狸とムジナ

柳田国男





 すこしのんきな話をしてみよう。本年五月の末、十数名の元気のいい文士の一行に加わって、北海道へ海上の旅をした。船は満員で皆入込いりごみのごろ寝をした中で、長谷川如是閑はせがわにょぜかんと自分と二人だけは、老人というかどをもって好い船室を与えられ、自由に起臥していたのが問題になったものか、みんなが集まってがやがやしている中へふいと顔を出すと、ああ今あなたに聴いてみたらと言っていたところです。狸とムジナとはどこがちがいますかと、やぶから棒の質問であった。そりゃ違いますよ。第一に狸は尻尾しっぽが太く、ムジナの尻尾は細い。第二には狸の毛は筆になり、ムジナの毛はならない。第三に狸は樹に登ることができないが、ムジナは木のぼりをして、小柿などをよく食うものだ。うそだと思うなら両人をんで調べてごらんなさい、とまでは言わなかったが、まずこの程度の答えをしておいて、まちがっていたら後で訂正すればいいと高をくくっていた。
 ところが偶然なことには、六月中旬に旅から還って来てみると、留守中に『動物文学』という雑誌が届いていて、これには平岩米吉君というこの方面の研究者が、狸とムジナは同じ動物の二つの名だと、少しの但書ただしがきも添えずに、明白に断定した一文を掲げている。二つの意見は対決しなければならぬことになった。がしかし私はまだ少しもまごつかないのである。
 同じ問題は今から約二十年前、たしか栃木県で裁判事件となり、東京まで持って来てしかも片付かずにしまったことがある。その顛末てんまつを要約すると、県令で狸を捕った者は罰するという禁止令が出ているのに、ムジナはよかろうと公然これを打った者が告発せられたのである。川瀬林学博士が鑑定人として控訴審に招かれ、やはり平岩君と同じに、狸むじな同一説を主張せられたが、判決は結局無罪であったように記憶する。というわけはこの地方にはタヌキという言葉はなく、狸という文字は知っていても、それが土地でムジナという獣のことだということを、まだ誰からも教えられていなかったからである。捕殺を禁止しようとするならば、ムジナと訳して書くか、少なくとも狸すなわちここでムジナという獣と、明示する必要があった。それをしなかったのだから落度は立法の方にあったのである。
 ムジナはすなわち狸なりという平岩説は、この地方では適用するが、そう遠くまでは行くことができない。まして狸もムジナも同じものだということは、土地としても正しいとは言えない。何となればここにはてんからタヌキという獣がいないからである。二つの名前を考え出したのは人間であり、それをある獣に割り当てたのも人間である以上、時々取りちがえるのも無理とは言えず、ましてや狸の側の責任とは言われないのである。
 日本最古の文献には、ムジナという語もあればタヌキという語もある。ただその記事が二つ離れた場処に出ているので、同物異名とも見られぬことはないが、『倭名鈔わみょうしょう』では少なくとも、両者を二種の獣としている。現在の日本語としても、二つの名詞の昔からあった処ならば、それを同じものだという人はまずないであろう。物を見てから始めて名をおぼえた場合と、本やうわさで久しく名を知っていて、それはどんなものかと尋ねる場合との、大きなちがいはここにあるので、しかも今日は名前だけは早く知り、本物は一生涯、見ずにしまうという人がだんだん多くなっているのである。狸と狢両名が名刺を携えて、自ら出頭するのを待っているわけにも行かぬとすれば、やはりできるだけ多くの見た人の言葉を突き合せて、まちがいの元を尋ねてみるの他はない。私は実は今それをやっているのである。


 東京は少しく事情を異にするが、東日本は一帯に、もとはタヌキという語のない地方だったらしい。そのために形と習性とのやや似よった二つ以上の野獣を、ともにムジナと呼ぶ人が、関東などには多かったのであって、この区域だけでは川瀬・平岩二氏の説も、精確ではないというのみで、誤っているとまでは言えない。というわけは本物のいわゆるタヌキも、こちらではたしかにムジナの一種だからである。私はこう見えても少年の頃、たった三四日だがそのムジナを飼っていたことがある。場処は利根川の沿岸の丘陵の村で、そのムジナはまちがいなく、絵にある通りの狸であった。別にこれ以外に第二のムジナあることを知らず、また二つの獣が名を異にして併存する他処よその例を聴いていなかったら、あるいはこれを狸の方言ぐらいに心得て、暮らしていたかも知れない。方言とは何ぞやということは、今でもむつかしい問題であるが、少なくともこの二つの語は京都にもあり、古書にも載っているのだから方言ではない。ただ一部地方の住民がその意味を取りちがえ、忘れもしくは誤って適用していたという事実があるばかりである。それを明らかにすることは国語のためであり、また教育の上にも必要なのだが、他にその任務を引き受ける学者がなければ、やはり民俗学の人々がこれを試みるの他あるまい。
 現在知られている二つ三つの資料を並べてみただけで、この問題はおおよそけるかと思う。群馬県では利根郡の赤城根あかぎね村などで、ムジナには二つの種類があるといっている。その一つはササムジ、この方が狸とよそでいっているものだ、という人もあるそうだがそれはまちがいで、もう一つの本ムジというのが、一名を十字ムジともいって、背なかに十文字のはんが抜けているというから、この方が多分本ものの狸である。
 新潟県では弥彦山やひこさんの背後、海に臨んだ間瀬ませという村で、狸を飼う人から橋浦君の聴いて来た話は詳しい。この地方にもタヌキという語はなく、一般にムジといっている。ムジに二種あり、一はヤチムジ、他の一はマミムジ、ヤチムジは他の地方でいう狸のことであり、マミムジは穴熊またはササクマ、徳島県の山村などでクマダヌキというもののことである。外貌は似ているが二つは全然別種で、最も著しい差異は後趾あとあしの指の数が、ヤチムジは四本で他の一本は上の方に附いているに反して、マミムジは五本並びそろい、それも長くして猿に似ている。そのためでもあろうかマミムジは穴を掘ることが早く、かつ木にもよく登る。ヤチムジも穴は掘るが下手であり、木登りはしない。今一つの特徴にはヤチムジは一名を十文字また八モジともいって、頭から背にかけてさし毛の斑紋があり、その斑が頭部で八の字、背では十の字に見えるからそういうのだが、このモジも多分はムジであって、文字などと解したのは後の好みかと思われる。すなわちあの方面にはタヌキの語はまったくなく、本物の狸もまたムジの一種と認められ、モジはすなわちムジと同系の語らしいから、ここでも川瀬・平岩説は成立する。ただしかしムジナの全部がすべて狸なりとし、もしくは狸より他にはムジナと呼ばるるものなしと言おうとすると、他の地方は言うに及ばず、上州・越後でもやはりまちがったことになるのである。


 これをもう少し精確に表示しようとすれば、やはり今日世に行われている『動物図鑑』のように、記述するより他はない。同書には曰く、タヌキ一名ムジナ、犬科。前あしの爪アナグマに比し短し。また曰く、アナグマ一名ムジナ、いたち科。狸に似たる黒色のものあり、地方によりてはムジナと称し狸と混同す。これだとたいていはまちがいでないが、ただ一方には「地方によりては」がないのと、一名という日本語が学問的でないために、AがBでありCがまたBならば、AとCとは同じだろうという、そそっかしい推定も起りそうなおそれがある。どこかで誰かがそういっているということには、幾つかの原因が考え得られる。たとえばタヌキという単語を知っている者が、ある地域には一人もなかったというなどもその一つである。単語はまるっきり学ばなかった場合もあり、知っていたが忘れて伝えなかったという場合もあり得る。東国のタヌキもその一例であるが、西国においてはその反対に、ムジナという語を使わぬ処もあるかと思う。二つの言葉の内容の異同を明らかにしようと思えば、何としてもその二つのもののともに存する場所について調べなければならぬ。一方は本でまたは小学校で教えられた語、一方は村で親たちが使う語というのでは、第一に比較の条件が備わらぬのであった。
 タヌキ・ムジナの二つの名が、ともに民間に伝わっている土地も決して少なくはない。そこへ行って二つはどうちがうかと尋ねてみたら、いやまったく同じだという者はおそらくないであろう。自分は気を付けて各地の話を聴いていたのだが、遠州の気多けたの山村などでは、ムジナは狸のこうたものだというそうである。これはむしろムジナという名だけは知っていて、それが土地にいるどの獣のことになるかをまだ突き留めていないからで、ちょうど関東のタヌキと正反対の場合であろう。信州の東筑摩ひがしちくま郡などには、両方の獣の名をともに知り、その声を聴いただけでも区別し得られると言う人があった。夜分小柿の木に昇って鳴くのはムジナ、という話を聴いたのは松本であった。三河の豊川の上流地方の猟師なども、よく似た二つの獣のあることは知っていて、その一方の、毛も皮もともに無価値なものを、だまって軒先にぶら下げておいて、旅人に値を付けさせて売ったという横着な話も聴いたことがあるが、そこではなおそれをムジナといっていたか否かは不明である。美濃の揖斐いび川上流の徳山村でも、おらぬはずはないのだがムジナという名は知らない。そうして狸とはどういうものかと問うと、背に八文字の斑毛があり、さし毛をもって筆を結い、綿毛の附いた皮はそのまま吹革ふいごの用に供するというから、すなわち上州赤城根などでいう本ムジのことであった。
 三重県中部山地の飯南いいなん郡森村あたりに行くと、ムジナとタヌキの二つの名はともに知られ、狩人ならばそのちがいを明らかに説くことができる。狸には八文字があり、毛は軟かで爪はころころとしている。ムジナはこれに反して爪長く熊のごとく、毛はあらくして綿毛が少ない。すなわち筆にも吹革にも向かず、いわゆる皮算用のできぬしろものである。私の生まれた播州の中部などでも、狸とムジナと同じものだと言ったら、子供でも笑うくらいまちがった話なのだが、実際はどちらも見たという者がもう少なく、狸は絵で見るが一方にはまるで馴染なじみがなかった。ただ誰に教えられたともなく、ムジナはもう少し長い顔をしているものと私などは思っていた。狸はこの地方でもよく人をだまし、ことに四国の方からの影響でもあるか、しばしば人に憑き、現に私の親しかった一女性も、それに悩まされて尼になってしまった。ムジナも油断のならぬ夜の獣とは見られているが、まだ関東のように人をばかすという話は聴かない。ただ大きな酒蔵の奥などにいて、昨夜も酒造りの歌の真似をしていた、という類の話をよく耳にしたのみである。


 こういう実地の話をもっと数多く集めて、比較を進めてみないときまらぬことだが、このタヌキ及びムジナという二つの単語は、時を異にしまた状況を異にして、それぞれの土地へは入って来たもののように思われる。そのために今でも一方をよく知り、他の一方ははなはだうろんにしか知らない人が時々はあり、また稀には一つの語が、二つちがったものの総名にもなっているのである。そういう中でも眼で知った言葉、文字で覚えた名称は信用がおけない。狸という漢語などは、向うではネコのことだという人さえあり、果して日本でタヌキという獣に、これをててよいかどうかも確かには答えられない。現に『地名辞書』にあたってみても、狸森と書いてムジナモリという部落が関東・奥羽には幾つもあり、東京ではまた麻布あざぶの狸穴がマミアナである。そういう字を書いた者がもし誤っていなかったならば、狸をムジナのことと解し、またはマミの漢訳であろうと思った人が、かつてこの土地に住んでいたのである。そのために二つの獣が同じものになるわけには行かない。名は実のひんというのはこういう意味である。
 つまりは難波なにわあしは伊勢の浜荻はまおぎといったごとく、中部のタヌキは関東のムジナなので、タヌキ又の名がムジナだったのではない。九州・四国の実例はこれから尋ねてみたいが、だいたいにあの方面はタヌキが多く行われ、ムジナという語はあまり聴かぬようだから、事によると双方をともにタヌキというか、あるいは何かまた別の名ができているのかも知れない。鹿児島県などでは、ダンザというのがタヌキのことだそうなが、遠く離れて佐渡にも団三郎狸というのが有名であった。他にもこういう異名が多いようだから、うっかり名に基いてムジナはいないだの、タヌキは棲息せいそくせずだのということはできない。
 マミは古い書物にもまた近頃の図譜にも、また別種の第三の野獣のように記しているが、私などの郷里では見た者がなく、往々にして人はこれをマメダヌキまたは豆太まめだといい、狸の小さいののように思っていた。そうして一方にはまた越後間瀬のごとく、普通にアナグマというものを、マミムジという処もあるのである。『新潟県天産誌』を見ると、同じ県内にもヤジという語があって、タヌキまたはムジナのことだと解説せられている。これはおそらくは間瀬などのヤチムジの下を略したものであろうから、マミムジの方もこれに対して、ただマミとばかりいっているのかも知れない。そうしてもしそんな人が多くなると、末には二つの獣は別々のものとなり、新たに入って来たタヌキはもちろん、ムジナという語さえ、そのいずれか一方にやってしまうことがないとは限らぬ。東京周囲の農村などで、かりにあのタヌキだけを、ムジナだと心得ている人があるとすれば、それは多分こういう順序を経たもので、そのためにタヌキしかムジナと名のれないとなっては、今までのムジナが非常に迷惑する。


 そこでこれからの国語教育に携わる人たちに、参考になるような小さな結論をいうと、タヌキは標準語、すなわち動物学でも認められた名であるのみか、用いない土地はあるが知らぬ子供はまずなかろうし、その対象も一定しているに反して、ムジナはいわゆる学名でない上に、行く先々で物がちがい、折々人をしくじらせるから、これからはあまりはやらせぬようにした方が便利である。しかし親代々そう言っているものを、急にやめさせることもできまいから、もし親切があるならここでいうムジナのことだなどと、附け加えるのもよいかと思う。穴熊の方は狸にくらべていっそう普及せずまたたくさんの地方名があるから、これすなわち利根郡でササムジというものとか、この辺でマミムジまたはマミというのがそれだと説明すべきであり、ことにこの辺でいうムジナのことだと、言うべき場合が多かろうと思う。手数のようだが物に二つ以上の名があることを知るのは、若い人たちには面白く、自然にまた国語の改良に、興味をもたせることにもなるであろう。
 こういうめったに見ることのない生物については、正しい絵画の教育ということは大いに考えられてよい。問題のタヌキ・ムジナなどでも、まだ日本にはこの二つの語の、まったく行われていない土地がそちこちにあるのである。たとえば青森県などでも南部地方では、マミ、マミコという獣がいて、それがアナグマであることは先生たちだけが知り、またクサイまたはヤチグサイという獣がいて、よく夜路で人をだますなどと言われているが、これはたいてい越後でいうヤチムジまたはヤジ、すなわち本もののタヌキのことだろうと考えられているが、果して背に八文字・十文字の斑毛があるかどうかがまだ確かめられていない。その他にもなお秋田附近のマスチヤ、紀州有田郡のシバハシリ、信州小谷おたりなどでいうバンブク等、方言集にはただ狸の一種と説明しているものがいろいろある。狸の一種では話にならない。小さなことのようだが、ともかくも我々はなお無知なのである。無知は何としてでも次々に知にしなければならない。
(『上毛の民俗』昭和二十三年八月)





底本:「柳田國男全集 24」ちくま文庫、筑摩書房
   1990(平成2)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「定本柳田國男集 第二十二巻」筑摩書房
   1962(昭和37)年4月25日発行
初出:「上毛の民俗」煥乎堂
   1948(昭和23)年8月1日
入力:フクポー
校正:板東和実
2022年7月27日作成
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