今年の六月、本土爆撃がいよいよ苛烈になって、東京は大半焼け、横浜も一日の猛爆で、全市が一遍に壊滅してしまった頃の話である。
鎌倉で或る機会に里見

鎌倉は初めのうちは、別に理由があるわけではないが、何となく空襲の圏外にあるような気持がして、東京から逃れて来た人々も、前からの住民たちも、幾分
一編隊が横浜の真上と思われるところへ来て、一斉に爆弾と焼夷弾らしいものを落すと、さっと反転して帰って行く。すると次の編隊がすぐその後に続いて来て、同じことを繰り返す。その度に地上からは真黒い煙が立ち昇って、その煙がどんどん拡って行く。そういうことを、白昼堂々と何時までも繰り返している姿を現実に見ては、誰もが慌てるのも無理はない。今こういう話をしていても、明日はすっかり焼き払われるかもしれないし、或は今日の午後かもしれない運命なのである。
里見さんは、東京の御宅がすっかり焼けてしまって、本も材料も原稿用紙までも無くして、大変困って居られた。それに鎌倉のこの家も、明日とも言えない不安な状態である。ちょうどそういう時に、北海道の有島農場から、疎開をして来ないかという手紙が来たのだそうである。ずっと以前から農場の管理をしている老人のところから、こういう世の中になって、東京の人が色々
開放以来もう二十五年も経っているので、普通なら前の地主のことなどすっかり忘れてしまっている頃である。それにこういう手紙を寄こしてくれるのは感心な話である。里見さんもその心持を喜んで居られるらしい。ただ余りひどい田舎へ引き込んでしまって、文化的なことから全然縁が切れてしまうのも淋しいし、いったい狩太というところはどんな所なのかという話であった。武郎さんの居られた頃一度行ったことはあるがということで、三十年前の北海道の田舎を考えられたら、もっともな心配である。
その頃とはもうすっかりちがって、この二三年来私たちは、あの近くのニセコの山頂に三千三百ボルトの高圧線をひき上げて、百馬力の
北海道へ帰って、終戦直前の切迫した雰囲気の中で、今から考えてみれば
ところが縁というものは不思議なもので、この話のあった有島農場の中に、私たちの新しい研究所の一分室が出来ることになった。ニセコの研究施設が農業物理の研究所として更生し、この有島農場の中でも、来春からは春先雪を早く消したり、水田の水温上昇を試みたりするような研究が始められることになった。その敷地の入口には、有島さんの石碑が建って居り、里見さんへ勧誘の手紙を出した老管理人には、私が厄介になることになった。
有島さんは札幌に住んでいて、ここの農場には
『カインの末裔』に出て来る景色は、この土地のことである。「寒い風だ。見上げると八合目まで雪になつたマツカリヌプリは少し頭を前にこごめて風に刃向ひながら黙つたまま突立つてゐた。昆布嶽の斜面に小さく集つた雲の塊を眼がけて日は沈みかかつてゐた」マッカリヌプリは今は羊蹄山と呼ばれている。その山麓から一望遥か昆布嶽の山並までの高原地帯は、北海道でも特に雪が多く、風の強い土地である。立木の少い広漠たる草原に不似合いな広い国道が続いている。
「灰色に空一面を蔽つた雪雲から吹き下す寒い風がこの道路を吹き抜けてゐる。彼れと赤ん坊を背負つたその妻とが、餓ゑ切つてやつとたどりついたK市街地の町端れには空屋が四軒までならんでゐた」このK市街地というのが狩太村の市街地である。そして有島農場はそこから半里ばかり山麓の方へよって「うざうざするほど繁り合つた闊葉樹林に風の
ここは吹雪の恐ろしいところである「吹きつける雪の為めにへし折られる枯枝がややともすると投槍のやうに襲つて来た。吹きまく風にもまれて木と云ふ木は魔女の髪のやうに乱れ狂つた」その荒涼たる吹雪の景色は今日も変らない。そしてこの無慈悲な自然の力に虐げられている人間の姿もまた当年の名残りを止めている。
有島さんはこの農場を無償で開放する日に、次のような宣言をして居られる。
「此の土地を諸君の頭数に分割して、諸君の私有にするといふ意味ではないのです。諸君が合同して此の土地全体を共有するやうにお願ひするのです。誰れでも少し物を考へる力のある人ならすぐ分ることだと思ひますが、生産の大本となる自然物、即ち空気、水、土の如き類のものは、人間全体で使用すべきもので、或はその使用の結果が人間全体に役立つやうに向けられなければならないもので、一個人の利益ばかりの為に、個人によつて私有さるべきものではありません」
この宣言が、今日まで無事に守られて来ていること、特にこの十年来の恐ろしい思想の旋風時代を生きのびて来たことは、一つの奇蹟である。それも『カインの末裔』の世界として、北海道の片隅に取り残された土地にして初めて見られることであろう。
こういう土地で、来春は消雪機が動いたり、電熱利用の苗代が出来たりしたら、確かに一つの異変になるであろう。窓外に昔ながらの吹雪の音をきき、ストーブの火を赤く燃しながら、そういう農業物理の色々な新しい計画をたてるのは、一寸楽しみなものである。
(昭和二十年十二月十五日)