金鱗湖

中谷宇吉郎




 別府の裏側、由布山系の峠を越したところに、由布院という盆地がある。
 ここは温泉もあり、最近だいぶ発展したが、以前はひどい山奥であった。もう四十年以上も昔の話であるが、中学時代に、ここを訪ねたときは、草鞋わらじがけで、歩いて行ったものである。朝暗いうちに、別府を立ったが、向こうへ着いたときは、夕方すっかり暗くなっていた。
 ここに金鱗湖という小さい池がある。その湖はんに一軒だけ木賃宿があって、そこで一泊した。障子をあけると、池の面に月がさし、銀色に光っていたのをおぼえている。
 それよりも強く印象に残っているのは、大きいこいが、無数にいたことである。五十センチ以上もある大きい鯉が、群れをなして泳いでいた。養魚場の池そっくりであった。
 きいてみたら、これは全部天然の鯉であって、別に養殖しているのではなかった。捕る人がないので、自然に増えたのだということであった。
 ここの鯉は、うろこが金色に光っているのが、特徴であって、それで金鱗湖という名前もついたわけである。
 これは、昔の良い時代の話であって、その後道路ができ、自動車が行くようになってからは、もちろんそんな鯉は全部捕られてしまった。現在は、別府から、一時間おきに、満員のバスが通っているのであるから、まるで事情は変わっている。
 ところが、最近機会があって、この地を訪ねたとき、昔の金鱗湖を思い出したことがあった。それは、この金鱗湖の水を引いて、鯉の養殖をしている人に会ったことである。
 これは池といっても、温泉もわいているらしく、水温はかなり高い。四月の初めでも、子供たちが二、三人泳いでいた。水温が高く、また水質も養魚に向いているらしく、鯉の発育は、非常によいそうである。まだ二冬越しただけであるが、冬の休眠状態が全然なく、普通の水温の池にくらべて、冬期間の体重増加は、五割も多いという話であった。
 それよりも面白かったのは、この水で育てると、一年もしないうちに、鱗が金色になる点であった。たもでしゃくって見せてくれたが、最近いれた鯉は、普通の銀色である。ところが、一年以上ここで養った鯉は、見事な金色に変わっていた。
 魚の体色が、水質でこれほどちがうものとは知らなかった。人間の皮膚の色も、こんなに変えられたら、人種問題の解決に、大いに役立つかもしれない。
(昭和三十五年四月)





底本:「中谷宇吉郎集 第八巻」岩波書店
   2001(平成13)年5月7日第1刷発行
初出:「夕刊 読売新聞」読売新聞社
   1960(昭和35)年4月9日
入力:kompass
校正:岡村和彦
2017年4月3日作成
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