幻覚の実験

柳田國男




 これは今から四十八年前の実験で、うそは言わぬつもりだが、余り古い話だから自分でも少し心もとない。今は単にこの種類のできごとでも、なるべく話されたままに記録しておけば、役に立つという一例として書いてみるのである。人が物を信じ得る範囲は、今よりもかつてはずっと広かったということは、こういう事実を積み重ねて、始めて客観的に明らかになって来るかと思う。
 日は忘れたが、ある春の日の午前十一時前後、下総北相馬郡布川という町の、高台の東南麓にあった兄の家の庭で、当時十四歳であった自分は、一人で土いじりをしていた。岡に登って行こうとする急な細路のすぐ下が、この家の庭園の一部になっていて、土蔵の前の二十坪ばかりの平地のまん中に、何か二三本の木があって、その下に小さな石の祠が南を向いて立っていた。この家の持主の先々代の、非常に長命をした老母の霊を祀っているように聞いていた。当時なかなかいたずらであった自分は、その前に叱る人のおらぬ時を測って、そっとその祠の石の戸を開いて見たことがある。中にはへいも鏡もなくて、単に中央をくぼめて、けい五寸ばかりの石の球がめ込んであった。不思議でたまらなかったが、悪いことをしたと思うから誰にも理由を尋ねてみることができない。ただ人々がそのおばあさんの噂をしている際に、いつも最も深い注意を払っていただけであったが、そのうちに少しずつ判って来た事は、どういうわけがあったかその年寄は、始終蝋石のまん丸な球を持っていた。床に就いてからもこの大きな重いものを、撫でさすりかかえ温めていたということである。それに何等かの因縁話が添わって、死んでからこの丸石を祠にまつり込めることになったものと想像することはできたが、それ以上を聴く機会はついに来なかった。
 今から考えてみると、ただこれだけの事でも、暗々裡に少年の心に、強い感動を与えていたものらしい。はっきりとはせぬが次の事件は、それから半月か三週間のうちに起こったかと思われるからである。その日は私は丸い石の球のことは、少しも考えてはいなかった。ただ退屈をまぎらすために、ちょうどその祠の前のあたりの土を、小さな手鍬のようなもので、少しずつ掘りかえしていたのであった。ところがものの二三寸も掘ったかと思う所から、不意にきらきらと光るものが出て来た。よく見るとそれは皆寛永通宝の、裏に文の字を刻したやや大ぶりのあなあき銭であった。出たのはせいぜい七八個で、その頃はまだ盛んに通用していた際だから、珍しいことも何もないのだが、土中から出たということ以外に、それが耳白みみしろのわざわざみがいたかと思うほどの美しい銭ばかりであったために、私は何ともいい現わせないような妙な気持になった。
 これも付加条件であったかと思うのは、私は当時やたらに雑書を読み、土中から金銀や古銭の、ざくざくと出たという江戸時代の事実を知っていて、そのたびに心を動かした記憶がたしかにある。それから今一つは、土工や建築に伴なう儀式に、銭が用いられる風習のあることを少しも知らなかった。この銭はあるいは土蔵の普請ふしんの時に埋めたものが、石の祠を立てる際に土を動かして上の方へ出たか、又は祠そのものの祭のためにも、何かそういう秘法が行なわれたかも知れぬと、年をとってからなら考える所だが、その時は全然そういう想像は浮かばなかった。そうして暫らくはただ茫然とした気持になったのである。幻覚はちょうどこの事件の直後に起こった。どうしてそうしたかは今でも判らないが、私はこの時しゃがんだままで、首をねじ向けて青空のまん中より少し東へ下ったあたりを見た。今でもあざやかに覚えているが、実に澄みきった青い空であって、日輪のありどころよりは十五度も離れたところに、点々に数十の昼の星を見たのである。その星の有り形なども、こうであったということは私にはできるが、それがのちのちの空想の影響を受けていないとは断言しえない。ただ間違いのないことは白昼に星を見たことで、(その際にひよどりが高い所を啼いて通ったことも覚えている)それを余りに神秘に思った結果、かえって数日の間何人にもその実験を語ろうとしなかった。そうして自分だけで心の中に、星は何かの機会さえあれば、白昼でも見えるものと考えていた。後日その事をぽつぽつと、家にいた医者の書生たちに話してみると、彼らは皆大笑いをして承認してくれない。いったいどんな星が見えると思うのかと言って、初歩の天文学の本などを出して来て見せるので、こちらも次第にあやふやになり、又笑われても致し方がないような気にもなったが、それでも最初の印象があまりに鮮明であったためか、東京の学校に入ってからも、何度かこの見聞を語ろうとして、君は詩人だよなどと、友だちにひやかされたことがあった。
 話はこれきりだが今でも私はおりおり考える。もし私ぐらいしか天体の知識をもたぬ人ばかりが、あの時私の兄の家にいたなら結果はどうであったろうか。少年の真剣は顔つきからでもすぐにわかる。不思議は世の中にないとはいえぬと、考えただけでもこれをまに受けて、かつて茨城県の一隅に日中の星が見えたということが、語り伝えられぬとも限らぬのである。その上に多くの奇瑞きずいには、もう少し共通の誘因があった。黙って私が石の祠の戸を開き、又は土中の光る物を拾い上げて、独りで感動したような場合ばかりではなかったのである。信州では千国の源長寺が廃寺はいじになった際に、村に日頃から馬鹿者扱いにされていた一人の少年が、八丁のはばという崖の端を遠く眺めて、「あれ羅漢らかんさまが揃って泣いている」といった。それを村の衆は一人も見ることができなかったにもかかわらず、さてはお寺から外へ預けられる諸仏像が、ここへ出て悲歎したまうかと解して、深い感動を受けて今に語り伝えている。あるいは又松尾の部落の山畑に、むこと二人で畑打はたうちをしていた一老翁は、不意に前方のヒシ(崖)の上に、見事なお曼陀羅まんだらの懸かったのを見て、「やれ有難や松※[#小書き濁点付き片仮名カ、66-16]尾の薬師」と叫んだ。その一言で壻は何物をも見なかったのだけれども、たちまちこの崖の端に今ある薬師堂が建立せられることになった。この二つの実例の前の方は、あらかじめ人心の動揺があって、不思議の信ぜられる素地を作っていたともみられるが、後者に至っては中心人物の私なき実験談、それも至って端的に又簡単なものが、ついに一般の確認を受けたのである。その根柢こんていをなしたる社会的条件は、甚だしく、幽玄なものであったと言わなければならない。
 奥羽の山間部落には路傍の山神石塔が多く、それがいずれもかつてその地点において不思議を見た者の記念で、たいていは眼の光った、せいの高い、赫色をした裸の男が、山から降りて来るのに行き逢ったという類のできごとだったということは、遠野物語の中にも書き留めておいたが、関東に無数にある馬頭観音の碑なども、もとは因縁のこれと最も近いものがあったらしいのである。駄馬に災いするダイバという悪霊などは、その形が熊ん蜂を少し大きくしたほどのもので、羽色が極めて鮮麗であった。この物が馬の耳に飛び込むと、馬は立ちどころに跳ねあがってすぐたおれる。あるいは又一寸ほどの美女が、その蜂のようなものの背にまたがって空を飛んで来るのを見たという馬子もある。不慮の驚きに動顛どうてんしたとは言っても、突嗟とっさにそのような空想を描くようなかれらでない。すなわち馬の急病のさし起こった瞬間の雰囲気から、こんな幻覚を起こすような習性を、既に無意識に養われていたのかも知れぬのである。
 わが邦の古記録に最も数多く載せられていて、しかも今日まだ少しも解説せられていない一つの事実、即ち七つ八つの小児に神がって、誰でも心服しなければならぬような根拠あるいろいろの神秘を語ったということは、この私の実験のようなものを、数百も千も存録して行くうちには、まだもう少しその真相に近づいて行くことができるかと思う。「旅と伝説」が百号になったということが、ただ徒然草のむく犬のようなものでないのならば、今度は改めて注意をこの方面に少しずつ向けて行くようにしたらよかろうと思う。いわゆる説明のつかぬ不思議というものを、町に住んでいて集めようというのはやや無理かも知らぬが、それでも新聞や人の話、又は今までの見聞記中にもまだ少しずつは拾って行かれる。実は私もだいぶたまっているつもりだったが、紙に向かってみると今はちょっとよい例が思い出せない。そのうちにおりおり気づいたものを掲げて、同志諸君の話を引き出す糸口に供したいと思っている。





底本:「妖怪談義」講談社学術文庫、講談社
   1977(昭和52)年4月10日第1刷発行
   1978(昭和53)年9月10日第2刷発行
初出:「旅と伝説 第九年第四号」三元社
   1936(昭和11)年4月1日
入力:青井優佳
校正:津村田悟
2022年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

小書き濁点付き片仮名カ    66-16


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