亡び行く国土

中谷宇吉郎




一 洪水か電力危機か


 昭和二十六年の秋は、電力の危機が全国的に叫ばれ、その中でも関西地方の電力危機は、文字通りの危機であったらしい。大阪附近の工場がとくにひどくて、電力不足のために工場が休む、その生産低下による損害のために、中小企業家は倒産に瀕したと騒がれていた。
 その理由は昨年の夏から秋にかけて台風がこなかったために、水が不足になり、そのために生じた電力危機であるといわれている。日本も戦争の末頃から、まことに哀れな国になったものである。台風が来れば大洪水が全国的に起きて、洪水だけでも日本は滅びるというような大騒ぎになる。たまたま昭和二十六年のように、台風がこない年には、今度は電力の危機がやって来る。こうなると台風が来ていいのか、来て悪いのか、全く戸惑いする状態になってしまった。
 しかし日本の電力危機は、何も今日に始まった話ではない。もう二、三年前から、少しでも日本の電力事情について知識を持っている人たちは皆、十分に承知していたことである。そういう人たちは、たびたび警告を発してきていたはずであるが、その人たちの言葉は最近まで全く一笑に付せられてきた。それはその前年も、前々年も、即ち昭和二十五年も四年も、電力事情が敗戦後の国としては予想外によかったからである。
 戦争中に電源の開発が遅れ、また古い発電所の整備も行なわれなかったために、発電能力は著しく減っていたはずである。それにも拘らず、二十四年もまた二十五年も、どうにかそうひどい電力飢饉にめぐり会わずに切り抜けられてきた。それで人々は、一応日本の電力の危機を忘れた形であった。しかしこれらの年に、とにかく電力事情が、それほど悪化しなかったのは、この二、三年来、特別な異常降雨があったからである。即ち夏から秋にかけてたびたび台風が訪れて、その台風が、みな山岳地帯に大雨を降らせるような性質の雨を持ってきたために、水力電気は、かなりの程度まで、その窮状を暴露しなくても済んできたのである。
 もちろんそのために、全国到る所で、大洪水が起ったのである。少し意地悪い表現をすれば、これらの年は、全国到る所に大氾濫を起したお蔭で、電気の問題は、どうにか息をついてきたともいえるのである。現在のわが国の河川の状態は、雨が降れば家を押し流し、雨が降らねば、電力危機がきて小工業が潰れる、そのいずれかをとらなければならないというような状態になっている。日本の河川の状態が、戦争中及び終戦後の十年にわたる投げやりの状態の後にいかにひどい姿になったかは、改めていうまでもないことである。

二 カスリン台風の前後


 もうたいていの人は忘れてしまったことであろうが、終戦後二年目の夏、即ち昭和二十二年の夏は、日本全国にわたる大洪水が到る所に起きて、物情まさに騒然たるものがあった。
 七月下旬には、東北及び北海道の各地にわたって非常に広範な水害があった。そのために、東北本線も奥羽線も、土砂崩れと河川の氾濫とのために、五日間も列車が動かなかった。その間、東京・青森間の交通は、完全に杜絶したわけである。国有鉄道の幹線が、二本並んで、ともに五日間も不通になったというようなことは、鉄道の歴史始まって以来のことであった。
 その洪水に引き継いて、八月の中頃には北海道の各河川が氾濫して、とくに石狩川の上流地方は、三十年ぶりの大洪水に見舞われたのである。この夏の洪水は全国的のものであって、七十数ヵ所の河川が氾濫を起して、それぞれ甚だしい水害があったことが報じられている。
 しかし、それほどの全国的な大洪水も、引き続いて九月に発生したカスリン台風による利根川の大氾濫によって、その印象が全く塗り潰された形になってしまった。この時は、栗橋の堤防が決壊して、利根川の氾濫水は関東平野を南に下って東京の方に押し寄せてきた。そして桜堤の決壊によって、この大氾濫は、最後に東京の都市区域にまで及んだのである。
 東京都内に氾濫が及んだようなことは、近来なかったために、政府当局及びジャーナリズムの注意が、すっかりこの方に引きつけられてしまった。それで、カスリン台風の水害というと、この大利根の氾濫だけを記憶している人が甚だ多い。しかしカスリン台風の被害は、何も利根川だけに限った話ではない。北上川もまた同時に、大氾濫を起したのである。一ノ関の町は濁流に襲われて、二階までも浸水し、その時の惨害の形見として、電話線にひっかかった藁切れがずっとあとまで残っていた。即ち電話線を没する程度にまで増水したのである。この全町を濁流の底に沈めた当時の恐ろしい洪水の姿は、いつまでも人々の記憶に残っている。
 利根川の氾濫の後、常磐線が初めて通じた日の朝、私は青森から東京に着いた。亀有附近はまだ水がひかず、半ば壊れた家は、建具も全部はずされて、骨だけになって傾いて建っていた。所によっては、線路を横切っている狭い排水孔から、氾濫してきたらしい所もあった。その氾濫を食い止めようとして、畳でもって排水孔を止めようとした残骸が、まだ生々しく残っていた。川べりにうずたかく積まれたままに投げ棄てられたこれらの畳は、半ば腐って泥とまじり、まるで堆肥のような形になっていた。今度の洪水に見舞われた、この地方の貧しい人たちにとっては、ああいう畳は、今後しばらくは手に入らない貴重なものであろう。そういう貴重な畳までも運び出して、泥まみれになって必死に水を食い止めようとした人々の姿が、目に見えるようであった。
 こういう景色を見ながら、私は東京へはいった。上野駅を一歩出てみると、人々は、水害のことなどには全く関心のない姿で、ただ忙しく雑踏しているばかりであった。そして東京の街を歩いているうちに、気がついたことは、今度の水害について、東京の大多数の人々は全く無関心であり、そして残りの人々は、単に狼狽しているらしいということであった。
 上野駅に近い大きいビルディングの四階からは、「水害援助金募集」と書いた大きいのぼりが垂れ下っていた。街の角々には、「関東の水害地を救え」とか、「東北の水害地を救え」とかいうポスターがたくさん貼り出されていた。新聞を見ると「治水五ヵ年計画の樹立」とか、「水害対策委員会の設置」とかいうような文字がでかでかと大きく並んでいた。
 水害地へ義捐金を送ることも、五ヵ年計画を樹立することも、別に悪いことではないが、それはあまり智慧のない話である。今度の洪水がなぜ起ったか。また、これを一つの自然現象と見た場合に、どういう経路をとって起ったか。従って今後の対策はいかにして立てるべきかという、そういう方面のことは誰も口に出していない。また綜合的な科学調査班が、水害地に派遣されたという話も新聞には出ていない。
 見るもの聞くものすべてが、相も変らず、ポスターと新聞活字とで洪水対策を立てようとしているかのごとき姿にみえた。これは何も頭が悪いわけでもなく、また悪意があるわけでもなかろうから、たぶん狼狽のあげく、戦争中の癖を、またそのままにき出したものであろう。そういうふうに解釈するのが、一番無難である。

三 水害の原因


 水害と限らず、天災は一般に、文明の進歩とともに、被害額がふえてくるものである。それは人口の増加及び生産設備の増強とともに、災害を受けやすい土地にまで、どうしても施設を増すような傾向があるからである。それで被害もまた、以前よりは著しい多額に上ってくるのである。
 この近年の水害は、それほど大規模なものでなくても、金額に見積ったらたいへんな損害になるであろう。一つの川で四十以上の橋が流れたというような例も、たくさんある。この頃の物価からみると、ちょっとした簡単な橋をかけても、三百万円や五百万円はかかる。それで一つの川の橋をかけなおすだけでも、非常な巨額の経費を要することになる。しかもこの程度の金でかけた橋というのは、極めて粗末なものである。次のもっと少ない出水でも簡単に押し流されてしまう程度の粗末な橋なのである。
 堤防の決壊箇所も、一つの川について、二十ヵ所とか三十ヵ所とかいうような例が、決して珍しくはない。そのほか道路も破壊されるし、各種の施設も流されるし、また田畑や人家も流される。農作物は冠水によって著しい損害を受ける。山林も同様にして、豪雨による山崩れのために、著しい被害を蒙る。そういうものをいちいち計上したら、一回の洪水で、すぐ何百億円という巨額の損害を蒙ることになる。ジェーン台風による関西地方の損害だけでも、一千億円に上ったという話を聞いたが、その数字も決して大げさな数字ではないであろう。
 ところで昭和二十二年の夏の洪水は、七、八、九の三ヵ月にわたって全国的に発生し、数え上げてみると、八十件以上の水害が報告されている。これらの水害については、その当時から、既に、心ある人々は、非常に深い憂慮の念を抱いていた。それはこれらの水害が、この年だけの異常現象であるか、そうでないかという点が、はっきりされなかったからである。
 この昭和二十二年の気候が、不幸にして何百年ぶりという異常に雨の多い時期にめぐり合せたものならば、これは如何ともいたし方がない話である。敗戦後の疲弊した国の力をもってして、そういう大洪水を食い止めることが出来ないのは当然のことである。それで、もしこれが異常現象であるならば、じっとしてこの雨の多い時期がすぎるのを待つよりほかに方法がない。
 もっともそれならば、二、三年さえじっと我慢していたら、そのうちには大洪水を起すような大雨は降らなくなるであろうから、将来を見越した場合には、その方がかえって始末がいいことになる。
 しかし一方、こういうことも考えられる。この水害の原因は、この年に異常に雨が多かったというためでなく、戦争中及びその以前から、ほとんど手をつけないで河川を放棄し、かつ水源地の培養を怠ったために、こういう洪水が起きたのかも知れない。そうだとすると、話はまことに厄介になってくる。それならば、今後も毎年同じような水害が、いつまでも繰り返されることが必至であるからである。
 ところでこういう場合、原因はたいてい一つとはきまっていないのが普通である。比較的この年は雨が多かったことも事実であり、また河川が荒廃していることも、一つの原因をなしていると考える方が妥当である。問題はその中でどちらがより大きい原因かということになるが、どうも後者の方、即ち河川及び水源地の荒廃が、より重大な原因のように思われる。即ち今後も平年並みの大雨が降れば、いつでも洪水が起きると考えねばならないようである。
 もっともこういう原因は、決して簡単に取りきめるべきではない。カスリン台風の直後に、当時の農林大臣が、戦時中に山林を濫伐した結果こういう大洪水をきたしたのであるから、今後植林に全力をつくさなければならない、という意味の声明書を出されたことがある。こういう声明書は、もちろん科学的根拠の薄弱なもので、あまり意味のないものである。面白いことは、当時この声明を誰も疑う人がなかった点である。常識的に考えてみて、いかにもそういうことがありそうに思えたからであろう。しかし戦争中の濫伐が洪水の原因であると、そうはっきりいい切るためには、果して濫伐が洪水の主な原因であったか否かを、ちゃんと科学的に研究してみる必要がある。
 カスリン台風の時には、秩父の山奥で六百ミリ以上という、ちょっと信じられないような異常豪雨が降ったといわれている。この記録はその後いろいろ検討してみた結果、驚くべき量の雨であるが、かなりの程度まで信用すべき値であるということになっている。また、この年の八月十五日の石狩川上流の氾濫を調査した結果、その時の雨は、旭川の測候所の記録からみると三十年ぶりの大雨であったことが確かめられた。
 こういう資料から考えてみると、森林の濫伐も河川の放棄も、水源地の荒廃も、もちろんそれぞれ一つの原因はなしているが、同時にまた、この年が異常に雨の多かった年であったことも、考えなければならないのである。
 しかしまた別の資料もある。この年の水害の大部分のものは、局地的には三百ミリ程度の雨が降ったという報告もあるが、それらはかなり局地的のものであって、一般には八十ミリからせいぜい百二十ミリ程度の雨によってひき起されたものであるというのである。そういう雨は、将来も決して珍しい大雨とはいえない。それでも著しい出水をきたしたのであるなら、水源地の荒廃、戦時中の河川の放棄が、重要な原因をなしていることもまた、確かな話であろう。
 それで単に山林の濫伐というような簡単な一つの原因で、これらの洪水現象を全部かたづけようとすることは甚だ気楽な話である。そういうことは科学的の調査をしてからでないと、確かなことはいえないものである。
 もっともこういう議論に対しては、すぐ反対論が出ることであろう。植林をすることは、よいことにきまっているのだから、何もそうやかましく、重箱の隅をほじくるようなことはいう必要がないではないか。植林はいいことにきまっているのだから、植林すればいいではないかという意見である。もちろん植林をすることは、水害の防止に役立つばかりでなく、日本の木材資源の確保という点からみても非常にいいことであるから、これは奨励すべきである。
 しかし同じく植林を奨励するにしても、その事柄の本体を明らかにしてから、これを奨励する方が、科学的でもあり、また有効でもあるのである。
 前に出された農林大臣の声明書のような、科学的基礎のない声明は、思わぬところに思わぬ弊害をもたらすおそれがある。もし戦争中に山林を濫伐した結果、こういう大洪水が出たのならば、今から植林をしても、十年や十五年は、木の発育に時間を要するから、この十年なり十五年なりの間は、何らの対策を講ずる必要もなく、また講じても無駄だというような考え方を当然導いてくることになる。それらの点については、後にさらに詳しく述べるが、いずれにしても、このような水害が毎年繰り返されては、日本の国の前途は、まことに暗澹たるものがあることだけは確かである。

四 日本の新しい病患


 ひと夏に、全国にわたって八十件の水害、とくにカスリン台風の甚大な被害、これらは当時の人心に暗い影をおとした。政府の方でももちろんこの点は大いに憂慮されていた。当時の安本〔経済安定本部〕の建設局長高野与作氏はじめ、一部の達識の人々は、もしこの程度の洪水が十年も毎年続いて起ったら、水害だけで日本は潰れてしまうであろうと、深い憂慮の念をもって、その科学的対策の樹立に心をつくしておられたのである。
 ところがこの心配は、不幸にして杞憂にどどまらず、翌二十三年の夏も、全国的に頻々たる水害が報ぜられた。とくにこの二十三年の九月に襲来したアイオン台風は、著しい損害をもたらしたのである。このアイオン台風は、主として東北地方を襲ったのであるが、この台風はまことに不思議なめぐり合わせであった。その前年のカスリン台風と全く同じ月の同じ日に、一ノ関の町を再び濁流の底に没したのである。
 この台風は、岩手、宮城両県のほとんど全部の河川に、カスリン台風の時に劣らない大出水を生じた。とくに、この両県の境附近を流れる北上川の支流磐井川の出水は、カスリン台風の時の出水をさらに上廻るものであった。この稀有の大出水によって、下流沿岸地方で蒙った被害は、実に目を覆うばかりの惨状を呈した。死者は五百名に達し、一ノ関の町は再び濁流の底に没し去ったのである。
 北上川のこの地方こそは、敗戦後の日本の新しい病患をまさに身をもって体験した土地である。例えば、北上川のいま一つの支流、胆沢川は、カスリン台風から四ヵ月目の、翌二十三年一月十五日に雪解け洪水に見舞われ、さらに半年後の同年八月中旬のユーニス台風でも大出水を見、引き続いて九月中旬のアイオン台風による大氾濫を蒙ったわけである。まさに、まる一年間に四回の洪水に見舞われている。そして、その次の年、即ち二十四年もキティー台風で同じような氾濫を生じているのである。
 こうなると水害はもはや天災ということは出来ない。毎年発生する一種の年中行事として考える必要がある。そしてこの年中行事の度毎に、一つの河川だけからでも、数百億円あるいはそれ以上の損害を受けているのでは、日本の再建にはまことに大きな障害になる。
 こういう現象は、何も北上川だけに限った話ではない。全国の河川について、多かれ少なかれ同様なことが起っているのである。例えば、天竜川は昭和二十四年の洪水を受けたあと、翌二十五年の六月にも、前年より更に大規模な氾濫を起している。また、昭和二十五年の六月中旬には、一週間にわたる梅雨のために、本州の半ば以上の各河川に出水をみている。幸い利根川その他の大河川の氾濫は、堤防が決壊する危機一髪のところで辛うじて食い止められたために、カスリン台風の時のような大きい騒ぎにはならなかった。しかし、それでも氾濫直後に建設省だけで二十億円以上、林野庁関係で三十億円以上の被害が報告せられている。
 水害の立場からみると、敗戦後の日本の実情は、前にいった要路の人たちの杞憂が、不幸にして的中した形になっている。政府の人たちも国民も、労働問題、食糧問題、講和問題、選挙問題と、連日意味のない喧噪に明け暮れているうちに、われわれの国は、黙って一歩々々と破滅の道をたどっていたのである。

五 政府の対策


 終戦後、突如としてわれわれの目前に現われてきた、この日本の新しい病患に対しては、政府の方でも決して無関心であったわけではない。国土の保全や治山治水に対する議論は、多すぎるほどたびたび繰り返された。そしてわが国の政府には、この問題に関連して驚くべき多数の部局及び委員会、あるいは、それに類似の会が設けられたのである。
 その委員会及びそれに類似のものは足りないのではなく、あまりにも多すぎたのである。そしてお互いに協力というよりも、むしろ牽制の立場に陥るほど、乱立状態になっていた。それが吉田首相の大英断によって大幅に切り捨てを行ない、かつ統合されたのであるが、それでもなお昭和二十五年に存在していた委員会の数は次のごときものである。たぶん、これらのうちの大部分は、なお今日も続いていることと思われる。
内閣     国土開発審議会
通産省    資源庁
北海道開発庁 北海道開発審議会
経済安定本部 資源調査会、河川総合開発審議会
建設省    河川局、土木研究所、道路審議会
農林省    開拓審議会
衆議院    災害地対策特別委員会
参議院    開発委員会
 以上のほかに、建設省や農林省などの外郭団体として、たくさんの会がまだある。砂防協会、河川協会、治山協会、国土計画協会、道路協会などと、いちいち数え上げればきりがないくらいである。
 もっとも以上述べ立てたものの中には、多少名前が違っているものもあるかも知れない。しかしこれは、資料として提出したものではなく、いかに多くの会議、あるいはそれに類似した会があるかということを示す、一つの例として掲げたものである。従って少しくらい名前が違っていても、話の本筋には関係のないことと御承知を願いたい。
 国土の開発や治山治水に対して、これくらいたくさんの委員会や調査会などを持っている国は、世界的にみても珍しいであろう。そしてさらに珍しいことは、これらの委員会などが、洪水という一つの自然現象に対して、自然科学の扶けを借りなくて、問題を解決しようとしておられるかのごとくみえる点である。
 もちろん各種の委員会などには、自然科学者の名前も並んでいる。しかしそういう人たちは、誰もみな責任の地位にあり、非常に忙しい人たちである。そういう人たちを何ヵ月かに一回ずつ呼び出して、謄写版刷の紙きれを何十枚か渡して、御意見を拝聴する。そのことをもって、科学の力でこの国難的大問題を解決すると解釈するのは、科学への冒涜であるといえないこともない。相変らず、ポスターと文字、即ち命令と宣伝の力だけで、自然現象の対策を講じようとしているものといわれてもいたしかたがないであろう。
 何十の委員会をつくっても、日本人の洪水についての知識は一歩も向上しない。そのよい例が昨年のルース台風である。昭和二十六年の秋に日本を襲ったこのルース台風は、まことに奇妙な待遇を受けた。即ち「歓迎」された台風なのである。同時に、この台風を迎えた日本人の態度が、水に対する現在の日本の知性を代表するもののごとく思われるのである。

六 恵みの台風


 ルース台風は、いわゆる歓迎される台風という不思議な取り扱いを受けた台風である。恵みの台風という言葉は、この時はじめて出来た言葉である。
 夏からの電力飢饉がだんだん深刻化してきて、各種の生産工場はまさに土壇場まで追いつめられたかたちになっていた。この電力飢饉の原因は、この年は夏以来、台風が珍しく来なかったために、雨量が少なく、従って水力発電量が著しく減少したことが一番主な原因であった。
 まず十月十日の新聞記事から話を始めよう。夏からの雨不足によって、全国的に河川の流量がだんだん減ってきて、九月にはついに平年の六五パーセント以下に落ちてしまった。緊急停電は次第に全国的にひろがり、このままではいよいよ最悪の事態に立ち至るであろうと、電力関係者はもとより、一般国民の注意は、俄然電力に集中される形となった。
 この電力危機はその後も引き続いて急速に悪化して行き、十二日には発電に利用出来る流量は、平年の五八パーセントにまで落ち込んだ。これはまさに、三十年来の記録を破る大渇水である。全国的にみても、電力の豊庫であるといわれる猪苗代湖は、水位が著しく下って、夏期の渇水としては、従来の最低記録を示すことになった。本来ならばこの猪苗代湖の水は、十二月から三月までの冬の渇水期に備えて、貯水すべき時期であるにも拘らず、当面の危機を救うために、さらに水位を落して苦しい発電を続けることになった。この豊庫たる猪苗代湖の残りの有効水量は、その全部を使っても、三十日分しかないという哀れな状態になったのである。
 こういう騒ぎの最中に、ルース台風が太平洋の遥か沖に出現したという第一報が新聞に出たのである。従ってこの台風は、従来と全く違った異例の待遇、即ち歓迎を受ける台風となったのである。十二日午前零時頃、中央気象台の発表によると、新台風ルースがラサ島沖に現われたと出ている。引き続き同日正午の中央気象台の発表では、中心附近の最大風速は六十メートルと推定されている。この風速はかつて関西地方を荒して、死者百九十余名を出したジェーン台風よりも、さらに猛烈なものであることがわかったのである。
 しかしこれが本州に上陸するか否かは、まだこの時は全くわかっていなかった。この時の新聞記事の見出しは、「慈雨は確実」となっているのであるが、台風を慈雨と称した例は、従来には全くなかったことである。十三日になって、この台風はいよいよ本土に近づき、同日夕刻の大阪管区気象台の発表では、この台風による雨の領域は本州にかかり、従ってルース台風は現在のどん底の電力危機を解消するには、理想的な慈雨台風になるであろうという、歓迎の詞が述べられている。
 事実この台風は、その日すでに功徳くどくを示して、南九州の電源地帯には、平均四十ミリの雨を降らし、ダムの水位が満水時の六割から七割にまで回復したのである。中央気象台でも大いにこのルース台風に期待して、関東地方の電源である猪苗代湖の降雨は、五十ミリを下らないであろうという発表をしている。
 東京地方の電力事情は、この日あたりが最悪の状態に陥り、全管内を四地域にわけて、三時間半ずつの大幅な緊急停電を、一般家庭、商店、大小工場の区別なく行なわなければならないという、最悪の事態に陥っていた。従ってルース台風の待たれたのも、また当然の話である。
 けっきょくこのルース台風は、九州から中国地方で猛威を揮った挙句、日本海へ出て、東北地方の中部へ再び上陸した。しかしその時は、既にその勢力は大分衰えていたので、大した被害も与えずに、三陸沖から太平洋上へ逃れ去ったのである。雨量は宮崎の五〇四ミリ、大分の四七一ミリというのが桁はずれに大きく、北陸地方に五〇ないし一〇〇ミリの雨を降らした以外は、大体五〇ミリ以下の雨であった。
 それでも電力事情は急激に好転して、十五日正午の発表では、発電に利用できる河川の流量は、九州、四国、中国の各地方は平年以上にふえ、東京電力も平年の一〇二パーセントとなったほどである。このために、東京電力からは、緊急停電は十五日から当分中止という、めでたい発表が出たくらいである。
 これだけの話ならば、ルース台風はまことに恵みの台風であり、電力事情もこれによって好転し、台風の価値も見なおさなければならないということになったであろう。事実台風の有難味を初めて知ったというような会話を、ちょいちょい耳にしたこともあった。しかしこれは全くの誤解であって、実は台風がきても、日本の電力事情は決してそう楽観すべき状態にはなり得ないのである。こなければ水不足で困ることは事実である。しかしきても大した利益にはならないというのが、現在の日本の河川の状態なのである。というわけは、現在の日本の水力発電では、台風に伴う大出水の水を、ほとんど利用出来ないからである。
 前にもいったように、日本の水力発電は、少数の例外を除いては、ほとんど全部水路式であって、貯水湖を持たない発電様式である。それでせっかく大出水があっても、水路に採り入れ得る分以外の水は、空しく川へ流してしまうよりほかに方法がない。もちろん異常な渇水で、今までトンネルの半分くらいしか水を流していなかったのに、台風がきたおかげで、トンネルいっぱいに水を流せるという程度の利益はもちろんある。また山に降った雨は、そう一時に流れてしまうものではないから、一度大雨が降れば、あとしばらくは水に不自由しなくも済むわけである。しかし、それは一時的の話で、せっかくルース台風がもたらしてくれた雨も、その大部分は利用することが出来ないのである。ルース台風を恵みの台風として迎えることは、実は初めから意味のないことであったわけである。そして事実はまさにそのとおりであって、十五、十六の両日、即ち台風の荒れまわっていた間だけは、慈雨台風の本性を示したのであるが、十七日からまた停電が復活したのである。いささか滑稽の感がないでもない。
 けっきょく、新聞紙の報じているとおり、台風ルースのもたらした電力事情の好転は、全国的にみればたった一日限りであったわけである。問題はそういうわかりきったことに、何故日本の要路の人及び電力関係者たちが、恵みの台風という言葉を使ったかという点にある。というのは僅か一日の電力好転をしたこの台風は、この裏に著しい被害を伴っていたからである。

七 日本の知性


 ルース台風がすぎたあと、新聞紙は「台風ルースの浮かした電力事情の好転は、全国的にはたった一日限りであった」といって、簡単に片づけてしまった。こういうところに、日本の知性のあらわれを見ることが出来る。というのは、この台風の被害は、従来のどの台風にも勝るくらい烈しいものであったからである。
 最初に襲われた鹿児島では、瞬間最大風速は四十七メートルに達した。そして猛威を揮ったこの暴風は、全壊大破十三戸、住宅床上浸水一万五千戸という損害をもたらしたのである。宮崎地方もまた同様な被害を受け、死傷者の数は予期以上の数に上った。鹿児島だけで、死者八十三名というのであるから、いかに猛威を揮ったかがわかるであろう。中国地方もこれに次ぐ大被害を受け、山陽線は寸断され、電信電話は全くの混乱に陥ってしまった。
 海上船舶の被害が大きかったことも、この台風の見逃し得ない一つの特徴である。七千トンの金剛丸、二千二百トンの金星丸などの坐礁をはじめ大小船舶の遭難が続出し、広島だけでも沈没船の数が二十隻に達したと報ぜられている。十六日までに判明した被害の集計だけをみても、
死者   三百五十四名
行方不明 二百八十四名
負傷   千名以上
というのであるから、かつて最も被害の大きかったといわれているジェーン台風よりも、桁違いに大きい被害をもたらしたのである。ジェーン台風の時の死者は、百九十余名であったのに、あれだけの大騒ぎをしたのである。
 けっきょくその後の調査によって、家屋の全壊及び半壊数は四万戸を超え、ほかに流失家屋が二千五百戸以上という数字が挙げられている。田畑の冠水、堤防の決壊、橋の流失なども、もちろん莫大な数字に上り、驚いたことには船舶の被害が、軽微な損害まで入れると、実に五千八百余隻に及んでいるという。
 物的損害として明らかにされているのは、建設省関係の損害五百三十億円である。従来の台風被害の推定額から考えてみて、民間の損害まで入れると、物的損害だけでも、少くも三千億円以上と考えられるのである。
 ところが、話はこれだけではない。その後になって驚くべき事実が判明した。それは山口県玖珂郡の錦川上流地帯に起きた大悲惨事である。十五日未明に今度の台風の進路を正面に受けたこの地方では、河川の決壊や山崩れが頻発して、全く外部との交通が杜絶してしまったのである。被害があまりにも大きかったために、県当局その他の手が及ばず、ついに予備隊の出動を見るまでになったのである。新聞でも、予備隊の初出動として大きく取り上げられたのであるが、派遣された予備隊は、惨憺たる難行進の末、ついに自動車用の道路を切り開き、二十一日に至って、ようやく救護物資を届けることが出来たのである。
 それで初めて被害の程度が判明したのであるが、この郡だけで、死者及び行方不明者は三百九名に上り、重軽傷者千二百余名という驚くべき数字を示したのである。これほどひどい被害のあった台風は、近来珍しいくらいである。東京の新聞には恵みの台風として歓迎されたルースが、実は六百名以上の人間を殺し、二千名以上を傷つけたのである。しかもその恵みのききめたるや、僅か一日というのでは全く話にもならない。
 もっとも、こんなことを幾らいい立てても、台風を食い止めることも出来ないし、治水も急には出来る話ではない。それに水力発電様式の変更などといっても、それは今のところはまだ全く夢のような話である。現在の日本の国力ではどうにもならないではないかという議論が、必ず出ることであろう。しかしこのルース台風騒ぎの一週間ばかりのうちに、新聞紙上に表われた、政府及び関係者の施策または案というのは、次のような見出しの記事のものばかりであった。
「石炭輸入と人工雨、遅れた対策取り戻す」
「電力とり合いの産業界」
「電源開発、政府で新機関、来年度に二、三百億」
「電力融通令発動か」
「都でも電源開発」
「公益委の融通強化案」
「電源開発の五ヵ年計画、安本試案成る、恒久的な電力対策」
「電源外資にドレーパー書簡」
「公益委干渉を強化」
「電化企業に融資考慮、政府の電力対策」
 こういう見出しの記事ばかりであるが、これらを一瞥しただけでも、ルース台風を慈雨台風と呼ぶ、日本の知性のよってくるところが窺われるであろう。

八 科学対策とは何か


 電力が今日のような事態に陥り、治水もまた依然として進まない。当局者としたら、焦眉の急に迫られ、いかにしてこの危機を切り抜けるかという問題で、頭がいっぱいなのであろう。しかし、いよいよ土壇場へ来た以上は、もはやじたばたしても何ともならない。じたばたして何とかなる場合ならば、大いにじたばたする方がよい。しかしどうにもならない時は、寝ていた方がましである。
 電源の開発にしても、治水にしても、相手は自然である。自然というものは、まことに厄介なもので、いくら新機関をつくっても、どんな政府案を立てても、先方の気に入らない場合には、決して受けつけてくれない。自然は決して人民のように従順なものではない。たとえ大臣の命令で禁止されても、山は崩れたい時には、さっさと崩れてしまうものである。
 日本の電源開発のいろいろな案を見ると、いずれも融資の問題が一番の大問題として採り上げられているようにみえる。少なくも新聞記事などで見るところでは、そういう印象を与えている。即ち金さえあれば電源は開発されると思っている人が、大多数を占めているようである。私は門外漢であるから、真相は知らない。しかし世の中に、金さえあれば出来るというものは滅多にない。金がなければもちろん出来ないが、そうかといって、金だけあっても出来ないというものの方が大部分である。対人間の問題は、たいてい金だけで片づくであろうが、自然を直接相手にした場合には、金だけで解決される問題というものは非常に少ない。このことはよく頭に入れておく必要がある。そういう意味で、前節に掲げた見出しの例をみれば、日本の資源の活用が進行しない理由は、誰にも明らかであろう。
 洪水の被害の恐ろしさを直接みた人は、あの洪水を科学的に取り扱うというようなことは、科学者の空論であるかのごとく思われるかも知れない。しかし洪水は決して科学の範囲を逸脱した現象ではない。土瓶の口から流れ出る一筋の水の流れが、何百万倍かに拡大されただけのものである。
 雨が降って、それが川へ流れ出す。川を流れ去る水の量よりも、川へ流れ入る水の量が多い時に、水嵩が増す。同時に流速が増す。水嵩がある程度以上になり、流速がある程度以上速くなった場合に、堤防の弱いところを破壊する。それが洪水及び氾濫の現象である。最初に雨が山地に降るところから、最後に堤防の決壊するところまで、すべての経過は全部純粋な自然現象の連続である。そういう問題の解決をするのに、自然科学の扶けを借りなくては、いかにしてもその道が拓かれるはずがないというのが、われわれの洪水観である。
 もっともこういう問題に対しては、次のような解釈も出来ないことはない。即ち治水の問題は、ヨーロッパやアメリカなどで、過去数十年、あるいは百年にわたって、既に十分研究しつくされている。それで、その解決策は既にわかっている。それはもはや科学的研究の問題ではなく、工学的実施の問題となっているという見方である。関係官庁では、そういう工学的の研究や調査は十分やっているのであるが、ただ金がないから、その実施が出来ないだけのことだといわれるかも知れない。
 もしそれが本当ならば、今さら科学的な基礎研究などは全く不必要であり、また、たとえそれをしたところで、この水害を実際にはどうすることも出来ないという見解も成り立つであろう。しかしこういう考え方は、実は水害の問題と限らず、戦争中にも、また、その以前にも、日本の国のあらゆる問題について、いつでも暗黙のうちに採り上げられていた見解である。そしてこの考え方が、今日の科学なき日本をつくったのである。
 科学という言葉は、日本では非常に誤った意味に解されている傾きがある。戦争中に東条首相がよく使った言葉、即ち科学の力をもって不可能を可能ならしめよという言葉が、科学という学問の本質を、非常に誤って世人に伝えたのではないかと思われる。もちろんそれは東条個人の問題ではなく、東条をしてそういう言葉をいわしめた背景、即ち日本の知性の水準が、問題なのである。
 科学は本来、不可能を可能ならしめる学問ではない。不可能を可能ならしめるものならば、それは魔術である。魔術は科学と正反対のものである。その意味において、もしこの流儀の言葉を使うならば、科学の力をもって可能を可能ならしめよといわなければならないのである。ところが、この可能を可能ならしめることが、実は非常にむつかしいのであって、それは良識の力をもってはじめて出来ることなのである。そういう意味では、科学の一番よい定義としては、良識の精髄というのが、最もよくその本質をいい表わしているであろう。
 洪水の科学的研究といっても、何も微分方程式や、精密機械を使うことばかりとは限らない。もちろんそういうものも必要となれば使うのであるが、実用から遠く離れた、むつかしい基本的な理論だけが科学ではないのである。日本の国土の気候条件を精密に調べ、どういう状態で雨が降り、それがいかなる経過をとって急激に川へ流れ出し、そしてその水がどういう作用をして堤防を壊すかということを、合理的にかつ自然に即して調べることが、即ち洪水の科学的研究なのである。
 それくらいのことは、もうとっくにやってありそうなものと思われるかも知れないが、それが全然といっていいくらいわかっていないのである。例えば、ある河川について、特定の出水にどれだけの土砂が流れ出したかということは、治水上、一番大切な資料である。また、その洪水の時に、どれだけの水が流れたかということも、もちろんさらに重要な資料である。そういう資料は、当然ほとんど全国の河川について、洪水毎に十分よく調べられていそうなものであるが、それが測定された例は、ほとんど皆無といっていいくらい少ない。それが今日の日本の実状なのである。
 それどころでなく、伐木が洪水の直接の原因であるか否かも、実はごく最近まではまだ確められていなかったのである。しかも最近の研究によると、それはその言葉だけの意味では、一つの迷信であるらしいことがわかったので、実は私たちも唖然としたくらいである。もちろん伐木のために山が荒れ、それが間接に洪水の原因となることは、三千年の昔、中国においてすでにわかっていることである。そういういわゆる大乗的な表現は、科学の言葉ではない。伐木が洪水の直接原因であるというならば、その言葉からすぐ次の法則が出てくるはずである。即ち木を戦前の状態に植えれば、洪水は止まるという法則である。しかしそれは議論の余地なく、とうてい考え得られないことである。これほど荒廃した河川は、単なる植林だけによってその生命を取り戻すものとは考えられない。もちろん濫伐は差支えないというのではない。木を植えることは、森林資源の確保の上からも、また長期にわたる治水の上からも、非常に大切なことであって、そのこと自身には問題がない。
 ただ植林の必要性は十分に認めながら、一方河川の治療をいかにすべきかの道を、見出さなければならないという意味なのである。
 洪水の科学的対策というと、とかく日本では、瀕死の貧乏国のくせに、アメリカ流の豪勢な対策の形ばかりを真似た理想案を立てることを、科学的と思い勝ちである。しかしそれはとんでもない間違った考えである。日本の国情に応じて、金がなければないなりに、被害を最小限度に食い止め、現在の国情に適応した最善の策を立てることが、即ち科学的対策なのである。もっとも金がないというのも、どこまで本当か実際のところはわからない。この数年来、国家として随分ひどい無駄使いをして、平気でいるところをみると、金がないというのも一つのお題目であるようにも思われる。本当のところは、金がないのではなくて、何かほかに足りないものがあるのではないかと思われるくらいである。まずその点を明らかにすることが、洪水の科学的対策の第一歩である。

九 亡び行く国土


 日本の河川は今日いたましい姿になっている。洪水の時や雪解け増水の時に、堤防の上に立って流れ去る水をみていると、あの中に、ありありと亡び行く国土の姿をみることが出来る。
 雪解け時の石狩川の川口に立って、渦をまいて流れて行くあの濁流のすがたをみているうちに、あれが日本の国土が文字通りに削られて行く姿だと思った。濁流は、もちろんその中に土の粒子を非常にたくさんふくんでいる。その土のかなりの部分は、畑地あるいは山肌から出てきたものである。それが海へ流れ去るのであるから、国土が削り去られるというのは、文学的の表現ではなく、科学的の表現なのである。
 こういう現象は、石狩川だけでなく、全国の河川についていえることであり、しかも雪解け時だけに限らず、増水時には、いつでもみられる現象なのである。あの濁流によって海に運び出される土は、主として微粒子と膠質とである。この微粒子と膠質とが、地力の一番大切な成分であることは、ことわるまでもない。そのほかに、目にはみえないが、肥料成分であるところの溶解物質ももちろんたくさんふくまれている。
 いったい、あの濁流がどれだけの土壌と肥料分とを海へ流し去っているかは、国土保全上重大な問題である。もちろん今までにそういうことは十分調べられているのであろうと思って、その方面の専門家の話を聞いてみた。ところが驚いたことには、その種の調査は、本州の河川について少し調べた例があるらしいが、まずほとんどないといっていい程度だろう、という話であった。
 それでこれも自分で測ってみるのが、一番の早道だということにして、教室の人たちで、その調査にとりかかることにした。それには雪解け時の増水が、一番測定に便利である。それで毎年春さきに必ずのようにわれらの国土から失われて行くこれらの物質の量を、石狩川の雪解け増水について、すこし詳しく測定してみることにした。
 この測定は、終戦後の三回の雪解け時期において、石狩川口に近いところで行なわれたのであるが、はじめの二年間は北大の荒川助教授が調査し、さらに菅谷博士が第三年目の雪解け増水について、非常に詳しい観測をしたのである。その結果驚くべきことがわかった。ただ一本の石狩川について、雪解けの増水期間中に、川口を流れ去る浮泥量は約二百五十万トンに達し、肥料成分である溶解物質は、約七十万トンという数字が出てきた。即ち、ひと春に日本海へ運び去られる物質量は、三百二十万トンという、想像以上に巨大な量に達することが明らかにされたのである。それも驚くべきことであるが、もっと驚くべきことがある。それは、これだけの国土を毎年失いながら、それを今日まで誰も知らなかったことである。
 こういう研究をするといえば、きわめて困難な研究のように思われるかも知れないが、実は何も困難なことはないのである。石狩川の鉄橋へ行って、橋の上から採水器を下して河水を採り、それを一立びんにつめる。そういう標本を何本かリュックサックに入れて、教室へ運んで帰り、その水の分析と、下に沈澱する泥の量の測定とをする。それだけでこの研究は出来るのである。
 もちろん川の表面近いところと、底の部分との泥の含有量は違うので、精確にやるには、川の断面のいろいろな深さのところで、一定量の水を採って、その中にふくまれている浮泥量と溶解物質とを測定する必要がある。しかし、そういう精密観測はたびたび行なう必要はないので、五、六回だけその調査を行なった。
 川の横断線に沿って、いろいろな距離及び深さのところから水を採って、浮泥量の分布を調べてみた。ところが、その平均値を与える代表点が、いつでも川の流心の表面から一定の深さのところにあることが知られた。こういうことがわかったので、それからあとは、その深さのところの水を採って、その中にふくまれる泥の量を測定した。即ち一点観測でよいことになったので測定は非常に容易になった。
 あとはこの観測値に川の流量をかけて計算するだけでよい。川の流量は、河川関係の方で測定されているので、その資料を貰えば、非常に簡単なことでこの研究は出来るのである。こういう研究は、なにも、困難だから今まで誰もやらなかったのではなく、ただやらなかったのである。それが一番困ることなのである。
 実際の観測は、次のような手順で行なわれた。即ち平均浮泥量をあたえる代表点について、五日おきに採水して測定した。そして、そういう観測を、三月末から四月末にかけての増水の初期、次に五月の中旬までの増水期、最後に七月中旬までの減水期と、この三期間にわけて、ずっと観測を続けたのである。そして、その三期間全部を通じて海へ流れ去る物質総量が、三百二十万トンに及ぶことを知ったのである。
 それだけの多量な土がいったいどこから出てくるのかということが、一つの重大な問題である。それで菅谷博士は、各期間別に採った泥の土粒分析を行ない、一方流域の各高度における融雪の時期を調べてみた。それによって、この土の出所がほぼ明らかになったのであるが、このうちの約七十万トンが耕地から流れ出したもので、残りの大部分は、河床の洗掘によったものであることが推定された。
 この同じ石狩川について、山間部を出たばかりの上流地点からも、同じ時期に水を採って、その浮泥量を測定してみた。ところが、そこでは浮泥量はほとんどないことが知られた。石狩川の水源地帯がある大雪山は、まだ自然林のままで残されているところが大部分なために、山岳地帯では、あまり土砂が川へ流れ出ないことがわかったのである。そのことは実は困ることなのであって、この海へ流れ去る土砂量の大部分は、平地即ち耕作地、あるいはその附近から流れ出るからである。
 ところで河床の洗掘であるが、こういう巨大な量の河床の洗掘が起るのは、改修工事をしたあとの石狩川が、安定状態に立ち至っていないことを示すものである。昭和六年に石狩川治水事務所で測定された河川の断面図がある。同じ場所において、昭和二十五年の春、同様な測定をして、それと比較してみると、この期間に、浅いところで約一メートル、深いところで約二メートルの河床の洗掘が起きていることが知られた。この洗掘量から推定される運搬土量は、泥水の分析値から耕地の流出量を引いた残りの量と、ほぼ一致することがわかったのである。
 河川のような自然現象は、非常な長年月にわたる、いろいろな作用の調和の結果、安定しているものである。それで、その一部を改修すると、河川が次の安定状態に落ちつくまでに、非常な長年月を要するのである。従って自然に人工を加えるには、綿密な考察と研究とが必要である。信濃川の改修工事によって、今日新潟市がどんどん海中に没しつつあるということなども、そのよい例であろう。
 土壌保全の立場からも、こういう知識は大いに必要であるが、国土の綜合開発というような問題もまた、この種の基礎資料を欠いては、到底満足には行ない得ないはずである。たとえば石狩川流域の綜合開発計画の一つに、石狩から苫小牧に通ずる運河の計画も提案されている。ところが、その計画には、こういう事実は全然考慮にはいっていない。もしそういう運河を造ろうとするならば、石狩川がまたどういう変化をするかを、細心に検討しておく必要がある。現在の状態でも、毎年春さきだけで、二百五十万トンの浮泥量が運ばれてくるのであるが、それを湿土の体積になおすと、二百十万立方メートルになる。この巨大な量のいく割かが、もし運河の中に堆積したならば、たいへんなことになるであろう。五万分の一の地図をひねくるだけで、綜合開発は出来ないのである。
 石狩川が一年に三百万トンや五百万トンの土壌を海へ流しても、それは「亡び行く国土」というような、大げさな問題ではないといわれるかも知れない。しかし、私の真意は、日本の為政者も科学者も、こういう問題の研究を全然しない。あるいは問題の存在にすら気づかないところに亡び行く国土の姿がみられるというのである。
(昭和二十七年七月『日本の発掘』)





底本:「中谷宇吉郎集 第六巻」岩波書店
   2001(平成13)年3月5日第1刷発行
底本の親本:「日本の発掘」法政大学出版局
   1952(昭和27)年7月20日
初出:「日本の発掘」法政大学出版局
   1952(昭和27)年7月20日
入力:kompass
校正:岡村和彦
2020年11月27日作成
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