古代東洋への郷愁

――『仙書参同契』の解説――

中谷宇吉郎




一 露伴と神仙道


『東と西』の問題は、人類にとって、最大の課題といわれる。東洋人としての立場からこの問題を考える場合、中国における古代の神仙思想というものが、どうしても逸することの出来ない要素のように、この頃思われてきた。齢のせいかもしれない。
 直接の誘因は、露伴先生の神仙ものを、少しばかり読んだところにある。そのなかでも『仙書参同契』にひどく心を惹かれたので、その紹介を主として、自分の古代東洋への郷愁を綴ってみる気になった。もっとも『仙書参同契』自身が、魏伯陽の『周易参同契』の解説であって、解説のまた解説をするのも妙な話である。中国思想の専門学者の眼にふれたら、笑止と一言に片付けられるであろうが、中学校の漢文も碌々教えて貰えなかった若い人たちには、ちょっと珍しい読み物になるであろう。
 中国における広義の神仙道を理解しようとする場合に、見逃すことの出来ないものは、丹道である。露伴先生は、中国の神仙道一般に興味をもっておられたが、とくに丹道には、深い関心をもたれたようである。先生の丹道並に中国の神仙道一般についての研究のうちで、一番詳細をきわめたものが、今挙げた『仙書参同契』である。この論文は、昭和十六年、即ち先生の晩年に書かれたもので、ほぼ百頁に及ぶ大部のものであり、また非常な労作でもある。
『仙書参同契』は、一言でいえば、後漢の魏伯陽の著書『周易参同契』を、考証及び解説したものである。この『周易参同契』の出来たのは、はぼ西紀一四五年頃と推定されている。日本でいえば、女王卑弥呼の時代よりも、なお数十年も昔のことである。即ち日本人が、まだ未開人の生活をしていたと確認される時代よりも、まだ数十年も昔に出来た本である。そういう旧い時代の書であり、しかも後代に到って、中国神仙道の本統である丹道の書の祖となったものである。従ってその内容は、まことに難解をきわめ、現代人の頭脳では、ほとんど理解を絶した難物である。
 一体そういう旧い時代の本が、今日まで最初の完全な形で残っているはずはない。事実、原書はつとに亡びているので、現存の参同契諸本中の最古のものは、五代の彭暁註『参同契』である。これとても魏伯陽よりは八百年もおくれている。そういう本を頼りにして、後漢時代にまで遡って考証を進め、その解説をしようというのであるから、非常な労作になるのは当然である。それを露伴先生は、実に美事になしとげておられる。そして単に『周易参同契』の解説ばかりでなく、丹道の背景をなすところの中国古代の神仙思想一般にわたって、広く論及してある。
 中国の古画を見ると、山水の場合ならば、ほとんど全部、仙人か高士かを配してある。人物画にも、仙人または仙人風のものが非常に多い。神仙の思想は、中国では、すべての階級に広く浸み込んでいるので、これを無視しては、古代中国人の思想を論ずることは出来ない。
 この中国独特の神仙道は、遠く春秋戦国の時代に芽生えた老子の思想から発展し、それに荘子の学が加わったものである。この思想の中の例えば「谷神不死」というような言葉が、秦の始皇帝や漢の武帝の時代に、方士たちの手によって歪曲され、神仙怪異を主とした道術として燃え立ったのである。そして非常に長い年代の末に、それらの神変幻術が、遂に内省的な丹道に落付いたわけである。
 この間の経緯は、複雑多岐をきわめ、また適当な手頃の文献を欠いている。ところがわれわれは、露伴先生の労作の御蔭で、この古代中国人の怪奇にしてかつ特異な神仙思想の発展史を、比較的容易に知ることが出来るのである。

二 古代中国のアルケミィ


『周易参同契』は、丹道の祖書であるが、この丹というのは、初めは赤沙、即ち天然に出る朱を指した字であった。朱というのは、硫化水銀の複合体のことであって、古代の中国人は、この朱を甚だ尊重した。王の屍体を朱に漬けたというような話もあるが、それは防腐剤という意味であろう。芸術的な立場からは、各代にわたって、朱の赤色の美をいたく喜んだ。
 しかしそれよりも、朱の示す化学変化が、古代人の注意を惹いた方が、大きかったのである。「赤色の朱を熬煉すれば白光ある水銀となり、水銀を焼けば復び朱となり、また水銀は忽然として黄金を銷融し、しかもこれを他物に塗りて焼けば、水銀は去って行くところを知らず」というアルケミィの立場から、丹を霊異人を驚かすものとして珍重したのである。朱、即ち硫化水銀を唯焼いただけでは、白色の水銀は得られない。空気中で焼いて酸化水銀として、これを木炭の上で「熬煉」すると、還元されて水銀が得られる。また白色の水銀を焼いても、朱にはならない。硫黄華を水銀に混じて煉ると硫化水銀になるが、これは黒色である。この黒色の硫化水銀にアルカリを加えて、温湯で煎ずると、忽然として赤色の朱、即ち硫化水銀の複合体にかわるのである。
 こういう化学変化が、「神武天皇」以前の古代中国において、既に知られていたということは、驚くべきことであり、またいかにしてこういうアルケミィが、その時代に出現したかは、依然として謎である。しかしいずれにしても、こういう化学変化に対して、古代人が素朴な驚異感を抱いたことは、当然であろう。この神秘感から、丹は凡常を超絶するものという意味に展開され、長生不死の仙界に入りたいという原始的な慾望と結びついて、仙丹、神丹、金丹、煉丹、服丹、餌丹などという言葉が生まれてきた。
 仙丹神丹は、霊異の薬物という意味に用いられ、あるいはそれを用いて不老長生の神妙の方術を得る道とも解せられた。金丹は老子が元君から受けたものとされているが、黄金の不朽の生命を表象するものとも、またアマルガム法によって金を精錬する法とも解せられる。不老長生と黄金とは、人間の慾望の二つのあらわれであって、古代人の頭脳の中では、その分離がはっきりしていなかったのであろう。西洋中世のアルケミィにも、同じようなことがある。服丹餌丹は、丹の成ったものを服餌する法であって、最も素朴な考え方である。もっとも丹の成ったものを服したら、嚥下すると同時に忽ち死んだという話も残っている。水銀を本当にのんだのではたまるまい。
 還丹という言葉が、丹道では大切な意味をもっている。これは「丹を錬り丹を錬りして、九転の大労作を了えた後に出来るのが、即ち大還丹であり、最上級の仙丹である」とされている。その本当の意味は、精神的の修煉を積み重ねることによって、生死一如の境地に達するということである。その意味では、丹家の還丹は、仏教の涅槃という言葉に類しているが、こういう内省的な意味でなく、不死の薬物を錬るという卑俗な解釈も行なわれていた。
 朱及び黄金のアルケミィについて、最も古い文献は、黄冶変化という言葉である。漢の成帝(西紀前数年)の頃、正言を以て神怪のことを斥けた谷永の辞の中に、この一句がある。黄冶とは丹沙の変化によって黄金を鋳冶することで、この時代は丹はまだアルケミィの対象であった。丹という字が、赤沙そのものの意味から展開して、もっと精神的な仙丹神丹の意に用いられたのは、魏伯陽の『参同契』に「巨勝尚延年、還丹可入口」とあるのが、最初であろうと、露伴先生はいわれる。この『周易参同契』の出たのは、前にもいったように、後漢の桓帝の直ぐ前頃、西紀一四五年頃と考証されている。
 今日われわれに知られている丹道は、『周易参同契』、即ち魏伯陽からはじまっている。それで起源は後漢時代である。しかしその要諦が広く受け入れられたのは、それよりもずっとおくれて、北宋の時代に入ってからである。魏伯陽の時代、即ち後漢の末期から、六朝、晋、南北朝、隋、唐にかけての八百年余にわたる長い年代は、まだ秦前漢時代の神仙怪異の思想が、根強く人々の頭に浸み込んでいた時代である。それで丹道も、服丹餌丹のような形而下の方面に発展しがちであった。即ち神菌霊芝を採る方術の一種と見られる方が多かった。丹道のうちで、この種の形而下のものを外丹という。それに対して、『周易参同契』の真髄は、内観的な精神修煉にあるので、その方は内丹と呼ばれている。

三 丹道の真義


 丹道の真髄は、魏伯陽の内丹にあるが、その祖書『周易参同契』は、今日のわれわれには、到底近づきがたい難解の書である。露伴先生の解説すら、これを味読することは、なかなか容易ではない。
 丹道を曲りなりにも理解しようとするならば、『参同契』に先立つ中国古代の神仙思想及び道教について、一応の概念をもっている必要がある。この神仙思想は、きわめて特異な原始宗教であって、その源は、遠く西紀前五百年、老子の思想に発している。老荘の思想と、神仙道と、道教とは、とかく混同されやすい。というよりも同じもののように思われがちである。しかし老荘の思想は哲学であって、宗教ではない。荘子が藐姑野の神人に言及していても、何も肉体的な不老長生の術などを説いてはいない。
 後世にいうところの道教は、宗教であるが、これは老子から七百年もおくれて、後漢の中期に至って、張道陵によって初めて唱えられたものである。西紀一四二年、張道陵が蜀に起って、老子の示現授道を得たと称して立てたものが、即ち道教なのである。面白いことには、魏伯陽が『参同契』を著わして、丹道の祖となったのも、ほぼ西紀一四五年頃と推定されている。ほとんど同時に、張は西北方において道教を、魏は東南方において丹道をと、それぞれ周孔以外の異教を立てたのである。
 神仙道が最も栄えたのは、張の道教創始以前である。方士たちが、不死の霊薬を得んとして、各地に神仙を索めたのは、秦皇漢武の時代から盛んになったので、張道陵よりも、四百年も以前のことである。このように道教は後から出たものであるが、宗教政策上、老子も荘子も列子も墨子も、皆自己の幕内にとり入れたために、後世に至っては、丹道も神仙道も、要するに儒仏以外の宗教を全部道教の中に含めてしまうようになったわけである。しかし道教と神仙道と丹道とは、本来は判然として別なものである。
 ところで丹道も、初めのうちは神仙道の中に芽生えた原始信仰であった。即ち神菌霊芝を採り、丹を錬って不老長生の仙界に入ることを目的とした外丹であった。その迷妄を開いたのが魏伯陽であって、丹の成るということは、肉体的の不死を得ることではなく、生死を超越した心境を悟得することであると説いたのである。これが即ち内丹である。内丹の道は、禅宗でいえば悟り、基督キリスト教でいえば信に入るという意味で、大悟の心境に入る道である。
『周易参同契』は、この大悟の心境を証得する道を、得遷の秘奥として説いた書である。もともと全体が言い難く説き難きことを記した本であるから、難解をきわめたものになるのは止むを得ない。われわれに比較的親しい禅の場合でも、悟りの道を解説した本は、普通に読んだだけでは、全く意味をなさない。いわんや中国古代のあの怪奇なる神仙思想に彩られた得遷の秘書が、現代のわれわれに到底近づき難いのも、また当然のことである。説明は本来不可能なことがらであるから、主として譬論比擬の言辞を以て、得遷の妙術を伝えるより外に道がない。例えば「ただ斯の妙術、審諦して誑語せず。億世の世に伝ふ。昭然として考ふべし。煥として星の漢を経るが如く、※(「日+炳のつくり」、第3水準1-85-15)として水の海に宗するが如し、之を思ひ務めて熟せしめ、反覆上下を視せしむ。千周粲として彬彬、万遍特に観る可からん。神明或は人に告げて、心霊忽ち悟らん。端を探りて其緒を索めは、必ず其の門戸を得ん」という調子である。
 このように、中国神仙道の本統である丹道は、結局は大悟あるいは信に入るという形で、宗教の真髄に悟入する道を説いたものである。それでは、丹道の極致である還丹も、仏教の涅槃も、基督教の入信も、皆同じものであるかというに、それは互いに著しく異なっている。少なくもその色彩には、はっきりした差がある。そのうちでも特に丹家の還丹は、著しく特異な色彩をもっている。そこには、商や周初の銅器に見られるあの怪異な形象につらなるものがある。古代中国人の端倪すべからざる夢幻的な神仙思想が、この丹道の基調をなしている。これを現代の言葉、というよりも現代の意識をもって説くことは、甚だ困難である。
 露伴先生の解説の一節を挙げよう。「神識気質未だ分れざるところを体認心証して、而して復神識気質の日に用ひられて日に生死流転する境地に還つて来る」「人の生命の帰趨、直ちにそれに続く起処、終つて復始まるところを体現し得るのが還丹の道である」。こういう解説は、文字の上でこれを理解することは出来ない。味読百遍にして感得するより外に方法がない。理解には説明が必要である。説明には広い意味での論理の形式が必ずはいってくる。生死一如というような問題に対しては、論理は全く無力である。その心境は、分析や論理などとは相補性をなすところの認識の形式、即ち悟入とか感得とかいう形で、これを証得するより外に道がない。

四 古代の神仙思想


 丹道の真髄をうかがうためには、魏伯陽以前の中国古代思想、即ち春秋から後漢にかけて、七百年に及ぶ長い年代の古代神仙思想を瞥見する必要がある。この期間は、我が国からいえば、もちろん有史以前に当る。青銅器及び鉄器が大陸からはいってきたのは、後漢の前期と推定されているので、以下述べる中国の古代思想というものは、我が国の縄紋式及び弥生式文化の時代の話である。
 そういう古い時代のことであるから、いくら中国でも、詳しい文献は残っていない。前漢の頃出来た七緯書、即ち易、詩、書、春秋、礼、楽、孝経の緯書が残っていれば、一番よいのであるが、それらは、隋の時代に全部焼かれているので、雑書に引用された片鱗しか覗い得ない。考証をしようとしても、資料はほとんどないのである。しかし露伴先生は、『漢書』芸文志に列挙されている神僊書の題目を手がかりとして、この困難な考証を進められた。それは岩塊に残されたわづかな条痕を手がかりとして、古代の生物の像を復原しようとする化石学者の仕事に似ている。
『漢書』芸文志に題目だけは残っているが、それらの神遷書自身は、今皆佚していて、何も残っていない。しかしその題目を仔細に吟味し、一方『周易参同契』において魏伯陽が旧神仙思想を排斥している文章を熟読翫味してみると、既に失われてしまった古代民族の記憶が、次第にその姿を現じてくるのである。
 例えば芸文志の中に、泰壱雑子黄冶三十一巻という文字が記されている。このうち黄冶は前にいったように、丹沙を用いて黄金を鋳冶することを意味する。泰壱は漢の武帝の時に、済陰の謬忌が奏して祠らんことをいい出したもので、天神の最も尊いものとされている。後に泰壱兵法とか、泰一陰陽とかいうものが現われ、長く中国に泰一という上帝思想が遺ったのは、これに基づくものである。それでこの書は恐らくは、泰壱に仮託して煉金服餌のことを説いた書であろうということが分る。露伴先生は、こういう流儀で、『※(「宀/必」、第3水準1-47-56)戯雑子道』二十篇、『黄帝岐伯按摩』十巻、『黄帝雑子芝菌』十八巻などについて、その題名から当時の思想の考証を進めていかれた。それにはもちろん万巻の書を読破された先生の博識が、有力な武器となっている。
 ところでここで一つ考えねばならないことは、当時の中国には、宗教というものがなかった点である。仏教が伝来したのは、後漢の中頃である。張道陵の道教及び魏伯陽の丹道は、ともに宗教であるが、その創始は仏教公伝から百年近くも後のことであって、張魏以前の古代神仙道は、宗教とはいい得ないものであった。即ちあの古代神仙思想が、最も華々しくその怪異を現じていた時代の中国には、周孔の教えしかなかったわけである。周孔の教えは、生死を取扱っていないという意味では、宗教でなく、道徳教である。そういう宗教のない時代においては、始皇帝が徐福を蓬莱の島につかわして、不老長生の仙薬を探したことも(西紀前二二〇年頃)、武帝が方士を諸国に派遣して神仙を索めたことも(西紀前一三三年)、皆当然あってしかるべき話である。この時代に、禹域(支那本土)を統一した漢民族は、世界最大の国家を形づくっていた。西欧ではローマとカルタゴとの戦いの時代であって、統一国家としては、中国が世界で最大最強の国であった。科学も宗教もない時代の強大な国家で、その権力者たちが、不老長生の術に狂奔する、それは如何にもありそうなことである。そこでは方士などという特異な人間の活躍も、自然と惹起される。「神君が語を伝え、竃鬼が貌を現じた催眠術様の怪異なことが混淆して」くるのも、また自然の成行である。
『漢書』芸文志には、道家と神僊家とは、ちゃんと区別してあるので、初めはこの両者が別のものであったことが分る。道家は、伊尹、太公、老、荘などを祠って、神変怪異を現じ、不老長生の術を求めるものであった。神僊家は、黄帝、※(「宀/必」、第3水準1-47-56)戯、泰壱、神農を祖宗として各種の神異を叙し、導引按摩によって養性延命を策し、神菌霊芝の効を研究し、煉金服餌の法を説くというように、後の外丹の道に通ずるものであった。もっともこの両者には、そう判然とした区別はなく、ともに祭祀の道、医薬の技、巫覡の法などによって、符をもって河水の流れを禁じたり、空中を飛行ひぎょうしたり、白日昇天をしたり、いろいろな幻術を現わしていた。
 こういう幻術は、今日のわれわれの意識をもってすれば、簡単に催眠術と片づけてしまうことが出来る。しかしその解決は、言葉の上だけの解決である。現代でも未開人の社会においては、タブーを犯したために実際に死んだという例が、いくつか報告されている。病気の治療と生死とは、別の問題である。生物学においても、最後のところは、生命力という神秘のヴェールの彼方へ逃げてしまう。古代の神仙思想においても、現代の生物学においても、精神そのものの神秘は少しも変っていない。
 春秋から秦漢へかけての幻術横行時代においては、これらの道家や神僊家の外にも、各種の妖術や迷信、あるいは科学の原胚エムブリオとも見られる神異思想が、盛んに跋扈していた。それらの中には、陰陽家、五行家、医家、房中家などというものがあった。これらは皆後世に到っては、道家神僊家に混入され、さらに道教の中に摂収されたものであるが、その発生時代においては、それぞれ別派をなしていたものである。
 陰陽及び五行の思想は、遠く周の時代から漢民族の中に深く根ざした思想である。陰陽家には二流あって、その一は本来は天文暦象のことを主とする暦家に属したものであるが、天体の観測自身よりも、日月星辰の値遇から吉凶をうらなう占星術の方が主な仕事であった。五丈原に将星の落ちるのを見て、孔明の死を判ずるというような例は、枚挙にいとまがない。占星術アストロロジイは、中国と限らず、西洋でもごく近世まで甚だ盛んであった。それは近世の科学が確立される以前の人類に共通の現象である。日本で阿倍晴明などが、大いに天文を案じたのは、もちろんずっと後世のことで、初めて占星台を築いたのは、天武天皇の御世であった。天武天皇の時代といえば、ずいぶん旧い話であるが、それでも今問題としている時代よりは、千年もおくれた唐の初期である。この流儀の陰陽家の生命が非常に長く、唐の頃までなお勢力があって、日本まで伝わったものであろう。陰陽家の他の一つは、陰陽交替の理から兵法を説いたもので、後の『参同契』とは余り関係がない。
 五行家は、森羅万象が、火水金土木の五要素から成るとし、この五行の相剋相生、並に陰陽二気の順列組合わせによって、宇宙及び人生のすべての変化が支配されると説く一派である。そしてこの原始的信仰に基づいて、自然及び人生のあらゆる問題を解こうとするものである。六十四の卦というものがこれから生まれ、それが現代までも根をひいている。卦などといっても、単なる順列組合わせに過ぎないので、他愛のないものといえば、それまでのことである。しかし今日のように人智の発達した時代でも、人間はいつまでも性懲りもなく、勝者敗者ともに苦しむ戦争をくり返している。今日でも人類の全行為を分類したら、その型式は、六十四に満たないであろう。そういう意味では、現代のわれわれも、春秋秦漢時代、即ち中国草莽期の思想を嗤うことは出来ないのである。
 医家は、今日の医師の如く、薬餌をもって病を治することを主たる仕事としたもので、内省的な問題を論ずる場合には、詳しく触れる必要がない。問題は房中家である。房中の術は、古代人にとって甚だ神秘的であった男女交媾のことを論じたものである。初めは節慾の大切なること肆慾の大害あることを説いたくらいに過ぎなかったが、これから寿夭が分れ、禍福が生じ、時に怪訝すべき事情等が発現する場合もあったので、「逆に推測して房中秘密の中に神異霊恠の解釈を求むるに至つた」のである。この思想は、古代の生殖器崇拝の思想と暗に呼応して、遂には房術をもって神僊たり得るような思想にまで発展した。この邪毒は案外に永くその根をひき、遠く我が国までも伝わり、平安朝の頃には、いろいろな病気が房術によって治されるというような迷信まで生じたのである。我が国でも中国でも、この房術の観念、即ち陰道の思想は、今日までも残っているといわれる。

五 中国古代の仙術


 古代中国の神仙思想は、思想史的に分類すれば、以上述べたように列記される。しかし実際は、これらの思想は、発生後間もなく互いに相混淆して、渾然としたしかもきわめて晦渋な一つの思想、即ち仙術として発展していったのである。それでこれらを全体として見た場合の仙術について、各種の得僊の法を、技術的な観点から分類して、一応見ておくことも、この難解な中国古代の思想を理解する上に、必要なことであろう。
 この時代の仙術のうちで、一番広範かつ普遍的な法は、祀祭である。これは何も古代中国と限らず、今でも世界各国において、形式はいろいろあるが、現に行なわれていることである。「土を累ね壇を立て、泰一なり青帝なり黄帝なり老君なり、自分の信ずるものを本尊として、一処懸命に祭祀の誠を致して、それによつて僊を得んとする」方法である。信仰が進むにつれて、遂に怪しきものの姿を見るようになるのは、「以想結相の道理」である。この場合、祀祭者に本尊が現出するのは、何も狐狸に魅せられたのではなく、真実に現出するのである。それを幻夢ということは差しつかえない。しかしそれならば、原子爆弾もまた幻夢である。科学のいう真は、個人を滅却した場合にのみ、実と虚との差が出てくるのである。新聞で原子爆弾の爆裂写真を見る人にとっては、これは想を以て相を結んだものである。広島や長崎で死んだ人にとっても原子爆弾は幻夢であったにちがいない。その理由は死んだ人たちは、その後のことを永久に知ることが出来ないからである。
 こういういわば普遍的な祀祭の法よりも、もっと面白いそして古代中国人に特有な得僊の術が、外にもいろいろある。その一つは歴臟の法である。歴臟の法というのは、目をつぶって坐禅のような姿をして、自分の身体の中の臟腑を、つぎつぎに思念し、その運行の勇健を祈る法である。いつも胃袋の吊り上ったような気色をして、年中空転している現代人には、あるいは推奨すべき霊法であるかもしれない。古代中国人も初めはそういう意味であったのかもしれないが、次第に内臓を一々神格化する傾向に陥り、その神の寵命が我が身に下るようにと祈念するようになった。各内臓の一々の神の名は伝わっていないが、脾臓の神を黄裳君と呼んだことは分っている。そして「春は歳星の青気を食つて肝に入らしめ、夏は※(「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1-87-61)惑の赤気を服して心に入らしめ」という風な流儀で、この法を立派な仙術にまで仕立て上げたのである。
 次に履斗及び禹歩の術というものがあった。履斗というのは、北斗の象を履むことである。即ちあの北斗七星の形を、足取りで学んでふむ法式である。天界のすべての星が動き廻るのに北極星だけが、永久不動の位置を保っていることは、早くから古代人の注意をひき、それから北極星を不死の表象と見る思想が生まれた。従って不老延命を北斗に祈祷するという法式が生まれたのも、きわめて自然なことである。「歩※(「罘」の「不」に代えて「正」、第4水準2-84-76)宿」という文字も残っているが、※(「罘」の「不」に代えて「正」、第4水準2-84-76)というのは天※(「罘」の「不」に代えて「正」、第4水準2-84-76)星のことで、北斗を履むのと同じようなことである。
 これらの術が展開したものが、禹歩の術であって、この「禹歩は勧進帳の末の方の弁慶の歩法のやうなもので」ある。こういう歩法によって神力霊能を発揮し得るという信仰は、現代人から見れば、その意味を理解し得ないかもしれない。しかし茫洋たる支那大陸の曠野のまなか、暗夜ともしびはなく、星辰だけがきらめいている。その星の下で、古代中国人が黙々として、ゆるやかに七斗を履む。暗黒の野の中を、朔風が音もなく過ぎて行く。その姿を心に描いてみるならば、歩法も亦仙術たり得る所以を知ることが出来るであろう。
 五帝六甲の法というものもあった。六甲は甲子、甲戌、甲申などの甲の六日を指している。この日に五帝の玉女十真が、天宮より降って我が身中に入ると思念し、その仙身に同化すると観ずることによって、仙を得ようとする法である。瓊宮五帝内思上法とか、霊飛六甲内思通霊上法とかいうような文字が残っているが、皆この五帝六甲の法と同じか、あるいはよく似たものである。文字の国においては、文字がまた仙術の一つの役割を果している。
 最後に、胎息の法というものを挙げよう。人間の神経は随意と不随意とに区分されているが、丁度その中間にあるのが、呼吸作用である。呼吸は普段は人間の意志の外に置かれているが、時によって人間の意志によって左右することも出来る。胎息経というものがあって、呼吸の法を述べている。これは平凡無奇のものである。事実、呼吸は無奇にして気の乱れることのないのが、一番よいのである。ところが仙術の一つに、呼吸の法を強いて異常な状態にして、それによって仙を得ようとする一派があった。我が国にも、昔は「おきながの術」というものがあり、近代にも各種の深呼吸術というものがあったが、これらはけっきょく中国古代の神仙思想に通ずるものである。
 こういう中国古代の思想を考える場合に、いつでも忘れてならないことは、時代の古さである。例えば暦などに対する古代人の観念も、今日のわれわれの意識で、実感をもって想起することは、非常に困難である。あまりにも悠久の昔の話である。我が国にしてみたら、今問題にしている時代から七百年もおくれた女王卑弥呼の世になっても、まだ暦を全然知らず、人々は単に春に耕して秋に穫るという未開人の生活をしていたのである。
 支那大陸黄土地帯のあの広茫かつ妖異なる景観の中で、永い遊牧生活の末、ようやく農耕の生活にはいった古代民族にとっては、暦は甚だ尊崇すべきものであった。農耕は暦によって支配されるもので、作付期の数日のおくれが、収穫に著しい影響を及ぼす場合が屡々ある。農作物の豊凶が、生死の問題に直接つながっていた古代の人たちにとって、暦は何よりも尊崇すべきものであった。
 この暦を尊崇する念は、同時に日月星辰の運行の理に、驚異の感をもたせ、それがさらに神秘感に進んだ。そして人生の吉凶禍福という変化無限の不安定な現象の中に、理法を求める心が、これと結びついた。科学的な思考から全然乖離していた古代人の頭脳の中では、それが今日われわれのいう理法探究の形には展開しなかった。素朴で強烈な未開人の慾求と直結して、神変怪異の思想に異常醗酵をしたのである。

六 『参同契』と幽玄思想


『参同契』の成ったのは、後漢の桓帝の時代、西紀一四五年頃であるが、この時代は古代神仙道の最も華やかなりし時代であった。道家、神僊家、陰陽家、五行家、医家、房中家などが、入り乱れて互いに妖を現じ、あるいは竃鬼を呼び、あるいは化現の人を出し、あらゆる神異を現わしていた。怪しい仙人や仙書も汎濫していた。
 こういう催眠術ようの怪異は、やがて※[#「にんべん+房」の「戸」に代えて「戸の旧字」、181-2]門小径に堕し、遂に陰道の邪悪にまで及んだのも、また自然の成行である。甚だしきに到っては、睡眠を精神昏濁の結果として、これを厭い、「覚夢一如、生死貫洞の境界に入れば僊を得べし」といって、睡眠を斥ける法すらあった。疲労困憊の末、恍惚と痴の如くなって、やがて仙を得ると喜んだのである。魏伯陽は、こういう外道に陥っている者をあわれんで、陋術と異なるところの仙の真道を伝えんがために、『参同契』を著わしたのである。魏子はこの書において、その時代までのあらゆる仙術の外道を弾呵し、不老不死ということは、けっきょく精神的に生死一如の境界に入ることであって、肉体的の不老不死を願う各種の妖術は、全くの迷妄にすぎないことを明示した。こういう意味で、『参同契』は内丹の祖書なのである。
 そういう本が、その時の世に受け入れられるはずはない。折角の聖書も、神怪妖異の荒海の底に没し去られ、後漢の書目には、書名すらも残っていない。『参同契』の名が初めて出るのは、晋の葛洪の撰にかかる神僊伝である。それにも「伯陽参同契五行相類凡そ三巻を作る。其説は是れ周易、其実は爻象を仮借して以て作丹の意を論ず云々」と、きわめて簡単に評記してあるだけである。葛洪の神僊伝が出るまで、即ち漢の桓帝から晋の元帝に到る百五、六十年の間、『参同契』は単なる隠微奇異の書として、僅かに命脈を保っていたに過ぎなかった。
 もっとも『参同契』には、隠微の奇書とされても致し方ない点もある。文章が難解をきわめている上に、著者の署名すらもないからである。現存の『参同契』本が、魏伯陽の撰にかかるものであることが分ったのには、面白い話がある。それは末尾に「委時去害、依托丘山、循遊寥廓、与鬼為隣、……」という十六句があるからである。この文章は意味不明なのであるが、実はこれは字謎であったのである。委字に鬼字を鄰と為せば、魏の字を得ることは、中国の昔の学者が既に解していた。露伴先生は、その考察を進めて、この十六句の中に、魏伯陽造の四字が隠されていることを明らかにされた。詳細は、『露伴全集』の月報の中で、既に武内博士によって紹介されている。
 署名すらも字謎の中に隠したこの魏子の異書は、葛洪以後も引きつづき隠微の書として、不当に無視されてきた。『隋書』経籍志にもその記載がなく、『旧唐書』経籍志に到って、初めて五行家の中に録されているくらいである。しかも五行家というのは誤りであって、『周易参同契』は決して五行家の書ではなく、むしろそれを弾呵している書である。これを見ても、『参同契』が唐時代になっても、なおなんら重んぜられていなかったことがよく分るであろう。
『周易参同契』の唱える内丹の道が、急にもてはやされるようになったのは、宋の時代に入ってからのことである。魏伯陽以後五代の頃までの八百年に及ぶ長い年代は、まだ古代神仙思想の余燼時代であった。魏伯陽以前、即ち春秋戦国の世から後漢の後期までの六百年以上にわたる長い間、この神仙思想は、あらゆる神変妖術の温床となっていた。そしてその弊害余毒は、魏伯陽の時代において、既に著しく表面化していたのである。魏伯陽があらゆる神仙外道を強く排斥している語気の中に、その間の事情がよくうかがえる。後世から見れば喜劇の連続に過ぎなかったともいい得るのであるが、一度神異魔法の妖美に眩惑された古代人にとっては、その境地から逸脱することは、非常に困難であった。魏伯陽以後も、なお八百年の間、その余燼がもえ続いたのである。三国の虞翻、晋の葛洪及び仙人抱朴子、南北朝時代において五行風角の道と太一遁甲の術とに達していた陶弘景、唐の仙人呂洞賓など、博学能文で超常の精神力をもっていた傑い人たちが、厳密にいえば、皆形而下の神仙道に組していたのである。丹道でいえば、外丹の道が依然として勢力を占め、内丹の道はわずかに余喘を保っていた程度であった。
 しかしそれほど根強く古代中国人の各層に浸み込んでいた神異妖怪の思想も、流石さすがに千数百年の後には、幾分下火になった。唐の末期から五代にかけて、有識者の間には、ようやくその迷妄から目覚める人が出てきた。五代の道士真一子彭暁が、孟蜀の広政十年(西紀九四七年)に、『周易参同契分章通義』本を著わしたのも、その一例である。そしてこれが今日伝わっている『参同契』諸本中の最古のものである。最初の著述以来八百年も埋れていて、再び世に出たというのは、いくら中国でも珍しい例であろう。不幸にしてこの本は、註者の意によって割裂され、かつ伝写の久しきによって、原本の真を失っている。それよりも、宋末の兪※(「王+炎」、第3水準1-88-13)が、当時存在していた各本を合校して、『周易参同契釈疑』一巻を作ったが、この方が善本である。露伴先生も、主としてこの『釈疑』によって解説をされた。
 その外にも宋から明にかけて、たくさんの『参同契』本が出ているが、それらはいずれも善本とはいわれない。「明の楊慎が南方の遠郷で地を掘って石函中より得たと称し」古文『参同契』の完本なるものを出したが、この学者は偽古書製造の常習犯人である由で、露伴先生は信用されていない。中国の学者の中には、この本に基づいて、註解をしている人もかなりある。地を掘って石函中より得たというのも、いかにも昔の支那らしい話である。
 露伴先生の最初の考証は、この『参同契』の成り立ちについてである。彭暁の言によれば、魏伯陽は「古文竜虎経」なるものを得て、妙旨を悟り、周易をかりてこの『参同契』を撰したということになっている。しかし現存の「古文竜虎経」なるものは、後世の偽撰であるらしい。『参同契』と「竜虎経」との文章を精細に比較検討した結果、「竜虎経」の方が『参同契』によって言を為した後代の偽撰であるとして、露伴先生は「竜虎経」を抹殺された。そして魏伯陽を、われよりして古をなしたものと、高く評価しておられる。世を挙げて滔々として外丹の道に走っていた時代に、ひとり深奥なる内丹の正道を提唱したものである。
 この魏伯陽の思想を濃く彩っているものは、幽玄思想である。同じく神異的といっても、神変幻術を主とする外丹には魔法の妖美があり、内丹の奥儀には思考を超絶した幽玄思想がある。この内丹の道が、きわめて内省的ないわゆる宋学に受け入れられ、それに及ぼした影響は、案外に重大な意味をもっている。宋学に始まり、長く中国及び我が国にまで影響を及ぼした東洋的な幽玄思想は、魏伯陽の内丹の奥儀に由来するところが多いのである、その余波が我が国の鎌倉時代の思想にまで及んでいることは、注目すべき点であろう。
『参同契』が急にその威を張り出したのは、宋の大儒朱子が、『参同契考異』を撰してからである。その以後、宋、元、明、清の世にかけて、たくさんの註釈評論が出て、近代までその生命がつづいたのである。朱子はよく『参同契』を読んだ人で、慶元三年、蔡元定と寒泉精舎に宿して、夜『参同契』を論じたことが、「朱子年譜」に残っている。しかし朱子が『考異』を撰しない前から、隠微のうちに、既に『参同契』は宋学に大きい陰影を投げかけている。それは太古の神秘をひめた河図洛書の思想を宋学へ反影させるのに、『参同契』の内丹の思想が、一つの役割を演じたことである。即ち『参同契』的の香気が、河図洛書の説、太極図説、先天図などの幽玄思想を宋学へ導入するのに役立ち、それが朱子の静坐持敬の論に流れているのである。朱子は正統的な周孔の儒者で、神仙道は彼の博学の一つの現われにすぎない。朱子の静坐は、大学の正心誠意、孔子のいわゆる祷から展開したもので、何も仏家僊家から出たものではない。しかし宋学の甚だしく内向的な傾向は、無意識のうちに、内丹の幽玄思想に通じ、「樹石の雲畑と相擁しておのずから一渓の景象を為」しているのである。

七 『参同契』の解説


 以上で『周易参同契』の背景及びその思想史上の地位は、一応の説明をつくした。それでは『参同契』自身はどういう本であるか。
『参同契』は、漢の古書の例にもれず、散文というよりもむしろ詩であって、四言又は五言の詩の古体を以て、ほとんど全文を為している。その題名は「周易を仮りて丹道を説き、双方参同して符契の合するが如きものある故に斯く名づけた」と、平易に解釈した方が、かえってその実を得たものと、露伴先生はいわれている。
 この書は一言につくせば、丹道証得の道を、『周易』の変化消長の有様に比擬して説いたものである。還丹の術が既に魏子みずから「以て口訳すべし、書を以て伝へ難し」とした難解なものである上に、譬喩にとられた『周易』が又、現代人には甚だ縁の遠いものである。というのは、現在流通している『周易』の知識は、大天才王弼の易註以後のものであり、この王弼は彼以前の旧説をことごとく抹殺した人である。ところが魏伯陽は王弼以前の人であるから、この書に引用されている譬喩を理解するには、現在普通に知られている『周易』では駄目で、漢の京房あたりの易説を知らなければならない。
 それから本書には、独特の術語がふんだんに使われている。電気学の書を理解するためには、インダクタンスとか、キャパシティとかいう術語の意味を熟知している必要がある。それと同じように、本書を読むには、まず丹道の術語を十分に理解しておくことが、絶対必要である。例えば汞といい鉛という字は、字面では汞は水銀であり、鉛は金属の鉛であるが、丹道では同時に汞には神霊作用の根本即ち脳という意味があり、鉛には生殖作用の兆基という意味がある。水銀と鉛とが一体のアマルガムを成し、それがまた展開して、水銀となり鉛となる如く、神霊作用と生殖作用とが渾然として熔合したものが人間であり、それがまた開展分化するところに生命がある。これは近代的な考えで人間の精神を分析して、霊もあり肉慾もあるというのではない。分つことの出来ないアマルガムが次ぎの生命の根元であるという意味である。譬喩と実義と理趣とを兼ねたものが、丹家の語なのである。こういう片鱗を覗いただけでも、露伴先生を除いては、『参同契』の解説は望み難いことが分るであろう。
『周易』の体系は、乾坤から始って、水火に説き収めてある。「天地も人間も、有るが如くにして無き坎、無きが如くにして有る離、即ち水火の作用によって存在してゐる」というのである。易の六十四卦のうちでも、この乾坤坎離は特別に大切なもの、即ち四綱とされている。現代の言葉を以てすれば、乾坤即ち天地は、空間の理法であり、坎離即ち虚実は、存在の理法ということも出来るであろう。万物流行の理の深奥には、この外にまだ連続の問題及び時間の問題が潜められている。『参同契』は、「天地陰陽運行已まずして、歳月日時終れば即ち復更始する」こと、即ち日月交接のことを以て、この理を説いている。歳でいえば年末年始の境、月でいえば晦日と朔日との間、日でいえば深夜の直後は、いずれも陰きわまりて陽に転ずる微密のところである。即ちこの陰陽交渉の初頭において、「震来りて符を受ける」のである。「期の時に当り、天地其精を媾せ、日月相※[#「てへん+覃」、U+64A2、188-4]持する」といっているのは、人の元神と玄気との交渉の初頭、その機微のところに意を致せば、悟りを開き丹を結ぶよすがを得るという意味である。
 晦と朔旦との境界をなす瞬間は、連続する「時」を分割する一点である。晦の最終の瞬間と、朔旦の真の初頭とは、数学的の連続をなしている。その連続する時の一点を、晦といい朔というのは、その点において、一つの転換を行なうことである。この転換は、間髪をいれず飛躍的に生ずる。即ち連続の中に飛躍があるのである。この精神活動は、後世に到って、禅宗が盛んになるにつれて、その悟りを説く場合によく唱えられたあの頓悟と非常によく似たものである。後世といったのは、達摩西来は、魏伯陽より数百年もおくれているからである。
 こういう飛躍的な転換の例として、佐久間博士は、禅の心理学的研究において、反転図形の知覚を挙げておられるが、まことに適切な比擬である。最も通俗な反転図形の一つは絵さがしであるが、巧みに作られた絵さがしでは、いくらさがしてもなかなか何も見つからない。ところが何かの拍子に、はっと草叢の中に兎が見つかる。一度見えるといつでもそれは現出するので、今まで見えなかったのが、かえって不思議なくらいである。あのはっと見つかる時の精神活動が、連続の中の飛躍なのである。この飛躍があると、一瞬のうちに全体が入れかわって、全然別な景象が現出する。禅の頓悟でも、丹家の還丹でも、すべて証得の道は、この飛躍あるいは転換と非常によく類似した精神作用によるものである。『参同契』は、『周易』を仮りて、空間、時間、連続、存在の問題を提出し、それを材料として、全精神的転換に達する道を説いたものと解するのが、現代人には一番分りやすい解釈であろう。
 以上は本旨であるが、これだけでは、どういう修煉によって、『周易』の比喩から還丹の境地を悟得すべきか、肝腎のことが全然分らない。それで『参同契』は、次に得遷の術を詳しく説いている。魏伯陽の内丹では服丹餌丹の法や、各種の観法及び符咒はもちろん強く斥けているので、修煉の第一としては、「自然の観察を誤らずして能く之に順ふこと」を挙げている。これは非常に面白い点であって、現代の自然科学と全く同じ方法が、第一に掲げられているのである。次には、「禾を植うるには当に黍を以てすべし、覆鶏には其卵を用ふ、類を以て自然を輔く、物の成る陶冶し易し」として、鶏の卵から鳶の雛を期待するようなことを警めている。この点、神変妖異とは全く反対であって、現代の科学と矛盾するところがない。金丹といい仙薬というものはあるが、それは身外非類のものではなく、神菌霊芝ことごとく我が身内に在ることを悟らなければならないと教えているのである。「人は自然の中に存するもので、自然は又人の中に行はれてゐるのである。我に於て悠久なる自然を体得して、自然に於て霊妙なる我を認得」する。生死を超越する道は、我と自然とが一枚の紙の表裏であることを、はっきりと把握するところに開けるのである。
 ところで問題は、自然を正しく観るため、また自己と外界との一致を感得するためには、どういう状態が最も適しているか、その点に説き及ぼさなければ、これもまた虚空の談に終る。その点について、魏子は「吾身の陰陽交加、生死始終の有様を観察証知すること」を勧めている。「耳目口の三宝、固塞して発揚する勿れ」と説いているのは、二千年後の今日のわれわれにとっても、少々耳の痛い言葉である。終日紛紜として、精神の外に身を馳せていては、「水濁つて影を映ぜず、鏡汚れて像全からざる道理で」生死一如どころの話ではない。ここで魏子は「都べて精神の外馳を避けて、純粋に吾が身内の自然の景像を観照する」ことを、提唱しているのであるが、ここに甚だ大切な問題がある。自ら我が精神を純粋に観照することによって、種々の情慾は消滅するのであるが、この場合に、小乗的教法における対治の法門の如きものは、全然含まれていない。小乗的教法では、例えば「婬慾に対しては之を治するに九相観不浄観を以てし、世間慾に対しては之を治するに虚妄観、乃至因縁観等を以て破却掃蕩するが、丹道では別に小治の法門を取らぬ。丹道はただ神を凝らし気を聚むることを主として」最も端的に、全精神の飛躍的転換に邁進することを勧めている。大乗仏教渡来より五百年も以前に、こういう教義が既に、中国の一隅に出現していたというのは、まことに驚くべきことである。
 さらに一歩を進めて、この聚気凝神のためには、「体を緩うして空房に処り」「志を委して虚無に帰し、念々以て常と為す」べしと、魏子は教えている。この空房は、後世に到って、道教の道室となったものである。閑静にして太明太暗ならざる部屋、例えば窓を北側だけに大きくとった画室のようなものが、理想的な空房である。禅室というものも、これと似たものである。この空房に座して、志を虚無に帰して丹道の修煉をするといえば、座禅と同じことではないかといわれるかもしれない。しかし前にもいったように、『参同契』の撰は達摩西来より数百年も前のことであるから、座禅の方が還丹の修煉に似ているのである。もっとも目指すところは、禅法門では寂定を主としているので、いわば純陰的である。それに比して、丹道の修煉は煉行的かつ法術的であって、陽的な色彩を強く帯びている。その点、窮極は同じことであっても、色彩の上で禅と丹道とは著しい差がある。
 さて体を緩うして空房に座し、気を聚め神を凝らして、修煉を重ねるうちに、和気が身内に漲って、「淫々として春沢の如く、液々として解氷に象り、頭より流れて足に達し、究竟復上升」する心境に達し、「自然に気は神を恋ひ、神は気を慕ひ、二者相結ばんと慾すること、たとへば男女相引くが如き」に到る。この神と気との交渉は、晦つきて朔に転じ、陰極まりて陽発するの機微に通ずる。この時適当に法炉に火が進められると、「鉛は飛んで乾宮に上り、汞は結んで神舎に復」り、豁然として一景象を得る。これを「聖胎を結んだ」という。この景象は、もちろん描写し得るものではないが、魏子はこのところを五行論及び河図洛書を引いて詳しく説いているので、河図洛書のことを解している者には、大略は感得し得る由である。かくて聖胎を結んだならば、これを長養すれば、仙と成り得る。即ち有限の人間の生命の中に、無限の自然の生命を体得することが出来るのである。「即ち在来の我より言へば、身外の身を得る。此身は一元である。又在来の我より言へば、身内に身を得る、旧身は蝉殻蛇蛻、劫風の将去るに委順するに任すを得るのである。既に一元に還るを得、生死又何くにか存せんや」というのが、得僊の窮極である。
 以上で『参同契』の大略を解説したわけであるが、こういう深奥の教義が、後漢の時代に忽然として、中国の一角に出現したことは、いかにも不思議である。書、詩などの経典にも、老荘管墨の諸子にも、『参同契』の前身または胚芽と思われるものは、全然ない由である。魏子は「素前識の資無し、師に因ってこれを覚悟す」といいまた「火記六百篇、趣く所等しくして殊ならず」といっているので、何か因る所があったものと推定される。「古文竜虎経」なるものは、前にも述べたように、後世の偽撰と思われる。火記という名前には印度インドの匂いが感ぜられるので、露伴先生は印度古代の婆羅門バラモン教が、南方海路から呉越の地に伝えられ、それが中国固有の上帝天帝の思想と結びついて、この『参同契』の思想を産んだものではないかと推測されている。婆羅門教の一支派たる瑜伽の道は、内丹修煉の法と非常によく似ているそうである。その学的考証にまでは立ち入っていられないが、「支那で仙といふ字の用ひられた最初から婆羅門の影がさしてゐる」ことは確かだといわれている。

 この書に納めた「露伴先生と神仙道」に詳しく書いたように、先生は死の前日、危篤の病人がよく見せるあの小康を得て、文さんとかなり長い間話をされ、最後に「じぁ、いいかい」と聞かれたそうである。文さんが「はい、よろしゅう御座います」と答えると、「それじぁ、俺はもう死んじゃうよ」といわれた。それが最後であって、あと再び意識は戻らなかった由である。この先生の最後の言葉には、何か民族の郷愁というようなものが感ぜられる。しかしそれは捕えんとすれば跡形のないものである。前文『露伴先生と神仙道』及び本文は、いわば先生臨終の「じぁ、俺はもう死んじゃうよ」という言葉の解説である。あの最後の言葉は、われわれの心琴に不思議な響を残す。それは古代東洋人の血が、今もなおわれわれの身体の中を流れているからであろう。
 神怪妖異の外丹的神仙道はしばらくおき、神仙道の真髄である参同契の思想は、今日まで猶生命を保っていても、少しも不思議ではない。というのは、それは現代の科学と矛盾するところが無いからである。むしろ全く新しい未知の分野を開拓しようとする科学者が、『参同契』を熟読翫味するならば、一種の啓示を得はしないかと思われる節があるくらいである。『参同契と科学』に就いては、次の機会に譲る。
(昭和二十六年三月)





底本:「中谷宇吉郎集 第六巻」岩波書店
   2001(平成13)年3月5日第1刷発行
底本の親本:「―日本のこころ―」文藝春秋新社
   1951(昭和26)年8月15日初版発行
初出:「露伴全集 月報第15号〜第21号」岩波書店
   1951(昭和26)年6月5日〜1953(昭和28)年3月10日
※「臟」と「臓」の混在は、底本通りです。
※初出時の表題は「「仙書参同契」私観」です。
入力:kompass
校正:岡村和彦
2017年8月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「にんべん+房」の「戸」に代えて「戸の旧字」    181-2
「てへん+覃」、U+64A2    188-4


●図書カード