満洲通信

中谷宇吉郎




奉天の印象


 八月の下旬思い立って、満洲へ出かけて見た。ちょっと急いでいたので、往きは航空会社の旅客機で、東京から奉天ほうてん〔瀋陽〕まで飛んだ。
 今度の満洲行は、私たちがこの十年近く手を染めている低温科学の色々な問題に関連して、厳寒の満洲の野に働く人たちから、実地の問題について教えを乞い、今後の連絡にも資しようというつもりであった。それでその方面の研究に前から着手している満鉄の方と連絡をとる都合上、主に奉天に滞在することになった。
 奉天には、前に満洲事変の直後に一度来たことがあるばかりである。その後の満洲国の発展は色々話にも聞き、本でも読んで、大体想像はしていたのであるが、飛行場から奉天の街に入った瞬間、その街の姿にすっかり日本の色が浸み込んでいるのを見てちょっと驚いたのであった。そして今更のように大陸経営に注ぎ込むべき日本の力を思い測って見る気持になった。
 ちょうど高等学校時代からの友人Tが満鉄にいて、奉天に住んでいたので、その家に暫く身を寄せさせて貰うことにした。そしてわずかばかりの日数ではあったが、本当に自分で奉天に住んでいる気持になって、満洲における日本人の生活と街の雰囲気とを、旅人の気持でなく味わってみようと努めて見た。それにはTの家族の人たちとも前から親しくしていたので大変都合がよかった。
 私たちが今札幌で計画している低温科学の研究というのは、かなり範囲が広いので、その中には、寒地に適した日本人の衣食住の問題というようなものもあるのである。そういう問題も、慾をいえば、単に表向きだけの「科学」にしないで、本当の家庭の生活とか、街の雰囲気とかいうものまでを考慮に入れた研究にしたいのである。それで私は暇があれば、満鉄の立派な社宅の畳の上に安閑と寝そべって見たり、ぶらぶら街に買物に出たりして、およそ研究旅行とは縁の遠い生活も味わおうと試みた。
 Tの家での経験や、その周囲の極めて限られた範囲内での見聞では、大陸における日本人の今日の生活には、現在の満鉄程度の配慮さえあれば、かなりの落着きが与えられ得ることを知った。しかし一歩街へ出ると、その印象は、私にはそれほど楽観的なものには映らなかった。
 大きい日本人の店は沢山あった。そして皆相当に繁昌しているようには見えたが、それは共喰い的な繁昌であることは致し方ないとして、それ以上に何となく消耗的な影が、店のどこかに見えるような気がして仕方がなかった。
 例えば城内の支那人街の店へはいって見ると、間口まぐちが狭くて薄汚く見えるにもかかわらず、奥行おくゆきはずっと深く、そして商品が店一杯に詰っている感じであった。こういう店と、新市街の表通りにある日本人の大商店とを比較して、その経常費の差を調べて見たらというようなことも考えられた。
 街路にはこの頃急に普及した自転車洋車ヤンチョウが氾濫して、それが自動車に代って立派に交通機関の役目を果していた。奉天のように、土地が平らでアスファルト鋪道の街では、この洋車は乗心地もよく、バスに匹敵するくらいの速さで楽に走っていた。その苦力クーリーは一日六円の収入になるそうであるが、乗っている街の日本人の顔色を見ると、その大半は一日六円の収入はないのではなかろうかとつまらぬことが気になった。
 官吏かんりとか大会社の社員とかいう、日本の国力を背景に持った人たちのことは心配する必要もないが、対等の条件で、人間と人間とが生活の上で競争する日のことも、永い将来を思うと十分よく考えておくべきであろう。

住居の問題


 奉天の満鉄の社宅は、壁が煉瓦れんがで、中は畳敷たたみじきの日本間になっている。そして上等な社宅では、煖房としてスチームが採用され、一戸建ちで広い庭もあるような家を数軒まとめて、一つのボイラーから蒸気が送られるようになっている。
 対寒建築で畳の生活を採用することの可否については随分論議がある。そして進歩的な人たちや、革新的な指導者たちの多くは、旧生活の名残りである畳を廃して、新しい生活の様式を採り上げることを唱道しておられるらしい。しかし私は家庭生活における日本人と畳との縁を、そう簡単に切り離してしまうことが、果して可能であるかどうかについては、随分疑問を持っていた。そして今度の満洲行で、奉天や新京〔長春〕のみならず、チチハルやハイラルまでも、満鉄の社宅には畳を入れているという話をきいたり、ハルピンの日本宿に泊って見たりして、ますますその疑問を深めたのであった。
 ハルピンでは、ホテルという名ばかりの日本宿に一晩泊った。もとは露西亜ロシア人の事務所かまたは安宿かと思われる家を、極めて粗末に改造して、畳と障子とを入れたような宿であった。壁は煉瓦で出来ていたが、もともとあまり上等な家ではなく、不器用に煉瓦をそっと積み上げて、その上に漆喰しっくいを塗ったような建物であった。そういう建物の中で、部屋の中に上りかまちのようなものを作って床板を張り、古い畳が敷き並べてあった。そして敷居しきい鴨居かもいとを無理に取り附けて、障子を入れ、所々はがれている漆喰の壁には、妙な形の柱を添えて軸物が掛けてあるという風であった。そして驚いたことには、障子の上の壁を一部こわして、欄間らんままでとりつけてあった。
 この欄間を見ながら考えて見ると、いわゆる大陸経営について、何か大切な問題が一つ取り残されているのではなかろうかという気がしたのである。
 ハルピンの日本宿の経験では、現在の満洲における日本式生活はこのままでは将来どうにもならないと思われた。その生活様式の中で一番の灸所きゅうしょは畳である。満洲くらいの厳寒地で畳の生活をするのは、何といっても無理があるようである。しかしその論拠から、現在の満洲における日本人に、畳の生活を全廃させた方が良いという決論はそう簡単には生れない。
 というのは、これほど分り切った無理を押して、なお畳の生活に執着しているというのが、それが現実の姿であるからである。結論をいえば、日本式住宅の主な形式は変えなくても、防寒対策はかなりの程度には出来るのであるから、あまり大声叱呼しっこをしないで、じっくりと当面の改善策を科学的に、住む人の身になって考究するのが差し当りなすべきことである。

低温科学の問題


 満洲に働く人々の家庭生活において、住居と同じように、あるいはそれ以上に切実な問題は、冬期の生鮮蔬菜そさいの貯蔵の問題である。
 島木氏の『満洲紀行』にも、集団開拓民の人たちが、蔬菜の貯蔵に如何に苦しむかということが書いてあるが、こういう問題を末節的なことと考えるのは大変な間違いであって、その人たちの身になって見れば、協和会がどうなったというようなことよりも、もっと大事な問題かもしれないのである。
 Tの家できいた話では、奉天でも、冬になると大根が一本一円以上もするので、大抵の人は大根を何寸くらいといって切って買って来るのだそうである。菠薐草ほうれんそうなどといえば、全く薬用という意味しかないらしい。奉天のように沢山日本人のいる所で、しかも日露戦争後今日までの年月の間、要路の人が、せめて日本人が喰うだけの生鮮蔬菜の貯蔵法の科学的研究ぐらいを、どうしてさせなかったのかと全く不思議な気がした。
 もっともハルピンで、この方面の専門家に会って聞いた話では、北満ではいよいよこの問題の解決に差し迫られて、昨年から試験に着手したそうである。ずいぶん暢気のんきな話だが、それでも大変結構なことで、その成功を祈る気持で詳しい話をきいた。こういう問題については勿論もちろん失敗する場合もあろうが、失敗の時の資料をも綿密にとっておくことが、科学的の研究なのである。
 衣食住の問題の科学的研究は、半分くらいはいわゆる常識で解決されそうに見えるが、本当のところは、それだけにかえって困難なのである。それよりも、一見はなはだ困難でしかも重要に見えるところの自然現象に直接関係した問題の方が、まだしも解決しやすいのではなかろうかと私は思っている。
 この方面で、今の場合話を低温科学に関連した部門に限っても、満洲にはずいぶん沢山の問題があることを直接当事者の人たちから聞いて大変面白かった。
 その中で一番主な話題になったのは、凍上とうじょうの現象である。凍上というのは、厳寒地で土壌が凍結によって持ち上る現象のことであって、満洲ではそのために煉瓦造りの家が毀れたり、鉄道線路が持ち上げられたりして、非常に困っているのである。
 この凍上の話は次節に譲るとして、ずっと北部へ行くと、この凍土が地下で一年中解けないような所がある。そういう凍結層を永久凍土層というのであるが、今度北部で或る炭坑を掘った時に、この永久凍土層にぶつかって、急に問題化したのだそうである。
 シベリアには永久凍土層が広範囲にあるので、その性質はソヴィエトの科学者によって大分よく調べられている。満洲の永久凍土層もかなりの範囲にわたっているらしいので、その上に土木工事をする日が来る前に、十分によくその性質を調べておく必要がある。
 その他にも例えば北満地方で河川や湖水が凍結した場合、その氷の上での運輸が問題になる。これも二、三の真面目な技術者の手によってすでに研究が開始されているそうであるが、河に張る氷はひびが沢山入るので、強度なども教科書にある氷の強度とは全く別物であろう。本当の自然の現象は非常に複雑であるが、それだけにその性質を一つ一つきめて行く時の喜びも大きいのである。
 北満の冬、寒風にさらされながら、困難な研究に従事している人々の労苦は十分に察せられるが、凍る身体にむち打ちつつ、人にも知られずむくいられることもすくないこういう仕事に黙々と従事するのもまた男子の本懐であろう。

若き技術者の群


 今度の満洲行の主な目的は、凍上研究の資料を集めるにあった。実は今年の冬、札幌鉄道局から北海道における凍上現象の研究を頼まれて、その物理的性質を調べて見たのである。そして北海道の土質と気候とで生じ得る各種の凍上型式について一応はその本性を確めることが出来た。それで満洲の土についても同様の研究をして見たいという気持で、土の採集がてら、満鉄におけるこの方面の研究者との連絡に出かけたのであった。
 満鉄では、この凍上の被害が相当著しいし、それに何といっても世帯が大きいだけに、その対策に要する経費も莫大の額に上っているようである。特に北満地方の急いで建設した線路では、凍上も多いし、またこの方は単に経費だけで済まされぬ問題もある。
 それで満鉄では以前から委員会を作って、凍上の研究に着手していたのである。特に昨年からは本腰に力を入れて、この問題を解決しなければ今後の線路の飛躍的改修が出来ないという話になったのだそうである。
 ちょうど、Tの仕事はこの方面に直接関係のある地位でもあり、それにもともと研究と名のつくものなら何でも好きという性質なもので、大いに景気をつけて、研究熱をあおっていたらしい。それで私にも今までやった凍上の研究の結果を皆に話をしろということになった。
 私も皆が大変熱心らしいので、喜んでその求めに応ずることにした。もっともいくら熱心といっても、せいぜい四、五十人くらいの人と思って、軽く引き受けたのであるが、いよいよとなると、二百人近い聴衆があったので、すっかり面喰めんくらってしまった。その上聞いて見ると、その大多数は立派な工学専攻の技術者で、それぞれ現場で、保線や建設などの責任の地位で働いている人たちだということであった。中には錦県きんけんやチチハル、牡丹江ぼたんこうなどからわざわざ出て来た人もあった。距離からいえば、東京で話をするのに下関しものせきや青森から集って来て貰ったようなわけである。いくら大陸では心理的の距離が短いといっても、この歓待振りにはすっかり恐縮してしまった。
 私も心をひかれて、三時間ばかり一所懸命に今までに調べたことを話した。そして私はこういう熱心な聴衆というものを初めて経験した。
 翌日も凍上調査の専門技術者だけに、もっと詳しい技術上の説明ないし打合せをしろというTの命令で、それも喜んで引受けることにした。これも三時間近くかかってすっかり疲れたが、こういうことで疲れるのはちっとも辞せないとこっちも度胸をきめた。
 ところがそれから後が大変であった。ほとんど毎晩のように、氷や低温に関する色々な研究をしている御連中が、入りかわり立ちかわって、うず高く積み上げたデータを持ってはやって来た。そして毎晩十二時過ぎまで色々な相談にあずかった。それ等の研究は、どれも真剣味のあるもので、また研究だけを見ても相当の業績と思われるものであった。
 工学方面の実際問題も、結局基礎的研究から始めた方が、永い目で見ると早道であるという信念は、私たちが前から持っていた通りである。そして今その種の研究の芽生めばえが、大陸で現実に育ちつつある姿を見て、非常に心強い気がした。十年前までの満鉄社員の中には、斗酒としゅなお辞せず口を開けば大陸政策を論ずる人が多かったそうである。しかし私は今度の満洲旅行で、そういう志士のかわりに「若き技術者の群」を見たことを何よりの土産として、満洲を辞した。





底本:「中谷宇吉郎紀行集 アラスカの氷河」岩波文庫、岩波書店
   2002(平成14)年12月13日第1刷発行
   2011(平成23)年12月16日第3刷発行
底本の親本:「中谷宇吉郎集 第三巻」岩波書店
   2000(平成12)年12月5日第1刷発行
初出:「東京朝日新聞」
   1940(昭和15)年10月13日〜16日
※初出時の表題は「大陸通信」です。
入力:門田裕志
校正:najuful
2022年4月27日作成
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