盆のお精靈を、山の嶺へ迎へに行くといふ風習が、大野郡下荒井の部落にあるといふ簡單な記事は、私たちにとつてはかなり貴重なものである。越前では今もまだ先祖の魂が、山の高い處に留まつて居て、盆にはそこから子孫の家を訪れて來るといふ信仰が、そちこちの山村に保存せられて居るのではあるまいか。何とかして誘導尋問の形でなしに、諸家の故老の言ふところを聽き集め、それを綜合して見たいものと思ふ。
昭和二十年の秋、自分が世に送つた「先祖の話」といふ本には、古來日本人の死後觀は此の如く、千數百年の佛教の薫染にも拘らず、死ねば魂は山に登つて行くといふ感じ方が、今なほ意識の底に潜まつて居るらしいと説いておいた。是にはさう思はずには居られない數々の根據があり、決していゝ加減な空想ではなかつたのだが、何分にもその一つ/\の證據力が弱く、日頃耳に馴れて居る天上地底の
現在の盆の魂迎へは、通例は廟所、即ち石塔の在る處へ行くことになつて居る。

谷川の流れの岸へ、又は橋の袂へ、又は路の辻へ出て迎へるといふ答へが折々はあり、九州と奧州のごく端々の方では、盆の市に出て精靈を迎へ申すといふものもある。それよりももつと數多く方々で聞くことは、盆花採りと稱して野山に出て、桔梗や女郎花その他の定まつた野花を折り歸り、それを魂棚に飾ること、是は歳棚の爲のお松迎へと同じことで、この植物に付いて神靈が家に迎へ入れられるのだと、私たちは前々から解して居るのだが、一般には是を佛法の供花も同じに、たゞ缺くべからざるこの日の祭具といふやうにしか見て居らぬ人が多い。詳しく之に伴なふ作法や約束を比べて見たら、さうでないことはやがて判るのだけれども、それには又大分の辯證を費さなければならぬ。
それよりもやゝ顯著なのは、盆草刈り又は盆路作りといつて、この精靈迎へに先だち、普通は七月七日の日に、草を刈り路をきれいに掃き淨める習はしで、山に接した村里ならば、今でも是をしないといふ方が珍しいかもしれぬ。この時には墓薙ぎなどといつて石塔場のまはり、又は村内の通路をもきれいにするが、特に注意すべきは一年にこの日だけ、山の頂上から麓の里まで、常はかまひつけない一筋の路を刈り拂うて、それを精靈樣のござる路と、謂つて居る人が今でも多い。墓地へ精靈を迎へに行く村々でも、まだこの盆路作りを續けて居るものが幾らも有る。墓は祭場であり、精靈を是へ迎へて來るのであつて、家の盆棚は新たに設けられた第二の祭場だつたらうといふことが考へられるのだが、それを立證するまでの資料が、今はまだ出揃はずに居るのである。
近いうちに世に出る信州上伊那郡の黒河内民俗誌には、越前のと同じ例が一つある。こゝはいはゆる南アルプス連峯の、ずつと北へ伸びたやゝ低い山々で、其麓に接した西側の村里では、もとは一般に山へ盆樣を迎へに登つたらしく、その習俗は近い頃まで殘り、其場處は僅かの草生地で、そこを六道原と呼んで居る。六道は佛教の言葉、人が現世の果報に引かれて、死ねば六つの道のどれかに分れて行くことを意味して居た。そこ迄行つてもなほ我々の祖靈は、迎へられて盆には戻つて來るものと思つたのである。この六道原が名のみ存して、今日はもう遙々と登つて行かうとはせず、魂迎へには村々の寺の庭に集まり、そこへ山から採つて來て置いてある
それについて考へ合される一事は、是はお盆の迎へとは別だが、婦人が産室に入つた際に、馬を牽いて、又は負繩を肩にかけて、山へ山の神を御迎へに行く習はしが、東日本の諸處に於て注意せられて居る。事によると越前の山村にも、まだあらうも知れぬが、馬で行く場合には其馬が立ち止まり、いなゝき又は立髮を振り、その他何等かの異常な擧動をしたら、それを合圖にしてそこから引返して來るといふのが普通であつた。神の御姿はもとより眼に見えないから、昔の人たちはかういふ些細なる徴候を以て、神の實在を信ずるやうな、訓練を受けて居たと見るの他は無いのである。さうすると馬を持たぬやうな貧しい農夫が、たゞ負繩やショヒコを肩にして、御迎へをする場合にはどうしたかといふと、是にも自身に異常なる感覺が起ると、神が途中までもう出られて居ることを確信してさつさと引返し、さうでなければ特定の場處まで到着して、願ひの言葉を以て素朴に背なかを向けたことゝ思ふが、その所作まではまだ談つてくれた人が無い。島根縣の西部などでは、藁を布切れで編んだ背負臺をセナカウヂと呼んで居るが、山でセナカウヂの繩をほどいて手に持ち、山の神を載せ申す唱へごとが、まだ記憶せられて居る。しかしそんな事をして、もしも返し申す時の言葉を忘れて居たら、大變なことになるからと謂つて、今では戒めてみだりに之を口にする者が無いといふことである。
唱へごとは斯うして追々に忘れて行くものかと思はれる。盆のホトケ迎へなどでも、信州では墓所へ新しい荷繩を、肩にかけて行く者がもとは多かつた。現在は成人はもう言はなくなつたが、今でも少年だけは、墓石の前に來て背なかへ兩手をまはし、ぢい樣ばあ樣さあ行きましよと言ひ、又さう言はせようとする土地が方々にある樣子である。山の頂上のいはゆる六道原に行つても、かつては成人がさう言ふことをして居たのでは無かつたらうか。又、越前の下荒井などではどうだつたか、知りたいものと私は思ふ。
それからなほ一つ、山に家々から登つて行く代りに、寺の庭に集まつて、そこから植物の枝を迎へて來るといふ例は、非常に有名なものが一つ京都にあつて、今でもまだ盛んに行はれて居る。是だけは色々の書物に出て居るから詳しく説く必要がない。日は盆の月の十三日、木の枝は最近は槇の葉となつて居るが、やはり其行事を六道參りと呼ぶのであつた。墓所へ行かずともこゝで槇の小枝を求めて來れば、それが精靈樣迎へになつて居るのである。誰かもう氣がついた人が有るかも知らぬが、この六波羅の寺には本名がちやんと有るに拘らず、昔から愛宕寺の名を以て知られ、その理由が十分に説明せられて居ない。一方には京都の西北に屹立して、町のどこからでもよく見える愛宕山は、今でも信心の者が登拜して、必ず樒の枝を折つて還る山であつた。こゝへ家々の祖靈を迎へに行く風習が曾てはあり、今では其信仰が改まつて、一部分だけ町中へ移つたのではないかどうか。愛宕山の樒が原も、本來は一箇の六道原ではなかつたか。今日は勿論いつ參つても樒を賣つて居るが、こゝでも稻荷山の驗の杉のやうに、衆庶の競うて登る日が定まつて居たのではないか。それが初秋の盆の日でなくとも、私はかまはぬと思ふ。といふわけは、七月魂迎への特に盛んになつたのは、中世以後のことだからである。
次には山の頂きに登つて火を燒くといふこと、是も越前の今立郡の村々に、幾つもの顯著なる事例があるといふのは、私にとつては新しい暗示であり、これによつて始めて山から盆の祖神が降つて來ることが、推定し得られるやうな氣がする。御承知かと思ふが、山に登つて篝を焚くといふ例ならば、「歳時習俗語彙」にも澤山に列擧せられ、稀なることでは決してない。信州は殊にそれが盛んで、諏訪を中心とした廣い農村では、今はスポーツに近く、子供の大きな樂しみの一つにもなつて居る。近江の湖東にも三河の海岸にもあるのみか、京の大文字などはそれが名物となつて、外國にまでも遠く知られて居る。火を焚く爲には必ず山に登るであらうが、それだけではまだそこへ精靈を迎へに行くものと、きめてしまふことは出來ないのである。いはゆる高燈籠の火は、以前江戸の町に盛んに行はれ、それから諸國に擴まつて今でも止めてしまふことの出來ぬ土地が多い。山で火を焚くといふ印象的な行事が前になかつたら、かういふ發明も起らなかつたかも知れぬが、それだけに又これは單なる道しるべで、夜空を遠く訪ひ寄るものに、こゝが故郷の家のあたりなることを、知らせる方便の如くにも解せられて、むしろ却つて山からも歩み降るといふやうな、以前の想像を覆へす效果があつた。私なども白状をすると、もとは之によつて、最初から祖靈は空を行くと信じられたかの如く、一度は想像して居たのである。
實際、或はさういふ風に解する人が多いかもしれない。こゝで考へて見てよいことは、今日の人の居住地が、段々と山から離れて來たことである。水も薪も後の山からといふ村は、引續いて今も有るけれども、それは知らぬ間に少數分子となり、この國土を代表することが出來なくなつて居る。都市と工場地の大部分、即ち人口の最も多い區域は、すべて近世の初頭に海から拾ひ上げた陸地で、そこにはもう入會山も斷念しなければならぬやうに、死んで行くべき嶺々も遙かで、屡

以前はどうであつたらうかといふ研究は、この方面に於て特に實用がある。あつた事實を知りもせず考へもせずに、勝手な理窟をつけようとするのは
今立郡各村の山上の火祭は、他の府縣の類例にもまして、特に魂迎へとの因縁が濃やかであつた。その一つは正月の左義長とも同じに、篝火の片端に小屋を作つて、祭の夜籠りをした形跡のなほ遺つて居たことである。その二はこの火の燃え上るときに、お精靈を迎へ又は送るといふ言葉を、高く唱へたことで、それをヤイヤイボとかコンブク樣とか呼んだのは、永い歳月の言葉の轉訛であるらしいが、日本海に面した多くの平野の村では、墓や家のまはりで火を焚く時にも之を唱へ、大抵はヂイ樣バア樣、又はヂイナバアナと呼びかけて居ることは、既に「先祖の話」にも述べた通りである。家に達者な祖父母の居るときでも、さう言つたらしいのを見ると、是は代々のふる人を意味する、最も素朴なる小兒語だつたと解せられる。
それからなほ同じ折に注意して居るが、秋田縣北部の一地域では、村の少年等が岡の上に登つて、越前今立郡の村々とよく似た火祭を行ふのは、春の彼岸の中日の行事であつた。さうしてやはり此火の燃えるときに、ヂイ樣バア樣お出やれを高唱して居た。同じ國中一般の習俗ではあるが、期日は土地ごとに少しづゝの變化があるのは、私には意味が深いと思はれる。それをやゝ詳しく言ふならば、久しい間にめい/\の解釋、又は他の外部の状況との折合ひが、いつと無く行はれたので、單なる模倣や感染でなく、むしろ日本人なるが故に、夙くから持つて居たものゝ、土地ごとに成長した痕かと思はれ、從つてその多數の例の綜合によつて、民族の自然の歩みが判つて來て、將來のよい參考になると思ふ。
たとへば魂迎へから魂送りへの期間は、大體に短縮の傾向を示して居る。現在は迎へるのが十三日の夕刻を通例とし、送るのは十六日、それも午後であり、又は早朝であり、東京などではまだ十五日の深夜に、送つてしまふといふ家も多い。最初から斯うときまつて居たのではないとすれば、迎へ火を山で焚く日が、七日であり五日であつても怪しむに足らず、或はそれよりもずつと早い日に迎へて來て、主要なる生活行事を、その祖靈の眼の前に於て、實行したといふ時代も無かつたとまでは言へない。稻の栽培の開始から終局まで祭の謹愼を持續するなどは、今の人からは想像もできぬことだが、田の神は春の始めに山から降り、秋の終りに山に還つて、山の神となるといふ言ひ傳へだけは、全國に分布して居る。或はこの間にも物忌の波があり、祭を幾つもの儀式の重さ輕さに、分けて考へることが許されたのかもしれない。
是も立證の大きな責任を、今後に負はなければならぬ問題だが、私などは實は家々の田の神を、やはり祖靈であつたらうと思つて居るのである。春の彼岸にヂイ樣バア樣が、火に迎へられて里に降つて來るといふことは、乃ち其目的が田業を援護するにあつたのではなからうか。今度キティ颱風の慘害を受けた、赤城山東麓の農村などでは、舊四月八日に定まつて山に登つて行くが、それは過去一年の間に死者のあつた家に限られるといふ。しかし他の地方に廣く行はれる卯月八日は、めでたい家でもやはり山に登り、火祭こそは無いが、山から色々の木の花を折つて來て、天道花と稱して高く竿の先きに結はへて立てる。比叡山の花摘みも同じ日で、この日ばかりは女人禁制の山が開放せられた。之を佛法で解釋する説の、しどろもどろなのを見てもわかるやうに、こゝにも曾ては山に花を迎へる日が古くあつて、それが農業開始の卯月の祭だつたことも考へられる。假にさうだつたとすれば傳教大師の、我が立つ杣よりも古いことになるのである。
盆を魂祭の日とし始めた原因も、佛法の介助以外に今一つ、暦の改定がトシの始めを、くり上げたことがそれだつたらしい。春の種播き苗取りと、秋の刈入れ稻積みとの中間に、水無月といふ舊六月が、耕作者にとつて氣遣ひな月であつて、こゝで色々のねんごろな祭の營まれたのは、恐らくは祇園以前からの事だつた。今では一般に六月の朔日から、十五日までに祭をすませるやうだが、不安はなほ多くその後にも殘される。八朔は今いふ二百十日に該當し、それを過ぎるとやつと心が休まるといふことは、大昔とてもほゞ同じかつたであらう。さうすると六月晦日のいはゆる夏越以後、この日に入るまでの中間に、一つの戒愼の日を置くことは必要で、それが偶然に朝廷の盂蘭盆會、寺々のいはゆる自恣の日と、合體することになつたのではないかどうか。とにかく記録文獻の上では、法師の干與した行事だけが早く現はれ、家々の魂祭が遙かに遲いばかりに、この風習までが外來のものゝやうに、久しく斷定せられて居たのだが、これほど大きな佛法の影響の下でも、なほ日本固有の考へ方は傳はつて居る。百年二百年の遠い先祖が、毎年この日になると元の家に還り、生きた子孫の者と交歡するといふことが、果してあの宗旨で説明し得られようか。山へ戻つて次の年の初秋に、迎へに來るのを待つて居るといふものが、實際に佛法のホトケなのであらうか。
日本を圍繞したさま/″\の民族でも、死ねば途方もなく遠い/\處へ、旅立つてしまふといふ思想が、精粗幾通りもの形を以て、大よそは行きわたつて居る。獨りかういふ中に於てこの島々にのみ、死んでも死んでも同じ國土を離れず、しかも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁榮と勤勉とを顧念して居るものと考へ出したことは、いつの世の文化の所産であるかは知らず、限りも無くなつかしいことである。それが誤つたる思想であるかどうか、信じてよいかどうかは是からの人がきめてよい。我々の證明したいのは過去の事實、許多の歳月にわたつて我々の祖先がしかく信じ、更に又次々に來る者に同じ信仰を持たせようとして居たといふことである。自分も其教のままに、さう思つて居られるかどうかは心もとないが、少なくとも死ねば忽ちコスモポリットになつて、住みよい土地なら一人きりで、何處へでも行つてしまはうとするやうな信仰を奇異に感じ、夫婦を二世の契りといひ、同じ蓮の臺に乘るといふ類の、中途半端な折衷説の、生れずに居られなかつたのは面白いと思ふ。魂になつてもなほ生涯の地に留まるといふ想像は、自分も日本人である故か、私には至極樂しく感じられる。出來るものならば、いつまでも此國に居たい。さうして一つ文化のもう少し美しく開展し、一つの學問のもう少し世の中に寄與するやうになることを、どこかさゝやかな丘の上からでも、見守つて居たいものだと思ふ。
昭和二十四年の九月五日、この月曜日は、松岡約齋翁が亡くなられて、ちやうど五十三囘目の忌辰である。翁は佛教は信じられなかつたが、盆の魂祭は熱心に續けて居られた。