幽靈思想の變遷

柳田國男




一 土俗の荒廢と葬儀


 今年などは、自分の此官舍の前の大通りを、所謂赤毛布式の東京見物が少くとも二萬人は通つて居る。今日のやうに地方人の旅行が、殊に大都會との交通が盛んになつては、數百年間何の變化なしに保存せられて居た土俗の消えるのは、瞬くの間であらうと思はれる。
 實際又近年になつて、古い習慣の無くなつた實例は、無數にあるのである。中にも暦の改正に伴ふ正月の儀式、若連中が青年會となつた結果としての戀愛方法の變化などは著しいものであらうと思ふ。唯その中で變り方の少からうと思はれるものは一つある。それは葬式の前後に於ける各種の行事である。
 此理由は恐らくは、心理學者のたやすく説明し得るところであらうと思ふ。多くの場合の葬式には、事前の計畫と云ふものはない。死亡と云ふ大事件に伴ふ個人竝に一般の不安がある。それから死ぬ者は多數が老人で、暗々裡に舊物、舊制度に對する尊重を要求して居る。
 從つて他の生活行爲、例へば赤坊の宮詣り、娘の嫁入りなどには三越で仕度をしたり、元服の褌は在來の猿股で濟ませたりする家庭でも、年寄が死ねば家人が引込んで悲んで居るうちに、近所の者が來て前年他の家で實行した通りの儀式を以て、野邊送りをしてしまふ。これが少くも一部の理由であらうと思ふ。
 併し無意識に古風を遵奉して居る葬送の手續のうちには、いくらも前代民の死と云ふものに對する思想の痕跡を見出す事が出來るものであつて、我々は東京の大都會を取り圍む村、甚しきは市中を歩いて居ても、心掛一つで今尚フオークロアの資料を集める事が出來る。これは最近の研究旅行に於て、一層深く自分の感じ得たところである。

二 内郷村の竹串


 例へば内郷村に我々が滯在して居た十日の間に、軍艦河内の殉難者の空葬からさうがあつた。葬儀は常に、喪家の外庭に於て行はれる。色々の注意すべき變つた設備があつたが、就中珍しいと思つたのは、門の外に僅かの芝土を盛つて、墓標の如き一本の柱を立てる。柱の頭には小さな制札が打ち附けてあつたが、其意味は問ひ糺す事が出來なかつた。
 夕方に此家の前を通つて見ると、その標木の下の芝土へ、長さ七八寸の竹の串に白紙を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)し挾んだのが、いくらも※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)してある。此竹串は、又他の部落のある家の門口にも※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)してあつた。それは前月に葬式のあつた家である。或は又丁字路の辻に、十數本の此串の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)した處も見た。話を聞いて見ると孰れも同一の場合、即ち死者の近親が野邊送りの歸りに、そこに※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)して行くものだと云ふ事であつた。
 寺の住職の話に據れば、此地方ではこれを金剛杖と云ふ。住職は名古屋附近の人であつたが、尾張で金剛杖と云ふのは、今少しく杖らしい長いものでそれを持つものは施主一人、恰も東京で白木の位牌を跡取りが持つて供するが如く、或は神式の葬儀で喪主がつくところの杖などと、性質の近さうなものを云ふさうである。
 此内郷村の僅かな竹串を、同じ名で呼ぶ事は勿論誤りであらうが、同時に又二物の關係を暗示するとも考へ得る。死者の近親の者は供に立つ時から、此白紙を挾んだ竹串を襟などに※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)して行き、歸路には一樣に一定の場所に立てゝ去るのである。
 串に挾む紙は、半紙の八つ切りで、これを兩隅に合せて三角に折つた形は、少しく死人の額に貼る一部の學者が紙烏帽子と稱して居るものに似て居る。此三角紙は江戸などでは、幽靈の標象の如く見做して、死人のみがこれを用ゐる事になつて居るが、地方によつては、矢張親族故舊の關係にあるものが、これを附けると云ふ話も聞いたやうに記憶する。

三 佛教の教理と俗信の妥協


 それと内郷の竹串との關係の有無は未定であるが、此竹串の方では、今ではお寺に頼んで、何か字を書いて貰ふ事になつて居る。眞言宗の寺ならば、數個の梵字を書く。禪寺では偈の一句などを書いて居る。これも同じ住職の話であるが、此紙に書くべき偈は一定して居る。本來は五言絶句の偈ではあるが、今では節約して唯一句を書くと云ふ事で、自分の見たのは悉く「大道透長安」と書いたものばかりであつた。宗旨によつて書くべき文字は區々でありながら、串を立てると云ふ儀式は各派一樣に承認して居る事は、我國の巫術(Magic)が今の宗教に對して、相持して下らざる實状を語るものである。
 この大道透長安は、勿論の誤りに違ひない。禪語としては、更に一層高尚なる哲理が含まれてあつた事とは思ふが、これを葬式の日の竹串の紙に書く場合には、又別樣の動機のあつたものと見ねばならぬ。即ち佛教の教理と平民の俗信との一種の妥協の例である。
 自分の此説明には、些かも牽強附會の必要がないと思つて居る。即ち串を立てる場所は道の辻である。若くは喪家の門口の道路に接するところである。此場合に大道透長安を説き聞かす相手方は、明白に亡靈である。汝の天地は廣い、娑婆の因縁に執着するなと云ふのは、要するに亡靈を驅逐する事である。孰れの民族でも必要あつて魂を招く場合には、東西南北も塞がり、天も地も塞がれりと説いて、自然に唱へごとする人の附近に來ねばならぬやうに説くと同時に、亡靈の害を怖れてこれを追はんとする時は、かくの如く何れの道も廣い、何の道も開いて居ると云ふ風に説くのが普通であつて、日本でも例を探せば如何程も出て來る筈である。
 同じ村では、又葬式に新しい草履を穿いて出る事は他の地方と同樣であるが、歸り途に矢張り竹串を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)すと、同じ場所でその草履の片方を、鼻緒を切つて捨てる。近世ではこれを墓場の土を忌むやうに解するのが通例であるが、その推測の當らない事は、片方である事が反證を示して居る。枝葉に亙るを避ける爲めに此點は別に云ふが、恐らくは辻の古木に草鞋を掛けたり、仁王門に草履をあげたりする所謂沓掛の慣習と關係あるものと考へられる。

四 玉串の由緒


 此竹串の起源は、今日東京の葬儀に使はれる玉串と、同一系統のものかと自分は思ふ。玉串は名は串であるが、實は榊の枝である。今では紙のしでを附けるもあれば、略するもある。喪主の玉串丈けを稍※(二の字点、1-2-22)大きくする風はあるが、會葬者一同殆と生前何の懇親もなかつた者迄が出しやばつて、これを柩前に捧げる事になつて居る。けれども而も單純なる供物でない事は、その物品の無價値な點からも推測し得る。
 今日の如く葬儀場に盛り上げて來る丈けでは、玉串本來の性質も分らぬが、要するにこれは樹枝に靈魂が依ると云ふ思想を以てするに非ざれば、無意味の事である。
 而してその意味は、玉串と云ふ言葉が既に或程度までこれを示して居る。タマは如何なる漢字を當てゝも、要するに靈である。串は奇(クシ又はクスシ)藥などと語源學上の關係あるか無いか知らぬが、必ずしも今日の魚串などの如く、竹を削つて造つたものに限られなかつたのである。
 斯く云ふよりも、寧ろ生樹の枝を用ゐる方が以前であつたと想像される。一本の喬木が靈の依るところであるが故に、その小枝の運搬が分靈になると考へたのが初めかも知れぬ。
 熊野又は伊豆山に參詣した者が、竹柏なぎの葉を採つて歸り、稻荷山に登つた者が、杉の小枝を翳して下ると云ふ風習は古くからの事であるが、神靈と人間の靈魂とは一つに論ずる事が出來ぬと云ふならば、今一つの著しい例は、京都の愛宕寺の槇の枝である。愛宕寺は小野篁が地獄に通つた道の入口などと云ふ俗傳もあつて、庭上の僅かな芝生を六道の辻などと稱へて來た。盆の十五日に京の町人は、近世に至る迄此寺に參詣して、槇の小枝を持つて歸るのを、亡靈を迎へて來るのだと考へて來た。即ち神の靈、死者の幽魂も、等しく木の枝に乘つて運ばれて居たのである。
 此思想と事實上の竹串、木の串との關係を説くに、自分は以前山伏の用ゐた梵天と云ふものを以て、適例に引いて居る。梵天は江戸でも、石尊の參詣などに際して、偉大なものを作つたが、專ら山伏の任務である。つまり御幣の極めて大なるものである。山伏は豫め此大幣に小さな紙の御幣をいくらも多數に取り附けて置いて、これを各家々を巡つて御幣を分配して歩く。荒神、稻荷等の屋敷の神、又は野の神山の神の小さな祠に、祭の度毎に新たに立てる御幣は、斯くの如くして信仰の中心たる大幣から分配されたる小幣である。その型が最もよく、木の枝の分配と似て居る。

五 死者に對する祖先の考へ


 支那で木主と稱して、靈の依り所を家の廟に設けたのも、元は多分今日の位牌などの如き技巧を極めたものではなかつたまでで、矢張り同じ道程を經て發達して來た、靈の依託の標象であらうと思ふ。それらの慣習が徐々に日本の家庭に入り込むに及んで、吾々の宗教生活は寧ろ或意味に於いては、フェティシュ(Fetish)崇敬の古い形に逆戻りしたとも云ひ得るのである。木主と云ひ位牌と云ふが如き、永久保存の目的を以て用意せられたものは、次第に本尊の掛軸や御影に近くなつて、愈※(二の字点、1-2-22)後世の亡靈を歡迎する眞宗佛教の信仰を根強くしたが、吾々の祖先の死者に對する考へは、却つて單純なるかけながしの竹串などに、殘り止まつて居る樣である。
 内郷の村民などが作る竹串は、云はゞ一種の利用である。彼等は目に見えぬ亡靈の親族故舊の身に縋つて、再び元の家に戻る事を忌んだが故に、粗末なる竹串にタマを依らしめて、最も交通の自在なる道の巷に欺して置いて來た。言葉を換へて云へば、此竹串がなかつたならば、彼等は幽靈の竊かに家の内に歸つて居ぬと云ふ事を、確かめるべき安心の手段を殆と持たなかつたのである。
 村によつては壁を壞し窓を擴げて、棺の出る道を作る處もある。これ又通例の道を使へば、通例の方法で戻つて來ると云ふ懸念からである。或地方では竹籠、臼の類を以つて座敷中を轉がし※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)るところもある。これも目に見えぬ魂が、忍んで居らぬ事を確かめる手段に外ならぬ。或は迂路を取つて、流れ川を渡つて歸るものもある。鹽を振り撒くなどは、最も普通のやり方である。孰れも死者との絶縁を目的としたもので、古くは伊弉諾尊が櫛を投げ、杖を立てて黄泉の國との境を作られたのと、同一の思想に出發して居るものである。
 後世の考へから云へば、臨終の際迄嘆き縋つて別れを惜んだ程の情愛のある者が、一朝にして斯の如き冷遇を受くべき道理がないと思はれるかも知れぬ。併し亡靈の人間に對する態度は、又格別のものであつた。既に「合邦が辻」の淨瑠璃には、「肉縁の深いもの程猶恐ろしい」と云ふ有名な文句があつて、此思想の痕跡は眼前に迄及んで居るのである。

六 魂迎へ聖靈送り


 そこで改めて魂迎へ、聖靈送りの問題が起る。以前は此行事は、盆ばかりではなかつたらしい。少くも東國には年の暮にもあつた事は、徒然草等に見えて居る。今日の盆は新しい人情を基礎にして迎へて祭るが主になつて居る。吾々は度々、少女少年が祖父祖母の墓に詣つて「さあおぶされ」と云つて背を向けたりなどする、優しい光景を目撃したものであるが、しかもこれは十萬億土に常住して居ると云ふ信仰の普及した後の事で、以前は捨てゝ置けば邑落に死者の影が充滿して、疫病を流行らせ害蟲を蕃殖さす所以であるから、危險な期節を選んで一齊にこれを驅逐するのが此月の主たる仕事であつた事と思つて居る。即ち西洋でも云ふ萬靈會(All Souls day)である。
 成程念佛宗の信者の家では、一族悉く淨土に安住するかも知れぬが、無縁の萬靈は機縁なしには佛果を得る事は難かしい。この連中は何時の世になつても、成る丈け安い費用で、一度に少なくも我村から追ひ出してしまはねばならぬ。その爲には松明を點し大きな聲を出し、佛教信仰の盛んな地方では念佛を唱へ、且つ踊り、又銅鑼や鉦を叩き、殆と煩累に堪へずして立ち退くやうに仕向けたのである。鐵砲が輸入されてからは、又鐵砲をも用ゐた。これらの風習が念佛宗の一世を風靡する時代から、更に進んではその信仰の稍※(二の字点、1-2-22)衰へんとする今日まで、尚色々の形を以て、中には殘つて居る。同情あり且つ注意深い學者が出て來なければ、吾々の國民性は、到底明白になる時がなからうと思ふ。





底本:「定本柳田國男集 第十五巻」筑摩書房
   1963(昭和38)年6月25日発行
初出:「變態心理 二卷六號」
   1917(大正6)年11月
入力:フクポー
校正:津村田悟
2023年10月2日作成
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