けすとえくえろ

探偵小説は芸術か

妹尾アキ夫




 甲賀三郎氏の探偵小説についての論文は、同氏の小説とおなじく、正直に正面からぶつかったもので、すこぶる読みごたえのあるものだが、正面からぶつかっていられるだけ、部分的には一つぐらい私の考えと違うところがないでもなかったが、これはむしろ当り前で、人間の顔が一人一人ちがうと同じであろう。「今尚探偵小説は芸術小説たり得るという説をしている人があるのに驚く。或る約束に縛られたら、最早芸術ではない。例えば絵画は芸術だが插絵は芸術ではない」大抵の人はこの甲賀三郎氏の説と同意するだろうか、私はそうは思わない。私には絵画の尺度で插絵を批判するからこそ插絵が芸術でないように思われるので、插絵には插絵としての別個の芸術があるように感じられるのだが、これは私の錯覚だろうか。
 およそどんな芸術でも約束に縛られないものはないように思う。芝居は舞台の上から眼と耳に訴えるべく約束づけられ、音楽は耳以外に一歩も出ることが出来ず、小説は文字、絵はカンヴァス、和歌や発句は字数まで縛られている。小説だけについてみても、日本の純文芸とやらの心境小説は心境のみを窮屈に掘りさげなければならんわけだし、私小説は必ず自分の経験をかくべく約束され、恋愛小説に一つ以上のラヴアフェアが盛られていなかったら、もはや恋愛小説とは云われなくなる。同様に戦争小説は戦争をかき、探偵小説は犯罪の発見の経路をかくのだとは云えないだろうか。
 私は心境小説に芸術になったのとならんのとあると同様に、探偵物にも芸術になったのとならんのとあるように思う。いちじるしい例をあげるなら、「罪と罰」や「レ・ミゼラブル」は誰でも芸術品と云うにちがいないが、あれは探偵小説の一つであると云っても誰もそれを否定し得ないのである。ここまで云って来ると芸術という言葉の意味を吟味せねばならなくなるが、どうも日本では芸術というと難しいことになりやすいが、私はごく平易なという言葉の一つの意味と同じだと考えている。一つの芸術の尺度で他の芸術をはかろうとするから間違いが起る。「ルパン」「ホームズ」そのたの傑作はみな「探偵小説としての芸術品」だと思う。そしてこの意味から云うと、もはや芸術味のある探偵物には人情味を加えなくてはならんとは云えなくなる。人情味がちっともないフリーマンの小説でも「探偵小説としての芸術」だし、探偵小説は芸術にあらずとおっしゃる甲賀三郎氏もたくさんの芸術品を作っていられるように私は思う。
 詩は十九世紀を最後として死んだ。歌劇はスカラ座に於てでさえ客足を断とうとしている。小説の全盛期は十九世紀から二十世紀の初めで、今では小説、トーキー共立の形が、やがてトーキー、ラジオ、テレヴィジョンその他の未知のものに蚕食せられるだろう。
 探偵物は芸術でないと云う人があるぐらいだから、トーキーが芸術でないと云う人も沢山あるだろうが、やがて小説が死んで、トーキーが暴威を振い出した時、誰がそこにトーキーの芸術を発見しないで置こう。
 芸術の形式は時代とともに変りつつある。恐らくもうロシアからは「死せる魂」や「オブロモフ」のような悠長な小説は永久に生れないだろう。昔のままの文芸の概念を持ってまわるのは死人の屍体を抱いていると同じだ。
 イギリスとアメリカの文芸は、二三十年前とは可なり内容が変って来た。純文芸と大衆文芸との区別はまったく見ることが出来ない。そしてその主流は、出版の数の上から云っても、多く愛読されると云う点から云っても、犯罪小説、探偵小説、その他のシュリラーが中心になっている。われわれ日本人は二三十年前にロシア文学の中毒にかかったために、文芸というものについて今でもとらわれた概念をもっているけれど、公平に現実を正視したら、英米の文芸の主潮が変ったことを、認めずにいられぬだろう。
 誰が何と云おうと、いわゆる日本の純文芸愛好者がどんなにせき止めようとしても、その堰を破って大衆的な潮がどんどん流れこむのはいかんともなしがたい。そして明日の文学は英米の主潮と同じもの、あるいはそれに似たものとなり、いそがしい人々はシュリルや笑いをもとめるために、電車のなかで肩のこらぬ小説を開くようになるだろう。そして文芸はもっともっとジャーナリズムに近づいて行くにちがいない。
 甲賀氏も云われる通り、探偵小説を本格と変格に分けるのは可笑おかしなものだ、名称なんかどうでもいいようなものの、名称から錯覚を起して一方を軽んじたり偏重したりしやすい。変格物なんて変てこな名をつけないで、犯罪小説、怪奇、復讐、ユーモア、シュリラー、冒険、その他なんなりと名をつけていいわけだし、それらの混血児ができたってちっとも差支えないわけだ。
 あすの探偵小説の長篇は単行本と新聞に本拠を見出すだろう。アメリカの週刊雑誌は探偵物で読者を得ているし、涙香が万朝の売行きを一人で背負っていたのをみても、いいものでありさえすれば、探偵小説が新聞の続物として一番いいものであることは分ろうと云うもの。
 英米では二番せんじを単行本にする向きもあるが、大部分の長篇は書卸しの単行本と相場がきまっている。そんな探偵小説の単行本が毎月読み切れぬほど沢山出版されている。日本でもやがてはそんな形勢になるに違いない。
 戦争小説についで英米で盛んになったのは国際スパイ小説である。大戦時代の有名な女スパイ、マタ・ハリの各種の実録は随分売れたらしいが、最近ではスパイ小説の叢書なぞ出版されだした。愛国小説や国際スパイ小説もぼつぼつ日本に生れていい頃だと思う。





底本:「幻影城 10月号(第3巻・第10号)」幻影城
   1977(昭和52)年10月1日発行
底本の親本:「新青年」
   1935(昭和10)年3月号
初出:「新青年」
   1935(昭和10)年3月号
入力:sogo
校正:持田和踏
2024年2月22日作成
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