『民間伝承』第十二号四頁の高木君報告に、当貫または苦楝木と書いて、アテヌキと呼ぶ地名が香取郡東部に多いとあるのは、自分には興味がある。苦楝は本名オウチ、すなわち古書に誤って樗の字を宛てている木のことで、一種その樹実の味苦いものが、薬用として知られているところからこう書くが、正しくは漢語に
楝とあるものに該当する。参考書の多くは『古事類苑』植物部巻七に引用せられているから、ここに陳列する必要はない。この木を方言でセンダンという土地は弘いが、千葉県では果して今何といっているであろうか。私の知っている限りでは、汽車で通ってみてこの県の
山武・
匝瑳二郡ほど、オウチの樹をたくさんに見る処は他にはない。香取郡の上総と続いた部分にも、少なくとも元はいくらもあったのかと思う。この楝すなわちオウチをアテの木ということは、大槻・松井二翁の辞書にも見えないが、京都でもかつてはそういった例があるのである。最近に三ヶ尻浩君の複製した文明十六年の『温故知新書』にもちゃんとそう見えているのみならず、また『
本草類篇』にもオウチ一名アテノキとあり、『山州名跡志』に引用した『八幡宮鎮座伝記』にもそうあるというから、香取郡に同じ名があっても少しも不思議でない。こんなただわずかな当貫というような地名からでも、気をつけて見ればまだいろいろのことが判って来る。すなわち地名はまた埋もれたる史料であったのである。
今日人も省みないアテという一語がかつては弘い地域にわたって、楝の和名であったことが一つの知識である。次には現在の沖縄県や
豊後・
壱岐などのように、もとはこの地方のオ列音も、よほどウ列音に近く発音せられていたらしいことが、また一つの新しい事実である。それよりも我々にとって重要なのは、このオウチの木が特に千葉県の一部において、地名となって伝わる程度に人の生活と交渉があったということである。これも今後注意していれば、少しずつはそのわけが判明するかと思う。樹名は非常にその木が珍しいか、または巨大であるならば、単なる存在だけからでも地名に採用せられ得る場合はあるが、オウチの木はその現状から推して考えると、どうもそればかりの理由ではなかったようである。
昔は京都ではこの木を獄舎の門に
栽えてあって、罪人の首を
斬ってこれに
懸けたことが、『源平盛衰記』その他の軍書に何箇所も見えている。正しい記録では『
水左記』の康平六年二月十六日の条に、
安倍貞任以下の首級を都に渡して、西獄の※
[#「木+惡」、U+2C11A、360-13]の木に
梟したとあるそうである
(古名録巻二九)。これも香取郡などの苦楝木と同じ樹であることは確かだが、この場合にはあるいはアテの木と呼んでいたのではないかと思う。『山州名跡志』の引用した
石清水のアテの木には、椏の字を書いているが、これは木篇に悪の字などはない上に、あまり感心せぬからこう改めたので、こんな和製の新字の生まれたのも、本意はやはり獄門の木であったためのようである。ただし獄門には必ずこの木を栽えていたというのみで、他にも同じ木があったという例はいくらもあるゆえに、自分は決してこの木の地名となっている処を、刑場などの跡だろうというのではないが、とにかくにその存在は特に注意せられる事情があって、土地の名にもなり記憶せられることにもなったろうとは考えている。それにはまたアテという日本語の、他の方面の用途をも考え合せる必要がある。アテは大工などの術語では、木材のよくない部分をいうことは前にも書いたが、九州南部の猟夫等の間に伝わっているのは、また一種特別の意味をもっている。すなわち家に血の
忌などがあるのに、
強いて山に入って行く場合がアテで、たいていはその結果が凶だが、また時あって法外に好い仕合せに出逢うこともあるといっている。こういう幾通りかの例を繋ぎ合せて行くと、あるいはアテの木を地名にしたもとの理由が、おいおいに明らかになるかも知れない。
今のところ必要なことは、幸いにまだこの苦楝木が無数にあるうちに、栽えたか自然に生えたか、栽えたとすれば何のためかを、現在の方言とともに細かく採録しておくことである。『古事類苑』に引用した松岡玄達の『本草一家言』には、上総州
海上郷にこの苦楝すなわち楝が多いとある。百数十年も前から、あの地方にこの木の多いことは、すでに知られていたのである。実は円く味は苦く、樹皮は
細膩にして青い。本草のいわゆる青皮楝だとある。しかも薬用としてこれを売り出すのでなく、ただ土人がこれを用いて
木履を製するばかりだといっているから、結局まだ特にあの方面にこの木が盛んに繁殖している原因は明らかでないのである。
牛込の自分の旧宅にも、以前苦楝木のかなり大きいのが数株あった。もう三十年にもなるが松岡映丘が、平
重衡最期の図を描くといって、この木の花盛りを写生に来たこともあった。その頃からもう私は、このアテという樹名に不審を抱いていたのである。東京郊外にも折々はこの木を見かけるが、地名になっている例はまだ気がつかない。今一度こういう機会にこれを各所在地の問題にしてみたいものである。
(「民間伝承」昭和十一年十月)