娘の結婚

中谷宇吉郎




 どうしたわけか、この近年、天下国家を論ずるような巡り合せに会うことが多く、身辺の雑事を書く機会が、ほとんどなかった。本当のところは、随筆などというものは、少し照れながら子供の自慢話でも書いている方が、一番気楽でもあり、また無難でもある。
 娘の結婚には、親は誰でも気を揉むが、さて愈々嫁に行ってしまうと、一番がっかりするのは、父親だという話を、前から聞いていた。しかし、その実感は、ちっとも感ぜられなかったが、初めてなるほどと思ったのは、茅(誠司)さんの長女の結婚のときであった。晶子という娘で、今度嫁に行ったうちの長女咲子と、子供の時からの仲良しである。不思議なことに、非常によく似ていて、子供の頃の写真を見ると、親でも間違うくらいである。
 茅さんが、北大へ行く前、東北大学で、鉄やニッケルの単結晶をつくり、その磁性の研究で、今日の世界の物性論の先駆をなす仕事をした。その頃産れたので、それにちなんだともいい、また「愛の結晶」からきたともいわれている。
 この結晶が嫁に行ってから暫くの間、茅さんは、非常に淋しそうであった。その後、同じ仲間の一人吉田(洋一)さんの娘が結婚した時、その披露の席で、茅さんがしみじみと述懐をした。そして、今日の吉田さんは、さぞ淋しい気持だろう、という挨拶をした。何だか、ひどく話が身に沁みて、結婚の祝詞か、お通夜のお悔みか分らなくなったが、それでも、誰も文句は言わなかった。
 それで愈々、三度目にうちの娘の番になった。ところがこれが一番変っていて、アメリカで自分で亭主を見附けて、さっさと結婚をしてしまったのである。そしてこの六月に、二人で新婚旅行に日本へやってきて、三週間いて、またさっさとアメリカへ行ってしまった。あれよあれよという間に、全部片附いてしまったわけである。
 もっとも、亭主になった男は、物理をやっていて、私が在米中、二夏助手として働いたことがあり、昨年の夏ちょっと補足実験をやるためにまたアメリカへ行った時も、手伝ってくれたので、前からよく知っていた学生である。ノルウェイ系の三世で、愛称はトムという。
 最初に話が出た時に、私たちも賛成した理由の一ツは、トムが六尺一寸ある点であった。娘が五尺五寸何分とかあるので、ハイヒールをはくと、五尺七寸になる。下手な結婚をすると、一生サンダルを履いて暮さねばならない。話が決まってから、娘が寄こした手紙の一節に、「これで私もハイヒールが履けます」と書いてあった。
 六月の末、二人で羽田へ着いたので、すぐ家へ連れて来て、長州風呂へ入れて、浴衣を着せてやった。百貨店で仕立てて売っている浴衣で、一番長いのを買ってきたが、袖のことは、気がつかなかった。それで腕は、肘から先、全部出た。それでもトムはひどくこの浴衣が気に入り、それに畳の上に寝るのを、非常に喜んだ。アメリカのベッドでも、少し足がつかえるそうである。滞在中、短い関西旅行を除いて、ずっと家にいて、不断どおりの日本人の生活をさせたが、すぐ馴染んだようであった。「この家には、鉄の風呂があるが、あれは普通の日本の家庭にはないのだろう。お前の親爺さんは、金持なんだね」と咲子に言っていたそうである。

 とにかく、娘ばかりの家で、長女が結婚したわけであるから、一応の披露はしなければなるまいということになった。それで中学の先輩で、今帝国ホテルの社長をしている犬丸(徹三)さんのところへ、相談に行った。
 事情を話して、「そうひどく体裁が悪くなくて、しかも東京で一番安いところはどこでしょう」と聞いてみた。そしたら犬丸さんは言下に、「それはうちだよ。宴会係によく言っておくから、巧くやって貰え」といわれた。結果は、犬丸さんの言ったとおり、たいへん安くあがって、大いに助かった。何も帝国ホテルの提灯持ちをするわけではないが、例えば外国の一流の学者をつれて行って、五百円で夕食の食えるところは、帝国ホテルくらいのものであろう。もっとも結婚披露は五百円では出来ないから、誤解のないように断っておく。
 日本で宴会に金がかかるのは、会合を楽しむ術を、皆が知らないからである。宴会あるいは集会の目的は、いろいろな人、あるいは友人たちに会って、皆が楽しく、ひとときを過す点にある。御馳走とか、余興とか、あるいは芸者などのサービスとかいうものは、その目的を達するための手段である。皆が楽しむ術を知らないと、いろいろな手段を講ずるのに金がかかり、効果はその割に上らない。
 それでこういう場合には、司会者が非常に大切である。幸いなことには、そういう相談をするのに、今の日本では最適任者と思われる人を一人知っている。それは小林勇である。それで早速、勇のところへ出かけて行って、誰がよかろうかと、相談してみた。そしたら勇が一寸考えて、「それは一寸むつかしい。仕方がない、俺がやってやろう」と言った。
 小林勇は、名葬儀委員長として、既に令名がある。露伴先生とか、茂吉先生とかいう級の人になると、御弟子も多く、世間的にもいろいろかかわり合いがあって、葬儀委員長はなかなかむずかしい。そういう場合に、勇だと巧く納まるのであるから、大したものである。露伴先生の葬儀委員長さえつとまるのだから、うちの娘の結婚披露の司会くらい何でもなかろう。少しもったいないが、折角言ってくれたのだから、全部任すことにした。

 披露の会は、たいへんな「盛会」であった。カクテル・パーティだったが、カクテルが一杯廻ったら、もう大分賑かになってきた。安倍(能成)さんが上機嫌で、まず挨拶ということになったが、謡で鍛えたあの立派な声であるから、マイクがなくても大丈夫である。うちの子供たちは、小さい頃から、安倍さんとはお馴染みになっている。昔伊東で療養をしていた頃、正月休みに安倍さんの夫妻も伊東へ見えていて、亡くなった男の子は、よく安倍さんの肩車に乗せて貰ったものである。当時まだ幼稚園へ行っていた長女が、「おじさん、私も乗せて」とせがんだが、「女の子は駄目」と断られたことがある。その娘の結婚披露なのであるから、まことに速いものである。
 小宮(豊隆)さんも、たいへんな上機嫌で、壁際の椅子に腰を下しながら、安倍さんの挨拶に、一々半畳を入れられる。
 アメリカの連中も少しきていたので、誰か一人、英語の挨拶も入れようということになって、坪井(忠二)君に頼んだら、二ツ返事で承知してくれた。英語の演説が得意なので、こういう場合には、甚だ便利である。もっとも得意になるだけの資格はあるのだ。後で娘たちの評では、たいしたものだということであった。そして、パパなんか駄目じゃないの、と不必要なリマークまでする始末であった。
 坪井君の英語演説に対抗したわけではないが、サイデンシュテッカーが、日本語で挨拶した。全く突然の指名で、大分面喰らったらしいが、そこは『細雪』の飜訳者だけのことはあって、ちゃんと日本語で挨拶をしたから、えらいものである。最後に、まことに芽出度い結婚であるが、私のような良い独身者がいるのに、何の挨拶もしないで、さっさと結婚したことだけは、不満だとつけ加えた。そしたら、小宮さんだったか、「嘘をいってるよ、ちゃんと横に細君がいるじゃないか」といわれた。しかしそれは先年までノースウェスタン大学の教授だったバッシン氏の夫人であった。
 トムは、ノースウェスタン大学の物理を出て、修士課程は、イリノイ大学でやった。今度グレン・マーチン会社へはいって、携帯用原子炉を造る部門へつとめることになっている。それで日本の原子力委員によろしく頼むといったら、藤岡(由夫)君が、「カクテル一杯で汚職になってはつまらないが」と前置をして、大演説をしてくれた。
 もうその頃になると、大分酒精も廻ってきて、大いに賑かである。森田(たま)さんが、息子をつれてやってきていたが、その息子が、当時小学校の三年生くらいだったうちの娘に、結婚の予約を申し込んで、断られた、という話をした。その息子の横に、小山(いと子)さんが立っていた。安倍さんは、小山さんを、おたまさんの息子の嫁と勘ちがいして「それで貴女と結婚したわけだね」と助け舟を出された。流石さすがのいと子女史も、これには二の句がつげなかったようである。
 パーティは、四時から六時までということになっていたので、司会者はたいへんである。「俺にも一言喋らせろ」というのが多くて「三分だけ、いいですか、三分だけに願いますよ」と汗だくである。
 それでも流石名司会者だけあって、六時に、新木(栄吉)さんに乾杯をして貰って、見事に切り上げてくれた。
 あまり話の方が面白かったので、誰もものを食べるひまがなかった。それで散会したあとには、ホテルの折角の御馳走が、大部分残っていた。うちへ帰ってからも、女房は「惜しかったわ。お土産に貰って帰ればよかった」といっていた。次の娘の時には、重箱をもって出かけて行くかもしれない。
 結婚の披露は、大騒ぎだったが、とにかく二時間で済んだわけで、田舎の徹夜の宴会から思えば、まことに有難い次第である。式の方は、マディソンの教会で挙げたが、こっちは両親がいないというので、以前に住んでいた町の親しくしていた夫人たちや娘の友人たちが、大挙してマディソンまで出かけて行って、大いに賑かにやってくれたそうである。オマハからわざわざ出かけて来てくれた人もあった。人種がちがっても、こころには何もちがいがないので、その点は安心である。
 国際結婚というものは、初めのうちはよいが、ずっと先になると、とかく失敗に終り易い、とよく言われている。その点は、やはり気がかりであるが、この娘の場合は、言葉にもそう不自由しないし、トムとは、三年越しに交際してみての話であるから、これ以上心配してみても、しようがない。
 四年前に、雪氷永久凍土研究所で仕事をするために、家族を全部つれて、シカゴの郊外へ移り住んだ。当時、娘は慶応の二年生になっていたので、ノースウェスタン大学の二年に編入を頼んだ。先方は、慶応といっても、よく知らないので、面接試験をして、一体日本の大学では、何を勉強していたかと聞かれた。慶応では、英文科にはいっていたので、「シェクスピアをやっていました」といったら、ひどく驚いたそうである。
 というのは、その試験をしたディーンが、シェクスピアの専門家だったのである。それで早速机の上にあったソネットをとって、ここを一頁読んでみろといわれた。度胸のよいで、さっさと読んでみせたら、その先生が感心して「お前はえらい。シェクスピアを完全に理解していることが、その読み方から分る」と言って、無事二年生に編入してくれたそうである。
 家へ帰って、その話をするので、こっちの方が驚いてしまった。「シェクスピアのソネットといったら、一番むつかしいものじゃないか。あんなものが分るのかい」と聞いたら、「一行も分らない」と澄ましたものである。しかしことを荒立てる必要もないので、そのまま二年生にして貰った。
 それで初めは、英文学をやったが、流石に度胸だけでは、ついて行けないようであった。何といっても、小説の斜め読みが出来ないので、英語でアメリカ人と競争をしても無理である。それで途中から、地質学に転向した。アメリカは、木の生えていない岩山が大部分であるから、旅行などした時に、地質学の知識があると、興味が倍加する。初めは、まあそのくらいのつもりだったらしいが、だんだん面白くなったらしく、仕舞しまいには、ブルージンをはいて、トンカチをもって出かけて行き、ごっそり石ころを持って帰るようになった。その頃から、トムと知り合いになったわけである。

 初め二年間一緒に暮したが、私たちが帰国する時に、上の娘二人はノースウェスタンの寄宿舎に残してきた。二人とも元気でやっていたが、とくに上の娘はずっと成績がよかったので、四年の卒業前に、ファイ・ベータ・カッパの会員になった。これは全米的の組織で、優等生だけの会である。これになると、修士課程をとる時に、奨学金を貰ったり、助手になったりするのに便利である。ノースウェスタンで学生課程を終えた後、修士をどこでやるか、大分迷ったらしい。それはスミス・カレッジという評判の高い学校から、多額の奨学金のオッファーがあったからである。
 ところが、トムがウィスコンシン大学で修士課程をやっていたので、娘は出来れば、同じ大学へ行きたがった。いい案配に、そこに研究助手の口があって、それをつとめながら、修士課程をおさめることにした。アメリカの大学は九ヶ月制で、それで千五百ドル貰えたので、もう親爺からの補助は要らなくなった。「ながなが脛をかじらせて戴きました。これからは、珈琲コーヒーくらいは送ってあげます」という絶縁状を寄こした。
 一年間、同じ大学で勉強していたが、トムはマーチン会社に気に入った口があったので、結婚してそっちへ行くことに、二人で話を決めた。頭は咲子の方が少しよいかもしれないが、トムは誠実な青年だ。物理学の方も、中の上くらいは出来る。丁度よかろうということに、こっちはすぐ賛成したが、向うの親がなかなか承知しなかったらしい。一人息子でひどく大事にしていたので、日本人と結婚するなんて、とんでもない、ということだったのであろう。私の助手をしていた頃も、毎日ブリキの弁当箱に、サンドウィッチと、魔法瓶入りの珈琲と、果物と菓子とを入れたものを持ってきたが、どれも二人前くらいはいっているので、トムは閉口していた。お袋が入れるのだそうである。
 この両親の反対には、トムも弱ったらしい。しかし二人で何回となく親爺と談判して、到頭賛成させたという話である。アメリカでは、全くの自由結婚だと思われているが、また法律上はそのとおりであるが、実際には、親の意見もかなり効くのである。もちろん、親の意向など全然無視して行動する連中もあるが。
 アメリカの結婚制度で、一つよいことは、若い二人が結婚してしまうと、あとは二人だけの生活になってしまって、両親とも、また里方の家とも、経済的には、全く独立してしまう点である。いわゆる親類附き合いというものはなくて、いわば友人としての交際になる。贈り物などはもちろんそれぞれ分に応じてするが、それには援助という意味はなく、心持の表現としての贈り物である。トムの母親は一度家へやってきたことがあるが、父親にはまだ会わない。私の場合は、少しずぼら過ぎるが、実のところ名前を聞いておくことも、ついうっかりしてしまった。それでも結構ことが片附いて行くのである。
 甚だ水臭いようであるが、日本の旧来のように、いやにやにっこいのも考えものである。表面は甚だ鄭重なやりとりをしておいて、蔭では悪口をいったり、もっと困るのは、経済的の関係をもって、それが現実的あるいは心理的な破綻のもとになったりすることがしばしばある。経済的には、すっかり縁を切っておく方が、かえって親愛の情を増すというような場合が多いようである。
 今度の結婚が、成功するか、あるいは失敗に終るか、それは今のところ何とも言えない。しかし二人とも非常に望んだ結婚をしたのだから、はたから何も言うことはない。皆に祝福された結婚だから、まあ巧く行くだろうと思っている。
(昭和三十一年十月『文藝春秋』)





底本:「中谷宇吉郎集 第八巻」岩波書店
   2001(平成13)年5月7日第1刷発行
初出:「文藝春秋 第三十四巻第十号」
   1956(昭和31)年10月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:岡村和彦
2017年6月17日作成
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