にが手と耳たぶの穴

柳田國男




 この現象は今ちやうど消えかゝつて居る状勢と察せられるから、まだ年よりたちに話してもらへるうちに、もう少し資料を集めて置きたい。前囘に報告した島根縣邑智郡の例の他に、鹿足郡の方には又斯ういふ話もある。田植に苗を束ねた藁、即ちナヘデ・ナウバ等といふものを、非常に尊重して粗末な取扱ひをせぬのは、全國一般の風習と謂つてもよく、たとへば其束の輪になつたまゝのまん中へ植ゑた稻は、成長してから大きな災ひをするなどといふ言ひ傳へは、どこにでも有つた樣だが、この地方でも田植のとき、後退りをしつゝ誤つてこの苗束を泥の中へ踏み込んだときは、急いでニガテ・ニガテ・ニガテと三べん唱へた。斯うして置けば障りは無いが、もしも忘れて其まゝに過ぎると、必ず足痛を起すものと信じられて居た(郷土研究二卷八號)。多分は苦手の人ならば其害を受ける虞れが無いといふ説があつた爲だらうと思ふが、邑智郡の方ではもうさういふことを言はぬさうである。
 播州の赤穗郡などでは、苦手は呪力のある手で、腹痛を撫でると治り、又魚を捕るにも獲物が得やすいと謂つて居たさうだが(高田十郎氏記録)、一方に又石見のやうな、受身の方の力もあつたものかどうかはまだ知られて居ない。三河の豐川流域でいつて居るニガ手も特別の素質で、手の筋又は手の形でよくわかるといふ。是には種類があつて、蛇の苦手といふのは捕へると蛇がおとなしく、何の害をもすることが出來なくなる手だといふが(三州横山話)、其他にはまだどういふ特徴があつたものか、是ももう明らかで無い。恐らく蝮捕りのやうな冒險でもしないと、この能力があまり目に立たず、自然に是ばかりが有名になつたものであらう。信州松本地方のにが手などは、もう蛇取り以外には應用が無いやうなことを謂つて居る。さうして苦手の人を見ると、蛇が動けなくなり自由に捕られるといひ、その苦手の人といふのは、手の指が總まむし指だから誰にもわかるといふことは(郷土研究四卷八號)、東京附近でも聽くことであるが、多分元はたゞ普通の蛇がつかまるといふだけで無く、蝮を押へても蝮が咬まないとまで、信じられて居たものと思ふ。
 同じ縣の上伊那郡などでは、ナマスと謂つて、ちやうど蛇のにが手と同じく、地蜂に對して大きな呪力をもつて居る人がある。素手で蜂の巣をつかんで、ブンブンといふ蜂に構はずに掠奪して來る。斯ういふ人は蜂に螫されず、たまたまさゝれてもちつとも腫れ上がらぬといふことである(蕗原二卷二號)。ナマスは生巣と書いて居るが、あてにならぬ宛て字であつて、或はその人の手又は他の部分の、特質を意味するものかとも思ふ。是も島根縣の温泉津町に、以前ハミヅメと稱して蝮を捕るに巧みなる老人が居た。常は日雇などで生計を立てゝ居たバク足即ち象皮病にかゝつた男であつたといふことで、ハミヅメは單に蝮を捕る力のある爪といふだけで、別に特殊の外形を具へて居たのでは無いかも知れぬ。之を考へるとまむし指と謂ふのを、指の第二口下の關節の直立することの如く解したのも、或は後からの附會であつたかも知れぬ。さういふことだけなら少し練熟すればどの子供にも出來たらう。それで皆が皆蝮に咬まれぬといふ、自信をもつたら大變なことであつた。
 だから私などは、この手の指の上の節だけが、曲げられるかどうかを注意するよりも前から、まむし指といふ言葉は既にあつたものと思つて居る。さうしてそれは蛇のにが手といふのも同じに、蝮を手づかまへにすることの出來る人といふことであつたらうと思ふ。同じ信州の北安曇郡などでは、蝮指の人は發明だと言ひ傳へて居る(郷土誌稿四卷)。女のまむし指の手で、腹痛をさすつてもらふと治るといふことは、京阪地方でも弘く謂ふことであるが、一々蝮を捕らせて見て資格をきめるのも大がかりな話だから、後には指を曲げるといふやうな簡略な試驗にさしかへたので、つまりは斯んな呪力に、さう大きな信用をもたぬやうになつた結果とも見られる。
 最初はしかしもう少し明瞭な、特徴を認めて居たのかも知れない。ニガテといふ名稱は、まだ九州の方では聽いたことは無いが、蛇を怖れない素質の人があつて、それには耳たぶに窪みがあるといふことを、方々で言ひ傳へて居る。前にも引用した「豐前」の九號にも、蛇を怖れぬたちの人をカヂハラドンと謂ひ、カヂハラドンは耳たぶの前に窪みがあり、又親指が丸いと謂つたと出て居るが、それとほゞ同じことを筑前の方でもいひ、又山口縣の厚狹郡にも例があつて、現にこの耳に穴のある人には、蛇が至つて從順だといふ者もある(兵庫縣民俗資料一號)。同じ縣の大津郡海岸などでは、耳に穴があるかどうかはまだ確かでないさうだが、蛇つかみの力ありと認められた者をフヂミミと謂つて居るといふのは(大藤君報)、恐らくは亦耳に特徴があると稱せられた爲であらうし、同時に又カヂハラを藤原といふ人の現はれた原因でもあらう。しかしそのカヂハラとても、行はれて居る區域こそは廣いが、やはりどうしてさういふかの理由が判つて居るわけでは無い。是は一つ我々の手で、いつかは其由來を考へ出したいものである。最近に刊行せられた河村只雄氏の遺稿、「續南方文化の探究」といふ紀行文にも、沖繩の屬島渡名喜の島に於て、ハブ捕りの名人と言はれた老人の、ハブ退治の呪文の祕傳といふのが出て居る。其一節に、
タチミチヌスク、ユクミチヌスク
カヂワラヌ
アシビドクマ、ヲドイドクマ云々
とある。その「カヂワラヌ」は意味不明だと謂つて居るが、とにかくに斯んな島にまで渡つて居るのである。或は渡つたのでは無くあちらが本元だとも今はまだ言へぬことは無いが、耳に穴があるといふ沙汰だけは、まだ南方の島々に於ては之を説く者が無い。
 この耳たぶの穴のことに就いても、私はもう久しい間注意して居るのだが、實際はまだ貫通して居るのを見たことは無い。しかしたゞ表面の窪んだものも其中に入れるとすると、是は種類も色々あり又相應に例が多いやうに思ふ。現にこの春亡くなつた娘なども、私が其話をすると笑ひ出して、自分にも小さい窪みがあると言つた。それでは遺傳はどうだらうかと、その又子になる女兒を見ると、是にも燐寸のさきほどの淺い窪みがあるのであつた。さうして私の家の家系は大體明らかで、少なくとも十代ほどの間は、蝮取りなどをして居た者は無いのである。
 或は耳環の名殘では無いかと思つて居たのだが、今日の生物學では、後天の畸形は遺傳せぬものとなつて居るのださうである。しかし世間では專らさういふ解釋をして居た。前に岡山縣美作地方の例を一つ擧げて置いたが、徳島縣に於ても船手の隊長森志摩守といふ人が、文祿の役に朝鮮から連れて來て家來にした者の子孫が、今でも勝浦郡の海岸地方に居住し、彼等には耳たぶに穴が有るといふことを、阿州奇事雜話の中には書いて居る。少なくとも斯ういふ特徴のある者を、韓人の後裔だからだといふ民間の説だけは、弘く流布して居たことが察しられるのである。それは根據の無い想像説だつたと、いふことは勿論可能であるが、それと或種の呪法又は呪力と、結び合せて考へて居た事實が、曾てあつたといふまでは爭ふことが出來ない。しかも其能力はいつの間にか衰へ、一方には耳たぶの特質のみは、段々と擴がり傳はつて居るのだから、今に其樣な事は有り得ないといふやうな消極的な斷定が、一世を風靡する時代になるかも知れない。たゞ今ならばまだ若干の手掛りだけはあるのである。たとへば姙婦が着物の衿に針を刺して置くと、耳ぺらに穴のあいた兒が生れるといふことを、和歌山縣の高野口の町附近でも謂へば、又遠く隔たつた秋田縣の山本郡でも謂つて居る(秋田縣の迷信俗信)。その中間の群馬縣の山田郡でも、姙婦とは無いだけで、やはりさう謂つて衿に針を刺す行爲を戒めて居る(郡誌)。即ち人が多くの日本人の中には耳たぶに穴のある者が存在することを知り、且つ之を喜んで居なかつたといふ證據にはなるのである。





底本:「定本柳田國男集 第十五巻」筑摩書房
   1963(昭和38)年6月25日発行
初出:「民間傳承 八卷七號」
   1942(昭和17)年11月
入力:フクポー
校正:津村田悟
2024年11月4日作成
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