靈出現の地
柳田國男
諏訪郡塚原部落の兩墓制現況(民間傳承五ノ五)は誠に親切な好い報告だが、その中で唯一箇所、祭り墓をタッショウと謂ひ助生と書いて居るのは、「塔所であることは説明する迄も無い」とある點だけが、少々不用意な斷定かと思ふ。現に私などは全くちがつた想像をして居るのである。もう一度是非とも問題にしてもらひたい。
タッショウといふ名稱の分布は可なり弘く、殊に中部地方には多い。大體に古い墓場のやうにも考へられるが果して人を埋めてないか否かも、まだ確かめることが出來ない。下伊那北設樂の二郡二縣境の山村では、正月ニュウ木を削る際に、別に是と似た形の木片を數多くこしらへて、それを家々の墓に持つて行つて立てる。此木をタッシャ木と呼んで居ることは、曾て早川君が「民族」に報告した。其タッシャは墓場のことで、それも塚原のタッショウと同じ語らしいのは、遠州濱名郡で盆の十四日の墓の前の松焚きをタッショウダキ、同榛原郡で同じく十五日の親類の佛參りをオタッショ參り又は唯オタッショともいふのから察せられる。同じ語は大井川以東の駿河志太郡にもあり、伊豆賀茂郡でも十三日の墓參りをタッチョウマイリと謂つて居る(内田君方言集)。榛原郡誌には家々の盆棚を拜みに行くことでは無く、十四日の墓參りがオタッショ參りだとあるが多分兩方ともさう謂ふことになつて居るのであらう。濱名郡の新居町などでは、墓地をタッチュウバといふさうである。
しかしすべての墓地を一樣にさう謂ふのではなくて、其中の或特殊のものに限つたのかと思はれるふしがあるから、なほよく尋ねて見なければならない。小縣郡長村の郷土資料には、昔貴人の刀を埋めて塚としたといふ處に、枝四方に垂れた老松があつて其名を笠松、一名刀の松ともオタッチョウの松とも謂ふとある。前に枝垂櫻の問題でも説いたやうに(信州隨筆)、枝の四方に垂れた樹があるといふことは、注意すべきだと私は思つて居る。少なくとも是には石塔は無いのである。
甲州では中巨摩郡誌に、村々に此名の地字が多かつたやうに記憶するが、本が手元に無いので引用することが出來ない。淡路では南端の野島村でも墓が兩所で、一方のいけ墓即ち埋葬地をステバカ、他方の引墓をタチヲといふと、たしか平山君が報告したが、是などは全く塚原と同じである。
壹岐島の七タッチョに就ては、折口氏も「民俗學」二ノ二で詳しく見聞を録し、又山口君も方言集の中に掲げて居られる。七とはいふが部落毎に必ずといふほど一つづゝあつて、村では敬つてオタッチョウと謂つて居る。場所は小さな丘又は森で、石の祠が普通には立つて居る。館所又は塔頭だらうとの説もあるさうだが、注意しなければならぬことは、爰に盆と正月との念佛供養があり、又は祭禮の日に狂言手踊の奉納があつた。さうして村共同の拜所であつて、或家には專屬して居ないのである。對馬の島にもタッチョウモトといふ地名のある處がある(旅と傳説一一ノ四)。こゝにも古い石塔は多く、其中には應安七年のものさへあるといふ。石碑を個人の爲に建てるといふことは至つて新しい風習で、もとは塚と同じに靈地の標幟であつたかと思はれる。墓であつたにしても只の人のでは無かつたのである。豐後日田郡の法華院温泉の附近にメタッチュウ・ヲタッチュウと稱する二所の靈地があつて、現在は共に墓場となり、寶永頃からの石碑もある。一方は女ばかりの墓場、他は男のみの墓場だと説明する由、川口孫治郎氏の話で聽いたことがあるが、墓地に男女を別つといふ風習は疑はしい。多分は早くから二處のタッチュウバがあつて、それを墓地として使用することも、もう現在は止めて居るから、そんな事を謂ひ得るのであらう。三河の南設樂郡で、タッとチョと二人の女を葬つたといふなどと話はやゝ似て居る。
大隅百引村の文政五年の書上に、平房の坊屋敷といふ處に、タキショと呼ぶ石塔が殘つて居る。現在は山林だが元は寺領だつたと言ひ傳へて居るとある。このタキ所も恐らく元は諏訪などのタッショウであらう。是は櫻田君の寫し取つて來た文書だが、同じ人は又三重縣志摩の南端和具の海岸に、タッバといふ注意すべき場所のあることを見て來て報告して居る(民間傳承三ノ三)。和具のタッ場は此村の女の忌小屋、こゝでカリヤといふ建物からまつすぐに下つた濱邊で、女たちは是へ降りて潮を浴びたらしく、それが同時に又病ひ送りの藁船人形を流す場所として、及び盆の精靈迎への念佛供養所としても用ゐられ、向つて沖の中にはドウマン島といふ岩礁があつて人に畏れられて居る。是なども私だけは諸國のタッショと同じものかと思ふのである。
無論是ぐらゐの資料だけでは斷定は出來ぬが、敢て意見を述べるとタッショのショはやはり處であり、タチは現はれることでは無からうか。今日の「立つ」といふ動詞には、もうさういふ意味までは含んでは居ないが、面影に立つといひ、夢枕に立つといひ、雷をカンダチ、朔日を月立ち、その他龍をタツと訓じ、水中の怪物をタツクチナハ(佐賀地方)といふ類の、例を擧げるならばまだいくらも有る。死者の月忌をタチ日といふなども、今では供養をする日と解せられて居るだらうが、本來は魂髣髴として來り享けることを謂つたのかと思はれる。神靈が立てば必ず祭をする故に、祭をする處と變化したとても不思議は無い。タタリといふ言葉は我々は罰を與へる場合にしか使つて居らぬけれども、沖繩などのタアリは神が顯はれることであり、諏訪の御社でも巡幸の日に行く先々の大樹の下で、祭をすることを、曾てはタタヘ(湛へ)と謂つて居た。現在は祭り墓の所在地をさう呼ぶやうになつたが、以前は或は山や林の奧に「立ち所」といふ靈地があつて、それへ行つて祖先の靈を迎へ又は祭る風習があつたのではないかどうか。斯ういふ重要な前代の史實が、判つて來るかも知れない大切な手掛りである。たつた一つの單語だが粗末に取扱はぬやうに、なほ大いに用例を累積して見なければならぬ。
底本:「定本柳田國男集 第十五巻」筑摩書房
1963(昭和38)年6月25日発行
初出:「民間傳承 五卷七號」
1940(昭和15)年4月
入力:フクポー
校正:津村田悟
2024年5月27日作成
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