兒童の生存權に就ては、私が云ふまでもなく民法の原則によつて世界中非常な變遷を經て今日の状態に至つてゐるが、その生存の權利それ自身がいつから始まつたかはつきりしてゐない。それがどう云ふ風な變遷を經て、又如何なる觀念によつて今日までに至つたか、それを一通り話して見たいと思ふ。
人間が一人前になつたと云ふ一つの標準に成年式と云ふものがある。日本では兵役の關係があつたと思ふが、近年になつて民法制定の際にこれを大變高く引上げた。その式を擧げる平均年齡は十五で、この年に元服して始めて一人前の仲間入りが出來、生産にも分配にも男一人と勘定されるほか、一人前として結婚もし得るに到るのである。
元服の諸條件には前髮を取り、肩上げを下し、褌をかゝせ、名前を變へるなど目立つてそれとはつきり判るものがあつたが、今日ではさうした外形的變化が微弱になつてしまつた。然し注意して見ると、それでも未だその痕跡が殘つてゐる。例へば石川縣の白山下邊りでは、十五の前後には必ず親戚知己を呼んで宴會をする。それは武士酒とか前髮酒とか云つて元服の名殘りを留めるものである。又現代では褌をかくと云ふことが段々廢つて來て、いつ元服したか少しも判らない樣な状態であるが、これは農村などへ行くと、今でも親の氣にする可成り重要なことで、女の方でも大人になつた時の徴候は重要に考へられてゐる。そしてその時の祝を褌祝ひとか、たぶさき祝とか、兵兒祝ひとか色々な名前があるが、不思議なことには關東でも關西でもその時には一樣に叔母が褌を呉れることになつてゐる。それがどう云ふわけで叔母がくれるのか、又呉れるのは父方母方いづれの叔母か私は未だはつきり突きとめてゐないが、兎に角「叔母呉れ褌」と云ひ、信州の南部邊で聞くと、十五でそれを叔母が呉れる所と、十三で呉れる所とがあり、男でも女でも叔母が呉れることになつてゐる。この他に殘つてゐる慣習に烏帽子親と云ふのがある。この烏帽子親は假親の一人で、一生の間交際をして實の親より義理が強い。この親が即ち名付親で、これが通例兵兒親、褌親となり、假りに叔母さんがそれに頼まれると、女ならば母方から、男ならば父の方から選ばれて、褌の綺麗な新しいのに熨斗をつけて送る所もある。
その結果として元服した者はあらゆる方面から家の附屬物としての待遇から拔け出し、親と子と同じやうになるのであるが、この他に元服前の人間が、一つの物の生命となつて行く一つの階段がある。
子供が十になつた時を「十子」と云つて、そこを一つの境目として居た。もつと重要なのは、數へ年七つ、つまり小學校へ入る境目で、これが一つの階段になつてゐる。この階段を重要視した制度が全國的に廣く殘つてゐる。私の子供で實驗したが、東日本全體によく目に着くのは幟の例で、私の子供が七つになつた時、此月からはもう鯉幟は立てないと云ふことを祖父さん祖母さんから云はれて、私も子供と一緒に寂漠な感じのした記憶がある。これを通例たてをけと云ひ、これが無くなると子供ありと云ふ標識がなくなるのである。又奇拔なのは信州邊りに見かける習慣で、七ツ坊主と云つて七ツの時一遍だけそれまでは前髮のお河童にしてゐた髮を剃つてしまふのである。七ツまで坊主にしておく所もある。愛知縣殊に尾張へ行くとやつはづきと云つて「やつ八月」とも云ふが、數へ年八ツになつた時は宮詣りをしてそれを境に「八ツ大人」と云つて、八ツから大人だからやんちやを言つてはいけないと云ふ言葉が殘つてゐる。然し私の知る小さな範圍では大體は七つが單位で、東京では七五三と云ふ形があり、茨城縣の霞ヶ浦の周圍の地方、鹿島郡、行方郡などでは「おしめえり」と云ふことがある。注連繩を持つて神樣に參ると云ふことだらうが、いゝ着物を着せて町の氏神樣に參ることを「おしめえり」をすると云ふのである。さうするとそれから個人として獨立して神樣の氏子として認められ、氏子の一人として祈願が出來ると云ふ意味ぢやないかと思ふ。大體に於て氏子になると云ふことは大分早い時期に於て是非一通りやらなければならないものである。
七ツ以前に子供が人間として承認された時代も幾つかある。然しこれには七ツ子の時の樣な際立つた境目はない。よくこの子はみず子だからと云つて葬式の場合簡單にする例がいくらもある。みず子と云ふのは生れて誕生前を云ふ。ごく小さい子の事を云ひ、坊さんを頼まないで葬式をやるのである。沖繩あたりでは未だにそれが見えてゐる。現代では七ツ八ツになつて墓場を與へられない子供はないが、然し早産で生れて二日位して死ぬ子の處理の仕方は大變違つて居る。又餘り愉快な話ではないが、子供が生れた時これを遺棄する習慣がある。大體日本の百姓家などでは床を剥がしてこれを棄てるのである。四十何年も前私の十三、四の頃の記憶であるが、子供を殺すのではない、育てないのであつて、子供にしないと云ふので埋めるのである。その子供を埋めるのは家の中で、大抵は父親がやることになつてゐた。東北のずつと北の僻村の私の知つてゐる舊家で、建築をし直すので家を取壞して見た所、恰度地殼臼が置いてある所から入れ物に二杯程子供の骨が出て來た。これはどうしたのかと云ふと、同じ場所に何時も埋めてゐたからである。兎に角昔から地殼臼のあつた所へ埋めてゐたやうである。所が泣聲を立てるとそれが出來ないで、泣聲を立てない中にそれを始末しなければならない。私が目撃した人間はせむしになつた非常に見苦しい女であつたが、それは始末中に泣き出したので連れだしたと云ふ話を聞いた。これを隱語で白牡丹と云ふが、明治初年の地方長官はこれを禁止さすのに苦心したもので、それは善政の一つになり、私の知つてゐる千葉縣知事の柴原などと云ふ人はその禁止に最も意を注いだ人である。
然しこの悲慘な習慣は、生活的な厄介な問題から來てゐる。關東地方を脅した天明の大飢饉は、食物の缺乏の爲農民に子供を多く生むまいとする習慣をつけてしまつた。それで子供を生かす、子供の生存を承認すると云ふことが、元服の少年を一人前にする時の社會的儀式よりどれ程重大であつたか知れない。今日我々が見かける子供が宮詣りをし親類

次に取上婆が重要な意味を持つて登場する。これは所によるとかなり大きな權力を持ち、婚禮の時は親類の席に列し、盆暮には挨拶し、冗談だが「私が取上げなかつたら貴方は今ゐたかどうか判らないぢやないか」と力んで俺を大事にしろと云ふやうなことを云ふと聞くことがある。これは矢張り捨てるものを俺が拾ひ上げてやつたと云ふ言葉でこれは生存の承認の重要なものである。中國の石見、出雲備前邊りの一部では取上げることを拔上げると云ひ、九州では一般に「かうぜん婆」と云ふ。兎に角子供の生存と云ふことに關與して居つたのであるから、名前が親の片割となつても不思議はない。それと非常によく似てゐるのに取上親と云ふものがある。取上爺とも云ふ。これは四十二の二つ子とか、子供が生れても生れても死ぬ家などでは他人と約束して一度その子を捨てる。するとその家人が出て來て拾ふ、つまり拾ひ親でこれはかなり廣く行はれてゐる。そして拾つた方は、扇子をつけたり着物を着せたり、お金を添へたりして返すのであるが、その代りその拾ひ親とは一生の間親の交際をし、假親、義父の一人とするのである。いづれも皆子供の生存を承認するのみならず結婚にまで參與するわけである。
その他子供の生れる前からその生存に就いて關與する例がある。例へば九州の南邊りでは「はなみぐるま」と云ふのがあつて、生れる前に里方の者がやつて來て宴會をする。食物を送つてお祝ひをする。さうするともうその子供は殺すことは出來ない。これを山梨では「ゆうぢやく祝ひ」、靜岡縣では「でんぎよう祝ひ」などと云つて、この子供は本當に生存權を承認せられた子供と云ふことになるのである。
以上は私の調べの一端であるが、斯う言ふ風な意味で行へば、子供の生存權がどんな風に扱はれてゐたかその變遷が判る。農村などでは子供を豫算みたいに生れてから調節する習慣があるが、それは實は經濟問題からである。そして、事實に於て經濟力を考へないで六ツ兒を生んだり、或は子供を十二人も十三人も育てたから祝ひをするなどと云ふ事は過去のものとなつてゐる。現在では生活苦の女が子を連れて自殺するのを世間で「あの女が自殺する位なら連れて行くのは尤だ」などと云つて一種のモーラル・ジャスティフィケーションを持つてゐる。若しそれが「自分が死にたくても子供迄連れて死ぬ奴があるか」と云ふ時代であれば、今日みたいに親子心中が盛に起るまいと思はれる。要するに親子心中を可能ならしめてゐる一つの原因は一種の流行もあるだらうし、又はヒステリーもあるだらうが、今一つの原因は社會が小兒の生存權を與へなさ過ぎる爲だらうと思ひ、そこに我々が考へなければならない背後の大きな問題があるのではなからうか。