外は零下三十度近い寒さである。
車窓に見える限りの雪原は、いつまで行っても平坦で、何の起伏もない。家もなければ立木もなく、薄鼠のただ一色に見える雪の原は、ところどころ
この地帯はその当時特殊区域に指定されていたので、一般の乗客には展望が許されていなかった。しかし凍土地帯における鉄道施設を調べるのが目的だった私たちには、北満の奥地、この無人の世界における自然の姿を、心ゆくばかり眺めることが出来た。同行のK教授と二人、案内役は当時ハルビン鉄道局の副局長をしていたTである。Tは高等学校時代からの友人で、心おきない間柄である。ロシアから譲り受けた豪華な食堂車の中で、Tの御威光振りに少々圧倒されながらも、私たちは凍土地帯における思いがけない色々な珍しい現象の話をきいて暖かい旅をした。
北海道あたりでも、冬になると土地が凍って、凍上の被害が到る処に見られる。凍土の深さは一メートル程度に過ぎないが、それでも、この凍上には鉄道は随分悩ませられる。ところが北満のこの土地へくると、凍結深度が四メートルにも達するところがある。そういう所では、春から秋にかけて、弱い陽の光がやっと凍土層を下まで融かしたと思う頃には、もう冬がきて、土地は表面から凍り始める。人間も草木も、土の融けるわずかの期間を盗むようにして、その営みをするのである。
しかしわずかばかりの期間でも、すっかり土の融け切るこの土地は、まだ太陽の恩寵を
こういう永久凍土地帯では、それこそ農民も原始林の木たちも、生涯氷の上に住んでいるのである。地の底まで凍り切った土地の上にいて、わずかに薄く融ける表土層の土から、シベリアの大原始林が生い立つことも驚異であるが、この土地に小麦を栽培することに成功した、ソヴィエトの科学の力もまた一つの驚異と言えよう。
シベリアの氷の平原を開発することを一つの使命としたソヴィエトの科学者たちは、
その研究は永久凍土地帯の分布の調査から始められた。そして非常にはっきりした話であるが、その分布区域は、一年中の気温の平均が零度以下である区域と、ほぼ一致するということが分った。気温の年平均が零度である線は、ちょうど北満の奥地を通っているので、旧の東支鉄道の北辺には、この永久凍土地帯が存在するのである。
満鉄ではその点に早くから着目して、数年前ハイラルのずっと北方、大黒河に近い所に研究所を作って、永久凍土層の研究に着手したそうである。いい
凍土地帯に市街地を建設するにしても、鉄道を敷くにしても、第一に問題になるのは水である。こういう凍土の底から水が得られるのは不思議であるが、実際には真冬でもこんこんと清水の湧く泉があるそうである。しかも意外なことには、夏の間は泉も何もない処に、冬になると水が湧いてくるのである。零下三十度ないし四十度という気温の所に湧き出る水は、外へ出た途端に凍ることは勿論である。それで泉の上には氷の山が出来て、それがだんだん拡がってくると、鉄道線路がその氷の山に
黒河に大分近くなった頃、運よくちょうどそういう現場が、線路のすぐ側にあった。「ここは毎年そいつに
汽車はいつの間にか丘陵地帯にはいったと見えて、車窓の近くに低いなだらかな丘がつづいていた。そして妙な枝振りの木立が丘の上に並んでいた。その丘の
『西遊記』にでも出てきそうなこの景色も、低温科学では「氷上水」という言葉であっさり片づけている。地底に水を
無人の境に
凍結によるトンネルの崩壊は、北海道ですら珍しいことではなく、北満地方では
地下水が凍ってトンネルの壁を押し出してくるのと同じ現象が、平地に起きることもあってよいはずである。破るべき凍土層の適当な弱点がない場合、あるいは十分な水の補給がない場合には、地下水は地底の一部に溜ったままで凍ってしまう。その場合には、凍結による膨脹のために、地表が盛り上って小さい丘が現出する。低温科学者が簡単に氷丘と称しているこの丘も、シベリアの原住民たちには、神秘の的であったらしい。夏の間には何もなかった処に、急に丘が出来たり、しばらくすると、また別の場所がふくれ上ったりする現象を不思議がる方が当然なのである。
ヤクートやツングースは、厳寒の時期になると、大きい動物が地中を動き廻ると信じているそうである。それがこの永久凍土地帯から時折発掘されるマンモスと結びついたのであって、マンモスのロシア語源は「土の動物」という意味であるということである。ブフィツェンマイエルのマンモス発掘記の抄訳『マンモスを求めて』には、古代の支那人がマンモスを
北満の永久凍土地帯でも、マンモスの骨はまれには発掘されることがある。われわれの遠い祖先石器時代の住民たちと共に棲んでいたマンモスが、そのままの姿で現出してくるということは、考えるだけでも妙に心を
黒河への旅は、凍土地帯への一種の憧憬に近い感じを、私の頭に残したようである。翌年の九月には、ハイラル奥地の本当の永久凍土地帯へ夏の旅をすることになった。
夏といっても、この地方では本当は秋であって、凍土層の表面から融解が十分進行した頃を見はからって、発掘調査をしようというのである。同行のS君は数年前から私の
満鉄のS氏に案内されて、ハルビンから満州里行のいわゆる国際列車に乗り込むと、何となく気配がちがっている。ちょうど国境の情勢が緊張していた時だったので、そのせいもあるのであろう。
道路は意外に立派である。誰も人の通っていないその広い道路を、トラックは猛烈な速度で馳ける、二、三十分もすると、もう景色がすっかり変ってきた。見渡す限りの草原である。極めてなだらかな起伏が幾重にもつらなっていて、その丘も平原も全部が
九月というのに、雑草はもう一面に茶褐色に枯れ、わずかにその基調に残る黄緑の色が、夏の
S氏の説明によると、この陸の大洋が実はこの奥地にいるロシア人や満人の牧場なのである。勿論天然の牧場であるが、牛を何千頭何万頭と持って、この草原に放牧しておくと、それが自然繁殖をしていくらでも殖えて行くのだそうである。なるほどその説明のように、やがて牛の大群に遭った。私は驚いていると、S氏は「これくらいの牛はせいぜい二、三千頭くらいのものですよ」と一言に片付けてしまった。
不思議なのはこの道路である。まさか牛のために作ったものではなかろうが、人間のためとすると、誰のためかが疑問なくらいである。通る人がほとんどないようなこの土地に、これだけの道路を作るには、何か理由があるのであろうが、何よりも私にはこの十年間の満州の実力の充実が感ぜられた。
二時間くらい走ると、さすがに道路も狭くなり、やがてトラックは道路を離れて、草原の中に入る。草原はこの附近へくると、砥のように平らになり、その中の
昼食後間もなく出発したのであるが、高緯度のこの土地では、もう夕暮が近づき、寒さがだんだん身に浸みてくる。この草原が実は永久凍土地帯なのであって、二メートルの地下には今でも凍土の層があるのであるから、寒いのも仕方がない。永久凍土層表面の融解部、即ち活動層は大抵は黒色腐植入粘土であって、水が多いと俗にへどろと恐れられている
夕闇が湖水の面のように平らな草原をこめる頃、目指す部落とその近くのロシア人部落との屋根が、遥かに白く光って見えた。これが見えれば安心なのだそうである。部落からなお一時間、目的地の工事場に着いた時は、あたりはもう真暗で、白木の工事場の建物が、ほの白く闇に浮いて見えていた。
先着のS君は、もう二日間へどろと死闘を続けているそうである。深さ二メートルくらいの活動層を掘り起して、基底の凍土盤を露出させるという仕事が、ほとんど不可能に近い難事業であると聞いても、その意味がよく理解出来なかった。しかし翌日から実際に立ち会ってみると、その通りなのである。ちょっと穴を掘って底の氷を見るというようなわけにはなかなか行かない。
活動層の上層は黒色腐植土で、これは問題はない。その層を剥ぐと、下に黄褐色の厚い粘土層が出てくるが、それが融解水で飽水されているのである。底にある凍土層のために水の排け口を止められているので、流出限界近い状態になっている。この状態の粘土は、そのままにしておけば形を保っているが、一度かき乱すと
六人の
夕方五時頃になって、やっと凍土に達した。穴の中はもう
永久凍土層の成因には二説ある。冬ごとの凍結が累積して地底深くまで達し、万年雪のようになって残っているものだという説と、前世紀氷河時代の凍土が、地殻の変動で埋没して残ったもの、即ち一種の「氷の化石」であるという説とである。いずれにしても、人類の生れない前世紀でも、土壌凍結の機構は、今日われわれが低温実験室の中で行っている通りに進行していたのである。私たちは少くもマンモスの棲んでいた時代から今日まで、そのままの形で残っている氷の標本を、いくつか顕微鏡写真に撮り、それを大切に標本缶の中に納めた。
S君の仕事はこれで終ったわけではない。標本の採集が済むと、凍土層内の地中温度の精密測定という、今度の調査における眼目の仕事にとりかかった。凍土内の温度は
この方法で精密な検流計を使うと、零度附近で百分の一度の精度が得られる。勿論野外実験でそれだけの精度を出すには、十分な注意を要する。蒸溜水をチチハルからこの奥地まで運んで、それを凍らせて氷を作り、その氷で零点を決めるという程度の手数がかかるのは致し方ない。
検流計のためにはテントを張って貰った。その中に太い柱を埋め込み、その上に検流計を安置して、黒い布で周囲を蔽う。地温測定にかかる頃はもうすっかり暗くなって、望遠鏡の尺度を照らす豆電球が一つ、かすかに抵抗箱とスウィッチとを光らせている程度である。今日の測定は、深さ三・二四メートルにおいて、地温マイナス〇・三三度。朝から晩の七時までかかって、一点の測定が出来たわけである。
やっと安心の出来る測定値を一つ得て、ほっとした気持でテントを出ると、闇の草原には工事場のほのかなランプの光以外、灯火というものは一つもない。気温は零度近くに下り、風がこの荒漠たる草原を吹き抜けていた。
五日がかりで十点ばかりの完全な測定が出来、永久凍土層内の温度分布の曲線が一本得られた。その結果は、この地帯の川に鉄橋をかけるための基礎実験として、S君が半年がかりで低温実験室の中でやっていた実験を、今一度やり直す必要があるという結論に達した。「やはり現場で一度ちゃんとした測定をしておかねば駄目ですね」とS君は安堵したような困ったような感慨を洩した。
九月の末というのに、すっかり毛皮の外套を着込んで、S君は満人の小さい馬車に乗って元気で出かけて行った。八時間くらいかかるのだそうである。まだ狼の出るには少し早いが、念のためにと言って、鉄砲をかかえて、少々得意の様子であった。この附近の狼は非常に
草原のかなたに小さく消えて行くS君の馬車を見送ってから、この調査に同行した満鉄のS氏の案内で、私たちは近所の湖まで散歩に出かけた。この工事区の附近はなだらかな丘陵地帯になっているので、遠くにゆるやかな丘がつづき、少し低目の草原の中に小さい湖がある。しばらく行くと小川に出る。水は驚くほど清冽で
間もなく目の前に湖が現われた。湖の水は黒みがかった濃い藍色である。周囲の丘も原も一面の茶褐色の世界に、この濃藍の水が静かに横たわっている景色にも人外の趣きがある。このような湖には生物などは何もいないように見えるが、案外魚が沢山棲んでいるそうである。
湖水の岸を掘ると、砂と砂利とが出てくる。腐植土ばかりの世界では、工事用の砂と砂利とは非常に貴重な材料である。岸に沿って少し歩いて、その採取場へ出る。初めの位置からはよく見えなかったが、そこへ行ってみると、沢山の苦力が砂利を掘っている。方法は極めて原始的であるが、思いがけぬ所で沢山の人間が労働している姿を見て、急に開化の世界へ出たような気がした。
思わず少し長歩きをしているうちに、風が冷くなってきた。天候も少し変り気味で、層雲が幾重にも段々になって、鉛のように重い色をしている。樺太の晩秋にもよく見る雲の気配である。その雲の切間から陽が
工事区の建物は非常によく出来ていた。周囲はすべて厚板の二重張りで、その間隔が二十センチあり、そこに土を詰めてあった。天井の上にも土を載せ、断熱は申分なく注意されていた。そして中でロシア式のペチカを
ここの工事区では、あらゆる歓待を受けた。調査も予定通り進み、馬乳酒の少し酸っぱいような不思議な味も初めて経験し、無事に帰りのトラックに乗った。
帰途にはロシア人部落へ寄ってみた。ここの部落は三河ほど有名ではないが、それでもロシア人たちは、厳しい自然の猛威からよく身を
われわれが陸の大洋と感嘆したあの草原は、何か規約があるのかもしれないが、結局人手のある者が利用するのである。部落の近くでは、枯草を刈って積みあげた山が沢山見られた。これは冬の間の牛と緬羊との飼料である。夏の間は放牧しておけば勝手に繁殖し生育するのである。土地が無制限に近く、労働が金銭では買えない場合には、結局労働力を沢山持った者が草原の王者になるのは不思議ではない。
現在の経済組織が出来上らない前の社会状態というものを、本では読んだことがあるが、こういう土地へきてみると、初めてその本当の意味が理解されるような気がした。それを未開の状態と言ってしまえばそれまでのことであるが、この未開の自給自足の生活が持つ強味は、今度の大戦争で初めて身に沁みて味わわされたわけである。
草原の王者になる気はなくても、一度この草原地帯を訪れた人は、誰でも強い魅力を感ずるそうである。私も勿論その仲間の一人である。シンガポールやセイロンの華やかな熱帯の色彩も美しいには美しいが、ツンドラの秋やこの草原のような魅力は感ぜられない。その原因は低温科学を専攻しているからとも言えないようである。強いて求めれば、高緯度地帯の景色が持つ独特の清潔さというものが、魅力の原因であるのかもしれない。
その話をS氏にしたら、S氏は笑いながら次のような話をしてくれた。
いつかこの土地を通る国際列車の中で誰かが窓外の草原を眺めながら「いい景色ですね、こんな所で牧場でも持って、人間から離れて暮したらいいだろうね」と言った。そしたらすぐ前に坐っていた男が、やにわに手を振って「駄目です、駄目です、実は僕はやってみたんです」と言って、大笑いになったことがあったそうである。