吉右衛門と神鳴

中谷宇吉郎




 ついさき頃の『心』の中に、吉右衛門氏と小宮(豊隆)さんとの対談が載っていた。近来にない面白い対談で、芸というものの面白さと恐ろしさとがよく出ていた。
 その中で、一見あまり芸とは関係のないように見える話が一つある。それは吉右衛門氏が、非常な神鳴嫌いだという話である。神鳴が出そうな日は、何時間も前から、気分が悪くなって、今日は雷がきそうだということが分る。そしてそれがいつでもちゃんと当るそうである。
 こういう話は、何も吉右衛門だけに限らず、よくそういう人がある。夕方に神鳴がきそうな日には、ひる頃からもう頭が痛くなって、蚊帳をつってねてしまうという話は、度々きいたことがある。現代の科学では、人間には未来を予知する能力はないことになっているので、こういう予感が本当に的中するものならば、何か其処にわけがあるにちがいない。
 神鳴がくる日は、ひるから頭が痛いとか気分が悪いとかいう話は、聞き流してしまえば、それだけの話である。しかしそれがもし本当ならば、人間に未来を予知する能力があるか否かという問題として、採り上げることも出来る。そうしたら、これはたいへんな大問題である。もっともそれが「もし本当ならば」というさり気ない言葉が、ここでは曲者なのである。「もし本当ならば」の意味を、少し詳しくいうと、それはその予感の的中が、百発百中であるということを意味している。予感の的中というようなものは、それが百発百中であるか、百発八十中くらいであるかによって、その意味が大いに異なってくる。百発百中ならば、何か未来の神鳴の現象と、現在の感覚との間に、一本の因果関係があることになる。百発八十中くらいならば、将来神鳴が起りそうな現在の気象条件と現在の感覚との間の関係になる。それならば話が簡単である。その的中は、確からしさの程度の問題になる。
 天気予報というものは、この確からしさの部類に入るもので、それだから現在の科学の仲間にはいっているのである。何時間後かに雷が発生しそうな気象条件は、気象学の方で分っている。そういう気象条件を、特別に鋭敏な感覚を持っている人が感じて、それで気分が悪くなるのだったら、話は非常に分りいい。その代りに、稀れには、あるいは案外時々は、気分が悪くなっても、その後に神鳴がこないこともあるはずである。しかしそういう場合はとかく忘れてしまいやすいもので、本当に神鳴が来た時の印象だけが、記憶に残る。そうすると、あたかも、神鳴の来るのが、いつでも前から分るような気になる。これならば話は簡単であり、かつこういう場合が、かなり多いのであろうと思われる。
 もっともこの話には、ちょっと誤魔化しがあるともいえるので、厳密にいうと、百発百中の場合でも、やはり予言は確からしさの問題である。唯その確からしさの程度が、非常に高いだけのことである。こういう抗議が、理論的な学者からは出ることであろう。しかし吉右衛門が神鳴を怖がる話の中で、真理とは何ぞやという議論をするのは、少し場ちがいである。それでこの問題には、これ以上深入りしないことにしよう。

 それで百発八十中、あるいは六十中くらいの神鳴予言者の方は、雷雲発生に適した気象条件を感ずる、あるいは記憶によって思い出すのであろうということにして、御免を蒙らせてもらうことにしよう。ところが吉右衛門などの場合は、あの記事を読むと、それがどうも九十五中くらいのように思われる。そういう人の場合でも、やはり未来を直接に感ずるということは、どうしても考えられないので、これは、一般気象条件などよりも、もっと直接に雷と結びついている要素を感ずるものと考えるより外に道がない。
 それならば、何かそういう要素があるかというに、今までによく知られているものの中でも、確かに一つはある。それは大気電場である。本来、雷というものは、この大気電場の一つの特別な場合に過ぎないのである。
 雷が電気現象であることは、今では小学生でも知っている。雲の中に電気が生じて、それが大地との間に放電を起すと、その時の火花スパークが落雷電光になり、またその時の火花の音が雷鳴になる。そういう話は、今更いうまでもないことであろう。しかし、今一歩進んで、雲の中に電気が生ずるというのは、どういう意味か、また大地との間に放電が起きるというのは、どういうことかと聞かれると、ちょっと即答の出来ない人が、かなりあるであろう。
 物理の話をするのが目的ではないから、ごく簡単にいうと、電気があるということは、その周囲に電気の場、即ち電場があるということなのである。もともと地球の表面には、いつでも電場があるので、それを大気電場といっている。その強さは、日により気象条件によってちがうが、大体高さ一メートルについて、百ヴォルト程度の電圧がかかっているくらいの電場である。それがいわゆる雷雲が発生する気象条件になると、数千倍にも強くなって、やがて大気の絶縁が破れる。それが放電、即ち落雷の現象なのである。
 われわれが日常生きているこの地球上に、いつでも高さ一メートルについて百ヴォルト程度の電場があり、それを誰もが感じないのは、ちょっと不思議なようである。しかしそういうものは感じないのが、普通の人間の身体なのだから、仕方がない。従って不思議なことではない。神鳴とは関係のない話であるが、この二十年来かなり常識的になっている宇宙線というものは、非常に小さい粒子が恐ろしい速度で空から降ってきているものである。それが毎秒数十個も人間の身体を突き抜けているのであるが、誰もそんなことは知らなくて、平気で生きている。この頃になって降ってきたものではなく、エジプトの帝王の身体をも突き抜けていたのである。
 雷の現象というものは、それで年中小規模には、いつでも地球上にあるものである。それが特殊の気象条件になると、急に拡大するのが即ち神鳴である。そういうものであるから、特に敏感な神経を持っている人が、この電場の変化を普通人よりも早く感ずれば、雷を予見することも、不可能ではない。
 もっともこの話は、何も研究をしたり、実験をしたりしての話ではない。それでこういう理論を出したわけではない。唯夏の夕涼の縁台での世間話の一つに過ぎない。もしこういう話を、少しでも科学的にしようと思ったらやはり研究をしてみるより仕方がない。

 科学というものは、何よりもまず実証的の学問である。それで「神鳴が嫌いで、前から頭が痛くなる」というような特殊の才能に恵まれた人に頼んで、その体験の統計をとって貰うのが、先決問題である。「今日はどうも気分がすぐれない」という日には、ちょっとそれを一言洩らしてもらう。それを必ずノートにつける。そして果してその後何時間かして神鳴が鳴ったら、その時刻を記帖する。神鳴がもしこなかったら、その旨も書き止めておく。少し学問的にするには、その土地では神鳴が鳴らなくても、近県に雷雨がなかったかどうか、気象台に問い合わせてみれば、更に完全である。
 そういう記録が相当数たまったら、その的中率を調べてみる。それが五十パーセントか六十パーセントくらいならば、あまり面白いことにはならない。その人が、神鳴の名人でなかったのだから、仕方がない。ところがもし、的中率九十パーセントというような名人、または百パーセントの大名人が出てきたら、これは非常に面白い話になる。
 そうすると、次ぎには問題は二筋の道に分れる。第一は大気電場の変化によって、雷雲発生の予報が可能であるか否かという問題である。これは時間の問題で、雷雲がくるすぐ前には、大気電場が増大することは当然である。それで的中したといっても、何時間前に予言したかが、問題になる。その期間が、大気電場の変化が現われる時間と同程度であれば、大気電場説に、初めて一つの可能性が出てくる。そういう場合には、大気電場の変化が、特殊の人間の感覚にどう現われてくるかという、生理の問題に帰する。もっともこれは非常に困難な問題と考えられるので、急に結論が出てきそうには思われない。しかし大気電場の変化を感じ得る人間もあるということが確められただけでも、これは学問的に見て大きい収穫である。
 次ぎには、大気電場の変化が現われる前に、予言が出来たら、それはどういうことを意味するかという問題が出てくる。例えば、夕方神鳴がくる日に、朝のうち、鋭敏な電位計にも電場変化が全然現われないうちに、頭の方が痛くなったというような人が出てきたら、ちょっと話が厄介である。もっとも夏の地域的熱雷のように、一定の気象条件になれば、だいたい毎日のように神鳴が鳴るような場合には、何とか理窟のつけられないこともない。そういう気象条件は、朝のうちから、だいたい決っているので、長らくの無意識的な記憶によって、その判定が出来るということもあるのであろう。
 それ以外の場合、例えば界雷のように、時期をあまり選ばなくてやってくる雷を、大気電場の変化以前に予知するような人があったら、科学の方でシャッポをぬぐより仕方がない。しかしそういうことも全然有り得ないことではない。例えば噴火や大地震の前に、雉子や鳥が逃げるというようなことも、全く流言蜚語ばかりではないようである。それは土地の脈動を感ずるのであろうといってしまえば話は簡単である。しかし地震学者や気象学者が、精密な機械を使って、脈動や気圧や気温などの微細変化を調べても、特にどうという著しい変化がない場合に、雉子や山鳥がそれを感ずることも、全然有り得ないことではない。脈動や気圧の微細変化などは、地震や噴火のない時でも、毎日あるものである。機械で測って、それに著しい変化がないというのは、脈動とか気圧とか、その他の要素とかの一つ一つについては、著しい変化がないということである。しかしそういう各要素を綜合したものに変化があり、それを感ずると解釈すれば、説明の出来ないことでもない。そういえば、歌舞伎の至芸などというものも、ひょっとしたら、それに類似したものかもしれない。

 ところで、これと似たようなことが、神鳴嫌いの人にあれば、今までの科学では説明出来ないことがあっても、そう慌てるには及ばない。しかしこういう議論はすべて、本当に神鳴を予知する人があり、その予知の時期が説明可能の時間よりももっと前である場合が、もしあったならばという条件付の話である。
 いささか、富籤でもし百万円当ったらどうしようかという心配に似ているようである。あるいはもっと確率の少ない話であるかもしれない。しかし神鳴嫌いで、雷雲がくるずっと前から頭が痛くなるという人のことは、ちょいちょい耳にする。しかもそういう人は、吉右衛門氏が一番いい例であるが、天才型または名人肌の人に多いようである。
 誰か夏休みの鎖夏法の一つとして、ちょっと調べてみても面白いかもしれない。もっとも既に調べられた人があるかもしれないが。
(昭和二十五年六月『文藝春秋』)





底本:「中谷宇吉郎集 第六巻」岩波書店
   2001(平成13)年3月5日第1刷発行
底本の親本:「日本のこころ」文藝春秋新社
   1951(昭和26)年8月15日
初出:「文藝春秋 第二十八巻第九号」文藝春秋新社
   1950(昭和25)年6月25日発行
入力:kompass
校正:岡村和彦
2021年4月27日作成
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