農村家族制度と慣習

柳田國男




第一節 家族制度と勞働組織


一 序論


 農業にはもと賃銀の要らない勞働組織があつた。その組織の下で働いて居たものは、少なくとも今日の小作人のやうな、生活不安におびやかされては居なかつた。今日、都市の勞働爭議の大部分は賃銀の問題である。小作爭議の大部分は小作人の生活不安から釀されて居る。斯かる時代に、賃銀の要らない勞働組織があつたとか、その組織の下にあつたものゝ生活が安定して居たといふことを言つたら、ほんとには思はれないかも知れない。然し歴史は明らかに此事實を物語つて居る。
 然らば其事實とはどんなことか。それを語る前に、先づ歴史を取り扱ふ精神について、言ひ換へると歴史の取り扱ひ方について、一言申し述べておく必要がある。諸君は歴史と言へば、すぐ學校で教はつた御歴代の御事蹟や英雄豪傑の物語を思ひ出すかも知れぬ。然しそれはいま我々が此處で歴史を取り扱ふ扱ひ方とは別の扱ひ方である。我々はそんな表向きの、はでな、にぎやかな歴史の下にかくれて、默々として世を動かす力の源泉となつて居た地方農民の、じみな、靜かな生活を、長い時間の流れにさかのぼつて見たい。そして今日と違つた生活方法がもしもあつたなら、それはどうして起つたか、またどうして亡んだか、その原因結果を調べて見たい。斯くして行くことに依つて自然に、今日及び將來の我々の生活の上に大きな教訓や暗示も生れて來るであらう。これが我々の歴史を取扱ふ精神である。單に昔なつかしい懷古趣味や、今の時代をいとうて、一にも二にも昔の世がよかつたやうに思ふ、保守的な復古主義などとはわけが違ふ。今日の時世にもいとはしい事があれば、昔の時世にも同樣にいとはしい事はあつた。同時にまた昔の時世にもよい事があつたと同樣に、今日の時世にもよいことは澤山にある。そのよい事を昔の人が間違つて捨てはしなかつたらうか。そのいとはしい事をも、誤つて今日まで大切に傳へて來て居はしないだらうか。此等の事實を探索して、正當な評價を與へることが我々の歴史を取り扱ふ精神である。此講義に於ても無論この精神で、農村家族制度と慣習の問題を取扱ふのであるが、然しこんな短い講義で、完全を期し得ないことは豫め御承知を願つておきたい。たゞ出來るだけ枝葉の點はぬきにして、重要な肝心な事柄の洩れないやうには、十分努力するつもりである。

二 賃銀のない勞働組織


 賃銀のない勞働組織とはどんなことをさすのか、と言へば、勞力を提供する雇傭者に對して、勞銀を支拂はなかつたのである。このことは金錢が今日のやうに地方農民の生活に、浸潤して居なかつたことも一原因であらうが、然しもつと根本的には、組織がさうなつて居たからである。つまり雇傭者の勞力に對して、直接に物件を以て報酬を支拂ふことはしないが、雇傭者は平素絶えず種々の恩惠を被つて居り、後には獨立させてもらへるのであつた。だから雇傭者は勞銀のない勞力を提供しながらその生活は今日の勞働者や小作人よりも、むしろ安定して居たのである。このことは、だん/\話を進めて行きさへすれば、もつと明らかになつて來る。
 元來農業は存外人手のいるものである。そしてその多くの人手も、これを統率しなければ、うまく仕事をはこんで行くことは出來ない。だから昔から農業では、勞力蒐集と勞力組織とに、非常な苦心がはらはれて來た。家族制度の變遷も、此方面から研究して見ると、その意義がはつきりして來る。
 現在では日本の人口は一戸平均五人二分位になつて居る。つまり戸といふものゝ最少分子まで人口が減じて來てゐるのである。だから勞力のたくさんかゝる農業を營むには、現在の農村の一戸は、純然たる孤立を守つて行くには、勞力が足りない状態にある。從つて日やとひ(賃銀)制度を行はねばならなくなつて居る。然し日やとひを入れて、賃銀を支拂つて農業を營んでは仲々ひきあふものではない。岐阜縣や愛知縣の地主の中には、小作から田地を取り上げて、北伊勢などから呼寄せた田人たうどを使つて、農業を經營しようとしたものがあつたが、それは至つて採算困難な事業であつた。他の地方に於ても事情はほゞ同樣である。これはつまり農業に於ては勞力の需用に非常なむらがあるために、工場などと違つて、一定數の勞働者に賃銀を拂つて、絶えず用意しておくといふことが出來ないからである。
 五人の家族と見て、其内ほんとに働けるものは、先づ二人であらう。從つて今日地方を旅行して居る間には、廣い田をたつた一人で植ゑて居る悲しい實状を見ることが度々ある。昔はさういふ事はさがしても恐らく見ることは出來なかつた。今日では勞力の不足を補ふために、田植前後の忙しい時には一番鳥から起きて、夜も炬火をともして夜なべする事もめづらしくない。既に八十年ばかり以前にさへ、兵庫附近で家の近くの田は夜なべ仕事に働いたといふ話がある。然しさういふ苦しいやり方では何時までも續くものではない。何とか變化が來なければならぬであらう。
 ところで一家族の人口は、昔から今日の樣な平均五人何分位のものであつたかと云ふに、決してさうではない。現在でも長野縣を實例にとつて見れば、縣全體としては一戸平均が矢張り五人内外であるが、一郡或は一村について見れば種々差異がある、一戸七八人平均のところも少くない。南安曇郡誌など見ればその状態がよくわかる。そして一戸の人口數が多いのは町ではなく、山寄りの村、山の中の村などである。九頭龍川沿岸には一戸十七八人の家族があり、東北二三の地方には一戸四十餘人の家族があるかと思へば、飛騨の白川には一戸五十人以上の家族が居て、マタイトコまで一緒に暮して居るところもある。今日奈良の正倉院に殘つて居る古文書を調べて見ると、一戸が七八十人の人口になつて居たことがわかる。この事實は決してうつかり見逃がすべき事柄ではない。昔とか過去とか言ふ言葉の示す長い時の流れの間に、色々の變化があつて決して一樣單調なものでなかつたことを示して居るのである。正倉院の古文書はその當時の一戸の人口を我々に示すが、その他現在まで殘つて居る大家族は、或時代々々の常態であつたものを、何等かの事情で都合よく見本的に我々の時代まで殘して來たものと見るべきである。つまり古い時代には一戸は七八十人以上の大家族であつたのが、段々と今日の一戸五人幾分の小家族まで、うつり變つて來たのである。一戸の戸といふ字は實は家の建物をさすのではない。「ヘ」とか「ヘッツイ」とかの事で、云ひかへると「カマド」一つといふ意味である。一つカマドで食事を取る家族が七八十人もあれば、勞力の多く要る農業を營むにも、決して心配はない。その古い七八十人の大家族が今日の五人内外の小家族になるまでの間には、農業の勞働組織の上にも、種々の變遷のあつたことは申すまでもない。

三 大家族主義の實例


 飛騨の白川の大家族は、一家のうちに五十人以上の多人數が住むので、家屋の構造もそれに從つて大きい。屋根の左右がのびて低く地につき、前後があいて出入が出來る樣になつて居る。そして、五階になつて居るが、主人夫婦がナンドと稱して別に寢室を持つて居るだけで、あとのものは二階三階に一同枕を竝べて寢る。それだけの大家族だから、便所の如きも、八疊の間位の大きな穴を掘つて、それに梯子のやうなものをかけ渡して、一度に二十人以上のものが用を便ずることが出來るやうになつて居る。
 白川は、宗教は一向眞宗の方で、毎朝必ず珠數を手にかけて、靈前に禮拜するのであるが、その珠數が家の中の一定の場所に、ずらりとかけ竝べてあつた。多分そのかける順序にも、家族の席順といふやうなものが現はれて居るだらうと思ふが、それは聞かずに過ぎてしまつた。
 白川ではまた娘は決して嫁に行かない。男の方からやつて來る。娘を嫁にやらない風習は、他の地方にもあるが、その原因は主として、勞力を減ずることをいやがるところから來たものである。一般に農村で嫁をもらふことは、一つには必要な勞力の移植である。
 白川ではまた食物は家の主人が支給するが、着物は各自の親がこしらへてやらなければならぬことになつて居る。そのために月のうちに一日二日位の私の日がある。此私の日に、親達は金に換へやすい作物を作つたり、その他の方法でヘソクリを作る。ヘソクリ即ち「私」のことをフリタ、ホマチシンガイ、マツボリ等いろ/\地方によつて言葉は違ふが、何れもその使用が各自の任意に出來るもので、直接家の主人に屬しない個人私有の財物である。白川では外から男が通つて來て、娘が子を産んだ場合には、そのまゝ家に住まはせて、食事は與へてやるが、衣服だけはその子の親たる娘が心配しなければならぬことになつて居る。
 白川の風習で最も注意すべきことは、食と住とが共同であつて、其責任が家の主人にあり、衣だけが個人の責任になつて居ることである。食と住とは何と言つても最も共同的なもので、衣は最も個人的なものである。最も共同的なものが一家の代表者たる主人の責任になつて居て、最も個人的なものが最初に個人の私となつて居るといふことは、後にだん/\變化が起つて來ることを豫想せしめる制度である。即ち外部からの種々の刺激や、内部からの色々の事情によつて、各人が私のために勞力を費す時日が多くなつて行けば、大家族制度は自然に變化を受けなければならなくなつて來る。
 會津の只見川あたりには、かなり大きな家族が殘つて居る。土地の人と一緒に道を歩いて居ると、その人のヲヂ、ヲバといふ人に澤山行きあふ。君の親類ですかときけば、いえ自分の家の人だといふ。よく調べて見ると、直接血の通つたヲヂ、ヲバではなく、外から養子にもらつたヲヂ、ヲバである。今でも狹斜の巷などでは養女藝者といふものがあるが、只見川のヲヂ、ヲバもつまり勞力増加のためにもらひ受けた體のよい下女下男である。然し體のよい下女下男だというたからとて、彼等の家族内に占める地位が低いと云ふ意味では決してない。むかしは下僕でさへも、その社會的地位は、今日よりもはるかに高かつた。そしてその名もヲヂとかヲンツァとか言つたのは、その家族内に於ける地位を表はして居る言葉であつた。血縁の有る無しに拘はらず、一つの屋根の下に雨露をしのぎ、一つカマドの食を分け、同じ田畠に汗水を流して、苦樂を共にするものは、すべて一樣の家族としてそれ/″\の地位を占めて居たわけである。だから養子にもらはれたヲヂ、ヲバ等も決して次男坊や三男坊よりも低い地位に小さくなつて居たわけではない。
 子をもらふ慣習は、むかしは廣く行はれたもので、農村でも決して子の多きをいとはなかつた。漁村では今でも古風を存して居るところが多い。さう言ふ土地では一家族の勞力の増減が重大な問題であつて、羽後の八森の如く聟に行くものがなかつたり、靜岡の燒津の如く嫁に行くものがなかつたりする。嫁をもらつたり、聟をとつたりすることは、最も從順な勞働者として、一生その勞働力を忠實にその家のために提供してくれることになるので、やる方ではそれだけ力をそがれることになるし、もらふ方ではそれだけ力を増すことになる。だから一家としても、一村としても辛抱の出來るだけは、村から外へ出さぬことにした。村の青年團に渡りをつけ、又は酒を買ひ馬手馬錢などを出したり、或は後には形式的にはなつたが種々の妨害を與へようとした慣習は、矢張りその動機の底に、此勞働力をそがれることをいみきらふ感情がひそんで居たことは爭へない事實である。

四 年季奉公と名子制度


 養子の外に勞力を増加する方法として、年季の下男下女があつた。年季奉公は徳川の初期の頃から起つた慣習である。其思想は多分土地賣買から學んだのであらうが、恰も當時の農業の實状が、一般に之を歡迎した爲である。年季奉公といへば、現在では僅かに古風な商店などに殘つてゐるので、農家にあつては却つて既に絶えて居るが、かつては之が唯一の小農養成機關であつたことは事實である。
 奉公人の地位は前にも述べた通り、決して外國の奴隷賣買の話などから想像する樣な悲觀的なものではなかつた。只勞力の指揮權を其内の主人がもつてゐるといふだけであつて、自分の生れた家で家長たる父や兄の命令に服して働かねばならぬ事と大した差違はなかつた。だから何かの事情で家計が困難におち入つた者は、いとも無造作に子女を賣つたものである。或は、少ない實例ではあるが、借財のために自ら他人の下男に身賣りをした者などもあつた。つまり身賣りといふことは、我が國に於ては久しい間、勞力融通の平穩なる一組織になつて居たのである。江戸時代の初期に永代身賣禁止の令が出て、次第に新しい年季奉公の制度が出來たことは、前にも述べた通りである。多くの場合、奉公人の名を呼びすてにすることが普通であり、奉公人が主人の家族に敬稱の如きものを使うた土地があつたにしても、それを以て奉公人の地位が甚だしく卑下なものであつたといふことは出來ない。關東の田舍などでは、つい近頃まで、下男が主人の子を呼び棄てにして居ることもあつた。
 年季のあけた作男には、通例同一境遇の女を配偶者にしてやり、小規模の家屋敷を給與して、一家として獨立を許してやつた。それをナゴ(名子)と言つた。大分縣の海部郡では今以て下女下男を總括してナゴと謂ふさうだが、物類稱呼には越後でも下僕のことをナゴといふとある。會津ではナゴとは譜代の男女が家を別けてもらつて世渡りする者をいふと新編會津風土記に見え、莊内では人の地に家作して住み、又は人の見世に棚を借りて住む者がナゴだと、莊内方言考には説いてある。九州南部の山村に行くと、小作人のことを普通に名子というて居る。舊南部領(即ち岩手縣の北部八郡と青森縣の東部三郡と秋田縣の一郡)には、本名子、新名子、山名子等の制が殘つて居る。つまりナゴとは、或時代に於ては下人の名であつたのが、だん/\變化して、主人の家をはなれて別に一戸をかまへた者にまで、其稱呼をもつてよんだのである。言ひ換へると、ナゴといふ言葉は農法が時代と共に變化して來たあとを記念する言葉である。木村修三氏の舊南部領に於ける莊園類似の制度の研究に依れば、名子の由來には色々あつて、(イ)奉公人が三十七八、四十迄も勤めた時には、家屋敷と若干の田畑、山、馬一頭、若干の食糧等をわけてやつて分家させた者、(ロ)血族の分家したもの、(ハ)借金で土地をとられて名子になつたもの、(ニ)田畑を質入したものはその質入期間だけ名子になり、(ホ)或は他から移住して來て名子になる者、(ヘ)舊來からの主從關係で名子になつて居るもの等があつて、一般に名子の特徴とするところは、主人筋の家のために一定の日數だけ勞力の賦役をつとめる事である。
 近來は名子でも金納の制度も出來てゐるが、最初は賦役をとるために名子を獨立の一家にしたてたのであつた。つまり下人や二三男が何時迄も長く一家のうちに住んで居ると、平常は勞力があまる事になる。田植とか刈入れなどの最も多忙な時期には、いくら人手があつても足りない位だが、ふだんはそんなに人手が入るものではない。從つて最大を標準にした勞力をふだんに常備しておくことは、經濟的にやりきれない。そこで年季のあけた奉公人や、成長した次三男に配偶者を與へてやつて、獨立して一家をもたせ、忙しい時だけ其勞力を召集するといふ新しい方法が産れて來たのであつた。從つて一家を建てさせてやる時に、不足不自由のない樣に、充分に田畑をあてがつてやると都合が惡いので、名子には最初から或程度の不足を感ずる樣にしてあつた。だから名子は獨立しても、何時迄も本家又は名親との縁を切る事の出來ない樣になつて居たのである。
 嫡子は家のあとゝりであつて、一般に父としての力ではなく、兄としての力で一家の勞働指揮權をもつて居た。親方の名は此勞働指揮者の意味であつて、又總領とも言つた。總領とは軍の指揮者の意味であつて、ふだんは勞働の指揮者であつた。昔は農民と武士との區別はなかつた。農民自身が武器をたづさへて自家の防衞をするばかりでなく、若い元氣なものが集つて、他の地方に財物をかすめ取りに押し※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つたりした。其際、攻める時にも守るときにも、指揮をするものが即ち總領であつて、平和な時にはおだやかな勞働の指揮者であつた。所謂兵農不可分の時代とは此事で、サムラヒといふのは本來斯の如き境遇にある大地主のことであつた。日向の山村、椎葉村などでは、今でも長百姓の家々をサムラヒと稱へ、其以外の小百姓をカマサシと呼んで居た。カマサシは鎌指しで、刀を指す資格の無い農民を意味したものである。百姓といふ語は永い年代の間に著しい意味の變遷があつた。最初は百姓は良民又は公民の總稱で、武士も亦悉く其中から出たものであるが、兵と農とを相兼ぬることが出來なくなつた結果、百姓は武士よりも低い身分のものとなつたのである。かの戰國時代は兵農の分離が大規模に、全國的に行はれた時代であつた。只の小農民の子弟でも才智があつたり、糞力があつたりしたものは、自ら進んでサムラヒの仲間入りする好機會を捕らへたものも少なくはなかつた。斯くして同じ百姓の中から分離派生したものであるからこそ、明治維新の際に士族の歸農といふ言葉が出來たのである。刀槍を鋤鍬に持ちかへて昔にかへる意味であつた。
 庶子といふ言葉は、今日では妾腹の子と云ふ意味に用ゐられてゐるが、元來は單に總領に對する言葉であつて、分家した次三男の事を言つたのである。次三男は分家はしても總領にひきゐられた。手子といふ言葉は其意味を持つて居る。
 本家はオホヤ(大家)とも言ひ、名子や手子の面倒を見てやるのは、其義務であつた。だからふだん割のいゝ代りに、困難な時にもそれを逃がれる事は出來なかつた。親方の内には必ず手をつけない倉庫があつて、饑饉とか不作とかの場合に、名子や手子を餓死させないだけの準備は、絶えずしてあつた。そればかりではなく、親方の家にはまた餘分の着物、膳、椀、カンザシの類に至る迄も、特に用意してあつて、名子の家の冠婚葬祭といふ樣な必要な場合には、何時でも貸してやる事になつて居た。つまり今日の地主小作の關係や、工場主勞働者の關係とは、頗る趣を異にしたものであつた。
 取り上げる權利ばかり考へて居て、困る時にその面倒を見てやる義務を負はうとしない今の地主や資本家が、冷たい目でにらまれる樣になるのは、あながち無理なことゝは言へない。要するに名親と名子との間は、切つても切れぬ助け合ひの精神が、強い絆となつて兩方をしつかりと結びつけて居たのである。だから、名子は、先づ何をおいても本家大家の仕事を先にして、其後で自分の仕事をやるのであつた。岩手縣九戸郡大野村の晴山氏は明治末年頃まで田畑約十五町を自作して居た。平素の農作奉公人は十人乃至十二人に過ぎなかつたが、其地方として最も忙しい豆蒔きの時には約百五十人も働きに來た。宮城縣本吉郡の大島などで見る十五町二十町の大自作農も、此等と同樣な古い慣習の目を以て見なければ、單に現代の現金取引の日雇ひ制度では解釋のつかないものである。
 それでは名子は名親に對して幾干の賦役を納めたかと言ふに、之は土地の一般的事情と、名子に給與又は貸與してある家、屋敷、田畑、山林、放牧地の廣狹によつて賦役負擔に輕重があつた。(イ)家、屋敷、畑一町二反乃至一町五反、之に相當する秣場、薪山、放牧地の使用を許してもらふ代りに、舊四月から舊十月までの七ヶ月間に、百二十人乃至百三十人の賦役を納めたところもあり、(ロ)宅地約百五十坪、畑約五反、山約三町位に對して、五六十人位の賦役を取つたところもあり、種々の差異があつたことは當然である。
 地頭が名子から賦役をとつて何に用ゐたかも、土地の事情、地頭の家の個々の事情によつて、種々の相違があつた。田植ゑ、草取り、刈入れ等は勿論、家事用にも使へば、薪取り乾草刈り等にも使つた。所によつては女は主に農事に男は主に漁業に使つた。名子の本家に對する賦役は必ず男が行かなければならぬといふことはなく、女も一人前として働きに行つた。そして男と女の働きに行く日數も略※(二の字点、1-2-22)半々位の所があつた。多くの名子の中には、大工、鍛冶、屋根葺、木挽等の職人も居て平常は世間相手の仕事をして居て、本家の必要な場合には必ず行つて働くといふ、特殊なものもあつた。
 名子が働きに來たときには、その時々の仕事の難易に依つて、或は晝だけ、或は晝と夜、或は朝晝夜といふやうにそれ/″\賄を出した。その食べ物の種類も、場合々々によつて異つて居た。
 名子の家で聟取り嫁入り等がある場合には、豫め本家に話しておくことが一般の慣習であつた。これは前に述べた通り、そんな際に必要な器具類を貸してもらふためばかりでなく、金錢の融通もしてもらうたことは無論であつて、本家からも金錢物品で適當な援助を與へるのであつた。
 名子の制度は地頭即ち大家の家の勞力蒐集法であるが、名子自身の勞力融通法としては、ゆひと言ふ手間替の組織があつた。ユヒはつまり組合勞作であつて、小前のものにとつては甚だ重寶な勞力組織であつた。此組織は、單に田植ゑとか刈入れとかの場合だけに限らず、家普請の時にも此方法によつたものであつて、越後あたりでは此事をゴチャウ(牛腸)と言つて居る。
 此樣に農村には、古來慣習的に巧妙な便利な勞力組織が出來て居て、共同して生活を營んで來たものであるが、近世になつて色々の原因から、此共同が破れることになつて來た。その最も大きな原因の一は、親方だけが先に進んで、他のものを後に取り殘したことである。
 元來大家族時代は申すまでもなく、名子制度が發達してまでも、名親即ち本家の主人も直接鋤鍬を手に取り、若しくは勞働指揮者として自ら田畑の間に奔走したものであつて、地主の手が白くなつて働かなくなつたのは、極めて近世のことである。從つて地主だからとて、贅澤な生活をして居るものでは、決して無かつた。食ふものも、着る物も部下の小農と大した差異のない、極めて質素なものであつた。つまり地主がそのやうな質素な生活に堪へて居たのは、彼等自身農業者だと云ふ考へが根底をなして、日常生活の一切が動いて居たから出來たのである。名子も名親も生活の難易の差異はあるが、もと/\同じ百姓だと考へて居るものにとつては、同じ樣な生活をして居ても決して苦痛ではなかつた。
 農民の着る物は主に麻で作られて居た。木綿が日本にはいつて來たのは、近世のことである。ヤワラカモノと言へば、今では一般に絹物をさして言ふが、東北の一地方では木綿物のことを、かなり近頃までヤワラカモノとして居た。自作のを絲にして、自家で織つた布を染めて、それを着物にこしらへて着た。木綿がはいつて來てからも、手作手製の事情は同樣であつた。すべて着物は、質素と丈夫とが標準になつて居た。名親はいくらか新しい物を着ては居たらう。着更も幾枚か多く持つては居たらう。然しその地質においては、名子や下人の着物と全く同一であつたのである。ぞろりとしたオカイコぐるみの地主と堅い木綿の仕事衣の小作とが相對して居る圖は、さういふ時代の質素と共同との名親名子達には、夢にも見ることの出來ない圖である。
 農家では大きな鍋に物を煮て、それを皆で分けて食べた。數十人の家族を指揮する家の主人も、その家に使はれてゐる下人も、一つ鍋のものを喰べて平氣で居た。それが當然のことになつて居て、誰一人あやしまうともしなかつた。此風習が、主人と使用人との間に、共同觀念を植ゑ付けることは當然である。それ故、農家ではコナベダテ(小鍋立)といふことを甚だしくいましめたものである。小鍋立とは、小さい鍋でこつそりうまい物をこしらへて食ふ、つまり共同食以外に特別に料理して食ふことである。從つて小鍋立は多數の共同觀念を破るものであるから、あの女主人は小鍋立てするさうだと云ふことは、輕蔑に値した不徳を意味するのであつた。小鍋立てする樣では、一家のをさまりがうまくつかぬ筈である。娘を嫁入らせる時などにも、母親は身だしなみの一つとして、娘に小鍋立を堅くいましめてやることを忘れなかつた位である。
 ところが近世になつて、地主が都會に往き來したりする事が多くなつて、だん/\その贅澤な便利な生活を眞似る樣になつてくると、どうしても大鍋の共同食では滿足しなくなつて、自然小鍋立の風が起つて來た。小前の者よりも生活に餘裕があるだけに、さういふ生活をはじめると、次第にまづい物は食べたくない、惡いものは着たく無くなるのが人情である。從つて小前の者から取り立てるものもきびしくなつて行く。餘裕のある範圍ですまして居ればまだよいが、段々と無理をして行く。さうなると下の者がやり切れなくなつて行くのは當然である。其間には古い共同の美しい慣習が、自然に破れて來る。なるたけ餘計に取り上げようとする、なるたけ少く出さうとする。その間に爭が起らずにはすまない。
 つまり親方衆が先に文明の風に吹かれて、前へ前へと進んだ爲に、一緒に歩調をそろへて進むことの出來なかつた者が後に取り殘されて、其間に大きな溝が出來てしまつたのである。農村に於ける政治的な活動は、此親方衆が多くたづさはつたのは止むを得なかつた事であるとしても、地方政治を以て自分達のふところを肥やす方法にしてしまつてゐるのは、大鍋の共同食を食べずに小鍋立のものを好むに至つた當然の結果であらう。
 古い共同の慣習が破れ、地主と小作の對立が著しくなつて來た。一家の人口は極度に小さくなつて、孤立農業を營むには勞力が足りない。都市の工場に於ける樣に勞働賃銀を拂つて營むには、農業の利益はあまりに少ない。然し何といつても此まゝではすまぬ。何とか變化しなければならぬが、さてどう變化して行くべきか。それに就いて思ふことを申し述べる前に、私はもつと過去の時代を語つて見たいと思ふ。

第二節 家族制度と信仰


一 祖先崇拜


 我國民の生業は古くから農業を以て主として居た。そして春種子を蒔いて秋收穫を待つ農業は、其自身定住したものであり靜止したものである。農業は一面また勞働力の結束を必要とする生業である。つまり我國民は古くから、一定の結束した人數が各※(二の字点、1-2-22)共同して、即ち一家族をなして定住して居たのである。從つて一家が相親しむ樣にもなれば、又祖先が艱難辛苦して開いた美田良圃はそのまゝ子孫に相傳へて、天地の惠に浴せしめることにもなつて居たのである。
 此關係は子孫をして祖先の恩澤に感謝の念を生ぜしめ、人間自然の「本」をたづぬる情と相結んで、古くから祖先崇拜の風を生じて來たのであつた。古代日本人の持つて居た祖先崇拜の風は、外來の種々の宗教の影響を受けながらも、なほ根本的にくつがへされることのなかつたのは、我國民の生活が農を主生業とした靜止定住の生活であつたためである。
 祖先に對して崇敬の念を有する者は、祖先と子孫との結び目にあたる一家の主人に對しても、尊敬の念を有するが當然である。一家の主人は家族全體を統率して、よく一家を治めて祖先の遺風をつぎ子孫のために美田を買ふの努力を怠らなかつた。政治(マツリゴト)が即ち祭事(マツリゴト)であつたこと、古代の日本に於ては「祭政一致」であつたことは、言ひ古された國史の常識に過ぎないが、此關係は小さく一家の上にもあてはまるものであつた。一家の主人は祖先の祭を絶やさぬために、一家族をよく統率して子孫の繁昌をはからなければならぬと堅く信じて居た。だから家運を傾けるといふことは、「御先祖に對して申譯ない」ことゝして、身命を賭するほどの重い責任を感じて居たのである。佛教も儒教も此感情と結び付かなければ、あれだけの力にはなり得なかつた。

二 氏神、産土神


 我國の神社の數は村毎に一つ以上あつて、村の數よりも多いが、然し祭つてある神は彼是同じ神が多くて、大方は春日や八幡などを勸請したものであつた。後々には筋のない勸請もあつたが、古くは氏には祭るべき神が定まつて居て、其氏の者が別の地方に移住土着すれば必ず、其神を迎へて祀つたもので、氏神といふ語は此方面から起つたものと思はれる。從つて氏神は地主の神であると同時に、其村の草分の家の眞の氏神であつたのである。武士豪族などの落人が一族郎黨を率ゐて、何處かに落着き場所を定めて隱田を墾いて出來たやうな村の氏神は、言ふまでもなくその一族の眞の氏神であり、後に外部から何かの事情で入つて其村に永住するものゝ子孫も、またその村の氏神を産土神とするのは自然のことである。斯かる村では、殊に氏神と墓地とは村の精神的生活の中心として(多くは山中の村であるにも似合ず)、念入りに設計せられて居るから、氏神と墓地とを見れば村の成立ちまでが知れるほどである。
 然し我國の村の成立の歴史には種々あつて僅か二十戸三十戸の小村でも同じ一族ばかりで獨占して居るものは甚だ少い。苗字の分布に由つて判斷して見ても、各村々の住民は最初から單一の祖先を持たぬ、方々で成長した家々の合同であつたものが多い。然も此状態は中世以後に始まつたのではない。例へば正倉院文書にある奈良朝以前の戸籍の紙片などを見ても、一つの里に異なる姓の家が共棲して居る例が少からず、村落團は決して一族團ではなかつたことを示して居る。然しそれにも拘はらず昔から村には經濟の統一があつた。村が一體となつて働くべき場合が多かつた。殊に村開發の初期に於いてはさうであつた。此共同利害と協力の必要とが、共同の祭神を勸請する心理を村人の心に生ぜしめるので、氏姓の違つた寄合が、一の産土神を祭ることになり得るのであつた。かゝる際には、その共同者の中で最も有力なものゝ氏神を勸請することに、他の者が讓歩したこともあつたであらうし、或は春日とか八幡とか最も一般的な第三者の氏神を共同の氏神に勸請したこともあつたであらう。
 出作百姓又は田屋百姓などによつて開發された村は、世間との交通はすべて親村を經由し習慣も利害も親村に遵據し、屬國のやうな姿をして居るから、新たに氏神を勸請する場合には、無論親村と同一の神を祭ることになるのが普通であつた。
 昔は其地方に太古居住した人を「國神」として祭り、特に其地方の開發に功あつた人を國玉の社に祭つたのであるが、國神ならぬ社は凡て之を天神と稱したらしく、今日「天神樣」として祭られて居る中には、菅神(即ち菅原道眞公)でない古くからの天神が、後に起つた菅神の方の天神と混同してしまつたのも數あつた樣に思はれる。

三 祭の慣例と家の格式


 村に於ける氏神の祭には、長百姓又は本百姓の家の格式が明らかに形に現はれた。七軒衆とか十二軒百姓などと稱して、祭の日に拜殿に上つて座し、其間にも互の席順がやかましかつた。之を羨んで後々新たに加はることを欲し、又は強ひて上席に進まうとする者を防ぐために、頭名とうな、頭文などといふ文書が神聖視せられ、宮座に名を録するほどの家は舊家として、假令今は貧乏であつても村内から敬せられ、其意見も尊重せられた。
 祭の慣例にも、古來幾度かの改訂が有つたやうである。大體から謂つて、祭祀に參加し得る格式の家が増加して行く傾であつた。そして一年一度の大祭の爲に、順番又は抽籤で頭屋に指定される家は、必ず本百姓の家であつて、小前の者にはその資格は無かつた。本百姓は村公共團體の中堅を爲す分子であるが、その意味は今謂ふ自作農とは全く同じで無い。直接公費負擔者とでも謂つたらよからうか、地租の外に家の課役即ち軒役を負擔する公民の全部がそれであつた。一軒役の本百姓の格式が最も明らかに形に現はれるのは、祭禮などの改まつた古風の儀式の際であつたことは前に述べた通りであつたが、それが負擔の關係から次第に權利を分割することになつた。香川縣の直島などの例では、半頭屋といふものがあつた。即ち普通ならば三十年目に一度、頭屋の役が當つて來る處を其二倍の六十年目で無いと、番が※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて來ないのであつて、本來一戸の家の權利を半分づゝに分けた結果である。それでは幅が利かぬから、貧乏な家から他の半分を買取つて完全な一人前になることもあり、又は新たに一戸分の頭屋株を買ふ者もあつた。即ち前には小前で祭仲間の外に在つた者でも富を積んで次第に本百姓の地位を獲て、祭仲間に加はることが出來たのである。但し其中にも宮座上席などと謂ふ家があつた。今の語で言へば氏子總代であるが、選擧入札などを以て自由に交代せしむべく、あまりに重大なる格式であつた。村で草分けと稱し、若しくは切明け百姓などと名づけて貧乏をすればする程、此格式を大切にして容易に手離すことがなかつた。しかも元來門地などと云ふものは、家の至つて古いことを立證するより外に、多くの意味を持たぬものであるが、我國民の祖先崇拜の感情は、「何處の馬の骨か分らぬ」物持よりは、氏素性の歴とした貧乏人の方を重んずるのであつた。
 佛教が最初朝廷に仕ふる權臣達によつて信仰せられ、時代のうつると共に、或は中央權力により或は特志の行脚僧によつて全國に傳通したことは、事あたらしく申すまでもない事であるが、諸宗諸派が起つて村内の誰彼が各※(二の字点、1-2-22)寺を異にしながらも、鎭守の祭だけは共にする事實は注意すべきことである。寺門の信仰は一人一家の私的なことゝして各自の心にまかせても、氏神の祭、鎭守樣のことゝなると公共の義務と感じて居たのである。然もそれは寧ろ義務などと云ふ冷たい理智的な言葉では現はすべくもない、ほんとの心からの喜びを以て、昔ながらのなつかしい感情を以て祭つたのである。子供が生れたら神樣には詣るがお寺には詣らぬ。共通の産土神を持つて生れ、別々の佛寺に依つて葬られて行く。寺門の信仰には暗い地獄の威嚇と恐怖があるが、神社の信仰には恐怖も威嚇もない。鎭守の祭にはたゞ明るい生成の歡喜と感謝とがある。遠く郷關を離れたものが、夢に鎭守の杜をさまよふのは、あながち幼時その拜殿に嬉戲した思ひ出をなつかしむからのみではなかつた。

四 宗門改、寺請


 中世に於て切支丹宗が傳へられ、其信仰も廣く傳播の勢を示したが、徳川の邪宗門禁制によつて、信者の或者は轉び(佛教へ改宗)或者は信仰に殉ずることになつて、佛教の樣にひろく行はれるに至らなかつた。然しそれでも一旦燃え付いた信仰の火は、一時的の酷刑や禁制では止むべくもなく、幕府はその後ながく、毎年戸口を調査し宗門を改め、嫁入聟取りから下男下女の奉公人等を出す場合にも、寺請の制を設けなければならなかつた。全國農村は何の家でも必ずその檀那寺を持ち、必要な場合には何時にても信徒である證明をしてもらはなければならなかつたのである。
 斯うして村の住民はすべて各※(二の字点、1-2-22)何宗何派の檀那ではあつたが、然しその何宗何派の信仰以外には何も無かつたかと言へば、實は堂々たるそれらの宗派的信仰もなほ如何ともなし得ない所謂「民間信仰」が共通の心の生活を彩どつて居たのである。そして此民間信仰は現實の生活の上にも種々の姿に現はれて、人々を幸福にもすれば不幸にもした。

五 民間信仰


 一口に民間信仰と云つても、その種類は色々あつて、此方面の學問は近時やうやく盛になつて來たもので、我等祖先の眞の心の歴史を知るには、今後も幾多の學者特志家の熱心な研究に待たなければならぬ。何故に今日まで此事が爲されなかつたか、宗教家が無智の俗信としてしりぞけたことも一原因であらうし、交通の不便な結果他地方に行はれる事を知らぬため、一小地方の特殊な迷信として學者の注意を惹くことが少なかつたことも其有力な一因であつたであらう。實に何でもない事柄だと見逃がされる樣なものでも、今日我々が骨折つて集めて見れば、廣く材料をならべて研究して行くうちに、その變化、類似、發生及衰微の原因等を知ることを得て、祖先の心の生活の一隅に觸れることの出來る場合が多々あるものである。
 宗教家は、殊に佛僧等は可なりに多くその地方々々に傳はつて居た話を、うまく自家の教義と結び付けたり、或は漠然たる話に或形をあたへたりしたことがあつた。諸種の縁起や昔物語の中には此等の假作又は改作が可なりにあるやうである。これは彼等とても一概に「俗信」を排斥し去ることが出來なかつたためであつて、最近まで遺されて來た民間信仰の中にも、その發生は意外に古い時代に遡るらしいものゝあるのを見ても、俗信の特殊の力を假初に見逃がすことの不可をさとらなければならぬと思ふ。
 自分の見る所を以てすれば、日本現在の村々の信仰には根源に新舊の二系統があつた。朝家の法制にも曾て天神地祇を分たれたが、後の宗像、加茂、八幡、熊野、春日、住吉、諏訪、白山、鹿島、香取の如く、有效なる組織を以て神人を諸國に派し、次々に新なる若宮、今宮を増設して行つたものゝ他に、別に土着年久しく住民心を共にして、固く將來の信仰を保持して居るものがあつた。莊園の創立は以前の郷里生活を一變し、領主は概ね都人士の血と趣味とを嗣いで居た爲に、佛教の側援ある中央の大社を勸請する方に傾いて居たらしく、次第に今まであるものを改造して、例へば式内の古社が殆と其名を喪失したやうに、力めてこの統一の勢力に迎合したらしいが、之と同時に農民の保守趣味から、新たな社の祭式信仰をも、自分の豫て持つものに引付けた場合が少なくは無かつたらしい。又右の二つの系統が時としては二つの層を爲し、必ずしも一郷の八幡宮、一村全體の熊野社の威望を傷つけることなくして、屋敷や一つの垣内だけで、尚古くからの土地の神に、精誠を致して居た場合も多かつた。頭屋の慣習と鍵取の制度、社家相續の方法等の中を尋ねると、今とても此差別の微妙なる影響を見出すこと困難ならず、殊に永年に亙つて必ずしも官府の公認する所とならずとも家から家へ又は母から娘へ、靜かに流れて居た信仰には、別に中斷せられた證跡も無い以上は、古いものが多くは傳はると見てよろしい。それといふのが信仰の基礎は生活の自然の要求に在つて、強ひて日月星辰といふが如き壯麗にして物遠い所には心を寄せず、四季朝夕の尋常の幸福を求め、最も平凡なる不安を避けようとして居た結果、夙に祭を申し謹み仕へたのは、主として山の神、荒野の神、又は海川の神を出でなかつたのである。導く人のやはり我仲間であつたことは、或は時代に相應せぬ鄙ぶりを匡し得ない結果になつたか知らぬが、其代りにはなつかしい我々の大昔が、大して小賢しい者の干渉を受けずに、略※(二の字点、1-2-22)「うぶな形」を以て今日までも續いて來た。だから所謂「俗信」として生物識のけなし捨てるものゝ中から、我々は祖先の實生活の面影を偲び得る場合が尠くないのである。

六 田植と信仰


 我が農業の最も主要なるものは言ふまでもなく米作であつた。それ故米作に關する慣習や信仰のことについて少し述べておきたい。然し秋の豐年祭は今もなほ盛に行はれて居て、敢て述ぶる必要もないから、今日では既に消えかけて居る田植に關する舊い信仰をたづねて見たい。
 日本の國情が他國と異つて居た一例として、我々が最も注意すべきは、一番大切で且つ苦しかつた田植の勞働が、つい近い頃まで勞働だか祭だか、はつきり見極めのつかなかつたといふことである。村の少女は悉く新しい笠と襷とを用意して、さゞめいて田植の日の來るのを待兼ねた。其理由は一つしかない。それは聲はりあげて唄ふ田唄の魅力に外ならなかつた。
 田植唄の最も完全に今も殘つて居るのは、中國西部の三つの縣と、愛媛縣の或郡である。普通の田には既に普通の農法を行ひ、所謂正條植の麻繩を引張つて、齷齪として仕事を片付ける場合にも、神の田其他の由緒ある一區を選定して、必ず本式の田植をせぬと、氣の濟まぬといふ村は多かつた。即ち田植は其村人の爲に經濟行爲にして兼て儀式であつたのだ。斯くの如くして栽ゑぬと神の庇護を受くるに足らぬやうに信じて居た結果である。そして此本式の田植にうたつた唄は古くは全國の隅から隅まで行渡り、一度は非常に豐富であつた證據があるが、今尚切れ/″\に殘つて居る歌の比較を以てしても、さまで遠からぬ近昔まで九州や東北などの田舍にも、備後出雲の山の中の村と、同じ順序の田植の式が行はれたことだけはわかる。全國の田植唄を研究して見ると、今は殆と影を隱さうとして居るが、日本農民の最も強烈なる一つの信仰、即ち歳の神又は田の神の崇敬が、つい近頃まで田唄の有力なる背景であつたことが明瞭に窺ひ知られるのである。
 東石見地方では田唄の音頭を取る者をサゲと呼んで居る。村によつてはダシと謂ふ處もあるらしい。ダシが一章の唄の上半分を歌ふと、下の句は早乙女が附けるので、それ故に之をツケと名づけて居る。唄の記憶の任務は全くこのサゲに當る者に在つた。歌がるたも同じことで下の句の方は口拍子ででも出て來る。斯うして唄はれる田唄は一日二日の田植では到底歌ひ盡せないほど豐富なものであるが、田の神に關する問答歌は、各地何れも十數篇あつて、それを聽くと此地方の田の神の信仰は大體わかる。即ち此神は日天を父とし、大河の水の神を母とし、神々の遊び月に娠まれて、十月を經て生れたまふ神であつたとして、あらゆる莊嚴を以て神誕生の光景を語り傳へて居る。田植の日に此神を降すには、或は白菅笠を手に持つてと謂ひ、又は紅の扇子と三把の苗を手に持つてとも謂つて、詳しく其儀式が述べてある。富士の山を中宿にして降りたまふともあれば、春の三月は歳徳神として拜まれたまふとも歌つて居るが、皐月の神を山より降りたまふと信じ、しかも正月望の日の前夜にも色々の作法を以てこの農作の神に祷ることは、今日まだ少しでも從來の信仰が遺つて居る田舍では、皆一樣に其通りである。
 島根廣島等の田植唄は、現代の語で言へば田の神禮讃を以て其主要部として居た。それは未信の人に神徳を示すのではなくて、多くの古來の經典と同じく、其たゝへ言に由つて神意を迎へ得べしとして居た爲である。是から推して考へて行くと、田植唄の根本の目的には單なる勞働の統一以上、更に大切なる祈願があつたらしく、他の府縣に現存する田唄は、數も少なく其趣旨も散漫ではあるが、それでも尚幾つかの共通點の注意すべきものがあるのである。例へば早朝の歌には山を望む文句が多い(イ)。朝の始と日の暮とには、共に空を飛ぶ鳥の聲と姿とに注意を拂つて居る(ロ)。午前の歌には嬰兒の事、又は姙娠の事を述べたものが多い(ハ)。それから又成るべく姙み女や乳呑兒を田植の場につれ出して、豐産のまじなひとしたらしい痕跡がある。次には御田の神を詠じた歌が多く、村によつては誤まつて之を歌の神と呼んで居るが、何れも日の終りに「來年もござれ」と謂つて、別を惜むの情を述べてゐるのは、即ち迎へて祭つた名殘である(ニ)。最後に今一つ最も重要なことは、晝飯を運ぶ一人の女性を、早乙女以上に重要視したことである(ホ)。中國の方では其女をオナリド、又はオナリ樣とも呼んで、之に關する無數の歌があるが、何れも遠くから雇うて來た美しき女に盛粧をさせて晝の食事を運ばせるので、それが同時に田の神の奉仕者であつたことが、歌の言葉から察せられる。東部日本の方でも、ヒルマモチを待つといふ歌は方々に殘つて居る。食事が朝夕の二度だけであつた時代にも、田植の時だけは晝飯があり、之を掌どる婦人には、特別な地位が與へてあつたのである。
 田植に田の神の祭をせぬ村は、今でもまだ一つも無いと謂つてよいが、其方式は極端に簡略なのが普通である。しかも一方にはまだ完全に近い例が存するために、僅かな歌の破片からでも、曾ては是より、遙かに重々しい式典が爰に行はれ、且つ之を説明した神話が歌として歌はれて居たことが推測し得られる。族長中心の大農組織が崩れると共に、家々の田の神は村共同の鎭守樣と代らざるを得なくなつた。鎭守には法師が干與し、或は特別の教育を受けた神官が出來た爲に、春秋の祭の日と式とが別に定まつて、五月水田の畔での祭は往々にして不必要になつた。信仰が緩めば覺えて居らずともよい歌が多くなる。しかも歌うたひの面白かつた記憶だけは傳はる故に、色々と工夫をして又新たなる種々の歌を補充したのだが、本來の作業の性質と永く行はれて居た歌ひ方の特徴とが、町や港に幾らもあつた流行歌を其儘採用することを許さなかつた。そこで以前からも有つたであらうが、腹がへつたの腰が痛いのといふ歌が多くなつた。ツボに落ちたる若嫁を笑ふもの、苗持ち小野郎を嘲弄したもの、さては田主の老翁にまでからかつて、日暮に近くなると夜は誰と寢ようとか、又は人使ひがあらいとか言つて(上がれとおしやれ田ぬしどの一度に人は懲らさぬものよ)などと歌つた。田主は又タアルジと呼ぶ地方があつて、それを誤つては太郎次とも謂つて居た。其太郎次のむす子娘達の美しくやさしいことを、誇張して賞美した歌も若干は殘つて居るが、それは田主の富を詠じた歌と共に、恐らくは本來は皆田祭隆盛期の祝詞の名殘りであらうと思ふ。

七 特殊の家筋


 農村に殘る舊い民間信仰の中で注目すべきものは特殊の家筋に關する信仰であらう。
 宮城岩手青森秋田等に今日まで遺つて居るザシキワラシの話は、他の亞細亞民族の中にぽつ/\殘つて居る子供を家屋等の守護者とする手段の、話をするさへ恐ろしい儀式などと、遠い昔に於て縁を繋いで居るのかも知れぬが、ザシキワラシは然し他の特殊信仰と違つて連綿として家筋をなすものではない。ザシキワラシは多く舊家などに永く住んで居るもので、それが居る間は家運が隆盛をつゞける縁起のよいものと信じられて居る。それ故ザシキワラシの住んで居るといはれる家に對する一般の態度も、關東から中國四國其他の地方にある特殊の家筋の他人から忌み嫌はれるのとは全然趣を異にして居る。ザシキワラシが住んで居るといふ信仰が家を明るくして、自然にはげみが出て家運が興隆する程働くものがあれば、憑物筋つきものすぢだと謂はれて世を狹ばめ暗い生涯を送る者との幸不幸の懸隔はどれほどであらう。その忌み嫌はれる憑物筋の家の中にさへも、時にはその祖先の誰かゞ、自ら爲にするところあつてわざと他人にさう見せかけたり、ほのめかしたりして、他人から敬遠されるのを默認した結果後になつて子孫に暗い思ひをさせるものもあつたらしいことを考へて見れば、我々は如何にして斯種の信仰が起り、如何に變化して今日の形になつて來たかを研究する學問の愈※(二の字点、1-2-22)重要なるを感ぜざるを得ない。此事なくしてたゞ單に「俗信」「迷信」としてしりぞけようとしても、その效は少ない。然し今は紙面と時間の餘裕が無い。それ故憑物に關する信仰に就いて、ほんの一端を次に述べるだけに止めなければならぬ。

八 クダ、オサキ


 信州伊那でクダ附と稱して、人の縁組を好まぬ家筋があると言ふのは、疑ひも無く遠江や駿河で、クダ屋と呼ぶものと同じである。クダ屋は相當の資産があつても、忌嫌つて此と嫁聟を遣取する者が無い。甚だしきは絶交を宣せられることがある。主人必ずしも慾の深い者で無くとも、其家に屬するクダは主家を思ふ餘りに、内の物を持つて還る人を追掛けて、大抵其家族の者に憑いてしまふ。憑かれた者はクダ狐其物の眞似を爲し、取止もない事を口走つて、狂態を演ずるので、多くは恥ぢて醫者の診察を受けず、或は刃物を以て嚇して見たり、或はおとら狐に憑かれた場合と同じく、靈山の御犬を拜借して來て之を逐退けるを例として居る。去るに臨んで必ず何處から來たかを言ふものださうである。木曾から松本平の片端へ掛けて、クダを飼つて居ると言はれる家はやはり多い。是も亦憑かれた人の口から、始めて世間には知れて來るのである。管狐の世襲のある縣では、之を飼ふ家は金持になると言つて居る。目に見えぬ小獸が、物を買へば秤の分銅にぶら下り、物を賣る時は品物の上に乘つて、量目を重くするなどと言ふ。隨つて行者で無い只の農家でも之を養ふ氣になり得るのである。
 同じ信州でも、東に寄つて千曲川の右岸になると、早やクダは居ないで其代りにオサキが居る。オサキも亦狐の一種である。その形状大小も所によつて話が違つて居る。決して一定して居ない。オサキは先づ上州の名物と謂つてよい。諺にも伊那のクダに對して南牧のオサキ持ちと謂ふ。南牧は妙義の西南に當る甘樂郡の山村で、信州にも甲州にも近い、此邊が中心地のやうに考へられて居たのである。處が上州の人の言ふのには元はオサキは武州の秩父一郡に、限られて居たものである。其が嫁聟に附いて他郡にも出て行つた。早く離別してしまへば難はないが、永くなつて子供が出來るともう還らぬ。狐の方でも盛に子を産む。四季の土用に子を産むとも謂ふ。オサキが來て子を持つた以上は、主人の方の縁組は解けても、狐だけは離れない。そこで最初から警戒して問合せを嚴にするので、オサキ持同士結婚をするの他は無いと謂ふ。少なくともオサキの弊を知つた頃には、既に秩父郡外にも擴つて居たのである。木曾で御嶽講がクダを征伐しつゝ、同時にクダの俗信を流布せしめた如く、秩父でも三峯山の御犬が却つて村々へオサキを驅入れたのでは無いかとも思ふが、其事は甚だ明瞭で無い。兎に角此郡には、人に嫌はれた三種の家筋が有つた。其一はネブチャウと謂つて、何か小さな蛇などのやうに噂されて居る。若しさうだとすれば之を飼ふ家である。此家筋の者の住んだ屋敷は、死絶えた後までも代つて入る者無く荒次第に荒らしてある。第二にはナマダゴ、此家筋では彼岸や月見の晩に、團子を作るとこしきの中に、必ず三個だけは生の儘の團子が有る。其故に生團子だとの説もあるが、共に何で婚姻を忌まれるのかは分らない。三番目は即ちオサキ狐である。一時は他處より財貨を運び込んで來て、福神のやうであるが、久しからずして家運傾き又何處かへ持去ると云ふ。

九 人狐


 島根地方で人に憑くといふ狐は、亦普通の狐ではない。やはり東日本のクダ又はオサキとよく似て居る。今日は普通之を人狐にんこと呼んで居るが、以前は又ヒトギツネとも謂つた。此人狐持ちの家筋の忌嫌はれた悲慘な話がある。阿波土佐の犬神に就いても同じ歴史が有つたが、近世に於ては雲州廣瀬の領内で、狐持の家の根絶を企てた。苟くも此世評のある家は、不意に外から圍つて、一時に之を燒盡したと傳へて居る。切支丹の徒の如く、自ら固い信仰を聲言する者ならば是非も無いが、此中には必ず身に聊かの覺えの無い者も、數多く居たことであらうと思ふ。假に世間に匿して狐を祀つて居たとしても、人に憑狂はせる事までは彼等の本意で無かつたとすれば、此害の故に罰せられたのはあはれなことであつた。
 處が今日の時世では、其狐を飼ふ家も實際は殆と無いらしく、稀に此噂を傳へられる家の話は、いつも有得べからざる事ばかりである。狐持の家々で、我等は狐持だと自覺して居ること、恰もむかしの鉢屋や茶筅が、我身元を知ると同じい者が、果して半分も六割もあらうか、其さへも家の親たちから之を聞くので無く、世上の蔭口が耳に入り、或は人の憎みが身に沁みて、何時となく之を合點し、さては今迄さう言はれて居たのかと、自分等にも豫々かね/″\同じ迷信があるから、反證を擧げる勇氣よりも、匿して知らぬ顏しようとするのが先に立つて、自然と吾身で世の中を狹くするのである。殘忍なる刑戮も一般に狐憑の怖れが絶えぬ間は、此の如き家筋を種無しには爲し得なかつた。殊に迷惑な事には、是迄一向其噂の無かつた名家でも、病人が自ら何の某の家から來た人狐だと口走ると、元々間違ひだから、其だけは間違では無いかと問ふ者は無く、忽ち新たに社會から排斥せられねばならぬ家が又一戸増加するのである。
 狐持ちの家には金持が多いと謂ひ、やはり此獸が紙幣でも咬へて還るやうなことを言ふ。併し今日では財産ばかり有つても、碌な聟も見つからぬやうでは何にもならぬから、此爲に人狐を飼ひたくなる人はあるまいと思ふ。其他の理由としては更に二つを想像することが出來る。富む者は多數の同情を得て居らぬ。而も之程無造作に狐持ちと決定をするやうでは、疑を掛けて愈※(二の字点、1-2-22)憎がる機會は、幾らでも出て來る筈である。第二には斯んな評判の立つ家では世間で相手にせぬ爲に交際の入費が殘る。取引や勘定の場合にも怨まれると大變だから、少しでも倒さうとする者が無い。金でも出來たらちつとは人に立てられようかと、稼業に一生懸命になる。そこであの家があれだけ資産を殖したのは、只ではあるまいと云ふ事になるのである。つまり人狐の所爲で稀にはやき半分に此風説を強持こはもての武器にする者も無いとは言はれぬ。之を考へると、寧ろ使ひ手がなくなつて野狐同然になつた三州のおとら狐の方が、社會の爲にはずつと始末が良いのである。
 所謂ヒトギツネの憑方は、些ばかり他の地方の狐類と異つて居る。即ち我々なら熱とか惡寒とか謂つて感冒にでもして了ふのも、胃腸の痙攣、神經痛などにも、直に法印を頼むから法印は之を人狐にしたがる。同じ精神異常でも擧動に變な所があるのみで、自身では何にも口走らず、從つて人狐だとは名乘らぬ場合も多いやうである。其を如何にして狐持の怨からと解するかと云へば、結局行者の法力である。人狐地方の一特色は、病人以外に別にノリクラと云ふ者を立て、專ら此と問答をすることである。ノリクラと爲る男は行者も連れて來るが、行者に信用が乏しい場合には、近所の若者などを頼む。御幣を手に持せて何か唱言をして居るうちに段々顫へて來るので物に寄つたことを知るのである。最初は問澤山で、答は唯御幣の動靜を以つてするのみであるが、次第にノリクラが調子に乘り、爰に第二の狐憑が出來る。尤も答は色々で、憑物が人狐で無いことも多く、人狐であつても身元の分らぬこともある。方角其他から判斷して法印は何の誰の家の狐と明言すると、其家の主人覺えは無くても煙に捲かれ、御幣を背負ひ、目に見えぬ狐を引取つて還ることもあり、或は何としても承引せず、自分の方でも別に法印を頼んで來てノリクラを立てさせ、此から出たので無いことを言明させ、前の法印を遣込めて取消させることもある。何にしても空な話で、法印さへ斯く多く無かつたら、人狐の騷も流行はすまいと思はれ、而も祈祷業者の中には、狐以上に人を欺く者も多かつたとは、陶山尚迪といふ人が既に天保時代にその著、人狐辨惑論の中で説いて居る。
 其他廣島地方の外道持、四國の犬神筋、周防長門其他の地方のトウビャウ使やトンボガミ持、又は飛騨高原地方のゴンボダネ筋等、取憑筋にもいろ/\の名と種類とがあるが、何れは似たり寄つたりのもので、それ等に就いては、特志の諸君は爐邊叢書中の小著「おとら狐の話」を讀んでもらひたい。
 然し此講座の最初に述べておいた通り、若し我々が祖先の遺した物の中で吟味して善いものは取らねばならぬと同時に、惡い遺物は取つて捨てなければならぬとすれば、先づさしあたり取捨つべきものは此等憑物信仰の類であらうけれども、今後の問題としては大して心配はなからうと思ふのは、今日では既に憑かれることの馬鹿さ加減を大抵の人が知つて居り、將來は「憑かせる者」を恐れるより「憑かれる者」を變態心理者、精神異常者として、世間が相手にしなくなるであらうと思はれるからである。さうだとすれば、行者と「憑かれる者」とだけを相手にして來た片手落の罪ほろぼしにでも、世間は「憑かせる者」への偏見をはやく捨て改むべきであらう。





底本:「定本柳田國男集 第十五巻」筑摩書房
   1963(昭和38)年6月25日発行
初出:「農政講座二〜四」農政研究會
   1927(昭和2)年9月、12月、1928(昭和3)年5月
※底本のテキストは、著者による朱筆原稿稿によります。
※「取り扱ふ」と「取扱ふ」、「云ふ」と「いふ」、「ゐる」と「居る」、「二三男」と「次三男」、「於いて」と「於て」、「狐持ち」と「狐持」、「間違ひ」と「間違」、「此」と「此の」の混在は、底本通りです。
入力:フクポー
校正:津村田悟
2024年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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