日本名婦伝

細川ガラシヤ夫人

吉川英治





 暁からの本能寺ほんのうじの煙が、まだ太陽のおもてに墨を流しているうちに、凶乱きょうらんの張本人、光秀の名と、信長の死は、極度な人心の愕きに作用されて、かなり遠方まで、国々の耳をつらぬいて行った。わけても、勝龍寺しょうりゅうじの城などは、事変の中心地から、馬なら一鞭ひとむちで来られる山城国やましろのくに乙訓郡おとくにごおりにあるので、桂川かつらがわの水が、白々と朝を描き出した頃には、もう悍馬かんばを城門に捨てた早打ちの者が、
「たいへんだっ」
 と、人の顔を見るなり誰にでも呶鳴どなって、やがてまろぶが如く、奥曲輪おくぐるわのほうへ馳けこんでいた。
 天正てんしょう十年六月二日であった。
 木々の露が香う。風が光る。
 この頃の夜々の眠りのこころよさは誰しもであろう。起きてすぐ若葉に対う目醒めもすばらしい。
 生きていればこそと、生命いのちの味いとさちを、改めて思うほど、肌をなぶる朝風も清々すがすがしい。
「…………」
 朝化粧をすましてもまだ彼女は、鏡に向って、恍惚うっとりとしていた。
 わが姿の清麗に、見恍みとれていたわけでもない。生命に感謝していたのである。
「――自分ほど幸福なものがあろうか」と。
 幸福というものは、幸福と知った時、心から感謝しておかなければ、幸福とも思わず過ぎてしまうものである。――だから迦羅奢がらしやは、
「今ほど幸福な時はない」
 と、現在の自分を噛み味おうとしているのであった。
 予感というものであろうか。その朝に限って、迦羅奢がらしやは、特にそんな気もちを抱いて、やがて、いつもの朝の如く、良人の忠興ただおきの居室へ朝の礼儀をしに行った。
 すると、今し方まで、毎朝の日課として、弓を引き、兵書を読みなどしていた気配の良人が、どこにも見えなかった。
 縁端えんはしを見ると、小姓こしょうがひとりで端坐している。
「お湯殿にお渡りか」
 迦羅奢がたずねると、小姓は、
「いいえ、大殿おおとのに召されて、西曲輪にしぐるわへお越しになりました」
 という。
 西曲輪は、良人の父、幽斎ゆうさい細川藤孝ふじたかの住居とされている所である。
「……お。そうか」
 とのみで、彼女は、もすそいて、そのまま自分の室へもどった。そして乳母を招いて、暫し乳母の手から、乳のみ児の与一郎を膝へ取り、乳ぶさを授けていた。


忠興ただおきの心は、決しておりまする。わたくしの妻へなど、小さい御不愍ごふびんはおかけ下さいますな。私の妻の処置は、私へおまかせ置き願わしゅうぞんじます」
 若い忠興は、胸を正して云った。
 父の細川藤孝ふじたかは、武人とはいえ、温順な人であった。
 家は、室町むろまち幕府の名門であったし、歌学の造詣ぞうけいふかく、故実こじつ典礼てんれいに詳しいことは、新興勢力の武人のなかでは、この人をいて他にない。
 強いて、武人の中で、知識人らしい人柄を求めれば、明智光秀であったろうが、藤孝は、彼のように、新しい時代の教養よりも、むしろ古い学問の中から、今日に役立つものを取上げて、堅実に世を渡ってゆくといったふうな行き方であった。
 同じ知識人でも、文化に対する考え方でも、光秀とはそういうふうに違っていたが、その明智光秀と彼とは、切っても切れない、深い縁に結ばれていた。
 光秀がまだ名もない一介の漂泊人ひょうはくじんとして、越前の朝倉家に寄寓していた頃、藤孝も、三好・松永などという乱臣に都をわれて、国々をさまよっていた将軍義昭よしあき扈従こじゅうして、同じ土地に漂泊していた。
 ――今、真に頼みがいある武将といっては、尾張から出た織田信長殿よりほかに、頼みまいらす御方はありますまい。
 光秀は、その時分から、信長の偉大なことを知っていたのである。
 彼のすすめに依って、藤孝は、信長へ近づき、信長は将軍義昭を立てて、京都へ軍をすすめ、それがやがて信長の覇業はぎょうの一礎石となったのであった。
 同時に、藤孝も、この勝龍寺しょうりゅうじの旧領を受け、わけて明智光秀は、破格な寵遇をうけて、亀山城の主とまで立身した。――今生では報じきれない君恩をうけて来たのである。
 いや、信長には、主君としてばかりでなく、もっとくだけた世話にもなっている。
 光秀の二女の迦羅奢姫がらしやひめと、藤孝の嫡男の忠興ただおきとの結婚を、取結んでくれた人も、信長であった。
 今から四年前の天正七年に――迦羅奢姫十六、忠興も十六歳で、主君信長のお声がかりで華やかに婚儀をあげたあいだであった。
 そういう光秀との関係は、偶然にできたものでは決してなかった。藤孝は、彼も自分も貧しい一介いっかいの浪人であった頃から、およそ光秀ほど、信頼していた人物はなかった。その学問や知識に関する態度のちがいはあっても、人間として沈着で、教養も深く、忍苦に強く、理性に富んで、しかも戦場では人におくれをとらない一方の驍将ぎょうしょうとして――今朝の今朝まで、彼との縁を、悔いたことなど、ただの一度もなかったのである。
「その光秀が?」
 と、藤孝は今も、息子の忠興へ、半ばいきどおろしく、半ば信じられない事のように、
「信長公を弑逆しいぎゃくし奉ったなどとは……。大逆の乱を起して洛内を合戦のちまたにしておるなどとは……。夢か、天魔でも魅入みいったか。信じられぬのだ。……しかし、刻々と、矢つぎ早やに諸方からのこの通状だ。また、光秀自身から、味方に参ぜよとの書状も今着いた。わしは、正直、途方にくれた。忠興、そちはいずれに組すか」
 こう父の云ったのに対して、忠興は、さっきから二度までも、
「何の御斟酌ごしんしゃくですか。主君を殺した逆臣に組する弓矢は忠興にはありません。――妻の処置しょちは、良人たるわたくしの胸でします。そして、信長公の御無念をはらさんとする何人とも力を協せて、光秀を討たずにはおきません」
 そう明確に答えを繰返くりかえしていたのであった。
「よう云われた。父とても、同じ考えである」
 藤孝は、仏間ぶつまにはいって、信長の霊に誓の仏燈あかしを捧げ、その日に、黒髪をろしてしまった。
 忠興は、重臣をあつめて、父子おやこの決意を告げ、それが終ると、初めて朝出たままの居間へ帰ったが、時刻はもう夕方に近いほどだった。朝食も午餐ひるも、忘れ果てていたのである。


 さすがに女ばかりの奥の丸にも、もう京都の空の煙が、日本中を変革している大事変だったことが知れ渡っていた。
 ――が、ここでは。
 逆臣とか、大悪人とか、光秀とかいう声は、ひそとも聞えないほど、慎まれていた。
 つい四年前に輿入こしいれしたばかりの、若い美しい忠興夫人は、その明智家の二女であり、大逆人の光秀のむすめであることを、お下婢すえ女童めわらべまでが、知らぬはないからであった。
「……迦羅奢がらしや。迦羅奢」
 忠興は、自分の居間から呼んでいた。
 つぼねのほうと知って、やがて、自分から足を運んで行った。誰ひとり、召使すら迎えないのである。そして彼女の部屋をうかがえば、そこにも侍女こしもとひとりかしずいていなかった。
「…………」
 ただ見る――そこにひたと声もなく泣き伏している黒髪の人がある。
「迦羅奢! ……。迦羅奢っ」
「……はい」
 ようやくに、彼女はおもてを上げて、眼の前に、ぬっくと突立っている良人の姿を見あげた。
「聞いたか」
 忠興からそう云われて、彼女はまた、れはてている涙をおののきこぼした。――今朝、鏡の前にあった清麗も艶美も、嘘のものだったように彼女の面からかき消えていた。
「そなたに罪があるではないが、今日かぎり側には置かれぬ。おそらく、世の憎しみは、そなたにも降りかかろう。大逆人の血すじよ、光秀の娘よと、あらゆるはずかしめと、怒りにまかす仕返しの手がつきまとうであろう。――別離は、慈悲と思え。迦羅奢、山へ逃げろ、三戸野みとのの山奥へでも落ちて行け」
「…………」
 迦羅奢は、突然、大きくむせんで泣きはじめた。ふたりの子を生んだ母とはいえ、ようやく二十歳なのである。深窓にあれば、まだほんの妙齢という年頃にすぎないのである。
 忠興は、彼女の咽び方が、余りに激しいので、這入ってきた入口のふすまを閉めに戻った。そして、妻のそばに坐り直すと、
「よいか、人目につかぬ夜のうちがよかろうぞ。郎党には米田よねだきんろう何児小左衛門かにこざえもん岩成兵助いわなりひょうすけの三名を付人つけびととしてつかわすほどにな。……山の尼院にいんへ」
 泣きれて、力なく顔をもたげると、彼女は、嗚咽おえつみながら云った。
和子わこさまは。……与一郎様のお身は? ……。わたくしに、お預けさせていただけましょうか」
 忠興は、黙って、顔を振ったが、とたんに、その眼からぱらぱらっと涙が散った。
「逆臣の娘に、忠興が嫡子を、何で渡されようか。ならぬことだ! ……、そなたは身一つだ。己れの生命いのちをこそ、いとしめ!」
「……なりませぬか」
 唇を噛み直して、わなないた。――凄愴せいそうな決心がその顔いろをさっと染めた。
「では……では。……死ぬしかございませぬ。和子さまが、わたくしの生命いのちですから」
「だまれッ!」
 忠興は、発狂したように呶鳴りつけた。声と一つに起っていた。
「兵助っ。金八郎っ。――支度はいいか。奥方おくを……いや迦羅奢を、すぐ用意の山駕やまかごにうつせ」
 庭面にわもで、付人達の返事がした。迦羅奢がらしやも、今は取り乱して、
「せめて、お城の内で、死なせてくださいませ」
 と、自身の懐剣をさぐった。
 忠興は、それをり上げて、いたたまれないように、廊下へ交わした。彼女の供をして三戸野山へ夜のうちに落ちようとする付人達は、山仕度で庭の近くまで、その山駕を用意して来ていたが凝然ぎょうぜんと、ただ立ちすくんでいた。
「山へは行きません」
「行けっ」
「いやです」
 迦羅奢の声音こわねは、次第に強いものに変って来た。忠興は、自分の愛が、彼女にきちがえられたかと、残念そうに唇をふるわせた。
「……参りません。おいいつけにそむくには似ておりまするが」
 迦羅奢はもう泣いていなかった。死ぬ刃も持たないので、それに悶掻もがこうともしなかった。黒髪をなでて、宵闇となった室の中に、きちんと坐っていた。
 忠興は、考え直して、
「兵助、小左衛門。後ほどのことといたそう。いちど退がって、休息しておれ」
 と、庭の者を退けた。


「誰も来てはならない」
 と、忠興ただおきは、侍女や家臣にかたく云って、灯もない室に、妻と、長いあいだ対坐していた。
 諄々じゅんじゅんと、彼は妻にいいきかせた。
 父の藤孝は、もう剃髪ていはつして、信長公の死を弔い、光秀討伐の陣頭に立つ悲壮な覚悟を極めておいでになる――
 自分としては、なおさら、そうなくてはならない。たとえいかなる理があろうとも、この国の地上においては、臣下が君を弑逆した罪を、寛大にはすまして措かないのである。
「……迦羅奢がらしや。そなたは、卑怯であろうぞ。この苦しい忠興のこころも汲まず、後に遺る子も思わず、この場合、何よりやさしい死を選ぶ所存か。たとえ忠興の側を別れ去ろうとも、妻ならば妻の道を、母ならば母の道を、もっと強く生きぬいて、しかも後に、大逆人の娘という汚名をも、そそいでみようとする気もないのか」
 ふと、良人のことばが、一滴の甘露のように、心の底へぽとと落ちた。
 迦羅奢は、常の聡明そうめいな自分にかえった。ふだんは、良人は気短で気のあらい人と考えていたのが、今はあべこべにあることに気づいた。
 うつつの庭から浮かび上がったように――
「参りまする。どんな山の奥にでも」
 いつもの素直な声で答えた。
 鏡に向い直した。そして静かに身づくろいすると、やがて、日頃の老女・侍女・乳母までを呼んで、別れを告げた。――わが子の与一郎へも、最後の乳ぶさを与え、たくさんな召使の涙の中に、その日の深夜、城の搦手門からめてもんから山駕にかくれて、三つの松明たいまつに護られながら山へ落ちて行った。


 三戸野みとの山の生活は、まる二年つづいた。
 山深い尼寺に、尼よりもさびしく暮していたが、いつか木樵きこりや里の者も、素性を知って、
「叛逆人の娘じゃ」
「死にもせで、生きのびていることよ」
 と、垣の外を覗いて通ったりした。
 三名の郎党は、彼女が、何時いつふと死の誘惑に負けて、自殺しまいものでもないと、その警戒にも、片時も眼を離さなかったが、彼女が、露骨にうけるはずかしめや、危険や、さまざまな迫害を防禦するためにも、二年間、どれほど気をつかったか知れなかった。
「主殺しの娘に、かては売れぬ」
 などという悪口やら、
「お前さま達は、おさむらいのくせに、大逆人の娘に仕えて、何でそんなに忠義だてしなさるか。主を殺した人間の一族には、世間がこうむくうぞと、思い知らせてくれたがいいに」
 と、面と向っていう朴訥ぼくとつな里人の悪罵にも、じっと、忍んでいるしかなかった。
 まして、迦羅奢がらしや自身は、うっかり出歩くこともできなかった。
 峰つづきの寺へ、信長の忌日と、亡父ちち光秀の命日には、必ず参詣を欠かさなかったが、被衣かつぎをかぶって出ても、かごに潜んで行っても、山家やまがにない美しさに、すぐ気づかれて、
「光秀の娘じゃ」
「逆賊の娘が、あのように美しい」
 と、ぞろぞろいて来たり、指さしたり、果ては、小石を投げられたりした。
 三戸野の炭焼の子で、於霜おしもという十二、三の小娘がいた。於霜だけは、
「おひいさま、可哀そうだに。――可哀そうなお姫だに」
 と、里へ買物の使いに行ってくれたり、自分の親の小屋から、食物を持って来たりして、しまいには余りなついて、迦羅奢のそばを離れない者になった。
わらべのきれいな心。ありのままにものを映して見る澄んだ心――」
 迦羅奢は、それに習おうと努めた。
 また、尼院なので、経文きょうもんに親しんだ。亡き右大臣信長への供養に、毎日毎日、写経もした。
 その信長を討って、一月ひとつきともたたない間に、信長の臣、羽柴筑前守秀吉はしばちくぜんのかみひでよしに亡ぼされ、土民の手にかかって、その首は、人通りの多い都の辻に、幾日もさらし物にされていたと聞く――亡父光秀以下の一族のためにも、朝暮、回向えこう読経どきょうをかかさなかった。
 それは、山崎の合戦から二年目の――天正十二年の二月だった。
 峰の雪がけそめた頃である。
 良人の忠興から、迎えの使者が来た。久しぶりに見る塗駕籠ぬりかごであった。家臣も侍女も、表向きにいて来た。
 迦羅奢がらしやの境遇が秀吉の耳にはいって、
不愍ふびんな者じゃ。亡き右府様になり代って、秀吉が改めて、媒酌ばいしゃくしてとらせる、生れかわった者として、山より迎えるがよい」
 そう許しが出たのであった。
 元よりそれは、本能寺の事変の際、藤孝・忠興の細川家の父子が、私情をすてて大義にり、秀吉の軍をたすけて大功があったにも依るが、また、迦羅奢があらゆるはずかしめの中に、その姿のとおり清麗な女性の慎みと忍苦に耐えて来たことも、いつか人のうわさに伝わって、秀吉の心をうごかしたに違いなかった。


 後に思えば、あの動乱のなかに、彼女の生命が保たれたのは、奇蹟のような救いであった。
 やはり光秀の娘を妻としていた織田信澄は、信長の子でありながら、遂に疑われて殺された。
 そのほか、叔父の係累、母方の血すじ縁類の一族、殆どみな謀殺され尽していたのである。
 無事に、良人のそばへ帰って、忠興ただおきの面を見たとたんに、迦羅奢がらしやは、
「わがつまの強い愛であった」
 と、山へ追われた時の良人の恐い顔を、今は神の姿であったように思い出すのであった。
 忠興は、口にも出して云う。
「まったく、わしの愛が、そなたを救ったのだ。もしあの時、そなたがはやまって死になどしていたら、わしも無性に斬り死にばかり急いで、可惜あたらろくな功もたてず、あの折の戦場にしかばねを横たえていたろう。……もし、そうであったら、この和子わこは、どうなっていたやら」
 と、もう見違えるほど成人した嫡男の与一郎のつむりをなでた。
 与一郎忠隆ただたかの次に、次男の与五郎興秋おきあきがあった。それからまた、三男の内記忠利ただとしが生れ、愛らしい女の子もその下にふたりできた。
 いつか細川忠興は三十だいの男ざかりとなり、迦羅奢も同い年の三十路みそじ。そして五人の子の母とはなった。
 けれど、彼女の天のなせる麗質は、すこしも変らないほどだった。むしろ貴族的な美しさと、年たつほど、みがかれてくる教養美とが、以前とはちがった光をもって、化粧や黒髪のほかにきらめいてきた。
 門地の高さも、以前とは雲泥の差ほどちがって来た。勝龍寺城の頃は、わずか二万石ほどの小大名であったのが、今ではしゅうとの細川藤孝ふじたかは、丹後の田辺城にいて、あの地方における重鎮であった。また、良人の忠興は、数度の軍功に、秀吉から引立てられて、豊後杵築きつき大禄たいろくに封ぜられている。――そして大坂でのやしきは、玉造たまつくりにあった。宏荘華麗なことは、豊太閤の金城をめぐる群星建築の一つ、云うまでもない。
 ところが。
 その玉造の第宅ていたくの園には、桃山造りの殿楼にふさわしい白孔雀しろくじゃくなども飼育されていたが、同じ園内に、一むねの長屋が建てられて、そこには汚い町の子や嬰児あかごがたくさん養われていた。
「何じゃ。あのうるさい嬰児の泣き声は」
 或る折。
 忠興が長い戦場生活から帰って、久しぶりのくつろぎに、庭園の花壇を見てあるいていると、そのふさわしくない長屋棟や、そこから洩れる声が耳についたので、忽ち、不機嫌な眉をひそめて、居合せた於霜おしもという奥仕えの侍女にたずねた。
 この於霜は、三戸野みとのの山中にまる二年、夫人が幽居していた頃から、側近く召使って来たあの炭焼の小娘であったが、今はもう見違えるばかりになっていた。
「お目障めざわりになりましたか」
 於霜は忠興の眉を、おそる畏る見あげながら答えた。
「あのような声が洩れぬように、また、長屋などもお眼にふれぬよう、庭師を入れて、樹々の蔭につつませるようと、奥方さまも仰せられていらっしゃいましたが、御帰還の間にあいませいで、お目に障り、申しわけがございませぬ」
「樹でつつむ。誰がそう叱っている。わしがくのは、あれは何だということだ。――何だあれは!」
「はい」
「云い難いことか」
「左様なものではございませぬ。奥方さまのお慈愛から、市中まちじゅうの捨児や親のない孤児みなしごを拾うて、養ってやるお長屋でござります」
「何。……捨児や孤児をひろい寄せておると」
「合戦のあるたびに、どれほどな捨児や親のない子が、町にふえるかわかりませぬ」
「限りのないことを! ……。彼女あれの物ずきにも困ったものだ。夫人おくを呼べ」
 於霜おしもがためらっていると、忠興は舌打ちして、
「よいっ。わしが参る」
 と、自身で戻った。


迦羅奢がらしや。あんなむさい長屋は取払え」
 忠興は、妻を室へ呼んで、云い渡した。
 同い年の良人と夫人とを、こう見くらべると、良人のほうが、多分に若気であった。
 迦羅奢は、にこと笑って、
「お気に入りませぬか」と、云った。
 それには答えず、顔つきで云って、
「道楽もほどにいたすがよい。つづみを習うとか、香技こうぎを楽しむとか、小舞をするとかいうならべつなこと、物ずきも程がある」
「何で物ずきでございましょう。世にあわれな子たちを養ってとらせることが」
「その数が、天下にどれほどあると思う。どうなるか。あれしきの長屋建にれたところで」
「でも、せめて縁ある子だけでも」
「小愛というものだ。眼に見える範囲はんいしか愛せない。それも、愛の遊び事という程度の――」
「でも、小舞や鼓をもてあそぶよりは」
「いや、ちがう! そのほうが良人がうれしいのだ。考えてみい、血なまぐさい戦場に、一年、半年と長陣して、やれやしきへ帰ってくつろごうと思えば、捨児の啼き声など聞かされてたまろうか。――眼になごやかな舞でも見たい。美しい妻が見たい。理窟など聞きたくないのだっ」
 迦羅奢は、翌日、長屋を取払わせた。町の者へたくさんな布施ふせをとらせて、その子たちの養育をそれぞれ頼んだ。
 良人おっとの気のすさびているのも無理はないと沁々しみじみ察しられた。彼女は化粧につとめた。また、能役者など招いて、笛の音や鼓の音もあるように心をつかった。
 けれど、忠興の短気や癇癖かんぺきは、生れつきのものであった。武勇にかけてはなおそうであるのだ。十一歳に初陣して、まきの島のいくさに、大人に劣らない振舞をしている。十五歳には、河内の片岡攻めに、城乗り一番の槍を入れて、信長から感状をもらっているほど豪毅なたちであった。
 そうした良人の性質は、花聟の時からわきまえてはいたが、年たつにつれて、忠興のそれは甚だしくなってきたように思われる。
 ――なぜか?
 と、考えるまでもなく、戦場から戦場が、殆ど良人の半分の生活だった。遠くは、海をこえて、朝鮮へまで戦いにっているのである。
 だから、その血腥ちなまぐさい山野から帰って来ると、
「いかにせばお心がやわらぐか」
 それのみが、迦羅奢がらしやの苦心であった。――でもなお、欣ばれるであろうと予期してしたことが反対になったりすると、忽ち、
「取払えっ。すぐに! 目障りだ」
 と、今日のような、戦場声が、殿中を揺すり出すのだった。


 ――が、迦羅奢がらしや夫人が、もっとこうじ果てていることは、忠興ただおきの余りに度の過ぎた強い愛情のあふれであった。
 それも、戦場にあって、留守勝ちとなるせいと、ひとつには、彼女の美貌の聞えがあまりに、諸大名の簾中れんちゅうでもまれなものとうたわれすぎているせいでもあろうが、
「留守のうちは、他行はさすな」
 と目付めつけのような武士をさえつけて、日常のことまで、帰ると報告を聞くといったふうであった。
夫人おくのことは、噂もならぬぞ」
 と、家中へ口止めしたりした。
 何で良人が、そのように自分を監視するかと、浅ましくさえ思われたが、よくよく自分をめぐる世間を見まわして見ると、ひたいに長いしわの幾筋もある太閤殿下の赤ら顔が、胸にうかんだ。
 秀吉が、何かの折、忠興と自分のいるところで、戯れに云ったことがある――
「よその垣であろうが踏みこえて、つい手折たおりとうなるほどな花を、忠興は家内にお持ちじゃな。……麗しい! 淀よりは美しい」
 あの君は、何でもずばずばいう御方と知ってはいても、迦羅奢は、顔をあからめた。良人は不愉快な顔をして、聞えない顔していた。
 権力の下ではしかたがないと、泣き寝入りにしている人もあるというが、秀吉のわるさや、好奇心では、内々ないないいろんな噂がある。忠興は、それをよく知っている。――で、非常におそれているらしかった。いわゆる家の垣を、猿にでもうかがわれてはと警戒を怠らないのであった。
 そう知ってから、彼女は、一しお身を慎んだ。それでもなお、良人の疑いを受けることがままあった。貞操のことでは彼女も色をなして云わないでいられない場合もある。夫妻のいさかいと他人には聞えたであろう。――しかし真相はいつも、忠興の愛する余りに原因があった。また、彼女も良人の熱愛に負けない愛に燃やされるところから起る現象であった。――於霜おしもだけがいつもそれを微笑みながら側でながめていた。


 ――そうした強い良人の愛と、五人の子女の教育と、また、多くの家臣や、うるさい世評の中に生きて来たこの十幾年のうちに、彼女は、いつのまにか、誰にも云わないものを、そっと心に持っていた。
 心の支えなくしては、生きとおしては来られなかったのである。年月はたっても、何かにつけ、意地わるい世間は、
「叛逆者の娘――」
 と、いうまなざしを、容易には、忘れ去らない。
 いや世間よりか、彼女自身のうちに、二十歳の折に、頭にふかくえぐりこまれた深刻な観念が、ともすれば、生々と、うずいてくる。ひがんで来るのである。
「――わたくしは叛逆者の娘だ」
 いけない! そう思いながら、消し去ることができなかった。何かの折、ふと、
「光秀」
 とでも、人の口から洩らされると、匕首あいくちで胸を刺し貫かれたように、どきっとする。――それはもう意識のものでなく、後天的な習性にまでなっていた。
 この苦患くげんから救われなくては、明るく、やわらかく、どうして良人に接して行かれよう。五人の子女に、よい母となって、教養を授けてゆかれよう。――また、その苦悩に自分の心がむしばまれてゆくのもつらい。家庭が畸形きけいになりそうな気もするのが、われながら恐い。
 迦羅奢がらしやは、遂に、その救いを見つけた。
 信仰であった。――忠興ただおきの弟、興元も奉じているし、良人の友人で高槻たかつきの城主たる高山右近も入教している基督キリスト教であった。
 矢もたてもなく、彼女は、新しい教義を求めて、大坂城下のセスベデスの教会堂へ通ったのである。――勿論、裏門表門に、昼夜警固の武士がいるので、忍んで出る苦心もなみたいていではなかった。いつも於霜おしも才覚さいかくで、被衣かつぎして召使の女に偽装したり、門番の合鍵を手に入れたりして礼拝堂に通った。
 そして、或る時、
「もう参れるかどうかも知れません。どうぞわたくしに、洗礼をお授けくださいませ」
 とまで、信仰の一を訴えたが、師父のセスベデスは、受洗してもしないでも、信仰さえ懸命につらぬけば――と、き入れてくれなかった。
 師父は、彼女を、秀吉の寵室にいる女性かと疑ったのである。それほど、彼女は異国人の眼にも高貴にうつっていたし、また、絶対に名を隠していたからだった。
 それが、いつか良人の忠興の耳に知れた。彼は、新宗教を邪視していたひとりなので、捨児すてご長屋と同じように、
「やめろ。改宗はならぬ」
 と、自分の嫌いを一点張りに云って迫った。
「ほかのことなら、どのようなことでも御意ぎょいに従いますが、こればかりは、わたくしの心の柱と打ち立てたものですから」
 と、夫人は、いつに似げなく鞏固きょうこに、忠興の不機嫌ふきげんが納まるまで、手をつかえたきり哀願をやめなかった。
 それでも、忠興が、唇をむすんだきり「うん」と云わないので、彼女はこう云った。
「――お忘れ遊ばしましたか。あなた様が二十歳はたち、わたくしも二十歳の六月。お叱りをうけて、三戸野みとのの山へやられました時、あなた様は、私へこう仰せになりました。――そなたは卑怯ひきょうではないか、母として生きる道、妻として生きぬく道、その辛い長い道をわすれて、いちばん容易たやすい死の道をいそぐ法やあると――。わたくしはあの折のお叱りを、胸に石碑いしぶみとしております。それ故に、求めてさがし得た信仰でございます。生きる道の力とも燈火ともしびともして」
 云い終らないうちに、忠興は、
「うるさい、うるさい。それほど好きなれば、勝手に信仰せい。……だが、わしの眼の見えるところではするな」
 と、云って、手枕てまくらで横に寝てしまった。


 ――わしの眼の見えるところではするな!
 忠興ただおきの無意識に云ったことばが、それから数年の後、しんをなして怖ろしい予言となってしまった。
 それは、慶長五年の七月だった。
 太閤は世を去って、時代はまた、大きな転換をきざしていた。
 石田治部少輔じぶしょうゆう三成が、上杉景勝かげかつと、東西から呼応して、家康を討とうと計ったことから、関ヶ原の乱は、急速にかもされていた。
 細川忠興は、三男の忠利を、江戸に質子ちしとし、次男興秋と、嫡男の忠隆をつれて、家康の陣に加わり、宇都宮に出陣していた。
 その留守のうちの出来事である。
 玉造の細川家の邸へ、石田三成からの使いが立った。――表方で、留守居の士と、その使者とが、何か応答している口上を、奥仕えの於霜おしもは、立ち聞きして、色を失った。
「何ごとだ。……於霜どの」
 大台所で会った小笠原少斎しょうさいは、彼女の顔いろとあわただしさに、呼びとめた。
 忠興は、出陣の際、虫が知らせたか、老巧の将を留守にのこして行った。――小笠原少斎・稲富伊賀いなとみいが河北岩見かわきたいわみの三人であった。
「たいへんです、石田方から、奥方様を、人質ひとじちにと、迎え取りに参りました」
 少斎も聞いて、愕然がくぜんと、
「さては、来たか」
 と、つぶやいた。
 あり得ることとは思っていたが、予想外に早かった。怖らく他の大名のどこよりも、真っ先に、細川家へ来たものとみえる。
 在府中の諸侯しょこうの留守邸には、他家にも多くの妻子が残されている。三成は、東軍の徳川へ火ぶたを切る先に、大坂表にある大名の妻子を、自分の手に、しちとして収めてしまおうと計ったのである。――この策がもし完全に遂行されたら、東軍の内部には、大きな動揺が起るものと、家康も、三成の旗挙はたあげを知ると同時に、第一に恐れた策であった。
「三成ともあろうお人が、さてもおろかなすすめを」
 と、迦羅奢がらしや夫人は、於霜から使者の見えたのを聞いて、微笑んだ。
 於霜は、夫人の落着いた面を見まもりながら、
「では、大坂城へは、おはいりになられませぬか」
 とたずねた。
「そなたまでが、愚かなことを問うものよ。日頃、わが良人つまには、三成とは、お心も合わず、また、その良人やわが子は今、三成の敵とする徳川殿にいて、上杉攻めの軍旅におわすものを、何でこの身が、大坂城へ質として足を運ぼうぞ。――三成の使者は、生命惜しくばと威嚇いかくしておるであろうが」
 彼女の想像どおり、使者は、口を極めて、夫人を邸の外へして行こうと努めた。
 しかし彼女は、きき入れなかった。その第一の交渉が来たのは、七月十二日のことで、それから十三日、十四日、十五日、十六日と、連日、いろいろな手段で夫人を説伏に来たが、迦羅奢の答えには、すこしも変化がなかった。
「さらば、武力にかけて、お連れ申すぞ」
 と、交渉の手断てぎれとなったのは、十六日の夕方に迫って――これが最後と云って来た使者が、門を出ると、途端であった。
 三成の軍は、もう鉄桶てっとうの如く、細川家をとり巻いて、ときの声をあげ初めた。
 小笠原少斎・稲富伊賀・河北岩見の三将は、それぞれ手分けして、裏表の門を固め、
「ござんなれ」
 と、一戦に備えたが、稲富伊賀が変心して、一方の門を敵方にゆだねたので、三成の兵は、怒濤どとうのように門内へなだれこんで来た。
「すわや。……むむ、残念」
 岩見と少斎は、大薙刀おおなぎなたに血しおを塗って、夫人の奥の座所へ馳けこんで来た。
 そして、※(二の字点、1-2-22)こもごも
「もはや、敵も間近う踏み入って候ぞ」
「御最期のおしたくを成さられ候え」
 と、叫んだ。その声は、しゃがれ果てて、泣くとも怒るともつかないふるえをおびていた。
 それにひきかえて、夫人の座所からは、
「いつなと、心に懸ることもない、……それにあるは、岩見か少斎か、はや介錯かいしゃくをしてたまわれ」
 と、ふだんと少しも変らない声が洩れた。少斎は、はっと、それへ足を踏み入れかけたが、
御座おざに入りては、恐れ多うござる。敷居の間近まぢかまで、お身をお移しくださいまし」
 と立ちすくんだ。
 夫人はいつの間にか純白な絹の衣に着更えていた。胸に、黄金こがね十字架クルスをかけていた。たった今、庭園で狂わしく啼いていた白孔雀しろくじゃくの姿を、少斎はそのまま想い出していた。
「……いざ」
 迦羅奢は、自分の手で、黒髪をあげて、瞑目めいもくしたが、ふと、
於霜おしもは、もうんだであろうの。……良人の叔母御さまにも、忠隆の嫁も」
 と、もう裏手から先に落して、四辺あたりに見えない人々の身を案じ顔につぶやいた。
「はや、どなたのお姿も、見え参らしませぬ」
 少斎が答えると、白い顎をこころもち落して、
「安心しました。……ああ!」
 美しいひとみが、一瞬、星のように、上を仰いでみひらいた刹那せつな、その真白い着物の胸からパッと緋牡丹ひぼたんのような血しおがほとばしった。少斎の薙刀なぎなたは、彼女の胸をつき通していたのである。

十一


 関ヶ原へのぞむ前に、三成の策謀は、第一に思わくと喰い違った。
 細川ガラシヤの死は、三成に、そういう姑息こそくな手段が、真の武士の内室に対しては、何のかいもないことを教えた。
 三成も、愚将ではない。
「かえって、これは敵の陣営にある良人の意志を鞏固きょうこにするおそれがある」
 そうさとって、次々の大名の室へ、同じ手段で臨もうとした最初の考えを断念してしまった。
 ガラシヤは、当然他にも起るはずだった、多くの悲劇を、身一つでき止めた。幾多の犠牲を救いあげて、今は、もっとも容易たやすい死へおもむいた。
 関ヶ原の戦後、功によって細川忠興ただおきは、豊前ぶぜん小倉の太守に封ぜられたが、家康が基督キリスト教に対して弾圧だんあつ政治をいた後も、その小倉では、なお幾つもの礼拝堂が黙認されていた。
 そこの小さい教会の一つでは、毎年、七月十六日の夕方から、美しい花と灯とを聖壇に飾って、ガラシヤ祭を催した。
 美剣を吊るし、胸に十字架クルスをかけた太守が、その夕方にはきっと、祭壇の前に現われた。そして附近の汚い老媼おうなや、潮臭しおくさい漁師の子らが、菓子をもらうため、太守のまわりにはえのようにたかって来ても、太守はうるさいとも無礼だともとがめなかった。そして祈祷きとうがすむと、黙々と、供の列や塗駕籠ぬりかごの待っている海辺の松並木まで、在りし日の人を胸に思いながら歩いて帰ることもきまっていた。
 ――何ともいえない淋しさと、追憶の美しさにふけりながら。





底本:「剣の四君子・日本名婦伝」吉川英治文庫、講談社
   1977(昭和52)年4月1日第1刷発行
初出:「主婦之友」
   1940(昭和15)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:雪森
2014年8月7日作成
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