といふ語が今もまだ漠然と用ゐられて居るのを見ても、我々の「異郷」に名を與へる必要の、新たに起つたものであることが察せられる。
(世間)は外來語であり、且つ又讀書語でもあるが、それでも必要があると我々は之を採用した。セケンシといふ語などは、前者を日常用に編入してから後に、我々の手で拵へた新語のやうに思ふ。
は辭書には皆輕蔑の感を伴なふものゝやうに解して居るが、それは又一段の變遷であらうと思ふ。少なくとも私などは、やゝ羨みの感じを以てこの一語を習ひ取つた。村の人たちの知らぬことを知つて居る者、旅行が好きで異郷の見聞に富む人といふのが、その最初の意味であつたらしい。無論斯ういふ人は農作は不得手であり、先例因習には異を唱へやすいだらうから、一方に嫌ひさげすみ警戒するやうな者も無かつたとは言へない。其上に彼等があまりにも歡迎せられた結果、近代は寧ろセケンといふ語が平凡になつて、いつ迄も其知識を元手にしようとする世間師を、侮り輕しめる心持が添ふことにもなつたのである。
といふ言葉が鹿兒島などにはある。世間が既に親しいものになつてしまふと、その外側に今一つ、大世間といふ層が想定せられる。さうしてやはり未知の世界、誰といふことも無く自分と對立するものを、意味するやうになつて來たのである。
はこの茫漠たる大世間に向つて、あても無く腹をかくことである。今なら厭世などといふ文字が、半分ほど是に當つて居る。憤ると否とにかゝはらず、既に斯ういふものを外界に認むれば、それだけ人生は複雜になつたので、乃ちその内側の今までの小世間が、一つの交際の社會と考へられて來る。言葉が我々の生活を導き、生活が又言葉の内容を分化させる、適切な例だと自分たちは考へて居る。
といふ語は關東東北では、都會の意味に今日も使はれて居る。町は實際は甚だ窮屈なのだが、その取留めの無い戻つて來にくい状態が、遠くから眺める者に、廣場といふ感じを抱かせたのである。
は北上川流域の低地部を、山沿ひの村々に住む者が呼んで居た語で、聽耳頭巾の鴉の話などにも見えて居る。意味はまだ明らかでないが、是もアラケだのアラトだのといふ語と共に、打開けた遠くまで見える土地のことでは無かつたらうか。
又はヒロシと都市繁昌の地を謂つて居るのも、寧ろそこまで行く途中の、自由で且つたよりない主觀が元になつて居るらしいことは、九州南部のウゼケンなどと、同じであつたやうに私には思はれる。
は會津檜枝岐などの狩詞で、人里のことであつた樣に、笹村君は報告して居る
(旅と傳説九ノ六)。谷の山小屋から見れば何處だつて廣からうが、なほ靜かな落付いた小さな群の空氣と懸離れた境涯だから、さう謂つて差別を立てやすかつたのであらう。しかし山の中としては可なり珍しい語である。
は狹いといふ形容詞と、無關係な語ではないらしい。乃ち本來は我が處、我が住む邑落に與へた名であつた。沖繩でも島はハナリで、シマといふと個々の村を意味し、葬送の時などにも途中立留まつてシマ見をする。東美濃の山村でも島内安全といふ石の文字が目につく。シマは即ちあの地方での垣内のことであつた。古風な言葉だから、今は儀式めいた時の他は使はぬのである。
といふ言葉を、壹岐では死ぬの隱語に代用して居ることが、最近刊行せられた山口君の續方言集に見えて居る。隱語とは言つても、さう新たな工夫を費したものでなく、單に所謂世間を廣島といふ語が、前からこの小さな島にはあつたのを使つた迄であらうが、斯うなつてしまふと、もう他の用途には向かなくなるか、又はよくよく同情の無い戲れの語のやうに聽きなされる。それは恐らく本の意ではなからうと思ふ。
といふ語に、もしも斯ういふ感覺が伴なふことを知つて居たら、藝州の殿樣も是を御城下の名にはしなかつたかも知れない。つまりは人が忘れるほどの古語でもあり、しかも會津の山間や壹岐の島では、僅かに覺えて居て何か特殊の用途に、充てたくなる樣ななつかしい言葉でもあつたのである。
といふのは、伊豫の内海側では死ぬといふ代りに、折々使はれる氣の利いた忌詞になつて居る。是などは對岸に大きな都會が出來てから後の、偶然の發明だと見ることも出來る。或はそれを又大阪へ綿買ひにと謂ふ者もあるし、殊に又煙草といふのが近世式に聞えるが、私はなほ古い幽かな聯想が、暗々裏にこの文句の流布を支持して居るやうに感ずるのである。
は關西地方は殆と一般に、休息の同義語に用ゐられて居る。その煙草を廣島へ買ひに行くといふ文句が、たとへ戲れにもせよどの位安らかな、しかも悠々とした印象を聽き手に與へて居たかは、たゞこの二つの語の平俗的語感を、解する者のみに許される知識であらう。言語はこの人々に取つては藝術であり、學校の先生には輙ち暗記すべき符號に過ぎなかつた。
といふ語の歴史が、少しばかり廣島の煙草と似て居る。是は蘇生をヨミガヘリといふ語の原形だが、越中と飛騨の一部の住民は、射水還りと心得て之を記憶して居たのである。冥途をヨミヂといふ古語がすたれて、之を色々といひちがへる人のあつたことは、既に貞室の「かたこと」にも注意して居る。幸ひに近くに心當りのある者だけは、それを足場にしてこの滅多に使はれぬ語を保管して居たのである。或は二上の峯の麓あたりから、引返して來たやうにも想像して居たのかも知れぬ。そんなら當の射水郡の村々では、蘇生を現在では何と謂つて居るであらうか。或はこゝだけではもうこの一つの「方言」が消えて居るのではないだらうか。