江戸三国志

吉川英治




伊太利珊瑚イタリヤさんご


 うす寒い秋風の町角まちかどに、なんの気もなく見る時ほど思わず目のそむけられるものは、女の呪詛じゅそをたばねたような、あのかもじのつり看板です。
 たけの長いおどろしき黒髪が軒ばに手招きしている小間物店こまものみせは、そこのうす暗い奥に、とろけそうなたいまい、鼈甲べっこう、金銀青貝の細工さいくるいが、お花畑ほど群落していようとも、男にとっては、まことに縁なきけんらんで、それに女性の蠱惑こわくを連想すれば、かえって魔術師の箱をのぞくようなふしぎな気味わるさにとりつかれる。
 よ、つ、め、や。
 一字一字こう白くこんのれんに裂かれて風にうごいている店の軒に、そのおどろしき物がブラ下がっています。茶屋町の横丁はもうかた日影で、雷門かみなりもんの通りからチラホラと曲がる人かげも、そこに縁なき男どもばかりで、枯柳かれやなぎがまい込むほか、午後になって賽銭さいせんの音もせず、店はいたって閑散な日。
「おや? ……」
 桐箱とひとしくキチンとすわって、鬱金うこんのきれで鼈甲脚べっこうあしをふいていた新助しんすけは、のれんのすそから見える往来へ、色の小白いよい男にしては、ちょッとけんのある目を送って、
「――今の娘だが」
 小首をかしげて、通りすぎた下駄の音にまで耳をすましたが、やがて、細口の銀ぎせるに、水府すいふをつめて、一ぷく、たばこずきらしく深く吸って、また物待ち顔に、往来を気にしている。
 浅草界隈あさくさかいわいに、見かけない娘――今までたしか三度もこの前を行き戻りしたが? ……と思うそばから新助のニヤリとしたのは、この男にありそうな銀流しのうぬぼれ。
 たばこ屋にくぼのある娘をおくように、小間物屋にこのていの男を坐らせておく商法の機微きびは、今も昔も変りないものとみえました。しかし、気になるのは新助の目で、うす暗い中にジッといる猫目という感じ――ことにあらぬ所を見て何か考えている時は、どうも女たらしの手代てだいにしては、ぶんに過ぎたるけわしさのあるのが気になる。
「また帰ってくるにちがいない」
 こんな予感をもったらしく、新助はわざと往来を気にして往来を見ずにいると、やがて案のじょう、のれんの下に影がさして、
「あの……」
 と、お客様です。
「いらっしゃいまし」
「おたくに、油はありますか」
「油? ……へい、びんつけで」
「いいえ、伽羅きゃらか、でなければ松金油まつがねゆでも……」
「おあいにくさまでございました」
「そう」
 客は軽く立ち去って、別のものを見ようともしない。けれど、それは新助が心まちをみたしに来たさっきの紫頭巾むらさきずきんの娘ではなく、お珍しくない近所の引ッかけ帯のおかみさん。
 あきらめました。もうそろそろを入れなければならない。新助はザッと店を片づけて表に立ち、のれん棒を持って軒のものをはずしにかかる。
 夕方の風が砂と落葉をまいてゆきます。
 と――その時、
「ちょっと、お伺いしてみますが……」と、いかにもオズオズした様子で、店口へ寄ってきた女を、新助は見ると共に、
「あ」
 来たナ、と思わずつぼにるのを隠し、あわててはずしかけたのれんを戻すと上へけあがって、ひざ四角しかくく、
「さア、どうぞお掛け下さいまして」
 一ときあまり疑いつかれていた娘の姿を、まともから見上げて、紫の頭巾につつまれたそのきわだった目鼻立ちの美しさに、また瞠目どうもくを新たにしました。
「何か、お髪物ぐしものの、お好みでも?」
「いいえ」
 娘は往来の人足ひとあしがとだえるのを待って、
「あの、売物なんですが」
「え?」
「買って下さいませんでしょうか」
 どうやら話はあべこべです。
 娘のひんや身なりからしても、てッきり、紋くずしの平打ひらうちとかばらの櫛のあつらえとかいうに相違ないと合点がてんしたところが、何か使い古しの細工物さいくものでも金に代えたいらしい口ぶりで、
「どうでしょうか」
 紅絹裏もみうらのたもとから、ソッと、小さく袱紗ふくさに包んだ品を膝の上へ移しかける。
「ヘエ……」と四ツ目屋の新助も、少し勝手がちがって、常の口巧者くちごうしゃにも似ずまじまじとその娘を見直さずにはいられない。
 なるほど、時世もだいぶ変ったものだ。と考えさせられたものでしょう。
 新助の記憶でも、去年の大奥の江島えじま宮路みやじなどという奥女中たちが、芝居者をひきよせたかどで流罪になった騒ぎの当時は、江戸じゅううわさで大変なものだったが、その後、小間物屋として女界じょかいの裏を見てあるくと、あんなことは表向きになったのが不運で、別にとするに足るほどな事件ではないという時世がわかる。
 それを思えば、まだ眉も歯も女になっていないこの娘が、紫ちりめんの頭巾を重そうに、親にいえない金のために髪道具を売りにくるくらいは、ぜひのない当世とうせい女気質おんなかたぎで、まだまだしおらしい方なのかも知れません。
「そりゃ、品によりましては、手前どもでも、引取らないこともございませんがね」
 と、新助の調子は急にニベがない。
 金をうけとる算段さんだん商人あきんどが、いったん、金を出すがわに立つとなると、まるでふところで仮面かめんをスリかえたほど苦もなく全人格をかえてしまうが、今の新助もそんなふうで、ポンと、きせるをハタく音までが、おあいそのないことおびただしく、
「いったい、物はなんですか」
珊瑚さんごでございます」
「というと、たまですね。かんざし、おじめ、どちらでございますな?」
えだだろうと思いますが」
「おや、それじゃお嬢さん、お話しになりますまいよ」
 娘はまッ赤になってうつ向いてしまう。白い襟脚えりあしがのびるだけのびて、頭巾のはしがタラリとなやましげに――。
「まるで師宣もろのぶの絵じゃあないか」
 買物にそそられない新助は、そう考えて、しきりと女の姿を見入っていたが、さて、これを一枚の師宣として見るだんになると、帯や着物の調子はよいとして、また紫ちりめんをかぶったのも悪くないとしても、ほかに難がないだろうか。どうも何か苦情をつけたい。
 どこが――というとさて困るが、横顔になってみると、あまり鼻すじがとおり過ぎて、男には一種の強迫感を与えそうだし、まつ毛の濃さも目化粧めげしょうしたほどきわ立って、あの浮世絵のやわらかい線や色あいとはやや遠い。それに、もういちど立たせて見たなら、女にしては、背丈せたけの勝ち過ぎるきらいがありはしまいか。
 何しても、美人にはちがいないが、江戸の系統といえず、上方風かみがたふうではなおさらなし、女ばかり常に見なれている新助の目にも、この娘の縹緻きりょうというものは、妙に不可思議な――難をかぞえながら、それでいて、強い蠱惑こわくにくるまれそうです。
「どうも、お気の毒でございますが、枝珊瑚えださんごというやつは、珠にも粒にもならないくずで、白ぼけや虫くいなどを、ろくでもない飾り物などにいたしますンで……。へへへ、どちらへお持ちになりましても、とても、お値段にはなりませんです」
「ですが……」と、娘もその時は、だいぶ度胸がすわって来たものでしょう、押し返して、ほりのふかい面だちを真面まともに白くふり向けて、
「見るだけでも、見て下さいませんか」
「へい、そりゃもう」
「自分では、たしかな、古渡こわたりだとぞんじますから」
「え、古渡り?」
 カチッ……と奥で火打ひうちが鳴ったのはその時で、いつか、暖簾のれんの内は外より早く日が暮れている。
 中仕切なかじきりさん格子ごうしに、ゆらゆらと黄色い明りがさしたので、娘の目も初めて影法師に知ったでしょう。四ツ目屋の奥には、最前から物音もさせずに、まだほかの男がいた気配であります。

 小判で百両。
 重目おもめにしてもだいぶなものです。
 異様な娘が、それを赤い帯あげの中にくるみ込んで、宵の町角を雷門かみなりもんの方へ出てゆくと、あとの四ツ目屋も戸をおろして、しとみ障子のうす明りに、「御小間物類おんこまものるい」という字ばかりが往来に残っている。
 シンとなると、裏にも表にも、落葉のあるく音がします。浅草もちょッと横丁へ入ると、提灯ちょうちんの出入りするくらいな淋しさ。おまけに、秋も終ろう初冬も来ようという霜枯れ月の晩。
「親分」
 奥へ入った手代の新助は、そこにいる者に不平そうに、
「つまらねエ口を出したんで、百両くれてやったようなものです。どうも親分は、時によると、女に甘い生地きじが出るンでいけねえや」
 女気がないとみえて、ひとり、箱膳を隅ッこへ出し、ザクザク湯漬けを食べながら、はし休めのグチでした。
 グチはいいが、新助、いかに店を仕舞しまった奥とはいえ、別人のようにガラリと変った今の伝法でんぽうな物言いぶりはどうしたものか。かたぎな小間物屋の奥で、親分という声がもう穏やかではありません。魑魅魍魎ちみもうりょうの巣のようにひびく上に、なおさら怪しげなのは、そこの小火鉢にゆったりとしている人間の風体ふうてい
 五さかやきの浪人であります。年二十七、八、肩幅のわりに痩身そうしんではあるが、浅黒い皮膚には精悍せいかんな健康が魚油ぎょゆを塗ったようにみなぎっている。またおも長ではあるが、かくばッた顴骨かんこつと鋭い眉宇びうをそなえてもいる。
 大小をおッぽり出して、坐りながらのふところ手で、膝の上にある桃色珊瑚さんごの枝を眺め入りつつ、
い色だ、七ツは取れるな」
 その感にたえているさまがばからしそうに、新助はおはちのふたへひじをついて、
「なにがですえ?」
「印籠のおじめ、五分玉ぶだまのかんざし、何だってこれくらいな珊瑚さんごなら、好きな物がとれようじゃねえか」
「ヤキが廻りましたね、親分も」
「ばかをいえ、大名だいみょうの土蔵をかき廻したって、古渡りで、しかもウブなこんな珊瑚が生地きじのままであるなんていうことはない。何しろ、いい物が手にったよ」
 いかにも艶冶えんやな桃色の中へ心までとろけいったさまで、新助の半畳はんじょうなどには耳を貸している風もない。それはまごうかたもなく当時にあっては何人なんびとも珍重しておかぬ伊太利珊瑚イタリヤさんごの虫きずもない七寸ばかりな生地でした。
 けれどよく見ると、それは地中海からあげたのままとも思われない品、加工したあとがある。何かの品として愛玩あいがんされたらしい手艶てづやがある。膝にのせているぬしは、行燈あんどんのやわらかいをよせて、これがそも何に使用されたものか、どんな持主の手にあったものか、そして、これを売りに来たあの娘の素性すじょうにまで、鋭い想像を走らせているものらしく見られました。
「そりゃ私だって、物はたしかだと見ていましたがね」
「あたり前だ、奥にいたおれにさえわかったことを」
「だが、あっしは、金をくれて買うなんて夢にも思っていなかった。すると親分が百両くらいなお入用いりようなら引取っておあげしろと、飛んだ小間物屋の旦那口調で、惜しいやね、五十両の封金二ツ、あんな小娘にくれてしまうなんて……、よっぽど、新助の方が貰いとうございましたぜ」
 相手にする値うちもないように、浪人の男は、珊瑚を袱紗ふくさにくるむ、前差まえざしをギッとたばさむ、長い蝋色鞘ろいろざやを左にさげる。
 そして、腰をのばして、
「どれ……」と立ち上がったかと思うと、新助に袱紗を預け、あとの戸締りをいいつけて、ノシリと裏口へ出てゆく様子なので、
「あっ、親分」
 もう戸がいています。
 世間とはツツ抜けなのに、そのばかな声を、
「しッ!」
 と、にらみ返されたのは、さもあるはずでしたが、それにしても一瞬浪人の白眼はくがんが、あまりといえば凄い目であった。

「オオ、笠……」
 出してくれ、と戸の外から手をのばす。
 降るのは星ですが、しらなみつらかくし、ぜひ忘れてはならない品物でしょう。
 新助、今のにコリているので、今度は返事ものどで殺し、だまって押入れから編笠あみがさを取って渡しましたが、幸い、裏は紺屋こうや干場ほしばつづき、さっきのウカツな声とても、近所へまで聞かれたとは思われません。
「ど、どこへ行くんですか親分」
「わからねエのか」
「だって、あんまり不意じゃありませんか」
「まあいい、あとをめておけよ」
「帰らねえンですか、今夜は」
「あさッて市で会うだろう」
 もうその影は、紺屋の空地あきちはすに抜け、後ろ姿を怪魚と見せて、夜干しのぬのの浪をくぐッて行く。
 曲がりくねッた露地のどぶ板をふみ出すと、急に明るい大通りがあらわれる。文字どおりな浅草のよい、目に痛い繁昌ぶりです。夜霧と明りのにじみ合っているところに、観音堂の法城が一まつの薄墨うすずみをはいているほかはすべてこれ、目まぐるしい交響とうごきでありました。
 その中に、かれの目は鋭く何かを求めている。いうまでもありますまい、せいの高い紫の頭巾。
 四ツ目屋の奥で、およそは観察していたはず、あてなき探し方ではありません。糸をたぐッて行くように、ここ、あすこ、思う所の横丁や店をのぞいてあるくうちに、チラと、目の中に飛びこんできたのがあの紫です。
 三味線屋に腰かけて、しきりと何か出させている。
 まぎれもなく、出所でどころのいぶかしい伊太利珊瑚イタリヤさんごを、四ツ目屋へ売りにきた頭巾ずきんの娘。
 そこで、たんざおの値をきいて、欲しそうになでてはいたが、それは買わないで、買ったのは蒔絵まきえ爪箱つめばこと、糸を七かけ。
 畳の上にチカッと光った小判を見て、番頭が手をもむと、こまかいのはありませんという。で何かまた、いらない物まで買い足して、そこを出るとすぐにまた、半襟屋はんえりやへ入って行く。
 呉服物を見ては、あれ、これ、とまるで夢中になってりわけながら、大まかに欲しいものをズバズバと切らせている様子。のれんを分けて出て来た時に見れば、それが、かなりな風呂敷包となって、左の手に抱えられているのでした。
 でも、なお買物にかぬ顔つきが、両側の明るい店舗てんぽを軒ごとに眺めつ迷いつしているのは、いかに物欲の強い年ごろの女とはいえ、浅ましい沙汰の挙動です。いや、あるいはそれ程にこの娘が、物質に渇していたのかも知れないが……。
 かくて、珊瑚を売った百両の小判のカケが、べにとなり、おしろいとなり、袋物ふくろものと化けて、み上がりの胃袋みたいな風呂敷を満たしてゆくのはいいが、そのうしろから、見て歩いている編笠あみがさには、自分の金を、分別のない小娘に、パッパとつかい散らされているような気がしないでしょうか。
 四ツ目屋という紺のれんは、元より世間に日蔭を作る仲間の巣。新助でさえ不平なのに、無論、しら浪根性に劣りのないこの男が、世の中の物質に代価を見ない盗賊という本業を裏切って、すなおに、あの珊瑚を買うべき理由がないのですから。
 渡してやった百両は一時のだましに違いない。実名じつみょう浜島庄兵衛はましましょうべえ、しら浪の通り名を日本左衛門にほんざえもんというのは彼です。
「ちイッ……」
 と、小娘の浮かれの果てしなさに、うしろで舌打をもらしたものの、名うてな日本左衛門とて、この盛り場では手も出せますまい。

 やがて、浅草の灯に別れると、酔のさめたように娘の足どりは少し早めになって、下谷裏町したやうらまちから本郷台ほんごうだいの方角へ向ってゆく。
 根気よく影をつけていた浜島庄兵衛の日本左衛門には、そろそろ思うつぼの並木や、人通りのまれな海鼠塀なまこべい、暗やみです。
「オイ、娘さん」
 と、手をあげた。切通しの坂をのぼりきッた所で、このあたり根生院こんじょういんの森と棟梁とうりょう屋敷の黒塀くろべいを見るほか、明りらしいものは、湯島新地ゆしましんち大根畑だいこんばたけの中にチラホラする隠し売女ばいじょの何軒かが数えられるに過ぎません。
「待て! おい」
 走り出しそうな気振り――と見たので、日本左衛門にほんざえもん、かかとを蹴って飛びつくと、娘の白い手くびをつかんでズルズルと路傍へ引きよせてくる。
「な、なにをするのさ、お前さんはッ」
 高い悲鳴をあげる代りに、疳走かんばしッた声でこうののしッたのは、かなり気の勝った娘らしい。つかまれた手に爪を立てながら、切通きりどおしの広い前後をふりかえって、早く誰か来る人影はないかと必死に、
「声をたてますよ、いいかい」
「静かにしろ」
「二、三丁先は新花町しんはなちょう番屋ばんやがある。お前さんは物盗りならお金をあげるから、この手を放しておくれ、痛いッ、放しておくれッてば」
「小娘にしては、なかなか落ちついたもんだ。おい、もう少し落ちつけよ。物どりには違いねえ、いかにもおれはぬすだが」
「誰か来て下さい――ッ」
 突然人を呼ばれたので、日本左衛門の袖がその頭を抑えつけて、少し力をしぼったものでしょう。頭巾ずきん編笠あみがさ、二ツの影が、降る落葉をあびてもつれ合っている。
「シッ、静かにしろッてえに!」
「く、くるしい」
「何も、お前みたいな小娘を、どうこうする盗賊じゃない」
「手ッ、手を、手を放して下さいよ」
「可哀そうに……」
 その美しいもがきに、ちょッと恍惚として、
「放してやるから金切り声を出さないでくれ。いいかね、なるべく殺生はしまいと泥棒の方で願っていても、そッちでヤボな声を出されると、つい、こいつが後を追いかけて行きたがるからな……」
 と、何やら魔の目のように目貫めぬきの光る刀のつかをたたいて見せて、ふわりと、娘の体を放してやるとよろめいた女帯の間から、リン! といいがこぼれて落ちたのは、つかい散らした残りの小判の何枚かでした。
 が、それには、目もくれないで、
「――少し頼みたいことがあって、実ア四ツ目屋から御迷惑でもつけて来たんだ。ねえさん、一ツおれに、案内をしてくれまいか」
「……案内ッて? ど、どこへですか」
「それがわかるくらいなら……」と思わず含み笑いをもらして、
「知っているのは、お前だけの行く先だ」
「? ……」
「四ツ目屋へ持ってきた伊太利珊瑚イタリヤさんご、あれは、どこからおめえ持ち出して来た。なみの屋敷や町家ちょうかの土蔵じゃあるまい。あれ程の品がある穴なら、まだまだ、存分、金目な品がずまっているはず、案内してくれというのはその穴だ」
 かの女がカッとした一時の熱い動悸は、まぶかな編笠の顔をのぞくにつれて、ようやくやいばを抱かされたような冷たい身ぶるいに変っています。

鬼女面きじょめん


「どこだ? お前の家は」
「知りません」
「自分の家を知らない?」
「だって、あたし」
「じゃ、あの伊太利珊瑚イタリヤさんごはどこにあった品物だか、それを言え、その屋敷の名を聞かせろ」
「知らない。あたし、そんなこと……」
「シラをきるな」
わたし、人に頼まれたんだもの」
「うるせえッ」
「…………」
「案内しろ!」
「いやです」
「ウム、じゃ仕方しかたがねえ。夜どおしでも、お前の帰る所へついて行くだけの話だ」
 恐ろしい脅迫。
 なまなか光り物を抜いたり月並つきなみ凄文句すごもんくをならべないだけに、かえって底気味の悪いことは、倍で、さすが気の強い当世のはすらしい紫頭巾の娘も、糸の切れたあやつりのように、居すくンだまま逃げ腰が立ち得ません。
 その恐怖にみちた瞳を、この暗やみでなく、昼の明るさにこうジッと見合ったならば、日本左衛門も、かの伊太利珊瑚と思い合せて、ははアと、出所の謎を解いたのかも知れない。
 と……切通し下から三ツ四ツの灯がチラついてくる。
 タッ、タッ、タッ、と足音も少ない人数にんずではなく――。
「オイ、歩け」
 と言ったのは日本左衛門が、早くもそれを知ったからで、うしろから帯あげの腰をグッとつかもうとすると、思いがけない、柔らかい手のぬくみが蛇の肌を思わせてからんで来ました。
「ねエ、御浪人さん、後生ごしょうですから……」
 驚く間に、むせッぽい女の香が、いきなり胸元へ押してきたのです。
「後生ですから、私を見のがして下さいよ。私、あの珊瑚さんごのことが屋敷にわかると、ほんとに、困ってしまうんですから……」
 なみの娘なら気を失う男の胸へ、自分の方から甘えるようにすがりついて行った。機敏な態度の変りようが、世間の裏を見抜いている日本左衛門にも舌を巻かせるはすッ葉です。
「頼みます」
「まあ、あるきねえ」
「だッて、あなたについて来られちゃ、私、なお困るんですもの……助けると思って。ネ、お願いですから」
「そんなに困るなら、番屋へでも奉行所へでも飛びこんだらよかろう」
「そうすれば、なおさら私の自滅ですもの」
 たもとを顔へ持って行って、肩をふるわせたまま、固くなって動かない。
 よくよく窮して、ついに泣きだしたものでしょうか。やはり女は女、最後はいつも涙であります。
 だが、猶予ならないのは、ぐずぐずしている間に、坂下から足拍子をとって近づいてきた数点の提灯ちょうちん! しかも、異様奇妙な行列なンです。
 カッと炎をこがす一団の火焔行列とも見えました。
 見事な紅葉もみじの枝をゆッさりと上にのせて金鋲青漆きんびょうせいしつ女駕おんなかご供人ともびとは紅白ちりめんの裲襠うちかけ、いずれも、御守殿ごしゅでん風な女ぞろいで、これまた、手に手に紅葉の枝を持っているので、前後を照らす明りをうけた盛観は、むしろ夜行やぎょう鬼女きじょむらがりかとも凄かったのです。
 しかし、その近づくのを見て、日本左衛門が驚いたのは、その夜中横行の異風でなく、まッ先に立った仲間ちゅうげんの手にある、六ツあおい提灯ちょうちんしるし
 紫頭巾が泣きじゃくッているのが幸いでした。肩に手を。
 戸まどいしては、かえって、見とがめられるおそれがあるので、逢引あいびきの男女が、たたずむように見せかけて、やり過ごそうとしたのですが、とたんに、抱きよせた娘の袖裏そでうらから、月形の短刀がのびるよと見るまに、日本左衛門のあばら骨とまではゆかず、突きすべッて手のこうをかすッたのです。

「あっ」と、一歩を引く。
「しまッた!」
 日本左衛門としては、あるまじき不覚。
 かれ程な者も、小娘の涙にはウカと油断をさそわれたものか、不意に手をかすッた短刀は、咄嗟とっさたたき落としたものの、娘は声かぎり悲鳴の尾を引いて、まっていた異風行列いふうぎょうれつの駕わきへ、
「お。お助け下さいまし! あれっ、あれッ」
 風鳥ふうちょうのようにまろびこんで、恐怖を装った金切かなきり声に、御守殿たちを驚かせました。
「これッ」
「おかごわきへ――」と、仲間ちゅうげんの提灯と、紅葉もみじを投げて騒ぎ乱れた紅白の女房たちが、青漆砂子塗せいしつすなごぬり女駕おんなかごと娘の間をさえぎって、
「寄ってはならぬ」
「無礼もの! そちは何じゃ」
 と、口々です。
「は、はい……」娘は小鳩のようなおののきを見せて、顔の紫ちりめんを解く、そして、むき出された文金ぶんきん高髷たかまげと白い指を、惜し気もなく地につかえて、
「今、あの木立こだちの暗がりで、盗賊に刃物はものをつきつけられ、恐ろしい目にあおうとしていたものでございますから、それで思わず不作法な……ど、どうぞ、お助けなされて下さいまし」
 それまで、ひッそりと、ゆかしいかおりと気配をこめていた女駕の中で、
「なに、盗賊だと?」
 生々いきいきした、しかも男性的な、若者の声が、
「面白い!」
 と、ひびきました。
 スッと、内からかご塗戸ぬりどをあけて、半身乗り出すように姿を見せた人物を仰ぐと、青月代あおさかやきりんとした殿とのぶり、二十はたち前後と思われます。黒羽二重くろはぶたえの袖はあおいのかげ紋、装剣そうけんの美をちりばめた前差まえざしつかに、遠い星の光が吸われている。
 幕府三家の一、尾張中将綱誠おわりちゅうじょうつなのぶの七男、徳川万太郎とくがわまんたろうその人です。
 それにしては、女駕の御守殿ごしゅでん供人ともびとなど、合点のゆかない行装であるが、父中将の持てあましている万太郎ぎみの日常を知る者には、さほど、目をみはるに足らないことで、今日は真間まま釈迦堂しゃかどうから遍覧亭へんらんていあたりの今さかりと聞く紅葉もみじ見物に出かけた帰りで、例の部屋住へやずみ気分の座興がつのッて、姉君の女駕をさらって、あとの困り方を想像しながら、ひとりきょうがりつつ、いち御門外の屋敷へ急がせてきたところ。
「盗賊とは面白いやつに会った。つかまえてやろう、草履を持て!」
 と、かかえ刀で、片足を出す。常の若殿ならば白足袋しろたびであるべきに、万太郎の好みであろうか、こんの足袋がに見えました。
「めッそうもないことを」
 当然、供の者は、以ての外という顔で、お草履ぞうりを取ってさし上げない。草履のそろわないうちは、駕を抜け出ないところは、やはり吾儘わがままでも放縦ほうじゅうでも大名育ちらしいが、万太郎そろそろ常の駄々ぶりを現して、
「草履をもて! 逃げてしまうわ」
 と、高声をいら立てる。
 すると、うしろの仲間ちゅうげんが、手の提灯ちょうちんをあげて、
「やッ、相良様さがらさまが駆けてまいりました」
「なに、金吾が?」と、万太郎がそれに思い止まったところへ、何かにおくれて、息をきりながら一行に追いついて来たのは、尾州の馬廻り役、江戸づめとなってから、癖の悪い馬より手綱たづなの取りにくい万太郎付きの近侍きんじとなっている、相良金吾さがらきんごとよぶ武士でした。
「金吾か、よいところへ来た」
 かれの姿を見るとただちに万太郎。
「そのあたりに、この娘が出会った盗賊がひそんでいよう。そちの手で、からげて来い!」
「はッ」と、主命、息をつく間もゆるされない。
 金吾ははかまのももだちを高くして、路傍から棟梁とうりょう屋敷の石塀にそって駆け、カサ、カサ……と落葉のふるえる暗やみへ姿を入れる。

 相良金吾が木立の奥へ駆けこんだのを見て、
「それ、逃げ口をとれ」
 と、徳川万太郎は女駕おんなかごのうちから、仲間ちゅうげんどもを下知げちして加勢に追いやったが、煙の如き盗児、風の如き日本左衛門が、いつまでそれを待っておりましょうや。
 捜索は遂に徒労でした。かれの猟奇心りょうきしんは失望をむくいられて、やがて相良金吾も、最後にむなしく引っ返してくる。
「ウーム、逃げおッたか」と万太郎は残念そうに駕の内へひそみかけたが、そこにうずくまッている娘に目をつけて、
「金吾、この女中を、住居すまいまで送ってとらせい。途中でまたどんな災難がないとも限らぬ」
 娘が目礼もくれいするおもざしをジッと見て、駕の戸をめる。そこへ、また四、五人の家臣も追いついて来て、男女入り交じった行列は、再び、道を急ぎだします。
 市ヶ谷御門外の尾州家、部屋へやずみの万太郎が住居は、邸内北がわの別棟べつむねとみえました。
 途中万一を思って、娘を送らせた金吾は直ちに戻ることと思っていたが、かれがそこに落着いて、湯浴ゆあみをすまし、服をかえ、ここのどきの時計を聞く頃になっても帰邸しない。
 何となく待たれる。
「どうしたのだろうか?」
 脇息きょうそくに頬杖をついて、ジッと、夜更けを起き澄ましている万太郎の心に、あの白い手にき出された時の、紫頭巾の蠱惑こわくな顔が浮かび出ました。どこの女子おなごであろうか、何者の娘だろうか、その素性を聞かないうちは、とこにつかれぬような待ちびさしさにとらわれながら……。
 と。
 音もなく、銀泥ぎんでいふすまいている。
 流れこむ冷気におもてをなでられて、徳川万太郎、ふッと、脇息から顔をあげると、金吾です。が、入口にたたずんで、あたりを見廻しながら、
「殿……」
「おお、金吾か」
「只今帰邸いたしました。時に、今ここを拙者と入れちがいに向うへ行った者は御近侍ごきんじでござりますか」
「いや、別に……」
 万太郎は、異なことをいう、という風な面もちで、
だれもここへ呼びは致さんが」
「はてな?」
 と、小首をかしげて、金吾はもう一度廊下の外を見廻したが、そういわれれば異状はないので、自分の気のせいであったかと思い直して、静かに室内へ入り、うしろのふすまを閉めました。
「たいそう遅いことであったな」
「はい、意外に暇どりまして」
「して、娘は送り届けたか」
「は、小石川の同心組の近くまで参りました」
「ふウむ、すると何か、ありゃ同心組屋敷のうちの女中であったかの」
「ところが」
 と、相良金吾は、やや不面目ふめんぼくな様子をして、
せぬ娘でござります。殿の御親切をにいたすばかりか、拙者に口実を申して、その同心屋敷の辺から、姿を消してしまいました」
「なに?」
 と、万太郎は脇息きょうそくを横へやって、
「そちの送り届けてやったのを、かえって迷惑がって、姿を隠してしまったと申すか」
御意ぎょい
「ふウむ……?」
 と万太郎は唸った。金吾も、今なおせぬ想像をえがいています。
「では、そちはあの娘に、かれて帰ってきたわけじゃな」
「しかし、それでは金吾、仰せつけを果たさぬことに相成ります。また、いろいろ不審を感じましたので、やっと、それから一ときあまり付近を歩き廻って、娘の帰った家だけは突きとめました」

「ほウ……」と、徳川万太郎は好奇な目をして、
「そちが突き止めたと申すあの娘は、そして、どこへ入ったか?」
「一度見失った姿をチラと見うけましたのが、小日向こびなた丹下坂たんげざかなので――あの広い陰鬱いんうつ切支丹屋敷きりしたんやしきの中へと、すばやく影をくらましたには、拙者も意外な感にうたれました」
 と、万太郎は思わず膝をゆり出して、
「えっ」
「切支丹屋敷の中へ」
「はい、しかと!」
「あの娘が? ……ふウむ」
「殿」
「おお金吾」
「まことに、惜しいことを致しました」
「そうと知ったなら、帰すのではなかった! 屋敷へつれ参って問いただせば、かねてから心がけている例の事や、また宗門牢しゅうもんろうにおる異国人の消息も聞けたであろうに!」
 と、舌打ちして、その残念さをくり返しているのは、尤もな理由のあることで、国元くにもとの尾張城からこの江戸屋敷へ移ってきて以来、彼が心ひそかに探っている目標がその切支丹きりしたん屋敷であったのです。
 同じ剣工のふいごから生まれる刀にしても、その紋流もんりゅうや切れ味や鉄質までが、あながち同一でないように、鋳型いがたにハメた大名の子にも、時には、飛んでもない異端者があらわれます。
 万太郎はまずその方で、甚だしくお大名の素質に欠けている。安逸あんいつが嫌いで波瀾をこのむ、ぼんやりと物を見流さないで探奇心の目が光る。軽快であるはいいが争気そうきが強い。長袖の風俗をきらって市井風しせいふう紺足袋こんたびをはくなど、すべて六十万石三家尾州の若殿としては軽すぎる。
 けれど、またかれの性格がこうのびたのも、あまりな当時の大名生活の退屈さが助成したのかも分りません。
 とにかく、そういう万太郎である。ところがその万太郎に、皮肉にも、また大きな猟奇心りょうきしんをあおるものが現れました。何かと言うと、去年、尾張城の書庫の整理の際に、邪宗門じゃしゅうもんにかかわるものすべてを焼いた中に、偶然、かれの目についた、一通の古書。
御刑罪おしおきばてれん口書くちがき
 です。それは前々代、大納言義直卿よしなおきょうの当時、名古屋の城下でとらえた一人の宣教師を斬った時、白洲しらすで調べあげた写しで、てんぐじょうの厚紙十枚じばかりのもの。
 すでに、書庫のちりと一緒に積まれて焼かれるところを、万太郎がそれだけ引抜いて来て、ひそかに虫ばみの字を拾って読んでみると、重大です。世にも怪奇な事実が、斬られた「ばてれん」の口から語られている。
 以来万太郎は十枚じの秘密の反古ほごを近侍の相良金吾さがらきんご以外のものには見せていない。で――それについて、切支丹屋敷の内部の者に、ぜひき探ってみたいことがあるのだが、あすこばかりは、絶対に世間と隔離されている邪教人じゃきょうにん封獄ふうごくで、自分の謎を問うことはおろか、そこの世界を覗き見ることもできなかったのであります。
「しかし、御失望なさいますな」
 金吾がそう言って、舌打ちをした万太郎へ、何か、思案のありそうな微笑をして見せたのは、かれも共に腕ぐみをして、しばらく無言をつづけた後で――
「必ずあの娘から、例のことを聞き出して見まする。金吾、明日あすにでも早速参って、トクと工夫くふうをめぐらしましょう」
「イヤ、そりゃ、まずいぞ!」
 と、万太郎は期待をはずして、
「邪教かぜ禁物きんもつな当今、かりにも切支丹屋敷の付近を、尾州家の者がウロついていたなどと風聞されては困る、第一、宗門しゅうもん役人が寄せつけまい。それよりは、この万太郎に一策があるがどうじゃ」
「ほ、伺ってみまする」
「毒をもって毒を制す名案であろうと自分は思うが……」
「それは?」
「盗賊を使うのじゃ! つまり、盗人ぬすっとを雇って手先にあやつる……」と、言いかけた時に、深沈と更けた殿中のうつばりが、新しい柱にヒビが這入はいったように、どこかでミリッと聞えました。

 ここに万太郎と金吾の話し声だけは、いつまでも時刻を忘れていたが、一城の広さもあろう程な尾州家の建て物は、うしみつに近い真夜中の底に沈んでシーンと眠り落ちている。
 ぼッ、ぼッ……と大廊下三げんきの金網ぼんぼり、風を吸って、あやうげに明滅しているが、油をいで廻る宿直とのいの影とて見当りません。
 すると――
 今、二人のいる一室と講書こうしょとのなか廊下を、腕ぐみをした人影が、もうろうと幽鬼の如く、行きつ戻りつしているようでしたが、ふッと明りなき一室の内へかき消えてゆく。
 何者?
 桐のから鏡のへと。
 間数まかずを越えて忍んでゆきながらも、ふすまのあとは、いちいち元通りに閉めては行くが、たたみざわりの足音はおろか、ちりのこぼれる足音もさせない。
 そこで、もうろうたる人影は、ニヤリと黙笑もくしょうの歯を見せたようです。床の間に腰をおろして、暗やみの中でも視覚のくらしいまなこ
 ジロジロと辺りを見ながら何か思案をしている風でもあります。何者かと思うと、それはまぎれもなく日本左衛門。
 切通しで、万太郎と金吾の為に、折角せっかくな場合をさまたげられて姿を消したが、かれは、それであきらめて帰るような人間ではない。一時、棟梁屋敷とうりょうやしきの石塀をこえて、ポンと、中へ姿をかくしたのは方便で、金吾と娘のあとをつけて、遂に、切支丹屋敷のそばまで見届け、その金吾よりも一足先に、提灯ちょうちんしるしでそれと知った尾州家の邸内へ、先廻りをしてひそんでいた――というのが、あれからの日本左衛門の行動でした。
 目的の娘が、切支丹屋敷へかくれたまで見届けたなら、何も、危険を冒して、こんな尾州家の奥深い殿中まで、忍んで来る必要がないように考えられるのは、善良人の思いそうなところで、盗賊心理はまた別であります。
 では、日本左衛門、ここへ何しに来たのかというと切通しでブマをした腹いせに、その意趣返しをしに来たものに相違ありません。
 復讐! あだをしてやる!
 すべて盗賊は仕事の上に、その快味をも忘れぬと言います。本来の物盗り以上に、仕返しはかれらの血をわかせるもの。しかも、今夜のことは、相手が尾張中将の七男徳川万太郎。こいつのドギモを驚かせて、御三家の邸内に足あとをつけてやるということは、日本左衛門が好みそうなところで、好まれた方こそ、まことに禍いなるかなであります。
 だが、奥書院まで、幾室かの間数まかずを通って検分したところでは、格別目星めぼしい品物もなく、奇抜な仕返しの手段も思い当らないので、今かれは、とこの間に腰をおろすと、
「ふん……部屋住みの万太郎、この様子じゃ、だいぶ手元をつめられているな」
 と、家財調度を目づもりして、大盗らしい愍笑びんしょうをくれながら、また、
「さて? ……」
 と、あだをする手段を考えている。
 運わるく、その床の間にうやうやしく置いてあったのは万太郎の兄にあたる当主義通よしみちが、西之丸に隠居した前将軍家宣いえのぶから貰いうけた拝領面――出目洞白でめどうはく刀彫とうぼりの鬼作と称せられている鬼女面を秘めた一箇の箱。
 持って帰るには、手頃であります。
 その面箱をゆすぶッて、中のコトリという音を聞いただけで、日本左衛門の六感は禁じえぬ欣びにくすぐられました。
 一方。
 万太郎の部屋ではその万太郎と金吾とが、何か密話に他念がなかったが、その相談の結果、かれが尾張城から持ち出して来て秘密に仕舞しまいこんでおいた「御刑罪おしおきばてれん口書くちがき」を念の為に、もう一度よく調べて見ようとなって、金吾に手燭てしょくをもたせ、室外へ出て来ると、
「若殿、すぐにじょうを持って参りますから、暫くここで」と、金吾が納戸なんどへ走ろうとします。
「いや、書物蔵しょもつぐらではないぞ」
「ほ、では何処へお仕舞いなさいましたので」
「誰も気がつかぬ所だ」
「――と申すと、書院の袋戸へでも?」
「ウム、とこじゃ」
「えっ、あんな所へ」
「心配いたすな、兄上が大事にしている出目洞白でめどうはく面箱めんばこの底へ、二ツに折って入れこんでおいた」

 面箱が紛失している。
 北口の杉戸に土足の痕がある。
 曲者くせものが忍んだ。
 すわ! と騒ぎはじめたのは、それから寸刻ののちでありました。
 変を聞くと、
「なに洞白の面が?」
 と、誰よりも驚いたのは、当主であり万太郎の長兄である尾張義通おわりよしみちで、
「洞白の面が盗まれたとは、そりゃまことか! 曲者は捕えたか!」
 義通は青くなって、宿直とのいのあわて乱れる中を、近侍と共に遠い母屋おもやから駆けつけて来る。
 かれは病身、息を切っています。
 見ると、紙燭ししょくを持って、舎弟の万太郎が書院の床壁とこかべを茫然と眺めている。まったく、きもを奪われたていで、義通がうしろへ来たことにも気がつかない。
 床には、探幽斎たんゆうさいの筆、水墨の大幅だいふくが掛けてあったが、紙燭のゆらぎに浮いて見えるのは、その絵ではなく、画幅を無残にして遺憾のない大きな文字で、
緑林涼風りょくりんりょうふう日本左衛門のこす。
 と、なすり付けてある墨痕ぼっこんでありました。その不敵な筆法は、これに目をみはるものを嘲るように生々なまなまとした墨色すみいろです。
「万太郎ッ」
 義通は激しい声で、不意に、弟の肩をつかんで、
「出目洞白の面を、かような所へ置きすてておいたのはその方か」
「はい!」
 と万太郎は、やり場のない怒った声で、
「はい、私ですが」
「な、なぜ、そんな不始末な……」
「兄上」
「そちは身の行状の悪い通り、何事にも、ふしだらでいけないッ。殊に、しなもあろうに」
「いや、お待ち下さい。私は兄上の許しを受けて、いつか、まいを催しました折に拝借したので、決して、無断に持ち出した次第ではございませぬ」
「黙んなさい! そちはその後、納戸の者に渡して面箱は宝蔵へ返したと言っておったではないか。それも単に秘蔵の品というならばとにかく、文照院様ぶんしょういんさまから拝領の鬼女面きじょめん、年ごとの西之丸の御能ごのうには、ぜひとも柳営りゅうえいに持って伺候しこうせなければならぬ」
 義通は唇をわなわなさせ、あくまで、詰責きっせきしてやみません。万太郎の放縦な行蹟ぎょうせきが、こういう大事をひき起こすのだとあって、この晩の騒ぎが動機となり、平常の不身持ふみもちな事実までが、数かぎりなく大殿中将おおとのちゅうじょうの耳に入って、とうとう万太郎、その翌日は、上屋敷から根岸ねぎしの別邸へ移されて、謹慎きんしんという、きびしい命をうけました。
 が、かれに取っては、結句きゅうくつな上屋敷よりも、草茫茫ぼうぼうたる廃屋でも何でも、なお自由のきくこの方が有難い。
 ただ、無念なのは、日本左衛門の皮肉な置きがたみです。面箱の底へしておいた、「ばてれん口書くちがき」の一じょうも、ぜひ、何とかして取り返さなければならない。
 かれが根岸へ移された翌日のこと。
 相良金吾は、ひそかに、田舎侍いなかざむらいを装った菅笠すげがさとわらじばきで、めんが手に戻らなければ、せめて、万太郎に取って大事な「ばてれん口書くちがき」の一帖だけでも取り返そうと、浅草の四ツ辻に立ちました。
 今日もまた、紅葉もみじに人出のありそうな、晩秋の明るい日和ひより
 よ、つ、め、や。
 紺の暖簾のれんにそう見たのは、彼が送って行った娘の口から聞いていた、怪しげな巣の小間物屋です。

ぬすいち


 のぞいてみると四ツ目屋の店には、例の銀流しの店番男、新助の姿は見えないで、それに代る松葉髷まつばまげいきなかみさんが、小僧相手に荷の入れ代えをしているので、
「オ、違ったかナ?」
 と相良金吾は、わざと田舎者めかした菅笠を上げて見なおしたが、間違いはない、茶屋町の軒ならび、似よりの店もこの一軒よりほかにはありません。
 だいぶ聞いた話とは違っている。――新助という若い男が店にいて、表面は手固い小間物店に変りないが、実は盗人ぬすっとの寝泊りする家で、わたしはそこで買物をしたが因果で、怖ろしい男に切通しまでツケられたのでございます。――という風に、あの切支丹屋敷きりしたんやしきの娘は、途々みちみち自分に話したが? ……
「それも嘘か。あの娘の言葉も信じきるわけにはゆかない」
 と金吾は迷いました。
 ままよ、どうせ田舎武士いなかざむらいに作ってきた風体ふうてい、かまうものか、といった調子で、かれはズカリとそこへ入って、
「物を聞きたい!」
 わざと、ぶッきら棒に、
「新助という手代のいる店は当家か?」
 あッけにとられたかみさんは、積みかけていた根掛ねがけの桐箱を抱えたまま、
「いいえ……」
「では、年頃二十七、八、にがみ走ッた五分さかやきの浪人者が、ここに寝泊りしているだろうな」
「……存じません、お門違かどちがいじゃございませんか」
「たしかに、茶屋町の四ツ目屋と聞いたが」
「あー、それでは、前のかたでございましょう」
「前の方?」
「はい、だいが変っておりますよ」
 と、かみさんの綺麗なおはぐろ歯が笑みこぼれる。
 聞いてみると、店は居抜いぬきでトウから売りにかかッていたが、先で急に値段を見切ったので、この人々は俄に今朝けさ金の取引をすまし、ここへ移ってきたばかりだとのこと。
 明け渡した新助や浪人の住居は、どこへ変ったか、主人でも居なければ……と極めて曖昧あいまいな話に、金吾は、しまった! と叫びながら菅笠を持って往来に飛び出しました。
「あっ、もし!」
 かれに続いて四ツ目屋の露地から、ひとりの男が手をあげて、
「もし、おさむらいさん、お侍さん」
 草履が砂をとばしたが、金吾はカッとした気味で、耳にもらず早足に横丁から雷門の裏小路こうじへぬけてしまう。
「もしッ、お侍さんてば!」
 やっと、その男が先の袖をとらえ得たのは、観音堂の境内、いちょうの葉に水の見えない池のそばで、
「ああ、息がきれた……」と胸をたたきながら小腰をかがめ、
「少しお話したいことがあって、四ツ目屋の露地から追いかけて参りました。恐れ入りますが、向うの淡島堂あわしまどうの裏へ、ちょッと、お体を貸して下さいませんか」
 と、甚だ馴々なれなれしい物腰であります。
 不審な目をみはって、金吾はまずこの唐突な町人に一べつを与え、おもむろに考えたことには、ははあ此奴こいつ、四ツ目屋の露地から出てきたといえば、或いは鼠賊そぞくうちの一匹ではないか。
 めったに、油断はならぬと思いながら、
「拙者に、どこへ来てくれと申すのか!」
「御立腹なすっちゃ困ります。その、ここはあまり人通りがございますから」
「うむ、それで……」
「あの淡島堂の陰で、とっくりお話を伺いたいと思いますンで」
「話があると呼びとめたのは貴様ではないか。拙者の方から聞かす用談などはない」
「どッちにしても同じことです。まア、ちょっとこッちへおいでなすっておくんなさい」
 袖をつかむ町人の手を切るように、パッと払って退けると、金吾は逆に相手の胸ぐらをつかんで、
「これッ、おのれは!」
 と、喉を攻めつける親指と共に、激しいまなざしで睨みつけます。

 金吾に襟元をしめつけられて、町人は喉の血管を太くしながら、
「待ってくれ! けッ、決して怪しい者じゃありません」
 悲鳴に似た声で手を振るのを、
「だまれ、おのれは日本左衛門の手先に相違あるまい」
「飛んでもねえことを、な、なにしろ、淡島堂の裏に待っている人に逢ってくれれば、話はわかる。く、くるしい、少し手をゆるめておくんなさい」
「待っている者がある? ……」と、金吾はいよいよ不審に思いながら突っ放してやると、その様子を見ながらニヤニヤして、池の唐橋からはしを渡って来た男があります。
 黒ッぽいみじん縞のあわせに石帯を固くしめ、片手をふところにして丸腰、弾力のある小肥りな肉じまりに、三十前後の風貌をあらわしてはいますが、市井遊侠しせいゆうきょうのばちびんとも見えず、そうかといって堅気らしくも思われません。
 そこへ来ると金吾の前に、カッチリした物腰で頭を下げて、
「お迎えにやったのは手前でございます。何か使いの奴が、不作法なことを申し上げたようですが、どうか御立腹なく」
 と、この方はまたすこぶる尋常な応対なので、金吾も今さら大人気ないことに自ら恥じながら、
「おお、拙者を呼び止めたのは、其方のさしずか」
「左様でございます。突然、お後をつけさせたりして、まことに失礼でございますが」
「して、そちは」
「初めてお目にかかります。私は、釘抜くぎぬきの勘次郎と申しますもので、そいつをちぢめて、釘勘くぎかんというのが通り名になっている目明めあかしでございます」
「ウーム、目明しと申すと、奉行手先の御用ききだな」
「御信用下さいまし」
 と、釘勘は、片手をたもとに落としてその袖口から、十手の端をチラと見せる。朱房しゅぶさでなく紺房こんぶさの十手であるところから察しると、南の手先で、かなりの岡ッ引を部屋に飼っている古顔の密偵とみえました。
「オイ、伝吉」
 と振顧ふりかえって、
「てめえはもう役済みだ、家へえって、部屋の者にあれだけを耳打ちしておいてくれ」
 と、喉首のどくびをさすって、ぼんやりしているのを追い返してから、金吾を誘って、わざと人ごみの観音堂の方へ歩きだします。
「定めし、びッくりなさいましたでしょう」
「どうも、何が何やらわからんのだ。が一体、目明しの其方が」
「なんで呼び止めたかと仰っしゃるのでございましょう。実は、わっしはくから、あの四ツ目屋を張込んでいたので、おとといの晩、切通しでの事、また、お屋敷から洞白の面箱が消えうせた事も、のこらず釘勘の閻魔帳えんまちょうにのっておりますんで……」
「あっ、あの騒動を存じておるのか」
「そこで今日、洞白が売りに出るかも分りませんから、旦那に知らせて上げるんです」
「売りに出ると申すのは、あの面箱がか?」
「そうで」
「人手に渡っては一大事、あの洞白の鬼女面は、文昭院様から大殿が拝領した品、毎年柳営りゅうえいのおのうには、ぜひ持って参らなければ将軍家へ申しわけの立たないことになる」
「ですが……」と釘勘は薄く笑って、
「面も大事な品でしょうが、それよりもなお欲しいのは、面の下になっている反古ほごの方じゃございませんか」
「そこまで存じているなら何も隠さぬ。いかにも『ばてれん口書』の一帖は、万太郎様に取って命から二番目の物だ。それが売りに出るとは耳寄りである。いッたい、どこへ行ったら買い戻せるだろうか」
いちでございます」
「市?」
「へい、そこへ、お連れ申しましょう」
「かたじけない。では、骨董屋こっとうやの道具市だな」
「なアに……」と釘勘は前後を見廻して、
「あなた方は聞いたこともございますまい、くらやみ市ともぬすいちともいう、おそろしい、世間の裏の盛り場なんで……」

 目明めあかしの釘勘がどういうわけでそこへ自分を連れて行こうというのだろうか?
 金吾も、これは多少疑わないでもありませんでしたが、深くたずねてみると、かれは、江戸の盗賊や掏模すりやけいず買いどもが集まる、今日の暗やみ市を機会に、一網打尽、大がかりな手入れをやる気組きぐみらしいのであります。
 目明し道徳とでもいおうか、釘勘は、万太郎や金吾の困惑を見て、手入れの騒動となる前に、あの洞白の面箱を何とか無事に被害者の手に返してやりたいと思いました。で、もしその品が今日の市に出たら、にかまわず買い取って行くように――と途々みちみちあるきながらも金吾に心得をさずけている。
 救いの神――と金吾は心に謝しながら、
「釘勘とやら、どうか、よろしく頼む。しかし、盗賊どもの集合している所へ、この姿では工合が悪かろうな」
「なあに、泥棒だからといって泥棒らしい姿をしている者は一人も居ませんから、かえって、私達もヘタに化けるよりはこのままの方がようございます」
「で、時刻は、夜半よなか頃になるかの」
「もうそろそろ寄っている時分です」
「え、この昼間?」
「急ぎましょう、洞白が人に買われてしまっちゃ何にもならない」
「どこだ、その場所は?」
「まア黙って、私についておいでなさい」
 釘勘は人ごみを縫って、サッサと足を速めだしてゆく、その足どりの様子では、浅草観音堂を中心とした盛り場を程遠くないようですが、金吾はいよいよ怪しんで、この真昼中、江戸も目抜きなこの辺にどうして、かれのいうような盗ッ人市などがあるだろうか、どうしても合点がゆかない。
 だが、釘勘は迷う風もなく、三じゃ権現ごんげんの広前をスタスタと斜めに急いで、矢大臣門の所でヒョイとうしろを振向いた。金吾の足が、おそいので、早く、と目でいているあんばいでした。
 大股に寄ってゆくと、
相良さがらさん、今、三社の前で、すれちがッた女がありましたね」
「ウム。あだッぽい櫛巻くしまきの女? ……」
「あいつは、丹頂たんちょうのおくめといって、名うてな女賊ですぜ、どうです、どこかの茶屋のかみさんという風体ふうてい、まさか、女の盗人ぬすっととは見えなかったでしょう」
「ほ、あれが」
 と、うしろを見たが、黄ばんだ桜並木の間を織る行楽の人通りに、もうその姿は見つからない。
 こういちいち釘勘の目を借りてみると、世間はあたかも百鬼昼行で、そこにもかしこにも、面をかぶった変化へんげの者が、すまして歩いているのに驚かされる。人を見たら泥棒と思え――成程なアと金吾は今さらに思うのでありました。
 馬道へ出ます。
 ここへ出ると、所々の人家のきれめに、枯れ尾花のくぼ地や、草鞋わらじを売る店や、駄賃馬だちんうまの往来などが頻繁ひんぱんなので、あたりは急にひなびて見える。
 遊冶郎ゆうやろうがかッたるそうに帰って来る吉原組よしわらぐみの駕もあれば、昼狐につままれにゆく、勤番の浅黄裏あさぎうらもぼつぼつ通る。午後の陽ざしに、馬糞ばふんほこりが黄色く立つ。
「どこへ行くのだろう?」
 金吾のいぶかりも今は一ツの好奇心でした。
 千じゅか、田中あたりか、ざきの森か、まさかこの順道じゅんどうをそのまま吉原へ入るのではあるまい。
 などと思っているあいだに、とある横丁よこちょうで、釘勘の姿がふッと見えなくなっています。

 おや?
 と見廻すと釘勘は、ツイと湿っぽい土塀露地どべいろじへ飛びこんでいる。俗に椎寺しいでらというその横丁から寺の門内をのぞいていると、待っていたように、ひとりの男が石井戸のかげからおどり出して、釘勘の耳に口をよせる。
 要所に、手配を伏せておく、かれが組子の岡ッ引ということは、うしろで見ている金吾の目にも分りましたが、
「ム……そうか」
 と何かうなずいて、囁き合うと、金吾をさし招いて釘勘はまたすぐにその横丁を走り出して、河岸かしぷちへ出てゆく様子。
「どこへ行くのだろうか?」
 金吾は一歩ごとに不審を増して後から続くと、今戸橋から北に寄ったそこは隅田川の三角洲、川口から向う河岸がしには三囲みめぐりの土手を見、すぐ右側には真土山まつちやま聖天しょうでん、森と木の間の石段が高く仰がれる麓であります。
 この辺に多い今戸焼いまどやき陶物すえものを焼く家、かやぶき屋根の壁の下に、雑多なかたちの素土すつちが干してならべてある。土間に藁ござを敷いて、轆轤ろくろをかけているおやじを見かけると、釘勘はまたそこへ這入はいって、
「おやじ、市へ来たんだが、合図を頼むぜ」
 と、声をかける。
「ふたりだね」
 と、焼物師やきものしは、轆轤ろくろを離れて、土間のうしろの戸を押しました。裏はすぐに隅田川の満々とした水で、
「よしきた。合図はしてやるが、親方、手配はずいぶん大丈夫だろうね」と、そこから、不安そうに釘勘を振向いて、念を押すのを、
「うむ、済んでいる。大丈夫だから、安心しねえ」と、釘勘がくり返します。
「しかたがなしに、仲間の者を裏切るのだが、もしこれがヘタなことになると、こッちの命があぶねえからの」
「あとはおかみでお前の体を守ってやるから、心配しんぱいしねえがいい。おお、何しろ早く合図をしてくれ」
「へい」
 と、おやじは、なかば不承不承ふしょうぶしょうに、裏の水ぎわから河岸かしつづきの竹林をのぞんで、何か、指合図ゆびあいずをしております。竹林といっても、それは叢々とした樹林ではなく、丸太林まるたばやしを交ぜた大きな材木屋の青々とした竹蔵たけぐらです。
 その間に、金吾はつれの方へ向って、
「釘勘」と、小声に、
「へい」
「あの今戸焼の老人もやはり盗賊なのか」
「なあに、あれは善人です。ただ幾らかの口止めをもらって、市の時には、ここで見張りをしている奴なので」
「その方の指図にしろ、よくその口止めを破ったものだな」
可哀かわいそうですが、先にあのおやじの娘をアゲておいて、そいつを責め道具に仲間を裏切りさせたわけ。ですから御覧なさい、おどおどして落着いていませんや、無論、私たちが市へまぎれこむとすぐに、おやじは今戸焼のかまちこわして、江戸の外へ逃げ出す寸法なんで……、なぜかって旦那、まごまごしていれば、すぐ仲間がその仕返しに命を助けてはおきませんからね。あいつらの怖ろしいことは、その仇をするっていう一念です」
 囁いているまに、おやじは、指合図が向うに通じたと見て、
「親方、行って下さい」
「御苦労だった。じゃ相良様、こっちへ」
 と、竈場かまばの裏から隅田川の水際みずぎわに添って行くほどもなく、そこは、厳重な陣屋門じんやもんと言ってもいい材木屋の木柵もくさく
 雑多な舟が何艘なんそうとなくもやってある。柵の中へ入ると両側はズッと青竹と丸太の林で、八幡やわたの藪知らずへ踏みこんだように、竹と丸太にすべての視野を遮った迷路が曲がりくねりして、やがて半町も行ったかと思うと、洞然どうぜんたるつき当たりの暗黒と、青白い一点の灯がボッと見えました。

 近づいてみると、立って自由に出入りのできるくらいな洞穴ほらあなで、奥の方から何かガヤガヤ雑音が聞こえてくる。そこの口元に、めらめらと人魂ひとだまのように見えたのは、鉄の灯皿ひざらにつるされた魚蝋ぎょろうの炎でありました。
 金吾の記憶にも、この真土山まつちやまには、金龍山草創前そうそうぜん水郷民族すいきょうみんぞくのあとや、土師はにしの住んでいた穴や、舟止めの水洞みずあながあるなどということは聞き知っていたが、その洞穴の跡も、この山の土をくずして日本堤にほんづつみを築いた時にあらかたは削りとられて、今では知る人もなくなっていると思っていました。が、しかし、今この材木場の奥に突き当って、そこに眺めた深い暗やみはたしかにその一ツで、俗に、聖天しょうでんあなといった跡にちがいない。
「相良さん、これから先は、あまり口数をきかないように。それと、武家言葉は禁物きんもつですぜ」
「ム、承知いたした」
 金吾は心得てうなずいたが、これはむずかしいと、自分でも思いました。今の返辞からしてすでに固い武家口調がぬけてない。
「じゃ……」と、あとは、目まぜで、釘勘は委細かまわず先に立って洞窟ほらあなへ入る。と、そこに裸火はだかびを立って、なぐさみをしていた男どもが五、六人、ぜにの音をザラザラとさせて、
「だれだッ?」
 と鋭い咎め声をガンとひびかせました。釘勘はすました顔で、
穴番あなばん、今日は御苦労だな」
「どこから?」
古河こがの重兵衛よ」
「あ、古河重こがじゅうさん。で、うしろのかたは?」
「村山の彦七。途中で一緒になったので、不案内だというから連れて来た」
「おかしいな、村彦むらひこさんはもう先程から奥に来ていますが」
「ありゃ東村山だろう、こちら、西村山のかたで、市へは初めてだが、丹頂たんちょうのおくめとはよく知っていなさる仲だ。おお、そういえば抜け買いの組はもうみんな来ているかね」
「おいでになっています。ツイお見それ申してすみません。さ、どうぞ奥へ」
 ひとりが立ち上がって両手でパッと暗やみを割るように開くと、ハネ上がったむしろの間から、赤い光線に塗られた奥の怪奇な光景が、びょうぼうとして面前にのぞまれた。
 嗅ぎつけない南蛮煙草なんばんたばこの煙やら魚燈のいぶりなどが濛々とこめて、そこにいる人間たちの数もしかとは分らないが、ざっと見ても三、四十人はうごめいている様子。
 なお端の方から個々に注意してみると、あわせ一枚の浪人もあれば、勤番風な侍もいる。十徳を着た宗匠体そうしょうてい、船頭らしい男、角鷹眼くまたかまなこの町人、堅気な大店おおだなの旦那ぜんとした者など、雑多な階級の色を集めていますが、その悪業において暗黒にむ陰性であることだけは皆ひとしく一致しております。
 が、目明しの眼でこの集合を眺めると、職業的に二分されます。一は盗む者と、一はさばく者です。需要と供給、泥棒とけいず買い、この両者が必要をもって寄る所に、当然、いちが立つわけであります。
 さすがな釘勘も目をみはってしまう。
 河ッ童穴の奥は、いつのまにか百つぼ程もひろげられて、板も敷いてある。羽目板も立ててある。むしろや座ぶとん、火鉢やせり台、立派な盗賊の都会、盗品の取引市場しじょうとしてさかっている。
 顔ぶれの中には、諸国の役人を血眼にさせている雲霧と呼ぶ兇賊や、常にその居所いどころの知れない抜け買い(密貿易)かしら先生金右衛門せんじょうきんえもんや、有名な道中師戸隠とがくしの伊兵衛、そのほか目ぼしい悪玉が指を折るにいとまもないのですから、その雰囲気をいだだけでも、金吾はおもてをそむけずにいられなかったが、南奉行所づきの中で釘抜きといわれた程に、職業的本能の強い目明めあかしの勘次郎、かれは吾知らずに、ブルブルッとしてくる総身そうみのふるえを抑えきれぬもののようでありました。

 幸いなことに、洞内を赤く照らしている灯は、煙草の煙にぼうとしているし、すでに市も進んでいるので、一同の喧騒と物慾にくらんでいる目は、そッとまぎれ込んだ金吾にも釘勘にもさしたる注視を向けていない。
 その渦の中で、ひとりの男が、
「ジャワ更紗さらさ!」
 と叫んで、絢爛けんらん反物たんものをひろげる。
「ジャワ?」
南蛮なんばんだ」
「どっちでもいい。さ、いくら!」
「一ちょう!」
「一丁三ッ」
「幾巻あるんだ?」
「五本」
「よし、オヤ指、一手で抱いた」
「次!」と、札を落す。「――奥ジマ十反、潮かぶりは一反もない上物じょうものだ」
唐桟とうざん、唐桟」
 指が出る。糶声せりごえがとぶ。
 引ッたくるように誰かがうける。とすぐに次! 次! 次! と順々に出る品物は、南京どんす幾巻いくまき鼈甲べっこう何斤なんぎん、皮、短銃、麝香じゃこう、さまざまな異国品ばかりが一しきりけいず買いの欲心を血走らせる。それは皆、抜け買いのともがらが、禁制を犯して、海からもち込んだ物でありましょう。
 中でも、あばき合いで糶上せりあげられたのは、阿片あへん、魔薬、毒のたぐい、紫ギヤマンのびんや黒い薬塊やっかいを見ると、けいずいどもは、肉を争奪するけだもののように、仲間争いをして引きこみます。この魅力、かれらの緊張ぶりをみると、それをまた強く要求している半面の社会というものが、当時江戸のどこかにも伏在していたに違いはなく、金吾は浅ましさに一種の悪酔あくすいをおぼえながら、思わず耳をおおい、それらの物の消化されてゆく社会の健康におののきを感じていました。
 そのうちに、
だぜ!」
 と叫ぶと、地物じもの、地物、とガヤガヤどよめくうちに、糶場せりばの手が変わっている。
 何を叫ばれても、それがみな符牒ふちょうなので金吾の耳には一向意味が通じないが、抜け買いの方が片づいて、こんどは細かい地の盗品が処理されるのだということだけは、どうやら分りました。
「さ、洞白どうはくの面が出るかな?」
 と息を殺していると、右の袖をグイと引ッぱる者がある。釘勘くぎかんだな。……とソッとうなずくと、またあとから来た者とみえて、四、五人の者がぞろぞろと二人の間に立ちはだかる。
 呼ぶわけにもゆかないので、そのままにしていると――一番に振られたのが、
本阿弥ほんあみきわめつき、堀川国広ほりかわくにひろ脇差わきざし目貫めぬき白魚しらうお蛇籠じゃかご、うぶご磨上すりあげなし! ……」
 と叫ばれた大名物だいみょうものの刀ですが、所詮、ここで見たのでは、小気味が悪くて、金吾の愛刀心もそそられたものではありますまい。
 紙入れ、軸、色鍋島いろなべしまつぼ、しゅちんの帯、そうかと思うと金泥の仏像や嫁入り衣裳、またかなりにもならないガラクタ物まで現れましたが、さて、どうしたのか、金吾と釘勘が目をすえて待つ、出目洞白の面箱という声はあがらない。
 すると、市も少しダレ気味になり、混濁した空気に各※(二の字点、1-2-22)の頭もだいぶ疲れたころになって、
珊瑚さんご! 珊瑚!」
 という囁きが交わされだした。抜け買いの手から出るなら分っているが、こんな伊太利珊瑚イタリヤさんご生地きじが、どうして誰の手から出たのかと、その売り手を怪しむ者の目が、やがて、隅の板場に胡坐あぐらをくんで、ジャワ更紗さらさの山に肘をつきながら、煙草をくゆらしている日本左衛門と四ツ目屋の新助を見出して、
「ウウム、相変らず、うめえ仕事をするな」
 と、感じ合っている顔つき。
 そして、符牒ふちょうの呼び値がかかりだすと、伊太利珊瑚の値は一躍百両を越えて百五十両の台になり、さすがな、買い方もッけにとられて口をつぐんでしまったと思うと、金吾のうしろから、肩越しに白い手がのびて、見事、これだけのけいず買いが寄りつけない値で、それを引き取った女があります。

 こんな世界にも女が交じっているのかと、金吾が、珊瑚の買主をうしろに物色してみると、どれもこれも目ばかり光る物騒な顔の中に、たッた一人、きわだって白い女の瓜実顔うりざねがおが、かれの視線を受けとって、
「あら――」
 といった調子に、馴々なれなれしいこびをたたえて迎えましたが、金吾には、夢々おぼえのない女なので、
「はてな?」
 と思ったまま見つめていると、女は前の二、三人を抜けてきて、押されるように背中へピッタリと寄りついたかと思うと、なまめいた髪油の匂いが、金吾の耳の辺にれるばかりに、
「旦那……」
 と、ぬるい息が囁きました。
「お忘れですか」
「? ……」
「しらばッくれているんでしょう」
「…………」
真間ままでお目にかかっているじゃありませんか」
「えっ」
紅葉見もみじみの日でございますよ。あなたは殿様のお供で、私は一人で、あの釈迦堂しゃかどうで御一緒になりました」
「あ……」
「そしてまた今日も、ここへ来る前に、たしか観音堂の手前で逢っておりましたね」
 この薄暗い中でこそ幸い、金吾はギョッとして顔色をかえたに違いありません。
 真間で逢ったということは自分の方の記憶にはないが、観音堂の境内で擦れちがったのはつい今し方――あの時釘勘が自分に教えた、丹頂のおくめという女がこの者であるのは、もう問うまでもないことです。
 しまった!
 ここで素性を知る者にとび出されては、もう釘勘の好意も滅茶滅茶で、下手をまごつくと生きてこの聖天しょうでんあなを出ることは不可能かもしれない。
 南無三です――悪い所へ悪く目ばしこい女が来合わせたもので、さすが強胆ごうたんな金吾も胸に早鐘をついていると、
「あ、それどころじゃない」
 女の指が、かれの背中を突いて、
洞白どうはくが……洞白が」
「えっ!」
糶場せりばに出ましたよ、お前さんの探しに来たのはアレでしょう」
「おお!」
 と、のび上がって前をのぞくと、覚えのある出目洞白でめどうはくの面箱を中心に、ガヤガヤと多勢の声が騒ぎ立っている様子ですが、それを一目見ると、かれは周囲の人間も場所も忘れて、思わず、
「か、買った!」
 と、夢中に手を振ってしまったものです。
 けれど幸か不幸か、単に買ったというだけでは、市の通用語をなさないので、かれの絶叫は一顧もされず、面箱は他の糶声せりごえにドンドンを争われている。
 金吾は当惑して、気が気ではあるまい。人手に取られては大変な品、ことに、けいず買いの手に移ったが最後、どこへどう行ってしまうか知れたものではないのですから。
 と言って――いかにかれがこの切迫にワクワクしても、すべての声が符牒ふちょうなので他の形勢がさっぱり分らない。およそ幾らくらいな値に行っているのか、何をワイワイやっているのか、てんで見当がつかないのですから、それらを圧倒して自分の手に落す一声がかれの口から言えッこはないのであります。
 釘勘は? 釘勘は? オオ釘勘はどこへ行ったのかと今になってあたりを見廻すのもすでに遅い話で、頼みにしていたその釘勘は、あなたにいる日本左衛門の射るような視線をよけて、人の足元から荷行李にごりの積んである蔭へ土龍もぐら抜けに隠れている。
「ちぇッ」
 と、金吾は歯ぎしりをかむ。
 市へ来ては素人しろうとはまるでおしにひとしいくらいなもの、まして、盗ッ市に於いてをやです。どうするすべもない。下手へたなことを叫べば、自ら、真人間を自白するようなものになる。
「ウウム、弱った!」
 腹の底でうめいていると、その時また、うしろの小声が甘いえりおしろいの匂いをふくんで、
「サ、早く引かないと、横合いからさらわれてしまいますよ」
 と、お粂が見すました止めの値頃ねごろを符牒で教えてくれたので、金吾はその通りに二声ほど呼ぶと、ポンと、首尾よく面箱はかれの手に落ちましたが、さて、その金です。
 品物を受取ったはいいが、幾ら払ったものかマゴマゴしていると、お粂が、
「七十両」
 と教えました。
 七十両、心得たと、金吾はよろこび勇んで紙入れを出しかけたが、どうして今日はかれ程な男が、こうも、たびたび血のあがったヘマを演じるのか、考えて見れば、屋敷を出た時に金子の用意などは無論していないので、紙入れを逆さに振ってみたところ、高々四、五枚の小判と一両に足らぬ小つぶがあるに過ぎないはず。
 ハッと思って、ふところへ勢いよく入れた手を出しかねていると、わきの下からそッと蛇のように忍んだお粂の手が、重いものを残して誰の目にも分らずうしろへ隠れたのでした。
 探ってみると封金、百両ほどな厚みです。
 金吾の一心はただ面箱を取り返したいことにあって、一瞬、何を考えているまもなかったことでしょう。その金を投げるが如く渡すと、うしろへ身を退いて、一散にあなを飛び出そうとしましたが、途端に、
「や、釘抜きッ」
「な、なにッ」
「釘抜き、釘抜きが潜りこんでいやがった」
「畜生」
「逃がすなッ」
 というすごい騒ぎです。
 グワラン! と岩天井の釣灯つりあかりが落ちる。百蝋燭ろうそくが火のついたままおどる。争闘です。なぐり合いです。たおれる音、打ち合う喚き、暗澹あんたんたる暴風が暗やみの洞窟内に渦を巻いて起ったのです。
 ダッ――と相良金吾、一足とびに穴を馳け出して来ましたが、どうやら釘勘が密偵ということを見破られて、袋だたきになっている気配。
「取り返す品を手にしたなら、私にかまわず逃げてくれ、あとは捕手の方寸にあるから――」
 とは前もってかれがいい切っていたことではあるが、みすみす群盗の中で袋だだきの目にあっている者を見捨てて、おのれの功にのみ急ぐのは、金吾として甚だ忍び得ない行為に違いありません。
 でも、人間は迷う。誰にせよこういう場合は、あとに浅ましいと思う迷いをする。求める品は手に返った、かれにも何か捕手との連絡があるだろうと、一瞬はそう自分の都合のよいように考えて金吾は足をためらわせましたが、その時また、息も苦しげに、ピピピピと奥の方で断続する釘勘の呼子よびこを聞いてまたゾッと身をすくませると、怒り立った一方のののしりが、
簀巻すまきにしろッ」
「たたッ殺せ」
「大川へ蹴込んでしまえ」
「うぬ」
「ふてえ奴だ」
 いかに残酷な土足にかけているかを想像させてひびいて来ます。
 胸に抱えた洞白どうはくの面箱を、竹蔵たけぐらの竹のかげへかくし込んだ金吾。
 遂に見すてては行かれないかれの本性は燃えあがる。
 らい了戒りょうかいとはいうが無銘で、まだ自身には血を試みたことのない一刀のつかを打つと、豹身ひょうしん、くるりッと返って、ふたたび暗黒の口をのぞんでおりました。

 かれが身をめぐらして引ッ返したのは一瞬でありましたが、元の場所へ馳け戻ってみると、こはいかに、洞窟の奥には、一点のろうの灯の明りも今の喧騒もハタとなく、またあれだけ居た盗ッ市の集まりが一人として見当りもせず、心なし、そこに有りやと窺われるものは、漆壺うるしつぼをのぞくに似た陰たる鬼気のただよいであります。
「やっ? ……」
 ですが――かえって疑心暗鬼は金吾をして、そこに兇猛な影が群れをなしやいばを植えて待たれるよりも、なおなおウカツに足のすすめない気がまえをしかと持たせて、
「うむ、鳴りをひそめたな」
 と身をかがめたり土の肌をなで廻すほどに、無明むみょうはかれをもてあそびました。そして、
「――釘勘ッ、釘勘ッ……」
 と、石を投げて古井戸の水をさぐるように、四、五たび呼びたてましたものの、自分の声がガァーンと穴山彦あなやまびこに変ってくるだけで、かれの返辞もなければ、あれ程な群盗が息を殺していようとも思われない。
 いよいよ変です。
 どうしたのだろう? つい今までここにわめいていた人間どもは?
 日本左衛門にほんざえもんは? 四ツ目屋の新助は?
 戸隠の伊兵衛、先生せんじょう金右衛門、雲霧や丹頂のお粂までが、一斉にどこへ身を隠してしまったのか。
 ――と相良金吾の怪しんだのはさることながら、帯の結び目にも抜け身を工夫している盗賊の寄り合いです。元より一方口の洞穴ほらあなに、あぶない市を開くはずはなく、必定、このあなのどこかには、イザという場合の抜け道があって、一匹の目明しを見つけると共に、さては! とそこから一同ドロンをきめたに相違はない。
 とすれば――いよいよ釘勘の身こそあぶない次第で、金吾は、
「あっ、いっぱい食わされたな!」
 と気づいて、にわかに頻りとその抜け口を探しだし初めたが、勝手を知らぬ上の暗中摸索、まるで、つぼに這入ってうるしをなでているようなものに過ぎない。
「面倒!」
 と焦心じれだして、この上は、外に出て彼奴きゃつらの間道をたずねるか、張番の男を締めあげて問いただしてみる方が早手廻し――と急いでそこを飛びだしてくる。
 途端です。
「あっッ」
 かれが仰天したのは、釘勘を救うべく、手に抱えていては邪魔だと思って竹置場の青竹の蔭へかくして置いた出目洞白でめどうはくの面箱を引ッさらってゆく男の影が、隅田川に薄陽うすびを落した夕もやをかすめて逃げて行く。
 カラカラッと、くう木枯こがらしと聞こえたのは、逃げるはずみに、その男が竹の束につかッて鳴ったひびきで、
「おお、うぬ!」
 と金吾の姿も林の如く立て掛けてある竹と竹との間をくぐって、飛鳥の如く追いました。
 追いつつ先の曲者しれものの姿を見ると、太縞ふとじま旅合羽たびがっぱこんのきゃはん、道中師戸隠とがくしの伊兵衛というのはあの野郎です――と釘勘が目で囁いた人相の者にちがいはない。伊兵衛の合羽は逃げ足の早さに吹かれて、蝙蝠こうもりの如く風を切っている。
 待て! などとこの場合に尋常なことを叫んでいる余裕などはなく、金吾の目はそれを睨んだまま息をつめ、ただ疾風です、ただ懸命です。
 ここで折角手に入れた面箱を横からしてやられて堪るものか。
 と思うと――材木場の薄暗い迷路の一方から、ひゅッと、烏蛇からすへびの弾力に似た一すじの飛繩が、かれの足を巻いて、らい了戒りょうかい空光からびかりと共に、おが屑の道に五体をもンどり打たせました。

 材木のかげや竹蔵の八方から、仆れたと見た自分の上へ、ワッとかぶさッてきた真っ黒な人数を、金吾は、必然に斬ってハネ上がりました。
 返り血をあびた脱兎だっと
 後も見ずに、七、八間ほど馳けだしたかと思うと――その時、
「御用ッ!」
 と、地を引ッ裂いた捕手とりての声が、たそがれの空にひろがり、つづいて、追いかけざまに、
「御用、御用」
 なだれ合って慕ってくる光が、横なぐりに降る氷雨ひさめにも似た十手であると初めて分る。
「あっ……」
 さては、賊の仲間とまちがえられたか――と追われつつ金吾も気がついた事ではあったが、もう及ばぬ場合、血刀のやり場に困りながら、一時のがれに真土の森へでも姿をかくすほかに道がない。
 隅田川に近いせいか、捕手の声が水と木の間に嵐のような音響を交わし合って、細い二日の月が梢に見える頃までも、そのたけびが麓にたえないようでありましたが、いつまで、笹の下にも居られないので、金吾は女坂の途中から身をあらわし、あたりに気を配りながら、静かに、聖天しょうでんの黒髪堂の裏へ登ってゆく。
 と。
 それも捕手のすきを待っていた者でしょうか、黒髪堂の床柱ゆかばしらに、守宮やもりのように貼りついていた男が、かれを見るや、
「お、相良さがら金吾か!」
 と声をかけて驚く面前に立ちはだかりました。
 ゆらりと仰がれたのは、広い肩幅とつばの深い編笠。で、
「今日はとうとうムダ骨折りだったな」
 さびのある声があざける如く笑ったものです。
「な、なにッ?」
「おれは、いつぞや推参すいさんした日本左衛門。切通しの晩の返礼は、充分うけてくれたようだな。しかし、今日は御苦労だった。屋敷へ帰ったら万太郎殿という坊ッちゃんに、よろしく言っておいてくれ」
「ウーム、おのれッ!」
 かッと燃えあがる血気にまかせて、編笠あみがさの用意も思わずに、飛びかかッたのは金吾に似げなき不覚です。
 夕月を斬ッた水の如き光は、編笠の肩をはずして、黒髪堂の床柱へ、ズンと深く食い込んだまま牙歯きばのように立ち、かれは大地に弓なりに仆れています――言うまでもなく日本左衛門に袖をくぐられた当身あてみ! あばらを折られていなければ僥倖ぎょうこうなのです。
「ばか!」
 高く笑った声を消して、その姿は、表の石段から浅草の灯のちまたへ向って、夜の鳥かとばかり早く走り去ってしまう……。
 金吾はビクともせずに仰向いていました。夕月を散らすしいの木の露が、やがて、かれの眉をも袖をもビッショリしとらして行くであろうと思っていると、どこかで、ギイ……と桟格子さんごうしく音がする。
 闇を割って、おくめの顔がそこを見ました。
 捕手騒ぎに抜け穴を出て、聖天の宮にひそんでいた丹頂のお粂は、何かうなずくと金吾のそばへ寄って、ジッと、悶絶している男の顔に見入っています。
 青い夕月をうけて、血の気のうせた金吾の顔は、おそろしく秀麗に見える。頬を寄せても知らずに、手を握っても知らずに、眉をひそめたままでいる男の顔は、多情な女の眼にあやしい思いをさせないでしょうか。
「妙に縁のある人だよ……」
 お粂は、真間ままの紅葉の日に、初めて金吾を見かけた時からの思いが漸く満たされてくる気がしてニッとその側を離れて立つ。
 だのに、金吾の体をそこに見捨てて、ふもとへ足早に馳けだしたのは妙だと思われましたが、程なくお粂に招かれた駕の灯が、女坂をブラブラ登って来るようでありました。

羅馬ローマの使者


 牡丹ぼたん畑の霜除けにキクイタダキが一羽、赤い口ばしを陽にいていている。
 十二月。
 正徳五年のあます日もおしつまりました。
 けれど、せわしない騒音が渦をまいている町中とは違い、ここは師走しわすとも見えないのどけさで、カサリ……と真ッ黄色な枯れ葉が灌本かんぼくの枝をすべる音も、時々、酔った女の耳朶みみたぶのような山茶花さざんかが地にこぼれる音すらも、耳につくくらい静かな昼です。
「お蝶さん、坐らないか」
 仲間ちゅうげん龍平りゅうへいは、霜よけの藁を取って、野菜小屋の前にバサリと敷きました。
 そして、どっかりと自分が先に腰をおろして、
「こいつは工合がいい、お太陽様てんとさまをふところに入れてるようだ。置炬燵おきごたつなら差し向いだが、差しならびの日向ひなたぼッこ。お蝶さん話があるんだから、ちよッとここへ坐ってくんな」
「だって……」
「何が?」
「こんな所にいて、もし、誰か来たらどうするの」
「臆病だなあ」
 龍平はお蝶のたもとへ手を届かせて、
「大丈夫だってことさ。同心でも来たら、お蝶さんは野菜小屋へ用があるふりをしているし、わっしは、ぽいと隠れてしまうまでのことじゃないか」
「もしか、人に見つかるとねえ」
「そんな怖がりんぼじゃ、色恋はできませんぜ」
「あら、八ツ口がほころびるじゃあないか」
「だから、素直におしなせえ」
「なアに……用って?」
 袂に引かれて、お蝶は龍平のそばへ身を寄せました。
 ここは小石川の窪地、丹下坂たんげざか切支丹屋敷きりしたんやしき
 ちょうど、ひる時分なので、広いかこいを見る同心どうしんも歩いていず、あなたの役宅もシンとして、折からこの山屋敷の奥は、わらを敷いて日向ひなたにならんだ若い仲間の男とあでやかな娘には、至って、安心のできる逢引あいびきの場所でありました。
 外の者はここを切支丹屋敷とよび、内部のものは山屋敷と呼んでいる。もとは宗門奉行しゅうもんぶぎょうの屋敷でしたが、今は数町四方を囲った石垣と九尺の板塀と、自然の森と藪とを残して、内部にはわずかな番所、役宅、お長屋、官庫、井戸、うずめ門などが散在しているに過ぎません。
 それと、たった一つの異人牢屋いじんろうや
 あとはすべて畑です。
 人参にんじんが作られてある。大根畑がある。茶の木がある。ぼたんに霜が除けてある。果樹園がある。
 そこへは時々、百舌もず山雀やまがら、文鳥、ひわ、目白、さまざまな小鳥がブチまけたように下りて来て、日ねもす歌っている。
 世間で思う切支丹屋敷とはまるで違っている。
 一口に、山屋敷といえば、水責め火責めの拷問ごうもん道具に、異人の血と陰火が燃えているように、外部の者は想像していますが、それは昔の話。
 六、七十年ぜん――元和げんなから家光時代、天草の変以後、しばらくはそうでした。しかし、その後は、幕府の手きびしい禁教政策で、まったく、この屋敷が不用になるほど、異教者の影が絶えていました。
 では、ここは空家あきやかというとそうでもない。
 今でも一人の異国人が、あなたの牢に数年間とじこめられている。その一人のために、これだけの広い場所が保存されてあるのですから、政策というものは厄介やっかいにちがいない。
 かんにして不善をなす。
 されば、山屋敷の内部では、仲間ちゅうげんやこんな娘までが、同心の目を盗んで、昼中ひるなか牡丹ぼたん畑の霜よけにかくれて、甘い恋など囁こうというものでしょう。
りゅうさん」
 お蝶は、男にもたれて、
わたしに話って……なんなの?」
 とろけそうなこびを目じりに流しました。
 おや、そのひとみには特徴がある。
 いつか、浅草の四ツ目屋へ、珊瑚さんごを売りにきた、紫頭巾むらさきずきんの娘の目です。

 お蝶が、敷いているわらを一本抜いて、白い指先に巻いて、もてあそびながら、
「え、どういう話?」
 と、生真面目きまじめになってのぞきこむと、龍平は、わざとらしく横鬢よこびんをかいて、
「それが、ちょっと、言いにくいことなのさ」
「なぜ?」
「たびたびだからなあ」
「じゃ、またお金のことなの」
「まあ、そんな見当けんとうだな。どうしてもまた、五十両ばかりることができちゃって、くれじゃああるし、弱ってるんだ」
 膝ッ子へ、がっくりと額をつける。
 お蝶の眉が少し曇りました。
 日向ひなたぼッこの幻滅――恋にはにがいものがつきものとみえます。
 だが、この娘も酔狂ではあるまいか。十人並以上の容貌をもって、何を苦しんで山屋敷の仲間ちゅうげんずれを恋の相手に選んで、無心などを吹っかけられているのだ。
 思案のほかにも程があろう。
 と――岡焼きの意味でなくとも大いに疑われますが、さてまた、そこには多少道理なわけがある。なぜかといえば、お蝶は、その青春の対象を、山屋敷のほかには求めることのできない宿命をもって生まれたものです。
 かの女は、混血児あいのこでした。
 宗門同心今井二かんの娘であります。
 今井二官といえば日本人の如くきこえますが、海をこえて布教に来た異国人です。しかし、かれは日本に着くと幕府に捕われて、きびしい責め道具に逢い、その宗旨をすててころびました。転宗すると、幕府の同心になり、この山屋敷のお長屋に住んで二十人扶持ぶちをうけ、大小チョンまげ、名も二官と名乗って、すっかり日本に帰化しています。
 そういう者を「ころびばてれん」と呼んで、幕府ではいい重宝ちょうほうに使って、生涯切支丹屋敷の飼い殺しとするのが例です。
 また、首を斬られた罪人の後家さんで、適当な女があると、それを妻としてくだしおかれるのも法則でした。
 二官も型の如く、ある罪人の後家を妻として、お蝶という子をもうけた。つまりお蝶は、ころびばてれんを父とし囚徒しゅうとの後家を母として、その仲に生れながらの宿命をもって美しい娘と育ちました。
 なんと、のろわれた美しさ。
 いかに美しくとも蜘蛛くもは蜘蛛として人に忌まれる。
 ころびばてれんの娘――お蝶にも青春がめぐってきた。けれど山屋敷にはいろいろな束縛がある。そこへ対象に現れたのが仲間ちゅうげんの龍平。
 こいつ、仲間にしては小才こさいもあり、あかぬけのした肌合はだあいもあるので、巧みに、お蝶の心をとらえ、よからぬ悪智を吹きこんでいる。
 また、お蝶も、こういう所で育ったせいか、数奇さっき双親ふたおやの血をぜた心に、因果な本能がかもされたものか、とかく悪魔的な行為を好む性格が、男によって、一層早く芽を出して来つつあります。
「――何も考えることはねえじゃないか。おやじの二官が持っている合鍵をちょッと借りて来りゃ、百や五十になる品物は、いくらもあの土蔵から引き出せるんだ。頼むから、何とか都合してくれよ、え、お蝶さん……」
 先頃も、同じようなハメになって、お蝶は父二官の合鍵を盗み、父が管理している切支丹屋敷の土蔵から、金目かねめの品物を持ちだして龍平に渡している。もっとも、男に与えたばかりでなく、伊太利珊瑚イタリヤさんごの生地を売った金では、自分の虚栄をも満足させていたのです。
「いいわ」
 お蝶は、遂にこばめない女でした。
「じゃ今夜、あの土蔵の窓の下に来て待っていてくれない? ……わたし、合鍵を持ってそこへ行くから」
「すまねえな」
 男は、小娘の胸に、ありありと高い動悸どうきを感づきました。

 古い柿の木だ。
 自分がこの切支丹屋敷の長屋に住んで帰化してから、も早や二十年以上にはなる。そして、また今年もすでに暮れようとしている。
 夢だ……。
 ――ころびばてれんの今井二官は、そんな追憶にふけりながら、手狭てぜま住居すまいの机によりかかって、しみじみと、縁先の柿の老木を眺めておりました。
 わからないものは人の運命。
 伊太利人イタリヤじんである自分が、日本の幕府の扶持ふちんで、髪や着物の風俗まで、この国の者とそッくりになって、五十に近い年を迎えようとは……。
 そして、お蝶という、娘までもつ身になっていようとは。
 故郷の――羅馬ローマの都の人々も、夢にも知らないことであろう。自分を日本へ宣教に派遣した法王庁の学林の友なども、きッと、かれは日本で捕われて殉教者じゅんきょうしゃの死をまっとうしたに相違ないと思っているだろう。いや、きッとそう信じている。
 面目ない。
 二官はそれを思うたびに苦痛らしい。
 使命を裏切った背教者!
 意気地なく十字架クルスをすてて生きのびているころびばてれん!
 長崎に、温泉うんぜんの山に、大村の刑場に、殉教の美しい血を惜しまなかった幾多の聖徒の名をけがす破廉恥漢はれんちかん
 それはみんな汝の名だ!
 と――遠い羅馬ローマの人々には知られなくとも、かれは常に頭の上から、神に罵られているが如く感じて責められるのでしょう、――今も机に暗い顔を俯向けました。
 その机の上には。
 こくめいに文字をつめた書類や綴文とじものがいっぱい。
 何かと見ると、辞書の草稿です。
 幕府の儒者じゅしゃ筑後守ちくごのかみ新井白石あらいはくせきにいいつけられて、聖書の洋語を拾って和訳することが、ここ数年、かれの仕事とされていました。
「ああ、また自分で気を腐らせた。忘れよう……及ばないことを」
 気をとり直して筆を持つと、
「二かん殿どの
 と、その時、形ばかりの竹垣をめぐらした裏口から、落葉をふんで、ひとりの同心が、
「よく精が出るのう。もう陽が暮れるのに、そんな薄暗い所でこんをつめては毒ではないか」
 と話しかける。
 南天の枝へ六尺棒を預けて、くつぬぎ石から投げるように、縁へ腰をおろしましたが、それはやはりこのかこい内に住む同心組のひとり、河合伝八かあいでんぱちと分っているので、べつに顔も上げないで、
「……こうして夢中になって書物かきものをしている間が、私には、無上の楽しみでございますから」
「ウーム、しかし、余り精を過ごして、体をそこねぬ方がよい。もし其方そなたがわずらいでもすると、あのお蝶が可哀そうだ」
「女親が先に亡くなっていますので、私も、お蝶の行末だけは、何かにつけて案じられまする」
「親心は、異国人でも、変りがないとみえる」
「むしろ、人一倍でございましょうな。何せい、血のちがった父のひとり娘……」
「ウム、けれど、お蝶も近頃は、目に立って美しくなった」
「はい、年頃は、争えませぬ」
「気をつけることだな、もう、そろそろ油断がならないぜ」
 と河合伝八の言葉は意味ありげでしたが、書物かきものかがんだままの二官は、
「あの美しさが不愍ふびんでなりません、いッそ、男か不縹緻者ぶきりょうものなら、生涯、山屋敷の中で暮らそうとも、まだ諦めようもございますが……」
 と、先の真意のあるところは耳うつつで、ただ子煩悩ぼんのう繰言くりごとと、たそがれかかる机に筆をなやめております。

 そこで、伝八はきせるを抜いて、
「火を一つ貸してもらうぞ」
 手あぶりを縁へ引きよせながら、ジロと、部屋の中から勝手口をのぞきこんで、
「お蝶は、見えんようだな」
「先程、畑の方へ、野菜をとりに参りました」
「ふウん……ひる頃には牡丹ぼたん畑に姿が見えたが」
「私が陰気なので、あれだけは、若い娘らしく、せめて山屋敷の中だけでも、好きに、飛び歩かして置きたいと思います」
「結構だ。けれども二官殿」
「え?」
「気をつけろよ」
「…………」
其方そのほうはまだ知らんようだが、悪い虫がついておる」
「……悪い虫が?」
 筆架ひっかへ筆を置いて、二官はゾッとしたように色を変えます。
「ウム、仲間ちゅうげんの龍平!」と河合伝八、妙に力を入れて、
「あいつ、拙者の見るところでは、どうやらお蝶に甘い言葉をならべて……」
 なおも言いかけようとした時に、コトン……と勝手の水口で、誰やら帰ったらしい物音。
 色を変えてボウとしている二官の前に、いつか伝八の姿は去って、入れかわる夕闇の畳目たたみめに、ゆらゆらと明りを揺らせて歩いてくる、朱骨しゅぼね行燈あんどんとお蝶のすそ
「お父さん」
「…………」
 二官は腕を組んだまま。
「ここでよろしゅうございますか」
 八畳の間の中ほど、竹脚たけあしの膳の出ているわきへ、行燈をすえて父に聞くのを、振り向きもしないで、
「ウム……」
 不きげんに、言ったのみであります。
 気にもかけないで、お蝶は、長い派手はでたもと片襷かただすきをかける。
 そして、暫くは、勝手で瀬戸物の音がつつましく、この寒いのに、香の物をきざむ音が、子煩悩な二官のはらわたみてきます。
「ばかな!」
 かれは、今の、不快な想像をうち消して、
「お蝶に限って、そんなことのあるわけはない。わしを異国人と思うて、伝八めが気をもましてみたのじゃ」
 自ら気をとり直して、雨戸を閉めたり、書物を片づけて、膳の前にきてみると、お蝶は、親の目にも見とれるくらい、濃厚な夜化粧よげしょうをいつのまにかして、父の給仕を待っています。
「つけて貰おうか」
生憎あいにく、温かい物が何にもなくなって……」
「いや、結構。だがお前は、今し方までどこへ行っておったのだ」
「御門鑑をいただいて、坂上まで、買物に行ってまいりました。お父さんの煎薬せんやくやら、私の、あの、春着を縫う糸なんかも……」
 もの言うたびに、黒髪の蔭で金の蝶簪ちょうかんざしがキラキラする。気をつけてみると、半襟はんえりや帯、袖口からのぞかれる襦袢じゅばんといえども、それは、山屋敷に住む者の娘などとは思われない贅沢ずくめ。
 貧しい二官は、お蝶が自力で、春秋しゅんじゅうの粧いを見事にやってゆくのを変には思ったが、聞いてみると与力の奥様に貰ったとか、縫い仕事をして求めたとか、巧みに言ってぬけるので、そうかしらと、信じて少しも疑わない。
「世間を知らないお父さん――」
 お蝶は、自分の父が、事情に暗い異国人であることを、ある時は、幸せだとさえ考える折があります。
 何しろ、十六、七までは、欲しいと思う紅を求め白粉おしろいを得ることさえもできず、極端な不自由と束縛された生活が、年頃になって、殊に龍平という悪い虫がついてから、にわかに異常な虚栄を張るようになりましたが、二官には、その怖ろしい物質慾の芽生えも、お蝶の、青春の危機にも気がついていない。
 ふと、伝八の口から耳にしたことさえ、つとめて、打ち消すようにして、敢て、幸福な眠りを急いでとこについてしまう。
 すると……その晩です。

 やがて――
 父娘おやこふしどをならべて、平和な夢に入ったかと思うと、二官の寝入りばなをうかがいすましつ、お蝶のかいなが、夜具の端から白蛇のように、父の枕の下をさぐっている。
「む……むウム……」
 二官が寝返りを打った途端に、かの女の身は機敏にちぢまり込む。
 木枕のきしみに、あの、妖冶ようやな顔を仰向あおむけにしたままのそら寝入り……。
 そして。
 眼をつぶりながら……。
 お蝶は蒲団ふとんの中で父の革巾着かわぎんちゃくを胸のところに抑えていました。――必死となれば切通しの晩の如く、日本左衛門に向って匕首あいくちをひらめかす程なかの女も、さすがに、父親はこわい。
 蒲団の中の心臓の音が自分にもハッキリと聞こえる。
 冷やッこい金物が、革袋かわぶくろの口からお蝶の指にさぐり出される。それは、辞書編纂じしょへんさんのため常に出入りするので二官が特に預かっている切支丹屋敷の土蔵のかぎ
 うしろ向きに、深く夜具のえりをかぶって寝ている父を見ながら、お蝶は、まゆを破って抜け出るのようにい起きて、壁の頭巾をとり、おもてをくるむ。
 水口の戸を開けると同時に、サッと流れこむ寒風を怖れながら、素早く、音を盗んで外へ出ます。
 まだ宵でしょうが山屋敷の中は真夜半まよなかとも思われる淋しさ。黒い同心長屋の屋根、お役宅の壁、それらは一所ひとところの森にかくれて、どこかで、気味のわるい夜鳥のき声がするなど、成程、世間の人が、切支丹きりしたん屋敷という名にあわせて鬼気陰々たる所と想像しているのも、いわれなき事ではありません。
「土蔵の下で、もう龍平が首を長くしているだろうネ……少し約束よりおそくなったようだ」
 お蝶の目には男の姿がチラつく。
 家の裏からやぶに添って少し出ると、バラバラバラバラ、雨のような落葉!
 そこに年ふる四、五本のひのきがあるので。
「オオ、寒!」
 と頭巾のはしを口にくわえて、お蝶の足が自然と早くなりましたが、それとともにどこかで不意に、
「お蝶さん――」
 呼びとめた声がある。
 遠いようで近い声――さびたる音声おんじょうでまた弱々しげな声でもあります。
「どこへ行きますか、お蝶さん」
「…………」
 お蝶はゾッとして、木の葉まじりの風に吹き止められながら、
「誰?」
 と言うと、
「わたしです、ヨハンです」
 えのきと榎との間に、たたみこまれた石牢の鉄格子。
 声のぬしはその鉄格子に、爪の長い手と蒼白な顔をすがらせて、前を通ったお蝶の姿に、なつかしげな瞳を呼びかけているのです。
「あ、ヨハンさん」
「いいところへ来て下さった。すみませんが、そのえのきの下に白い物があるでしょう」
「あ、これ?」
「ええ。私の、聖書バイブルとじが切れてしまって、そこへ、ページのはしが飛びました」
「取ってくれというの?」
「どうぞ……」と、牢のヨハンは拝むような表情をして、お蝶の手からそれが鉄格子の間にさし込まれると、いくたびも感謝しながら、古い聖書のページへ大事におさめました。
「もう七年」
 ヨハンは暗い中にかがやく目をして、
「――羅馬ローマの都を立ってきた時から、この牢にいる間、七年、一日も肌を離しません。こんなになるのももっともです。私の体さえ、このとおり痩せ細りました。ただお蝶さん――あなたはその頃からみると、よい娘になりましたね……」

 現在、切支丹屋敷の牢獄に、たッた一人いる異国人とは、すなわち伊太利イタリヤローマの人、伴天連ばてれんヨハンのことであります。
 かれは今から七年ぜんに、大隅おおすみの海辺に漂着し、江戸おもてへ護送されて吟味をうけたが、お蝶の父の今井二官のように、信仰をすててころばないところから、この終身牢に監禁されている。
 吟味所でかれを調べた新井筑後守ちくごのかみも、何としても、ヨハンが信奉をすてないのにはもて余したが、
(すべてその人博聞強記にして、かの国多学の人と聞こえて、天文、地理の事に至っては、われらくわだて及ぶべしとも覚えず)
 と自著西洋紀聞きぶんにも賞めて書いている。
 ころべば、幕府は妻家官禄かんろくを与えて優遇するが、ころばなければ、終身、この牢舎ろうごくに繋いでおく。
 日に、小麦の団子だんご少しと、野菜揚げと、干柿ほしがき二、三個。
 それで命をつないでいるヨハンですが、肉おとろえ骨あらわれても、どこか、かれが生気を失わないのに反して、扶持ふちをうけ娘をもって、とにかく、人間らしく送っている今井二官の方は、折にふるるごとに何か苦悶があるらしく、うかぬ顔つきを見る日が多いのは、この山屋敷のひと不思議。
 ころびばてれんと。
 ころばぬばてれんと。
 何しろ、皮肉な対照でありました。
 ところで今――こんもりした榎の下の暗がりで、ヨハンは石室の鉄窓からお蝶の夜目にもあでやかな影を見ながら、
「ど、こへゆきますか、こんな晩に」
 と怪訝いぶかしそうに問い直してくる。
「わたし?」
 お蝶は面倒くさかッたが、
牡丹ぼたん畑へかんざしを探しに――昼間、あの辺で失くしたのを」
 と、出まかせなことをいう。
「かんざし?」
 ヨハンは片言かたことの日本語で、
「アア、髪へさすかんざし? ……それなら、あした、明るい時に見に行った方がよいでしょう」
「だッて、もし、雨でも降ると、泥の中に埋まってしまうかも知れないんですもの……あたし、心配で、寝られやしない」
 こんな答えをする時のお蝶は、いかにも無邪気そうな、あどけない表情をして、あの毒針を心のどこへ引ッこめてしまうのか、ちょうどヨハンの故郷、羅馬ローマカピトルの丘の競馬場や浴宮に出入りする軽快な踊りッ子を見るように、かれに郷慕のまぼろしを描かせます。
「いつか、貴女あなたに話したいことを、私、胸に持っています」
 牢の中では、思い出したように不意にいって――
「お蝶さん、ちょうどいい、話があります」
「まあ、いやだ、気味のわるい人!」
 飛び退こうとすると、かの女の袖は、鉄窓にからんでいました。
「離して! わたしには、ほかにも急ぎの用があるんですからネ」
「気味がわるいことはない、私は神のしもべです。ころびばてれんのお前の父親てておやとはわけが違う」
「大きなお世話じゃないか」
「お気の毒な、さだめし、二官殿は良心に責められておいでだろう」
「うらやましかったら、お前さんも早くころんで、牢から出してもらえばいいのに」
「はははは……」
 あたりを忘れて笑ったが、ふと、改まって、
「私の国も羅馬ローマ。そなたの父親も故郷は羅馬。ふたりは、同じ国の同じ都の人間です。お蝶さんは、それを知っていますか」
「そんなこと、聞かなくッても分っている」
「じゃ……二官殿が日本へ来たほんとの理由わけを聞いておいでかな?」
「? ……」
「日本は禁教の国、徳川家では、海をこえて来た異国人と見れば、すぐ捕えずにはおかない。そんな危険を承知しながら、なんで、私がまた二官殿のあとから羅馬を立って来たか、そこに深い秘密がなくては……」
「離して下さいよッ」
 じれッたそうに袖を引いてうしろを見ました。
 そこには、いつのまにか、土蔵の方で待ちぼけを食って、たずねて来た仲間ちゅうげんの龍平。
 オイオイお蝶、いい加減にしろよ、いい加減に――。
 何をつまらねエやつに、いつまで引ッかかっているんだ――といわないばかりの鼻先をこおらせて、木蔭こかげに、弥蔵やぞうをきめてかがんでいる。

官庫の闇


 男の手招ぎに気がつくと、聞くのもじれッたいヨハンの話などは、もう耳にも入らないで、お蝶はその方へ馳け出しました。
「龍平かい?」
 かがんでいた影は、しびれをきらした膝ぶしをなでて立ちながら、つらをふくらまして、
「で、ございましょうよ」
「悪かったネ、遅くなって」
「お嬢さん、じょウだんじゃありませんぜ」
「オヤ、何が? ……」
「何がって、ばかばかしい、大事な約束を前にしながら、この寒空に、龍平を高野豆腐こうやどうふみてえに忘れッ放しでいいんですか」
「そんなに怒るもんじゃないよ。だッてね、今夜に限って、あのヨハンが私を見かけると、しきりに妙なことを言いかけて、離さないのだもの」
「あんな、生命いのちの火がとぼり切れているキリギリスなんぞに、生半可なまはんかやさしい言葉をかけると、かえって思いが取ッつきますぜ」
「ア、いやだ……そんなことを言ッちゃあ」
 ぶるッと、怖そうな表情をして、男の腕に巻きついたが、その柔らかい手は、少しも真から怖そうな脈のひびきではありません。
 そうでしょう、これから官庫の戸前とまえを開けて、男の歓心を買おうとするお蝶が、それくらいのことで、いちいち心臓を息づまらせていたひには、この暗さだけにも堪えられたものではない。
 切支丹屋敷きりしたんやしきの官庫。
 俗にお山庫やまぐらとよぶ土蔵の白壁の前に、やがて、さまよう人影があったのは、お蝶と龍平であったでしょう。さびしい夜廻りの警鼓けいこ提灯ちょうちんが、半刻はんときほどの間に一、二度、ぼたん畑からうずめ門の辺を廻って、そこを通り過ぎましたが、しかし、その頃には、別だん何の異状も見えなかったのであります。
 けれど、それをり過ごすと暫くしてから、
「お、鍵は?」
 と、うしろで、龍平の低い声がします。
 くずれた石垣の蔭から、無言で姿をみせたお蝶は、帯の間から取りだしたものを、思い入れして男の手へ渡しました。
 かの女は、このお山庫やまぐらの中に、およそどんな貴重品があるかをよく知っている。それは春の日永な頃などに、二官が調べものの書類をさがすのを手伝いながら、あきるほど見覚えていたものでしょう。
 百数十年来――二代将軍時代からのすすとほこりの中にそっとうずまったままそこにある物はといえば、手のつけられないガラクタもあるが、中には真珠の念珠コンタツ黄金きんこうがい珊瑚さんご法杖ほうじょうなど、すくなからぬ金目かねめの品物が、まま妙な箱や、聖像の銅板や、きたない襤褸ぼろの間などから転げて出る。
 それはまた何かといえば、皆、はるばる海をこえて、羅馬ローマの府や、スペインや南蛮なんばん諸国から、日本へ布教の目的で来て、かえって法度はっとにふれて片ッ端から殺された多くのバテレン達の――その所持品であり、着衣であり、祭器、書籍などという類の遺品かたみであります。
 されば、中には、当時の江戸ではまだ見たこともない、白金や宝石や異国の七宝珍貴な物が、あるべかざらざる所にあるわけでありますが、慾には抜け目ないはずの要路の役人どもが、それをほこりめて顧みないのは、幕府の人も、邪宗門といえば、絶対に忌むからで、まして、バテレン達の遺品かたみとあれば手も触れようとはしない。
 だが、龍平にはそんなことは、決しておかまいないことで、お蝶とても、父の手伝いにここへ入って、初めてそれを見つけた時には、
「まア、勿体ない」
 と、むらむらとしていたくらいなものです。
「――お蝶さん、見張りを頼むぜ」
 龍平は、鍵をうけ取ると、五、六段ほど石段をのぼって、戸前へかかる。
「あ、早く……」
 と、お蝶はそれに応じて、小走りに土蔵の裏がわをのぞいて来て、
「大丈夫……今のうちだよ」
「ウム!」
 と言うと、龍平の両手は、ガチリ、ガチリ、と大きな錠前じょうまえにふれておりましたが、その時、土蔵の横の網窓に、うッすらと中から不可解な光線がゆらめいていたのを二人とも知りません。

 全身を黒衣くろごにくるみ、目ばかりピカピカさせたやつ、なんのことはない四本足の蜘蛛くもと思えばたいして間違いはないヘンな人間が、手に一つずつ嵯峨流さがりゅう忍法手灯にんぽうあかりを持ち、ひとりならず二人ならず、土蔵の中の四角な暗天地に、鍵繩かぎなわをかけたり数珠梯子じゅずばしごをわたしたりして、あやしき活躍をいとなんでおりました。
 ――塗籠ぬりごめです。
 耳をつけても外では音の知れッこはありません。
 ――でまさかにそれとは知らなかった。混血児あいのこのお蝶も、また、錠前をカチカチやりだした御本人の龍平も。
 ところで、中なる土蔵では、
「――親分」
 と、ひとりの黒ン坊が、
「こんなものがありましたぜ」
「ウム、革箱かわばこだな」
 と言ったのは、本格な黒いでたちをした男、そばにも二人ほど控えていて、それだけは大長持に腰をすえ、
「明けてみろ……」
 と、大風おおふうあござし。
白蝋はくろうがいッぱい詰まっています」
「用はねえ」
「親分――」
 と、また厚布あつぬのの袋をかついでそれへおく。
「これはどうでしょう」
あらためるまでもねえ、煙草たばこの葉だろう」
「そうらしゅうございます」
「すててしまえ」
 スルスルと梯子をすべって来たのがまた何か見せると、用はねえ、違う、イヤ、それでもねえ、あれでもねえ、と次から次へ首を振って、ほとんど、この土蔵の中に何を求めるのか、かれの不機嫌にじおそれて、こまねずみのようにクルクル舞いしている黒衣の黒ン坊どもには、ついに想像がつかないものとなって、匙投さじなげ気味をあらわしました。
 で、とうとう見切りをつけることに一致した黒ン坊一同、ソロソロと長持の前にかたまッて、
「親分、もうこれ以上は、探しようがありませんが……」と、かぶとをぬいだ泣き声で、あやまり入った風情です。
「ウーム……」
 男は腕をこまぬいて、荒涼たる土蔵の中を眺め廻しておりましたが、舌打ちして、
「じゃ、しようがあるめえ。引き揚げよう」
「いめいめしいなあ」
 うしろで、舌打ちにつれて言うものがある。
「わっしは、七日七晩、焼き米かじッて、ここに住み込みで探したんですから、それで外へ出たひにゃもう半病人です」とさえ、中には言うやつがありましたから、これは、何かよほどな探し物だったにちがいありませんが、それは骨折り損になり、なおまだ、親分というものが何を求めるのか、意中のめない面々は、せめて、ここでそれだけでも打ち明けて貰いたいと主張するのが異口同音でありました。
「尤もだ、じゃあ話すから、誓いをしてくれ」
 と、一同へ他言たごんを封じて、
「おれとここにいる先生金右衛門せんじょうきんえもんとが、もう数年前から、何か手懸りのあるごとに探し廻っている品というのは……実ア、たッた一尺ばかりの短刀なんだ」
 浜島庄兵衛の日本左衛門、ここに初めて、手下の者へも秘していた、ひとつの大仕事をうちあけようとして、声調おのずから低まりました。
 塗籠ぬりごめの外では龍平。
 ガチリ、ガチリ……と、いつまでも錠前と取ッ組んでいる様子なので、見張へ廻っていたお蝶も、見ていられない気になって、
「ちイッ、なにをしているの」
「ま、待ってくれよ」
「鍵が合わないのかい?」
「ピッチリ這入はいっているんだが……」
「おかしいネ、貸してごらん」
 代り合って、こんどはお蝶の白い指が、冷やかな金物にふれました。

 日本左衛門を真ン中に、土蔵のうちでは黒いものが、
「短刀?」
「ウム」
「一尺ばかりの短刀ですって」
「ウ……」
「親分がそれまでに目をつけるからには、いずれ鈍刀なまくらじゃござンすまいね」
「もちろん」
「とすると――行平ゆきひら小鍛冶こかじ正宗まさむね、あんな仲間でございますか」
「いいや」
「少し下がって、千手院、手掻てがい志津しづ長船おさふねもの」
「ちがう」
「古刀ですか」
「うんにゃ」
「じゃ、新刀で?」
「そうでもねえ」
「はてね……。だが、相州そうしゅうとか伯耆ほうきとか京ものとか、およそ、その短刀の系図ぐらいは見当けんとうがついていねえんでしょうか」
「いる!」
「分っていますか」
「ウム、実は、羅馬ローマ鍛冶かじだ」
「えッ」
 と、ここで初めて黒い連中は、自分たちの反問が迂愚うぐというよりは、てんで、お門違いであったことに気がついて黙りこみました。
 しがない白浪しらなみの下ッにしろ、剣といえば日本のほこりと合点し、伊勢の玉纏横太刀たまきのたちや天王寺の七星剣などの古事ふるごとはとにかくとして、天国あまくに出現以来の正宗まさむね義弘よしひろ国次くにつぐ吉平よしひら等々々とうとうとうのえらい剣工を自分たちの祖先にもつことを三ツ子といえども知っていて、いわゆる銘刀めいとうといえばそこいらでなければならないと心得ているところへ、日本左衛門が、羅馬ローマ鍛冶かじ――とあまり意表外なことを言ったので、あたまも尻ッもなく皆ヘンな顔をして半信半疑、イヤ、無智をなぶられるのではないかとムッとした色さえ目つきにうかがえる。
「妙に聞くかも知れないが、決して、嘘やからかい事じゃあない」
 無智な手下たちの気を見てとることは早く、日本左衛門、
「――おれが生涯の大仕事として、ひそかに探し求めているのはその短刀の埋もれている在所ありかだ。最初の聞きこみはこの先生金右衛門、抜け買い(密貿易)のことで五島沖の南蛮船にもぐりこんで行った時、その船の加比丹カピタン(船長)から、おれたちに連絡のあることを見こまれて、頼む! と打ちあけられた仕事なのだ」
 真面目です。
 その口吻こうふんの真剣さは、やがてふわふわしていた手下たちの気をひきしめて、つばをのむ音もゆるさない。
 そこでかれが話すところには。
 短剣というのは正寸しょうすん一尺一分、黄金こがねづくりのつかにすばらしい夜光珠をめこみ、刀身なかみの一面には南欧美少女のおもが青金で象嵌ぞうがんしてあるとのこと。もとより鍛冶も持ち羅馬ローマの人で、かの国の王族だったと申します。
 その者は、日本でたしかにめいを終ったが、年も月も場所も、今ではおぼろにもただすよしがないともいう。
「夜光の短剣が見つかれば、ある王家が亡びずにすむのです。誰でもよろしい、それを手に入れてくれた方と何万金でも取引します」
 熱心に南蛮船から流布るふされたことが、抜け買いの者からだんだん波及してきて、その捜索が江戸へ移るにつれ、当然、緑林に息を吸う以上その顔色をはばからなければならない日本左衛門へ渡りがかかッて、果ては、かれをこの探し物の中心にもり立ててしまったわけである――ということも、この際話のついでに釈明しました。
 あの、四ツ目屋での、伊太利珊瑚イタリヤさんごと紫頭巾のいきさつ。
 それも実は、日本左衛門が、こいつは? ――と首をひねッた敏覚からつけてみた事で、その暗示から山屋敷をこえ、一歩進んで、官庫の中をこうかき廻したのも、まったく、はした金や珊瑚のカケラの小慾ではなく、目的は夜光の短剣、あるいはその手懸りにあったのであります。
 けれど。
 それは見事な失敗に終って、
「こいつらにも、無駄骨を折らせて気の毒だった」
 と思うままに、今、実相の一端を洩らしたのでありましょうが、意外にも、かれが話し終ると共に、
「はてね? ……親分、私はそれと同じ話をツイ四、五日前にもよそで聞きましたが……」という者が出てきました。

 日本左衛門には意外でありました。
 夜光の短刀の秘密こそは、まだ自分と、先生せんじょう金右衛門を頭にいただく抜け買い仲間の一部のほかには、こんりんざい、に詳しいことを知っている者はないはず。
 手下の前で、今、その一端をもらしたのも実に初めてであるのに、それをもう他所よそで聞いた者がいるとは、いかに、耳や勘の異常に発達した社会とはいえ、かれにしても驚かされたのでしょう。
 うっすらと眉間みけんに色をなして、
「だれだ? そう言うのは」
 声のぬしを物色すると、
「へい」
 と、うずくまった黒衣くろごのうちから、ひとり、神妙に存在を申し出る答えがありました。
「ウム、てめえはそつ八だな」
「へい」
 再度こう返事をしたのは、お人好しの率八と通称のある小泥棒。
 盗賊の中に籍を置いていて、それで、お人好しもないように聞こえますが、この黒い連中もこれで一社会をなしている以上、やはりその粒のうちにも、おのずから善と悪があり、義と不義があり、固い性質とズボラがあり、素走ッこいのと薄のろ、陰険なやつとお人好しのたちなど、箇々ここその箇性はさまざまでありまして、やはりかれらといえども悪を憎み、不義はそしるところでして、お人好しの率八のごとき、たとい稼ぎは下手へたにしても、相応そうおう仲間なかまの一員として愛護されて生きてゆかれるだけの組織にはなっている。
「前へ出ろ」
 その率八をあごで招いて日本左衛門は、
「――今おれが話したとおりなことを、よそで四、五日前に聞いたと言うが、そりゃあ、まったくか」
「まちがいなく耳にしました」
「どこで?」
溝店どぶだなの伊兵衛の家で聞いたんで……。今四、五日前といいましたが、それはおぼえ違いで、もう半月ほど前になるかもしれません」
 ――何を言ッてやがンでえ――と例に依ってクスクス嘲笑しかける者がありましたが、日本左衛門は、それで一笑に付し去ろうとはしないで、なおねつく、
「伊兵衛というと、道中師の伊兵衛のことか」
「そうです」
「あいつなら、たしか、いつぞやの市にも顔を見せていたな」
旅合羽たびがっぱを着て隅の方に立っていました。あの市からだいぶのちの話なんで……あっしは何の気もなく溝店どぶだなの近所まで行ったので、その伊兵衛のうちをのぞきました」
「ウム」
「すると、伊兵衛は居ません。あっしは腹が減っていました、飯が食いてエなと中に這入はいって見ると、炬燵こたつのそばに飲みかけの酒がありました。有難いと思って、それを飲んで炬燵の中へ寝てしまいました、ヘイ、ずいぶん永いこと寝ちまったんで……」
「ウム……」
「話し声に目がさめると、隣の部屋で、伊兵衛と易者えきしゃ馬春堂ばしゅんどうがコソコソ話し合っています」
「ふム……」
「とネ、親分、馬春堂のやつがでッかい声で――伊兵衛! こいつあ大変だぞ! えらい物が手に這入はいったもんだ――と言っているんで……オヤ、と障子の穴へ目を押しつけてのぞいて見ると、馬春堂と伊兵衛さんが、こればかしの、四角な箱をあけて、ウームと腕ぐみをして考えこんでいるあんばいでした」
「箱をけて?」
「へい、そのそばに、女の仮面めんが畳の上に置いてありました」
 うつばりから落ちる微塵みじんごみが、忍法手灯にんぽうあかりに、チリと燃えて、土蔵の中の夜は更けてゆきます。
 その外では。
 中から用意の心張棒しんばりぼうが掛っているということは知らないので、今は、お蝶と龍平、あたかも錠前の呪縛じゅばくにかかったように、かねば開かぬほど意地になって、蔵の戸前とまえを引いてみたり揺すぶッてみたり、苦しみぬいている様子。
 けれど……そこが開いたらどうだろう?
 むしろ、開かない戸こそ、幸いだったのではないでしょうか。

 率八は、それからまた、
「馬春堂と伊兵衛さんが、仮面めんを置いて、何を考えているのかしら? ……と、あっしも変に思ったので、障子の穴から見ているッてえと……」
 と、日本左衛門へ向って、話しつづける。
「なアに、二人が思案し合っているのは、その女の仮面じゃあなくッて、面箱の底から出て来た、虫蝕本むしくいぼんの方なんで。……生憎あいにくと、こちとらには文字が分りませんが、なんでも易者の馬春堂がそいつを口のうちに読んで、ウーム、こりゃあ尾州家で御刑罪おしおきにあったばてれんの調べ書だとか何とか言っておりやした」
「尾州家の……おっ、それが面箱か?」
「へい」
「合点がいかねえ!」
 と日本左衛門は、大長持に腰かけて抱えていた大刀のこじりを、ひじと共にトンと突いて、
「尾州家の面箱といえば、出目洞白でめどうはくの鬼女面――そういくつも世間にころがっているはずはねえ。ありゃあ、おれが市ヶ谷のかみ屋敷から持ち出して故意わざと市ではたいた品物、それも、ほンの意趣返いしゅがえしの悪戯わるさにしたことなので、相良金吾さがらきんごという家来が仲間にやつして入り込んで来たのも万々承知の上で、それへ売って返してやったのを……ふウむ、伊兵衛の手に渡っているたア初耳だ」
「親分、あいつは、伊兵衛があのドサクサまぎれに、さらッて逃げたんでございます」
 べつな乾分こぶんが横から告げます。
 なるほど。
 それには日本左衛門にも、うなずかれる節がある。真土まつちの上の黒髪堂で、突然、かれが斬りつけてきた抜きうちは諸手もろてをかけてきたのであって――今思えばあの時面箱を持っていた様子はなかった。
「まア、そりゃ、どうでもいいが……」
 深くは詮索せんさくせずに、先の疑問。
「で、それから、馬春堂が何か話したのか」
「そうです、伊兵衛さんの口ぶりじゃ、その面箱をポンと開けると、面の裏から、奇妙な、えたいの分らねえ、反古ほごつづったものが出て来たんで、その鑑定をして貰いてえというので、裏に住んでいる馬春堂を呼んで来たんでございます。そこで馬春堂が、ズウと読みながら、こりゃあ大変だ、途方もねえことが書いてある、ウウム、と唸りながらそいつを伊兵衛さんに解釈して聞かせます。あっしも、隣の部屋でツイお相伴しょうばんをして聞いちまいましたが……」
 どうもお人好しだけに、複雑な話になると廻りくどい。
 つまり。
 率八の話を綜合そうごうしてみると、それは尾州家の若殿徳川万太郎が秘持していた「御刑罪おしおきばてれん口書くちがき」の綴文とじものに相違ない。
 首きられたそのばてれんの口書にも、はるばる羅馬ローマの国から日本へ渡ってきたのは、夜光の短刀をさがしに来たので、決して、邪宗をひろめに来たのではない――という陳述がこまごまと写してあったのです。
 けれど、時の役人――尾州家の者も、異教禁令の色眼鏡いろめがねをもって調べているので、そのばてれんが夜光の短刀について、縷々るる陳弁ちんべんをつくしているにもかかわらず、
(巧みに虚妄を申し立つるといえども神威のお白洲しらすいかでかまぬかれん遂に拷問ごうもん四十三日目に条々伏罪して獄門にかけらる)
 と結んで、審議のあやまちは知らず、調書に誇って書いてある。
 けれど見る者が見ると、
(夜光の短刀をこの日本へさがしに来たのだ! 布教ではない! 夜光の短刀がほしい!)
 と白洲で叫びつづけたその者の口書には、どこかに真実がひそんでいたはずで、万太郎はそこへ自分の考察を朱筆で入れておいたものです。
 偶然――その口書の内容と、今、日本左衛門がここで一同に話したこととは符節ふせつがピッタリと合っている。
「ウーム、そうか。率八よく聞かしてくれた、礼を言うぜ」
 と、すべてを聞いて黙思した日本左衛門も、ここに一段と自分の捜索に眼界をひらかれた心地。
 思えば……。
 じッと冷静に夜光のまぼろしの遠い過去を思えば……それは二年や三年、きのうや今日に始まったことではないらしい。
 元和げんな、慶長のころ、すでに現在から百余年も昔のまだ江戸城創府の当時から、どうしてもなくてはならない夜光刀をこの日本に求めて、幾多の異国人が千里の波濤をこえ禁教の国を承知しながら、捕われても首きられても、生きかわり死にかわり、日月の転変と共に絶えまなく海のそとから訪れていたのではあるまいか。

 率八の話をきいて思わず深い黙思に落ち入っていた日本左衛門は、やおら、やがて、
「うッ、うーウむ……肩が張った!」
 土蔵の天井をつきぬくように双手もろでをさし上げ、人もなげなる伸びをして、
「さあ、いつまで、ここにこうしていてもしようがねえ。みんな! ぼつぼつ引揚げとしようぜ」
 ぬッくと、大長持から腰をあげました。
 そして自ら先に、黒頭巾を脱ぎすて黒衣くろごを解いて振り落とすと、下は常着のおはぐろつむぎ鶯茶うぐいすちゃ博多はかたかなんぞと見られる平帯。
 それに習って。
 一党の黒い連中もおのおの黒衣の一端からクルクルと仕事着の皮を剥きはじめる。
 見ると、それは縫目もなければ袖もない、並幅なみはば半反はんだんほどなただの黒木綿くろもめん
 それを器用に五体へ巻きつけて、四本足の蜘蛛くもとなって働いていたものとみえ、一斉に、黒ぐるみから脱け出すと、みんなふだんの通りな身装みなりで、ぬのは二ツに折って腹巻に締めこむ。
「腹が黒い」という語源が、そもそもこの辺りから出たものかどうか、それは詮索のほかとしまして、とにかく半だんの布、よく彼らに保護色を与え、機に応じ変に臨んで白くも黒くも意のままであります。
 ちょッと、たもとからくり出される数珠繩じゅずなわ梯子はしごや、脱いで腹巻になる黒装束などは、どうあっても根が武家である日本左衛門の才覚でなくてはなりますまい。嵯峨流さがりゅう手明灯てあかりやそれらの利用などを考え合せるに、この一流の黒衣くろごも忍者の故智を盗んだものにちがいなく、しいて名づければこう申しましょうか――白浪流しらなみりゅう早抜はやぬきの黒衣。
 さて。
 連中があざやかに引揚げ支度じたくをなし終ったのを見ると、抜け買いの先生せんじょう金右衛門が、
「おい、日本左衛門」
「ウム……」
 という気のない肩を打って、
「――がッかりのあとが理に落ちて、イヤに今夜は陰気になった。吉原とでも目先をかえて、大陽気おおようきにサンザメかそうか」
「よかろう、案内をしてくれ」
「雲霧」
「おう」
「行くか」
「なにしに否やのそうろうべき」
「は、は、は、は、こういう相談で破談になったためしがねえ」
「親分」
「親分、あっしも」
「てめえたちは鼻の穴でも洗って、どこかへ勝手に散らかるがいい」
 チリン、チリン、チリン、と分け前の小判が、こんな中でも燦然さんぜんとした光をもって、※(二の字点、1-2-22)めいめいの手のひらへ一枚ずつおどる。
「じゃあ――行こうぜ」
「灯を消せ」
 日本左衛門の声を最後に、ふッ……と前後に吹かれた息が、さらぬだに暗い真のやみを呼び落しました。
「…………」
 ズ、ズ、ズ……と一同のり足。
 先にやみをなで廻して、官庫かんこの戸の内側をさぐッて行ったのは、先生せんじょう金右衛門であったらしいが、さわり合っているそばの者も、匂いで知るほか誰やら判じがつかない。
 鉄のような分厚ぶあつけやきの一枚戸。
 そこの心張棒しんばりぼうへそッと手がかかった時、金右衛門の第六感をビクッとさせたのは、その外の声なき空気でありました。

入れふだ


 女性のねばりづよい執着。
 そのあるかぎりの精を蔵の戸に賭けて、お蝶はさっきから何ものもない様子で、そこを開けないうちは去り得ぬ心理になっている。
 かッたが最後――どんな大変がわくか、どんな危難が身に落ちてくるかも知らずに。
 かかればかかるほど、凡婦と凡夫、自己の錯覚に捉われてゆくばかりで、
「どうして開かないのだろう。こんなはずはない、こんなはずは……」
 精と根気をすりらすのみでした。
 そうです。かぎがきかないのかと一時思ったのは、あれは、龍平があわててカラ廻りをさせていたので、いつのまにかそれは立派にはずれていて、そのくせ、依然たるかずの戸。お蝶の根気も龍平の力もうけつけたものではない。
「よそうじゃねえか」
 とうとう男が、弱音を吹くと、
「なにさ!」
 かえってお蝶の方はやッきとなって、
「折角鍵をなにして来たのに、またいついい折があるか分りゃあしない」
「そうだなあ……。どれ、もう一度おれが」
 浅ましいやつ。
 まだ感づかずに、口をへの字に曲げて渾力こんりきをしぼっているかれの形は、力をこめればこめるほど冷蔑れいべつと滑稽を思わせますが、吾人にもこんな例がままあって、けばかえって不幸な扉を、無理にも開こうとし、その開かぬことを人生の不運となげいたりして、龍平と同じ努力をやることが処生の随所ずいしょにあるような気もします。
「あっ……お待ち!」
 その時。
 お蝶が不意に袖をひきましたが、龍平は磁力じりょくに吸いつけられてしまったように、
「ウムッ……強情な戸だなあ……」
「お待ちってば、龍平」
「こいつあ変だ。いよいよあかねえと相場がきまった」
「それどころじゃあない……」
「えっ」
「たれか来たようだよ、人がさ……」
「ど、どこへ?」
 と、かれがうしろへ目をやった途端。
 しまった!
 うずめ門のそばにある石井戸の陰から、こッちの様子を眺めていたらしい提灯ちょうちんの明りがチラッと……。
 はッと驚いて、男女ふたりがそこへしゃがみ込むと同時に、向うの提灯もふッと消えましたが、それと共に明らかに分るのは、タ、タ、タ、タッ……暗い大地をうって、ここへ目がけてくるその人間の跫音あしおと
「ちイッ、いけないねえ……」お蝶は龍平の手首をきゅッと握って、
「見つかったよ、見つかったよ」
「こ、こうしちゃアいられねえ」
 ひッ腰もなく、男が戸まどいして馳けだそうとするのを抑えつけて、
あわてでない……そんな方へ逃げだしてどうするのさ」
「おっ、来やがった」
「早くッ……姿を隠すんだよ!」
 じゃけんに枯れ草の中へ男を突きとばしておいて、お蝶自身はヒラリと石垣の下へ飛び降り、そこに乱雑に積んであった大谷石の間へ、機敏に体をひそませました。
 と!
 一瞬のを措かず、そこへ、疾風のようにとんで来たひとりの武士、六尺棒をかいこんで、ハッ、ハッ、と白い息をはきながら、
「はてな? ……」
 と、急がしい目くばり、白壁にさした人影をあたりに探し求めている。
 見るとそれは、夕刻、今井二かんと少し話して帰った、山屋敷常詰じょうづめ同心どうしん河合かあいでん八。
 ふと、蔵の戸前とまえをふり仰いで、そこの鉄錠てつじょうがはずされているのを見つけるや否、
「おおっ!」
 かれは、けぞるばかりに仰天ぎょうてんして、なんの躊躇ためらいもなく、六尺棒を小脇にしたまま、正面六、七段の石だんを、トン、トン、トンと勢いよく馳け上がってゆきましたが――それとほとんど同時に、目の前の大戸が、あたかも雷車の如き音を立って、グワラッグワラッグワラッと一気に押ッぴらかれたのです。
 そして。
 洞然どうぜんとした暗やみの口はシンとして静かでありながら、同心河合伝八は、脳天に浴びたあけの血を抑えながら、身を弓なりにらして仰向あおむけざまに、デンと、石段の下へ落ちてきました。

 もう――と霧に立って、あたりへ降ってきた細かい血汐の粒にお蝶は肩をすくめて、
「あっ……」
 歯の根をかみながら、口を破ッて出そうな驚きを、ジッと袖口でおさえました。
 今。
 蔵の錠前がはずれているのを見て、いきなり馳け上がって行った同心河合伝八が、そこの大戸があくよと見るまに、真っ向から唐竹からたけに割りつけられて、満顔くれないみた姿を下へ落としてきた意外な惨状さんじょうは、同じように、石垣のわきに身をひそめていた龍平の眼にもありありと映じたでありましょう。
 下へ落ちた伝八は、ただ一刀に絶命して、
「ウームッ……」
 と枯れ草の根をつかみ、滅前めつぜんの一さんともいうべき断末苦を、ピクリ、ピクリ、と四肢の先に脈うたせているばかり、
 ですが。
 お蝶にも龍平にも、どうして、誰に、伝八がかく斬りさげられたのか殆ど前後が分らない。
 こんな一瞬の気もちを夢中というだけで片づけるには、あまりに当人たちの心理が複雑でありましょう――言いようのない恐怖、疑惑、戦慄、さまざまな錯倒を胸に描いて、なお怖いもの見たさの目が無意識に、真っ黒な口をあいた蔵の戸前へつり上がッている。
 逃げるにも逃げられる場合ではなし、その気力もあり得ようはずはなく、疑惑とおののきを歯の根にかみしめて、虫のごとく、
「? ……」
 ただジッと、息をころしているほかにない男女ふたり
 すると、静かな空気のまま。
 魔法をもって吹き出された人間のごとく、蔵の中からのッそりと足をふみ出したのは雲つくばかりな大男――、栗色の衣類に野袴のばかまをうがち、肩のあたりまでふッさりと総髪の毛先を垂れた中年頑骨がんこつの武士、これ、暗中にその声のみしていた、抜け買い派の頭領先生金右衛門せんじょうきんえもんです。
 すぐあとから一本の刀の光が、海蛇かいだのごとく閃めいて見えました。星明りをうけて、それは日本左衛門と知られます。刀の血糊ちのりを拭いてとると、チーンと鳴りのいい鍔音つばおとをさせて、金右衛門と肩をならべて石段を一歩、一歩、と降りかけます。
 つづいて、まげをハネたいなせな若い男、雲霧の仁三にざです。
 でっぷりと肥った男、千束せんぞく稲吉いねきちです。
 一がん、じゃんかのこわい顔をした男、尺取の十太郎です。
 そのほか一味の乾分こぶんと名のつくともがら、あとから後からと姿をあらわして、魔形まぎょう一列を成すかと思われましたが、十二、三人目に出てきたお人好しの率八を殿しんがりとどめとして、もう土蔵の中にいた黒いのは、残らず出払ったかと思われました。
 ところが、また少し間をおいて、慌てて走り出してきたのは、今までの連中と違って、しなやかな線をもった痩せ形な人影。
 追いついて、先のむれじった時、ふとその横顔が白く読めました。道理で馳けて行った時の姿の見好かったはずです――それは女! あの丹頂のおくめでした。
 しとしと……と多くの足音が、遠のいて行くあとをのび上がりながら、仲間ちゅうげんの龍平とお蝶は、互に茫然とした顔を見合わせたのみで、なんの言葉もありません。
 一陣、夜更けをすさぶ野分のわきの声があります。
 ザア――ッと吹きめぐる風の渦は、山屋敷いちめんの畑や蔵や役宅やうずめ門や、すべての黒いものの影へ、おびただしい落葉をフリいて、同時に、塀ぎわで散らかッた十数人の魔形まぎょうの行方を知れないものとしてしまいました。

 翌日、山屋敷の騒ぎは案の如きものとなって、役宅からは与力よりきが、また総長屋の同心や小者までが、大変という声を耳にすると共に、何事かと朝飯の箸をすてて、孤立した白壁の建て物の前へ駈け集まってくる。
 わらわら飛んで来たはいいが、見るほどの者が皆そこへ来ると唖然あぜんとして、棒を飲んでしまった形です。
 官庫かんこの扉が押ッ開かれている!
 中は目もあてられない乱脈!
 さらに、戸前の下には同心河合伝八の謎めいた死骸!
 あまりの事に寄り集まった者が、きもをひしがれて茫然としていると、中にひとり盛んに驚き方を誇張して喋舌しゃべっている男がある。見るとそれは、大変! という第一声をあげてこの椿事を山屋敷じゅうにふれて廻った仲間ちゅうげんの龍平で、
「まったく、あっしゃ、生れてから今朝みてえにビックリした事はございませんよ。何しろこれですからね。何の気もなく起き抜けに奥の物置へ掃除の道具を取りに行こうと思うとこれなんでさ」
 大勢の者は、同じことを何度も言って廻る龍平のねつい話には殆ど耳うつつで、口をいた倉の戸ばかり見つめていたが、龍平は発見者たる立場を一同にうなずかすため、いっそう身ぶり手ぶりで、
「はじめ、あのうずめ門の向うがわから、何の気もなくこッちを見ると、お倉の戸が開いてやがるんで……。いつも東から朝日がさし初めると、この戸前の正面が薄赤くパッと冴えて見えるのが、今朝けさはイヤに変だがと思って来てみると、河合様が斬られている。あっしは、腰が抜けそうになりましたね、まったく」
「では、貴様が第一にこれを見つけたのだな」
 初めてかれの顔を顧りみたのは、役宅がしら早川勘解由かげゆで、
「よろしい、現場は拙者が預かる、一同はここを退しりぞいて、いつもの通り静かに役儀に就くように」
 こういうと側に居合した二人の同心に何か耳打ちをした様子。ひとりは龍平を連れて役宅へ戻り、ひとりはあとの者を追い帰して、直ちに、今日よりお許しの出るまで、山屋敷の者一同外出まかりならず、というきびしい触れを出して禁足しました。
 これは当然な処置でした。この切支丹屋敷きりしたんやしきは宗門方の自治で、町奉行ぶぎょうの支配でもなければ寺社奉行の権限でもありません。こういう騒動が起った場合も、それらの機関に力を借りるのはべつとしても、まず犯人の判定や、被害や目的の如何など応急な方針と処置は、当然、ここに常詰じょうづめとなっている与力同心たちの双肩にかかる重大責任です。
 で、勘解由かげゆは、あとに残って詳細に倉の内外を見て廻っている。それを終って、河合伝八の死骸を片づけたのは午後でしたから、とうとうひるの食事さえっていない。
「弱った……」
 役宅へ引揚げてきたかれの顔色はまっ青で、
「ウーム、弱ったことができた」
 ただ吐息をくり返すばかり。
 皆目、なんの見当もつかない。官庫を破った者は少なからぬ人数のようであるが、その目的とした所がまるで想像がつかない。
 このまま、これを幕府に報告して、町奉行の力を借りるとなれば、切腹は待つまでもなくそれと同時の仕事です。と言って、風の如く来て風のごとく去った群盗の所為しょいと察しても、それを捜索するにはあまりに山屋敷預りの自分たちだけでは微力すぎる。
 わずかに、勘解由が思い当るのは、これは誰か、内部のものが内から手引をしたのではないかという疑念。
 で――その翌々日、かれは役宅に白洲しらすを開いて、まえから禁足してある山屋敷内のお扶持人ふちにん残らず――しめて、二十七人の者を一所に呼び集めて、入れ札の下探りを試みました。
 入れ札。
 それは一体どういうことかと疑いながら、むしろ好奇な目で、ころびばてれんの今井二官は、何も気がつかずに娘のお蝶を連れ、神妙に、その中の頭数あたまかずとなって控えております。

 入れ札の白洲というのは、いわゆる犯人投票といったような方式で、当時、何か事が迷宮に入った場合にはまま行われたものだと申します。
 白洲といっても畳を敷きつめた役宅の広間なのです、正面には山屋敷あずかりの与力、熊野牛王くまのごおうの神紙二十七枚を三方にのせて前へ置き、側には、机を控えて同心と書役かきやく、左の袖部屋にも三、四の下役がおそろしく緊張したていで折目を正している。
 で、与力の勘解由かげゆは、呼び集めたもの一同へ向って、
「お上の御封庫を荒し、同心河合伝八を殺害した不敵な曲者くせものは、およそ此方このほうにも目ぼしがついておるが、前後の事情、また官庫の附近に落ちていた証拠の品などから察するに、どうも当夜おかこい内から曲者を手引したものがあるらしく思われる」
 ジロリと二十七名の頭数を見渡して、なおも一応入れ札を取るに至った理由をのべます。
 そして、言い渡しの終りに、
「たとい肉親朋輩ほうばいの親しい間がらであろうと、必ず隠し立てをいたさぬ事。万一虚偽の入れ札をなすものは下手人同罪であるから左様心得ておくように」
 神文誓紙しんもんせいしの形式をとった上に、改めて扶持高ふちだかの者から順々に一名ずつ書記机しょきづくえの前へ呼んで、熊野神紙くまのしんしへその当人の怪しいと疑いを抱いている者の名を書かせる。
 思い当りの全くない者は、
(誓って存じ寄り無之これなく
 と書いて棄権きけんしても一こう差支さしつかえないのですが、あとになって、当然知っていながら逃げたと分ると、これまた下手人同罪をまぬかれない破滅を求めるので、うかつなことも書けず当りさわりなく逃げておくのも容易に許されない仕組。
 扶持高の順番が一人一人廻ってきて、やがて指名されたのは今井二官です。二官は御封庫破りの騒ぎも寝耳に水でありましたし、それを手引したという疑いをもつ者なども、自身の周囲には思いよるところがないので、そのまま正直に、
(誓って存じ寄り無之これなく
 と、入れ札をすまして引き退がりました。
 次には、その愛娘まなむすめのお蝶の番。
 お蝶の濃艶な姿はこんな情味のない席にあって一層衆目をひきながら、静かに書記机の前へすべって、歌でも書くようにスラスラと何か入れ札をえて父のそばへ戻ってくる。
 最後に、八、九人の仲間ちゅうげん小者も、型の如くいちいち呼ばれて立って行く。そして中に交じっていた龍平は、入れ札を手にとる時、チラと、お蝶の方へ目をやりましたが、かの女の素知らぬ顔は横に向いて男のうしろ姿さえ心にかけぬふうでした。
 入れ札が終ると、一同は役宅を出て、※(二の字点、1-2-22)めいめいの長屋や住居へ戻ってゆく。そして、あとには勘解由かげゆと腹心の者だけが残って、一室を閉め切り、その入れ札を開くこととなりましたが、二十七枚の多くは、
(誓って存じ寄り無之これなく
 という札ばかりです。
 仲間の龍平が入れた札も同様でありました。
 ところが、最後に開いたお蝶の入れ札を見ると、それには優しい文字で明らかに、官庫破りの盗賊を内から手引きした下手人の名として、
 お小屋番のもの龍平。
 と、かれの名をした文字があらわれて出ました。

赤い櫛の女


 遠いところの昼の三味線――
 松の内の町を流す女太夫の糸でもありましょうか、例のけだるい稽古三味じゃみの調子はずれでもなく、ばちえと申すほどな鋭いさばきとも違って、なんとなく心をなごまされる長閑のどかな三絃の音が、張りたての障子紙を透して、ちょうどいい程度の音階に聞えてきます。
 枕元には、白茶の柄糸つかいと赤銅しゃくどうごしらえという柳鞘やなぎざや了戒りょうかい一刀と、同じ作りで吉光の差しぞえ
 また、鎌倉塗りの盆の上には、薬湯やくとうをせんじた薬土瓶くすりどびんと湯呑みが伏せてあって、そばには一鉢の福寿草ふくじゅそう。花嫁の丸髷まるまげに綿ぼこりがついているくらいな、目に触らないほこりがすこしたかッて見えます。
 その福寿草も開き切ってしまいそうな暖かい初春の陽が、櫺子れんじの窓いッぱいにさしこんで、蒲団ふとんの上に日かげの縞目しまめを描いていますが、その陽光と了戒の刀に枕元を守られている当の人は、春眠暁を知らずという甘睡かんすいの度を超えて、こんこんとしたまま、いつまで醒めよう気色けしきも見えません。
 眠れる人は、相良金吾さがらきんごでありました。
 金吾といえば、彼は尾張中将の放縦なる若殿徳川万太郎の側付き、その万太郎が市ヶ谷の上屋敷を放逐されたのちは、当然一緒に根岸の別荘に移って、主人と共に起居しているべきでありますが、ここは忍川しのぶがわの水門じり、上野のおなり街道を横切ってくる小川に添った片側かたがわ町の露地で、野暮にいえば下谷の源助店げんすけだな、丹頂のおくめがひとり暮らしの住居すまいであります。
「おや……」
 切壁の小襖こぶすまをあけて、そこをのぞきながらこう言ったのはお粂です。
「……まだ眼がさめない」
 枕元にやんわりと坐ると、長火鉢で加減をみてきたかゆなべたい刺身さしみをのせてきた盆を、一まず横の方へ置いて、
「――だが、瘠せたねえ」
 何を思うのでありましょうか、手を黒繻子くろじゅすの間に入れて、男の寝顔をしみじみとながめている。
 あれは十一月の頃でした。
 聖天しょうでんの丘から駕にのせて、相良さんをここへ連れて来てからもう二月ほどになる。わずかな間に、あんな凜々りりしい侍も病には勝てないで、こうも瘠せ細るものであろうか――とお粂が今更のような考えごと。
 その考えごとにとらわれるには、お粂の胸の中だけに、かなり深刻な魂胆こんたんりされています。
 と、いうのは、
 もともと金吾があの時の不覚は、日本左衛門の当身あてみ脾腹ひばらにうけたのみで、正気がつけば何も病床に親しむほどのことはない。おくめが駕にのせて帰って、一服の気つけ薬を与えれば、それで充分、元気は恢復しているべきです。――が、お粂があの時の親切気というものは、元々ふッと魔がさしたような、妙な心から発足していたので、どうしても、男をすぐに正気にかえしてしまう気にはなれなかったと察しられます。
 と言って、気を失ったままにしておいて、自分の置きたい部屋に、そっと据えておくこともならない。
 お粂が甘やかな親切気を見せて、気つけ薬と言いながら金吾に最初飲ませたのは、何か微量な毒のある煎薬せんやくで、かれは正気にかえると共に、一日ごとに、このを出られぬ体となってゆきました。
「万太郎様がお案じであろう、早く、一日も早く、わしは根岸へ帰らなければならぬ」
 金吾の囈言うわごとを聞けば聞くほど、かの女の甘い毒薬は少しずつ朝夕のかゆに増されて、春は来ても梅は咲いても、相良金吾、聖天しょうでん洞窟どうくつよりはさらに無明むみょうな妖婦の愛のとりことなって、今は、いつこの水門尻すいもんじりの隠れ家を出られることか、寝顔のかれも、枕元で見つめているお粂自身も、結び合されて解けない奇なる運命を、自分で作って自分でもどうなることか分りますまい。

「もし……相良さん」
 と、お粂はやがて夜具の中の昏々こんこんたる夢の人を軽くゆすぶって、なお醒めない寝顔に吾を忘れて見入っておりましたが、
「堪忍しておくんなさいね」
 こう詫びると、突然、自分の顔を男の頬へピッタリと押しつけて行って、美しいのある猛獣がこうばしい餌にじゃれて、うつつにでもなったような身ぶるいを寄せ付けつつ、
「帰しゃあしない……わたしゃあ、どんな事をしたってこの人を、自分の手から、帰しやしない!」
 囈言うわごとのように呟やき、ひとり涙を流しながら涙の甘さに酔いかけておりますと、
「お粂さん――御馳走さまだな」
 あらぬ所から思わぬ人声が飛びこみました。
 はッと男の体から身を離したものの、ここは丹頂のお粂が好きに手足をのばしている隠れ家で、まして茶室ごのみに壁で仕切ったこの奥の部屋へそんな不作法な人目はないはず。
 と、思って――お粂は自分の驚きを打ち消しはしたものの、もうたぎりかけた情炎は水を浴びせられたような心地で、吾ながらてれ臭そうに、そこへ落ちた丹色塗櫛にいろぬりぐしをやけに横へきあげました。
 あだめいた女がさす櫛とさえいえば、油艶あぶらづや生地きじをめでる黄楊つげと相場がきまっていますが、お粂がまださとの芸者でいた前身の頃、櫛に血色のりをかけて、それをくるわ流行はやらせたことがあります。今もさしているのはその頃の好みで、黒髪にうつる半月形の朱を、誰が見立てたか丹頂のお粂と、白浪仲間では通り名になって、文字どおり緑林の一点紅てんこう、噂によれば、さとから根びきした金の出しは日本左衛門だということですが、元々どっちも変り者、どうせ世間通例のおめかけでお粂が納まっているはずもなく、一方の日本左衛門とても、月何回と版木はんぎにかかッて出る定刊本のように妾宅しょうたくへ顔を出して、おほんと言っている旦那でもありません。
 で、この両名の関係は、仲間の者でもあいまいに考えられていますが、いつか見様見真似みようみまねで、稼業の方だけは、お粂もいッぱし一人前になって、時には女装へ黒衣くろごをくるんで、かれと共に行動をするし、ある時はまた単独であざやかな小遣い取りの仕事もする。
 そういうおくめが、真間まま紅葉見もみじみでどういうことがあったのか、とにかく、相良金吾にはよほど打ち込んでいた様子です。そして、日がふればふるほど、金吾をこの家から去らしたくない、その手段には微量な毒を盛って、いつまでもいつまでも、男を青い皮膚の色にさせて、この密室にとりこめて置こうとしている。
 そうした愛と毒心の矛盾に立ってお粂は今またそこで、
「相良さん、目をおさましなさいな。御飯ができましたから……ね、相良さん」
 と、今度はほんとに肩を抱いて起しかけましたが、それを聞くとどこかでまた、笑うらしいみ声がして、
「おやおや、朝ッぱらから……は、は、は、は、どうもお安くないことですな」
 襟すじへスウと風が来たので、お粂はムカッとしてうしろの櫺子れんじ窓を見ました。案のじょうです、そこの小障子を四寸ほどあけて、外から罪なところを覗き見している馬の如き長いつらが、
「どうも飛んだところを拝見しました」
 と、げらげら笑いながら謝っている。
 謝るくらいなら引ッ込めばよいのに、なおずウずしく馬面を貼りつけているので、お粂の仲の町張ちょうばりなかんぺきはいッぺんにそこへ叩きつけざるを得なくなりまして、
「なんだねまア、大きな鼻の穴をしてさ、物貰いのお獅子かと思ったら、その顔は馬春堂じゃないか」
「仰せのとおり、売卜ばいぼくの馬春堂でござるが」
「何がげらげらおかしいのさ、家にゃ、こんな九尺二間でも、格子作りの入り口があるんだからね、用があるなら表から廻っておくれよ」
「ところが、いくら訪ずれても、その表の格子が開かないと来ています」
 アア違いない! と気がついたが、ここで折れるのは業腹ごうはらなので、
「そうさ、初春はるだもの。開けておけばお獅子だの太神楽だいかぐらだの、お前さんみたいな長い顔だのと、ろくなものは舞いこんで来ないからめッ放しにしてあるんだよ。ここまで廻って来たついでに、用があるなら、台所から這入はいっておいで」

 朝から縁起でもない馬面うまづらが舞い込んで来たとは思いましたが、無理に金吾の寝心地を醒ますでもあるまいと、そっとかれの夜具を直してお粂が茶の間の方へ立って行って見ると、勝手口から廻って這入った馬春堂は、
姐御あねご、どうぞあちらの御用をごゆっくりと。――手前はお手数をかけずに、ここで頂戴いたしていることにする」
 折から長火鉢のわきへ出してあったお重箱の煮〆にしめをひろげて、猫板に乗せてあった一本まで、燗銅壺かんどうこに這入っております。
 腹を立てる値打ちもなくなって、お粂は友禅ゆうぜんの座ぶとんへ膝をくずしに坐りながら、
「用のありそうな顔つきをして来て、やっぱり目的めあては一口飲みたいんだろう」
「仰っしゃる通りでもあり、そうでもない用件も少し帯びて参ったので。まあ春のこと、一杯やりながら悠々ゆるゆるとそのお話をいたしたいと思ってな……」
 とかんに指を触れて見て、
「あちッ、ち、ち、ち、ち……」
 仰山ぎょうさんに湯気の立つのを持ち代えながら、
「ひとつ、姐御あねごもどうですな」
「有難くないね、お前さんのおしゃくじゃあ」
「いくら奥に色の小白いのを寝せつけてあるからッて、そんな憎まれ口をたたくものじゃありませんぜ、馬春堂だって、一年三百六十五日広小路へ売卜ばいぼくの野天を張っているうちにゃ、これでも、易はあたらなくってもいいから相談相手になってほしいといってくる御婦人方も少なからぬ男でしてな」
「ああ、そうかよ、うるさいね」
「人の顔を見るや否や、すぐに虫酢むしずの走りそうな筋を立てるのは、けだし丹頂のお粂さんひとりと言っても過言ではない」
「どういう訳だが、自分でを立てて見たらいいだろうにさ」
「その判断なら筮竹ぜいちくはいらない。梅花堂流の心易しんえきで、ちょッとこう胸に算木を置いてみるならば……ウムと……山天大畜さんてんたいちくの二爻変こうへん、浅き水に舟をやるのかたち――君子徳を養うのこころというところだ。兌沢だたくの水に離船りせんをうかべ、ものに行き詰るの有様で、水意あれど船走らず、胸にジリジリと開けぬものがこだわッて、それがその、つい広小路から近いので度々お邪魔にくる馬春堂のせいみたいに思われて、飛んだ飛ばッちりを食うという易のお言葉だ。――どうだいお粂さん、あたったろう、気をつけなくッちゃいけませんぜ」
 と、膝をあぐらに組直して、馬春堂の針をふくんだ手酌のあいさつ、この八見も一癖以上はありそうです。
「なるほど、まあそんなことかも知れないねえ」
 お粂は取り合わないふうに、かんざしの脚で、きせるの朝顔をほじりながら、
「見料にもう一本つけるから、さッさと飲んで帰っておくれ。今日は少し出かける用先を控えているんだから」
「よろしい、じゃぼつぼつ用談に取りかかろう」
 と二ツ三ツ手酌てじゃくを重ねて、
「ほかじゃないがお粂さん、あの奥に寝ている侍は、尾州の徳川万太郎の家来だろうね」
「それがどうかしたのかえ」
 胸にギクリとくるものをかくして、お粂はわざと何気ない眉を馬春堂へ寄せながら、ぷッと煙管きせる吸口すいくちに息を鳴らしてかんざしを髪の根へ戻しました。
「なに、どうもしやしませんが、その相良金吾に違いなければ、どうだろう、わしにあの侍の体を一日貸してくれませんか」

「おとぼけでない」
 お粂は糸切歯にゆがんだ笑い方を見せて、
「相良さんの体を貸してくれないかってお言いなのかえ? じょうだんも大概にするがいい、お前、他人様ひとさまの体を、損料ぶとんや蚊帳かやと間違えちゃ困るよ」
「じゃあ、どうだろう」
 馬春堂はお粂の舌頭ぐらいには、チクリとも感じそうもないつらの皮をして、
「ちょっと、手前に引き合わせてくれぬか」
「会ってどうするのさ」
「話があるんだ」
「私が聞いて取次いであげようじゃないか」
「御親切は有難いが、少し内密なことなので、じかに聞いて貰いたいと先方からも頼まれているので、どうも姐御あねごに話すわけにはまいらんて」
「……ヘエ、それでは、用があるのはお前ではなくって、だれかべつに頼まれている人間があるんだね?」
 いよいようさん臭いお客様と見て取って、長火鉢の猫板へひじをもたせかけているお粂のたださえ凄艶な目の底に、油断のない光を加えています。
「だれだい、その頼みは?」
「それも言ってくれるなと固く口止めされていてな……どうも弱った。だが何、決してお前さんの恋の邪魔をしようの何のというような腹じゃあないから……」
 と馬春堂はお粂のぶりを嫉妬と察して、あらかじめその人間が女でないことを釈明するに努めましたが、お粂のきげんは直りそうもなく、頑として、金吾に会わせることはできないの一点張。
 手酌に重なる熱燗あつかんの酒と業腹とが煮え合って、馬春堂は急に、
「オイ、なんだッて!」
 売卜ばいぼく先生あられもない権幕と居直りました。
「よしゃアがれ、おたんちんめ、相良に会うも会わねえもこッちの勝手だ。ありぁあ元々てめえが聖天しょうでんの市の晩に、日本左衛門には内証でくわえこんだ男だという話じゃねえか」
「ホ、ホ、ホ、ホ。そんなおせッかいな噂をしているひま人があるのかい」
「知らぬは亭主ばかりなり――日本左衛門はどうだか分らぬが、おら、道中師の伊兵衛から深いことを聞いているよ」
「伊兵衛? ……ああそうか、お前に何か頼んだというのは、あのからくり屋の小細工だね……」と、お粂が何か思い当っているすきでした。いきなり馬春堂はそこを立って、
「そんなことはどうでもいい、表にゃ駕が待たせてあるんだから、金吾はおれが連れて帰るぜ」
「――何をするのさ、病人だよお前、相良さんは」
 あわててお粂がその前に立ちふさがると、馬春堂は相手を女と呑んでかかって、
「そうよ、その病人をなおしてやるんだ。邪魔をすると承知しねえぞ」
「ふざけた真似をおしでない、丹頂のお粂の家でほこりを立てると、つまみ出すからそう思ッておいで」
「生意気なことを!」
 平手で横顔をはりつけようとすると、お粂もきいている女ではありません。
「人を見縊みくびったね」
 蘭花のまなじりにべにをさして、馬春堂の耳たぶをつかみ、力まかせに捻り廻して、
「さ、出ておいで! 出ておいで!」
 台所のほうへ引きずってゆくと、
「ちッ、この阿女あまがッ……」と馬春堂、真似もできない顔をして、耳がとれるか手を離さすか、大きなたいを不器用にどたばたさせて、その胸元を食ッてかかる。
 とたんに。
 棚の瀬戸物小鉢が、いっぺんにガラガラと流し元へ落ちて粉裂ふんれつしたのは、孔雀くじゃくおおかみ二つの体が、板の間へ組んで倒れたのと同時で、折から露地の表の方では、初春の獅子頭ししがしらを町内に振りこんであるく笛太鼓が、景気よくチャンギリを入れて乱調子に高まりました。
「あい、ごめんよ、ごめんよ」
 その時。
 露地の口元が人でまっているのをかき分けて、やっとそこを通りぬけ、お粂の家の前へ立ったのは、柘榴ざくろの皮みたいな頬ッぺたの色に春を象徴しょうちょうしたお人よしの率八で、
「あれ、親分……留守のようですぜ」
 と、開かない格子に手をかけながら、自分のうしろにヌッと立っているふところ手の青編笠あおあみがさ――日本左衛門へ口をとがらせてみせました。

「留守?」
「ええ、開きませんもの、これが」
「そんなふうには見えない、もう一度、でかい声で呼んでみろ」と日本左衛門。
 稼業がらの癖に、留守か留守でないかの見分けがつかないところはさすがに率八らしく、格子に顔を押しつけて、奥へ訪ずれることなおしばし、しかも、返辞のないのは依然であります。
 日本左衛門はその間に、かれを残して家の横へと廻っている。それは何の狐疑心こぎしんでもなく裏の様子を見るための摺足すりあしでありましたが、そこまで行かぬ櫺子れんじの窓下へ来かかると、二寸ほど開いている小障子の間から、春陽はるびれる煎薬せんやくのにおいが、薫梅くんばいのただよいに似てぷんと鼻へ……、
「そうか――」
 かれはお粂が風邪でもひいて寝ているものと直覚しました。で、何気なく前に馬春堂が立った所から四畳半の内をさしのぞいて見て、
「やっ?」
 お粂と思いのほか、どこかで薄ら覚えのある若い武士の寝姿が小屏風こびょうぶのかげに。
「……おっ、相良金吾だ?」
 思わず口走ろうとする驚きを、ペリッと笠のつばに折って、うしろへ身を退いたかれの口元には、見まじきものを見たような、不快のにがさをゆがめておりましたが、
「親分――」
 どんとつかるように馳けて来た率八がそこへ、
「やっぱり留守じゃありません、お粂さんは裏の方にいるようなんで、それに、変な物音が……」
 導いて行こうとすると日本左衛門は、何思ったか、反対の方へ五、六歩急いでお人好しの率八をうしろに見顧みかえり、
「おれは帰る、お粂にあれだけを耳打ちしてやってくれ」
 ただ一ごん
 ぽかんと、口を開いている間に、その姿は抜け道へれてしまったので、率八は仕方なく裏へ廻って勝手の腰障子を、
姐御あねご!」
 と、前の調子で力強く手にかけると、こんどは勢いよく開け過ぎて、あぶなく流しの前へさかとんぼを打つところでしたが、それよりもあッと驚いたのは、板の間で今や組ンずほぐれつの落花狼藉ろうぜき
 お粂を下にねじ伏せた馬春堂が、相手の胸元へ短刀を擬している。その光が率八の眼の玉へいきなり飛びこんだから堪りません。
「野郎!」
 というと有り合う獲物、何をつかんだか自分でも分らず、飛び上がるなり馬春堂の頭の上からザーッと手桶の水をおんまけて、
「姐御に向って何をしやがる」
 不意を食った馬春堂が下へころげ落ちたところを、手にふれた火消壺ひけしつぼをたたきつけ、騎虎の勢いはなお余って、まきや十能や火吹竹ひふきだけなど手当り次第に投げつける。
「ウーム、おぼえていろよ」
 寒垢離かんごりをしてッぱいになった馬春堂が、獅子舞ししまい遠囃子とおばやしを引っ立ててそこを逃げ出してから暫くしてのち――。
 お粂は髪を直し、濡れた着物をつけ直して率八を長火鉢のそばへ呼び、
匕首あいくちなんぞを抜きゃあがって、ほんとに、お前でも来てくれなければ」
 率八の労をとして膳の上を拭き代え、縁起払いにつけ直した酒をお粂自身の手でしゃくまでして与えながら、
「なんてえ、ゲジゲジだろう」
 と、なお去らぬ余憤に舌打ちを鳴らしています。
「姐御もまた、何だって、あんな野郎を寄せつけるんで」
「いくら不愛想にしてやっても、のこのこ来るのだから、手におえないやね」
「いつか私が、切支丹きりしたん屋敷の蔵の中で親分にも話した通り、あいつと道中師の伊兵衛はグルになって、この頃じゃ夜光の短刀を血眼ちまなこで探し廻っているてえことですぜ」
「ああ、それでだね……」
 とお粂のひとみが奥の方へうごいたには気がつかないで率八は、
「ところで、今日来たのもその話なんてすが、生憎あいにくと親分は帰ってしまいましたから、お言伝ことづけだけをいたします」
「親分……が来たのかい?」
「ええ、つい窓の下まで」
 ドキと不安を呼ばれたお粂の胸に、あの蒼白にして傲岸ごうがんな日本左衛門の怒色をふくんだ顔が浮く。
「で――話は急だし大変です。切支丹屋敷の一件が町奉行の手に移って、ぐずぐずしていると、ここも捕手の目につくから、今夜のうちに世帯をたたんで一時どこかへ姿を隠した方が無事だろうと、こう親分が御心配なすって、その耳打ちだけをしておいてくれといって帰りましたぜ」

噛みつく釘抜き


 がアーッと二、三羽のからす――御行おぎょうの松のこずえを打って、薄陽の残る御隠殿ごいんでんの森の暮色へと吸いこまれてゆく。
 ここは根岸の里。
 やぶ山茶花さざんかときれいな小川と、まして茶荘や寮構りょうがまえの多いここらあたり、礼者や太神楽だいかぐらの春めきもなく、日ねもす消えぬ道ばたの薄氷から早くもシンと身にみる夜寒よさむの闇がただようています。
 すると。
 かなり荒廃した海鼠塀なまこべいの一軒の屋敷、そこでミリッと生木の裂けるような音がしたかと思うと、松の枝をしなわせて塀を越えた一人の若者が、ひらりと、大地へおどり立ちました。
 空へハネ返ったこずえの先からハラハラと落松葉おちまつばの身にかかるのを払って、ふところから取出した秀鶴頭巾しゅうかくずきんを、
「うまく行った」
 と、いうていにニコッと眉深まぶかにかぶったのは、この廃邸の下屋敷に、行状の直るまではと、押込めにあっていた徳川万太郎でした。
 けれど、塀を越えて抜け出したところを見れば、まだその行状は相変らずなものと見えます。身なりは、絹の光の冷やかな着流しに紺足袋こんたびですが、さすがに同じ黒の羽織は掛けていて、秀鶴頭巾のかぶり振りに見るも、この恰好ですいぶん仲のちょうあたりの夜更けをうろついたものにちがいない。
「寒い……」
 肩をすぼめて急ぎ足に、かれがそこを離れてゆくと、藪のかげからまた一人の男が、
「――万太郎様、しばらく」
 と曲ってゆく孟宗藪もうそうやぶの抜け道を追って、
「万太郎様、万太郎様」
 呼んでゆきますが声が低い。
 それをいい事にして先へ行く万太郎は、耳のない振りをしていよいよ大股になる。
 ええまずい!
 外にまで張番はりばんを付けておくとは、まるでこの万太郎という者を囚人めしゅうどあつかいだ。
 ままよ、面倒くさい、打ッちゃらかして行けという気なのでしょう、そのまま御行おぎょうの松の先から横丁へ影を隠して、やがて上野のすそから山下の通りへ出ました。
 久しぶりで万太郎、娑婆しゃばの夜景にのびのびとして、雪踏せったを軽く擦りながら町の軒並を歩きますに、茶屋の赤い灯、田楽でんがく屋のうちわの音、蛤鍋はまなべ鰻屋うなぎやの薄煙り、声色屋こわいろや拍子木ひょうしぎや影絵のドラなど、目に鼻に耳に、ふるるものすべて偉大なよろこびでないものはありません。
「まず、飯でも食べての上の思案としようか」飢えてはいないが冬眠していたかれの習性が催促する。忍川しのぶがわという角の茶屋――外から見ると静かそうな二階があるので、三枚橋を渡ってそこへ入ろうとすると、辻に一本の枯柳があって、柳と細竹に風防かぜよけを廻し、掛行燈かけあんどん算木さんぎを書いた大道易者。
 びっくりするような、くしゃみが突然そこから聞こえましたので、万太郎の目がふと白くヒラヒラする机掛けを見ると、雨によごれた布の文字が――馬春堂流神易しんえき
 ハタとかれの足が止まる。
 万太郎は生れて初めて、六本の黒い劃線かくせんを朱がつらぬいている象形しょうけいに一種の頼りを感じました。久しぶりで世間の灯を見たとはいえ、かれは今、無明の迷路へさまよい出たも同然で、実は悠々ゆうゆうと酒食を求めに来たのではない。
 相良金吾をたずねに出たのです。帰らぬ金吾の身を案じて、その消息を知らんとして抜け出して来たのです。
 また、金吾が取返してくると言って出た、かの洞白の面箱と、その底に秘めておいた「御刑罪おしおきばてれん口書くちがき」の綴文とじものの行方も、何とも気がかりでならない。
 で遂に番人の目を盗んで飛びだして来たものですが、さて、何を手懸りに尋ね出したものか?
 その、迷路の靄に神易しんえき判断のうす明りです。
「ゆるせ」
 という万太郎は、吸われるようにそこの囲いへ身を入れました。
「お……」
 と提灯ちょうちんを向けたのは馬春堂。
 判断の前に風采ふうさいを一見して、これは掃溜はきだめに鶴の亡者もうじゃ、まずお掛けなさい、と愛想を言おうとしましたが、昼間、率八に水をぶッかけられた濡鼠ぬれねずみの逃げ出しがたたッて、すっかり風邪かぜを引いたらしく、また折悪しくクシ――ンと出るくしゃみを横へ飛ばしてしまう。

 ある紛失物を求めるために屋敷を出た家来が今もって帰らないがその者の消息が知りたい。
 まず、生死の点如何?
 あるいはそのもの変心して遠く出奔しゅっぽんしたのでもあるか、どうか。
 また求めに行った紛失物はかれの手に入っているのか、それともその所在ありかにあるのか否か。
 ――徳川万太郎はあらましこんなところを告げて大道易者馬春堂の一ぜいを乞いました。
 おぼるる者わらをもつかむの心理で、金吾の生死をひたすらに気遣うかれが、はかない八卦見けみの灯に吸われこんだ気持はわかりますが、さて、薄暗い卜机ぼっきに対して、くしゃみを殺した馬春堂の赤い鼻を眺めると、まことにたよりすくない易面が、かれよりは客の胸にこそ先へうかぶでしょう。
「ほう、紛失もの? ……また、御家来の安否とな……それは御心配なことで、イヤ、よろしい」
 と馬春堂。
 売卜ばいぼく先生は型の如く、早速、筮竹ぜいちくをとりあげて一本を端へのぞき、四十九本をザラリと押しもんで扇形にひらくと、思念の眼を伏せてひたいにあて、伏義ふっき文王周公の呪文じゅもんをぶつぶつ念じ出しましたが、するとそこへ、
「――お待ち遠さま」
 うしろの日月の幕の間から、顔を出したそば屋の出前でまえ持ち、けんどん箱の中からあたたかそうなどんぶり一個と、風邪かぜの一服ぐすりとを取り出して隅の方へおき、客と見てそのまま首を引っ込めました。
 パチ、パチ、パチ、パチ……
 略筮りゃくぜいを立てて算木をかえし、馬春堂はうしろへ忍びこんだうどんけが、あたら冷えることを頭の一部で惜しんでいる。
 万太郎は床几しょうぎをすり寄せて、
卦面けめんはなんと出ましたな」
「さらば……」と馬春堂、しかつめらしく机をにらんで、
「ウウム、お案じなさることはあるまい、凶兆はあるが、また一道の吉兆も見える」
「では、家来金吾の身にも、まだ別状はござらぬな」
「いいや、そうもいえませぬて。つらつら卦面けめんによって判じますに、こりゃその人が婦女の術中にちて苦しまれている。甘泉の美毒に酔死するか、吉に変って渦中からのがれ得るかという境目じゃ。しかもそれは今宵を過ぎては一命にかかわる」
 半信半疑に聞いていますと馬春堂は易書をくって筮竹ぜいちくの先で文字の行をたどりながら、
「ウウム水辺すいへんだな……これよりたつみの方、それも遠くはない所に」
「なに、その者がおると申すか」
「いかにも、北に向って湿気の多い袋地、その奥にある女住居ずまいの家に捕われている。ここから申せばまず忍川をたどって水門尻すいもんじりの近辺と思えば間違いはないでしょう」
 あたるも八あたらぬも八卦というが、遠くもない水門尻といえば、行ってその虚実を試みるのもよかろうかと、万太郎が見料を払ってそこを去ると、辻の陰からひとりの男が、姿を見つけて後を追います。
 それは根岸の孟宗藪もうそうやぶから声をかけて、頻りとかれを呼んだ男でしたが、あたりの人通りをはばかるのか、ここではただ先の姿を見失わないようにだけして、万太郎の行くがままに任せている。
 あとでは易者の馬春堂、たもとから鼻紙を出してチンとかみながら、
「は、は、は、は。今夜みたいにあたった易はねえだろう」
 独り呟やいたのも自慢にはならない。昼間、自分が見てきた相良金吾の居所、おくめへの仕返しにそれを万太郎へ教えてやったのですから、これは伏義ふっき文王の呪文に及ぶまでもなく、あたるにきまッた易断です。
 そこで先生、
「どれ、冷えないうちに」
 と、早速うしろの饂飩うどんへ手を出しましたが、おや? これはまたしからぬ話、出前持ちが置いて行った風邪かぜの一服薬だけは地べたに落ちているが、かんじんなどんぶりはかげをかくして有る所に無く、
「はーてな? ……いやにせ物が多い晩だぞ」
 目を皿にして、いくら見廻したとて見当りません。

 すると、日月星辰を描いてある灰色の幕のかげて、何者かクスクス笑う声がしたので、いよいよ驚いた馬春堂、そこを払い退けて外へ首をつん出しましたが、
「これはしたり」
 とばかり、呆れ返ってものがいえない。
 さてこそ曲者くせものです、呆れましたが疑問のうどん掛けはここに所在を明らかにしました。すなわち、いつのまにか幕の裾から失敬して、うまそうにスルスルと柳の下で立食いしている奴がある。
 斑竹ふちくの皮の饅頭笠まんじゅうがさに、軽そうな、燕色つばめいろ合羽かっぱを引ッかけ、後ろ向きになって、汁まで飲みほした上に、
「アア、うめえ。御馳走様」
 ひどい礼儀もあったものです。食べた杉箸を忍川しのぶがわへ抛り込み、からの丼をしゃアしゃアと馬春堂の手へ返して来ました。
「ふざけた野郎だ」
 と、丼は受け取らずに、その腕首を引ッつかんでくれると、
「おッと、止せやい」
「何をいッてやがる、乞食かッ貴様は」
「止せったら、馬春堂。おれだよ、おれだよ」
 手を捻じられながら、笠のつばを上げて顔を見せたのは、下谷溝店どぶだなで同じ長屋のわるさ仲間、道中師の伊兵衛でありました。
「なあんだ、おめえか」
「折角のあつらえ物を冷たくしちゃ勿体ねえから食べてやったのよ」
「よけいなおせっかいだ、風邪を引いた気味なのでワザワザ熱くして頼んでおいたものを」
「何でまた酔狂に、春先から風邪なんぞ引きこんでいるんだ」
「それもお前に頼まれた一件からだぜ」
「どうして?」
「お粂のうちで水をっかけられたのよ」
「じゃ、例のを探りに、行ってくれたのか」
「ところが、その方の首尾は散々でな」
 と、馬春堂は伊兵衛の期待へあわてて手を振って、
「まあ、こっちへ這入ってから話すとしよう」
 風けの蔭へもぐり込んで、火鉢ひばち代りの摺鉢すりばちの火をほじり立てます。
「おめえが頻りと気にしているから、実は今日お粂の家へ様子を見に行った。ところが御安心なものさ、その金吾は病人で腰が立てない」
「それじゃ、あの仮面箱めんばこをおれにさらられても、今のところじゃ、取り返そうとしておれをけ狙っているようなぶりはまずねえな」
「そんな元気はないようだよ」
「ないようだじゃ心細い。金吾に会って、そらとぼけながら口裏を引いて見りゃいいに」
「それをやろうとしたのが大しくじり、会わせてくれというと、いきなりお粂がたつみあがりに怒りやあがって」
「意気地がねえな、女に水をぶッかけられて引き退さがったのかい」
「なあに、水をかけた奴は率八だがね」
「どっちにしてもめられた話じゃねえ。だがお粂の所にかこわれていても、金吾が病気といやあ安心だが、また一ツいけねえことが降ってわいたな」
「今行った、徳川万太郎かな」
「そうよ、あれを馬春堂、お前は尾州の若殿徳川万太郎と知って、金吾の居所を教えてやったのか」
「ウム、あおいのくずし紋や物いい人品、尋ね物と来た時に、すぐそれだなと感づいていた」
「どうする気だ! 飛んだことをしゃべったじゃねえか。もし万太郎が金吾の体を取っ返して見ろ、今度は二人がかりで紛失物ふんしつものを探しながら、この伊兵衛の命をけ廻すにちがいねえ」
「なるほど」
 馬春堂はお粂に対する腹いせに、金吾の居所を指してやったのですが、いわれてみると伊兵衛の言葉がもっともなので、
「こいつは、悪い易を立ててやった」と、悔いを噛んで目をそらしました。
 と――その目の前の往来をかすッて、十四、五人ずつ二組ばかりの捕手とりてと組子が、手に手に十手をしのばせて、忍川の川尻へ真ッ黒になって馳けて行く――。

「やっ、捕手が廻っている!」
 と馬春堂は腰をうかして、宵の町に黄色く舞った砂ぼこりの行方へ眼色を変えましたが、すねに傷を持つ伊兵衛の挙動も同時にソワソワし出して、
「たいそう仰山な人数だな……こいつは悪くすると、また当座だけでも江戸から足を抜かないと剣呑けんのんかも知れねえぞ」
 あわてて腰へ煙草入れをさし込み、笠のひもを締め直しましたが、不意に手を出して、
「オオ、それから、おめえに預けておいた洞白どうはく仮面箱めんばこ、あいつを貸してくんねえか」
「持って行くのか」
「おめえに預けておくのは心許こころもとないし、おれが持ち歩いているのも物騒。いッそのこと人目にかからない山の中へでもけておいて、それから悠々と夜光の短刀を探しにかかろうと考えているんだ」
「成程……だが伊兵衛、お前はそれについて、これと目星がつくような手懸りがあるのかい?」
「あるものか。見当がついているくらいなら、こんなまごまごしちゃあいない」
仮面箱めんばこを持って行くはいいが、ひとりでうまい事をしちゃあいかんよ、初めから、この馬春堂も半口乗っている仕事だからな」
「気を廻すにゃおよばねえ、そんなに造作のない物なら、あのばてれん口書を持っていた徳川万太郎が、とうの昔にどうかしていら」
「何しろ、でかい騒動になったものだ」
「どうして」
「夜光の短刀のことを知っているのは、その万太郎と日本左衛門と――それからおめえにおれというわけだ」
「ウム、腕にかけても、伊兵衛がきっと探し当てて見せる」
「そう問屋でおろしてくれれば、おれもおめえも一躍して百万長者だが」
「何より頼りになる、あのばてれん口書がこッちの手に這入っているのが強味じゃねえか、心配するな。オオ早くあれを出してくンな」
「伊兵衛、おれも一緒に出かけよう」
「どこへ?」
「どこへでもいいやな。おめえの行くがままにいて、夜光の短刀を探す旅をして廻ろうじゃないか。もう馬鹿馬鹿しくって、この寒い野天のからッ風にふるえながら、待ち人や縁談の亡者を相手にしちゃいられなくなった」
「そいつもよかろう、じゃそのささらと四角い木だけを背中へ背負しょいこみねえ」
「お手のものの道具で旅易者か」
「おれが食えなくなった時は、途中でチョイチョイやって貰うことにするぜ」
「こいつは助からない役廻りだ」
 にわかに、幕や机やき箱などを片づけて、伊兵衛も共に手助てつだいながら、野天の世帯はまたたくうちにたたまれる。
 どうせ捨てて行っても、至って惜しくもないガラクタばかり、算木と筮竹ぜいちくさえ風呂敷にして首へ巻いていれば、行く先々に渡世の名目はあろうというもの。
 馬春堂はどんぶりの中へうどんの代金を残しておく。
 そして、最後に。
 ジューッ……と忍川の流れから白い煙が噴き揚ッたのは、おさらばのついでと景気よく蹴込んで行った摺鉢すりばちの残り火でしょう。その濛々もうもうたる白煙が薄れた跡には、ドロンをきめた二人の姿、すでに、どこへ行ったか分りません。
 …………
 一方は秀鶴頭巾しゅうかくずきんに夜寒と人目をさけつつ、水門尻の袋地を頻りと迂路うろついている徳川万太郎。
 ここに戸を閉めきった一軒の構えがある。
 表通りで女住居と聞いたには、たしかに、馬春堂の言葉とふしの合うところがあるが、まだ寝るには早い時刻、それなのに、中から漏れる明りも人声もなく、これはどうやら空家らしい。
 まさか、易者の言葉を真ッ向に信じて、戸をたたいてみるほどの勇気も出ない。
 ピタリ、ピタリ……とかれはうちのまわりを一周してジッと考えこみましたが、その袋地の闇に何をか感じたのでしょう。
「あっ……?」
 といって立ちすくみに、ぶるるッと身ぶるいをしましたが、時やおそし、万太郎がハッと気づいた殺気のただよう所から、闇を切って氷柱つららのカケの如き短い光がすねへ向って飛んで来ました。

 ぶ――んと低くかすッて来た光の筋!
 万太郎の右足が上がって、雪踏せったの裏でカラリッと大地へ落とされた物を見ると、それは銀磨ぎんみがききの丸棒にりの打った鉢割という武器で、やはり捕物道具のひとつ。
 形は小太刀に似て作りは十手と同じこの獲物えものを持つものは、無論、八丁堀の捕役とりてか、奉行ぶぎょう手先の捕方とりかたに限ったもので、
「やっ?」
 と、蹴って返す万太郎。
「無礼なッ。何者だ!」
 尾張中将の御曹司おんぞうし――徳川家の門葉六十万石の気位は、時と場所と自身の変装とを忘れしめて、投げつけられた不浄道具に、かッと、若殿らしいいきどおりの大喝を、袋地の隅へゆるがせました。
 ですが、その怒れる声の張合いもなく、向うの気配はシーンとして、ただ氷の如く張りつめる殺気と人の動きだけがてとれる。
 露か、氷柱つららが光るのかと、闇に見えたのは十手の数――それもようよう万太郎の目に、微かながら読めてきました。
 しかしながら万太郎には、不浄役人に陣を以て待たれる理由は毛頭ない。
「――人違いであろう」
 早くも察したので胸をなだめて、早足に露地の口へ引っ返して来ると、表通りから馳け込んで来た男の影が、
「オオ、万太郎様で」
 と、出会いがしらにバッタリと、膝を折って足元へうずくまりました。
 今し方、どこぞで聞いた声のようだが――と思いながら、影ににひとみをこらして見ると、ガッシリした町人ていの、大地に膝を突いてかがまっている様子、手坑てむかいすべき態度でないのは分っているが、嫌なことには此奴こいつも一本、銀のギラつく磨きの十手を、いている手裡しゅりにかくしてつかんでいます。
「――路傍、かような場所がらで、身分の低い手前などが、直々じきじきお声をかけるのさえ、何ともおそれ多い次第でござりますが、事火急かきゅうの場合、特に御仁恕をもって、暫時ざんじ応対御免下しおかれますれば、有難い儀と存じます」
 ははあ、こいつはわしの素性を知っているな。
 万太郎はかく思いましたので、
「ウム、ゆるす!」
 きぬずれの――ふところ手。
「呼び止めたのは何の用事であるか、申して見い」と、屋敷言葉で鷹揚おうように見下します。
「と申すお願いは、ほかでもございませんが、今夜は手前が十手の指図役となって、御府内の兇賊狩を決行いたしております晩なので、貴人の御身として、かかる所をお歩きあっては御身辺の危険、ことに吾々にとりましても、配置追っかけ誘引の捕物の陣取上に、まことに邪魔になって困却いたします」
「邪魔になる? ……」
「へい、恐れ入りますが、今宵はすぐ根岸のお住居へ、お引取り下さいますように」
「だまれ、左様な指図はうけんでもよい」
「と、お怒りも無論であろうと、実は最前からたびたびお呼び止めいたしながら、心怖じけて差控えてまいった次第、ここまでの辛抱を何とぞお酌み取り仰ぎまする」
「なに、最前も※(二の字点、1-2-22)しばしば呼んだと申すか」
「塀をお越え遊ばして、あれから、盂宗藪もうそうやぶの技け道をお急ぎなさいました途中でも」
「や、では、あの時の声は?」
「不作法ぴらおゆるし下さいまし、手前に相違ござりませぬ」
「ふーむ、してそういう其方そちは、一体何者であるか。また、なんで拙者にこのまま帰れと申すのか仔細をいえ」
「申しおくれました。手前は、食いついたらきッと抜くといわれた釘抜きの勘次郎――と申す南方みなみかたの目明しにございます」
 会釈がすんで腰を立てる。
 炯々けいけいとした釘勘の眼。
 かの聖天しょうでんぬすいちへ金吾と共にまぎれこんで見破られ、日本左衛門の手下のため、袋だたきに会わされて、隅田川へブチ込まれた釘勘が、痛手を養って衰えぬ姿を、ここに見せたは久し振りです。

 金吾のこと、お粂の恋、道中師伊兵衛と馬春堂の関係など、すべての経緯いきさつはここで釘勘の口から万太郎の胸へ手短てみじかに移される。
 しかし。
 飛耳張目ひじちょうもくの稼業がらとはいえ、どうしてそこまで仔細に釘勘の探りが早くついていたかといえば、手懸りは例の切支丹屋敷――官庫荒しの一件が逐一町奉行所の手へ移されたがためでした。
 だが分らない。
 町奉行所でも、どうしても分らない一つの疑問。
 そも何のために日本左衛門らが、山屋敷の官庫を無益にかき廻したのか、その根本の目的であります。
 解けぬ謎を解くべく、釘勘が今夜の手配に先立って、根岸に押込められている万太郎を訪ねたのは、つまりそれが重大な動機。
 けれど、下世話げせわに通じている紺足袋の若様とはいえ、先は尾張中将の御末子、正面から行ったところで番士が会わせるはずがない。
 で、どうしたものか? ……と孟宗藪もうそうやぶの立ち思案に、思わず時を過ごしている所へ、天来の人影は秀鶴頭巾しゅうかくずきんであったのです。
 すぐ、声をかけたものの、先の身分や往来を考えて、つい気おくれしているうちに、その万太郎の彷徨ほうこうは、釘勘が折角線を引いておいた今夜の捕物配置を無意識に、打ちこわして行く結果になったので、かれは、
「ええ、しようのねえ坊っちゃんだ」
 どれほど、ジリついたか分りません。
 今夜伊兵衛が姿を現わすのは分っていたので馬春堂の掛小屋かけごやへ首を突っ込むところを、二人一緒に御用にするところだったのが、悠々と万太郎が這入って話し込んでいたため、その機会を逃がしたのみか、またそこを出た万太郎が、袋地の捕物陣へ邪魔をしに来ました。
 この袋地では、釘勘が、夜半よなかからあけにかからぬうち、きっと、日本左衛門を網の魚にしてみせるといい払って、宵から八方の暗がりへ組子を伏せていたのです。
 日本左衛門はもう一度必ずここへ来る。
 夜半よなかから朝までの間。
 釘勘は自信をもっています。目明しの霊感を以てその信念のもといてある捕物陣です。
 だのに――万太郎が雪踏せったを鳴らして、ぶらりぶらり、さなきだに感覚的な盗賊たちの目をひくような彷徨をやっていたひには堪ったものではない、ぶちこわしです。
 かれが万太郎に向って、
「邪魔になる」といったのはここのこと。
「根岸のお住居へお帰り願いたい」とおもてを犯して突っ込んだのも、要するに、金吾の身の上は自分の方策で何とかするから、あなたは大人しく屋敷に居て吉左右きっそうをお待ちなさいましという意味に受け取って差支えない。
 暗愚ではない徳川万太郎、一部始終を聞き終って、
「ウム。ウム。おお、そうであったか」
 尋常にうなずく事はうなずきました。
 しかし、素直に帰る気色けしきはなく、
「日本左衛門が官庫を荒らしたには深い理由がある。金吾に力添えをしてくれた礼として、その秘密をそちだけに洩らしてつかわそう」
 こういわれたのには、雀躍こおどりをした釘勘、
「あっ……それを。有難う存じます、では暫く、あの空家へでも這入って」
 みずから案内して戸を明けた家は、今は藻抜もぬけのからとなって、金吾もお粂の姿も見えず、薬の香ばかりが壁に残る一番奥の四畳半。
 南町奉行所朱文字しゅもじの提灯――外へ明りが漏れないように、それを押入れの中へともして、釘勘は冷たい畳にかしこまる。
 万太郎は、座敷にあった小机に腰をかけて、羅馬ローマの王家からあらゆる手を廻して日本に求め来つつある、刀身に南欧美少女の象嵌ぞうがん――つかに夜光珠をちりばめたる奇剣のいわれ因縁を、縷々るる低音に語り聞かせます。
 更けてきました。――こうしているまに、もう真夜中ともおぼしいころ。
 果たせるかな、その時刻になると、霜の降りたせいかほの白く冴えた袋地の一端に、ぼッと、三ツの黒衣くろごが立っている。
 ただし、その三個の人影は、表から露地を通って来たのではなく、地つづきの浄音寺境内から、いけ垣をもぐってそこに現れたものと察しられます。

 怪しげな三人の黒衣くろご、足元を見ると高飛びでもするような、わらじ脚絆きゃはんのこしらえです。
 何か囁やき合っていましたが、やがてお粂のうちの窓近くまで忍んで寄ると、中の一人が、
姐御あねご、迎えにまいりましたぜ」
 のび上がって家の中へ――
支度したくはできていましょうね。へえ、率八でございます。昼間打合せに来た率八がお迎えにまいりましたんで、いつもと違って今夜はだいぶ捕手の配りが厳重だから、とても姐御ひとりでは逃げきれまいと――親分も心配して、ここへ雲霧の兄哥あにいと四ツ目屋の新助も一緒に参っておりますから、支度がよかったらすぐ裏口の方から……」
 合図をして問わず語りにしゃべり出したのを聞くと、釘勘は家の中で、
「しめた」
 と、明りを吹き消し万太郎の耳へ、
「いよいよやって来たらしゅうございます……」
「お、日本左衛門が?」
 と驚いた様子で、万太郎も思わず腰を上げました。
「そうです。高飛びの行きがけに、ここへ、乾分こぶんの者と一緒にお粂を迎えに来たんです」
「しかし、そのお粂は、もうここにはおらぬと申したが」
「賊でも日本左衛門は首領と立てられるくらいな人物、仲間の者の手前、お粂と金吾のことは見て見ない振りをしているんですが、お粂は男を見捨てきれないで、夕方のうちに二ちょうかごを仕立てて何処かへ逐電ちくでんしてしまっているのです」
「ではその駕の一挺の方には、金吾が乗っていたわけじゃの。ウウム、一足違いで惜しいことをいたした」
「何しろうつつの病人ですから、何処へ連れて行かれようと、今じゃあお粂の意志のままで、御当人にも分らなかったでしょう」
「してその行った先は?」
「手先を追わせてありますが、まだ何ともいって来ないところを見ると、何処かでうまくかれてしまったのかも分りません。何しろ日本左衛門を先に捕縛あげてからと思ったので、お粂にはわっしも少し油断をしていた形があります……オ、だが万太郎様、もう悠々とお話しちゃおられません」
「そうか」と万太郎も心得て――
「それでは今夜のところはここで別れるであろう、金吾の居所が分り次第に、根岸の方へ知らして来てくれい」
 秀鶴頭巾しゅうかくずきんの結び目を固くして、スルリと外へ出ようとするので、釘勘は慌ててその袖をつかんで、
「あっ、今ここをお出なすッてはいけません」
「工合が悪いか」
「折角、日本左衛門という大きな獲物えものが、わなに掛るか掛らないかとしている、肝腎要かんじんかなめな危機一髪です」
「成程」
「御窮屈でしょうが暫くの間、その押入れの中へかくれていて下さい。ワッと捕物のひと騒動がすむまでの御辛抱です」
「これへか……ウム、よろしい……」と万太郎は意外な修羅場に遭遇した危険を、むしろ欣ぶふうに、戸棚のうちへ身をひそめます。
「ようがすか、わっしが合図をするまで、外へ出ちゃいけませんぜ……あぶのうございますから……ようがすか」
 いい残して釘勘はそこを去った様子。
 颱風の中心にあるこの家は、今や、刻一刻と、気味のわるい寂寞せきばくさに鳴りをひそめてゆく。そして、どうなることかと息を殺していた万太郎は、胸騒ぐ血を抑えて、いたずらにこの秒間のきざみをジッと屈みこんでいるに耐えなくなったものか、
「そうだ! ……」
 飛んだ野心を起しました。
「すさまじい乱闘が起るだろう、血の雨が降るだろう、日本左衛門が死にもの狂いを見せるであろう――ウームそれと釘勘の捕物陣、どんなものか、ひとつ見物したいものだが……」
 と、今いわれた言葉を忘れ、スルリと外へ抜け出すと、かれは手探りで勝手の方へ忍び出し、上からダラリと下がっている何かの繩の端に手をかけた様子です。
 引窓の繩――
 スウと引くと暗やみに、四角い星空が切り抜けて出る……。

 引窓を仰いで万太郎が、そこの土竃どべっついに片足を乗せかけた途端です。
 呼子笛よびこ
 ――不意に水を断つごとき呼子笛のつンざきが、家のどこかで吹かれたかと思うと、それが釘勘の合図であったものと見え、
「わアーっ……」
 突如、袋地の八面から一時にあげた捕手の声は、まるで暴風を思わせて家の周囲を駆けめぐり、
「御用」
「御用! 御用!」
 すわこそ、
 窓の下へ寄っていた三人の黒衣くろご、四ツ目屋の新助、お人よしの率八、雲霧の仁三にざを取り囲んで、追っ馳け追ン廻す物音の様子であります。
「オオ、始まったな」
 万太郎はなんだか愉快になりました。
 美殿の厚いしとねに乗って腰元や老臣相手に光る君を写したような生活をしているよりも、かかる所にかかる遊戯をしている時こそ、かれの性格に適しているのでありましょう。
「こりゃ面白い」
 と、呟やきながら、引窓の綱を頼りにしてスルスルと蜘蛛上がりに、屋根の上へ抜け出しました。
 そこで、瓦の波を這い廻りながら、様子如何に? と見下ろします――ああ綺麗だ! 地境の隣にあたる浄音寺の境内から西がわの長屋の物干ものほし、質屋の黒塀のかげ、表通りを見れば忍川の水門尻のあたりまで、点、点、点、点、鬼灯ほおずきを咲かせたような御用提灯ごようぢょうちんの鈴なりです。
「ウーム、なるほど」
 捕物陣といったのは、あの時釘勘の口ぶりとしてチと大仰おおぎょうに聞こえたけれど、かくして眺めれば成程それは立派な一ツの陣形を成しているもので、いわば永沼流とか越後流とかの軍法を縮図にしているような配置。
 露地、川、本道、建て物、障害物、樹木などの市街物を巧みに利用して、これほどの捕手が今までどこにいたか分らず、一瞬一声の呼子笛よびこで、無数の灯を闇に描きだしたところは、なるほど釘勘も味をやるなと、そこには多少兵法の心得もある万太郎として、特殊な興味のもとに感服しました。
「御用――ッ」
 すぐ目の下のすさまじい声に、はッと、ひとみを移して今度は足元をさしのぞくと、
「あっ、兄哥あにい
そつ八ッ――てめえは逃げろ!」
「あ、親分」
 雲霧の仁三が、うろたえるお人よしの率八をかばって、大刀を振り廻して寄せつけない様子。
 四ツ目屋の新助は裏の方へ馳け出して、井戸と猫柳の木をグルグル廻りながら、これまた道中差を引ッこ抜き、捕手を相手に死物狂いと見えました。
「お、親分、お、お、親分はどこへ行った? ――」
 と、その乱闘に目を廻して、迷子が母親でも探すように、悲鳴をあげているのは率八で、上からその男を見つけた万太郎は、盗賊の中にもあんな弱虫がいるのかしらと、笑止がっていよいよ吾を忘れていますと、
「わーッ」
 と、たれか、斬られたらしい凄い絶叫。それと共に、プーンと湿っぽい血けむりが、ひさしの下からかれのおもてってきたので、
「斬ッたな」
 身をのばして二、三尺、屋根瓦の坂をすべって行くと、不意にうしろから寄り添った二ツの手のひらが万太郎の目をふさいで、
「――尾州家の坊っちゃん。今晩は」
 と、人をばかにしたことをいいました。
「や? ……たれだ……」
 と万太郎は驚いて、目をふさがれた冷やっこい手へ、自分の手を重ねて軽く身をもがく。

 たれとも知れぬ者にうしろから目をふさがれたので万太郎、
「おのれ!」
 と、その手をねじって離そうと試みましたが、どうして、離れればこそ。
 にかわで顔へりついたような憎い手、曲者しれものの手。
 爪を立てたが離しません。
 と言って――何しろ足場の悪い屋根の上、霜にぬれた瓦のぬめりを無理に踏んで立ち上がれば、身を滑らすのは知れているので、
「ウヌ、何奴ッ?」
 前差まえざし小柄こづかをキッと逆手に、抜くも矢庭、いきなりかれの腕首に斬りつけましたが、
「あぶねえ!」
 と、逸早くその手はサッとうしろへ逃げて、万太郎の短気、あわや、自分の小柄こづかで自分の喉笛のどぶえを切ってしまうところでありました。
 と、宙天にからからと笑う声がして、
「お坊っちゃん、ひどく、御立腹だな」
「あっ!」
 振り仰いた万太郎は、梨地なしじの星をさえぎって屋根の峰に立った黒い男の影を、一目で日本左衛門の黒装束くろしょうぞくと見てとりました。
 緑林涼風。
 日本左衛門のこす。
 忘れはしませぬ! 去年市ヶ谷御門そとかみ屋敷へ忍びこんだかれが、洞白どうはく仮面箱めんばこを持ち去って、そのあとの床の間に、こう墨黒々と書き残して行った不敵な文字を。
「ウーム! 其方そのほうは日本左衛門」
 ジリジリと瓦のさんに足の指をかけて詰め寄ると、かれは、四囲の叫喚きょうかんも耳になく、八方の御用提灯も目にないものの如く、
「おお、おれはその節飛んだ騒ぎをさせた男、いかにも日本左衛門だ」
「おのれ、よくも秘蔵の仮面箱めんばこを盗みおったな」
「あとで聞いた噂には、そのためにお手前は、父中将殿の怒りにふれて上屋敷を追われ、今では、根岸に閉門幽居の身の上だってな。おれも、蔭で聞いて少しは気の毒に思っている」
「えい、左様なことはどうでもいい! ここで汝の姿を見つけたのは何より幸い、秘蔵の品を盗んだ下手人、家来金吾の仇、この万太郎が召捕ってくれるから、そこ動くな!」
「はッ、はッ、は、は、は、は……。さすがは御三家のお坊っちゃんだ」
 身を切るほど冷めたい天風のうちに、日本左衛門はこう嘲笑して、
「――世間知らずにも程があらあ! おめえの手で日本左衛門が召捕れるくらいなら、八丁堀や奉行所の人間どもは、あすから飯の食いあげになるだろう」
「な、なんじゃと」
 と万太郎は歯がみをしたが、かれの足元には、うかとは寄れない構えが見える。
 あくまで、万太郎の無念そうな様子を、子供あしらいに見下ろして、日本左衛門は悠々然と、
「ウム、時に」
 ふと語調を変えて、
「おれは今夜から当分の間、影を消すかも知れないが、それについて一ごん断っておくことは、あのばてれん口書でお前も承知の夜光の短刀だ。――ありゃ屹度きっと、この日本左衛門が探して手に入れるつもりだから、下手へたな邪魔を入れると承知しねえぞ」
 グッと、上から睨みをくれて、うしろへ一歩退いたところを、万太郎の手からサッと一条の青光が飛ぶよと見るまに、
「ちイッ、何をしやがる」
 身を沈めた日本左衛門の肩――
 キラッと光を縫ってれたのは、さっきから万太郎の手に隙を待たれていた小柄こづかでした。
 ふわりと、先の影が屋根の峰を歩みだしたのを目がけると、徳川万太郎、おのれ逃がしては――と勢い込んだひねり腰に、
「待てッ」
 と、飛び上がって大刀の抜打ち!
 虹光にじびかりを走らせた切先は輪を描いて、日本左衛門の肩から胴体を斜めに通り抜けたかと見えました。

 さッと、眉の先へ流れて来た閃光を逃がさず、
「あぶない!」
 と日本左衛門。
 肩を開いて、斬りすべって来た万太郎の刀の柄手つかでをグッとつかみ取るなり、
「殿様芸の刃ものいじり、金吾のてつをふんで怪我をするな」
 グワンと耳へ釣鐘つりがねをつかれたような大喝に、さしも徳川万太郎、思わずハッと気がくらんで、屋根の天ッ辺から大地へ投げつけられるかと気をちぢめた刹那!
「ううむッ」
 と、弦を掛けられた弓のように日本左衛門の体がり返ったかと思うと、いつのまにか、その胸元へピッタリと斜めに食いついている磨きの十手。
「実名浜島庄兵衛ッ、御用!」
 まぎれもありません、目明しの釘勘。
 ここに人影ありと見て、下の捕り物を組子にまかせ、自身屋上によじ登って来てみたところが、見当らぬ日本左衛門と万太郎とがそこに影を重ねていたので、猶予なく、うしろから差廻した十手のかんぬき
「御用」と、一つ絞ってみたのであります。
洒落しゃらッくせい」
 さすがは日本左衛門、動じるさまもなくうしろへ身を捻って、顔をながめ、
「うぬは釘勘だな」
「…………」
 釘勘は声が出ない。
 今や、自分の内ぶところに、緑林随一と誇称する大盗の五体をかかえ込んでいる。全身からふり絞っている力は歯の根と十手の先に集められているのに、この際、何の四の五を言っている余裕などがあるものか。
 ふふん……日本左衛門は笑いまして、
「命知らずめッ」
 振りほどいた両手の力は、あたかも鷲が存分に蛇に体を巻かせておいて一時にパッと寸断する翼の呼吸いきと相似ている。
 だが、釘勘も捕り物の老巧、敢てたすきほどきに刎ね飛ばされるまでシガミついている愚はしません。
「万太郎様、退いたッ」
 と、かれの危地だけを救うと、蜘蛛くものように屋根の勾配こうばいをスルスルとすべって、ひさしの角に足をふみ止め、
「神妙にしろッ!」
 ――見ればいつのまにか、かれと日本左衛門の腕首の間には、タランと一本の取繩とりなわがつながれていて、釘勘は右の片腕を糸巻にしながら徐々じょじょとそのたるみを張りつめて行く気構え。
 すると、
「あっ!」
 万太郎が突然絶叫する。
 それと共に釘勘も、自分の力を逆に引かれて、屋根の上へツンのめりました。まるで重い釣瓶つるべを落としたように、手をすりむいてズッこけた繩の先をハッと見ますに、こはいかに、そこにはもう日本左衛門、影も形も見せないで、
「おお」と、驚いて馳け寄ると、しまった! 引窓の口から下へ飛びこんでいる。
「ウウム、抜け道がある! 家の中から抜け道があるに違いない! ちイッ、しまった!」
 と、地だんだを踏んだ釘勘。
 飛鳥! 屋根から袋地へ飛び下りました。
「ああ、凄い奴だ――」
 茫然と、げた抜刀ぬきみもそのままに、時に徳川万太郎は、あとに残って再び四顧あたりを見渡しますと、雲霧の仁三、四ッ目屋の新助、いずれも素早い上に腕達者な曲者しれもの、遂に、一方を破って逃げたものでしょうか。
 浄音寺から水門尻へわたる捕手明り半円の灯の陣は、今、三枚橋と下谷の二手へ列を乱して、吹かるる螢の如く散々ちりぢりに追って行きます。
 そして、あとの袋地には、何かわめくお人よしの率八の声が、泣くが如くうったうるが如く聞こえますから、大山鳴動して鼠のたとえにもれず、かくまで用意した釘勘の手配も、召捕ったのは雑魚ざこの率八で、大魚は遂に網にかからず、目ばかりいたずらに血走らして、むなしい明け方にガッカリした疲れを見合う、十手商売の苦味にがみを今朝もめねばなりますまい。


 どこを毎日遊んで廻るのか、不良少女の混血児あいのこちょうは、派手に着かざった身なりをして、相変らず二かんに口実をもうけては出歩いている。
 今日も。
 かの女の姿が丹下坂に戻って来たのがもう夕方――。あたりのやぶ笹鳴ささなきの声がさびしく、山屋敷の塀越しに、紅梅の花が黒く見えます。
 だらだらと坂を降りると小溝こみぞがあって、切支丹屋敷の曲り角、お蝶の帰ろうとする通用門まで、そこも流れに添った薄暗い藪で、赤い椿つばきが、あの世の提灯ちょうちんみたいに咲いている。
 そこへ来ると、
「あ……廻り道をすればよかった」
 お蝶に悔いの色がうかぶ。
 急に足を小刻みに早くして、右がわの藪を見まいとしながら急ぎましたが、そう思う一方には、怖いものを見たさの心が、
(どんな顔に変ったろう)
 と、頻りに好奇をそそりもする。
 獄門橋のたもとです。
 橋と言っても、ほんの四、五尺の小溝に渡してある土橋のそば、見まいとしても目につく所に、白木の制札と栗の丸木に新らしい板を架けてある獄門台が、お蝶の足をギクリとくい止めました。
 たとい三町や五町の所は廻り道をしても、お蝶はこの前を通るべきではありません。だのに、今日に限って、思わずこっちの道から帰って来たのは、やはり一度はどうしてもここに招き寄せられる因縁であるかも知れない。
 ぽと! ……とやぶの椿の落ちる音。
 片がわの茂みですが夏は木下闇このしたやみのうす暗く、昼もふくろの啼くさびしさです。チロチロと行く小溝の黒い水に、鬼火のような紅椿べにつばきがグルグルと人の口を廻すように流れて、獄門橋という橋の名までが、まったく、夕方から夜の人通りを絶っている。
 しかも四、五日前から、そのわきの新木あらきの台には、一つの首がさらされて、梢のしずくをもとどりに浴びながら無念の目をふさいでおります。
 かなり気の強いお蝶ですが、戻って廻り道をしようかと迷うらしく、袂を唇にあてて足をとどめましたが、
「ばかだね私は……死んでしまった人間が何をすることがあるものか」
 自分の臆病を笑い退けて、むしろ、反抗的に瞳をらさず、獄門橋に近づいて行ったものです。
(怖かあない)
 ほほ笑ましくなりました。そしてこんどは声に出して、
「ちッとも怖いことなんかありゃしない……ねえ、龍平や」
 じッと見つめているお蝶は、いったいどんな気持なのか。
 青蝋せいろうのようなさらし首、ねッとりと黒髪を垂れ、無念そうに目を落ちくぼませたその顔は、ああ紛れもありません。一頃はお蝶の情夫おとこであった、かの山屋敷の仲間ちゅうげん龍平が、あわれにも変り果てた姿でした。
 あの入れ札のあった時。
 龍平は正直に知らぬと札を入れたものを、お蝶はもし発覚しては身にかかる難儀と男を裏切って、ひそかに龍平の名を入れ札にさしたので、かれは立ちどころに捕えられて、牢舎ろうしゃ拷問ごうもんの揚句、とうとう首を斬られたのは、自業自得とは言いながら、さぞ、お蝶に心が残ったでしょう。
 だが、お蝶は多寡たかをくくっていました。
 入れ札ではその密告者を決して当人に洩らさないおきてです。龍平だって、まさか、わたしがそうしたのだとは知らずに死んだに違いない……。
「けれど、こんな姿になったのを見ると、私もいい気持はしないよ、ねえ龍平、お前が私をダシに使って、官庫の物を盗ませさえしなければ、お前だって、こんなことにはなりはしなかったのに……可哀そうね」
 お蝶は、死者の妄念を無視しておりました。いつか死顔の形相に馴れて、恐怖を忘れていたものか、それともかの女らしい悪戯いたずらな心か、櫛を抜いてさらし首の乱れ髪をき上げてやる。
 そして、
「龍平! あばよ」
 急ぎ足に、山屋敷の方へ、五、六歩下駄を鳴らしかけますと、
「お蝶!」
 と、獄門の首が呼び止めました。

 二度目の声も、
「お蝶!」
 と、たしかに龍平の生首が、獄門の上から呼んだ如く聞かれましたが、見世物のからくりではあるまいし、首がものを言うわけはないので、
「誰ッ?」
 と、わざと声のかんを張って、け身を見せまいとしましたものの、思わず寒気に襲われて、ぞッとえりすじをすくめた証拠には、お蝶の銀のかんざしが微かに光を砕いています。
「どんなお化けだか知らないけれど、思わせぶりばかりしていないで出ておいで。山屋敷の人を呼んでやるから」
 いずれ首番の非人か、この辺に、こもをかぶっている宿なしの悪戯わるさであろうと、試しにこう強く出てみると、
「なるほど、胆ッ玉の太い娘だ、これじゃ龍平が一杯食ったのも無理はねえ」
 ぞろぞろと三人の男。
 椿の蔭、橋のたもと、三方から現われて来てお蝶の前後を取りかこみ、
「おれ達だよ」
 豆絞まめしぼりの頬かむりを※(二の字点、1-2-22)めいめいって、化け物に縁の遠くないつらがまえをつン出していやがらせる。
「ああお前たちは、先頃、山屋敷をお暇になった小屋番の仲間ちゅうげんだね」
「そうよ、龍平たあ生きてるうちから兄弟分にしている仲間の源六、松、権次のお三人様だ」
「御参詣でいらっしゃいますの?」
「なにを」
朋輩ほうばいがこんな浅ましい姿になっているので、お詣りに来て上げたんじゃないんですか」
「な、なにを言ってやがるんで」
 法被はっぴの袖をまくり上げて――
「てめえの帰るのを待ち伏せしていたんだ。さ、今日は少し取ッちめて、聞く筋があるんだからおれ達と一緒に来い」
「聞くことがあるなら仰っしゃいな。よそへ行くことはありゃしない」
「うぬ、素直にしねえな」
「お前さんたちッ――」握って来た手を振り払って、「わるさをすると、すぐ向うは通用門、山屋敷の者を呼びますよ」
「おお呼んで見ろ、おお、呼んで貰おうじゃねえか。篦棒べらぼうめ、今じゃ扶持ふちに離れているおれ達三人、そんな事にビクついちゃいねえんだ」
 中でも手強い源六という仲間ちゅうげん真鍮鐺しんちゅうこじりを背なかへ廻してお蝶の袖を自分の腕へからめてしまう。
「やい! 虫も殺さねえようなつらをして、てめえぐらい、罪のふけえ女はねえぞ」
「なぜです! わたしには、ちッとも意味が分らない」
「うぬの胸に聞いてみろ。え、お蝶。あとで探って見りゃ入れ札に、龍平を下手人だと書いたのはてめえだという話じゃねえか。しかも龍平とはさんざんおれ達を岡焼きさせた二人の仲、ふだんからその事は、龍平にもすっかり聞いているんだぞ」
「それがどうしたんですか! それが! 私と龍平とどんな仲だったからって、大きなお世話じゃありませんか」
「じゃその情夫おとこを、何で、裏を掻いて殺しゃあがったか、さ、返辞をしろ」
「私がいつ龍平を殺しましたか」
「てめえが殺したも同然だ」
「言いがかりも程におしよッ」
「何と言おうが承知はできねえ、兄弟分の恨みにたたってやるからそう思やがれ。いいか! 山屋敷の官庫へ日本左衛門が入って、何か荒して行った晩は、てめえと龍平が、一緒にそれを見ていたはず、龍平が首になるくらいなら、言わばてめえも同罪でなけりゃならねえ、おまけに罪のねえおれ達まで、巻添えをらって山屋敷を追ン出され、てめえばかりに涼しい顔をしていられたんじゃ、大の男三人が世間へ出す顔がねえ。さ、呼ぶならここへ呼んでみろ! 山屋敷の分らずやの役人どもを、呼ぶならここへ呼んでみろ! その綺麗きれいな化けの皮をヒンむいてくれるから、どいつでもここへ呼んで見てくれ」
 酔いどれのようなわめき声をあげる源六、今にも飛びつきそうな権次と松、三人の顔を当分に流し目で見ていたお蝶は、言わせるだけ言わせておいてから、
「じゃあ私、呼ぶのは止すわ……」
 と、そこの木の根へ蹲踞しゃがみこんで、妖麗きわまる銀かんざしと赤い襟裏えりうらをのぞかせました。

「それまで知り抜いているのでは、いくら強情な私でも、観念するよりほかに道はないネ」
 かがみ込んだまま地に向って、お蝶は、ひとりごとのように言う。
「……ああ悪いことはできないもんだ……」
「おい」
 赤い襟裏をイヤな目でのぞきながら、三人のうちで仲間ちゅうげんの源六が、丸まッているお蝶の肩を指先で小突いて、
「どうだ、いくら賢いようでも女の小智慧、世間には上手うわてな悪党がうんといるのが分ったろう」
「じゃ、お前さんたちも、悪党なの」
「当たりめえよ、ぼんてん帯の渡り仲間に、真っ直な人間がいてたまるものか。だがお蝶、そう怖がることはねえ。なあ、この三人は龍平の友だちだから、龍平同様におめえとも交際つきあいたいと願っているんだ……だから、ちょっとこッちへおいでよ、話がある、何さ、怖いことがあるもんか、おめえだってもう清浄無垢な娘じゃなかったはずだぜ」
 少し脅しの風向きが変って来ました。
 弱味をつかまれて身を縮めたお蝶の艶な姿が、みだらな出来心をあおったのか、すでに前々から、かくあるべき下心でいたのか、どっちにしろ三人のあぶれ者が、奥の手の爪をいで、獣情の目を燃やし出したのは始末が悪い。
「あっ……いやッ……」
 お蝶は手を出して来るのを払いつけて、両の袂で両の乳を抱きしめました。
「へッ、へ、へへへへ」
 権次と松はみだらな笑い方を見合って、
「憎かあねえな、え、おい」
「うん……こんな美女たまを龍平の野郎め、よろしく、ひとりで永々ながながと楽しんでいやがったんだから、ああなったのも、男冥利みょうりに尽きたんだろう」
「おい、松、よだれが……」
「嘘をつけい」
 情炎にとろけた三人の目が、いかにも、いやしげに、お蝶の襟や横顔の肉線をむさぼる如く見つめている。
 お蝶はぶるぶるとふるえている。もう、下手へたにうごけば盲目な魔獣の爪が、肉と黒髪と唇とを、三ツに裂いてあばき合うのは分り切っています。
 三人は何か耳と目まぜでささやき合っていたが、やがて源六が、すくみ込んでいるお蝶のそばへ寄って来ると、
「なあお蝶さん、今ほかの者とも相談したんだが、これからおれ達の部屋まで一緒に遊びに来ないか? え、なアに今夜のうちにはきっと家へ帰してやるさ、もう一度この獄門橋を通るのが気味が悪いというなら、おれ達三人で送って来てやろうじゃねえか。な、おいでよ、いいだろう」
 猫なで声の優しい裏には、イヤとは言わさぬ眼光と前の弱点をつかんでおります。
「ええ、行ってもいいけれど、わたし……」
 お蝶は袂を噛みながら、くるりと背なかを向けて、またそれを慌てて打ち消すように、
「嫌よ、私……」
 歩き出したので源六、玉を逃がしてはと追いすがって、
「な、なぜよ?」
「だって、嫌いな人が居るんですもの」
「お蝶、まだおめえは話が分っていねえのかい。ここで嫌だの応だのと言うと、おめえの身の破滅は元よりおやじの二官まで飛んだ目にあう事になるんだぜ」
「だから、嫌じゃないんだけれど……私、だけれど、やっぱり嫌になってしまう」
 前髪のほつれを眉に垂らして、たもとの隅をいじくッている姿を見ると、源六はほのかに迫る匂い袋の香にだけでも酔ってしまいそうな心地でした。
「何を言ってるんだよ一体。嫌なのかい」
「いいえ」
「じゃ、承知なんだろう」
「私、向うの……」
「え、向うの?」
 蠱惑こわくにみちたお蝶のひとみが、えんにうしろへ流れたので、源六の目もそれに引かれて振顧ふりかえると、
「あの二人が嫌なのよ。ねえ、源六。あたしあんな者さえ居なければ、お前と何処へでも行きたいのだけれど……」
 たもとの下から、そっと、柔らかい手が忍びました――そして、ギュッと源六の手を。
 あまり不意だった歓びと、生れて初めて知る幸福の巡り合わせに、かれが思わずぶるると胴ぶるいをして、その返辞をすら忘れているに、
「ネ、ネ。だから……あの二人を殺して頂戴な」
 ぽッとなった源六の耳朶みみたぶへ、甘酢あまずい息がかおりました。

「うん……うん……」と、源六はうつつになってうなずきながら、
「おめえの心がそうならば、よし、どうせ後には邪魔な奴らだ」
 急に引っ返そうとすると、お蝶は軽く、
「あっ……」
 と言って、袂の蔭で握り合っていた手を離してやりながら、
「きっとよ」
 と、ひとみにいッぱいなこび
 源六が元の場所へ戻って来ると、待っていた権次と松のふたりは不安らしく、
「おい、何をいつまで、向うでグズグズ話をしていたんだい」
 不平を尖らせて来た返辞の代りに、源六、いきなり真鍮鐺しんちゅうこじりの木刀を、ガン! と権次の脳天へくらわせて、
「やかましいやいッ。都合の悪いことがあるから、お蝶はおれ独りで貰って置くんだ」
「やっ、この野郎」
 と、おどろく朋輩の松まで、返す木刀で腰骨を砕いて仆し、足にからんで来る一方の必死を、なおも、嫌というほど打ちのめしました。
 不意を食らった味方の裏切に、なんの骨折りもなく二人はグッタリと土を掴んでしてしまう。
 源六は、その襟がみを両手にして、女を独占する勇躍の余力で、ズルズルと獄門橋、溝の際まで引きずって行き、そこでドボン! ――、と泥まじりの水煙みずけむりをあげましたが――。
 途端です!
 どうしたのか、源六。
「わーっ! ……」
 ダ、ダ、ダ、ダッ、と橋板を荒くふみ鳴らして、うしろへよろけて行ったかと思うと、真鍮鐺しんちゅうこじりほうり飛ばして、はらわたをつかみ出すように引っこ抜いた刃渡りの鋭い匕首あいくち
「ちッ、ちッ、ちッ、畜生――ッ」
 滅多やたらに空を切って、もがきながらのグルグル廻り、ただ事ではないがとよく見ると、その脇腹にうしろから組み付いている白い人の手と月形の懐剣!
 虚空をつかむ源六の苦しみは、その脇腹から黒血を噴かせて、見るまに橋板に紅葉もみじを散らし、なおピッタリとからんで離れぬ人影を振り放そうとして、狂乱の形相ぎょうそうすごく、体に火でも燃えついたように、グルグルグルグルたけり廻ってやみません。
 唇を噛み、黒髪を乱し、かれの背後から組みついているのは混血児あいのこのお蝶。
 脇の下から白い腕を廻して、源六の肉体に懐剣を与えているのはかの女の手でした。
 物狂わしく源六が橋板の上でグルグル廻ると、かの女の体も同体に振り飛ばされんばかりにめぐり廻る。ちょうど、それは一箇の独楽こまに赤い小布れが取ッ付いているよう――
 かんざしが飛ぶ、花櫛が落ちる。帯の間から鏡が抜ける。
 それでもお蝶は離れませぬ。
「うう――む。……だッ、だましゃアがったな」
 言ったかと見ると源六は、もがき疲れて、お蝶の腕にグンニャリと重くなります……、それをお蝶は突き飛ばすように仆して、自分も一緒によろめきながら、
「あっ……」と、火のような息を肩で吐く。
 源六の体は俵のようなぶざまな転げ方をして、向うの橋げたで止まりました。お蝶は欄干へ背中をもたせかけて、くずれた髪の毛を指先でき上げ、耳に垂れた紅白の根掛けを抜いて捨てました。
 七日ばかりの月影が、森を洩れて橋板の上へ、青い光のき散らしている。その月光をジッとかして息を休めていたお蝶は、まだ源六が死に切っていないのを見て、ふたたび懐剣を袖裏そでうらに持ち直しました。
 自分の膝を源六のみぞおちに当てて、右手めての短刀、さかしまに咽喉のどを狙って落してゆくと、
「うッ、うぬ!」
 くわッと目を開いた源六が、断末とはいえ口惜しまぎれの渾力こんりき、お蝶の腕へねばりついて、これこそまったくの必死必殺。
「よ、よくもおれを……、うぬ、うぬ、てめえも一緒に連れ込まなけりゃあ、死……死ねるものか!」
 一念、遂に相手をねじ伏せて、お蝶の懐剣を噛みると、応報は余りに覿面てきめん、かれをえぐった月形のやいばが、こんどはかえって、お蝶自身の乳を目がけて、グサッと狙い刺しにひらめきました。

 お蝶は息をうちへ引いて、
(突かれた!)
 血を冷やして、そう思ったことでしたろう。
 わき腹に、致命的な深傷ふかでをうけている源六、やぶれかぶれ、共に死の淵へ抱き込んでやろうと乳を狙ってきた怖ろしい短刀。
 乗しかかッている相手の重圧で、その切ッさきを交わすこともならなかったのですが、
「がッ――」
 と、妙なうめきを揚げると共に、源六は何者かに背中を蹴られて、下の体を飛び越えるなり向うへ俯ッ伏し、手を離れた短刀は、お蝶の顔から四、五寸れた橋板の上へ、白くななめに突き立っている。
「おう、あぶないところだった」
 誰かは知らないがそういった人の手に抱き起こされて、ほっと胸を伸ばしながら、お蝶は初めて意識的に、源六の死と自分の生命の無事な姿をハッキリと眺めましたが、まだ半ばは、夢……うつつです。
「おい、しっかりしなさい。どこも怪我をしちゃいないようだ」
 抱かれている者に、体をゆさぶられてハッと吾にかえりながら、
「あ、ありがとうございました」
 見ると知らない旅の者です。
「あぶなかったなあ、ほんとにあぶなかった。もう一足わしの来るのが遅かったら、所詮しょせん、お前さんの命はなかった」
 離したらお蝶のスンナリした姿が倒れてしまいはしないかと、こわごわ支えているのは馬春堂、――かの忍川しのぶがわの枯れ柳に、大道世帯をおき残して、その晩から姿をくらました売卜ばいぼく先生です。
「どうだい、どこか体でも痛むかね」
 この人物、丹頂のおくめえりをつまんで追い出される程、顔に似合わず、婦人には喉を細めて親切な声がらです。
「大丈夫です……はい、もうなんともありません」
 お蝶は自分の犯した罪が怖ろしい。まだ何とか挨拶の言葉も知らないのではないが、自分の顔を見覚えられるのがイヤで、
「御心配下さいますな、家はすぐそこの、山屋敷の中なんですから……、今帰ってすぐに、誰かここの始末によこすといたします」
 しきりと馬春堂のいたわる親切を振り切って、あたりに飛んでいる持物や塗下駄をさがし、襟や帯の身づくろいをしながら木立の影をくぐって山屋敷の方角へ、風鳥のような姿を駆けらせてしまう。
 馬春堂は取り残されて、
「なあんだ……」と、むくわれざるさびしさに、手のうちの玉を逃がした心地がしたが、元々、女を助けても女が取りすがってくるがらでないことは、自分の履歴が承知しているので、
「どれ……もう来るだろう」
 橋の袖木そでぎに窮屈な腰を下ろして、袂落たもとおとしの煙草たばこ入れと、火鎌ひがまを腰からとり出して、人待ち顔の暇つぶし煙草と出かけました。
 が、幸いに、舌がやにに飽きるほど待つ間もありませんでした。
 かかるところへというあんばいに、小日向こびなたの高台から一本道を大股にここへ急いで来る燕合羽つばめがっぱ
 やがて近よると双方から、
「おう、馬春堂」
「あったかい? 忘れ物は」
「うむ、戻っても無駄じゃなかった、茶屋でちゃんと取っておいてくれたんでな」
「そりゃあよかった」
「ずいぶんここで待ったかい」
「なあに、待つはさほどでもなかったが、考えて見ると待ち合わそうといった場所がすこぶる面白くない」
「なぜ」
橋杭はしぐいを見てくんな、獄門橋と来やがった」
「うふッ……そいつぁ成程、ひとりぼっちで淋しかったろう。悪党に獄門橋なんざあ禁物だ。……どれ、それじゃおれもつき合いに一服」
 と、腰から取って、ぽんと、筒の煙管きせるを抜いたのは道中師の伊兵衛。
 肩の振分ふりわけをそこへ下ろして、
「南無、消えるな、消えるな」
 と、禁厭まじないをいいながら、馬春堂の吹いてころがした吸殻すいがらの火玉を、煙管の先で追いかけたが、雁首がんくびでおさえるとジーッといったので、
「おや?」
 と、透かして見ると、油のような血が流れていて、そこに浮いているつま細工ざいくの一枚の花櫛はなぐし

「こりゃあ何だろう」
 伊兵衛は血に染んだ花櫛を拾い取って、
「おい、馬春堂。向うに、仲間ちゅうげんていの死骸がころがっているが、おれの来る前に、何かここで騒動があったのかい」
「なあに、江戸の場末には、ありがちなことさ」
「ちょッと、この花櫛が気になるじゃねえか」
「そこの切支丹屋敷きりしたんやしきんでいる娘ッていうのが、あぶれ者に巻かれていたんだ」
「ふウん……」
「武家の娘だろう、懐剣でその仲間のわき腹を突いていた。だが仕舞にゃ取ッちめられて、あべこべに突き刺されそうになったところを、うしろから馬春堂先生が、そいつを蹴とばしてやったというだけの話で、あとは濡事ぬれごとにもなんにもならずさ。それで安心しただろう」
「はてな、こんな花櫛をさすような娘が、あの山屋敷の中にいたろうか」
「すらりとしたい女で、お前がいたら定めしどうかしたかったろうよ」
「年ごろは」
「八か、十九。せいがあるからもう少しにも見える。何しても、今時の娘の度胸のいいにゃ驚くなあ」
「そうか、ウーム……」と、伊兵衛は花櫛をふところにねじ入れ、立ち上がって馬春堂の出足を止めて、
「ちょッ、ちょッと待ってくんねえ」
 ひょいと振分ふりわけを渡されたので、馬春堂は何気なく、肩にそれを預かりますと、伊兵衛はフワリと自分の合羽かっぱまで脱いで、かれのうしろから着せかけてやった上に、
「どうだ、あったかいだろう」
 と一ツ背中をたたきました。
 馬春堂は変な顔をして、
「おい、どうするんだ」
「ところで、歩いてもらおうじゃねえか」
「おめえは?」
「少し道草をしてあとから追うから、先へ行って、音羽の筑波屋つくばやという定宿じょうやど――おれの名をいやあ心得ているから、裏二階のいい座敷を取って待っていてくんな」
「ばかにするなよ」
 馬春堂があわてて合羽を脱ぎ捨てそうにしたので、伊兵衛は抱くようにおさえつけ、
「まあ、そう怒らずによ。頼まあ先生」
「よくお前は道草をする男だなあ。いったいどこへ寄って行く気だ」
「切支丹屋敷!」
「えっ」
「まあ来いよ」
 伊兵衛はグングン馬春堂を歩かせて、獄門橋を離れて行きながら、相手へ早口にこうささやく。
「――てッきり二かんの娘にちがいねえ。二官というなあ、ころびばてれんの今井二官よ、山屋敷の中であの花櫛の似合う娘といえば、お蝶というその女よりないはずだ。
 ……ところでおれも迂闊うかつ至極さ、うわさにゃ、日本左衛門のやつは、とうからこの切支丹きりしたん屋敷に目をつけて、夜光の短刀の手懸りをさぐっているということだ。で、今の花櫛で思いついたんだが、おれもちょッとこの中のにおいをいで行こうかと思う……。
 え、馬春堂、おらどうも切支丹屋敷にゃ、ぜひ何かなくっちゃならねえと思うよ。なぜかって、現在、羅馬ローマのばてれんが牢にいるし、今井二官だって、今じゃお扶持ふちお名前を頂いているが、素性すじょうを洗えば羅馬ローマから渡ってきた異国人。
 ……ま、おれの道楽仕事を見ていてくんねえ。盗ッの勘というやつは、神様のお目よりたしかな事があるもんだ。それにどうせ、十年でも二十年でも根気にまかせて尋ね出そうとかかッている夜光の短刀、体をマメにすることと、勘というやつを馬鹿にしねえ事がかんじんだろう。まあ一足先きに筑波屋へ宿をとって置いて、おれの吉左右きっそうを楽しみに待っていてくれ」
 もう一つ、そこで馬春堂の背中をたたきますと、いやもおうも待たず道中師の伊兵衛。
「頼むぜ!」
 ぷいと引き返して、小溝のめぐる石垣のすそを馳けだし、少し勾配のついた坂道をのぼりましたが、やがてふり仰いだむくの大木。
 ひらりとその下枝へ飛びつくと――。
 二、三度、体をぶらぶらさせて、脚絆きゃはんをつけた片足を引っかけると、猿走ましらばしり――見るまに枝から横枝の先ッぽへ。
 体の重みで、グーと枝の先が弓なりにしないます。すると、宙に吊り下がったかれの足の先が、切支丹屋敷の高塀の峰に、ひょいと、着こうとしては離れ……届こうとしては揺り返される。

 枝におもりをかけられて強く曲ったむくの木が、ばさッと水玉の粒を散らして、元の姿勢にハネ返ったかと思うと――
「おッと、どっこい」
 梢と縁の切れた伊兵衛の体が、一丈二尺の高塀の峰に、栗鼠りすのように取ッつかまって、そこから小手をかざしながら、
「なるほど、広い」
 と、山屋敷の中のムダ地の多いのに、いささか舌を巻いたていです。
 いずれこいつは、ぽんと中へ飛び込むでしょうが、小手をかざしている間に、少しこの男の伝記を吹聴するならば、――伊兵衛取る年は四十一歳、泥棒も男ざかり分別ざかりで、ホシはえての五おう、強情で素ばしッこく、悪くゆけばドン底まで落ちてこうし、好くゆけば位人臣をきわめるほどでないまでも、ウンと幸運にのして栄える生れ性だそうだが――ただし、それは馬春堂が、九星本の所説であります。
 根は百姓、御府外ごふがい多摩郡たまごおり阿佐あさヶ谷村の産でして、ぎょうとするところは練馬大根の耕作にありますが、いわゆる武蔵野名物は草神楽くさかぐら、阿佐ヶ谷囃子ばやしのおはやしの一人でして、柄にもなく笛が上手。
 若い時には、笛の伊兵衛といわれたものです。
 で、あッちこッちの二十五座に、神楽師かぐらしとして雇われて歩くうちに、御定法どおり、女ができる、江戸前にかぶれてくる、百姓がイヤになる、神楽師もつまらねえ。
 といって、遊んで食べられない世の中を、伊兵衛は遊んで通ってきました。いや、遊んでとはいわれない、やっぱり、いつか泥棒という商売をさずかっていた。
 ですが伊兵衛の渡世ぶりは、日本左衛門ひとまきとは、だいぶその選をことにしていまして、家を構えず多くの仲間を作らず、決して子分や女をもたないのもかれの特色。
 稼ぎもたいがいは江戸ではやらない。
 今日浅草にいたかと思えばあしたは奥州街道に、――ゆうべ武蔵野をゴソゴソ歩いていたかと思えば今朝けさは音羽の筑波つくば屋あたりで、熱燗あつかんの湯豆腐に首をつッこんでいようというあんばい。
 今では、一本立ちの道中師としても人間の質にも、かなりサビの懸って来た伊兵衛には、日本左衛門の仰山ぎょうさんな仕事振りや、かれら一まきの横行が、常に、ちゃんちゃら可笑おかしく見えてたまりません。
 関八州の盗賊が、すべてといっていいくらい、日本左衛門をかしらに頂いている中で伊兵衛ひとりは、
「ふん……青二才が」といった調子で、まだ、あいさつもした事がない。
 仲間の異端者!
 日本左衛門も、充分、腹にはふくんでいるでしょう。また、かれが伊兵衛を眼中におかない態度を取るにしても、この間うちのいきさつから、夜光の短刀が、双者のさぐり合いとなって行く様子には、伊兵衛の方で、慾以上の熱と興味をもち、やっきとなっていますから、とうてい将来の暗闘は、かれと伊兵衛の間に、まぬかれそうもありません。
 さて。
 塀の上に取ッついている道中師の伊兵衛。
「夜光の短刀」
 こうつぶやいてニヤリとしました。
「――おれが探し当てて、日本左衛門の鼻をあかしてやったら、あいつら、泥棒の神様へ対しても、渡世をやめて坊主になるかも知れねえぞ」
 空想は愉快です。
 仕事を昂奮させます。
 あいにくか、幸いか、今夜は七日ばかりの月がある。
 ジッと、そこから下の足場を見下していた伊兵衛は、ススススと、腹にも短い足が何本もあるように、塀の峰をすべるが如く這い出しましたが、
「あっ? ……」
 何か驚いて、突然、山屋敷の内側へと、もんどり打ってその影を消す。
 けれど、どすんと、不器用な音もさせないし、今の素早さ、跳躍の軽さ、まことに、あぶなないものです。

蛇身妖蠱じゃしんようこ


 きょうが音羽おとわの護国寺では、蟹清水かにしみずの開帳日。
 日和ひよりはあたりました。
 歳時記では今を水ぬるむの時と申しますが、鐘にも春のぬくみがある、嫋々じょうじょうとしてあたたかな、耳朶じだぬるい開帳の鐘の音、梅見がてらの人出と共に、朝から絶えまもありません。
「おお、あいにくな人出だな」
 どこか気品のある侍です。
 朱を浴びた春のの仁王門で、雑沓に押されながらこういうと、供と見える縞物しまもの手固てがた服装なりをした町人が、
「若様、あいにくは乱暴です。ここの坊さんが聞くと怒りますぜ」
「でも、あいにくではないか。こう雑鬧ざっとうな人出では、先も探すに困るであろうし、そちが見付けるにも容易ではあるまい」
「それにしても、ここを約束の場所にしたのはこッちの都合で、護国寺じゃ、毎年きょうとまっている開帳日です。伝吉のやつもうっかりして、今日がこんなに混み合うたあ思わなかったんでしょう」
「何せい、仕方がない。どこか小高い所へ上がって、この群衆のかしらを一ツずつ検分けんぶんしているとしようか」
「なに、ほかに探し方もあるんです。まあ、私についてこッちへお出でなさいまし」
 といいながら、先に立ったのは目明しの釘勘で、法蔵院の池の前から八ツ橋をスタスタと渡り、向うの藤棚ふじだなの人なきところで待ちました。
 ついて行く侍を見ると、これは徳川万太郎です。きょうは釘勘の注意か無紋の羽織、例の茄子紺なすこん秀鶴頭巾しゅうかくずきんは、それで人目を避けたつもりでしょうが、気品のある色白な目鼻立ちに、あまりうつろい過ぎていて、行きずりの人の目を振顧ふりかえらすとも、顔かくしの役には余り立ちそうもありませぬ。
「若様――こちらへ」
 と、釘勘はまた先に立つ。
 西国三十三ヵ所を模した札堂ふだどう――五番堂のまわりを、グルリと廻って、
「ここじゃねえな」
 ひとりごとをいいながら六番堂、十二番、順もなく札所歩きを、初めたので、
「釘勘」
 万太郎は不審そうに、
「最前から何を眺めて歩いておるのじゃ」
「千社札じゃふだです」
「千社札? ……腑に落ちぬことを申す。そちの組下の伝吉をたずねるはずではないか」
「その伝吉の姿を探しているより、この方が早くぶつかるかも知れませんので」
 そういって、七番堂の廻廊へズカズカと登って行く。
 釘勘はまたそこでも、柱、棟木むなぎひさしの裏などに、ベタベタ貼りちらしてある千社札を、早い眼で読み廻していましたが、
「ウム、ここだ。若様ここで伝吉の来るのをしばらく待ってみましょう」
「こんな所にいるのでは、なお見つかるまい」
「大丈夫、しるしがあります」
「印が? ……」と万太郎は、廻廊の千本びさしをふり仰ぎましたが、種々雑多な千社札の数あるうち、どれが目明し仲間の暗合符あんごうふだだかそれらしいのは一向に見出せない。
 ある一ツの目的で、四方に散らかッている手先の者が、社寺の千社札を利用して、時には探索者の所在を暗示し、時には会合の場所を示し、ある時は行先を残す符牒ふちょうとするなどは、素人しろうとが聞いても、甚だうま味のあることだと、万太郎はすこぶる興味をもちましたので、その暗合符の見方を問いましたが、
「へへへへ。あなたは尾州の若殿でいらっしゃいます。そんなことを御勉強なさらなくっても……」
 てんで相手にしてくれない。
 でも、興にふれると是が非でも、つきとめたいのが万太郎の性質、なおも追求して、目明しの秘機ひき饒舌しゃべらせようとすると、
「? ……」
 あらぬ方へ、釘勘の目が吸いついている。
 それは天井の千社札ではない、本堂階段の降り口にあたる方角。
 そこからかなりの距離がありましたが、今しも、涅槃桜ねはんざくらのそばを通ってゆく兵庫ひょうごくずしの女を、群衆の中から見つけ出すと共に、
「あっ……おくめだッ」
 らんをとび越えた釘勘。
 もう万太郎ののあたりには居なくなっております。

 兵庫くずしの姿を目あてに、七番堂から馳け出した釘勘の跳足! かれの得手えてとする捕繩の風を切るより早く。
 織りなす開帳の人浪をこぐり抜けて、仁王門の前まで息をきって行く。
 と――お粂もどっていたのか、しゅの丸柱の影を交わして、ニッと凄いほど白い顔を、釘勘の方へ酬いたように見えましたが、
「――御苦労さま」
 といわないばかりに、姿は素早く石段を降りて、なだれる人渦の中へ吸いこまれて行く。
「逃がしては!」
 と、それを追う釘勘。
 一足飛びに玉垣の前に来て立ちましたが、既に遅し! ぱたぱたぱたと楼門の空から、白紙のように降りたはとむれが、飴屋あめや紅傘べにがさにほこりを舞わせているのみ、かれの血走った目にチラついて、鳩ならぬ丹頂の逃げ足――お粂の姿は見当りません。
 で、茫然としていると、
「親方」
 と、馳けて来た者がある。
「オオ、伝吉か」
「さっきから、ずいぶん探しくたびれました」
「おれの方こそ、いくら見つけて歩いたかしれやしねえ」
「すみませんでした、今日が開帳だとは気がつかなかったので、ただ護国寺の境内とだけおらせしたのは誤りでした。けれど、そのお粂の落ち着き場所は、やっと目星がつきましたから、どうか御安心なすって下さい」
 組下の伝吉。
 それは水門尻に捕物のあった晩から、釘勘の命をうけて、逸早く姿をくらましたお粂の行先を突き止めるべく馳けずり廻っていた手先のひとりです。
「ですが親方、七番堂の欄間らんまへ、目印の合符あいふを貼っておきましたが、気がつきませんでしたか」
「ウム、見た」
「それなら、あすこに待っていて下さればよいのに、そこにも姿が見えないので、わっしゃ、まだ来ないのかしらと思っていました」
「ところが、今お粂の姿を見かけたので、七番堂に居たのだが飛び出して来たのだ」
「ヘエ……今もここを通りましたか」
「手懸りがあったとおれの方へらせておきながら、手前てめえがそれを知らねえたあ何のこッた」
「いえ、ふたりの落着いた宿は、もうすっかり突き止めちゃあいるんですがね」
「というと、金吾様も、そこにいるんだな」
「この先の筑波屋つくばやという家の、裏二階に部屋を取っています」
「この人混みじゃ立話もできねえ。向うの七番堂にゃあ万太郎様もおいでになっているから、とにかく、そこへ行って相談をするとしよう」
「えっ、万太郎様? ……あの尾州家の若殿様が来ているんですか」
「きさくなお方だけれど、馴れるにまかせて、御無礼な真似まねをしちゃいけねえぞ、いいか伝吉」
「へい、ですが」
「窮屈がることはねえ、ただ、それくらいな気持でおれにいて来い」
 法蔵院ほうぞういんの前の八ツ橋を渡って、つつじを植込んである築山つきやまの細道、以前の七番堂の丘へふたりは戻ってゆく。
 すると、ふたりが通り過ぎた池のほとりから、ひとりの男がのっそりと、五、六歩あるいて見送りましたが、
「はてな? ……どこかで今の奴は見たことがあるぞ」
 しきりと首をひねっていました。
 だが考え及ばないものか、そのまま藤棚の下へ這入って、そこにある陶器床几すえものしょうぎに腰を下ろし、亀の日向ひなたへ上がったように、ぽつねんとして、池の緋鯉ひごい游弋ゆうよくに、無為徒然な春の日を過ごしています。
 道中師の伊兵衛の荷物をもって一足先に、この護国寺のすじ向うにある、筑波屋へ泊りこんでいる馬春堂でありました。
「ばかにしやがる」
 今さら腹が立ってたまらないように、馬春堂はそこでぶつぶつ呟いている。
「あの野郎、おれに合羽と荷物を持たせて、どこに道草しているのか、きょうであの晩からもう三日目、まだ姿を見せやがらない。第一こッちはもんなしなので、茶代はやれないし連れは来ず、宿屋の奴は変な目で人を見るし」
 ははあ、それで馬春堂先生、気の腐るまま宿を出て、池辺ちへん亀首かめくびを曲げながら、売卜者ばいぼくしゃの身の上知らず、来ぬ待ち人を待ちあぐねているものとみえます。

 時をへて馬春堂は一転して、寺領の外の空地に小屋を建てならべている御開帳あてこみの見世物の景況を、いちいちひまつぶしに見てあるいている。
 江の島の貝殻寄せ。亀市の活人形いきにんぎょう。長崎のビードロ細工。火事と血だらけな絵巻をならべて、数珠じゅずを持った坊主頭が、しゃがれ声を張りあげているのは、いつも人立ちの多い地獄極楽の見世物。
 お隣を見ると脂粉しふんの娘が、金糸と銀糸にかがられた若衆姿で、槍流しの水独楽みずごまとか何とかをはやし、むしろの陰の鳴り物では、今たけなわと思われます。
 志道軒しどうけんの孫弟子なにがしの辻講釈つじこうしゃく、冬の陣における真田父子さなだふしの働きぶりをたたきにたたいておりますが、戸板にかこまれた木戸銭の影もまばらで、このならびでは一番の不入り、孤城落日のところだなとは、馬春堂が心でおかしく思った半畳でした。
 まだある。
 居合いあい抜きの歯磨き売り。百獣屋ももんじやの白熊のおり
 そのほか茶番道化、大道の針呑みまで寄せますと、この一側だけでも、見世物番付ができるくらいで果てしもありませんが、さて、見世物はあきません。
 そこに立ち、ここに立ちして、いつかこの他愛たあいのない雰囲気にくるまれると、馬春堂のごとき男すら、身は十か九ツの子供に立ち帰って、そぞろ昔、手をひいて歩いてくれた母や姉が、そこらの人ごみで名を呼ぶような気さえしてくる。
 だが、その終りに、一脚の机をすえていた同業の売卜ばいぼく者に出ッくわすと、馬春堂は急に幻滅を感じました。そして、用でもあるような足どりで、スタスタと同じ道を引っ返して来ると、
「あ……おじさん」
 と、まろばすような娘の声が、前に見て通った、地獄極楽の木戸口から呼び止めました。
「おお」
 と馬春堂は少しって、
「おとといの晩の娘さんだったね」
「ええ……そのせつは」
 あどけない笑顔を近づけて、伽羅油きゃらゆのにおいに馬春堂をせさせたのは、獄門橋で見た時とはまるで違って、いかにもおぼこらしい、混血児あいのこのお蝶であります。
 お蝶を見ると馬春堂はまた心のうちで、伊兵衛が今もって帰らぬのはどうしたものかと、少ししゃくよみがえってきましたが、それはすぐ美しい娘の狎々なれなれしさに消されて、
「お開帳の帰り道かね」
「ええ、ずいぶん人が出ましたわね」
「あまり遅く帰ると、またこの間みたいな悪い奴につけられるよ。それにお前は今、地獄極楽の見世物を見て来たんだろう、あんなものを見て、よく丹下坂の森を帰られるな」
「だって、おじさん、地獄極楽なんて嘘ッ八はありゃしないでしょう」
「あるさ」
「おかしい……」
 ホ、ホ、ホ、ホ、と笑ったはずみに、手にかかえていた包の中から一枚の小皿が落ちて砕け、お蝶の足元へ玉虫色の小片かけらを散らしました。
「あ!」
「なんだい?」
べに――」
 口惜しそうに踏みにじッて、
「わざわざ京屋へ廻って買って来た寒紅なの。こっちの油を落とさなくってまアよかった」
「たいそうみやげ物を買い込んだじゃないか」
「父がひとりでまっていますからね」
「ウム……そういやお前の父親というのは、ころびばてれんの」
「嫌アよ! おじさんは」
 つまねをして眼に鈴を張りましたが、そのにらむ目をあべこべに、馬春堂がジッと見つめ返すものですから、お蝶はプイと怒ったように身をそらして、
「知らない。――嫌な人」
 先に人ごみを縫って急ぎました。
「怒ったのかい、おい、お蝶さん、お蝶さん」
 用もないが、からかい半分、前の仁王門の横手まで追って来ると、そこの玉垣の前にたたずんで、しきりと自分の方を注視している三人づれ。
 二人の町人ていは思い出せないが、目立つ方の秀鶴頭巾しゅうかくずきんは、いつか忍川の売卜に応じたおぼえのある徳川万太郎にちがいない。
 変な日というものがよくあるものです。
 走馬燈の心棒に立ったように、いろんな影が自分を中心に織りめぐって、うしろにあるはずの影が前に居たり、前にさす影がうしろに居たり、心待ちにする影は来ないで思わぬ影がぽっかりと現われたり、すべて、疑心暗鬼から生まれる影が、目のさき足の先にちらついて、妙に心を臆病おくびょうにさせる。
 きょうの九星は何の日かわかりませんが、馬春堂、変な日だぞと考えました。
 得てこういう日には、ちぐはぐな事が多いものだ。
 お蝶さんにたもとでぶたれるなんていうのもその辻占かも知れない。
 忍川しのぶがわの晩以来、どこも大嫌いな十手だの御用提灯だの、岡ッ引くさい眼だのが、そちらにチラついている気がしていけない。まずこんな日はおとなしく、宿の二階にでも閉じこもっているにくはありません。
 なまはんか易占うらないなぞをやるせいか、悪党らしくもなく馬春堂、きょうはばかに弱気であります。徳川万太郎の姿を仁王門の前に見たのさえ、なんとなく小気味わるく思われて、こそこそと宿の筑波屋へ戻ってゆく。
 筑波屋の前は、早くも日暮を思わせて、宿についた、早駕はや、四ツ手が木の下にズラリと埋まっていて、この陽気なのに、汗をふいているかごかきや、上がりかまちでわらじを解いている旅客やで、帳場はひとしきりの混雑です。
 お帰ンなさいまし――とも迎えられずに、馬春堂は幅の広い梯子段はしごだんをふんで、ちょッと戸惑いをしそうな裏二階の一間へ来て、ふすまを引こうとしましたが、
「おや?」
 何かしきいにつかえるものがあって、ガタガタゆすぶってみたがあきません。
 また、「変な日」の迷信が頭にこびりついて来て、部屋違いをしたかしらと、廊下の曲りを考えましたが、やはりここは自分の部屋に間違いはないのです。
 で、もう一度、襖のつぎ目をはだけて見ると、あかないはずです、しきいの境に、強情な爪を持つ足の親指がつッかいぼうになっている。
「こいつめ」
 ギュッとつねると、
「あ痛ッ」
 中で飛び上がッたぶりですが、馬春堂は笑いもしないで襖をあけ、たれと見るまでもなく知れ切ッているその人間へ、
「さんざッぱら人を待たせておいた揚句、つまらない悪戯わるさをするない」
 と苦りきる。
「オオいてえ、ひでえまねをしやがる」
 と足の親指をおさえながら、そのまずいつらを眺めてあッ気にとられたのは道中師の伊兵衛で、朱塗しゅぬりの広蓋ひろぶたに飲みちらした酒の徳利や小皿があり、そばには木枕がころがッていますから、馬春堂の留守にここへ来るなり、脚絆も解かないうちから、二、三本飲んでゴロ寝をしていたものと思われます。
「なんだ、おれが悪戯わるさをしたって?」
「襖をおさえていたろう」
「けッ……」
 鶏がくしゃみをしたような笑い方をして、
「べらぼうめ、四十男の道中師伊兵衛が、そんな餓鬼がきみてえなまねをするかい。お前の帰りをまとうと思っていたが、あんまり腹がすいていたから、つなぎに一杯やっているうち、この間うちからの気疲れで、コロリと横になっているうち、思わず寝込んでしまったんだ。ドッチが悪戯わるさだか考えてみてくれ」
 なるほど、いわれてみれば、その通りです。
 ここでも一ツどじをやって、馬春堂はまた気が腐って来そうになりましたが、まず伊兵衛が帰って来れば多少景気もつこうというものと、
「おい、風呂へ行かないか」
「おれは少し気がいているんだが」
「今、宿へ着いたばかりじゃないか」
「ウム、まアいい……」と、伊兵衛は何か考えていたがクルクルと脚絆きゃはんを解いて、
「じゃ、つき合おう」
 豆絞りの手ぬぐいを袖口にぶらさげる。
 そして廊下へ出て行きますと、先に出た馬春堂が、何か奇妙な虫でもに見付けたような顔をして、入口の長押なげしに眉をしかめているので、
「何を見ているんだい?」
 と自分もそこを見上げますと、勘亭張かんていばりの読みにくい文字の上に、一個の人間の眼が描いてある千社札――それが斜めにピタリとはりつけてある。

 なんの魔除まよけだろう。どれ、あれよ。ありゃ千社札さ。フーム客がいたずらしたんだな。なにさ納札のうさつの連中ときたらきがあると人の顔にでもはりかねない。そいつはやッけえな代物しろものだ。まったく。するとこれなんぞはきっと眼医者の納札気狂いかも知れないぞ。なるほど。胡麻ごまの蠅のまじないにもなりそうだな、道中師にはき目があるめえ、あはははは。
 ――と馬春堂に伊兵衛。
 部屋の入口にはってあった奇妙な札へ、かたみ代りの批評をいって、そのままトントントンと裏梯子うらばしごから風呂場へ降り、ぬぐとすぐに飛びこんで、
「アーいい湯だ」
 二ツの首を浮かせました。
 伊兵衛はスジ文身ぼりのある二の腕をゴシゴシこすりながら、
「この間、獄門橋でわかれた時から、とうとう湯にも這入へえらずさ」
「また切支丹きりしたん屋敷の道草があり過ぎたんだろう。そうとは知らず、こッちは正直に座敷をとって、あの晩も夜半よなかまで首を長くしてまっていたろうじゃないか」
「そうだろうたあ思ったが、おれも実はひどい目にあって、どうしてもここへ帰ることができなかったんだ」
「ふーむ、すると、山屋敷の役人にでもとッ捕まって、逃げて来たのか」
「なに、そうでもねえが……」
 伊兵衛は湯気の立った体をザブリと上げて、小桶をふせて腰かけながら、湯槽ゆぶねへりへよっかかりました。
 馬春堂も上がって、グンニャリと膝をかかえこむ。
「――で、あれからの吉左右きっそうはどうしたんだ」
「飛んでもねえ邪魔物がいて、大不首尾よ」
「邪魔者というと?」
「知れてるじゃねえか、夜光の短刀の相手方、日本左衛門と一まきの奴らだ」と、伊兵衛は話しかけて、あたりに鋭い気をくばりましたが、湯気出ゆげだしの小窓に積んである風呂桶の隙間から、ほの明るい夕空と白い星が一ツ見えるのみで、しめ切ってある水戸みずとの外にも、格別、かれの神経を要する気配はないあんばいです。
 で――安心して、それからスラスラとしゃべり出すことには。
「おめえと別れて、あれから切支丹屋敷の高塀を越え、中の様子をのでいていると、いきなりおれの小鬢こびんへ、石をぶつけたやつがある。あッと思って、中へ飛びこんだが、別にたれも来る様子もねえから、夜ふけをまって這出すと、どうだろう、いたる所に黒衣くろごを着たやつがもぐっていて、おれが行く方、行く方へと、影になって付きまとって来る。こいつはいけねえと、その晩は足を抜いて、翌晩出直してみると矢っ張りそれだ。そりゃいいが今度は、山屋敷の外へ出てまで、おれのあとを黒衣の影がつけてくるので、このまま筑波屋へ帰っちゃ工合がわるいと考えたから、きょうは一日用もねえ所を歩き廻って、そいつをまいて帰ってきたわけだが……馬春堂、おらどうも忌々いまいましくッてたまらねえ」
「すると、そいつはみんな、日本左衛門の手下なんだな」
「そうとよりほかに思い当りはねえだろう」
「だが伊兵衛、日本左衛門のやつが、それほど根気よく山屋敷に目をつけているとすれば、こりゃだいぶ、仕事が面白くなって行くぞ」
「なぜ」
「考えてみるがいい、何かあの山屋敷に、夜光の短刀の手掛りがあるものと睨んでいればこそ、日本左衛門もあぶない要心をくぐッて、そこを血眼ちまなこで探っているのだろう。まるでいわれのない所へ、日本左衛門がいつまで手下を廻しておくはずがない」
「ちげえねえ? そう考えりゃ、ゆうべとおとといの縮尻しくじりも、こッちにゃ大きな張合いとなる。何しろおれは二、三日息抜きをしたら、また毎晩でも山屋敷へもぐりこんで、こんだアあすこの縁の下を、百日でも半年でも、住居にして探ってみる気だ」
「じゃ、あの洞白の仮面箱めんばこの方は、一体どうしておいたものだろう」
「隠しておくのが、身軽で一番安心だが……」
「その隠し場所にまた困るぞ」
「護国寺の札堂――あの辺は」
「物騒物騒」
「じゃ、目白のうずらヶ岡へでも持って行って、どこかへけ込んでしまうとするか」
 といいかけた時でした――湯気出しの口につんであった小桶の幾つかが、ガラガラとくずれ落ちて、はッと振返った伊兵衛の目に、そこから逃げた女の影――。

 ろくに体を洗いもしないで、それから伊兵衛と馬春堂が、上がり湯をザッと浴びて着物を引っかけ初めたころ。
 ――もう八けんに灯が入って帳場格子によいのきた筑波屋の表梯子ばしご
 そこへ、化粧道具を手拭てぬぐいにくるみ、少し身丈みたけにあまる丹前は伊達巻だてまきのあだッぽい姿を見せたのは丹頂のおくめで、
「あの、番頭さん」
 二、三だん、梯子を踏みかけながら、上げびんの止めを、ちよッと指でおさえて、
「――早くして下さいよ、急ぐんだから」
「ヘイ、只今」
 勘定書であろう、帳場の番頭、パチパチパチパチ算盤そろばんの珠音をはじきながら、
「お風呂はもうお済みでしたか」
「ほかの客がいたから止めてきましたよ」
「あれ、いていたはずでございますのに」
「いいよ、もう」
「あいにくと今夜は、護国寺のなんで、ばかに混み合いますもんですから、どうも不調法ばかり仕りまして」
「それから、かごを二ちょう
「かしこまりました」
「私は、足ののろい駕屋さんは嫌いだからね」
「達者なのをそう申しておきます」
「じゃあ、すぐにだよ」
「お夕食は?」
「いらない」
 トントンと白いかかとを二階へ運んで、お粂の姿は裏二階の廊下の奥に吸いこまれる。
 女中の手が足りないかその部屋には、まだ行燈が来ていません。
 掛障子かけしょうじの紙の色が暗い床脇とこわきに白く目立って、秘かにめた夕暗の中に、人の気配もほのかであります。
 音もなくあいた襖すべりに耳をとめて、相良さがら金吾は床の上から――
「お粂か」
 と、膝にのせた了戒の刀を重そうに向き直りました。
「――お支度は」
「ととのえておる」
 うしろ向きに立って、お粂が丹前をぬぎすてると、白い肌の曲線が、手早く次に羽織る着物に隠されて、さやかなきぬずれの音と共に、豊熟な女の匂いが部屋いッぱいにひろがって、さし俯向いている金吾の胸にも悩ましそうでありました。
「お粂……」
 金吾は憂鬱ゆううつひたいを抑えて、
「わしは止そう、どう考えても、そうしておられる体ではない……」
「あれ、またそんな」
 男の体へふわりと絡んで、
「どうしてあなたは、そうすぐに気が変るんですえ? もう駕まで頼んでしまったじゃありませんか」
「…………」
「あなたにしても、いつまでお体がこんなでは、どうジリジリあせッて見たところで、仕様がないことでございましょう」
「といって、このままお前と湯治場へなど、なんで暢気のんきらしく出かけられようか」
「遊びに行くという訳じゃなし、あなたの御病気をなおしに行くんですよ」
「そりゃ一刻も早くこの体が、自由になりたいのは山々だが、もうお屋敷を出てから幾月目になるか、沙汰もせねば居所も知らさず、万太郎様も定めし憎いやつと思っておいでになるだろう……」
「ですから、せめてお手紙でも届けましょうかといえば、今となっては、面目ないと仰っしゃるし」
「当り前ではないか。なんで、今さらこの浅ましい病体をして、万太郎様にお目にかかかれようか、お前には武士の切なさは分るまい」
「それ故、湯治場へでも行って、お体の養生をなさるのが、今の大事じゃございませんか」
「ええ、重い」
 お粂の体をうしろへ押しのけて、
める、拙者は行きたくない」
「そんな捨鉢すてばちをいわないで」
「ああ、どうしたらいいのだ、この体を……」
 さすが気丈な武士相良金吾も、自分でも得体えたいの知れぬ病状をもてあまして、蒲団ふとんへ蒼白な顔をふせましたが、お粂はその息づまり方を察しもなく、押し退けられるほど両の腕を、男のやせた肩へからんで、
「もう駕が来ているんですよ。ねえ相良さん、私のいうこともきいて下さいな。静かな湯治場へでも落着いたら、その上で、この気持ちもすっかり打明けて話しますから」
 うしろへひいた帯の端が、スルリと夕暗の畳にうごいて、蛇の妖情を思わせます。

無名神むめいじん


 それから程なく。
 夜立ちと見ゆる二ちょうの駕が、筑波屋をあとに宵を急いで、江戸川の土手へさしかかッて来る。
「あ、駕屋さん」
 うしろの一挺でこういうと、駕の内からお粂の白い顔が外をのぞいて、
「すまないが、ちょっとここで降ろしておくれ」
「なにか、忘れ物でございますか」
「少し、思い出した用があってね……。わたしは、すぐにまた戻ってくるから、おお、すじ向うに居酒屋があるらしい、あそこでしばらく休んでいておくれでないか」
「ヘエ? ここで、お待ち致しているんですか」
「病人は、駕の中へ残しておいてもいいけれど、寒くないようにしてあるだろうね」
駕蒲団かごぶとんを厚く入れて、こうしてございますが」
 ひとりがタレを上げて中を見せますと、お粂はニッ……とうなずきました。
 らい了戒りょうかいの大刀に、衰えた肩をもたせかけ、膝を友禅ゆうぜんの小蒲団にくるんで、相良さがら金吾は昏々こんこんと眠っております。
 なんという奇病――業病ごうびょう――かと金吾のれるやまいの謎をとくものは、お粂以外にはないでしょう。筑波屋に滞留中も、附近の医者にみてもらいましたが、所詮しょせん、病の名すらも分らない。
 さっきも、駕にのるまでは、人手も借らずに乗った病人ですが、もうここまで来る間に、いつものような昏睡に落ちて、呼べどもさめるふうはなく、了戒の刀を抱いて俯向いたまま、おのれの駕の行く先も知らぬ無明むみょうの旅の宵風よいかぜに吹かれています。
(ああ……罪が深い)
 その姿を見ると、お粂もそら怖ろしいほど、自己の悪行あくぎょうに、おののかぬのではありません。
 しかしどうしても、金吾を自分の所有にしきってしまわないうちは――と、
「じゃ駕屋さん、少しだけれど」
 紙入れの中から二朱金を一枚つまみ出して――「まっている間に一杯おやり」
「ありがとう存じます」
「アアこれでも、いくらか夜露をふせぐ足しになるかもしれない」
 着ていた羽織をぬいで、フワリと裏返しに、金吾の駕の屋根へかぶせてやると、お粂は小走りに江戸川の土手を、元の道へ戻ってゆく。
 どこへ?
 と思うとその姿は、目白の台へ急いでうずらヶ岡の二本松――夏ならば茗荷畑みょうがばたけ、秋ならば虫やうずらの音も聞かれそうな、畑と草原の間に行きつ戻りつしている。
「こっちが先を越しているはずだが……どうしやがったんだろう、あの二人は」
 人待ち顔につぶやいたお粂は、二本松の根方にある石神堂の前に、曼珠沙華まんじゅしゃげのように赤い線香の火を見ました。
      ×   ×   ×
 それより少し前のこと。
 筑波屋の裏口へ主人を呼んで、十手を示した上、客らしく装って二階へ上がって行ったのは釘勘です。
 ズーと裏二階の廊下を見てゆくと、手先の伝吉がはっておいた、例の、目印のふだが二ツの部屋にはってある。
 そのどっちにも明りの影がさしていないので、釘勘は、しまッた! と早くも手遅れを感づきました。
 偶然、ここにお粂と道中師の伊兵衛とが、一ツ宿屋に落ち合っていたため、一方へかかれば一方を逃がすおそれを生じ、あれから、いったん引っ返して、手配のため番屋廻りに時刻をついやしたのが、今となれば、とんだ両兎りょうとを逃がした原因というもの。
「だが、遠くへは行くまい」
 と、一つの部屋をあけてみると、衣桁いこうにかけてある女着の丹前、それには、まだほのかにお粂の肌の匂いがある……。
 火鉢の残り火を見つめながら、釘勘は、この部屋の空虚に立って、不思議な疑惑にくるまされました。
 ――病体にしろ相良金吾が、どうして、お粂と共にこう早く姿をかくしたり、あの妖婦の自由になって逃げ廻ったりするのか?
「ウーム、せない」
 吐息の如くつぶやきましたが、今はそんな事を考えている場合でもないので、サッとその部屋を抜けて出ると、何やら足の先にコロコロと転がった物がある。手で探ってみると――冷ややかで、透明で、小さくて、見なれない形をした、紫色のうつわです。

 むらさき色のビードロです。その当時にあっては、長崎の者か蘭法医でもなければ見知らない、小さな薬のびん
 それが拾われて、釘勘の手のひらに、気味の悪い色と冷たさを感じさせています。
 丹頂のお粂が、倉皇そうこうとして去ったあとの部屋にこの不思議な品は、そも何の謎でありましょうか。
 とにかく、由々ゆゆしい物を手に入れたように、それをふところに捻じこむと、釘勘は表の帳場へ降りて来て、主人あるじや番頭へ、
「忙しいところを、お邪魔しました」
「どういたしまして、何かあの……」
「なに、べつに」
 本来は、二組の客の行先を、くわしく問いただすべきところでしょうが、お粂にしろ、伊兵衛にしろ、正直に行く先を帳場にいって立つはずはなく、聞くだけ野暮と見限みきりをつけて裏口から飛び出すと、そこに、
「親方」
 と、待構えていたのは手先の伝吉、
「一足ちがいで、逃げられた様子ですぜ」と、そばへ来て手おくれを口惜しがる。
「ウム、惜しいことだッたが、仕方がねえ。それよりも万太郎様は?」
「さっきも、親方が意見していたようですが、どうして、なかなか根岸へ帰るぶりはなく、今し方まで護国寺の前に居ましたが、そのうち、馬春堂と伊兵衛が筑波屋を出て行ったので、それを尾行つけてゆきました」
「じょうだんじゃあねえ、御三家の若殿が、こちとらずれの仲間に交じって、岡ッ引風情の真似を一緒になってやられちゃア困るじゃねえか」
「だって、万太郎様は、面白いといってきかねえんですからね」
「何が面白いことがあるものか」
「当分、釘勘の部屋の者になろうかって、いっていましたぜ」
「ばかをいやがれ。御勘当にこそなっているが、尾張様の七男、もしや怪我でもあった時にゃ、こッちが飛んだことにならあ」
「困ッた人だなあ」
「で、どっちへ尾けて行った?」
「目白台へ上がって行ったかと思いますが……何しろ私は、お粂の方へ、七、八人追いかけさせてあるんで、ここを動くことができねえんです」
「じゃ何しろ、馬春堂と伊兵衛から先に片をつけるとしよう。お粂の方は駕屋を洗ってみたらほぼ見当けんとうがつくだろうから、そう急ぐにも当るまい」
 こういいのこすと、釘勘は、もしやと万太郎の身が一途に案じられて、木立に暗い坂道をあえぎあえぎ、目白の台へかけのぼって行く。
 …………
 どこかに月が出たようです。
 月のありかは分らない。
 ただ銘刀の刃紋はもんのうような朧夜ろうやの雲が空いちめんにわだかまっていて、その雲の明るみから見ても、どこかに月のあるような空ですが、月のありかは分らない晩です。
 夜霞よがすみのあるせいか、江戸川のくぼの向うに、いつもは近く見える矢来やらい天文櫓てんもんやぐらの灯が、今夜は、海のあなたほど遠く見える。
「なあ、馬春堂」
「ウーム?」
「陽気もだいぶ楽になったなあ、今夜あたりが、おぼろ夜っていうやつだぜ」
「そうさ、俳諧はいかいにもあったっけ」
「俳諧ってなあ、なんだい」
「そう聞かれちゃ、ちと困る」
「おめえもやるのかい」
「多少は心得がある」
「悪党の癖にしやがって、俳諧はいかいなんて作る法はあるめえ」
「悪党だって、絵の上手なのも居るし、家で盆栽ぼんさいをいじっている奴もある。現に、木鼠きねずみの三公なんかは、巾着切きんちゃくきりは下手へただが、伝馬牢へ入ると、時々、句を作って出てくるそうだ」
「量見のよくないやつだ。おれなんざ、おぼろ夜となれば、ひとりでに考え方が違ってくる」
「どう違うのかな?」
「やたらに、仕事がしよい晩だと思って、気がげてきて仕方がない。――どうも馬春堂、おめえは少し、悪党にしちゃ半端でいけねえ。もう少し苦汁あくが抜けて来そうなもんだ」
 ぶらぶらと歩いてくる二ツの人影。
 やがて、二本松の石神堂で足を止めると、伊兵衛は肩の振分ふりわけを下ろして、
「ウム、仮面箱めんばこを隠しておくにゃ、ここはおあつらえにできている」
 と古びた喜連格子きつれごうしを見廻しています。

「さ、どこへ隠そうか」
 石神堂のぬれ縁に腰をかけて、伊兵衛が振分ふりわけの中から解き出したのはいうまでもなく、夜光の短刀の来歴をつぶさにした「ばてれん口書くちがき」の一じょうと、洞白どうはく仮面めんとを秘めたあの箱です。
「そうさなあ?」
 と馬春堂が、改めてこのほこらを見るに、木組きぐみひさし手斧ちょうなのあとなど、どことなく遠い時代のにおいがあって、建物としては甚だ粗末ですが、屋根においかぶさっている二本松と共に、年古としふることは想像も及びません。
 ギイ……と喜連格子きつれごうしをあけて見ると――、蜘蛛くもの巣の中に石の祭神の半身が見える。
 その石神がまた変っています。毘沙門びしゃもんとも見えれば矢大臣の像とも見えるし、またただの甲胄かっちゅうをつけた武人とも見える。
 ――土着の人は、何事の願掛がんかけもかなうとかいって、可笑おかしいことには線香を上げるかと思うと、生魚を上げたりして、その信仰に神と仏の区別をもっていないようです。
 もっとも、本体の石神様自身が、神か仏かただの人間か、古色蒼然そうぜんとして、名もなく、わけもわからぬおすがたを持っているのでありますから、祭祀さいしの方法もまた、これでいいのかも知れません。
「どうだろう、伊兵衛」
 馬春堂は喜連格子の中へ首をつッこんで、
「ここに賽銭箱さいせんばこみたいなものが、こいつを動かして、その床下へ隠しこんでおいたら、たれも気がつくものはありはしまい」
「だが、動くか、そいつが」
「おそろしく頑丈だが、二人がかりならどうにかなりそうだ」
「しかし考えてみると、こんな所に隠しておくのも不安心だ」
「といって、その振分ふりわけへ入れてかついで廻っていると、万太郎だの金吾だの、悪くすりゃ釘勘なんて奴に、いつどこで出ッくわすか分ったものじゃない。まあここらへ隠しておけば無難なものだよ」
 何しろ自分に大事よりは、人手に渡したくない性質の物なので、伊兵衛も暫くは迷いましたが、大事なだけに、これを持って歩いていることが、どれほど、苦労だったか分らないことを思うと、
「じゃ、人の来ねえうちに」
 と、腹をきめて、
「馬春堂、手を貸すぜ」
「ウム、押してくれ」
 二人がかりで賽銭箱をズラしました。
 馬春堂はすぐその下の床板をさぐって、
「おや」
「なんだ? ……」
「お誂らえだぜ、面倒なく、床板がり抜いてある」
「そうか、じゃまってくれ、湿気しっけをくわねえように、今すっかりあいつを桐油紙とうゆでくるむから」
 伊兵衛が手早く入念に、仮面箱めんばこをつつんで肩越しに渡すと、馬春堂はそれをうけとって床板の隙穴すきあなへと、ズーと手をさしこみました。
 そして、
 床下の上へおくつもりで、そっと手から放しましたが、途端に――あっ! と伊兵衛も馬春堂も、色を失なって飛び上がりました。
 そこは、わずか二尺か三尺と思いのほか、手を離れて行った洞白の仮面箱めんばこは、数丈も深さのある地底へ行って、やっと、ストンという遠い音を返して来たのです。
「た、大変だこいつは」
「飛んでもねエことをしちゃったじゃねえか。どうして、そんな所へ」
「まさか、賽銭箱さいせんばこの下が、こんなからくりになっていようとは思わない」
「えっ、困った! なんとかして引き上げる工夫はねえかしら」
蝋燭ろうそくを点けよう、蝋燭を」
「オオ、蝋燭なら、ここにいくらもある。早く火鎌ひがまってくれ」
 焦燥と泣きたいような気持とが、カチカチッ、カチカチッ、と火花と散って、やがて、あたふたと点けた一本の灯を、手につかんだだけの蝋燭へ移して、それをかざしながら怪異な石神の足元をのぞきこむ……。

 明邪めいじゃ御本体のわからぬ無名の石神様は、身に甲冑かっちゅうをつけ手に鉾らしいものを持ち、数百年の塵をあびて、顔容がんようおそろしげに、足元で浅ましい狼狽うろたえざまをしているふたりの人間どもを、冷々れいれい、見ておわすように思われました。
「ウーム、こりゃ深い。まるで井戸のようだ」
 馬春堂は、伊兵衛のかざす蝋燭の流れを背中へポタポタ浴びながら、石神堂の床穴へ体をのめりこませていましたが、やがて遂に、
「とても駄目だ!」
 と、絶望の声を放つ。
「ま、待ちねえ」
 強悪ごうあくな伊兵衛の声もふるえています。
「深いからといって、このまま諦らめるわけにゃ行かねえ。ウム……こうして見りゃおよそ底の見当がつくだろう」
 手につかんでいる蝋燭を、火のついたまま一本一本床下の穴へ投げ落として見ますと――それは美しい一条の光をひいて、直線に真ッ暗な地底へ吸われてゆきましたが、ある程度まで下がってゆくと、ふッ、ふッ、と魔ものの息にかけられたように消えて、伊兵衛の機智もなんらの効果を見せません。
「ちぇッ」
 と、舌打ちをしたものの、最後の一本まで投げてしまえば、上も暗やみになってしまうので、それは賽銭箱の上へ蝋を溶かして、ていねいに立てかけながら、
「馬春堂、帯を解きねえ、帯を」
「な、なにをするんだ」
「おれの三尺や何かもつなぎ合せて、この穴の底へ降りてみるから」
「よしな、あぶない芸当は」
あぶも蜂もあるものか、大事な洞白の仮面箱めんばこ――そりゃまあいいとしても、あの夜光の短刀のことが書いてある書物かきものを、こんな所へ落としちまっちゃあ仕様がねえ」
「いかにもそれは残念だが、まあもう少し考えて見るさ」と、伊兵衛が三尺を解きかけるのを押しめて、
「おれはかえって、こうなった方が、石神様の御利益ごりやくだと思う。そう考える方が本当だ」
「ばかにするねえッ」
 噛みつくように呶鳴った伊兵衛、この意外な失策に、ジリジリしているので喧嘩づらです。
「何が御利益だ、馬鹿野郎め」
「そうガミガミ怒るなよ。あのばてれん口書くちがきは、なるほど、夜光の短刀の来歴を、つぶさに書いてある大事なものには違いない。しかし、いわばあれは、それだけを知る端緒に過ぎないもので、夜光の短刀のありかが書いてあるわけでもなければ、秘密の扉をあける鍵にもならない」
 なるほど、それは馬春堂のいう通りです。先にはこの男を、半端な悪玉と冷笑ひやかした伊兵衛も、冷静な思慮になると、やはり幾つでも年の上な馬春堂に、一ちゅうさないわけにまいりますまい。
「――いいかな、ところで、あれに書いてあることは、おれもお前も、もう呑みこんでしまっていること、今では、用のない読みからしだ。ただそいつが人手に渡ると、またぞろ、夜光の短刀、夜光の短刀と猫も杓子しゃくしも騒ぎだすやつがふえて、こッちの詮議せんぎにぐあいが悪い。ただそれだけの心配じゃないか」
「ウ、まアそういや、そんなもんだが」
「とすれば――めッたに人目にかかる気づかいのないこの御堂の縁の下――おまけに、石神様の足で踏ンまえていてもらえば、他人が探り出してゆく憂いはなし、いよいよ自分たちに必要な時には、また折を見てとり出すし、どっちにしても願ったり叶ったりだと思うんだが」
「ちげえねえ、なるほど、ものはとりようだ」と、伊兵衛もサラリと考え直して、
「じゃ、あきらめてじゃねえ、この石神に預けたとして、引揚げようか」
 と、何の気もなく、腰をのばした途端です。
「伊兵衛ッ!」
 ガンと、耳の鼓膜こまくをつき破るような声。
「あっッ」
 といったが、もう遅い。
 飛鳥といいましょうか、疾風迅雷しっぷうじんらい、堂の両側からおどり上がって組みついて来た二人の者。
 同時に、馬春堂もまた、賽銭箱に立ててあった蝋燭へ手をついて、コロコロと突ンのめるなり前へ翻筋斗もんどり打ったらしく、
「わっッ……」と、ただならぬ声をあげましたが、南無三です。そこは今、蝋燭の灯で深さを測った底知れずの穴――ドタッといった物音をこの世の名残りに、ああ馬春堂先生、「変な日」の予感がとうとう本ものとなって、真ッ逆さまに落ちこんでしまったようです。

 忽然と、床下に影を失った、馬春堂の片袖を手に残して、
「やっ、これは?」
 唖然あぜんとして、そこを見たのは徳川万太郎でした。
 さあれ、一方では釘勘が、伊兵衛のうしろから組みついて、万力のような両腕をしぼり上げている刹那なので、
「おお!」
 われに返って助太刀に向うと、どっちが足を踏み外してか、からみ合ったまま釘勘と伊兵衛、御堂のぬれ縁から勢いよくころげ落ちる。
 落ちたハズみこそ伊兵衛にとって、逸すべからざる好機でした。
「ちッ、この岡ッ引め」
 とんぼ返りを打ちながら、横ざまに抜いて、なぐり払った道中差どうちゅうざし
 伊兵衛、剣道の名人にあらずといえども、死に身の力から発した自然の居合いあい、場なれのした切ッさき、わざに法はなしとてなかなかあなどれたものではない。
 ピシーッ。
 真ッ青な火が削られる。
 かれの道中差がへらの如く鳴ったのは、釘勘の十手のかぎにねじられたか、あるいはたたき交わされたものでしょう。あっと、横に泳いで草の穂を切ったところを、
「おのれッ」
 と、寄って来た万太郎。
 抜き打ちに、背割せわりをねらって浴びせかけようとしましたが、それは届かず、伊兵衛はもう一度つンのめりながら、足へ飛んで来た捕り繩を切りすてますと、例の、すばらしい飛躍力――あの怖ろしく弾力のある五体を急に跳ね出して、しののガサヤブへ飛びこむや否、早稲田わせだへ下るだんだん畑を、一目散に駆け出しました。
 さえずくもらず、夜は今もなお、宵のとおりなおぼろです。いちめん、水銀をなすッたような果てへ向って、畑の土をカッ飛ばしながら無二無三に逃げてゆく道中師の伊兵衛の姿――
 やがてまた、それを追っかけてゆく目明しの釘勘と、徳川万太郎の影が――見ているうちに、遠くなり、小さくなり、うすくなって、果ては、その夜霞よがすみの底に、江戸川の流れと関口の人家のが、チラ、チラと見えるほか、何物もなく何らの音もない、真にせきとしたおぼろおぼろの夜と帰しました。
 野となれ山となれ。
 あとの石神堂は開けッ放し。
 いかに何でもこれはひどい。まるで、賽銭さいせん泥棒が荒して行ったあとのようです。霊あらば石神様の御機嫌とても、易々やすやすこのままでは納まりますまい。
 だがしかし、あしたにでもなれば、例のごとくこの無名神を、神か仏かのけじめもなく、ただおそれあがめている土着の人たちが発見して、あら勿体なやと、戸締りをなおし、賽銭箱の位置も正すでありましょう。
 ところが、それにも及ばないようです。それから半刻はんときともたたないうち、喜連格子はちゃんと閉まって、元の通り、ここに何の異常も認められなくなっている。
 どうしてといえば。
 それも石神様だけが知っていたこと。いや、神通力のない釘勘でも万太郎でもが、もう少しあとに残って様子をうかがっていたら、必ず、同じあやしいものを見たにきまっている。
 足音が遠のいたかと思うと――すぐその後です。
 ふと気がつくと、いつの間にか、威厳おそろしき石神の首が変っている。
 立兵庫たてひょうごにきらめく銀のかんざしが一本、うりざね顔の全体は、夕顔の花より白くふちがとれて、そっと、石神のうしろから立つと、その肩越しに、前の暗い穴をのぞいたのが――まるで石体の無名神むめいじんそのものの首が代ったかと見えたであります。
「ばかだねエ」
 丹頂のおくめはひとりで笑っていました。

逃水にげみずの果てへ


 その翌朝――夜が明けると同時のことです。
 耕作に出る毎朝の通りがけに、きまって石神堂のまわりを掃除する土地の百姓が、
「おや、落とし物がある……」
 堂の前に、泥だらけとなっていた振分ふりわけ菅笠すげがさを見つけ出し、不審そうに見廻すと、ぬれ縁には蝋燭ろうそくあとだの、あたりには狼藉ろうぜきな足あとだのが、何か異状のあったことを、まざまざとそこに描いていました。
「大変だ!」
 おそるおそる喜連格子きつれごうしをのぞいた途端に、吹っ飛ぶように馳けて行った男の声が、やがて後方の畑から、土着のたれかれを寄せ集めて来て、
「石神様を荒らしたやつがあるぞ」
「ふてえ奴だ、そいつはどうした」
「そいつは居ないが、ここに、これ、ほどけている振分と笠が落ちている」
「旅の者だろう」
「土着のものが、なんでそんな罰当ばちあたりな真似をするもんじゃない。旅の者にちがいない」
「路銀に困って、またお賽銭さいせんでもねらったのじゃろう」
「ばか者めが、そしたらまた、手を突っ込んだはずみに銭瓶ぜにがめの穴へ落ッこちているかも知れんぜ」
「何しろ早く、高麗村こまむらの御本家へ、このことを知らせておかねばなるまい。たれか足の早い若い者、大急ぎで高麗村へ飛脚に行って来ないか」
 それから、選ばれた足達者の男が、どこかへ急いで立ちましたが、御府内は元よりこの江戸川附近に、高麗村という地名は絶えて人に聞えておりません。
 どこまで行ったのか、使いはなかなか帰らないで、それをまたの者も合点のように、石神様には発見した最初の男ひとりが悠暢ゆうちょうに待ちかまえて、以外の者は平日どおり、みな野良へ戻って、青々とした尺麦しゃくばくの鍬を持っているのであります。
 それらの人が午飯ひるめしにつどう頃には、優に半日は暮れていますが、まだ使いは帰って来ない。
 それも特に選ばれた足達者が行ったのですから、一体、高麗村の御本家とかまでは何里あるのか? 江戸西方の近郷を指折ってみても、板橋、落合両部おちあいりょうぶ、中野ごう一円、ずっと離れて多摩川の武蔵境むさしざかいにしたところで、足達者というほどなら、もう七刻ななつごろには帰って来てもいいはずです。
 すると、ようよう二本松のこずえが夕焼に染められて来たころ、知らせに行った男を先に、チャリン、チャリン、チャリン、馬のくつわの音をさせつつ、野袴のばかまに軽装をした武士が駆けつけて来たかと思いますと、
「おお、御苦労」
 といいながら、ぽんと馬上から飛び降りました。
 これでも、かなり急いで来たものと見えて、使いの者は胸毛の汗をふき、馬は草に渇して、手綱たづなを離されると、すぐそこらをかぎ廻り、青い泡をかんでいる。
 その黒駒のあぶみや、くつわが、余りきらびやかでない如く、駆けつけて来た侍の風采も、すこぶる立派ではありません。
 藩のお抱士かかえともおぼえず、浪人という肌合はだあいではなし、何しろそまつな手織木綿ておりもめんの衣服で、しかも袖の形も一般の武家とは違い、はかまの下は脚絆きゃはん草鞋わらじで、腰の大小を斧と差しかえれば、たしかに木樵きこりと間違えます。
「おおこれだな、足痕あしあとは。ウム、やはり例の賽銭さいせん荒しをする不埒者ふらちものに相違なかろう」
 武士はそういって、石神堂の中をあらためた上、使いの者と最初の発見者へ向って、
「よく知らせてくれた。ところで、少しこの方より駆け遅れて参るが、あとの始末をする者が、やがて二人ほどここへ来るから、お前たちは引揚げて、また呼びにやったら参ってくれ」
 と、強いてそこから追い返してしまう。
 そして、しばらくすると、かれと同色な身装みなりをした侍が、徒歩かちのため馬よりはおくれて、息をせきながら姿を見せる。
 素性の知れない三人の武士は、そこで、煙草たばこ休みといったふうに、急いで来たほどのこともなく、平気で何か話しあっていましたが、
「どれ、それではひとつ、わなかかったやつの息の根をあらためようか」
 三人一緒に、やおら腰を上げて、石神様の背中にあたる、堂の裏手へ廻りました。

 堂のうしろの二重扉じゅうどは、鎧組よろいぐみとなっていて、ちょっと見ただけでは、そこがくとは気がつきませんが、横木のさんを技巧的に廻すと微妙にギイと鳴って、観音びらきにかってくる。
「お先へ」
 と、いうと三人のうちのひとりが、龕燈がんどうを用意して光を左右に振りながら、中へ足を入れましたが、見ているまにその影が足元から消え込んで、次に這入はいった者も、最後の武士の姿も、吸われたように地底へかくれます。
 中をのぞくと床なしの段です。
 素性不思議な三人の侍は、それを心得て降りてゆきましたが、やっと身を入れるに足るくらいな狭さ。
 けれど、数歩下ってゆくとその空洞は、馬春堂の落ちた例の銭瓶ぜにがめの穴と一つになって、なおも深い真っ暗な空虚が、一段おいて、すぐ目の前にのぞまれました。
 その下へ向って真ッ逆さまに、サッと投げられた龕燈がんどうの明りを、三ツの首が、ためつすがめつして、
「おい! 生きているのか」
 と突然、大きな声で呼びかけて行く。
 声はガア――ンと穴むろにひびいて、不気味にいつまでも消えませんでしたが、それに澄ます神経の下では何の沙汰もない。
「はて?」
 ひとりが小首を傾げると、
「返辞がないじゃないか」
「まいッてしまったかな?」
「いや、死ぬはずはない。底の土はやわらかいし、下には水も少したまっているから、一時気絶したにしろ、もう息を吹ッ返していなけりゃならない」
「そういえば今まで、各所の石神堂にある銭瓶ぜにがめの穴で死んだものは一人もないな」
「そうとも、死んでしまわれたのじゃ、こちら様の御用に立たない事になる。どれ、おびえているのかも知れないから、一ツ、地獄に仏のお救いと有難がらせてやろう」
 小声にささやいていたのを、また怒鳴るような大声に変えて、
「これこれ、下に落ちている旅の者、息はないのか! 息は!」
「オオ、うなっている」
「しっ……」と手で制して、
「これ、どうした」
 上から射す明りを見上げて、ウームと下で呻いていたのは馬春堂。――打ち所のいい悪いなどはとにかく、何しろ、夜の明ける前から、ふッと正気づいて、さんざんもがき疲れた揚句、わずかに、したたる水を吸って、飢えと恐怖にふるえていました。
 それに、肩と頭部がひどく痛んで、ものの思判力がみだれている。
 上に人影が見えるのですから、飛びつくように、助けを呼びそうなものですが、ぽかんと、しばらくは無言のまま、
「ウムム……」と、ただ太い息でうめいていますから、
「おい、旅の者――」と、上の三人は、再度口をそろえて、
「上がりたくないのか」
 一本のなわを振りうごかし、目に見えている鯉が釣れないようにれました。
 その垂れている繩の先に、冷やりと顔をなでられたので馬春堂は、ハッと、失いかけていた生命の弾撥ばねをよみがえらせて、
「おーっ、たッ、たッ、助けてくれ――」
 いきなり、ムシャクシャに繩へかじりついてきました。
 しかし、上の三人は、そう引ッ懸って来た魚をすぐに釣り上げようとはしないで、
「おお気がついたか。あせらんでもよい、あせるなあせるな、元より此方たちはお前を救いにまいったのだから、もう心配することはないぞ」
「あっ、ありがとうございます」
 馬春堂の声は泣いているようです。もし、ここに道中師の伊兵衛が居たならば、また、
(悪党のくせにしやがって、しッかりしろい)
 とか何とか、毒づいたかも知れませんが、こんな場合はかえって、叱咤しったしてやるのが当人のためで、狂喜させる甘い言葉はいよいよ悩乱のうらんさせるばかりでしょう。
 上では、そんな思慮もない様子で、
「おい、ところでな、旅の者。上がるついでだ。今、上から袋をほうるから、その底にたまっている銭を、はいるだけ詰めてくれ。――なに、石神様の賽銭さいせんさ、もうここのは三、四年揚げたことがないから、かなり土にも埋まっているだろうが、手さぐりで、およそ詰めてくれればよい。――そして、その次に、貴様を上へ揚げてつかわすぞ」

 いわるるまま馬春堂は、穴の底で、手に触れたそれらしい物を土と共にかき集めて、上から垂れている繩の先に結ぶ。
 この辺で土着の人が、石神堂の床下を、銭瓶ぜにがめの穴とよぶ名にたがわず、多年底なしの賽銭箱から落ちて、雨露のしずくのようにたまっていた金。
「くくりつけたか、しっかりと!」
「はい」
 馬春堂は神妙です。いや、半ば夢中なのかも知れません。
「よし!」
 と、上では三名、それに応じてグイグイと手繰たぐり上げていったかと思うと、何やらまた小声でささやき合った後に、
「これ旅の者、もうしばらくそこで待っておれよ」
 こういうと、一人だけをそこに残して、あとの二人は、ズシリと重いその袋をさげて、前の観音開きから堂の外へ飛び出しました。
 さらに奇怪なのは、それから石神堂の前へ、土着の者を呼び寄せて言い渡した、かれの行動と言辞であります。
「この賽銭、何程あるか分らぬが、高麗村こまむら御隠家ごいんけ様の思召しである、其方たちにこのまま渡し置くによって、一部は土地の貧者や病人へ、一部は関口の橋修繕に、一部は石神様鎮護ちんご料としてよろしいように配分いたせ。なおまた、不心得なやつが、賽銭箱を破ろうとして銭瓶ぜにがめの穴に異状のあった節は、すぐに高麗村まで急報いたしてくれるように。さすれば今日の通り、神罰の使いとして吾々が即刻成敗に向うであろうし、その時ごとに、たまっておる神財は、皆この土地のものに配分してつかわす故、くれぐれ石神様をおろそかにせず、また高麗村御隠家様の御恩は忘れてはなるまいぞ」
 いかにも厳然とした口調でいうと、質朴しつぼくな百姓どもは、神財配分の恩にひれふして、きっと誓約にたがわぬことを口々に答えるのでした。
 もっとも、銭瓶ぜにがめの穴に人の落ちた時は、必ず高麗村から罰使ばっしが駆けつけて来て、その時ごとに、神財を分けてくれることは、かれらが祖先からの例で、今に始まった事ではありませんが、まず滅多にないことで、四、五年に一度あるかなしです。
 それ故、土俗の者が、高麗村の御隠家様というものをおそれ敬うことは想像以上で、しかもその御隠家とやらは、武蔵の国に散在する幾多の石神の司祭者であるといいますから、馬春堂の落ちた銭瓶の穴――また樵夫そまの如き風姿をした武士が罰使として野馬のうまを飛ばしてくることも、決してここばかりの事件ではないと見えます。
 さて、おごそかに神財配分の例事をすまして、一同を退散させると、かれらはまた、前の所へ戻って来て、馬春堂を銭瓶ぜにがめの穴から救いあげました。
 ――もうその時刻には、日もとっぷりと暮れていて、ゆうべよりもぬるいそよ風に、星の色もにぶいおぼろ夜ですが、ここに、わだかまる二本松の陰だけは真ッ暗です。
 穴の底にいた時は、ただ助かりたい一念であった馬春堂も、地上に足を着けると共に、にわかに、風俗不思議な三名の侍が怖ろしくなって、礼もそこそこ立ち去ろうとすると、
「これ、どこへ参る?」
 と見とがめて、馬のあぶみをすえ直していた一人が、声にとげをもって、
「すでに命のないところを救われておきながら、一応司祭者たる御隠家様にお礼も申さず立ち帰るやつがあるか、たわけ者めッ」
 と叱りつけて、はッたと睨みつける。
 その眼光にちぢみ上がッていると、うしろからの侍が馬春堂の背中を突いて、
「御隠家様のお屋敷へ案内してつかわす故、それへ乗れ」
 と、駒の手綱を寄せましたが、それがまた、いかにも気の荒そうな野馬です。
「と、とんでもない事で」
 馬春堂は一も二もなく尻ごみして、
「乗れません、はい馬になぞ、元来、乗ったことのない売卜ばいぼく者でございますんで、どうぞ、そればかりは御用捨を」
「乗れないことはないッ、乗れと申すに乗らんか」
「でも、まったく、馬術のおぼえがございません」
「おぼえがなくとも大事ない。乗れッ」
「だ、駄目です、こればかりは」
「まあいい。教えてつかわすから、その鞍縁くらぶちへ手をかけて見ろ」
 一難去ってまた一難。あわれに馬の尻を見ている、馬春堂の泣きたそうな顔です。
「これくらいの馬に乗れないとは世話のやける男だ。ええ、面倒くさい」
 そういうと、癇癪かんしゃくを起した一人が、いきなり馬春堂の襟髪をつかんで、取って投げるように肩へ引ッ懸けたかと思うと、
「やッ」
 と、鞍の前壺へほうり上げて、自分もそれへヒラリと飛び乗ると、かれの体をしっかと膝へ抱きこみました。
「むッ……、苦しい」
 それや苦しいでしょう、無理はない。馬春堂はゆうべからの半死半生。
 亀泳かめおよぎをしてもがきましたが、そのはずみに、かれの手を離れて、駒の足元へカラリと落ちた一個の箱がありました。――落ちた途端にふたがとれて、その中からころころとおどり出したのは鬼女の仮面めん、口は耳まで裂け、まなじりをつり、青隈あおぐまの色も物すごく、大地へピタリとすわッている。
「あッ、般若はんにゃ仮面めん!」
 馬春堂は驚かないが、驚いたのは三人の武士、その凄気にうたれて、思わず一歩足を引きながら、
「なんだこの箱は?」
仮面箱めんばこだろう」
「ウーム、この般若はまたおそろしくよく出来ている!」
 よく出来ているはずです。一代の仮面工めんこう出目洞白でめどうはくの逸作、尾張中将の秘蔵から世に迷い出た拝領仮面めんです。
 馬春堂は穴から救い出される時にふと気がついて、この品を、ついでに持って上がったのですが、こんな事になるならば、むしろあのまま銭瓶ぜにがめの穴の底に、置き残してきた方がよかったものを――と後悔しました。
「おい、貸してくれ」
 と、馬上の侍は手を出して、
「――それを」
般若はんにゃか」
「般若も、その仮面箱も」
「手綱と荷物がある上に邪魔ではないか」
「じゃ、箱の方だけ、貴公たちに、持って行ってもらおうか」
仮面めんは」
「顔へつけて参る」
「酔狂な!」
「いや、夜だ! 覆面がわりに」
「なるほど、それも春興か」
 取って渡すと馬上の侍は、仮面をピタリと顔へかぶって、
いてくるか」
 と、手綱を進めかけながら、うしろを見る。
「うむ、追って行くが、あまり飛ばすなよ」
「心得た」
 駒は石神堂をあとにして椎名しいな方面へ一散に走り出してゆく。
 おくれるものかという勢いで、徒歩かちのふたりも馳けて行きます。が、少し距離のひらきができると、般若の顔が馬上からこッちを向いて、追いついて来るのをまっている。
 ――そしてまた飛ぶ。また駆けだす。
 ここらはもう無論江戸の朱引しゅびき外ですし、本街道にもれていますから、めッたに会う人とてはありませんが、出ッくわした者は、あッといって見送る前に腰をぬかしていたかも知れない。
 天地は穏やかな春夜のおぼろ、ものの影はみな真珠色にくるまれていますが、その怪人の馬蹄が飛ぶところだけ一陣の黒風が条をひいて行くかと疑われて、金瞳青眉きんどうせいびの鬼女の仮面は、それに吹かれて生きています。
 いつか、道はもう練馬ねりまの里。
 川越街道の追分おいわけを過ぎて疎林をくぐると、石神井しゃくじいの流れが麦畑と草原とを縫って、あたかも、水銀の液を流したようにのぞまれて来る。
 初めは、馬のたてがみに突ッ張っていた馬春堂の体も、また気を失ってしまったのか、グタッとやわらかになっています。そしてめぐり廻る家や岡や林――それらの土郷どごう風物がすべて後ろに別れ去ると、もう、さして行く先は渺茫びょうぼうとして海のような武蔵野の原――行けども草原、行けども草原です。
 馬と人とは、そこを、北へ北へと急ぎました。かの石神の司祭者御隠家様の屋敷とかがある高麗村こまむらとは、果たしてこんな方角なのか?
 久米川くめがわ夜虹よにじ狭山さやまの怪し火、女影おなかげの里の迷路、染屋そめやの逃げ水など、曠野こうやの生んだ幻影はこの地の名物でありますが、遂に、その晩の馬と人も、逃げ水の消ゆるように果てなき野末へ影を没してしまいました。

怨霊おんりょうの虫


 よくひらきました――切支丹きりしたん屋敷の吉野桜。
 ころびばてれんの今井二官の住居すまいのわきにも、変りざきが一本ある。寛永の何年かに邪宗門の女が斬られて、根元へ血をそそいだという中門前なかもんまえ枝垂しだれ桜は、まだつぼみが固い。
 ――陽気のせいでもありますまいが、お蝶はこの頃どうかしてやしないか、少し、いつものお蝶とは調子がちがう。
 あの出ずきのお蝶が、ここ半月ほどは外出や買物あるきもせず、あのお化粧気ちがい、着物気ちがいのようなお洒落しゃれさんが近頃は張板を持ち出すやら、押入れの隅に冬から丸め込んであった洗濯物を整理するやら、がらりと日常の日課が変って、紫の頭巾でやみの夜を出歩く時のかの女とは、まるで別人のような娘らしさ――打って変った改心ぶりがふしぎであります。
 きょうも裁板たちいた針差はりさしとを前にして、ひる過ぎからせッせと縫い物に他念がありません。
 それも、自分の帯とか春着の小袖とかならばとにかく、洗い張りをした二官のあわせを仕立て直しているのですから、お蝶としてはしおらしい。
 こういうところにも、かの女の鋭い才気というものが見れば見られまして、白い指に持たれている針が緻密に早くチクチクと運ばれてゆきます。
 少しも倦怠や遅渋ちじゅうというものがない。
 かの浅草のちまたをあるく時のまなざしや日本左衛門の手をのがれた素早さや、獄門橋で脅迫された仲間ちゅうげん匕首あいくちむくいた時のすごい動作などというのも、深くれば、一分一分キチキチと袖の縫い口をきめてゆく運針のうちに、おのずから現れていないこともありません。
 しかし、それは元より、かの女がたれにものぞかせぬ秘密な半面で、小縁にさす蝶の影にも気をとられず、針仕事に他念のない姿をながめる目には、まったく優しい、気だてのいい、押絵おしえを坐らせて見たようない娘で、
「二官もしあわせ者だ、あの縹緻きりょうで、ころびばてれんの娘という素性さえなければ、たいした玉の輿こしに乗るんだろうになあ」
 と惜しがる世評に間違いはないのであります。
 それだけに、二官がお蝶を愛していることもまた想像外です。お蝶は、この山屋敷のかこいの外のあこがれに生きていますが、二官は束縛された境遇を窮屈とも思わず、お蝶によって生きている。
 慈母と厳父の両性愛を身ひとつに持って、二官はお蝶を育ててきました。
 ところがどうしたのか、その今井二官が、ここ七日ばかりというもの、一言ひとこともお蝶と口をきかないで、むッつりと、むずかしい顔をしたきり、あまり食事も進まない。辞書の仕事にも筆がとれていない。
 家の中は氷室ひむろです。
 一ツ屋の棟の下に、親ひとり子ひとりが、別々に生きてるような淋しさと、たまらない――ワッと泣きだしたいような空気がこもりきっている。
 ――で分りました。
 父の顔色を見るにさといお蝶は、それでにわかに、態度をかえているものと見えます。かれの機嫌が直るように、賢く努めているものと見える。
 二官はこわい。
 お蝶にも父親だけはこわい。
 二官の盲愛か慈母になっている間は、甘えたい放題甘えますが、その顔色が厳父になっている時は、さすがなお蝶も寄りつくことができません。
 チロ、チロ、と時々お蝶の目が、机によっている二官のうしろへ今もうごいて、
「なんで幾日も私に口をきかないのかしら? ……」
 どこかで、やぶ鶯の鳴くのが静かです。
「お父さん」
 呼んでみました。
「――お茶でも入れましょうか」
 それにすら答えないで、二官は机から重い胸を離すと、黙然と、ひとりで自分の肩を二ツ三ツたたきながら、
「ああ……」
 と、思わず太い吐息といき
「――もみましょうか」
 ツイと、機敏に立ってきて、二官の肩へしなやかな指をかけますと、そのお蝶にからみついて来た糸巻が、コロコロと踊りを踊る。

 二官が押しだまって煙管を持つと、
「あ、火がありませんのね」
 きりの火鉢をほじッて見て、お蝶は気転よく茶の間へ戻ってゆく。
 火を運んでくる。
 湯のみへ茶をついですすめる。
 そして、またうしろへ廻って、父の肩へつかまりながら、
「あまり根気をつめ過ぎたんでございましょう、お父さんはもう筆をもつと、御飯も忘れていらッしゃるんですもの、だから、肩がこッて気がふさいで来るはずですわ」
 わざと常のように、晴れ晴れしい声でそういって、幅の広い父親の肩をしなやかな指でもみ初めました。
 そしてまた肩越しに、甘える姿態しなをして、
「ずいぶん指に力があるでしょう――わたしの指。え、お父さん。利く? 利かない?」
 友だちにでも話しかけるような口ぶり。
 ですが、二官は常のように、うれしい顔もせず返辞もせず、邪慳にお蝶の手を振りのけると、ツイと立って縁先からわら草履をはいて家の外に出ました。
「ああ……」と、さっきの如き嘆息ためいきが、そこでも春昼をなやましげに唇から漏れて、
「――わしは何できょうまで生きていたんだろうか」
 髪の毛をつかんで、近頃目にたって衰えた肩をふるわし、かの柿の木の根元にうずくまりましたが、呪うても死ぬことのできない自分の生命を持てあますものの如く、額を抑えてふらふらと――陽炎かげろうの影よりはまだ薄い姿の影を、まばゆい春光によろめかせて行く。
「まア」
 と、お蝶は家の中から、呆れたような目をみはって、
「まるで、気狂いみたい――。わたしがこんなに機嫌をとっているのに、何をいつまであんなに怒ッているのかしら?」
 チッと、舌打ちをしてふくれましたが、ふと、父が立ったあとの机に、お蝶の驚きを吸いつけたのは、見おぼえのある一枚の花櫛はなぐし
「あら?」
 手にとってギョッとしました。
 そのつまみ細工の花櫛には、血のようなものが黒く干からびている。忘れようとしてもかの女には忘れることができますまい――あの獄門橋のたもとで、切羽せっぱつまッた果てに、生れて初めて人ひとりを突き殺したせつな――匕首あいくちつかから指の股へと流れた人間の血のぬくみを。
 その時落とした花櫛です。
 獄門橋で落として来たのは生々なまなましい事実にちがいないのに、二十日も経った後、どうしてそれが父の机の上にあるのだろうか?
 と思うと神経で――怨霊おんりょうの虫みたいに見えた血の花櫛!
 お蝶はまだかわかぬ血が指へでもついたように、畳へそれを捨てましたが、一度おびやかして来た疑念と戦慄は、身をふるッても離れませぬ。
「じゃ……ことによるとお父さんは? ……」
 そうです――感じるに敏なお蝶がひとりでサッと顔色をかえた胸のうちのとおり、これは、ヒョッとすると、二官の不機嫌な原因がこれに、胚胎はいたいしていたのかも知れません。
「どうしよう」
 畳の目へ沈んだこぼれ針が一本、落着かないお蝶のひとみをキラキラとています。

 二官はどこか知らず黙々とあるいて出ました。
 憂いにみちた顔いろです。
 無邪気な小鳥の声、雨とふりそそぐ温光、行く所の足元をいろどッている花も草も、かれのまゆをひらくものとはなりません。
 子ゆえのやみ
 古いことばの味も今の二官の心にはピッタリと迫ってくる。
 かれの懊悩おうのうは、やはりお蝶の行状を苦にするのあまりでした。それも、気がついたのはごく最近で、初めて、そうかと胸をうたれた時には、もうおそい。もう叱るくらいでは追いつかない。お蝶は親にみせる性格とはまるでべつな人間性を、立派に秘密の世界へ作りあげている。
 かれは今さら自分に親の資格を疑い、ただ子煩悩というだけに盲愛してきた罪を悔い悩んでいましたが、また、こうした父を裏切ったお蝶の心が、時々、暴風のようにいきどおろしくなって、いッそ! ……と怖ろしい殺意さえ起って来ます。
 だが……。
 だが、と思うと、かれは意気地なく涙がわきます。
 ――あれもふびんな女にはちがいない。
 世間なみの家と親の手で育てられた箱入娘とはちがう。周囲もちがう。自由もちがう。おれという者の因果いんがを、もッと大きく、永い生涯へ、美しい女の身にうけて生れた、ころびばてれんの娘!
 ことに、お蝶の母親が、淫奔いんぽん囚徒しゅうとの後家さんであったことも、今となって、二官に慄然りつぜんとする因果を想わせて来ます。
 自分は生きるために屈服して、ころびばてれんの汚名にも甘んじていたが、幕府から与えられた囚徒の後家を妻にもって、その間に、お蝶という遺伝の結合が生れて、老い先にまでこの愛憎の苦しみを延長して来たのは、やはり、神にそむいた神の罰か。
 ――こう考えると、たまりません。
 お蝶の行状をいきどおる前に、二官は、おのれの身を責めさいなんで、血を吐かせてもあき足らなく思う。
 そしてまた、
「これだからわしはいけない。わしが考え方は煩悩だ、盲愛だ、ただわが子を無性むしょうかばッてばかりいる毒の愛だ」と、考えを振向けてみても、なぜか、今度ばかりはお蝶を折檻せっかんする気力になれない。
 以前から――殺された同心の河合伝八も、それとなく注意してくれた。
 山屋敷の長屋の者が、妙なうわさをするのも耳にしていながら、それも、人のひがみとばかりとって、耳もさずにきたのが、すべて自分の子に甘い盲愛であった。
 その後、官庫の騒動――入れ札の時のお蝶の挙動――また四、五日前の晩、たれのしたことか雨戸の隙に、血のついたお蝶の花櫛をさしこんで行った者があったりしたことなど――次々に起ってきた不審に、今は、二官もハッキリとお蝶に目をさましてはいるのですが、わが子ながら、あまりの怖ろしさに、単なる叱言こごと折檻せっかんでこれがどうなろうとも思われないのでした。
 で、かれは歩いています。
 黙々と、家のまわりをめぐって、行くともなく、藪の小道にはいる。
 そうしていても、かれの苦悩は少しでも軽くなることはありません。ただ居ても立ってもいられないし、お蝶の姿を見ていれば、気が狂ッて娘を刺し殺した上に、自分も死のうとするような気持が、いと易いことに思われてくるので、わずかの思慮が、しばらくかれをあてなく彷徨さまよわせているのであります。
 と――道は日蔭にはいったようです。すッくと高いえのきの木が、そのやぶの陰を陰湿いんしつにして――
「あっ……」
 と、突き当りそうになった大榎に顔を上げた二官は、そこで急に、来まじき所へ来たように足をすくめて、あわててあとへ戻りかけましたが、その微かな気配を、どこかで聞きとがめた者があるらしく、
「二官ッ!」
 突然、呼び止めたかと思うと、かれが引ッ返そうとする足元を察して、なお鋭く、
「おうッ二官ッ。待て! 待て!」
 うしろを見たら飛びついてきそうな叫びが、つづけざまに、榎の下の石牢からひびいて来ます。

 呼び止めたのはヨハンです。石室の鉄窓にすがっている二ツの目です。
 とげをふくんだヨハンのことばは、なお浴びせかけに二官の姿へ、
「人間の皮をかぶッたけだもの――なぜ待たないか」
 と、手痛くののしりました。
「…………」
 無言で振りかえった二官のおもては真っさおです。そしてしばらくは、榎の日蔭の白眼とかれのひとみとが、ジッと視線に暗闘をからませているように見られました。
「二官、ここへ来い。いって聞かすことがある!」
 権柄けんぺいにこういいましたが、二官の体はゆるぎもせず、依然として、四、五間の距離を持堪もちこたえている。
「来られないのか、ウム、来られない道理だ! いかに鉄面皮てつめんぴでも、幾多の肉親の頼みや故国の使命を裏切り、あまつさえ、神の御名おんなをこの国の幕府へ売って、囚徒の後家を妻にもらい、生涯飼い殺しにされて喜んでいるころびばてれん――。その醜悪な身をもっては、さすがなお前も、わしの前には恥かしくて出られないのであろう」
 毒舌は針を吹くようです。
 ころびばてれんの二官と、ころばぬばてれんのヨハン。信仰の上だけでも、この二人の間には、犬猿もただならぬ暗闘のあるはずですが、ヨハンの口裏には、何かより以上な宿怨しゅくえんがあるやに思われるふしがあります。
「おい、何とか答えたらどうだ。これほどののしられても、お前は恥かしいとは思わないのか」
「ヨハン殿」
 二官は初めて五、六歩足を寄せて来て、
「――なんとでもいってくれ。わしの心は神様だけが知っている」
「ばかなッ、お前に神があるか。お前はその醜い肉体を生きのばす扶持米ふちまいと、囚人の後家と、不良児のお蝶とをうける代価に、とうの昔、たった一ツの神まで売り払った畜生だ」
「…………」
「いい訳はあるまい。あさましい人非人にんぴにん。その風俗をした姿を、羅馬ローマの町の辻にさらしものにして、お前の肉親たちにも見せてやりたい」
「ヨハン」
 くずれるように、二官は榎の根元へ腰を落として、
「もういってくれるな。それよりは、久しぶりで、羅馬の思い出話でもしようじゃないか」
「おれは責める! 責めずにはおくものか。二官、貴様はなぜ神を売った、なぜ幕府の手に乗ってころんだか」
「お前が責めなくとも、わし自身が、明け暮れひとりで責めている。妻を持ったためにも、子を持ったためにも、それは当然だろうけれど、人にいわれない苦悩が、現在、わしの上にむくいとなって現われているのだから……」
「その苦しみは当然だろう」
 ヨハンは鉄窓の間から、小気味よげに二官のもだえを冷視して、
「これだけいえば、わしも胸がすいた。ころびばてれん! もう用はないからあッちへ行け」
 と、つばを吐くようにいい捨てる。
「ひどい! ヨハン殿、それはあんまりひど過ぎる」
 二官が色を変えて鉄格子につかまると、
「けがらわしいッ、そんな泣き言をならべたところで、わしには何の同情も持ち合せない。わしは羅馬ローマの民にかわって、お前を存分に恥かしめただけの話だ」
「羅馬……」二官は鉄窓に両手をかけたまま、祖国の名を呼んで、男泣きに肩をふるわせました。
「その羅馬の故郷ふるさとを、わしだとて、決して忘れている訳ではない」
 ジッと何か案じていた二官は、やがて何か決意に燃えるひとみを上げて、
「この二官が、恥をしのんでこうしているのは、まったく、王家のためにどうかして、あの夜光の短刀を、尋ねあてたいばかりなのだ」
「うまいことをいう」
 ヨハンは一笑に付して取り合いもしません。
「いや、わしは恥じない、信じてくれ」
「ふん……人を欺くにも程がある。羅馬からこの国へ、夜光の短刀を探しに派遣されたばてれんは、もう百年も前から、数知れないほどあるが、みなあえなく日本の土になっている。すでに、このヨハンも、その使命をうけて来た一人なのだ。だが、二官の如く、その使命をつくすどころか、信奉はころび、その上に、この国の女と子までなして、髪風俗まで変えてしまった恥知らずは一人もなかった」
「形の上では言い訳がない。しかし、元々雲をつかむような夜光の短刀、とてもあれは、自分一代で探し出せないことは分り過ぎている」
「それじゃ何もならないわけだ」
「イヤ、自分の一代で探せなかったら、次の時代へ自分の血をつないで探させる。それには子を育てるよりほかに方法がない」
「じゃ、使命を孫子まごこに伝えて行くというのか」
「いかに羅馬ローマから密使やばてれんをこの国へ運んでも、異教という邪魔ものや、風俗のちがう不便がある。しかし、子の代、孫の代になれば、その差別もなくなるし、切支丹きりしたん屋敷から出ることも許されると思う」
「なるほど……その話はもっともらしく聞こえるが。じゃ二官、おぬしはまず第一に、たれにその使命を伝えるつもりでいるな」
「娘のお蝶へ」
「あれは美しい悪魔サタンだ」
「なにッ」
「あの妖婦、あの毒の花のような娘へ、夜光の短刀を探せよといいつけて、おぬしは今の考えが順当に孫子まごこへ伝わってゆくと思うのか」
「ウウム……」
「わしは見ていたぞ、この石室いしむろの鉄窓から。――毎夜毎夜お蝶と仲間ちゅうげんの龍平が、そこらの闇にみだらな恋をしていたのを。また、官庫の方であやしい挙動のあった事も、わしは残らず知っていた。あれは飛んでもない神様のいたずら、すなわち、神を踏みにじッた返報に、おぬしへ与えられた美しい悪魔サタンだよ、それへ大事な使命を伝えてゆくなんて、あッはッはははは……あはははは」
 さんざん面罵めんばしぬいた揚句あげくに、ヨハンは大声で笑いましたが、ふと馳けた足音に外を見ると、もう二官の姿はそこを去っていました。
 存分に罵って、胸のすくほど相手に恥を与えたあとは、一時の清涼のあとに、やがて一種の淋しさが落ちて来る。そして、
「――二官のああいった考えも、ことによると真実なのかも知れない。いつか一度と思っていたので、わしも少しいい過ぎたような……」
 と、手に聖書を持ちかけましたが、その聖書をパタリと落して、外のやぶへ大きなひとみを開いたまま、
「? ……」
 何かにギョッとした様子。
 いつか日の暮れてきた石牢の前を、落花のつむじが、小さな風の渦を幾つも巻いて流れてゆく。

夜光走馬燈やこうそうまとう


 やみになれたヨハンの眼は、ふくろの眼のように夜になるとかがやきます。
「オー、また今夜も来ているな」
 烏羽玉うばたまの暗にも、かれの眼だけには何か見えるようです。
 見えるがため、かれは毎夜、安らかな眠りをとることができません。山屋敷の役人さえ少しも気づかずにいるあやかしの影を、かれのみは夜になると見ていました。
 影です――人影です。
 奇妙な黒衣の影、浪人体ろうにんていの怪しげな影、時にはまた、栗鼠りすのごとき敏活な男の影。
 それも月のない晩に限って度々たびたび見かけますが、その目的と正体がなんであるかはヨハンにも判じがつかず、
「もしや、自分の命をねらいに来るのではないか」
 と、初めは怖れおののきました。
 けれど日を追うて、そうでないことだけは薄々わかりました。かれらは何か、べつに目的があってこの山屋敷へ探りに入り込んでいる密偵であろう。
 いて、自分にかかわりのないものと考えを落ちつけて、星の光に聖書を読みなやみ、眠気を待とうとすることもありましたが、そんな時、何気なく鉄窓の外を見ると、いつのまにか、鋭い目を持った黒衣くろごの男が石室の中をのぞいていたりすることがある。
 …………
 さて。
 さっき今井二官が血相をかえて自分の住居すまいへ戻って来た時、その後について、裏のやぶからひょいと豆絞りで顔をくるんだ男の半身が、しきりに辺りの様子をうかがッている。
 見ると、伊兵衛であります。
 目白の石神堂で、釘勘という苦手にがてに追いかけられて、すっかり泡を食った道中師の伊兵衛。
 当座しばらく姿をかくしていて、今ここへ忽然こつぜんと現われたようですが、実は少しも忽然でなく、あれ以来たいがいな日は、この山屋敷のうちに生活していて、ただ姿を人目に見せないだけです。
「おれの眼力はちがわなかったぜ」
 伊兵衛はニッタリして藪を出ました。
 次に移ったかれの居場所は、すなわち、今井二官の家の床下です。そこには、どこからか持って来たむしろが一枚敷いてある。
「――おれもずいぶん根気がよかッた。それでも二官のやつめ、夜光の短刀のやの字もおくびに出さねえから、そろそろ根気もつきかけていたンだが、今日はとうとうヨハンのやつといがみ合って、聞く者があるとも知らず、すっかり泥を吐いてしまったから面白い」
 ゴロリと寝そべって、手まくらをかいながら、
「さあ……これで二官の腹も読めたし、ヨハンのやつの心底もおよそ見当がついてきたが、さて」
 と、そこで将来の方針というへんへ、しきりに思案をめぐらしている顔つき。
 まるで、えたいの知れなかった暗中模索もさくに、だんだん目鼻がついてきたような気がする。それは伊兵衛に、巨富の夢をみさせます。――目をつぶッて考えていると、この世のどこかにかくされている夜光のさんらんとした刀のすがたが、ありありと目にうかんで来るほどです。
「ベッ……」
 突然、伊兵衛は顔をなで廻している。巨富一かくの夢がさめて、顔へ落ちたきたなごみを払ったところは、あまりいい図ではありません。
 上では、いつになく二官の荒い声と足音につれて、お蝶の泣くような声が聞こえだしていたので、
「ええ、耳がかゆいぞ、こりゃまた何か、いいことを聞く前兆かも知れねえ」
 と伊兵衛はそろそろ起上がッて、体じゅうを耳にしました。

 いつもの今井二官とは打って変って、ヨハンといい争った後、ただならぬ血相で家へ馳けこんで来たかれは、
「ウーム、こんなもの!」
 やにわに机の上の物を、座敷じゅうへ取って投げ散らし、
「これも無駄な記録! こんな物も今は見るのも腹立たしい」
 日記やそこらの書物かきものまで引き破った上、かれが多年あれほど精をらしてまとまりかけている辞書の草稿を、あたかも、その快味をむさぼるように、惜し気もなく片っ端からズタズタに裂いては捨て、破ッては部屋いッぱいにきちらかす。
「あっ――お父さんは?」
 何となく気が晴れぬまま、勝手へ出てぼんやりと、黄昏たそがれに立っていた娘のお蝶は、ひょッと障子をあけて、そのていを一目見るなり仰天して、
「ど、どうしたんですお父さん――もしッお父さんてば! お父さんてば!」
 立ち上がる父のうしろから、力いッぱい抱き止めて、
「気がちがッちゃいやですよッ、気をたしかにして下さいッ、気を……お父さーんッ」
 さすがに声もおろおろと懸命になって、この時ばかりは混血児お蝶も、純真純情な一個の小娘になって泣きだしました。
 ですが、父二官の妙に空虚うつろに光る眼は、もういつもの慈父ではありません。
「えい、この体にとッつくなッ、貴様がさわると、わしはよけいに気がちがいそうだ」
 突き飛ばそうとしましたが、お蝶は髪切虫かみきりむしのように父の袖へしがみついて、
「静かにいッて下さい。わけをおッしゃって下さいッ……よ、よ、よッ、お父さーん」
「なに、わけをいえ?」
「ええ、わけを聞かして下さい、たった親ひとり子ひとりの私達なのに、この間から、口もきかないで怒ッていらッしゃるのは、一体どういう訳なのか、わたしは、情けなくッてたまりません」
 父の足元へ、ワッと泣いて身をくずしましたが、その悲しげな泣き声も、今日の二官にはかえって腹立たしく、いつもお蝶の涙には、白も黒もなく盲愛にくるまれて口のきけないかれの手が、
「ええ、よくそんな空々しい口がきけたものじゃ、お蝶ッ、お前というやつは……お前という怖ろしい女はッ……」
 かんのふるえを歯の根に鳴らして、赤い縮緬ちりめん襟裏えりうらをつかむや否、ズルズルッと座敷じゅうを引きずり廻して、それでもなお堪忍のなりきらぬように、こぶしをあげて丁々ちょうちょうとお蝶の肩を打ちすえました。
 その力に他人と父の愛憎のちがいはありましょうとも、なかば狂気した二官の骨ばッた握りこぶしで打たれては、定めしお蝶の身にはこたえたでしょう。
 しかし、お蝶はもう泣いてはおりません。ただ背なかに波を打っているばかり……ヒタと畳にひれ伏したきり、声も出さなければ逃げもしない。
 瞬間、家の中は、おそろしいほどヒッソリとする。――二官は太い息を苦しげについて、なお怒れる拳を解かず、その手を膝に突ッ張ったまま、ぐったりとお蝶のわきに坐りました。
「お蝶ッ、顔を上げろ」
「…………」
「お前というやつは、まあ何という怖ろしい女だろう。わしはな、お前をそんな娘には育てなかったつもりだ。ころびばてれん、ころびばてれんと、衆人にさげすまれて来た永年の忍苦も、なんのためだ! ああそんなことも、今はいうほど身を苦しめる世迷よまごと、おれにすべての望みはくなッた。お蝶ッ、わしはもう用も望みもない世の中を去るつもりだ。お前を連れて世を去るつもりだ。来いッ、父と一緒に来いッ――地獄の底へ」
 脇差はいつのまにか、二官の右手に抜かれていました。
 それでもお蝶は身ゆるぎもせずに、ジッとうッ伏しているきりです。――上の様子は分らないが、縁の下では道中師の伊兵衛が、
「はてな――いやにシンとして来やがったが? ――」
 そういう時こそ、親娘おやこが秘密なささやきをするのではないかと、気を廻してのび上がッた途端に、床板から出ている錆釘さびくぎの先へ、コツンと頭をぶつけたのは、痛いともいえぬ災難でした。

 お蝶は顔を上げて、父の手に抜かれているやいばを見ました。
「逃げると許さんぞ、逃げると」
 ジリジリと二官は膝をにじらせて行きましたが、お蝶がわるびれもせずに、甘んじて父に襟元えりもとをつかませたまま、ジッと目をふさいでおりますから、
「おのれは……」
 と、切ッ先を向けようとした二官の狂わしさも、多少張合はりあいを失って、ただ殺そうとして殺し得ない愛憎の白刃しらはが、泣くように光をふるわすのみであります。
「取乱すなよ、わしも死ぬ。そしてお前も刺し殺してゆく」
 お蝶は澄みきッた顔を、すごい程青白くしてこそいますが、ちッとも、取乱してはおりません。むしろ、こうつき詰めて来た今の瞬間では、二官よりも遙かに冷静です。
「なぜ死ぬんですか……なぜ私をお父さんは殺そうとなさるの?」
「わ、わからないのか、親の心が」
「わかりません。わたしは、お父さんに殺されるようなおぼえがないんですから」
「おまえは美しい悪魔あくまだ」
「ええ、そうかも知れません――」お蝶の口答えは自棄やけになって、
「ころびばてれんの娘ですからネ」
「ちッ、わしに向って、よくもそんな口を!」と、ふたたび彼の気がたかぶると、押し揉まれるほどお蝶の顔色も真ッ青にさえて、
「だッて、そうに違いないんですもの。わたしは温かい母親を知りません、世間の娘のような楽しみを知りません、だから、自然に、こんなふうな女にいじけてしまッたんです。私の罪じゃあない、私を生んだものの……」
「まだいうかッ、まだその口をうごかすか」
「いいます! どうせ殺されるなら、私はいいます!」
「悪魔ッ、悪魔」
 その声を横にうけて、お蝶が笑ったように見えたので、二官はクワッと逆上しました。そして、思わず刃を走らせると、
「死ぬのはいやですッ」
 父の手元を交わして、お蝶は刃をもぎ取ろうとする。
「生かしてはおけない、おまえは、わしの鍵を盗んで、御封庫を破った大罪を犯している」
「知りません、わたしは……」
「だまれッ、まだ罪がある。おまえは仲間ちゅうげんの龍平と不義をしていた、そして、自分の罪をなするために、入れ札の時に、龍平の名をさして男を獄門におとした」
「知らない、知らない。みんな世間の人のうそばッかり」
「いうな、あの血のついた花櫛も」
「あれはわたしの物じゃありません」
「いくらこの二官が子におろかでも、もうお前にだまされてはおらんぞ。たれも知るまいと思っていようが、おまえと龍平のしていたことや、お前が暗の夜に犯していた罪の数々は、のこらず、あの石室の鉄格子から、ヨハンの目が見ていたのだぞ」
「ヨハンが? ……」お蝶はぶるぶるッと目に恨みをこめて、
「あの人が、そんなことをお父さんに告げ口したのですか」
「天を怖れろ、おそろしいのは神のおさばき、おまえのその生首が、龍平と同じ獄門台に乗らないうち、自分の手てさばきをしてやるのが、わしがお前に送る一番最後の愛だ」
「いやです、わたしは死にません」
「刑吏の錆刀さびがたなよりは、慈愛のやいばをうけてわしと一緒に死んでくれ」
「あっ、いやですッ」
「こッ、こうまでいって聞かしても」
「死ぬのは嫌です! お父さんッ、――あれッ、あれッあぶない!」
 絹をさくようなお蝶の声。
 それまで、耳をすましていた縁の下の伊兵衛も、ふたたび頭の上にひびく物音に、どうなる事かと思っていると――その襟元へ、タラタラと生ぬるい液体がこぼれて来たので、
「あッ」
 と、仰向いて見ると、床板の隙間に、まざまざとにじみ出してきたのはまぎれもない血汐のしずく……
「ちぇッ、ばかな真似をしやがッて、とうとうお蝶を」
 首すじに垂れた血潮をなで廻して、伊兵衛もそこでうろうろと、
「折角、夜光の短刀の秘密を、親子の口からさぐろうと思っていたのに、心中されちゃア玉なしだ」
 じッとしてはいられなくなって、四ツん這いになった道中師の伊兵衛、そこを飛び出そうとして暗がりをはい出すと、土台柱一本へだてて、意外やそこにも二ツの目玉。
「? ……」
「? ……」
 すくみ合って、双方、互いのにおいをかぎ合いました。

 こういううまいかくれ場所に道中師の伊兵衛様が、地獄耳をそばだてていることは、相手方の日本左衛門でも、夢、気がつくまいと内心得意でありましたところが、あにはからんや、この縁の下には自分のほかにも、ヘンな黒衣くろごの人間がジッとすくんでおりましたのに、
「おっ……」
 と、しりごみをした伊兵衛。
「こいつはいけねえ」と、あと下がりに身を退きましたが、先に光っている目玉は、足元をつけ込んで来る猫のように、伊兵衛が一尺さがれば一尺、三尺さがればまた三尺、
(この野郎、うさんくさい)
 と、向うでもいいたそうに、四つンばいに這って追い廻して来ますから、伊兵衛もごうをにやして、チッと舌打ちを鳴らしました。
「甘く見てやがるな、三しため」
 そこで今度は攻勢に出て、こッちから反対あべこべに前へ出てゆくと、向うも少し気味がわるくなったとみえ、ジリジリあとへもどりましたが、突然、ピカッとしたものを真ッ直に向けてきました。
 抜いたと知りましたから道中師の伊兵衛も、からかい半分ではなくなりました。いくら、足掻あがきのわるい縁の下でも、あぶないものを持って暗やみを無茶にかき廻されたひには、たまッたものではありませんから、
「よし」
 と、伊兵衛も道中差。
 平身ひらみにかがまッて抜き合いましたが、頭はつかえる、土台の邪魔はある、おまけに相手の毛色も分らない床下では、なんの変哲もあり得ませんから、ただそれをそうやッて、そのまま睨み合っているよりほか、このところ変化のつけようがありません。
 そこでこの状態のまま、二本の刀が根くらべの三まいに入ることややしばし。
 果てなき勝負と見えました。
 ここに冬眠からさめたがまでもそこらにおりましたなら、さだめし、結果いかにと、両手を突ッ張って行司顔ぎょうじがおに、ながめ入っていたかもわかりません。
 すると、その時また、
「うう――むッ」
 と、床の上のただならぬ絶叫。
 お蝶のうめきやら二官の苦しみやら知れませんが、とにかく、上の屋内で大変の起っているのは、甚だしくそこらへしずくとなって垂れる血汐でも察しられます。
 どたッと、たおれる音。
「おッ、お蝶ッ……」
 はッきりと、二官の声。
「――夜光の!」
 もつれる舌で、
「夜光の! ……」
「おッ、お父さーんッ……」
 と、つづいて苦しげなお蝶の声が、嵐の中から叫ぶように。
 はッとそれに気をとられて、伊兵衛の胸算はとつおいつ、この縁の下を出ようか出まいか。
「はて、困った」
 と、迷いましたが、ふと見るといつのまにか、今の物音の途端に外して行ったのか、相手の刀は消えています。
 すッぽかされた道中師の伊兵衛も、それ幸いと飛び出して、初めて、床下から腰をのばして見ると、陽はすでに暮れて花のおぼろ夜――
 二官の家の庭先の桜が、なんの凶兆を暗示してか、しきりに降り散って、それが山屋敷じゅうに繽紛ひんぷんと、高く低く、迷っているかに見えました。
 すると、そのとたんに――お蝶でした――お蝶にちがいありません、家のうちから落花の庭先へ、突きとばされたように転んで来て、そこへうッ伏せに仆れたかと見ると、帯も黒髪もしどけなく、よろ、よろ、と足元もあぶなげに、ヨハンの石室いしむろの方へよろめいて行く様子。
 ――そのあとで。
 伊兵衛はすぐに家の中へ土足で飛び上がりました。行燈の灯も今宵はともされぬままでありましたが、花明りでそこらを見れば、目もあてられない有様で、乱脈をきわめた反古ほごのなかに、やいばを当てた二官の死骸が、冷たくなってねじくれている。
 無残……
 二官の死に顔はまだ泣いているようです。
「どうしたのだろうか?」
 刃物はかれの手を離れて、ふすまの下にほうり出されてあるので、伊兵衛にも、たッた今の経緯いきさつが判じられないで、
「まさか? ……」
 と、つぶやきました。
 かれの如き人間の推測でも、お蝶が現在の親を殺して逃げたとは考えられないことであります。

 わたしは若い、十九やそこら。
 十九やそこらでわたしは死にたくない。どんな思いをしても生きのびていたい!
 ――お蝶の生の執着は、今、なにもかも忘れて家から迷いだしたのであります。
 逃げる気でしょう。
 この山屋敷をのがれて、どこかに新しい生き場所を求めるつもりらしいが、ふだんの才智なら、化粧をととのえて、表門からぬけ出すでしょうに、ここへ来て、うろうろと高い塀を見あげているさまを見ると、さすがに彼女も、父の血を浴びたせつな、心を取乱してしまったとみえます。
「お蝶さん、どこへ行く?」
 すると、どこかで咎めるものがありました。
「また今時分、どこへ出て行こうとするつもりか」
「ヨハン」
 きっと、えのきの下を振顧ふりかえって、お蝶はしばらく立ちすくみましたが、さっき父のいったことばが思い出されると共に、
「ヨハン!」
 むらむらとして、石牢の前へ馳けよりました。
「おお、どうしたのか、そんな姿をして」
「あの」
 赤いくちびるを鉄の格子につけて、
「あのね」
「ム」
「大変ができたの」
「大変が」
「ヨハンさん」
「え……」
 かれも昼のことが胸に思い当って、何か知れぬ不快な胸苦しさをおぼえながら、
「どうしましたか」
「こっちへ、こっちへ、ヨハンさん。もっとこっちへ寄って、耳をかして頂戴」
「なに」
 と、そばへ行って、赤いくちびるへ顔をよせると、鉄窓の下の方からいきなり、短い刃物の切ッ先が、ヨハンのわき腹をねらッて勢いよく突いて来ました。
 やいばのはいった牢のなかは真ッ暗で、どうなったやら分りませんが、わなにかまれたようにお蝶の姿は、
「ちイッ……」
 と、鉄格子の間に手をつッこんだまま、唇をかんでもがいている。
「オオ美しい悪魔」
 やがてヨハンがいいました。
 声の様子ではべつに怪我もなく、中でしッかとお蝶の手を抑えつけているものらしく、
「なんで私を殺そうとしますか」
「な、なにがッて」
 お蝶は眉をしかめて、死ぬ苦しみをこらえながら、
「お前が、わたしのお父さんを殺したから、私もおまえを殺してあげる」
「えッ、二官殿が死んだッて」
 急にブルブルとふるえるのが、お蝶の腕にも激しくひびいて、
「ほんとに、二官殿は死なれたのか。あの一途な気持で……ええ、しまッた」
 絶望的な息をついて、なおもお蝶の腕をだきしめる。
 お蝶はヨハンの無性に泣く涙が、自分の腕にこすられるのをこそばゆく感じながら、妙に血が下がってきました。
「お蝶さま、お蝶さま」
「え……」
 ヨハンの改まった言葉に、身をうごかそうとしましても、まだ苦しい手を放してはくれません。
「おわびいたしますお蝶様。二官殿は自殺したのでございましょう。それは私が殺したのも同然です。あの方の本性を疑っていたのはこのヨハンのあやまりでした」
 まったく、昼のヨハンとは話がちがって、お蝶も奇異な思いが、いつやら身にしみてくる。
「深いあやまりでした。私は、どこまでもあの方を、日本へ帰化した今井二官、ころびばてれんと憎みました。そして疑ッてまいりました。しかし、実をいうと故郷の羅馬ローマでは、私の親が、代々つかえてきた御主人の家筋なのです」
「だれが」
「二官殿です」
「えッ、おまえは、私のお父さんの家筋に、代々つかえてきた家来だッて?」
「はい、あの方こそ、今は夜光の短刀がないために、家名はつぶれ、貴族の籍もはぎとられて、それを探しに日本へ流浪なされましたが、まことは、羅馬のさる王家を再興なさらなければならない、たッた一人のお血筋であッたのです」

 はじめて聞かされた父の系図。
 祖先を思うときに現実の自分はひとつの不思議な存在であります。
 お蝶もまたわれとわが身を疑いなくしていられません。
 ヨハンのいうが如く、父の二官が羅馬の一王家を興すたッた一人の血筋であるとすれば、その人の亡い次の血は、異国にこそあっても、当然、自分ひとつの身に遺されて、自分は王家の姫である。
 咄嗟とっさ――この場合ではありましたが、お蝶はその話に一種の羞恥しゅうちを覚えて、そしてまた一方では、
(そんなはずはない! そんなはずはない!)
 と聞くそばから否定して、
(わたしはいやしい山屋敷のかこわれ者、人にいみきらわれるころびばてれんの娘――羅馬王家の血筋とやら、貴族の姫とやら、そんなわけがあるものじゃない)
 と、思いました。
 けれどヨハンの話は、諄々じゅんじゅんと説いておそろしいくらいまじめです、真剣です。
「わかりましたか、お蝶さま」
 いつまでも彼女の腕を放さない。
 決して、うわの空に出る一言一句とも思われません。
「――そこで私の素性を申しましょう。私はさっきもいったとおり、王家の従僕でございます。代々の家来でございます。ところが夜光の短刀をさがしに、日本へ渡来された二官殿が、幕府の手にのッてころんだ上、名も今井二官と名のり、妻をもち子までもうけて、帰化しているという噂が、本国の法王庁へまで聞えてまいりました」
「手がしびれる……すこし放してよ、ヨハンさん」
「あ、すみませんでした」
 ヨハンが手をゆるめると、しょうを失ったお蝶の指から、短い刃物がカラリと床へ落ちておどる。
「で、私は法王庁から、その視察をいいつけられ、日本へ渡航を命じられましたが、禁教の国へばてれんとして上陸あがるすべはないので、わざと漂流人のふうていを装い、大隅の国の屋久島へ乗渡り、そこで故国の人々と船をすてて、ぼんやりと、ひとり湯泊ゆどまりの海岸へあがッたのです」
 ヨハンは、七年の前を追想して、石室の中で目をとじました。
 あとのことは日本幕府の記録が示すとおり、村人に見つけられて長崎の宗門方しゅうもんかたに渡され、やがて江戸おもて護送ごそうとなって、前後十数回、筑後守新井白石のきびしい取調べをうけたのであります。
 思うつぼに、ヨハンは切支丹きりしたん屋敷へ下獄されました。そして、折あらば二官に向って、羅馬王庁のことばを伝え、王家の復興をわすれ夜光の短刀の捜索をすてて、無為に生きながらえている非行を責めようと、機をうかがッていたのでありました。
 ところが、二官はヨハンの下獄してきたのを知りつつ、そこへ会いに来たこともなければ、たまたま、ちらと姿を見せても、あわてて顔をそらしてしまう。
「浅ましい人間!」
 ヨハンは自分の主人ながら、その卑劣ひれつさをいきどおろしく感じて、ひたすら、面と向って言葉を交わす日を、今に今にと待ちかまえていたのです。
「私は、その鬱憤うっぷんを投げつけました。二官殿の死は、わたしの毒舌があやめたも同様……お蝶様、ゆるして下さい」
 ヨハンは声をすすッて泣き入りました。そしてまたお蝶に力をこめていうようには、
「この上は、二官殿の遺志をついで、夜光の短刀を探しだす者は、あなた以外にないことになりました。――お蝶さま! あなたはこの山屋敷をお逃げなさい。そして夜光の短刀をたずね出して羅馬ローマの都へお立ちなさい。羅馬はあなたの祖先の国、そこには、ぬしなき王家の財宝と幸福が待っています」
 一句一句、ヨハンが胸の秘密を解いてしぼり出すようなことばに衝たれて、お蝶も、ジッと首をたれて聞き入りましたが、
「だって、それを探すといっても私には……」とためらい顔です。
「いいや!」
 ヨハンは強く首をふる。
「そんなむずかしい事ではありません。それにあなたはどう見ても日本の娘、どこを歩きさまようても、怪しまれぬのが何よりです。――教えましょうお蝶様、さ、教えましょう」
「え、なにを?」
「夜光の短刀のありかを知る、たった一ツの手がかりを!」
 花のちる音か、やぶの笹鳴きか、その時あたりの物蔭でかすかな空気がうごいたようです。
 その時――
「また黒衣くろごの人間どもが跳躍するのか」
 と、ヨハンが牢のそとへ神経をすましたので、お蝶も、思わずわが身のうしろを脅かされて振向きましたが、夜の幕には、ただ散る花のゆるい運動が怪奇美な光を舞わせているのみであります。
「……お蝶さま、夜光の短刀のある方角を教えてくれるただ一つの磁石、それはこれです」
 ヨハンの手は何かの興奮にふるえている。
 見ると、かれは肌身はなさずに所持している聖書の羊皮かわ表紙をなでていました。
 そして、その聖書のこばを歯で破ッて、ビ、ビ……と横裂よこざけのせぬようにしずかにさいて、
「これです、お蝶さま」
 と、かの女の手に握らせる。
 手ざわりのいい羊皮紙ようひし――
 はがれた聖書の裏表紙?
 不審そうに見はッたお蝶のひとみは、それとヨハンの顔とを、かたみがわりに見つめています。
「これですよ、お蝶さま」
「これが?」
「なにか指にさわる物があるでしょう。その羊の皮のやわらかな手ざわりのほかに」
「ええ、石つぶのような、こまかいものが」
「いいや、それは、石ではありません。二枚かさねて袋になっている表紙の中に、わたくしがソッとかくしておいたのは、種子たねです、ある植物の種子たねなのです」
「え、種子が」
「端の方をすこし歯で破りました。出してごらんなさい。あ! ……ですが、こぼさないように、それをなくしては大変です」
 いわるるままに、お蝶は、貝のような白い手のひらの上へ、中の黒いつぶをこぼしてみました。
 なるほど幾つぶかの植物の種子たねです。
 まるみのかかッた三角形のその種子たねは、お蝶も日本で見たことがあるようですし、そうかといって、手近な枇杷びわや梅や野菜の種子ともまるで変っていますので、
「なにかしら」
 と、小首をかしげているばかり。
 これがどうして、ありかの方角を知る磁石なのか、秘密をあける鍵なのか。
 疑惑は依然として疑惑で、さらにふしぎが深まるのみであります。
「お蝶さま、それは羅馬ローマのペトロ院の庭や、カピトルの岡にたくさん咲く、めずらしくない花の種子たねです。色は王妃の舞踏服のように真ッ赤で、なぜかこの草を折ると茎から血がしたたると昔から申します。それで、羅馬の人はこの花を鶏血草けいけつそうとよんでいますが、たれも手にふれるものはありません。それはカピトルの踊り子などが、勝手に『恋すな草』などと名をつけて、失恋の花、失愛の花ときめているからでございましょう。またこの花を好くものは必ず不運な死をとげるという迷信も手伝っておりました。――ところが、あなたの御先祖、慶長の頃、この日本へ流浪なされて、夜光の短刀を持ったまま最期の場所を謎となされたその貴族は、たまらなく、この鶏血草の真ッ赤な花がお好きだったので有名な方でございました」
 ヨハンの話は、ペトロ院の日あたりのいい庭で、説教をする時のように、お蝶の耳へもわかりよくはいりました。

 二官の祖先、お蝶にも血のつながる遠い過去の人――
 かの羅馬ローマの市府では「恋すな草」とさえいって人のいみきらう鶏血草の赤い花を好んだ貴族。
 その人はまだ、日本が戦国の余燼よじんをあげていたころに渡来して、かの京都耶蘇寺やそでらの焼亡後、西国の切支丹大名きりしたんだいみょうにもよるべなく、禁教の声と迫害の目に追われて、ひとり関東地方を流浪していた形跡があります。
 その後かれがなつかしき羅馬ローマへあてた通信もたえて、世は徳川治世となり、新将軍秀忠、三代家光相ついでの鎖国さこく禁教の令に、薄命な羅馬ローマ貴族は、ようとしてその消息をたったままとなり来りました。
 かくても、天草の宗教戦前後までは、幾多勇敢な宣教師たちが、海を越え、危険をおかして、日本へ乗渡ってきつつありましたが、特に、羅馬王庁ローマおうちょうから派遣されてきたもののうちには、夜光の短刀をさがし出すべく、秘命をおびて来たものがどれほどあったか知れないという。
 しかも、そのありかを知るに至難なことは、かの貴族の古い通信によって見て、その人の最期の地が、今は、将軍家の膝元となっている関東江戸附近ということが、ほぼ限定的に分っているのに、長崎天草までは乗渡って来た羅馬の人も、よくここまで足をふみ得たものが稀であります。
 布教にくるばてれんも、それをたずねて日本へ渡った者も、幕府の宗門役人からみれば、みな同色な異国人、見つけ次第に十字架じかを背負わせて、仮借なきサビヤリを加えた数は、かの切支丹鮮血遺書やその他の殉教史が示すとおりであります。
 徳川万太郎が名古屋城で手に入れた「御刑罰おしおきばてれん口書くちがき」。あれなども羅馬の使徒が、江戸表へこころざして来る途中、運つたなく尾張の城下で捕りおさえられたものの口書でありましょう。
 思えば、夜光の短刀を求めにくる、羅馬の人々の屈せぬ根気は敬服にあたいしますが、それに払われた犠牲もまた少ないものではありませぬ。
 文字どおり生きかわり死にかわり、慶長から現在の正徳五年にいたるまで、およそ百二、三十年、今なおここに二官やヨハンにまでうけつがれて来ています。
 そして、日本へ赴く時その使徒たる人が、王庁からさずけられる手がかりとしては、わずかに左の数項よりなかったので、それは今――ヨハンからお蝶へ手渡された羊皮の裏表紙にもギリシャ語をもってしるされてあるとおりで、
※(ローマ数字1、1-13-21) 日本にて客死せる王族ピオ(かれの名)の最期の地は、関東江戸市を中心とせる僻地なるべし。
※(ローマ数字2、1-13-22) ピオは世襲の夜光珠の短剣をもてり。
※(ローマ数字3、1-13-23) ピオはおそらく日本政府の追捕をおそれて人跡なきところに餓死がしせしならんか?
※(ローマ数字4、1-13-24) ピオは自然をこのめり、生前バチカノの草原の風趣を愛せり。あるいは江戸市西北の未開の曠野こうやにかくれて、天寿を全うせしか?
※(ローマ数字5、1-13-25) また、ピオは花をこのみ、ことに鶏血草の深紅しんくを強くめずるの癖あり。かれが日本渡航の理想は、バチカノの野に似たる平和の自然に、鶏血草を移植して学林の庭とし、日本における聖カトリック羅馬教ローマきょうの教会を建設するにありき。
※(ローマ数字6、1-13-26) またピオの通信は千六百〇三年――日本慶長八年の記号を最終としてたえたるも、絶対にかれは日本政府に捕われたるものにはあらず、その後の天草支会の報告書を綜合するもすべてそれに一致すればなり。
「こう書いてあるのです、その羊皮の裏表紙にも――」
 と、ヨハンは、お蝶にもわかることばに訳して、そらで読んで聞かせてから、
「――つまり、日本にない鶏血草の花が、一輪でも、この国のどこかにさいていれば、そこはピオ様の居たところか、終焉しゅうえんの地にちがいない……こう羅馬の人たちは考えました」
「あ、それで私も思い出した」
 お蝶は、その種子たねと羊皮の文字を手の上に見つめながら、
「お父さんも、こんな草の種子を、春の彼岸、秋の彼岸がくるたびに、しきりといていたことがあります」
「オオ、じゃこの山屋敷にさきましたか」
「いいえ……だめなんです、いくら土や日あたりのよい所に蒔いても、いちども芽を出したことがありません」
「二官殿は何といっていました」
「最後に、もう一粒しかない、この一粒でさけばお前に羅馬の花を見せてやることが、できるが……となげいていましたが、とうとうその一粒をなくすにはしのびないといって、蒔かずに、どこかへ取っておいたようですけれど……」
「しッ! ……たれか来た」
 ヨハンは突然、ひょうのように身を起して、
黒衣くろご、黒衣……。お蝶さま、あなたの身をねらッている怪しい人間が、私の目にはありありと見える。早く、この山屋敷を逃げ出しなさい」

 ――でなくともお蝶の心は、さっきから追い立てられているように、しきりと胸が動じています。
 父のあんな死にざま。
 あれを山屋敷の役人に見せないわけにはゆかない。
 当然、きびしい調べがあろう。白洲へつき出されれば勢いそれからそれへと、身の疑いが明るみに出て、自分の罪もあばき出されるにきまッている。
 オオ、龍平の首が、獄門台の上から呼んでいるような。
 ――夜光の短刀の奇しき話に気をとられている間は、そんなおそれもふと忘れていましたが、ヨハンが突然、
「たれか来た」
 と、あわてる声に、お蝶も一緒にビクッとして、鉄窓の前を離れながら、別れをつげて、
「じゃ、お別れよ、ヨハンさん」
 ヨハンはかぬ牢の格子へすがりついて――
「体を。体をな……。お蝶様」
「大丈夫、私は、死にゃあしないから」
「お待ちください。そして、二官殿の死を犬死いぬじにとなさいますなよ。ヨハンも、あなたが夜光の短刀を探したという知らせを聞くまで、どんな事しても、骨になっても、きっとここに生きております」
「だって」
 お蝶は、逃げも得ず去りもえずに、
「――わたしに、探せるか探せないかわかりゃあしないものを……お前。待っているなんていッたって困ッちまう」
「そ、そんな事で、どうなさいますか!」
 ヨハンは思わずやッきとなって、
「きっと探せます! 私は捕われの身、この牢獄で神様に一念お祈りしています」
「いいよ、いいよ、そんなことをしていてくれなくッても」
「じゃ何の為に、あなたは山屋敷を出てゆきますか」
「命が惜しい、明るい世間にんでみたい。だけれどねえ、またついででもあったらば、夜光の短刀だって心がけて見るには見るけれど……」
「ちぇッ……そんな気持か」
 あれほど説いて聞かした自分の誠意も、この少女には通じないのかと、ヨハンは歯がみをしてまた何か叫ぼうとしましたが、それは、あッという仰天に変りました。
 ツイと、お蝶が身をひるがえして、そこを去らんとしたとたんに。
 さッきから物蔭で、いさい残らず聞きすましていた道中師の伊兵衛、いきなり燕返つばめがえりにお蝶のふところへつかッて行って、
「もったいねえ、おれがもらっておいてやる」
 と、かの女の手にあった羊皮の表紙を引ったくッて、どんと、胸を突く。
 バラッと、あたりへ撒かれた鶏血草の種子、伊兵衛の襟にもこぼれました。
 ――お蝶は倒れます。
 落花は繽紛ひんぷん、その時、一風ひとかぜ吹きて。
「おさらば、もう山屋敷に用はねえ」
 伊兵衛はこういって、豆絞まめしぼりの上から、フワリと合羽かっぱを引きかぶり、一目散にかけ出しましたが、行くこと数歩。
 あッ。ドたッ――という音。
 見ると、竿でハタキ落とされた蝙蝠こうもりみたいに、伊兵衛が大地へ投げられています。元より体に伸びちぢみのある男ですから、そこで鼻血を出してヘタばるようなことはなく、咄嗟とっさに、ぱっとまたハネ起きましたが、時やおそし八方から一時にあらわれた黒衣くろごの群。
「渡せ」
「今のを出せ」
「うぬ、いやとはいわせねえぞ」
 ギラギラッと端の方から一斉に抜きつれると、たちまちそこに輪をつくる剣の歯車、伊兵衛の体は心棒の位置に置かれています。
「ふざけるな」
 と、伊兵衛は笑って、
「てめえたちは、日本左衛門の手下だろう、御苦労様なやつらだ。この間うちからの張込みで、さだめし足に痺れをきらしたろうから、おれが風を吹かして送ってやる」
 いきなり、着ていた合羽を両手にしぼると、それをつかんで縦横無尽じゅうおうむじんです、蚊でもハタくように振廻してゆく。
 ところへ。
 小者の急報で、二官の家に集まってきた山屋敷の役人は、そこに自殺とも他殺ともつかず倒れている、かれを検視しておりましたが、大えのきの方角に、時ならぬ人声を聞きつけると、
「やッ、あれは?」
 と、六尺棒や提灯が飛花をついて駆けだしてくる。
 しかし、乱闘は同じ場所に待ってはいません。ことにはしッこい道中師の伊兵衛や、野鼠のねずみのような黒衣くろごむれ。もう一匹もそこには見えない。
 牢獄のすみでは、ヨハンが、石のように身を伏せたまま、何か黙祷もくとうしている様子。
 ところが、ここにもう一人――いやもう二人、事の始終を高い所から見ていた人間がある。それは裏の高塀の境にあるむくの木の股に腰をすえていた先生せんじょう金右衛門と日本左衛門で、
「きれいじゃねえか」
 と、指さして、
「まるで走馬燈そうまとうを見るようだ」
 よそごとのようにいって笑いましたが、あえて手も下さず、しばらくそこから降りもしません。

狛家こまけの家族


 どこかの部屋では世間をよそにして気のいいめりやすの三味線が、『描のつま』か何かの独吟に三を下げて、
三とせなじみし
猫の妻
もし恋ひ死なば
かはいのものよ
三味線の
いろにひかるゝ
中つぎの
さをはちぎりのたがやさん
 ごていねいにも、わざわざ江戸から師匠づれで来ている蔵前のお客様とかが、毎日、まずい一くさりをさらッては、どッと、あたりお構いなしに笑いくずれています。
 きょうは、日金山ひがねさんにも風がない。
 ここは豆南ずなんの一角、海をへだてた大島の御神火ごじんかと対して、町に湯煙ゆけむりのたえない熱海あたみの湯治場。
「あれ、お嬢様」
 小間使こまづかいふうの、愛くるしい女――藤屋の隠居所の二階に立って、
「ちょッとここへ、お嬢様、ちょッとここへ出てごらんなさいませ」
 手拭をらんにかけて、そこから、部屋の中へ呼びかけました。
「なアに」
 やさしい返辞はしますが立っては来ません。
 書院の下に小机をよせて、巻紙をひろげている後ろ姿が見えるばかりで、
「――いいものが見えますから」
「私は今、手紙を書いているから駄目」
「そんな事おッしゃらないで、ちょッとここへ来てごらん遊ばせ」
「うるさいね」
 と軽い舌打ちをして、
「――今この手紙を書いてしまってからネ」
 と、いいふくめるように、机に向ったまま、サラサラと筆の穂を走らせている人は、まことに上品な――少しやせすぎてはいますが――線のいい美人でした。
 今朝けさ風呂場で、洗ったばかりの髪なのでしょう、※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ろうやかに背なかへ流した黒髪の先を紫のきれで結んでおります。
 書き終えた巻紙を、くるくると封じてやっと筆をおいてから、ニッコリした顔が小間使いのおりんを見る。
「はい、すみました」
「もうだめですわ、お嬢様。とッくに下町の方へ行ってしまいましたもの」
「そら、やっぱり、わたしをだましたのじゃないの」
「いいえ、嘘ではございません」
「じゃ、何があったの」
孔雀くじゃくおり
「孔雀?」
「ええ、ゆうべ湯番も話していました。上方の方から来た孔雀の見世物が、あしたは船で黒磯へ上がるから、小屋へかからないうちに見てしまえば、その方が木戸銭がいらないなんて」
「それが通ったのかえ」
「ええ、ぞろぞろと沢山の人がついて」
「じゃ、次郎もそれを見に行ったのかしら。この手紙を、飛脚屋へ頼もうと思うのだけれど」
「それなら何も、宿の者へおいいつけ遊ばせばようございましょうに」
「ところが、私は字が下手ですから、人様に見られるのが恥かしい」
「あんなこと」
「次郎を探しに行こうかしらね」
「二、三日の雨で、少しも外をおひろいになりませんでした。おりんもお供をいたしましょう」
 身分のある武家の御息女らしく思われますが、固くるしい作法のとれた湯治場のこと、気軽に階下したへ降りかけました。
 と――薄暗く湯のにおいがする梯子だんの中途で、病人らしい若い侍へ、
「お風呂でございますか」
 小間使いのおりんが、ことばをかけると、
「お出かけか」
 と、先でも軽く、あいさつをしました。
 そして、もう一度、上と下とて、両方の目が振り向き合った時、
「――相良さがらさん、ずいぶん長いお湯でしたね」
 廊下の角に待っていたのは、宿の浴衣ゆかたにかいまきをひッかけた、丹頂のおくめの姿でした。

 次郎という山猿のような下僕しもべの少年と、おりんというこれはまた愛くるしい小間使いをつれて、三人ひと組、この隠居藤屋の二階にいりようおかまいなしで、春先から入湯にきている妙齢な佳人かじんは、今――本家の方の退屈な湯治客のなかで、よるとさわるといい話題の中心となっていて、
「いったい、あの女は何様だろうか」
 と、いうささやきが、もッぱらであります。
 この熱海あたみのことなら土地の者よりはおれに聞けというような顔をしている、中風病ちゅうきやみの男が、
「あれは番町のお旗本のお嬢様で、連れている猿みたいな小僧は、根府川ねぶかわのお関所で飯炊めしたきをしていたのを、用心棒のためにもらいうけて連れて歩いているのさ。あの小僧と棒押しをして見な、とても強いから」
「ヘエ、そうかな」
 と、一時は感心しましたが、二、三日すると、また輿論よろんがちがってきて、
「湯番に聞くと旗本の娘じゃないっていう話だぜ」
 と、中風病ちゅうきやみの出鱈目でたらめが否認される。
「どうもおれも、旗本にしちゃ、あのお供や、あの小間使いの口ぶりが変だと思ったよ」
「第一、屋敷は江戸じゃないそうだ」
「へえ、どこだい」
「どこだが分らないが、御府外の遠方だそうだ」
「あんなに永く湯治場においといて、虫がついたらどうする気だろう。親の気もちが分らないよ」
「次郎という小僧が、その虫の番人にちげえねえ、何しろ、毎年、二月ぐらい入湯に来るというこッたから、何か病気でもあるんだろう」
「気の毒だな、あの若さと、あの縹緻きりょうで」
「だが、病人とは見えねえな、いつもきれいだし、外へも出るし」
「病人だってなにも、中風ちゅうきだの、脚気だの、脱肛だっこうだのッて、そんな、ぶざまな病気ばかりがあると限ったものじゃない、中には、きれいな病気だッてあるさ」
「きれいな病気ッてものがあるかしら」
※(「やまいだれ+亥」、第3水準1-88-46)ろうがいよ」
「なるほど、癆※(「やまいだれ+亥」、第3水準1-88-46)かな」
「そういえば癆※(「やまいだれ+亥」、第3水準1-88-46)かもしれない、あんまりきれいだ」
 とうとう素性の方が分らない腹いせに、衆議が癆※(「やまいだれ+亥」、第3水準1-88-46)にしてしまいました。
 こんなふうですから、二階の障子がくと、それ開いた。手すりへ出ると、それ出てきた。外をひろい歩くと、それ歩いた。――いやはや人間を暇にさせておくと実にうるさいものであります。
 せっかく世間を遠去とおざかって入湯にきているものを、熱海あたみくんだりまで来ていッそうこうでは、さだめし当人にわずらわしかろうと思われますが、それが案外で、次郎という小僕も、小間使いも、また問題の佳人かじん月江つきえ様という人も、そんなことはどこ吹く風かで、少しも、気にかける様子がありません。
 ある日は、次郎をつれ、紅緒べにおの草履にひもをつけて、湯前ゆまえの神から日金ひがねの山へのぼッてゆく。
 ある晩は、歌留多かるたをよむ声が高くきこえてきたり、投扇興とうせんきょうにキャッと笑っていたりする。
 洗い髪で、磯を飛んであるく、月江の姿もよく見ます。時には、庭先で、鬼ごッこをしていたり、すべてが開放的で、明るく、そろいもそろった無邪気な三人であります。
 だから、傍観の閑人ひまじんには、その無邪気な生活ぶりが、一つの羨望せんぼうでありました。
「おお、道がきれいになった、ゆうべの雨で」
 今も、庭の裏口から、宿の草履ぞうりをはいて外へ出た月江は、磯からくる風に黒髪を吹かせて、それへ軽く手をあてながら、
「おりんや」
 と、涼しい目を細めて呼ぶ。
「はい」
「お前はほんとに人なつこいね」
「なぜですか、お嬢様」
「だって、あんなお侍様さむらいさまに、いきなりお風呂ですか――なんて声をかけるのだもの」
「ちッとも突然ではございません、私は、もう朝夕ごあいさつをしているんですから」
「まあ……」と仰山に、
「おまえはいつのまに、あのお侍様と御懇意になっているのかえ」
「ホホホホ……お嬢様ッてば」
「何がおかしいの」
「わたし、御懇意にしたからッても、べつだん何でもありゃしませんのに」
「だから、何でもあるといやアしないのに、お前こそ、よッぽどおかしい」
「お嬢様こそ、よッぽど妙です」
「いいよ、おりん。旅先だと思ってたくさんおいじめ、高麗村こまむらへ帰ったらお祖父じい様にいいつけてあげるから」
「あら、お怒り遊ばしたんですか。――お嬢様そんなに早く行かないで」
「いいよ、いいよ。お前はあッちへ行って、相良様とたくさんお話し!」
 くるりと身を廻して、温泉宿ゆやどの垣の根にさいている、連翹れんぎょうの花をむしりとって、おりんの笑くぼへぶっつけました。

 それも軽い戯れでした。
 くったくのない蝶々のように、月江とおりんの主従は、それから次郎の姿をさがしに、下町の坂を北の方へ向って駆けだして行く。
「あら、また坂がある」
熱海あたみ宿しゅくは坂ばかりでございますね。それも、みんな短い坂道ばかりが……」
「武蔵野には坂がない」
「あんな海もございませんのね」
「りんや」
「はい」
「次郎はいッたいどこへ行ったのだろうね」
「さあ――こッちにも見えませんが――また遠ッ走りをして、走り湯の権現様の方へでも行っているのじゃありませんかしら」
「おや、あそこに沢山人が見える」
「ほんとに、たいそう人がたかッておりますこと」
「居るよ、あの中に。きッと次郎も交じッているんだよ」
「行ってみましょうか、お嬢様」
「うしろから行って、そッと、目をふさいでやると面白い!」
「それよりもわッと背中をたたいておどかしてやりましょう!」
 軽快な姿が、たもとに風をはらんで、また短い坂を駆けました。
 そこは野中の地蔵とよぶところで、晩には、沖の潮鳴りがきこえるほか、人も通らない湯町の端れで、ただ一軒、漁師りょうしの網小屋がぽつんと建っています。
 網小屋のそばには、馬子や漁師や往来の者の湯浴ゆあみにまかせる野天風呂があって、今も、紫雲英げんげのさいている原ッぱへ、笠やわらじをぬぎすてた旅の人が、草の葉の浮いている青天井の温泉につかッて、
「アー……いいお湯だ」
 と、湯気の中から渡り鳥の腹を仰向いて見ていました。
 板前の庖丁ほうちょうに甘いもからいもいえず、出るには焼き印のある下駄をはき、うちでは棒縞ぼうじまの丹前でお客様お客様と下にもおかれぬ不自由をしているよりは、かかる野天で、かかる湯泉に、堪能していられた時代の旅人の方が、遙かに、自然の恩恵をまことに浴したもので、また、諸国に温泉いでゆをひらいたという湯前ゆまえの神様――大己貴尊おおあなむちのみことの心にもかなうものでありましょう。
 ところで。
 月江とおりんがそこへ来て見ますと、野天風呂とあみ小屋の裏の間に、ばく、ばく、と勢いよく白い煙がふいていて、ちょいと寄りつかれない湯鳴りがしています。
 次郎の姿はここにも見えませんでしたが、宿の丹前を着たお客の男女や、往来の者や、土地の悪太郎が寄ッてたかッて、
法斎ほうさい、法斎」
「法斎、法斎、法斎……」
「法斎きちがい! 法斎きちがい」
 ――なにか知らないが面白そうに騒いでいるので、思わず首を突ッ込んで、人の肩の間からのぞいて見る。
 名物の馬鹿でもいるのかと思いましたら、べつだん人間をよんでいる訳ではなく、岩の間からふきだしている湯へ向って、土地の子供が、
「法斎きちがい、法斎きちがい」
 と、手をたたいているのでありました。
「ああ、これが、法斎湯だよ」
 と、月江もおりんの耳へ口をよせてささやいている。
 この湯口は、法斎きちがいと呼んで手をたたくと、自然にいかッて湯をふき出し、それをやめると湯鳴りもしずまるのだそうで、湯治客は一度はここへ見物にきて、面白半分に、土地の子供へ手をたたかせる。
 で――その湯口のそばには、江の島のあわび取りみたいに、「法斎きちがい」を商売にしている鼻ッたらしがウヨウヨ居て、湯鳴りがやむと、黒い手を出して、
「おじさん、法斎呼ぼうか」
「おばさん、法斎呼ばしておくれよ」
 と、一文二文をねだッています。
「つまらない……」
 おりんは、さんざん見てしまったあとで、つまらないと呟やきながら、そこを離れて月江と一緒に歩きだしました。
「あの法斎法斎ッて、お湯が怒ッてくるのは、仕掛があるんですとさお嬢様」
「まあ……そうかえ」
「あの子供たちには、さい取りをする大人が居て、網小屋の中で、手の音をききながら加減をするんですッて」
「そんなことは、知らない方がいいのだよ。あれも土地の名物だと思って、ぼんやり見ていれば面白いじゃないか。世の中のことは、みんな法斎湯みたいなものだからネ」
 話しながら野道を縫って、磯の方へ廻ってゆきますと、よく湯治場にあるやつで、甚だよくない眼つきをした遊びにんていの男が三名、
「もすこし先へ行って」
「磯へ出るぜ」
「だからよ……」
 あと先を見廻しながら、ふたりのあとからついて行きます。

 わるい者が目をつけてゆく。
 何かなければいいがと眺めていると、案の如く、海辺へ出てあたりに人なき様子を見廻すと、三人のならず者が、突然、月江のうしろへ飛びかかッて、猿轡さるぐつわを廻そうとしました。
「あれッ」
 と、悲鳴をあげかけた小間使いのおりんも、その口を大きな手のひらでふさがれて、小雀のように、磯松の根元へだき倒されましたが、
「おりんや、大丈夫だよ!」
 月江の声がこうひびきますと、大の男がたすきを切ったように、かの女の肩から黒髪に吹かれて、デンと前へ投げ出されている。
 姿に似気ない手のうちに驚いて、おりんの方はあと廻しに、こんどは、三名が一束になっていどみかかりましたが、さッと、身を開くと、
「何をしやるッ」
 柳眉に美しい険が立つ――
「女と思うて、ぶしつけな、この上わるさをすると許しませぬぞ」
 いうかと思うと、いつのまにか、手につかんでいた砂の目つぶし。
 笑止です。
「わッ」
 と、つらを抑えて三人のならず者が、たじろいだ隙を見て、おりんは逸早く月江の手をとり、きれいな砂浜を一散にかけ出しました。
 そして、二、三町ほど走ッて行って、また、小舟のかげに顔を出し、いまいましそうに見送っていた人の方をながめて、
(いい気味!)
 と、いわないばかりに手をはやしました。
 ところが、それから月江とおりんの主従が、横磯の砂浜をきれてゆく頃――振顧ふりかえってみると、たッた三人だったならず者の影が、いつか、七人にふえ、九人にもふえ、衆を狩りあつめて、どこまでもいてくる様子。
「お嬢様、大変です、大変です」
「うしろをお見でない、うしろを見ると、よけいに狼は飛びついてくるものだから」
「だって、帰れないじゃございませんか」
「錦浦の方へ歩いて見ようよ、わたしはまだ、観音様の石門も見ないし」
「見物どころじゃございません」
「お前がわるいのだよ、あの法斎湯に仕掛があるなんて、土地の名物にケチつけたから、それをよい言い懸りにして来るんです」
「まあ、どうしましょう月江様」
 右は念仏山の断崖、左は海、道はそのふもとに添う一筋です。
 うしろを見ると、大漁ぞめ半纏はんてんを引ッかぶった漁師だの、熊のような男達が、腕ぐみをして、こんどは前にこりて用心ぶかく、こっちの足どりにつれて黙々と、船虫のようにくッついてくる。
 はッと、おりんが思いあたったのは、この道の先の魚見うおみ小屋です。網で攻めるように自分たちを追いこんで、そこへ連れこもうとする策ではなかろうか?
 とは気がついてみても、うしろを振顧ると、あとへ帰る気にもなれないし、立ち止まってもいられません。
 鎌倉右大臣の――箱根路をわがこえくれば伊豆の海や――その伊豆の海はだんだんと困惑の足もとから暮れかけてきそうです。
 大島初島も、すでに紅い夕霞ゆうがすみの奥となって。
 …………
 時に、ちょうどその頃――同じ海の暮色を見ながら、日金の峰の中腹、東光寺の下あたりから、口笛をふきつつ町へ帰ってくる、風の子のような元気な小僧がありました。
 まもなく、湯前神社の石段から町へ降りてきた口笛の馳け足は、隠居藤屋の裏庭へ飛びこんで来て、そこから、
「お嬢様、ただ今」
 と、二階の部屋を見上げました。
 月江の小僕しょうぼく次郎です。
 次郎は今年十五だそうで、遊びたい盛りの溌剌たる眼が、ちょッとの間も、ひとつ所にジッとしてはおりません。髪は麻糸でそッけなくうしろへ結び、なりは手織りの筒袖つつそでに、黒のもんぺときまッていて、腰の短い山刀が、この小童こわっぱの風采を、すこし異様に光らせています。
「おう、次郎さんかい」
「え」
 月江の返辞がなくて、うしろで呼んだ者があるので振顧ると、
「お嬢様は、お前をさがしにゆくといって、さっき出かけたきり、まだお帰りがないようだ」
 と、顔なじみの、宿の下男が来て、おりんも一緒であることまで教えました。
「へ……そうかい」
 次郎は、障子のててある二階を見ながらキョトキョトして、
「どッちの方へ行ったか、おじさん、知ってないかい」
「さあ、下の法斎湯ほうさいゆの方へ降りてゆくうしろ姿は見たが、その先は知らないな」
「アア、あの法斎きちがいか」
 次郎はふところへ手を突ッ込んで、藁や髪の毛や木の葉でまるまッた鳥の巣を、両手で大切だいじそうにとり出して、
「おじさん、これを預かッといてくんないか」
「なんだいそれは」
「鳥の巣さ」
「鳥の巣は分っているけれど、一体どこで取ったんだ」
「東光寺のけやきの木へ登って、やっとおさえて来たのさ――お嬢様に見せようと思ってね。おじさん、風呂場の隅へ仕舞ッといてくんないか」
「困るなあ、ひなは死んでしまうぜ」
「大丈夫だよ」
「縁の下へでも入れておきな」
「猫に食われてしまうと可哀そうだもの」
「ほんとに雛が居るのかい」
「居るよ。寝ているよ」
「弱るなア、そんなもの」
「ここへ置いたよ、いいかいおじさん。猫に食わすと承知しないぜ」
 次郎はまたスタスタと馳け出して、行きちがいになった月江の姿を、そこか、ここかと、しきりに探し廻っている。
 そして、法斎湯の近所へ来て、知ると知らないにかかわらず、逢う人ごとにたずねて見ると、
「あ、藤屋の隠居所のお客さんですか。その人ならばさっきこの辺で、湯鳴りを見物していなすッたが、その法斎場には仕掛があるとか人に話していたっていうんで、土地のならず者が聞きかじッて、横磯の方へ追いかけて行ったようです」
「えッ、ならず者が追いかけてゆきました」
「お前さん身よりの方なら、早く行って見ておあげなさい。魚見うおみ小屋の方には、わるい奴がおりますからね」
「ありがとう!」
 次郎は、それを聞くや、宙を飛んで、
「さあ、大変」
 と思いました。
 もしやお嬢様の身に、かすり傷でもつく事があったひには大変だ。次郎はなんのために熱海までお供をして来たのか。
 高麗村こまむらの御隠家様がおッしゃった。――次郎よ、道中はじょうの体を何分たのむぞ、今年は、おまえがついてゆく番なので、わしも大きに安心じゃ――と。
「さあ、一大事」
 彼も責任感に責められました。
 温泉ごうの平和な日になれて、毎日、日金山ひがねさんへ蜂の巣や鳥の雛子ひなこばかりさがしに行っていて、もしやの事があった場合は、何といって、御隠家様の前へ出よう、あの高麗村へ帰ってゆこう。
 次郎は草を蹴って、野づらをはすかいにスッ飛びました。そして、横磯の海辺に立ち、左右の浪打ち際を見渡しましたが、
「ウーム、見えないぞ」
 と、太い息でうめくばかり。
 潮のけぶる長汀ちょうていに、まだ明るい残照の陽かげが、ところどころ、夕霞を破ってはおりますが、次郎の視線のとどくかぎり、月江様らしい人影は見当りません。

「どこだ、どこだ。おいらのうちのお嬢さまは?」
 次郎は波うち際を韋駄天いだてんとなって駆けだしながら、
「月江さまア」
 と、大声を張りあげましたが、その声には、一脈の哀傷と不安なものがカスれていました。
 ――駆けるほどに、呼ばわるほどに、暮れかけている横磯の長汀ちょうていは、またたくうちに、次郎の飛ぶ足のうしろとなって流れ去りましたが、かくてもまだ、その人に似た姿は先に見えません。
「どこだ、どこだ」
 次郎はいよいよ血眼となって、
「――お嬢さまア、お嬢さまア」
 遂には、波にひびくその絶叫も、涙ッぽい訴えと変って、刻々とやみのこくなる海のいろに、思わず深い溜息をもらしている。
 すると――向うで、
「おのしは、次郎さんでねえか」
 と、磯の石が呼びました。
 磯の石が声をかけるはずはないが、うす暗い海辺にかがんでいたひとりの海女あまが、そこを立って歩きだすまでは、一個の磯の石としか次郎の目には見えなかったので――
「あ……」
 驚いて近づいてゆくと、ふだんこの辺でよく顔を合せている海女です。
「おばさん、教えてくンないか」
 次郎の問いは唐突です。
「おめえ、それで飛んできなしたか」
「居なくなッちゃッたんだよ、お嬢さまが。――おばさん、おいらのうちの月江様を知ってんなら、教えてくんなよ」
「大変だぞ、おめえ」
「えッ」
 次郎はもう飛び立ちそうな様子をして、
「大変て、ど、どうしたンだい」
「悪いやつに追われて、魚見小屋の中へ連れこまれて行きなしたようだ」
「見ていたのか、おばさんは」
「札つきの悪者ばかりが、のッそりのッそり、藤屋のお客さんのあとをつけて行くので、なんか悪いことがなけりゃあいいがと、さッきからここで案じていたところ……おめえよく来なした、早く行って見てあげるといい」
「ど、どッちの方だい」
みさきだよ」
「岬ッて?」
「ここを真ッすぐさ、そこにな、魚見小屋があるから、すぐと知れるだ」
「あ、ありがとう、おばさん」
 いいすてて勢いよく走りだしましたが、何か棒のようなものを蹴って、砂の上につンのめりました。
 そして、前へころんだついでに足で蹴ったその棒を拾って、よい獲物とばかり小脇に持ちこみましたが、その先ッぽに、鋭利な刃物が光っているところを見ると、これは、漁師の置忘れたもりという物騒な道具に相違ありません。
 波はごうごうとえています。はや、夜のとばりは相模灘さがみなだをいちめんにとざしていますが、沖の一線は、月明りのように空が冴えて、しぶきをあげる波明りと共に、磯の道は案外足もとがよい。
 と――
 やがて次郎のあえぐ道が、岬の鼻へ向ってのぼりになって来たかと思うと、ごうッ――と耳をなぐる松風の間に、ちぎれ飛んでくる大勢の人声。
 たしかに魚見小屋のあたりです。
 きッと、空の明りにすかされる岬の松のかげを睨んで、
「畜生、見ていろ」
 と、くちびるを噛んでつぶやくと高麗村の次郎、山にくじらを見つけでもしたように、モリを持ち直し道端へかがまりました。

 ところが、ここに。
 まだ岬のはなの乱松にあしの高い時分から、散り松葉にしっとりと潮気のふくむ岩蔭に腰をおろして、そこから一望にながめられる相模灘さがみなだをよぎッて、熱海の温泉町ゆまち、くすみの漁村などへ寄りつく舟を、一艘も見落すまいと目をこらしていた旅の者があります。
 きのう網代へついた江戸の便船のうちに、ちらとその姿を見せた目明しの釘勘と、かれが組下の伝吉という男。
 ――伝吉は、いつぞや、丹頃のお粂と相良さがら金吾とが、護国寺前のつくば屋を去る時、その夜、ある地点までふたりの行動をつけて行ったので、かれらがこの半島の温泉さとに姿をひそめたことは、職業がら、とうに感づいていなければなりません。
 しかし、きょうの半日を、この岬のはなの風にあたッて、根気よく海とにらみ合いをしていたのは、まったく、それとは意味のちがうものであって、
「まだ見えない」
「はてな、きょうは波も穏やかだし、日どりの狂うはずはねえが」
 と、何か心待ちにするのか、ついそこで、日の暮れるのをうッかりしていたものであります。
「いけねえ、暗くなって来た……」
 海の文色あいろもどッぷりと暮れ落ちると、伝吉は初めて、こんを疲らしたようにガッカリとして、
「親方、このあんばいじゃ、やつらの船がくるのは夜半よなかか明け方でしょうぜ」
「ウーム、そうかもしれねえ」
「どうします」
「しかたがねえから、そこらで一晩しのごうじゃねえか」
「ちょうどいい小屋がありますぜ、その向うに」
魚見うおみ小屋だな」
「なんです、魚見小屋ッてえな」
「潮色を見て出漁引き漁の貝合図をふく番人のいる所だ。――だれか居るか」
「いねえようです、だれも」
「そこらの、松葉をすこしかき集めてきねえ、中へはいッて一ぷくやるから」
 がらりと、あるという名ばかりのれ戸をあけて、小屋のうちへ足を入れてみると、これでも潮風をしのいで人の寝るには足るだけの備えがあります。
 伝吉が土間のへ、松葉や枯れ枝をつみかさねる。
 釘勘は腰をさぐッて火打石ひうちり、やがて、暗いなかに、トロトロと燃えあがる松のにおいのある火を取りかこんで、
「ははあ、この辺のやつも、だいぶ抜け買い(密貿易)の手伝いを内職にしていやがるな」
 と、ぼウと赤い炎のいろに浮き出したあたりの物を、まず一流の鋭い目で見てしまいました。
 そこのすすけた壁には、漁具、網、法螺の貝、いかり、等のふつう目なれた物以外に、もりや鉄砲――海の武器とも呼ぶべきものまでが、雑然と掛けならべてありました。
「――で、なんでしょうか」
 伝吉は一ぷくつけながら、小屋へ這入はいっての方が、かえって耳につく潮鳴りの間に声をひそめて、
「その……きょうか今夜は、必ずこの辺へつくはずだと親方のいう霊岸河岸をでた乾鰯ほしか船には、いッたい、だれとだれが乗り合わせて来るんでしょうか。そいつアまだ、親方には目星はついていねえんでしょうね」
「分っているのは、日本左衛門に先生せんじょう金右衛門だが、そのほかの者といやあ、まず四ツ目屋の新助、雲霧の仁三にざ、尺取の十太郎、あのへんだろうな」
「で……そいつらの旅へ出たのは」
「無論、江戸は近ごろ物騒だからよ」
「夜光の短刀をさがす目的めあてもあるんでございましょう」
「それもある……だがそれより先に」
「お粂ですか」
「ウム、自分を裏切った丹頂のお粂――お粂を奪ったとにらまれている相良金吾。――日本左衛門はなにより先に、この二人を生かしちゃおくまいと、おれは前から要心しているのだ」
「なるほど、あの男にしても仲間の者にも、それくらいな執念はありましょうね」
「どッちみち、こんどは、よほど気をつけないと、お粂はもちろんのこと、金吾様の命もあぶない、おれも、江戸表ならどうにでも捕手を自由に使ってみせるが、旅へ出ちゃ腕一本すね一本、それにひきかえて日本左衛門の方は……」
 といいかけた時、何か、ぶつけたような物音と女の声が、突然、後ろの戸を倒して中の火をあおッたので、
「おうっ!」
 と、釘勘も伝吉も、けむに吹かれて、思わず左右へおどり立ちました。

 そこの、魚見小屋を背なかにして、外に立っていたのは、遂にここまで追いつめられてきた、狛家こまけの息女と小間使いのおりんです。
 おりんは歯の根もあわずに月江の胸にすがっている。
 その両女ふたりを取巻いて、磯くさい人間ども、幾人ともわかりません――悪魚の群のようなのが、飢えた目をして、今にもいどみかかりそうなけしき。
「りんや、心配おしでない」
 と、月江の片手が帯の懐剣をさぐッたせつな、目まぜをし合ったあぶれ者の二、三人が、いきなり、かの女のうしろへ廻ろうとしましたが、そのひとりが、懐剣で頬をかすられたかと思うと、魚見小屋を内がわへはずして、
「あっ」
 と、中へころがり込む。
 とたんに。
「こいつらッ」
 意外な大喝だいかつを投げて、そこから吹き出した松葉のけむといッしょに、二本の十手がおどッて出たので、
「わッ」と、驚いたあぶれ者の影が、一時に小屋の前をひらいて、
「野郎、なんだてめえは!」
 と、虚勢を張って立ち直りましたが、伝吉が、
「御用ッ!」
 と、ふた声ばかり浴びせかけますと、もともとたいして骨ッぽいのは居ない連中ですから、十手を見たばかりでわれ勝ちに岬の下へ逃げだしました。
 それほど、他愛のない小悪党の群を、釘勘や伝吉とて、なにもあえて、大人気おとなげなく追いかけるまでのこともなかったでしょうが、地勢上、下へ逃げてゆくやつを、上から追いかけて行くことになるのは自然の弾みで、
「うぬ、待て」
 とばかり駆け散らして行く。
 すると。
 その坂道の横合から、ブ――ンと風を切ッて飛んだ一本のもりが、先へ逃げだした一人の男の体へグザと突き立って、さめのような絶叫をあげさせたからたまりません。
 いやが上に、驚きあわてたあぶれ者は、むしろより以上な危険のある横手の灌木帯かんぼくたいへとびこんで、そこの断崖から白浪をのぞんで、めくら滅法に飛び下りましたが、これは少し、釘勘の気持としては殺生に過ぎたようです。
 だが、自分たちのおどかしよりも、なおかれらを驚かした銛の投げ手はたれだろうか――と、そこに串刺くしざしとなった死骸よりも先にその方をジッとすかして見ると、がらの小さな、もんぺを穿いたひとりの小童こわっぱがいきなり山刀を抜きそうにしてくるので、
「おい、待ッた」
 釘勘が手をあげて、
「人違いをするな、おれたちは、通りかかった旅の者だ」
「どこだ! おいらのうちのお嬢様は」
「ウム、向うにいる、お女中をさがしているのか」
「えッ、いる?」
「待ちねえ、今、おれの連れが呼びに行ったから。だが、おめえ達は一体どこの者だね」
「おいらのことかい? お嬢様かい?」
「おめえも、あのお女中も」
「お嬢様は狛家こまけの御息女。おいらあ、その高麗村こまむらの次郎ッてえんだ」
「ついぞ聞いたことのねえ所だが、高麗村というと、やはりこの伊豆の田方たがたのうちなのかな」
「ばかをいッてら、おじさん。高麗村がこの伊豆なもんか。――武蔵の国北多摩の奥で、秩父ちちぶと甲州の山を後ろに背負しょって、前には、この相模灘さがみなだみたいな広い原ッぱを控えているんだぜ、そこに高麗こまごう、高麗村という、おいら達の村があって、村の将軍様は狛家の御隠家といって、そりゃあ……」
 次郎、そこまでは、問わず語りにお国自慢をしゃべりかけていましたが、ふと気がついて口をつぐんだ時、魚見小屋の方から来る、月江とおりんの姿を見たので、
「おっ、居た、居た!」
 釘勘を置きッぱなしにして、そッちへ足を向けたかと思うと、次郎のいう、おいらのお嬢様なる人の求める腕へ、まるで、犬ころのように飛びついて行ったものです。

投扇興とうせんきょう


 ふと――
 刀の柄糸つかいとほつれを見つけて、それを気にしてつくろいだすと、いじればいじるほど解けて来て、果ては、しまつが悪くなったので、糸切歯をあててプツンとかみましたが、その糸屑いとくずも唇にくわえたまま、なぜか、相良金吾の目にいつまでも、消えない怒りが燃えていました。
 刀は持ちの心をうつす。
 心の腐ッた持ちぬしの手にあれば、柄糸もしょうがぬけてほつれ出すか。
 どうにもならないほぐいと。――今の自分の心がちょうどそれともいえる。
 もう近頃では、この愛刀らい了戒りょうかいさえ抜いてみる気になれない自分だ。おそろしくて抜けないのである。
 破邪顕正はじゃけんせいそのものの光、偽りを許さぬ剣の光の前に、暗鬱な、邪心を押しかくした心をもって、なんで抜いてみる気になれようか。なんで、じッと、それに対して目をそむけずにいられようか。
 ふしぎです。
 刀は人の持つものでありながら、かくまで人を支配します。心おおらかな時は、それにひるみなく、心よこしまな時は、自分の刀とて、さやを払って見ることができません。
 ――それを感じて、金吾は、自分というものに、強い侮蔑ぶべつを投げたのでした。
「武士か! 貴様は」
 かれの矛盾した心は、二ツの相良金吾という人間に苦しめられているようです。
 一つは本来の金吾であり、一つは、奇病に衰えた肉体から、武士らしい魂をひき抜かれて、ここにこうしている相良金吾。
 過去の金吾は大殿の信も篤く、ために徳川万太郎の側付きとなった程、忠義一徹、武門名誉の侍であるはず。
 しかし。
 現実の金吾は――というと、本心はとにかく、表面の生活からられれば、妙な年増のあだ女に養われて、その妖情に溺愛して抜くにも抜けないところまで、足をふみすべらそうとしている唾棄だきすべき非武士!
 そうではないか。
 そうののしられても言いわけの道がない境遇にいる自分ではないだろうか。
 ――金吾は了戒を膝から落として、ゴロリと仰向けに寝ころびながら、また口のうちで、
「武士か! 貴様は」
 おのれを、おのれの外に置いて、腹立たしげに罵りました。
 おしろいのにおい……
 なまめかしい女の小袖。
 行燈あんどんに灯を入れるのも物憂いので、そのまま手枕をかッていますと、てきってあるこの藤屋の奥二階の一間が、徐々と白みはじめてくる……。
 横磯の沖に月が出たのです。
 黄色い春の月の思いきッて大きく、ぬっと、相模灘さがみなだの水平線に君臨しだしてきたけしきが、金吾の手枕に想像されました。
 風もなく、障子にさわる桃の花びらが、のような影をサヤサヤと黒く舞わせて、――その時、思いだしたように、
白玉か
何ぞと人のとがめるは
露と答へて消えなまし
物を思へば恋ごろも
それは昔の芥川あくたがは
芥川
これはかつらの川水に
浮名を流すうたかたに
泡ときえゆく
信濃屋しなのや
はんを背なに長右衛門
 また、あちらの座敷に陣取っている師匠と蔵前くらまえのお旦那が、晩酌のすさびに音じめを直したのでしょう。爪弾つまびきではありますが、手にとるように聞えてくるのは、ここもと、園八節の道行みちゆき桂川かつらがわ恋のしがらみか何かであります。
「ああいう世界もあるんだなあ」
 金吾はうッとり耳を誘われていました。
 そして、いつか軽い湯づかれにとろとろとうたた寝の浅い眠りに落ちたかと思うと、やわらかい丹前を、ふわりと自分に着せかけたものがある。
 おぼえのある肌のにおい、髪の香い、それに、はっと眼をさましてみると、いつか、朱骨しゅぼねの丸行燈に明るい灯がともッて、向うにある鏡台の鏡の中に、湯上がりの肌を押しぬいで、牡丹刷毛ぼたんばけを持ったおくめの顔が華やかに笑っています。

 お粂は、いつのまにか湯から上がってきて、そこに寝ころんでいる手枕の人をよそに、あだな夕化粧をこらしていました。
 で、偶然、鏡の中で見合した男女ふたりの目と目。
 金吾が見た鏡の中のお粂の顔は媚をふくんで笑っていましたが、お粂が見た鏡の中の金吾の顔は、
(妖婦め!)
 と、いわんばかりに睨んでいました。
「まあ、こわい顔」
 と、くちびるへべにを点じ、やがて、化粧をすまして向き直った女の顔は、ちょうど、夜桜の雪洞ぼんぼりに灯がはいッたように明るくなって見えます。
「――相良さん、また江戸表のことを考えているんでしょう、およしなさいよ、しんきくさい」
 冷たい海風のもれてくる障子の隙を合せながら、
「オオ、向うの座敷の陽気だこと……私たちも、今夜は酒でも少しとりましょうか」
「酒?」
「エエ」
 金吾はハネ起きて、
「酒」
 と、もう一度つぶやきました。
 こういう時にこそ、酒を飲むべきものだったと、初めて気がついたように、
「よかろう! いいつけてくれ」
「まあ、めずらしい」
 お粂は自分からいい出しておきながら、金吾が同意したのをわざとらしく笑って、それから女中をよんで支度を頼み、その間に、鉄瓶てつびんの下の火を見たり、あたりの物を片寄せたりして、自分も、世話女房らしくいそいそする。
 ぜんがくる。
 銚子ちょうしがつく。
 温泉の宿らしい腰のひくい長火鉢に、ほッてりと炭火も赤くなって、障子越しに聞く遠い波の音も、旅愁をいためるほどでなく、よその宿屋の三味線も、耳ざわりではありません。
「こちの人、おひとつ」
 浮いた調子で、お粂は軽く戯れながら銚子に細い指をかけて、
「いかが……」
 と、少し首を曲げる。
 黙然と杯をとって、金吾は苦しそうに一口グッと飲みほしました。
「私にも下さいな」
 お粂は元よりいける口です。
 相手がものをいわないので、さしては飲み、うけてはつぐという調子には、杯が廻らない。
 でも、置注おきつぎで、互に数杯。
 男女ふたりとも、ぽっと赤くなりました。
 しかし、同じ酒瓶ちろりの酒を酌みわけて、同じように飲んでいながら、金吾の舌には毒のようにほろ苦く、お粂の舌には蜜のように甘いようです。で、酔わされるその心のうごき方が、酔うにつれてだんだんと食いちがッてくるのはやむを得ない結果でした。
「あなた」
「…………」
「何をさっき、わたしを睨んでいたんですか。まアいやだ……まだ怒ッているんだよ、相良さがらさんは」
 金吾はものをいいません。いわんとする時は、その口を杯でふさいでいる。
 そして、両の腕をくみ、飲めば飲むほど陰鬱に、青白い顔をうつ向けています。

 入湯のききめか、お粂の手当が届いたせいか、この熱海へ来てから、とにかく金吾の奇病というものも、ある程度まで回復して来たようです。
 けれど、そのかわりに、やまい以上の憂悶がこんどは金吾の心核しんかくに食い入ッて、かれを苦しめていることもまた見のがせません。
 それは、こうしている宿屋住居の二人の生活が、前とだいぶ変って他人行儀がとれ、それでいて、許し合った情人というほど密でもなく、夫婦ともつかず、お互いにどうにもならない運命の部屋に閉じこめられているような状態から見ても、その後、お粂と金吾の仲に思いがけない――もう切るにも切れないものが生じて、悪縁の鎖を結んでしまッたことが明らかであります。
 お粂の熱情にほだされたにせよ、金吾のためにこの一事は、実に終生の不覚というべきでありますが、一頃のように、彼が昏々と眠りから眠りへ落ちている間ならば、妖婦の抱擁もこばむ力がなかったわけですから、一概に彼の心事を責めるのもどうでしょうか。
 しかし、お粂にとれば、これで思いがげられたわけです。
 お粂は陰性の妖婦とみえます、これが陽性の毒婦型の女だったら、こんな遠廻しな、手数のかかることはしていないでしょう。また、いかなる男も、お粂のような手段をもってされては、その術中に墜ちないではいられますまい。
 ですが不自然に結ばれた、二人の間というものは、その成長につれ、その変態な苦しみが、当然ふたりへ公平に分けられてくる。
 金吾の憂鬱はその悔いです。
 お粂のいらいらするのは、ここまで行ッていながら、まだともすると、自分の手から逃げそうな男の気振けぶりです。自分の情炎に溶けきれないものが男のどこかに残っている不満です。
 せめて、その憂鬱を晴らすかと思って飲んだ酒も、金吾には沈痛な理性がげてくるばかりであり、お粂には、いよいよ酒がそのじれッたさを増すのみでありました。
 ……酒が冷える。
導引どういんはいかが、導引はいかが」
 廊下の障子をなでてゆく按摩あんまの影が、この無言の部屋の前を大きな蜘蛛くものように通りすぎました。
 宿の間毎まごとは、浮世の縮図のように、さまざまです。
 そこから廊下を離れた角二階の部屋は、例の問題の、月江様、おりん、小僕次郎、こう三人がいる部屋で、そこの空気はまた、いつも和気と春風にみちて、ハチきれそうな笑いの爆発がたえません。
「いや! 次郎はずるい」
「痛い、痛い」
「痛ければお放し」
「死んでも放さない」
「強情だね、お前は。りんや、加勢しておくれな、次郎は狡くッてしようがない」
「ホ、ホ、ホ、ホ、錣引しころびき、錣引、わたしは読み手ですから、どちらへも御加勢はいたしませんよ」
 何を笑いはしゃいで争ッているのかと見ますと、これは近ごろ流行はやッている読み加留多かるたのうんすんであります。
 一枚のうんすん加留多の札を、月江が抱きこんでいると次郎がそれを奪おうとしてゆずりません。読み手のおりんは面白がッて、キャッキャッと笑いながら口から読み札をこぼしている。
「あッ、やぶけた」
「次郎、おまえは」
「知らねえ知らねえ、お嬢様のせいだ」
「意地わる!」
「ほーら、負けたんで口惜しがッてら」
「おまえの負けよ」
「お嬢様の負けだい」
「どうして」
「どうしてでも」
「りんが証人だよ、ねえ、りんや」
「おりんさんが知ッてら、ねえ、おりんさん」
「憎らしい。ひとの口真似をして」
「憎らしい。ひとの口真似をして」
「あら」
「あら」
「ホ、ホ、ホ」
「オホ、ホ」
「猿!」
 と、月江がそこらの札をかき集めて、笑いながら相手の顔へぶつけたので、次郎はクシャンとまいッてしまいましたが、座敷はいちめん加留多の落花、春の夜らしく散らかりました。

 と、次の間の障子があいて、
「ごめん遊ばせ」
 宿の女中の声がしています。
 そんな事には気がつかないで、笑いさざめいている三人は、加留多をよせ集めると次には遊戯の趣向をかえて、座敷の中程に毛氈もうせんをのべ、古雅な蒔絵まきえの枕を置きました。
 枕の上には銀の水引みずひきで蝶形のまとをすえ、席をさだめておうぎを持つ。
 扇は金泥に山桜の胡粉ごふん絵、銀に紅葉もみじ、その幾本かをとって的に向う。つまり、これから投扇の技をくらべて、月江が次郎の鼻を明かそうという趣向かにみえます。
 おりんも次郎も、投扇にはまだ初心とみえて、どうやるのかと神妙にかしこまッていると、月江は、おもて十組の橋立はしだてが何点、春の野が何点、富士が何点、裏の高砂有明たかさごありあけが何点といちいち説明して、投技の秘訣に及び、さておしまいには、小さな冊子を膝にひろげて、投扇の起源という一齣ひとくさりまで読んで聞かせました。
 ――投楽散人とうらくさんじんとかいえる人、花都かとの産なり、さるとし水無月みなつきの炎暑にたえかね、昼寝の夢さめて、席上に残せる木枕をみるに、胡蝶一つ羽を休む。投楽かたわらの扇をとり、何気なくかの蝶に投げ打てば、扇は枕にとどまり、蝶は去りぬ。
 われながらいみじき事に覚えて、今一度と、扇を取って幾十返りかこれを投げるといえども、枕の前後に落ちて、枕上に止まらず、これより投壺とうこの遊びを思いよりて投法をたて、投扇興と名づけてもっぱら宴遊のあいだに流布されしとなん。
「まあ、おとぎばなしみたいですね」
 と、おりんが聞き終ると、次郎は半分以上わからない顔をしていたくせにして、
「なんだ、そんなことか」
御褒美ごほうびは」
「白酒を飲むこと、点の多いのを打った時には二杯」
「じゃ、おいらが先に、一杯飲む」
 興にのッて、次郎が月江の指南を真似、妙な手つきで山桜の扇をぽんと投げましたが、それは胡蝶を追って枕上にとまる――というような軽妙ではなく、まるで扇の手裏剣しゅりけんのようでありましたから、パンと、扇のかなめが枕を蹴って思わぬ所へスッ飛んでゆきました。
「あら!」
 と、月江が目を見はッたのは、その調子はずれに驚いたのではありません。
 扇の飛んで行った次の間に、ひとりの男がいつのまにか坐っていて、
「折角なところを、夜分お邪魔いたしまして相すみませんが」
 と、その扇を持って、いざり出して来たからでありました。
「最前から、女中に案内されて、こちらでお声をかけましたが、お遊びに夢中な御様子だもんですから、しばらく控えておりましたんで」
「そうですか、して、お前はたれですか」
「お忘れでございますか。いつぞや、岬の魚見うおみ小屋から御一緒になって帰りました、江戸の伝吉という者でございます」
 と、縞物しまもの膝前ひざまえをキチンと折って、いんぎんに腰をかがめましたが、伝吉、あの時もう一人いた連れの方の釘勘の名は出しません。
「アア、伝吉さんでしたか」
 それでほっとしたらしく、おりんも安心し、次郎の鋭い目元もやわららぎました。
 月江としては、その折、助けられた恩人なので自身の方から礼に行かねばならぬと、二人の宿をたずねさせていたくらいなので、よいところへと茶菓子をいいつけようとすると、
「あ、どうか、それは」
 と、伝吉は、あわてて止めて、
「実はとんだお願いがあって伺いましたので、いずれまた改めて、連れの者と一緒にお邪魔をいたしにまいります。で、今夜のところは、その話だけをぜひ一つ聞いていただきたいと存じますが」
「前にお世話になっている私たち、なんでございますか、出来ますことならば」
「有難うぞんじます。ほかじゃございませんが、こちらの同じお二階にいる、相良金吾というお人と、もしや、御懇意ではござんすまいか」
「相良さんですか」
 月江はおりんと顔を見合わせて、伝吉をよそに微笑を交わしましたが、すぐに改まって、
「はい、御懇意というほどでもございませんが、このりんと申す者が、時折、おことばくらいは交わしております」
「ならば、何より好都合でございます。まことにあつかましいお願いですが、一方のお粂という女が疑わないように、その金吾様だけを、何とかして、ちょッとここへ呼んでおもらい申す事はできますまいか」
「さあ? ……」と、三人は顔を見合している。
 これはいと易いことに似て、甚だ難題に考えられたに違いありますまい。
 なぜかといえば、あの侍の側についている女は、おりんが廊下でちょっと金吾へ声をかけても、決して、快くは思わないふうでありますし、第一彼の起居に影と形のようにつきまとッていて、かつてあの男女ふたりが別々によその部屋へ話しに行っているなどという場合をチラとも見た事がありません。
 どう考えてみても難題です。
 あの女に内密で金吾をよび出してほしいという伝吉の注文はむずかしい。
 月江にもおりんにも、これには名案がありそうもない。折角魚見小屋での恩返しにも、できることならして上げたいが。
 そう思ってうつ向いていますと、何か、伝吉に妙案があったか一膝すすめて声を落としていうには、
「お嬢様、まことに我儘わがままを申すようですが、今そこでおやりになっていたお綺麗な遊び事……何といいましたッけな、オオそれ、投楽散人の昼寝が発明した投扇興ってやつ、そいつをひとつもう一度、ここでやり直して下さいませんか」
 これはやさしい。
 またすぐにもできる事ではありますが、そしてどうしようという伝吉の考えなのか。
 あまり深く聞くのも失礼だと思いましたから、無邪気なおりんと単純な次郎と、世間見ずなお嬢様とが、そこでまたかれの望みに任せて、投扇の点取りをやって遊びはじめました。
「なるほど、まことにシャレたお遊びでございますな。やはりお嬢様が一番お上手だ。さあ、どうぞ御遠慮なくやって下さい」
 伝吉は、行司になって、拝見している。
 興に入るとまたおりんの調子はずれな笑い声や、次郎のおいら言葉が廊下を越えてもれてゆく。
「あ、いてえ!」
 すると、不意に伝吉が立って、
「ばかにするないッ。何を。いけねえいけねえ、わざとおれにつけやがッたに違いねえ。さあどうしてくれるんだ」
 ふた声ばかり怒鳴って、おうぎや枕を廊下の外へガラガラとほうり出す。
 そして緋毛氈ひもうせんの上へ的台まとうだいのかわりになってあぐらをくみ、なにか与三よさもどきに暴言を吐いておりますと、
「あれッ」
 と、おりんが、びッくりしたり呑み込んだりして廊下を馳け出し、奥の一間の唐紙をサッとあけたものですから、
「あっ」
 と、驚いたのは水入らずの長火鉢で、そこにふさぎの虫をころし合っていた丹頂のおくめと相良金吾。
「お侍様、あの、あの……」
 声をおろおろさせておりんはお粂の顔を見ずに、
「お助け下さいまし、今あちらで、投扇興をしておりますと、廊下を通りかかった悪いやつが、その扇がぶつかッたと、お嬢様に難癖なんくせをつけて」
「びっくりいたした、そなたは向こうの部屋にいる、月江殿の小間使いではないか」
 金吾がいつの間にか、月江というよその客の名を知っていたのが、お粂にはちょッと意外で、何か面白くない気持です。
 おりんは会釈なく、
「はい、狛家こまけの召使いでございます。あれあんな声がしております。何しろ女子供ばかりでもうふるえあがっているところ、どうか、助けると思って、ちょっとお手を貸して下さいまし、後生ごしょうでございます、お早く、お早く」
 手を取るようにきたてますし、弱者の難儀、見捨てはなるまいと、金吾は了戒りょうかいの一腰を左の手に、
「お騒ぎなさるな、ほかの客の興をさましては宿へも気の毒」
 立ち上がりながら、ちよッとお粂の方を見ましたが、お粂は何が気にいらないのか、冷えた杯を猫板に移して、ツンと横を向いておりました。
 で、金吾もそのまま、おりんについて廊下へ出て刀の下緒さげおをたくしながら、月江の部屋へ来てみますと、なるほど、しからぬ風体ふうていの男が、風雅な投扇の遊具を蹴ちらかして毛氈もうせんの上へうしろ向きに大あぐらをくんでいますから、
「こいつ、湯治客をゆたぶる、遊び人だな」
 と、一図に見てとって、ずかずかとそこへ這入はいっていくなり、
「貴様か、宿を騒がすやつは」
 ムズと、襟がみをつかみました。
 ひょいと仰向いて伝吉は、
「お、相良金吾様」
 ずばりと名をさしたものですから金吾は仰天して、はっとその手をゆるめますと、こんどは伝吉の方から突然かれの腕くびをつかんで――
「やっと誘い出しました。さ、さ、お粂に気のつかれないうちに、少しも早く外へ出ておくんなさい。今夜ある場所で、親方の釘勘が待っているんです」
「えっ、釘勘が?」
「いやとはいえませんぜ、相良さん。会った上のお話はいろいろありますが、釘勘はあなた様の御主人、徳川万太郎様の頼みをうけて、遙々ここまでやって来たんでございますからね」
 金吾は穴にでも入りたいように、
「なんと申す、では、万太郎様のおさしずで、釘勘がわしを迎えに参ったとか」
「まア、そんなことはどうでもいい、お粂が感づくと困りますから」
「待ってくれ、ま、考えさせてくれ」
「今夜は待ッたなしです、あなたをここまで誘い出したのも、なみたいていな苦労じゃねえ。主命と思って来ておくんなさい」
 と、無理に梯子段を降りてゆくと、かれは金吾の腕を抱きこむようにして、庭の植込みから木戸を押して、湯気のさまよう湯町の辻へ駆けだしました。

魔のさす辻


 誘い出してというよりは無理やりにして、金吾を外へ引ッ張り出した釘勘の組下くみした手先の伝吉。
 どこへ連れてゆくのやら、浜町のお成橋なりばし
 そこを一散に北へ上がる。
 たった一度の湯治おなりに万金の工費をかけて、そのまま建ちぐされとなっている将軍家のお湯浴ゆあみ御殿や諸侯の湯荘など、築地ついじなまこ塀の建ち並ぶ小路をスタスタと話もせずに急いで、やがて小高い岡に仰がれたのは、老杉ろうさん参差しんしとして神さびた湯前ゆまえ神社の石段であります。
 のぼるとそこは広前のやみ、拝殿に一すい御明みあかしがさびしく。
梅がもわくや
  で湯の春のかぜ
 と、也有やゆうの句の刻まれてある石碑のかげに、その時人影がうごいたようですが、それは問うまでもなく最前から、使いの吉左右きっそういかにと、ここに首を長くしていた釘勘で、近づく足音を聞くとすぐに、
「伝吉か」
 と、楠の木を楯にうかがいました。
「オオ、親方」
「どうした、相良さんは」
「やっとの事で、ここへお連れ申して参りました」
「えッ、一緒におでなすったって。そいつアでかした、御苦労御苦労」
 と、これは釘勘としても予期以上の上首尾らしく、ひどく機嫌のよい調子で伝吉の気転をねぎらいました。
 しかし、その声を聞いただけで、もうハッとして胸を衝かれたのは相良金吾。
 面目ない!
 思えば釘勘とここに会うのは沙汰の限りな恥かしさです。彼とは聖天しょうでんの盗っ市で別れて以来でありますが、主人万太郎の意思をうけて自分を迎えに来たとすれば、すべての事情は知っていよう。
 ああ、どのつら下げて――
 金吾は杉の幹に両手を支えて、さぎのように、肩の間へ深くその不面目な顔をさしうつ向けている。
 ――その姿へいきなり物をいうには耐えないで、釘勘も、しばらく無言でいましたが、
「オオ……」と気がついたように――「伝吉、おめえはまた御苦労だが、もしやおくめがあとで感づいてここへやって来ると少し工合がわるいんだが、どこか途中で、見張っていてくれねえか。おれは少しここで、金吾様に御相談があるんだから」
「ええ、よろしゅうございます」
「頼んだぜ」
「もし、お粂が追いかけて来たらどうしましょうね」
「そうだな? ……」
 と、釘勘はちょっと金吾の方へ気がねしながら、
「かまわねえから、御用とくらわせろ」
「合点です」
 ――馳け出そうとすると、
「おっと」
 呼び止めて、
「待ってくれ」と、また考え直した。そして、「まさか今夜はそうもゆくめえ、こッちの話さえまとまれば、お粂は熱海へ置きっ放して江戸へ帰った方が世話がねえというもんだ。じゃアこうしてくれ、もしかお粂が藤屋から出て来るような様子だったら、先に飛んで来て知らしてくんな。それがいい」
「へい、承知しました」
 伝吉はすぐ町の方へ引っ返して行きます。
 あとは――釘勘と金吾の二人。
 最初に姿を見合った時、オオと声をかけてしまえばそれで話の糸口があいたのかも分りませんが、お互いの胸のうちを話の先に察してしまって、妙にをおいたものですから、さて二人になってから、何を先にいいだしてよいやら、ただ涙っぽいものが胸へこみあげるばかりで、男二人が恋人のようにしばらく横を向き合っていました。
 やがて、釘勘の方から、
「相良様、ずいぶんお久しぶりでございましたなあ」
 取ってつけたようにいいました。
「いちべつ以来、そちも健固で」
 金吾の声は処女のようです。
「おかげ様で」
「なによりじゃ」
「まず、そこらへ、腰をすえようじゃございませんか」
 と、くだけていうと、金吾は突然に、
「釘勘ッ、せ、拙者は、そちに今ここで会わせる顔がない! ……面目のうて会わせる顔がないのだ……」と、にわかに感傷に走って来た声をふるわせて、深く顔を押しかくしますと、
「は、は、は、は。そう窮屈に考えるからいけませんや」
 と釘勘は、抜きかけた煙管きせるを持って、骨ばッた金吾の肩をやんわりと押しながら、
「まあさ、そこへおかけなさいまし、武門のことは分りませんが、女出入りのあとしまつなら、こりゃお侍様の智慧よりも、はばかりながら町人の方が遙かにまさっておりますからね」
 と、あくまで金吾の苦しみを見ぬいている、苦労人のことばです。
 さりながら、好意も時には罵倒よりは胸に痛い場合もある。

 春ながらここは寒い。
 杉の夜露が襟もとを打つ時は、思わずゾクとしてきます。
「ぶしつけな申し分かも知れませんが、あっしとあなた、浅い御縁じゃございませんな」
 そこで、釘勘は火打ひうちる。
 すぱりと、一服つけて、
「――金吾様、どうか今夜はひとつ、あからさまにおっしゃって見て下さいませんか。実をいうと万太郎様もかくいう手前も、あなたの心もちが分らねえんです。――なぜお屋敷へ帰らないのか、どうして、お粂なんて女とああして逃げかくれなすっているのか。……といってみたところで、元より女の沙汰というやつは、他人に判じがつかないもの、ハタからおせッかいのできないものと、昔から色恋の相場はきまっておりますけれども、それにしても相手によりけりで、丹頂のお粂が何者かという事は、聖天の市へ行く途中でも、たしかあっしの口からよくお話がしてあるはずじゃございませんか」
 ぼつぼつ彼のことばはいわんとするところへ向って来ました。
 その語調は至って平静でありますが、すぱすぱと味もなく吸う煙草の火のかすかな光で見れば、釘勘の目は涙でいっぱい。
「ええ、相良さん」
 返事のないのにじれ出して、
「どうしたもんでございます!」
「…………」
 古木の切株きりかぶに腰かけて、われながら痩せたと思う膝をかかえた相良金吾は、どういう縁でか、こうも自分をいとしんでくれる釘勘のことばにいよいよおもてを上げ得ません。
 けれどまた釘勘の察し方もすこし情けない。大きな誤解がある。自分がお粂の色香に迷ってこうなったものと思いこんでいる独り合点がある。
 今さら言い訳がましいことは、彼の性格としてもいさぎよしとしませんが、それだけはどうしても解いておかなければと、
「いや、待ってくれ」
 初めて、敢然と口をひらくと、その顔色に驚いて釘勘が、
「お怒りなすっちゃ困ります、どうか、御立腹ないところで」
「なんの怒ってよいものか。しかし釘勘。いかにも拙者は武士として、終生ぬぐわれぬ不覚を踏んだには相違ないが、決して、お粂の色香におぼれて主家を忘れたわけではない」
「分っております。失礼ながら、その御本心を買っていればこそ、あっしは自分の役目がらを忘れてまで、こうして万太郎様のお言伝ことづけを」
「待て、今のそちのことばでは、深い事情までは分っていない」
 と、金吾はやや興奮して、ぬすいちの晩、真土まつちの黒髪堂の前で日本左衛門のために思わぬおくれをとって気を失なったこと、また、それからお粂の家へ助けられて以来、ふしぎな業病ごうびょうをなやみ通しで今日に至ったまでのことを、一息に語りつづけますと、釘勘はさもあんめりとうなずいて、
「その通りです。だからあっしはなぜあなたが早く気がついて、たとえどういう手段をとっても、お粂の家から出ないのかと、それがふしぎにも思われましたし、また歯がゆくってならなかったんでございます」
「そうは申すが、お粂とても拙者にとれば、かりそめならぬ命の恩人じゃ」
「と、とんでもないこと」
「なぜ?」
 すこし色をなして詰問きつもんすると、釘勘はふところへ手をつッ込んで、
「これでもあなたは、お粂の親切をまことと思い、あくまで命の恩人だとおっしゃいますか」
 金吾は眉をひそめて、ふしぎそうに、彼が自分へ突きつけている紫いろの物をじっと見つめました。
「なんじゃ、それは」
「ビードロです」
「ウム、蘭薬をれるビードロの瓶か」
「そうです、しかもこのビードロの瓶に、どんな蘭薬が入っていたかお分りにはなりますまい。小石川養生所ようじょうしょの蘭方医小川笙船しょうせんという人にこれを鑑定してもらいますと、どうでしょう、こりゃあ南蛮の眠り薬、なんとかいいました……嗅いただけでもグッタリと人を麻酔ますいさせるおそろしい薬が入れてあった物だと折紙をつけました」
 ――とまで聞いた時に相良金吾は、思わずその小さな紫のビードロから顔を横にせずにはいられませんでした。
 かれにとって怖るべきものと頭にしみついていることは、眠りであります。眠りつつ衰えてゆく奇病のために、妖婦のきずなに結ばれてぬぐわれぬ生涯の汚辱を求め、帰るべき主家へも帰られずに、武門のすたり者となっている自分と思うことを、夢寐むびにも忘れられません。
「ようがすか、話の眼目は、それからなんで」
 釘勘は、ここで一だんと力をいれ、
「そこでこの滅多にない品物を、どこで手にいれたかというと、あなたもお忘れはありますめえ、音羽の護国寺前、筑波屋いう旅籠の二階で、惜しいことには一足ちがいで、あの晩そちらは、お粂と二挺駕で旅へ夜立ちと出かけたあと、入れちがいにあとの部屋で、ひょいと見つけたのがこのビードロです。からだと思って、うっかり鼻へでも持っていったひには、それこそ、あっしもあの時たれかと同じ病気をやっていい心もちになっちまうところでさ。……物騒物騒、もうくどい話をしなくってもおよそ見当がつきましょう、思えばお粂という女も、情が深いだけあって、ひどい親切をつくしたもんじゃございませんか」

 親身とみせたお粂の情けが、実はおそるべき魔薬の手管であったと、その証拠までを釘勘につきつけられて、金吾は慄然たるおののきに、そのビードロを手にとる勇気もありません。
 しかもその女の策におちて、切るに切れない悪縁のちぎりまで結んでしまったとは。
 なんたることだ!
 身を責め、自己の迂愚うぐをののしり、今さらその憤怨を歯ぎしりして怒り歎くといえど、なんでこの汚辱がぬぐわれましょうか、夢のように暮らしてきたこの半年のいまわしい記憶とて永劫きゆべくもありません。
「釘勘!」
 悲痛な一語。
 いきなり前差まえざしの柄に手をかけると、金吾は抜く手も見せぬ勢いで、
「万太郎様へこの通りと、よしなに、犬侍の終りを言伝ことづけいたしてくれい」
 あわやです、われとわが腹へその切ッ先を。
「あッ」
 と驚いた釘勘。
 前もってこんな事になろうかと油断はしていませんでしたが、さて実際にこうなってみると、かれもあわてて取っ組むように、金吾のうしろへかぶりついて、
「ばッ、ばかなまねをしなさんな。だからおら侍はきれえだ。侍くらい理屈のわかりそうな顔をして、ものの分らねえハンチクはありゃしねえッ」
「放せッ、放してくれ釘勘」
「じょ、じょうだんいっちゃいけねえや。ここでおめえさんを殺すくらいなら、なアに、人間一生、どうころんだって五分と五分、お粂の間夫まぶで暮らしているのも悪かあねえから、あっしだって、知って知らない振りをして見ていまさあね。……だ、だがさ。そうならねえのが義理とかヘチマとかいう浮世で、あっしもお前さんも、お互いに苦しいところだが、また少しゃアそこで武士とか男とか味噌みそを持って生きていられるところじゃございませんか」
 思わずはいる力が、金吾の腕くびの骨をにぎりくだきそうにして――
「え、相良様。あなたがここで御短気をなすったら、あと、万太郎様の御勘気はどうなりましょうか。出目洞白の仮面めんがお屋敷へ返らぬうちは、あの方の御勘当におゆるしも出ないばかりか、一朝二之丸の御能があるひになると、尾州の大殿様としても将軍家へ申し開きの立たない破滅になるというお話――こいつを聞いちゃア釘勘のような町人風情でも、目先の功名や岡ッ引根性をすてて、一肌ひとはだぬがなければなるまいと柄にもない乗り気になっているんです。――だのに、ましてや万太郎様付きでろくんでいたお前さんが、ひっ腰もなく、ここで腹を切って、人より先に楽な方へ廻ろうなんてえ考えは、あんまり虫がよすぎやしねえか。あっしにいわせれば、侍ってやつが、何かというとすぐ自害して、それで立派に言い訳が立ったと思っているのぐれえ、卑怯な、ばからしいことはないと思う」
 痛烈です、雄弁です。
 町人の見解としても、そこに多少の真理はある。
 ことに万太郎の境遇を考え、最初に自分が屋敷を出た目的を思い合せれば、かれのことばを待たずとも、金吾は、何としてもここで死なれた自分ではありません。
 といって――
 ああ、そうかといってまた、生きておめおめと万太郎の前へ、どうこの姿で会えるものか。
 なるほどかれのいう通り、死はやすき道で生きるは至難な方角です。その至難をさけて易き死をえらぼうとしたのは、いかにも、卑怯な逃避です。釘勘の伝法ことばを以て評すならば、べらぼう極まる横着な考え方です――そういわれても弁解の途はない。
「悪かった」
 やがて、金吾はおとなしく、釘勘の前に両手をついて、
「不覚な上に不覚をかさねるところだった。よく申してくれた」
「えッ、じゃあ、あっしのいう事をきいて下さる?」
「うム、一途に死を急ごうとしたのは拙者の心得ちがい、金吾は死ぬまい。あくまで生き恥をさらすであろう」
「では、手前と一緒に、すぐここから江戸へ帰ってくれますか」
「だが待て……」と、かれは再び苦悶の色をあらわして、
「それだけは許せ! いかに仮面めんをかぶっても、万太郎様へ今は会われぬ」
「いや、すいも甘いも知りぬいた若様、なんで野暮なとがめ立てをしますものか」
「なんというても今お目にかかるのは金吾の苦痛じゃ、ただよしなにお言伝ことづけしておいてくれ、ある時節には、きっと、金吾がお詫びに参じますと――」
「あッ、もし……」
 釘勘はあわてながら、どこともなく立ち去ろうとする金吾の影を追って、
「もし、相良様――、もし、もう一語ひとこと
 湯前神社の杉木立すぎこだちの暗を、ななめに縫って馳けだしました。

「強情な事をおッしゃらずに……もしッ相良様」
「何とあろうが、江戸表へは参れぬ、放せ、たもとを」
「万太郎様の仰せにそむいても?」
「ウウム、ゆるせ。しばらくの間、金吾はなきものと思うて見のがしてくれ」
「あとはどうなさろうとも、一度はお屋敷へ帰った上で」
「そちに会うさえ心苦しい今のわしが、万太郎様の前に、ただ今帰邸いたしましたと、どの面下げてお顔を合されようか。止めるなッ、この金吾をこれ以上苦しめてくれるな」
「といって、一体、どこへ行こうというつもりなんです」
「あてはない!」
 ――金吾は叫びました。
「ただ洞白の仮面めんのある処へ」
 止めようとする釘勘、ふり切ろうとする影が、なおもそこで、もつれ合っている時でした。
 石段を馳け上がってきた伝吉が、
「――親方ッ、お粂が」
「えッ」
 思わず手を放し合って、
「お粂が来た?」
「まだここを探し当てるには間がありましょうが、あとで宿の者に様子を聞いたらしく、眼色を変えて藤屋から出て来ましたぜ」
「それ、ごらんなせえ」
 釘勘はいいしおとして、
「じゃあ、伝吉」
「へい」
「てめえ気の毒だがもう一度戻って行って、本陣の四ツ辻あたりで、おれが金吾様をつれて裏通りから宿へ帰るまで、見張りをしてくれねえか。何しろ当座は、あいつにだれかの姿を見せるのは禁物だからな」
 かれはもう自分ひとりで、金吾と万太郎の引合せ役、また帰参の取りなし役を背負ッて立った気で、いや応なく、江戸表へ同道するものと決め込んでいるらしい。
 で、どこまでも、このまま男女ふたりを会わせぬ方が万全の策と心得たものでしょう、旨をふくませてふたたび伝吉を町の方へ見張にやりました。
 その伝吉が取って返して、本陣今井屋の四ツ辻の辺に姿をかくした頃――ちょうどその頃に丹頂のお粂は、ヒタ走りに浜の方へ馳け出して行ッて、
「どこへ? どこへ?」
 あの切れの長い眼をつりあげ、あなたこなたをさまよっていました。
 つづく限りの波うち際にも、磯松のほの暗い並木にも、金吾の影が見出せなかったので漁師町の細い露地から野原へ出て、夜も白い湯煙を噴いている法斎湯ほうさいゆや平左衛門の湯のあたりまで足早に探しあるいている。
「逃げたんだね! あの人は」
 そこで初めて、お粂はキッとくちびるをかみしめて、怨めしげな眼をうるませました。
 逃げたとすれば、人をだまして、手引をしたのはたれだろうか?
 おかしいと気がつき初めた時は、ふと、同じ二階に泊っている狛家こまけの月江とやらを疑ってみましたけれど、あの娘も小間使いも宿に残っているし? ……
「何しろ、こうしてはいられない」
 金吾ひとりはお粂の生活全部であります。日本左衛門をすてて金吾にこれまで打ち込んだことは、かの女にとって、生命いのちがけの仕事でした。
 はたから見れば妖婦の面白そうなからくりと見えても、あれ程の侍ひとりを、この熱海まで連れてくるまでには、お粂自身として生命がけといっても足らない、気苦労、細心、根気、情熱――そしてその男に毒をませる大胆さまでいりました。
 不自然な技巧で遂げられた恋の結果は、当然、男の憂悶ゆうもんと気の荒くなるのをみるのみでしたが、それでも彼女は悔みません、男が嫌えば嫌うだけの面白味、男がもだえれば悶える姿を見る面白味、――果ては蘭薬のことを知ったら金吾がどう怒るかまで、いたずらな興味の想像に数えて、ふッと、それを話してみようかとさえ思う事もままあるくらい、お粂の恋はお粂だけに自由な考え方をされていました。
「きっと、万太郎の廻し者が来て、連れ出したにちがいない。そうすると浜の方よりは、根府川ねぶかわの街道へ急いで行ったかもわからない」
 もう血眼ちまなこです。
 かかる場合の女の前にはどんな宗教も光がないといいます。ましてやお粂にはあの伝法と世間を怖がらない強さがある。
「ホ、ホ、ホ。わたしも丹頂のお粂、どんなことをしたッて、逃がしゃアしないから!」
 たれにいうともなく罵ッて、根府川街道の方へ道をかえて走りだしてゆく。
 そして次第に息ぎれが激しくなるにつれ、夜化粧よげしょうのおしろいに青味がのぼって、いわゆる夜叉やしゃ形相ぎょうそうをそれにほつれる黒髪が作ってきます。
 と。――丑のときまいりのようなその姿が、本陣今井屋の四ツ辻をよぎろうとした時、
「オオ丹頂たんちょう姐御あねご
 不意に横からよぶ者があって、またすぐに違って次の声が、
「姐御のさがすものはここに居ますぜ」
 と、手をあげました。
 背筋へ水をかけられたように、お粂がキッとうしろを見ると、そこに四、五本の芽柳めやなぎがあって、そこに四、五人の黒小袖。

 かなり取りのぼせていたお粂の耳にもそれはハッとひびきました。江戸なら知らずこの熱海で自分を丹頂の姉御とよぶものは一体たれなのか?
「お久しゅうございました」
 お粂があきれている前へぞろぞろと姿をならべたのは余人でもありません、四ツ目屋の新助、尺取の十太郎、雲霧の仁三、千束の稲吉など。
 それら五、六人の者はみなお粂にも深い馴染がある日本左衛門一まきと称されるなかのごうの者で、
「あッ……」
 それと知って驚いたお粂が、返辞もせずに逃げようとしましたが、もう間に合わないことでした。
「おッと、待ッたり」
 油断のない目が前とうしろを取巻いて、
「ここで逃がしてたまるものか。さ、会わせてやる人があるから素直におれたちについて来るんだ」
 と、にわかに言葉があらくなります。
 なかで四ツ目屋の新助は、お粂のそばへズッと寄って来て、
「びッくりするこたあありませんよ、会いてえというのは親分です。だが、この湯町の近くじゃ人目につくからというんで、さる所にお待ちなすッていますから、まあ余り世話をやかさないで、黙ッて一緒に来ておくんなさい」
 背なかを押して追い立てようとしますと、お粂は振り払って、
「いやだよッ、わたしゃ」
「え」
「親分に会いたくもないし、それに、今夜はほかに忙しい用があるんだから」
「忙しい用が? へへへへ」と尺取の十太郎、くすぐッたいような声をだして笑いながら、
「まあそちらの方もお忙しゅうございましょうが、親分にしましても目をかけた女に寝返りを打たれたままで引ッ込んでいるわけにも行かねえし、こちとらにしたッて姐御と相良金吾の道行みちゆきを、常磐津ときわずのきれい事か何かのように、指をくわえて拝見しているわけにもまいりません。――おそかれ早かれ、なんとかこの結末をつけなくッちゃあね」
「それでお前たちは熱海へ来たのかい?」
「お察しのとおりで」
「御苦労さま」
「まッたく御苦労さまですよ、姐御の浮気がたたッて、江戸から、ワザワザ追ッ手役に参ったわけです。元来、駆け落ちの追ッ手なんてものほど御苦労さまな役目はありゃあいたしません」
「ああ、じれッたい。わたしは今そんなくだらないことに暇をつぶしていられない場合なんだからね、どうか、ここで会わないことにして別れておくれな」
「じょうだんいッちゃ困る」
 四ツ目屋の新助はくちびるで薄く笑って、お粂の背なかを小突きながら、
「さ、歩いてもらおう!」
 ほかの者もそれにつづいて、
「姐御、話は親分と会ってからにして、とにかく先へ行ってもらおうじゃねえか」
「何をするのさ、おまえ達は」
「なにもこうもあるものか、さッ、あるけ、あるけ!」
 と、あとのことばは耳にも入れず、いやといえば腕力でも引ッ立てずにはかないふうです。
 しかしお粂は動きません。今さら日本左衛門の所へ戻るくらいなら初めからかれを捨てて金吾という男はこしらえない。それに、こうしてぐずぐずしている間に姿をかくした男が刻々と遠く去ってしまう気がしてれッたいことおびただしい。

 なみの女ならばおどしにも乗りましょうが、役者はお粂の方が一枚上ですから、なんといったところで決して動く気色けしきがない。
「生意気ッ」
 と、業をにやしたのは短気者の雲霧で、
「面倒くせえじゃねえか。こんなやつは手ぬぐいをかませて引ッかついで行くにかぎるぜ」
 目まぜをすると、お粂のうしろに立っていた千束の稲吉が、
「兄弟、手を貸してくれ」
 と仕事は早い――いきなり手を廻して猿ぐつわをかけようとしましたが、いつのまにか抜いて持っていた匕首あいくちがそれを払ったかと見ると、お粂は四ツ目屋の新助の胸を突いて飛魚のように身をハネました。
「畜生ッ」
 ばらばらッと六、七間。
 逃げ出す先へ廻って尺取の十太郎が手をひろげる。
 雲霧が帯をつかんで引きもどす。
 そこを新助が飛びついてウムをいわせず匕首をたたき取る。
 ――親分日本左衛門が寵愛していた女と思えばこそ多少の手加減もしておりましたが、こうなればイヤも応もいわせたものではありません。
 いかにまたお粂が必死で反抗してみたにしろ、雲霧、四ツ目屋、尺取なんていう人間たちが、手をつないで取巻いてしまッては逃げられないのが当然で、逃げようとすればするほど牛頭馬頭ごずめずの苛酷をあおるばかりです。
「それッ、早くしろ」
 ねじ伏せたお粂の口をぬのでしばりつけると、手を取り足を取りして、大の男が四天にかつぎ、
「飛んだ世話をやかせやがる」
 うずになって一散に走り出ようとしましたが、四ツ目屋の新助は先に立って、
「ほい! 道が違うぞ、こッちだこッちだ」
「宿じゃあねえんですか」
古々井ここいの森を抜けて山越えにかかれ」
 と、辻を北へ曲がろうとした時に、何を見たのか、ひとり横ッ飛びに、
「野郎!」
 と怒鳴って紙屋の辻の方へ駆け出したのは雲霧です。
 見るとかれの真ッ先へ猫に追われた鼠のように駆け出してゆく男がある。それはさッきから辻の一方にジッとかくれていて、つぶさに事のなりゆきをうかがっていた手先の伝吉でしたが、脱兎のごとく身をまろばして行くそのうしろから、かかとを蹴って追いついた雲霧が五体の弾力を拳に集めてかれの背骨を突きのめしたかと見えますと、
「わッ」
 といって伝吉は、前の方へ身を泳がせ、かど石塀いしべいにその勢いでひたいをぶつけたらしく、鼻血を抑えたまま小溝こみぞへりへ倒れました。
 小気味よげに嘲笑あざわらって雲霧がそこから影を消してから、いくばくの時も経ぬうちでした。――なるべくゆるりと帰った方がよかろうと考えて、湯前神社の方から沈みがちな金吾を連れてそこへ近づいて来た釘抜きの勘次郎。
「おや? ……」
 ふと、辻の小溝こみぞに手を突ッこんだなりダラリとなっている男を見つけ、
「やッ?」
 抱き起してみると伝吉です。
 金吾もおどろいて共に手当を加えました。そしてやっと気のついた伝吉の口から、たッた今の出来ごとを詳しく聞いて釘勘はそれをむしろ好い都合と考えましたが、「ウーム……お粂が」
 と、相良金吾はあらぬ方へ目をやって、何か目に見えぬものの力に引きずり込まれるように足を前へのり出しました。
 ひょいと釘勘がうしろを見た時は、もうそこに金吾が居なかッたのです。
「しまッた!」
 かれが愕然がくぜんと何かを直覚していながら、あたりの小路をうろうろと探していたのは、まさか、金吾が伝吉の話を聞くや否、千鳥ヶ浜の方へ走ッたとは、常識の上からも夢々思いつかなかったものとみえる。
 しかし。
 相良金吾はあきらかに常人の常識とは反対な方角に向って、今、つるを放れた矢のごとく走ッていました。
 その血相をごらんなさい常の金吾ではありません、常識の人でないことは、その眼気、その息づかい、その足どりの早さ、髪を乱してゆく風の間に見てもわかります。
 恋は熱病といいますが、恋とはいえない不純の女の危難を聞いて、なんで金吾がかくまでにすごい勢いで駆けだすのでしょうか、これはまさしく釘勘がまさかと思った方が常識で、恐らく金吾自身としても、この瞬間の自己の気もちは分らないのではありますまいか。
 とにかく、この瞬間だけでは、深くかれの心理に立ち入ることができない。ただ不可解です、魔がさしたようです、しばらくはかれの行動を見ているほかにありますまい。
 ――見ていれば相良金吾はなおもそれから走りに走りつづけ、小田原の宿へつづく根府川七里の街道をさながら韋駄天いだてんの姿で急いでおります。

宿怨情恨


 はるか南に、走り湯権現ごんげんの常明燈が一点、西の方には根府川ねぶかわ女関所おんなせきしょの灯がポチッと暗の空に見えていて、そこへはどッちも二里ほどずつ離れているさびしい漁村。
 まばらな家数はみな寝しずまっていました。
 そして漁船の柱にかけた網の目に、晩春にしてはめずらしく冴えた月ががれています。
 ぽウッと白い煙がうすく濃く海風にあおられました――千鳥ヶ浜の波うち際に。
 そこで火をこうとしている男ふたりの影が見出されて、
「寒い……」とつぶやきながら、
「潮風にあっちゃたまらねえ、肌着のえりまでジメジメとして来た」
「何しろ、もうすこし焚きつけがなくッちゃあ困る。オ、そのうしろに舟板がある」
「こりゃ漁師りょうしの渡世道具、こいつを焚き物にされちゃ、さだめしあとで困るだろうが」
「ふ……盗人ぬすっと菩提心ぼだいしん
「あまり後世ごせの功徳にもなるめえな」
「あたりめえだ。人殺しをしていながら、板子一枚助けてみたところで、閻魔えんまの庁の悪業帳あくぎょうちょうが帳消しにもなるまいて」
「それでだんだん悪事に深入りするのだ」
「まあ、そうかも知れねえ」
「オオ、いい火になった」
「冬のようだな」
「もう初時鳥はつほととぎすが鳴く頃なのに」
「そういえば、もう初松魚はつがつおも出る時分だ」
「――と聞けば、やはりお江戸が恋しくなる」
「恋しいのはお粂じゃあねえか」
「ばかな!」
「あは、は、は、は、は」
 と焚き火にてらされた赤い顔が大きな口をきました。
 裾縁すそべりをとった野袴のひざをひらき、朱鞘しゅざやの大小をぶッちがえて、かますの煙草入れを指に挾んでいる四十がらみの総髪の武家。
 その風采から眺めますと、平和な御代みよ流行はやらない軍学者のすたりものみたいな男ですが、それにしても、ことばが少し下卑ている。
 余人でもありません。これは聖天の盗ッ市にも顔出しをしてた抜け買いの頭領先生せんじょう金右衛門で、それに対して編笠をかたわらに脱ぎ、あかあかと燃える火に潮風の袖をほしているのは日本左衛門でありました。
「なあ、金右衛門」
 お粂の話が出たしおにかれはその笑いにまぎらせて、
「こんだあ飛んだ交際つきあいをさせてすまなかったな」
「なにさ、どうせ当分は江戸から足を抜いているところ、かえっていい保養をしたというものだ」
「うまいことを言う……」
 薄ら笑いをしてけむをよけながら、
「だが、今夜なんざ、あまりいい保養にもなるめえが」
「このくらいな義理はしかたがない、友情というやつでな――。しかし日本左衛門、よけいな口を入れるようだが、まあ腹の立つところを抑えて、こんどは一つこらえてやるんだな」
「なにを」
「お粂の始末さ」
「…………」
「おめえの身になってみれば、さとから根びきした後も、色恋はべつとして、あの女にはずいぶん金をかけていたようだから、腹の立つのはもっともだが、誰にも、ひょッと気まぐれというやつはあるもの。まして、水性みずしょうの女を世話する以上は、こんな苦い事のあるのも前から承知でなくッちゃならねえ。怒るのは野暮というもの、それに、大盗日本左衛門という貫禄を小さくすることにもなる」
「……ありがとう、その忠言に礼だけは言っておく」
「いや、まったく」
「だが、この事だけは、黙ッて見ていてもらいたい。すこしおれにはおれの方寸がある」
「どうしても、おめえはお粂を許さないつもりか」
「これ以上大目に見ているなあ、許すという意味にはならない。ただ日本左衛門が女に甘いと見られるばかり。第一おれが忘れてやるにしても、手下のやつが歯を喰いしばるので捨てちゃあおけない」
「ならば、男の方さえたたッ斬ってしまえば、お粂も目をさましてわびを入れてくるだろう」
「いやいや、このいきさつの罪は明らかに金吾になくて、お粂にある」
「金吾はおめえと仇敵あだがたき、きゃつを生かしておくことは、身のあぶないばかりでなく、夜光の短刀をさがす上にもだれより邪魔になると思うが」
 ――もうそれ以上は答えないで、日本左衛門はただ微苦笑をもらしておりましたが、
「それはそれ、これはこれ」
 と、つぶやきながら板子の焚きつけを持って綺麗な火の子をほじり立てる。
 その時、街道から磯へ降りてくる一群ひとむれの人影が見えはじめました。先の者がここの焚き火を見て見当をつけて来るように、日本左衛門もやおら立ち上がッて、皎々こうこうたる月光に、それが待つ者であることを遠くから読んでいたようであります。

 なにか罵り合いながらやがてそこへ近づいて来たのは、お粂をらっして急いできた雲霧、四ツ目、尺取しゃくとりなんどの連中で、
「親分、お待たせいたしました」
 と注文の品物でも引っさげて来たように、彼の足もとへ、しどけない姿のお粂を突き出しました。
 そして、口をそろえて、
「どうも親分、こんな手古摺てこずッたことはございません。何のかのと駄々をこねるんで、大の男が一汗かいてしまいましたよ。これが自分の女ならば、どうにだッて荒療治をしちまいますが」
「そうか、ウム――」
 と、日本左衛門は、自分の足元へ突き倒されてきたみじめな女の姿にジロリと一瞥をくれただけで、
「御苦労だった。こんなことで、てめえ達にまで世話をやかせたのはおれの落度、勘弁してくれ」
「どういたしまして」
 愚痴をならべた連中がみな恐縮しながら、
「なにも親分、そう真面目になって、こちとらに勘弁してくれなんて、水くそうございます」
「でも、こんな女の後始末までに、子分の手を煩わすのは、いかにも親分甲斐のねえ話。――おれは面目ないと思う」
 いつに似もやらず憂鬱な顔を伏せて、日本左衛門は波うち際の砂をふみつつ、
「アア子分はいいものだ……」
 だれにいうともなくつぶやきました。
「――おれには親もなし女房と名のつく者もない、子を持つ親の味も知らなければ、女親の愛情も小さい時から覚えがない。だから、金や物に不自由を知らねえ日本左衛門も、人情のあたたかみには飢えていた。……お粂を世話していた気持も、実は色恋ばかりでもなく、こいつを娘とも兄妹きょうだいとも、また女房とも思って、わがままをしたりされたりしたかったのに。――つまり、世間の人のやる人情のある生活方くらしかたの真似ごとをしてひとり慰めていたおれだが……」
 内面の怒りを理性で抑えつけようとして、行きつ戻りつしながら、波の間にこうつぶやいている親分の独り言に、あらくれた手下たちも、思わずシーンとして消えかけている焚き火の残り火に目を集めました。
 先生せんじょう金右衛門もうなだれて、そのことばにたれている。
 それは日本左衛門のみでなく、心の故郷ふるさとを訪れる時、たれもさびしと思う盗人の悲哀でしょう。
 黄金こがねは盗める。
 世の中の品物はみんなおれの物だと考えることも、盗人だけにはできます。
 将軍家の秘庫の宝物たりといえどかれの手のとどかないものではありません。
 また黄金をもって世の中に得られぬものも何一つとしてない。
 しかし、ただ一つ、人の愛情をいかんせんです。世に人情を盗み出し得るくらはない。
 常に盗人の淋しいものは、その生業の性質から、その生活に愛情味のかけることでありましょう。
「……おれもばかな考えをしたものさ。それをお粂に買おうとして、忍川に家を持たせた。ところが、その家からも人情の芽は吹かない。――だが水性みずしょうの女にそれは無理な注文、今思えば、あのお人よしの率八でも可愛がってやった方がよッぽどましであったものを……」
 お粂は突き倒されたなり砂浜の上へうッ伏し、泣きじゃくッている様子でありましたが、日本左衛門のことばを聞いて今さら悪かったと悔悟しているものやら、または金吾との仲を裂かれて口惜しいと思っているのか、泣いている時の女の本心ばかりは神にも人にもわかりません。
「親分、勝手を申すようですが」
 そこの空気がどうにもならなくなったので、気転をきかした四ツ目屋の新助が、
「まだ姐御あねごとお話もございましょうし、ここに大勢でたむろをしていちゃ人目にもかかりますから、あっしやほかの者は一足先に御免をこうむッて、小田原の城下でお待ち申しておりましょう」
「ウム……そうだな」
 と、日本左衛門が考えているうちに、先生金右衛門もそれがいいと立ち上がって、一同サクサクと根府川の方へ立ち去りました。
 ザブン、ザ、ザ、ザ、ザ……とあとはひとしお静かな波の諧音。
 お粂はいつまで顔をあげず、日本左衛門も黙然もくねん苫舟とまぶねへりに腕ぐみをしたままで、千鳥ヶ浜は更けてゆきます。

「お粂! つらをあげろ」
 やがて、こう口を切った日本左衛門。
 のッしりと、小舟のへりから立って来て、月光の中に倒れている女の姿をジロリと流し目に――
「なぜ顔を上げない? なぜ早く両手をついて詫びないか。最前、おれの述懐も聞いていたろうに」
 声のさび、いんにすご味はありますが、言葉は常と変りなく、
「てめえが金吾をかくまっていたことは、この春、おれもたしかに茶の間の襦子れんじ窓から見届けていた。――がその時はワザと帰って、率八を使いにやり、その晩捕手の手が入ることを知らせてやッたなあ、おれとしてはかなりな我慢……。その情けをば、てめえは甘く受けとッたな」
 いう語調の少しもせかぬ如く、おッとりとした片足の草履ぞうりが、砂のまま、静かに女の肩へ乗りました。
 憎いやつ!
 そう思って踏みつけるほど、そこに力がはいッているのではありませんが、理もあり情もある片足の下から、お粂はのがれることはなし得ませぬ。
「おれは甘い。いかにも、もろい人間だと、自分でも合点はしている。しかしおれがもろいのは人情を対手あいてとする時で、女にあめえと受け取られちゃあ少し困る。
 ――そりゃあ時と場合によりけりで、好きな男があるというなら、熨斗のしをつけてやらない限りもねえけれど、対手あいてに依る!
 相良金吾! おれを仇とねらッて屋敷を出ているやつ! おれの大望に邪魔だてをする万太郎や釘勘と同腹のやつ! そいつに熨斗のしをつけて進上するわけにはまいらねえ。――いや、かりにおれは見て見ぬふりをしてやるとしても、がわの奴らが承知しないことは火をるよりも明らかな事。ほうッておけば、いつか一度は、黒衣くろごの早いのがてめえの寝首をかきに出かけて、親分こうしてまいりましたが――と開き直るにきまッている」
 風のない月光の海――
 珠を洗う波の音。
 日本左衛門は、ふと、ことばを切って、あなたの街道を飛ぶ一点の灯に注意していました。
 しかし、それは熱海を九刻立ここのつだちで江戸へ急ぐ早飛脚の提灯ちょうちんとわかりましたので、またお粂を足元に見て、
「もうくどい事はいうまい。金吾と別れろ」
「…………」
「お粂ッ」
 返辞がないのでやや鋭く、
「金吾と手を切って、おれや子分の目の届かねえ所まで落ちて行け。さすれば、てめえの命だけは助かるというもの、これがおれの最後の情けだぞ」
 と、足を放して突きやりました。
 そして自分は、先に小田原へ向った金右衛門や子分のあとを追うべく、砂地に捨ててあッた編笠あみがさを取り上げますと、
「待ってください親分」
 何と思ッてか、お粂も急に立ち上がって、その編笠をつかみながら、
「じゃ親分、あなたとは、今夜ではっきり別れましたね」
「よし! 金吾ともきッと切れたな」
「その御親切はわかりましたが、私も丹頂のお粂、卑怯な嘘はいいますまい。ここでおことわりしておきますが……親分え、お粂は死んでも相良さんとは切れない覚悟でございますから、それだけを承知していて下さいましね」
「なんだと」
 かぶりかけた編笠が、ふたたびその手に戻りかける。
 虫をこらえていた心へ、女が投げつけてきた捨鉢なことばに、
「お粂ッ、もう一度いってみろ」
 むッと、日本左衛門の顔いろがうごきました。
 この男の憎念を買ったが最後、それがどんなに恐ろしいものかということも、知りぬいているお粂ではありましたが、持前の気性がこじれて、その恐れもなく反撥的に、
「はい、どんな目にあおうとも、相良さんのことは思いきれない! 金吾さんとは手を切れないといッたんですよ!」
 糸切歯に唇をゆがめて、二度まで、男の名をことばのうちに呼んだものです。
「こいつ、逆上あがッているな……ふ、ふ、ふ、ふ」
 と、日本左衛門は笑いかけましたが、それは火のつきそうな怒気を自嘲する身ぶるいにも似ておりました。
「おれの気持がわからないと見える。女子と小人は度しがたしというやつか」
「女の気持もべつですからね、御親切は身にしみますが、一方と手を切れなんて、情けの押し売りはやめてください」
「では、どうしても、金吾とは手を切らねえというのだな」
 それには、空耳からみみを装って、しどけない帯の結びや小褄こづまの前を直し、顔にかかる乱れ髪を白い指先でかきあげながら――
「ほんとに、ひどい目に会わせやがッたよ」
 呟やいて、うしろ向きに、
「――じゃア親分、お風邪かぜをひかないようにいらッしゃいね」
「待て待て、お粂、お粂」
「なんですか」
「待てッ!」
「親分とは、今夜ここで、きれいに別れる約束をしたはずでした」
「うーむ、ぬかしたな?」
「未練じゃありませんか、去った女に」
「ちイッ」
 というと、かれの手にふるえていた編笠はポンとうしろへ――
売女ばいためッ」
 という一喝――抜き打ちの大刀だんびらと、はねおどッた五体とが、ほとんど同時にお粂の襟筋へ飛びつきました。
 せつな!
 ひ――ッ……という傷手をふくんだ声が千鳥ヶ浜をかすれて行きましたが、一瞬の剣風をかわして、お粂の影がまたドドドドと砂地の浜をこけつまろびつ、死に身になって逃げ廻るのが、黒く明るく、潮煙と月光のなかに見える。
 白いやいばのさきに、ほんの、口紅ほどな血は塗りましたものの、一太刀にやり損じて、しまッたとき込みながら、その悲鳴を追ッかけ追んまわす日本左衛門。
 親分という貫禄かんろくの上に、かなり自省心を強めていた男ですが、こうなるとかれも痴情におどる一個の凡夫にすぎません。
 初めは、足にからまッた厄介な蔓草つるくさをあしらうくらいな気持で、女を見ていられましたが、理智の鯉口を切ッた以上、もうそうではありません。
 千鳥ヶ浜の広さと、鬢髪びんぱつさかになでる海風とが、人殺しの快味をあおるのではありますまいか、――また、刀を呼びよせるような女の悲鳴と、刀につられ込んでいくかれの血を好む本能も、因果な一筋の糸になって、断然、お粂の白い体を斬りきざまなければ承知しない。
 が、しかし。
 そうしたかれの白刃が、お粂の背後へ憎念の風を切ッて迫ッた時には、意外な危機が、女の身よりも、かえってかれのうしろへ急迫していたのです。
 怖るべき殺気に吹かれて、
「あッ!」
 と、日本左衛門が気がついたのも髪一筋のきわどい瞬間で、何者ぞ、
「おのれ! 卑怯ッ」
 という不意なかすれ声に、思わずくびすを蹴りました。
 ダッ――と横に跳ね飛ぶと、砂地へ半身うずめこんだように身をかがめ、当麻とうま五郎のだんびらを守りがまえの青眼に、二ツのひとみは剣のミネをおもむろにたどって、月光をチカッと射る鋩子ぼうしの先から、そこにえぬけた対手あいての正体を見直しました。
 その間を波の叫びが、
「おお! さ、相良さん――相良さん――」
 お粂の狂気した声を交ぜて通りぬける。
 と知るや日本左衛門は、伏せ身の青眼を少しもくずさず、そのまま体をヌーとのばして、
「ウウム、来たなッ金吾」
 と、かえって心の落着きを取り戻していう。
 はッはッ……という荒い息づかいが、かれの剣前に聞こえます。そして海をうしろにし、月に鬢の毛をそそけさせて、柄に手をかけている若者は、相良金吾でありました。
 卑怯――と初手しょてに呼びかけたところを見ると、日本左衛門がお粂を追ッている間、金吾はしばしばよびとめていたのに違いありませんが、それと知ることの遅かったのは、お粂はもとより日本左衛門も、かなりカッとしていたものに相違ない。
 ですが、日本左衛門の立場から見ると、ここに金吾の来たことは、決して、偶然ではありません。
 ありうることです。
 いや、こう来なくッちゃあならないところだ。
 かれの考えからは、金吾の複雑な心理や悩ましさなどは毛頭察し得ない。
 で、瞬間。
 来たなッ――という気が真ッ先に起りました。深間になった女をり返されて、無念まぎれに追いかけて来た命知らずよ!
 いかにも金吾の眼はおそろしい敵意に燃えている。
(おのれ、お粂をやッてなろうか)
 とも見られる形相ぎょうそう
 鯉口に半身の力をこめているので、刀のこじりは後ろへ高く跳ね上がっています。そして、彼の剣勢を見、自身の体をととのえるに、ここまで宙を駆けてきた呼吸を平調に返そうとしているふうです。
 その猶予を与えまいとして、一方の白刃しらはが、二度ほど、月に光をよじらせて挑みましたが、金吾はそれに乗っても来ず、また、つけ入ってゆく隙もない。
 こいつは少し手間がかかる。
 ――と考えたのは日本左衛門の胸のうち。
 金吾はまた金吾として、ここに立つ以上、充分なる覚悟と死に身の用意がなければならないはずです。かれには一度、真土の山の黒髪堂で、素早い当身あてみをくらッています。あの苦い味を与えられている相手です。
 容易に切ッて放たないらい了戒りょうかいにも、いかにかれへ向って大事をとっているかが分りますが、呼吸の平調がもどるうちに、かえってその心気に疲れが来はせぬかと思っていると、
「金吾、遺言ゆいごんは」
 と日本左衛門のことば。
 タ、タ、タ、と寄りつめて来たかと思うと、
「オオ、ゆくぞッ」
 空に白い剣の虹――
 ひゅッと来れば受けきれますまい! あなやというまもありません――大上段から真ッ向です。
 で金吾、なんでその剣風けんぷうに当り得ましょうか、あとへ退くよと思われましたが、途端に、パッと屈身をのばし、一跳足に手元へとび込み、
「むッ」
 と、刀の柄頭つかがしらで、かれのひじを打ち当てますと、その勢いで了戒の一刀は、つば眉間みけんに加えるばかり深く相手にのぞみました。
「あっッ――」
 と、日本左衛門は思わずのけぞる。
 誰がこの無法な剣を予期しましょう、いかに捨て身とはいえ、殆んど剣も生死も無視したやり方。
 ですがこれを、片山安久の抜刀法なり一ノ宮流の居合術いあいじゅつからみれば本格です。ここで初めて思いだすのは、尾州家国元の地方では、この居合をとり入れた戸田流の刀法がすこぶる行われている。
 かれは初太刀で完全な居合の呼吸に成功した。
 けれど、自身の剣を相手へ深く届かせたことは、同時に、相手のだんびらを自分の肩へ充分のぞませたことにもなる。
 相討ち?
 よれて合ッた二ツの影へ、ザアッ……と波しぶきが煙るのをすかして、お粂は意識なくその方へ駆け寄っています。

 火の如き勢いが剣の機先を制して、金吾の第一刀はあざやかに、日本左衛門をして瞠若どうじゃくたらしめましたが、かれもさるもの、敢て、その殺風に逆らわず、
「若蔵、味をやるな」
 と、軽くあしらいつつ、老巧に相手の疲れを誘って、その呼吸の急きこんできた頃合をきッかけに、
「――さ、出かけるぞッ」
 と激越に立ち直り、
「無駄な足掻あがきをやるのは止せ。もう、てめえのつらは死相に変って来ているじゃねえか!」
 ジリジリと食い迫ッてきたなと思いますと、あわや、右風左風うふうさふうのだんびら、閃々たる光流をほとばしらせて、たとえば一体六の魔神から一時に数十本の剣が振り出されてくるように、その殺気と隙間なき剣の交錯の前には、とても、おもてを向くべくもありません。
「ム、無念ッ」
 と歯がみをして、懸命、踏みこらえんとはしますものの、技量の相違はここに至って絶対的なものとなります。
 ことに、血気一図な若さと場なれのした老練との差は、時ふるほど格段な差をあらわし、相良金吾たとえ意気はどれほどさかんなりといえ、病後の気息ヤヤもすると乱れがちに、汗は鬢毛びんもうに油としたたり、目は血走り、くちはかわき、タジ、タジ、タジ……あとへあとへと斬り立てられて来たのはまことに是非もないわけ。
 おお、その顔は死相です。生ける色ではありません。日本左衛門が揶揄やゆするとおり、かれが戸田流の必死な防ぎも無益か、どう贔屓目ひいきめに見ましても金吾の一命、ここにあやうしと見えました。
 が――
 幽明をさかいするその間一髪。
 バラバラッと日本左衛門の顔へ向って、突然、みぞれのごとき風がつかる。
「あッ……」
 目つぶし!
 砂!
 お粂です。
 横に廻った丹頂のお粂が、男の危機にわれを忘れて、つかんだ砂の目つぶしです。
 消えなんとした生命いのちの火がパッと明るくなったように、攻守顛倒てんどうの形となる。
 しかし、それで金吾が相手を逆地にとすわけにはゆきませんでした。その時、一そうの舟が小半丁こはんちょう程あなたの磯岩の間へドンと着いて、
「やッ、親分じゃねえか」
 と叫び合うや、ひとり残らず、舟の中からおどり上がッて、わッとここへ馳け出してくる様子。
 それは今し方、一足先に小田原へ行くといって、日本左衛門と別れた四ツ目屋、雲霧、尺取、先生せんじょう金右衛門などの一群です。
 どうして、その連中が、ここへ引ッ返して来たかというと、ここから遠からぬ根府川の関所――そこは女手形の関なので、多寡たかをくくッて通ろうとすると、すでに、熱海にいる釘勘から密告の早打はやが飛んでいて、小田原の役人や捕手とりてがビッシリ手配をしていたのであります。
 で、にわかにあとへ戻って、磯辺の舟を拾い、江の島方面まで海づたいに落ちのびようと相談はきまりましたが、日本左衛門がもしそれを知らず根府川へかかッては一大事と、二挺櫓ちょうろを押して一散にここへ帰ってきたわけ。
 それはいいが、早くも、関所の方でもまたそれを感づいて、海とおかの両方面から、捕手をわけて追いつつんでくる。
 遠く聞こえるせき警板けいばん――
 いんいんたる太鼓の音も浜にひびいて聞こえてくる。
 月明の海上にチラチラといさり火のように見えだしたのも烏賊いか採り舟ではありません――、あれは関所のお船手と、早川番所につめている大久保加賀守小田原の人数です。

 すでに月は箱根の二子山と駒ヶ岳の背に傾いている。時刻はあれからだいぶ過ぎて、もう夜明けにも程近い頃。
 ひとり道なき山の沢を迷っているのは金吾の影でした。
 いや金吾のみならず、あの関所の人数が暴風のように千鳥ヶ浜を襲った後は、みな散々ちりぢりばらばらになッて、八方へ敗走せざるを得なかったでしょう。
「残念至極……あの事さえなければ、たとえ刺しちがえるまでも、日本左衛門のやつを生かして置くのではなかったのに」
 と、金吾は道に迷いつつ、道に迷っている当惑は念頭にありません。
 体も綿のごとく疲労しているはずなのに、なお、時々、つぶやくことは、かれを打ち損じた無念。一太刀の怨みをむくゆることのできなかった心残り。
 が反対に、相手の日本左衛門にいわせれば、もう一足捕手の殺到が遅かったなら、金吾の五体を膾斬なますぎりにしてくれたものを――と、今頃はどこかで、舌打ちをしているのかも分らない。
 とまれ金吾は、今夜の機会を逃がしたにせよ、またいつか一度は、きッとこの報復を思い知らしてやるぞ――と迷える道を歩むのでした。
 どこへ?
 この迷える道をどこへ歩もうとするのか?
 それは金吾にも分りません。
 かれはただこれから先、どこまでも生きなければなりません。出目洞白でめどうはく仮面めんを万太郎の手で尾州家の元の宝蔵へ納めるまで、必ず生き通さなければなりますまい。
 そして、それまでは、尾州家へ帰ることもできないし、万太郎の前に姿を見せることもならない彼です。――この道をどこへ向ってゆく気かと問われれば、出目洞白の仮面めんのある所へ――と答えるほかありません。
 すると……
 どこからか自分を追い慕って来るような声が、
「相良さアん――相良さん――」
 と、木魂にひびいて、沢の真下に聞こえて来ました。
 耳のせいかと疑ぐりましたが、その声が、だんだん近くなって来たので、足を止めて山の中腹に待っていますと、すぐそこへ、髪を乱したままのお粂の影が見えたので、
「おッ! お前は」
 と驚きながら、金吾は何思ったか、ことばもかけずバラバラと山の背へ馳けのぼろうとする。
「ひどい人!」
 お粂は追いつくと共に、男の袖をつかんで、
「待ってくれたッていいじゃありませんか、いくら呼んでも、振り向きもしないで」
 怨みがましくいって、波うつ息をあえいでいる。
 と――身をへだてて金吾は鋭く、
「何しに拙者を追って来たッ」
 と、邪慳じゃけんに睨み返しました。
「えッ? ……」
 お粂はハタかれたように、目を見張りましたが、自分の聞き違いかと思い直して、
「一緒に逃げてくれるつもりなんでしょう。……だのに、ちッとも待ッてくれないでさ」
 と、ようよう少し落着いて、髪や襟元えりもとを直していますと、
「お粂、お前は何か考え違いをしていやしないか。――拙者はもうお前とは逢わないつもりだ。この先まで、一緒に逃げて行くなどという思案は毛頭ない」
「相良さん、それは本気でいっていることなんですか」
「元より本気じゃ、この場合のことばに、なんで嘘やたわむれがあろうか」
「それでは、何で私を助けるために命がけで、日本左衛門を追ッかけて来たんですえ? そんな、気の分らない話ッてないじゃありませんか」
「お前を助けるために? ……なるほど、お前から考えれば、そう思ったかも知れないが、拙者が日本左衛門を打とうとしたのはその意味ではない。かれは主家のあだだ、自分にとっても真土山の黒髪堂以来、終生、忘れることのできない仇だ」
「えッ……じゃお前さんは、私のことなどはちッとも助ける気じゃなかったんですか」
「お粂ッ――貴様も拙者にとればかたき片破かたわれだぞ。お前は知るまいと思っていようが」
「あッ……それでは、何もかも」
「知らいでどうしよう! 金吾は悪病と悪夢からさめている! 形の上ではそちにも長い世話になったが、礼をいう一言もない。――帰れ帰れ! 妖婦ッ、奸婦かんぷッ。これ以上金吾の身に寄ってくるならば、この了戒りょうかいの刀を越えてまいらねばなるまいぞ――」
 と、かれは心の怨敵へ構えるものの如く、らいの一刀を片手に抜いて、お粂のひとみに見せつけますと、ヒラリと身を躍らして、幻滅の谷底へつき落とされた女をあとに、また行方も知れぬ山路をしばらく無我に走りつづけました。
 気がついて見れば、いつかあなたに青々としたあし湖水こすいの水と、湖尻の山、乙女峠おとめとうげ、長尾の肩などが明け方の雲表にのぞまれて、自身は、暁風に吹かれて一面なしの笹叢ささむらがつづく十国峠の背なかを放浪しているのでありました。

大望たいもう


 タラン、タン、タン、タン
 ドン、ドドン、ドン
 ヒュウー、ヒャラリ……と横笛や大鼓おおかわの音につれて、長閑のどかにもまた悠長な太鼓や鈴の交響楽――お神楽囃子かぐらばやしが聞こえます。
 それが、やしろの内ならともかく、一軒の草葺くさぶき屋根を、グルリと取りまいた防風林――その百姓家の庭先で。
 のぞいて見ると、色の黒い男どもが五、六人、そこにむしろを敷き、太鼓をすえ、横笛をかまえ、草神楽くさかぐら稽古けいこの最中と見えまして、
「ほい、右足――」
「それ、打ちこむよ」
「廻って――」
「ドン、ドドン、とそこで大鼓おおかわがはいる」
「すぐ笛につれてのうがかり」
 と、しきりに笛に合せ撥調ばちしらべをしていますが、中にひとり立って、鎌倉舞かまくらまいの稽古をしているお百姓も、麦を踏み大根を抜く日にやけた素面すめん素手すでで、それへ古風な衣裳だけをキラビやかに着けているところが滑稽でありました。
 家のあたりをながめると、ここは武州阿佐ヶ谷村の百姓家、ただの田舎いなか家と変りがない。
 かしはんの木、けやき、はぜ
 防風林の喬木はみな薄赤い木の芽をもって、その百姓家の仏壇がある奥の部屋まで、暗からぬ陽がさしています。
 およそ、武蔵野原に土着の百姓家には、どこの草葺くさぶき屋根にも、この防風林がつきもので、十ぽう碧落へきらくのほか何ものも見えない平野にあっては、時折、気ちがいのようにやッて来る旋風つむじかぜや、秩父颪ちちぶおろしの通り道のようになっている地形上、それが自然の城壁であり、またこの郷土特有の点景でもありました。
 ところへ――
 その悠長な音律を楽しんでいる防風林のなかへ、バラバラッと、眼色を変えた人間が八、九人馳けこんで、
「これ! ただ今この中へ、旅合羽たびがっぱを着た四十がらみの男が逃げこんで来たはずだが、そち達、見かけなかッたかどうじゃ」
 という。
 笛を持っていた男、ばちを構えていた男、舞の稽古をしかけていた男、みな、一様にポカンとした顔をして、唐突な闖入ちんにゅう者の群をしばらく眺めておりましたが、
「へい、これはお役人様で」
 と急に、ぞろぞろと上下座どげざをしました。
 一人の同心と脚絆きゃはん手甲てっこうの捕手が、胡散うさんくさい目を光らし、頻りと母屋おもやの内を覗いておりましたが、
「後刻また、こういう者が立ち廻って来るやも知れぬ。その時はすぐ役所向きへ訴人いたすように、万一、縁故者がじょうにからんでかくまい立てすると同罪であるぞ」
 一枚の人相書を渡して、先を急ぐように、またバラバラと引ッ返して行く。
「おや、この人相書の男は、見たことがある」
 あとで、百姓神楽かぐらの連中がそれをひろげて、
「な、見たような男じゃないか」
「ほんとだ、これはよく似ている」
「だれに?」
「もとこの村にいたあの男さ」
「じゃあ村の者か」
「やはり、おれ達の、阿佐ヶ谷神楽かぐらの仲間で、しかも笛がうまかった。なんといッたッけなあ? ……おお、そうそう伊兵衛、伊兵衛」
「ああ、あのやくざ者か」
「ゲジゲジの伊兵衛に違いない。飛んでもないやつが立ち廻って来たもんだ」
「お役人様が触れを廻して来たところを見ると、あいつめ、諸所方々を食いつめて、また村へ舞い戻ってきたのかも知れないぞ」
「どうすべえ、やツが来たら」
「水をおンまけてやれ」
「止せ止せ、あとのたたりが恐い」
「訴人したらなお怨まれるだろう」
「どんな仕返しをするか知れたもンじゃない。まアまア、ていよく、草鞋銭わらじせんがとこで追ッ払うことさ」
「困ったなあ」
「何か来ないお禁厭まじないはないか」
 と、折角な稽古の興をさまして、なおも伊兵衛の悪口をたたいておりますと、向うの日当りのいい母屋の縁側で、
「オイオイここへ珍客様が訪ねて来ていらッしゃるのに、何をいつまで、飯粒を取ッつけ合ったひよッ子みたいに、そこで首を集めているのよ。早く、お茶でもわかして持って来ねえな」
 と、ゲラゲラ笑い出した男がある。
「あれ?」
 と、頓馬とんまな声を出して、初めてうしろに気がつくと、笠を縁がわへ押ッぽり出し、紺合羽こんがっぱの片袖を撥ねて、きせるのがん首で無断に座敷の煙草盆たばこぼんを引きよせている自称じしょう珍客様。
 それが今、人相書が廻ってきた本ものの道中師の伊兵衛でありました。

 伊兵衛はニヤニヤ笑って、
「オイみんなの者、また厄介なやくざ者が村へ帰って来たから、何分よろしく頼むぜ。阿佐ヶ谷村なんて肥臭こえくせえ土地へは、何も好んで帰りたくもねえが、生れ故郷であってみりゃしかたがねえ」
 と縁側いッぱいに足を投げだして、煙草たばこけむを上へ吹き、
「それともおめえ達、人相書にてらして、訴える気なら何も遠慮はいらねえぜ、おれはここで日向ぼッこをしているから、今出て行った頓馬とんまな役人に教えてやんねえ」
 と、あきれている百姓神楽かぐらの連中をながめ廻して、空うそぶいた面構えを、高い防風林のこずえに向けておりました。
「いや、とんでもない事、たれが昔なじみのお前を、訴人してよいものか」
 異口同音にいいわけをすると、伊兵衛はクスッと鼻で笑って、
「それでも、昔なじみと心得てくれるのか、やッぱり生れた村はいいものだな」
「四、五年姿を見せなかッたが、その永い間、一体どこを飛び歩いていなすッたの」
「べらぼうめ、道中師という小稼業人こかぎょうにんに向って、どこにいたときく奴があるものか。水のまにまに風のまにまによ」
「へえ、のん気だの、相変らず」
「のん気というなあ、おめえ達の事だ。いつもヒャラリコドンツク、百姓の合間に、神楽囃子かぐらばやしをやッていれば、すぐ五十年の年貢ねんぐ納めが済んでしまう。おら、ここへ来ると、おめえたちが羨ましいな」
「じゃ、なぜこの村に、大人しくしていないのじゃ」
「性分だ。持ッて生れた根性を、おれにだッてどうにもなりゃしねえ」
「そうそうおめえを育てたおつね婆さんも、それを案じて死んだッけ」
「へえ、お常婆さんは死んだかい?」
「まだある、原の嘉助かすけ小父おじも、おめえのたッた一人の身寄りだが、とうとうこの春先死んでしまった」
「やれやれ、諸行無常ッてやつだね、南無阿弥陀仏」
「来たついでに、墓まいりでもしてやったら、どんなに功徳か知れまいぞ」
「どうして、そんな暇はねえ体だ。ところで方々かたがた、たいそう稽古に熱心だが、また何か近所のお祭りかい?」
「なに、今度はすこし、遠方から頼まれて、明日あしたはそこへ乗込むことになっている」
「遠方へ? ふウむ……どこだえ行く先は」
「今度初めて行く所だが、なんでも、北多摩のはずれで秩父境ちちぶざかいにあたる所だというんだが、そこに、高麗こま村のこま家というえらい旧家があるそうじゃ」
「狛家!」
 というと、伊兵衛はツイと縁がわを離れ、不作法に合羽の裾をまくるなり、一同のいるむしろの上へ割りこんで、
「その高麗村へ頼まれてゆくのか」
 と、にわかに真剣な目いろになりました。
「何かしらないが、高麗村の御隠家様とかで、今度、稀代きたい仮面めんをお手に入れなすッたそうで、お屋敷内の石神堂でその仮面納めの祭りをやるというわけ。――ちょうど来月は秩父三ツ峰の大神楽もあるし、あれから秩父へも近いから、一ツ出かけて見ようかとこッちの相談もきまって、この一組で囃子はやしを調べている最中さ」
「ふウむ……そいつアいい所へ来合せたものだ、じゃあ頼むぜ、おれも一人」
「えっ? ……」
 と、伊兵衛のことばの意味がくめないで、目をしばたたいておりますと、
「笛でもよし、舞でもよし、鼓師かわしの方だッてかまわねえ。昔とッたきねづかだ、おれも一ツその阿佐ヶ谷神楽のお仲間に入れてくんねえ、え、いいだろう。いやか、いやならいやといって見な、おれにも少し考えがある」

 ここにまた徳川万太郎は、熱海あたみへ行った釘勘の返辞を待っている約束で、根岸へ帰った後、しばらくおとなしくしておりましたが、春かんとする呉竹くれたけの里に、歌をよむでなく詩を作るでもなく、無為むい日永ひながを歎じていますと、夏めく南風にも欠伸あくびが出、爛熟らんじゅくした花鳥もいたずらに倦怠けんたいです。
 で、またぞろ、禁足を破ッて、根岸の屋敷を飛び出しました。
 外の風に吹かれると、かれの本性は目をさましたようにピチピチして、
「ああ、大名生活だいみょうぐらしは退屈だ」
 と、青空の下の自由をよろこび、心ゆくまで世間の空気を吸うもののように歩む。
「あぶない!」
 いきなり鋭い声を浴びせられて、びッくりした万太郎が、はッと、うしろを見ると声のぬしは、もう前の方へ、パパパパッと砂煙をあげて駆け抜けている。
 一騎、神田橋から大手の方角へ――
 つづいてまた二、三騎。
 どれも、式服を着けた武家ばかり――そして江戸城の正門へ一散に。
「はて、なんだろう?」
 彼は鎌倉河岸がしにたたずんで、葉柳の糸をへだてた所から、道三橋の方へ笠をあげておりましたが、
「何か、お城の内に変事があるな」
 と思った直覚が、いつかしら外濠そとぼりに沿って大手の方へと、万太郎の足を向けさせている。
 見ると、諸門は雑沓ざっとうです。
 ことに大手の濠際ほりぎわには、下馬下乗、あまたの大名や旗本の駕籠かごがこみ合ッていて、供待の者どもが憂色をつつんでいる様子。
 その騒ぎを横に見て、
「はて、ばからしい。将軍家が、くしゃみを一ツしてもこの騒動、先頃うち、御不例といううわさであったから、多少模様でも悪いのかもしらぬが、その病人へこう押しかけては、かえって容体を悪くしてしまうだろうに」
 と、苦笑をもらして行き過ぎようとすると、
「下郎、邪魔だッ」
 またもや、日比谷の方から砂を蹴立てて来た一列の騎馬に怒鳴られました。
 下郎ということばにムッとしましたが、万太郎の方も充分に悪い。当然歩みよい柳並木の道端もあるのに、かれは大道の真ン中を、ふところ手で歩いていました。
 しかし、尾張中将の七男である万太郎の大名気風が、道ばたをかがんで歩かない癖になっているのも自然で、それを知れば騎馬の先頭も、そんな罵詈ばりは浴びせなかったでしょうが、万太郎は堪忍がなりません。
「待てッ」
 いきなり、四、五人目の――その主人と見える立派な鞍へ飛びついて、
「聞き捨てにならぬ暴言、あれはその方の家臣であろう。待てッ、降りろ」
 と、引きずり降ろさん血相です。
 驚いたのは馬上の武家――
「あッ……」と、万太郎の力に引かれて、グルリと駒を廻しましたが、
「やあ、尾張の七男坊」
「なんじゃと」
「どうした!」
 といわれて初めてその姿を見上げると、鞍上からなれなれしい笑顔を向けている者は、ちょうどかれと同年配ぐらいな若殿。
 弓の稽古をしているところを急に飛んで来たものとみえ、手に弓懸ゆがけを着け、木綿の粗服に馬乗袴うまのりばかまという姿で、一見、旗本の息子ぐらいにしか見えませんが、これは万太郎とは莫逆ばくぎゃくの友だち、紀州和歌山城の宰相頼職朝臣さいしょうよりもとあそん世嗣よつぎ、すなわち、紀伊家の吉宗です。
「やあ」
 と、万太郎はてれました。
 吉宗は如才なく、
「火急の場合とて、家来の暴言、悪く思うてくれ給うな」
「何か、御城内に?」
「オオ、御危篤」
「えッ、家継公いえつぐこうが」
御不予ごふよおもらせられた御容子なるによって、急ぎ登営あるべしと、三家を初め、諸公がたへも、老中から御急使が廻ったばかりのところ」
「では、いよいよ将軍家御代ごだいがわりか」
「不吉な!」
 と、叱られて、万太郎もハッと口をつぐみましたが、
「では、急ぎな矢先、これでお別れといたそう」
「貴公は」
「……む、自分は今、根岸の方に」
「兄上の尾州殿のお姿も、ついその辺でお見かけいたしたが」
「や、兄貴が来る? それはいかん」
 と、万太郎はすこし狼狽ろうばいして、
「自分もきょうは急ぎの出先、これで御免を」
「オオ、こちらも火急なところ故、御免!」
「いずれ!」
「いずれ!」
 と双方、端的な会話を投げ合って、吉宗が江戸城へむちを上げてゆくと、万太郎も、笠をおさえたまま、大名小路だいみょうこうじの陰へと、逃ぐるがごとく馳けこみました。
 石焜炉いしこんろをハタハタたたく団扇うちわの風に、白い灰が往来なかへ、淡雪のように舞ってゆく。
 ぷーんと、木のに味噌の焼けるにおい……
 ちょうど日ぐれ時、夕飯の潮時しおどき
 今、軒行燈のきあんどんに灯がはいッたばかりの「木の芽でんがく」の店にはかなりな客足です。
「ゆるせ」
 と、その奥へ通って行ったのは徳川万太郎。
 あたりの客の膳を見廻して、
「あのようなものをくれい」
 と、小女に注文する。
 田楽屋へはいッて、あのようなものという注文は、かなり下世話げせわに通じているようでも、やはり大身の若殿らしい。
 酒、ひたしもの、吸い椀、田楽、それに、茶づけ茶碗まで付いて一人前、あのとおりなおあつらえがまいりました。
 それは蒔絵まきえ高脚膳たかあしに向う常の夕餐ゆうげより食味をそそッて、不なれにあぐらを組む居心地までが、万太郎にはたまらなく解放された気分です。
「へえ……」
 と、イヤに感心した声がする。
 背なか合せの衝立ついたてのうしろに居る一組の客のささやき。
「じゃあ、もうお陀仏だぶつになっているんで?」
「……らしいネ、御様子が」
「だって、まだ御危篤ぐらいなところだッていううわさじゃねえか」
「えらい人のおかくれになる時は、みんなそうさ。それから喪を発すという事になるんだ。きッと、明日あしたあたりは鳴物御停止ごちょうじのお触れが出るぜ」
「と、また不景気だろうな」
「おれたちの稼業に、不景気があるもんか」
 ――ははア将軍家のおうわさだなと、万太郎は何か面白いような気持でそれを聞いている。
 衝立の向うにいるのは三、四人の町人で、
「飲む時に稼業の話は止そうぜ、稼業の」
「ウ、つい口がすべッた。ま、一つごう。ところで将軍様がおかくれになると、さしずめ、次の将軍家はたれッていう事になるんだろう」
家継公いえつぐこう様は、まだたったおやっツ、無論、お世嗣よつぎはねえわけだ」
「なんでも、後見の間部詮房まなべあきふさとお傅役もりやくの月光院様とが庭でいちゃついていて、小さな将軍様に風邪をひかしたのが、こんどの病気のもとだという話だが」
「わかりもしねえ大奥の事を、あんまり見て来たようにいうない」
「いや、おれは、確かな筋から聞いているんだ」
「じゃ、こんどの将軍様が、水戸から出るか、紀州から出るか、尾張から出るか、てめえ知っているか」
「それがもめているんで、将軍様はとうに死んでいるんだが、その喪っていうやつを、世間へ触れることが出来ねえんだとよ」
「へえ」
「紀州から出すか、館林たてばやしから出すか、尾張から出すか、このけんかだ」
「なるほど」
「水戸様は館林をかついでいるし、間部まなべは紀州をかつぎ上げている。そこへまた、尾張から引ッ張り出そうとしている連中もあって、三ツどもえに、こんがらかッている」
「ありそうなこッた。だが、紀州から出るとすれば、たれだろうか」
「まず赤坂に屋敷のある吉宗公だろう」
「尾張とすると」
「万太郎様だね。年頃からいっても」
「万太郎?」
「ウム、尾張の徳川万太郎」
「聞いたようじゃねえか、万太郎ッて……」
「そういや、聞いている名だ」
「あっ……いけねえ。あいつが将軍家になぞ納まッたひにゃ、それこそ親分はじめ、おれたちの稼業が、上がッたりになってしまう」
 最前から、噴き出しそうになる可笑おかしさをこらえていた万太郎、終りの一句に、思わず衝立の横からうしろをのぞきました。

 ははあ、これはやはり日本左衛門の手下か、もぐりの鼠賊そぞくであろう。
 万太郎はそう察しました。
 間もなく勘定を払って、彼等は、いい機嫌な足どりで「でんがく」の軒先を出て行く。
 万太郎も、田楽でんがく屋の小女の景気のいい声をうしろに聞き、早速、そこを飛び出して、ピタピタと三人の影について歩く。
 辻行燈つじあんどんの明りを交わして、ほの暗い葉桜の横丁。
 口三味線に端唄かなんぞを合せて、千鳥足にもつれてゆく三人のうしろから、
「これ、ちょッと待て」
 と不意に声をかけると、ギクとして振向いた六ツの目が、その姿を凝視するなり、
「わッ」
 コマ鼠のようにキリキリ舞して、馬場の土手を飛び越えました。
 二人はあざやかに逃げ去りましたが、最後のひとりは戸惑いして、土手のいばらに首を突ッ込み、まごまごしている様子なので、
「これッ、待てと申すに」
 ずるずると引きずり降ろすと、あわれやこいつおしか片輪か、なんにもいわずペタリと坐って、両手を合せて拝んだものです。
「は、は、は、は」と万太郎は笑って――「あわてるな、身は奉行所の役人ではない」
「へ、へい……」といったが、まだ不安そうに、
「どうか、ま、まッ平御勘弁を」
「何を勘介してくれというのか」
「何しろ、今日は半年ぶりに、伝馬牢から出たばかりなんで、へい、それで仲間のやつが、一杯祝ってくれた晩なんですから、どうか、お目こぼしを願います」
「ふウむ、では察しの通り、貴様は小泥棒だな」
「左様で」
「顔を見せろ」
「どうかお慈非に一つ……。まだ牢から押ッぽり出されて、家にも帰っておりません。それをまた、ここから逆戻りしましては、女房や子が嘆きます」
「まだわしを役人だと思ッているのか、そう拝むな、拙者は不浄役人や手先ではない」
「へ。では、お役人様じゃないので」
「ウム、少したずねたい事があって呼び止めたのだが」
「ヘ……ヘイ」
「貴様、日本左衛門の手下ではないか」
「よく御存じでいらッしゃいます。まッたく、そうなんで、ヘイ、嘘は申しません」
「なんという」
「へ?」
「そちの名はなんと申すのか」
そつ八というんで」
「率八か」
「お人よしの率八というんで」
 万太郎はつかんでいた襟髪えりがみを放しました。
 そして、つらつらこの小泥棒の顔を見るに、なるほど、愛嬌のある憎めない顔つきをしております。

 お前の親分は今どこに居る?
 その後夜光の短刀について仲間で何か手懸りを得てはいないか?
 馬春堂の所在を知らないか?
 道中師の伊兵衛は今どうしているか噂でも聞いていないか?
 出目洞白でめどうはく仮面めんは?
 相良金吾さがらきんごは?
 おくめという女は?
 何か変ったことはないか何か――と、矢つぎ早にこんな事を万太郎が質問しだすと、それに向ってお人よしの率八は、いちいち神妙に首を振って、
「知りません。へい、知りませんです。へい、嘘は決して申しません」
 張合いのないこと一通りでなく、憎めないことおびただしい。
 これはいけない、暖簾のれん脛押すねおしと思いましたが、わざと苦笑をかくして、
「何をきいても知らぬ存ぜぬで、こやつめ、さては白ばッくれておるのじゃな」
 ホンの形ばかりに、柄頭つかがしらへ指をふれて見せると、
「あっ――」と、手ばかり振って、逃げ腰も立て得ない可笑おかしさにまた苦笑して、
「申せ!」
「で、でも。まッたく知らない事が多いんで……何しろ今年の正月早々、忍川の袋地で捕手にかかッたきり、娑婆しゃばの風に吹かれたのは、今日が久しぶりなんで」
「しかし、ああして仲間とも会っておる以上、種々その後の話も聞いたに違いない」
「え……そ、そりゃ、何ですが、他人ひとへもらしては、仲間へ義理が欠けるんで。……ああ困ったな。じゃ、申し上げッちまいましょうか」
「ウム、今たずねた事だけを、答えたら放してやる」
「親分は詮議がきびしいので、当分江戸へは帰らねえそうです」
「して、今は」
「伊豆へ行ッたという話ですが、変な所へ出かけたもんで、何しに行ったのか、あっしにも判断がつきません」
「伊豆へ……」と、万太郎は目を閉じて、
「夜光の短刀のことは?」
「まだ皆目、手懸りも足がかりもありゃしません。あ。それに、あの短刀は、伊兵衛も血眼ちまなこで探してるんですぜ」
「その伊兵衛めはどうしたろうか」
「どこか飛んで歩いているンでしょうな。何しろ、足の早い奴で」
「それきりか」
「へい」
「行け」
「ありがとう存じます。……あ旦那、それからお粂さんの事をお聞きになりましたが、あれは親分が可愛がっていたおめかけで、そのお妾と金吾という侍が、ちょうど、あっしが牢へぶちこまれた晩に、どこかへ駆落かけおちいたしました。牢へはいる者と、駆落ちする奴と、ずいぶん運のいい悪いがあるもんで」
「もう用はない、行けと申すに!」
 それは万太郎の知りたい事ながら、聞いて決して愉快ではありません。
 率八はホウホウのていで、腰や懐をなでながら怖々こわごわとあたりを見廻し、何か落とし物に未練を残しておりましたが、万太郎の眼がジッと向いているので、
「さようなら」
 と、思い出したようにお辞儀をして、ひょこひょこ歩きかけました、
 すると万太郎はまた、
「あ、これこれ、率八とやら」
 呼び止めると、もう沢山な顔をしながら、
「ハイ」
 と、情けない返辞をする。
「率八」
「ハ、ハイ」
「貴様は所詮しょせん、盗人の中で出世のできそうな奴ではないの」
「左様でございましょうか」
「なんで泥棒になった」
「わかりません」
「どうして日本左衛門の手下などになったかとたずねるのじゃ」
「いつか、お金を恵んでもらいました。それで、恩返しに、泥棒になったようなわけで」
「ふびんな奴じゃ……」
「ど、どういたしまして」
「改心して真人間になれ! よ! 貴様には女房や子もあると、最前申していたようだが」
「きッと、うちに待っているでしょうよ。何しろ、お正月から帰りませんでね」
「早く足を洗うがよい」
「食べることができますかしら」
「これをやる」
「え」
「これをやるから持ってゆけ」
「へ? ……」
つかわすというのじゃ、遠慮するな」
 と、万太郎の差し出した手のひらに、大判か小判か、四、五枚の山吹色がのせられているのを見て、率八は、ひょいと食指を動かしましたが、急に手を引ッ込めると、淋しいゲタゲタ笑いを作って、
「……な、な、なんて旦那、人をからかッた上に、バッサリと来るんでしょう」
「ばか」
 遂に、癇癪を起した万太郎が、それをザラリンと投げてやりましたが、やみ燦爛さんらんと降った山吹色を、剣の光のように驚いて、一言といわずお人よしの率八、胆をつぶしたまま逃げ去りました。

 その夜は赤い蒲団ふとんの中。
 雉子町きじちょう丁字風呂ちょうじぶろの二階に彼は泊っていました。
 なんとなく面白い。春や過ぎたりといえど湯上がりの寝心地、身は勘気かんきの境遇といえ青春です。
 夜更けまでどこかで聞こえる湯女ゆなの笑い声も、横丁をゾロゾロ流れる下駄の音も、万太郎の枕には妙な交響をまろばせてくる。そして、この世間の物音が面白すぎて寝つかれません。
 ただ、物淋しいのは、将軍様御不予ごふよによってというお達しの――鳴物停止なりものちょうじ
 それについて、町ではヒソヒソと種々さまざまな風評を立てている。幼少な将軍の臨終の枕元では、もうあとにすわる八代将軍の人選で、三家閣老、それぞれ自己権力の援護でつの突き合いをやっているらしい。定めし、おやじの中将綱誠つなのぶや兄貴の継友つぐとももそのお仲間に交じッて、すこしでも尾張にのいいような主張をしているのだろう。
 ――などと考えて、枕の上のかれの顔が、ひとりでニヤリと笑みくずれる。
 いや待てよ。
 あの野心鬱勃うつぼつたるおやじの中将綱誠つなのぶが、のいい主張ぐらいでめていればいいが、魔がさして、一ツ尾張からお世嗣よつぎをなどと大それた気を起したひには大変だ。それこそ他人事ひとごとではない。尾張で体のあいている息子は、かくいう万太郎一人きりだ。
 ――ひょッとして、そういう事がないともいえない、なかなか可能性がある。子の心親知らずで、丁字風呂の赤い夜具にくるまっている御曹子おんぞうしの心事も知らずに、おやじがムキになっている顔が目に見えるような気もして来る。
 真ッ平、真ッ平、願わくばそんな風よ、向きをかえて、水戸へでも紀州へでも吹いて行け。
 紀州はいいな。
 そうだ紀州はいい。
 今日途中で会った吉宗なら将軍様にもッてこいだ。素行はよいし、聡明そうめいだし、武芸文事にも熱心だし、周囲もうしろだても、しッかりしている。
 それより何より本人に充分色気があるようだ。今日会った時馬上から、「やあ、尾張の七男坊」なんて来た調子は、すでに御臨終に駆けつけながら、あわよくばの気じゃあないか。
(だがと、待てよ……)万太郎の空想はそこでもなくなりました。
 ――あの自分と同年ぐらいな、しかも、家柄も何もかも似ている吉宗が、一躍、八代将軍家となって、小マシャクレた朝令暮改なんかをやり出すと、この万太郎も少し癪にさわらないかしら。
 将軍家にすわることなんかは願い下げにしたい自分なのだが、吉宗が大統をうけて天下にのぞむとなると、自分も少し、何か、して見せなければ男が立たない。
 尾張の七男坊とは竹馬の友じゃに依ってなどと、辺僻へんぺきな山国の二万石や三万石を有難く頂戴してもおられまいではないか。
 ――こう考えているうちに、万太郎の仰ぎ見つめていた天井の木目が、満々たる大洋の水となってまいりました。そして漠々たる雲と海とのあなたに異国羅馬ローマの都府や沿岸が美わしく霞んでみえましたが、それは空想か夢だったのか、自分でもけじめのつかないうちに、彼はもういつの間にかスヤスヤと深い寝息になっています……。
 と――その翌日。
 かれは起きるが早いか、丁字風呂ちょうじぶろを出て、今日はハッキリとした目的あてのあるものの如く、音羽を経て、目白の台へスタスタと上ってゆく。

 いつか釘勘と共にけて来て、道中師の伊兵衛を取逃がし、そのまま来る折もなく気になっていた目白の石神堂。
 覚えのある喜連格子きつれごうしの古い御堂を前に見ると、万太郎は、あの時、馬春堂と伊兵衛とが蝋燭ろうそくをともして、ここでコソコソやっていた挙動を思い出し、そッと、例の銭瓶ぜにがめの穴の辺をうかがっていましたが、突然人の咎める声にハッとする。
 堂の横からのッそりと出て来て、
(何をする?)
 といわんばかりに監視の目を光らした男どもは、銭瓶の穴の変事以来、申し合せて、この御堂番をしている土着の者でした。
 やましい気持のない万太郎は、ズカズカと自分から歩み寄って、
「その方たちは土地の者と見えるが、ちょッと、この堂の内部をあらためさせてくれぬか」
「駄目でがす」
「なぜ」
「なぜでも開けるわけにはいきません。はい。この武蔵一円の石神の司祭者御隠家様のおゆるしがなければ」
「御隠家とはどこの者じゃ」
高麗こまごう高麗村の御隠家様でござります」
「ではたずねるが、その後この堂へたれか立入った者はないか」
「きのうもここへ、うさんくさい男が来て、あなた様と同じような事を尋ねて行きましたが、何しろここの銭瓶の穴へ落ちた男の体は、すぐ御隠家のお使いが高麗村へ連れて行ッてしまったので、そののことは私どもには分りません」
「きのうも来た? ……?」
「はい」
「風采はどんな男じゃ」
角鷹眼くまたかまなこをした四十前後の男で、紺無地こんむじ旅合羽たびがっぱを着ておりました」
「そして?」
「じゃあ高麗村に行ッて見ようかと、しばらくここで考えていましたが、そのうちに、通りかかッた捕手の衆を見ると、プイと、姿を消してしまったのでびッくりして、そのお手先に聞きますと、そいつは道中師の伊兵衛とかいッて、有名な悪党だそうでございます」
「ははあ……」と、万太郎はそこでわずかにうなずきました。
 彼も、何か思い迷うらしい面持。
 実はゆうべ、丁字風呂ちょうじぶろの二階に寝つつ、さまざま猟奇的な空想を馳せているうちに、かれは、にわかにもう一度「ばてれん口書」を手にして見たくなったのです。
 そして、あの一帖の文に暗示されてある「夜光の短刀」を探し求めて、ひとつ、羅馬ローマの都府へ渡って見ようか。
 紀州の吉宗が八代の将軍になって納まッている頃に、おれは飄然ひょうぜんと日本から影を消し、徳川万太郎は失意の結果、身を隠したのだろうと人の取沙汰とりざたする時分に、羅馬王朝の貴族となり、あわよくば異海三千里の外に壮図そうとを挙げるのも面白かろうではないか。
 こんな大望がむらむらと起ったものですから、かれの夢が、ゆうべ、あの丁字風呂の部屋を青々せいせいたる大海にし、異国の美しい市街を波のあなたに描いたのでしょう。
「いや。そうか」
 というと、万太郎は忽然とそこを去りました。
 そして、かれの足は御府外の方へ向く。
 武蔵野原を北に歩んで尽くところ、北多摩の山の尾根と、秩父ちちぶ連峰のなだれが畳合たたみあっている辺に、峡谷きょうこくさとが幾つもあるそうです。
 高麗の郷高麗村というのは、その峡谷の首村であり、御隠家様の屋敷がある所と、かれは今、堂番の男につぶさに聞いてまいりました。
 途中、街道の古びた草紙屋で見つけて買い求めたのは、一冊の懐中絵図ふところえず――その頃、まま版行された道中細見さいけん、あるいは、御府外名所手引てびきなどのたぐいでありましょう。
 のろのろと往還おうかんする牛飼うしかい、野菜車、馬子まご、旅人、薬師詣やくしもうでの人たちの中に交じッて、平坦へいたんな街道を歩みながら、その懐中絵図ふところえずをひろげて見ましたが、高麗村という名は見当らない。
 けれど、女影おなかげヶ原、久米川の流れ、北多摩の山裾などをたどり見ますと、おぼろにその方角だけは察しられますので、尋ねて尋ね当らぬこともなかろう。
 武蔵一円の石神の司祭者、高麗の御隠家様とは何者か知らぬが、銭瓶の穴から持去った洞白の仮面めんと「ばてれん口書くちがき」は明らかに自分の品、正当に理由をのべて返してもらうに憚る事はない。
 そして仮面めんは、あのために迷惑している市ヶ谷の兄の屋敷へ送り返し、自分は心やすく夜光の短刀を探してみよう。
「ああ、それにつけても、金吾が居たならば……」
 と思う道の先へ、小さな蝶の群がうららかに飛び乱れて、そこに、人待ち顔な一挺の女駕おんなかご
 はて?
 樵夫そまとも浪人ともつかない侍が、その砂子塗すなごぬりの女駕を取りまいて、のどかに煙草をふかしていますが、駕は無紋、付人は異様な郷士?
「誰を待っているのであろうか」
 懐中絵図を畳みこんで、万太郎は足を休める振りをしながら、しばらくそこに立ち止まり、その女駕の前を通り越してしまうのが惜しまれました。

馬春堂日記


「どうしたのだろう」
「ウム、もうお見えになりそうなもの」
「道をえてお帰りになったのではないか」
「すると、こんな所に、ゆうゆうとお迎えの駕をすえて待っていたとて、いつまでおいでになる気遣いはない」
「そんなはずはあるまい。御隠家様ごいんけさまのお手元へまいった手紙によれば、今日熱海から江戸へ着いて、新宿追分しんじゅくおいわけよりこの道を通ってお帰りになるという前ぶれ」
「おかしいな」
「まあ、もう半刻はんときもお待ちしてみよう」
 そこに一挺の女乗物を置いて、人待ち顔に往来を眺めている郷士風の侍のささやきを聞くと、これはまごうかたなき高麗こま村の人々です。
 察するところ、永らく熱海へ行っていた月江が、次郎、おりんを連れて帰ることになり、その前ぶれの手紙を見て、ここまで折角迎えの乗物を用意して来たものが、何かの間違いで行きちがいとなって、待呆まちぼうけているものとみえる。
 そういう内容は分りませんが、話のうちに、御隠家というのをチラと耳にとめたので、万太郎ツカツカとその前へ寄って来て、
「あいや、突然失礼ではあるが、少々ものをおたずね申したい」
 と、こころもち笠を下げて、
「当所武蔵野の山尾根に、高麗村と申す部落がある由でござるが、絵図にも見当らず、詳しい方角も知らず、当惑いたしておるところ、お見うけすれば方々かたがたには、その地方のように察しられる。何と、御存知ならば道案内を頼みたいと思うが御承知下さるまいか」
「高麗村のだれをおたずねなさるのか」
「御隠家とか申す、狛家こまけの主人に会いにまいる」
「ふむ……?」
 と、一同は目と目を見合って、
「してまた、どういう御用向きで」
「先頃さる者が、目白の石神堂へ取落とした品、それを高麗村のお使いが持ち去ッたと聞いた故、取戻さんと存じました」
「その品物というのは」
「身にとって大切な、洞白の仮面めんと古帖一冊」
「ははあ? ……」
 そこでまた一同のひとみが、万太郎を何者かというらしく、期せずして、その風采と笠のうちを見廻しました。
「――もしや各※(二の字点、1-2-22)は、狛家こまけの御家士ではないか」
「左様、手飼てがい郷士ごうしどもです」
「どうやら、そうではないかとお見受けいたした。ならばもっけの幸い、ぜひ御案内願いたい」
「しかし、御隠家様は、めッたな者にはお会いにならんが」
「会わんと拒んでも、ぜひ、会って話されば相成らぬ」
「どこの馬の骨か素性の知れぬものをウカウカ連れて行って、もし、御隠家様にお叱りをうけては吾々の落度おちど、まず、この案内は御免蒙る。無駄足を覚悟で行くなら、一人でたずねて行かッしゃい」
 と、意地わるく横を向く。
 導く親切気のないものへ、敢てこれ以上に求めるところはありません。
「左様か」
 と、万太郎も少し片意地。
 道ばたの草のように高麗村の者を見捨ててサッサと歩み出したのは、これも涼しいしかたです。
 すると、あとに残った者達は、何か目まぜをしてヒソヒソとささやき合っておりましたが、不意に一人がバラバラと万太郎のあとを追いかけて来て、
「あいやお武家、高麗村へ御案内申すからしばらくお待ちなさい」
 と、呼び止めます。

「あいや、そう参っては方角が違う――」
 と、重ねて呼び止めた前の郷士、万太郎の振顧ふりかえる姿へ手招ぎして、
「先程申したのは戯れでござる、高麗村へおいでとあれば、どうせ吾々も帰りみち、一緒にまいって御隠家様へお取次いたすであろう」
「では、案内してやると仰っしゃるか」
「お易いこと、ちょうど乗物もあれにある、女用ではござるが……」
「いや、乗物まで頂戴しては恐れ入る」
「御遠慮には及ばん、どうぞあれへ」
「いや、かえってそれは」
 と、固辞していると、あとの郷士達が、もう例の女駕をそこへ運んで来て、
「さあさあ、どうぞこれへ、御隠家様をお訪ねとあれば屋敷のお客も同様、遠慮なく御使用下されい。それに空駕からかごで歩行いたすより、お乗り下すッた方がかえッて手前達の足取も調子がいいと申すもの。さあ、いざ」
 と一同が余りすすめるので、いなみもならず、万太郎、
「ではおことばに甘えて」
「どうぞ」
「御免」
 腰のものを手に抱いて、乗物の内へはいりました。
 ぷーんと、えならぬ香気がする。駕の中に香炉こうろがあり何かの銘木がべてあります。女乗物としてもこれはかなり贅沢なものじゃ――と万太郎は、それからおして、行く手の狛家こまけなるものも、定めし由緒ある豪家ごうかに違いあるまいと聯想しました。
 いつか、自分の身は浮いています。駕の簾戸すどから外を見れば、うららかな武蔵野の風物がゆるく、後へ後へと流れてゆく、
 と――その足取りもだんだんに早くなる。
 駕が早くなるにつれて、ギッギときしむ音、タッタとそろう郷士たちの足音、一つの調子をもって来て、万太郎の体は浪に揺らるる小舟の中にあるような感じ。
 それも、行く程に駆ける程に、※(二の字点、1-2-22)ますます、加速度となって、息をつくまもありませんから、万太郎はわが身の動揺よりも郷士の労苦を気の毒に思っている。
 森を見ました、八幡の鳥居を見ました、菜種なたねの花の路傍みちわきに小さい地蔵堂を見ました。朝鮮塚という石碑いしぶみの文字、杉の並木、一望の草の波、窪地、また岡――というふうに、奇趣なき平野の点景も様々に目まぐるしく流れ去りましたが、絶えて橋というものを越えません。武蔵野に少ないものは橋でした。
 もう、この駕は、何里を駆けたでしょう。
 いつか夕霞の薄いまくが、すべての物にかかっている。
 あれから二刻ふたとき
 としても、四、五里は一息に来たにちがいない。
 途中、駕側かごわき郷士ごうしが、肩を代えることは度々たびたびでしたが、休むということもなく、足取りのゆるくなることもありませんから、何を問う機会もない。
 乗物はまだギッギと飛んでいる。
 もみにもまれて、万太郎もヘトヘトになって来た様子です。
 どッぷりと厚ぼッたい夜がこめて来て、もう外には微光だも見えず、身は雲の中でも駆けているような目眩めまいをおぼえ出しました。
「おお、駕外かごそとの方々」
 遂に声をあげて呼びかけましたが、それも耳にははいらない風なので、
「あいや、しばらく」
 と、中でガタガタたたき初める。
 それも聞こえぬ様子です。
 駕は韋駄天いだてん――明るいうちよりなお激しく、怒濤どとうに乗せて行くように。
「あっ……これは乱暴な」
 身を浮かせた万太郎は、
「駕の者、静かに!」
 と、もう一度、怒鳴るが如く叫びました。
 返辞へんじはなく、その代りに、渦の中へ巻き込まれるように急にグルグル廻り初める。――そしてまた直線に、どことも知らず駆けだしてゆく。
 西へゆくのか、東へ向っているのか、もう方角も分らない。
「これは不都合千万」
 気がついたものの万太郎、もうどうにもなりません。
「待てッ。これッ。降ろせ!」
 わめけど、たたけど、無駄なことです。
 と思うと――にわかに体も乗物も坂になって、ふらふらと高い所へ差し上げられたような心地がして、その途端に、ゲラゲラ、ワハハハ、一斉に嘲笑う声と共に、
「それッ、高麗村に案内してやる!」
 とばかり、駕もろとも万太郎は、笹や灌木かんぼくの枝をザザザザザ――と摺って、高い岡窪地の底へ、ドウンと、勢いよく手を放されたものらしく、身は転々と転落して、その落着きを知りません。

 ややあって万太郎は、ハッと正気にかえった様子。
 意識を得て、彼は初めて、自分が幾刻いくときか、あのまま気絶していたことを知りました。
 そして、吾に回るや、
「ウーム、憎ッくい奴!」
 と、いきどおろしき呻きをもらしましたが、箱詰同様な駕の中、早速に、手も足も出たものではない。
 しかし、その駕があるため、あの高い所から転落しても、かすり傷一ツなかったのは一面の僥倖ぎょうこうでしょう。
 駕は苦もなく破れました。
 彼は脇差を以てメチャメチャに突き破り、乱鬢らんびんとなって這い出しました。
 地上に星がまたたいている。水があるなと歩み寄って、小さい泉へ身をかがめ、口をつけて美味うまそうに吸いこみます。泉に映れる星影が、万太郎の口へ幾つもはいったような風に見える。
 ついでに、脇差のこうがいをぬらし、びんの乱れをなでつけて、紋を直した落着きは、こんな場合にも、さすが尾張の御曹司おんぞうしです。
 と――その時、どこかでゆるい笛の音がする……笛につれて太鼓……太鼓につれて小鼓、大鼓おおかわ。さらにもつるるかねと笛とが面白そうな諧調を作り出します。
「や? ……」
 仰げば、そこは盆のくぼのような低地、一面の灌木におおわれて、自分の居所いどころも、皆目見当もつきません。
 ザワザワとその茂りを分けて、上へ上がッて見ると、夜は深沈たる武蔵野の渺茫びょうぼうです。
 見えました。
 まさに、そこから二、三丁先の草原に。
 火を焚いている一群の人影が黒く。
 笛、太鼓、かね
 そこで節面白く神楽囃子かぐらばやしをやっているのが、この深夜といい、平野の場所がらといい、何とも怪異で、あるいは、静夜の星光に浮かれて遊ぶ変化へんげの群かとも見えたのです――
「はてな?」
 万太郎は早足になって、
「将軍家の逝去、ために、天下は、鳴物停止なりものちょうじのこと、いかに草深い所の百姓でも、知らぬはずはあるまいに、あの人もなげな神楽囃子は? ――」
 と、好奇に駆られて、急ぎました。
 近づいて、物蔭へ、ソッと身を伏せてうかがいますに、黒い人数は六、七人、枯木や枯草をパチパチして、それへ酒とおぼしき湯沸しをかけ、茶碗を廻して野天の酒宴さかもり
「オイ、もう一つ稽古をつけてくれ」
 と、中のひとりが立っています。
「何をやろうか」
湯立ゆだちの舞」
「おっと、合点」
 ことばと一緒に、また野趣のある諸※(二の字点、1-2-22)の楽器が、一だん調子をそろえてはやしました。
 踊る、踊る、踊る。
 湯立ゆだち仮面めんをつけたひとりの男が、笹を持って踊りぬきます。
 その踊りと囃子を見ていますと、この人どもは心から、「あな面白や」と浮かれきって、ちょうど平安朝の頃の民が、自由民楽時代の土俗のように、世間かけかまいなく欲する遊戯に陶酔している風に思われる。
「うまい!」
 と、囃子の者が、あいの手の代りに、めました。
 踊っている男は図に乗って、
「どうだ、どうだ」
「やんや、やんや」
「うまかろうが」
「さすがに、ちっとも忘れていないな」
「根が器用な生れつきでござる」
「されば」
 と、狂言ことばで、笛吹の男がすぐに相槌あいづちを打つ。
「根が器用でござれば、神楽ばかりでなく、盗人の方も、都で聞こえを取りました」
「やい!」
 と、踊っていた男は、いきなり仮面を取って、
「お調子に乗って、つまらねえ冗談をいうのは止せッ」
 と、ムキになって怒り出した様子。
 やッと、――万太郎は仰天しました。
 仮面めんを取ったその顔は、確か、いつか釘勘と共に、石神堂で取逃がした曲者しれものに違いありません。
「オオ、貴様は道中師の伊兵衛! そこうごくなッ」
 と、大声に、吾を忘れておどり立ちましたから、伊兵衛は元より阿佐ヶ谷神楽かぐらの連中も、あっと、総立ちに仰天して、たれの気転か、酒やら水やらザッと燃え火へぶっかけるなり、てんやわんやに逃げ散りました。

 さて、話がかわります。
 ――例の馬春堂先生の身の上をちと伺いましょう。
 ぬる月の朧夜おぼろよに、銭瓶ぜにがめの穴から捕えられて、奇怪な侍に広野の果てへ引っさげられて行った先生。
 その後、あの長い顔が、息災なりや否や。
 を按じますに、まだ生きております。今、彼のいる地点は北武蔵野の一角、入間川いるまがわること遠からず、秩父から武蔵へ通う山境、鳥首峠とりくびとうげが遙か西の方に見られる峡谷の一部落。
 四鳥鳴き、花咲き、潺湲せんかんたる水音みずおとと静かな山嵐さんらん――、そして、機織はたおりの歌とおさの音がどこかにのんびりと聞こえている。
 高麗こまごう、高麗村。それはすなわち、ここでした。
 そこに、入間いるまへ落ちる渓流を前にし、青い峯をうしろにして、広やかな芝生の荘園を抱き、法然ほうねん作りの門構え、古風にして雅致ある南画のような邸宅がある。
 村の将軍様――というくらい。ふしぎな権力のある御隠家ごいんけの屋敷がそれです。
 そしてそこの、奥まった一室に、わが馬春堂先生は、長いあぎとの突端を抑えて、毎日ぼんやり暮らしていました。
 に易者の身の上知らずとは、よくいッたものだと、※(二の字点、1-2-22)つらつら自分でも感心している面持ちです。
 かれは今、自分が幸福に恵まれているのか不幸に呪われているのかも分っていません。これから先はなお分らない。そして現在の存在も一向ハッキリしていません。ただ、分っているのは、
(おれは、生きていることは生きてるんだろうな)
 という事だけです。
 そこで目をパチパチさせて、庭を見たり、窓から首をのばして見たり、天井を眺めたり、床の間のふくに向ってみたり、たまたま見つけた天陽虫てんとむしに頬杖をついて話しかけて見たくなったり……
 すこぶる退屈のていたらくです。
 逃げたいにも逃げられないこのの構造、こうして生きているのも楽ではないが、折角助かった命を無駄にしてはならないのは、なおさらのこと。
(いったい、おれを、どうしてくれるつもりなんだい!)
 怒鳴ってみたくなりましたが、そんな勇気もありません。
 そこで馬春堂は、このこま家の一室にほうり込まれた当時から、退屈まぎれの後々のちのちのよすがにもと、半紙を四つ折にじて書きためた自分の日記をくりひろげて、
「……もうこんなになったかなあ」
 と、日数を先に勘定して、また書出しの方からボツボツ黙読しはじめましたが、
「ウーム……自分で読んでも、これはなかなか面白い、一つ、江戸へ帰る日があったら、これを版木にかけて、書屋ほんやから出してやろうかな。――売れるぞこいつは。これは読本よみほんとしても随筆としても事実話としても面白い。実際自分が出会ったことだからな」
 こういう時に、助かるものは空想です。
「版にして出すとしたら、書名をなんとけようか。馬春堂怪遊綺譚ゆうきたんか、まずいな、桃源とうげん夢物語、とすると人がほんとに思うまいし……武蔵野あやし草、これも面白くない、いっそ、馬春堂日記、ふん……それでもいいな、梅花堂流の易学者馬春堂先生、文筆ぶんもなかなか立ちますぞなンて、一ぺんに、名は売れ出すし、洛陽らくようの紙価ために一時に高し……」

 ――ところへ、郷士風ごうしふうの男がふたり、一人は膳を持ち、ひとりは銀の銚子を用意して、杉戸の口から現れ、
「お客人、さだめし御退屈なことでござろう」
 馬春堂は起き上がって、あわてて行儀を直し、天神髯てんじんひげしながら、
「おや、もう御飯時ごはんどきですかな」
「山家のこと、いつも珍しい御馳走もございませんで」
「今、朝飯を頂戴したと思っていたら、もうお午、これで、またすぐに晩飯。イヤハヤ、食べてばかりいるようですテ」
「どうぞ、食べるのが仕事と思って、御遠慮なく、あれをくれ、これを食わせろと仰っしゃって下さい。さ、御一こん
 と、杯をすすめ、銚子を取る。
「やあ、三度三度、こうして結構な美酒と御馳走、夢のように覚えますな」
「ちと、おぬるくはござらんか」
「イヤ、ちょうど頃合」
 と、舌鼓したつづみを打って、
「ウーム、実に芳醇ほうじゅん御酒ごしゅだ」
「酒はお好きとみえますな」
「至って好物」
「御隠家様のお心添えで、今日からは量を増しました故、この世の名残りにたっぷりとお過ごしあれ」
 郷士の口裏に、ちょっと変な意味が挾まりましたが、酒の甘味うまみに気をとられていて、さりとは気がつかず馬春堂先生、
「いや有難いおことば」
 と、お目出度く額をたたいて、
「ならば今日こんにちは、ゆるりと頂戴いたそうかな」
「どうか、お心おきなく」
「しかし……」と、ソロソロこの辺から陶然とうぜんとほろ赤くなって、
「まだお目にもかからんが、御隠家様の指図で、今日きょうから酒の量を増して下さるというのはどういうわけかな?」
「少しばかり心祝いのお印しに」
「ほほウ……およろこび事か」
「左様。永らくお留守であったお嬢様が、久しぶりで今日きょうあたりはお帰りになるはず」
「どちらへ行っておられたので」
「熱海へ御保養に」
「じゃあ、御病身とみえる」
「至って御丈夫に見えますが、どうも御当家のお血統ちすじには、代々、女の方が夭折わかじにと極まっているので、御隠家様にはそれのみが御心痛なので」
「ふうん……女が夭折わかじに血統ちすじ? ……するとつまり、何か、遺伝とやら申して、よくない病気が伝わっているものに違いない。やれやれ」
 と馬春堂は、いつかお酌を待たず手酌になって、ここでまたチビリ、チビリと杯を重ねてから、
「御当家の息女とあれば、さだめし美人でいらっしゃいましょうな」
「お美しいことも代々でござります。これで御病気の遺伝がなければ申し分はないが、世の中はままにならぬもので」
「しかし夭折わかじにと言っても、およそお幾つぐらいまでは? ……」
「たいがい、二十四、五歳におなり遊ばすと、枯れるが如く亡くなられる。それが、系図を拝見しても、狛家こまけ数十代の間、連綿と、判で押したようですから不思議でござる」
とう狛家という家柄は、そんなにお古い系図かな?」
「大して古いという程でもないが、今よりザッと一千年前の霊亀れいき年間から、この武蔵野にお住居すまいなされておる」
「それは大変な旧家だ。江戸にしてもまだ家康公開府以来二百年とはならないのに、一千年も前から武蔵にお住居とは驚きましたな」
「ところで、当代の月江様つきえさまは、御隠家様のお孫にあたるが、今ではお血統の一粒種、ほかにお子様もないところから、ひどく御心痛遊ばしている」
「なるほど、それはお大切だいじなわけ。そういう御旧家であってみれば、何か、夭折わかじにをしないような、家伝の名薬があってもよいわけだが……」と、馬春堂は、自分も狛家の家族になった気で、
やまいの遺伝は厄介なものと聞いておるが、何かその、今のうちに、御工夫がありそうなものではございませんか」
「それに就いて、御隠家様には、まだ月江様がお小さいうちから、ほとんど十幾年の間、本草書類や伝家の古書を渉猟しょうりょうして、その夭折わかじにの病源をたずね、やっと、一つの奇薬を見つけたのでござる」
「おお。では今日に至っては、その御心配もとれたわけか、やれやれそれで手前も安心したが、してそれに利く名薬は何でございますな?」
「あは、は、は、は」
 と給仕の郷士が、急に腹を押えて笑いこけたものですから、馬春堂は怪訝けげんな顔を作って、
「何をお笑いなさる」
「イヤ、こっちの事で。まあもう一献どうでござる」
「わしは今、お嬢様の夭折わかじにに利く名薬は何かとおたずねしましたので」
「ああ、左様でございましたな」
「何ですか、それは?」
「その薬法でござるか」
「その薬は」
「……じゃあお話しいたすが、実はその薬になる物というのは、お手前の生きぎもじゃ」
「えっ……」
 と息を止めた馬春堂の顔の長さは見ものです。

 人胆じんたんがある種のやまいに奇効があるということは、漢書でも見たことがあるが、現在の自分が生きぎもを抜かれるために飼われているのだと聞かされて、馬春堂は、あっと色を失いました。
「おからかいなすッてはいかん。生き胆を取るなんて、冗談にも程がある」
「まあ、そうお怒りなさらないで」
「人を……人を馬鹿にしている」
「ごもっともでござる。まあ、こうなったのも、貴殿の運命と達観して、もう一献いっこんお過しなさい、お酌いたそう」
「もう沢山ですわえ」
「御酩酊なされたか、じゃ、御飯をおつけ申そうか」
「飯も食いたくない」
「それは困る……折角今日まで美酒佳肴かこうをさしあげて、貴殿の精をよくしておいたのに、今になってお食事が細ると、貴殿の人胆の効目ききめがうすくなる。まあ長い御丹精はお願いしませんが、もうここ二、三日のところ、せいぜい美食をしていただきたいもので」
「じゃあ……」と馬春堂の厚い唇がワナワナとふるえて、
「わしの生き胆が入用なために、ここへ捕えて置くというのはまったくなのか」
「今日までおかくし申していたが、貴殿はこれでちょうど四人目。御隠家様のお心として、いかに月江様のお生命いのちが大切じゃとて、罪なき人の生き胆をとるのは余りにむごい為業しわざ、何かよい工夫はないかとお考えの末に、あの石神堂の穴が思いつかれたのです」
「? ……」
 馬春堂は、なるほどとも申しません。
 もう酒の気もどこへやら。
 給仕の郷士は、あらかじめ覚悟をさせて置くように、人胆の由来と犠牲者に選まれた理由を述べ、因果をふくめるつもりでしょうが、馬春堂の身になってみれば、聞きたくもあり聞きたくもなしで、もう半ばは生ける心地もないでしょう。
「――そこであの銭瓶ぜにがめの穴は、貴殿もよく御承知の通り、落ちたが最後出られません。そんな所へ、なんで酔狂に落ちる人間があるかというと、石神様の賽銭盗みが時々引っかかるので、いわば神罰と見なすべき奴――、そういう人間ならば、司祭者である狛家として、それを成敗いたすのは当然、なんの仔細もあるまいというので、あの武蔵野にある各所の石神堂に、生き胆をとるべき人間のわなに懸るのを待っているのじゃ」
「あ……」
「つまり貴殿はその一人」
「ま、ま、待って下さい」
「もうここへ参った以上、泣いても喚いても無益でござる」
「……お助け下さい」
 馬春堂は、にわかに立ったり、すわったりして嘆くが如く泣くが如く、わけの分らぬ事を叫んで、グルグル部屋の中を廻りはじめましたが、給仕の郷士ふたりは、素早く酒器や膳を下げて杉戸の口へ、例のとおりピンと錠をかけたきり、二度と姿を現しません。
 馬春堂の桃源夢物語はさめました。もう日記どころではない、空想どころではない。頬杖ついてあごを長くしているどころの騒ぎじゃない。
 何ぞ知らん、ここへ来てからの御馳走は、生き胆の精をつけるためであり、下へもおかぬもてなしは、胆薬たんやくの材料とする自分をして、いい気持に油断させておく方法でありましょうとは。
「もうがないといったぞ、もう二、三日のうちだといったぞ。ちぇッ……一体どうしたらいいんだ、この馬春堂」
 さんざんもがき疲れた末に、どっかりと腰を折って坐りこみましたが、ふしぎに涙も出てきません。
 すると、たった一つの明り取りの窓から、ひょいと、見なれぬ者が眼だけ見せて、
「馬春堂」
 と、小声で呼んでは首を引ッ込め、またしばらくすると、
「オイ、馬春堂」
 と、首をのばしている。

 明り取りの小さな窓から、馬春堂馬春堂と小声で呼ぶ者があるので、かれは飛びつくようにそこへ寄って、
「オオ、たれだ」と、人恋しげにはずんで言うと、外の男は、
「しッ」
 と手を振って、辺りを見廻しながら、
「おれだよ」
 と、豆絞まめしぼりで包んだ顔を寄せてくる。
「やッ、伊兵衛じゃないか」
「どうしたえ、先生」
「ウーム、来てくれたか。伊、伊兵衛、来てくれたのか……」
 と馬春堂は茫然となった後に、地獄で仏、感きわまったもののように、水やらはなやらポロポロとこぼし、
「どうもこうもない、一刻も早くこの死地を逃げ出さなければならないところだ。早く、おれをここから助け出す工夫をしてくれ」
 と、拝まんばかりの哀訴です。
 そのていを眺めると、ふだんはドジだの半間はんまだのと馬春堂を道具に使っている道中師の伊兵衛も、少し哀れを感じたように、
「あわてちゃいけねえ、おれがここへはいり込んだからには、屹度きっと、どうにかして連れ出してやるから、気を落着けて、狛家こまけの召使いなどに覚られねえように、わざと、神妙に作っているのが肝腎かんじんだぜ」
「有難う、有難う、じゃりおれの安否を気遣って来てくれたのか。……伊兵衛、今日のことは忘れないよ、持つべきものは友達だ」
「何を言ってやがるんで、はなでもかめよ、きたならしい」
「だが、どうして、おれがここに居るというのが分ったのだ。何だか夢みたいな気がしてしようがない」
「あの後の成行なりゆきは、目白の近所で、ぼつぼつ様子を探って来たんだが、まさかおめえの体が、生き胆の薬にされようたあ夢にも気が付かなかった」
「じゃ、今の話も聞いていたのか」
「声を出して笑えばバレるから、おら、この下で、腹を抑えて我慢していた」
「ええ、人の気も知らないで、何がおかしい事がある。出してくれ、後生だ」
「ところが、此家ここへは阿佐ヶ谷神楽かぐらの連中という触れ込みで来たわけだ。向うの離亭はなれにゃ、まだ四、五人の連れもいるし、何しろ構えも厳重だから、しばらく様子を見た上でねえと、とても此処は逃げ出せめえぜ」
「そんな気永きながを言っては困る、今、馬春堂は命旦夕たんせきに迫っておる……」
「なあに大丈夫、まだおれだって、十日や二十日は御滞在遊ばすつもりだ」
「よしてくれ、おれの方は、もう明日あす明後日あさってがあぶない命だ」
「その時にゃ、またどうかならあな、いいかい、くれぐれも血迷って先へ気取けどられちゃあいけないよ」――と別れようとすると、
「おい伊兵衛、伊兵衛、待てよ伊兵衛……」
 馬春堂はわれを忘れて、思わず泣き声を上げかけました。
 しかし、一方はそれに耳も貸さないで、真っ赤に咲いた躑躅つつじや八ツ手の間をこぐり、庭の奥へと素早く影をくらましてゆく。
 一時は情けない気がして、かれは伊兵衛の不人情を恨みたくなりましたが、考えてみると、かれにも何かの都合があろうし、自分の無二の者が、ここへ化け込んでいるかと思うと、最前よりは遙かに心強いわけです。
 それからのち、その明り取りへ首を出して、外の気配にばかり神経をとがらしていますと、やがて陽ざしの七刻ななつ近い頃、狛家こまけの召使いや数人の郷士たちが、
「お嬢様のお帰りじゃ」
 とざわめき立つと、母屋おもやからフラフラと駆けて出て法然門ほうねんもんの両側へずらりと出迎えに並びました。

千蛾老せんがろう久米之丞くめのじょう


 藤棚の藤の花もゲッソリと散り細ッて、ちんの四角い地上だけが、紫白の絨氈じゅうたんを敷きのべたようです。
 唐焼からやき陶物床几すえものしょうぎに、ここの御隠家ごいんけ様なる千蛾せんが老人はゆたりと腰を休めて、網代あじろ竹の卓のうえに片肱かたひじせ、
久米之丞くめのじょう、おまえも、月江に会うのはだいぶ久し振りじゃろう」
 と、その人をひきつける童顔に目じりを細めて、銀を植えたようなひげの先を指でまさぐりました。
「左様でございます。何しろ、熱海あたみへおいでになる前には、拙者が旅中でございましたから、あれ以来とするともう半年近くに相成ります」
 たくをはさんで、窮屈そうに前にいる男は、この裏山の背村せむらに住む、関久米之丞せきくめのじょうとよぶ旧家の郷士。
 久米之丞は醜男ぶおとこだが腕が強い。
 いかにも武蔵野育ちらしい野性と精悍せいかんさをその顔骨にあらわして、長い朱鞘しゅざやと何流とかの剣法は彼の得意としているところ。
 年はまだ三十になるまいが、粗野な性格を無理に抑えて、もっともらしい会話をしながら、一言一句にも、千蛾せんが老人の信用をうることを忘れていません。
 ことに。
 月江や次郎が留守のうちは、一日置きに、この狛家を訪れて、御隠家様の千蛾老人の機嫌をとり結び、何かの相談にもあずかるので、自然今では、召使いをはじめ彼自身も、ここの家族同様な気持でいるらしい。
「ウウ……もう半年も会わんか」
「入湯のこうで、定めし、見違えるほど御壮健になったことと存じます。何と申しても人間は健康第一、これでなくてはいけません」
 と、黒鉄くろがねのような、自分の腕をたたいて見せる。
「久米之丞様は、相変らず人斬りがお好きかなどと、月江も、よくあちらからの手紙の端に書いて来おッた」
「やあ、それではいかにも殺伐さつばつな人間のようで……」と、武骨に頭へ手をやったが、またうれしそうに、
「それなのに、拙者は、月江様が入湯中も、一向ぶさたばかりしておりました故、今日はキッとお怨みをいわれるやも知れません」
「それはいかん、なぜ手紙をやらぬのじゃ。旅先では知人の手紙ほどうれしいものはない」
「気はついておりましたが、ちょうど、拙者と月江様とは人目うるさい年頃……もし御隠家様のお目でも忍ぶように噂されてはなるまいと思って」
「は、は、は、は、気の小さい奴じゃ。まだお前にも若者らしい正直さがあるのじゃな」
「まったく、この一本気の正直なために、よく友人などにも誤解をされましてな」
 と、久米之丞は妙にソワソワしたり、またひとりで顔をどす赤くしたりして、
「御隠家、ちょッと、中座をいたします」
 と、立ちかける。
「どこへ行く」
「とにかく、一応月江様に、御挨拶だけを済ましてまたここへ戻ってまいります」
「まア、よい」
 と、老人は眉で抑えて、
「月江も今屋敷へ着いたばかり、疲れてもおろうし、支度もかえねばならぬ。――何かの事がすんだらここへ来るようにと申してあるから、お前が行かなくとも、やがて、ここへ見えるであろう」
「でも」
「まあ、そこに掛けていなさい」
「べつに御用事もないふうですから、とにかくちょッとあちらで」
「いや、用事がないどころじゃない。あればこそ、わざわざ人を遠ざけて、ここにお前を呼んだのだが……」
「はあ、何か?」
「ウム、これを読んでみい」
 と、千蛾老人はふところから一冊の古びた綴本とじものたくの上へさし向けて、
「先頃、かの洞白どうはく仮面めんと一緒に、こういう思いがけないものを手に入れた。……どうじゃ久米之丞おまえはこれを何と見る?」
「ははあ? ……」
 と、久米之丞は渋々ながら浮腰をおろして、初めはお役目に一、二枚拾い読みしておりましたが、いつか、その中の奇怪な文字の魅惑に、われを忘れて引きこまれてゆく顔つき。

 それは洞白の仮面めんと一緒に、千蛾老人の手へ渡った、かの「御刑罪おしおきばてれん口書くちがき」の古冊です。
「ウウム……」と久米之丞、初めは渋々でしたが、深く読み入ると、いつまでも手から放そうともせず、
「御隠家様!」
 と妙に力を入れ込んで、
「一体かようなものが、どうして世上にあるのか、これはどうも、実に不思議千万で」
「どうじゃ、お前も意外に驚いたであろう」
「これによって祭しますと、慶長以来より、御当家数代の方がかかッて尋ねている、羅馬ローマ国の短刀をほかにも探している者が数多あまたあると相見えますな。――しかもその来歴をつぶさに書いたこの口書が、転々して御隠家様のお手に這入はいるは、まったく不思議な巡り合せで」
「わしも因縁の奇なるに一驚をきっした。しかし、こういう物が世上にもれているとすれば、あの方のことも悠長に構えてはおられない。これは当家に取ってもいい刺戟じゃ」
「仰せに相違ございませぬ」
「久米之丞、お前もせいぜい骨を折って、一日も早くあの短刀を尋ねてくれ」
「承知仕りました。だんだん捜査の端緒も見えております故、今に必ず尋ねだして御覧に入れます。……が、御隠家様」
 と、久米之丞は抜かりのない目つきをして、ギシッと網代竹の卓を押して来ました。
「む……何じゃ」
 と、千蛾は「ばてれん口書」をふところに入れて、こころよく髯をまさぐる微風に目を細めています。
「……もし、何でございましょうか」
「もし、何じゃ?」
「その夜光の短刀を、拙者が尋ねてお手元へ差上げましたなら」
「ふム」
「つまり、由緒ある御当家には、御不幸にして、跡目をつぐ男子がございませぬ」
「何をいう。分らんの」
「いや、その……」と久米之丞は、ヘドモドしながら、ここ懸命になって、
「押しつけがましゅうござるが、拙者と月江殿をお娶合めあわせ下さること、お許し願えましょうか」
「お前が夜光の短刀を探して来たらというわけじゃな。つまりそれを功にして」
「はっ、御意で」
「月江がほしいか」
「面目次第もない儀でござるが」
「あ、は、は、は、は」と千蛾は笑って――
「何もそう面目ながることはない。わしの目を盗んですることなら許さんが、夜光の短刀と取換えの約定で、堂々と、月江の婿になりたいという申込み、イヤ面白い、いかにも約束いたしてやろう」
「えっ、ではおゆるし下さいますとか。それで一段と骨折り甲斐もあるというもの、有難くお礼申しあげます」
「これこれ久米之丞、その礼はまだ少し早かろう。わしの先代も、その先々代も、生涯かかッて尋ねながら遂に探し得なかった夜光の短刀。間に合うかな? 月江が若い間に」
「自信がございます」
「ほう……」
「慶長の昔、この武蔵野にさまようて来て、御当家にもしばらくとどまり、その、夜光の短刀を持っていずこかにて世を果てた、ピオと申す羅馬ローマの貴人の足跡を、やっとこの頃、少々さぐり当てたことがございますので」
 と、久米之丞がなお話にを入れかけていると、ザワッと風もないのに怪しい音。
 ふと、ことばを切って、二人がそこの陶物床几すえものしょうぎから立ち上がって見ると、ちんのうしろの山吹が微かにゆれていて、真ッ黄色な花の粒がまだホロホロとこぼれている。
「たれじゃ」
「猫ではございませぬか」
 と見廻していた久米之丞は、突然、顔じゅうに笑みをくずして、
「やあ、お嬢様が」
 と、落着かない挙動となる。
 なるほど、それへ見えたのは次郎を連れた月江です。衣服をえて久し振りに、屋敷の湯につかって化粧けしょうを改めた月江の姿は、今旅から帰った人とも見えず、久米之丞にはまぶしすぎる。
「月江、おまえか。今そこの山吹のうしろで何かしていたのは」
 と、顔を見るとすぐに、千蛾老人がこう尋ねましたので、月江も次郎も不意をうたれたように、
「いいえ」
 と顔を見合せています。
「たれだろうか?」
 月江でも次郎でもないとすると、そこの山吹の蔭で、今、二人の密話をぬすみ聞きして逃げた者がほかにあるに違いない。
「おかしいのう……」
 と、千蛾せんがは眉をひそめましたが、久米之丞はもうそんな事にこだわりなく、
「さ、月江殿こちらへ」
 と、自ら床几しょうぎの位置を直して、彼女の瞳を待ちましたが、月江はそれへ一べつも与えず、千蛾のそばへ寄って、
「お祖父様じいさま、ただ今帰りました」
「おう」と、久し振りの孫娘へまなじりを細めて――「どうじゃッたな、熱海は」
「ほんとに面白うございました。日金峰ひがねへ登ったり、海辺へ出て見たり、飽きると次郎やおりんと投扇興とうせんきょうをしたりして」
「そんな事をきくのではない、体の工合はどうか、入湯の効目ききめはあったかと問うているのじゃ」
「――でもお祖父様、私は元より丈夫でございますもの」
 と、顔に触った藤蔓ふじづるを指に巻いて引っ張ると、散り残りのもろい花が老人や久米之丞の頭へ面白くこぼれました。
「ホ、ホ、ホ、ホ」
 背中へ手を突ッ込んでかゆがッている久米之丞を見て、月江はこう笑いこぼれながら、また千蛾の方へ甘えるようなことばで、
「私は元からこの通りすこやかなのに、お祖父様じいさま、どうして、そんな事をおたずねなさいますの」
「ウム、ウム」と、千蛾は前言を取消して、うっかり口をすべらした病気のことを、かの女の気に病ませまいとしてあわてながら、
「そうじゃ、そうじゃ。熱海へ行ったのは何も病気の為ではなかった」
「ええ、私は毎年まいとし、ただ遊びに行くんですもの」
「面白かったらそれでいい。イヤ結構結構」
「来年はお祖父様も、きっと一緒に参りましょうね。この武蔵野には海がありません、お祖父様は海を御覧になったことがありますか」
 さっきから話の仲間に這入はいり得ないで、てれた顔をしていた久米之丞、
「海はようございますな!」
 と、突拍子とっぴょうしもない声で、自分の存在を誇示するように、
「武蔵野にすすきの伸びる頃もいいが海のおもむきもまた格別。来年はぜひこの久米之丞もお供致しましょう」
「あら」
 と、初めてその人間に気がついたように、
「久米之丞様におすすめしているのではありませんよ」
「これはきつい御挨拶」
 千蛾老人は突然上を向いて哄笑しました。
 そこへ小間使いのおりんが馳けて来て、
「お嬢様、あちらの芝生へいらっしゃいませんか」
まりは?」
「ここに」
 と、たもとの中に抱いているかわ蹴鞠けまりを見せますと、月江はすぐにちんの外へ走り出して、いつの間にか見えなくなった次郎の姿を探しながら、荘園の広場へ向って蝶のような姿をひるがえして行く。
「蹴鞠をなさるのでござるか、月江殿、月江殿」
 と、それにつれて久米之丞も、あたふたと立ちかけますと、
「ああこれこれ」
 と、千蛾老人はその出鼻を呼び止めて、
「お前にもう一つ厄介な頼みがある。そろそろ風が薄寒くなったから、奥の座敷へ来てくれんか」
「はっ」といったが、久米之丞はうらめしそうです。
「まだ何かほかに御用が?」
 と、不承不承。
 こう御隠家様の信用を取りすぎるのも好しあしだわい――と思いながら、月江の去ッた方をまだ眺めていますと、ポーンと快い音と一緒に、蹴上げられたまりが若葉の上に高く見えます。

 暮れのこる卯の花に、もうこの山里では時鳥ほととぎすの声が聞かれます。
「えっ、※(「やまいだれ+亥」、第3水準1-88-46)ろうがい? ……」
 と、奥の一間からびッくりしたような人声。
 そこに対座して夕刻から、何かヒソヒソと囁いていたのは千蛾とせき久米之丞の二人です。
 淡墨の絵襖えぶすまに、高脚たかあし切燈台きりとうだいの灯が静かにまたたいて、黒い艶をもった柱、古色をおびた天井、つぶし貝が星のように光る砂壁など、いかさま千余年来の旧家と思われる落着きです。
「月江殿には不治の癆※(「やまいだれ+亥」、第3水準1-88-46)であると仰っしゃいますか」
 久米之丞は、もう一度こういって、千蛾へ膝をつめ寄せている。
 かれが、行末は自分の妻と、深く思いきめている月江の血のなかに、※(「やまいだれ+亥」、第3水準1-88-46)ろうがいという怖るべき不治の業病が潜んでいるということは、今――たッた今ここで初めて、御隠家自身の口からぶっつけに話されたのですから、久米之丞がわが事以上に愕然がくぜんとしたのも無理ではありません。
 だが、また。
 そんな虚言を構えて、自分に断念させようとする千蛾の腹ではないかとも思って、少しひがみを持ちながら、
「仰せではござるが、あの健康そのものの月江殿が、癆※(「やまいだれ+亥」、第3水準1-88-46)なんて、そんな御病気であるはずはございますまい」
 と開き直りました。
「ウム、まだその兆候ちょうこうは見えていないが……」
 と、老人は憂色を声にあらわして、
「ほっておけば、やがて、あの縹緻きりょうがいよいよ美しくなると共に、やがて、血を吐いて死ぬ!」
 と、いい切りました。
 久米之丞は、こはしからんという風に肩を張って、
「な、なぜでござる」
「それが、癆※(「やまいだれ+亥」、第3水準1-88-46)の特徴じゃからしかたがない」
「しかし、まだ病気の兆候も見えないうちに、なんで月江殿の運命が、左様に呪われたものといい切れますものか」
「それは、狛家こまけの系図が示している」
「はて、不審なおことば」
「お前は他家の者ゆえ、そこまで深刻に考えついておらぬかも知れないが、わしに取ってみれば、もうあの月江は一つぶ種、何よりそれが案じられておるのじゃ。……当家の系図が示すところによると、代々、不思議と女が夭折わかじにしておる。それもみんな美しく生れて、美しい盛りに血を吐いて! ……」
「血を吐いて?」
 と、鸚鵡返おうむがえしにつぶやいて、久米之丞は暗い色をその顔にただよわせる。
 千蛾はしんみりと語をついで、
「しかし、不治のやまいといえ、する薬法のないことはあるまい。わしは月江の病を未発になおすと共に、彼女あれの代で、狛家こまけのいまわしい遺伝を根絶やしにしなければならないと考えた」
「なるほど」
「その為、あらゆる漢書和本をあさッて見たが、これはと思う物もなかった。で、一度は断念して、月江が美しく育つのをただ怖ろしく眺めていたが、そのうちに、わしの猟奇癖りょうきへきが例の夜光の短刀の方へ移って行った」
「あのお話なら、この久米之丞も、前から御相談にあずかっておりました」
「ウム。だがお前はどうしてこの狛家こまけ代々の者が、そういう物を尋ねて来たか知っているか」
「さあ、その辺はどうも……」
「今日はその由来を話そう」
 と、老人は燭をる。
 いつのまにか、不治の遺伝の話が、また夜光の短刀のことに変り出して来たので、久米之丞は、
「はあ」
 と、答えましたが聞き骨の折れる顔をして、さっぱり気が乗らないふうです。
「ピオと申す異国人があった」
 千蛾老人は目を閉じて語り初めます――
「慶長の当時、上方の戦乱や、異教迫害の火の手に追われて、この武蔵野へのがれて来たのじゃ。ピオは羅馬ローマの貴人で、かの国では王族の一人であったそうな。そして、永らくこの狛家にかくまわれていたが、やがて、江戸城にも新将軍秀忠が移り、この地方にも諸侯の制度がきびしくかれてきたので、当家に潜伏していたピオは、狛家にるいを及ぼしてはならぬと、ある夜、無断で抜け出したまま、遂に、その行方も死所もわからずになってしまった」
「それが、夜光の短刀の持主でございましたな」
「そうじゃ」
「その時、彼がその短刀を持っていたのは、事実でございますか」
「わしが伝え聞いているところによると、ピオは、自分の命をとられるよりも、その短刀が人の手に渡ることを怖れて終生逃げ廻っていたらしい。だから、後世になればなる程、その所在ありかが分らぬはずじゃ」
「それをまた、御当家の方が、幾代となく探しておいでになるには何かそこに、深い理由がございましょうな」
「ある! それはピオとの約束じゃ。――ピオは当家の祖先の者へ、ある年限を過ぎさえすれば、羅馬ローマの国も自分たち王族の天下になるから、その頃になったら夜光の短刀を羅馬ローマ王庁へ送ってくれと頼み、またこッちもそれを誓ってやった」
「不覚でござるな。それくらいならば、夜光の短刀を御当家へ預けてゆくなり、また何か、かくし場所に目印をしておけば、こんな苦労もない訳でございます」
「それ程大切がっていた品ゆえ、生ける間は、手放すことが出来なかったのは異国人として無理の無い気持じゃろう。……ところが、まことに偶然なわけで、わしが月江の短命を苦にして、その薬法を究めるため、先頃、また気まぐれに書庫をかき廻していると、そのピオが当家に残して行った手廻りの品が見つかった」
「ははあ、ピオの遺物かたみでございますか」
「中にピオが日本で耶蘇会堂やそかいどうを建てた時の用意として、蛮書や漢書から写し取っておいたものと思わるる病者救治の秘方が一冊あって、何気なく、その漢訳されている個所だけを拾い読みしてまいると、偶然、※(「やまいだれ+亥」、第3水準1-88-46)必治ろうがいひつじの処方が立派に記されてあるではないか」
「な、なるほど!」
 と、久米之丞は、ここで月江の病気と結びつく話の前提だったのかと、にわかに生き生きした調子でうなずきました。
「して、その薬法はどういう秘伝でございますか」
「人の胆血たんけつを根本とする」
「胆血?」
「わかりよく申せば人間の生きぎも。――それへピオがまたこう書き添えてあるのじゃ」
「ふム」
「――漢方の胆血に加うるに、余のもてる鶏血草けいけつそうの根を以てせば、この地にて癆※(「やまいだれ+亥」、第3水準1-88-46)と呼ぶ肺器の病はいえざることなし――と」
「しかし御隠家様、鶏血草などと申す植物が、この日本にありましょうか」
「ある!」
「拙者は初めて耳にいたしますが」
「今もいったとおり、それにピオが、余の持てる鶏血草の――と書いている。してみればかれがその薬草の種を日本へ持って来たことは明らかなわけではないか」
「いかにもな!」
「のみならず、ピオは生前に当家の者へ、自分が終った所には、必ず鶏血草がさいているであろうと話していたそうじゃ。――察するところ、その鶏血草の花こそ、ピオの墓じゃ、夜光の短刀のもれてある場所じゃ」
「ウーム、鶏血草の花……ピオの墓……夜光の短刀……癆※(「やまいだれ+亥」、第3水準1-88-46)の薬草」と、久米之丞が首をかしげてつぶやくのを、老人は軽く話を笑い納めて、
「そう複雑に考えるからいけない。お前が見事、夜光の短刀の所在ありかをつき止めさえすれば、同時に、月江の秘薬も手にはいるし、そちの望んでいる月江の体も、久米之丞の妻として、お前のものになるわけじゃ」

裸馬はだかうま


 ふと、ふすまの向うでするきぬずれの
 密談のあとで、何か耳打ちをしていた御隠家様と久米之丞が、あわてて身を離すと次の間の外で、
「お祖父じいさま」
 と、開けないままの声がする。
「おう、月江じゃの」
「ハイ、まだお居間へ這入はいってはいけませんか」
「ウ。……ム、いやよろしい、おはいり」
「もうお話はおすみ遊ばしたのでしょうね」
 最前からそこの話が、余り永々としめやかだったので、少しヒガんでいる様子です。
 その時、御隠家自身が何となくハッとしたのは、月江が今の話をそばで聞いてしまったのではないかという疑念でした。
 久米之丞の粗野な神経には、そんな心配もひびかぬらしく、月江と知るとにわかに陽気づくッて、
「水入らずのこの部屋に、なんの遠慮がいりましょうか、さ……」
 と、自身立ってふすまをけ、
蹴鞠けまりをしておいでの様子ゆえ、わざとお呼びせずに控えておりました」
「だってもうとッくに日が暮れておりますのよ」
「なるほど、いつのまにか燭台が来ている」
 月江は、ツンツンとして坐りながら――
「久米之丞様」
「はっ」
「何をここでお祖父じい様と話していたんですか。あんなに永く」
「その……やはりあなたのことで」
わたしの悪口?」
滅相めっそうもない。――久しぶりでお帰りなされたこと故、今夜は何をして慰めてやろうかというような話を、御隠家様に申し上げていたところです」
「そうそう」
 と、千蛾せんが老人も調子よく相槌あいづちを打って、
「いいつけて置いた酒の支度はどうしたものじゃ」
 と、手をたたいてそれをかせ、また思いついたように、
「オオ、じょうの慰めにはよいものがある。久米之丞」
「はっ」
「あの奥に泊めてある阿佐ヶ谷村の神楽師かぐらしども、田舎能いなかのう真似まねほどはするであろう。あれをここへ呼んで、笛、小鼓。わしも舞おう、月江もうたえ」
「春の名残なごり、それは一段と面白うございましょう」
じょうが帰った心祝いじゃ。今宵は召使いたちも遊ばしてやれ」
「では、早速」
 と、久米之丞が呼びに立ちかけますと、月江はそれをとがめるように、
「お祖父さまは、こんど将軍様御他界で、鳴物停止なりものちょうじになっている世間のことを、御存じないのでございますか」
「いや、それは、こんな山奥にもお触れがあったよ。だから当家でも、折角催すつもりであった石神祭りの仮面納めんおさめも見合して、わざわざ雇った神楽師どもも、ああして無駄に遊ばせてあるのじゃ」
「内輪だけのことなら、何も苦情はござるまい。それにこの山間の広いお屋敷、世間に聞こえるはずはなし」
 と、久米之丞は独りぎめに立って、何かの指図を急ぎ初めました。
 支度はやがて、べつな広間。
 五、六十畳も敷かりましょうか、正面の九尺床には、偉なる高麗焼こまやきの大花瓶に一個の梵鐘ぼんしょうが釣ってあり、また、銀の大襖おおぶすまにつらなる燭台の数は、有明ありあけの海の漁灯いさりびとも見えまして、さしも由緒ある豪族の名残はここにもうかがわれる。
 ならびました。人々、席順に。
 まず、御隠家様の千蛾老人、無論正面をうしろにしまして。
 そばには、月江。
 がッて小間使いのおりん。
 左には関久米之丞。
 以下は家の子たる高麗村郷士の者たちで、はるか末席の殿しんがりとして、例の次郎がちょこなんと控えている。
 すべてを入れて三、四十人、ここにズラリと居ならんだ有様、鎌倉山の星月夜とはまいりませんが、貧しい大名などは及びもない一家族で、それにこのえんには、突ッ張った裃姿かみしもすがたがない点も一段うれしいところであります。
 程なく。
 それへ案内されて来る六、七人。
 阿佐ヶ谷神楽かぐらの連中でございましょう。百姓芸人でも白足袋しろたびたしなみはありますが、鎮守様のお神楽堂とは、少々勝手がちがうので、しょくの明りがえかがやく長廊下を、いかにもオズオズ、おそる畏る。
 そのおしまいにくッついて来たのは、まぎれもない道中師の伊兵衛。
 どうも、白足袋の似合わないこと。
 こいつ、豆しぼりの手拭てぬぐいを、つかんでいたそうな物腰でやって来ました。

「これ、神楽師どもにも杯をやらぬか」
 と、御隠家様は目通りの一同を細目にながめて御機嫌ななめならず、
「膳部、膳部」
 と、世話をやかれる。
「はい」
 と、おりんが立って高坏たかつきを運ぶと、末席ばっせきにいた次郎も、ちょこちょこと銚子を持って神楽師たちの前にかしこまり、
「お酌いたします、お過ごしなさいませ」
 と、武骨につき出す。
「へ……へい」
無礼講ぶれいこうじゃ」
 と、御隠家様のお声がかかる。
「無礼講だそうですよ」
 と、次郎がことばの取次をしていう。
「では……」と、それから始まって、神楽師も飲む、郷士たちも飲む、久米之丞も飲む。
 御隠家様の千蛾老も、今夜はだいぶ過ごされている様子。
「どうじゃ月江、熱海あたみもよかろうが、自分の家もよいであろうが」
 月江は何か浮かない顔色で、
「お祖父じい様、私はほんとに病気があるのでしょうか」
「何をいう」
「だって……」
「ばかな事を。お前のような、艶々つやつやした顔色の者がなんで……は、は、は」
 陶然と、今度は、反対な方を向いて、
「久米之丞。酌」
 と、杯を重ねます。
 そのあいだに老人の目が、チラと何か意味あるようにうごきますと、久米之丞は辺りのザワめきにまぎれて、そッと席から姿を消して行く。
 それをまた、強いて紛らわそうとするものの如く、千蛾老人は頻りと自分から賑やかになって、
「おお、それよ、阿佐ヶ谷村の者達。ただ騒然と飲んでおッても面白うない。何かさかなをせい」
「へい」
 と、連中一度に返辞をして、
「なんぞ、御所望が?」
「いや、なんという事はないぞ、なんでもいい。こうした晩らしく、賑やかに、きょうを! 興を!」
「では御隠家様」
 と神楽師のひとりが、うしろに引ッ込んでいる伊兵衛の顔を指さして、
「あれにおります男、至って、人相はよろしくありませんが、生来笛の名人でござります。御所望とあれば何がな一曲吹かせておやり下さいませ」
「ウム、笛をやるか」
「仲間でも吹ける男といえば、まず、あれにいる伊兵衛でござります」
「やい、やい」
 と、道中師の伊兵衛、あわてて袖を引ッぱりながら、
「つまらねえ事を喋舌しゃべるな、笛なんざ、もうとッくに忘れていら」
 というのを、千蛾老人、遙かに目に止めて、
「伊兵衛とやらいう笛吹きの名人、ちょうどここに、当家秘蔵の一かんがある、お前なら吹けそうじゃ、試してみい」
 と、うしろの床の間から、朱塗しゅぬり狛笛こまぶえを取って、ここへ――という目でさしまねきました。
「ど、どう致しまして、仲間の奴らが、からかい半分に飛んでもねエほらを吹きゃアがって。イヤ滅相めっそうもないこッてす。何で、あっしのような頓馬にそんな名器が扱えるものじゃございません。……ヘイ、それだけは、真ッぴら御免なすッて下さいまし」
 いかにも、狼狽ろうばいしたように見せかけましたが、どうも、あか抜けしすぎたその物腰や口ぶり、ほかの指の太い連中とは異なっておりますから、千蛾も、
「はて、この男は?」
 と、燭を透かして、酔眼にジッと見直しました。
 一方。
 そッと席をはずした久米之丞は、奥深い屋敷の間数を越えて、やがて薄暗い橋廊下を手さぐりで渡ってゆく。
 その突き当りに、じょうのかかッている厚い欅戸けやきどがあり、かれは、その外へピッタリと身を寄せて、シンとした中の気配をさぐっていました。
 この離屋はなれは橋廊下をへだてて、二重壁となっている一見奇怪なからくり普請ぶしん
 例の馬春堂先生が、桃源の夢こまやかであッたり、地獄の羅刹らせつうなされたりしながらも、どうしても逃げ口がない八方ふさがりの密室! いわば暗剣殺あんけんさつ居所いどころであります。

 奥の酒宴を抜けて、かれがここへ来たのは、いうまでもなく千蛾老人の指金さしがねをうけて、馬春堂の生き胆を料理しに来たものに相違ありません。
 しばらくそこで、密室のうちの気配に、耳をすましていた久米之丞、刀の下緒さげおを解いて片袖をむすび、
「ウム、寝ているな……」
 ニッと、殺気のある笑みを流しますと、そこの錠口に手をかけました。
 すると――
 その時、遙かな母屋の方から、喨々りょうりょうと玉をまろばすような笛の調べ!
 いと面白き狛笛こまぶえの音です。
 低き時は水のせせらぎもまるかと思われ、高音たかねを張りきる時は山嵐の樹木も一時に身ぶるいするかと思われます。
 御隠家様を初め、一同の者にすすめられて、道中師の伊兵衛がぜひなく試みた狛笛の一曲でしょう。
 伊兵衛は天生笛の名人であるとか。なるほどこれは本ものです。まことに奇妙な泥棒の隠し芸。
 一座の者も、かれの本業を知らぬ故、それに酔わされておりましょうが、それを、泥棒の芸術と知って聞いたら、鬼気身にせまり、肌にあわを生ぜずには聞かれなかったに違いない。
 ……今、馬春堂を殺そうとして密室の外へ忍び寄った久米之丞も、その妙音に酔わされて、うッかり、曲の終るまで聞きほれてしまいそうです。
「オオ、あの笛は?」
 と、暗剣あんけんの間にこもっていた馬春堂も、寝つかれぬ枕をもたげて、
「伊兵衛らしいが……」
 と、不安そうな目をポカッとあいて、部屋のあたりを見廻している。
「なんていう呑気な奴だ、畜生、人の気も知らねえで」
 と、やたらに腹が立つ。
 泣きたい程、しゃくにさわる。
 一方は死の恐怖に襲われどおしで、寸間も安心していられないというのに、一方は笛や酒宴さかもり
 昼には、月江が帰って来たのを見たし、今夜はいつもと違って、ばかに陽気な空気が馬春堂にも感じられていましたから、
「こいつは変だ、伊兵衛の助けに来るのを安閑と待ってなんかいると、飛んでもねえことになるかも知れない。ウッカリすると今夜あたり……」
 馬春堂は跳ね起きました。
 だが、これという計画的な考えもない。ただ、ジッとしていられない恐怖の本能が、彼をして、竹籠たけかごをかむキリギリスの如きを演じさせる。
 そのうちに。
 あなたの狛笛、曲や終りけん、ハタと止んで、こんどは能がかりの総囃子そうばやしが、前よりも、調子高く、大鼓おおかわを入れて鳴り出します。
「今夜だ、今夜だ」
 馬春堂の意識にも、それだけのことは働いていました。
 大陽気おおようきになっている今夜の酒宴のすきに逃げ出さなければ、またと逃げ出す機会はない。
 窓へ獅噛しがみついてみたり壁を押してみたり、たたみへバリバリ爪を立ててみたり。
 ――何ぞ知らん、すでにその時には、橋廊下の錠口が四、五寸いて、スウと、あの世の冷たい風が先生をお迎えに来ているものを。

 すウと、錠口じょうぐちをあけて、忍びやかな夜風と共に、中へ足を入れて来た関久米之丞。
 真ッ暗な二重壁の廊下を、ミシ、ミシと手さぐりで進みながら、右手めてに水のしたたるような大刀を抜いてうしろへかくし、
「馬春堂殿、少々お話し申したいことがあるが、お目ざめでござるか」
 と、声を作って、うかがいました。
「? ……」
 どこかで鼠のようにガリガリ音をさせていた先生は、その声と、部屋の中へ流れ込んで来た夜風にギョッとしたものでしょう、しばらく返辞もありません。
 明りがないので中は真ッ暗。
 久米之丞もこれには少々戸惑とまどいの形です。
 相手を怖るるのではないが、下手へたに初太刀を誤ると始末がつかないことになるのは、彼の殺人の経験がしばしば教えているところなので、
「馬春堂殿、ちょッとこちらへ」
 と、また呼んで、手元へ招き寄せようとする。
「? ……」
 でも、先生は動かない。
 どこにいるのかと思うと、袋戸棚の上段うわだんに潜ッている。そこから、天井板をめくッて、屋根裏へはい出そうという作業中であったと見えます。
 果てしがないので久米之丞は、膝歩きにソロッと部屋の中へ進んで、相手の所在を見廻しましたが、まさか、戸棚の上とは気がつかない。
 手さぐりで、机、床の間、ふとん、枕……。
 と――そこが、藻抜もぬけのからなので、
「やや?」
 と、いった途端に、背後うしろへかくしていた大刀が、チカッと、やみの中に螢のような光をよじらせる。
 戸棚の上の馬春堂先生、ふくろのような眼にそれを見て、
(あッ……)
 と、水を浴びたようにゾッとしましたが、からくも口を抑えて、その驚きだけはのみ殺しました。
 そして、泰然自若たいぜんじじゃく――天なり命なりと達観してしまッたように、あぐらをかいて動きません。
 けれども、それは真の覚悟ではなく、立とうとしても立てない形、腰が抜けてしまったのでしょう。
「はてな? はてな?」
 下では久米之丞、夜具や辺りをなで廻して、
「逃げるはずはないのだが」
 と、二、三度、大刀に素振りをくれて、暗の手ごたえを探ッている。
 馬春堂は目前の稲妻いなずまにいよいよ胆をちぢめて、今はたまらぬと思ったか、不意に――吾を忘れて、内から戸を閉めきッて抑えたので、その音に、初めて居所を知った久米之丞、
「おのれ、そこに居たか」
 と、飛びついて来ました。
 中では必死。
 戸はガタガタと馬春堂の胴ぶるいをすッています。けれど、久米之丞にはあつらえ向きです。ここに封じて置いて殺せば、多少、ジタバタしようが声を出そうが、始末におえないことはない。
 充分、無駄な戸を抑えさせて置いて、久米之丞は大刀の切ッ先をそこへ向け、力いッぱい刺し入れて、ふすま諸共もろともえぐり廻しました。
 …………
 能がかりの笛や太鼓、奥の夜宴は今たけなわの最中とみえます。

 伊兵衛の狛笛こまぶえの一曲が終りますと、夜宴の無礼講ぶれいこうはここにくずれて、阿佐ヶ谷連中ののうがかりを皮切りに、赤い顔をならべた郷士たちが、野趣横溢やしゅおういつな武蔵野歌を手拍子でうたえば、珍しく、千蛾老人もいでやと立って、あざやかなところを一さし舞って見せる。
 やんや、やんや、
 きょうは高潮。
 やかたもどよめく騒ぎです。
 かかるに、いつのまにか道中師の伊兵衛、そこからドロンをきめたまま、席へ戻って来ませんが、たれも気のつく者はない。
 そこの雰囲気はただ賑やかに。
 ――御隠家様でさえお舞いなされた。次にはぜひとも、月江様の仕舞しまいの一さしを、所望所望、という声がしきりと彼女を攻めたてている。
「一同がアア申すのじゃ、わしも見たい、立て、立て」
 と、老人まで一緒になって、月江の舞をうながしましたが、いつもは、歌えといえばすぐ歌い、舞えといえば軽快に仕舞の扇をとることを惜しまない月江が、なぜか、
「いやです、私」
 かぶりを振って浮かない色です。
 その浮かないのが気になって、どうにかして月江を陽気にしてやろうと、心にもなく自身から舞って見せたり上機嫌を努めていた千蛾老人、
「なんじゃ、そちとしたことが。――おりん、仕舞の衣裳と舞扇まいおうぎをもて」
 取上げずにいいつけましたが、
「おおそれ。いつぞや手に入れた般若はんにゃ仮面めん、ありゃ、出目洞白でめどうはくの名作じゃ、奥庭の石神堂に納めてあるが、あれを取りよせて仮面披露めんひろうに一さしうたらどうじゃ」
「なるほど、御趣向!」
 と、郷士たちは、手を打って、
「あれをつけて、お美しい女性にょしょう仮面めん披露とは思いつき。ぜひ、所望でござる」
「たれぞあの洞白の仮面を、奥の御神前から取出して来い」
 と、月江がしきりと拒みぬくのを、そうして機嫌を直そうと御隠家様がいなやをいわせぬお声がかり。
「はっ」
 と、郷士のひとりが立つ。
 すると、それまで酒の酌ばかりしていて、足にしびれを切らしていた高麗村こまむらの次郎が、
「はい! 私がすぐに!」
 人の先を越してバラバラと、心得こころえ顔に廊下の外へ駆け出しました。
 所々、ほの暗い網雪洞あみぼんぼりのついている六間廊下を、面白そうにドンドン駆け出して行った次郎。
 かねて、奥庭の石神堂の内部へ出るには、千蛾老人の部屋から三ツ目のお書物納戸しょもつなんどから、地底を抜ける隠し道があるのをよく知っておりますので、そこの道がくしをね返し、真ッくらな間道を、スタスタと一筋に進んでゆく。
 やがて、ゆくこと遠からず、間道の突き当りに、七尺ばかりの自然石を畳み上げたところがある。
 幾度か出入りしているので、やみにも何の躊躇ためらいなく、そこをチョコチョコとはい上がった次郎が、やがて首を出した所は、洞然たる一宇の堂内。
 これ、狛家千余年来の守護神であり、また武蔵野に散在する幾多の小さき石神堂の総元のやしろであります。
 しばらく、中のくらやみで、カサコソと音をさせていた次郎が、程なく、
「あった! あった!」
 と、つぶやいて、何やら箱のような物を振って見ている。
「これだろうな? ……音がする、音がする」
 でも、音だけでは不安になって、念のために箱の紐を解き、逆さにポンと板敷の上へふせると、喜連格子きつれごうしから流れる星明りのかげへ、裏返しの般若はんにゃ仮面めん
 ザワザワと、その時、堂の横手で風らしくもない樹木の枝がゆすれました。
「おや?」
 と、次郎が耳をたてると、まさしくそれは人の足音。
 ガサ……ガサ……と横手の樹木をかき分けて来る者があるので、仮面めんを片手に、喜連格子きつれごうしにのび上がッて、外をさし覗いてみると、泥棒かぶりをした一人の男が、ポンと、堂のぬれ縁へ飛び上がッて、
「なんてえ奥ぶけえ屋敷だろう。ここから見りゃ、まだ切支丹きりしたん屋敷の方がよッぽど歩きいいくれえだ」
 体の木の葉をハタきながら、抱えて来た包みをそこへ押ッぽり出し、脚絆きゃはん草鞋わらじ手甲てっこうなどを取りひろげ、ゆうゆうと、旅支度にかかり出します。

 おや?
 変な男が来やがった。
 旅支度をしているじゃないか。せかせかと、妙にあたりをキョロつきながら。
 それもいいが、勿体なくも石神様にお尻を向け、道中差どうちゅうざし合羽かっぱまでかかえて来て、何だッて、こんな所で支度をするのか?
「怪しいやつ」
 次郎は目を丸くして、喜連格子の内からジッと息を殺していましたが、やがて、すっかり身づくろいして、キリッと裾を端折はしおった男の顔を見るに及んで、
「あっ……あん畜生」
 と、二度ビックリです。
 それは次郎より一足前に、酒席を抜け出していた道中師の伊兵衛で、ひそかに自分の手廻りをかきあつめ、ここで衣裳をえ、草鞋のひもをしめたのは、すべて、彼としては予定の行動。
 この堂宇どううの内に納めてある洞白の仮面めん箱を盗み返し、離れの密室にいる馬春堂を助け出して、この高麗こま村におさらばを告げる方寸と見えました。
 ここは、「那須なす与市よいち西海硯さいかいすずり」の奥庭の書割かきわりにでもありそうなさびしさ。
 やかたは折よくあの騒ぎですし、多くの郷士も武蔵野歌で酔いつぶれている。
「あしたの朝になったら、さだめしッ気に取られて、ゆうべ吹いた笛吹きの名人は、狐か狸じゃなかッたかと、大騒ぎをして戸惑いをしやがるだろう」
 伊兵衛はおかしく思いながら、ふところにのんでいる匕首あいくちを抜いて、いきなりヌッと、喜連格子の前へ腹合せに立ち上がる。
 あぶなく、声を出しそうだったのは、中に忍んでいた次郎で――
「あらッ? ……」
 と、驚きながら身をかがめ、白眼をジッとそこへ射向けていますと、外の伊兵衛は匕首あいくちを持ちかえて、喜連格子とねじ合っているようなあんばい。
 鋭利な刃物はものが、見事にサクリサクリと削り抜くのが、何ともすごい静かな音です。
 なんの手間ひまもかかりはしません。
 忽ちそこの用心を切り破って、ギイ……と開いて来た道中師の伊兵衛、すでに、その品物の位置までちゃんとのみ込んでいたものの如く、無造作むぞうさにズカリと中へ身を入れて、心覚えの所へ手探りをのばしかけますと、
小父おじさん、何だい?」
 と、やみの中から伊兵衛の腕首をつかんだ、青面金瞳きんどう夜叉やしゃ――口が耳まで裂けたる般若はんにゃの顔。
「あっッ」
 と、さしもの伊兵衛が度胆どぎもを抜かれたのは、その不意であった事よりも、燈下に見てさえ身の毛のよだつ、出目洞白でめどうはくの神作の怪しい力に衝たれたに違いない。
 途端に――
「泥棒ッ!」
 と、高麗こま村の次郎、その体より大きな声で、相手の鼓膜こまくもやぶれよと怒鳴る。
 小童の鬼面におどされたとは知らず、伊兵衛もスッカリうろたえて、
「ちぇッ、何をしやがる」
 振り払うや、無我夢中、右手めての短刀で縦横にやみを斬りながら、ドタドタドタと石神堂からころがり出す。
「どッこい!」
 次郎もなみの小僧ではありません。
 飛び降りる伊兵衛のえりがみを引ッつかんで、
「小父さん、どこへ?」
 目をふさいで、うしろへ引き倒そうとするのを、そのままなおも、伊兵衛が駆け出しましたから、身の軽い次郎の体は、彼の肩先へてんぐるまになッて取ッついて行く。
「ええ、この化け物め!」
 身ぶるいをして叫んだ伊兵衛。
 何か、不気味なものを振り捨てるように、堂の岡から平庭の方へ駆け出しながら、腰を落として肩越しに、デンと次郎を投げつける。
「あ痛ッ」
 と、般若の泣き声。
 次郎は仮面めんをかぶったまま、コロコロコロと築山つきやまから芝生しばふの上へころげて行ッて、そこでまた、声いっぱい、
曲者くせものッ! 曲者ッ!」
 起き上がり小法師のようにピョンと立つ。
 ――いよいよ面食らッた道中師の伊兵衛は、それとは反対に植込みの中へ身をかくし、物干ものほ竿ざおで追い廻された猫のように、逃げ口の度を失ッて、あッちこッちを駆け廻ッておりましたが、例の馬春堂が封じられた暗剣殺の建物のうしろまで来ますと、
「おお、伊兵衛助けてくれーッ」
 と、突然、針の山から呼ぶような悲鳴。
 ひょッと見ると、屋根の上、
 青苔あおごけの生えている、柿葺こけらぶきをバリバリ破って、そこからやッと、首だけ出した先生の声でした。

 その前に。
 かの密室において関久米之丞が、戸棚のうちへ刀を逆しまにして突き込んだ時のせつな!
 中で、ワッと顛倒てんとうした物音は確かにありましたが、幾度かえぐるうちに、少し手ごたえが変るので、そこの戸を開けて見ますと、もう馬春堂の姿が見えない。
 身代りになって、臓腑ぞうふから綿を出していたのは、そこにあった、かびくさい夜具であります。
 途端のこと。
 ドタドタッと天井裏の家鳴やなり。
 さては! と久米之丞、荒々しく蒲団をつかみ出してその上へ飛び上がりました。見れば、頭の上の天井板が、やっと身をのがれる程がれている。
 死にもの狂いの馬春堂は、ここから窮地を脱したものとみえます。
 彼とて何の猶予がありましょう。
「うぬッ」
 と、怒声を投げるや否、つづいて其処から屋根裏へ這い上がろうとしてソッと首をさし入れる。
 ところを。
 待ッてましたというように馬春堂の足が、力いッぱい、
「けッ!」
 とばかり久米之丞の頭を蹴飛ばし、なおもちりすすけむのように落しましたからさすが白刃を取っては自慢な男も手がつけられず、
「おのれ、どうしてやろうか」
 と、屋根裏を睨んでいるところへ、
曲者くせもの、曲者!」
「それ、橋廊下の向うへ」
「お出合いなさい、曲者だ! 曲者――ッ」
 と、不意に、向うの長廊下を馳けめぐる物々しい人声。
 久米之丞はあわてました。
 おそろしく素早いやつ、さては、もう何処からか屋外へ逃げ出していたのかと錯覚さっかくを起して、錠口じょうぐちの方へ、引ッさげ刀で馳け出しましたが、馬春堂の方は、実はその間に初めてホッと虎口をのがれ、小屋組みのはりを力に、肩をもって柿葺こけらぶきの屋根板を突き破ッていたのです。
「伊兵衛ッ、助けてくれ――ッ」
 と呼んだのはその時。
 地獄で仏、吾を忘れて大地へ飛び降り、何を叫んだのか何を言われたのか、一切夢中で二人とも屋敷の外へ逃げ出しました。
 かかる間に高麗こま村の次郎は、例の般若はんにゃ仮面めんをつけたまま、長廊下を馳け歩いて、
「お出合いなさい、お出合いなさい!」
 と告げて廻る。
 すでに夜宴やえんの場所には唄も囃子はやしもありません。
 あまたの郷士たちは、みな押ッ取り刀で八方へ馳け出し、あとの空虚には、燭も白け渡って、杯盤はいばん狼藉ろうぜきと阿佐ヶ谷神楽かぐらの者が五、六人残って、そこにウロウロしているばかり。
 一同が出払ったと見て、次郎もつづいて表門へ走り出して行く。
 逃げた! 逃がすな! という声が入り乱れて聞こえる。今さらそこでそんな間の抜けた叫び声がするようでは、もう道中師の伊兵衛も馬春堂も、この峡谷を一散に、足の限り根かぎり逃げ出しているに違いありません。
「馬小屋ッ、馬小屋ッ」
 たれともなくこうき立つ。
 チャリン、チャリン、チャリン、あわただしいくつわの音。
 人魂ひとだまのような松明たいまつを振り廻して、峡谷のやみへ飛び出す者。
 その間に、それを指図しそれを追わせる、御隠家様のののしりがひびき渡る。
 次郎も一匹の裸馬を引ッぱり出して、ヒラリと背なかへ取ッつきました。
 この峡谷は前にも説いたように、秩父越ちちぶごえにかかる峠道か、あるいは、武蔵野へ下る一路のほかありません。逃げる者の自然な原則として、その高き難路へ向うよりも、やすき低地へ向ったろうと思われるので、次郎は裸馬の尻をなぐりつけて、逆落さかおとしに追いかけました。
 夜風に逢うと般若の仮面めんは、その魂を呼びよせて、生けるが如く見えました。それを顔につけて裸馬に乗った次郎は、何か、自分が華やかな戦陣にでも立ったようにおどり立って、こうして、いつまでも曲者の捕まらない成行なりゆきを、かえって愉快に感じています。

野鍛冶のかじ宿やど


 女影じょえいと書いて「オナカゲ」と読みます。
 そこは入間川いるまがわ高麗川こまがわの二水にはさまれていて、幾ツもの低い岡や静脈のごとき支流の水や、同じような土橋や藪畳やぶだたみや森や池や窪地の多いため、ここへ足を入れた旅人は、必ず道に迷って行く所を失うといわれている。
 夏はほたる、秋は月、迷路の名所女影おなかげの里です。
 そこに一軒の鍛冶小屋があって、今夜も夜業よなべ槌音つちおと高く、テ――ン、カ――ン、テ――ン、と曠野こうやの水に、すごい木魂こだまを呼んでいました。
 鍛冶かじといっても、無論、鎌やすきの耕具をもッぱらにつ野鍛冶でありましょう、あるじというのは半五郎といって、白毛まじりの髪の毛から見れば、もう年配も五十の坂をだいぶこえているらしいが、壮者をしのぐ四肢の筋肉、赤銅しゃくどういろの皮膚など、そっくりふいごの焔から飛び出したような頑健さです。
 それに若い時、ね火で怪我けがをしたとかいうことで、右の一眼がつぶれているため、その片目の人相が、いかにも一くせありげに見られる。
「ああ、やッと上がッた」
 と、今まで根よく金敷かなじきの上に火花をそそいでいた仕事を抛り出して、グーッと伸びをした半五郎。
「今日はすこし精が出過ぎたようだ。オイお常、そろそろ寝酒の御用意、おれはここを片づけ初めるから、奥へ支度をしてくんな」
 と、しゃがれ声で女房へ怒鳴って、ふいごのまわりや土間いッぱいの仕事道具を、カチャカチャ片づけ初めました。
 その忙しさと物音にまぎれて、半五郎もお常も気がつきませんでしたが、女影の里の迷路をグルグル駆け廻って、ここへ馬蹄を飛ばして来た四、五騎の郷士、
「半五郎おるか!」
 と、鍛冶小屋の前で手綱を投げるや否、馬の背から飛び下りて、ドヤドヤと土間の内へ這入はいッて来る。
「あ――これは高麗こま村の衆」
 と半五郎、あっけにとられながら、
「みな様おそろいで、しかも騎馬立ち、何か変った事でも起りましたんで?」
「ウム、実は御隠家様のお屋敷を騒がして、この方角へ逃げ出した奴があるのだが……」と、うす暗い仕事場を見廻してギョロギョロしていたのは、先に立って来た関久米之丞でありました。
「――一人は総髪、一人は合羽、遊び人ていの男と売卜者ばいぼくしゃ風のふたり連れじゃ。もしやこのうちへ逃げ込んで来はしないか? そんな人間が」
「さアてね……」
 と、半五郎は腰骨をたたきながら、
「ついぞそんな者は、この辺で見かけたこともなし、訪ねても来なかったようです」
「これ、隠すとそちの為にならんぞ」
「なんで、わしが」
「いや、わずかな慾に目がくらんで、かくまッてやるという事は、よく下賤げせんな者の根性にある事だ」
「飛んでもないことを。御隠家様へはお出入りをしているし、うちの餓鬼の次郎までお嬢様のお世話になっているこの半五郎でがす。――そのお屋敷を騒がして逃げた悪い野郎を、かくまい立てなどしてよい訳のものじゃございませぬ」
「きッとだな!」
「まだ疑わしく思いなさるなら、家探しでも何でもしておくんなさいまし。なあお常、おめえも、そんな者は見かけやしまいが」
「ええ、易者だの合羽かっぱを着た男だなんて、この辺に見かけたこともありませんよ」
 という夫婦のことばに、偽りがあろうとも思われませんし、そうとすれば、またほかを探す心もくので、久米之丞以下の郷士達は、
「では、吾々のあとにでも、ひょッとしてそういう者が参ったら、ことば巧みにめ置いて、すぐ御隠家様の方へ密告いたせよ」
 といい残し、またワラワラと馬の背に飛びついて、迷路のやみむちを上げました。
 が、しかし久米之丞だけは、何と思ったか、馬に水を飼わせておいて、鍛冶小屋の横にただ一人、忍ぶように身を寄せている。
 そして彼は、そこに絞り上げて干してあった友禅染ゆうぜんぞめ派手はでな小袖を、星明りにジッとながめて、野鍛冶の家にふさわしからぬこの女物を、不審にたえない面持ちで見つめております。

 騎馬の郷士が立ち去ったのち、鍛冶小屋の軒から白雲のごとき湯煙りがモウッと噴き出しました。
 ふいごの火に水をかけた野鍛冶の半五郎、顔を洗って、畳の上へあがり込み、
「ああ吃驚びっくりさせやアがる、おらあまた、奥の娘のことで、川越かわごえの役人でも来たんじゃねえかと思って、ギクリとしたよ」
 と、仕事を終えたあとの一服、うまそうに吸って煙管きせるを投げ出す。
 お常が寝酒の支度をしてくる。
 早速それにかかって、チビリ、チビリと飲みながら、
「どうだい、奥のは?」
 と、一眼をギョロリと、ふすま隣へ向けました。
「どうしたのか、よほど疲れているとみえて、正体なく、寝てばかりいるようだよ」
「そうだろう、おれが巣鴨すがもへ行った帰りみち、ちょうど庚申塚こうしんづかの先であの女を見かけたんだが、まるで、ふらり、ふらりと、魂の抜けた人間みたいに歩いているので、初めは、てっきり気狂きちがいだと思ったくらいだ」
「そんな調子で、何処からとなく歩いていたのかしら、着物の袖はほころびているし、すそはまるで泥だらけさ。……で、夕方ちょっとつまみ洗いをしておいてやったけれど、友禅のゾックリした物なんだよ」
「いずれ、素性の悪いものじゃあるまい」
「だけれど、よくお前さんのような、すごい人相をしている年寄について来たもんだね」
「馬鹿アいえ、おれのような、親切なおじいさんがあるものか」
 こう笑いながら半五郎は、お常に追い注ぎをさせて、杯を膳の隅へおき、
「――歩きながら話を聞いてみると、まんざら気狂いでもなさそうだ。うちはときくと、無いという、親はと聞くとカブリを振る、行く先はときくと、自分でも分らないといやあがる……。は、は、は、は……そこでお連れ申して来たのよ、こんな功徳くどくはねえだろう」
「だが、おやじさん。そしてあの女をどうする気?」
「どうするって、何が、どうだ?」
「まさか、その年で、浮気沙汰でもないだろうしさ」
「有難いな、おめえもその年で、すこしいてくれるところは有難い。――だがお生憎あいにくさまだ、色よりは慾の一本道、すこし餌をならしておいて、中仙道の流行はやりッ子にしてやるのよ」
「流行ッ子たあ、なんのことさ」
「――善哉善哉ぜんざいぜんざい。そんなこたアあとで分るよ。お常、前祝いだから今夜アもう一本つけねえ」
「ごきげんだよ、いつになく」
「そりゃ、うれしい事のある時は、酒も素直にまわるというもんだ。おめえも喜びねえ、近いうちにゃ、チリン、チリン、チリン……悪かアねえな、うふ、ふ、ふ、ふ……」
「なんだい、その真似は」
「小判を勘定するところよ」
「夢でもみているんじゃないかいこの人は。おいておくれよ、ばかばかしい」
「何が夢だ、まア聞けよ。――中仙道でもあれくらいな玉のハマる宿場はたんとはないぞ。板橋や大宮じゃ、江戸に近すぎてあとくされが心配になる。まあ、軽井沢だな、軽井沢の遊女屋は草津へゆく江戸者がみんな財布を病気にするところだ。あそこの扇屋か二葉屋あたりなら、アノ上玉で百両や百五十両は右から左に出すだろう」
「じゃ、おやじさん、あの奥へ連れて来た娘をおまえ売り飛ばすつもりなんだね」
「でッけえ声をするなよ。でッけえ声を。――だから貧乏人の婆さんに、めッたに小判の話はできねえ。売り飛ばすというと、なんだかおれが悪党らしくなるが、親もない、家もない、行く先もないという女の身の落着きをつけてやるんだから、大した功徳というもんじゃねえか」
 と、ひとりで理屈をつけましたが、吾ながら、少し声のはずんでいたのに気がついて、
「だが、次郎には喋舌しゃべるなよ。あいつ、おれの子にも似合わず、どうも重盛しげもりみたいに野暮でいけねえ、いつもおれのする事を聞きほじると、生意気にいさめだてして、それにゃ、浄海入道も閉口へいこうだからな」
 声を落として杯を取りましたが、その時その途端に、仕事場の境をガラッと押し開けたものが、
「わッ!」
 と夫婦をおどかして、金瞳青眉きんどうせいびの般若の仮面めんを、ヌッとそこから突き出しました。
 かっときばをむいた仮面めんが、不意に仕切戸しきりどを開けたので、野鍛冶の夫婦はびッくりしましたが、足元を見てそれとわかり、
「小僧めッ。親をおどかすやつがあるか」
 と半五郎が、むきになって怒鳴りつける。
 次郎は手をたたいてうれしがりながら、
「お父ッさんは臆病だな。ひ、ひ、ひ、ひ、ひ」
 と腹をかかえて笑いこけましたが、それも仮面めんに息がかすれて、不気味な奇声となって出ます。
「しようのない餓鬼がきだ」
 半五郎は片目で親らしく睨みつけながら、
「この夜更けに何しに来たんだ、そんな物をかぶりゃアがって」
「悪いやつを追ッかけて来たんだよ。御隠家様のおいいつけで」
「てめえなんぞに捕まるものか。早く帰ってお嬢様のお気にいることでも考えていろ。あのお屋敷を追ん出されたって、もう家へはれないからそう思え」
「おいらも家になんか帰りたくねえや」
 と、次郎は仮面めんの目の穴から半五郎の膳をのぞき、小笊こざるの中に食べ残してあるきぬかつぎを見つけて、その皮をむいては仮面の下からムシャムシャと頬張って、
「おッかあ、今夜泊まって行こうか」
「いけないよ、今おまえは、うちなんか嫌いだといったじゃないか」
「おッさんは嫌いだけれど、おっかあのそばなら居たい」
「こいつめ」
 半五郎もわが子には他愛がなく吹きだして、
「大きなたいをしやがッて、いつまで、おふくろに甘える気だ。よくそんな事でお屋敷の奉公が勤まっているもんだな。さ、早く帰れ帰れ、お屋敷でも、今夜は何か騒動が起って、騒いでいるところじゃねえか」
「駄目駄目」
 と次郎はかぶりを振って、
「もう追ッつかない。逃げたやつは、何処へもぐり込んだのか、影も見つからないんだもの。――この広い武蔵野で二人ばかしの人間を探すのは、二匹の虫を探すようなもんだよ」
「それにしたッて、うちへ寄って、道草なんぞしていちゃいけねえ」
「だッて、いつも、おいらが帰るといえば、泊ってゆけ、泊って行けと、おっ母もいうくせに」
「でも、今夜はいけないよ」
「なぜ?」
「お客様が居るんだから」
「え。お客様が泊っているのかい」
「だから、帰れよ」
「いいよ、おいら、くたびれたから、泊まるよ今夜」
 女親のひざを枕に、両手をのばしてふんぞり返り、般若はんにゃはそのまま寝入ってしまう。
「どうも、この小僧と来たひには、手におえねえな」
 と野鍛冶の夫婦も仕方なく、次郎にうすい藁蒲団わらぶとんかぶせて、程なく明りを消しました。
 そして人々の寝息が静かに夜の時刻をかぞえてゆく……。
 時ならぬ頃にその家の外を、馬のくつわが鳴って遠去かって行ったのは、関久米之丞が帰って行ったものでしょう。――風なき夜の武蔵野はこの一軒家の夢を守って、しっとり霞んでおりました。
 と――。
 いわゆる、屋のむねも三寸下がるといううしの時刻。
 墨を塗ったような鍛冶小屋の戸が、内からスーと開いたかと思いますと、夜目にもあざやかな長襦袢ながじゅばん……。
 ありあまる黒髪の乱れを白い指先でかき上げながら、そッと、あとの戸を閉めてよろめくように、野鍛冶の家の軒下を出る。
 その手に――襦袢じゅばんの袖にくるんで――何やらかかえている風です。
 そのときは、よいのうちのやみとちがって、空も地も、草も水も、みな一色に薄あかるくなっている。
 夜が明けかけたような景色で、月のありかをたずねると、まだ真の夜半よなか。細い女の影法師は、墨色の羽目板をうごいて、行くての道を思い迷う様子でありました。
 ふと。
 そこに干し忘れてある友禅ゆうぜんの小袖を見出すと、女は、それを取って黒髪の上から被衣かつぎのようにかぶりました。
 そして、両手を顔に当てたかと思うと、美しい眉目みめは忽然と口の引っ裂けた形相に変っている。
 次郎の寝顔から剥取はぎとって来た出目洞白でめどうはく般若はんにゃの神作。
 ――やがてその怪奇な、そして美しい人影は、草と水と水蒸気とにぼかされた女影おなかげの里の迷路を、何処いずこともなくさまよいでました。
 女は何処へさして行く気でしょう。
 右を見ても左をながめても、びょうとして同じような草の波がうねるばかりな女影の迷路を、果てなく、うつつなく、さまよって行く様子では、何処へという、心の目当てもありそうもありません。
 ――だのに。
 この深夜、野鍛冶の家を出て来たのは、片目の半五郎のおそろしいささやきを聞き、親切ごかしのたくらみに気がついたものから、にわかに、虎口をのがれる気で、抜け出したものにちがいありますまい。
 そして。
 次郎のかぶっていた洞白の鬼女仮面めんを取って自分の顔につけ、夜干しの小袖を頭からスッポリと被衣かつぎにしているのは、この真夜中に女の一人歩き、野獣や野盗に対する魔除けかと思われます。
 いかにも、その化装けそうの女に正面から行き逢ったら、野づち、狐などの野獣も寄りつくことができないでしょう。
 また、命知らずな野伏せりも魔魅まみも道を避けるにちがいない。
 現に。
 その晩、高麗村の峡谷きょうこくから命からがら逃げ出して来た阿佐ヶ谷神楽の仲間の残りは、運わるく、二子ふたごの池のほとりでこの女に出っくわして、きもを消し、中には早腰を抜かした者もあって、散々な目に会いました。
 しかし、ひどい目に会ったとはいえ、それは勝手に先方が驚きあわてて、吾れがちに逃げ出して、小川へ落ち込んだり、いばらに引っかかれたりした臆病の罪で、女が何の危害を加えたわけでもありません。
 同じように、浦和うらわの馬市へ夜半よなかから立って来た青梅おうめ博労ばくろう連も、意気地なく馬をすてて逃げ散りました。
 それとて、べつに女が不意に声をかけたわけでも何でもなく、彼女は真ッすぐに仮面めんを向けたまま無心のごとく歩いて行ったに過ぎないのです。
 が――
 のちに浦和や川越かわごえあたりでパッと立った評判を聞くと、あらくれた博労ばくろうたちには、かえってそれが鬼気に迫って、実際凄かったものとみえる。
 噂はすべて、ひろがるほど尾鰭おひれがつくが、その晩の博労の一人が、後に人に語っていうには、
「おらあ、てッきり、二子の池のぬしだと思うんだ。なぜかっておめえ、その女が……その口の裂けた女がよ、友禅の裾をうしろへ曳いて、スウと、とおって行ったあとを見ると、どうだろうおめえ……まるでなんだ、大蛇おろちが草を分けて行ったように、おんなの歩いたあとがグッショリと水にぬれている――」
 これは嘘です。
 うわさが生んだ大げさというものです。
 怪力乱神を語ることを好む人の通有性が、あざむく気もなくいい触らす誇張です。
 とはいえ、その晩その女に出会ったものは、実際、このくらいに感じたことはほんとでしょう。伝説はそんなところから生まれてゆく。
 さるにても、女は何処まで行くでしょう?
 月も野末にかたむいてくる。
 そして、暁の支度が、うッすらと白い霧が立ちこめて来ます。
「ああ……」
 やがて――
 裾は露に、袖は夜霧に、ビッショリとぬれ果てて、女もさすがに疲れぬいてしまったものでしょう、道ばたの丸い玉石たまいしに腰をおろして、ジッと仮面めんをうつ向けました。
 眠る様子でもありません。
 膝をかかえて夜の白むのを待とうとするふうでもない。
 過去か、行末か、今の身の上にか、とにかくそうした思いに、深くなやみ沈んでいる様子。
 思えば、世のすがたこそ不思議ではありませんか。
 草がのび草が枯れ、いつも蒼々そうそうたる野分のわきのそよぎがあるほか、春秋一様な転変をくりかえしているに似た武蔵野の原にも時と人との推移があります。
 遠い昔、推古朝すいこちょうの世には、高麗こまの移民が野馬のうま追いに疲れて腰をかけたかも知れないこの野中の玉石。
 ――また源平前期の頃おいには、村山党、畠山党、児玉党こだまとうなどのいわゆる武蔵武士のなにがしとよぶ武将が床几しょうぎにしたかとも思われるこの石。――世も移っては西行さいぎょうがぽつねんと夕暮の富士に見とれ、芭蕉ばしょうが昼顔の句をあんじながら足を休めたかも分らないこの石に、今は――切支丹きりしたん屋敷を追われた混血児のお蝶が、夜明けの霧の寒さにジッとかがまって、自分の未来におののいている……。

飛耳張目ひじちょうもく


 江の島から藤沢の宿をかごで通して、大山街道の一立場たてば、厚木の町へ這入はいッたふたりの侍があります。
 駕は、秦野煙草はたのたばこの荷元で、土地でも信望もあり大店然おおだなぜんとした構えをしている、秦野屋はたのや九兵衛の門へ横づけになる。
「若い衆さん、お茶を飲んで行ッて下さい」
 駕の者をねぎらッて、手代が酒代さかてをつつんで与えている間に、二人の侍はおッとりと駕を抜けて、衣紋ただしく、
「九兵衛。突然におとずれて、家内を騒がせて気の毒だの」
「どういたしまして」
 羽織を着かえて、店先へ迎えに出ていた亭主、ひたいたたみにつけて、
「今朝ほど江の島のお宿から、立ち寄ってつかわすという、有難いお手紙、大山街道から江戸表へお帰りでは、廻り道になるものを、わざわざお訪ね下さいまして、冥加みょうがの至りに存じます」
「いや、家来どもをつれて、江の島詣での帰りみち、いわば遊山の気まぐれに廻って来たこと、そう改まられては困る」
「まず、どうぞ、奥へお通りを」
「ゆるせ」
 と、ひっさげ刀になって上へ通る。
 そして店の者一同へ鷹揚おうよう会釈えしゃくをあたえながら奥へ案内されて行きました。
 九兵衛はあとに残って独り言のように、
「まったく珍しいお方がお見えになったものだ。これ、お前がたも粗忽そこつのないように気をつけておくれ」
「旦那、ついぞお見かけしたことのないお武家様ですが、あれは一体、江戸のどなた様でございますか」
 と、店の者たちも、九兵衛の出迎えの慇懃いんぎんさに、声まで小さくしております。
「あれは、多分お前がたにも話したことがあると思うが、この秦野屋はたのやが悲運に会ってつぶれかけた時、またそれ以来も何かというと、資本もとを出してくださる番衆町の殿様だ」
「ああ、あの大番組おおばんぐみの岩波様でございますか。すると、あの総髪の方のお年上が殿様なので?」
「いいや、あれは御用人。お若い方さ」
「たいそうキビキビしていらッしゃいますな」
「御番衆のなかでも一番の裕福だし、もう大殿様はお役附やくづきをお退きになっているので、まことに、のんきなお身の上さ」
「なるほど」
「それでアアして、お気軽に、湯場や江の島などを歩いていらッしゃるのだろうが、こんな田舎いなかへ、お越しがあろうとは、わしも、夢にも思わなかったよ。――何せよ珍客、ゆッくりお泊まりを願うつもりだ、ウム、奥へ酒やさかなの支度を頼みますが……、わしはと……わしは一ツ急用の手紙を二、三本走り書きして、そのあとで、ゆッくりお相手に出ますからな、その間、お前方でおもてなしを」
 九兵衛は帳場格子をまたいで、忙しそうに仕切帳しきりちょうをひろげ、何か商用らしい手紙をスラスラ書き初める。
 奥では、女中の声や器物うつわものの音がしばらくの間せわしげに聞こえて、時折、手代が九兵衛のところへ、もてなし方を相談に来る。
「……そうだな、江の島に永らく御滞留だったのだから、所詮、この辺の生魚などはお口に合うまい。……野菜がいいよ、新しいお野菜をな。……ウム、わんのものか、鳥? よかろう、竹の子の木のあえ、それもいい、それから、網源あみげんへ聞き合せて、まだあゆは育っていまいが、何か相模川さがみがわの」
 そんなことをいいつけながら、書き終えた手紙を飛脚状にして、
「じゃ、奥の支度はすッかり済みましたね。そうしたら、お前たちも骨休みをして。いいかね。用があったら手をたたきますから、つまらない事でいちいちわしを呼びに来てはいけない。第一、お客様の御酒興をぐしな」
 着物の紙ぼこりをたたき、襟前えりまえをつくろいながら、こういい残して奥の一間へ行く。
 人払いをしてあるので、中座敷から先はひッそりしています。そこの、ふすま際に膝をついた九兵衛は、
「ごめん下さいまし」
 と、静かにおとずれて、おそる畏るすべり込む。
 目で迎えた客の二人。
「九兵衛、ここは大丈夫らしいな」
「ええ、安心なもンです」
「じゃ、ひとつ、こうなろうじゃねエか」
 と、膝をくずして胡坐あぐらを組むと、
「ウム、気をゆるしてくれ」
 と、九兵衛もあとをピンと閉めて、
「――だが、どうしたッていうんだい二人とも。まるで、化け物みたいに不意にやッて来て、堅気かたぎ暖簾のれんを掛けているこッちはまッたく面食らッたぜ」

 客も客なら、あるじも主です。何とも、いぶかしい打解けよう。
 奉公人を遠ざけて、そこの一間を閉めきると、動作、ことばづかい、最前の店先とは主客の様子がガラリと変っている。
「九兵衛、しばらくだったなあ」
 と、肩で笑って、
堅気かたぎの旦那で納まッているおめえの所へ、迷惑な居候いそうろうだろうが、当分世話になるかも知れない。そのつもりで、ゆっくりと今日はひとつ……」
 盃をとり直して、こういった客なる者は、日本左衛門に先生せんじょう金右衛門の二人でありました。
 熱海あたみ街道をひきあげて来る途中――かの相良金吾さがらきんごと物別れになり、その揚句に、根府川ねぶかわ番所の役人におかと船手から囲まれて、一味ちりぢりバラバラ、ようやくのこと、小舟で逃げのびた二人は、その、江の島あたりに潜伏して、しばらくほとぼりを冷ましていたものと見えます。
 また。
 この厚木に店を構え、煙草の荷元として、かなり手びろく商いをしている秦野屋九兵衛も、実は、前身でなく現在においても、金箔付きんぱくつきの白浪なので、この辺のことは、くどく聞くまでもなく、四、五杯の盃をやりとりする雑談の間に察して、
「そうか。じゃあ、江戸表は鬼門だし、東海道筋にも落着いてはいられまい。店の奉公人たちには、巧くいいくるめてあるから、その窮屈さえ忍べるならば、いつまでも、滞留していて貰いたい」
「で、おれ達は、どういう触れ込みになっているのかな?」
「番衆町の岩波様っていうことに話してあるんだから、万事、店の者にはそのつもりで、ソツのねえように、芝居気を持っていてもらわないと困る」
「は、は、は、は。飛んだものに出世したな」
 と、金右衛門もくすぐッたそうな笑い方をする。
 それから、四、五日経ちました。
 今日は秦野屋はたのや九兵衛、生真面目きまじめな顔を作って、帳場格子の中でパチパチとそろばんの音をさせている。
 店の隅では、たばこの葉を鉋台かんなだいにかけている者があるし、はかりにかけて五十きん箱に詰めて、江戸へ出す荷ごしらえをしている者もある。
 ところへ。
 渋色の巻頭巾まきずきんに、箱形の胴乱どうらんを肩へ掛けた男が、
「ごめんなさい」
 と、秦野屋の暖簾のれんをくぐッて、店先の上がりがまちに腰をおろし、
「いいお日和ひよりがつづくじゃございませんか、こんなあんばいでは、今年は雨なしの空梅雨からつゆかも知れません」
 たれにいうでもなく世辞を撒いて、ジロジロと奥の方や店の棚をながめ廻している。
 男が、首からはずした胴乱を見ると、箱の左右に「諸国銘葉めいよう」とし。前には「目ざまし」とだけ記して、その下の草という字のかわりには、たばこの葉が一枚朱漆あかうるしで書いてあります。
 で――店の者には、小口の仕入しいれに来た、たばこ行商人と分っておりましたが、べつにお世辞の相槌あいづちも打たず、九兵衛も手代もにべもなく黙っておりますと、男は、
「……ええと、龍王の細刻ほそぎりが一朱で二百五十匁替めがえ国分こくぶ舞留まいどめが百五十匁替めがえ。田舎じゃどうも売りきれねえな」
 などと呟いて、店のはり札を読んでいましたが、やがて、
「――じゃあ番頭さん」
 と、手代へ向って、
「細かくってすみませんが、秦野はたの古葉ひねを二十年員としかずの並物を二十匁、甘いところで水府もの少々と蒔田物まいだものをまぜて三十匁ばかり。……それから在方売りの『鬼殺し』という甲州葉のからいやつを五十玉ばかり揃えておくんなさい」
 と、注文する。
「秦野の古葉ひねは小出しがしてなくてお生憎様あいにくさまですが、薩摩さつまじゃ如何でございましょう」
「薩摩はどうも好き嫌いがあって売りにくい。じゃ、天下野てがのにしてもらおうか」
「へい、有難うございます」
 品をそろえ、書付かきつけに添えてそれへ出す。
 男は、首にかけていた財布のひもを解き、品書しながきを見ておりましたが、
「おや……旦那、こりゃあ少し算盤そろばんが違ッていやしませんか」
 と、草鞋わらじばきのまま這い上がッて、帳場にいた九兵衛の方へ身をのばしてまいりました。
「え?」
 と、初めて、顔を上げた九兵衛。
 見ると、渋色の巻頭巾に、たばこ売りとはうまく化けました。それは日本左衛門の手下、四ツ目屋の新助で、
「ネ、旦那。……ここは、それ、お間違いじゃござんせんか」
 と、書付は店の者の手前、何か、意味ありそうな目まぜをする。

 九兵衛がハッとして目をまどわせると、新助は小声になって、
「奥に居る親分へ、内密でこれを」
 と、今の書出かきだしの下にもう一通、何やら手紙のような物を重ねて、帳場格子の隙間から彼の膝へ渡しました。
「や、左様でございますか。勘定に間違いのない心算つもりでございますが、では、念の為もう一さん
 さり気なく装いながら、九兵衛は、下の手紙を袂へ落とし、たばこの品書だけをひろげてパチパチやっておりましたが、
「お客様、勘定はこの通り合ッておりますが」
「へえ……あっ、なるほど、こいつは私の勘違いで、上葉じょうばの方でございましたね。いやどうも飛んだ粗相をいって相済みません」
「いえ、どういたしまして、またどうぞ御贔屓ごひいきに」
「はい、これからなるべく、こちらへ仕込みに参りますから、よろしく」
 箱胴乱に仕入物を詰めこむと、それを肩にかけて四ツ目屋の新助、旅商人たびあきんどらしい世辞せじを投げて、秦野屋はたのやの店から姿を消しました。
 と――それからまた二、三日経ってのこと。
 同じような行商姿のたばこ売り、これまた渋色しぶいろ巻頭巾まきずきんをしたのが、店へたばこを仕入れに来て、ちょいと、九兵衛の方へ目まぜをする。
 見るとそれは、やはり日本左衛門の手下のひとり、尺取の十太郎です。
 それがまた、前に来た新助と同じように、店の者の目をぬすんで、そッと、一本の封書をたくして帰っていく。
「ははあ」
 と、九兵衛はやっと思い当ッて、
「おれの家の奥に、日本左衛門が潜伏しているので、手下の奴らは表向きに訪ねて来ることもならず、たばこ売りに化けて、つなぎを取っているのだ」
 案の定。
 それからも千ぞくの稲が来る。雲霧くもきり仁三にざが来る。そのほか、有名無名の白浪たちが「目ざまし草」の胴乱をかけ、たばこを仕入れに出入りします。
 しかし、人出入りの多い秦野屋の店、わずかな品を仕込みにくる「目ざまし草」の行商も、この者達ばかりではありませんから、店の手代や丁稚でっちも、べつにそれを不審とも思っていません。
 が、不審は九兵衛の胸にあって、どうも、こう頻繁に奥と世間でつなぎをとっているところを見ると、奥にいるあの二人は、ただ江戸から足を抜くばかりの目的ではなく、何かほかに仕事をもくろんでいるものに違いない。
 こう考えて、九兵衛ある一日、
「兄貴、さだめし退屈だろうな」
 それとなく、二人の腹をさぐりに、奥の座敷へ茶をのみに来ました。
 何か、絵図面らしいものをひろげて、額を寄せていた日本左衛門と金右衛門は、九兵衛が這入はいッて来ると、それを二ツに折ってうしろへかくし、
「いや、退屈どころじゃねえ。いろいろなやつが店へ出入りするので、おめえこそ、人知れない気苦労だろうが、まあ、もうしばらくゆるしてくれ」
「そんな事はどうでもいいが、兄貴、おれは少し気にくわない一件がある」
「なんだ?」
 と、金右衛門はにがッぽくとがりました。
「水くさいと思うのさ」
 九兵衛はジロリと彼のうしろにある紙片を見ながら、
「こうして、二人の身状みじょうを預かっている以上、たとえ、どんな事があっても、仲間を裏切るような真似はしないつもりだが、この間から見ていれば、何か、おれにはしかくしにして、外とつなぎを取っている様子、どういう方寸か知らないが、この秦野屋の奥を帳場に構えて、仕事の算盤をハジキながら、この九兵衛に、ふッつりとも打ち明けてくれねえのは面白くない」
「もっともだ」
 日本左衛門はうなずいて、
「実はそれについちゃ、この間から、話した方がいいか、話さぬ方がおめえの為か、おれも、迷っていたところなのだが……、そういうならば恰度ちょうどいい折、九兵衛、念のためにそこらを……」
 と、目くばせして、庭先や部屋の外に、立ち聞く人もあるやと注意ぶかく見廻しました。

 この間うちから「目ざまし草」の箱胴乱をかけて、しきりと秦野屋に出入りし、折あるごとに九兵衛の手をへて、奥へ密書をもたらして来た者たちは、皆これ、日本左衛門のさしがねをうけて何物かを探しあるく、彼のる目かぐ鼻ともいうべき役者――飛耳張目ひじちょうもくの報告なのであります。
 その探し物とは、無論、彼が一代の大望としている夜光の短刀。
 江戸では、釘勘の捕物陣とりものじん以来、兇賊狩きょうぞくがりのきびしい詮議に追われ、地方へ足を抜いては行く所に捕手の影がつきまとって、席のあたたまる間もない彼等も、その捜索は夢寐むびの間も忘れていない。
 いや、やみに巣を張る、多くの手下の飛耳張目が、雲をつかむような迷宮のうちから、その手がかりをだんだんと積層してきて、今では、そのありかがこことまでは分らないが、ある地域の範囲内に限定されて来ております。
 で、今。
 日本左衛門は九兵衛のひがみが解けるように、その次第をつぶさに打明けて、
「金右衛門、それを見せてやってくれ」
 と、少し席をひらく。
 九兵衛が部屋へ這入はいッて来た時、二人で首を寄せていた紙をそれへひらくと、それは、先生せんじょう金右衛門が書いたらしい精密な、夜光刀捜索そうさくの推測図。
 江戸及び江戸の御府外を中心として、関東一円にわたるふつうの絵図面に、今日までに探り得た要所ようしょ要所を朱点や暗号で、いちめんにしるしつけられた物であります。
(江戸市西北の広野こうや!)
 それは、切支丹屋敷でかのヨハンがお蝶へ指さし教えた手懸てがかり。
 御府外を西北に去る平野といえば、そこは草茫々ぼうぼうたる武蔵野の原のほかにはない。
 南は多摩川を境とし、北は中仙道、西は秩父ちちぶの連峰、東は江戸の町を境界に、今見るその絵図面にもグルリと朱の点線が打ってあります。
 九兵衛はそれへかがみ込んで、
「ウーム……」
 と、何かうめいている。
「この中だ」
 日本左衛門はその点線を、火箸ひばしの先でグルリと書いて見せながら、
「図で見れば、一尺四方に足らないこれだけの中だが、さて、尋ねてみると、武蔵野の広さがわかる。ことに、その方角を知っているのは、おれ達ばかりではない、まず」
 と、指を折って、
「お蝶が知ッている。道中師の伊兵衛がかぎつけている。――徳川万太郎はまだそこまで深く知らないが、あのお坊っちゃん気質かたぎの一途に、夜光の短刀にはたれよりも強い執着をもっていて、これも、雲霧の知らせによると、近頃、武蔵野の奥へ姿を見せたそうだ。――まだ油断のならないのは相良さがら金吾、とかく、邪魔になりそうなやつは丹頂のおくめ
 夜光刀の秘密をめぐる幾多の人間の影を数えて、日本左衛門は、そのまま黙ッてしまいました。
「兄貴」
 九兵衛は膝をのり出して、
「よく打明けてくれた。ろくな役には立つまいが、この九兵衛にも手伝わせてくれねえか。何しろ話を聞いただけでもこいつあ面白そうな仕事だ」
 日本左衛門はかぶりを振って、
「いや、おめえに乗ってもらうくらいなら、初めから何もかも打明ける。それを今日までつつんでいたのは、おれの老婆心、まア、止したがいいだろう」
「なぜ?」と九兵衛は気色けしきばんで、
「おれなどは、邪魔にはなっても、役に立たねえという腹か」
「このまま、世間に前身を知られずに済めば、秦野屋九兵衛という堅気で無事に生涯の終れるおめえだ。それを、こんな話から引き込んで、首尾よく目が出てくれればいいが、まかり違ッて、おれたち同様、獄門台に目をつぶるようなことになッちゃ、どうも、おれの寝ざめがよくねえからな」
「なるほど、兄貴らしいその思いやりは有難いが、いくら上手に世間ていを作ッていても、おれの素性が、このまま世間に分らずに、生涯無事に通るなんていうはずはねえ。どうせ、末には、年貢ねんぐの納めが来るものと覚悟をしている九兵衛、同じことなら男らしく、大きな博奕ばくちを打ってみたいのさ」

 店では夕方の取片づけにせわしく、一日のごみを掃き出し打水を撒き、八けんに灯を入れなどしている最中、
「番頭どん、わしは奥のお客様を案内して、夕飯は河原の井筒屋いづつやですまして来ますから、帳合ちょうあいがすんだら、早目に戸を下ろして、みんなも今夜は休ませて下さい」
 いかにも商家の旦那らしい、地味な手織ておりの羽織をかけて、こういいつけた秦野屋九兵衛は、
「じゃ、頼みますよ」
 たばこ入れを腰にはさみながら、外へ出る。
 外へ出ると、土蔵わきの木戸口から、ちょうど庭づたいに出て来た日本左衛門と先生せんじょう金右衛門のふたりが、笠のひもをむすびながら待っていて、
「九兵衛、大儀だのう」
「どういたしまして」
「どこやら風に青葉のにおいがする。今頃の夕方はまた格別じゃ」
「折角、お徒歩ひろいをおすすめしましても、この通り淋しい宿場、御見物なさる所もございませんが、河原あたりで御一献も、たまには御気分が変ろうかと存じまして」
 店の前を小戻りして、宿場はずれをブラブラ抜け、いつか相模川さがみがわの河原へ出ていました。
 川のながめを裏にした井筒屋という茶屋、そこへ上がッて、二階の一間に席をとる。
 あゆには早し、涼みの人は元よりなし、ほかに客らしい声もせず、至って閑散なところが殊に三人にはくつろげる。
 それは秦野屋の奥で、日本左衛門が夜光の短刀のことを九兵衛に打明けた数日の後。
 あの時、九兵衛、っての頼みに、日本左衛門も遂にかれの希望をいれて、共に、夜光の短刀を探そうという誓いは結びましたが、今夜、河原へ案内してくれと日本左衛門がいい出したのは、何の為か、まだ九兵衛にも分っていません。
 盃の音もひそやかに、そこで酒を酌んでいること一ときあまり、
「もうぼつぼつ来そうなもんだが……」
 と先生せんじょう金右衛門は、時々、思い出したように、その二階から川向うへ目を配っている。
 すると。
 やがて対岸のやみに、ポチと、ほたる火ほどな火繩ひなわが見え、その火繩は暗に何か、描くように、しきりと赤い線を振っています。
 それはこの仲間の火合図ひあいずとみえて、じっと、読むように赤い微光を見つめていた金右衛門、
「兄貴、やっと人数がそろったから、出かけて来てくれといっているぜ」
「そうか、じゃあ渡ろうか」
 九兵衛は変に思って、
「え、向う河岸かしへ?」
「ウム、うまくいって、此家ここ鮎舟あゆぶねを借りてくれねえか」
「それや造作もねえが、一体、今夜何があるんだ」
「まあ、一緒に来て見ればわかる」
 女中をよんで舟の支度を頼み、それへわざと酒さかなを運ばせて、茶屋へは酔後の遊船らしく見せかけ、九兵衛が竿を取って相模川を少し下流しもへくだってゆく。
 と、――向う岸の火繩もそれにいて歩き出し、やがて四、五町も来たかと思うと、クルクルと暗に渦を描いて、また何かの合図を送って来ます。
「ここだ、めてくれ」
 と、金右衛門と日本左衛門はヒラリと川洲かわすへ飛び上がる。
 九兵衛も鮎舟の綱を蛇籠じゃかごにからげて、二人の影を追いました。
 そして三人が、千鳥のように川洲を飛んで、向うの岸へ駆け上がッた頃です。何ぞ知らん、あとに捨て残された小船のなかに、まだもう一人の人影がうごめいている。
 鮎舟の一隅に積みかさねてあったとまねのけて、三人のあとを見送りながら、みよしに立った若者。
 虚無僧こむそうにしては天蓋てんがいを持たず、六部にしてはおい背負しょっておりません。白の脚絆きゃはん手甲てっこうに白木の杖、その身ごしらえから察しますに、この辺りでは珍しからぬ旅人、石尊詣せきそんまいりの行きか帰りの大山行者おおやまぎょうじゃでありましょう。

 秦野屋が土手へ上がッてみると、そこに待つ者がありました。最前から暗に火繩を振って、日本左衛門と金右衛門に合図を送っていた男。
「そろっているか」
「みんなお待ち申しております」
 三人は黙って男のみちびくあとについて行きます。
 そこは多分、社家の粉場こなばと呼ぶ所でしょう。河原口から疏通はけて来る数条の引き水が流れ、流れに添って、四、五軒の水車小屋がかたまッている。
 ボッと薄赤い明り――その水車場の裏手でした。シンと鳴りをしずめていた人間の顔が、二十か三十か一斉に足音へ振顧ふりかえる。
「あ、親分」
 どろどろと立ち乱れると、無言のうちに整然と、それへ来て腰かけた三名をかなめにして、扇形おうぎがたに坐り流れる。
 見ますと。
 そこに集合していた人間は、一列一体に、渋色の巻頭巾、わらじ脚絆、「めざまし草」の箱胴乱をかけた姿で、みなこれ、同業同色のたばこ売りでありましたから、九兵衛もいささか驚いて、いつのまに、こんな出店がふえたろうかと呆れている。
「頭数は?」
 と、やがて日本左衛門のことば。
「三十四人です」
 答えた声は雲霧らしい。
「この中に、そつ八が居ねえようだが……」
 日本左衛門は、少し不機嫌に、
「あいつが、水門じりで捕方にあげられたのは、てめえ達も知っていように、だれも率八ひとりを伝馬牢から助け出してやる奴が居なかッたのか」
「へえ」
 と、おそれいる後ろから、尺取しゃくとりの十太郎、
「親分、率八の体のことは、御安心なすッて下さいまし。江戸に残っている仲間の者が、この間牢役人に手を廻して、うまくもらい出したそうでございます。――ただ今夜のらせは間に合いませんので、ここに姿を見せませんが……」
「そうか、それは好くやッてくれた。今日の寄合よりあいはこの頭数で充分だ」
 満足そうにうなずいてのち、何か金右衛門に顔を寄せて低声こごえに打合せをささやいておりましたが、
「時に」
 と、重い語調で、一同へ向き直る。
 改まって、何をいい出すのかと思っていると、日本左衛門、
「――この間うちから夜光の短刀の事について、皆が必死に働いてくれたおかげで、どうやら少し糸口がついて来た。まず今夜の用件を相談する前に、それから先に礼をいっておく」
 両手を膝にし、慇懃いんぎんに頭を下げましたから、居ならぶ手下の渋頭巾も、おのずとそれに従ッて膝まで頭を下げずにはいられません。
「ウーム」と、腕ぐみをして眺めていた秦野屋九兵衛は、日本左衛門が常にその手下を、小憎こにくいぐらいに巧みに使う旨味うまみはここだなと感服しつつ、これで盗賊なんだから呆れたものさと、自分の盗賊なることを忘れて考えこみました。
 人を使うことで、思いあたる話は、呉子ごし武候ぶこうに与えた兵法の虎の巻にある一項で、
「ソレ兵法ノ神髄シンズイハ兵ヲシテ死ヲ楽シマシムルニアリ」
 といったことば。
 なるほど、自分から死を楽しんでバタバタ死にたくなるほど上手に人間を使いこなせば、これ以上の兵法はありますまい。軍学者とはまことに怖ろしい哲学を編出あみだすもので、そんな悪い智慧を武侯にさずけた呉子にはこういう挿話さえある。
 呉起ごきしんを討ち五城を抜かんとして出征した陣中での事。
 士卒のなかに、というきたない腫物はれものを病む者がありましたのを、陣を見廻って来た呉子が見て、口をつけて腫物はれものを吸ってやった。すると、故郷の母がその便たよりを聞いて、声をあげてオイオイと泣きました。
 人あり、そつの母をなだめて、
「あなたの息子さんは仕合せ者じゃないか、呉起将軍が口をつけてを吸って下すったとは、なんと大した光栄だろう、それをお前さんは、なんでそんなに悲しみますか」
 卒の母、泣きながら答えますには、
「昔、呉王もあれの父のを吸いました。案のじょう良人おっとは呉王のために討死して家へ帰って来ませんでした。今また、たッた一人の息子の疽を吸われましては、この老婆が、たれに死に水を取ってもらいましょうか」
 なおオイオイ泣いて止まなかッたという話であります。
 秦野屋はいやに感服したふうですが、日本左衛門は元来侍あがり、孫武そんぶや呉子の兵書ぐらいは腹に入れているに違いありまん。
 しかし、泥棒が兵法を応用するのは、さまで恐ろしいことでもないが、これを金満家が人を使って大きな仕事を成す上に使ったなら、それこそ、かねに疽を吸われて白骨になる人間がいくら出来上がるか分りますまい。
 余談はとにかく。
 何の密議か、ここに暗夜の会合が、ひそかに首を寄せ合った時、河原の土手に駆け上がって来た石尊詣せきそんまいりの男は、杖を立てて、しきりと四方を見廻しています。
 やみに目立ちやす行衣ぎょうい
 ――遠目にも、すぐ相手に認められ易い自分の姿に、石尊詣りの男は、ふと、そこで思案に迷っているふう。
 と。
 男は、あたりの灌木の枝を手頃に折ッて、それを幾つも持ちました。
 こうして身を屈して行けば、幾分か白い姿を紛らわしますから、木遁もくとんの法の機智ともいえます。
 首尾よく、水車小屋の近くまで忍んで行くと、一枚のむしろがあったので、木の枝をそれにかえ、蓑虫みのむしのようにクルリと丸まりながら、なるべく人声に接近して、大きな歯車の蔭にそッと身をかがめめ込む。
 ゴトン……ゴトン……と諧調かいちょうをもって廻る水車の音に、先の話し声が消されがちでしたが、その代り彼が忍んだことも、鋭敏な彼等に気づかれていない。
「じゃ、釘勘はあれから、一たん江戸へ引返したのだな」
 何かたずねる声は日本左衛門。
「それは確かです。充分突き止めてまいりました」
「そうか」
 といって次のひとりへ、彼の質問が移ってゆく。
「尾州家のお坊っちゃんは?」
「…………」
 返辞がない。
「だれだ、万太郎にかかッていた者は」
「あっしです」
「稲吉か」
「へえ」
「なぜ黙っている?」
「実は、今夜の寄合よりあいまでに、よく居所を突き止める事ができなかったんです。根岸の屋敷を出たのち、御府外へ向ッた事だけは分っておりますが」
「お蝶は?」
 言下に雲霧が答えました。
「あいつあ、野鍛冶のかじの半五郎にだまされて、あっしが寄合に戻って来る日の昼間、その鍛冶小屋に連れ込まれました」
「馬春堂の様子を探りに行ったのもおめえだな」
「いえ、そりゃあ、尺取しゃくとりです」
「十太郎か」
「へい」
「あいつは毒にも薬にもならねえが、どうしているこの頃は?」
「伊兵衛に助け出されて、高麗こま村から逃げだしたあんばいです」
「そして」
「あとの事はまだ探りにかかりませんが、多分、中仙道筋へもぐり込んだものと観ております」
「じゃ、これで、あらかた目星はついて来たな」
「でも、まだ姐御あねごの居所が分りませんぜ」
「ウム、お粂か」と、彼の声がやや沈み入りましたが、
「あいつは、やがて自然にわかって来るだろう……じゃ、これでおよそ皆の話も聞き取ったから、そこで」
 と、また深く考えて、不意に、
「雲霧、くじをこしらえてくれ」
 といいました。
「籖?」
 妙な顔をして訊くと、
「そうだ、これからの大役を、籤引くじびきで一役ずつ引受けてもらうのだ」
「へ。何本?」
 ――指を折って、
「五ツ組、六本でいい」
 雲霧が懐紙かいしを出して、五つに細く裂き、それを日本左衛門に差出すと、かれの代りに先生せんじょう金右衛門が、その紙縒こよりの末に、いちいち何かをしたためました。
「ところで、このくじだが」
 と、引かせる前に日本左衛門は、雲霧、四ツ目屋、尺取、千束、それと秦野屋九兵衛とを加えて、その五人にすべての手下を五ツ組に分ける。
 そして、これからの行動は、すべてこの五ツ組に分れて目的を遂行すること。寄合の時、場所、そのの連絡など、すべての約束を結ばせた後、
「サ、たれからでも引くがいい」
 金右衛門が紙縒こよりの先を一同へ向けましたが、
「ですが、これは一体、どういう訳の籖なんだか、そいつが分っていねえと、張合がありませんね」
 と、たれかいう。
「じゃ、前に種を明かしておこうか、実はそれには、相良金吾さがらきんご、丹頂のおくめ切支丹きりしたん屋敷のお蝶、目明しの釘勘くぎかん、道中師の伊兵衛、徳川万太郎、こう六人の名が書いてある」
「へえ……それで?」
「その名を引いた組の者の仕事は、その人間を殺すことだ」
「すると、一本よけいになりますが」
「残りは、親引き」
「なるほど」
「ですが、親分……」と、また四ツ目屋が疑いをはさんで、
「――その中にある、かんじんな、相良金吾だけは、まだどうしても居所いどころが分っておりませんが」
「ウム……金吾か」と、日本左衛門はニンマリと笑みをふくんで、
「泰野屋の奥に居ても、おれも、ただは遊んでいない。金吾の歩む足音は、この迅風耳じんぷうじで聞きすましている」
「えっ、じゃ、親分はご存じですか」
「知らなくッて、どうする!」
「どこに居ますか、今、彼奴あいつは」
「わからねえのか。……それ、てめえ達の居所から、ものの十尺と離れていない、ツイそこの水車の蔭に屈んでいるのが――」

 金吾? 金吾ならばついそこの水車の蔭に居るではないか。
 ――何の前提なしに日本左衛門がこういったものですから、一同はギョッとしながら半信半疑に、
「えッ、金吾が?」
 と、あたりを一斉に見廻して立ち迷いました。
 が――その幾ツもの目が、水車小屋の蔭にハッとして動いた影を見つける前に、石尊詣せきそんまいりの例の男は、木鼠きねずみのごとく一方の森へ駆け込んでおります。
 そして、後ろを振顧ふりかえりりましたが、一時に追い駆けてくる様子もない。
「おそろしいやつだ」
 ホッとして行衣ぎょういの土を払いながら、そこの朽ち木の根へ腰をおろした男は、姿こそまったく変っておりますが、まことに日本左衛門の慧眼けいがんたとおり相良金吾その人に違いありません。
 金吾は今の一時ほど、日本左衛門という男のおそろしさを真に感じたことがない。
「どうして彼が自分の尾行つけていたことを知っていたか?」
 と思えば思うほど不思議にたえません。そして、根府川の千鳥ヶ浜で、剣と剣とをもって生死の境に面接した時の彼よりも、遙かに脅迫的な日本左衛門のむッつりした※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ふうぼうが今も自分の背中に、こびりついているように感じられる。
 しかし、金吾が彼にもつ疑いと同じに、彼が日本左衛門の居所いどころを知っていたのも一ツの疑問でなければなりません。
 丹頂のおくめを突き放して、十国峠の背を何処いずこともなく去った相良金吾は、その、転々した末に、この厚木から遠からぬ雨降山あふりやま大山おおやまの宿の行者宿に落着いていたのです。
 白い垢離衣こりごを着た人々に交じッて、彼も三七の日を雨降山にこもって、一日も早く、主家に帰参の日のあることを祈願しておりましたが、そのうちにふと大山の宿で見かけたのが、江戸で見覚えのある四ツ目屋の新助、渋色の巻頭巾まきずきんに目ざまし草の箱を掛けて、たばこを売り歩いている行商姿。
 それから彼の行動をけて、秦野屋に出入りすることを確かめたのち、ある夜、住居の庭へ忍んで様子を窺ってみると、怪しい客が滞在している。
 で――今夜、河原の井筒屋へ上がッたことも知っていたので、どうかして、近づこうと苦心しているうちに、二人が裏の河原へ降りて来たので、あわてて鮎舟あゆぶねとまかぶっていたわけです。
 一方。
 水車場の裏では、金吾がそこに居ると聞いて、一時、ソレと総立ちになった様子でしたが、日本左衛門が、
「立つな。今夜は決して追ッちゃあならねえ」
 という制止に、ようやく動揺をしずめて、元の冷静に返ったらしく、やがて、今後の役割を振分けるべく用意した「暗殺のくじ」を順々に引き初めました。
 ――夜光の短刀の捜索が、ようやく、その曙光しょこうを見出して来るとともに、日本左衛門中心の一味にとって、事ごとに邪魔になるものは、その短刀をめぐッて同じ猟奇心りょうきしんに動く人間と、その秘密を一層世間へ流布るふするおそれのある人間の存在です。
 そこで、彼の果断は残忍をいとわぬ事になって来ました。すなわち、自分を別にして、手下の者を五ツの組に分け、数えあげたその邪魔ものを、疾風迅雷に手分けをして刈り尽くそうという考え。
 そこで、※(二の字点、1-2-22)めいめいが引当てた「暗殺のくじ」の結果は?
 紙縒こよりの端を順にひろげて見ました上、役割はこうと極まりました。
雲霧の仁三の組…………徳川万太郎を暗殺する。
尺取の十太郎の組………目明しの釘勘を暗殺する。
千束の稲吉の組…………丹頂のお粂を暗殺する。
四ツ目屋の新助の組……道中師の伊兵衛と馬春堂の二人を暗殺する。
秦野屋九兵衛の組………相良金吾を暗殺する。
 そして最後に親引きとして残った日本左衛門のくじは、もう見るまでもありません。――切支丹屋敷のお蝶。

 暗殺の籤を引いて、※(二の字点、1-2-22)めいめいの決行する仕事をさだめたのち、夜光の短刀のことについてもいろいろ打合せを済まして、
「さて、つぎの寄合は土用のたつの日とする。場所は河岸かしをかえて上総かずさ鹿野山かのうざん、場所は上総の鹿野山」
 と、日本左衛門が一同の耳へもれなく届くように、こうくりかえして――
「いいか、日は土用の初めのたつの日、時刻はよいの六ツ半から七刻ななつの間、鹿野山の額堂がくどうに集まることだぜ。忘れねえようによく耳へとめておけ」
 と言い渡すと、千束の稲吉が、
「親分、おたずねするまでもなく、あっし達が受け持った仕事も、それまでの間に、首尾よくやッてのけなければなりますまいが、万一の場合があって、もし土用の辰までに、目ざすやっこを殺すことが出来なかったら、その時は、どうしたもんでございましょう」
「いや、次の土用の寄合は、お互いの首尾や報告しらせ、また、先の仕事の手順をしめし合せるつもりだから、それまでに、今夜籖できめた暗殺の仕事を、首尾よくやッて済ました者も、うまく行かずにいる者も、不面目を思わずに、必ず顔出しをしてもらいたい。なお念のために言っておくが、この事は、稲吉のほかの者も、よく胸にたたみ込んでおいてくれ」
「承知いたしました。じゃ親分、土用の辰に、上総かずさの鹿野山で、またお目に懸ることと致します」
「ウム、それまでは、もう寄合うことはねえだろう、お互にこれから先は東西南北、どこへでも気ままに散らかッて行くがいい」
 立ちかけましたが、日本左衛門は、ふと傍らの九兵衛を振顧ふりかえって、
「おお秦野屋、おめえにも嫌応いやおうなしに、一役振り当てたが、異存はねえか」
「元よりおれから望んで仲間にはいッたこと、なんで異存があるものか」
「おめえの受持ちは相良金吾、あのくじの中では一番手ごわい侍だから、ずいぶん抜かりのねえように頼む」
「一番骨ッぽいのを引受けたのは、秦野屋として面目をほどこしたわけ、兄貴、どうか心配しねえでくれ」
「じゃあ、今夜の寄合よりあいはこれで済んだな」
 と、編笠あみがさかぶる親分のについて、一同が人影を織りながらゾロゾロと水車場の間を歩み出しましたが、そこの小屋の蔭を出た途端に、目の前の草原が、夕焼けのように、カーッと赤い光になすられているのに、
「オオ」
 と、思わず一同が立ちすくみました。
 それと共に、静かな夜気と相模川の水に反響して、カ――ン、カ――ン、カ――ンと、河向うの厚木の宿で、さかんに鳴っている三ツばんの音がたれの耳にも気づかれます。
 風がある。西らしい。
 土手に若葉をゆすッている※(「木+(言+睹のつくり)」、第3水準1-86-25)あかがしの木立を楯にして、顔を焼きそうな対岸を眺めますに、燃えさかッている火の手はちょうど宿しゅく上町かみまち辺で、炎は人家の建てこんでいる、下へ下へと延びている。
 その炎の色を映して、幾条いくすじにも裂けている相模川の水は、あたかも坩堝るつぼの溶液が砂利の間を煮え流れているよう。
 風向きのせいかパチパチとほのおのハゼる音までが、広い河原の距離を越えて聞こえ、それに交じる人声までが、陰々たる空を煙に送られて来ます。
「どこだ、どこだ火事は」
 土手を駆けて行く人と人が、たれに聞くでもなく、これに答えるでもなく、
上町かみまちの芝居小屋だ――岩井染之助いわいそめのすけ楽屋がくやから出たんだとよ!」
 声を投げ合ッて走って行く。
 岩井染之助一座。
 なるほど、そんなのぼりが、宿場の辻にハタハタしていたのを見かけたことがある。
 ――と、四ツ目屋、雲霧、尺取しゃくとりなどは、面白そうにそれを対岸の火災視しておりましたが、ひとり秦野屋九兵衛は、
「ウーム、この風じゃ……」
 黙然と腕ぐみをして、炎をにらみながら呟やきました。
「秦野屋、どうやらあの火の手じゃ、おめえの店は一舐ひとなめになりそうだな」
 と、日本左衛門が側へ寄ってささやくと、九兵衛は結んでいた口をニヤリとゆがめて、
「――とすると、千両ばかり煙になる勘定だが、楽に積んだ身代しんだいは、やッぱり、楽に灰になりゃアがる」
「あはははは。あきらめねえ」
 と、日本左衛門も、これが堅気の秦野屋なら、慰めなければならないところを、かえって妙に可笑おかしくなって、九兵衛の肩をたたきながら、
「――おい、盗ッの目ざまし草だな」
 おのれの身にもありそうな、この皮肉に自嘲をおぼえて、愉快そうに哄笑こうしょうしました。

 火をもてあそぶ風は血を見た人間のように、いよいよたけり出してくる。
 宿場の火事は加速度に燃えひろがりました。
 一度西から東へ転じていた風が、またにわかに方角を変えてきたので、火の手は二手にも三手にも分れた様子で、もう秦野屋の店あたりも、完全に助からない位置にあるようです。
 九兵衛は遠い炎に赤く照らされている顔を笑いくずして、
「こうなってみりゃ、結句けっくおれも気楽にお仲間入りができるというもの。どれ、焼け出されの秦野屋から、お先に御免こうむろうか」
 サバサバとした顔つきで、日本左衛門や他の者と、上総かずさでの再会を誓って、ぷいとそこから影を消す。
「では親分、土用のたつに」
「いずれいい吉左右きっそうをお土産みやげに」
「あっしもこれで」
「手前もここで」
 雲霧の仁三にざ、四ツ目屋の新助、尺取しゃくとりの十太郎、千ぞくの稲吉達も、※(二の字点、1-2-22)めいめいその組の手下を六、七人ずつ連れて、ちょうど今夜の廻り風のように、そして四方に散らばる火の子のように、思い思いな方角へ、騒ぎにまぎれて立ち去りました。
 その頃――
 相良金吾は行杖ぎょうづえをかかえて、まっしぐらに上流かみの渡船場へ向って駆けている。
 たれを追いかけたわけでもない。ただ、向うへわたる渡船を求めるために。
 自分がひそかに宿を取っていた、宿端れのわびしい安旅籠やすはたごには、足の不自由な石尊詣りや、業病の願がけに来た老人としよりや、また宿の家族にも子供や老婆などが多いのを思い起して、一樹の縁の人々の災難を、ジッと見ていられない気持でした。
 と、息をきって、渡船場へ駆けつけて来るなり、向うへ渡る舟はないかと見廻しますに、それどころではない、ここは瀬がいいので、対岸の火中から逃げのびて来る人々が、荷物や女子供を舟に託して、われ先にと混み合ってくる一筋路。
 火の子に泣く幼い者の声、何か高声でわめく男、荷物を流して身を忘れる女など――金吾は思わず目をおおいました。
 所詮しょせん、空いている捨て舟などはないので、向うへ越えることは諦めねばなりませんが、その惨めな雑沓を見るや否、金吾は夢中で働いている。
 どこの家族という見境なく、荷物や老人に手を貸して、夢中になって働き出している。
 そのうちに、意気地のない悲鳴をあげて、二、三艘の小舟に乗って逃げて来た一組がありましたが、その葛籠つづらや荷物がおそろしく嵩張かさばっている上に、この騒ぎの中だというのに、ある者は金糸銀糸の衣裳を着、ある者は毛脛けずね白粉おしろいをなすりつけており、気をつけて見ると、一人も満足な形でありません。
 葛籠つづらの紋やふろしきの染め抜きを見ると、これは、今夜の火事を出した火元とか噂をされていた田舎いなか廻りの旅役者、岩井染之助一座の河原者と思われる。
 すると、今。
 岸に着いてゴッタ返しながら、荷物をあばき合っていた河原者の舟で、
「あれッ、あれッ、どなた様か、そこへ流されてゆく者を助けて下さいませ」
 と、鬘下地かつらしたじ女形おやまらしいのが、金切声を上げました。
 見ると、折わるく一番瀬の早いふちへ、誤ッて落ちた者があるらしく、あれよというまに、水に巻かれた人らしいものが、渡船場のくいれて下流しもへ押し流されてゆく。
 岩井一座の小屋が火元だという土地のうわさが、初めからパッと広がっているので、自然と憎しみを持つものか、それとも自分達のことで他をかえりみている気持が起きないのか、たれもそれへ手を出す者がない様子。
 ひとり、駆け出したのは金吾です。
 急流とはいえ、おかを駆ける足どりは、すぐに流されてゆく者を追い越します。彼は、蛇籠じゃかご崖縁がけぶちから川洲かわすへ飛び降りて、瀬の狭くなる流れ口に足を踏み込み、いきなり、そこへ見えた黒いものをつかみました。
「ああッ……」
 と、水の中から、人魚の泣くような声。
 かれが掴んだのは女の黒髪と衿元えりもとで――まだ正気のあったらしいその女は、無我夢中になって、ビッショリとぬれた両腕をあげて、金吾の足へすがりついて来る。
「しっかりいたせ! これ女中」
 水を吐かせようとするのと、気を張らせようとする用意で、わざと邪慳じゃけん胴中どうなかをすくい上げてから呼びました刹那、
「おっ、相良さがらさん――」
 なんという不意でしょう。こう言った女の声です。
「えっ……」と金吾。
 抱きかけた黒髪のベットリついた女の顔を、空明りによくよく見ると、それは思いがけないというよりは、彼にとって、むしろ怨霊おんりょうのように見えたかも知れません――あのおくめです、丹頂のお粂です。
「あっ! ……」
 と金吾が驚きを投げた途端に、そこでザッと水しぶきが上がりました。そして、彼の白い影が、逃ぐるが如く、川洲かわすから崖へ駆け上がった時、それと反対な川下へ、黒い水巴みずどもえが渦巻いて行きました……
 一度救われかけたお粂は、金吾に救いの手を放されて、また十数間水に押されてゆきましたが、幸い、浅瀬のしがらみに体が引ッかかったので、身ぶるいしながら這い上がり、そこでばッたりと、気を失って倒れていました。
 と、やがてのこと。
 前の岩井染之助一座の者でしょう、人手をかりて駆け出して来たのが、提灯の明りをかざして口々に、
「おお、あすこにだれか倒れている」
「あれだ、あれだ」
 と呼び騒ぎながら、土手を降りて川床の草地へ集まって来る。
 こういう場合に経験のつんでいる土地の船頭らしい男が、
い女だなあ、すごいようない女だ」
 生きるか死ぬかと、はたの者が心配している最中に、のん気なことをいいながら、みずおちを押して見て、
「大丈夫、大丈夫。ろくに水をのんでいねえから、気がつけば確かなものさ」
 ゆうゆうと手当をしてくれるのが、かえって頼母たのもしく思われて、周囲の者をホッとさせます。
 ところが、一座の御難はこれにとどまらず、またぞろ、そこへばらばらと駆けて来たしゅ文字の提灯ちょうちんがあって、
「そのほうたちは、岩井染之助一座の者であるか」
 と、権柄けんぺいな声。
 見ると厚木あつぎの天領役人と四、五人の手先です。何よりはその手にある十手の光にハッとして、
「左様でございます。手前どもは上町かみまちの小屋に興行こうぎょうのお免許ゆるしを願っておりました染之助一座の楽屋者に相違ございません」
「その染之助はこれにおるか」
「へい」
 と、うしろの方にふるえ上がっていたまゆのない男が、衣裳下の襦袢じゅばん衿前えりまえを合せながらオズオズと前へ出て、
「手前が座頭ざがしらの染之助でございますが……」
太夫元たゆうもとの長吉もこれへ出い!」
「ええ、その太夫元というのは名前だけで、一座と一緒に歩いているわけではございません。御覧の通りな、頭数の少ない一座、手前が名前人やら奥役やら座頭ざがしらやら、すべてを兼ねてやっておりますので」
「しからば申し聞かすが、今夜、その方たちの小屋より失火を出しておりながら、おかみのお許しもまたず逃亡せんとするは不届き至極な奴、一座の重立った者三、四名、天領御役所まで引ッ立てるから左様心得ろッ。いや、言い訳ならん、ならん! 立てッ」
 と、郡代ぐんだい同心どうしんが、いかにも田舎いなか役人らしい権柄けんぺいあごをすくう。
 待ちかまえていた手先は、有無をいわさず、座頭の染之助、中軸ちゅうじくの市川姉蔵あねぞう女形おやま袖崎市弥そでざきいちやの三名をねじおさえて、数珠じゅずつなぎに引ッくくる。
 その間に、ふと、ぬれ鼠になって倒れているお粂に目をつけた同心は、胡散うさんくさそうに顔をのぞき込んで、
「この女は何者じゃ」
 と、染之助に問いつめて来ました。
「……ええ、そのお方は、一座の者ではございません故、どうかこの事にはお見逃しの程を」
「だまれ、何者かとたずねるのじゃ」
「江戸表におりました頃、度々たびたび御贔屓ごひいきになりましたお客筋で、芝居の方とは、何のかかわりもないお方でございます」
「それがどうして、その方たちの楽屋におるのか」
「ちょうど手前達が、三島の小屋を打っております時、突然たずねておいでになり、事情があってしばらく旅に居たい身の上だから、楽屋においてくれないかというお話、以前御贔屓になった御縁もあるので、何とはなしに、そのまま私達の仲間と一緒に、田舎いなかを歩いてまいったわけでござります」
「ふむ……しからば引ッ立ててまいっても仕方があるまい」
 同心は目くばせして、数珠じゅずつなぎの三名を先に立たせ、なおあとの者に何か心得を言い聞かせて、土手を遠く立ち去って行く。
 赤い空も、いつかどす黒く沈んでいました。
 その翌日。
 焼け出された岩井一座の小屋者は、衣裳つづらと一ツの籠を取り巻いて、旅回りの惨めさをかこちながら、八王子街道を落武者のように元気なく辿たどっていました。

迷路めいろ迷人めいじん


 今日もまた武蔵野の原をさまよう一ツの編笠あみがさがありました。
「はてな……」
 と。幾つもの岐路きろに立つごとに、行き迷っている様子。
 時折、笠のつばを上げて、四方の碧落へきらくを見廻す瞳は、疲れながらも、何かの希望に燃えている。
 編笠につつまれた顔をのぞくと、それは徳川万太郎でした。――かの不思議な女駕おんなかごに乗せられて、武蔵野のやみを夜ッぴて疾駆した揚句、郷士ごうしどもの嘲笑と共に、駕ぐるみグルグルグルグル廻されて窪地の底へ抛り込まれた万太郎。
 彼です。
 彼はあの晩、阿佐ヶ谷神楽の連中が、野舞のまいをしているかがり火を見ました。
 また、その連中のなかに、道中師の伊兵衛が交じッていたのも見ました。
 ところが、いつもながら、例の懸引かけひき知らずな若殿気質かたぎ
 いきなり躍り出して、彼等のきもを冷やしたものですから、百姓神楽の者どもは、
素破すわ鳴物停止なりものちょうじをとがめに来た村役人!)
 と驚いて、かがりを踏み消して八方へ逃げ散り、伊兵衛も共に影をくらましましたから、万太郎はまた元の暗黒に一人取り残されて、夜もすがら迷うのほかなき結果を招いたのです。
 そしてその後、数日の間。
 彼は、見知らぬ百姓家に宿を借りて、その晩の疲労をいやしておりましたが、ようよう体の痛みも癒えたので、昨日から教えられた高麗こま村の方角へ向って歩いているところ。
 ですが――自分ではその方角が誤らないつもりなのが、どうもだんだん妙な道に踏みこんで、少し頭も混迷してきた形です。
 一方。
 伊兵衛の方は、うの昔に、高麗村へまぎれこんで、あんな器用な芸当をやッてのけた上、ともかく、馬春堂を助け出して、物騒なお屋敷におさらばを告げているというのに、彼は、まだこんな所に遅々ちちとしている。
 気性が勝っているようでも、やはり若殿は若殿、日本左衛門がお坊っちゃん扱いをするが如く、どこか悠長なところがあるのでしょう。
「――どうしたのじゃ、この道は、昨日もたしかに歩いたように覚えられるが?」
 二日も道に迷いながら、迫らず騒がず、まことに鷹揚なふところ手。
 染屋の悪狐にでもかれているようです。
 だが、いかに万太郎が御殿ごてん育ちでも、昼狐につかれる程なボンヤリではありません。
 彼が、昨日も今日も、自分で怪しみながら同じ道に迷っているのは、この土地の地理にうとい必然な錯覚であります。ここを有名な女影おなかげの里の迷路であると知ッたなら、彼も、もう一層ゆッくりと編笠あみがさひもでも解いて、そこらの草叢くさむらにどっかりと腰を下ろし、おもむろに迷って来た方角を反省してみる必要があったでしょう。
 ――それを知らずに、唯、錯覚の感じを頼りに歩いているうちに、彼は、一軒の黒い家を見かけて、
「おお、あれにあるのは野鍛冶のかじの家らしいが……」と、そこへ足を早めて行く。
 半五郎の鍛冶小屋です。
 かどに寄って、仕事場の土間をのぞき込んで見ますと、今日は、半五郎の夫婦もいず、ふいごに赤い火も燃えていない。
「留守か……」
 がっかりして辺りを見廻していると、ちょうど鍛冶小屋の横手にあたって、たれか、はなをすするような泣き声がもれる。
 何の気もなく、万太郎は、静かにそこへ足を運んで行ったのです。
 見ると、羽目板のすそに、犬のようにうずくまッている少年がある。
 顔は見えないが高麗こま村の次郎でしょう。次郎は太陽にあやまッているように、膝をかかえて泣いていました。

 たれか近づいて来た跫音あしおとに、ふと顔を上げた高麗村の次郎。
 この辺では見かけない人品のいい侍が、ジッと編笠あみがさのうちから自分を見つめておりましたので、いかにも間が悪そうにあわてて、涙の目をそらす。
 万太郎はそれへ立ち止まって、
「お前はこの鍛冶小屋の小僧か」
 と、驚かぬように、やさしく声をかけて見ました。
 暫くこッちを向きませんでしたが、やがて次郎、涙をかわかして、
「おいらかい?」
「うむ、少々道をたずねたいのだが……」
「ああ、道に迷った人か」
高麗こまごうというのはこれからどう行ったらよいのか、お前は存じておらぬか」
「高麗村へ行くの? おじさん」
「そうじゃ、そこの御隠家様と申す屋敷をたずねあぐんで、昨日からこの辺を迷うている。知っているなら教えてくれい」
 次郎の眼は改めて、万太郎の風采ふうさいを見直しておりましたが、
 これは伊兵衛や馬春堂のたぐいの人物ではないとやや安心したらしく、
「その高麗村はネ」
 と立って――あなたの連山を指さしながら、
「あの右に見える物見山と、左の奥に見える大丹波の間を、グングンとかいへはいッて行った所だよ。だが、それよりもッと分りいいのは、この入間川の水に沿って、何処までも何処までも、流れのかみへゆくとそこが高麗村さ」
「では、飛んでもない方角ちがいをしていたわけだな」
「ここは女影おなかげの迷路といって、だれでも、旅の人は迷うのが当り前だ」
「女影の迷路? ……話に聞いた女影の里というのはこの辺であったか。道理で……」と万太郎は笠をめぐらしながら、
「この先へまいって、もしまた、道に迷っては甚だ難儀に思うが、お前、わしの案内をしてその高麗村まで同道してくれぬか、駄賃は何程でもそちの欲しいほど遣わすが」
 ――と言うと、次郎の眼がまた急に曇って、
「おいらも高麗村へ帰りたいのは山々なんだけれど、わけがあって帰れない。おじさん、一人で行っておくんなさい」
「ほウ、では、お前は高麗村の者であるか」
「御隠家様のお屋敷に奉公していた、次郎という者だけれど、おじさんは?」
「わしか……」と、口をにごしながら万太郎は、これはいい者に出会ったと喜んで、
「わしは徳川万太郎という者だが、そちがあの屋敷の召使いとあらば、さだめし様子も知っておるであろう」
 と、目白の石神堂から郷士たちの持ち去ッた仮面めん箱のことをききほじると、次郎は意外な顔つきをして、
「ああ、おじさん、それじゃ高麗村へ行っても無駄足だよ」
 と、両手を頬に当ててガックリとうなだれました。
 次郎の答えに、何かつつまれている事情があるらしく思えたので、万太郎も少し色をなして、
「えっ、では洞白どうはくの鬼女の仮面めんは、狛家こまけにもないと申すのか」
「この間までは、確かに御隠家のお屋敷にあったんだけれど、今では、どこへ行ったか分らない」
「嘘であろう、いつわりであろう。あれほどな名品を一度でも手にした狛家の者が、滅多に人手に渡すはずはない」
「嘘じゃない……ほんとだ。……ほんとだからこそ、おいらはここで泣いている」
「洞白の仮面めんゆえに、お前はここで泣いていたのか」
「ああ……おいらは狛家へ帰りたい。お嬢様のそばへ行きたい。だけれど、あの仮面めんを人にられたまま、手ぶらで帰ったら御隠家様がどんなにお怒り遊ばすか……それを思うと高麗村へも帰れない」

 次郎の答えは率直です。彼には邪心がありません。邪心のない者は人を疑わない。
 殊に万太郎のたずね方がやさしいので、やや感傷的な気持でここに泣いていた次郎は、自分の落度おちどを訴えるように、相手がたぐる話の糸に引き出方れて、その話すところ訴えるところに、少しも包みかくしがないのです。
 ――自分や月江つきえ様が熱海あたみから帰った晩の夜宴のこと。
 また、その晩の騒動。
 あれからのいきさつ。
 調子に乗って石神堂から取出した般若はんにゃ仮面めんをつけたまま、逃げた曲者くせものを追ッかけ追い廻し、その揚句、あまり疲れたためこの鍛冶小屋に立ち寄って、両親に甘えながらツイそのまま寝込んでしまったのが、あとで思えば自分の不覚。
 ちょうど同じその晩――
 父の半五郎が連れて来て奥へ寝かしておいた素性の知れない女が、自分が顔にかぶって寝ていた般若の仮面めんをはぎ取り、夜の明けないうちに、何処ともなく姿を消して、あとの寝床はもぬけの殻となっている。
 半五郎は怒ッて、その翌日、早速女の行方をさがしに出かけたが、とうとう姿が見つからず、と言って、このまま捨てておくのも業腹だし、仕事も手につかないといって、二、三日前にまた家を飛び出したが、まだ帰って来ないところを見ると、やはり行方が知れないのかも知れません――と次郎はここで元気なく話を区切り、うつろな顔を上げて昼の雲を眺めました。
「それが確かに洞白の仮面めんだ!」
 万太郎は思わぬ者から、幾多の耳寄りな事実を聞き取って、暗夜の行路に一点の明りを見つけたような心地――
 こう分ってみれば、もう高麗村の屋敷を訪れて行くのも無益となりました。
 それ以上の急務は、怪しげなその女の髪かたちや特長を知ることですが、生憎あいにくと、次郎はそれを見ていませんので、
「半五郎とやらに会って、なおくわしい話を聞きたいと思う故、今夜、そちの家で世話になるぞ」
 と、万太郎は鍛冶かじ小屋へ這入はいッて、遠慮なく編笠のひもを解く。
 そのうちに、次郎の母が戻って来て、立派な侍が上がり込んでいるのに驚いた様子でしたが、訳を聞いて気を休めたらしく、野菜などを煮て夕飯のもてなしを急ぎ初める。
 次郎は母親にいいつけられて、まきを割り、掛樋かけひを掛けて、野天に出ているすえ風呂をわかしています。
「お武家さん」
 窓の外から顔を出して――
「風呂がわいたよ。お湯におはいンなさい」
「それはかたじけない。では一風呂浴びようか」
「ここへき物を置いとくぜ」
「大儀だのう」
「え、大儀ッて、おじさん、何のことだい?」
「はははは。貴様、なかなか面白い小僧じゃ」
 帯を解いて、ふと見ますと、そこから出た方が近道という次郎の考え、片ちンばの下駄が窓の外にそろえてある。
 窓から下駄をはいて裏へ出るということが、万太郎にはすこぶる愉快に感じられました。屋敷にいては想像もつかないこういう生活が、彼には事ごとに一つの興味となっている。
 そこをまたいで、ちんばの下駄を引きずりながら、次郎に案内されて風呂にはいる。
 その風呂がまた彼には何ともいえない物です。破れた雨戸を横に立てて、その中に肥桶こえおけに似たものがある。
 どぶりと野風呂に身を沈めて、夕暮の空を仰ぐと、初めて、気のつかない雲の美しさを見出します。
「アア……よい気持だ」
 尾張中将の若殿も、こういう幸福感にひたったことは、実際生まれて初めてのよろこび。
 と――たれか、かこってある戸板のうしろへ、忍びやかな跫音あしおとをさせて、
「次郎や……」
 と、呼んだ者がある。
「次郎や……、次郎は居ないの? ……」
 月並つきなみに形容すれば、藪鶯やぶうぐいすの音といったような、愛らしい女の声です。
 風呂の火口ひぐちかがみこんで、鼻の穴を黒くしていた次郎は、
「あ……お嬢さん」
 と、吾を忘れてキョロキョロと見廻しました。

 声のみ聞こえて、風呂の中にいる万太郎に、その姿は分りませんが、双方から寄って行ったらしい二人の話し声が、恋仲のようにみつでした。
「まあ、次郎。おまえは一体どうしたの?」
「お嬢様、……すみません」
「男のくせに……可笑おかしな人……おまえ泣いてるネ、泣いてるネ」
「いいえ、煙いんです、風呂の煙が」
「じゃ、顔をお見せ。……わたし、どんなに心配していたか分りませんよ、あの騒ぎの晩きりお前は帰って来ないんだもの。……お前が帰らないので、たれよりも一番心配していた者は、この私だということを次郎は知っておいでかえ?」
「え。それはよく、分っています。だから私も毎日この鍛冶かじ小屋で、お嬢さんの事ばかり考えつづけておりました」
「じゃあ、なぜ高麗村へ帰って来ないの」
「…………」
「おまえは、もう奉公がいやになったのかえ? 私のそばに居るのがいやにおなりなのだろう」
「お嬢さん。次郎はお屋敷へ帰れないことをしてしまったんです。あの、石神堂に納めてあった仮面めんを失くしてしまいました」
「ああ、それで」
「御隠家様の前に合せる顔がないんです」
「いいよ、いいよ。月江がお詫びをして上げるから」
「でも……」
「いいから私と一緒にお帰り」
「行かれません。次郎はどうしても、あの仮面めんを持たずにお屋敷へは帰れません」
「まあ、強情な次郎だこと」
 果てしのない押問答。
 いつまでも黙って聞いていると、湯気に上がッてしまいそうなので、万太郎が風呂から立ちますと、その音にハッとしたのか、二人はあわてて鍛冶小屋の横へ話を持って行きました。
「あれが狛家こまけの娘、月江であろう」
 万太郎は戸板の隙間からチラと見えた姿にうなずいて、湯を上がりながら、洞白の仮面めんは元尾州家の所蔵であることを告げて、幾分なりと、次郎の罪を軽くしてやろうと思いつきました。
 で、急いで衣服を着け、ふたたび前の窓口から外へまたぎ出ようとすると、そこへ、馬の金輪を鳴らして、ヒラリと鞍の上から飛び降りた者がある。
 見ると野袴のばかまに、朱房のついた寒竹のむちを持ち、かなつぼ眼を光らした中年の武家で、馬から降りた途端に万太郎と顔を見合せて、互いに、疑惑の目をからみ合せましたが、ふイと向うへ歩き出して、
「やっ、お嬢様ここにおいででございましたか」
久米之丞くめのじょう様、よく見つかりましたこと」
「ひどいお方じゃ。染屋の観音へおまいりになるというて、拙者と共にお屋敷を出ながら、いつのまにか姿をおかくしなされて。……何? 次郎を連れてお帰りになる? ……お止しなさい、お止しなさい。そんな不埒者ふらちものは放ッてお置きになるがよろしい、聞けば、あの夜大事な神品を紛失したとか、不都合きわまる奴、すでに御隠家様のお耳にも這入はいって、放逐ほうちくじゃとお怒りなされておる。そんな者を連れ戻れば、この関久米之丞までがお叱言こごとを食わねばならぬ」
 無理やりに、月江を自分の乗って来た馬上に押し上げ、自身は馬の口輪を取って、
「どうッ、どう!」
 薄暮の野路をさして急ぎ出します。
 次郎はションボリと取り残されて、馬の背に吹かれてゆく月江の黒髪を、かずにそこで見送っている。
 月江も馬上から振顧ふりかえって、次郎の方へ、何か二声三声いったようですが、それは多分、彼を力づける慰めのことばであったことでしょう。
 すると――その馬と人とが、入間川の水辺を辿たどって次第に薄れかけて行った頃、ちょうどまた、その川べりをトボトボと辿って来た四、五人の男が、ひとつの死骸を戸板に乗せて、黙々として歩いて来るのが分ります。

「お客様、お腹がおすきなさいましたろう、さ、御飯をやっておくんなさい」
 半五郎の女房のお常が、奥へぜん飯櫃めしびつを運んでいるところへ、外から帰ったらしい物音がしたので、
「次郎かあ?」
「おい」
行燈あんどんをとぼしてくんな」
「おっあ、何処にあるのよ行燈は?」
今朝けさおめえが片づけたんじゃないか」
「ああ、油がねえよ」
「油壺はうしろの棚に乗っている。早く明りをとぼして、お客様にお給仕でもして上げな」
 万太郎は膳を構えてキチンと四角に坐っておりました。
 お常が煮出した茶をぐと、次郎が不器用な手で山盛りに御飯をつける。
 客がはしを取っている間に、またへだてのない母子おやこの話。――万太郎はひどく空腹であったので、半ばはこのひなびた馳走の味覚に、半ばは母子おやこの会話に耳をかしていました。
「なあ、おっ母あ。ちゃンはどうして帰らないんだろう」
「五日や六日帰らないことは、いつでもよくあることなんだよ。お前は家に居なかったから知らないだろうけれど」
「今ね、そこを町屋の矢作やさくさんが死んで通ったのを見て、おら、ちゃンのことが心配になって来た」
「死んで通ったッて可笑おかしな話だね。死んだ人間が歩いてかい?」
「ううん。戸板に乗せられて」
「へえ」
「どうしたんだい、といって聞いたら、一ツ石の辺で、女の通り魔に殺されたんだとさ」
「女の魔もの?」
「この頃、女影おなかげの原には、女の通り魔が出るんだぜ。おっ母あはそんな話を聞いていないか」
「知らないね」
青梅おうめ博労ばくろうさんも話していた。昨日だったか、甲州から来た飛脚屋も、その通り魔に殺されかかったという話だったよ」
「……そら、お客様が御飯じゃないか」
「おい」
 と、両手を出すと、万太郎は首を振って、
「茶をくれい」
「お客さん、もうお仕舞しまいかね」
「うム、たいそう馳走になった」
「遠慮をしない方がいいぜ、うちちゃンはあんまり好くないけれど、おっ母あは、旅の人にも親切なんだぜ、もう一杯おあがんなさい」
「もう沢山じゃ。……ところで今の話だが、それは近頃の事か、それとも、前から左様なうわさがあるのか」
「いいえ、ついこの頃の噂なんです」
「して、その通り魔というのは、どんな姿をしているのじゃ」
「さあ? ……」と次郎は小首をひねッて、
「だれもそれを、側でよく見た者はねえし、おらも出会ったことがない」
 万太郎が何か考えこんでいると、次郎は母親と辺りを片づけながら、まだしきりと、帰らぬ父の身を心配している。
 あの心のねじけた片目の半五郎でも、次郎にとれば、またなき父親と恋われるのでしょう。町屋のなにがしが戸板に乗せられて行った死骸の連想から、果ては居ても立ってもいられない様子。
 行燈あんどんをよせて、針仕事にかかり初めたおふくろの側へ寄って、
「おっ母あ、おいら、行ッて見て来ようかなあ」
「何処へ?」
「何処ッて分らねえけれど、ちゃンを探しに」
「ばかなことおいい」
「なぜよ」
「夜じゃあないか」
「でも、なんだかおらあ、胸騒ぎがしてならねえ。ちゃンも今に戸板に乗せられて来るんじゃないか」
「お寝よ。そんなことをいっていないで」
「寝られないんだよ、おっ母あ」
「じゃ、お客さんとこへ行って、話の相手にでもなっているがいいじゃねえか」
「あのお客さんは、黙っている人だ」
「立派な方だね」
「この頃は妙にこの鍛冶かじ小屋へ、いろんな人間がたずねて来るなあ」
 ――次郎は何げなく呟いたのでしたが、彼のことばは、夕方から妙に神経のげている次郎の心が、微妙な感知を働かせたのかも分りません。
 なぜかといえば。
 その時鍛冶かじ小屋の外をひそやかに歩き廻っている人間がありました。
 ひとりの男の目まぜに働く四、五人の黒衣くろご、それはまさしく、徳川万太郎を暗殺することのくじを引きあてた、雲霧くもきり仁三にざの一組です。
 万太郎は眠りについている。
 疲れた手足をぐッたりとのばして、枕に目をふさぎましたが、次郎の話した奇怪な巷説こうせつが、どうもまたしきりに彼の猟奇心りょうきしんを駆って、ついさまざまな空想にとらわれてなりません。
 武蔵野のあちこちに出没して、行来ゆききの旅人をおびやかす通り魔というのが、そもそも彼にはに落ちない。
 この鍛冶小屋に泊って仮面めんを盗み去った怪しげな女と、その通り魔と、何か一筋の糸につながるように思われて、
「ことによると、その通り魔というのがその女ではないか?」
 暫くムズムズとしているうちに、洞白の仮面を取り返さねばならぬと思う一心と、その怪異な風説の正体をつかもうとする猟奇心が時刻を忘れて、
「そうだ!」
 と、思わず彼をしてガバとね起きさせました。
 しかし、今夜はいたく疲れています。
 終日道を迷い歩いた足のくたびれや何かを顧みると、さすがの彼もまた少し二の足をふむ。
 そして、思い直したらしく、
「この間からの風説といえば、何もにわかに、今夜と限ッたことはあるまい」
 と、ふたたび枕を引き寄せましたが、今度こそ雑念を払って寝入ろうとするものの如く、夜具をかぶろうとした身をのばして、ふッと、行燈あんどんの灯を吹ッ消しました。
 すると、ちょうど手をついた床の辺りから、何か目に痛いような光がサッと瞳の中へ飛び込んで来たので、
「あっ」
 と立ち上がッた途端に、どうでしょう、まぎれもない大刀の鋩子ぼうしです。
 まさに鋭い刃先が四、五寸、おびやかすように、ズバと目の前に突き出ているのです。と――見つめている間もなく、その冷刀の先が、ギラギラと畳の目へ消え込んでしまう。
 万太郎は愕然がくぜんとして、上の夜具を投げました。そして、それを踏んで、次の仕切戸しきりどをあけて見ますと、次郎母子おやこは仕事場のそばの床に、何も知らずに寝息をかいている様子。
 次に、彼はまた、ガラリッと窓の破れ戸を押し開けました。
 サッとはいる風と共に、流れ星が吹き込んで来そうな晩――
 じッと耳を澄ますと、何処かをシトシトと歩く人の跫音あしおとがするようでもあり、また気のせいかとも思いなされる。
 この夜、鍛冶小屋のまわりや床下に、しきりと怪しい物音と気配があったのを、万太郎もうつらうつらと知りつつはありましたが、昼の疲れがいつかしら彼を放胆な眠りに導いて行きました。
 あるいは、その疲れが倖せであったかもしれない。
 もし、畳の目から顔を出した刀におびやかされて、あわてて外へでも飛び出したものなら最後、そこらのやみに手ぐすね引いていた暗殺の雲霧組の黒衣くろごたちが、一時に魔手をのばして万太郎を膾斬なますぎりにしたであろう事は、あながち空想ではなかったでしょう。
 だのに、怖いもの知らずの若殿は、そういう異変の予報をうけた翌日、しかも逢う魔が時という夕暮をことさらに選んで、
「べつに用もないのじゃが、退屈しのぎに、ちょッと染屋の観音まで歩いて行ってみる。帰りは遅くなるかも知れぬし、あしたの朝になるかもわからぬが、心配しないでくれるように」
 こういって、鍛冶小屋を出たものです。
 そして女影おなかげの迷路を四、五丁来たかと思いますと、
「お武家さーん。お武家さアーン」
 と、うしろから宙を飛んで来るものがある。
 たれかと思うと高麗村の次郎で、振顧ふりかえった編笠あみがさの下へ駆け寄って来ると、
「おじさん、おいらも一緒に行こう」
 心得顔こころえがおで万太郎の先に立ち、杖のような物を横に持って歩き出しました。
 その杖の先ッぽが、キラキラ光るふうなので、よく見ますと、鍛冶小屋の隅から持ち出してでも来たか、野獣を追う時に農家の者がよく使う、胆刺きもざしと呼ぶ野槍であります。

雲霧組くもきりぐみ


 次郎の次郎たる値打ちをまだ深く知っていない万太郎は、彼が物騒な野槍などを引ッさげていて来たのに迷惑して、
「あ、これ。そちは何処へ行こうとするのか」
 わざと訊ねますと、次郎は、
「何処へでも、おじさんの行くところへ」
 と、仕澄しすましている。
「染屋の道は聞いてまいったから、もう迷うようなことはない。帰ってくれ、帰ってくれ」
「おじさん、染屋の宿しゅくへ行くつもりじゃないんだろう」
「なぜじゃ」
般若はんにゃ仮面めんをもって逃げた女をさがしに行く気なんだ。おいらには、おじさんの腹がちゃんと分っている」
「ウーム、それを承知いたしながら、わしにいてまいるのか」
「おいらだッて、あの仮面めんを探さなければ、お嬢様のそばへ帰れない。……それに、ちゃんの身も心配でならないんだ」
「しかし次郎、きのうも其方そちに訳を話したとおり、あの品は元々もともと尾州家秘蔵の拝領仮面、たとい自分の手に返っても、其方や狛家へ戻して遣わす訳にはゆかぬのだぞ」
「それは、分っています」
「ならば、そちが来ても仕方があるまい。それよりは、わしの申したことを御隠家殿に伝えて、わびを入れた方がよかろう」
「でも、今日となっては、手ぶらでは帰れません」
「と申しても、あれは戻せぬというに」
 少し鋭くいいましたが、次郎は悪びれもせず、
「はい、一緒に行って、あの仮面めんが返っても、自分の物でもないものをくれとはいいません。その代り、たッた一日、貸してもらいます」
「貸してくれ?」
「え、それを持って、御隠家様に事情を話せば、きッと許してくれるに違いありません。そして仮面めんは尾州家とやらへ、必ずお返しいたします」
 万太郎はこの辺のことばから、この童子の奇なることに気がつきました。彼がいうとおり、一日でも仮面めんを貸してやれば、彼の面目も立ちこま家への申し訳もすむというもの。
 だが果たして自分の推察どおり、噂の通り魔が仮面を持つその女であってくれればいいが……。
 いつかどッぷりと日が暮れる。
 行けども行けども果てしのない同じ野道。次郎と話しながら歩いて来るうちに、万太郎には行く手の方角も、過ぎて来た方角も、さらに分らなくなってくる。
 女影おなかげの迷路をめぐり歩いて、十方何ものも見ぬ武蔵野の真ッただ中に立ちますと、何かしら、あまりに雲をつかむような探しものに来たような心細さがないでもない。
「おじさん、少しこの辺で休もうか」
「うむ」
「ここに石がありますよ。ここへおかけなさい」
 次郎は青すすきのむらにどっかりとうずまり込んで、野槍を肩に立てました。
 すると、この二人よりは半丁ほど離れて、絶えず見えがくれにいて来た五、六人の人影が、それと見ると、送り狼のように立ち止まって、何かヒソヒソとささやいている。
「二手になれ」
 こういったのは雲霧くもきり仁三にざで、
「おれが合図をするまで消えていろ。いいか、なるべく近づいて息を殺しているんだ」
 合点がってんという風に、六人の黒衣くろごが道の両側に分れたかと思うと、まだ短い青すすきの中を、這うようにして少しずつ近寄って行く。

 茫漠ぼうばくとした野と空をながめて、次郎と万太郎がしばらく黙し合っているところへ、忽然と、背丈せいの小づくりな一人の男が、風に吹き送られて来たように、目の前に立って小腰をかがめて、
「ちょッとお伺い申しますが」
 と、笠を取って申しますことには、
「――もしや貴方あなた様は、尾州家の若殿万太郎様ではございませんか」
 と、いんぎんな言葉ではありますが、その鋭い眼ざしに驚いて、次郎は少し野槍の手を動かしかける。
 見知らぬ町人、不審と感じながら万太郎は、ふと、ゆうべの白刃しらはを思いうかべて、
「そちは、たれか!」
 と、油断のない気構え。
 男はさらに悪びれないで、
「へい、手前は日本左衛門の手下、雲霧の仁三でございます」
「なにッ?」
 立とうとするのを、笠で制して、
「ま、お待ち下さいまし。万太郎様、もう駄目でございます」
「だまれ、何が駄目?」
「お命をもらいにまいりました。実は、ゆうべ早速と存じましたが、ちと工合ぐあいのわるい事があって今夜にのばしておきましたところを、ようこそ、こういう場所までわざわざおいで下さいました。雲霧、お礼を申し上げます」
「わしの命を取りに来たと?」
「はい、親分のいいつけで」
「やらなかったら何とする?」
「だから前もって、駄目だとお断りしてございます。貴方あなたのうしろに三人、わっしのうしろに三人、支度をして合図を待っておりやすからね。……多分、駄目だろうと存じますンで」
「ウーム、さては汝ら、かねてのことを遺恨にふくんで、この万太郎をあやめんとして参ったか」
「大体そんなものでございますが、また、そんな簡単な理由わけからでもございません。どうせ只今限り、野晒のざらしとなるお身の上、かいつまんで回向えこうがわりにお話し致してしまいましょう。実はなんで……」
 と、雲霧の仁三の物腰は、少しも人を殺そうとする前のようでないから一層気味が悪い。
「御承知の夜光の短刀。――あれは親分がぜひ手に入れる段取になっております。ところで、その秘密を知ってウロウロしている人間達が、親分の目にはまことに邪魔でいけません。まず第一に貴方あなた様、釘勘という野郎、おくめという阿女あま、お蝶という女……みんな籖引くじびきで、こちとらの仲間が、それぞれ片づけることになっております。そうそう、その中にはまだ相良金吾さがらきんごというやつもいる」
 万太郎は髪の毛のそそけ立つような脅迫感きょうはくかんをうけました。
 前後に暗くそよぐ風も、今は、いつ身をのぞんで来るかわからない白刃が思われまして、さすが自負自尊の念の強い若殿も、そのたびごとに思わず四肢の筋がビクッとするのをいなみ得ません。
 次郎も驚いたことでしょう。けだし、次郎の驚きはさまざまであります。
 自分の家の、あのきたない鍛冶かじ小屋に泊まって寝た、見ず知らずのおじさんが、彼には雲上の人間のように思われる尾州家の若殿であると知ったのもその一つなら、熱海あたみの湯場で見知っている相良金吾さがらきんごの名を、偶然ここで、雲霧の口から聞いたのも驚きの一つ。
 驚きながら高麗こま村の次郎は、いつのまにかそろそろと草叢くさむらから腰を離していました。彼の判断は単純で明快です。世の中の人間を、いい人間と悪い奴との二色に分けている次郎は、直ちに、万太郎をいい方、雲霧を悪い方と鑑別して、ふくろのような眼玉を剥き、
(この野郎!)
 いざといわば、持って構えている胆剌きもざしの先で、雲霧の横っ腹を突ッとおしてやろうという物騒な態度に見える。

 暗殺といえば不意打ちを原則としているようですが、この場合は違っている。
 貴様の生命いのちをもらうぞ! とあらかじめ予告しておいて相手の度胆を奪い、その上で仕事にかかろうという行き方は、雲霧一流の殺生せっしょうの手と見えます。
 そして、ふッと話の切れた途端に、かえって万太郎の方から不意をねらッて雲霧に斬りつけましたが、あえて殊さらに、お前を殺すぞと断って出て来た男に、うかつな油断のあるはずはなく、彼の抜き打ちは立派にくうを斬っている。
「それッ」
 というと雲霧の仁三、持ったる笠を投げ上げました。
 笠はクルルッと独楽こまの如く廻りながら、やみに一文字を描きましたが、その笠の地に落ちても来ないうちに、
 ひゅう! ひゅッ……う!
 何が唸ッたものやら分りません。いていえばそこらの草がにわかに声をしゃくッて泣いたような音、――でなければ野面のづらをなぐりつけて行ッた一陣の風。
 ――と同時に万太郎、タタタタッと駆け廻りながら、狼に似た六人の黒衣くろごを相手に、滅茶苦茶に刀を振ッて振ッて振りまわしている。
 彼もいわゆる詩歌管絃かんげん式な大名だいみょうの子ではありませんから、たとえ御指南番仕込みの剣法といえ、まあ武芸といえる程度のことくらいは心得ています。刀のみねも刃もかまわず、ぶつかり放題、棒のようにそれを振り廻すほど修業がないわけではありません。
 けれど、法は法を知る相手によってこそ行われるので、法もヘチマもない敵に向っては、構えをとり気息を正し、青眼兵字構えなどの組太刀の型どおりを、そのままやっているわけには行かない。しかも相手は野鼠のねずみのように素ばやい奴、兇器もことさら短刀を持って、いきなり飛びついて来たのですから。
 で――万太郎がこの際、御指南番流の法を捨てて、刀の峰であろうとひらであろうと構わない、飛び出して来たやつを、盲なぐりに叩き払ったのは、すこぶる当を得たる護身の機智でありました。
 しかし一方も、多少あばれることは覚悟の上なので、彼の前後にからんで、組んず倒れつ、何処か体の一ヵ所穴をあけてしまえばしめたものと、必死に六本の短刀がおどる。
 万太郎には、相手の兇器が短刀であるのが致命的な苦闘でした。これが、※(二の字点、1-2-22)めいめい脇差でかかって来たならば、彼等同士、相当な間隔を保って来なければならないので、そこに変化のつけようもあるが、短刀と短刀では全然同志討ちのおそれがないので、片手にそれを持ちながら、手足に組みついて来るやつには、ほとんど手の下しようがありません。
 そのうちに――
 雲霧組の黒衣くろごの短刀が、遂に万太郎の体のどこかへ、その兇器を突きとおしたものか、腰かけていた石をること十四、五けんまで行ッたところで、
「あッ」
 と、万太郎のただならぬ声です。
 そして、彼の体がズデンと草の中に倒れましたから、雲霧の仁三は駆け出しながら、
「うム、ったな!」
 と、かいを発して叫びました。
 それをまた、それと同時に、怒髪を逆立さかだって追いかけた次郎が、
「こん畜生ッ」
 とばかり、いのししを追うように、いきなり野槍の穂を向けて、雲霧の足元をサッと見舞う。
「この餓鬼め! 帰れ」
 はッたとにらみ捨てにして、雲霧はそのまま走り出そうとしましたが、睨まれて帰ったり泣き出すような子供ではない高麗村の次郎、
「何をッ」
 前へ駆け廻るが早いか、目を射て来た野槍の光が、顔へと思わせて胸板へブンともひとつ。
 あぶなく串刺くしざしになるところを、あッと踏み退いた雲霧は、この時初めて、勘定に入れなかったこのチビが手強てごわ厄介者やっかいものであったのに気が着いて、
「野郎――ッ」
 奮然と野太い声をあげたかと思いますと、紺の手甲てっこうを銀ごしらえの脇差の柄へガツンと乗せて、
「てめえも殺してもらいたいのか」
 と、ギリギリと体の向きを変えてきました。

 ですが、それはおどかしです。わざと作って見せた権幕けんまくです。雲霧のあたまには、まだ何処かに相手が子供だという念がありますから、野槍を持ってむかッてきても、それを憤然とたたッ斬る程の大人気おとなげない敵愾心てきがいしんは湧いてこない。
 のみならず、次郎が歯がみをしてムキになってくると、かえってクッと可笑おかしくさえなって、とてもこのチビを斬る力は出そうもありません。
 ――といって、なかなか味をやるので、ほうっても置けず、うっかりしてもいられない。
「この餓鬼め!」
 彼はもう一度すごい形相を作って見せながら、
退けッ。退かねえとッた斬るぞ」
 次郎はビクともするひまもなく、
「なにッ」
 と、胆刺きもざしの光をよじらせる。
「帰れ、小僧」
「くそうッ、だれが」
「斬られたいか、この刀が目に見えねえか」
「おいらの槍がわからねえか」
「ちッ……」
 ここに至って、雲霧も、この足手まといを、どうにかしなければならなくなりました。
 否、どうにかしなければならない機会は、また別の方からも起って来ている。――というのは折悪くちょうどその時、一方の道からしの草叢くさむらを分けて、
 じゃらん、じゃらん、じゃらん……
 数頭の馬の鈴、賑やかな話し声、そして八王子組の駅伝問屋えきでんといや提灯ちょうちんが七ツ八ツ。
 ――雲霧はいきなり次郎の手元へ飛びつき、かれの襟がみを引ッつかみました。次郎の胆刺きもざしは二度三度くうを突いて、雲霧の左の小脇に抱え込まれる。
 得物えものられまいとして、次郎が必死の力を野槍のにしぼッた途端、五臓のちぢみ上がるような声と一緒に、次郎の体は雲霧の肩に乗せられて、いやという程投げつけられました。
 だが――不覚はかえって雲霧の方にありました。なぜといえば、彼が無造作に次郎を鷲づかみに取って役げた刹那、投げられた次郎もウンといって気を失ったが、投げた雲霧もそのはずみに、
「あっ」
 と叫んだまま眼がけません。
 そして、ぶッと唇の血を吹きながら、二度首を振りうごかした様子。見ると、満顔血汐ちしおくれないに染まっています。
 じゃらん! じゃらん!
 曠野こうやを組んで歩く夜旅の人のむれが、鈴や話し声に景気をつけて、もうそこらまで来たらしいが、何しろ雲霧は目がけない。
 次郎の体をかぶッて投げた途端に、あの胆刺きもざしの鋭い穂先ほさきが顔面のどこかを機敏に突いたか掠ッたかしたものと思われますが、何しろ雲霧は目が開けない。
 彼は狼狽しながらも、一方の万太郎の方は首尾よくいったものと信じていましたから、指の間からしたたる血汐に着物の前を染めつつ、両手で顔を抑えたまま、盲滅法めくらめっぽう、武蔵野のやみを方角もつけずに走り去りました。
「出た!」
「出たぞ――通り魔が」
 と、そこで立ち騒いだ八王子組の駅伝人足えきでんにんそくが、わッと逃げ腰になろうとすると、
「逃げて行ったじゃないか、追剥おいはぎか何かにちがいないよ。こッちだってこれだけの人数がいるのだから、何も驚くことはありゃあしない」
 数頭の小荷駄の間にはさまって、道中馬の背に横乗りになっていた手ぬぐいかぶりの一人の女が、大の男どもの小胆しょうたんな慌てざまを制しました。
 そういわれて落着いた面々が、問屋場提灯といやばちょうちんの明りをかざし合って、
「おう、棒を持った小僧が死んでいる」
「死んでいるのではない、気を失っているんだ、気絶しているんだ」
「血がついているじゃねえか、この棒に」
「あっ野槍だ」
「何しろ早くどうかしてやらなくッちゃ……」
 などと口々にいって、ある者は荷駄から飛び下り、ある者は合羽かっぱをぬぎ、馬子や人足はその人々に持合せの気付け薬はないかと聞き回っている。
 それはその連中に任せておいて、手ぬぐい冠りのあだッぽい女は、細口の女煙管おんなぎせるとたばこ入を帯の間から取り出して、馬の背に横乗りになったまま、どれ一服という姿に見えます。

 この旅人や小荷駄の一行は、その日の昼、八王子の宿を出て、今夜の九刻ここのつごろまでに、川越の城下へ行き着こうとするものです。
 どうも近頃、入間いるま川から女影おなかげの原付近で、とかく物騒なうわさが絶えないというので、夜旅をかけて武蔵野を横ぎる場合は、立場問屋たてばといや出立しゅったつの時刻をさだめ、同じ方角へ向うものが一団となって群旅するのが慣例となっている。
 そこで、この一行も同行異体どうぎょういたいの集まりです。
 中仙道の川口方面へ出るという鋳物商人いものあきんど、大宮へ行くというまゆ買いの男、野田粕壁かすかべ地方へ所用でゆく人々、六部、煙草売り、雑多な者の姿が見える。
 中で一番あたま数の多い一組は、五日市から八王子を三日ほど興行して、これから中仙道を打ちに廻ろうという旅役者。
 それとて、役者らしく見える者はわずか四、五人で、揚羽蝶あげはのちょううるしの紋がはげ落ちた衣裳つづらが荷駄の背に二つばかり、小道具と木戸役らしい男が二人、そして馬の背中の荷物の間にはさまっているあだッぽい女と。
 その婀娜女あだものが、涼しい顔をしている間に、馬子や旅人たちは、寄ッてたかッて、次郎に気付薬きつけぐすりを与え、オ――イ、オ――イ、と呼ぶこと二、三度でありました。
 ふッと気がつくと、高麗村こまむらの次郎は、怪訝けげんな顔をして、幾つもの灯と人と馬の顔を見廻している。
「気がついたか」
「有難う……」
「どうしたんだい、お前は」
「悪い奴にいじめられて、あぶなく殺されるところだったんだ。おいらは、死んだのじゃなかったのかしら」
「人に聞くやつがあるものか。立派に助かっているじゃないか」
「そうだね」
「お前は何処の者だい。これから先だって、一人で帰るのは物騒だよ」
「あっ……」
 やがて、身を吹く風を覚えると、次郎は万太郎の身の上を思い出して、足元の野槍を拾い取るや否、この一同を指揮するように手を挙げて、
「みんな、探しておくれよ! 探して! おいらのほかにもう一人連れが居たんだ、その連れが生きたか死んだか分らない」
 血眼ちまなこになって駆け出すと、
「えっ、まだ居たのか」
 と驚いた人々が、提灯を振り廻しつつ、さながら、次郎の手足の如くになって彼方此方あちらこちらを探しはじめました。
 そのうちに、遠からぬところで、一人が何か頓狂とんきょうな声で叫ぶと、期せずして、この一団がそこへ移って行きました。
 見つかったのはあけにまみれた万太郎の姿。
 斬られています。
 左腕にかすり傷、肩に突き傷、ほかにもあるらしいが何しろ衣服も血みどろで裸体にしてみなければ判明しない。
「息を見ろ、息をよ」
 と、だれか罵るようにいう。
「息はある」
 抱き起した者がうしろへ叫ぶ。
「それじゃ捨てても置けないから、何処か医者の所へ」
「医者といったッて、この原じゃあ……」
「血止めだけして、乗せてゆくのよ」
「川越の城下までもつかしら」
「もたなかッたら、それまでの寿命とあきらめてもらうより仕様しようがない」
 てんやわんやの素人しろうと療法で、どうやら出血だけは防ぎましたので、それを一人が荷駄の背なかに抱え、また気味のよくない夜旅がつづきました。
 行くこと半里ばかり、一軒の灯を見ますと、次郎はその家へ飛びこんで、また野槍をさげながら出て来ました。
「今のは、お前の家かね」
 一行の者が、たずねると、首を振って、
「ううん、おいらのうちじゃない、知ってる家だ」
「おまえの家は」
女影おなかげの北だから、もっと、ずッと向うの道だよ」
「じゃ、みんなと別れて、早く帰ったらいいじゃないか」
「あの小父さんがどうなるか分らないのに、おいら一人で帰れるもんか。今そこの家へ、おっかあが心配しないように、言伝ことづけを頼んで来たから大丈夫だよ」
 こういいながら、馬と人の間にはさまって歩いてゆく。
 その馬の背中から振り向いた女の目は、最前から頻りと次郎に注意している様子でした。
 熱海の湯場で永らく一つ宿に泊まり合せていた記憶を、女の方は、あるいは思い出していたでしょう。しかし、次郎はその手ぬぐいかぶりの女が、あの隠居藤屋の奥にいた、丹頂のおくめであるとはちッとも気がついていない。
 わかれ道の石が教えるところでは、川越かわごえの城下までまだ、これより三里半。
 死ぬか生きるかわからない虫の息の怪我人けがにんをこの一行に交じえたので、一同の足なみも何となくしめやかに、馬子がのど自慢の追分おいわけも出ません。
      *   *   *
 ここは徳川家の親屏しんぺい秋元但馬守あきもとたじまのかみが城主としてすわっている所です。城の塁濠るいごうほう六町、市街の橋梁きょうりょう巷路こうじとあわせて、多くは前の城主松平伊豆守の繩取なわとりによるとか、織物農穀のうこくの産業もゆたかで、川越の城下の繁昌はなかなかであります。
 そこの唐人小路とうじんこうじの空地に、手ッ取り早い丸太組みの掛小屋が出来かかっている。
「御当地初御目見得はつおめみえ、長崎流曲独楽きょくごま廻し嵐粂吉あらしくめきち、近日、賑々にぎにぎしく小屋びらきつかまつりそうろう
 こんなビラが掛小屋の付近に目につく。
 けれど、小屋組みが出来ても、一こう表の飾りもつかず、ビラの文字が雨のふるたび流れてゆくのに、いつ賑々にぎにぎしく木戸が開くのか、こいつもおおかた幽霊だぜ、と通りがかりの職人などが笑っていました。

楽屋銀杏いちょう


 同じ唐人小路とうじんこうじの裏通りに、時々、いかものを小屋にかける興行元こうぎょうもとの親方が住んでいる。
 そこのいかもの部屋に、この間うちからゴロゴロしている一組は、厚木あつぎを焼け出されて以来、五日市、八王子の宿しゅくと流れあるいて来た御難つづきの旅役者の一こうです。
 そこに、例のおくめも落着いていました。
 丹頂たんちょう姐御あねごも、元を思えば、近頃はまったく尾羽おはち枯らしたものです。藍気あいけのさめた浴衣ゆかたにさえ襟垢えりあかをつけている旅役者の残党に交じって、曲独楽きょくごまの稽古をやらなければならない境遇。
 腹では涙をこぼしているかも知れません。
「どうだいお粂さん、少しゃあ板について来たかい」
 こういって、時々部屋へ様子を見に来るのは、でっぷりした興行元です。
「まだどうもねえ……」
「うまくいかないのかい」
「不器ッちょだからなかなか覚えきれないんですよ」
 と、お粂は気がくさるように、独楽こまひもを丸めて投げ出しました。
「師匠の教え方がいけねえんだろう、どうせ見物の目をごまかす仕掛独楽しかけごまだのに、そうむずかしいことはねえ。どれ、廻してみねえ」
「まだ衣紋えもん流しがうまく行かないんでね」
「衣紋流しだの吹上げが出来りゃあ、独楽廻し一人前だ。前芸におうぎの峰づたい、針金渡し、それに何かちょッとしたものが出来りゃ沢山だ、それで後は連中の持ち合せの芸当と鳴物ではやし立てりゃあ、なアに、木戸のかないことはないさ。どうだろう明日あしたでも」
「え、明日から小屋を打つんですか」
「ビラばかり景気よくはり出してあるんでどうも世間ていが持ち切れない。慾をいわないで、ひとつ明日から舞台いたに立って見るさ。……太夫たゆうの衣裳や支度はあっしの方で工面しておいたから」
 と、興行元はそこらに居合す者へも、それぞれ何かいいふくめて、空き地の小屋へ出掛けてゆきました。
「困ったねえ……」
 と、お粂は板の間へペッタリすわって膝の前に仕掛独楽ごまを、つくづく妙な気持で見ました。
 もし、独楽が人間だったなら、
(お前とわたしと、どうしてこんな縁になって、こんな家の板の間に、さし向いになるようになったんだい?)
 と、聞いて見たいような気持です。
 で、考えてみると、そもそもこうなる初まりが、熱海を去ッたのち、一時の寄るべに窮して、江戸にいたころ贔屓ひいきにしていた染之助一座ののぼりを見かけ、その楽屋がくやへ身を頼って旅をいて歩いたのが因縁でありました。
 でも、一座が厚木を打っていた時分は、曲りなりにも、岩井染之助一座という看板がありましたが、あれからが一座の災難とお粂の災難。
 飛んだ火事騒ぎから座頭ざがしらの染之助や女形おやま袖崎市弥そでざきいちやなどが天領役所へ引ッぱってゆかれてしまうし、なけなしの衣裳小道具もだいぶ焼いたし、眉毛まゆげのない残党どもと、とぼとぼ落ちてゆきましたが、あとに残った御同役組では、いかな草深いむしろ小屋でも、とても芝居にはなりません。
 でも無理に、五日市や八王子で、変梃へんてこなお道化どうけを三、四日売ってみましたが、予期どおりな悪評で、さんざんなていたらく。
 そこでまた、見切りをつけた者が、持ち逃げ着逃げをして三、四人一座を抜け、あとに残ったのは、逃げても食えない、居ても食えない連中ばかり。
 その結果、襤褸ぼろつづらを荷駄にのせて、八王子からこの川越へ、夜逃げ同様に落ちてきたわけでありますが、頼って来たこのいかもの部屋でも、この一行には恐れ入ッて、
「とても、これじゃあ」
 と相談にならない。
 ところで、興行元は興行元の目があるといえましょう。役者でないお粂の縹緻きりょうに目をつけて、
「お前さんが看板になれば、確かに、一枚で売れるがなあ」
 と、おだて上げました。
 でも、頭数あたまかずが足らない、衣裳もない、というので興行元の発案が、ここに岩井一座の残党の名をぬりつぶして、曲独楽きょくごま廻し嵐粂吉あらしくめきちの新看板、これで行こうという方針です。
 腹のひもじそうな連中から、姐御あねご姐御とすがられると、お粂もこの周囲の人間を、何とか食べさせてゆきたいと考えるし、自分の身も今はどこへというあてのない境遇なので、これはひとつ、浅黄繻子あさぎじゅすかみしも厚化粧あつげしょうをした嵐粂吉になってみるのも面白いかも知れない。
 ――独楽こまがもし人間だったら、お粂が心できいてる問いに、そも馴れそめのいきさつを、右の如く答えたでしょう。

 一夜づくりの曲独楽きょくごまの太夫が、とにかく明日から見物にお目見得というので、永らくシケを食って粉煙草こなたばこにさえかわいていた一座の者ども、さあ、これで一つ大入りを取ってと、にわかに元気づいてのテンテコ舞い、浅ましいほど働きます。
 どうやら生業にありついている間は、遊びたいが一願の人間も、いったん生活の干潟ひがたにほし上がって永い遊びがつづき出すと、彼自身は寝て暮らす根気があっても、旺盛おうせいな胃液がやたらに溶かすものを求めて、遂には、仕事がしたい仕事がしたいと、寝言にまでいいだしてくる。
 そんな、あんばいで。
 岩井染之助の看板を嵐粂吉一座と塗りかえて浮かび上がった連中の顔つきを見ると、お粂も悪い気持はしません。
 そこへ衣裳屋の使いが来て、
「太夫さん、これでお気に召しましょうか」
 と、風呂敷をひろげました。
 縫い上がって来たのを見ると、けばけばしい、小袖と、その上になるかみしもはかまは、おあつらえの浅黄繻子あさぎじゅすに金糸のい紋です。
「何しろ急ぎましたので。はい。今もこちらの太夫元が来て、すぐお目にかけておけというので、まだすッかり上がっておりませんが、ちょっと持ってまいりました」
「これを私が着るのかい」
 使いは変な顔をして、
「左様でございましょうと思いますが……」
派手はでだねエ」
「舞台でござんすもの」
「気まりが悪いよ、こんな年をして」
「御冗談ばッかり。……それから紋でございますが、御相談なしに、揚羽蝶あげはのちょうとしておきましたが」
「あ、それはたかの羽にかえてもらいたいね」
「鷹の羽ですッて」
「いけないかえ?」
 衣裳屋は吹き出しそうになって、
「太夫さんが鷹の羽はヘンでげしょう。お侍か何ぞのようで、どうにも、うつりが悪うございますよ。蝶がいけなければ、かさおうぎか鶴の丸、桔梗菱ききょうびしなんぞは、お嫌いでございますかな」
「やっぱり鷹の羽にして欲しいんだがね」
「へえ。ははあ。さては……でございますね。成程、それじゃぜひ鷹の羽でなけりゃあいけますまい、だが、まさか浅野内匠頭たくみのかみのとおりでも困りますから、何とか鷹の羽をくずして優しくして置きましょう」
 衣裳屋の使いが帰ると、入れ代りに髪結かみゆいが来る。お粂もなかなか多忙です。
 その髪でも、お粂の気持と髪結かみゆいの注文が合わないで一もめもめました。お粂としては銀杏いちょう返しか松葉くずしにでも渋く結うつもりでいたのが、髪結は反対して、
「それじゃ、まるで年増に見えてしまいます、浅黄繻子あさぎじゅすや濃い化粧にうつりよくするにゃ、どうしても、こう来なくッちゃなりません」
 と呑みこんで、唐人髷とうじんまげに色ざんざらをたッぷりと掛け、たぼをねり油で仕上げました。
 十七、八の娘のようになった自分の首を鏡にうつして、お粂は、可笑おかしくもあり、何となく気恥かしくもある。
 そして、
「あの……髪結さん」
 と、帰ろうとする男を呼びめて、
「お前さん、これから南町へ廻るといったね」
「へい」
「南町に小川玄堂というお医者があるだろう」
「へ、ございます。金創きんそうにかけては、川越で一番という方で、御城主の秋元様からもお扶持ふちがあるくらいな上手なんだそうで」
「そこへ、お前さん、ちょッと言伝ことづけを頼まれておくれでないか」
「へえ、玄堂先生にてすか」
「なあに、お医者の家に居る者にだよ。……実は、私が八王子から川越に来る途中で、ひとりの怪我人があって、それを大勢で助けて来てあげたんだけれど、だれも旅先だし、私も落着き先が当てにならない矢先だったので、とにかく医者のうちへ持って行って、いやおうなく、預けてしまったというわけさ」
「なるほど」
「その怪我人けがにんに、たしか、次郎という子供が世話についている」
「へい」
「その次郎という子に、言伝ことづけをしてもらいたいのさ」
「おやすい御用でございます。……で、何と申しますんで」
明日あしたからこの唐人小路に小屋がくから、怪我人の容体がよくなったら、ぜひ見物に来て、楽屋へも遊びに来ておくれッて。……そういってくれれば大概たいがいわかるよ、それでも分らないようだったら、熱海あたみに居たお粂さんからだといっておくれ」

七男坊


 川越城かわごえじょうの本丸で、領主の秋元但馬守涼朝すけともが、
「ほウ。……あの尾州家の七男坊がか?」
 と、鼻をつまみ上げられたように、脇息から顔を上げて驚いていました。
 お話相手は、お扶持医者の小川玄堂で、
「いや、手前も、こんなに驚いたことはかつてございません」
 と、その驚き具合の顔を白扇であおいでいる。
「で、玄堂」
「は」
「いつの事じゃ、一体それは」
「もう十日あまりの真夜半まよなかなのでございます。何者か門をたたく、大勢の声でガヤガヤと騒ぐ、そこで出て見ますと、その怪我人けがにんをかつぎ込んでまいりましたので。は。申すまでもなく、医は仁術、ことに御領主様のお扶持をいただき平常ふだん安穏に暮しております玄堂、捨ててはおけません。早速傷をあらためました」
「む」
「金創三ヵ所、匕首傷あいくちきずでございます、これはいかん、初めはそう思いました、刀傷よりも短刀の突き傷は加療のかなわぬ場合が多うございます」
「そうじゃろう」
「ところが、よいあんばい、一ツの突き傷は浅く、一ヵ所はかすり傷の程度でございます。ただ出血おびただしく、そのため昏倒していたものと診断して、手当を加えますと、果たして、結果はまことに上乗で、まあ半月も過ぎましたら元の体となることは請合うけあい。――と申しましたが、怪しからん話で、夜半怪我人をかつぎこんで来た者どもは、その時いつのまにやら、ひとり残らず立ち去っております」
「ほう、置いてきぼりか」
「左様な次第で」
不埒ふらちな奴どもではある」
「しかし、あとで話を承ると、それはとうの怪我人と何らの縁故なき旅人どもであったそうで、あとに残って付添うているのは、まだ年のわかい次郎とよぶしもべひとりでございます」
「ウム、そのわらべから、素性を聞いて、初めて驚いたと申すのじゃな」
「御明察の通りにございます。彼――次郎が申しますには、このお方は、徳川万太郎とおっしゃる御身分の高い人、もし療治の届かぬ時には大変なことになる、どうか、そのつもりで充分に――などといい出してまいりました。しかし実を白状いたしますと、この玄堂も、初めは一笑に付していたのでございます。ところが、日を追うにつれて、仔細しさいに御所持の刀や印籠などに目をつけますと、まぎれもない尾張中将様の三ツ葉あおい、ことに隠されぬ御人品は、まことに疑う余地なき御三家のお血筋とお見上げ申しました。で、どうも、にわかに驚き入って、恐懼きょうくの措く所も知らずという有様、実以て、御処置に当惑いたしました」
「なるほど、それで、相談にまいったか」
「捨てては置けぬ儀と、御内聞までに」
「あの万太郎と来ては、尾張殿も持てあまされている放埒ほうらつ息子と聞いておるが、御三家の一子、知らぬふりをしているわけにもまいるまいな」
「後日のたたりこそ恐るべしでございます」
「飛んだ厄介者が領内へ飛びこんで来たものじゃ。どうしようかの、玄堂」
「弱り入った次第でござります」
「おやじの中将へ申しつかわして引取らそうか」
「なかなかそんなお計らいで自由になるお方ではございますまい」
「それも、そうか」
 と、涼朝すけともは考え込んで、
「では、たれぞ重役どもを迎えにやろう」
「御城内へお連れ申し上げますか」
「いやいや、ああいう放埒者ほうらつものに、ここまでやって来られてはかなわん、重役どもの屋敷に一時とめておいて、わざと、慇懃鄭重いんぎんていちょうに扱っておけば、そのうちに窮屈がって、向うから逃げ出すじゃろう」
「御名案」
「早速に呼べ」
「どなた様に、この御大役をお願いいたしましょうや?」
「そうじゃの、万太郎の窮屈がるような者といえば……ウム、家老の曾根権太夫そねごんだゆう、あれをろう、あれを迎えにやって、しばらくの間、曾根の屋敷で預かって置くように申すがよい」

 お扶持ふち医者の小川玄堂は、その足で直ぐに、城下の上屋敷に老臣の曾根権太夫を訪れていました。
 殿からのいいつけを聞くと、権太夫は、
「なに、尾張中将様の御一子万太郎ぎみがそちの家に? そりゃ稀有けうなことじゃ、万が一、お粗相でもあっては、お家の一大事」
 とばかり、蒼惶そうこうとして供揃ともぞろいの用意をさせ、玄堂を案内に、自身は徒歩かちで、一挺の塗駕ぬりかごを清掃して早々迎えに出向く。
 やがて、南町の小川玄堂の宅。
 お扶持だけでは過ごしてゆけず、町医だけでも立ってゆかず、両天をかけてどうやら雀羅じゃくらだけを張らないでいる外科医者の門前に、糊目のりめ正しいかみしも供侍ともざむらいがズラリとうずまったところはまことに奇観です。
「玄堂」
「はっ」
「若殿はおいでの御様子か」
「おられるようでございます」
「但馬守涼朝すけともの老職、曾根権太夫がお迎えに参ったと御前体ごぜんていよしなにお取次とりつぎいたしてくれ。わしはここに控えておる」
 権太夫、そういって、薬種くすりくさい一室の隅にしゃちこ張っている。
「では、暫時これにて」
「わしはかまわん、若殿の方に、くれぐれお粗相があってはならぬ」
「只今、御意を伺ってまいります」
 と、玄堂はおそるおそる奥へ這入はいって行った様子です。
 書斎、薬室、寝間、すべてを兼ねた玄堂の居間とみえる奥の一間に、徳川万太郎はそこの机や薬研やげんと雑居して、今しも一面の鏡をすえ、
「ウム、これは少し、鈍刀なまくらだな」
 剃刀かみそりを持って、あごの辺をり上げている。
 その傍らに、ちょこなんと、畏まっているのは高麗村の次郎。
「おじさん、えりってやろうか」
「などといって、お前は、剃刀を持ったことがあるのか」
「ばかにしちゃいけないぜ、狛家にいた時分は、いつでも、おいらがお嬢様の襟足を剃ってやったんだ」
「そうか、じゃひとつ、腕前をふるって見せてもらおうか」
「よし、やってやろう」
 と、次郎は小脇差のげ緒を解いて、肩から袖をはすにむすぶ。
「なかなか形がいい、その構えなら剃れるだろう」
「おじさん、動いちゃいけないよ」
 と、自分の指につばをつけて襟足えりあしへぬりつけ、彼の頭を唐瓜とうがんのようにつかみましたから、万太郎も恐れ入って、
「これ、次郎」
「へ」
「なんでえりをぬらしているのだ」
「つばで」
「きたない! その鉄瓶てつびんに湯があるだろう」
「もうありません。あ、それではあそこの水を」
 と、湯呑みを持って行って縁先から、手洗鉢ちょうずばちの水をすくってくる。
懸人かかりゅうどは不自由じゃのう」
「おじさん、懸人って、なんの事?」
「居候のことさ」
「すると、おいらも居候なんだね」
「おまえは、居候のまた居候」
 次郎を相手に他愛なく襟を剃らせながら笑っているところへ、
「へへッ」
 と、ふすまを開けて玄堂が平伏しました。

 次郎に襟を剃らせながら、万太郎は不審そうな顔をして、
「だれだい? そこでお辞儀をしているのは」
 と、たずねたものです。
 平伏した者は、たたみひたいをすりつけたままも上げ得ないで、
あるじの玄堂めにござります」
「あ、御主人であったか。永いこと世話になった上、おかげで傷も本復、わしの方から改めて礼を申さねばならんところを、何だって左様な真似をなさる。さ、手を上げて下さい、お手を」
「勿体ないおことば、いよいよ恐縮仕ります。元々、御身分を承知しておれば、かような御無礼もいたさぬものを、さる高貴のお方とは知らず、先頃からの不作法、何とぞ御仁慈を以て、おゆるし置き下さいますように」
「はてな」
 と、万太郎が首を上げましたから、次郎も剃刀を離して、同じように、玄堂のしかつめらしい有様に見とれています。
「はて、どうしたものでござる御主人」
「見るかげもない藪医者やぶいしゃを、御主人などと、若殿のお口から滅相もないことで」
可笑おかしいのう」
「まったく今日まで気づかずにおりましたのは玄堂の落度おちど、早速、殿のお耳に達しましたところ、意外なお越しに驚かれ、御自身お迎えにもまいるべきでござりますが、先頃から少々お風邪のため、御老職曾根権太夫様が名代としてお出迎えにまいっております」
「何だ……老職が迎えに来た?」
「は。一応お目通りを願いたく、あちらに差控えております次第で」
「一体、どこの老職だ」
但馬守涼朝たじまのかみすけともの家臣で、とう秋元家の御家老にござります」
「それがわしを迎えに来たとは変な話、何か、門違かどちがいをしているのではないか」
「いや、お隠し遊ばされても、御素性は早や御近侍から承っております」
「おれに近侍などは付いていないが……ははあ、次郎、さては、お前が何かしゃべッたと見えるな」
「何も、しゃべりはしませんが、あのお医者がいろいろ聞きますので、尾張の若殿徳川万太郎様だといって聞かせました」
「それはいかん」
 万太郎は苦笑して、
「それはいかんなア……」
 ともう一度いいながら、剃り立ての顔を撫で廻しました。
 ところへ、次の部屋へ、家老の曾根権太夫がうやうやしく式体して平伏しながら、上目うわめづかいにこッちを見上げて、
「へへっ。初めて御見にいります。自分ことは但馬守の老臣曾根権太夫というもの、何とぞ、お見知りおき下されますように」
 と、玄堂と同様な言い訳を諄々くどくどとならべ立てて、どうか、かみ屋敷の方へ移ってくれと申します。
 これは領主の涼朝すけともでさえ、常にけむたがっている老人で、いかにも家老を勤めるべくこの世に生まれて来たような御家老、型どおりな左様しからばで、いも甘いも加減がなく、一にもお家、二にもお家、杓子定規しゃくしじょうぎに納まって、およそあましたの世間というものを、将軍様と秋元六万石よりほかに知らない人物です。
 ですが、事情さえ分ってみると、万太郎はべつに驚きもしません。
 自分のうちの尾張の家中にも、こんなのが、二人や三人はいて、よくにがい事ばかりいったものだ。
「ははあ」
 と、彼は軽くうなずいて、
「じゃ、但馬守のさしずで、わしを迎えにやって来たのか」
「御意にござります」
「折角だが、それは断る」
「えっ、それはまた何故なにゆえでございましょうか」
「わしは非常な我儘わがままだ、それに、堅苦しいことがしていられない性分、お前のかみ屋敷などへ行くのはどうも余り有難くない」
「御窮屈がおきらいとあれば、如何ようにも御自由にして、ともあれ、お越し下さりませぬと、このおやじめが折角お迎えの役儀が相立ちませぬ」
 と、権太夫はどこまでも、この貴賓きひんの気を損なわぬことが、お家の為と心得ている。
 いやだの、有難くないのと、さんざん駄々をこねた万太郎も、結局、権太夫の役儀大切に根負けして、
「じゃ、行ってやろうか」
 と、渋々しぶしぶ、迎えのかごに乗りました。
 知らぬ他領の城下へ来て、こうもてるのも、いわば七男坊にまで及ぶ親の光。
 供揃いが出来る。かごが上がる。次郎は妙なことになったと思いながら、例の胆刺きもざしを杖について行列の一番あとからいてゆく。
 すると、歩み出す間もなく、
「もし、小僧さん」
 ひとりの男が、小川玄堂の門前から引っ返して来て、
「もしやおめえは、高麗こま村の次郎というものじゃないかね?」

 呼びとめた男は、あいみじんのいき単衣ひとえに角帯をしめ、油じみた桐箱を手にさげて、まげの先に一本の鬢掻びんかきを挿していました。
 次郎の目にも一見して、それは髪結かみゆいの男とわかりましたが、
「おいらかい?」
 いぶかしそうな顔をすると、
「次郎というんだろう、お前さんは」
「あ、おれは高麗村の次郎だけれど、何か用かね」
「御城下の盛り場に唐人小路とうじんこうじというところがある。そこで明日あしたから小屋びらきになる曲独楽きょくごま嵐粂吉あらしくめきちという太夫さんから言伝ことづかって来たんだが……」
 次郎はいよいよ変な顔をして、鬢掻びんかきをした男の顔を見上げていますと、男はまた口をついて、
「その太夫さんがいうには、ぜひ一度、曲独楽を見物に来て、楽屋へも遊びに来てもらいたいということだ」
「おじさんは、人違いをしているんだぜ」
「人違いなことがあるものか、小川玄堂さんのうちで、怪我人に付き添っている高麗村の次郎というのは、お前よりほかにありはしまいが」
「おかしいな」
「なぜ」
「なぜだっても、おいらは、そんな太夫さんなんて者を知らねえもの」
「なるほど、こいつあおれが言い落としをしている。嵐粂吉じゃお前さんにも分らないはずだ、その太夫というのは、この春頃、熱海あたみにいたおくめという人だよ、丹頂のお粂という綺麗きれいな人さ」
「あ、あの、お粂さん」
「知っているだろう。じゃ、今の言伝ことづけも分ったね」
 といったまま、髪結の男は忙しそうに、きびすを返して、横丁へかくれて行きます。
 気がついて見ると、万太郎の駕とそれを囲んでゆく曾根権太夫たちの列は、すでに、一町も先へ遠のいているので、次郎は、
「あ!」
 と、野槍を小脇に持ち直しながら、あわててあとから駆け出しました。
 かくて徳川万太郎は、その日から、秋元家の家老曾根家の上屋敷に食客となって、かたがた玄堂の治療をうけながら、寝たい時に寝、起きたい時に起き、人の羨む自由気ままな数日を送っている。
 三ヵ所の短刀傷もほとんど癒えて、もう立ち居になんの不自由も感じなくなると、そろそろ七男坊の駄々振だだぶりがあらわれて、
「次郎、おやじが居たら、ちょっと参るようにいってこい」
 と、ある日、彼のことばです。
 次郎は心得て、かみ屋敷の用人部屋へずかずかとやって来て、そこの入口から大きな声で、
「御用人様!」
「おい」
 と、びっくりしたように、そこで居眠りをしていた用人の伝内、
「やあ、万太郎様のしもべ、次郎さんか。何じゃ! 何の御用じゃ」
「おやじは居ますか」
「おやじ?」
「ウム」
「おやじとはたれのことで」
「おやじといえば、ここのおやじ。それ、いつも、こういうふうにシャチコ張っている、曾根権太夫という人のことさ」
「これはしからん、かりそめにも、秋元六万石の御家老をさして、おやじなどと申すと口が曲がるぞ」
「でも、万太郎様が、おやじをすぐに呼んで来いといったんです」
「御家老はまだお城からお退がりになりません。御用があったら、この伝内が参って伺いましょう」
「駄目駄目、お前さんじゃいけない」
「なぜ手前ではいけないのか」
「万太郎様は、伝内さんがお嫌いです。あの河豚ふぐのようなつらをした、用人の河豚内ふぐないが給仕にまいると、御飯もまずいといっています」
「これはひどい。河豚内とは、お口がわるい」
「じゃ河豚内さん、おやじがお城から帰ったら、すぐ奥へ来るようにいっておくれ」
「こいつめ、居候のくせにして」
 と用人の伝内が、頭から湯気を立てるのを面白がッて、次郎は拭きこんだ大廊下を、武蔵野を駆けるように、家鳴やなりをさせてドンドンと戻って来ました。そして、
「おじさん、おやじはまだお城から帰って来ませんッて」
 と、突っ立ッたまま復命しました。

「では用人の河豚内ふぐないは居るか」
 と万太郎がいいますと、次郎は今の可笑おかしさを思い出したように笑くぼを作って、
「ええ、用人部屋で、居眠りをしていました」
「そうか。じゃ、河豚内をよんでくれ。おやじが居なければ仕方がない」
 心得ましたという風に、次郎はまた表の部屋へ取って返して、そこをのぞくと、河豚は居眠りをさまして、破れ扇子せんすのつぎ張りか何かしている。
「御用人さん、お召しです」
「また来たな。だれが」
「万太郎様が」
「それみろ、わしでも済む御用なのじゃないか」
 と用人の伝内、そこは不承不承に立ちましたが、万太郎の次の間まで来ると、陪臣らしい習性でペタと鼻まで畳にすりつけて、
「へへっ、用人の伝内めにござりますが、何か御用でございましょうか」
「オ。河豚ふぐか」
「は」
「ちと退屈したによって、ぶらぶら城下を見物して来たいと思う」
「主人権太夫こと、公用多繁のため、一向おかまいも申し上げず、重々相済まぬ儀と、かげながら恐縮いたしております」
「そんな事はどうでもいい。何分居候の身で出かけたいにもき物がない、笠がない。それに小遣銭こづかいせんの持ち合わせもない」
「恐れ入ッてござります」
「それを調ととのえて欲しいのじゃ、すぐにな」
「は」
「早くしてくれ。次郎、一緒に来い」
 ずかずかと玄関へ出て行きましたから、河豚は狼狽して笠やき物の支度をしましたが、困ったのは、万太郎がもう一つ無いものに数えた小遣銭のことであります。
 御三家の若殿などというものが、小遣銭などを持つものか、持つとしたら幾らふところに入れているものか、その辺の見当もっかず、まさかおいくら要るのですかとも聞きにくい。
 まごまごしているに、万太郎はもう式台から降りていて、癇癪かんしゃくをおこし、
「河豚、早うしてくれ」
「はっ……」と、いよいよ当惑したらしく、窮余きゅうよの一策、自分もあわただしく支度をして、
「手前もお供仕りましょう。主人に代って、御城下を御案内いたしまする」
 先に立って門前を出かけると、そこへ、一群ひとむれの駕と人とが寄って来ました。今しも城を退出して来た家老の曾根権太夫で、
「おう、若殿」
 驚いて駕を出ながら、とがめるごとく、用人の伝内に外出の理由をただしてのち、滅相もないという顔つきで、
「おそれ多くも、君は将軍家の御門葉、高貴のおん身として、軽々しく町なかを御遊歩あるは如何いかがなものか。いてお望みとあれば、せめて駕になと召されて、三、四名の御警固をお連れ遊ばすよう。第一、伝内がお付き添い申し上げながら、それくらいなことに気づかぬということがあるものか。早う駕のお支度をしてさし上げい」
 万太郎は心のうちで、人が気楽に歩こうというのに冗談じゃない――と思いましたが、御家老や河豚内ふぐないは冗談でなく、早くも駕の用意をする。
 しかたがなく、それに乗ると、供侍が三、四人付いたのでもウンザリするのに、家老の権太夫と用人の河豚内が、駕のそばについて歩いて来ます。
 そして、面白くもない城の附近や、寺町のなんとかという名刹めいさつなどを見せて歩かされたものですから、万太郎もすッかりまいってしまッて、ひそかに思うには、これは何とかして、おやじと河豚をく工夫をしなければ助からない。
 そこで、自分の屋敷の者を追い使うような調子で、
「おやじ」
 と、権太夫をよんでたずねました。
「この川越の城下には、もっと、繁華な所はないのか」
「は。御意遊ばすのは、あの下民げみんどもの寄る盛り場の儀で」
「そうだ、その盛り場へ駕をやッてくれ、万太郎は下民の仲間入りをするのが大好きでな」
 権太夫は眉をひそめながら、
「したが、御身分がら、ああいう場所へお近づき遊ばすのは、あまりよろしくございますまい」
「では、次郎だけ連れて歩いて行こう」
 と、遂に駄々な七男坊は、駕の中から片足を出して、
「河豚、草履をくれ」
 と、不機嫌にいいつけます。

 権太夫も呆れましたが、ぜひなく万太郎の御意ぎょいのまま、駕は城下の盛り場に曲げられました。
 さて、そこの賑やかな町といっても、江戸の両国や浅草とは比較になりませんが、古着やまゆ市の立つ町角を中心に、ひなびた遊び風呂屋が何軒か見え、附近には雑多なべ物店や、楊弓場や、露店、見世物、辻講釈などがあって、その騒音が城下の町人や仲間ちゅうげんや、行きずりの旅人の足をも相応に集めております。
 そこへお練りの御家老と駕です。
 権太夫と用人の河豚内が、むずかしい顔をならべて、駕の後から真ッすぐに向いて歩いていると、万太郎は駕の垂れを上げて、
「ここは何という町か」
「唐人小路と申します」
「あれは何だ」
歯磨売はみがきうりの人寄せかと存じます」
居合いあいを見せているのじゃな、ウム、面白い、川越の城下にもこんな繁昌な所があるか」
「恐れいります」
「向うに頭へ箱を乗せて何か怒鳴っているものがあるな」
「あれは、すし売りでございましょう」
「なるほど」
 と、さかんに話しかけたり指さしをするので、供の者も閉口していると、
「河豚内、河豚内」
 と、人前もなく呼び立てる。
「は」
 何事かと、駕をめてひざまずくと、万太郎は真面目まじめくさって、
「腹がった、あのすし売りを呼べ」
 というのであります。
「御冗談をおおせ遊ばして」
「冗談ではない、まったく空腹じゃ。あのすし売りの姿が殊に面白いではないか、これへ呼べこれへ。そして、お前たちも相伴しょうばんするがいい」
「ここは町の雑鬧ざっとう下人げにんたちの目がござります故、ならば御帰邸の上お屋敷にて、お好みのすしを調理いたさせます」
「それではうまくない、すしはこういう場所で立ち食いするに限る、江戸表ではよくそうして試みたものだ」
「いかがいたしたものか、どうも、伝内には取り計らいかねます故、只今、御家老と御相談の上で」
「厄介な奴だ、ぐずぐずしておるまにすし売りが行ってしまうぞ。これ、あのすし売りを逃がすな」
 あたりの弥次馬は目をみはって、何事かと、そこに人の輪を作ってガヤガヤと騒ぎ出す。
 それにさえ当惑していた家老の権太夫は、伝内のことばを聞いて飛んでもない事と、すぐ駕を上げるように命じましたが、どたどたと弥次馬が寄って来た混雑の瞬間に、万太郎は逸早く、次郎をつれて一散に横丁へ駆け出している。
 あとで、おやじと河豚内ふぐないが、どんな顔をしているかと、そこで腹をかかえて笑った万太郎は、
「ああ、これでやっとのびのびしたぞ」
 と、鬱屈していた五体を思うさまのばして、
「次郎」
「はい」
「これから久し振りで、気ままに体の保養をしたいな。わしが思わぬわざわいにって、洞白の仮面めんをたずねることもあのままになっておるが、とにかく、浩然こうぜんの気を養った上で、またいい分別もあろうというものだ」
「もう、あの晩から、二十日にもなります」
「そうか、早いものだな」
うちでは、おっかあが心配しているだろうし、高麗村こまむらでは月江様が、次郎はどうしているのかと案じているだろうと思うと、おいらも、時々、悲しくなるんです」
「心配するな、そのうちに、きっとお前の詫びはかなえてやる」
「でも、あの仮面めんが、こッちの手へはいらなければ……」と、さびしげに、呟いているうち、彼の目が、ふと向うの立て看板の文字に吸いつけられました。
 連日大入りにつき日のべつかまつり候――曲独楽きょくごま娘一座、嵐粂吉あらしくめきち

 その辻看板に、嵐粂吉という名を見たものですから、いつぞや髪結かみゆい言伝ことづけして来たことばを、胸に浮かべたものでしょう、次郎はふと、
「あ。お粂さん」
 と、そこで口に出しました。
「お粂さん?」
 万太郎も、お粂という女の名は、どこかでうすら覚えのあるような気がする。
 そこで次郎の話が、彼に偶然な興味を添えたものか、賑やかな鳴物をはやし立てているき地の方へ、人波に交じッて流れてゆきますと、
「おい、稲」
 と、その人中をはずして、前へゆくうしろ姿へ、編笠のへりをしゃくッた二人連れの侍がある。
 稲とよばれたのは、前髪でいなせな若者、
「え?」
 と、人みへ目を迷わすと、
「あれへ行ったのは、たしかに、尾州の万太郎じゃねえか」
 と、肩に肩を寄せて来てささやきました。
「人中でよく見えなかったが、恰好かっこうは万太郎らしかった。だが、何か、紋所が違っていやしなかったろうか」
 といったのは、もう一ツの笠、赭顔しゃがん総髪の武家ていです。
「行ッて見ましょうか」
 つばめのように、稲とよぶ前髪が、前へ走ろうとするのを抑えて、
「まあ待て、――万太郎は雲霧にまかせてある」
 日本左衛門の、あの、静かなことばにまぎれもありません。
 編笠の本体がわかれば、一方の笠の判断もすぐにつく。無論それは先生せんじょう金右衛門で、稲というのは千束せんぞくの稲吉でしょう。
 附近を見廻しているのは、少し話のできるかけ茶屋を探しているものらしいが、何分、あわただしい市と遊び場と旅人の立て場が一つに混雑している情景なので、これという家も見つからない。
「親分、空き地の向うはどうです」
「ウム、二、三軒見えるな」
はす池があります。あれを前にした所は、ちょっと、不忍池のいろは蓮見はすみ茶屋といったあんばいですぜ」
「静かだろう、行って見よう」
 三人は、雑鬧ざっとうの浪を横に抜けて、嵐粂吉あらしくめきちの小屋やのぼりを横に見ながら、じめじめした蓮田はすだのへりを悠々とならんで歩み出しました。
 どろりとした青い水面に、富士形の編笠と、丸べりの笠と、前髪の半身の影が、足につれて浮いてゆく。
 めし、ざかな。
 来てみればこんなものです。
「飛んだ蓮見茶屋だ。は、は、は、は」
 笑いながら、葭簀よしずを分けて、醤油くさい店先へずっとはいると、それでも白いものを塗った女の顔が愛嬌よく、
「いらっしゃいまし」
 と、床几しょうぎの位置を直してくれる。
「酒」
「はい」
 支度をさせておいて、稲吉は奥の床几をかど近くズリ出して来ながら、
「親分、ここに腰をおろしていると、曲独楽きょくごまの小屋の背中が、そッくり一目です」
 彼の笠も、今、その方角に向いていました。
 酒のかんをつけて、何か膳に見つくろっていた女は、べつに深い意味のあるその話を、すぐ横から奪い取って、
「あの、粂吉さんの曲独楽をごらんになりましたか」
「いいや、おれはまだ見ねえが、どうだね、評判は?」
 と、稲吉が軽く相手になる。
「とても、大変な人気なんですよ」
「へえ、どう大変なんだい」
「何しろ、い女だっていうんで」
「おや、それじゃ、独楽はそッちのけだね」
「何にしたッて、あなた、女の太夫さんなんていうものは、芸より顔でござんすからね」
「つまり、居酒屋にしてみれば、酒よりはお酌というわけだな」
「ホ、ホ、ホ。まあ、そんな塩梅あんばいなんでございましょうね。それですからね、あなた、日のべをしてまで、まだあんなに毎日入りがつづいているんですよ」
「そうかい、世間様は、有難ありがてえもんだな」
 と、稲吉が、何の気もなくいったことば、日本左衛門の黙りこんでいる心の底を、くすぐるように苦笑させました。
 やがて、そこへ来た酒を、真似ばかりに飲みながら、
「稲」
「へい」
「お粂はおめえの持ちだったな」
「そうです。あっしがくじを引きました」
「いい籤を引いたな。雲霧の相手や、おめえの目ざすものは、いつでも手の届くところにぶら下がッているのに、おれの引き当てた切支丹きりしたん屋敷のお蝶ばかりは、どうしても、影もかたちも見せてくれねえ……」
 と、含んだ酒もにがそうに、それには、よほど探しくたびれた様子であります。

 彼をはじめとして、暗殺のくじいて別れ別れになった五ツ組の者は、その後、各※(二の字点、1-2-22)目ざす方角へ向って、みな相応な飛躍をやっているだろうと思われる。
 しかるに、その根幹である自分の持ちのお蝶の姿と来ては、いくら探りの手を分けてみても、一こう見当がついて来ないので、日本左衛門も手を下しようがなく、夜光の短刀の手懸りと共に、あれ以来の日は空しく過ぎておりました。
 嵐粂吉となったお粂は、すぐ目の前の小屋に、おおびらで姿を見せつけている。けれど、それは暗殺のくじで、千ぞくの稲にまかせてあることだし、自分の心も、あの女に触れたくない。
 ――と、茶店の床几しょうぎに、少し話が途切れている所へ、どかどか入って来た四、五人の男どもがある。
 はいって来ると、ここの白粉おしろいの女と馴染なじみと見えて、奥の上がりがまちに思い思いに腰をすえて、勝手な冗談口を交わしはじめる。
 話の様子では、城下の馬市へ来ている博労ばくろうと見えます。日本左衛門や金右衛門にはわからないが、何か仲間ことばで、馬相場の話をしている。と思うと、いつかしらその話題が、手なぐさみの事から茶屋女のうわさ、取りとめもなくやかましい。
 そのうちに、なかの一人が、
「おい、そりゃあそうと、またこの間の晩、上野原の弥助が、女影おなかげの辺で、いやなものを見たっていうぜ」
 そこへ来た酒の盃をやり取りしながら、
「おれも明日は、金を持って、青梅おうめへ帰らなくっちゃならねえが、その話を聞いて、いやな気持がしてしまった。だれか、青梅へ帰る道づれはねえかしら」
「博労渡世の者が、旅をこわがッていたひには商売ができるもんか」
「だって、二度や三度のことじゃねえからな」
「上野原の弥助が、一体、何を見たッていうんだい」
「あれだよ、この前の市に、おれたちが青梅から来る途中、女影の手前でぶつかッた女の魔物だ」
「ヘエ……弥助のやつも出会ったって?」
「うム」
「いつ頃?」
「もう半月程まえだそうだが、その時は、今小屋にかかっている嵐粂吉あらしくめきち一座の者や、八王子の宿場問屋を出て来た者が大勢一緒だったから、何の事もなかったそうだが、でも、途中で大怪我おおけがをしている侍があって、それをこの川越までみんなして助けて来てやったそうだ」
「じゃ、あの女を、見たというわけじゃねえのだろう」
「だが、多分あの女の為業しわざにちがいないと、あとで、みんなが噂しているのだ」
 と、真面目になって、その男は、この晩春の頃、自分たち青梅の仲間が実際に出逢ったという、女影の鬼女の話をもち出しました。
 最前から、一隅に、葭簀よしずを囲って飲んでいた日本左衛門は、それを小耳にはさむと、吾を忘れて聞き入っておりましたが、
「稲」
 と、編笠をうしろに向けて、
「あの男を、ここへ呼んで来てくれねえか」
 と小声で言う。
 稲吉は目交めまぜで立って、つかつかと連中の前へ行き、み手をしながら、
「エエ親方」
 と、喋舌しゃべっていた男の前に小腰をかがめました。そして、
「あちらにいる方が、一杯さし上げながら、少し伺いたいことがあるっていうんですが、どうでござんしょう」
 博労は怪訝けげんな顔をして、
「何が、どうなんだい」
「お前さんだけ、ちょっと此方こちらへ来てくれませんか」
「ふざけた事を言うねえ、人にものを聞くのに、こッちへ来いなんて大ッ面をしやがって、おれ達を何だと思ってやがる」
 と、酒の勢いもありましょう、野卑やひな博労ことばで、啖呵たんかを切ッたものです。
 すると、葭簀よしずの蔭で、
「オイ、稲。もういいから此方こっちへ来ていろ」
「へい」
 と稲吉は、すごい目をくれて、
「とんだお邪魔をいたしましたネ」
 セセラ笑って引っ込みました。
 それで初めて気がついた博労ばくろうどもが、土間の一隅を見ると、葭簀よしずを囲ったなかの床几しょうぎに、稲と呼ばれた今の男のほかに、どっしりした浪人ていの者がふたり、しめやかに盃を交わしている。
 おとなしく引ッ込まれただけに、博労どもは薄気味がわるくなって、前の元気もどこへやら、大声な話も出来ず、そこを通って帰るにも帰られず、
「おい、何の用だか、ちょッと行って来ねえ。いやに鳴りをしずめているから、あとのたたりが怖ろしい」
 と、仲間の者を小突いていました。

「どうも、只今は、とんだお見それをいたしまして」
 おそるおそるそれへあいさつに来た男を見ると、今、啖呵たんかを切ッた博労ですから、三人は苦笑いをして、
「さ、こちらへお掛けなさい」
「ところで、何かあっしにお話があるそうですが」
 日本左衛門は、博労の男にも床几しょうぎを与えて、
「呼び立てて聞きただす程のことでもないが、そちが只今、向うで話していた女影おなかげの妖女のうわさは真実なのか」
「へ、へい。こればかりは、嘘でも大袈裟でもございません」と、博労が得意になって語り直すのを、日本左衛門がところどころ反問して、どうやらそれで彼の疑問はうなずけたようであります。
「いやよく分った。折角飲んでいるところを済まなかったな、これは少ないが……」
 と、っ気にとられる博労の男の手へ、一枚の小判を落として、三人はぶらりと外へ出て行きました。
 外の風に吹かれると、すぐ耳につくのは池の向こうのかけ小屋の鳴物です。どんよりした夕雲の影を落としている蓮池の水面に、水馬みずすましがツイツイと細い線を描いているのが、何となく夜の雨でも待つように見えました。
 暫く肩をならべて行ったと思うと、日本左衛門と金右衛門とは、別な道へそれて行きながら、
「じゃ稲、しッかりやれよ」
 言い残して、何処ともなく、ちまたのなかに影を没してしまう。
 稲吉はふところに手を入れて、指先で、肌に温まっている匕首あいくちを触ってみました。そして、ポツンと来た一つぶの雨に、頬へ手をやりながら、空模様を仰いでいたかと思うと、まだそれ程でもないのに、にわか雨でも来たように、一目散に走り出します。
 そして、曲独楽きょくごまの木戸口へ来る。
 木戸番の男は下足札げそをたたいて、声をからしながら客を呼んでいる。その混雑に入りまじッて、何十文かの木戸銭を投げると、稲吉の姿もそのむしろ小屋のなかへ吸い込まれて行く。
 中には、もう昼間から二、三百の見物が詰まっている。小屋の内を眺めると、何か大きな動物のあばら骨でも見るように雑な丸太組のホッ建て小屋で、無数の藁蓆わらむしろと、へんぽんたる古幟ふるのぼりとあまたのビラと、毒々しい幕と緞帳どんちょうとで粉飾されています。
 舞台では今、前芸とあって、やたらに騒々しがる男芸人と手踊りの娘とで、何か、お茶番じみた所作を見せている。
 こういう雰囲気ふんいきのなかに立って、どこを見るともなく、暫く、坐り場所をさがしていた千束の稲吉は、やがて薄暗い土間の隅に、一組の見物を見出して、
「お」
 と、人を分けながら、連中の仲間にすっぽりと坐り込みました。
「兄貴、ばかに遅かったじゃねえか」
「ウム、ここで落合う約束で、急いでやって来ると、途中で親分に会ったものだからな」
「あ、親分も、この川越へ来ているんで?」
切支丹きりしたん屋敷のお蝶のやつが、どこへ影を消していやがるのか、さッぱり当てがつかねえので、さすがの親分も気をくさらしておいでなさる。……だが、やっと今日、博労の口から妙な手懸りを聞き出したんで、これからその方角へ行くというんで別れて来たばかりだ」
 と、みんな膝を抱えながら、眼だけは義務のように舞台へ向いておりますが、密々ひそひそとささやき合っている話の方に、多分な心をつかっていることは、少し緻密ちみつな眼でこの一組を注意していれば分りましょう。
 そのうちに中の一人が、何気なくうしろを振向いた時、はッと驚いたというのは、自分達が背中を向けている垂れごもの間から、鋭い白眼が、じッと、この連中に射向けられていたことであります。
「シッ……」
 と、たれかが、あわてて稲吉の袖へ知らせをくれた時、舞台の方では、ちょうど前芸のおはやしの賑やかなサンザメキと共に、木のかしらがはいって、とたんにザラザラと御簾みすが下りました。
 中入なかいりです。
 土間の見物や中売りの声が、にわかにガヤガヤしはじめると共に、楽屋の内でも足の踏み場もないような混雑。
 ここ大入りつづきで、ほくほくものの太夫元は、この興行に見込みがあると見て、旅先から手踊りの女芸人を数名買い込んで来て、粂吉くめきちの前座に景気をつけている。
 その白粉おしろいぎたない女達が、鏡台をならべて、脱ぎ捨てた衣裳のなかに行儀わるく坐っている所へ、すしを食べ散らした錦出にしきでの大皿や、たばこ盆や、団扇うちわや、乱れ箱やらが雑然と同居していて、舞台と楽屋の間を往来する道具方の黒い足が、それをまた感傷なくズカズカと踏んづけて通ります。
 おくめあらし粂吉は、その突き当りの二畳ばかりな狭い場所に、一枚のビラ幕を下げて鏡台をひかえていましたが、そこへ一人の出方でかたが腰をかがめて、
「太夫さん、妙な子供がやって来て、熱海あたみに居たお粂さんに会いに来たんだといっていますが、お知り合いなんですか」
 もろ肌を脱いで、刷毛はけをはいていたお粂は、それを聞くとニッコリ笑って、
「来たかえ? あの山男のような子だろう」
「そうです、太夫さんから何か言伝ことづけがしてあるそうで」
「あ。ここへ、連れて来ておくんなさいな」と、お粂は肌を入れながら、一人の者が坐れるだけの余地を作って、そこに待っておりました。
 出方でかたの男は、楽屋がくや裏のむしろを上げて、
「お待ち遠さま。ちょうど中入だから、太夫さんが会うそうだ。さ、こッちへはいんねえ」
 と、外へ呼ぶと、そこに佇立たたずんでいた高麗村の次郎が、
「じゃ、おじさんは、外で待っている?」
 と、うしろの連れを振顧ふりかえりました。
 連れがあったのか? と出方の男が外を見廻すと、青い藺笠いがさかぶった人品のいい侍が、蓮池のほとりに立って、池の水馬みずすましに小石を投げております。
 オ。ここで待っている――というふうに万太郎の笠が向うでうなずいたのをみると、次郎は男に案内されて、小屋がけのなかに這入はいって行きましたが、例の、咽るような女芸人のにおいに満ちた楽屋を通るに及んで、その白粉おしろいぎたない雑然とした色彩に、目をみはるというよりも、気がおののいてしまいました。
 だが、そこを次郎にずかずかと通られた女達も鏡台から首を曲げて、皆、少なからず吃驚びっくりした様子です。武蔵野の原や高麗村の山峡におればこそ、さまで人目にも立ちませんが、何しろ次郎には一種怪童的な風貌があります上に、ここへ来てまで、例の杖とも槍ともつかない胆刺きもざしを携帯しているので、
「あら、いやだ」
 と、娘手踊りの連中が、こわそうに首をちぢめて見送ったのも無理ではありません。
「太夫さん、御案内して来ました」
 と、出方でかたの男が去ると、
「さ、おはいんなさい」
 うすら覚えのあるお粂の声が内でする。
 野槍をそこに立てかけて置いて、次郎はおずおずとビラ幕をまくり上げました。そして、女に無関心な彼の目にも迫るような濃艶な顔が、
「あら」
 と、笑いながら迎えると、
今日こんちは」
 取って付けたようにそう言ったきり、次郎はなんだか間が悪くなって、あとの言葉が出ないのでありました。
「ここは狭いけれど、わたしの世帯なんだからね、たれにも遠慮はいらないんだよ。さ、こッちへはいって、お菓子でもお食べ」
 茶をついでやったり、お重箱じゅう食物ものを出して与えたりしましたが、お粂がもてなせばもてなしてやる程、次郎はもじもじして、いつもの野趣の風がない。
 けろんとして、鏡台のまわりの紅皿や白粉おしろいつぼ、釘にかけてある三味線や赤い長襦袢ながじゅばん浅黄繻子あさぎじゅすの衣裳、または金糸の元結もとゆいをたッぷりかけた相手の人の唐人髷とうじんまげなどを、物珍しげに見廻している。
 それらの、あまり目馴れない強い色彩が、彼を脅迫するものですから、自然児しぜんじの次郎の自然児らしいところは、ビラ幕の外へ立て掛けて来た野槍と共に、すッかりどこかに置き忘れて来たていであります。

「たしか、次郎さんと言ッたね」
 お粂が見入るように目元で親しげに言うものですから、次郎はぽッと顔を赤くして、
「え。次郎って言います」
「それについて、実は、お前さんなら知っていやしまいかと思うんだけれど……、あの熱海あたみの宿で、私と一緒にいた相良金吾さがらきんごという人、お前さんも知っているだろう」
「相良さん。ウム、知っている……」
「そして狛家こまけのお嬢様、月江様とか言いましたね、あの月江さんと金吾さんが、私に内密ないしょで、熱海にいるうちだいぶ懇意にしていたようだけれど、その後何かの様子を聞かないかえ」
 お粂の粂吉が、わざわざ使いをやって、次郎を楽屋に呼んだのは、まったく、相良金吾ののその後の便りを、少しでも聞きたいばかりの手段でありました。
 ですが事実は、お粂が邪推を廻しているほど、とうの金吾と月江様とが熱海において格別な親しみを作っていたわけでもありませんので、次郎があれから後の金吾の消息を知っているはずもないのでした。
 で、彼女の目企もくろみは見事にはずれましたが、今度はかえって次郎の方から、
「あの、お粂さんは、元江戸の水門じりという所に居たことがあるかい?」
 と、思いがけない反問を出して来ました。
「よく知っているね、お前さんは」
「じゃ、日本左衛門という人とも前に知り合いだったんだね」
「どこで聞いたえ、そんな事を」
「熱海に居た時」
「だれに?」
「ううん、だれにでもないけれど」
 短い中入の時間はもう過ぎたと見えまして、その時、土間の客席や蔭の鳴物がまた騒めき出すと、男衆がそれへ飛んで来て、
「太夫さん、出番です、お支度は出来ていますか」
「あっ、もう」
「お早く願います。見物が沸いておりますから」
 お粂はあわてて衣裳を着け出すと、そこへ二、三人の女達が来て、帯を手伝うやら、はかまひもをしめてやるやら、忽ち次郎の存在は消えてしまいました。
「おじさん、お待ち遠さま」
 と、ひょッこり小屋の楽屋から飛び出して来た次郎は、そこにたたずんでいた万太郎の前に帰って来て、
「聞いて来ました。やっぱり、おじさんが言った通り、あの女は、日本左衛門をよく知っている水門尻の人でした」
 それは万太郎が、次郎をもって探らせた事と見えます。そして彼はまた、お粂こそ金吾の体を、いまだに隠している女だと信じているのでした。
「御苦労だった。けれどそういう事を聞いて、何も向うでも変に思いはしなかったか」
「いいえ、ただ、熱海で一緒に居た、金吾という人の事をいろいろくどく聞いただけです」
 偶然に、この時初めて、次郎の口からもれた金吾という名に、彼はハッと眼をみはって、
「次郎、今お前の言った金吾というのは、一体どういう人間なのか。もしや、相良金吾という者ではないか」
「そうです」
「えッ」
「相良さんというんです。月江様もおりんさんも、おいらも、みんなあの人が好きでしたよ」
「では、熱海の温泉宿ゆやどで、あのお粂と共に入湯していた折に、お前たちも同じ宿に泊り合せていたという訳か。なぜ早く話してくれなかった、その金吾には、ぜひ会わねばならない事がある」
「だって、おじさんと、相良さんと、知ってる人だとは少しも思わなかったもの」
「なるほど、それも無理はない話……。しかし、そうと分れば、なお細々こまごまとそれについて訊ねたい事がある。……と申してもここは雑鬧ざっとう、次郎、向うの人通りのない方へ参ろう」
「おじさん、何だかポツンと降って来たようですよ」
「雨どころではない、さ、わしにいて来い」
 と、万太郎がやや大股に、かけ小屋の裏から歩み出しますと、それまですぐ後ろの物蔭にかがんでいたらしい一人の男が、
「もし万太郎様、その話なら、私がくわしくお話し致しましょう」
 と、不意に手をあげて呼び止めました。

 突然、万太郎をよびとめて、彼の前へ立った男は、めずらしくも熱海以来その姿を見なかった目明しの釘勘でありました。
「おウ」と万太郎は、びッくりした目をみはって、
「そちは釘抜きの勘次郎、どうしてこんな所に参った?」
「どうしてというのは若様、あなたの事じゃございませんか」と、釘勘は笑いながら、
「――熱海から江戸に帰って、早速お目にかかりたいものと、根岸のお屋敷へ伺いましたところ、ぶらりとお出かけになったまま、幾日経ってもお帰りがないというお話」
「うム……実は、そちの帰りも心待ちにしていたが、何かにつけて、じっとしていられぬ自分の性分、つい根岸から脱け出してしまった」
「はははは、相変らずで」
「いや、そのために、ひどい苦難に出会ったぞ」
「少しはお薬でございましょう」
「薬にしては強過ぎた」
「ところで、その折、根岸の御家来衆の口から伺いますと、毎年江戸城の御本丸でお催しになる七夕たなばた夜能やのうに、ぜひとも、あの洞白どうはく仮面めんがなければ尾州家として将軍様へ申し訳が立たないことになるのだそうです」
「今年もやがて七夕能たなばたのうの時期に近いな」
「で、市ヶ谷のおかみ屋敷では、中将様を初め御当主の殿様も、たいそうお心を痛めておいでなさるそうで、御家来を通じて、ぜひそれまでに洞白の仮面めんを探して、無事御本丸の夜能に間に合うようにしてくれというお頼みなんです」
「お、それは兄や父も当惑であろう」
「ぜひ急がなければ一大事でござります」
「洞白の仮面めんには、自分にも心当りがないではないのじゃ。きっと、七夕能たなばたのうまでには兄の屋敷へ届けてやる」
「それから……次には相良様のことでございますが」
「ウム、熱海で、そちは金吾と逢って来たか」
「お目にかかってまいりました」
「で、あれは一体、どういう気持でいるのか、この万太郎には彼の心持がしかねる」
「何しろ、この往来では、落着いて話も出来ませんから、何処か静かな所へまいって、ゆっくりお話し申し上げたいと存じます」
「よかろう、では、わしの屋敷まで来るがいい。次郎、お前は帰りの途を知っているか」
 野槍を杖についた高麗村の次郎は、ふたりの先に歩き出して、
「え、分っています」
 釘勘は妙な顔をして、
「この川越にお屋敷があるということは初耳はつみみでございますが?」
「なに、当座の住居すまいじゃ」
 と、万太郎は澄ましたものです。
 次郎は露払いの格で悠々と前に立って、やがて、秋元家の家老曾根権太夫そねごんだゆうの屋敷へ先にはいりました。
「お帰りです。河豚内ふぐないさん若殿のお帰りですよ!」
 今も今とて、まかれて帰って来た権太夫と用人の伝内とが、万太郎に手を焼いて困ったものだと噂をしているところへ、
「お帰り!」
 という声がしたので、ゾッとしました。
 権太夫は、何事もお家の為じゃ、と虫を殺しているような顔で伝内と首をそろえて式台まで慇懃いんぎんに出迎えました。
「おやじ、先へ帰っていたか」
「へへっ」
「今日は御苦労だったな」
 万太郎は空とぼけながら、うしろにモジモジしている釘勘に向って、
「おい、何も遠慮はいらない、上がるがいい」
「へえ、真ッぴら御免こうむります」
 式台に手をついていた用人の河豚内ふぐないと権太夫は、見も知らない素町人すちょうにんがずかずかと上がって来たのに眉をひそめて、
「あ、万太郎様」
「なんじゃ」
「それなる町人は何者でございましょうか、御同列は畏れ多い次第。庭先へお廻しなされては如何なものでございましょう」
「これは、釘勘と言って、わしの友達だ。何か美味うまい物を見繕みつくろって、酒の支度をして来てくれ」
 と、まるで田楽茶屋でんがくぢゃや暖簾のれんでもくぐッて入るような調子で、万太郎は釘勘を連れて奥の客間へ通り、次郎はまた次郎で、きみがいてある大廊下へ、ベタベタと大きな足跡をつけて行きます。

 奥へ通った万太郎と釘勘は、そこで、夜のふけるまで種々くさぐさの話が尽きない。
 熱海の湯前ゆまえ神社で出会った時の相良金吾さがらきんごのことばが、そッくり釘勘の口から万太郎に伝えられたことも言うまでもありません。
「そうだろう」
 万太郎はすべてを善意に聞きました。そして、自分にそむいて帰らぬ彼の心情を察して、
「こうなった以上、金吾の気質としても、何か一ぶんを立てぬうちは、わしの側へ帰るまい。人に合わせる顔がないと申して、それから先、また姿を隠したあれの気持は分っている」
 むしろ彼は、金吾の行為に、憐愍れんびんと同情をもって、釘勘の便りを逐一ちくいち聞き終ったのです。
「ところで、そのかんじんな仮面めんの事になりますが――」と、釘勘はここで話頭わとうをかえて、
「妙な方角から、思いがけない手懸てがかりがつきまして、近いうちには、きっと、お手元に戻るだろうと存じます」
「いや、その仮面めんの手懸りなら、実はこの万太郎も目星をつけている所があるのじゃ」
「へえ、じゃ、あまり商売人の早耳も、自慢にはなりません」
「けれど、そちの探ッている目星と、わしの存じている事とは、違っているかも分るまい。釘勘、お前はその仮面が、今何処の誰の手にあると鑑定めききをつけているな」
「思いがけない人間です」
「ウム、それは?」
切支丹きりしたん屋敷を逃げだした二官の娘、お蝶が持ち歩いているものと存じます」
 次郎を連れて、野鍛冶のかじの家を出かけた時から、ひそかに、それと信じているところを、釘勘がずばりと言い当てたので、万太郎も驚きながら、
「お蝶がと申すか、ウム……しかし、そちはまたどうしてお蝶があれを持っていると知ったのじゃ」
「種を明かしちゃ、つまらない話ですが、実は、貴方様あなたさまをたずねて諸所を歩き廻っているうち、野鍛冶の半五郎という男をッつかまえて、その半五郎の口から、お蝶が鍛冶小屋に泊ッたことを聞き出したものです」
「えッ、おじさん、半五郎ッていうのは、あの目ッかちの半五郎ですか」
 突然、次郎がそばからこう言って、ただならぬ気色けしきを見せたので、釘勘は、
「うム、悪い奴だ」
 何気なく言ったものです。
 すると、次郎は急にベソを掻いて、悄然と首を垂れてしまいましたから、どうした訳かと聞いて見ると、その一眼の鍛冶屋の半五郎は、彼の父親で、目明しのおじさんに捕われたことを悲しみ歎くのであると分りました。
「そうかい……」と釘勘も初めて知った様子で――「あの半五郎というのは、時々江戸の近くへ出て来ては、よくねえ事をやる男だったので、何の気もなく召捕あげてしまったが、おめえが半五郎のせがれだとは知らなかった。……まあ、そう心配しねえがいい、召捕あげたと言ったところで、手近な百姓牢に預けて置いたのだから、十日もたてば、百叩きで押ッぽり出されて家へけえってるだろう」
 それで、次郎も少し安心したふうです。
 ところへ、ふすまが開いて、小侍たちが高足の膳を目八分に持ち、能がかりの足どりでソロリ、ソロリと白足袋しろたびのつま先をそろえて来る。
「やあ、やっと御馳走が参ったそうな」
 万太郎は席をひらいて、
「さ、次郎もならべ、釘勘も遠慮なく、胡坐あぐらのままで頂戴するがいい」
 見ると権太夫と河豚内は次の間に平伏して、
粗肴そこうの上に、何らのおかまいも仕りませぬが、どうぞ御充分にお過ごしのほどを……」
 と、御座ござり奉ッておりました。
「あ。おやじか、どうじゃ、ここへ来てお前も一杯つきあわんか」
おそれ入りまする。陪臣の身として直々じきじきのお流れ、冥加みょうが至極しごくに存じます」
「じれッたいやつ、早く取らんか、盃を」
「へへっ」
 と、叱られて、権太夫は怖々こわごわさかずきをうけ取って、懐紙をもってそれをぬぐい、またおそるおそる御返盃申し上げる。
「もういい」
 と、万太郎は素ッ気なく盃を取り返して、
「そちや河豚内ふぐないがここに筋張ッていると、折角の酒もうまくない。もう用はないから彼方あっちへ退がれ」
 そう言って、人を追ッ払ったかと思うと、やがてポンポンと手をたたく、お銚子のおかわりだという、もっと、あッさりしたお肴を持って来いと言う、誰か三味線のひける家来は居ないかと言う、権太夫に来て踊れと言う、河豚内ふぐないに負ぶッてかわやへ連れて行けと言う、酒をもどしそうだから金盥かなだらいを持参せいと言う、口をふけと言う、背中をさすれと仰っしゃる。
 いやもう、ふだんのシラフでさえも大概な七男坊様、酔ッたが最後の助、はしにも棒にもかかりはしません。
 かくて、やっと乱酔のまま寝所に納まった万太郎に、ヤレヤレと、河豚内はじめ家来どもは、翌朝、思わずいつもよりは寝過ごしました。
 しかるに、
 また起き抜け早々、朝ッぱらからの一騒ぎ。
 今朝になってみると、万太郎は居ない。
 また妙に眼の光る町人も、物騒な棒を持ってあるく変梃へんてこな餓鬼も、いつのまにか寝床をもぬけの殻として、風を食らッて出立してしまったふうです。

軍師の旗本


 二日ばかりの小雨つづき。
 大入りあげくの息抜きに、曲独楽きょくごまの小屋も休んでおりましたが、いよいよ最後の日を御当地お名残りと触れ出して、木戸を開けたその晩のこと、川越じゅうを、かなえのわくが如くに騒がせた椿事ちんじがもち上がりました。
 事の次第はこうであります。
 人気者の嵐粂吉あらしくめきちが、ここ暫くの演技に、いよいよ曲独楽のわざも円熟して、日ごとに見栄えがしてきた折から、その日の舞台でも、場内の見物を酔わせておりますと、突然、どこからか飛んで来た飛魚の如き短刀が一本――いや二本、三本、たしかに太夫の乳のあたりへ。
「きゃッ」
 と、演技中の粂吉が、ばッたりと、床に倒れた騒動であります。
 なんで見物がじっとしていられましょう。
「わ――ッ」
 と、場内総立ちとなって、何が何やら分らぬなかに、御簾みすが下り、八けんの灯がゆらめき、凄惨の気、一時にあたりを暗澹たるものとしました。
 かかるなかに、押しくずれ、泣きわめく場席の其処此処で、なぐり合い、取ッ組み合いの争闘が、幾組となく行われている。
「逃がすなッ」
「こいつだこいつだ。こいつが短刀を投げた手元をたしかに見た」
「それ、逃げる」
「抑えろ、ばかッ」
「あっ」
「野郎」
 いくら落着いて見ていても、だれが打ったのやら、だれが組みしかれているものやら、決して分ったものではありません。
 しかしその、ごッたすッたの間に、八方筒抜つつぬけのむしろ小屋の事とて、当然、逃げるべきものは遁れ、避難する見物は避難して、あとに残ったのは小屋者の男衆のみで、大山たいざん鳴動して鼠一匹のかたちがないでもない。
 すると、その動揺した空気が、まだ落着かないガヤガヤのなかで、
「まア、いい、見物に怪我けがさえなけりゃいいさ、大難が小難、これで済んだ、これで済んだ」
 と、大ふうな口をきいて、ろくでもない太骨の扇子を、バッス、バッスと、あおいでいる変人があったものです。
 たださえ気の荒い小屋者の気が立っているところだからたまりません。
唐変木とうへんぼくめ」
 と、だれかいうと、ポカリと一つ。
「あいたッ、何をするんで」
「べらぼうめ、なにが大難が小難だ、やいッ、何がまアいい、まアいいだよ。この野郎、生かしちゃあおけねえ」
 と、いきなり彼の河童かっぱの如き総髪をつかんで、ゆるせゆるせというやつを、げんこつの乱打でそこへ参らせてしまいました。
 まだそれでも飽き足らず、ほんとに殺してしまいそうなところへ、
「あっ、待ってくれ」
 これは前の河童かっぱに似た総髪よりも、この仲間には顔のききそうな町人が飛んで来て、
「それはおれの連れだ、待ってくれ、おれの連れだ」
 と懸命に叫んで食い止めました。
 それに一時は手を引いたものの、またお互いに怪しみの目を交わして、
「やい、おれだの連れだのって、てめえは一体見物人か、どこのだれだ? ちッともこの小屋で見かけねえ野郎じゃねえか」
「そりゃ、見かけねえはずだ、おら、旅の者だ」
「何、旅の者が、なんでこんな所に出しゃ張ってまごまごしているんだ。太夫に短刀を投げやがった野郎の片割れにちげえねえ」
「おッと、皆さん、逆上してそう勘違いされちゃ困る。おら、なるほど旅の者だが、太夫の粂吉たあまんざら縁故のねえ人間じゃあない。嘘だと思うなら、今ここへあの女が来るから、それに聞いてみるのが一番確かだろう」
「ふざけやがるな」
 と、小屋の連中はますますおこり出して、
「まだ医者の来ねえうちは分らねえが、胸元へ三本も短刀をッ通された太夫が、なんでここへ歩いて来る、いよいよ此奴こいつらは油断がならねえ」
 と、一方の弁明もガンとして受け取らず、あわや再び、曲独楽きょくごまならぬ撲り合いの乱取らんどりが始まろうとしているところへ、嘘ではありません、衣裳を捨てて軽くなったお粂が、舞台白粉ぶたいおしろいの顔のまま、髪だけをつぶしにくずして、赤い吉田団扇うちわを指にはさみながら、
「おや、何をやっているんだえ」
 笑ってそこへ立ちました。

 楽屋へ抱え込まれると同時に、死んだものと思って騒いでいた粂吉が、ひょっこり大部屋かくの娘れんをつれて出たので、
「あれ?」
 とにとられたまま、居合せた大勢の者は開いた口がふさがらない。
「どうしたんです太夫さん」
 一同が足元から顔までじろじろ見上げるのを笑いながら、
「どうもしやしないよ、この通りさ」
「へえ……よく何ともなかったもンですね、こりゃ不思議だ」
 と、さらに驚きを新たにして、ガヤガヤとお粂を取巻いているところへ、迎えを受けて飛んで来た外科医者も、それには及ばないとお断りを食う始末に、いよいよ今の一瞬の騒動が、たれの頭にも夢としか思い出されません。
 ところで、それ見やがれといわんばかりに、息を吹ッ返して起き上がったのは、大勢に袋だたきにされて、へたばッていた総髪の男で、
「アーいてえ、こいつら、血迷いしやがって、ひどい目にあわせやがった」
 すると、側に食い止めていた伝法肌でんぽうはだの町人も、一緒になって、
「どうだ、これでも何か文句があるのか」
 と、息巻きました。
 お粂は、総髪の男に向って、
「どうしたのさ、馬さん」
「どうもこうもないよ、おれを捕まえて、太夫さんへ短刀をぶつけた仲間だといやがるんだ。イヤ、飛んでもない飛ばッ散りさ」
「そりゃ気の毒だったね。まあ何しろ、今夜で無事にこの小屋も打ち上げたわけだから、お祝いに、何処かで一杯おごりましょう」
「そうでもなくッちゃ助からねえ」
「だれか、駕を頼んでおくれな。川辰かわたつまで」
 川辰とは、城下で一流の料亭です。あぶなく死人を戸板で出すところを、吉凶転じて大変な景気。
 一座こぞって川辰へ乗りこみました。
 そこへ太夫元や何やかが見舞に来る。そして来たほどの者が、すべて事の真相が反対なのに驚き呆れない者はない。
 それでもまだ川越の城下では、曲独楽きょくごまの嵐粂吉くめきちが舞台で倒れたという評判が大袈裟おおげさにひろがって、何処もかしこも、その噂ばかりを耳にするくらいだとは、駆けつけて来た一人の男の話です。
 それは二階の大広間のこと、階下したではべつに小座敷を取って、一座の者とわかれて飲んでいた最前の総髪と伝法肌が、
「なあ、伊兵衛、今夜の狂言は首尾よく当ッたな」
「あんまりうまく行き過ぎてやがる。お粂のやつも運がいいや、あれが一本、顔の真ン中にでも当ッて見ねえ」
「事だな、あははは」
「あの騒ぎが本物になるところだ」
「こうなると、やっぱり、馬春堂先生の易断えきだんも、ちょっと端倪たんげいすべからざるものだろう。おほん」
 タンゲイの語意が、伊兵衛には素直にのみこめなかったものですから、話はとぎれて、盃に手が出る。
 きおくれましたがこの二人の人間は、すなわち道中師の伊兵衛とそして馬春堂先生であります。
 九死に一生を得て、高麗こま村の御隠家様の屋敷を脱した先生と伊兵衛が、中仙道筋を歩き廻って、この川越に来合せたのは、あながち偶然なことではない。
 ところでこの二人が、お粂を種にして、一狂言書いたには、なかなか面白い機関からくりがあって、その発端と顛末てんまつはこういう訳。
 ――まだ興行の中日なかびの頃、千束の稲吉とその組の者とが見物のなかにまぎれ込んで、お粂を刺殺しさつする相談をしているところを、後ろのむしろの間からのぞいていた眼がありました。
 今思い合せると、あれが、伊兵衛か馬春堂であったものと見える。
 その翌日一本の手紙が楽屋がくやのお粂に届きました。見ると馬春堂とあるので、江戸表にいた頃から気に食わないやつ、何をいって来たかと眉をしかめて読んでみると――です。
お前を殺そうと狙ッている者が、毎日小屋へまぎれ込んでいる。日本左衛門の手下千束せんぞくの稲吉と五、六人の子分だ。わしと伊兵衛でそれとなく邪魔をしているが、お前の方でも気をつけるがいい。委細はそのうち。
頓首とんしゅ再拝さいはい
 こんな調子に書いてある。
 注告のしてが馬春堂なので、お粂も半信半疑でしたが、日本左衛門がという一点が何しろ気味わるく思われて、その日から人知れず衣裳の下にも真綿の肌着をきこみ、太夫の部屋から小屋への往復にも、充分警戒を怠らなかったのです。
 で、千束組の暗殺の手もつけ入る隙がない上に、見物を装って小屋へ紛れこんでみても、いつも伊兵衛と馬春堂がそれとなく見張っているので、とうとう千秋楽の日に、投げ短刀の放れ技で、満目環視かんしのなかでお粂を殺してみせようと計りましたが、かれに用意があったため、伊兵衛と馬春堂の書いた狂言は、今も彼等のいっている通り、あんまりうまく当り過ぎました。
「だが、ばかにしていやがる、命の恩人を下座敷に置き忘れておいて、お粂のやつはいつまで何をしているんだ」
 やがて馬春堂は、で上がった章魚たこのようになって、
「アアこれこれ、女中ども、女中ども」
 と、野暮にぽんぽん手を鳴らしました。

 粂吉くめきちをここへ呼べと、馬春堂か何かしきりと女中にクダを巻き初めたので、伊兵衛は外聞をはばかりながら、
「おい、よせよせ馬春堂」
「何がよせだ、お粂がここへ挨拶に来ねえという法はない。命の恩人じゃないか、わしやお前は」
「分ったよ、分ったよ」
「一応の礼に来ないというのは怪しからん。誰のために今夜のあぶない所が無事に助かったと思う? エ? 伊兵衛」
「おれに文句をこねたッてしようがあるめえ」
「だ、だから、粂吉をここへよこせと申しているんじゃないか。太夫もへッたくれもあるものか、馬春堂先生が用があるといって来いッ。こ、こ、独楽廻こままわしのお粂をちょッとよんで来い」
 と、先生は、しゃッくりをしながら呶鳴っております。
 二階の大一座のくずれた頃を見計らって、階下したへ抜けて来た粂吉は、持て余している女中のうしろから顔を出して、
「まあ、大変な御権式ごけんしきだね」と、笑って、
「粂吉がごあいさつにまいりましたから、馬大尽様うまだいじんさま、どうか少しお静かにお願い申しましょう」
 と、伊兵衛と馬春堂の間に坐りこみました。
 先生は大いにテレて、
「まあ、粂吉太夫、御座あらせられましたネ」
「ハイ、おん前に候」
 ――と粂吉も人を食って、
「ずいぶん久し振りだわねえ」
 と、あとのおまけに先生の背中をどやしつけました。
 それで、計らずもしゃッくりの止まった馬春堂は、けろりとした酔眼をお粂の姿に改めて、
「そうそう、今年の正月、水門じりのお前の家でつかみ合いをやって、あの率八の奴にかんの水を浴びせかけられたきり、会わなかったんだね」
 お粂もその時の事を思い出しておかしくなりました。当時、お粂とこの二人とは、何となく気まずい間がらでありましたが、日本左衛門とは縁が切れ、金吾のそばからは離れているお粂であってみれば、伊兵衛や馬春堂がこの女に敵意を持つ理由もなく、お粂もこの二人を目のかたきに憎むほどの筋もない。
 そこで。
 冗談は冗談として、過日の注告や、今夜のことを改めて礼をいうと、馬春堂はそれですっかり虫の納まったふうですが、伊兵衛には胸に一もつがあるらしく、
「なに、礼なぞには及ばねえことだが、おめえ、この先の興行を一体どうして打つつもりだい」
「この先?」
「そうよ!」と伊兵衛は大仰おおぎょうに、
「あぶねえのはこの先だ、いろいろの事情を聞けば、日本左衛門はどうしても、おめえを殺さずにはおくまいと思う」
「それを思うと、わたしゃ、いやになってしまうのさ。いつまで、執念ぶかく私を困らすつもりなのだろう」
「しかたがねえ、蛇を食ったむくいでね」
いておくれ、今じゃこの通り、旅芸人にまでなり下がって、それどころの身の上じゃないよ」
「だが、今さらなんといったところで、千束の稲吉は、日本左衛門からいいつけられたところを、やり遂げるまでつけ廻すにきまッている。この川越を打ち上げて、次へ行けばその土地へ、そこで殺せなければまた次へ」
 なるほど。
 そういわれて見ると、今夜の無事を祝ってはいられません。――お粂は伊兵衛のことばを聞くにつれて、思わず気が沈んで来ました。

 お粂の弱みを突いて、うまく話の水を向けた伊兵衛は、
「仮に日本左衛門のことがないにしても、これから先の旅先で、女ばかりで興行して歩くうちには、ずいぶん難儀が多いものだ」
 と、親切顔に、うまく話を取り結ぶところへ、馬春堂もそばからていよく相槌あいづちを打って、
「そうとも、だから大概な小屋には、やくざな浪人の用心棒が、ひとりや二人は必ず楽屋にころがっているものだ」
「どうだいお粂、実あおれ達も、例の一件で、当分江戸から足を抜いている体だ。一ツその用心棒格で、おめえの一座を見てやろうじゃないか」
「よかろう、それは是非ともそうありたいものだて」
 と、馬春堂は自分が相談をうけているようにのみこんで、
「さしずめ、馬春堂先生を軍師とし、伊兵衛を旗本として連れてあるけば、嵐粂吉の一座も天下に怖いものなしじゃないか。――なあに、場合によれば、わしが木戸へ坐り、伊兵衛がお手の物の笛ぐらいは吹くさ」
 ――などとしきりに打ちけて来るので、お粂も馴れぬ興行ではあり、かたがた日本左衛門の手先につけ狙われていると思えば、この二人まで敵に廻したくはありません。
 とやかくして、次の興行地へ旅立つ支度をしている間に、川越の景気を聞き伝えて、例のいかもの部屋の太夫元へ、粂吉一座を買いに来る地方の飛脚が頻々ひんぴんであります。
 いつのまにか、粂吉の番頭とも用心棒ともつかず部屋へころがり込んだ馬春堂と伊兵衛が、何のかのと、それらの相談にも口を出して、やっと取り極めたのが甲府で十日百七十両三という嫌に切りつめた約束。
「田舎にしちゃ思い切って気張った方だ、どうです、ここへ一つ乗り込んでは」
 と、話が極まッて、途中二、三ヵ所の宿場で打つ安い興行も引きうけ、一座はそれから甲州路を諏訪あたりから上田辺まで打ち廻って、中仙道をグルリと廻って来る方針とまる。
 そこで。
 一座は粂吉を初めとして、番頭格の馬春堂、用心棒の道中師の伊兵衛、若い娘芸人や出方でかたや男衆などの小屋者、すべて、すぐッて十七、八名、
 鷹の羽くずしの衣裳つづらを小荷駄の背中にのせて、お粂は例の手拭てぬぐいかぶりに、馬の鞍へ横乗りになり、あとの者も徒歩かちや馬や、思い思いな旅よそおいで、ふたたび川越から武蔵野の原をななめに抜けて甲州街道へこころざしました。
 わずかなうちに、武蔵野の草もめッきりとのびている。
 行くてにあたる甲州の山と相模さがみ平野の間にかけて、白い雲の峰が高いのも、にわかに夏らしく感じられて、ムッとするような草いきれの広野を、気怠けだるそうな人の足どりと馬の鈴が、同じような歩調をもって変化のない道を西へ西へと進みました。
 やがてこの一こうが、かなり武蔵野の深くへかかった時、驚目にあたいする一人の女を見かけました。
 それは。
 一番初めに馬春堂が見つけたので、
「あれ……?」
 と、一同に指さしたのが初まりで、みんな等しく足を止めて、その女に小手をかざしたものです。
 若い娘です。距離があるので、縹緻きりょうの好し悪しはわからないが、何しろ、その姿はすばらしくい。
 娘は一頭の白馬に乗って、手に、はぎの枝か何かをむちに持っている。――初めは草深いあなたから、その半身が徐々に見え出し、やがて大きな輪をえがくよう武蔵野を駆け飛ばして来たかと思うと、程なく、一同の立ち止まっている先の小川を一気に跳び越えて、遙かあなたに、その黒髪を思うさま風に吹かせながら、次第に姿を小さくして行く。
「――なんてえお転婆てんばな娘だろう」
 と、さすが、ばくれん女のそろっている小屋者の女も男も、あきれ顔に見送って、しばしの汗ばみを忘れています。
 それから、またボツボツと馬の鈴と人の足が前へ進み出してから、お粂はたれに話すともなく、
「あれはね、たしか高麗村の狛家こまけとかいううちの娘にちがいないよ。――ああいつか楽屋へやって来たろう、あの次郎という子供の主人さ」
 そういって、あとは無口になりました。
 馬の背にあるお粂の心には、いつか月江と金吾のことが胸苦しく考えられているふうです。

小仏こぼとけ越え


 拝島はいじまの丘のすそに、旗本でも住みそうな、古めかしい一かまえの屋敷がある。
 野心家でそして野人的な、郷士ごうし関久米之丞せきくめのじょう住居すまいがそれです。――そこは武蔵野の西端で立川の流れを越えれば八王子の宿に遠くありません。
「久米之丞殿。……お留守ですか。久米之丞殿」
 門の跡はあるが門の扉はない。へいの面影はあるが塀のさかいは雑草でまっています。その関の屋敷のなかへ、今こういいながら玄関をのぞいて裏へ廻ったひとりの男がある。
 元より門番とか用人とかいう使用人も家族もない屋敷なので、男はずかずかと裏庭へ廻って行って、
「お留守でござるか、久米之丞殿、関殿」
 と、繰返くりかえしてキョロキョロしている。
 ――と、やっとその声を聞きつけたらしく、久米之丞の姿が庭の奥で、
「やあ」
 と、いいながらくわを持ってのび上がりました。
「やあ」
 と、こっちも同じ言葉を返して、
「そんな所においでになったのか、何をしておられるので?」
 と遠慮なく寄って行く様子です。
 男は狛家こまけに仕える高麗村郷士こまむらごうしのひとりで、三日にあげず、御隠家様の御機嫌取りと、月江の顔を見に通うのを怠らない久米之丞とは、元よりへだてのない懇意であります。
「おや、これはめずらしい」
 高麗村郷士の男は、そこへ近づいてゆくと彼の手にある鍬と彼の顔とを見くらべて、
「あなたが庭木いじりをなさるなんて、かつて見たこともないのに、一体、どういう加減で土いじりなぞをお初めなさるか」
「ばかにしてはいかんよ――」と久米之丞は、あの物慾満々な大きな鼻を笑い広げて、
「拙者だって、そう没風流ぼつふうりゅうじゃないつもりだが」
「そうですな、そういえばこのお住居なぞは、実に風流きわまるものでござる。しかし、鍬を持って土を返している久米之丞殿の姿を拝んだのは、何せ今日初めてなので、ちょッとばかり異様に感じた次第でござる……。で、何をお植えなさるので?」
「草花の土床とこを作ろうと思ってな」
「へえ、草花の土床を?」
「そういちいち驚く顔をいたすなよ」
「いや何、まことに、しおらしいお慰みと存じます。ですが、草花の種子たねをおろすのは、たいがい春か秋の彼岸をよしと伺っていますが」
「そうかな」
「そうかなは心細い。それで何をおきになるつもりですか」
「異国の草花、鶏血草けいけつそう種子たねをまいて、一つ、この秋頃に咲かしてみたいと思っているのだ」
「なるほど、異国の草では、種子の季節もよく分りますまい」
「まず、一、二度は、どうせしくじるものと覚悟している」
「鶏血草とは珍しい名前ですな、して、そんな、種子をどういう所からお手に入れなすッたので」
「うるさいなあ」
 と、久米之丞は鍬を置いて、
「こっちの詮議立せんぎだてばかりしておって、一体、今日は何しに参ったのだ」
「オオ」
 と、郷士の男は頭をかいて、
「失礼失礼、すッかりいうのを忘れました。実は、突然ここへ急いでまいったのは、かねて御隠家様のおいいつけで、見つけ次第に持って来いと命じられている、例の仮面めんの話で、伺いました次第で」
「なあんだ、夜光の短刀の方じゃないのか」
「はい、その方は、とても一朝一夕には」
「そうだ、そうたやすく端緒たんしょのつくはずがないわけだ。――ところで、あの仮面めんがどうかしたかな」
「今日、何気なく、八王子の宿まで参りましたせつ、意外なことを耳にしたので、何より久米之丞殿に、早速お知らせした方がよかろうと考えて伺いました」
「ウム、次郎のくした、あの仮面めんが見つかったのか」
「――と申す次第でもございませんが」
「くどいな話が。……分りよく手短にいってくれ」
「ある女が、それを持って、八王子の千人町へあらわれたのでござる」
「さては、鍛冶小屋に泊まったあの女が……」
 といいながら久米之丞は、ブーンと来た熊ン蜂に顔をしかめて、手裏剣をかわすように顔を横にしました。

 その郷士の話に依りますと。
 鬼女の仮面めんをたずさえて、八王子の千人町に姿を見せた怪しげな娘は、同所の田能平たのへいという質屋にはいッて出る時には、はいッた時と身装みなりがまるで変って出て来たというのであります。
 近ごろ、関久米之丞は千蛾せんが老人との約束から、夜光の短刀のことについて、その詮議せんぎや考証に他念のない折からでありますが、それと聞いては捨て置くわけにも行きません。
「よろしい、早速行って調べて見よう」
 奥へはいって行ったかと思うと、やがて、裾べりの着いた野袴のばかまに、海老巻えびまき朱鞘しゅざやをぼっ込みながら戻って来て、
「千人町の田能平たのへいだな」
「あの町通りに、土蔵造りでただ一軒の質屋でございますから、すぐに分るはずで」
「そうか」
 と藁草履わらぞうりを突ッかけて、
「暑そうだな、今日は」と、雲の峰を仰ぎながらいう。
 縁の隅にあった笠を頬にしばりつけて、
「じゃ、御隠家の千蛾せんが様には、その次第を話して、久米之丞が参りましたからには十中八、九取り返してまいりますとお答え申しておいてくれ」
「承知しました」
 そして、水口の前を通る時、
ばあや、今夜は帰れぬかも知れない。いや、都合によると、四、五日はどうか分らんからそのつもりでな」
 と薄暗い勝手のなかへ呶鳴る。
 蛞蝓なめくじのように流し元で働いていた婆やが、ちょっと顔を出しました。久米之丞はそういったきり、肩をそびやかしてなしの門をサッサと出て行く。
「あら!」
 その出会いがしらです。
 銀毛の馬からヒラリと降りて、その門柱へ手綱をつないでいた下げ髪の娘が、明るい声で彼の前に立ちました。
「やあ、月江様で」
「久米之丞」
「は」
「何処かへ出かけるところと見えるのね。じゃ、また来ましょう」
「暫く、暫く」
 と、久米之丞はあわてて、
「出かけると申したところで、さして、急ぐ程の事でもござらん。ま、ま、どうぞ暫く御休息を」
「いいえ、私もべつに、用があって来たわけでもないのだから」
 と月江は、ふさふさした黒髪を指ですいて、毛の根に沁みる涼風に眼を細めています。
 久米之丞は、ふと、その眼元にウットリと気をられていましたが、八王子への急用は忘れたように、
「まあよろしいではございませぬか、この見苦しい茅屋ぼうおくへ、お嬢様からお運び下さるなんて、光栄とも冥加みょうが至極しごくとも、いいようのないうれしさでござる」
「そうかい」
 と、月江の方には、さっぱり感激がなく、
「どうしたのだろう……私も、ほんとに困ってしまった」
「何がそんなにお困りでござるか。それ程のおなやみを、この久米之丞にお話がないなんて、お恨みに存じます」
「じゃ、お前も探してくれればいいのに」
「でも何事か分りませんもの」
「しらばッくれて、だから、お前は嫌いです」
 と、手きびしく悪たれをいって、ツンと横を向きました。
「……ははあ、分りました。次郎のことでございますな。次郎をお探し遊ばしているので。それは内々、手前も心配いたしているところですよ。え、お嬢様」
「嘘をおいい! お前は次郎なんか死んでも帰らなくってもいいものだと思っているのにちがいない」
「毛頭そんな考えではござらん。その証拠には、オオ、今も今とて、これから八王子まで参ろうとしているではございませぬか」
 月江は少し機嫌を直して、
「え、次郎が八王子に居たッてかえ?」
「いいえ、そうじゃございませぬが、その、仮面めんを持って失せた怪しい女が千人町の質屋の店に見えましたそうな」
 ――なんだ、つまらない! という風に、月江は塀際へいぎわの木の葉を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしって、
「それがどうしたのさ……」
「物には順序がござりましょう、まず、次郎の失態しったいはあの仮面めんで、仮面が返らぬうちは、おそらく御隠家様も、彼の勘当をお許しにはなりますまいし、次郎もおめおめ姿を見せますまい」
 月江は、不意に、元の馬の鞍へ飛び乗って、
「久米之丞や、私も、一緒にそこへ行って見ましょう」
 突然なので、彼もあわてながら、
「え、八王子へ」
「次郎の為になることだもの、不親切なお前にまかせておいては心許こころもとない」
「ひどいことを仰っしゃる!」
「案内をしておくれ!」
 ピシッと萩の鞭が鵈る。
 と、同時に、黒髪と両の袖が風に浮いてうしろへなびく。
 驚いたのは久米之丞です。案内をしろといっても、一方は逸足の駒、こっちは徒歩かち
「月江様! 月江様! もしお嬢様」
 手を振りながら馬上の人を追って、汗みどろに炎天の立川の河原まで引きずられて行くのでした。

 灯ともし頃の八王子の町を、下げ髪の美女が銀毛の駒に乗り、その供として野袴のばかまの屈強な侍が付いて歩く奇観に、往来の目が振顧ふりかえります。
 しかもその駒が、千人町の田野平たのへいという、質屋の門口についたから人目をひく。
 まさか妙齢の処女おとめが、馬に乗ってしち入れにも来まいに、一体なんだろうと立ち止まる者を残して、乗りすてた駒を塗籠ぬりごめさくつなぎ、美女と侍は暖簾口のれんぐちから戸のなかに消え込みました。
「これ、召使いども、当家の亭主が居たらこれへ出してくれ、拙者は拝島はいじまの関久米之丞と申すものだ」
 こんな所へ来てまでも、野侍を剥出むきだしに物をいう久米之丞の身ごなしが、一緒に来た月江には、ひどく不快に感じられます。
 で、黙ってそばに腰掛けていますと、
「番頭、これ、亭主は居るのか居ないのか」
 と、久米之丞はいよいよ月江の嫌いなす声で、
「少々取りただしたい儀があって、わざわざ狛家こまけのお嬢様同道でまいったのじゃ」
「只今。……ええ只今主人に申し告げておりますから、少々これにて」
 何の用事かと驚いているらしい手代や小僧が、しきりに敷物をすすめ煙草たばこ盆を出し、二人の姿をじろじろと帳場の隅から眺めている。
 まもなく、それへ来た田能平の主人。
 質物しちもつを持って来る客出入りに都合がわるいと考えましたから、上へあげて、久米之丞が話し出す用件を神妙に聞き終りました。
 すぐうなずけた様子で。
「なるほど、仰っしゃるとおり、ちょうど今日の午頃ひるごろ、そういう女の方が見えました。……左様で、年は十八か九、鼻の高い、眼の鈴のように張った、どうしてなかなかい女でございました」
「して、当家へ参った用向きは?」
「やはり、その質物の御用でございました。……古渡こわたりの珊瑚さんごの珠、帯止めや何かの金銀もの、それに着ているお召物など、身のまわりの物そッくりお預かりいたしまして、その代りに、手前どもの流れ物で、お間に合いになる柄合がらあいのお召衣めしや帯をさし上げました次第で、はい」
「ふーむ、妙な事をして行ったな」
「それがその……嘘か真実まことか存じませんが、道中で路銀を失くしたので困るから、身のまわりの物を払って、差引きの代金が欲しいというお話。――で、おぐしのものや何やかや細工類さいくるいに金目なものがございましたので、剰余あまり金じゅうりょうしゅほどお渡しいたしました」
 久米之丞は心のうちで、もうてッきり鍛冶かじ小屋に泊った女と見極みきわめをつけて、なお膝をすすめながら、
「して亭主。その節、衣類などのほかに、何かまた別な品物を質入れいたしはせぬか、その女が」
「と申しますと? ……どんな品物でございますな」
「されば、ここにおられるお嬢様のお屋敷から、ゆえあって人に持ち出された、出目洞白でめどうはくの鬼女の仮面めんだ」
「仮面?」
 と、亭主はびッくりした顔をして、
「そういうお品物は、お預かりも致しておりませんし、その節お召しえなさいました時も、お持ちになっているようには見えませんでしたが」
「そんなはずはない」と、久米之丞は頑張って――「確かにその女が所持していたに違いないが」
「はて、ではたれか店の衆のうちで、それを見た者はありませんか」
 と手代に聞いていると、ひとりの丁稚でっちが、
「旦那さん、いってもかまわないんですか」
「いいとも。わしが正直にお答え申しているのに、何をかくし立てする事があるものか」
「じゃ、いいますけれど、その鬼女の仮面めんみたいな[#「仮面みたいな」は底本では「仮面みないな」]物を、あの女の人がかくして持っていましたよ。私も、変だなと思っていたんです」
「ほんとか」
「嘘なンかいやしません。着物をえる時に、たもとから袂へ入れるのを、ちゃんと、見ていたんですから」
「それだ! まぎれもない洞白どうはく仮面めん
 と、久米之丞がかたわらの月江を見ますと、このかんじんな話をよそに聞いて、彼女はあらぬ方へ向いています。
 ――というのは、最前から、店先へのッそりとはいっていた編笠の侍が、笠のまま、ふところから一個の印籠いんろうを出して、
「おい、これで二ほど貸してくれ」
 と、手代の前へポンと抛り出したので、その編笠あみがさと印籠とを、物めずらしげに見較べたのでありましょう。

 刀のこじりを突いて、久米之丞はもう立ち腰になりながら、
「ところで、亭主」
「はい」
「もう一つ聞き置くが、その怪しげな女は、当家で身装みなりえてから、何処へ行くといっていたであろうか」
 ――店先では、編笠の浪人が、ほうり出した印籠に質のをつけさせて、番頭を相手に何やら押し問答をしているふうでありました。
 田能平たのへいあるじは小首をかしげておりましたが、やがて思い出したように、
「そういえば、店を出る時、小仏こぼとけ越えの道程みちのりを聞いておりました。女の足では難儀でしょうか――などと申しまして」
「ふーム、では甲州路へ向ったな」
「左様かも知れませぬ」
 小仏峠へ?
 ――久米之丞が、じッと思案顔をしていると、店先に腰掛けていた浪人の眼も、編笠あみがさのうちで異様な光り方をして、聞かぬ振りをしながら耳を澄ましているかに見えました。
「いや、邪魔をしたな」
 と、久米之丞が突然に立ったので、月江も一緒に敷物をすべって、
「うるさい事をたずねて、気の毒をいたしました」
「いえ、どうつかまつりまして。これ、おはき物がそろえてあるか」
 と、主は店先まで送って出る。
 そこの上がりがまちに腰をすえていた浪人が、少し体を避けたので、
「ごめん遊ばせ」
 と、月江は女らしく会釈をして、久米之丞と共に質屋の外へ出ましたが、二人がそこを出るとまもなく、浪人は、言い張っていた印籠を番頭の言い値にまけて、なにがしかの金を受け取ると、つづいて、田能平の暖簾のれんを出ました。
 町は宵の
 もう土蔵のさくにつないであった、月江の白駒は乗りと共にその姿が見えません。
 ――と向うの葉柳の蔭に佇立たたずんでいた年配の武家が、質屋の門を出て来た浪人を待ち設けていて、
(ここだ、ここだ)
 というふうに手招ぎをする。
 黙って、向う側へ寄って行った編笠と、待っていた丸縁まるべりの笠と、やがて肩をならべながら千人町の宵を歩き出しましたが、そのあとにいて二人の会話を聞いてみますと、
「――そうか、じゃあ今そこを出た二人は、あれから高麗こま村へ戻らずに、すぐ女のあとを追いかけて行ったんだな」
「そうらしいよ、小仏こぼとけへ向ったから」
「だが、夜半よなかにかけて、山越えもしやしめえ」
「今夜のうちに、麓の立場たてばまではかを取っておくつもりではないか」
「なるほど」
「ところで、こッちの方寸は」
「この質屋で姿を更えて行った女が、切支丹屋敷のお蝶ということが分った以上、何もあわてることはない」
「ウム、いわば袋の鼠だからな」
っくりと、高麗村の者にいて行って、あの二人の素人しろうと仕事の手際を眺めていようじゃねえか」
「じゃ、こッちはその上の手段とするか」
「そうよ」
 と、一方の編笠は星を仰いで、
「小仏越えの道はなげえ……」
 と、つぶやく如くいいました。
 無論、これなん日本左衛門と先生せんじょう金右衛門の二人。
 川越の宿や扇町屋あたりの噂から、わずかな手がかりを得て、ここに、ようやく迷路の人――切支丹尾敷のお蝶の行く姿をみとめ、今は心にも多少、余裕があるふうです。

 日本左衛門はお蝶の生命いのちをとるべく、また、久米之丞くめのじょうと月江とは、お蝶の手から鬼女の仮面めんを取り返すべく、ちょうど同じ小仏の麓、小仏の立場たてばに宿を求めた晩――。
 時刻にすればそれとは行きちがいに、夜半よなかに向うその頃を、男も怖れをなす小仏越えに、ただ一人、足を向けてゆく不思議な女性にょしょうがありました。
 ここは、旅をするほどの者がたれも知るとおり、甲州街道の咽喉のどで、相州そうしゅう津久井県つくいけん武蔵むさしの国の分水嶺でもあります。――小仏の名の起こるいわれは、俗説によるといただきにある小さな石地蔵によるともいい、あるいは峰の大日堂にもとづくとも伝説されている。
 峠のけわしさ、幾曲りの道の気味わるさは、申すまでもありません。昼でさえ、巡礼の親子が殺されたの、侍が裸体はだかになって降りて来たの、女の悲鳴を木魂こだまに聞いたのという嫌な噂が、昔から小仏の山の名と何かの因縁を結んでいるように、この往来に絶えたことがない。
 かかる山ですから好んで夜旅を試みる者もなく、ふもとより早く暮れ、星を見れば駒木根川へ落つる水の音と、高尾にむという閑古鳥かんこどりの鳴く声のほか、絶えて往来を見ないのが常です。
 だのに――殊さらに宵も過ぎた時刻を計らって、この小仏へさしかかって来た女の心事こそ怪しむべき限りです。
 しかも、とぼとぼと小仏へ向ってゆく姿を、星明りによく見ますと、蜀江しょっこう模様の帯を高くしめ、振りのたもとを永く曳いて、紅緒べにお草履ぞうりもそのもすそにかくれていようという――まことに山越えの旅にはふさわぬ身支度で、顔さえも、口紅べに白粉おしろいの薄化粧をほどこしているさま、敢て魔神ののろいを身にうけんとして来た化粧としか思われません。
 それは、切支丹屋敷のお蝶でした。
 十九の春まで、ころびばてれんの娘として、茗荷谷みょうがだにの異人屋敷に縛りつけられていたのを、その宿命の牢獄を破って、見も知らぬ広い世間のやみへ、あてどなく彷徨さまよい出した混血児のお蝶であります。
「水……」
 喉がかわきました。
 氷のような冷めたい風に吹かれながら、五体は熱く、ねっとりと汗ばんでいる。――で、どこかに流れる水音を聞いて、お蝶は急に焼きつくような渇きをおぼえました。
「ああ……冷めたい……」
 岩根の流れをすくって、お蝶は初めて山の肌と同じ寒さをおぼえたように、ぶるッと、身をふるわしたようでした。
 でも、まだ後ろを振顧ふりかえれば、八王子、小仏村、小原、駒木根あたりの灯は近く見えて、越えようとするこれから先の山容は、岸々がんがんとした難所切所せっしょを目の前に見せている。
「とても、今夜のうちには越えられそうもない」
 お蝶も今はそう思うのでした。
 また、そうしてまで、道を急がなければならない理由も彼女にはありません。
 では、何で、ふつうの旅人も大事をとる山越えに、夜を選んで来たかというと、それはむしろお蝶には安心な方法で、彼女の旅は、昼よりも夜こそ易々やすやすとできるからです。
 人は夜を怖れますが、お蝶は昼が怖ろしい。立場たてばに着けば必ず役人の眼が光っているし、山にかかれば妙な男が話しかける。駕をすすめる駕かき、馬をいる馬方、それらの道中人足の荒ッぽいことばも、みな自分がころびばてれんの娘と知って脅迫するように思われ、ただ振顧ふりかえる往来の人の目も、自分を混血児と知って指さすように気がちぢまる。
 それよりも、むしろ夜の旅こそ、お蝶にとっては気楽でした。また生来十二、三の少女の頃から、お蝶は、人のように夜を気味わるがらないたちでもありました。あくまで、お蝶はやみに生きる美しい毒蛾どくがのような生まれ性なのかも知れない。
 とにかく、お蝶はそうして、甲府へ行こうとしています。
「甲府へゆけば、小さい時、私に乳を飲ませてくれた乳母ばあやが居る」
 そんな、おぼろげな目あてです。しかし、彼女の本心をのぞいて見ると、その乳母をしたって行く目的よりも、江戸を離れよう、江戸から遠くへ身をかくそう――そうしたものに、追われる気持に、追われて歩いているのです。
 ――やがて、少し道が胸突きになる。
 お蝶の歩く星の下はいよいよ暗く、いよいよけわしく、岩と熊笹くまざさとにせばめられて来ます。――すると、
「オオ――イ、オウ――イ」
 遙か下から、木魂こだまに返って呼ぶ声がしてきました。
 彼女は、ふと足を止めて、
「……私を呼ぶのかしら?」
 騒ぎもせず、そういって後ろの谷をのぞきましたが、その時見ると、薄化粧のお蝶の顔は、いつか、金瞳きんどう青眉のおそろしい般若はんにゃそうに取り変っていました。

 お蝶は暫く立ちすくみました。
 しかし、耳のせいか、べつな者を呼ぶのであったか、程なくその声もかき消えて、足元のやみに遠い渓流の音を知るのみであります。
 で――彼女はまた小仏の上へ向って、そのまま歩き出しました。形相ぎょうそう恐ろしき般若を顔にりたままで。
 肉眼に見えぬ夜の空も、絶えず動いているものとみえまして、麓あたりでは漆壺うるしつぼのようだったのが、いつか、月こそないが冴え渡って、一粒一粒に星の光がけんを競っているようです。
 何となく、お蝶は胸に思いました。
「ああ、今年の七夕たなばたも、もう近い」――と。
 去年の星祭りには、七夕の歌を書いて、あの切支丹きりしたん屋敷のなかの住居すまいに立てた。亡父ちちの二官は、日本のああいう風俗や行事を、欠かすことなく真似ていた。――それも夜光の短刀を求める目的のために、飽くまで、幕府に帰順を見せる配慮ではあったろうが。
 その父も、今は天国とやらに帰ってしまった。――あるいは、その妄執もうしゅうが妖星となって、こうして迷い歩いている、私にいて廻っているかも知れない。
「おとうさん、堪忍して下さい」
 空を仰いだ般若は胸でびている。
「ゆるして下さい、お父さん。――とてもお蝶には、あなたが最期の時に仰っしゃった、夜光の短刀なんて、探し出す力はございません。……オオ怖い星の目! お父さん、あなたは私を睨みますか」
 小仏の夜路もこわいとは思わないお蝶が、なぜか、ぶるぶると足をふるわせて、
「睨まないで下さい、お父さん。……だって私は混血児あいのこですもの、ころびばてれんの娘ですもの! 十九の年まで広い世の中を知らずに来た女ですもの! ……どうして夜光の短刀を探し得ましょう。無理です、無理というものです。――それなら、なぜ死なぬかと仰っしゃいますか。早く亡父ちちの所へ来いとお呼びなさいますか。……ああ、私にはそれも出来ません……。お蝶は死ぬのも嫌なんです。どんな思いをしても生きられるだけ生きつづけたい」
 夜は一足ごとに深まります。
 聞く人もないと思うもの故、遂には、思わず、独りごとの声に出て、歩みつ仰ぎつ、髪そよがせた般若はんにゃがヨヨと泣くのでありました。口をいた般若が四方の暗に訴えるのでありました。
 しかし。
 たれが彼女の泣き声に答えましょう。たれが彼女の訴えに正しい裁きを聞かせましょう。
 風と足。
 天地はそれあるばかりです。
 般若はんにゃ悄然しょうぜんとうなだれました。世に生きとし生ける者のなかに、孤寂こじゃく! 真実の独りぼッちである、お蝶というあわれな混血児あいのこの姿を、吾と姿とのけじめを忘れて、暫く見つめているふうです。
 シュクッ、シュクッ……と般若が泣く。
 仮面めんの裏は濡れています。それでもお蝶は、脱ごうとしません。
 この仮の顔は、彼女が武蔵野の草深い所から、夜旅をつづけて来た唯一の護りでありました。昼は宿に寝、夜ばかり歩く若い女の身を、無事に護ってくれたのはこの鬼女の仮面めんです。
 野路、山路、あるいは真っ暗な松並木で、※(二の字点、1-2-22)たまたま悪い男に出会っても、この仮面めんをつけて、道のまン中を静かに歩いていれば、向うで悲鳴をあげて逃げても、指をさす憂いがまったくありません。
 ――その後、女影おなかげの原に通り魔が出るという噂が立ったのを聞いて、彼女は、いよいよこの化身けしんの効果を信じておりました。
 さて。
 そうしてお蝶が峠の二合目あたりを辿って行くうち、信玄沢しんげんざわという低地を、近廻りして、何者でしょうか、ざわざわとかき分けて来る者がある。
 影をかぞえると、三人か、四人。

 それは、宵に若い女の夜立ちを見つけて、幸運の抬い物でもしたように、ふもとからけて来た立場たてば人足とおぼしく、
「ほい、またわかれ路だ」
「どッちへ行きやがったろうか」
「女の足だ、先は裏道うらの嶮しいところとも知らずに、その平地ひらちな方へ向ったにちがいねえ」
 などと、えたる狼のように、女肉のにおいをぎ慕って、御苦労にも、この山中へ後を追って来たものです。
 ですが、彼等にしてみれば、この小仏の日ごとに往復している帳場なので、難路も一こう難路ではありますまい。殊に、麓でチラと見かけた、あのくらいの縹緻きりょうい玉というものが、そうザラにこの辺で拝めたものではありませんから、それを知って、指をくわえて過ごしては、立場たてば稼ぎの冥利みょうりにつきる。
 お蝶は、最前下の方でオ――イという声を確かに耳にしましたが、まさか、そんな女肉の猟人かりゅうどが、くッ付いて来るとも思わず、幾曲りの道のつづくにまかせて歩みつづけているのでした。
 しかし、いつまた、忽然と物騒な男に会わない限りもないので、例の般若はんにゃは顔から離しません。金色こんじきに光る般若のひとみは、あらゆる魑魅魍魎ちみもうりょうをにらみすえて、青い星光と冷ややかな風とのなかを、静かに、道を拾って行きます。
「あ、ここが小仏の石地蔵かしら? ……」
 ふと見ますに、そこに一の堂がある。
 けれど、峰の地蔵にしては、ここはまだ、四、五丁の胸突きを越えたばかりの小平地で、小仏岩までの峠道二十六丁、中の茶屋までの十二丁も前に残っておりますから、あんずるにその堂みたいなものは、昔、武田衆が武相乱入の折に人馬千魂のとむらいをしたという経塚きょうづか名残なごりであるかも知れません。
 そこへ、お蝶は足を止めました。
 実はもう足もかなり疲れたので、この経塚に夜を明かし、また明日あすの夜を待ちたいのですが、こんな所では昼の眠りも食べ物も求められないし……。
 まあ少し休んで、夜の白む頃までに、甘酒茶屋のある所まで行き着こう。あすこには、気のい老夫婦がんでいるということ。そこならば、充分、明日あすの昼は休むことができる。
「それにしても、その甘酒茶屋まで、もう何丁あるのかしら……?」
 堂の縁に腰を下して、上の方を振仰ぎました時、何かパラパラと彼女の顔に音がしました。――仮面めんを打った松のしずくです。
 仮面めんはとにかく、髪のぬれるのを気づかって、お蝶はふとそこに落ちてあった、幕のような、白いぬのを頭からすッぽりとかぶりました。
 被ってみると、それは、堂の扉代とびらがわりに村人が作ったものでしょう、千魂塚せんこんづかと書いてある白麻のとばり
 千魂塚――
 墨黒く、筆太くそう書いてある。三ツの大字が、あざやかな模様の如く、般若はんにゃの頭から肩にかけてタラリと被さりました。
 すると――その時、何処かでガサゴソと木を分けて来る人の跫音あしおとがする。般若はキッと耳を澄まして、明らかにそれを、
 三、四人の人声と知った様子です。
「誰だろう?」
 お蝶の神経はげて来ました。そして、先刻さっきの、沢からオ――イと呼んだ声が、ふたたび耳によみがえってくる。
 とこうするまに、いよいよ荒くれな男どもの声が、すぐその辺まで近寄って来たので、彼女は腹をすえて、白麻のぬのを被ったまま、パラパラ、身に降る松のしずくを浴びて、じッとそのままうつ向き込んでしまいました。

「おう、居たぜ」
 と、うしろの仲間を誘いながら、のッそりと、そこに立ったのは最前の立場人足たてばにんそく
 胸毛をザラザラさせた大の男が三人、いやしげな笑みを交わしながら、堂のひさしの下に、一個の春日人形かすがにんぎょうを腰かけさせたような、お蝶の姿を見とれていましたが、
「おい、娘さん――」
 そのうちに中の一人が猫なで声で、
「さっきからおれ達が、あんなに呼んでいるのに、聞こえなかったかい?」
 と、三方から、薄気味わるく寄って来ました。
 ――お蝶は頭から白麻のぬの被衣かつぎにしたまま、何を問われても、返辞をせず、顔を上げず、手出しをされれば最後のこと、それまではどうする気か、じっとしていて見ようと決心していました。
 で――餌食えじきと見たら、一つかみの勢いだった好色のおおかみどもも、お蝶が顔もあげないで落着き澄ましているさまに、何となく側へ寄りかねて、遠巻きの恰好かっこうに腰をかがめ、
「ハハア、娘さん、様子を見るにおめえは、ただの町人の御息女じゃありませんね。道理で、女ながらもきもッ玉のすわっているはずだ。――が、それにしても、この真夜半まよなかの小仏を、何処へゆくつもりか知らねえが、女一人で越えるなんて、無茶にも程があろうじゃねえか」
 と、甲のおおかみが申しますと、乙のけだものが、
「それにゃあまた、やむにやまれない、深い事情があるんだろうさ。どうせおめえ、ただの身の上でねえ事は分っていら」
「なるほど、さもなければ、こんな峠を、若い女が夜歩きする訳もねえはずだな」
「エエおい。可哀そうじゃねえか、この先、何処へ行くのか知らねえが、事情を聞いておれ達が、このの相談に乗ってやろうじゃねえか」
「そうだとも、こんな姿をして、五街道のうちで一番物騒だというこの甲州路を歩いてみや、はえだの、ひるだのッて、ろくなものは付きやしねえ。……もしお嬢さん、悪いことはいわないから、この下のさわまでおいでなさい、そこまで行くと、こちとらの中継ぎ小屋があるから、そこで今夜は足を休めて、ゆっくりと先の相談をして上げよう。エエ、何とかいいねえな、何とか……」
 と、丙の男がそろそろとお蝶の体へ近寄って、膝の上の白い手へさわりましたが、彼女の手は、いばらの如くとげを立って男のそれを振り退けます。
「オヤ」
 と、そこで狼連は予定のごとく腕をまくりあげて、
「この阿女あまめ。人が甘い口をきいてやればツケ上がって、おつに澄まし込んでいやがるな」
「おれ達は、この小仏を帳場にしている悪玉ぞろいの人足だ、それに見込みをつけられた以上、どう騒いだところで追ッつかねえんだから、月並つきなみ金切かなきり声をあげねえで往生しちまえッ」
 ひとりが突然、お蝶のえりがみへつかまると、ひとりは素早くもろ足を取って、彼女の体を浮かそうとする。
 ――最後が来ました。こういう男どもの強迫に出会うと、勃然ぼつぜんと、不敵な度胸をもつ彼女ではありますが、悪玉達の月並な科白せりふどおり、ここは小仏の山中です、悲鳴も及ばず助けも届かず、わずかに、帯の間に秘めている九寸足らずの刃物はもの一ツで、この三びきの狼をどうしましょう?
 元より、貪慾好色なあぶれ者は、思いがけなく小仏のやみにまぎれ込んだ妖花の一輪を、存分になぐさみ揉みにじッて、甲府か猿橋えんきょうあたりのくるわにでも売り飛ばそうという腹にちがいない。
 彼女の身に危機は迫ッているのです。悪玉の毒気と爪は、すでに、手足にかかっています。
 アレ――ッ!
 当然、そういう悲鳴のあるべき場合を、お蝶は静かに左右の太い腕をもぎ離して、
「あら、何をするの、くすぐッたい!」
 えんの隅に身を退くなり、らんとしたひとみを伏せた般若はんにゃの顔――その仮面めんの裏が、クスクス笑いました。

 口程にもない悪玉三人、何に胆をつぶしたか、道もえらまず千魂塚こんづかから裏谷の沢へと、岩ころが落ちて来るように逃げ出して来ました。
 信玄沢しんげんざわすその河原に、自然木で組んだ形ばかりの山小屋がある。
 誰がつけたかこの山では、その建物を下頭げとう小屋と称しています。――昔この街道に隠徳のある乞食があって、往来の旅人に下頭げとうして得た生涯のかせぎ銭をつみ、その死する時に、この小仏に旅人の安息場となる共同小屋を建ててくれと遺言して死んだその遺物かたみだそうであります。
 で――今ではその下頭小屋が、乞食の願望どおり小仏唯一の燈火ともしびとなって、夜は迷える人を容れ、昼は土地の者や旅人の湯飲み場となり、にわかの嵐の場合、行き暮れた霧の深い夕方など、幾多の人を救っているかわかりません。
 下頭の光また偉大なるかなです。
 けれど善根のものもこの娑婆しゃばでは、どこまでいい事にばかりは使われません。時には、その下頭小屋に、胡麻ごまはえが手枕で宿をかり、悪玉どもがよからぬ相談の車座でめることも、まことにやむを得ないわけです。
 こんもりした沢の低地に、その下頭小屋の灯がもれて見える。果たして、今夜のお客様は、それらのうちの何の種類か?
「おや、誰か来たぜ」
 と、べりで何かグタグタと煮ていた男が耳を立てました。
 見ると、そこに泊まっているのは雑多です。グッタリと荒壁にもたれて何か考えている旅の男、片隅に首を寄せて、銭の音をさせているこの峠の荷持や馬子、ふもとから使いに来て足を留めた旅籠はたごの若者など……その他は、等、等、等として置いて足りる十三、四人。
「おお、駆けて来る」
 その多種多様な首がヒョイと上がった時と、入口の戸が、勢いよくがらッとひびいたのが同時であります。
「やあ、立場たてばの衆――」
 なかで顔なじみの者が、一斉にこういうと、飛び込んで来た三人の男は、雪に吹ッ込まれたように後を閉めて、
「オオひどい目に会った」
 と、顔なじみの仲間に割り込んでくる。
「どうしたんだい今頃」
「どうもこうもあったもんか、……ああ驚いた、餓鬼がきの時からこの小仏で稼いでいるが、今夜ぐらい胆をつぶしたこたアねえ」
 と、三人が三人とも、口を合せて顔色を変えているさま、ただ事ならず思われましたので、下頭げとう小屋の燈火ともしびに、なんとなく陰気な影が下がって来ました。
 すると、毎日同じ帳場でかせいでいる馬方らしい男が、ふふん、といったふうなくわ煙管ぎせるで、
「よせやい、悪い事にかけては、名うてなおめえ達が、人並に胆をつぶしたなんていったッて、だれが真顔にうけるものか」
「ところが、その悪玉のおれ達が、キャッと悲鳴をあげて来たんだから話はすごいや」
「ヘエ、ほんとかい?」
「嘘だと思ったら、だれでもいい、この上の千魂塚まで行って見ねえ」
「そこに、何が居るッていうのか」
「女よ! しかも素敵に美しい」
「野郎、いよいよ人の退屈をなぐさみに来やがッたな」
「どうして、話は本筋だ、まあそう茶化さずに聞きねえッてことよ。――実はというと、こッちの襤褸ぼろも出るわけだが、どうせおれ達の根性は太陽様てんとうさまも御照覧だから、なにもかも言ってしまう。――今夜……と言ってもまだ宵の中、麓の立場からただ一人で、この小仏へかかったい女があるので、はて変だと思いながらけてゆくと、やがて、千魂塚こんづかへ来て、その女が休んでいたと思いねえ」
「なるほど……」
「で、誰だって、煩悩ぼんのうを起すだろうじゃねえか。ましてや山だ、しかも夜半よなか、おまけに相手は十八、九の美女たおやめと来ていやがる」
「もっと、悪党らしく話してしまえよ」
「ウム、そこで三人が、ちょっとおどし文句をならべて、そろそろ側へ寄って行ったが、返辞もしなければ、逃げもしねえ、おや、こいつは、年にしては……と飛びつくと、どうだろう……」
「どうした?」
「ゲラゲラッと笑ったものだ」
「えっ、笑った?」
「あら、くすぐッたい――、そう言ったような気がしたので、ヒョイと娘の顔を見ると、真ッ青なんだ、その顔がよ。――口は耳まで裂けているし、眼は百れんの鏡というやつ、おまけにかぶっていたぬのの下に、きッと二本の角のようなものが……」
 こう明々あかあかとした点し灯と人のなかで話していると、話している当人も、実際に出会った時のせつな程の恐怖は消えてしまいましたが、ことばは心と反対に、そのいかにすごかったかを誇張する。
 すると、片隅にこもを敷いて寝ていたひとりの白衣びゃくいの男が、手枕を上げて、むっくりと起きかけました。

 ふと、身を起こしかけて、そら寝入りをしていたその男は、千魂塚から飛んで来たならず者どもがあまり自慢にもならないしくじりを、さも怪奇きわまる事のように喋々ちょうちょうと皆に話しているのを、ひとり注意深く聞いていました。
 で、三人の遭遇談そうぐうだんが片づくと、後はそれに対して、一座まちまちな観察や批評が出初めます。
 いくら小仏だって、今の世に、そんな妖怪や変化へんげが出てたまるもんか、そいつは眉唾物まゆつばものだよ、とテンから笑い消す者がある。
 いや、そうじゃない――とまたそれに反説をかつぐ者もあって、狐だろう、狸の仕業しわざだろう、否、野槌のづちという河獺かわうそのような小動物の妖気にちがいないなどと、知ったか振りをするのもある。
 また一人の旅の坊さんは、すべての俗説をしからずとなしてこう言う。
 ――それは木の精でも妖獣のわざでもありますまい、私の考えでは、いつか小仏の峠で、非業な一命を落とした女人の霊魂だと思います。あえなくも浮かびきれない魂魄こんぱくが、そうして、人なき夜の小仏を越えてはシュクシュクと泣くのでしょう。
「いやだぜ坊さん――」と一座が襟すじを寒くしていますと、片隅にそら寝入りをしていた最前の若者が、
「もし、その千魂塚とやらは、これからだいぶ先でございましょうか」
 と、初めて、明りの届く所へ顔をあらわしました。
「や、お前さんは、大山から御岳みたけへ詣るとか言っていた行人衆だね」
「左様でござります」
「今頃に、千魂塚の道なんぞ聞いてどうするつもりだね」
「いや、にわかに急用を思いつきましたので、これから峠を越えたいと存じますが、今のお話に気味が悪く、そこを避けて行きたいと存じますので」
「やれやれそいつは大変だ、どんな急用があるのか知らないが、夜が明けてからにしたらどうだい」
 折も折なので、しきりと止める者もありましたが、若い行人は身支度をして、教えられた間道から小原へ越えると言って、まもなく、ただ一人で下頭げとう小屋の人々と別れて行きました。
 よせばいいのに。
 さだめし後では下頭小屋でそう言っていましょう。一歩、沢尻さわじりの細道を踏み出すと、両手で目をふさがれて行くようなやみ
 しかし、やがてだらだらと上へ辿たどると、空を、おおうていた叢林そうりんもとぎれ、沢辺さわべの水明りも足元を助けて、そこに一つの道しるべの石が見出されます。
 それから沢を向うに渡って、狭い道を流れに沿って行けば、小仏の裏道、例の千魂塚の前を通らずに、甘酒茶屋の先に出る――と下頭小屋で聞いて来たはずなのに、その男は、敢て、右手の登りへかかりました。
 小仏越えの本道、星影のつづら折りを辿たどる程に、まもなく前の千魂塚の堂の前へ出る。
 彼はそこに立って、あたりの暗を見廻しました。
 颯々さつさつたる松の声、雨のごときしずくの音、依然として一とき前と少しも変りがありませんが、そこに千魂塚の白麻のぬのをかぶッていたお蝶の姿は見出せません。
 四を見廻して憮然ぶぜんたる様子。
「はてな? ……」
 出目洞白でめどうはく仮面めんをたずねて、ここへさまよい来た相良さがら金吾は、夏も寒げな白木綿の旅の行衣ぎょういに、お蝶の濡れたそれと同じな松のしずくに身ぶるいを覚えていました。

 ゆうべ、下頭小屋で夜を明かした連中は、今朝もまだ、千魂塚の話でもちきりながら、ぞろぞろとふもとの立場へ下って来ます。
 その人々と別れて、一人スタスタと急ぎ足に帰って来た旅籠屋はたごやの手代は、ちょうど今、店の前から出て来た早立ちの男女の客を見かけて、
「お早いお立ちでございますな」
 と、声をかける。
 それに振向いたのは、ゆうべ此家ここに宿を取っていた関久米之丞せきくめのじょうと月江の二人でありました。
「お、宿の男か。昨夜は遅く着いて、いろいろと世話であった」
「どういたしまして、私はあれから、とうげの小岩村まで用達に行きまして、ゆうべは下頭小屋で夜を明かしてまいりました。どうも、何もおかまい申しませんで」
「そちが、あの刻限の頃から用達に行くようでは、この小仏も、大した道程みちのりはないようじゃな」
「ところが、どうして、馴れておりますから夜でも歩くようなものの、ふつう、旅のお方には決して楽な山ではございません。――それに、昼ならまだよろしゅうございますが、ゆうべもこんな事がございまして……」
 と、問わず語りに、ここでもまた、千魂塚の怪女のことを立ち話に持ち出しますと、久米之丞と月江とは、ほくそ笑みを見合して、ひそかに目と目でうなずきました。
 しかし、旅籠はたごの手代には、山越えの道や、その他のことを聞いたのみで、さり気なくそこを別れて、
「お嬢様、今の話の様子では、あの女もまだ遠くには参っておらぬようでござる」
「今日いッぱい、足を早めて行ったならば、追いつけるかも知れないね」
「ただ、この嶮しい道を、あなた様のそのお優しい足で歩かせるかと思うと、久米之丞は負ぶってでも上げたいように思います」
「久米之丞。よして下さい」
「なにが?」
「お前がそんなに側へ寄って歩くと、人が、夫婦みょうとのように思うではないか」
「いいではございませんか。お嬢様。どうせ馬方や荷持などは、とかく口の悪いもの故、そんなことを気になされていては、道中を歩くことはできません」
「お前は、私のあとから離れてお歩き。……いいえ、もっと、もっと後から――」
 と、月江はぐんぐん先に出る。
 彼女の乗り馴れた銀毛の駒も、この小仏越えにはぎょしきれまいと思ったので、それは麓にあずけて来て、今朝は菅笠すげがさ紅緒べにおの草履。
 下頭小屋にたどり着いた時、そこで、接待の麦湯をもらいながら、手代から聞いた千魂塚の真相を、なおもよく聞きたいと思いましたが、もうゆうべの者は一人も足を止めていないので、そんな噂を知る者もありません。
 汗をぬぐい、食事をととのえ、やがてそこを出たのがひる過ぎ。
「ああ、山はいいね、こんな道を、秋の落葉が落ちる頃、お祖父じい様と一緒に歩いたらどんなだろう。次郎を連れて歩いたら、さだめし面白いことだろうね。そうだ、今年の秋は、次郎を連れて、この甲州の旅から木曾を歩いてみよう……」
 鳥の声を仰ぎ、清水のせせらぎをのぞいて、ひとりでこんな事を呟いて行くくせに、久米之丞には一言も話しかけない。
 道連れもなく、一人で歩いているような月江の様子です。けれど、久米之丞はもうそれに大した不平も抱いていない。彼もまた、一人旅の味気なさをつづけるものの如く、月江のうしろ姿にいて、黙々として歩んでいます。
 一歩一歩、山は森々しんしんと深くなってくる。

 程なく月江は、路傍の草叢くさむらに、千魂塚こんづかと彫ってある丸石と、道しるべの朽ちた柱とを見ました。
 コレヨリ甘酒茶屋マデ一里二十七町――
 それを眺めて、急に休みたくなりましたが、横手の堂宇どううを見ると、そこのひさしの日蔭には、羅漢のような雲助と西瓜すいかの食べ散らしたからが、はえを集めて昼寝をしているので、近くに休む気にもなりません。
 道は、また暫く平地になってくる。
 頼む木蔭もあらば休みたいがと思っていますと、うしろの方で、
「痛い」
 と、久米之丞の声がしました。
 振向いてみると、彼は、片足を抱えたなり、草叢くさむらの中に腰をついていますから、彼女も驚いて、
「久米之丞、どうかしたのかえ?」
 足を戻してゆきますと、彼は、顔をしかめながら、
「石につまずいて、生爪なまづめがしてしまいましたわい」
「おや、それは困ったねえ」
「どうも痛くって、意地にも我慢にも歩けませぬ。おそれ入りますが、暫時ざんじお待ち下さらんか」
「じゃ、私がそこをわえて上げよう」
 気前よく、紅絹もみのしごきをピリッと裂いて、彼の足元に膝をつきますと、久米之丞はその手を強くつかんで、
「あれ、勿体ない」
 と、気障きざな態度をして引き寄せます。
「何をするのッ」
「いい見晴らしではございませぬか。少しここで休みましょう。折から、前にも後ろにも、ちょうど人影が絶えている」
「嘘を言ッたんですね――生爪を剥がしたなんて」
「この長い峠を登るうち、ふもとから一言も口をおききなさいませぬ故、ちょっと一策を案じたわけです。は、は、は、月江殿、あなたまだ、ほんとに処女おぼこでございますな」
「……お放しッ、この手を」
「いえ、放しますまい。……麓の宿屋で、ゆうべも拙者があんなに申したなぞを御理解ないというはずはない。ここで、御返辞を承ろうではございませんか」
「返辞? ……」
「またあんなに空とぼけておいでなさる」
「お前こそ、よい程にたしなむがいい、高麗村こまむらに帰ったら、お祖父じい様に言いつけて上げるから、覚えておいで」
「ああ、お言いつけなさいまし。――夜光の短刀を見出した時は、晴れて添わせてやるぞとは、千蛾老人も御承知のおことば」
「知らない、知らない! 誰がお前などに!」
「いくらそッちで嫌っても、老人の言質げんちを取ってある上に、すでに夜光の短刀のある場所は、着々として、拙者が調べをすすめているから、久米之丞の妻にならぬというわけにはまいるまい」
「よして下さいッ、けがらわしい」
「ふン。けがらわしい? ……」
「お放しッ」
 やにわに、月江が爪を立てると、久米之丞は苦もなくねじつけて、
「やかましいッ、声を立てるな」
 野獣の野性をあらわして、彼女の体をかかえ込みます。
 胸のムカつくような体臭が、彼女の呼吸を圧しました。月江は草叢くさむらに倒れながら、懸命に相手の腕を払い退ける。
 久米之丞はもう盲目です、情炎のけだものです、こういうきッかけが出来た以上、彼がつつしみ抑えていた常識も、一時に火となって、すさまじい醜熱しゅうねつの力が、月江の肉をむさぼりにかかりました。
 ――月江は声かぎり人を呼ぶ。
 逃げては捕まり、起きては引きずり倒される。ああ、誰かここへ来てくれないか、ここへ来てこのいやらしい奴をらしてくれる人はないか。
 彼女はまた、久米之丞に組み敷かれながら、目を閉じて念じましたが、高麗村郷士きっての猛者もさ、この男の力には、さすがの月江も及びません。
 でも、二、三度は、必死に男を跳ね返し、あるいは投げつかわしつして、逃げられるだけ逃げのびましたが、のがれて行く先は落葉松からまつの疎林で、いよいよ人通りの僥倖ぎょうこうも望まれないさびしさ。
「次郎――次郎や――ッ」
 疎林をつんざく月江の声。
 ここで次郎の名をよんでも、次郎が救いに来るわけはありませんが、彼さえ居たらば――と思う念がせっぱつまッて、思わずそう呼ばせたものでありましょう。

「月江ッ、月江ッ」
 久米之丞は呶鳴りながら、逃げ廻る彼女を追って、疎林のうちを駆けめぐっていましたが、もう見得も外聞もない情炎の獣に、なんの仮借がありましょうか、
「うぬッ」
 と、うしろから喉輪のどわかんぬき
 片手に喉をしめつけて、片手で月江の口をふさぎました。
 瞬間、死ぬか――と思われた程、月江の顔色がサッと白く変りましたが、彼女の必死な手はここを最後と念じて、帯の間の懐剣を、肩の後ろへひらめかせる。
 不意を食った久米之丞は、
「あっ」
 と、彼女の体を突き放して、その途端に、べにに染まった自分の右腕をはッきりと見ました。
「ちッ、女と思って、よいほどにしておけば、よくも生意気な腕立てをしおッたな。おのれ、どうするか見ておれよ」
 言うなり腰の長刀ながものを抜いて、その朱い手に振りかざすや否、まことに、殺しかねまじき形相で、くわッと月江をにらみつける。
 月江も三日月なりの短いやいばしゃにかまえて、寄らばと強く身を守りました。――しかし、彼女がそうして向えば刃向うほど、血を見た情炎の男は狂うばかりです。そして、相手にはまだ争う実力と呼吸において、多分な余裕をのこしているのです。
 ――それにひきかえて月江の方は、もう血色も呼吸も苦しげに迫っている。ねッとりと執念ぶかい男の刃は、かくて一寸二寸と彼女をうしろへ追いつめました。
(あっ! ……もう駄目だ……)
 もろくも、そう観念の目を閉じて、彼女は突然、自分の刃を自分の乳へ当てようとする。
 はッと驚いた久米之丞が、刀を引いて、飛びつこうとしたはずみに、その短剣は飛魚の如く、おのれの素面へ風を切って来ました。
 あぶなく顔の真ン中に穴のあくところを、身をかわした久米之丞が、ふと見ると月江はもう彼方あなたへ脱兎――
「ちッ、畜生、逃してなるものか」
 かかとを蹴って追いかけることも、あまり永くはありませんでした。
 疎林を抜けた途端です。
 引ッつかまれた帯の端に、それが解けて、月江の体がくるくると無残に廻って倒れたかと思いますと、――どどどどッ――と足元の土が地崩れのようにメリ込んで、
「おっ!」
 と、久米之丞も、咄嗟とっさにそこの岩藤の根にすがらなかったら、奈落の谷底へ誘われたかも知れません。
「アア、あぶねえところ……」
 思わずホッとつくため息。
 人間の心の機微、必ずやその時は、獣情に燃えていた久米之丞も、冷やりとするのと一緒に、命びろいをしてまア好かった――と思ったことは思ったでしょう。
 が――気がついてみますに、そのよろこびもホンのつかの間。かんじんな、月江の姿が消えている……。
 あっ、谷底へ。
 一道の赤土が、岩の肌や藤蔓ふじづるや雑草の断崖を顛落てんらくして行ったあとをのぞいて、
「しまッた!」
 と、初めて、心の底から出た彼の舌打ちが、いかにも忌々いまいましそうでありました。
 それさえあるに、途中の木の枝にからまっている月江の帯を、茫然、自失のていで、ぼんやりと見つめている彼のうしろから、
「久米之丞! こッちを向け」
 と、人をばかにした人間の声がしました。
 そういう人をにした嘲弄ちょうろうのかけ声に、何も命令どおり、首を曲げる必要もありますまいが、折も折であり、不意だったので、
「えっ!」
 と、思わず彼がうしろを向いた途端に、
「間抜けッ」
 と、叱りつけるような一喝。
 あっ――とかわそうとしたが、後ろは谷です。と言って、前から風を切って来たのは、相手の見当けんとうもつかぬ鋭い白刃しらは

「あ――何者ッ」
 久米之丞は、その無鉄砲な抜き討ちをかわして、さッと、横ざまに飛び退きながら、
「人違いするなッ、人違いを!」
 と相手を確かめようとしましたが、さらに烈しい二じん三刃、口をきくまもない太刀風です。
 ぜひなく――久米之丞はまったくぜひなく、太刀を取り直して斬り合いましたが、心は月江の落ちた谷底にとらわれていて、必死な反抗も持ち得ないのであります。
 で、自然と受身になりながら、
「人違いであろう、拙者は武蔵野の郷士ごうし関久米之丞というもの、刀を引かッしゃい! 話があれば承ろう」
 と、言い訳に似たことばを続けざまに叫んでいましたが、事面倒と思ったか、今まで手ぶらで眺めていた相手の連れらしい編笠あみがさの男が、ツツと、彼のうしろへ廻って行ったかと思うと、
「やかましいッ」
 刮然かつぜんたるつかの音、――と共に関久米之丞は肩から袈裟けさがけに斬り下げられて、そこへどッと倒れるなり、青天井をにらんでくうをつかみました。
 斬った男は、いつのまにか、岩の根に腰をおろして、両手に頬杖をかいながら、ほとばしる血の中に痙攣けいれんする死骸を冷然とながめている。
「――可哀そうなことをしたな、折角、いい夢を見ていたのに」
 相手に立った一方の者が、こんな事をつぶやきながら、死骸を谷間へ蹴落とそうとすると、
「あ――待ちねえ」
 ふたたび編笠が腰を立って、
「念の為だ……」
 と、前後を見ながら顎をすくう。
「ウ、なるほど」
 頷いて、そこに、しゃがみ込んだのは先生せんじょう金右衛門です。彼が死骸のふところをしきりと探っている間に、日本左衛門は彼方此方あなたこなたを、涼しい顔で歩いていました。
 八王子千人町の夕暗から、絶えず、この二人が背後うしろにいたことを気付かなかった不覚が、まったく久米之丞の禍いの因をなしていました。しかしそれも、今は及ばぬこととなって、死骸となった血みどろな彼の五体は、金右衛門の足の先から、月江のあとを追って同じ谷底へと顛落てんらくして行きます。
「金右衛門、何かあったか」
 と、日本左衛門がそれに振向くと、
「ウム……小銭のはいっている紙入れが一つ」
 返辞はしません。
 日本左衛門はただにがい顔つきで――
 金右衛門は死骸から取り上げた幾つもの品のうちから、その紙入れをって谷底へポンと捨てて、次に、
「――白扇はくせんが一本。こんな物もしようがねえな」
 と、それも抛り捨てながら自問自答に、
「懐紙、銀ぎせる、印籠いんろう、みんなろくでもねえ物ばかりだが、この懐紙の間にこんな、いたずら書きがしてある……」
「どれ」
 と、初めて日本左衛門が手を出しました。

 それは、ほんの心覚えだけに、久米之丞が懐紙へ書きつけておいたものらしく、
 羅馬人ローマじんピオ――鶏血草――終焉しゅうえん――山岳切支丹族さんがくきりしたんぞく――蜻蛉屋とんぼや久助――逃水組にげみずぐみ――王家の秘宝――あざ――武蔵野――夕顔城――赤城――秩父ちちぶ――不明。
 こんな意味も連絡もない端的な文字が、墨色もその時さまざまにしるし散らしてあります。
「あっ、しまッた事を……」
「なぜ?」
 と、金右衛門は不思議な顔でした。
「あいつを生かして置けば、何か手懸りがあったに違いないものを、こりゃ少しはやまったぜ」
 と、日本左衛門は、その書き散らしの懐紙を紙入れのなかに畳み込んで、
「そうだ、せめて月江という女をこの谷底に探してみよう。事によったら、助かっていまいものでもない」
 先に立って、谷間へ下る道をたずね、わずかに猟師の通うらしい一筋の道を見つけ、岩藤の根を足がかりに、絶壁を下へ降りて行く……。
 昨夜以来、日本左衛門がそっと久米之丞をけ歩いているうち、それとも知らぬ彼が月江に向って夜光の短刀ということばをしばしば口に出したので、にわかに殺意を起こして兇行を決したのですが彼の手記ともいうべき反古ほごの文字を読むと、その短刀の捜索には、かえって自分達よりも何か深い真相をつかんでいたらしく想像される。
 で――生かして置くのに――とあとで後悔をしたわけでありますが、この上は、一方の月江を探してたずねたら、また何かそれについていい手懸りがないとも限らぬ。
 こういうはらにちがいない、と金右衛門は連れの心を読んでいました。
 本来、この小仏こぼとけへ来たのは、お蝶を殺そうという日本左衛門の目的でしたが、何をおいても、夜光の短刀の手懸りとあれば、すべてを放棄しなければなりません。
 断崖の途中まで降りてくると、金右衛門がい松の枝にすがりながら、
「お、ここに、さっきの女の帯が引っからまっている」
 と示しました。
「じゃ、月江は、いったんこの辺で止まってすべり落ちて行ったとみえる」
「そうさ、この這い松に帯を取られて……」
「そこから下の方に、倒れている姿が見えないか?」
「見えない」――と金右衛門は谷底へ手をかざして、
「まだまだとても下までには余程よっぽどな距離がありそうだ」
「谷河の水音がする……」
「ウム、遠雷のように」
「うまく、水の上に落ちていれば助かるだろうが」
「おッと、兄貴」
「どうした、金右衛門」
「お生憎様あいにくさま、道はここで行き止まりだ」
「なに、行き止まりだ? ……そいつは都合が悪いな。こんな所を曲りくねりして降りて行くと、どの辺に月江が落ちているか、谷へ降りてから見当をつけるにまた一骨折りをしなけりゃならねえ」
「――といって、その這い松から下の崖は、まるで、おので削ったような一枚岩、こんな所じゃ、猿でも降りて行くことは出来めえ」
「じゃしかたがねえ、我を折って、ほかの道を探すとしよう。だが金右衛門、今もいったとおり、下へ着いてから見当がつかねえから、その帯を丸めて、ここから真っ下へ投げておいてくれ」
「帯をか?」
「そうだ」
「目印にだな?」
「ちょうど其処そこいらが、月江の落ちて行った辺だろう」
「なるほど、そいつは妙案だ。西陣だが浮織だが知らねえが、このあでやかな女の帯を、谷底へほうっておけば、どこへ引ッ懸っても夜でも目につくにちがいない」
「だが、途中で風にさらわれないように」
「おっ、心得た」
 と金右衛門は、断崖のい松に引ッかかっていた月江の帯を輪に巻き、谷底を目がけてポーンとそこから真っすぐ下へほうり投げました。
 無風状態のようでいて、絶えず底から吹き上げている渓谷の冷風。
 ――途中からサッとなびいて、一筋に長く解けた女の帯は、色鳥の尾か、雲から捨てたあまの羽衣の如く、ひらひらと虹を描きつつ、その行方を見えなくしました。
 しかるに、その時です。
 小仏の峰を裂いて西へ落ちる星影川の渓流に沿うて、しきりと、人でも探すように歩いていた御岳行人みたけぎょうにんらしい白衣の男が、
「おや、何だろう」
 行者笠とよぶ荒編あらあみかぶりものに手をかけて、虚空こくうから舞って来た不思議な色彩に気をとられて立ちどまりました。
 見ていると――帯は長く尾をいて喬木きょうぼくこずえに懸り、そのあまりは、枝から地上へ、旗の如くダラリと垂れ下がりました。
 なんと、美しい謎。
 いたずらにしては風流すぎる。
 と、思いながら、白ずくめの行人姿は、しばらく呆気あっけにとられていました。いうまでもなく、彼は相良さがら金吾です。
 ゆうべ真夜半まよなかに、下頭小屋を飛びだした金吾は、あれから、どう道を取り違えたものか、この小仏の低地へ迷い込んで、目ざす仮面めんの女をいまだに見ることが出来ずにいました。
「はて……あれは?」
 女、女、女、女――と胸に仮面めんの女を呼び探しているところへ、偶然、まことに偶然、空から舞って来た女の帯。
 金吾にとっては、実際、妙な心地がしたでしょう。
 彼の目には、実際、妙な謎とも見えたでしょう。そして、これは何か、人智をこころむ山の精のいたずらに出会っているのではないかという錯覚さっかくさえ起こしました。
 しかし、いくら見直しても、その歴然たることは、若い女の帯であることです。派手はでがらの織物に相違ないことです。
「不思議な? ……」
 幾度も同じ思案をつぶやきながら、その一端に手をかけて、ズルッと引いてみますと、帯は大蛇おろちのように地にすべって、彼の手に小さく巻かれてゆくのでした。
 峰から笠が飛んで来たとか、人が落ちて来たとかいうなら、まだ椿事とするに足らないけれど、女の帯だけが? ……人は見えずに帯だけが? ……
 彼にはどうしても分りません。帯の依って起るいわれとこの結果の間が少しも想像がつかない。
 そこで、何の目的もなく、いったん手に丸めた帯を木の根において、そのままそこを立ち去ろうとしましたが、またふと、何か去りがてな魅力があって、帯が自分を呼び止める気がする。
 いよいよおかしい。
 金吾はその帯を疑うよりも自分の心を疑って来ました。――帯が自分を呼ぶ? そんな莫迦ばかなはずはない、そんなはずが……。
 ですが、どうも、それにうしろ髪を引かれる気がしてならないのを、深山に起るあぶない心の錯覚として、邪気を払うように、杖を取り直してスタスタと立ち去りました。
 それは、金吾の理性として、いつもあやまたぬ正しい歩行であったでしょうが、理性必ずしも物を間違えない限りもありません。
 なぜかといいますと――金吾が自分の気のせいだと思い消したのは、その心こそすでに疑心の霧にくるまれていた証拠で、事実、木の根においた女の帯は、一度ならず二度も三度も、彼を呼んでいたのであります。
 いや、帯が金吾を呼び止めたといってはいいようが悪いとすれば、置かれた帯の近くに倒れていた者が、彼を呼んだといい直しましょう。
 その喬木の根から渓流の水ぎわへ、だらだら下がりになっている草むらが、三尺ばかりくぼんでいる。
 のぞいて見るとその中に仆れている人間です。……まだかすかな呼吸いきをついている。そして、這おうともがいている。起きようとして草の根に爪を立てている。
 彼女は、かすかな意識のうちに、人の跫音を感じたとみえます。そして、何か苦痛を訴えました。
 一歩、ああまことにただ一歩、金吾がそこへ近寄って行ったならば、熱海あたみの宿で、お互いに顔をなじんでいる以上に、親しく思い合っていた月江と金吾が、奇遇の手を取って驚き合ったでしょうに。
 知らぬとはいえ、なんとすげない、去り行く彼の姿。
 ひとり、渓流のほとりに、月江は苦しげな息でした。死なんとする虫の姿でした。

 一方。
 日本左衛門と金右衛門の二人は、かなり降りた崖の中腹から這い上がって、いったん元の所へ引っ返すよりほかに道がなかったのです。
「なんだ、御苦労様な」
「いまいましい、何処か、降りる道がありそうなものじゃねえか」
 そこで腕ぐみをしながら、未練に谷間を眺めていますと、山馴れた足どりで、二人のうしろを通りすがった者があるので、
「おう、町人」
 金右衛門がよび止めて、
「そちはこの近郷きんごうの者らしいが、何処からか、この渓谷へ降りて行く道はないだろうか」
 歩調を共にしながら訊きますと、男は簡単に、これから七、八町行った先の虚無僧岩こむそういわとよぶ所から左に折れるがよいと教えました。
 そしてなお、質朴しつぼくな山家ことばで、その岩の近くで兄弟の虚無僧が返り討ちにされたという古い話や、この絶壁の下の渓流を星影川ということなどを、問わず語りに話してやまないものですから、二人もつい、男のあとにいて歩きながら、
「して、そちはこれから何処へ参るのか」
「へい、峠の甘酒茶屋へ参りますので」
「甘酒茶屋というのは?」
「中の峠を越えたその先のっ辺で、すばらしい見晴らしのある所でございますよ。旦那様方も、これから甲府の方へおいでになるなら、いやでもそこに足を止めるでしょう」
「そうか。それでは、いずれその時に礼をするぞ」
「どういたしまして。じゃ、お気をつけなすって」
「御苦労だった。ここを左に降りるのだな?」
 男の話した、虚無僧兄弟の血のような赤い深山草みやまぐさの花がさいている細い道へ、二人の姿がかくれて行く。
 ここも、前の道と変わらないけわしさです。
 しかし、降りても降りても羊腸として尽きないところは、さっきの行き止まりと違って、こんどこそ見込みがある。
「おう、だいぶ谷間らしくなって来たな」
 と、日本左衛門は笠を上げて、紺碧な空を井戸の底からのぞくように見上げました。
「水音が近いぜ」
「星影川だ」
「ううム、さすがに此処まで来るとゾッとするように涼しい……。お、兄弟、河があった、河が……」
「は、は、は、は。おめえのような悪党も、こういう所を迷い歩くと、子供みてえになるから可笑おかしい」
「なぜ?」
「何も、河があったッて、そう珍しいことじゃあるめえ」
 笑いながらその渓流の水層岩に身を立てた時、初めて、小仏全山の緑翠りょくすいをかしらにあつめ、涼風冠りょうふうかんとしていただいたかの如き清澄さをおぼえました。
「さあて、これからまた、今度はこの上流へ七、八町逆もどりだな」
「そうだ。しかし、帯はすぐ見つかるだろう」
「やはり、ああしておいてよかったな」
「や、兄貴!」
「なんだ」
「だれか向う岸へ来る様子じゃねえか」
 と、金右衛門が小腰をかがめて、渓流の対岸に見えるひのきの蔭をかすように指さします、
 ここに道がある以上、ここを通る人のあることも当然ですが、暗緑な谷の檜林ひのきばやしのなかに、それが、あざやかに白い人影なので彼がたれか来ると、指さしたのは、すでに、何者だろうという疑いを充分にふくんでいることばなのです。
「おお、あれか。……滝があるな、この上流かみに」
「どうして」
「山に籠って、水垢離ごりをしている男だろう」
「なるほど。……では、あいつが行き過ぎるまで、ちょっと一服していようか」
「よかろう」
 あの高い所から、一気に降りて来た折なので、異議に及ばず、日本左衛門も腰をおろして、カチ、カチ、と涼しい火打石ひうちを磨りました。
 そうして、一服吸いながら、彼方かなたの白い人影を気にしていますと、白鳥の如き人影はひのきしまのなかを縫って、やがて、対岸の道にあらわれました。
 ※(「革+堂」、第3水準1-93-80)どうとうと流れは飛沫しぶきをあげていますが、川幅はわずか十一、二間、彼が対岸に立てばイヤでもこッちの人間を見ましょうし、こッちも最前からやり過ごそうと待っていたところ。
 期せずして、奔流をなかに隔てた双者の眼は、そこでピタリと見合いました。
 ――すると、その刹那に、
「おう!」
 と、驚いた対岸の人。
「ややッ?」
 と、煙管きせるをさかづかみにして、腰を浮かしたこッち岸の日本左衛門と金右衛門。
 ああそも、これなんらの突然。
 月白き半島の千鳥ヶ浜以来、ここに再び巡り会いました。
 ――相良金吾さがらきんごと日本左衛門。
 しかしです。
 皮肉にも、ハッと見合った双者の間には、足を入れて渡るにもよしない星影川の水が十一間の幅をもって奔流しています。

 いかに仇敵の間柄でも、この奔流の水を隔てて向い合ったのでは、何ともしようがありません。
 腕も及ばず、剣も届かずです。
(ウーム金吾だな! 身なりは変った装いをしているが、まぎれもない相良金吾!)
(オオ、おのれ日本左衛門)
 と双方、はらの中でうめきながら、ハッとした瞬間の驚きを持続して、彼の道者笠とこちらの編笠、そのまま、両岸の岩上に山車だし人形の如く立ちすくみとなったのみです。
 無言の闘争、目と目の根くらべ、いつまで果てしなく見えました。
 これ以上の行動は、日本左衛門と金右衛門が、死をして奔流を越えて彼に迫るか、でなければ相良金吾が、最前女帯を捨てて渡った石の多い淵まで戻って、さらに、相手と剣眉を接して立たなければ不可能なことであります。
 だが、争闘の意気ごみというものは、そんな迂遠うえんな進路に火を発するものではありません。――また、すでに、蛇舌じゃぜつの如くからみ合った双者の目と目、心と心とは、暗黙のうちに組ンずほぐれつ、つるぎ以上の鋭いものを交じえているので、ここ、寸間の時を措くことすらゆるさぬ気持に迫ってもいる。
 で、まったく、この空気がうごくことは絶望です。
 どうなる事か、精と根気にまかせて、暫くはその成行きを傍観しているよりほかに、連れの先生せんじょう金右衛門にも、まったく、咄嗟にいい智慧もうかばない。
 そのうちに、眉毛もうごかさずにらみくらしていた日本左衛門が、くすぐられたように、突然、大口をいて、
「わははははははは」
 と、哄笑こうしょうしました。
 どッかりと足元の岩に腰をおろすや、手にしていた煙管きせるをさし向けて、
「おい若造!」と金吾にいうのです――
「まアそこに腰を下ろしねえ。変なところで会ったものだが、生憎あいにくと、この辺りには御挨拶を受けに行く橋も見当らない。少しばかり、くつの上からかゆいところを掻く気もするが、千鳥ヶ浜の時から一別以来、まんざら素気すげなく別れたものでもなかろう、何か変った世間話でも聞かしてくれねえか」
 あたかも辺りにある岸々がんがんたる岩のごとく、金吾を青二才あつかいに睥睨へいげいしている口吻こうふんです。
 むかッとしましたが、相良金吾にも、手を下してゆく方法はない。
 逸早いちはやく、冷然と平静にかえって見せた相手の前で、及びもない歯ぎしりをいつまでかんでいるのは、一層かれの侮辱をまねくところであるくらいなことは、金吾としても気づいています。
 しかし、彼のごとき複雑でない、また彼の如く横着でない、単純一徹な金吾には、対岸の哄笑に対して、同じような大声の笑いを投げ返してやることすら出来ないのでした。
 まだ、衝動の紅潮を、耳のあたりに残しながら、ことば鋭く、
「ぬかすなッ、日本左衛門」
 と、足をあげて蹴らんばかりの語勢です。
「人を愚弄ぐろうした今の一言、いつか、千鳥ヶ浜で会った時は、むなしく汝を見のがしたが、今日こそ、よい所で会ったというもの、うぬ、そこを去るなよ」
「なに、この激流を渡って来るのか?」
「ちッ! 待て待て」
 つとめて、自制しながら、金吾はいつか吾ながら見苦しくきこんで、何処か、飛び越えてゆく足懸あしがかりの石はないか、下流に丸木橋でもないか、と地だんだ踏みながら目を配っている。
「金吾! 何をキョロキョロしているのだ。越えて来るなら早く来い、こっちは用事のある体、悠長ゆうちょうに貴様が思案をつけるまで待ち込んでいるわけには行かぬぞ。……おい金右衛門、ボツボツ上流かみへ出かけようじゃねえか」
「ばか野郎め、向う河岸で腕まくりをしていやがる。あはははは、飛んだいい木偶でく人形だ」
 毒口を叩きながら、金右衛門も野袴のちりをはたいて立ちかけます。
「卑怯者、逃げるなッ」
 激流のをもひそめさせるような、金吾が声のあらん限りに、
「なにッ?」
 と、振顧ふりかえった日本左衛門が、みなぎる冷嘲を編笠のうちに、
「逃げるとは、なんの寝言だ」
「では、なぜ待たぬ!」
「待つ弱みはない」
卑怯ひきょうだ。逃げ口上こうじょう!」
「だまれ。ならば、こッちへ渡って来るか」
「ウウム」と、金吾はいいづまりましたが、
「この上流に行けば、石を伝って、自由に越えられる所がある。そこまで歩け」
「オオ、上流かみの方なら、どうせこッちも足を向けてゆく先、そこまで行ってやってもいいが、しかし……金吾、あの時のままの腕では、おれにやいばを立てるのも覚束おぼつかねえこと。返り討ちは合点か」
「だまれ」
 金吾はいよいよ烈火になって、
「その広言は後で申せ」と、流れのかみへ向って大股に歩み出します。
 対岸の日本左衛門も金右衛門と共に、岩を避けて進みながら、
「よし、それ程死神につかれているなら、望みにまかせて討ってやろう。……だが金吾」
「多言は無用、あとのことばはこの流れを越えた上で聞こう」
くな、まあ聞け、――一体てめえはこの日本左衛門に、何の怨みをもってそう食ッてかかるのだ」
盗人ぬすっと白々しらじらしさ。汝の胸にきいて見ろ」
「ウム、おれが尾州のかみ屋敷から、洞白の仮面めんを持ち出したので、その飛ばッ散りを食った万太郎やおめえが、路頭に迷うのはおれのためだと恨むのだろう」
「そればかりか、この七夕たなばた御前能ごぜんのうをひかえて、尾張中将様の御謹慎、家中御一統の心痛、それみな貴様の悪戯がなせるお家の禍いでなくて何であろうぞ」
「待て待て金吾。黙って聞いていれば、少してめえ達のいい草は勝手すぎる。そもそも、事件ことの起りというのは切通しの晩、おれが夜光の短刀の手がかりをつけるため、切支丹屋敷きりしたんやしきのお蝶を捕まえているところを、邪魔したのはあれは誰だ? ――相良金吾と徳川万太郎でなくて何者だ」
 と、相手の口吻を真似て、どこか揶揄やゆするような口調。しかも益※(二の字点、1-2-22)かれの毒舌は雄弁に、歩む足と共に激流のふちを喋舌しゃべって行きます。
「――いいか、まだ先の道は三、四町あるから、かずにおれのいうことを聞きねえ。いわば、そッちの文句は逆恨さかうらみで、あの晩の遺恨いこんはおれの方にある。だから、その仕返しに洞白の仮面めんぬすいちへたたき出してやったまでのこと、今さら、主家の仇呼ばわりは片腹痛いというものだ」
「おのれ、ぬけぬけと口をふいたそのいい訳、たとえ、仮面めんの一事はどうであろうと、金吾にとれば真土まつちの黒髪堂での不覚もある。武士の意気地としても、汝を助けておくわけにはまいらぬ」
「はははは、苦情のつけように困って、こんどは、金吾個人の意気地とおいでなすッたな。――ならばかえっておれの方にこそ文句があるのだ。おい! 腰抜け武士、蔭間侍かげまざむらいつらを洗って出直して来い」
「なにッ、蔭間かげまだと?」
「おう、蔭間かげまのような生白いやつでも、もう少し恥や外聞は知っている」
「いい抜けのかなわぬところから、舌のうごき放題な暴言、おのれもう二、三町先へ歩いてみろ」
「いや、罵倒ばとうはするが暴言は吐かぬ。蔭間とよばれて、人なみに腹が立つか」
「拙者のらい了戒りょうかいが、おのれの頭上を見舞うまで、何とでも、存分にほざくがよい」
「了戒ほどな名工の刀も、蔭間の腰に差されては浮かばれまい」
「うぬ、いわして置けばよい気になって、蔭間とは何事! 無駄口をたたかずに、行くところまで早く歩めッ」
「オオ、向うに狭い瀬が見えた。急いだところでもう一、二町」
「歩け、歩けッ。一刻たりとも猶予はならぬ」
「ウム、いくらでも急いでやるが、汝、主家のあだばわりをする男の囲いものと醜い不義をしておりながら、侍らしい潔癖を装うのは止めにしろ!」
「なに、不義をしたと?」
「おれが囲っておいた妾のおくめに、たれの許しをうけて手を出したか。熱海の藤屋にかくれていたあのざまが不義でないか! それでも蔭間侍かげまざむらいでないか」
「ウウム……」
 と、唇をかんだ金吾は、※(「宛+りっとう」、第4水準2-3-26)えぐるような彼の声に、歩足の自由を奪われたかの如く、まッたく色を失いかけました。
「どうした! 蔭間侍」
 冷然と、そしてまた、鋭いものは、対岸に立った仇敵の嘲蔑ちょうべつです。
 彼はさらに、皮肉きわまる口をひらいて、顔色蒼白となった金吾をながめながら、
って、望みとありゃあ、いつでも相手に立ってやるが……ただし! 貴様が最前からほざくように、主家のあだとか、武士の意気地とか、侍らしい名分を口にするなら、まずその前に、きたない不義の名を洗って、お粂とのいきさつを片づけて来るのがほんとだろうと思うが、どうだ金吾!」
「…………」
「おれのことばが違っているか」
「むッ……」
「犬!」
「…………」
「蔭間!」
「フウ……」
「よも、返辞はできまい。それとも、貴様の口ぐせにいう大義名分を引ッ込めて、おれを逆恨さかうらみの女讐めがたきに、その女くせえ手で、来の了戒を抜いてみるか――」

 言々句々、毒をふくむうちに明白な理をもって、※(「宛+りっとう」、第4水準2-3-26)えぐるが如きかれの罵倒ばとうに、金吾の真ッ正直な理性と血気とは、グッと返辞につまッたまま、目のくらむような恥辱をおぼえました。
 武士として、男として、かばかりの無念がありましょうか。
 金吾はぶるぶると身をふるわし、まなじりを裂いて、対岸を睨みました。
 しかし、ひとたび憤念の烈火にみずから恥を感じてみれば、この際、彼に返すことばはないのです。残念とも何とも言いようがないけれど、一矢をむくうることすらできない。理は彼にあって自分にはありません。
 かなり深く、自分を理解してくれている主君や釘勘にさえ、疑惑の目をもってみられているお粂との関係を、仇たり女讐めがたきたる日本左衛門が、今のようにののしるのは当然なことです。今さらそれを彼に向って、言い訳がましく叫んでみたところで何になりましょう。
 ああ吾あやまてり。――金吾は髪の毛をかきむしッて自分を罵りたい。
 怨むべきは吾が身です。次に、今さら愚痴ですが、憎んでもあきたらぬのは、魔性の女のいたずらな恋慕――内心如夜叉にょやしゃの美貌に親切らしい化粧をつくッて、眠り薬を用いて自分の生涯に拭うべがらざる不覚を与えた丹頂のお粂です。
(武士らしい名分を口にするなら、お粂との始末から先に洗って来い)
 といった相手の放言は、罵詈ばりでも毒舌でも、動かすことのできない正当なことで、むしろ、身の暗影を拭わずに、彼に向って、かたきばわりをした金吾が、匹夫同様に嘲けられても、まことに是非ないことと言わなければならぬ。
 ――最初の気込みをすッかりがれて、金吾が顔色なく立ちすくんでしまった時、日本左衛門は彼にかまわず、向うの岸を、上流かみへ向って歩きだしています。
「お……、日本左衛門、もう一度待て」
 そのうしろ姿に、はッと吾に返って、ふたたび手をあげて、五、六歩追いかけて行った金吾、
「よくぞ言ッた、今の汝のことばを、金吾はきッと忘れぬぞ」
「うム、きもり込んで、おぼえておけ」
「今日は、自分として考え直したこともある故、いったんここでは見遁みのがしてやるが、後日、遠からぬうちに、必ずおのれの素首すこうべをもらいに行く。そのになって、卑怯な振舞をいたすなよ」
「ばかな!」
 日本左衛門は笠をゆすぶりながら苦笑して、
「いつでも来い! 出会ッてやる。――だが、おれは風のように天下を往来する緑林の人間、また会おうと言っても、滅多に日本左衛門の居所いどころがわかるまい」
「なんの、たとえ足にまかせ、月日にまかせて尋ねようとも、きっと、探し出して出会わずにおくものか」
「そう手数をかけさせては、おれのことばに男が立たない。……ウム、こうしよう。いつなん時でも、命が捨てたくなったならば出会いの場所と望みの時刻を書いて、何処の塀でもひさしへでも貼りつけておくがいい。おれには、関東一円、江戸の内外、いたるところに飛耳張目ひじちょうもくの手下があるから、きッとどいつか見つけるだろう。その時は、いつでもこッちから出張ってやる」
「オオ、忘れるな、その大言を」
「それまでに、せいぜい痩せ腕をみがいて来い」
 仇と仇、そこの渓流をなかに挾んで、互いに、睨み合いのまま、白刃にものを言わすことは後日に約して、両岸の道を一方は上流へ一方は下流の方へ、ここに一時の殺気を解いて別れました。
 それから二、三町――
 上流の方へ歩いて行った先生せんじょう金右衛門は、あとで、時々うしろを振顧ふりかえりながら、
「惜しいことをしたじゃねえか」
 と、まないたに乗せた魚を逃がしたように舌打ちして、義も道理もあるべきでない盗賊に身を落としていながら、どこかに元の浜島庄兵衛という武家気質かたぎせない日本左衛門の遣口やりくち歯痒はがゆがりました。
「まあ、そんなことはどうでもいい」と、彼はすぐに常の様子に返っていて、
「それよりは、さっきの帯はまだ見つからねえか」
「お、この辺だな、投げたのは」
 と、空に向ってひとみをつる。
 金右衛門のひとみが、絶壁に添うて、ズッと足元まで見下ろしてくるに、水辺を見廻していた日本左衛門は、ふと、美鱗びりんをもった魚の如き金襴きんらん小布こぎれが、奔激する水をくぐッて、浮きつ沈みつしてゆくのに眼をられました。

 それに気がついて、彼が川べりを数十歩のぼって行って見ますと、一叢ひとむら石楠花しゃくなげのかげに、下げ髪の若い娘が、岩角から身をかがませて、澄んだ流れの水をすすろうとしていました。
 何よりも真ッ先に、日本左衛門の眼に映ったのは、娘のしめているその帯で、
(おう月江だな。運よく助かったものとみえる)
 と思いながら、つかつかと歩み寄って、彼女の帯ぎわを後ろから抑えてやりながら、
「お女中、あぶないぞ」
 と、ことばをかけました。
 不意に自分の帯をつかんだ者があるので、月江はハッと驚いた様子です。
「さ、わしが抑えていれば大丈大、さぞ苦しかろう、早く水を飲まッしゃい」
 未知の人の好意を喜んで、月江は目にその礼をいいながら、白いうなじをのばして、ゴックリと一口冷めたい天泉をのどに通しました。
 まだ打身の痛みはありますが、一口の冷水に、気だけはハッキリとよみがえったので、
「どなたですか、御親切さまに、有難うぞんじました」
 岩にすがって、石楠花しゃくなげのなかに、立ちますと、そのおぼつかない足元をささえて、
「無理をなすってはいけない、さ、わしの肩につかまるがいい」
「でも……」
「なあに、御遠慮はいらぬ」
 そこへ先生せんじょう金右衛門も来て、左右から彼女の歩行を助けながら、
「何しろ、この谷底ではどうするすべもないから、中の峠の甘酒茶屋まで、少しの間御辛抱なさるがいい」
「まことに、お世話をかけて済みませぬ。して、失礼でございますが、あなた方は、ここをお通りがかりの人でございますか」
「ここは、街道をれている星影の谷間たにあい、通る道ではないが、そなたの難儀を遙かに見て、安否を見に降りて来たのじゃ」
「では、あの私の連れは?」
「関久米之丞というやつか。あれの死骸も、たぶんそこらの谷間に引ッ懸っているはず」
「えっ」
 彼女は、自分をささえてくれている人のすそに、血汐らしい汚染しみが点々とあるのに気づいて、初めてこの二人に疑惑を持ちましたが、今さら、その好意にまかせた腕を振り払うこともならず、ひそかに油断のない気構えを持ちながら、陽も心細くうすずく彼方あなたの中の峠の茶屋を目あてに、たどたどと不安な足を運ぶのであります。
      *   *   *
「おばさん、水を一杯飲ませてくンないか」
 ちょうど、同じ日のひる少し過ぎ。
 たッた一杯四もんの甘酒の茶屋へ、その甘酒を注文せずに、いきなり水を一杯くれといって飛びこんだ小僧があります。
「水かい?」
 と、其店そこの婆さんもぞんざいなもので、
「水なら懸樋かけひから流れているだろう、いくらでも飲むがいいよ」
「オオめてえ! お婆さん、うまいなアこの水は」
「うちの甘酒はもっと美味うまい、小仏の名物、一杯あがらッしゃい」
「飲みてえな、甘酒を」
「ついでやろうか」
「いいよ、おれは一文もおあしを持っていないもの」
「なんだ、おめえは、銭なしで旅をしているのか」
「連れの人にはぐれたので、まだひる飯も食べることが出来ないのさ。……弱ったなあ、何処で道をちがえてしまったンだろう? ……もしやお婆さんは、おいらの連れを見かけなかったかい」
「どんな人?」
「偉い人だ」
「ただ偉い人だけじゃわからない。町人かね、それとも、お侍かね」
「一人は町人で、一人はお侍様でおいらが宿屋へ忘れ物を取りに返っているうちに、何処かへはぐれてしまったのさ」
「はアてね……今日はずいぶん人が通ったからなあ? ……」
「困ったなあ、おいらは、その人に会えないと、また今夜も御飯を食べることが出来ない」
 と、さも落胆がっかりしたように、杖にしている野槍をもって、しきりと腹の虫をもだえさせる甘酒の釜の前に、どっかり腰をおろしました。

甘酒茶屋


 例の、杖とも槍ともつかない棒をたずさえている小僧といえば、それが、高麗村こまむらの次郎であることは言わずもがなの事でしょう。
 おやじと称した御家老と、河豚内ふぐないとよんだ用人のいる屋敷から、夜逃げ同様におさらばを告げて、あれから何ものかを求めつつ、この甲州路へ急いだのが、徳川万太郎に目明しの釘勘、及びここにき腹を持てあましているところの次郎であることも、再度の説明には及びますまい。
 ところで、甘酒の釜の前で、しょんぼりしている次郎の様子があまりにも不愍ふびんなので、茶屋の婆さんが何かとなぐさめていると、彼の腰にブッ下げている品物が、どうも、竹の皮に包んだ弁当らしいので、
「お前さん、もしやそこに持っているのは、弁当とは違うのかい」
 と、疑わしげにとがめました。
 次郎は、腰のそれへ手で触ってみて、
「ああこれかい。これは、今朝けさ宿屋でこしらえてもらった三人分の握り飯さ」
「ばかな衆もあったもンじゃないか」
「なんだい、人をばかだなンて」
「だって、仏様づくる程、お腹がッているのなら、何も、水を飲んでいる事はなかろうに。――食べたらいいじゃないか、その弁当をよ」
「いけねえ、いけねえ」
 次郎は強情ごうじょうにかぶりを振って、
「これを食うくらいなら、何もおいらは心配をしないことさ」
「へえ……」と、あきれた顔をして、「じゃお前さんは、腰に飯をぶらさげていながら、腹を減らして困っているのかね?」
「アアそうだよ」
「分らない子だ、何でそんな、くだらない痩せ我慢をして、よろこんでいるのだろう?」
「何も、おいらだって、こんなペコペコな腹をかかえて、よろこんでいるものか」
「じゃ、食べたらよかろう、その弁当を」
「大きにお世話様だよ」
 と、口をンがらして、次郎がこの年寄にいって聞かすことには、
「自分が弁当を持っているからって、おいらだけ美味うまい思いをして、もしやあとの二人が食べずにいたら、それこそ済まない話じゃないか。だから、二人に行き会わないうちは、この飯が腐るまで、おいらは食べずにいる覚悟だ」
 それを聞いて、その義理固いのに、甘酒茶屋の年寄がひどく、感服したものですから、無一文なのを承知して、名物の甘酒を次郎の空腹に恵みました。
 思いがけない接待に、彼は、ふウふウとその熱いのを吹きながら、
「ああ、うまい」
 舌つづみを打っては、ひたいの汗をこすッている。
「おいしいかね、小憎さん」
「うまい」
「もう一杯上げよう」
「もう二、三杯もらわずにはいられねえ」
「アア何杯でも」
「そんなに機嫌よくついでくれると、この釜いッぱい飲むかも知れねえよ」
 やっと冗談口が出るほど腹の加減もよくなって来たものでしょう。
 そこで次郎は、事によると、二人より先に道を追い越して来たのかも知れないから――といって、一個の包みを茶屋に預け、野槍を持って小仏の中の峠から千魂塚方面へと、はぐれた二人を探すべく、甘酒に元気づいてスタスタと引ッ返して行きました。
 ちょうど、七刻ななつ下がりの刻限なので、そろそろ旅の者の影も絶え、次郎が去った後は、懸樋かけひの水の音がチロチロとせせらぐのみで、暫く茶店は閑散のていに見うけられる。
 すると、障子のててある裏手の小座敷で、
「おばさん、糸と針をありがとうございました。さっきの針箱と一緒に、この戸棚へ入れて置きますから……」
 姿は見えませんが、その座敷のうちで、夜飼よがいうぐいすが不意に鳴いてみせたようない声です。
 無論――女、それも若い女の。
 ところが、いつのまにか婆さんは、ピカピカ光る甘酒の釜を留守番にさせておいて、店は無人のままじゃくとしていたので、答える者がなかったわけ。
 ただ、その女の声に、
「おや!」
 と、床几しょうぎの端から振向いたのは、茶屋のあるじを待っている一人の男で、
「おかしいな、この甘酒茶屋には、あんな若い声のする娘はたしか居ないはずだが? ……」
 小首をひねッているふうです。

 ところへ、あるじなる茶屋の名物婆さんが戻って来たので、男はここへ来た用件を話し、西陽にしびを見て腰を立てかけましたが、
「あ、そういえば、今にここへ妙な侍が来るかも知れねえぜ」
 と立ちかけ話に――
「気をつけなさいよ、どうも目つきがすごかった。それに、虚無僧岩こむそういわの手前に、死骸は見えなかったが、どっぷりと血が……そうでがす、あの森と崖ッぷちの間にね」
 この者は、最前ここへ来る途中で、星影の谷間へ下る道を例の二人に教えた男とみえます。
 下頭小屋でも変な話を聞いたし、千魂塚でも何とやらいう噂もある、お気をつけなさい、お互いに、かせいでも、金なんぞはあまり貯めないことに限りますね――などと用心を言い残し、今日の最後のお客様として、甘酒の火を落とすのと一緒に、男はふもとへ引っ返しました。
 やがて、店の葭簀よしずが巻かれると、裏の方からパチパチと青い煙が立ちのぼります。
 もう、よくせき急ぎな早打ちの飛脚ひきゃくか、迷子のからすでもない限りには、この小仏を越えるものはなく、宇宙も大地もヒッソリとしたうちに静かな夜霧の幕が全山をつつんで来る。
 戸じまりを終えた婆さんが、カタコトと気永に何か晩飯のこしらえにかかっていると、最前聞こえた娘の声が、やはり障子をてたまま座敷のなかで、
「さっきお店に来た人が、何かいやな侍に逢ったと言っていましたが、何でしょうね?」
「こんな山の中だから、物騒な事は時々さ。だが、私のように、慾にも色にも縁の遠い人間になると、そりゃあ何処に住んでいても気楽なものだよ」
うらやましゅうございますね」
「ところが、それじゃ生きている甲斐がない。やっぱり、お前さんぐらいな年頃で、世の中が怖いようでなければ困るよ。――その怖いのを押して、いいなずけの男の所へ行こうという、お前さん時代が私は恋しい」
 柄にもない老嬢の述懐を聞いて、障子の中では、若い女がクスッと笑いを押さえたようです。
 いや、或いは、それを笑ったのではなくて、自分がここに宿を借るため出たら目に言ったことばを、先が正直に信じているので可笑おかしくなったのかも知れません。
 一方で晩の仕度が出来て、やっと、行燈あんどんという名ばかりの品物に、目の悪くなりそうな明りがボンヤリとつくと、女はへだての障子を開けて、
「では、おばさん。いろいろお世話になりましたけれど、これから峠を下りますから……。そして、これはほんの少しですけれども礼のおしるし、納めておいて下さいな」
 と、紙にひねッた小粒銀を、明りの届くところへ置きました。
 最前から障子をしめきって、中でシンとしていたのは、手廻りの物、髪粧かみよそおい、何かの身仕度みじたくを小まめにととのえていたものでしょう、あとは、草履のひもを結ぶばかりに、すっかり身ごしらえを済ましている。
 お蝶です。
 帯揚おびあげのうしろか、たもとの中か、何処かにあの般若はんにゃ仮面めんを呑んでいるお蝶です。
 これから人も怪鳥けちょうの往来も絶えようという小仏の夜に向って、虫も殺さぬような小娘が、ただ一人で、この峠の絶頂を立とうというのですから、一方は、暫くあっけにとられました。
 けれど、質朴な老婆心が、おいそれと、それをかんたんに送り出すものではなく、まあ御飯を食べて――と無理に坐り直させる。
 そして、懇々こんこんということには、この山越えが昼でも男の足に骨の折れること。また、夜に入って若い女がこうされた、ああされた実例など、お蝶を断念させようとして、いつまでも、家の外へ出すことをがえんじません。
 元より、そんなことは、百も二百もお蝶は承知しておりますが、前に、口から出まかせな口実を言った手前もあるので、素直に俯向いて、聞くだけのことを聞くよりほかにない。
 しかし。
 だれが何と言おうと、夜のうちに歩かねば、歩くひまのないお蝶です、どうでも今夜のうちに、此家ここを出る決心はうごいていません。

 何と言っていさめても、思いとまる様子がないので、その強情にあきれたか、遂には、茶屋の婆さんも好意をひっこめて、ではせめて晩の飯でも食べてと、そこへ膳を持ち出してくる。
 実は、お蝶はそれもあまりすすまないところなのですが、そうそうこの真っ正直な善人を失望させるのもむごたらしく思えて、
「では、御飯だけいただいて」
 言い訳ばかりに、支度のままで箸を収りました。
 後で考え合せてみますと、それに彼女の食慾がなかったのも、一つの虫の知らせであったかも知れません。
 ちょうど、お蝶がそうしている時刻です。
 歩行にたえない月江の体を両方から助け合って、星影川の谷間から中の峠へこころざして来た日本左衛門と先生金右衛門が、ようやくのことで、この茶屋のかすかなともしびを数町の先に見たのは。
「もう間がない」
 と、二人は月江を励ましていました。
「向うに見えるが、たしか甘酒茶屋に相違ない。あれまで着けば、どうにも体を休めることも出来るし、都合によっては、麓から医者をよぶ方法もあろう」
「御親切さまに」
「なに、旅では、こんなことはお互いじゃ」
 日本左衛門は、この娘の口から、やがて久米之丞のふところから得た夜光の短刀の手がかりを得ようという下心したごころですが、世なれぬ月江は、ここまで来る間に、まったく親切な浪人もあるものと、今はすべての疑いを去っています。
 暗を真っ直ぐに見れば、二、三町としか思えなかった道も、また一つの下りと上りを備えていました。今は気が張っているが、これで向うへ着いたらば、倒れたきりで起き上がることは出来まいと、月江はこの上にもこの後々あとあとが思いやられる。
 やっと辿りついた中の峠のいただき。
 大日岩のほとりに立って、四方を見廻しますならば、夜とはいえ満天をうずむる星の青い光に、遠くは木曾信濃しなのの群山、広くは東方にわたる武蔵野の原、帯と曳く多摩川の長流、あるいは清麗な美姫びき蚊帳かやにかくれたような夜の富士の見られないこともありますまいが、月江は勿論、二人の方にも心にそんなゆとりがないとみえまして、ただまっすぐに、灯のもる家の外に立ちました。
 あたりを見廻して、金右衛門がひとりうなずきながら、
「茶屋だ、ここが甘酒茶屋に相違ない」
 と、小声でつぶやく。
 勝手な歩調であるいて来たのとは違って、日本左衛門も大分がっかりした様子です。
「早速、戸をたたいて、頼んでみてくれないか」
「うム、一つ当ってみよう」
「浪人者というと、気味わるがるかも知れないが、事情を話してな」
「よろしい」
 と、金右衛門が先に立って、
「誰かおらぬか。茶店の者、茶店の者」
 まず二つ三つ、軽くそこの戸をたたいてみる。
 家の中へはすぐその音がひびいて、時ならぬ人声に、今膳の前で、白湯さゆをのみかけていたお蝶は、思わず、
「あ……?」と、あの特質のある、睫毛まつげ<