弟
治宇二郎が書いた本というのは、表題の『日本石器時代提要』であって、
菊判三百ページくらいの堂々たる体裁であった。評判も大分良かったらしく、『朝日新聞』の書評でも「年齢わずか三十歳の著者が」と、大いに褒めてあった。しかし本当は、当時二十七歳くらいだったので、ひどく早熟な方であった。
語学には、妙な才能をもっていて、来た時は
仏蘭西語はボン・ジュールくらいしか知らなかったのに、二カ月もしたら、もうコレジ・ド・フランスで、三十分の講演をして来たなどといって、澄ましていた。
日本を出る前に、
注口土器の形と
紋様の分類をして、その型式を地図の上に描き現わして、文化(カルチュア)の中心を求めるという研究をした。その結果を英文で書いて、方々に送っておいたそうである。来て間もない頃、コレジ・ド・フランスで社会学のモリス教授の講義を冷やかしていたら「文化中心を求める
中谷の図式方法」というのが出て来て、びっくりしたそうである。講義がすんでから「それは私です」と申し出たら、モリス教授もたいへん喜んで、それから学会などにも始終顔が出せるようになった。
こういう具合に、弟の在仏生活は、大分楽しく、また仕事の方でも能率を大いにあげた。しかし勉強が過ぎて、胸を悪くした。スイスの療養所で大分静養もしたが、思わしくなく、帰って九州の
由布院で闘病生活四年、遂に亡くなった。
それから五年ばかり
経って、
日華事変の最中、京都の出版社が、京大の
梅原末治教授のところへ、考古学の本を一冊書いてもらいたいと頼みに行ったことがある。そしたら梅原教授は「考古学の本では、以前に出た中谷君の『提要』が非常に良い本であったが、今は絶版になっている。あれを補足して出した方がよい。私が校訂してあげる」と言われたそうである。そして同教室の
小林行雄、
岡崎敬両君の熱心な助力を得て、初版刊行後に得られた新資料及び
斯学の進歩を採り入れて『校訂日本石器時代提要』は、菊判五百五十ページに及ぶ大著となって、再び世に出た。
原著の姿をそのままに残して、それに新しい資料を加えて、増補校訂をするということは、非常に労が多くて、しかも世間的には、功の現われない仕事である。普通は門下生が恩師の遺著について行うことが、
稀れにあるという程度の話である。
梅原教授のような当代一流の学者が、その門下生でもない、他の大学の年若い一助手の遺著に対して、こういう厚意を示されたことは、空前のことであり、また絶後になるかもしれない。早くは死んだが、弟は仕合せな男であった。
(昭和三十年七月十九日)