長岡と寺田

中谷宇吉郎




 長岡先生と寺田先生とは、学問のやり方でも、対世間的のすべての点でも、まるで正反対のように、一般に思われている。事実、外から見たところは、その世評のとおりである。そして外から見たいわゆる皮相の観が、案外ことがらの真をついていることが多い。両先生の仲は、決して良かったとはいえない。
 しかし両先生とも、何といっても、大正昭和の日本における傑出した学者であった。お互いに尊敬すべき点は、ちゃんと尊敬し合っていられた。寺田先生は、あのとおり、どんなつまらない人間でも、その長所は十分に認めるという性質であった。いわんや長岡先生のような卓越した大先生の学問には、十分の敬意を払われた。そして長岡先生のあの性格の強さを、武士道の名残りとして大いに尊重しておられた。
 一方長岡先生は、滅多に人に負けない方であったが、やはり見るべきところは、ちゃんと見ておられた。その一つの現われであるが、寺田先生には、ある点では、一目置いているという風があった。寺田先生が大学を出られて、まだそう長くない頃のことである。水産講習所の兼任講師に寺田先生を推薦されたことがあった。その時長岡先生が「絹ハンカチで鼻をかむようなものだが」といわれたという伝説が残っている。水産講習所の方たちは怒られるかもしれないが、あの時代は、そういう伝説が作られるような時代であった。
 長岡先生は、原子物理学の方で有名であったが、地球物理学にも興味をもたれ、地震研究所にも席があった。そして地球物理の論文をたくさん書かれた。私がまだ理研にいた頃の話であるが、ある日何かの用事で寺田先生の部屋へ行った時、先生が長岡先生の論文原稿を見ておられたことがあった。「どうも長岡先生の論文を拝見するのは少し閉口なんだが」といって、例のように独特の苦笑をされた。少なくもあの頃は、長岡先生も、地球物理関係の論文は、一応原稿を寺田先生に見て貰われたようであった。
「長岡先生も、地球物理の方は、あまり自信がおありにならないようだ。この頃はよく「君、ちょっと見ておいてくれ給え」といって、原稿を頂戴するんだが。どうも先生には、地球物理なんかという御気持があるらしく、大分調子を落されるんでね。少し閉口なんだ。この間も緯度変化と地震という大論文の中で、山から次ぎの山まで、即ち波長の二分の一と書いてあったんでね。おそるおそる「先生これは波長じゃ御座いませんか」と伺ったら、「そうだね」とあっさりλラムダ(波長の常用字)と直されたんだ。あれには少々驚いたよ。僕だったら、あんなことを書いたら、とても気になって二晩くらい眠れないんだが。「そうだね」には、実際びっくりしたよ。えらいものだね」といって、ちょっと首をすくめて見せられたこともあった。
 どうも、長岡先生にとっては、地球物理学は、いわばホビィであったように思われる。寺田先生も、その点は十分よく了解しておられたようである。しかしそのホビィが、だんだん嵩じてきて、地震研究所の談話会で喋り放しにされる論文の中には、少しのんきすぎるものが、まじってくるようになった。中には、ほとんど出鱈目に近いような論文もあったそうである。もっとも長岡先生の物理学史上の地位は、長岡原子模型によって、不動のものになっているので、後年に発表された専門外の地球物理学の論文は、いわば先生の老後の楽しみとして、皆がそっとしておいてもよかったわけである。しかし寺田先生は、そういう点では、案外にきびしくて、だんだん我慢が出来なくなるという様子が見えた。
 それが到頭爆発したのは、ある日の地震研究所の談話会の席上である。私は直接その席にいたわけではないが、会のあとで坪井、宮部の諸兄が「寺田小学校」へやってきて、「たいへんなことになっちゃった」とくわしく様子を知らせてくれた。感受性の強いそして気のおけない若い仲間同志の話であって、身振り声色真に迫っていた。三十年後の今日になってみると、何だか、自分がその席にいたような錯覚に陥る。それほど皆が強い印象を受けた大事件であった。
 長岡先生が、例によって大気焔をあげられ、御機嫌よく講演がすんだあと、議長が型の如く「御質問御討論がありましたらどうぞ」という。皆は、いわばさわらぬ神にたたりなしという顔付で、少々煙に捲かれながら、黙り込んでいる。
「そうしたらね。寺田先生がすっくりと立ち上って、こういう風に机に両手をついて、少しぶるぶる震えながら、「先生の今日の御講演は、全く出鱈目であります」といわれるんだ。いや驚いたね。みんながシーンとしてしまったんだ。先生は真蒼な顔をしておられるしね」
「まさか。話だろう」
「いや、本当なんだよ。長岡先生、全くびっくりされたようだった。
「いや、君、そりあいろいろ仮定ははいっているが」
「いいえ、それは仮定の問題ではありません」
「しかし地球物理学には、どうしても仮定が」
「いいえ、地球物理学というものは、そういうものでは御座いません」
「まあ、そうやかましくいわなくても」
「いいえ、これはそういう問題では御座いません。今日の御話は、徹頭徹尾出鱈目であります」
「まあ、君、そうひどいことを」
「いいえ、今日の御話と限らず、この頃先生が、この談話会で御話をなさいますものは、全部出鱈目であります」
といわれるんだ。どうも驚いたね。皆すっかり固くなっちゃってね。口の出しようがないんだ。田中館先生が、「まあ、まあ、君」というわけで、やっとほっとしたよ。いや凄かったなあ」。
 それから当分の間は、実験室の中は、この話でもち切りであった。当時の長岡先生の権威というものは、今日の人たちには、想像も出来ないくらいであった。「先生、決死の勇をふるったんだね」などと、悪童どもは、気楽なことをいって喜んでいたものである。
 寺田先生が小宮(豊隆)さんに、ああいう先生は「一度鼻を攫んでぐいとねじり上げて置かないと癖になる」といわれたのは、この時の話である。この名台詞は、小林勇君の『回想の寺田寅彦』に寄せられた、小宮さんの長い序文の中にある。「是が寺田さんの、真理に対する、正義に対する、学問に対する真剣な情熱からきたものである事は、言うまでもない。寺田さんがそういうものの敵を憎む態度は、それが日本の権威であっても、また世界の権威であっても、そんな事には頓著なく、実に男性的であった」。寺田先生は、「サトルでデリケートな頭脳と心臓」の外に「癇癪と負けじ魂」とがあった。「この癇癪と負けじ魂とは、寺田さんのサトルでデリケートな頭脳と心臓とが、実人生において」、「寺田さんを人情の流れに溺れさせそうにする事から救い、必要の場合は、寺田さんがそこから思い切って飛躍する事を、可能にする。寺田さんに感じる凄味は、一つは寺田さんの、この思い切った飛躍から出てくるのである」と小宮さんはいわれる。
 この事件があってから間もなく、曙町の応接間に伺った時に、この話が出た。その時、先生は「長岡先生は、もう大分お年もとられているし、もともと地球物理は先生の御慰みなんだから、どうでもいいようなものだが、あれをH・ナガオカの名前で英語で書かれて、外国へ出されると、何といっても先生の名前は外国では皆知っているから、日本の学問のレヴェルはこんなものかと思われるのがつらいんだ。それよりも何よりも、何だか自分のうちの座敷の畳の上に、泥靴のままはいってこられるような気がして、どうにも我慢が出来なかったんだ。先生には御気の毒だったが。僕は我慢が出来なかったのだ」と、非常に真面目な顔付で述懐された。
 両先生とも故人となられた今日では、こういう話を書いても、大したさし障りもないであろう。御存命中には、こういうことを書かないのが礼儀なのである。
 この話は、真理のための戦士としての寅彦が、あの先生の謙虚さの奥に、潜んでいたことを示す一つの好例であろう。「実際寺田さんには、懐に匕首をのんでいるといったような、凄味を帯びた所が、あの暖かな奥の何所かにあった。それは、うかうかした事を言おうものなら、すぐ横っ面をはりとばされそうな、それでいて当人はおよそそういう事とは縁の遠い、善良な意志しか持っていないというような、不思議な感じである」と小宮さんは書いておられるが、先生の真理と正義とに対する劇しい情熱は物理学だけに限らず、人生そのものに対して燃え立っていたように思われる。
 それから最後に、この話を今まで何人かの友人にしたが、たいていの人は、「寺田先生も傑かったが、やっぱり長岡先生も傑かったなあ」という。私もそのとおりだと思う。当時の長岡先生の学界における地位と権威とは、開戦当初の東条首相にも比すべきものであった。そういう大先生が、大ぜいの子弟子や孫弟子たちの面前で、これだけ手ひどく、いわばやっつけられたわけであるが、感情的に激昂されるというようなことは全然なかったのである。そしてこれだけの大事件があっても、後になってそれがあとをひくというようなことがほとんどなかった。日本の学界のためには、慶賀すべきことであった。
(昭和二十六年三月)





底本:「中谷宇吉郎集 第六巻」岩波書店
   2001(平成13)年3月5日第1刷発行
底本の親本:「日本のこころ」文藝春秋新社
   1951(昭和26)年8月15日
初出:「寺田寅彦全集 第十三巻 月報13」岩波書店
   1951(昭和26)年5月5日刊行
入力:kompass
校正:砂場清隆
2016年3月4日作成
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