永久凍土地帯

中谷宇吉郎




黒河への旅


 外は零下三十度近い寒さである。
 黒河こくがへ向う私たちの汽車は、孫呉そんごの駅を出て既に数時間走っている。
 車窓に見える限りの雪原は、いつまで行っても平坦で、何の起伏もない。家もなければ立木もなく、薄鼠のただ一色に見える雪の原は、ところどころ朔風さくふうに傷つけられて、黒い地肌が出ている。雪にまみれ掻き乱された枯草がその地肌をおおっていて、夏の荒涼とした広野の景色をしのばせてくれる。
 この地帯はその当時特殊区域に指定されていたので、一般の乗客には展望が許されていなかった。しかし凍土地帯における鉄道施設を調べるのが目的だった私たちには、北満の奥地、この無人の世界における自然の姿を、心ゆくばかり眺めることが出来た。同行のK教授と二人、案内役は当時ハルビン鉄道局の副局長をしていたTである。Tは高等学校時代からの友人で、心おきない間柄である。ロシアから譲り受けた豪華な食堂車の中で、Tの御威光振りに少々圧倒されながらも、私たちは凍土地帯における思いがけない色々な珍しい現象の話をきいて暖かい旅をした。
 北海道あたりでも、冬になると土地が凍って、凍上の被害が到る処に見られる。凍土の深さは一メートル程度に過ぎないが、それでも、この凍上には鉄道は随分悩ませられる。ところが北満のこの土地へくると、凍結深度が四メートルにも達するところがある。そういう所では、春から秋にかけて、弱い陽の光がやっと凍土層を下まで融かしたと思う頃には、もう冬がきて、土地は表面から凍り始める。人間も草木も、土の融けるわずかの期間を盗むようにして、その営みをするのである。
 しかしわずかばかりの期間でも、すっかり土の融け切るこの土地は、まだ太陽の恩寵をこうむっていると言える。あの荒漠としたシベリアの大平原のほとんど全部は、地の底の氷の融け切る時のない地帯なのである。秋の末おそく、土地が一年間の太陽の勢力の全部を吸いとった頃でも、一メートルか二メートル程度の深さまで融けた表土の下は、ずっと底の岩盤まですっかり凍り切っていて、この凍土は永久に融けることがないのである。
 こういう永久凍土地帯では、それこそ農民も原始林の木たちも、生涯氷の上に住んでいるのである。地の底まで凍り切った土地の上にいて、わずかに薄く融ける表土層の土から、シベリアの大原始林が生い立つことも驚異であるが、この土地に小麦を栽培することに成功した、ソヴィエトの科学の力もまた一つの驚異と言えよう。
 シベリアの氷の平原を開発することを一つの使命としたソヴィエトの科学者たちは、勿論もちろん永久凍土層の研究にも十分な力を注いだ。農耕は勿論であるが、鉱業にも土木にも、凍土の上に人間の営みをするには、その凍土の性質を知らなくては、どのような施設も安全には出来ないであろう。
 その研究は永久凍土地帯の分布の調査から始められた。そして非常にはっきりした話であるが、その分布区域は、一年中の気温の平均が零度以下である区域と、ほぼ一致するということが分った。気温の年平均が零度である線は、ちょうど北満の奥地を通っているので、旧の東支鉄道の北辺には、この永久凍土地帯が存在するのである。
 満鉄ではその点に早くから着目して、数年前ハイラルのずっと北方、大黒河に近い所に研究所を作って、永久凍土層の研究に着手したそうである。いい塩梅あんばいに、こういうほとんど無人の境で、極寒ごっかんの北風と闘いながら冬を越すことが好きだという地質学者がいて、その研究者の努力によって、北満の永久凍土層の性質もだんだん分ってきた。
 凍土地帯に市街地を建設するにしても、鉄道を敷くにしても、第一に問題になるのは水である。こういう凍土の底から水が得られるのは不思議であるが、実際には真冬でもこんこんと清水の湧く泉があるそうである。しかも意外なことには、夏の間は泉も何もない処に、冬になると水が湧いてくるのである。零下三十度ないし四十度という気温の所に湧き出る水は、外へ出た途端に凍ることは勿論である。それで泉の上には氷の山が出来て、それがだんだん拡がってくると、鉄道線路がその氷の山にされて困ることがあるそうである。
 黒河に大分近くなった頃、運よくちょうどそういう現場が、線路のすぐ側にあった。「ここは毎年そいつにいじめられる処なんだ」というTの説明に、慌てて窓硝子ガラスの曇りをぬぐってみると、本当に車窓のすぐ前にその幻境のような景色が現われ出たのである。
 汽車はいつの間にか丘陵地帯にはいったと見えて、車窓の近くに低いなだらかな丘がつづいていた。そして妙な枝振りの木立が丘の上に並んでいた。その丘のふもとに泉源があるらしく、青く透明な氷の大きい塊が累々と重り合って、大宮殿のような氷の山となり、それが次第に線路へ押し寄せてきている。先鋒はもう盛土路盤もりどろばんの根元まで達しているらしい。この氷の大宮殿は、一面に薄い粉雪のヴェールに蔽われているが、所々に露出した氷の大角柱をすかして、内部は真蒼まっさおに暗く静まりかえっている。氷雪の世界には氷雪の巨人がんでいるものである。その巨人の氷の殿堂が、粉雪まじりの寒風の中に、厳然として立っている姿は、人界を遠く離れた土地だけに、物すさまじい景色である。
『西遊記』にでも出てきそうなこの景色も、低温科学では「氷上水」という言葉であっさり片づけている。地底に水をとおさぬ凍土層がある場合、表面から土が凍って行くと、地下水の出口がふさがれてしまって、下の地下水には強い圧がかかる。それで凍結表土に弱い所があると、そこを破って地下水が湧出するのである。もっともそれは原理だけの説明であって、実際にいつどういう処にこの氷の宮殿が現出するかを予言することも、またその予防策を講ずることも、実際にはなかなか困難である。
 無人の境に忽焉こつえんとして現出する氷の宮殿ならば、嘆賞しておくだけで済むが、この現象がトンネルの掘ってある山などに起きると、話が面倒になってくる。トンネルの壁や天井はコンクリートで固めてあるが、あの裏、即ち土と接している境には、裏込めとして砂利や切込みがはいっている。土地の凍結がある程度まで進行して、地下水のけ口をふさぎ、内部に圧が加わってくると、地下水の一部は裏込めの層に浸入してくる。トンネルの壁は寒さを通しやすいので、この水は壁の裏で容易に凍ってしまう。水が凍る場合、その体積が約一割膨脹ぼうちょうすることも、その膨脹の圧力が零下数度で既に千気圧近くにも達する恐ろしい量であることも、周知の通りである。これではどんな丈夫なトンネルでも壊れてしまうのは当然であろう。
 凍結によるトンネルの崩壊は、北海道ですら珍しいことではなく、北満地方では頻々ひんぴんと悩まされている現象である。その原因の一つとして、凍土と同じように壁の裏に霜柱が生長する場合もあるが、この氷の巨人の殿堂と同じ現象に起因する場合もかなりあるようである。
 地下水が凍ってトンネルの壁を押し出してくるのと同じ現象が、平地に起きることもあってよいはずである。破るべき凍土層の適当な弱点がない場合、あるいは十分な水の補給がない場合には、地下水は地底の一部に溜ったままで凍ってしまう。その場合には、凍結による膨脹のために、地表が盛り上って小さい丘が現出する。低温科学者が簡単に氷丘と称しているこの丘も、シベリアの原住民たちには、神秘の的であったらしい。夏の間には何もなかった処に、急に丘が出来たり、しばらくすると、また別の場所がふくれ上ったりする現象を不思議がる方が当然なのである。
 ヤクートやツングースは、厳寒の時期になると、大きい動物が地中を動き廻ると信じているそうである。それがこの永久凍土地帯から時折発掘されるマンモスと結びついたのであって、マンモスのロシア語源は「土の動物」という意味であるということである。ブフィツェンマイエルのマンモス発掘記の抄訳『マンモスを求めて』には、古代の支那人がマンモスを土竜もぐら科の一種の地中にむ動物と考え、陽の目を見ればたちどころに死んでしまうと信じていたことが書かれている。厳寒のシベリアの広野をさまよい歩いているこれらの原始狩猟人の眼には、マンモスが所々新しく土地を盛り上らせながら、地中を歩いている姿が見え、それが川岸などで思わず表面に出ると、屍体となって現われる「事実」を知っていたのである。
 すくなくも一万年以上永久凍土層の中に、そのままの姿で埋れていたマンモスの屍体が、人間の眼に止るのは、多くの場合洪水などで流し出された時である。コサックによるシベリア占領以来、ロシアの科学院は賞金をかけて、発見の情報を得ようとした。しかしマンモスに対して強い迷信的恐怖心を抱いている住民たちからは、敬遠される場合が多かった。また情報が得られても、完全に近い標本はなかなか得られなかった。そのうちでは、一七九九年にレナ河の三角州の岸で、アダムスが発掘した標本が一番完全に近いものとして、当時のペテルブルグの博物館を飾ったのである。一万年前のマンモスの肉を、ツングースがその犬に喰わせたという話は、この発掘の時のことである。『マンモスを求めて』の著者が、一九〇一年にベリョゾフカ河の岸で発掘した標本が、今までのうちで最も完全に近いものであった。一部の肉はよく保存され「それが凍っているかぎり馴鹿トナカイや馬の凍肉のように暗紅色をして新鮮な様子で」あったが「溶け始めると様子はすっかり変って、ブヨブヨになり、色も灰色に変り、鼻をく臭気を発散した」発掘の仕事に六週間、周囲のすべてのものに滲みこんだこの耐え難い臭気を、この著者は「マンモスの臭気だと思って」我慢したそうである。肉ばかりでなく「四分の三インチの厚さのある皮の下には、三インチ半位の脂肪の層があり」それらもよく保存されていた。
 北満の永久凍土地帯でも、マンモスの骨はまれには発掘されることがある。われわれの遠い祖先石器時代の住民たちと共に棲んでいたマンモスが、そのままの姿で現出してくるということは、考えるだけでも妙に心をかれる話である。しかし北満の永久凍土地帯では、その可能性は考えられない。同じく永久凍土層と言っても、シベリアの北部ではその厚さが非常に厚く、南に下るに従って薄くなっている。このレンズ型の凍土層は、その終辺近い北満奥地附近ではずっと薄く、温度もまた高くて、零下といってもほとんど零度に近い値を示している。一万年前の友人に遭う希望はまず棄てなければならない。

陸の大洋


 黒河への旅は、凍土地帯への一種の憧憬に近い感じを、私の頭に残したようである。翌年の九月には、ハイラル奥地の本当の永久凍土地帯へ夏の旅をすることになった。
 夏といっても、この地方では本当は秋であって、凍土層の表面から融解が十分進行した頃を見はからって、発掘調査をしようというのである。同行のS君は数年前から私の凍上とうじょうの研究の助手をつとめているので「凍土屋」の七つ道具をすっかり携えて持参してくれた。
 満鉄のS氏に案内されて、ハルビンから満州里行のいわゆる国際列車に乗り込むと、何となく気配がちがっている。ちょうど国境の情勢が緊張していた時だったので、そのせいもあるのであろう。
 牙克石やけしという名もない小駅で下車して、それから北の草原地帯へは乗り物はトラックだけである。最初の工事区で調査をすることに手配がついているのであるが、そこまででも、トラックを全速力で走らせて四時間近くかかるという話にまず驚かされる。もし調査中に雨が降ると、帰りはトラックが使えないから、満人の馬車にまる二日とか三日とか乗らなければならないとも言う。ここまで連れてきて初めてそんな話をするS氏も人がわるいのであるが、しかたなくトラックに乗り込むことにする。
 道路は意外に立派である。誰も人の通っていないその広い道路を、トラックは猛烈な速度で馳ける、二、三十分もすると、もう景色がすっかり変ってきた。見渡す限りの草原である。極めてなだらかな起伏が幾重にもつらなっていて、その丘も平原も全部が背丈せたけ一尺余りの雑草でつつまれているだけである。木はほとんど見当らない。
 九月というのに、雑草はもう一面に茶褐色に枯れ、わずかにその基調に残る黄緑の色が、夏の名残なごりをとどめているにすぎない。行けども行けどもただ一色の草原である。前を見ても、後を見ても、全く同じ草原の姿である。その間に部落が一つもないのだから、日本人の常識ではちょっとわからない。まあ陸の大洋とでも言うより仕方のない景色である。
 S氏の説明によると、この陸の大洋が実はこの奥地にいるロシア人や満人の牧場なのである。勿論天然の牧場であるが、牛を何千頭何万頭と持って、この草原に放牧しておくと、それが自然繁殖をしていくらでも殖えて行くのだそうである。なるほどその説明のように、やがて牛の大群に遭った。私は驚いていると、S氏は「これくらいの牛はせいぜい二、三千頭くらいのものですよ」と一言に片付けてしまった。
 不思議なのはこの道路である。まさか牛のために作ったものではなかろうが、人間のためとすると、誰のためかが疑問なくらいである。通る人がほとんどないようなこの土地に、これだけの道路を作るには、何か理由があるのであろうが、何よりも私にはこの十年間の満州の実力の充実が感ぜられた。
 二時間くらい走ると、さすがに道路も狭くなり、やがてトラックは道路を離れて、草原の中に入る。草原はこの附近へくると、砥のように平らになり、その中の踏分道ふみわけみちをトラックは前よりも凄まじい速力で走る。勿論トラックでの踏分道である。
 昼食後間もなく出発したのであるが、高緯度のこの土地では、もう夕暮が近づき、寒さがだんだん身に浸みてくる。この草原が実は永久凍土地帯なのであって、二メートルの地下には今でも凍土の層があるのであるから、寒いのも仕方がない。永久凍土層表面の融解部、即ち活動層は大抵は黒色腐植入粘土であって、水が多いと俗にへどろと恐れられている泥濘ぬかるみに化する。トラックは神経質にわずかばかりの水溜りをも、注意深く避けながら走る。トラックの運転手はなれるほど、猫の額ほどの水溜りをも合掌しながら渡るのだそうである。一旦へどろに車輪をとられたら助からないのである。凍れば鶴嘴つるはしも立たないくらい堅くなるのに、融けると馬でも溺れる泥濘に化するという話も、いかにも北国の自然の荒々しさを物語っている。
 夕闇が湖水の面のように平らな草原をこめる頃、目指す部落とその近くのロシア人部落との屋根が、遥かに白く光って見えた。これが見えれば安心なのだそうである。部落からなお一時間、目的地の工事場に着いた時は、あたりはもう真暗で、白木の工事場の建物が、ほの白く闇に浮いて見えていた。
 先着のS君は、もう二日間へどろと死闘を続けているそうである。深さ二メートルくらいの活動層を掘り起して、基底の凍土盤を露出させるという仕事が、ほとんど不可能に近い難事業であると聞いても、その意味がよく理解出来なかった。しかし翌日から実際に立ち会ってみると、その通りなのである。ちょっと穴を掘って底の氷を見るというようなわけにはなかなか行かない。
 活動層の上層は黒色腐植土で、これは問題はない。その層を剥ぐと、下に黄褐色の厚い粘土層が出てくるが、それが融解水で飽水されているのである。底にある凍土層のために水の排け口を止められているので、流出限界近い状態になっている。この状態の粘土は、そのままにしておけば形を保っているが、一度かき乱すと汁粉しるこの汁のようなへどろになってしまうのである。この汁粉の汁は一すくい毎にべっとりとスコップに粘り付くので、いちいち枯草か何かでこすりとる必要がある。それにちょっとでも休むと、水が浸み出てきて穴の底に溜る。そうなると周囲の壁が崩れてきて、折角掘った穴が真黒い汁粉で埋められてしまって、手のつけようがなくなる。
 六人の苦力クーリーが朝からかかって夕方になっても、まだ二メートルの凍土表面に達しない。この調子では夜中までかかるが、苦力たちは銭では夜業をしない。夜食を出せば働くというが、その配給分はない。S君は膝まで没するへどろの中につっ立ったまま、苦力を叱咤しったして四方の壁に土止め板をあてて、中のへどろを掻き出しては棄てさせる。へどろの水温は零度に近い。苦力小頭は唖然として穴の縁に立っているだけである。
 夕方五時頃になって、やっと凍土に達した。穴の中はもう彩目いろめのわからぬ暗さである。凍土の一片を掘り出しながら、S君は「やはり凍上ですね」と言って渡してくれる。なるほど低温実験室で作っている私たちの凍上の標本そっくりである。氷の薄い層が水平に近く何枚もはいっていて、縞模様になっているのがその特徴である。低温実験室内の凍土や北海道あたりの天然の凍土では、この氷層は透明な氷板になっているか、あるいは霜柱の構造を残している。少しちがうのは、この永久凍土層中の氷層は、氷粒と氷角柱との集合から成っていることである。それも樺太からふとのツンドラの下にある基盤粘土中の氷層状態によく似ているので、実験室内で、再現の見込は十分にある。氷層と氷層との間のコンクリート状に凍った粘土部分は意外にやわらかく、未凍結水を多量に含んでいるように見えた。それも凍上実験で知られている通りである。
 永久凍土層の成因には二説ある。冬ごとの凍結が累積して地底深くまで達し、万年雪のようになって残っているものだという説と、前世紀氷河時代の凍土が、地殻の変動で埋没して残ったもの、即ち一種の「氷の化石」であるという説とである。いずれにしても、人類の生れない前世紀でも、土壌凍結の機構は、今日われわれが低温実験室の中で行っている通りに進行していたのである。私たちは少くもマンモスの棲んでいた時代から今日まで、そのままの形で残っている氷の標本を、いくつか顕微鏡写真に撮り、それを大切に標本缶の中に納めた。
 S君の仕事はこれで終ったわけではない。標本の採集が済むと、凍土層内の地中温度の精密測定という、今度の調査における眼目の仕事にとりかかった。凍土内の温度は熱電対サーモジャンクション検流計ガルバノメーターとで電気的に測るのである。熱電対には銅とコンスタンタンとの細い針金を用い、それをよく絶縁してピアノ線に沿わせてとりつけた。凍土の中に鉄棒を打ち込んで、それを引き抜いたあなの中に、この熱電対をとりつけたピアノ線を押し込むのである。凍土は土圧のために少し変形するので、孔はすぐ詰ってしまう。梃子てこを用いてやっと引き抜いた鉄棒の孔に、ピアノ線を差し込むのはよいが、二十分間位放置して測定を終り、さてそれを抜こうとすると、どうしてもとれなくなってしまう。浅いうちはそれでもどうにか抜けるが、三メートル以上になると熱電対を切ってしまう覚悟が要る。
 この方法で精密な検流計を使うと、零度附近で百分の一度の精度が得られる。勿論野外実験でそれだけの精度を出すには、十分な注意を要する。蒸溜水をチチハルからこの奥地まで運んで、それを凍らせて氷を作り、その氷で零点を決めるという程度の手数がかかるのは致し方ない。
 検流計のためにはテントを張って貰った。その中に太い柱を埋め込み、その上に検流計を安置して、黒い布で周囲を蔽う。地温測定にかかる頃はもうすっかり暗くなって、望遠鏡の尺度を照らす豆電球が一つ、かすかに抵抗箱とスウィッチとを光らせている程度である。今日の測定は、深さ三・二四メートルにおいて、地温マイナス〇・三三度。朝から晩の七時までかかって、一点の測定が出来たわけである。
 やっと安心の出来る測定値を一つ得て、ほっとした気持でテントを出ると、闇の草原には工事場のほのかなランプの光以外、灯火というものは一つもない。気温は零度近くに下り、風がこの荒漠たる草原を吹き抜けていた。
 五日がかりで十点ばかりの完全な測定が出来、永久凍土層内の温度分布の曲線が一本得られた。その結果は、この地帯の川に鉄橋をかけるための基礎実験として、S君が半年がかりで低温実験室の中でやっていた実験を、今一度やり直す必要があるという結論に達した。「やはり現場で一度ちゃんとした測定をしておかねば駄目ですね」とS君は安堵したような困ったような感慨を洩した。

草原の王者


 田泥河てにへ工事区での調査も一応終った頃、さらに奥地の阿津山あつさんから無電がはいってきた。いかにも陸の大洋らしい。水源と氷丘との調査をしているからすぐこいというのである。大分誘惑を感じたが、予定に縛られているので、S君に代りに行って貰うことにした。
 九月の末というのに、すっかり毛皮の外套を着込んで、S君は満人の小さい馬車に乗って元気で出かけて行った。八時間くらいかかるのだそうである。まだ狼の出るには少し早いが、念のためにと言って、鉄砲をかかえて、少々得意の様子であった。この附近の狼は非常に獰猛どうもうで、冬になるとよく被害があるそうである。あとでチチハルで聞いた話では、そこの部隊で、トラックに乗っていた兵隊さんが二人、目的地へ着くまでに消えてなくなったことがあるそうである。疾走中のトラックを自由に跳び越すというのだから大変な代物である。
 草原のかなたに小さく消えて行くS君の馬車を見送ってから、この調査に同行した満鉄のS氏の案内で、私たちは近所の湖まで散歩に出かけた。この工事区の附近はなだらかな丘陵地帯になっているので、遠くにゆるやかな丘がつづき、少し低目の草原の中に小さい湖がある。しばらく行くと小川に出る。水は驚くほど清冽でつめたい。ちょっと測ってみると四度である。四度といえば、北海道の真冬の地下水の温度がちょうどそれである。その冷い透明な水の中には長い藻が一面に生えていて、それが流れに従ってゆるやかに揺れている。小川自身もこの砥のように平らな草原の中では、その行場に困ると見えて、極端な蛇行メアンダリングをしている。そしてその周囲はずっと広い範囲にわたって湿地になっている。この湿地に迷い込んだらどうにも動きがとれないということである。
 間もなく目の前に湖が現われた。湖の水は黒みがかった濃い藍色である。周囲の丘も原も一面の茶褐色の世界に、この濃藍の水が静かに横たわっている景色にも人外の趣きがある。このような湖には生物などは何もいないように見えるが、案外魚が沢山棲んでいるそうである。ふななどは大きいのが沢山いて、冬になるとわけなく捕れるということであった。湖が岸から凍り始め、最後には一番深い処だけが凍り残されるので、鮒共はその深い処に集ってくる。氷上水の現象がこの場合にも見られるので、水の凍結による膨脹のために、この凍り残った水には強い圧力がかかっている。そういう時に氷上から孔をあけて行って、巧くその水にぶつかると、圧のかかった水は非常な勢いで噴出してくる。鮒も勿論一緒に吹き上げられる。一旦外に出ると、気温は零下三、四十度に下っているので、瞬間的に凍ってしまう。そのようにして出来た冷凍鮒をき集めて、縄で縛ってさげてくればよいという話なのである。真偽は保証の限りではないが、物理学的には可能な話である。
 湖水の岸を掘ると、砂と砂利とが出てくる。腐植土ばかりの世界では、工事用の砂と砂利とは非常に貴重な材料である。岸に沿って少し歩いて、その採取場へ出る。初めの位置からはよく見えなかったが、そこへ行ってみると、沢山の苦力が砂利を掘っている。方法は極めて原始的であるが、思いがけぬ所で沢山の人間が労働している姿を見て、急に開化の世界へ出たような気がした。
 思わず少し長歩きをしているうちに、風が冷くなってきた。天候も少し変り気味で、層雲が幾重にも段々になって、鉛のように重い色をしている。樺太の晩秋にもよく見る雲の気配である。その雲の切間から陽がれて遠くの山を赤く照している。S氏はこの草原の世界にも沢山の花が咲き、六月から八月にかけて、花の盛りの趨移につれて、山がつぎつぎと色を変えて行く様子を説明してくれた。ちょっと調べただけでも、百種以上の美しい花があったそうである。
 工事区の建物は非常によく出来ていた。周囲はすべて厚板の二重張りで、その間隔が二十センチあり、そこに土を詰めてあった。天井の上にも土を載せ、断熱は申分なく注意されていた。そして中でロシア式のペチカをいているので、夜でも浴衣ゆかたがけ程度の暖かさになっている。このように建物の内部全体を暖かくしておくと、その建坪内の地域だけは凍上が起らない。ところが外気は零下数十度になっているので、建物以外の土地は凍上で隆起する。そうすると建物の外周りの所で地面に段がついて、結局基礎に無理がかかることになる。その点を考慮して、外周りを幅二尺高さ三尺くらいの土手で包むように作ってあった。これだけの注意を払えば、永久凍土層の上でも、十分文化的な生活も出来るだろうと感心した。
 ここの工事区では、あらゆる歓待を受けた。調査も予定通り進み、馬乳酒の少し酸っぱいような不思議な味も初めて経験し、無事に帰りのトラックに乗った。
 帰途にはロシア人部落へ寄ってみた。ここの部落は三河ほど有名ではないが、それでもロシア人たちは、厳しい自然の猛威からよく身をまもって、つつましいながらに楽しく生活をしていた。部落長アタマンの家はかなり立派なもので、例によって居室の中にゴムの木の鉢を茂らせていた。その外にも紅紫色とりどりの花鉢が沢山飾ってあった。この居室でパンと酪製品との御馳走をされながら聞いた話のうちで、一番面白かったのは、男の子の沢山ある人がアタマンになるという話であった。
 われわれが陸の大洋と感嘆したあの草原は、何か規約があるのかもしれないが、結局人手のある者が利用するのである。部落の近くでは、枯草を刈って積みあげた山が沢山見られた。これは冬の間の牛と緬羊との飼料である。夏の間は放牧しておけば勝手に繁殖し生育するのである。土地が無制限に近く、労働が金銭では買えない場合には、結局労働力を沢山持った者が草原の王者になるのは不思議ではない。
 現在の経済組織が出来上らない前の社会状態というものを、本では読んだことがあるが、こういう土地へきてみると、初めてその本当の意味が理解されるような気がした。それを未開の状態と言ってしまえばそれまでのことであるが、この未開の自給自足の生活が持つ強味は、今度の大戦争で初めて身に沁みて味わわされたわけである。
 草原の王者になる気はなくても、一度この草原地帯を訪れた人は、誰でも強い魅力を感ずるそうである。私も勿論その仲間の一人である。シンガポールやセイロンの華やかな熱帯の色彩も美しいには美しいが、ツンドラの秋やこの草原のような魅力は感ぜられない。その原因は低温科学を専攻しているからとも言えないようである。強いて求めれば、高緯度地帯の景色が持つ独特の清潔さというものが、魅力の原因であるのかもしれない。
 その話をS氏にしたら、S氏は笑いながら次のような話をしてくれた。
 いつかこの土地を通る国際列車の中で誰かが窓外の草原を眺めながら「いい景色ですね、こんな所で牧場でも持って、人間から離れて暮したらいいだろうね」と言った。そしたらすぐ前に坐っていた男が、やにわに手を振って「駄目です、駄目です、実は僕はやってみたんです」と言って、大笑いになったことがあったそうである。





底本:「中谷宇吉郎紀行集 アラスカの氷河」岩波文庫、岩波書店
   2002(平成14)年12月13日第1刷発行
   2011(平成23)年12月16日第3刷発行
底本の親本:「中谷宇吉郎集 第四巻」岩波書店
   2001(平成13)年1月9日第1刷発行
初出:黒河への旅「文藝春秋 第二十三巻第二号」
   1945(昭和20)年2月1日発行
   陸の大洋「文藝春秋 第二十三巻第二号」
   1945(昭和20)年2月1日発行
   草原の王者「財界 第十巻第四号」
   1945(昭和20)年10月1日発行
入力:門田裕志
校正:najuful
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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