この丹波の国の年中行事となっている生田の競馬は、福知山の主催になるものであったが、隣藩である宮津の
その結果は、いつも小藩な福知山の城主、松平忠房の家臣から多くの優勝者を出し、もっとも大藩な宮津の京極家は、今年もまたまた一番
常に大藩の誇りを鼻にかけて、尊大で
×
「だ、だ、旦那様ッ大変でございます」
とその黄昏に福知山の
「これッ五平、如何致した、しっかり致さぬか」
「た、大変でございます――わたくしは
と五平は抱き起されながら
「何? 娘が何と致したのじゃ、早く申せ」
「生田からの
「うーむ、奇怪千万な
「そう仰っしゃれば、いつかお屋敷へ見えたことのある京極家の指南番
「おおその大月玄蕃こそ、先頃から千浪を嫁にと
と
「奥ッ、かならずともに心配致すな。老いたりといえども正木作左衛門、これより直ちに千浪を奪い返してまいるわ」
と
「旦那さま、お槍を――」
と
「五平を介抱致してつかわせ」
とただ一言、如意輪寺裏を指して、疾風の如く飛んで行った。
不意に
続いて凄じい
「ここでよい――」
とその中でも逞しい武士が手を挙げると、女は

「成程、いかさま稀な美人、これでは先生のご執心も無理ではござらぬ」
と云うものもあれば、
「かような美女を小藩者の
などと人もなげに
「こりゃ千浪――」と一人樹の根に掛けて離れていた大月
「何もそう愕くことはない――泣くこともなかろう。そなたの父が
と千浪の側へ
「千浪殿、お顔を上げなされい。先生ほどの男に想われたは
とかなりに酔った一人の門弟が、堅く俯伏して身を護っている千浪の後ろから、無理に抱き起そうとすると、
「無礼しやるなッ」
と紅唇を破った声に突き
そして白い
「女と
と
「千浪、そなたは運命の力を知らぬな。籠の小鳥が小さな
「ええ左様な
と

「それッ、取り押えろ」
と玄蕃は立ち上がりもせずに顎で指した。ばらばらと駈けだした四、五名の門人は、もう苦もなく千浪の行く手を
「こりゃ、じたばた致さずに戻れッ」
「何をするのじゃ」
ときらりと三日月に似た懐剣が千浪の手から流れて間近な一人をさっと
「小癪な女め、
と一人が懐剣の下を
「うわッ!」
と倒れる肩先へ千浪も逆手の懐剣をふり下ろしたが、繰り出た槍の手元へふと眼をやって、思わず、
「おお!」
とその人へ抱きついて行った。
見事、一人が田楽刺しにたおされた
「卑怯者めッ、よくも不意を喰らわせた、何者だッ」
と真ッ向から圧倒的にひしひしと詰め寄った。――その向うはと見れば、これは髪に霜さえ置いた一人の老武士が血を塗った槍の穂をピタリとつけて、子を奪われた鬼子母神の怒りもかくやの血相で、はッたと多勢を睨みつけた。
「黙れッ、他領の平和を
と娘の千浪を背後にかばって、りゅうりゅうと短槍を
「おおさては汝が作左衛門か、貧乏大名の
と真ッ先に叫び返した一人が大刀を真ッ向に振りかぶって手元に躍りこんで来るのを、一足飛びのいた作左衛門が
「この
と続いてかかって来た大月玄蕃の高弟深沢大八、作左衛門が電光の鋭さで繰り出して来た槍の千段を斜めに斬りはらった。南無三――ガラリと槍を捨てて作左衛門も腰なる一刀の
「あっ――」
と下ろした太刀は斜めに

二人は突かれ一人は一刀両断になったが、この間の時間は一瞬であった。
「血迷ったか作左衛門、何故あって拙者の門弟を手にかけた。仕儀に依っては用捨ならぬ」
「云うなッ、どこ
「おおよく云った! かくなれば飽くまで千浪は腕ずくで
「やわか汝如き悪人の毒刃を受けようか」
「
と大喝一声、玄蕃の腰から銀の飛龍とひらめき飛んだ三尺一寸の
彼の体躯は老骨の作左衛門を眼下に見るほどの大男である上、
時既に早く、
「エエーイッ」
とばかり五体から気合いを絞った玄蕃の太刀が、真っ向へ疾風の勢いで来た。作左衛門は咄嗟に横へ
七日ばかりの
羅漢堂の蔭から浮き出たような二人の影。白梅月夜にふさわしい銀作りの大小夜目ながらきらびやかに、一人は年頃三十前後の屈強な武士、一人は
「兄上――あの叫び声は何事でござりましょう」
「お……、この泉水の向うらしい、唯事ではない」
と二人は
「新九郎、斬合いじゃ早や来い!」
と云いざま、もう一散に駈け出したのであった。しかし年若の武士はちょっと
見れば気息も
「ご老人ッ、助太刀申すぞ!」
と叫んで背後の
「
ほッと足許を踏み直した瞬間に、作左衛門は
「此奴は拙者が引受けた、ご老人はあたりの
と叫び返した。玄蕃は不意の強敵に、思わず五、六歩斬り捲くられたが、元より強胆無比の曲者、鍛え抜いた腕の力はまだ三尺の太刀に寸分の疲れも見せず、すぐ立場を盛り返して、りゅうりゅうと攻勢に変じて、邪魔な助太刀から先に唯一刀と脳天目がけて斬り下げた。
「おうッ!」
と武士は
一方の作左衛門は思わぬ味方に力を得て、当るに任せて必死と
その時、木の間隠れの
×
作左衛門は血刀を置いて、助太刀の武士の前に両手をつき、さんばら髪の
「危うきところをご助勢下され、何と
と火のような息に交ぜて云った。
「おおさては松平殿ご家臣でござったか、拙者はご城下
と助太刀した重蔵も、
「ややご老台、よくご無事でござりましたな。――あいや皆様、正木
と一同へ告げ知らせた。
「
と口々に
この人々は、作左衛門の屋敷の近隣の者達で、後に残ったお村と五平から変を聞いてここへ寄せて来たのであった。提灯の光は更にあたりを振りてらしたが、一人は愕然として、
「おお千浪殿が気を失っている!」
と叫んだ。続いて一方の
「ややっ怪しい奴が隠れおった」
と闇にうずくまっていた一人の男をずるずると引き摺りだした。
「これッ汝も京極方の武士であろう」
「
と前後から刀の
「あいやこれは
「おお貴殿は正木殿へお助太刀下された方じゃ」
「左様でござる。ご不審を受けたも
「ほほ……そりゃお気の毒な」
と一同は重蔵の言葉に
福知山の領主松平
折から、生田馬場の馬術競べでは、見事な優越を示したので、いよいよ赫々たる武名は事実に於いて彼を圧倒した。忠房はそれに大満足を感じた。そしていよいよ家臣の武芸を激励しているところへ、今度にわかに当惑すべき大問題が湧き上がった。それには忠房の顔にも
それと云うのは、度重なる生田の屈辱に、悲憤やる方ない京極家から、改めて両藩の剣道試合を申し込んで来たのである。武芸十八番の中でも武家の表芸とする剣道であれば松平家でも
「これ、誰かおらぬか!」
「お召でござりますか――」
と
「生田馬場の当日から、今日で幾日に相成るの?」
と不意に尋ねた。
「恐れながら
「そうじゃ、もうじき二月は経つ、それだのに正木作左衛門は病気と申していまだに伺候せぬが、最早全快致しておろう、表役人に申し遣わせて急ぎ登城せいと伝えい」
「はッ……」
と近侍の者は旨を受けて
「これこれ、重大事があるに依って――と特に申せよ」
と念を押した。
成程、もういつか春も四月に入っている――と忠房はその後で今更のように気づいた。まったくどれほど他念なくこの十数日を暮らしたかもそれで知れる。
明け放された
鞍馬の
「作左は見えたか」
「はッ唯今、お表まで出仕致してござります」
「そうか――」
とつと立って
「作左衛門、病中大儀であったの」
と
「近う――」
と忠房は即座に彼を間近くさしまねいて、近侍を遠ざけた後、主従は何か永い密談に時を
今訪れて来たばかりの、廻国修業武芸者
そこは福知山柳端の、
「お見事でござった。この上は春日重蔵がお対手申す――」
と身仕度を整えて木剣をとった。
「望むところ、お手柔らかに」
と伝内も緊張した。
「いざッ」
と二人は木剣の切尖を呼吸と共にジリジリと上げて、ぴたりと腰の定まったところで、エイッ、オーッの掛け声鋭くパッと左右へ飛び別れた。
重蔵は大胆な大上段に構えて、彼が撃ち込むに自由なほどの隙を与えておいた。しかし伝内もさる者、容易にその誘いに乗らず、青眼の
「エヤッ――」
と
伝内は、びっしょり汗をかいて、
「参った。恐れ入ってござります」
と平伏した。
「いや、なかなかご鍛錬のお腕前、重蔵も感服致しました」
と席を改めて挨拶すると、伝内は膝を正して、心から重蔵の腕前に敬服したらしい
「大事はござらぬ、ご随意に召さるがいい」
と重蔵は気軽く承諾して、奥へ立ちかけた時、
「ご来客でござります」
と一人の門弟が取次いで来た。
「どなたじゃ?」
「ご家中の正木作左衛門様がお越しでござります」
「お……」
と重蔵はすぐ如意輪寺裏の一夜を想い起して、自身出迎えに玄関へ立って行った。――と今までいかにも神妙らしく
×
渡り廊下を通って、
茶室めいた切窓は、藤棚に日を
「実は、
「さて、何事でござりましょうか……」
「尊公をあっぱれ武士と見込んでのお願いは余の儀でもござらぬが……」
と云いかけて作左衛門はふいと口を
「これ千浪、
と後ろを顧みて云った。
「はい……」
と千浪は素直に立ちかけたが、勝手をしらぬ家のこととて、そこから庭下駄をはいて屋敷の庭でも
「娘の千浪を連れて参ったのも世間体を
「えッ、そうとは知らずかく見苦しい所へ」
と重蔵は意外に思いながらも、また恐縮した。
「いやそれも極く密々のご内意――と申すは、かような次第でござります」
と作左衛門は扇子をついて
そして宮津の京極から剣道試合の申込みを受けた
しかし、重蔵は容易に
「貴殿の一諾を得られぬからは君公への申し訳に老い腹切ってお詫び致す。重蔵殿この
と一徹な作左衛門は、不承知の色を見て、早くも脇差の柄へ手をかけた。
「お待ち召され!」
重蔵は驚いてその手を押えた。
「さらば作左衛門が一命を
とのッ引きさせず問い詰めた。
「かくまでとあれば止むを得ぬこと。――
と重蔵は沈痛な声で初めて大きくうなずいた。
「えッご承知下さるとか!」
「勝負は時の運ながら、春日重蔵が及ぶ限りの
「忝けない、忝けのうござる……」
と
武門の家に男と生れて甲斐のない新九郎の性質は、無論兄の重蔵が強く
こうして、春はいつも新九郎の部屋に
「誰であろう――?」
と彼は何気なく窓から半身を見せて
「おおあなたは――」
新九郎は思わず声をかけてしまってから真ッ赤になった。それはいつか如意輪寺の梅月夜に見た、あの血の池を見るような怖ろしさより忘れ得なかった印象の人であったから――
「いつぞやはいろいろと厚いお世話になりました……」
千浪は心もち窓に近寄って、しとやかに白い
「して今日は?」
と新九郎は
「父上の
と云いながら、いつか足は僅かずつ寄って新九郎の窓の外まで来てしまっていた。
「そうでござりましたか……」
と
「おや、お見事な絵を遊ばしますこと……」
「
「ほんの
「どう致して、お見事でござりますこと……」
千浪は何気なくむっちりした白い手を机の端に伸ばすと、新九郎はあわててその手を上から押えた。そして――見せてと甘え
「千浪、千浪」
と呼ぶ父の作左衛門の声がした。
「は、はい……」
と慌ててそこから庭下駄の音を転ばせた千浪が、前の
「あ……」
とよろめく隙に、男は脱兎の勢いで裏手へ駈けだした。と見た作左衛門が、
「怪しい奴ッ」
飛び降りて追いかけるその顔へヒュッと風を切って飛んで来た狙い捨ての
「おのれッ」
とその刹那、駈け寄った春日重蔵が手練の抜撃ちに、曲者はワッと叫んで血煙りと一つになって大地へ落ちた。
「おお
と重蔵はすぐ死骸の懐中を探って二、三通の書類を引き出した。
「これご覧なされい、拙者初対面から
「さてはさすが
と作左衛門も今更敵方の周密な用意に舌を巻いたが、それと同時に、いよいよ両藩の確執が
果然、その翌日町の辻々に高札が立った。それに依れば、対宮津藩との剣道大試合は今年――承応元年の四月二十八日に、領地境い、由良川の広場、
福知山の士民は、生田馬場以上の興奮をもってこの大試合の噂に熱狂した。宮津の城下から来た一町人は、京極方ではこれ以上の騒ぎだと云った。大藩の権勢で近国に人を派し名だたる剣客者を狩り集め、当日の場合に依っては血の雨を降らす決戦の備えさえ出来たなどと
その朝、宮津の指南番
門内には槍
今日こそ、福知山藩の誇りを一蹴し去らんずと、京極方で待ちに待った
玄蕃はさすがに大藩の指南番、一刀流の達人と人にも許されたほどの落着きはあった。静かに仕度を済ませて式台に現われた姿を見るに、
その途中でも、玄蕃に一つの心がかりは、
×
「無礼者ッ、
突として、前進の門下の中から激しい罵声が起って一同の足並が止まった。
玄蕃は鞍の上から伸び上がってみると、既に由良川の奔流に添って二里ばかり来たところである。何事かと手綱を
「如何致したのじゃ! 早う進まねば時刻が遅れ申すぞ」
と
「先生ッ」と一人の門人が寄って来た。
「あれなる浪人が、吾等の邪魔になる岩根へ腰掛けて動かぬばかりか、この
と
「うーむ
と玄蕃もきっと眼を放つと、成程、年の頃は老人とは見えぬが、
「とやこうは面倒ッ、
と玄蕃は
「それッ
と
「
と浪人は左手に関羽髯を掴み、右手の鉄扇は一文字にピタリとつけたまま、編笠をゆすって笑った。
「この
と烈火の如くになった一人が矢庭にブンと斬りこんで来た大刀を浪人はピシリと払って腰も立てなかった。
「おのれッ」
と続いて
奔流の泡に叫びを上げる者、岩角に血を吐く者、たちまち幾人と知れない
「ええッ
と玄蕃はその様子を見て歯ぎしりかんでいたが、
「素浪人――ッ」
「汝が玄蕃か、その傲慢では今日の試合も
と声鋭く面罵した。玄蕃はそれに耳をも触れず、大刀の柄に手をかけて、
「推参だッ」
と叫ぶより早く、身を屈ませて馬上から
「それッあの隙に撃ち込め」
と
「おのれッ」
と玄蕃は力の限り手綱を引絞り、奔馬の足を喰い止めたが、憤怒の形相は物凄かった。そして、
「
と叫んだ。――が時既に遅く、はるか由良川の
上流の福知山からも五里半、下流の宮津からも五里半の中央に選ばれたその日の
それと東西に
「松平方では早や一同も揃って見ゆるのに、玄蕃やその他の者は如何したのじゃ」
と京極丹後守は最前から侍臣を顧みて気を揉むことしきりであった。その時目付役の者から、
「早や見えましてござります」
と返事があった。
女中達は
大月玄蕃は、途中で思わぬ不快を求めたばかりか多くの
「大月殿、お召なされます」
と近侍の取次が来たので、おそるおそる丹後守の前に出た。
「おお玄蕃か、また生田の馬場の敗北を繰り返しては一大事、当家の名折れも取返しがつかぬこととなるが、今日の試合は大丈夫であろうの」
「ははッ、さまでにお心を
「よく申した。其方のことであれば余も大丈夫とは思うているが、実は
と丹後守はさしまねいておいて一段と声を落とした。
「他でもないが、近頃仙石殿の客分となって滞在している者は、稀代の名人であるそうじゃ、万一福知山方にも、如何なる達人が潜んでいぬとは限らぬゆえ、其方の
と云った。玄蕃はそれを聞くと、持前の自負心がこみあげて、己れの腕を侮られたかにむっとしたので、
「怖れながら、諸国を歩く浪人
と云いきった。
「左様か、では任すぞよ」
と賢明な丹後守は、特にこう云って、玄蕃の覚悟を固めさせたのだ。
「ははッ!」
と彼は平伏しながら、いよいよ是が非でも勝たねばならぬ責任の
諸士の試合の
矢来の外には数万の群集が、
四月の空は
亥の下刻頃までは、福知山藩の剣士君塚龍太郎が、宮津藩の家士、玄蕃の門人など六人まで撃ち込んで
その時、
「やあ、松平忠房のご家中に物申す、馬扱いの儀はいざ知らず、武士の表芸たる剣道にかけては宮津京極丹後守が藩中の勝ちに極まったり。唯今までの拙者の勝負は弓矢八幡もご照覧、矢来の外の万民が
と思う存分の気焔を上げて、悠然と
「待て! 大月玄蕃ッ」
後ろの方から轟く大音が、彼の
「何ッ、拙者に待てとか――」
玄蕃はギクリとしたが色には見せず、立ち停まって
「おお! しばらく待て」
と
「まだ定めの刻限には相成らぬに、人もなげなる今の広言、身不肖ながら
「うむ、さては汝が春日重蔵か――」
と玄蕃は如意輪寺裏の恨みを想い起してジロリと凄い
「さらば見事に玄蕃の
「云うまでもないこと」
「よし、
「多言は無用じゃ」
と一尺八寸の小太刀をとって重蔵が立つと同時に、大月玄蕃も
「いざーッ」
と重蔵の烈声。
「おおうッ」
と玄蕃の
その時、大月玄蕃が
彼を
「エエーイッ」
と唸りを生じた玄蕃の木剣もふって落されたので、
「アあッ!」
と玄蕃は外された木剣に引き込まれてタタタタと

×
重蔵は止めの一剣をつき込む隙を狙っている。その結果は心得ある者の眼には想像に難くなかった。福知山方の面々は俄かに喜色を
「
と
「は、はッ……」
と目付役犬上典膳は、試合の方に目を奪われたまま、唇を噛んだ丹後守の傍へ摺り寄ったが、京極丹後守はまだ気づかず、
「犬上典膳――」
とまた呼んだ。
「ははッ、典膳めは
「勝負は何と見る? あれ見よ、玄蕃の面色は変ってある、お! 春日重蔵とやらの乱れぬ太刀筋を見い」
「は、何とも無念に見受けまする」
「どうじゃ勝負は?」
丹後守は歯ぎしり噛む。
「は……」
典膳はその気色に
「
と
「お召の筋は?」
と早速に云った。
「大月玄蕃を
「はッ」
と答えるとすぐ桟敷から、試合奉行へ勝負引分の伝令が飛んだ。丹後守はいまだ落着かず、更に声を励まして叫んだ。
「霧島六弥」
「はッ――」
一人の小姓が平伏する。
「使者じゃ! 出石藩へ早馬で飛ばせい」
「はッ――」
「
「ははッ」
「時遅れては末世末代当家の恥辱じゃ。早や行け、必死に急げ」
「はッ――」
霧島六弥は御前を退るや、ばらばらと桟敷を駈け降り、
ちょうどその時は、気息
「オーッ」
と息を返した重蔵は、ガッキリこたえて弓形に腰が
「待て! 試合は引かれい、上意じゃ」
と目付奉行の大声がかかった。
重蔵はハッと
「参った」
とは云わず、かえっていかにも不平な表情で、
「
と呶鳴った。
「
と目付役が答える側から、続いて京極方からばらばらと駈けつけた近侍の者が、
「大月玄蕃殿、君公のお召し急いで――」
と伝えて来た。玄蕃はそれをいい
――と、一方福知山藩の家中から、騒然たる物議の声が高く起った。家士溜りの剣士の控え場は総立ちになって、何事か罵り出した。
矢来の外の群集も
「奇怪千万な京極家の致し方、余りと申せば卑劣な策じゃ」
と福知山方の正面の座に、じっと事の顛末を睨みつけていた藩主松平忠房は、それへ来た正木作左衛門にそう云った。
「いかにも御意にござります。
「うウむ、飽くまで
「誠に是非もない儀、この上は改めて君より春日殿へ再び試合直しを仰せつけあるが宜しかろうと存じまする……」
と作左衛門が善後の処置を建策しているところへ、一人の家士が血相変えてその前へ
「ご家老様、一大事でござります。早く早くおいで下されませい」
と息さえ
「ご前じゃ静かにせい。して何事じゃ」
「はッ……唯今、溜りに控えた剣士方やご家中の若侍等が、みすみす勝った試合を引分けたるは不届千万と立腹して、十数人の決死組を仕立てて宮津方へ真剣で斬り込まんと殺気立っておりまする――早く、ご家老様のお声でお鎮め下さりませ」
いよいよ、事重大な成り行きとなった。作左衛門はすわこそと君公の顔をみた。忠房もさすがに面色をさッとかえて彼に

横暴極まる京極の専断に、
「こは逆上召されたか各

と声を
「あいやご家老のお言葉ながら、言語道断なる京極の無礼、このまま黙っては万民の笑い草でござる。君公のご恥辱を
と一同は鯉口切って
「おお左様か、忠義の段お見上げ申した。やれッ、いざ斬り込むもよかろう」とは云いながら、作左衛門は大磐石に立ちはだかって更に云った。
「その代りには両藩必死の
「こりゃご難題、是が非でも武士の面目勘弁まかり成りませぬ。お退き下されいッ」
「ならぬッ、君家の危機がお解りないか」
と双方譲らず押問答をしている騒ぎを、休息所でふと耳にした春日重蔵は、それこそ天下の一大事と愕いて作左衛門と共に、猛り立つ諸士を
とやかくと
目付奉行の伝令が、双方を駈けめぐって、第二の大試合の用意を促した。――急使霧島六弥が仙石家の客分たる稀世の名剣客を
「大儀であった。仙石殿ご
と丹後守の喜悦は斜めならずであった。六弥は面目を施して、座を辷るとすぐその剣客者をご前へ連れてきた――がしかし並居る一同の眼はすこぶる
髪は油の光もない
その姿を一目見て、あッと驚き呆れたのは大月玄蕃であった。彼は
そして今ここに現われた仙石家客分の剣客というのを見ると、あにはからんや今朝ここへ来る途中、由良川の激流を目がけて幾人かの門弟を手玉に投げこんで
「余が京極丹後である。遠路火急を促して大儀であった。当家の武名存亡にかかる大事じゃ、充分のほどを見せて欲しい」
関羽髯の浪人は、
「あいやお言葉ながら、剣道は元来武名の誉れを賭け争い興を沸かせて観るべき物ではござらぬ、唯これ
と
二人は行きあった所で、きっと眼光を交わせた。
「あいや、某は京極殿の家中ではござらぬが、義によって試合申す、播州船坂山の住人
と長髯の武士鐘巻自斎は、
「申し遅れました。拙者は
と礼を返して型の通り、木剣の柄に手をかけると同時に

春日重蔵は木剣の
しかし、そこには彼の恐怖めいた
一方の鐘巻自斎はまたより以上の驚嘆をもって重蔵を
「おお新九郎様ではござりませぬか……どう遊ばしたのでござります」
と笹色絹の裾模様に、日傘の赤い光線を浴びた美しい人が、矢来外の人の少ないところにかがんでいた若い武士へ、こう言葉をかけた。それは正木作左衛門の娘の千浪であった。福知山藩では今日の試合に公然と女の
「どう遊ばしたのでござります。新九郎様――新九郎様」
と千浪は
「お、千浪殿でござったか……」
と微笑を見せたが、その顔はいかにも苦しげで、そして

「大層お色の悪い――冷たい汗が浮いているではござりませぬか。印籠のお薬をお出し遊ばせ、常、常や」
と千浪は日傘を供の女に渡して新九郎の腰に見えた印籠を取りかけた。
「いえ、大丈夫でござります、大丈夫でござります……」
「およろしいのでござりますか」
「最前から、あまり激しい試合を見たり、大勢の声にガンとして、気分が悪くなったばかりでござります。拙者はもう参りまする。ここさえ去れば落着くに相違ござりませぬ」
と新九郎は額を押さえながらそッと立ち上がって歩きだした。
その時は、ちょうど二度目の合図の太鼓が激しく鳴った時であった。千浪はいよいよ春日重蔵が京極の新敵手と最後の勝負をするのであろうと、それにも心を
二人は
「新九郎様、もうお顔はいつもに変らぬお色になりましたが、ご気分ははれましたか」
「いつか忘れたようでござる。先ほど声をかけられた時は、まるで夢心地でござりましたが……」
「ほんにどうしたことでござりましたろう……」
「よくよく武芸事には
三人は道の傍らにあった辻堂の縁へ腰を下ろした。お常は日傘を受け取ってつぼめた。――程よくあたりに茂った糸柳は、ちょうど人目を
「千浪殿、いつかはこうしてゆるりとお話致したいと思っていたが、あの……この間お常殿の手から渡した、拙者の文は見て下されたか……」
そう云った新九郎は、
「はい……」
と千浪は乱菊模様の金糸を一本抜いて、爪紅をした綺麗な
「ではお読みなされて下さったのじゃな。そしてそなたの返事は何とでござります。返事のないのはご不承知でござるか」
「いいえ……」
とかすかに答えた千浪は血の
「それでは誓って下さる? 誓って下さるか」
「新九郎様、お偽りではござりませぬか――」
「偽りならよいにと仰っしゃるか」
「いいえ、誠ならどんなにうれしゅうござりましょう」
とふッさりした黒髪が新九郎の
お常は容易に帰って来なかった。――それでも無上の幸福感に酔った二人には、
――と、
その後から、凄まじい騎馬が砂煙を立って城下へ七、八騎飛んだかと思うと、一隊の武士が悄然と
「ややッ――」
と伸び上がって見ていた新九郎は、吾を忘れてそこへ走り出した。
山陰の天地を
しかし後で落着いてみても、その瞬間の手口をあきらかに瞳に
唯見る、二本の木剣がつんざく稲妻をほとばしらせて七、八合の
「ア――」
と刹那の大衆は、何の声もなかった――とまず京極方の
それに較べて、余りに
「誰か駈けつけぬか! 重蔵殿が怪我なされたではないかッ」
それに
やがて、典医の介抱を受けた春日重蔵は、藩主の声に招かれて家士に抱えられたまま桟敷の下へ運ばれて来た。忠房は
「重蔵――よく致してくれた」
「お離し下されい……ご、ご前でござる」
と重蔵は
「大丈夫でござるか、宜しゅうござるか」
と家士たちは、紫色にわななく重蔵の唇を見て、悲涙を
「定めし苦痛であろう。一刻も早く福知山へ送り遣わせて、充分な手当を致せ」
「はッ」
と近侍はすぐ足軽に
夕雲に染めなされた由良の血河は、秋ではないが
――その途中のことである。恋の陶酔に他念のなかった新九郎と千浪が、辻堂の縁から
この二、三日、丹後宮津の町は祭りのような騒ぎであった。藩では
ところが、ここに
玄蕃を見放した丹後守は、一方に
「どうであった。承知致したか」
と今日も、出石に滞在している自斎の許へ使者にやった重役
「残念ながら、この儀は
と伊予は役目の不結果をまず暗示した。
「ふーむ。では千五百石の高禄を与えると申しても、まだ不足じゃと申しているのか」
「いえ、それならばまだしも、実は度々当家からのご催促に、仙石家でもお
「何? では
「武芸遍歴の旅に
「ほほう。武者修業に出たとか? 怖ろしい奴、まだあの上に錬磨する
と丹後守も、さすが名人の心理は押し計りがたいものと舌を巻いた。
数日過ぎると、溝口伊予は再び仙石家を訪れて来て、どうしても自斎を断念しきれない主人丹後守の
「この度は是非もござりませぬが、自斎どの遍歴を終えてご当家へ立寄りの節は、是非にお執做の儀を今から願い置き申す。それまでは何年にても宮津七万石の指南番の席は
と破格な条件を残して行った。仙石左京之亮も、一藩の君主がそれまでに執心なら、むざと彼を旅立たすのでなかったにと後悔したが、後日に
「旦那旦那、馬に乗っておくんなせえ」
「馬か、まず
「そんなことを云わねえでよ。福知山へですか? 元伊勢へお
「要らぬと申すに。うるさい奴じゃ」
「帰り馬だから頼むんだ、ねえ乗ってくんなせえ」
「くどいッ」
と先の浪人は編笠を振り顧って、鋭く一喝した。その底力のある声に、道中ずれのした馬子も
「亭主、茶なともらおうか……」
と浪人は微笑を洩らして、向うに見えた茶屋の
「亭主、これから福知山の城下は何程あるな」
「左様でござりますな。まア三里でござりましょう」
と茶盆を持って来た亭主は、編笠をとった浪人の顔を見て、しばらく茶も渡さず
「旦那様はこの間、桔梗河原の試合で春日様を撃ち込んだ、京極方の先生でござりますな」
と云うのであった。それは
「はははは、そりゃ他人の空似であろう」
と自斎は
「おかしな奴もある者じゃ……」
と自斎は山家者の偏屈と別に気にも止めず、四方の風光に気をとられていた。
彼は播州船坂山の住人とばかり名乗って、桔梗河原の一試合で山陰道にその名を轟ろかせ、京極丹州の切なる
当時、承応の時代に最も行われている剣法の諸流は
しかし、この剣法の
けれども、鐘巻自斎は師の勢源が、この世を去ったものとは決して信じなかった。そして彼は四十の年を越えた頃に、ある剣法の疑問に行当り、その解決を得なければ、真に欠点のない名人とは云われない一箇所の弱点が自分にあることを発見した。彼はそのために非常な
その大願のある自斎には、桔梗河原の功名などは、ほんの旅情の慰さめに過ぎないのであった。ただ彼は前に云った一つの剣法の疑問をどうかして会得したい為に、旅の道々にも努めて他流試合を試み、諸流派の秘訣を
その途中の茶屋で、自斎はしばらく足を
「親分、親分はいませんかい――」
と
「おおちょうど在宅だが、どうした? また下らねえ
と渋い
「親分、いつもそんな下らねえことばかりじゃねえ。一大事があるから知らせに来たんでがす」
「どうも体の
「他でもねえがこの間の大試合でがす。とうとう宮津方の
「何を改まって云ってやがるんだ。こうして福知山の殿様のお荷物で飯を喰ってりゃ、瘠せても枯れても足軽の下くらいなご家来も同様、その上春日重蔵様の先代には、命まで助けられたことのある由良の伝吉だ、そんな講釈を聞かねえでも、口惜しくって男泣きをしているんだ。ええ、もう気色が悪いから、そんな話を聞かしてくれるないッ、思い出してもむしゃくしゃすらあ」
「だから親分、こうして飛んで来たんでがす。そ、その
「ふむそうか。ではたしかに試合で重蔵様の足骨を砕いた、あの鐘巻自斎に違えねえな」
「見違えっこはありません。あんな長い髯のある侍なんて、滅多にありゃしませんから」
「よしッ。よく知らせに来てくれた。さすがてめえもご領分の町人だ、やいやい二階にいる奴らあみんなここへ降りて来い!」
と伝吉が奥へ向いて声を張ると、何事かと、二階で開帳中の乾分たちが、どかどかとそれへ出て来て、
「何です! 親分」
と渦を巻いた。
「くどいことを云ってる間はねえ。どいつも
「合点でがす」
と気の早い
「おい、行先はどこだい、縄張り荒しか」
「そうじゃねえ、今俺あ
「畜生ッ
「そうだ叩ッ殺してしまえッ。そいつを通しちゃご城下口に頑張っている由良の身内の名折れだ」
と伝わると、唯さえ鬱憤の満ちていた折とて、縄張り喧嘩以上の殺気が
「野郎ども、仕度はいいか」
と由良の伝吉は
「権十ッ、案内しろ!」
と伝吉が真ッ先に駈け出すと、
「それッ、親分に続け」
と乾分を加えたその人数が、
茶屋の軒から、
「やい
と仁王立ちに大手を拡げた伝吉は、
「何ッ! 天下の大道、誰が歩くに致せ
「いけねえいけねえ。たとえ天下の往来であろうと、てめえだけは通すことはならねえ、その
と伝吉はガッキと柄に力を入れた。
「さても呆れた暴れ者め、旅人の妨げ致すからには、汝等こそ用捨はいたさぬッ」
「何をッ」
と血気な伝吉は、抜くが早いか命知らずに自斎の真っ向へ飛びかかった。
「慮外者めッ――」
と
「うぬッ」
と横にのめッた伝吉は、青筋を立ててもう一度必死に斬り込んだ。するりと抜けた鐘巻自斎は、一方から脇差を振りかぶって来た乾分七、八人の中へ突入して、たちまちバタバタと鉄扇で叩き伏せた。投げられる者、
「ワーッ、
と多数の激昂が、倒れる者の後から後から車返しに自斎の前後を十重二十重に囲んだ。
二度斬り込んで、二度とも苦もなく
自斎の鉄扇は時を経るほど、縦横無尽の快速を加えた。大海原の狂瀾がいかに寄せても返しても、揺ぎもせぬ岩根のようだ――。そのうち
「駄目だッ駄目だッ」
とそれに
追う気もなく、騎虎の勢いで自斎が四、五丁駈け散らして来たが、益もないことと思い返して、そこから見えた川床へ、渇いた喉を
すると、その後から
自斎もそれには気づかなかった。河床の岩に両手をついて、底の水草が
「こん畜生ッ」
と腕に覚えの由良の伝吉が、無念をこめて
ヒュッと風を切ったも
「大胆な奴じゃ……」
と自斎は河へ眼をやった。投げ込まれた由良の伝吉は、浅瀬の岩に引ッかかって、仰向けに浮きつ沈みつして見えたが、どこかを岩で打ったらしく、まったく気絶している様子である。
「こやつ一人は最前から、町人に似気なく骨っ節の強い男じゃが、このまま抛って置けばいつか気がつくであろう……」
と自斎は独り頷いて、そこを立ち去った。
しかしこのために、彼は福知山へ行くことは思い止まった。この様子では城下の者は、より以上興奮をしているに違いない。そこへ春日重蔵の容態を見舞うのは、かえって彼に皮肉と苦痛を与えに行くようなものだと、深く反省したからであった。
そこで、路を代えた鐘巻自斎は、
柳端の春日重蔵の道場は、この頃、
奥の一間には重蔵が足を療治して寝ていた。
「残念だ……残念だ、この足さえ満足に立てば」
と、彼の男泣きに呟やく声が、時々
「も一度この足を満足にして、鐘巻自斎を打ち込まねば、切腹して死ぬにも死なれぬ」
と叫び狂うことさえあった。
藩主からは時々典医を見舞によこした。正木作左衛門も
その新九郎には、また新九郎の懊悩があった。或いは兄の重蔵以上の苦しみかも知れない。
この頃、千浪は目立って新九郎に元のような態度を見せなくなった。彼女は明かに恋を裏切って来ているのだ。――今日こそ、どんな手段をしても千浪に会わねばならないと彼は心を決めた。
「兄上――」
と新九郎は、
「何じゃ」
と横臥した重蔵は、苦痛に瘠せた蒼白い顔をわずかにこっちへ向けた。――定めし肚では、この新九郎が武士らしい武士ならばと思うのであろう。
「兄上――ちょっと外出致しまする……」
「どこへでも参るがよい……」
と、重蔵は投げるように云ったが、
「まア待て、ここへ来てくれ」
と不意に云い直した。
「何かご用でござりますか」
「そのほうは兄がこうなっても、口惜しいとは思わぬか」
「は……」
新九郎は
「いやさ、聞けば足軽や町人でも、今度のことは、残念じゃ、無念じゃと云うているそうじゃが、そちが
と重蔵は唇をわななかせた。
「…………」
新九郎は手を膝に組んで、人形のように素直にうなだれたままである。兄に対しては口ごたえもせぬほど彼は素直であった。それが重蔵には、頼りにならぬ弟と、いつも諦めさせる姿であるのだ。
しかし、今日は重蔵もひどく興奮していた。
「その年になりおって、
「げーッ」
と彼は
「騒ぐことはない。武士の家に生まれたは汝にとっては不倖せ、生恥かいて何の面目があろう、死ね! 頼みじゃ」
「あッ、兄上ーッ」
「ええッ情けない奴め!」
と枕元の脇差へ重蔵が手を伸ばした隙に、新九郎は色を失ってばたばたと玄関から表へ逃げだしてしまった。
彼の頭には今、千浪に会うという一念より他なかった。今日、出がけに云われた兄の言葉も、世間も、武士道も、そんな意識は一切、恋の
今宵こそ千浪の部屋へ忍び込んで、この間から幾通もお常の手から渡した手紙に、返事もない不実を責めよう――と見廻ったけれど、越えられそうな場所がないので、彼はしょんぼりと塀に倚りかかって、彼女の姿を見る手段を考えていたのである。
ポトリポトリと若葉が降らす
新九郎は、ハッと動悸を高めて、物蔭へ身をひそませたが、向うへゆく後ろ姿が、どう見ても千浪の
さきの影は、女とも思えぬ迅さであった。新九郎は、途中でふと千浪ではないかしらと
それにしても、千浪はこの夜更けにどこへ行くのだろう? しかも一人で――新九郎は
×
そそり立つ
「千浪殿――」
と物蔭から出て来た男が、
「おお! 新九郎様」
と千浪は、それが
「どうして貴方はこれへお
「いや、それよりそなたこそ、どうして拙者につれなく召さる。いつかのお言葉、ありゃ
と痛いほど、握った手を強く振りながら云った。
「にわかに打って変ったこの頃の素振りはどうしたもの? さ、それ聞きに参ったのじゃ」
「…………」
「言葉もないのは変心致されたな!」
と声のあとから熱い息が
「…………」
「なぜ拙者にばかり物云わすのじゃ――ああ
と激した新九郎が、とんと胸をついたので、千浪は、よろよろと倒れるなり、ワッと声をあげて泣いてしまった。
「何を泣く? ても
「し、新九郎様ッ――あなたはお情けないお方でござりますのう」
と、千浪は胸の底から衝き上げるような声で、
「お手紙をお返しせぬのも、お目にかからぬようにしている辛さも、唯々お身のお為を思う私の一念でござりますものを……淫婦の、騙されたのとは、あ、あんまりな、お言葉でござりまする……」
「こりゃ
「さ、ようお考え遊ばしませ。お兄上様のこの度のことから、世間は何と考えましょうぞ。重蔵様程のご舎弟ゆえ、今にきっと兄上に代って天晴れなお腕前になるであろう。兄に代って鐘巻自斎を打ち込むであろう――そして福知山方の誉れを取り返す者は、新九郎様でなくてはならぬと思うが
と
「そのお心の醒めるよう、誠の武士の魂が
「ああ拙者は恥かしい男のう……」
「そこへお気がつきましたら、どうぞ重蔵様にも勝る剣士、鐘巻自斎にも優れた名人におなり遊ばして下されまし」
「……が、我ながら、どう気を取直しても、生れつきの臆病と見えて、
「その弱いお心が悪魔でござります。殿御の一心で出来ぬことがござりましょうか」
「たとえ何ほど申されても、剣術嫌いは天性じゃもの……それより新九郎が切なる頼みじゃ、千浪殿、どうぞ拙者と死んで下され」
「エエッ」
と千浪が、愕きに身を
「そなたと死ぬなら怖ろしくもこわくもない。拙者の望みもそなたよりない今じゃ! 生きて武士の約束に縛られるより、二人でなら美しい夢見るように死んで行ける。それが増しじゃ、どうぞ拙者の手を取って、この世から遁れてくれ」
「…………」
「よ、千浪殿――」
と物の
「刺し違えてくれい」
と、自分も仰向いて、白い喉を示した。
その日の夕暮、同じこの男山八幡の境内を、参詣するでもなく、うろついていた一人の浪人があった。――
無論、そんな
「ち、千浪殿、刺し違えて下されい――」
と新九郎の声は悲痛そのものであった。
「そうじゃ! いっそ……」
と千浪はその刃から、一寸も
「乳の下を……乳の下をお
きらりと――互いの白刃が綾に
「あッ」
ともぎ離されて仰向けになった二人は、雲突く男の影と
「なに意趣あって
と
「千浪――」
と熊谷笠のうちからも、その時はじめて
「な、なんじゃと?」
と、眸をみはった。
「そちが忘れている筈はない。如意輪寺裏の梅月夜に、敢えなく見遁した大月玄蕃じゃ」
「えッ」
「これッ、今宵は、
「ええ聞くもけがれ! この千浪には、春日新九郎という誓ったお方がありますわいの」
「おおよい良人を選ばれた。兄重蔵を
今まで石のようになっていた新九郎は、この大月玄蕃の面罵を受けて、かつてない反抗的な血がじくじくと骨の
玄蕃は飽くまで
「そんな男に心中立てするより、死にたいという新九郎は、一人で勝手に死なしてやるがいい。千浪、そちには身共が用がある、くだらぬ命をむざむざ捨てさす訳には行かぬぞ」
「慮外な言葉、誰がお身如きにこの身の指図を受けようぞ! 死んでも悪魔の妻にはならぬ」
「それは女の月並文句、強い男の腕で抱きしめられたら、もう
「いやじゃッ」
「身共と一緒に、こう来るがよい」
「無礼しやるなッ」
――と千浪はとられた腕を振りもぎって、
「
と、玄蕃は
「新九郎様ッ、悪人の
「ええこの邪魔者ッ、うぬから先だ」
と玄蕃は、鬼丸
「あッ――」
と新九郎は目をつぶって、
「騒ぐな!」
――玄蕃の目からは
「おのれッ!」
と玄蕃は、木の根に
そこは、音無瀬川の断崖であった。
静かに、無数の渦を描いて、
「やいやい、そう
「突きゃあしねえよ、何か
「何?
「何だ! どうしたい?」
「
「えッ仏様か――」
と二人が
「女だ……女らしいぜ兼、も少し
とグルリと一つ舸を廻すと水藻の網を被った死骸がゆらゆらと浮いて出た。
「それッ」
と二人は手を揃えて、やっと舸の中へ
「兼、いい男だなあ」
「だけれど今の扱帯は女物じゃねえか。きっと
「そんなことを云って死骸の数ばかり多く助けたって仕方がねえ、この男だけでも何とか早く息を吹返させる工夫をしなきゃならねえ――兼、こうしよう、とにかく舸を着けて、親分の家へかつぎこんだ上、出直してから女の方を探そうじゃねえか」
「いい所へ気がついた。じゃ少しも早くだ!」
と鮮やかな
春日新九郎は、何の
まず眸の真上に
しかし、たしかに自分は死んだのだ。大月玄蕃の毒刃に追われて千浪と抱き合ったまま音無瀬川へ身を投げた――その記憶まではあるが、後のことは何の覚えもない――そしてふと気がついて見ると、仰向けになって寝ている体を、柔かい
と、みしりみしり、廊下を踏む音がして来た。
「おう、お気がつきなすったようでごぜえますね」
と静かに
「先程、好い按配に薬が落ちたから、一刻もたったら気がつくだろうと、医者が云って帰りましたが――どうでごぜえますご気分は」
「は……はい、これはどなたか有難うございます」
「お顔の色ももう大丈夫、どうか気を大きくご養生なせえまし。ここは
「……忝けのうござる……」
新九郎は、千浪のことがちょっとでも知りたかったが、胸につかえて、云い出せなかった。
体は日に増して恢復して行ったが、心の苦悶は肉体と反対に日夜、
(女の一心さえ恋を遂げます。男の一念で成就せぬことがありましょうか、何故あなたは
「そうだ! 拙者の行く
新九郎は心で叫んだ。
思い立っては矢も楯も堪らなかった。
その夜新九郎は、ひそかに三通の書面を認めた。一通は伝吉へ、一通は千浪の父作左衛門へ、最後のは不遇な兄重蔵へ宛てたものであった。
そして、旅仕度も着のみ着のまま、彼の姿は、
「親分へ、飛んでもないことが出来ましたよ」
と夜が明けてから、新九郎の部屋を覗いた女房のお藤が、顔色を変えて伝吉へ告げに来た。
「朝ッぱらから、何を慌てていやがるんだ」
「だって親分、新九郎さんが見えませんよ」
「何?」
と伝吉もさッと蒼くなった。
「裏木戸が開けッ放しで、この手紙が残してあるだけですよ」
とお藤からそれを手渡された伝吉は、腰が抜けたようにどッかと
てっきり、千浪の死を慕って行った。――彼の直覚はそう閃めいたのであった。ところが一字一字、読んでゆくうちに、見事その直覚は裏切られて、はらはらと感激の涙さえこぼしてしまった。
「偉い!」と彼は
「お藤、それから、野郎どもも、まあここへ来てこの手紙を読んで見ろ!」
と伝吉は一人の讃嘆では物足らずに、一同を呼び集めた。
「どうだ、男はこう来なくっちゃ本物じゃねえ。新九郎さんは武者修行に出たんだ。たとえ五年が十年でも、鐘巻自斎を一本打ち込まねば、
と、彼はひそかに、前から乾分たちに新九郎は見込みがあると云った先見の誇りを感じた。そしてにわかに出支度して、
「お藤、俺あすぐ手紙を持って正木様と重蔵様お二人を欣ばせて来るから――」
と
真ッ先に柳端の春日重蔵の道場へ来てみると、意外にも空家になっている。隣家で訊ねると、重蔵は武芸者として再起の望みのない体を悲嘆の余りと、弟新九郎の噂に対する申訳に、
「おお伝吉か、先頃は千浪の不始末、其方にもいろいろ
と縁先へ出て会った作左衛門は、おそろしく
「どう致しやして、せめて千浪様のお
「いやいや、不義の娘に未練はない。ただ気の毒なは重蔵殿じゃ、思うても
「それについて旦那様、たった一つのお欣びがごぜえます――委細はこれをご覧なせえまし」
と伝吉は
「何じゃ? こりゃ不義腰抜けの新九郎から拙者への書面か――ええかような物は見る気もせぬ」
と作左衛門は手に取ろうともしなかった。
「まあとにかく、読んでだけはお上げなすって下せえまし」
と伝吉の言葉に、作左衛門は不承不承
「うーむ、やりおったやりおった」と表情しきれぬほどの喜びを溢れさせて、
「これでこそ武士! 春日重蔵殿のご舎弟じゃ、天晴れ鐘巻自斎に勝る腕前にもならば、
と作左衛門の欣びは尽きなかった。
そして慌ただしく奥へ入った作左衛門は、一封の小判と印籠、それに
「折入っての頼みじゃが、定めし世馴れぬ新九郎が、永い武芸修行は困難であろうと存ずる……今朝立った道はおおかた京都路であろうゆえ、其方の足で追い着いて、大儀ながらこの三品を渡して遣わしてくれぬか」
と、わが子にも等しい思いやりで云うのであった。
「承知致しました。定めし新九郎様もお喜びでござりましょう」
「ただ、面会の節は、必ず一念成就致せ――と、この
「へへッ、確かに承知致しました。したが、重蔵様へのもう一通は? ……」
「おう、それは拙者が如意輪寺へ参ってお手渡し致そうぞ。重蔵殿もこの由、お聞きになったら定めしご本望のあまり、嬉し涙に暮れるであろうわい」
やがての後、作左衛門は如意輪寺へ駕を向けた。その時、もう由良の伝吉は身軽な旅仕度となって、新九郎の後を追って京都路へと急いでいた。
承応元年六月
由良の伝吉の裏木戸から、再生の一歩を踏み出した春日新九郎は、但馬街道を東にとって、生野から
もし、怪しむ者あって、「汝は
奥を覗くと、ちょうど茶店の亭主が髯を
「ご亭主、折入って頼みたい儀がござるが……」
「はあ、何でごぜえますな」
「誠に恐れ入るが、その後で拙者の前髪をおとしてはくれまいか」
「へえ!
と亭主は
「そうじゃ、世話であろうがやってくれい、前髪姿では道中とかく馬鹿にされるでの」
「宜しゅうござります。じゃこちらへお掛けなせえまし、その代り
と亭主は
十九という
「どうでがす。痛かあごぜえませんかな?」
「いや、よう剃れる剃刀じゃ……」
と新九郎は、惜し気もなくバラバラと膝に落ちてくる黒髪に、感慨無量の眼を落していた。――青々とした月代が、見る間に綺麗に剃り上がった。
そこへ、どかどかと五、六人の百姓が、
「おおお武家様がいた。お武家様がござらっしゃる」
と口々に云った。中の一人は新九郎の足許へ平つくばって、
「お見かけ申してお
とその親らしい百姓は、眼さえ濡らして騒いでいる。しかし、一人前の武芸者と見られて、哀願された新九郎は内心はッとしないではいられなかった。
「そりゃ気の毒なことじゃ。よし、娘は拙者がとり戻して進ぜよう」
彼は勇敢にそう云いきってしまった。
すべては自分の腕を鍛える修行だ。今日からは、浮世のあらん限りの困苦を甘んじて受難する身だ。必死となれば大月玄蕃の鋭い
「ではお助け下さいますか。有難うがす、みんなよ、お武家様が行ってやると仰っしゃるだ」
「有難うごぜえます。どうぞ二度と村へ足踏みしねえように
「案内致せ」
新九郎は大刀を握りしめて立ち上がった。しかし、さすがに三人を
×
この
表面は生野銀山の加奉役と触れているが、実は千坂ごえの旅人を脅かしたり、銀山から京師を荒らしまわる強賊であるという噂が専らであった。
今も、泣き叫ぶ二人の娘を、腕ずくで山荘へ連れ帰ろうと、村端れまで引ッ張って来た三人の凄い浪人体の者は、後ろからワッと
見る間に駈け寄ってきたのは春日新九郎、
「やあそれなる
と大刀を
「黙れ青二才ッ、誘拐すとは何事だ、召使に致すため連れて行くのが何で悪い」
「要らざるところへ出しゃばると、その細首を叩き落すぞ」
と三人は歯を
「ではどうしても渡さぬと申すか」
「馬鹿めッ、くどいわ」
「欲しくば腕ずくで来い!」
「おお腕ずくで取る!」
と、新九郎は一足
「真ッ二つだぞッ」
と叫んで躍りかかって来た。はッと新九郎の足は、我れ知らずもう一足飛び退いたところを、横合から大勢の百姓が、
「それッお武家様に加勢しろ」
とバタバタとふり込んだ竹槍が、盲ら当りに、一人の郷士の腰を払いつけた。
「
と打たれた郷士は新九郎を捨てて、どっと百姓の群へ突き進んで、まえの一人を
「わッ太助が
と血に脅えた一同は、意気地もなく
「やあこの青侍め、剣術を知らねえな」
と郷士の一人は構えを見て充分に見くびりながら、
「なぶり斬りには打ってつけな奴だ」
と真ッ向から斬り下げて来た鋭さ、新九郎はここぞと持った刀でピュッと横に
後の二人は烈火の如く憤った。三尺近い大刀を新九郎の左右から振りかぶって、
「小僧ッ、観念しろ」
とばかり斬りつけた。新九郎にそれを防ぐ秘術はない。――あなやと見る間に、彼は咄嗟にばらばらと駈け抜けて、五、六
「いざ来い!」
と、叫んだ。
「こやつ、卑怯な」
と二人は続いて斬りかかった、新九郎も矢車のように、刀を振りまわした。剣道の法則から見れば全然滅茶苦茶ではあるが、彼は必死だ、先に踏み込んで来た一人の刀をハタキ落す。アッと拾いかかるところを、新九郎はここぞ狙いどころと、その背へズーンと斬りつけたが、敵のからだに刀が当ると、
「この野郎」
とその隙を後の二人が
この瞬間の早技には、新九郎が一太刀の助けさえ入れる隙がなかった。
彼は六部の鮮やかな腕前に感嘆して、足許から逃げ出した残る一人の郷士を追い撃ちに切りつけたが、二度とも
「あいやお武家、一人や半分の
と、六部は、新九郎の後ろから呼んだ。
「これは思いがけないご助勢下され、
新九郎は立ち戻って、丁寧に会釈をした。
「幸いに、お
「有難う存じまする。お恥かしい次第でござるが、まったく剣道の心得なき
「いやいや、最前とくとお見受け申すに、法はずれながら
「これは恥じ入るお言葉でござる。しかし、失礼ながら六部殿の唯今のお腕前、これも並ならぬお方とご推察致しまするが」
「いかにも、かかる姿でこれへ参ったも深い仔細のある儀でござるが、とにかくあれなる娘二人を助け返した上、ゆるりとお打ち明け致そう」
と、六部と新九郎は樹に
「まずそれへお坐りくだされい。ここなれば人目もござらぬ……」
とその後で、六部は雑木林の中へ新九郎を導いた。そこには彼の
「実は何をお隠し申そう、拙者は亀岡の
と名乗った。新九郎はさもある人と頷いた。志摩は言葉をつづけて、
「そこもともお聞き及びであろうが、当地の
と物語った。新九郎は戸川志摩の大胆さに
「それは容易ならぬご使命でござります。ところで如何でござりましょう。拙者は丹波浪人の春日新九郎と申す者、武芸未熟を恥じて修行の旅に出たばかりの者でござるが、その山荘の探索にご同行下さりませぬか、及ばぬながらも唯今のご恩報じ、二つには、大きな修行ともなろうと存じまする」
「そりゃ願うてもなきこと、同藩の者には臆病者ばかりにて、誰一人同行致そうと申す者もなかったが、今そこもとがご一緒にお出で下さるとあれば百人力の強みでござる」
と戸川志摩も大いに欣んで、万事をそこで
×
「おい仙太! まだ見えねえか」
と山袴に蔓巻の刀を
「まだ影も見えねえ!」
とその返事は、数丈上の梢の
「不思議だなあ。やい
と下に
「ええ嘘じゃごぜえません、たしかにこの斑鳩嶽の上りへ来たのを探って来たんでがす」
「ふーむ。じゃもう来なくッちゃならねえ筈だがなあ……」
と少し静まり返っている。
「来たッ――」
と頭の上で物見の仙太の声がした。
「何ッ来た? ――」
と一同はにわかに引き緊まった顔をしていると、上から雷獣のように樹を辷り降りて来た仙太が道服の浪人に向って、
「洞門の小頭、この先へ二人の奴がやって来やした。早く手配りをしなくっちゃあ……」
と口ぜわしく云った。
「そうか。じゃみんなうまく姿を隠していろい」
と洞門の小頭と呼ばれた浪人は、一同を指揮してから、自分も熊笹の中へ姿を没して、
それからしばらく、斑鳩嶽のこの山路は鳥の羽音もしなかったが、やがて何か話しながら通りかかって来た二人は、云うまでもなく六部姿の戸川志摩と春日新九郎とであった。
「新九郎殿、この分ではどうやら今宵は、山の中で日が暮れそうでござるぞ」
「たまには山に伏すのも一興でござりましょう」
「しかし、どこか夜露を防ぐところだけは目つけたいものでござるな」
と二人の声が間近になるまで、充分ためていた洞門の権右衛門はそれへ
「やい、用があるからしばらく待て」
と立塞がった。
「何じゃ、何者じゃ、そのほうは?」
「何者でもねえ、この斑鳩嶽に、その人ありと知られた雨龍の一族、洞門の権右衛門だ。よくも最前は
「おお、良家の娘を
と戸川志摩は
「おのれ云わしておけば好きな
「だまれッ、罪を裁くは、領主の司権じゃ。汝等如き
「斑鳩嶽一帯は雨龍の領土も同然、この山中に踏み込んで要なき
と、洞門が片手を挙げて合図をすると、潜んでいた数十名の手下が、ばらばらと二人の前後を取り囲んだ。
「新九郎殿ッ、ぬかり給うな」
志摩は叫んで、仕込みの一刀、真一文字に振りかざしてどッとその中へ斬り込んだ。
「お案じあるな!」
と新九郎も腰なる秋水をギラリと抜いて、例の滅多打ちにふり廻した。一人二人の
すると梢の上に身を忍ばせていた賊の一人が、頃合いを計って樹上からばらりと投げたのは蜘蛛手取りの

「あッ、しまった!」
と一方で縦横無尽の怪腕をほしいままにしていた戸川志摩は、新九郎が
「さッ、縛れッ。この上は拙者も共に雨龍太郎の面前へ案内致せ」
と両手を自身後ろへ廻して、
「歩けッ亡者め、もっと早く歩かねえか」
と二人の縄尻を持った雨龍の手下どもは、地獄へ凱歌を上げる獄卒のように、新九郎と戸川志摩を引ッ立って間道から間道を
鬱蒼たる樹木の路が、石門からやや小半丁も続いた所に、自然石の石垣
「開けてくれ、洞門の権右衛門が二人を生捕って来た」
とその鉄門の扉を叩くと、中からギーと開けて、棒を持った番人がいちいち人数人相をあらためた上一同を入れて再びギーと閉めてしまった。
戸川志摩は心のうちで、「ああこの要害ではとても代官や領主の力ぐらいで
「ご苦労だった。
と権右衛門はそこで多勢の者を
「おや……」
と思いがけない優しい声がしたので、その下へ来た新九郎と志摩は、何気なく振り仰ぐと、洗い髪に大絞りの
「権右、何だい、その人たちは? ……」
「あ、こりゃ
「こいつらあ今日埴生で、一族の者を二人まで手にかけやがったので、
と手柄顔に云った。
「まあ見りゃあ優しそうな侍に、一人は六部のようじゃないか……」
「こういう奴が油断がならねえんです。いずれ今日明日のうちにゃあ、例の所で
「可哀そうに……」
「憐れをかけると癖になりやす。やいッ歩け」
と権右衛門は
橋廊下の
「ああじれッたい! あんな
呟きながら、横へさした
黒木の太柱に神代杉ずくめの原始的な
「客人、唯今これへ二人の
「ほう、亡者と申すと何者のことでござろうな」
と浪人はちょっと
「おわかりないのは道理じゃ。里で申す罪人を――山では亡者と呼んでおります。ひとたび雨龍の面前に引き据えた者は、生きて帰さぬ掟からそう呼ぶのでござる」
「成程、ではこの場で首を
「いや、いつもは洞窟へぶち込んで手下の好きにさせるのだが、幸い客人は一刀流の使い手、世が世の時には指南番までしたという腕前を見たい。――この場で腕試しに二人の胴なり首なり斬ってお見せ下さらぬか」
「ははははそりゃいと易いこと、拙者が腕前をお見せする為ならば、縄目にかけた死骸同様な奴を斬るは本意でござらぬ。一人一人に得物を持たせて、尋常の太刀打ちの上、見事真っ二つにしてご覧に入れよう」
「さすがは一流の剣客者たるお心がけ、そりゃいっそ
「これは千万かたじけない……お、あの木戸口へ見えた者どもでござるかな」
と浪人が指さす庭先へ、ぎょろりと瞳を向けた雨龍太郎は、
「そうだ」
と大きく頷いて待ち構えた。
「お頭、やっと引ッからめて参りました」
とそこへ春日新九郎と戸川志摩の縄尻を持たせてついて来た洞門の権右衛門が、
「坐れッ」
と二人を雨龍の正面に引き据えて、自分も傍へうずくまった。
「うむ。ご苦労だった。――こいつらか。やいッ
と雨龍太郎の声は
「その生ッちろい若蔵は知らぬが、六部の方はどこかで見たことのある奴だ。はてな、やいッ、汝はただの六部ではあるまい。いや余人は知らずこの雨龍の目は
「へい」
と洞門が立ち上がって、戸川志摩の襟を掴んで肩先を脱いで見せた。
「それ見ろ、あまねく諸国をめぐる六部なら、肩に
と大喝して、はッたと志摩を睨み据えた。
戸川志摩は雨龍の眼力にはッとしたが、見現わされた上はかねての覚悟、早くも
「おおよくぞ見た! いかにも拙者は有馬兵部少輔の家臣戸川志摩じゃ。領主のご威光を怖れぬ汝等一族の悪業は天人ともにゆるさぬところなれば、以後改心致して
「黙れ黙れッ。自由もきかぬ引かれ者の小唄、今その舌の根を引き抜いてやる……客人、用意はよいか」
と雨龍は

「拙者の仕度は宜しゅうござる。
と浪人は後ろを向いて、手早く
「権右、そいつの得物を渡してやれ」
「へい」
と洞門は手下の者にいいつけて、戸川志摩から取り上げておいた仕込みの一刀を志摩に渡すと、雨龍は冷やかに見下ろして、
「やい、六部に化けた有馬の家来、当り前なら
「お頭、大丈夫でごぜえましょうか」
「よし、拙者が引き受けた」
とぱッと縁先から飛び下りた浪人は、その時まで戸川志摩の蔭にじっと俯いていた新九郎が、ふと顔を上げたので、互いに面を見合せたが、
「やッ
と浪人は、立ちすくんで
「おお汝は大月
と手を縛られたまま両膝で立って、意外な声をほとばしらせた。
「おう玄蕃だ。汝はすでに音無瀬川に飛び込んで死んだとばかり思っていたが、さては悪運強く今日まで生きのびておったのか」
「うーむ、今はあの時の新九郎ではないぞ! この両手さえ自由になるなら、一太刀なりと千浪の怨みを酬いてくりょうものを……」
「えいッ、うぬあ邪魔だッ」
と洞門の権右衛門は、その時新九郎の縄尻をグイと引いたので、彼はあっと後ろへよろめいてしまった。
その
「はははは福知山名代の腰抜けが、人並みな広言は片腹痛い。じたばたせずとも大月玄蕃が一刀流の
と冷罵した。そして、
「六部ッ、立ち上がれ」
ときっぱりと向き直った。
戸川志摩はくわッと眼をみひらいて、
「その方どもから我に
と静かに左の片膝を立て、左の手に
「世迷い言は無用だ。いざ! 来い」
「むッ、下郎覚悟ッ」
さっと立ち上がる途端に、戸川志摩の左手からカラリと鞘が抜き捨てられるや、右手はそれより早く流星の尾を曳いてキラリと一閃、敵の
お
風に吹かれた洗い髪の、さわさわとしたのを両手でたくしあげて、無造作な兵庫くずしに束ねた根元を
「こうして見れば私だって、まだ満更捨てた年じゃないもの……考えると馬鹿馬鹿しい、何だか急にこんな山の中で年をとるのが嫌になって来たよ……」
お延はこう
しかし、それがどこまで根深いものかは疑わしい。お延のこんな心持も、つい今し方、この山荘へ捕われて来た、新九郎の姿を見てから起った浮気性の気迷いであるから。
「洞門の言葉では、岩屋で殺すのだと云っていたけれど、どうしたかしらあの若い侍は?」
浮気にしても、余り熱っぽいお延の眼は、どうしても自分の部屋に落着けなかった。
ふらふらと最前の橋廊下まで来て見たが、何の様子も知れないので、お延は我れ知らず廊下から廊下を伝って、
「おや、どうしたのだろう……」
とお延はするすると駈け寄って、黒木の柱につかまりながら首をのばして差し覗くと、今しも奥の広庭で、この間うちから山荘に滞在していた大月玄蕃が、六部姿の戸川志摩を
「ええいッ――」
と大月玄蕃の激しい気合が、その時山荘の水の音まで止めてしまった。
「おおウーッ」
と続いて六部姿の戸川志摩は、
有馬兵部
その正面の一室から、二人の勝負を見詰めていた雨龍太郎も、
その途端に、えいッと一声、いずれから打ち込んだか、玄蕃と志摩の剣と剣が、激しく火花を散らして上下に斬り結び出した――と見る間に玄蕃の斜め下しに捨てた太刀を、ひらりとかわした戸川志摩は戒刀の切尖鋭く一文字に玄蕃の胸板目がけて突き込んだ。
間髪さっと手元へ引いた玄蕃の太刀は、それを鮮やかにチャリンと払いのけたが、虚をすかさず続いてもう一歩、踏み込んだ志摩の高嶺構えに振りかぶった戒刀が、玄蕃の真っ向へ行くよと見えたので、玄蕃も素早くポンと二足ばかり飛び退いて、八方構えの青眼堅固に取り直すと、戸川志摩は何思ったか、それへは斬り下さずクルリと身を振り変えて、
「――あッ」
と不意を喰らった雨龍太郎は、すぐ大刀を抜き合せたが志摩の鋭い切尖に、

「
と戸川志摩が二の太刀振りかぶって、真ッ二つと目がけた刹那、右から大月玄蕃、左から洞門の権右衛門、同時に二人の太刀が志摩の肩先と左腕へズズーンと斬って下げられた。
「うう! む!」
と後ろへ

「お
と権右衛門はすぐ雨龍を抱き起した。彼は黒血にまみれた頬を押えながら、
「な、なに傷は浅え、それより早くその
と新九郎を

「合点でがす。じゃ玄蕃様――」
「心得申した」と大月玄蕃はつかつかと新九郎の側へ歩み寄って、
「こりゃ新九郎、いよいよそちの番になったぞ、男山八幡の折とは違って逃げ口はないのだから、その
志摩を斬り下げた血刀で、新九郎の縄目をバラッと斬りほどいた。
「むッ」
と新九郎は無念の形相を玄蕃に向けて、しばらく睨み返していたが、縄に噛まれていた手頸の
「どうしたッ、腰が抜けたか!」
「な、何を!」
と新九郎は唇を噛んだ。
「血を見て腰が抜けたのだろう。ここな意気地なしめがッ」
と土足を上げて新九郎の横鬢のあたりをバッと蹴飛ばして来たので、
「うぬッ」
と玄蕃は足を取られながら、右手の一刀を斜めにかぶった。その一瞬、新九郎は渾力をこめてドンと彼を突き放したので、さすがの玄蕃もとんとんと二足三足よろけて行った隙に、志摩が落した戒刀を拾い取った新九郎は、ガバとはね起きて振りかざした一念の意気込み鋭く、さっと玄蕃のよろけたところへ斬りつけたが――
「
と片手伸ばしにブンと払った玄蕃の強力に、アッと新九郎は中途から持った刀の重みに引かれて横に片膝ついてしまった。技倆の差は争われない。
「口惜しかったら生れかわって来るがいい」
玄蕃は充分な余裕を持って、倒れた新九郎を据物試しに斬り伏せようとした時、
「お待ちよ!」
と鈴音を張った女の声が後ろでした。
大月玄蕃はその声に、はッとして小手を
「お待ちったらさ、そのお方を斬ったら私が
とそこへ来たのは、お延であった。洞門の権右は意外な顔をして、
「姐御、こいつあ今日……」
と云いかける口を押えつけて、
「お黙りよ! お前たちは引ッこんでおいで」
とお延の寄りもつかれぬような血相に、玄蕃も苦虫を噛んで身を退いてしまった。
「お延、わりゃあ何で男のすることを止め立てする」
と雨龍太郎はきっとして彼女を咎めた。
「いけませんか。私の恩人だから止めたのが悪うござんすかえ?」
「何? われの恩人だと。そりゃどうした訳だ」
「いつかお頭領にも話したことがあるじゃございませんか――去年舞鶴へ行った時に、私が路銀を落して帰れなくなったところを、名も所も云わず貸して下すったその時のお侍様というのは、そこにいる方なんでございます」
「ふーむ……」
と雨龍は新九郎を見直した。お延はその
「ねえお
と玄蕃の方へは、余計なことをと云わぬばかりの
「そうじゃありませんかい。私が気がつかなければ知らぬこと、現在恩のあるお方が殺されるのは見ちゃあいられませんからね……それよりまあお頭領は、早く顔の傷でもどうかしなくっちゃ……
とお延は女が勝手を切って廻すように、てきぱきと云って、この場の雰囲気を推移させるのに努めた。――女の力もある場合には怖ろしい司権者となるものだ。雨龍太郎は邪魔者が入ったのでにわかに顔の傷が痛み出したのと、お延の魅力に力負けがして、
「たとえどんな恩人であろうが、このまま追ッ返すことあならねえが、そのうちに身共がもう一度調べるまで、どこかへ厳重に
と云い捨てて奥へ
春日新九郎は、今日で七日あまりも陽の目も見ぬ頑丈な座敷牢の隅で、つくねんと膝を抱えて暮らして来た。
そのお蔭で、彼は故郷を出てから夢中であった過去のことを、静かに瞑想してみることが出来た――今憶えば、病み上がりの柔弱な体で、よく大胆にこの冒険が敢えて出来たと思えるのだった。あまつさえろくに刀の抜きようも知らないで、たとえ一瞬間でも、大月玄蕃に刃向えたと思えた。――自分は正しく生まれかわっている。我は
しかし――と新九郎の考えはまた、現在の身の上に来て、ちっとも判じがつかなくなった。
「一体今日まで七日もここへ抛り込んだままで、雨龍太郎は自分を殺す気なのだろうか。どうする
こうした空想の糸は限りもなく
「ああ暁方近くなったのだな……」
と彼は思った。どこかで水のせせらぎが、夏の夜も寒いほど清く聞きとれる。
すると、コトリと座敷牢の外で、錠の触れる音がした。そして、一寸二寸ずつ静かに
「誰じゃ……」
新九郎は油断なく身構えた。
「シッ……」
――それは女の声である。と思う間に、一尺ばかり開けた重い戸の間から、身体を
「お……」
と新九郎は、そこへすっきり水際立った、寝巻姿の
「お侍様、お
お延は後をぴったり閉めて、馴々しく新九郎の近くへ寄って、ふわりと坐った。
「これはどなたかと思ったら、先日お助け下されたお女中でござったの」
「まあ頼もしい。私を覚えていてくれましたかえ」
お延はジッと男をみつめた。
「何で忘れるものでござろう。しかしどう考えてもそなたの云うようなことは覚えがないが……」
「ほほほほほ」とお延は黒豆のような
「あんなことは出鱈目ですよ。ただどうかしてあなたを助けたい一心で、思いついたばかりの嘘でさあね……」
とまだ顔のどこかで笑っていた。
「え、それまでにして何故あって拙者をかぼうて下さるのじゃ。それが拙者には
「まあそんな野暮は止しましょうよ。女が男を命がけで助けたら、どんな心を持っているかぐらいはおよそ察しがつくじゃないの」
とお延は新九郎の青額に、気も魂も吸い込まれて、ゾクゾクと
「憎らしい、何にも解らないような顔をしてさ……ねえ、解ったでしょう」
「こりゃ、戯れを……」
「真剣ですよ。誰がこんな
「ええッ」
と新九郎はゾクリとした。
「シッ……大きな声は禁物よ。何も今が今じゃないけれど、多分二、三日うちには雨龍が、傷の療治に町へ行って留守になる筈、いい時分を計って忍んで来ますから、あなたもそのつもりでいて下さいねえ」
新九郎は女の入れ智慧に、その時初めて、空しく死を待つ身でない――そして、今は地獄の境にある身を気づいた。もう手段は
「おお、そりゃ
と思わず膝を詰め寄せた。
「疑り深いね……」
とお延は新九郎の心を、もうまったく掴んでしまったような恋馴れた誇りに、自分も
「年上の女房は亭主を可愛がるものですよ」
と
「これ、人に気取られては一大事じゃ」
「誰がこんな夜更けに来るもんかねえ……」
「でも……」
新九郎は拒む言葉に窮した。より自分の堅固が怪しくさえ思われたので、彼は無言にお延の粘りこい手を振りもいだ。
「そんなに
お延はしどけない妖姿を、グイと仰向けに
「あ……」
新九郎は身を
「あ、誰か――」
「じゃ今度ね……二、三日うちに……」と暗の中でうごめいた。
お延は囁やいた後で新九郎の頬へ
宵のうちは、ぽちりと赤く、
と見た番人が、
「だ、だ、誰か来いッ」
と絶叫した。
「えい邪魔なッ」
と男の影は身を
「野郎ッ」
と再び飛びかかって行こうとすると、横からすッと寄った女の影が、逆手に持った短刀を、音もさせずに
「やかましいよ!」
「わアッ」
と番人は虚空をつかんで

「あなた、早く――」
女は男の手をとった。
×
その夜山荘には、雨龍太郎が留守であった。彼は、面部の傷がいよいよ悩むので、外科医の療治を受けに、昨日山を降りたのである。それと大月玄蕃は、この山中も面白くないと見切りをつけたか、雨龍に
留守を預かった洞門の権右衛門は前から、雨龍の妾お延に横恋慕していたので、
すると、お延の部屋の薄暗がりから、両刀をぶッ違えに差した黒い影が、のそりと出て来て権右衛門とはたと行き会った。そして、
「何者だ」
と向うから激しく咎めてきた。
「てめえこそ何だッ。何しにうろついていやがるんだ」
権右衛門はそれに
「やッ、貴様は洞門じゃないか」
権右衛門はハッと思って透かして見ると、雨龍の
「小六じゃねえか、留守を預かっている洞門の権右衛門が見廻って歩くに不思議があるか」
「ふふん、そう云えば聞こえがよいが、貴様は伯父の留守を幸いに、お延を口説きに忍んで来たのであろう」
「何だと、そりゃてめえのことだろう」
洞門は小六がお延に云い寄ったことのある事実を知っていた。小六は洞門の横恋慕を察知していた。二人は怖ろしい嫉妬の燃え上がった眼を睨み合せた。
「お延はこの部屋にはいないぞ、洞門、貴様どこかへ隠したな」
「何? いないことがあるものか。詰らねえ嘘を云うと、てめえの腹の底が知れるぞ」
「
「何ッ」
と権右衛門は、小六の血相が真剣なので、部屋の中へ入ってみると、お延の姿はどこにも見えない。そればかりか、取り散らかした小道具の中の目ぼしい物はみんな失くなっている。――権右衛門は小六をジッと横目で睨んで
「やい小六、てめえお延を逃がしたな」
「何を云うのだ。こうなりゃ拙者の本心も聞かしてやるが、伯父の留守を幸いに、お延を連れてこの山を逃げ出すつもりに違いなかったが、いくら探しても影も形も見えないのだ。貴様が隠したに相違ない、お延を拙者に渡してしまえ」
「飛んでもねえことを
「ではどこまでも渡すと申さぬなッ」
「知れたこッたい!」
「よし――」と小六は片足
「洞門ッ、命は貰った!」
ビュッと銀蛇の光りが、小六の腰からほとばしった。
「ふざけるなッ」
と権右衛門も脇差を抜き合せたが、腕は段違い、たちまちしどろに斬り込まれて、ばたばたばたと逃げだした。
「意気地なしめッ」
追いかかった小六が後ろから飛び斬りにさっと背中へ割りつけた一刀。
「ワッ――」
と権右衛門は、橋廊下の
「もうこうなれば愚図愚図してはおれぬわい」
小六は血刀を納めて、伯父の雨龍太郎の部屋へ忍び込んで、有金を胴巻に捻じこみ、この山荘から逐電する
「さてはもう感付いたか、破れかぶれだ。斬りまくって逃げ延びよう」
と彼は胆太く構えていると、どたどたと飛んで来た手下の一人が、
「おお小六さん、大変でがす」
と云ったのが小六には
「何だ。どうしたのだ」
と白々しく云った。
「逃げやした。逃げっちゃいました」
「誰がだ、はっきりと云え」
「座敷牢へ抛り込んでおいた若い侍と、姐御らしゅうがす。築地の破れを跳び越えて、間道伝いを一散に落ちて行ったんでがす」
小六は意外な恋仇に出し抜かれて、聞くより嫉妬に
「よしッ、拙者が追いかけて仕止めてやる」
とぶるぶる身をふるわせながら、更に、
「貴様達は人数のある限り、
といいつけた。
そして自分は異名をとった手馴れの投げ槍、気合をかけて手から放せばつばさを生じた飛龍の如く敵の胸元を射貫くという、四尺九寸の
「まああれをご覧なさいよ、何て馬鹿馬鹿しい騒ぎをしてるんだろうね……」
とお延は新九郎を顧みて笑った。
二人は今、
ここは山荘の間道から
「誰があんなのろまに捕まるもんかね、そんな愚図なお延さんじゃないんだから――今頃はさぞ小六も洞門の奴も、あの松明の中に交じって、血眼になって騒いでいるのだろうよ……」
とお延は口のうちで呟やいた。そして側に黙然としている、新九郎の膝へ手を乗せて、
「お前さん、くたびれたのかえ」
とこの
「いや……」
と新九郎は
「えお前さん、どうしたのさ、怪我でもしたんじゃないのかえ?」
女は、真に
「そうじゃ、怪我をしたのだから触ってくれるな」
と彼は女の言葉を幸いに嘘を云った。
「どこを? どこをさ……」
「岩角で足をしたたかに打ちつけたのじゃ」
「まあ危ない――でも、もうじき夜が明けそうだから、そしたら里へ下りてゆっくり手当をさせますよ。ねえ、それまで辛抱できるでしょう……」
とお延は新九郎が痛いと云った足のところを
そうだ、早く夜が明ければいい! 新九郎も心のうちでそう願った。夜が明けたら里へ下りてお延にきっぱり自分を諦めるように話そう――新九郎には、まだ淫婦の中年の恋が、どんなに執拗で強いものか、それを充分噛み分ける経験はなかった。
二人はしばらく無言になった。果てしもない
すると、いつか遠く低く、丹波連峰の黒い影が、明るみかけて来た空へ、波状にうねった山脈線だけを描き出してきた。
「おッ……あの赤い火! 日の出かと思ったらそうじゃないよ……」
とお延はその時不意に、身を乗り出して叫んだ。新九郎もはッとして女の指先へ眼をやってみると、成程、はるか暁闇の空を掠めて
「火事ではないか」
「いい気味! 山荘が焼けているのだよ……」
お延はニタリと凄い微笑を
「もう行きましょうかね。足許も見えて来たようだから……」
とお延は新九郎の手をとった。
「では出かけるかの」
「足が
お延は努めて新九郎の機嫌をとっていたが、新九郎にはかえってそれが耐えられない苦痛だった。
左は谷、右は絶壁の下り道を、お延は新九郎の手を寸時も離さなかったが、とある曲り角へ来た時、彼は
「あッいけない!」
と二足三足後ろへ押し戻した。
「どこか、隠れる所がないかしら? 隠れ場所はないかしら……」
お延の愕きは唯事ではなかった。新九郎は何事が起ったのか、しばらくわからなかったが、やがて五、六
「やッ、わりゃあお延じゃないか!」
くわっと頭巾のうちから、
「うーむ、さてはその青二才とぐるになって、山へ火をつけて逃げのびて来たのだ。己れ恩知らずめッ、ここで会ったが天命だ。二人共素ッ首を抜いてやるから覚悟しろ!」
「あれッお
「えいやかましいこの
雨龍太郎は憤怒の

お延は牡丹色の返り血を浴びたので、自分が斬られたと
新九郎はこの隙こそ、毒婦の手から遁れるところと思って岩蔭から身を起した時、飛鳥の如く頭の上から岩根づたいにするすると跳び下りて来た一人の男――それは手練の投げ槍を飛ばした小六であった。
「お延、お延――」
小六に抱き起されたお延は、真っ蒼な顔を振り上げたが、それが新九郎でなかったばかりか、雨龍の眼を
「これどこへ行くのだ、何を逃げる?」
と小六は手強く取って押さえてしまった。
「もうこうなればお互いに身の思案をきめなくっちゃあならぬ。かねて二人で話したこともある通り、江戸表へでも高飛びして
「小六さん、私ゃあ少し考えが違うんだよ」
「そんな寝言を聞く小六じゃない。貴様は若い侍と
「いいよ! 構わないでおくれよ! どうせ
「馬鹿をぬかせ、まだお互いに先のある身だ。悪いことは云わぬから、拙者と江戸へ行こうじゃないか、どんな贅沢、綺羅な暮しも都へゆけば仕たい三昧というものだ」
「嫌だよ。行くなら一人で行っておくれよ」
「何だと、じゃあこれほど云っても?」
「お前が邪魔になったんだよ!」
とお延は
「
と突きかかった閃めきを、小六は軽く片身外しにかわしておいてぽんとお延の匕首を叩き落して、自分の手に持ちかえてしまった。
「ええ口惜しいねえ! 離しておくれってばッ」
「駄目な事だ。いくらもがいてもこの小六が逃がすものか。さッ、来なければ
「わ、私を殺すと云うのかい」
「ぞくに云う、可愛さあまって憎さが百倍よ」
「…………」
「どうだお延、まだ貴様も三十前だぞ……」
「小六さん――私ゃあお前さんには、どうしてもかなわないねえ……」
「して、どう腹をきめたのだ」
「行くよ、どこへでも連れてっておくれなさいよ……」
とお延は
「そう来なくてはならぬ筈だ。じゃお延、ここらでまごまごしちゃあいられない。せめて
と小六は強い力で、お延の手を曳いたまま歩きかけたが、さすがにお延は新九郎に後ろ髪をひかれるかして、小六の
「む。まだあの若侍に未練を残しているな、いッそその迷いの種を、目の前で
と忘れかけていた残忍な嫉妬の眼は、再び
新九郎は南無三と、
「お延、貴様の好いたいい男もこうなっては、
と力まかせに新九郎の
「ええッ己れごときに」
と新九郎も必死、必死。
一人の人間の真の偉力は、死と生の間一髪、地獄の
相討ち! それは武士の本望だという気だ。
「あッ畜生」
と小六はその大胆な横薙ぎに、思わずまた一歩
新九郎は無二無三に、彼の撃ち込む
太刀は乱れて来た、――重くなって来た。
鞍馬八流の剣法も、投げ槍に劣らぬ手練の小六は、早くも新九郎の未熟を見てとり、ほどよく受けつかわしつしておいて、ここぞと思う時になって、天魔鬼神も遁がさぬ八流の極意、滝おとしの必殺剣を疾風の迅さでエエッとばかり斬り下げて来た。
「あッ――」
と新九郎は額かざして横一文字に、ガッキと懸命に受け止めたが、小六の強刀に骨も砕けたかと思われて、よろりと腰を割ったが不覚、
「む、ざまを見ろ」
と小六は駈け寄って、小気味よげに谷底を覗いた。松、
「あ――可哀そうだねえ……」
とお延も小六の側へ寄って、目のまわるような下を覗いてみると、岩から枝へ、枝から岩へと落ち転げて行った新九郎の姿は、無残にも渓流まで落ちない中途で、
「野郎ッ、止めを刺してくれる!」
残忍飽くを知らない小六は、雨龍太郎の死骸に突き立っていた槍を引き抜いて来て、
「むッ」
と小六は口一文字に結んで、生血の
「お前さん、それだけは止しておくれよ――」
お延は見るに忍びなかった。小六の
「後生だから……罪もない人じゃあないか」
「ええ
と、お延が悲しむほど、彼の嫉妬は
「止しておくれ、後生ッ、小六さん――」
「えいッ、
どんと片足あげてお延を蹴離した投げ槍小六は、やッと一声鋭くかけて、目にも止まらぬ手練の槍を手から放した。

彼は余念がない。一心にじっと水底をみつめていると突として、頭の上からブーンと風を唸らせて飛んできた光りが、さっと若者の耳を掠めたかと思うと、前なる早瀬の岩の上へ、凄い勢いで突き立った――あッと見れば何事であろう。それは血塗られた短か
「何だーッ?」
と若者は仰天して流れから飛び上がった。その途端に、またも側の
「うーむ」
と蓬の中からはずみを喰って、ごろごろとそれへ転がり出したのは、一人の若い侍――春日新九郎であったのだ。
「ややッこりゃお侍様どうなさりました」
若者はすぐ抱き起こして流れの水をすくって呑ませた。新九郎は落着いてふとわが身を省りみると、天の加護と云おうか、さしたる怪我もしていなかった。してみると、断崖から小六が槍を投げ飛ばした刹那新九郎も運を天に任せて
「ここはどこでござろう?」
「よく何ともござりませんでしたな。この渓流の出るところが
と儀助は新九郎の無事であるのを、むしろ怪しんでいるくらいであった。
「ではお言葉に甘えて、ご厄介になりたいが」
「ええご遠慮はございません。わしも飛んだ命拾いをしたようなものでがす」
と儀助は
「儀助殿、たいそう
新九郎は今日で三晩親切なこの家の世話になっていた。もう体もしっかりしたので、今朝は早く出立する
「へへへへ何ね、道場というほどでもございませんが、剣術好きの村の若い衆が寄って、叩き合いをやってるのでがす」
「それはなかなか
「へい、村のご浪人で高島十太夫という関口流の先生が手を取って教えています。如何でございます、お武家さまも一つご見物なすっちゃあ」
「面白かろう、ぜひ案内を頼む」
と新九郎は儀助に
するとその中でしきりに、打て、踏み込め、
「
という言葉。
「これは、なかなか
と新九郎は率直に断ったが、十太夫は謙遜とばかりとって容易にきき入れない。すると、側にいた儀助が、
「じゃ、お侍様の代りに、わしが一つ出ますべえ」
と云った。十太夫は苦笑いして、
「そちは絶えて稽古に来たこともない男だが、多少は覚えがあるか」
とのっけから
「剣術はだめでがすが、槍なら行けます」
「馬鹿を申せ、刀槍は元これ一道より出たるものじゃ、神道流剣法より分派して樫原流の槍術となり本間派の管槍もそれから出ている。なかんずく宝蔵院の僧胤栄は上泉信綱の刀法の妙と、大膳大夫盛忠の長槍の心をあわせて宝蔵院流を
「さあそんな小難かしい講釈は分らねえが、とにかく槍ならやれますだ。造作はねえ」
「はて
「ようがす。さ儀助来い」
と骨たくましい若者が、
「
と構える。
「よいとも、
と儀助は渡された
「参った」
と大上段に構えたところはよかったが、一太刀も振らないうちに引き退る。
次の者も次に出る者も、儀助の槍は不思議に一突きで敵を倒した。それはまったく槍術の心得も剣術のけの字も知らぬ構えであったが、とにかく、庄屋の息子から小作の若者まで総なめにしてしまった鋭鋒は当るべからずである。
「ああ錬磨の力は怖ろしいものだ。儀助の如き者ですら自然の熟練を経ればあの妙を得るものか……」
と黙然と感嘆していたのは新九郎であった。
新九郎は儀助の一本突きが、職業の
「儀助ッ、いざこの上は拙者が対手だ。少し烈しく参るから左様心得ろ」
と業を煮やした高島十太夫が手馴れの木剣をりゅうりゅうと振り試して云い放った。
「やあ今度は先生でがすか、先生まで負かしちゃあ済まねえでがす」
「己れ馬鹿を申せ、汝等如き田夫に
「じゃあ行きますぜ」
と儀助は鳥刺しが
「エーイッ」
と十太夫は
「くそッ、この
十太夫は愕いた。人を鮠だと思っている。しかし、儀助にとっては、人間を鮠だと見るのが槍の極意だ。いまや烈火の如く
「畜生ッ鮠め」
と突き出した儀助の穂先が、狙い
「どうでがす、先生」
「ま、参った」
と彼は苦々しい顔で袴の土を払っている。それを見た新九郎は、まったく感に
「あいや儀助殿、しばらく待ってくれい」
「やあお侍様、お恥かしいことでがした」
「いやいや、驚き入った腕前じゃ。一つ拙者に指南してくれぬか、立合って見てくれい」
「では一つやって見ますべえ」
「断っておくが、拙者はまだ竹刀も木剣も持ったことがないゆえ作法は知らぬぞ」
「へへへそんな嘘を云っても油断はしねえ」
「いや、まったくじゃ」
と新九郎は木剣を持って進んだ。
事実、新九郎自身が告白した通り、彼は生れて初めて木剣に手を触れたのである。故郷を出奔してから、思わぬ遭難で真剣の滅茶振りはやったが、尋常に木剣をとって、剣道らしい法式を試みるのは今日が実に処女試合であるのだ。
鮠突きの槍術と、初めて木剣を持った新九郎との処女試合は、これこそ奇観でなければならぬ。
「エーイッ」
と新九郎はまず
新九郎も、最初に試みた気合が、自身でも何となく空虚な、響きのない気がしてならなかったので、更にえいッ、えいッと二、三つづけて汗ばむまでふりしぼった上、片手の木剣を伸びるだけ伸ばしてじっとその
儀助は
同時に新九郎も、木剣の
「やッ」
と儀助の小手が動いた。
新九郎はハッと
試合の
すると、狙い澄ました儀助の稽古槍は、二度目に声も音もなく、目にも止まらぬ
「しまった」
と儀助は弾みを喰った槍穂を下げて、しごき返して二本突きを構えかけた時、とんと
「参った。ああ苦しかった!」
と儀助は火のような息を吐いて、汗みどろな胸へ風を入れながら、
「旦那様は鮠じゃあない。偉いもんでがす」
と真から驚嘆していた。新九郎は予測しなかった勝ちがむしろ自身で不思議に思えた。
と、そこへ怖る怖る出て来た高島十太夫は、最前と打って変った
「これは驚き入った唯今のご手練、如何なるご高名の方でござるか、願わくばお明しが願いたい。拙者は高島十太夫と申す者でござる」
「申し遅れました。元より拙者とても皆目の盲剣術、唯今のは怪我勝ちでもござろうなれど、ご挨拶でござれば名乗り申す。拙者は丹波福知山の浪人、春日新九郎と申しまする」
「さては福知山の? ……」
と聞くより十太夫は飛び
「ではかねてご高名なる春日重蔵殿のご舎弟ではござらぬか。拙者も数年前にしばらく柳端のご道場にて重蔵先生のご指導受けた者でござる」
「ほほほう、それは不思議、兄重蔵をご存じの方でござったか」
「いかにも。して若先生は、これよりご城下へのお戻りの途次でもござりまするか」
「いやいや、拙者はお恥かしけれど、生来兄重蔵とは打って変って柔弱者でござったが、ちと心魂に徹することござって、
「おおさてはお兄上重蔵殿の、汚名をそそぐご心底と、十太夫ご推察申した」
「ではそこもとも、あの
「武芸者として、桔梗河原の大試合を知らぬ者がござろうか。拙者もその日の試合は拝見致した」
「それではお包みするまでもない。ご推察通り如何にもして、かの
「あっぱれご苦心のお志、十太夫お見上げ申した。実はその鐘巻自斎は、ちょうど試合過ぎて十日ばかり後たしかに当地を通り過ぎました」
「えッ、して
「この但馬街道を東にとり、京都へ向ったようでござるが、かの鐘巻自斎と申すは、海内でも屈指の名剣客者、余程の腕前ならでは、立ちむかいがたき強敵ゆえ、失礼ながら若先生にも、焦らずに充分のご修行が専一かと心得まする」
「ご芳志忝けのう存ずる。とにかく拙者も一度は京地へ参り、洛内の名人を尋ねて修行の心底でござるが、これより京都へ参る途中において、尋ぬべき達人の門戸はござりますまいか」
「左様……京坂江戸の三都には、音に聞えた一流の名手も星の如くでござるが、京都までの途中としては……」
と十太夫はしばらく小首を傾げていたが、思い出したように、
「おおただ一名、怖るべき達人がござる」
とはたと小膝を叩いたのであった。
高島十太夫が新九郎に語り出した稀代の人物というのは、この山村の渓流を下ること九里ばかりの
彼は京都聖護院の
それを名づけて
新九郎は聞き終って、寸時も早くその大円房とやらの腕前が見たいと思った。
「これはよいお話を承わった。どうせ京へ上る足ついで、是非その道場を訪れて見ましょうわい」
「しかし、随分ともご用意あって参らぬと、尋常の武芸者と違って、怖ろしい
と十太夫は特に注意した。
「いや、左様な変った武術者に会うも、修行の一つ、必ずご懸念下さるまい……では拙者はこれにて発足致す。儀助殿、十太夫殿、またご縁もあらばお目にかかり申す」
「随分ご出精をお祈り致しまする」
「じゃ旦那様、これでお別れでがすか……」
と儀助は物淋しそうであった。
一同は春日重蔵の舎弟の若先生と聞いて、俄かに敬意を表して、高島十太夫と儀助を先頭にして、
青い
来て見ると、彼はまずその広大な構えに驚かされた。正面袖門つきの入口には
新九郎はその前へ来て、ちょっと
「頼む――頼む――」
やがて彼は型の通り、玄関へこう訪ずれた。
「どなたでござる?」
と玄関へ出た取次は、修験の弟子かと見るに尋常の小侍であった。
「ああご修行の武芸者でござるか」
と小侍は新九郎の
「いかにも斯道の先生を尋ねて廻国致す者でござるが、当家のご高名を承って、一手のご指南に預かりたく推参致してござる。宜しくお
場馴れない新九郎は、廻りくどいほど丁寧に申し入れた。小侍は奥から取って返して、
「お通り下さい。ただし唯今師のご房には、奥にて
と待たされた所は道場を隔てた控え所、そこでやや小半刻も待っていると、
「他流試合を望まれた武芸者はそこもとか」
と声高に云いながらそれへ出て来た者があった。
「いかにも拙者でござりまする」
と新九郎はふと見上げると、額に
「ああ左様か――」と山伏は横柄な口調で、
「当道場の掟は定めし存じの上で参られたのでござろうな」
と改まるのであった。
「は、ご道場の掟と申しますると?」
「それ知らぬとは駈け出しのご修行じゃな、後に

と人もなげな
「委細承知致しました。何分ご指導のほどを……」
と丁寧に云うと、
「ではこう
とやっと道場へ案内される。そこにもやはり一人の門弟も試合っていない。ただ見る
とこうする間に、正面の席の左右へ銀燭が据え置かれると、叱ッ叱ッという
各

「ああお訪ね下された修行の方は貴殿でござるか、身が聖護院の印可をうけた、当道場の
と大円房は尊大に言葉を下した。
「これは初めて御意を得申す。拙者は丹波浪人の春日新九郎と申す若年者、願わくば一手ご指南に預かりとう存ずる」
と新九郎は、初めての他流試合に臨んでこの強敵に会いながら、
「おお当道場の掟は、最前門人よりお聞かせ申したに依って充分お含みでござろうほどに、お望みに依って大円鏡智流の金剛杖をもってお
と

「春日殿とやら、大先生のお言葉によってお対手仕る。いざご用意召されい」
と云って自分は手頃な金剛杖をとった。新九郎も手早く用意の襷鉢巻の身仕度終えて、二尺七寸の
「エエエッ」
と阿念は
「ヤッ」
と一声鋭く、小手を撃った新九郎の木剣に、ひどい勢いで杖は板敷へ叩き落された。
「参った」
と阿念はすごすごと退いた。大円房の面には苦々しい色が隠されなかった。
「
名だけ呼んで顎でしゃくる。
「はッ」
と即座に現われた次の相手は、七年八年の行法は修したかと思われる眼光鋭い大男、道場の板面に向って、ややしばらくりゅうりゅうと金剛杖を振り馴らして、どっしどっしと新九郎の前へ進んで来た。
並んで立つと新九郎の方が首だけ
「いざ――」
と息を計った吉祥房の
新九郎は相変らず片手青眼の一本、吉祥房は金剛杖の端を左手に押さえ、右手は後ろへ長く伸ばして、片膝折りに新九郎の全身へ眼を配って来た。
「おおッ」
と吠えるような気合いと共に、吉祥房の右手がすッと端へ
「エーッ」
と一文字に突いて行ったので、杖は空を打って板敷きへピシリと刎ね返った。
「残念!」
と吉祥房は、新九郎の突きをさっと体斜めにかわして、その隙に手繰り戻した金剛杖を、
「微塵になれッ」
とばかり打ち落したやつ、ガキリ横にかざした木太刀で受けた新九郎、右側へ薙ぎ捨てて、とんと一足踏みこんだが早いか、例の縦横無尽の筆法で息も吐かせずに打ち捲くした。この勢いにさすがの吉祥房もジリジリ下がりに追い詰められ、あわや道場の羽目板を背負った刹那、最後の渾力こめて打ち込んだ一刀、あッと叫んだかと思うと金剛杖の先をぽんと突いて、ひらりと新九郎の肩を跳び越えてしまった。
「あッ――」
とこの
この大胆不敵な勝負を見た大円房覚明、みるみる怒気心頭に発して、声荒ららかに、
「すぐ続けッ。
と
「あいや春日殿、
と
「それこそ望むところ、願わくば戒刀の秘訣を拝見致したい」
「おおよく申されたり。
と河内房が引ッ提げて来た革袋から抜き出したのは、鉄の如く磨き澄ました、
「いかに春日殿、お仕度はよきや」
「ご念におよび申さぬ」
と二人の面上、早くも一脈の殺気満々。
「ええッ」
と新九郎は木剣を引いて下段に構えた。同時にオオッと、栴檀刀を大上段にかぶった河内房は、

しかし、その隙だらけの新九郎へ、戒刀をとっては
それは何であったか? 河内房は新九郎の如何なるところを見て
河内房了海は、さすが大円房の四天王随一と云われた人物だけあって、あらゆる行法に
今彼が新九郎の
「後世実に怖るべき奴――」と、刹那に河内房が
「ヤッ」
と一声
「アッー」
と叫んで斜めによろめいたところを

「参った」
と新九郎の無念の声。河内房は耳に触れぬ振りをして、続けざまにピシャリッピシャリッと五、六本続けて打ち込んだので、新九郎は

「こりゃ理不尽な……」
と刎ね起きた新九郎の額には、無慚な血潮が
「何が理不尽、それゆえ前もって当流の
と河内房が続けて
「己れッ無礼な!」
と蒼ざめた顔色に髪を乱して睨みつけた。
「やあ河内房、痩せ侍の吠え面見るも笑止、引ッ掴んで表へ
と大円房は
「ざまを見ろッ、いい笑われ者だ」
と思う存分の
春日新九郎はしばらく無念のあまり、倒れたまま、はッたと大円房の門を睨みすえた。
「おのれ悪山伏めら、この新九郎が上達の暁には覚えておれよ……」
とすごすご塵を払って立ち上がった。既に夜に入っていたので、通る人目にこの醜態を見られなかったのは、せめてもの
無念無念でかたまっていた新九郎は、どこをどう歩いて来たかしばらくは気づかなかったが、
その涼しさに、新九郎も冷静になった。彼の
新九郎はそう心をとり直して、月そのものの、清らかさに返った。夜は
「はてな……」
と新九郎は物蔭に身を潜めていると、浅瀬の水をザブリザブリと踏んで来る男の群は、必死にもがく女の力を押さえきれずに、岸へ着くとすぐ、どっかと
「こん畜生め、怖ろしい力を出しやがる」
と一人の男は、あたりに人影が見えないのに安心し、腰を下ろして一服という様子であった。
「おいおいお嬢さん。お前が幾らじたばたしたところで、男の腕から逃げられるものじゃあねえ。いい加減に往生しねえ」
「そうとも、大体親分が助けてやった命じゃねえか。いわば命の大恩人だ、そのお方の云うことをきかねえから、今までてめえにかけた入費の代りに、
「どうだいお嬢さん、ここらで考え直しゃあ間に合わねえこともねえ。うんと云って俺の云うことに従うか」
「畜生、まだ強情に
と寄ってたかって声も
「これ町人ども、見れば
「な、何だと」
中で屈強な長脇差の男が、グイと両腕の袖をまくり上げて凄い血相。
「余計な差出口を叩きやがるな、てめえたちの知ったことじゃねえから引ッ込んでいろい」
「控えろ! かかる
「
「己れッ」
と新九郎は早くも身構えて、
「青二才覚悟!」
とのっけに脇差を振り込んで来た奴の、手先を掻い潜ってどんと
「洒落た真似をしやがった。それッ畳んじまえ」
と一同は一足開いて、ギラギラと月に射返る大脇差を抜きつれて、新九郎を押ッとり囲んだ。
いつみても、
畳四、五尺離れて、小六は酒を飲んでいる。手酌で――むッつりと、
ここは大津の宿、唐崎屋という
ピチリと、苦しそうに盃の口を鳴らした小六は、やや
「どうした? だいぶ根よく
「当りまえさ」
お延はそれをきッかけに、一層不平な色を、ありありと、男の眼へ見せつけた。
「当り前? ……また
「だってそうじゃないか、考えてもご覧なさいよ。江戸へ行くまでには、まだ何百里っていう道のりだよ、大津くんだりで、
「どうにかなるよ。世の中はそんな
「七日とたまった宿銭だって、払う工夫のつきた今だよ。太平楽に酒ばかり飲んでいて、この先どうする気でいるのさ。アーアこんなことなら、危ない命の綱渡りまでするんじゃなかったよ。
「お延ッ!」
ガチャリと、膳へ盃が落ちてわれる――ともう、小六の脇の下から、急所を狙う
「もう一度云って見ろッ。もう一度、その不貞腐れを小六の前で云って見ろ!」
「云うともね! わたしゃいいますよ」
「云えッ」
とガタガタと、
「その舌の根を動かして見やがれ、真ッ二つだ。さッ、吠えろ!」
「あーッ、わたしゃ……忘れられない!」
お延はそう云って、しどけなく酔った女の
「新九郎さんのことが忘れられないよ!」
「な、なんだと、気狂いッ」
「ああッ恋しい――新九郎さんがわたしゃ恋しい」
「うぬ!」
まッ黒な
「あれッ――」
壁の隅へ、飛び退いたお延を追って、ぬッと、
「こ、小六さん……」
とお延は
「お前さんは、どうしてそう酒癖が悪いんだろうね……、その刀を鞘に入れておくれよ」
「畜生め」
と小六は、ガブガブと左の手で、
要するに、小六の
しばらくすると、どっちからともなく折れて、お延は小六に機嫌直しの酌をすすめている。
「ほんとに男は怒りッぽい。女の愚痴は、先を案じるからですよ。つまり、お前さんの身も思うからじゃありませんか」
「だからよ、俺だって、まんざら考えのないこともないのだ。いろいろ魂胆は砕いているのさ」
「何か、いい分別はないものかしらね……」
「お延……」
と小六は、その時矢庭にグイと女の肩を引寄せて、何かヒソヒソ
「えッ」
とお延は蒼くなって、あたりを見る。
「
と小六の眼は鋭くお延の顔を射た。
「厭じゃないけれどさ……むこうが侍じゃ、ろくな金も持ってやしまいと思うのさ」
「ところが、夕方宿料を払っているのを、俺がこっちから睨んだところでは、まず、ざッと二、三百両がとこの路銀は持っているらしかった」
「へ……だが、もしやり損なったら?」
「その時は、俺が
「したが、あんまり気味のいい仕事じゃないね。
「叱ッ……」
と小六は、お延が肩をすぼめて云う言葉を制して、凄い
ぐッすりと、夢の果てまで、眠り落ちた
お延は、さすがに胴ぶるいを禁じ得ないかして、片手で乳を抱き締めながら、そッと
するすると、
白い悪魔の手は、苦もなく蚊帳の裾から忍びこんで、枕元の一包みを掴んだ――ニタリと、凄絶な
「? ……」
「ちょッ……」
と軽い舌うちをして、手探りで撫で廻すと、
「あッ――」
とお延は驚いて、力任せに引きちぎろうとした途端――
「女ッ、待て!」
と耳をつんざいた一喝。
「こ、小六さん――」
とお延の喉を衝き破った声と一緒に、縁側から躍り込んだ投げ槍の小六、ふりかぶった大刀をきらりと
「むッ」
と叫んだのは、刀下の人ではなくて、どこをどうすくわれたのか、どんと、お延の側まで投げつけられた小六の
「
と飛び起きるが早いかその胸元を取ッちめた侍は、
音無瀬河原から、
「シッーしばらく。しばらくお手をッ……」
と組み伏せられた小六は、ばたばた畳を
「意気地もない分際で、人の
「しばらく、ご立腹はさることながら、決して左様な者ではござらぬ……お延、お詫び申せ、お詫び申せ」
「お武家様、まことに私の心得ちがい、どうぞ、おゆるし下さいまし……この通りでござります」
毒婦の機転は、巧みに小六の調子をうけて、ほとんど、涙にむせぶような哀音で、口から出まかせに自斎の前へ、
二人は
危ない命拾いをした二人は、定めし後で、
と、この朝早くから、もう
脚絆素わらじ、銀の脇差の一本落し、身軽に裾を
その男は、余人でもない、由良の伝吉であった――正木作左衛門から託された一言と、
その筈、新九郎は途中から、思いがけない波瀾に遭遇して、まだ、京都の土は一足も踏んでいなかったのだ。
しかし、自分が先を越しているとは、まさかに思いつかない伝吉は、今日は大津から小浜街道へ
「野郎、こんな所に?」
と、伝吉は何の思慮もなくスタスタ後を
宿はずれを急いで、ちょうど、柳ヶ崎の間の松原へさしかかった時、
「もし、ちょっとお待ちなすっておくんなさい」
振り顧った鐘巻自斎は、
「何じゃ」
と、
「お珍しゅうございます。鐘巻自斎様、わっしは由良の伝吉でごぜえます――とだけでは、お覚えはございますめえが、つい後月、丹後の
「おお、あの時の血気者か。して何ぞ用か」
「血気者はおそれ入りました。用と申しましても、藪から棒にはお話がしきれません。済みませんが、そこらへ、お掛けなすッて下さいませんか」
「よかろう……」
と自斎は気軽く、伝吉の所望を入れて、波うち際へ腰を下ろした。
さて、こう面と
「用と申す趣は?」
短いが重味のある一問、名人の
「お引き止め申して相済みません。実は、
「ほう……? 拙者に願いというのは何か」
「いつ何刻でも、此方から仕合を申し込んだ時には、場所がら問わずに、決して嫌と云わねえという約束がして貰いてえのです」
「変ったことを申す奴じゃ、しかし、その当人の姓名も明かさず理不尽な頼みではないか」
「こいつはご尤もです。ではお話申しますが、
「待て、春日新九郎? ……重蔵殿の間違いではないか」
と自斎はかがやかしい眸を更にじっと向けた。
「いえ、新九郎様と仰っしゃるのは、その重蔵様のご舎弟でごぜえます。ここまで申し上げたら、どんな意気地か、武士道の止むないところが、おおかたお察しがついたでございましょう」
「む、では重蔵殿のご舎弟は、兄に似つかぬ臆病者とほのかに承っていたが、この自斎に向って雪辱の仕合を致したいとまでに、奮い
「お眼力、
「む! そうなくてはならぬ」
と会心の笑みを洩らした自斎は、そこで、明快な
「伝吉とやら、そちの気骨、新九郎殿とやらの意気組み、自斎大いに気に入ったぞ、いや、失礼じゃが気に入った――いかにも、今の頼みは承知致した。ただし、広言ではないが、富田流三家の秘法に達した拙者を打ち負かすほどの腕前にならるるには、尋常一様なことでは難かしい……と云って、武士と武士、剣にかけては、決して
「云うまでもございません。じゃ一筆書いてもらいましょうか。幸い、新九郎様へお渡しするこの品と一緒に差し上げれば、何よりよいお
「しかし、もう一ツ断っておきたいことは実は拙者の身の上も、ご生死のつまびらかならぬ、恩師富田五郎左衛門先生の行方を尋ねて、ある剣法の懐疑の一点をお
「それは百も承知です。どうせまだ、これからご修行の新九郎様も、永い苦行の旅をお続けなさる体です。ただ後日の
「
八幡、熊野の誓文より、重しとする、武士の金打。これ以上の誓はない。
それから二日おいた三日目には、京都七条口から発して、丹波街道の
なぜ、にわかに伝吉が、この街道を丹波に向かって急いで来たかというに、
針葉樹の茂みから、涼やかに洩れる夏の陽も、
「はてな、見たような奴だが……」
と足早に追い着いたところで、振り顧ると右の一人が、慌てて、
おかしな挙動を――と、伝吉は行き過ぎた足を戻して、不意に、
「もし、煙草の火を一ツお貸し下さいませんか」
素知らぬ振りを努めている男の前から、笠の下を覗き加減にして煙管を出した。男はそれに往生した様子で、
「や、由良の親分じゃございませんか。妙な所でお目にかかりましたなア」
と初めて、気がついた様子をわざとらしく、誇張して口を切った。
伝吉が見たようなと、思ったのも道理で、その男は、同業だが仲の悪い、宮津方の用達
「おお、どうも似た後ろ姿だと思っていた。そして、そっちにいるのは?」
「え、何、こっちの衆は、稼業違いの者なんですが、旅は道連れ、舞鶴まで
と仁三は、
浄法寺並木から、亀岡の城下、そろそろ陽が暮れかけてきたにかかわらず、どっちも宿を取ろうとは云わない。ただ、仁三の方では、しきりに、伝吉と別れよう、
「親分、ご都合もございましょうから、どうか、先へお急ぎになるとも、また亀岡へ戻って、宿をお取りになろうとご自由にどうか……」
「おめえたちの方は?」
と伝吉は
「わっしどもは、どうせ
「じゃ、俺もぶらぶら歩くとしよう。夏の夜旅というやつも洒落たものだ」
「へ、でも……」
と仁三と久六と、ちょっと厭な目交ぜをしたが、伝吉は涼しい顔で、折から明るみかけた月を後ろに澄まして行く。
すると、とある森蔭の辻堂の縁に、なにかガヤガヤ
「おッ仁三兄いじゃねえか。どうしたんだ」
「約束の時刻に来ねえので、どんなに番狂いしたか知れやしねえ。おや久六、なぜ駕を持って来ねえんだ。ちぇッ、どこまでドジに出来てやがる」
と、のッけから、散々に我鳴り立てるので、独鈷の仁三が、しきりに

「そっちの来るのが遅いために、船から玉を上げていると、この先の河原で、飛んだ無茶な侍が邪魔に
「グズグズしていると、また、そいつが、ここへ追ッかけて来るところだ。それにしても、駕の用意をして来ねえなんて頓馬があるものか」
「オ、おい。まア待てよ……」
と仁三は堪りかねて、手で一同を制しながら、
「由良の親分が、老坂から道連れでツイそうは行かなかったんだ」
と顎をしゃくって身をそらす。
「何、由良の伝吉がどうしたッていうんだ」
とズイと前へ出たのは舞鶴の新造で、よほど何かに、
「おお舞鶴じゃねえか。こんな所へ出張って来て、大そう
「何であろうと、てめえに打ちあける筋じゃねえ。邪魔になるから、さッさと通るなら通ってくれ」
「ふふん……」
と伝吉は冷笑して、ジロリと鋭い眼をあたりに配ると、辻堂の縁に、
「読めた――いや邪魔だろうが、ここを
「何だとッ」
と殺気をうごかせた
「仁三、邪魔者から先に畳んじまえッ」
と叫んで、新造が身を
「命は貰った!」
とふり込んでくる脇差の乱れ打ち、
「何をッ」
と同時に、身を
「うぬ!」
後ろ
「さッ、来い」
返り血に染まった伝吉は、いよいよ鋭気を増して、辻堂を後ろに、五人の
その足許には、ほとんど、生色もない白い顔を、乱れ髪の中へ、俯伏せた若い女性が、剣の音も、修羅の火花も、うつつのように倒されている。
川波の
不意に、
「ア痛……アつつつ……」
新九郎は片手に抜刀、片手に血みどろな膝を押さえて、草むらから
ゴクリと、一口吸った河の水は、時にとって回生の霊味がある。そして
あたりには、すでに船の影も、その船から、猿ぐつわをはめた女を
新九郎は血眼になった。
「いかに、たしなみのない腕にせよ、
新九郎は歯ぎしりを噛んだ。あの女を助けてとらせたい為に、五人の町人を向うに廻して、斬り結んでいたのは、今となってみれば夢中。いつか自分は手傷をうけて、気を失った際に、対手は逃げてしまったのだ。
「こんなことで、かりそめにも、鐘巻自斎を打ち込むことができようか」
彼は、よろばいながらも、懸命の力で立ち上がった。何かにつけて、新九郎を鞭打つ対象は、「鐘巻自斎」の四文字であった。
河原を抜けて、街道へ出ると、一筋の見渡される月明り、その小半丁先にあたって、点々と黒い人影、しかも
「あッ、あれだ」
膝の
「面倒だッ」
命知らずに、伝吉の構えた手元へ、鋭く斬り込んだ
「むッ」
と金剛力をこめた伝吉の一刀、わッと血煙りが立ったが最期、血をみた狼、ガッキガッキ滅多撃ちに詰めかかる。
受けるは一本刀、さすがの伝吉も、ジリジリと一足一足斬りまくられて、危うく辻堂の縁の角へぶつかるばかりになった時。
待ちかまえていた舞鶴の新造が、ここと、握り直した脇差を、真ッ向にかぶった、途端に、
「おのれッ」
と不意に、新造の脇腹を突いた流星一閃、
「わッ」
と
「あッ、親分が――」
と叫んだ
むこうも、何者か? という様子で、ジッと伝吉の姿を見透かしてきた。月を背負った伝吉の顔は暗いが、侍の姿は、正面から、ありありと浮き出されている。
しばらく、互いに瞳を
「や!」
双方、同時に、そう云ったまま顔を見合せて立ち
「伝吉ではないか」
「新九郎様? おお! やっぱり新九郎様でごぜえましたか」
伝吉は意外のあまり――嬉しいあまりしばらくはぼんやりしてしまった。
「ええ、まア何ていうお変りようです……僅か見ないうちに、そのお姿、前髪もおとり遊ばして、まったく見違えてしまいました」
「して、そちは何の為に今ごろこの辺りに参っているのじゃ」
「新九郎様、くわしいお話はとにかくも、貴方様の書き遺したお手紙をみて、兄上様は云うまでもなく正木作左衛門様のお喜びといったら、とても、口にも云いつくされねえばかりです。そして、正木様ご自身のお手から、是非、新九郎殿に渡してくれと頼まれたお品がこれでござります」
と伝吉が、背中へ掛けている、桐油紙づつみの品を解きながら、辻堂の縁へ歩み寄った時、再び、はッとしてそこを見た。
新九郎も瞳を吸いつけて、思わず襟もとから、ゾーと水を浴びたように竦んでしまった。
夜風に身ぶるいした大樹の梢から、バラバラと月光の
やや久しくじっと
なぜ、二人がこうまで
けれど、この地上にどんな奇蹟があり得ようとも、千浪が世にいる筈はない――と新九郎も固く信じきッているし、伝吉もあれほど手分けして、死骸まで探したくらい。もとよりその人が、現世にあろうなどとは夢にも思わないところだ。
露にも思いはしない、信じもしない――しかし、今、二人の眸に

伝吉は吾に返って叫んだ。
「

走り寄って、
「おお、そちは千浪じゃないか!」
何で彼女の声を忘れていよう。新九郎は
女は泣き止まない。いよいよ
「ええッ、やッぱり千浪様でございましたか」
と伝吉も仰天する。新九郎は心の底から
「これ、そなたは千浪ではないか。身は春日新九郎じゃ。人違いか、まことに、泣いていずとはっきりその顔を見せてくれい」
「し、新九郎様ッ――」
女の
「お、お
大月玄蕃の毒刃におわれて、新九郎と相抱いたまま、音無瀬川の千仭の闇へ、身を捨てた二人は、変転の波、
それにしても、千浪がどうして助かったかと云えば、あの夜、数時の後に、ある荷船の
気を失っていた彼女が、そこで救い上げられたとは、後に知ったことであった。新造の親切も、初めは並ならぬくらいであったが、
舞鶴の新造は、その結果、別に一軒の家を借りて、千浪をそこへ引き移した。しかし彼女には武士の娘という
月光を辿って来たこの街道は、こうして、新造自身にとれば地獄の道を指して急いだことになり、千浪と新九郎にとっては、意外な浄土が再び二人を迎えたような帰結になった。浮世の
この七日ばかりの間は、千浪と新九郎にとってどんなに、恵まれた日であったろう。
亀岡の城下の、とある旅亭に落ち着いた三人は、互に
千浪は自分の身を忘れていた。真心の
再び別れねばならぬ日が来た。伝吉は二人の心を察し抜いているが、いつまでもこうしてはいられない、互いの身である。
その朝、由良の伝吉は淋しく、もの改まった。
「では新九郎様、いろいろお話し合い致した通り、ひとまずわっしは、千浪様をお連れして、福知山へ帰ることに致します。どうか貴方様には、後々へお気をひかれることなく、一念、ご修行に出精をお頼み申します。伝吉めも、こればかりが願いでございます」
「おお、伝吉も千浪殿も、どうかその儀は安心いたしてくれ。今は昔の新九郎ではない」
「それから、この一封の路銀、ならびにこの一腰は、どちらも正木作左衛門様からの、お心こめたお
「忝けない。不埒者の新九郎へ、かほどまでのお心づくし、
伝吉が前へ置いた、
うら悲しくもあり、嬉しくもあり、千浪の胸は、不思議な涙と興奮に揺れ返っていた。あれこれと側から心づける何かの用意も、我が手でしながら、吾にもあらぬ心地。
由良の伝吉はまた別に、いつの間にか
花の大江戸で、いま売り出しの名は、当時、関西にまで響いている生不動、伝吉が情を明かして、春日新九郎の一身を頼んだ添え状。
腰には国俊の逸作、ふところへはその一通を納めて、江戸表へ指して立つ春日新九郎と、千浪を連れた伝吉とは、間もなく、亀岡の城下端れで、西と東へ、名残りのつきぬ袖を別った――
大きく巡る歳月の流れは目立たず、ここに、いつか二年の春秋が流れた。そして、次に迎えられてきた世の中は承応三年。
「じゃ船へ
「大丈夫、酒も料理の重箱も、すッかり行った筈だ」
「よしきた。じゃ親分、船を突っ放しますぜ」
涼みごしらえの山一丸で、一人の男がこう云いながら、
「待て、まだ肝腎な者が来ねえじゃねえか」
と胴の間の
思い切り大柄な浴衣に、
「てめえたちは、料理や酒ばかりに気を取られやがって、新九郎様がお見えにならないのを知らねえのか。利助ッ、待っているから、もう一度飛んで行って、早くお誘い申して来い」
「気がつきませんでした。すぐお連れ申してめえります」
と
春日新九郎が、この江戸の土を踏んでから、かれこれ一年半余りになる。伝吉の添状で、生不動も胸三寸へ快く引きうけ、その後二、三の道場へも就いてみたが、どうも思わしくないので、この頃は武者修行に出ようか、旅に名師を求めて見ようかなどと、しきりに悶えている様子だった。
「そう焦ったところで、どんな名人でも、にわかに腕が上がるものじゃありません。江戸は広うごぜえますから、まア気永に好い先生を見つけ出して、それからみッしりのご修行が肝腎でごぜえますぜ」
生不動は今日もこう
「驚いたな、まだやっているんだ……」
と呟きながら覗き込むと、福野流体術の
「新九郎さん、新九郎さん――」
四、五度呼んだが、双方隙を睨み合っていて、耳にも入らない。と、いきなり金井一角のすくいにかけられた新九郎の体がドッと叩きつけられた。新九郎が刎ね起きると、また投げつけ、叩きつけ、さらに手強く投げつけた。
「勝負はそれまで。それまで。金井さんも新九郎様も、どうか早く船へお越しなすッておくんなさい」
利助が、いい
歩きながら、利助はいつもの
「口惜しいな、新九郎様はどうしてそう弱いんですえ。熱ッぽいにゃ驚きやすが、いまだに金井さんの体術にかなわねえなあわっしも業腹で堪らねえ、早く腕を上げておくんなせえ」
「馬鹿を申せ。新九郎殿は技こそ備わらぬが、こう一心では、間もなく拙者の上を越されるに違いない」
と一角は気の毒そうに謙遜する。
「こう並んだ後ろ姿をみても、新九郎様と金井さんたあ骨格からしてでかい違いだ。どう見ても山村座の若衆という姿だ。すれ違う女の眼で、こっちへ黒目を流さねえ奴はありゃしねえ、
「無駄口を叩くなと申すに」
「いやいや、利助の云う通りに違いない。今日で五十日も工夫していますのに、何としても金井殿の体術が破り得ぬようでは……」
と新九郎は足を運びながらも、涼み船の遊楽などは頭にない様子で、ひたすら柔術の工夫に熱している。その一念な
「おお新九郎様。さんざんお待ち申しておりました。たまにはすこし、肩の
今しも、紺色の水が、満々と暮れかけている大川の中へ、一同を乗せた山一丸も漕ぎ出して行く――
慶安時代から
酒と云っては 香りにも[#「酒と云っては 香りにも」はママ]
「あらッ――」
という
「お――」
新九郎は思わず半身乗りだした。
しかし、向うは下って行く船、こっちは
が、声を投げた女は屋形の外に立っていたので、新九郎の瞳にありありと映った。ぱっと冴えた浴衣着に、人魚のような洗い髪を吹かせてニッと笑った――それはお延に違いなかった。お延の方もはっきりと新九郎を見たらしい。再び声をかける間もなく船と船の間が遠ざかったので、手から、ヒラヒラと何か投げた。それは赤地に草模様を
「よウよウ新九郎様、お安くないところを見せつけやすね」
と
一刻ばかり経つと、俄かに冷たい風が吹きつのって来た。そしていつの間にか、あれ程な船の灯が川から影を消して、三味の流れも唄の声もない一面の
「あッいけねえ、お船手屋敷から
すると、川上から帰りを急いでくる三艘の
「アッ何だ」
と生不動を初め、船中残らず、揺り倒されて驚く途端に、今まで、酔いつぶれて寝込んでいた用心棒の金井一角がむッくり、起き上がったかと思うと、不意に船中の灯を取って、川の中へ投げ捨て初めた。
「おい何をするんだ」
乾分の利助がその手を押さえたが、既に船中は真ッ暗、おやと驚く刹那に大刀を抜き放った一角は、近寄って来た利助から真ッ先にグザと一太刀浴びせつけた。
「やッ、裏切りやがッたな!」
「廻し者だッ」
と総立ちになる途端、三艘の伝馬船の船底から、バラバラと躍り出した喧嘩仕度の町奴、手に手に脇差を抜き払って、
「生不動ッ、命ゃあ貰ったぞ」
と口々に叫んで、引き寄せた山一丸へ斬り込んで来た。
「あッ、
「うぬッ」
生不動の乾分、じゃばらの百介、並木の駒吉、その他七、八人も、押っ取り刀で
揺れ返る船の
「やい笊組の虫けらども、それほど生不動の命が欲しけりゃ、なぜ尋常に渡りをつけねえ。冷飯食いの痩せ浪人、金井一角を住み込ませて置いて、今夜の
「えい、そのご
「そう云うてめえは
「おお、笊組の怨みは
「
「何ッ」
と笊組の町奴荒神の十左衛門と臂の久八が、生不動を目がけて
折から、バラバラとこぼれてきた大粒の雨足が、
その時、二人の強敵に気を奪られていた生不動の後ろから、するすると迫って行ったのは、笊組の廻し者金井一角、寄るより早く、声もかけずに、
「むッ」
と一息、力の限り斬り下げようとした間髪、その手に跳びかかって、組みついてきた何者かがある。
「邪魔だッ」
「己れ卑怯であろう」
「む、貴様は春日新九郎だな。及ばぬ腕で邪魔立てすると、その細首を引ンねじるぞ」
「やわか!」
と新九郎は、恩ある生不動の危機と見て、猛烈に一角の
「あッ――」
というのも
流れて行くのか、下へ下へと沈んでゆくのか、新九郎はその瞬間夢中だった。ただ、一角の襟をつかんだ双手だけは離さなかった。
大きな底波は、思うさま二人の体を
水中ながら、きらりと敵の脇差が眼を射たので、新九郎も必死を超えていた。幾たびか水に
その時、もう半ば意識を失った新九郎の体は、一角に振り廻されて、水中でグルリと大きくとんぼを打った――泳ぎながらあらん限りの力を短刀にあつめた一角は、
「畜生ッ」
と、下から新九郎の胴中を見澄まして、グイと狙い突きに突き刺した。
――切ッ尖三寸新九郎の
間もなく、彼はすべてが分らなくなった――
水の上の世界は更に凄惨である。吹きすさぶ嵐は鳴りも止まず、水魔の躍り立つ
長兵衛が横死を遂げたのは慶安の四年であるから、
笊組の荒神十左、
その後で、二代目長兵衛顔をしている荒神と臂の両人だけが、なぜこの江戸で全盛振りを示していられるかといえば、この両人だけが幡随院歿落と同時に、一まきの者へ寝返りを打って、奉行の手先となって御用を勤めたのみか十手を預って召捕の手まで貸したからであった。
各地に潜伏している者達は、後にこのことを知って歯ぎしりを噛んだが、一足江戸の土を踏めば御用と声がかかるばかりでなく、幡随院の境内で、尼に等しい暮らしをしている、長兵衛の後家お
ただ、ここに一人生不動だけは、長兵衛と
ところが、生不動一人さえ容易ならぬ大敵だのに、彼の両側には、こんがら重兵衛、せいたか藤兵衛という、
そこで、苦肉の一策を浪人金井一角に授けて、半年も前から薬研堀の用心棒に住み込ませておいたところへ、今夜、ちょうどこんがらもせいたかも連れずに生不動が綾瀬へ涼みに溯るという報らせを受けた笊組は、手ぐすね引いて山一丸を取巻いたのだった。しかし、その結果は、意外な嵐に敵も味方も見定めがつかず、船も散り散りに押し離されて、遂に与兵衛を討ち洩らしてしまった。
生不動の身内では、利助が金井一角に斬り
「親分、心配したものじゃありません。新九郎様から、この通り飛脚がめえりました」
「なに新九郎様から?」
今も今とて、それに胸をふさがれていた生不動与兵衛は、駒吉が持ってきた書状を、取る手遅しと裏をかえして見ると、春日の姓だけは同じだが下の名が違っている。
「はてな?」
と
「丹州福知山在、如意輪寺境内月巣庵、春日重蔵」
と明らかに
「間抜けめ、これはかねてお噂に聞いていた、新九郎様のお兄上、重蔵様から来たお手紙じゃねえか。そそッかしいにも程があらあ」
「済みませんでした。わっしも新九郎様のことが、胸先に引ッかかっていたもんですから春日という字だけを見た途端に、てッきりと思い込んでしまったんです。そして親分、その手紙は何でごぜえましょうね」
「さあ、これも新九郎様の宛名になってるから、滅多に封を切るこたあならねえ」
「だけれど、わっしが小耳に挟んでる話じゃ、新九郎様が、鐘巻自斎とかいう者を、剣道の上で打ち込まれねえうちは、お兄上とは、会いもしなけりゃ、便りもできねえ仲だということじゃありませんか」
「そうだ、その重蔵様から、初めて飛脚が来たところを見ると、こいつは何かよほどな一大事が、持ち上がったんじゃねえかと思われるのよ」
「ところがその新九郎様が、今日で三日も生死が分らねえと来ているんだ。親分、重ね重ね心配が降って湧きやしたね」
「こんがらもせいたかも、手分けに行っているんだろうな」
「ええ抜かりはねえ筈です。河岸筋の御番所から船宿の手まで借りて捜しています。今日見つからなければ、あのごた騒ぎの中で、笊組の奴に叩っ斬られたものと見るより他はねえと云って出て行きました」
「む……」
と生不動は、答えるでもなく
江戸に、この事あった
いつも日蔭に心をおく大月玄蕃は、相変らず、
四月とは云え、東都と違ってこの辺は、北日本の海からくる風がまだ冷たかった。玄蕃は
「はての? ……」
ふと呟いた玄蕃は、ぴたと足を停めて、編笠の
そこは城下第一の御用
決して愚か者でない玄蕃が、あたら自ら、指南番の栄位を棒に振ったのも、盲目的な中年の恋が
「
とつれの武士が不審がるのを捨てて、
「一足お先へお越し下さい。身共はすぐ後から追いついて参るから」
と鍵屋の横手へ廻って、そこにいた番頭に、何事かを問いただしていた。そしてまた肩を並べた二人は、やがて城下端れの、佗びしい浪宅へ姿を隠した。
そこの
「時に大草氏、不意のようでござるが、身共はいよいよ近いうちに、ここを出立致そうと思い決めた」
家に入った玄蕃は、編笠を片隅に
「そりゃ余り急ではないか、拙者も
「往来中では話せぬゆえ、ここまで黙って参ったが、実は飛んだよい行きがけの駄賃ができた。そこで急に腹を決めた次第」
「ふウむ……その行きがけの駄賃というのは?」
「秘中の秘、滅多に口外ならぬことじゃが、他ならぬ
と玄蕃は裏口の方を見廻して、さて、再び席へかえると、一段と声を密やかにして、何事かを大草額平に打ち明けはじめた。
七日ほど前から、本陣鍵屋に宿泊していた正木作左衛門は、当地へ来た役目も無事におわったので、
役儀表は、主君忠房の
「藤三郎、今日はご用明きの身となったによって、夕暮まで他出致そうと思う。明朝出立の用意、手ぬかりないようにしておいてくれい」
作左衛門は自分の部屋で、無造作に出支度をしながら云った。若党の藤三郎は、ちょっとそれを手伝った後で、畳をすべって両手をついた。
「ではお供廻りの用意を致させましょうか」
「それには及ばぬ。まことはここから近い
「でもござりましょうが、せめてお駕わき一人は、是非お供にお連れ下さりますよう」
「む、折角の心配じゃ。では五平でも連れて参ろう」
と云っているところへ、次の間
「伝吉様と仰っしゃる方が、お目にかかりたいと申します」
「また来たか――」
と作左衛門は軽く笑った。それは小荷駄御用を引きうけた由良の伝吉で、他ならぬ作左衛門の使者であるため、
伝吉は別旅籠をとッていたが、
だが今朝は、作左衛門が出がけであるため、
ほどなく、福井の灯がチラチラ見えだした。駕は一散に、
「どッ泥棒!」
叫んだ奴は槍先に突き抜かれたか、闇を
「老いぼれ、これへ出ろ」
と黒装束の槍さきが、ズバリと駕の中へ入った刹那に、千段を掴んだ作左衛門が、
「人違い致すな。何者じゃ!」
「正木作左衛門と知って附けた槍さきだ」
「何ッ」
と老いてはいても剛気な太刀風、抜くより早く槍の手もとに跳び込んで行ったが、その時ひらりと樹立の蔭から現われた黒い影が、抜く手も見せず、作左衛門の後ろから、ズーンと大刀の重みをかけて斬り下げた。
「あッ――」
さすがの作左衛門も

「やい作左衛門、苦しいか」
と
「むッ……な、なに者だ。卑怯者めが」
「ふッふふふふ……そのくらいな
「やッ、げ、げ、玄蕃とな!」
ともがく手足を、更に一人の黒装束――大草額平が押さえつけ、玄蕃は存分な毒罵を与えた上、喉笛狙って
「残念じゃッ! 千浪! 千浪――」
二声呼んだ吾が子の名が、彼の最期の叫びだった。その声は、よしやどんなに遠くに隔っていても、きっと、きっと、千浪の夢に届いたであろうと思われた。その後の騒動は云うまでもない。ただ幸いなことには、小川に落ちていた駕屋の口から、大月玄蕃が手を下したということだけは明瞭になった。また松平家から急使が立たないうちに、由良の伝吉は向う鉢巻で駕の中にブラ下がり替り肩三人つきの早打ちに乗って、エイヤエイヤ福知山指して急がせた。それが当夜の真夜中
悲報の早駕が、如意輪寺の門前についたのは
鐘巻自斎の木剣のために、片足不具となった春日重蔵は、今は弟の愛人千浪に
「重蔵さん、千浪さん、何だか門前へ早打ちが着きましたよ。何でしょう、何でしょう」
と一人の小坊主が縁先へ駈けてきて、二人の静かな住いを驚かした。
「えッ早打ち? ――」
と千浪も重蔵も縁先へ走り出した。そこへ半病人になった由良の伝吉が、駕屋の背を借りて来たが、来るより早くベタリとなった。
「おお! 伝吉ではないか」
と二人は眼をみはる。
「重蔵様ッ……千浪様。ざッ残念でごぜえます」
と悲調を帯びた伝吉の一句に、千浪の胸は聞かないうちから早鐘をついた。
千浪にとって、涙に暮れ、涙に明けた一月あまり――ちょうど作左衛門の三十五日に、如意輪寺の月巣庵から、跛行をひいた春日重蔵と、
弟の新九郎には鐘巻自斎を打ち込むまでの大任がある。足こそままにならぬが、千浪に助太刀して大月玄蕃を討つくらいなことは、我とて出来ないことではないと、重蔵は奮然と、再び昔の武芸者に返って
その間際に、あらましの事情を書いて、新九郎へ飛脚したのが、生不動与兵衛の家に着いたあの書状であった。
城下
「春日重蔵殿、ならびに正木殿のご息女、上使でござります。ただし
「は」
二人は意外な念に
領主の城を伏し拝み、由良の伝吉と袂を別った二人は、数日後に、如意輪寺住職の紹介を持って、京都
永い道中、千浪の美しい姿と、跛行をひいた重蔵の武芸者姿は、あまりに人目立つからであった。そこで宗名も、重蔵は庵号をそのまま取って月巣と呼び、千浪は
同じ日、同じ時刻ごろ、一方の長野街道から来た二人の浪人者は、宿の辻で見た、虚無僧姿に、
千浪と重蔵とは、互いに、不自由な足と、弱い足をいたわり合いながら、
ここにまた、奇怪な旅侍が、峠の巌頭に腰を据えていた。彼は今朝からほとんど半日の間、何者を待っているのか、何の瞑想に入っているのか、とにかく、立ちもせず身動きもせず、正面の

「千浪どの、あれ、あの鳥の声をお聞きか」
「まあ、珍しい鳥が啼いておりますこと」
「声は
「そう伺いますと、一層、山の深さが身に
「もう程なく、
「ちょうど私たちの身の上にも似ております……」
碓氷峠の細道、八丁
互に道を助け合いながら、来る者は、虚無僧の竹枝と月巣――すなわち千浪と春日重蔵のふたりであった。朽葉を踏むわらじの緒、脚絆までが、清水に濡れて、夏とは云え、
と、程なく、行く手に見えはじめた一道の明り。くわッと照ったお花畑が二人の眼を射たかと思うと、
「ご免なさいませ」
何気なく、天蓋のふちを持ちながら、袖ぎわを会釈して、摺りぬけようとすると、それに連れて一足退がった侍は、重蔵の胸板を、片手でどんと押し返した。
「あ――」
身をかわしたが、片足ままにならぬ重蔵、思わず、よろりとなるのを、支え止めた千浪は、さッと美しい
「何をなさるのじゃ!」
努めて、男らしく云い放ったが、憤りも
「おう、珍らしくも懐かしい声を聞いた」
と云った。
「えッ」
「千浪ッ。またそれなるは春日重蔵であろう。こう申す者は、その方たちが現在尋ねている大月玄蕃だ。何と慕わしかろうが」
いかにも彼らしい傲岸な態度。
「ややッ、玄蕃とな?」
「
「おおッ」
早くも天蓋を
「父の作左衛門を騙し討にしやった大月玄蕃、ようも!」
叫ぶより早く、突いて行った。女ながら一念の太刀、咄嗟に抜き合わせた玄蕃は、胸の前で、カッチリ左へ受け流した。
「
玄蕃の大刀は、千浪と重蔵の間へ七分三分の兵字構えとなる。と、重蔵の冷々たる小太刀は、焦らずさわがず、するすると寄るよと見る間に、
「義によって助太刀ッ」
「む!」
柄糸へ精魂しぼって、構え直した。と、その時まで、
「それッ、女を先に片づけてしまえ」
千浪の
「あッ」
と一方に気をひかれた重蔵は、額平の太刀を引ッ外して、千浪の側へ駈け寄ろうとすると、
「えい、もう観念してしまえ」
玄蕃と額平が左右からそれをさえぎる。いかにもがけばとて、目に余る
澄みきッた山の空気。その
かの、天狗の
「はて?」
と、身を屈めた彼は、評定岩へピッタリ耳をつけ、ややしばらく、この静寂な天地に起りつつある何事かを、一心に、
吠えかかった山犬の
ここに、その物音とは別に、天狗の評定岩から傾斜している、栗の密林を、雷鳥か、

と、何の異変?
「あッ」
と前駆の一人が絶叫してぶっ倒れた。つづいて、ドタッ、ドタッ、陽の目見ずの闇を、縦横にきらめいてきた大刀の青光り。
「いけねえッ。邪魔が入った」
「たたんじまえッ」
千浪の体を抛り出すがはやいか、剣光を目あてに、わッと打ってかかったが、たちまち一人の敵に、タタタタと
「手ごわいぞ、油断するなッ」
と
一方では、大月玄蕃の陥し穴に墜ちた春日重蔵が、二人の強剣に挟まれた形となって、まさに火を降らしての苦闘の最中であった。が、何せよ、五体ままならぬ重蔵、ともすると、鉄壁の構えに一毛の
「もうこっちのもの」
と、玄蕃が密かにニタリとした時、不意に、どッと此処へ雪崩れ返ってきた先の人数は、嵐に追われたように八方へ逃げ隠れた。玄蕃は
「何か」
と振り顧った時、目の前へすっくと立った怪偉な武士、この
「虚無僧、助太刀してとらすぞ」
一声投げて、驚く玄蕃の真ッ向へ、さッとはげしい太刀風を鳴らしてきた。
「やッ?」
大月玄蕃は、その姿を一目見るなり、色を失ってバラバラと逃げ出した。残された大草額平は、重蔵の追撃に

「侍の分際として卑怯な奴どもではある。虚無僧、
「これはどなた様か、ご助勢忝のうござります」
「清水を尋ねて、早く小手の掠り傷をお洗いなさるがよい。おお、ちょうど拙者が
印籠の秘薬をとって、
「おお」
双方同時に、呆れたような驚き声を出した。
「春日重蔵殿ではないか」
「鐘巻自斎
そこへ一足遅れてきたのは千浪であった。二人は改めて自斎に心からの礼を尽くしたが、鐘巻自斎は、見事な長髯を左の手で掴んだまま、変ったふたりの姿に黙然たること久しかった。
「重蔵殿、ここで
「いや、もっての他」
重蔵はキッパリ云った。
「あれ以来、如意輪寺の禅房に身をゆだねた
「そのことは、大津の宿端れで、由良の伝吉という者からも
「アア吾、この人に及ばなかったこと当然である」
深く
「ご舎弟の新九郎殿が、一日も早く、拙者の剣前に勇ましい姿をお見せなさる日を待っている。お会いになったら、そうお伝え下さい」
と最後に云った。
間もなく、三人の姿は、袖をつらねて、碓氷の峠を
銀河の星の数ほど、隅田川にあつまった涼み船の灯を、一瞬に吹き荒らして、
物がたりは、ここから
×
「おお、何という怖ろしい浪でございましたろう」
「浪より、あの風の激しかったこと。ようお帰りなさいました」
「憶い出してもゾッと致します。それに
「それより
「案のほか、お船の
「まア、日ごろは、露にも耐えぬお優しいのにも似ず……」
「やはり、氏素性というものは、こうした時に争えぬものでござります」
嵐が鎮まって後、人を馬鹿にしたような月が冴えだした頃、やや流れも
そこへは、
「これ、やかましいお話は後ほどになさらぬか。そして、早く御方様を連れて、お
「はい」
老女にたしなめられた腰もとたちは、やッと落ち着いて、屋形の中へ声をかけた。屋形船といっても、これは、一見して、普通の町人用のものとは違った造り、
「御方様。お迎えの者が出ております」
寮の用人とも見える侍が、
「おお、よい空になりましたこと……」
月のせいばかりとも思われぬその顔は、

ただ、この人に一点難を探せば、左の
「御方さま。お冷えにおなり遊ばすといけませぬ」
「そなたたちも冷たかろうに――もう上がりましょう、誰か
「さアみんなして……」
腰元たちは、半ば興がッて手を伸ばしたが、その時、何に押されたのか、御方の船がどんと揺れて水を見た多くの者が、
「きゃッ」
と叫んだまま、桟橋の上に散らばった。侍と老女は、何事かと、びっくりして、
「や、水死人」
「
「突き流すのでござるか」
「お問い遊ばすまでもないこと……」
老女は顔を扇子に隠して、苦々しくこう云うと、侍は
水死人、その声だけで、誰しも眼を
棲む人の色と共に、家の名も変って、お船御殿の名は、誰云うとなく、
そのくせ、御方のまばゆい姿は、
御方は今、朝の風呂から上がって、
「御方さま」
「何かえ?」
鏡の前から振り顧って、後ろに、手をつかえた老女の
「ただ今、
「そうでしたか。そして、今朝あたりのご容子は」
「もうお薬も
「まア、そんなに早く……」
「おおそれから、
「蘚伯さまがしきりに考えているのを、無理に説いて貰っておきました。強い
「何の、蘭薬というても、いろいろな薬を京都で扱うている覚えもある、心配はありませぬわいの」
「ではこれへ置きまする」
老女の水瀬が退がってゆくのを見届けてから、御方は、そこに残されてある、銀紙包みの秘薬をとりあげ、ちょっと香を改めてから、
剣難。
悪魔が作ったようなこの二ツの文字。
春日新九郎は、今しみじみと、初めてこの二字に宿命されている自分の生い立ちを考え、共に、間違いなく、その宿命へ入ってゆく不可思議さに、
こう考えている新九郎の身は、今
嵐の夜に、この寮の裏で御方に救われてから、すでに十日余りとなる。老女や侍女から、この屋敷の輪廓を、およそ聞き知った新九郎は、一日も早く帰りたいと思ったが、容態にかこつけて、御方の許しが容易に出なかった。
ところへ、今朝見舞ってきた蘚伯があとは養生次第と云ったので、それを
そうだ、その頃には、まだ新九郎の母なる人がこの世にいた。クリクリとして、美しいお
何のお宮であったか、今は新九郎も
それからというもの、母は新九郎を人なきところへ呼んでは、訓誡の語調で、
「新九郎や、お前の
涙さえ含んで、幾度となく繰り返す母の真情。その前に、じっと
「剣難とは、そんなに怖ろしいものか、ああ私はそれで死ぬ相を持っているのかしら」
後になって、こう思いだしたのが、そもそも、彼が臆病者となった重因だった。
腰抜け武士、
「まア、よくよく
不意に
「いつそこへお越しなされましたか、さあ、こなたへ」
新九郎は生真面目である。
「春日さま。貴方は誰に断わってお起きなされました」
御方がそこへ入りながら、微笑んでこう云うのを、真から、立腹されたと思った新九郎は、顔あからめて、
「段々とお手厚いご恩をうけながら、誠にわがまま千万ではござるが、前にも、お話し申してある通り、定めて縁故の者どもも案じていようかと思われますゆえ、今日はお
「おおご尤も……」
御方はまだ微笑を消しきらないで、姉が、弟を見るような、軽い戯れを帯びた言葉を使われる。
「ですけれど、それ程お前様を案じているお人というのは、一体、どなたさまをお指しなのじゃ」
「永らく世話をうけている宿の
「仰っしゃいませ、
「ええ、まったくほかの口実ではござりませぬ」
「それ程に、巧みな逃げ言葉を遊ばすなら、妾も今日は見せて上げるものがござります。春日様、お前様もこれを見ては、もう綾にする作り言葉もございますまいが」
「はて?」
新九郎が不審そうに、小首を
「あんな、誠しやかなお顔をして、これを知らぬという筈がありましょうかえ、春日さま、お前様は、嵐の夜の前に、首尾の松の下で摺れ違った船から、
「もっての他」
新九郎は慌てて打ち消しながら、あの宵に、チラと見たお延の姿をやっと憶い出した。
「夢にも、恋仲などという女ではござらぬ」
「ホホホホ。仰っしゃる
「何としてそのようにお
「ないと仰せ遊ばしますか」
「…………」
「春日様。いいえ、もうお前様とは格別お親しゅう思っている妾、新九郎さまと呼んでもおかしゅうござりますまい。新九郎様」
「…………」
彼はかすかに
「どうなさりました」
ズイと寄り添ってきた御方の身動きの匂いは、男の好む、あらゆる
解けぬ謎ほど解いてみたい。
美しい惑星とは、御方のような女性を指すのではあるまいか、みやびた言葉づかいと云い、品位と云い、また

その深い謎は、御方の素性なり境遇なりが、あきらかになるに従って解けてくる。で、ここでは、敢えて豊麗な御方の肉を剥いで見ることはしばらく待とう。
「きッと。きッとお前様は、この寮を逃げて行きたくないと云い切りますかえ?」
御方の声も真剣である。新九郎は返辞に詰まるばかりでなく、眼の前の絢爛と、伽羅とも何ともつかぬ強い香りで息苦しくなった。
「お前様が、ほんとうにこの寮に長くいてくれる
「な、成りませぬ!」
新九郎はほッとした息で云った。
「え、ならぬとえ?」
「それの成らぬ新九郎の身の上でござります」
「な、なぜじゃ」
御方は吾にもあらせぬ
「ならぬという訳を聞かしてたもれ。さ、それ聞かいでは、妾の心がしずまりませぬ」
「この上は、かくすほどのことでもござりませぬゆえ、拙者の身の上をお打ち明け申します。その釈明が立ちましたからには、何卒、勝手でもお別れ願いとうござる」
新九郎は先にこれだけの念を押しておいてから、かいつまんで、大望ある
さすがに御方もどこまで純情潔白な新九郎の物語には、すくなからず
「分りました。もう無理は云わぬこととしましょうぞ、その代り、妾の頼みも聞いてたもれ。今宵だけはせめて寮に泊って、明日は朝なと、昼なと、いつでもお戻りなされたがいい」
「重々のご恩義に甘えて、お礼の申しようもござらぬ」
「けれど、これがお別れでは妾は厭じゃ、また折にふれては、訪ねてくれると、固い約束いたしおかねばなりませぬぞえ」
「それはもう、お尋ね致す段ではござらぬ」
「誓いの
「ア、それは」
新九郎が慌ててさえぎる隙もなく御方は側にあった大刀を持って、ツイと橋廊下の彼方へ姿を隠してしまった。
しかし、他ならぬ
ところが、何ぞ知らん、新九郎が夢にも気づかぬ聞に、その粉薬がいつの間にか、御方の手で、
蘭薬の
夜気
冷たい
この頃江戸の町には奇怪な見世物が
しかしここで奇怪というのは、三ツ目小僧や
「おおここにあるのも賭け試合の人寄せか。武術をもって
「かような世のさまも、江戸ならでは見たくも見られぬことでござりませぬか」
「したが、いかに身過ぎの為とは申せ、余りと云えばあさましい浪人ども」
浅草二天門のお
型の通りな鯨幕が一文字に張ってある
=
ドーン、ドーン、ドーン、景気づけの山鹿流が怪しげに鳴ると、向う鉢巻の男が弓の折れを持って看板板を叩きながら気狂いじみた
「さア出ないか出ないか出ないかッ! 小六先生を打ちのめす者はこの中にはいないかいないか! 腕に覚えのある者ならお武家町人の選り嫌いなく飛び入りご勝手、八年八月比叡山に籠って
この長文句を淀まずつかえず、
「もシ……」
と、そッと
「あれに貼ッてある目録の名をご覧なさいませ」
「おお賭け試合の勝ちビラと見えて、いろいろな剣客の名が見えるが、どうせ衆愚を
「いいえ、試合のことを申すのではござりませぬ。右から四枚目の名を……」
と云いかけて千浪はにわかに口をつぐみ、あたりの人に油断のない眼を配った。そう云われて、重蔵も初めて四枚目の目録を見ると――投げ槍三本試合に於いて一本どりの名誉。一刀流大月玄蕃殿――という文字が
「や」
思わず
「これ若い者、少々ものを訊きたいが」
「エ、飛び入りですか」
「いやいや、賭け試合を望む者ではない。ちと訊ねたい儀があるによって、小屋主の小六殿に会わせてもらいたいのじゃ」
「ちぇッ」
客呼びの男は
「この忙がしい
「でもござろうが、折入って
「うるせえな、駄目だって云うのに!」
「そこを曲げてこの通りに頼み申す。火急のことゆえ夕刻までは待ちかねるのじゃ、是非何とか取り計らってもらいたい」
「やかましいやいッ、この物貰いめ!」
「何?」
とかなり気の練れている重蔵も、この口汚い
「あ、喧嘩喧嘩」
「虚無僧と喧嘩だッ」
とばかり凄まじい雰囲気をつつんで来たので、さなきだに鼻ッ張りの強い若者は、浴衣の片袖を
「何がどうしたと、やいッ、物貰いだから物貰いと云ったに不思議があるか」
「黙れ、云わしておけば口の減らぬ素町人」
「やいやいやいッ、大きなことを云うない、大きなことを! 素町人たあ誰に向って
とばかり不意に源七が拳を固めて打って来たのを、危うく片身流しに引ッぱずした重蔵は、刹那の勢いに吾れ知らず
「ア、重蔵様!」
千浪はおどろいてその手に
「ああ
とすぐ思い返した重蔵は、尺八の手を緩めて、源七の前に小腰を屈めた。
「あいや源七殿とやら、この方が口不調法な頼み方、気に障ったらどうかゆるしてもらいたい」
「おきゃアがれ、今ふり上げた尺八はどうしたんだ。好きなご託を並べておきながら土壇場になってゆるせもねえもんだ。さッ
群集の
「小屋の前で止しておくれよ、どっちが悪いのか知らないけれど、こっちの商売が上がったりじゃないか、ほんとに騒々しいッたらありゃあしない」
とそこへ出て来た一人の女。
その
三坪ばかりな蓆囲いは暑そうに見えるが、裏口の一方を風入れに開けて、お
商売道具の玉槍を、長いのから短いのまで、七、八本ばかり掛けてあるほか、あとは
当の小六その者は、薄色の麻の小袖に
「どうも今日はさっぱりいい鴨がかからないナ」
「何しろこの頃は、江戸中に何十箇所とふえたそうだから鴨の方でも少しくたびれ気味となったのも無理ではない」
こう云ったのは小六ではなく、彼の前にいぎたなく胡坐を組んでいた二人の浪人。
一人の方は、賭け試合の看板名に前座を勤めている金井一角で、小六がこの小屋掛けの地内を
ところで、もう一人の浪人は何者かと見れば、これなん、春日重蔵と千浪とが、血眼で尋ね求めている当の怨敵大月玄蕃である。もともと、小六と玄蕃とは雨龍の山荘にいた時代からの

「こう
小六は
「まだ今朝からやッと二両二分の稼ぎ、小屋代を引き源七の手当を引き、
「いくら
「ははははは奢る平氏久しからず」
玄蕃は二人の
「お前さん――」
そこへ
「何だ」
「小屋の前へ、お前さんに是非会わしてくれという者が来て、今源七と揉め合っているんだけれどどうしたものだろうね」
「何、拙者にぜひ会いたいという者が?」
「ああ、景気の悪い日には碌なことが舞い込みやしない」
「して
「
「え、虚無僧」
とやや慌て気味に立ち上がったのは、今まで
「二人か」
と小六もにわかに引き緊った顔をする。
「ええ。どうするんですよ一体」
「その二人連れなら会ってやる。だが待てよ、おお玄蕃殿、案の定やって来たらしいが……」
「てッきり
「よろしい。じゃあここへ連れて来い」
小六がお延に云い渡すと、大月玄蕃はそそくさとそこに掛けてあった熊谷笠を外し、何か二言三言云い残すが早いか、金井一角と共に風の如く裏口から抜け出してしまった。
蓆一重にからくりがあるとは夢にも知らず、間もなくお延に連れられてきた重蔵と千浪は、すすめられた楽屋の空箱に腰を据えて、投げ槍小六とピッタリ向い合った。
「拙者が浪人
襷、股立ちを外して、小六も言葉から改まった。
「初めて御意を得ます。またお忙しい中をご迷惑なるお願い立て、おゆるしおき下されたい」
と二人は同時に、軽く
「宗法でござれば天蓋はご免こうむります。これなるは京都寄竹派の
「ご丁寧なご会釈、どうぞそのまま」
「表の者からもお忙しいと承わったに依り、早速お願いの筋を申し入れるが、実は、この幕の正面に貼り出されている目録のうち、大月玄蕃と申す者の名が見えましたが」
「おおあの大月
「左様でござる。まことはその玄蕃を尋ね歩いているわれわれ両名、目録の名を一目見るより躍り立ったほどでござります。その者の
「や、それはしまった!」
小六は膝を
「もう一足早かったら、大月氏とここで会えたものを」
「えッ、ではいつ頃ここへ見えましたか」
「つい今朝ほどでござった。見るからに眼の鋭い一名の浪人が試合を申し込んで参った。ところがまことに稀代な一刀流の達者で、遂に拙者も一本の勝ちを取られたゆえ、あの通りの目録を貼り出したのでござる。今承わればその人こそ貴殿の尋ねる大月玄蕃で、そうと知ったらなお詳しいことも聞いておくのでござったのに」
「さほど僅かな違いであったとは、残念千万、して玄蕃めは――いや大月氏は、どこを宿と致しておりますかお聞き及びはござりませぬか」
「されば深いことは存ぜぬが、今日一日江戸見物を致した上、奥州路へ発足、仙台の城下へ参って一刀流の町道場を開くとか申しておりました」
と聞くより、千浪と重蔵は胸の血を高鳴らせて、言葉忙しく小六に礼を述べ、火除地の人混みを分けて、互に何か希望に満ちた囁きを交わしながら、いずこともなく立ち去った。
その後ろ姿を見送って、
「うふッ……」
口を押さえて笑ったのは小六である。
「ああ罪だ罪だ。あんな人達を
お延は妖婦に似もやらず、いつにない
「おいおい、柄にもねえ寝言を云うな。そう来なくちゃ折角玄蕃から頼まれた甲斐がありゃあしない。これでまんまと
「お前さんの
「女の分際で余計な差し出口を叩くまい。拙者と玄蕃と一角の三人は、今度改めて義兄弟の誓いを結んだのだから、これから先は善悪とも、飽くまで互に助け合わねばならぬのだ」
「義兄弟にでも何にでもなるがいい、どうせ私にかかわったことじゃなし」
お延は隅にあった酒徳利から
「あの人も江戸へ来ているのに、一体どこに来ているだろうねえ……アア会いたい! もう一度しみじみ会って……」
熱に浮かされた病人のように、独りでかき口説いたり、黒髪を

「馬鹿野郎、またお株をはじめやがった」
小六はべッと唾を吐いて、忌々しそうに眉を吊り上げ、お延の肩を蹴飛ばしかけたが、その時表の方で客呼びの源七が、またもやしゃ
「さア出ないか出ないか! 江戸の男には腕ッ節の強い者はいないのか、小六先生を破るほどの者はいないか! たッた二分銀一枚で小判の山の掴み取り、さア飛び入りはないか、飛び入りはないか」
武芸を売り物同様な浅ましい声を振り絞って、源七がしばらく喚いていると、やがて見物の中から賭け試合の申し込者がでたとみえて、楽屋の小六に報らせの太鼓がドーン、ドーン、ドーン。それと同時に一分銀が何枚か景気よく銭笊の中へザラザラと舞い込んだ。
「先生お支度を願います」
と表からの声、
「心得た」
小六は職業的に緊張して
「投げ槍、投げ槍」
と沸きあがった群集のかけ声、
「叡山流しッかり!」
「飛び入り! 構わねえから打ち込んで三方の小判をこっちへふり
ワーッ、ワーッという熱ッぽい声に浮かされた見物は、木戸銭なしの賭け試合に時間を忘れて揉み合っている。
どこかの町道場の門下か、あるいは旗本の子弟でもあるらしい三人組の若侍は、噂の賭け試合に奇勝を博さんものと意気込んで来たが、小六の投げ槍の手練に遭って、入り代わり立ち代わり、たちまち無残な敗れをとり、あたら一両二分の金を巻き上げられた上に、すごすごと逃げるが如く帰ってしまった。
「
「ご免、ご免」
と人浪を掻き分けてきた
「おいおい、賭け試合をするならするように、ここへ二分ずつ置いて行ってもらいてえものだ」
「やかましいやい
「金井一角を出せッ」
云うが早いか、
「ま、待った! 勝負は一人一人だ」
と帯ぎわを掴んでずるずると引いて来るのを、
「えい、うるせえ虫けらめ」
グワンと鉄拳をびんたに食わせて、町奴の一人が突ッ放すと、一方が受けて、
「うぬあ邪魔だからしばらく外で見物していろ」
と云うや否や、源七の襟がみを掴んで、青竹の仕切りの外に押し合っている見物の中へブーンと投げ飛ばした。
と見た投げ槍の小六は
「待てッ何者だ、その方たちは?」
「何者でもねえ見た通りの町奴、生不動の両童子と唄われたこんがら重兵衛にせいたか藤兵衛のご両人様だ」
「さては聞こえた
「槍術売りの芸人侍めッ、きいた風も大概にしやがれ、看板通りの約定金を払ったお客様に、小屋荒したあ口が過ぎる。さ俺たちの
「犬侍の一角を出せッ、隅田川の仕返しに素ッ首を引ン抜いてくれるから勝負に出せッ」
生不動の名と共に、音に聞いたせいたかとこんがらが、怒れる両童子その者の如き勢いで詰め寄ったが、小六も曲者、びくとした気ぶりも見せず玉槍を構えたまま、
「そいつはご苦労千万だが、金井一角は今日はいない。また改めて出直して来い」
「
こんがらは一笑のもとに突ッ刎ねて、
「そんな甘手に乗って
「云わしておけば無礼な奴、おらぬといったら
「よし、じゃどうあっても
「面倒くせえッ、せいたか! 楽屋へ踏ん
「合点!」
バラバラッと蓆囲いを目がけて躍り込んで行くと、物蔭に隠れていた熊谷笠の大月玄蕃が、いきなりドンとこんがらの
「むッ」
とよろよろと一人が倒れたのを知ったせいたかは
「ワッ」
と叫んだまま、

「ざまを見やがれ」
さっき見物の中へ投げ込まれた源七と玄蕃と、共に帰ってきて物蔭にかくれていた金井一角などがたちまちせいたかとこんがらを荒縄で縛り上げ、ことさらに、大衆の前へズルズル引き摺ってきて、蹴る
「あ、ひどい畜生、三人がかりじゃ
「両親分が殺される、誰か
見物は興に過ぎてかえって興を
「やッ」
物音に振り顧った小六がきっと見ると、深編笠に
「やあ何奴、許しもなく仕切り竹を踏み破ってこれへ参るとは不作法千万」
「ゆるさっしゃい、この中に拙者の知り人が一名おったゆえ、つい気を
「何、知り人が?」
と一同で疑わしげな眼を向け直す間に、すばやく、ツツツと小六と源七の間を摺り抜けてきた侍は、
「大月玄蕃ッ動くまい!」
「あッ――」
うッかりしていた右腕を不意に掴み取られた玄蕃は、思わず
「悪い奴に――」
と心の底で
「不躾け至極な人違い、大月玄蕃などとは思いもよらぬ云いがかりを申す奴だ。この手を離さっしゃい」
と言葉鋭く云い切って白ばッくれた。
「何、云いがかりとか。ははははは汝が玄蕃に非ずしていずこに大月玄蕃と呼ぶ者があろうか。二年前には桔梗河原で、近くは碓氷峠で見受けた汝の姿を、ここで見損じるような拙者ではない。見つけ次第に引ッ捕えて
「む、むウ……」
「山陰切っての一刀流の達者と呼ばれ、一度は京極殿の指南番まで勤めた堂々たる剣客ではないか、なぜ左様な卑怯をする。かりそめにも剣をとって諸士の範たる武士が見下げ果てたる
「へへッ……」
自斎の威圧と理に屈伏して、
「そう仰っしゃられては面目次第もござりませぬ」
声さえ悲壮なふるえを帯びてガックリと首を垂れてしまった。その様子を見た自斎は、いささか
「迷夢が覚めたか、善悪は別として、天命なるものを知り、終りを知ることこれ武士の第一義じゃ、とにかくここは人中、拙者と共に宿所まで同道してもらいたい」
「は……」
いかにも神妙そうに小腰を
「ばッ、馬鹿なことを!」
打って変った毒口を投げつけるが早いか、身を躍らしてきた豹変の抜き討に、鬼丸包光の大刀を横ざまにさっと払ってきた。
「アッ」
と不意をうたれたのは間近く居合せた小六、一角、源七の三人、
「あわれむべし大月玄蕃! 不憫や魔道に落ちて救われざる
「黙れ黙れッ、
「よし多言は
「えい耳うるさいッ、各

玄蕃は左右に助太刀を頼んで、自分はふりかぶった太刀を八幡微塵と斬り込んだ。が、体もくずさぬ自斎の鉄扇は、さしも一刀流の豪剣を中段からピシリと刎ね返し、
「つッつッつッ!」
玄蕃は歯がみをして地に下がった太刀を持ち直したが、自斎の鉄扇に
「待て!」
跳びかかッた自斎の
「卑怯もの!」
「しまッた」
ベリベリッと破れた笠が自斎の手に残ったかと思うと、玄蕃は脱兎の如く蓆を衝き抜いて裏口へ逃げ出し、同時に一刀を抜いてきた金井一角が後ろから不意打ちに、
「素浪人ッ」
と斬りつけてきた。
「何ッ」
自斎の体がクルリとこなたへ向き変ったかと思えば、鉄扇に呼ばれて誘い込まれた金井一角は、二の太刀を斬り
「えいッ!」
とばかり
「おうッ」
と二度目に刎ね返ったかと思えば、一流の
その時であった、楽屋へ飛び込んで本槍の鋭い穂先を払った投げ槍の小六が、自斎の後ろを狙って
「えやーッ」
ひょうッと投げ放した練達の飛槍、
さなきだにこの騒動で、先刻から
「おのれッよくも渡世の邪魔をいたしおッたな」
必殺自信の投げ槍に仕止め損なったと見た小六は、無念そうにこう叫びながらバラバラッと自斎の前まで駈け寄って腰の大刀を抜き払ってきた。
危ういかな投げ槍の小六、山陰きっての一刀流覇者大月玄蕃さえ、たッた今二の太刀を諦めて逃げたほどの鐘巻自斎に、いかに盲蛇に
「おお……」
来れと体をそのままに構えた鐘巻自斎、
「汝がこの小屋の投げ槍小六と申す奴よな。神聖なるべき武芸を大道にさらすのみか、博技の道具にして市人に悪害を流す憎ッくい
「えッ
べッと柄糸に唾をくれた投げ槍小六が、一閃二閃とつづけ打ちに斬ってかかッた太刀風に、はッと気がついて飛び起きた金井一角は、それと見るなり前の太刀を拾って自斎の左右から烈々と火を飛ばして行った。が、それは瞬間であった。尺一寸か二寸に足らぬ自斎の鉄扇は、二本の白刃を迎えて神速神変の妙を極め、見る間に、二人の太刀を捲き落し、逃げるを打ちすえ、小屋丸太を引き抜き、りゅうりゅうと振って
それまで、
「あッ」
と魂を消して刎ね起きたが、その眼の前を裏口から脱兎の如く逃げ出して行った小六と一角の姿を認め、狂女のように髪振り乱して後ろから走った。
騒然たる物音と叫喚の後は、一陣の
陽は既に暮れかけている。あたりは旋風の跡の如き狼藉をきわめ、
「こんがらの兄い!」
「せいたかの兄弟」
嵐のように殺到した一団の人影は、各

察するにここに駈けつけてきた抜刀組は、見物の中の何者かの
案の
当節堕落の
月 日
綿のような霧の中から、すくすくと伸びて見えるのは寮の裏にあたる
そして、深い深い眠りに落ち入ったまま、絽蚊帳の裾が寝顔をなぶりぬくのも知らず、昏々として
ああ醒めざる人、この人は今何を夢みているのだろうか。国元に起った正木作左衛門の変も知らず、兄の重蔵と千浪とがこの江戸表に昨日今日来ていることも知らなかろう。
仮に新九郎の夢を憶測すれば、それは終生の
寮の
カラカラ、カラカラと母屋の雨戸を繰る音がしだした。と間もなく、廊下を渡ってくる、跫音がする。
「ム……ム、ム……」
爽やかな風に醒めたか新九郎は二、三度軽い呻きをもらして、やがて、パッチリと
「オ、今日こそはここから帰る日だ……」
醒めた途端に胸をかすめた新九郎は、いつもの

「おお、では今日こそ帰れという謎か」
新九郎はほッと安心してその一刀を膝の上へ取り寄せたが、彼はまたいぶかしそうに眉を
「はてな? ……」
小首を
「春日様、お目ざめでござりますか」
老女の
「おお水瀬様か、取り乱しております」
慌てて床を払って坐り直すと、老女も静かに前へ来て、御方から
「昨日貴方さまのお刀を預りましたは、決して悪意でも
世間というものに馴れず、人に疑いというものを抱かない新九郎は、それをも御方の純な親切と思って、幾度か礼をくり返しふたたび来る日を約して、十幾日目かで寮の門から外へ出た。
この上は一刻も早く、生不動の与兵衛に無事な顔を見せようと勇み心地に寮を出た新九郎は、朝まだき大川端を急いでくると、ちょうど矢の倉手前、両国の渡し舟に近い河岸ぶちに、
なにが故か、二人の虚無僧はじっと大川の水をみつめていたが、天蓋のうちでハラハラと涙流したものの如く、そッと涙を拭い、二人とも同じように川に向って合掌した。そのすぐ傍をすり抜けた者は云うまでもなく新九郎であった。
この家から、早立ちの客を二人送り出して後、生不動の
「なア安、
「べらぼうめ、だから人様が汝のことをのん竹と云うんだ。あれは正真正銘の女じゃねえか」
「女にしても
「やいやい、あんまりでか声で馬鹿を云ってると、また親分に朝ッぱらから拳骨を頂戴するぞ。あの足の悪い方は新九郎様の血を分けたご兄弟じゃねえか」
「えッ、では噂に聞いていた
「昨夜はお二人と親分とで、一晩中物語をしていたらしいが、それにしても新九郎様は一体どうしたんだろう。死んだ者にしても死骸ぐらいは大川尻から上がりそうなものじゃねえか」
「やッ
「いい加減にしやがれ、幽霊にしたところで、死んだ者が朝ッぱらからのこのこ来てたまるものか」
「だッて、ああ新九郎様だッ」
乾分ののん竹は、いきなり
「親分親分、今新九郎様が
「なに、新九郎様が? ――」
与兵衛は声と一緒に腰を立てかけたが、報らせて来た人間が、乾分の中でも鈍物ののん竹というしろものなので、そのまま一笑に附し、
「竹、てめえ何か勘違えをしたのじゃねえか」
とあり
のん竹はどこまでも真剣に眼を剥いて、
「いえたしかに新九郎様に
よもやとは思うけれど、あまりのん竹が生真面目に云うので、与兵衛もつい誘い込まれて茶の間を出て行くと、ちょうど、門口から多勢の乾分たちに
「与兵衛殿、いかいご心労をおかけ申した」
「おお新九郎様でごぜえましたか、よくまアご無事でお
「騒動の起きた当夜、拙者は金井一角と引っ組んで大川へ墜ち、すんでに命のないところでござったが、
「お詫びなさる筋合はござりません。あ、それよりは新九郎様、貴方のお帰りなさるのが、たッた一足遅うござりましたわい。せめてもう一刻も早かったら、お兄上の重蔵様と千浪様のお二方に、ここで落ち会いなさることができたものを」
「ええッ、何と仰っしゃいます。では兄上と千浪殿が江戸表へ参られましたとか」
「
「や! では拙者がここへ戻ってくる途中、大川へ向って
「それこそ重蔵様ではございましたろう。貴方様の変事をお話し申したところお二方の力落しは云うまでもなく、千浪様のお嘆きは
「アア知らなんだ!」
と嘆声を洩らした新九郎は、俄かにキッとなって、腰の
「たッた今そこで見かけたばかりの兄上、よもや遠くへは参るまい。奥州街道と云えば浅草見附から千住街道へ一本道、後をお慕い申して一目なりとお目にかからねば相済まぬ。与兵衛殿ご免!」
と語調もせわしながら立ち上がった春日新九郎は、云い捨てるが早いか、そこにあった突ッかけ草履、真一文字に生不動の家から
鐘巻自斎の
武州
「お延さん、小六殿には悪いが三人の中に唯一人の女気だ。もう少しこっちへ出て酌でも致してくれぬか」
金井一角が小六の方を横目に見ながらこう云うと、お延は
「真ッ平ですよ。私ゃお前さんの女房じゃなし、また大月さんのご家内である訳でもなし、まして……」
「まして小六殿という良人のある身か。いや、これは痛い所でお
「ちぇッ、だからくさくさするッて云うんですよ。誰が小六さんなんかを亭主だと思っているものかね。変な
男を前にして
しかし、さすがに小六の眉間がピリと動いたのでその
「ところで小六殿、話は別だが、これから一体どこを打って廻る
「折角
「成程それもよかろう。しかしこの宿を立たぬうちに、拙者が頼んでおいた例の一条、あれから先に片づけてゆかねば、永い道中何となく気がかりで相成らぬが」
「ご心配あるな、この金井一角もその儀はとくと
「そういうときには、不意打ちの世話も要らぬ投げ槍の極意で、小六もきっと腕をお貸し申そう」
「そう聞いて玄蕃も
玄蕃が二人を組させたこととは、云うまでもなく重蔵と千浪を、再びここで返り討ちにしてしまおうとの魂胆らしい。浅草の小屋へわざと自分の名を掲げておき、二人を奥州街道へ釣り出そうとした苦肉な策を思い合せれば彼の毒刃がどこまで執拗なのか、真に
が
大月玄蕃ほどの者が、前には大草額平を
してみると、仇討というものは――
それはさておき、翌晩一人の駕屋が手ぶらで網屋へ入り、奥にいる玄蕃に会って、夕方から二人連れの虚無僧が、小淵の不動院を出てこの宿へ向って来ると告げて行った。
これは前もって、玄蕃が駕かきに金を握らせて置いたものであるらしい。不動院からはこの宿までの間には、一軒の宿屋もない筈、従って、いやでも夜道をかけて来なければなるまい。彼は密かに陰険な
玄蕃と一角は、覚えの一刀を前落しに押さえて草むらに隠れ、小六は手馴れの短槍をとって、堤の上からただ一突きと息をのんで待ち構えている。
たまたま走る夜駕の灯も絶えて、初更を過ぎかけたこの街道は、刻一刻と、夜涼の
と――月見草のやさしい中に、怖るべき魔人の剣が潜んでいようとは、よもや、夢にも知ろう筈がない尺八の音色――、それに連れて、ピタリ、ピタリ……としずかに夜露の土を気まかせに踏んで来る天蓋の影二ツ。
「来おったな! あの人影はたしかに虚無僧、春日重蔵と千浪の二人だ」
吹きつつ来るのは何の哀曲か、地上の露を払い、天の星を澄ますような音色――それは、聞く人各

「えーいッ!」
いきなりさっと
「むむウーッ」
無残、槍の手ごたえと共に、ぱッと血の香を漂わせたところから、ただ一声の唸きが揚がり、一方の虚無僧は、胸板の真ん中を縫われた槍の柄を掴んだまま、

「それッ後はご両所」
堤の上から、小六が声をかけると同時に、
「オオ心得た」
と白刃を躍らせて現われた玄蕃と一角は、物をも云わず、残る一人の虚無僧を挟んで斬りつけた。人一人を一気に葬った血飛沫は、昏々とあたりを迷って容易に去らない。しかも、残虐に飽かない魔人どもは、更に残る一命に迫った。ああ既にそれも危ない。
前に
ほとんど、魂をおう狂気の人の如く、千住街道を急ぎ足に、先から先の人を追い抜けて来た春日新九郎は、やがて
「ああどこまで千浪殿とも兄上とも、縁のうすいこの身であろう……ここまで来て会わずに帰るも残念、と云って、このまま行く雲をおうような旅もつづけられず」
茫然と路傍に立った新九郎は、疲れた体を進める道に迷っていた。と、里の者らしい人々が此方へ来た。新九郎はその人達を見ると、また
「そうさのう……」
百姓らしい男は、しばらく小首を
「む、お見かけ申しましただよ。あの人たちに違いなかんべい」
と新九郎の胸をどきッとさせた。
「それもたんと前のことじゃあねえ、つい今し方のこッてがす。小淵の不動院の林から、この街道の先へ出る抜け道を、ぶらぶら行かしゃったお二人づれの虚無僧がありましただ」
「おお、それじゃそれじゃ! して二人の者は、この街道をどう向いて参ったであろう」
「あの抜け道を行けば杉戸へ出るのでがす、その先はずッと
「いや忝けない」
新九郎は、
三本木から杉戸あたりを過ぎると、もう一軒の家もなく、右はだんだんに柳を植えた
「はッ……」
思わず火のような息を吐いて足を休めると、初めの熱汗は極度の疲労で
と、今まで気がつかなかった尺八の音が、かすかに行手の先を辿って行くようである。
「あれじゃ! もう近い」
にわかに気力が甦えって来た。彼はまた四、五丁も一気に走った。尺八はいよいよ近く聞える。もう一息――と思いつつ駈け出して行くと、糸が
「オウーイ」
新九郎はそこから声を揚げはじめた。
「オウーイ。オウーイ」
答えはない。尺八の音も再びしない。
彼はハッと胸を轟かせた。何か怪しげな物音を一ツ聞いた。そう思って耳を澄ませば、時折、剣と剣の合うような冴え音。
「何か異変が? ――」
と思い当った新九郎は一段足を空にして行くと、たしかに二、三人の足音がバラバラと
それは男らしい骨格、さては
何せよ一足遅かった。ああたッた一足で恋人の玉の緒を絶ってしまった! ――と新九郎は吾を忘れてそこへ飛びつき、
「兄上ッ」
いきなり袖に縋ってしまった。
「何ッ?」
不意を
「兄上、お人違い遊ばすな、新九郎でござる、弟の新九郎でござります」
「待て、其方は何を申しているのじゃ」
「や、や、そのお声は?」
「人違いとはそちらのことではないか。身共に新九郎と申すような舎弟はない」
「違った!」
新九郎は張り詰めた心を、体と共に一遍にそこへくずして、ピッタリと両手をついてしまった。
「失礼仕りました。まったく、同じ普化僧姿の者を尋ねて参りましたゆえ、夜目でもあり、かたがた
「いやご丁寧なる
「して、ここに無残なご最期を遂げられているお方は?」
「同門の友でござるが、何ら怨みを受くべきいわれもなく、不意にあの堤の上から投げ槍を飛ばしてただ一突きに
新九郎は、前に人違いと知って失望したが、今は人違いに感謝しなければならなくなった。
投げ槍の使いてはたしかに西塔小六。一人は悪に繋がる大月玄蕃、その魂胆のあるところは、察知するに難くない。
「承れば、このお人こそお気の毒千万、実は貴殿に狼藉いたした者こそ、拙者の兄ともう一人をここに待ち伏せ致しおった曲者に相違なく、同じ普化僧のお姿ゆえ、てッきりそれと見違えたものでござろう。何卒不慮の禍いと思し召されて、おゆるし願いとう存じます」
「いやいや、これは全く宿命でござる。今思い合せても、奇異な心地が致しますが、打ち明けてお話し申せば、今日の昼、この先の不動院で拙者と同宗の二人の者に出合い、ややしばらく打ち解け話をしながら、不動院の縁に四人で腰かけていたことでござった」
「もしや一人は片足の不自由な?」
「左様でござった。そして一人は女にも見まほしい人体、宗名は月巣、竹枝と申しおった」
「おお、それこそ拙者の尋ねる人々でござった。してそれから何と致しましたな」
「まア聞かれい……」
虚無僧は傍らの切株へ腰を落し、宗友の冷たい
その虚無僧も、まことは武士であった。
しかも、
故あって、大之進は小野門から姿を隠していたが、ちょうど、旧友の
ところが、今度計らずも小野家へ帰参が許されたので、旅先から戻り、一月寺へ
同宗の
「
と云った。また、鵜飼の運命を見ると、老人は何故か口をつぐんでしまった。そして一言、
「後ろを振り顧らずに、一散に江戸へお帰りなされ」
と暗示めいたことを告げた。
しかしその時は、座興ぐらいに思って鵜飼も大之進もそこを立って来た。けれど、千浪と重蔵とは、老人の
一方、夏目と鵜飼の両名は、そのまますぐに江戸へ急いでしまえば、この奇禍にも遭わなかったろうに、不動院を出ると間もなく、鵜飼六太夫の方から口を切り、
「大之進殿、今日かぎりでこの尺八も捨てるのだ。一ツ別盃の前に別れの一曲を吹こうではないか」
と興に乗じて云いだした。
「縁起でもない、別れの曲は止したがいい」
「では何なりと、気任せの調べ合せはどうじゃ」
「よかろう」
二人はすぐ歌口をしめして吹き合わせた。そして、長い並木も短く思えて興に吾を忘れてくると、
………………
大之進から、こうつぶさに話されたので、新九郎は己れの姓を名乗り、身の上の一端を明かさなければ悪い気がした。やがての後、二人は不動院を叩いて、老院主に
事の行きがかり上、新九郎はその最後まで大之進に力を添えていたので、遂に、重蔵の後を追いつくことは、一時諦めなければならなかった。
武者窓から痛い
ここは小石川
ここへ入門の世話をしてくれたのはかの夏目大之進で、生不動与兵衛とも無論了解の上であった。
新九郎は初めて名師に会った感謝に
それのみならまだしも、玄関式台の拭き掃除、訪客の取次、
「アー冷たい……」
ポン、ポン、ポン。あちらで手を叩く音がする。新九郎はハッとして、
「おお師範代がお眼ざめになったらしい。ただの召使根性のようなこのざまを見られては恥辱」
胸にこたえて荷担の
短い
危うげな足どりで、やっと勝手の
「横着者めが、なぜ水をきらしておくのじゃ、とッとと顔を洗う水を汲んで来い」
寝起きの不機嫌に任せて呶鳴りつけた。
「いつにないお早いお眼醒め、まことに不覚を致しました。唯今すぐ……」
脚高の
「えいッ」
不意に気合をかけられた新九郎は、あッとおどろいて飛び退いたが、もう、頭から盥の水をザーッと全身に浴びせられていた。
「あ……」
烈寒の中に立って、氷の
「寒いか、馬鹿者めが、剣道の家にある者が、そんな油断でどうするのじゃ、気をつけいッ」
「はい、ご教訓のほど身に徹してござります」
「早く汲み直して来い」
「唯今」
と新九郎が、慌てて汲みかえたのを持って行くと、再び、耳をつき破るような気合、はッと思う間もあらばこそ、
「あはははは、こいつは
梶新左衛門は聞えよがしに嘲笑して奥へ入ってしまった。その後ろ姿をきッと睨んだ新九郎は、
「ち、畜生ッ……」
と悲痛な声を唇から洩らしたが、雄敵鐘巻自斎の名をふと脳裡に描くと共に、彼はその誤まっている怒りを知って、
「梶様、忝のうござりました」
両手をついて、
ある日、一人の剣客が小野忠雄をこの道場に訪ずれてきた。
滅多に他流試合の申し出を
「大先生ご自身が、それまでに敬っているお客とは、一体何流の何者でござろうか」
「奥の
「不思議なこともあるもの、まず小野派
「何せよ道場へ出て試合となれば分るであろう」
さまざまな噂をしながら、その日この門に居合せた程の者は、一人残らず、大道場の東西に居流れて、治郎右衛門忠雄と客なる者の出席を待ち構えている。
春日新九郎も、遥か道場の末座にあって、熱心に瞳を輝かせていた。
試合に立つ高弟の人達の支度もすみ、木剣の用意その他の支度もすッかり整った頃、
ふと瞳を向けた新九郎は、
「あッ――」
思わず口のうちで驚き声を洩らした。意外! すくなくも新九郎にとってこの上の意外はない。一同に会釈をして後、しずかに床へ降りて来た剣客こそ、年来の雄敵と思いつめながら、間近く見ることはここに初めてな鐘巻自斎だ。
桔梗河原の矢来の外から唯一度見たことのある黒漆の長髯、逞しい五体、
新九郎の血相はまったく物凄い緊張に充ち、体は石のように硬くなって、ただ、高鳴る胸の音を自分でも知るほか、双の眼は自斎その人の一挙一動に吸いついている。
叫ばす[#「叫ばす」はママ]、狂わずとも、その容子は決して尋常な昂奮ではない。が、
勝負は進んで、高弟の二、三人が鮮やかに打ち込まれ、小野派の
この上は治郎右衛門忠雄が出るか、あるいは自斎をして
「アアさすがは
初代忠明から一刀流の覇を唱えてここに三代の宗家治郎右衛門も、心から嘆声を洩らして誉めたたえたが、やおら、自身で道場へ片足を降ろそうとした。
「忠雄先生、軽はずみをなさるまいぞ」
「いや、ご迷惑ではござろうなれど、先生の如き神髄の剣法を見て、ただ、真如の月と仰ぐばかりでは物足りぬ心地が致す。自身も一手お試合を願っておこう」
「お言葉ではござるが、
「そう仰っしゃられては二言がござらぬ。こうなると芸術精進に家格はかえってさまたげ、まだ名人の境を果てなく進まれる貴殿のご境界が羨やましい」
「思わぬ無作法を仕った。ではこのままお別れ申します」
「またご出府の節は必ず訪ねられい」
「忝のうござる、ご一同、ご免――」
門人の一人がさし出した笠を受け取って、静かに二歩、三歩道場から出ようとすると、不意に一同の耳を
「待てッ、鐘巻自斎待てッ」
「や?」
何者の声かと一同胸をドキンと
「鐘巻自斎しばらく待たれいッ!」
タタタタタッと一気に、自斎の前まで夢中に躍り出して来た若者を、末輩の春日新九郎と知った一同は、
「や、無礼者めが、な、何でここへ!」
「身のほど知らずめッ」
後ろから
「狂気したか新九郎、木剣を引ッさげて自斎殿に何とする気じゃ」
「乱心者めが、気を
新九郎は眉間に
「お放し下され、不肖ながら春日新九郎、決して乱心な致さぬ、血迷いも仕りませぬ、互いに名乗れば分ること、お手をお放し下さい」
「黙れ、汝こそその木剣を何故離さぬ」
「いいや鐘巻殿とここで会ったは何よりの
「おお忘れぬ!」
つかつかと歩み寄った鐘巻自斎は、門人たちに
「む、さては御身が重蔵殿の舎弟、春日新九郎であったか」
「そうじゃッ!
「おお心得た」
自斎はポンと笠を投げて、再び道場の真ン中へ立ち戻る用意をした。
「春日新九郎! 心の準備はよいであろうな」
「念には及ばぬことだ! いざッ」
と叫んだ新九郎にも、一念の
「いや!」
自斎は二度までも、
「身支度ではないぞ、形の支度ではござらぬぞ、心の用意、即ち修行という鍛えはたしかにしておいたかと申すのじゃ」
「
「おお、それゆえ
「その日は今日だ! 修行の長い短いばかりで、勝敗の決まっているものではあるまい。新九郎が一心の木太刀で、今という今こそ、兄の重蔵同様、汝の
「むむ面白い――」
自斎は泰然と
「
「云わでものこと、多言は無用じゃ」
「むッ。では――」
「やッ」
双龍は床を
自斎のとって中段に構えた木太刀は、
彼は鍛錬悟入の域に澄んだ水月の名太刀。これは、ただ一念一心に燃ゆる

が、そのほかの者の目には、ただ奇異なる対照が映るばかり、試合と同時に鳴りこそしずめているが、肚では、新九郎の余りに己れを知らぬ振舞を憎み、覚束ない初太刀の構えを
「エーイッ」
「ヤッ! えやッ」
と新九郎が必死の気当返し、ここに自斎を倒さなければ、何の面目、何の生甲斐、何の男ぞ! という気組み。
と――鐘巻自斎の木剣の
「行くな――」
と誰の眼にも怖ろしい予察が
真ッ向、自斎の木剣が
円を描いた双手のうちから、いよいよ、

「ああ
思わず舌を巻いて驚嘆したのである。けれど自斎がこう考えるほど、彼には余裕があって、新九郎には余裕がない。やはり修行の差は争われぬもので、彼の五体は大山の前の小石の如くであった。しかし、大岳のような自斎の眼から見て、唯一ツの光りが歴々とあったというのは、怖ろしい天才の閃き! それであった。
「はッ……」
その時、思わず新九郎が洩らした気息の乱れ、木剣の
「エーイッ」
二度目の気合をうけると、彼はまだ一太刀の
あわれや、眼も血走ってくる。
「無念!」
「お!」
自斎の眼にとまった一点の露。それは必死無念の新九郎の瞼にかすかに泛かんできた涙だった。あるいはそれ、血か肉かも知れない。
武士が剣をとって敵と会いながら、まつ毛に泛かす涙! 自斎が思わず、
「おお」
と叫んだのも道理、これほど悲壮なる涙はない。
「かくまでに無念と思いつめている大願の試合をむざと打ち込んでしまうのは余りに
と自斎は
「いや、そうでない!」
と考え直し、
「
自斎は咄嗟の間に固く信じた。同時に、グイと伸びかかった
「エエイッ!」
切羽詰まった危機に立った時、初めて、春日新九郎の唇から、死身になった気合が出た。その怖るべき念力には、さすがの自斎も思わず、打ち込みの機を
「ちッ、ちッ、ちッ!」
と、唇を噛み破りながらのめり込んだ。あッと見る間に、その頭上へ
「未熟者めッ!」
狙いすました自斎の木剣が、あやまたず新九郎の肩先へピシリとふり下ろされた。
「あッ」
と腰をくだいた新九郎は、再び強情に刎ね起きようとしたが、その先に、またもや激しい木剣の
「出しゃばり者の
「片腹痛い身のほど知らずめ」
「いやよい気味だ、よい見せしめじゃ」
鐘巻自斎が小野忠雄の門から
「おい新九郎。おい!」
と、
「おお梶様でございましたか、面目次第もござりませぬ」
と、彼の足もとに両手をついた。
「ばか野郎!」
新左衛門の面罵は例に依って痛烈、更に
「貴様ばかりは、多少見込みのある奴と思っていたが、いやはや呆れ果てた
「ご立腹はさることながら、それには段々と深い仔細があることでござります」
「黙れ黙れ。多くの先輩をないがしろに致したさえ、言語に絶えた僭越。その上に小野派一門の恥さらしを致しおって何言い訳がある。
「この新九郎が短慮の罪は、幾重にもおゆるしの程を……」
「その
「えッあの破門でござりますと?」
「おお見せしめのため破門いたす。たッた今道場を出て
「あ!」
絶望の底へつきのめされた新九郎は、くらくらと暗い
「梶様、お願いでござります。新左衛門様ッ」
新九郎は不浄門の
「梶様! 新左衛門様! どうぞ先生にもう一度のお取りなしを願いまする。新九郎が一生のお願い、これからは必ずとも道場の掟を守り、血気に
と、声を
彼は茫然とそこに立ち暮れていた。すると、
「もし、新九郎様じゃごぜえませんか」
不意に肩を叩いて云った者がある。びっくりして振り顧って見ると、一文字の笠に道中合羽、わらじ脚絆という
「はて、誰方でござりましたかの?」
「こんな
「おう、ご両所であったか」
新九郎は二人の笠の
「まことにしばらくでござった、拙者もここの道場へ入って以来、
「じゃ貴方は、この道場の外のことは、今日まで何もご存じないのでございますか」
「と申されるのは、何か異変でもござりましたか」
「新九郎様、生不動の親分は、もうこの世の人じゃありませんぜ」
「えッ、あの丈夫な与兵衛殿が?」
「いくら達者な親分でも、
「ところが、面目次第もない話でござるが、拙者は今日限りこの道場から破門をうけました……」
新九郎は悄然として云った。そして、
いつか夕暮となっていた。
「あ、いけねえ、道を曲がろうぜ」
「どうしたんだ」
とせいたかが笠のつばを押さえて前後を見廻した。
「笊組の用心棒金井一角と二、三人の三下が
「そいつあまずいや」
二人ともプイと左の坂道を急ぎ足に
「新九郎様、ここで腹拵えをしながら、ゆっくりお話しいたしましょう」
グングン先へ入ってしまった。
「お連れ様、どうぞお上がり下さいまし」
女の声にせかれて、馴れない場所へ
「さア
と蓮見茶屋の女は、手を取らんばかりにして、新九郎を奥へ誘い入れた。通された小座敷へは、やがて酒や肴が運ばれて来る。せいたかは頃合を待って、
「姐さん、用があったらこっちで手を叩くから、済まねえがちょっと
と酌の女を追いやってから、
「さて、新九郎様、今日思いがけなくお互いが落ち合ったのは全く親分のお引合わせだと思いやす。生不動
「こんがらからもこの通り、折入ってお願い申しやす。それにゃあ
と二人が酒を酌みながら、

去年の春の暮であった。生不動与兵衛は乾分の並木の駒吉とじゃばらの百介を連れて、大和巡りの旅に出た。と聞いた笊組の
「与兵衛を討つのはこの
と意気込んで密かに江戸を立ち、見え隠れに前の三人を
しかし、さすがに江戸で生不動と云われている程の与兵衛には、道中五分の隙もないので、久八も十左も手を出すことが出来ない。そして東海道をうかうかと
「駄目だ、どうしても
荒神の十左は根が尽きてここから、引き返そうと云いだした。ところへ、町をぶらついて来た一人の乾分が、思いがけない味方を引き込んで来た。それは、投げ槍の小六、大月玄蕃、金井一角の三人、お延も一緒についていた。
この四人は、浅草
「江戸へ帰ったら、生不動の縄張を譲って、一方の親分株を持たせるから、一つ俺たちに
それから十日ほど後、江戸に残っていたこんがらとせいたかは、石薬師の
宿役人の調書や、桑名の宿屋から聞き出したことなどで、下手人の見当はすぐついた。こんがらとせいたかは親分乾分三人を
それも
「せいたか、聞けば江戸表の方じゃ、笊組に肩を持っていた町奉行の朝倉石見守が代替りになって、今度あ石垣左近将監様のお係りになったそうじゃねえか」
とこんがらが云いだした。
「む、そんな噂も聞いたなあ」
「もう親分の一年忌も済み、笊組の奴等もすッかり油断している頃合だ。ぽつぽつ江戸へ帰って様子を見ちゃどうだろう」
「俺も考える度に腕が
二人はすぐ旅の支度にかかった。そして秩父の在から川越街道を経て、ちょうど、今日江戸へ入ったところ――、偶然にも春日新九郎に出会ったのであった。
「新九郎様、飛んだ長物語を致しましたが、訳というなあそうした次第でございます」
こんがらは話し終って、冷たくなった盃をグイと乾した。
「江戸の近くへ来て様子を探りゃ、今では生不動の
「いや
腕ぐみから顔をあげて、彼はきッぱりこう云った。与兵衛からうけた恩義を思えば、こう云うのが当然である、何の
「そのご返辞を聞いて、
せいたか藤兵衛は手を叩いて、酒の代りを呼び、女たちにいいつけて、しきりに新九郎へ盃をすすめた。けれど彼は生来の酒嫌い、またこうした遊蕩な場所にも馴れず、破門の一条も胸につかえているので、心の暗鬱が一層それを親しませなかった。と、顔色を読んだこんがら重兵衛は、
「世間は広うございますぜ、小野派ばかりが剣術の
「それはそうだ!」
新九郎の境遇が、町奴一流の言葉を不思議に真理の如く聞いた。
「拙者は余り処世にも気の持ちようにも
と思い直して、二つ三つ盃を唇につけだした。
ここに初めて、酒の味を知った新九郎に、不思議や酒の味は甘かった。
「酒も好いもの!」
と、吾にもあらず呟いた。と、その時、ばたばたと梯子を上がって来た茶屋の女が、
「あのうお客様。唯今八、九人づれのお方が、案内も待たないで上がってしまいましたが、本当にこちら様のお
「おいおい、俺たちにそんな
「でもお止め申している間に……あらッ!」
女が飛び出す途端に、のッそり部屋の入口から中をのぞいた一人の男。こんがらはいきなり、
「やッ、てめえは笊組の三下だな!」
杯洗をとって素迅くその影へ投げつけた。ザッと座敷一面に散った水玉と共に、フッと行燈の灯が消える。同時に闇にあたってガチャン! と瀬戸物の砕ける音。
部屋の外に立った男は、飛んできた杯洗をかわしながら、後ろへ手を振って、
「
と大声を上げた。
「それ踏ン込め」
合図に応じて、次の間の襖を蹴破るが早いか、いきなりそこへ斬り込んできた笊組のあぶれ者。女たちは仰天してきゃッと悲鳴を上げながら
「せいたか! 油断するなッ」
「
二人とも脇差をギラリと抜いて、部屋の左右へ飛び別れ、真ッ先に飛び込んで来た者をただ一太刀に斬り下げ、ドッと廊下へ飛び出す。そこで、物凄い音が、二ツに分れて斬り合いながら、
「えい、いつまで手間を取っていやがる。どれ一つ
その時まで、柱の蔭に立って指図をしていた一人の浪人者は、呟きながら大刀の鞘を払って、ノッソリ、倒れた襖を踏んで新九郎の目の前を通り過ぎた。
「や!」
新九郎は思わず息をのんだ。金井一角だ。まぎれもない影! やり過ごして四、五尺。
「エエイッ」
と抜き討ちに足元へ払いつけた。
「あッ!」
一角は
「やッてめえは春日新九郎だな!」
たかの知れた奴と、咄嗟に見くびった金井一角は、足に受けた初太刀の傷を忘れて、猛然と刎ね起き、
「この青二才め」
と奮念の大刀鋭く斬りつけた。
しかし、今の新九郎は、彼が知っていた頃の春日新九郎とは、一段腕前が違っていた。その理由を知らない金井一角は、初めから、手間暇とらずに真っ二つと自信しているが、一、二合火花を散らすうちに、案に相違した相手の太刀風。ともすると受身になる。
「己れ! こんな奴に!」
歯噛みをして、憤怒の形相もの凄く、秘術を尽くして
「こんな筈はない! こんな筈はない!」
一角は幾度も心のうちで絶叫したが、事実、息もつかせず捲くし立ってくる太刀風をどうしようもなかった。
もう後ろは廊下のどん詰り、前には息さえ乱れぬ新九郎の太刀。ここ、切羽詰まった金井一角は、隙を見て、いきなり屋根の上へ飛び出し、隣り境の塀から
「待てッ」
つづいて新九郎も、血刀を
「卑怯な奴、金井一角待て!」
地へ足をつけるが早いか、新九郎は大刀を片手に振りかぶって、一角の影をグルグル追い廻した。庭は広いが、逃げ口に戸惑いした金井一角は、捨て身になって踏み止まった。
「うぬッ!」
吠えるように叫んだ死にもの狂い。初めの勢いよりは一段鋭さを増して、縦横無尽に暴れて来た。それを綾なす新九郎は、自分でも不思議なほど楽だった。こう来るな、こう
「えいッ――」
と気合鋭く
「むウ……」
返り血を浴びたまま、新九郎は吾を忘れて
「不思議ではない、拙者はこれだけに上達したのだ、小野派の門で苦しんだ光が初めて現れたのだ……」
と思った時、彼はつつみ切れない歓喜に思わずニタリと微笑んだ。
梅茶亭の
すると、
「おい、お若い侍、ちょっと用があるから待ちなせい」
と
「用があると云われるのは拙者のことか」
「そうだ」
銀の総髪は、やおら縁端へ出て来て庭下駄を突っかけ、黄金
「若いの。お
奇怪な老翁は怖ろしい横柄な言葉づかい。新九郎は、むッとした。金井一角を見事に斬った自信力は、かなり彼の意気を強くしている。
「拙者の名を問うなら、まず
と昂然と云ってのけた。
「ふふん……」
銀の髯は小憎い笑いを洩らして、
「聞かしてやろう。俺は赤坂氷川下に巣をくってる、深見重左衛門、この髯を異名にして、髯の重左ともいう男だ。青二才、てめえはなんと
「春日新九郎と申す者じゃ。したが、何の
「春日新九郎? ……聞いたこともない奴。その
「先生、駕が参ったそうでござります」
そこへ一人の侍が告げてきた。
「もう来たか。じたばたしないうちに、この青二才を先に
深見重左衛門の
「若いにしちゃあ覚悟がよいわい」
深見重左衛門も別な一挺へどッしりと乗る。ポンと肩を入れる

「氷川下じゃ、急げよ」
何となくものものしい声。駕屋は、
「合点です!」
とばかり、御成街道の月を踏んで急ぎだした。
山手組の武家侠客。寺西閑心と並んで
既に今も、新九郎の一命を乗せて、怖ろしい
×
ぽん、ぽん、ぽん……手を叩く音がする。柔らかい肉の音だ。女中の返辞が長く通る――するすると、奥の部屋から橋がかりの
今、深見重左が立ち去った所と、背中合せの棟であった。
「お呼びなされましたか」
「先程頼んでおいたお駕と使いの者は?」
「はい、ちょうどただ今参りました。お支度がよければいつでも宜しゅうござります」
「では、別に誂えましたお料理の方も……」
「はい、相違なく、後からお屋敷へお届け申します」
「
「畏まりました」
女中は、扱い馴れぬ手紙に目をみはりながらそこを
「
さやかな絹ずれの音と共に立ち上がった様子。見れば、灯影を横にすッきり立った雪の姿は、まぎれもない
白鷺の白さをあざむく
帰り支度を取り仕切った老女の水瀬は、もう一人の腰元と共に、部屋の戸口に手をつかえて、
「さ、お越し遊ばしませ……」
御方はただ頷いて、ススススと、橋がかりの
駕も、町の四つ手とは違って立派な女駕。それが三挺、一同の送り言葉を後にしてゆるゆると三橋の方へ指して行った。すると間もなく、御方の駕の中で、扇子と
「これ駕の者――」と声をかけ、
「にわかに御方様がお急ぎの用を思い出してじゃ。この御成道を真ッ直ぐに、小川町から牛ヶ淵の方角へ息もつかずに急いでくりゃれ」
「でも余りお駕が揺れましては」
「大事ない――」
と、今度は、御方自身が後の言葉をついで、
「どのように揺れようとも会釈は要らぬ。そして、先に七、八人の侍が行く影を見やったら、猶予なく追い着いて、その駕の棒を、先方の群へぶつけるのじゃ」
「えッ……」
駕の者は、思わず足を
「ホホホホホホ。何を
「へい、では一息にやッつけましょう」
「おお飛ぶように急いでたもれ。褒美は寮へ戻った上、存分に遣わしましょうぞ」
言葉が切れると一緒に、駕は
声と足と息杖の
見る間に、神田川の
「まだか! まだ追い着かぬか。駕の者たちは何していやるのじゃ、御成街道で四、五町ほどの隔てしかなかった先の群へ、いつまで意気地なく駈け寄れぬのじゃ!」
これは
ましてや、彼の群へこの女乗物の棒先を突ッかけろ、というような、御方の注文はすこぶる至難だ。それに引き
と、変はいつも不測な所から起る。――後ろから来る御方の喧嘩仕掛けより早く、不意に足もとの物蔭から、バラバラバラッと躍り出した二人の男が、いきなり深見重左の駕先を押し返し、ただ事ならぬ勢いで、
「待てッ」
「駕を下ろせッ」
と叫んで突ッ立った。
「何だと!」
さなきだに殺気立っている黒装束の九人は、それと見るが早いか、新九郎の警固を離れて、そこへ駈け寄って来るなり各

「
「この月明りに誰も知る山手組の面々が眼に入らぬか」
「氷川下の深見重左先生。このお駕に指触れて見ろ、その分にはさし置かんぞ」
すわと云えば、八面乱刀、
「おおその氷川下に用はねえが、二番目の駕に急用があるんだ」
「春日新九郎の駕を俺たちに渡して通れ」
「
云わせも果てず黒装束の一人が
「こっちに
と云う下から他の者も、
「そういう貴様たちは何者だ、次第によっては腕ずくで渡してやろう」
と
「む、
「素町人の大言壮語は片腹痛い。
「洒落たことを吐かすな。こう見えてもこんがら重兵衛の
「せいたか藤兵衛が命限り根かぎり
云うが早いか、抜き
「それッ二人ばかりの素町人、片づけるに手間暇が
抜きつれ抜きつれ、こんがらの前後、せいたかの左右から、
「や? ――」
その騒ぎに、ふと眼を
「お、あの声はこんがらとせいたかだ。さては拙者が梅茶亭を出るのを見て、逸早く先廻りして助け出そうという心底? ――」
かりそめの誓いを
「あッ」
振り顧った黒装束は、ピュッと
「新九郎が出たぞッ、後ろを気をつけろ」
と絶叫しつつ、真ッ赤な顔を押えて仰向けにぶっ倒れた。
「若蔵ッ――」
鋭い一喝と共に、片足をパッとすくい上げられた。彼は思わず、とん、とん、と後ろずさりによろめくと、そこへぬッくと駕の垂れをはねて、眼の前に現われた白髯の老武家侠客があった。即ち、深見重左衛門。
針を植えたような眉の蔭から、

「おい
ピタリ新九郎の胸元へ突きつけて来たのは、剣にあらず槍にあらず、ただ一本の竹の細杖。
しかも刃もなく、
「はッ」
と気魂を吹き込まれると、剣気村正の如く、王義明致流の秘妙を脈々と伝えて敵へ迫ってくる。新九郎は、真剣の
「うぬ!」
彼の
「エエーイッ」
いきなり深見重左の鼻柱へ、鍔も届けよと飛びかかった。が、同時にツイと引かれた竹杖が、怪しくも虚空にブーンと鳴って、よろけ込んだ春日新九郎の背中へ、

「やッ」
と重左の気合が竹杖にかかって、太刀はガラリと
「新九郎、取って来い!」
「何ッ」
五体に
「わッ――」
という駕方の
続いて後の二

「おお皆の者、無用な血を浴びて
御方の真白い手に、懐剣の緋房がハラリと解ける。声はりんりんと
「あ、何者? ――」
と、さすが向う見ずな、山手組もせいたかも、
「黙らッせい。どこの女中共かは知らぬが、
「それ程気の小さい
「何、梅茶亭からこの重左を追って来たと?」
「そうじゃ、妾の邸に召使う若侍へ、無理難題を云いかけて連れ去ったゆえ、それを取り戻そうため追い着いて参ったのじゃ。
「返せとは誰を?」
「春日新九郎を――」
「あ、あなたは?」
とその時御方の面をさしのぞいて叫んだ新九郎は思わずいつかのことを口走るところであったが、御方のあわただしい

「たわけたことを云わっせい。余人ならば知らぬこと、山手武家侠客の総元締をする重左が、そんな甘い女のけれんに乗るものか、春日新九郎の体が欲しくば、日を改めて氷川下の邸へ自身で推参しろ、その時は生首か骨ぐらいは
「では飽くまで妾の家来を帰さぬと云いやるのじゃな」
「知れたことだわ!」
一喝に突ッ刎ねたのはまだいいが、例の杖がそれと共に、御方の玉の
新九郎はその刹那に、ゾッと寒くなるような驚異に
「ホホホホホホホ、これが山手組の武家
「うぬ、よくも存分にこの重左を罵ったな」
「いいえの、もういつまで
「ならぬッ。こうなれば山手組の意地としても、
「おお何とでも沢山吠えやい、好きに意気地を張って見やいの。やがてすべてを裁いて下さるお上のお手先が程なくここへ来るであろうから」
「な、何だと?」
さすが
御方の言葉が終ると一緒に、思わず八方を見廻した六人の黒装束が、
「や、や、や! あの物音」
愕然と居所を失って
梅茶亭を出る前に、使いに
「まだ間があるッ、その暇に
と喝令して、自分も細竹の杖を投げ捨てざま、銀造りの強刀をギラリと抜いて、
「女ッ動くまいッ!」
と、まず御方の真ッ向へさっと一太刀見舞って行った。
「無礼しやるなッ」
丹花の唇を洩れた御方の威ある声音。カラリッと受けはずした懐剣の鮮やかさ。
「新九郎も油断しやるなッ」
「おおッ」
躍りかかった重左の横わき、新九郎の小野派鍛えの太刀風もあなどりがたく切りつけた。同時に老女の水瀬、
と――もうそこへ乗りつけて来た騎馬与力と同心三名が、この
「それッ、
と声を励まして二、三十名の捕手をドッと乱入させた。承応の江戸中侠客狩り以来、いまだに残るところの武家侠客や町奴の輩で、横行見るに忍びぬ者がある時は、
「覚えていろ! この返報はきっと思い知らしてやる」
と
「それへ来やったのは渡辺か村越か」
と訊ねた。新九郎はまたしても愕かされた。それはまったく上役人へ対するような言葉ではない。だのに馬上の与力は無礼
「は、お役詰の当番小田切千助でござります」
「大儀であった。山手組の
「しかし、とかく物騒の絶えませぬこの頃、殊に夜中のお出ましは相成るべくはお控え願いとう存じまする」
と千助は釘を差すように云った。
「いつも事々に世話をやかせて気の毒じゃのう。これからはちと慎みましょうわい。ホホホホホ。のう新九郎様、ちょうどよい駕が明いてある。これへ乗ってとにかく今宵は
「でもそれは……」
彼は遠慮ともつかずただ一応だけの生返辞をしたが、内心では、すくなからず御方の振舞に好奇心を抱き、この
「と仰っしゃっても、一度は嫌でもお越し遊ばさねばなるまいが。それいつか、妾の愛刀をお身様に渡し、新九郎様の
「ではご免を――」
与力の小田切千助が、それを
「あッ」
と叫んで、捕手の列に向って走り出そうとすると、御方の手は素早く
「何も騒ぐことはござりませぬわいの。ここはどうあれ、
捕手の列の中には、乱闘に
小野宗家を破門され、生不動には死なれ、さし当ッて
けれど御方は、あれ程手をくだいて新九郎を寮へ連れて来ながら、彼を綺羅な一室に
新九郎は何だかそれが物足らなくなった。ある日は無性に悩ましく、ある夜は燃えるように御方の白い肌が恋しかった。その
人の飲む酒の香を嗅いでも、眉を
「なあに、酒を呑んでも大望さえ立派に成し遂げれば悪いことはあるまい。大月玄蕃を一刀両断に鐘巻自斎を一本打ち込みさえすれば文句のないことだ……」
酔後には独り云い訳のように
「はてな……」
彼はそれをジッとみつめた。そして何を耳にとめたか。
「男の声だ、この寮には拙者の他に男気のない筈だが……」
と呟きながら、ふらふらと庭下駄を突っかけて、植込みの蔭から蔭へ忍んで行った。
「おおたしかに男の声がする、それに御方もいるらしい……」
新九郎の胸さきへ、むらむらと怪しい
「ではどう遊ばしても、
「今も申した通りじゃ。中仙道を勧進に廻った甲賀房と河内房の二人が、間もなくここへ訪ねて落ち合う約束、さすれば、嫌でも一先ずお暇申さねば相成らぬ」
「まあ何という
と
「あッ、誰かいる――」
と窓の方を振り顧った。その顔! おおその
「大円鏡智流刀杖指南、聖護院印可覚明」
という大看板をかけた、武芸者鬼門の荒道場と云われた修験道場の
新九郎は飛ぶように自分の部屋へ帰って来た。そして、何の縁故で覚明がここにいるのか、御方の
「よし、今度御方と顔を合せたら、必ずその本体をあばいてくれよう――」
心密かに待ち設けていると、ちょうどそれから四日目の夜であった。新九郎は夕方六、七合の酒を過ごして、ややいつもより赤い顔をしているところへ、御方の衣ずれが爽やかに鳴って、春のような笑い声を先に、
「新九郎様、やっと奉行所から
と、いつもながら
「御方――」
とその袖をとらえてきっと見上げた。今日こそ酒の勢いで、この
「ちとお訊ね申したい儀がござる。お差しつかえなくば、今宵はここでゆるゆるとお話が願いたい」
「まあにわかに改まって何事でござりますかいの……。して、妾にお訊き遊ばしたいとは?」
「他でもない、御方の素性を打ち明けて欲しゅうござる。この新九郎には
「何かと思えばおやすいお訊ねじゃ。したが新九郎様、妾の素性や菖蒲の寮の内幕を知った上で、お身様は卑怯に逃げて行くようなことはござりますまいの? ……」
御方の
「拙者も武士じゃ、お前様の秘密を知った上で、裏切るようなことはきっと致さぬ」
彼も昂然とそう云わない訳には行かなかった。
御方は満足らしく
小袖に着けてある
彼女は下冷泉家の息女第一の姉姫で、実の名は

その結果、当然妹の通子が選ばれて、行装美々しく江戸表へ向った。将軍家づきの御中

それに
御方は、財宝の
御方はそれを洩れ聞くと共に、
「では、どう遊ばしても、京都へお戻りなさらぬお心でござりますか?」
妹のお通の方は、突然場所もあろうに大奥へ訪ねて来た姉を迎えて心配そうに訊くのだった。
「嫌じゃ、たとえどのような事があろうと、二度と京へ帰る心はない。それに、妾の気持が江戸の町にも合っている。ここで気儘気楽に世を送りたいのじゃ、何とかよいように計らって
「お身の上をお察しすれば、そのお心持もご無理とは思いませぬ……。ま、ご心配遊ばしますな、及ばずながら通子が何とかお力になりましょう程に」
そう云っておいて、お通の方は姉の身の振り方を家綱に頼んだのである。
堂上の姫で、
殊に御表の役人や諸大名は、大奥の人々へ先ずもって名を知られるのが出世の大事であったので菖蒲の寮の御方が、お通の方の姉君であると知ると、何かと門前へ取り入って来た。為に、要路の人々へも御方の羽振りが
新九郎の抱いていたすべての疑惑はこれで氷解した。
が――まだ一つ残っているものがある。それは
「ではお前様は、いつかあの男のいるのを
「いかにも見受けました。
と新九郎もきッぱり云って御方の瞳をみつめた。
「や、どうしてそれまでのことをお知りなされているのじゃ」
「いや、それより御方と何のご縁故でござるか、まずもって先に承り申そう」
彼も容易に
「どこまでそれをお知り遊ばしたいのでございますか?」
と澄んだる水の如く云った。
「おお知らいでは都合の悪いことでござるゆえ」
「それは?」
「
と新九郎は早口に、彼のため忘るべからざる辱しめを受けている仔細を話し、
「巡り会わねば知らぬこと、覚明の姿を見てはそのままには致しおけぬ、昔は知らず、どうやら鍛えた新九郎の腕前のほどを思い知らしてくれねばならぬ」
「なるほど、それは果し状をつける値打がござりますわいの、及ばずながら、
「して、御方と覚明とのお
「何の仔細がありますものか、あれは妾がほんの当座のなぐさみ者、
「えッ?」
新九郎は脳天を
「淫魔だ! ここは怖ろしい妖花が男の生血を
と、気のついた時は、新九郎の体も
御方は、放胆に
「おどろくことはない。お前様はもう女を知らぬ男ではないのですぞえ。初めてこの寮で体を養生なされていた頃、妾が一念で摺り変えた眠り薬を、それとも知らずに飲んで夜な夜な深い夢をご
「あ? ――」
新九郎は息づまるような声を思わず
「その夢がどんな夢であったか、思い出すことがござりますかの? ……」
おおそう云えばあの頃、熱に浮かされたような怪しい悪夢の薄ら覚えがあるようでもある。ああ、ではその幻の裡に――と思うと彼の全身は
「ああ怖い顔、そのように睨んでは嫌じゃ、止めて、やめて……」
と云いながら、御方はいきなりフッと
「怒ったのでござりますかえ? ゆるして
「畜生! 悪魔!
刎ね飛ばそうとする新九郎の悶え。
「おお、妾は夜叉じゃ、恋の夜叉じゃ!」
恋に狂うた女と、
翌日、二人の修験者が、菖蒲の寮の
「おお待ち兼ねていた。中仙道の方の金寄りの工合はどうであったな」
「今年はあの地方の
と甲賀房、河内房の二人が、
「して大先生の方の受持はどうでござりますな」
「されば、ほかの所はやはり思うように参らぬが、唯一軒、ここという金のなる木があるのでな……まずザッとこれ程じゃ」
と
「え、御方一人で五百両のご寄進でござるか」
「さればよ、覚明の腕で取るのじゃ……」
と
「あああ、さては
と胸に頷き合った。
光子の御方が、京都綾小路の有名な剣客、長谷川宗喜から、小太刀の妙髄をうけたと評判のあった頃、ある行き懸りから大円房覚明の道場へ手合せに来たことがある。その時、覚明は例の不可思議な戒刀の秘術をふって、光子の御方を悶絶させた。のみならず、後の介抱に事寄せて、御方の体を自由にした。ということを、この二人だけが薄々知っていた。
「覚明様、
そこへ不意に、御方の声が障子の外でしたので、覚明は慌てて金を隠し、居ざんまいを直した。
「さ、何のご遠慮が要りましょうぞ」
「お身様たちの立ち際に、不意な用ができましたのじゃ」
御方は開けた
「妾にはとんと
「はて、何事でござろうか? ……」
覚明は御方の手から渡された一通の書面を手にして、眼を落すと共に、さっと顔色が変った。
「果し状――」
「え、果し状?」
と、甲賀房、河内房の二人も側から顔をのぞかせた。
「や、春日新九郎という奴からじゃ?」
「御方、このような者はとんと拙者の記憶にござらぬが、何ぞ人違いではあるまいか」
「いや、たしかに覚明様を見届けての上と云い張って、あれ、既にあすこの庭先――広芝の真ん中に鯉口切って待っているのじゃ」
「
「おお、造作のないこと。では久し振りに、
やおら、
「おお覚明!」
その姿を見るが早いか、南縁の
新九郎はこの寮へ来てから、髪も伸びるままにしていたのを、今朝、御方が鏡台を出して、前を五分月代に、後ろの切下げを折り
「おお、この
言葉もズッと砕けて、新九郎の顔へ自分の顔を摺り寄せて鏡に映した。そして、
「さ、長い間の
とすっかり手入れの出来た
「あはッはははは」
覚明は彼を睥睨していきなり笑い出した。
「この覚明に果し状をつける程の奴、余程腕に、覚えのある者かと思った。汝は三、四年前に、拙者の道場で打ちのめされた腰抜け侍だな」
「おお、その腰抜け侍の新九郎が、改めての返報だ。果し状は伊達にはつけぬぞ……」
「
「洒落たことを! さッ、そっちに馬鹿な面をしている柿色の虫けらどもも、束になってかかッて来い」
姿のせいで口調がそう響くか、ここにわかにキビキビとした新九郎の浪人伝法。名乗りを気合に、抜き渡した一刀は、
この勝負、何と見るか、御方は長縁にあってニタリと薄ら笑みを洩らした。
指を切った僅かな血にも、女ばかりは
「ああ危ない、今にも新九郎様がただ一太刀に斬り下げられてしまいそうな……」
「いくら意気地の上と云いながら、鬼のような、あの大円房を対手に廻すとは余りな無法」
「どうにかして今のうちに、引き分ける工夫はないか……」
などと、侍女たちの黄菊白菊、白刃を見ただけでもう
その中に囲まれながら、
その時、大円房覚明は、
「おおウッ」
と、
「来たれ――」
と、既に心得ていたらしい新九郎の片はずし。流電の剣を横に払って、太刀風鋭く、小野派乱行の斬り返し、
「えいッ、えいッ、えやッ」
息もつかせず大円房を追いつめた。が、彼は、
「
くらいに思ってか、少しも慌てず、虚実、鮮やかに受け払って、最後に、新九郎の疲れを待つらしい、老獪場馴れの曲者。
「新九郎! もう汝の
一声、浴びせかけた
「見ろ、さすがは大先生。それに引き更えて、あの素浪人のしどろもどろの
覚明の後ろに控えていた二人の弟子山伏は、聞こえよがしに云い放った。
侍女たちは色を失う。御方ならずとも、美男の方に勝たせたいと祈る女の心理は一つらしい。が――勝負の形勢は、ここ逆転して、今にも危うく見えたのは新九郎の命。
彼の剣はただ火だ。熱がある。気が
そこへ、得たりと、踏み込んで、
「この一刀が受けられるものなら受けて見ろ」
たしかに、
「あッ!」
唐竹割りとなったか。避けんとして
大円房は、元より鏡智流の達人、天下無敵と称して世に
「わッ」
と一声、
「いざ、そこに残る木ッ葉ども、師の仇と思わばすぐ続いて来い!」
甲賀房と河内房の二人に、ピタリと剣尖を向け直すと、二人は意外の余り度を失ったか、抜き連れても来ず、バラバラと庭先から駈け出し、
「新九郎様、お見事でござりましたこと……」
御方は、すぐ庭下駄を
「お欣び下さい。まずこの通り討ち止めてござります」
「そりゃ、誰の
「え、誰の刃でとは?」
「ホホホホホホ。お前様が、捨身で足を払った前に、
御方は笑いながら、微かにぴくぴくしている大円房の側へ寄って、死骸の脇腹に突っ立っていた一本の懐剣を引き抜き、
「あ……」
と、呆れ顔の新九郎へ、声を低めて
「恋の助太刀……恋の助太刀でござりますぞ。これで妾は、お前様を
「御方様」
間近にくる
「何じゃ」
「こんがらにせいたかとか申す者が、新九郎様はこちらかと訪ねておいでになりました」
「おお、折よく二人も奉行所からゆるされて来たと見える。果し合いの勝祝いじゃ。新九郎様、眺めのよいむこうの部屋でこんがらやせいたかも寄せて、ゆるりと
また今日も、新九郎の一日は、御方の甘い
ここ、めきめきと、江戸
品が好くて、腕が冴えている、というところから、異名が通ったものらしい御曹子――それは春日新九郎だった。
「天才ほどあてにならないものはない」と世人は云う。けれど本当は、「世に天才ほど怖ろしいものはない」という方が至当らしい。独り剣道のみならず、画家であれ、彫刻師であれ、大工であれ、商人であれ、学者であれ、その天稟をうけた者ほど、一面、悪い方へ転落すると、はてしもない奈落へ墜ちる。
寮の御方の手にかかってから、新九郎の心持はどうやら、その悪い方向へ、急転直下に変りはじめた。
その為に、御方は前にも、随分手をくだいたが、近頃は、こんがらとせいたかが寮へ舞い込んで来たのを幸いに、屋敷の中へ遊侠の徒を出入りさせ、新九郎に伊達寛達な風をすすめて、
女、金、酒、そのどれ一つにも淋しからず、寮にあれば酒肉の快楽、伊達姿で歩けば衆目に見迎えられ、道場破り、果し合いに顔を売るほど、御曹子の親分親分と立てられる気持は悪くない。
今では、自身でそれを得意とするほど、新九郎の心も姿も境遇もグングン堕落して行った。ここ僅か半年ばかりで、彼はまったく変り果てた人間になった。
怖ろしいものは、青春の道に
それにしても、義理の助剣に、不自由な足を引摺る彼の兄重蔵と、薄倖な千浪とは、いつまで、この頼み甲斐ない人情の浮世小路に、
×
「御曹子の親分、この通り、
と、眼を血走らせているのは
「どうしたッてんです。御曹子の親分ともある者が、嫌に今夜は渋るじゃありませんか。ようがすか勝負」
「待て――」
新九郎は慌てて胴元の手を押え、
「実あ、まだ二百両ぐらいはある気で、半肩へ声をかけたが、いつの間にかすっかり
「
「む……」
と、真から困った
何と云っても、こんな社会に日の浅い新九郎は、どこか
「場所が白けら、おい、早くどうにかしてくんねえ。伏せた
「この一番は拙者が悪かった。どうか勘弁してくれい」
「笑わしちゃいけねえ、勘弁で済むくらいなら、はじめからガミガミ云やあしねえんだ。お、お前の大小を金のかた代りに張りねえ」
「さ、こればかりは……」
さすがの新九郎も、武士の魂を賭場の駒がわりにするまで性根が腐っていないらしい。が、胴元も張手も、こっちの足もとを見抜けば見抜くほど、
「皆さん、ちょっとご免なさいまし」
場が白けているところへ、隣り部屋から女の声がして、スッと中の仕切戸が開いた。
「おお、姐御でしたか――」
「大層話が難かしそうですね……」
と、ふわりとそこへ立膝で坐った
「女の出る幕じゃないけれど、いつまでない袖を振れの何のと云っていたところで、どうなるもんじゃありゃしない。五十両のかたは、私がこのお方に貸すとするから、綺麗に勝負して見たらよいじゃないか」
「え、姐御が、御曹子へ貸すって云うのか」
「あい、それで不足はないだろう」
帯の間から、器用にポンと投げ出した五十両の封金。
「勝負」
俄に活気づいて、胴元が壺を開けると、賽は皮肉、押売りされた新九郎の方へ目が出て、彼はホッと危地を
「やや今の女は? ……」
そこで初めて、吾にかえったように、あたりを見たが、不思議な
百両の金を掴んで、紀州部屋を出た新九郎が、今の女にそれを返す
「もし、私を尋ねておいでなさるんじゃありませんか」
と、
「お」
振り顧って見ると、
「見ず知らずの此方に、よく気前よく貸してくれた。元金の五十両は今の返し、後五十両は目の出た金、どうか受け取ってもらいたい」
「おや、改まったご挨拶で痛み入りますね、だが新九郎さん……」
「おお拙者をご存じの方だったか」
「知らなくってどうするものじゃない。お前さんもしばらく見ないうちに、大層頼もしいご
「はて、そういうお前は?」
「お
闇に紛れて、ピッタリ寄り添って来たお延は、五、六年前から、すこしも年をとらないような
「ねえ新九郎さん、御曹子の親分さん……」
「往来中で見っともない。まあこの手を離してくれ」
「あたりは淋しい屋敷町――と云ったところで、何もここで口説こうとは云いませんよ。実のところは、お前さんに一大事を
「何、拙者に一大事を報らせる為?」
「ええ、もしや新九郎さんは、近いうちにこんがらとせいたかの二人を連れて、秩父の
「不思議な。どうしてそんな内輪話まで知っているのだ」
「お前さんも薄々は感づいていましょうけれど、
「では浅草の笊組には、また大月玄蕃だの、投槍などの、悪浪人が、いつか旅から帰って来ているのだな」
「そうですよ。昨夜チラとその悪相談を小耳に挟んだので、どうかしてお前さんに
「よく親切に報らせてくれた。しかし、拙者も御曹子などと云われるまで、身を持ちくずしてしまったが、そのお蔭には、喧嘩斬り合いの場数を踏んで、今じゃあ、玄蕃や小六などに滅多な
「僅かな間に、お前さん程見違えた人はないねえ。ところで、この百両は一体どうする心算?」
「どうもこうもあるものか、そっちで出して目の出た金、黙って
「そんな水臭い量見は、私にゃどうしても持てないから……じゃこうしよう、どうせ拾ったも同様なこの金をないものにして、久し振りに、どこかで飽きるほど遊んでみようじゃないか。と云っても、悪女の深情けでは、そちらが余り気がすすまないだろうけれど……」
「そう云うお前には、確か投げ槍小六という男がついている筈」
「憎らしい。あんな男に心中立てするくらいなら、誰が今みたいなことをわざわざ知らせに来るものかね、ちったあ私の気持を察して下さいな……」
肩を並べた二人の影は、いつか歩くともなく道を
「あ……」
「おや、どうしたんですえ? 真っ蒼な顔をしてさ」
「お延、ありゃ尺八の音じゃないか」
「おおかた、外濠をうろついている、宿なしの虚無僧でしょうよ」
「…………」
新九郎は
「駕に乗ろう、何だか急に寒くなった。拙者は虚無僧の尺八を聞くと、妙に気が
「変な人――」
お延は笑ったが、男が自分の首尾をうけ入れている様子に満足して、いそいそと駕を見つけた。そしてその晩から、二人の姿が、しばらく雉子町辺の遊び風呂屋に隠れた。
が――新九郎の一点の良心は、恐らく彼をして心まで楽しませなかったに相違ない。
まさか、外濠の薄ら寒い夜を、寂しげに吹き迷っている尺八の
「どうだったこんがら、
「さッぱり様子が知れねえから不思議よ。がまあ、上がってからゆっくりの相談としよう……」
菖蒲の寮の裏口、――そこはこの頃、新九郎を中心として、こんがらやせいたかその他雑多な
さりとは、光子の御方ももの好き過ぎるが、京都にいた頃から、自体、そうした遊侠気分、町奴などに伍するようなことが好きな性質とて、女ばかりな寮の一廓を荒くれ男の賭場同様にしても、格別突飛なこととも思わぬらしい。
で、寮の片隅に、母屋とかけ離れた別の一棟、そこが裏口から出入り自由となっている。今も外から帰って来たこんがらの重兵衛は、待ち兼ねていたせいたかと
「おかしいじゃねえか。今日もまる半日、足を
「む、あすこは新九郎さんがよく顔を出す
「五日ほど前の晩に、浅草
「すると兄哥は、この寮のあんな
「よもやとは思うが、元の春日新九郎たあまるで人間が変ってしまった兄哥のことだから……俺にもそいつばかりは保証ができねえ」
「今日もチラと
「そりゃいいとしても、
と、二人は途方に暮れていた。
「今晩は、今晩は――」
折から門で訪ずれる者がある。顔を上げるとあたりはもう
「誰だ」
とせいたかが内から呶鳴ると、
「駕屋でございます。
「扇屋というなあ丹前風呂の扇屋か」
「そうです、お迎えの駕を二挺持って参りましたから、手紙のお二方にすぐ来てくれるようにというお言伝てでごぜえます」
「暢気だなあ、人の気も知らねえで」
とせいたかとこんがらが、使いの手紙を受け取って読み下すと、相違ない新九郎の文字、取り急ぎ相談したい用件があるから、すぐこの駕で来てもらいたいという文意。
尋ねあぐんでいたところなので、二人は猶予なく迎えの駕に乗って扇屋へ急いだ。すると、せいたかとこんがらが出て行った後へ、庭伝いにそっと入って来た人影がある。
ビリッと手紙を裂いて、庭の
姿は細く、肩は円いが、髪は切下げであるし黒小袖に大小の男姿、打ち見たところ、優しい武家という形。
ニヤリと、独りうなずいた御方は、一足おくれて裏口から、こッそり闇の中へ
一方、程もなく、扇屋の門へ着いた二挺の駕。
こんがらとせいたかは、すぐ
「
「おおこんがらにせいたかか、飛んだ苦労をかけて済まなかったが、これにはまた仔細もあること、まあ一杯やりながら聞いてくれ」
さすがに新九郎もやや
「御方様の前へは気咎めがして、一人じゃ帰り難いから、連れて帰ってくれという一件でしょう」
「いくらこの新九郎が腐ったからといって、そう安ッぽく拙者を
「えッ兄哥、そいつはほんとでございますか」
「誰が嘘ッぱちに、こんなことを云うものか。実はふとしたことから、笊組の世話になっていたお延という女に知り合って、そいつが今夜、手筈の首尾をしようというのだ。俄かにお前達に知らせた仔細というのはその為だ」
「俺たちの頼みを、兄哥が忘れずにいてくれたのは
「何故? 今になって
「
「なるほど、その
二人に杯をわけて、新九郎が話し出すところは、云うまでもなく、五年前に彼がお延に恋されて、雨龍の山荘から助け出されたこと。
その後お延が、投げ槍小六と一緒に、
中年の恋が叶って、盲目的となったお延が、じぶんの実意を見せるために、
向うで、奸策を巡らしている裏をかいて、こっちから不意討ちを仕掛けるのは妙だと、新九郎も乗り気になり、お延はその為に、時々浅草へ帰って様子を窺った。そして、今日の昼もちょっと扇屋へ姿を見せて、
「新九郎さん、うまい
と新九郎に囁いて帰ったのだ。
お延が、それまでに打ち込んでいる仔細を話されて、こんがらもせいたかも初めて安心した。そしていよいよ今夜こそ、生不動の仕返しに、笊組の目星い奴等を、
すると――襖一重の隣り座敷に、先刻から耳を澄まして、新九郎の話を
黒の頭巾に黒羽二重の小袖、沈鬱な面を俯向け勝ちに、
しばらくすると
「あら、お客様?」
と、
「いや、別に仔細のない者ばかり、遠慮はいらぬから入るがいい」
と新九郎が中から云うと、
「じゃ、皆さんご免なさい……」
身をすり入れて来たのはお延であった。
少し酒の気があるせいか、五年越しの恋が成就して若い男を持ったがゆえ、俄かに上ッ調子になって来たのか、派手派手しい厚化粧をポッと桜色にさせて、様子もどこか浮き浮きと、
「あの……かまわないかしらねえ……?」
「何を」
「さっきの話さ、私ゃ今夜は落着いていられないんだから」
「あのことなら、ここにいるのは拙者の味方、何も
「ああそうでござんしたか。今笊組の連中が、この先の小桜屋へ五、六人連れで来ているところ……であの首尾を
「忝けない、して人数は? 帰る時刻は」
新九郎を初めこんがらもせいたかも、思わず膝を乗りだした。と――部屋仕切りの唐紙に、サラサラと微かな衣ずれがどこかでしたが、誰もそれとは気づかなかった。
「一座の者は、笊組の臂の久八をはじめ、身内の荒神十左、花笠の源吉、それに大月玄蕃と投げ槍小六が交じっての五人ですが、ちょうど何かの相談があるとやらで、氷川下の髯の重左も、多勢の侍を連れて来ていました」
「や、深見重左も参っていると?」
「ですが、驚くことはありませんよ。その重左の組とは、小桜屋の前で別れて、もう半刻ばかり後に、笊組は柳原土手から浅草見附の方へ帰る様子ですから、ぬからずにその途中で待ち伏せしていておくんなさい、私ゃまたこれから帰って、何喰わぬ顔をして、久八や玄蕃にうんと酒をすすめておくから……」
「よし、じゃ一足先に廻って、
「そこで私が頼んでおくのは、誰を斬り
と、新九郎に眼で含ませて、お延は間もなくその部屋から出て行く様子。
その跫音は一人であるべきに、お延が梯子段を下りると、すぐ、後からまた一人の跫音が、ミシリミシリと静かに下りて行った。
ほかにも、客出入りのある奥二階とて、新九郎と他二人は、格別それに何の疑いも抱かず、最後の杯をやりとりして、いざとばかり、身仕度に勇み立つ。
新九郎は、大円房覚明を斬って、まだ生々しい
扇屋の
「もし、もし、そこへ行くお方」
誰やら、後ろから呼びかける者がある。
「あい、私かえ?」
「いかにも」
側へ寄って来た者を見ると、濡れ烏のように
「何のご用ですえ?」
お延はツンとして云った。
「お手間はとらせぬが、ちとお話し申したい儀があるに依って、しばらく体を貸して下さらぬか」
「見ず知らずのお前さんに、私ゃ何も聞くようなことはございませんよ。それに何だね、話ぐらいなことに体を貸せの何のと……、ちぇッ、いけ好かない人だ」
「不意に申したのでは、お腹立ちも尤もじゃ」
罵られながら、侍は怒りもしないで、なお丁寧に、
「
「えッ……」
お延は胸をギクリとさせたが、また疑わしく思い直して、
「その新九郎さんと、私が懇意だということを、どうしてまたお前さんはご存じなんですえ」
「今し方、扇屋の奥二階でチラとお見受け申したのじゃ。しかし、拙者の口から新九郎殿へ、
「え、女のことで? ……」
お延の眼が、たちまち嫉妬に燃えあがる。侍は呟くように、
「何にせよ、あの
胸に手を入れて案じ顔。
「なるほど、この人混みの中で、立話しのできないのはご尤も、どこへでも参りましょう」
お延は弾んだ声で云った。
「や、では暫時来て下さるか」
「おやすいこと」
「それは忝けない。どこぞ静かな所でさえあれば……」
と侍は人中を縫って、雉子町の横を抜け、紅梅河岸の太田
「急ぎの用を控えているんですから、早く、その……新九郎さんと深い訳のある女とやらの仔細を聞かせて下さいな」
お延は、少し気味悪くもあり、また気も
「その新九郎に深い訳のある女というのは……」
侍は重々しく言葉を濁す。
「ええ、一体その女というのは?」
「その女はな……」
「どこにいる――どんな女でございますかえ?」
「実は、かく申す
「な、な、何ですッて?」
「お延! ようもようもそちは、
「あ――あれッ」
くわッと睨まれた眼のおそろしさに、思わず声を揚げて、バタバタと逃げ出したお延――その後ろへ、豹の如く躍りかかッた覆面の侍は、姿の優しさに似ず、おそろしい手技で、お延を捻じ伏せ、両手を
「こりゃお延! 妾の思いは、後で存分知らしてくりょう程に、しばらくそこで、この先そちが
憎念の語気するどく云い捨てるが早いか、真白い手に、刀の鯉口を握りしめて、彼の姿は魔か風かのように、そこを走り去ってしまう。
と――その頃から、
半開きの傘に首を入れて、白い
――と、すぐまた、つづいて来た二人の男がある。
先の侍の後から、一枚の
「おお冷てえ、どうやら、酒も醒めそうだ」
「おまけに、ここへ着いたら小降りだぜ、いやに
一足お先に、傘をつぼめて、狐格子の前に腰を据えていた侍は、ちょっと、綺麗な定九郎とも見立てられる身拵え、二本差の浪人伝法には、ちと優し過ぎて、凄味を殺す
「春さきだけに、浮気の雨というやつだろう。まだ
答えるまでもなく呟いた声。
それは、こんがらにせいたかが、生不動の仕返しに、力と頼む御曹子の
「おお、ところで、今のうちに……」
と新九郎は、思い出したように、一封の金を出してそれへ置く。
「久八の首を掻っ切ったら、お前たちは、また当分の間、江戸から足を抜いていた方が身の為だ、すぐ高飛びしてしまいねえ。これは拙者の
「
「生不動親分の無念ばらしさえすれば、奉行所へ曳かれようが、
「馬鹿を申せ、命の取り代えも
「兄哥、このご恩は忘れません……」
「べらぼうな、男同士の間には、恩の貸し借りはねえ筈だ。早く胴巻へ金を捻じ込んでおくがいい。あ――来たらしいぞ!」
「え?」
と、二人も慌てて、狐格子の前に立ち、背伸びをして、真っ暗な
まさしくそれは、風呂屋町を出て来た
お延と新九郎との約束は、鳥居の前までさしかかって来た時、お延が、わざと小提灯を消し落す――途端に、こっちから斬って出る手筈である。
が、そのお延は、新九郎と
ぱらぱら、ぱらぱら、ぱらぱら……
傘に
「大月先生、見附まで行けば、駕がありましょうから、それまでご辛抱なすっておくんなさい」
声が高いので、あきらかに、それは臂の久八と知れた。答えた声は大月玄蕃である。風呂屋の名入りの傘を持ち、高足駄を
「いや、こんな晩に駕は野暮じゃ、小六殿、いつ通っても神田川は気持がいいのう」
「殊に、この酒の気のある顔へ、ぷッと吹っかける雨の味が堪りませぬわい」
「それはそうと、お延さんは一体どうしたのでしょう」
と提灯を持って、先に歩いていた乾分の者が、投げ槍の顔をふり顧ると、小六はべッと
「あいつはこの間から、少し様子が変っている、今度姿を見せやがったら、片輪になるほど打ちのめしてくれなきゃならぬ」
「と言う口が、いつもお延さんの姿を見ると、がらりと、打って変ってしまうのだから怖ろしい」
久八がまぜ返すと、あとの四人が、
機会は目前に過ぎて行く。新九郎はお延の合図を心待ちにしていたが、その様子がないので、後ろにいるせいたかとこんがらへ、
「こうなりゃ五分と五分だ。男らしく名乗りかけろ」
と、駈け合図を言い捨てるが早いか、自分から真っ先に、ばらばらと躍り出して、
「待て、笊組の一門どもしばらく待て」
大刀、
「何だと」
恟ッとしたらしい声で、五つの傘がくるりとこっちへ振り顧った時、続いて、ぬっくと姿を突き出したこんがらとせいたかが、
「やい、臂の久八、荒神の十左、その他の
「わはははは、馬鹿野郎め」
臂の久八は、つぼめた傘を片手に持ち代えて、
「誰かと思や、
「えい、
「野郎、お町奉行の十手預り臂の久八に指でも差しやがると、その分には置かねえぞ」
「
新九郎が励ます声に、おおと、
「久八、後ろを見せるな!」
と、ばかり斬りつける。
「洒落っくせえッ」
二本の脇差を叩き払って、スポーンと投げつけたから傘が、血の雨を呼ぶ修羅の合図。
「それ、親分を討たすな」
すばやく、横に廻って、突け身の白刃を鉄壁と持つ荒神の十左。槍こそなけれ、三尺余寸の大刀を抜けば、腕に筋金が入ると誇る投げ槍の小六、三方づつみに押っ取り囲んで、今にもこんがらとせいたかを
と、また一方では、かねての底意。ついとそこを離れた春日新九郎が、大月玄蕃の影をおって、寄るなと見る間にとんと胸元を突き返した。
「玄蕃、てめえと拙者と一騎打だ!」
ぐいと、鯉口の腕をひねって詰め寄ると、
「や、汝は春日新九郎だな」
さすがの大月玄蕃も、はっとしたらしいが、すぐ、見くびり抜いた嘲笑を声に交ぜて言い放った。
「音無瀬川のくたばり損ないめが、江戸三界までうろつき廻って、生不動の冷飯食いになっているとはかねがね噂に聞いていたが、ここで会ったが百年目じゃ、望みに任せて大月玄蕃が一刀流の太刀風を食らわしてやろう」
「やかましい!
昔に変る伝法口調。――あの前髪振袖の柔弱者が、どうしてこんな荒っぽい剣侠肌な人間に変ったろう――と玄蕃もこれには
「ここで会ったが百年目とはこちらから申す言葉だ。音無瀬川ではあの恥辱を、また恋の成らぬ意恨を含んで、正木作左衛門を闇討ちにした極悪人、千浪に代って、この新九郎が今宵の助太刀ついでにその首貰った」
「身のほど知らずの広言、見事参るか!」
「往生際に、生れ変わった新九郎の腕前を見知っておけ!」
「
と、玄蕃が大刀を抜きかけた瞬間には、もう、
「あっ」
余りに彼を侮って、抜きおくれた大月玄蕃は、鞘の走りも間に合わず、危うく、太刀先三寸の下をかわして、そのまま入身の横払い。
「えい!」
胴に入れば必ずや殺す、怖ろしい
「何を」
と踏み開いて、横に描いた閃光の過ぎるや否、再び斬りつけ、斬りつけ、玄蕃の急く息を刻み込んだ新九郎の太刀、それはいよいよ小野派一刀流の鍛えに、自然の磨きと感得を加え、更に彼の
その時、眼を移して七、八間離れたところを見ると、今しもこんがらとせいたかが、臂の久八、荒神十左、投げ槍の小六達に、三面を囲まれて、どうやら返り討になりそうな苦戦、こんがらもせいたかも刻々、掠り傷の
提灯持ちの乾分は、事急と見て、逸早く、この場を逃げ出して、氷川下の深見重左へ変を告げに飛んで行ったらしい。
「わッ」
不意にそこから流れた絶叫。
捨身になったせいたかが手際よく、右側の荒神十左の片腕を斬ったのだった。――が、彼が荒神を斬った途端に、追いかぶさった投げ槍小六、重ね打ちに、三尺余りの大刀をふり下ろして、せいたかの肩から背すじにかけて、後ろ袈裟にばさりと斬り据えた。
「うーむ」
と虚空へ
残るはこんがら一人と三人、どう
折から、細かい宵の雨は、また霧のように霽れ上がって、柳の森の濡れた上へ、ぼんやり浮いた月の
瞬くうちに、つい、そこまで近づいて来た者を見れば、さっき、紅梅河岸の闇へ、お延を
たとえば一羽の岩燕が、
寄るにも音なく、打つにも声なく、いきなり、投げ槍小六の横鬢へさッと一太刀、返す勢いは矢よりも迅く、片腕失った荒神十左の腰車を払って、体は浮船、

「ぷウッ……」
と唇へ流れ込んだ血を吹いて、不意の助太刀をくわッと睨んだ小六が、追い討ちの
それに力を得て、こんがらの太刀は俄かに鋭くなったが、久八と小六は、不意を衝かれた上に、

真白い腕から、火の輪のような一閃が、玄蕃の横へひゅっと飛ぶ。
「あッ」
と、不意の強敵に、おどろいた大月玄蕃。
新九郎と食い合った鍔がっきり、身を捻じかわそうとしたが刹那、
「卑怯な奴、待て待て!」
と罵りながら、新九郎は、どこまでもという血相で、玄蕃の後をおいかけて行く。
と、御方は、またくるりと
「わッ」
と、断末の血煙りが、
「どなたさまか存じませぬが、思いがけないお助太刀、有難うございました」
と血刀置いて
「ご丁寧な礼には及ばぬこと、仕返しの意気地、天晴れなお志と見て助太刀いたした。少しも早く、その者の首を切って、生不動の親分とやらに手向けておやりなされ」
「や、どうしてそれをご存じでございますか」
御方は、つと、覆面の顔を
「とにかく、ここは急いで立ち去るが御身の為じゃ、くどいことは訊いて下さるな」
こんがらはそれに取りつく言葉もなく、久八の首を切って片袖につつみ、兄弟分せいたかの
昨日今日、
鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春。――その大江戸の花はここ三日と、出るわ、出るわ。町方の女房娘、若衆芸妓の花見小袖、目かつらの道化、渋い若旦那、十徳の老人、武家は編笠、町奴は落し差し、猫も
寛永初年、将軍家の開基以来、江都随一の花見場所となったこの山は、小唄
「旦那、旦那、何しろこの雑沓で、えらく混み合いますから、もし、ご無礼があっちゃいけません。お寝みになるなら、すみませんが奥へ入っておくんなさい、もし、旦那……」
「旦那、私の方の都合ばかりでなく、この店先じゃ、騒々しいことも堪りません、どうぞ、ちょっとお眼をお醒ましなすって……」
「うるさい」
亭主の手を突っぱねて、寝返り打った途端に、がたりと、縁台が倒れかかったが、酔どれの侍は、それに抱きついて、前後不覚、下界の花をよそに、魂を
「困ったなあ、二本差だけに、うっかり起すこともできない」
亭主は、しかたなく、その寝相を眺め入ってしまった。
「よほど飲んだとみえますね」
と居合せた二、三人の客が同情した顔で云う。
「何しろ、私の店だけでも、一升二、三合は
「この
「なあるほど――」
それに気がついた時、誰の眼も、しばらく侍の寝顔の美に衝たれてしまった。
すると、俄かに店の前を行く人足が早くなって、わらわら、同じ方角へ駈け出してゆきながら、
「喧嘩だ、喧嘩だ」
「斬り合いだ、果し合いだ――」
と物々しい触れ散らし、茶店にいた客たちも、その騒ぎに釣出されて、人浪の赴くまま、一散に駈け出して行ってみると、ちょうど、寒松院ヶ原にある
「黙れッ、片輪なら何故片輪のように、人出のない所を歩いておらん」
「武士たる者に突き当ったのみか、あまつさえ不敵な口答え」
「それへ直れ、
と、猛り立った
その足もとに
さっきから、土足をうけても、
「ご立腹はさることでござりますが、何せよ、ご覧の通り、取るに足らぬ虚無僧風情、それに、お武家の胸先に突き当ったのも、全く、足の不自由なため、人に押されて
「どうぞ、この通り、お詫びは幾重にも致しまする程に、おゆるしなされて下さりませ」
若い方の虚無僧も、優しい声音で両手をつく。
「や、此奴」
と、乱暴にも、いきなり前へ進んだ一人の武士が、天蓋のふちをむずと掴んだ。
「こいつ、女でござりますぞ」
「何、女? そりゃ珍しい」
「
「やい片輪、貴様の女房か娘か知らぬが、罪の
「さ、来い」
「来なければ
と、何を
「あ、しばらく」
と、不自由な足を、杖に
「邪魔するな」
はッたと睨んで、虚無僧の杖をグイと引いた。と、引いた途端に、杖は鞘のように、スルリと抜けて、虚無僧の手には、
「あッ」
驚いて跳び退こうとしたがもう遅い。
堪忍袋の緒を切って、きっと、唇を噛んだ虚無僧は、飛鳥の如く躍りかかって、その一人をまッ二つに斬り据えた。
「や、この命知らずめ」
たちまち、
落花紛々、その下にも、今にも散らされそうな二つの命――
「ああひどい目に会った」
「あんな所へ寄り
ほうほうの態で、大師堂の茶屋へ帰って来たさっきの客は、ちょっとのぞいて来た虚無僧と侍の斬り合いを亭主に話して聞かせたが、その話がまた、輪に輪がかかっていかにも物々しい。
「へえ、じゃ何ですか、対手は山手組の侍八、九人で、こっちは女の虚無僧に足の悪い連れですって、おやおや、それじゃとても助かりっこはないでしょう」
「もう今頃は、枝垂れ桜の
「やれやれ、虚無僧だけに何となく罪っぽいのう……」
と、不意に、むくり
「お目ざめなさいましたか、お
と、亭主も、ちょっと気味が悪かった。
「ああ、夢ではなかったか……」
起き直って腰かけた浪人は、一同を見て、
「町人、今其方たちは虚無僧と言ったな」
「へい、申しました」
「一人は女の虚無僧、一人は足なえの虚無僧、それが、山手組の悪侍に斬り囲まれていると言ったのは
「まったく、それに相違ありません」
「そうか!」
不意に鯉口を掴んで、縁台を離れた浪人の眼は、怪しいかがやきを帯びて
「亭主、早く一杯
気を呑まれて、うろうろした亭主が五郎八茶碗に注いで出すと、べッと吐いて、
「水ではない、酒だ、酒だ」
注ぎ代える間に
「亭主、茶代は後でくれるぞ」
と言い捨てるが早いか、あれよと見る間に、花吹雪の
今しも八面鉄刀に囲まれて、
そこへ、
「ええいッ」
ものの見事、駈けつけざまに、一人の武士を斬り伏せた浪人の腕の冴え。
「や、何者だ」
ガチャガチャと乱れ立った山手組の武士を、虫けらのように見下して、ほんのり、眼元を桜色に染めた浪人は、姿に似気ない大音を張りあげて、
「拙者は誰でもねえ、親分なし乾分なしの一本立ち、御曹子の新九郎だ。この虚無僧には、少し縁引のある
「や、御曹子の新九郎だとッ」
「その男なら、こっちから尋ねていたところ、事ついでに素ッ首を
「何を」
と、雄叫びを揚げるや否、右に大剣、左に小剣、バラバラと斬って廻った。その
「ちぇッ、口ほどにもねえ奴らだ」
来国俊の
「もしや
「新九郎様、おお、新九郎様に相違ござりません」
「珍しや新九郎、かく言う拙者は兄の重蔵、これにおるのは千浪であるぞ、そちは、嵐の夜に、隅田川から行方知れずになったと聞いたが、よう無事でいてくれたのう」
咄嗟のことであったので、二人は、夢かとばかり、声さえ、ともすると涙まじりになる。
「な、なにを言うんでえ!」
案に相違して、
「なるほど拙者あ、新九郎という者にゃ違えねえが、お前たちを見るのは今が初めて、江戸生れの武家侠客で、名さえ、御曹子の新九郎という者だ。人違いをしねえがいい」
「え、では同名異人でござったか……」
「いえいえ、姿も言葉も、まったく昔とは変っておいで遊ばすが、たしかに春日新九郎さまでござります。それを見違えるような千浪ではござりませぬ……それを、それを……知らぬとは何という
「ああ、見っともねえ、人が助けてやりゃつけ上がって、人中で泣かれちゃ堪らねえ、何と言おうが、拙者あ春日新九郎なんて、そんな
声はあやしく
「ま、どうしたことを仰っしゃります。新九郎様、私はどうでも……お兄上様の前で、そ、そんなことを仰っしゃられたものではござりますまい」
「ええうるせい、離せったら!」
「あッ――」
と、突き飛ばされた千浪と重蔵が、再び、起き直って見た時は、ほとんど、気狂いの走るように姿を消して行った新九郎の影がもう遥かになっていた。
その姿を、しばらくじっと見送っていた千浪は、とうとう涙の
何と重蔵が
重蔵も腕をくんで、泣くまで泣かせておいてやろうと思った。それがせめてもの情けである。いい加減な慰めがこの年月の彼女の艱難にだけでも、露ほどの、
それにしても、今のが新九郎であるとすれば、僅か四、五年の間に何という恐ろしい性格の変りようであろう。あの腕の冴えを持ちながら、いまだに鐘巻自斎を打ち込んだという噂も聞かず、殊に、賤しい言葉づかいや、身ごなしの荒々しさ、そして、女の、酒のと、
いつか、山は眠りに入るように森としてきた。寛永寺の森に、

「そこにいるのは、さっきの虚無僧さんかえ」
ぽっかり
「はい、虚無僧の者でござります」
「私は、この先の、大師下の茶屋の者だが、先ほど、お前さん方に助太刀した御曹子の親分が、これを後で渡してくれと言って、置いて行きなすった」
と、
「有難う存じます。恐れいりますが、事のついでに、その灯りをお見せ下さいませぬか」
「おやすいこと……」
と、茶屋の亭主が、提灯をそれへ置くと、千浪も
新九郎の置手紙を、茶店の亭主から受けとった重蔵は、すこし
千浪は、慌てて、提灯の明りへ
………………
こう認 むるも、恥かしの限りに候えど、所詮 、お目止まり候上はと、不面目をしのび、あいそづかしの懺悔 一筆告げ参らせ候
先刻、計らざるご対面、あと定めし、ご立腹と存じ候えど、浅ましの新九郎が境界、どの面 下げてお名乗り申すべくもなく、悩乱狼狽の後ろ姿、憫 れ笑止 ともお見のがし下されたく候
よくよくの生来にや、私めあれほどまでの立志堅固もいつか破れ、かく堕落し果てたる身の姿、吾ながら男甲斐なきを嘆じ候も、今はなかなか鐘巻自斎を打ち破ること、日輪をのぞむが如き大望と知り、なくては過ごせぬ酒浸 りのまま、その儀はふッつり断念仕り候
結句、堕落の腐肉を町奴道に捨てて、泥土に踏まるる花ともなれ、その日その日を遊侠のしたい三昧 、身に勝ちすぎた非望に苦艱いたすより、気儘気随 の世渡りこそ、太く短かく面白しと浮世を悟り候てより、流るる歳月を知らず、自棄酒 の味も忘れかねつつ、ついに今日、変り果てし醜骸 をお目にふれ候こと、寔 に天の冥罰 、そら怖ろしと酔心を冷 し候といえども、乞食三日の譬 の如く、到底今となっては真人間に成り難き新九郎にござ候。あわれ外道とも思 せ、腰抜けとも思せ、犬畜生ともお蔑 み下されたく候
さりながら、大月玄蕃だけは、かならず私の腕にて刺止 め申す自信これ有り候ゆえ、お身ご不自由なる兄上様は郷里月巣庵にてご安養のほどひたすらねがい上げ奉り候
また千浪殿も、拙者ごとき者は、世に亡き者と思い諦められ、ご帰国の上、他家へのご縁をお求めなさるべく、この二つだけは、外道 の奈落 より新九郎が本心の合掌、卑怯ながら涙願熱望つかまつり候
先刻、計らざるご対面、あと定めし、ご立腹と存じ候えど、浅ましの新九郎が境界、どの
よくよくの生来にや、私めあれほどまでの立志堅固もいつか破れ、かく堕落し果てたる身の姿、吾ながら男甲斐なきを嘆じ候も、今はなかなか鐘巻自斎を打ち破ること、日輪をのぞむが如き大望と知り、なくては過ごせぬ
結句、堕落の腐肉を町奴道に捨てて、泥土に踏まるる花ともなれ、その日その日を遊侠のしたい
さりながら、大月玄蕃だけは、かならず私の腕にて
また千浪殿も、拙者ごとき者は、世に亡き者と思い諦められ、ご帰国の上、他家へのご縁をお求めなさるべく、この二つだけは、
新九郎
御兄上
千浪どの
千浪どの
二伸、今生 の拝顔も怖らくは今日を限りと覚え候、お情けには、武士を捨てたる野良犬の後をお尋ね下さるまじく、さらばご息災を蔭に祈りて、無恥の酔言を書き捨てて茶屋よりこのまま消え去り申すべく候
………………読み終った時、春日重蔵の顔色はまッ蒼。
吾にもあらぬ
「あ、もし――」
千浪は自分の
「ど、どこへおいでなさるのでござります。もし重蔵様、どうなされたのでござります……」
「ちちッ……」
重蔵は身を
「し、知れたこと、新九郎の後追いかけて、
「ま、待って……お気を鎮めて下さいませ」
「えい、お離しなさい、千浪殿そこ離して」
「ご不自由なお体して、何でそれがなりましょう、しばらく、もうしばらく新九郎様のご様子を見て上げて下さいまし」
「ああ! 拙者は、ただそなたが
「…………」
「申すに事をかいて、大望は捨てたの、浮世は悟りすましたのと、兄を兄とも思わぬ不敵な奴、ああ腹が立つ……やわか、大月玄蕃を討つに、新九郎のごとき腰抜けの手を借ろうぞ、ええ、この足が、この片足さえ満足であったら、千浪殿にもこうまでうき目を見せまいものを」
「もう、もう何も仰っしゃって下さりますな」
「おお……そなたはどこまで因果者であろう、弟のような者に、縁を結んだばかりに、四年越しのこの
「滅相もない、何もかも運命でござります、そのうちには新九郎様とても、きっとお眼が醒めましょうに」
「――と、思いたいは骨肉の情でもあるが、あの態では、再び真面目な武士に立ちかえれも致すまい……」
と言いかけて、重蔵は俄かに足の関節を押さえながら、歯を食いしばって、
「あ
「お! 余りご無理を遊ばしたので、またお足が痛んで参りましたか、ちょっとお待ちなされませ、今すぐ薬を塗りかえて差しあげまする」
千浪が彼の繃帯を直している間に、さっき二人に提灯を貸して、その間しばらく、どこかへ行っていた茶店の亭主が戻ってきた。
薄々、今の様子を見ていたか、茶店の亭主は親切に力づけて、二人を下谷地蔵長屋の自分の家へ連れてきた。
そして、思いがけなく、二人はそこに幾日かの雨露を
赤坂土橋のお濠から、虎の門まで、
片側は
ところが――心配がないどころか、白昼とはいえ人通りの稀なのを幸いに、榎の木から榎の木の蔭へ姿を隠しながら、酔歩の浪人を
また、彼を尾けている侍どもは、氷川下の深見
早くも、先へ廻った一人が、ばらばらと駈けて来て喧嘩の押売り、どんと突き当ると、新九郎が風を通してヒョイとかわす。
「あっ」
と、身を泳がせながら、侍の腕が新九郎の
「しめたッ」
と、また一人が飛び出して喉輪へグッと
大酔していると見て生け捕る算段。
「御曹子、神妙にしろ」
「じたばた致すな、貴様を
「こうなれば、袋の鼠、素直に往生してしまえ」
各

「卑怯な奴めら……」
新九郎は大地に倒されながら叫んだが、その姿も見えない程、多勢の体に
「卑怯なとは汝のことだ。
「罰当りめ、覚えていたか」
「今日こそ深見の屋敷へ引っ立てて、思う存分目にもの見せてくれるのだ」
「ええ、何を
「この野郎、半殺しにして引っかついでしまえ」
「ちっッ!」
仰向けざまの新九郎が、寝ながら不意に抜き払った居合の妙。
「あっ!」
と、油断の
「さっ来い! 御曹子の新九郎は生きているぞ、酔っちゃいるがこの
国俊の一刀、八方眼に
「
とは言ったが、抜き連れた六、七本の刀が、どれもこれも気を呑まれて、ビクともしない、それも瞬間、機先を制して新九郎が、彼等の一角へ

と、ちょうどその時、汐見坂の上から、小きざみに駒を
一人を、多勢で取り囲んでいる場合、助太刀は無論一人の
「はははは、意気地なしめ……」
「寄れい!」
騎馬の侍が鞍つぼから呶鳴りつけた。
酔眼
「あっ――」
と言って、大地へ五体を
「はて、どこぞで見かけた男……」
と呟いた。それは、小野派一刀流の宗家小野忠雄と、高弟梶新左衛門であった。
「む、そやつはご破門になった春日新九郎と申すもの」
「春日? ――おういつか鐘巻自斎先生に名乗りかけたあの若者か――ああ、変っているのう」
「先生のご先見に
「むう、武士の風上にもおけぬ奴――」
小野忠雄は、いかにも憎々しげに土まみれな新九郎を睨みつけて、
「かような者に、一両年でも、小野の道場を踏ませたかと思えば心外千万、見るも胸がむかつくわ、かッ!」
と馬上から
ややあって、新九郎はむっくり顔を上げた。
まったく、新九郎の足は、西へ向けても東へ向けてもあてがない、希望がない。ただ一つの隠れ家である
この春さき、こんがらとせいたかの為に助太刀して、
で、その夜、何食わぬ顔をして、菖蒲の寮へ帰ったが、御方の凄まじい嫉妬にいたたまれず、彼は、隙を狙って寮を逃げ出した。
逃げだしたが、
そこで、酒だ、酒だ、すべてを忘れるものは酒だ、と物狂わしく飲みつづけて、侠客出入りの部屋から部屋を転々としているのが今の境遇。
が、酒に麻痺させている良心も、この間は、思いがけない千浪と重蔵に会って冷水三斗の
いやいや、今、
彼は口惜しいのである。どうしていいか分らないほど口惜しいのだ。たった一本、ああ、たった一本、鐘巻自斎から勝ちをとることができれば、晴れて故郷にも帰れるし、家名も立つし、武士の面目を完うされるのみか、多くの者を見返してやることができる。――が、その一本の勝ちは、余りに人力の届かぬ所にあり過ぎる。
しかし、眠れる良心は、時折、俄然として
「そうだ、拙者は千浪と抱き合って、音無瀬川へ身を捨てた時に、あのままこの世へ甦えらなかったら幸せであったのじゃ……、でなければ、昔ながらの新九郎でいれば、江戸三界でこう苦しむこともなかったろうに、いっそ死ぬか、死んでどうなる……」
と思いながら、じッと地べたをみつめてゆくと、御方の

「酒だ、酒がさめた、酒が醒めた!」
彼はこう叫んで、不意にもの狂わしく走りだした。
×
どこをどう飲み歩いていたか、新九郎は、それから四日ほど後の夕方、またも、人通りの多い日本橋の
「何だと思ったら、珍しくもねえ酔どれの侍か」
「そうくさすない、上野の丘で山手組を八、九人も向うへ廻して、可哀そうな虚無僧を助けた御曹子の新九郎だ」
「え、これが御曹子の親分か、姿にも似ず大層な腕前だそうだが、怖ろしい飲んだくれだな」
「どうしたんだい寝ているのかい」
などと、物見高い
「うるさいッ」
弥次馬は
「ほい、寝てるんじゃねえや」
と散っても失せない。
「うるさい奴めら、
今度は立って、脅しに柄を握ってみせると、さすがに、これには驚いたと見えてワッとそこを開いた。
「あはははははは……」
新九郎は大口開いて笑いながら、日本橋の欄干にすがりつつ、あぶない足どりを
またすぐ弥次馬が盛り返してくる。そのうち、自身番から番太郎が駈けてきて、新九郎の側へコツン、コツンと六尺棒の突き音をさせながら、
「ご浪人、歩かっしゃい、ご浪人歩かっしゃい」
と、当らずさわらずに
「もし、ご免遊ばしませ……」
と優しい声。
「おや?」
弥次馬は一斉に目をその方へあつめてしまった。見ると、御守殿風な女中に上品な老女、何かしばらく番太郎に囁いていたが、そのうち、
「ご免、ご免、ご免」
と、馴れたもの、人を人とも思わず掻き分けて来る。
そして、酔いつぶれている新九郎を駕へ入れ、垂れの外から
群衆は何のことだと言いたそうに、思い思いに散って行く。と――その中に立って、
「
と舌うちをして見送った者がある。
金襴をあざむく美々しい衣裳に白ぐけの羽織
「はてな、ことに依ったら今のも、いつか梅茶亭の戻りに新九郎を横奪りしたあの女郎かも知れぬ、む……」
深見重左はクルリと笠を廻して、連れている四、五人の武士の中から一人を

「あれへ行く二人の女、どこへ入るか先の先まで見届けて来い。よいか、見届けたらすぐ氷川下の屋敷の方へ――待っているぞ」
「心得ました」
重左の片腕と頼まれている押田仙十郎は、素迅く人混みを縫い抜けて、今しも、石町通りから本町横へ
深見重左は、
「見つけ次第に、あの青二才を
と配下の者に言い渡しておいたが、上野の丘ではかえって散々な目に遭い、溜池ではあの失策、いつか山手組の悪名は町に高く、一本立ちの素浪人、御曹子の名に
今は折よく、日本橋の袂で、重左自身が彼の姿を見つけたのであったが、場所がら人目も多いので、しばらく手を引いている間に、思いがけない
夜の
「おう仙十郎、ご苦労であった、シテ様子は?」
「しかと見届けて参りました。やはりお察しの通り、あの女中どもは、菖蒲の寮の召使で、一人は水瀬と申す老女でござりました」
「む、案の定だな」
重左は、麻のような
「そして、新九郎の駕もたしかに寮へ入ったかの」
「その駕は裏門から中庭へかつぎ込まれ、充分様子は分りませぬが、何しろ泥酔しているので、
「それだけ見極めがついておれば、もうこっちのもの同様。寮の
重左はこう言って、すぐ、屋敷に居合す者を残らず呼び集めた。いずれも、武家あがりの浪人伝法、
重左は

「今夜から明け方までの間に、
承知しましたという意志の表示に、一座がシーッと無言のまま頭を下げる。この辺は、同じ侠客でも町奴の親分とは大分貫禄が違う。
「そこで、
後は酒になって、盃が

彼の行く先は、この前、江戸中侠客狩りのあった時、二、三年身を潜ませていた鎌倉の大安寺で、まったく保養に行くぐらいな気持である。
重左が落ちてしまうと、さあ後は大変、氷川下の屋敷は野武士の陣屋のようになる、まだ時刻はすこし早いというので、酒をあおる、
「水……水……、水を持って来い!」
まっ暗な部屋の中で、ごろりと転がりながら、新九郎はこう
「水をッ」
「はてな? ……」
度を過ごした大酔の後で、誰もが
「お水をこれへ置きまする……」
優しい女の声音がしたので、新九郎は細目に開けた障子の方へ身を伸ばして、
「ああ甘露――」
舌うちして呟くと、後ろの方で、
「ホホホホホホ……」
「や?」
「新九郎様、やっとお目が醒めましたそうな」
「あッ、御方」
ふり顧ってこう言ったまま、新九郎はしばらく呆れ果てていた。そこには、
「御方、どうして新九郎はここへ参っているのでござろう――とんと今日ばかりは覚えがない」
「貴方は憎いお人でござります」
御方の顔色は、酔いざめの新九郎の目に、
「水瀬や女中どもに手分けをさせて、どれ程尋ねたことやら知れませぬ。これ程まで、心をくだいている
「逃げる? ……何で拙者が」
「いいえ」御方は姿の美しさと、
「分っておりますわいの、お前様は、あのお延という女の行方が知れぬので、どこにも落ちついていられないのでござんしょうが……、風呂屋町に隠れて、
「…………」
新九郎は
「ホホホホホ……」御方は何を思い当ってか独りで笑った。
そして、
「どうあろうと、妾はお前様という者を忘れることはできませぬけれど、憎いやつはそのお延、恋の恨みを晴らさずにはおきませぬ」
「御方、そのような女、この新九郎には覚えがない、何か思い違いでござろう」
「きっと、お前様は知らぬと仰っしゃるか」
「毛頭、おぼえのない女でござる」
「これでも――」
御方はついと立った。そして、荒々しく一方の
「あッ――」
新九郎は愕然として、薄暗い隣り部屋へ声を放った。おお、そこに
お延は身をもがいている、けれど声を立てることも、新九郎の側へ寄ることもできなかった。御方の怖ろしい復讐の念は、それを快く眺めるのである、いやそれのみか、
その時だった、不意に表の方で、キャッという侍女の悲鳴が上がった。途端に、老女の水瀬が色を変えて駈け込んできた。
「御方さま、
と告げながらけたたましい声を上げてしまったのは、もうそこまで、覆面抜刀の荒くれ武士が、襖障子を蹴破って入りこんできたためであった。
「この寮にいる御曹子の新九郎と、女
「えい、
といきなり鞘を払って、真っ先の一人を、両足もろに
御方はその隙に、床脇の小太刀を取ってスラリと抜いた。と思うと、もう飛鳥の如く廊下へ走りだして、瞬間に二つ三つの絶叫を揚げさせた。ドタドタドタという足音が、嵐のようにくずれ去る、御方は
新九郎も反対の出口へ斬って出ようとした。すると、後ろから忍び足で、押田仙十郎が、
「御曹子、命は貰った!」
と不意討ちに一閃の光りを浴びせた。
「何をッ!」
横に払うと、どすんと仙十郎の体が襖へ倒れて行った。見向きもせず、駈け出そうとしたが、ふと気がついて隣の部屋にもがいているお延の側に駈け寄り、彼の縄目をぷつりと切ってやった。
「あっ、新九郎さん! ……」
お延は口の
かつて新九郎は雨龍の山荘でお延に命を救われたことがある、今縄目を切ってくれたことは、その時の恩返しかあるいは、御方より心から自分を思ってくれているのかしら? ――あたりの物音が凄まじいので、お延は何を思慮していることもできない、とにかく、この寮を逃げ出そうと、
「火がついた!」
お延は、寮の出火をみてニタリとした、逃げるに都合が好くなったことより、彼女は、憎い御方の
山手組のあぶれ者が、
「いい気味、いい気味!」
お延は、この二月あまり押しこめられていた牢獄の焼けるのを見て、手を叩きながら勝手口へ出た。そこも既に火が来ていた。おまけに塀が高いので、物置小屋の前を抜けて裏庭まで夢中になって走りだした。
そして彼女が、雪見燈籠を足がかりにして、塀の上へ手をかけようとした時、
「おのれ!」
と叫びざま、お延の帯を掴んで引き落した。
「あっ!」
逃げようとしたが、それより御方の手練の小太刀の方が早かった。肩から背すじへ斜めに、水も堪らぬほどな切れ味が見えた。お延は、虚空をつかんで、血しぶきと煙の中にどうと
「憎いやつ!」
御方はその胸元へぷつりと
が――御方は何となく胸が晴々してきた。嫉妬も
ただ、ふいと気がかりになったのは新九郎の安否。果たしてあれ程の白刃の中を、斬り抜けてくれたかしら? ――と案じだすと、御方はもう矢も楯もなくなった。お延の血に洗われた小太刀を持ち直して、愛熱の化身そのもののように、焔の中へ愛人を救いに走った。
けれどもうそこには叫喚の声もなく、人影もなくなっている、ただ何ものも
×
もと将軍家のお船見屋敷であり、今は家綱の愛妾お
「その晩、山手組が
この噂は
知れないのはそればかりでなく、当夜から御方の落ちた先も、新九郎の所在も一向知れなくなった。公儀では大奥縁類の者からボロの出るのを好まず、御方の行方も深くは
こんな噂が、行く春の江戸を賑わしている最中、下谷の地蔵長屋を立って、遍路の尺八を吹き流しながら、春日重蔵と千浪は、再び
尋ねる仇の玄蕃も、たしかにこの江戸にいる様子であり、弟の新九郎にも是非もう一度会わねばならぬと、重蔵はまだ幾らか痛む足を引きずって、江戸の横丁、裏小路の隈なきに至るまで日ごと日ごとに歩いているその一日のこと。
「千浪どの、どうやら
「お待ちなされませ」
千浪は遠くから、神田
「何ですか、大層奥が混んでいる様子、席が空いているかどうか、ちょっと様子を見て参ります」
「いやいや、それまでには及びませぬ」
と、重蔵が止める声を聞き流して、千浪は小走りに飯屋の奥をのぞいてきた。
「大儀でござった……」
と、重蔵がふと見ると、天蓋の裡の千浪の顔は、どうしたことか、ただならぬ色をして、息さえすこし
「どうなされた、気分でも悪くなられたか」
「いいえ、重蔵様、早くこちらへ」
千浪は、
日蔭の身に離されぬ
砂利場の蔭に身を潜めていた千浪は、その時そッと重蔵の袖を引いて

と言っても、重蔵は例の
先の玄蕃は何も知らぬ様子で、
一足遅れに、そこへ駈けつけて来た千浪と重蔵は、
「あっ、しまッた」
と屋敷の前に立って、何気なく門標を見ると、
「溝口……溝口伊予……はて何処かで聞いたような名であるが? ……」
重蔵は幾度も呟いていたが、何を思い当ったかフイと門前を離れて、
「千浪殿、こりゃ玄蕃の隠れ家ではないゆえ、再び彼が門内から戻って参るに相違ない」
「では、しばらくどこかへ身を隠しておりましょうか」
「おお……」
二人は小路を走り出してあたりを見たが、これという隠れ場所もないので、角屋敷の塀の横へピタリ添って待構えていた。
一方、溝口家の屋敷門をくぐった大月玄蕃は、取次に案内されて奥の一間へ上がり込んでいた。
彼は、
玄蕃は、長の浪々でようやく衣食には窮迫して来たし、この先どうしたものかと思案していたところなので、
「はて、巧く行ってくれればいいが……」
と待ちあぐねていると、やがて京極家の臣溝口伊予が入って来た。元なら同藩の親友だが、今では江戸家老と只の素浪人、大月玄蕃もさすがに
「この度はまた、
「いや何、決してご
「いやもう、あのお話を持ち出されましては、玄蕃、冷汗背を流れまして、帰参のお願いどころか、穴にも入りたい心地が致しまする」
「勝敗は時の運、いつまで苦に悩むことはござらぬ。で拙者も、先日来のお手紙に依って、早速殿にお身の上を嘆願いたしたところが、案ずるより産むが安しで、殿にも、ウム大月玄蕃か、あれも捨てた腕前ではないに、いまだに浪人致しおるとは
「えッ、では返り新参の儀叶いましたか、へへっ、ひとえに伊予殿のご尽力忝のう存じます」
「ついては明後日、牛込赤城下のお上屋敷へご同道申すゆえ、朝のうちに当屋敷までお足労下さるまいか……」
「承知仕りました。何分当日は、ご前よしなにお口添えを願っておきまする」
と、玄蕃は如才なく面談を切り上げて、間もなく溝口伊予の屋敷の外へ再び姿を現して来た。
彼は、ほくほく顔して、歩きながらも独りで悦に入っていた。
「ふふん……、物は試しと持ちかけた話が、こうとんとん拍子に行こうとは意外だった。どうやら運が向き変って、この分では一陽来復、昔の全盛を返り咲きさせるのも近いうちだわい……」
心に悦びがあるので、自然足どりも浮き浮きして、およそ十四、五間、屋敷小路を出て来ると、不意に曲り角から、
「待て!」
――と女らしい
「大月玄蕃、しばらく待て!」
つづいて呼び止めたのは春日重蔵。一人は言うまでもなく千浪である。ばらばらと駈け寄った。
「な、なにッ……」
「ややッ」
思わず二、三歩飛び退いて、笠の
「えいびっくりいたしたわ、此方は大月玄蕃などと申す者ではない、人違いするな」
「卑怯であろう玄蕃、今日ばかりは逃がしはせぬ!」
千浪は白鞘の
「さッ来い、返り討にしてくれる」
振り顧りざま、抜き放った、鬼丸
「あッ――」
とおどろき声を放ったのは、千浪自身よりは後から来た重蔵の方だった。必然、そこに血煙りが上がったかと思ったが、咄嗟に彼女がよろめいたため、玄蕃の切ッ先はその紐根を切り払ったのみで、二つに裂かれた天蓋は千浪の
「おのれ!」
跳びかかった重蔵は、千浪と切ッ尖を揃えて左右から激しく斬り込んだ。こうなると作法通り仇討名乗りをする間もないので、往来の者はただ
玄蕃は心の裡で、碓氷峠で手心の知れたこの二人、返り討ちにして出来ないことはあるまいと思ったが、帰参の福運を目の前にして下手な
すると、その時ちょうど、大手前の方から真っ直ぐにお練りで来た大名の一列がある――先払いの
とも気づかず、
「無礼者ッ」
と、股立ちとった侍が、ドンと玄蕃の胸板を突っ返した。
「あッ、真っ平ご用捨下されい」
「抜刀を手にしてお駕近くへ駈け込むとは
「いや、まったくもって、何気なく走り込みました者、平に……平にご用捨願いたい」
「ならぬッ」
バラバラと玄蕃を取り囲んだ
ところへ、一足遅れて、
「場所がらをも弁えず、まことに
「ウム、こりゃこの浪人を追って来た虚無僧であるな。して願いとは何事じゃ」
「それなる浪人は、仔細あって
「なに、ではこの浪人はお身等の仇であると申すか、ウーム……こりゃ
と、駕わきの徒士が立ち淀んでしきりに処置を講じていた。――と、六尺の足を止めさせていた殿の駕内から、何か低い合図があったと見えて、一人の家来が
どこの太守であろうか、江戸城退出の帰りと見えて、式服の半身がその中に見えた。額の青さ色の白さいかにも秀麗な殿である。ジイとこなたへ眸を吸いつけていたが、やがてのこと、
「オオ……」
と乗り出さんばかりに駕戸から声をかけて、
「そこに在るのは春日重蔵、ならびに正木作左衛門の娘ではないか」
「やや、そう仰せられますのは? ……」
土下座をしていた千浪と重蔵は、意外な大身から意外な言葉をかけられて、両手をついたまま
「両名の者、予を見忘れていやるか、よう
「おお」
「憶い出したか」
「へへッ、郷国福知山のご領主にあらせられる松平忠房公。何でお見忘れしてよいものでござりましょう」
「ウム……」
忠房はニッコリ頷いて、
「さても、思いがけない所でそちたちを見かけたものじゃ。千浪も……重蔵も……永年辛労の程察し入るぞ」
「恐れ入ってござりまする……」
「したが、その分ではいまだに作左衛門を討った
「殿――」重蔵は思わず
「その仇大月玄蕃は、今
「何と言やる、ではあの浪人が仇大月玄蕃であるとか、ウウム……成程、過ぐる年桔梗河原に於いてそちと試合を致した京極家の指南番、たしかに予にも覚えがある。こりゃ、其奴を
「あッ――」
玄蕃は[#「玄蕃は」は底本では「玄番は」]、胆を天外に飛ばして逃げかけたが、たちまち八方からふり出された六尺棒に
忠房は、小気味よげにそれを見やって、
「駕を上げい」
「はっ」
――行列は再び水のように流れ出した。
千浪と重蔵は、ややしばらく路傍に
「もしご両所、七日の後に
早口に
その日、増上寺
社参なら供揃いのまま来る筈、花も散り牡丹畑もない葉桜時のこの山へ、はて何しに来たのかと思うと、駕を出たお通の方は、
藤棚の日蔭へ盆栽を持ち込んで、パチン、パチン、
「もし、御方様、御方様」
「弥平ではないか、何を慌てていやるのじゃ」
「どうしてここをお知りなされたか、大奥のお妹君さまが、あれへおいでなされました」
「え、通子が来やったと? ……」
母屋から離れた
この愛宕の裏山に住んでいる植木屋の弥平は、永年菖蒲の寮に出入りして、格別目をかけられていた者であった。で、御方は寮を失ってから間もなく、この人目離れた茶室に身を落着けていたのである。
それはいいが、御方は例の強い執着で、火事の夜に別れた新九郎の居所を一心に探させた。新九郎は相変らず酒から酒へ飲み歩いていた。そして、御方はまたやすやすと新九郎をこの愛宕の草深い隠れ家へ連れ込んでいる。
現に、今も大小を枕にして、次の部屋に酔い伏している男は、その新九郎なのである。
「まあ……」御方は当惑の舌うちをして、
「あれ程、
「そう言えば四、五日前、大奥の者らしいお方が、しきりと垣の周りをうろついておりましたゆえ、お妹君様もお行方を案じて、懸命にお探しなされていたものでござりましょう」
「とにかく、妾は今の体で妹に逢いとうない、ここにはいないと言ってよいようにして帰して
「あ、でも、もうこちらへズンズンお入りなされてしまいました」
と、弥平が
「おう、お姉上さま……」
と声をかけてしまった。御方も身を隠す暇がないので、ツイと縁先へ出て座敷の障子をピタリと閉めながら、
「お通様か……」
と冷たく言った。
「ようご無事でいて下さいました、菖蒲の寮が焼けた夜から、皆目お行方が知れぬとやらで、どんなにお案じ申していたか知れませぬ」
「いいえ、この光子は、滅多にそんな不覚はしませぬ、決して案じて賜もるな」
「それはとにかく、このような侘しい家においででは、定めしご不自由でござりましょう。また
「何の、もう前のような暮しは
「…………」
お通の方は
将軍家綱の寵を一身にあつめているお通の方も、御方の切下げ髪を見たり、悪い噂を聞いたりする度に、その身が針で刺されるように辛い。――どこまで
今日、お忍びでここへ尋ねて来たのも、妹ながらすこしは意見をのべるつもりであったが、逢って見ると姉の強い気性に押されて、お通の方はただ涙ぐんでしまうばかり……そのうち、
「はたから見れば
御方はあとを見送って呟いたが、ふと、その考えは新九郎のことに移ると、ただもう恋に他愛のない
模様のような葉洩れ陽が、畳に細かい影を揺れさせた。さっき、昼の酒に酔い倒れていた新九郎は、起きて窓口にぼんやり
「おや、いつの間にお眼覚めでしたえ?」
御方は、すっかり下世話の女房気どりになって、新九郎のそばへ摺り寄った。窓の下はすぐ小笹の崖で、崖の下は何屋敷か怖ろしく
「酒の気が離れると、貴方は死人のようにお
「また少し頭が痛む――ああ、どうも痛い」
新九郎は青白い――この頃は殊に青白い顔を、しきりに振り動かしている。
「新九郎様、貴方は今の話を聞いておりましたろうが」
「聞いていた、――けれど、それで頭が痛む訳ではない、今朝の酒が悪かったらしい」
「いいえ、今の話に引き較べて、吾身の兄弟を憶い出していたのでござんしょう。――けれど、妾もあの通り、
「アアくどい……いつも同じことをそう何度も繰り返さなくとも分っているに――何と

「定めし、憎い女とお思いなさりましょうね……」
「憎い? ふふん……憎い奴は新九郎の腐った性根だ、えい、また酒で殺してやろうか」
手を伸ばして、膳の上にあった残り酒を引寄せると、御方は慌ててそれをさえぎりながら、
「まあ、幾ら何でも、そうはお毒でござりましょうぞ」
「毒であろうが何であろうが、頭の痛みもこれさえ
引ったくるように徳利を取った新九郎は、グウ……と一息に
墓場のような静けさ――新九郎の瞳がその刻一刻に異様な怖れを帯びて、額から冷たい汗がタラタラと流れ落ちて来さえした。
「おお、おお……どこかで尺八の音がしてやしないか。それとも拙者の気のせいかしら……」
「ほんに近い所で、貴方の嫌いな尺八を吹きだした者があるようでござります」
「あの音を聞くと、思い出す者があって、心の底を
「あ、あんな所に二人の
「なに、虚無僧が?」
窓口から乗り出して、御方の指さす崖下へ眼をやった新九郎は、その時偶然に、下から天蓋を仰向かせていた二人の虚無僧と、かなりの距離はあったがバッタリ顔を見合せた。
彼は生色を失って、障子の蔭へ無意識に身をすくめてしまった。そして、
「閉めてくれ、閉めてくれ……」
と叫んだが、御方は一層窓に身をもたせて、二人の虚無僧から疑惑の眸をはなさなかった。
尺八の音はすぐ途切れた。
崖下の広い屋敷の奥から、一人の侍がピタピタと歩いて来た。見ると、三日前に松平侯の駕わきを離れて、千浪と重蔵に殿の内命を囁いて行ったかの侍。
とすると、ここは松平忠房の愛宕の下屋敷であろう。そして今、裏門に立って尺八の訪れをしたのは、その約束に依って来た千浪と重蔵であるに相違ない。
ギイーと裏門が二尺ばかり開いた。
「お待ち兼ねでござるぞ……」
低い声で中の侍が迎え入れた。二人は目礼だけで案内の後から奥へ従いて行った。
「その儘で苦しゅうないという殿の仰せ、ずッと書院の方へお通り召され」
「はッ」
二人は
風流結構を極めた下屋敷に立って、千浪も重蔵も垢じみた鼠木綿が吾ながら見すぼらしく思えた。そのうち、ふと横手廊下づきの一部屋鉄窓造りの座敷牢らしい所から物音がしたので、フイと、のぞいて見ると薄暗い中に一人の武士が
「おおありゃ大月玄蕃じゃ」
「殿様のお情け、
「そして、これ見て安心せいと言わんばかりに、ここへ待たせておかれたものか……ともかく千浪殿、本懐を遂げる日は目前に迫りましたぞ」
欣び合っていると、前の侍が、再びお杉戸口を明けて奥の書院へ案内した。
松平忠房、もう一間に着座して待ち兼ねていた。下座遠く手をつかえた二人を見て、仇討
二人は、ただもう有難涙に暮れるばかり……君とは言いながら、まことの慈父にめぐり逢ってやさしい言葉をかけられたような心地がした。
ややあって忠房は、
「ウム、そちに会ったを幸いに、是非聞きたいと思うていたが……」
と褥からやや膝を進ましてたずねだした。
「その方の弟、春日新九郎と申す者、以前は福知山でもきつい臆病者の折紙つきであったそうじゃが、そちが鐘巻自斎のために片足を
「は、はい……」
重蔵は、ギクリと胸板を刺しぬかれたような苦痛をおぼえた。
「聞くところによれば、新九郎は身を
「…………」
重蔵はどう答えていいか、まったく、五体を冷汗に凍らせて、穴があれば消えてもしまいたい心地である。千浪とても、最前から顔を上げ得ないで、ただ心の底へ
忠房は二人の苦しい胸の裡を知る筈もなかった。
「――いや、そのうれしさは予ばかりではない。当家の家臣一統がひたすら新九郎の上達を、指折り数えて待っているのじゃ。鐘巻自斎の力を借りて、卑怯な勝ちを制した宮津の京極家は、その後ますます近国へ羽振りを
「へへッ……」
――何として忠房のこの言葉に対して、新九郎は大望を
「おお、余談が先になったが、千浪の
「重々のお情け、心魂に徹して
「誰ぞおらぬか、用意の品を両名にとらせい」
「はっ」
次の間から、ツツと近侍の者が捧げて来た男女二組の白服、白
「
「こりゃ、若侍ども八、九名参って、大月玄蕃を引き摺り出せ。場所はかねて申しつけおいた奥庭の芝原――」
いいつけていると、摺り足の音
「ご前、ご来客でござります」
「なに、下屋敷へ不意の来客とは不審、誰が見えられたのじゃ」
「御老中秋元但馬守様、ならびに、京極家の溝口伊予殿お揃いでござります」
「フーム……」
忠房は俄かに重苦しい顔色を見せて考え込んだ。
京極家の江戸家老溝口伊予は、約束の日に大月玄蕃が姿を見せなかったので、不審に思っていると、京極家とは呉越の宿怨ある松平忠房が、路上から玄蕃を
そこで昨日から、両家の間に激越な懸合いの使者が往復していた。京極家からは、
「たとえ後日に仇討をさせるまでも、当家で抱え約束を致した大月玄蕃、
という口上。
「いや彼は松平家の臣正木作左衛門を
松平家は再三の使者をみな手きびしく追い返した。
しかし桔梗河原この方一層
「よし、では武力にかけても取返してお見せ申すぞ」
と威嚇を試みれば、売り言葉に買い言葉、
「おお弓矢にかけても渡すことは成り申さん」
と松平家でもまた断乎として最後の使者を突ッ刎ねた。
交渉険悪になって、既に昨夜は両家の間に、血の雨が降るかとさえ思われたが、老中の耳に入って調停され、とにかく一時事なきを得たのであった。
ところへ、今日また改めて、溝口伊予と老中
そこで主客三名の談合数刻。やがて、忠房は面白からぬ気色で元の書院へ帰って来た。そして家臣の者へ苦々しい語気で、
「残念ではあるが是非がない、大月玄蕃めを、一時溝口伊予へ渡してやれ!」
「や、では俄かにご当家が譲ることに相成りましたか」
家臣たちは無念そうに
「御老中秋元殿は、京極家とは姻戚の間がら、それを頼んで
と、いいつけた者を立たせてから、忠房は
「したが……両名とも決して案じることはない。今日玄蕃を引渡したのは、折角御老中のお顔を立てたまでのこと、これで先方の一分も立ったことゆえ、明夕溝口家から丹後守の屋敷へ玄蕃が出向く途中を待って仇討いたしくれいという先方の頼みじゃ。僅か一日延びるだけのことゆえ、不承でもあろうが得心いたしてくれよ」
「勿体ないお言葉、何で異存がござりましょう」
「ウム、その
「それ承りまして、ほッと安堵仕りました」
「もっともである、千浪も眉を開いたようじゃの……はははは、とにかく、今宵は心祝いの酒なと
「お恥しい身過ぎの
「いやいや、その
間もなく、静かな愛宕の下屋敷では、夜と共に清楚な宴が設けられた。
×
新九郎は昨夜熱病のように
いつも、酒の力で前後不覚になる彼が、夜もすがら悶々として側にいる御方を怪しませた。
耳をおおえども眼をつぶれど、すぐ崖下から聞えてくる尺八の呂律は切々として新九郎の胸に迫るのだった。
彼の良心は、その
彼は、フラフラと茶室の縁から草履を突っかけた。――が、咄嗟に御方の眼を怖れてあたりを見廻したが、折よく、その姿がなかったので、崖伝いにザワザワと二人の後を慕いだした。
昨日、溝口伊予が玄蕃を引取って行った時の約束では、「たとえ一刻でも、彼の身柄を引取れば京極家の面目は立った訳ゆえ、玄蕃が丹後守へお目見得に出向く途中、外桜田の弁慶堀に待ちうけている、随意に本懐を遂げられたい」という手筈。
そして、場所、時間まで言い残し、双方とも助太刀
もう、とっぷり夜に入っていた。
後をつけて来た新九郎は、まさか今ここで仇討のあるということは知らないのであるが、昨夜と言い、今夜と言い、何か仔細あり気な兄の行動に、しばらく羅漢堂の裏に影を潜めている。
ひそひそと交わしていた二人の会話で、新九郎もさてはと胸を躍らせた。二度とこの醜い自分の姿を見せまいと思っていたが、せめて
「オオ重蔵様――」
その時、千浪が溌剌とした叫びをあげる。
「来たな!」
――と新九郎も物蔭で
「千浪殿、玄蕃の駕が見えましたかの」
「おおたしかに、今むこうから来る
「ウム、来たわ、千浪殿支度はよいか」
「はい、かならず女と思うて、私に心を
「よく言われた、ああせめてそなた程の意気があの新九郎にあるならば、鐘巻自斎を打ち込むことも出来ぬ業ではなかろうに……」
何かにつけてつい口に出る愚痴の
と、待つ間もなく、人魂のような灯りを振り照らしてタッタと急いで来た
「あいや、大月玄蕃の駕をそれへ止めい!」
「正木作左衛門の娘千浪、これにて汝を待ちうけてある、いざ、今宵こそ尋常に恨みの
「春日重蔵、義によって助太刀いたす。最早天命
その途端に、ガタリと
「こりゃ、そこな
「やや!」二人は足許がのめり込むほどのおどろきに衝たれた。
「この方は京極丹後の重役村松瀬兵衛と申す者、その大月玄蕃とやらは、とうに伊予殿の屋敷を抜けて逃亡致してしまったわ。ははははは、さても悠長千万な、そんなことで仇討などできるものか、馬鹿馬鹿しい……」
毒口をたたいて、呆れる二人を尻目にかけながら、前より早く塗駕を飛ばせて行った。
その夜
当の大月玄蕃は、宵の
「悪くすると
と思うと、忠房はじっとしていられなくなった。近習に様子を見せにやるのももどかしいと思ったか、
来て見ると、弁慶堀の附近には、一向仇討のあったらしい様子もない、忠房は不審に思いながら、なお羅漢堂の方へ駒の足を
「おお、それにいるのは、重蔵に千浪ではないか」
声にびっくりして、先の影はバラバラと近寄って来たが、微行頭巾の姿を見上げるや否、はっと、馬前に身を沈ませて、
「こは、思いがけない殿様のご微行、いかにも千浪と重蔵めにござります」
と平伏した。
「ウム、両名とも無事なところを見ると、首尾よう今宵の本望を遂げたと見ゆるの」
忠房の晴々した独り合点に、二人は身の縮むような恥しさと無念を感じた。
これ程までに力を入れてくれる君に、不首尾な結果を告げるのは、何とも心苦しいかぎりだが、さりとて、包んでもおけない京極家の
忠房は馬上のまま、意外な手違いを聞くと、
「なに、では遂に仇の玄蕃は影も見せず、あまつさえ丹後守の老臣ずれが、そのような悪口吐いて立ち去ったか……」
落胆どころの程度でなく、
「まこと玄蕃が逃亡いたしたものなら、予が下屋敷へなり、または即刻この場へ使いを馳せて詫びるが当然、それさえないところを見れば、ますます当家を見くびって、
「仰せの通り、前後の様子から察しまするに、
「言語道断、この忠房としては、桔梗河原の敗れをそそがんとするも、また、そちたちの仇討を援助するも、皆武門の正義に依るのじゃ。しかるに京極方に於いて、飽くまで大藩の威権をふるい、無礼
千浪も重蔵も、忠房の熱と、恩情に衝たれて、思わずはらはらと落涙した。君恩の勿体なさ、まこと、戦国の世でもあるなら、この君の為に死ぬであろうと思われる。
心の裡で、何か決したもののように、重蔵はややあって忠房の姿を見上げた。
「陪臣の仇討ごときことで、大公儀のご正判まで煩わしましては余りに畏れ多い次第、何卒今宵はこのままお暇下しおかれとう存じまする」
「玄蕃が浪々のうちはとにかく、京極家という後ろ楯のついた今日、当家を去って誰を力に本懐を遂げる
「こうなりましては、何の手段もござりませぬ。ただ正義を
「ふウむ……」
忠房はちょっと小首を
「これより私一人にて、京極の屋敷に推参なし、正邪の理を説き、玄蕃を尋常に渡すや否や、まことを尽して懸合いを試みまする」
「しかし、彼に理非曲直を聞き分ける襟度もなく、飽くまで玄蕃を匿い立て致す時には何とするな」
「元々この重蔵は、ご城下
「さすがは健気な言い分――」
忠房は鞍壺をポンと叩いて、聞くだに胸が
「しかし重蔵」
と、言葉を更えた。
「はッ」
「その意気は
忠房は近習にも言い含めて、無理に二人を愛宕の下屋敷へ連れ戻った。――後は
と――羅漢堂の後ろから、静かに姿を現わした者がある。さっきから、じっとそこに息を殺していた春日新九郎だった。
今夜という今夜、彼には珍しく酒の気もなかった。酒の気のない新九郎は、昔ながらの純情な人間だ。
「ああ、お痛わしい……、兄上、千浪殿」
爪先伸びをして、遠い闇の裡を見送ったが、忠房主従の影も二人の姿も、もう間近い所には見えなかった。
始終のいきさつは、最前からの様子や、途切れ途切れの話し声で、新九郎にも残らず読めていたことであろう。
「千浪どの、兄上、おお兄上――その大月玄蕃は、新九郎がきっと討って差し上げますゆえ、どうぞ一日も早く、郷里へ帰って静かに余生をお送り下さいまし」
人目もなし、聞く人もない闇の裡に、新九郎は心の底から良心の叫びを上げた。そしてその後ろ影を伏し拝んでいたが、やがて、
縄すだれに
そろそろ油が心細くなりかけた軒行燈の下に、四、五本の六尺棒が寄せかけてあるのや、縁台の上に笠、提灯箱、
ここは、丹後宮津城の
「しかし秋山、貴公は今日返り新参になられた、大月玄蕃様のお顔を見受けたかい」
「ウム、夕刻殿様へお目見得で、お錠口へかかる時チラと見受けたよ、大分永い間ご浪人していたそうだが、さすがに昔山陰で鳴らしたご指南番、どうしてなかなかお立派なものだ」
「殿様は先程中屋敷へお越しになって、後は一同へご
「それを思うと吾々は、殿様を中屋敷へお送りした上、手銭手酌で、味気ない
「はッははははは、腕前さえあれば、百石千石も望み次第、遠慮なしになるがよいではないか」
「なれぬと思うて
「
足軽組の方でこんな声が湧き立った時、その話を耳にして、片隅からひょいと後ろを振顧った一人の浪人がある。
見ると、外桜田から姿を消した新九郎だ。
さっきは酒の気がなかったと思うと、今はもうここで一升あまりペロリと
「アアいけねえ、少しこぼれて来やがった……」
とば口にいた
「なに降って来たか?」
今までしきりにしゃべっていた足軽の秋山大助という男。それを聞くと何か用事を思い出したと見えて、そそくさと、壁に吊るしてあった合羽を引っかけ、竹の子笠を申訳に頭へ乗せてヒョロヒョロ門を出て行く様子。
と――うっかり居眠りの頬杖を
雨と言っても、ほんの微かなこぼれ雨、大助は表詰の者と見えて、通用門には入らず、ずっと石垣の塀腰をまわって、表門の方へ
「うむ!」
きっと身固めをした春日新九郎、スススス……と闇を小走りに行ったなと思うと、秋山大助の襟がみをむずと掴んで、
「待て!」
と後ろへもんどり打たせた。
「あッ……」
「えいッ」
当て身の一突き――大助は苦もなくそれで横倒れになる。新九郎はあたりを見廻して、合羽、竹の子笠、門鑑の三つを
「うウい……」
またよろよろとした足どりで、
「ご門番、ご門番、う、うウい……、お、お願いでござる」
袖門の戸を遠慮なく叩いた。
「何者じゃ」
「ああ、きつい酩酊、ご門番はいかがされた。――お願いでござる。お願いでござる……」
「うるさい奴じゃ、何者か名を申さぬうちは開門ならん」
「足軽、秋山大助でござる……」
「秋山大助、また飲んだくれて帰りおったか」
横にかぶった竹の子笠、肩に掛けたばかりの合羽姿を、よくも見ないで、門番は例の呑んだくれな足軽かと苦笑して通してしまった。
春日新九郎は、してやったりと心の
右手に続いた墨塗羽目の建物は、表役人の
植込の中を

物蔭に
姿こそ、昨日の
「ウーム、いたな!」
新九郎はジリジリと、
「ここではまずい――」
そう思ったのだ。
そして、しばらく様子の変化を待っていると、他の者は召使の迎えもあり、馴染みの小者もあるので、傘や
新九郎は、笠を
「大月様――」
「ウム、何じゃな」
「雨具のご用意を致して参りました」
「おお大儀じゃ」
玄蕃は何の気もなく、
「困り抜いていたところをよく気がついてくれた。この
「足軽、秋山大助と申します」
作り声ではあるし、笠を眉深にした顔は暗いので、玄蕃も、これが春日新九郎とは、夢にも思わぬのであった。
「ウム、秋山大助というか、拙者も今日より、当分ご邸内に住まうことに相成った。お役の
「有難う存じまする、まだお屋敷内の様子もご案内なかろうと存じますゆえ、その辺までお送り申して参りましょう」
「夜更けているのに気の毒じゃの」
玄蕃は、新九郎が
新九郎に取っては、もっけな場所へ出たのであるが、玄蕃は、少し不審を抱きはじめて、
「これ、大助」
と立ち淀んだ。
「へい」
「昼のうち承ったお長屋の方角とは、どうやら少し方角が違いはせぬか」
「ははははは、少しどころか、ここはまるっきりの見当違い」
「して此方を、それと知りつつ、一体何処へ案内する気じゃ」
「おお、八大地獄へ導いてつかわすのだ!」
「な、なんだとッ」
「珍らしや大月玄蕃、柳原土手では取逃がしたが、今宵こそ
地声を現した新九郎は、大音声と共に竹の子笠を
「ややッ――さては」
と、驚愕の余りに、足駄を踏み
「ウーム、さてはおのれは新九郎であったか、姿を変えてこの邸内に入り込み、此方の不意を狙うとは卑怯至極」
「いいや卑怯とは汝のこと、今宵弁慶堀で仇討の作法を踏むと誓言を立てておきながら、約束の場所にも臨まず、京極家の
「黙れ黙れ、たとえ何と申そうが、其方と勝負はならぬ」
「なに勝負はならぬと?」
「おお、昨日までは
「ええ
新九郎は叩きつけるような伝法口調になって、
「こっちのお慈悲で、武家作法を踏んでやりゃあつけ上がって、卑怯未練な逃げ口上、春日新九郎と名乗ればこそ、尋常な勝負をしようというものだが、あぶれ者の御曹子と出変れば、順序も
「おのれ場所柄をも
「ちぇッ、どこまできたねえ世まい言を並べているんだ、いい加減に往生をしてしまえ」
「待てッ、待て新九郎!」
「ふざけやがるなッ」
「待てッ」
「ええいッ!」
と喉を破った一喝とともに、
わずか五年前には、山陰無類の腰抜け者と言われた新九郎が、今では武士と侠客両面の浪人伝法となり、その当時、剣名四隣を圧した大月玄蕃なるものが、臆病未練な悲鳴を揚げる――変れば変るものである。
殊に今宵の玄蕃には、折角立身出世の
それに、柳原土手で、はしなくも新九郎と
その気持があったため、玄蕃は散々逃口上を試みたが、その舌先の
「方々、
必死の大声をふり
しかし、塀の中とは思われぬ程な広さ。御殿の方へも表口へもその声は届きそうにもなかった。
新九郎は
「往生際の悪い奴めがッ」
いきなり颯然と銀光の輪を描いて、躍りかかりに斬りつけた。――はッと思うと、玄蕃は
飛燕の如く新九郎の体が跳ぶ――
斬り辷った大月玄蕃は、あだかも抜手を切って泳いだように体と刀が蛇身に伸び込んだ。
「えいッ」
と同時に新九郎の気合、パチンと紫色の火花が散る――と思うと二、三合、シュッシュッと
こうなると大月玄蕃には、衆を
「ええい!」
面を打つ含み
「おおッ」
と新九郎の気合返し。鍔と鍔は
すると、その時あなたの築山辺りに、ポチリと泛かみ出した提灯の影、また泉水の八ツ橋にも、あっちこっちの木蔭からも――。
「玄蕃殿がお見えなさらぬ。大月氏は如何なされた」
しきりに呼び立てている家中の侍、見る間にここへ指して近づいて来る気配である。新九郎は
「たッ……」
と玄蕃も押しこらえる。はずすか押負けたが最後、対手の刀がズバリと来る間髪の争いである。と、もうすぐそこへ提灯を振って来た一人の侍が、この態を見るや仰天して、
「おのれッ」
横合から、新九郎を据物斬りに狙って来た。そのままじっとしていれば、人形の如く真っ二つになるのは必然だ。しまった! と思ったが是非なくピューッと
瞬間の変化に、虚空を斬った横合いの侍は、玄蕃の太刀の背へ重ね打に刃を落した。その咄嗟に新九郎は奮然と立て直って、あっと、逃げ退く小侍の脇腹へ横薙ぎの一刀をくれ、返す血刀を揮って玄蕃の正面から息も吐かさずに斬りつけ斬りつけして行った。
受ける、
「ぷウッ……」
玄蕃は、唇から血を吹いて物凄い形相。そして左の
「大月玄蕃殿の姿が見えぬ」
という声は、誰の口からともなく、今度は、
「奥庭に曲者が入り込みましたぞ、お出合いなされ、お出合いなされ」
という物々しい叫びと変った。
折から、太守丹後守は、宵に中屋敷へ行っていて、家老溝口伊予がお留守の
伊予は、時ならぬ騒動を知るや、
「
と、青嵐の間の
「これこれ、それへ参るは石谷
声せわしく呼び立てた。
「おおご家老様」
駈け過ぎようとした一人の若侍が、息を
「曲者は多人数か、ただしは一名か」
「相手はどうやらただ一人のようでござります」
「
叱り飛ばしているところへ、また、血相を変えて飛んで来た若侍の四、五人。ばらばらと廊下先へ両手をついて、
「ご家老様、一大事が
「なに、曲者の他に、また何ぞ椿事が起ったか」
「いえ、その曲者の
「やや玄蕃が!」
「しかも、胴体ばかり無残に打ち捨てられてあって、首は曲者が持ち去った形跡でござります」
「ウーム……」
溝口伊予は
当の相手は、首を掻ッ切った上、それを包み去ったものと見えて、玄蕃の定紋付きの片袖がちぎり取られてあった。
吾から玄蕃の返り新参を推挙して、松平家に対する太守丹後守の横意地を
殊に、その下手人まで取逃がしたとあっては丹後守の機嫌斜めなること明らかだ。
「それッ、一刻も早く手分けを致して曲者を探し出せ」
彼は、自己の危急存亡であるように騒ぎ出した。
提灯の火は邸内の
ちょうど、溝口伊予や七、八名の騎馬侍が、山手を下って芝の辺りへかかって来ると、まだ人通りもない町並に、一軒の酒屋が戸を開けていた。――酒屋の者は、物々しい馬蹄の音を聞くと慌てて戸を締めようとする風なので一同は、それッとばかり馬から降りて店の中へ
抜身脅しの詮議の結果、もう一刻程前に、血と泥と雨にまみれた一人の浪人が、この店を叩き起して、一
そして、その浪人というのは、御曹子の新九郎だという註までつけ加えたので、さては、春日重蔵の弟の
春日新九郎は気が狂いそうだ。
何だか滅茶滅茶にうれしい、うれしくってうれしくって彼は気が狂いそうだ。
京極家の上屋敷を
朝風衝いて新九郎はどんどん走った。玄蕃の首を横に抱えて夢中に走った。駈けてるうちに、このまま歓喜の雲に乗って天上するようなうれしさだった。
兄の重蔵にこの首を見せたらば――また千浪にこの首を見せたならば――どんなに二人が満足するだろう、うれし涙をこぼすだろう。
けれど、二人に会うことは出来ない。
上野の寒松院ヶ原で巡り会った時、面目なさの余り、二度と今生では会うまいという手紙を二人の手に届けてある。玄蕃を討ったからと言って、過去の罪が消える訳でもなし、自分が堕落から
会わなくともいい、このまま二人に会わなくとも、これで幾分か自分の気が安らぐ。大月玄蕃さえ世に亡き者となれば、兄は郷里の月巣庵で余生を
それで満足だ。終生会わなくとも、兄と千浪がそうなってくれさえすれば自分は満足だ。
うれしいぞ、うれしいぞ、こんなうれしい朝はない。
そして自分は、どうせ腐れ縁となった御方とは切れぬ仲だ。なるようになって、終るように終るだけのことだ。昨夜やッたことが自分の器量いっぱいなのだ。この上、鐘巻自斎を打ち込むなんていうことは、三度も生れ変らなければ出来ッこない。
新九郎は息もつかずに走りながら、胸の裡でこんなことをちぎれちぎれに考えた。
またたくうちに、愛宕の松平忠房の下屋敷まで駈けて来た。そこで彼は、あらましの次第を
門番を叩き起して託すがいいか、それともそッと塀の中へ抛り込んで置こうか? ……
彼が、松平家の鋲門の前を、とつおいつして迷っている頃、早くも、芝田村町の角を曲った京極家の家臣七騎は、
追手の武士七人の
こうしておけば、必ずやこの下屋敷の中にいる兄と千浪の手へ、それが渡されるに違いないと思った。――とむこうから、
「おッ曲者はあれだ」
「
と
途端に、面前十間と隔てぬ所へ、蹄を止めた京極方の武士達が、バラバラと馬の鞍壺から跳び降りて、大刀の鞘を抜き連れるや否、左右正面の三方包み、鉄刀の矢来を作ってかかって来た。
鋲金具の屋敷門を後ろ楯に、水の
「さッ来い――」
と息をひそめて待ち構えた。
しかし、さすがにその計りがたい
「ええ、何を猶予しているのじゃ」
討手の先頭である溝口伊予は、その時、自身から真っ先に新九郎へ一太刀入れた。同時に刃交ぜの機が熟したか、どッと
すると、不意に松平家の袖門が中からさッと開いて、樫の六尺棒を引っ抱えた
「それッ、ご門前に於いて立ち騒ぐ浪人ばらを片ッ端から打ちのめしてしまえ!」
と叫びながら、京極家の者と名乗るにも耳をかさず、当るに任せて滅多打ちに撲り立てた。
あわてふためいた京極方は、散々になって追い廻されたが、新九郎の身は反対に、六尺棒の渦に巻き込まれたまま袖門の中へ吸い込まれてしまった。でも、彼は無理に外へ躍り出そうとしたが、咄嗟に、門の扉は固く閉められ、内から厳重な
溝口伊予は烈火の如く怒って、再びそこへ引っ返し、激しい声で呶鳴り立てた。
「やあ心得ぬ仕打ち、如何なるわけで狼藉者を
すると、松平家の者もまた、門の中から声に応じて、
「いや、断じて渡すことは相成らん。いつまでもその辺にまごまご致していると、
「おのれ、無礼な挨拶、
「おお面白い、宮津の城主が何者だ、ご当家たりとも関ヶ原以来いまだかつて武門におくれを取った例しのない松平家。どんな手段でも勝手にとって参るがいい」
「ウーム、よくも広言を
溝口以下の者は、
春日新九郎ただ一人のために、
多年、積もり積もって来た両家確執の火が、ここに噴煙を揚げてしまったので、老臣の分別や重役の
けれど、そんな大騒動をお膝もとで起すことは、江戸の周囲が
一方、愛宕の下屋敷の奥では、松平忠房が無理に新九郎を招いて逢っているところであった。忠房は深い事情を知らず、ただ彼が単身京極家へ斬り込んで、玄蕃の首を引っさげてきたことに無性な快を感じ、積年の溜飲を一時に下げている
けれど同席の重蔵は、玄蕃の首を見ても一向に喜ばず、またこの上は早く郷里へ帰って静養するようにと
そして、言葉もかけず
「お前のような弟に
と
ところへ
喬朝の使者も、新九郎を縄つきで渡すか、あるいは、切腹させるかの二つの条件を前提として、更にこう附け足して言った。
「もし、ご承知のない場合は、血の雨を降らすまでもと京極家では息巻いている。両家の善悪はとにかく、かりそめにも、御府内でそんな大事を惹き起すようになっては天下の不祥事。また、松平家ともあるものが、微々たる浪人者を
口上はいかにも穏当な調停に似ているが、実は非常な強迫を含んでいる。
なぜかと言えば、京極家
と言って、売られる喧嘩を買うことには、言い分も立つが、老中の調停を退けて、京極家と血の雨を見ることは、自ら非を求めるようにもなる。
忠房は、家臣が応接している使者の口上を、
「今日は他に取り込みごともござりますゆえ、いずれ明朝には、必らず当人に腹切らせて首をお渡し申すでござろう」
それを聞くと、使者は、余りたやすく要求をきかれたのに、かえって不安を覚えたらしく、
「では、明朝は相違なく、拙者と京極家の者が立会いに参りますが、ご異存はないのでござるな」
「承知いたしました。きっとお待ちうけ申しまする」
「神妙なご挨拶、定めし、御老中にも満足なさることでござろう」
とは言ったが、使いの者は、案外腰の
使者が帰ると、忠房は忘れたように、酒肴を命じて春日兄弟をもてなした。いつもなら酒を飲むというより、酒に吸い込まれて行くような新九郎も、今の話を洩れ聞き、兄や千浪を前にしては盃をとる気力もなかった。
「新九郎、なぜ過ごさぬのじゃ」
「はっ……」
「重蔵もちと相手をしてやったらどうじゃ。京極家からあのような懸合いが参ったからとて、別段驚くことはない」
忠房は快活に笑った。
「日が暮れたら、夜に紛れて新九郎は当屋敷を落ちのびてしまうがよい。これは玄蕃めを
「殿様――」
その時、新九郎はズイと膝を進めた。
「お、何じゃ」
「お別れでござります……、初めてお目通りを得ました新九郎も、また今宵を限りにお別れと相成りまする」
「ウム別れじゃの……したが、そちは必ず、当家の迷惑を顧慮して、京極家などへ身を捨てに参るなよ」
「えっ……」
新九郎は、胸の裡を
「よいか……たしかそちには、鐘巻自斎を打ち込んで、桔梗河原の汚辱をそそいでくれる大役があった筈じゃ。予はそれだけが心待ちでならぬ。それまで、如何なる恥かしめを京極家から受けてもジッと忍んでいる忠房じゃ」
「は……はい」
新九郎は面を上げることができなかった。――いや、彼自身の苦痛より、側にいた千浪と重蔵の方が、より以上の苦痛を覚えているであろう。忠房はさらに新九郎を見据えて、
「聞いての通りな次第で、そちの身には危険が迫っている。殊に大事な大望を抱く体、この上とも修行に精進してくれい。そして夜に入ったら、密かに裏門から
忠房はこう言って、奥の居間へ姿を隠してしまった。――と、重蔵も千浪に

あとにただ一人取り残された新九郎は、寂然と
新九郎はさっき心の裡で、密かに死を決したのだ。
にもかかわらず、鐘巻自斎という名を聞くと身が
夜来の疲れが出たのか、酒に性根を現してきたのか、彼はやがて袖部屋の隅にゴロリと身を横たえて、雷のような
忠房から、夜半にこの屋敷を落すようにいいつけられていた重蔵も千浪も無論彼を起しには来なかった。で新九郎は、身動きもせず夜明けまで寝込んでいたが、やがてムックリ起き上がると、庭へ出て泉水に
と――暁方の
「新九郎様……新九郎様……」
と二声ほど呼んだ。
「お……、千浪殿か」
彼は、それが女の声なのを知ってこう言った。千浪が来てくれたなら幸いである。彼女も決して自分の最期を止めはしまい。松平家の存亡の為、また忠房の信頼を裏切っている謝罪だけでも今新九郎の死すべきわけは充分にある。それと、何より彼の菩提心に気懸りとなるのは身の不自由な兄の半生。その後事を千浪に
「千浪殿か」――と呼んで、新九郎は抜きかけた脇差を押しのけ、しばらく聞き耳を澄ましていたが、それっきり何の答えもないので、また重ねて、
「お呼びなされたのは千浪殿ではないか」
と
「いいえ……」
さやさやと寄って来た
「…………」
彼は
そこへ寄って来たのは、意外にも
「もし……」御方は更に身を摺り寄せて、迫るように男の瞳をみつめた。
「お前様は、何で自害なされます? いいえ、その事情は大概分っておりますが、
「分っている? ……」
新九郎は怪しむ如き色を濃くして反問した。けれど、
「ええ、何もかも分っておりまする。お前様の心では、ここで死ぬのが花とも本望ともお思いなさるか知らぬけれど、捨て残されるこの光子はどうなるのでござりますえ。……新九郎様、二人の仲はそんな約束でありましたか」
御方はまた例の執拗にして粘り強い恋の糸を繰り出して、新九郎の意志をも身をも巻き悩ます。そして、男はいつもその魅惑に弱かった。
「今となって、松平家の為に命を捨てたところで、お前様の汚名が失せ、立派な武士道が立つ訳でもござりますまい。それはほんの、千浪とやらいう
「え、ここを
「元より、お前様が武士道を捨て世間を捨てる代りに、妾も栄耀や屋敷を振り捨てて、どこぞの片田舎に隠れて楽しく暮らす約束ではござりませぬか」
「オオ、そりゃたしかに約束もした……武士を捨てようとも言った。……だが、いかに新九郎が未練者でも、今となって何でそんなことができるものか」
「いいえ、できぬことはござりませぬ。世間を捨てた恋の二人に、義理もなければ
恋の盲目は何をするか分らない――殊に御方は公卿出の
と思うと、御方はまた手を代えて、さまざまに掻き口説いたり、見るも悩ましい
新九郎は遂に弱い男であった――彼は勝てなかった。
「ままよ、御方の言う通り、なまじ半端な武士道を立てて見たところで、一度極道へ落ちた新九郎が、どうなるものでもありゃあしない……」
ふっと気が変って見ると、
「お! 姿を隠すなら今のうちだ」
新九郎は、不意に
「えッ、では妾の云う通りにしてくれますか」
「愚図愚図していると、今朝は御老中の使者と京極家の侍が、拙者の首を受け取りに来る筈だ。それに、また兄上や千浪の姿を見ると所詮生きちゃあいられない気になるからの……オオ、それはさて
「この奥庭を突き抜けると、あの崖下で竹の垣根囲いになっている所がありまする。妾もそこから忍んで来たことゆえ、出るには何の造作もないこと」
「だが、屋敷の者が起き出してはこと面倒、そう極まったらすこしも早く行くとしよう」
数寄屋の縁を降りた二人が、斜めに庭を突ッ切って急ぎだすと不意に後ろから、ばたばたとそれを追いかけて行った者がある。
五、六間やり過ごして、新九郎の後ろへ跳びかかるが早いか、いきなり
「新九郎! 覚悟」
とばかり抜き討ちに斬りつけた。
「やッ!」
ひらりと身を捻った新九郎は、目の前へさッと落ちた白刃を見るや否、相手の
「や! 貴方は兄上」
「オオ、重蔵じゃッ、新九郎……そちは、そちは……ええ何という浅ましい奴じゃ」
重蔵の声は
「これ、そちは一体、何が故に大月玄蕃などを討って当お
あらん限りの力をこめて言うので、重蔵は息も
「――のみならず、前後の
声涙ともに下って、彼は後を
「……したが、
「兄上、面目次第もござりませぬ……」
新九郎はじっと首を垂れて、兄の腕頸を抱えたまま、その手に持つ白刃の
御方も共に、いつか物蔭に身を隠して、秋の虫の音を聞きでもするように、樹の幹へ背をもたせかけて、思わず耳を澄ましたのも、重蔵の胸衝つ言葉の力であろう。――彼はまだ存分に言い足らぬが如く、すぐ新九郎に言い返して、
「面目ないという了見があったら、なぜせめて最期だけでも見事にせぬのじゃ。たかが一婦人の艶色に
「あ、兄上、しばらくご猶予下さいませ……」
「だまれ、未練な奴めが」
振りほどかれて、足許へ伏しくずれる新九郎。
重蔵は構わずさッと大刀をふり上げて、真っ二ツになれと斬り下げた。新九郎は無意識に身をかわした。
「兄上ッ」
と片手を構えて何か言おうとすると、
「おのれ、兄に手むかいするか」
重蔵は更に
足こそ不自由なれ、その昔は大月玄蕃に対峙した重蔵の切ッ尖、息をつく間もない上に、新九郎は兄がその足をつまずかせてはと思い、間違って
「これッ、弟――」
重蔵は左手でしッかと新九郎の
「
「兄上……」
喉を締められながら、下から蒼白い顔を向けた。
「か、観念仕りました……ご成敗下さい」
「ウム、覚悟がついたか」
「千浪殿を他家へ縁づけて下さいまし。兄上にもご壮健に……もう心残りはござりませぬ」
「よく申した、今生の別れに兄の
「はい……」
今ぞと見上げる弟の眸と、兄の眸とがジイとみつめ合った刹那――
新九郎は玉の緒のきれた
「おおッ!」
新九郎が真ッ赤な姿で、兄の体を抱き起しているところへ、息をきって駈けて来たのは千浪であった。――なおその後から、太守の忠房も
「し、新九郎……新九郎はおらぬか……」
と苦しげな息で弟を招いた。新九郎は跳びつくように、
「兄上、この弟をご成敗なさらずに、なぜご自害なされたのでござりますぞ」
その前へ両手をついた。
「どう思案いたしても、そ、そ、そなたを殺すことは出来ぬからじゃ……兄の切腹は、今思いついたことではない、昨日から……こ、こころの裡で覚悟していたことなのだ……」
「えっ、では兄上には、昨日からこの新九郎に代ってお命を捨てるお心でござりましたか」
「弟ッ……」
重蔵は
「お前を生かしておいて、こ、この……兄が死んで行く気持が分るか。それは……鐘巻自斎を打ち込んでご当家の恥辱をそそぐ者は、ど、どうしても、この世の中にそちより他にないからだ。拙者は不具……残念ながら
「…………」
「新九郎、返辞はできぬのか――兄を犬死させる気か」
「兄上ッ」新九郎は男泣きにかぶりついて、
「致します、きッと致しまする」
「うむ! ……」満足らしく微笑した重蔵は、脇腹の血刀を抜いて、吾と吾が喉へ持って来ながら、
「それでこそ私の弟、あの世で楽しみにしておるぞ」
「必らずご覧下さいまし。今日という今日、新九郎の永い迷夢も
「オオ……皆様、おさらばでござる」
がくり
白扇を開いて、涙の顔を隠していた忠房、それを取って読み
千浪と新九郎の歎きは言うまでもなく、忠房も家中の侍も、みな重蔵の誠忠と弟に対する恩愛の深さに貰い泣きした。
間もなく老中秋元
ところが、今日も案外容易に、下手人の首を渡したので、京極方ではいよいよ松平家が威光に怖れたものと得意になった。無論、首は検分の形式をとって受け取ったのだけれど、誰も深く新九郎の相貌を知る者はなく、およそのうろ覚えで受け取って行ったのは、実は兄の重蔵の首だったことは言うまでもない。
その一時の混雑のうちに、御方はいつか裏崖から植木屋弥平の隠れ家へ戻っていた。そして彼女はその日の午後に、ちょうど駕をもって迎えに来た姉の[#「姉の」はママ]通子の方と同道して、
この騒動の噂も下火になったころ、
それは新九郎だった。――武家侠客御曹子の名を
彼は小半
鐘巻自斎! 鐘巻自斎! 今日からその名が怖ろしいものであってはならない。彼の指して行く行くてはいずことも分らないが、目ざす生涯の
信州美濃の山境、木曾の
大妻籠の峰から落つる
初めは、いかに気合いを
月
ところが、つい近頃、変り者にまた一人の変り者がふえた。
それはこの木曾路を通りかかった江戸弁のいなせな旅人で、前からの知り合いか、妻籠峠で旅合羽を捨て、山稼ぎの馬子の群に入って、ひたすら行者の世話をして
「あの変り者は兄弟かしら、それとも主従だろうか」
「いや、気狂い同士で気が合ったのだろう」
などと、里の噂にまた花が咲く。
が、行者は相変らず一心不乱、旅の者から馬子になった男も、日ごとに
×
その日はちょうどジリジリ照りの土用太郎。
広瀬の
と、すぐその後から、追い着くように急ぐ女二人の旅人。
「お、今、チラとこっちを見た
「と仰っしゃったところで、会わせたいお方がここにいないでは、何もならないではござりませぬか」
「でもせめて、落ち着く先の居所だけでも聞いて、新九郎様にお知らせ申したいものでござります」
「さ、その新九郎様の行方は、こうして二人で尋ねている矢先、アアままにならぬもの……」
追い疲れたか、ホッと足を緩めていると、道中つきものの駕屋が、目ばやくこの美しい二人を見つけて群がった。
「もし、お女中がた、どうせ妻籠越えにかかるんでしょう。駕を使っておくんなさい。男なら馬もいいが、あなたがたじゃ駕より他にありませんぜ」
「要りません、麓の立場でゆるゆると休んだ上のことにする心算ですから」
「じゃ立場までやッて、息次ぎとしようじゃありませんか。オイ、早くもう一挺来い、乗って下さるとよ」
「これ、要らぬと申しているのに」
「要らねえたッて、大妻籠四里の山の中を、女の足で歩く訳にも行きますめえ。さ、乗っておくんなさい」
「うるさい下郎じゃ、そのような駕には乗らぬ」
「なに下郎だと」
「…………」
年上女らしい女は、口をつぐんで、クルリと後ろ向きになり、並木の風を入れている。
「やい、てめえは何様か知らねえが、下郎と言ったなあ聞き捨てにならねえ、さ、ここにいる仲間一同へ両手をついて詫びればよし」
「さもなくば何としやる気? ――」
「おや、この
飛びかかって紅緒の笠べりをバリッと掴むと、女は下からポンと小手を払って、あッと見る間に腰をすくって、大の男をもんどり打たせた。
「うぬッ、洒落たまねをッ――」
続いて唸り込んだ三本の息杖、カラリッと虚空に鳴ったのは女の杖に弾き返された一本が、クルリと宙に舞って飛んだのだ。
「あ痛ッ」
「畜生、覚えていやがれ!」
と、捨て
「ホホホホホホ、これで雲助どもを
年下の方を振り顧って、動悸もさせずに笑ったのは、むしろ
連れはと見ると、意外にも、千浪であった。
松平忠房の下屋敷を最後として、皆ちりぢりになってから早くも三年の月日が過ぎている今。千浪も虚無僧当時の乙女でなく、御方も早や
「ほんとに、貴女様のお手並で、気強い道中ができまする」
「なんの、対手がいつも駕かきずれの者ゆえよいようなものの、大勢の山賊にでも出会うたら、とてもこうは参りますまい」
「私のために、思えば飛んだご苦労をかけまする」
「いえいえ、これが妾の罪ほろぼし、重蔵様のご最期の言葉に、初めて迷いの夢をさましたこの身が、ふッつり新九郎様を思い切ったという
と、御方の言葉は、生れかわっているように違っていた。
弟思いの重蔵の一死に、新九郎が溺れかけた
自分独りの愛慾のために、新九郎を日蔭者にさせ、
御方は、その後千浪に
もう三年……そして、新九郎の消息は更にない。
千浪の淋しい姿に痩せが見えた。御方は自分からすすめて、二人で旅に立つことにした。――今は自分の愛慾もなく
「オオ、思わぬことに暇どって、さっきの侍を見失ってしもうたが、いずれ立場へ行けば追いつかぬこともありますまい」
「ほんに、では千浪様、そろそろ参るとしましょうか」
笠を持ち直して急ぐ先に、間もなく、この木曾街道第一の難所、
先に立場へ着いた
と、吾れ勝ちに客を争う馬方が、手綱を振って五、六組も出て来たが、侍は中でも一番不馴れらしい馬方を指して、すぐ、鮮やかな身ごなしで鞍に乗った。
「まだ
「へい、登りの二里さえ越してしまえば、後は夕月を見てからでも、楽に落合の
「ウン、山中の幽翠を、鞍に揺られながら、この炎日を忘れて行くのが楽しみじゃ」
「そりゃもう、
「おお、やってくれい」
ピシリと、手綱のこぶしで一鞭くれると、馬はやがて妻籠の緑蔭に隠れて行く。
馬方の眼が、キラリと光って、その文字と編笠の下から垂れた長髯とを見較べている気振り。でも、しばらくは黙々と山の中腹まで来たが、
「お侍さん」
と、不意に歯切れのいいところで振り顧った。
「何じゃ」
武士も疲れた眼を休ませる。
「失礼だが、旦那は剣術使いというやつだね。年中、やッとうを商売に、諸国を遍歴している武芸者でしょうが」
「ふふ……まあそんな者かも知れぬな」
「ところで、ご生地はどちらでございますねえ」
「つかぬことを訊くではないか」
「ええ、ちょっと心当りがありやしてね」
「播州船坂山におった者じゃが……何か、そちもあの辺の者でもあるか」
「なアに、わっしはこれでも江戸ッ子です。――すると旦那は、今から七、八年前、桔梗河原の大試合に、春日重蔵という対手の者を打ち込んで、その片足を打ち挫いたことがありゃしませんか」
「おう、よう存じておるの」
「じゃ、てめえは鐘巻自斎だな?」
馬方の男は、いきなり手綱をグイと曳き詰めて、馬上の侍をハッタと睨んだ。と同じように、長髯の武士――即ち鐘巻自斎も、読みかけの「剣術不識篇」を
「いかにも拙者は、その時の鐘巻自斎に相違ないが、それが一体何といたした」
「ウム、てめえが自斎らしいたあ、その髯と風態で立場から感づいていたんだが、はッきり分った以上は、もう一
「だまれ、この山中へさしかかって、馬を出さぬとは理不尽な言いがかり」
「いけねえいけねえ、何と言おうと、汝が鐘巻自斎と聞いちゃ、一刻もこの馬は貸しておけねえんだ。さ、今に目にもの見せてやるから、鞍を降りてしばらくそこに待っていろ!」
言うが早いか、馬方は
と、行く手に
「待てッ」
自斎は鋭い声を投げた。道中馬の背から跳んだ彼の体は、疾風を衝いて怪しげな男の後ろへ追いかかった。
馬方は雑草の根に足をすくわれて、一、二度勢いよく転んだが、脱兎の如く逃げ廻って、ばらばらと女滝の岩頭に駈け登った。
「オーイ!」
彼はそこで必死に誰かを呼ぼうとしたが、追いついて来た自斎の
「これッ、仔細を言え、何ぞわけがあろう」
「その訳は今知らしてやる!」
「待てッ、まだ逃げるか」
「べら棒め、逃げるんじゃねえから待っていろ」
二度目に掴まれた襟元を引ッぱずして、あッという間に男は女滝の
が、彼の体は、
「はて、山稼ぎの賊とも見えぬが、不思議な奴……」
自斎は編笠のふちを押さえて、上からそれを見降ろしていたが、サッと足もとから吹き上げてくる一陣の冷風と共に、白霧
一方、雑木の茂みの中を
「もし、新九郎さま、新九郎さま!」
と、息
「おう!」
と答えた声は、白浪
「おウい、新九郎さま――」
はたと振鈴の音がやんだ。
「何じゃ、こんがら!」
「早く滝壺から上っておいでなせえ」
「
「その毎日の
「なに、一大事と?」
「こんがらの重兵衛が、こう
「ウム、ではとにかく、それへ参って聞くとしよう」
白衣の行者は、やおら滝壺を這い上がって、水を含んだ黒髪を絞って後ろへ束ね、袖から
毎日、滝を浴びては
ただ、

「唯事でないとは心もとない、一体何事が起ったのじゃ」
鈴を膝に乗せて木の根へ掛けた。
「新九郎さまの御一念が、天に通じたというものか、今日、
「えッ! では鐘巻自斎が」
「そうです。さ、新九郎さま、この上は一刻も早く、上へ登って尋常の勝負とお出かけなせえ、
「ウーム、忝けない……」
思わず合掌して天を拝した行者――それは言うまでもなく春日新九郎だ。
ああ、人は昔に変らぬ新九郎だが、兄重蔵の一死に迷夢を
「
と、先に立ったこんがら重兵衛とは、新九郎が御曹子の売り出し当時、兄弟分せいたかと力を協せて、親分生不動の仕返しをしたかのいなせだ。
柳原土手の小雨の晩、新九郎の腕を借りて、首尾よく
こん度はこッちで恩を返す番だ――こんがらは旅合羽を脱いで、新九郎が大願を遂げるまでこの山に籠ると決めた。そして、昼は馬方になって宿からこの大妻籠を帳場として稼ぎ、夜は、里から買って来た食べ物などを
時こそ来れと、二人が勇み立ったのも当然。
山陰の一城下を出て、江戸の五年は空しくもあれ、重蔵の死後、この山奥に隠れて
「オオ、あれだ!」
元の所へ
「ウム、たしかに自斎」
バラバラと駈け寄った新九郎、いきなり抜き討ちをかけるような勢いで、
「しばらく!」
呼び止めておいてから、更に四、五尺の前まで近づいた。
「拙者をお呼びか――」
と不審な色。笠の
吾ながら、
「あいや鐘巻自斎! かく申す者は、小野忠雄の道場にて、
「おお!」
自斎はハタと
「月日の
「言うまでもないこと。
「ウム、さらばその後の上達ぶりを見てやろうか」
自斎は悠然と編笠の紐を解く。
ギラリと輝く明眸、
出た途端に、
「支度は済んだ、いざ、参ろうぞ!」
気殺! まず気をもって対手の胆を
が――新九郎の今日までの鍛練、さすがに、そのくらいなことでは
「むッ、参るぞ!」
ブーンと
見事につけ澄ました平青眼。
自斎の鉄扇も片手構えの相青眼。
「アア気が揉める、ただの喧嘩なら飛び出して後ろへ廻るがそうも行かねえ」
「
言ったところで縁の下の
「えーいッ」
その時、不意に
見ると、不動
「新九郎、もう勝負はついているぞ」
「なにッ」
「そちの疲れは七分の疲れ、拙者はまだ五分の余裕を持っている」
「だまれ、左様なことで勝負があったとは言わせぬ」
「真に、小野の道場で見た時よりは、驚くばかりの上達ぶり、必死の剣気、自得の工夫もたしかに見えるが、アア、まだまだこの鐘巻自斎を打ち込むは無理」
「ううむ、飽くまで拙者を見くびりおるな!」
憤然と打ち込もうとすれば、自斎の影は尺の鉄扇の影に隠れてまったく見えぬ――と、ツイとその鉄扇の邪魔がとれた。
「おおッ!」
真っ向に振りかぶった赤樫の木剣。自斎の手元へ五体と共に躍り込んでふり落すと、パチンと虚空に
「無念ッ――」
と身をひねって横に
「ははははは……」
と同時に高らかな笑い声。
ああ自斎は遂に、鬼魔か、神人か。
「ウーム、もうこれまで」
と跳ね起きた新九郎、いきなり腰の真剣を颯然と抜いて、物をも言わず斬りつけて来た。
「
かい潜りながら自斎が言った。
「狂気ではない、この上は真剣の果し合こそ望むところ、汝の命をとるか、この新九郎が真っ二つになるかまで!」
猛り立った彼の魂は、あたかも来国俊に乗りうつッたかのように、縦横無尽と風を斬ッて、ほとんどまばたきの隙もない。
「やッ、いよいよ本ものになりやがった」
こんがらもこの有様を見ると、馬の背につけておいた
「野郎、覚悟をしろ!」
とばかり斬りかけた。
乱刀二本の光を潜って、ピタリピタリと鉄扇できめつける自斎、まったく人間技ではない。
見る間に、こんがらは当て身を食った。その上、死力をこめて行く国俊の太刀も、どうした早技か、鉄扇に
気絶させた二人を置き放して、自斎は編笠を拾い取り、スタスタそこを立ち去ろうとしたが、ふと立ち止まって、
山ひだは濃い紺色をしッくりさせて、十七峯の空は、いつか夕雲華やかに流れ、木の間洩れの陽が山路を赤く染めている。
「おウい、行者殿、行者殿」
誰か耳もとで呼ぶ声に、ふと気がついた新九郎、まだ気が張り詰めているので、思わずムックリ眸を上げて見ると、眼の前にいるのは自斎ではなくて、麻の道服を
「かねてから、仔細ありげに思うていたが、さてはそういう大望を抱かれているお身の上であったか……、ウーム、しかしこれは容易ならぬことじゃ」
五社明神の
「お訊ねのまま、狂人がましき修業のわけをお話し仕りましたが、二度まで
導かれて、ここへ来た新九郎とこんがらは、左典の前に額ずいて、問わるるままに、つい大願苦行の目的を洩らしてしまった。
よそながら、常に新九郎の様子へ眼をつけていた老
「わしも若い頃は、少し木剣いじりを致したことがあるので、剣道の奥儀というものに達し難いことだけは知っている。殊に、播州船坂山の鐘巻自斎と言えば、
「では、如何なる苦行を積み、
「さればさ……」
左典は何か思案顔に、童顔の
拝殿の
「禰宜様、ご用がおすみなされましたら、奥のお方がお目にかかりたいと仰っしゃります」
「おお、あちらにも誰かお客人か」
「はい、悪い雲助に悩まされて、山駕に召されぬ旅のお女中が二人、一夜の宿を借りたいと仰っしゃいますので、裏のお小屋へご案内しておきました」
「そうか。女ばかりの旅では定めし難儀、ご親切にいたしてあげい」
「はい」
「わしは、もうしばらく後に奥へ行く……」
と左典は巫女の言伝てを返して、また新九郎の方へ向き直った。
「されば、御身が十年の修業を積めば、彼自斎も十年の工夫を進め、御身が二十年の奥儀に至ればかれまた二十年の奥儀を積む
「ご尤ともなお言葉、もとより粉骨砕身の
「オオ、その謙譲な心こそ、まだお身の腕が伸びる何よりの証拠。とは申せ、わしには何らの力もないが、その一心に
左典のいう神力とは何であるか、新九郎にもよく解せなかったが、仙味を帯びた老禰宜の風格には
「では、今宵の五更にまたお目にかかる……」
左典は客に会うべく奥へ消えた。後に残った新九郎は、何か神の示現でもうけたような気がして、しばらく恍惚としていると、側からこんがらが、
「新九郎様、何やら書物のようなものが、
と注意した。
「えっ……」
覚えのないことなので、ふと手をやって見ると、「剣秘不識篇」の一冊。
「はて、どうしてこんなものが、自分の懐に……」
と、怪しみながらパラパラと中を開いてみると、挿み紙の走り書きに、自斎の残した数行の文字。
=新九郎殿へ申す。今日のお働き実に見事 。まさに大円満の明鏡は研 き出されんとす。さりながら血気にはやる暴勇。功を急ぐの短所。ともすると一点の瑕瑾 たらんかをおそる。自愛一層の精進せられよ。余は、足かけ七年尋ね廻りし恩師富田五郎左衛門先生にも遂に巡りあわず、空しくこれより郷地播州船坂山の草庵に戻らんとす。ただ待つものは貴下の三度の訪れなり。さらば。
真夜中である。夏ながら大妻籠の山中、肌寒いような冷気にふと眼がさめる。裏小屋に泊った千浪と御方は、思わず枕から顔を上げた。
「何でございましょう、あの音は?」
「オオ、激しい気合の声もする……」
ポン、ポン、凄まじい木太刀の音、
二人は不思議に思って
見ると、白昼の如き神前に、
「まだ気力が足らん! 神心の
左典は鋭い声で
「えいッ――」
と新九郎は必死! おのれ鐘巻自斎! その意気込みで真っ向に打ち込む。
「やッ――」
と、受けたがその隙もなく、
「それ、無風剣……」
音もなく来る二の太刀。パキンと、引っぱずすとすぐ三の太刀。
「左風剣!」
「えいッ」
「右風剣!」
息もつかせず一刀ごとに追い詰めて、あわやと見る間に、藜の杖を横一文字に、サッと払った左典。
「えいッ、無極刀!」
その鋭さに、新九郎はハッと
「新九郎ッ、そちが自斎に打ち込まれた
「なにをッ」
木剣を眉間のあたりに半月に構え、左典の太極剣を
「あっ――」
身を避けながら、思わず軽い声を揚げると、それに気づいた左典と新九郎が、ひょいとこっちへ振り向いた。
「やや、あれにおるのは? ……」
御方が目をみはると、千浪もびっくりしたさまで、
「オオ尋ねるお人じゃ、新九郎さま、新九郎様ではござりませぬか」
思わず呼ぶと、月影を透かして、ジッとこっちを見た新九郎、ハッと今の身を忘れて、手の木剣をカラリと捨てた。
「千浪殿か――おお御方も!」
ばらばらと駈け寄ろうとする、――と後ろからその襟がみを掴んだ
「試合なかばによそへ心を奪われるばかりか、師礼を
「おお、では新九郎さまには、それ程までにご苦行なされて、自斎を打ち込むご一心でござりましたか……聞くだに嬉しいことでござります」
「その一心不乱の矢先に、お身達が姿を見せるのは悪魔の訪れも同様、何ごとも新九郎の為じゃ、このまま逢わずにお帰りなさい」
「一時のお痛わしさは後の欣び、夜の明け次第にここを立ち去りますが、今仰っしゃった新九郎さまへ秘剣をお授け下さるというお言葉は、まったくのことでござりまするか」
「なんで偽りがあろう、その儀は必ず、左典が引受けた。江戸へ帰って吉報をお待ちなさるがいい」
「アア、有難う存じます……」
千浪は我が達成のように欣んだ。そして、朝の光を見ると間もなく、御方と共に大妻籠の峰を降りた。
江戸表へ帰り着くと、千浪はすぐ
×
彩画をほどこした
「さあ、他ならぬ姉上様のお願いでござりますが……」
と、お通の方はさし
「大奥の者が、ご政道向きに口を出すことは、上様のきついご禁物でござりますから、そのようなことはお耳に入れてみてもどうかと存じまする」
「いえ、決してご政道に触れることではありませぬ。かえって松平家と京極家との永い
「それ程までに仰っしゃるなら、女の力でどうなるか存じませぬが、今日にも、
――こんな
しかし、それは当座でしばらく何の沙汰もなかったが、初秋の訪ずれそめた万治三年八月の二十日、御府外駒場野のお鷹地へ、将軍野遊のことが表役人へ仰せだされた。
例年やる駒場野のお
「京極家の某剣客とは誰であろう」
「イヤ、それよりも松平家にそんなすぐれた者があるだろうか」
「将軍家の出遊までうながした当日の野試合、定めし無双な剣客がお見出しに預ったのだろうが、松平家と京極家との対抗は、どうやら意味がありそうな張合いではないか」
両家のもつれを知る者は、これは只事の試合でないと、噂はいやが上に立って、在府の大名旗本の間、後には市中の町人にまで未曾有なことに
江戸の小野忠雄から急状が着いたのである。とにかく、この状着次第に出府してくれとのこと、用向の判断はつかないが、事態ただごとならぬ様子だけは文面に
「不思議じゃの……」
自斎は
「ことに依ると、富田五郎左衛門先生の居所でも知れたというのかな……足かけ七年山と言わず、峰と言わずお行方を尋ねあぐんだ五郎左衛門先生に、一目お逢い致すことが出来れば、富田流三剣の一秘刀、永い間求めている謎が解けるのだが……今度のこの便りであってくれればいいが」
思いきや、その想像は
彼が江戸に入った足で、すぐ小野派宗家の道場を訪ずれて、忠雄から聞いたところは、実に京極家の剣客として駒場野の御前試合に出よとの将軍家内命であった。
「して、
自斎はまッ先にそれを訊ねた。
「その昔、当道場にもしばらく居たことのある春日新九郎と申すもの」
「ウム、果たして彼でござったか!」
膝を打って快然と、
「余人とのことならば、たとえ将軍家のお声であろうと仰せは受けぬが、その新九郎となれば異存はござらぬ。
自斎江戸入りの知らせをうけて、京極家では賓客の礼をとって迎えの行列を出した。太守丹後守家中一同、揃って下へもおかぬ歓待。
「何とぞ大先生のお力をもって、当日、京極家の武名をご維持下さいますよう、その代りとしてこの度野試合にお勝ち下さいました節には、終生先生のご書料として五百石の
などと、老臣からの含みもあった。
「無論勝たねばならぬ!」
と自斎は思った。が、名利ではない、桔梗河原の時と違って、今度は天下の諸侯諸士が環視の晴れ場所。
柳生、小野、また江戸の名だたる剣客もよそながら注目しているであろう場所。やぶれを取っては富田三家の恥辱、また
程なくその日が来た。駒場野の御用屋敷からお鷹地の広野には、白い
既に将軍家は、
かくて、まさにその日の
旗本近藤
青芝を撫でるソヨ風に、きッと鉢巻を結んだ
時も同じに、松平忠房の
審判見届けとして、双方から介添の家臣が来て、東西の床几に腰を据えると、近藤甲子之助が立って厳かに二人へ言った。
「今日の試合は、
これは審判床几にいる両家の家臣に聞かす意味が多い。二人は平伏して遥かなる将軍席へ目礼した。
「ご両所とも、お支度あってよかろう!」
甲子之助がサッと奉行床几に戻る。
途端に、自斎と新九郎は、置かれてある木剣の柄を掴んで、ギラリと、互いの眸を見詰め合った。無量の感慨――一念の

「エイ――ッ」
と、持ったままの下段青眼、春日新九郎がまず先にくれた気当のつんざき。
「おおッ!」
大上段、満月に
その時、松平忠房と京極丹後守は、各

爽やかな風が二剣士の裾を払った。袖はひるがえったが剣は微動だもしない。――と思うと颯然! 自斎の大上段が寸のびにふり下ろされた。まさに富田流の
「おッ」
と引く手に乗って新九郎、ポンと
彼が大妻籠で自得練磨の梢斬り! 心得たと左足を引いて受け払った自斎の手ぎわもさすが、ポンポンと二、三度の打ち音、すさまじく響いたかと思うと、またもや自斎の声。
「エイッ」
腰車を横に必殺の無極刀――むッ、富田三家の秘刀! 五社明神の
「むッ、参った!」
と筒抜けに響いた一声。
同時に、二人はポンと飛び離れた――そして、鐘巻自斎の鉢巻の間から、タラリ! ――と一筋の血が頬を伝わって流れた。
「福知山城下の浪人、春日新九郎殿、鐘巻自斎殿を打ち込みなされた!」
試合奉行の近藤甲子之助が、声高く御前に
「すさまじい試合じゃったの」
と、周囲へ囁かれた将軍の面にも包まれぬ喜色があった。すぐ
かがやく栄光の冠をいただいた春日新九郎は、忠房の前に引き退がって手を取られたのも、入りかわり立ちかわり来て浴びせかける讃辞をも、ただ夢中に聞いていた。――そして頭はいまだに鐘巻自斎と立ち合っていた時の昂奮につつまれ、あの怖るべき太極刀の必殺をどうして遁れたか、どうしてあの瀬戸際に残ったか、ほとんど奇蹟のように思いつつ、いつか自分の身は、どッぷり暮れた松並木を駕に揺られているのである――
そうだ、彼はこれから松平家の下屋敷に開かれる祝宴に赴くのである。吉報はすでに下屋敷へ飛んで、そこに今日の勝敗を神かけて待ちぬいている千浪や、また今度のことではるばる福知山から飛んで来た、由良の伝吉とも久しぶりで会うことになっている。
祝福された勇士を乗せて、駕は一文字に風を切って走った。間もなくさしかかる青山の権田原、松の片側並木は見附の前までつづいている。――と風か、非ず。
タタタタタと不意の足音――
いきなり駕先の一人が
「待てッ、その駕待てッ!」
ザクリッと提灯を斬って落した大刀の影に、パッと火の粉が闇へ上がる。あッ――わッ、という声と一緒に、駕の中へズバリと入った真槍の
「むッ」
ケラ首を掴むが早いか、素早く外へ躍り立った新九郎。
「人違いいたすな、拙者は春日新九郎であるぞ、はやまって後悔するな」
言いも敢えず、群がり立った黒覆面の中から、
「だまれだまれ! その御曹子新九郎は三年前に、京極家に対しての申し訳に切腹いたした筈ではないか。しかるに偽せ首を渡して、のめのめと再び大手を振って通るとは
「ウウム、さてはまたも今日の遺恨を含んで失せた京極家の奴ばらであったか。いまだ
「何をッ、宮津
「おお、その儀なれば、絶えて久しく
「ええ、舌長な広言、それッ、彼奴の細首を打ち落せ!」
と罵って、後ろへ身を隠したのは
途端にドッと吹雪のような白刃――真っ黒におどり立ち、新九郎の身を押ッ包んで八方閃々。エイッ、オッ、の激声は足を浮かすばかりである。
「是非がない――」
抜くや国俊!
寄ったる一人を真ッ向満月、ザーッと一太刀に斬り落し、そのまま寸延びの片手払い、返り血と共に胴斬り輪切り、たおるるやつを踏み越えて、追い
だが、宮津文珠の荒侍――命知らずをすぐッて来た京極方もなかなか
「ええ面倒!」
一人をバラリと唐竹割りにして、素抜きに持った左剣の小刀、横から寄るのをピューッと
「いざ来い!」
と体勢をここに改めて、ホッと一息入れた時、たちまち一方の暗中に、鐘巻自斎の声が響いた。
あの体躯で地響きをさせながら、
「やあ、前もって公儀よりお
例の
「や、自斎先生が? こりゃどうしたこと、同士打ちでござる、
転げつ、逃げつ悲鳴を上げてうろたえたが、自斎は耳をかすどころでなく、尚さら斬り巻くる。
「武門の
ワッと逃ぐるを追って呶鳴りつけた。
そして、拭きしごいた太刀を鞘に納め、新九郎の前につかつかと寄って来たが何思ったか、
「新九郎殿――」
「お、鐘巻
はっと思えば、ヒタと両手をついた鐘巻自斎、いと
「九ヵ年ご苦心の甲斐あって、今日のご勝利、心から祝着申し上げる」
「何と言われる? 天下の人満座の中で、敗れを取った其許が、この新九郎へよろこびを言われるとか? ……ウウム、ご
「いや、決して追従ではござらぬ。富田流三家の一格をゆるされ、天下に名人として目されたこの自斎が、若年の貴殿にやぶれたるはいかにも恥辱、心外千万、恩師富田五郎左衛門先生が世に
「滅多なことを……」
新九郎は慌てて片膝をついた。
「既に貴殿を打ち込んで、立派に武士道が立った以上左様にまでご卑下されては痛々しい……」
「否、そうでない。桔梗河原で拙者が無用な武芸立ていたしたため、兄上重蔵殿の一生を葬ったのみか、噂に聞けばご自害なされたそうな……それを聞くにつけ、ある時は、故意に其許へ勝ちを譲って進ぜようかと思うたことも再々であったが、イヤ、それではかえって貴殿の不為と、今日まで三度の立ち合いごとに、いつも心を鬼にして、大妻籠でもあの始末、必ず悪く思って下さるまい」
「おお、ではそのお
「何かのご
「ああ自斎先生!」
彼は思わず先生と呼んだ――
「それまでのお心とは知らず、一念の為とは言え、今日までの無礼不作法……」
「しばらく。その辞儀を言われに参ったのじゃござらぬ。――実は拙者にとって不思議に絶えぬ一ツの謎、それを貴殿に聞きたい為、暮るるを待ってお慕い申して参ったのじゃ」
「なに、ご不審のこととは?」
「今日の立合いに、貴殿が拙者を打ち込んだあの最後の一太刀――、そも、如何なるご工夫のものか、どう考えても不可思議な太刀」
「お訊ね申されては恥かしい。何をお隠し申そう。あの刀法こそは、先頃大妻籠でお別れ申した後、五社明神の神官左典と申す老人より教えられた
「な、なに、清明心極の大刀とな――ウーム……」
と、自斎は、新九郎の顔をみつめたまま永く
彼はまた改めて、新九郎へきっと膝を寄せて来た。そして、ほとんど
「して、そのご伝授をうけた神官の姓名、またお年頃は?」
と問いつめた。
「聞けど笑って、そのことに、お答えのあった
「フーム……では何ぞ風貌のうちに、目立つような特徴でもなかったでござろうか」
「そう問われて見ますと、真っ白い右の眉毛の上に、星のような一点の
「ヤッ、耳の後ろに痣が? オオ! 新九郎殿、それこそ拙者が七ヵ年の間、尋ねに尋ねてお行方を求めていた富田五郎左衛門先生! すなわち、富田三家を生み残された当流のご開祖じゃ」
「ええ、ではあのご老体が? ――」
「まぎれもなきこの自斎の恩師、そも拙者がお授けうけた伝巻に依って、無極刀、太極刀の二秘法は会得いたしたが、清明心極の疑惑になやみ、何とぞそのご
「では自斎先生が
「いかにも、それを授けられた其許こそ武運に恵まれたご果報者じゃ。ああ、なつかしや老先生……それと知れば心極の太刀で、今日新九郎殿に打ち込まれたのは、その昔先生からお手をもって打たれたような心地がいたす……」
計らざりき、二人は知らぬ間に、同門の兄弟弟子となっていたのだ――新九郎は、改めて「剣秘不識篇」の情けの書を、鐘巻自斎の手に返した。
それには、新九郎の筆で、老師から
そこへ、再び
駕わきに附いていたこんがら重兵衛が、急を松平家に知らせたための迎えであった。しかし、今宵の祝宴は、事情に依ってお見合せになるということも伝えた。
その事情とは、将軍家帰城と共に、京極家へ閉門の沙汰が下ったためであった。のみならず、駒場野からの帰途待ち伏せて、新九郎を討たんとした家中の狼藉も目附役人の知るところとなり、やがて厳しい叱責となるらしい模様だから、この際、得意に乗じて、一方で祝宴をあげることは
「それゆえ、不本意ながら、今宵はお兄上の菩提寺
と、使者の一人が言い足した。
「もとより、過去の恥こそ多けれ、人らしきことも少なき新九郎、華やかに今宵を過ごすはかえって心の傷み、品川寺へ参って、兄重蔵の霊に対面いたすこそ望ましいところでござる」
新九郎も異議なくうける下から、自斎も身支度をしながら、
「この上は拙者も、すぐ播州へ戻る心底、明日は重蔵殿のご墓所へもお別れを告げて参るであろう」
「では、そこでご再会申しまする。しかし、今宵のお宿は」
「小野忠雄殿の道場を借りる考え。是非とも
と、自斎は小野家へ、新九郎は品川寺へ、松平家の者に送られて行った。
秋浅く、色づきかけた
嬉しさに寝もやらず、明くるを待ちかねて
彼女と一緒について来たのは、今度のことで、三百里を飛んで来た由良の伝吉である。式台へかかって来意を告げると、すぐ奥へこんがらの重兵衛が知らせる、新九郎が来て手を取って引上げる。嬉しいことも懐しさも、ただ夢心地という他はない。
「春日さま、またご来客でござります」
何を話し合う間もなく、品川寺の小坊主が、廊下口へ来てこう取り次いだ。
「ご苦労でござる、して客殿は?」
「御殿山のご庵室からと仰っしゃったばかり……お姿は尼僧のようでいらっしゃいます」
「はて、尼僧に存じ寄りもないが……」
と顔を見合せたが、
「とにかくここへお連れ申してもらいたい」
「畏まりました」
「あっ――」
一目見た時、新九郎が思わず声を上ずらせる。千浪もびッくりして、
「オオ、あなた様は!」
と、姿に不意を
「新九郎さま、およろこびに参りました」
蓮花の
「もう貴方様に、逢わぬがよいと心には誓いましたものの、今日をかぎりのお別れ、それに、ただ一ツ心にかかることもありまして……いえ、
「アア御方様!」千浪は思わず
「そのために、このお姿を
「いいえ、何のそのためでありましょう、この涼しさになったのは、大奥にいる妹のためと妾自身のためより他にありませぬ。オオ、お庭先へまた大分お人が見えた様子、妾は、重蔵様へ一輪お手向けして、これでお別れ申しまする……」
と、
引きもやらずくる人々、松平家の使者、また鐘巻自斎、それと小野忠雄、高弟の梶新左衛門も連れ立って来た。
その梶新左衛門には、新九郎が修業の当時、極寒氷の水を浴びせられた恩人である。その小野忠雄には、彼が酒色に
松平家の使者は、出立に際して、
間もなく、春日新九郎と千浪、由良の伝吉とこんがら重兵衛の四人は、数多の人々に見送られて品川寺を出立した。
昨日までの敵鐘巻自斎も、今日は途中までの道づれとなって、一行の中に豪快な笑い声を交ぜて行く――歩きながら、品川寺の裏垣の方を振り顧って、千浪は、二度三度ホロリと
「オオ、袖ヶ浦の
と新九郎も立ち淀んでジイと眸をうるませる。
墓が見える――秋草の中に。
白い
かくて、その人々の過ぎた人生の街道、剣難の辻女難の追分へ、次にはどんな若い武士がさしかかるであろうか。