瀬戸内海の島々

柳田國男




安藝大崎上島下島


 自分は大崎下島に於いて、此職業の女を招いて、仔細に内側からの觀察を聽取つた。今記憶して居る二三を記すならば、御手洗はもと神の社から出た名であるが、帆前船の時代に風待ちの湊として發達した。西やヤマジの吹く間は全盛だが、一旦コチが吹き始めると上がつたりである。といふわけは上り船は荷物ばかり多くても、船方の懷に金が無い。下りには金を持つて居るから、風を待つて居るうちは幾日も散財するが、流石順風が吹き出しては、繋つて居る口實が無いから皆出てしまふからである。以前西國の大名衆の海路參勤をした時代には、その船が風待ちをする間はえらい繁昌で、下々の者までは行き渡らぬので困つたことも多かつた。近年では世界大戰の終近い頃、石炭積みのダルマ船が何百ぱいと無く往來した時代で、其頃は三百人近い女が居たが、戰後二年目に私の訪れた時には七十人内外になつて居た。島の一番大きな置屋は、久しい前から念佛道場になつて居た。
 建築物ばかり元のまゝで、家が退轉してしまつたのである。此家には不思議な傳説が殘つて居る。九十九人より多くの女は置くことが出來ず、百人にすると必ず一人が死んだなどと謂つて居た。現今は勿論そんな大きなのは他に無い。大抵は五人か七人で、中には一人しか居らぬのもあつた。外から見て何人といふことを知るには、店土間の板壁に三味線がつるしてあつた。一見質素な商人のやうな表口に、こんな物を見るのは異樣であつた。
 家の主人をオトッツァンと呼ぶ。チョキは其オトッツァンが漕ぐのである。人數の僅かな家ではよその小舟に托することもある。通例は五人か六人で一艘を漕ぐやうであつた。日沒に海岸の方へ若い女が澤山行くのを不思議に思つて居ると、波止場に臨んで檢番といふものが在り之へ着到をつけて札を貰ひ、一番二番の順序を立てゝ出て行く。早いほど有利だから爭ひがあるらしい。客があつても無くても正十二時までは水上に居なければならぬ。夏の月夜などは大いによいが、寒い雨風には悲しくなるさうである。雨の降る晩はどうするだらうかといふと、漁夫の着るやうなトンザといふものを被るので、傘などは迚もさゝれぬさうである。沾れるから上げておくれようなどと下から聲をかけると、可愛さうに思つて呼んでくれるさうである。オトッツァンは賣れ殘りだけを載せて夜中には町へ歸り、朝になると再び迎へに行くのである。夜遲く馴染の船に往つて居るといふ場合も珍らしく無い。
 第二の客があるといふ合圖には喇叭を吹く。それを聽いて何番の誰といふ事が分る。昔はこれが太鼓であつたといふ。即ち新しい色町のモラヒに該當するもので、之を拒絶しようとする前の客は、それから餘分の花を拂はされる。撥一本が十錢などといふことも聽いたが、詳しい計算法は覺えて居ない。陸上の青樓にも、以前は此風習が普通であつた。或は馴合ひで太鼓を打つ者もあるといふので、一番に一度以上は太鼓打つべからずといふ規約なども出來たといふことを聞いた。此序にいふが大分縣の下之江などでも、寢具は女の持參するものである爲に、眞夜中に太鼓がなると、返すならば客も起きてしまはなければならなかつた。親船の中では其懸念だけはなかつたのである。伊豫の安居島なども、以前は爰とよく似た制度であつたらしいが、是は既に完全に滅んでしまつた。十三年前に自分が往つて見たときには、濱の人々にまじつて中形の白單衣を着た女が二人居た。但し、其浴衣にはつぎが當つて居た。

備中北木島


 神島かうのしまを以て始まる小田郡の列島の南端に、讃岐の鹽飽七島と對立して北木といふ島がある。島人は島の名を北の木島と解釋して、四國の側から命名したものであらうと謂つて居る。それほど元は木の豐かな島であつたのが、三四百年來の耕作の爲に、殆と島の姿を一變してしまふばかりに、農業の土地利用が激烈であつた。現在は主たる收入は却つて石斫りの勞働から期待せられて居る。漁業も一時は鯛網が盛んであつたが、損を續けて中止する者が多い。その經濟上の推移にも興味ある事實は尚幾らもあるが、爰に報告して見たいのは前號でも問題にした婚姻の制度である。島ではオミキヲ入レルと稱して壻方の友人又は先輩が、酒を持つて娘の親に挨拶に行くと、それからは交通が公認せられる。女の家には特に一室を用意して、それに女を宿せしめ、壻殿は自由に之を訪問する。此關係が隨分久しく續くことがある。子が生れさうになると大抵は男方へ引取るらしい。但し法規の手續を履むのは引移り以後であるらしい。此風習は決して北木一島の特色では無く、もとは此海上一圓のものであつたかと思はれる。神島などでも外から來た人が、此家の娘は嫁に遣つたといふのに、どうして何時見ても内に來て働いて居るのかと、不審をしたといふ話もあつた。つまり女が盛んに働く故に、成るべく永く生家では留めて置きたい人情が、自然に武家風の輿入婚姻法を、採用することを遲くせしめたのであらう。又此隣島の白石島などには、嫁を取る一方式として奪略の遺風がつい此頃まで普通であつた。勿論親たちも取られることを多くは豫期して居たのだが、それより以外の形が無かつたらしいのを見ると、是も古くからの一慣習であつた。





底本:「定本柳田國男集 第一巻」筑摩書房
   1963(昭和38)年9月25日発行
初出:「民族 第二巻第四号」民族発行所
   1927(昭和2)年5月1日
入力:フクポー
校正:きゅうり
2020年7月27日作成
2021年12月8日修正
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