日本の結婚風習は將來どう變つて行くだらうか。又どう變つて行くのが國總體の爲によいだらうかを考へて見ようとする人の參考に、今まで採集せられて居る現在の事實を、整理し且つ排列して見ることにする。我々の慣行は過去數十年の間、曾て一度も手の裏を返すやうに、次の新しいものへ飛び移つたことは無いやうだ。さうすると誰もが心付かぬうちに、ぢり/\と少しづゝ變化して、末には昔と今と、丸で面目を改めることになつたのである。次に此變化は各地方一時に、又一樣には起らなかつた。それ故に數多くの互ひに相知らざる實例を竝べて見ると、自然に其變化の足取りが考察せられるわけである。
私たちの考察は、まだ多くの假定を含んで居る。現在の郷土研究に由つて明らかになつたのは、大略日本の三分の一ほどで、島や山村には一向學界に知られて居らぬ處が幾らでも有る。それが追々に調査せられ、新しい資料が到着したならば、意外な發見もあらうし、又心強い證據も擧がると共に、今日の假定を訂正すべき點も少なくはないであらう。それを促す爲にも大いに此問題の興味を説き立てる必要があるのである。
私の蒐集の及ばなかつた部分も有るか知らぬが、大體に於て此表の中に掲げられて無い言葉が、未だ研究者には知られざる事實である。それを心付いた諸君にして、もし出來るだけ正確に之を觀察し且つ記録して置かるゝならば、其勞苦に感謝する者は、決して我々少數の好事家だけに止まらぬであらう。今日の日本は全く此種の知識には飢ゑて居るからである。
現在の標準家庭の標準慣習と目せられて居るものにも、尚且つ變化はあり又變遷もある。しかし是は概ね人の知聞に新たなることで、それを説き立てることは外國人にしか入用が無い。
讀者はたゞ自分の通例と思ふものと、本篇記す所の「婚姻奇習」との差異に注意すればよろしい。それが私たちの謂ふ日本の埋もれた歴史であり、その各地方の少しづゝのちがひ目が、我々の是から調べて見ようとする國の制度の沿革の跡なのである。
1、デアヒ
出合ひといふ簡便な婚姻式が、近年都會の地で採用せられる迄は、嫁入は當日嫁聟雙方の家に於て、兩度に行はるゝ祝ひの儀式であつた。出合ひは即ちこの二つの手續きを併合して、時間を省かうとする新たなる便法であつて、其名前も告別式などよりは遙かに感じがよい。2、ヨメドリ
嫁入は單に嫁女の家の側から謂ふ語であつて、近畿中國では普通に之を嫁取りと謂つて居る。是は聟方の儀式の嫁方に比して、次第に重々しくならうとする傾向と[#「傾向と」はママ]伴なふものらしい。或は又ヨメムカヘと謂ふ土地もあつた。3、コシムカヘ
江戸では古く輿迎へといふ語もあつたが、今日はもう使ふ人は少ないかと思はれる。輿は嫁の乘物のことだが、輿に乘つて嫁入することも、さう古い習慣では無かつた。嫁方では之に對して輿入れといふ言葉もあり、或は其中間から見たヒキウツリといふ語も尚行はれて居る。4、ムカサリ
又ムカサレ。「迎へられ」の方言である。嫁入は祝言又は婚禮と謂つても通ずるが、東北は一般に之をムカサリと呼んで居り、又縁づくことをムカーサルと謂ふ。此語の及ぶ所は信州から駿河伊豆、ずつと飛び離れて宮崎縣の南部でも、嫁入することをムカサルと謂つて居り、種子島ではムカーラッテユクとも謂ふ。5、ゴゼムカヘ
その種子島では輿迎へをゴゼムカー、九州の南半は一般にゴゼムカヘと謂ひ、鹿兒島縣では又ゴゼンケ、或は誤つてゴジュンケといふ人もある。熊本縣では阿蘇神社初春の田作り神事に、神が姫神を迎へたまふ儀式があつて、俗に之を6、オカタムカヘ
茨城縣の北部には、今でも嫁入をオカタ迎へといふ地方がある。オカタはゴゼと同樣に人の女房の敬稱であつたのが、後には我妻だけに限つていふ處もあり、或はオカッサマだのオッカアだのと、至極粗末に使ふ者も多くなつた。以前は大方殿などといふ漢字を宛てゝ居たから、惡い語ではないのである。7、ネビキ
沖繩では嫁引移りをニービチと謂つて居る。奄美大島ではネビキイハヒといふさうだから、是も根引きもしくは8、シュウヤウ
安藝の安藝郡で婚禮をさう謂ひ、備後の三原でもシュヨと謂つて居る。今では無論祝言や祝儀と、同じ意味の如く解せられて居るだらうが、事によると別に起原があつて、或は出雲の或漁村で、男女の契を結ぶことをショヤといふのと、關係のある語かも知れない。始めてヨメイリといふ語の日本の記録に見えて居るのは、源平時代よりも尚少し前のことであつた。しかし是だけでは嫁入が今日の如く、結婚即ち夫婦生活の開始を意味して居たかどうかは確かめられぬ。といふよりも却つて外に住んで居る妻を、我親の家へ迎へ取る式であつたと想像せられるのである。玉葉(建久二年六月二日の條)には、迎婦之儀といふ語が用ゐてある。中古妻の家で婚姻するを普通とした時代でも、其夫人はいつの間にか夫の家へ入つて來て北の方となつて居る。事實嫁入は無くては濟まなかつたのである。たゞそれが年取つて後か、又は新婚早々かが問題となるだけである。嫁入といふ語には、嫁を夫の家へ連れて來るといふより以上の意味は含まれて居なかつた。
又今日でも嫁入が結婚よりずつと後れて、行はれて居る例は諸處にある。たとへば簸川郡の西濱では、子供が生れてから其子を抱いて嫁入の式をするは珍しからず、長崎縣西彼杵の
1、ヨメスマシ
山口縣の祝島では、婚禮をヨメスマシと謂つて居る。岡山縣の日生町でも花嫁をヨメズミと謂ふから、多分は同じ語で前者も嫁住ませであらう。ヨメを花嫁に限るのは關東の風であつて、西では年たけても夫聟ある者は即ちヨメサンである。所謂迎婦之儀の婦といふ漢字は、單なる配偶者で無くて宿の妻、もしくは家刀自を意味して居た。ヨメ入りは即ちその「婦」となるべく、入つて來る式であつたのである。2、アネコムカサリ
岩手縣の和賀郡などでは、所謂ムカサリを又斯うも謂つて居る。さうしてアネコは此地方では嫁のことである。嫁をアネサマ、アネサと謂ふ土地は廣い。人も敬してさう喚ぶのみか、舅姑も彼女をアネと謂つて居る。越後の西蒲原郡などでは、特に嫡子の妻をのみアネ又はアネサマといふさうだ。里の家では末女であらうとも、引移りをして來ればアネとなるのは、其地位の承認であつたらうと思ふ。是について心付くのは足利時代には既に今日のやうな嫁入、即ち之を婚姻の開始とする風習が始まつて居たらしいが、看聞御記などには何箇處も、ヨメイリに嫂入といふ字を宛てゝ居られる。嫂はアニヨメとも訓じ、若い女の中の主席だつた。乃ち嫁入は獨り聟の家の族員となるだけで無く又其家の尊敬せらるゝ者となることであつたやうに思はれる。3、ヒメコ
東北では以前花嫁をヒメコといふ語があつたが、現今はどうあるか未だ確かめない。兎に角に可なり堂々として乘込んだものであることは、ゴゼやオカタなどの名稱からも想像し得られる。4、ハナオカタ
山梨縣は大よそ全部、花嫁をハナオカタといふ語が行はれて居る。花は勿論若くて美しく、且つ大いに着飾つて居たことを意味するのであらう。九州でも長崎などにはハナオカッツァンといふ語があつた。信州の諏訪では只オッカサマと謂ふのが嫁のことであつた。尤も此等はすべて他人から謂ふ言葉である。5、ハナジョウロウ
神奈川縣の高座郡では花嫁をハナジョウロウ、靜岡縣の東部でもハナジョウロ、伊豆ではたゞオジョウロと謂つて居る。女の子を上品にオジョウロノコといふ例は江戸にもあつたが、起りは上
旦那に添やジョロウだ
みこの子に添や山伏だ
こゝにいふ旦那は、村の大家の主人のことであつた。みこの子に添や山伏だ
6、オミャア
熊本縣の北の諸郡では、カカを又オミャアと謂ひ、妻帶することをオミャーモツとも謂つて居る。現在の感じは頓と尊敬した樣でもないが、是も亦ゴゼ即ち御前の一つ古い形である。此地方の神社の祭禮に、美しく化粧した若い女を神に捧げる式があつて、それをネロミャーと謂つて居るのはヨメといふ語の日本の文獻に見えたのは、枕草紙などが古い方かと思ふ。同書には「有りがたきもの、舅にほめらるゝ聟、又しうとめに思はるゝヨメの君」などとある。即ちもう此頃から、嫁は姑と對抗すべき地位であつた。更級日記には「越前守のヨメにて下りしが、かき絶え音もせぬに云々」ともある。是に相當する語が以前にも有つた筈だが、トジがそれであつたか、もしくは只ミメと謂つたか、私はまだ斷言し得ない。兎に角に中世以後のヨメは盛裝するのが特徴であつた。だから吉女であつたといふ説は正しいと思ふ。然るに現代の地方の實例、殊にかけ離れた島々の風俗には、事實は全く嫁入であつて、方式の是と正反對なものがある。たとへば對馬の北端佐須奈村に於ては、嫁の婚禮の日の着衣はテクリといふ筒袖の不斷着に、二尺幅の前掛をしめ、大風呂敷に着換へを包んで、仲人と共に新郎の家に行き酒事がある。調度品は皆實家の方に置いてあつて、必要に應じて取りに行くとある(民族二卷三號)。
東京府下の伊豆大島でも、座敷では祝宴に列なる人々が盛裝してひしめいて居るのに、當の嫁女のみは不斷着の筒袖のまゝで、臺所に來てもう皆と一緒に働いて居る。誰の爲の御祝ひかと思ふやうであるといふ。若い婦人の本當の晴着は、葬式の日に至つて始めて見られるといふのは、多分主として聟の親の葬式であらう。八丈の島でも此時になるまで、嫁は衣裳を持つて來ない。遠くは大隅の種子島などでも、嫁の衣裳はすべて尚里方に留めてあつて、いつと無くぽつ/\と持つて來る。是と花々しい嫁の荷物送り、又は多くの地方で衣裳見せと稱して、一夜に何度も着換へただけではまだ濟まず、翌日はわざ/\近隣知己の女を招いて見せるといふ習はしと、餘りにも類を異にするやうであるが、私の説明は至つて手輕である。是は單に祝宴の日をくり上げただけで、まだ本式の嫁入は行はれなかつたのである。本式の嫁入は此地方では、親を見送つて愈

1、ヨメムカヘ
嫁迎又は輿迎は聟の家の事務の如く、小笠原流などでは考へられて居たが(八十翁疇昔話その他)、今でも地方には必ずしもさうは思つて居ない例が多い。普通嫁入は夜のものゝやうに言ふが、それは其以前、晝の間に嫁の家の方で行ふべき儀式が色々とあつたからである。其事を以下追々に敍述したいのであるが、爰には先づ一つ嫁方の行事を例に引いて置く。靜岡縣の安倍郡で輿迎と謂つて居るのは、嫁入の當日、仲人は新郎と其親戚とを伴なひ、2、クレワタシノサカヅキ
宮城縣では普通に此樣な無細工な名前を以て呼ばれて居る。たとへば松島の浦戸村では、婚禮の日、聟先づ媒人及び聟添ひと共に、新婦の家に行つて此盃事をするのである。之に對して聟の家で行はるゝ盃事を引渡しの盃と謂ふ(宮城郡誌)。式は雙方全く同じやうだが、幾分前者に重きを置くらしい形が見える。3、クレシウギ
是も所謂呉れ方に於て、祝儀と名の付くものが行はれて居た證據である。群馬縣は多野郡などに、此言葉が行はれて居るが、詳しいことは書き留めて置かなかつた(多野郡誌四一七頁)。4、フナモリ
安房ではこの嫁入當日の二つの祝儀に、雙方とも酒宴の酒肴の臺に船盛と謂つて、船の形をしたものを飾り立てる。その船盛の帆の張り方だけが、貰ひ方とくれ方とで入船出船のちがひを見せて居たといふ(安房郡誌)。乃ち此半島でも朝のうちの儀式は重々しかつたのである。5、ムカヘト
岩手縣上閉伊郡の海岸地方で嫁入の日の午前に嫁方へ迎へに行く者をさう謂つて居る。仲人夫婦の他に、聟の父方母方の親族各
6、ムカヒド
石川縣能美郡でも嫁迎の一行を斯うよんで居る。此地方では一帶に、聟も其親たちも皆代理を出すことになつて居る。勿論町村によつて多少の相違は有らうが、能登の輪島町では必ず女性が一人、聟の姉か妹中の最年長者で寡婦でない者と、其附添ひが一人の他に、亭主名代として最近親の男子一人が迎へに行くことになつて居る。同じ半島の黒島村でも、嫁迎は女のするものとなつて居る。さうして養子聟取には男を迎へにやるのである(鳳至郡誌)。7、ムカヘニン
信州の上高井郡でも、輿入當日受方より迎へ人を出す風習がある。是も嫁の相手となるべき先輩の者を近親中より選ぶといふから、多分は亦聟の姉か叔母かであつたらう。是が嫁方から嫁の同列に加はつて來るのである(郡誌)。是は聟入の條になつてもう一度細かく説かねばならぬが、嫁迎は迎へといふ爲に次第に使者の如く考へられて來たけれども、本來は嫁方に行つて盃事をするのだから、重々しい近親が行くのは當然である。是も近頃は代理になつただけで、聟御當人が行くのが正式であつた。それを何とかして止めにしようとした努力は隨處に窺はれる。伊勢の
8、モラヒゲンゾ
東北ではこの迎へ人の來訪をさう謂つて居る處が多い。鹿角郡でムゲア又はモレアデンジョと謂ふのもそれである。ゲンゾは見參即ち初對面を意味し、當然に盃事を伴なふべきであるが、既に略せられたものか、樽コショヒの作法のみがやかましい。即ち一行の携へて行く酒樽の酒を半分取つて、嫁の家の酒を半分其樽に注ぎ入れるのである(内田武志君)。斯んな事をして居るから酒宴らしい酒宴は無かつたのだらうが、それでも貰ひ見參の一行には、聟の父母、兩方の叔父叔母、從兄弟分家の者など、仲人を合せて七人が普通であつた。此人數は閉伊などでは偶數に限ると言つて居る。爰でも樽持を加へると八人である。9、ムカヘイチゲン
婚禮の日の朝、聟が仲人近親の者と共に、嫁の家へ禮儀に行くことを迎へイチゲン、又は朝イチゲン、男イチゲンなどと謂ふのは、上州の館林、武州の妻沼等である。此邊の郷土誌に迎謁見とも書いて居るのは、エチゲンと訛つて居る結果で、一見は即ち初對面、第一囘の見參であつた。是は嫁殿と同行して來るのではないが、迎へといふので本來の趣旨はわかる。之に對して嫁到着の刻限に門に迎へ火を焚くことを送りイチゲンと謂ふのは、やはり亦嫁方親族の入來を意味したのである。岩手縣のムカヘトと違つて、養子聟取の場合には家附娘は朝イチゲンには行かず、近親のみが迎へに行くことになつて居る。10、オマチヅカヒ
宮城縣玉造郡では、右の嫁迎の一行と共に、荷擔ぎをして來る役を御待使と謂ふ(郡誌)。11、オチウシ
其隣の栗原郡では之をオチウシと謂つて居る(郡誌)。御中使であらう。12、タルコショヒ
前に掲げた秋田縣鹿角の樽こ背負ひは、聟の從弟で兩親揃うた者が之を勤める。樽は通例二升樽、是に藁でこしらへた蝶々の形を結び付ける。13、タルヲトコ
樽男。西津輕の木造町附近の村では、嫁入の時に花嫁の前を、紋附きを着て角樽を擔いだ男が、高聲に「嫁御ぞ/\」と呼はりながら案内して行く。其聲を聽き付けて人が出て見物するといふ(郷土研究三卷十一號)。案内といふからには是も聟方から派遣せられた迎へ人の内であらう。14、タルモチ
長崎縣上五島の有川などにも嫁を貰ひに往くとき樽持と稱して、聟方親戚の兩親の揃つた子供、角樽を持ち仲人に附いて嫁方に行き、嫁入の列に同行して來る。15、オチャモチ
同じく五島の日の島では、嫁迎に仲人夫婦の外、男女各一人の子供が同行する。男の方をオタルモチ、女の子をオチャモチと謂ふ。但し「嫁御ぞ」は言はぬものと思はれる。16、サーレー
沖繩縣の
サーレー、サーレー
ミユミノアンマノ、チケーシヤービラ
(いで/\御嫁の御前の仕へし侍らん)
と高く唱へつゝ逃げて行かうとするのを、女の家では強ひて押捕へて、いやがるミユミノアンマノ、チケーシヤービラ
(いで/\御嫁の御前の仕へし侍らん)
17、ヨメムスビ
陸中海岸地方の嫁迎には、御持物と稱して男女の衣服をたゝんだものを柳行李に入れて來る風がある。其たゝみ方には定まつた作法があり、帶も男女のものを結び合せる。嫁方でも再び之を心得ある者がたゝみ直して持たせて遣る。帶も改めて嫁結び一名出世結びといふに結び直す。1、ヨメワタシ
是は岩手縣遠野の例であるが、他にも之と似寄つた風習は多い。嫁入の日新郎は仲人親戚等と共に、嫁の家に來て祝宴に列する。之を嫁渡しの盃事と謂つて居る。但し此際には嫁の親戚は未だ之に參與せず、宴終つて嫁を伴なうて行くのである。其酒宴中、新婦方から出發を催促するを禮儀とする(人類學雜誌六卷九號)。2、ヤータチ
沖繩で嫁入を又ヤータチとも謂ふのは、親の家を立つて行くことを意味するのであらう。3、サシタテ
肥前の北高來郡では、嫁入式の當日嫁方に於て、近親友人を招いて此宴を開く。人々嫁の盃をいたゞくとある(郡誌)。4、カドデイハヒ
門出祝、又身内祝とも謂ふ。嫁方でも親戚近所の人々を招いて此宴を開き、それから嫁の荷物を送り出す(岐阜縣益田郡誌)。5、デタチ
播磨の多くの郡では、嫁入の日、調度荷物を送り出してから行ふ酒宴を出立といふ。凶事にも同じ語を使ふ地方があるが、此邊では是はデハと謂つて區別する。6、アトニギハヒ
肥後の宇土郡で、嫁の出立ちたる後に、尚酒宴をするのを謂ふ(郡誌)。7、アトニギヤカシ
同上益城郡では同じ酒宴を後賑かしと謂つて居る。酒宴といふよりも失うたものを慰めるやうな感じがある。嫁渡しと葬送の式とには幾つかの類似があるのも、偶然でなかつたと思はれる。8、ヤリビ
越中の1、ヨメオクリ
嫁は多くの迎へ人と共に行くのだが、之を嫁送りと謂つて居る土地は多い。越後の南蒲原ではその嫁送りの行列が、途すがら嫁ぢや/\と囃し立てつゝ、岡や峠を縫うて行つたものだといふ(加無波良夜譚一七〇頁)。2、ヨメゴゾ
嫁の行列が「嫁御ぞ」と呼はつて通つたのは、青森縣の北の端だけでは無い。九州でも肥後の玉名郡の嫁送りには、やはりヨメゴゾーとわめきながら行き、佐賀市附近でも嫁を乘せた人力車夫をして、聲高く之を連呼せしめた。福島縣の伊達信夫二郡でも、行列が門を出る際に雙方の持夫たち、嫁と媒人とを中に圍んで、一同「嫁御ホーイ/\」と囃し立てる慣例であつた(信達民譚集一九四頁)。信州の上伊那郡でも、輿に乘せた嫁を中にして、一ゲン衆大きな聲を揚げて、道々「嫁樣ヤーイ」と觸れながら提灯を振りまはした(民俗學四卷三號)。一ゲン衆といふのは聟方から迎へに來た人である。3、ハナウマ
常民の花嫁は、近世は馬に乘せて送るのが田舍の風であつた。(百年前までは東北では、守木といふ木の4、カゴウマ
福島縣相馬郡の一部に行はれた奇習といふのは、嫁送には村の十六七歳の女たち、數人顏に墨を塗り赤い手拭の鉢卷をして、「箱根八里」などを唱ひながら、勇ましく長持を舁いで同行する。嫁迎の方でも同じ年頃の娘たち、身に藁菰を卷き、馬の尾の如きものを尻に垂らし、顏を手拭で包み隱して馬の眞似をして四五人迎へに出るといふ(風俗畫報一一三號)。同年輩の娘たちが嫁と共に行くだけの慣例ならば他にもある。5、ヨメイリウタ
熊本縣の有明灣沿岸の村には、嫁入の夜花嫁の友だち十數名、白手拭を被つて來て嫁の家へ來て出立を促し、嫁が家を出る其あとに附いて、手を敲きつゝ嫁入唄をうたつて行く風があるさうだ。行列が聟の家に近づくと、花聟の友だちが又數名待受けて居て一行をまもり、〆太鼓を鳴らして同じ唄を合唱するさうである。何といふ村の事であるか確かめて見たい。6、オホドラ
又オホゾラ。長門大津郡の山間の村では、嫁入の行列が途中から聟の家まで、歌つて行く唄をさういひ、嫁の家を出る時に歌ふのをデタテと謂つた。此頃は段々すたれて歌を忘れた人が多いといふ。7、ナガモチウタ
此日荷を舁ぐ人足が、歌をうたつて行く例は全國的に多い。岩手縣北上川流域などに行はれるのは、節は普通の石かつぎ木かつぎの時と同じだが、章句には尚此日の爲に出來たものがある。たとへば江刺郡誌に載せてある一つに、
蝶よ花よとそだてた娘
あすは他人の手に渡る
あすは他人の手に渡る
8、クモスケウタ
九州でも肥前
所望だ所望だと路やはかどらぬ
さきのお亭主は待ちうける
さきのお亭主は待ちうける
9、シクイリ
石見の那賀郡では、嫁入人足のうたふ唄をシクイリと謂ふ。シクは中宿、即ち嫁御が一旦休息をして着替へなどをする家のことである。10、ダウグオクリ
嫁の荷物の運搬が、斯樣に花々しい式を以て行はれるやうになつたのは、勿論遠方の縁組が盛んになつてから後のことで、しかも現在でもまだ日を異にし、嫁入前日に送る土地もあれば、一箇月も過ぎてから送るものもあり、或は全くいつの間に送つたかわからぬといふ例もあり、阿波の名東郡などの如く、嫁入と荷送りとが、必ず路をちがへる風さへある。しかも一方に於ては以前嫁送の行列に伴なうて居た作法を、移して此方に持つて來たらしい場合もあるのである。たとへば越前の今立郡などでは、村外への嫁入には道具送は其前日であつて、人夫は雙方から出し中途にて受渡しの式をする。先づ嫁方持參の酒食を以て聟方の人足を饗し、次に聟方の酒食で嫁方の人足を饗することになつて居た(郡誌)。今日は恐らく一方の人夫で通し、祝儀酒食費は折半といふ便法が出來て居るだらう。11、ウケワタシ
嫁の受渡しにも以前には是と似た方式があつた。雙方の出逢つた地に二つの莚をしき、其上下を爭つて見たり、又はわざと其莚を斜にして置いて、色々の押問答を試みたりした。それをするにはよく飮む長持人足方が、元氣がよくてよかつたのであらう。珍しい例は陸前柴田郡の山村で、家の者が戸の口に立つて、荷物をかつぎ込む若者を防ぎ、暫く押合ひをする習ひであつた(齋藤忠君)。12、サカムカヘ
甲州の北都留郡では、聟方の村の青年が酒を携へて途中に待受け、嫁入一行に挨拶し且つ饗應する風があり、之を坂迎と謂つて居る(郡誌)。坂迎は參宮其他の旅の還りを迎へる作法として、行はれて居る地方が多い。13、チカムカヘ
秋田縣鹿角郡などで、聟方から二人の男を出して、途中で嫁の一行を迎へしめる。近迎即ち第二の迎へ人である。その二人は背に割薪二本づゝを負うて居る。是は松明の名殘であるといふが、今は別に提灯を手に持つて居る(内田武志君)。タイマツフリの條參照。14、カサハヅシ
福島縣の石川郡で、嫁が到着の時に行ふ式。入船の謠を諷ふといふ(郡誌)。15、オヘヤイリ
青森縣三戸郡などで行はるゝ婚禮の歌(三戸郡誌三編)。現在の歌ひものは其時期が遲くなり、次第に酒宴の興を助けるものに化してしまつた。ヘヤは嫁の迎へ入れらるべき別房、即ち婚舍である。婚舍に關しては後にもう一度述べる必要がある。16、コワバナレ
加賀の能美郡で、嫁の荷物を運んで來た人足は、庭先で腰かけたまゝ酒を飮ませて還す。之をコワバナレといふ意味はまだ明らかでない。1、ムカヘミヅ
信州の北佐久郡など、嫁入來の際は松明をともし、之に迎へ水を飮ましめる。それから上にあがると、その草履の鼻緒を切つて屋根に投げ上げる(郡誌)。再び入用が無いやうにといふ意味。聟入も亦ほゞ之に準ずといふのは、養子聟取の場合だけかどうか。2、イツシャウミヅ
越前南條郡の例、嫁到着の時、婚家にては親類縁者集ひ居て之を迎へ、玄關にて嫁に一生水を飮ます。水を汲み入れた茶椀に、氏神社殿の雨垂石を一つ沈めたものを一升桝の中に入れて出すのである。3、タイマツフリ
上總君津郡、嫁入の刻限には門口に篝火を焚く他、玄關の式臺に藁の松明が十文字に置かれてある。嫁がそれを跨がうとするとき、十二三歳の男の子と女の子が男は左から女は右から出て、其藁松明を取り上げて嫁の尻をうつ。其童男女は二親の揃つた者に限る。之を松明振りと謂ふ。式の後その松明を玄關の屋根の上へあげて置く。下野那須郡の嫁入では、男女二人の子供提灯を持つて入口に立つて居り、互ひに其提灯の遣り取をする(郷土史話)。淨めの意味だと謂ふが意味はもう少し深さうである。但し少しづゝ變つて行く爲に、追々と不可解になるのである。4、シリタタキ
信州北部の風習は著しく上總のものに似て居る。例へば上高井郡都住村の或部落では、花嫁が聟の家の臺所から入ることになつて居るが、其入口の兩側には若者が一人づゝ、各
5、カサカブセ
下總北部の嫁入には、兩親ある十一二歳の男女各
6、カマブタカブセ
肥前の各郡は一般に、此際花嫁の頭に被せるものは釜の蓋である。其役は一人、兩親の揃つた聟の友人であり、もしくは村の長老であり、又は世話人の中の一人で既婚者たることを要する。それは此時に唱へる祝言の文句が、出來るだけ奇拔で且つ滑稽なることを悦び、其任に當る者の機智才藻を必要とするからである。たとへば島原半島の或村では、
ちよつと待たんせ花嫁ご
鶴は千年龜は萬年云々
から始まつて、終には「床の下の鼠の糞から圍爐裡の灰まで嫁御の」などといふ文句がある。東松浦の呼子附近では、鶴は千年龜は萬年云々
圍爐裡のヒヤー(灰)までこなたんもん
出たりはいつたりさつしやるな
千年ワクド(蟇蛙)にかな碇
とも謂ひ、互ひに似ては居るが、人によつて面白い文句を加へていつ迄も褒められる。是が各藩領によつて差別なく、又五百八十年添ひ遂げよなどといふ古風な言葉のあるのを見ても、近頃始まつた流行でないことはわかる。出たりはいつたりさつしやるな
千年ワクド(蟇蛙)にかな碇
7、ナベブタカブセ
佐賀縣でも小城郡などは是を鍋蓋かぶせと謂つて居る。各地共通の點は、必ず之に伴うてめでたい唱へごとのあることで、中には祝言だけで釜蓋鍋蓋は名のみとなり、又はたゞ一寸頭の上にかざすだけになつて居る土地もあるが、古くは蓋を被せて、其上を大飯匙で三度叩くのが作法であつたといふ(北高來郡誌)。又是を嫁に知らせると效目が無いとも謂つたのは、不意に物蔭から出て、斯んなをかしなことをするといふ點に、意味があつたのであらう。8、ヨメノヒタキ
肥前も川上郷などでは、嫁入の際に聟の家の門口で火を焚くのが一つの慣行であつた。此火焚きには村の若者が頼まれて行き、したゝかに酒をふるまはれた。9、ヨメダキ
岩手縣上閉伊の海岸では、花嫁が聟の家の門の口まで來ると、突如屈強の若者現はれて、嫁を抱きかゝへ急いでヘヤへ擔ぎ込む。所謂女取りの古い土俗が、形式化して遺つたものかと謂ふ人がある(民族二卷三號)。但し此若者もやはり聟の近親で、且つ必ず二親の揃うた者であることを要件として居る。1、ナカヤド
嫁入は途中豫定の家に立寄り休息し又支度をしてから聟の家に來る例が至つて多い。是が前に掲げた坂迎の宴と、關係の有るものか否かはまだ斷言し難いが、兎に角に其宿は聟の家の近くで同じ村であることと、此例が一地方に限られず、全國の端々に分布して居ることゝは注意に値する。九州では佐賀縣(佐賀郡誌)、四國では愛媛縣東部(新居郡誌)、中國では但馬及び長門(豐浦郡郷土教育資料)、中部では尾張(愛知郡誌)、東北では福島市の周圍など(信達民譚集)にも、たしかに行はれ、何れも之をナカヤドと呼んで居る。其仲宿でも普通は簡單な酒食がある。其家の主人は一方の身内であり、又は親分であり有力者であつて、婚後特別の交際をつゞけるのが普通である。2、チュウヤド
群馬縣の一部では、嫁入には貰ひ方から迎へが出て、この仲宿といふのへ案内し、こゝにて式に臨む支度をとゝのへることになつて居る(多野郡誌その他)。3、コヤド
甲州では嫁入の時に、途中花嫁の親分又は知人の家に立寄つて、そこで衣服を改めることにして居る村がある。之を小宿又は仲宿とも謂ふ(甲斐の落葉)。4、マチヤド
信州の南佐久郡では、この仲宿のことをマチヤドといふ。こゝで白い衣服を着るのである(郡誌)。5、ウマオリ
同上北佐久では是を又馬下りともいふ。嫁は白衣を着け綿帽子を被り、待女房の案内で聟の家の勝手口から、藁草履で入るといふから(郡誌)、近い處にあつたのである。6、オチツキ
長州ではこの仲宿のことをオチツキと謂ひ、主として近隣の家を借用するが、貰ひ方で用意してある別室に入ることをも亦さういふ(阿武郡誌)。熊本縣では又仲宿をオテツキと謂ふ(宇土郡誌)。1、オヤシロ
加賀の河北郡では、大抵は母が附いて行くことになつて居るが、嫁と共々に先方の勝手口から入つて行く。その親代に對する聟方父母の挨拶は通例左の通り(風俗畫報二一二號)。可愛いゝに、ようこそ、いくいてくだんした。
2、オカタヅキ
秋田縣では花嫁の後見役をさう謂ふ。此地方は妻女をオカタといふ語は知らぬといふが、心もとない。3、テヒキババ
手引婆、豐前田川郡の一部で、嫁と同行する年輩の女をいふ。此日は片手に一升桝(衡器の分銅を入れたの)を持ち、片手に嫁の手を執つて、勝手から座敷へ出るといふ(同七五號)。4、ツケシ
肥前の小川島などで、嫁に同行する同じ年頃の娘をいふ。附衆である。此人數は多いほど里方の自慢のよし(櫻田君)。5、コジウヅケ
甲州では花嫁に附いて婚儀の席まで行く女性をいふ。扈從附の音かといふ(甲斐の落葉)。是をオキツケと呼ぶ土地もあるが、何處であつたかを忘れた。御着附け、即ち着衣の世話をする者の意である。6、ツレガクサン
肥後の玉名郡で、花嫁に附添ひの老女をいふ(能田太郎君)。カクサンは人の夫人の敬稱であらう。7、ツレニョウバウ
連れ女房、能登の町野村などで、花嫁の家から同伴する者、親代男女二人の外に、連女房一人、其他荷持人夫などで、皆同行して祝宴に列する(鳳至郡誌)。8、ツレヨメジョ
長門の豐浦郡などでは、嫁と同じ年格好の女友數人、同行して本事の酒宴に列する。是を又嫁マギラカシとも謂つて居る(櫻田君)。嫁と隨員に老壯二種の別があることは是を見てもわかる。前の嫁入唄の條參照。9、ツレジョヲナゴ
筑前の大島では、前の連れ嫁女をさう謂つて居る。但し一人、同い年の娘に限る。嫁と共に行き、又嫁入の式に同座する(同上)。10、ツレヲンナ
三河の北設樂郡では、連れ女は待女郎のことだと謂つて居る。11、ソヒヨメ
福島縣會津地方でも、此添嫁は待女郎のことだと謂ふ。但し聟嫁雙方から出て、聟方の添嫁は嫁の世話をし、嫁方から行つた添嫁は聟を案内する(若松市郷土誌)。12、チャモチ
肥前の平島では、嫁入に嫁に附いて行く嫁と同齡の娘を茶持と謂ふ。實際茶を包んで持つて行くのである(櫻田君)。13、ヨメゲンゾ
秋田縣の鹿角郡で、待女郎即ち婚禮の日の介添人を、ヨメゲンジョといふ。嫁に附いて世話をし、聟の家では嫁を導いて寢所に入る。嫁の叔母、乳母又は女中が此役をつとめる(内田君)。ゲンゾは見參であることは前にも述べた。是も式の席には必ず列すべき一役であつたのである。14、マチニョウバウ
陸前の岩出山町などでは、嫁よりも年若の娘で、兩親の揃つた者が同行する。ヨメゾヒとは別であつた、此方は草履はき物の世話をするが役だといふが(玉造郡誌)、本來はそんな端役でなかつたらうと思ふ。同國石ノ卷あたりでマヅニョボと謂ふのは嫁御に附添ふ少女、陸中上閉伊郡でも新婦に伴なひ、婚宴に列する二人の少女をマンニョボと謂つて居る(遠野方言誌)。福島地方の待女房は、或は文字通り聟方に待つて居るらしいが、やはり勝手口から花嫁の手を引いて流し元に上つて挨拶させ、更に祝宴の席では花嫁の次に坐る。又こゝでは待女房の夫といふ者にも一役があり、花嫁と共に門口まで出て嫁の一行を迎へるといふ(信達民譚集)。15、マチジャウラウ
東京の近在には今も此語が行はれ、赤塚村などでは嫁入の日に聟方に來て、待つて居る親類の女の總稱だと解して居るやうだが(郷土研究五卷五號)、是は全くマチといふ語の誤解からである。マチは古語では侍又は奉仕、即ち其式に參列しなければならぬ盛裝の女がマチ上
16、マチツケ
熊本縣南部では、此待女房をマチツケとも謂つて居る。嫁の手を取つて房室へ案内する役であるといふ(上益城郡誌)。17、マチノオボコ
鹿角郡では婚禮の酌をする男女の童子をさういふ。兩親の揃うた親類の子供が此役をつとめる(内田君)。オボコは幼童のこと、本義は「うぶ兒」であるが、稍
18、マギラカシ
熊本縣北部で、嫁聟と同樣の正裝をして附いて來る者、上流の祝言には今でもある。聟に附く者を又ムコワキとも謂ふ(能田君)。19、ヨメマギラカシ
筑前海上の島々でも、聟マギラカシと嫁マギラカシと共に選定せられるが、地かたの村々では後者を略する處も少なくない。島では嫁紛らかしは一人、やはり小學生位の小娘を頼んで濟ませて居る者もあるが、雙方共に必ず兩親の健在な者に限ることは同じである(櫻田君)。20、マガヒヨメ
宮崎縣の南部では、嫁聟の外に今一人の、嫁なり聟なりが附いて行く風があり、之をマガヒ嫁、マガヒ聟と謂ふ。マガヒは本物より少し惡いのを選ぶ。引立たせ役だからと謂つて居る。兎に角に披露の席にも一緒に出ることは事實である(日向の言葉)。21、トギ
八丈島では嫁入の附添人をトギといふ。親密な女友の中から一人選出せられる。單に嫁入の際に附いて行くだけでなく、嫁が里歸り以後親里に留まり、たゞ朝夕聟の家の水汲みに行くのに、やはり毎日同行するといふ。トギは元來は番人見張役を意味する日本語であつた。それが轉じて御伽噺などの伽となつたのである。人偏に加と書く和製字は、丁度この八丈島などのトギによく當つて居る。愛媛縣喜多郡あたりのヨメトギは、單なる「嫁まぎらかし」で、式の日しか參列しない。さうして當夜は必ず歸つて行くといふ。1、ハツイリ
聟が初めて嫁の二親と對面し義理の親子の契りの酒を酌みかはす時期は、現在では各地非常に區々になつて居る。其中には里の父母の方から出て行つて、始めて逢ふ例さへ若干はあるが、此方は勿論普通とは言へない。他の多數は聟の訪問であつて、是にも嫁入祝言の後と前と二通りあり、尚又其前後の期間にも、幾通りかの遲い早いがある。最初から此の如く色々であつた氣遣ひは無い。さうするとどれが古く、何れが「改良」した形であるかは、細かく觀て行くうちには今に判ることゝ思ふ。初入といふ語は熊本縣の南部で聞く語であつて、其意味は最も明らかである。其他ショテイリと謂ひ、初客又は新客と謂ひ、或は見參、
2、アサムコイリ
朝聟入といふ語は北九州の一部だけで稍
イ、埼玉縣の妻沼町附近では、嫁入の日其時刻より前に、聟が仲人及び近親の者と共に嫁の家へ行く。是をムカヘエチゲンと謂ふ。但し娘に聟を取る場合には、其娘はムカヘエチゲンには行かず、近親の者のみ行く(同町誌)。迎へ謁見と字は書いて居るが、迎へ一見の方が正しいと思ふ。一見は即ち初度の見參である。
ロ、神奈川縣厚木町邊では、右と同じ訪問をムカヘジンキャクと謂ふ。迎へ新客である。聟は花嫁の家に暫らく休息の後、嫁方親類の者一人附添ひ、當村村長を始め主立つた家、及び嫁方親類などの家をまはり、結婚の披露を爲し、且つ半紙扇子などを配つて挨拶をする(風俗畫報一一三號)。
ハ、千葉縣千葉市の周圍の村でも、嫁入當日の朝聟入がある。同行者は仲人と親戚總代、聟は上座に坐り嫁方の親類と盃があり後は酒宴。嫁は成るたけ遲く出發する。以前は乘掛けと稱して馬に乘つて行つた(千葉郡誌)。
ニ、同縣海上郡でも右同前、聟上座に坐つて嫁方兩親その他の親族と盃をする。始は冷酒、後は酒宴。さうして新婦及び嫁方仲人親戚たちを同伴して、共々聟の家に行くのが例のやうである(海上郡誌)。
ホ、同縣長生郡でも、大よそ是と同じ手續きである(郡郷土史)。
ヘ、安房でも嫁入當日、聟方仲人は、聟と其親戚の者を同行して、嫁方仲人の家に行き簡單な酒の後、兩方仲人共々に聟一行とつれ立ち、嫁の家へ迎へに行く(旅と傳説、婚姻號)。是を親子名乘りと謂ふのを見ると(安房郡誌)、嫁入と同伴して來るのは目的で無かつたかも知れぬ。
ト、八丈島でも當日午後三時から五時迄に聟はムコトギと同行して嫁の家に行き嫁を同行して歸つて來る(婚姻號)。
チ、常陸行方郡香澄村でも、嫁入の日先づ聟入があつて爰で披露の宴がある(行方郡郷土史)。
リ、群馬縣北甘樂郡でも、當日聟が親族と共に、仲人に案内せられて嫁の家に行くのを一見と謂つて居る(郡誌)。
ヌ、同縣多野郡で、一見と謂ふのも是と同じ。聟の一行は嫁の家で、互ひに親戚となつた近附きに鄭重な饗應を受けて歸つて行くと、後から支度をして嫁は親類に送られて行く。此同行者の行くことをも一見といふ(郡誌)。桐生でも聟が嫁迎へに行くことをイチゲンと謂ふ(桐生郷土誌)。
ル、宇都宮附近でも花聟自ら仲人と共に花嫁の家を訪ひ、其兩親の設けたる宴に臨み、終つて花嫁を伴ひ還る。花嫁は聟の家の臺所から入る(民族と歴史四卷三號)。
ヲ、福島縣石城郡でも聟と親戚の重立ちたる者數人、仲人に導かれて嫁方に來り饗應を受ける。此時
ワ、同縣石川郡でも聟樣自身、嫁迎へに行く(郡誌)。
カ、同縣信夫伊達二郡では、此日の聟入を聟入見參と謂ひ、酒宴を見參振舞と謂ふ。花聟は
ヨ、宮城縣宮城郡などは、一般に聟入の方を嫁入の宴より重々しくする風が見える。婚禮當日は仲人夫婦、家主、新郎、聟添といふ若者一人、樽持一人、以上の一行で嫁方に來り、そこで所謂クレワタシの式がある。雌蝶雄蝶の銚子、三組の盃、紙で
タ、岩手縣花卷地方では、嫁入當日の夕方に聟入がある。同行者は仲人夫婦、酒肴を携へて行き、嫁の父母親類一同と酒盛りがある。嫁は其席には出ない。式終り聟が歸り着いた時刻を見はからひ、嫁は我家を出る。但し徒歩、荷物も嫁入と同列(民俗研究一五號)。同縣紫波郡にも同日聟入の例がある(旅と傳説二卷七號)。
レ、秋田縣鹿角郡草木村及び其附近では、嫁入當日、聟は先づ中宿で酒を酌み、それから若者たちと共に嫁の家に酒を携へて行き、爐の周りを三度

ソ、それから中部地方に戻つて、甲州の上九一色村では、當日式前に聟は仲人に連れられて、嫁の里に出かけて親子盃をする。但し仲人の妻は同行せず、又嫁も列席しない。宴半ばにして聟一人中座して「村まはり」をする。紙一帖又は手拭一つに名刺を添へて挨拶をしてあるく。其うちに嫁の支度は整ふので聟は是と同行して我家に行く(旅と傳説、婚姻號)。
ツ、信州の諏訪でも、又飯田附近でも、嫁入當日午前中に聟入がある。同行者は仲人及び聟近親の人々。諏訪では父も行くことがある。飯田では近親同行者をロウドウといふ。此際由緒書即ち近親氏名、及び贈り物目録と土産の覺書とを持參する。嫁入はこの聟一行が還つて、次に見立の膳が濟んでから始まる(同上)。
ネ、同じく信州の南安曇郡でも、聟入と謂つて結婚當日に行く。其時の贈り物は五種と稱して柳樽、鯛、昆布、鯣、扇子、酒一駄、米一俵、鰤一尾、雉一羽など、其他土産物である。此時嫁の親及び近親とも盃をする。嫁の親は聟へ引出物と稱して縞一反を贈り、又相應の饗應をする(郡誌)。
ナ、尚飯田からまだ南の下伊那郡遠山和田に於ても、祝言の日は聟が自ら嫁迎へに行つた。其時持參の品は柳樽に扇子、紙手拭などであるといふ(米澤美丸君)。
ラ、靜岡縣安倍郡に於ても、新郎自ら仲人につれられて、供の者に聘物を持たせて新婦の家に行く。それをコシムカヘと謂つて居る。嫁の家では聟を上座として「親子の盃」があり饗宴がある。其間に聟は嫁方縁者の案内で近所へ披露の挨拶にまはり、終つて嫁を同行して來る。途中中宿は新郎方の仲人の家である(郡誌)。
ム、同縣志太郡でも右の通り(郡誌)。
ウ、同縣磐田郡の例もよく似て居るが、「親子の盃」後の酒宴が時としては深更に及び、その聟入の一行が引揚げてから、そろ/\嫁入の行列は出かけるのである。夫婦盃の方は無論聟方で行はれるが、雙方の式は大よそ同じだとある(郡誌)。
ヰ、愛知縣西加茂郡でも、嫁入當日正式聟入がある。同行は近親及び仲人、是も嫁と同行しては來ない(郡誌)。同縣西春日井郡でも、今日の嫁迎は仲人と聟方出入の者とだけだが、以前はこの輿入の當日に、「出入に行く」と稱して聟自身も訪問したやうである(西春日井郡誌)。名古屋でも元は朝聟入が普通であつたらしい(結婚寶典)。今はもう行はれて居らぬことゝ思ふ。
ノ、和歌山縣の有田郡にも同日聟入の例があつた。此地で珍しいのは聟來つて一通りの挨拶が濟むと、先づシモケシと稱して一杯の酒を注ぎ、それから親と聟との盃があることである(有田民俗誌)。シモケシは霜消しで聟の夜通うた時代の名殘だと思ふ。但しこゝでも尾張同樣に嫁を同行しては歸らず、聟入終つて後に更に嫁入の行列が始まるのであつた。
オ、廣島縣の呉地方に、曾て次の樣な習があつたと報ぜられて居るが(結婚寶典)、是はもう一度確めて見たい。聟入は同日嫁入の出る前に行はれる。花聟は仲人と共に嫁の家に行き酒が出ても餘り飮まず、そこ/\にして袴を脱ぎ下駄も穿かずに跣足で歸つて來る。長居をすると、聟樣の尻へ根が生えたと云つて笑はれる。嫁はその脱ぎ棄てられた袴をたゝみ、下駄も一しよに聟の家へ持つて來る。又式の翌朝は花聟は顏も洗はずに、もう一度嫁の家へ來るといふのは、もし事實なら可なり面白い。是は新婚が嫁の家に於て結ばれた名殘とも見られるからである。
ク、隱岐島でも嫁入の當夜、聟が先づ正式仲人に伴はれて女の家を訪ふ習ひがある。對岸出雲の方には此風は無いと言つて居る(婚姻號)。
ヤ、ところが同じ島根縣でも石見の海岸には、當夜聟入があつて聟舅の對面をすまし、聟は一應引揚げて行つて、其後から嫁の行列が出るといふ型がある(同上)。
マ、山口縣の周防大島でも、以前は聟入の後嫁入までの期間が普通は半年もあつた。それが三月となり一月、十日又三日と短縮して今では一日の間に聟入と嫁入とを濟ますもあり、又全く聟入をせぬ例もある。聟入には親と親類とが同行し、途中一旦中宿に落着き、支度をする。嫁の家では床の正面に聟を坐せしめて、嫁の親との盃がある。嫁本人は却つて臺所などで働いて居る(同上)。聟入が既に純乎たる親子名のりになり切つて居るのである。
ケ、全體に海に近く住む村の方が改正が遲かつたことは、是だけでも想像し得られる。愛媛縣喜多郡でも沿海の村々は、當日花聟自身紋附袴で、仲人に伴はれて嫁の家まで迎へに來る。聟の父親も通例は共に行き、先づ出立前の酒宴がある(民族二卷三號)。
フ、土佐では高知の市でも以前は當日の聟入があつた。是には聟の父母近親も同行し、仲人案内にて嫁の家に來て挨拶し、嫁方一統と盃を交換した。然るに近年は此式を略して、初日に嫁入あり次日に聟入があるやうになつた(土佐風俗と傳説)。しかし村落にはまだ古い式も存して居たかと思はれ、同縣安藝郡には輿入の前刻に、聟が花嫁の實家に訪れて一遍の挨拶を述べて歸る例もあつた(結婚寶典)。
コ、九州各地の例も尚二三附加へて置くならば、豐前の後藤寺では嫁入の日の「迎へ客」の中に、聟と「聟まぎらかし」も加はつて行つた。さうして此二人だけは一足さきへ歸つて來る。他の迎へ客は嫁入の一行と共に歸つて來る。迎へ客の家を出るのは大抵午後一時、聟たちの戻つて來るのが早くて夜の十時十一時、嫁入到着はそれよりもずつと遲くなる(旅と傳説、婚姻號)。
エ、肥前の小川島でも嫁入當日の聟入があり、以前は此際に聟は水を祝はれた(櫻田君)。この當日は多分嫁入より前だと思ふが、稀には嫁入の祝言より後に聟入する例もある。
テ、肥前青島でも聟は親戚の重立つた者と共に嫁の家に行つた。下五島の有川などもやはり當日嫁入前の聟入がある(同上)。
ア、壹岐では嫁迎への一行をムカヘニンズと謂ひ、其中には聟當人も加はつて居る。但し聟だけは一足先きに、座を立つて單獨に歸つて來る(山口君)。
サ、肥前の諫早地方では婚禮を輿入、聟入舅入と謂つて、嫁入とは謂はない。聟が聟ブセを連れて嫁の家へ行き、珍しい作法のあることは(北高來郡誌)、次の膝直しの條に於て述べる。
キ、熊本縣玉名郡でも、甚だしく遠方で無い限りは、嫁入當日晝間の中に聟入がある。形式一切嫁入と同じく、「聟脇」も添へば「おてつきの餅」も出る。たゞ盃事の行はれぬのみとあるのは(婚姻號)、夫婦盃を意味するのであらう。
ユ、同縣下益城郡も聟入の時期は區々だが最も普通なのは當日午前、又は嫁入刻限前に聟本人は嫁の家に行き、親子盃をして夕刻に戻つて來る(郡誌)。宇土ではこの歸途に聟が水を浴せられることがある(宇土郡誌)。
メ、沖繩でも朝聟入といふ語こそ無いが、ネビキの日の午過ぎ聟はムコソウイと謂ふ附添人と共に、嫁の家に行つて其家の火の神を拜む。此時は酒を強ひられるものとなつて居る。それを聟ソウイが代つて飮むのである。夕方には引揚げて來る。宮古群島の多良間島でも、其日の朝、滿潮の刻限を候して聟入がある。此席では嫁の二親との盃があつて、嫁は列席しないのを本式とする(婚姻號)。
ミ、立戻つて以前は江戸の士人の間にも朝聟入の風が行はれて居た。例へば今から九十八年前の天保六年に、松崎慊堂先生の立會つた三つの婚姻は、共に嫁入の日の午時に新郎が里方に行き、仲人列席の上で親子の盃をした。先生は之を親迎也と書いて居られる(慊堂日歴)。それが棠軒公私略の文久二年には、もう又、「里開舅入同日也」といふ新しい儀禮を見るやうになつて居るのである(森鴎外著、伊澤蘭軒)。
3、シウトナノリ
以上に列記したものゝ外、まだ幾つかの類似の場合を附加へなければならぬ。三河の北設樂郡では、聟が嫁の里へ挨拶に行くことを舅名乘りと謂ふ(設樂、昭和七年四月號)。是も初めての見參と思はれるから、今は多分嫁入當日であらう。4、シウトイリ
長門の角島では婚禮の日、先づ祝言に先だつて聟が嫁の家に行くことを舅入と謂つて居る(婚姻號)。もし言葉の用法の誤りで無いならば、曾ては聟の父が本人と共に、嫁の家に來た頃の名殘であらう。5、ゲンザン
宮城縣の南部では花聟と其近親が、仲人と共に嫁方の祝の席に列し、花嫁を貰つて行くのをゲンザンと謂ひ、此時に舅姑との盃がある。次に嫁の輿入に附いて、里方近親が貰ひ方の祝宴に列するのも亦同じ名を以て呼ぶ(刈田郡誌)。但し是に元參の字を宛てたのは誤りで、江刺郡誌にはちやんと「見參の式」と誌して居る。鹿角では古風に之をゲンゾと謂ふ。6、ムコイチゲン
野州足利地方では是を聟一見と謂つて居る。時刻は嫁入の當日午前、酒食の饗を受けて歸る。其一行が自宅へ着いたと思ふ頃から、いよ/\嫁は出發の支度に取掛るといふ(旅と傳説、婚姻號)。7、ムコニ
信州諏訪地方でも、當日日中に聟入がある。仲人及び父兄など同行。目録に列記した贈り物を馬に附けて行く。之を聟荷と謂ふ。聟荷は美しく包んで持參したものであつたが、今は主として金圓になつた(同上)。他の地方の結納も起りは是と一つらしいが、多くは嫁入の日より若干日早く送り屆ける。それにも早いのと遲いのと色々あり、中にはほんの一兩日前に送るもある。又、その日に嫁入の期日を確定する例も多い。諏訪では右の聟荷に對して、嫁方の親から羽織や袴を與へた。是を引出物と謂つて居る。即ち他の地方の結納返しである。8、ムコドノモチ
日向の
1、ムカヘジャウラウ
以下大抵は皆嫁入と同じ日の晝間、聟入の行はれた場合である。長崎縣北松浦郡では、もとは聟入には迎へ女郎と謂つて、美しく着飾つた妙齡の婦人が、玄關に出迎へる風習があつたが、近頃はもう行はれない(婚姻號)。是も嫁伽又は嫁まぎらかしの變形で、多くある少女の中からたゞ一人を選ぶといふ趣意を示した古い風習の痕跡かと思ふ。2、ヨメムカヘ
愛媛縣の喜多郡藏川村などでは、嫁入當日の嫁入に同行して、聟方から出す女性のみを嫁迎へと謂ふ(婚姻號)。3、ムコゾヒ
聟入の時に同じ年頃の男を同伴することは全國的なる風習である。陸前松島の浦戸村などでは、是を聟添ひと謂つて居る(宮城郡誌)。關東にはもう其風習は絶えて單に聟脇顏などといふ滑稽な諺ばかり殘つて居る。日本の南端の八重山の島々では、嫁入の日の午前十時頃、聟は形式的の男媒妁人と共に、花嫁の家に行く。其同行者をツリといふのは連れである。嫁方では一番座即ち上の間に、其ツリを上座として西に面して坐し、家父と相對して禮儀がある(婚姻號)。是も亦聟添ひであらうと思ふ。4、ムコトギ
前に擧げた伊豫藏川村では、嫁迎への女の外に、聟伽といふ者も其聟入に同行する。常の出入口からは入らず、中の口の縁側から上るといふ。熊本縣の阿蘇郡の婚姻式にも、聟伽の役があつて嫁伽と共に聟入の式に列する。女夫盃の時にも雙方とも立合ひ、盃の仲次はすべて伽がする(同上)。5、ムコカクシ
鳥取縣米子地方の聟入は嫁入の前の日に行はれたが、是にも仲人の外に聟隱しといふ者が附いて來る。聟と同年輩の少々でも男振りの劣つたのを頼むといふのはどうであつたらうか。土地では嫁さんが戸惑ひをせぬ樣に、即ち聟の瑕を隱すから聟隱しだと解して居る者もあつた(人類學雜誌二八卷六號)。6、ムコマガヒ
宮崎縣南部の婚禮には、聟まがひ又嫁まがひ各一人が附添ふことになつて居る(日向の言葉卷一)。何れも當人と同じ年頃の友人である。聟まがひは聟入に同行し嫁の家で「重開き」即ち聟持參の酒肴が出ると、直ぐに聟と共に座を立つて歸つて來る習ひである(婚姻號)。7、ムコマギラカシ
丹後中部でも聟が嫁の家へ初入りする時に、是と同行する者をさう謂つて居る(三重郷土誌)。九州北部では山村にも、島にも、此慣習と名稱とは知られて居る。但し嫁まぎらかし程は一般的で無い。長崎縣の崎戸などでは、養子聟の場合にしか、「まぎらかし」は同行しないが、筑前糟屋郡の新宮邊では、茶聟入即ち結納聟入の際に同行して嫁の家の祝宴に列する。大抵は聟と同年齡の者で、其數も何人かある場合もある。聟は其聟まぎらかしの一番末席に坐るものとなつて居る。宗像の大島などは其數は一人、必ず未婚者たることを要する。嫁入の日の聟入には聟と同座するが、其膳の上に扇子を載せて置いて、直ぐに還つて來るのを禮儀として居る(以上櫻田君)。8、ナタサグリ
北松浦の田平邊にも嫁入同日の聟入がある。其時の同行者は兩親及び媒人の外に、樽肴などを持つて行く男があり、俗に之を鉈さぐりと謂ふ。止まつて嫁入の行列に加はるといふから聟まぎらかしではなかつたらうが、兎に角に物騷な名前である。或は嫁に附く老女や女中頭などを、さう呼ぶ例もあるといふ(旅と傳説、婚姻號)。9、ムコニガシ
前に擧げた筑前宗像の大島では、嫁入の式があつた後に本膳が出ると、聟は飯を食ひ殘したまゝ、聟まぎらかしに目くばせしてそつと座をはづして遁げる。此時ぐづ/\して若者たちに見つかると、追掛けて來て水を掛けられる。素裸に毛布を被つて遁げたといふ話もあり、又灰汁を浴せられたといふ話もある(同上)。10、ムコニゲ
阿蘇地方でも花嫁御の迎へに聟が來て嫁の家で式がある。其席上初肴と謂つて鯛の生造りの鉢物が出ると、聟は自席から立つて遁げ還らねばならぬ。是を聟遁げと謂つて居る(同上)。11、ムコノクヒニゲ
信州諏訪郡の落合村などでも、嫁入當日の聟入があるが、聟は其酒席の中途、何人にも禮の挨拶をせずに、歸つて行くのを習ひとする。それを土地では聟の食ひ遁げと謂ふさうである(同上)。群馬縣の南部、吉井町の一部と入野村の一部では、この聟入の式の最中に、新郎を遁がして大騷ぎをして之を見付ける眞似をなし、終に見付からなかつたと稱して假の新郎を以て取結ぶといふ奇怪な風習が行はれ、今尚局外の人を苦笑させて居る(多野郡誌)。12、ムコノシリニゲ
島根縣では松江市の附近の村など、聟入は嫁入と同日には無く、普通の如く嫁の里歸りと一緒に行はれるが、其場合にも聟は酒宴の半ばに、こつそりと嫁をつれて裏路から遁げて歸るのを例として居る。それで人が挨拶無しに還つて行くことを、聟の尻遁げのやうだといふ諺もある(民族二卷三號)。13、ムコブセ
長崎縣の北高來郡では、もとは嫁入と同じ日に聟入があつて、酒肴、白苧等を贈り物とした。是にも聟伏せといふ者を一人同行して來て、宴半ばに次に謂ふ膝立直しといふことをした。近頃の聟入は雙方の便宜によつて、當日行ふこともあれば又輿入より二三日後にすることもあるといふが(郡誌)、聟伏せを同行して膝立直しといふことをするだけは變らぬらしい。14、ヒザタテナホシ
右の地方では聟入の酒宴終りに近く、聟は聟伏せと共に竊かに外に出て、間も無く表戸口から改めて入つて來て嫁の兩親に挨拶をする。是を俗に膝立直しと謂ふのである(同上)。15、ヒザナホシ
熊本縣の宇土郡などでは、嫁入の日の午前中に聟入があり、其次の日早朝に聟は再び又嫁の里に行つて饗應を受ける、それを此地方では膝直しと呼んで居る(郡誌)。周防の大島では今でも嫁入後三日目に、舅姑が新夫婦を連れて嫁の里を訪ひ、顏つなぎの酒宴あつて聟と親とは其夜還り、嫁だけは尚二三日滯在する。それを舅入り、里歸り又は膝直しと謂ふさうである(婚姻號)。私の想像では、是は右三つの儀式が合體したもので、もとは、それ/″\に別の目的があつたものと思ふ。膝直しといふ語は今日弘く行はれて居り、時としては嫁の初里入のことゝも考へられる。たとへば宮城縣刈田郡では正月三十日の膝直しといふ名もあり(郡誌)、山口縣豐浦郡ではハツドマリを一名膝直しと謂つて居るが(同郡郷土教育資料)、それだけでは此語の起りが想像し得られない。察するに此「膝」は本來聟の膝であつて、彼がたゞ單なる近づきの酒席の間に、ふと居ずまひを正して自分が此家の娘の思はれ人であることを告白した一つの形式であり、即ち又中世の露顯即ち「ところあらはし」の作法と、一脈の繋がりを持つものであらう。從つて里歸りがもしも聟の入來を伴なはなかつたならば、之を膝直しと謂ふことは、間違ひといふことになるのである。福井縣の各郡にも膝直しといふ語はあるが、土地により嫁の里開きを意味し、又はその翌日の宴を意味する。さうしてウチアゲと二つ別々の如く考へられて居る(若越方言集等)。福岡縣博多の方言では單に結婚後の宴とあり、熊本縣鹿本郡では嫁の初歩き即ち實家訪問の日に際して、兩家親類たちの互ひに出入り始めをすることだと謂つて居るが(郡誌)、同縣下益城郡では嫁入の翌日、聟がもう一度舅の家へ挨拶に行くのが膝直しだと、はつきりと記して居る(郡誌)。同玉名郡でも略式となつて嫁の里開きと一緒に行ふだけで、本來は式後數日のうちに、聟が仲人に伴はれて一寸した土産を持ち、嫁の家へ禮に行くのが膝直しであつた(旅と傳説、婚姻號)。豐前の後藤寺の例の如きは、殊に北高來郡の膝立直しと近い。即ち嫁迎の當日に聟入は既にあつたのだが、其時は聟まぎらかしと共に一足先きへ拔けて歸つたのであるから、もう一度嫁の里歸りに同行して改めて膝直しの禮に行くのだと謂つて居る(同上)。1、ムコヨビ
聟が婚禮の以前に嫁の父と、近づきになつて居ない例も古くからあつた。聟入があつても中途でそこ/\に歸つて行く場合さへ多かつた。それで舅たちが一日も早く、聟を我身内にしようとする宴會は行はれたらしいのである。さうしてそれは必ずしも嫁の里歸りと、同じ機會のみを以て行はれては居ない。石川縣の能美郡などは、婚禮の後七日目に、ナカガヘリと名づけて嫁が里方へ戻つて來る。それから更に數日して、聟と其親類とを招いて饗應するのである。是をあの地方では聟よびと呼んで居る(郡誌)。中返りは一に又ナカイレとも謂ふ。聟方の父はミツンマイ、即ち式後三日目に嫁の里から贈つて來た餅の容器に、赤飯を入れて嫁を送つて行くが、此際には聟どのは行かない(民俗學二卷八號)。この聟よびを又聟取りとも謂ふのは、里方にとつても一人の男の子を増したことになるからであらう。福井縣の一部では、この聟よびの濟まぬうちは、聟が所用あつて訪ねて來ても、嫁の家で箸を取らぬのを作法として居る。それ故に里では嫁入後成るべく早く、聟よびを行ふ必要があるのである。御馳走は大體に嫁入の時と同じやうにする。この聟よびの濟んだ翌日、又は別に日を期して聟竝に媒妁人等を招いて、打ちくつろいだ酒宴を催すのを、此地方では膝直しと謂つて居る。前日來の勞を慰するから膝直しだと考へて居るらしい(今立郡誌)。2、イチゲン
越後の蒲原地方では、新夫婦の里歸りに行くことをイチゲンと謂つて居る(加無波良夜譚)。一見は第一次の見參に相違ないから、即ち又聟を主とした名であつた。西蒲原ではエチゲンは初聟入祝宴のことだと謂つて居る(里言葉)。常陸の眞壁郡などで、嫁の里開きをゲンザンといふのもそれであると思ふ。この聟見參は三日目も待たずに、行はれて居る例が稀でない。肥前江ノ島でも嫁入翌日の頭直しは、もとは聟入の宴であり、今でも良い衆といふ家だけでは、婚禮の直ぐ後に宿兄弟同伴で聟入をして居る。同國平島でも嫁入の當夜、祝言のすぐ後に聟入があつた。信州の諏訪では嫁入翌日の酒宴に、嫁の親兄弟を招く爲に、聟は朝早く前日の御禮かた/″\嫁の家を訪問するさうである(以上婚姻號)。長門の豐浦郡で舅入と謂ふのは、是も嫁入の式後嫁の里方に聟を招いて饗應することであつた(郷土教育資料)。3、シンキャク
能登の輪島でも家によつては、嫁入の夜直ちに新郎を嫁の里へ招待して聟入の式を擧げる例があるといふ(鳳至郡誌)。里歸り同日の聟同行は、全く後々の便法であることが察しられる。備中上房郡ではこの三日目の里歸りを新客と謂ひ、其際聟も行くと記して居る(郡誌)。美濃でも同じ日を新客又は初通ひと名づけ、其他にもさう謂つて居る處は方々にあるが、新客はどうも聟が來る故にさう謂ふとしか思はれぬ。初通ひも或は聟の通つた習はしから出て居るのかも知れないが是は便宜上後に里歸りの條に一括する。4、ウチアゲ
此言葉も今では新客や一見と同樣に、或は嫁の里開きの日のことだと思つて居る人があるか知らぬが、名前の起りはやはり別にあつた。熊本縣北部にはウチアゲはたゞ婚宴の終といふ意味に用ゐられ、直接關係者の慰勞のことだとも報ぜられて居るけれども(婚姻號)、多分は語の感じから出た誤解だらう。兎に角に近畿以東では、すべて是を聟よびとしか解して居ないのである。たとへば福井縣ではウチアゲは初聟入、即ち膝直しの翌日のことだと謂ひ(若越方言集)、加賀の河北郡でも始めて聟を饗する宴と謂ひ(石川縣方言彙集)、越中でも初聟入り即ち結婚後に妻の生家へ行くことだといふ(太田榮太郎君)。能登の鹿島郡などは結納の帶代に對する返しとして袴代を贈るのも聟が始めて嫁の里に招かるゝ際だといひ、之をウチアゲと呼ぶらしいがはつきりしない(旅と傳説、婚姻號)。北部飛騨などは結納の後、或は嫁入式の當日、聟が先づ嫁の家を訪れて一つの式を擧げることをウチアゲに行くと謂つて居る。是から見ると打揚げの如くケの音を濁り始めたのが誤りで、本來は「打明け」即ち若き男女はカタラハンとして居ることを、娘の親に知らしめる方式の永く殘つて居たものであらう。同じ岐阜縣の武儀郡などは、輿入の當日嫁の出發前聟が仲人と共に嫁の里に行き、其親族と同席して饗應を受け、嫁の出發より少し早く歸つて來る風が可なり盛んに行はれ、之を打揚げと呼んで居るのだが、斯うして置けば、「新客」即ち嫁の里返りの日に同行するに及ばず却つて便利だから近頃になつて行はれたと、私等から見ればやゝ逆な説明をして居る(民族二卷三號)。以前のウチアゲは少なくとも斯うは解されなかつた。さうして嫁入の前後を問はなかつたやうである。早川氏の集めた三河山村の「花祭」の翁の文句に、翁が若い頃結婚をしたことを語るに對して、それなら「定めて打あげをしたであらう」と言ひ、それから聟入の日の光景を面白く語らせる所がある。5、アヒアケ
滋賀縣の高島郡では、聟入のことをアヒアケと謂つて居る。東京、京都では普通之を相聟、即ち姉妹二人の聟どうしの關係と解して、しかも其理由を知るに苦しんだのであつたが、考へて見ると是も、「打明け」と聯絡の有る語であつた。兎に角にウチアゲの元は、親なり親類なりの承認を求むる式であつた。中世の露顯も實は形式ばかりで内々は父母が早くから承知し且つ希望し、たゞ公然と親子名のりをするだけに止まる場合が多かつた。吾妻鏡が記して居る皇族將軍の二度の露顯式などは、二度ともに御前の新殿に引移られてから後に行はれた。史料寛喜元年十一月十六日の條の御露顯なども、女御入内の後七日目であつた。6、カガシムコ
嫁は木尻から聟は横座からといふ諺もあつて、兎角よい家へ娘を遣りたがる人が昔も多かつた。さうすると聟入の日の款待も一通りではなかつたので、以前は是を乞聟とも奔走聟とも謂つたが、今はさういふ語はもう無くなつたやうである。之と反對に聟があんまり親の賞翫に値ひせぬと、聟入は雙方とも不熱心になり勝ちであつた。それといふのが此日は男の最も晴れがましい日であつて、一世一代の見えを張らなければならなかつたからである。狂言記などの中にも又おろか聟の昔話にも、此日の滑稽が幾つと無く描かれて居る。至つて尋常の聟には氣が進まなかつた筈である。信州の北安曇郡では、初聟は八月十五日の「月見よび」に招かれて行けなかつたら、九月十三夜には是非都合して行かなければならぬ。それにも行けないと十月十日の十日夜に行くのだが、是は案山子聟などと名づけられて非常に馬鹿にされた(同郡郷土誌稿三卷)。木曾では今日では聟入を受けると受けないとは、雙方の協議次第として居る(西筑摩郡誌)。行かずともよいのなら追々に行かなくなるだらう。1、ユヒナフムコ
前節には專ら嫁入より後に行はれる聟入に就いて例を集めた。是からは嫁入の日より前かたに、聟入をすます風習に注意して見よう。結納聟即ち結納の日に聟入をする處はそちこちにあるが、斯ういふ語のあるのは越前の一部だけが、今知られて居る。この地方では結納の際に、聟に父兄や他の親族の者が同行して行くことがあつて、それをば結納聟と謂つて居る。斯うして置けば後に聟よびの饗宴を省略することが出來て便利だとも考へられて居る。此時は本膳の後に嫁候補者が出て來て、茶を立てゝ客に饗するのを常として居る(今立郡誌)。2、ユヒナフイチゲン
越後の中頸城郡などは、結納は普通は親戚と仲人とで持つて行くことになつて居るが、時としては此日花聟が嫁の家に招かれて行く例もあつて、之を結納一見と謂ふ。其時は途中行列がある。先づ釣臺に祝儀物を載せ、其後へ仲人、聟の親、聟本人それから親類が行く。前の作法は是の略式と見なされて居る。嫁入の日取りは此日に取りきめることを習はしとして居る(婚姻號)。3、ムコイチゲン
群馬縣佐波郡の一部で、聟一元などと字に書いて居るのは、結納品を嫁の家に贈つた直ぐ後に、聟と其近親とが仲人を案内として、嫁女の家に行つて饗應を受けることである。嫁入當日の午前又は午後のこともあるが、又四五日前に聟入をすることもあつて、それからは往來をする。因みに此地では嫁入の翌日に、新婦の近親か亦仲人に伴なはれて、聟の家に行くのをたゞ一元と稱し、嫁入と同じ日に行つてしまふのを「送り一元」と謂つて居る(佐波郡東村誌)。一元を一見と書くべきことは既に述べた。4、チャムコイリ
筑前の新宮邊では茶聟入といふ慣例がある。茶といふのも約束確立の日のことで、此日結納に茶色の帶などを持ち、やはり聟まぎらかしを同行して、聟が嫁の家を訪問するのである(櫻田君)。5、ナイシウゲン
伊豆の下田あたりでは、結納を入れることを、内祝言と謂ふさうである。それから吉日を選んで愈

6、ユヒナフ
是は新たに採集するに及ばぬ語のやうだが、言葉は同じでも内容は土地毎に多少ちがつて居る。注意して置きたいのは、此日聟入をする風習が時々ある以外に、イ、此日を以て嫁入の期日を取極める習慣の多いことである。
ロ、結納を送るを以て婚約の成立と見、以後變更を許されなかつたことである。越後の刈羽郡では此日新婦に銕漿を附けさせ、駿河の安倍郡では此日以後嫁入前、聟の親が死亡すれば嫁として葬式の供をさせた(民事慣例類集)。土地によつては嫁引移りが翌年になる場合、暮には聟方から嫁の年取米を送つて來た。信州などでは堅い家は今でもさうする。
ハ、結納の品物には、地方によつて輕重の差等が大きい。其うちで金錢の處は最も新しい「改良」と見なされて居る。其一つ前には衣類、他に尚化粧道具などの例もある。食物と酒とを持つて來るのは、多分古い形であらうと思ふ。
ニ、どういふわけでか茶の包を持つて來る地方もある。
ホ、それよりも特に重要なことは、結納の以前にもう一度、婚約成立の酒を入れる土地の至つて多いことである。其事はずつと詳しく次の節で説かねばならぬ。
ヘ、結納の式の無い土地がある。さういふ處では前の酒入れを結納と解して居るものがある。或は結納に送るべき衣類や金を、嫁入當日の聟入に持つて來る土地がある。結納の期日が嫁入の前の日である所もあれば、當日午前の結納もある。又結納返しだけは嫁入に携へて來る處もある。
ト、結納の期日は其前の酒入れの日にきめて置く土地もある。之を要するに聟入と結納とは、もとは極めて近い式であつて、所謂結納聟は必ずしも二つの式の合併では無かつたらしい。
チ、ユヒナフといふ語が實は妙なものであつた。壹岐島では嫁入の日の前刻に聟入が行はれ、鯛二枚と酒一荷と茶二包とを持參する。この酒と魚とには美しく結んだ飾り繩が掛けられる。從つてユイナフは即ち結繩のことだと解する人もあるやうである(婚姻號)。私の推測では、本來はユヒノモノ即ち家と家との新しく姻戚關係を結ぶ爲に、共同に飮食する酒と肴とを意味する語で、聟が之を携へて聟入するのが本式であつたのかと思ふ。尚觀察を重ぬべきである。
7、ナフヘイ
徳島縣では一般に結納をノウヘイと呼んで居る(阿波の言葉)。或はたゞ單に熨斗とも謂ふのは、必ず熨斗鮑を附けて來たからで、其のしも亦正式の食物であつた。ナフヘイは勿論學問ある者の新語で、或は納幣かと言つた人もあるが、納聘といふ漢語の採用である。8、ユイレ
奈良縣は普通結納をユイレ、富山縣でも富山高岡の兩市共にユエレと謂ふ。即ちユヒイレの約であつて、貞丈雜記には既に之を注意し、「言ひ入れ」の轉訛だと説いて居るが、是はユヒといふ慣習に心付かなかつた時代の人だから致し方が無い。信州はたしか南佐久郡で、結納をエイノモノと謂つて居た。ユヒは通例田植などの相互手傳の場合に現はれ、それを土地によつてエイともヨイともイイとも謂つて居る。聟と舅の家の間には此時からユヒがあつたのである。9、イイレ
土佐の幡多郡では結納をタノメ又はイレ、甲州の上九一色村でも之をイイレと呼んで居た。甲州のイイレは通例は花嫁の式服一揃ひを贈るが、上衣だけをさういふこともある。あの女はイイレを着て居るといふ言葉もきくといふ(旅と傳説、婚姻號)。10、イハヒモノダテ
又、イハヒダテともいふ。岩手縣の北部などで、他の地方の結納送りをさう謂ふので、既に「口合せ酒」も濟んだ後、雙方から祝ひの品物を屆け合ふことださうである(民俗研究九卷)。11、ホンシキチャ
熊本縣鹿本郡などに於て婚約成立の後、吉日を選んで嫁の方へ衣類其他の結納品を、可なり色々と贈つて來ることを本式茶と謂つて居る。其品目の中に萬引魚二枚があるのも珍しい。之に對して嫁方から聟方へ、熨斗に酒樽に萬引魚一枚、袴地等を送るのを12、モタヒ
常陸では結納を古くモタイと謂つて居た。後世の樽入れに該當する語が、たま/\久しく殘つて居たのである。酒甕をモタヒといふ語は倭名鈔にも出て居る。13、ザツシャウ
大隅の種子島で結納のことだといふ。雜餉は本來は今の重詰のやうなもので、一般に人に食物を送る方法であつたが他ではもう忘れて婚姻の場合だけに、斯んな古い言葉が遺つて居たのである。14、タノメ
結納をタノメと謂ふ例は、土佐と伊豫の西の部分、その對岸の豐後の臼杵などにも見られる。是から東は中國も紀州も弘く一樣にタノミと謂つて居る。即ち契約成り互に信頼し得る徴で、今ならば保障ともいふべき語であらう。農業の相助制では舊八月朔日に、互ひに物を贈り合つて交誼の變らぬことを表したが、足利期以後は此風が武家公家にも入つて、依然として此日を憑むの節供と呼んで居た。併しユヒノモノが即ちタノメであつた理由は、農作を中に置いて考へないと解し難い。15、タンモリ
播州の揖保郡などでは、結納をタンモリと謂ふらしいが、是は今一度突留めて見る必要がある。タノメ・タノミの意味が解し難くなつて、或は「たまはれ」といふ語が生れたのかも知れぬ。16、カタメ
是は通例は第一次の酒入れ、即ち結納よりも以前に先づ仲人と共に飮む酒の名になつて居るのだが、佐賀縣の佐賀小城二郡などでは、本式の結納の方を固めと謂ふらしい。少なくとも他の地方の結納の品々、茶とか帶とか麻とか扇子とか長熨斗とかを、酒と一緒に持込むことをさう謂つて居る。さうかと思ふと他の一方に、衣類帶料等の重々しい物を持つて來るより、前方に、酒だけ納める行事をばユヒナフ又はタノミと謂ふ土地がある。最初は此手續きが二度で無かつたといふことも考へられ、又酒肴以外の物は後の風だといふことも想像せられる。とにかくに二つの名稱は土地によつて混同して居て、是だけで慣習の相異を説くことは六つかしいのである。17、ホンザケノシキ
本酒の式、加賀の小松町附近に此名がある。婚約成立の日即座に、酒二升と鯣とを贈るのが假りの式だと見えて此邊では之を袂酒と呼んで居る。本酒の式は別に日を協定して行ふのである(能美郡誌)。贈る品物も今日では酒肴だけに限らないことゝ思ふ。18、タルイレ
樽入れは通例右にいふ袂酒のことだが、二度目の結納即ちタノミのことをさう謂つて居る地方も可なり弘い。例へば紀州の有田郡、上州の館林地方、武藏の妻沼、千葉縣も東上總の諸郡は樽入れである。海上郡の樽飮みも結納のことだとは言ふが、此日は金帛は贈らず只酒を飮むだけで、別に嫁入の日に米叺などを、柳樽鮮魚と共に持つて行く例があるさうである(郡誌)。宮城縣宮城郡などの樽入れは正しく納聘であつて、村によつては之を内酒日、又内祝儀と謂ふ家もあるさうである。單なる酒肴以外に、紋附料と稱して一封の金を贈る。此金は嫁方より離婚を申込むときには、返濟すべきものとなつて居る由(郡誌)。19、タルヲサメ
能登で穴水の町などは之を樽納めと謂ひ(鳳至郡誌)、又酒納めだの樽立ちだのと謂つて居る。持つて來るのは仲人と親族とで、聟は來ずに代理を出すのが普通のやうだが、酒肴以外に必ず帶一筋を添へ、又は帶代と稱して一封の金員を贈る。村によつては其現金を帶代とは言はずに、酒代納めと謂つて居る(珠洲郡誌、直村の條)。さうして酒を納めたといふことは、婚約の完全に定まつたことを意味するのださうであるが、是を嫁迎の日に持つて行くものもあるのだから、つまりは結納は婚姻そのものゝ式であつた。20、タルタテ
秋田縣鹿角郡の樽立ても、同じく亦嫁引移りの日取りをきめる機會であつた。持つて行くのは名の通り樽肴のみだが、是には聟の父親が自ら行き、且つ嫁衣裳の反物を携へて、之を嫁方の親類に見せた(内田君)。南北秋田郡でも樽立ては婚約成るの證と認められ、此樽を開いた以上は故なく契約を廢することを得なかつた。訴訟となつた節は、この樽立てを以て契約の效に立てたといふ(民事慣例類集)。21、タルビラキ
縁談が纏まつたことを親族に告げ、祝賀の小宴を開くことを、宮崎縣でも樽開きと呼んで居る(日向の言葉)。つまり樽入れの酒を酌むのであらうが、此樽は最初の濟み樽のことやら、二度目の禮樽のことやらまだ明瞭としない。併し此地方での二度目の樽入れは、非常に嫁入の期日と接近して居る。だから吹聽は事實もう少し前にしなければならなかつたらう。22、レイムコイリ
日向と接した熊本縣の山村では、縁談整うて後吉日を選び、聟及び其近親媒妁人等、禮樽肴といふのを携へて嫁の家に行き、婚約の成立に就て相應の挨拶をする。是を禮聟入と謂つて居る。人によつては是をも「樽入れ」といふのだが、其前に既に一度樽入れは濟んで居るのである。禮聟入の際には夫婦の盃も爲さしめて置いて、二人の男女の出入を便にする例も多い(阿蘇郡誌)。以前は花嫁が此日に始めて銕漿をつけた。今でも此晩に普通は荷物送りがある。聟方の若い衆が箪笥をかたげに來り、かね附け祝に集まつた村の娘たちは、是に墨を塗り又白粉をつけた(旅と傳説、婚姻號)。23、チャノモノ
同じ縣でも海に沿うた宇土郡などでは、結納のことを茶の物と謂つて居る。即ち第一次の樽濟みの後、吉日を定めて仲立ちが之を持つて行く。色々の贈品の外に必ず雌蝶雄蝶を附けた茶の包を添へる。之を親戚近隣に披露する宴を茶披露と謂ひ、嫁方からの返禮の品を戻り茶と謂ふ(宇土郡誌)。24、チャギモノ
筑前の大島などは、以前は結納の式といふは無かつたらしい。近頃茶着物と名づけて、氣の利いたところで紋附と帶、普通は帶だけ嫁方に贈る。それも嫁入の當日持つて行くのである(婚姻號)。前に掲げた茶持ちといふ役がこれで大よそわかる。25、オチャオビ
福岡縣久留米地方では、朝聟入即ち嫁入當日の聟入の際、聟の方から帶地を持つて來る。それを直ぐに仕立てゝ其夕の輿入れに着用することになつて居る。帶に茶を添へて持つて來る故に御茶帶といふ(民族と歴史五卷六號)。26、オチャギン
肥前鷹島の例だが、内陸にも弘く行はれて居る。結納であるが多くは金、今は二十圓ぐらゐが普通、嫁入の日に持參する。此際聟方の者嫁方に行き酒を飮む。本人が來なくとも之を聟入と謂つて居る。是が終つてから一同聟の家に行くのが嫁入で、此時に聟と嫁との盃はある(櫻田君)。肥後の玉名地方の結納は嫁入の當日では無いやうだが、とにかくよほど近づいてからである。贈り物は帶の外に米が三俵五俵、是に肴料といふのが附くので、それを茶銀とも謂つて居る。近年其高が次第に多くなり、百圓以上の場合も稀でないといふ(能田太郎君)。御茶が常民の飮み物となつたのは、九州とても決して古いことでは無かつたらう。さうすれば是を結納の料としたのも、中世以後の新制といふべく、それを帶地の名とし更に又金錢を以て代へたなどは、又一段と新しい變遷と見るべきである。
我々の興味をもつ點は、何故に西國でばかり特に此風が起つたかといふことゝ、どうして酒肴の他に是を添へることになつたかであるが、是は或は女と酒との、古い關係を解説するたよりになるかも知れぬ。
27、スズノカネ
酒の代りに金錢を贈る例もある。伊豆大島の波浮港などは、結納のことを錫の金と謂つて居る(山本靖民君)。スズは金屬製の酒徳利のことだから是も亦樽代と同じ意味で、即ち此地方にも聘禮に金を贈る風習のあつたことを語るものである。28、メシクヒ
福島縣の海岸地方には、結納を飯喰ひといふ名稱がある。贈品は十一種九種又は七種、是を目録に載せ、別に金圓を添へて來るのを縁起と謂ふとあるのは(石城郡誌)、是も亦縁金の訛であらう。縁金といふ語は他の地方でも折々聞く所で、所謂支度料の別名である。飯喰ひは如何にも殺風景な語ではあるが、やはり九州の方の茶の物等と同じく、此日聟來つて共同の飮食をしたことを意味する、古風な習慣の痕跡のやうに思ふ。29、フンジサン
鹿兒島縣大島に於て結納の式に該當する語、字に書けば本持參である。即ち口納めが濟んで後、日柄を選んで仲人を以て贈る品々、普通餅二組と燒酎三沸し即ち三升、生魚と硯蓋即ち料理若干で、今日は是に尚現金を添へるものが多い。嫁方では此日祝宴を開くが返禮はしない。聟は此時から公然と夫婦となるが、嫁ソーリ即ち嫁入は其後に行はれる(岩切登君)。是を持つて來ることをジサンチキーと謂ふ。チキーは多分「つかひ」であらう。東北でも物を贈ることをしば/\ツカフと謂つて居る。30、ゴバンコリ
沖繩縣の國頭では、許婚を親戚知友に披露する宴が嫁方で行はれ、其際に聟入がある。聟は近親者と共に酒肴を携へて嫁方に行き、近親の人々に挨拶をする。此時の宴に限つて盃の遣り取りは無く、何れも受けきりである。聟が歸つて行く時は嫁方の人々、又酒肴を携へて送つて行き、そこで又酒宴がある(旅と傳説、婚姻號)。ゴバンは御飯のことかと思はれる。此日の式が濟むともう公然と夫婦で、聟はトジバンと稱して毎夕嫁の家に行つて宿するやうである。31、モドリチャ
聟方の茶の物に對して、嫁方の返禮の品を戻り茶といふことは、熊本縣では一般の風らしい。之を受けると聟方でも茶披露をした(上益城郡誌)。中部以東は之を結納返しと稱し、大抵同じ日に約半額ほどのものを返すといふ例が多いが、香川縣などでは其返しを嫁入の日に持參することになつて居る。甲州には聟引出といふ昔風の語が殘つて居る。普通は羽織や袴などで、是亦イイレの返禮である。引出物とは謂つても聟入の際に與へるのでは無く、やはり後から聟の家へ送り屆ける(婚姻號)。32、モラヒジャウ
貰ひ状。宮城縣には樽入の日に貰ひ状、呉れ状を交換する習ひが古くからある(宮城郡誌)。或は又縁組状とも稱し親類仲人立會の上之を授受し、是がすむと破談することは出來ない。近世は是に證劵印紙を貼用するものさへあつた(民事慣例類集)。關東は一般にたゞ親類書を結納の品に添へるのみであつた。信州などはそれを由緒書と謂つて居る(南安曇郡誌)。1、ハナシカケ
結納が嫁引渡しの日を定める式なるに對して、其以前に尚婚姻の承諾を求める式があつた。之を假結納といふ土地もあるが、婚約だけは之によつて成立つのだから、假といふ語は當つて居ない。信州の遠山和田などで、此式を酒入れとも話し掛けとも謂ふのは、何だか混線のやうにも聞えるが、多くの話しかけは即座に酒入れになつたのだから、此方は却つて實際に合つて居る。兎に角に話が纏まると、出來るだけ間を置かずに酒を持込んで共に飮んだので、多分は仲人は上り口に樽を置いて、自信のある縁談の口を切つたことゝ思ふ。2、サケイレ
酒入れといふ語は信州から其隣接の諸縣にかけて、相應弘い區域に知られて居る。「酒がはいつた」といふことはもう特殊の事情の無い限り、破談は出來ない状態に在ることを意味する。しかも其分量といへば通例は一升入の樽であり、近頃はそれも酒屋の切手などになつて居る。結納とはよほど性質のちがつた贈り物である。3、サケヲスル
佐渡でも婚約が内定すれば直ちに新婦の家へ酒を贈るのが一般の例である。之を定めの酒といつた事は後に述べる。富家では此際にも金圓衣類を贈ることはあつたが、名稱は「酒をした」と謂つて、此以後は違約の出來ぬものとなつて居た(民事慣例類集)。4、サケタテ
秋田縣の鹿角地方でも、之を酒立て又は樽立てと謂つて居る。持つて行くのは聟の父親で、樽に肴を添へて持參する。是が納められると縁談は調うたことになる(内田武志君)。5、チャイレ
福島縣の石川郡などでは、是を茶入れとも謂つて居る。茶入れとは謂つても、持つて行くのは酒一升で、こゝでは此際に嫁入の日をきめてしまふ。或は樽入れといひ又飯食ひともいふのが(郡誌)、少しばかり隣の石城郡のメシクヒと違つて居る。6、チャシウギ
茶はもと酒と共に携へて行つたものゝやうである。越後の魚沼地方などで茶祝儀といふのは、婚約調うて後十日以内に、聟の家から茶を一斤か二斤婦家へ贈つて來る。婦家ではそれを數個に包み分けて、名主組頭組合親類に配分する。是に酒を添へる家もあるが、兎に角に名前は茶と稱へて、假結納の意味で雙方契約の效とする。爾後故無く破談をしようとしても、媒介人は承諾せぬのが例である(民事慣例類集)。7、キメヂャ
熊本縣玉名郡などでは、結納のことも茶といふが、其前の式をもキワメ又はキメ茶と謂つて居る。話が纏まると其日中遲くとも翌日、柳樽と魚二尾入一籠とを媒人が持參して挨拶する(能田太郎君)。8、ダツタテ
同じ地方では又是をダツタテとも謂ふやうである。ダツは食物を入れて行く器物のことでは無いかと思ふがどうか。9、ナゲイレ
香川縣の仲多度郡などは、婚約成立すると直ぐに、聟方より熨斗や鰹節を添へて柳多留を贈つて來る。是を投入と謂ふのは急いで持つて來るの意かと思ふ。タノミ即ち結納は更に日を定めて贈るのが古式であるが、今は略して直ぐに結納を贈る例もある(仲多度郡史)。10、タノミ
多くの地方では第二次の結納のことをいふが、周防の大島では固めの酒のことである。仲人が一升の酒を下げて、下話をしてくれた女の人も同行する。稀には聟も一緒に行くことがあり、又時としては是が結婚式の代用となり、其まゝ娘を聟の家に連れて來る場合もある(宮本常一君)。長門大津郡の山村では今でも聟が同行する。11、オサヘ
播磨の各郡では是をオサヘと謂つて居る。結納は改めて日を定めて贈るのだが、其以前單に約束の驗として、扇子熨斗酒肴を贈り、若くは其料として金一封を持つて來るのもある(民族二卷三號、民族と歴史二卷二號)。オサヘは抑へであつて、もう外へは交渉を始めさせぬことを意味するのであらう。見合ひが濟んで直ぐに、之によつて約諾の意を表する例もあつた(加東郡誌)。見合ひも只單なる調査では無かつたのである。12、オウサン
群馬縣では婚約成立を披露する酒盛りを、樽立てとも又オウサンとも謂つて居た(群馬郡誌)。是も「抑へ」の意味の不明になつてからの變化かも知れぬ。13、シキリ
岡山縣作州各郡では、婚約成立の後近親を會して之を告げ、酒飯を饗することを仕切といふ(勝田郡誌、英田郡誌)。これ成約の誓なりとあるから、シキリといふ語には拘束の意味が有つたのである。14、キメザケ
筑前の大島では、キメ茶の代りにキメ酒の名がある。又スミ酒とも謂ふ。仲人が酒三升と有り合せの尾鰭あるものを携へて嫁の家に行き、嫁の兩親兄弟その他重な親類と立會ひ手打ちをする。此時始めて仲人は上座に坐り、嫁は酌に出る。但し聟は同行しない(櫻田君)。15、クチキメ
關東では栃木縣の都賀郡などで、之を口極めと謂つて居た。契約が成立つと仲人を介して、雙方から樽酒を贈答する。此手續がすめばもう容易に變改することが許されない(民事慣例類集)。16、クチキハメ
群馬縣でも佐波郡などは、之を樽入れ又は口極めと謂つて、仲人は雙方に祝酒を供し、彼我ともに近隣親族の人々に立會を乞ひ、婚姻の成立を披露した。結納は輿入の日が定まつてから後に贈ることになつて居た(同郡東村誌)。17、カタメノサケ
肥前五島の有川では、嫁方合意を、貰ひが濟んだと謂ひ、仲人はこゝで兩親達だけと祝ひの盃をする。此時には親族だけが招かれる。嫁入の日も是できめる。壹岐でカタメ酒といふのは承諾の返答があると仲人が酒三升を携へて嫁方へ出かけ、口頭の契約をする事である(山口麻太郎君)。18、カナメザケ
奧州の外南部で、カナメの酒といふのも固めの意である。國の兩端で同じ語を使ふのだから、此名稱は古いと見てよからう。19、コブシカタメ
但馬の養父郡などでは、婚約成立の際に飮む酒を拳固めと謂つて居る(風俗畫報七五號)。20、クチガタメノサケ
甲州の上九一色村などでは此際に仲人の持つて行く酒を袂酒、又は口固めの酒と謂ふ。其酒樽の角には、ごまめを二尾腹合せに結はへたもの、又は鯣一把か二把をくゝり付けて持參する。嫁方では身うちの者列席の上で其酒を開く。是を酒を入れた、又は酒を濟まいたと謂ふ。嫁入の日取は此席上できめ、もしくは後日にきめることもある(土橋里木君)。21、クチムスビ
鹿兒島縣の大島で、話が成立つと仲人が持つて來る。燒酎が三合に生魚素麺など。是を口結びといひ、又三合酒とも謂ふ(岩切登君)。22、クチアハセザケ
陸中上閉伊郡では、此酒を口合せ酒と謂ひ、媒妁人が携へて來た酒と、嫁方の酒とを混じて汲みかはすことを、樽の口を合せると謂ふ。持つて來るのは通例一升である(民俗研究九號)。23、クチワリザケ
越後の蒲原地方では、此酒を口割酒といふ(民事慣例類集)。一に内契約ともいふ。式の説明は無いが、是も兩家の酒を混ずる故に、ワリと謂つたのであらう。24、クチシュビ
福島縣の海岸部には此婚約成立の式を、口首尾ともヘンジともメシクヒともいふ村がある(双葉郡誌)。首尾といふのも返事のことで、つまり此酒を飮みながら口頭で快諾の旨を答へたからの名と思ふ。25、サダメザケ
同じ縣でも會津の若松あたりでは、仲人は酒一升に干烏賊を添へて、先づ嫁方に行つて其酒の半分を其家内縁者に飮ませ、殘り半分を以て聟方に行き同じことをする。その式をサダメザケと謂ふ。但しこゝでは結納も同じ日に行ふ(若松市郷土誌)。といふことは是が結納以外の手續きであつたことを意味する。酒を兩家の者に二度に飮ませることは、五里七里も離れて居ては不可能なことである。だから仲人が代つて飮んでしまふ例も多いのだが、前には聟自身が此酒を携へて、出かけて共に飮む慣習もあつたと思はれる。たとへば佐渡でいふ定めの酒の如きは、どうも聟殿が下げて行つたやうである。島の盆踊の人を笑はす踊唄の中に、
縁が無いやらサダメの酒を
道で鴉が蹴こぼした
といふのがある。是なども仲人の親爺が一人で持つて行つたのだつたら一向にをかしくない。道で鴉が蹴こぼした
26、テジメノサケ
此言葉は越後信濃から其隣接の國々にも弘く行はれて居る。やはり結納とは別にそれよりもずつと早く、貰ひ方よりくれ方へ、婚約成立の證として贈つて來る酒で、是に鯣を添へ又扇子を添へたが、近頃是も料金にした土地がある(西筑摩郡誌、南安曇郡誌等)。手締めといふのは手を打つ事である。愛知縣額田郡などでも、當事者承諾の後、仲人の持參する一升の酒を徳利酒又は手〆の酒といひ、是を贈つて承諾を謝し、且つ手〆の式を行ふ(郡誌)。とあるのはシャンシャンと手を打つことである。27、シメザケ
越中の高岡邊でもこの約婚の時の酒を〆酒、信州佐久地方にも同じ名稱がある。此酒は里方に於て、必ず親族に披露することになつて居る(民事慣例類集)。披露といふのは飮ませながら其話をすることである。28、テウチザケ
手打酒といふ語も奧羽越後等處々に行はれて居る。手うちも手じめも同じことだから、二つの名が竝び行はれて居ても不思議は無い。29、テイレザケ
手入酒。山口縣長門角島などでいふ。一名カタメの酒、世話人が持參し嫁の親類も招いて、大根膾などの簡單な肴で飮む。結納は別に白米二升帶代若干、番茶の紙包を添へて是も仲人が持參する。但し實質上の嫁入は手入酒が濟むと直ぐに行はれる(旅と傳説、婚姻號)。30、ネキリザケ
阿波の奧木頭の北川村で、内談まとまると直ちに酒を持參する。是を根切酒といふ。大抵は一斗ぐらゐ、是を貰ひ受ける男と媒妁人とが持つて、先方に行き酒盛を催す(人類學雜誌一九〇號)。即ち聟入である。根切は嫁の家からつれ出す意味であらう。31、タモトザケ
袂酒といふ語は信州北部から越後高田、石川縣までは確かに行はれて居る。加賀では婚約成立の日に仲人が持つて行くので、普通には二升と鯣、別に本酒と謂つて結納の式を履む者もあるが、袂酒の方が一般的で、之を正錫ともいふ(能美郡誌)。信州の方では費用の出處はともかくも、袂酒は仲人の買ふ酒となつて居るらしい(上高井郡誌)。袂といふのも即席に之を調へる意味であるらしい。甲州にも此語のある事は前に述べた。32、フクベザケ
同じ地方では、又此酒を瓢酒或は一升開きとも謂つて居る。是に對して愈
33、トックリザケ
徳利酒といふ語は三河の西部(西加茂郡誌)、又越後の刈羽郡にも知られて居る(民事慣例類集)。後者では内談整へば即日之を贈り、後婚姻の期に近づいて、改めて結納を持つて行くのが例であつた。34、イッパイザケ
常陸霞浦湖上の浮島では、約束成立の日仲人の入れる酒を一杯酒と謂ふ。こゝも一升ときまつて居る(旅と傳説、婚姻號)。35、コダル
岩手縣の膽澤郡などでは小樽といふ。是も約成るの日に約定を表する酒で、結納には嫁入の日が定まつてから別に衣服を贈つた(民事慣例類集)。36、シャウスズ
正錫は前掲加賀の能美郡の外に、伊豫の一部でも同じ語があつた。即ち結納の禮以前、話がまとまると直ぐに一種一荷を入れることをさう謂ふのは(新居郡誌)全く同じことである。スズは徳利以前の酒器必ずしも錫で作つてなくともさう謂つたらしい。37、タルスミ
熊本縣宇土郡などでは、婚約を結ぶ日、媒妁人自ら酒二升鮮魚一貫目位を携へて嫁の家へ行く。之を樽濟みと稱へ、受けた方で親戚故舊を招いて之を披露するを樽開きといふ(郡誌)。同縣下益城郡などはスミダルといひ、兩方とも互ひによく通ずるが、土地によつては單に是を「禮」とも謂つて居る(阿蘇郡誌)。38、スミザケ
九州では可なり弘く此語が行はれて居り、其内容にも格別の相異が無い。幾つか集まつた實例の中で、肥前鷹島のは島だけに少し振つて居る。仲人は通例二人、話しかけは必ず夜行くものと極つて居り、二人が各
39、クギザケ
筑後八女郡の星野村などは、この濟酒のことを釘酒と謂つて居る(同上)。是も話を固めるからの名であらう。40、コンパ
羽後の飛島では、婚姻の約束のしるしに、嫁の親の家に贈る固めの酒をコンパと謂つて居る(飛島圖誌)。其意味はまだ考へ出せない。41、ナイサケイハヒ
宮城縣で結納日を内祝儀といふ例があることは既に述べたが、是も土地によつては第一囘の酒入れのことであつた。たとへば松島の浦戸村などで、内祝儀もしくは内酒日といふのは、どうやら縁談のきまつた日の事であるらしい。たゞ此村などでは後にもう一度の結納の式が無い爲に、此日を亦結納日といふだけである。仲人は五合の酒を携へて來て、是を嫁の家の酒五合とまぜ合せる風がある。一しやう離れぬといふ意味だなどと謂つて居る(宮城郡誌)。同縣遠田郡の内酒祝などに至つては、明白に九州の濟酒濟樽に該當する。結納はもう一度日を定めて持つて來るからである(遠田郡誌)。42、オミキヲイレル
瀬戸内海の島々、例へば備中の北木島などの慣習は、始に聟方の友人又は先輩が、酒を持つて娘の親の所へ挨拶に行く、それから交通が許されるので、此酒を「おみきを入れる」と謂ふ。娘の家にはこの夫婦生活の爲に、特に用意せられた一室があつて、女は其室に宿し聟は自由に之を訪問する(民族二卷四號)。即ち此地方の酒入れは、單なる婚姻の豫約では無かつたのである。43、サキムイ
轉じて南方の沖繩諸島はどうであるかと見ると、沖繩本島の宜野灣地方では此酒贈りをサキムイと稱し、結婚の豫約だと解して居る。酒と重箱につめた肴とを持つて、女の家に行つて約束をすることで、是が濟むともう其以後は、互ひに忙しい時には行つて助ける(シマの話)。誰が酒を持つて行くのか記してないが、多分親族と共に聟も行つたのであらう。サキムイは酒盛のことで、別に變つた意味はもたぬ語のやうである。44、アライデザキ
此縣宮古群島の伊良部の島などでは、聟が女の親の承諾を求めに、携へて行く酒を、アライデ酒と謂つて居る(民族一卷一號)。同意が得られると直ぐに酌みかはす習であるらしい。だから是を結納の酒と譯したのは誤つて居る。嫁引渡しの爲にこそは豫約であらうが、夫婦の語らひは此酒を以て結ばれるのである。アライデは私の想像では家を出ることかと思ふが、尚島の語を解する人に問ひたゞして見たい。45、ナカダチノサケ
沖繩最南端の波照間の島では、結婚を意味する特別の語は無い。たゞ結婚と結納とを合せたナカダチヌサキ、即ち仲立の酒といふ語があるだけだといふ(宮良當壯君)。此意味は又此酒を酌む事によつて既に夫婦の契は結ばれるといふのであらう。46、オヤノレイ
酒入れが曾ては今よりも遙かに大切な儀式であつたらうといふことは、單に仲人ばかりの行動によつて之を察することが出來ない。仲人の地位は近世重要となり追々に聟と其身内の役目を代行して、愈
47、ヨロコビ
長門の大島では右の親の禮をたゞ悦びと呼んで居る。濟酒の翌日又は日を擇んで、貰ひ方の近親の女性、例へば姉や伯母などが、嫁方の近親の家を
48、ジウモチ
日向49、ゲンゾウ
同國兒湯宮崎の二郡では、此訪問をゲンゾウと謂つて居る。契約が定まれば、行く者は必ず聟の母、酒肴を携へて近親の婦人を伴なひ、嫁の家に至り婚儀の成るを表する。此手續がすめば再び違變することは出來ないのが例である(民事慣例類集)。ゲンゾウは現像と文字に書いて居るが、是も亦初對面を意味する見參であつたと思ふ。場合は僅かちがふが南北の兩端に於て、同じ中世語の使はれてゐるのは注意しなければならぬ。1、オカタミ
聟は古風な縁組に於ては、もう此酒入れの時に聟入をして居る。家と家との婚約の成立に、是非とも酒食が必要であつたといふ事は、中途に仲人の獨占してしまふのが、後世の變化であつた事を思はしめる。聟が聟入を遲くしたがる理由、即ち仲人の代理を頼むやうになつた起りは、未だ相手の女をよく知らぬといふ場合が、近世次第に多かつた爲かと考へられる。村内の婚姻ならば見合ひは常にして居る。親さへ承知すればといふ例が、稀で無かつた筈である。それ故に私は現在のミアヒといふ風習を、可なり意味ある殘存として注意するのである。紀州那賀郡などのオカタミといふ語は、單に見合ひのことだと解せられて居るが(郡誌下卷)、甲州の方言では之を婚禮の取持のことだといふ。オカタは前にもいふ如く、家の主婦を意味して居た。從うて見合ひは唯若い男女が、相手の姿を見て置くといふ以上に、既に一つの選定であつたかと思はれるのである。此點は前代の學者も注意して居る。たとへば尾崎雅嘉隨筆にはメアハスは目合はす也と謂ひ、西田直養の※[#「竹かんむり/收」、464-6]舍漫筆には浦島子傳の合眼といふ文字に據つて、マグハヒといふ語も是だと迄論じて居る。2、ミアヒ
見合ひは今でも嫁となり得る者の家に於て、行ふを以て通例とする土地が多い(群馬縣多野郡誌等)。是だけは聟入とは言はぬけれども、男は同じやうな心構へを以て行くのである。それから大抵は其日其場に於て、ほゞ雙方の内意を問ふ事になつて居る。野州足利の附近の例では、氣に入つたら娘の出した白湯を飮むことに、かねて世話人と打合せて置いたといふものもあつた(旅と傳説、婚姻號)。直ぐに其後で、どうでせうかと、尋ねる習はしがあつた爲かと思ふ。大和の高市郡でも承知の場合には、わざと扇子をあとに殘し、又はお茶菓子を持還つたりする。是を見て女側ではやゝ安堵する。それから愈
3、オチャノミ
福島縣信夫郡の或村では、娘が嫁入の年頃になると、男が猿袴をはき白い馬などに乘つて、仲人に連れられて見合ひに來る。それが月の十日の日ときまつて居たと、結婚寶典には見えて居るが、記事が粗相で前後の事情が判らぬ。しかし少なくとも見合ひに日をきめる例は絶無で無かつた。香川縣小豆郡の四海村では、一部落の見合ひを集合的に毎年日を定めて擧行すると謂はれて居る。當日は村長議員などの監督の下に、年頃の娘達は盛裝して出て來て、村の若者と一日遊ぶ。其送り迎へを若者がする途すがら、多くの約束が成立つといふことである(婚姻號)。是も詳しい記述を見ぬと、證據として引くことも出來ぬが、此種の妻問ひ方法は昔も多く、今も山村などには折々例がある(此事は短歌民族一號に書いて置いた)。4、ナイショギキ
それから此序に是は見合ひでは無いが、女子の意向を無視しなかつた例を擧げると、肥後の阿蘇地方で内所聞きと謂つて居るのは、單なる内偵社一流の外側だけの調査では無くて、聟方の叔父とか友人とかゞ、嫁候補者の女友達を頼んで、竊かに本人の内意を聞いてもらふのださうである。それが否に非ずとわかつて、始めて酒一升と豆腐三丁をもつて仲立人を頼みに行くのだといふ(同上)。但し此内所聞きをするのは、嫁御見が終つた後だと謂つて居る。さうすると此地方の見合ひは、今尚仲人の同行無しに行はれて居るらしいのである。1、マウケタヒト
今少し聟の境涯を考へて見てから次の項に遷らう。播磨の東部などでは、親が我娘の夫を儲けた人と謂つて居る。古風な語であるが、今はやゝ下流の社會にのみ保存せられる(民族と歴史三卷七號)。女が良き男に選定せられるといふことは、受身であるだけに大變な仕合せなことであつた。それに後世の利得と同じ語を用ゐて居たとしても、些しでも不思議で無い。男が妻を持つ方は普通にはモツと謂つて、儲けると迄は言はなかつた樣に思ふが、同じ播州の俚諺で私たちも記憶して居るものに、「春日に燒けたらえつたもまうけぬ」といふのがあつて、春の日で黒くなつた顏はいつ迄も白くならぬといふことで、是を若い女たちの戒めのやうにして居たのは不思議である。2、カヘリムコ
以前の所謂儲けた人は、久しい間嫁の親たちの機嫌を取つて居なければならなかつたらしい。聟入と嫁入との間が、驚くほど長かつた例は今でも折々聞く。つまり其女の勞働を、さう安々とは親が手離すことを欲しなかつたのである。筑前の大島などでは結婚が濟んでから、尚三年近くも嫁は奉公をして、其給金を里の方に入れるのを加勢と謂つた。島で無くても長門の古市あたりは夫婦の盃を濟ましてから尚半年も嫁が家に居る例がある(民俗學四卷九號)。内海の島々には親が嫁入をさせぬ爲に、籍を入れられない子を持つた女房も少なくないといふ。しかし是等は唯娘の勞力の引渡しを抑制するのみだが、稀には又聟の働きをも、里方の所得にしようとする土地がある。南部津輕の人の手の大切であつた地方で、還り聟といふのがそれであつた。をかしな名稱だが勞働婚といふのも當つて居る。鹿角郡では嫁に貰はうといふ女の家へ、しばらく入聟になつて働いて居るのをケアリムコと謂つて居る。やがて出られるやうになつて女を連れて來るといふのは(内田君)、やはり豫め年限をきめて行くのであらう。野邊地では、長女を別家させる場合などによく行はれる(中市謙三君)。是は中央部にも折々見る例であるが、それで無くともやがて娘をくれる條件に、暫らく里方の爲に働かせる慣習が有つたのであらう。何れ別家をするやうな「をぢ坊」でも無ければ、事實長男には此樣な入聟生活は出來なかつたらう。3、サンネンムコ
三年聟、又年季聟とも謂つた。嫁の家の男子がまだ年若な場合などに三年五年の年數を限つて、養子聟同然に嫁の里で結婚生活をすること。今日もまだ行はれて居るらしいが、以前は下北半島には普通であつた(牧の冬枯)。4、テマトリムコ
又出歸り聟ともいふ。岩手縣の田舍には、まだ僅かばかり此風習が殘つて居るさうである。「新岩手人」二卷八號といふ雜誌に、百三十年程前の年季聟手形が掲げられて居る。本文には聟養子御奉公に差置申すこと實也とあつて、しかも八貫文の身代を受取つて居る。三年の年季中此方より暇を取るならば、女房は離縁し身代錢は増錢して返すといひ、更に御禮奉公一年の後、女房申請可罷出候。切米は一年町米二駄、女房錢一貫文とあるから給料も貰つて居たのである。5、ムコトリテンジャウナシ
聟取天井無しといふ諺が信州にはあつた。或は又聟は横座から嫁は下座から貰へといふ言ひ習はしもあつた。此聟も必ずしも養子聟とは限らず、出來るだけは尊敬し又優遇し得る樣な男に、娘は嫁げたいといふ古くからの氣風の表はれで、是が我邦の社會組織の上に、若干の特色を附與したらうことは疑へない。聟を働かせてさて娘を遣らうといふ慣習と、是は何だか矛盾するやうだが、望みは高くとも必ずしもよい聟のみを得られない。さうすれば何かそれに代るべき條件を以て、家の力の衰弱を防止する必要があつたのである。6、ムコノゴキ
養子は近世になつては家の一跡を繼がせる爲に、男子の無いところへ唯一人を迎へるだけの、制度の如くにも考へられて來たが、以前の家族はもう少し複雜なもので、親の生業の支へ得る限り、殊にめあはすべき娘のある場合には、幾人でも聟を儲けて共に住んで居た。それも行く/\は竈を分けたであらうが、同じ屋敷に居る間は諸子の列であつて、その養子聟の地位は頗る嫁引移り前の聟入と似て居た。尤も其相手の娘の方にも養女があつて、中には働き聟の數を多くする爲に貰ひ育てた女子もあつたらうが、親が大切に世話をした乞聟は、必ず生みの娘の聟であつたと思ふ。是が近頃でも或地方だけでは、何年かの間妻の親と共に住んで居た。日中は外で働くのだから問題にならぬが、夜だけは女房の里へ來て寢たのである。よく見ると是にも既に二つの區別があつた。即ち聟は宅で夕食を濟ましてから來るものと、食事も妻の家の人別に列するものとがあつた。八丈島の例は他でも述べた如く、嫁は一旦嫁入をして來て、里歸りの日から親里に歸つて居るのであるが、そこへ聟殿は夜毎に通ふのである。嫁の家には聟の御器と稱して、竝より大ぶりな飯椀があつた。是で夕飯と朝飯とは嫁の家で食ふことになつて居る(旅と傳説、婚姻號)。肥後の天草などはかの附近の例と同じく、聟は食事の後に遣つて來るらしいが、それでも公然と爐端に來て寢轉んだりして居る。嫁が默つて枕元を通つた時など、親の居る前でも構はずに叱りつける。其位で無ければ甲斐性のある聟で無く、又それだけの權力は家に居るうちから既に認められて居たのである。正式の聟入さへしてしまへば、嫁は嫁入せずとも既に妻であつた。1、ヒキツケナカウド
媒妁人の地位も亦確かに變化した。さうして今見る樣な卓上演説者は、その最後のものであつた。是も各地の實例を比べ合せると、ごく大體の過程だけは判るやうである。引付仲人といふ語は、夙く福島縣の信夫郡などに行はれて居る。婚姻祝盃の式が終つた後は、事故が生じても關係しないといふ慣例であつた(民事慣例類集)。2、アンドウキリ
山口縣玖珂郡などで、行燈切と謂つたのも是と近いものであつた。婚姻の取結び迄の世話をするだけで、其後の問題には干與しない。行燈の出る迄といふ意味かと思はれる(同上)。是が其仲人の煩累を少なくする爲であつたか、もしくは反對に謝禮で結末を早く付けたのかは明らかで無いが、周防の例などから察すると、寧ろ婚家に於て永く交際することを避けたものらしい。仲人を親と尊んだ或地方の習はしと比べて、可なり著しい相異と言はなければならぬ。3、サカヅキナコド
讃岐の高松などに此語がある。最初から關與して居る下媒人をオナコドサンと呼び、それでは少しばかり輕過ぎる場合に、改めて此盃仲人を頼むのである(旅と傳説、婚姻號)。多分は、式に臨んでから任命することになるので、盃事だけの仲人といふ意味であらう。下媒人の品格は最初から上りも下りもしない。是はやはり必要上、二段の媒妁人の存在を豫期して居たのである。以前の婚姻にはこの下級の仲立人を働かせる場合が今よりも一層多かつたので無いかと思ふ。土地によつては名は仲人と言はない女性の助手があつたり、身内の者が大いに働いたりして居る。兩仲人の少し重々し過ぎる風習も、是と關係のあることゝ思はれる。4、ザシキナカウド
岐阜縣稻葉郡などでは婚約定まつて後に座敷仲人といふのを依頼した。勿論禮式に慣れたる者を選んだのであるが、同時に新夫婦の者は之を仲人親として一生の間尊敬し、その死去の際には子孫も同樣に葬ひの供をした。夫婦間の故障はこの仲人親が裁定したのみで無く、更に注意すべきは此任務を、其人の子が相續することであつた(民事慣例類集)。察するにこの親分子分關係は、婚禮の座敷の必要だけから生れたもので無かつた。當世の媒妁も幾分か是と似て居る。5、ゴシナンサマ
福島縣の中部地方で、媒妁人のことをさう謂つて居る。少なくとも名稱だけは、典禮に習熟して儀式を指圖し得る人といふ意味であつたらう。6、シキシャ
青森縣の野邊地町では、中流以上の婚禮には別に斯ういふ名の人を頼む。小笠原流らしい風は是から入り、漸く村方との差異を生ずるに至つた(中市君)。シキシャは指揮者であつて新しい語かと思ふが、是も單なる物識りだけでは、頼まれて來ることは出來なかつたらう。7、キュウジニン
津輕地方では媒妁人をさう謂つて居る。給仕人であつては少しく名が惡いやうに思ふ。出雲で仲人をコウジニンと謂ふのと關係があるので無いか。是も麹人などと書いて居るが、名の起りは實は不明である。8、オチャク
同じ津輕でも古くは仲人をさう謂つたことが、「津輕のつと」にも見え、又「鄙の
石川の橋の袂に立つめらし
嫁にとるべか名を名のれ
おれに問ふより親にとへ
親のゆるした夫ならば
いくしましよてやおちやくどの
是では單に御客としか見えぬが、兎も角も媒人をも此土地では御客と謂つて居たのである。是と給仕人とは同じか別か、もう少し調べて見たらわかると思ふ。嫁にとるべか名を名のれ
おれに問ふより親にとへ
親のゆるした夫ならば
いくしましよてやおちやくどの
9、サイノカミ
奧州南部領では媒妁人をサイノカミといふ。信州の南佐久郡でドウロクジンといふのも同じで、つまりはこの路傍の神の、男女和合を掌るといふ信仰から出た語であらうが、一方には酒席の取持をする幇間の徒までカミと謂つた花柳語もあるから、是も幾分の諧謔をまじへて居るのかも知れぬ。10、トウニン
徳島地方では仲人を當人といふとある(旅と傳説、婚姻號)。寧ろ頭人であつて事務に任ずるの意であらう。11、シタヅクロヒ
肥前北松浦郡の田平村などでは、男の親戚朋友のうち一人又は二人が仲立ち又はナカウドといふ者になるが、別に平生懇意の者が下づくろひと稱して、交渉の任に當るといふ(同上)。備中の白石島なども結婚は媒妁人に委ねられることなく、本人どうしの約束に基づいて決定するといふ話だが(民俗學二卷三號)、是も私のたしかめた所では、やはり友人が仲に立つて奔走するので、たゞ之を媒妁人と呼ばないだけである。さういふ例ならばまだ他にも多からう。本人ばかりできめるといふことは實際は容易で無い。12、ハシカケ
紀州の有田郡では仲人の交渉を橋掛けといふが(民俗誌)、信州の飯田などではオハシカケは最初に話をする人のことでそれが媒人になることもあれば、他に適當の人を選ぶこともある。後の場合には其人を御仲人樣といふ。固めの酒もオハシカケが持つて行くこともあり、又御仲人樣をきめてからすることもある。諏訪では下ごしらへは半職業の者にさせることがある。斯ういふ場合にのみ仲人を新たに見立てる(婚姻號)。周防大島では13、クサムスビ
鳥取縣の東部では、右の橋掛けの役を草結びと呼んで居た(民事慣例類集)。藝州でも以前は下媒妁を草結びといひ、話が成立てば別に家格相應の仲人を依頼して事を取行つた(高田郡誌)。14、タイコタタキ
三河の額田郡では、婚約には雙方の事情に通ずる者が、往來して斡旋の勞を執つた。是を俗にお太鼓又は橋かけといふ(郡誌)。同西加茂郡でも初度の世話人を太鼓叩き又は橋渡しと謂つた(郡誌)。青樓の斡旋に任ずる者を太鼓持と謂つたのも、別の起原であつた氣づかひは無い。15、イリワリ
茨城縣の北部では、やゝ古くから仲人をイリワリと謂つて居る(常陸國誌等)。入割は俗語だが、恐らく交渉談判勸説等の全部を意味した語であらう。16、コシガカヘ
筑前大島に於ては、仲立人は大抵島の顏役であり、少し話が六つかしくなると、加勢腰がかへといふ後楯が多く出て色々手段を講ずるは何處も同じならんとあるが(婚姻號)、他では今は餘りそんなことはしない。モダーンの仲人は至つて意思が弱い。聟も亦さう熱心にはならない。17、リョウナカウド
九州では阿蘇も豐前の後藤寺なども、東國では安房も下總の銚子も又常陸の浮島も、共に嫁聟雙方に一組づゝの仲人が出來る(同上)。事務がそれ程多いのでは無いから、何か斯うしなければならぬ沿革があるのである。一方は或は下仲人であつたらうか。どちらが上とも言へぬ樣だが承諾を澁る方に骨折る者が入用なわけで、多分は嫁の方に下拵へは必要であつたらうと思ふ。18、ナカウドオヤ
仲人を仲人親といふ風は、前に擧げた美濃稻葉郡の外に京都四近の村々にもあつた。遠州濱名郡、相州鎌倉郡にも亦同じ名があり、何れも盆暮の音物を贈り、正月には鏡餅を持つて來たりする。一生親同樣の禮儀を盡し葬式の供にも立たねば不義理になる。其代りには一方もよく世話をしてくれ、夫婦喧嘩の裁判所の如きものであつた。近江の坂田郡などは仲人を假親といひ、其關係は同じであつた(民事慣例類集)。19、チュウニンオヤ
信州の飯田では斯う謂つて居る。オハシカケが輕過ぎて御仲人樣を頼む場合、盡力は少なくともやはり此方を親にすることは、美濃の座敷仲人も同じであつたらしい。20、オヤブン
仲人と親分とは、地方によつては非常によく似た地位を持つて居るが、大體に仲人親の大切にせられる處は、假親制の少しばかり衰へかゝつた地方であつた。ずつと衰へてしまつて居れば、もう又仲人親といふ語も無いのである。親分が早くから出來て居て世話をしてくれる土地ならば、さまでの信頼を仲人に寄せる必要も無い。甲州の如きは、其例であつた。甲州では親が承知をせぬ言ひかはせをした者は、男女何れか一方の親分の處へ遁込んで匿してもらふ。一應は叱るが、出來ると見込がつけば翌朝は掛合ひをしてくれる。大抵は又纏まるさうである。斯ういふ地方では新たに仲人が親になる餘地は無い。只其時まで親分を見立てゝ置かなかつた者のみが、事實仲人の有難さを感ずることが多かつた。即ち何れか一つあればよかつたのである。ところが信州の上高井郡などでは、婚禮に臨んで親分又は鐵漿附親といふものを頼む風がある。尤も仲人が親分を兼ねることもあるが、兩方別々のときは二組の假親が共に新夫婦の後楯となつてくれるのださうである(郡誌)。21、カネオヤ
鐵漿親は烏帽子親ヘコ親などと同じく、女子の成年期に先だつてきめられるものであつたが、初鐵漿の期日が少しづゝ遲くなつて來て、斯うして婚禮の間際に急いで頼むやうなことにもなつたのである。婚姻の成立には助力せぬらしいが、今日の如く白齒で盃をする時代でも、尚この式とは深い關係をもち、一種保證人のやうな資格ですべての盃に列したゞけで無く、式場萬端の世話がかり、東京で仲人の妻がする役を、すべて鐵漿親に頼む土地もある(信達民譚集)。然し是も追々に仲人と合體する傾向は見える。たとへば筑後の八女郡、長門の角島は共に仲立人が鐵漿親を兼ねて居る(櫻田君)。さうして恐らくは長く假親として尊敬せられるのであらう。仲人が事實媒妁の技能の無い名望家などに委ねられて、別に下拵へに奔走する者を要する今日の状態は、當分尚續かなければなるまいと思ふ。22、ハネオヤ
信州の南北安曇郡などでは、婚姻の式に列する假親を羽根親と謂ひ、是も近頃は嫁入に先だつて選定される(郡誌)。カネ親といふ語の變化であらうが、聟の方の親分をもやはりハネ親といふのである。鐵漿が歴史に化し去つた今日では、何と名を呼んでも親分といふことを意味しさへすればよかつたものらしい。23、ナカウドメン
甲州の上九一色で仲人への御禮。祝言が濟んでから反物を一反贈る。之を仲人免と呼んで居る(土橋里木君)。24、トンビノハネ
群馬縣の多野郡では、金品を媒妁人に贈つて謝意を表する。之を鳶の羽といふ(郡誌)わけは、まだ何分にも考へ出すことが出來ない。25、ヘソヌクメ
播州の美嚢加東二郡では、媒妁人が謝禮を受けた時は、近隣知音を集めて振舞をすることがある。それを臍温めと謂ふ(各郡誌)。其名も奇拔だが之をする動機も自分には見當が付かぬ。26、セツクレイ
節供禮。他でも幾らも例のあることだらうが、秋田地方では毎年の五節供に、夫婦揃うて媒人の家を訪ふ風習がある(民事慣例類集)。1、オチツキザフニ
三々九度は文藝によつて熟知せられて居るが、尚この以外にも嫁の食べなければならぬ食物に就いて、著しい全國の一致がある。その一つは落付雜煮、土地によつては落付の吸物、落付の餅ともいふものである。通例は圓餅を入れた澄まし汁で、是に添へる色々の野菜に、をかしな細工をするところもある。嫁が到來して座に着くや乃ち何よりも先に是を食べさせる。聟入にも之を出し、又祝宴の客にも供する地方があつて以前は始めての會見には、一般に酒よりも前に之を供したのかとも思ふが、兎に角に今は婚禮の日の作法となつて、嫁が食ふことだけは關東も九州も共通して居る。2、ヲリノスヒモノ
福岡縣の一部には、この餅吸物の名をさう謂ふ村がある。ヲリは、「居り」であつて落付も同じことかも知れない。是と共に皿には黒豆と昆布、切鯣などを箸で取つて勸める。此際冷酒が出て、この吸物膳の前で盃事をするのだといふ(旅と傳説、婚姻號)。3、ツッカケゼン
肥前の北松浦郡で、突掛膳といふのは飯まで出すのださうである。さうして其後に始めて酒が出る(同上)。或共同の食物によつて、雙方の身内を連絡させた上で無いと、心を許してこの人生の大事を記念することも出來なかつたのである。4、ブッツケモチ
宮城の岩出山町あたりでは、婚禮の席上一同の先づ食ふ餅をぶつつけ餅と謂つて居る(玉造郡誌)。是からあとにも幾つか例のある如く、婚禮は正月と葬事と共に、最も餅の多く用ゐらるゝ人生の三大機會であつた。5、ヨメノメシ
嫁には又是非とも米の飯を食はせなければならなかつた。是も全國的風習であるが、東京の周圍では是を上品に御高盛、又は單に嫁の飯と謂つた。他でも大同小異であるが、相州津久井地方では、親椀に高く盛り上げて嫁の前にすゑる。聟は手傳つてやつてもよいが、他の者には決して食はせない。大抵は其夜は床の間に飾つて置き、翌朝握飯にして新夫婦二人だけで食ふ(鈴木重光君)。是に嫁の飯の箸と稱して、大根で異形のものを拵へて添へる村もある。6、タカモリメシ
高盛飯といふ語は弘く行はれて居る。たとへば尾張の西春日井郡では嫁は其飯を他の器に移して僅か食べ、殘りは後で花聟が食はなければならぬ(郡誌)。信州飯田の高盛の飯は、祝言の盃の際に聟嫁兩人に出す。是には鰯二尾を結んで添へる。是も翌朝は握飯として、新夫婦が食べるを常とする(岩崎清美君)。諏訪も其通りで、鰯も燒いて二人に食べさせる。嫁の食ひさしを聟が食ふ風は九州の方にも珍しくない。7、オシツケメシ
飛騨などでは祝言の盃の後、酒宴の始まる前に此食事がある。此時舅姑が出て嫁の飯をうんと高く盛る。之を俗に舅の押付飯といふ(益田郡誌)。日本人特有の言葉の滑稽で、押付を壓抑に引掛けたのである。祝宴には成るべく笑ふ種を豐かにして居る。是も今に其通り押付けるだらう位の輕いからかひであつた。8、ハナツキメシ
四國では阿波の富岡附近でも(兵庫縣民俗資料二)、讃岐の仲多度郡でも、此飯を鼻突飯と呼んで居る(郡誌)。前者では別室に引いてから之を供する。後者も式の盃の終つてから後である。筑前の大島などの報告などは、仲立人の妻がそつと加勢してやるといふから、其場で食つてしまふべきものであつたらしい。或家では嫁樣が鼻突飯を御代りしたなどといふ笑話がある。うそには違ひなくても之を聽いて哄笑せぬ者は無かつたほど、此飯は印象の深いものであつた。9、フミツケメシ
丹後の與謝郡では、嫁の本膳の飯は盛ること山の如し。姑が食料を吝まぬ心といふ。嫁は其少量を喫し、殘飯を生ぜしめるのを作法とする(郡誌)。10、フンヅケモリ
信州の南端遠山和田でも姑は來客一同の環視の下に、嫁の本膳の前に進み出て、嫁の飯を高々と盛る。少しでも盛り方が足らぬと、皆で「氣に入らぬのか」などとからかふ。多いほどめでたいと言つて悦ぶ。聟は其飯をもつて夷神に進ぜて後、一同で食べて是で固まつたといふ。「姑の強盛り」といふことは、下伊那郡一圓の風だが此土地の仕來りだけは少し變つて居る(米澤美丸君)。11、カサワケ
常陸浮島の例は、花嫁の前に親椀に飯を盛りて供する。それを半分殘させて、後で花聟側の仲人が聟に食はせる(婚姻號)。しかも此土地の嫁入祝言には、聟は始から終まで全く席に列しないのに斯うするのである。カサは「かしは」食器のことである。12、カジリワケ
羽後の生保内の祝言には、村の青年たちが祝物だと言つて、煮大根などの肴を持つて來る。一つの肴に二本の箸を刺し新婚の二人に共に食はしめる。それを多勢の人の見る前で、顏を竝べて食はなければならなかつた(同上)。是も1、アヒサカヅキ
夫婦の盃の作法だけには、所謂小笠原流の統一が、可なり進んで居たやうである。三々九度といふ名稱が最もらしく又記憶し易かつた爲かと思はれる。しかし此中からでもまだ少しづゝの殘形は指點し得られる。例へば東京から僅か離れた北多摩の村落ですらも、この共同飮酒の式をアヒサカヅキと謂つて居る所がある(高橋文太郎君)。相州の津久井でも同樣で、式は別室で無く酒宴の座の眞中で行ふ。式は色々有るやうだが、要點は聟の飮みかけを嫁が飮むこと、及び其酒が必ず冷酒であることだといふ(鈴木重光君)。アヒサカヅキは疑ひも無く逢盃で、今は遊里の文藝に保存せられて居るだけである故に、何と無く下品に聽えるが、古くから三々九度などと呼んで居た筈は無い。2、ミヅモリ
奄美大島の夫婦の盃は、水を飮む故に水盛といふ。其次に祝宴の三獻に移るのである。嫁が親の家を出るときに、親兄弟との盃も水であつた(岩切君)。内地で水盃を不吉の時のものとしたのは後の事かと思ふ。沖繩の本島に於ても、夫婦の式は、「寄合の盆」と謂ふ折敷の上に、水と飯その他めでたいものを載せて二人の前にすゑ、先づ椀の水を指先で二人の額につけ、次に飯を一箸づゝ食べさせる。それから一枚の着物を持つて來て、片袖づゝ二人に手を通させるといふのは(比嘉春潮君)、もうよほどの形式化である。水も恐らくはもう盃に掬んで飮むまではしないのであらう。嫁が聟の家に到着する際、最初に水を飮ましめる風はまだ内地にも折々殘つて居る。3、イロナホシ
此語も膝直しと同樣に、言葉は傳はつて實質はやゝ變化しようとして居るが、起りは夫婦の盃と親子兄弟等の盃との際に着衣を變へるといふことであらうと思ふ。現在でも越後の高田、信州の北佐久諏訪、播磨の揖保郡などでは此意味に用ゐて居るが、他の多くの土地では祝宴の半ば、何囘も起つて衣を更へることだと思つて居るらしい。そんな殺風景なことは有り得べからざる話で、是は全く夫婦の盃と他の親類盃とが二つの異なる行事であることを、明らかに認めた所作であつたらうと思ふ。白衣をイロといふのは忌詞の反語である。イロは葬式の折にも用ゐられて居る。元來が忌の衣であつたのである。4、フルマヒ
岩手縣の紫波郡などでは婚儀の酒宴のみをフルマヒと謂ふ。此方が恐らく古い用ゐ方で、すべての饗應をさういふのは擴張であつたと思ふ。フルマヒといふ語の本の意味は、作法又は儀式といふ以上の何物でも無かつた。5、カンシ
周防大島では聟入嫁入の式をカンシと謂つて居る。カンシは燗酒であらうといふことだが(宮本常一君)、それだけでは少し説明が足りない。是は夫婦の盃事が、必ず冷酒を以て行はれた結果で、其他の親族關係者が酌みかはす酒の温かいことを、祝宴の名稱として印象が深かつたのである。此風習は弘く行はれて居る。どうして我々の酒が煖められることになつたかの歴史を考へて見る爲にも大切な史料である。6、オモラヒサマ
宮城岩手の二縣を通じ、嫁入の日嫁聟雙方の二親を互ひにさう呼んで居る。貰ひ方即ち聟の親たちを、さういふだけなら先づ解つて居るが、寧ろ反對に嫁の父母をさういふ方が多いのである。遠野の方言誌に守屋の意かと謂ひ、栗原郡誌に蓋しもろ親の訛などとあるのは、共に少しでも根據は無い。又親たちのみをモラヒドノ、其他は御客といふとあるのも臆斷で、事實は此日の客人も送迎人も共に屡
7、ヒキアヒ
福島縣の海岸地方では、夫婦の盃終つて後、受方の兩親が出て親子の盃をするのを引合と謂つて居る(石城郡誌)。其際に男方ならば謠をうたひ、女方ならば、「めでた」といふ祝言唄が歌はれる(双葉郡誌)。8、ヒキウケ
周防大島郡では、嫁入の日聟の家では男女二名、引受と稱して式に列する。聟入の時にも嫁方の近親男女二名、式に列するのを亦引受といふ(宮本君)。9、イチゲンブルマヒ
飛騨で一見と謂つて居たのは、婚姻のあつた家で其一門の者を招いて祝宴を開くことであつた(飛州志)。嫁との初對面の盃あることは勿論だが、その新たなる姻戚とも同時に近づきになつたことゝ思ふ。諏訪で「一げんの席」と謂ふのは、嫁入祝言の後で、嫁の父母兄弟近親を主賓とする新客の宴のことである(旅と傳説、婚姻號)。10、オクリイチゲン
群馬縣の佐波郡では、嫁入の次の日に嫁の身うちの者が、聟の家に招かれて來るのを一元と謂ひ、それを嫁入と同じ日にするのを送り一元と謂ふ(同郡東村誌)。一元は一見である。11、ヲンナイチゲン
同じ縣の邑樂郡でも、婚姻後嫁の姉妹伯叔母などが、聟の家に招かれるのを女一見と謂つて居る(郡誌)。12、ホンキャク
九州の各地で、祝言の際に列席する者を本客といふ。面白いと思ふのは、豐前の後藤寺などで、嫁の荷物を送つて來た人足も、すべて本客として式に列することである(婚姻號)。13、ノボセサカヅキ
婚姻の祝宴は兩系統の一門が同席する爲に、酒盃の法令が最も煩瑣であつて、司會者は隨分苦心をし、隨うて色々の慣例が發明且つ模倣せられて居る。是を詳に知ることも一つの研究であるが、自分には力及ばない。一つの例を擧げると、飛騨の益田郡などには上せ盃と稱して、左右の下席から入れちがひに、上座の方に向つて、盃を上せて行く方式があつた。それが各
14、ズタウチ
岩手縣の上閉伊郡では、婚禮の式上で柳樽から酒を銚子にうつし、二つの銚子を結び合す作法があり、是をズタウチと謂つた(民俗研究九號)。又オショウクンの儀といふもあつたといふが、共に不明である。銚子の口を合はせることは小笠原流にもあつた。地方によつて必ず少しづゝの特徴があることゝ思ふ。是も將來は觀察記述せねばならぬ。15、ゴトサンビラキ
陸前栗原郡などでは、嫁入の日の祝宴半ばに、嫁方持參の酒肴を披露して坐客に饗する。之を御土産開きと謂つた(郡誌)。16、ビンソモチ
又ビンシュ餅ともいふ。秋田縣鹿角郡で婚姻の當日、近い親類から大きな鏡餅二三十箇を、樽肴に添へて祝つて來る。それを祝宴の終に近く披露して、餅は來賓に分配する(人類學雜誌三七號)。近頃は糯米を贈る風に改まつた所もある。元は此餅に木綿一反酒二升と肴を附けて持つて來たものであつた(内田君)。17、ムコノハツウタ
徳島縣那賀郡の例、床盃の後聟再び祝宴の席に出ると、歌を所望される。之を聟の初唄と謂ふ。初唄終つて後一同、三國一の嫁取濟ましたと囃すといふ。18、ヨメノタチジャク
是も秋田縣鹿角地方に於て、嫁は姑に手を取られて、祝宴の席へ顏見せに出る。此時は長柄の銚子を以て立つたまゝで酌をするといふ(内田君)。是は奇拔なやうだが昔から、家刀自の男たちに酒を頒つ作法の形であらうと思ふ。19、ヨアケノモチ
羽後の大曲では婚禮の宴終る頃には夜が明けるが、其時餅を搗くのを夜明けの餅と謂ふ。此餅搗きの杵の音を聽かぬうちは、參列者は歸つてはならぬことになつて居る(田口松圃君)。20、カドオクリ
播磨の美嚢郡では祝宴の夜が明けて客の歸途につく時、嫁は正裝して之を見送る。是を門送りといふ。客一同は門口で又飮む。それを門酒又草鞋酒といふ(郡誌)。21、ワラジザケ
越後の高田でも、客の歸る際に、門口で嫁と聟とが、大きな徳利から注いで飮ませる酒を草鞋酒と謂つてゐる(婚姻號)。他の地方で酒を強ひるのをオタチといふのも是で、つまり既に出發の草鞋をはいてから、もう一つだけ飮ませるといふ意味であるが、出雲石見では嫁入の日の送り人足の歸つて行くものに、大盃で飮ませる酒だけをさう謂つて居り、一盃毎に草鞋一足づゝを與へる。大酒飮みの自信ある男が、腰中を草鞋だらけにして還つて來るのを見えにして居る(人類學雜誌二八卷六號)。22、ネビキザ
沖繩の祝宴は友だちを招き、近所の親戚の家を借りて饗應する。之をネビキ座といふ。近年は嫁方でも女友を招く風が盛んになつた(比嘉君)。ネビキが私の想像する如く、メビキ即ち新婦を誘引して來ることであるならば、此祝宴が男方にばかり有つたのは不思議でない。23、アトフキ
信州の北佐久では、盃事色直し後、徹夜の宴を張るをアトフキと謂ふ(郡誌)。地方によつては嫁を出した里方の方の酒宴をいひ、又旅立ちした者の後の酒盛りをもさう謂つたやうである。24、ヲトコヨバレ
石川縣能美郡など、婚禮の翌日に嫁の父又は兄と親戚が聟方の親類と席を同じくして祝宴を開く。之を男招ばれと謂ふ(郡誌)。25、カッテイリ
會津地方では嫁入の日、嫁と家内の者又は出入の者などとの盃がある。之を勝手入といふ由(若松市郷土誌)。嫁が入家後なほ數年の間、單に一家の遠慮深い族員として働くべきものであつたならば、斯ういふ盃事は實は不用であつた。嫁といふ者の地位の變遷を暗示する舊慣である。26、コガラエ
岩手縣中部で、婚姻の式の翌々日、手傳の人々に餅を食はせることをいふ(民俗研究九號)。コガは桶のこと、桶洗ひは祝宴の完了を意味する。27、マナイタザケ
是も會津地方で、嫁入の日、嫁の到着する以前に、先づ手傳の者に酒を飮ませるのを俎酒と謂つて居る(若松市郷土誌)。28、ヲンナザンシュ
嫁取の翌日關係者の男たちに酒を饗するを殘酒といひ、次いで女客のみを招いて開く宴を女殘酒といふ土地がある(石川縣鹿島郡誌)。29、マナイタタタキ
婚姻式後三日目又は五日目に、料理人給仕人などの爲に慰勞の宴を張ることを、熊本縣では俎叩きといふ處がある(下益城郡誌)。30、マナイタアラヒ
播州の東部では、これを俎洗ひと謂つて居る。取合せの獻立で手傳の人たちを饗應し祝儀を出す(加東郡誌)。31、ヤクツケブルマヒ
宮城縣の栗原郡では、もとは三日目に役付振舞と稱して酒宴を催すのが普通であつた(藤里村誌)。祝の日に色々の役に就いた人を犒ふ宴であつたらう。
(附記)略符説明
婚姻號=「旅と傳説」六卷一號、婚姻習俗號
婚姻號=「旅と傳説」六卷一號、婚姻習俗號