葬制の沿革について

柳田國男





 會員としての我々の經驗から言ふと、學會が榮えるといふことは、必ずしも精透の研究を以て、後代の目標を打立てる迄の重要論文が、連續して出現することを意味しては居なかつたやうである。理想は固よりそこに在るべきであるが、それには時期もあり又外部の機會を伴なはなければならぬ。今少しく卑近なる要件は、會員が單なる讀者となり又は普通の豫約者となつてしまはぬことで、共同の興味が或一隅に傾注せず、寧ろ幾分か雜駁で且つやゝ移り氣に見える位に、毎月の題目が變化して行くやうな際が、實は次の進出を孕んだ最も活氣ある時代なのである。求めて此状態を招致することも、決して會報の墮落といふことは出來ない。現にこの會でも過去に幾度と無く、さういふ傾向を呈したことがあり、今から囘顧するとその頃の方が會員らしい會員が多かつた。人類學の前面が本來は弘いものであること、從つて偶然に又散漫に我々が抱いて居る個々の小さな疑問の中にも、まだ幾らでも學問上の疑問があり得るといふことを、出來るだけ意外な實例に由つて心付かせて貰ふことは、所謂追隨を許さぬといふ學者の深入した指導よりも、全體の效果は時として大きかつたのである。
 近年の日本の人類學が、非常に片寄つた發達をしたのには原因があつた。或一局面に優秀なる學徒が輩出したといふ以外に、此學問としては特に大切なる現存事象の集録が、其他の部分に於ては甚だ振はず、一方には探險發掘等の事業の年と共に盛んなるに對して、この方では單なる好奇心の地表採訪すらも、段々に流行おくれとならうとして居るのである。人間生活の觀測とその直接の記録とより他には、何の手段も無い學問が、成長し得なかつたのは是非も無いことで、計畫ある公けの調査が今後に於ても尚望み難く、しかも各部各年代の考察が、互ひに相助けて進まなければ、末には折角の所謂史前學の孤立さへも、心細くなつて來るであらうことを考へると、時は稍※(二の字点、1-2-22)おくれて居るのかも知らぬが、今からでもまだ何とか方法を立てる必要があるやうに思ふ。自分なども從來は發見が餘りに少なく、又たま/\あつても其發見が餘りに小さいのに恥ぢて、幾分か肩を諸先進と比べることを差控へる傾きがあつたが、是はよくない流行にかぶれて居たものだといふことに心付いた。今度の五百號の好記念の日を始にして、又僅かづゝの問題なりとも提出して、同志の會員諸君がどの程度に、又如何なる種類の題目に興味をもち、且つ新しい資料と判斷とを以て、應援してくれられるかを試みて見ようと思ふ。


 最初に私が葬制の沿革などを考へて見ようとするのは、通例何れの民族でも是が最も主要なる文化の一特徴と目せられて居るにも拘らず、日本にはまだ明らめられざる不審が幾つもあるからである。近年編述せられた郡誌類は數多いものであるが、一樣に住民の生活變遷を誌すことが疎であるといふ中にも、殊に此項目には力を施して無いものが多い。その理由の主なるものは、他の俗信や呪法の類とは正反對に、是にはたゞ一つの定まつた仕來りがあつて、全國何處に行つても略※(二の字点、1-2-22)同じものだらうといふ豫斷があることでは無いかと思ふが、實際は却つて前者にこそ新たなる採用模倣はあれ、儀式には寧ろ改正の機會が少なく、從つて土地々々の昔を保存し易かつたかと思はれる。其中でも凶事には計畫がなく、家の者は通例其指揮に任じ得ないから、勢ひ何人も責任を負うて、古い慣習を改めようとはしなかつたのである。即ち家の風、村の作法が最も忠實に守られ、甲乙の異同はいつ迄も保存せられて居たわけであるが、それを冷靜に觀察し比較をして見ようといふ樣な人が、祭や祝言の時の樣に常に多くは居合はさなかつたのである。
 斯ういふ住民の何とも思はずに過ぎて居る生活の中に、却つて古風の尋ぬべきものがあるのでは無いかと私などは思つて居る。第一に誰でも不審してよいことは、石器を使つて居た時代の人骨でも、探して居ると追々に出て來るのに、如何なる古い村にも中世以前の墓場といふものが無い。生れては死んだ人の數の莫大なのに比べて今存する埋葬所はほんの算へる程しかないのである。石に亡者の名を刻むやうになつたのは、文字が一通り普及して後だから、人が以前の跡を忘れてしまつたかとも考へられるが、まださういふ場處は偶然にも發見せられて居ない。火葬の方式は隨分と古くから、行はれたやうに記録には見えて居るが、勿論其區域は今でも限られて居り、且つ近世に入つて始めて採用せられたといふ實例も多い。それで居て是ほど迄に遺跡の乏しいのを見ると、今日我々が塚といひ古墳と呼ぶものに由つて、類推して居る所の土葬以外に、別に一種の遺骸處理法があつて、專ら常民の間に行はれて居たことは想像してよいのである。それが如何なる樣式のものであり、又どういふ順序を踏んで、次第に現在の風に移つて來たかといふことは、自分等の知る限りに於ては、記録には是といふ證跡が無いやうである。さうすると現在も尚行はれて居る各地方の葬儀慣習の中から、或はその一部の消息を窺ふことが出來ないものかどうか。即ち民俗學の今まで他の方面に於て試みて居た方法は、何かこの問題に對しても新しい光を掲げてくれぬであらうか。私はこの目的を以て將來の地方調査の爲に、特に一二の項目を提出して見たいと思ふのである。


 先づ第一に注意せられねばならぬのは、墓地には二つの種類があつて、それが村によつては二つとも、又村によつては甲乙何れかの一つしか無いといふことである。この地方的相異が多くの人の想像して居るやうに、果して單なる偶然であつたか、但しは又それ相應の原因があつて、一方は他に移つて行く一つの過程であるのか。それを考へて置くことが準備として必要であるやうに思ふ。今日の語でいふ共同墓地、以前には三昧とも亂塔場とも呼ばれて居たものゝ主たる特徴は、土地が公用公有であつて、何人の管理にも屬しなかつたことである。大きな都府に於ては是では秩序を維持し難かつた故に、一般に之を分散させて各宗寺院の境内に附屬せしめる方針を採つたらしいが、其效果がまだ完全に現れぬうちに、再び又大規模の共同墓地を設定して、公共團體が自身管理しなければならぬ時代にはなつたのである。斯ういふ沿革がある爲に、同じ總墓地でも村と市街地とでは、外觀の上にも早著しい差別があつて、後者に於ては曾て寺院の附屬地であつた頃の慣行が、茲にも持運ばれて其儘に成長して居る。墓上に碑を建てゝ其地を永久に占有しようとする風なども、その著しい一つの例である。
 自分のよく知つて居る場合を標準に取つて、比較を進めて見るのが方法としては最も便利である。私の生れた中國東部の村などでは、三昧は遠く離れた原の端に大きなものが一つあつて、埋葬の儀式は勿論そこに行はれ、七七中陰の讀經までは、其新墓の前でしたやうに思ふ。それが何れの時を限りにしたものか、確實なる記憶は無いけれども、多分一周忌に石碑を建てることゝ關聯して居たのであらう。兎に角三年目の盆の墓參には、最早三昧の方へは行かなかつたのである。各部落には十戸二十戸分づゝ一群を爲して、極めて民家と接近した寺の裏手などに、我々の墓所といふ處があつて、そこには小さな石塔が狹苦しく竝列して居た。盆彼岸は元より後々の年忌にも、供養は常に此墓所の方でのみ營むことになつて居て、事實上の埋葬地は、何人も之を省みようとしなかつたやうである。
 今から考へて見ると、村民の墓に對する觀念は、確かに現代のそれと異なつて居た。三昧の中央に近く、路脇の小高い處に一本の老松があつた。いつの葬式の日にも必ず會衆の話頭に上るのは、誰それをいけたのはどの邊であつたらうかといふことであつた。さうすると毎に此松の樹が引合ひに出て、是から南へ二十間位の處であつたとか、いや今少し西へふつて居たとか言つて、大よそあのあたりといふ以上に、精密に茲だと言ふ者は無かつた。最も古い私の記憶では、十年ほど前に此野邊に送られた自分の祖母の、葬處はどれだと言つて親しい者に尋ねたことがある。其時にも松の樹のすぐ近くであつたといふのみで、確かには何人も教へてくれなかつた。つまり我々は三昧を墓だとは思つて居なかつたのである。


 併しちやうど其頃から、此共同墓地にも片脇に二つ三つの石塔が立ち始めて居た。それが追々と増加して遠くからも見えるやうになつて來た。移住者や新しい分家の墓地を持ち得ない者が、埋葬所を其儘墓所として拜むやうになつたのである。是と同時に部落に近い寺内や森蔭などにも、次第に人を※(「やまいだれ+(夾/土)」、第3水準1-88-54)めることになつた。是は家數が増加し三昧の利用が餘りに繁くなつて、新墓の早く亂されることを厭ふからで、つまりは法制がこの二通りの墓地に、何等取扱上の差別を設けなかつた結果である。
 其後注意をして見ると、同じ中國の田舍でも、土地によつては早くから二種の墓地が連接して、一見區別の無いやうに見える處もあつた。併しそこには必ず中央に共同の葬儀場があり、其周圍には多くの新舊の盛り土、即ち碑石を建てずに自然の更改を豫期して居る墓場があつて、家々の墓として獨占して居るのは、單に便宜上それに隣する土地を選んだに過ぎなかつたことが想像せられる。村の共同墓地では、普通に念佛の道心などを番に置き、それに小さな庵室の如きものを附與し、彌陀地藏の像を安置する場合が多い。それが少しづゝ有力者の庇護を受けて、末には寺號などを持つことになると、寺が管理する私有の墓地と、外形に於ては甚だ近くなるが、是は現今の土地名寄帳などを調べても、起源の何れであるかは略※(二の字点、1-2-22)知れる筈であり、又宗派の關係を考へて見てもわかることである。要するに村の社會の最小限の必要は共同墓地で、碑石は境遇と資力次第建てたり建てなかつたりして居たのだから、後になつて此共同墓地の隣に來り加はつたものと、一應は想像して置いてよいやうである。
 墓地を寺院に托するやうになつた起原は、純然たる歴史の問題として、記録の上からも略※(二の字点、1-2-22)之を尋ね究めることが出來るが、その一つ以前の状態が明らかにならぬ限りは、實はまだ風俗推移の動機を説くわけには行かぬ。それには現在の地方資料の、殆と無意識に保存せられて居たものを、改めて整理して見るより他は無いのである。屋敷と接近した控へ地の片隅などに、先祖代々の石塔を守護して居る例は、關東奧羽の村々に多いのみならず、是と全く隔絶した南九州の山村などにも、往々にして之を目撃したことがある。死穢を忌み怖れた古來の氣風から推すと、何か特別の事情なり原因なりがあつたと言はなければ、斯ういふ異例は解し難い樣であるが、實際は都邑の生活が始まつて以來、段々にこの慣行がすたれたといふのみで、現にその分布は全國であるから、之を以て曾て我々の間に、一種居地を埋葬地とする風習をもつ部族が、入交つて住んで居たといふ證據にすることは出來ない。或は又新たに人げの少ない原野を開發した家が、たま/\野獸や外敵を防衞する必要から、忍んで此の如き特例を設けたかの如く、考へて居る人も無いとは言はれぬが、是も其墓場が今尚埋葬所として、使用せられて居らぬものが多いのを見れば、やはり亦成立たざる一つの想像であつた。由來の不明なものは一應は固有と假定するの他は無い。即ち我々は夙に佛法の教化に信頼して、亡魂の管理を之に委ねようとしたけれども、所謂安養の道は別に其前から具はつて居た。さうして今ある如き野邊送りの儀式即ち葬地を直ちに墓とする風は、必ずしも直接には之と關係が無かつたらしいのである。


 墓地には斯の如く、もと二つの種類があつて、假に區別の名を設けるとすれば一方を葬地、他の一方を祭地とでも謂はなければならなかつたことは、現在各地方の仕來りの中からでも、可なり明瞭に之を實證することが出來るやうに思ふ。自分の舊友の一人は福島縣の伊達郡の或村に行つて、公の文書には墓地とあつて、其實立派な山林である例を見たと謂つて居る。自分も二十年ばかり前に、越後北蒲原郡の海に近い縣道を通つて居て、路の片方の松林が、樹齡の餘りに不揃ひであるのに心付いたことがある。よく見ると三年五年の若松の栽ゑてある下は、何れも人を埋めた土饅頭であつたので、始めて此邊の埋葬法が一種植樹の風を伴なうて居ることを知つたのである。其後又千葉縣長生郡のある淋しい海濱に於ても、松原の處々にカナメ・モチノキ等の闊葉樹が栽ゑてあるのを見た。是は偶然に其間に新墓があつて、例の犬除けの竹を傘の骨の形に刺し蔽うて居るので、いと容易に此邊にも三昧を林とする風習があることを認めたのである。
 或は又樹の苗を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)す代りに、石を置いた例もあつたかと思ふ。今は陸軍の砲術練習地に化した三河の伊良湖岬の村などでも、三十年前に自分が滯在して居た頃は、寺の麓にまばらな松林があつて、常は兒童の遊び場になつて居たが、よく見ると砂地に澤山の海石が散亂して居て、其一つ/\の在り處が葬地であつた。石碑は松林の片端にも少しあつたが、多くは岡の上の寺の庭に在つた。但し盆には雙方に於て祭をして居たやうに思ふ。大きさ一尺足らずの自然石の、形と色とによつて銘々の家の葬地を、見分けるのだと村の人は言つたが、果して其記憶はどの位續くものであつたらうか。事によると寧ろ適當なる期間の後に、忘れてしまふことを必要として居たのでは無いかと思ふ。相州小田原の町で或寺の墓地を偶然に訪れたことがあつたが、茲でも只の人の墓じるしは、多くは手頃のやゝ三角形の海石であつた。快活な話でも無いから人は滅多に斯ういふ事柄には觸れぬが、墓地の面積は何れの村でも制限せられて居る。永い年代に亙つて之を使用しようとすれば、到底今日の樣に一人々々の爲に、文字を刻した石塔を建て竝べて行くことは出來なかつた筈で、從うて現在の墓制のさう古くから持續したもので無かつたといふことは推測せられるのである。
 日本には限らず、墓制は一般に舊國の大なる一つの惱みであつた。最初には富あり權勢ある者が、地を占めて萬全なる保存の方法を講じようとすると、家々も亦各自の能力の許す限り、次第に其風を傳へるのは自然であつて、末には著しく生人の利害を侵蝕するか、然らざれば稍※(二の字点、1-2-22)慘酷なる反動行爲を忍ばなければならぬのであるが、我邦は寧ろ特殊なる事情の下に、今頃漸く他の諸外國が解決せんとして居る問題を、幾分か早目に解決したかの姿がある。寺院が俗界の人情から超越して、單なる無縁有縁を標準に、多くの墓所を整理し得たことは其一つである。古く溯つては火葬の採用せられたことも、無論重要なる一つの改革であつて、それが在來の歴史家の認めて居る如く、果して外國教法の感化に過ぎなかつたとすれば、其結果から見て殊に幸福なる偶然といふべきである。何となれば假に我々の感情が之を甘なはず、又信仰が誘導してくれなかつたとしても、墓地擴大の傾向は結局何等か之に近い方法を以て、整理する必要を免れ得なかつたからである。


 然るに我々の祖先の死靈に對する畏怖戒愼は、今よりも遙かに甚だしいものがあつた。如何に賢こい智慮分別であらうとも、之に基づいて突如として亡骸の取扱方を變へることは、今人も尚敢てせぬ所である。それが大昔に於て既に火葬の式を承認したのみならず、更に時代と共に漸次民間に普及して來たといふのは、少くとも古人の死に對する觀念の中に、之を自然の推移と解し得るだけの、若干の素地があつたからでは無いかと思ふ。墓地が寺院の管理に屬するやうになつてからも、始終無造作に過ぎたる更新が行はれ、都府では殊に度々の區劃整理があつて、移し動かし又取潰すことを、何とも思はぬ者が多かつたといふことも、やはり亦以前久しい間の心理が所謂野邊送りを以て記念保存の事業とせず、寧ろ一種の忘却方法の如く、認めて居た餘波であつたかも知れぬ。斯ういふ想像は一見したところ、家の名を重んじ先祖の祭を大切にした日本人の氣風と、或は兩立せぬ樣にも考へられるか知らぬが、兎に角に昔の葬法の簡略であつたことは事實であつて、それが我々の抱いて居た祖靈の信仰、家の固有の宗教と如何樣に調和して來たかといふことばかりが、今はまだ明瞭になつて居らぬのである。
 自分などの見た所では、古今葬制の變化を促すべかりし原因が、先づ三つ迄は算へられる。其一つは人の數の増加、第二には人の感覺が追々に纖細となつて、所謂あだし野の光景を目に觸れるに堪へなくなつたことである。第三には即ち戸の分裂、若くは家族關係の平等化とも名づくべきものであつたが、是だけは便宜上末段に於て敍べる。當初人が少なく林叢のなほ豐かであつた時代には、オキツスタヘの葬法は自然であつた。又最も平和なる魂と骸との分解方法でもあり得たのである。邑里が繁衍し往來の漸く加はるにつれて、此舊習は實は持續し難くなつて居たのであるが、社會はまだ之を劃一的に改革するまでの力を持つて居なかつた。問題それ自身が人の手を着けることを忌んだからである。京都は中世の終に近くまで、尚其外郊に古風なる五三昧を控へて居た。さうして一般の利用は可なりに亂雜なものになつて居たらしい。歴代朝臣の記録に、觸穢と言つたのは大部分五體不具の忌であつた。狗が人の骨をくはへて來たとか、烏が赤兒の手を庭上に落したからといふ類の記事が、幾らとも無く其中には見出される。單なる薄葬といふよりも、常民はまだ今日謂ふが如き土葬なるものを行はなかつたのである。偶然に世に遺されたる物語や繪卷の中からでも、その頃の樣子は十分に窺ひ知ることが出來る。火葬の方式が此間に於て採用せられたのも、又念佛の法師が專ら此方面の事務を委ねられるやうになつたのも、何れも由つて來る所は茲にあつたので、現行の慣例の如きは何人かの新たなる設計に基くといふよりも、寧ろ勢ひ窮まつて斯くの如く轉囘せざるを得なかつた迄であり、從つて地方によつて其變化が區々であつたとしても、それは少しでも意外なことでは無いのである。


 ハカといふ日本語は本來漢字の「墓」には相當せず、寧ろ斯ういふ昔からの、葬處として特定せられた土地を意味して居たかと思ふが、確かなことはまだ自分には言へない。兎に角にそれは忌詞であつたと見えて、會話にはたゞノベと謂つて居た人が多い。鳥邊野鳥邊山も往々にして之を普通名詞の樣に用ゐて居たのを見ると、地名の起りにも既に墓地といふ意味があつたのかも知れぬ。現在西院川原の四字を宛てゝ居るサイノカハラなどは、諸國に幾らでも例があるから、是は少なくとも京都の名を移したのでは無い。後には小兒ばかりの行く處のやうに考へられて居たけれども、語の元の意味は境のことで、即ち世を辭した人々の去り進む地であつた。蓮臺野といふ地名も京都のそれのみが著名であるが、全國に亙つて其數が非常に多い。中には只の林であり若くは拓かれて畠となつたのもあるが、斯ういふ特色ある地名は偶然には一致せぬ筈である。蓮臺は通例柩を運ぶ乘物の名と考へられ、又字面に據つて立てられた寺方の説もある。若しそれが後々のこじつけであつたとしたら、こんな一つの名稱からでも、尚或は古意を掬み得るやうな時が來るかも知れぬ。
 そこで自分は地方誌の調査者に向つて、先づ斯ういふ第一次の葬地を、俗言で何と謂つて居るかに注意せられんことを勸めたい。土地の言葉は僅かでも心持が變るたびに、努めて新語を使つて其變化を際立たせようとして居る傾きがある。だから或場合には用語の比較と時代別とに由つて、葬制其ものゝ沿革が辿られるのである。例へばボチといふ日本語らしい漢語は、有つてもよい語であるが近年までは頓と行はれなかつた。墓所といふ文章語が家々專屬の祭場の意味に用ゐらるゝに對して、所謂墓原には別にムショといふ語があつた。ムショも同じく墓所の古音の如くに説明せられては居るものゝ、其感じは全然別であつて、此方は通例共同墓地を指して居るやうである。古くは音聲の稍※(二の字点、1-2-22)之に近き、無常所といふ語がよく用ゐられて居た。奇異雜談集などを見ると、罷物所と書いてハモツショと訓ませた例もある。文字は勿論文筆の人の選定であらうが、語其ものに至つては常民の命名か、若くは少なくとも採用でなければならぬ。さうすれば是が以前の語と更代して、次に新しくなつて來た過程の中には、當然に我々の慣習の推移を含んで居るわけで、之を究める爲には今一度各地居住者の協力の下に地状と在來の稱呼とを比較して見るのも一方法かと思ふ。


 自分などの想像では、京都の船岡や鳥邊野も、元は天然の林地であつたらうと思ふが、使用が激しくて、所謂北※(「氓のへん+おおざと」、第3水準1-92-61)山上の露はなる光景を呈したのも、新しい事では無かつた。處々の濱邊や川原の墓地には、最初から十分の目隱しも無く、たゞ人が努めて其近くを避けて通るやうにして居たゞけのものも相應にあり、又少なくも近世の人は、それに馴れて居た。從つて越後上總で私の見た如く、葬地に必ず樹を栽ゑるといふ慣行は、寧ろ後代に始まつた美風とも考へられるので、それが全國に弘く行はれて居なくても不思議は無い。一般の法則としては、居邑周圍の最も閑寂なる一地を劃定して、そこに死者を送つて徐ろに魂と形骸の分離を期するのみで、村や屋敷の樣式が區々になると共に、作業薪水採取の方法が變化して來たと同じく、葬地にも亦色々の種類が出來て、今日の土葬と火葬とは、其内の最も必要多き地方から、徐々に普及して行つたものでは無いかと思ふ。海邊と山中の村とには、比較的久しく二者の必要を感じなかつたといつてよいのであらう。諸國のサイノカハラの中には、今でも地形から見て、曾て葬送の地であつたことの推測せられるものが少なくない。折もあれば一つづゝ考へて見たいと思ふが、差當りは茲にたゞ二つだけを掲げて置く。佐渡の西北隅、内外海府の境にあるねげの塞の河原は其一つである。現在は洞門の左右に澤山の石地藏を安置し、島の巡禮の是非拜んで通る路筋になつて居るが、實際は稍※(二の字点、1-2-22)行きにくい岬の陰で、何れの民居よりも一番遠い荒磯端である。私は偶然に五人の漁夫と共にそこを過ぎたが、彼等は今でも可なり顯著なる怖畏を有つて居た。さうしてまだ地藏經の説くやうに、小兒だけの地藏とは考へて居らぬやうであつた。羽後飛島圖誌の記す所に依れば、此島でも絶壁で遮られた磯山のあなた面に海邊ながら塞の川原といふ地があつて、同じく石地藏を祭り石積みの神怪を説いて居るさうである。岡を越えてそこへ行く路の曲り角に在る家では、毎に夜深く此阪を登つて行く人の足音を聽いて、村に新佛の出來たことを知る習ひであつたといふ。それも僅かに三四十年前の話であつた。是と同じ話は陸中遠野郷の或村にもあつたと佐々木喜善氏は報じて居る。こゝの墓地はサイノカハラとは謂はず、小高い丘陵の上に在つて、之をデンデエノ(蓮臺野)と呼んで居るが、そこへ登る路の角にある小庵の主は、いつも死人の來る前に此足音を聽いたさうであつて、茲も飛島も一樣に謂ふ話は、ばた/\といふ藁草履の音と共に、大抵は何か獨り言をいひながら行く。中にはしく/\と泣いて行く女もあれば、はアと一つ溜息をついて通つたのもある。さうかと思ふとさも氣樂さうに、何か鼻唄を歌ひつゝ登つて行つたのもあるといふ。何にもせよ佛法では説明のしにくさうな幻覺であつた。


 海邊にして塞の川原といふのは持つて來た名のやうだが、カハラは又磧の字を宛てゝ、實は小石原のことである。元はゴウラといふ語から分れたもので、流れの岸を意味するカハラとは別であつた。即ち若しこゝが葬地であつたとしたら、絶對に土葬は出來ぬ場處であつた。佐渡の海府の塞の磧には、餘り大きくない一つの岩窟があつて、今の通路は其片端を潜るやうになつて居る。浪打際からは稍※(二の字点、1-2-22)高くして海に面し、其奧には新舊の石佛が幾つと無く竝べてある。或は斯ういふ場處が特に以前の葬送の地に、適して居たのでは無いかと思ふ。
 それに就いて思ひ合せるのは、玉勝間卷十に載せられた出雲國黄泉の穴の記事である。場所は簸川郡奧岡村(西田村大字奧宇賀)ゾウガ谷、鰐淵山東側の山腹に在つて、海に面した天然の洞窟である。鰐淵寺の縁起には智證大師入定の穴とあるさうだが、土地の故老は之を冥途の穴と呼び、毒氣上り來つて之に中れば死すと謂つて居た。今は草に埋もれて里人も若き者は所在を知らずとあるのが、既に寛政六年三月の事であつた。是は本居先生が特に齋藤秀滿といふ人を遣つてわざ/\調査させられた記事で、先生は之を以て出雲風土記に録する所の黄泉之穴に比定せんとせられるのであるが、出雲風土記考證の著者後藤藏四郎氏は其説に同意せず、別に海近くの猪目濱といふ地に在る天然の洞窟がそれだと謂ひ、右のゾウが谷の穴は天然のもので無いからちがふと論じて居る。それは何れでもよいと言ふよりも、此論が正しいとすれば實例が二つになるわけで、實際亦さういふ例は幾つもあつてよいと私は考へて居る。此序に出雲風土記の文を拔出して見ると、それには次の如く書いてある。
出雲郡宇賀郷、腦磯……………
自磯西方有窟戸。高廣各六尺許。窟内有穴、人不得入。不知淺深也。夢至此磯窟之邊者、必死。故俗人自古至今、號黄泉之阪、黄泉之穴也。
 私は訓詁の學に疎いから、此點から特に何の論斷をも導かうとはしないが、是と神代卷の泉津平阪の物語と、名を同じうして處を異にし、又其解説をも別にして居ることは、即ち山の側面を以てあの世に降つて行く路とし、乃至は窟戸を以て顯幽二境の關門とする考へ方の、必ずしも一地一時代に限られたもので無かつたことを意味するものと思つて居る。從うて假に此地方のみは一千年も前から、最早現存の慣行を以て黄泉之穴の地名を釋くことは出來なくなつて居ようとも、他には又ずつと後代まで、斯ういふ思想に基づいて、岩屋を葬處に宛てゝ居た例が、尚幾らもあつたかも知れぬのである。

一〇


 さうして其痕跡かと思ふ口碑の類は相應にある。即ち出雲風土記と同じく、特に深淺を知らずと傳へて居る岩屋は極めて多數であり、或は又富士の人穴の如く、強ひて入つて奇瑞を見たといふものもある。それから實驗をした者は一人も有り得ないのに、非常な遠方の靈地と下に通うて居ると説く例もある。注意すべき一つの傳説には、狗を入れて見たら還つて來なかつた。若くは白い狗のみが幾日かを經て還つて來たといふ類のものがある。是が何等か昔の葬式と關係があつたやうに思はれるので、私は他日其比較を試みたいと念じて居る。それから第二段には遺跡學の側からでも、今ならばまだ岩窟葬送の痕を見出し得るのでは無いかと思ふ。横穴の人骨は入口を完全に塞がぬ限は、勿論非常に早く朽ちてしまふだらうが、雨水に流されぬ限は成分は土に留まつて居る筈であり、さうで無くとも何等かの名殘は認められたわけである。埼玉縣吉見の百穴なども、我學會の久しい論題であつたが、持主があゝきれいに掃除をしてしまつてからでは、もう證據といふものがどちらの爲にも得られない。併し口の開いた塚穴や天然の洞で、毀たれもせず又省みられもせぬといふものは、今でも尚國々に大分の數が殘つて居る。
 第三段の方法としては、我々は更に現在の慣習調査の力を借ることも出來る。近世數百年の永きに亙つて、社會を分立して居た南方の島々が、偶然に保留し又は別樣に成育させて居た一種の昔風なども、若し幸ひにして兩方の學徒が、偏見無く之を考察し比較し得たならば、假に直接の教訓とは行かぬ迄も、少なくとも有力なる暗示は得られる。而うして葬法の方面に於ては、殊に此頃になつて意外と謂つてもよい色々の事實が判つて來た。沖繩の諸島に於ては、横穴の使用と閑地送葬とは、土地の事情に應じて交互に行はれて居た樣で、現在住民が土葬を以て目して居る慣習の中にも、中部日本に比べると幾分か多量に、前代葬法の痕跡を遺して居るかと認められる。此地方には火葬は全く採用せられず、水葬も亦確かなる證跡は無いかと思ふが、免に角に[#「免に角に」はママ]從來我々が外國の學説に依り、所謂五大五種の葬法をそれ/″\別系統のものゝ如く見ようとしたのは誤で、實は此間には甲乙自然の推移を許すだけの、聯絡があり又基礎があつたといふことが、始めて稍※(二の字点、1-2-22)明らかになつたのは近年の南島研究の收穫であつた。
 此問題に關しては、伊波普猷氏の「南島古代の葬儀」(民族二卷五號)が既に其要領を盡して居る故に、再び之を詳説することは無用である。自分はたゞ外部からの觀測者の爲に、一二末端の補足を試みるに過ぎないが、沖繩の墓制は首里那覇の中心地に於てすらも、之を外形に由つて支那式の採用と、速斷することは出來ぬといふことが其一條である。何よりも根本的なる二者の相異は、一方が個人の墓であるに反して、此方は家の墓であること、即ち沖繩ではかの宏壯なる土窖を、單なる墓の集合といふよりも、寧ろ閉鎖せられたる墓地と見て居ることである。一族門黨の間に限られては居るが、穴の内の平場はいつ迄も共同の葬處として使用せられ、從うて頻々たる窖穴の出入があり、又必ず改葬の式があつた。さうして其第二の墓場も亦、同じく此横穴の一隅に設けられて居るのである。邑里が繁榮すると共に、何等かの制限が死者の用地に向つて加へられなければならぬとすれば、是などは最も整頓したる一方法であつて、或は後の時代の賢こい發明に出でたとも想像し得られぬことは無いが、實際は此の如く二段の葬地を一窖の中に併置するの風も古かつたと見えて、島の王家の初期以來の墓制も内面は略※(二の字点、1-2-22)同じであつて、單に近代のものが、其外部の構造に著しく支那の工作法を學んだといふのみであつた。

一一


 ところが國頭郡の田舍をあるいて見ると、例へば羽地村の仲尾次の對岸の孤島の如く、天然の洞穴に些少の人工を加へて、葬地としたものも少なくは無い。それが木製の戸や格子を立てゝあるのを見ると、ごく近い頃まで使用して居たことは明らかであるが、果して洗骨後の安置所としてのみ用ゐられたか、但しは第一次の葬送に際して、柩をも此中に入れる風があつたのかは疑問である。土地の故老に尋ねたら容易に判明することゝ思ふが、自分は恐らくは穴が小さければたゞ遺骨を藏する處とし、内が廣ければ其一部を共同の葬處にも利用したのであらうと思つて居る。さうして實際は多くの天然の穴は小さかつたから、大抵の場合には其近傍の林叢などを、第一次の野邊送りに宛てゝ居たのが、後に自由に墓穴を設計工作するやうになつて、總べて柩を内部に入れて置くことになつて來たものと想像する。運天の港の後の山に在る有名なる百按司の穴なども一つの例であつた。是は相應に大きな洞ではあるが、内に藏する遺骨の量も莫大なもので、到底其間に柩を置くべき餘地は無い。そこで多數の戰死者を合葬したなどといふ傳説も生じたのであらうが、戰死にせよ病死にせよ、どこかに最初の屍を横たへた場處はあつたわけで、その遺跡は今日では悉く不明になつて居るのである。
 伊波君は風葬といふ語を用ゐて居られるが、私は寧ろ空葬と呼ぶのが當つて居るかと思ふ。兎に角に近い頃まで、島によつては今日まで引續いて、土葬以外の方法がこの墓穴の外で行はれて居たのである。國頭の或山村には木柱を樹てゝ其上に小屋を構へ、中に亡骸を置いて洗骨の日を待つ風があつた。東海岸の一二の小島に於ては、島の背面の最も人げ無き一地を劃して、そこに柩を送つて置く風がある。八重山の諸島に於ても、單に荒野の一區域に假に遺骸を置く場處があつたと謂つて、其見取圖なども掲げられてあるが、自分の目撃したものなどは多くの珊瑚礁の石を積重ねて、おまけに泥を以て其隙間を目塗りしてあつた。此等はいづれも次の改葬を豫期するが爲に、本式の土葬を行はなかつたもので、斯ういふ薄葬が一躍して現在の壯大なる墓地となつたことを、伊波氏などは不思議にも感じて居られるやうだが、私の見る所ではそれは單に第一次の葬地を、外から遠望し得ぬやうに改造したといふだけの差であつたと思ふ。
 しかも何等かの方法があれば、成るべく見えぬやうにしようといふ試みは古くから既にあつた。初期には用の無い人は避けて其あたりには近づかなかつた。又努めて往來の稀なる土地に葬處を指定した。山野の使用が繁くなつて、岩窟や樹林の外觀を覆ふべきものが少なくなると、久志の山中に在つたといふ例のやうに、小屋を以て之を隱し兼て又雨露を防がうとしたのである。久高の島などの濱邊に送る柩が、蓋を屋根形に作つて居るのも同じ趣旨であらうと思ふ。沖之永良部などでは其小屋をモヤと名づけ、明治に入つて後諭告を以て、死者の親族が屡※(二の字点、1-2-22)其モヤに去來することを制止したといふ話が、伊波氏の論文中にも引用せられて居る。モヤは疑も無く古史に見ゆる喪屋であつて、後年は期間が短くはなつたが、喪屋に籠るの風は内地にも殘つて居る。常民はたゞ通夜と稱して、家の内に集まるだけになつたが、元はその喪屋を構へた場處が、即ち第一次の葬地であつたことゝ思ふ。貴人の御喪に當つて鳥邊野の傍にタマ屋といふものを造つたといふことは、榮華物語の中にも見えて居て、是が近世の御靈屋と同じもので無いといふことは、本居先生も既に注意して居られる。私はこのモヤをタマヤとも謂つたといふことに、可なり大きな暗示を見出すのである。

一二


 小さな島々の生活習慣が、環境によつて種々の變動を受けることは當然であるが、死の文化に關してはそれすらも常に自由で無かつたらしい形がある。新たなる世情に立脚して、人が各時代の葬法を決定し得るものならば、恐らくは存留させなかつたらうと思ふ昔風が、今でも尚そちこちに殘つて居るのは、民族固有の信仰の消極的威力とも名づくべきもので、我々が宗教發達の經路を考察するに當つて、特に心を此方面に潜めなければならぬ所以である。内地の側でも色々の類例が擧げられるらしいが、海南の諸島でいふならば、今日の女性の感情には確かに重苦し過ぎると思ふ洗骨の任務が、依然として彼等に托せられて居るのも其一つである、墓地を確定してしまつた後までも、必ず改葬を以て葬式の一行事として居るなども、亦一つの注意すべき點である。奄美大島の如きも、通例死後一年を以て、必ず葬處を移すことになつて居るさうである。しかも其理由は單に前からの仕來りといふ以上に、現在ではもう説明し難くなつて居るので、行く/\は他の地方の例を知るに及んで、徐々に資力の有る者から之を罷めて行くであらうことも想像に難くない。私が九年ほど前に此島を旅行した時の見聞では、斯ういふ新舊推移の痕が雜然として入交り、以前も幾度か沖繩本島に於て、岩窟から土窖に進んだと同じ類の、部分的變化があつたことを推測せしめた。島の西南隅に近い技手久といふ小島の外側に、誰とは知らず折々船で屍骸を運んで來て、置いて行く者があるといふ話は有名になつて居るが、注意して見るとそれは獨りこの小さな無人島のみでは無かつた。主島の海岸でも絶壁になつて居て地續きに近よることの出來ぬ場處には、往々にして同じ話があるのである。素より普通人の目に觸れぬ物陰を選んだといふだけで、誰とも知れぬと言つたところが、別に祕密といふわけでも無かつた。多分は茲からさまで遠くない佳計呂麻島、或は其南の請與路二小島の漁村の人たちであらうといふ者もあつた。然るに此等の島々の海岸にも、やはり陸から通ひにくい部分には古くからの葬地があるらしく、それが平坦なる津堅や久高の島と異なる點は、島の居住者が自分ではそこを使用せず、互ひに海を隔てた他の島へ送らうとして居たことで、其爲に事柄が幾分か奇怪味を帶びて居たのである。現在のところではまだ證據を得にくいが、群島の生活には特に死人の島として、生人の島と差別せられたものが、殘してあつたので無いかと私は想像して居る。大島の西北に在る横當島なども、少しく遠いが朝夕に山の姿に面して、海を行く者の目標となつて居るに拘らず、今以て無人であり又種々の靈異が傳へられるのは、恐らくは本來死者のみの移住すべき島であつたからであらうと思ふ。

一三


 人が繁殖して元の平地が不足すると共に、寧ろ忍んでこの祖靈の移住の跡を追うて行つたのでは無いかと思ふ。大島でも屋喜内灣内などをあるいて見ると、村と村との堺の崖下が、今は通路となつて其側に以前の共同葬地の、將に使用を廢せられんとするものがある例は多い。佐渡の塞の磧なども同じことであるが、海岸の交通は元は殆と皆幾つかの小山を上下して居て、磯端には却つて人の行かぬ區域が多かつた。離れ島では無くとも、斯ういふ海角は孤立して居る。船で往來して之を葬送の場處に供したことは自然であつた。海の勞働者が追々に其近くまで、新しい居宅を開くやうになつて、始めてそこが捷路ともなれば、人の目にかゝる樣にもなつて來たのである。村の片端に家々の墓地を設けることになつたのは、土葬の風よりも、寧ろ斯ういふ天然の葬地が、得られなくなつた結果であらうかと思ふ。私の一泊した阿室といふ古い部落では、民家の後の岡の陰に、幾箇處かの墓地が散在して、それ/″\村内の重立つた家に專屬して居たが、現在の戸數に比べるとまだ不足のやうであつたから、一部分は今でも從前の共同葬地を使用して居たのかも知れぬ。家々の墓地は碑石の形状文字等に依つてさう古くからのもので無いことは察せられたが、其特徴と見るべきは地域を上下の二區に劃したことで、下の段は葬地で、その新しいものには種々の葬器が陳列してあつた(食器、笠、杖、履物などもあつた樣に記憶する。久高の葬地の寫眞と似て居た)。上段の一區畫は即ち私が祭地又は第二次墓地と呼ばんとするもので、石碑は此方にのみ立てゝある。村の人は餘り詳細に説明することを欲しなかつたが、兎に角に大島一般の風習の通り、葬後或期間を過ぎて遺骨を新墓から移し、常に下の段の方を空けて置かうとしたことは確かであつた。
 此點は沖繩本島の現在の葬制と、可なり著しき類似であると思つた。單なる外觀から言へば、一方は墓地の全區域を土窖の中に閉鎖し、必要ある時のみ小さな戸を開いて出入するに反して、此方はすべて露出して居るといふ相異はあるが、骨を隣へ遷してそれだけを永久に保存せんとする根本の方式は一致して居る。其上に二段の墓地を此の如く接近させるやうになつた原因も、亦雙方に共通なるものがあつたらしい。即ち在來の共用墓地が不便又不愉快になつた爲に、資力の許す家から追々に分立して、それを各自の墓所に附屬させることにしたものと思はれるのである。自分の見る所では、同じ傾向は東部日本の村々にも現れて居る。所謂菩提所を葬地とし、屋敷の端にある墓所に人を※(「やまいだれ+(夾/土)」、第3水準1-88-54)めるやうになつたのが即ちそれで、更に又三昧の塚の上に碑を立てゝ、そこを永遠に獨占しようとするのも、本の趣旨は一つであつたのだが、唯其結果として改葬といふ必要が無くなり、二次の葬式の痕跡が幽かになつたばかりに、何か南の島々の習俗を甚だ物遠いものゝ如く感ずるに至つたのである。

一四


 二度の葬式といふ古來の慣行は、今日は却つて火葬に於て其遺風を認める。火葬が決して土葬に對立した別方式で無い證據には、何人も是のみを以て葬儀の完結とは見て居らぬ。火葬が終れば次には骨揚げがあり、その骨を處理し保存するが爲に又第二の手續きがある。九州の一地方には沖繩と同樣に、洗骨をする風があると折口君は言はれたが、我々はまだそれがどの位弘く行はれて居るかを究めて居らぬ。が兎に角に遺骨の移動は現在も尚屡※(二の字点、1-2-22)企てられ、人が改葬を手輕く考へて居ることは事實であり、又高野山の骨堂の如く、之を追福の目的に行ふ例もあるから、地方によつて改葬を正規と認めて居るものも、調べて見たらまだ相應にあるのかも知れぬ。
 九州南部の各地に於て、自分の目撃した墓地の中には、やはり大島の如く二段に分れて、下を葬地とし上を祭地として居るものがあつたと記憶するが、それが果して二度の葬式の慣習に伴ふものであつたか、但しは偶然に一方には碑石を立て得ない家の墓ばかりがあつたのか、當時注意がまだ及ばなかつたから、是非改めて尋ねて見たいと思つて居る。併し少なくとも他の一方から見て、碑石が常に埋葬地の上にばかり樹てられたものでなかつたことだけは、特に引證せずとも多くの人が認めるであらう。村の墓地などに入つて見るとすぐ眼に着くが、石塔には夫婦親子、時としては四人六人の戒名を連ねたものが多く、家によつては今尚一個の先祖代々の墓を以て各員の年忌を祭つて居るものがある。さうして新墓の訪はれるのは僅かの期間で、其以後は攪亂に因つて遺跡を知る能はず、又知る必要も無いものと考へられて居たのであるが、茲でも亦南方の三十六島と同じやうに、近代に入つてから追々にこの二通りの墓場が、一處に連接する傾向を示し、從つて又其意義に關して若干の混亂誤解を見るやうになつたのである。
 是は單に民俗學、若くは社會人類學などと呼ばるゝ一つの新しい學問の、耕すべき曠野が尚殘つて居るといふことを意味するに止らず、其中でも自分等が兼て唱導して居る一つの方法が、殊に日本に於て其能率を發揮し易いことを、立證し得る機會であると思ふ。都市の葬法が必要あつて改訂せられた以外に、個々の地方に於てもこれが世間竝、即ち日本一般の風なりと認めて居るものが、實は殆と縣毎に、又時としては村を隣して相異なつて居ると共に、一方には多くの山河を隔てゝ、相似たる特色を具ふる者もある。別に大業なる分析や推理を勞する迄も無く、たゞ其要點を有りのまゝに記述して互ひに比べて見ることが、興味ある疑問ともなれば又明瞭なる解釋とさへもなるのである。條件は單に或數量の事例を、一つの尺度の前に集合して見ることにあつた。それを自分たちが實驗に富みたる我が東京人類學會の會員に、期待しようといふのは無理難題でも無いと信ずる。
 周到なる調査項目を設けるとなると、まだ此外にもマクラメシとかゼンノツナとかの、奧行深き問題が幾つもあるが、差當りの必要は單に墓場が村々の何れの部分に在り、俗に何と呼ばれ、又如何に使せられるかを見たゞけでも滿足させられる。それから家々の之に對する考へ方を知る爲に、盆の魂迎へ魂送りがどの地に向つて營まれるかを知つて置くだけでも非常に有效である。所謂亂塔場には祖先の屍が横たはつて居ることは事實であるが、其聖靈は多くの村に於て、石塔の立てゝある第二の墓所から、或は又海川の滸に向つて送られて居た。
 別の語でいふと、我々は古埃及人の如く、亡靈の平安の爲に其形骸の保存を必要と認める民族では無かつた。寧ろ身が痛み損じて活用に適しなくなると、少しでも早くその内に在るものを引離して、自由を得させようとして居たのであつた。魂の實在と力が少しづゝ信じ難くなつて、孝子の亡骸に取縋り又奧都城の前に悲泣する者を生じたのかと思ふ。兎に角に今日の土葬が久しい間發達せず、たま/\人目を包み外敵を防ぐ爲に、石を積み土を蔽ふに過ぎなかつたことは、決して死者に對する敬意の、今は篤く昔は淡かつた證據にはならぬのである。記念の保存といふことが若し墓といふものゝ主たる目的であるならば、第二次の葬處こそ本當の我々の墓であつた。最初の共同墓地は昔も今も一貫して、常に或る短き期間の使用にのみ供せられて居たからである。
 そんなら古墳と名づけられる大きな人工の塚山、内に完形を以て古人の姿を保存して居るものも、第二次の葬處だといふかと質問する人があるであらうが、私は多分さうだらうと答へる積りである。少なくとも之を以て或る系統好きの學者のやうに、出雲天孫乃至は異種文化の對立を示すものとは考へて居ない。至つて少數の優れた人たちが常民普通の葬法よりも遙かに手重い取扱ひを受けて居たことは意外で無い。此點に付いても沖繩などの墓制は一つの參考であるが、彼地から遺骨を改葬するに當つて、特に一つの棚一つの土の壺を用意すべきものと、多數を同じ容器に集合して置かるものと、明らかなる差別が立てられてある。大體からいふと家の開祖、系圖に三つ屋を附けられる人のみが、其特別待遇を受けることになつて居たらしいが、後には中興の祖などと謂つて範圍が追々に弘くなり、終にはすべての主人夫婦の爲に、能ふ限り別の地位を供するやうになつて來たらしい。それから祝女祭女の神に近かつた人の骨も別にした。奄美大島でもノロクメの清き遺體のみは、常人と混ずるときは祟があると謂つて、別の石塚を設けて居る例を見た。しかも世と共に其數が加はつて來れば、是も追々類を以て併合して行くと見えて、ナバ石即ち珊瑚岩の組合せの隙間から、小さな幾つかの骨壺の光つて居るのが目についた。しかも此法則は結局は破れなければならぬものである。新人は生の間にも古人より有力であつたのみならず、死靈としての威壓も亦古い靈よりは強かつた。おれもあの通りにして祭れといはれると、其遺命には隨はなければならなかつた。それが段々に彼等の愛する者にも及んで、新たなる家門のどし/\と起る頃から、内地でも墓石の數は多くなる一方で、末には極貧の者でも無い限り、一人殘らずに何々院の戒名ある石塔の主に、ならなければ承知しなくなつてしまつたのである。
 併し一方には其爲に遺骨の保管が更に困難となり、改葬の儀式は省略せられることになつて、後世骨に依つて人類學を推進させようとする者に、少なからざる活動區域の狹隘を感ぜしめることになつたのも事實である。負惜みの如くに聽えるかも知らぬが、山作りの風が衰へて前代墳墓の地の次第に幽かになつたことも亦一つの大切なる消極的史料であつた。即ち我々は必ずしも此方法に由らずとも、尚恭敬を以て祖靈に奉仕するの途を有つて居た故に、火葬又は土葬といふが如き新たなる慣習に、移つて行くことが困難でなかつたのである。土佐國群書類從に採録せられた御子神の記事などを讀んで見ると、死して六年とかの後には人を神に祀ることが出來ると謂つて、其方式が載せてある。是が或は全國に亙つて、第二次の葬儀を必要とした元の動機であり、又家廟として石塔を立てることになつた根原では無いかと思ふ。即ち後々は祭祀の力を以て、亡魂の來つて石に憑ることを、信じ得るやうになつたけれども、最初は現實に骨を移し且つ之を管理しなければ、子孫は祖先と交通することが出來ず、從つて家の名を繼承する資格が無いものと考へて居たのではあるまいか。姓をカバネと謂ひ、カバネが骨といふ語と關係があるらしいから、私は假にさう想像する。但し此假定が今後集まつて來る新資料に照して、尚幾度と無く鑑査せらるべきは勿論である。





底本:「定本柳田國男集 第十五巻」筑摩書房
   1963(昭和38)年6月25日発行
初出:「人類學雜誌四十四卷六號」
   1929(昭和4)年6月15日発行
入力:フクポー
校正:津村田悟
2025年5月4日作成
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