親方子方

柳田國男




第一


 親といふ漢字を以て代表させて居るけれども、日本のオヤは以前は今よりもずつと廣い内容をもち、之に對してコといふ語も、亦決して兒又は子だけに限られて居なかつた樣に思ふ。その證據は既に幾つか發見せられて居るのだが、詳しく其一つ/\を解説する時間が無い。爰には只主要なる或問題を敍述する序を以て、一通り個々の要點に觸れて置くに止める。
 オヤとコとの内容が本來はもつと廣かつたらしい證據は文獻の上にも見られる。父母を特にウミノオヤと謂ひ、その所生の子女をウミノコと謂つた例は至つて多く、單にオヤといひ又コとのみいへば、其以外のものを含む場合が決して少なくないのである。萬葉集などの用ゐ方は人がよく知つて居る。或時には我思ふ女をコと呼び、又時としては兵士をもいざコドモと喚びかけて居る。沖繩の神歌にコロといふのも兵卒であつたり、人民のことであつたりする。決して家々の幼な兒には限らぬのである。文章以外の國語には、今でも特に小兒を意味するアカゴ・オボコの類が多く、一方には又個々の勞働者を、セコだのヤマコだの、アゴだのカコだのハマゴなどと、コと呼んで居る語が無數にある。さうして其頭に立つ者がオヤカタなのである。
 第二の痕跡としては現在の日用語で、弘く親類をオヤコといふ土地が、ちよつと方言ともいへない程多いことである。シンルヰとかイッケとかいふ日本語は、何れも漢學以來の新語であつて、この名詞よりも制度そのものは必ず古い。しかも其以前、所謂親類を何と呼んで居たらうかと尋ねて見ると、オヤコといふ以外には是ぞといふ心當りもないのである。イトコは我國の南北兩端で、この意味に用ゐられて居る區域が若干あり、或はオヤコよりも一つ古いかと思はれるが、其他はミウチ・ヤウチ・クルワ等、何れも局地的で大きな勢力は無い。之に反してオヤコの行はれて居る面積は、今でも日本の約半分で、近松の淨瑠璃にもあるといふから、以前は京阪地方さへさう謂つて居たのである。

第二


 試みに現在方言として報告せられて居るものを列記すると、東北は青森以南の六縣とも、親類をイトコといふ僅かな區域の外は、大體に皆オヤコを用ゐて居る。或はウミノオヤコと區別する爲に、オヤグ又はオヤグマキと謂つて居る處もあるが、是は分化であつて、會津地方の如きは却つて實の親子の方をオヤグと發音し、石城地方では是だけをジシンノオヤコとも謂つて居る。それから越後でも中頸城の桑取谷、信州でも諏訪の湖畔、美濃でも西境の揖斐山村には少なくとも此語があり、甲州にはオヤコに二通りの意味があつて、音抑揚で之を差別して居るといふ。關東平野ではもう少なくなつたかも知らぬが、民謠の中にはたしかに殘つて居り、靜岡縣は全縣を通じて、今なほ親戚をオヤグ又はオヤコと謂ふ者が多い。是で先づ日本の東半分は、曾てオヤコが親類のことであつたと、推定することが出來るのである。
 それから外の地方では、只飛び/\にしかまだ採集せられて居ないが、是とても決して少ない數でない。自分の書留めて置いたゞけでも、列記が少しうるさい程ある。伊豆七島では三宅島が全部、尾張では知多半島の一部、三重縣では志州和具の漁村、日本海側を尋ねると、若狹の常神で嫁の里をオヤトコ、是は或は別系統とも考へられようが、丹後の與謝郡誌にはオヤコは親類のことゝあり、伯耆の大山山麓の村でも、イッケといふよりもオヤコといふ方が通例だとある。出雲は各郡ともに親類をオヤコ、殊に八束郡などは本家分家の一團がオヤコで、或は是をオヤコマといふ村もある。隱岐島の訛言調査表には、生みの親子をオヤクといふとあるが、是も會津や伊豆と同樣に、別に親類を意味するオヤコがある爲かも知れない。
 瀬戸内海の沿岸では、周防の祝島に親類のオヤコがあつたのみで、他は未だ多く知られて居ない。九州でも南北の離島、即ち北には壹岐島に同じ語があり、其範圍は最も弘く、牛の預け主と預かり主との間柄をさへ、牛のオヤコと謂つて居る。南では大島郡十島村の惡石島に、汎く親類縁者をオヤコといふ例を見るのみで、他の内陸の村々では今までは報告せられたものが無い。喜界島昔話に依ると、むかし或漁夫が河童とオヤコしたといふ話がある。是を「仲好しになつた」と解説して居るが、多分は同じ言葉で、そのオヤコの關係が、人爲に結ばれることを意味するものであらう。沖繩の島々にはオエカ又はウエカといふ語がある。親族だけでは無く、親類附合ひをする者が皆ウエカで、村々互ひに相手を定め、旅行の折などに宿をしてもらふ間柄をもさう呼んで居る。さうして此ウエカも亦オヤコの音韻變化であつた。

第三


 かゝる廣汎なる全國的一致は、私たちから見れば到底偶然には起り得ない。假に文獻の上には傍證が無くとも、何か親類をオヤコと謂はねばならぬ理由が、古く我々の社會にはあつて、それがもう不明に歸しかゝつて居るのである。父なり母なりは無論重要なるオヤであることに變りはないが、それは只最も自然なる一種のオヤといふに止まり、別に其以外に色々のオヤと、是に對する色々の子の存することを、以前の思想に於ては少しも異としなかつたので、爰には單にそのオヤとコとを以て構成した一群の名が、今日我々の親族と名づけて居る或特定人の續き合ひと、どれだけ精密に符合して居るかゞ、問題となるばかりである。民法で新たにきめられた「親族」の範圍限界が、國民の久しく口にし又は心に念じて居る親類もしくはオヤコの實際と、同じかどうかといふことは毎度考へさせられる。古い親類と稱して村を共にし、苗字を同じうする一門の間には、殆と血の繋がりは判らなくなつてまで、力になり合つて居る者があると共に、一般に縁組によつて結ばれた家々の交際は、案外に早く絶えて行くやうである。人が一身の爲に求め設けた親子の契りは、假に其間に厚薄濃淡の差等はあるにしても、家總體を拘束する力としては、一段と弱いものなのでは無かつたか。もしもさうだつたとすると、オヤコを親類といふ語を以て置き換へた時代には、今日とは大分ちがつた親族觀の、行はれて居たことが想像せられると共に、一方には又其前後を通じて、我々のオヤコナリの習俗にも、目に見えぬ推移の常に行はれて居たことが考へられる。それで私たちは今までの制度史家のやうに、單に起原を究めて滿足して居ることは出來ないのである。
 もつと具體的にいふと、オヤの種類が數多くなり、言葉の一貫した意味を把へ難くなつたのは、その一つの最も古く且つ最も自然なるもの即ち生みの親が、追々と有力で無くなつて、何か其缺陷を補填する必要が生じた爲だらうと私は思つて居る。家が分れ/\て小さなものになつてしまふと、以前の大親の具足して居た機能は、片端しか生みの親には傳はらない。子どもは勿論のこと、其親自身も亦世渡りの上に、色々の親を必要とする場合があつたので、是が或地方で地主を親方といひ又地親と謂ひ、村の名主や門閥の家を親樣といひ、町では借家の持主までをオホヤといふに至つた原因だつたやうである。ところがそれでもまだ足らぬので生活の變化に應じ、次々に算へきれないほどの幾つかの親が出來て居り、今でもまだ少しづゝは出來ようとして居る。斯んなものまでオヤかと驚くやうなものもあるが、もと/\我々の大親は生みの親とは限らず、さうして又あらゆる役目と力を一身にもつて居たのである。多分は禮をイヤ、敬をウヤマフといふなどと同じ語で、眼下の者の之に對する應答の聲から、導かれた語であらうと私は想像する。祖をイヤといふ例は有名な阿波の祖谷山の地名にもある。豐後の方言では伯父をイヤ、紀州の日高郡などには巡査や林務の役人を、イヤサンといふ新語も出來て居る。つまりは中世以後の日本人は、父母以外に別にイヤする者の幾種類かを、もたねばならぬ生活事情に置かれて居たので、それがどういふ親であつたかを尋ねて見ることは、間接には時代の變化を明らかにする手段ともなるのである。

第四


 この問題を討究しようとする者が、文書記録の史料を目ざすといふことは、必ずしも絶對にむだな勞苦ではない。物語や軍書の間に散見する切れ/″\の記事を拾ひ集めても、いつ頃からこの風習が段々と盛んになつて來たかゞ判らうし、もつと手輕な手段としては、たとへば續群書類從などに蒐録せられて居る諸家の系圖を見渡せば、如何に多くの生みの子で無い者が、猶子養子として或有力者の、子の列に加はつて居るかゞ、一目で承認せられるだらう。さうして斯ういふ武士といふ名家は、何れも他の一面では大きな田舍者なのだから、所謂オヤコナリの制度が、彼等ばかりの獨特の慣行でなかつたことも、ほゞ安全に推定し得られる。しかし困つたことにはこの種の史料は簡略で、その必要が親の側に在つたか、たゞしは子の方にそれを熱望すべき事情があつたかの、内部の動機までは示されて居ない。其上に戰國以後、家が小さくなり社會の環境が改まつてから、新たに又色々の種類の假の親子が、右に準じて増加して來たことは、よほど氣を附けて居ても本には書き留めて居るものが尠ないのである。それで結局は自分等が今試みて居る樣に、現在まだ殘つて居る土地々々の事實から、元に溯つて成立ちと沿革とを、考へて見る他は無いといふことになるのである。現在の風習は新舊が入り交り、しかも其大部分は制度として公認せられても居ない。從つて一地域限りで幾らでも勝手に變化し得られ、是を國總體の古くからの事實として、引用することは危ない樣に、素人ならば考へるのも無理はないが、實地に當つて見ると驚くほど多くの共通點をもち、又大よそきまつた方向へしか變化しては居ない。是は取りも直さず日本人が一つの種族であり、國の生活約束が多岐複雜なもので無かつたといふ、うれしい又頼もしい定理の表はれだと私等は思つて居るのだが、それを明白にする爲にも、今日はまだ澤山の事實を排列して見せなければ、外國の學者が本で教へてくれることを、信ずる程度にも信じてはもらへないのである。一つの學問の創業期に生れ合せると、説く者も説かるゝ者も共に餘計な苦勞をしなければならぬ。今日の世相は甚だしく紛亂して居る。是を切り開き且つ整頓して、新しい時代の生き方を示す爲には、假に當面の入用と興味が無い場合にも、なほ練習として斯ういふ過去の見方を覺えなければならぬ。ましてやこの全集の讀者たちに取つては、是は歐米の書物の中からは學べない、國民性といふ奧床しい寶の庫を、開くべき鍵の入つて居る引出しであつたのである。

第五


 現在の日本の考へ方によると、オヤははつきりと二通りの種類に分けられる。その一つは無論生みの親、又實の親とも謂つて居るもので、殘りはまだ一括した好い名は無いが、通例は義理の親といふのが、一ばん故障少なく全體を包容し得るかと思ふ。但し是には義理とは何かといふ問題が附いて※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて、解説がやゝ面倒になるから、最後まで採用を延期しなければならぬ。もつと簡單な別の稱呼としてはカリオヤがある。可なり廣い區域に亙つて行はれては居る樣だが、土地によつてその内容に少しづゝの喰ひちがひがあり、たとへば信州の上伊那で、男女婚禮の間際になつて親と頼み、式に列してもらふものだけをカリオヤと謂ふに對して、下野安蘇の山村や九州の二三の島では、特に幼兒の育ちの惡い場合に、他人を頼んで親になつてもらふもの、普通に拾ひ親又は養ひ親などといふのをカリオヤと呼び、或は其親から名を借る故に、カリオヤだと解して居る土地さへある。さうして大體にこの第二のオヤの最も重要なもの、即ち配偶者の父母を意味するシウトオヤ、又はママオヤや民法の養父母などは、何處でもカリオヤといふ中には入れて居らぬやうである。是は恐らく此名稱の起りを、假の親子と解した近世の語感からであらうが、果してさういふ意味で出來た名であるか否かはまだ疑ひがある。現に斯うしたオヤコの關係が、死ぬまで續く例も稀でなく、又筑前の志賀島などには、親を借るといふ言葉もあつて、その場合には實の親の喪には服せず、借りた親の方の爲に別火をするのである。
 或は又契約親といふ名稱も、相應に弘く行はれて居る。オヤの發生を自然と人爲との二つに分けるならば、是なども紛れの無い適切な名のやうに思ふが、やはり繼親や舅親までは含まぬのを常として居る。土佐などの契約親は養ひ親・拾ひ親、又は神申し兒の場合までを包括していふさうだが、出雲石見の農村では一種の主從契約、即ち上越後で子分と謂ひ、又は他の地方で名子といふものになつた場合、その相手に限つて之を契約親といふ例もあり、結局現在のところでは屡※(二の字点、1-2-22)誤解があつて、まだ之を全體の名にすることが出來ぬのである。
「子にする」といふ言葉は今でもよく使はれ、其子を取子といふ語もなほ方々に殘つて居るが、之に對する親の名は無いやうである。壹岐島方言集を見ると、あの島あたりではケーナリオヤといふのが、生みの親で無いオヤの全體をさす名になつて居る。方言ではあるが是はちよつと面白い言葉で、ケーナリのケーはカイナデだのカイツクラフのカイと同じく、九州では殊に盛んに行爲動詞の頭に添へて、其動詞の意味を強める用に供して居るから、是もわざ/\若しくは心有つて、なつた親といふ意かと思ふ。私が前に使つたオヤコナリといふ言葉なども、現在はもう殆と耳にせぬやうだが、文獻の上には幾らも現はれ、且つ右の如き例があり、又南の島々にはオヤコスルといふ語もある以上は、之を人間が出生の後に、第二第三のオヤコ關係に立つ場合の全部を引きくるめた名稱として差支へなく、更に又之に由つて生じた新たなる親と子をカイナリオヤ・カイナリゴ、或は少々變にひゞくがナリオヤ・ナリゴと、呼ぶことにしたならば手輕でよからうと思つて居る。

第六


 このオヤコナリの機會は、以前は主要なるものが人生に二度あつた。それが追々に三度となり、四度五度となつたのは變遷である。二度といふのは生れた當座に一度、次には第二の誕生とも言はるゝ元服成人の際であつた。親の選擇は通例は子の側からだが、最近調査せられた對馬の村々には、親の方から望んで來る慣行も稀でなく、伊豆の新島のモリオヤなども、良い家の子の爲には親になりたがる者が多かつたさうである。緑兒の場合は固よりのことだが、成年の親子なりでも本人の意思は多く働かず、背後に生みの親の判斷があつて、指導して居たことは確かであつた。それが後々は家と相談をせず、自由に單獨に親を求める者を生じたのである。ごく大まかな見方をすると、年齡の早期に結ばれる親子關係ほど、慣習としての發生も早かつたやうに思はれるが、その點は勿論容易には斷定が出來ない。爰にはたゞ假に子の年頃の順序によつて、現在知られて居る限りのオヤの種類を列擧して見ることが、覺えやすく又私の説明にも都合がよいのである。

フスツギオヤ

 奄美大島には此名のオヤがある。フスはホソと同じで臍の緒のこと、ツグとは切るの「めでた言葉」であつた。生れ兒の臍緒を切つてくれる人を親とするのである。其關係はどの位續くか知らぬが、産後七日目に庭に出して、始めて太陽と對面させる日の祝には、乳親とフスツギ親とを招いて赤飯を供することになつて居る。

トリアゲオヤ

 此名稱は關東以西、九州の南端まで飛び/\に行はれて居る。産婆が或種の老女の職業になつてからも、なほ若干年の間は節供や歳暮の音物を缺かさぬのが通例だが、殊に素人を頼んで生れる世話をしてもらつた場合は、之を親と呼びこちらを取上げ子といふのみで無く、實際にもその附合ひをして、死んだ時は叺入りの香奠を持參し(下總香取)、イロを着用し(信濃上伊那)又は湯灌に列席する(三河寶飯)。三河はさういふ中でも殊に此風習の懇ろな土地で、婆ばかりか其配偶者をも祖父のやうに尊敬し、向ふでも孫同然に愛してくれる。取上げは九州ではコズヱといふが、雙方共に産れ兒を人間として存在させてくれるといふ意味があるらしく、よく戲れ言に私が構つてやらなかつたら、おまへは育つて居なかつたのだなどと言ふさうである。備中小田郡では七日目の祝に、トラゲバアサンが赤兒を戸棚に入れて挨拶をすると、家の者が之を戸棚から出して、是でいよ/\家族の一員になつたことになる。其行事をもトラゲ即ち取上げと謂つて居る。トリアゲヂイといふ名は、上總の山武郡などに行はれて居る。是は分娩の世話とは全く關係無く、赤兒の幸福の爲に前以て頼んで置いて、長命で繁昌する家の門に棄てる眞似をして、其老人に拾ひ上げてもらふので、即ち次に云ふ棄子親と同じである。この時取上げ爺は赤ん坊を粉篩に入れ、それをふるふやうにして此家の種にしたといひ、又「井戸一つ門一つ厩一つ」といふ唱へごとをしながら、家の圍爐裏の三隅に其赤兒の尻を附ける。斯うして拾つて貰つた子はトリアゲマゴといひ、末永く親子の縁が結ばれる。上州の南部山村でも、この拾ひ親を産婆と同じに、取上げ親と謂つて居る。

チオヤ

 生れた最初には母の乳は與へず、誰か健康で仕合せのよい人を頼んで、其乳を飮ませてもらふのは通例の習ひだが、壹岐島でも之を乳親又は乳付け親といひ、盆正月の附屆けは勿論、以前は一生の間親子の交際をさせた。奄美大島では現在では乳の無い場合だけに頼むさうだが、やはり之をチチオヤと呼び、七日の祝には喚んで居る。盛衰記に中三兼遠が義仲を育てたやうに、乳母の夫が若君を我子以上に愛護した例は軍書に多く、又乳兄弟の沙汰も現代まで續いて居る。里子里親に至つては、心の底からも親子である。三河の北設樂郡ではこの親をシトネオヤ、シトネルは育てるの方言である。仙臺の附近では其母をスダテコガカ、スダテコとは里子のことをいひ、福島山形秋田の三縣では、是を又チシロコとも謂つて居る。

第七


ナオヤ

 名親或は名附け親ともいふ。日本人は以前二度以上、名を附ける習はしがあつて、二度目もやはり人に頼んで居た。記録には寧ろ其方が多く傳はつて居るかと思ふが、今まで無かつた緑兒に人としての名を與へる方が、常民には大切なことであつた。是などは生みの親が自ら當つてもよいのに、やはり親族故舊の尊敬すべき者を頼むことにして居る。信州遠山地方などは、古い大事な親族の血縁が薄くならうとする時、特に名親や仲人親に依頼して、結合を新たにしようとする風がある。嬰兒の名附けは通例は七日目で、この日の祝には名親からも弓や羽子板をこしらへて與へる。即ちこの交際は他の多くのオヤコも同じやうに、決して片務的のものではなかつたのである。名附け親といふ名は、成年式の改名の場合には用ゐない地方が多いが、島根縣などでは是をも契約親だのカナオヤだのとは言はずに、同じく名附け親といふ土地もあつたらしい。之に對してナゴといふ語があるといふが、是は勿論名主に對する名子とは別である。

モチオヤ

 肥前の平島では、厄年に生れた子には別に持ち親といふのを立てる。厄といふのは父が四十二、もしくは母が二十五、三十三などの年に生れる子で、親子の性が合はぬと育たぬものゝやうに恐れられて居たのである。奄美大島で是をセイオヤと謂ふのも、新しい言葉らしいが、やはり實の親との性が合はぬことが、占ひの面に現はれた際に之を頼むことになつて居る。或は之をオヤドリとも謂ふ土地があるから(伊豫西宇和)、モチオヤは即ち新たに持つ親といふ意で、別に其目途を表はした語でないと思ふ。

ミチオヤ

 といふ名が信州の南安曇郡にはある。是は厄年の男女が新たに親を持つことで、子供とは關係が無い。通例は正月の十四日、厄落しに氏神へ詣る道すがら、家から最も近い親戚を道親に頼み、そこへ立寄つて婚禮の時くらゐの御馳走を受ける。是も一種の呪ひであらうが、親を力にすることは前のと同じい。

シホトト

 鹿兒島縣は薩隅及び諸島に、特に鹽賣りを幼兒の親に頼む風がある。是を鹽トト又鹽テチョ(父)と呼び、親になつた鹽父は鹽を器に盛つて祝つてくれる。さうすると其兒が丈夫に育つと信ぜられて居る。七島の口之島などは鹽の行商は無いから、たゞ性の合つた村民を親に頼むのだが、此際も酒や米鰹節に鹽を添へて送つて來る。さうして其子を鹽子といふさうである。鹽が小兒を健全にすると認められた爲であらう。沖永良部でも小兒の童名にマシホといふのが多く、壹岐では弱い兒を道に棄てる形をして、頼んで拾つて貰ふことをシホダラカブリと謂つて居る。以前は實際又鹽俵に入れて棄てたものだといふ。

第八


ヤシナヒオヤ

 養子に娘の聟でも無く、跡取でも無いものが多かつたことは、今も東北の田舍には其名殘がよく見られる。九州の各地にもヤシネゴといふものは多いが、是も子育ての思はしくない家で、その次の子を丈夫な老人などの子にするので、沖繩の漁民にも其風があるが、無病な子ならば養ひ親はたのまない。或は其期限の婚姻の時までといふ例もあるが、多くはオヤコの縁は一生續くものと考へられ、其親の葬式には子や甥と同じに、籾一俵の香奠を持參し(薩摩出水郡)、又は正月に膳をもつて行く(大隅肝屬郡)。壹岐では神樣の子にしてもらふ者も、是と同樣にヤシネエゴと謂つて居るほどで、此語の用ゐ方は可なり弘い。ヤシナフといふのは本來は物を食はせることであつた。だから信州の松代などでも、子供の百二十日目の喰ひ初めの祝に、以前は家來筋の者を養ひ親ときめて、子と竝んで本膳に坐らせた。さうして其親子の間に祝儀の贈答があつた(朝陽館漫筆一)。しかし今日では斯ういふ養ひ親だけを、民法の養父母と區別して特にヤシネゴオヤと、呼んで居る土地も九州の方にはある。

ヒロヒオヤ

 拾ひ親といふ名は最も弘く、北は奧州から中部地方、近畿四國にまでも行はれて居り、從つて土地により若干の差はあるが、大體には厄年に生んだ子、もしくは弱くて成長の心もとない子を、豫て頼んで置いて、棄てゝ運のよい人に拾つてもらふのである。現實に棄てる形を今でもして居るのが普通で、或は少なくとも一晩は拾つた家に寢させて、次の日もう一度貰ひに行くといふのもある。全體に若干のユウモアを含んだ方式が履まれて居る。たとへば泉州の或村では、箒と箕を持つて道の辻に待受け、斯んな所にかはいらしい兒が落ちて居るなどと言ひながら、箕に掃き込む樣にして拾つて還る。それを改めてタノミを持つて貰ひに行くと、拾つた方でも赤飯を土産にして送つて來るなどといふのがある。信州の諏訪でも其子を盥に入れ、橋の下をくゞらせてから、拾つてもらはうとする家の雪隱の前に棄て、やはり箕と箒で取上げてもらふといふ。以前はこのオヤコの關係も一時的のものでなかつた。拾ひ子の祝の日には株内同樣の祝物を贈り、その子も亦盆正月の禮に來るといふ風は、今でも方々に殘つて居る。

ステゴオヤ

 山陰の二縣や長門の一部には、拾ひ親を棄兒親といひ、備前では又之を育て親とも謂つて居る。斯うして棄てられた子におすて・捨松・捨五郎などの、名を付けることも多い例で、或はその親の名の片方を分けてもらつて、永く名親として尊敬するといふ習はしもある。

ユキアヒゴ

 もつと思ひ切つた例は七日目の朝、寺參りの途で最初に行逢つた人を、男でも女でも親にする(薩摩甑島)。或は塞の神の祠の前で、向ふから來る三人目の人に、拾つて貰ふといふ例もある(隱岐島前)。伊豫の宇和島邊でもあて無しに道に棄てゝ、通りかゝつた最初の人に、拾ひ親になつてもらふといふ話で、以前は此風習が遙かに一般的であつたらしく、記録にも幾つかの大きな實例がある(赤子塚の話參照)。伊勢には子賣り岩又は名付け岩といふのがあつて、子を抱いて此岩の前に立ち、往來の人に名を附けてもらつたといふことが神都名勝誌等に出て居る。土佐では現在も辻賣りと稱して、病身な小兒をつれて道の辻に出て、最初に又は三番目に通りかゝつた人に買つてもらふことがある。其人は錢とか衣類とかを與へ、又新たに名を付けてくれ、さうして一生の間交際をつゞけるのださうで、是をもあの土地では契約親と謂つて居る。

第九


モリオヤ

 幽かな痕跡は他の地方にもあるが、伊豆の新島ほど顯著な例は無い。島では女の子は貧富によらず、一度は十五歳までに何處かの兒の守女をしなければならぬ。それを頼むには親類の者を使に立てゝ、もりの家の承諾を求める。滿三歳の誕生日まで、夜は還つて日中だけ來てくれる。大きくなつてまで兄弟以上の親しさを續けるだけでなく、其守子の兩親までが、モリットウ・モリッカアと稱して生涯親類の附合ひをし、婚禮の日などは母子とも列席してくれるといふ。

オビオヤ

 小兒三歳の祝に帶をくれる親(肥前江ノ島)。大隅ではこの帶親には叔母を頼むことになつて居る。

マハシオヤ

 岡山縣西部などでいふ。マハシは褌のことで、故に又フンドシオヤともいふ。十歳から十五歳までの間に、大抵は之をきめ、親の方より男には犢鼻褌、女の子には腰卷などをくれ、婚禮の際にも袴帶鏡臺などを贈つて來る。その親の葬式には男の子は棺を舁ぎ、女も之に相應する役を持つ。肥前馬渡島では之をヘコオヤ、其子をヘコムスコなどと謂ひ、葬送には棺を贈るといふが是はまだ少し心もとない。しかしこの二つの語は北九州だけでなく、山口縣の一部にも行はれて居て、何れも一生涯の附合ひである。佐賀縣には又キヤフムスメといふ子方もある。女子成年の際に脚布即ち腰卷をもらつて、親子の縁を結んだ者であることは一つである。

オヤカタドリ

 男女が年頃になつて奉公に出ることも、以前は親方取りと謂つた例が文學には見えてゐるが、家に居て單に新たなる親を求める場合も、同じ名を以て呼ぶ地方がある。山陰一帶の村々がそれで、たとへば宮津附近は男十七歳になると、名望家を親方に頼み魚を持參して禮に行き、親方から羽織着物などをもらふ。女も聟取り娘に限つて親方取りをする。鳥取縣でも男は十七、女は十三の年に親方取りをし、帶や袴を引出物に盃をもらふことになつて居る。それから以後の助け合ひは親身以上だといふ。隱岐の知夫島などはヨコヤ即ち神職を親方に取る者が多い。其關係は代々續くが、あまり幾人もの兄弟があると、又別の人をさがして親方に取ることもあつた。淡路島などでは以前は之を親取りと謂つて居た。親取りといふ名は生れたばかりの子にもあるが、親方取りといふと成年の際に限るやうで、是が一生のカリオヤとしては殊に大切なものであつたと見えて、別に目的を表示する名稱が無く、たゞ親方といひ親分といへば、此時きめた親に限るやうになつて居る土地も多い。

ヱボシオヤ

 烏帽子着といふ儀式はもう久しい間、平民の間には絶えて居るのであるが、この名稱だけは京都近江などに近頃までも殘つて居た(民事慣例類集)。跡取り息子に限つて次三男にはしなかつたといふから、可なり重々しき儀禮と認められて居たのである。親方取りをした息子をヱボシゴといふ名は甲州あたりでもきく。烏帽子を着せるなどは無論しないが、その親方がヱボシナと謂つて、新たに一つの名を與へて親子の關係を結ぶ習はしは、東北にも存する(陸前江ノ島)

カネツケオヤ

 女は嫁入りの前に仲人親の外に、別に銕漿附け親といふのを頼む處がある(信州上伊那)。何か問題の起つた時に口をきいてもらふ爲で、今でも三年間は五節供の禮、其後も續いて正月の禮はする。是が此地方の親分なのであるが、甲州では丁寧な家で普通の親分以外に、別に今でも此親を頼む例がある。成女が齒黒めを要件としなくなつて、此役目は追々小さくなつたが、宮城縣の南部でも仲人をカネツケノオヤとする例があり、對馬でも伯叔母が無いと、他人を特にこの親に頼むことになつて居た。能登の半島ではカネツケゴ、又はハグロゴといふ名があつて、元は齒染め道具一切を贈つてくれる親を頼んだ。もう其風習は絶えたけれども、なほ男の烏帽子親に對して、親分のことを齒黒親などと呼んで居る(鳳至郡誌)

フデオヤ

 筆親筆子は現在は手習ひの師匠弟子のみに解して居るやうだが、信州などでは女の親分、即ち婚姻にさしかゝつて後楯となつてくれる人を、さういふ土地があるのは銕漿筆のことゝ思はれる。讃岐小豆島では十五の年にきめ、後に婚姻を世話をしてもらふ親を、男のヨボシオヤに對して女はフデオヤと謂ひ、同じ例は附近の島々にも多い。現在は勿論銕漿は附けぬが、さうして世話になる子をフデコ、又はフジムスメとも謂ひ、更に飜つて其親をムスメオヤとさへ謂つて居るが(伊吹島)、やはり成女式の日に親に取る村内の有力者のことで、從つて其社會的意義は小さくないといふ。

ヤウジオヤ

 中國の一部で成年の女のカリオヤのことをいふ。是も銕漿附け道具を貰ふ習ひだつたといふから、乃ち楊枝親であつて、第二種の筆親と區別しようとしたものであらう。

第十


カネオヤ

 女の銕漿附け親を又カネオヤとも、カナオヤとも謂ふ例がある。日向の兒湯郡などでは初染の日に、夫婦揃つて繁昌する家の主婦を頼み、一つの銕漿わかしの器で齒を黒めるのがカネオヤであつて、對馬ともよく似た習俗だが、伯耆出雲などでさういふのは、大體は十三の年の暮に契約を結び、實際に齒黒めをする時よりもずつと早い故に、其名義がやゝ不明にならうとして居る。併し本來はその十三が成女式、即ち女の銕漿を附ける時だつたのである。カナオヤといふ名も同じことで、嫁入りに臨んで之を頼み、或は手輕に仲人に兼ねてもらふ土地もあるのだが(長門阿武)、出雲の海岸部や隱岐島前のカナオヤの如く、必ず十三の年に頼んで置き、且つ近頃は嫁入りの際にも齒を染めぬ爲に、單なる女の親方取りと解し、又は名附け親のことだといふやうになつた。隱岐では赤子を塞の神の前に抱いて行き、通りかゝりの三人目に買つてもらふ場合にも、なほ其親をカナオヤと呼んで居る。備中の阿哲郡などには、男の子にもカナオヤがあり、信州のハネオヤ同樣に婚姻まぎはにもきめ、又二三歳の幼年期にもきめる。親の方から所望する例も稀でないが、さういふ場合にも夫婦ともカナコにすることがある。出雲石見ではカナムスメといふ名が弘く行はれ、嶺を隔てた備後の山村には、是と共にカナムスコ、又カノムスコといふ語があつて、共に契約親に對する契約子のことだと謂つて居る。カナ親が單に齒黒めの道具を贈るだけでなく、定約の盃の際男女ともに、名を改めるのを普通とする土地では、是を假名親と謂つて名附け親と同じだとも解して居るが(石見那賀郡)、少しも名をかへない地域には、通用し難い説といつてよい。私の意見では、齒黒めは人生に重要な儀式で、是を管掌する親の力は大きく、カナ娘の配偶者にも波及したゝめに、後々は此名を獨立に男の子と親との關係にも、擴張することが可能であつたので、語原はやはり銕漿だつたらうと思ふ。

ハネオヤ

 信州では結婚の時に、初めて花嫁にかねを附けてもらふ親を、カネ親とも筆親とも謂つて居る例が多いが、村によつては是と似て權能の幾分か廣いものを、ハネ親といつて今でもまだ盛んに頼み合つて居る。言葉の起りは恐らくは是も銕漿であつたらうが、齒を染める風習は夙く止み、親を婚姻の際に頼む必要だけが永く殘つて、次第に別ものゝ如く考へられるに至つたのである。私の知つて居る範圍でも、男を子とするハネ親はたしかにあつた。是などは廣島縣のカナムスコも同じ樣に、新たなる擴張であらうと思ふ。契約親の入用は婚姻の時が最も痛切であり、それには女の銕漿親が、特に前々からよく働いて居たからと解せられる。このハネ親も嫁聟入りの式には必ず列席し、其以後續いて父母と呼ばれ、その實子と兄弟の交りをさせる。上伊那地方では、死んでもハネ親とは一緒に暮らせるが、生みの親とは障子一重を隔てなければならぬといふさうだが(蕗原一ノ五)、誰が言ひ始めたものか、考へて見ると中々意味が深い。

カミオヤ

 下野那須地方では、カネ親の外に更に髮親といふのを頼む。二組ともに必ず夫婦揃つた者でなければならぬ。上席はカネ親で次に髮親が列座して、花嫁に訓戒する。その席には花聟もともに列することになつて居た(郷土史話)。親と名のつくものを少しでも多く、こしらへて力にしようとした心持が窺はれる。

マユオヤ

 肥前江ノ島には眉親といふのがある。近頃では婚後二三年もしてから剃るのだが、是にも仲人以外の親を頼むことが稀でなかつた。眉を剃らぬ者が多くなつて此親はもう亡びようとして居る。

第十一


オヤガハリ

 伯耆米子附近では、婚姻の日の後見をする役に頼む親を、女の方のみカナ親・カナ娘と謂ひ、男の側の親は名附け親、又は親方とも親代りとも謂ふさうである。其親代りも成年の頃に契約して置き、當日は聟入りに同行し、嫁を迎へに行つてくれる。能登の穴水では男の子の元服、女の子の齒黒めに親になる者をオヤダイと謂ひ、此祝にも贈り物をする。是も多分は聟入り嫁迎へに同行してくれるのであらう。生みの親が是非とも代りを頼まなければならなかつた理由は、私は性の禁忌だらうと解して居る。他の事務には何でも口を出せるが、親が我子の配偶選擇に干與することは因習が許さなかつたのである。現在は既にその反對の傾向が強くなつて居るが、事實なほ此問題に觸れることは、實の親子の間では可なり苦痛である。カリオヤの必要の此際に認められたのは、必ずしも未來の利害の打算からではなかつたと思はれる。

ナカウドオヤ

 仲人を親に準じて大切にする風習は、現代の大都市にも見られ、其爲に出來るだけえらい人を物色することも流行であるが、その仲人は常に本當の奔走者ではない。この方には禮をしたり早くいゝ加減に手を分つて、名義の仲人のみ親にするのは、よほど亦ハネ親の方と似て居る。村の小さな家ではさう何段もの橋かけが無く、世話も引受けも一手にする故に、是がオヤコの附合ひとなるので、中には死んだ時の見送りは勿論、里と同列に子祝などの贈遺をする例もある。

ヤドオヤ

 青年男女の宿は今では多く衰へ、たま/\男子ばかりには殘つて居ても、もう婚姻の世話まではせぬ親が多くなつたが、それでも若者は最もその宿親を尊信し、むつかしい問題は是へ持込むだけで無く、親が進んで一肩入れてやり、又裁決しなければならぬ紛紜は多く、その大半は女出入りにからんで居た。仲人といふ語のまだ無かつた頃から、宿親は當然の仲人親であり得たのである。或は既にこの組織は無くなつても、何か障碍のあるたびに、臨時にさういふ若者の相談相手になる人を見つけようとする。甲州などの村々の親分は、以前の任務の大半は、好いたどうしを夫婦にしてやることであつた。宿親が一生交際せられるやうに、この親分子分もそれからは永く續いた。或は宿親を立てない若者宿もあるが、その場合は年長の膽力ある者が、自然に仰がれて若者頭の地位をしめ、又仲人親に近い職分をつとめた。斯ういふ場合には宿子仲間、即ち兄弟分の多數の意向が、暗々裏に背後の力になつて居たから、判斷と處置とを誤ることが少なかつたかと思ふ。

第十二


ヨリオヤ

 人が生れ在所の外に出ずにしまつた場合は、親はもう此以外に無くてもよかつたが、一たび世間に出て生計を新たにするとなると、今まであつた親は遠くしてたより難く、爰に第三期の親方取りは必要が生じて來る。近世種類を増加した親方が、多くは都市のものだつたことは此理由からである。桂庵や職業紹介所も親切であつたか知らぬが、是は就職以前の生活までは見ついでくれない。だから貧困の者はもう一段と有力な庇護者を必要とするやうになるのである。以前の勞働者の寄場には親があつた。大きな權能を以て意の如く人を働かせる代りに、特殊の用途のある者は可なり永くたゞ養つてくれた。人入れ稼業などといふ侠客の家に、無頼の命知らずが子分となつて寄食したのも其爲で、弊ばかり多くはなつたが他所の者の集まつて來る土地では、無くてはならぬ制度だつたといへる。是が複雜に變化して鷄鳴狗盜、今日の制御し難い幾つかの團體は生れたのである。

ワラヂオヤ

 寄親といふオヤは田舍にもある。是と都府にある同名のものとを比べて見ると、大よそは其成長の經路がわかる。村の方の特徴は第一に外から來て住まんとする者の少ないこと、第二には勞務の種類が幾らもなくて、すぐにも仕事があり、さう大きな親方によつて庇護せられる必要の無いことである。信州には草鞋親といふ言葉がある。是だけでは不明だが日本の全領土に亙つて、他處から村に入つた者の先づ落着いた家を、草鞋脱ぎ場と謂ひ又濡れ草鞋と謂つて居るのを見ると、其意味は隱れた所が無い。濡れ草鞋は即ち漂浪者の生涯である。それを脱がせて村民竝みにしてくれようといふ引受人があれば、是を親と頼むのは自然の情でもあり、又必要なる順序でもあらう。

ナゴオヤ

 前の名附け親に對する名子とは、日本では一般に保護者を持つ農勞働者を名子と謂つて居た。その名子の起りは獨立農の零落、奴婢の後裔などと色々あらうが、親の無い子や凶年に養ひ兼ねた子供を、小さい時から家に養つて、働きぶりによつて家を持たせ土地を預けて、主從のやうな關係を新たに作ることもあつた。豐後の玖珠郡ではさういふ名子の親方を、特に名子親と謂つて居る。オヤコは只單なる相互扶助よりも、寧ろ斯ういふ勞働組織に伴なふものゝ方が、古いのでは無いかと私は思つて居る。

タスケオヤ

 斯ういふ名の親は、古くからも少しはあつたか知れぬが、現代は益※(二の字点、1-2-22)種類を増加しようとして居る。昔の助け親は孤兒が救はるゝとか、道に飢ゑ海に漂うて居たのが連れて來られるとか、事實命の親といふやうなのに限られて居たのが、近世になると喧嘩を仲裁してもらつたり、借金を片付けてもらつたり、乃至は失業の苦しみを濟うてもらふといふやうな、小さな助け親が幾らも出來る。恩を施してやがては報謝を求めようとするやうなけちな親方が、國の政治を蠧毒するのも、根本にはこの歴史的なるオヤコの義理を基礎にして居るのである。

ショクオヤ

 職親の歴史は比較的古いが、その中では土方とか坑夫とか、又は露店商などいふものに特別の組織が出來て居る。しかし其他の色々の職人でも、又は今少し高尚な藝術でも、其名が無いばかりで良いにつけ惡いにつけ、親子兄弟分の感覺で繋がれて居らぬものは無いといつてよい。社會の倫理の是によつて、公々然と制限を受けて居ることは、もしも認めない者があつたら到底この時世は説けないだらう。

結論


 親方が最初から吉凶歳時の往訪や、贈遺交換などを繁瑣にする爲だけに、設けられたもので無いことは此言葉の用法からでもわかる。我々のよく使ふ普通のオヤカタは、職人の頭のことだけれども、江戸期の文獻によれば商家の主人も、手代丁稚等の親方であり、武家でも奉公人は失禮で無しに、抱へ主を親方と呼んで居る。東北では地主の大きいのも親方であると共に、農家の亭主を雇人がさういひ、更に全國に亙つて總領の兄を、親方と謂つて居る例は一ぱいである。嫡子が一家の農作業を、指揮する權能を付與せられて居た結果と考へられる。オヤコが一つの共同勞働團で無かつたら、親を認める必要はもと起らなかつたのである。一つの場合はカイナリオヤ、即ち人爲の親の最も自然に近いものにシウトオヤがある。此語の本來の意味はまだ誰も考へて居らぬ樣だが、洽ねく地方の語を調べて比較して見たら、恐らく是が勞働から出た名であることが判るであらう。現在は信濃の下水内郡などに、舅をシゴトヂッサ、姑をシゴトバアサと謂ふ例がある。即ち聟は其家から働く女をつれて行く代りに、此縁によつて妻の家の勞働の、一部分を負擔して居た名殘かも知れぬのである。近世は家々の生産が孤立し、オヤコの間にも協力の機會は少なくなつたが、それでも家作りとか山伐りとか、其他臨時の大作業だけには、出て行つて大きな手助けをして居る。個人の知能が今少し低かつた時代には、中心に一人の「敬ふべき者」の存在を、必要としたことは疑ひが無く、それが又武家としての軍隊編制の、日頃からの練習ともなつて居たかと思ふ。家の分裂といふことは少なくとも農業山村に取つては、至つて近代の變化に他ならなかつた。しかもさういふ再合同をせずとも、各自が自立して行かれる多くの條件が具はつて、人はたゞ經濟以外の目途の爲だけに、主として今までの團結感の、ある部分だけを保存しようとしたかと思はれる。死んで墓場に行くときの伴の數、もしくは年に何度といふ身祝ひの日に、同じ飮みもの食ひものを共にする者が、多い少ないなどは何でもないことのやうだが、我々は只この無形の滿足の爲にも、自ら所望して色々の親方となり、澤山の子分契約子を集めるのに努力した。だから是がもし社會上の地位を築き、政治の力を養ふに便だとわかると、次に更に如何樣の種類の親方制度を發明するか知れたものでない。日本がまだ純乎たる個人主義の國に、なり切つて居ないといふことは是で明らかになつた。この上は弊害を警戒してそれが惡者によつて濫用せられるを防ぐべきである。前車の覆轍は既に眼前に横たはつて居る。博徒の子分は理非を辨へずに、ひたすらに親方の指揮に服從する。それがある故にこの古來の慣行を、けしからぬものだと斷定するは過ぎて居る。





底本:「定本柳田國男集 第十五巻」筑摩書房
   1963(昭和38)年6月25日発行
初出:「家族制度全集史論篇第三卷親子」河出書房
   1937(昭和12)年12月20日
入力:フクポー
校正:津村田悟
2025年1月1日作成
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