うす寒い秋風の
よ、つ、め、や。
一字一字こう白く
「おや? ……」
桐箱とひとしくキチンとすわって、
「――今の娘だが」
小首をかしげて、通りすぎた下駄の音にまで耳をすましたが、やがて、細口の銀ぎせるに、
たばこ屋に
「また帰ってくるにちがいない」
こんな予感をもったらしく、新助はわざと往来を気にして往来を見ずにいると、やがて案のじょう、のれんの下に影がさして、
「あの……」
と、お客様です。
「いらっしゃいまし」
「おたくに、油はありますか」
「油? ……へい、びんつけで」
「いいえ、
「おあいにくさまでございました」
「そう」
客は軽く立ち去って、別のものを見ようともしない。けれど、それは新助が心まちをみたしに来たさっきの
あきらめました。もうそろそろ
夕方の風が砂と落葉をまいてゆきます。
と――その時、
「ちょっと、お伺いしてみますが……」と、いかにもオズオズした様子で、店口へ寄ってきた女を、新助は見ると共に、
「あ」
来たナ、と思わず
「さア、どうぞお掛け下さいまして」
一
「何か、お
「いいえ」
娘は往来の
「あの、売物なんですが」
「え?」
「買って下さいませんでしょうか」
どうやら話はあべこべです。
娘の
「どうでしょうか」
「ヘエ……」と四ツ目屋の新助も、少し勝手がちがって、常の
なるほど、時世もだいぶ変ったものだ。と考えさせられたものでしょう。
新助の記憶でも、去年の大奥の
それを思えば、まだ眉も歯も女になっていないこの娘が、紫ちりめんの頭巾を重そうに、親にいえない金のために髪道具を売りにくるくらいは、ぜひのない
「そりゃ、品によりましては、手前どもでも、引取らないこともございませんがね」
と、新助の調子は急にニベがない。
金をうけとる
「いったい、物はなんですか」
「
「というと、
「
「おや、それじゃお嬢さん、お話しになりますまいよ」
娘はまッ赤になってうつ向いてしまう。白い
「まるで
買物にそそられない新助は、そう考えて、しきりと女の姿を見入っていたが、さて、これを一枚の師宣として見るだんになると、帯や着物の調子はよいとして、また紫ちりめんをかぶったのも悪くないとしても、ほかに難がないだろうか。どうも何か苦情をつけたい。
どこが――というとさて困るが、横顔になってみると、あまり鼻すじがとおり過ぎて、男には一種の強迫感を与えそうだし、まつ毛の濃さも
何しても、美人にはちがいないが、江戸の系統といえず、
「どうも、お気の毒でございますが、
「ですが……」と、娘もその時は、だいぶ度胸がすわって来たものでしょう、押し返して、
「見るだけでも、見て下さいませんか」
「へい、そりゃもう」
「自分では、たしかな、
「え、古渡り?」
カチッ……と奥で
小判で百両。
異様な娘が、それを赤い帯あげの中にくるみ込んで、宵の町角を
シンとなると、裏にも表にも、落葉のあるく音がします。浅草もちょッと横丁へ入ると、
「親分」
奥へ入った手代の新助は、そこにいる者に不平そうに、
「つまらねエ口を出したんで、百両くれてやったようなものです。どうも親分は、時によると、女に甘い
女気がないとみえて、ひとり、箱膳を隅ッこへ出し、ザクザク湯漬けを食べながら、
グチはいいが、新助、いかに店を
五
大小をおッぽり出して、坐りながらのふところ手で、膝の上にある桃色
「
その感にたえている
「なにがですえ?」
「印籠のおじめ、五
「ヤキが廻りましたね、親分も」
「ばかをいえ、
いかにも
けれどよく見ると、それは地中海からあげた
「そりゃ私だって、物はたしかだと見ていましたがね」
「あたり前だ、奥にいたおれにさえわかったことを」
「だが、あっしは、金をくれて買うなんて夢にも思っていなかった。すると親分が百両くらいなお
相手にする値うちもないように、浪人の男は、珊瑚を
そして、腰をのばして、
「どれ……」と立ち上がったかと思うと、新助に袱紗を預け、あとの戸締りをいいつけて、ノシリと裏口へ出てゆく様子なので、
「あっ、親分」
もう戸が
世間とはツツ抜けなのに、そのばかな声を、
「しッ!」
と、
「オオ、笠……」
出してくれ、と戸の外から手をのばす。
降るのは星ですが、しら
新助、今のにコリているので、今度は返事も
「ど、どこへ行くんですか親分」
「わからねエのか」
「だって、あんまり不意じゃありませんか」
「まあいい、あとを
「帰らねえンですか、今夜は」
「あさッて市で会うだろう」
もうその影は、紺屋の
曲がりくねッた露地の
その中に、かれの目は鋭く何かを求めている。いうまでもありますまい、
四ツ目屋の奥で、およそは観察していたはず、あてなき探し方ではありません。糸をたぐッて行くように、ここ、あすこ、思う所の横丁や店をのぞいてあるくうちに、チラと、目の中に飛びこんできたのがあの紫です。
三味線屋に腰かけて、しきりと何か出させている。
まぎれもなく、
そこで、
畳の上にチカッと光った小判を見て、番頭が手をもむと、こまかいのはありませんという。で何かまた、いらない物まで買い足して、そこを出るとすぐにまた、
呉服物を見ては、あれ、これ、とまるで夢中になって
でも、なお買物に
かくて、珊瑚を売った百両の小判のカケが、
四ツ目屋という紺のれんは、元より世間に日蔭を作る仲間の巣。新助でさえ不平なのに、無論、しら浪根性に劣りのないこの男が、世の中の物質に代価を見ない盗賊という本業を裏切って、すなおに、あの珊瑚を買うべき理由がないのですから。
渡してやった百両は一時の
「ちイッ……」
と、小娘の浮かれの果てしなさに、うしろで舌打をもらしたものの、名うてな日本左衛門とて、この盛り場では手も出せますまい。
やがて、浅草の灯に別れると、酔のさめたように娘の足どりは少し早めになって、
根気よく影をつけていた浜島庄兵衛の日本左衛門には、そろそろ思うつぼの並木や、人通りのまれな
「オイ、娘さん」
と、手をあげた。切通しの坂をのぼりきッた所で、このあたり
「待て! おい」
走り出しそうな気振り――と見たので、
「な、なにをするのさ、お前さんはッ」
高い悲鳴をあげる代りに、
「声をたてますよ、いいかい」
「静かにしろ」
「二、三丁先は
「小娘にしては、なかなか落ちついたもんだ。おい、もう少し落ちつけよ。物どりには違いねえ、いかにもおれは
「誰か来て下さい――ッ」
突然人を呼ばれたので、日本左衛門の袖がその頭を抑えつけて、少し力を
「シッ、静かにしろッてえに!」
「く、くるしい」
「何も、お前みたいな小娘を、どうこうする盗賊じゃない」
「手ッ、手を、手を放して下さいよ」
「可哀そうに……」
その美しいもがきに、ちょッと恍惚として、
「放してやるから金切り声を出さないでくれ。いいかね、なるべく殺生はしまいと泥棒の方で願っていても、そッちでヤボな声を出されると、つい、こいつが後を追いかけて行きたがるからな……」
と、何やら魔の目のように
が、それには、目もくれないで、
「――少し頼みたいことがあって、実ア四ツ目屋から御迷惑でもつけて来たんだ。ねえさん、一ツおれに、案内をしてくれまいか」
「……案内ッて? ど、どこへですか」
「それがわかるくらいなら……」と思わず含み笑いをもらして、
「知っているのは、お前だけの行く先だ」
「? ……」
「四ツ目屋へ持ってきた
かの女がカッとした一時の熱い動悸は、まぶかな編笠の顔をのぞくにつれて、ようやく
「どこだ? お前の家は」
「知りません」
「自分の家を知らない?」
「だって、あたし」
「じゃ、あの
「知らない。あたし、そんなこと……」
「シラをきるな」
「
「うるせえッ」
「…………」
「案内しろ!」
「いやです」
「ウム、じゃ
恐ろしい脅迫。
なまなか光り物を抜いたり
その恐怖にみちた瞳を、この暗やみでなく、昼の明るさにこうジッと見合ったならば、日本左衛門も、かの伊太利珊瑚と思い合せて、ははアと、出所の謎を解いたのかも知れない。
と……切通し下から三ツ四ツの灯がチラついてくる。
タッ、タッ、タッ、と足音も少ない
「オイ、歩け」
と言ったのは日本左衛門が、早くもそれを知ったからで、うしろから帯あげの腰をグッとつかもうとすると、思いがけない、柔らかい手の
「ねエ、御浪人さん、
驚く間に、
「後生ですから、私を見のがして下さいよ。私、あの
なみの娘なら気を失う男の胸へ、自分の方から甘えるようにすがりついて行った。機敏な態度の変りようが、世間の裏を見抜いている日本左衛門にも舌を巻かせる
「頼みます」
「まあ、あるきねえ」
「だッて、あなたについて来られちゃ、私、なお困るんですもの……助けると思って。ネ、お願いですから」
「そんなに困るなら、番屋へでも奉行所へでも飛びこんだらよかろう」
「そうすれば、なおさら私の自滅ですもの」
よくよく窮して、ついに泣きだしたものでしょうか。やはり女は女、最後はいつも涙であります。
だが、猶予ならないのは、ぐずぐずしている間に、坂下から足拍子をとって近づいてきた数点の
カッと炎をこがす一団の火焔行列とも見えました。
見事な
しかし、その近づくのを見て、日本左衛門が驚いたのは、その夜中横行の異風でなく、まッ先に立った
紫頭巾が泣きじゃくッているのが幸いでした。肩に手を。
戸まどいしては、かえって、見とがめられる
「あっ」と、一歩を引く。
「しまッた!」
日本左衛門としては、あるまじき不覚。
かれ程な者も、小娘の涙にはウカと油断をさそわれたものか、不意に手をかすッた短刀は、
「お。お助け下さいまし! あれっ、あれッ」
「これッ」
「お
「寄ってはならぬ」
「無礼もの! そちは何じゃ」
と、口々です。
「は、はい……」娘は小鳩のようなおののきを見せて、顔の紫ちりめんを解く、そして、むき出された
「今、あの
それまで、ひッそりと、ゆかしい
「なに、盗賊だと?」
「面白い!」
と、ひびきました。
スッと、内から
幕府三家の一、
それにしては、女駕の
「盗賊とは面白いやつに会った。つかまえてやろう、草履を持て!」
と、
「めッそうもないことを」
当然、供の者は、以ての外という顔で、お
「草履をもて! 逃げてしまうわ」
と、高声をいら立てる。
すると、うしろの
「やッ、
「なに、金吾が?」と、万太郎がそれに思い止まったところへ、何かにおくれて、息をきりながら一行に追いついて来たのは、尾州の馬廻り役、江戸
「金吾か、よいところへ来た」
かれの姿を見ると
「そのあたりに、この娘が出会った盗賊がひそんでいよう。そちの手で、からげて来い!」
「はッ」と、主命、息をつく間もゆるされない。
金吾は
相良金吾が木立の奥へ駆けこんだのを見て、
「それ、逃げ口をとれ」
と、徳川万太郎は
捜索は遂に徒労でした。かれの
「ウーム、逃げおッたか」と万太郎は残念そうに駕の内へ
「金吾、この女中を、
娘が
市ヶ谷御門外の尾州家、
途中万一を思って、娘を送らせた金吾は直ちに戻ることと思っていたが、かれがそこに落着いて、
何となく待たれる。
「どうしたのだろうか?」
と。
音もなく、
流れこむ冷気に
「殿……」
「おお、金吾か」
「只今帰邸いたしました。時に、今ここを拙者と入れちがいに向うへ行った者は
「いや、別に……」
万太郎は、異なことをいう、という風な面もちで、
「
「はてな?」
と、小首をかしげて、金吾はもう一度廊下の外を見廻したが、そういわれれば異状はないので、自分の気のせいであったかと思い直して、静かに室内へ入り、うしろの
「たいそう遅いことであったな」
「はい、意外に暇どりまして」
「して、娘は送り届けたか」
「は、小石川の同心組の近くまで参りました」
「ふウむ、すると何か、ありゃ同心組屋敷のうちの女中であったかの」
「ところが」
と、相良金吾は、やや
「
「なに?」
と、万太郎は
「そちの送り届けてやったのを、かえって迷惑がって、姿を隠してしまったと申すか」
「
「ふウむ……?」
と万太郎は唸った。金吾も、今なお
「では、そちはあの娘に、
「しかし、それでは金吾、仰せつけを果たさぬことに相成ります。また、いろいろ不審を感じましたので、やっと、それから一
「ほウ……」と、徳川万太郎は好奇な目をして、
「そちが突き止めたと申すあの娘は、そして、どこへ入ったか?」
「一度見失った姿をチラと見うけましたのが、
と、万太郎は思わず膝をゆり出して、
「えっ」
「切支丹屋敷の中へ」
「はい、
「あの娘が? ……ふウむ」
「殿」
「おお金吾」
「まことに、惜しいことを致しました」
「そうと知ったなら、帰すのではなかった! 屋敷へつれ参って問いただせば、かねてから心がけている例の事や、また
と、舌打ちして、その残念さをくり返しているのは、尤もな理由のあることで、
同じ剣工の
万太郎はまずその方で、甚だしくお大名の素質に欠けている。
けれど、またかれの性格がこうのびたのも、あまりな当時の大名生活の退屈さが助成したのかも分りません。
とにかく、そういう万太郎である。ところがその万太郎に、皮肉にも、また大きな
「
です。それは前々代、大納言
すでに、書庫の
以来万太郎は十枚
「しかし、御失望なさいますな」
金吾がそう言って、舌打ちをした万太郎へ、何か、思案のありそうな微笑をして見せたのは、かれも共に腕ぐみをして、しばらく無言をつづけた後で――
「必ずあの娘から、例のことを聞き出して見まする。金吾、
「イヤ、そりゃ、まずいぞ!」
と、万太郎は期待をはずして、
「邪教
「ほ、伺ってみまする」
「毒をもって毒を制す名案であろうと自分は思うが……」
「それは?」
「盗賊を使うのじゃ! つまり、
ここに万太郎と金吾の話し声だけは、いつまでも時刻を忘れていたが、一城の広さもあろう程な尾州家の建て物は、うし
ぼッ、ぼッ……と大廊下三
すると――
今、二人のいる一室と
何者?
桐の
そこで、もうろうたる人影は、ニヤリと
ジロジロと辺りを見ながら何か思案をしている風でもあります。何者かと思うと、それはまぎれもなく日本左衛門。
切通しで、万太郎と金吾の為に、
目的の娘が、切支丹屋敷へかくれたまで見届けたなら、何も、危険を冒して、こんな尾州家の奥深い殿中まで、忍んで来る必要がないように考えられるのは、善良人の思いそうなところで、盗賊心理はまた別であります。
では、日本左衛門、ここへ何しに来たのかというと切通しでブマをした腹いせに、その意趣返しをしに来たものに相違ありません。
復讐! あだをしてやる!
すべて盗賊は仕事の上に、その快味をも忘れぬと言います。本来の物盗り以上に、仕返しはかれらの血をわかせるもの。しかも、今夜のことは、相手が尾張中将の七男徳川万太郎。こいつのドギモを驚かせて、御三家の邸内に足あとをつけてやるということは、日本左衛門が好みそうなところで、好まれた方こそ、まことに禍いなるかなであります。
だが、奥書院まで、幾室かの
「ふん……部屋住みの万太郎、この様子じゃ、だいぶ手元をつめられているな」
と、家財調度を目づもりして、大盗らしい
「さて? ……」
と、あだをする手段を考えている。
運わるく、その床の間にうやうやしく置いてあったのは万太郎の兄にあたる当主
持って帰るには、手頃であります。
その面箱をゆすぶッて、中のコトリという音を聞いただけで、日本左衛門の六感は禁じえぬ欣びにくすぐられました。
一方。
万太郎の部屋ではその万太郎と金吾とが、何か密話に他念がなかったが、その相談の結果、かれが尾張城から持ち出して来て秘密に
「若殿、すぐに
「いや、
「ほ、では何処へお仕舞いなさいましたので」
「誰も気がつかぬ所だ」
「――と申すと、書院の袋戸へでも?」
「ウム、
「えっ、あんな所へ」
「心配いたすな、兄上が大事にしている
面箱が紛失している。
北口の杉戸に土足の痕がある。
すわ! と騒ぎはじめたのは、それから寸刻の
変を聞くと、
「なに洞白の面が?」
と、誰よりも驚いたのは、当主であり万太郎の長兄である
「洞白の面が盗まれたとは、そりゃまことか! 曲者は捕えたか!」
義通は青くなって、
かれは病身、息を切っています。
見ると、
床には、
「万太郎ッ」
義通は激しい声で、不意に、弟の肩をつかんで、
「出目洞白の面を、かような所へ置きすてておいたのはその方か」
「はい!」
と万太郎は、やり場のない怒った声で、
「はい、私ですが」
「な、なぜ、そんな不始末な……」
「兄上」
「そちは身の行状の悪い通り、何事にも、ふしだらでいけないッ。殊に、
「いや、お待ち下さい。私は兄上の許しを受けて、いつか、
「黙んなさい! そちはその後、納戸の者に渡して面箱は宝蔵へ返したと言っておったではないか。それも単に秘蔵の品というならばとにかく、
義通は唇をわなわなさせ、あくまで、
が、かれに取っては、結句きゅうくつな上屋敷よりも、草
ただ、無念なのは、日本左衛門の皮肉な置きがたみです。面箱の底へ
かれが根岸へ移された翌日のこと。
相良金吾は、ひそかに、
今日もまた、
よ、つ、め、や。
紺の
のぞいてみると四ツ目屋の店には、例の銀流しの店番男、新助の姿は見えないで、それに代る
「オ、違ったかナ?」
と相良金吾は、わざと田舎者めかした菅笠を上げて見なおしたが、間違いはない、茶屋町の軒ならび、似よりの店もこの一軒よりほかにはありません。
だいぶ聞いた話とは違っている。――新助という若い男が店にいて、表面は手固い小間物店に変りないが、実は
「それも嘘か。あの娘の言葉も信じきるわけにはゆかない」
と金吾は迷いました。
ままよ、どうせ
「物を聞きたい!」
わざと、ぶッきら棒に、
「新助という手代のいる店は当家か?」
あッけにとられたかみさんは、積みかけていた
「いいえ……」
「では、年頃二十七、八、
「……存じません、お
「たしかに、茶屋町の四ツ目屋と聞いたが」
「あー、それでは、前の
「前の方?」
「はい、
と、かみさんの綺麗なおはぐろ歯が笑みこぼれる。
聞いてみると、店は
明け渡した新助や浪人の住居は、どこへ変ったか、主人でも居なければ……と極めて
「あっ、もし!」
かれに続いて四ツ目屋の露地から、ひとりの男が手をあげて、
「もし、お
草履が砂をとばしたが、金吾はカッとした気味で、耳にも
「もしッ、お侍さんてば!」
やっと、その男が先の袖をとらえ得たのは、観音堂の境内、いちょうの葉に水の見えない池のそばで、
「ああ、息がきれた……」と胸をたたきながら小腰をかがめ、
「少しお話したいことがあって、四ツ目屋の露地から追いかけて参りました。恐れ入りますが、向うの
と、甚だ
不審な目を
めったに、油断はならぬと思いながら、
「拙者に、どこへ来てくれと申すのか!」
「御立腹なすっちゃ困ります。その、ここはあまり人通りがございますから」
「うむ、それで……」
「あの淡島堂の陰で、とっくりお話を伺いたいと思いますンで」
「話があると呼びとめたのは貴様ではないか。拙者の方から聞かす用談などはない」
「どッちにしても同じことです。まア、ちょっとこッちへお
袖をつかむ町人の手を切るように、パッと払って
「これッ、おのれは!」
と、喉を攻めつける親指と共に、激しい
金吾に襟元をしめつけられて、町人は喉の血管を太くしながら、
「待ってくれ! けッ、決して怪しい者じゃありません」
悲鳴に似た声で手を振るのを、
「だまれ、おのれは日本左衛門の手先に相違あるまい」
「飛んでもねえことを、な、なにしろ、淡島堂の裏に待っている人に逢ってくれれば、話はわかる。く、くるしい、少し手をゆるめておくんなさい」
「待っている者がある? ……」と、金吾はいよいよ不審に思いながら突っ放してやると、その様子を見ながらニヤニヤして、池の
黒ッぽいみじん縞の
そこへ来ると金吾の前に、カッチリした物腰で頭を下げて、
「お迎えにやったのは手前でございます。何か使いの奴が、不作法なことを申し上げたようですが、どうか御立腹なく」
と、この方はまたすこぶる尋常な応対なので、金吾も今さら大人気ないことに自ら恥じながら、
「おお、拙者を呼び止めたのは、其方のさしずか」
「左様でございます。突然、お後をつけさせたりして、まことに失礼でございますが」
「して、そちは」
「初めてお目にかかります。私は、
「ウーム、目明しと申すと、奉行手先の御用ききだな」
「御信用下さいまし」
と、釘勘は、片手を
「オイ、伝吉」
と
「てめえはもう役済みだ、家へ
と、
「定めし、びッくりなさいましたでしょう」
「どうも、何が何やらわからんのだ。が一体、目明しの其方が」
「なんで呼び止めたかと仰っしゃるのでございましょう。実は、わっしは
「あっ、あの騒動を存じておるのか」
「そこで今日、洞白が売りに出るかも分りませんから、旦那に知らせて上げるんです」
「売りに出ると申すのは、あの面箱がか?」
「そうで」
「人手に渡っては一大事、あの洞白の鬼女面は、文昭院様から大殿が拝領した品、毎年
「ですが……」と釘勘は薄く笑って、
「面も大事な品でしょうが、それよりもなお欲しいのは、面の下になっている
「そこまで存じているなら何も隠さぬ。いかにも『ばてれん口書』の一帖は、万太郎様に取って命から二番目の物だ。それが売りに出るとは耳寄りである。いッたい、どこへ行ったら買い戻せるだろうか」
「
「市?」
「へい、そこへ、お連れ申しましょう」
「かたじけない。では、
「なアに……」と釘勘は前後を見廻して、
「あなた方は聞いたこともございますまい、くらやみ市とも
金吾も、これは多少疑わないでもありませんでしたが、深くたずねてみると、かれは、江戸の盗賊や
目明し道徳とでもいおうか、釘勘は、万太郎や金吾の困惑を見て、手入れの騒動となる前に、あの洞白の面箱を何とか無事に被害者の手に返してやりたいと思いました。で、もしその品が今日の市に出たら、
救いの神――と金吾は心に謝しながら、
「釘勘とやら、どうか、よろしく頼む。しかし、盗賊どもの集合している所へ、この姿では工合が悪かろうな」
「なあに、泥棒だからといって泥棒らしい姿をしている者は一人も居ませんから、かえって、私達もヘタに化けるよりはこのままの方がようございます」
「で、時刻は、
「もうそろそろ寄っている時分です」
「え、この昼間?」
「急ぎましょう、洞白が人に買われてしまっちゃ何にもならない」
「どこだ、その場所は?」
「まア黙って、私についておいでなさい」
釘勘は人ごみを縫って、サッサと足を速めだしてゆく、その足どりの様子では、浅草観音堂を中心とした盛り場を程遠くないようですが、金吾はいよいよ怪しんで、この真昼中、江戸も目抜きなこの辺にどうして、かれのいうような盗ッ人市などがあるだろうか、どうしても合点がゆかない。
だが、釘勘は迷う風もなく、三
大股に寄ってゆくと、
「
「ウム。
「あいつは、
「ほ、あれが」
と、うしろを見たが、黄ばんだ桜並木の間を織る行楽の人通りに、もうその姿は見つからない。
こういちいち釘勘の目を借りてみると、世間はあたかも百鬼昼行で、そこにもかしこにも、面をかぶった
馬道へ出ます。
ここへ出ると、所々の人家のきれめに、枯れ尾花のくぼ地や、
「どこへ行くのだろう?」
金吾のいぶかりも今は一ツの好奇心でした。
千
などと思っている
おや?
と見廻すと釘勘は、ツイと湿っぽい
要所に、手配を伏せておく、かれが組子の岡ッ引ということは、うしろで見ている金吾の目にも分りましたが、
「ム……そうか」
と何かうなずいて、囁き合うと、金吾をさし招いて釘勘はまたすぐにその横丁を走り出して、
「どこへ行くのだろうか?」
金吾は一歩ごとに不審を増して後から続くと、今戸橋から北に寄ったそこは隅田川の三角洲、川口から向う
この辺に多い
「おやじ、市へ来たんだが、合図を頼むぜ」
と、声をかける。
「ふたりだね」
と、
「よしきた。合図はしてやるが、親方、手配はずいぶん大丈夫だろうね」と、そこから、不安そうに釘勘を振向いて、念を押すのを、
「うむ、済んでいる。大丈夫だから、安心しねえ」と、釘勘がくり返します。
「しかたがなしに、仲間の者を裏切るのだが、もしこれがヘタなことになると、こッちの命があぶねえからの」
「あとはお
「へい」
と、おやじは、なかば
その間に、金吾はつれの方へ向って、
「釘勘」と、小声に、
「へい」
「あの今戸焼の老人もやはり盗賊なのか」
「なあに、あれは善人です。ただ幾らかの口止めをもらって、市の時には、ここで見張りをしている奴なので」
「その方の指図にしろ、よくその口止めを破ったものだな」
「
囁いているまに、おやじは、指合図が向うに通じたと見て、
「親方、行って下さい」
「御苦労だった。じゃ相良様、こっちへ」
と、
雑多な舟が
近づいてみると、立って自由に出入りのできるくらいな
金吾の記憶にも、この
「相良さん、これから先は、あまり口数をきかないように。それと、武家言葉は
「ム、承知いたした」
金吾は心得てうなずいたが、これはむずかしいと、自分でも思いました。今の返辞からしてすでに固い武家口調がぬけてない。
「じゃ……」と、あとは、目まぜで、釘勘は委細かまわず先に立って
「だれだッ?」
と鋭い咎め声をガンとひびかせました。釘勘はすました顔で、
「
「どこから?」
「
「あ、
「村山の彦七。途中で一緒になったので、不案内だというから連れて来た」
「おかしいな、
「ありゃ東村山だろう、こちら、西村山の
「おいでになっています。ツイお見それ申してすみません。さ、どうぞ奥へ」
ひとりが立ち上がって両手でパッと暗やみを割るように開くと、ハネ上がったむしろの間から、赤い光線に塗られた奥の怪奇な光景が、びょうぼうとして面前にのぞまれた。
嗅ぎつけない
なお端の方から個々に注意してみると、
が、目明しの眼でこの集合を眺めると、職業的に二分されます。一は盗む者と、一はさばく者です。需要と供給、泥棒とけいず買い、この両者が必要をもって寄る所に、当然、
さすがな釘勘も目を
河ッ童穴の奥は、いつのまにか百
顔ぶれの中には、諸国の役人を血眼にさせている雲霧と呼ぶ兇賊や、常にその
幸いなことに、洞内を赤く照らしている灯は、煙草の煙に
その渦の中で、ひとりの男が、
「ジャワ
と叫んで、
「ジャワ?」
「
「どっちでもいい。さ、いくら!」
「一
「一丁三ッ」
「幾巻あるんだ?」
「五本」
「よし、オヤ指、一手で抱いた」
「次!」と、札を落す。「――奥ジマ十反、潮かぶりは一反もない
「
指が出る。
引ッたくるように誰かがうける。とすぐに次! 次! 次! と順々に出る品物は、南京どんす
中でも、あばき合いで
そのうちに、
「
と叫ぶと、
何を叫ばれても、それがみな
「さ、
と息を殺していると、右の袖をグイと引ッぱる者がある。
呼ぶわけにもゆかないので、そのままにしていると――一番に振られたのが、
「
と叫ばれた
紙入れ、軸、
すると、市も少しダレ気味になり、混濁した空気に各

「
という囁きが交わされだした。抜け買いの手から出るなら分っているが、こんな
「ウウム、相変らず、うめえ仕事をするな」
と、感じ合っている顔つき。
そして、
こんな世界にも女が交じっているのかと、金吾が、珊瑚の買主をうしろに物色してみると、どれもこれも目ばかり光る物騒な顔の中に、たッた一人、きわだって白い女の
「あら――」
といった調子に、
「はてな?」
と思ったまま見つめていると、女は前の二、三人を抜けてきて、押されるように背中へピッタリと寄りついたかと思うと、なまめいた髪油の匂いが、金吾の耳の辺に
「旦那……」
と、
「お忘れですか」
「? ……」
「しらばッくれているんでしょう」
「…………」
「
「えっ」
「
「あ……」
「そしてまた今日も、ここへ来る前に、たしか観音堂の手前で逢っておりましたね」
この薄暗い中でこそ幸い、金吾はギョッとして顔色をかえたに違いありません。
真間で逢ったということは自分の方の記憶にはないが、観音堂の境内で擦れちがったのはつい今し方――あの時釘勘が自分に教えた、丹頂のお
しまった!
ここで素性を知る者にとび出されては、もう釘勘の好意も滅茶滅茶で、下手をまごつくと生きてこの
南無三です――悪い所へ悪く目ばしこい女が来合わせたもので、さすが
「あ、それどころじゃない」
女の指が、かれの背中を突いて、
「
「えっ!」
「
「おお!」
と、のび上がって前をのぞくと、覚えのある
「か、買った!」
と、夢中に手を振ってしまったものです。
けれど幸か不幸か、単に買ったというだけでは、市の通用語をなさないので、かれの絶叫は一顧もされず、面箱は他の
金吾は当惑して、気が気ではあるまい。人手に取られては大変な品、ことに、けいず買いの手に移ったが最後、どこへどう行ってしまうか知れたものではないのですから。
と言って――いかにかれがこの切迫にワクワクしても、すべての声が
釘勘は? 釘勘は? オオ釘勘はどこへ行ったのかと今になってあたりを見廻すのもすでに遅い話で、頼みにしていたその釘勘は、あなたにいる日本左衛門の射るような視線をよけて、人の足元から
「ちぇッ」
と、金吾は歯ぎしりをかむ。
市へ来ては
「ウウム、弱った!」
腹の底でうめいていると、その時また、うしろの小声が甘い
「サ、早く引かないと、横合いからさらわれてしまいますよ」
と、お粂が見すました止めの
品物を受取ったはいいが、幾ら払ったものかマゴマゴしていると、お粂が、
「七十両」
と教えました。
七十両、心得たと、金吾はよろこび勇んで紙入れを出しかけたが、どうして今日はかれ程な男が、こうも、たびたび血のあがったヘマを演じるのか、考えて見れば、屋敷を出た時に金子の用意などは無論していないので、紙入れを逆さに振ってみたところ、高々四、五枚の小判と一両に足らぬ小つぶがあるに過ぎないはず。
ハッと思って、ふところへ勢いよく入れた手を出しかねていると、
探ってみると封金、百両ほどな厚みです。
金吾の一心はただ面箱を取り返したいことにあって、一瞬、何を考えているまもなかったことでしょう。その金を投げるが如く渡すと、うしろへ身を
「や、釘抜きッ」
「な、なにッ」
「釘抜き、釘抜きが潜りこんでいやがった」
「畜生」
「逃がすなッ」
というすごい騒ぎです。
グワラン! と岩天井の
ダッ――と相良金吾、一足とびに穴を馳け出して来ましたが、どうやら釘勘が密偵ということを見破られて、袋だたきになっている気配。
「取り返す品を手にしたなら、私にかまわず逃げてくれ、あとは捕手の方寸にあるから――」
とは前もってかれがいい切っていたことではあるが、みすみす群盗の中で袋だだきの目にあっている者を見捨てて、おのれの功にのみ急ぐのは、金吾として甚だ忍び得ない行為に違いありません。
でも、人間は迷う。誰にせよこういう場合は、
「
「たたッ殺せ」
「大川へ蹴込んでしまえ」
「うぬ」
「ふてえ奴だ」
いかに残酷な土足にかけているかを想像させてひびいて来ます。
胸に抱えた
遂に見すてては行かれないかれの本性は燃えあがる。
かれが身をめぐらして引ッ返したのは一瞬でありましたが、元の場所へ馳け戻ってみると、こはいかに、洞窟の奥には、一点の
「やっ? ……」
ですが――かえって疑心暗鬼は金吾をして、そこに兇猛な影が群れをなし
「うむ、鳴りをひそめたな」
と身をかがめたり土の肌をなで廻すほどに、
「――釘勘ッ、釘勘ッ……」
と、石を投げて古井戸の水をさぐるように、四、五
いよいよ変です。
どうしたのだろう? つい今までここにわめいていた人間どもは?
戸隠の伊兵衛、
――と相良金吾の怪しんだのはさることながら、帯の結び目にも抜け身を工夫している盗賊の寄り合いです。元より一方口の
とすれば――いよいよ釘勘の身こそあぶない次第で、金吾は、
「あっ、いっぱい食わされたな!」
と気づいて、にわかに頻りとその抜け口を探しだし初めたが、勝手を知らぬ上の暗中摸索、まるで、
「面倒!」
と
途端です。
「あっッ」
かれが仰天したのは、釘勘を救うべく、手に抱えていては邪魔だと思って竹置場の青竹の蔭へかくして置いた
カラカラッと、
「おお、うぬ!」
と金吾の姿も林の如く立て掛けてある竹と竹との間をくぐって、飛鳥の如く追いました。
追いつつ先の
待て! などとこの場合に尋常なことを叫んでいる余裕などはなく、金吾の目はそれを睨んだまま息をつめ、ただ疾風です、ただ懸命です。
ここで折角手に入れた面箱を横からしてやられて堪るものか。
と思うと――材木場の薄暗い迷路の一方から、ひゅッと、
材木のかげや竹蔵の八方から、仆れたと見た自分の上へ、ワッと
返り血をあびた
後も見ずに、七、八間ほど馳けだしたかと思うと――その時、
「御用ッ!」
と、地を引ッ裂いた
「御用、御用」
なだれ合って慕ってくる光が、横なぐりに降る
「あっ……」
さては、賊の仲間とまちがえられたか――と追われつつ金吾も気がついた事ではあったが、もう及ばぬ場合、血刀のやり場に困りながら、一時のがれに真土の森へでも姿をかくすほかに道がない。
隅田川に近いせいか、捕手の声が水と木の間に嵐のような音響を交わし合って、細い二日の月が梢に見える頃までも、そのたけびが麓にたえないようでありましたが、いつまで、笹の下にも居られないので、金吾は女坂の途中から身をあらわし、あたりに気を配りながら、静かに、
と。
それも捕手の
「お、
と声をかけて驚く面前に立ちはだかりました。
ゆらりと仰がれたのは、広い肩幅とつばの深い編笠。で、
「今日はとうとうムダ骨折りだったな」
さびのある声が
「な、なにッ?」
「おれは、いつぞや
「ウーム、おのれッ!」
かッと燃えあがる血気にまかせて、
夕月を斬ッた水の如き光は、編笠の肩をはずして、黒髪堂の床柱へ、ズンと深く食い込んだまま
「ばか
高く笑った声を消して、その姿は、表の石段から浅草の灯の
金吾はビクともせずに仰向いていました。夕月を散らす
闇を割って、お
捕手騒ぎに抜け穴を出て、聖天の宮にひそんでいた丹頂のお粂は、何かうなずくと金吾のそばへ寄って、ジッと、悶絶している男の顔に見入っています。
青い夕月をうけて、血の気のうせた金吾の顔は、おそろしく秀麗に見える。頬を寄せても知らずに、手を握っても知らずに、眉をひそめたままでいる男の顔は、多情な女の眼にあやしい思いをさせないでしょうか。
「妙に縁のある人だよ……」
お粂は、
だのに、金吾の体をそこに見捨てて、
十二月。
正徳五年のあます日もおしつまりました。
けれど、
「お蝶さん、坐らないか」
そして、どっかりと自分が先に腰をおろして、
「こいつは工合がいい、お
「だって……」
「何が?」
「こんな所にいて、もし、誰か来たらどうするの」
「臆病だなあ」
龍平はお蝶の
「大丈夫だってことさ。同心でも来たら、お蝶さんは野菜小屋へ用があるふりをしているし、わっしは、ぽいと隠れてしまうまでのことじゃないか」
「もしか、人に見つかるとねえ」
「そんな怖がりんぼじゃ、色恋はできませんぜ」
「あら、八ツ口が
「だから、素直におしなせえ」
「なアに……用って?」
袂に引かれて、お蝶は龍平のそばへ身を寄せました。
ここは小石川の窪地、
ちょうど、
外の者はここを切支丹屋敷とよび、内部のものは山屋敷と呼んでいる。もとは
それと、たった一つの
あとはすべて畑です。
そこへは時々、
世間で思う切支丹屋敷とはまるで違っている。
一口に、山屋敷といえば、水責め火責めの
六、七十年
では、ここは
今でも一人の異国人が、あなたの牢に数年間とじこめられている。その一人のために、これだけの広い場所が保存されてあるのですから、政策というものは
されば、山屋敷の内部では、
「
お蝶は、男にもたれて、
「
とろけそうな
おや、その
いつか、浅草の四ツ目屋へ、
お蝶が、敷いている
「え、どういう話?」
と、
「それが、ちょっと、言い
「なぜ?」
「たびたびだからなあ」
「じゃ、またお金のことなの」
「まあ、そんな
膝ッ子へ、がっくりと額をつける。
お蝶の眉が少し曇りました。
だが、この娘も酔狂ではあるまいか。十人並以上の容貌をもって、何を苦しんで山屋敷の
思案のほかにも程があろう。
と――岡焼きの意味でなくとも大いに疑われますが、さてまた、そこには多少道理なわけがある。なぜかといえば、お蝶は、その青春の対象を、山屋敷の
かの女は、
宗門同心今井二
今井二官といえば日本人の如くきこえますが、海をこえて布教に来た異国人です。しかし、かれは日本に着くと幕府に捕われて、きびしい責め道具に逢い、その宗旨をすててころびました。転宗すると、幕府の同心になり、この山屋敷のお長屋に住んで二十人
そういう者を「ころびばてれん」と呼んで、幕府ではいい
また、首を斬られた罪人の後家さんで、適当な女があると、それを妻として
二官も型の如く、ある罪人の後家を妻として、お蝶という子をもうけた。つまりお蝶は、ころびばてれんを父とし
なんと、
いかに美しくとも
ころびばてれんの娘――お蝶にも青春がめぐってきた。けれど山屋敷にはいろいろな束縛がある。そこへ対象に現れたのが
こいつ、仲間にしては
また、お蝶も、こういう所で育ったせいか、
「――何も考えることはねえじゃないか。おやじの二官が持っている合鍵をちょッと借りて来りゃ、百や五十になる品物は、いくらもあの土蔵から引き出せるんだ。頼むから、何とか都合してくれよ、え、お蝶さん……」
先頃も、同じようなハメになって、お蝶は父二官の合鍵を盗み、父が管理している切支丹屋敷の土蔵から、
「いいわ」
お蝶は、遂に
「じゃ今夜、あの土蔵の窓の下に来て待っていてくれない? ……
「すまねえな」
男は、小娘の胸に、ありありと高い
古い柿の木だ。
自分がこの切支丹屋敷の長屋に住んで帰化してから、も早や二十年以上にはなる。そして、また今年もすでに暮れようとしている。
夢だ……。
――ころびばてれんの今井二官は、そんな追憶にふけりながら、
わからないものは人の運命。
そして、お蝶という、娘までもつ身になっていようとは。
故郷の――
面目ない。
二官はそれを思うたびに苦痛らしい。
使命を裏切った背教者!
意気地なく
長崎に、
それはみんな汝の名だ!
と――遠い
その机の上には。
こくめいに文字をつめた書類や
何かと見ると、辞書の草稿です。
幕府の
「ああ、また自分で気を腐らせた。忘れよう……及ばないことを」
気をとり直して筆を持つと、
「二
と、その時、形ばかりの竹垣をめぐらした裏口から、落葉をふんで、ひとりの同心が、
「よく精が出るのう。もう陽が暮れるのに、そんな薄暗い所で
と話しかける。
南天の枝へ六尺棒を預けて、くつぬぎ石から投げるように、縁へ腰をおろしましたが、それはやはりこの
「……こうして夢中になって
「ウーム、しかし、余り精を過ごして、体を
「女親が先に亡くなっていますので、私も、お蝶の行末だけは、何かにつけて案じられまする」
「親心は、異国人でも、変りがないとみえる」
「むしろ、人一倍でございましょうな。何せい、血の
「ウム、けれど、お蝶も近頃は、目に立って美しくなった」
「はい、年頃は、争えませぬ」
「気をつけることだな、もう、そろそろ油断がならないぜ」
と河合伝八の言葉は意味ありげでしたが、
「あの美しさが
と、先の真意のあるところは耳うつつで、ただ子
そこで、伝八はきせるを抜いて、
「火を一つ貸してもらうぞ」
手あぶりを縁へ引きよせながら、ジロと、部屋の中から勝手口をのぞきこんで、
「お蝶は、見えんようだな」
「先程、畑の方へ、野菜をとりに参りました」
「ふウん……
「私が陰気なので、あれだけは、若い娘らしく、せめて山屋敷の中だけでも、好きに、飛び歩かして置きたいと思います」
「結構だ。けれども二官殿」
「え?」
「気をつけろよ」
「…………」
「
「……悪い虫が?」
「ウム、
「あいつ、拙者の見るところでは、どうやらお蝶に甘い言葉をならべて……」
なおも言いかけようとした時に、コトン……と勝手の水口で、誰やら帰ったらしい物音。
色を変えてボウとしている二官の前に、いつか伝八の姿は去って、入れかわる夕闇の
「お父さん」
「…………」
二官は腕を組んだまま。
「ここでよろしゅうございますか」
八畳の間の中ほど、
「ウム……」
不きげんに、言ったのみであります。
気にもかけないで、お蝶は、長い
そして、暫くは、勝手で瀬戸物の音がつつましく、この寒いのに、香の物をきざむ音が、子煩悩な二官の
「ばかな!」
かれは、今の、不快な想像をうち消して、
「お蝶に限って、そんなことのあるわけはない。わしを異国人と思うて、伝八めが気をもましてみたのじゃ」
自ら気をとり直して、雨戸を閉めたり、書物を片づけて、膳の前にきてみると、お蝶は、親の目にも見とれるくらい、濃厚な
「つけて貰おうか」
「
「いや、結構。だがお前は、今し方までどこへ行っておったのだ」
「御門鑑をいただいて、坂上まで、買物に行ってまいりました。お父さんの
もの言うたびに、黒髪の蔭で金の
貧しい二官は、お蝶が自力で、
「世間を知らないお父さん――」
お蝶は、自分の父が、事情に暗い異国人であることを、ある時は、幸せだとさえ考える折があります。
何しろ、十六、七までは、欲しいと思う紅を求め
ふと、伝八の口から耳にしたことさえ、つとめて、打ち消すようにして、敢て、幸福な眠りを急いで
すると……その晩です。
やがて――
「む……むウム……」
二官が寝返りを打った途端に、かの女の身は機敏にちぢまり込む。
木枕のきしみに、あの、
そして。
眼をつぶりながら……。
お蝶は
蒲団の中の心臓の音が自分にもハッキリと聞こえる。
冷やッこい金物が、
うしろ向きに、深く夜具の
水口の戸を開けると同時に、サッと流れこむ寒風を怖れながら、素早く、音を盗んで外へ出ます。
まだ宵でしょうが山屋敷の中は
「土蔵の下で、もう龍平が首を長くしているだろうネ……少し約束よりおそくなったようだ」
お蝶の目には男の姿がチラつく。
家の裏から
そこに年ふる四、五本の
「オオ、寒!」
と頭巾のはしを口にくわえて、お蝶の足が自然と早くなりましたが、それとともにどこかで不意に、
「お蝶さん――」
呼びとめた声がある。
遠いようで近い声――さびたる
「どこへ行きますか、お蝶さん」
「…………」
お蝶はゾッとして、木の葉まじりの風に吹き止められながら、
「誰?」
と言うと、
「わたしです、ヨハンです」
声の
「あ、ヨハンさん」
「いいところへ来て下さった。すみませんが、その
「あ、これ?」
「ええ。私の、
「取ってくれというの?」
「どうぞ……」と、牢のヨハンは拝むような表情をして、お蝶の手からそれが鉄格子の間にさし込まれると、いくたびも感謝しながら、古い聖書のページへ大事におさめました。
「もう七年」
ヨハンは暗い中にかがやく目をして、
「――
現在、切支丹屋敷の牢獄に、たッた一人いる異国人とは、すなわち
かれは今から七年
吟味所でかれを調べた新井
(すべてその人博聞強記にして、かの国多学の人と聞こえて、天文、地理の事に至っては、われら
と自著西洋
ころべば、幕府は妻家
日に、小麦の
それで命をつないでいるヨハンですが、肉おとろえ骨あらわれても、どこか、かれが生気を失わないのに反して、
ころびばてれんと。
ころばぬばてれんと。
何しろ、皮肉な対照でありました。
ところで今――こんもりした榎の下の暗がりで、ヨハンは石室の鉄窓からお蝶の夜目にもあでやかな影を見ながら、
「ど、こへゆきますか、こんな晩に」
と
「わたし?」
お蝶は面倒くさかッたが、
「
と、出まかせなことをいう。
「かんざし?」
ヨハンは
「アア、髪へさすかんざし? ……それなら、あした、明るい時に見に行った方がよいでしょう」
「だッて、もし、雨でも降ると、泥の中に埋まってしまうかも知れないんですもの……あたし、心配で、寝られやしない」
こんな答えをする時のお蝶は、いかにも無邪気そうな、あどけない表情をして、あの毒針を心のどこへ引ッこめてしまうのか、ちょうどヨハンの故郷、
「いつか、
牢の中では、思い出したように不意にいって――
「お蝶さん、ちょうどいい、話があります」
「まあ、いやだ、気味のわるい人!」
飛び
「離して! わたしには、ほかにも急ぎの用があるんですからネ」
「気味がわるいことはない、私は神の
「大きなお世話じゃないか」
「お気の毒な、さだめし、二官殿は良心に責められておいでだろう」
「うらやましかったら、お前さんも早くころんで、牢から出してもらえばいいのに」
「はははは……」
あたりを忘れて笑ったが、ふと、改まって、
「私の国も
「そんなこと、聞かなくッても分っている」
「じゃ……二官殿が日本へ来たほんとの
「? ……」
「日本は禁教の国、徳川家では、海をこえて来た異国人と見れば、すぐ捕えずにはおかない。そんな危険を承知しながら、なんで、私がまた二官殿のあとから羅馬を立って来たか、そこに深い秘密がなくては……」
「離して下さいよッ」
じれッたそうに袖を引いてうしろを見ました。
そこには、いつのまにか、土蔵の方で待ちぼけを食って、たずねて来た
オイオイお蝶、いい加減にしろよ、いい加減に――。
何をつまらねエ
男の手招ぎに気がつくと、聞くのもじれッたいヨハンの話などは、もう耳にも入らないで、お蝶はその方へ馳け出しました。
「龍平かい?」
「で、ございましょうよ」
「悪かったネ、遅くなって」
「お嬢さん、じょウだんじゃありませんぜ」
「オヤ、何が? ……」
「何がって、ばかばかしい、大事な約束を前にしながら、この寒空に、龍平を
「そんなに怒るもんじゃないよ。だッてね、今夜に限って、あのヨハンが私を見かけると、
「あんな、
「ア、いやだ……そんなことを言ッちゃあ」
ぶるッと、怖そうな表情をして、男の腕に巻きついたが、その柔らかい手は、少しも真から怖そうな脈のひびきではありません。
そうでしょう、これから官庫の
俗にお
けれど、それを
「お、鍵は?」
と、うしろで、龍平の低い声がします。
くずれた石垣の蔭から、無言で姿をみせたお蝶は、帯の間から取りだしたものを、思い入れして男の手へ渡しました。
かの女は、このお
百数十年来――二代将軍時代からの
それはまた何かといえば、皆、はるばる海をこえて、
されば、中には、当時の江戸ではまだ見たこともない、白金や宝石や異国の七宝珍貴な物が、あるべかざらざる所にあるわけでありますが、慾には抜け目ないはずの要路の役人どもが、それを
だが、龍平にはそんなことは、決しておかまいないことで、お蝶とても、父の手伝いにここへ入って、初めてそれを見つけた時には、
「まア、勿体ない」
と、むらむらとしていたくらいなものです。
「――お蝶さん、見張りを頼むぜ」
龍平は、鍵をうけ取ると、五、六段ほど石段を
「あ、早く……」
と、お蝶はそれに応じて、小走りに土蔵の裏がわをのぞいて来て、
「大丈夫……今のうちだよ」
「ウム!」
と言うと、龍平の両手は、ガチリ、ガチリ、と大きな
全身を
――
耳をつけても外では音の知れッこはありません。
――でまさかにそれとは知らなかった。
ところで、中なる土蔵では、
「――親分」
と、ひとりの黒ン坊が、
「こんなものがありましたぜ」
「ウム、
と言ったのは、本格な黒いでたちをした男、そばにも二人ほど控えていて、それだけは大長持に腰をすえ、
「明けてみろ……」
と、
「
「用はねえ」
「親分――」
と、また
「これはどうでしょう」
「
「そうらしゅうございます」
「すててしまえ」
スルスルと梯子をすべって来たのがまた何か見せると、用はねえ、違う、イヤ、それでもねえ、あれでもねえ、と次から次へ首を振って、ほとんど、この土蔵の中に何を求めるのか、かれの不機嫌に
で、とうとう見切りをつけることに一致した黒ン坊一同、ソロソロと長持の前にかたまッて、
「親分、もうこれ以上は、探しようがありませんが……」と、かぶとをぬいだ泣き声で、あやまり入った風情です。
「ウーム……」
男は腕をこまぬいて、荒涼たる土蔵の中を眺め廻しておりましたが、舌打ちして、
「じゃ、しようがあるめえ。引き揚げよう」
「いめいめしいなあ」
うしろで、舌打ちにつれて言うものがある。
「わっしは、七日七晩、焼き米かじッて、ここに住み込みで探したんですから、それで外へ出たひにゃもう半病人です」とさえ、中には言うやつがありましたから、これは、何かよほどな探し物だったにちがいありませんが、それは骨折り損になり、なおまだ、親分というものが何を求めるのか、意中の
「尤もだ、じゃあ話すから、誓いをしてくれ」
と、一同へ
「おれとここにいる
浜島庄兵衛の日本左衛門、ここに初めて、手下の者へも秘していた、ひとつの大仕事をうちあけようとして、声調おのずから低まりました。
ガチリ、ガチリ……と、いつまでも錠前と取ッ組んでいる様子なので、見張へ廻っていたお蝶も、見ていられない気になって、
「ちイッ、なにをしているの」
「ま、待ってくれよ」
「鍵が合わないのかい?」
「ピッチリ
「おかしいネ、貸してごらん」
代り合って、こんどはお蝶の白い指が、冷やかな金物にふれました。
日本左衛門を真ン中に、土蔵のうちでは黒いものが、
「短刀?」
「ウム」
「一尺ばかりの短刀ですって」
「ウ……」
「親分がそれまでに目をつけるからには、いずれ
「もちろん」
「とすると――
「いいや」
「少し下がって、千手院、
「ちがう」
「古刀ですか」
「うんにゃ」
「じゃ、新刀で?」
「そうでもねえ」
「はてね……。だが、
「いる!」
「分っていますか」
「ウム、実は、
「えッ」
と、ここで初めて黒い連中は、自分たちの反問が
しがない
「妙に聞くかも知れないが、決して、嘘やからかい事じゃあない」
無智な手下たちの気を見てとることは早く、日本左衛門、
「――おれが生涯の大仕事として、ひそかに探し求めているのはその短刀の埋もれている
真面目です。
その
そこでかれが話すところには。
短剣というのは
その者は、日本でたしかに
「夜光の短剣が見つかれば、ある王家が亡びずにすむのです。誰でもよろしい、それを手に入れてくれた方と何万金でも取引します」
熱心に南蛮船から
あの、四ツ目屋での、
それも実は、日本左衛門が、こいつは? ――と首をひねッた敏覚からつけてみた事で、その暗示から山屋敷をこえ、一歩進んで、官庫の中をこうかき廻したのも、まったく、
けれど。
それは見事な失敗に終って、
「こいつらにも、無駄骨を折らせて気の毒だった」
と思うままに、今、実相の一端を洩らしたのでありましょうが、意外にも、かれが話し終ると共に、
「はてね? ……親分、私はそれと同じ話をツイ四、五日前にもよそで聞きましたが……」という者が出てきました。
日本左衛門には意外でありました。
夜光の短刀の秘密こそは、まだ自分と、
手下の前で、今、その一端をもらしたのも実に初めてであるのに、それをもう
うっすらと
「だれだ? そう言うのは」
声の
「へい」
と、うずくまった
「ウム、てめえは
「へい」
再度こう返事をしたのは、お人好しの率八と通称のある小泥棒。
盗賊の中に籍を置いていて、それで、お人好しもないように聞こえますが、この黒い連中もこれで一社会をなしている以上、やはりその粒のうちにも、おのずから善と悪があり、義と不義があり、固い性質とズボラがあり、素走ッこいのと薄のろ、陰険なやつとお人好しの
「前へ出ろ」
その率八をあごで招いて日本左衛門は、
「――今おれが話したとおりなことを、よそで四、五日前に聞いたと言うが、そりゃあ、まったくか」
「まちがいなく耳にしました」
「どこで?」
「
――何を言ッてやがンでえ――と例に依ってクスクス嘲笑しかける者がありましたが、日本左衛門は、それで一笑に付し去ろうとはしないで、なお
「伊兵衛というと、道中師の伊兵衛のことか」
「そうです」
「あいつなら、たしか、いつぞやの市にも顔を見せていたな」
「
「ウム」
「すると、伊兵衛は居ません。あっしは腹が減っていました、飯が食いてエなと中に
「ウム……」
「話し声に目がさめると、隣の部屋で、伊兵衛と
「ふム……」
「とネ、親分、馬春堂のやつがでッかい声で――伊兵衛! こいつあ大変だぞ! えらい物が手に
「箱を
「へい、そのそばに、女の
その外では。
中から用意の
けれど……そこが開いたらどうだろう?
むしろ、開かない戸こそ、幸いだったのではないでしょうか。
率八は、それからまた、
「馬春堂と伊兵衛さんが、
と、日本左衛門へ向って、話しつづける。
「なアに、二人が思案し合っているのは、その女の仮面じゃあなくッて、面箱の底から出て来た、
「尾州家の……おっ、それが面箱か?」
「へい」
「合点がいかねえ!」
と日本左衛門は、大長持に腰かけて抱えていた大刀のこじりを、
「尾州家の面箱といえば、
「親分、あいつは、伊兵衛があのドサクサまぎれに、さらッて逃げたんでございます」
べつな
なるほど。
それには日本左衛門にも、
「まア、そりゃ、どうでもいいが……」
深くは
「で、それから、馬春堂が何か話したのか」
「そうです、伊兵衛さんの口ぶりじゃ、その面箱をポンと開けると、面の裏から、奇妙な、えたいの分らねえ、
どうもお人好しだけに、複雑な話になると廻りくどい。
つまり。
率八の話を
首きられたそのばてれんの口書にも、はるばる
けれど、時の役人――尾州家の者も、異教禁令の
(巧みに虚妄を申し立つるといえども神威のお
と結んで、審議のあやまちは知らず、調書に誇って書いてある。
けれど見る者が見ると、
(夜光の短刀をこの日本へさがしに来たのだ! 布教ではない! 夜光の短刀がほしい!)
と白洲で叫びつづけたその者の口書には、どこかに真実が
偶然――その口書の内容と、今、日本左衛門がここで一同に話したこととは
「ウーム、そうか。率八よく聞かしてくれた、礼を言うぜ」
と、すべてを聞いて黙思した日本左衛門も、ここに一段と自分の捜索に眼界をひらかれた心地。
思えば……。
じッと冷静に夜光のまぼろしの遠い過去を思えば……それは二年や三年、きのうや今日に始まったことではないらしい。
率八の話をきいて思わず深い黙思に落ち入っていた日本左衛門は、やおら、やがて、
「うッ、うーウむ……肩が張った!」
土蔵の天井をつきぬくように
「さあ、いつまで、ここにこうしていてもしようがねえ。みんな! ぼつぼつ引揚げとしようぜ」
ぬッくと、大長持から腰をあげました。
そして自ら先に、黒頭巾を脱ぎすて
それに習って。
一党の黒い連中もおのおの黒衣の一端からクルクルと仕事着の皮を剥きはじめる。
見ると、それは縫目もなければ袖もない、
それを器用に五体へ巻きつけて、四本足の
「腹が黒い」という語源が、そもそもこの辺りから出たものかどうか、それは詮索の
ちょッと、たもとからくり出される
さて。
連中があざやかに引揚げ
「おい、日本左衛門」
「ウム……」
という気のない肩を打って、
「――がッかりのあとが理に落ちて、イヤに今夜は陰気になった。吉原とでも目先をかえて、
「よかろう、案内をしてくれ」
「雲霧」
「おう」
「行くか」
「なにしに否やの
「は、は、は、は、こういう相談で破談になった
「親分」
「親分、あっしも」
「てめえたちは鼻の穴でも洗って、どこかへ勝手に散らかるがいい」
チリン、チリン、チリン、と分け前の小判が、こんな中でも

「じゃあ――行こうぜ」
「灯を消せ」
日本左衛門の声を最後に、ふッ……と前後に吹かれた息が、さらぬだに暗い真のやみを呼び落しました。
「…………」
ズ、ズ、ズ……と一同の
先にやみをなで廻して、
鉄のような
そこの
女性のねばりづよい執着。
そのあるかぎりの精を蔵の戸に賭けて、お蝶はさっきから何ものもない様子で、そこを開けないうちは去り得ぬ心理になっている。
かかればかかるほど、凡婦と凡夫、自己の錯覚に捉われてゆくばかりで、
「どうして開かないのだろう。こんなはずはない、こんなはずは……」
精と根気をすり
そうです。
「よそうじゃねえか」
とうとう男が、弱音を吹くと、
「なにさ!」
かえってお蝶の方はやッきとなって、
「折角鍵をなにして来たのに、またいついい折があるか分りゃあしない」
「そうだなあ……。どれ、もう一度おれが」
浅ましいやつ。
まだ感づかずに、口をへの字に曲げて
「あっ……お待ち!」
その時。
お蝶が不意に袖をひきましたが、龍平は
「ウムッ……強情な戸だなあ……」
「お待ちってば、龍平」
「こいつあ変だ。いよいよあかねえと相場がきまった」
「それどころじゃあない……」
「えっ」
「たれか来たようだよ、人がさ……」
「ど、どこへ?」
と、かれがうしろへ目をやった途端。
しまった!
はッと驚いて、
「ちイッ、いけないねえ……」お蝶は龍平の手首をきゅッと握って、
「見つかったよ、見つかったよ」
「こ、こうしちゃアいられねえ」
ひッ腰もなく、男が戸まどいして馳けだそうとするのを抑えつけて、
「
「おっ、来やがった」
「早くッ……姿を隠すんだよ!」
じゃけんに枯れ草の中へ男を突きとばしておいて、お蝶自身はヒラリと石垣の下へ飛び降り、そこに乱雑に積んであった大谷石の間へ、機敏に体をひそませました。
と!
一瞬の
「はてな? ……」
と、急がしい目くばり、白壁にさした人影をあたりに探し求めている。
見るとそれは、夕刻、今井二
ふと、蔵の
「おおっ!」
かれは、
そして。
もう――と霧に立って、あたりへ降ってきた細かい血汐の粒にお蝶は肩をすくめて、
「あっ……」
歯の根をかみながら、口を破ッて出そうな驚きを、ジッと袖口でおさえました。
今。
蔵の錠前がはずれているのを見て、いきなり馳け上がって行った同心河合伝八が、そこの大戸があくよと見るまに、真っ向から
下へ落ちた伝八は、ただ一刀に絶命して、
「ウームッ……」
と枯れ草の根をつかみ、
ですが。
お蝶にも龍平にも、どうして、誰に、伝八がかく斬りさげられたのか殆ど前後が分らない。
こんな一瞬の気もちを夢中というだけで片づけるには、あまりに当人たちの心理が複雑でありましょう――言いようのない恐怖、疑惑、戦慄、さまざまな錯倒を胸に描いて、なお怖いもの見たさの目が無意識に、真っ黒な口をあいた蔵の戸前へつり上がッている。
逃げるにも逃げられる場合ではなし、その気力もあり得ようはずはなく、疑惑とおののきを歯の根にかみしめて、虫のごとく、
「? ……」
ただジッと、息をころしているほかにない
すると、静かな空気のまま。
魔法をもって吹き出された人間のごとく、蔵の中からのッそりと足をふみ出したのは雲つくばかりな大男――、栗色の衣類に
すぐあとから一本の刀の光が、
つづいて、
でっぷりと肥った男、
一
そのほか一味の
ところが、また少し間をおいて、慌てて走り出してきたのは、今までの連中と違って、しなやかな線をもった痩せ形な人影。
追いついて、先の
しとしと……と多くの足音が、遠のいて行く
一陣、夜更けをすさぶ
ザア――ッと吹きめぐる風の渦は、山屋敷いちめんの畑や蔵や役宅や
翌日、山屋敷の騒ぎは案の如きものとなって、役宅からは
わらわら飛んで来たはいいが、見るほどの者が皆そこへ来ると
中は目もあてられない乱脈!
さらに、戸前の下には同心河合伝八の謎めいた死骸!
あまりの事に寄り集まった者が、
「まったく、あっしゃ、生れてから今朝みてえにビックリした事はございませんよ。何しろこれですからね。何の気もなく起き抜けに奥の物置へ掃除の道具を取りに行こうと思うとこれなんでさ」
大勢の者は、同じことを何度も言って廻る龍平の
「はじめ、あの
「では、貴様が第一にこれを見つけたのだな」
初めてかれの顔を顧りみたのは、役宅
「よろしい、現場は拙者が預かる、一同はここを
こういうと側に居合した二人の同心に何か耳打ちをした様子。ひとりは龍平を連れて役宅へ戻り、ひとりはあとの者を追い帰して、直ちに、今日よりお許しの出るまで、山屋敷の者一同外出まかりならず、というきびしい触れを出して禁足しました。
これは当然な処置でした。この
で、
「弱った……」
役宅へ引揚げてきたかれの顔色はまっ青で、
「ウーム、弱ったことができた」
ただ吐息をくり返すばかり。
皆目、なんの見当もつかない。官庫を破った者は少なからぬ人数のようであるが、その目的とした所がまるで想像がつかない。
このまま、これを幕府に報告して、町奉行の力を借りるとなれば、切腹は待つまでもなくそれと同時の仕事です。と言って、風の如く来て風のごとく去った群盗の
わずかに、勘解由が思い当るのは、これは誰か、内部のものが内から手引をしたのではないかという疑念。
で――その翌々日、かれは役宅に
入れ札。
それは一体どういうことかと疑いながら、むしろ好奇な目で、ころびばてれんの今井二官は、何も気がつかずに娘のお蝶を連れ、神妙に、その中の
入れ札の白洲というのは、いわゆる犯人投票といったような方式で、当時、何か事が迷宮に入った場合にはまま行われたものだと申します。
白洲といっても畳を敷きつめた役宅の広間なのです、正面には山屋敷
で、与力の
「お上の御封庫を荒し、同心河合伝八を殺害した不敵な
ジロリと二十七名の頭数を見渡して、なおも一応入れ札を取るに至った理由をのべます。
そして、言い渡しの終りに、
「たとい肉親
思い当りの全くない者は、
(誓って存じ寄り
と書いて
扶持高の順番が一人一人廻ってきて、やがて指名されたのは今井二官です。二官は御封庫破りの騒ぎも寝耳に水でありましたし、それを手引したという疑いをもつ者なども、自身の周囲には思いよるところがないので、そのまま正直に、
(誓って存じ寄り
と、入れ札をすまして引き退がりました。
次には、その
お蝶の濃艶な姿はこんな情味のない席にあって一層衆目をひきながら、静かに書記机の前へすべって、歌でも書くようにスラスラと何か入れ札を
最後に、八、九人の
入れ札が終ると、一同は役宅を出て、

(誓って存じ寄り
という札ばかりです。
仲間の龍平が入れた札も同様でありました。
ところが、最後に開いたお蝶の入れ札を見ると、それには優しい文字で明らかに、官庫破りの盗賊を内から手引きした下手人の名として、
お小屋番のもの龍平。
と、かれの名を
遠いところの昼の三味線――
松の内の町を流す女太夫の糸でもありましょうか、例のけだるい稽古
枕元には、白茶の
また、鎌倉塗りの盆の上には、
その福寿草も開き切ってしまいそうな暖かい初春の陽が、
眠れる人は、
金吾といえば、彼は尾張中将の放縦なる若殿徳川万太郎の側付き、その万太郎が市ヶ谷の上屋敷を放逐された
「おや……」
切壁の
「……まだ眼がさめない」
枕元にやんわりと坐ると、長火鉢で加減をみてきた
「――だが、瘠せたねえ」
何を思うのでありましょうか、手を
あれは十一月の頃でした。
その考えごとに
と、いうのは、
もともと金吾があの時の不覚は、日本左衛門の
と言って、気を失ったままにしておいて、自分の置きたい部屋に、そっと据えておくこともならない。
お粂が甘やかな親切気を見せて、気つけ薬と言いながら金吾に最初飲ませたのは、何か微量な毒のある
「万太郎様がお案じであろう、早く、一日も早く、わしは根岸へ帰らなければならぬ」
金吾の
「もし……相良さん」
と、お粂はやがて夜具の中の
「堪忍しておくんなさいね」
こう詫びると、突然、自分の顔を男の頬へピッタリと押しつけて行って、美しい
「帰しゃあしない……
「お粂さん――御馳走さまだな」
あらぬ所から思わぬ人声が飛びこみました。
はッと男の体から身を離したものの、ここは丹頂のお粂が好きに手足をのばしている隠れ家で、まして茶室ごのみに壁で仕切ったこの奥の部屋へそんな不作法な人目はないはず。
と、思って――お粂は自分の驚きを打ち消しはしたものの、もう
あだめいた女がさす櫛とさえいえば、
で、この両名の関係は、仲間の者でもあいまいに考えられていますが、いつか
そういうお
そうした愛と毒心の矛盾に立ってお粂は今またそこで、
「相良さん、目をおさましなさいな。御飯ができましたから……ね、相良さん」
と、今度はほんとに肩を抱いて起しかけましたが、それを聞くとどこかでまた、笑うらしい
「おやおや、朝ッぱらから……は、は、は、は、どうもお安くないことですな」
襟すじへスウと風が来たので、お粂はムカッとしてうしろの
「どうも飛んだところを拝見しました」
と、げらげら笑いながら謝っている。
謝るくらいなら引ッ込めばよいのに、なおずウずしく馬面を貼りつけているので、お粂の仲の
「なんだねまア、大きな鼻の穴をしてさ、物貰いのお獅子かと思ったら、その顔は馬春堂じゃないか」
「仰せのとおり、
「何がげらげらおかしいのさ、家にゃ、こんな九尺二間でも、格子作りの入り口があるんだからね、用があるなら表から廻っておくれよ」
「ところが、いくら訪ずれても、その表の格子が開かないと来ています」
アア違いない! と気がついたが、ここで折れるのは
「そうさ、
朝から縁起でもない
「
折から長火鉢のわきへ出してあったお重箱の
腹を立てる値打ちもなくなって、お粂は
「用のありそうな顔つきをして来て、やっぱり
「仰っしゃる通りでもあり、そうでもない用件も少し帯びて参ったので。まあ春のこと、一杯やりながら
と
「あちッ、ち、ち、ち、ち……」
「ひとつ、
「有難くないね、お前さんのお
「いくら奥に色の小白いのを寝せつけてあるからッて、そんな憎まれ口をたたくものじゃありませんぜ、馬春堂だって、一年三百六十五日広小路へ
「ああ、そうかよ、うるさいね」
「人の顔を見るや否や、すぐに
「どういう訳だが、自分で
「その判断なら
と、膝をあぐらに組直して、馬春堂の針をふくんだ手酌のあいさつ、この八
「なるほど、まあそんなことかも知れないねえ」
お粂は取り合わないふうに、かんざしの脚で、きせるの朝顔をほじりながら、
「見料にもう一本つけるから、さッさと飲んで帰っておくれ。今日は少し出かける用先を控えているんだから」
「よろしい、じゃぼつぼつ用談に取りかかろう」
と二ツ三ツ
「ほかじゃないがお粂さん、あの奥に寝ている侍は、尾州の徳川万太郎の家来だろうね」
「それがどうかしたのかえ」
胸にギクリとくるものをかくして、お粂はわざと何気ない眉を馬春堂へ寄せながら、ぷッと
「なに、どうもしやしませんが、その相良金吾に違いなければ、どうだろう、わしにあの侍の体を一日貸してくれませんか」
「おとぼけでない」
お粂は糸切歯にゆがんだ笑い方を見せて、
「相良さんの体を貸してくれないかってお言いなのかえ? じょうだんも大概にするがいい、お前、
「じゃあ、どうだろう」
馬春堂はお粂の舌頭ぐらいには、チクリとも感じそうもない
「ちょっと、手前に引き合わせてくれぬか」
「会ってどうするのさ」
「話があるんだ」
「私が聞いて取次いであげようじゃないか」
「御親切は有難いが、少し内密なことなので、じかに聞いて貰いたいと先方からも頼まれているので、どうも
「……ヘエ、それでは、用があるのはお前ではなくって、だれかべつに頼まれている人間があるんだね?」
いよいようさん臭いお客様と見て取って、長火鉢の猫板へ
「だれだい、その頼み
「それも言ってくれるなと固く口止めされていてな……どうも弱った。だが何、決してお前さんの恋の邪魔をしようの何のというような腹じゃあないから……」
と馬春堂はお粂の
手酌に重なる
「オイ、なんだッて!」
「よしゃアがれ、おたんちんめ、相良に会うも会わねえもこッちの勝手だ。ありぁあ元々てめえが
「ホ、ホ、ホ、ホ。そんなおせッかいな噂をしている
「知らぬは亭主ばかりなり――日本左衛門はどうだか分らぬが、おら、道中師の伊兵衛から深いことを聞いているよ」
「伊兵衛? ……ああそうか、お前に何か頼んだというのは、あのからくり屋の小細工だね……」と、お粂が何か思い当っている
「そんなことはどうでもいい、表にゃ駕が待たせてあるんだから、金吾はおれが連れて帰るぜ」
「――何をするのさ、病人だよお前、相良さんは」
あわててお粂がその前に立ちふさがると、馬春堂は相手を女と呑んでかかって、
「そうよ、その病人をなおしてやるんだ。邪魔をすると承知しねえぞ」
「ふざけた真似をおしでない、丹頂のお粂の家で
「生意気なことを!」
平手で横顔をはりつけようとすると、お粂もきいている女ではありません。
「人を
蘭花のまなじりに
「さ、出ておいで! 出ておいで!」
台所のほうへ引きずってゆくと、
「ちッ、この
とたんに。
棚の瀬戸物小鉢が、いっぺんにガラガラと流し元へ落ちて
「あい、ごめんよ、ごめんよ」
その時。
露地の口元が人で
「あれ、親分……留守のようですぜ」
と、開かない格子に手をかけながら、自分のうしろにヌッと立っているふところ手の
「留守?」
「ええ、開きませんもの、これが」
「そんなふうには見えない、もう一度、でかい声で呼んでみろ」と日本左衛門。
稼業がらの癖に、留守か留守でないかの見分けがつかないところはさすがに率八らしく、格子に顔を押しつけて、奥へ訪ずれることなおしばし、しかも、返辞のないのは依然であります。
日本左衛門はその間に、かれを残して家の横へと廻っている。それは何の
「そうか――」
かれはお粂が風邪でもひいて寝ているものと直覚しました。で、何気なく前に馬春堂が立った所から四畳半の内をさしのぞいて見て、
「やっ?」
お粂と思いのほか、どこかで薄ら覚えのある若い武士の寝姿が
「……おっ、相良金吾だ?」
思わず口走ろうとする驚きを、ペリッと笠のつばに折って、うしろへ身を
「親分――」
どんと
「やっぱり留守じゃありません、お粂さんは裏の方にいるようなんで、それに、変な物音が……」
導いて行こうとすると日本左衛門は、何思ったか、反対の方へ五、六歩急いでお人好しの率八をうしろに
「おれは帰る、お粂にあれだけを耳打ちしてやってくれ」
ただ一
ぽかんと、口を開いている間に、その姿は抜け道へ
「
と、前の調子で力強く手にかけると、こんどは勢いよく開け過ぎて、あぶなく流しの前へ
お粂を下にねじ伏せた馬春堂が、相手の胸元へ短刀を擬している。その光が率八の眼の玉へいきなり飛びこんだから堪りません。
「野郎!」
というと有り合う獲物、何をつかんだか自分でも分らず、飛び上がるなり馬春堂の頭の上からザーッと手桶の水をおんまけて、
「姐御に向って何をしやがる」
不意を食った馬春堂が下へころげ落ちたところを、手にふれた
「ウーム、おぼえていろよ」
お粂は髪を直し、濡れた着物をつけ直して率八を長火鉢のそばへ呼び、
「
率八の労を
「なんてえ、ゲジゲジだろう」
と、なお去らぬ余憤に舌打ちを鳴らしています。
「姐御もまた、何だって、あんな野郎を寄せつけるんで」
「いくら不愛想にしてやっても、のこのこ来るのだから、手におえないやね」
「いつか私が、
「ああ、それでだね……」
とお粂のひとみが奥の方へうごいたには気がつかないで率八は、
「ところで、今日来たのもその話なんてすが、
「親分……が来たのかい?」
「ええ、つい窓の下まで」
ドキと不安を呼ばれたお粂の胸に、あの蒼白にして
「で――話は急だし大変です。切支丹屋敷の一件が町奉行の手に移って、ぐずぐずしていると、ここも捕手の目につくから、今夜のうちに世帯をたたんで一時どこかへ姿を隠した方が無事だろうと、こう親分が御心配なすって、その耳打ちだけをしておいてくれといって帰りましたぜ」
がアーッと二、三羽の
ここは根岸の里。
すると。
かなり荒廃した
空へハネ返った
「うまく行った」
と、いうていにニコッと
けれど、塀を越えて抜け出したところを見れば、まだその行状は相変らずなものと見えます。身なりは、絹の光の冷やかな着流しに
「寒い……」
肩をすぼめて急ぎ足に、かれがそこを離れてゆくと、藪のかげからまた一人の男が、
「――万太郎様、しばらく」
と曲ってゆく
「万太郎様、万太郎様」
呼んでゆきますが声が低い。
それをいい事にして先へ行く万太郎は、耳のない振りをしていよいよ大股になる。
ええまずい!
外にまで
ままよ、面倒くさい、打ッちゃらかして行けという気なのでしょう、そのまま
久しぶりで万太郎、
「まず、飯でも食べての上の思案としようか」飢えてはいないが冬眠していたかれの習性が催促する。
びっくりするような、
ハタとかれの足が止まる。
万太郎は生れて初めて、六本の黒い
相良金吾をたずねに出たのです。帰らぬ金吾の身を案じて、その消息を知らんとして抜け出して来たのです。
また、金吾が取返してくると言って出た、かの洞白の面箱と、その底に秘めておいた「
で遂に番人の目を盗んで飛びだして来たものですが、さて、何を手懸りに尋ね出したものか?
その、迷路の靄に
「ゆるせ」
という万太郎は、吸われるようにそこの囲いへ身を入れました。
「お……」
と
判断の前に
ある紛失物を求めるために屋敷を出た家来が今もって帰らないがその者の消息が知りたい。
まず、生死の点如何?
あるいはそのもの変心して遠く
また求めに行った紛失物はかれの手に入っているのか、それともその
――徳川万太郎はあらましこんなところを告げて大道易者馬春堂の一
おぼるる者
「ほう、紛失
と馬春堂。
「――お待ち遠さま」
うしろの日月の幕の間から、顔を出したそば屋の
パチ、パチ、パチ、パチ……
万太郎は
「
「さらば……」と馬春堂、しかつめらしく机をにらんで、
「ウウム、お案じなさることはあるまい、凶兆はあるが、また一道の吉兆も見える」
「では、家来金吾の身にも、まだ別状はござらぬな」
「いいや、そうもいえませぬて。つらつら
半信半疑に聞いていますと馬春堂は易書をくって
「ウウム
「なに、その者がおると申すか」
「いかにも、北に向って湿気の多い袋地、その奥にある女
あたるも八
それは根岸の
あとでは易者の馬春堂、
「は、は、は、は。今夜みたいにあたった易はねえだろう」
独り呟やいたのも自慢にはならない。昼間、自分が見てきた相良金吾の居所、お
そこで先生、
「どれ、冷えないうちに」
と、早速うしろの
「はーてな? ……いやに
目を皿にして、いくら見廻したとて見当りません。
すると、日月星辰を描いてある灰色の幕のかげて、何者かクスクス笑う声がしたので、いよいよ驚いた馬春堂、そこを払い
「これはしたり」
とばかり、呆れ返ってものがいえない。
さてこそ
「アア、うめえ。御馳走様」
ひどい礼儀もあったものです。食べた杉箸を
「ふざけた野郎だ」
と、丼は受け取らずに、その腕首を引ッつかんでくれると、
「おッと、止せやい」
「何をいッてやがる、乞食かッ貴様は」
「止せったら、馬春堂。おれだよ、おれだよ」
手を捻じられながら、笠のつばを上げて顔を見せたのは、下谷
「なあんだ、おめえか」
「折角の
「よけいなおせっかいだ、風邪を引いた気味なのでワザワザ熱くして頼んでおいたものを」
「何でまた酔狂に、春先から風邪なんぞ引きこんでいるんだ」
「それもお前に頼まれた一件からだぜ」
「どうして?」
「お粂の
「じゃ、例のを探りに、行ってくれたのか」
「ところが、その方の首尾は散々でな」
と、馬春堂は伊兵衛の期待へあわてて手を振って、
「まあ、こっちへ這入ってから話すとしよう」
風
「おめえが頻りと気にしているから、実は今日お粂の家へ様子を見に行った。ところが御安心なものさ、その金吾は病人で腰が立てない」
「それじゃ、あの
「そんな元気はないようだよ」
「ないようだじゃ心細い。金吾に会って、そらとぼけながら口裏を引いて見りゃいいに」
「それをやろうとしたのが大しくじり、会わせてくれというと、いきなりお粂が
「意気地がねえな、女に水をぶッかけられて引き
「なあに、水をかけた奴は率八だがね」
「どっちにしても
「今行った、徳川万太郎かな」
「そうよ、あれを馬春堂、お前は尾州の若殿徳川万太郎と知って、金吾の居所を教えてやったのか」
「ウム、
「どうする気だ! 飛んだことをしゃべったじゃねえか。もし万太郎が金吾の体を取っ返して見ろ、今度は二人がかりで
「なるほど」
馬春堂はお粂に対する腹いせに、金吾の居所を指してやったのですが、いわれてみると伊兵衛の言葉がもっともなので、
「こいつは、悪い易を立ててやった」と、悔いを噛んで目をそらしました。
と――その目の前の往来を
「やっ、捕手が廻っている!」
と馬春堂は腰をうかして、宵の町に黄色く舞った砂ぼこりの行方へ眼色を変えましたが、
「たいそう仰山な人数だな……こいつは悪くすると、また当座だけでも江戸から足を抜かないと
あわてて腰へ煙草入れをさし込み、笠の
「オオ、それから、お
「持って行くのか」
「おめえに預けておくのは
「成程……だが伊兵衛、お前はそれについて、これと目星がつくような手懸りがあるのかい?」
「あるものか。見当がついているくらいなら、こんなまごまごしちゃあいない」
「
「気を廻すにゃおよばねえ、そんなに造作のない物なら、あのばてれん口書を持っていた徳川万太郎が、とうの昔にどうかしていら」
「何しろ、でかい騒動になったものだ」
「どうして」
「夜光の短刀のことを知っているのは、その万太郎と日本左衛門と――それからお
「ウム、腕にかけても、伊兵衛がきっと探し当てて見せる」
「そう問屋で
「何より頼りになる、あのばてれん口書がこッちの手に這入っているのが強味じゃねえか、心配するな。オオ早くあれを出してくンな」
「伊兵衛、おれも一緒に出かけよう」
「どこへ?」
「どこへでもいいやな。お
「そいつもよかろう、じゃその
「お手のものの道具で旅易者か」
「おれが食えなくなった時は、途中でチョイチョイやって貰うことにするぜ」
「こいつは助からない役廻りだ」
にわかに、幕や机や
どうせ捨てて行っても、至って惜しくもないガラクタばかり、算木と
馬春堂は
そして、最後に。
ジューッ……と忍川の流れから白い煙が噴き揚ッたのは、おさらばのついでと景気よく蹴込んで行った
…………
一方は
ここに戸を閉めきった一軒の構えがある。
表通りで女住居と聞いたには、
まさか、易者の言葉を真ッ向に信じて、戸をたたいてみるほどの勇気も出ない。
ピタリ、ピタリ……とかれは
「あっ……?」
といって立ちすくみに、ぶるるッと身ぶるいをしましたが、時やおそし、万太郎がハッと気づいた殺気のただよう所から、闇を切って
ぶ――んと低く
万太郎の右足が上がって、
形は小太刀に似て作りは十手と同じこの
「やっ?」
と、蹴って返す万太郎。
「無礼なッ。何者だ!」
尾張中将の
ですが、その怒れる声の張合いもなく、向うの気配はシーンとして、ただ氷の如く張りつめる殺気と人の動きだけが
露か、
しかしながら万太郎には、不浄役人に陣を以て待たれる理由は毛頭ない。
「――人違いであろう」
早くも察したので胸をなだめて、早足に露地の口へ引っ返して来ると、表通りから馳け込んで来た男の影が、
「オオ、万太郎様で」
と、出会いがしらにバッタリと、膝を折って足元へうずくまりました。
今し方、どこぞで聞いた声のようだが――と思いながら、影ににひとみをこらして見ると、ガッシリした町人
「――路傍、かような場所がらで、身分の低い手前などが、
ははあ、こいつはわしの素性を知っているな。
万太郎はかく思いましたので、
「ウム、ゆるす!」
「呼び止めたのは何の用事であるか、申して見い」と、屋敷言葉で
「と申すお願いは、
「邪魔になる? ……」
「へい、恐れ入りますが、今宵はすぐ根岸のお住居へ、お引取り下さいますように」
「だまれ、左様な指図はうけんでもよい」
「と、お怒りも無論であろうと、実は最前からたびたびお呼び止めいたしながら、心怖じけて差控えてまいった次第、ここまでの辛抱を何とぞお酌み取り仰ぎまする」
「なに、最前も

「塀をお越え遊ばして、あれから、
「や、では、あの時の声は?」
「不作法
「ふーむ、してそういう
「申しおくれました。手前は、食いついたらきッと抜くといわれた釘抜きの勘次郎――と申す
会釈がすんで腰を立てる。
かの
金吾のこと、お粂の恋、道中師伊兵衛と馬春堂の関係など、すべての
しかし。
だが分らない。
町奉行所でも、どうしても分らない一つの疑問。
そも何のために日本左衛門らが、山屋敷の官庫を無益にかき廻したのか、その根本の目的であります。
解けぬ謎を解くべく、釘勘が今夜の手配に先立って、根岸に押込められている万太郎を訪ねたのは、つまりそれが重大な動機。
けれど、
で、どうしたものか? ……と
すぐ、声をかけたものの、先の身分や往来を考えて、つい気おくれしているうちに、その万太郎の
「ええ、しようのねえ坊っちゃんだ」
どれほど、ジリついたか分りません。
今夜伊兵衛が姿を現わすのは分っていたので馬春堂の
この袋地では、釘勘が、
日本左衛門はもう一度必ずここへ来る。
釘勘は自信をもっています。目明しの霊感を以てその信念の
だのに――万太郎が
かれが万太郎に向って、
「邪魔になる」といったのはここのこと。
「根岸のお住居へお帰り願いたい」と
暗愚ではない徳川万太郎、一部始終を聞き終って、
「ウム。ウム。おお、そうであったか」
尋常にうなずく事はうなずきました。
しかし、素直に帰る
「日本左衛門が官庫を荒らしたには深い理由がある。金吾に力添えをしてくれた礼として、その秘密をそちだけに洩らして
こういわれたのには、
「あっ……それを。有難う存じます、では暫く、あの空家へでも這入って」
南町奉行所
万太郎は、座敷にあった小机に腰をかけて、
更けてきました。――こうしているまに、もう真夜中ともおぼしいころ。
果たせるかな、その時刻になると、霜の降りたせいかほの白く冴えた袋地の一端に、ぼッと、三ツの
怪しげな三人の
何か囁やき合っていましたが、やがてお粂の
「
のび上がって家の中へ――
「
合図をして問わず語りにしゃべり出したのを聞くと、釘勘は家の中で、
「しめた」
と、明りを吹き消し万太郎の耳へ、
「いよいよやって来たらしゅうございます……」
「お、日本左衛門が?」
と驚いた様子で、万太郎も思わず腰を上げました。
「そうです。高飛びの行きがけに、ここへ、
「しかし、そのお粂は、もうここにはおらぬと申したが」
「賊でも日本左衛門は首領と立てられるくらいな人物、仲間の者の手前、お粂と金吾のことは見て見ない振りをしているんですが、お粂は男を見捨てきれないで、夕方のうちに二
「ではその駕の一挺の方には、金吾が乗っていたわけじゃの。ウウム、一足違いで惜しいことをいたした」
「何しろうつつの病人ですから、何処へ連れて行かれようと、今じゃあお粂の意志のままで、御当人にも分らなかったでしょう」
「してその行った先は?」
「手先を追わせてありますが、まだ何ともいって来ないところを見ると、何処かでうまく
「そうか」と万太郎も心得て――
「それでは今夜のところはここで別れるであろう、金吾の居所が分り次第に、根岸の方へ知らして来てくれい」
「あっ、今ここをお出なすッてはいけません」
「工合が悪いか」
「折角、日本左衛門という大きな
「成程」
「御窮屈でしょうが暫くの間、その押入れの中へかくれていて下さい。ワッと捕物の
「これへか……ウム、よろしい……」と万太郎は意外な修羅場に遭遇した危険を、むしろ欣ぶふうに、戸棚のうちへ身をひそめます。
「ようがすか、わっしが合図をするまで、外へ出ちゃいけませんぜ……あぶのうございますから……ようがすか」
いい残して釘勘はそこを去った様子。
颱風の中心にあるこの家は、今や、刻一刻と、気味のわるい
「そうだ! ……」
飛んだ野心を起しました。
「すさまじい乱闘が起るだろう、血の雨が降るだろう、日本左衛門が死にもの狂いを見せるであろう――ウームそれと釘勘の捕物陣、どんなものか、ひとつ見物したいものだが……」
と、今いわれた言葉を忘れ、スルリと外へ抜け出すと、かれは手探りで勝手の方へ忍び出し、上からダラリと下がっている何かの繩の端に手をかけた様子です。
引窓の繩――
スウと引くと暗やみに、四角い星空が切り抜けて出る……。
引窓を仰いで万太郎が、そこの
――不意に水を断つごとき呼子笛のつンざきが、家のどこかで吹かれたかと思うと、それが釘勘の合図であったものと見え、
「わアーっ……」
突如、袋地の八面から一時にあげた捕手の声は、まるで暴風を思わせて家の周囲を駆けめぐり、
「御用」
「御用! 御用!」
すわこそ、
窓の下へ寄っていた三人の
「オオ、始まったな」
万太郎はなんだか愉快になりました。
美殿の厚いしとねに乗って腰元や老臣相手に光る君を写したような生活をしているよりも、かかる所にかかる遊戯をしている時こそ、かれの性格に適しているのでありましょう。
「こりゃ面白い」
と、呟やきながら、引窓の綱を頼りにしてスルスルと蜘蛛上がりに、屋根の上へ抜け出しました。
そこで、瓦の波を這い廻りながら、様子如何に? と見下ろします――ああ綺麗だ! 地境の隣にあたる浄音寺の境内から西がわの長屋の
「ウーム、なるほど」
捕物陣といったのは、あの時釘勘の口ぶりとしてチと
露地、川、本道、建て物、障害物、樹木などの市街物を巧みに利用して、これほどの捕手が今までどこにいたか分らず、一瞬一声の
「御用――ッ」
すぐ目の下のすさまじい声に、はッと、ひとみを移して今度は足元をさしのぞくと、
「あっ、
「
「あ、親分」
雲霧の仁三が、うろたえるお人よしの率八をかばって、大刀を振り廻して寄せつけない様子。
四ツ目屋の新助は裏の方へ馳け出して、井戸と猫柳の木をグルグル廻りながら、これまた道中差を引ッこ抜き、捕手を相手に死物狂いと見えました。
「お、親分、お、お、親分はどこへ行った? ――」
と、その乱闘に目を廻して、迷子が母親でも探すように、悲鳴をあげているのは率八で、上からその男を見つけた万太郎は、盗賊の中にもあんな弱虫がいるのかしらと、笑止がっていよいよ吾を忘れていますと、
「わーッ」
と、たれか、斬られたらしい凄い絶叫。それと共に、プーンと湿っぽい血けむりが、
「斬ッたな」
身をのばして二、三尺、屋根瓦の坂を
「――尾州家の坊っちゃん。今晩は」
と、人をばかにしたことをいいました。
「や? ……たれだ……」
と万太郎は驚いて、目をふさがれた冷やっこい手へ、自分の手を重ねて軽く身をもがく。
たれとも知れぬ者にうしろから目をふさがれたので万太郎、
「おのれ!」
と、その手をねじって離そうと試みましたが、どうして、離れればこそ。
爪を立てたが離しません。
と言って――何しろ足場の悪い屋根の上、霜にぬれた瓦のぬめりを無理に踏んで立ち上がれば、身を滑らすのは知れているので、
「ウヌ、何奴ッ?」
「あぶねえ!」
と、逸早くその手はサッとうしろへ逃げて、万太郎の短気、あわや、自分の
と、宙天にからからと笑う声がして、
「お坊っちゃん、ひどく、御立腹だな」
「あっ!」
振り仰いた万太郎は、
緑林涼風。
日本左衛門のこす。
忘れはしませぬ! 去年市ヶ谷御門
「ウーム!
ジリジリと瓦の
「おお、おれはその節飛んだ騒ぎをさせた男、いかにも日本左衛門だ」
「おのれ、よくも秘蔵の
「あとで聞いた噂には、そのためにお手前は、父中将殿の怒りにふれて上屋敷を追われ、今では、根岸に閉門幽居の身の上だってな。おれも、蔭で聞いて少しは気の毒に思っている」
「えい、左様なことはどうでもいい! ここで汝の姿を見つけたのは何より幸い、秘蔵の品を盗んだ下手人、家来金吾の仇、この万太郎が召捕ってくれるから、そこ動くな!」
「はッ、はッ、は、は、は、は……。さすがは御三家のお坊っちゃんだ」
身を切るほど冷めたい天風のうちに、日本左衛門はこう嘲笑して、
「――世間知らずにも程があらあ! おめえの手で日本左衛門が召捕れるくらいなら、八丁堀や奉行所の人間どもは、あすから飯の食いあげになるだろう」
「な、なんじゃと」
と万太郎は歯がみをしたが、かれの足元には、うかとは寄れない構えが見える。
あくまで、万太郎の無念そうな様子を、子供あしらいに見下ろして、日本左衛門は悠々然と、
「ウム、時に」
ふと語調を変えて、
「おれは今夜から当分の間、影を消すかも知れないが、それについて一
グッと、上から睨みをくれて、うしろへ一歩
「ちイッ、何をしやがる」
身を沈めた日本左衛門の肩――
キラッと光を縫って
ふわりと、先の影が屋根の峰を歩みだしたのを目がけると、徳川万太郎、おのれ逃がしては――と勢い込んだ
「待てッ」
と、飛び上がって大刀の抜打ち!
さッと、眉の先へ流れて来た閃光を逃がさず、
「あぶない!」
と日本左衛門。
肩を開いて、斬り
「殿様芸の刃ものいじり、金吾のてつをふんで怪我をするな」
グワンと耳へ
「ううむッ」
と、弦を掛けられた弓のように日本左衛門の体が
「実名浜島庄兵衛ッ、御用!」
まぎれもありません、目明しの釘勘。
ここに人影ありと見て、下の捕り物を組子にまかせ、自身屋上によじ登って来てみたところが、見当らぬ日本左衛門と万太郎とがそこに影を重ねていたので、猶予なく、うしろから差廻した十手の
「御用」と、一つ絞ってみたのであります。
「
さすがは日本左衛門、動じるさまもなくうしろへ身を捻って、顔をながめ、
「うぬは釘勘だな」
「…………」
釘勘は声が出ない。
今や、自分の内ぶところに、緑林随一と誇称する大盗の五体をかかえ込んでいる。全身からふり絞っている力は歯の根と十手の先に集められているのに、この際、何の四の五を言っている余裕などがあるものか。
ふふん……日本左衛門は笑いまして、
「命知らずめッ」
振りほどいた両手の力は、あたかも鷲が存分に蛇に体を巻かせておいて一時にパッと寸断する翼の
だが、釘勘も捕り物の老巧、敢て
「万太郎様、
と、かれの危地だけを救うと、
「神妙にしろッ!」
――見ればいつのまにか、かれと日本左衛門の腕首の間には、タランと一本の
すると、
「あっ!」
万太郎が突然絶叫する。
それと共に釘勘も、自分の力を逆に引かれて、屋根の上へツンのめりました。まるで重い
「おお」と、驚いて馳け寄ると、しまった! 引窓の口から下へ飛びこんでいる。
「ウウム、抜け道がある! 家の中から抜け道があるに違いない! ちイッ、しまった!」
と、地だんだを踏んだ釘勘。
飛鳥! 屋根から袋地へ飛び下りました。
「ああ、凄い奴だ――」
茫然と、
浄音寺から水門尻へわたる捕手明り半円の灯の陣は、今、三枚橋と下谷の二手へ列を乱して、吹かるる螢の如く
そして、あとの袋地には、何かわめくお人よしの率八の声が、泣くが如く
どこを毎日遊んで廻るのか、不良少女の
今日も。
かの女の姿が丹下坂に戻って来たのがもう夕方――。あたりの
だらだらと坂を降りると
そこへ来ると、
「あ……廻り道をすればよかった」
お蝶に悔いの色がうかぶ。
急に足を小刻みに早くして、右がわの藪を見まいとしながら急ぎましたが、そう思う一方には、怖いものを見たさの心が、
(どんな顔に変ったろう)
と、頻りに好奇を
獄門橋の
橋と言っても、ほんの四、五尺の小溝に渡してある土橋のそば、見まいとしても目につく所に、白木の制札と栗の丸木に新らしい板を架けてある獄門台が、お蝶の足をギクリとくい止めました。
たとい三町や五町の所は廻り道をしても、お蝶はこの前を通るべきではありません。だのに、今日に限って、思わずこっちの道から帰って来たのは、やはり一度はどうしてもここに招き寄せられる因縁であるかも知れない。
ぽと! ……と
片がわの茂みですが夏は
しかも四、五日前から、そのわきの
かなり気の強いお蝶ですが、戻って廻り道をしようかと迷うらしく、袂を唇にあてて足を
「ばかだね私は……死んでしまった人間が何をすることがあるものか」
自分の臆病を笑い
(怖かあない)
ほほ笑ましくなりました。そしてこんどは声に出して、
「ちッとも怖いことなんかありゃしない……ねえ、龍平や」
じッと見つめているお蝶は、いったいどんな気持なのか。
あの入れ札のあった時。
龍平は正直に知らぬと札を入れたものを、お蝶はもし発覚しては身にかかる難儀と男を裏切って、ひそかに龍平の名を入れ札にさしたので、かれは立ちどころに捕えられて、
だが、お蝶は
入れ札ではその密告者を決して当人に洩らさない
「けれど、こんな姿になったのを見ると、私もいい気持はしないよ、ねえ龍平、お前が私をダシに使って、官庫の物を盗ませさえしなければ、お前だって、こんなことにはなりはしなかったのに……可哀そうね」
お蝶は、死者の妄念を無視しておりました。いつか死顔の形相に馴れて、恐怖を忘れていたものか、それともかの女らしい
そして、
「龍平! あばよ」
急ぎ足に、山屋敷の方へ、五、六歩下駄を鳴らしかけますと、
「お蝶!」
と、獄門の首が呼び止めました。
二度目の声も、
「お蝶!」
と、たしかに龍平の生首が、獄門の上から呼んだ如く聞かれましたが、見世物のからくりではあるまいし、首がものを言うわけはないので、
「誰ッ?」
と、わざと声の
「どんなお化けだか知らないけれど、思わせぶりばかりしていないで出ておいで。山屋敷の人を呼んでやるから」
いずれ首番の非人か、この辺に、
「なるほど、胆ッ玉の太い娘だ、これじゃ龍平が一杯食ったのも無理はねえ」
ぞろぞろと三人の男。
椿の蔭、橋のたもと、三方から現われて来てお蝶の前後を取りかこみ、
「おれ達だよ」

「ああお前たちは、先頃、山屋敷をお暇になった小屋番の
「そうよ、龍平たあ生きてるうちから兄弟分にしている仲間の源六、松、権次のお三人様だ」
「御参詣でいらっしゃいますの?」
「なにを」
「
「な、なにを言ってやがるんで」
「てめえの帰るのを待ち伏せしていたんだ。さ、今日は少し取ッちめて、聞く筋があるんだからおれ達と一緒に来い」
「聞くことがあるなら仰っしゃいな。よそへ行くことはありゃしない」
「うぬ、素直にしねえな」
「お前さんたちッ――」握って来た手を振り払って、「わるさをすると、すぐ向うは通用門、山屋敷の者を呼びますよ」
「おお呼んで見ろ、おお、呼んで貰おうじゃねえか。
中でも手強い源六という
「やい! 虫も殺さねえような
「なぜです!
「うぬの胸に聞いてみろ。え、お蝶。あとで探って見りゃ入れ札に、龍平を下手人だと書いたのはてめえだという話じゃねえか。しかも龍平とはさんざんおれ達を岡焼きさせた二人の仲、ふだんからその事は、龍平にもすっかり聞いているんだぞ」
「それがどうしたんですか! それが! 私と龍平とどんな仲だったからって、大きなお世話じゃありませんか」
「じゃその
「私がいつ龍平を殺しましたか」
「てめえが殺したも同然だ」
「言い
「何と言おうが承知はできねえ、兄弟分の恨みに
酔いどれのような
「じゃあ私、呼ぶのは止すわ……」
と、そこの木の根へ
「それまで知り抜いているのでは、いくら強情な私でも、観念するよりほかに道はないネ」
かがみ込んだまま地に向って、お蝶は、ひとり
「……ああ悪いことはできないもんだ……」
「おい」
赤い襟裏をイヤな目でのぞきながら、三人のうちで
「どうだ、いくら賢いようでも女の小智慧、世間には
「じゃ、お前さんたちも、悪党なの」
「当たりめえよ、ぼんてん帯の渡り仲間に、真っ直な人間がいてたまるものか。だがお蝶、そう怖がることはねえ。なあ、この三人は龍平の友だちだから、龍平同様におめえとも
少し脅しの風向きが変って来ました。
弱味をつかまれて身を縮めたお蝶の艶な姿が、みだらな出来心を
「あっ……いやッ……」
お蝶は手を出して来るのを払いつけて、両の袂で両の乳を抱きしめました。
「へッ、へ、へへへへ」
権次と松はみだらな笑い方を見合って、
「憎かあねえな、え、おい」
「うん……こんな
「おい、松、よだれが……」
「嘘をつけい」
情炎に
お蝶はぶるぶるとふるえている。もう、
三人は何か耳と目まぜで
「なあお蝶さん、今ほかの者とも相談したんだが、これからおれ達の部屋まで一緒に遊びに来ないか? え、なアに今夜のうちにはきっと家へ帰してやるさ、もう一度この獄門橋を通るのが気味が悪いというなら、おれ達三人で送って来てやろうじゃねえか。な、おいでよ、いいだろう」
猫なで声の優しい裏には、イヤとは言わさぬ眼光と前の弱点をつかんでおります。
「ええ、行ってもいいけれど、
お蝶は袂を噛みながら、くるりと背なかを向けて、またそれを慌てて打ち消すように、
「嫌よ、私……」
歩き出したので源六、玉を逃がしてはと追いすがって、
「な、なぜよ?」
「だって、嫌いな人が居るんですもの」
「お蝶、まだおめえは話が分っていねえのかい。ここで嫌だの応だのと言うと、おめえの身の破滅は元よりおやじの二官まで飛んだ目にあう事になるんだぜ」
「だから、嫌じゃないんだけれど……私、だけれど、やっぱり嫌になってしまう」
前髪のほつれを眉に垂らして、
「何を言ってるんだよ一体。嫌なのかい」
「いいえ」
「じゃ、承知なんだろう」
「私、向うの……」
「え、向うの?」
「あの二人が嫌なのよ。ねえ、源六。あたしあんな者さえ居なければ、お前と何処へでも行きたいのだけれど……」
あまり不意だった歓びと、生れて初めて知る幸福の巡り合わせに、かれが思わずぶるると胴ぶるいをして、その返辞をすら忘れている
「ネ、ネ。だから……あの二人を殺して頂戴な」
ぽッとなった源六の
「うん……うん……」と、源六はうつつになってうなずきながら、
「おめえの心がそうならば、よし、どうせ後には邪魔な奴らだ」
急に引っ返そうとすると、お蝶は軽く、
「あっ……」
と言って、袂の蔭で握り合っていた手を離してやりながら、
「きっとよ」
と、ひとみにいッぱいな
源六が元の場所へ戻って来ると、待っていた権次と松のふたりは不安らしく、
「おい、何をいつまで、向うでグズグズ話をしていたんだい」
不平を尖らせて来た返辞の代りに、源六、いきなり
「やかましいやいッ。都合の悪いことがあるから、お蝶はおれ独りで貰って置くんだ」
「やっ、この野郎」
と、おどろく朋輩の松まで、返す木刀で腰骨を砕いて仆し、足にからんで来る一方の必死を、なおも、嫌というほど打ちのめしました。
不意を食らった味方の裏切に、なんの骨折りもなく二人はグッタリと土を掴んで
源六は、その襟がみを両手にして、女を独占する勇躍の余力で、ズルズルと獄門橋、溝の際まで引きずって行き、そこでドボン! ――、と泥まじりの
途端です!
どうしたのか、源六。
「わーっ! ……」
ダ、ダ、ダ、ダッ、と橋板を荒くふみ鳴らして、うしろへ
「ちッ、ちッ、ちッ、畜生――ッ」
滅多やたらに空を切って、もがきながらのグルグル廻り、ただ事ではないがとよく見ると、その脇腹にうしろから組み付いている白い人の手と月形の懐剣!
虚空をつかむ源六の苦しみは、その脇腹から黒血を噴かせて、見るまに橋板に
唇を噛み、黒髪を乱し、かれの背後から組みついているのは
脇の下から白い腕を廻して、源六の肉体に懐剣を与えているのはかの女の手でした。
物狂わしく源六が橋板の上でグルグル廻ると、かの女の体も同体に振り飛ばされんばかりに
かんざしが飛ぶ、花櫛が落ちる。帯の間から鏡が抜ける。
それでもお蝶は離れませぬ。
「うう――む。……だッ、
言ったかと見ると源六は、もがき疲れて、お蝶の腕にグンニャリと重くなります……、それをお蝶は突き飛ばすように仆して、自分も一緒によろめきながら、
「あっ……」と、火のような息を肩で吐く。
源六の体は俵のようなぶざまな転げ方をして、向うの橋
七日ばかりの月影が、森を洩れて橋板の上へ、青い光の
自分の膝を源六のみぞおちに当てて、
「うッ、うぬ!」
くわッと目を開いた源六が、断末とはいえ口惜しまぎれの
「よ、よくもおれを……、うぬ、うぬ、てめえも一緒に連れ込まなけりゃあ、死……死ねるものか!」
一念、遂に相手をねじ伏せて、お蝶の懐剣を噛み
お蝶は息をうちへ引いて、
(突かれた!)
血を冷やして、そう思ったことでしたろう。
わき腹に、致命的な
乗しかかッている相手の重圧で、その切ッ
「がッ――」
と、妙なうめきを揚げると共に、源六は何者かに背中を蹴られて、下の体を飛び越えるなり向うへ俯ッ伏し、手を離れた短刀は、お蝶の顔から四、五寸
「おう、あぶないところだった」
誰かは知らないがそういった人の手に抱き起こされて、ほっと胸を伸ばしながら、お蝶は初めて意識的に、源六の死と自分の生命の無事な姿をハッキリと眺めましたが、まだ半ばは、夢……うつつです。
「おい、しっかりしなさい。どこも怪我をしちゃいないようだ」
抱かれている者に、体をゆさぶられてハッと吾にかえりながら、
「あ、ありがとうございました」
見ると知らない旅の者です。
「あぶなかったなあ、ほんとにあぶなかった。もう一足わしの来るのが遅かったら、
離したらお蝶のスンナリした姿が倒れてしまいはしないかと、こわごわ支えているのは馬春堂、――かの
「どうだい、どこか体でも痛むかね」
この人物、丹頂のお
「大丈夫です……はい、もうなんともありません」
お蝶は自分の犯した罪が怖ろしい。まだ何とか挨拶の言葉も知らないのではないが、自分の顔を見覚えられるのがイヤで、
「御心配下さいますな、家はすぐそこの、山屋敷の中なんですから……、今帰ってすぐに、誰かここの始末によこすといたします」
しきりと馬春堂のいたわる親切を振り切って、あたりに飛んでいる持物や塗下駄をさがし、襟や帯の身づくろいをしながら木立の影をくぐって山屋敷の方角へ、風鳥のような姿を駆けらせてしまう。
馬春堂は取り残されて、
「なあんだ……」と、
「どれ……もう来るだろう」
橋の
が、幸いに、舌が
かかるところへというあんばいに、
やがて近よると双方から、
「おう、馬春堂」
「あったかい? 忘れ物は」
「うむ、戻っても無駄じゃなかった、茶屋でちゃんと取っておいてくれたんでな」
「そりゃあよかった」
「ずいぶんここで待ったかい」
「なあに、待つ
「なぜ」
「
「うふッ……そいつぁ成程、ひとりぼっちで淋しかったろう。悪党に獄門橋なんざあ禁物だ。……どれ、それじゃおれもつき合いに一服」
と、腰から取って、ぽんと、筒の
肩の
「南無、消えるな、消えるな」
と、
「おや?」
と、透かして見ると、油のような血が流れていて、そこに浮いている
「こりゃあ何だろう」
伊兵衛は血に染んだ花櫛を拾い取って、
「おい、馬春堂。向うに、
「なあに、江戸の場末には、ありがちなことさ」
「ちょッと、この花櫛が気になるじゃねえか」
「そこの
「ふウん……」
「武家の娘だろう、懐剣でその仲間のわき腹を突いていた。だが仕舞にゃ取ッちめられて、あべこべに突き刺されそうになったところを、うしろから馬春堂先生が、そいつを蹴とばしてやったというだけの話で、あとは
「はてな、こんな花櫛をさすような娘が、あの山屋敷の中にいたろうか」
「すらりとした
「年ごろは」
「八か、十九。
「そうか、ウーム……」と、伊兵衛は花櫛を
「ちょッ、ちょッと待ってくんねえ」
ひょいと
「どうだ、あったかいだろう」
と一ツ背中をたたきました。
馬春堂は変な顔をして、
「おい、どうするんだ」
「ところで、歩いてもらおうじゃねえか」
「おめえは?」
「少し道草をしてあとから追うから、先へ行って、音羽の
「ばかにするなよ」
馬春堂があわてて合羽を脱ぎ捨てそうにしたので、伊兵衛は抱くようにおさえつけ、
「まあ、そう怒らずによ。頼まあ先生」
「よくお前は道草をする男だなあ。いったいどこへ寄って行く気だ」
「切支丹屋敷!」
「えっ」
「まあ来いよ」
伊兵衛はグングン馬春堂を歩かせて、獄門橋を離れて行きながら、相手へ早口にこうささやく。
「――てッきり二
……ところでおれも
え、馬春堂、おらどうも切支丹屋敷にゃ、ぜひ何かなくっちゃならねえと思うよ。なぜかって、現在、
……ま、おれの道楽仕事を見ていてくんねえ。盗ッ
もう一つ、そこで馬春堂の背中をたたきますと、いやも
「頼むぜ!」
ぷいと引き返して、小溝のめぐる石垣の
ひらりとその下枝へ飛びつくと――。
二、三度、体をぶらぶらさせて、
体の重みで、グーと枝の先が弓なりに
枝に
「おッと、どっこい」
梢と縁の切れた伊兵衛の体が、一丈二尺の高塀の峰に、
「なるほど、広い」
と、山屋敷の中のムダ地の多いのに、いささか舌を巻いた
いずれこいつは、ぽんと中へ飛び込むでしょうが、小手をかざしている間に、少しこの男の伝記を吹聴するならば、――伊兵衛取る年は四十一歳、泥棒も男ざかり分別ざかりで、ホシは
根は百姓、
若い時には、笛の伊兵衛といわれたものです。
で、あッちこッちの二十五座に、
といって、遊んで食べられない世の中を、伊兵衛は遊んで通ってきました。いや、遊んでとはいわれない、やっぱり、いつか泥棒という商売を
ですが伊兵衛の渡世ぶりは、日本左衛門
稼ぎもたいがいは江戸ではやらない。
今日浅草にいたかと思えばあしたは奥州街道に、――ゆうべ武蔵野をゴソゴソ歩いていたかと思えば
今では、一本立ちの道中師としても人間の質にも、かなりサビの懸って来た伊兵衛には、日本左衛門の
関八州の盗賊が、すべてといっていいくらい、日本左衛門をかしらに頂いている中で伊兵衛ひとりは、
「ふん……青二才が」といった調子で、まだ、あいさつもした事がない。
仲間の異端者!
日本左衛門も、充分、腹にはふくんでいるでしょう。また、かれが伊兵衛を眼中におかない態度を取るにしても、この間うちのいきさつから、夜光の短刀が、双者のさぐり合いとなって行く様子には、伊兵衛の方で、慾以上の熱と興味をもち、やっきとなっていますから、とうてい将来の暗闘は、かれと伊兵衛の間に、まぬかれそうもありません。
さて。
塀の上に取ッついている道中師の伊兵衛。
「夜光の短刀」
こうつぶやいてニヤリとしました。
「――おれが探し当てて、日本左衛門の鼻をあかしてやったら、あいつら、泥棒の神様へ対しても、渡世をやめて坊主になるかも知れねえぞ」
空想は愉快です。
仕事を昂奮させます。
あいにくか、幸いか、今夜は七日ばかりの月がある。
ジッと、そこから下の足場を見下していた伊兵衛は、ススススと、腹にも短い足が何本もあるように、塀の峰をすべるが如く這い出しましたが、
「あっ? ……」
何か驚いて、突然、山屋敷の内側へと、もんどり打ってその影を消す。
けれど、どすんと、不器用な音もさせないし、今の素早さ、跳躍の軽さ、まことに、あぶな
きょうが
歳時記では今を水
「おお、あいにくな人出だな」
どこか気品のある侍です。
朱を浴びた春の
「若様、あいにくは乱暴です。ここの坊さんが聞くと怒りますぜ」
「でも、あいにくではないか。こう
「それにしても、ここを約束の場所にしたのはこッちの都合で、護国寺じゃ、毎年きょうと
「何せい、仕方がない。どこか小高い所へ上がって、この群衆の
「なに、ほかに探し方もあるんです。まあ、私についてこッちへお出でなさいまし」
といいながら、先に立ったのは目明しの釘勘で、法蔵院の池の前から八ツ橋をスタスタと渡り、向うの
ついて行く侍を見ると、これは徳川万太郎です。きょうは釘勘の注意か無紋の羽織、例の
「若様――こちらへ」
と、釘勘はまた先に立つ。
西国三十三ヵ所を模した
「ここじゃねえな」
ひとり
「釘勘」
万太郎は不審そうに、
「最前から何を眺めて歩いておるのじゃ」
「千
「千社札? ……腑に落ちぬことを申す。そちの組下の伝吉をたずねるはずではないか」
「その伝吉の姿を探しているより、この方が早くぶつかるかも知れませんので」
そういって、七番堂の廻廊へズカズカと登って行く。
釘勘はまたそこでも、柱、
「ウム、ここだ。若様ここで伝吉の来るのをしばらく待ってみましょう」
「こんな所にいるのでは、なお見つかるまい」
「大丈夫、
「印が? ……」と万太郎は、廻廊の千本
ある一ツの目的で、四方に散らかッている手先の者が、社寺の千社札を利用して、時には探索者の所在を暗示し、時には会合の場所を示し、ある時は行先を残す
「へへへへ。あなたは尾州の若殿でいらっしゃいます。そんなことを御勉強なさらなくっても……」
てんで相手にしてくれない。
でも、興にふれると是が非でも、つきとめたいのが万太郎の性質、なおも追求して、目明しの
「? ……」
あらぬ方へ、釘勘の目が吸いついている。
それは天井の千社札ではない、本堂階段の降り口にあたる方角。
そこからかなりの距離がありましたが、今しも、
「あっ……お
もう万太郎の
兵庫くずしの姿を目あてに、七番堂から馳け出した釘勘の跳足! かれの
織りなす開帳の人浪をこぐり抜けて、仁王門の前まで息をきって行く。
と――お粂も
「――御苦労さま」
といわないばかりに、姿は素早く石段を降りて、なだれる人渦の中へ吸いこまれて行く。
「逃がしては!」
と、それを追う釘勘。
一足飛びに玉垣の前に来て立ちましたが、既に遅し! ぱたぱたぱたと楼門の空から、白紙のように降りた
で、茫然としていると、
「親方」
と、馳けて来た者がある。
「オオ、伝吉か」
「さっきから、ずいぶん探しくたびれました」
「おれの方こそ、いくら見つけて歩いたかしれやしねえ」
「すみませんでした、今日が開帳だとは気がつかなかったので、ただ護国寺の境内とだけお
組下の伝吉。
それは水門尻に捕物のあった晩から、釘勘の命をうけて、逸早く姿をくらましたお粂の行先を突き止めるべく馳けずり廻っていた手先のひとりです。
「ですが親方、七番堂の
「ウム、見た」
「それなら、あすこに待っていて下さればよいのに、そこにも姿が見えないので、わっしゃ、まだ来ないのかしらと思っていました」
「ところが、今お粂の姿を見かけたので、七番堂に居たのだが飛び出して来たのだ」
「ヘエ……今もここを通りましたか」
「手懸りがあったとおれの方へ
「いえ、ふたりの落着いた宿は、もうすっかり突き止めちゃあいるんですがね」
「というと、金吾様も、そこにいるんだな」
「この先の
「この人混みじゃ立話もできねえ。向うの七番堂にゃあ万太郎様もおいでになっているから、とにかく、そこへ行って相談をするとしよう」
「えっ、万太郎様? ……あの尾州家の若殿様が来ているんですか」
「きさくなお方だけれど、馴れるにまかせて、御無礼な
「へい、ですが」
「窮屈がることはねえ、ただ、それくらいな気持でおれに
すると、ふたりが通り過ぎた池のほとりから、ひとりの男がのっそりと、五、六歩あるいて見送りましたが、
「はてな? ……どこかで今の奴は見たことがあるぞ」
しきりと首をひねっていました。
だが考え及ばないものか、そのまま藤棚の下へ這入って、そこにある
道中師の伊兵衛の荷物をもって一足先に、この護国寺のすじ向うにある、筑波屋へ泊りこんでいる馬春堂でありました。
「ばかにしやがる」
今さら腹が立ってたまらないように、馬春堂はそこでぶつぶつ呟いている。
「あの野郎、おれに合羽と荷物を持たせて、どこに道草しているのか、きょうであの晩からもう三日目、まだ姿を見せやがらない。第一こッちは
ははあ、それで馬春堂先生、気の腐るまま宿を出て、
時をへて馬春堂は一転して、寺領の外の空地に小屋を建てならべている御開帳あてこみの見世物の景況を、いちいちひまつぶしに見てあるいている。
江の島の貝殻寄せ。亀市の
お隣を見ると
まだある。
そのほか茶番道化、大道の針呑みまで寄せますと、この一側だけでも、見世物番付ができるくらいで果てしもありませんが、さて、見世物はあきません。
そこに立ち、ここに立ちして、いつかこの
だが、その終りに、一脚の机をすえていた同業の
「あ……おじさん」
と、まろばすような娘の声が、前に見て通った、地獄極楽の木戸口から呼び止めました。
「おお」
と馬春堂は少し
「おとといの晩の娘さんだったね」
「ええ……そのせつは」
あどけない笑顔を近づけて、
お蝶を見ると馬春堂はまた心のうちで、伊兵衛が今もって帰らぬのはどうしたものかと、少し
「お開帳の帰り道かね」
「ええ、ずいぶん人が出ましたわね」
「あまり遅く帰ると、またこの間みたいな悪い奴につけられるよ。それにお前は今、地獄極楽の見世物を見て来たんだろう、あんなものを見て、よく丹下坂の森を帰られるな」
「だって、おじさん、地獄極楽なんて嘘ッ八はありゃしないでしょう」
「あるさ」
「おかしい……」
ホ、ホ、ホ、ホ、と笑ったはずみに、手にかかえていた包の中から一枚の小皿が落ちて砕け、お蝶の足元へ玉虫色の
「あ!」
「なんだい?」
「
口惜しそうに踏みにじッて、
「わざわざ京屋へ廻って買って来た寒紅なの。こっちの油を落とさなくってまアよかった」
「たいそうみやげ物を買い込んだじゃないか」
「父がひとりでまっていますからね」
「ウム……そういやお前の父親というのは、ころびばてれんの」
「嫌アよ! おじさんは」
「知らない。――嫌な人」
先に人ごみを縫って急ぎました。
「怒ったのかい、おい、お蝶さん、お蝶さん」
用もないが、からかい半分、前の仁王門の横手まで追って来ると、そこの玉垣の前にたたずんで、しきりと自分の方を注視している三人づれ。
二人の町人
変な日というものがよくあるものです。
走馬燈の心棒に立ったように、いろんな影が自分を中心に織りめぐって、うしろにあるはずの影が前に居たり、前にさす影がうしろに居たり、心待ちにする影は来ないで思わぬ影がぽっかりと現われたり、すべて、疑心暗鬼から生まれる影が、目のさき足の先にちらついて、妙に心を
きょうの九星は何の日かわかりませんが、馬春堂、変な日だぞと考えました。
得てこういう日には、ちぐはぐな事が多いものだ。
お蝶さんに
なまはんか
筑波屋の前は、早くも日暮を思わせて、宿についた、
お帰ンなさいまし――とも迎えられずに、馬春堂は幅の広い
「おや?」
何か
また、「変な日」の迷信が頭にこびりついて来て、部屋違いをしたかしらと、廊下の曲りを考えましたが、やはりここは自分の部屋に間違いはないのです。
で、もう一度、襖のつぎ目をはだけて見ると、あかないはずです、
「こいつめ」
ギュッとつねると、
「あ痛ッ」
中で飛び上がッた
「さんざッぱら人を待たせておいた揚句、つまらない
と苦りきる。
「オオ
と足の親指をおさえながら、そのまずい
「なんだ、おれが
「襖をおさえていたろう」
「けッ……」
鶏が
「べらぼうめ、四十男の道中師伊兵衛が、そんな
なるほど、いわれてみれば、その通りです。
ここでも一ツどじをやって、馬春堂はまた気が腐って来そうになりましたが、まず伊兵衛が帰って来れば多少景気もつこうというものと、
「おい、風呂へ行かないか」
「おれは少し気が
「今、宿へ着いたばかりじゃないか」
「ウム、まアいい……」と、伊兵衛は何か考えていたがクルクルと
「じゃ、つき合おう」
豆絞りの手ぬぐいを袖口にぶらさげる。
そして廊下へ出て行きますと、先に出た馬春堂が、何か奇妙な虫でもに見付けたような顔をして、入口の
「何を見ているんだい?」
と自分もそこを見上げますと、
なんの
――と馬春堂に伊兵衛。
部屋の入口にはってあった奇妙な札へ、かたみ代りの批評をいって、そのままトントントンと
「アーいい湯だ」
二ツの首を浮かせました。
伊兵衛はスジ
「この間、獄門橋でわかれた時から、とうとう湯にも
「また
「そうだろうたあ思ったが、おれも実はひどい目にあって、どうしてもここへ帰ることができなかったんだ」
「ふーむ、すると、山屋敷の役人にでもとッ捕まって、逃げて来たのか」
「なに、そうでもねえが……」
伊兵衛は湯気の立った体をザブリと上げて、小桶をふせて腰かけながら、
馬春堂も上がって、グンニャリと膝をかかえこむ。
「――で、あれからの
「飛んでもねえ邪魔物がいて、大不首尾よ」
「邪魔者というと?」
「知れてるじゃねえか、夜光の短刀の相手方、日本左衛門と一まきの奴らだ」と、伊兵衛は話しかけて、あたりに鋭い気をくばりましたが、
で――安心して、それからスラスラとしゃべり出すことには。
「おめえと別れて、あれから切支丹屋敷の高塀を越え、中の様子をのでいていると、いきなりおれの
「すると、そいつはみんな、日本左衛門の手下なんだな」
「そうとよりほかに思い当りはねえだろう」
「だが伊兵衛、日本左衛門のやつが、それほど根気よく山屋敷に目をつけているとすれば、こりゃだいぶ、仕事が面白くなって行くぞ」
「なぜ」
「考えてみるがいい、何かあの山屋敷に、夜光の短刀の手掛りがあるものと睨んでいればこそ、日本左衛門もあぶない要心をくぐッて、そこを
「ちげえねえ? そう考えりゃ、ゆうべとおとといの
「じゃ、あの洞白の
「隠しておくのが、身軽で一番安心だが……」
「その隠し場所にまた困るぞ」
「護国寺の札堂――あの辺は」
「物騒物騒」
「じゃ、目白の
といいかけた時でした――湯気出しの口につんであった小桶の幾つかが、ガラガラとくずれ落ちて、はッと振返った伊兵衛の目に、そこから逃げた女の影――。
ろくに体を洗いもしないで、それから伊兵衛と馬春堂が、上がり湯をザッと浴びて着物を引っかけ初めたころ。
――もう八
そこへ、化粧道具を
「あの、番頭さん」
二、三だん、梯子を踏みかけながら、上げ
「――早くして下さいよ、急ぐんだから」
「ヘイ、只今」
勘定書であろう、帳場の番頭、パチパチパチパチ
「お風呂はもうお済みでしたか」
「ほかの客がいたから止めてきましたよ」
「あれ、
「いいよ、もう」
「あいにくと今夜は、護国寺のなんで、ばかに混み合いますもんですから、どうも不調法ばかり仕りまして」
「それから、
「かしこまりました」
「私は、足ののろい駕屋さんは嫌いだからね」
「達者なのをそう申しておきます」
「じゃあ、すぐにだよ」
「お夕食は?」
「いらない」
トントンと白い
女中の手が足りないかその部屋には、まだ行燈が来ていません。
音もなくあいた襖すべりに耳をとめて、
「お粂か」
と、膝にのせた了戒の刀を重そうに向き直りました。
「――お支度は」
「ととのえておる」
うしろ向きに立って、お粂が丹前をぬぎすてると、白い肌の曲線が、手早く次に羽織る着物に隠されて、さやかな
「お粂……」
金吾は
「わしは止そう、どう考えても、そうしておられる体ではない……」
「あれ、またそんな」
男の体へふわりと絡んで、
「どうしてあなたは、そうすぐに気が変るんですえ? もう駕まで頼んでしまったじゃありませんか」
「…………」
「あなたにしても、いつまでお体がこんなでは、どうジリジリあせッて見たところで、仕様がないことでございましょう」
「といって、このままお前と湯治場へなど、なんで
「遊びに行くという訳じゃなし、あなたの御病気をなおしに行くんですよ」
「そりゃ一刻も早くこの体が、自由になりたいのは山々だが、もうお屋敷を出てから幾月目になるか、沙汰もせねば居所も知らさず、万太郎様も定めし憎いやつと思っておいでになるだろう……」
「ですから、せめてお手紙でも届けましょうかといえば、今となっては、面目ないと仰っしゃるし」
「当り前ではないか。なんで、今さらこの浅ましい病体をして、万太郎様にお目にかかかれようか、お前には武士の切なさは分るまい」
「それ故、湯治場へでも行って、お体の養生をなさるのが、今の大事じゃございませんか」
「ええ、重い」
お粂の体をうしろへ押しのけて、
「
「そんな
「ああ、どうしたらいいのだ、この体を……」
さすが気丈な武士相良金吾も、自分でも
「もう駕が来ているんですよ。ねえ相良さん、私のいうこともきいて下さいな。静かな湯治場へでも落着いたら、その上で、この気持ちもすっかり打明けて話しますから」
うしろへひいた帯の端が、スルリと夕暗の畳にうごいて、蛇の妖情を思わせます。
それから程なく。
夜立ちと見ゆる二
「あ、駕屋さん」
うしろの一挺でこういうと、駕の内からお粂の白い顔が外をのぞいて、
「すまないが、ちょっとここで降ろしておくれ」
「なにか、忘れ物でございますか」
「少し、思い出した用があってね……。
「ヘエ? ここで、お待ち致しているんですか」
「病人は、駕の中へ残しておいてもいいけれど、寒くないようにしてあるだろうね」
「
ひとりがタレを上げて中を見せますと、お粂はニッ……とうなずきました。
なんという奇病――
さっきも、駕にのるまでは、人手も借らずに乗った病人ですが、もうここまで来る間に、いつものような昏睡に落ちて、呼べどもさめるふうはなく、了戒の刀を抱いて俯向いたまま、おのれの駕の行く先も知らぬ
(ああ……罪が深い)
その姿を見ると、お粂もそら怖ろしいほど、自己の
しかしどうしても、金吾を自分の所有にしきってしまわないうちは――と、
「じゃ駕屋さん、少しだけれど」
紙入れの中から二朱金を一枚つまみ出して――「まっている間に一杯おやり」
「ありがとう存じます」
「アアこれでも、いくらか夜露をふせぐ足しになるかもしれない」
着ていた羽織をぬいで、フワリと裏返しに、金吾の駕の屋根へかぶせてやると、お粂は小走りに江戸川の土手を、元の道へ戻ってゆく。
どこへ?
と思うとその姿は、目白の台へ急いで
「こっちが先を越しているはずだが……どうしやがったんだろう、あの二人は」
人待ち顔につぶやいたお粂は、二本松の根方にある石神堂の前に、
× × ×
それより少し前のこと。
筑波屋の裏口へ主人を呼んで、十手を示した上、客らしく装って二階へ上がって行ったのは釘勘です。
ズーと裏二階の廊下を見てゆくと、手先の伝吉がはっておいた、例の、目印の
そのどっちにも明りの影がさしていないので、釘勘は、しまッた! と早くも手遅れを感づきました。
偶然、ここにお粂と道中師の伊兵衛とが、一ツ宿屋に落ち合っていたため、一方へかかれば一方を逃がすおそれを生じ、あれから、いったん引っ返して、手配のため番屋廻りに時刻を
「だが、遠くへは行くまい」
と、一つの部屋をあけてみると、
火鉢の残り火を見つめながら、釘勘は、この部屋の空虚に立って、不思議な疑惑にくるまされました。
――病体にしろ相良金吾が、どうして、お粂と共にこう早く姿をかくしたり、あの妖婦の自由になって逃げ廻ったりするのか?
「ウーム、
吐息の如くつぶやきましたが、今はそんな事を考えている場合でもないので、サッとその部屋を抜けて出ると、何やら足の先にコロコロと転がった物がある。手で探ってみると――冷ややかで、透明で、小さくて、見なれない形をした、紫色の
むらさき色のビードロです。その当時にあっては、長崎の者か蘭法医でもなければ見知らない、小さな薬の
それが拾われて、釘勘の手のひらに、気味の悪い色と冷たさを感じさせています。
丹頂のお粂が、
とにかく、
「忙しいところを、お邪魔しました」
「どういたしまして、何かあの……」
「なに、べつに」
本来は、二組の客の行先を、くわしく問いただすべきところでしょうが、お粂にしろ、伊兵衛にしろ、正直に行く先を帳場にいって立つはずはなく、聞くだけ野暮と
「親方」
と、待構えていたのは手先の伝吉、
「一足ちがいで、逃げられた様子ですぜ」と、そばへ来て手おくれを口惜しがる。
「ウム、惜しいことだッたが、仕方がねえ。それよりも万太郎様は?」
「さっきも、親方が意見していたようですが、どうして、なかなか根岸へ帰る
「じょうだんじゃあねえ、御三家の若殿が、こちとらずれの仲間に交じって、岡ッ引風情の真似を一緒になってやられちゃア困るじゃねえか」
「だって、万太郎様は、面白いといってきかねえんですからね」
「何が面白いことがあるものか」
「当分、釘勘の部屋の者になろうかって、いっていましたぜ」
「ばかをいやがれ。御勘当にこそなっているが、尾張様の七男、もしや怪我でもあった時にゃ、こッちが飛んだことにならあ」
「困ッた人だなあ」
「で、どっちへ尾けて行った?」
「目白台へ上がって行ったかと思いますが……何しろ私は、お粂の方へ、七、八人追いかけさせてあるんで、ここを動くことができねえんです」
「じゃ何しろ、馬春堂と伊兵衛から先に片をつけるとしよう。お粂の方は駕屋を洗ってみたらほぼ
こういいのこすと、釘勘は、もしやと万太郎の身が一途に案じられて、木立に暗い坂道をあえぎあえぎ、目白の台へかけのぼって行く。
…………
どこかに月が出たようです。
月のありかは分らない。
ただ銘刀の
「なあ、馬春堂」
「ウーム?」
「陽気もだいぶ楽になったなあ、今夜あたりが、おぼろ夜っていうやつだぜ」
「そうさ、
「俳諧ってなあ、なんだい」
「そう聞かれちゃ、ちと困る」
「おめえもやるのかい」
「多少は心得がある」
「悪党の癖にしやがって、
「悪党だって、絵の上手なのも居るし、家で
「量見のよくないやつだ。おれなんざ、おぼろ夜となれば、ひとりでに考え方が違ってくる」
「どう違うのかな?」
「やたらに、仕事がしよい晩だと思って、気が
ぶらぶらと歩いてくる二ツの人影。
やがて、二本松の石神堂で足を止めると、伊兵衛は肩の
「ウム、
と古びた
「さ、どこへ隠そうか」
石神堂のぬれ縁に腰をかけて、伊兵衛が
「そうさなあ?」
と馬春堂が、改めてこの
ギイ……と
その石神がまた変っています。
――土着の人は、何事の
もっとも、本体の石神様自身が、神か仏かただの人間か、古色
「どうだろう、伊兵衛」
馬春堂は喜連格子の中へ首をつッこんで、
「ここに
「だが、動くか、そいつが」
「おそろしく頑丈だが、二人がかりならどうにかなりそうだ」
「しかし考えてみると、こんな所に隠しておくのも不安心だ」
「といって、その
何しろ自分に大事よりは、人手に渡したくない性質の物なので、伊兵衛も暫くは迷いましたが、大事なだけに、これを持って歩いていることが、どれほど、苦労だったか分らないことを思うと、
「じゃ、人の来ねえうちに」
と、腹をきめて、
「馬春堂、手を貸すぜ」
「ウム、押してくれ」
二人がかりで賽銭箱をズラしました。
馬春堂はすぐその下の床板をさぐって、
「おや」
「なんだ? ……」
「お誂らえだぜ、面倒なく、床板が
「そうか、じゃまってくれ、
伊兵衛が手早く入念に、
そして、
床下の上へおくつもりで、そっと手から放しましたが、途端に――あっ! と伊兵衛も馬春堂も、色を失なって飛び上がりました。
そこは、わずか二尺か三尺と思いのほか、手を離れて行った洞白の
「た、大変だこいつは」
「飛んでもねエことをしちゃったじゃねえか。どうして、そんな所へ」
「まさか、
「えっ、困った! なんとかして引き上げる工夫はねえかしら」
「
「オオ、蝋燭なら、ここにいくらもある。早く
焦燥と泣きたいような気持とが、カチカチッ、カチカチッ、と火花と散って、やがて、あたふたと点けた一本の灯を、手につかんだだけの蝋燭へ移して、それをかざしながら怪異な石神の足元をのぞきこむ……。
「ウーム、こりゃ深い。まるで井戸のようだ」
馬春堂は、伊兵衛のかざす蝋燭の流れを背中へポタポタ浴びながら、石神堂の床穴へ体をのめりこませていましたが、やがて遂に、
「とても駄目だ!」
と、絶望の声を放つ。
「ま、待ちねえ」
「深いからといって、このまま諦らめるわけにゃ行かねえ。ウム……こうして見りゃおよそ底の見当がつくだろう」
手につかんでいる蝋燭を、火のついたまま一本一本床下の穴へ投げ落として見ますと――それは美しい一条の光をひいて、直線に真ッ暗な地底へ吸われてゆきましたが、ある程度まで下がってゆくと、ふッ、ふッ、と魔ものの息にかけられたように消えて、伊兵衛の機智もなんらの効果を見せません。
「ちぇッ」
と、舌打ちをしたものの、最後の一本まで投げてしまえば、上も暗やみになってしまうので、それは賽銭箱の上へ蝋を溶かして、ていねいに立てかけながら、
「馬春堂、帯を解きねえ、帯を」
「な、なにをするんだ」
「おれの三尺や何かもつなぎ合せて、この穴の底へ降りてみるから」
「よしな、あぶない芸当は」
「
「いかにもそれは残念だが、まあもう少し考えて見るさ」と、伊兵衛が三尺を解きかけるのを押し
「おれはかえって、こうなった方が、石神様の
「ばかにするねえッ」
噛みつくように呶鳴った伊兵衛、この意外な失策に、ジリジリしているので喧嘩
「何が御利益だ、馬鹿野郎め」
「そうガミガミ怒るなよ。あのばてれん
なるほど、それは馬春堂のいう通りです。先にはこの男を、半端な悪玉と
「――いいかな、ところで、あれに書いてあることは、おれもお前も、もう呑みこんでしまっていること、今では、用のない読みからしだ。ただそいつが人手に渡ると、またぞろ、夜光の短刀、夜光の短刀と猫も
「ウ、まアそういや、そんなもんだが」
「とすれば――めッたに人目にかかる気づかいのないこの御堂の縁の下――おまけに、石神様の足で踏ンまえていてもらえば、他人が探り出してゆく憂いはなし、いよいよ自分たちに必要な時には、また折を見てとり出すし、どっちにしても願ったり叶ったりだと思うんだが」
「ちげえねえ、なるほど、ものはとりようだ」と、伊兵衛もサラリと考え直して、
「じゃ、
と、何の気もなく、腰をのばした途端です。
「伊兵衛ッ!」
ガンと、耳の
「あっッ」
といったが、もう遅い。
飛鳥といいましょうか、
同時に、馬春堂もまた、賽銭箱に立ててあった蝋燭へ手をついて、コロコロと突ンのめるなり前へ
「わっッ……」と、ただならぬ声をあげましたが、南無三です。そこは今、蝋燭の灯で深さを測った底知れずの穴――ドタッといった物音をこの世の名残りに、ああ馬春堂先生、「変な日」の予感がとうとう本ものとなって、真ッ逆さまに落ちこんでしまったようです。
忽然と、床下に影を失った、馬春堂の片袖を手に残して、
「やっ、これは?」
さあれ、一方では釘勘が、伊兵衛のうしろから組みついて、万力のような両腕をしぼり上げている刹那なので、
「おお!」
われに返って助太刀に向うと、どっちが足を踏み外してか、からみ合ったまま釘勘と伊兵衛、御堂のぬれ縁から勢いよくころげ落ちる。
落ちたハズみこそ伊兵衛にとって、逸すべからざる好機でした。
「ちッ、この岡ッ引め」
とんぼ返りを打ちながら、横ざまに抜いて、
伊兵衛、剣道の名人にあらずといえども、死に身の力から発した自然の
ピシーッ。
真ッ青な火が削られる。
かれの道中差が
「おのれッ」
と、寄って来た万太郎。
抜き打ちに、
さえずくもらず、夜は今もなお、宵のとおりな
やがてまた、それを追っかけてゆく目明しの釘勘と、徳川万太郎の影が――見ているうちに、遠くなり、小さくなり、うすくなって、果ては、その
野となれ山となれ。
あとの石神堂は開けッ放し。
いかに何でもこれはひどい。まるで、
だがしかし、あしたにでもなれば、例のごとくこの無名神を、神か仏かのけじめもなく、ただおそれあがめている土着の人たちが発見して、あら勿体なやと、戸締りをなおし、賽銭箱の位置も正すでありましょう。
ところが、それにも及ばないようです。それから
どうしてといえば。
それも石神様だけが知っていたこと。いや、神通力のない釘勘でも万太郎でもが、もう少しあとに残って様子をうかがっていたら、必ず、同じあやしいものを見たにきまっている。
足音が遠のいたかと思うと――すぐその後です。
ふと気がつくと、いつの間にか、威厳おそろしき石神の首が変っている。
「ばかだねエ」
丹頂のお
その翌朝――夜が明けると同時のことです。
耕作に出る毎朝の通りがけに、きまって石神堂のまわりを掃除する土地の百姓が、
「おや、落とし物がある……」
堂の前に、泥だらけとなっていた
「大変だ!」
おそるおそる
「石神様を荒らしたやつがあるぞ」
「ふてえ奴だ、そいつはどうした」
「そいつは居ないが、ここに、これ、
「旅の者だろう」
「土着のものが、なんでそんな
「路銀に困って、またお
「ばか者めが、そしたらまた、手を突っ込んだ
「何しろ早く、
それから、選ばれた足達者の男が、どこかへ急いで立ちましたが、御府内は元よりこの江戸川附近に、高麗村という地名は絶えて人に聞えておりません。
どこまで行ったのか、使いはなかなか帰らないで、それをまた
それらの人が
それも特に選ばれた足達者が行ったのですから、一体、高麗村の御本家とかまでは何里あるのか? 江戸西方の近郷を指折ってみても、板橋、
すると、ようよう二本松の
「おお、御苦労」
といいながら、ぽんと馬上から飛び降りました。
これでも、かなり急いで来たものと見えて、使いの者は胸毛の汗をふき、馬は草に渇して、
その黒駒の
藩のお
「おおこれだな、
武士はそういって、石神堂の中を
「よく知らせてくれた。ところで、少しこの方より駆け遅れて参るが、あとの始末をする者が、やがて二人ほどここへ来るから、お前たちは引揚げて、また呼びにやったら参ってくれ」
と、強いてそこから追い返してしまう。
そして、しばらくすると、かれと同色な
素性の知れない三人の武士は、そこで、
「どれ、それではひとつ、
三人一緒に、やおら腰を上げて、石神様の背中にあたる、堂の裏手へ廻りました。
堂のうしろの二
「お先へ」
と、いうと三人のうちのひとりが、
中をのぞくと床なしの段です。
素性不思議な三人の侍は、それを心得て降りてゆきましたが、やっと身を入れるに足るくらいな狭さ。
けれど、数歩下ってゆくとその空洞は、馬春堂の落ちた例の
その下へ向って真ッ逆さまに、サッと投げられた
「おい! 生きているのか」
と突然、大きな声で呼びかけて行く。
声はガア――ンと穴
「はて?」
ひとりが小首を傾げると、
「返辞がないじゃないか」
「まいッてしまったかな?」
「いや、死ぬはずはない。底の土はやわらかいし、下には水も少したまっているから、一時気絶したにしろ、もう息を吹ッ返していなけりゃならない」
「そういえば今まで、各所の石神堂にある
「そうとも、死んでしまわれたのじゃ、こちら様の御用に立たない事になる。どれ、
小声にささやいていたのを、また怒鳴るような大声に変えて、
「これこれ、下に落ちている旅の者、息はないのか! 息は!」
「オオ、うなっている」
「しっ……」と手で制して、
「これ、どうした」
上から射す明りを見上げて、ウームと下で呻いていたのは馬春堂。――打ち所のいい悪いなどはとにかく、何しろ、夜の明ける前から、ふッと正気づいて、さんざんもがき疲れた揚句、わずかに、したたる水を吸って、飢えと恐怖にふるえていました。
それに、肩と頭部がひどく痛んで、ものの思判力がみだれている。
上に人影が見えるのですから、飛びつくように、助けを呼びそうなものですが、ぽかんと、しばらくは無言のまま、
「ウムム……」と、ただ太い息でうめいていますから、
「おい、旅の者――」と、上の三人は、再度口をそろえて、
「上がりたくないのか」
一本の
その垂れている繩の先に、冷やりと顔をなでられたので馬春堂は、ハッと、失いかけていた生命の
「おーっ、たッ、たッ、助けてくれ――」
いきなり、ムシャクシャに繩へかじりついてきました。
しかし、上の三人は、そう引ッ懸って来た魚をすぐに釣り上げようとはしないで、
「おお気がついたか。あせらんでもよい、あせるなあせるな、元より此方たちはお前を救いにまいったのだから、もう心配することはないぞ」
「あっ、ありがとうございます」
馬春堂の声は泣いているようです。もし、ここに道中師の伊兵衛が居たならば、また、
(悪党のくせにしやがって、しッかりしろい)
とか何とか、毒づいたかも知れませんが、こんな場合はかえって、
上では、そんな思慮もない様子で、
「おい、ところでな、旅の者。上がるついでだ。今、上から袋をほうるから、その底にたまっている銭を、はいるだけ詰めてくれ。――なに、石神様の
いわるるまま馬春堂は、穴の底で、手に触れたそれらしい物を土と共にかき集めて、上から垂れている繩の先に結ぶ。
この辺で土着の人が、石神堂の床下を、
「くくりつけたか、しっかりと!」
「はい」
馬春堂は神妙です。いや、半ば夢中なのかも知れません。
「よし!」
と、上では三名、それに応じてグイグイと
「これ旅の者、もうしばらくそこで待っておれよ」
こういうと、一人だけをそこに残して、あとの二人は、ズシリと重いその袋をさげて、前の観音開きから堂の外へ飛び出しました。
さらに奇怪なのは、それから石神堂の前へ、土着の者を呼び寄せて言い渡した、かれの行動と言辞であります。
「この賽銭、何程あるか分らぬが、
いかにも厳然とした口調でいうと、
もっとも、
それ故、土俗の者が、高麗村の御隠家様というものをおそれ敬うことは想像以上で、しかもその御隠家とやらは、武蔵の国に散在する幾多の石神の司祭者であるといいますから、馬春堂の落ちた銭瓶の穴――また
さて、おごそかに神財配分の例事をすまして、一同を退散させると、かれらはまた、前の所へ戻って来て、馬春堂を
――もうその時刻には、日もとっぷりと暮れていて、ゆうべよりも
穴の底にいた時は、ただ助かりたい一念であった馬春堂も、地上に足を着けると共に、にわかに、風俗不思議な三名の侍が怖ろしくなって、礼もそこそこ立ち去ろうとすると、
「これ、どこへ参る?」
と見とがめて、馬の
「すでに命のないところを救われておきながら、一応司祭者たる御隠家様にお礼も申さず立ち帰るやつがあるか、たわけ者めッ」
と叱りつけて、はッたと睨みつける。
その眼光にちぢみ上がッていると、うしろから
「御隠家様のお屋敷へ案内してつかわす故、それへ乗れ」
と、駒の手綱を寄せましたが、それがまた、いかにも気の荒そうな野馬です。
「と、とんでもない事で」
馬春堂は一も二もなく尻ごみして、
「乗れません、はい馬になぞ、元来、乗ったことのない
「乗れないことはないッ、乗れと申すに乗らんか」
「でも、まったく、馬術のおぼえがございません」
「おぼえがなくとも大事ない。乗れッ」
「だ、駄目です、こればかりは」
「まあいい。教えてつかわすから、その
一難去ってまた一難。あわれに馬の尻を見ている、馬春堂の泣きたそうな顔です。
「これくらいの馬に乗れないとは世話のやける男だ。ええ、面倒くさい」
そういうと、
「やッ」
と、鞍の前壺へほうり上げて、自分もそれへヒラリと飛び乗ると、かれの体をしっかと膝へ抱きこみました。
「むッ……、苦しい」
それや苦しいでしょう、無理はない。馬春堂はゆうべからの半死半生。
「あッ、
馬春堂は驚かないが、驚いたのは三人の武士、その凄気にうたれて、思わず一歩足を引きながら、
「なんだこの箱は?」
「
「ウーム、この般若はまたおそろしくよく出来ている!」
よく出来ているはずです。一代の
馬春堂は穴から救い出される時にふと気がついて、この品を、ついでに持って上がったのですが、こんな事になるならば、むしろあのまま
「おい、貸してくれ」
と、馬上の侍は手を出して、
「――それを」
「
「般若も、その仮面箱も」
「手綱と荷物がある上に邪魔ではないか」
「じゃ、箱の方だけ、貴公たちに、持って行ってもらおうか」
「
「顔へつけて参る」
「酔狂な!」
「いや、夜だ! 覆面がわりに」
「なるほど、それも春興か」
取って渡すと馬上の侍は、仮面をピタリと顔へかぶって、
「
と、手綱を進めかけながら、うしろを見る。
「うむ、追って行くが、あまり飛ばすなよ」
「心得た」
駒は石神堂をあとにして
おくれるものかという勢いで、
――そしてまた飛ぶ。また駆けだす。
ここらはもう無論江戸の
天地は穏やかな春夜の
いつか、道はもう
川越街道の
初めは、馬のたてがみに突ッ張っていた馬春堂の体も、また気を失ってしまったのか、グタッとやわらかになっています。そしてめぐり廻る家や岡や林――それらの
馬と人とは、そこを、北へ北へと急ぎました。かの石神の司祭者御隠家様の屋敷とかがある
よくひらきました――
ころびばてれんの今井二官の
――陽気のせいでもありますまいが、お蝶はこの頃どうかしてやしないか、少し、いつものお蝶とは調子がちがう。
あの出ずきのお蝶が、ここ半月ほどは外出や買物あるきもせず、あのお化粧気ちがい、着物気ちがいのようなお
きょうも
それも、自分の帯とか春着の小袖とかならばとにかく、洗い張りをした二官の
こういうところにも、かの女の鋭い才気というものが見れば見られまして、白い指に持たれている針が緻密に早くチクチクと運ばれてゆきます。
少しも倦怠や
かの浅草の
しかし、それは元より、かの女がたれにものぞかせぬ秘密な半面で、小縁にさす蝶の影にも気をとられず、針仕事に他念のない姿をながめる目には、まったく優しい、気だてのいい、
「二官もしあわせ者だ、あの
と惜しがる世評に間違いはないのであります。
それだけに、二官がお蝶を愛していることもまた想像外です。お蝶は、この山屋敷の
慈母と厳父の両性愛を身ひとつに持って、二官はお蝶を育ててきました。
ところがどうしたのか、その今井二官が、ここ七日ばかりというもの、
家の中は
一ツ屋の棟の下に、親ひとり子ひとりが、別々に生きてるような淋しさと、たまらない――ワッと泣きだしたいような空気がこもりきっている。
――で分りました。
父の顔色を見るにさといお蝶は、それでにわかに、態度をかえているものと見えます。かれの機嫌が直るように、賢く努めているものと見える。
二官はこわい。
お蝶にも父親だけはこわい。
二官の盲愛か慈母になっている間は、甘えたい放題甘えますが、その顔色が厳父になっている時は、さすがなお蝶も寄りつくことができません。
チロ、チロ、と時々お蝶の目が、机によっている二官のうしろへ今もうごいて、
「なんで幾日も私に口をきかないのかしら? ……」
どこかで、やぶ鶯の鳴くのが静かです。
「お父さん」
呼んでみました。
「――お茶でも入れましょうか」
それにすら答えないで、二官は机から重い胸を離すと、黙然と、ひとりで自分の肩を二ツ三ツたたきながら、
「ああ……」
と、思わず太い
「――もみましょうか」
ツイと、機敏に立ってきて、二官の肩へしなやかな指をかけますと、そのお蝶にからみついて来た糸巻が、コロコロと踊りを踊る。
二官が押しだまって煙管を持つと、
「あ、火がありませんのね」
火を運んでくる。
湯のみへ茶をついですすめる。
そして、またうしろへ廻って、父の肩へつかまりながら、
「あまり根気をつめ過ぎたんでございましょう、お父さんはもう筆をもつと、御飯も忘れていらッしゃるんですもの、だから、肩がこッて気がふさいで来るはずですわ」
わざと常のように、晴れ晴れしい声でそういって、幅の広い父親の肩をしなやかな指でもみ初めました。
そしてまた肩越しに、甘える
「ずいぶん指に力があるでしょう――
友だちにでも話しかけるような口ぶり。
ですが、二官は常のように、うれしい顔もせず返辞もせず、邪慳にお蝶の手を振りのけると、ツイと立って縁先から
「ああ……」と、さっきの如き
「――わしは何できょうまで生きていたんだろうか」
髪の毛をつかんで、近頃目にたって衰えた肩をふるわし、かの柿の木の根元にうずくまりましたが、呪うても死ぬことのできない自分の生命を持てあますものの如く、額を抑えてふらふらと――
「まア」
と、お蝶は家の中から、呆れたような目をみはって、
「まるで、気狂いみたい――。わたしがこんなに機嫌をとっているのに、何をいつまであんなに怒ッているのかしら?」
チッと、舌打ちをして
「あら?」
手にとってギョッとしました。
その
その時落とした花櫛です。
獄門橋で落として来たのは
と思うと神経で――
お蝶はまだかわかぬ血が指へでもついたように、畳へそれを捨てましたが、一度おびやかして来た疑念と戦慄は、身をふるッても離れませぬ。
「じゃ……ことによるとお父さんは? ……」
そうです――感じるに敏なお蝶がひとりでサッと顔色をかえた胸のうちのとおり、これは、ヒョッとすると、二官の不機嫌な原因がこれに、
「どうしよう」
畳の目へ沈んだこぼれ針が一本、落着かないお蝶のひとみをキラキラと
二官はどこか知らず黙々とあるいて出ました。
憂いにみちた顔いろです。
無邪気な小鳥の声、雨とふりそそぐ温光、行く所の足元をいろどッている花も草も、かれの
子ゆえの
古いことばの味も今の二官の心にはピッタリと迫ってくる。
かれの
かれは今さら自分に親の資格を疑い、ただ子煩悩というだけに盲愛してきた罪を悔い悩んでいましたが、また、こうした父を裏切ったお蝶の心が、時々、暴風のようにいきどおろしくなって、いッそ! ……と怖ろしい殺意さえ起って来ます。
だが……。
だが、と思うと、かれは意気地なく涙がわきます。
――あれもふびんな女にはちがいない。
世間なみの家と親の手で育てられた箱入娘とはちがう。周囲もちがう。自由もちがう。おれという者の
ことに、お蝶の母親が、
自分は生きるために屈服して、ころびばてれんの汚名にも甘んじていたが、幕府から与えられた囚徒の後家を妻にもって、その間に、お蝶という遺伝の結合が生れて、老い先にまでこの愛憎の苦しみを延長して来たのは、やはり、神にそむいた神の罰か。
――こう考えると、たまりません。
お蝶の行状をいきどおる前に、二官は、おのれの身を責めさいなんで、血を吐かせてもあき足らなく思う。
そしてまた、
「これだからわしはいけない。わしが考え方は煩悩だ、盲愛だ、ただわが子を
以前から――殺された同心の河合伝八も、それとなく注意してくれた。
山屋敷の長屋の者が、妙なうわさをするのも耳にしていながら、それも、人のひがみとばかりとって、耳も
その後、官庫の騒動――入れ札の時のお蝶の挙動――また四、五日前の晩、たれのしたことか雨戸の隙に、血のついたお蝶の花櫛をさしこんで行った者があったりしたことなど――次々に起ってきた不審に、今は、二官もハッキリとお蝶に目をさましてはいるのですが、わが子ながら、あまりの怖ろしさに、単なる
で、かれは歩いています。
黙々と、家のまわりを
そうしていても、かれの苦悩は少しでも軽くなることはありません。ただ居ても立ってもいられないし、お蝶の姿を見ていれば、気が狂ッて娘を刺し殺した上に、自分も死のうとするような気持が、いと易いことに思われてくるので、わずかの思慮が、しばらくかれをあてなく
と――道は日蔭にはいったようです。すッくと高い
「あっ……」
と、突き当りそうになった大榎に顔を上げた二官は、そこで急に、来まじき所へ来たように足をすくめて、
「二官ッ!」
突然、呼び止めたかと思うと、かれが引ッ返そうとする足元を察して、なお鋭く、
「おうッ二官ッ。待て! 待て!」
うしろを見たら飛びついてきそうな叫びが、つづけざまに、榎の下の石牢からひびいて来ます。
呼び止めたのはヨハンです。石室の鉄窓にすがっている二ツの目です。
「人間の皮をかぶッた
と、手痛く
「…………」
無言で振りかえった二官の
「二官、ここへ来い。いって聞かすことがある!」
「来られないのか、ウム、来られない道理だ! いかに
毒舌は針を吹くようです。
ころびばてれんの二官と、ころばぬばてれんのヨハン。信仰の上だけでも、この二人の間には、犬猿もただならぬ暗闘のあるはずですが、ヨハンの口裏には、何かより以上な
「おい、何とか答えたらどうだ。これほど
「ヨハン殿」
二官は初めて五、六歩足を寄せて来て、
「――なんとでもいってくれ。わしの心は神様だけが知っている」
「ばかなッ、お前に神があるか。お前はその醜い肉体を生きのばす
「…………」
「いい訳はあるまい。あさましい
「ヨハン」
くずれるように、二官は榎の根元へ腰を落として、
「もういってくれるな。それよりは、久しぶりで、羅馬の思い出話でもしようじゃないか」
「おれは責める! 責めずにはおくものか。二官、貴様はなぜ神を売った、なぜ幕府の手に乗ってころんだか」
「お前が責めなくとも、わし自身が、明け暮れひとりで責めている。妻を持ったためにも、子を持ったためにも、それは当然だろうけれど、人にいわれない苦悩が、現在、わしの上にむくいとなって現われているのだから……」
「その苦しみは当然だろう」
ヨハンは鉄窓の間から、小気味よげに二官のもだえを冷視して、
「これだけいえば、わしも胸がすいた。ころびばてれん! もう用はないからあッちへ行け」
と、
「ひどい! ヨハン殿、それはあんまりひど過ぎる」
二官が色を変えて鉄格子につかまると、
「けがらわしいッ、そんな泣き言をならべたところで、わしには何の同情も持ち合せない。わしは
「羅馬……」二官は鉄窓に両手をかけたまま、祖国の名を呼んで、男泣きに肩をふるわせました。
「その羅馬の
ジッと何か案じていた二官は、やがて何か決意に燃えるひとみを上げて、
「この二官が、恥をしのんでこうしているのは、まったく、王家のためにどうかして、あの夜光の短刀を、尋ねあてたいばかりなのだ」
「うまいことをいう」
ヨハンは一笑に付して取り合いもしません。
「いや、わしは恥じない、信じてくれ」
「ふん……人を欺くにも程がある。羅馬からこの国へ、夜光の短刀を探しに派遣されたばてれんは、もう百年も前から、数知れないほどあるが、みな
「形の上では言い訳がない。しかし、元々雲をつかむような夜光の短刀、とてもあれは、自分一代で探し出せないことは分り過ぎている」
「それじゃ何もならないわけだ」
「イヤ、自分の一代で探せなかったら、次の時代へ自分の血をつないで探させる。それには子を育てるよりほかに方法がない」
「じゃ、使命を
「いかに
「なるほど……その話はもっともらしく聞こえるが。じゃ二官、おぬしはまず第一に、たれにその使命を伝えるつもりでいるな」
「娘のお蝶へ」
「あれは美しい
「なにッ」
「あの妖婦、あの毒の花のような娘へ、夜光の短刀を探せよといいつけて、おぬしは今の考えが順当に
「ウウム……」
「わしは見ていたぞ、この
さんざん
存分に罵って、胸のすくほど相手に恥を与えたあとは、一時の清涼のあとに、やがて一種の淋しさが落ちて来る。そして、
「――二官のああいった考えも、ことによると真実なのかも知れない。いつか一度と思っていたので、わしも少しいい過ぎたような……」
と、手に聖書を持ちかけましたが、その聖書をパタリと落して、外の
「? ……」
何かにギョッとした様子。
いつか日の暮れてきた石牢の前を、落花のつむじが、小さな風の渦を幾つも巻いて流れてゆく。
「オー、また今夜も来ているな」
見えるがため、かれは毎夜、安らかな眠りをとることができません。山屋敷の役人さえ少しも気づかずにいるあやかしの影を、かれのみは夜になると見ていました。
影です――人影です。
奇妙な黒衣の影、
それも月のない晩に限って
「もしや、自分の命をねらいに来るのではないか」
と、初めは怖れおののきました。
けれど日を追うて、そうでないことだけは薄々わかりました。かれらは何か、べつに目的があってこの山屋敷へ探りに入り込んでいる密偵であろう。
…………
さて。
さっき今井二官が血相をかえて自分の
見ると、伊兵衛であります。
目白の石神堂で、釘勘という
当座しばらく姿をかくしていて、今ここへ
「おれの眼力はちがわなかったぜ」
伊兵衛はニッタリして藪を出ました。
次に移ったかれの居場所は、すなわち、今井二官の家の床下です。そこには、どこからか持って来た
「――おれもずいぶん根気がよかッた。それでも二官のやつめ、夜光の短刀のやの字もおくびに出さねえから、そろそろ根気もつきかけていたンだが、今日はとうとうヨハンのやつと
ゴロリと寝そべって、手まくらをかいながら、
「さあ……これで二官の腹も読めたし、ヨハンのやつの心底もおよそ見当がついてきたが、さて」
と、そこで将来の方針という
まるで、えたいの知れなかった暗中
「ベッ……」
突然、伊兵衛は顔をなで廻している。巨富一
上では、いつになく二官の荒い声と足音につれて、お蝶の泣くような声が聞こえだしていたので、
「ええ、耳がかゆいぞ、こりゃまた何か、いいことを聞く前兆かも知れねえ」
と伊兵衛はそろそろ起上がッて、体じゅうを耳にしました。
いつもの今井二官とは打って変って、ヨハンといい争った後、ただならぬ血相で家へ馳けこんで来たかれは、
「ウーム、こんなもの!」
やにわに机の上の物を、座敷じゅうへ取って投げ散らし、
「これも無駄な記録! こんな物も今は見るのも腹立たしい」
日記やそこらの
「あっ――お父さんは?」
何となく気が晴れぬまま、勝手へ出てぼんやりと、
「ど、どうしたんですお父さん――もしッお父さんてば! お父さんてば!」
立ち上がる父のうしろから、力いッぱい抱き止めて、
「気が
さすがに声もおろおろと懸命になって、この時ばかりは混血児お蝶も、純真純情な一個の小娘になって泣きだしました。
ですが、父二官の妙に
「えい、この体にとッつくなッ、貴様がさわると、わしはよけいに気が
突き飛ばそうとしましたが、お蝶は
「静かにいッて下さい。わけをおッしゃって下さいッ……よ、よ、よッ、お父さーん」
「なに、わけをいえ?」
「ええ、わけを聞かして下さい、たった親ひとり子ひとりの私達なのに、この間から、口もきかないで怒ッていらッしゃるのは、一体どういう訳なのか、わたしは、情けなくッてたまりません」
父の足元へ、ワッと泣いて身をくずしましたが、その悲しげな泣き声も、今日の二官にはかえって腹立たしく、いつもお蝶の涙には、白も黒もなく盲愛にくるまれて口のきけないかれの手が、
「ええ、よくそんな空々しい口がきけたものじゃ、お蝶ッ、お前というやつは……お前という怖ろしい女はッ……」
その力に他人と父の愛憎のちがいはありましょうとも、なかば狂気した二官の骨ばッた握り
しかし、お蝶はもう泣いてはおりません。ただ背なかに波を打っているばかり……ヒタと畳にひれ伏したきり、声も出さなければ逃げもしない。
瞬間、家の中は、おそろしいほどヒッソリとする。――二官は太い息を苦しげについて、なお怒れる拳を解かず、その手を膝に突ッ張ったまま、ぐったりとお蝶のわきに坐りました。
「お蝶ッ、顔を上げろ」
「…………」
「お前というやつは、まあ何という怖ろしい女だろう。わしはな、お前をそんな娘には育てなかったつもりだ。ころびばてれん、ころびばてれんと、衆人にさげすまれて来た永年の忍苦も、なんのためだ! ああそんなことも、今はいうほど身を苦しめる
脇差はいつのまにか、二官の右手に抜かれていました。
それでもお蝶は身ゆるぎもせずに、ジッとうッ伏しているきりです。――上の様子は分らないが、縁の下では道中師の伊兵衛が、
「はてな――いやにシンとして来やがったが? ――」
そういう時こそ、
お蝶は顔を上げて、父の手に抜かれている
「逃げると許さんぞ、逃げると」
ジリジリと二官は膝をにじらせて行きましたが、お蝶がわるびれもせずに、甘んじて父に
「おのれは……」
と、切ッ先を向けようとした二官の狂わしさも、多少
「取乱すなよ、わしも死ぬ。そしてお前も刺し殺してゆく」
お蝶は澄みきッた顔を、すごい程青白くしてこそいますが、ちッとも、取乱してはおりません。むしろ、こうつき詰めて来た今の瞬間では、二官よりも遙かに冷静です。
「なぜ死ぬんですか……なぜ私をお父さんは殺そうとなさるの?」
「わ、わからないのか、親の心が」
「わかりません。わたしは、お父さんに殺されるようなおぼえがないんですから」
「おまえは美しい
「ええ、そうかも知れません――」お蝶の口答えは
「ころびばてれんの娘ですからネ」
「ちッ、わしに向って、よくもそんな口を!」と、ふたたび彼の気がたかぶると、押し揉まれるほどお蝶の顔色も真ッ青にさえて、
「だッて、そうに違いないんですもの。わたしは温かい母親を知りません、世間の娘のような楽しみを知りません、だから、自然に、こんなふうな女にいじけてしまッたんです。私の罪じゃあない、私を生んだものの……」
「まだいうかッ、まだその口をうごかすか」
「いいます! どうせ殺されるなら、私はいいます!」
「悪魔ッ、悪魔」
その声を横にうけて、お蝶が笑ったように見えたので、二官はクワッと逆上しました。そして、思わず刃を走らせると、
「死ぬのはいやですッ」
父の手元を交わして、お蝶は刃をもぎ取ろうとする。
「生かしてはおけない、おまえは、わしの鍵を盗んで、御封庫を破った大罪を犯している」
「知りません、わたしは……」
「だまれッ、まだ罪がある。おまえは
「知らない、知らない。みんな世間の人のうそばッかり」
「いうな、あの血のついた花櫛も」
「あれは
「いくらこの二官が子におろかでも、もうお前にだまされてはおらんぞ。たれも知るまいと思っていようが、おまえと龍平のしていたことや、お前が暗の夜に犯していた罪の数々は、のこらず、あの石室の鉄格子から、ヨハンの目が見ていたのだぞ」
「ヨハンが? ……」お蝶はぶるぶるッと目に恨みをこめて、
「あの人が、そんなことをお父さんに告げ口したのですか」
「天を怖れろ、おそろしいのは神のおさばき、おまえのその生首が、龍平と同じ獄門台に乗らないうち、自分の手てさばきをしてやるのが、わしがお前に送る一番最後の愛だ」
「いやです、
「刑吏の
「あっ、いやですッ」
「こッ、こうまでいって聞かしても」
「死ぬのは嫌です! お父さんッ、――あれッ、あれッあぶない!」
絹をさくようなお蝶の声。
それまで、耳をすましていた縁の下の伊兵衛も、ふたたび頭の上にひびく物音に、どうなる事かと思っていると――その襟元へ、タラタラと生ぬるい液体がこぼれて来たので、
「あッ」
と、仰向いて見ると、床板の隙間に、まざまざと
「ちぇッ、ばかな真似をしやがッて、とうとうお蝶を」
首すじに垂れた血潮をなで廻して、伊兵衛もそこでうろうろと、
「折角、夜光の短刀の秘密を、親子の口から
じッとしてはいられなくなって、四ツん這いになった道中師の伊兵衛、そこを飛び出そうとして暗がりをはい出すと、土台柱一本へだてて、意外やそこにも二ツの目玉。
「? ……」
「? ……」
すくみ合って、双方、互いのにおいをかぎ合いました。
こういううまいかくれ場所に道中師の伊兵衛様が、地獄耳をそばだてていることは、相手方の日本左衛門でも、夢、気がつくまいと内心得意でありましたところが、あにはからんや、この縁の下には自分のほかにも、ヘンな
「おっ……」
と、しりごみをした伊兵衛。
「こいつはいけねえ」と、あと下がりに身を
(この野郎、うさんくさい)
と、向うでもいいたそうに、四つンばいに這って追い廻して来ますから、伊兵衛も
「甘く見てやがるな、三
そこで今度は攻勢に出て、こッちから
抜いたと知りましたから道中師の伊兵衛も、からかい半分ではなくなりました。いくら、
「よし」
と、伊兵衛も道中差。
そこでこの状態のまま、二本の刀が根くらべの三
果てなき勝負と見えました。
ここに冬眠からさめた
すると、その時また、
「うう――むッ」
と、床の上のただならぬ絶叫。
お蝶のうめきやら二官の苦しみやら知れませんが、とにかく、上の屋内で大変の起っているのは、甚だしくそこらへ
どたッと、たおれる音。
「おッ、お蝶ッ……」
はッきりと、二官の声。
「――夜光の!」
もつれる舌で、
「夜光の! ……」
「おッ、お父さーんッ……」
と、つづいて苦しげなお蝶の声が、嵐の中から叫ぶように。
はッとそれに気をとられて、伊兵衛の胸算はとつおいつ、この縁の下を出ようか出まいか。
「はて、困った」
と、迷いましたが、ふと見るといつのまにか、今の物音の途端に外して行ったのか、相手の刀は消えています。
すッぽかされた道中師の伊兵衛も、それ幸いと飛び出して、初めて、床下から腰をのばして見ると、陽はすでに暮れて花のおぼろ夜――
二官の家の庭先の桜が、なんの凶兆を暗示してか、しきりに降り散って、それが山屋敷じゅうに
すると、そのとたんに――お蝶でした――お蝶にちがいありません、家のうちから落花の庭先へ、突きとばされたように転んで来て、そこへうッ伏せに仆れたかと見ると、帯も黒髪もしどけなく、よろ、よろ、と足元もあぶなげに、ヨハンの
――そのあとで。
伊兵衛はすぐに家の中へ土足で飛び上がりました。行燈の灯も今宵はともされぬままでありましたが、花明りでそこらを見れば、目もあてられない有様で、乱脈をきわめた
無残……
二官の死に顔はまだ泣いているようです。
「どうしたのだろうか?」
刃物はかれの手を離れて、ふすまの下にほうり出されてあるので、伊兵衛にも、たッた今の
「まさか? ……」
と、つぶやきました。
かれの如き人間の推測でも、お蝶が現在の親を殺して逃げたとは考えられないことであります。
わたしは若い、十九やそこら。
十九やそこらで
――お蝶の生の執着は、今、なにもかも忘れて家から迷いだしたのであります。
逃げる気でしょう。
この山屋敷をのがれて、どこかに新しい生き場所を求めるつもりらしいが、ふだんの才智なら、化粧をととのえて、表門からぬけ出すでしょうに、ここへ来て、うろうろと高い塀を見あげているさまを見ると、さすがに彼女も、父の血を浴びたせつな、心を取乱してしまったとみえます。
「お蝶さん、どこへ行く?」
すると、どこかで咎めるものがありました。
「また今時分、どこへ出て行こうとするつもりか」
「ヨハン」
きっと、
「ヨハン!」
むらむらとして、石牢の前へ馳けよりました。
「おお、どうしたのか、そんな姿をして」
「あの」
赤いくちびるを鉄の格子につけて、
「あのね」
「ム」
「大変ができたの」
「大変が」
「ヨハンさん」
「え……」
かれも昼のことが胸に思い当って、何か知れぬ不快な胸苦しさをおぼえながら、
「どうしましたか」
「こっちへ、こっちへ、ヨハンさん。もっとこっちへ寄って、耳をかして頂戴」
「なに」
と、そばへ行って、赤いくちびるへ顔をよせると、鉄窓の下の方からいきなり、短い刃物の切ッ先が、ヨハンのわき腹をねらッて勢いよく突いて来ました。
「ちイッ……」
と、鉄格子の間に手をつッこんだまま、唇をかんでもがいている。
「オオ美しい悪魔」
やがてヨハンがいいました。
声の様子ではべつに怪我もなく、中でしッかとお蝶の手を抑えつけているものらしく、
「なんで私を殺そうとしますか」
「な、なにがッて」
お蝶は眉をしかめて、死ぬ苦しみをこらえながら、
「お前が、わたしのお父さんを殺したから、私もおまえを殺してあげる」
「えッ、二官殿が死んだッて」
急にブルブルとふるえるのが、お蝶の腕にも激しくひびいて、
「ほんとに、二官殿は死なれたのか。あの一途な気持で……ええ、しまッた」
絶望的な息をついて、なおもお蝶の腕をだきしめる。
お蝶はヨハンの無性に泣く涙が、自分の腕にこすられるのをこそばゆく感じながら、妙に血が下がってきました。
「お蝶さま、お蝶さま」
「え……」
ヨハンの改まった言葉に、身をうごかそうとしましても、まだ苦しい手を放してはくれません。
「おわびいたしますお蝶様。二官殿は自殺したのでございましょう。それは私が殺したのも同然です。あの方の本性を疑っていたのはこのヨハンのあやまりでした」
まったく、昼のヨハンとは話がちがって、お蝶も奇異な思いが、いつやら身にしみてくる。
「深いあやまりでした。私は、どこまでもあの方を、日本へ帰化した今井二官、ころびばてれんと憎みました。そして疑ッてまいりました。しかし、実をいうと故郷の
「だれが」
「二官殿です」
「えッ、おまえは、私のお父さんの家筋に、代々つかえてきた家来だッて?」
「はい、あの方こそ、今は夜光の短刀がないために、家名はつぶれ、貴族の籍もはぎとられて、それを探しに日本へ流浪なされましたが、まことは、羅馬のさる王家を再興なさらなければならない、たッた一人のお血筋であッたのです」
はじめて聞かされた父の系図。
祖先を思うときに現実の自分はひとつの不思議な存在であります。
お蝶もまたわれとわが身を疑いなくしていられません。
ヨハンのいうが如く、父の二官が羅馬の一王家を興すたッた一人の血筋であるとすれば、その人の亡い次の血は、異国にこそあっても、当然、自分ひとつの身に遺されて、自分は王家の姫である。
(そんなはずはない! そんなはずはない!)
と聞くそばから否定して、
(わたしはいやしい山屋敷の
と、思いました。
けれどヨハンの話は、
「わかりましたか、お蝶さま」
いつまでも彼女の腕を放さない。
決して、うわの空に出る一言一句とも思われません。
「――そこで私の素性を申しましょう。私はさっきもいったとおり、王家の従僕でございます。代々の家来でございます。ところが夜光の短刀をさがしに、日本へ渡来された二官殿が、幕府の手にのッてころんだ上、名も今井二官と名のり、妻をもち子までもうけて、帰化しているという噂が、本国の法王庁へまで聞えてまいりました」
「手がしびれる……すこし放してよ、ヨハンさん」
「あ、すみませんでした」
ヨハンが手をゆるめると、
「で、私は法王庁から、その視察をいいつけられ、日本へ渡航を命じられましたが、禁教の国へばてれんとして
ヨハンは、七年の前を追想して、石室の中で目をとじました。
あとのことは日本幕府の記録が示すとおり、村人に見つけられて長崎の
思うつぼに、ヨハンは
ところが、二官はヨハンの下獄してきたのを知りつつ、そこへ会いに来たこともなければ、たまたま、ちらと姿を見せても、あわてて顔をそらしてしまう。
「浅ましい人間!」
ヨハンは自分の主人ながら、その
「私は、その
ヨハンは声をすすッて泣き入りました。そしてまたお蝶に力をこめていうようには、
「この上は、二官殿の遺志をついで、夜光の短刀を探しだす者は、あなた以外にないことになりました。――お蝶さま! あなたはこの山屋敷をお逃げなさい。そして夜光の短刀をたずね出して
一句一句、ヨハンが胸の秘密を解いてしぼり出すようなことばに衝たれて、お蝶も、ジッと首をたれて聞き入りましたが、
「だって、それを探すといっても私には……」とためらい顔です。
「いいや!」
ヨハンは強く首をふる。
「そんなむずかしい事ではありません。それにあなたはどう見ても日本の娘、どこを歩きさまようても、怪しまれぬのが何よりです。――教えましょうお蝶様、さ、教えましょう」
「え、なにを?」
「夜光の短刀のありかを知る、たった一ツの手がかりを!」
花のちる音か、やぶの笹鳴きか、その時あたりの物蔭でかすかな空気がうごいたようです。
その時――
「また
と、ヨハンが牢のそとへ神経をすましたので、お蝶も、思わずわが身のうしろを脅かされて振向きましたが、夜の幕には、ただ散る花のゆるい運動が怪奇美な光を舞わせているのみであります。
「……お蝶さま、夜光の短刀のある方角を教えてくれるただ一つの磁石、それはこれです」
ヨハンの手は何かの興奮にふるえている。
見ると、かれは肌身はなさずに所持している聖書の
そして、その聖書のこばを歯で破ッて、ビ、ビ……と
「これです、お蝶さま」
と、かの女の手に握らせる。
手ざわりのいい
はがれた聖書の裏表紙?
不審そうに見はッたお蝶のひとみは、それとヨハンの顔とを、かたみがわりに見つめています。
「これですよ、お蝶さま」
「これが?」
「なにか指にさわる物があるでしょう。その羊の皮のやわらかな手ざわりのほかに」
「ええ、石つぶのような、こまかいものが」
「いいや、それは、石ではありません。二枚かさねて袋になっている表紙の中に、わたくしがソッとかくしておいたのは、
「え、種子が」
「端の方をすこし歯で破りました。出してごらんなさい。あ! ……ですが、こぼさないように、それをなくしては大変です」
いわるるままに、お蝶は、貝のような白い手のひらの上へ、中の黒いつぶを
なるほど幾つぶかの植物の
まるみのかかッた三角形のその
「なにかしら」
と、小首をかしげているばかり。
これがどうして、ありかの方角を知る磁石なのか、秘密をあける鍵なのか。
疑惑は依然として疑惑で、さらにふしぎが深まるのみであります。
「お蝶さま、それは
ヨハンの話は、ペトロ院の日あたりのいい庭で、説教をする時のように、お蝶の耳へもわかりよくはいりました。
二官の祖先、お蝶にも血のつながる遠い過去の人――
かの
その人はまだ、日本が戦国の
その後かれがなつかしき
かくても、天草の宗教戦前後までは、幾多勇敢な宣教師たちが、海を越え、危険をおかして、日本へ乗渡ってきつつありましたが、特に、
しかも、そのありかを知るに至難なことは、かの貴族の古い通信によって見て、その人の最期の地が、今は、将軍家の膝元となっている関東江戸附近ということが、ほぼ限定的に分っているのに、長崎天草までは乗渡って来た羅馬の人も、よくここまで足をふみ得たものが稀であります。
布教にくるばてれんも、それをたずねて日本へ渡った者も、幕府の宗門役人からみれば、みな同色な異国人、見つけ次第に十
徳川万太郎が名古屋城で手に入れた「
思えば、夜光の短刀を求めにくる、羅馬の人々の屈せぬ根気は敬服にあたいしますが、それに払われた犠牲もまた少ないものではありませぬ。
文字どおり生きかわり死にかわり、慶長から現在の正徳五年にいたるまで、およそ百二、三十年、今なおここに二官やヨハンにまでうけつがれて来ています。
そして、日本へ赴く時その使徒たる人が、王庁からさずけられる手がかりとしては、わずかに左の数項よりなかったので、それは今――ヨハンからお蝶へ手渡された羊皮の裏表紙にもギリシャ語をもって






と、ヨハンは、お蝶にもわかることばに訳して、
「――つまり、日本にない鶏血草の花が、一輪でも、この国のどこかにさいていれば、そこはピオ様の居たところか、
「あ、それで私も思い出した」
お蝶は、その
「お父さんも、こんな草の種子を、春の彼岸、秋の彼岸がくるたびに、しきりと
「オオ、じゃこの山屋敷にさきましたか」
「いいえ……だめなんです、いくら土や日あたりのよい所に蒔いても、いちども芽を出したことがありません」
「二官殿は何といっていました」
「最後に、もう一粒しかない、この一粒でさけばお前に羅馬の花を見せてやることが、できるが……となげいていましたが、とうとうその一粒をなくすにはしのびないといって、蒔かずに、どこかへ取っておいたようですけれど……」
「しッ! ……たれか来た」
ヨハンは突然、
「
――でなくともお蝶の心は、さっきから追い立てられているように、
父のあんな死にざま。
あれを山屋敷の役人に見せないわけにはゆかない。
当然、きびしい調べがあろう。白洲へつき出されれば勢いそれからそれへと、身の疑いが明るみに出て、自分の罪もあばき出されるにきまッている。
オオ、龍平の首が、獄門台の上から呼んでいるような。
――夜光の短刀の奇しき話に気をとられている間は、そんなおそれもふと忘れていましたが、ヨハンが突然、
「たれか来た」
と、あわてる声に、お蝶も一緒にビクッとして、鉄窓の前を離れながら、別れをつげて、
「じゃ、お別れよ、ヨハンさん」
ヨハンは
「体を。体をな……。お蝶様」
「大丈夫、私は、死にゃあしないから」
「お待ちください。そして、二官殿の死を
「だって」
お蝶は、逃げも得ず去りもえずに、
「――わたしに、探せるか探せないかわかりゃあしないものを……お前。待っているなんていッたって困ッちまう」
「そ、そんな事で、どうなさいますか!」
ヨハンは思わずやッきとなって、
「きっと探せます! 私は捕われの身、この牢獄で神様に一念お祈りしています」
「いいよ、いいよ、そんなことをしていてくれなくッても」
「じゃ何の為に、あなたは山屋敷を出てゆきますか」
「命が惜しい、明るい世間に
「ちぇッ……そんな気持か」
あれほど説いて聞かした自分の誠意も、この少女には通じないのかと、ヨハンは歯がみをしてまた何か叫ぼうとしましたが、それは、あッという仰天に変りました。
ツイと、お蝶が身をひるがえして、そこを去らんとしたとたんに。
さッきから物蔭で、いさい残らず聞きすましていた道中師の伊兵衛、いきなり
「もったいねえ、おれがもらっておいてやる」
と、かの女の手にあった羊皮の表紙を引ったくッて、どんと、胸を突く。
バラッと、あたりへ撒かれた鶏血草の種子、伊兵衛の襟にもこぼれました。
――お蝶は倒れます。
落花は
「おさらば、もう山屋敷に用はねえ」
伊兵衛はこういって、
あッ。ドたッ――という音。
見ると、竿でハタキ落とされた
「渡せ」
「今のを出せ」
「うぬ、いやとはいわせねえぞ」
ギラギラッと端の方から一斉に抜きつれると、たちまちそこに輪をつくる剣の歯車、伊兵衛の体は心棒の位置に置かれています。
「ふざけるな」
と、伊兵衛は笑って、
「てめえたちは、日本左衛門の手下だろう、御苦労様なやつらだ。この間うちからの張込みで、さだめし足に痺れをきらしたろうから、おれが風を吹かして送ってやる」
いきなり、着ていた合羽を両手にしぼると、それをつかんで
ところへ。
小者の急報で、二官の家に集まってきた山屋敷の役人は、そこに自殺とも他殺ともつかず倒れている、かれを検視しておりましたが、大
「やッ、あれは?」
と、六尺棒や提灯が飛花をついて駆けだしてくる。
しかし、乱闘は同じ場所に待ってはいません。ことに
牢獄のすみでは、ヨハンが、石のように身を伏せたまま、何か
ところが、ここにもう一人――いやもう二人、事の始終を高い所から見ていた人間がある。それは裏の高塀の境にある
「きれいじゃねえか」
と、指さして、
「まるで
よそごとのようにいって笑いましたが、
どこかの部屋では世間をよそにして気のいいめりやすの三味線が、『描のつま』か何かの独吟に三を下げて、
三とせなじみし
猫の妻
もし恋ひ死なば
かはいのものよ
三味線の
いろにひかるゝ
中つぎの
棹 はちぎりのたがやさん
ごていねいにも、わざわざ江戸から師匠づれで来ている蔵前のお客様とかが、毎日、まずい一くさりをさらッては、どッと、あたりお構いなしに笑いくずれています。猫の妻
もし恋ひ死なば
かはいのものよ
三味線の
いろにひかるゝ
中つぎの
きょうは、
ここは
「あれ、お嬢様」
「ちょッとここへ、お嬢様、ちょッとここへ出てごらんなさいませ」
手拭を
「なアに」
やさしい返辞はしますが立っては来ません。
書院の下に小机をよせて、巻紙をひろげている後ろ姿が見えるばかりで、
「――いいものが見えますから」
「私は今、手紙を書いているから駄目」
「そんな事おッしゃらないで、ちょッとここへ来てごらん遊ばせ」
「うるさいね」
と軽い舌打ちをして、
「――今この手紙を書いてしまってからネ」
と、いいふくめるように、机に向ったまま、サラサラと筆の穂を走らせている人は、まことに上品な――少しやせすぎてはいますが――線のいい美人でした。

書き終えた巻紙を、くるくると封じてやっと筆をおいてから、ニッコリした顔が小間使いのおりんを見る。
「はい、すみました」
「もうだめですわ、お嬢様。とッくに下町の方へ行ってしまいましたもの」
「そら、やっぱり、
「いいえ、嘘ではございません」
「じゃ、何があったの」
「
「孔雀?」
「ええ、ゆうべ湯番も話していました。上方の方から来た孔雀の見世物が、あしたは船で黒磯へ上がるから、小屋へかからないうちに見てしまえば、その方が木戸銭がいらないなんて」
「それが通ったのかえ」
「ええ、ぞろぞろと沢山の人がついて」
「じゃ、次郎もそれを見に行ったのかしら。この手紙を、飛脚屋へ頼もうと思うのだけれど」
「それなら何も、宿の者へおいいつけ遊ばせばようございましょうに」
「ところが、私は字が下手ですから、人様に見られるのが恥かしい」
「あんなこと」
「次郎を探しに行こうかしらね」
「二、三日の雨で、少しも外をおひろいになりませんでした。おりんもお供をいたしましょう」
身分のある武家の御息女らしく思われますが、固くるしい作法のとれた湯治場のこと、気軽に
と――薄暗く湯のにおいがする梯子だんの中途で、病人らしい若い侍へ、
「お風呂でございますか」
小間使いのおりんが、ことばをかけると、
「お出かけか」
と、先でも軽く、あいさつをしました。
そして、もう一度、上と下とて、両方の目が振り向き合った時、
「――
廊下の角に待っていたのは、宿の
次郎という山猿のような
「いったい、あの女は何様だろうか」
と、いうささやきが、もッぱらであります。
この
「あれは番町のお旗本のお嬢様で、連れている猿みたいな小僧は、
「ヘエ、そうかな」
と、一時は感心しましたが、二、三日すると、また
「湯番に聞くと旗本の娘じゃないっていう話だぜ」
と、
「どうもおれも、旗本にしちゃ、あのお供や、あの小間使いの口ぶりが変だと思ったよ」
「第一、屋敷は江戸じゃないそうだ」
「へえ、どこだい」
「どこだが分らないが、御府外の遠方だそうだ」
「あんなに永く湯治場においといて、虫がついたらどうする気だろう。親の気もちが分らないよ」
「次郎という小僧が、その虫の番人にちげえねえ、何しろ、毎年、二月ぐらい入湯に来るというこッたから、何か病気でもあるんだろう」
「気の毒だな、あの若さと、あの
「だが、病人とは見えねえな、いつもきれいだし、外へも出るし」
「病人だってなにも、
「きれいな病気ッてものがあるかしら」
「

「なるほど、癆

「そういえば癆

とうとう素性の方が分らない腹いせに、衆議が癆

こんなふうですから、二階の障子が
せっかく世間を
ある日は、次郎をつれ、
ある晩は、
洗い髪で、磯を飛んであるく、月江の姿もよく見ます。時には、庭先で、鬼ごッこをしていたり、すべてが開放的で、明るく、そろいもそろった無邪気な三人であります。
だから、傍観の
「おお、道がきれいになった、ゆうべの雨で」
今も、庭の裏口から、宿の
「おりんや」
と、涼しい目を細めて呼ぶ。
「はい」
「お前はほんとに人なつこいね」
「なぜですか、お嬢様」
「だって、あんなお
「ちッとも突然ではございません、私は、もう朝夕ごあいさつをしているんですから」
「まあ……」と仰山に、
「おまえはいつのまに、あのお侍様と御懇意になっているのかえ」
「ホホホホ……お嬢様ッてば」
「何がおかしいの」
「わたし、御懇意にしたからッても、べつだん何でもありゃしませんのに」
「だから、何でもあるといやアしないのに、お前こそ、よッぽどおかしい」
「お嬢様こそ、よッぽど妙です」
「いいよ、おりん。旅先だと思ってたくさんおいじめ、
「あら、お怒り遊ばしたんですか。――お嬢様そんなに早く行かないで」
「いいよ、いいよ。お前はあッちへ行って、相良様とたくさんお話し!」
くるりと身を廻して、
それも軽い戯れでした。
くったくのない蝶々のように、月江とおりんの主従は、それから次郎の姿をさがしに、下町の坂を北の方へ向って駆けだして行く。
「あら、また坂がある」
「
「武蔵野には坂がない」
「あんな海もございませんのね」
「りんや」
「はい」
「次郎はいッたいどこへ行ったのだろうね」
「さあ――こッちにも見えませんが――また遠ッ走りをして、走り湯の権現様の方へでも行っているのじゃありませんかしら」
「おや、あそこに沢山人が見える」
「ほんとに、たいそう人がたかッておりますこと」
「居るよ、あの中に。きッと次郎も交じッているんだよ」
「行ってみましょうか、お嬢様」
「うしろから行って、そッと、目をふさいでやると面白い!」
「それよりもわッと背中をたたいておどかしてやりましょう!」
軽快な姿が、
そこは野中の地蔵とよぶところで、晩には、沖の潮鳴りがきこえるほか、人も通らない湯町の端れで、ただ一軒、
網小屋のそばには、馬子や漁師や往来の者の
「アー……いいお湯だ」
と、湯気の中から渡り鳥の腹を仰向いて見ていました。
板前の
ところで。
月江とおりんがそこへ来て見ますと、野天風呂と
次郎の姿はここにも見えませんでしたが、宿の丹前を着たお客の男女や、往来の者や、土地の悪太郎が寄ッてたかッて、
「
「法斎、法斎、法斎……」
「法斎きちがい! 法斎きちがい」
――なにか知らないが面白そうに騒いでいるので、思わず首を突ッ込んで、人の肩の間からのぞいて見る。
名物の馬鹿でもいるのかと思いましたら、べつだん人間をよんでいる訳ではなく、岩の間からふきだしている湯へ向って、土地の子供が、
「法斎きちがい、法斎きちがい」
と、手をたたいているのでありました。
「ああ、これが、法斎湯だよ」
と、月江もおりんの耳へ口をよせてささやいている。
この湯口は、法斎きちがいと呼んで手をたたくと、自然に
で――その湯口のそばには、江の島の
「おじさん、法斎呼ぼうか」
「おばさん、法斎呼ばしておくれよ」
と、一文二文をねだッています。
「つまらない……」
おりんは、さんざん見てしまったあとで、つまらないと呟やきながら、そこを離れて月江と一緒に歩きだしました。
「あの法斎法斎ッて、お湯が怒ッてくるのは、仕掛があるんですとさお嬢様」
「まあ……そうかえ」
「あの子供たちには、
「そんなことは、知らない方がいいのだよ。あれも土地の名物だと思って、ぼんやり見ていれば面白いじゃないか。世の中のことは、みんな法斎湯みたいなものだからネ」
話しながら野道を縫って、磯の方へ廻ってゆきますと、よく湯治場にあるやつで、甚だよくない眼つきをした遊び
「もすこし先へ行って」
「磯へ出るぜ」
「だからよ……」
あと先を見廻しながら、ふたりのあとからついて行きます。
わるい者が目をつけてゆく。
何かなければいいがと眺めていると、案の如く、海辺へ出てあたりに人なき様子を見廻すと、三人のならず者が、突然、月江のうしろへ飛びかかッて、
「あれッ」
と、悲鳴をあげかけた小間使いのおりんも、その口を大きな手のひらでふさがれて、小雀のように、磯松の根元へだき倒されましたが、
「おりんや、大丈夫だよ!」
月江の声がこうひびきますと、大の男が
姿に似気ない手のうちに驚いて、おりんの方はあと廻しに、こんどは、三名が一束になって
「何をしやるッ」
柳眉に美しい険が立つ――
「女と思うて、ぶしつけな、この上わるさをすると許しませぬぞ」
いうかと思うと、いつのまにか、手につかんでいた砂の目つぶし。
笑止です。
「わッ」
と、
そして、二、三町ほど走ッて行って、また、小舟のかげに顔を出し、いまいましそうに見送っていた人の方をながめて、
(いい気味!)
と、いわないばかりに手をはやしました。
ところが、それから月江とおりんの主従が、横磯の砂浜をきれてゆく頃――
「お嬢様、大変です、大変です」
「うしろをお見でない、うしろを見ると、よけいに狼は飛びついてくるものだから」
「だって、帰れないじゃございませんか」
「錦浦の方へ歩いて見ようよ、わたしはまだ、観音様の石門も見ないし」
「見物どころじゃございません」
「お前がわるいのだよ、あの法斎湯に仕掛があるなんて、土地の名物にケチつけたから、それをよい言い懸りにして来るんです」
「まあ、どうしましょう月江様」
右は念仏山の断崖、左は海、道はそのふもとに添う一筋です。
うしろを見ると、大漁
はッと、おりんが思いあたったのは、この道の先の
とは気がついてみても、うしろを振顧ると、あとへ帰る気にもなれないし、立ち止まってもいられません。
鎌倉右大臣の――箱根路をわがこえくれば伊豆の海や――その伊豆の海はだんだんと困惑の足もとから暮れかけてきそうです。
大島初島も、すでに紅い
…………
時に、ちょうどその頃――同じ海の暮色を見ながら、日金の峰の中腹、東光寺の下あたりから、口笛をふきつつ町へ帰ってくる、風の子のような元気な小僧がありました。
まもなく、湯前神社の石段から町へ降りてきた口笛の馳け足は、隠居藤屋の裏庭へ飛びこんで来て、そこから、
「お嬢様、ただ今」
と、二階の部屋を見上げました。
月江の
次郎は今年十五だそうで、遊びたい盛りの溌剌たる眼が、ちょッとの間も、ひとつ所にジッとしてはおりません。髪は麻糸でそッけなくうしろへ結び、なりは手織りの
「おう、次郎さんかい」
「え」
月江の返辞がなくて、うしろで呼んだ者があるので振顧ると、
「お嬢様は、お前をさがしにゆくといって、さっき出かけたきり、まだお帰りがないようだ」
と、顔なじみの、宿の下男が来て、おりんも一緒であることまで教えました。
「へ……そうかい」
次郎は、障子の
「どッちの方へ行ったか、おじさん、知ってないかい」
「さあ、下の
「アア、あの法斎きちがいか」
次郎はふところへ手を突ッ込んで、藁や髪の毛や木の葉でまるまッた鳥の巣を、両手で
「おじさん、これを預かッといてくんないか」
「なんだいそれは」
「鳥の巣さ」
「鳥の巣は分っているけれど、一体どこで取ったんだ」
「東光寺の
「困るなあ、
「大丈夫だよ」
「縁の下へでも入れておきな」
「猫に食われてしまうと可哀そうだもの」
「ほんとに雛が居るのかい」
「居るよ。寝ているよ」
「弱るなア、そんなもの」
「ここへ置いたよ、いいかいおじさん。猫に食わすと承知しないぜ」
次郎はまたスタスタと馳け出して、行きちがいになった月江の姿を、そこか、ここかと、しきりに探し廻っている。
そして、法斎湯の近所へ来て、知ると知らないにかかわらず、逢う人ごとにたずねて見ると、
「あ、藤屋の隠居所のお客さんですか。その人ならばさっきこの辺で、湯鳴りを見物していなすッたが、その法斎場には仕掛があるとか人に話していたっていうんで、土地のならず者が聞きかじッて、横磯の方へ追いかけて行ったようです」
「えッ、ならず者が追いかけてゆきました」
「お前さん身よりの方なら、早く行って見ておあげなさい。
「ありがとう!」
次郎は、それを聞くや、宙を飛んで、
「さあ、大変」
と思いました。
もしやお嬢様の身に、かすり傷でもつく事があったひには大変だ。次郎はなんのために熱海までお供をして来たのか。
「さあ、一大事」
彼も責任感に責められました。
温泉
次郎は草を蹴って、野づらを
「ウーム、見えないぞ」
と、太い息でうめくばかり。
潮のけぶる
「どこだ、どこだ。おいらのうちのお嬢さまは?」
次郎は波うち際を
「月江さまア」
と、大声を張りあげましたが、その声には、一脈の哀傷と不安なものがカスれていました。
――駆けるほどに、呼ばわるほどに、暮れかけている横磯の
「どこだ、どこだ」
次郎はいよいよ血眼となって、
「――お嬢さまア、お嬢さまア」
遂には、波にひびくその絶叫も、涙ッぽい訴えと変って、刻々と
すると――向うで、
「おのしは、次郎さんでねえか」
と、磯の石が呼びました。
磯の石が声をかけるはずはないが、うす暗い海辺にかがんでいたひとりの
「あ……」
驚いて近づいてゆくと、ふだんこの辺でよく顔を合せている海女です。
「おばさん、教えてくンないか」
次郎の問いは唐突です。
「おめえ、それで飛んできなしたか」
「居なくなッちゃッたんだよ、お嬢さまが。――おばさん、おいらのうちの月江様を知ってんなら、教えてくんなよ」
「大変だぞ、おめえ」
「えッ」
次郎はもう飛び立ちそうな様子をして、
「大変て、ど、どうしたンだい」
「悪いやつに追われて、魚見小屋の中へ連れこまれて行きなしたようだ」
「見ていたのか、おばさんは」
「札つきの悪者ばかりが、のッそりのッそり、藤屋のお客さんのあとをつけて行くので、なんか悪いことがなけりゃあいいがと、さッきからここで案じていたところ……おめえよく来なした、早く行って見てあげるといい」
「ど、どッちの方だい」
「
「岬ッて?」
「ここを真ッすぐさ、そこにな、魚見小屋があるから、すぐと知れるだ」
「あ、ありがとう、おばさん」
いいすてて勢いよく走りだしましたが、何か棒のようなものを蹴って、砂の上につンのめりました。
そして、前へころんだついでに足で蹴ったその棒を拾って、よい獲物とばかり小脇に持ちこみましたが、その先ッぽに、鋭利な刃物が光っているところを見ると、これは、漁師の置忘れた
波はごうごうと
と――
やがて次郎のあえぐ道が、岬の鼻へ向ってのぼりになって来たかと思うと、ごうッ――と耳をなぐる松風の間に、ちぎれ飛んでくる大勢の人声。
たしかに魚見小屋のあたりです。
きッと、空の明りにすかされる岬の松のかげを睨んで、
「畜生、見ていろ」
と、くちびるを噛んでつぶやくと高麗村の次郎、山に
ところが、ここに。
まだ岬のはなの乱松に
きのう網代へついた江戸の便船のうちに、ちらとその姿を見せた目明しの釘勘と、かれが組下の伝吉という男。
――伝吉は、いつぞや、丹頃のお粂と
しかし、きょうの半日を、この岬のはなの風にあたッて、根気よく海とにらみ合いをしていたのは、まったく、それとは意味のちがうものであって、
「まだ見えない」
「はてな、きょうは波も穏やかだし、日どりの狂うはずはねえが」
と、何か心待ちにするのか、ついそこで、日の暮れるのをうッかりしていたものであります。
「いけねえ、暗くなって来た……」
海の
「親方、このあんばいじゃ、やつらの船がくるのは
「ウーム、そうかもしれねえ」
「どうします」
「しかたがねえから、そこらで一晩しのごうじゃねえか」
「ちょうどいい小屋がありますぜ、その向うに」
「
「なんです、魚見小屋ッてえな」
「潮色を見て出漁引き漁の貝合図をふく番人のいる所だ。――だれか居るか」
「いねえようです、だれも」
「そこらの、松葉をすこしかき集めてきねえ、中へ
がらりと、あるという名ばかりの
伝吉が土間の
釘勘は腰をさぐッて
「ははあ、この辺のやつも、だいぶ抜け買い(密貿易)の手伝いを内職にしていやがるな」
と、ぼウと赤い炎のいろに浮き出したあたりの物を、まず一流の鋭い目で見てしまいました。
そこのすすけた壁には、漁具、網、法螺の貝、
「――で、なんでしょうか」
伝吉は一ぷくつけながら、小屋へ
「その……きょうか今夜は、必ずこの辺へつくはずだと親方のいう霊岸河岸をでた
「分っているのは、日本左衛門に
「で……そいつらの旅へ出たのは」
「無論、江戸は近ごろ物騒だからよ」
「夜光の短刀をさがす
「それもある……だがそれより先に」
「お粂ですか」
「ウム、自分を裏切った丹頂のお粂――お粂を奪ったとにらまれている相良金吾。――日本左衛門はなにより先に、この二人を生かしちゃおくまいと、おれは前から要心しているのだ」
「なるほど、あの男にしても仲間の者にも、それくらいな執念はありましょうね」
「どッちみち、こんどは、よほど気をつけないと、お粂はもちろんのこと、金吾様の命もあぶない、おれも、江戸表ならどうにでも捕手を自由に使ってみせるが、旅へ出ちゃ腕一本すね一本、それにひきかえて日本左衛門の方は……」
といいかけた時、何か、ぶつけたような物音と女の声が、突然、後ろの戸を倒して中の火をあおッたので、
「おうっ!」
と、釘勘も伝吉も、
そこの、魚見小屋を背なかにして、外に立っていたのは、遂にここまで追いつめられてきた、
おりんは歯の根もあわずに月江の胸にすがっている。
その
「りんや、心配おしでない」
と、月江の片手が帯の懐剣をさぐッたせつな、目まぜをし合ったあぶれ者の二、三人が、いきなり、かの女のうしろへ廻ろうとしましたが、そのひとりが、懐剣で頬をかすられたかと思うと、魚見小屋を内がわへ
「あっ」
と、中へころがり込む。
とたんに。
「こいつらッ」
意外な
「わッ」と、驚いたあぶれ者の影が、一時に小屋の前をひらいて、
「野郎、なんだてめえは!」
と、虚勢を張って立ち直りましたが、伝吉が、
「御用ッ!」
と、ふた声ばかり浴びせかけますと、もともとたいして骨ッぽいのは居ない連中ですから、十手を見たばかりでわれ勝ちに岬の下へ逃げだしました。
それほど、他愛のない小悪党の群を、釘勘や伝吉とて、なにも
「うぬ、待て」
とばかり駆け散らして行く。
すると。
その坂道の横合から、ブ――ンと風を切ッて飛んだ一本の
いやが上に、驚きあわてたあぶれ者は、むしろより以上な危険のある横手の
だが、自分たちのおどかしよりも、なおかれらを驚かした銛の投げ手はたれだろうか――と、そこに
「おい、待ッた」
釘勘が手をあげて、
「人違いをするな、おれたちは、通りかかった旅の者だ」
「どこだ! おいらのうちのお嬢様は」
「ウム、向うにいる、お女中をさがしているのか」
「えッ、いる?」
「待ちねえ、今、おれの連れが呼びに行ったから。だが、おめえ達は一体どこの者だね」
「おいらのことかい? お嬢様かい?」
「おめえも、あのお女中も」
「お嬢様は
「ついぞ聞いたことのねえ所だが、高麗村というと、やはりこの伊豆の
「ばかをいッてら、おじさん。高麗村がこの伊豆なもんか。――武蔵の国北多摩の奥で、
次郎、そこまでは、問わず語りにお国自慢をしゃべりかけていましたが、ふと気がついて口をつぐんだ時、魚見小屋の方から来る、月江とおりんの姿を見たので、
「おっ、居た、居た!」
釘勘を置きッぱなしにして、そッちへ足を向けたかと思うと、次郎のいう、おいらのお嬢様なる人の求める腕へ、まるで、犬ころのように飛びついて行ったものです。
ふと――
刀の
刀は持ち
心の腐ッた持ちぬしの手にあれば、柄糸も
どうにもならない
もう近頃では、この愛刀
ふしぎです。
刀は人の持つものでありながら、かくまで人を支配します。心おおらかな時は、それに
――それを感じて、金吾は、自分というものに、強い
「武士か! 貴様は」
かれの矛盾した心は、二ツの相良金吾という人間に苦しめられているようです。
一つは本来の金吾であり、一つは、奇病に衰えた肉体から、武士らしい魂をひき抜かれて、ここにこうしている相良金吾。
過去の金吾は大殿の信も篤く、ために徳川万太郎の側付きとなった程、忠義一徹、武門名誉の侍であるはず。
しかし。
現実の金吾は――というと、本心はとにかく、表面の生活から
そうではないか。
そう
――金吾は了戒を膝から落として、ゴロリと仰向けに寝ころびながら、また口のうちで、
「武士か! 貴様は」
おのれを、おのれの外に置いて、腹立たしげに罵りました。
おしろいの
なまめかしい女の小袖。
横磯の沖に月が出たのです。
黄色い春の月の思いきッて大きく、ぬっと、
風もなく、障子にさわる桃の花びらが、
白玉か
何ぞと人のとがめるは
露と答へて消えなまし
物を思へば恋ごろも
それは昔の芥川
芥川
これは桂 の川水に
浮名を流すうたかたに
泡ときえゆく
信濃屋 の
お半 を背なに長右衛門
また、あちらの座敷に陣取っている師匠と何ぞと人のとがめるは
露と答へて消えなまし
物を思へば恋ごろも
それは昔の
芥川
これは
浮名を流すうたかたに
泡ときえゆく
お
「ああいう世界もあるんだなあ」
金吾はうッとり耳を誘われていました。
そして、いつか軽い湯づかれにとろとろとうたた寝の浅い眠りに落ちたかと思うと、やわらかい丹前を、ふわりと自分に着せかけたものがある。
おぼえのある肌の
お粂は、いつのまにか湯から上がってきて、そこに寝ころんでいる手枕の人をよそに、あだな夕化粧をこらしていました。
で、偶然、鏡の中で見合した
金吾が見た鏡の中のお粂の顔は媚をふくんで笑っていましたが、お粂が見た鏡の中の金吾の顔は、
(妖婦め!)
と、いわんばかりに睨んでいました。
「まあ、こわい顔」
と、くちびるへ
「――相良さん、また江戸表のことを考えているんでしょう、およしなさいよ、しんきくさい」
冷たい海風のもれてくる障子の隙を合せながら、
「オオ、向うの座敷の陽気だこと……私たちも、今夜は酒でも少しとりましょうか」
「酒?」
「エエ」
金吾はハネ起きて、
「酒」
と、もう一度つぶやきました。
こういう時にこそ、酒を飲むべきものだったと、初めて気がついたように、
「よかろう! いいつけてくれ」
「まあ、めずらしい」
お粂は自分からいい出しておきながら、金吾が同意したのをわざとらしく笑って、それから女中をよんで支度を頼み、その間に、
「こちの人、おひとつ」
浮いた調子で、お粂は軽く戯れながら銚子に細い指をかけて、
「いかが……」
と、少し首を曲げる。
黙然と杯をとって、金吾は苦しそうに一口グッと飲みほしました。
「私にも下さいな」
お粂は元よりいける口です。
相手がものをいわないので、さしては飲み、うけてはつぐという調子には、杯が廻らない。
でも、
しかし、同じ
「あなた」
「…………」
「何をさっき、
金吾はものをいいません。いわんとする時は、その口を杯でふさいでいる。
そして、両の腕をくみ、飲めば飲むほど陰鬱に、青白い顔をうつ向けています。
入湯のききめか、お粂の手当が届いたせいか、この熱海へ来てから、とにかく金吾の奇病というものも、ある程度まで回復して来たようです。
けれど、そのかわりに、
それは、こうしている宿屋住居の二人の生活が、前とだいぶ変って他人行儀がとれ、それでいて、許し合った情人というほど密でもなく、夫婦ともつかず、お互いにどうにもならない運命の部屋に閉じこめられているような状態から見ても、その後、お粂と金吾の仲に思いがけない――もう切るにも切れないものが生じて、悪縁の鎖を結んでしまッたことが明らかであります。
お粂の熱情にほだされたにせよ、金吾のためにこの一事は、実に終生の不覚というべきでありますが、一頃のように、彼が昏々と眠りから眠りへ落ちている間ならば、妖婦の抱擁もこばむ力がなかったわけですから、一概に彼の心事を責めるのもどうでしょうか。
しかし、お粂にとれば、これで思いが
お粂は陰性の妖婦とみえます、これが陽性の毒婦型の女だったら、こんな遠廻しな、手数のかかることはしていないでしょう。また、いかなる男も、お粂のような手段をもってされては、その術中に墜ちないではいられますまい。
ですが不自然に結ばれた、二人の間というものは、その成長につれ、その変態な苦しみが、当然ふたりへ公平に分けられてくる。
金吾の憂鬱はその悔いです。
お粂のいらいらするのは、ここまで行ッていながら、まだともすると、自分の手から逃げそうな男の
せめて、その憂鬱を晴らすかと思って飲んだ酒も、金吾には沈痛な理性が
……酒が冷える。
「
廊下の障子をなでてゆく
宿の
そこから廊下を離れた角二階の部屋は、例の問題の、月江様、おりん、小僕次郎、こう三人がいる部屋で、そこの空気はまた、いつも和気と春風にみちて、ハチきれそうな笑いの爆発がたえません。
「いや! 次郎は
「痛い、痛い」
「痛ければお放し」
「死んでも放さない」
「強情だね、お前は。りんや、加勢しておくれな、次郎は狡くッてしようがない」
「ホ、ホ、ホ、ホ、
何を笑いはしゃいで争ッているのかと見ますと、これは近ごろ
一枚のうんすん加留多の札を、月江が抱きこんでいると次郎がそれを奪おうとしてゆずりません。読み手のおりんは面白がッて、キャッキャッと笑いながら口から読み札をこぼしている。
「あッ、やぶけた」
「次郎、おまえは」
「知らねえ知らねえ、お嬢様のせいだ」
「意地わる!」
「ほーら、負けたんで口惜しがッてら」
「おまえの負けよ」
「お嬢様の負けだい」
「どうして」
「どうしてでも」
「りんが証人だよ、ねえ、りんや」
「おりんさんが知ッてら、ねえ、おりんさん」
「憎らしい。ひとの口真似をして」
「憎らしい。ひとの口真似をして」
「あら」
「あら」
「ホ、ホ、ホ」
「オホ、ホ」
「猿!」
と、月江がそこらの札をかき集めて、笑いながら相手の顔へぶつけたので、次郎はクシャンと
と、次の間の障子があいて、
「ごめん遊ばせ」
宿の女中の声がしています。
そんな事には気がつかないで、笑いさざめいている三人は、加留多をよせ集めると次には遊戯の趣向をかえて、座敷の中程に
枕の上には銀の
扇は金泥に山桜の
おりんも次郎も、投扇にはまだ初心とみえて、どうやるのかと神妙に
――
われながらいみじき事に覚えて、今一度と、扇を取って幾十返りかこれを投げるといえども、枕の前後に落ちて、枕上に止まらず、これより
「まあ、お
と、おりんが聞き終ると、次郎は半分以上わからない顔をしていたくせにして、
「なんだ、そんなことか」
「
「白酒を飲むこと、点の多いのを打った時には二杯」
「じゃ、おいらが先に、一杯飲む」
興にのッて、次郎が月江の指南を真似、妙な手つきで山桜の扇をぽんと投げましたが、それは胡蝶を追って枕上にとまる――というような軽妙ではなく、まるで扇の
「あら!」
と、月江が目を見はッたのは、その調子はずれに驚いたのではありません。
扇の飛んで行った次の間に、ひとりの男がいつのまにか坐っていて、
「折角なところを、夜分お邪魔いたしまして相すみませんが」
と、その扇を持って、いざり出して来たからでありました。
「最前から、女中に案内されて、こちらでお声をかけましたが、お遊びに夢中な御様子だもんですから、しばらく控えておりましたんで」
「そうですか、して、お前はたれですか」
「お忘れでございますか。いつぞや、岬の
と、
「アア、伝吉さんでしたか」
それでほっとしたらしく、おりんも安心し、次郎の鋭い目元も
月江としては、その折、助けられた恩人なので自身の方から礼に行かねばならぬと、二人の宿をたずねさせていたくらいなので、よいところへと茶菓子をいいつけようとすると、
「あ、どうか、それは」
と、伝吉は、あわてて止めて、
「実はとんだお願いがあって伺いましたので、いずれまた改めて、連れの者と一緒にお邪魔をいたしにまいります。で、今夜のところは、その話だけをぜひ一つ聞いていただきたいと存じますが」
「前にお世話になっている私たち、なんでございますか、出来ますことならば」
「有難うぞんじます。ほかじゃございませんが、こちらの同じお二階にいる、相良金吾というお人と、もしや、御懇意ではござんすまいか」
「相良さんですか」
月江はおりんと顔を見合わせて、伝吉をよそに微笑を交わしましたが、すぐに改まって、
「はい、御懇意というほどでもございませんが、このりんと申す者が、時折、おことばくらいは交わしております」
「ならば、何より好都合でございます。まことにあつかましいお願いですが、一方のお粂という女が疑わないように、その金吾様だけを、何とかして、ちょッとここへ呼んでおもらい申す事はできますまいか」
「さあ? ……」と、三人は顔を見合している。
これはいと易いことに似て、甚だ難題に考えられたに違いありますまい。
なぜかといえば、あの侍の側についている女は、おりんが廊下でちょっと金吾へ声をかけても、決して、快くは思わないふうでありますし、第一彼の起居に影と形のようにつきまとッていて、かつてあの
どう考えてみても難題です。
あの女に内密で金吾をよび出してほしいという伝吉の注文はむずかしい。
月江にもおりんにも、これには名案がありそうもない。折角魚見小屋での恩返しにも、できることならして上げたいが。
そう思ってうつ向いていますと、何か、伝吉に妙案があったか一膝すすめて声を落としていうには、
「お嬢様、まことに
これはやさしい。
またすぐにもできる事ではありますが、そしてどうしようという伝吉の考えなのか。
あまり深く聞くのも失礼だと思いましたから、無邪気なおりんと単純な次郎と、世間見ずなお嬢様とが、そこでまたかれの望みに任せて、投扇の点取りをやって遊びはじめました。
「なるほど、まことにシャレたお遊びでございますな。やはりお嬢様が一番お上手だ。さあ、どうぞ御遠慮なくやって下さい」
伝吉は、行司になって、拝見している。
興に入るとまたおりんの調子はずれな笑い声や、次郎のおいら言葉が廊下を越えてもれてゆく。
「あ、
すると、不意に伝吉が立って、
「ばかにするないッ。何を。いけねえいけねえ、わざとおれに
ふた声ばかり怒鳴って、
そして
「あれッ」
と、おりんが、びッくりしたり呑み込んだりして廊下を馳け出し、奥の一間の唐紙をサッとあけたものですから、
「あっ」
と、驚いたのは水入らずの長火鉢で、そこに
「お侍様、あの、あの……」
声をおろおろさせておりんはお粂の顔を見ずに、
「お助け下さいまし、今あちらで、投扇興をしておりますと、廊下を通りかかった悪いやつが、その扇がぶつかッたと、お嬢様に
「びっくりいたした、そなたは向こうの部屋にいる、月江殿の小間使いではないか」
金吾がいつの間にか、月江というよその客の名を知っていたのが、お粂にはちょッと意外で、何か面白くない気持です。
おりんは会釈なく、
「はい、
手を取るように
「お騒ぎなさるな、ほかの客の興をさましては宿へも気の毒」
立ち上がりながら、ちよッとお粂の方を見ましたが、お粂は何が気にいらないのか、冷えた杯を猫板に移して、ツンと横を向いておりました。
で、金吾もそのまま、おりんについて廊下へ出て刀の
「こいつ、湯治客をゆたぶる、遊び人だな」
と、一図に見てとって、ずかずかとそこへ
「貴様か、宿を騒がすやつは」
ムズと、襟がみをつかみました。
ひょいと仰向いて伝吉は、
「お、相良金吾様」
ずばりと名をさしたものですから金吾は仰天して、はっとその手をゆるめますと、こんどは伝吉の方から突然かれの腕くびをつかんで――
「やっと誘い出しました。さ、さ、お粂に気のつかれないうちに、少しも早く外へ出ておくんなさい。今夜ある場所で、親方の釘勘が待っているんです」
「えっ、釘勘が?」
「いやとはいえませんぜ、相良さん。会った上のお話はいろいろありますが、釘勘はあなた様の御主人、徳川万太郎様の頼みをうけて、遙々ここまでやって来たんでございますからね」
金吾は穴にでも入りたいように、
「なんと申す、では、万太郎様のおさしずで、釘勘がわしを迎えに参ったとか」
「まア、そんなことはどうでもいい、お粂が感づくと困りますから」
「待ってくれ、ま、考えさせてくれ」
「今夜は待ッたなしです、あなたをここまで誘い出したのも、なみたいていな苦労じゃねえ。主命と思って来ておくんなさい」
と、無理に梯子段を降りてゆくと、かれは金吾の腕を抱きこむようにして、庭の植込みから木戸を押して、湯気のさまよう湯町の辻へ駆けだしました。
誘い出してというよりは無理やりにして、金吾を外へ引ッ張り出した釘勘の
どこへ連れてゆくのやら、浜町のお
そこを一散に北へ上がる。
たった一度の湯治お
のぼるとそこは広前の
梅が香 もわくや
出 で湯の春のかぜ
と、「伝吉か」
と、楠の木を楯にうかがいました。
「オオ、親方」
「どうした、相良さんは」
「やっとの事で、ここへお連れ申して参りました」
「えッ、一緒にお
と、これは釘勘としても予期以上の上首尾らしく、ひどく機嫌のよい調子で伝吉の気転をねぎらいました。
しかし、その声を聞いただけで、もうハッとして胸を衝かれたのは相良金吾。
面目ない!
思えば釘勘とここに会うのは沙汰の限りな恥かしさです。彼とは
ああ、どの
金吾は杉の幹に両手を支えて、
――その姿へいきなり物をいうには耐えないで、釘勘も、しばらく無言でいましたが、
「オオ……」と気がついたように――「伝吉、おめえはまた御苦労だが、もしやお
「ええ、よろしゅうございます」
「頼んだぜ」
「もし、お粂が追いかけて来たらどうしましょうね」
「そうだな? ……」
と、釘勘はちょっと金吾の方へ気がねしながら、
「かまわねえから、御用とくらわせろ」
「合点です」
――馳け出そうとすると、
「おっと」
呼び止めて、
「待ってくれ」と、また考え直した。そして、「まさか今夜はそうもゆくめえ、こッちの話さえ
「へい、承知しました」
伝吉はすぐ町の方へ引っ返して行きます。
あとは――釘勘と金吾の二人。
最初に姿を見合った時、オオと声をかけてしまえばそれで話の糸口があいたのかも分りませんが、お互いの胸のうちを話の先に察してしまって、妙に
やがて、釘勘の方から、
「相良様、ずいぶんお久しぶりでございましたなあ」
取ってつけたようにいいました。
「いちべつ以来、そちも健固で」
金吾の声は処女のようです。
「おかげ様で」
「なによりじゃ」
「まず、そこらへ、腰をすえようじゃございませんか」
と、くだけていうと、金吾は突然に、
「釘勘ッ、せ、拙者は、そちに今ここで会わせる顔がない! ……面目のうて会わせる顔がないのだ……」と、にわかに感傷に走って来た声をふるわせて、深く顔を押しかくしますと、
「は、は、は、は。そう窮屈に考えるからいけませんや」
と釘勘は、抜きかけた
「まあさ、そこへおかけなさいまし、武門のことは分りませんが、女出入りのあとしまつなら、こりゃお侍様の智慧よりも、はばかりながら町人の方が遙かに
と、あくまで金吾の苦しみを見ぬいている、苦労人のことばです。
さりながら、好意も時には罵倒よりは胸に痛い場合もある。
春ながらここは寒い。
杉の夜露が襟もとを打つ時は、思わずゾクとしてきます。
「ぶしつけな申し分かも知れませんが、あっしとあなた、浅い御縁じゃございませんな」
そこで、釘勘は
すぱりと、一服つけて、
「――金吾様、どうか今夜はひとつ、
ぼつぼつ彼のことばはいわんとするところへ向って来ました。
その語調は至って平静でありますが、すぱすぱと味もなく吸う煙草の火のかすかな光で見れば、釘勘の目は涙でいっぱい。
「ええ、相良さん」
返事のないのにじれ出して、
「どうしたもんでございます!」
「…………」
古木の
けれどまた釘勘の察し方もすこし情けない。大きな誤解がある。自分がお粂の色香に迷ってこうなったものと思いこんでいる独り合点がある。
今さら言い訳がましいことは、彼の性格としても
「いや、待ってくれ」
初めて、敢然と口をひらくと、その顔色に驚いて釘勘が、
「お怒りなすっちゃ困ります、どうか、御立腹ないところで」
「なんの怒ってよいものか。しかし釘勘。いかにも拙者は武士として、終生ぬぐわれぬ不覚を踏んだには相違ないが、決して、お粂の色香におぼれて主家を忘れたわけではない」
「分っております。失礼ながら、その御本心を買っていればこそ、あっしは自分の役目がらを忘れてまで、こうして万太郎様のお
「待て、今のそちのことばでは、深い事情までは分っていない」
と、金吾はやや興奮して、
「その通りです。だからあっしはなぜあなたが早く気がついて、たとえどういう手段をとっても、お粂の家から出ないのかと、それがふしぎにも思われましたし、また歯がゆくってならなかったんでございます」
「そうは申すが、お粂とても拙者にとれば、かりそめならぬ命の恩人じゃ」
「と、とんでもないこと」
「なぜ?」
すこし色をなして
「これでもあなたは、お粂の親切をまことと思い、あくまで命の恩人だとおっしゃいますか」
金吾は眉を
「なんじゃ、それは」
「ビードロです」
「ウム、蘭薬を
「そうです、しかもこのビードロの瓶に、どんな蘭薬が入っていたかお分りにはなりますまい。小石川
――とまで聞いた時に相良金吾は、思わずその小さな紫のビードロから顔を横にせずにはいられませんでした。
かれにとって怖るべきものと頭にしみついていることは、眠りであります。眠りつつ衰えてゆく奇病のために、妖婦の
「ようがすか、話の眼目は、それからなんで」
釘勘は、ここで一だんと力をいれ、
「そこでこの滅多にない品物を、どこで手にいれたかというと、あなたもお忘れはありますめえ、音羽の護国寺前、筑波屋いう旅籠の二階で、惜しいことには一足ちがいで、あの晩そちらは、お粂と二挺駕で旅へ夜立ちと出かけたあと、入れちがいにあとの部屋で、ひょいと見つけたのがこのビードロです。
親身とみせたお粂の情けが、実はおそるべき魔薬の手管であったと、その証拠までを釘勘につきつけられて、金吾は慄然たるおののきに、そのビードロを手にとる勇気もありません。
しかもその女の策におちて、切るに切れない悪縁のちぎりまで結んでしまったとは。
なんたることだ!
身を責め、自己の
「釘勘!」
悲痛な一語。
いきなり
「万太郎様へこの通りと、よしなに、犬侍の終りを
あわやです、われとわが腹へその切ッ先を。
「あッ」
と驚いた釘勘。
前もってこんな事になろうかと油断はしていませんでしたが、さて実際にこうなってみると、かれもあわてて取っ組むように、金吾のうしろへかぶりついて、
「ばッ、ばかなまねをしなさんな。だからおら侍は
「放せッ、放してくれ釘勘」
「じょ、じょうだんいっちゃいけねえや。ここでおめえさんを殺すくらいなら、なアに、人間一生、どうころんだって五分と五分、お粂の
思わずはいる力が、金吾の腕くびの骨をにぎりくだきそうにして――
「え、相良様。あなたがここで御短気をなすったら、あと、万太郎様の御勘気はどうなりましょうか。出目洞白の
痛烈です、雄弁です。
町人の見解としても、そこに多少の真理はある。
ことに万太郎の境遇を考え、最初に自分が屋敷を出た目的を思い合せれば、かれのことばを待たずとも、金吾は、何としてもここで死なれた自分ではありません。
といって――
ああ、そうかといってまた、生きておめおめと万太郎の前へ、どうこの姿で会えるものか。
なるほどかれのいう通り、死は
「悪かった」
やがて、金吾はおとなしく、釘勘の前に両手をついて、
「不覚な上に不覚をかさねるところだった。よく申してくれた」
「えッ、じゃあ、あっしのいう事をきいて下さる?」
「うム、一途に死を急ごうとしたのは拙者の心得ちがい、金吾は死ぬまい。あくまで生き恥をさらすであろう」
「では、手前と一緒に、すぐここから江戸へ帰ってくれますか」
「だが待て……」と、かれは再び苦悶の色をあらわして、
「それだけは許せ! いかに
「いや、すいも甘いも知りぬいた若様、なんで野暮なとがめ立てをしますものか」
「なんというても今お目にかかるのは金吾の苦痛じゃ、ただよしなにお
「あッ、もし……」
釘勘はあわてながら、どこともなく立ち去ろうとする金吾の影を追って、
「もし、相良様――、もし、もう
湯前神社の
「強情な事をおッしゃらずに……もしッ相良様」
「何とあろうが、江戸表へは参れぬ、放せ、たもとを」
「万太郎様の仰せにそむいても?」
「ウウム、ゆるせ。しばらくの間、金吾はなきものと思うて見のがしてくれ」
「あとはどうなさろうとも、一度はお屋敷へ帰った上で」
「そちに会うさえ心苦しい今のわしが、万太郎様の前に、ただ今帰邸いたしましたと、どの面下げてお顔を合されようか。止めるなッ、この金吾をこれ以上苦しめてくれるな」
「といって、一体、どこへ行こうというつもりなんです」
「あてはない!」
――金吾は叫びました。
「ただ洞白の
止めようとする釘勘、ふり切ろうとする影が、なおもそこで、もつれ合っている時でした。
石段を馳け上がってきた伝吉が、
「――親方ッ、お粂が」
「えッ」
思わず手を放し合って、
「お粂が来た?」
「まだここを探し当てるには間がありましょうが、あとで宿の者に様子を聞いたらしく、眼色を変えて藤屋から出て来ましたぜ」
「それ、ごらんなせえ」
釘勘はいい
「じゃあ、伝吉」
「へい」
「てめえ気の毒だがもう一度戻って行って、本陣の四ツ辻あたりで、おれが金吾様をつれて裏通りから宿へ帰るまで、見張りをしてくれねえか。何しろ当座は、あいつにだれかの姿を見せるのは禁物だからな」
かれはもう自分ひとりで、金吾と万太郎の引合せ役、また帰参の取りなし役を背負ッて立った気で、いや応なく、江戸表へ同道するものと決め込んでいるらしい。
で、どこまでも、このまま
その伝吉が取って返して、本陣今井屋の四ツ辻の辺に姿をかくした頃――ちょうどその頃に丹頂のお粂は、ヒタ走りに浜の方へ馳け出して行ッて、
「どこへ? どこへ?」
あの切れの長い眼をつりあげ、あなたこなたをさまよっていました。
つづく限りの波うち際にも、磯松のほの暗い並木にも、金吾の影が見出せなかったので漁師町の細い露地から野原へ出て、夜も白い湯煙を噴いている
「逃げたんだね! あの人は」
そこで初めて、お粂はキッとくちびるをかみしめて、怨めしげな眼をうるませました。
逃げたとすれば、人をだまして、手引をしたのはたれだろうか?
おかしいと気がつき初めた時は、ふと、同じ二階に泊っている
「何しろ、こうしてはいられない」
金吾ひとりはお粂の生活全部であります。日本左衛門をすてて金吾にこれまで打ち込んだことは、かの女にとって、
はたから見れば妖婦の面白そうなからくりと見えても、あれ程の侍ひとりを、この熱海まで連れてくるまでには、お粂自身として生命がけといっても足らない、気苦労、細心、根気、情熱――そしてその男に毒を
不自然な技巧で遂げられた恋の結果は、当然、男の
「きっと、万太郎の廻し者が来て、連れ出したにちがいない。そうすると浜の方よりは、
もう
かかる場合の女の前にはどんな宗教も光がないといいます。ましてやお粂にはあの伝法と世間を怖がらない強さがある。
「ホ、ホ、ホ。わたしも丹頂のお粂、どんなことをしたッて、逃がしゃアしないから!」
たれにいうともなく罵ッて、根府川街道の方へ道をかえて走りだしてゆく。
そして次第に息ぎれが激しくなるにつれ、
と。――丑の
「オオ
不意に横からよぶ者があって、またすぐに違って次の声が、
「姐御のさがすものはここに居ますぜ」
と、手をあげました。
背筋へ水をかけられたように、お粂がキッとうしろを見ると、そこに四、五本の
かなり取りのぼせていたお粂の耳にもそれはハッとひびきました。江戸なら知らずこの熱海で自分を丹頂の姉御とよぶものは一体たれなのか?
「お久しゅうございました」
お粂があきれている前へぞろぞろと姿をならべたのは余人でもありません、四ツ目屋の新助、尺取の十太郎、雲霧の仁三、千束の稲吉など。
それら五、六人の者はみなお粂にも深い馴染がある日本左衛門一まきと称されるなかの
「あッ……」
それと知って驚いたお粂が、返辞もせずに逃げようとしましたが、もう間に合わないことでした。
「おッと、待ッたり」
油断のない目が前とうしろを取巻いて、
「ここで逃がしてたまるものか。さ、会わせてやる人があるから素直におれたちについて来るんだ」
と、にわかに言葉があらくなります。
なかで四ツ目屋の新助は、お粂のそばへズッと寄って来て、
「びッくりするこたあありませんよ、会いてえというのは親分です。だが、この湯町の近くじゃ人目につくからというんで、さる所にお待ちなすッていますから、まあ余り世話をやかさないで、黙ッて一緒に来ておくんなさい」
背なかを押して追い立てようとしますと、お粂は振り払って、
「いやだよッ、
「え」
「親分に会いたくもないし、それに、今夜はほかに忙しい用があるんだから」
「忙しい用が? へへへへ」と尺取の十太郎、
「まあそちらの方もお忙しゅうございましょうが、親分にしましても目をかけた女に寝返りを打たれたままで引ッ込んでいるわけにも行かねえし、こちとらにしたッて姐御と相良金吾の
「それでお前たちは熱海へ来たのかい?」
「お察しのとおりで」
「御苦労さま」
「まッたく御苦労さまですよ、姐御の浮気がたたッて、江戸から、ワザワザ追ッ手役に参ったわけです。元来、駆け落ちの追ッ手なんてものほど御苦労さまな役目はありゃあいたしません」
「ああ、じれッたい。わたしは今そんなくだらないことに暇をつぶしていられない場合なんだからね、どうか、ここで会わないことにして別れておくれな」
「じょうだんいッちゃ困る」
四ツ目屋の新助はくちびるで薄く笑って、お粂の背なかを小突きながら、
「さ、歩いてもらおう!」
ほかの者もそれにつづいて、
「姐御、話は親分と会ってからにして、とにかく先へ行ってもらおうじゃねえか」
「何をするのさ、おまえ達は」
「なにもこうもあるものか、さッ、あるけ、あるけ!」
と、あとのことばは耳にも入れず、いやといえば腕力でも引ッ立てずには
しかしお粂は動きません。今さら日本左衛門の所へ戻るくらいなら初めからかれを捨てて金吾という男はこしらえない。それに、こうしてぐずぐずしている間に姿をかくした男が刻々と遠く去ってしまう気がして
なみの女ならばおどしにも乗りましょうが、役者はお粂の方が一枚上ですから、なんといったところで決して動く
「生意気ッ」
と、業をにやしたのは短気者の雲霧で、
「面倒くせえじゃねえか。こんなやつは手ぬぐいをかませて引ッかついで行くにかぎるぜ」
目まぜをすると、お粂のうしろに立っていた千束の稲吉が、
「兄弟、手を貸してくれ」
と仕事は早い――いきなり手を廻して猿ぐつわをかけようとしましたが、いつのまにか抜いて持っていた
「畜生ッ」
ばらばらッと六、七間。
逃げ出す先へ廻って尺取の十太郎が手をひろげる。
雲霧が帯をつかんで引きもどす。
そこを新助が飛びついてウムをいわせず匕首をたたき取る。
――親分日本左衛門が寵愛していた女と思えばこそ多少の手加減もしておりましたが、こうなればイヤも応もいわせたものではありません。
いかにまたお粂が必死で反抗してみたにしろ、雲霧、四ツ目屋、尺取なんていう人間たちが、手をつないで取巻いてしまッては逃げられないのが当然で、逃げようとすればするほど
「それッ、早くしろ」
ねじ伏せたお粂の口を
「飛んだ世話をやかせやがる」
「ほい! 道が違うぞ、こッちだこッちだ」
「宿じゃあねえんですか」
「
と、辻を北へ曲がろうとした時に、何を見たのか、ひとり横ッ飛びに、
「野郎!」
と怒鳴って紙屋の辻の方へ駆け出したのは雲霧です。
見るとかれの真ッ先へ猫に追われた鼠のように駆け出してゆく男がある。それはさッきから辻の一方にジッとかくれていて、つぶさに事のなりゆきを
「わッ」
といって伝吉は、前の方へ身を泳がせ、
小気味よげに
「おや? ……」
ふと、辻の
「やッ?」
抱き起してみると伝吉です。
金吾もおどろいて共に手当を加えました。そしてやっと気のついた伝吉の口から、たッた今の出来ごとを詳しく聞いて釘勘はそれをむしろ好い都合と考えましたが、「ウーム……お粂が」
と、相良金吾はあらぬ方へ目をやって、何か目に見えぬものの力に引きずり込まれるように足を前へのり出しました。
ひょいと釘勘がうしろを見た時は、もうそこに金吾が居なかッたのです。
「しまッた!」
かれが
しかし。
相良金吾はあきらかに常人の常識とは反対な方角に向って、今、
その血相をごらんなさい常の金吾ではありません、常識の人でないことは、その眼気、その息づかい、その足どりの早さ、髪を乱してゆく風の間に見てもわかります。
恋は熱病といいますが、恋とはいえない不純の女の危難を聞いて、なんで金吾がかくまでにすごい勢いで駆けだすのでしょうか、これは
とにかく、この瞬間だけでは、深くかれの心理に立ち入ることができない。ただ不可解です、魔がさしたようです、しばらくはかれの行動を見ているほかにありますまい。
――見ていれば相良金吾はなおもそれから走りに走りつづけ、小田原の宿へつづく根府川七里の街道をさながら
はるか南に、走り湯
まばらな家数はみな寝しずまっていました。
そして漁船の柱にかけた網の目に、晩春にしてはめずらしく冴えた月が
ぽウッと白い煙がうすく濃く海風にあおられました――千鳥ヶ浜の波うち際に。
そこで火を
「寒い……」とつぶやきながら、
「潮風にあっちゃたまらねえ、肌着の
「何しろ、もうすこし焚きつけがなくッちゃあ困る。オ、そのうしろに舟板がある」
「こりゃ
「ふ……
「あまり
「あたりめえだ。人殺しをしていながら、板子一枚助けてみたところで、
「それでだんだん悪事に深入りするのだ」
「まあ、そうかも知れねえ」
「オオ、いい火になった」
「冬のようだな」
「もう
「そういえば、もう
「――と聞けば、やはりお江戸が恋しくなる」
「恋しいのはお粂じゃあねえか」
「ばかな!」
「あは、は、は、は、は」
と焚き火にてらされた赤い顔が大きな口を
その風采から眺めますと、平和な
余人でもありません。これは聖天の盗ッ
「なあ、金右衛門」
お粂の話が出た
「こんだあ飛んだ
「なにさ、どうせ当分は江戸から足を抜いているところ、かえっていい保養をしたというものだ」
「うまいことを言う……」
薄ら笑いをして
「だが、今夜なんざ、あまりいい保養にもなるめえが」
「このくらいな義理はしかたがない、友情というやつでな――。しかし日本左衛門、よけいな口を入れるようだが、まあ腹の立つところを抑えて、こんどは一つこらえてやるんだな」
「なにを」
「お粂の始末さ」
「…………」
「おめえの身になってみれば、
「……ありがとう、その忠言に礼だけは言っておく」
「いや、まったく」
「だが、この事だけは、黙ッて見ていてもらいたい。すこしおれにはおれの方寸がある」
「どうしても、おめえはお粂を許さないつもりか」
「これ以上大目に見ているなあ、許すという意味にはならない。ただ日本左衛門が女に甘いと見られるばかり。第一おれが忘れてやるにしても、手下のやつが歯を喰いしばるので捨てちゃあおけない」
「ならば、男の方さえたたッ斬ってしまえば、お粂も目をさましてわびを入れてくるだろう」
「いやいや、このいきさつの罪は明らかに金吾になくて、お粂にある」
「金吾はおめえと
――もうそれ以上は答えないで、日本左衛門はただ微苦笑をもらしておりましたが、
「それはそれ、これはこれ」
と、つぶやきながら板子の焚きつけを持って綺麗な火の子をほじり立てる。
その時、街道から磯へ降りてくる
なにか罵り合いながらやがてそこへ近づいて来たのは、お粂を
「親分、お待たせいたしました」
と注文の品物でも引っさげて来たように、彼の足もとへ、しどけない姿のお粂を突き出しました。
そして、口をそろえて、
「どうも親分、こんな
「そうか、ウム――」
と、日本左衛門は、自分の足元へ突き倒されてきた
「御苦労だった。こんなことで、てめえ達にまで世話をやかせたのはおれの落度、勘弁してくれ」
「どういたしまして」
愚痴をならべた連中がみな恐縮しながら、
「なにも親分、そう真面目になって、こちとらに勘弁してくれなんて、水くそうございます」
「でも、こんな女の後始末までに、子分の手を煩わすのは、いかにも親分甲斐のねえ話。――おれは面目ないと思う」
いつに似もやらず憂鬱な顔を伏せて、日本左衛門は波うち際の砂をふみつつ、
「アア子分はいいものだ……」
だれにいうともなくつぶやきました。
「――おれには親もなし女房と名のつく者もない、子を持つ親の味も知らなければ、女親の愛情も小さい時から覚えがない。だから、金や物に不自由を知らねえ日本左衛門も、人情のあたたかみには飢えていた。……お粂を世話していた気持も、実は色恋ばかりでもなく、こいつを娘とも
内面の怒りを理性で抑えつけようとして、行きつ戻りつしながら、波の間にこうつぶやいている親分の独り言に、あらくれた手下たちも、思わずシーンとして消えかけている焚き火の残り火に目を集めました。
それは日本左衛門のみでなく、心の
世の中の品物はみんなおれの物だと考えることも、盗人だけにはできます。
将軍家の秘庫の宝物たりといえどかれの手のとどかないものではありません。
また黄金をもって世の中に得られぬものも何一つとしてない。
しかし、ただ一つ、人の愛情をいかんせんです。世に人情を盗み出し得る
常に盗人の淋しいものは、その生業の性質から、その生活に愛情味のかけることでありましょう。
「……おれもばかな考えをしたものさ。それをお粂に買おうとして、忍川に家を持たせた。ところが、その家からも人情の芽は吹かない。――だが
お粂は突き倒されたなり砂浜の上へうッ伏し、泣きじゃくッている様子でありましたが、日本左衛門のことばを聞いて今さら悪かったと悔悟しているものやら、または金吾との仲を裂かれて口惜しいと思っているのか、泣いている時の女の本心ばかりは神にも人にもわかりません。
「親分、勝手を申すようですが」
そこの空気がどうにもならなくなったので、気転をきかした四ツ目屋の新助が、
「まだ
「ウム……そうだな」
と、日本左衛門が考えているうちに、先生金右衛門もそれがいいと立ち上がって、一同サクサクと根府川の方へ立ち去りました。
ザブン、ザ、ザ、ザ、ザ……とあとはひとしお静かな波の諧音。
お粂はいつまで顔をあげず、日本左衛門も
「お粂!
やがて、こう口を切った日本左衛門。
のッしりと、小舟の
「なぜ顔を上げない? なぜ早く両手をついて詫びないか。最前、おれの述懐も聞いていたろうに」
声のさび、
「てめえが金吾をかくまっていたことは、この春、おれもたしかに茶の間の
いう語調の少しもせかぬ如く、おッとりとした片足の
憎いやつ!
そう思って踏みつけるほど、そこに力がはいッているのではありませんが、理もあり情もある片足の下から、お粂はのがれることはなし得ませぬ。
「おれは甘い。いかにも、もろい人間だと、自分でも合点はしている。しかしおれがもろいのは人情を
――そりゃあ時と場合によりけりで、好きな男があるというなら、
相良金吾! おれを仇とねらッて屋敷を出ているやつ! おれの大望に邪魔だてをする万太郎や釘勘と同腹のやつ! そいつに
風のない月光の海――
珠を洗う波の音。
日本左衛門は、ふと、ことばを切って、あなたの街道を飛ぶ一点の灯に注意していました。
しかし、それは熱海を
「もうくどい事はいうまい。金吾と別れろ」
「…………」
「お粂ッ」
返辞がないのでやや鋭く、
「金吾と手を切って、おれや子分の目の届かねえ所まで落ちて行け。さすれば、てめえの命だけは助かるというもの、これがおれの最後の情けだぞ」
と、足を放して突きやりました。
そして自分は、先に小田原へ向った金右衛門や子分のあとを追うべく、砂地に捨ててあッた
「待ってください親分」
何と思ッてか、お粂も急に立ち上がって、その編笠をつかみながら、
「じゃ親分、あなたとは、今夜ではっきり別れましたね」
「よし! 金吾ともきッと切れたな」
「その御親切はわかりましたが、私も丹頂のお粂、卑怯な嘘はいいますまい。ここでおことわりしておきますが……親分え、お粂は死んでも相良さんとは切れない覚悟でございますから、それだけを承知していて下さいましね」
「なんだと」
かぶりかけた編笠が、ふたたびその手に戻りかける。
虫をこらえていた心へ、女が投げつけてきた捨鉢なことばに、
「お粂ッ、もう一度いってみろ」
むッと、日本左衛門の顔いろがうごきました。
この男の憎念を買ったが最後、それがどんなに恐ろしいものかということも、知りぬいているお粂ではありましたが、持前の気性がこじれて、その恐れ
「はい、どんな目にあおうとも、相良さんのことは思いきれない! 金吾さんとは手を切れないといッたんですよ!」
糸切歯に唇をゆがめて、二度まで、男の名をことばのうちに呼んだものです。
「こいつ、
と、日本左衛門は笑いかけましたが、それは火のつきそうな怒気を自嘲する身ぶるいにも似ておりました。
「おれの気持がわからないと見える。女子と小人は度しがたしというやつか」
「女の気持もべつですからね、御親切は身にしみますが、一方と手を切れなんて、情けの押し売りはやめてください」
「では、どうしても、金吾とは手を切らねえというのだな」
それには、
「ほんとに、ひどい目に会わせやがッたよ」
呟やいて、うしろ向きに、
「――じゃア親分、お
「待て待て、お粂、お粂」
「なんですか」
「待てッ!」
「親分とは、今夜ここで、きれいに別れる約束をしたはずでした」
「うーむ、ぬかしたな?」
「未練じゃありませんか、去った女に」
「ちイッ」
というと、かれの手にふるえていた編笠はポンとうしろへ――
「
という一喝――抜き打ちの
せつな!
ひ――ッ……という傷手をふくんだ声が千鳥ヶ浜をかすれて行きましたが、一瞬の剣風をかわして、お粂の影がまたドドドドと砂地の浜をこけつまろびつ、死に身になって逃げ廻るのが、黒く明るく、潮煙と月光のなかに見える。
白い
親分という
初めは、足にからまッた厄介な
千鳥ヶ浜の広さと、
が、しかし。
そうしたかれの白刃が、お粂の背後へ憎念の風を切ッて迫ッた時には、意外な危機が、女の身よりも、かえってかれのうしろへ急迫していたのです。
怖るべき殺気に吹かれて、
「あッ!」
と、日本左衛門が気がついたのも髪一筋の
「おのれ! 卑怯ッ」
という不意なかすれ声に、思わず
ダッ――と横に跳ね飛ぶと、砂地へ半身
その間を波の叫びが、
「おお! さ、相良さん――相良さん――」
お粂の狂気した声を交ぜて通りぬける。
と知るや日本左衛門は、伏せ身の青眼を少しもくずさず、そのまま体をヌーとのばして、
「ウウム、来たなッ金吾」
と、かえって心の落着きを取り戻していう。
はッはッ……という荒い息づかいが、かれの剣前に聞こえます。そして海をうしろにし、月に鬢の毛をそそけさせて、柄に手をかけている若者は、相良金吾でありました。
卑怯――と
ですが、日本左衛門の立場から見ると、ここに金吾の来たことは、決して、偶然ではありません。
ありうることです。
いや、こう来なくッちゃあならないところだ。
かれの考えからは、金吾の複雑な心理や悩ましさなどは毛頭察し得ない。
で、瞬間。
来たなッ――という気が真ッ先に起りました。深間になった女を
いかにも金吾の眼はおそろしい敵意に燃えている。
(おのれ、お粂をやッてなろうか)
とも見られる
鯉口に半身の力をこめているので、刀の
その猶予を与えまいとして、一方の
こいつは少し手間がかかる。
――と考えたのは日本左衛門の胸のうち。
金吾はまた金吾として、ここに立つ以上、充分なる覚悟と死に身の用意がなければならないはずです。かれには一度、真土の山の黒髪堂で、素早い
容易に切ッて放たない
「金吾、
と日本左衛門のことば。
タ、タ、タ、と寄りつめて来たかと思うと、
「オオ、ゆくぞッ」
空に白い剣の虹――
ひゅッと来れば受けきれますまい! あなやというまもありません――大上段から真ッ向です。
で金吾、なんでその
「むッ」
と、刀の
「あっッ――」
と、日本左衛門は思わずのけぞる。
誰がこの無法な剣を予期しましょう、いかに捨て身とはいえ、殆んど剣も生死も無視したやり方。
ですがこれを、片山安久の抜刀法なり一ノ宮流の
かれは初太刀で完全な居合の呼吸に成功した。
けれど、自身の剣を相手へ深く届かせたことは、同時に、相手のだんびらを自分の肩へ充分のぞませたことにもなる。
相討ち?
よれて合ッた二ツの影へ、ザアッ……と波しぶきが煙るのをすかして、お粂は意識なくその方へ駆け寄っています。
火の如き勢いが剣の機先を制して、金吾の第一刀はあざやかに、日本左衛門をして
「若蔵、味をやるな」
と、軽く
「――さ、出かけるぞッ」
と激越に立ち直り、
「無駄な
ジリジリと食い迫ッてきたなと思いますと、あわや、
「ム、無念ッ」
と歯がみをして、懸命、踏みこらえんとはしますものの、技量の相違はここに至って絶対的なものとなります。
ことに、血気一図な若さと場なれのした老練との差は、時ふるほど格段な差をあらわし、相良金吾たとえ意気はどれほど
おお、その顔は死相です。生ける色ではありません。日本左衛門が
が――
幽明を
バラバラッと日本左衛門の顔へ向って、突然、
「あッ……」
目つぶし!
砂!
お粂です。
横に廻った丹頂のお粂が、男の危機にわれを忘れて、つかんだ砂の目つぶしです。
消えなんとした
しかし、それで金吾が相手を逆地に
「やッ、親分じゃねえか」
と叫び合うや、ひとり残らず、舟の中からおどり上がッて、わッとここへ馳け出してくる様子。
それは今し方、一足先に小田原へ行くといって、日本左衛門と別れた四ツ目屋、雲霧、尺取、
どうして、その連中が、ここへ引ッ返して来たかというと、ここから遠からぬ根府川の関所――そこは女手形の関なので、
で、にわかにあとへ戻って、磯辺の舟を拾い、江の島方面まで海づたいに落ちのびようと相談はきまりましたが、日本左衛門がもしそれを知らず根府川へかかッては一大事と、二
それはいいが、早くも、関所の方でもまたそれを感づいて、海と
遠く聞こえる
いんいんたる太鼓の音も浜にひびいて聞こえてくる。
月明の海上にチラチラと
すでに月は箱根の二子山と駒ヶ岳の背に傾いている。時刻はあれからだいぶ過ぎて、もう夜明けにも程近い頃。
ひとり道なき山の沢を迷っているのは金吾の影でした。
いや金吾のみならず、あの関所の人数が暴風のように千鳥ヶ浜を襲った後は、みな
「残念至極……あの事さえなければ、たとえ刺しちがえるまでも、日本左衛門のやつを生かして置くのではなかったのに」
と、金吾は道に迷いつつ、道に迷っている当惑は念頭にありません。
体も綿のごとく疲労しているはずなのに、なお、時々、つぶやくことは、かれを打ち損じた無念。一太刀の怨みを
が反対に、相手の日本左衛門にいわせれば、もう一足捕手の殺到が遅かったなら、金吾の五体を
とまれ金吾は、今夜の機会を逃がしたにせよ、またいつか一度は、きッとこの報復を思い知らしてやるぞ――と迷える道を歩むのでした。
どこへ?
この迷える道をどこへ歩もうとするのか?
それは金吾にも分りません。
かれはただこれから先、どこまでも生きなければなりません。
そして、それまでは、尾州家へ帰ることもできないし、万太郎の前に姿を見せることもならない彼です。――この道をどこへ向ってゆく気かと問われれば、出目洞白の
すると……
どこからか自分を追い慕って来るような声が、
「相良さアん――相良さん――」
と、木魂にひびいて、沢の真下に聞こえて来ました。
耳のせいかと疑ぐりましたが、その声が、だんだん近くなって来たので、足を止めて山の中腹に待っていますと、すぐそこへ、髪を乱したままのお粂の影が見えたので、
「おッ! お前は」
と驚きながら、金吾は何思ったか、ことばもかけずバラバラと山の背へ馳け
「ひどい人!」
お粂は追いつくと共に、男の袖をつかんで、
「待ってくれたッていいじゃありませんか、いくら呼んでも、振り向きもしないで」
怨みがましくいって、波うつ息を
と――身をへだてて金吾は鋭く、
「何しに拙者を追って来たッ」
と、
「えッ? ……」
お粂はハタかれたように、目を見張りましたが、自分の聞き違いかと思い直して、
「一緒に逃げてくれるつもりなんでしょう。……だのに、ちッとも待ッてくれないでさ」
と、ようよう少し落着いて、髪や
「お粂、お前は何か考え違いをしていやしないか。――拙者はもうお前とは逢わないつもりだ。この先まで、一緒に逃げて行くなどという思案は毛頭ない」
「相良さん、それは本気でいっていることなんですか」
「元より本気じゃ、この場合のことばに、なんで嘘や
「それでは、何で私を助けるために命がけで、日本左衛門を追ッかけて来たんですえ? そんな、気の分らない話ッてないじゃありませんか」
「お前を助けるために? ……なるほど、お前から考えれば、そう思ったかも知れないが、拙者が日本左衛門を打とうとしたのはその意味ではない。かれは主家の
「えッ……じゃお前さんは、私のことなどはちッとも助ける気じゃなかったんですか」
「お粂ッ――貴様も拙者にとれば
「あッ……それでは、何もかも」
「知らいでどうしよう! 金吾は悪病と悪夢からさめている! 形の上ではそちにも長い世話になったが、礼をいう一言もない。――帰れ帰れ! 妖婦ッ、
と、かれは心の怨敵へ構えるものの如く、
気がついて見れば、いつかあなたに青々とした
タラン、タン、タン、タン
ドン、ドドン、ドン
ヒュウー、ヒャラリ……と横笛や
それが、
のぞいて見ると、色の黒い男どもが五、六人、そこに
「ほい、右足――」
「それ、打ちこむよ」
「廻って――」
「ドン、ドドン、とそこで
「すぐ笛につれて
と、しきりに笛に合せ
家のあたりをながめると、ここは武州阿佐ヶ谷村の百姓家、ただの
防風林の喬木はみな薄赤い木の芽をもって、その百姓家の仏壇がある奥の部屋まで、暗からぬ陽がさしています。
およそ、武蔵野原に土着の百姓家には、どこの
ところへ――
その悠長な音律を楽しんでいる防風林のなかへ、バラバラッと、眼色を変えた人間が八、九人馳けこんで、
「これ! ただ今この中へ、
という。
笛を持っていた男、
「へい、これはお役人様で」
と急に、ぞろぞろと
一人の同心と
「後刻また、こういう者が立ち廻って来るやも知れぬ。その時はすぐ役所向きへ訴人いたすように、万一、縁故者が
一枚の人相書を渡して、先を急ぐように、またバラバラと引ッ返して行く。
「おや、この人相書の男は、見たことがある」
あとで、百姓
「な、見たような男じゃないか」
「ほんとだ、これはよく似ている」
「だれに?」
「もとこの村にいたあの男さ」
「じゃあ村の者か」
「やはり、おれ達の、阿佐ヶ谷
「ああ、あのやくざ者か」
「ゲジゲジの伊兵衛に違いない。飛んでもないやつが立ち廻って来たもんだ」
「お役人様が触れを廻して来たところを見ると、あいつめ、諸所方々を食いつめて、また村へ舞い戻ってきたのかも知れないぞ」
「どうすべえ、やツが来たら」
「水をおンまけてやれ」
「止せ止せ、あとの
「訴人したらなお怨まれるだろう」
「どんな仕返しをするか知れたもンじゃない。まアまア、
「困ったなあ」
「何か来ないお
と、折角な稽古の興をさまして、なおも伊兵衛の悪口をたたいておりますと、向うの日当りのいい母屋の縁側で、
「オイオイここへ珍客様が訪ねて来ていらッしゃるのに、何をいつまで、飯粒を取ッつけ合った
と、ゲラゲラ笑い出した男がある。
「あれ?」
と、
それが今、人相書が廻ってきた本ものの道中師の伊兵衛でありました。
伊兵衛はニヤニヤ笑って、
「オイみんなの者、また厄介なやくざ者が村へ帰って来たから、何分よろしく頼むぜ。阿佐ヶ谷村なんて
と縁側いッぱいに足を投げだして、
「それともおめえ達、人相書にてらして、訴える気なら何も遠慮はいらねえぜ、おれはここで日向ぼッこをしているから、今出て行った
と、あきれている百姓
「いや、とんでもない事、たれが昔なじみのお前を、訴人してよいものか」
異口同音にいいわけをすると、伊兵衛はクスッと鼻で笑って、
「それでも、昔なじみと心得てくれるのか、やッぱり生れた村はいいものだな」
「四、五年姿を見せなかッたが、その永い間、一体どこを飛び歩いていなすッたの」
「べらぼうめ、道中師という
「へえ、のん気だの、相変らず」
「のん気というなあ、お
「じゃ、なぜこの村に、大人しくしていないのじゃ」
「性分だ。持ッて生れた根性を、おれにだッてどうにもなりゃしねえ」
「そうそうおめえを育てたお
「へえ、お常婆さんは死んだかい?」
「まだある、原の
「やれやれ、諸行無常ッてやつだね、南無阿弥陀仏」
「来たついでに、墓
「どうして、そんな暇はねえ体だ。ところで
「なに、今度はすこし、遠方から頼まれて、
「遠方へ? ふウむ……どこだえ行く先は」
「今度初めて行く所だが、なんでも、北多摩の
「狛家!」
というと、伊兵衛はツイと縁がわを離れ、不作法に合羽の裾をまくるなり、一同のいる
「その高麗村へ頼まれてゆくのか」
と、にわかに真剣な目いろになりました。
「何かしらないが、高麗村の御隠家様とかで、今度、
「ふウむ……そいつアいい所へ来合せたものだ、じゃあ頼むぜ、おれも一人」
「えっ? ……」
と、伊兵衛のことばの意味がくめないで、目をしばたたいておりますと、
「笛でもよし、舞でもよし、
ここにまた徳川万太郎は、
で、またぞろ、禁足を破ッて、根岸の屋敷を飛び出しました。
外の風に吹かれると、かれの本性は目をさましたようにピチピチして、
「ああ、
と、青空の下の自由をよろこび、心ゆくまで世間の空気を吸うもののように歩む。
「あぶない!」
いきなり鋭い声を浴びせられて、びッくりした万太郎が、はッと、うしろを見ると声の
一騎、神田橋から大手の方角へ――
つづいてまた二、三騎。
どれも、式服を着けた武家ばかり――そして江戸城の正門へ一散に。
「はて、なんだろう?」
彼は鎌倉
「何か、お城の内に変事があるな」
と思った直覚が、いつかしら
見ると、諸門は
ことに大手の
その騒ぎを横に見て、
「はて、ばからしい。将軍家が、
と、苦笑をもらして行き過ぎようとすると、
「下郎、邪魔だッ」
またもや、日比谷の方から砂を蹴立てて来た一列の騎馬に怒鳴られました。
下郎ということばにムッとしましたが、万太郎の方も充分に悪い。当然歩みよい柳並木の道端もあるのに、かれは大道の真ン中を、ふところ手で歩いていました。
しかし、尾張中将の七男である万太郎の大名気風が、道ばたをかがんで歩かない癖になっているのも自然で、それを知れば騎馬の先頭も、そんな
「待てッ」
いきなり、四、五人目の――その主人と見える立派な鞍へ飛びついて、
「聞き捨てにならぬ暴言、あれはその方の家臣であろう。待てッ、降りろ」
と、引きずり降ろさん血相です。
驚いたのは馬上の武家――
「あッ……」と、万太郎の力に引かれて、グルリと駒を廻しましたが、
「やあ、尾張の七男坊」
「なんじゃと」
「どうした!」
といわれて初めてその姿を見上げると、鞍上からなれなれしい笑顔を向けている者は、ちょうどかれと同年配ぐらいな若殿。
弓の稽古をしているところを急に飛んで来たものとみえ、手に
「やあ」
と、万太郎はてれました。
吉宗は如才なく、
「火急の場合とて、家来の暴言、悪く思うてくれ給うな」
「何か、御城内に?」
「オオ、御危篤」
「えッ、
「
「では、いよいよ将軍家
「不吉な!」
と、叱られて、万太郎もハッと口をつぐみましたが、
「では、急ぎな矢先、これでお別れといたそう」
「貴公は」
「……む、自分は今、根岸の方に」
「兄上の尾州殿のお姿も、ついその辺でお見かけいたしたが」
「や、兄貴が来る? それはいかん」
と、万太郎はすこし
「自分もきょうは急ぎの出先、これで御免を」
「オオ、こちらも火急なところ故、御免!」
「いずれ!」
「いずれ!」
と双方、端的な会話を投げ合って、吉宗が江戸城へ
ぷーんと、木の
ちょうど日ぐれ時、夕飯の
今、
「ゆるせ」
と、その奥へ通って行ったのは徳川万太郎。
あたりの客の膳を見廻して、
「あのようなものをくれい」
と、小女に注文する。
田楽屋へはいッて、あのようなものという注文は、かなり
酒、ひたしもの、吸い椀、田楽、それに、茶づけ茶碗まで付いて一人前、あのとおりなお
それは
「へえ……」
と、イヤに感心した声がする。
背なか合せの
「じゃあ、もうお
「……らしいネ、御様子が」
「だって、まだ御危篤ぐらいなところだッていう
「えらい人のおかくれになる時は、みんなそうさ。それから喪を発すという事になるんだ。きッと、
「と、また不景気だろうな」
「おれたちの稼業に、不景気があるもんか」
――ははア将軍家のおうわさだなと、万太郎は何か面白いような気持でそれを聞いている。
衝立の向うにいるのは三、四人の町人で、
「飲む時に稼業の話は止そうぜ、稼業の」
「ウ、つい口がすべッた。ま、一つ
「
「なんでも、後見の
「わかりもしねえ大奥の事を、あんまり見て来たようにいうない」
「いや、おれは、確かな筋から聞いているんだ」
「じゃ、こんどの将軍様が、水戸から出るか、紀州から出るか、尾張から出るか、てめえ知っているか」
「それがもめているんで、将軍様はとうに死んでいるんだが、その喪っていうやつを、世間へ触れることが出来ねえんだとよ」
「へえ」
「紀州から出すか、
「なるほど」
「水戸様は館林をかついでいるし、
「ありそうなこッた。だが、紀州から出るとすれば、たれだろうか」
「まず赤坂に屋敷のある吉宗公だろう」
「尾張とすると」
「万太郎様だね。年頃からいっても」
「万太郎?」
「ウム、尾張の徳川万太郎」
「聞いたようじゃねえか、万太郎ッて……」
「そういや、聞いている名だ」
「あっ……いけねえ。あいつが将軍家になぞ納まッたひにゃ、それこそ親分はじめ、おれたちの稼業が、上がッたりになってしまう」
最前から、噴き出しそうになる
ははあ、これはやはり日本左衛門の手下か、もぐりの
万太郎はそう察しました。
間もなく勘定を払って、彼等は、いい機嫌な足どりで「でんがく」の軒先を出て行く。
万太郎も、
口三味線に端唄かなんぞを合せて、千鳥足にもつれてゆく三人のうしろから、
「これ、ちょッと待て」
と不意に声をかけると、ギクとして振向いた六ツの目が、その姿を凝視するなり、
「わッ」
コマ鼠のようにキリキリ舞して、馬場の土手を飛び越えました。
二人はあざやかに逃げ去りましたが、最後のひとりは戸惑いして、土手の
「これッ、待てと申すに」
ずるずると引きずり降ろすと、あわれやこ
「は、は、は、は」と万太郎は笑って――「あわてるな、身は奉行所の役人ではない」
「へ、へい……」といったが、まだ不安そうに、
「どうか、ま、まッ平御勘弁を」
「何を勘介してくれというのか」
「何しろ、今日は半年ぶりに、伝馬牢から出たばかりなんで、へい、それで仲間のやつが、一杯祝ってくれた晩なんですから、どうか、お目こぼしを願います」
「ふウむ、では察しの通り、貴様は小泥棒だな」
「左様で」
「顔を見せろ」
「どうかお慈非に一つ……。まだ牢から押ッぽり出されて、家にも帰っておりません。それをまた、ここから逆戻りしましては、女房や子が嘆きます」
「まだわしを役人だと思ッているのか、そう拝むな、拙者は不浄役人や手先ではない」
「へ。では、お役人様じゃないので」
「ウム、少したずねたい事があって呼び止めたのだが」
「ヘ……ヘイ」
「貴様、日本左衛門の手下ではないか」
「よく御存じでいらッしゃいます。まッたく、そうなんで、ヘイ、嘘は申しません」
「なんという」
「へ?」
「そちの名はなんと申すのか」
「
「率八か」
「お人よしの率八というんで」
万太郎はつかんでいた
そして、つらつらこの小泥棒の顔を見るに、なるほど、愛嬌のある憎めない顔つきをしております。
お前の親分は今どこに居る?
その後夜光の短刀について仲間で何か手懸りを得てはいないか?
馬春堂の所在を知らないか?
道中師の伊兵衛は今どうしているか噂でも聞いていないか?
お
何か変ったことはないか何か――と、矢つぎ早にこんな事を万太郎が質問しだすと、それに向ってお人よしの率八は、いちいち神妙に首を振って、
「知りません。へい、知りませんです。へい、嘘は決して申しません」
張合いのないこと一通りでなく、憎めないことおびただしい。
これはいけない、
「何をきいても知らぬ存ぜぬで、こやつめ、さては白ばッくれておるのじゃな」
ホンの形ばかりに、
「あっ――」と、手ばかり振って、逃げ腰も立て得ない
「申せ!」
「で、でも。まッたく知らない事が多いんで……何しろ今年の正月早々、忍川の袋地で捕手にかかッたきり、
「しかし、ああして仲間とも会っておる以上、種々その後の話も聞いたに違いない」
「え……そ、そりゃ、何ですが、
「ウム、今たずねた事だけを、答えたら放してやる」
「親分は詮議がきびしいので、当分江戸へは帰らねえそうです」
「して、今は」
「伊豆へ行ッたという話ですが、変な所へ出かけたもんで、何しに行ったのか、あっしにも判断がつきません」
「伊豆へ……」と、万太郎は目を閉じて、
「夜光の短刀のことは?」
「まだ皆目、手懸りも足がかりもありゃしません。あ。それに、あの短刀は、伊兵衛も
「その伊兵衛めはどうしたろうか」
「どこか飛んで歩いているンでしょうな。何しろ、足の早い奴で」
「それきりか」
「へい」
「行け」
「ありがとう存じます。……あ旦那、それからお粂さんの事をお聞きになりましたが、あれは親分が可愛がっていたお
「もう用はない、行けと申すに!」
それは万太郎の知りたい事ながら、聞いて決して愉快ではありません。
率八はホウホウのていで、腰や懐をなでながら
「さようなら」
と、思い出したようにお辞儀をして、ひょこひょこ歩きかけました、
すると万太郎はまた、
「あ、これこれ、率八とやら」
呼び止めると、もう沢山な顔をしながら、
「ハイ」
と、情けない返辞をする。
「率八」
「ハ、ハイ」
「貴様は
「左様でございましょうか」
「なんで泥棒になった」
「わかりません」
「どうして日本左衛門の手下などになったかとたずねるのじゃ」
「いつか、お金を恵んでもらいました。それで、恩返しに、泥棒になったようなわけで」
「ふびんな奴じゃ……」
「ど、どういたしまして」
「改心して真人間になれ! よ! 貴様には女房や子もあると、最前申していたようだが」
「きッと、
「早く足を洗うがよい」
「食べることができますかしら」
「これをやる」
「え」
「これをやるから持ってゆけ」
「へ? ……」
「
と、万太郎の差し出した手のひらに、大判か小判か、四、五枚の山吹色がのせられているのを見て、率八は、ひょいと食指を動かしましたが、急に手を引ッ込めると、淋しいゲタゲタ笑いを作って、
「……な、な、なんて旦那、人をからかッた上に、バッサリと来るんでしょう」
「ばか」
遂に、癇癪を起した万太郎が、それをザラリンと投げてやりましたが、
その夜は赤い
なんとなく面白い。春や過ぎたりといえど湯上がりの寝心地、身は
夜更けまでどこかで聞こえる
ただ、物淋しいのは、将軍様
それについて、町ではヒソヒソと
――などと考えて、枕の上のかれの顔が、ひとりでニヤリと笑みくずれる。
いや待てよ。
あの野心
――ひょッとして、そういう事がないともいえない、なかなか可能性がある。子の心親知らずで、丁字風呂の赤い夜具にくるまっている
真ッ平、真ッ平、願わくばそんな風よ、向きをかえて、水戸へでも紀州へでも吹いて行け。
紀州はいいな。
そうだ紀州はいい。
今日途中で会った吉宗なら将軍様にもッてこいだ。素行はよいし、
それより何より本人に充分色気があるようだ。今日会った時馬上から、「やあ、尾張の七男坊」なんて来た調子は、すでに御臨終に駆けつけながら、あわよくばの気じゃあないか。
(だがと、待てよ……)万太郎の空想はそこで
――あの自分と同年ぐらいな、しかも、家柄も何もかも似ている吉宗が、一躍、八代将軍家となって、小マシャクレた朝令暮改なんかをやり出すと、この万太郎も少し癪にさわらないかしら。
将軍家にすわることなんかは願い下げにしたい自分なのだが、吉宗が大統をうけて天下にのぞむとなると、自分も少し、何か、して見せなければ男が立たない。
尾張の七男坊とは竹馬の友じゃに依ってなどと、
――こう考えているうちに、万太郎の仰ぎ見つめていた天井の木目が、満々たる大洋の水となってまいりました。そして漠々たる雲と海とのあなたに異国
と――その翌日。
かれは起きるが早いか、
いつか釘勘と共に
覚えのある
堂の横からのッそりと出て来て、
(何をする?)
といわんばかりに監視の目を光らした男どもは、銭瓶の穴の変事以来、申し合せて、この御堂番をしている土着の者でした。
やましい気持のない万太郎は、ズカズカと自分から歩み寄って、
「その方たちは土地の者と見えるが、ちょッと、この堂の内部を
「駄目でがす」
「なぜ」
「なぜでも開けるわけにはいきません。はい。この武蔵一円の石神の司祭者御隠家様のおゆるしがなければ」
「御隠家とはどこの者じゃ」
「
「ではたずねるが、その後この堂へたれか立入った者はないか」
「きのうもここへ、うさんくさい男が来て、あなた様と同じような事を尋ねて行きましたが、何しろここの銭瓶の穴へ落ちた男の体は、すぐ御隠家のお使いが高麗村へ連れて行ッてしまったので、その
「きのうも来た? ……?」
「はい」
「風采はどんな男じゃ」
「
「そして?」
「じゃあ高麗村に行ッて見ようかと、しばらくここで考えていましたが、そのうちに、通りかかッた捕手の衆を見ると、プイと、姿を消してしまったのでびッくりして、そのお手先に聞きますと、そいつは道中師の伊兵衛とかいッて、有名な悪党だそうでございます」
「ははあ……」と、万太郎はそこでわずかに
彼も、何か思い迷うらしい面持。
実はゆうべ、
そして、あの一帖の文に暗示されてある「夜光の短刀」を探し求めて、ひとつ、
紀州の吉宗が八代の将軍になって納まッている頃に、おれは
こんな大望がむらむらと起ったものですから、かれの夢が、ゆうべ、あの丁字風呂の部屋を
「いや。そうか」
というと、万太郎は忽然とそこを去りました。
そして、かれの足は御府外の方へ向く。
武蔵野原を北に歩んで尽くところ、北多摩の山の尾根と、
高麗の郷高麗村というのは、その峡谷の首村であり、御隠家様の屋敷がある所と、かれは今、堂番の男につぶさに聞いてまいりました。
途中、街道の古びた草紙屋で見つけて買い求めたのは、一冊の
のろのろと
けれど、
武蔵一円の石神の司祭者、高麗の御隠家様とは何者か知らぬが、銭瓶の穴から持去った洞白の
そして
「ああ、それにつけても、金吾が居たならば……」
と思う道の先へ、小さな蝶の群がうららかに飛び乱れて、そこに、人待ち顔な一挺の
はて?
「誰を待っているのであろうか」
懐中絵図を畳みこんで、万太郎は足を休める振りをしながら、しばらくそこに立ち止まり、その女駕の前を通り越してしまうのが惜しまれました。
「どうしたのだろう」
「ウム、もうお見えになりそうなもの」
「道を
「すると、こんな所に、ゆうゆうとお迎えの駕をすえて待っていたとて、いつまでおいでになる気遣いはない」
「そんなはずはあるまい。
「おかしいな」
「まあ、もう
そこに一挺の女乗物を置いて、人待ち顔に往来を眺めている郷士風の侍のささやきを聞くと、これはまごうかたなき
察するところ、永らく熱海へ行っていた月江が、次郎、おりんを連れて帰ることになり、その前ぶれの手紙を見て、ここまで折角迎えの乗物を用意して来たものが、何かの間違いで行きちがいとなって、
そういう内容は分りませんが、話のうちに、御隠家というのをチラと耳にとめたので、万太郎ツカツカとその前へ寄って来て、
「あいや、突然失礼ではあるが、少々ものをおたずね申したい」
と、こころもち笠を下げて、
「当所武蔵野の山尾根に、高麗村と申す部落がある由でござるが、絵図にも見当らず、詳しい方角も知らず、当惑いたしておるところ、お見うけすれば
「高麗村のだれをおたずねなさるのか」
「御隠家とか申す、
「ふむ……?」
と、一同は目と目を見合って、
「してまた、どういう御用向きで」
「先頃さる者が、目白の石神堂へ取落とした品、それを高麗村のお使いが持ち去ッたと聞いた故、取戻さんと存じました」
「その品物というのは」
「身にとって大切な、洞白の
「ははあ? ……」
そこでまた一同のひとみが、万太郎を何者かというらしく、期せずして、その風采と笠のうちを見廻しました。
「――もしや各

「左様、
「どうやら、そうではないかとお見受けいたした。ならばもっけの幸い、ぜひ御案内願いたい」
「しかし、御隠家様は、めッたな者にはお会いにならんが」
「会わんと拒んでも、ぜひ、会って話されば相成らぬ」
「どこの馬の骨か素性の知れぬものをウカウカ連れて行って、もし、御隠家様にお叱りをうけては吾々の
と、意地わるく横を向く。
導く親切気のないものへ、敢てこれ以上に求めるところはありません。
「左様か」
と、万太郎も少し片意地。
道ばたの草のように高麗村の者を見捨ててサッサと歩み出したのは、これも涼しいしかたです。
すると、あとに残った者達は、何か目まぜをしてヒソヒソとささやき合っておりましたが、不意に一人がバラバラと万太郎のあとを追いかけて来て、
「あいやお武家、高麗村へ御案内申すからしばらくお待ちなさい」
と、呼び止めます。
「あいや、そう参っては方角が違う――」
と、重ねて呼び止めた前の郷士、万太郎の
「先程申したのは戯れでござる、高麗村へおいでとあれば、どうせ吾々も帰り
「では、案内してやると仰っしゃるか」
「お易いこと、ちょうど乗物もあれにある、女用ではござるが……」
「いや、乗物まで頂戴しては恐れ入る」
「御遠慮には及ばん、どうぞあれへ」
「いや、かえってそれは」
と、固辞していると、あとの郷士達が、もう例の女駕をそこへ運んで来て、
「さあさあ、どうぞこれへ、御隠家様をお訪ねとあれば屋敷のお客も同様、遠慮なく御使用下されい。それに
と一同が余りすすめるので、
「ではおことばに甘えて」
「どうぞ」
「御免」
腰の
ぷーんと、えならぬ香気がする。駕の中に
いつか、自分の身は浮いています。駕の
と――その足取りもだんだんに早くなる。
駕が早くなるにつれて、ギッギときしむ音、タッタとそろう郷士たちの足音、一つの調子をもって来て、万太郎の体は浪に揺らるる小舟の中にあるような感じ。
それも、行く程に駆ける程に、

森を見ました、八幡の鳥居を見ました、
もう、この駕は、何里を駆けたでしょう。
いつか夕霞の薄い
あれから
としても、四、五里は一息に来たにちがいない。
途中、
乗物はまだギッギと飛んでいる。
もみにもまれて、万太郎もヘトヘトになって来た様子です。
どッぷりと厚ぼッたい夜がこめて来て、もう外には微光だも見えず、身は雲の中でも駆けているような
「おお、
遂に声をあげて呼びかけましたが、それも耳にははいらない風なので、
「あいや、しばらく」
と、中でガタガタたたき初める。
それも聞こえぬ様子です。
駕は
「あっ……これは乱暴な」
身を浮かせた万太郎は、
「駕の者、静かに!」
と、もう一度、怒鳴るが如く叫びました。
西へゆくのか、東へ向っているのか、もう方角も分らない。
「これは不都合千万」
気がついたものの万太郎、もうどうにもなりません。
「待てッ。これッ。降ろせ!」
と思うと――にわかに体も乗物も坂になって、ふらふらと高い所へ差し上げられたような心地がして、その途端に、ゲラゲラ、ワハハハ、一斉に嘲笑う声と共に、
「それッ、高麗村に案内してやる!」
とばかり、駕もろとも万太郎は、笹や
ややあって万太郎は、ハッと正気に
意識を得て、彼は初めて、自分が
そして、吾に回るや、
「ウーム、憎ッくい奴!」
と、
しかし、その駕があるため、あの高い所から転落しても、かすり傷一ツなかったのは一面の
駕は苦もなく破れました。
彼は脇差を以てメチャメチャに突き破り、
地上に星がまたたいている。水があるなと歩み寄って、小さい泉へ身をかがめ、口をつけて
ついでに、脇差の
と――その時、どこかでゆるい笛の音がする……笛につれて太鼓……太鼓につれて小鼓、
「や? ……」
仰げば、そこは盆のくぼのような低地、一面の灌木におおわれて、自分の
ザワザワとその茂りを分けて、上へ上がッて見ると、夜は深沈たる武蔵野の
見えました。
まさに、そこから二、三丁先の草原に。
火を焚いている一群の人影が黒く。
笛、太鼓、
そこで節面白く
「はてな?」
万太郎は早足になって、
「将軍家の逝去、ために、天下は、
と、好奇に駆られて、急ぎました。
近づいて、物蔭へ、ソッと身を伏せてうかがいますに、黒い人数は六、七人、枯木や枯草をパチパチ
「オイ、もう一つ稽古をつけてくれ」
と、中のひとりが立っています。
「何をやろうか」
「
「おっと、合点」
ことばと一緒に、また野趣のある諸

踊る、踊る、踊る。
その踊りと囃子を見ていますと、この人どもは心から、「あな面白や」と浮かれきって、ちょうど平安朝の頃の民が、自由民楽時代の土俗のように、世間かけかまいなく欲する遊戯に陶酔している風に思われる。
「うまい!」
と、囃子の者が、
踊っている男は図に乗って、
「どうだ、どうだ」
「やんや、やんや」
「うまかろうが」
「さすがに、ちっとも忘れていないな」
「根が器用な生れつきでござる」
「されば」
と、狂言ことばで、笛吹の男がすぐに
「根が器用でござれば、神楽ばかりでなく、盗人の方も、都で聞こえを取りました」
「やい!」
と、踊っていた男は、いきなり仮面を取って、
「お調子に乗って、つまらねえ冗談をいうのは止せッ」
と、ムキになって怒り出した様子。
やッと、――万太郎は仰天しました。
「オオ、貴様は道中師の伊兵衛! そこうごくなッ」
と、大声に、吾を忘れておどり立ちましたから、伊兵衛は元より阿佐ヶ谷
さて、話がかわります。
――例の馬春堂先生の身の上をちと伺いましょう。
その後、あの長い顔が、息災なりや否や。
四
そこに、
村の将軍様――というくらい。ふしぎな権力のある
そしてそこの、奥まった一室に、わが馬春堂先生は、長い

かれは今、自分が幸福に恵まれているのか不幸に呪われているのかも分っていません。これから先はなお分らない。そして現在の存在も一向ハッキリしていません。ただ、分っているのは、
(おれは、生きていることは生きてるんだろうな)
という事だけです。
そこで目をパチパチさせて、庭を見たり、窓から首をのばして見たり、天井を眺めたり、床の間の
すこぶる退屈の
逃げたいにも逃げられないこの
(いったい、おれを、どうしてくれるつもりなんだい!)
怒鳴ってみたくなりましたが、そんな勇気もありません。
そこで馬春堂は、この
「……もうこんなになったかなあ」
と、日数を先に勘定して、また書出しの方からボツボツ黙読しはじめましたが、
「ウーム……自分で読んでも、これはなかなか面白い、一つ、江戸へ帰る日があったら、これを版木にかけて、
こういう時に、助かるものは空想です。
「版にして出すとしたら、書名をなんと
――ところへ、
「お客人、さだめし御退屈なことでござろう」
馬春堂は起き上がって、あわてて行儀を直し、
「おや、もう
「山家のこと、いつも珍しい御馳走もございませんで」
「今、朝飯を頂戴したと思っていたら、もうお午、これで、またすぐに晩飯。イヤハヤ、食べてばかりいるようですテ」
「どうぞ、食べるのが仕事と思って、御遠慮なく、あれをくれ、これを食わせろと仰っしゃって下さい。さ、御一
と、杯をすすめ、銚子を取る。
「やあ、三度三度、こうして結構な美酒と御馳走、夢のように覚えますな」
「ちと、おぬるくはござらんか」
「イヤ、ちょうど頃合」
と、
「ウーム、実に
「酒はお好きとみえますな」
「至って好物」
「御隠家様のお心添えで、今日からは量を増しました故、この世の名残りにたっぷりとお過ごしあれ」
郷士の口裏に、ちょっと変な意味が挾まりましたが、酒の
「いや有難いおことば」
と、お目出度く額をたたいて、
「ならば
「どうか、お心おきなく」
「しかし……」と、ソロソロこの辺から
「まだお目にもかからんが、御隠家様の指図で、
「少しばかり心祝いのお印しに」
「ほほウ……およろこび事か」
「左様。永らくお留守であったお嬢様が、久しぶりで
「どちらへ行っておられたので」
「熱海へ御保養に」
「じゃあ、御病身とみえる」
「至って御丈夫に見えますが、どうも御当家のお
「ふうん……女が
と馬春堂は、いつかお酌を待たず手酌になって、ここでまたチビリ、チビリと杯を重ねてから、
「御当家の息女とあれば、さだめし美人でいらっしゃいましょうな」
「お美しいことも代々でござります。これで御病気の遺伝がなければ申し分はないが、世の中はままにならぬもので」
「しかし
「たいがい、二十四、五歳におなり遊ばすと、枯れるが如く亡くなられる。それが、系図を拝見しても、
「
「大して古いという程でもないが、今よりザッと一千年前の
「それは大変な旧家だ。江戸にしてもまだ家康公開府以来二百年とはならないのに、一千年も前から武蔵にお住居とは驚きましたな」
「ところで、当代の
「なるほど、それはお
「
「それに就いて、御隠家様には、まだ月江様がお小さいうちから、ほとんど十幾年の間、本草書類や伝家の古書を
「おお。では今日に至っては、その御心配もとれたわけか、やれやれそれで手前も安心したが、してそれに利く名薬は何でございますな?」
「あは、は、は、は」
と給仕の郷士が、急に腹を押えて笑いこけたものですから、馬春堂は
「何をお笑いなさる」
「イヤ、こっちの事で。まあもう一献どうでござる」
「わしは今、お嬢様の
「ああ、左様でございましたな」
「何ですか、それは?」
「その薬法でござるか」
「その薬は」
「……じゃあお話しいたすが、実はその薬になる物というのは、お手前の生き
「えっ……」
と息を止めた馬春堂の顔の長さは見ものです。
「おからかいなすッてはいかん。生き胆を取るなんて、冗談にも程がある」
「まあ、そうお怒りなさらないで」
「人を……人を馬鹿にしている」
「ご
「もう沢山ですわえ」
「御酩酊なされたか、じゃ、御飯をおつけ申そうか」
「飯も食いたくない」
「それは困る……折角今日まで美酒
「じゃあ……」と馬春堂の厚い唇がワナワナとふるえて、
「わしの生き胆が入用なために、ここへ捕えて置くというのはまったくなのか」
「今日までおかくし申していたが、貴殿はこれでちょうど四人目。御隠家様のお心として、いかに月江様のお
「? ……」
馬春堂は、なるほどとも申しません。
もう酒の気もどこへやら。
給仕の郷士は、あらかじめ覚悟をさせて置くように、人胆の由来と犠牲者に選まれた理由を述べ、因果をふくめるつもりでしょうが、馬春堂の身になってみれば、聞きたくもあり聞きたくもなしで、もう半ばは生ける心地もないでしょう。
「――そこであの
「あ……」
「つまり貴殿はその一人」
「ま、ま、待って下さい」
「もうここへ参った以上、泣いても喚いても無益でござる」
「……お助け下さい」
馬春堂は、にわかに立ったり、すわったりして嘆くが如く泣くが如く、わけの分らぬ事を叫んで、グルグル部屋の中を廻りはじめましたが、給仕の郷士ふたりは、素早く酒器や膳を下げて杉戸の口へ、例のとおりピンと錠をかけたきり、二度と姿を現しません。
馬春堂の桃源夢物語はさめました。もう日記どころではない、空想どころではない。頬杖ついて
何ぞ知らん、ここへ来てからの御馳走は、生き胆の精をつけるためであり、下へもおかぬもてなしは、
「もう
さんざんもがき疲れた末に、どっかりと腰を折って坐りこみましたが、ふしぎに涙も出てきません。
すると、たった一つの明り取りの窓から、ひょいと、見なれぬ者が眼だけ見せて、
「馬春堂」
と、小声で呼んでは首を引ッ込め、またしばらくすると、
「オイ、馬春堂」
と、首をのばしている。
明り取りの小さな窓から、馬春堂馬春堂と小声で呼ぶ者があるので、かれは飛びつくようにそこへ寄って、
「オオ、たれだ」と、人恋しげに
「しッ」
と手を振って、辺りを見廻しながら、
「おれだよ」
と、
「やッ、伊兵衛じゃないか」
「どうしたえ、先生」
「ウーム、来てくれたか。伊、伊兵衛、来てくれたのか……」
と馬春堂は茫然となった後に、地獄で仏、感
「どうもこうもない、一刻も早くこの死地を逃げ出さなければならないところだ。早く、おれをここから助け出す工夫をしてくれ」
と、拝まんばかりの哀訴です。
その
「あわてちゃいけねえ、おれがここへはいり込んだからには、
「有難う、有難う、じゃ
「何を言ってやがるんで、
「だが、どうして、おれがここに居るというのが分ったのだ。何だか夢みたいな気がしてしようがない」
「あの後の
「じゃ、今の話も聞いていたのか」
「声を出して笑えばバレるから、おら、この下で、腹を抑えて我慢していた」
「ええ、人の気も知らないで、何がおかしい事がある。出してくれ、後生だ」
「ところが、
「そんな
「なあに大丈夫、まだおれだって、十日や二十日は御滞在遊ばすつもりだ」
「よしてくれ、おれの方は、もう
「その時にゃ、またどうかならあな、いいかい、くれぐれも血迷って先へ
「おい伊兵衛、伊兵衛、待てよ伊兵衛……」
馬春堂はわれを忘れて、思わず泣き声を上げかけました。
しかし、一方はそれに耳も貸さないで、真っ赤に咲いた
一時は情けない気がして、かれは伊兵衛の不人情を恨みたくなりましたが、考えてみると、かれにも何かの都合があろうし、自分の無二の者が、ここへ化け込んでいるかと思うと、最前よりは遙かに心強いわけです。
それから
「お嬢様のお帰りじゃ」
と
藤棚の藤の花もゲッソリと散り細ッて、
「
と、その人をひきつける童顔に目じりを細めて、銀を植えたような
「左様でございます。何しろ、
久米之丞は
いかにも武蔵野育ちらしい野性と
年はまだ三十になるまいが、粗野な性格を無理に抑えて、もっともらしい会話をしながら、一言一句にも、
ことに。
月江や次郎が留守のうちは、一日置きに、この狛家を訪れて、御隠家様の千蛾老人の機嫌をとり結び、何かの相談にもあずかるので、自然今では、召使いをはじめ彼自身も、ここの家族同様な気持でいるらしい。
「ウウ……もう半年も会わんか」
「入湯の
と、
「久米之丞様は、相変らず人斬りがお好きかなどと、月江も、よくあちらからの手紙の端に書いて来おッた」
「やあ、それではいかにも
「それなのに、拙者は、月江様が入湯中も、一向ぶさたばかりしておりました故、今日はキッとお怨みをいわれるやも知れません」
「それはいかん、なぜ手紙をやらぬのじゃ。旅先では知人の手紙ほどうれしいものはない」
「気はついておりましたが、ちょうど、拙者と月江様とは人目うるさい年頃……もし御隠家様のお目でも忍ぶように噂されてはなるまいと思って」
「は、は、は、は、気の小さい奴じゃ。まだお前にも若者らしい正直さがあるのじゃな」
「まったく、この一本気の正直なために、よく友人などにも誤解をされましてな」
と、久米之丞は妙にソワソワしたり、またひとりで顔をどす赤くしたりして、
「御隠家、ちょッと、中座をいたします」
と、立ちかける。
「どこへ行く」
「とにかく、一応月江様に、御挨拶だけを済ましてまたここへ戻ってまいります」
「まア、よい」
と、老人は眉で抑えて、
「月江も今屋敷へ着いたばかり、疲れてもおろうし、支度もかえねばならぬ。――何かの事がすんだらここへ来るようにと申してあるから、お前が行かなくとも、やがて、ここへ見えるであろう」
「でも」
「まあ、そこに掛けていなさい」
「べつに御用事もないふうですから、とにかくちょッとあちらで」
「いや、用事がないどころじゃない。あればこそ、わざわざ人を遠ざけて、ここにお前を呼んだのだが……」
「はあ、何か?」
「ウム、これを読んでみい」
と、千蛾老人はふところから一冊の古びた
「先頃、かの
「ははあ? ……」
と、久米之丞は渋々ながら浮腰をおろして、初めはお役目に一、二枚拾い読みしておりましたが、いつか、その中の奇怪な文字の魅惑に、われを忘れて引きこまれてゆく顔つき。
それは洞白の
「ウウム……」と久米之丞、初めは渋々でしたが、深く読み入ると、いつまでも手から放そうともせず、
「御隠家様!」
と妙に力を入れ込んで、
「一体かようなものが、どうして世上にあるのか、これはどうも、実に不思議千万で」
「どうじゃ、お前も意外に驚いたであろう」
「これによって祭しますと、慶長以来より、御当家数代の方がかかッて尋ねている、
「わしも因縁の奇なるに一驚を
「仰せに相違ございませぬ」
「久米之丞、お前もせいぜい骨を折って、一日も早くあの短刀を尋ねてくれ」
「承知仕りました。だんだん捜査の端緒も見えております故、今に必ず尋ねだして御覧に入れます。……が、御隠家様」
と、久米之丞は抜かりのない目つきをして、ギシッと網代竹の卓を押して来ました。
「む……何じゃ」
と、千蛾は「ばてれん口書」をふところに入れて、
「……もし、何でございましょうか」
「もし、何じゃ?」
「その夜光の短刀を、拙者が尋ねてお手元へ差上げましたなら」
「ふム」
「つまり、由緒ある御当家には、御不幸にして、跡目をつぐ男子がございませぬ」
「何をいう。分らんの」
「いや、その……」と久米之丞は、ヘドモドしながら、ここ懸命になって、
「押しつけがましゅうござるが、拙者と月江殿をお
「お前が夜光の短刀を探して来たらというわけじゃな。つまりそれを功にして」
「はっ、御意で」
「月江がほしいか」
「面目次第もない儀でござるが」
「あ、は、は、は、は」と千蛾は笑って――
「何もそう面目ながることはない。わしの目を盗んですることなら許さんが、夜光の短刀と取換えの約定で、堂々と、月江の婿になりたいという申込み、イヤ面白い、いかにも約束いたしてやろう」
「えっ、ではおゆるし下さいますとか。それで一段と骨折り甲斐もあるというもの、有難くお礼申しあげます」
「これこれ久米之丞、その礼はまだ少し早かろう。わしの先代も、その先々代も、生涯かかッて尋ねながら遂に探し得なかった夜光の短刀。間に合うかな? 月江が若い間に」
「自信がございます」
「ほう……」
「慶長の昔、この武蔵野にさまようて来て、御当家にもしばらく
と、久米之丞がなお話に
ふと、ことばを切って、二人がそこの
「たれじゃ」
「猫ではございませぬか」
と見廻していた久米之丞は、突然、顔じゅうに笑みをくずして、
「やあ、お嬢様が」
と、落着かない挙動となる。
なるほど、それへ見えたのは次郎を連れた月江です。衣服を
「月江、おまえか。今そこの山吹のうしろで何かしていたのは」
と、顔を見るとすぐに、千蛾老人がこう尋ねましたので、月江も次郎も不意をうたれたように、
「いいえ」
と顔を見合せています。
「たれだろうか?」
月江でも次郎でもないとすると、そこの山吹の蔭で、今、二人の密話をぬすみ聞きして逃げた者がほかにあるに違いない。
「おかしいのう……」
と、
「さ、月江殿こちらへ」
と、自ら
「お
「おう」と、久し振りの孫娘へまなじりを細めて――「どうじゃッたな、熱海は」
「ほんとに面白うございました。
「そんな事をきくのではない、体の工合はどうか、入湯の
「――でもお祖父様、私は元より丈夫でございますもの」
と、顔に触った
「ホ、ホ、ホ、ホ」
背中へ手を突ッ込んで
「私は元からこの通りすこやかなのに、お
「ウム、ウム」と、千蛾は前言を取消して、うっかり口をすべらした病気のことを、かの女の気に病ませまいとして
「そうじゃ、そうじゃ。熱海へ行ったのは何も病気の為ではなかった」
「ええ、私は
「面白かったらそれでいい。イヤ結構結構」
「来年はお祖父様も、きっと一緒に参りましょうね。この武蔵野には海がありません、お祖父様は海を御覧になったことがありますか」
さっきから話の仲間に
「海はようございますな!」
と、
「武蔵野に
「あら」
と、初めてその人間に気がついたように、
「久米之丞様におすすめしているのではありませんよ」
「これはきつい御挨拶」
千蛾老人は突然上を向いて哄笑しました。
そこへ小間使いのおりんが馳けて来て、
「お嬢様、あちらの芝生へいらっしゃいませんか」
「
「ここに」
と、たもとの中に抱いている
「蹴鞠をなさるのでござるか、月江殿、月江殿」
と、それにつれて久米之丞も、あたふたと立ちかけますと、
「ああこれこれ」
と、千蛾老人はその出鼻を呼び止めて、
「お前にもう一つ厄介な頼みがある。そろそろ風が薄寒くなったから、奥の座敷へ来てくれんか」
「はっ」といったが、久米之丞はうらめしそうです。
「まだ何かほかに御用が?」
と、不承不承。
こう御隠家様の信用を取りすぎるのも好しあしだわい――と思いながら、月江の去ッた方をまだ眺めていますと、ポーンと快い音と一緒に、蹴上げられた
暮れのこる卯の花に、もうこの山里では
「えっ、

と、奥の一間からびッくりしたような人声。
そこに対座して夕刻から、何かヒソヒソと囁いていたのは千蛾と
淡墨の
「月江殿には不治の癆

久米之丞は、もう一度こういって、千蛾へ膝をつめ寄せている。
かれが、行末は自分の妻と、深く思いきめている月江の血のなかに、

だが、また。
そんな虚言を構えて、自分に断念させようとする千蛾の腹ではないかとも思って、少しひがみを持ちながら、
「仰せではござるが、あの健康そのものの月江殿が、癆

と開き直りました。
「ウム、まだその
と、老人は憂色を声にあらわして、
「ほっておけば、やがて、あの
と、いい切りました。
久米之丞は、こは
「な、なぜでござる」
「それが、癆

「しかし、まだ病気の兆候も見えないうちに、なんで月江殿の運命が、左様に呪われたものといい切れますものか」
「それは、
「はて、不審なおことば」
「お前は他家の者ゆえ、そこまで深刻に考えついておらぬかも知れないが、わしに取ってみれば、もうあの月江は一つぶ種、何よりそれが案じられておるのじゃ。……当家の系図が示すところによると、代々、不思議と女が
「血を吐いて?」
と、
千蛾はしんみりと語をついで、
「しかし、不治の
「なるほど」
「その為、あらゆる漢書和本をあさッて見たが、これはと思う物もなかった。で、一度は断念して、月江が美しく育つのをただ怖ろしく眺めていたが、そのうちに、わしの
「あのお話なら、この久米之丞も、前から御相談にあずかっておりました」
「ウム。だがお前はどうしてこの
「さあ、その辺はどうも……」
「今日はその由来を話そう」
と、老人は燭を
いつのまにか、不治の遺伝の話が、また夜光の短刀のことに変り出して来たので、久米之丞は、
「はあ」
と、答えましたが聞き骨の折れる顔をして、さっぱり気が乗らないふうです。
「ピオと申す異国人があった」
千蛾老人は目を閉じて語り初めます――
「慶長の当時、上方の戦乱や、異教迫害の火の手に追われて、この武蔵野へのがれて来たのじゃ。ピオは
「それが、夜光の短刀の持主でございましたな」
「そうじゃ」
「その時、彼がその短刀を持っていたのは、事実でございますか」
「わしが伝え聞いているところによると、ピオは、自分の命をとられるよりも、その短刀が人の手に渡ることを怖れて終生逃げ廻っていたらしい。だから、後世になればなる程、その
「それをまた、御当家の方が、幾代となく探しておいでになるには何かそこに、深い理由がございましょうな」
「ある! それはピオとの約束じゃ。――ピオは当家の祖先の者へ、ある年限を過ぎさえすれば、
「不覚でござるな。それくらいならば、夜光の短刀を御当家へ預けてゆくなり、また何か、かくし場所に目印をしておけば、こんな苦労もない訳でございます」
「それ程大切がっていた品ゆえ、生ける間は、手放すことが出来なかったのは異国人として無理の無い気持じゃろう。……ところが、まことに偶然なわけで、わしが月江の短命を苦にして、その薬法を究めるため、先頃、また気まぐれに書庫をかき廻していると、そのピオが当家に残して行った手廻りの品が見つかった」
「ははあ、ピオの
「中にピオが日本で

「な、なるほど!」
と、久米之丞は、ここで月江の病気と結びつく話の前提だったのかと、にわかに生き生きした調子でうなずきました。
「して、その薬法はどういう秘伝でございますか」
「人の
「胆血?」
「わかりよく申せば人間の生き
「ふム」
「――漢方の胆血に加うるに、余のもてる

「しかし御隠家様、鶏血草などと申す植物が、この日本にありましょうか」
「ある!」
「拙者は初めて耳にいたしますが」
「今もいったとおり、それにピオが、余の持てる鶏血草の――と書いている。してみればかれがその薬草の種を日本へ持って来たことは明らかなわけではないか」
「いかにもな!」
「のみならず、ピオは生前に当家の者へ、自分が終った所には、必ず鶏血草がさいているであろうと話していたそうじゃ。――察するところ、その鶏血草の花こそ、ピオの墓じゃ、夜光の短刀の
「ウーム、鶏血草の花……ピオの墓……夜光の短刀……癆

「そう複雑に考えるからいけない。お前が見事、夜光の短刀の
ふと、ふすまの向うでする
密談のあとで、何か耳打ちをしていた御隠家様と久米之丞が、あわてて身を離すと次の間の外で、
「お
と、開けないままの声がする。
「おう、月江じゃの」
「ハイ、まだお居間へ
「ウ。……ム、いやよろしい、おはいり」
「もうお話はおすみ遊ばしたのでしょうね」
最前からそこの話が、余り永々としめやかだったので、少しヒガんでいる様子です。
その時、御隠家自身が何となくハッとしたのは、月江が今の話をそばで聞いてしまったのではないかという疑念でした。
久米之丞の粗野な神経には、そんな心配もひびかぬらしく、月江と知るとにわかに陽気づくッて、
「水入らずのこの部屋に、なんの遠慮がいりましょうか、さ……」
と、自身立ってふすまを
「
「だってもうとッくに日が暮れておりますのよ」
「なるほど、いつのまにか燭台が来ている」
月江は、ツンツンとして坐りながら――
「久米之丞様」
「はっ」
「何をここでお
「その……やはりあなたのことで」
「
「
「そうそう」
と、
「いいつけて置いた酒の支度はどうしたものじゃ」
と、手をたたいてそれを
「オオ、
「はっ」
「あの奥に泊めてある阿佐ヶ谷村の
「春の
「
「では、早速」
と、久米之丞が呼びに立ちかけますと、月江はそれを
「お祖父さまは、こんど将軍様御他界で、
「いや、それは、こんな山奥にもお触れがあったよ。だから当家でも、折角催すつもりであった石神祭りの
「内輪だけのことなら、何も苦情はござるまい。それにこの山間の広いお屋敷、世間に聞こえるはずはなし」
と、久米之丞は独りぎめに立って、何かの指図を急ぎ初めました。
支度はやがて、べつな広間。
五、六十畳も敷かりましょうか、正面の九尺床には、偉なる
ならびました。人々、席順に。
まず、御隠家様の千蛾老人、無論正面をうしろにしまして。
そばには、月江。
左には関久米之丞。
以下は家の子たる高麗村郷士の者たちで、はるか末席の
すべてを入れて三、四十人、ここにズラリと居ならんだ有様、鎌倉山の星月夜とはまいりませんが、貧しい大名などは及びもない一家族で、それにこの
程なく。
それへ案内されて来る六、七人。
阿佐ヶ谷
そのおしまいにくッついて来たのは、まぎれもない道中師の伊兵衛。
どうも、白足袋の似合わないこと。
こいつ、豆しぼりの
「これ、神楽師どもにも杯をやらぬか」
と、御隠家様は目通りの一同を細目にながめて御機嫌ななめならず、
「膳部、膳部」
と、世話をやかれる。
「はい」
と、おりんが立って
「お酌いたします、お過ごしなさいませ」
と、武骨につき出す。
「へ……へい」
「
と、御隠家様のお声がかかる。
「無礼講だそうですよ」
と、次郎がことばの取次をしていう。
「では……」と、それから始まって、神楽師も飲む、郷士たちも飲む、久米之丞も飲む。
御隠家様の千蛾老も、今夜はだいぶ過ごされている様子。
「どうじゃ月江、
月江は何か浮かない顔色で、
「お
「何をいう」
「だって……」
「ばかな事を。お前のような、
陶然と、今度は、反対な方を向いて、
「久米之丞。酌」
と、杯を重ねます。
その
それをまた、強いて紛らわそうとするものの如く、千蛾老人は頻りと自分から賑やかになって、
「おお、それよ、阿佐ヶ谷村の者達。ただ騒然と飲んでおッても面白うない。何かさかなをせい」
「へい」
と、連中一度に返辞をして、
「なんぞ、御所望が?」
「いや、なんという事はないぞ、なんでもいい。こうした晩らしく、賑やかに、
「では御隠家様」
と神楽師のひとりが、うしろに引ッ込んでいる伊兵衛の顔を指さして、
「あれにおります男、至って、人相はよろしくありませんが、生来笛の名人でござります。御所望とあれば何がな一曲吹かせておやり下さいませ」
「ウム、笛をやるか」
「仲間でも吹ける男といえば、まず、あれにいる伊兵衛でござります」
「やい、やい」
と、道中師の伊兵衛、あわてて袖を引ッぱりながら、
「つまらねえ事を
というのを、千蛾老人、遙かに目に止めて、
「伊兵衛とやらいう笛吹きの名人、ちょうどここに、当家秘蔵の一
と、うしろの床の間から、
「ど、どう致しまして、仲間の奴らが、からかい半分に飛んでもねエほらを吹きゃアがって。イヤ
いかにも、
「はて、この男は?」
と、燭を透かして、酔眼にジッと見直しました。
一方。
そッと席を
その突き当りに、
この
例の馬春堂先生が、桃源の夢こまやかであッたり、地獄の
奥の酒宴を抜けて、かれがここへ来たのは、いうまでもなく千蛾老人の
しばらくそこで、密室のうちの気配に、耳をすましていた久米之丞、刀の
「ウム、寝ているな……」
ニッと、殺気のある笑みを流しますと、そこの錠口に手をかけました。
すると――
その時、遙かな母屋の方から、
いと面白き
低き時は水のせせらぎも
御隠家様を初め、一同の者に
伊兵衛は天生笛の名人であるとか。なるほどこれは本ものです。まことに奇妙な泥棒の隠し芸。
一座の者も、かれの本業を知らぬ故、それに酔わされておりましょうが、それを、泥棒の芸術と知って聞いたら、鬼気身にせまり、肌に
……今、馬春堂を殺そうとして密室の外へ忍び寄った久米之丞も、その妙音に酔わされて、うッかり、曲の終るまで聞きほれてしまいそうです。
「オオ、あの笛は?」
と、
「伊兵衛らしいが……」
と、不安そうな目をポカッとあいて、部屋のあたりを見廻している。
「なんていう呑気な奴だ、畜生、人の気も知らねえで」
と、やたらに腹が立つ。
泣きたい程、
一方は死の恐怖に襲われどおしで、寸間も安心していられないというのに、一方は笛や
昼には、月江が帰って来たのを見たし、今夜はいつもと違って、ばかに陽気な空気が馬春堂にも感じられていましたから、
「こいつは変だ、伊兵衛の助けに来るのを安閑と待ってなんかいると、飛んでもねえことになるかも知れない。ウッカリすると今夜あたり……」
馬春堂は跳ね起きました。
だが、これという計画的な考えもない。ただ、ジッとしていられない恐怖の本能が、彼をして、
そのうちに。
あなたの狛笛、曲や終りけん、ハタと止んで、こんどは能がかりの
「今夜だ、今夜だ」
馬春堂の意識にも、それだけのことは働いていました。
窓へ
――何ぞ知らん、すでにその時には、橋廊下の錠口が四、五寸
すウと、
真ッ暗な二重壁の廊下を、ミシ、ミシと手さぐりで進みながら、
「馬春堂殿、少々お話し申したいことがあるが、お目ざめでござるか」
と、声を作って、うかがいました。
「? ……」
どこかで鼠のようにガリガリ音をさせていた先生は、その声と、部屋の中へ流れ込んで来た夜風にギョッとしたものでしょう、しばらく返辞もありません。
明りがないので中は真ッ暗。
久米之丞もこれには少々
相手を怖るるのではないが、
「馬春堂殿、ちょッとこちらへ」
と、また呼んで、手元へ招き寄せようとする。
「? ……」
でも、先生は動かない。
どこにいるのかと思うと、袋戸棚の
果てしがないので久米之丞は、膝歩きにソロッと部屋の中へ進んで、相手の所在を見廻しましたが、まさか、戸棚の上とは気がつかない。
手さぐりで、机、床の間、ふとん、枕……。
と――そこが、
「やや?」
と、いった途端に、
戸棚の上の馬春堂先生、
(あッ……)
と、水を浴びたようにゾッとしましたが、からくも口を抑えて、その驚きだけはのみ殺しました。
そして、
けれども、それは真の覚悟ではなく、立とうとしても立てない形、腰が抜けてしまったのでしょう。
「はてな? はてな?」
下では久米之丞、夜具や辺りをなで廻して、
「逃げるはずはないのだが」
と、二、三度、大刀に素振りをくれて、暗の手ごたえを探ッている。
馬春堂は目前の
「おのれ、そこに居たか」
と、飛びついて来ました。
中では必死。
戸はガタガタと馬春堂の胴ぶるいを
充分、無駄な戸を抑えさせて置いて、久米之丞は大刀の切ッ先をそこへ向け、力いッぱい刺し入れて、ふすま
…………
能がかりの笛や太鼓、奥の夜宴は今たけなわの最中とみえます。
伊兵衛の
やんや、やんや、
かかる
そこの雰囲気はただ賑やかに。
――御隠家様でさえお舞いなされた。次にはぜひとも、月江様の
「一同がアア申すのじゃ、わしも見たい、立て、立て」
と、老人まで一緒になって、月江の舞をうながしましたが、いつもは、歌えといえばすぐ歌い、舞えといえば軽快に仕舞の扇をとることを惜しまない月江が、なぜか、
「いやです、私」
かぶりを振って浮かない色です。
その浮かないのが気になって、どうにかして月江を陽気にしてやろうと、心にもなく自身から舞って見せたり上機嫌を努めていた千蛾老人、
「なんじゃ、そちとしたことが。――おりん、仕舞の衣裳と
取上げずにいいつけましたが、
「おおそれ。いつぞや手に入れた
「なるほど、御趣向!」
と、郷士たちは、手を打って、
「あれをつけて、お美しい
「たれぞあの洞白の仮面を、奥の御神前から取出して来い」
と、月江がしきりと拒みぬくのを、そうして機嫌を直そうと御隠家様がいなやをいわせぬお声がかり。
「はっ」
と、郷士のひとりが立つ。
すると、それまで酒の酌ばかりしていて、足にしびれを切らしていた
「はい! 私がすぐに!」
人の先を越してバラバラと、
所々、ほの暗い
かねて、奥庭の石神堂の内部へ出るには、千蛾老人の部屋から三ツ目のお
やがて、ゆくこと遠からず、間道の突き当りに、七尺ばかりの自然石を畳み上げたところがある。
幾度か出入りしているので、
これ、狛家千余年来の守護神であり、また武蔵野に散在する幾多の小さき石神堂の総元の
しばらく、中のくらやみで、カサコソと音をさせていた次郎が、程なく、
「あった! あった!」
と、つぶやいて、何やら箱のような物を振って見ている。
「これだろうな? ……音がする、音がする」
でも、音だけでは不安になって、念のために箱の紐を解き、逆さにポンと板敷の上へふせると、
ザワザワと、その時、堂の横手で風らしくもない樹木の枝がゆすれました。
「おや?」
と、次郎が耳をたてると、
ガサ……ガサ……と横手の樹木をかき分けて来る者があるので、
「なんてえ奥
体の木の葉をハタきながら、抱えて来た包みをそこへ押ッぽり出し、
おや?
変な男が来やがった。
旅支度をしているじゃないか。せかせかと、妙にあたりをキョロつきながら。
それもいいが、勿体なくも石神様にお尻を向け、
「怪しいやつ」
次郎は目を丸くして、喜連格子の内からジッと息を殺していましたが、やがて、すっかり身づくろいして、キリッと裾を
「あっ……あん畜生」
と、二度ビックリです。
それは次郎より一足前に、酒席を抜け出していた道中師の伊兵衛で、ひそかに自分の手廻りをかきあつめ、ここで衣裳を
この
ここは、「
「あしたの朝になったら、さだめし
伊兵衛はおかしく思いながら、ふところにのんでいる
あぶなく、声を出しそうだったのは、中に忍んでいた次郎で――
「あらッ? ……」
と、驚きながら身をかがめ、白眼をジッとそこへ射向けていますと、外の伊兵衛は
鋭利な
なんの手間ひまもかかりはしません。
忽ちそこの用心を切り破って、ギイ……と開いて来た道中師の伊兵衛、すでに、その品物の位置までちゃんとのみ込んでいたものの如く、
「
と、
「あっッ」
と、さしもの伊兵衛が
途端に――
「泥棒ッ!」
と、
小童の鬼面におどされたとは知らず、伊兵衛もスッカリうろたえて、
「ちぇッ、何をしやがる」
振り払うや、無我夢中、
「どッこい!」
次郎もなみの小僧ではありません。
飛び降りる伊兵衛の
「小父さん、どこへ?」
目をふさいで、うしろへ引き倒そうとするのを、そのままなおも、伊兵衛が駆け出しましたから、身の軽い次郎の体は、彼の肩先へてんぐるまになッて取ッついて行く。
「ええ、この化け物め!」
身ぶるいをして叫んだ伊兵衛。
何か、不気味なものを振り捨てるように、堂の岡から平庭の方へ駆け出しながら、腰を落として肩越しに、デンと次郎を投げつける。
「あ痛ッ」
と、般若の泣き声。
次郎は
「
起き上がり小法師のようにピョンと立つ。
――いよいよ面食らッた道中師の伊兵衛は、それとは反対に植込みの中へ身をかくし、
「おお、伊兵衛助けてくれーッ」
と、突然、針の山から呼ぶような悲鳴。
ひょッと見ると、屋根の上、
その前に。
かの密室において関久米之丞が、戸棚のうちへ刀を逆しまにして突き込んだ時のせつな!
中で、ワッと
身代りになって、
途端のこと。
ドタドタッと天井裏の
さては! と久米之丞、荒々しく蒲団をつかみ出してその上へ飛び上がりました。見れば、頭の上の天井板が、やっと身をのがれる程
死にもの狂いの馬春堂は、ここから窮地を脱したものとみえます。
彼とて何の猶予がありましょう。
「うぬッ」
と、怒声を投げるや否、つづいて其処から屋根裏へ這い上がろうとしてソッと首をさし入れる。
ところを。
待ッてましたというように馬春堂の足が、力いッぱい、
「けッ!」
とばかり久米之丞の頭を蹴飛ばし、なおも
「おのれ、どうしてやろうか」
と、屋根裏を睨んでいるところへ、
「
「それ、橋廊下の向うへ」
「お出合いなさい、曲者だ! 曲者――ッ」
と、不意に、向うの長廊下を馳けめぐる物々しい人声。
久米之丞はあわてました。
おそろしく素早いやつ、さては、もう何処からか屋外へ逃げ出していたのかと
「伊兵衛ッ、助けてくれ――ッ」
と呼んだのはその時。
地獄で仏、吾を忘れて大地へ飛び降り、何を叫んだのか何を言われたのか、一切夢中で二人とも屋敷の外へ逃げ出しました。
かかる間に
「お出合いなさい、お出合いなさい!」
と告げて廻る。
すでに
あまたの郷士たちは、みな押ッ取り刀で八方へ馳け出し、あとの空虚には、燭も白け渡って、
一同が出払ったと見て、次郎もつづいて表門へ走り出して行く。
逃げた! 逃がすな! という声が入り乱れて聞こえる。今さらそこでそんな間の抜けた叫び声がするようでは、もう道中師の伊兵衛も馬春堂も、この峡谷を一散に、足の限り根かぎり逃げ出しているに違いありません。
「馬小屋ッ、馬小屋ッ」
たれともなくこう
チャリン、チャリン、チャリン、あわただしい
その間に、それを指図しそれを追わせる、御隠家様の
次郎も一匹の裸馬を引ッぱり出して、ヒラリと背なかへ取ッつきました。
この峡谷は前にも説いたように、
夜風に逢うと般若の
そこは
夏は
そこに一軒の鍛冶小屋があって、今夜も
それに若い時、
「ああ、やッと上がッた」
と、今まで根よく
「今日はすこし精が出過ぎたようだ。オイお常、そろそろ寝酒の御用意、おれはここを片づけ初めるから、奥へ支度をしてくんな」
と、しゃがれ声で女房へ怒鳴って、
その忙しさと物音にまぎれて、半五郎もお常も気がつきませんでしたが、女影の里の迷路をグルグル駆け廻って、ここへ馬蹄を飛ばして来た四、五騎の郷士、
「半五郎おるか!」
と、鍛冶小屋の前で手綱を投げるや否、馬の背から飛び下りて、ドヤドヤと土間の内へ
「あ――これは
と半五郎、あっけにとられながら、
「みな様おそろいで、しかも騎馬立ち、何か変った事でも起りましたんで?」
「ウム、実は御隠家様のお屋敷を騒がして、この方角へ逃げ出した奴があるのだが……」と、うす暗い仕事場を見廻してギョロギョロしていたのは、先に立って来た関久米之丞でありました。
「――一人は総髪、一人は合羽、遊び人ていの男と
「さアてね……」
と、半五郎は腰骨をたたきながら、
「ついぞそんな者は、この辺で見かけたこともなし、訪ねても来なかったようです」
「これ、隠すとそちの為にならんぞ」
「なんで、わしが」
「いや、わずかな慾に目がくらんで、かくまッてやるという事は、よく
「飛んでもないことを。御隠家様へはお出入りをしているし、うちの餓鬼の次郎までお嬢様のお世話になっているこの半五郎でがす。――そのお屋敷を騒がして逃げた悪い野郎を、かくまい立てなどしてよい訳のものじゃございませぬ」
「きッとだな!」
「まだ疑わしく思いなさるなら、家探しでも何でもしておくんなさいまし。なあお常、おめえも、そんな者は見かけやしまいが」
「ええ、易者だの
という夫婦のことばに、偽りがあろうとも思われませんし、そうとすれば、またほかを探す心も
「では、吾々のあとにでも、ひょッとしてそういう者が参ったら、ことば巧みに
といい残し、またワラワラと馬の背に飛びついて、迷路の
が、しかし久米之丞だけは、何と思ったか、馬に水を飼わせておいて、鍛冶小屋の横にただ一人、忍ぶように身を寄せている。
そして彼は、そこに絞り上げて干してあった
騎馬の郷士が立ち去った
「ああ
と、仕事を終えたあとの一服、うまそうに吸って
お常が寝酒の支度をしてくる。
早速それにかかって、チビリ、チビリと飲みながら、
「どうだい、奥のは?」
と、一眼をギョロリと、ふすま隣へ向けました。
「どうしたのか、よほど疲れているとみえて、正体なく、寝てばかりいるようだよ」
「そうだろう、おれが
「そんな調子で、何処からとなく歩いていたのかしら、着物の袖はほころびているし、
「いずれ、素性の悪いものじゃあるまい」
「だけれど、よくお前さんのような、すごい人相をしている年寄について来たもんだね」
「馬鹿アいえ、おれのような、親切なおじいさんがあるものか」
こう笑いながら半五郎は、お常に追い注ぎをさせて、杯を膳の隅へおき、
「――歩きながら話を聞いてみると、まんざら気狂いでもなさそうだ。
「だが、おやじさん。そしてあの女をどうする気?」
「どうするって、何が、どうだ?」
「まさか、その年で、浮気沙汰でもないだろうしさ」
「有難いな、おめえもその年で、すこし
「流行ッ子たあ、なんのことさ」
「――
「ごきげんだよ、いつになく」
「そりゃ、うれしい事のある時は、酒も素直にまわるというもんだ。おめえも喜びねえ、近いうちにゃ、チリン、チリン、チリン……悪かアねえな、うふ、ふ、ふ、ふ……」
「なんだい、その真似は」
「小判を勘定するところよ」
「夢でもみているんじゃないかいこの人は。おいておくれよ、ばかばかしい」
「何が夢だ、まア聞けよ。――中仙道でもあれくらいな玉のハマる宿場はたんとはないぞ。板橋や大宮じゃ、江戸に近すぎてあとくされが心配になる。まあ、軽井沢だな、軽井沢の遊女屋は草津へゆく江戸者がみんな財布を病気にするところだ。あそこの扇屋か二葉屋あたりなら、アノ上玉で百両や百五十両は右から左に出すだろう」
「じゃ、おやじさん、あの奥へ連れて来た娘をおまえ売り飛ばすつもりなんだね」
「でッけえ声をするなよ。でッけえ声を。――だから貧乏人の婆さんに、めッたに小判の話はできねえ。売り飛ばすというと、なんだかおれが悪党らしくなるが、親もない、家もない、行く先もないという女の身の落着きをつけてやるんだから、大した功徳というもんじゃねえか」
と、ひとりで理屈をつけましたが、吾ながら、少し声の
「だが、次郎には
声を落として杯を取りましたが、その時その途端に、仕事場の境をガラッと押し開けたものが、
「わッ!」
と夫婦をおどかして、
かっと
「小僧めッ。親をおどかすやつがあるか」
と半五郎が、むきになって怒鳴りつける。
次郎は手をたたいてうれしがりながら、
「お父ッさんは臆病だな。ひ、ひ、ひ、ひ、ひ」
と腹をかかえて笑いこけましたが、それも
「しようのない
半五郎は片目で親らしく睨みつけながら、
「この夜更けに何しに来たんだ、そんな物を
「悪いやつを追ッかけて来たんだよ。御隠家様のおいいつけで」
「てめえなんぞに捕まるものか。早く帰ってお嬢様のお気にいることでも考えていろ。あのお屋敷を追ん出されたって、もう家へは
「おいらも家になんか帰りたくねえや」
と、次郎は
「おッ
「いけないよ、今おまえは、
「お
「こいつめ」
半五郎もわが子には他愛がなく吹きだして、
「大きな
「駄目駄目」
と次郎はかぶりを振って、
「もう追ッつかない。逃げたやつは、何処へもぐり込んだのか、影も見つからないんだもの。――この広い武蔵野で二人ばかしの人間を探すのは、二匹の虫を探すようなもんだよ」
「それにしたッて、
「だッて、いつも、おいらが帰るといえば、泊ってゆけ、泊って行けと、おっ母もいうくせに」
「でも、今夜はいけないよ」
「なぜ?」
「お客様が居るんだから」
「え。お客様が泊っているのかい」
「だから、帰れよ」
「いいよ、おいら、くたびれたから、泊まるよ今夜」
女親のひざを枕に、両手をのばしてふんぞり返り、
「どうも、この小僧と来たひには、手におえねえな」
と野鍛冶の夫婦も仕方なく、次郎にうすい
そして人々の寝息が静かに夜の時刻をかぞえてゆく……。
時ならぬ頃にその家の外を、馬の
と――。
いわゆる、屋の
墨を塗ったような鍛冶小屋の戸が、内からスーと開いたかと思いますと、夜目にもあざやかな
ありあまる黒髪の乱れを白い指先でかき上げながら、そッと、あとの戸を閉めてよろめくように、野鍛冶の家の軒下を出る。
その手に――
そのときは、よいのうちの
夜が明けかけたような景色で、月のありかをたずねると、まだ真の
ふと。
そこに干し忘れてある
そして、両手を顔に当てたかと思うと、美しい
次郎の寝顔から
――やがてその怪奇な、そして美しい人影は、草と水と水蒸気とにぼかされた
女は何処へさして行く気でしょう。
右を見ても左をながめても、
――だのに。
この深夜、野鍛冶の家を出て来たのは、片目の半五郎のおそろしいささやきを聞き、親切ごかしのたくらみに気がついたものから、にわかに、虎口をのがれる気で、抜け出したものにちがいありますまい。
そして。
次郎の
いかにも、その
また、命知らずな野伏せりも
現に。
その晩、高麗村の
しかし、ひどい目に会ったとはいえ、それは勝手に先方が驚きあわてて、吾れがちに逃げ出して、小川へ落ち込んだり、いばらに引っかかれたりした臆病の罪で、女が何の危害を加えたわけでもありません。
同じように、
それとて、べつに女が不意に声をかけたわけでも何でもなく、彼女は真ッすぐに
が――
噂はすべて、ひろがるほど
「おらあ、てッきり、二子の池の
これは嘘です。
うわさが生んだ大げさというものです。
怪力乱神を語ることを好む人の通有性が、あざむく気もなくいい触らす誇張です。
とはいえ、その晩その女に出会ったものは、実際、このくらいに感じたことはほんとでしょう。伝説はそんなところから生まれてゆく。
さるにても、女は何処まで行くでしょう?
月も野末にかたむいてくる。
そして、暁の支度が、うッすらと白い霧が立ちこめて来ます。
「ああ……」
やがて――
裾は露に、袖は夜霧に、ビッショリとぬれ果てて、女もさすがに疲れぬいてしまったものでしょう、道ばたの丸い
眠る様子でもありません。
膝をかかえて夜の白むのを待とうとするふうでもない。
過去か、行末か、今の身の上にか、とにかくそうした思いに、深くなやみ沈んでいる様子。
思えば、世の
草がのび草が枯れ、いつも
遠い昔、
――また源平前期の頃おいには、村山党、畠山党、
江の島から藤沢の宿を
駕は、
「若い衆さん、お茶を飲んで行ッて下さい」
駕の者をねぎらッて、手代が
「九兵衛。突然におとずれて、家内を騒がせて気の毒だの」
「どういたしまして」
羽織を着かえて、店先へ迎えに出ていた亭主、
「今朝ほど江の島のお宿から、立ち寄ってつかわすという、有難いお手紙、大山街道から江戸表へお帰りでは、廻り道になるものを、わざわざお訪ね下さいまして、
「いや、家来どもをつれて、江の島詣での帰り
「まず、どうぞ、奥へお通りを」
「ゆるせ」
と、
そして店の者一同へ
九兵衛はあとに残って独り言のように、
「まったく珍しいお方がお見えになったものだ。これ、お前がたも
「旦那、ついぞお見かけしたことのないお武家様ですが、あれは一体、江戸のどなた様でございますか」
と、店の者たちも、九兵衛の出迎えの
「あれは、多分お前がたにも話したことがあると思うが、この
「ああ、あの
「いいや、あれは御用人。お若い方さ」
「たいそうキビキビしていらッしゃいますな」
「御番衆のなかでも一番の裕福だし、もう大殿様はお
「なるほど」
「それでアアして、お気軽に、湯場や江の島などを歩いていらッしゃるのだろうが、こんな
九兵衛は帳場格子をまたいで、忙しそうに
奥では、女中の声や
「……そうだな、江の島に永らく御滞留だったのだから、所詮、この辺の生魚などはお口に合うまい。……野菜がいいよ、新しいお野菜をな。……ウム、
そんなことをいいつけながら、書き終えた手紙を飛脚状にして、
「じゃ、奥の支度はすッかり済みましたね。そうしたら、お前たちも骨休みをして。いいかね。用があったら手をたたきますから、つまらない事でいちいちわしを呼びに来てはいけない。第一、お客様の御酒興を
着物の紙ぼこりをたたき、
人払いをしてあるので、中座敷から先はひッそりしています。そこの、ふすま際に膝をついた九兵衛は、
「ごめん下さいまし」
と、静かにおとずれて、
目で迎えた客の二人。
「九兵衛、ここは大丈夫らしいな」
「ええ、安心なもンです」
「じゃ、ひとつ、こうなろうじゃねエか」
と、膝をくずして
「ウム、気をゆるしてくれ」
と、九兵衛もあとをピンと閉めて、
「――だが、どうしたッていうんだい二人とも。まるで、化け物みたいに不意にやッて来て、
客も客なら、
奉公人を遠ざけて、そこの一間を閉めきると、動作、ことばづかい、最前の店先とは主客の様子がガラリと変っている。
「九兵衛、しばらくだったなあ」
と、肩で笑って、
「
盃をとり直して、こういった客なる者は、日本左衛門に
また。
この厚木に店を構え、煙草の荷元として、かなり手びろく商いをしている秦野屋九兵衛も、実は、前身でなく現在においても、
「そうか。じゃあ、江戸表は鬼門だし、東海道筋にも落着いてはいられまい。店の奉公人たちには、巧くいいくるめてあるから、その窮屈さえ忍べるならば、いつまでも、滞留していて貰いたい」
「で、おれ達は、どういう触れ込みになっているのかな?」
「番衆町の岩波様っていうことに話してあるんだから、万事、店の者にはそのつもりで、ソツのねえように、芝居気を持っていてもらわないと困る」
「は、は、は、は。飛んだものに出世したな」
と、金右衛門もくすぐッたそうな笑い方をする。
それから、四、五日経ちました。
今日は
店の隅では、たばこの葉を
ところへ。
渋色の
「ごめんなさい」
と、秦野屋の
「いいお
たれにいうでもなく世辞を撒いて、ジロジロと奥の方や店の棚をながめ廻している。
男が、首からはずした胴乱を見ると、箱の左右に「諸国
で――店の者には、小口の
「……ええと、龍王の
などと呟いて、店のはり札を読んでいましたが、やがて、
「――じゃあ番頭さん」
と、手代へ向って、
「細かくってすみませんが、
と、注文する。
「秦野の
「薩摩はどうも好き嫌いがあって売りにくい。じゃ、
「へい、有難うございます」
品をそろえ、
男は、首にかけていた財布の
「おや……旦那、こりゃあ少し
と、
「え?」
と、初めて、顔を上げた九兵衛。
見ると、渋色の巻頭巾に、たばこ売りとはうまく化けました。それは日本左衛門の手下、四ツ目屋の新助で、
「ネ、旦那。……ここは、それ、お間違いじゃござんせんか」
と、書付は店の者の手前、何か、意味ありそうな目まぜをする。
九兵衛がハッとして目をまどわせると、新助は小声になって、
「奥に居る親分へ、内密でこれを」
と、今の
「や、左様でございますか。勘定に間違いのない
さり気なく装いながら、九兵衛は、下の手紙を袂へ落とし、たばこの品書だけをひろげてパチパチやっておりましたが、
「お客様、勘定はこの通り合ッておりますが」
「へえ……あっ、なるほど、こいつは私の勘違いで、
「いえ、どういたしまして、またどうぞ
「はい、これからなるべく、こちらへ仕込みに参りますから、よろしく」
箱胴乱に仕入物を詰めこむと、それを肩にかけて四ツ目屋の新助、
と――それからまた二、三日経ってのこと。
同じような行商姿のたばこ売り、これまた
見るとそれは、やはり日本左衛門の手下のひとり、尺取の十太郎です。
それがまた、前に来た新助と同じように、店の者の目をぬすんで、そッと、一本の封書を
「ははあ」
と、九兵衛はやっと思い当ッて、
「おれの家の奥に、日本左衛門が潜伏しているので、手下の奴らは表向きに訪ねて来ることもならず、たばこ売りに化けて、つなぎを取っているのだ」
案の定。
それからも千
しかし、人出入りの多い秦野屋の店、わずかな品を仕込みにくる「目ざまし草」の行商も、この者達ばかりではありませんから、店の手代や
が、不審は九兵衛の胸にあって、どうも、こう頻繁に奥と世間でつなぎをとっているところを見ると、奥にいるあの二人は、ただ江戸から足を抜くばかりの目的ではなく、何かほかに仕事をもくろんでいるものに違いない。
こう考えて、九兵衛ある一日、
「兄貴、さだめし退屈だろうな」
それとなく、二人の腹をさぐりに、奥の座敷へ茶をのみに来ました。
何か、絵図面らしいものをひろげて、額を寄せていた日本左衛門と金右衛門は、九兵衛が
「いや、退屈どころじゃねえ。いろいろなやつが店へ出入りするので、おめえこそ、人知れない気苦労だろうが、まあ、もうしばらくゆるしてくれ」
「そんな事はどうでもいいが、兄貴、おれは少し気にくわない一件がある」
「なんだ?」
と、金右衛門は
「水くさいと思うのさ」
九兵衛はジロリと彼のうしろにある紙片を見ながら、
「こうして、二人の
「もっともだ」
日本左衛門はうなずいて、
「実はそれについちゃ、この間から、話した方がいいか、話さぬ方がおめえの為か、おれも、迷っていたところなのだが……、そういうならば
と、目くばせして、庭先や部屋の外に、立ち聞く人もあるやと注意ぶかく見廻しました。
この間うちから「目ざまし草」の箱胴乱をかけて、しきりと秦野屋に出入りし、折あるごとに九兵衛の手をへて、奥へ密書をもたらして来た者たちは、皆これ、日本左衛門のさしがねをうけて何物かを探しあるく、彼の
その探し物とは、無論、彼が一代の大望としている夜光の短刀。
江戸では、釘勘の
いや、
で、今。
日本左衛門は九兵衛のひがみが解けるように、その次第をつぶさに打明けて、
「金右衛門、それを見せてやってくれ」
と、少し席をひらく。
九兵衛が部屋へ
江戸及び江戸の御府外を中心として、関東一円にわたるふつうの絵図面に、今日までに探り得た
(江戸市西北の
それは、切支丹屋敷でかのヨハンがお蝶へ指さし教えた
御府外を西北に去る平野といえば、そこは草
南は多摩川を境とし、北は中仙道、西は
九兵衛はそれへかがみ込んで、
「ウーム……」
と、何かうめいている。
「この中だ」
日本左衛門はその点線を、
「図で見れば、一尺四方に足らないこれだけの中だが、さて、尋ねてみると、武蔵野の広さがわかる。ことに、その方角を知っているのは、おれ達ばかりではない、まず」
と、指を折って、
「お蝶が知ッている。道中師の伊兵衛がかぎつけている。――徳川万太郎はまだそこまで深く知らないが、あのお坊っちゃん
夜光刀の秘密をめぐる幾多の人間の影を数えて、日本左衛門は、そのまま黙ッてしまいました。
「兄貴」
九兵衛は膝をのり出して、
「よく打明けてくれた。ろくな役には立つまいが、この九兵衛にも手伝わせてくれねえか。何しろ話を聞いただけでもこいつあ面白そうな仕事だ」
日本左衛門はかぶりを振って、
「いや、おめえに乗ってもらうくらいなら、初めから何もかも打明ける。それを今日までつつんでいたのは、おれの老婆心、まア、止したがいいだろう」
「なぜ?」と九兵衛は
「おれなどは、邪魔にはなっても、役に立たねえという腹か」
「このまま、世間に前身を知られずに済めば、秦野屋九兵衛という堅気で無事に生涯の終れるおめえだ。それを、こんな話から引き込んで、首尾よく目が出てくれればいいが、まかり違ッて、おれたち同様、獄門台に目をつぶるようなことになッちゃ、どうも、おれの寝ざめがよくねえからな」
「なるほど、兄貴らしいその思いやりは有難いが、いくら上手に世間ていを作ッていても、おれの素性が、このまま世間に分らずに、生涯無事に通るなんていうはずはねえ。どうせ、末には、
店では夕方の取片づけにせわしく、一日の
「番頭どん、わしは奥のお客様を案内して、夕飯は河原の
いかにも商家の旦那らしい、地味な
「じゃ、頼みますよ」
たばこ入れを腰にはさみながら、外へ出る。
外へ出ると、土蔵わきの木戸口から、ちょうど庭づたいに出て来た日本左衛門と
「九兵衛、大儀だのう」
「どういたしまして」
「どこやら風に青葉のにおいがする。今頃の夕方はまた格別じゃ」
「折角、お
店の前を小戻りして、宿場はずれをブラブラ抜け、いつか
川のながめを裏にした井筒屋という茶屋、そこへ上がッて、二階の一間に席をとる。
それは秦野屋の奥で、日本左衛門が夜光の短刀のことを九兵衛に打明けた数日の後。
あの時、九兵衛、
盃の音もひそやかに、そこで酒を酌んでいること一
「もうぼつぼつ来そうなもんだが……」
と
すると。
やがて対岸の
それはこの仲間の
「兄貴、やっと人数がそろったから、出かけて来てくれといっているぜ」
「そうか、じゃあ渡ろうか」
九兵衛は変に思って、
「え、向う
「ウム、うまくいって、
「それや造作もねえが、一体、今夜何があるんだ」
「まあ、一緒に来て見ればわかる」
女中をよんで舟の支度を頼み、それへわざと酒さかなを運ばせて、茶屋へは酔後の遊船らしく見せかけ、九兵衛が竿を取って相模川を少し
と、――向う岸の火繩もそれに
「ここだ、
と、金右衛門と日本左衛門はヒラリと
九兵衛も鮎舟の綱を
そして三人が、千鳥のように川洲を飛んで、向うの岸へ駆け上がッた頃です。何ぞ知らん、
鮎舟の一隅に積みかさねてあった
秦野屋が土手へ上がッてみると、そこに待つ者がありました。最前から暗に火繩を振って、日本左衛門と金右衛門に合図を送っていた男。
「そろっているか」
「みんなお待ち申しております」
三人は黙って男のみちびく
そこは多分、社家の
ボッと薄赤い明り――その水車場の裏手でした。シンと鳴りをしずめていた人間の顔が、二十か三十か一斉に足音へ
「あ、親分」
どろどろと立ち乱れると、無言のうちに整然と、それへ来て腰かけた三名を
見ますと。
そこに集合していた人間は、一列一体に、渋色の巻頭巾、わらじ脚絆、「めざまし草」の箱胴乱をかけた姿で、みなこれ、同業同色のたばこ売りでありましたから、九兵衛もいささか驚いて、いつのまに、こんな出店がふえたろうかと呆れている。
「頭数は?」
と、やがて日本左衛門のことば。
「三十四人です」
答えた声は雲霧らしい。
「この中に、
日本左衛門は、少し不機嫌に、
「あいつが、水門
「へえ」
と、おそれいる後ろから、
「親分、率八の体のことは、御安心なすッて下さいまし。江戸に残っている仲間の者が、この間牢役人に手を廻して、うまくもらい出したそうでございます。――ただ今夜の
「そうか、それは好くやッてくれた。今日の
満足そうに
「時に」
と、重い語調で、一同へ向き直る。
改まって、何をいい出すのかと思っていると、日本左衛門、
「――この間うちから夜光の短刀の事について、皆が必死に働いてくれたおかげで、どうやら少し糸口がついて来た。まず今夜の用件を相談する前に、それから先に礼をいっておく」
両手を膝にし、
「ウーム」と、腕ぐみをして眺めていた秦野屋九兵衛は、日本左衛門が常にその手下を、
人を使うことで、思いあたる話は、
「ソレ兵法ノ
といったことば。
なるほど、自分から死を楽しんでバタバタ死にたくなるほど上手に人間を使いこなせば、これ以上の兵法はありますまい。軍学者とはまことに怖ろしい哲学を
士卒のなかに、
人あり、
「あなたの息子さんは仕合せ者じゃないか、呉起将軍が口をつけて
卒の母、泣きながら答えますには、
「昔、呉王もあれの父の
なおオイオイ泣いて止まなかッたという話であります。
秦野屋はいやに感服したふうですが、日本左衛門は元来侍あがり、
しかし、泥棒が兵法を応用するのは、さまで恐ろしいことでもないが、これを金満家が人を使って大きな仕事を成す上に使ったなら、それこそ、
余談はとにかく。
何の密議か、ここに暗夜の会合が、ひそかに首を寄せ合った時、河原の土手に駆け上がって来た
――遠目にも、すぐ相手に認められ易い自分の姿に、石尊詣りの男は、ふと、そこで思案に迷っているふう。
と。
男は、あたりの灌木の枝を手頃に折ッて、それを幾つも持ちました。
こうして身を屈して行けば、幾分か白い姿を紛らわしますから、
首尾よく、水車小屋の近くまで忍んで行くと、一枚の
ゴトン……ゴトン……と
「じゃ、釘勘はあれから、一たん江戸へ引返したのだな」
何かたずねる声は日本左衛門。
「それは確かです。充分突き止めてまいりました」
「そうか」
といって次のひとりへ、彼の質問が移ってゆく。
「尾州家のお坊っちゃんは?」
「…………」
返辞がない。
「だれだ、万太郎にかかッていた者は」
「あっしです」
「稲吉か」
「へえ」
「なぜ黙っている?」
「実は、今夜の
「お蝶は?」
言下に雲霧が答えました。
「あいつあ、
「馬春堂の様子を探りに行ったのもおめえだな」
「いえ、そりゃあ、
「十太郎か」
「へい」
「あいつは毒にも薬にもならねえが、どうしているこの頃は?」
「伊兵衛に助け出されて、
「そして」
「あとの事はまだ探りにかかりませんが、多分、中仙道筋へもぐり込んだものと観ております」
「じゃ、これで、あらかた目星はついて来たな」
「でも、まだ
「ウム、お粂か」と、彼の声がやや沈み入りましたが、
「あいつは、やがて自然にわかって来るだろう……じゃ、これでおよそ皆の話も聞き取ったから、そこで」
と、また深く考えて、不意に、
「雲霧、
といいました。
「籖?」
妙な顔をして訊くと、
「そうだ、これからの大役を、
「へ。何本?」
――指を折って、
「五ツ組、六本でいい」
雲霧が
「ところで、この
と、引かせる前に日本左衛門は、雲霧、四ツ目屋、尺取、千束、それと秦野屋九兵衛とを加えて、その五人にすべての手下を五ツ組に分ける。
そして、これからの行動は、すべてこの五ツ組に分れて目的を遂行すること。寄合の時、場所、その
「サ、たれからでも引くがいい」
金右衛門が
「ですが、これは一体、どういう訳の籖なんだか、そいつが分っていねえと、張合がありませんね」
と、たれかいう。
「じゃ、前に種を明かしておこうか、実はそれには、
「へえ……それで?」
「その名を引いた組の者の仕事は、その人間を殺すことだ」
「すると、一本よけいになりますが」
「残りは、親引き」
「なるほど」
「ですが、親分……」と、また四ツ目屋が疑いをはさんで、
「――その中にある、かんじんな、相良金吾だけは、まだどうしても
「ウム……金吾か」と、日本左衛門はニンマリと笑みをふくんで、
「泰野屋の奥に居ても、おれも、ただは遊んでいない。金吾の歩む足音は、この
「えっ、じゃ、親分はご存じですか」
「知らなくッて、どうする!」
「どこに居ますか、今、
「わからねえのか。……それ、てめえ達の居所から、ものの十尺と離れていない、ツイそこの水車の蔭に屈んでいるのが――」
金吾? 金吾ならばついそこの水車の蔭に居るではないか。
――何の前提なしに日本左衛門がこういったものですから、一同はギョッとしながら半信半疑に、
「えッ、金吾が?」
と、あたりを一斉に見廻して立ち迷いました。
が――その幾ツもの目が、水車小屋の蔭にハッとして動いた影を見つける前に、
そして、後ろを
「おそろしいやつだ」
ホッとして
金吾は今の一時ほど、日本左衛門という男のおそろしさを真に感じたことがない。
「どうして彼が自分の
と思えば思うほど不思議にたえません。そして、根府川の千鳥ヶ浜で、剣と剣とをもって生死の境に面接した時の彼よりも、遙かに脅迫的な日本左衛門のむッつりした

しかし、金吾が彼にもつ疑いと同じに、彼が日本左衛門の
丹頂のお
白い
それから彼の行動を
で――今夜、河原の井筒屋へ上がッたことも知っていたので、どうかして、近づこうと苦心しているうちに、二人が裏の河原へ降りて来たので、
一方。
水車場の裏では、金吾がそこに居ると聞いて、一時、ソレと総立ちになった様子でしたが、日本左衛門が、
「立つな。今夜は決して追ッちゃあならねえ」
という制止に、ようやく動揺をしずめて、元の冷静に返ったらしく、やがて、今後の役割を振分けるべく用意した「暗殺の
――夜光の短刀の捜索が、ようやく、その
そこで、彼の果断は残忍をいとわぬ事になって来ました。すなわち、自分を別にして、手下の者を五ツの組に分け、数えあげたその邪魔ものを、疾風迅雷に手分けをして刈り尽くそうという考え。
そこで、

雲霧の仁三の組…………徳川万太郎を暗殺する。
尺取の十太郎の組………目明しの釘勘を暗殺する。
千束の稲吉の組…………丹頂のお粂を暗殺する。
四ツ目屋の新助の組……道中師の伊兵衛と馬春堂の二人を暗殺する。
秦野屋九兵衛の組………相良金吾を暗殺する。
そして最後に親引きとして残った日本左衛門の暗殺の籤を引いて、

「さて、つぎの寄合は土用の
と、日本左衛門が一同の耳へもれなく届くように、こうくりかえして――
「いいか、日は土用の初めの
と言い渡すと、千束の稲吉が、
「親分、おたずねするまでもなく、あっし達が受け持った仕事も、それまでの間に、首尾よくやッてのけなければなりますまいが、万一の場合があって、もし土用の辰までに、目ざす
「いや、次の土用の寄合は、お互いの首尾や
「承知いたしました。じゃ親分、土用の辰に、
「ウム、それまでは、もう寄合うことはねえだろう、お互にこれから先は東西南北、どこへでも気ままに散らかッて行くがいい」
立ちかけましたが、日本左衛門は、ふと傍らの九兵衛を
「おお秦野屋、おめえにも
「元よりおれから望んで仲間にはいッたこと、なんで異存があるものか」
「おめえの受持ちは相良金吾、あの
「一番骨ッぽいのを引受けたのは、秦野屋として面目をほどこしたわけ、兄貴、どうか心配しねえでくれ」
「じゃあ、今夜の
と、
「オオ」
と、思わず一同が立ちすくみました。
それと共に、静かな夜気と相模川の水に反響して、カ――ン、カ――ン、カ――ンと、河向うの厚木の宿で、
風がある。西らしい。
土手に若葉をゆす

その炎の色を映して、
風向きのせいかパチパチと
「どこだ、どこだ火事は」
土手を駆けて行く人と人が、たれに聞くでもなく、これに答えるでもなく、
「
声を投げ合ッて走って行く。
岩井染之助一座。
なるほど、そんな
――と、四ツ目屋、雲霧、
「ウーム、この風じゃ……」
黙然と腕ぐみをして、炎をにらみながら呟やきました。
「秦野屋、どうやらあの火の手じゃ、おめえの店は
と、日本左衛門が側へ寄ってささやくと、九兵衛は結んでいた口をニヤリと
「――とすると、千両ばかり煙になる勘定だが、楽に積んだ
「あはははは。
と、日本左衛門も、これが堅気の秦野屋なら、慰めなければならないところを、かえって妙に
「――おい、盗ッ
おのれの身にもありそうな、この皮肉に自嘲をおぼえて、愉快そうに
火をもてあそぶ風は血を見た人間のように、いよいよ
宿場の火事は加速度に燃えひろがりました。
一度西から東へ転じていた風が、また
九兵衛は遠い炎に赤く照らされている顔を笑いくずして、
「こうなってみりゃ、
サバサバとした顔つきで、日本左衛門や他の者と、
「では親分、土用の
「いずれいい
「あっしもこれで」
「手前もここで」
雲霧の

その頃――
相良金吾は
たれを追いかけたわけでもない。ただ、向うへわたる渡船を求めるために。
自分がひそかに宿を取っていた、宿端れのわびしい
と、息をきって、渡船場へ駆けつけて来るなり、向うへ渡る舟はないかと見廻しますに、それどころではない、ここは瀬がいいので、対岸の火中から逃げのびて来る人々が、荷物や女子供を舟に託して、われ先にと混み合ってくる一筋路。
火の子に泣く幼い者の声、何か高声でわめく男、荷物を流して身を忘れる女など――金吾は思わず目を
どこの家族という見境なく、荷物や老人に手を貸して、夢中になって働き出している。
そのうちに、意気地のない悲鳴をあげて、二、三艘の小舟に乗って逃げて来た一組がありましたが、その
すると、今。
岸に着いてゴッタ返しながら、荷物をあばき合っていた河原者の舟で、
「あれッ、あれッ、どなた様か、そこへ流されてゆく者を助けて下さいませ」
と、
見ると、折わるく一番瀬の早い
岩井一座の小屋が火元だという土地のうわさが、初めからパッと広がっているので、自然と憎しみを持つものか、それとも自分達のことで他を
ひとり、駆け出したのは金吾です。
急流とはいえ、
「ああッ……」
と、水の中から、人魚の泣くような声。
かれが掴んだのは女の黒髪と
「しっかりいたせ! これ女中」
水を吐かせようとするのと、気を張らせようとする用意で、わざと
「おっ、
なんという不意でしょう。こう言った女の声です。
「えっ……」と金吾。
抱きかけた黒髪のベットリついた女の顔を、空明りによくよく見ると、それは思いがけないというよりは、彼にとって、むしろ
「あっ! ……」
と金吾が驚きを投げた途端に、そこでザッと水しぶきが上がりました。そして、彼の白い影が、逃ぐるが如く、
一度救われかけたお粂は、金吾に救いの手を放されて、また十数間水に押されてゆきましたが、幸い、浅瀬の
と、やがてのこと。
前の岩井染之助一座の者でしょう、人手をかりて駆け出して来たのが、提灯の明りを
「おお、あすこにだれか倒れている」
「あれだ、あれだ」
と呼び騒ぎながら、土手を降りて川床の草地へ集まって来る。
こういう場合に経験のつんでいる土地の船頭らしい男が、
「
生きるか死ぬかと、はたの者が心配している最中に、のん気なことをいいながら、みずおちを押して見て、
「大丈夫、大丈夫。ろくに水をのんでいねえから、気がつけば確かなものさ」
ゆうゆうと手当をしてくれるのが、かえって
ところが、一座の御難はこれに
「その
と、
見ると
「左様でございます。手前どもは
「その染之助はこれにおるか」
「へい」
と、うしろの方にふるえ上がっていた
「手前が
「
「ええ、その太夫元というのは名前だけで、一座と一緒に歩いているわけではございません。御覧の通りな、頭数の少ない一座、手前が名前人やら奥役やら
「しからば申し聞かすが、今夜、その方たちの小屋より失火を出しておりながら、お
と、
待ちかまえていた手先は、有無をいわさず、座頭の染之助、
その間に、ふと、ぬれ鼠になって倒れているお粂に目をつけた同心は、
「この女は何者じゃ」
と、染之助に問いつめて来ました。
「……ええ、そのお方は、一座の者ではございません故、どうかこの事にはお見逃しの程を」
「だまれ、何者かとたずねるのじゃ」
「江戸表におりました頃、
「それがどうして、その方たちの楽屋におるのか」
「ちょうど手前達が、三島の小屋を打っております時、突然たずねておいでになり、事情があってしばらく旅に居たい身の上だから、楽屋においてくれないかというお話、以前御贔屓になった御縁もあるので、何とはなしに、そのまま私達の仲間と一緒に、
「ふむ……しからば引ッ立ててまいっても仕方があるまい」
同心は目くばせして、
赤い空も、いつかどす黒く沈んでいました。
その翌日。
焼け出された岩井一座の小屋者は、衣裳つづらと一ツの籠を取り巻いて、旅回りの惨めさをかこちながら、八王子街道を落武者のように元気なく
今日もまた武蔵野の原をさまよう一ツの
「はてな……」
と。幾つもの
時折、笠のつばを上げて、四方の
編笠につつまれた顔をのぞくと、それは徳川万太郎でした。――かの不思議な
彼です。
彼はあの晩、阿佐ヶ谷神楽の連中が、
また、その連中のなかに、道中師の伊兵衛が交じッていたのも見ました。
ところが、いつもながら、例の
いきなり躍り出して、彼等の
(
と驚いて、かがりを踏み消して八方へ逃げ散り、伊兵衛も共に影をくらましましたから、万太郎はまた元の暗黒に一人取り残されて、夜もすがら迷うのほかなき結果を招いたのです。
そしてその後、数日の間。
彼は、見知らぬ百姓家に宿を借りて、その晩の疲労をいやしておりましたが、ようよう体の痛みも癒えたので、昨日から教えられた
ですが――自分ではその方角が誤らないつもりなのが、どうもだんだん妙な道に踏みこんで、少し頭も混迷してきた形です。
一方。
伊兵衛の方は、
気性が勝っているようでも、やはり若殿は若殿、日本左衛門がお坊っちゃん扱いをするが如く、どこか悠長なところがあるのでしょう。
「――どうしたのじゃ、この道は、昨日もたしかに歩いたように覚えられるが?」
二日も道に迷いながら、迫らず騒がず、まことに鷹揚なふところ手。
染屋の悪狐にでも
だが、いかに万太郎が
彼が、昨日も今日も、自分で怪しみながら同じ道に迷っているのは、この土地の地理にうとい必然な錯覚であります。ここを有名な
――それを知らずに、唯、錯覚の感じを頼りに歩いている
「おお、あれにあるのは
半五郎の鍛冶小屋です。
「留守か……」
がっかりして辺りを見廻していると、ちょうど鍛冶小屋の横手にあたって、たれか、
何の気もなく、万太郎は、静かにそこへ足を運んで行ったのです。
見ると、羽目板の
顔は見えないが
たれか近づいて来た
この辺では見かけない人品のいい侍が、ジッと
万太郎はそれへ立ち止まって、
「お前はこの鍛冶小屋の小僧か」
と、驚かぬように、やさしく声をかけて見ました。
暫くこッちを向きませんでしたが、やがて次郎、涙をかわかして、
「おいらかい?」
「うむ、少々道をたずねたいのだが……」
「ああ、道に迷った人か」
「
「高麗村へ行くの? おじさん」
「そうじゃ、そこの御隠家様と申す屋敷をたずねあぐんで、昨日からこの辺を迷うている。知っているなら教えてくれい」
次郎の眼は改めて、万太郎の
これは伊兵衛や馬春堂の
「その高麗村はネ」
と立って――あなたの連山を指さしながら、
「あの右に見える物見山と、左の奥に見える大丹波の間を、グングンと
「では、飛んでもない方角ちがいをしていたわけだな」
「ここは
「女影の迷路? ……話に聞いた女影の里というのはこの辺であったか。道理で……」と万太郎は笠をめぐらしながら、
「この先へまいって、もしまた、道に迷っては甚だ難儀に思うが、お前、わしの案内をしてその高麗村まで同道してくれぬか、駄賃は何程でもそちの欲しいほど遣わすが」
――と言うと、次郎の眼がまた急に曇って、
「おいらも高麗村へ帰りたいのは山々なんだけれど、わけがあって帰れない。おじさん、一人で行っておくんなさい」
「ほウ、では、お前は高麗村の者であるか」
「御隠家様のお屋敷に奉公していた、次郎という者だけれど、おじさんは?」
「わしか……」と、口をにごしながら万太郎は、これはいい者に出会ったと喜んで、
「わしは徳川万太郎という者だが、そちがあの屋敷の召使いとあらば、さだめし様子も知っておるであろう」
と、目白の石神堂から郷士たちの持ち去ッた
「ああ、おじさん、それじゃ高麗村へ行っても無駄足だよ」
と、両手を頬に当ててガックリとうなだれました。
次郎の答えに、何かつつまれている事情があるらしく思えたので、万太郎も少し色をなして、
「えっ、では
「この間までは、確かに御隠家のお屋敷にあったんだけれど、今では、どこへ行ったか分らない」
「嘘であろう、
「嘘じゃない……ほんとだ。……ほんとだからこそ、おいらはここで泣いている」
「洞白の
「ああ……おいらは狛家へ帰りたい。お嬢様のそばへ行きたい。だけれど、あの
次郎の答えは率直です。彼には邪心がありません。邪心のない者は人を疑わない。
殊に万太郎のたずね方がやさしいので、やや感傷的な気持でここに泣いていた次郎は、自分の
――自分や
また、その晩の騒動。
あれからのいきさつ。
調子に乗って石神堂から取出した
ちょうど同じその晩――
父の半五郎が連れて来て奥へ寝かしておいた素性の知れない女が、自分が顔に
半五郎は怒ッて、その翌日、早速女の行方をさがしに出かけたが、とうとう姿が見つからず、と言って、このまま捨てておくのも業腹だし、仕事も手につかないといって、二、三日前にまた家を飛び出したが、まだ帰って来ないところを見ると、やはり行方が知れないのかも知れません――と次郎はここで元気なく話を区切り、うつろな顔を上げて昼の雲を眺めました。
「それが確かに洞白の
万太郎は思わぬ者から、幾多の耳寄りな事実を聞き取って、暗夜の行路に一点の明りを見つけたような心地――
こう分ってみれば、もう高麗村の屋敷を訪れて行くのも無益となりました。
それ以上の急務は、怪しげなその女の髪かたちや特長を知ることですが、
「半五郎とやらに会って、なお
と、万太郎は
そのうちに、次郎の母が戻って来て、立派な侍が上がり込んでいるのに驚いた様子でしたが、訳を聞いて気を休めたらしく、野菜などを煮て夕飯のもてなしを急ぎ初める。
次郎は母親にいいつけられて、
「お武家さん」
窓の外から顔を出して――
「風呂がわいたよ。お湯におはいンなさい」
「それは
「ここへ
「大儀だのう」
「え、大儀ッて、おじさん、何のことだい?」
「はははは。貴様、なかなか面白い小僧じゃ」
帯を解いて、ふと見ますと、そこから出た方が近道という次郎の考え、片ちンばの下駄が窓の外にそろえてある。
窓から下駄をはいて裏へ出るということが、万太郎にはすこぶる愉快に感じられました。屋敷にいては想像もつかないこういう生活が、彼には事ごとに一つの興味となっている。
そこを
その風呂がまた彼には何ともいえない物です。破れた雨戸を横に立てて、その中に
どぶりと野風呂に身を沈めて、夕暮の空を仰ぐと、初めて、気のつかない雲の美しさを見出します。
「アア……よい気持だ」
尾張中将の若殿も、こういう幸福感にひたったことは、実際生まれて初めてのよろこび。
と――たれか、
「次郎や……」
と、呼んだ者がある。
「次郎や……、次郎は居ないの? ……」
風呂の
「あ……お嬢さん」
と、吾を忘れてキョロキョロと見廻しました。
声のみ聞こえて、風呂の中にいる万太郎に、その姿は分りませんが、双方から寄って行ったらしい二人の話し声が、恋仲のように
「まあ、次郎。おまえは一体どうしたの?」
「お嬢様、……すみません」
「男のくせに……
「いいえ、煙いんです、風呂の煙が」
「じゃ、顔をお見せ。……
「え。それはよく、分っています。だから私も毎日この
「じゃあ、なぜ高麗村へ帰って来ないの」
「…………」
「おまえは、もう奉公がいやになったのかえ? 私のそばに居るのがいやにおなりなのだろう」
「お嬢さん。次郎はお屋敷へ帰れないことをしてしまったんです。あの、石神堂に納めてあった
「ああ、それで」
「御隠家様の前に合せる顔がないんです」
「いいよ、いいよ。月江がお詫びをして上げるから」
「でも……」
「いいから私と一緒にお帰り」
「行かれません。次郎はどうしても、あの
「まあ、強情な次郎だこと」
果てしのない押問答。
いつまでも黙って聞いていると、湯気に上がッてしまいそうなので、万太郎が風呂から立ちますと、その音にハッとしたのか、二人はあわてて鍛冶小屋の横へ話を持って行きました。
「あれが
万太郎は戸板の隙間からチラと見えた姿にうなずいて、湯を上がりながら、洞白の
で、急いで衣服を着け、ふたたび前の窓口から外へ
見ると
「やっ、お嬢様ここにおいででございましたか」
「
「ひどいお方じゃ。染屋の観音へお
無理やりに、月江を自分の乗って来た馬上に押し上げ、自身は馬の口輪を取って、
「どうッ、どう!」
薄暮の野路をさして急ぎ出します。
次郎はションボリと取り残されて、馬の背に吹かれてゆく月江の黒髪を、
月江も馬上から
すると――その馬と人とが、入間川の水辺を
「お客様、お腹がおすきなさいましたろう、さ、御飯をやっておくんなさい」
半五郎の女房のお常が、奥へ
「次郎かあ?」
「おい」
「
「おっ
「
「ああ、油がねえよ」
「油壺はうしろの棚に乗っている。早く明りをとぼして、お客様にお給仕でもして上げな」
万太郎は膳を構えてキチンと四角に坐っておりました。
お常が煮出した茶を
客が
「なあ、おっ母あ。
「五日や六日帰らないことは、いつでもよくあることなんだよ。お前は家に居なかったから知らないだろうけれど」
「今ね、そこを町屋の
「死んで通ったッて
「ううん。戸板に乗せられて」
「へえ」
「どうしたんだい、といって聞いたら、一ツ石の辺で、女の通り魔に殺されたんだとさ」
「女の魔もの?」
「この頃、
「知らないね」
「
「……そら、お客様が御飯じゃないか」
「おい」
と、両手を出すと、万太郎は首を振って、
「茶をくれい」
「お客さん、もうお
「うム、たいそう馳走になった」
「遠慮をしない方がいいぜ、
「もう沢山じゃ。……ところで今の話だが、それは近頃の事か、それとも、前から左様なうわさがあるのか」
「いいえ、ついこの頃の噂なんです」
「して、その通り魔というのは、どんな姿をしているのじゃ」
「さあ? ……」と次郎は小首をひねッて、
「だれもそれを、側でよく見た者はねえし、おらも出会ったことがない」
万太郎が何か考えこんでいると、次郎は母親と辺りを片づけながら、まだしきりと、帰らぬ父の身を心配している。
あの心のねじけた片目の半五郎でも、次郎にとれば、またなき父親と恋われるのでしょう。町屋の
「おっ母あ、おいら、行ッて見て来ようかなあ」
「何処へ?」
「何処ッて分らねえけれど、
「ばかなことおいい」
「なぜよ」
「夜じゃあないか」
「でも、なんだかおらあ、胸騒ぎがしてならねえ。
「お寝よ。そんなことをいっていないで」
「寝られないんだよ、おっ母あ」
「じゃ、お客さんとこへ行って、話の相手にでもなっているがいいじゃねえか」
「あのお客さんは、黙っている人だ」
「立派な方だね」
「この頃は妙にこの
――次郎は何げなく呟いたのでしたが、彼のことばは、夕方から妙に神経の
なぜかといえば。
その時
ひとりの男の目まぜに働く四、五人の
万太郎は眠りについている。
疲れた手足をぐッたりとのばして、枕に目をふさぎましたが、次郎の話した奇怪な
武蔵野のあちこちに出没して、
この鍛冶小屋に泊って
「ことによると、その通り魔というのがその女ではないか?」
暫くムズムズとしているうちに、洞白の仮面を取り返さねばならぬと思う一心と、その怪異な風説の正体をつかもうとする猟奇心が時刻を忘れて、
「そうだ!」
と、思わず彼をしてガバと
しかし、今夜はいたく疲れています。
終日道を迷い歩いた足のくたびれや何かを顧みると、さすがの彼もまた少し二の足をふむ。
そして、思い直したらしく、
「この間からの風説といえば、何もにわかに、今夜と限ッたことはあるまい」
と、ふたたび枕を引き寄せましたが、今度こそ雑念を払って寝入ろうとするものの如く、夜具を
すると、ちょうど手をついた床の辺りから、何か目に痛いような光がサッと瞳の中へ飛び込んで来たので、
「あっ」
と立ち上がッた途端に、どうでしょう、まぎれもない大刀の
まさに鋭い刃先が四、五寸、おびやかすように、ズバと目の前に突き出ているのです。と――見つめている間もなく、その冷刀の先が、ギラギラと畳の目へ消え込んでしまう。
万太郎は
次に、彼はまた、ガラリッと窓の破れ戸を押し開けました。
サッとはいる風と共に、流れ星が吹き込んで来そうな晩――
じッと耳を澄ますと、何処かをシトシトと歩く人の
この夜、鍛冶小屋のまわりや床下に、しきりと怪しい物音と気配があったのを、万太郎もうつらうつらと知りつつはありましたが、昼の疲れがいつかしら彼を放胆な眠りに導いて行きました。
あるいは、その疲れが倖せであったかもしれない。
もし、畳の目から顔を出した刀におびやかされて、あわてて外へでも飛び出したものなら最後、そこらの
だのに、怖いもの知らずの若殿は、そういう異変の予報をうけた翌日、しかも逢う魔が時という夕暮をことさらに選んで、
「べつに用もないのじゃが、退屈しのぎに、ちょッと染屋の観音まで歩いて行ってみる。帰りは遅くなるかも知れぬし、あしたの朝になるかもわからぬが、心配しないでくれるように」
こういって、鍛冶小屋を出たものです。
そして
「お武家さーん。お武家さアーン」
と、うしろから宙を飛んで来るものがある。
たれかと思うと高麗村の次郎で、
「おじさん、おいらも一緒に行こう」
その杖の先ッぽが、キラキラ光るふうなので、よく見ますと、鍛冶小屋の隅から持ち出してでも来たか、野獣を追う時に農家の者がよく使う、
次郎の次郎たる値打ちをまだ深く知っていない万太郎は、彼が物騒な野槍などを引ッさげて
「あ、これ。そちは何処へ行こうとするのか」
わざと訊ねますと、次郎は、
「何処へでも、おじさんの行くところへ」
と、
「染屋の道は聞いてまいったから、もう迷うようなことはない。帰ってくれ、帰ってくれ」
「おじさん、染屋の
「なぜじゃ」
「
「ウーム、それを承知いたしながら、わしに
「おいらだッて、あの
「しかし次郎、きのうも
「それは、分っています」
「ならば、そちが来ても仕方があるまい。それよりは、わしの申したことを御隠家殿に伝えて、
「でも、今日となっては、手ぶらでは帰れません」
「と申しても、あれは戻せぬというに」
少し鋭くいいましたが、次郎は悪びれもせず、
「はい、一緒に行って、あの
「貸してくれ?」
「え、それを持って、御隠家様に事情を話せば、きッと許してくれるに違いありません。そして
万太郎はこの辺のことばから、この童子の奇なることに気がつきました。彼がいうとおり、一日でも
だが果たして自分の推察どおり、噂の通り魔が仮面を持つその女であってくれればいいが……。
いつかどッぷりと日が暮れる。
行けども行けども果てしのない同じ野道。次郎と話しながら歩いて来るうちに、万太郎には行く手の方角も、過ぎて来た方角も、さらに分らなくなってくる。
「おじさん、少しこの辺で休もうか」
「うむ」
「ここに石がありますよ。ここへおかけなさい」
次郎は青すすきの
すると、この二人よりは半丁ほど離れて、絶えず見えがくれに
「二手になれ」
こういったのは
「おれが合図をするまで消えていろ。いいか、なるべく近づいて息を殺しているんだ」
「ちょッとお伺い申しますが」
と、笠を取って申しますことには、
「――もしや
と、いんぎんな言葉ではありますが、その鋭い眼ざしに驚いて、次郎は少し野槍の手を動かしかける。
見知らぬ町人、不審と感じながら万太郎は、ふと、ゆうべの
「そちは、たれか!」
と、油断のない気構え。
男はさらに悪びれないで、
「へい、手前は日本左衛門の手下、雲霧の仁三でございます」
「なにッ?」
立とうとするのを、笠で制して、
「ま、お待ち下さいまし。万太郎様、もう駄目でございます」
「だまれ、何が駄目?」
「お命をもらいにまいりました。実は、ゆうべ早速と存じましたが、ちと
「わしの命を取りに来たと?」
「はい、親分のいいつけで」
「やらなかったら何とする?」
「だから前もって、駄目だとお断りしてございます。
「ウーム、さては汝ら、かねてのことを遺恨にふくんで、この万太郎を
「大体そんなものでございますが、また、そんな簡単な
と、雲霧の仁三の物腰は、少しも人を殺そうとする前のようでないから一層気味が悪い。
「御承知の夜光の短刀。――あれは親分がぜひ手に入れる段取になっております。ところで、その秘密を知ってウロウロしている人間達が、親分の目にはまことに邪魔でいけません。まず第一に
万太郎は髪の毛のそそけ立つような
前後に暗くそよぐ風も、今は、いつ身をのぞんで来るかわからない白刃が思われまして、さすが自負自尊の念の強い若殿も、そのたびごとに思わず四肢の筋がビクッとするのをいなみ得ません。
次郎も驚いたことでしょう。けだし、次郎の驚きはさまざまであります。
自分の家の、あのきたない
驚きながら
(この野郎!)
いざといわば、持って構えている
暗殺といえば不意打ちを原則としているようですが、この場合は違っている。
貴様の
そして、ふッと話の切れた途端に、かえって万太郎の方から不意をねらッて雲霧に斬りつけましたが、
「それッ」
というと雲霧の仁三、持ったる笠を投げ上げました。
笠はクルルッと
ひゅう! ひゅッ……う!
何が唸ッたものやら分りません。
――と同時に万太郎、タタタタッと駆け廻りながら、狼に似た六人の
彼もいわゆる詩歌
けれど、法は法を知る相手によってこそ行われるので、法もヘチマもない敵に向っては、構えをとり気息を正し、青眼兵字構えなどの組太刀の型どおりを、そのままやっているわけには行かない。しかも相手は
で――万太郎がこの際、御指南番流の法を捨てて、刀の峰であろうと
しかし一方も、多少あばれることは覚悟の上なので、彼の前後にからんで、組んず倒れつ、何処か体の一ヵ所穴をあけてしまえばしめたものと、必死に六本の短刀がおどる。
万太郎には、相手の兇器が短刀であるのが致命的な苦闘でした。これが、

そのうちに――
雲霧組の
「あッ」
と、万太郎のただならぬ声です。
そして、彼の体がズデンと草の中に倒れましたから、雲霧の仁三は駆け出しながら、
「うム、
と、
それをまた、それと同時に、怒髪を
「こん畜生ッ」
とばかり、
「この餓鬼め! 帰れ」
はッたと
「何をッ」
前へ駆け廻るが早いか、目を射て来た野槍の光が、顔へと思わせて胸板へブンともひとつ。
あぶなく
「野郎――ッ」
奮然と野太い声をあげたかと思いますと、紺の
「てめえも殺してもらいたいのか」
と、ギリギリと体の向きを変えてきました。
ですが、それは
のみならず、次郎が歯がみをしてムキになってくると、かえってクッと
――といって、なかなか味をやるので、
「この餓鬼め!」
彼はもう一度すごい形相を作って見せながら、
「
次郎はビクともするひまもなく、
「なにッ」
と、
「帰れ、小僧」
「くそうッ、だれが」
「斬られたいか、この刀が目に見えねえか」
「おいらの槍がわからねえか」
「ちッ……」
ここに至って、雲霧も、この足手まといを、どうにかしなければならなくなりました。
否、どうにかしなければならない機会は、また別の方からも起って来ている。――というのは折悪くちょうどその時、一方の道から
じゃらん、じゃらん、じゃらん……
数頭の馬の鈴、賑やかな話し声、そして八王子組の
――雲霧はいきなり次郎の手元へ飛びつき、かれの襟がみを引ッつかみました。次郎の
だが――不覚はかえって雲霧の方にありました。なぜといえば、彼が無造作に次郎を鷲づかみに取って役げた刹那、投げられた次郎もウンといって気を失ったが、投げた雲霧もその
「あっ」
と叫んだまま眼が
そして、ぶッと唇の血を吹きながら、二度首を振りうごかした様子。見ると、満顔
じゃらん! じゃらん!
次郎の体を
彼は狼狽しながらも、一方の万太郎の方は首尾よくいったものと信じていましたから、指の間からしたたる血汐に着物の前を染めつつ、両手で顔を抑えたまま、
「出た!」
「出たぞ――通り魔が」
と、そこで立ち騒いだ八王子組の
「逃げて行ったじゃないか、
数頭の小荷駄の間にはさまって、道中馬の背に横乗りになっていた手ぬぐい
そういわれて落着いた面々が、
「おう、棒を持った小僧が死んでいる」
「死んでいるのではない、気を失っているんだ、気絶しているんだ」
「血がついているじゃねえか、この棒に」
「あっ野槍だ」
「何しろ早くどうかしてやらなくッちゃ……」
などと口々にいって、ある者は荷駄から飛び下り、ある者は
それはその連中に任せておいて、手ぬぐい冠りのあだッぽい女は、細口の
この旅人や小荷駄の一行は、その日の昼、八王子の宿を出て、今夜の
どうも近頃、
そこで、この一行も
中仙道の川口方面へ出るという
中で一番あたま数の多い一組は、五日市から八王子を三日ほど興行して、これから中仙道を打ちに廻ろうという旅役者。
それとて、役者らしく見える者はわずか四、五人で、
その
ふッと気がつくと、
「気がついたか」
「有難う……」
「どうしたんだい、お前は」
「悪い奴にいじめられて、あぶなく殺されるところだったんだ。おいらは、死んだのじゃなかったのかしら」
「人に聞くやつがあるものか。立派に助かっているじゃないか」
「そうだね」
「お前は何処の者だい。これから先だって、一人で帰るのは物騒だよ」
「あっ……」
やがて、身を吹く風を覚えると、次郎は万太郎の身の上を思い出して、足元の野槍を拾い取るや否、この一同を指揮するように手を挙げて、
「みんな、探しておくれよ! 探して! おいらのほかにもう一人連れが居たんだ、その連れが生きたか死んだか分らない」
「えっ、まだ居たのか」
と驚いた人々が、提灯を振り廻しつつ、さながら、次郎の手足の如くになって
そのうちに、遠からぬところで、一人が何か
見つかったのは
斬られています。
左腕にかすり傷、肩に突き傷、ほかにもあるらしいが何しろ衣服も血みどろで裸体にしてみなければ判明しない。
「息を見ろ、息をよ」
と、だれか罵るようにいう。
「息はある」
抱き起した者がうしろへ叫ぶ。
「それじゃ捨てても置けないから、何処か医者の所へ」
「医者といったッて、この原じゃあ……」
「血止めだけして、乗せてゆくのよ」
「川越の城下までもつかしら」
「もたなかッたら、それまでの寿命とあきらめてもらうより
てんやわんやの
行くこと半里ばかり、一軒の灯を見ますと、次郎はその家へ飛びこんで、また野槍をさげながら出て来ました。
「今のは、お前の家かね」
一行の者が、たずねると、首を振って、
「ううん、おいらの
「おまえの家は」
「
「じゃ、みんなと別れて、早く帰ったらいいじゃないか」
「あの小父さんがどうなるか分らないのに、おいら一人で帰れるもんか。今そこの家へ、おっ
こういいながら、馬と人の間にはさまって歩いてゆく。
その馬の背中から振り向いた女の目は、最前から頻りと次郎に注意している様子でした。
熱海の湯場で永らく一つ宿に泊まり合せていた記憶を、女の方は、あるいは思い出していたでしょう。しかし、次郎はその手ぬぐい
死ぬか生きるかわからない虫の息の
* * *
ここは徳川家の
そこの
「御当地
こんなビラが掛小屋の付近に目につく。
けれど、小屋組みが出来ても、一
同じ
そこのいかもの部屋に、この間うちからゴロゴロしている一組は、
そこに、例のお
腹では涙をこぼしているかも知れません。
「どうだいお粂さん、少しゃあ板について来たかい」
こういって、時々部屋へ様子を見に来るのは、でっぷりした興行元です。
「まだどうもねえ……」
「うまくいかないのかい」
「不器ッちょだからなかなか覚えきれないんですよ」
と、お粂は気がくさるように、
「師匠の教え方がいけねえんだろう、どうせ見物の目をごまかす
「まだ
「衣紋流しだの吹上げが出来りゃあ、独楽廻し一人前だ。前芸に
「え、明日から小屋を打つんですか」
「ビラばかり景気よくはり出してあるんでどうも世間ていが持ち切れない。慾をいわないで、ひとつ明日から
と、興行元はそこらに居合す者へも、それぞれ何かいいふくめて、空き地の小屋へ出掛けてゆきました。
「困ったねえ……」
と、お粂は板の間へペッタリすわって膝の前に仕掛
もし、独楽が人間だったなら、
(お前とわたしと、どうしてこんな縁になって、こんな家の板の間に、さし向いになるようになったんだい?)
と、聞いて見たいような気持です。
で、考えてみると、そもそもこうなる初まりが、熱海を去ッた
でも、一座が厚木を打っていた時分は、曲りなりにも、岩井染之助一座という看板がありましたが、あれからが一座の災難とお粂の災難。
飛んだ火事騒ぎから
でも無理に、五日市や八王子で、
そこでまた、見切りをつけた者が、持ち逃げ着逃げをして三、四人一座を抜け、あとに残ったのは、逃げても食えない、居ても食えない連中ばかり。
その結果、
「とても、これじゃあ」
と相談にならない。
ところで、興行元は興行元の目があるといえましょう。役者でないお粂の
「お前さんが看板になれば、確かに、一枚で売れるがなあ」
と、おだて上げました。
でも、
腹のひもじそうな連中から、
――
一夜づくりの
どうやら生業にありついている間は、遊びたいが一願の人間も、いったん生活の
そんな、あんばいで。
岩井染之助の看板を嵐粂吉一座と塗りかえて浮かび上がった連中の顔つきを見ると、お粂も悪い気持はしません。
そこへ衣裳屋の使いが来て、
「太夫さん、これでお気に召しましょうか」
と、風呂敷をひろげました。
縫い上がって来たのを見ると、けばけばしい、小袖と、その上になる
「何しろ急ぎましたので。はい。今もこちらの太夫元が来て、すぐお目にかけておけというので、まだすッかり上がっておりませんが、ちょっと持ってまいりました」
「これを私が着るのかい」
使いは変な顔をして、
「左様でございましょうと思いますが……」
「
「舞台でござんすもの」
「気まりが悪いよ、こんな年をして」
「御冗談ばッかり。……それから紋でございますが、御相談なしに、
「あ、それは
「鷹の羽ですッて」
「いけないかえ?」
衣裳屋は吹き出しそうになって、
「太夫さんが鷹の羽はヘンでげしょう。お侍か何ぞのようで、どうにも、うつりが悪うございますよ。蝶がいけなければ、
「やっぱり鷹の羽にして欲しいんだがね」
「へえ。ははあ。さては……でございますね。成程、それじゃぜひ鷹の羽でなけりゃあいけますまい、だが、まさか浅野
衣裳屋の使いが帰ると、入れ代りに
その髪でも、お粂の気持と
「それじゃ、まるで年増に見えてしまいます、
と呑みこんで、
十七、八の娘のようになった自分の首を鏡にうつして、お粂は、
そして、
「あの……髪結さん」
と、帰ろうとする男を呼び
「お前さん、これから南町へ廻るといったね」
「へい」
「南町に小川玄堂というお医者があるだろう」
「へ、ございます。
「そこへ、お前さん、ちょッと
「へえ、玄堂先生にてすか」
「なあに、お医者の家に居る者にだよ。……実は、私が八王子から川越に来る途中で、ひとりの怪我人があって、それを大勢で助けて来てあげたんだけれど、だれも旅先だし、私も落着き先が当てにならない矢先だったので、とにかく医者の
「なるほど」
「その
「へい」
「その次郎という子に、
「お
「
「ほウ。……あの尾州家の七男坊がか?」
と、鼻をつまみ上げられたように、脇息から顔を上げて驚いていました。
お話相手は、お扶持医者の小川玄堂で、
「いや、手前も、こんなに驚いたことはかつてございません」
と、その驚き具合の顔を白扇であおいでいる。
「で、玄堂」
「は」
「いつの事じゃ、一体それは」
「もう十日あまりの
「む」
「金創三ヵ所、
「そうじゃろう」
「ところが、よいあんばい、一ツの突き傷は浅く、一ヵ所はかすり傷の程度でございます。ただ出血おびただしく、そのため昏倒していたものと診断して、手当を加えますと、果たして、結果はまことに上乗で、まあ半月も過ぎましたら元の体となることは
「ほう、置いてきぼりか」
「左様な次第で」
「
「しかし、あとで話を承ると、それは
「ウム、その
「御明察の通りにございます。彼――次郎が申しますには、このお方は、徳川万太郎とおっしゃる御身分の高い人、もし療治の届かぬ時には大変なことになる、どうか、そのつもりで充分に――などといい出してまいりました。しかし実を白状いたしますと、この玄堂も、初めは一笑に付していたのでございます。ところが、日を追うにつれて、
「なるほど、それで、相談にまいったか」
「捨てては置けぬ儀と、御内聞までに」
「あの万太郎と来ては、尾張殿も持てあまされている
「後日のたたりこそ恐るべしでございます」
「飛んだ厄介者が領内へ飛びこんで来たものじゃ。どうしようかの、玄堂」
「弱り入った次第でござります」
「おやじの中将へ申し
「なかなかそんなお計らいで自由になるお方ではございますまい」
「それも、そうか」
と、
「では、たれぞ重役どもを迎えにやろう」
「御城内へお連れ申し上げますか」
「いやいや、ああいう
「御名案」
「早速に呼べ」
「どなた様に、この御大役をお願いいたしましょうや?」
「そうじゃの、万太郎の窮屈がるような者といえば……ウム、家老の
お
殿からのいいつけを聞くと、権太夫は、
「なに、尾張中将様の御一子万太郎
とばかり、
やがて、南町の小川玄堂の宅。
お扶持だけでは過ごしてゆけず、町医だけでも立ってゆかず、両天をかけてどうやら
「玄堂」
「はっ」
「若殿はおいでの御様子か」
「おられるようでございます」
「但馬守
権太夫、そういって、
「では、暫時これにて」
「わしはかまわん、若殿の方に、くれぐれお粗相があってはならぬ」
「只今、御意を伺ってまいります」
と、玄堂はおそるおそる奥へ
書斎、薬室、寝間、すべてを兼ねた玄堂の居間とみえる奥の一間に、徳川万太郎はそこの机や
「ウム、これは少し、
その傍らに、ちょこなんと、畏まっているのは高麗村の次郎。
「おじさん、
「などといって、お前は、剃刀を持ったことがあるのか」
「ばかにしちゃいけないぜ、狛家にいた時分は、いつでも、おいらがお嬢様の襟足を剃ってやったんだ」
「そうか、じゃひとつ、腕前をふるって見せてもらおうか」
「よし、やってやろう」
と、次郎は小脇差の
「なかなか形がいい、その構えなら剃れるだろう」
「おじさん、動いちゃいけないよ」
と、自分の指に
「これ、次郎」
「へ」
「なんで
「つばで」
「きたない! その
「もうありません。あ、それではあそこの水を」
と、湯呑みを持って行って縁先から、
「
「おじさん、懸人って、なんの事?」
「居候のことさ」
「すると、おいらも居候なんだね」
「おまえは、居候のまた居候」
次郎を相手に他愛なく襟を剃らせながら笑っているところへ、
「へへッ」
と、
次郎に襟を剃らせながら、万太郎は不審そうな顔をして、
「だれだい? そこでお辞儀をしているのは」
と、たずねたものです。
平伏した者は、
「
「あ、御主人であったか。永いこと世話になった上、おかげで傷も本復、わしの方から改めて礼を申さねばならんところを、何だって左様な真似をなさる。さ、手を上げて下さい、お手を」
「勿体ないおことば、いよいよ恐縮仕ります。元々、御身分を承知しておれば、かような御無礼もいたさぬものを、さる高貴のお方とは知らず、先頃からの不作法、何とぞ御仁慈を以て、おゆるし置き下さいますように」
「はてな」
と、万太郎が首を上げましたから、次郎も剃刀を離して、同じように、玄堂のしかつめらしい有様に見とれています。
「はて、どうしたものでござる御主人」
「見るかげもない
「
「まったく今日まで気づかずにおりましたのは玄堂の
「何だ……老職が迎えに来た?」
「は。一応お目通りを願いたく、あちらに差控えております次第で」
「一体、どこの老職だ」
「
「それがわしを迎えに来たとは変な話、何か、
「いや、お隠し遊ばされても、御素性は早や御近侍から承っております」
「おれに近侍などは付いていないが……ははあ、次郎、さては、お前が何かしゃべッたと見えるな」
「何も、しゃべりはしませんが、あのお医者がいろいろ聞きますので、尾張の若殿徳川万太郎様だといって聞かせました」
「それはいかん」
万太郎は苦笑して、
「それはいかんなア……」
ともう一度いいながら、剃り立ての顔を撫で廻しました。
ところへ、次の部屋へ、家老の曾根権太夫がうやうやしく式体して平伏しながら、
「へへっ。初めて御見にいります。自分ことは但馬守の老臣曾根権太夫というもの、何とぞ、お見知りおき下されますように」
と、玄堂と同様な言い訳を
これは領主の
ですが、事情さえ分ってみると、万太郎はべつに驚きもしません。
自分のうちの尾張の家中にも、こんなのが、二人や三人はいて、よく
「ははあ」
と、彼は軽くうなずいて、
「じゃ、但馬守のさしずで、わしを迎えにやって来たのか」
「御意にござります」
「折角だが、それは断る」
「えっ、それはまた
「わしは非常な
「御窮屈がおきらいとあれば、如何ようにも御自由にして、ともあれ、お越し下さりませぬと、このおやじめが折角お迎えの役儀が相立ちませぬ」
と、権太夫はどこまでも、この
いやだの、有難くないのと、さんざん駄々をこねた万太郎も、結局、権太夫の役儀大切に根負けして、
「じゃ、行ってやろうか」
と、
知らぬ他領の城下へ来て、こうもてるのも、いわば七男坊にまで及ぶ親の光。
供揃いが出来る。
すると、歩み出す間もなく、
「もし、小僧さん」
ひとりの男が、小川玄堂の門前から引っ返して来て、
「もしやおめえは、
呼びとめた男は、
次郎の目にも一見して、それは
「おいらかい?」
いぶかしそうな顔をすると、
「次郎というんだろう、お前さんは」
「あ、おれは高麗村の次郎だけれど、何か用かね」
「御城下の盛り場に
次郎はいよいよ変な顔をして、
「その太夫さんがいうには、ぜひ一度、曲独楽を見物に来て、楽屋へも遊びに来てもらいたいということだ」
「おじさんは、人違いをしているんだぜ」
「人違いなことがあるものか、小川玄堂さんの
「おかしいな」
「なぜ」
「なぜだっても、おいらは、そんな太夫さんなんて者を知らねえもの」
「なるほど、こいつあおれが言い落としをしている。嵐粂吉じゃお前さんにも分らないはずだ、その太夫というのは、この春頃、
「あ、あの、お粂さん」
「知っているだろう。じゃ、今の
といったまま、髪結の男は忙しそうに、
気がついて見ると、万太郎の駕とそれを囲んでゆく曾根権太夫たちの列は、すでに、一町も先へ遠のいているので、次郎は、
「あ!」
と、野槍を小脇に持ち直しながら、あわてて
かくて徳川万太郎は、その日から、秋元家の家老曾根家の上屋敷に食客となって、かたがた玄堂の治療をうけながら、寝たい時に寝、起きたい時に起き、人の羨む自由気ままな数日を送っている。
三ヵ所の短刀傷もほとんど癒えて、もう立ち居になんの不自由も感じなくなると、そろそろ七男坊の
「次郎、おやじが居たら、ちょっと参るようにいってこい」
と、ある日、彼のことばです。
次郎は心得て、
「御用人様!」
「おい」
と、びっくりしたように、そこで居眠りをしていた用人の伝内、
「やあ、万太郎様の
「おやじは居ますか」
「おやじ?」
「ウム」
「おやじとはたれのことで」
「おやじといえば、ここのおやじ。それ、いつも、こういうふうにシャチコ張っている、曾根権太夫という人のことさ」
「これは
「でも、万太郎様が、おやじをすぐに呼んで来いといったんです」
「御家老はまだお城からお
「駄目駄目、お前さんじゃいけない」
「なぜ手前ではいけないのか」
「万太郎様は、伝内さんがお嫌いです。あの
「これはひどい。河豚内とは、お口がわるい」
「じゃ河豚内さん、おやじがお城から帰ったら、すぐ奥へ来るようにいっておくれ」
「こいつめ、居候のくせにして」
と用人の伝内が、頭から湯気を立てるのを面白がッて、次郎は拭きこんだ大廊下を、武蔵野を駆けるように、
「おじさん、おやじはまだお城から帰って来ませんッて」
と、突っ立ッたまま復命しました。
「では用人の
と万太郎がいいますと、次郎は今の
「ええ、用人部屋で、居眠りをしていました」
「そうか。じゃ、河豚内をよんでくれ。おやじが居なければ仕方がない」
心得ましたという風に、次郎はまた表の部屋へ取って返して、そこをのぞくと、河豚は居眠りをさまして、破れ
「御用人さん、お召しです」
「また来たな。だれが」
「万太郎様が」
「それみろ、わしでも済む御用なのじゃないか」
と用人の伝内、そこは不承不承に立ちましたが、万太郎の次の間まで来ると、陪臣らしい習性でペタと鼻まで畳にすりつけて、
「へへっ、用人の伝内めにござりますが、何か御用でございましょうか」
「オ。
「は」
「ちと退屈したによって、ぶらぶら城下を見物して来たいと思う」
「主人権太夫こと、公用多繁のため、一向おかまいも申し上げず、重々相済まぬ儀と、
「そんな事はどうでもいい。何分居候の身で出かけたいにも
「恐れ入ッてござります」
「それを
「は」
「早くしてくれ。次郎、一緒に来い」
ずかずかと玄関へ出て行きましたから、河豚は狼狽して笠や
御三家の若殿などというものが、小遣銭などを持つものか、持つとしたら幾らふところに入れているものか、その辺の見当もっかず、まさかおいくら要るのですかとも聞き
まごまごしている
「河豚、早うしてくれ」
「はっ……」と、いよいよ当惑したらしく、
「手前もお供仕りましょう。主人に代って、御城下を御案内いたしまする」
先に立って門前を出かけると、そこへ、
「おう、若殿」
驚いて駕を出ながら、
「おそれ多くも、君は将軍家の御門葉、高貴のおん身として、軽々しく町なかを御遊歩あるは
万太郎は心のうちで、人が気楽に歩こうというのに冗談じゃない――と思いましたが、御家老や
しかたがなく、それに乗ると、供侍が三、四人付いたのでもウンザリするのに、家老の権太夫と用人の河豚内が、駕のそばについて歩いて来ます。
そして、面白くもない城の附近や、寺町のなんとかという
そこで、自分の屋敷の者を追い使うような調子で、
「おやじ」
と、権太夫をよんでたずねました。
「この川越の城下には、もっと、繁華な所はないのか」
「は。御意遊ばすのは、あの
「そうだ、その盛り場へ駕をやッてくれ、万太郎は下民の仲間入りをするのが大好きでな」
権太夫は眉をひそめながら、
「したが、御身分がら、ああいう場所へお近づき遊ばすのは、あまりよろしくございますまい」
「では、次郎だけ連れて歩いて行こう」
と、遂に駄々な七男坊は、駕の中から片足を出して、
「河豚、草履をくれ」
と、不機嫌にいいつけます。
権太夫も呆れましたが、ぜひなく万太郎の
さて、そこの賑やかな町といっても、江戸の両国や浅草とは比較になりませんが、古着や
そこへお練りの御家老と駕です。
権太夫と用人の河豚内が、むずかしい顔をならべて、駕の後から真ッすぐに向いて歩いていると、万太郎は駕の垂れを上げて、
「ここは何という町か」
「唐人小路と申します」
「あれは何だ」
「
「
「恐れいります」
「向うに頭へ箱を乗せて何か怒鳴っているものがあるな」
「あれは、すし売りでございましょう」
「なるほど」
と、さかんに話しかけたり指さしをするので、供の者も閉口していると、
「河豚内、河豚内」
と、人前もなく呼び立てる。
「は」
何事かと、駕を
「腹が
というのであります。
「御冗談を
「冗談ではない、まったく空腹じゃ。あのすし売りの姿が殊に面白いではないか、これへ呼べこれへ。そして、お前たちも
「ここは町の
「それではうまくない、すしはこういう場所で立ち食いするに限る、江戸表ではよくそうして試みたものだ」
「いかがいたしたものか、どうも、伝内には取り計らいかねます故、只今、御家老と御相談の上で」
「厄介な奴だ、ぐずぐずしておるまにすし売りが行ってしまうぞ。これ、あのすし売りを逃がすな」
あたりの弥次馬は目をみはって、何事かと、そこに人の輪を作ってガヤガヤと騒ぎ出す。
それにさえ当惑していた家老の権太夫は、伝内のことばを聞いて飛んでもない事と、すぐ駕を上げるように命じましたが、どたどたと弥次馬が寄って来た混雑の瞬間に、万太郎は逸早く、次郎をつれて一散に横丁へ駆け出している。
あとで、おやじと
「ああ、これでやっとのびのびしたぞ」
と、鬱屈していた五体を思うさまのばして、
「次郎」
「はい」
「これから久し振りで、気ままに体の保養をしたいな。わしが思わぬ
「もう、あの晩から、二十日にもなります」
「そうか、早いものだな」
「
「心配するな、そのうちに、きっとお前の詫びはかなえてやる」
「でも、あの
連日大入りにつき日のべ
その辻看板に、嵐粂吉という名を見たものですから、いつぞや
「あ。お粂さん」
と、そこで口に出しました。
「お粂さん?」
万太郎も、お粂という女の名は、どこかでうすら覚えのあるような気がする。
そこで次郎の話が、彼に偶然な興味を添えたものか、賑やかな鳴物を
「おい、稲」
と、その人中を
稲とよばれたのは、前髪でいなせな若者、
「え?」
と、人
「あれへ行ったのは、たしかに、尾州の万太郎じゃねえか」
と、肩に肩を寄せて来てささやきました。
「人中でよく見えなかったが、
といったのは、もう一ツの笠、
「行ッて見ましょうか」
「まあ待て、――万太郎は雲霧にまかせてある」
日本左衛門の、あの、静かなことばに
編笠の本体がわかれば、一方の笠の判断もすぐにつく。無論それは
附近を見廻しているのは、少し話のできる
「親分、空き地の向うはどうです」
「ウム、二、三軒見えるな」
「
「静かだろう、行って見よう」
三人は、
どろりとした青い水面に、富士形の編笠と、丸べりの笠と、前髪の半身の影が、足につれて浮いてゆく。
めし、
来てみればこんなものです。
「飛んだ蓮見茶屋だ。は、は、は、は」
笑いながら、
「いらっしゃいまし」
と、
「酒」
「はい」
支度をさせておいて、稲吉は奥の床几を
「親分、ここに腰をおろしていると、
彼の笠も、今、その方角に向いていました。
酒の
「あの、粂吉さんの曲独楽をごらんになりましたか」
「いいや、おれはまだ見ねえが、どうだね、評判は?」
と、稲吉が軽く相手になる。
「とても、大変な人気なんですよ」
「へえ、どう大変なんだい」
「何しろ、
「おや、それじゃ、独楽はそッちのけだね」
「何にしたッて、あなた、女の太夫さんなんていうものは、芸より顔でござんすからね」
「つまり、居酒屋にしてみれば、酒よりはお酌というわけだな」
「ホ、ホ、ホ。まあ、そんな
「そうかい、世間様は、
と、稲吉が、何の気もなくいったことば、日本左衛門の黙りこんでいる心の底を、
やがて、そこへ来た酒を、真似ばかりに飲みながら、
「稲」
「へい」
「お粂はおめえの持ちだったな」
「そうです。あっしが
「いい籤を引いたな。雲霧の相手や、おめえの目ざすものは、いつでも手の届くところにぶら下がッているのに、おれの引き当てた
と、含んだ酒も
彼をはじめとして、暗殺の

しかるに、その根幹である自分の持ちのお蝶の姿と来ては、いくら探りの手を分けてみても、一
嵐粂吉となったお粂は、すぐ目の前の小屋に、おおびらで姿を見せつけている。けれど、それは暗殺の
――と、茶店の
はいって来ると、ここの
話の様子では、城下の馬市へ来ている
そのうちに、なかの一人が、
「おい、そりゃあそうと、またこの間の晩、上野原の弥助が、
そこへ来た酒の盃をやり取りしながら、
「おれも明日は、金を持って、
「博労渡世の者が、旅をこわがッていたひには商売ができるもんか」
「だって、二度や三度のことじゃねえからな」
「上野原の弥助が、一体、何を見たッていうんだい」
「あれだよ、この前の市に、おれたちが青梅から来る途中、女影の手前でぶつかッた女の魔物だ」
「ヘエ……弥助のやつも出会ったって?」
「うム」
「いつ頃?」
「もう半月程まえだそうだが、その時は、今小屋にかかっている
「じゃ、あの女を、見たというわけじゃねえのだろう」
「だが、多分あの女の
と、真面目になって、その男は、この晩春の頃、自分たち青梅の仲間が実際に出逢ったという、女影の鬼女の話をもち出しました。
最前から、一隅に、
「稲」
と、編笠をうしろに向けて、
「あの男を、ここへ呼んで来てくれねえか」
と小声で言う。
稲吉は
「エエ親方」
と、
「あちらにいる方が、一杯さし上げながら、少し伺いたいことがあるっていうんですが、どうでござんしょう」
博労は
「何が、どうなんだい」
「お前さんだけ、ちょっと
「ふざけた事を言うねえ、人にものを聞くのに、こッちへ来いなんて大ッ面をしやがって、おれ達を何だと思ってやがる」
と、酒の勢いもありましょう、
すると、
「オイ、稲。もういいから
「へい」
と稲吉は、すごい目をくれて、
「とんだお邪魔をいたしましたネ」
セセラ笑って引っ込みました。
それで初めて気がついた
おとなしく引ッ込まれただけに、博労どもは薄気味がわるくなって、前の元気もどこへやら、大声な話も出来ず、そこを通って帰るにも帰られず、
「おい、何の用だか、ちょッと行って来ねえ。いやに鳴りをしずめているから、あとのたたりが怖ろしい」
と、仲間の者を小突いていました。
「どうも、只今は、とんだお見それをいたしまして」
おそるおそるそれへあいさつに来た男を見ると、今、
「さ、こちらへお掛けなさい」
「ところで、何かあっしにお話があるそうですが」
日本左衛門は、博労の男にも
「呼び立てて聞きただす程のことでもないが、そちが只今、向うで話していた
「へ、へい。こればかりは、嘘でも大袈裟でもございません」と、博労が得意になって語り直すのを、日本左衛門がところどころ反問して、どうやらそれで彼の疑問は
「いやよく分った。折角飲んでいるところを済まなかったな、これは少ないが……」
と、
外の風に吹かれると、すぐ耳につくのは池の向こうの
暫く肩をならべて行ったと思うと、日本左衛門と金右衛門とは、別な道へそれて行きながら、
「じゃ稲、しッかりやれよ」
言い残して、何処ともなく、
稲吉はふところに手を入れて、指先で、肌に温まっている
そして、
木戸番の男は
中には、もう昼間から二、三百の見物が詰まっている。小屋の内を眺めると、何か大きな動物のあばら骨でも見るように雑な丸太組のホッ建て小屋で、無数の
舞台では今、前芸とあって、やたらに騒々しがる男芸人と手踊りの娘とで、何か、お茶番じみた所作を見せている。
こういう
「お」
と、人を分けながら、連中の仲間にすっぽりと坐り込みました。
「兄貴、ばかに遅かったじゃねえか」
「ウム、ここで落合う約束で、急いでやって来ると、途中で親分に会ったものだからな」
「あ、親分も、この川越へ来ているんで?」
「
と、みんな膝を抱えながら、眼だけは義務のように舞台へ向いておりますが、
そのうちに中の一人が、何気なくうしろを振向いた時、はッと驚いたというのは、自分達が背中を向けている垂れ
「シッ……」
と、たれかが、
土間の見物や中売りの声が、にわかにガヤガヤしはじめると共に、楽屋の内でも足の踏み場もないような混雑。
ここ大入りつづきで、ほくほくものの太夫元は、この興行に見込みがあると見て、旅先から手踊りの女芸人を数名買い込んで来て、
その
お
「太夫さん、妙な子供がやって来て、
もろ肌を脱いで、
「来たかえ? あの山男のような子だろう」
「そうです、太夫さんから何か
「あ。ここへ、連れて来ておくんなさいな」と、お粂は肌を入れながら、一人の者が坐れるだけの余地を作って、そこに待っておりました。
「お待ち遠さま。ちょうど中入だから、太夫さんが会うそうだ。さ、こッちへはいんねえ」
と、外へ呼ぶと、そこに
「じゃ、おじさんは、外で待っている?」
と、うしろの連れを
連れがあったのか? と出方の男が外を見廻すと、青い
オ。ここで待っている――というふうに万太郎の笠が向うで
だが、そこを次郎にずかずかと通られた女達も鏡台から首を曲げて、皆、少なからず
「あら、いやだ」
と、娘手踊りの連中が、こわそうに首をちぢめて見送ったのも無理ではありません。
「太夫さん、御案内して来ました」
と、
「さ、おはいんなさい」
うすら覚えのあるお粂の声が内でする。
野槍をそこに立てかけて置いて、次郎はおずおずとビラ幕を
「あら」
と、笑いながら迎えると、
「
取って付けたようにそう言ったきり、次郎はなんだか間が悪くなって、あとの言葉が出ないのでありました。
「ここは狭いけれど、
茶をついでやったり、お
けろんとして、鏡台のまわりの紅皿や
それらの、あまり目馴れない強い色彩が、彼を脅迫するものですから、
「たしか、次郎さんと言ッたね」
お粂が見入るように目元で親しげに言うものですから、次郎はぽッと顔を赤くして、
「え。次郎って言います」
「それについて、実は、お前さんなら知っていやしまいかと思うんだけれど……、あの
「相良さん。ウム、知っている……」
「そして
お粂の粂吉が、わざわざ使いをやって、次郎を楽屋に呼んだのは、まったく、相良金吾ののその後の便りを、少しでも聞きたいばかりの手段でありました。
ですが事実は、お粂が邪推を廻しているほど、
で、彼女の
「あの、お粂さんは、元江戸の水門
と、思いがけない反問を出して来ました。
「よく知っているね、お前さんは」
「じゃ、日本左衛門という人とも前に知り合いだったんだね」
「どこで聞いたえ、そんな事を」
「熱海に居た時」
「だれに?」
「ううん、だれにでもないけれど」
短い中入の時間はもう過ぎたと見えまして、その時、土間の客席や蔭の鳴物がまた騒めき出すと、男衆がそれへ飛んで来て、
「太夫さん、出番です、お支度は出来ていますか」
「あっ、もう」
「お早く願います。見物が沸いておりますから」
お粂はあわてて衣裳を着け出すと、そこへ二、三人の女達が来て、帯を手伝うやら、
「おじさん、お待ち遠さま」
と、ひょッこり小屋の楽屋から飛び出して来た次郎は、そこにたたずんでいた万太郎の前に帰って来て、
「聞いて来ました。やっぱり、おじさんが言った通り、あの女は、日本左衛門をよく知っている水門尻の人でした」
それは万太郎が、次郎をもって探らせた事と見えます。そして彼はまた、お粂こそ金吾の体を、いまだに隠している女だと信じているのでした。
「御苦労だった。けれどそういう事を聞いて、何も向うでも変に思いはしなかったか」
「いいえ、ただ、熱海で一緒に居た、金吾という人の事をいろいろくどく聞いただけです」
偶然に、この時初めて、次郎の口からもれた金吾という名に、彼はハッと眼を
「次郎、今お前の言った金吾というのは、一体どういう人間なのか。もしや、相良金吾という者ではないか」
「そうです」
「えッ」
「相良さんというんです。月江様もおりんさんも、おいらも、みんなあの人が好きでしたよ」
「では、熱海の
「だって、おじさんと、相良さんと、知ってる人だとは少しも思わなかったもの」
「なるほど、それも無理はない話……。しかし、そうと分れば、なお
「おじさん、何だかポツンと降って来たようですよ」
「雨どころではない、さ、わしに
と、万太郎がやや大股に、
「もし万太郎様、その話なら、私がくわしくお話し致しましょう」
と、不意に手をあげて呼び止めました。
突然、万太郎をよびとめて、彼の前へ立った男は、めずらしくも熱海以来その姿を見なかった目明しの釘勘でありました。
「おウ」と万太郎は、びッくりした目を
「そちは釘抜きの勘次郎、どうしてこんな所に参った?」
「どうしてというのは若様、あなたの事じゃございませんか」と、釘勘は笑いながら、
「――熱海から江戸に帰って、早速お目にかかりたいものと、根岸のお屋敷へ伺いましたところ、ぶらりとお出かけになったまま、幾日経ってもお帰りがないというお話」
「うム……実は、そちの帰りも心待ちにしていたが、何かにつけて、じっとしていられぬ自分の性分、つい根岸から脱け出してしまった」
「はははは、相変らずで」
「いや、そのために、ひどい苦難に出会ったぞ」
「少しはお薬でございましょう」
「薬にしては強過ぎた」
「ところで、その折、根岸の御家来衆の口から伺いますと、毎年江戸城の御本丸でお催しになる
「今年もやがて
「で、市ヶ谷のお
「お、それは兄や父も当惑であろう」
「ぜひ急がなければ一大事でござります」
「洞白の
「それから……次には相良様のことでございますが」
「ウム、熱海で、そちは金吾と逢って来たか」
「お目にかかってまいりました」
「で、あれは一体、どういう気持でいるのか、この万太郎には彼の心持が
「何しろ、この往来では、落着いて話も出来ませんから、何処か静かな所へまいって、ゆっくりお話し申し上げたいと存じます」
「よかろう、では、わしの屋敷まで来るがいい。次郎、お前は帰りの途を知っているか」
野槍を杖についた高麗村の次郎は、ふたりの先に歩き出して、
「え、分っています」
釘勘は妙な顔をして、
「この川越にお屋敷があるということは
「なに、当座の
と、万太郎は澄ましたものです。
次郎は露払いの格で悠々と前に立って、やがて、秋元家の家老
「お帰りです。
今も今とて、まかれて帰って来た権太夫と用人の伝内とが、万太郎に手を焼いて困ったものだと噂をしているところへ、
「お帰り!」
という声がしたので、ゾッとしました。
権太夫は、何事もお家の為じゃ、と虫を殺しているような顔で伝内と首をそろえて式台まで
「おやじ、先へ帰っていたか」
「へへっ」
「今日は御苦労だったな」
万太郎は空とぼけながら、うしろにモジモジしている釘勘に向って、
「おい、何も遠慮はいらない、上がるがいい」
「へえ、真ッ
式台に手をついていた用人の
「あ、万太郎様」
「なんじゃ」
「それなる町人は何者でございましょうか、御同列は畏れ多い次第。庭先へお廻しなされては如何なものでございましょう」
「これは、釘勘と言って、わしの友達だ。何か
と、まるで
奥へ通った万太郎と釘勘は、そこで、夜のふけるまで
熱海の
「そうだろう」
万太郎はすべてを善意に聞きました。そして、自分に
「こうなった以上、金吾の気質としても、何か一
むしろ彼は、金吾の行為に、
「ところで、そのかんじんな
「妙な方角から、思いがけない
「いや、その
「へえ、じゃ、あまり商売人の早耳も、自慢にはなりません」
「けれど、そちの探ッている目星と、わしの存じている事とは、違っているかも分るまい。釘勘、お前はその仮面が、今何処の誰の手にあると
「思いがけない人間です」
「ウム、それは?」
「
次郎を連れて、
「お蝶がと申すか、ウム……しかし、そちはまたどうしてお蝶があれを持っていると知ったのじゃ」
「種を明かしちゃ、つまらない話ですが、実は、
「えッ、おじさん、半五郎ッていうのは、あの目ッかちの半五郎ですか」
突然、次郎がそばからこう言って、ただならぬ
「うム、悪い奴だ」
何気なく言ったものです。
すると、次郎は急にベソを掻いて、悄然と首を垂れてしまいましたから、どうした訳かと聞いて見ると、その一眼の鍛冶屋の半五郎は、彼の父親で、目明しのおじさんに捕われたことを悲しみ歎くのであると分りました。
「そうかい……」と釘勘も初めて知った様子で――「あの半五郎というのは、時々江戸の近くへ出て来ては、よくねえ事をやる男だったので、何の気もなく
それで、次郎も少し安心したふうです。
ところへ、
「やあ、やっと御馳走が参ったそうな」
万太郎は席をひらいて、
「さ、次郎もならべ、釘勘も遠慮なく、
見ると権太夫と河豚内は次の間に平伏して、
「
と、
「あ。おやじか、どうじゃ、ここへ来てお前も一杯つきあわんか」
「
「じれッたいやつ、早く取らんか、盃を」
「へへっ」
と、叱られて、権太夫は
「もういい」
と、万太郎は素ッ気なく盃を取り返して、
「そちや
そう言って、人を追ッ払ったかと思うと、やがてポンポンと手をたたく、お銚子のおかわりだという、もっと、あッさりしたお肴を持って来いと言う、誰か三味線のひける家来は居ないかと言う、権太夫に来て踊れと言う、
いやもう、ふだんのシラフでさえも大概な七男坊様、酔ッたが最後の助、
かくて、やっと乱酔のまま寝所に納まった万太郎に、ヤレヤレと、河豚内はじめ家来どもは、翌朝、思わずいつもよりは寝過ごしました。
しかるに、
また起き抜け早々、朝ッぱらからの一騒ぎ。
今朝になってみると、万太郎は居ない。
また妙に眼の光る町人も、物騒な棒を持ってあるく
二日ばかりの小雨つづき。
大入りあげくの息抜きに、
事の次第はこうであります。
人気者の
「きゃッ」
と、演技中の粂吉が、ばッたりと、床に倒れた騒動であります。
なんで見物がじっとしていられましょう。
「わ――ッ」
と、場内総立ちとなって、何が何やら分らぬなかに、
かかるなかに、押しくずれ、泣きわめく場席の其処此処で、なぐり合い、取ッ組み合いの争闘が、幾組となく行われている。
「逃がすなッ」
「こいつだこいつだ。こいつが短刀を投げた手元をたしかに見た」
「それ、逃げる」
「抑えろ、ばかッ」
「あっ」
「野郎」
いくら落着いて見ていても、だれが打ったのやら、だれが組みしかれているものやら、決して分ったものではありません。
しかしその、ごッたすッたの間に、八方
すると、その動揺した空気が、まだ落着かないガヤガヤのなかで、
「まア、いい、見物に
と、大ふうな口をきいて、
たださえ気の荒い小屋者の気が立っているところだからたまりません。
「
と、だれかいうと、ポカリと一つ。
「あいたッ、何をするんで」
「べらぼうめ、なにが大難が小難だ、やいッ、何がまアいい、まアいいだよ。この野郎、生かしちゃあおけねえ」
と、いきなり彼の
まだそれでも飽き足らず、ほんとに殺してしまいそうなところへ、
「あっ、待ってくれ」
これは前の
「それはおれの連れだ、待ってくれ、おれの連れだ」
と懸命に叫んで食い止めました。
それに一時は手を引いたものの、またお互いに怪しみの目を交わして、
「やい、おれだの連れだのって、てめえは一体見物人か、どこのだれだ? ちッともこの小屋で見かけねえ野郎じゃねえか」
「そりゃ、見かけねえはずだ、おら、旅の者だ」
「何、旅の者が、なんでこんな所に出しゃ張ってまごまごしているんだ。太夫に短刀を投げやがった野郎の片割れにちげえねえ」
「おッと、皆さん、逆上してそう勘違いされちゃ困る。おら、なるほど旅の者だが、太夫の粂吉たあまんざら縁故のねえ人間じゃあない。嘘だと思うなら、今ここへあの女が来るから、それに聞いてみるのが一番確かだろう」
「ふざけやがるな」
と、小屋の連中はますます
「まだ医者の来ねえうちは分らねえが、胸元へ三本も短刀を
と、一方の弁明もガンとして受け取らず、あわや再び、
「おや、何をやっているんだえ」
笑ってそこへ立ちました。
楽屋へ抱え込まれると同時に、死んだものと思って騒いでいた粂吉が、ひょっこり大部屋
「あれ?」
と
「どうしたんです太夫さん」
一同が足元から顔までじろじろ見上げるのを笑いながら、
「どうもしやしないよ、この通りさ」
「へえ……よく何ともなかったもンですね、こりゃ不思議だ」
と、さらに驚きを新たにして、ガヤガヤとお粂を取巻いているところへ、迎えを受けて飛んで来た外科医者も、それには及ばないとお断りを食う始末に、いよいよ今の一瞬の騒動が、たれの頭にも夢としか思い出されません。
ところで、それ見やがれといわんばかりに、息を吹ッ返して起き上がったのは、大勢に袋だたきにされて、へたばッていた総髪の男で、
「アー
すると、側に食い止めていた
「どうだ、これでも何か文句があるのか」
と、息巻きました。
お粂は、総髪の男に向って、
「どうしたのさ、馬さん」
「どうもこうもないよ、おれを捕まえて、太夫さんへ短刀をぶつけた仲間だといやがるんだ。イヤ、飛んでもない飛ばッ散りさ」
「そりゃ気の毒だったね。まあ何しろ、今夜で無事にこの小屋も打ち上げたわけだから、お祝いに、何処かで一杯おごりましょう」
「そうでもなくッちゃ助からねえ」
「だれか、駕を頼んでおくれな。
川辰とは、城下で一流の料亭です。あぶなく死人を戸板で出すところを、吉凶転じて大変な景気。
一座こぞって川辰へ乗りこみました。
そこへ太夫元や何やかが見舞に来る。そして来たほどの者が、すべて事の真相が反対なのに驚き呆れない者はない。
それでもまだ川越の城下では、
それは二階の大広間のこと、
「なあ、伊兵衛、今夜の狂言は首尾よく当ッたな」
「あんまりうまく行き過ぎてやがる。お粂のやつも運がいいや、あれが一本、顔の真ン中にでも当ッて見ねえ」
「事だな、あははは」
「あの騒ぎが本物になるところだ」
「こうなると、やっぱり、馬春堂先生の
タンゲイの語意が、伊兵衛には素直にのみこめなかったものですから、話はとぎれて、盃に手が出る。
九死に一生を得て、
ところでこの二人が、お粂を種にして、一狂言書いたには、なかなか面白い
――まだ興行の
今思い合せると、あれが、伊兵衛か馬春堂であったものと見える。
その翌日一本の手紙が
お前を殺そうと狙ッている者が、毎日小屋へまぎれ込んでいる。日本左衛門の手下千束 の稲吉と五、六人の子分だ。わしと伊兵衛でそれとなく邪魔をしているが、お前の方でも気をつけるがいい。委細はそのうち。
頓首 再拝
こんな調子に書いてある。注告のしてが馬春堂なので、お粂も半信半疑でしたが、日本左衛門がという一点が何しろ気味わるく思われて、その日から人知れず衣裳の下にも真綿の肌着をきこみ、太夫の部屋から小屋への往復にも、充分警戒を怠らなかったのです。
で、千束組の暗殺の手もつけ入る隙がない上に、見物を装って小屋へ紛れこんでみても、いつも伊兵衛と馬春堂がそれとなく見張っているので、とうとう千秋楽の日に、投げ短刀の放れ技で、満目
「だが、ばかにしていやがる、命の恩人を下座敷に置き忘れておいて、お粂のやつはいつまで何をしているんだ」
やがて馬春堂は、
「アアこれこれ、女中ども、女中ども」
と、野暮にぽんぽん手を鳴らしました。
「おい、よせよせ馬春堂」
「何がよせだ、お粂がここへ挨拶に来ねえという法はない。命の恩人じゃないか、わしやお前は」
「分ったよ、分ったよ」
「一応の礼に来ないというのは怪しからん。誰のために今夜のあぶない所が無事に助かったと思う? エ? 伊兵衛」
「おれに文句をこねたッてしようがあるめえ」
「だ、だから、粂吉をここへよこせと申しているんじゃないか。太夫もへッたくれもあるものか、馬春堂先生が用があるといって来いッ。こ、こ、
と、先生は、しゃッくりをしながら呶鳴っております。
二階の大一座のくずれた頃を見計らって、
「まあ、大変な
「粂吉がごあいさつにまいりましたから、
と、伊兵衛と馬春堂の間に坐りこみました。
先生は大いにテレて、
「まあ、粂吉太夫、御座あらせられましたネ」
「ハイ、おん前に候」
――と粂吉も人を食って、
「ずいぶん久し振りだわねえ」
と、
それで、計らずもしゃッくりの止まった馬春堂は、けろりとした酔眼をお粂の姿に改めて、
「そうそう、今年の正月、水門
お粂もその時の事を思い出しておかしくなりました。当時、お粂とこの二人とは、何となく気まずい間がらでありましたが、日本左衛門とは縁が切れ、金吾のそばからは離れているお粂であってみれば、伊兵衛や馬春堂がこの女に敵意を持つ理由もなく、お粂もこの二人を目の
そこで。
冗談は冗談として、過日の注告や、今夜のことを改めて礼をいうと、馬春堂はそれですっかり虫の納まったふうですが、伊兵衛には胸に一
「なに、礼なぞには及ばねえことだが、おめえ、この先の興行を一体どうして打つつもりだい」
「この先?」
「そうよ!」と伊兵衛は
「あぶねえのはこの先だ、いろいろの事情を聞けば、日本左衛門はどうしても、おめえを殺さずにはおくまいと思う」
「それを思うと、
「しかたがねえ、蛇を食ったむくいでね」
「
「だが、今さらなんといったところで、千束の稲吉は、日本左衛門からいいつけられたところを、やり遂げるまでつけ廻すにきまッている。この川越を打ち上げて、次へ行けばその土地へ、そこで殺せなければまた次へ」
なるほど。
そういわれて見ると、今夜の無事を祝ってはいられません。――お粂は伊兵衛のことばを聞くにつれて、思わず気が沈んで来ました。
お粂の弱みを突いて、うまく話の水を向けた伊兵衛は、
「仮に日本左衛門のことがないにしても、これから先の旅先で、女ばかりで興行して歩くうちには、ずいぶん難儀が多いものだ」
と、親切顔に、うまく話を取り結ぶところへ、馬春堂もそばから
「そうとも、だから大概な小屋には、やくざな浪人の用心棒が、ひとりや二人は必ず楽屋にころがっているものだ」
「どうだいお粂、実あおれ達も、例の一件で、当分江戸から足を抜いている体だ。一ツその用心棒格で、おめえの一座を見てやろうじゃないか」
「よかろう、それは是非ともそうありたいものだて」
と、馬春堂は自分が相談をうけているようにのみこんで、
「さしずめ、馬春堂先生を軍師とし、伊兵衛を旗本として連れてあるけば、嵐粂吉の一座も天下に怖いものなしじゃないか。――なあに、場合によれば、わしが木戸へ坐り、伊兵衛がお手の物の笛ぐらいは吹くさ」
――などとしきりに打ち
とやかくして、次の興行地へ旅立つ支度をしている間に、川越の景気を聞き伝えて、例のいかもの部屋の太夫元へ、粂吉一座を買いに来る地方の飛脚が
いつのまにか、粂吉の番頭とも用心棒ともつかず部屋へころがり込んだ馬春堂と伊兵衛が、何のかのと、それらの相談にも口を出して、やっと取り極めたのが甲府で十日百七十両三
「田舎にしちゃ思い切って気張った方だ、どうです、ここへ一つ乗り込んでは」
と、話が極まッて、途中二、三ヵ所の宿場で打つ安い興行も引きうけ、一座はそれから甲州路を諏訪あたりから上田辺まで打ち廻って、中仙道をグルリと廻って来る方針と
そこで。
一座は粂吉を初めとして、番頭格の馬春堂、用心棒の道中師の伊兵衛、若い娘芸人や
鷹の羽くずしの衣裳つづらを小荷駄の背中にのせて、お粂は例の
わずかなうちに、武蔵野の草もめッきりとのびている。
行くてにあたる甲州の山と
やがてこの一
それは。
一番初めに馬春堂が見つけたので、
「あれ……?」
と、一同に指さしたのが初まりで、みんな等しく足を止めて、その女に小手を
若い娘です。距離があるので、
娘は一頭の白馬に乗って、手に、
「――なんてえお
と、さすが、ばくれん女のそろっている小屋者の女も男も、あきれ顔に見送って、しばしの汗ばみを忘れています。
それから、またボツボツと馬の鈴と人の足が前へ進み出してから、お粂はたれに話すともなく、
「あれはね、たしか高麗村の
そういって、あとは無口になりました。
馬の背にあるお粂の心には、いつか月江と金吾のことが胸苦しく考えられているふうです。
野心家でそして野人的な、
「久米之丞殿。……お留守ですか。久米之丞殿」
門の跡はあるが門の扉はない。
元より門番とか用人とかいう使用人も家族もない屋敷なので、男はずかずかと裏庭へ廻って行って、
「お留守でござるか、久米之丞殿、関殿」
と、
――と、やっとその声を聞きつけたらしく、久米之丞の姿が庭の奥で、
「やあ」
と、いいながら
「やあ」
と、こっちも同じ言葉を返して、
「そんな所においでになったのか、何をしておられるので?」
と遠慮なく寄って行く様子です。
男は
「おや、これはめずらしい」
高麗村郷士の男は、そこへ近づいてゆくと彼の手にある鍬と彼の顔とを見くらべて、
「あなたが庭木いじりをなさるなんて、かつて見たこともないのに、一体、どういう加減で土いじりなぞをお初めなさるか」
「ばかにしてはいかんよ――」と久米之丞は、あの物慾満々な大きな鼻を笑い広げて、
「拙者だって、そう
「そうですな、そういえばこのお住居なぞは、実に風流きわまるものでござる。しかし、鍬を持って土を返している久米之丞殿の姿を拝んだのは、何せ今日初めてなので、ちょッとばかり異様に感じた次第でござる……。で、何をお植えなさるので?」
「草花の
「へえ、草花の土床を?」
「そういちいち驚く顔をいたすなよ」
「いや何、まことに、しおらしいお慰みと存じます。ですが、草花の
「そうかな」
「そうかなは心細い。それで何をお
「異国の草花、
「なるほど、異国の草では、種子の季節もよく分りますまい」
「まず、一、二度は、どうせしくじるものと覚悟している」
「鶏血草とは珍しい名前ですな、して、そんな、種子をどういう所からお手に入れなすッたので」
「うるさいなあ」
と、久米之丞は鍬を置いて、
「こっちの
「オオ」
と、郷士の男は頭をかいて、
「失礼失礼、すッかりいうのを忘れました。実は、突然ここへ急いでまいったのは、かねて御隠家様のおいいつけで、見つけ次第に持って来いと命じられている、例の
「なあんだ、夜光の短刀の方じゃないのか」
「はい、その方は、とても一朝一夕には」
「そうだ、そうたやすく
「今日、何気なく、八王子の宿まで参りましたせつ、意外なことを耳にしたので、何より久米之丞殿に、早速お知らせした方がよかろうと考えて伺いました」
「ウム、次郎の
「――と申す次第でもございませんが」
「くどいな話が。……分りよく手短にいってくれ」
「ある女が、それを持って、八王子の千人町へあらわれたのでござる」
「さては、鍛冶小屋に泊まったあの女が……」
といいながら久米之丞は、ブーンと来た熊ン蜂に顔をしかめて、手裏剣をかわすように顔を横にしました。
その郷士の話に依りますと。
鬼女の
近ごろ、関久米之丞は
「よろしい、早速行って調べて見よう」
奥へはいって行ったかと思うと、やがて、裾べりの着いた
「千人町の
「あの町通りに、土蔵造りでただ一軒の質屋でございますから、すぐに分るはずで」
「そうか」
と
「暑そうだな、今日は」と、雲の峰を仰ぎながらいう。
縁の隅にあった
「じゃ、御隠家の
「承知しました」
そして、水口の前を通る時、
「
と薄暗い勝手のなかへ呶鳴る。
「あら!」
その出会いがしらです。
銀毛の馬からヒラリと降りて、その門柱へ手綱をつないでいた下げ髪の娘が、明るい声で彼の前に立ちました。
「やあ、月江様で」
「久米之丞」
「は」
「何処かへ出かけるところと見えるのね。じゃ、また来ましょう」
「暫く、暫く」
と、久米之丞はあわてて、
「出かけると申したところで、さして、急ぐ程の事でもござらん。ま、ま、どうぞ暫く御休息を」
「いいえ、私もべつに、用があって来たわけでもないのだから」
と月江は、ふさふさした黒髪を指ですいて、毛の根に沁みる涼風に眼を細めています。
久米之丞は、ふと、その眼元にウットリと気を
「まあ
「そうかい」
と、月江の方には、さっぱり感激がなく、
「どうしたのだろう……私も、ほんとに困ってしまった」
「何がそんなにお困りでござるか。それ程のおなやみを、この久米之丞にお話がないなんて、お恨みに存じます」
「じゃ、お前も探してくれればいいのに」
「でも何事か分りませんもの」
「しらばッくれて、だから、お前は嫌いです」
と、手きびしく悪たれをいって、ツンと横を向きました。
「……ははあ、分りました。次郎のことでございますな。次郎をお探し遊ばしているので。それは内々、手前も心配いたしているところですよ。え、お嬢様」
「嘘をおいい! お前は次郎なんか死んでも帰らなくってもいいものだと思っているのにちがいない」
「毛頭そんな考えではござらん。その証拠には、オオ、今も今とて、これから八王子まで参ろうとしているではございませぬか」
月江は少し機嫌を直して、
「え、次郎が八王子に居たッてかえ?」
「いいえ、そうじゃございませぬが、その、
――なんだ、つまらない! という風に、月江は

「それがどうしたのさ……」
「物には順序がござりましょう、まず、次郎の
月江は、不意に、元の馬の鞍へ飛び乗って、
「久米之丞や、私も、一緒にそこへ行って見ましょう」
突然なので、彼もあわてながら、
「え、八王子へ」
「次郎の為になることだもの、不親切なお前にまかせておいては
「ひどいことを仰っしゃる!」
「案内をしておくれ!」
ピシッと萩の鞭が鵈る。
と、同時に、黒髪と両の袖が風に浮いてうしろへ
驚いたのは久米之丞です。案内をしろといっても、一方は逸足の駒、こっちは
「月江様! 月江様! もしお嬢様」
手を振りながら馬上の人を追って、汗みどろに炎天の立川の河原まで引きずられて行くのでした。
灯ともし頃の八王子の町を、下げ髪の美女が銀毛の駒に乗り、その供として
しかもその駒が、千人町の
まさか妙齢の
「これ、召使いども、当家の亭主が居たらこれへ出してくれ、拙者は
こんな所へ来てまでも、野侍を
で、黙ってそばに腰掛けていますと、
「番頭、これ、亭主は居るのか居ないのか」
と、久米之丞はいよいよ月江の嫌いな
「少々取りただしたい儀があって、わざわざ
「只今。……ええ只今主人に申し告げておりますから、少々これにて」
何の用事かと驚いているらしい手代や小僧が、しきりに敷物をすすめ
まもなく、それへ来た田能平の主人。
すぐ
「なるほど、仰っしゃるとおり、ちょうど今日の
「して、当家へ参った用向きは?」
「やはり、その質物の御用でございました。……
「ふーむ、妙な事をして行ったな」
「それがその……嘘か
久米之丞は心のうちで、もうてッきり
「して亭主。その節、衣類などのほかに、何かまた別な品物を質入れいたしはせぬか、その女が」
「と申しますと? ……どんな品物でございますな」
「されば、ここにおられるお嬢様のお屋敷から、
「仮面?」
と、亭主はびッくりした顔をして、
「そういうお品物は、お預かりも致しておりませんし、その節お召し
「そんなはずはない」と、久米之丞は頑張って――「確かにその女が所持していたに違いないが」
「はて、ではたれか店の衆のうちで、それを見た者はありませんか」
と手代に聞いていると、ひとりの
「旦那さん、いってもかまわないんですか」
「いいとも。わしが正直にお答え申しているのに、何をかくし立てする事があるものか」
「じゃ、いいますけれど、その鬼女の
「ほんとか」
「嘘なンかいやしません。着物を
「それだ! まぎれもない
と、久米之丞が
――というのは、最前から、店先へのッそりとはいっていた編笠の侍が、笠のまま、ふところから一個の
「おい、これで二
と、手代の前へポンと抛り出したので、その
刀の
「ところで、亭主」
「はい」
「もう一つ聞き置くが、その怪しげな女は、当家で
――店先では、編笠の浪人が、
「そういえば、店を出る時、
「ふーム、では甲州路へ向ったな」
「左様かも知れませぬ」
小仏峠へ?
――久米之丞が、じッと思案顔をしていると、店先に腰掛けていた浪人の眼も、
「いや、邪魔をしたな」
と、久米之丞が突然に立ったので、月江も一緒に敷物をすべって、
「うるさい事をたずねて、気の毒をいたしました」
「いえ、どう
と、主は店先まで送って出る。
そこの上がり
「ごめん遊ばせ」
と、月江は女らしく会釈をして、久米之丞と共に質屋の外へ出ましたが、二人がそこを出るとまもなく、浪人は、言い張っていた印籠を番頭の言い値にまけて、なにがしかの金を受け取ると、つづいて、田能平の
町は宵の
もう土蔵の
――と向うの葉柳の蔭に
(ここだ、ここだ)
というふうに手招ぎをする。
黙って、向う側へ寄って行った編笠と、待っていた
「――そうか、じゃあ今そこを出た二人は、あれから
「そうらしいよ、
「だが、
「今夜のうちに、麓の
「なるほど」
「ところで、こッちの方寸は」
「この質屋で姿を更えて行った女が、切支丹屋敷のお蝶ということが分った以上、何もあわてることはない」
「ウム、いわば袋の鼠だからな」
「
「じゃ、こッちはその上の手段とするか」
「そうよ」
と、一方の編笠は星を仰いで、
「小仏越えの道は
と、
無論、これなん日本左衛門と
川越の宿や扇町屋あたりの噂から、わずかな手がかりを得て、ここに、ようやく迷路の人――切支丹尾敷のお蝶の行く姿をみとめ、今は心にも多少、余裕があるふうです。
日本左衛門はお蝶の
時刻にすればそれとは行きちがいに、
ここは、旅をするほどの者がたれも知るとおり、甲州街道の
峠の
かかる山ですから好んで夜旅を試みる者もなく、
だのに――殊さらに宵も過ぎた時刻を計らって、この小仏へさしかかって来た女の心事こそ怪しむべき限りです。
しかも、とぼとぼと小仏へ向ってゆく姿を、星明りによく見ますと、
それは、切支丹屋敷のお蝶でした。
十九の春まで、ころびばてれんの娘として、
「水……」
喉が
氷のような冷めたい風に吹かれながら、五体は熱く、ねっとりと汗ばんでいる。――で、どこかに流れる水音を聞いて、お蝶は急に焼きつくような渇きをおぼえました。
「ああ……冷めたい……」
岩根の流れをすくって、お蝶は初めて山の肌と同じ寒さをおぼえたように、ぶるッと、身をふるわしたようでした。
でも、まだ後ろを
「とても、今夜のうちには越えられそうもない」
お蝶も今はそう思うのでした。
また、そうしてまで、道を急がなければならない理由も彼女にはありません。
では、何で、ふつうの旅人も大事をとる山越えに、夜を選んで来たかというと、それはむしろお蝶には安心な方法で、彼女の旅は、昼よりも夜こそ
人は夜を怖れますが、お蝶は昼が怖ろしい。
それよりも、むしろ夜の旅こそ、お蝶にとっては気楽でした。また生来十二、三の少女の頃から、お蝶は、人のように夜を気味わるがらない
とにかく、お蝶はそうして、甲府へ行こうとしています。
「甲府へゆけば、小さい時、私に乳を飲ませてくれた
そんな、おぼろげな目あてです。しかし、彼女の本心をのぞいて見ると、その乳母をしたって行く目的よりも、江戸を離れよう、江戸から遠くへ身をかくそう――そうしたものに、追われる気持に、追われて歩いているのです。
――やがて、少し道が胸突きになる。
お蝶の歩く星の下はいよいよ暗く、いよいよ
「オオ――イ、オウ――イ」
遙か下から、
彼女は、ふと足を止めて、
「……私を呼ぶのかしら?」
騒ぎもせず、そういって後ろの谷をのぞきましたが、その時見ると、薄化粧のお蝶の顔は、いつか、
お蝶は暫く立ちすくみました。
しかし、耳のせいか、べつな者を呼ぶのであったか、程なくその声もかき消えて、足元の
で――彼女はまた小仏の上へ向って、そのまま歩き出しました。
肉眼に見えぬ夜の空も、絶えず動いているものとみえまして、麓あたりでは
何となく、お蝶は胸に思いました。
「ああ、今年の
去年の星祭りには、七夕の歌を書いて、あの
その父も、今は天国とやらに帰ってしまった。――あるいは、その
「お
空を仰いだ般若は胸で
「ゆるして下さい、お父さん。――とてもお蝶には、あなたが最期の時に仰っしゃった、夜光の短刀なんて、探し出す力はございません。……オオ怖い星の目! お父さん、あなたは私を睨みますか」
小仏の夜路もこわいとは思わないお蝶が、なぜか、ぶるぶると足をふるわせて、
「睨まないで下さい、お父さん。……だって私は
夜は一足ごとに深まります。
聞く人もないと思うもの故、遂には、思わず、独りごとの声に出て、歩みつ仰ぎつ、髪そよがせた
しかし。
たれが彼女の泣き声に答えましょう。たれが彼女の訴えに正しい裁きを聞かせましょう。
風と足。
天地はそれあるばかりです。
シュクッ、シュクッ……と般若が泣く。
この仮の顔は、彼女が武蔵野の草深い所から、夜旅をつづけて来た唯一の護りでありました。昼は宿に寝、夜ばかり歩く若い女の身を、無事に護ってくれたのはこの鬼女の
野路、山路、あるいは真っ暗な松並木で、

――その後、
さて。
そうしてお蝶が峠の二合目あたりを辿って行くうち、
影をかぞえると、三人か、四人。
それは、宵に若い女の夜立ちを見つけて、幸運の抬い物でもしたように、
「ほい、また
「どッちへ行きやがったろうか」
「女の足だ、先は
などと、
ですが、彼等にしてみれば、この小仏の日ごとに往復している帳場なので、難路も一
お蝶は、最前下の方でオ――イという声を確かに耳にしましたが、まさか、そんな女肉の
しかし、いつまた、忽然と物騒な男に会わない限りもないので、例の
「あ、ここが小仏の石地蔵かしら? ……」
ふと見ますに、そこに一
けれど、峰の地蔵にしては、ここはまだ、四、五丁の胸突きを越えたばかりの小平地で、小仏岩までの峠道二十六丁、中の茶屋までの十二丁も前に残っておりますから、
そこへ、お蝶は足を止めました。
実はもう足もかなり疲れたので、この経塚に夜を明かし、また
まあ少し休んで、夜の白む頃までに、甘酒茶屋のある所まで行き着こう。あすこには、気の
「それにしても、その甘酒茶屋まで、もう何丁あるのかしら……?」
堂の縁に腰を下して、上の方を振仰ぎました時、何かパラパラと彼女の顔に音がしました。――
被ってみると、それは、堂の
千魂塚――
墨黒く、筆太くそう書いてある。三ツの大字が、あざやかな模様の如く、
すると――その時、何処かでガサゴソと木を分けて来る人の
三、四人の人声と知った様子です。
「誰だろう?」
お蝶の神経は
とこうするまに、いよいよ荒くれな男どもの声が、すぐその辺まで近寄って来たので、彼女は腹をすえて、白麻の
「おう、居たぜ」
と、うしろの仲間を誘いながら、のッそりと、そこに立ったのは最前の
胸毛をザラザラさせた大の男が三人、いやしげな笑みを交わしながら、堂の
「おい、娘さん――」
そのうちに中の一人が猫なで声で、
「さっきからおれ達が、あんなに呼んでいるのに、聞こえなかったかい?」
と、三方から、薄気味わるく寄って来ました。
――お蝶は頭から白麻の
で――
「ハハア、娘さん、様子を見るにおめえは、ただの町人の御息女じゃありませんね。道理で、女ながらも
と、甲の
「それにゃあまた、やむにやまれない、深い事情があるんだろうさ。どうせおめえ、ただの身の上でねえ事は分っていら」
「なるほど、さもなければ、こんな峠を、若い女が夜歩きする訳もねえはずだな」
「エエおい。可哀そうじゃねえか、この先、何処へ行くのか知らねえが、事情を聞いておれ達が、この
「そうだとも、こんな姿をして、五街道のうちで一番物騒だというこの甲州路を歩いてみや、
と、丙の男がそろそろとお蝶の体へ近寄って、膝の上の白い手へ
「オヤ」
と、そこで狼連は予定のごとく腕を
「この
「おれ達は、この小仏を帳場にしている悪玉ぞろいの人足だ、それに見込みをつけられた以上、どう騒いだところで追ッつかねえんだから、
ひとりが突然、お蝶の
――最後が来ました。こういう男どもの強迫に出会うと、
元より、貪慾好色なあぶれ者は、思いがけなく小仏の
彼女の身に危機は迫ッているのです。悪玉の毒気と爪は、すでに、手足にかかっています。
アレ――ッ!
当然、そういう悲鳴のあるべき場合を、お蝶は静かに左右の太い腕をもぎ離して、
「あら、何をするの、くすぐッたい!」
口程にもない悪玉三人、何に胆をつぶしたか、道もえらまず千
誰がつけたかこの山では、その建物を
で――今ではその下頭小屋が、乞食の願望どおり小仏唯一の
下頭の光また偉大なるかなです。
けれど善根のものもこの
こんもりした沢の低地に、その下頭小屋の灯がもれて見える。果たして、今夜のお客様は、それらのうちの何の種類か?
「おや、誰か来たぜ」
と、
見ると、そこに泊まっているのは雑多です。グッタリと荒壁にもたれて何か考えている旅の男、片隅に首を寄せて、銭の音をさせているこの峠の荷持や馬子、
「おお、駆けて来る」
その多種多様な首がヒョイと上がった時と、入口の戸が、勢いよくがらッとひびいたのが同時であります。
「やあ、
なかで顔なじみの者が、一斉にこういうと、飛び込んで来た三人の男は、雪に吹ッ込まれたように後を閉めて、
「オオひどい目に会った」
と、顔なじみの仲間に割り込んでくる。
「どうしたんだい今頃」
「どうもこうもあったもんか、……ああ驚いた、
と、三人が三人とも、口を合せて顔色を変えているさま、ただ事ならず思われましたので、
すると、毎日同じ帳場で
「よせやい、悪い事にかけては、名うてなおめえ達が、人並に胆をつぶしたなんていったッて、だれが真顔にうけるものか」
「ところが、その悪玉のおれ達が、キャッと悲鳴をあげて来たんだから話はすごいや」
「ヘエ、ほんとかい?」
「嘘だと思ったら、だれでもいい、この上の千魂塚まで行って見ねえ」
「そこに、何が居るッていうのか」
「女よ! しかも素敵に美しい」
「野郎、いよいよ人の退屈をなぐさみに来やがッたな」
「どうして、話は本筋だ、まあそう茶化さずに聞きねえッてことよ。――実はというと、こッちの
「なるほど……」
「で、誰だって、
「もっと、悪党らしく話してしまえよ」
「ウム、そこで三人が、ちょっとおどし文句をならべて、そろそろ側へ寄って行ったが、返辞もしなければ、逃げもしねえ、おや、こいつは、年にしては……と飛びつくと、どうだろう……」
「どうした?」
「ゲラゲラッと笑ったものだ」
「えっ、笑った?」
「あら、くすぐッたい――、そう言ったような気がしたので、ヒョイと娘の顔を見ると、真ッ青なんだ、その顔がよ。――口は耳まで裂けているし、眼は百
こう
すると、片隅に
ふと、身を起こしかけて、そら寝入りをしていたその男は、千魂塚から飛んで来たならず者どもがあまり自慢にもならないしくじりを、さも怪奇きわまる事のように
で、三人の
いくら小仏だって、今の世に、そんな妖怪や
いや、そうじゃない――とまたそれに反説をかつぐ者もあって、狐だろう、狸の
また一人の旅の坊さんは、すべての俗説をしからずとなしてこう言う。
――それは木の精でも妖獣の
「いやだぜ坊さん――」と一座が襟すじを寒くしていますと、片隅に
「もし、その千魂塚とやらは、これからだいぶ先でございましょうか」
と、初めて、明りの届く所へ顔をあらわしました。
「や、お前さんは、大山から
「左様でござります」
「今頃に、千魂塚の道なんぞ聞いてどうするつもりだね」
「いや、にわかに急用を思いつきましたので、これから峠を越えたいと存じますが、今のお話に気味が悪く、そこを避けて行きたいと存じますので」
「やれやれそいつは大変だ、どんな急用があるのか知らないが、夜が明けてからにしたらどうだい」
折も折なので、しきりと止める者もありましたが、若い行人は身支度をして、教えられた間道から小原へ越えると言って、まもなく、ただ一人で
よせばいいのに。
さだめし後では下頭小屋でそう言っていましょう。一歩、
しかし、やがてだらだらと上へ
それから沢を向うに渡って、狭い道を流れに沿って行けば、小仏の裏道、例の千魂塚の前を通らずに、甘酒茶屋の先に出る――と下頭小屋で聞いて来たはずなのに、その男は、敢て、右手の登りへかかりました。
小仏越えの本道、星影のつづら折りを
彼はそこに立って、あたりの暗を見廻しました。
四
「はてな? ……」
ゆうべ、下頭小屋で夜を明かした連中は、今朝もまだ、千魂塚の話でもちきりながら、ぞろぞろと
その人々と別れて、一人スタスタと急ぎ足に帰って来た
「お早いお立ちでございますな」
と、声をかける。
それに振向いたのは、ゆうべ
「お、宿の男か。昨夜は遅く着いて、いろいろと世話であった」
「どういたしまして、私はあれから、
「そちが、あの刻限の頃から用達に行くようでは、この小仏も、大した
「ところが、どうして、馴れておりますから夜でも歩くようなものの、ふつう、旅のお方には決して楽な山ではございません。――それに、昼ならまだよろしゅうございますが、ゆうべもこんな事がございまして……」
と、問わず語りに、ここでもまた、千魂塚の怪女のことを立ち話に持ち出しますと、久米之丞と月江とは、ほくそ笑みを見合して、ひそかに目と目でうなずきました。
しかし、
「お嬢様、今の話の様子では、あの女もまだ遠くには参っておらぬようでござる」
「今日いッぱい、足を早めて行ったならば、追いつけるかも知れないね」
「ただ、この嶮しい道を、あなた様のそのお優しい足で歩かせるかと思うと、久米之丞は負ぶってでも上げたいように思います」
「久米之丞。よして下さい」
「なにが?」
「お前がそんなに側へ寄って歩くと、人が、
「いいではございませんか。お嬢様。どうせ馬方や荷持などは、とかく口の悪いもの故、そんなことを気になされていては、道中を歩くことはできません」
「お前は、私のあとから離れてお歩き。……いいえ、もっと、もっと後から――」
と、月江はぐんぐん先に出る。
彼女の乗り馴れた銀毛の駒も、この小仏越えには
下頭小屋にたどり着いた時、そこで、接待の麦湯をもらいながら、手代から聞いた千魂塚の真相を、なおもよく聞きたいと思いましたが、もうゆうべの者は一人も足を止めていないので、そんな噂を知る者もありません。
汗をぬぐい、食事をととのえ、やがてそこを出たのが
「ああ、山はいいね、こんな道を、秋の落葉が落ちる頃、お
鳥の声を仰ぎ、清水のせせらぎをのぞいて、ひとりでこんな事を呟いて行くくせに、久米之丞には一言も話しかけない。
道連れもなく、一人で歩いているような月江の様子です。けれど、久米之丞はもうそれに大した不平も抱いていない。彼もまた、一人旅の味気なさをつづけるものの如く、月江のうしろ姿に
一歩一歩、山は
程なく月江は、路傍の
それを眺めて、急に休みたくなりましたが、横手の
道は、また暫く平地になってくる。
頼む木蔭もあらば休みたいがと思っていますと、うしろの方で、
「痛い」
と、久米之丞の声がしました。
振向いてみると、彼は、片足を抱えたなり、
「久米之丞、どうかしたのかえ?」
足を戻してゆきますと、彼は、顔をしかめながら、
「石につまずいて、
「おや、それは困ったねえ」
「どうも痛くって、意地にも我慢にも歩けませぬ。おそれ入りますが、
「じゃ、私がそこを
気前よく、
「あれ、勿体ない」
と、
「何をするのッ」
「いい見晴らしではございませぬか。少しここで休みましょう。折から、前にも後ろにも、ちょうど人影が絶えている」
「嘘を言ッたんですね――生爪を剥がしたなんて」
「この長い峠を登るうち、
「……お放しッ、この手を」
「いえ、放しますまい。……麓の宿屋で、ゆうべも拙者があんなに申した
「返辞? ……」
「またあんなに空とぼけておいでなさる」
「お前こそ、よい程にたしなむがいい、
「ああ、お言いつけなさいまし。――夜光の短刀を見出した時は、晴れて添わせてやるぞとは、千蛾老人も御承知のおことば」
「知らない、知らない! 誰がお前などに!」
「いくらそッちで嫌っても、老人の
「よして下さいッ、けがらわしい」
「ふン。けがらわしい? ……」
「お放しッ」
やにわに、月江が爪を立てると、久米之丞は苦もなく
「やかましいッ、声を立てるな」
野獣の野性をあらわして、彼女の体をかかえ込みます。
胸のムカつくような体臭が、彼女の呼吸を圧しました。月江は
久米之丞はもう盲目です、情炎の
――月江は声かぎり人を呼ぶ。
逃げては捕まり、起きては引きずり倒される。ああ、誰かここへ来てくれないか、ここへ来てこのいやらしい奴を
彼女はまた、久米之丞に組み敷かれながら、目を閉じて念じましたが、高麗村郷士きっての
でも、二、三度は、必死に男を跳ね返し、あるいは投げつかわしつして、逃げられるだけ逃げのびましたが、のがれて行く先は
「次郎――次郎や――ッ」
疎林をつんざく月江の声。
ここで次郎の名をよんでも、次郎が救いに来るわけはありませんが、彼さえ居たらば――と思う念がせっぱつまッて、思わずそう呼ばせたものでありましょう。
「月江ッ、月江ッ」
久米之丞は呶鳴りながら、逃げ廻る彼女を追って、疎林のうちを駆けめぐっていましたが、もう見得も外聞もない情炎の獣に、なんの仮借がありましょうか、
「うぬッ」
と、うしろから
片手に喉を
瞬間、死ぬか――と思われた程、月江の顔色がサッと白く変りましたが、彼女の必死な手はここを最後と念じて、帯の間の懐剣を、肩の後ろへひらめかせる。
不意を食った久米之丞は、
「あっ」
と、彼女の体を突き放して、その途端に、
「ちッ、女と思って、よいほどにしておけば、よくも生意気な腕立てをしおッたな。おのれ、どうするか見ておれよ」
言うなり腰の
月江も三日月
――それにひきかえて月江の方は、もう血色も呼吸も苦しげに迫っている。ねッとりと執念ぶかい男の刃は、かくて一寸二寸と彼女をうしろへ追いつめました。
(あっ! ……もう駄目だ……)
はッと驚いた久米之丞が、刀を引いて、飛びつこうとしたはずみに、その短剣は飛魚の如く、おのれの素面へ風を切って来ました。
あぶなく顔の真ン中に穴のあくところを、身をかわした久米之丞が、ふと見ると月江はもう
「ちッ、畜生、逃してなるものか」
疎林を抜けた途端です。
引ッつかまれた帯の端に、それが解けて、月江の体がくるくると無残に廻って倒れたかと思いますと、――どどどどッ――と足元の土が地崩れのようにメリ込んで、
「おっ!」
と、久米之丞も、
「アア、あぶねえところ……」
思わずホッとつくため息。
人間の心の機微、必ずやその時は、獣情に燃えていた久米之丞も、冷やりとするのと一緒に、命びろいをしてまア好かった――と思ったことは思ったでしょう。
が――気がついてみますに、そのよろこびもホンのつかの間。かんじんな、月江の姿が消えている……。
あっ、谷底へ。
一道の赤土が、岩の肌や
「しまッた!」
と、初めて、心の底から出た彼の舌打ちが、いかにも
それさえあるに、途中の木の枝にからまっている月江の帯を、茫然、自失のていで、ぼんやりと見つめている彼のうしろから、
「久米之丞! こッちを向け」
と、人をばかにした人間の声がしました。
そういう人を
「えっ!」
と、思わず彼がうしろを向いた途端に、
「間抜けッ」
と、叱りつけるような一喝。
あっ――とかわそうとしたが、後ろは谷です。と言って、前から風を切って来たのは、相手の
「あ――何者ッ」
久米之丞は、その無鉄砲な抜き討ちをかわして、さッと、横ざまに飛び
「人違いするなッ、人違いを!」
と相手を確かめようとしましたが、さらに烈しい二
ぜひなく――久米之丞はまったくぜひなく、太刀を取り直して斬り合いましたが、心は月江の落ちた谷底にとらわれていて、必死な反抗も持ち得ないのであります。
で、自然と受身になりながら、
「人違いであろう、拙者は武蔵野の
と、言い訳に似たことばを続けざまに叫んでいましたが、事面倒と思ったか、今まで手ぶらで眺めていた相手の連れらしい
「やかましいッ」
斬った男は、いつのまにか、岩の根に腰をおろして、両手に頬杖をかいながら、
「――可哀そうなことをしたな、折角、いい夢を見ていたのに」
相手に立った一方の者が、こんな事をつぶやきながら、死骸を谷間へ蹴落とそうとすると、
「あ――待ちねえ」
ふたたび編笠が腰を立って、
「念の為だ……」
と、前後を見ながら顎をすくう。
「ウ、なるほど」
頷いて、そこに、しゃがみ込んだのは
八王子千人町の夕暗から、絶えず、この二人が
「金右衛門、何かあったか」
と、日本左衛門がそれに振向くと、
「ウム……小銭のはいっている紙入れが一つ」
返辞はしません。
日本左衛門はただ
金右衛門は死骸から取り上げた幾つもの品のうちから、その紙入れを
「――
と、それも抛り捨てながら自問自答に、
「懐紙、銀ぎせる、
「どれ」
と、初めて日本左衛門が手を出しました。
それは、ほんの心覚えだけに、久米之丞が懐紙へ書きつけておいたものらしく、
こんな意味も連絡もない端的な文字が、墨色もその時さまざまに
「あっ、しまッた事を……」
「なぜ?」
と、金右衛門は不思議な顔でした。
「あいつを生かして置けば、何か手懸りがあったに違いないものを、こりゃ少し
と、日本左衛門は、その書き散らしの懐紙を紙入れのなかに畳み込んで、
「そうだ、せめて月江という女をこの谷底に探してみよう。事によったら、助かっていまいものでもない」
先に立って、谷間へ下る道をたずね、わずかに猟師の通うらしい一筋の道を見つけ、岩藤の根を足がかりに、絶壁を下へ降りて行く……。
昨夜以来、日本左衛門がそっと久米之丞を
で――生かして置くのに――とあとで後悔をしたわけでありますが、この上は、一方の月江を探してたずねたら、また何かそれについていい手懸りがないとも限らぬ。
こういう
本来、この
断崖の途中まで降りてくると、金右衛門が
「お、ここに、さっきの女の帯が引っ
と示しました。
「じゃ、月江は、いったんこの辺で止まってすべり落ちて行ったとみえる」
「そうさ、この這い松に帯を取られて……」
「そこから下の方に、倒れている姿が見えないか?」
「見えない」――と金右衛門は谷底へ手をかざして、
「まだまだとても下までには
「谷河の水音がする……」
「ウム、遠雷のように」
「うまく、水の上に落ちていれば助かるだろうが」
「おッと、兄貴」
「どうした、金右衛門」
「お
「なに、行き止まりだ? ……そいつは都合が悪いな。こんな所を曲りくねりして降りて行くと、どの辺に月江が落ちているか、谷へ降りてから見当をつけるにまた一骨折りをしなけりゃならねえ」
「――といって、その這い松から下の崖は、まるで、
「じゃしかたがねえ、我を折って、ほかの道を探すとしよう。だが金右衛門、今もいったとおり、下へ着いてから見当がつかねえから、その帯を丸めて、ここから真っ下へ投げておいてくれ」
「帯をか?」
「そうだ」
「目印にだな?」
「ちょうど
「なるほど、そいつは妙案だ。西陣だが浮織だが知らねえが、このあでやかな女の帯を、谷底へ
「だが、途中で風に
「おっ、心得た」
と金右衛門は、断崖の
無風状態のようでいて、絶えず底から吹き上げている渓谷の冷風。
――途中からサッとなびいて、一筋に長く解けた女の帯は、色鳥の尾か、雲から捨てた
しかるに、その時です。
小仏の峰を裂いて西へ落ちる星影川の渓流に沿うて、しきりと、人でも探すように歩いていた
「おや、何だろう」
行者笠とよぶ
見ていると――帯は長く尾を
なんと、美しい謎。
いたずらにしては風流すぎる。
と、思いながら、白ずくめの行人姿は、しばらく
ゆうべ
「はて……あれは?」
女、女、女、女――と胸に
金吾にとっては、実際、妙な心地がしたでしょう。
彼の目には、実際、妙な謎とも見えたでしょう。そして、これは何か、人智を
しかし、いくら見直しても、その歴然たることは、若い女の帯であることです。
「不思議な? ……」
幾度も同じ思案をつぶやきながら、その一端に手をかけて、ズルッと引いてみますと、帯は
峰から笠が飛んで来たとか、人が落ちて来たとかいうなら、まだ椿事とするに足らないけれど、女の帯だけが? ……人は見えずに帯だけが? ……
彼にはどうしても分りません。帯の依って起るいわれとこの結果の間が少しも想像がつかない。
そこで、何の目的もなく、いったん手に丸めた帯を木の根において、そのままそこを立ち去ろうとしましたが、またふと、何か去りがてな魅力があって、帯が自分を呼び止める気がする。
いよいよおかしい。
金吾はその帯を疑うよりも自分の心を疑って来ました。――帯が自分を呼ぶ? そんな
ですが、どうも、それにうしろ髪を引かれる気がしてならないのを、深山に起るあぶない心の錯覚として、邪気を払うように、杖を取り直してスタスタと立ち去りました。
それは、金吾の理性として、いつも
なぜかといいますと――金吾が自分の気のせいだと思い消したのは、その心こそすでに疑心の霧にくるまれていた証拠で、事実、木の根においた女の帯は、一度ならず二度も三度も、彼を呼んでいたのであります。
いや、帯が金吾を呼び止めたといってはいいようが悪いとすれば、置かれた帯の近くに倒れていた者が、彼を呼んだといい直しましょう。
その喬木の根から渓流の水ぎわへ、だらだら下がりになっている草むらが、三尺ばかりくぼんでいる。
のぞいて見るとその中に仆れている人間です。……まだかすかな
彼女は、
一歩、ああまことにただ一歩、金吾がそこへ近寄って行ったならば、
知らぬとはいえ、なんとすげない、去り行く彼の姿。
ひとり、渓流のほとりに、月江は苦しげな息でした。死なんとする虫の姿でした。
一方。
日本左衛門と金右衛門の二人は、かなり降りた崖の中腹から這い上がって、いったん元の所へ引っ返すよりほかに道がなかったのです。
「なんだ、御苦労様な」
「いまいましい、何処か、降りる道がありそうなものじゃねえか」
そこで腕ぐみをしながら、未練に谷間を眺めていますと、山馴れた足どりで、二人のうしろを通りすがった者があるので、
「おう、町人」
金右衛門がよび止めて、
「そちはこの
歩調を共にしながら訊きますと、男は簡単に、これから七、八町行った先の
そしてなお、
「して、そちはこれから何処へ参るのか」
「へい、峠の甘酒茶屋へ参りますので」
「甘酒茶屋というのは?」
「中の峠を越えたその先の
「そうか。それでは、いずれその時に礼をするぞ」
「どういたしまして。じゃ、お気をつけなすって」
「御苦労だった。ここを左に降りるのだな?」
男の話した、虚無僧兄弟の血のような赤い
ここも、前の道と変わらない
しかし、降りても降りても羊腸として尽きないところは、さっきの行き止まりと違って、こんどこそ見込みがある。
「おう、だいぶ谷間らしくなって来たな」
と、日本左衛門は笠を上げて、紺碧な空を井戸の底からのぞくように見上げました。
「水音が近いぜ」
「星影川だ」
「ううム、さすがに此処まで来るとゾッとするように涼しい……。お、兄弟、河があった、河が……」
「は、は、は、は。おめえのような悪党も、こういう所を迷い歩くと、子供みてえになるから
「なぜ?」
「何も、河があったッて、そう珍しいことじゃあるめえ」
笑いながらその渓流の水層岩に身を立てた時、初めて、小仏全山の
「さあて、これからまた、今度はこの上流へ七、八町逆もどりだな」
「そうだ。しかし、帯はすぐ見つかるだろう」
「やはり、ああしておいてよかったな」
「や、兄貴!」
「なんだ」
「だれか向う岸へ来る様子じゃねえか」
と、金右衛門が小腰をかがめて、渓流の対岸に見える
ここに道がある以上、ここを通る人のあることも当然ですが、暗緑な谷の
「おお、あれか。……滝があるな、この
「どうして」
「山に籠って、水
「なるほど。……では、あいつが行き過ぎるまで、ちょっと一服していようか」
「よかろう」
あの高い所から、一気に降りて来た折なので、異議に及ばず、日本左衛門も腰をおろして、カチ、カチ、と涼しい
そうして、一服吸いながら、

期せずして、奔流をなかに隔てた双者の眼は、そこでピタリと見合いました。
――すると、その刹那に、
「おう!」
と、驚いた対岸の人。
「ややッ?」
と、
ああそも、これなんらの突然。
月白き半島の千鳥ヶ浜以来、ここに再び巡り会いました。
――
しかしです。
皮肉にも、ハッと見合った双者の間には、足を入れて渡るにもよしない星影川の水が十一間の幅をもって奔流しています。
いかに仇敵の間柄でも、この奔流の水を隔てて向い合ったのでは、何ともしようがありません。
腕も及ばず、剣も届かずです。
(ウーム金吾だな! 身なりは変った装いをしているが、まぎれもない相良金吾!)
(オオ、おのれ日本左衛門)
と双方、
無言の闘争、目と目の根くらべ、いつまで果てしなく見えました。
これ以上の行動は、日本左衛門と金右衛門が、死を
だが、争闘の意気ごみというものは、そんな
で、まったく、この空気がうごくことは絶望です。
どうなる事か、精と根気にまかせて、暫くはその成行きを傍観しているよりほかに、連れの
そのうちに、眉毛もうごかさずにらみくらしていた日本左衛門が、
「わははははははは」
と、
どッかりと足元の岩に腰をおろすや、手にしていた
「おい若造!」と金吾にいうのです――
「まアそこに腰を下ろしねえ。変なところで会ったものだが、
あたかも辺りにある
むかッとしましたが、相良金吾にも、手を下してゆく方法はない。
しかし、彼のごとき複雑でない、また彼の如く横着でない、単純一徹な金吾には、対岸の哄笑に対して、同じような大声の笑いを投げ返してやることすら出来ないのでした。
まだ、衝動の紅潮を、耳のあたりに残しながら、ことば鋭く、
「ぬかすなッ、日本左衛門」
と、足をあげて蹴らんばかりの語勢です。
「人を
「なに、この激流を渡って来るのか?」
「ちッ! 待て待て」
つとめて、自制しながら、金吾はいつか吾ながら見苦しく
「金吾! 何をキョロキョロしているのだ。越えて来るなら早く来い、こっちは用事のある体、
「ばか野郎め、向う河岸で腕まくりをしていやがる。あはははは、飛んだいい
毒口を叩きながら、金右衛門も野袴の
「卑怯者、逃げるなッ」
激流の
「なにッ?」
と、
「逃げるとは、なんの寝言だ」
「では、なぜ待たぬ!」
「待つ弱みはない」
「
「だまれ。ならば、こッちへ渡って来るか」
「ウウム」と、金吾はいいづまりましたが、
「この上流に行けば、石を伝って、自由に越えられる所がある。そこまで歩け」
「オオ、
「だまれ」
金吾はいよいよ烈火になって、
「その広言は後で申せ」と、流れの
対岸の日本左衛門も金右衛門と共に、岩を避けて進みながら、
「よし、それ程死神につかれているなら、望みにまかせて討ってやろう。……だが金吾」
「多言は無用、あとのことばはこの流れを越えた上で聞こう」
「
「
「ウム、おれが尾州の
「そればかりか、この
「待て待て金吾。黙って聞いていれば、少してめえ達のいい草は勝手すぎる。そもそも、
と、相手の口吻を真似て、どこか

「――いいか、まだ先の道は三、四町あるから、
「おのれ、ぬけぬけと口をふいたそのいい訳、たとえ、
「はははは、苦情のつけように困って、こんどは、金吾個人の意気地とおいでなすッたな。――ならばかえっておれの方にこそ文句があるのだ。おい! 腰抜け武士、
「なにッ、
「おう、
「いい抜けのかなわぬところから、舌のうごき放題な暴言、おのれもう二、三町先へ歩いてみろ」
「いや、
「拙者の
「了戒ほどな名工の刀も、蔭間の腰に差されては浮かばれまい」
「うぬ、いわして置けばよい気になって、蔭間とは何事! 無駄口をたたかずに、行くところまで早く歩めッ」
「オオ、向うに狭い瀬が見えた。急いだところでもう一、二町」
「歩け、歩けッ。一刻たりとも猶予はならぬ」
「ウム、いくらでも急いでやるが、汝、主家の
「なに、不義をしたと?」
「おれが囲っておいた妾のお
「ウウム……」
と、唇をかんだ金吾は、

「どうした! 蔭間侍」
冷然と、そしてまた、鋭いものは、対岸に立った仇敵の
彼はさらに、皮肉きわまる口をひらいて、顔色蒼白となった金吾をながめながら、
「
「…………」
「おれのことばが違っているか」
「むッ……」
「犬!」
「…………」
「蔭間!」
「フウ……」
「よも、返辞はできまい。それとも、貴様の口ぐせにいう大義名分を引ッ込めて、おれを
言々句々、毒をふくむうちに明白な理をもって、

武士として、男として、かばかりの無念がありましょうか。
金吾はぶるぶると身をふるわし、
しかし、ひとたび憤念の烈火にみずから恥を感じてみれば、この際、彼に返すことばはないのです。残念とも何とも言いようがないけれど、一矢を
かなり深く、自分を理解してくれている主君や釘勘にさえ、疑惑の目をもってみられているお粂との関係を、仇たり
ああ吾あやまてり。――金吾は髪の毛をかきむしッて自分を罵りたい。
怨むべきは吾が身です。次に、今さら愚痴ですが、憎んでもあきたらぬのは、魔性の女のいたずらな恋慕――内心
(武士らしい名分を口にするなら、お粂との始末から先に洗って来い)
といった相手の放言は、
――最初の気込みをすッかり
「お……、日本左衛門、もう一度待て」
そのうしろ姿に、はッと吾に返って、ふたたび手をあげて、五、六歩追いかけて行った金吾、
「よくぞ言ッた、今の汝のことばを、金吾はきッと忘れぬぞ」
「うム、
「今日は、自分として考え直したこともある故、いったんここでは
「ばかな!」
日本左衛門は笠をゆすぶりながら苦笑して、
「いつでも来い! 出会ッてやる。――だが、おれは風のように天下を往来する緑林の人間、また会おうと言っても、滅多に日本左衛門の
「なんの、たとえ足にまかせ、月日にまかせて尋ねようとも、きっと、探し出して出会わずにおくものか」
「そう手数をかけさせては、おれのことばに男が立たない。……ウム、こうしよう。いつなん時でも、命が捨てたくなったならば出会いの場所と望みの時刻を書いて、何処の塀でも
「オオ、忘れるな、その大言を」
「それまでに、せいぜい痩せ腕をみがいて来い」
仇と仇、そこの渓流をなかに挾んで、互いに、睨み合いのまま、白刃にものを言わすことは後日に約して、両岸の道を一方は上流へ一方は下流の方へ、ここに一時の殺気を解いて別れました。
それから二、三町――
上流の方へ歩いて行った
「惜しいことをしたじゃねえか」
と、
「まあ、そんなことはどうでもいい」と、彼はすぐに常の様子に返っていて、
「それよりは、さっきの帯はまだ見つからねえか」
「お、この辺だな、投げたのは」
と、空に向ってひとみをつる。
金右衛門のひとみが、絶壁に添うて、ズッと足元まで見下ろしてくる
それに気がついて、彼が川べりを数十歩のぼって行って見ますと、
何よりも真ッ先に、日本左衛門の眼に映ったのは、娘のしめているその帯で、
(おう月江だな。運よく助かったものとみえる)
と思いながら、つかつかと歩み寄って、彼女の帯ぎわを後ろから抑えてやりながら、
「お女中、あぶないぞ」
と、ことばをかけました。
不意に自分の帯をつかんだ者があるので、月江はハッと驚いた様子です。
「さ、わしが抑えていれば大丈大、さぞ苦しかろう、早く水を飲まッしゃい」
未知の人の好意を喜んで、月江は目にその礼をいいながら、白い
まだ打身の痛みはありますが、一口の冷水に、気だけはハッキリと
「どなたですか、御親切さまに、有難うぞんじました」
岩にすがって、
「無理をなすってはいけない、さ、わしの肩につかまるがいい」
「でも……」
「なあに、御遠慮はいらぬ」
そこへ
「何しろ、この谷底ではどうするすべもないから、中の峠の甘酒茶屋まで、少しの間御辛抱なさるがいい」
「まことに、お世話をかけて済みませぬ。して、失礼でございますが、あなた方は、ここをお通りがかりの人でございますか」
「ここは、街道を
「では、あの私の連れは?」
「関久米之丞というやつか。あれの死骸も、たぶんそこらの谷間に引ッ懸っているはず」
「えっ」
彼女は、自分をささえてくれている人の
* * *
「おばさん、水を一杯飲ませてくンないか」
ちょうど、同じ日の
たッた一杯四
「水かい?」
と、
「水なら
「オオ
「うちの甘酒はもっと
「飲みてえな、甘酒を」
「ついでやろうか」
「いいよ、おれは一文もおあしを持っていないもの」
「なんだ、おめえは、銭なしで旅をしているのか」
「連れの人にはぐれたので、まだ
「どんな人?」
「偉い人だ」
「ただ偉い人だけじゃわからない。町人かね、それとも、お侍かね」
「一人は町人で、一人はお侍様でおいらが宿屋へ忘れ物を取りに返っているうちに、何処かへはぐれてしまったのさ」
「はアてね……今日はずいぶん人が通ったからなあ? ……」
「困ったなあ、おいらは、その人に会えないと、また今夜も御飯を食べることが出来ない」
と、さも
例の、杖とも槍ともつかない棒をたずさえている小僧といえば、それが、
おやじと称した御家老と、
ところで、甘酒の釜の前で、しょんぼりしている次郎の様子があまりにも
「お前さん、もしやそこに持っているのは、弁当とは違うのかい」
と、疑わしげに
次郎は、腰のそれへ手で触ってみて、
「ああこれかい。これは、
「ばかな衆もあったもンじゃないか」
「なんだい、人をばかだなンて」
「だって、仏様づくる程、お腹が
「いけねえ、いけねえ」
次郎は
「これを食うくらいなら、何もおいらは心配をしないことさ」
「へえ……」と、あきれた顔をして、「じゃお前さんは、腰に飯をぶらさげていながら、腹を減らして困っているのかね?」
「アアそうだよ」
「分らない子だ、何でそんな、くだらない痩せ我慢をして、よろこんでいるのだろう?」
「何も、おいらだって、こんなペコペコな腹をかかえて、よろこんでいるものか」
「じゃ、食べたらよかろう、その弁当を」
「大きにお世話様だよ」
と、口を
「自分が弁当を持っているからって、おいらだけ
それを聞いて、その義理固いのに、甘酒茶屋の年寄がひどく、感服したものですから、無一文なのを承知して、名物の甘酒を次郎の空腹に恵みました。
思いがけない接待に、彼は、ふウふウとその熱いのを吹きながら、
「ああ、うまい」
舌つづみを打っては、
「おいしいかね、小憎さん」
「うまい」
「もう一杯上げよう」
「もう二、三杯もらわずにはいられねえ」
「アア何杯でも」
「そんなに機嫌よくついでくれると、この釜いッぱい飲むかも知れねえよ」
やっと冗談口が出るほど腹の加減もよくなって来たものでしょう。
そこで次郎は、事によると、二人より先に道を追い越して来たのかも知れないから――といって、一個の包みを茶屋に預け、野槍を持って小仏の中の峠から千魂塚方面へと、はぐれた二人を探すべく、甘酒に元気づいてスタスタと引ッ返して行きました。
ちょうど、
すると、障子の
「おばさん、糸と針をありがとうございました。さっきの針箱と一緒に、この戸棚へ入れて置きますから……」
姿は見えませんが、その座敷のうちで、
無論――女、それも若い女の。
ところが、いつのまにか婆さんは、ピカピカ光る甘酒の釜を留守番にさせておいて、店は無人のまま
ただ、その女の声に、
「おや!」
と、
「おかしいな、この甘酒茶屋には、あんな若い声のする娘はたしか居ないはずだが? ……」
小首をひねッているふうです。
ところへ、
「あ、そういえば、今にここへ妙な侍が来るかも知れねえぜ」
と立ちかけ話に――
「気をつけなさいよ、どうも目つきがすごかった。それに、
この者は、最前ここへ来る途中で、星影の谷間へ下る道を例の二人に教えた男とみえます。
下頭小屋でも変な話を聞いたし、千魂塚でも何とやらいう噂もある、お気をつけなさい、お互いに、
やがて、店の
もう、よくせき急ぎな早打ちの
戸じまりを終えた婆さんが、カタコトと気永に何か晩飯のこしらえにかかっていると、最前聞こえた娘の声が、やはり障子を
「さっきお店に来た人が、何かいやな侍に逢ったと言っていましたが、何でしょうね?」
「こんな山の中だから、物騒な事は時々さ。だが、私のように、慾にも色にも縁の遠い人間になると、そりゃあ何処に住んでいても気楽なものだよ」
「
「ところが、それじゃ生きている甲斐がない。やっぱり、お前さんぐらいな年頃で、世の中が怖いようでなければ困るよ。――その怖いのを押して、いいなずけの男の所へ行こうという、お前さん時代が私は恋しい」
柄にもない老嬢の述懐を聞いて、障子の中では、若い女がクスッと笑いを押さえたようです。
いや、或いは、それを笑ったのではなくて、自分がここに宿を借るため出たら目に言ったことばを、先が正直に信じているので
一方で晩の仕度が出来て、やっと、
「では、おばさん。いろいろお世話になりましたけれど、これから峠を下りますから……。そして、これはほんの少しですけれども礼のおしるし、納めておいて下さいな」
と、紙にひねッた小粒銀を、明りの届くところへ置きました。
最前から障子をしめきって、中でシンとしていたのは、手廻りの物、
お蝶です。
これから人も
けれど、質朴な老婆心が、おいそれと、それをかんたんに送り出すものではなく、まあ御飯を食べて――と無理に坐り直させる。
そして、
元より、そんなことは、百も二百もお蝶は承知しておりますが、前に、口から出まかせな口実を言った手前もあるので、素直に俯向いて、聞くだけのことを聞くよりほかにない。
しかし。
だれが何と言おうと、夜のうちに歩かねば、歩くひまのないお蝶です、どうでも今夜のうちに、
何と言っていさめても、思いとまる様子がないので、その強情にあきれたか、遂には、茶屋の婆さんも好意をひっこめて、ではせめて晩の飯でも食べてと、そこへ膳を持ち出してくる。
実は、お蝶はそれもあまりすすまないところなのですが、そうそうこの真っ正直な善人を失望させるのもむごたらしく思えて、
「では、御飯だけいただいて」
言い訳ばかりに、支度のままで箸を収りました。
後で考え合せてみますと、それに彼女の食慾がなかったのも、一つの虫の知らせであったかも知れません。
ちょうど、お蝶がそうしている時刻です。
歩行にたえない月江の体を両方から助け合って、星影川の谷間から中の峠へこころざして来た日本左衛門と先生金右衛門が、ようやくのことで、この茶屋のかすかな
「もう間がない」
と、二人は月江を励ましていました。
「向うに見える
「御親切さまに」
「なに、旅では、こんなことはお互いじゃ」
日本左衛門は、この娘の口から、やがて久米之丞のふところから得た夜光の短刀の手がかりを得ようという
暗を真っ直ぐに見れば、二、三町としか思えなかった道も、また一つの下りと上りを備えていました。今は気が張っているが、これで向うへ着いたらば、倒れたきりで起き上がることは出来まいと、月江はこの上にもこの
やっと辿りついた中の峠の
大日岩のほとりに立って、四方を見廻しますならば、夜とはいえ満天をうずむる星の青い光に、遠くは木曾
あたりを見廻して、金右衛門がひとり
「茶屋だ、ここが甘酒茶屋に相違ない」
と、小声でつぶやく。
勝手な歩調であるいて来たのとは違って、日本左衛門も大分がっかりした様子です。
「早速、戸をたたいて、頼んでみてくれないか」
「うム、一つ当ってみよう」
「浪人者というと、気味わるがるかも知れないが、事情を話してな」
「よろしい」
と、金右衛門が先に立って、
「誰かおらぬか。茶店の者、茶店の者」
まず二つ三つ、軽くそこの戸をたたいてみる。
家の中へはすぐその音がひびいて、時ならぬ人声に、今膳の前で、
「あ……?」と、あの特質のある、