一年。――実にわずか一年の間でしかない。
去年天正十年の初夏から、ことし十一年の夏までの間に、秀吉の位置は、秀吉自身すら、内心、
明智を討ち、柴田を
滝川、
丹羽長秀はひとえに信を寄せて協力し、前田利家は義を示していよいよ
およそ、信長の分国は、いまは一国余さず、秀吉の意志下にあった。いや、その信長頃には、なお敵国であった分国外の諸州さえも、この一年に、その関係は、まったく一変を呈している。
信長の
さらに。
越後の上杉景勝も、
――が、ただひとり、宿題の人物がある。
東海の徳川家康だ。
家康が、秀吉のこの旭日昇天のごとき
(彼が
と、秀吉の方でも観ていよう。
(さても筑前という者は)
と、家康もまた
そしてこの両者の間は、ここ久しく、音信も絶えていた。双方、ヘタな打つ手は休むに似たり――と無外交の空間に推移を
しかし、この無表情の持続は、やがて家康の方から外交形式をとって動いて来た。
秀吉が京都へ帰還してからやがて間もないうちにである。それは五月二十一日のこと。徳川家第一の宿将、石川
「このたび、柳ヶ瀬表の
と、披露
初花の茶入れは、
近来、とみに茶にも熱心な秀吉が、まずこの贈物に非常な喜悦を見せたであろうことはいうまでもない。しかし、より以上な満足は、家康から先に、こういう礼を
数正は、即日、浜松へ帰国する予定であったが、秀吉は、
「そう急がずもよかろう。両三日は遊んで行け。三河殿(家康)へは、筑前よりよしなに申しておこう程に」
と、云い、また、
「わけて、明日はいささか、内祝いの儀もあれば」
と、たって引き留めた。
その内祝いというのは、去年以来の秀吉の内治戦功を
秀吉は、この栄を、さらに、家臣にも
また、新たに分国二十ヵ国に、新進の城主を取り立て、畿内五国を
「それやこれの歓びじゃ。まあ居れ、まあゆるゆる居れ」
秀吉にこういわれては、数正も、辞去する口実に窮した。慶祝の意を表しに来た使節が、慶祝の席を断って去るも妙なもの――と分別された。
宴は三日にわたった。恩賞を受けた将士やら賀客の登城はひきもきらず、城市はせまく城門も小さい宝寺城は、それらの
けれどこの一城市に
(時代はついにこの人の双肩に――)
と、いう感を正直に抱かずにもいられない。
数正は、今日まで、
(わが主君こそ、その人なれ)
と固く信じて疑わない者であったが、ここで秀吉と起居を共にしている間に、その心境には尠なからぬ変化が起っていた。
彼は事々に、自国とこことを、見くらべた。徳川
そして、内心の結論として、
(何としても、浜松、岡崎はまだ地方的――)
と歎ぜざるを得なかったし、秀吉、家康の人物比較からも、
(わが御主君といえども、筑前守の天性の大気と、
具眼の数正はそう
「余りな、おもてなしに、思わず数日を、浮々と、過ごしました。明日はお暇いたしとう存じまする」
「帰るか。では明日は、京都まで、同道いたそう。筑前も、京まで出向けば」
数正の暇乞いに、秀吉はそういって、さらに半夜を、彼のために、彼と興を共にした。
あくる日。――石川数正の帰国と行を共にして、秀吉も京都まで出向いた。
「
途中、秀吉は馬上から列後をふり向いて、やはり馬上の彼をさしまねいた。
数正は、徳川家の使節として、城中では
が、頻りに呼ぶので、
「何事で」
と、供廻りをおいて、彼自身のみ、秀吉の側へ馬を寄せて行った。
秀吉は、
「
と、いうのである。
数正は、恐縮したが、
「御意にあまえて」
と、そこからは
沿道の衆目から仰げば、恐らくこれは、秀吉が数正を京都まで送って行くかのような景観となっていたろう。――が、秀吉は、いっこう無頓着の
「この地にあって、京都への出入りは、何とも、不便でならぬよ。往き来の時間の
などと、大坂築城の抱負の片鱗を語ったりした。
「大坂とは、よい地を相されました。信長公にも、御生前多年、大坂をお望みであったように伺っておりましたが」
「当時なお本願寺の法城堅く、やむなく安土を選まれたが、御本意は大坂であったやも知れぬ」
「それが今日においては、彼処の
「なんの、何事も機運じゃよ。浪華の地のそうなる機が、今日、熟して来たというに過ぎぬ」
いつか京都の町中だった。数正が別れを告げようとすると、秀吉はまた留めて、
「この暑さに、陸路を廻るは、賢明でない。大津より湖上斜めに、舟便とされるがよい。舟用意のできる間、
玄以とは、先頃京都所司代の任についた半夢斎前田玄以のことだろう。否やなく、秀吉は数正を
門は清掃されていた。あらかじめ予報されていたものとみえ、玄以の数正を迎えることは、鄭重を極めた。秀吉は、却って、
「そう、堅うするな、堅うするな」
と、飽くまで
「玄以、絵図を持て、絵図を」
「御普請の図面で」
「そうじゃ。ここにも、写しが一図あった筈」
「ござりまする」
やがて、玄以がそこへ、取り寄せて来た大図面を拡げた。他国の外臣にたいして、平然とこういうものを示す秀吉の意中を、見せる者も、見せられる者も、ひとしく
秀吉は開放主義である。この
「ま。見てくれい」
と、いうのである。そして、
「御辺は、築城にも
ともいって、その設計の批判を、数正に求めるのだった。
原図は、そこの茶室一ぱいにもなる大きさだった。いわれた通り、数正は、築城土木には、多少
「では、拝見させて戴きまする」
と、絵図の上へ、身を伸ばして、見入った。
「…………」
秀吉のやること、およそ小さな規模ではあるまいと、予想していた数正も、つぶさに
「ははあ」
とのみ、何度も
彼が、思い出すのに――
かつて、本願寺の根拠であった頃には、方八町の城廓であったが――いま、この設計図を見るに、その方八町は、わずか本丸の一基礎となっているに過ぎない。
そして、その周辺の四川山海の自然を
また、結構の中心をなす天守閣はというに、城中の最も高い位置に、数十間の
「ううむ。なるほど」
またしても、数正は深く
――が、彼が最前から凝視していた部分は、まだ城府の一地区だけでしかない。それを
皇城の京に近く、伏見、鳥羽の
「どうじゃな。そこらでは」
秀吉はいった。
「申し分ございますまい」
数正は答えた。正直、そういうしか、ほかに言葉もなかった。
そこへ玄以の家臣が、お席を移しましょう、と云って来た。
余り熱心に絵図を見たので、数正もちと肩の
「よかろう」
と、気を変えて、先に立った。広間の
「ただ、驚き入るのほかありません」
そこへ来てから、数正は云ったが、
「何が?」
と、秀吉はもう忘れているかのような顔をした。
「大坂経営の、あの絵図に見る、広大な御計画でありまする」
「あ、大坂の住居のことか。あれでよいかな」
「もし、あれが成るあかつきには、古今
「そうするつもりじゃが」
「いつまでの、御予定で」
「年内には、移りたいと思う」
「えっ、年内に?」
「あらましのところでな」
「それにしても、あれ程な大土木、優に、十年はかかりましょうに」
「ははは。十年も費やしては、世が変ってしまう。秀吉も老いてしまう。……城内の細部、調度装飾をも、
「工匠の
「二十八ヵ国より木材を
「要する人夫の数は」
「これや、わからぬ、何万何十万を要するやら。……内濠、外濠を掘るだけでも。三ヵ月、日々六万人を用いても、ざっとであろうと、奉行どもはいうた」
「ははあ」
数正は沈黙した。あきれ顔なのである。また、自国の岡崎城や浜松城と思いくらべて、余りな
いったい、石のない大坂に、そんな巨石が思いのまま集まるか否か。この多端な戦国にその
「いちいち申すから、それにて書け」
と、書面の文言を、口述し始めているのである。そして
「…………」
聞くまいとしても、目の前で秀吉の口述するのは耳に入る。しかもそれは、毛利の一族、
「御公務、急な御様子。ちと退座しておりましょうか」
「いや、要らぬ遠慮。すぐ終るすぐ終る」
秀吉は、意にも何にも介していない。そして
返書というのは。
小早川隆景から、このたびの大捷を賀して来た書にたいして、秀吉が、柳ヶ瀬戦況の報に事よせて、この際、毛利家の将来の
秀吉がいうそばから、祐筆が書いてゆく。
祐筆の筆の運びを眺めては、秀吉が口述する。
石川数正は、黙然と、そのそばで、眼を、庭前の
(――柴田に息つがせては、手間どるべきかと存じ、日本の治、この時に候ふ条、兵をも討死させ候ふても、筑前守の不覚にては有まじと存じ、ふっと思い切、二十四日寅の下刻、本城へ取掛り、
これは北ノ庄陥落の状を書かせているのである。――日本の治この時に候ふ――という文言を吐いたとき、秀吉の

文言は一転、毛利家の
(――総人数をいたづらに置くべき儀も、いらざる事に候ふ条、その御
「…………」
数正は、思わず、秀吉の顔をぬすみ見た。大胆な――と舌を巻いた。だが秀吉は、当の隆景を前に、膝組みの談笑でもしているように、こんな露骨な云い分をも、さも気軽げに書かせている。――
(――東国は北条氏政、北国は上杉景勝、共に、筑前守が覚悟に任すの態に候ふ。毛利

「…………」
数正の眼は風竹の戯れに見入っていたが、耳はまったく秀吉の低声に魅せられて熱していた。そして、心の奥のものが、風竹の葉のごとく、
――思うらく。
この人にとっては、大坂築城のごときも、ほんの片手間仕事らしい。毛利へたいしてすら、異存あらば、七月以前に、申し越されよ、
「お船の御用意ができた由でございます」
折よくも、
暇を告げた。
秀吉は、帯びていた一腰を、
「古びたれど、良い刀と人は申す。寸志ぞ」
と、数正に与えた。
数正は、押し戴いた。
外へ出ると、秀吉の馬廻り衆一隊が、彼を大津の船着まで見送るべく、馬を揃えて待っていた。
京都に出れば京都にも、彼の裁決を待つ問題は山積している。秀吉は
柳ヶ瀬以後、大勢はすでに定まって、戦はすんだかの如くであるが、伊勢方面には、滝川一益が降ってもなお
長島、神戸などにたて
その方面には、専ら、織田信雄が当った。
で。――秀吉が越前から
「長島が陥ちたら、長島城へお還りあるがよい。美濃、伊勢には、御縁故の深い家すじや侍どもも多く、あなたをお慕いしていよう」
秀吉はいった。
信雄は
「大徳寺の使僧が、御寸暇にお目通りねがいたいと、今朝から控えておりますが」
信雄が辞去した後の客は、大坂表から来た池田輝政であった。この輝政が
「お、お」
秀吉は、思い出したように、
「二日の法要の打ち合わせか。――今朝参ると、自分から大徳寺へ申しやっておきながら、うかと、忘れおった。――彦右衛門へいえ」
「蜂須賀どのには、昨夜、
「そう、そう、彦右衛門はいないの。……はて、誰か、法要の儀に、明るい者はおらぬか」
側にあった輝政は、自ら任を求めた。
「六月二日は、故右府様の御一周忌。そのお営みについて、大徳寺の僧どもと、打ち合わせの儀でございますか。……それなれば、拙者が出て、諸事、談合をすませましょう」
「む、
「承知いたしました」
輝政は、別室へ立って、大徳寺から来た
灯ともし頃――
その間の訪客のひとりだった
ところへ、役邸の門の柳へ、従者に駒を
秀吉の座へ、すぐ近習の知らせがあった。
「ただ今、蜂須賀どのが、
心待ちにしていた使いとみえ、秀吉は聞くと、
「帰ったか。これへ」
と、すぐ膳を
軒の
彦右衛門正勝は、すぐ奥へは通らず、風呂所のわきの流しで、口を
宇治の槙島に使いし、帰りも馬だったので、
使命は、槙島の配所に
(そちでなくば……)
と、昨夜特に旨をうけて、宇治まで出向いたわけだった。
越前の
その送檻の道中も、秀吉は護送の武者にむかって、
(つれなく囚人扱いにすな。縄目はぜひなしとするも、あれぞ越前の捕虜と、道々、人目の
と、自身こまかい注意までしていた程であった。
野に放てば立ちどころに猛虎と変じるかも知れない
敵の
(殺すに惜しきもの)
と、きょうまで、宿題に附しておいたに違いない。
で、秀吉は、京へ還ると、間もなく、使いを遣って、率直に意中を告げ、もって玄蕃允に
その旨というのは、つまりこうなのである。
(勝家はすでに
これに答えて、玄蕃允は、
(勝家は勝家なり。勝家に代えて思い替うべき御方がなおあるべしとは思われず……)
と、笑い、
(すでに、勝家自害の上は、玄蕃ひとり浮世に留まる
と、云い切った。
昨夜、蜂須賀彦右衛門が、旨をうけて行ったのは、その使いがむなしく帰ってから数日後の、二度目の使いだったのである。
それだけに、彦右衛門は難しいと思って行ったが、果たせるかな、夜来、根気よく説いてみた彼の老熟の弁も、玄蕃允の意をひるがえさすことはできなかった。
「彦右か。どうであった?」
秀吉は彼を見るや問うた。
「いけませぬ」
彦右衛門が答えると、あらまし、それとは知っていたように、秀吉も、
「だめか」
といった。
「ひとえに、首を
「そちがいうてみても、それのみとあれば、なお
秀吉は、ふっと、あきらめ顔に、顔の筋を解いた。
「せっかくの思し召も、よう使いを果し得ませんで……」
彦右衛門は、
「詫びには及ばぬ」
秀吉は却って、なぐさめた。
「――
「おそらく、左様なことになりましょう」
「ははは。そちも武門、そこまでのことが、肚の底に分っていては、
「おゆるし下さいまし」
「なんの、大儀大儀。……が、玄蕃は、ほかに何も申さなかったか」
「されば、もう
「ウム、何というたの」
「玄蕃申すには。――否とよ彦右どの、御身は、腹切り斬り死のみが勇士の勇の最大なものと思し召すや。それも武門の華なれど、それがしの場合は、さばかりも
「うむ。……して?」
「柳ヶ瀬、茂山の乱軍より落ちのびた節は、まだ勝家の生死も定かならねば、北ノ庄まで落ちのびて、共に再挙を
「無念、さもあろう」
「また、
「ああ、惜し、惜し」
秀吉は歎声を発すると共に、眼に涙すら見せて、玄蕃允の心底に同情していた。
「それほどな男をよ……。へたに使い殺したは、やはり勝家のほうが不覚じゃ。……よし、よし、望みにまかせて、きれいに死なせて
「
「うむ。早いがよい」
「首の座は?」
「槙島の野」
「引き廻しますか」
「…………」
考えていたが、
「むしろ、それは玄蕃の、望むところであろう。京中を引き廻したうえ、その夜、槙島の野で斬れ」
と、命じた。
そして次の日、彦右衛門が槙島へ出向くに際して、秀吉は、
「さだめし囚衣も
と、小袖二重ねを、玄蕃允へ、持たせてやった。
彦右衛門は秀吉の意を帯して、その日、再び槙島の
そして幽居中の玄蕃允に会い、
「望み通り、近日、京中引き廻しの上、槙島の野において、
と、伝えた。
玄蕃允は、悪びれた風もなく、
「
と礼をのべた。
そこで、彦右衛門は、さらに、
「その日は、これを着られ候えとて、特に、お小袖二重ねを、筑前守様より下しおかれました。お受けあれ」
と、秀吉の好意を告げて、
玄蕃允は、見ていたが、やがて云った。
「御芳志は
「ほ。気に入らぬとか」
「銃卒が着る如きものを着て、京中の人目に、あれが柴田の
「お伝え申そう。……お望みは」
「大紋の紅のものの
歯に
なお、彼のいうには。
「すでに、越中の山中にて、百姓ばらに召捕られ、縄打たれて槙島へ送られたことは、世間に隠れもないことでござる。――その間の生き恥もしのび、折もあらば、筑前どののお首をいただかんと心がけたが、それもならず、今日、玄蕃、首の座につくと聞え渡らば――さこそ都の人々の眼も騒がしからんと存ずる。――見そぼらしき貰い小袖など着るも口惜し、着るならば、戦場にて
率直、実に愛すべきところがある。彦右衛門は早速、この旨を、また秀吉の所へ、云い送った。
秀吉もまた、それを聞いて、
「最後まで、
とて、さっそく玄蕃允が望みどおりな衣裳を届けてよこした。
刑の日が来た。
佐久間玄蕃允は、その朝、湯あみもし、
「縄を」
と、みずから
当年、ちょうど三十の美丈夫、誰も、その死を惜しむ姿であった。
車は、京の七条、六条から引廻され、夜に入って、槙島へもどると、野に敷皮をのべ、
「お腹を召されよ」
と、情けの
「
と、縄も解かせず、
秀吉を
大坂築城と、それに
従来の築城土木の程度なら、天下の
設計者が、いかに思いきった企画のつもりで作成した原案も、秀吉の前に示すと、必ず、
「小さい、小さい。――この十倍に。ここはこの百倍にも」
であった。
大に過ぎるゆえ、小さくとか、
たとえば。
大天守閣、小天守閣の層楼なども、信長の安土城をも遥かに
「かくなされれば、天下無比です」
と、規模の大を誇って見せたが――秀吉は一見の後、
「住むには、ちと狭い」
と呟いて、地坪四千六百余坪に拡大し、殿廊客館をあわせて、総部屋数六百二室という途方もない間数に訂正させた。
総じて。
彼の規格眼と、当事者の規模の頭脳とが、甚だしく
しかし、奉行人や築城当事者の考えるところは、要するに、当時の一般常識の最も高度な創意なのであって、秀吉の企画や構想の方が、独り余りかけ離れすぎていたからであることはいうまでもない。
そしてこの相違の原因が、何によるかを考えてみると、二者の観念に、根本的なひらきがあり、つまり“眼のつけどころ”が全くちがっているのであった。
日本の一般人士には当然、この創意、構想にも、日本という限界があった。あらゆる物の比較も、限界の外を出ない。
ところが、秀吉の場合は、その対象を、日本に限っていず、海外をも考慮にいれていたのである。少なくも彼は全
従って、彼以外の者が、
それと。
彼のこうした理想の具現は、きょうや昨日の思いつきでないこともいうまでもない。
もとよりそういう大気宇は、彼の本質にあったものに違いないが、時、ようやく、
信長の
早くから海外に眼を放って、いつか世界的知性を帯びていたのも、
また、
秀吉は、
だから、彼が学んだ人は、ひとり信長ばかりでない。どんな
――我れ以外みな我が師也。
と、しているのだった。
故に、彼は一箇の秀吉だが、智は天下の智をあつめていた。衆智を吸引して本質の中に
――とまれ今日、彼にとって、何といっても、忘れがたい人は、やはり故信長であった。
猿よ。
大気者よ。
こっちを向け。
あっちを向いてみろ。
ああ、もう一度、そういわれてみたい――という思いもするのだった。――で、この戦後の建設に多忙極まる中にも、六月二日の大気者よ。
こっちを向け。
あっちを向いてみろ。
その法事もすんだ。
六月の末である。
「だいぶ工事も進んだ頃、いちど見ておこう」
彼は、大坂へ出向いた。
秀吉を迎え、石山の高地に立って、何かと説明に努めた。
そのむかしの
堺の港や
築城の大工
人夫の供出はすべて、各藩に賦課されている。怠慢あるときは、諸侯といえ、厳罰に処せられる。
各職の下には、
そして、責任者のいる所には、かならず明らかなる責任があった。
もし、それに欠くる場合は、直ちに、
こうして、平時の土木といえ、その真剣さは、
また。
この時代の特徴として、工事はすべて、
戦国時の土木といえば、火急を要さない工事などはほとんど少ない。殊に、
いかに迅速に、いかに緊密に――しかも敵をして
割普請制は、それに
この制約の
(
の
反対に。
割普請制の特徴の第一は、働く者各

(俺の領分、俺の時間)
を持つことになるので、そこに
(俺が本気でやればどのくらいな働きができるか)
を先ず試み、それから、
(やれば、こんなものだ)
という自信をもち、
(迅いばかりじゃないぞ、俺の仕事にケチがつけられるならつけてみろ)
という誇りを生じ、ひいては、仕事への熱中と没我から、自然、仕事そのものに魂も入り、おもしろさも湧き、彼ら独自の、職人的道義も
もとより、この請負制は、人間凡衆のもつ利己心を活用したものであるが、結局は、小我に始まって無我に入り、利に始まって利を見ざる境地に人を動かすもので――もしこの手段が悪いといえば、人が道を求めて聖賢の語を求めるのも、ひとつの利己だし、仏心を起して
――が、いま。
大坂城の大工事場では、そんな理念に問うている暇はない。
以上、述べたように、大工事もまだ半ばの――いや、半ばにも達しない着手
「ひとつ、初の
と云い出し、にわかに堺の
「すぐ来い」
と、使いをやった。
ふたりは来た。しかし驚いた。広大な地域すべて、さながら土木の戦場である。本願寺時代の古い建物とてみな取り
「こういう中での一会も、またおもしろかろうが」
秀吉はいうのである。
そして、彼の滞在のために、にわかに囲った仮屋作りの八畳で、七月七日から十三日まで、七日のあいだ茶事を興行するゆえ、その
「御即意、いちだんと、興深いことでございましょう」
ふたりは、
七月七日は、

客は、築城の工に奉行している諸侯たちで、一夕、四、五名ずつ順次に招いた。
掛けもの、花入れなどは、その日その日にかえられたが、
「これは近頃、柳ヶ瀬の勝ち
と、東山伝来のそのことよりも、もっぱら家康が自己にたいして、かくの如き礼を
また、聞く方でも、それが世に隠れもない名器と、みな知っているだけに、
「まことに、三河どのにも、よく思い切って、これをば……」
と、その
七日間の茶事に、主なる諸侯は、あらましこの初花を拝見した。いや、亭主の
亭主は、茶事といえば、茶事にも、戦争へかかる時のような熱心を示して、七日間、ぶッ通しでやった。秀吉の口ぐせは、
「たぎりたッた茶の湯をやる」
ということだった。彼は、何事にまれ、ぬるいことが嫌いなのである。
こうして、諸将をよろこばせながら、工事も励まし、また一面の目的も彼は達していた。――いま彼の心のうちに、何が最も大きく伏在しているかといえば、それは家康のほかの者ではない。
秀吉が今日までの一生中、故主信長をのぞいて、真に、人物中の人物――
秀吉は、大徳寺の総見院へ、
(――今、
こんな便りだった。
彼は母と妻が、この文に、顔を寄せおうて読む様を、眼にえがきながら、これを書いた。
八月。――涼秋。
彼は、侍臣津田
「浜松へ参って、徳川家へ答礼して来い」
と、特使を命じた。
託すに、
「いつぞやは、御家臣石川
不動国行は、その折の、茶入れの礼として、彼から家康への贈り物に持たせたのである。
「ついでに、数正にも会い、その節は、大儀であったと、よろしく申せ」
秀吉の心くばりは、数正にまで届いていた。数正への
左馬允は、月の初旬、浜松へ出発し、十日頃に帰って来た。
徳川家の歓待は、こちらが恐縮するほどで、実に、行き届いたものでありました――と報告した。
「三河どのも、達者に見えられたか」
「至極、御壮健のていにござりました」
「家中の士風はどうか」
「他家には見られぬものが感じられます。質素のうちにも何やら皆、不屈な
「新参も多いと聞くが」
「多くは、武田武者のように思われました」
「さこそ……」
秀吉はうなずいて、使い、ご苦労であったと
彼は、家康より年上である。家康は四十二、彼は四十八。――六つちがう。
はるかに年上であった柴田勝家よりも、年下の家康に対する方が、彼の心は、大きな要心を
――が、すべては胸三寸の秘にあることで、表面の秀吉には、
十月。
秀吉は家康のために、その功を朝議に仰いで、
秀吉は、その時、従四位下の参議であった。彼は、年下の家康に、自分以上の位階を取做しても、なおかつ、ここしばしは、家康の歓心をつなぐことをもって、最善の方策としていた。
かくて、その年十二月には、予定のとおり、彼は、
左近衛権中将三河守家康は、強健な胃ぶくろのように、腹いっぱい食い溜めたものを、この半年は、――去年天正十年の下半期から、ことし十一年の上半期にわたる一年の収穫を、――
彼は、風貌からして、のっそり坊に見えた。
首が、
――徳川家康ほど、をかしき人はなし。下腹ふくれておはす故みづから下帯しむることかなはず、侍女共にうち任せ結ばしめらるる。
このたぐひさまざまにて、すべて云ひ立つれば、おほやう過ぎたる大名なり。
当時のものの本などにもそんな風に書かれていた。いささかの鋭さもない、このたぐひさまざまにて、すべて云ひ立つれば、おほやう過ぎたる大名なり。
鈍重で、
しかし、信長の死後、忽ち、甲信に兵を入れて、宿望の地を拡大し、二女の徳姫を北条
(上州には手はつけぬ。二家の争うは、
と、占領範囲の
その陣中へ、北ノ庄の遠くから勝家が
日を経て、今度は。
秀吉の方から、不動国行の名刀が贈られて来たり、つづいてまた、正四位下権中将に昇すなどの、吉事の
「筑前も、このところ、いこう気を
と、ひとりの侍臣に、皮肉な笑顔を見せただけであった。
この頃――
彼の
勘当がゆるされて、又帰りする家臣もなくはないが、正信のように長かったのは稀である。
正信は、家康が幼時、
「羽柴どのの気を遣うのが、殿にお分りのようでは、殿にも、少々、お心をつかわれておられますな」
その正信も、家康に似て、どこという特徴も見えない、平凡なる侍だったが、年は主人より四ツ上だし、多年、世間をひろくあるいて、家康とはちがう苦労をなめているので、おのずからな人間の
正信の帰参以来、彼と家康とは、よく主従二人きりで、こうして地味に、話すことをただ楽しむ如く話していることがあった。
憎くもなく、恨みもふくまず、十八年間も別れていた幼少からの主従が、ふたたび盆に返って、水魚のような君臣の
――が、家康は、そう情懐にのみ
それと。
近年、浜松の家中には、その
(これは、これほどある家臣のうちでも、二人と類のない男だ)
という点に、家康の眼と、彼を珍重する
かつて正信の流浪中に、松永久秀も、彼の
(三河武士といえば、みな
と、評したというが、この言はなお、家康の眼をもっていわしめれば、決して、正信の
家康が、正信にひそかに期待したものは、
(これは、何事にまれ、一応分別させてみるによい相談あいてじゃ)
と、思ったことにある。
おそろしく、用心ぶかいのである。
智者ハ智ニ溺 ル
という「――数正のはなしによれば、筑前の取りかかっておる大坂の城は、古今
「少しでは足りませぬ」
正信は、笑いもせず答えて、
「唇やぶれて歯寒し――のたとえもあります。追々、風当りが参りましょう」
「早いか。遅いか」
「思いのほか、早いこと、確かでございまする。うわさの如く、羽柴どのが、年内にも、大坂の城へ移ったら、時はもう迫れりとしてよろしいでしょう」
「……と、せば、何を名分に」
「ちと、申しあげ
「む……」
家康は、信雄を、思いうかべていた。
正信は、なお久しく、家康の前にひきつけられて話していた。
この主従の間に、早くも、対秀吉策がしきりに練られていたことは疑いなかった。――けれど、表面はあくまでも、互いに、相手の
ここ、何らかの大機をふくむ、名人と名人との対局の
そして――
この気流配置による二者の二天地は、著しく
新興
――が、家中一般の士気は、決してそうでなかった。三河武士の通念としては、依然、
(秀吉、何者ぞ)
である。また、
(彼は元来、
となす
ところへ。
石川数正が帰って来て、しきりに秀吉の大気や、大坂築城の
(
という者が多かった。
ひいてはまた、先頃、秀吉の許へ使いした石川数正個人にまでも、へんな眼が向けられて、
(数正どのには、だいぶ筑前に頭をなでられて、お帰りじゃそうな)
などと
そんな事、こんな事、家康の耳にも、何となく聞えてくるが、家康は、鈍根な貧乏性を
彼の居室の特徴といえば、これは信長にもない、秀吉にも見られない、書巻の気があることであった。
そこには、
「御書見中にございますか」
「
「お
「入るがいい」
家康は書を
招かれもせぬのに、こうして主君の室を訪うほどな家臣は、主従でも、よほど打解けている者でなければならない。――が、それは他家のことで、浜松城という大きな家では、こういう親しさはめずらしくない。
なぜというに、ここの
主君が家来を養って来たのではなく、家来が主君を養い育てて来たという変則が、却って、本当の意味の家族的団結をかため上げ、他家に類のない“徳川家”という独自なものを
つまるところ、それもこれも、この国が過去において、海道一の貧国であった賜物である。――と共に、今となれば、君臣共に、武門第一の苦労人揃いの家中――という得難い堅実性をもその基礎に持つものとなっていた。
「では、おゆるしを」
と、帯刀はにじり入って、うしろの障子を閉めた。――冬の雨が、
「…………」
べつに、何の用でもなさそうに、安藤
「…………」
おかしな男かな、と家康もだまって眺めていた。
――が、何の窮屈でもない。不自然でもない。
雨の音を聞きながら、家康はその間に、この者の亡父を思い出していた。――幼少から「
――今、いたら。
と思う功臣は、ひとり家重ばかりでなく、家康の
――が、年は家康よりずっと上なので、その子すらもう髪に初老の
「帯刀。……何を見ておる?」
「はあ」
と、帯刀は初めて、にやりとしながら、
「御書物が、いつも変らないので、不審に眺めておりました」
「これか……」
と、家康は書見台に眼を落して、
「書は同じでも、心は折々にちがう。従って、読み得る所も、時により同じではない。――たとえば、
「ははあ。そういうものでございますかな」
いったい、退屈を慰めに来たのやら、退屈を催させに来たのやら、気の知れない帯刀ではある。
「…………」
また、黙ってしまう。
家康も、黙然といる。
「世間ばなしに来たと申すが、何か、変ったことでもあったか」
ついに家康から催促した。
「は。左様で」
と、帯刀は、口をうごかし始めた。その
それを知っている家康は、苦笑をもらして云ってみた。
「帯刀。そちは若い者に尻をつかれて参ったの。近頃、上方に威を張る者にたいして、家康が安閑と坐視しているかの如き態にあきたらぬ
「は。……」
「ちがうか」
「い、いえ。違いませぬ」
「ははは」
豪骨な帯刀が、処女のように顔を赤らめて、もずもずするのを見て、家康はいよいよ笑った。
「――それでもよい。まあいうてみい、
「実は。……今日、登城の前に、作左どのに会いました」
「作左。……おう、奉行の
「されば、その奉行の本多作左衛門どのにござります。折入って――と、作左殿がいわるるには。――近ごろ、上方において、信雄卿が
「…………」
「然るに、わが殿には、上方の情勢を何とお考えか、秀吉との使者の遣り取りなどにお心をゆるされてや――近日、甲信の境へ向って、国境の御巡視にお出ましあるようなお触れ出しを拝しておるが、この際、そんな用でもない辺境の地方をお歩きになっている場合でもあるまいに……いや、困ったものだと――あの鬼作左どのが、顔を
「帯刀」
「はい」
「家中の若者がそちをけしかけたものと思うたら、そちの尻を突いたのは、あの爺イであったのか」
「いや。ひとり作左殿ばかりでなく、御家中の多くも、みな同憂の歎を抱いておりまする」
「それこそ、困ったものじゃ。よい年をして、あの爺イまでが、そのような勘のわるい耳では」
「なぜでございますか」
「三介殿(信雄)が殺されたなどと申すうわさは、いわゆる流言
十二月の初旬。
勅使の参向があった。
折ふし家康は、先月から甲信の境へ出向いて、浜松にはいなかったが、急報によって、早速、旅先から帰って来た。
昇階の御沙汰は、すでに
拝受の後、二日間、勅使
「おらが子どもの時分は、餅はおろか、
と、
だが、城市のまん中にある
その頃、岡崎、浜松あたりの
ほとけ高力
鬼作左
どちへんなしの
天野三郎兵衛
と、鬼作左
どちへんなしの
天野三郎兵衛
彼と、高力左近と、天野
その鬼作左が、ひと頃、目かどを立てていた上方方面から出た流言も、歳の暮には、いつか下火になっていた。
信雄卿が殺された……などという浮説は、家康が一笑し去ったように、明らかな浮説に過ぎぬものであったことが、やがては、自然に分っていた。
正月を前にして、京から、南洋の
「これは、支那やわが
などと城中でも珍しがったが、美味なので、家康はこれを百
ところが、北条家の役人は、これを
「浜松には、だいだいが珍しいとみえる。小田原にはこんなにあるということを知らせてやれ」
と、時を措いて、本物の橙を、役夫八人にかかせるほど献じて来た。
家康は、その皮肉に対して、
「小田原の者どもは、人の贈り物を、目にだけ見て、味わいもせず、かかるなめげの
と、却って、家臣の口をかたく慎ませていた。
「
「おお、忠三郎殿よな。さて、よい折に」
本丸の大書院前で、出会いがしら、こう初春らしい声で、
秀吉の大坂移居によって、去年その大坂から大垣へ
「いよいよ、おすこやかな態。まず何よりで」
「いや、元気は年と共にだが、何とも、忙しゅうてな。……まだ、今度の大垣の地にさえ、幾夜も寝ておらぬ」
「そうそう、勝入どのには、大坂御普請の奉行をも御兼務でしたな」
「ああいう御用は、増田や石田などには打ってつけじゃが、われら武弁には向かぬ。やくたいもないことのみ多くてよ」
「いや、適任でないお人を、一日でも、不適所におく筑前様ではありません。やはり何か奉行衆の中に一枚、あなた様を必要とするものがあるに違いございませぬ」
「ははは。
「いま、おいとま申して来たところです」
「わしも退出するところじゃ。……が、よいしおである。折入って、ちと内談申したい儀があるが」
「実は、お顔を見たとたんに、それがしも、ぜひあなたに伺ってみたいことが胸に呼びおこされていましたので」
「それや双方の思いが、はからず
「小書院へでも」
人なき一室に二人は坐った。
「先頃、しきりに行われた、
「聞きました。三介様(信雄)が殺されたと、
「それじゃて……」
と、勝入は眉をひそめ、息を大きく、
「――今年も早や何事か動乱の
と、深憂の色を示した。
「いったいあのような浮説は、どこから出たものでしょう」
「さて、それはちと、いえんがな。……ただし、こういうことはいえる。火のない所に、煙は出ぬ」
「では、何かそれに
「いや、ない。事実はまったく
「なるほど」
「三介様の家臣どもは、翌日御退城の予定が、二日目もその触れなく、三日目も、四日目も、信雄卿の御退出を見ぬために、さてはと、悪く
「はははは。さては、そうした
氏郷の眉が得心を見せると、池田勝入は、その問題をまだ語り尽していないように、
「ところが……じゃよ」
と、急いで云い足した。
「その後にまだ、
「世間はやはり、そのようなことを――あり得ぬこととはせず、ありそうなこと也――と、考えているものでしょうか」
「一般の人心は測り難いが、北畠殿に縁故の者どもや侍臣中には、柴田の滅亡につづき、神戸殿の御最期を見た後では――次に来るべきものは何かと……自ら問い自ら悪夢をえがいている者が少なくないことは確かでおざろう」
「さ。そこですが」
と、氏郷は初めて自己の
「どんな流言が行われようと、羽柴、北畠両家のあいだに、堅い御理解さえ結ばれておれば……ですが、筑前様と信雄卿のお心の間には、多分に、そこに喰いちごうている遺憾があるやに思われます」
氏郷は、
「これも世の
「まずいのう。……まるで
「が。あの御方は、本当にそんな甘いお考えを抱いておらるるのでしょうか」
「おるやも知れぬ。何せい、気のよいお
「必ず、大坂表にも聞えておりましょうし、かくては、相互の御意志に、
「いや。困ったものよ」
勝入は、さらに、歎息した。
池田勝入も、蒲生氏郷も、秀吉の将として、秀吉とはとうに完全な主従関係に結ばれて来たかのように一般には見られていたが、大乗的陣営を離れて、勝入個人とか、氏郷個人とかの、個々の立場に返ってみると、今もって、そう簡単にはゆかない事情もあり
第一に、氏郷は、信長の
また、勝入池田信輝は、信長の乳母の子であり、信長とは乳兄弟にあたるという非常にふかい関係がある。
従って、
しかし。――その信雄が、もう少し、どうにか
けれど、名門の子の不幸なる
勝入や、氏郷のごとく、時代の大波が、身にもこたえ、眼にも見えている者には、信雄のしていること、考えていることの甘さ加減が、はた目にも、はらはらされて、時には、
(ああ。危うし)
と、歎を発せずにいられないような場合が、幾らあるかわからない。
たとえば、去年のような複雑な情勢下に、こっそり三河まで出かけて、家康と密会したり、柳ヶ瀬の戦後には、いかに秀吉に
「……が。この
「いや、その智慧は、御辺にこそ借ろうと存じたのじゃ。忠三郎どのよ。何とか、思案をかせ」
「氏郷の存ずるには、いちど信雄卿に長島から出てもろうて、筑前様と会わせ、お胸をひらいて、じゅっくり語らるるが、何よりではないかと思いますが」
「良策だが。……さて、あのお公達の、近頃の
「お誘いは、氏郷がよきに
きのうは、おもしろく、きょうは、おもしろくなく、信雄の心は、常に、平らかでなかった。
また、それが、何に起因するかを、反省してみるような人でもない。
昨秋、伊勢長島城に移って、伊賀、伊勢、尾張三州で百七万石の
「伊勢は田舎じゃ」――と。
そして、去年から、おもしろくなさそうなことは、
「筑前は、何で大坂に、あのような途方もない大城を築くのか。己れが住むつもりか、或いは、天下の
であった。
その
その眼で、大坂を見る、秀吉を眺める。そして身辺を考える。
「筑州こそ、
相互の音信が絶え出したのは、去年十一月頃からである。――近頃、秀吉が信雄を除く計画をしておるとか、信雄はすでに殺されたとか、彼の
同時に、信雄が側臣の間で、不要意に洩らしたことばが、これまた、世間に伝わって、自身の底意が、多少、秀吉を刺戟したらしくも思われていたので――ついにこの正月となっても、互いにまだ新春の賀すら交わされずに過ぎていたのである。
「日野の若殿がお越し遊ばしましたが」
正月、
信雄が、城内の後庭で、婦女子や小姓をあいてに、
「
取次は走り去った。
程なく、また来て告げた。
「お急ぎとあって、はや御書院でお待ちでございます」
「
「――そのような芸能は、氏郷、わきまえぬと、御挨拶で」
「田舎者よの」
信雄は、笑った。
歯はつやつやと
信雄と氏郷とは、年齢も似たほどだし、対比してみて、興が深い。
一は、信長という名門の子。
一は、その信長に征せられた
幼少氏郷が、信長の手許で養われ出したのは、まだ十三歳の頃だったという。
信長
稲葉
(蒲生の子は、尋常でない。この
また、信長もいった。
(蒲生の子を
当時信長は、
初陣は、十四歳のとき、信長が河内城を攻めたときで、この年少が、敵の首を取って帰ったので、
(それみろ、ただの童であるまい)
と、信長は自身で
こういうこともあった。
織田金左衛門が、名馬を持っていた。
こはこれ、一朝御陣の節、敵前へ一番駈けのため、養う所の名馬也。飼主の心にも劣らず、名馬にも恥なきほどの乗人とあらば、天地神明に誓約の上、譲りてもよい。
為に、所望者の足が絶えた。ところが、当年十六歳の蒲生のせがれが、いつの間にか出かけて、この名馬を貰っていた。人々、怪しみ合うている程に、やがて武田こうして、信長の愛、家中の衆望、共に
(御君側を離れて、
勿論、ゆるされた。故に、氏郷はその若年時代には、柴田勝家の配下にあって、兵たちと、
いま、二十九歳。すでに彼の重器たる質は、秀吉も世間も、認めている。
柳ヶ瀬の後、秀吉が、戦功として、亀山を、氏郷へ与えようとしたが、彼は
(亀山は、
関氏と蒲生家とは、遠縁にはあたるが、それにしても、できないことである。信長に深く愛されていた氏郷は、今、秀吉からも、心から惚れ込まれていること、疑うべくもない。
――が、思うに。
いかに信長が、彼を愛していたにせよ、その実子、信孝、信雄の愛に比すれば、当然、同日の談ではなかったろう。しかも、信孝をあのような悲命に終らせ、信雄を今日のごとき者にしたのは、またその盲愛であったといえないこともない。
信雄は、数日来、甚だ機嫌がよく、浮いている色さえ見えたが、
「明日大津へ出向くぞ。園城寺で筑州が待つという。……会いたいというのじゃよ。秀吉の方から」
と、急に四名の老職を招いて、供を云い渡した。
――だいじょうぶですか?
と云いたげに色をなす者も中にあった。信雄はきれいに
「弱っておるらしいぞ、筑州は。――何というても、この身と不仲のような
「……が、園城寺での御会見とは、いかなるお運びから」
四家老のひとりが訊ねた。それへの答えも、信雄は、至極得意そうで、いささかの不安も感じていないらしい。
「こうじゃ。先頃、飛騨守が来てわしと筑州との中が、何か、おもしろからぬように世間でいうが、筑前の腹は、決してそんな水くさいものではない。為にする者の策謀とは知れておれど、さりとて、筑前からこれへ来るも異なもの、初春の御対面を兼ね大津の園城寺までお運びなされませ。必ず、筑前も大坂を出て、それまで
で、
「なるほど……」
と、
「相違なく、御直筆のようで」
と、つぶやき合い、
「ほかならぬ、勝入様や氏郷様のお
と、ようやく、同意を示した。
「しかし、御要心には
と、供も厳しく、四家老もみな
次の日、北畠信雄は、こういう
さっそく、氏郷が訪ねて来、池田勝入も後から見えた。そして、
「筑前様には、前日御到着あって、お待ちしておられます」
と、いった。
会見の場所は、秀吉の宿所、中院の
「道にも疲れたから、明日一日は身を休めたいが」
と、ちょっと、わがままを出してみたくなって云った。
「では、明後日のことと、取り極めましょうか」
と、二人は、その旨を秀吉へ答えに帰った。
今時、誰ひとりとして、一日たりと、
(あす一日は休養したい)
というままに、翌日は、園城寺中の宿泊人
この園城寺全域では、何といっても、中院の金堂は建築の主閣である。そこへ、秀吉主従が泊りこみ、信雄の旅舎には、
会見日の取り極めに、小さい我意を通してみたくなったりしたのも、そんな気まぐれのわがままからであったらしいが、さて、翌一日は、当人の信雄自身からして、退屈に
「家老どもも、顔を見せぬ」
などと
寺宝の歌書を見せられたり、老僧の長たらしい話などに
「きょうは、ごゆるりと、
と、四名の老職が、顔を揃えて、その室に見えた。
――ばかな、と信雄は腹が立った。所在なくて仕方がなかった程だ、と呶鳴りたかった。けれど、いかに主君たりと、彼らの善意な考え方までいちいち
「ム、ム。のびのびしたよ。お

「くつろぐ間もございませぬ」
「なんで?」
「各家から、
「そんなに訪客があったのか。なぜわしに通じて来ぬ」
「せっかく、御休息の一日を、お客にお
信雄は、指で輪をこしらえては、膝がしらを
「ま、よいわ。……夜食はお
老職たちは、顔を見合わせた。やや困ったような容子が見える。そういう心理を看取ることにかけては、信雄は敏感であった。
「何か、
「ござりまして――」
と、四名のうちの岡田
「実は、先ほど、筑前守様からのお使いで、今夕、四名とも揃うて、宿所まで来い、とのお招きでございますゆえ、おゆるしを仰いだ上でと、このように、伺い出たわけでございまする」
「なに。筑前からお前たちに来いと云って参ったと。――また、茶事か」
いやな顔つきである。おもしろくないらしい。
「いや、そのようなことではないように存じます。わが殿も
「ふうム。……はてな」
信雄は、小首をかしげ、
「すると、その方どもを招いて、やがてこの信雄に、織田家からの一切を受け継いでくれいというような相談でもあるのかな? ……。そうかも知れぬ。
中院
やがて客が通された。
津川玄蕃、滝川三郎兵衛、浅井田宮丸、岡田長門守の四名である。
茶菓。それだけが出た。
正月半ばである。きびしく寒い。
程なく、
「おう」
という。
「待たせて気のどく――」
という。そして、
仰ぐと、ただ一人なのだ。小姓すら後ろにいない。
四名は、容易に気楽になりきれなかった。こもごも、挨拶する間、秀吉の方は、
「おかぜ気味のように拝されますが」
ようやくにして、三郎兵衛がくだけていう。秀吉もくだけて答えた。
「ことしの風邪はぬけ
あいそのない招きである。
「三介様(信雄)にも、近頃のような御行状では、困ったものでないか」
四名は、ぎくとした。さてはその
「みなも、骨が折れるだろう」
次のことばは、こうだった。四家老の
「…………」
「一かどの者揃いよ。が、三介様の下では、どうにもなるまい。察し入る。……筑前とても、同様、
語尾に激気があった。四名は、身の
「いまは、思い
と、いうのであった。
「誠を尽して、多年随身のその方どもには、気のどくではある。が、是非もないぞや。ただし、秀吉と思いを一つにするなれば、老職たるお
「…………」
寒気だけではない。身のうちにそそけ立つものを四名はどうしようもない。
四壁はすべて声なき
こういう大事を語られた以上、座も去らさせまい、時もまつまい。絶体絶命だ。四名は歎息の中に首を垂れた。――が、ついに承諾した。すぐ誓書を
「身内の者どもが、柳の間で酒もりしておる。お
誓書を収めると、彼はすぐ奥へ立ってしまった。
その夜、信雄は落着かない気持らしかった。夜食には、侍臣、
「いま
「老臣どもは、まだ金堂から戻らぬか」などと幾度も小姓から
そのうちに、四名のうちの、滝川三郎兵衛
「ひとりか?」
と、信雄は怪しんで目の前の三郎兵衛を見まもった。
「はい、ひとり戻りました」
そういう顔いろがただの
「ど、どうした、三郎兵衛。……筑州の用談とは、何であったのか」
「辛いお招きでござりました」
「何、おまえらを呼んで、
「そのような儀なれば、辛いとは申しませぬ。心外にござりまする。刃の中に坐せしめられ、心ならずも、誓書を取られました。……殿にも、お覚悟なくてはなりませぬ」
彼は、秀吉が自分たちへ計った
「いやと申せば座を外さず、その場で殺害をうくるは知れきっておりましたゆえ、ぜひなく、四名
信雄は唇の色まで変えてしまった。三郎兵衛のいう半分も耳に入らないような
「そ、そして。……長門や、玄蕃などは、如何いたした。そちの他の者は」
「てまえは、てまえの
「あれらも、誓書に名を書いたのじゃな」
「長門どの以下、残らず」
「そして、筑前の家中の者と、なお酒もりしておるのじゃな。
意を読んで――
「お待ちあれ」
と、三郎兵衛は、
馬は名馬を持っている。「
「あとは頼むぞ」
と、三郎兵衛に云い残したまま、法明院の裏門から夜にまぎれて
夜のうちに影の失せた金槌は、かくの如く迅速だったので、翌日まで、誰知る者もなかった。当然、秀吉との会見は、信雄の発病という理由で流会となった。秀吉は、予期していたことのように、平然と大坂へ帰った。
長島へ帰った信雄は、城中ふかく隠れたきり、以来、病と
が、この
それに反して城下は、いや伊勢、伊賀一円は、みだれ飛ぶ浮説が、日と共に
「何があったのか?」
と、専らな噂である。また、その折

「
とする
真相は伝わり難いものだが、またぞろ、信雄秀吉間の不和が、濃密な複雑さをつつんで、
当然、信雄の位置は、颱風の中心にあった。かくなれば、彼にも大いに
信雄の胸には、今その黒幕の者が大きく呼び起されていた。東海浜松の
家康は、明けてこの二月、権中将から再び昇官していた。旧来の位置も、近来の実力も、その存在は大坂の秀吉といよいよ
しかし、
この上は、家康を押し出して、秀吉の
信雄の密使は、一夜こッそり長島を出て、岡崎へ急いだ。
二月に入ってからである。
家康腹心の臣、酒井与四郎重忠は、伊勢地方への旅行を名として、ひそかに長島を訪い信雄と会って、何か、密議するところがあった。
極秘裡のことだったが、その日時から推して、信雄の密使が岡崎へ行った直後なので、それが信雄に対する家康の“答え”であったことは、
同時に、信雄と家康との軍事同盟が秘中に結ばれ、或る時を期して、
秀吉を討つべきこと
に、両者の合意成立を見たことも、恐らく間違いないであろう。かたがた、諸般の手筈を
信雄は、以後、病室を出て家臣にも接し、また頻りに、
そのうちに、三月六日のこと、園城寺の一夜から久しく登城の姿をここに見せなかった四老臣のうち――滝川三郎兵衛を除くのほか、三老職そろって、この日、長島に顔を見せた。
同、
饗応を名として、信雄から特に招いたものだった。――が、あれ以来、
(秀吉に通じて、われを
と、ふかく思い込んでいた信雄には、この三名の顔を見るのも、憎悪に胸がむかつく程だった。――もとよりきょうの招きというのも、決してただの饗応であろうはずはない。
が、さりげなく、三老をもてなした後、信雄は、ふと思いついたように、
「そうそう、堺の
と、彼ひとりを、別室へ連れ去った。
そこで、岡田長門が、示された鉄砲を見ていると、
「上意っ」
とおめいて、後ろから引っ組んだ。長門は、
「こは、お情けなし」
と、脇差を七、八寸抜きかけたが、大力の勘兵衛に組み伏せられて、もがくのがやっとであった。信雄も、座を立って、
「勘兵衛、放せ放せ」
と云いながら、壁の
「放さねば、そ奴を、斬ることができぬぞ。勘兵衛、放してしまえ」
と、なおも云っていた。
勘兵衛は、長門の
室内いちめんの鮮血を見ても、信雄は案外、平然としていた。気の弱いくせにして、一面、
その時、他の家臣たちが、室外にひざまずいた。そして口々に告げた。
「玄蕃が身は、ただ今、飯田半兵衛があちらにおいて、刺しとめました」
「田宮丸は、森源三郎が、
信雄は、
この兇暴ともいえる血液は、信長にもあったものである。けれど、信長のそれは、天下の士を
だから、時による兇も暴も、信長のは、英断といわれたのが、信雄のは、小策と感情による暴断でしかない。
すべて、大岐路にのぞんでは、一指を世にさす者の“断”こそ大事といわれている。しかし、活眼なき者の“断”ほど怖ろしいものもまたあるまい。
「すわ、大乱が起ろうも知れぬぞ」
長島城中一場の惨劇は、忽ち、ここの家中の足もとから、その夜からでも、四面の国境がみな戦乱と化すような、
三家老の殺害は、秘密裡に行われたものの、その日、時を移さず、長島の兵は、老職各自の居城を攻め
「こうなっては、秀吉との手切れも、お覚悟の上に相違ない」
と、とたんに次の大戦を予想したのもむりはない。そして、昨年来、何か世の底流に、
このとき、四家老のひとり、滝川三郎兵衛
彼は初めから、他の三家老とはべつに、独自な行動をとり、信雄に向っては、
従って、三家老が長島へ召された折も、彼のみは、名が洩れていたわけである。そして間もなく、伊賀の上野にも、三老職が殺されて、各居城は、信雄の派兵が、直ちに
「――こうしてはおられぬ」
三郎兵衛はすぐ旅支度して、大坂へ立って行った。
これは彼として、一見、奇異な行動のようであるが、主人信雄と秀吉との開戦が
――が、幸いなことに、その老母は、秀吉の家臣で、近ごろ世に評判されている
そこで彼は、
「開戦の前に、何とか、
と、一ト思案きめて、急に旅立ったものらしかった。
大坂の
仰ぐと、黄金の
塀土は真白く、木の香も高い新邸である。しかも主はまだ三十がらみ。以ていま、新興の都府大坂と、秀吉勢力の推進力が、どの辺の年配の人物にあるかがわかる。
「拙者が、脇坂ですが」
「
「お名は伺っていました。信雄卿のお老職が、不意のお訪ねは、何御用ですか」
「武人の
「煩悩といわるるは」
「恥をしのんで申しあげる。……実はてまえの老母のことでおざるが」
「ああ、御老母の身か。……ならば、決して、お案じあるな。主人筑前様から申しつかって、質人たる御辺の母堂を、拙者のやしきにお預りいたしてあるが、及ばずながら、御面倒は見てあげておる。――それに、おからだも至極すこやかだ。近頃、紅毛人の外科医に命じ、入れ歯などおさせ申しておる」
「お情け、
三郎兵衛は、情に打たれて、さし
「さまで、お手厚うして戴きながら、この上のお
「ほ。それはそれは」
「
「ごもっともじゃ」
「弱りまいた。……おたがい戦場でなら、骨肉の
「む、む」
甚内は、相手の涙ぐむのを見て、われとわが心の揺れを、抑えつけていた。情に
けれど、その娘はすでに命
「……では、病中の御息女に、ひと目、御老母を会わせてやりたいとて、わざわざこれへお越しか」
ついに、彼は先の云いかねているところを、自分の方からいってしまった。
三郎兵衛は、身をふるわした。
「御推察のとおりでおざる。――滝川三郎兵衛が生涯のおねがい、おかなえ下さるまいか」
幾度も頭をすりつけた。哀願あらゆる言を尽した。
「よろしい、お連れなさい。――主君にお伺い申さねば計れぬことだが、お伺い申せば、ゆるされぬことにきまっておる。拙者一存で、七日の間、そっと、御老母の身をおかし申そう。かならず、再び連れ戻られよ」
三郎兵衛は、狂喜して、母を連れて帰った。もちろん極く内密のうちにである。ところがその夜明けるとすぐ甚内は大きな悔いに打ちのめされた。
――昨日はよいことをした。
と、独り
長島における三老職の刺殺事件や、勢州尾州にわたる三城の
(長島表では、大軍備に着手した。背後には三河殿(家康)がある)
という声も、大坂城中の然るべき者の口から、明らかに云われ出していた。
甚内は、
「ほんとだろうか?」――と。
彼はその朝、登城の途中でそれを聞いたのである。
「昨夜
大坂城は、今なお
彼は、本丸に遠い一門に馬を捨て、それらの巨石や木材の間を、
「甚内、何を急ぐか」
同僚の片桐助作が、彼を見かけて声をかけた。振り向いただけで、答えもしなかったが、ふと駈け戻って、
「助作、助作」
「おい、なんじゃあ」
「長島あたりに、何か、由々しい変がありそうだと申すは、本当か」
助作は、笑って答えた。
「それよ。次の七本槍の場所は何処かの。――伊勢路か、三河か。追ッつけ知れよう」
寸時の後。
甚内は秀吉の前にいた。秀吉の座下に平伏したきり、頭も上げないでいた。
命ぜられて、わが家に預かっていた北畠家の質人を、無断で、質人の子の滝川三郎兵衛に渡してしまった次第を――
「
と、
「莫迦者とか。よう申した。まことにそちは、幼少からよく泣く泣き虫であったからの。……で、どうするつもりか」
「さきに頂戴いたしました七本槍の御賞辞、御加増、みなお取り上げくださいまし」
「そんなことではすむまい」
「決して、すみません。けれどかかる不始末で、腹は切りとうございませぬ。
「そう急がずともよいわ」
「てまえ一存で致した失策。なお、てまえ一存の始末をおゆるし下されば、その後においては、いかなる罪を賜わるも、おうらみには存じませぬ」
「面倒な。……ま、気のすむようにして来い」
秀吉は横を向いて、大村
秀吉の前を退がると、彼は、飛ぶが如く、やしきへ帰った。
母の室へ、帰りを告げて、坐ったときは、もう心も静かだった。
「甚内どのは、きょうは、常より早い御退出の」
「はい」
と、
「にわかに、さる方面へ、出陣と相成りましたので」
「おう、そうか。今というても、お支度にさしつかえはないはず。心おきなく行って来るがよい」
「……はい」
と、またしばし、ことばの間を措いて、
「ただこのたびの合戦は、いつもの如く、
「どうあろうと、戦は戦、武門の名にかけて、存分に働きめされよ」
「もとよりです。……が、この一戦においては、
「ぜひもあるまい」
「昨日、滝川三郎兵衛めに、お預かりの人質を、主人にも無断で、そっと渡してやりましたこと――はや、お聞き及びでございましょう」
「聞きました。……お
「思慮なき子、祖先以来の家名を今日、ついに滅ぼすに至りました。大不孝、おゆるし下さいませ」
「何の何の、御先祖さまには、まことに相すまぬが、義において、情において、いささかお慰め申しうる道は立つ。義といえ、情といえ、これもさむらいの美しさじゃもの。……不義無道で家を滅ぼすのとはわけがちがう」
「そう仰せ下さいまして、甚内もどれほど快く死ねるかも知れませぬ。ついては、郎党どもは元より連れて参りますが、
「それがよかろ。母の身は、お案じめさるなよ」
「母上には、妻ひとりを、お側において立ちまする。やがて、戦場にて、甚内死せりとお聞き遊ばしましたら、筑前様にお伺いをたてて、御余生に入らるるとも、罪をおまち遊ばすとも、御主君の思し召しどおりになされて下さいまし」
「オオ、おお、そなたのいうように致しましょう。さらば、時を移さず、すぐ召使たちへ、暇を申しわたしたがよい」
動ずる色もない老母である。
甚内はすぐ邸内の召使をのこらず庭へ呼び集めた。
つい昨日まで、小姓組二百五十石の小身であったのが、賤ヶ嶽の後、七本槍に加えられ、功によって、三千石の知行と一邸の主となったものの、まだ家の子郎党も少なく、馬の数さえ多くはいない。――が、集まった召使たちは、その脇坂甚内が、まだ
甚内は口を開いた。
「多年、至らぬわしを主人と立て忠実に仕えてくれたお前方を、にわかに離すのは忍びぬことだが、仔細あって、きょう限り暇を出す。――各

「…………」
忽ち、すすり泣きが流れた。
と、ひとりの老僕が、一同の中から叫んだ。
「旦那様。お情けないおことばです。深いわけは存じませぬが、旦那様が、お
「ありがとう、ありがとう」
甚内は、何度も
「――では申すが、さても愚かなこの主人は、御主君筑前様に対して、腹を切っても
「わかっておりますだ。おこころもちは」
「まあ、聴け」
と、一同の
「――よって今より、滝川三郎兵衛の居城、伊賀上野へ押し
「な、なぜでござります。どうして、お家を見捨て遊ばすのでございますか」
「ご、ご先祖様にたいしても、そ、そのような、大不孝なことが、ござりますものか」
と、脇坂家の先祖に代って、自分が叱るように、
一同の涙を見ながら、甚内も負けずにぽろぽろ泣いていた。声を揚げないばかりである。
「婆あやよ。まったく、わしほど大不孝者はない。――が、既にしてしもうたしくじりじゃ、きのうを責めるな。また、今日これから甚内の向う

「わかりませぬ」
おはしたの若い女がいった。
「そう仰っしゃって下されば下さるほど、何で、旦那様がたばかりを、お見送りできましょう。わらべや、お年よりは残しても、わたくしたちは、おつれ下さいませ」
「いや、わしの母上、また妻や子も、のこして行くのじゃ。郎党のほか、供はならぬ。――皆が、それまでいうてくれるなら、あれにある甚内のひと粒だね――あの子の後々だけを、お前方にたのむぞ」
彼の妻は、ことし二ツの乳のみを抱いて、人の気づかぬ縁の端にさし
生れたばかりの一子と妻と、そして母の身とを、多年甚内に仕えて来た老僕や下僕たちに頼んで甚内は、直ちに、家を捨てて出た。
常に
この小勢をもって、我らの主人はこれから何処へ何を働きに行こうとするのか? ――そういう疑念はみな持ったろうが、
(合戦をなされますか。相手はこの人数で破れるほどの勢でございましょうか)
などと理をもって主人に問うような者はない。ただ主人の駈け向う後につづき、主人の戦えというものに対して、戦いを尽すというほかに何の考えも持っていない。
こういう簡単な生命の
(さあ、御奉公のしどころが来たぞ)
と思うだけなのだ。
こういう主従関係は、武家社会の定則で、どこの家にはあり、どこの邸にはないというものではない。もとより主人の日頃の人づかい如何にもあるが、さむらいを志して、武家を主人に持つ以上、それと同時に、無言の奉公証文を主人に入れている気持は、足軽小者の末にもみなあったことなのである。
いまは、大坂城という大きな家の
(さむらいになりたいのです、わたくしをつかって下さい)
と、哀願したとき、信長が、日吉にたずねた一言は、
(汝は、何の能があるか)
ということだった。そのとき、日吉が答えたには、
(何の能もございませぬが、ただ、事ある時には、死ぬことだけを、習い覚えておりまする)
というたという。
信長は、そのただ一言を聞いただけで、日吉をその場から列に加えて、
さて、余事はともあれ。
脇坂甚内安治は、家をすてて上野へ向ったが、決して自暴や無策の窮余に出たのではない。
(小勢たりと
と、かたく期していたこと勿論だった。何をか期す? いうまでもない。
「いかに、母を奪うために、子のなした情の上のことたりといえ、その
というのが甚内の誓ったことだった。
白昼、
甚内の率いる小勢は、平野街道から
郡山の国主、筒井順慶の家臣は、彼らが夜営している処へ来て、こう
「野武士とも見うけられぬが、物々しいいでたちで、何処へ行かれるか。他国へ来て、無断、営を結ぶは、いずこの領内でも、不法なことぐらいは、ご存じであろうが」
甚内が、挨拶に立った。
「ごもっともなお叱り。しかし、その
「非常の途次とは」
「非常と申すからには、合戦でござる。それへ参る途中でござる」
「はて、いずこに?」
「秀吉公の御命をうけて、伊賀上野城を攻め
「物見衆か」
「何の、ここは本陣。これは総人数でござる。御主人、筒井どのには、右の如く、お伝えおきあればよい。拙者は、大坂城小姓組の脇坂甚内でござれば」
「オ。七本槍の」
そう聞くと筒井の家臣は、
一飯一睡を
柳生、相楽のあたりへ来ると、甚内は道々、こう触れて行った。
「これは、羽柴殿の
一軒の
声を聞き伝えて、忽ち、
「いで、道案内を」
「いで、お供を」
と、甚内の人数に合する者、見るまに、数を加えて行った。しかも誰ひとり、これが上野攻めの全軍とは思っていない。先鋒隊のほんの一部だと思って参加したのである。
滝川三郎兵衛
しかし甚内は、その三十余名に、
そして、堂々と、
「滝川三郎兵衛出でよ。恥を知らば、矢倉に出て、おれの言を聴け」
と呼びかけ、彼の不義と、卑劣なる仕方とを、痛烈に
三郎兵衛は、笑って、
「甚内どのか、よくぞ来た。さむらいの礼儀なれば、まず一矢、挨拶申すぞ」
瞬間、矢玉がばらばらと答えて来た。小勢ながら甚内方は、石垣へ取ッついて、夕方まで奮戦した。
夜に入った。どうも手応えが薄いが――と怪しんでいると、やがて、城主滝川三郎兵衛以下、城兵はみな、
甚内は、却って、茫然としてしまった。
試みに、城門へ近づいてみた。撃って来る銃声もなく、一すじの矢も飛んで来なかった。
「やはり
甚内は、城門を越えた。さらに
「空き城だ。……まるで」
「城将滝川三郎兵衛始め、ひとりの城兵も出で合わぬが」
「いったい、これはどうしたことぞ?」
甚内に続いて来た決死の郎党たちも、意外な事実にあたりを見廻し、こういぶかり合うのみだった。
この伊賀上野は、筒井の持ち城として以来、ここの地勢と
明白なその相違は、三郎兵衛も知らぬはずはなかろうに、何で、その優勢な兵をひいて、この一城を振り捨てて、夜のうちに、伊勢へ退却してしまったか? ――甚内を始め、城へ入った者どもが、無血占領の歓びを歓ぶことも
「ふしぎだ?」
「
と、ただ疑いの中にあったのは無理もないことだった。
すると、甚内の家来の一名が、あわただしく何か告げて来た。甚内は、
「なに、天守の壁に?」
と、すぐそこへ駈け登って行った。
見ると、天守三層目の白壁に、滝川三郎兵衛の筆で、墨くろぐろと、一文が書き
一つ、此城預け申す証文の事
母ハ我ガ胎 ナリ、胎ハ我ガ身命ノ基 ナリ。一命元ヨリ君家ニ託 セド、君家未ダ兵馬ノ命ヲ発セズ、猶一日ノ無事アルヲ窺 ヒ、即チ、質 ノ母ヲ偸 ミ、御辺ノ義ヲ欺 ク。罪大ナレド、非義ヲ咎 ム勿 レ。人間誰カ母ノ子ナラザル者アランヤ。而 アレ、御辺ノ情ニ対シテ、弾 ク弓ナク、御辺ノ恩ニ向ツテ衂 ヌル刃 ナシ。為ニ、御辺ガ主家ニ得タル罪ト同坐シテ、我モ一旦、敢テ不忠ノ名ヲ蒙 リ、此一城ヲ御辺ニ預ケ、敗者ノ辱 ヲ忍ンデ伊勢ニ退 ク。
御辺、是ヲ受ケヨ。他日、我レ是ヲ再ビ敗 ラン。将来ノ風雲、未ダ云フニ早シ。唯茲 ニ過日ノ御辺ガ温情ノ一片ヲ謝シ、愈
御弓ノ誉レヲ祈ル
「…………」母ハ我ガ
御辺、是ヲ受ケヨ。他日、我レ是ヲ再ビ

三郎兵衛雄利
脇坂甚内どの読み去り読み来り、また
すぐ大坂の秀吉へこれを報じ、慎んで、罪を待っていた。
使節山岡
「甚内の武士は立った。見苦しからぬ仕方よ、さきの落度は取り返し、
さきの罪も問われず、甚内は、大面目をほどこしたのであった。
伊賀上野の一城が、その持主を換えたことは、起りは、私事に発していたが、直ちにこれは、秀吉と織田、徳川聯合軍との、公式な開戦布告に移る
伊勢へ退いた滝川三郎兵衛は、すぐ長島へ早馬を打って、
「敢えて、
と書中して、仔細に事情を訴え、罪の下るのを待った。
すでに、三老臣を
信雄は、こう返辞をした。
「罪を
信雄の命に接して、滝川三郎兵衛は、直ちに、松ヶ島へ馳せつけ、木造長政と協力して、そこを攻めた。
彼が、津川の遺臣を討って、松ヶ島へ入城した頃、信雄から二度目の書状がとどいた。
書中には、
――秀吉はついに、年来の野望をあらわにして、公然、われへの戦書を発した。われまた決して策なきにあらず、すでに徳川殿の援軍は、続々、増派されつつあり、西国、四国、紀州根来衆 、北越の佐々 、関東一円も当方に加担 呼応あるべく、織田有縁 の諸侯、池田、蒲生 などの参加も疑いない。序戦、秀吉はかならず、その先鋒をもって、伊勢へ進攻するものと思われる。主力我れと、所は隔つとはいえ、一心堅塁 に拠 って、その地の善防奮戦を祈る。
とある。信雄は、この書を発すると共に、
「急速に、峰の城を修築し、秀吉の来襲に備えおけ」
と、伊勢の
「清洲へ」
と、移る地を指さして、ここに初めて、彼の旗馬は、公々然と、軍事的うごきを明らかにし出した。
長島城のあとには、生駒家長を入れ、信雄の旗本と主兵力は、ほとんど、清洲へ移った。それが、三月十三日のことであった。
この行動は、もとより彼が単独の意に出たものではない。徳川家康との間に、
(十三日には、清洲において、会見申さん)
という緊密な
その東海道筋から横へまがる。それも
世の
いま、三月初め。尾張地方からみると、半月以上もおそいといわれる梅の花が、おちこちに、ま盛りであり、空の水も鳥の音も、澄みとおって、春というには、まだ寒すぎる肌ごこちである。
「おじさん、絵をくれよ」
「おじさん、その絵、くれよ」
「くれよ、おじさん」
子どもたちは、彼のあとについてきた。
あきらかに絵とわかるひと巻の紙を彼が手に持っていたせいである。子どもらは、この
「これはいけないよ」
「――また描いてやるからな。きょうはゆるせ。これは、おまえらには、やれないのだよ」
「どうして。どうしてさ」
「子どもには、つまらない絵だからさ」
「つまらなくッてもいいよ。くんなよ、おじさん」
「やれん、やれん。帰る子は、いい子だぞ。おとなしく帰る子には、また好きな絵を描いてやろう」
「じゃあ、その絵、たれにやるの」
「あそこのお人へ」
と、友松はあなたの
「なアんだ、
と、子どもらは
「おじさんは、尼さんにばかり描いてやるんだぜ。ちぇッ、つまんねえや」
あきらめて、子どもたちは、もとの道へ散っていった。友松のあかるい笑い顔が見送っていた。組しやすい
知己は、あなたの柴折門の内にもあった。彼がこの里に足をとめてから、ふと知りおうた若い禅尼だった。
「おいでですか」
友松はやがて
「尼どのには、お留守ですかな」
返辞がない。
気さくな尼は、留守を小鳥の音にまかせて近所へでも出かけたのであろうか。――友松はたたずみ黙した。すると、尼ではない人声がどこかでした。話し声ではない、読書の声だ。物語り物でも
障子明りの冷ややかな小部屋の中ほどに脚のひくい小机をおき、それを挟んで年のころ十六、七とみえる小娘が、
源氏の
――昼より西の御方の渡らせたまひて、碁打たせ給ふといふ。さて対 ひ居たらんを見ばやと思ひて、やをら歩み出でて、すだれの間隙 に入り給ひぬ。この入りつる格子はまだ鎖 さねば、間 見ゆるによりて西ざまに見通し給へば、この際 にたてたる屏風も、端のかたおし畳まれたるに、紛 るべき几帳 なども、暑ければにや打掛けて、いとよく見入られける。火近うともしたり、「母屋 の中柱にそばめる人や我が心懸くる」と、まづ目とめ給へば、こき綾 のひとへ襲 ねなめり、なにかあらん上に着て、かしらつき細やかに、小さき人の物げ無き姿ぞしたる……
――母屋 の几帳のかたびらひきあげて、いとやをら入り給ふとすれど、みな静まれる夜の御衣 のけはひ、柔らかなるしもいと著 かりけり。女は、さこそ忘れ給ふをうれしきに思ひなせど、怪しく夢のやうなることを、心に離るる折なき頃にて、心解けたる睡 だに寝られずなん。昼はながめ夜は寝覚めがちなれば、春ならぬ此目も、いとなく歎かしきに、碁打ちつる君、「今宵はこなた」と今めかしく打語らひて寝にけり。若き人は何心なく、いとよくまどろみたるべし。かかるけはひの、いと香 ばしくうち匂ふに、顔もたげたるに、単衣 うち掛けたる几帳のすきまに、暗けれど、うち身じろぎ寄る気はひ、いと著 し。あさましく覚えて、ともかくも、思ひわかれず、やをら起き出でて、生絹 なる単衣 一つ着て、すべり出にけり。君は入りたまひて、ただ一人臥 したるを、心やすく思 す。床のしもに二人ばかりぞ臥したる。衣 を押しやりて寄り給へるに、有りし気はひより物々しく覚ゆれど……
「あらっ。……いけない」小娘は、にわかに顔を紅くし、本をふせてしまった。
日課として、源氏の
「おや?
と、笑った。そして於通の眼とともに、濡れ縁の障子明りをふり向いて見まもった。
「いやですわ、禅尼さま。……たれかそこで、聞いているのですもの」
「そんなことはないでしょう。たれも人のいるはずはありませんもの」
「いいえ、います。さっきから、きき耳たてていたにちがいない」
「たれがです」
「たれだかわからないから、なお……」
「きっと、いつもの子猫でも来ているのであろ」
気休めとはおもいながら、松琴尼は立ってそこをあけてみた。すると、思いがけない者が、いつの間にかそこのぬれ縁の端へ来て、ちゃんと腰かけていた。内から障子があいたので、何か、
「やあ、これは」
と、ふいを打たれたていで、尼の姿へふり向いた。
「まあ、おひとが悪い。
松琴尼がいうと、内から於通も云って誇った。
「それごらんなさい。いたでしょう、よそのお人が」
親しい間とみえ、友松は、尼の招き入るるまま、内へ通って、
「いや、ごめんなさい。失礼しました。何もべつに、源氏の君みたいに、
坐るなり、まず云い訳から頻りにし出した。
於通は、あわてて小机や源氏の帖を、部屋のすみへ片寄せてしまった。そしてわざと、ぷんと、少し怒った顔つきをこの客へして見せた。
彼女の気性のわかっている尼には、おかしくてならないように、くすくす笑いこぼれながら、
「いえ、お気にかけて下さいますな。この
すると於通は、いよいよ、ぷんと、怒り澄まして、
「ようございますよ禅尼さま。わたくしはどうせ、変り者ですから」
といった。けれどその
「ははは。何しろ手前が悪かった。於通どの、堪忍してくれい」
「いえ、しません」
「なに、堪忍せぬ。これは困った。あやまる」
「そんなにあやまるならゆるしてあげましょう。
「おそれ入った。いや、なるほど、変っている御息女ではあるなあ。……ふうん」
と、友松はその姿へながめ入った。前からもこの辺の
(これは、すぐれた造化の花だ。しかしあどけないどころかよ、花にしても、
と、心のうちでおどろいた。彼が五十余年のきょうまでの生涯に、若くしてはたくさんな女性にもあい、けわしい世を、滅亡の武人から貧しい漂泊の一絵師へと生を求め、さまざまな人間と世路の経験を
「禅尼さま。わたくしがいたします」
彼女は、松琴尼が立ちかけるのを見て、あわてて自分が代って奥へかくれた。お客への茶と気がついてである。
友松はなお、その姿を見送りながら、
「禅尼どの。あのひとはあなたのお妹か、身寄りの御息女でもあるのですか」
「よく、そう訊ねられますが、妹でも
「そうですか。あの年頃のおとめにしては、よほど頭脳もすぐれていますな。源氏の
「いえいえ」
と、尼はホホ笑んで、彼のひとりのみこみを、訂正した。
「田舎生れです。やはり
尼のことばが切れたのは、そのとき当の於通が、ふくさに茶碗をのせ、
茶礼をして、のみほした茶碗を、友松が返すと、於通は、次に尼のために、また炉へ茶をたてにかくれた。
「そうでしたか。いや、そうでしょう。あの教養も、安土の大家で、身につけたものでしょう。――そして今は、あなたのお手許で、ゆく末、よい
「とんでもない、あの子は、田舎ぎらいです。ひと頃の安土の御城下やお城うちの、すばらしい繁栄やら、海外からいっさんに流れこんだ異国の文化にも、すっかり
「なるほど、それも無理ならぬことですな」
「いまの世には、無数な尼僧がおりますが、たれとて、われから好んで尼院へ入った者などありませぬ。わたくし達はみな乱国のあらしに吹き落された
尼は、自信なげに、云いむすんで、ふとまた、自分のその年頃を、思いめぐらしているような眉であった。
この尼とて、年のころは、まだ三十七、八でしかあるまい。若いといえば、いたいたしいともいえる若さの禅尼なのである。殊には、精進しているためにか、皮膚にしのびよる初老のかげもなく、人をして、妙齢の頃にはさぞやと思わせるものがある。
「オ。そうでした、友松様。いつぞやは御好意に
尼は、自分の前に、於通が茶をおいたのをしおに、さりげなく話をかえた。友松も、それと共に、うしろの紙巻の物へ手をのばして、
「そうそう、伺ったのも、そのことでした。あれからです、さっそく
いううちに、彼は、尼の方へ向けて、
それは、若い武人の、肖像画であった。
もとより細かい模様や
「いかがでしょう」
三つの顔が、ひとつ焦点を見つめあった。三人おもいおもいな沈黙のうちに。
「……ああ。よう似ておられまする」
松琴尼の眼には、涙がわいてきた。
彼女は、画を見て画を見ない。亡き兄の姿を、それに
「ほんに。そのお方らしゅうございますこと」
於通も、一緒になって、感歎をもらし、
「わたくし、このお方がたれか、すぐわかりました。きっと、私の胸にうかんだお人にちがいありません」
と、いった。
尼は、涙をまぎらわすに、よい話題として、
「この似絵を、於通はたれと思いましたか」
「禅尼さまの、お兄君でございましょう」
「まア、よく……」
と、尼はおもわずなつかしさを顔いッぱいに――
「その通りですの。して、そなたにそれがどうしてお分りかの」
「だって、武人の似絵は、どれを見ても、みんな強そうにか、でなければ、
「それだけですぐこの尼の兄と
「いえ。もっと、はっきりしていることは、武人にして武人らしくない
「そう……。ほんにそうです。この身も、そぞろ生きている兄に会うような心地がして」
「なお、小袖の御紋をごらんなされませ。丸に
「…………」
尼はもうとどめ得ない思い出に、まぶたを抑えたまま、横向きにうなじを折って、何という答えもなかった。
その竹中半兵衛が妹とあるからには、この松琴尼こそ、病身の兄にかしずいて、栗原山の山居にもいたあの
山を降りて、時の潮と、権力の中に住めば、あの節操、竹のごとき兄ですら、ついには秀吉の一軍師として
ましてや乙女、おゆうが、秀吉の眼にとまって、秀吉的な情炎の誘惑に、ついに
が、このことは、兄の半兵衛にとり、生涯、人知れぬ不快と苦痛だったにちがいない。おゆうも、もとよりそれを察し、いつかはと、秀吉の
おゆうは、それをしおに暇をねがった。秀吉は、半兵衛の死に会って、まったく純な悲嘆にくれていた折なので、迷いなく、彼女の乞いをゆるした。そこで、彼女は兄の遺骨をいだいて美濃のふるさとに立帰り、髪をおろして、名も松琴尼とかえ、新たな尼院生活に余生を清めていたのだった。
「ありがとうございました」
と、尼は友松へむかい、心から礼をのべて、
「まるで生き写しのようにおもわれます。このようなお絵を描き上げていただいたら、きっと妙心寺へお納めするのは惜しゅうなって、いつまでも、自分と一しょに、この草庵へ置きたくなるかもしれません」
と、かぎりない歓びをこぼした。
半兵衛重治の死は、天正七年の六月であったから、おもうに尼は、ちょうどことし七年の
「いや、寺院へ納められるより、それはもうあなたの側において、朝夕に、
友松はさらにいった。画稿です。訂正できます。何かお望みなり御不満があったら遠慮なくいって下さい、と。――それを何度も
「もう、たそがれですのに」
と尼も於通もひきとめた。
「何もありませぬが……」
と、ひとりは急いで
もらい物の手づくりですがと、酒まですすめ、馳走らしい物とてないがと、心いッぱいもてなすのであった。友松が一片の依頼画にかくまで良心をもってするに対して、これくらいな心入れはなお足らないとしている尼の気もちもよく
酒は好むところであり、宿とする草深い百姓家へもどってみても、語るあいてもない毎夜なので、ではと、友松も腰をすえ、
「尼院で御酒をいただくなどは、里人の口もいかがかとおもわれるが、せっかくのおこころざし、遠慮なく」
と、受けた杯をふくみ、季節もよし、梅のにおう宵、久しぶり微酔の快を味わった。
「里人の
と、尼は、銚子をすすめて云った。
「わたくしたち、禅家の者は、世間の口の端などには、いっこう
「ははは。切りこんできましたな、禅尼どの。身の迷惑はかまわぬが、あなたの迷惑をふと思うたので」
「いえいえ。なんの迷惑も感じませぬ」
「しかし、この友松は、お尋ね者なのですぞ。御存じか」
「お尋ね者とは」
「おととし、山崎合戦のあとで、京の三条河原で、二度も首盗人があらわれました。一敗地にまみれた明智方の人々の首が、次々と、京都の河原にさらされましたろう」
「血ぐさい世の中は、久しく知りませぬ。風のたよりには、聞いていましたが」
「初めに、
「その
「――と、当時、もっぱらな評判でしたな」
否定もせず、肯定もせず、友松はただ笑ってのみいた。無住の山水に籍をおいて、武将生活を見きッてからの彼もすでに久しいものだが、
生い立ちを洗えば、友松もまた、竹中半兵衛や於通の父小野政秀などと同列のいわゆる美濃衆といわれた稲葉山の斎藤
だから、いいかえれば、こよいの燈下の三人は、同じふるさとで、ひとつ元木のこぼれ芽が、
かかる縁もあればこそ、竹中半兵衛が死して七年の
(何しても、惜しい人ではあった)
と、彼が回顧される以上に、尼もこよいは、その兄にかしずいていた栗原山の春の夜をおもい出しているのであろう。それかあらぬか、尼はめずらしく、
「お
と、めずらしくも云い出したので、於通も、
「え。ほんとに」
と、興がって、さっそく一面の琴をかかえてきた。そして、
「禅尼さまのお琴は、それはそれはお上手なんです。
と、友松に紹介した。そして彼女自身も、おもわぬ倖せに会ったように、座をすべらせて、
琴を前に、
「わたくしよりも、亡くなった兄のほうが、琴は上手でございました。栗原山の山住居に、わたくしが弾き、また兄が弾き、月の夜の
彼女のまぶたには、その兄が、その頃のまま、もう見える心地がしているらしい。
友松は、大きくうなずいた。手の杯を置きわすれて。
絃は鳴りはじめた。秘妙な音階が十三の絃からかぎりない変化を織り、またひとつの正しい響音に統一され、
(長く、極まりない文化の変転、また興亡の幾かわりや、人それぞれの運命の、ときには盛り、ときには沈み、悲嘆し、歓喜し、遊戯し、争闘する、その
何の秘曲やら友松にはわからない。音楽的な知識はない。しかし眼をとじていると、そう感じてくるものの万象が、まぼろしのように脳裡を去来するのだった。
そのとき、夢みる人々を、たたき起すように、
「もの申す。もの申す。松琴尼どののお住居は、こなたでござるか」
と、入口の方にあたって、武辺らしい者のおとずれも聞えた。
「外に、お客らしいが……」
と、友松は尼の注意をひくように呟いたが、尼は、意にかけるふうもなく、依然、曲をつづけて、ついに終りまで弾き終ってから、やおら於通の方へ云った。
「こんな夜中に、たれであろ、出てごらんなさい」
「はい」
於通は、やがてもどって来て、
「たれか余人がおるらしいから、名はいえぬ、禅尼どのに、お目にかかればわかる――というて、上方の武家らしきお人、従者三名ほどをつれ、馬二頭ひいて立っておりまする」
と告げた。
尼は、存外きつく首をふって、
「夜中、名もつげぬお方にお会いはできぬ。ここは尼院、宿ならほかへお求め下さいと仰っしゃい」
「ハイ」
と、また於通は立ってゆき、こんどはなかなかてまどって、何か押し問答に会っているらしい。
友松は、膳の前を離れた。
「思わず長座しました。上方の武辺と聞いては、事面倒、お尋ね者は、逃げ出すとしましょう。……ああよい半日を過ごさせていただいた」
「まあ、よいではございませぬか」
「いやいや、ほろりと、よい頃、夜梅を見ながら寝に帰ります」
「そうですか」
と、尼は自身、送って出た。
入口に立ちはだかって、取次げ、取次がぬと、於通と押し問答の最中だった四十がらみの、
その影が、柴垣の外へ消え去るのを待って、彼は、尼のすがたへ辞儀をした。
「お忘れかもしれぬが、羽柴家の臣、武藤清左衛門でござる。また、これにおるは……」
と、うしろに
「妙心寺の
「そうですか。ま、お上がりなさるがよい」
と、尼はさして珍客あつかいもせず、といって、わるびれもせず、奥へ通した。
琴、膳など、まだ片づけるいとまもなく、室の隅に寄せられてある。禅僧の漸蔵主は、あだかも自分の恥辱のごとく、さげすみを
「なに御用ですか」
と、尼はいった。
問われたのを幸いに、武藤清左衛門は、なすべき礼儀を忘れ顔してすぐ答えに移った。
「されば実申すと、この方どもは、木曾川近くの黒田ノ城まで、大事の秘命をうけたまわって、大坂表から下ってまいった。そこで主人秀吉様の思し召しであるが、さしたる寄り道にもならぬ菩提山のふもとゆえ、おとずれて、近ごろの消息を問うてつかわせとのおことばでおざった。――で、わざわざ
「それはそれは御大儀な」
と、尼は、
武藤は、馬の背から従者におろさせた品々を、尼のまえに披露した。すべて秀吉からの贈り物とある。
松琴尼は物を見ず秀吉の情を見た。
男女の愛慾としてでなくても、人間と人間とが歓び合う情愛はなお純粋である。おそらくは、いや、はッきりと、秀吉の心もそうであろう。いまの身には、用なき物質ではあるが、そのお心はありがたく戴いておこう。彼女はそう思いつつ厚く礼をのべて、
「大坂表へお帰りの上は、かように、何も事なく暮しておりますと、よろしくおつたえくださいませ」
と、使いのふたりへ、ことばを託した。
「その通り申しあげておこう」
と、清左衛門は、ざッと云った。本来、かつては、主人のおもい者だった婦人。もっと、いんぎんにあるべきだが、門口で変な男と感じられる者を見てしまい、尼の住居というのに、世間もはばからず音曲をかき鳴らしたり、酒杯のあとなど見るに至っては、つい尊敬を欠くのもしかたがないと、自身へいいわけを持ちながら意識してぞんざいな態度をとるのだった。
日頃も、好まない客には、好まない顔をしてみせる尼なので、清左衛門が非礼であろうと、何であろうと、尼としても問うところではない。
あたりを取片づけている於通にむかい、笑いばなしなどしかけていた。清左衛門も、つれの
「ちと重要なおはなしがあるので、その若い女子を遠ざけて給わるまいか」
と、云い出した。
お安いこととして、尼は於通に旨をふくめた。於通は
密談とは、こうである。
いよいよまた避けがたいものが始まる形勢が濃い。今までのは、こんどの戦争にいたる前提戦にすぎず、こんどこそ天下わけ目の争いとなろう。いや、それはもう眼前に始まっている。――伊勢その他の各地において。
各地の有力な武門にたいする北畠信雄の呼びかけ策は、とみに活溌になっている。なかんずく東海の徳川家康とは、全幅的な攻守同盟をむすび、家康もまたようやく、彼本来のうごきを明らかにしかけている。
また、
――とすれば、この大戦の決戦場となる地域は、どうしても、伊勢、美濃、三河を外廓として、木曾川を中心とする
秀吉方においても、それらの考慮には、おさおさぬかりはない。
大坂城はすでに
大挙、東下して、徳川北畠の聯合軍とたたかうであろう。――さて、それについてはである。
ここに、木曾川近くの、戦略的要地に、沢井左衛門
ちと、むりだが、これを何とか説きふせて、味方に加えるときは、木曾川渡りの便はいうまでもなく、戦略地全般にたいして七分の利を占め、尾張三河へ入るにはやすく、聯合軍の進出には絶対的なさまたげになる。
(どうしても、沢井を
秀吉の命はこうだった。武藤清左衛門ひとりの使者ではなお心もとないとして、大心院の
立つに際して、秀吉はまたふと、
(わかれて七年になる、半兵衛が妹のおゆうは
と、ことづけた。
情ふかく、わけて女には親切であくまで甘い主人である。清左衛門は、仰せかしこまって出立したが、敵地へ
(これは却って、もっけの倖せだ。おゆう殿のいる地から、目的の沢井左衛門の城地までは、わずか十二、三里の近さ。いきなり、先の黒田城へ向うには、危険も多く、万一の失敗も考えられる。ひとまず
漸蔵主も、それは名案とした。おたがいにやり
しかし武藤清左衛門が、これらのことを、すべてありのまま松琴尼へ打明けたわけではない。松琴尼にたいしては、もとよりその一端のみをかたり、自分たちの考えは、秀吉からのいいつけであるとなして、
「ご迷惑ではあろうが、当分の間、ここをわれらの宿に拝借したい。そして、明日にでもあれ、ひとつおん
と、持ちかけたのであった。
声を落したりつよめたり、長々と、清左衛門がかたるのを、松琴尼は、だまって聞き終ったが、やがて、ひと事のように、
「ほ。わたくしが、なぜ黒田へ行かねばなりませぬかの」
と、まるで無反応な顔してたずねた。
清左衛門は、ジリつく気もちを、あいての冷静さへ、押しかぶせて、
「御主君のおさしずなのじゃ。まずおん許を、そっと黒田ノ城へやって、沢井の内意をうかがわせ、尼どのの手引きで会うのが、人目にも立たず、良策であろうと」
「迷惑いたします」
「なぜな?」
と、清左衛門は
「なぜというて、この身は、ごらんの通りな無用人です。仏の弟子です。戦の役になどたつ者ではありませぬ」
「いやいや、尼
「どなたの仰せつけでも、そのようなことに、
「…………」
清左衛門には、返すことばが見出せなかった。が、弁舌家の
「口ぎれいなこといわるる。尼どの。それはほんとか」
漸蔵主は、
「今ほど、こそこそ出てうせた男は何じゃ。尼寺で琴はまアよいとしても、男をひき入れて、酒もりなどは、どんなものか。近頃、世のみだれをよいことにし、坊主どもの行状は、ひどくなるばかりじゃが、とりわけ尼というメスどもがよろしくない。都でも、物好きな男たちが、
禅坊主というものは、いったいに口ぎたないものだが、漸蔵主はことに舌がよくうごくので、聞くにたえないばかりである。
が、松琴尼は、ちらと、ほほ笑んだのみで、
「お帰りか。それは、さっそくな」
と、止めもせず、ただ二人をながめている。
清左衛門は、まずい顔をした。ここを出て、どこへ行くかだ。蔵主はちと云い過ぎた。従者を入れれば五人づれ、
「いや尼どの。お気をわるくされな。蔵主は有名な毒舌家じゃ。それも、
と、あやまり入って、決して怒りもしていない尼をなだめぬいた。
おかしくてならないように、松琴尼は笑い出した。清左衛門は従者をよび、泊るときめて、馬のつなぎ場を、於通へたずね、自身も旅装など解きはじめる。
「夜中に、追い立てるも無慈悲であろ。よいようにお使いなされ」
細い渡り廊下をこえて、尼はあなたの小部屋へかくれた。武藤の従者たちは、於通に
「いや、負けたな。今夜は、負けたわ」
「なにが負けたといわるるか」
清左衛門が怪しんで問うと、彼は、
「イヤ、最前の
「よくやる手か。これや心得ておく必要がある」
「さすがは、半兵衛重治の妹、できている。あれなら黒田ノ城へやっても、うまく手引をつけてくるだろう」
「が。行かぬといっておる」
「明朝、あらためてもう一度頼んでみるのだな。それでもきかねば
「あの
「ウム。きくまいな。何せい、近ごろ出色の
「ひどく感服されたの」
「はなしに聞いていた
「
「鎌倉の世の頃に、
「鎌倉時代にも、貴僧のようなのが、たくさんいたとみえるな」
「あはははは。まず、そうなんじゃ。するとここに熱烈な一僧があり、いのちがけで尼に恋し、ある夜、腕力にもかけまじき
「なるほど、そして」
「火のごとき恋の若僧、なんのと答えた。もし尼がわが願いをかなえてくれるならば、
「おどろいたろうな。一山の禅坊主も」
「当の若僧は逃げ出したそうだ」
「やれ、あわれ。それや若僧の方に同情される」
「する値打はない。禅坊主などにならねばよかったのだ」
「そうもいえるな。慧春尼とは、それでいて、そんな美人だったのか。聞くだに、惜しいここちがする」
「慧春尼には、もっとおもしろい話もあるが……。ま、やめておこう」
「なぜ。なぜの」
「いかにわしでも、美しいおとめの前では、ちとしかねる話だから」
いわれて、清左衛門は気がついた。
いつのまにか、於通が来て、坐っていたのである。ほの白い顔に、燈火のまたたきをうけながら、漸蔵主の露骨なはなしにも、とんと無風の花の枝のような静けさで――。
「や。ここにも、慧春尼がひとりいた」
清左衛門は、ほんとに、びっくりしたような声でいった。
――
尾濃一円の平地には、網の目のような交通路と、静脈動脈にも似た大小の
郷、郡、国の境界は、それらの小都会の城地を中心に、複雑な勢力の入りくみかたをして、その分布をたしかに見分けるのはむずかしい。
朝に移り、夕べに変じ、どこはなにがしの何領といっても、忽ち領有権のかわること、四季の移りより早いからである。それをふつうとし、住む者も、
天正十二年三月初め頃におけるこの一帯は、まさにそうした分布変動の直前にあった。それもこんどは
この無気味の因をなすものは、前にいったような、複雑極まる勢力と勢力の
あなたの城は、こなたの城を。こなたの城は、あなたの城を。――いつ敵になるやもしれぬと、警戒しあい、人や物質の出入りにも、すぐ
(いったい彼は、東軍へつく者か、西軍へゆく者か)
と、諜報交戦に猜疑しあっているその者自身、実はまだ、自分の肚は決めてもいないのが多いのである。
とはいえ、帰するところ、かれらの
いわばいつのまにか、
歴史をかえりみると、或る到達の
二つの相対は、過去の例でみると、かえって、多くの複数よりも、対立が
なぜかを、人は考えもし、その理由なき成りゆきに追いこまれる愚を知らないではないが、地上に人間集団の歴史が描かれ始めてから、二つのものの勢力が二つにとどまって平和の長きを得た例をほとんど見ない。
もともと人間の集団社会は、原始部落の闘争から
しかしその統一本能が実現されても、ひとつなるものは極めて文化の
“愚かなるもの、人間”と、人間の中でも多少思慮あるものは、考えつかないではない。けれどそんな一部の思慮分別などは無視し去ってぐんぐん行くべき方向へ行ってしまうなにか狂猛な本能が人のすむ地上には所在するらしい。それはあながち一箇の風雲児や一箇の
この愚をもっとも
闘争即是道
いまや、天正の世は、応仁の
そうした人の世を、これまた、まったく無感覚のように、
「オ……。ここまで来ると、もう梅も散っている。岩手の里よりよほど陽気は早いな。水のすがたも春らしく、桜のこずえも、あと一雨でほころび
わらじに踏む
赤坂の宿場から南平野へ出、やがて
「……春となるさくらの枝は何となく花なけれどもむつまじきかな。――花なけれどもむつまじきかな」
その時どこかで「友松さま」と、よぶ者があった。旅人は堤から川のみぎわを見まわしたが、耳のせいかと思い出したらしく、また、花なき桜の
友松は、前の夜、尼の庵から帰ると、ただちに筆をとって、あの下絵を基本に、
(どうして、そんな急に……)
と、松琴尼にも今朝あやしまれたが、彼は笑って答えなかった。御機嫌よう、と一言のこして、霞の中へ消え去った。尼と於通は、見送っていた。そして前の晩、友松が冗談のようにいったことばを思いだしていた。
(お尋ね者です、てまえは。――
当人の口からそういっても、なお聞く者をして、嘘か
しかし、秀吉の家士武藤清左衛門の一行が、尼院へ着いたとたんに、彼は、風のごとく帰ってしまい、またすぐ翌未明に岩手の里を立って来たなど、不審にすれば充分な不審である。“明智どのの首盗人”とひと頃、
主家斎藤家の亡滅後から、彼はいまの境涯にあまんじて来たのであるが、その斎藤家を亡ぼした織田家のためには、かつて信長が安土城の大
火のない所に煙は立たぬというが、思いあわせれば、それやこれ、彼と明智との縁故はふかい。山崎一戦の後、三条河原から、暗夜、心の友の首を抱いて、人知れぬ所へそれを
けれど、当時の秀吉の名による逮捕令はまだ解かれていない。三年ごし、犯人は分らないでいるが、
「友松さま。いつまで何を見ていらっしゃるんです」
二度目の声がした。あきらかに今度は彼のすぐ背に聞えた。
堤の蔭にさっきから腰をおろしてぽつねんとしていた小娘であった。友松はふりかえりざま、
「オヤ」
と、眼をみはった。
「
「あれ。友松さまこそ、私とのお約束を忘れたのですか」
「約束?」
「あなたが岩手の里を立つときは、きっと私を、京都へ連れて行ってやる。さもなければ、都の知人を、紹介してあげると、あんなに仰っしゃっていたでしょう」
「ああ、あのことか」
友松は、おもわず頭を掻いて、にが笑いした。いや、当惑にみちた顔をした。
「忘れてはいない。こんど……この秋、岩手へまた来たときに、きっと、約束を果す。それまではおとなしく、松琴尼のそばに
「それくらいなら友松さまに、あんなに何度もおねがいはしませぬ。尼院の生活は、とてもわたくしには心にそまないのです」
「若い女は、都へ都へと、みな夢みているが、いま時、この乱れた世に、都へなど出たって、自分を悪くするだけのものですぞ」
「お説教は、お
「そうだ。そうではあったが」
「うそだったのでございますか」
「弱ったのう」
「いけません。たとえ嘘で仰っしゃったにしても、私はもう尼院へは帰りません。正直にあなたのお後について、禅尼さまにも黙って出て来てしまったのですから、……きっと、そんなことだろうとおもい、わたくしは近道して、ちゃんと、友松さまの来るのをここに待っていたのでございますよ、――お困りになりまして」
「冗談ではない。ほんとに、禅尼どのにも黙って、出て来てしまわれたのか」
「あなたとちがい、於通は嘘はつきませぬ。この通り、常から旅支度もととのえて、いつでもと心がけていたのです」
「やれやれ。だましもすかしも
友松は、さきに腰をおろして、思案の膝をかかえこんだ。
「なんですか」
於通も素直に、彼に
すがた、ことばは、素直であるが、これほど素直でない娘を友松は余り知らない。
ひと月あまり、同じ里にいる間、彼の借りている宿へ、於通もよくやって来た。それには、彼女としての目的があった。
田舎暮しはたえられない。尼院の日々はかなし過ぎる。都へ出たい。新しい知識にふれ、文化に浴し、希望ある生活の中へ立ち交じりたい。
――こう訴えてやまないのだ。
友松は、よい程にあしらい、また、幾度となく、その非を
(それはとんでもない野望だ。われわれ武門の
友松のいうことはいつもこれに尽きていた。ふつうの若い女性へなら、多少、聞かれるふしもあるかもしれないが、於通にたいしては、
彼女は、友松などの考えを、すでに古い人の固定した観念としか聞いていない。彼女は幼少すでに安土文化の新鮮な空気に、ものごころを
そこでは、
すぐれた天性にちがいなかった。しかし短い期間の急進的な安土文化は、あまりにこの鋭感な少女の発芽期には強烈な太陽でありすぎたかもしれない。また、本能寺変による
一時、生れ故郷の小野の里へ帰ってから、彼女の幼少をむかしから知っている者は、人がちがったようになったとみないった。事実、彼女の天性の才と天質の容姿のうちには、前に述べたような影響がかなり濃く――後天的なものとして加えられていた。
だから、姿に似ず、云い出したらきかない、また、思いこんだら果さずにはおかない――といったような性格が折々に行動や言語に出た。小野の里の老人たちは「いよいよおきれいにはなったが、女らしゅうなくなった」といって、孤独な彼女をうとんじるようになった。乳母の
小野の里の老人のみでなく、友松もこの小娘を心から好きにはなれなかった。が、その才気には、正直、舌を巻いて、田舎におくのは惜しいとも思った。本来、居るべき所を得ないために、田舎人も彼女をうとんじ、彼女も田舎をきらうのであろう。時と所を得しめれば、この名木は、時代の文化の中に、咲き
ふと、そう思ったのと。――また、どう
それはもう十日も前のことだった。友松は、絵のためにすっかり忘れていたのである。今朝立つとき、ちょっと、思い出しはしたが、おそらく、彼女も忘れているのではないか。昨夜の
松琴尼とともに、尼院の裏に立って、自分の立つ姿を見送ってくれた彼女なので、友松はもうすッかり安心し、そのことについては、いささかの
「春も、春さきは、
友松は、相川の大きくゆるやかにゆく水の曲線にむかって、ひとりごちに云ってから――
「こんな平和な自然も、あと幾日、無事でいるやら。おそらくこの堤の桜が咲きそろう頃には、この辺りも、軍馬に荒れ、
「ゆうべのお客たちのはなしでは、また大きな合戦になりそうな……」
「なるな、いやでも。きっとこんどのは世をあげての大戦乱になる。……と感じたから、わしはさっそく、人里を遠くはなれ、これから
「お分りにならないんでしょう。けれど私には私がよくわかっております。無分別ではございませぬ」
「聡明なお
「わたくし。……ここでお別れしましょう」
於通は不意に立った。眉をひらいた友松の顔が瞬間に見られた。思い直してくれたか――と、うれしく、ほッとしたらしい。
「や。
「いいえ、友松さま。わたくしは、そこへ帰るのではございませぬ。一度出て来た尼院へまた戻る気はありません」
「えっ。では、どこへ」
「小野の里へ行きます。そしてそこから自分の好きな所へ行きます。もう人を
彼女はその堤づたいに、さッさと上流の方へ歩み去ってしまった。すぐ
渡し舟を見出すと、於通は足をとめてふりむいた。友松の影が遠くに小さく、まだ
渡しの中には四、五人の旅行者や里人が先に乗っていた。於通もその中に交じり、もういちど下流の堤をふり向いた。どこへ立ち去ったか。友松の影はもう見あたらない。
彼女にとっては、それも過去へよぎった鳥の一影でしかない。一年余り養われた
「おい、お前ら、何も知らず
舟が川の中ほどへ出た頃、乗合いのうちにいたひとりの侍が、小商人や百姓たちを、無智の
「近いうちには、またこの辺も
百姓の女房も、旅商人らしい男も、あきらかに顔色を失ったが、さりとて問う言葉も、答える言葉も知らないのである。
対岸は、加納の
「お前さまは、小野のお
馬子は彼女をうすら覚えている者だった。於通が、そうだと答えると、馬子は、春の宵をゆたりゆたり
「やっぱりそうでござらっしゃったか。お館のお
ふるさとの人々には、この地方の豪族として古かった小野政秀の
ただ預けられた松琴尼の許から離れては、さしずめ帰る所もないので帰って来たにすぎない。そしてそのあとは、むかしの乳母の家しかなかった。
木曾川の上流は、犬山城の根を洗って、長流の下ること十里、また一つの城を南岸に見てながれる。
尾張領
城の内に起居している人々はすべて先月以来、非常態勢につき、戦時生活をしていた。
城主の沢井左衛門
「会うて四の五を聞くのもうるさい。説客というやつは、どこの使いでも、弁舌の士ときまっていて、かならずうまいことをいう。――追い返せ、追い返せ」
左衛門雄重は、特に、語尾をにごさぬように、云いきっていた。
十数名の
「あ。……いや、殿」
果たして、
「ともあれ、一度ならず二度までの、羽柴殿からのお使い。さように、追い返さるるも、
矢頭主膳という老臣もつづいて述べた。
「説客のことばには、まま思わぬ
久保勘次郎、その他四、五の家臣も、もっとも――と
「うむ……それ程にいうならば」
と、左衛門もいやいやながら承知した。
「――会うだけは、会うてみよう。では、羽柴の密使とやらを、すぐここへ通して来い」
すぐといっても、それから
ふたりの禅僧と、ひとりの山伏ていの男が、やがて客室に案内されてきた。室には、平服の左衛門のほか、たれもいなかった。しかし、武者隠しの小ぶすまの内には、屈強なる侍が、万一に備えていることは、どこの城内においてであろうと、普通なこととされていた。
「羽柴どののお使いとはお身たちか」
「左様で――」
と、三名は礼儀をとった。山伏ていの男が正使、禅僧のひとりが副使。羽柴秀吉の臣、武藤清左衛門と大心院の
ここへ、秀吉からの派使は、これで二回目だった。第一回は、秀吉方として、明らかに失敗し、沢井左衛門のその折の返辞としては、
(たとえ、どういう好条件でも、羽柴方に味方する意志はない。自分はあくまで主恩のある北畠信雄様と行動を共にする。もし信雄様を離れるほどなら、秀吉ずれの
と、いってやった。
秀吉方をさして、乱臣賊子といったということは、かなり秀吉を刺激したにちがいないが、ひとり沢井左衛門の言ばかりでなく、近頃、こういう非難は、世上に聞くところである。大戦前夜の空気をまえにし、早くも、徳川あたりから、戦争名分がとなえ出されている。同時に、秀吉方の
宣伝戦なら、より以上、秀吉方もやっていることだ。秀吉の怒る理由はない。彼は数日をおいて、ふたたび第二の派使を決行した。これが武藤と漸蔵主であった。その人選において、これも重ねての失敗だったということは後には分ったが、いまや秀吉の周囲は猫の手も借りたいほど四方八面に事端と劇務をひかえている。おそらくは、無難平凡な点において武藤が選ばれ、弁舌の雄として、漸蔵主が添えられて来たものであろう。
「もう一名の御僧は、いかなるお人か」
左衛門のたずねに、それまでさし控えていた漸蔵主のそばの禅僧は、
「御城下にある
と、初めて答えた。
「雲林院の
「実は、岩手の松琴院とは、同系の友でございまして、その松琴尼より聞いて参られたとのことに、お宿の世話を申しあげ、また御城内へのお使いにも、拙僧が労を
「そうか。それは大儀といいたいが僧侶などが、要らざる密使の手引などはせぬがよろしかろう。――これからの用談にも、御僧には
「はッ、願うてもないことで」
と、雲林院は、赤面と
沢井左衛門は――これがすでに自分の返辞である――として
が、漸蔵主は、あいてが金銅仏であろうと、うごかして見せるといわぬばかりな
(家康どのが、近頃いかに人物らしくいわれていても、要するに、地方的人物にすぎまい)
というところを、暗にほのめかして、ついては――と、また要点を秀吉からの内意へもどした。
「秀吉様には、是が非でも一度、あなた様にお会いしたいと仰せておらるる。と申しても、
ここまで漕ぎつけてもらったので、武藤清左衛門も、潮に乗って、説き始めた。
「いま、蔵主が申しあげたことばに、何の誇張もありませぬ。もしお味方の御内諾を得るにおいては、後日のため、当方よりも何かのお
と、彼は、肌着の
沢井左衛門は、一べつして、それを破りすててしまった。返辞はない、この通り秀吉へ伝えれば足りる。すぐ去れ――とのみで席を蹴ってしまった。
漸蔵主は、あつかましく、なおでんと坐って、舌をふるいかけたが、左衛門は睨みすえて、
「夜に入る前に、木曾川向うまで引きあげぬと、いかなる
とたんに、どやどやと家臣たちが入って来て、両使を追い立て、城門の外へつまみ出してしまった。これら家中は、主人と共に、反秀吉の意志を初めから一貫してうごかさぬ者どもだった。
しかし、この日をもって、多少城内にもあった
西か、東か、いずれへ
信雄が三老臣を
のこる問題は、ただ秀吉対家康、信雄の二大勢力の鋭角が、どこを会戦地とし、どこまでが作戦地域として、両雄の胸に算定されているか――それであった。
ここ黒田ノ城へも、
が、伊勢から南尾張方面の形勢は、三月初め頃からとんと分らなくなった。秀吉の西軍が、
また信雄が、伊勢の守りを、叔父の織田
どこの城は、西軍の手におちた。いや再び奪い返した。否、なお
「申しあげ難い使いですが、主君の仰せどおりにお伝えする。――御嫡子おひと方を
長島
きのう秀吉の使いを追い返した沢井左衛門は、きょうは家康の使者に接し、急に、人質を求められたのである。使者は、彼の感情のうごきを怖れ、気をつかいながら云ったが、左衛門は、
「武門のならわし、あらかじめ用意申しておった」
と、さっそく一子文吾
伊豆と将監の二使は、その
「先頃から徳川殿の内意により、諸家にむかって、御当家へなした同じ
と、一般的な
ところが同日、家中へ伝わった風評によると、大垣城の池田
「徳川どのは御当家のような潔白な家からも、
家中の一部は、この対照に、不平をもらした。けれど左衛門は、
「苦情をいう筋目はない。要は、おたがいお味方のむすびが強固になれば共によいのだ。大垣と岐阜の二城は、この黒田と、木曾、長良の両川をへだてて、ちょうど三角
と、あくまで彼は善意に解した。というよりも、彼の性格どおりに解した。
ところが、
十三日のことだった。
――その十三日は、家康と信雄とが、清洲に落ち会って、重大な密議をしていた日でもある。
「
と、黒田ノ城の門を打ち叩く者があった。
合言葉をたしかめ、
それから明け方にかけてである。城中の空気にただならぬ動きが見えた。重臣から武者
「犬山城の城主中川勘右衛門が、昨夜、何者かの手に襲撃され、途上で討ち果された」
と、いうのである。
事実とすれば、これはこの城中を
その犬山の中川は、先ごろから伊勢へ出向いていた。徳川家の酒井、水野などの伊勢急援隊についてである。
遭難は、その伊勢から帰る途中だったとある。信雄の清洲移動にともない、戦雲の拡大にただならぬところもあり、にわかに犬山へ引き揚げを命ぜられ、左右わずかな人数をつれて、夜をかけて急ぎに急いできた途上の
虚をつかれ、狼狽して、なすを知らなかった従者たちが、主人勘右衛門を抱き起してみると、
日頃から、中川こそわが
――これだけの情報が、十四日朝までには
「いつ清洲から、いかなる軍令があるやもしれぬぞ。馬には飼い、物の具ととのえ、
と、いい合わせていた。
しかしその緊張した鋭角を、南尾張や伊勢方面の戦場へのみ向けていたのは不覚だった。また、きのうきょう、家康と信雄の在城する清洲本陣のみへそそいでいたのも間違いだった。
戦火は彼らのもっとも身近な、しかも
ついにここ
小男――豪胆――
秀吉には、実子がない。彼には、よい子と自慢のできるのが男だけでも三人もいる。
それぞれもう一人前だ。嫡男、紀伊守
次の、藤三郎長吉は、ことし十五になる。そして父のそばにあった。先頃、秀吉からそっと、
(どうだ、長吉をおれの養子にもらおうじゃないか)
といってよこしている。
秀吉と彼との仲は、秀吉がまだ藤吉郎といっていたむかしから、馬鹿な遊びもやりつくした間である。これくらいなことをいって来てもふしぎはない。
けれど今の秀吉と勝入とでは、大きなひらきができてしまった。人間的な心情では、
が、勝入とても、凡々として、無為にこの時勢を送っては来ない。信長の死後は、たとえ一時でも、柴田、丹羽、羽柴、池田の四人して、京都の
(おれとおぬしとは、むかしは悪友、いまは
などと、平常から万一の時のため、抜け目なく
(水臭いことを云い
と、二度まで、彼一流の仮名文字で、直筆の書面まであった。
すぐ返辞のやれなかったのは、勝入に、そねみや卑屈があったわけではない。秀吉と共に働くことは、誰と仕事するよりも、愉快なことはよく知っている。また、秀吉も大慾だが、自分も大利を占めうることもわかっている。
――が、ただここに、勝入として、立ちにくい一理由は、いまや世上にいい触らされている東西抗争の戦争名分だ。徳川方の宣伝は、はやくも秀吉をさして、
「
という非難を極力世上へばら撒いている。そしてそれが、かなり強く人心をとらえていることも事実だ。
道義や節操が、必ずしも大きくものをいう世でもないが、さりとて人間の善美の性や真実の姿がまったく枯れはてた世ともおもわれない。
往々、世間の大衆は、美しい犠牲心、高い良心、香りゆかしき愛情、
庶民のうちにある矛盾は、武門のあいだにもある矛盾であり、一箇の人間、池田勝入のこころの中にも、そっくり持っているものだった。
(秀吉につけば、名分のうえで
勝入の悩みは、もう一つある。
故信長と、勝入とが、乳兄弟であったことは、世上にかくれなしである。そうした深い関係から、信長の亡きのちも、信雄にたいしては、主従の礼節をすてるわけにゆかず、嫡男の紀伊守
(あれを、捨て殺しにもならぬし……)
というのが、秀吉の誘いに接するたびに、すぐ勝入の胸にのぼってくる
これを、家臣の評議にはかると、義は重し、名分は捨つべからず、という一部と、家門の繁栄と大利を占むるはこの時なり、と主張する老臣の
やはり勝入の胸のうちを、そのまま二つに現わしたような結果でしかない。
ここでも、
(いかにせん?)
と迷いもいよいよ深刻になるところへ、はからずも、実にはからずも――長島へ質人として行っていた長子の紀伊守
(北畠どのの寛大な思し召によって、特に……)
という之助のことばである。
北畠信雄は、事態の急に、こうでもしたら池田父子が、情に感じて、よもや寝返って秀吉方へ走ることはしまい――と、恩をきせて、敢えて、之助を国へ返してよこしたのである。
しかし、こういう甘手は、余人には
人間としても信雄が、本来どんな愛情の持ち主か、真実に富む性か、勝入は、信雄がまだむつきにくるまれてピイピイ夜泣きしていた頃から、知りつくしているのである。
(
家臣へはそんなふうに決意を云い渡した。さらに、その日のうちに西軍の秀吉へむかって“一味承諾”の返書を送った。
もとより妙見の夢告はうそであるが、勝入が肚をきめた直後に、嫡子の紀伊守が何気なく父に語ったことばの端には、百戦の巧者たる彼をして、
(耳よりなこと。それこそ天の与えるものだ)
と直感的に、生来の功名心を、むらと、燃えたたせた一事がある。
犬山の城主中川勘右衛門が、にわかに引き揚げを命じられ、自分らのすぐ後から犬山へ帰って来るはずです――と紀伊守のはなしなのだ。
きのうまでの犬山城は、やがての味方か、やがての敵か、この日までは、勝入にも定めのつかないものだったが、すでに秀吉方へ
勝入は、秘策をねった。そして、
「
と、どこかへ近侍を走らせた。
城外の
青鷺の者の頭という三蔵はそれだった。
青鷺衆という組の名は、その服色からきたものらしい。つつ袖の上着も
これが九日のこと。中二日ほどおいて――十二日の夜明け方、三蔵はどこからともなく帰ってきた。すぐ
「たしかだ」
と、うなずき、
「よくいたした」
と、
その陣刀は、犬山城の中川勘右衛門の持ち物にちがいなかった。まぎれなき
「ありがたく頂戴いたしまする」
三蔵が
「三蔵。もう一役働け」
「へい。働けと仰っしゃるのは」
「
「いったい、行く先は」
「
「へ。へい」
「仕果したら、そちほどな奴、
「ありがとう存じまする」
不敵者だが、血を浴びたよりは、この大金を見たことのほうが、彼には無気味なふるえを覚えたらしい。やたらに地へ
「では、すぐ
「オオ、そうせい」
そこを出ると、紀伊守之助はすぐ自身の家来に、供や馬の用意を命じた。
岐阜は、彼の持ち城、帰国と同時にすぐ移るべき予定を、勝入に何か都合があったらしく、二、三日延びていたものである。
(ぬかるなよ。あすの夜の
勝入は、之助が居室へいとまを告げに来た帰りの
紀伊守之助は、充分、心得顔にうなずいてみせたが、その燃えやすい眸の若さは、父親の眼に、まだまだ心もとない乳臭児を思わせるものとみえ、
(ゆめ、怠るなよ。しかも密にだぞ。……その時にいたるまでは、たとえ家中の者たりと、密かな上にも密かにせいよ)
くれぐれも、その耳もとへ、いいきかせて、遠くもない岐阜城へ、何事なのか、あわただしく出立させた。
が――翌十三日のたそがれには、勝入の考えが何であったか、紀伊守がなぜ前日岐阜へ急いだか、すべてはかくれなく知れた。大垣の城内だけには知れ渡っていた。
突如。
陣
家中には、寝耳に水であった。
令は“犬山へ――”とある。
ごッた返している中に、武者ぶるいをわめいている若者ばらの多い武者溜りへ、
「今夜のうちに、犬山を乗っ取るのだ」
と、
強度な緊張は、顔色を異様にする。強がりをいっている者ほどそうである。そしてかかる
静かなのは、さすがに、主将勝入の居室だった。
次男三左衛門輝政をそばにおいて、いま
ところへ、留守をいいつかった老臣の伊木忠次が、
「殿。お門出の間際にはございますが、とんだお忘れものがございましょう。……あの者たちの処置は、いかが致しておきましょうか」
と、たずねに出た。
勝入は、はてと、思い出せぬ
「あの者たちとは……」
と問い返した。
「数日前、木曾川口の木戸で、大坂表から黒田ノ城へ使いに来た帰りの途の者とは承知のうえで、わざと捕えておいた禅坊主と山伏ていの男ですが」
「ア。あれか……」
と、勝入は、おかしげに呟いて――
「そうよな。あのまま牢に忘れておいては事だわえ。過日はまだ、われらの
「秀吉様へお味方と決した以上は」
「もとよりその当家が、羽柴家から他国へ説客に参った使いの者を、故なく
「一名は、
「そうそう、そういったかな。特に、他国の説客にまで選ばれたくらいな人間。いずれ小智慧や舌巧者なやつどもであろう。上方表へ立ち帰り、これを
「かしこまりました。御出陣のあとで、牢より出して充分に馳走し、木戸を守る者の間違い事と詫びて、あとの
「うむ」
と、軽くうなずき捨てて、
堂々、出陣を宣して立つ場合ならば、貝を用い、
大垣を去ること三里ばかり、岐阜城下の
「やすめ――」
と令して、前後になった手勢をここに集結した。そして
「合戦は暁のつかの間にすもう。帰陣はその日のうちである。できるだけ軽装がよく、腰兵糧なども、多分には持つな」
馬にも水飼い、槍鉄砲の調べなどもすます間に、勝入の注意は、細かに行きわたった。やがて、隊伍は前進した。
「
勝入は二、三度それを左右にたずねた。何かしきりと待ち顔であった。隊伍のあと先について行動している大物見、小物見の者も、ただにその一事のみでなく、全軍の触角として、野をよぎる夜の鳥影も見落すまじき眼をくばりながら、木曾川上流をさして急ぎに急ぐ騎馬歩兵について進んで行った。
彼女の
「お
乳人のお沢は、かすかに手元だけを照らしている
「また、あんなことをいって――」
いとけない頃から、駄々をこね、慕いもし、困らせもした人なので、いまでも於通のことばつきは、余人に対する時とはまったく違っていた。
「いやなばあや……。何かというと、死んだ人のことばかりいうんですもの。自分の口でいえないことを、みんな死んだ人のせいにして、於通に、もういちど
於通は、つつみなく、機嫌をわるくして見せた。――ほのかにしか明りのとどかぬ
乳母の眼は、涙になった。針の手を止めている。
於通がふいに、しかも真夜中、ここの草屋の戸を叩いてから、もう幾日たったろう。かぞえれば六、七日でしかないが、長い気がする。於通も、乳母のお沢も。
なぜならば毎日が、こんなふうな同じことばのやり取りだからである。
お沢は、彼女が岩手の尼院を無断で出て来たということに、
「滅相もないお振舞い」
とか、
「あられもないお迷いごと」
とばかりいって、決して、仕方がないとは
(こんな強情で冷たいばあやだッたかしら)
と、於通にすらあやしまれた。が彼女は、お沢の乳ぶさの甘さを覚えている。恐くも何ともないのである。
乳母のお沢にはすでに良人がない。於通を岩手へつれて行って、遠いむかしの縁にすがり、松琴尼に
(以前のわたしではいけない)
と、お沢は、於通のすがたを見たとたん、自分の胸へいいきかせた。良人の意志を思えば――いや、於通の父小野政秀が日ごろから良人や自分たちの夫婦へ、
「たのむぞ、万一のときには頼みおくぞ」
と口ぐせに
「ばあや、いくら帰れ帰れといっても、尼院はわたくしの性には合わない。於通は、都へ出たいんです。いけないと止めても、きっと行ってしまうからいい」
「おひいさまは、いつの間に、そんな
「ほ、ほ、ほ。ばあや、草葉の蔭なんて、そんな世界は、どこにもあるものじゃありませんよ。だから尼院はつまらない」
「ま、あんなお口を。仏罰がおそろしいとはお思いになりませぬか」
「おそろしいのは、無智で生きていることです。こんな世の中に、無智で
於通のことばに勝ち気が出ていた。武門の息女の血としてはそれのあるのは怪しむにたらない。けれどこの場合には、お沢にいとど悲しくひびいた。乳母の信じている女の道――乳母の願っている女らしき幸福の道――それとは余りちがいすぎる。
小野家の滅亡以来、変りはてたと思うこの姫の今のような
これも戦争のせいだと
そのとき姫はまだ五歳の幼さで、お沢がいまも耳にのこっているのは、戦火に焼けさかる館の炎を、逃げ落ちた暗夜の山中から望みながら、幼い姫が、父の名をよび、夜すがら泣きやまぬその時の声であった。
お沢の良人の
さしもの安土城もいくばくもなくまたあのような
戦後の山野には、かならず出没する野武士だの悪い里人などにつかまって、途中どんな目に遭われたことやらと、お沢は寝顔を見ては泣いた。そう思えば、ここへ帰って来たときの姫の玉のような真白の
が、勝気な姫は、その途中で出遭った生涯のおそろしい目を、決して人に語ることはなかった。お沢にもはなしたことはないのである。しかし、気をつけてみると、それからの姫には、どこやら変ったふしがみえる。性情に一変を来している。末おそろしい
「いまのうちに尼院へでもお入れ申した方が、御生涯のためである。亡き殿さまも御安心遊ばそう。このまま野育ちにしておいたら、どんな悪性の女子におなりなさるやら行く末のほどが案じられる」
と、
が、松琴尼も、大炊の生前、手紙をよこして、
「この子については、わたくしにも末始終の保証はできない。わたくし自身に師として導く資格もない。おあずかりはしておくが、ただ知人のおむすめがしばらく来ているという程度でありたい。それでおよろしければ」
と、あきらかに於通が到底長く尼院にとどまる質でないことを断って来ていた。
でも、どうやら落着いたようであり、いつか二年近くもたった。この分ならと近頃はお沢も安心していたところだった。
「ひいさま……」
と、彼女は思い直して、すこし機嫌をとり、
「ま、こん夜は、おやすみ遊ばせ、あしたになればまたお考えも変って参りましょう」
と、いつまでも窓に
「…………」
於通はもう返辞をしない。
春の月は、軒ばを離れ、どこかの山桜がほの
いぶせき老婆、
「おいっ、おふくろ。……おふくろ。早いなあ。もう寝たのか」
その時、誰やらガタガタと、土間の雨戸をこじ動かして、わめく者があった。
「開けてくれい。おいっ、起きねえかよ、おふくろ。――三蔵
だいぶ酔っているものらしい。上機嫌だが勝手なタワ言を云いちらし、そこの雨戸を破りもしかねない物音であった。
のら息子が帰って来たのだ。お沢の顔にはまた別な苦悩が重なった。男親が世にいたじぶんから家にもろくに落着いていず、世間で何をやっていつも飲み歩いているか、親さえその職業もよく知らない
それは
「なあんだ、起きていやがるくせに」
三蔵は炉のそばへぶッ坐って、酒くさい息で、しなびた母の腕くびを抑えた。
「よしなせえ、おふくろ、腐ったような眼をしながら、針のメドなど突ッついたってどうなるんだ。本能寺のたッた一夜で、この世の中はもんどり打ってしまったじゃあねえか。どいつも、こいつも、大浪に
母親の膝もとへ、三蔵は黄金を一枚、ぽんと
「取ッときねえってことよ。え、おふくろ。その代り、酒があるだろう。……どこだい、酒は」
片膝を立てかけると、お沢はきびしい眼を初めて息子に向けて、
「おまえ、お仏壇が見えないのか」
といった。
三蔵はセセラ笑って、
「死んだ親父を持ち出す手はねえだろう。親父と来ちゃア、生きているうちだけでも沢山だった。おふくろもばか正直だが、親父も世渡り下手の随一さ。どうにも
何か、大得意であるらしい。他人には
「世間の奴あ、大垣の青鷺者ッてえと、お城の掃除人夫か、土方人足みたいにばかにするが、同じ青鷺仲間にも、一本差している組と、何も知らねえ
と、まるで自分の金でもあるように、鼻うごめかして――
「犬山城の侍どもは、主人が変死したので、後の始末と、葬式の揉め事にばかり気をとられていやがる。その隙に、池田の御老臣やおれ達は、城下の町人、町に住む野武士、それからお城の番士とか足軽なんぞの気のきいたやつらを
さすがの酔っぱらいも、少し
「おや? ……」
と、そのとき初めて、三蔵は、うす暗い窓際に、
「たれか、そんな所にいたのかい。たれだい、おめえは……?」
と、近づいて行った。
酔いどれの万一の
「ううむ……。これやあ驚いた。お美しくおなんなすったなあ。於通さまでしょう、あんたはね」
「ええ。三蔵も、覚えていましたのか」
「忘れッこはねえが、見ちがえた。あんまりお変りなすったので」
「どう変りました? わたくしが」
「さて、なんといったらいいか。……水もたれそうなお年ばえに」
「だって、わたくしでも、育ちますもの」
「なるほど、育たねえのは、うちのおふくろだけだッたか。はははは。……ところで於通さま、何しにこんな所へ来ているんですえ」
「都へ出たいと考えてね」
「都へ。……造作アねえじゃございませんか。おふくろは何と云いましたえ」
「尼院へ帰れとばかりいって、わたしの心なぞは少しも分ってくれません」
「勿体ねえ、勿体ねえ」
ぶるる、と強く首を振って、瞬間、真面目なひとみを
そこで彼は彼女の希望を釣り糸に仕掛けた。おふくろがいては口うるさい。ちょっと話があるから外へ出て欲しい。なアに、あなたは旧主のおひい様だ。ばあやに気がねなんかいるもんか。外はおぼろ月、夜桜の下で、とっくり相談を聞こう――といったふうにである。
於通が、その口車にのせられて、のら息子と一緒に戸口へ出たので、お沢は、はだしになって土間へとび降り、その袖をとらえて引きとめたが、
「うるせえなあ。
無理に、お沢の手を彼女の袖からもぎ離して、三蔵は、外から戸を閉めてしまった。
「……あ。追ッて来やがった。於通さま、駈け出そう」
どこへとも訊くひまもなく、ただ三蔵が走るために、彼女も走った。
小野の里は、
「三蔵。もういいでしょう」
「あ。もう大丈夫だ。……が、事のついでに、もう十町ばかり急いでしまおう」
「……すると。何処」
「すぐそこは、
「そうそう、小さい時に、三蔵と、よく遊びに来たことがありましたね」
三蔵は、ゾクとしてすぐ体じゅうが
長良川の中川原へ出た。於通は休むところを見まわした。するともう三蔵は、船橋を渡っていた。追いかけて、
「三蔵。どこまで行くのです」
「渡りましょうよ。こんな晩、歩くのもうれしいじゃございませんか」
「けれど……歩いてばかりいても」
「わかっております。京都へお出でになりたいんでしょう。――ですからさ、黙ってついておいでなさい。世の中がおもしろくねえんで、グレた真似をしていますが、三蔵だって、
「おまえが付いて行ってくれますか。於通には、途中の
「何の、幾夜の泊りではなし、てまえがお付き申して行きゃあ造作アありません。――が、弱ったことにゃ三蔵めには、あすの朝の
「だっておまえは、
「どういたしまして」
と、三蔵は大げさに
「一杯ひッかけたなあ、まず最初の犬山乗りこみと、ふんだんな黄金の力で、早いとこ人間の買占めをやり歩く大仕事が、まずまず思った通り運んだので、あとは今夜の
いつかうかうか船橋も渡り、道は稲葉山の裏にあたる日野から古市場への
ここまで来る途々の話に、きのうきょう、三蔵が池田家の密命をおびた武士たちと共に犬山に入って、何を
いや、三蔵は彼女につつもうとはしていない。むしろ知ってもらって、いかに自分が働ける末頼もしい男であるかを認めさせようとしている程なのだ。
その犬山潜行の策動は、勝入の予測以上、万事うまく運んでいた。三蔵のもう一役は、こよい大垣から犬山への道を急行軍してくる池田勝入の馬前に、その事の成功を、
(御計略は図に
と報告し終れば、こんどの大役はすむのであった。
「それもわずか、朝までの
峠の上の程よい地点に腰をおろして、三蔵はしきりに於通の意をむかえた。自分はあともう一役果すために、これから
於通の眉は
「ええ……。待っています」
と、うなずいた。そのしおに、三蔵はすぐ立って、山神堂か何かの古い
「や、だいぶ
そこを離れると、三蔵の脚は、まるで宙を飛ぶようだった。
ふもとの
「はてな。もうここを通ったものか。――まだなのか?」
彼方に農家の灯が見える。
「おっさん。今し方、何かここを通らなかったかね。――たくさんな馬や武者が」
牛小屋で牛の鳴き声がした。人影が振り向いている。牛が返辞をするように聞えた。
「そうよな。通ったようでもあるわい。なんじゃったやら。えらい
その百姓の女房でもあるか、べつな女の声で、また云った。
「それよか、もっとめえだがよ。まだ明るいうちにの、
三蔵は、返辞とも自分への叱咤ともつかず、しまッたと、身を
「ウム、祭りだ。犬山は血祭りだ。下手アすれやあ、おれの方も
と、足のかぎり犬山街道をさらに東へ向って走った。月もおぼろ、道も夜がすみ、
犬山の町、犬山の城は、すぐ対岸であった。
「みな、馬を捨て、馬を一所につながせておけよ」
勝入自身も、馬を降りて、川を前に、
旗本三、四十騎は、すぐ主人に
「オオ、時刻たがえず、紀伊守さまの御手勢が、あれへ――」
と、その中の人々が指さした。
勝入は、のび上がって、上流の河原のほうへ
「物見、物見」
と、早口にいった。
すぐ走り戻って来た小物見の一名が、相違ありませぬ、と報告してから程なく、総人数四、五百の一手が、池田勝入の
勝入は、三蔵に何のムダ口も開かせず、要点を訊きとるとすぐ眼ざわりな者でも追うように、去れ、と
その時もう、おちこちの水際から底の平たい鮎舟が河流を横ぎりはじめていた。それには山もりになった軽装の甲兵が、身を伏せ、次々に対岸へとび上がり、またすぐ舟は
城内からも立ち騒ぐ声があふれた。が、それは
「この城の
と、城壁の上に立って、りゅうりゅうと槍をふるい、当るを
勝入の奇策は、適中した。犬山城は、手に
城内からも、城下からも、裏切りが出て、不意をつかれた城兵方を、いやが上にも混乱させたことが、この
そうした以前の縁故と心のつながりがあったために、勝入がこの奇襲直前に人を派して行った買収策も、黄金の力以上に、功を奏したものだった。
いずれにせよ、池田入道勝入は、秀吉へ味方を約した手始めに――まだ何ら秀吉から、催促もないうちに、
夜明け頃には、城中の人間は、ひとり残らず、池田方の家臣にかわり、あとの守備は、稲葉入道一鉄に託して、勝入父子は、はやくも、旗本数十騎をつれ、ゆうべとは道をかえて、岐阜へ、引っ返していた。
没落の過程にある名門の身辺には、とかく複雑な人物が寄りたかるものだ。
先の見える者、軽薄な者、直言忠告が
残る者は、ここを離れては、他に生活の
ところが、たれがその誠実の士か、たれが方便家か、たれが利用のためにだけついている者か。それが容易にわからない。各

だが、同じそういう取りまきでも、徳川家康のような“付き者”となると、これはまた大いに
「さてさて、
いうとおり、家康は、馳走攻めにあっていた。
十三日の――この清洲についた当夜である。
ひる、清洲につくとすぐ、城外の寺院で、信雄の迎えをうけ、ただちに密談に移って数刻。たそがれ、城内の客殿にくつろいでからの、もてなしだった。
かつて
しかし家康の眼からみると、まことにみなこれ乳臭の
それは、物質の
その信雄が、たとえ先の誘いにせよ、相手もあろうに、秀吉にむかって、
――あわれと見るしか、見ようはない。家康は、同情をおぼえる。しかし彼は、当然亡ぶべき素質のものが亡び去るのは、人間皆が死ぬべきときには必ず死んでしまう作用と同一視することができる男だった。自分だからとて、例外な考え方はもってはいない。自分もその通り、不徳短才にして、この乱国に多くを
だから彼は、こんな歓宴の中でも、あわれを覚え、同情はいだいても、この一箇名門の
なぜならば、名門の余望と遺産を持つ遺族の暗愚なる者ほど、
おそらく秀吉も、それを思うにちがいない。が秀吉はそれを自己の目的にさまたげとして信雄の処置を考え、家康はより遠大な野望への一歩を基礎づけるために信雄の活用を考えていた。こう相反する二つの信雄観は、秀吉も家康も、目的の
故に、もしこれが反対に、家康が信雄を除こうとする策に出ていたら、秀吉は、敢然、信雄を助けて立つ方へ廻ったであろう。
いずれにしても信雄は一箇の
「なんの、馳走はこれからです。おつかれもおわそうが、信雄が心からな
信雄として接待の最善を尽くそうとするつもりである。が、ここでなくとも、家康はあまり
「いや、中将さま、殿はもう御酒はまいれませぬ。あの通りなお顔……お杯はひとつわれらの方へ」
侍坐の酒井、奥平、本多などの
が、信雄はまだ主賓の有難迷惑に気がつかない。主賓の眠たげな様子はなお彼の見当ちがいな努力と気づかいになって行った。彼が、家臣に何かささやくと、忽ち、正面の
家康には毎度の趣向である。が、彼は辛抱づよい
彼の側臣たちは、それをしおに家康の
「これからこよいの
と、
この血なまぐさい世の一面に、こんな
そしてこの一座の中の作者には、かなり知性のある才人がいるとみえ、近年、西国大名のうちに行われているというキリシタンの
(なるほど、これは
たれも感心し、たれも
(これは、秀吉の人がらが、おのずと作り出したものの一つだ)
家康はそう思った。秀吉的政治は、前の信長的な強圧主義を一変し、室町時代のつねに暗い感じをも急速に明るくしてきた。敏感な庶民の本能は、強圧や暗いものがのしかかっているうちは、陰性にそれを出しても、こう陽性には決してあらわさないものだ。――この新しい歌劇が西国から興って京に流行し東海方面にまで波及してきたのは、これは形をかえた一つの秀吉攻勢の
「――中将どの。殿にはもうお眠いと仰っしゃっておられるが」
於国に見とれている信雄へ、徳川の奥平九八郎がわざと露骨に云った。
「え。お眠い?」
と、信雄はにわかに恐縮し、倉皇として自身案内に立って家康を寝殿の渡り廊下まで見送った。於国歌舞伎はまだ終ってない中途であったので、それからもまだ音曲のバイオラや笛太鼓が遠くに聞えていた。
あくる朝――十四日、信雄としては例外な早起きをして、客殿へ行ってみると、家康はもうとくに朝の新鮮な顔つきをもって、侍臣たちと雑談していた。
「御朝食は?」
と、わが家の者にきくと、もうとくにおすみです、と聞いて、信雄はちょっと恥かしい顔をした。
そのとき、庭番の士と物見やぐらの上の者が、
「ただ今、御やぐらの物見どもから申しまいりましたが、西北方の遠くの空にあたって、先ほどから
「なに、西北の遠くに?」
信雄は、首をかしげた。東南と聞けば、伊勢その他の戦場が想起されたであろうが、心得ぬといったような顔つきなのである。
家康は前々日、中川勘右衛門の変死の報を耳にし、それが何となく報告通りには解しかねていたところなので、すぐ、
「それは、犬山の方に望まれるか」
と、たずね、返辞も待たず、また、
「九八郎、見てまいれ」
と、自身の左右へいいつけた。
「オオ、あの煙は、まさに羽黒か、
そこから駈け降りてくる人々の
あわただしい城中の物音が一しきり
家康は、火の手の方角を犬山と的確に知ると、ひと言、
「ぬかッたわ」
と、さけんで常の彼にもない急ぎ方だった。
人数の先頭にたち、馬へ鞍をあてて、西北の煙へ向って駈けていた。
本多康重、
清洲から小牧へ一里半――小牧から
小牧へ来ると、もう全貌がわかった。今暁、つかの
「おそかった。家康として、このぬかりはあるまじきこと」
と、痛嘆をもらした。
立ちのぼる黒煙のなかに、家康は、池田勝入の得意顔をおもい
が、その不覚を、あくまで不覚として、彼は自責せずにいられなかった。
(勝入という男が、どんな
犬山の要害が、戦略的にいかに適切な地にあるかも、あらためて思うまでもない。近く、秀吉の大軍とまみゆる場合、それはさらに重大さを加えるものだ。――美濃、尾張を境する木曾の大川をその上流に監視し、まぢかに
幸いにも、木曾下流の黒田ノ城の沢井左衛門からは、二心なしと、極めて態度をあきらかに、人質を送って来たが、それも犬山を敵手にゆだねてしまっては――甚だ価値もすくなくなる。
「もどろう。引っ返せ。あの煙の立ちようでは、すでに勝入父子は風のごとく、岐阜へひき揚げおッたに相違ない」
家康は、卒然と、馬をめぐらした。そのとき彼の眉にはもう日頃に見る気色しかなかった。ゆったりとした腹中にその損失を
だいぶおくれて、清洲を出て来た信雄と、直属の軍隊とには、その途中でぶつかった。
信雄は、引っ返してきた家康の姿を、さも、意外そうにながめて、
「犬山には、別条もなかったのですか」
と、たずねた。
家康が答える前に、家康のうしろの旗本たちの間で笑い声が聞えた。が、家康は、信雄にたいして、その理由を説明するのに、実に、
真相を知って、信雄は
「中将どの。何も御心配はありません。こちらに一失あれば、秀吉にも、より大きな一失がある。――彼方を御覧ぜよ」
と、彼の眼を導いて、小牧の丘を指さした。
かつて信長はあのすぐれた戦略的な着眼から、清洲の城を、この小牧へ移そうとさえした所である。標高わずか二百八十余尺という円い一丘陵にすぎないが、尾張の
そこまでの説明のいとまはなかったが、家康は、指さし、また顧みて、こんどは旗本たちの方へ云った。
「小平太(榊原康政)は、ここより直ちに、人数を分けて、あの小牧一帯の
と、即座に命じて、それからの帰途は、駒の脚さばきも
ひとは皆、秀吉はいま、大坂城にいるものとのみ思っていた。
が、彼は、
家康が信雄と清洲で会見していた三月の十三日も、秀吉の身は――その坂本にあったのである。秀吉らしくもない立ちおくれ――という形がないでもない。
家康は、すでに立って、万端、
「たれか来いっ。おおい子ども。おらぬか。
主人の声である。例によって大きい。
わざと、遠くひかえていた小姓部屋の面々は、ソラ起きたと顔見あわせ、こっそりやっていた
この小姓部屋もいつのまにかみな顔がちがってきた。かつての加藤

いまいるのは、第二期生組であった。一期生の山出しや貧乏ッ子の腕白ぞろいとちがって、二期生はみな相当な家の子弟であった。大名の子で質として来ている者もあった。上品で行儀よく、知性に富んだ子は、南蛮寺の附属
「殿さまは、お目ざめになってるぞ。わしでない者に来いと仰っしゃった」
最年少の鍋丸は、何の命もうけず帰って来て、ほかの仲間へそう告げた。
ひとりが、訊ねた。
「ごきげんが悪いのか」
鍋丸は、首をふり、
「ウウん。そんなことはない」
聞いて安心したように、
「おや、おいでがない?」
部屋には、山風が通っていた。どんなに忙しくても、わずかな時間をぬすんでも、昼寝は薬と、怠りない秀吉だったが、起きるとたんに、爽快な気をあたまにも面上にも満たした彼の活動が始まり、周囲をあわてふためかせるのが常だった。
「あれや、佐吉だろう。大坂表からもどって来た佐吉とみゆるぞ。……すぐここへ呼べ」
秀吉は、欄へ出ていた。城下から大手の坂下へ馬をとばして来る小さい人影をそこから見つけ、うしろの
何か、ほかの用事を命じるつもりでいたにちがいないが、それは忘れ顔に、
侍部屋からひとりが出て来て、小姓衆はたれもいないのかと彼方へ叱り、いそいで秀吉の
「殿。ここはお便所のお手洗場ですのに」
と、注意した。
「かまわぬ。水はきれいだ」
さっさと、一室に入り、
「茶をくれい」
と、どなって、
「――これこれ、おまえたちでも、ガシャガシャ掻き廻せるだろう。茶道へ命じるに及ばん。坊主にしてもらうと手間どる」
小姓のひとりが、その

「どう運んでおる? 大坂表の留守居どもは?」
「おさしず通り、
「そうか。西国表は、
「その儀は、わけて御念を入れられてのおさしずとて、充分に触れを達し、また使いも立て、毛利への固めは万ぬかりございませぬ」
「
「は。てまえのおる間に、即日、加勢衆、岸和田へ向いました」
「よしよし」
と、秀吉はそこで、薄茶を一わん、うまそうにのんで、
「母上も、ごきげんか……」
と、ひとみを静かにした。
老母はすでに七十四である。妻の
「はい。おかわりなくいらせられました。御母堂さまには、かえって、戦の忙しさに、殿が不養生はしておらぬやと、殿のお身の方をお案じなされておいででした」
「また、あの子は
佐吉は笑って、その通りです、と答えた。
他を遠ざけて、ふたりだけの対座に、こう笑い声の出たはずみに、秀吉はまた、ふと、
「茶々は? ……。茶々たちも、元気ようしていたか」
と、たずねた。
「は、あの、お三方の
佐吉はちょっと思い出せぬような顔してみせた。待っていましたという風に答えては、佐吉め、
その証拠には今、茶々は? と、ぎごちなく訊ねたとたんに、主人は、家臣にたいする主人顔もくずして、何ともつかぬごま化し顔に、
佐吉は、
三人の姫たちとは、いうまでもなく、おととし北ノ庄落城のみぎり、城将柴田勝家と夫人のお
その後、秀吉は、わが子のように、この姫たちを家に養い、大坂城
が、この名鳥とこの飼主のあいだには、将来、それだけの関係ではすまないものが約束されそうなことは、たれにも予測できることだった。とりわけ三人の姫のうちでも、長女の茶々の君は、年ばえもちょうどことし妙齢十八、世にはあるまじき麗人よと、そろそろ城内のうわさにもなりかけている。北ノ庄の
十八の茶々の君のそうした
「佐吉。なにを笑う」
秀吉は見とがめた。が、自分も少し、おかしげである。やはり佐吉の気持はもう見ていた。
「いや、何という儀でもございませぬが、軍務にまぎれ、このたびは、お三方の御起居までは、ついお伺いもせで戻りましたので」
「そうか。ふム……まあ、よい」
と、秀吉の方から急にその話を逃げて――「途上、
と、世間ばなしへ転じた。
遠くへ、使いをやると、秀吉はかならず、これを訊ねた。世上の機微、人心の動向を、以って、つねに打診しているらしかった。
「いずこにあっても、きのうきょうは、戦のことでもちきりです。
「淀と申せば、淀、
「おかげをもって、だいぶ佐吉の身入りはよいようにございます」
「それはよかった」
と、秀吉はよろこんでくれた。佐吉も、同僚なみに、近ごろは相当な侍どもを抱えているのに、くれてやる禄にも困っておりはしないかということを、主人が案じてくれていることが、佐吉には、よく分っており、またありがたかった。
賤ヶ嶽の後、同僚の加藤福島を始め、七本槍とうたわれた若者はみな千石、二千石の加増をもらったが、佐吉は、実戦の武功といっては、首一つ取っていないので、彼にも加増の恩命があったとき、固くそれを辞退していた。――そしてそれに代るに、淀川すじの
佐吉がそれを乞うとき、もし私にその不用地を賜わるならば、事あるとき、一万石取りに匹敵する侍を出して、軍務のお役にたててみせます、と大言していた。――これも秀吉が、おもしろいことをいうやつだと思ったことのひとつだった。
その佐吉から京都大坂の世情を
たとえば、堂上のうちにも、大いにこれを悲しむ者があり、
――天下動乱ノ色アラハル。如何ニ成リユク可キヤラン。心細キ者ナリ。神慮ニ任セ、闇々 トシテ明ケ暮スマデ也。端 ナキ事端ナキ事。
と、その痛嘆を書きつけているがごときものが、一般の世態にも、もっと(人間はなぜこう戦争のない世には生きてゆけないのか?)
これがこの節、世上の疑問だった。
応仁以来、戦争の惨はなめつくし、生きるべくあらゆる試煉にも辛抱づよくされて来た庶民だが、この頃はすこし懐疑的になりかけてきた。
いったい、こんどの戦こそ、天下分け目というが、二つの天下なら二つのまま、何とか折合いはつかぬものか。つきそうなものではないか。世間はそう考える。
口に平和を約さない指導者はなく、戦の
これは人間のせいではない。人間がやるとすれば、人間ほど愚かな動物はないということになる。
では、何が、何ものが、それをやるのか。
個人ではない。人間の結合したものがやるのだといえる。
正しい人間性というものは、必ず、一箇のものでなければ、人間性として見ることはできない。
人間と人間とが群をなし、万、億と結合したものは、もう人間ではなく、奇態なる地上の群生動物にすぎない。これを人間と
だから庶民はいっている。
(天下を二つに持ち分ければ、どんな理想も栄華もできそうなものじゃないか。何だって、分け目の勝負を
凡下の俗言だが、これは個人の通念的正しさをいっているものだ。時の秀吉にせよ、家康にせよ、それくらいなことは分っているにちがいない。一箇の人間としてはである。しかし、過去、現在を通観してくると、世の中が人間意志だけでうごいて来たとおもうのは人間の
いずれにせよ、時の代表者となった者は、もう純粋なる一人間とはよべない。秀吉にしても家康にしてもである。一箇の中に、無数の人間意志や宇宙意志を
こう
佐吉が
入れ代りに、金森金五、
「あちらへ移ろう」
秀吉は、席を換え、橋廊下をこえた
そこの口も、庭まわりにも、小姓を番にたてて、長いこと、密談だった。
金森、蜂屋のふたりは、今、北陸にある丹羽長秀の
もし長秀をして、敵方へ走らしめんか、これは彼として由々しい不利とおもう。戦力の上ばかりでなく、戦争名分の上に、信雄や家康の云い分を、世上に信じさせる力が大きい。――なぜならば、丹羽長秀という者は、柴田に次ぐ信長の重臣であったのみでなく、この乱世にめずらしい、
それだけに名分では
もちろん家康や信雄からも、あらゆる
「
金森金五が、ひとり出て来て、番の小姓へいいつけた。
大村
中では、秀吉のことばに従って、彼が筆をとり、長文な書状が書かれ始めていた。――丹羽長秀宛にである。
箇条箇条のうちの、
一去る十一日、美濃守秀長へ下された御書面を拝見し、涙がこぼれ申した。
一五畿内の固めはもちろん、西国表まで、丈夫に申しかため申した。勢州表の戦況は、ここ坂本において、さしずいたし、甲賀、伊勢の間にも、城三ヵ所も、新たに築き、味方は毎日の勝報に士気いよいよふるい申しておる。
一美濃方面は、御存じの池田勝入、稲葉伊予、森武蔵など、慥乎 と構えており、別条なく、江州永原に、孫七郎秀次、高山右近、中川秀政、そのほか一万四、五千もの人数を、陣取らせ申した。
一秀長をば守山に。於次 (秀勝)をば草津に。長岡越中(細川忠興)をば勢多に陣取らせ申した。また、加藤作内、堀尾茂助をば、甲賀のまん中にすえおき、筒井は大和に、こちらの人数を副 え、さしおき申した。
一備前、美作 、因幡 など、西国表は、一人もうごかさず、大磐石。紀州、泉州へも、昨日、蜂須賀、黒田、生駒、赤松などの人数六、七千も増してやり申した。
このほか、秀吉は、このたび大戦にのぞむ兵力配備を、微に入り細にわたり、しかも具体的に、一切ぶちまけて長秀への書面に書かせた。そしてまた、一右のように、こちらは万々御懸念 は御無用であるが、御身の御用心と、御城の御用心こそ、肝要たるべきこと。
と、かえって、長秀の健康に注意を云い添え、さらに、前田又左衛門一もしそちらに人数がお入用なら、蜂屋、金森はお返しする。そのほか五千や一万の軍勢はいつでも加勢に向ける余裕があり申す。
一このところ、世上一般は、物狂いのていで、人心恟々 としており申すが、筑前は覚悟をもって、ここ十四、五日のうちには、きっと世をしずめて見せ申すべくに付、くれぐれお案じなきように。
として、使者はこれを持って、この数寄屋からすぐ北陸へいそいだ。
伊勢方面からの戦況報告の使いだけでも、夕刻までに、三回も着いた。
その書状を見、使いを引いて、直接、情勢を聞き、またことづてを託し、返書をかかせたりしながら、夕飯はたべた。夕飯はほかの侍臣も交えて大書院でたべた。
大書院の一隅に、
「越後へやった使いは、まだ何の沙汰もないか。――上杉
と、あたりへ訊ねた。
「まだ、日数にいたしましても」
と、指を
「そうか。きょうは十三日だったな」
と、あらためて日を
木曾の木曾
秀吉は由来、戦は最後の手段なりとしていた。外交こそ戦であるという信条なのである。故主信長の
だが彼のは、外交のための外交ではない。また、外交あっての軍力でもない。――常に、軍力あっての外交なのだ。軍威軍容を万全にそなえてからいつもものをいうのである。丹羽長秀に送った手紙の内容にも、その
が、家康には、この手もきかない。
たれにも黙っているが、実は秀吉は、事態のこうなる前に、
(筑前が
と、云い送った。
相手による。これは明らかに秀吉の失敗に帰した。が秀吉は、信雄と手切れになった後までも、なお使いを立てて前にもまさる好条件を附して、家康を
使いは、家康の激怒を買って、ほうほうのていで戻って来た。その報告に、
(筑前は、家康を知らぬ)
といわれました、と使者は秀吉に語った。すると秀吉は、苦笑して、
(家康も筑前の真は分らぬのだ)
と、いった。が、このことはあまり彼の上出来とはいえない。彼もそれきり触れなかった。で、側臣でも裏面でこんな
なにしても、ここ坂本におけるかれの起居は、日々
大坂、京都は、第五列の活動がさかんである。表面、家康は東海から東北。秀吉は近畿から西国と、その勢力範囲は
また一般人士のうちには、父母は関西に主取りしているが、子は東軍の将に仕えているのもあり、兄は義をもって、家康方に
戦の惨は、戦場の血しおより、事前と事後の、こういう生々しい人間苦に、より以上深刻である。――が、そんな悩みは、ものともせず、人間の大多数が、混乱と自失に墜ちているまに、時こそ来れと、平常の社会状態では遂げ得ない望みをとげようとする悪侍の一部もたち交じって、経済も道義も秩序もみだれ始め、戦の外に、戦以上の生活苦やら闘争も渦まき始める。
秀吉は、よくその苦味を知っている。彼が、尾張中村のあばら屋に育ったときから多年の放浪時代の世がすでにそうだったから。――以来、信長の出現により、一時はなお社会苦は
家康――
この名ほど今日まで、彼のあたまへ重量を感じさせるものはない。“家康”――近ごろは、眠りのまも、この二字だけは、眠っていない。
刻々の
自分が、ここ旬日を、坂本に送っているまに、家康は今や清洲まで大軍をすすめてきたとある。おもうにこれは、伊勢伊賀紀州の戦を蜂の巣をついたような状態において、みずからは西上を策し、一挙、京都に入って大坂へ迫ろうという颱風路を示すものであるは明らかである。
が、家康とて、その道が易々たる
一歩先んずれば、その戦備に構築に、地の利を占め、要意に欠くなき利をうるであろう。家康はすでにそこに臨んで満を持しているのだ。秀吉は、その意味で、立ちおくれている。この十三日が暮れんとしても、なお、坂本からうごく様子は見えない。
これは相手を知らぬからではなく、家康の何者たるかを、知りぬいているからである。この相手は、明智、柴田の比ではない。要意のためには、立ちおくれもやむを得まい。彼は万全を期すのだった。丹羽長秀を抱きこむために。毛利をして西国に変を起させないために。上杉、佐竹に関東の背後をおびやかさせるために。四国、紀州の
「殿。また、早馬です」
と、食事中にも、あわただしい取次が絶えない。
ちょうど、飯をたべ終ったところだった。秀吉は、
「どこから」
と、書状
「使いは、尾藤甚右衛門どのの御家来です」
「や。来たか」
待ちかねていたものの一つである。
大垣の池田勝入の城へ旨をふくませて、再度の説客としてやった尾藤甚右の返辞。――吉と出るか、凶と出るか。
さきに黒田ノ城主、沢井左衛門を説かせにやった武藤清左衛門、
「よしっ」
それしかいわなかった。
「使いを、いたわってやれ」
その夜の深更、彼も眠りについてからのことだ。なに思ったか、ムクと起き、例の声で、
「甚右の使いは、明朝帰るか」
「いえ、かかる折と申して、ひと休みの後、夜道をかけて美濃へ帰りました」
「はや帰ったか。……では、
「はっ、御祐筆には、どなたを」
「
と、いったが、すぐ思い直し――「いや、
と、思いやった。だが実は、その祐筆が髪をなで衣服を着かえて来るのがもどかしいふうであった。
寝床の上で筆をとり、彼は一書をしたためた。尾藤甚右衛門宛てにである。
――骨折りによって、勝入父子、われへ同心一味の誓約、大祝この上もない。
だが、にわかにわざわざ申しやる一事は、勝入秀吉へ加担 と知らば、かならず信雄、家康が手をかえ品をかえ合戦を挑 み来るは必定 なれど、決してその手にのって応ずるな。逸 まるな。池田勝入、森武蔵は、前々から敵を侮 りがちな武勇自慢の者どもである。その方、軍監 として、よくよく心得おくように。機を過 らず諫 めよ。その段、肝要 のこと也 。謹言。
筆をおくと、すぐ、だが、にわかにわざわざ申しやる一事は、勝入秀吉へ
「使番の者に、今からこれを大垣の甚右のところへ持たせてやれ。いそぐぞ」
と、いいつけた。
ところが、翌々日の夕、十五日にはもうその大垣からべつな情報がまた届いていた。
犬山落城。――すなわち勝入父子が、
「やりおッたわ」
秀吉はよろこんだ。しかし、憂えた。
あくる日は、十六日。
秀吉はもう坂本にいなかった。
彼の
犬山
「あたらよ、
秀吉の痛嘆は、自分への
「今は――」
と、
紀州の
信雄、家康の手がそこへまわっていることはいうまでもない。さなくとも紀泉の各地には、本願寺与類の不平の徒が、淡路、四国の諸豪と呼応して、つねに機会を狙っている。もっと危険なことは、それらの仲間が一般庶民にすがたを変えて、新府大坂城下には、たくさんに住んでいるという事実である。
「おれの世帯は大きい。かろがろと、にわかに立てぬもしかたがない」
秀吉は、発向の日を延ばした。
そしてほぼ二日間に、万事をすました。留守のかため、市街の戦備も、
「たのむぞ」
と、留守を蜂須賀正勝にまかせ、いよいよ大坂を立ち出でた。
天正十二年三月二十一日の、早朝のことだ。
沿道には、それを見物する庶民の男女が、果てなく垣を作っていた。
この日、秀吉に従う将士、総軍三万余と称された。
たれも、その中のただひとり、秀吉のすがたを見ようとした。
「見えなかった」という者と「見た」という者と、まちまちであった。
おそらく気がつかぬ者が多かったのであろう。小男の秀吉が
が、秀吉はこの群衆を見、
「
と、ひそかな笑みに確信していた。
秀吉の六感は、群衆の色彩を見てそう思った。彼らの好みは明るくて大どかな色と模様を
当夜は、
そして伏見近辺までくると、淀川の渡しに、およそ四百ほどな人数が迎えに出ていた。
「あれや、たれの旗か?」
諸将はあやしんで眼をこらした。
たれとも知れず、赤地に黒く大一、大万、大吉と書いた大のぼりを立て、五本金のふきぬき、馬じるし、金の
秀吉も見て、使番の平塚太郎兵衛に、
「行って、
と、走らせた。
太郎兵衛はすぐ駈け戻って来て、
「石田佐吉でした」
と、報じた。
秀吉はかろく
「佐吉か。さてさて。佐吉のはずだわ」
と、何か思い当ったらしく、機嫌のいい感声を放った。
近づくほどに、石田佐吉が、やがて馬前へあいさつに来た。佐吉は云った。
「かねてのお約束は今日の事と、このあたりの不用地をかく
「おお、ついて来い。佐吉は、うしろにいて働け。うしろの
一万石の兵馬そのものよりも、ひとりの佐吉の頭脳の方が、秀吉には拾い物の気がされた。先駈けを争う武功一徹の武者ばらは雲のごとくいるが、当節、経済的にすぐれた頭脳などは、この三万の甲冑のなかにも見当らない。長浜以来の小姓部屋が生んだ一異才として、佐吉のあたまは、秀吉にとり、まさに珍重に足りるものだった。
その日、大半は京都を通過し、近江路に入り、翌二十三日の午前は早くも不破、赤坂の古駅を通っていた。このあたりは秀吉にとり、青年逆境の頃の追憶が路傍の一木一草にもあった。
(おお、
菩提山を望めば、菩提山ノ城もおもい出され、そこの
主とよばれたが、心の友、竹中半兵衛も、彼の半生には忘れがたい人だった。半兵衛亡きのちも、困難に会うと、半兵衛あらばと、おもい出された。それを何ら
「あ。……おゆう」
彼はそのとき路傍の松影に、ひとりの
尼のひとみは、ちらと秀吉の眼と合った。それは
その夜、彼の泊った宿営に、一盆のよもぎ餅が届けられていた。ひとりの若い尼が名もつげずに、さしあげて
「これは、うまい。……なんと
食後ながら秀吉は二つも喰べた。ただおかしいことには、
眼ばやい小姓は、
「なんのおん涙やら」
と、疑い、
「あすは
と、主人の
勝入父子の迎えをうけ、城内城外、この大軍にあふれた。
夜空をこがす
「やあ、久しや」
これが秀吉と勝入との、会ったとたんの、どっちからともない声だった。
「御父子、このたびの同心は、筑前、真実うれしゅう思う。あまつさえ、犬山一城、引出物の
秀吉は、口を極めて、その功をほめたが、勝入の
いわれぬだけなお勝入は面目なかった。
それについて、勝入が、
「いや、そう
「やれ、よけいな気づかいをするものかな。ははは、池田勝三郎らしくもないぞよ」
秀吉はわざと、彼の青年時代に呼びなれた名をもって彼の精気へ呼びかけたが、共に笑っても、勝入の笑いにはどこか明るさがなかった。ふとしたらこんどの大戦には勝入は死ぬのではないかというような気もちが秀吉のどこかでしていた。
むずかしい。叱るべきか、叱らないでおくべきか。秀吉は、次の朝の寝ざめにも、ふと考えた。
しかし、何はあっても、犬山一城が、来るべき大会戦のまえに、味方の手にある利は非常なものだ。単なるなぐさめでなく、秀吉はそれを繰返し繰返し勝入にいってその功を賞した。
二十五日の一日をもって、秀吉は、身の休息をかねて、諸兵の集中を終了した。その後、なお集まった諸軍を合して、総兵力、ここに八万余と号された。
次の二十六日は、出陣でなく、すでに出戦だった。朝、岐阜城を発して、ひる
そして翌二十七日の朝、野陣を払って犬山に向った。秀吉が犬山城に入ったのは、ちょうどその日の正午であった。
脚下に、木曾上流の
「脚の丈夫な馬を――」
と、いいつけ、ひるの兵糧をつかうとすぐ、軽騎軽装して、城門からとび出したのである。
「あっ、いずれへお越し?」
と、駈けつづいて来る諸将をふりむいて、
「あまり来るな。たくさんは敵の目につく」
勝入の
ここに立てば、小牧山は眼のまえにあり、尾濃の平原は、草の海にも似る。
北畠、徳川の聯合軍は、およそ六万一千余と聞いていた。秀吉は、遠くへ、眼をほそめた。真昼の陽がまぶしげであった。何もいわず、小手をかざし、おッとりと、眼にあまる敵営団々たる小牧山をながめていた。
この日、家康はなお、清洲にあった。
いや、小牧へ出ては、
進退、いやしくもしない。その要心ぶかさ、名人が一世一代として打つ一石の重さにも似ている。
「筑前守が、昨夜、岐阜へ入りました」
という確実な
ちょうど、
「……筑前、出でたるか」
と、ひくい声でつぶやき、左右の者と、
(ほぼ予見は
と思うのである。
つねに出脚の
が、なお、岐阜まででは、いつその颱風路を急角度に変えないものでもない。家康は、次の
「筑前。木曾川に船橋を
二十七日のたそがれ、それを確かめ得た。さらば、という家康の面持ちだった。夜をかけて出戦の準備は成った。留守となる清洲には、その本丸に内藤
信雄も、いちど長島へ帰っていたが、報をうけて、即日、小牧山へいそぎ、徳川軍と
家康は、出迎えるつもりでいた。
なにかの手ちがいで、それがなかった。
姿が見えなければ、来いといって、呼べばよいのに、人のよい信雄は、着くやいな、みずから家康の営所へ行って、取るものも取りあえず駈けつけて来たことなど語って、
「筑前の兵力は、ここだけでも八万余。各所の軍勢をあわせると、十五万を超えるであろうと聞きました。この大戦は、どうなりましょう」
と、たずねたりした。
彼は、自分のことから、かくも大規模な天下分け目の大いくさになろうなどとは思っていなかったらしく、
――春の空の下だが。
妙な平和である。
蝶や小鳥には、ありのままな天地の春だったが、人間たちには、この真昼も、何か、不気味なものがあるにちがいない。
平和の
「……どうしよう?」
かの
この白昼なのに、行きくれていた。
川原の
「町へ」
と、おもって、これはおとといから、道をかえてみたのだが、町へ近づくと、かならず軍の
“通るべからず”
の
村にも、人はいず、ただ
遠くに霞んでいる山の方へゆけば、たくさんな人民が
「
――そこでかの女は、
「……晩には」
と考えると、さすがに気の勝っているかの女も、まだ十七歳の
疎開したあとの農家には、何かしら喰べ物もあり、夜のむしろも、そこを借りては過ごして来たが――このあたりには、そんな小屋もあるかどうか。
つかれも出て、かの女は、やがて川原の石に腰をおろした。そしてぼんやり、夕雲を仰ぎながら、越し方行く末を、夢のように、えがいていた。
「あッ? 女が」
そのとき、かの女のうしろで、男どもの声がした。
男どもこそ、驚いたふうだったが、かの女とて、やはり、びっくりしたらしく、うしろの
やがて。
七、八人の物見の小隊は、かの女をとりかこんで、口々に、質問しだした。
「おまえは、どこの者だ。――たれのむすめか」
「こんな所で、何をしておったか」
かの女は、悪びれもせず、
「はい。……もう四日も迷いあるいたので、くたびれ果てて休んでおりました」
「どこから、どこへ行くつもりで?」
「家は、
「男? なんだい、それは」
「
「その息子どのと、いったい、どこへ行く約束をしたのだ」
「京都へ」
「――京都へ?」
「ええ」
「ふウ……ん」
と、みな感心したり、クスクス笑い出したりした。
中でも、若い
「これやあ、おどろき入ったもんだ。この大戦争をよそに、都へ、駈け落ちなどは、まアいいとしても、見ればまだ、ほんの小娘でしかないのに、おれたちの前でも
今さらのように、ほかの連中も、かの女の髪、目鼻、身なりまでを、あらためて、見直したあげく、
「だが、ことばつきといい、
「いまのは、ウソかもしれんぞ。――嘘でもなければ、こうおちついて、男のことなどいえるものじゃない」
「おまえの親は、武士か。姓は、なんというか」
「父は、
「そして、おまえは」
「乳母のお
「え。信長公のお城へ仕えていたことがあるのか」
「つい先頃までは、
気品があり、ことばは
兵たちは、仲間のあいだで、
(どうしよう?)
と、いう相談になったらしい。
かれらは、何か、ヒソヒソいいあっていたが、いまや大戦の火ぶたを目前にはらむ日ではあるものの、この
「ともあれ、陣所まで曳いてゆこう。――万が一、敵の
話がきまると、於通は、ただちに引ったてられた。
そこからすこし上流の方へゆくと、この物見隊が乗って来たらしい
槍ぶすまに囲まれたまま、かの女は、
木曾川のしぶきを
「あぶないぞ」
かの女の降りるとき、ひとりの兵は、その手へ槍の
そこの岸から、断崖をのぼってゆく。すると
家康の本陣、
つい二日ほど前。
大挙して
物見組は、その池田家のうちの一小隊だった。
夕がたの
「おや、たいしたものだぞ」
「おいっ、どこから拾って来た――そんな
ふり向いては、何とか、騒ぎ立てない兵はない。
「ほう? ……」
と、連れて来た部下の報告を聞きとりながら、目をみはった。
「
「はい……」
「うまいこといって、実は、徳川家の知るべの者か何か、頼まれておるのだろう。正直にいえばよし、かくして、あとから知れると、怖ろしい目にあうぞよ」
「お疑いあそばすなら、わたくしを、おん大将の秀吉様に会わせてください」
「なに、
「ええ。先頃まで、わたくしの師として、お仕え申していた
「……はてな」
「おい」
と、部下をかえりみて――
「ともかく、兵糧でも分けてやって、すこし
池田勝入は、この日も、わずか四、五騎をつれたのみで、城外へ出ていた。
前日も、出て、どこかを一巡して、帰ってきた。
そのまえの日も、ふた組の、将校偵察を放ち、しきりと、犬山、小牧の地方から、東海道方面へぬける山街道の地勢をしらべさせていた。
「ひどい煙だな」
その眉を見てさえ、池田家の将士は、
「まだ、ご機嫌がお悪いようだ……」
と、かれの
勝入の不きげんは、
その
数日前。
秀吉は、犬山につき、すぐ布陣にかかって、いまは
(よく犬山を早く
と、功はほめたが、その功をもっても
云われないだけに、なお、つらいのである。のみならず、味方のうちでは、
「
本丸の居室に、あぐらを組むとすぐ、かれは、息子の
「みなの、
と、通路に番人をおいて、密議にかかった。
「まず、これを見い」
勝入は、陣羽織の
「徳川、北畠の両兵力は、小牧山へあつめられ、あとは清洲にすこし
地図面には――
この犬山から、山間や渡河を
「……さては?」
と思いつつも、見終った人々は、黙然と、勝入のくちもとを見つめていた。
勝入は、一同へ
「敵の小牧や
たれも、急には、口をあく者もない。
これは、兵の奇道だ。
しかもまちがえば、味方の全体に、致命的な
「……わしは、この一策を、羽柴どのへ、
何か、大功をたてて、
その意中が、よく分っているだけに、だれも、
(いや、奇計は、めッたに、功を奏するものではありません。危険です)
と、かれの
いったい、武人と武人の
勝入の策も、その夜の密議では、帰するところ、
(それこそ、必勝の奇計)
(
と、
かつて、
「あすにも、
と、眠りの
「きょう、御陣廻りの途中、筑前守さまが、
と、楽田から伝令があった。
勝入は、待ちもうけた。
四月初めの微風を駒のうえに味わいながら、この日、秀吉は、楽田を出て、家康の小牧本陣と、附近の敵塁をつぶさに望見しながら、小姓、
「ほ。……あれへ、きれいな蝶が、野を舞っておる。たれぞ、
ふと、馬をとめて、秀吉が指さしていうことばを、人々は、何のことか? ……と、疑った。
秀吉は、眼ばやい。
いや、かれに続いてゆく将士はみな、大将の警固に、緊張していたのに、かれ自身の眼だけが、晩春四月の野を、
「見えぬのか。お
秀吉は、左右の者が、いぶかしげに、遠くを見ている眼を――さらに、指さし教えながら、
「あれじゃよ、あれじゃよ」
と、すこし笑い出した。
福島市松が、その顔つきを、読みとって、
「ア。あれですか」
「うむ、あれよ」
「あの蝶々を、
「そうだ」
さすが、
市松は、もう馬を、その方へ飛ばしていた。
「――何をしに?」
まだ気づかない人々は、市松の行方を、視線の焦点にしていた。
やがて、市松は、ぽんと馬の背からとび降りた。
チラと、
その紅いものが、女の帯か、小袖の模様の一部だとわかったのは、市松がその女性をつれて、片手に駒の手づなをひきつつ、だいぶこっちへ近づいて来てからのことだった。
「オオ、殿が、蝶々と仰っしゃったのは、あの小娘のことよな」
ようやく、すべての将士が、こうさとると、列は、にわかに
ここらは、敵にとっても味方にとっても、危険なる、やがての決戦場である。
どうして、かよわい小娘がこんな所を? ……と、あやしみすら
「
市松は、少女の片手をとらえながら、列の横に立った。
秀吉は、ま近に見て、かれが女性にたいして、物に何かを感じたときに見せる眼もとの表情を、チラとうごかした。
「どうだ、きれいな蝶々だろう」
かれは、ふと、
「……だが、毒の蝶かもしれん。何しても、
市松は、少女と共に、数歩すすんだ。
けれど、かの女は、ここでも、犬山城の将兵の中をすまして通ったときのように、いささかも、悪びれない、怖れない。世のつねの
「そもじは、何者だ」
秀吉は馬の上から、わざと、あどけないほど
「小野の
於通も、じっと、秀吉を見かえした。
於通は、前の夜、城外の池田部隊のうちで、からくも、一夜を明かした。
部将の
(親切にしてやれ)
といってくれたが、兵たちにとっては、この
当然ないたずらが、夜どおし、かの女をなやました。
やっと、夜が明けてから、
こんな
ところが、犬山を出てから道をまちがえ、どことも知れない野末をあるいていると、そこでも、三名の兵にゆき会い、いきなりまた、ゆうべのような悪さを
(馬鹿ッ)
と、
小娘のけんまくに驚いたか、それとも、遠い並木道に、秀吉の行列が見えたせいか、野良犬兵は、あっけにとられた顔していた。
秀吉が、遥かから、蝶と見たのは――かの女が、もう追っても来ないものを恐れて、なお走っていた姿だったにちがいない。
「於通というか」
秀吉は、自身でいろいろ訊ね出した。
こんな所をなんの用があって、さまよっているか?
年はいくつ。
於通は、きのうも木曾川べりで、池田の物見隊へ語ったとおり、つつまず、
ゆうべ、難儀したことや、いまも野原で、あやうい目にあうところだったことも、何の、はにかみなく告げた。
そして、ことばの終りに、
「わたくしは、十二、三歳のとき、よそながらですが、あなた様を、折々、お見かけ申しておりました」
と、
「はてな? そうか」
秀吉は、小首をかしげたが、於通のはなしに、以前、
「安土のお城でか」
「ええ」
「この筑前も、亡き右大臣様(信長のこと)のお側へは、よく召されたことゆえ、そんな時でも、見かけたのであろ」
「信長さまが、
「おおあったの。そんなことも……」
「その折、あなた様も、お側近くにおられましたでしょ。あなた様のお顔も、いちどお会いした者は、わすれることはないと、たれもが申しておりました」
猿に似ていることは
それを、棚おろしされたような気がしたのであろう、秀吉は、大いにてれて、
(小さかしい
と、於通の
(ほんとに、似ていらっしゃる)
と、いわぬばかりに、なお、じっと、秀吉の顔を見てばかりいた。
秀吉は、ひそかに、かれの体験にない、おそれを抱いた。
かれは、自分の視力というものに、由来、非常な自信をもっている。
いかなる現下の
信長の亡きあと、かれの
(――家康、何かあらん)
と、心のうちは、どうあろうと、すくなくも、その眼は、敵を呑むの
ところが。
それほどな自信と、自信にみちている眼を――名もなき一少女の眼が、
(これは?)
と、まごつき、
(これは、そも、何たる
と大いに、怖れたり、好奇心をおぼえたりしたのも、むりではない。
「おウいっ。
振り向いて、彼はふいに、うしろの
列の内から、
「御用ですか」
「うム。そちの馬をかせ」
「馬を……ですか」
「降りて、この
平馬は、顔を、ふくらました。
返辞をしなかった。
「平馬。なぜ答えぬ」
「
「なに、嫌じゃ?」
「はい。戦場では、たとえ戦友のたのみでも、馬だけは、貸すはイヤだと断っても、友情には欠けぬものと、聞いております。……まして、女などに、馬をかして、自分が口輪をとってゆくなんて……私には、お叱りをこうむっても、出来ません。お断りいたします」
嫌なことは嫌といい、うれしいことはうれしいといい、ともあれ、主従のあいだでも、形式にとらわれず、生命と生命の真実をもって、ぶつかり合っていたのが、秀吉とその
いや、当時の、先輩と後輩とのあいだ、老いと若きとのあいだ、すべて、こうした気風だった。
で――平馬が、嫌だと、だだをコネても、それが正しい云い分をもっているので、秀吉も、
「はははは。しょむないやつじゃな」
と、笑って、敢えて、
「戦場ゆえ、平馬めは、貸すのはイヤだという。おいっ、たれかほかに、於通に馬をかして、みずからは口輪をとって、犬山まで歩いてやるような、
秀吉のこのことばは、
「では、それがしの馬を貸しましょう」
みずから、鞍を下りて、馬をすすめた者がある。
たれかと見ると、
「や、
かれの身分にたいし、秀吉は礼をいった。
氏郷は於通をたすけて、馬の背へ押し上げ、
「これも、風流です」
と、なんのこだわりもなく、口輪をとって、秀吉のあとに
秀吉は、うなずいて、列を進め出した。たくさんな若い人材のなかには、石田佐吉のような、経理の才もあり、智謀にとむ者もいるが、多くは、一番槍、一番首などを
(さすが、忠三郎の望みはちがう)
と、秀吉は、振り向いて、氏郷のすがたを見、氏郷は、秀吉のその眼を仰いで、ニコと笑った。
犬山へ着いた。
城内には、池田勝入父子が、出て迎えた。
秀吉以下、すべて、本丸その他へ、わかれて入った。
「ときに、
と、たずねた。
勝入と会ってはなすときは、秀吉は、いつでもすぐ、昔友達そのままになった。勝入が、まだ池田勝三郎のむかしから前田犬千代などと共によく清洲の町を、飲みあるいた悪友でもあり、以後、おたがいに、生死のなかも、
「いや、聟の血気には、ミソをつけ申したが、おもいのほか、恢復がはやく、一日もはやく、陣前に出て、
聟とは、いうまでもなく、
秀吉は、雑談好きだ。
雑談のうちに、
「市松(福島)は、きょう見て来た小牧の敵塁のうち、どこの備えが、もっとも
とか、
「
とか、また、
「きょう一巡して来た間に、何ぞ、敵の弱点と見たところ、或いは、味方の弱味と考えられたことがあれば、何でも、遠慮なくいって聞かせい。
などと、左右の者へよびかけて、若武者たちの率直な言を、よろこんで聞くのだった。
こんなとき、彼を中心とする一群の若い
かれらが熱しると、秀吉も熱し、主従だか友だちだか、わからない空気にもなるが、ひとたび、秀吉が、すこし
池田勝入は、そばにいて、いつ果てしないこの主従に、
「――時に、折入って、きょうは勝入からも、申し述べたいことがおざるが」
と、人々のはなしの腰を折って、秀吉へ、何か云った。
秀吉は、耳を寄せて、ふムと、一つうなずいて見せ、近習たちへ、人払いを命じた。
「みな、ちょっと、座を
「はい」
掃いたように、人々は、そこを立って、休息にしりぞいた。
ひとり、於通だけが、片隅にのこっていた。
勝入は、見とがめて、
「筑前どの。うしろにおる女性はたれでおざるの」
「お、これか」
忘れていたものを思い出したように、ふり向いて、
「途中で、拾うて来た、おんなじゃよ」
「ほ。……この戦場で?」
「さればよ。風変りな女子ではあるまいか。――於通、そもじも、ここを遠慮せい」
於通は、はいと立ちかけたが、ふと、
「どこに
と、勝入の方へたずねた。
勝入は、二男の三左衛門
「三左、三左」
秀吉は、うしろから、呼びかけて、
「なんぞ、この女子に似合いそうな、陣羽織と
女にあまいことは、いまさらつつむ必要もない勝入なので、人前もなく、秀吉はいいつけた。
みな去った。
勝入と、秀吉と、ふたりきりの室となった。
室は、本丸の広間である。見とおしなので、見張りもいらない。
「折入ってとは……。勝入、何ごとじゃの」
「実は、そのため、御本陣へおたずねせんと、思っていましたが」
「ここでいい。何なと、うけたまわろう」
「ほかでもおざらぬが、今日、御巡視になられて、もはやお考えは、おきまりのことと存ずるが、家康の小牧の備えは、さすがでは、おざるまいか」
「いや、見事よ、あれほどな
「てまえも、幾たびか、馬をめぐらし、小牧附近を、見まわりましたが、あれへ攻めかかるべき手だては、とんとありませぬ」
「にらみ合いだの。型のとおりに――」
「家康も、相手が相手とおもうて、大事をとり、お味方も、名だたる徳川勢との初めての決戦なれば――と、自然、かくのごとき、ねめ合いの対局と相成りました」
「おもしろいの。連日、小銃一発の音もせず、
「さ。そこです」
勝入は、膝をすすめ、先頃から彼が胸にえがいていた奇略を――例の、山道地図をもひろげて――熱心に、
秀吉も、熱心に、聞き入った。
いくたびも、
「うん。うむ……なるほど」
と、うなずきもした。
けれど、さいごの結論にいたると、難色をしめした。よかろうとも、やろうとも、容易に、策を容れる顔いろはない。
「もし、おゆるしあれば、勝入は、一族をあげ、
勝入は、るるとして、説いてやまず、
「……わかった。うム。考えておこう」
秀吉は、即答を避け、
「だが、おぬしも、そうわが事とおもわずに、ひと事として、もう一晩、考えてみい。奇略だし、
と、たしなめた。
勝入の武勇も
ふたりの、小声が、しばらくとぎれた。――と、
「父上。……おさしつかえなくば、これまで、ちょっとお立ち越しを」
それより、すこし前。
城中の一室を、病間とし、先ごろから、満身の
「
と、日夜、看護にあたっている弟の森仙千代――十六歳の若武者に、しきりに、だだをこねていた。
「兄上。そんなに、お体をうごかすと、また夜になってから、傷口に、熱をもって痛みますぞ」
「よけいなことをいうな。三左をよんで来いと申すのだ」
「だめです、今は」
「なぜ、貴様は、ツベコベ
「でも、ただ今は、御本丸へ、秀吉様がお越しになって、紀伊どのも、三左どのも、
「だから、筑前どのの帰らぬうちに、三左に、云っておきたいのだ。……よし、そちが取次がんなら、おれが行く」
長可は、起きかけた。
満身を、繃帯している。頭も顔も、片腕も、白い布で、巻いているので、さしも鬼といわれた彼も、ままにならない。
それが、
しかも彼は、
“
と、敵は、
(このまま死んでたまるか)
と、長可は、日夜、無念のまなじりをあげ、傷の痛みよりは、心のいたみに、五体を
「だめですよ、兄上は」
仙千代は、兄の気もちに、泣きながら、背を抱きかかえて、怒ってみせた。
「御用がすめば、三左どのを、およびして来ますから、それまで、待って下さいというのに、どうして兄上は、そんなに……」
「筑前どのが、お帰りのあとでは、間にあわんから、
「じゃあ、紀伊どのまで、お願いして来ますから、お動きになってはいけませんよ」
兄を、そっと、もとの枕へ寝かせて、仙千代は、立って行った。
ほどなく、三左が来た。
顔を見るとすぐ、長可は、
「どうだ。
「いま、人を遠ざけて。おふたりで、密談中だが」
「ではまだ、羽柴どのが、献策を
「ム。わからぬ」
「もし、
一方――
以前の広間のほうでは、まだ人払いのまま、秀吉と勝入だけが、
いま。
次部屋の境から、子息の紀伊守が、ちょっとお顔……と父をよんで、何かささやいたが、聞き終ると勝入は、またすぐ、秀吉の前にもどっていた。そして、
「岡崎へ“
と、さっきからの献策を、くり返して、やまないのであった。
勝入の戦略は、たしかに、奇想天外である。要心ぶかいことでは、石橋を叩いて渡る主義の家康も、まさかと気づかずにいる
しかし秀吉の考えは、おのずからちがう。
秀吉の生来としては、奇略だの奇襲だのという手は、あまり好まないのだ。かれは戦術よりも外交、小局の快勝よりも、大局の
「ま。
秀吉は、気をほぐした。
「明日までに、
「では、明朝また」
「むむ。もどるぞ」
と、秀吉は、立った。
「御帰陣」
と、紀伊守が、諸

そして、本丸の出口までかかると、駒つなぎのわきに、一名の異様なる姿の武者が、
頭も、片腕も、繃帯で巻き、具足の上の陣羽織も、白地きんらんといういでたち。
「や? そちは」
秀吉の向ける眼に、その重傷者は、顔の半分まで、白布で巻いた
「勝入の
「オオ、武蔵守か。――
「きょうから、起き出ることに、きめました」
「無茶をするなよ。体さえなおせば、いつでも、
汚名――といわれたので、多感多血な長可は、ぽろりと、涙をこぼした。
陣羽織の
「御帰陣の後、御一読を得ますれば、ありがたい
心根を、
「よしよし、読んでやる。――くれぐれも、大事にいたせよ」
いいすてて、城門を出た。
青鷺組というのは、池田家の秘密隊――つまり
三蔵は、犬山攻めの前にも、一役たてて、その賞として、池田勢の犬山入りと同時に、金ももらい、お暇ももらい、かれの夢が、実行できるつもりだったが、
(戦は、これからだ)
との理由で、褒美の金は、ふんだんに拝領したが、軍を抜けることは、ゆるされなかった。
三蔵の“夢”というのは。
この、のら息子の母親というのは、
於通は、のら息子の三蔵を利用し――三蔵は於通をかどわかすつもりで――この二人が家出したのを、お沢は、あの
とまれ、若い者の夢は、よくも悪くも、いまのような草深い田舎にすみ、戦争にはのべつおびやかされ、貧しい衣食に耐えてはいられないのが、ふつうだった。
けれど、於通の夢と、三蔵の夢とでは、月とすっぽんほどちがう。
けれど三蔵は、色と慾のふた道を、盲目にあるいた。於通を、かねて約束の場所に待たせ、池田家から褒美の金と、お暇をもらったら、すぐ戻って、予定どおり、かの女と、手に手をとって、京都へ道行きするばかり――と、ひとり有頂天になっていたのだ。
ところが、その虫のよい考えは、この大戦の直前に、まかりならぬとされたのである。
一時は、脱走しようかとおもったが、つかまれば、当然――首。
(於通は、どうしたやら)
それのみ、思いながら、命も欲しさに、軍にとどまっているうちに――数日前、また、勝入父子によび出され、
(この密書をもって、徳川家の森川権右衛門の城まで行って来い。返事は、わらじの
と、いいつけられた。
三蔵は、いまその大役を果たして来て、犬山城へ、帰って来たところだった。
ちょうど、秀吉の帰るところで、城門の前は、兵馬で、混みあっていた。三蔵は、道ばたに、土下座して、通過を待っていた。
三蔵は、あッと、驚いて、とび上がった。
その中に、於通がいた。
しかしすぐ、人ちがいか、とも疑った。似てはいたが、
秀吉は、その日の、戦場視察を終って、夕方、
楽田村のかれの本陣は、敵の小牧山のような高地ではない。
しかし、附近の森、耕地、小川までを、完全に利用して、方二里余にわたる
そして村社の鳥居から内の、ひろい境内と本殿とが、かれのいる所のように、偽装されていたが、敵の夜襲にそなえて、秀吉の身は、神社のうちにはいなかった。――そこの林より東の方に離れている一群の仮屋に起居していたのである。
もっとも、敵の家康のほうから見た場合は、秀吉が、犬山にいるか、楽田にいるかも、疑問だった。――それほど、互いの陣形は、水ももらさぬ一線をへだてて、相互の偵察を、困難にしていた。
「おれの湯好きが、大坂を立って以来、何度も
秀吉のために、仮屋の雑兵たちは、ただちに野戦風呂をわかした。
地上に穴を掘り、大きな油紙を、穴いっぱいに敷くのである。それに、水をたたえ、
流し場には、板をならべ、まわりにはまん幕を張ってしまう。
「ああ、よい湯だ……」
この簡素な野天風呂に、あまり立派でない肉体の持ち主は、肩まで、湯にひたして、飽かず、夕空の星を仰いでいた。
「……天下の
かれは、からだの
去年から、
小さい頃、叱られ叱られ、母に背なかを洗ってもらった尾張中村の
「おい。たれかおるか」
幕の外へ、声をかけると、
「何ぞ、御用ですか」
「うム、いくらこすっても、
小姓のする役であろうが、特に秀吉がいうので、於通は、やがて呼ばれて来た。
「おお、於通か。背なかを流してくれい、こっちへ、はいって」
いくらかの女がまだ何も知らない
「はい」
と、すぐ赤裸の秀吉のうしろへ廻って、かれの背をごしごしこすり始めた。秀吉は、体をまかせて、背といわず、腕といわず、足のさきまで洗わせた。
風呂を出る。体を
「やあ。もう揃うていたか」
座には、その夕、召しをうけた諸将が、居並んで、待っていた。
浅野
それぞれ、一陣の首将である。
「おう、お
諸将は、秀吉のてらてらした顔をながめて、まず、大きな安心をもった。
だが、かれに
(これは少々、
とも思うのだった。
「みな、飯はやって来たか」
と、秀吉。
「兵糧をしたためて伺いました」
と、返辞は、一致する。
「つかれたろう。長陣で」
「いや、殿こそ」
「なんの、大坂表にいるほうが、よほど忙しい。野天風呂にはいって、こうしておると、まるで保養じゃよ」
笑って。――無造作に、
「これを見い」
と、陣羽織の
書面は、病中の森武蔵守長可が、犬山の帰りがけに、直接、秀吉へさし出した血書の嘆願書。
地図は、池田勝入が、秘計を説いて
「どうであろ? 勝入と武蔵守の望み出た作戦は。……
しばらく、たれも無言。さあ? ……と考え沈む顔ばかりである。
「妙計とぞんじます」
「奇略は、奇功を
非となす者も、また半数。
議論は、もめた。
秀吉は、その間、にやにや聞いているだけだった。余りに、問題が大きいので、衆議はまとまらず、ただ、
「御明断に、よるほかはございませぬ」
として、諸将は、夜に入って、
「於通、木枕をかせ」
陣中の眠りには、彼も、具足を解かない。ごろりと、随時に、
小姓たちは、もちろん、武器を抱いて、交互に、寝ずの番に就いていた。於通は、備えつけの
勝入の献策を、
秀吉の
森長可の血書の献言書も、諸将に示すまえに、秀吉は帰り途の馬上でそれを読んでいた。
いいかえれば。
肚をきめかねて、諸将をよんだわけでなく、肚をきめたので、諸将をまねき、
(どうだろう?)
と、一応、協議にかけてみたのである。そこにも、かれの
(まず、行われまい)
と、見て帰ったのだった。
だが、秀吉の意中は、すでに決行を断じていた。
もし、勝入父子の策を容れてやらないと、かれらの立場は、武門上、非常にまずいものになる。
また、あれほど、思いこんでいる勝入父子の意気地は、ここで抑えても、ほかの場合で、何かの形をとって、あらわれるにちがいない。
それは、統軍上の、大きな危険だ。――いや、それ以上にも、秀吉がおそれたのは、勝入父子に、不平をいだかせておくと、
さなきだに、勝入父子は、もともと、北畠信雄とは、乳兄弟であり、その信雄は、家康が、小牧の陣営に奉じて、
(自分は、戦は好まぬが、故右大臣家(信長)の
と、徳川方のたたかいを、義戦であり、正義戦であり、私慾の軍でないことを、天下に
もし、その信雄なり、家康なりから、この戦争名分をおもてに、利益を裏に、そっと、犬山へ誘惑の密使でもはいった場合――勝入父子に、不満、不平があるとすれば――彼とて、いつ寝返らないとも限らない。
(若いときから、
秀吉は、寝入りばなにも、そんな回想を、めぐらしていた。
人いちばい、寝つきのいい秀吉だが、その夜は、木枕につむりを当てても、なかなか寝入られなかった。
若年時代、清洲の城下で、勝三郎(勝入)や犬千代(前田)などと、飲み廻っては、夜遊びに
(当年の池田勝三郎が、いまでは自分の
こうも、考えられ、同時に、現在の状況は、まったく、
「そうだ、明朝、勝入がこれへ来るのを待つまでもなく、夜のうちに、
秀吉は、むっくり起きて、寝ずの番へ、料紙と
小姓たちが、硯箱をさがしている間に、於通は、秀吉のまえに、料紙をそろえて、
「おことわりなく、お硯を拝借しておりました。おゆるし下さいませ」
と、詫びながら、さし置いた。
「そもじも、まだ寝ずにいたか」
「はい」
「何を書いていた?」
「つたない和歌を」
「そもじ、うたを
「ほんの、
「長陣の間には、折りに、茶の会、歌の会など、やることもあるが、このたびの合戦では、まず、そんな日はありそうもない。そのうちにそっと、わしだけに見せい」
「でも、お目にかけるほどな歌は……」
於通は、はにかみながら、
小姓たちは、片すみへ寄ったまま、余り愉快でない顔つきを揃えていた。
陣中に女性を置くことは、諸将のあいだにも、ないことではない。時代の風習としても、べつに
けれど、
「よし、よし。……」
と、秀吉はやさしく、於通の墨の手をとめて、筆をとりあげ、すでに心にできている文言を、ざっと、一筆に書いた。
ご献儀 、得心 そろ。
さらに、だんがう、申すべく、未明 、いとひ無し、即刻、
一むちあて、陣所へまゐらる可 く候
於通は、そばで見ていて、秀吉の文字のヘタなのに驚いた。さらに、だんがう、申すべく、
一むちあて、陣所へまゐらる
ちくぜん
けれど、その文字の、
「おいっ」
と、小姓の中の顔を見て、
「
「はいっ」
ふたりは、あわただしく
「もう用はない、於通も、余の者も。よく寝ておけよ」
秀吉は、ふたたび、横になった。――まもなく、かれのいびきが、次室まで、きこえて来た。
飛状をうけて、池田勝入が、自身、馬をとばして来たのは、まだ夜のうちといってもよい、四
「勝入。きめたぞ」
「えッ。岡崎攻めの奇襲を、お命じくださいますか」
夜明けまえに、万端の打合わせは、二人の間に、終っていた。勝入は、秀吉の朝飯をお
あくる日も、うわべは、無風帯の大戦場だったが、底流には、微妙なうごきが、
うす曇りの、午後の空に、
「はじまるぞ」
「――総攻撃が」
「こよいか。夜明け前か」
見わたすところ、諸将の陣気も、この日、ミリミリと、殺気を天にあげていた。
いま、その西軍側の
二重堀の塁 日根野弘就 兄弟(兵、二千五百人)
田中ノ陣 堀秀政 、蒲生氏郷 、長谷川秀一 、加藤光泰 、細川忠興 など。(総数一万三千八百人)
それにたいし、東軍の徳川、北畠の聯合軍は、
(この鉄壁陣を破り得るものやある)
と、ほこっている。
まさにこれは、天下の壮観であり、当代戦国の、世のわかれ目といえる。
秀吉が勝てば、秀吉の世代。家康が勝てば、家康の世代。大きな“時の
家康は、秀吉を知る者だし、秀吉が、恐れた人間は、前には信長。いまでは、家康以外にはない。その家康の方でも、今朝からしきりに、偵察隊のうごきが見え、しかも、西軍の瀬ぶみ的な小攻撃には、
(めったに、応じるな)
と、
すると、たそがれ頃だ。青塚方面の戦闘からひき揚げて来た西軍の一支隊が、秀吉の本陣へ、道で拾ったという数枚の
秀吉が、その一枚を手にしてみると、自分の悪口が、全文に書いてある。
秀吉は天下横奪 の賊である。
秀吉は、大恩ある故主信長公の遺子、神戸 どのを、自滅させ、今また、信雄 どのへ弓をひき、常に、武門を騒がせ、庶民を禍乱 に投じ、自己の野望をとぐるために、手段をえらばぬ元兇 である。
――まだ、箇条書に、いくつも並べてある。そして、徳川どのこそ、正しい戦争名分に起った、義軍であると、誇張してあった。秀吉は、大恩ある故主信長公の遺子、
秀吉は、
「この檄文は、敵の、たれが書いたものか」
「家康の直臣、石川
「
と、うしろを
「各所に、同文の高札を掲げさせい。――石川数正の首を取りたる者には、一万石の重賞をとらすであろうと。――すぐ板にしたためて、陣々へ配れ」
こう命じた秀吉は、それでもまだ腹がいえないように、
「
と、居合わす将士をよびたてて、自身、出撃の令を出した。
「憎ッくき数正の振舞じゃ。汝らは、遊軍となって、数正の陣の前面にある味方をたすけ、夜をとおして、攻めたてい。あすも攻めい。あすの夜も、攻めに攻めて、数正めに、息つかすな」
さらに、また、
「一ノ瀬仁右衛門。
などと、屈強の者を選びよんで、同じように、手勢六百、七百とさずけては、前線へ駈け向わせた。
こうした後で、
「
と、さいそくして、夕方の食事をいそがせた。どんな時も、かれは、飯をくうことを忘れない。
飯のあいだにも、
――そして、さいごの使者が、池田勝入の報告をつたえて来たとき、
「……よし」
と、ひとりつぶやいて、飯のあとの
宵になると、小銃の音が、後方のこの本陣まで、豆をいるように遠く聞えてきた。
「怖くないか」
於通へ、いった。
於通は、笑って、
「
と、あたりまえに答えた。
「そうか、では……」
と、秀吉は眼で、近う――と彼女を膝近くへ招いて、一つの任務をさずけた。
「そもじならでは難しい使いがある。これから行ってくれぬか」
「お使いなら、いと、おやすいことです」
「いや、たやすくない使者だ。なぜならば、ゆく先は、敵国の領地――岡崎への間道にあたる徳川方の森川権右衛門の城まで行って、この
秀吉は、そのわけを、云いふくめた。
しかし、成功のあかつきに、賞として、五万石を与えるという条件は、まだ、勝入の口約だけで、秀吉の墨付は行っていない。――それを、秀吉は、ふと気がかりしたのであった。
「参りましょう」
かの女は、秀吉のことばの下に、はっきり答えた。――それには、かえって、秀吉のほうが、
「行けるか」
と、二度まで、念を押したほどである。於通は、微笑のもとに、
「はい。今からでも」
と決意を眉に示し、はや、身支度のことやら、
身なりは、百姓女に変装するのが、安全であること。道順は、山絵図に従って、なるべく、間道をえらぶこと。
そして、万一にも、敵兵に捕まったら、あくまで百姓女を
それらの注意をうけて、於通はやがて、ただ一人で、深夜の陣営から立って行った。
「見たか、皆の者」
秀吉は、そのあとで、近習や小姓たちへ云った。
「あれが男であったら、そちたちは、やがて於通の前に、上将の礼をとらねばなるまい。女子であって、倖せじゃよ」
かれの左右の若者ばらは、これは心外なり――というような顔をした。そして、明日にてもあれ、徳川勢と相撃つ日には、
小ぜりあいの銃声は、明け方から、翌日も、前線の所々で、絶えまなく響いた。
――それを口火に、いまにも、西軍秀吉の大兵が、総攻撃に転じてくるように思われた。
しかし、きのうからの、この手出しは、秀吉の“
家康をして、
いまや、その打合わせと、準備は成り、犬山城を中心に、奇襲軍は、次のように編制されていた。
第一隊 池田勝入ノ兵六千
第二隊 森武蔵守ノ兵三千
第三隊 堀 秀政ノ兵三千
第四隊 三好秀次ノ兵八千
右のうち、第二隊 森武蔵守ノ兵三千
第三隊 堀 秀政ノ兵三千
第四隊 三好秀次ノ兵八千
その夜は、四月六日(陽暦の五月十五日)――真夜半を期して、二万の将士は、犬山をはなれた。
――極秘のうちに。
旗を伏せ、
兵糧。小憩。
ふたたび行軍をつづけ、
「大留城の様子を見てこい」
と、偵察を放った。
かねて、大留城の森川権右衛門にたいしては、池田勝入から、
三蔵たち、青鷺組の者は、そこから小一里さきの、
すると、青鷺の一人が、
「やっ、今のは?」
と、道から林の中へ、
「怪しいぞ」
と、ほかの者へ注意した。
「いや、ただの百姓が、おれたちを怖れて逃げたのだ」
という者があり、また、
「いや、女らしかった」
「いや、敵兵かもしれない」
など、まちまちだったが、三蔵は、
「捕まえてみれば分る。むだでも何でも、捕まえてみろ」
と、自分も、まッ先に、林の中へとびこんだ。
あなた、こなた、鹿を狩るように追いまわした。ついに、かの女は、捕えられた。
「この百姓女めが」
「なんで逃げまわったか」
「何か、おそれるわけがあるから逃げたにちがいない。つつまず申せ」
「いわねば、裸にするぞ」
青鷺組に取りかこまれて、この女は、ぺたんと大地に坐っていた。
「おやっ……?」
三蔵が、ふいに、どなった。
星明りをすかして、じっと顔へ顔を近づけ、われを忘れて、また叫んだ。
「これや、
仲間の青鷺達は、意外な顔して、
「三蔵。おめえは、この女を、知っているのか」
「知ってるどころの沙汰じゃあねえ! この女あ、おれのいいなずけなんだ」
「えッ、いいなずけだって」
「いや、ゆく末、夫婦の約束をしたんだから、内縁の女房といったほうが分るだろう」
「ほんとかい、なるほど、
「だれが、嘘をいう!」
と、三蔵は、仲間へ、誇っていった。
「美しいのは当り前。おれのお
「ふウむ。その姫さまが、よくおめえなどと、夫婦約束などしたもんだな」
「見下げるない! こう見えても、三蔵様は、さきにも、犬山攻めのとき、大功をたて、やがては、池田家随一の出世はきまっているんだが、戦さえすめば、おれはこの
三蔵は、仲間の者を見まわして、急に、間がわるそうな顔をした。
「……すまねえが、みんな、ちょっと、遠慮していてくれねえか。俺はいいが、お姫さま育ちの於通……おめえたちが、ずらりと、見物していちゃあ、何も、口がきけねえらしい。たのむから、ほんのチョンの
「あつかましい男だぞ」
顔見あわせて、仲間の者は笑ったが、
「三蔵、おごれよ」
と、そこを離れて、しばらく遠くへ影を沈めていた。
三蔵は、いきなり、於通を抱きしめた。
「おいっ……。会いたかったよ。於通、どんなに
於通は、その手を、拒みもせず、自分の手を、さしのべもしなかった。
「……そうですか。そんなに」
「だって、そうだろうじゃねえか。おめえは、俺との約束なんか、忘れちまったのか」
「忘れやしませんが、約束の場所へ、来なかったでしょう」
「それがよ。勝入さまから、また大役をいいつけられ、お
「だから、あなたのせいでしょう。私が約束をちがえたわけではありません」
「そ、そんなことを、云い争っているわけじゃねえ。俺は、こんなにも、胸いっぱい、おめえを忘れずにいたということを分ってくれればいいんだよ。――だが、いつぞや、犬山城のお城外で、おめえが、秀吉様の
「筑前様とは、安土の頃から知っています。――あちらは、御存知なかったでしょうが、私には、初めてではない」
「なるほど、その
「お使いの帰りです」
「たれの? そして、どこへ行って?」
「筑前様のお
「あ。じゃあ、お墨付は、届いたね。――すると権右衛門から何か、秀吉様へ、
「ええ。おあずかりして参りました」
「それを、ちょっと、見せてくれないか」
「お断りいたします」
「いやに
「でも、極秘の公用です。――三蔵さんも、そのための
「ありがと」
三蔵は、安っぽく、頭を下げて、
「権右衛門の返書は見なくても、おめえがいうからには、そのことは安心した。……だが、於通、おれとおめえとの約束は、どうしてくれる」
「私との約束ですって」
「あ、あんな、白ばっくれた顔をして。そう恥かしがるこたあないよ」
三蔵の眼が、
「何するんですッ」
ぴしゃッと、やわらかい手が、つよく頬を打った。
そして、かの女の影は、もう星の下を走っていた。
どっと、仲間の青鷺が、木蔭で笑った。
――三蔵の
敵地潜行軍の池田隊、森隊、堀隊、三好隊の二万は、八日の明けがた、宿営を払って、また、前日のような南下を、極秘につづけていた。
もう徳川領だ。敵地である。
全軍の一歩一歩は、かくて家康のいない家康の本城、勇将強卒はことごとく小牧の前線へ出払って、空き家にひとしい“
しかも。
この間道のうちの一城である徳川方の大留城は、すでに勝入に誘われ、秀吉からも、五万石の墨付を見せつけられて、
「さあ、通られよ」
と、ばかり城門をひらいて、無防備を示し、城主森川権右衛門が、自身、出迎えて、道案内をする始末。
道義のすたれ、武門の
主従とも、ひえ飯や、
――が、これは潜行奇襲軍にとって、最大な手引きであり、よいさい先であった。
「やあ、権右どの。約束をたがえず、きょうのお迎え、かたじけない。事成るあかつきにはかならず、羽柴どのへ進言して、五万石をまいらせるぞ」
勝入はよろこびを満面にして、彼に云った。
「いや、昨夜すでに、お使いをもって、羽柴どののお墨付はいただいた。この上は、われらも、二心なく
権右衛門の返辞に、勝入は、秀吉の気くばりと、その実行の確実さに、驚いた。
「して、御進路は?」
「山絵図によれば、これより岡崎への
「さればです。一道は、
勝入は、
軍団は、三縦隊にわかれ、
ここにまた、一城がある。
徳川の
「捨ててゆけ、捨ててゆけ。こんな、とるにも足らぬ小城に、道草すな」
勝入も武蔵守も、眼の中のゴミほどにもせず、横に見て、通りかけた。
しかし、城中からは、バリバリ撃ちあびせてきた。その一発の弾は、勝入の馬の横腹に
馬は、いなないて、
「ちえッ、
と、勝入は、怒りをこめたムチをあげて、第一隊の将士へ、
「あの小城、踏みつぶせ」
ふたりの部将が、それぞれ約千人ほどの部下をひきいて、城へ突進した。こういう意力と、心理の兵のまえには、
いわんや、城は
またたくまに、石垣をよじられ、堀をやぶられ、
ただひとり……。
これは、この急を、小牧山の家康へ知らせるため、血路をひらいて、西方へ逃げた一将がある。
氏重の弟、
この短時間の戦闘中。
森武蔵守の第二隊は――第一隊との間に、かなりの距離をおいているので、
兵たちは、飯をくいながら、
「何だろう? あの煙は」
と、ながめていたが、すぐ前隊との伝令で、岩崎城の
それにならって、第三隊もやはり一定の距離をおいて、
春は行き、夏は近い。山間の昼。空の
――それより二日前。
四月六日の、夕刻である。
「お訴えな申しまする。どえらいことなござりますで」
と、小牧山の本営へ、駈けこんで来た。
家康は、いまし方、
秀吉より六ツ年下の、ことし四十三歳という男ざかりの武将。こんな、やわらかそうな肥肉と色の小白い皮膚をもった好人物が、胸に百計を蔵し、ひとみに大兵を
「たれじゃ。なに、……直政か。はいれ、はいれ」
論語をとじて、家康は、ずしりと
二人の百姓は、篠木村三十六人の代表だといった。そして、今夕、秀吉の軍隊が、犬山から間道を
「よく告げに来た」
家康は、ねぎらって、
「当座の
と、銀銭
ところが、また、半刻もたつと、青塚方面から帰って来た
「
と、報じた。
同じ諜者組の
「敵に、
として、篠木村の百姓代表の密告を、裏づけた。
「――今は」
と、家康も、
岡崎を
「
かれは、あわてない。
すぐ呼ばれて来た、酒井、本多、石川の三将に、
「小牧の留守をせよ」
と、命令し、のこりの全軍をあげて、西軍の“追い撃ち”を決意した。
その頃また、
善九郎をつれて、信雄が、家康をたずねて来た頃は、すでに家康は、夜を徹して、追い撃ちの作成と、編制と、進路の協議などに、諸将と、首をあつめていたところだった。
「信雄どのも、参られよ。この追撃戦こそ、主力戦となり申そう。主力のある所、おん身がおわさでは、このたびの合戦の意義はなくなる」
家康のことばに、
「もとよりのこと」
と、信雄もすすんで、
追跡隊は本隊と支隊にわかれ、総兵一万五千九百。水野忠重の四千余が、
その八日の夜。
すでに、家康、信雄の本隊は、もう小牧にいなかった。
敵の潜行軍――森武蔵、堀秀政らの隊は、その夜、そこから約二里ほどの地点――
あやういかな。潜行軍は、すでに潜行の意味を失っていた。奇計の功をいそぐの余り、徳川方に察知されて、あとを
夜半ごろ。――まだ八日のうちである。
家康は、
「あすは、
と、ここで、初めて、甲冑を身に着けた。
土地の郷士、
味方の小幡城は、もう程近い距離だった。
先鋒の水野隊は、ひと足さきに城へついて、夜どおし、
まもなく、家康の主力も、ここに着き、すぐ軍議をひらいた。
水野
「敵は、二万余り、お味方は一万四千。かれの優勢に、正攻を取るのは不利とおもわれます。――一応、やり過ごして、敵の
家康は、うなずいて、
「うしろから、
と、決意を告げた。
たれにも、異議はない。
九日の
刻々と、昼も夜も、三河路を南へさして、大きく、迅く、しかも強力な破壊力をもって流れつつある――西軍潜行隊の尾端をとらえて――追跡するためにであった。
追跡隊は、右翼、左翼にわかれ、右の千八百人は、
田水や小川の
「おっ、あれだっ……」
「伏せい。身を伏せい」
田に、草むらに、木かげに、
彼方の
ただ、目ざす岡崎を、功名心にえがき、
「ひそかに」
「静かに」
あらゆる行動と、意志の集中をも、目顔でしめしあいながら、追跡隊は、左右両翼にわかれて敵の最後尾隊――つまり池田勝入を先鋒とする潜行軍の第四隊――三好秀次のうしろから、ひそかに尾行していたのであった。
これが九日朝の、両軍の“運命のかたち”だった。しかも、秀吉から選ばれて、この大事に
秀吉は、伊勢の滝川攻めにも、
(よくやった)
と、眼をほそめて
で、秀吉は、こんどの三河侵入軍にも、
しかし、秀次は、年まだ十七の
(
と、旗本の内へ加えてやった。
九日の朝。
夜来の行軍のつかれもあり、陽もうらうらと朝を告げて、全軍、ようやく
「止まれ――」
を令し、
「兵糧をとけ」
と命じて、将は将と、兵は兵と、思い思い、脚を休めながら、朝飯にかかっていた。
所は。――白山林。
小さな丘の上に、白山神社があり、附近には、
秀次は、岡の小高い所に、
「助右。水はないか。わしの竹筒の水は、もうない。……よう
と、侍者の竹筒まで取って、ごくごく飲みほしていた。
「行軍中、あまり水を飲むのは、よくありません。すこし
木下
だが秀次は、顔を向けなかった。秀吉から特に付けられたこの二人は何となく目の上のこぶだった。十七歳の総大将は、当然、気負いぬいていたからである。
「ア、誰だっ。駈けて来るのは――」
「おう、
「山城は、何しに来たか?」
秀次は、眉をひそめて伸び上がった。槍組の部将、穂富山城守は、そこへ来て、ひざまずいても、息を切っていた。
「孫七様。異変です」
「異変? ……なんだ、異変とは」
「もすこし、岡の上まで、お登りください」
秀次は、彼について、駈け上った。そういうことには、
「あれ。あの土けむりを、ごらん遊ばせ。――まだ遠くではありますが、
「ウム。……
「お覚悟がいりますぞ」
「敵か」
「そうとしか思えませぬ」
「……待て。敵だろうか。ほんとに」
秀次は、まだ、のん気だった。――よもや、とばかり考えるらしい。
だが木下勘解由、木下助右、山田平市郎、谷平助、芳野宮内などの旗本が、つづいて、駈け登って来るやいな、
「しまッた」
と、さけび合い、
「敵には、追いがかりの計があったと
と、秀次の命を待ちきれずに、どよめき合った。
地鳴り、馬のいななき、将士の声々。
それが、草ほこりを立てて、一瞬に、兵糧時間の休息から戦うべき
「
と、秀次隊のまん中へ、小銃と弓の一せい乱射を加え、
「よしっ、突っこめ」
敵の乱れをのぞんで、騎馬、槍隊が、どっと駈けこんだ。
これは右翼隊。――さらに左翼隊の
荷駄隊には、足軽、軍夫、そして厄介物の重荷をつけた馬ばかりが多い。
「いまは」
と、まなじりを
「
と、この合戦第一のてがら名乗りを、蔵人にあげさせてしまった。
秀次の中堅隊に、部将
「うしろも、敵。前方にも敵――」
いずれへ、援軍したものかと迷ったが、
「
と、秀次の援護にいそいだが、徳川の
「やらじ!」
「蹴ちらせ」
の烈しい
しかし、どこよりも強く圧迫をうけたのは、当然、秀次の本隊と、殊に、かれを守るその旗本陣だった。
「
「ここ退くな」
秀次の身をつつむ叫びは、すでに、かれの一命を守れ守ろうとする狂声だけであった。
そこ、ここの、林のあいだ、草原の起伏のあいだ。
秀次も二、三ヵ所、かすり傷を負い、槍をもって、働いていたが、
「まだ、おいでかっ」
「早く、お退きあれ、お落ちあれっ」
と、味方の旗本は、かれの姿を見ると、叱るように云っては、討死していた。
「さ。これに召して、
と、自分の馬を、かれに与え、そしてかれ自身は、旗さし物を地に立てて、敵勢の中へ斬りこんで死んだ。
秀次は馬に、手をかけたが、その馬も、秀次が乗らないうちに、
そのそばで、木下
「おういっ。その馬を貸せ」
秀次は、乱軍の中を、夢中で逃げのびながら、すぐわきを駈けてゆく味方の騎馬武者を見つけ、こう声をかけた。
呼びとめられた騎馬武者は――三好家の家臣、
がきっと、
「若殿。何事です?」
「才蔵。馬を貸せ」
「雨降りに傘。――貸せません。いかに主君のおことばでも」
「なぜ、貸さぬ」
「あなたは
ニベもなく断って、才蔵は駈け去ってしまった。その背に、一枚の笹が、風に鳴っていた。
「……ちぇッ」
と、秀次は、才蔵の目に、路傍の笹ッ葉ほども見られなかった
うしろを見る。敵の土けむりだ。――が、槍、銃、太刀、ごっちゃにした
「殿、殿。そちらへ走っては、さらにべつな敵に会いますぞっ」
呼びとめて、近より、彼のからだを、引っかつぐように包んで、
途中で、放れ馬をひろい、やっと秀次をそれに乗せ、
こうして、
第三隊は、軍監の
第一から第四までの、隊と隊とのあいだは、およそ一里か一里半ぐらいな距離をもっていた。
その間、たえず使番が連絡しているので、一隊が休息すれば、当然、次々に、各隊も行軍を停止する。
久太郎秀政は、ふと、
「鉄砲だな?」
と、遠くへ、耳をすました。
ところへ、秀次の臣、田中久兵衛が、馬をとばして、休息中の陣へ、のめり込んで来た。
「味方、総やぶれだッ。本軍はあとかたもなく、徳川勢に駈けちらされた。秀次様のお身もこころもとない。すぐ、取って返されい」
と、血まなこで、わめいた。
久太郎は、
「久兵衛。おぬしは使番かの」
「この場合、何を問わるる」
「使番でもない
「いや、知らせに来たのだ。
秀次の番頭田中久兵衛は、そう云い捨てて、さらに一里――また一里先の味方へ――ムチをあげて消え去った。
「使番が来るべきに、番頭の久兵衛が来るなど、察するところ、後方の味方は、はやらちもない総敗軍をとげたものとみえる。――ああ!」
堀久太郎は、こみあげる気ぜわしさと、心の動揺を、じっと抑えて、しばらくは、床几を立ちもしなかった。
「みな前へ来い」
もう事態を知って、面色を土のようにしている旗本、部将を、そこに集めて、
「やがて、いとまもなく、勝ちほこった徳川勢が、ここをも踏み
配置をいい渡し、そして、
「敵の騎馬武者ひとりを
と、約した。
かれの予想は
水野
「あやういぞ。
「何とて、ひとに」
と、口惜しがった。そして忠重の号令も行われず、全部隊は、怒濤の
「撃てッ」
と、
そのため、交互射撃の方法をとるので、一斉射撃となると、やはり弾音はつるべ撃ちに敵へ浴びせかかる。
強襲の兵馬は、そのまえにバタバタ仆れた。弾けむりの間にも、その
「備えがあった」
「――退けや。とどまれっ」
と、味方は味方へわめいたが、怒濤は急にとどまるものではない。
久太郎秀政は、今ぞッと、ふたたび
せっかく勝ちかがやいた本多、榊原、水野、大須賀などの諸隊も、たった今、秀次に加えたものを、自分たちの上に受けた。堀の槍隊といっては、羽柴家のうちでも、精鋭をもって鳴ったものだ。その槍さきにかけられた
水野
そこはすでに一場の
逃げ足は、逃げ足をさそい、果てしなく逃げくずれる。――この徳川勢を追いに追いまくしつつ、堀秀政は、
「うしろの隊は、おれにつくな。
と、頭の働きも失わなかった。
一隊は、わかれて道をかえ、秀政は、
ついに、一方が一方の首を
「取ッたあッ」
狂気したような大口をあいて、主隊の戦友のあとを追いかけてゆき、ふたたび黒い血けむりの中に姿を没するもあれば、追いつかぬうちに、流弾に
「やっ長追い無用ッ――。源左、源左、
何思ったか、秀政は、にわかに声をからして叫ぶ。
侍頭の
「退けや」
「御馬じるしの下にあつまれっ」
「出るな。もどれッ」
馬を駈けまわして、からくも味方の兵を収めた。
秀政は、馬を下り、道から崖の鼻へ歩いていた。そこに立つと、視界をさえぎるものがない。
じっと、遠くを見、
「ああ。早くも来たか」
と、つぶやいた。満面の血色を、
ここから西――
家康の陣標――
堀久太郎秀政は、嘆声をあげた。
「残念ながら、あの大敵と出会っては、われら如きに策はない。もう、この場のことは終った」
かれは、さきの
そこへ、長久手の方から、味方の第一、第二隊の使番四、五騎が、一しょになって秀政を探し求めて来た。いうまでもなく、第一隊の池田勝入、第二隊の
「お引き返し下さい。そして、お味方の
「いやだ。もどらん」
堀秀政は、ニベもなく、断わった。
池田、森の使番は、自分の耳を疑って、
「合戦はこれからですぞ。即刻、御加勢のため、お引っ返しねがいたい」
と、声を大にして、云い直してみた。
すると久太郎秀政も、なお大きな声をして、
「もどらんといったら、もどらんっ。――われらは、秀次様の
云い払って、そのまま馬を急がせてしまった。
この堀隊は、稲葉附近で、さきに四散した秀次隊の残兵に会い、また秀次その人をも、隊のなかへ拾い取った。そして
怒ったのは、池田、森の二隊から、協力を求めに来た数騎の使番たちである。
「この
「臆病風にふかれたにちがいない」
「堀久太郎も、きょうはみずから、化けの皮をあらわしおった。――生きて帰らば、きっと、笑ってやるぞ」
かれらは、使いの首尾が果せなかった
さても、池田勝入
人のちがい、
これは、どうにもならない。
秀吉と家康との、こんどの会戦は、まさに天下の横綱
事ここに到るまでにも、家康と秀吉とは、いつかは、今日あることを知っていたし、今日になっては、なおさら容易に、けれん
あわれむべし、
――池田勝入は、一路、三州岡崎をさして、敵地行を決して来ながら、その目的地からは横道の――岩崎城へ攻めかかり、朝めし前に、小城一つを踏みつぶした快にひたりきって、
「かちどき!」
と、武者声を命じ、
「三州入りの、
と、
それが、その朝の
かれはまだ、後方の変を、夢にも知らなかった。目前に、
首実検や、軍功帳への記入を終ってから、ここでは朝めしの兵糧だった。
兵たちが、口をうごかしながら、時折、西北の空を見ているのが、ふと、勝入も気になった。
「丹後、何じゃろ、あの空いろは……」
「
「一揆。おかしいな」
「左様?」
――でもまだ、残りの弁当を、喰べていると、丘のふもとで、騒然と、何か、わめきが聞える。
はて。――と、いぶかるまもなく、森武蔵の使番、
「不覚なござりますぞッ。――
と、どなって、床几のまえへ、仆れるように、平伏した。
さッ――と、鉄かぶとをも吹きぬけるような冷感が、勝入以下、周囲の武者たちの頭をかすめた。
「兵庫。
「秀次様の第四隊へ、夜来、追いしたって来たらしき敵勢が」
「や。うしろへか」
「ふいに、しかも
「ちいッ。ぬかったか」
勝入が、突ッ立ったときである。さらに、聟の武蔵守から、第二報の使番が来た。
「――
物々しい
その渦が、陣列をなさないうちに、さきに堀久太郎へ伝令して、久太郎秀政から、使番でもない者が何しに来た――といわれて去った田中久兵衛吉政が、
「一大事一大事」
と、告げ渡って、ここへも飛んで来た。
かれの報は、より詳細だ。しかもみじめにまで
「武蔵守にも告げたか」
「もとよりです。森どのには、即座に、
「
「にんまり、御一笑なされて――さらば家康にきょうは
久兵衛からこう聞くと、
「さもこそ」
と勝入も、にことして、
かれは、子息の
覚悟を――たしかめさせる以外のことばではなかったろう。
やがて、
途中。かれもまた見た。
ふじヶ根山の山かげから、さんとして、ゆれ現われた徳川軍の上なる
それは何か“
馬上、それを
かれは、徳川勢の
「不足のないあいて」
かれは何度も云った。
「――羽黒の不覚、そそぐも今日、おれのみならず、
左右の旗本に、そんな述懐も、もらした。かれが抜け駈けの功を
きょうを
美男であり、勝入の姫とのあいだには、ほのかな恋のうわさまで立って
けれど、美男のかれを、鬼とよぶ、いわれは世間になく、かれ自身の性情のうちにあるにちがいない。
「おお、兵庫か。――
六坊山からすぐ取って返して来た使番の加賀見兵庫は、主人の鞍わきへ、馬をよせ、歩をそろえつつ、復命した。
「そうか。そうか」
と、武蔵守は、耳だけで聞きとりながら、手綱を打たせて、
「して、六坊山の御人数は」
「すぐ隊伍を立て直され、
「さらば。第三隊の堀久太郎どのへ、われらは、かくかくに軍勢をまとめ、家康のふじヶ根山へ立ち向えば、堀どのにも、引っ返して、助勢あれと、申して来い」
「はっ。ごめん――」
と、前を駆け抜けて、軍より先へ出たとき、池田隊の使番二騎も、勝入から同じむねをうけて、堀隊の所在へいそいだ。
だが、この要求が、堀秀政の
「秀政の云い分には……」
と、使番の復命を、森武蔵守がうけとったのは、すでに彼の隊が、
金扇の馬じるし、また無数の旗さしもの。その敵は目の前の高地に近々とあった。武蔵守は、他に何の感情もうごかしてはいられなかった。
岐阜ヶ嶽――これへ三千の兵を上げて、森武蔵守長可は、ひとまず後続軍の、池田勝入が到着するのを、
「待とう」
と、きめた。
が、大敵は、わずかな低地をへだてて、目前の山に、布陣、しずかにこっちを見ている。
武蔵守も、老臣の林道休や
複雑な地相である。
ここに立てば遠く
だが、視野の半ば以上は、山である。
「見えた」
「おっ。着いた」
兵のうえを、歓呼に似たどよめきが走る。武蔵守は、勝入の顔を心にえがいた。
かれも、それの望まれる位置へ足をうつした。
その幾だん、幾組にもわかれた縦隊は、やがて、こうべ
(われらは来たぞ)
と呼びかけるような、軍の表情を、ざわめかせていた。
使番と、使番とが、矢つぎばやに、
勝入の六千の兵は、ただちに二分された。
約四千は、そこを離れて、こおろぎ
陣の主将を示す、旗、馬じるしなどを望めば、それは勝入の長男紀伊守之助と、次男
これを右翼に。森武蔵守の岐阜ヶ嶽三千の兵を左翼に。――そして勝入は、のこる二千人を
「敵家康は、どう出るか」
と、大きな口をむすんでいた。
陽を仰ぐと、まだ
くちが
ふと、山間の無気味なしじまが、肌をしめつける。ひよどりか何か、ただ一羽、けたたましく啼いて谷をよぎる。しかしそれきりだ。鳥類はみな地を人間にゆずって他の平和な山へことごとく移動していた。かれらには、この壮大豪華をきわめての人間の演舞が、何のためにやるのか、不可解にちがいない。
家康は、すこし猫背ぎみに見える。四十をすぎてからまた肥りかげんで、よろいをつけても、背がまろく、両肩をむっくりと、くわ形の
いや、この体ぐせは、平常、客と対坐しても、歩くときでも、そうなのである。
老臣が、何かの折、それとなく注意した。すると家康は、その時は、そうかそうかとうなずいていたが、べつな日、左右の人々との夜ばなしに、こんな述懐をもらしていた。
(何せい、わしは貧乏そだち。また、六歳の幼少より、他家へ人質にとられ、目に見るまわりの人間は、みな自分より
かれの今川家時代。
家康は、みずから、その頃のことを忘れまいとしているらしく、かれの人質ばなしは、徳川家の側臣で、聞いていない者はない。
(じゃが、のう)
かれはなお語った。
(――臨済寺の
以来、たれもかれの姿勢について、いう者はなかった。ところが、家康も四十をこえ、また貧乏名物の三河がふくれて、次第に、東海の
今も。
ふじヶ根山の一端に、かれはその姿をおき、さっきから静かな目をして、見まわしていた。
「ほ。
かれの令に、敵前偵察の死地をさして、わらわらと、駈け争ってゆく勇士が、幾人となく眼の下の坂に見えた。
まもなく、物見の者は、次々と立ち帰って来て、家康に復命した。
もとより、各個のもたらしてくる敵状は、部分部分の情況でしかない。
家康の耳ぶくろは、それを綜合して、あたまに、戦闘をえがいていた。
「
「いかがいたしたか、まだ戻りませぬ」
旗本の面々も、さっきからその
戦機は、熟しきっている。いつ敵から火ぶたを切るか、味方がうごくか、寸前がわからない。
当然――敵前偵察に行った者たちも、つばめ返しに、帰って来ているのに、若い菅沼藤蔵ひとりが、行ったきりだった。
「捕われたか。打たれたか」
かれを惜しむ思いが人々の眉をかすめる。
藤蔵は、日ごろ小姓組に籍をおいていたが、小牧出陣以来、物見組へはいっていた。
先ごろ、また小牧の
「……おや、あれは藤蔵ではないか。そうだ、菅沼藤蔵だ。あんなことをしておる」
山鼻に立った諸将が指さしあって眺めている。家康も、遠くに、かれの影をみとめた。
かれは、騎馬だった。
その馬を、かれは降りている。
地点は、森武蔵
「悠長なやつ」
と、ふじヶ根の味方には、あきれ顔もあったが、
「いや、馬の脚を冷やしているところを見ると、よほど、あなたこなた、湿地、山坂をかまわず、駈け飛ばした
と、その大胆さに、感嘆する者もある。
池は、敵の目の下だ。バシッ、バシッと、魚のはねるような白い飛沫が立つのは、その敵が、かれを
すむと、それで一息やすめたとみえ、すぐ馬の背に返って、駈け出した。しかし味方のほうへではない。いよいよ深い敵地の中へ。
折ふし、勝入の子息紀伊守が、六千の兵をもって、
偵察は密なるものときまっているが、この時のかれは、公々然と、敵の左翼陣の前を駈けぬけ、さらにまた、右翼の陣容をグルグル見てまわった。
もとより田ノ尻の池田勢も、気がついていたものの、
「オヤ、変なやつが通る」
「何だろ。あいつ」
「敵じゃないか」
「敵かしら。ただひとりで」
「何か、使いか?」
まさか物見とはたれも思わなかった。藤蔵が自軍のふじヶ根山へさして
やがて、菅沼藤蔵が、無事にふじヶ根山の味方の中へもどって来ると、全山の将士は、わーっと、歓呼して、かれを迎えた。
家康も、将座から立ち上がって、かれの復命を待っていた。
「しかと、敵の布陣のうらおもて、見さだめて参りました」
藤蔵はその前にひざまずいて、田ノ尻、岐阜ヶ嶽、こうべ
その部将は、誰々。
鉄砲隊はどこに多く、槍隊はどこに
見えない遊軍の有り無し。また士気の如何。――そして、敵の
藤蔵の復命は、微に入り、細にわたっていた。
「ウム、そうか。左様か」
家康も、いちいち
「藤蔵の物見は、きょうの会戦のさい先に、一番首にも、まさる働きぞ。大儀大儀」
褒め惜しみのつよい家康が、こんなに褒めたことは、めったにない。
藤蔵は、面目をほどこしたが、ほかの将士は、いささか
(なんの、あれしきの働き)
と、燃ゆるがごとき闘志の
時刻は、この頃、すでに
けれど、家康は、なおおっとりしたもので、
「四郎左。半十郎。これへすすめ」
と、まだ
「はっ」
と、よろいを響かせて、そばへ寄る。
家康は、手の地形図と、現場の附近とを、見くらべながら、
「思うに、こうべ
と、ふたりの意見を求めた。
四郎左衛門は、そこから東南の峰をさして、
「つば
と、答えた。
「ウム。移せ」
決断は、実に早い。
ただちに陣替えが、行われた。すなわち、北畠信雄の軍を仏ヶ根に。家康自身は、前山へと、移ったのである。
ここに立てば、敵の高地とは、まったく、眉を接した近距離にあり、あいだの仏ヶ根池、からす狭間の低地をへだてて、敵の顔も見え、はなし声まで、風に乗って、相互に聞えそうだった。
たれは、あの山鼻に。
たれの手勢は、崖下に。
また、誰々は、坂の両わきに、兵を
沢には、なにがしが行け。
鉄砲隊は、やや高目の地に。槍隊は、駈け出しのよい地勢に着け――などと、持ち場持ち場の配置も、のこらず云い渡される。
家康も、見とおしのよい、前山の一角に、将座をすえた。
すると、
「お馬じるしが高い。――お馬じるしは、もっと木蔭に立てられい」
と、遠くから注意した。
高地と高地との近接戦に、あまりにも、れいれいと、総大将ここにありと、馬じるしをかかげては、鉄砲の集中をわれから求めることになる。
家康も、微笑して、
「しばし、伏せい」
と、小姓へいった。
「おう、きょうは井伊が
「
「眼にこそ、あざやか。だが、働きはどうだろう」
敵も、味方も、そういった。
部将の兵部直政。ことし二十四歳。家康が秘蔵の若者とはたれも知るところ。
つい、今朝までは、旗本のうちに、
「きょうこそ、思いのまま、そちの
といって、手勢三千人をさずけ、きょうの、最名誉であり、また最苦難でもある、先鋒に立たせたのであった。
しかし、何分、若いので、
「老巧の言も聞けよ」
と
田ノ尻にある池田紀伊守と三左衛門輝政の兄弟は、その南高地から、赤備えをながめて、
「あの強がッておる赤隊の出鼻をたたけ」
と、山あいの側面から二、三百の一群と、真正面から約一千の正攻隊を押し出して、まず、ドドドッと、鉄砲の火ぶたを切った。
仏ヶ根山も、前山も、それと同時に、
その硝煙が、うすい
およそ、武者合戦の、壮絶さは、槍と槍とのたたかいに尽きる。
また、これによって、くずれ立つか、押しきるか、大勢の勝負もわかれる。
井伊隊はここで二、三百の敵を仆した。もちろん、赤武者たちも、無傷ではない。直政の身内の惜しい者も何人となく、討死した。
池田勝入は、さっきから、一作戦を案じていた。
田ノ尻にあるわが子紀伊守と輝政の軍勢が、井伊の赤備えと接戦して、ようやくそこの戦況が激化してゆくのを見て、
「清兵衛、機会だぞ」
と、うしろへ、声を放った。
前もって、約二百の決死組が、槍をそろえて、待機していた。行けっ――と清兵衛からいわれるや否やその一組は、
勝入の戦法は、こんなときにも、奇手をえらぶ、奇道をこのむ。
かれの性格といえよう。
この一群の奇兵は、かれの策をうけて、長久手を
ところが、それは、成功しなかった。――途中、徳川勢に発見され、弾丸の集中をうけて、足もとのわるい湿地で立ち往生してしまい、
また一方。――森武蔵守は、岐阜ヶ嶽から、この戦況を見て、
「ああ、ちと早いぞ。なんと、常にも似げなく、
と、舌打ちならして、
義父の
武蔵守は、きょうを死ぬ日と心中にきめていた。また、多くを見ず、思わず、ただ正面の前山にある金扇の将座だけを、じっと見ていた。
(家康だに打てば――)
という気なのである。
家康もまた、
(森武蔵の
と、岐阜ヶ嶽を、どこよりも、監視していた。
そして、物見の者から、森武蔵守のきょうのいでたち振りを聞いて、
(さては、死装束の用意とみゆる。死を決した敵ほどこわいものはない。あなどッて、死神につれ込まるるな)
と、左右の者へも、
だから、ここの一点の対陣だけは、どっちからも、容易に手出しをしなかった。
武蔵守は、こころに、
(田ノ尻の戦況が烈しくなれば、かならず家康は、坐視していられまい。兵をさいて、加勢を送るだろう。――その潮こそ、討ちこみどころ)
と、相手のうごきを見ているし、家康もまた、
(
と、容易に、その手はくわないのである。
が――田ノ尻のもようは、武蔵守の期待をうら切って、かえって、池田兄弟たちの敗色が濃い。
(いまは)
と、かれも、待ちしびれを思い断ッた。ところが、そのとき家康のある前山の一端に、今まで、見えずにあった金扇の
森隊も、どっと駈け合わせた。からす
銃声は、たえまもない。
山と山とに
すでに、この狭間いったいの地は、戦わざる一陣なく、戦わざる一将も一兵もいない。
そして。
勝つと見えれば崩れ、敗れたかと見れば突出し、いずれの旗色がよいのやら、ややしばらくは
この中に、ある者は討死し、ある者は
妻、親、子ども、愛人、まだ生れない腹の子までの――一個につながる無数の運命も――かかるあいだに、次へ約束づけられている。
ふしぎな、人間の行為。人間が、穴に相寄り、部落をつくり、社会のかたちを持ってから、ついに、その
この中に、戦国の武者ばらは、いかに生き、いかによくこの宿業を果たさんや――とあわれにも、生命を奪いあうのであった。名を美しく、いさぎよく、そして、犬死にならぬ人間の死を、せめては、忠とよび、義とよび、信とよぶ、当時の道義にむすびつけて、仆るるも、頬に微笑を持とうと、
若き鬼武蔵――
かれの若い生命こそ、戦国の苦悶の象徴だった。
この一つが、かれをして、ふたたび平常の世間へ、生きて還ることを、思わせないのである。
それと、男の中の嫉妬。これもかれに、きょうの
「家康に会わん」
かれは、誓っていた。
いよいよ乱軍となるや、武蔵守は、
「家康に会おう。家康、
と、向うの山へ、駈け渡そうとした。
「やるな、やるなっ」
「鬼武蔵を」
「あの白地陣羽織の
と、かれをさえぎる、甲冑の浪が、そのそばへ、寄っては蹴ちらされ、寄っては、血けむりにつつまれ、
このとき、
「ううむッ」
馬上、身を
鬼武蔵の乗っていた日頃の愛馬――
わッと、泣き声に似た味方のおどろきが、すぐ、武蔵守のそばへ駈けより、死骸を肩や手に
徳川家の
「首をッ」
と、追いしたって来たが、
「くそッ」
主を失って、泣きベソを
けれど、鬼武蔵討たれたり――という声は、全戦場に、一陣の冷風をつたえ、ほかの戦局の不利とともに、たちまち、池田勢のうえに、急転直下の変化をおこした。
ちょうど、
「いいがいのなき味方どもよ」
勝入は、
「勝入は、これにあるぞ。みにくい退きかたをするなッ。日頃をわすれたか。返せッ返せッ」
しかし、かれの左右にいた
「お馬を召しませ。大殿、お馬を召しませ」
と、迷い馬を、曳いて来て、懸命に主人にすすめていた。
勝入は、坂下のたたかいに、馬を鉄砲で撃たれ、いちど落馬して、敵兵にかこまれたが、必死に、斬りひらいて、ここまで登って来たのである。
「もう、馬はいらぬ。――
「はいッ、これへ」
小姓は、かれのうしろへ、床几をすえた。勝入は、腰をおろして、
「四十九年の事、いま終る……」
と、ひとりつぶやき、まだ年少の小姓をながめて、
「そちは、
と、泣き顔になるのを、追いやって、いまはかえって、ただ一人こそ、心やすしと、悠然、最後のこの世の景色を、うち眺めていた。
と、すぐ崖下に、
勝入の
がさッと、眼のまえの、灌木がゆれた。
「だれだッ」
と、勝入の眼が、くわっと射て――。
「それへ参ったは、敵ではないか」
と、よびかけた。
余りに、落着き払った声と、そこの姿に、近づきかけた徳川方の一武者は、思わず、ギクとして後ずさった。
勝入は、なお叫んで、
「――敵ではないか。敵ならば、わが首を取って、功名にするがいい。かくいう者は、池田勝入であるぞ」
と、
灌木の茂みの中に身を伏せた武者は勝入の姿をふり仰いで、身ぶるいした。そして、
「おうッ、よいお人と出会い申したり。徳川家の
と、槍をつけた。
当然、それと共に、音に聞く猛将の陣刀が、さつ然と、反撥を見せるものとばかり思っていたところ、伝八郎の槍は、そのまま、何の苦もなく、相手のわき腹へ深く通ったので、
「あッ」
と、刺された勝入よりは、かえって、伝八郎の方が、力を余して、前へよろけた。
「首を打て」
もいちど、彼はどなった。
しかもついに、そうなるまで、かれは太刀に手をかけずにいた。
みずから死を迎え、みずから首をさずけたのである。
伝八郎は、
「おうッ」
と、かれは吠えたが、――そして望外な大てがらに、われを忘れるほど歓喜したが、次に、くだすべき手を、わすれていた。
すると、崖の下から、ガサガサと、先をあらそって駈け登って来たかれの味方たちが、
「安藤彦兵衛ッ、見参」
「上村伝右衛門、これに」
「あッ、勝入か。徳川家の
と、名乗りかけ、名乗りかけて、一個の首を、あばき合った。
首は、たれの手にかけられたか、とにかく、まっ赤な手が、もとどりをつかんで、ふり廻しながら、
「大将、
「安藤彦兵衛、打ったりッ」
「上村伝右衛門ッ、勝入の首を打ッた――ッ」
血のあらし、声のあらし、功名慾の自我のあらし。――四人、五人、もっと多くになった一かたまりの武者が、一個の首を中心に、自陣の家康のいる方へ向って、まるで一陣のはやて雲みたいに駈けて行った。
勝入討死――の声は波になって、あなたの峰、こなたの沢、全戦場の徳川勢に、わあっと、歓呼をあげさせた。
声なき人々は、みな池田勢の打ちもらされた人々だった。
かれらは、瞬間に、大地と大空を失って、その生命を託す所を、枯葉のようにさがしまわった。
「ひとりも、生かして返すな」
「追えや、追えや」
勝者は、あくなき勢いを
勝入も果て、鬼武蔵も討死し、のこる田ノ尻方面の一陣地も、いまは、あとかたなく、徳川勢に駈け散らされていた。
そこは、勝入の子の
「三左。何としたことだろう?」
「兄上。お
「ばかをいえ。勝入の子ともある者が」
「でも、この敗色が立っては、もはや、味方の逃げ足を止めるすべはありません」
ふたりは、あたりを見まわして、
兄弟のまわりには、
「
と、兄弟おもいの
だが、乱軍の中、たれも、知る者はなく、その安否も聞かないうち、またも一群の敵の騎馬兵が、
「お
旗本たちは、槍ぶすまを作って、防ぎに当ったが、勝ちほこっている精鋭の騎馬隊にたいし、若い主将ふたりの一命を
片桐与三郎、千田主水など、あっというまに、枕をならべて仆れ、岩越次郎左衛門や秋田加兵衛も、たたかいたたかい、血けむりの
紀伊守
「兵七。弟は」
「三左様も、血路をひらいて、遠くへ、お立ち
「いや、わしはなお、父上の
かれはもう一軍の将であるよりも、ひとりの人の子だった。兵七郎の止めるもきかず、また引っ返して、父の陣地の山へ、登って行った。
ちょうどその時、勝入の首を上げた一群の味方とわかれて、ひとり降りてきた徳川家の安藤彦兵衛と、ばったり出会った。
道は急な山腹であった。
おうっと、上から叫び、おうっと下からも叫んだ。相見たとたんに、こう二人の槍は、からみ合って、すさまじい一
彦兵衛は、
「紀伊守を討ったる者、安藤彦兵衛直次ッ」
と、躍るがごとく、駈け去った。
一方、兄にわかれた三左衛門輝政も、
「父上の安否も知れぬうちに、戦場を退けようか。父上は? 兄上は?」
と、
「いや大殿には、矢田川の方へ、はやお立ちのきです。そのお姿を、道雲も、お見かけ申してござる」
と、時にとっての機智で、こう止めたので、輝政も、
「父上が御無事ならば」
と、ついに駒を
――もう、負けいくさ。
と、闘志を失った池田の士卒は、三々五々、田のあぜ、山の小道、林や湿地のあいだなど、道をえらばず、
その中に、勝入の側臣、池田丹後守もまじっていた。これは
すると、あとから、
「池田丹後よな。丹後、返せッ」
と、ただ一騎で、田の道を、追いしたって来た徳川家の荒武者がある。
大久保七郎右衛門の息子――
「しまった」
と、あせるところへ、また、うしろから退いて来た池田方の一武者が、新十郎のよろいの
槍は、わずかに、皮膚をかすって
ざッと、泥水が、かれの全姿へも、敵の顔へも、
「おい、小せがれ。汝のような乳くさい青武者の首をとっても荷物になるだけのことだ。首の代りに、逃げるに欲しいこの馬をもらってまいるぞ。――いつか、この馬で、おれがまた戦場へ出たら、取り返すがいい」
と、新十郎の馬へ飛び乗り、ふりむいて、また一笑を与えたまま、さっそうと、駈け去った。
新十郎は、
「いまいましいやつ」
かれは、槍を拾って、歩いて帰った。そして後に、家康の
「そちは、敵に馬を取られたと嘆くが、槍も武者には大事な道具。
と、家康も大いに笑ってなぐさめたという。
家康の金扇陣の下には、手柄をみやげに、追々と、ひき揚げてくる諸将がたえなかった。
その中の一人、水野
「おう、めでたく、帰られたか。さっき、泥田へ落馬されたときは、あわれ、よい若者をひとり徳川家から
と、かれの無事を祝した。
その藤十郎のはなしで、新十郎の馬を奪って逃げた
「三好勢は、とくに、
と、
天野三郎兵衛だの、小栗又市などが、答えた。
「いや、土肥権右ばかりでなく、秀次の家来は、幾人もこの辺の戦場で見かけ申した。そのわけは、秀次の軍が、まっ先にやぶれたのを、しのびがたき恥として、主君も主隊も、
そう聞いて、人々は、
「道理で、特にかれらは、強かった」
と、思いあわしたが、新十郎も自分の出会ったのが、その一人であったと知って、
「よし、覚えておこう、いつかまた、他の戦場で、きょうの愉快な敵に、めぐり会うことがあるかもしれぬ」
と、忘れぬように、その日、拾い取って来たあいての槍の柄に、
――土肥権右衛門ニ返上ヲ期ス物也。
と、将士は、こんな話題に、はればれと、
「すくない。どうも……ちとすくないぞ」
家康は、何か、
この大将は、よろこびも、かなしみも、めったに、気色にあらわさないのを、普通としていた。
さっきから、かれがしきりに、少ないとつぶやいていたのは、すでにここから幾度も、引き揚げの貝の合図を吹かせているのに、勝ちに乗って、敗軍の敵を追いかけて行った味方が、意のままに帰って来ないのを、案じているらしいのである。
家康は、さっきから、二度も三度も、云っていた。
「勝ちに勝ちを重ねぬものだ。――勝ったるうえに、なお勝とうとするのは、よくないぞ」
かれは、秀吉という名をここでは出さなかったが、あの天性の兵略家が、すでになにか、自軍の大敗北にたいして、一指をこの方角にさしていることを、どこかで、直感していたにちがいない。
「長追いは危ないぞ。四郎左は、行ったか」
「はっ。とうに、御命令をもって、駈けております」
「兵部、そちも行け。長追いすなと、
と、いいつけた。
いまは
「打ちもらすな」
と、追撃して来た徳川勢も、そこの川原まで来ると、内藤四郎左衛門の一手が、横列を作って、各

「止まれッ」
「止まり召されっ」
「長追いは相成らぬと、御本陣からの命でござるぞ」
「長追いは無用」
と、口々に云って、この急追して来た怒濤をあとへ押しもどした。
井伊兵部も、駈けて来て、
「いたずらに勝ち
と、声をからして、味方のなかへ、云ってまわった。
ようやく、騎虎のいきおいは
時刻は、
陽は、ちょうど
今朝から半日の全戦場にわたって、秀吉方の死者は、二千五百余人とかぞえられ、徳川、北畠、両軍の損害は、討死五百九十余人、手負いは、数百名にものぼった。
しかし、秀吉方にくらべて、徳川方の犠牲は、約三分の一強であった。
そのとき、本多佐渡守は、家康へいった。
「この
すると、
「いやいや。
その両論にたいし、家康はここでもまた、同じことばをくり返した。
「勝ちに勝ちを重ねぬものよ」
そして、また、
「部下もみなつかれておる。――今にもここへ筑前(秀吉)が砂塵をあげて来ることは確かだが、きょうは早や筑前と会うべきではない。小幡へ移ろう」
と、即座にきめて、白山林の南をとおり、まだ陽もたかい
つなぎ城とは、繋ギの意味で、
中心基地の本城から、予想される各戦線の主要地に、
これは、
こんどの場合も、小幡、岩崎の二つのツナギ城が、どれほど大きくものをいったかわからない。
ことに小幡城は、小牧から出て来たときも、ひき揚げにも、ここが家康の完全なる前線基地となって、その進退を、頗る
「これで、よし」
家康は、小幡城へ全軍を入れ、八方の城門をとじてから、初めて、きょうの大勝を、心から味わったにちがいない。
かえりみても、きょう半日のたたかいには、まず彼としても、
「そつはなかった」
と、満足を感じたろう。将卒たちの
だが、達人は達人を知る。この直後の、秀吉のうごき一つに、かれの関心はいま
「……筑前来らば」
と、家康もそれにたいして、“
さて、秀吉は。
かれは、その
「ひと当て、当てよ」
と、小牧の攻撃を、急に、命じた。
そして
増田仁右衛門も、そばにひかえて、はるかを見ていたが、
「あれ。忠興どのの血気、あのように、深入りしても、大事ありますまいか」
細川兵が、余りにも、小牧の敵塁へ近づくのを案じて、秀吉の眼いろを見あげた。
「大事ない大事ない。忠興は若くとも、思慮ぶかい高山右近もひとつに出ておる。右近が行くほどなら、
今朝の攻勢は、ここで勝つための攻撃ではない。小牧の敵を
(勝入父子の
と、実は、その
すると、
長久手からこれへ引っ返して来た数騎があった。どれもこれも、
「なに、秀次が?」
秀吉は、正直、おどろいた。――驚くべきことを、驚かないような顔はしていられない彼である。
「さては、ぬかッた」
これが二度目のことばであった。これも、秀次や池田父子のぬかりを
しかし、三度目は、かれのよくやる口ぐせの――
「よし、よし。……」
であった。
「仁右衛門。
「はっ」
増田仁右衛門のごときは、事態の重大さに、顔色を失っていたが、主人のよしよしを聞いてから、やや意気をとり返し、命ぜられたまま、貝を持って、やぐらの上から早貝を吹き鳴らした。
秀吉は、たちまち味方の各陣地へ、
この大きな、しかも急速な大移動を、
家康は、すでにいない。そして留守は、わずかな人数で、守られていたのである。
「やあ、秀吉自身、楽田の軍勢をあらましひきいて、大挙、東の方へいそぐらしいぞ」
留守番の一将、
「思うつぼよ。秀吉以下、主力の出払った虚をついて、楽田の本営、

すると、これも留守をあずかる一方の部将、
「なに
「いや、いかなる人間でも、あせりを思うては、日ごろの
「
石川数正は、大いに笑って、なお極力、反対した。
「秀吉の手ぐちとしては、むしろ相当な兵力をのこし、われらが、小牧の
評議はまちまち。事態は急である。もし、人々が自我にとらわれていたら、機会は、その人たちのあらゆる考えをみな振りすてて去りかねない。
そのとき、この
「議論か。いや、議論ずきは大いにしゃべり合っているがいい。この方は、
かれは、口ベタで、意志の男であった。めんどうくさくなったとみえる。
いたずらに、
「平八郎。どこへ行くか」
と、あわててたずねた。
本多平八郎は、ふり向いて、
「この方は、子飼いからの、殿の
と、何かふかく思いきめたように云い放った。
「待て」
と、数正は、単なるかれの血気と見たらしく、手をあげて、制した。
「われらは、殿より小牧の留守をこそ命ぜられたが、勝手にうごけとは、命ぜられておらぬ。まずまず、落着かれい」
忠次も、一しょになって、たしなめた。
「平八郎。今さら、おぬしひとりが参ったとて、何の足しになろう。それよりは、小牧のお留守が大事というものぞ」
すると、本多平八郎は、かれらのせまい考えをあわれむような口辺の微笑をちらとゆがめたが、みな年上の上将なので、ことばはていねいに、こういった。
「いや決して、諸将をかたろうて行くのではござらぬ。各

かれの言に、座中の雑音は、はたと、声をひそめてしまった。
平八郎忠勝は、自分の手勢わずか三百余をひっさげ、小牧から駈け出した。
かれの意気に感じて、石川
「この世のおもい出を共にいたそう」
と、決死行に加わった。
あわせて、六百に足らない小人数であったが、平八郎の意気は、小牧を出るときから、
歩兵は、軽装とし、旗は巻かせ、馬にムチ打って、一団の砂けむりは、つむじのように、東へ駈けた。
そして、
「おう、あれこそ」
「
「群れ立ってゆく旗本どものなかにこそ、秀吉はいるにちがいない」
平八郎以下、息もつかずに、ここまで来て、
おおーい、と呼べば、おおーい、と敵からの声もとどいて来そうな距離である。その敵の顔顔顔、二万の足音にまじる無数の馬蹄のひびき。それも、川をこえて、こっちの胸へこたえて来る。
「左衛門、左衛門」
平八郎は、うしろから来る馬上の石川
「おウい、なんじゃ、平八」
「左衛門。対岸を見たか」
「いや、おびただしい大兵じゃの。この龍泉寺川の長さよりも長く見える」
「あはははは。さすがは秀吉、わずかな
「さっきから、打ち眺めておるが、秀吉は、どの辺におろう。あの金のひさごの馬じるしの見えるあたりか」
「いやいや。おそらく、他の騎馬武者のなかに、姿を没しておるにちがいない。――鉄砲の
「敵の士卒も、急ぎに急いで、早足だが、みな、こっちを向いて、いぶかしげな顔をしておる」
「左衛門。われらの、ここになすべきことは、秀吉をして、この龍泉寺川の道を、寸時でも、ひまどらせることにある」
「かかるのか」
「いや、敵は二万、味方は五百余人、かかったところで、ほんの
「おお、さすれば、
「そのことよ」
と、平八郎忠勝は、馬のくらをたたいて、うなずいた。
「長久手の味方に、時をかせがすため、われらは、死をもって、秀吉の足にくい下がり、すこしのひまでも、秀吉の進撃が、おくるるように励むのじゃ。左衛門、その心得で、働こうぞ」
「よし、わかった」
左衛門康通と、平八郎忠勝は、ちょっと、馬首を横に向けて、
「鉄砲隊は、三段にわかれ、道をいそぎながら、交互、一組ずつ折敷いて、対岸の敵を、撃ち浴びせては、進んで行け」
と、いう命をさずけた。
川水の早さにも似て、敵は、向うの岸を急いでいるので、こっちも、それと同調して、急ぎ足をつづけているため、
――が、この命令一下とともに、三段になった鉄砲隊は、まず、その第一組から、水ぎわ近く折敷いて、ドドドドッと、撃ち始めた。
水辺なので、銃声は、何倍にも大きくひびき、
すぐ、その組は、先へ駈け出し、次の組が、銃口をそろえる。そして駈け出すと、またすぐあとの組が代って、対岸へ撃ちあびせる。
秀吉方の人数の中に、バタバタと、仆れる影が見えた。
あきらかに、急行軍中の列は、動揺し出した。何か、ののしり騒ぐ声と、そして動作とが、手にとるようにわかる。
「や。何者か、あれしきの小人数をひきいて、
秀吉も驚いたらしい。非常なおどろきの眼を放って、おもわず駒をそこに止めた。
「さてさて、不敵な奴もあるものよ。千にもたらぬ小勢をもって、筑前のこの大軍にたいして、けなげなる振舞いをなす者。敵なればなお、名を知っておかねばならぬ。――たれぞ、あの敵将を見知っている者はないのか」
秀吉は、なお前後の味方を見まわして、しきりに、それを訊くのだった。
すると、前列の方で、
「存じておりまする」
と、いう声があった。
見ると、
「おう一鉄。そちは川むこうに見ゆる敵将を、たれなるか、見知っておるや」
「されば、あの
聞くと、秀吉は、今にも、涙のたれそうな眼をして、
「ああ、
そう、つぶやいてまた、
「あわれ、あわれ。たとえ、
こういう間も。
もちろん、対岸からは、
そして、秀吉が、眼をこらして見ていた
一川をへだてて、秀吉もかれを見、平八郎も、あきらかに、秀吉ありと見ゆる一群が、馬を止めているのを、じっと、眺めているふうである。
「ひともなげな態度」
「小憎い敵」
秀吉軍の一銃隊は、あわや応戦の火ぶたを切りかけたが、秀吉は、ふたたび、
「本多にかまうな。ただ急げ、先へ急げ」
と、全軍を
それと見て、対岸の平八郎も、
「やるな」
と駈け足になって、道の先をとり、龍泉寺附近で、ふたたび物すごく挑戦したが、秀吉は、相手にせず、まもなく長久手ノ原にちかい一山へ陣地をとった。
目的地に着くやいな、秀吉はすぐ、
「長久手から小幡へひき揚げてゆく徳川勢を、見かけ次第打ってとれ」
と、いいつけて、三隊の軽騎兵群を、その方角へ駈けさせた。
ここ龍泉寺山は、その直後に、かれの本陣となり、赤い夕陽の下に、二万余の新鋭が、いざ、主力と主力との
「
と、秀吉は呼んだ。
そのあとで、秀吉は、ただちに、全軍にわたる作戦行動の案をねっていた。――ところが、その命令のまだ発せられないうちに、
「家康の姿は、すでに、きょうの戦場には、見えません」
と、いう飛報がはいった。
「そんなはずはあるまい」
と諸将もうたがい、秀吉も沈黙していると、さきに長久手へ向けた木村、一柳、堀尾などが、駈けもどって来て、
「敵のツナギ城小幡へさして、家康以下の主力はすでにひきあげました。われらは、小幡へ駈けおくれた敵のこぼれに出会ったのみで、せめて、もう半刻も早かりせば――と、残念ながら立ちもどりました」
と、口々にいう。
それでも、約三百人の徳川兵を、打つには打ったものの、目ぼしい将は、その中にいなかった。
「おそかったか」
と、秀吉は、やり場のない
「小幡の城は、かたく城門をとじ、もはや、もの静かに見うけられました」
と、家康がそこに引き取って、
秀吉は、複雑な感情のうちに、おもわず、家康のために、手を打って祝してしまった。
「さすがは家康。よくも
ときすでに
「兵糧をつかえ」
と、いう命に変った。
宵の空に、おびただしい
小幡の偵察隊は、その様子をすぐ、家康に知らせた。
家康は、眠っていたが、その情報に起されて、そう聞くと、
「さらば、われらは」
と、急に、小牧山へ帰る発令をした。
水野、本多、その他の諸将は、夜半、秀吉の龍泉寺山を夜襲しようと、極力、すすめたが、家康は笑って、しかも、まわり道して、小牧へ去った。