手順をとった。
 彼には若くて頭のいい助手がある。張文遠ちょうぶんえんという者だった。村里そんりへの配布は張にまかせ、黄昏たそがれごろ、宋江は、役署を出て、いつも見馴れた町角へかかってきた。
「おやまあ……。これはこれは、押司おうしさまじゃございませぬか」
 出会いがしらの声に、誰かと思えば、横丁よこちょうに住む周旋屋しゅうせんやおうというせ婆さんだ。この口達者な婆さんがまた、もひとり後ろに、ふとッちょなでぶ婆さんを連れていて、
閻婆えんばアさんよ、お前はまあ運がいいよ。ついさっき、私がお噂をいってたろ。……あの押司さんだろうじゃないか。よくよくご縁があったんだよ、さあご挨拶でもおしなねえ」
「これこればばども。ご縁があったとは、一体なんのことだ」
「まア押司さん、お聞き下さいましよ。ゆうべポッキリと、えん老爺おやじが亡くなりましてね。……酒のみで、歌謡狂うたきちがいといわれた道楽者じゃござんしたが、あれでも親娘おやこ三人ぐらしのかせだったんでございますよ」
「ふム。……それは可哀そうに」
「まったく、気のいいおやじさんでございましたからねえ。それだけに押司さま、死んだあとは借金ばかり。……それでまアお葬式も出せないッて、私みたいなところへ泣きつきに来るような始末。ところがこの私も、病人やら物費ものいりやらで、このところ、どうしようもございません。……こんな往来中で、なんともかンともすみませんが、お慈悲と思し召して、この閻婆えんばに、棺桶かんおけの一つでも、お恵みなすってやっちゃあ下さいますまいか」
「王婆、ほんとかね、それは」
「まア旦那、なんだって、お葬式をタネに嘘なんかいえましょう」
「じゃあ、これも仏への供養だ。わしの名刺めいしを持って、葬式屋の陳三郎ちんさんろうの店から、棺桶とはなを貰って行くがいい」
「あれ、まあ。やっぱり宋押司さまは、噂にたがわぬお情け深いお方だった。さア閻婆えんばさんよ。なにサ、おまえのためじゃないか。お礼をお言いよ、こっちへ来て、お礼をさ」
「よせよせ、往来中でそんなペコペコをくり返すのは。しかし、棺桶一ツだけでは始まるまい、雑費はあるのか」
「とんでもない。棺桶にさえ、途方に暮れていたところ、おそなえのお団子だんごしめ一つ買うお金さえも、じつはもう……」
「ないのか。じゃあ仕方がない。これで万端をすますがいい」
 宋江そうこうは、持ち合せの銀子ぎんす二枚を与えて立ち去った。
 歓喜した婆さん二人は、眼でもまわしたようにチョコチョコ露地の横丁へ走り込んだ。そこの露地からは、翌日葬式とむらいが出た。また数日おいて、王婆さんは饅頭まんじゅうを持って、宋押司の自宅へお礼に行って戻って来た。
「世間もひろいが、まア、あんないい人って見たことないね」
 ――王婆さんは、めちぎるまいことか。そのあげくに「……行ってみたら、ご家族はみんな宋家村においてあって、この町では、まるで書生さん同様な下宿暮らしの独り者さ。それでいて、人の貧苦はよく見てやるんだから、全く感心しちゃったね、出来ない芸だよ」
「あたしにとッても大恩人さ」と、閻婆えんばも負けずにめたたえた。そして、にがみ走った好い男だの、横顔の容子ようすがいいのと、男振りの品さだめまでしたあげく、
「これでわたしが、もう三十も若かったら、あんな人を独り下宿屋などに寝かしちゃおかないんだが……」と口惜しそうに言ったりした。すると王婆はげたげた笑って、
「なんだね、お前さんたら、まだそんな色気があるのかい。婆惜ばしゃくさんというあんな妙齢としごろの娘を持ッてるくせにさ」
いとくれよ。この年じゃあ、どう思っても、高嶺たかねの花だぐらいなことがわからないでどうするもンかね。だからもし、押司おうしさんさえよかったら、わたしゃあ娘の婆惜ばしゃくを、あのお方に持っていただきたいと願っているのさ。わからないかえ、それが本心なんだよ」
「ほんにねえ、婆惜さんは十九だっけね。閻婆の娘とは思われないッて誰もいうほど、ひと目見た者はみんな一ト目惚れする縹緻きりょうよし。それに芸事といったら、道楽者のおやじさんが可愛がって仕込んだだけに、たいそうなもんだのに」
「それやあお前、こんな山東さんとうの田舎とは生れが違うよ。死んだおやじがまだ都の東京とうけいで盛んに商売をやっていた時分は、わたしも朝湯寝化粧だったけれど、あのも蝶よ花よと小さいときからの芸仕込み。それを色街のねえさん芸者だの料理屋の楼主が惚々ほれぼれと見ては噂して、ずいぶん養女にくれの何のといわれたものさ」
「ほい、また娘自慢が始まったよ。そうかい、そうかい」
「お茶化しでないよ。こっちが真面目にはなしているのに」
「こっちも大真面目さ。いったいどうするんだよ。押司さんの方は」
「おまえさん、周旋屋だろ。まかせるといってるじゃないか。大恩人の押司さんには、それよりほかご恩返しはないと思っているわけだよ」
「なるほど、ご恩返しにかえ。じゃあ、わたしも欲得なしに一ト肌ぬいでみようかね。ちょっとこの相手は、孔子こうし様みたいで、なんだかこわくて難かしい気がするけれどね」
 とはいえ、王の婆さんも海千山千。その男性観にはべつな信条があろうというもの。以後折々に宋江そうこうを訪ね、そして宋江の閑暇かんかをよく笑わせ、やがて打ち解けた頃合いを計って、或る日、美人婆惜ばしゃくり持ち話をもちかけた。
 宋江とてももとより木でも竹でもない。ふと好奇心をもったのは事実である。自分の地位で女の一人ぐらい囲っても誰が怪しむわけでもあるまい。むしろ独居どっきょの生活こそ下僚からもいぶかられている。――いや、そう思ったのは、すでに王婆の口舌こうぜつに口説き落されていたものといえよう。
 とにかく彼は、ふと彼に似げない心になって、つい役署の西の横丁に、そっと、近所も静かな一軒を借り求め、そこに婆惜を囲うことになってしまった。
 この道のみは、聖賢の道ではどうにも割り切れない。初心うぶな若旦那が、何かにかれたようなものだ。反対にわずか一ト月ほどの間に、水を得た魚とも見えたのはえん母娘おやこである。家具衣裳は買い込むし、髪には珠を、くつには珊瑚さんごを、食べ物の贅沢ぜいたく臙脂べにおしろいから香料など、母娘おやこ二ツの鏡台の飾りたてはいうまでもない。
 が、宋江はそれに惑溺わくできしきれない不幸児でもあったのだ。なるほど十九の婆惜ばしゃくは佳麗絶世といっていいが、その口臭こうしゅうにはすぐ下品を感じ出し、玉の肌にもやがては何か飽いてくる。――自然、泊ってゆくこともない。婆惜も何となくあきたらなかった。男の情炎にただれたいのに、いつもれッたいだけで狂炎の情に突き刺されることがない。もどかしい思いが積ッて自然、不満がかもされる。艶眉えんびがそれをえんじて見せても宋江には通じないのだから、なお焦々いらいらするし、しまいには男を小馬鹿にしたくなってきた。
 ところへ、或る夕のことである。
「婆惜……。今夜はね、ひとつ面白く飲もうと思って、友達を連れて来たよ。婆さん、美味うまい物をひとつうんとご馳走しておくれ」
 めずらしく、宋江が一名の客をつれて来た。
「よう、いらっしゃいました」
 婆惜はこぼるるような愛嬌であいさつした。宋江は間に立って、やや羞恥はにかましげに、
「こちらはね、役署の属僚ぞくりょうで、書記室の次長をしている張文遠ちょうぶんえん――またの通り名を、小張三しょうちょうさんというお人だ。なにかと、仕事の上でもわがままをいっているし、お前もまた、親しくしていただくようにと思ってね」
「どうぞ、ふつつか者でございますが」
 びんかざしを重たげに、婆惜はかしらを下げ、張三もいんぎんに礼をしたが、年ばえから見ても、この二人の対比は、一ついの美男美女であったばかりでなく、婆惜のひとみには、張三を見たとたんに、性来の多情がたっぷり色となって、耳朶みみたぶまでほの紅く染めていたにもかかわらず、そばで眺めていた宋押司おうしは、それをねたむということすらも、知らなかった。

女には男あつかいされぬ君子くんしも、山野さんや侠児きょうじにはしたわれる事


 たださえ美人の婆惜ばしゃくが、その夜は、わけてもえんだった。宋江そうこう愛想あいそがいいのは当り前だが、張三ちょうさんへのりなしも並ならずこまやかだった。杯のひまにはふと、化粧崩れを直したり、いつのまにか衣裳を着代えて現われたり、いつにない酔艶すいえんあやしいばかりに見える。
「ああ、いい月だこと。今夜はあかりもいりませんわねえ。こんなたのしい晩ってないわ」
 彼女のいずれへいうともない独り言へ、客の張三は如才なく相槌あいづちを打って、
「お部屋を見ますと、ご夫人はいろんな楽器をお持ちですな。音楽はお好きですか」
「ま、いやですわ、ご夫人だなんて」
「じゃあ、婆惜嬢ばしゃくじょうさま」
「ホホホホ、お嬢さんでもないわね私は。……でも、その小嬢としごろだった頃、わたし開封かいほうの都で育ったでしょ。そして近所が色街でしたからね、しぜん稽古事は、ずいぶん仕込まれてきたんですって」
「ひと事みたいに仰っしゃるけれど、それじゃあずいぶんお上手なんでしょう。どうです、てまえが笛を吹きますが、ひとつ胡弓こきゅうをおきになりませんか」
「そして、何をるの」
「その東京とうけいで一ト頃流行はやった開封竹枝かいほうこうたでも」
「開封竹枝、ああなつかしいこと。るわ、久しぶりに。……おかあさんも、旦那へおしゃくでもしながら、そこで聴いててよ」
 二人は、笛と胡弓を合奏あわせて、ひとしきり他愛もなく陶酔とうすいしていた。婆惜が愉しそうであれば宋江の心も愉しむ。妾宅の旦那でこそあれ、いわゆる世の旦那型ではない、彼の君子人くんしじん的な性質は、女を持っても酒を飲んでも根ッから常日頃の――及時雨きゅうじうそう公明の人柄をちっともくずす風がない。
 だが、女とすれば、こんな堅人かたじんは面白くでもッぱくでもないのだろう。一しょに寝てさえ何となく味気ないやらぎこちなくて、地獄で母子おやこが救われた恩人とは思ってみても、ついぞ真底しんそこ、自分の男と抱きしめる気にもなれぬし、抱きしめられて、枕をはずしたこともなかった。
「……それにひきかえ、旦那の連れて来た張文遠ちょうぶんえんさんは、役所では旦那の下役だそうだけど、なンてまあ、ほどのいい……」
 彼女はその晩、すっかり張三ちょうさん(文遠)に魅されてしまった。色の黒い黒宋公こくそうこう旦那が、色白な張三の肉付きに見くらべられては、よけい虫が好かなくなった。恋情おもいは別れ際の眼もとにあふれていたろう。またそこは色道にかけての玄人くろうと張三のことだから、
「……ははあ、こいつは、ものになるナ」と、早くも見ていたにちがいない。
 その後、いつのまにやら張三は、こッそり、ここへ一人がよいをしはじめていた。つまり客ならぬ妾宅の間夫まぶ――。娘で食っているおふくろなので、閻婆えんばもそこは巧く逢う瀬のやりくりをお膳立てしてやるしかなかった。後で思えば、これや“猫にかつぶし”のたとえ。下役の張三を、わが妾宅へ連れて来たなど、宋江としたことが一代の大失策だったといっていい。
 しかのみならず、ひとたび、張三というその道の達人にかかったおぼこ同様な婆惜は、初めて男を知ったなどという生やさしいものではないその性来の性に、われながら持て余してきた恰好だった。元々、淫蕩いんとうの血は母の閻婆えんばにあったものだろうが、その閻婆すらが、時には階段の下で舌ウチするほど、二階のとばりの内で男にさいなまれる彼女の体が、囈言うわごとじみた情炎の悲鳴を洩らしているなども、再々だった。
 自然、これは宋江の耳にも入らないわけはない。近所のささやきばかりでなく、婆惜の冷たいしぐさにでも薄々わかった。しかし、それにも彼は、彼独自な考え方で、ぼそと、独りつぶやいていたにすぎなかった。
「仕方がない。……女のほうからあッちへ血道を上げているのではぜひないことだ。父母おやが選んでくれた女房じゃなし、なにも、行かないでいればすむことだ。当分、足を抜いていよう」

 近ごろは、とんと婆惜ばしゃくのことも忘れ、県役署へも精勤して、さばさばと、今日もそこの門から宋江は退庁していた。
 時刻は、たそがれ頃である。
 町角の髪結床かみゆいどこで、ひげをらせていた旅人ていの男がふと、往来を行く彼を見ていた。
「おや、あれやあ、宋押司そうおうしさんじゃねえか」
「お客さん、ご存知ですかい。あのお方が、及時雨きゅうじうといって、県でも良吏りょうりと評判な宋押司さんでございますがね」
「そうか。置いたぜ、髪結かみゆちんを」
「あッ、だんな、まだ※(「髟/兵」、第3水準1-94-27)かたびんが残っていますよ。それにおつりも」
「いいよ、いいよ」
 男は後も振り向かない。
 草鞋わらじに、白と緑の縞脚絆しまきゃはん、野太刀をぶっこみ、片手に范陽笠はんようがさという身がるさ。
 燕のように軒並びの町の灯をぎって追ッ馳けていって、
「もしっ、お待ちなすって」
 と、宋江の後ろ姿へ呼びかけた。
「え? 私ですか」
「お見忘れでござんしょうか。名主の晁蓋ちょうがいさんの屋敷に身を寄せていた者の一人。赤髪鬼せきはつき劉唐りゅうとうでございますが」
「あ。あの赤馬どのか。……これは驚いた。意外な所で」
「おなつかしいやら、あの節のお礼やら……。ま、何から申していいか分りません。ちょっと、そこらの酒屋のみやまでお顔を拝借できますまいか」
 町端れの仄暗ほのぐらい一紅燈。そこの二階の小部屋におちつき、劉唐は、野太刀を壁の隅に立てかけると、下にひざまずいて、
「……昨年の秋、九死に一生を得させていただいた大恩人の宋江さまへ、あらためて、頭領の晁蓋ちょうがい以下、呉学人、公孫勝、げんの三兄弟などに代りまして、このように、真底しんそこ、お礼申しあげます。……一別以来のご無沙汰の段を、悪しからずと、一同からもくれぐれな伝言でございまして」
「ヤ、お手をお上げ下さい。給仕人が来る、そんな慇懃いんぎんでは怪しまれます」
「では、ご免なすって」と、劉唐も椅子いすにつき、杯、数献すうこんわしながら、声ひそめて、「――お蔭でただ今では、梁山泊りょうざんぱくに七、八百人の子分をようし、山の規律なども一新してうまくいっております。これもみな、大恩人のお蔭と、晁頭領ちょうとうりょう以下、夢寐むびにも忘れたことはございません」
「そうかい。それはまあ、みな息災そくさいで、何よりでした。それにいい便りを聞かして貰ってわしもうれしい」
「ところで、まことに、失礼ではございますが、何をもって、一同の心をおむくいしたらいいかと相談の末、ここに晁頭目のお手紙と黄金百両とを、てまえ托されて参りました。どうぞ一同の寸志と思って、お収めなすっておくんなさいまし」
「それほどまでに……」と、宋江はうやうやしく頭を下げ、
「ではいただいておく」
 と、差出された書簡ならびに封金十箇のうちの一箇だけを取って、ふところへ納めた。
 劉唐りゅうとうは、ちょっと、まごついて言い足した。
押司おうしさま。どうぞあとの九十金も、そちらへ」
「いやいや、本来は貰うべきではないが、ご一同のおこころざし、身にみてうれしい余り、一封だけは頂戴したのだ。官の年俸もいただいている身、なに不自由な身でもござらん。あとはお持ち帰りあって、よろしく、おつたえ願いたい」
「それじゃあ、てまえが困ります。ご恩報じの使いとして来て」
「でも、おこころざしは、これで充分いただいたのだから」
「ところが、山寨さんさいの内も、王倫おうりんかしらだった頃とちがって、おきてきびしく、いやしくも、使命をうけて、使いの役を果たせないなンて奴は、仲間の内に、つらをおいてはいられません」
「では私から、ご一同へ宛てて、一さつ、返書をしたためましょう。それならお顔も立とうし、私の心もとどく」
 さっそく懐中硯ふところすずりを出して、一文を書いて封じ、なおお互いの消息を、なにくれとなく語りながら、彼も劉唐も、思わずぼうと頬も染まるほど数角すうかくの酒をかたむけ合った。
「じゃあ、お名残はつきませんが、山寨でも一同待っておりましょうから、これでお暇を」
 二人は、酒店の横の露地を出た。――ちょうど初夏ごろ。宵の月がまんまると、町の屋根の上に出ていた。
「ここからすぐ、山寨へ向けて、お帰りか」
「いえ、あのせつ、県の与力よりき雷横らいおうさんと朱同しゅどうさんにも、蔭ながらお助けをうけたので、ついでにそちらへもちょっと、お礼を言ってこいと申しつかって来ましたんで」
「左様か。礼はよいが、しかし、金などは一切やってくれぬほうがいいな」
「へえ。いけませんかね」
「雷横もいい人物だが、与力のくせに、大酒呑みだ。身不相応な金などは持たせぬほうが当人のためだろう。……かたがた、事件いらい、ここの町には目明しが増員され、わけて他州者にはすぐ犬がくぞ、油断はあるまいが、気をつけるがいい」
「ありがとうござんす。ヘンな禍風まがつかぜでも背負った日にゃあ大変だ。さっそくに退散します。どうかまあ、押司おうしさまにはごきげんよう」
 いうやいな、劉唐は、范陽笠はんようがさ眉深まぶかにかぶッて、蝙蝠こうもりのように、県外の街道へ、消え失せてしまった。
 あと見送ってから、宋江は呟いた。「……他人事ひとごとではない。危ないのは自分も同様だった。もし、梁山泊の使いと、こっそり出会っていたことなどが、役署の誰かにでも知られた日には……」と、急に宵風も肌にソワソワ刺す心地だった。――で、にわかに足をいそぎかけると、あいにく、辻の出会いがしらに、ばったり、婆惜ばしゃくの親のえんの婆さんにぶつかってしまった。
「あらまあ、だんな、どうなすったんでございますよ。ちか頃は」
「や、閻婆えんばか。なアに、どうもせんさ、役署が忙しいだけのことでね」
「いけませんよ、だんな。てんで、この頃はお見かぎりで……。娘が可哀そうじゃござんせんか」
「でも、達者なんだろ」
「あれ、あんな水くさいこと仰っしゃッてさ。憎いわねえ、いったい、どこの奴が、水を差したんだろう。……さ、とにかくだんな、今夜はお連れせずにいませんよ」
「おい、離せよ、人が見るではないか」
「じゃあ来てくださるでしょうね。道でお会いしたのに、お連れもしなかったなんて聞かせれば、娘は泣いて、わたしに食いつくかもしれません。いいえ、毒でも飲みかねないから」
「おどかすなよ、ばば
「この婆だって。……だ、だんなさまに、これきり見放されたら、ど、どういたしましょう……」
「おや、泣くのかい。往来中で見ッともない。行くよ、行くよ」
 宋江そうこうは負けた。
 閻婆えんば老舌ろうぜつとソラ涙に負けただけでなく、この君子人くんしじんにも、おのれに負ける一面があったといえる。微酔以上なそぞろ心地も手助てつだっていたことだし、稀れには、彼女がどんな愛相あいそを見せるかと、ふと見たい気もしたものにちがいない。

悶々もんもんと並ぶ二ツ枕に、蘭燈らんとうの夢は闘ってけやらぬ事


「オヤ、オヤ。あかりも消えているじゃないか。若いって、ほんとにまア仕ようがないね。……だんなさん、ちょっと、ここでお待ちなすって」
 わが家のかどへ入るやいな、閻婆えんばはわざと大きな声して、階下から二階へどなった。
「むすめよ、婆惜ばしゃくよ。おまえが待ちこがれていた押司おうしさまにお会いしたから、むりやりお連れ申してきたんじゃないか。……そんなにふさしていないで、はやく灯りをけて、お化粧めかしでもしておきなよ」
 すると、真っ暗な二階では、にわかにばたばた物音がしだしていた。
「……しッ」
 と、そこで声をころしていたのは娘の婆惜である。男と寝ていたものらしい。刺繍ぬいの枕も寝台の下に転がし、真白な深股もあらわに、もつるる裳裾もすそを掻き合せている。みだれた※(「髟/兵」、第3水準1-94-27)うんびんは、たった今まで、張三ちょうさんの秘術にあやなされていた身もだえを、どんな白裸びゃくら狂痴きょうちにしていたことか、指でいても梳ききれない。
「ど、どうしよう?」
 もっと仰天したのは、張三のほうだった。上役のそして旦那の、宋江が来たと聞いては、巣箱を引っくり返された二十日ねずみのようなもの。あっちへつかりこっちへ戸惑い、チョロつくひまに、婆惜はすばやく、二階の裏窓を開けていた。
「張さん、なにしてんのさ。こっちよ、こっちよ。屋根からお隣の塀を伝わってさ。だけど、向う見ずに跳び降りるとどぶがあるわよ。いいこと。二、三日うちにまた来てね」
 男の尻を押し出して、あとの窓を閉め終ると、彼女はもう何食わぬ姿態しなだった。しぶしぶ蘭燈らんとうに明りを入れ、そしてお化粧台から階下したのぞいて舌打ちした。
「チっ……。うるさいわね、おっさんたら。なにさ、天帝様のおででもあるまいし」
 閻婆えんばはあたふた上がって来て、
「しっ、静かにおしよ。たんと楽しんだ後じゃないか。少しぐらいな勤めは、商売だとお思いよ」
「いやですよウだ。おっさんだって、若い頃には覚えがあるでしょ。なンともかンとも、あたしゃあ、あの虫蝕むしくなつめみたいな押司おうしさんの顔を見ると、胸がムカムカしてきて、義理にもお世辞がいえないんですもの」
「そんなこといったっておまえ、母子おやここうして、贅沢ぜいたくに暮していられるのは、なンたって、あの人のお蔭だものね。足を途絶えさせちゃったら、こっちのあごあがるだろうじゃないか」
「ああ、辛気しんきくさい。来たくないっていうものを、なにもむりやりに連れて来なくってもいいじゃないの」
「そうはいかないッてばさ。おまえもほんとに駄々ッだね、まあ、嘘でもいいからさ、酒でも飲ませて、ぽんとこう背中の一ツも叩いておあげよ、世話になった冥利みょうりにさ」
 娘の耳へ口を寄せて、一方へはなだめ、一方には、階段の下に待たせておいた宋江そうこうへ向って、閻婆はやきもき、両面二タ役を使い分けていた。
「さあさあ、だんな、どうぞお上がりくださいませな。あんまりお見えにならないので、このはすッかり辛気しんきになって、この通りなんでございますの。……いいえもう、心のうちでは、お声を聞いて、わくわくなンでございましょうが、わざとすねているんでございますよ。ほんに、待ちこがれ過ぎた女心ッてものは、ツンとしたり、泣いてみせたり……。ほほほほほ。……はいはい今すぐ階下したから御酒ごしゅでも支度してまいりますから」
 あとはあとのこと。二人だけでおけばどうにかなるだろう。閻婆えんばずるい眼つきを宋江の姿にわして、するりと階下したへ抜けてしまう。
 部屋には螺鈿らでんぢらしの塗卓ぬりたくあけ椅子いす。百花模様のとばりで室の半ぶんを仕切り、奥に片寄せて寝台が見える。
 衣桁いこうの下には、脱ぎっ放しの絹の寝衣ねまきやら、刺繍枕ぬいまくらが乱れていた。すずの燭台の明りが流れている床に、珠の釵子かざしが一本落ちているのを、宋江もチラと見た風だし、婆惜ばしゃくもはっと気がついた。彼女はついとそれを拾って、髪の根にし込みながら、
「いらッしゃいまし。……どこで召し上がったの。いいお色ネ」
「ちょっと役署の友人と会ってね」
「あら、なにもお役署の友達なら、毎日お役署で会ってるんでしょ」
「ははは。どうでもよかろう、そんなことは」
「そうねえ、どうでもいいわ」
 そこへ閻婆がさっそく酒を運んで来る。婆は娘の仏頂面ぶっちょうづらに気をつかいながら、おしゃくして、
「女の虫ッ気って、ほんとにもう、自分でさえどうにもならないもンなのでございますよ。今夜はひとつ……ほほほほほ、だんなの男の腕にかけて、このの虫のおさまるような得心とくしんをさせてやってくださいませな。……さ、もうお一杯ひとつ
「なにか知らんが、たいへん、ご機嫌が悪そうだな。よしよし、婆惜ばしゃくには、私が酌をしてやろう。おい取らないか、杯を」
「……じゃあ、だんな、あとはおよろしく。……あとからまた沢山、お料理を持ち運んでまいりますからね」
 逃げるように閻婆えんばは出て行く。――宋江もくだらなくなって、ともに席を蹴って出て行こうとしたが、一ト足先に出た閻婆が、カチャリと外からじょうをおろしてしまった。しまったと思ったが、もう間に合わない。
 台所へ入った閻婆は、鶏の肉をほぐしたり、かまどの火を見たりしながら、内心、舌を出していた。男と女とは、窒塞ちっそくする場所へ一ツに入れておけば自然なるようになるものというのが婆の哲学だった。やがてあぶり肉やあつものも出来、飴煮あめにも皿に盛られ、婆はほどよいころと、料理ばんを持って、二階部屋をそっと開けた。……ところがである、婆の哲学は、案に相違していた。
「…………」
 見れば、どっちも黙りこくって、じっと向いあっているだけのことだった。――呆れた! という顔つきで、閻婆はわざと大きく笑った。
「ま! どうしたの、だんなもこのも、まるで花聟はなむこ花嫁さんだよ。いいえ、この頃の新郎新婦はもっとひらけていますとさ! さあ、これへおはしでもつけて」
 また、婆さんのしゃくである。げば飲む宋江だった。酔わせるに限るとしてか、たてつづけに閻婆はぐ。――そのうちに、
いでよ、おっさん」
 と、婆惜も杯を持った。閻婆はやれやれと思ってか、
「そうれごらんな。やっぱり、おなかのなかでは欲しいんだろ。さあおあがり」
「なにいってんのさ、ひとの気も知らないで。やけ酒よ、これは」
「だんな、やっと、こののしんねりむっつりが解けましたよ。だんなだって、殿方じゃござんせぬか。ちっとはその、女ごころにもなって、なンとかしておやんなさいましなねえ。……おっと、あとのお料理が焦げつくかもしれない」
 またはずして、厨房かってに戻り、腰を叩いて、
「ああ、なんていう世話のやけるだんつくだろう」
 と、つぶやいた。
 それからまた、かなりな時間をおいてから、もう何とかなったじぶんと、抜き足差し足、上がって来てみた。しかし座景は変っていない。依然たるにらめッ子。……ただ婆惜の蘭瞼らんけんがほんのりと酒に染まり、宋江も酔って沈湎ちんめんといるだけだった。いや夜も更けたし、宋江は帰るに家も遠く、進退きわまったともいえばいえる姿であった。
 すると誰なのか、こんな深夜なのに、階下からとんとんとんと上がってくる跫音あしおとがして、
押司おうしさんは、ここにおいでですかい」
 と扉を叩く者があった。

「なんだえ、まあこの人は?」
 内から扉を開けて、男の前に立ちはだかった閻婆えんばは頭ごなしに、がなりつけた。
「――だれかと思ったら、おまえは漬物屋の唐牛児とうぎゅうじじゃないの。人の家へ断りなしに入ってくるなンて、泥棒のするこったよ。なにサ馴々なれなれしそうに」
「泥棒とはひどい。なにも黙って入ってきたわけじゃあねえ。階下したでさんざん、今晩は今晩は、といってみたが、返辞がねえから、あかりを見て、神妙に訊きに来たばかりじゃねえか。……ちょっと、旦那にお顔を貸してもらいてえんだ」
「おまえの旦那って、誰さ」
「いわずと知れた押司おうしさまだ。宋公明及時雨きゅうじうさまは、常日頃、おれの恩人とも親分とも思っているお方だが、どうしてもまた、お助けを仰がなくっちゃならねえ始末で、宋家村そうかそんのおやしきから町中を尋ね廻って、やっと探しあててきたわけさ。あ、いるネ旦那、そこにいらっしゃる旦那」
「オ……唐牛児か」
 宋江も声を聞いて、椅子いすを立ちかけた。
 思うらく――これは飛んだいい奴が舞い込んで来たもの――。市井の小輩、日ごろなら顔見るたびに小費こづかいセビリばかりする厄介者だが、時にとっては天来の救い。これをしおに、牛児を連れて、この場のヤリきれない泥沼から、ていよく外へ出て行こうとしたのである。
 だが、そこは勘のいい海千婆さんのこと。扉口へ立った宋江の体を、何のかのと、花言巧語のありッたけを尽して、元の座へ押し戻しておき、そしてまた、漬物屋の牛児へ向って、
「いけない、いけない。さア、出なよ、出なよ。図ウ図ウしいったらないね、お前は」
「おっ……な、なんだって人を突き飛ばしゃあがるんだ。おらあ、牝豚めすぶたに用があって来たんじゃねえぜ。旦那にちょっと」
「それが虫のいい無頼漢ごろんぼう科白せりふというものさ。いいかい。日ごろご厄介になっている恩人様が、たまにこうして、世間離れてシッポリとたのしんでいらっしゃるのにさ、何だって、お愉しみの邪魔をするのだい。さ、階下したへ降りなよ、降りなってばさ」
「あっ、あぶねえ」
見損みそこなッちゃいけないよ」
 と閻婆えんばは、酒の酔いにまかせて、いきなり唐牛児の横っ面へ、ぴしゃっと一つお見舞い申した。
 宋江のてまえ、多少ひるんでいた牛児も、こうなっては腕をくッて、居直らざるをえない。とつぜん、どたんと家鳴りがしたのは、こんどは婆さんのほうが、壁の下に大きな尻もちでもついたらしい。取ッ組み合いが始まった。しかし婆さんの毒舌と腕力もなかなかである。とうとう唐牛児もを巻いて、
「死に損ないのどら猫め。覚えてやがれ」
 と、捨て科白ぜりふを吐いて、どうやら露地から往来の方へ逃げ失せてしまった様子。
 水瓶みずがめの水を柄杓ひしゃくからがぶがぶ呑んで、ひと息入れると、婆さんはすぐもとの二階部屋へあがって来た。そしていよいよチーンと冴えらけている娘と宋江の仲を笑って、さらにペチャクチャりなし言に努めたり、また寝室の帳台を開けて、そこの香炉こうろに、春情こうべたりした。
「さあ……枕も二つ、こう鴛鴦おしどりに並べておきますからね。娘や。まあおまえも、いつまでそんなにねているのさ。夜が明けてしまうじゃないか。可愛い殿御とのごをおとこへ寝せて、もすこし色ようしてお上げなねえ」
 遊廓にむかし遣手婆やりてばばというものがあった。まさにそんな呼吸をよくのみこんでいる閻婆えんばしぐさ。宋江は居るに苦しく帰るに帰れず、ただ理性と凡情と、そして瞋恚しんいほむらに、てんめんたるまま、あやしき老猫ろうびょう美猫びびょうの魔力に、うつつをなぶられているのみだった。
「ね、だんな、お気色を直して、もうおやすみなさいましてはいかがですえ。娘や、おまえも、たんまりと愉しみなよ。そして朝になってごらん。女ってえものは、すっかり気鬱きふさぎ病なんかなおってしまっているものさね。……ほほほ」
 二つの灯りのうち、小さい寝室の蘭燈らんとうだけを残して、閻婆えんばはふッと灯を吹き消し、やがてコトコト階下へ沈んでしまった。
 あとの二階部屋は、青白いうみになった。窓からす残月が町屋根を黒々浮かしている。初夏ながら肌さむい。星が飛ぶのがスーと見えた。
 悪酔いしたにちがいない。ころして飲んだ酒がツーンと宋江のこめかみにうずく。――宋江はふと思った。「……婆惜ばしゃくと張三の仲はどうも怪しいが、といって見とどけたわけでもない。そうだ、女がどんな風におれに接するか、そしらぬ振りで見てやろう」と。
 そもそも、これが宋江によく出来る芸か否か。――みれば、婆惜はすでに、着た物を脱がず、刺繍ぬいの枕にふて寝のすがただ。ふて寝とあるからには後ろ向き。まるっこいお尻はもう宵のくち情夫おとこの張三の甘美するにまかせて、なお飽かない不足をぷっと怒っている恰好といえようか。さあれ、その艶姿は、海棠かいどうが持ち前の色を燃やし、芙蓉ふようが葉陰にとげを持ったようでなお悩ましい。いってみれば、これや裏店うらだな楊貴妃ようきひともいえようか。あたりにくらぶべき絢爛けんらんがないだけに、その妖姿はよけいにみだらな美を独り誇ってみえる。
 いまいましいし、宋江の性情としては、なんとも屈辱的な気がされたが、彼もかぶり物をとって帳台わきの小卓におき、するりと脱いだ上衣うわぎをも衣桁いこうへかけた。
「…………」
 彼女はこっちを見向きもしない。けれど、かそけき気配もじつは全身で聞いているのがこのたちの女の常である。「……小面憎こづらにくさよ」と、宋江はその姿態しなを見すえながら、白い絹足袋をぬぎ、帯を解き、そしてふところの書類ばさみと紙入れとを、小卓の上におこうとしたとき、ことんと、ゆかの上に何かを取り落した。
 ひと振りの短刀と、宵に、劉唐りゅうとうから受けておいた十両の封金とだった。――そしてあのときの晁蓋ちょうがいの手紙は、ついまだ読むひまもなく書類挟みに入れてあるので、それらを大事にまとめて、寝台の細い手欄てすりへ掛けておく。――そしてさて、蒲団ふとんの中へ身を入れかけたが、やはり男として、おいそれと女の背を拝して横になる気にはなれない。女の寝姿とは逆に向いて、その足のほうから体を入れ、女の背と肩の辺へ両足をやって、夜具のすそをそっとかぶった。

ふと我れに返る生姜湯しょうがとうの灯も、
せつな我れを失う寝刃ねたばの闇のこと


 かたちでは、眠りについたが、宋江そうこう婆惜ばしゃくも、じつはまんじりともしていない。男女の体は電体のものだろうか。けあえば血は一つにながれる。だが闘えばバチバチと音もない青い火花を発しる。「……畜生」とお互いのうち、いよいよぎすまされるばかりだった。
 そのうちに「……ク、ク、ク」と、女が笑った。冷侮れいぶ氷刃ひょうじんのごときものだ。宋江はかっと蒲団ふとんのうちで熱くなった。女は、もひとつ体をかためて、じゃけんに宋江の足さきを、うるさそうに肩で払った。「……ちッ」と舌打ちしたのも聞えた。でもまだ宋江はこらえていた。かえって、わが愚があわれまれた。何をか好んで物ずきに、かかる売女ばいたの侮辱を忍んでいなければならないのか――と。
「ええもう、寝ぐるしい」
 再度、女がつぶやいたのをッかけに、彼はバッと蒲団をねて脱け出していた。女の白い足がとたんにむきだされたので、反射的に婆惜も壁へ向ったまま叫び出した。
「なにするのッ、イヤな人ね! ほんとにもう!」
「おまえこそ。なにを笑うんだ、ばかにすなっ」
「いけないの。おかしいからよ。そんな男ッて、あるかしら。男なの、あんた」
「言ったな。婆惜。もう来ない!」
「おお、うれしい。決して、おひき止めなんかしませんわよ」
 宋江は耳朶じだの辺に、じんとつちがねを打たれたような鈍痛を感じた。ぐらとしてくる。下袴したばかまをはくのも帯を締めたのも夢中だった。両手で扉を突くやいな、どどどと階段を降りて行った。
「……あらっ、だんな。どうなすったんですよ、だんなってば」
 後ろに閻婆えんばの仰山な声は聞えたが、一をくれる余裕もなかった。そこの横丁から盗児のごとく逃げ出していたのである。町はとっくに丑満うしみつ過ぎ、人ッ子ひとり往来の影もない。
 すると四ツ辻に、ぽちと赤く、露灯かんてらの灯が見えた。それは夜ッぴての遊蕩客あそびきゃくのためにある夜通し屋の一で、生姜湯しょうがとう売りの王じいさんだ。ひょいと見かけて。
「おやおや、押司おうしさまではございませんか。お役署御用で、夜明かしでもなすったんで」
「なあに、友達の家で少し飲み過ぎてね、つい家へ帰りそびれたのさ」
「酔いざましには、二陳湯ちんとうなどいいもンでございますが」
「そうだ、一杯もらおう。……おっと、ありがとう、いつもよくかせぐなあ、爺さん」
「お蔭さんで、正直に働いておりますせいか、皆さんから、ご贔屓ひいきにしていただいておりまするで」
「考えてみると、役署勤めの深夜には、こうして、爺さんの梅子湯ばいしとうやら生姜湯しょうがとうなどに、ずいぶん長年のあいだあたためられてきたなあ。そしていつもお前さんは、代金も取ってくれない」
「なんの、押司おうしさま。当りまえでございますよ」
「どうしてね?」
「だって、しがない私どもが、こうして真面目まじめにやっていけるのも、旦那がたお役人が、寝る眼も寝ず、悪い奴に悪いことをさせねえように守っていて下さるからこそで」
「ああそういわれちゃあ、面目ないよ」
「どういたしまして、まったく警邏けいらのお蔭さんでございますよ。こうして、町の衆が、夜を安楽に寝ていられますのもね」
「そうそう、思い出したよ、爺さん」
「へい、なんでございますえ」
「いつかおまえに、何か望みはないかと訊いてやったら、人並みに棺桶かんおけぐらいは買って備えておきたいと言ったッけ。よろしい。その棺桶はわしが買ってやると約束したことがあるなあ」
「よくお覚えおきくださいました。……それやもう、ぶんに過ぎた望みか存じませんが、もしそれがかなうなら、来世は馬にも驢馬ろばにもなって、ご恩報じをいたしまするで」
 王爺さんは、さびしげに笑った。――宋朝そうちょうその頃の風習として、生前に自分の棺桶を買って家にそなえて置くことが、老後の人の最大な美風とされていたからだった。
 ふと。宋江は今、この王爺さんに、それを買ってやるといった旧約を思い出したのである。余りな自己嫌厭けんえん慚愧ざんきのあとでは、人間はふと、他の人間の中に“真”を求めたり美徳のまねごとでもして自己の救いに置き代えてみたくなるものらしい。――で、宋江は、しきりに懐中をさぐり出した。心なく劉唐りゅうとうから受けておいたあの十両。
 あれを、王爺さんの棺桶代にめぐんでやろう、という気もちからだった。
「……おや。……はてな。たしかに手紙は書類挟みに。……金も一しょにしていたはずだが」
「押司さま。なにも急に、今でなくても」
「……いや、待ってくれよ。……やや、こいつは」
「いつだっておよろしいんですよ。このじいの棺桶などは」
「いや、しまった! なんとその棺桶は、自分の使い物になるかもしれん。こうしちゃあいられない。――爺さん、じつはよそであわを食って、その金包み以外、大事な物まで置き忘れて来たんだ。宋江嘘はいわん。きっと後日買ってやるからな」
 言い捨てるやいな、彼は疾風のように元の道のほうへ引っ返し、婆惜ばしゃくの家のある横丁へ馳けもどって行った。

「……いい気味だ、あんなやつ。これで清々せいせいと、あしたの昼まで寝てられるわよ」
 さきに宋江が憤然として帰った後。――婆惜はいちど起き直って、薄衣うすものを解き、裙子はかまのひもから下の物まで脱いで、蒲団を払い、
「嫌だとなると、同じ男でも、こんなものかしら。いちどあいつが寝た蒲団だとおもうと、このぬくみやら匂いまでいやらしい」
 と、ばたばたさせて、二つの枕の一つまでを、部屋のすみへ放りなげた。
 そして、おや? と気がついた風である。
 寝台の手欄てすりへと、彼女の白い手が走った。蜀江織しょっこうおりの薄むらさきの鸞帯らんたい――つまり大事な物入れとして肌身につけておく腹おび――に、かんざしにでもなりそうな翡翠玉ひすいだま瑪瑙めのうの付いたくくひもが、たらりと、それにかかっている。
「……ああわかった。目玉に油を塗られたトンボみたいに、あのくろ宋江そうこうのあだ名の一つ)が、きりきり舞いして出て行ったから、腹立ちまぎれに忘れたんだわ。……いいわねえこれ。そうだ張三ちょうさんにやって、よろこばしてやろう」
 持って寝て、寝ながら愉しげに蘭燈らんとうの明りで中を調べ初めたものである。見ると、鸞帯らんたいの中には、かの短刀、かの十両、さらに書類袋しょるいたいのうちからは、梁山泊りょうざんぱく晁蓋ちょうがいから彼に宛てた書面まで現われてきた。
 まだ封も開いてないそれを、女は小指の爪で器用にがしていった。――梁山泊がどんなところかは、三ツ児でも知っている。去年はこの土地で大捕物の騒動もあったほどだ。彼女は、息をつめて、繰り返し繰り返し読んでいた。……ところへ、みし、みしと、忍びやかに上がって来る足音だった。彼女はあわててそれらの物を鸞帯らんたい(胴巻)へおしこみ、腹の下に抱いて、そら寝入りをつかっていた。もちろん、その足音は、宋江だった。悄然しょうぜんとして、しかもに、
「……おや、見えないが。……ああわかった、婆惜ばしゃく、おまえが仕舞っておいてくれたのか」
「だれ? うるさいわね、また」
「ちょっと、起きてくれないか。忘れ物をしたのだ。それをここへ出してくれい」
「知りませんよ、そんな物」
「知らんはずはない。たった今のことだ。……あの鸞帯らんたいには、役署の書類やら大事な物が入っている。後生だ、返してくれ」
「ふふン……だ。なんでもお役署風さえ吹かせばすむと思ってるのね。婆惜はそんなお人形さんじゃありませんわよ」
「さては、鸞帯を隠したな」
「泥棒だと仰っしゃるの」
「いや、つい語気を荒くしたが、何もおまえを泥棒にする気はない」
「もちろんでしょ。泥棒とおちかしいのは、そちら様ですものねえ」
「げっ……。よ、読んだな、中の手紙を」
「あいにく、寺小屋ぐらいの読み書きは、婆惜ばしゃくまなんでいましたからね」
「たのむ! ……」と、宋江は、女の寝台のそばに片膝をついて、首をさげた。
「大きな声をしてくれるな。あの一書は、宋江には無関係な者の手紙だが、知られては、世間に誤解される。宋江の身の破滅だ……」
「あんたを賊の一味だとは思っていませんわ。けれど、梁山泊から、なんであんたに、金百両を贈ってきたのかしら。……なにか、よッぽどなことでもなくっちゃ……」
「しっ、しずかにしろ。おまえのいうこと、望むこと、何でもきくから、ここはもんくなしに、その品だけを、返してくれい。……このとおりだ、婆惜。男が頭を下げてたのむ」
「おもしろいわね。じゃあわたしのいうこと、なんでもきく?」
「きこう。きっときく」
「三つの条件があるわよ。いいこと」
「たとえ、何ヵ条の難題でも」
「いいわね、じゃあ第一に――わたしのめかけ証文をわたしに返すこと。そして張三ちょうさんのところへお嫁に行っても、一さい苦情のない一さつを入れることよ」
「よろしい」
「第二には――ここの家財道具、わたしの髪かざりまで、すべて、わたしの物よ。みんな俺が買ってやった物だなンて、野暮なもんくをいわないことね」
「それも合点だ。して、あと一条は」
「それが、たいへん、難かしそうなの。あんたに、それがけるかしら」
「どんなことか、いってみろ」
「百両、ここへ並べて頂戴。……手切れ金に」
「いまはない」
「そら、出しおしんでるくせに、梁山泊の使いから、あんた、たしかに受け取ったでしょ」
「じつは、十両だけ取って、あとは返したのだ。九十金は、後から工面しよう」
「嘘ばッかり。さ、きれいに出しておしまいなさいよ。それがいやなら、こっちも鸞帯らんたいは返さないからいい。返すもんか。どうあっても」
「返せ。なんでわしが嘘をいおう。家財道具を売り払っても、きっと数日中に持ってくる」
「じゃあ、その時の引き換えよ。なんでも現金取引きに限るわ。それとも、わたしを泥棒だといって、お白洲しらすへ突き出しますかね。わたしは、どっちでもいいの」
「なんといっても」
「くどいわねえ。この人」
「……な、婆惜」と、宋江は起って、我れをあわれむ涙につい眼を曇らせながら――「きっと、金は後から揃えて来る。な……気を直して、あれを返してくれ。おまえの気にさわったことがあるなら、わしが悪かった。あやまるよ……。婆惜」
 彼女のこわばった肩ごしに、その顔を覗き込み、必死に機嫌をとると、よけい宋江の弱味に誇った女は、その顔を、うるさげに突きのけて、
「いやよ、いやよ! わたしは、あんたのその口のにおいをいでもムカつくのよ。百両出すのが惜しければ、貰いたくもないわ。――その代り、晴れておかみからご褒美を頂戴するわ。百両の半ぶんでも、お上からなら大威張りだし……さ」
「うぬっ」
 今はとばかり、宋江のまなじりが裂けて見えた。とたんに、蒲団の下の白裸びゃくら双肩もろかたにかかった男の力で引っくりかえされ、乳ぶさの下から、鸞帯らんたいの錦、翡翠ひすいの玉が、チラと見えた。
「なにをするのッ。呶鳴どなるわよ」
「おっ、これだ! あった。これさえ返れば」
「離すもンか、死んだって」
 闘う女の真白な玉裸ぎょくらが、また無性にッ伏してそれを押し隠す。そのはずみに、短刀だけが、寝台の下にころげ落ちた。あわてて、宋江そうこうの片手が、短刀を拾い上げたのを見ると、婆惜ばしゃくは本能的に、ひーッと悲鳴を発し、つづいて、
「ひッ、人ごろしっ」
 と、ね起きた。
 その絶叫が、かえって、宋江の一瞬の狂気を呼んでしまった。――せつなに「うむッ……」とのけッた重い肌と黒髪が、宋江の顔から胸元へかけて仆れてきたとき、いつのまにか、やいばはふかく婆惜の脾腹ひばらをえぐっていたのである。ぬるい、いや熱くさえある血潮が彼の二ノ腕までまみれさせ、彼は蒼白となったおもてに、その双眼を、じっと、ふさいだままにしていた。
「…………」
 どたん、と床へ死骸を投げ出すと、大きな息を肩でついた。
 彼は手ばやく、鸞帯らんたいを肌の下に締めた。そして晁蓋ちょうがいの手紙は灯にかざして焼きすてた。それが早いか、物音に眼をさました婆が、階下から上がって来るのが早いか、間髪な差でしかなかった。
「……あっ、閻婆えんばだな」
 ふッと、蘭燈らんとうをあわてて吹き消す。しかしもう窓は明けていた。明け方の光が微かに、血のなかの海藻うみもにも似る黒髪と、白蝋びゃくろうのような死者の顔とを、無常迅速のことば通り、冷ややかに照らし出している。
「……だんなえ。今、どすんといったのは、なんの音ですかえ。夜が明けてまで、痴話ちわ喧嘩のつづきじゃしようがありませんね」
「婆か。……み、みてくれ。みろそこを」
「なんですの。まあ、らちゃくちゃない」
「……ついに、堪忍ぶくろのを切って、おまえの娘を殺してしまった」
「ごじょうだんでしょ、だんな。えんぎでもない」
「ほんとだ。……下手人のわし自身でも信じられん。だが、やってしまった。人間とは、あてにならないものだなあ。ああ、日頃の知識などは役にも立たんものだなア。おれも田夫野人でんぷやじんと何ら変るところのない物騒な人間だった」
「いやですよう、だんな。そんな妙な科白せりふを、こわい顔して仰っしゃってちゃあ」
「それ、婆。おまえのいる、そこの寝台の後ろの蔭だ。それが婆惜だ」
「ひぇッ……」と、婆は腰を抜かしかけた。がたがたと、骨ぶるいして、急に歯の根も合わぬらしい。
「……ど、ど、どうぞだんな。この婆は、おたすけなすってくださいまし。ま、まったく、むすめが、わるかったのでございますで……。ばばは、べつにもう」
「こっちこそ、ぞッと後悔したところだ。その上、おまえまでを殺すほど狂乱はしていない。ふびんなことをした。ばば、かんべんしてくれい」
「も、もッたいない。わ、わたしさえお助け下されば。……けれど、アアどうしましょうぞい。この婆は、もう喰べてはゆかれません」
「仏への追善だ。それだけは、ひきうける。一生末生まっしょう、おまえは食うに困らせぬ。……そうだ、夜が白む。はやく葬儀屋そうぎやへ行って、棺桶をあつらえて来い。そしてとなり近所へは、急病のていにでもしておいてくれ」
「よ、よろしゅうございますとも。決して、この上ご恩人のだんなへ、ご迷惑はおかけいたしません。けれど、どうぞ万端ばんたんのこと、この婆の身の行くすえは」
「ああ見てやるとも、案じるな」
「だが、だんな、もう癲動てんどうしちまって何だか物もいえません。それに、婆惜ばしゃくがお世話になっていることは、近所の衆も知っていること。葬儀屋まで、ご一しょに行ってはくださいませんでしょうか。助かります。このもまあ、あんまりわがまま育ちから、ついまアこんな……」
 ぼろぼろ泣き沈むのを見ては、宋江も胸をかきむしられるようだった。で急いで、台所で手くびなどの血糊ちのりを洗い、婆を連れて、夜明けの町へ出て行った。
 まだ朝霧の町はしんとしている。ぼつぼつ戸を開ける音や往来の車がカラカラ鳴るだけだった。横丁を出るとすぐ役署の門と大きな楊柳ようりゅうの茂みが眼につく。宋江は、後ろめたさに、
「婆。こっちから行こう」
 と、べつな横丁へわしかけた。
「あら、どうしてです、だんな。葬儀屋の陳三郎ちんさんろうはこっちですのに」
「だってまだ、起きていまい」
 婆は、眼つきを、けわしくしていた。が、神妙に後について遠廻りしたあげく、やがて町中の大通りへ出た。そのころもう店屋もあらかた開いて、往来の人通りもふえていた。わけて四ツ辻には、毎朝の朝市が立ち始めている。
「だんな……。よくやったね」
 婆はふいに立ちどまった。宋江はその眼光にぎょっとした。婆の両手の爪は自分の袖をかたくつかんでいたのであった。
「なんだ婆。ひとのたもとをつかんで」
「覚えておいでよ。……おういっ、町の衆、人殺しだよ、人殺しだよっ。……この押司おうしが、むすめの婆惜をたった今、殺しゃあがった。かたきを取ってくださいようっ」
「あっ、なにをいうか」
「ええい、この人殺し。人殺し――いッ」
「よせ、よせえるのは」
 宋江は狼狽ろうばいのあまり、両手で婆の口を抱きふさいだ。

地下室の窮鳥きゅうちょうに、再生の銅鈴どうれいが友情を告げて鳴ること


「なんだなんだ。人殺しだって」
 附近には朝市も立っている。それに軒並みの商家、往来の男女、たちまちまわりは黒山のような人だかりとなった。
 中にはすぐ飛んできた目明しの顔もみえたが、しかし、閻婆えんばに手を貸そうとする者はない。ただ怪しみながらゲラゲラ笑っているばかりである。――いかに婆さんが「こいつは、わたしの娘を殺した人殺しだ」と衆へ向って訴えても、町中知らぬはない温厚人の宋江そうこうもくして犯罪人と信じる風はちッともないのだ。かえってこれは飛んだ宋江の迷惑事と察して同情をよせ、逆に閻婆えんばの狂態を弥次やじり仆す有様だった。
 それさえあるに、不意に群集を割って飛び込んできた一人の男は、いきなり宋江の体から婆さんをもぎ離してイヤというほどその頬げたたおした。そしてたける閻婆を、もういちど蹴離しながら、
「さ、旦那。こんな気狂きちがい婆におかまいなく、早く行っておしまいなせえ。あとは唐牛児とうぎゅうじがひきうけましたから」
 と、追い立てた。
 まさにこれは宋江の平常の人徳がしからしめたもの。ことわざにも――キ人ノナンハ人ミナ惜シミ、好悪ニワザワイナキハ人ミナイブカル――とある通り、天の救いといえるものか。
 宋江は絶体絶命、眼もくらむばかりだったが、彼の声を耳にするやいな、われも覚えず脱兎のように逃げて行った。あとも見ずに姿を消す。
 だが、承知しないのは婆さんの方である。腰をさすって起き上がるやいな、
「おやっ。おまえは漬物売りの唐牛児だね。そうだ、おまえも下手人の片割れだよ、さあおいで」
「ど、どこへ来いっていうンだよ、どこへでも行ってやるが」
「知れたこと。お役署へさ!」
 閻婆えんばは、宋江の身代りに、彼の胸ぐらをつかんだまま、わいわいいって散らかる群集の間を割って、近くの県役署の門内へ入って行った。
 知事は“早暁に行われた美人ごろしの事件”と聞いて、さっそく官舎からちょうへのぼり、閻婆と唐牛児を白洲しらすにすえて、吟味ぎんみをひらいた。
 知事の時文彬じぶんぴんは仰天した。
 下手人とみられる宋江は、彼が厚く信頼もし、部下ながら尊敬すら抱いている稀れな良吏りょうりである。「……どうして宋江が?」と情けなくもあり、同時に助けてやりたい気もちのほうがいっぱいだった。
 そこで彼は、取調べも緩慢に、つとめて婆の心をいたわり、なんとか示談の方へ持ちこもうとしたが、婆はもってのほかな形相ぎょうそうをすぐ現わして、
「人を殺せば殺されるのがおかみおきて。掟どおりにあいつをしばくびにしてくんなされ」
 とばかり、ここでもたけってまばこそである。
 ぜひなくその日は一応、婆を帰宅させ、唐牛児の身は前夜のかかり合いもあるので、一時仮の牢舎へ下げた。そして何かと事件の処理は遷延せんえんさせ、その間に、宋江にとって有利なしょを見つけようとするのが、知事の腹らしかった。
 ところが、ここに、
「そうはさせぬ」
 と、躍起な活動を暗に起していた一部下があった。
 殺された美人婆惜ばしゃく情夫いろ張文遠ちょうぶんえん(張三)である。――彼はすすんで事件の捜査係を買って出、兇行現場の死体調べから近所衆の口書くちがきあつめまで手を廻していた。かつまた当夜、宋江が婆惜を刺した短刀をも提示して、
「知事。これではもう、犯人宋江の兇悪さは、疑う余地もありますまい。それにあれきり宋江は役署へも出てまいりません。悪くすると逐電ちくてんのおそれもある」
 と、小気味の悪い含み笑いをもちながら、再三にわたって知事へ逮捕たいほだんを迫った。
 張文遠にすれば、宋江は憎い女讐めがたきだし、上役ながら、日頃の余りに良い彼の評判をくつがえしてくれたい気持ちやら、またその椅子いす累進るいしんの野心なども手伝っていた。だが、知事の方でも町の者などの密告でほぼ彼の行状やら腹の中は見ぬいている。――だから、逮捕令を出せ、出すまいとする、両者の心理的葛藤かっとうは、どうしてなかなか微妙なのだ。
 とはいえ証拠品やら閻婆えんばの提訴状まで並べられては、ついに知事も折れて、
宋江逮捕
 の令状を下さずにいられなかった。しかし、それはすでに遅く、捕手の群れはやがて空しく引き揚げて来て復命した。
「はや犯人は宿所におりません。ようとして以来、姿を見ぬということです」
 すると、側で聞いていた張文遠が、俄然、青すじを立てて怒鳴った。
「そんなばかなことはない! 今頃まで日頃の下宿にいないのは当りまえだ。元来、彼奴は宋家村そうかそんの生れ。村には今も父親の宋老人と弟の宋清そうせいが一しょに住んでいる。なぜそこを突かんか。そこに潜伏しているに違いないわ」

 宋家村の宋江の実家は急襲された。
 ところが、老父の宋老人の神妙な応対と、袖の下をたんまり受けて来た捕手たちは、またも手ぶらで時文彬じぶんぴん知事に、こんな復命をもたらした。
「当主の宋老父の釈明によりますと、実家とはいえ、すでに四、五年前に家督は弟の宋清に譲ッているそうで、その宋江は、官途へ立つ身に縁類があっては私心のわずらいになるとかいって、独り宋家の戸籍を脱けておる由。……このとおり、書類の写しもこれにあり、他人同様な宋江のこと、一切知らんと申して受けつけません」
 知事はむしろ、ほっとした顔いろである。
「ふふむ、そうか。左様な証拠があるとあっては、無礙むげに老父や弟を拘引こういんもなるまい。宋江の追捕ついぶは、懸賞金をかけて、ひろく他をさがさせることにしよう」
 もちろんこれは張文遠の服従するところではない。二、三日すると、裏面から彼に突ッつかれた閻婆えんばが形相をかえて県役署へやって来た。そして知事室の外でがんがんわめきたてた。
「へん、なにが知事様かよウっ。知事面ちじづらしくさってよ。人殺しの下手人ひとり捕まえられんのかい。それも眼の前にわかりきっている悪党をさ!」
 婆は図にのッて、いよいよ声をあららげたりゆかを踏み鳴らした。
「ひとの身にもなってごらん。娘を亡くしたこの婆は、このさき誰に食わしてもらうのさ。役署で食わしてくれるかね。それも出来まいがよ。それも出来ず、犯人も捕まえず頬冠ほおかむりしていようというなら、もういいよ。婆にも婆の考えがある。――ほかの奉行所へ行って訴え出るのさ。そこでもいけなければ都へ行って、おそれながらと、大官のお輿こし直訴じきそしてでも、このかたきはきっと取ってみせずにおくもんか」
 そこへ、あわただしげに、一室から、
「まあ、まあ」
 と、婆をなだめに飛び出して来たのは、婆とはちゃんとしめし合せのついている張文遠であって、
「ともかく、今日は帰んなさい。決して役署でも事件を軽く見ているわけじゃないのだから」
 と、すったもンだをわざと演じて、やっとのように、婆を庁外へ追い出した。
 そして張文遠はすぐ、またぞろ時文彬じぶんぴんへ迫って、ついに再度のかつ大規模なる捕手の出勢を知事に余儀なくさせたのだった。
 捕手頭とりてがしらにも、こんどは名うて朱同しゅどう雷横らいおうが立ってそれを引率して行った。
 同勢は、ぐるりと宋家をとりかこみ、二人は内へ進んで宋老人へ令状を示し、
「これだ! 老人。日ごろのよしみも、悪くおもってくんなさるな。家探やさがしするぜ」
「ご苦労さまです。どうぞご自由に」
 老父はもう観念のていだった。
 二人は邸内を一巡し、やがて土蔵廊下みたいな暗い奥の間へ進んで行った。――と持仏堂がある。四壁は陰々として冷たい。一方の厚戸のかんぬきはずすと、仏具入れの長櫃ながびつがある。位置が変だ。二人がかりで横へ移す。――と、たしかに下へ降りられる穴倉の口。
 雷横はなに思ったか、
「朱同、あっちにも、変な一室がある。おまえは残って、この下を調べてくれ」
 と、眼顔のうちに、何かを語って、ぷいとそこをはずしてしまった。
 まっ暗な階段を降りると、何か顔に触る物がある。布縒ぬのよりの細綱らしい。引いてみると、りりりん……と頭の上で銅鈴どうれいがいいで鳴った。
「だれか……?」
 奥のほうから這い出してきた人影がある。じっと見れば、それなん宋江そうこうその人にちがいない。ここ久しく日の目も見ず、蒼白のおもて※(「髟/兵」、第3水準1-94-27)びんのほつれ毛も傷々いたいたしく、暗闇の中でも肩のやつれがわかるほどだった。
「や、朱同じゃないか。ああついに来たな!」
押司おうし。びっくりなさることはない。雷横も自分も、日頃のあなたは知っている。公私にわたって、多年温情をこうむっている二人が来たのだ。なんでその恩人を、縄目にかけていいものか」
「でも、それでは、お身方が役署へ対して、申し開きが相立つまい」
「なあに、どうにだって、虚構きょこうはできる。知事も内々はあなたを逃がしたいのだ。庁内でもあの張文遠のほうがよっぽど憎むべき悪人だといっている声は多い。……どうか、他国へ逃げておくんなさい。どこかお心当りはありませんか」
「かたじけない」と、宋江はしばしうなじを垂れて――「どこといって、さし当りかくたるあてもないが、思いうかぶのは第一に滄州そうしゅうの名士、小旋風しょうせんぷう柴進さいしん
「なるほど」
「第二は、青州清風寨せいふうさい小李広しょうりこう花栄かえい。――次には白虎山のご隠居と、そのご兄弟なども頼って行けば、どうにかして下さるとは思われるが」
平常ふだん、おつき合いも広いあなた。そうした先にはご心配もありますまい。とにかく早速、身仕度だけでもしておいでなさい」
 と、朱同は別れをつげて地下室から上へ戻った。そして雷横とともに、なおそこらを愚図ぐずついたあげく、一度門外へ出て、手下の捕手へわざと仰山な身振りで言った。
「宋江は早やここにはいない。邸内くまなくあらためたが何処にも見えん。あとは屋根裏と床下だけだ。念のためそこを捜せ。その間におれたちはもういちど宋老人を糺問きゅうもんしてみる」
 やがてその宋老父をらっした朱同と雷横らいおうは、いぜんの持仏堂へ入ってかたくそこを閉め、密々声をひそめ合っていたのだから、ここではどんな相談事が成り立っていたかわからない。
 捕手たちは正直に、その間、屋根裏やら床下を這い廻った。もとより何の異状もない。そうこうするうち夕方になると、宋家では、酒肉を盛って彼らを饗応きょうおうし、またそれぞれにそっと銀子ぎんすをつつんだ袖の下をまかなった。宋朝治下の上から下まで、こんなことは通例だった。雷横も酔い、朱同も酔い、ほどなく夜空の下をどっとうしおのように引揚げてしまった。
「残念でした」
 二人は、知事に復命した。
「宋江はすでにこの地におりません、事件いらい実家にも姿を見せないという老父の言はほんとでしょう。いや実家といっても、籍はけている他人同様な奴の身軽さ。どうも致し方ございません」
「む……」と、知事はもっともらしくうめいて、
「やはり他州へ逐電ちくてんときまったか。最初から宋家に潜伏していると、強情ごうじょうに言い張っていたのはかの張文遠じゃ。ぜひもない。この上は、罪状触れと人相書を作成して、諸州の役署へ布達しておけ」
 知事はしたり顔である。常套じょうとう的な公式の手続きを運ばす一方、ひそかに朱同から、張文遠と閻婆えんばを裏からなだめさせた。
 内心、張にも痛いすねがある。
 自分と宋江のいきさつについて、部内にはヒソヒソ声があるふうだし、婆さんはすぐ金にころぶ。痛しかゆしだ。このうえ下手にごねてみずから現職の地位を失うよりはと、彼もそこは利にさとく、軟化の色をやがて見せた。
 こうして、とにかく“婆惜ばしゃく殺し一件”は、※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)城県署うんじょうけんしょのあぶない網の目から、ひろく懸賞金付きで諸州布令ぶれとなり、そして、時の無数な波紋のうちの小波紋として、いつか見送られて過ぎたものだった。

宋江、小旋風しょうせんぷうの門を叩くこと。
ならびに瘧病おこりやみの男と会う事


 暁の星が白っぽく、旧家の池の枯れはすに風もない。一葉一葉と落ちる梧桐きりの木に、いつも来て歌う鳥の音も、今朝は何か宋家の父子のはらわたには、み入るような悲しみがある。
「気をつけて行けよ。あとのことは案じるなよ」
 宋老父は、老いの眼に、涙をためて、この朝、二人の子を、家の裏門から小雨のような霧の小道へ見送った。
 宋江そうこうとそして、その弟の宋清そうせいとをである。
 宋清は罪もないので、「家に残って、老父の余生に孝養をつくしてくれ」と宋江は言ったのだが、老父は「いやいや、いつまた、知事が代って、再吟味されまいものではなし、また、今の世相せそうはあてにもならぬ。こんな旧家を持ち支えるため、宋清も、あたら一生をつぶすことはないわ。兄に従ってどこへでも行き、悔いない一生を送るがいい」と、たって共に旅立たせたものだった。
 老父の慨嘆も、理由ゆえなきではない。
 たとえば。
 宋家の内に、地下の穴蔵があったことなどもその一端をものがたっている。――当時の宋朝廷下の官吏には、奸佞かんねい讒訴ざんそ賄賂わいろ、警職の乱用、司法の私権化など、あらゆる悪が横行していたので、その弊風へいふうは、州や県の地方末端の行政面にも、そのまま醜悪を大なり小なりつつんでいた。
 したがって、宋江の就いていた押司おうしの職なども、重要なだけに、ちょっとした私意や違法の間違いを犯すと、ざんに会って、すぐ流罪るざいだの家産没取のやくにあい、その連累れんるいは、一族にまでおよぶ有様。そこで官吏の多くは、戸籍を抜いて、あらかじめ九族の難にそなえ、また、穴蔵など造って内々家産を地下にかくしておいたり、日常何かの生活にわたるまで苦心のひそむものだった。――で、
「そんな生き方はもう鬱々くさくさだ。宋清までを一生の穴蔵の番人にはさせたくない」
 というのが、いつわらざる老父の真情だったに相違ない。
「さらば、ごきげんよう。今日の不孝はおゆるしください。いつかはまた、このおわびを」
 宋江は幾たびも振り返り、宋清も名残り惜しげに、老父の影を遠くにした。この日、霧はやがて冷たい細雨と変り、県境の長い楓林ふうりんの道は、兄弟の范陽笠はんようがさ旅合羽たびがっぱをしとどに濡らした。
 二人の旅は長かった。
 日かずをかさねて、やっと辿たどりついたところは、滄州そうしゅう横海県おうかいけん小旋風しょうせんぷう柴進さいしんの門前。――かつては、かの豹子頭ひょうしとう林冲りんちゅうが、むじつの罪で滄州そうしゅうの大流刑地にひかれてゆく途中、一夜の恩をうけ、また後には、梁山泊りょうざんぱくへわたる手びきなどもして貰ったことのある――あの地方名望家柴進さいしんの門だった。
「兄さん、えらい大構えですね」
「そのはずだよ、祖先は大周皇帝のお血すじの別れ。……今の世の孟嘗君もうしょうくんともいわれているお人だからな」
 門側へ寄ってゆくと、荘丁いえのこ長屋が見える。名を告げて、あるじの在否を問うと、近村まで行って留守とのこと。
「では、ここでお待ちしようか」
 と、門前の溝川どぶかわぞいに、笠をぬいで腰を下ろしかけると、何かささやきあっていた荘丁らが来て、
「もし大切なお客様でもあると、てまえどもが叱られます。どうぞあちらのちんでお待ちなすって」
 とのこと。――ともなわれるまま庭園の四阿亭あずまやに入って、こしものや荷物を下ろし、ふたりはあるじを待っていた。
 見わたせば、庭園の広さ。桃林はかすみ、柳圃りゅうほは小さい湖をめぐり、白鵞はくがかも、雁、おしどりなどの百鳥がわが世のさまに水面を占めている。畑の童歌わらべうたがどこかに遠く、羊や馬、牛の群れまでがまるで画中の物だった。そうした一方には楼台ろうだい二座、書院や待客堂たいかくどうなども、廊から廊へ、つづいて見える。
「やあ、お待たせしました」
 彼方かなたの馬舎の横に、馬や従者をのこして大股にやって来た柴進さいしん。すでに壮丁わかものから、宋江の名は聞いていたものとみえ、ただちに、
「ともあれ、こちらへ」
 と泉楼せんろうの一客室へみちびき上げた。
 あらたまって、のり合う。名のるまではなく、いずれもその人となりその名声は熟知し合っている間なのだ。
「時に、なんとも思いがけないご来訪ですが、そもそも、こんな僻地へきちへのご旅行とは、何か、官命のご出張でもございますのか」
「いや、おあるじ、笑って下さい。じつはこの宋江は、押司おうしの職にもあるまじき大罪を犯し、県城の椅子いすや家郷の老父も捨てて、ぜひなく落ちて来た漂泊さすらい者でござりまする」
「ほう、君子くんしふうがあるといわれているあなたがですか」
「しかも、つまらぬ女にひッかかって、情痴にひとしいあやまちから」
「はははは、それは愉快だ。あなたにしてさえ、そういう色事いろごとがあったとは」
「愉快どころではありません、過失ではありましたものの、じつは女殺しのとがを犯して、諸州に人相書まで手配され、一身、置き場もない者です」
 聞くと、柴進はいよいよ相好そうごうをくずして、むしろ一そうな親しみさえ見せだした。そして宋江がやがて打明けた一切の事情にも、何ら冷たい風はなかった。
「そうですか。仔細を伺ってみれば、いよいよもって、あなたらしいご失策だ。いやしかし、これが生涯の破れか開花かは長い目で見なければわかりません。まあご安心なさい。大船に乗った気で」
 客の絶えぬ家である。客を遇すことも厚い彼だが、とくに宋江と宋清に対しては親切だった。頼みがいのある人のところへ来てやはりよかったと、二人は世間のひろさを感じながら、つい数日もすぐ過ぎていた。
 と或る日のこと。
「そうご書見ばかりでも飽きましょう。すばらしい珍味が今日は揃いましたから」
 柴進さいしんが特に心入れの宴をもうけ、その日は夜まで興に入って飲みあった。かみの悪政、下風の頽廃たいはい、男と男の胸襟きょうきんを解けば、人生如何に生くべきか、まで話はつきない。
 そんな間に、宋江そうこうはふと、
「ちょっと、失礼を」
 と、かわやへ立った。そして紙燭ししょくを借り、用をすますと、ふと夜風恋しく、べつな廊下を曲がって行った。そしてなおまた、廊づたいに暗い一室の前まで来て、何かにごつんとつまずいたものだった。
 悪いことには、そのはずみに、手の蝋燭ろうそくが、そこの暗がりで背を丸くしていた男のくびすじへでも落ちたらしい。男はふいに、
「アっ……」
 と大げさに跳び上がり、やにわに宋江の胸ぐらつかんで突ッかかった。
「眼はねえのか、この野郎っ」

 驚いたのは、宋江の方だって同じである。
 こんな暗い廊下で、かがんでいる奴もないものだと思ったが、客の身として、平身低頭、び入った。
 だが、聞かばこそ。
 男はわめきにわめきつづける。
「てめえもここの居候いそうろうか。いやにもっとづらしていやがって、見ろッ、俺のくびッ玉に火ぶくれが出来たろう。てめえのつらを蝋燭でいぶしてやるからそこへ坐れっ。……なに、気がつかなかったと。ふざけるな。おこりは俺の持病なんだ。この持病の苦しみを、いちいち他人へことわッてから寝ろというのか」
 この騒ぎに、家人も騒ぎ出し、やがて柴進さいしん自身、何事かと飛んで来た。
「まあまあ」と、彼はおこりの男をなだめ、
「――おまえさん、昨日から体の調子がわるいというんで、今日も酒の座に誘わなかったが、そんなに怒れるおこりなら、なにも大したことはあるまい。とにかく奥へ一しょにやって来ないか」
 と、もとの酒席へともなって来た。そして及時雨きゅうじう宋江と、弟の宋清そうせいとを、あらためてそこで紹介したのである。
 聞くやいな、男ははるかに飛び退しさって、まえの気色けしきもどこへやら平伏したまま、しばしはおもても上げえない。
「なんともはや面目次第もございません。世上、よくお名は伺っておりました。その及時雨宋公明さまが、あなた様とは、まったくもって、夢にも知らないでいたしたこと。どうか最前の悪タレはひらにご用捨くださいまし」
 わきの下に冷や汗をたたえているような詫び方だった。
「ご主人」
 と、宋江は静かにかえりみて訊ねた。
「いったい此方こなたはご家人かじんか、それともご当家の食客か」
「なあに旅人たびにんですよ。といっても、もう一年近くも家人同様に、わがままをいっている気楽者きらくもンでございますがね」
「申しおくれました。名のるほどの者ではござんせんが」と、男もあわてて、同時にこう行儀をした。
「――てまえは清河県せいかけんの生れ、苗字を、名をしょうと申し、兄弟順では二番目の武二郎ぶじろうでございまする」
「ほ。清河県の武二郎、その武松ぶしょうさんとは――あなたですか。いやこれは奇遇、かねがねこの宋江も、お名まえだけは伺っていました」
「てまえ如きが、お耳にあったとは、いよいよもって、赤面至極です」
「が、武松どの。当所にはどういうわけでご逗留かな」
「どうも至ってやくざな身性みしょうで、故郷くにの清河県でちょっとした喧嘩でいりをやり、そのため、草鞋わらじをはいて、ここの大旦那のご庇護ひごにあずかり、もう故郷のほとぼりも冷めた頃なので、近くおいとまをと思っていると、持病のおこり。それでついまた、お厄介を重ねていたところでございます」
「では、おこりが取り持つご縁だったか」
襟首えりくび蝋燭ろうそく焼きなんてものは、瘧にくもンでございましょうかね」
「ほ。どうして」
「なんだか、けろりとしてしまいましたよ」
「はははは。そいつあ奇妙だ」
 満座は腹を抱えて笑い、さらに杯盤はいばんを新たにして、男と男の心胆をそそぎ合う酒幾。やがて鶏鳴けいめいまで聞いてしまった。
 こんなことから、宋江、宋清も日々を愉しく過ごし、武松もまたつい旅立ちをのばして、その交わりを深めていたが、
故郷くににのこした兄貴が気がかり、どうして暮らしているのやら、いちど兄貴のこの頃も見ておきたい気がしきりにしますので」
 と、武松は或る日、急に暇を告げだした。
「まあ、待ちなさい、明日あす一日は」
 と、柴進さいしんは彼への餞別せんべつをかねて、倉の中から秘蔵の織物一巻を取り出し、それを三つに裂いて、一は宋江の衣裳に、二には宋清に、次には武松への旅の晴れ衣に仕立てさせた。
 はるか西の沙漠さばくを越えて輸入されたすばらしく新鮮な色感と匂いのするそれは布地だった。それを着て、白紫びゃくし縞脚絆しまきゃはんに、緋房ひぶさの垂れた黒の乾漆笠かんしつがさをかぶり、野太刀をっ込み、かしの一棒を手に、武松は、
「いずれぜひまた、お目にかからせていただきますが、ひとまずは、長いご厄介と、思わぬお方へお目にかかったお礼をのべ、ちょっくら故郷くにへ行ってまいります」
 と、その日、清々すがすがしい別れをんで、恩家柴進さいしんの門を立って行った。
 宋江のことは一応おいて。――ここで旅の武松の姿を追って行くと、彼の大股は濶達かったつそのもの。日をへて、すでに陽穀県ようこくけんの一山の裾にさしかかっている。
「おや、何だと?」
 立ちどまった酒屋のかど制札せいさつまがいの看板を読めば、
ワンニシテオカ不過スギズ
 と書いてある。
「亭主、一杯くれ。面倒だから大きなで」
「へい、いらっしゃい」
 猪肉ししか牛肉のくし刺しが付いているのを見ると、
「おいおい、こんな物じゃ腹の足しにならねえよ。あぶらのいいところ、二きんほど、こってり煮込んだとこを持ってこいや」
「たいそうおけになりますな」
「ヘンなつらするない。飲むほど売れ、売れるほど商売になるンじゃねえか」
「ところが、てまえどもの酒は、看板にいつわりなしの上々の吟醸ぎんじょう。コクのある地酒ってんで評判物です。どうかそのおつもりでお過ごしを」
「あの判じ物みてえの看板がみそかい」
みそじゃございませんよ、銘酒の一本という意味です。つまり三杯も飲むと、この先の丘も越えられなくなるほど廻るンで」
「ふ、ふ、ふ。おかしいぜ、おれはもうとうに三杯やってるが」
「旦那はどうかしていなさる。こんなお客って見たことがない」
「冗談いうな。俺が飲むのはこれからだよ。もう三わん並べておけ」
 それも飲み干し、あきれる亭主を尻目に、
「おいっ、もう三碗」
「げっ。……ま、お止しなすっちゃいかがですえ」
「俺を、ただ飲みして逃げる男とでも思っているのか」
 銀子ぎんすをそこに並べ、さらに肉を食らい、こうの物をばりばり噛みながら、やがてやおら、
「ああすこしいい気もちになった。これが三碗ニシテ丘ヲ越エズの酒か。高価たかいものにつきゃあがった」
 と、棒を片手に、ぶらんと軒を離れて行った。
 すると、彼の後を追って来た亭主が呼んだ。
「もし旅の衆、旅の衆。どっちへ行かっしゃる」
「なにをいッてやがる。向いてる方へ向いて行くしかねえじゃねえか」
「そっちへ行っては、景陽岡けいようこうにかかりますぜ」
「それが、どうしたと」
途々みちみち、おかみ高札こうさつが目にとまりませんでしたかえ。近ごろ景陽岡には、ひたいの白い大虎があらわれて、たびたび往来の旅人や土地ところの者さえ食い殺されていますんでね」
「ふウむ。虎ッてえなあ、おめえんとこの店でよく暴れる奴のことじゃねえのか」
「ちッ、真顔まがおで聞いておくんなさいよ。親切気でお止めしているんですぜ。命がらないわけじゃありますまい」
「といったッて、清河県せいかけんへ行くには、このとうげを越さずにゃ行けねえ」
「だから峠先きへ行く道づれを待って、二、三十人になったら、松明たいまつを先頭に、わいわいはやしながら押し通ることにしているんでさ。――お上の高札にも、夜明け、明け方、ひるでも一人歩きはならぬと、辻々に書いてあるじゃございませんか」
「そうだったかなあ。俺は見なかった。どウれ、それじゃあ虎が虎にご見参と出かけようか」
「あれっ、強情ッ張りだな。旦那、旦那。食われたって知りませんぜ」
「おれが食われたら、骨はきさまにくれてやる。茶代に取っておけよ。はははは」
 彼の笑い声は、もうふもと木暗こくらがりへ入っている。亭主は耳をおさえて舞い戻った。

景陽岡けいようこうの虎、武松ぶしょうを英雄の輿こしに祭り上げること


 麓道ふもとみち二十町ほど行くと、鬱蒼うっそうたる山神廟さんじんびょうの一地域がある。
 そこからが、景陽岡けいようこうの峠路だった。
 武松ぶしょうが酒屋を出たころは、まだひるさがりまもなくだったが、蹌々踉々そうそうろうろうの足どりのまに、いつか千古の樹林の先が血みたいな夕陽に染まり、そのくせ足もとはもう陰々とほの暗い。
「ははあ、こいつだな。県の告示ってえのは」
 見れば、高札こうさつにいわく。
 近来、巨虎キョコ、峠ニ現ワレ、頻々ヒンピントシテ人命ニ害ヲナス。官民、捕殺ニ力ヲアワストイエドモ、虎爪コソウ血ニ飽カズ、惨害日ニ増スノミナリ。単身ノ旅ハツツシミ、近辺ノ民モソレ心セヨ
陽穀県告示
「なあるほど! ……。こいつあまずい、すこし背すじが涼しくなってきやがったぞ」
 しかし、ままよといった風な武松の姿である。或いは酔中朦朧もうろうの一興と逆にたのしんでいたことかもわからない。
 とっぷり暮れた。峠も三合目あたりである。虎のひとみのごとき半月が脚下の谷にあった。なお酔いはある。足がだるい。
「……虎よりは、こんなとき、またおこりが起らなけれやいいが」
 やっといただきに近づいた。と見る、疎林そりんの中の杣道そまみちに、青い巨大な平石がある。武松は笠をぬいで仰向けに転がった。寝るつもりでもなかったが酔余すいよこころよさ、いつかすっかり寝こんでしまったものである。
 どこからかす半月の月光は、この巨漢の姿とりんたる相貌を、石の表に陽刻ようこくした一個の武人像のようにつゆめかせていた。年は二十六、七を出ず、唇あかく、※(「髟/兵」、第3水準1-94-27)びんはややちぢれ気味、じてはいてもまなこは不敵なものを蔵し、はやくも雷のごとき高いびき。
 ――まさにこれもまた、かりの地上に宿命して、清河県せいかけん市井しせいに一侠児として生れた、百八星中の一つのまがつ星のさがなるものにちがいあるまい。
 ――するとやがて、がさッとかそけき木揺こゆらぎがしたようだった。天地はせきとし、およそ鳥けもの、地虫の類までが一瞬、しいんとひそまった感じである。それもそのはず、葉れをそよがしつつ、のそ、のそ、と巨大な身躯しんくに背うねりを見せながら近づいて来る生き物がある。満身は金毛黒斑きんもうこくふ、針のごとき鼻端びたんの毛と、鏡のような双眸そうぼうは、
 くん! ぶるる…… ぶウっ……
 と人間の香をぎ知って、しきりに異様な戦意と欲情の昂奮を、尾さきにも描いている。
 が、虎も怪しみを抱いたにちがいない。獣王はそのりっぱな体躯に似合わず、どこか小心恟々きょうきょうとして平石のぐるりを何度も大股にめぐり出した。そして、武松の顔の辺で、ゴロ、とのどを鳴らし、前肢ぜんしを突っ張ったせつな、今にも何かの行動に出そうな爪牙そうがの姿勢をピクと見せた。けれど、虎はそれにも出なかった。とたんに、ふと眼をさました武松ぶしょうの眼と虎の眼とが、そのとき、らんらんとめあっていたのである。武松は内心ギョッとしたが、石その物のように身じろぎもせず、虎を睨めすえたものだった。
 どう思ったか、虎はまた平石を巡りまわる。同時にその尾をうかがって、武松もむくりと突っ立った。虎は性来、敵が尾へ廻ることはおよそ嫌いだ。うしろは彼がもっとも弱点とする急所なのである。だから怒った。ばっと一躍するなり武松をッた。
「おうッ」
 と、武松は身を沈め、次の攻勢もスラと軽くかわした。すると虎ははずされた体をまるくちぢめ、背すじの峰を高めて、ふうッとうなった。そのなまぐさい鼻風びふう砂礫されきを飛ばし、怒りは金瞳きんどうに燃え、第三の跳躍をみせるやいな、武松のからだを、まッ赤な口と、四ツ脚の爪の下に、引ッ裂かんとしたが、これまた武松にかわされると、彼のさいごの手とする素早い“払い”をこころみた。
 つ、蹴る、払う。虎の戦法はこう三つを奥の手とする。そのすべてがかないとなると、さしもの獣王も気萎きなえをするものだとか。武松は知っていたわけではないが、活眼、虎のきょを察するやいな、こんどは彼から跳びかかった。ひたいの銀毛のを狙って、一けんを食らわせ、また二けん、鼻をち、三、虎の眼を突いた。
 虎はクシャミのような悲鳴を発した。――が、もちろん、そんな程度ではひるまない。とたんに武松の体がまりのごとく七尺も先へ転がった。転がった上へは、間髪を入れず、黄まだらうねりが尾を曳いて走り、武松のどこかをくわえたかと見えたが、逆に虎の体がもんどり打った。彼の足業あしわざは虎をして狼狽させた。しかも尻へ尻へけ廻って来る人間の素早さに、虎はクルクル自転せざるを得ず、それには虎もいささか眼がくらみ出して来たように見える。
 武松は手馴れの棒を拾って小脇に持った。棒の秘術は虎ののなかに奇異な幻覚を持たせたにちがいない。何十人もの人間の影がまわりにあって、じぶんをなぶるように見えたであろう。その猛吼もうく飛跳ひちょうも次第に弱まり、いくたびか棒をんだが、その棒テコでも苦闘に落ちる。武松は迫って、また白額しろびたいの毛の根をつかみ、十二十打の鉄拳をつづけさまにくだした。虎は目鼻から血をき出す。うめきは全山を震撼しんかんする。さらに蹴る。打ちに打ちのめす。苦しさの余り虎は腹の下の土を掘った、虎のからだの両側に小山ができる……。ついに、みずから掘ったそのあなに虎はがくんと躯体を鼻をついた。
 武松もまた、ぐたっとなった。大息ついたまま茫然ぼうぜんとしていたが、はっとわれに返るや短刀を抜き、虎の脾臓ひぞうしん、肺のあたりに幾太刀となく、とどめを刺した。鮮血は腕を濡らし、袖はまだらに染まった。
 ――その姿が、やがて景陽岡けいようこうを西へ越え、夜明けぢかくの道をふらふら村のほうへ降りかけていた。土地の者が怪しく見たのは当然で、
「旦那、旅のだんな……」
 三人ほどが、追ッかけて来て、彼に訊ねた。
「もし、ゆうべは、どちらからおいでになりましたえ?」
「なに、どこからだと。知れたことよ、景陽岡けいようこうを越えてきたのだ」
「へえ。虎に会いませんでしたか」
「虎か。虎はこの鉄拳で、り殺してきた」
「ご冗談を」
「冗談と笑うほどなら、なぜ訊くのだ。ばか野郎め」
 また、行きずりの猟師二人が、彼にむかって同じことを問うた。武松の返事は同じだった。が猟師は、武松のたもとの血を見て、半信半疑に峠の上へ馳けて行った。さあ大変、まもなく、虎の死体が四纏よてんからめられ、十数人の肩棒で、やッさもッさ麓へかつぎ降ろされてきた。
 村では鐘を鳴らし、板木ばんぎを叩き、一大事でもわき起ったような騒ぎである。女子供も出てくるし、鶏も羽バタキ、羊もさけび、豚もく。
「虎だ、虎だ、虎が退治されたとよ!」と呼び交わしつつ群れ集まって来る見物だった。たちまちそれは村道を人の山で埋めてしまう。
 また、急を知って、土地ところ名主なぬし、年寄りも出て来るし、やや時をおいては、県役署の役人大勢が、馬を飛ばして馳けつけて来た。そして名主や猟師らを呼び集め、何事か訊問していたが、
「なんと申す。では虎を退治いたした者は、そのほうらではなくて、旅の者か。しかも若い旅人ただ一人で打ち殺したと申すのか。どえらい人間もあったものだ。……して、して、その者は一体どこにおるか」
「それが、ふもとへ下ってから、どこへ行ったやら、見あたりませんので」
「なに、見当らんと。まさか何かの化身けしんでもなかろう。探せ探せ、まだ遠くへは行っていまい」

 武松はくたくたな姿である。村端れの居酒屋のすみで、正体もなく眠っていたのだ。ここでもき腹へ一杯あおったに違いなく、もう欲もとくもないといった恰好だった。
「豪傑、豪傑。どうか、ちょっとその、お眼をおさましなすってください」
 急に耳もとで何かガヤガヤ騒々そうぞうしいし、しきりにゆすり起こす者があるので、武松がふと眼をあくと、県の役人やら名主やら……のみならず往来いっぱいな群集までが、
「虎退治のお客さんはあれだ。あれが虎退治の豪傑だ」
 と、まるで祭りのような騒ぎでわんわんと歓呼かんこしている。
 寝足らない眼をこすっているうちに、彼は、酒屋の軒から設けの駕籠かごに乗せられた。――見れば組み立てられたもう一台の台の上には、大虎の体が横たえてある。彼はまだ夢見心地で、
「やいやい、こんな物に、俺と虎を載せて、いったいどこへ持って行く気だよ」
 と、何度もどなった。
 役人や名主は、あたかも英雄に仕える奴僕ぬぼくのごとく、彼をうやまって、
「ともあれ、県役署までお越しねがいまする。この凶害を除いていただいた大恩人、村民はあなたを救いの神とあがめ、県知事閣下は、領下の難を救った殊勲者として、お迎えして参れとのおことばです。どうかご迷惑でも」
 と、はや担夫たんぷに命じて、虎の台と、彼の駕籠かごとをかつぎ上げさせた。駕籠手輿てごしには、晴れの紅絹もみやら花紐はなひもが掛けてある。
 列が進みかけると、群集の老若男女は、われがちに寄って来た。そして、武松ぶしょうの駕籠を目がけて五色の紙きれを花と投げた。またその膝のうちへ、羊の肉やら酒の壺やら饅頭まんじゅうなどをかわるがわるに捧げてきた。また辻では、爆竹の花火とともに、別れを惜しむ歓呼やら手振りやらで、列も行きよどむばかりである。
 さらにこのお祭り騒ぎは、その日、陽穀県ようこくけんの県城へ入っては、いよいよ白熱化されていた。もう町中も聞きつたえており、沿道はをなす人の垣である。武松は変な気持ちだった。
「……なんだいこれは。……まるで俺を帝王あつかいしていやがる」
 知事は、彼を迎えるに、賓礼ひんれいをもってした。大餐たいさんを設けて、酒席の主座にすえ、そして感謝状を読みあげた。あまっさえ、土地ところの金持ちから集まった一千貫の金を、賞として、彼に授与すると、讃辞に添えて申し述べた。
「そいつあ、ありがたいこってすが」と、武松は、あいさつに窮したようにいった。
「なにも、虎の一匹ぐらいをこぶしり殺したぐらいなことは、資本もとでのかかったわけじゃなし、たまたま、あっしが拾った道ばたの運みたいなような出来事。――どうか、お金はこれまでにくそ骨おった猟師さんやら、虎に食われた土地のあわれな遺族方にでもけてやっておくんなさい」
「それでいいのか」
 知事は彼の無欲に驚いた顔つきだった。
「へい、いいにもなんにも、それで大満足でございます」
「むむ、見上げたものだ。では金は彼らに分配してやるとして。……どうだな武松とやら、今日よりそちを県の都頭ととう(伍長)に取立てたいが、仕官の心はないか」
「ないどころじゃございませんが、じつはその、清河県の兄に会いたくて、ここまで来た旅の途中でございますんで」
「清河県なら何もここから遠くではない。つい隣県だ。いつでも会えよう。……では、書記、武松は今日から都頭に任じるぞ。さっそくその手続きをはこんでおけ」
 武松は、この出世も、事のはずみみたいな気持ちでただ「オヤオヤ」と言いたげだった。あんまりうれしそうでもない。
 四、五日は県の庁舎で身を休めていた。会う人、会う人から、祝福されたり虎退治をめそやされる。そのたび彼はむずがゆそうな顔をして、
「やあ。どうもねえ。やあ」
 とただ、頭を掻いて、がらにもなくテレるのだった。
 そうした或る一日のこと。
 庁舎を出て、用もないまま町の公園をぶらついたすえ、子供らの騒いでいる鞦韆ぶらんこのある遊び場までくると、そこの一隅に荷を下ろしていた、うすぎたない饅頭屋まんじゅうやの小男が、
「あっ。……武松じゃないか」
 と、立ったとたんに足もとの天秤棒てんびんぼうに蹴つまずき、そのまま身を泳がせるように寄って来て抱きついた。

「あれっ?」
 武松は唖然あぜんとした。いや次には、顔をみ破って、やにわに、背のずんぐり低いその饅頭屋の双肩もろかたへ両手をかけた。
「兄さんじゃないか。一体どうしたんですえ。こんな所で」
「武松よ。ああやっぱり弟の武松だったか。面目ない」
「泣きなさんな、こんな道ばたでよ。まさか兄さんがこの紫石しせき街に来ていようとは思わなかった。何か清河県の生まれ故郷に、まずいことでもあったんですかえ」
「何も悪いことなんかしてないさ」
「そうだろうなあ。自体お人よしな兄さんのことだもの。じゃあ借金のためにでも」
「うんにゃ。女房をもらったからだよ」
「女房をもらったために土地をかえたというのも、おかしなはなしじゃねえか。俺にはに落ちかねるが」
「話せばわかる。弟よ、こっちへ来てくれ。こういうわけだ」
 と、兄の武大郎ぶたろうは、彼をつれて元の位置に返り、商売物の揚げ饅頭まんじゅう荷担にないをうしろに、公園の池へ向って坐りこんだ。
 一つ腹の兄弟だったが、武松は以前から「兄貴は人がいい。おまけに醜男ぶおとこだ、体も畸形きけいだし、なんてえ気のどくな……」と、逆に、目上の兄を不愍ふびんがっている。
 だから子供のじぶんから、近所のわっぱ仲間が、
「ぶだ! ぶだ! ちんちくりんのぼろれ」
 などといって揶揄からかうと、いつも武松が怒って相手をこッぴどい目にあわせてらした。――長じて、大人になってからも、そんな例は何度もある。だから武松が草鞋わらじをはいて他県へ飛び出さない前までは、武大ぶだも人から馬鹿にされずにかばわれていた。
 ところが去年、彼の留守のまに、武大は思いがけない女房をもらう破目になった。それがしかもたいへんな美人だった。たとえば、羽衣を地におき忘れた天女がやむなく下界の下種げすの女房になったかと思われるような……潘金蓮はんきんれんという女。
 もちろん、それにはわけがある。
 元々、この金蓮という小娘は、姓をはんといい、清河県の大金持ちの家へ買われた女奴隷めどれいだったが、やがてその美が熟してくると、主人の狒々ひひ長者は、のべついやらしいことを言い寄りはじめた。女奴隷は財物なので、狒々ひひ長者の欲情視は特にふしぎなことではない。
 だが、金蓮の花芯かしんはまだそこまで開意をもっていなかった。いやがったり、泣いて逃げたり、あげくに長者の本妻へ告げてしまった。
 長者は嫉妬しっとぶかい本妻にいためつけられ、家人子供らには笑われるしで、赤恥をかいた。ために可愛さ余ッての憎さも百倍、金蓮きんれんの身は奴隷どれい仲買人の手にもやらず、彼女の持ち物だけを嫁入り支度として、これを町じゅうで小馬鹿にしている醜男ぶおとこで生活力もない評判の武大ぶだへ女房にくれてしまったのである。つまり「――一生、憂き目を見さらせ」という意趣返しだ。
 ところで、武大はお人好し。よだれを垂らして、金蓮をあがめ迎え、朝飯晩飯の支度から使い走りまで自分がやって、
「女房よ、金蓮よ」
 と、随喜渇仰ずいきかつごうの有様なのだ。そこでそのさいのろ振りがまた、さあ町じゅうのいい笑い草となった。いや岡焼きも手つだっていよう。寄れば触れば、「あの三寸男が」だの「ちんちくりんのボロれが」のと、武大の家には町中の目が見通す節穴でもあるような騒ぎだし、あげくには、
「いやはや、惜しい美肉が、犬コロの口へ落ちたもんさ」
 と、はやされたりした。
 その漫罵まんばと人々の意地悪さには、さすがの武大も耐えかねた。金蓮をつれて、とうとう生れ故郷を逃げ出し、隣県の紫石街に小世帯を持って、じぶんは毎日、揚げ饅頭まんじゅうを売りに歩いていたものだった。
「ム、そうか。……そいつあ兄さん、俺のいないまに、とんだ苦労をしなすったね。が、まアいいじゃありませんか。そんな別嬪べっぴんを女房に持ちゃあ一生の得だ。ちっとやそっと世間にかれたって仕方がねえや」
「そうだよ、武松。わしもそう思ってな、今じゃ気楽に稼いでいるのさ。女房の金蓮もほんに気だてのいい女でね」
「そりゃお仕合わせだ。ねえさんがそんないいお人なら、いちど会わせておくんなさい」
「おお会ってくれるか。まだおまえの妹みたいな若さだから、ひきあわせるのも何だかちょっと気まりがわるいが。……じゃあ、一しょにうちへ来ておくれ」
「あいにく手ぶらで、今日は何の土産みやげも持たねえが、じゃあ行きましょうか。……おっと兄さん、その荷物は俺がかついでやろう」
「だめだめ。おまえとわしとでは、荷担にないの寸法が違い過ぎるよ」
 なるほど、五尺たらずの武大。天秤てんびんの荷綱もそれに合せてある。――途中話し話し公園を出て、二人は町中を連れ立って来たが、たれもこれを同胞はらからと見た者はあるまい。知る者は、武松ばかりを振り返って、
「虎退治の豪傑だ。あれが武松だ」
 と、ささやいてはれちがって行く。
「なあ武松。わしもあの評判は聞いていたが、まさか自分の弟とは思わなかったよ。金蓮が聞いたらどんなによろこぶだろう。おれもちょっぴり鼻が高いで」
 いうまに、武大はわが家を見ていた。人通りも少ない裏町で、堀の石橋が枯れ柳にいて見え、角に一軒の茶店がある。――武大の住居すまいは、その茶店をやっている王婆さんの北隣だった。門佗かどわびしげな、一枚の芦簾あしすだれへ向って、武大が、
「女房や。お客さんを連れ戻ったぜ。そらもう珍らしいお客さんでな」
 と、外から声をかけると、とんとんとんと二階から降りて来るらしい跫音あしおとがした。同時に、ぱらと白い女のかいなが、内から芦簾あしすだれをかかげて、
「あら……お帰んなさい。まあ、どちらのお客さま?」
 と、愛相あいそのよい笑みを外へこぼした。――そしてちらと、武松の姿へ流し眼をむけた金蓮の明眸めいぼうといいその艶姿といい、はっと、男を蠱惑こわくするかのような何かがある。
 なるほど、これでは兄の武大が世間からかれたり騒がれたりして、故郷にいたたまれなくなったというのも無理はない。突嗟とっさ、武松でさえも変にまばゆいここちがした。

似ない弟に、また不似合な兄とあによめの事。
ならびに武松ぶしょう宿替やどがえすること


「さ、弟。二階へお上がり。狭いけれど誰に遠慮もない家だよ」
 巡り会った弟を連れて帰ったよろこびで、武大ぶだはただもうころころしている。さっそく女房の潘金蓮はんきんれんへも鼻高々とひきあわせた。
「ねえ金蓮。……ほら、お前にもしょッちゅう噂をしていたろ、これがあの弟だよ、長いこと旅に出ていた弟の武二郎ぶじろうさ」
「ま。こちらが弟さんですの」
 金蓮はそのしなやかな両の腕を柳の枝のように交叉こうさして、初見しょけんはいをしながら、濃い睫毛まつげかげでチラと武松の全姿を見るふうだった。――武松もまたひざまずいて、この美しいあによめ絹縢きぬかがりの可愛らしいくつの前にひたいを沈めた。
「初めてお目にかかります。途々みちみちねえさんのことは兄からも伺いました。兄は今たいそうしあわせらしく、久しぶりで会ったこの武二郎までうれしくてたまりません。それでついとつぜん一しょにお邪魔してしまいましたが」
「あら、そんなお堅いことを仰っしゃらないでください。……親身な兄さんのお家ですもの。さあ、どうぞもうお気らくに」
「金蓮、お前も評判を聞いてるだろうが、あの景陽岡けいようこうで虎退治をした人というのは、この二郎なんだぜ」
「へえ、では今、大人気な県城の都頭ととう(伍長)さんは、この弟さんだったんですか」
「違うよ金蓮。虎を退治たもんだから、県の知事さんが、無理に弟を都頭に取立てたので、弟はこの街へ来る前までは、ただの旅人たびにんだったのさ」
「どっちだって、同じもんじゃありませんか。ホホホホ、ねえ二郎さん」
 白珠しらたままごう金蓮の歯がみこぼれる。眼いッぱいな愛嬌というか一種蠱惑こわくなもの、これが自分のあによめだろうか。これが兄の妻なのか。武松にはまだ身にみてこない。
「二郎。今夜はゆっくり泊って行っておくれ。いま何か買って来て、精いッぱいご馳走を作るからな」
 兄はころころ出て行ってしまった。「――なんだ! 女房にさせりゃあいいに」と、武松は少々むくれたが、金蓮はさっきから武松にばかり見惚みとれている。
 おなじ兄弟でいながら、なんていう違いだろう。良人の武大ぶだときては、背も五尺たらずのちんちくりんでおまけに猪首いくび薄野呂うすのろで、清河県せいかけんでも一番の醜男ぶおとこと笑われていたのに、武松の身長みのたけ隆々たる筋骨は、男の中の男にも見える。どこ一つといって兄の武大とは似ていない。金蓮はひどくかれたらしい流し眼だった。
「……あの二郎さんのお宿はいま、どちらですの?」
「まだ、都頭ととうになりたてのほやほやですからね。県城の官舎に独りでおりますよ」
「ま、お独りで」
「なアに気らくなもんですよ、兵隊暮らしは」
「だって、なにかとご不自由じゃありませんの? これからは、なんでもここへ来てわがままを仰っしゃってくださいましな。ご休暇といわず、いつでも来て」
ねえさんだって、お忙しいでしょ。兄はあの通りな真正直者ましょうじきもの。清河県にいた頃から、どんで才覚なしでただ稼ぐ一方と、世間さまからもとかく小馬鹿にされ勝ちな兄でしたからね。ほんとに、嫂さんも大変に違いない。どうかお願いしますよ、あんな兄でも」
「もったいない、そんな他人行儀なんか仰っしゃらないでよ。でも、その兄さんに、あなたみたいな立派な弟様があろうとは思いませんでしたわ、ほんとに。――二郎さんはお幾歳いくつですの」
「二十五ですよ。はははは、旅の草鞋わらじもいつの間にか」
「じゃあ、わたしと二つ違いですのね」
 ひょいと、彼女のを眼にうけて、武松はいわれもなく胸がどきっとした。――そこへ階段の下から武大ぶだ魚菜ぎょさいや肉を籠いッぱい入れたのを抱えて上がりかけて来た。
「金蓮! ……。ほら、ほら、こんなに仕入れてきたぜ。市場の衆がみんなびっくりしてやがるのさ。武大さん、今日はいったい何のおめでたがあるのかネって」
「あらっ、この人ッたらまあ」
 金蓮はつい日頃の調子を出して、武大の出鼻を口汚くののしった。「――そんな物、なんだって、わざわざ二階へなぞ持って来るのよ。台所へ置いといて、料理の手伝いには、お隣の王の婆さんにでも来てもらえばいいじゃありませんか。……これですものネ、二郎さん」
 さて、その晩は、ともかく兄夫婦のもてなしに、武松もすっかり酔っぱらった。わけて金蓮のとりなしは手に入っている。武大と連れ添う前までは、さすが清河県第一の富豪の邸に飼われていた女奴隷めどれいの使女(こしもと)だけのものはあった。どうすれば男が歓ぶかを知っている。
 泊れ、泊れと、夫婦ふたりしてすすめるのを謝して、武松は深更に帰って行ったが、あくる朝、眼をさましてから、ゆうべ酒の上で兄夫婦と約束して帰ったことを思い出し、さっそく県役署の知事室へ行き、知事に会って、諒解を求めた。
「閣下、じつは偶然なんですが、この街で、久しく別れていた兄に巡り会いました。四方山よもやまの話のすえ、ってうちへ来て家から役署へ通ったらどうだと親切にいってくれるのですが、よいでしょうか」
「実兄の家に下宿して、そこから通勤したいと申すのか」
「はい、幼少から一つに育って、とかく淋しがり屋の兄だもんですから」
「よかろう。引っ越しには従卒にも手伝わせるがいい」
 一方、武大ぶだの家でも、階下の一間に寝台を入れたり壁紙を貼り代えなどして、にわかな歓迎ぶりである。やがて引っ越しの日には、荷物は少ないが、武松は従兵三人に、手車など曳かせてやって来た。近所となりでは眼をみはる――。
「じゃあ兄さん、今日からご厄介になりますぜ。ねえさんにも一つよろしくおねがいします」
 下宿もただの下宿屋と違う。これから一つ屋根の下ぞと思うと兄弟久々に愉しげである。武松は日をいて、隣近所の衆を茶菓で招き、また、あによめの金蓮には、緞子どんす反物たんものをみやげに贈った。――和気藹々あいあいたる四、五日だった。
 さて、おちつけば、武大は毎日、荷担にないをかついで例の饅頭まんじゅう売りに出かけ、武松もきちんきちんと県役署へ出勤して行く。……だがしがない饅頭売りのほうはどうしても朝は早いし帰りはおそい。自然、狭い家には金蓮と武松のただ二人だけの時がまま多かった。

 潘金蓮はんきんれんは、めッきり綺麗になりだした。
 女の中の秘密がかもされて色となり美となって女のれをみせてくる生理には何か凄いものがある。朝夕の化粧や身飾りもそれをみがいているが、皮膚そのものの下にいつもほのかな情炎の血をともし、ぬめやかな凝脂ぎょうしは常にねっとりとその白い肌目きめからも毛穴からも男をそそる美味のような女香にょこうをたえず発散する。
「……あ、ねえさん。毎朝、顔を洗うのにお湯などはいりませんよ。こっちは兵隊だ、下宿人だ。打っちゃッといて下さい」
「だって、せっかくお汲みしたのに、二郎さんてば」
「その親切は、どうか兄さんにしてやって下さいよ」
良人うちにだってしてるじゃないの。さ、食事がすんだらお茶を一さん上がって」
「こうどうもな世話をかけちゃあ……。さ、もう役署の時間だ」
「でもあなたのお世話がわたしうれしいのよ。帰りもお早く帰って来てね。いいこと。晩にはまた何かお美味しいものを考えて待ってますわ」
 外へ出ると、武松は何かやれやれと思う。あによめのやつ、亭主を弟の俺と取ッ違えてやがる。親切もありがたいが、こう毎朝毎晩、肌着の下までで廻されるように行き届き過ぎるのもやりきれない。
 夕方帰ればなおさらだった。湯に入れば後ろへ来て背中を流す。時により酒など支度していることもある。
「いやねえさん、兄さんが帰ってから一しょにりましょうぜ。独りで飲んだって美味うまくねえ」
「いいえ、良人うちは今夜おそいのよ。粉問屋こなどんやへ帰りに廻るっていってましたもの。二郎さん、わたしじゃいけないの」
「何がですえ」
「何がって、このひとれッたいわね。頂戴よ、お盃を」
 彼女がたぎらせてみせる女情の坩堝るつぼも、武松にはさっぱり通じないものだった。いや兄思いな彼は、兄の家庭の平和を朝夕に見ていられればそれで充分楽しいのである。だからまた、金蓮きんれんの触れなばくずれんとする花のみだらにも、姿態しなに示す柳の糸の誘いにも、怒りはつつしんでいた。むっとはしても、笑っている。だが、そうわされれば交わされるほど、
「……もう、ほんとに。わたし、どうかしちまいそうだわ」
 ひとり焦々じりじり、髪の根をかんざしで掻く金蓮の思いは、無性につのるばかりだった。
 時しもその日は、朝からの大雪。――金蓮が積もる思いをはらすのは今日だとしていた。
 良人おっと武大ぶだは、今日も、饅頭まんじゅう売りに出してやったし、帰りもおそいように、わざと二つ三つの用事まで背負わせてやってある。彼女はひる過ぎると、隣家の王の婆さんに手伝わせて、こってりとした汁、焼肉、あつもの料理などこしらえておき、さて武松の部屋も火気で火照ほてるばかり温めておいて。
「ああ……よく降ること。なんて静かな雪の昼だろう。まるで真夜半まよなかみたい」
 と、武松の帰りを待ちぬいていた。
 その日は兵営祭りで、武松も半日帰りと知っていたからだった。繽紛ひんぷんと舞う雪のなかを、彼はやがて、赤い顔して帰って来た。――そしてこんな日のこと、さだめし兄も饅頭売りはお休みだろうと思っていたらしく、
「兄さん、えらい大雪だ。みやげの折詰をげて来たぜ。一杯ろうや」
 芦簾あしすだれの雪を払って、家へ入って来るなりそう呼んだ。ところが兄は見えず、出て来たのは、いつもの深情ふかなさけなあによめの金蓮だけ。
「……なんだい、いねえのなら、兵舎で兵隊と飲んでいたのに」
 武松は急に無口になる。取りなす金蓮は、かえって、一倍まめまめしい。下心したごころとともに、耳たぶの紅から爪の先までみがきに研いていたことである。窓外の雪明りは豪奢ごうしゃえ、内の暖炉だんろはカッカと紫金しこんの炎を立てる。武松が制服を脱いでくつろぐ間に、彼女は裏口を閉め、表の扉にもカギをおろしてしまった。深夜のように、酒肴さけさかながいつか並ぶ。武松はうんすんもいわずに見ていた。
「どうなすったの二郎さん。いやよ、そんな顔をなすっちゃあ。……ねえ、わたしにだってたまには兄さんにするように優しくして下さらない?」
「いや、話し相手がないと、つい武二ぶじって奴あ、こういう顔になるんですよ。何もねえさんのせいじゃない」
「じゃあお杯を持ってよ。そして私にもいで下さいな」
ぐことは酌ぎましょうよ。だが、あっしはもう沢山だ。兵営祭りで兵隊と、たらふく飲んだあとだから」
「あら、嘘ばッかり。兄さん飲もうよって言いながら家へ入って来たじゃないの。もう意地よ、私だって」
 金蓮は三つ四つ手酌てじゃくでつづけた。今日こそぶつかってやれ、と心にひそめていたものの、やはり勇気が欲しい。自分で自分がもどかしい。彼女は泣きたくなった。体の中で狂う性のつばさに気が狂いそうだった。
「二郎さん! 飲ませずにはおかないわよ。お嫌いなの、私のお酌が……。あっ、こぼれる」
ねえさんどうかしてますね、今日は」
「わかること、それが。……私の眼を見てよ、眼を」
「あっ、無茶だ、嫂さんがそんなに飲んじゃいけねえよ」
「じゃあ、けてちょうだい。……うれしい、飲んでくれたわね。もひとつよ。嫌アん……それをけてからよ」
 そして彼女は椅子いすごと寄って、素早く武松の膝へ姿態しなだれかかった。と、もう白い手は武松の厚い肩を半ぶん捲いて、髪の香もねッとりと、男の胸を掻きみだすばかり甘えかかる。まるで魔女の身ごなしだ。朱い唇が罌粟けしの花さながらに仰向いて何かあえぐ。……どうかしてよ! どうかしてよ! 彼女自身すら持て余しているものを身もだえに揺すぶるのだった。
「あ。……ど、どうしたのさねえさん。くるしいのかい」
「くるしいわよ、わかんないこと? ……抱いて、抱いてってば」
「こうですかい」
「もっと、ぎゅっと。いっそ絞め殺してよ」
「じゃあ、こうして貰いたいんだね」
 武松は抱いたまま突ッ立ちあがった。――ひぇッっ、と天井の辺ではん金蓮の四すそが蝶の舞いを描いた。武松の両手に高々と差し上げられていたからである。
「たいがいにしやがれっ。この女奴隷めどれいめ!」
 とたんに、部屋の扉口とぐちの下で、ぺしゃんと雑巾ぞうきんでも叩きつけたような音がした。そのままかと見ていると、彼女は跳ね返っていた。泣きもしない。痛い顔もしない。まなじりの紅を裂いて、武松をめつけ、恨みの声を投げてきた。
「よくも恥をかかせたわね。なにさ! 女が男を思ったって、ちっとも不思議はありゃしないわよ。それが通じない男のほうが、よッぽど片輪か木偶でくノ坊か、どうかしているのよ!」
 それでもまだまだ、容易に腹はえないらしく、にんやり自分を見すえている武松のめた顔へもう一歩迫って、
「二郎さん、覚えておいでね。ひとがこんなにも親切に……わ、わたし……自分の身もわすれて可愛がッてあげたものを、よくもひどい目にあわせたわね。もう何もしてやらないからいい」
 後ろの扉を開けるやいな、ぴしゃっと風を残して、台所のほうへ行ってしまった。
 しいんと、そのまま、雪のたそがれが来る。
 灯ともし頃、武大ぶだは雪で丸くなって帰って来た。物音を知ると金蓮はすぐ門口へ走り出て良人を見るなり泣いて見せた。武大はのそのそ物置小屋へ商売道具を入れて戻るとすぐ訊ねた。
「どうしたのよ金蓮。何か、弟と口喧嘩でもしたんじゃないか」
「そうよ。あんたが余り弟を大事にし過ぎるからさ。今日みたいに口惜くやしいことってありゃしない」
「よせよ。あいつも口は悪いが、腹ん中はいいもんだぜ。いい弟なんだよ」
「へえ、いい弟があによめにへんな真似まねをするかしら。ほんとに馬鹿にしてるわ」
「なにしたのさ、武二が」
「いえませんわよ、そんな恥かしいこと。ごらんなさいな、わたしのこの髪を。ちょうど、あんたが帰ってきたんで、みだらな真似もされずにすんだからいいけれど」
 武大ぶだもそれには動揺したらしい。ちょっと暗い顔したが、すぐ笑った。兵営祭りだ。飲んで帰った酒の上から、つい冗談でもいったのだろう。弟の酒好きはわかっている。
金蓮きんれん。武二は部屋かい」
「およしなさいよ。ふて寝しているらしいから」
「じゃあ、そっとしておくか。……明日になったらきっと頭を掻いてあやまるよ。おまえもいつまで、つンつンしているのはおよし。なあ、せっかく一つ屋根におさまった兄弟だ。俺にめんじて勘弁しなよ」
 その晩、武大は妻のかいなに愛撫された。厚い雪の屋根の下だった。小心で善良な彼は、金蓮の蛇淫だいんさがを思わず白膚びゃくふから、初めてな狂炎と情液をそそがれて、心ではびッくりもしていたし、また金蓮のうつつない媚叫びきょうや無遠慮な狂態が余りなので、階下したの弟にそれが聞こえはしまいかと、内心びくびくしたほどだった。
 ――で、いつになく武大はくたくたになって寝坊した。金蓮もまた今朝だけは何のかんのの文句もいわない。やがて起きて、階下へ降りて行くと、金蓮が独りでケラケラ笑っていた。
「あんた、行っちまッたわよ、あの人」
「え、武二がいないって。なあに今朝けさは遅いよ。もう役署へ出かけたんだろ」
「でもさ! ごらんなさいよ。部屋の荷物が引っからげてあるじゃないの。やっぱり気まりが悪いのね。あんたに合せる顔がないのよ」
 いっているところへ、三人の従兵が、武松に代って荷物を取りに来た。――都合で下宿をかえたいからという言伝ことづてだけである。武大はその日も解けぬ大雪のため、珍らしく饅頭まんじゅう売りを休んだが、一日中、ぽかんと虚脱状態だった。

隣で売る和合湯わごうとう魂胆こんたんに、すだれもうごく罌粟けしの花の性の事


 兵隊仲間における都頭ととう(伍長)武松ぶしょうは、いたって人気者だった。威張らない。規則ずくめで縛らない。わかってくれる。
「伍長、知事がお呼びですぜ」
「おれか。……おやおや、こないだ貴様たちが酒場で喧嘩したのがバレたのかもしれないぞ。また俺の黒星だ」
 ほどなく、彼は知事室で直立していた。
「まあ、かけ給え」と、知事はおっとりと構えこんでいう。やがて公用筥こうようばこから一書類とともに、もう出来ていた辞令を取出して、武松に命じた。
「たいへんご苦労だがな、従兵一小隊をつれて、急に開封かいほう東京とうけいまで行ってもらいたいのだ。この公文を殿帥府でんすいふまでお届けすればよい。そして、もう一つついでに、わしの親戚しんせきの家へ、一ト行李こうりの財宝を送り届けて欲しいのだが」
「出立はいつですか」
「明後日、立ってくれ。何しろ遠隔だし、知っての通り途中の山海さんかいには賊の出没もまま聞くところだ。で、君を見込んでやるのだから、しっかり頼む」
「見込んでと仰っしゃられたんじゃ、否やもありません。承知しました」
 次の日である。武松は旅の具などを買いあさりに街へ出ていた。出張旅費もたっぷり懐中にあった。兄の好きな物などがやたらに目につく。
 兄の家へはあれきり足ぶみしていない。考えてみると四十日余りの不沙汰ぶさただ。開封かいほう東京とうけいといっては早くても二ヵ月余、もし天候にめぐまれなければ三月みつきは旅の空になる。
「そうだ。あれきりじゃ何かお互いに気まずいままだ。ひとつ酒でもげて行って、ひと晩、機嫌直しをして立とう。あんなあによめでも、兄にすれば満足している大事な女房だ。俺さえ折れていればいいことだし」
 彼は酒や肉を買って片手に抱え、また嫂のよろこびそうな手土産てみやげなども二つ三つ持って、久しぶり紫石街しせきがいの茶店隣の芦簾あしすだれのぞき込んだ。
「まあ、二郎さんじゃないの。どうしたの、いったい」
ねえさん、どうも、いつかは何とも相すみません。いくら酒の上でもね」
「もういいわよ、そんな過ぎたこと。まアお上がんなさいな二階へ。良人うちもじきに帰るでしょうから」
「じゃあ、待ってましょう。嫂さん、これ、ほんの手土産ですが」
「あら、わたしにまで。すみませんのね。まあまあお肉やらお酒もこんなに沢山に」
 金蓮きんれんはすっかり穿き違えてしまった。女にはよくありがちな心理でもある。武松がてれ臭そうに訪ねて来たのは、私に未練があるからだと自分に都合のいい解釈をしたものだった。もちろん未練なら彼女のほうこそ、たッぷりである。武松を二階へ上げて引っ込むと、金蓮はあたふた鏡台へ向った。髪をつかね、香油を塗り、すっかり化粧や着がえもらしたうえで、また上がって来た。
「二郎さん、見てよ。これ、いつかあなたにいただいた緞子どんすで仕立てた袿袴うわぎなのよ。どう似合うこと?」
 と、姿態しなを作って、横へ向き、後ろを見せ、そして武松の椅子いすの廻りをそっと巡り歩いた。
 さきの一例でりているので、今日は大事をとるつもりだろうが、その妖艶ようえんびといったらない。たとえば蜘蛛くもがその獲物えものを徐々に巣の糸にかがり殺して、やがて愉しみ喰らおうとするようだった。武松はあによめのあれがまた始まるかと気が重い。ただ固くなっている。そのうち兄の武大ぶだが帰って来た、武大はよろこぶまいことか。
「おお、武二。よく来てくれたな。ほんとによく来てくれたよ。どうしたい近頃は」
「兄さんじつは、お別れに来たんです。といっても二タ月三月みつきのことですがね」
「えっ、どこか遠方へでも行くのかい」
「公命で開封かいほう東京とうけいまで行って来ます。いずれまたすぐ帰りますが、どうも何だか、兄さんに気まずい思いをさせてるようで、そいつが一つの旅路の気がかり。どうかいつかのことは、兄さん堪忍しておくんなさい」
 兄へもわび、また、あによめにも傷をつけないように武松は下げないでもいい頭を下げた。さすが金蓮きんれんもちょッぴりんみりした容子ようす。階下では隣の王婆さんがお料理が出来ましたよと告げている。さっそく酒盃や皿数さらかずが並ぶ。しばしの別杯というので、その夜は三人仲よく杯をわしていたが、やがてのこと。
「ときに兄さん。ねえさんもそこにいて、一つ、とっくり聞いておくんなさい」
 武松はいつになく改まった。兄夫婦へ面とむかって、こんな態度は初めてなのだ。
「――生まれ故郷の清河県せいかけんでもそうだったが、この街でもそろそろ兄さんを小馬鹿にする餓鬼がきどもの声が立っている。饅頭まんじゅう売りの人三化七にんさんばけしちだとか、ぼろッれの儒人こびとだとかろくな蔭口かげぐちを言やあしねえ。小耳にするたび、畜生と俺あ腹が立つ。俺にとっちゃあ血を分けたたッた一人の兄さんだものな……。だが、やくざの俺と違って兄さんときたら、天性のお人好しだ。世間にいじめ抜かれてもいじめ返すことなんざ知らねえんだ。それがまたいいところさ。だがね兄さん」
 武松は自分の声に自分でまぶたを熱くした。兄の武大ぶだは首を垂れる――。どっちが兄か弟かわかりゃしないと、金蓮は横目で見ていた。
「この武松が一つ街に居るうちはよござんすが、たとえ百日でも、留守となるとそいつが弟の身には心配でなりませんのさ。どうかあっしの留守中は、人のだましに乗ったり、人のダシに使われないように、気をつけておくんなさいよ。……またねえさんへもだ。どうぞお願い申しますぜ。夫婦は二世とやら、こんな兄でも連れ添う良人おっと、大事にしてやっておくんなさい。よくよくかかあの尻に敷かれッ放しなはなッ垂らしの亭主だと、世間の奴アいってますぜ。ねえ嫂さん、世間ていだけでも、そこはすこし良人を立てて、どうか仲よく暮しておくんなさいな」
 風向きが自分へ変って来たとみると、金蓮は耳もとを充血させて、ついと横を向いてしまったが、いきなりたもと洟紙はながみをさぐって、良人おっとの武大の前へほうッた。
「あんた。それではなでもかンでよ、見ッともない。洟も涙も一しょくたにこぼしてさ。……だから私までが二郎さんから、まるで悪女か人非人ひとでなしみたいにいつもコキ下ろされているんだわ」
 武松はそれをしおに立った。そして路銀の一部をいた金を卓の上に残して、
「嫂さん、これは先ごろお世話になった下宿料だ、と思って取っといておくんなさい。そしてあっしの留守中は、なるべく兄さんのかせぎも楽にしてやって、夕方は必ず早目に帰るように。――晩には仲よく寝酒でも飲むっていう風にね、とにかく無事に機嫌よく毎日を送っていてくださいよ。くどいようだが頼みますぜ。……はははは何だかまるで、媒人なこうどの言い草みてえになッちゃったなあ。――じゃあ兄さん、行ってきますよ」
 武松は階段を下りて行く。武大もついて行く。そのときも、武松はまた、小声で言った。
「兄さん、忘れなさんなよ、今夜、あっしが言ったことを」
「うん、うん……」
 弟の影が見えなくなると、武大ぶだは軒下で声を上げて泣いた。――その泣き顔を持って二階へ戻ると、金蓮はケラケラ笑った。残りの酒を独りで仰飲あおッていたのである。そればかりか卓にトンと頬づえ突いて顔を乗せると、良人の泣きつらを見ながらつくづくつぶやいた。
「オオいやだ、夫婦は二世だなんて。――半世でも、うんざりなのにさ!」

 翌日、武松は県城を離れて、はるか東京とうけいの空へ旅立ったが、彼の気がかりとしていた饅頭まんじゅう売りの兄の武大には、以後一こうに良い変り目もなさそうだった。
「あら、お前さんたら。なんだってまだ陽も高いうちに、商売から帰ってきたの」
「だって、弟が言ったもの。兄さん、俺の留守中は、必ず早目に毎日帰んなさいよって」
「おふざけでない。やっとこ喰べるがせきの山の饅頭売りのくせにしてさ。こんな甲斐性かいしょうなしの亭主ってあるかしら。ちッ、薄野呂うすのろの、おんぼろ宿六、勝手におしッ」
「晩の酒は買ってあるかい。ねえ金蓮きんれん、何をぷんぷんするんだよ」
「お酒。そんな稼ぎを誰がしたの」
「弟がお金をくれて行ったじゃないか」
「あれッぱかしの金、いつまであると思ってるんだ。とうに近所の払いに消えてますよ。あしたから、こんな早くに帰って来たら、飯も食べさせないからいい……」
 遠山の雪肌も解け初めて、この陽穀県ようこくけんの小さい盆地の町にも、いつか春の訪れがえかけていた。ひとり萌えるにもやり場のないものは、金蓮の肉体にだけひそんでいる。
 金蓮はその日、桟叉さんまた(竹竿に叉をつけた物)を持って、門口へ出ていた。ひさし芦簾あしすだれの片方が風にはずれたので掛け直していたのである。――が、冬中の雪にひさしの釘も腐ッていたのだろうか、一方を掛けているまに一方がバサーと落ちた。「あっ」と金蓮は、すだれを避けてよろめいた。と、後ろに人がいた。通りかかりの往来の者らしい。その者も軽く「ア。あぶない」といって金蓮の体をささえ、そして、相顧あいかえりみてわけもなくニッと笑いあった。
「すみません。とんだ粗相をして。……もしやおくつでも踏みはしませんか」
「いえ、なあに」
 男は洒落者しゃれものごのみな頭巾ずきんをかぶり、年ごろは三十四、五。ぼってりと色の小白い旦那ふうであった。
 ほんの行きずりの出来事。それ以上は、多くをいうッかけもなく、男は行き過ぎてからチラと振り返った。すると金蓮もまた振り返っている。
 男はせつなに何かぞくとでもしたらしい。急にその足を斜めに向けて、金蓮の家のすぐ隣の茶店の内へ入ってしまった。
「まあ、おめずらしい。なンてまあ、今日は風の吹き廻しなんでしょうね」
 茶店のおう婆さんは下へもかない。――これなん、こんな安茶店の床几しょうぎへなど滅多にお腰をすえる旦那ではなかったもの。
 県城通りのえんじゅ並木に、ひときわ目立つ生薬きぐすり問屋がある。陽穀ようこく県きっての丸持まるもちだともいう古舗しにせだ。男はその薬屋の主人で名はけい苗字みょうじは二字姓の西門せいもんという珍らしい姓だった。
 この西門慶は、男前もちょっと良かった。それに県役人の間にも頗るな顔きき。とかく金の羽振りというものか街中では彼の姿に小腰をかがめて通らぬはない。――で、王の茶店婆さんなどにしてみれば、なおのこと、掃溜はきだめの鶴とも見えたに相違なかった。
「婆さん、ちょっときたいがね、折入ってだ。……耳を貸してくんないか」
「いやですネ旦那、こんな婆の袋蜘蛛ふくろぐもの巣みたいな耳、お側へなんか持って行けやしませんよ」
「なにサ、おまえを口説くどこうというのじゃない。……いまチラと門口で見かけたんだが、この隣にゃあ、すごい美女たぼがいるじゃないか」
「ま、お眼がはやい。見ましたかえ」
「ありゃあ、さだめし亭主持ちだろうな」
「ええ、それがまあなんと、可哀そうに、あんな縹緻きりょうを持ちながら」
「とはまた、どうしてさ、可哀そうたあ?」
「だって旦那、人もあろうに、あれが饅頭まんじゅう売りの武大ぶだッていう薄野呂うすのろのおかみさんじゃござんせぬか」
「ひぇっ。ほんとかい……ふ、ふ、ふ。……いやほんとかね、婆さん」
「つい去年、清河せいか県から引っ越して来た夫婦者。ずいぶん世間にはいろんな夫婦の組み合せもありますけどさ、武大と金蓮みたいなのは、なんの因果といっていいやら、縁結びの神さまも、ずいぶん罪な真似まねするもんですね」
「……オ、婆さん。梅湯を一杯美味うまれてくれないか。ただの茶よりは梅湯の方がいいぜ」
「あら、ごめんなさいましよ。ついついお喋舌しゃべりばかりしていて」
 王婆が梅湯を茶托ちゃたくにのせて奥から出直して来ると、その間も西門慶せいもんけいは、床几しょうぎを少し軒先へずり出して、しきりに隣の二階を見上げている様子だった。
「……旦那。……もしえ旦那。うまくお口にあいますかしら」
「オ、梅湯か。ム、たいそうかおりがいい、酢味すみもちょうどだ。ところで婆さん、梅っていう字はばいとも書く。楳の意味はまた、媒人なこうどにも通じるッてね」
「やはり旦那は旦那。味なことを仰っしゃいますこと。婆には学問のことはなにもわかりませんけれどさ」
「文字の講釈などいってるんじゃない。おまえをばいと見立てていったんだ」
「あらいやだ、旦那はいつのまにか、わたしの内職までご存知なんですね。……だって仕様がございませんものね。こんな人通りの少ないところの安茶店じゃ、正直食べても行かれやしません。暇にまかせて、こっそりめかけのおとりもち、出逢い茶屋まがいのチョンの貸し、そんなことでもしてお小費こづかいをいただかないことにゃあ」
「なるほど、看板にはないが、ここは梅湯、生姜湯しょうがとうのほか、和合湯わごうとうの甘ったるいのもございますッていうわけか」
「旦那へも、その和合湯をトロリと一服おいれいたしましょうか」
「婆さん、さすがだ、おれのかわきは、もう読めたな」
「この年ですよ。そんなことぐらい読めないでどうするもんですか。……けれども旦那え、チョンでも馬鹿でも、亭主ってものが、にらんでいる花ですからね。そうやすやす、手折たおれると思ったら、大間違いでござんすよ」
「おっと、今日は急ぎの用先きだっけ。薬種くすりせんじるにも気永が大事さ。辛抱はするからね、たのんだぜ」
「あらお待ちなさいましよ。床几しょうぎの下にまでお金が散らばッてさ。お忘れ物じゃございませんの」
「オ、紙入れからこぼれたね。ええ、めんどうだ。婆さんそっくり拾って取っておきな」
「ひぇっ……。まあこんなに」
 数日くと、西門慶せいもんけいはまたやって来た。いやそれからは、三日にあげずだ。時によると一日に二度も三度も来るといったぐあい。大熱々おおあつあつなのぼせ方である。王婆さんには思いがけない福運の春告鳥はるつげどりは、こことばかりな手具脛振てぐすねぶりだ。
 元々、この王婆たるや、ひと筋縄の婆ではない。近所界隈かいわい事情合わけあいには精通しており、戸々の収入みいりから女房たちの前身、亭主の尻の腫物はれものまでも知りぬいている。堕胎こおろし、姦通、めかけの周旋、あいびき宿、およそ巾着銭きんちゃくぜにしには、なんでもござれとしていたのである。そこへかもも鴨、断然そんな手輩てあいとは、金の切れが違う西門慶という大鴨がかかったのだから、婆としては千ざいの一ぐうだ。ほかは一切お断りのていで、旦那旦那と彼一人へ手練手管てれんてくだをつくしにかかったものだった。

色事いろの仕立て方のこと。金蓮きんれん良人おっとの目を縫うこと


 堅々かたがたしい古舗しにせの旦那も、あてにはならない。昼もまぼろし、夜はうつつなさだ。これまでずいぶん、街の商売妓しょうばいおんなにはきたえられてきた西門慶だが、チラと見染めた潘金蓮はんきんれんだけには、全くどうかしてしまっている。
 みすみすおうの婆さんに巧くしぼられているとは百も承知の上ながら、通わずにいられなかった。こんどは、今日こそはと、つい通いつめ、さすが色事にかけては自負じふ満々だった西門慶も、もうふらふらな様子だった。
「婆さん、いつまでらすんだい。おれはもう死にたくなった。今日は約束どおりおまえの棺桶代かんおけだい(養老金)もここへ積むぜ。さあ、どうしてくれる」
「おやまあ、すみませんねえこんな大金まで戴いちゃって。……けれどさ旦那、なんたって亭主持ちでしょ。それに女拵おんなごしらえには、五つの条件てものがありまさアね。ほほほほ、旦那に色事の講釈など、釈迦しゃかに説法ですけれどさ」
「いや色道しきどうは底が知れないよ。こんどは参った。俺としたことが、こんな初心うぶにもなるもんかとつくづく思って」
「それそれ、それですわよう旦那。女をコロとさせるには、初心うぶっぽくまず見せかけて、次に大事なのがいまいった五つの条件。一が拍子合ひょうしあい、二がお容貌かお、三がいちもつ、四がお金、五が暇のあること」
「暇と金なら、あり余るぜ」
「お容貌かおだってとてもとても。もしわたしが若けりゃあ捨ててなんかおきはしない」
「三の男の物なら、おれのものは、驢馬ろばほどなものはある。どんな商売おんなだろうが、嫌泣いやなきにでも泣き往生させずにはおかないよ」
「おやまあ、たのもしい。けれどまだありますよ、いッち難かしい一つがね。拍子合いといって、首尾と縁のッかけ。これがねえ、旦那え」
「まだ、渡りがついてねえのかえ」
「あれでもやっぱり亭主は亭主で、朝に晩に饅頭まんじゅう売りの武大ぶだめが、金蓮きんれんや金蓮やで、くっついていますしね。そのすきを狙う才覚ですもの、生やさしい苦労と芸当じゃございませんでしょ」
「わかってるよもう、その骨折りは。まだ何か所望があるのか」
「じつはね旦那、たび重なって申しあげにくいんですが」
「ああよそにいる息子の嫁娶よめとり入費か。それもるだけは出してやる。……やるがさ、どうだよ、隣のうぐいすは」
「あしたの昼、そっと籠から盗んで、うちの奥へ誘い込んでおきますから、いいようにおかせなさいましな」
「えっ。ではもうはなしは出来てるのか」
「お気が早い、まだまだ細工はこれからですよ。以前、清河せいか県の大金持ちの家に小間使いをしていた時から、あのはお針が上手なんですとさ。そこをつけ目に、ごひいきの旦那衆から、何かのお祝い事で、晴れ衣裳の仕立物を頼まれたから、金蓮さん、ひとつ家へ来て、仕立て物を手助てつだってくれまいか……と、まア持ちかけてみるつもりなんですがね」
「うまい。そいつあいい首尾になりそうだ」
「じゃあ早速ですが、白綾しらあや、色絹、藍紬あいつむぎ、それに上綿を添えた反物たんもの幾巻と一しょに、こよみとお針祝いのお礼金こころざしをたんまり包んで、夕方までにここへ届けて下さいましな」
「よろしい、そして明日の昼間だね」
「いいえ、明日はちらと、お顔見せるだけのこと。わたしが、座を巧くとりもって、ひと口、お酒を出しますから」
「念入りだなア、どうも」
「お美味しい果物は皮もていねいにいて食うことでしょ。よござんすか。そして四、五日はまあしなよく顔を見合ったり言葉の一つもかけたりしなさる。折にはまた、お気前を見せたりしてね」
「いつになるんだい、ほんとの首尾は。寝られないよ、その間なんざ」
「さ、そこが拍子合い。舟も揺れ頃、潮も上がる時分とみたら、わたしがその日、たんまりお酒に媚薬びやくを入れて、眼合図でおすすめしましょう。そしてわたしは買物に出て行っちまう。あとは旦那の腕しだい。といっても、あせッて事を仕損じちゃいけませんから、しばらくはしつ酌されつ。そして試しに、卓のおはしを下へ落としてごらんなさい。いいえ、ですよ。箸を拾う振りをしながら、わざと手をさしのべて、のすそからちょっと深めに、あのまたへ手をさわってみるんですよ。……声でも揚げて、怒るようだったら、またこの話は練り直しだと、あきらめなくっちゃいけませんがね」
「ううむ、そんな心配がありそうかね」
「女心ですもの。どう現われるか、わかりゃしません。自分にだって、わかりゃしない。けれど、その前にわたしが二人ッり残して、裏口を閉め、表も閉めて出ていくでしょ。……もし女に気がなければ、そのときジタバタするにきまってますよ。それでも残っているようなら、まず八、九分までは脈のあること。あとは箸落としが、枕外まくらはずしとまでなるかどうか。ほほほほ、旦那え、出来ちまったら、あとは邪魔物だなんて、わたしを粗末になんぞなさるとばちがあたりますよ」

 近所も近所、すぐ壁隣かべとなりの家で、いつのまにかそんな運びが出来ていようとは、ゆめにも知らない武大ぶだだった。春は日永ひながになり、武大の帰りもだんだん遅くなっている。早く帰れば金蓮に頭ごなしに呶鳴られるからだった。
「ああ、くたびれたよ金蓮。たまにゃ半日でも休ませてもらえねえかなあ」
「好きなこといってるわ。あらなアに。蒸籠せいろうのお饅頭まんじゅうがまだ幾つも売れ残っているじゃないの」
「だって、仕方がねえわ。日はどっぷり暮れちゃうし、晩に饅頭なぞ売れやしねえもの」
「おまえさんはまた公園で居眠りばかりしてるんでしょ。いつぞやは、饅頭をみんな、犬に食われてベソを掻いて帰って来るしさ。……それで休みたいもないもんだ」
「おや、金蓮。おまえ酒機嫌きげんじゃないか。それに、どうしたんだい、後ろに綺麗な糸屑がたかっている」
「あんたが意気地がないからよ……わたしここ五、六日ほど、毎日お針仕事に通ってるんだわ」
「そうかい。……すまねえのう金蓮。いったい、お針仕事とは、どこへ通っているんだね」
「お隣のおう婆さんよ。お婆さんが親切に言って来てくれたの。どこかご大家のお祝い着を頼まれたんですって。そして小費こづかい稼ぎにどう? っていうからさ」
「だが、酒振舞いは、おかしいじゃねえか。何もお針仕事の針子はりこにさ、酒を出すなんて」
「貧乏性だわねえ、あんたは。今日は黄道吉日こうどうきちにちでしょ。お大尽だいじんの仕立て物には、ち祝いということをするもンなのよ、知らない?」
「知らねえ……」武大は暗い顔して、うなだれていたが「なあ金蓮よ、かせぎの弱いおらが、こんなこというと、またおめえの気を悪くするかもしれねえが、弟の武二も、くれぐれおらに言いのこして行った」
「また、弟さんのご託宣たくせんかえ」
「だって、弟がの、兄さん忘れなさんなよと、おらを案じて言っていたもの。世間は恐ろしい、小馬鹿にはされても、人のダシには使われなさんなよって」
「だれがダシに使われたのよ。だれがさ」
「隣の王婆さんは、じたい、おらは虫が好かねえんだ」
「なにもあんたがお針に行くわけじゃないんでしょ。ふン、虫が好くの好かないのと、人並みなこといってら」
金蓮きんれん後生ごしょうだ。やめてくれ、おら晩まででもかせぐよ。だから家にいてくんな」
「ひとを二十日鼠はつかねずみだと思ってるのね。いいわ。その代りに、明日からはもう一ト蒸籠せいろうも二タ蒸籠もきっとよけいに売っておいでよ。もし明るいうちになぞ帰って来たら家へ入れないから」
 いちぶ一什しじゅうは、のべつ隣の王婆が、裏の台所口へ来ては、ち聞きしている。
 朝々、武大ぶだを稼ぎに追い出してしまうと、金蓮はもう翼をかえして隣の奥へ来ていた。この間じゅうから縫いにかかった白綾しらあや青羅紅絹せいらこうけんがもうちもすんで彼女の膝からその辺に散らかっている。
「まア、なんて早い針運びだろう。金蓮さんみたいなの、見たことないよ、お世辞でなく」
「いやですわおばさん、そんなに褒めちぎッちゃあ、はずかしくって」
「だって、見事だもの、ほんとにさ――針も針だけど、指といったら、まるで何か美しい蝋細工ろうざいくが動いているみたいだし、こうのぞき込んでると、わたしだって、この可愛いえりくびへ食いつきたくなっちまう。……薬種問屋くすりどんやのあの旦那が、ずいぶんお目も高いお方だのに、精いッぱいめておいでたのも無理はないね」
「あのお方、なにかわたしのことを、仰っしゃってましたの?」
「ままになるならって」
「あら、あんなことを」
「きっと、お淋しいんだよネ、あの旦那も。お金はくさるほどあるけれど、おかみさんには死に別れたし、お子はないしさ。いくら番頭や親類があったって」
「おだやかなよいお人柄ですのにね。……おや、おばさん、どなたか表に」
「あら、旦那らしいよ。噂をすれば影。……おお旦那、いらっしゃいませ。いいえもう、店のほうよりは、奥がたいへんなんですよ。少しは休みながらといってるのに、金蓮さんときては、真正直ましょうじきに、もうせッせと、針の目ばかりに暮れッきりで」
 西門慶せいもんけいは、今日も身装みなりを着かえていた。めかし頭巾も紫紺色しこんいろの、まるで俳優めかしたのをかぶり、少々は薄化粧などもしているらしいにおい。なにやら如才ない手土産てみやげなどを婆に渡して、やや離れた椅子いすに腰をおろすと、大容おおように言ったものである。
「ご苦労さまね、金蓮さん。そう急ぐわけでもなし、からだにさわっちゃいけませんよ。すこし話しませんか」
「いいえ、お針は好きですから……」と、金蓮はいっそう肩をすぼめて、恥じらしげに、針も休めず顔も上げない。
「……でも、こんな下手へたなお仕立てが、お気に召しますかしら、しんぱいですわ、わたし」
 婆はもう台所から、土産物の果物に、一せんのお茶を添えて、そこの卓へ運んで来た。そして、
「さ、金蓮さんも、ご一しょに……。これでお口をらしているまに、すぐお料理やお酒を持って来ますからね」と、すぐまた席をはずして行った。
「ア、おばさん。そんなにかまわないで頂戴、毎日のことですのに」
「いや金蓮さん。酒はてまえが、飲みたいんでさアね。つきあってください。それとも、お嫌?」
「いやなんてこと、ありませんけど。いつも、甘えてばかりいますもの」
「いいじゃありませんか。どうしたご縁やら、茶屋酒には飽いているてまえも、ここへ来ると、何かしらこう、あなたと一しょに、ひとくち過ごしたくなりましてね」
「ま、お上手なこと仰っしゃって」
「ああ、ざんねんですな。この西門慶が、そんな男に見えますか。……お婆さん、酒のしたくはよしておくれ。今日はもう帰るから」
「あら、お気を悪くしたんですか。どうしよう、わたし。……ごめんなさい。ごめんなさいね」
 潘金蓮はんきんれんは、おろおろと膝の上のいかけものを床にいて、西門慶の前へ立った。

梨売なしうりの兵隊の子、大人おとな秘戯ひぎを往来にきちらす事


 もとより西門慶せいもんけいは、本気で帰るつもりなのではない。小当りにちょッと金蓮の“気”を引いてみたまでのことだ。
 おう婆もまた、もちろん今日の寸法は呑みこんでいる。いい首尾を作るにも、男のはやり気をめ、女の待ちしおを見、そこの櫓楫ろかじの取り方はなかだち役の腕というもの。「……まあ、まあ、ふたりともおとなしく、おばばのいうことをくもんですよ」とか何とか言いつつ、とにかく予定の小酒盛こざかもりにまで持ち込んでいくところ、さすがに婆だわと、男の西門慶には頼もしい。
「旦那え……」と、酒もそろそろ廻るほどに、婆までがいやに色っぽく眼もとを染めて「どういうンでしょうね、旦那ってお人は」
「なにがさ? 婆さん」
「なにがじゃありませんよ。こちらのお内儀かみさんにも、お杯ぐらい上げたらいいでしょ」
「だって、金蓮さんは、迷惑そうなお顔じゃないか」
「ま、お察しが悪い。旦那と一しょなので、恥かしいんですよ。ほんとは、ける口なんだもの。さあ、おかみさんも、お杯を受けたらいいじゃないの。れッたいねえ」
「まるで、わしとおかみさんとで、叱られてるみたいだな、はははは。時に、あなたはお幾歳いくつですか」
「もう二十三ですの」
 金蓮は、やっと答えて、同時に、貰った杯へ、くちを濡らした。
「じゃあ、わたしのほうが、九ツも上だな。お針は上手だし、礼儀作法といい、人当りの姿態しなもよし……、武大ぶださんとやらがうらやましいね」
「オヤ、禁句ですよ旦那。おかみさんは、とても亭主運が悪いんで、武大の武の字を思い出しても、すぐ気がふさいで来るんですとさ」
「それはまあ、似た人もあるもんだね。この西門慶せいもんけいも女房運が悪くッて悪くって。もう女は持つまいと思ったほどだ」
「だって、おくさんは、おととしおくなりになったでしょ。……まあ旦那のほうで仰っしゃるから、あけすけに言っちまいますが、陽穀ようこく県一の薬種問屋くすりどんや、西門大郎の御寮人ごりょうにんにしては、亡くなったおくさんは、余り良妻じゃなかったんですってね」
「悪妻も悪妻だし、嫁に来てからみ通しだったんだよ。のべつ医者よ薬よ、別荘行きよと、贅沢三昧ぜいたくざんまいをやったあげく、亡くなったのさ。番頭手代、数十人も召使っているが、いらい女房だけは、それにりてね」
「だけど旦那え。外にはたんと、をお囲いなんでしょ。お隠しなすっちゃいけませんよ」
「ああ。あの小唄の女師匠のことかえ」
「あのひともだけれど、新道しんみち李嬌りきょうさんなぞも、向うから旦那に首ッたけだって噂じゃありませんか」
「違う。違う。あれもね、弟を官学校へ入れたり、母持おやもちなので、つい面倒をみてやっているが、向うですまないすまないと言い暮らしているだけで、こっちは正直、足も余り向かないほうなのさ」
「でしょうね、どうせ。なにしろ、色街でも引く手は数多あまた伊達者だてしゃではいらっしゃるし、お金はあり余るうえ、おまけに、女には人いちばい、お眼がえているんだから、めったに、旦那のお気に召すような女なぞありッこなしでござんしょう」
「ところがさ、世はままにならないものでね」
「おや、旦那にも、ままにならないことなんか何かおありですかえ」
「小唄の文句じゃないが、あちらで想ってくれるのは、こちらはさほどでもないし、こちらで想う人には……」
 西門慶は、思い入れたっぷり、金蓮の顔を眼のすみからぬすみ見る。さっきから少しずつ酒も入っていた金蓮の皮膚は、そのとき名の如き蓮花はちすの紅をぱっと見せてし目になった。そのひとみの留守を、婆の眼と西門慶の眼がチラと何かを語りあっていた。
「あら、あいにくだよ、もうお銚子ちょうしが……。旦那え、お酒が切れましたから、役署前の上酒を買ってまいりますよ。その間、ご退屈でも、おかみさんと話していて下さいませんか。いいかえ、金蓮さんもここにいておくれね」
 しおと見て、王婆はするりと、座をはずす。そして部屋を出ると、外からッ手をひもからげてしまった。のみならず、自分もそこにかがまり込んで、内の首尾しゅびに、かたずを呑んでいたのであった。

「金蓮さん。いや、おかみさん。も一ついかがです。まだお銚子ちょうしには少しはある」
「もう、もう。こんなに頬が火照ほてッてしまって。くるしいほどなンですの」
「だって、いける口だっていうじゃありませんか。おかみさんは」
「おかみさんだなんて、仰っしゃらないで。……なんですか私、かなしくなる」
「そう、そう。禁句ですってね。わたしもあのおしゃべり婆さんに、亡くなった家内のことやら、あの女この女の、街の取り沙汰など持ち出され、あなたの前でてれ臭くってしようがなかった。といって、私もまだ男の三十そこそこ。この幾年は童貞も同じような独り身ですものな。心からの浮気ではなし、察して下さいよ」
「でも。ひとから見れば、さぞかしと思うでしょうね。そう見えたって、無理ありませんわ」
「じゃあ、金蓮さんから私を見たら? ……」
「わからない! ……」と、あでやかに、かぶりを振って「わかりませんわ、わたしなどには、殿御のほんとのお心は」
「うそばっかり。あなただって、まんざら男を知らないでもないのに」
「だって、わたしの知った男といっても」
「おや、涙ぐんで、どうしなすった。いやもう、つまらないことは思いッこなしにしよう。さ、さ、涙なぞいて、も一つどう」
 銚子を向けたひじの端で、西門慶は、わざと卓の象牙ぞうげはしを、下へ落した。
 かねて、婆さんからも、言いふくめられていたことである。
「試しに、卓上の箸を落して、拾うと見せ、そっと女の脚へさわってごらんなさい。女に水心みずごころがなければ、怒り出すにきまっている。もしまた、なすがままにさせているようだったら、もう大丈夫、さいごのことへ」と。――つまり西門慶は胸ドキドキそれを実行してみたものなのだ。
 が、彼より早く、金蓮の体のほうが、
「……あら、お箸が」
 と、すぐ椅子いすをうごかして、その嬋妍せんけん細腰さいようを曲げかけた。しかし「いや、いいんですよ」とばかり、西門慶もそれより低く身をかがめる。そして彼女のの下へ手を触れた。いや、もうそのときは、試すなどの“ためらい”を持っている余裕はない。本来の彼そのものが、爬虫類はちゅうるいのようなはやさとずるさで彼女のおんなをぬすんでいた。「……あ。……アア」と金蓮は柳腰をくねらせたが、叫びを出す風でもない。深く睫毛まつげをとじたまま、白いのどを伸びるだけ伸ばし、後ろへもだもたれただけである。それをもう冷然と、西門慶のまなじりは女の小鼻のふくらみから、あらい息づかいまで見すましていた。あらゆる女を経てきた彼の自信は、いまやどうそれを※欲あくよく[#「飮のへん+厄」、U+2969A、(二)-138-9]すべきか、愉しもうかと、まずは思案するほどな、ゆとり狡智こうちなのだった。
 金蓮はくるしくなって、椅子から下へ落ちかけた。その体を片手すくいに抱いたまま、西門慶せいもんけいがひたと唇を近づけると、彼女の乾いて火を感じさせるような唇は烈しく男の唇をむさぼり吸った。それは西門慶ほどな男さえも、かつて味わったことのない無性な挑みと情熱のふるえだった。
「どうしたい。え。なにを慄えるのさ、金蓮さん」
「だって。……だって、もう」
「怒るかしら」
「なぜ」
「こんな目にあわせてさ」
「知らない。どう、どうにでもして」
「しずにはおかないよ」
 西門慶は体も大きい。金蓮のしなやかな四肢は、締めころされるようなかたちを乱した。しかも悠々と男には余裕があるのに、彼女の指の先は処女のごとくどこでも無性につかみ廻って、背は、床をズリながら身伸びに身伸びをつづけてやまない。が、すぐ男の胸の下に、死に絶えたような息をつめてしまった。――そして今し、彼女の枕なき枕もとには快楽けらくの国がうつつと入れ代りに降りていた。とつぜん、金蓮の飛魂ひこんのすすり泣きは、西門慶を狂猛にさせた。男のふところ深くへ細やかな襟頸えりくびを曲げ、またっては、狂わしげに唇をさがしぬく黒髪にたいして、彼は意地わるく唇を与えないのだった。彼女は悲鳴のうちにいちど気を失って徐々に力をいた。男の唇はやっと彼女に与えられ、神丹しんたんを含ますように、彼女の精気を気永にたすけた。まもなくまた、彼女は濡れたひとみで虹のような妖笑をふとあらわした。それを官能の合図と見たように、西門慶はやおら彼女の体をまるでたたんでしまうような自由さで持ち扱かった。そして貪欲どんよくな自己を一そう赤裸にした。金蓮はそのせつなに初めて武大ぶだにあらざる男を体のおくに知って何かを生むようなうめきにちかい絶叫を発した。それはかんばしい汗と獰猛どうもうな征服欲との闘いといってもいい。西門慶の予想は、はるかに期待をえていた。不覚にも彼さえつかれはてていた。
「…………」
 部屋の外の王婆は、さっきから何度、そこを離れてみたり、また、抜き足で戻ってきたりしていたかしれない。ついには、余りにも余りなので、婆の根気もしびれを切らしてしまったらしい。わざと二ツ三ツせき払いしながらそこの扉へ手をかけた。
「あ。戻って来たよ、婆さんが」
 内の男女ふたりは、身仕舞いにうろたえながら、慌てて立ち別れた気配である。婆が入って行くと、金蓮はまだ髪の乱れも掻き上げきれず、後ろ向きに腰かけて、化粧崩れを直していた。
「あれ。……いやらしい」と、婆は仰山ぎょうさんに、男女ふたりを見くらべて、「まさかと思っていたら、なんてことなさるんですよ。人のうちでさ!」
 金蓮は、婆の胸へ走り寄って、
「おばさん、かんにんして! ……わたしが悪いの」
「ま、あきれた。この通りだよ女ってものは。男に罪を着せまいとしてさ」
「婆さん、静かにしろよ。もうできちまったものは仕方がないやね」
「旦那も居直りなさるんですかえ」
「遠くて近きは何とやらだよ。この上は隣の武大ぶだに知れないよう、頼むは神様仏様、次いでは王婆様々だ。今日だけでなく極く内々ないないに、この後の首尾もひとつたのむぜ」
「それはもう、知れたらこの婆だって、同罪でござんすものね。その代りに旦那え、一生末生まっしょう、婆を大事に、お礼のほうもいいでしょうね」
「わかったよ、わかったよ。河豚ふぐ間男まおとこの味は忘れられない。ここで逢曳あいびきするからには、わたしたちだけでいい思いをしているわけはないやね」
「じゃあ、この婆も腹をすえたとして。……金蓮さん、おまえも覚悟はしたろうね。これッきりじゃないんだよ」
「ええ、それはもうおばさん、こうなるからには私だって」
「倖せだよ、おまえさん」と、婆は彼女の背を一つ叩いて「これからは、がな隙がな、可愛がっていただきなよ。……だけど、いくら頓馬とんま武大ぶだでも、勘づかれた日には事だからね。さ、今日はもう帰っておいで」
 追うように、金蓮を裏口から帰してしまうと、婆はさっそく、西門慶せいもんけいから当座の大枚たいまい銀子ぎんすを褒美に受けとった。そのお世辞でもあるまいが、婆は、西門慶が女にかけての凄腕を、聞きしにまさるものだったと、舌を巻いて驚嘆する。西門慶は「その道にかけての俺を今知ったか」といわぬばかりに、ヘラヘラ脂下やにさがった顔してその日は戻って行った。
 さあそれからは、ここを痴戯ちぎの池として、鴛鴦えんおうの濡れ遊ばない日はなかった。西門慶も熱々あつあつに通ってくるが、むしろ金蓮こそ今は盲目といっていい。彼女の眠っていた女奴隷めどれいの情火は、逆に、男をあえがせて男の精を喰べ尽さねば止まぬ淫婦の本然を狂い咲きに開かせてきたすがたである。ただの一日でも西門慶の愛撫がなければ焦々じりじりしてきて、いても起ってもいられない。
 が、こんな逢曳あいびきが、世間誰にもわからずに、永続きするはずはなかった。いつしか二人の密会は近所合壁がっぺき私語ささやきとなっていたが、知らぬは亭主の武大ばかり……。それがまた、他人眼ひとめの哀れと苦笑を誘って、噂に噂をかもしていた。

 ここに、※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)うんしゅう生れの兵隊の子で、※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)うんかという十三、四のませた小僧ッ子がいる。
 ※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)州兵の父親は、戦傷で寝たッきりなので、母親一人の細腕の家計を助けているというちょッと感心なところもある少年だった。その※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)うんかは、毎日、果物籠くだものかごを頭に載せ、足ははだしで、
「桃はいらんか。雪梨なしを買ってくんなよ。ねえさん」
 などと街の酒場を歩いたり、くたびれると、籠を辻において、往来の男女へ呼びかけたりしていた。
 或る日、彼はへんな立ち話を小耳にはさんだ。梨の皮をき剥き客の二人がささやいていた噂なのである。やがて、その一方が去ってしまうと、待ちかねていたように※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)哥がたずねた。
小父おじさん、今あっちへ行った人が話していたことは、ほんとなのかい。……西門慶せいもんけいの旦那と、武大ぶださんの女房が、毎日、隣の茶店の王婆おうばうち逢曳あいびきしているッてえのは」
「おや、この小僧、小耳がええな。ほんとだとも。世間、隠れもねえことだ」
「そしたら、武大ぶださんが可哀そうだね、武大さんに教えてやろうかしら」
「止せ止せ。あの薄野呂うすのろな武大公にいってみたって始まらねえや。それよりは、こう※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)うんこう、おめえは子供だからちょうどいいぜ。それをたねに金をもうけろよ、金をよ」
「へえ、何かそれが、金儲けのたねになるかしら」
「なるとも。これから王婆の茶店へ知らん顔して乗り込むんだ。そしてな……おい耳を貸しな」
 事を好む人間はどこにもいる。何を教えられたか、※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)うんかは眼をまろくしてよろこび、さっそく果物籠を頭に乗ッけて、もう歩き初めたものである。
「小父さん、巧くいったら、小父さんちの台所へ、雪梨なしを一籠タダで届けるぜ。おらもおふくろに金を見せてよろこばしてやれるもンなあ」
「ばか。往来中だぞ。大きな声をしねえで、早く行ってみろ」
「あいよ」
 紫石街しせきがい街端まちはずれ、彼の裸足はだしの軽ろさでは、またたくまだった。
 見ると。
 茶店の王婆は、店さきの床几しょうぎで糸をつむいでいる。隣の武大の家はといえば、あいかわらずな芦簾あしすだれの掛け放し。人が住むとも留守ともみえないような静けさだ。「……ははん」と、※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)哥は猿の目みたいな小賢こざかしさでうなずいた。
「おばあさん、こんちは」
「えい! びっくりするじゃないか、この子は。なんだよ素大すでッかい声をして」
雪梨なしを買ってもらいに来たんだよ。――今日はいいすもももあるしさ」
「また、おいで!」
「婆さんにいってるんじゃねえや」
「なンだって。じゃあ誰に売ろうっていうのさ」
「奥にいる旦那にだよ」
「だんな?」
西門慶せいもんけいの旦那さんに買ってもらいてえんだ。きっと買ってくれるよ、籠ぐるみ」
「おふざけでない、このこけ猿め。いったい、どこに旦那がいるッてえのさ。水を浴びせるよ、寝呆ねぼけたことを言い散らすと」
「だって、いるものは、仕方があンめい。こう見えても、おらア千里眼迅風耳じんぷうじだぜ」
「そうだよ、ちょうど悟空猿ごくうざるの手下みたいなつらツキさね。だけど、出放題でほうだいもいい加減にしないと、どやしつけるから、気をおつけ」
「ふふん。おらが悟空の手下なら、婆さんは何だい。逢曳あいびき宿などしてやがって」
「いったね。※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)うん坊。一体、誰がそんなことを言やがったんだい」
「天知る地知るさ。ざまア見やがれ、あわてやがって」
「もう承知しないぞ」
「旦那あっ。奥の旦那あ、婆さんが、邪魔していけないよっ」
「いるもんか。その人は」
「じゃあ、探してみようか」
「この野良犬め」
「ア痛っ、なぐったな」
「こんなことで、腹がえるもんか。この盗ッと猿め。これでもかっ、これでもか」
「ア痛ッ。ア痛たたた。くそっ。負けるもんか。死にぞこないの掃溜はきだめ婆」
 四ツに組んだが、しょせん、王婆の骨ッぽい体をじ折るまでにはいたらなかった。のみならず、ぴしゃぴしゃ※(「髟/兵」、第3水準1-94-27)びんたを食ったあげく、※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)うんかは往来に突き飛ばされて、したたかに尻餅はつくし、果物籠は引っくりかえされるし、散々な敗北だった。
「み、みてやがれっ。くそばばめ」
 ベソを掻き掻き、※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)哥はそこら中にころがり出した梨やすももを籠へ拾いあつめ、あとも見ずに、その日はついに逃げ出してしまった。

姦夫かんぷ足業あしわざ武大ぶだ悶絶もんぜつさせ、妖婦は
砒霜ひそうの毒を秘めてそら泣きに泣くこと


 武大ぶだはいつもの公園に出て、蒸饅頭むしまんじゅう蒸籠店せいろうみせをひろげていた。ひるさがりの頃である。池の鵞鳥あひるばかりガアガアいて、ここの蒸饅頭は一こう人も振り向かない。
「ええおい、武大さんよ。嘘じゃないよ。ほんとのことを教えたんだぜ。だのに、まだ疑っているのかい」
 ※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)うんかはくやしまぎれに、また日ごろ親しい武大でもあるので、ここへ来てのこらず喋舌しゃべってしまったらしい。
 ところが、肝腎かんじん武大ぶだのほうでは、一こうにうけるふうがないのだ。あくまで金蓮きんれんかばっている。しかも街道一の古舗しにせの大旦那が、ひとの女房に手を出すはずがあるもんか。と笑ってばかりいるのである。
れッてえな、武大さんときたら。だから世間でいうんだよ。※(「さんずい+鼾のへん」、第4水準2-79-37)はなッ垂らしの薄野呂うすのろだッて。――見ねえな、おらの顔や手頸てくびを」
「あれ※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)うんぼう。その傷はまあ、どうしたわけだい」
「これもみんな武大さんのためじゃないか。みすみす今日も、王婆おうばのうちの奥で、おまえンちのかみさんと西門慶せいもんけいの旦那が、しんねこで、ちちくりあっていたからさ、言ってやったんだよ、おいらがね。……そしたら婆の奴が、怒りやがって、逢曳き宿とはなんだと、いきなり、おらの頭をぽかぽかやりゃアがった揚句あげくによ。ええ畜生め、もう腹が立ってたまらねえや」
「じゃあ、ほんとかね。まったくかね」
「あれ見や。まだあんなこといってら。自分の女房をられてさ、よくも、おッとりいられたもんだな。武大さんは、偉いのかなあ?」
「う、うん坊。……ど、どうしよう」
「あら、泣き出したぜ、こんどはまた。泣いたって、どうにもならないや」
「くやしい。……もし、※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)うんぼうのいう通りなら、おらは、首をくくッて死んでやる」
「じょ、じょうだんだろ、武大ぶださんよ。おめえが首をくくれば、よろこぶのは男女ふたりじゃないか。そんなことお止しよ。おらが力になってやるからさ」
「ど、どういうふうに」
「なんたって、淫婦姦夫いんぷかんぷの現場をふンづかまえなくっちゃ駄目だろ。だから明日、西門慶が通って行くのをけて、おらが武大さんに教えてやるよ。武大さんも一生涯の一大事だぜ。商売なんかっちゃっても、すぐおらの後からいておいで」
「だけど、西門慶せいもんけいは、強いんだろうな」
「いくら強くったって、近所の眼というものがあるよ。古舗しにせの看板や大金持ちの外聞がいぶんもあらあね。まずおらが先に、王婆を店先から釣り出して、しがみついたまま、離さずにいるから、それをッかけに武大さんは、男女ふたりしけ込んでいる奥へ飛びこんで、間男まおとこ見つけたとでッかい声できめつけるのさ」
「うん、うん。……だけど※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)うんぼう、金蓮の方はどうしよう」
「どうしようと、自分の女房じゃないか。ほんとなら、重ねておいて四つにするんだが」
「そんなこと出来ない。恐ろしくって」
「だからせめて、男にはび状を書かせて、以後は決して致しませんと、拇印つめいんさせ、女は二つ三つしッぱだいて、自分の家へ連れて行ってからの処分とすればいいだろ」
「そうだな。うん、そうだ。……じゃあ明日、手を貸してくれるかい」
「いいとも。武大さんこそ抜かッちゃいけないぜ。ところでおなかっちまった」
「さあ、幾つでも饅頭まんじゅうを食べておくれ。そしてこれは少ないけれど、今日の売上げを半分上げるよ」
「ありがと。じつはお小遣こづかいも欲しかったんだ。饅頭も貰って帰るよ。おふくろに喰べさせたいから」
 ※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)うんかとはこれで別れたものの、武大はもうそのことだけでいっぱいだった。思いつめると、涙がこぼれ、腹は煮えくりかえってくる。
 そうして、浮かない顔は持って帰ったが、しかしその晩、家では彼も、さあらぬ振りして、妻の金蓮にもさからいなどはしなかった。いや近頃の金蓮には以前のような棘々とげとげしい目かどは見えない。さすが心のやましさに、どこか良人おっとへのとりなしも違っている。その晩とても、わざとらしく、
「どうなすったの、あんた。いやに、むッそり沈んでいて」
 と、宵にはもう灯りを消して、武大の寝床へ寄り添って来たりしたが、武大にだって嗅覚きゅうかくはある。その肌には他の男性のにおいが感じられ、その唇には空々しい粘液ねんえきしかないのがわかって、
「なんだか、すこし風邪かぜぎみなんだよ。からだがだるい……」
 と、空寝入りのうちに、独り悶々もんもんと、夜明けばかりが味気なく待たれた。
 次の日。――風邪気味とはいっても、金蓮は決して「お休みなすっては」とはいわない。彼もまた、期するところがあるので、いつもの蒸籠荷担せいろうにないをかついで、さっさと、家を出かけてしまう。
「……おい武大ぶださん。西門慶があっちへ行くよ。はやく後からついておいで」
 ひるごろである。
 約束の※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)うんかが、公園の木陰から手を振った。武大はあわてる。店を仕舞う。おまけになにしろ、荷をかついでのよたよた歩き。見るまに、※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)哥の影は見失った。
 しかし、方向はわかっているのだ。それにまた、男女ふたりの濡れ場を抑えるのが目的だから、そう急いでも、かえってまずい。
 一方は、※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)うんか
 西門慶が、いつもの俳優頭巾ずきんのっぺり姿で、すうと、王婆の茶店のおくに消え込んだのを見とどけて、
「ちッ。愚図ぐずだなあ武大さんときたら。何をまごまごしてるのか」
 と、物陰で首を長くしていたが、さて待てど待てど姿は見えない。そのまに、近所の犬がえかかってきたので、たたまれず、往来を斜めに飛び出して、
「やいっ、ばばあ。きのうはよくも、ひどい目にあわせやがったな」
 茶店の前に、立ちはだかった。
 ちょうど、王婆は奥から店さきへ出たところだった。「……ふ、ふん」と鼻の小皺こじわで笑ったものである。「チビなぞ、相手にしないよ」という無言の返辞であろう。いつものつむまり糸筥いとばこ床几しょうぎに持ち出し、さも実直そうに手内職などしはじめる。
「つんぼかっ、周旋婆しゅうせんばば
「…………」
めくらじゃないぞ、こっちは」
「…………」
「やいっ、なんとかいえ。逢曳き宿の才取さいとり婆め」
 婆は手をやめた。そして、おっとり腰を上げたと思うと、※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)哥の方へ歩いてきた。
※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)うんぼう、よく来たね」
「あッ」
 逃げようとしたが、せつなの婆の手のはやさといったらない。いきなり※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)哥の襟がみを引ッつかみ、ぴしッと一なぐりくれるやいな、
「こっちへおいで、文句があるなら」
 いきなり耳を引ッ張って、隣家との境の狭い路地へグイグイ持って行こうとした。
 ※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)哥も今は必死である。往来に坐って婆の脚をつかみ取った。そして、武大を待つ間の持久戦に獅子奮迅ししふんじんしていると、
「あっ、やってる!」
 武大の声が近くでした。武大はそれを見るなり、荷担にないを道ばたに捨てて、裏口から王婆の家へ入ろうとしたが、そこでは婆と※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)哥が泥ンこにつるみ合って格闘している。しかも婆は武大の姿を見るや「かッ」と、鬼婆のような口を見せたので、武大は度を失ってしまい、うろうろまごまご立ちすくみにふるえてしまった。
「ばか、ばか。武大さん、この隙だよ。はやく奥へ踏ン込まないと逃げられちまう」
 チビの※(「軍+おおざと」、第4水準2-90-23)哥に叱咤しった